■ 外伝15 / 「和解」
――2005年12月25日
【 First / Second / Third / Fourth / Fifth
】
/1
父・松山は寺でも特別な存在だ。
神に選ばれし才は無い人間だった。でも無い人故に、彼は人の前に立つようになった人間だった。
退魔の一族は「退魔をしてます」なんてことを世間一般に公表できない。外の世界では仏田はごく普通の寺として見られている。だから松山という男は、仏田の「表の顔」を受け持っている。退魔業で成り立っている家ということは内緒にして、お坊さんとして一般人と触れ合い、社会に溶け込む。何者か判らない一団を無害だと世間に浸透させる。それが住職代理・松山の仕事だった。
俺が小学生のときのこと。「両親のことについて」作文に書く授業があった。
文に起こすため父の姿を思い浮かべたとき、俺の頭には「法衣姿でお経を読んでいる男」が浮かんだ。
葬式で、黒い集団の前でお経を唱えている姿。あれを何度も見たことある。当然その父の姿と思い出を黙々と作文にしたためた。そして提出する前の晩、書いた作文を福広さんと学人さんに読んでもらった。どんな感想を言われるかと期待していると、二人は口を揃えて「羨ましい」と言ってきた。
なんでそんなことを言うのか。率直に尋ねると、
「寄居クンみたいに、世間に父親の姿をすんなり話せる人間は……この寺の子供にはいないんだヨ」
学人さんは感慨深げに言い、その言葉を聞いた福広さんがうんうんと頷く。
何故そうなるのか。また率直に尋ね……ようとして、少し考えれば判ることに俺は口を閉ざした。
そうだ、松山は例外だ。この寺では特別な存在だった。こんな風に簡単に父のことを書き起こせるのは、俺とその兄弟ぐらいなんだ。
専業退魔師が多い我が一族。だが裏家業だけでは一族は世間に認められず孤立してしまう。社会に生きるために一員になるために、父は坊さんとして「表の顔」となり、皆を世界と繋げているんだ。父は退魔をせずに退魔の一族に貢献していた。
学人さんと福広さんはこの手の作文を書くとき相当悩んだと言う。一般人のいる学校の授業で「父は幽霊退治をしている」とか「魔法の研究をしている」なんて言えない。
だからすんなり悩まず作文を書いてしまってる俺を見て、「悩まないのは羨ましい」と笑っているのだった。(ちなみに、福広さんは外では「父はコックをしています」と話しているらしい。そう言うしかなかったようだ。そして学人さんが「困ったら自営業だって言えばいいんだヨ」と教えてくれた。そんな学人さんの父は『当主の弟付きの使用人』という妙な肩書きだった)
松山は表の顔をしながら裏の顔の者達を隠す。仏田がより『仕事』をしやすくしている。
そう考えると父はなんて偉大な人だったんだ。元から尊敬していた父への想いがより一層強くなった。
そんな父だが、昔、「自分には裏の才能は一切無い」と言っていたのを覚えている。「裏の力なんて全く無いから、自分の出来ることで皆をサポートしていくしかない」、「力を無くてもこの血に生まれてきてしまった者のすべきことだ」と。そう明るく言っていた。
まるで誰かから渡された台本を読み上げているかのように、流暢な台詞だった。でもそれを口にできるまでに多くの葛藤があったことだろう。子供の俺でもその複雑さは理解できた。
作文で父のありとあらゆることを書いた。そんなに大した出来ではない。父は坊さんです、熊みたいにデカイです、イビキがうるさいです、その程度のことしか書いてないから、俺の作文が皆から注目されることはなかった。
けど俺にとってこの作文執筆は、『父の姿を通して仏田という家を見渡す』良い機会となった。
それから何年たっても、父は寺でも特別な存在だと思えた。
狭山のように声を荒げ鉄拳制裁をしてくるような暴君ではない。大山のように表面上は優しくても規則で全てを縛り付ける人でもなかった。一本松のように厳しい修行を強いてくることもなければ、清子のように正座をさせて嫌味を三時間言い続けるようなこともしない人だ。
大勢で寺中の大人達の『負』を挙げ始めたらキリが無いが……それでも、でも「松山」という男の名が負の渦中に生じることは、まず、無い。
狭山が誰かを怒鳴っているときに「そんなに怒らなくてもいいだろ?」と笑いながら止めてくれるような存在がいるとしたら、それは父だ。仲裁に入るような気遣いが出来る心があり、怒鳴っている上司を止めるだけの勇気があり、世の中を平穏に保とうとする想いがあるから、彼は下の者達からそれなりの評価を受けていた。
何か困ったことがあったら松山に頼もう。困ったことがあっても松山が助けてくれる。それが一部の者達の共通認識になっていた。
『負』に満たされた裏の中で、表に立つ父は『正』の感情を抱き、裏側を明るく照らしてくれる。裏が真っ暗闇だとしたら、父が立つことで明かりが灯り動きやすくしてくれる。皆にそう思われている父を尊敬しない訳が無い。
父がこれを聴いたら「そんな大したことはしてない」と言うだろう。でも俺には明るく眩しい存在に思えて堪らなかった。あまりの絶賛で気持ち悪がられるかもしれない。でも小学生のあのとき、作文を書いてから……俺の中でただでさえデカかった父の存在が、一層大きくなっていた。
言っちゃ悪いが父は良い能力を持っているとは言えない。下っ端な子供の俺ですらそう思うんだ、上の人達もそう思っているだろう。
能力が無いからあの位置なのか、能力が無くてもあの位置なのか、能力が無いのにあの位置なのか。下からは眩しく輝かしい存在に見えるけど、上から見ると父はどんな存在なのか。とても気になっていた。
――『仕事』の件で相談をするため、大山のもとを訪れた。そして何気なく雑談が進んだついでに、ついそのことを訊いてみてしまった。
「『松山がどんな存在だったか』? 誰かに考えろって課題でも出されたのか?」
師走の忙しい時期。大山は滅多に取れない休息の時間を噛みしめるように座布団の上でお茶を啜っている。休息を彩るお菓子の一つとして、俺はそんな話題を提供した。
といっても大山は父の実兄だし、生優しい性格で有名な人だ。正直な感想が返ってくるとは思っていない。当たり障りの無いことをすんなり返すだけかなと思ってはいた。
「松山はよく働くし、皆に優しい良い弟だよ。寄居くんも胸を張れる父親だと思ってくれてるんじゃないか?」
ほら、やっぱり予想したことしか返さない。
荒波を決して立てず、父以上に平穏を求めようとするのが大山という人だった。
「でもさ、大山さん……昔はヤンチャしてたとか、手が付けられなかったとか、そういうネタは無いんですか?」
「ネタ、ねえ。寄居くんは一体どんな課題を出されたのかな。年末の宴会用か何かかい?」
年末。宴会。そんなものもあったなぁと茶を啜りながらボンヤリと考える。
大山は和やかな息を吐き、茶の味を楽しみながら遠い目をした。父とさほど年は変わってない筈なのに、まるでおじいさんのように見える。
「松山はあれでも、随分落ち着いた方なんだよ」
「へー。充分老けて見えますけど」
あれでも、が父のどこに掛かっている言葉なのかよく判らなかった。
言動も何もかも老けた大山から見ると、父は落ち着きがないように見えるかもしれない。でもそれは比べる対象が違いすぎるだけだ。
父は年齢相応に元気で、年老いている。俺が今年十七歳なのに対し父が半世紀を生きた五十二歳というのが、余計に老けて見えるのかもしれないけど。
「昔はね、松山にも突っぱねた時期もあったんだ。結構長くて困ったもんだったよ」
「そりゃあ反抗期は誰にでもあるでしょ。大山さんにも……いや、大山さんは無さそうですね」
「はは、そうだね。自分には無かったな、反抗期。上からの命令は素直に受けるものだと信じきってたし。サヤにも一本松くんにも無かったんじゃないかな。あ、でも銀之助くんは……。うん、ある子とない子がいるね。人それぞれだ」
おや、その言い方だと、あの『厨房の魔王』には反抗期が存在したそうだ。
人に逆らうなど許さない唯一無二の絶対神・銀之助も親に抗ったことがお有りだと? ……人間って変わるものだな。
「松山は……譲れないものがあって。生まれつき頑固だから、全然譲らずに、馬鹿みたいに苦しんだことがあった」
暫し大山は懐かしげな遠い目をしている。
だがあんなコトがあったこんなコトがあったと俺に語っているうちに、神妙な面持ちになっていった。
「当主様と喧嘩して、それが何年も続いたときがあったんだよ」
「えっ。そんなそんな」
嘘でしょ、と突っかかってしまうほど衝撃的なことを言う。
だって、あの父が、『いかなることがあっても当主のことを第一に考える父』が、当主と仲違いしていたなんて言われても信じられる訳がない。それぐらい松山には当主というものの存在は大きかった。
俺達息子よりもよっぽど大切だって何度だって思い知らされてる。そのような記憶が、度々あるぐらいなのに。
そんな俺の反応を見て、大山は「息子の目にもそう映るかい」と笑った。なんだか苦々しく。申し訳無さそうに。
「当主様と松山は赤ん坊の頃から仲が良くてね。生まれたときから一緒で、ずっと離れたことがないぐらいだった。お互いがお互いを必要としていた幼馴染同士だったんだよ。だからといって離れないなんてありえない。当主様が当主様になるとき、松山も少し距離を置いたんだが……それでも松山は幼馴染の彼が大好きだった。そのとき、事故が起きて」
「事故?」
「事件というべきか、いや、どうでもいいか。事件のせいで当主様はお身体が弱くなったけど、それでも当主様になられて職務を全うされていた。あのときの当主様は可哀想だった。そんな当主様を相手に、松山は喧嘩をし始めた」
「『喧嘩をし始めた』ですか。ちょっと気に係る言い方だ」
「だね、でもその表現が一番合っている。当主様のことを想いすぎた松山が一方的に、突っかかるようになったんだ。新たに生まれた当主様を受け入れることが出来ず、いつまで経っても相手の変化を認めなかった。松山は、体だけが大人になって中身はいつまでも子供だった」
どういうことだ。父から当主に喧嘩をふっ掛けたのは確かで、それが当主就任したばかりのことで、というのは判るが。
また大山は「自分の中で納得し済ませるような曖昧な言葉」を繰り出してる。この辺りが大山が「松山より優しいけれど、頼りないと思われてしまう」一番の理由だった。
「でも、その喧嘩も十年続けば落ち着いてくる訳で」
「十年も一方的な喧嘩をしてたんですか、父は」
「その通り」
俺の返しに、くくっと大山は笑う。「困った弟だろう?」と、困った父のことを語られてしまった。
喧嘩に十年も使ったとか。仲直りするまでに十年も掛かったとか。同じ敷地内に住んでいて「ありえねーだろ」「我慢して謝れよ」とついつい思ってしまう。きっと傍から見ていた連中も同じ気持ちだったんだ。
「松山が何が嫌だったって、当主様が当主様になってしまったことだった」
「はあ」
「当主様自身が好きで好きで、当主という役割の彼を好きになることは出来なかった。彼らは生まれたときから一緒だったからさ、当主様になる前の当主様が好きだったんだよ。でも、当主様はこの家のものだ。松山個人の我儘なんかに付き合ってられない。当主様自身も我儘に付き合える筈が無いし、当主様をお守りする我々も松山の反旗を実に下らないと思っていた。……この家の心臓である当主様を否定することは、我が身の心臓を否定するのと同じ。心臓を非難する松山に構っているなんて馬鹿馬鹿しい話だった」
確かに。
どれほど当主になる前の当主を想っていたのか、俺には想像も出来ない。今の当主中心の生活っぷりを見ると、相当執念を燃やしていたのは判るけど。
神があって一族が成り立っているのが判っている今、子供だった父の主張は認められるものではない。
でも「本人も周囲もワガママを言う父に手を焼いていた」というのは、「あの父も一人ぼっちの時代があったんだ」と受け取ってしまい、静かに心が切なくなっていく。身内が悲惨な目に遭っているのは気持ち良いものではなかった。たとえ過去の話でも。
「松山の我儘を無視する者も多かった。というか、そうするしかなかったな。だって当主様に『当主様になる前に戻ってくれ』なんて、無理な話じゃないか。当主様は当主様になるべく生まれてきたんだし、その宿命は背負ってもらわないと我々が困る。先代の心臓から新しく代わってこの家が生まれ変わっていくというのに、それを否定するだなんて。……おかしいことを言ってるのなんて、松山自身だって理解していたのに」
――でも、想いって理解が追いつかないときもあるんだ――。
そんなの知らない大山が、あっさりと語る。それが余計に切なくなった。
「……父さんと当主様の、仲直りのキッカケは?」
「判らない。詳しくは知らない。でも、いつの間にか仲の良い二人に戻っていた。……十年経って、当主様に余裕が出始めた頃かな。それまでは当主様は毎日忙しくて、松山なんかに手を焼いてる場合じゃなかった。けど、なんとか毎日に余裕が出始めて……松山を構ってあげられるようになったんだろ。そしたら松山も突っぱねてる理由が無くなったんだ。きっとそうだ」
凄く平穏な展開を語る。大山がいかにも好みそうな、何の波乱も無いオチだった。
今の父の姿を見る限り、誰かを突っぱねて嵐を起こすような姿は想像できない。そんな過去もあったとしても、今はそんな素振りは一切見せていない。
現在の松山という男は、誰にでも優しく接して、うるさいぐらい笑って、当主のためにこの寺を表の世界から守ろうとしている眩しい男だ。……それぐらいスッキリしたオチの方が、しっくりくるのかもしれない。
「代々、当主様が住職としての顔を演じるもんなんだが。……当主就任のときに当主様のお体は悪くなってしまった。いくつも仕事をこなすことが出来なくなってしまったんだよ」
「大変だったんですね」
「今でも大変だ。……たびたび顔を出してるから寄居くんも当主様のお顔は見たことあるだろ? でも、最初の十年ぐらいは自由に出歩くこともなかった」
「そんな大事件だったんですか」
歩けないとか、お体を悪くしたとか。そして『事件』なんて物々しい言い方。何か途轍もない騒動があったようにしか聞こえない。
「当初の松山は突っぱね続けた。けど、心に余裕が出来た松山は動き始めた。不自由となってしまった当主様を助けるために、かつての当主様も今の当主様も変わらないから援助するために、無い頭を振り絞って勉強をし始めた。今じゃ立派な僧侶をやっているけど、なり始めた当時は『あの松山に勤まるのか』って心配されてたんだ」
「心配される程度で間に合ったんですね。反対はされませんでしたか」
「そりゃ、最初は。仮にも当主様がやるべき仕事を受け持つんだ、その立場は『当主代理』だよ。我儘を言い続けていた無能な男には身に余る役職だった」
「……」
「でも、昔から松山は熱い男だった。やると言ったらやる男だ。当主様を助けると言い始めたら止まらなかった。批難した周りをギャフンと言わせるぐらいに、常に見本であり続けた。……あいつは最初から何でも出来た男じゃなく、どんな人間でも許せる聖人でもなかったんだよ」
どんな素晴らしい人間でも苦しんでいた時代があった。昔からよく出来た人間ではなかった。
俺が抱いている眩しく正しい父は、苦悩と決意の末に誕生したんだ。無能なりに努力して「出来ることをする」と言えるまでになり、認めたくなかった相手を受け入れ尽くす人生を歩むまでに。
そう、大山は優しい笑顔で語り終えた。
「ありがとうございます」
そんな話が聞けただけでも、今日のこの茶には意味があったとしよう。
大山に丁寧にお礼を言った。
――ずっと一緒に居た人がいた。隣に居続けた人が、とある事情で……変わってしまった。
変わってしまった姿を憂んで、儚いで、時には突っぱねた。認めたくないと否定した。でも最後には、弱くなってしまった好きな人のことを想って……助けになるため、自分を成長させた。
ああ、やっぱり父は眩しい人だった。
「今じゃ我が家きっての伊達男。寄居くんも自慢の父親を目指して励むといい」
「無理ですよ」
父は、眩しすぎる人だった。
十年も父は『認めたくない人』を見ないようにし続けたという。それでも最終的には成長した。俺はそんな強い意志なんて持てない。自分が成長の余地のある脳を持っているとも思えない。
俺は……想い人が少しでも変わってしまっただけで落ち込んで、何も行動が出来なくなるぐらいの小さな人間だ。好きな幼馴染の変化を受け入れられなくて逃げてしまうぐらいなんだ。「そんな君も好きだ」なんて吹っ切れることなんて、多分出来ない。
この感情も十年も経てば変わるのか。それぐらいの時間を掛ければ、自慢の人間になれるぐらいに人の目を変える成長が遂げられるのか。
たった三年程度、苦悩している俺にその自信は無い。
他人の変化に自分が直接関わっているか否かの違いがあっても、俺と父の道は似ている。父は経験を積み、素晴らしい特別な存在へと大成した。でも俺はそうなるとは限らない。
……俺は、幼馴染を事件に巻き込んだ。そして幼馴染を中身から見た目まで、全て変えてしまった。
幼馴染を殺しておいて、生きたけど深いトラウマを植えつけといて、「君を守るために強くなるよ、輝かしく生きるよ」なんて言えるものか。言っちゃいけない。言ったら何なのお前、って言われちまう。
そうだ、似てるけど俺と父は根本が違っている。父は輝かしく先を生きたけど……俺は一生、大成出来ないまま死んでいく。
それがお似合いだ。
考えながら、大山の話を右から左へ聞いていく。茶が冷たく、不味くなってきた。切なさと悔しさの味で体が満たされていく。
このままではいけない。負の感情に満たされたままでは何も得はしないし、運だって舞い降りてきてくれない。
今日は父を尊敬し胸を熱くするという優雅な一日を送るとしよう。気持ちを切り替えなきゃ。過去の過ちに囚われた痛々しい少年のままじゃいけない。過ちを忘れることは絶対にしないけど、このままじゃ駄目だってことぐらい判って……。
「ところで寄居くん。さっきから咳込んでるけど、風邪かい?」
――12月は寒い。忙しい。休めない。風邪を引いたっておかしくない時期だ。
大山の話を聞いていたときの咳は「茶葉が喉の奥に貼り付いてしまったからだ」と思っていた。
でも翌朝、鼻水が流れ出るようになってしまった。これは本格的に風邪だった。
今年の年末は自分の体調を整えることに専念しなきゃいけないようだ。本格的に鼻水が止まらなくなって、ずるずる音を立てながら生活をし始めた。
「お医者さん。お薬ください」
医務室(なんていう大袈裟な部屋は寺に無いんだが、心霊医師が屯してる研究部屋のことをそう呼んでいる)に行ってみても、そこは大掃除の真っ最中。廊下にまで荷物をバラまき、あちこちを整理している。ゆっくりしている診察してもらう暇は無さそうだった。
新年になったらバタバタ動くのに、大晦日には働きたくない日本人は30日まで動きっぱなしだ。薬を沢山しまってあるこの部屋も例外無く大騒動の対象になっている。数人の僧侶達が「今は出せない」「掃除が終わった頃にまて来てくれ」と言ってきた。
その間に風邪が治っちまったらどうするんだ。……いや、治ったならいいんだけど。苦しんでいる少年が助けを求めているというのに放置するなんて、情に薄い連中だ。思いながら大掃除の光景を見ていた。
本来だと自分も参加しなければならないところに突っ立っているのは心が痛い。素直にごめんなさいと頭を下げて、その場を去った。
医務室だけじゃなく、あっちの部屋もこっちの部屋も掃除が始まっている。あちこちで荷物をひっくり返し、パタパタと叩いている。埃が空に散って、あっちの人もこっちも人もクシャミをしている。通りがかった俺も例外じゃなかった。掃除中の埃を吸い上げてしまって盛大に鼻水を飛ばした。俺は『歩く迷惑』となっていた。
マスクをしなきゃ。思ったが、マスクがあると思われる医務室に戻っても「落ち着くまでマスクなんて探せない」と言われるだろう。かと言ってマスクが売ってるコンビニまで行くのに何時間掛かるか。
まずは服を着替えて、偉い人達に外出を伝えて、長い石段を下って、山を下りて、バス停まで歩いて、バスに乗って数十分……。果てしなくめんどい。
あ、バス停まで行く前に商店があったかな。ボケ気味のおばあさんがやってる山の商店が。名前は梅村さんだったっけ、あそこならマスクぐらい日用雑貨だし売ってるか……最後に行ったのは三年ぐらい前だからまだ店やってるか知らないけど。
「ほう……そんなにクシャミしてたら、口から心臓が飛び出しちゃうんじゃないかな」
本気で山を下りてマスクと市販薬を買いに行くか考えていると、声が掛かる。白衣を羽織った眼鏡の中年男性に優しく心配されてしまった。
何段階ものクシャミを繰り返すたびに鼻を啜り、中に入れた鼻水を飲み込む。あまり衛生的ではない行為だ、文句を言われても仕方ない。咳とクシャミのコンボに涙目になった俺には、優しい気遣いにじんわりとしてしまった。どんな気遣いでも天使のように思える。それぐらい体が弱っているのを感じた。
おかしいな、俺の体って研究所の強化手術で相当鍛えられていると思ってたのに。
「医務室に行っても追い返されてしまったので。大人しく本でも読みながら部屋で大人しくしていますよ」
「はあ。はい、これ」
「え?」
白衣の男性は唐突に、粉末を包んだ薄い紙……適量の薬と思わしきものを俺に渡してきた。
薬と思わしきものというか、まるっきり粉薬だった。白衣姿で医務室のあった方から出て来たんだ、間違いなくこの人も心霊医師だ。よくよく見れば顔も知っている人だった。『機関』で見かけたある顔じゃないか。
「部屋に戻るなら先に水分を調達しておくといい。水筒でも借りて、すぐに飲めるようにしておかないといけないよ」
「あ、はい、そうですね。喉が渇くし、薬を飲むにも水が必要ですよね」
「包み一つで一回分、食後に一日三回。ずっと寝て休むのもいいけど、食事をしにちゃんと部屋から出てきなさい。動けないようだったら誰かに連絡して部屋まで食事を運んでもらうこと。何も栄養を取らないのは駄目だよ。一包みの量が少なく見えるかもしれないけど、ちゃんと効果があるものだから安心して飲みなさい。けど、飲みすぎたらいけない」
そんな、たまにぃみたいなことはしない。
長く処方箋の説明をされた後、「大掃除でドタバタしてるから、窓は開けない方がいい。でも換気はしなきゃダメだよ」なんて矛盾した注文をしてきたが、道理は判るので大人しく了解する。心配性の医者の、有難い演説だと割り切った。
「ありがとうございます、先生」
礼を言い、厨房に掛け合いに行く。学人さんに水筒と目一杯の水を入れてもらった。
彼に体調が悪いと伝えると「食べやすい物を作ってアゲルヨ」と笑顔で言ってくれた。「気合いで治せ」と言われなくて安心した。学人さんも忙しいのに病人食を作ってもらうなんて申し訳無かったが、甘えずにはいられなかった。
そして昨日から自室となった部屋の、敷きっぱなしにしておいた布団に転がる。
布団に柔らかさを肌で感じたら、一気に体の重さを感じた。このまま一寝入り出来るなと思ったが、休むならせっかく貰った薬を飲んでからだ。実家に帰る前に駅で買ったチョコを口に入れてから、空腹を回避しながら薬と水を喉へ流し込んだ。
いくら一流の医者が診たって一瞬で治せる薬が貰えるとは限らない。今はただ、おかしくなってしまった体を落ちつけて休むしかなかった。
何もしない一週間があってもいい。
大掃除に加わりなさい、無意味な時間を過ごすなと怒られそうだけど、見るからに体調不良な人間を叱ってくることはないだろう。少し長い休暇をじっくりと過ごすことにした。
――2005年12月31日
【 / Second / /
/ 】
/2
流石に丸二日寝込んでいたら、口うるさいオカマの梓丸に「最近の子はたるんでるよねー」と説教される羽目になった。
好き好んで風邪なんて引く訳ないだろ、と言い返したかった。言い返したところでこの状況が良くなることはない。ハイスミマセンと苦しそうに訴え、その場をやり過ごすしかなかった。腹立たしさを抑えるのに精一杯だった。
二日寝込み、三日目に文句を言われ、四日目には「流石にそろそろお手伝いをしてほしいなー」と大山にエンジンを噴かされた。
本調子ではなかったが、咳とクシャミの嵐は通り過ぎていってくれている。まだ喉の奥に何かがつっかえた感覚があるが、雑用ぐらいだったらなんとかこなせる。会う人会う人に「長らく引きこもっていてすみません」と謝りながら、なんで謝らなきゃいけないんだと思いながら、俺は年末の仕事をこなしていた。
ああ、苦しい。なんでこんなに苦しい年末を過ごさなきゃいけないんだ。むかつく。
そんなだるい言い年のラストを飾っていたらもう少し寝るとお正月。31日、大晦日になってしまった。
流石に発病から五日も経てば普通の体に戻ってきてくれるもの。と思ったが、今から退魔の『仕事』を任されたら断らせてもらうぐらいには本調子ではない。「今年の風邪はヒドイネ」という学人さんに毎年のお約束台詞を聞きながら、静かに年末を過ごすことになった。
俺が何も手伝わなくても、31日には寺中は殆どの仕事を終えていた。
今年やるべきことも、新年の準備も全部終えて、寺中の人間が自由な時間を過ごしていた。
こんなときに働いているのは年中無休の研究を趣味で続けたい連中と、宴会の食事と明日のおせちを作る厨房組ぐらいだ。
そんな中、俺は医務室に向かい医師の先生に仕事をしてもらった。「なんだかずっと風邪が治らないんです」と訴えると、「ほぅ」と軽く唸った眼鏡の男は違う薬を出してくれた。
前に貰った粉薬とは別のものらしいが見た目には判らない。だが今は与えられたものを信じるしかない。「こんな日に仕事をさせてしまってすみません」と頭を下げると、「似たようなことを訴えるのは毎年いるもんだから」と笑って手を振ってくれた。
医務室を出てその場で……廊下で、俺は薬を飲んだ。
流石に31日まで眠って過ごすのは嫌だ。喉にへばり付く粉をなんとか飲み込み、身体に浸透させる。早く治れ早く治れと自己暗示をかけた。その程度で治ってくれるなら五日前には収まってほしいもんだが、ひたすらそう唱え続けた。
自己暗示をかけながら明るい冬の廊下を歩いていると、神妙な面立ちで煙草を吹かしている現代っ子を発見した。
寺に洋服姿で突っ立ってるのはごく一部。しかもオレンジ色の頭で寺を歩けるのは一人しかいない。
切なそうな顔で無理に煙草を吸っている少年。緋馬だった。あまりのいじけっぷりに声を掛けずにはいられなかった。
「何やってんだ」
あ、煙草を吸っている少年が、煙草を捨てた少年になった。変なことをしていると俺はつつきに行く。
「なんでそんなもったいないこと、してんだ」
「……これをもったいないって思うの、寄居は?」
「だって、火を付けて一分も吸ってないじゃん? ウマは何がしたかったワケ?」
「……うるせーな。黄昏たかったんだよ」
「まだ夕方にするには早いよ」
緋馬はいつも通りかったるそうに不良を語る。
彼が言う「黄昏る」を俺もやりたかったが、今の俺にはそれをするだけの体力が無かった。
「寄居、欲しいのか?」
大晦日だから寺にやって来た緋馬は、挨拶も無しに俺との会話を続けた。
緋馬が苦しそうにしているのは心だけで、ピンピンしてそうな体だった。青少年らしく悩みは沢山ありそうな顔をしている。きっと大袈裟なだけで、悩みは一つぐらいだ。それでも世界の終わりを迎えてしまいそうな程、弱った顔をしていた。
弱った者同士、親近感が湧いた。親戚だから、友人だから、同い年の男子だからの親近感じゃない。内面に何かを抱えて抜け出せない親近感は特別だった。
「……俺……恋をしてるのかな」
「えええぇ!?」
そして大胆告白にわざと大きな声を出す俺。
体が弱った俺の前に、心が弱った緋馬がぶつぶつと話し出す。嫌がる理由が無いので煙草を吸いながらその話をずっと聞いていた。
喉に煙が入る。さっき飲んだ粉薬とぶつかり合う。変な反応が起き始めた。けど、気にしなかった。
「ウマは、その人を、どうしたいの?」
俺も緋馬のことを細かくあーだこーだ言えたもんじゃない。あまり煙草を吸えずに、口を放してしまう。
いつもだったらこんなことしないのに、いつもじゃないから口を放す。大人しく今は薬が効いて修復されていくのを待つべきだった。
話に盛り上がっている場合じゃなかった。全部、後の祭り。
「恋とかそういうのはどうでもいいや。ウマはさ……その人にキスしたいと思ったことは? セックスしたいと思ったことはあんの?」
「…………う。……ん……」
「今のは、肯定の『うん』?」
緋馬の歯切れの悪い返答は、即答できなくて吐いてしまった単なる相槌に聞こえる。
でもそんなの関係無い。口が寂しいけど吸えない俺は、とにかく誤魔化すために話を無駄に長く続けた。緋馬の恋愛事情や内面に興味は、ハッキリ言って無い。全ては自分のために話し続けた。
全部体調が悪くていつも通りのことが出来ない当てつけだ。
どんなに相手が苦しんでいようと、俺は俺のことで精一杯。緋馬だってそうだろうけど。相手を気遣って笑顔で元気づけるなんてこと、父親だって十年経って身に付けたんだ。そんな高等なこと出来る訳なく、俺が満足いくように緋馬をまくし立てた。
――緋馬は良いよな。黄昏るときも絵になって。
どうせ恋に悩んだって幸福な恋だから報われるくせに。
それなのに変に深く考えちゃって、青春気取っちゃって。ああ、どうしようもない奴。
滅多にそんなこと思わないのに、陰鬱とした体内から猛烈な波が押し寄せていた。
汚い言葉が大量に溢れ出そうだ。寸前のところで口を閉ざしている。どうでもいいようなことで話を繋いで、思っちゃってることを一切口にしないようにする。
案外必死だった。この衰弱は、全部風邪のせいにしておこう。
「ここまでウマが落ち込んでいる珍しい日だ、今日は。せっかくウマを見下せるチャンスを無碍にはしないよ。いつも強気な子が落ち込んでいるときこそ、追い打ちをかけて弱らせとかなきゃ」
「お前、最低だな」
「計算高い男だと崇めればいいんじゃないかな」
一通り話を終えて、俺はスッキリしていた。
一方、緋馬は……話を終わらされて、無理に考えさせられて、最後までスッキリしない顔をしていた。そりゃそうだ、緋馬の相談に乗っているように見せて俺が話したいだけ話しただけなんだもの。こいつが笑顔になる訳が無い。
そんな俺も「スッキリした」と言っても、同い年の気が合う親戚と話せてちょっと楽しかっただけのこと。体調が戻ってくることはなく、緋馬を困らせてちょっと悦になっただけだった。
――お前、最低だなって言ったけどさ、ウマ。それ、大正解だよ。
緋馬は釈然としない顔のまま、トボトボという擬音が似合う去り方をする。
そんな緋馬の後ろ姿を見ながら、俺はほくそ笑んだ。悪いことをした自覚はある。体調が戻ったらちゃんと弁解してやろう。
あのときはすまんかったと笑ってご機嫌を取ってやろうか。まずは宴会でウマの好物でも分けてあげるべきかな。
「寄居ちゃんは『愛』を語れるんだね」
一人考えていると、突然、胸に突き刺さる声が俺を襲った。
慌てて振り返ると、見慣れない赤髪が目に入った。
でもそれは、髪の色だけ。赤なんて目に痛い髪色の下は、俺と同じような日本人の顔だった。目がまん丸で真っ黒の、小柄な体型は見覚えがある。
見過ぎて間違えることはない。髪の毛以外は殆ど外見は変わっていない、あさかが、立っていた。
サーッと背筋が凍っていく。顔が蒼くなっていくのを感じた。
――あさかがなんでここにいる。
それは大晦日だから寺に帰省したんだ。さっきの緋馬と同じだ。何もおかしくない。あさかがいるかもしれなかったというのに、俺は。
別にあさかが何をしたという訳じゃない。疾しい気持ちも無かった。ただあさかがそこに立っている。
つまり、さっきの『意地悪な俺』の姿を見られた。
一番汚い姿を。それだけで俺は息を呑むほどだった。
彼は笑っていた。
俺は怯えてしまっていた。
そして恐怖を感じていた。
あさかは何も悪くない。何もしていない。俺の心を抉るようなことも何一つしてない、言ってない。笑っているだけ。
ただ俺が勝手に……変な意地を持った俺が、『負』の面をあさかに見られたことに恐怖を感じているだけだ。
全ては、あさかを意識していたから。自分の汚いところなんて、嫌味で美しくない姿なんて見られたくなかったからの戦慄だった。
「久しぶり、寄居ちゃん」
ふんわりと笑って再会の挨拶を交わすその顔も、まともに見てられないし、声も聞いていられなかった。
聞いていたくなんてなかった。
「……いらっしゃい。いや……おかえり、あさか」
それだけ。
常識的な挨拶を交わして、俺は一言二言言葉を投げ掛け、逃げるように廊下から立ち去った。
そんな俺をあいつは「逃げた」とは感じていないようだった。ごく普通に、優しすぎるぐらいのあさかの笑みで、「また宴会でね」と手を振っている。
久々にやって来た寺で挨拶周りをしているだけ。そこで俺に出会ったから声を掛けただけのこと。俺が話に乗ればいくらでも会話は続いたけど、俺が素早く打ち切ったから気にせず次に向かった。それだけ、あさかにとっては特に意味も無いと思われる一分間だった。
俺は数日間寝込んだ部屋に戻り、左胸を抑え込んだ。
どくどくと薬の存在を感じる。そう、薬のせいで胸がどくどくと変な動きをし始めたんだ。そう思い込みたかった。
今までは何とも無かった。誰かとどんな方法で接してきたって、何事も無く生きていきると思っていた。
他人は他人、自分は自分、他人に左右される自分なんていない。そう思っていた。
輝かしい父のことを尊敬しつつもあんな風にはなれないと割り切っていたし、優しいと思っている大山達のことだって深い感情で感謝をしたことなんてない。
緋馬だって親しく口はきいているが、平気で自分の愉悦のために突き放すことが出来る。親戚ですらこんな感じなんだ、外で出会った男はどんな人でも冷淡に接してきたし、女を可愛がりはしたけど特別な感情を抱いたことなかった。
それが、何故だ、自分の『負』を意識した途端、焦りを感じた。
自分の『負』を一切見せたくない相手に見られたと感じた瞬間、死を覚悟するまでの恐怖すら感じてしまった。
汚い姿を見られた。嫌われる。もう終わりだ。そんな乙女みたいな心を一瞬で抱き、苦痛を感じた。
――馬鹿だな、今頃良い男を気取ろうだなんて。
俺は、あさかの前で良き人間を演じられる訳がないだろう? もうあさかを殺した悪しき存在になっちゃってるんだから!
清廉潔白を装うにも、あさかは身を持って俺の悪を思い知ってるんだ。
もうどうにもならない。今更、悪い姿を見られたって……。
「ああ、胸が痛い。今年の風邪は最悪だ」
……それでも、「好きな人の前では良き自分でありたい」って思ってしまうのは、本心だった。
少しでも「好かれたい」という心があるから。
たとえ過去に彼を殺したことがあっても、これほど大切に想っているんだから、好かれたかった。
死にかけたときに彼の笑顔を思い出すぐらいには大切だったから、好かれたかった。
彼から許してもらえることがあっても自分ではあの過ちを許してはいけない。自戒した。でも好かれたかった。
こんなにも自分は彼に好かれたいと思っている。なのに……弱って醜い姿を晒しているところを見られるなんて!
辛すぎだ。
「また宴会でね」なんて呑気に言ってくれた。何にも思ってないよと言うかのように手を振ってくれた。……でも、顔を合わせられる訳が無かった。
合わせられるものか。あさかにとっては些細な挨拶程度でも、俺には最高に嫌な挨拶のタイミングだった。このしこりは笑い飛ばせるものではなかった。
いっそもう会えないぐらいの事件でも起きてほしいぐらいだ。例えば『明日が突然来なくなるようなことが起きる』とか……今の俺にはどんなことでも大歓迎だ。
明日なんて来なければいいと頭を抱えるぐらいには、俺は心身ともに弱っていた。風邪で弱っていると何かとマイナスに物事を考えてしまう。
……なに、明日になればきっと立ち直ってるさ。俺のことだもの。
マイペースな性格なのは自分のことだから判っている。現に今も胸のどくどくは、時が経つごとに大人しくなっている。このままいけばきっと高揚した今の想いも落ち着く筈だ。
あさかに恐怖しているのは今だけ。明日になれば無くなる。一日で俺は彼との仲を取り戻そうと考えた。これだけ前向きな気持ちになれる性格が俺なんだ。明日にはどうにかなれる筈だ。
ふと、十年間も相手を突っぱね続けた父の偉大さと愚かさを考えた。
二十四時間で諦められる俺と、十年間も理想を追い続ける父の違いって何だ。相手のことを考えて自分を捨てるのと、自分の想いをそのまま保存しておくのって……俺には前者の方が賢いと思うんだけど。
あ、でも……俺は『今のあさかになる前のあさかが好き』って前にウマに語ったんだっけ?
それだと今のあさかを認めていないか。なんだ、父と結局お揃いか。親子揃って恥ずかしい話だ。
ということはいつか俺も『今の彼が好き』とか言い出して、自分を改造しだす日が来るのか。それは明日かな。今夜中にかな。
出来るなら早めに訪れてほしかった。そうすれば悩まず彼を想い続けるだけの日々になる。それは理想的だ。
自分が変わっても、何があっても相手に尽くす、相手を守るような存在に大成する。憧れだった。早くなれればいいと思いつつ、なれる自信はやっぱり生じてこなかった。
――1996年8月18日
【 First / Second / Third / Fourth / Fifth
】
/3
冷静なのが俺のいいところ。彼を確実に助けるには、俺が助けに行くのが最適。
だから俺は冷たい水の中を駆けていく。冷たい冷たい川の中を、中へ中へと潜っていく。
そこは学校のプールみたいな水色の世界ではなかった。予想以上に川は汚く、目に虫の死骸が入ってくるし、細かい石が至るところにぶつかってあちこちが痛い。それでも俺は水の中へ手を伸ばし、走り続けた。
全ては追いかけるために。彼に追い付くために。人間は水中で自由に走ることなんて出来ないって子供の俺でも知っている。でも追いかけなきゃいけなかった。
ずっと遠くに行こうとしている彼の体が見えた。とても遠い。追いかけることが出来る俺が止めなければ、彼は本当に遠い遠い世界へ行ってしまう。
遠くへ行ってしまう彼を止めることが出来るのは、俺しかいなかったから。
息が出来ない世界でも耐え、ひたすら突き進んだ。弱々しいあの手を追って、遠くに行きかけているか弱いあの腕を掴もうと必死に。
俺は生まれて初めてなぐらい必死に、鍛えたこの体を酷使し続けた。
――ごめんね。
……そうして、俺はいつの間にか目標を追い越していた。
あれ、おかしいな。俺は溺れたあさかを助けようとしてたんだろ? なのになんで、俺の方が助けられてるの?
水の中を流れていく彼を追いかけていた。溺れている彼を助けようと泳いでいた筈が、いつの間に意識を手放してしまったのか。流されていくのは彼ではなく、何故か俺になっていた。
ドクドクと心臓は恐ろしい早さで脈打つ。でも思考は不思議と冷静だった。冷血すぎるぐらいだったから、周囲を見渡すことができた。
声が聞こえた。
――コウヤッテイキヲスエバイイヨ。
――コウヤッテメヲアケレバイイヨ。
――ダイジョウブダトイエバイイヨ。
――モドッテオイデ。
無数の声が俺を呼ぶ。
目を覚ます俺。ゴツゴツとした砂利の上、全身ビショビショで仰向け。
瞼を開ける俺の頭上には、あさかの泣きそうな顔。ボロボロに泣きじゃくる、溺死しかけたあさか。周囲には俺の名前を必死に呼ぶ者達。大勢の声が俺に「あっちに行くな」と叫んでいた。その声はみずほ、つきにぃ、他にも大人達、大勢、百人ぐらいが、俺を呼び止めようとしていた。
百人? そんな訳が無い……俺の周りに居るのはせいぜい十人程度だ。百人もの人間が俺を心配する筈がないのに……。
何故、百人分の声なんて聞こえたんだろう。
俺の名を呼ぶ大勢って誰だ。息を吸えとか目を開けろとか大丈夫だと言えとか言ってた奴らは誰だ。そもそもどこから聞こえてきたんだ。
「寄居ちゃん」
なんだかその声は俺の体中から聞こえたような気がした、けど。一つの声を聞いていたら、そんな疑問なんてどうでも良く思えてきた。
大勢の声に埋もれて、肝心の助けたかった奴の声を聞けずにいた。埋もれて消えかけていたものがやっと耳に届き、俺は安心する。
あっちの世界に逝きそうな俺を引き止めようと、彼は声を張っていてくれた。けどか弱い彼はどうも目立たず、俺の頭上で泣くだけに見えた。
「ごめんね。寄居ちゃん。ごめんね。僕のせいで。ごめんね」
……そんなこと言うなよ。俺は震える唇で言った……けど、周囲があまりにうるさくて、きっとあさかには聞こえていない。
大勢の大声の中。消えそうな声で俺を気遣う。あさかの声。
自分も水浸しになって寒いのに。先に溺れたのはあさかの方なんだから衰弱してるのに。ボロボロと涙を流すという体力のいることを。
冷静に現状を思い返そう。
夏休みでの川遊び。先日はお寺で遊びまくって、冒険をしようとしたら偉い大人に見つかって二時間の説教を食らった俺達は、裏山の川へと涼みに出かけた。
そこであさかが溺れた。俺が溺れているあさかを助けようとした。
川に飛び込んだ。形勢逆転、俺は溺れた。
声が聞こえた。十人が呼び掛ければいいところを、百人分の声で、俺は目を覚ました。
そんな馬鹿な。これは死に際で俺が混乱しているだけだよな……。
周囲の連中は俺を介抱しようと大声で呼び掛け、治療魔術を施してくれている。
そんなことより俺にとっては「あさかが無事だった」と笑顔を見せてくれた方がよっぽど回復しちゃうんだけどなぁ。
なんてことを考えて、「俺ってキザな台詞も思いつくんだな」と思う。
死に際の自分を客観視できていた。とても冷静だった。
一大事が過ぎると冷めてしまうというのは聞いていたけど、これほどのものとは。マイペースな性格と評されていたって流石に恐怖を抱くと思っていたんだが。
恐ろしさや感動は無かった。でも無感情ではなかった。
流れる涙が暖かそうだな。
流れる涙が美味そうだな。
泣いてるあさかにぐっとくる、生きてるあさかが愛おしい。……ああ、これって恋の始まりかもしれない。
そう考えてたんだ、俺は冷静じゃない。とても情熱的な人間。そう思った。
――2005年12月31日
【 / Second / /
/ 】
/4
「おーい寄居。生きてるかーっ」
寝ていたのに、父・松山のバカデカい声に目が覚めた。病気で寝込んでいる息子を気遣っているとは思えないボリュームの声だ。
浅い眠りを繰り返していたのですぐに身を起こすことは出来る。体は寝る前よりもずっと軽かった。どうやら薬がやっと効いてきてくれたらしい。ちょっと不機嫌な声を出しながら俺は父に向き直す。
父はドスンと布団の隣に腰を下ろした。仕事着ではない、ゆったりとした着物姿。仕事の無い12月31日らしい格好をしている。談話をするに相応しい様子だ。
「相当酷い風邪を引いたって航から聞いたぞー。んー? でも全然顔色悪くないじゃないか。そりゃ一週間も寝てりゃ元気になるか! 元気になるよな! あっはっは」
「お父さん。何しに来たの」
一週間は言い過ぎだ。でもあと二日寝込んでたら一週間俺は何にもしてないことになる。その前には元気になれそうでほっとしていた。
そもそも父は俺が寝込んでいた五日前の姿を見てないんだから、どんだけ顔色が良くなったか知らないだろ。そういや実家に帰省してから、父と面と向かって話すのはこれが初めてだった。
俺は布団に篭りっぱなしだったし、父は仕事をしてたから会う機会なんて無かった。同じ敷地内で過ごしていても、お互いに興味が無かったら会うことなんて無い。
父の話を大山さんとしたり興味はあったけど、会う程じゃなかった。敢えて用が無かったら話はしない自由な関係なんだから、わざわざ会いに来るんだから用が……。
「寄居に訊きたいことがあって来た」
やっぱり。
あぐらをかき、豪快に笑いながら言う。なに、と俺は言葉を促した。
「寄居は今も外で暮らしていたから、外の常識がどんなもんか判るよな?」
「さあ。俺の人生の七割は仏田寺だよ。判るのは微々たるもんだ」
「はは、三割も外界の色に染まってるんじゃねーか。大したもんだ。寺中のおっさん共に色んなことを教えてやってくれよ。世間知らずが多いからなぁ。あははは」
「で、お父さん。用は何?」
「子供にやるお年玉って世間一般的にいくらぐらいあげればいいんだ?」
「……年の数だけやっておけばいいんじゃない?」
「そんなもんでいいのか? 年に一度の縁起物だろ?」
「子供はお金を持たないものだよ。それは仏田も外も同じだ。いっぱいあげたら子供も困っちゃうだろ? その程度でいいんだよ」
と言いつつも、俺も例外無くこの寺の生まれなのでお年玉なんて縁が無いんだが。
だって金なんて、寺で一生を終える身には要らないもんだし。外に出るときは『仕事』だからちゃんと経費は渡されるし。欲しい物があったら言えば大抵は揃えてくれるから、敢えて自分で金を管理する必要も無い。
「寄居は今年でいくつだったかな?」
「10月で十七歳になりました」
「じゃあ寄居に渡すときは、十七万円包んでおけばいいってことか? ……そんなもんでいいのか?」
「確か、社会に出たばかりの新人さんのお給料がそれぐらいだった筈。なら、年齢×一万円は妥当……でしょ?」
多分。
手近に辞書があったらお年玉で引けたけど、辞書なんて便利なものはすぐ側に無かった。辞書で調べてみても相場は書いてないか。外がどうなのか、中だけで暮らしていたら判りようがない。
お年玉の話をするってことは、誰かにあげるのかな。仕事関係なのか、知り合いのお坊ちゃんかお嬢さんに渡すのか。外に顔を売っている父なら外の習慣を取り入れて真似しようとするのは、ありうる話だった。
「なるほど、じゃあ十二万か」
「……その子、十二歳なんだね」
「寄居もお年玉、欲しいか? 外で暮らしていると何かと金が必要だろ。『本部』が毎月振り込んではいるけど、足りてるか?」
「余ってるぐらいだよ」
そろそろ一軒家が買えてもいいぐらいには、俺の通帳は潤っている筈だ。あんまり気にして財布を見ないから正しいことは言えないけど。
「でも、くれるなら貰うよ。お金はいくらあっても困らないものだからね。そのうち頂戴」
「ああ、ちゃんと来年用意し……」
用意しておいてやるよ。そう繋げるべき言葉が、続かなかった。
父は何かをハッと思い出して、口を閉ざし、思い直したかのような顔をした後に、いつも通りに微笑んだ。
「意味深な笑いだね」
思わずそう言わずにいられなかった。父はただ、はははと笑う。
「お年玉のこと訊きに来たけど、やっぱ、その必要は無かったな」
「へえ。それはどういう意味で?」
「お年玉をあげる機会なんてもう無さそうだ」
そう意味の判らないことを言い、父は、ははははは、笑った。
新年を迎えてから他所のお子さんに渡すもんかと思ったけど、やっぱり渡さないのか。それを思い出したのか。よく判らないまま、父は笑い続けた。
俺もへらへら笑っている方が多い顔だが、父のように声に出して笑うことはまず無い。だって笑うにも体力がいる。笑顔になんか力を掛けたくないと思ってしまう。
父は大人だし、表面を潤わす仕事のため付き合い上手のコツを習得してるんだ。父が笑っているのはそういう仕事だからと思えば、体力を使ってでも笑い続けるのは納得できる。
「お父さんっていつも笑っているよね」
常に周りを気遣い、円滑に歯車を回すために力を行使する。計算された態度。そうなんだろうけど、それでも「疲れない?」よ尋ねてみる。
大変だな、真似できないししたくないとも思ってしまう、その笑みに。
「疲れるぞ。でもコツを掴めばなんとかなる」
「疲れるんだ。でもって、やっぱりコツがいるんだ」
「人より笑いの沸点が低いのは生まれつきっぽいけどな。ははは。でも笑顔を向けられて嫌な奴はいないだろ? 表に出る仕事をし始めてから表情は心掛けるようにはしている。無遠慮なぐらい笑っていた方がいいって言われたからな」
「それ、当主様に言われたの?」
「ああ」
笑顔で父は頷く。
そのときの表情は、今までの中で一番綺麗で不気味じゃないものだった。それこそ真の笑顔ってやつなんだろう。「本当に当主様のことが大事なんだ」と呟くと、父は「ああ」と即答した。
あまりに眩しい回答に、模範のような清々しさに羨ましいとさえ思えてしまった。
「寄居は、心臓が大事か?」
突然、父は俺の髪を撫でてくる。
皺の多い大きな手で、ぐしゃぐしゃと髪を掻かれた。寝た後だから汗ばんでいるというのに、そんなことを気にせず、頭を撫でた。なんでそんなことをするのか判らなかったが、無神経な父のことだから意味など無いのかもしれない。子供が相手だからそうした、それだけなのかもしれなかった。
「大事だよ。無かったら生きていけなくなるもの。意識して考えたこともなかったよ」
「だよな。当主は我が一族の中央だ。心臓だ。いなきゃ一族が成り立たない」
「だから、守る? 綺麗な言葉だね」
すると「本心だ」と父は即座に答える。あまりの早さに小さく頷くしかなかった。
「俺が寄居ぐらいの年のとき、当主に限らず一族を『自分の家族だから守れ』と言われた」
「うん」
「でも、俺は納得できなかった。何故かって言えないけど、腑に落ちなかったというか。嫌いな人が寺に居たって訳でもなかったけどさ、その言葉に頷けなかった。守らなきゃいけないから守るっていうのは頂けなかった。でも……当主となる人だけは、理由無く守りたいと思えた。好きだから」
「……」
「その人は自分を動かす中心だった。当主だからというより、あいつは俺の中心だった。俺を構成する全てがそこにあった。たとえ腕や足が死んだって生きていける。他が消えたっていいけど、中央の心臓だけは潰されたくなかった」
――父の言う腕や足って、誰のことだろうな。
考えて、くすっと笑う。二重の意味を込めているのか、単に例え話で判りやすくしたかっただけかは定かではない。父は当主以外の人間の前で当主だけは守ると言う。当主じゃない俺の前で、清々しく「他はいらない」と公言する。
勢いの良さが聞いていて気持ち良かった。不思議と怖いとは感じなかった。気味が悪いとも思わなかった。そういう父の真っ直ぐな輝きは、陰鬱としている俺には憧れの感情を簡単に抱かせてくれていた。
そうだ、俺は陰鬱としている。好きな人に格好悪いところを見られて怯えて、寝込んで好きな人の夢を見て悶え苦しむぐらいには、陰気に塗れていた。
だから眩しい父の言葉が暗がりの俺を照らしてくれていた。前向きになれる明かりで、頼もしかった。
「お父さん、人は心臓だけじゃ動かないよ。脳味噌とか残しておかないと」
「ああ、そうだな。目も潰したくはねーなー、見えなくなるのは嫌だし。それと耳も残しておいてほしいな。ううん、出来れば五体満足で……」
「やっぱり全部揃っていた方がいいね」
「そうだな。家族も全部揃っていた方がいい。欠けたらきっと悲しいぞ」
なーんて、無理矢理良い話に持っていく。
わざわざ良い話に引っ張っていった。お互い意識してそれを話しているのが判った。思わず父子で揃ってニヤッと笑う。息子が問い掛け、親父が答えてやるという家族の図の中、二人で美談を共同制作したことが面白可笑しかった。打ち合わせもしてないのにハマってしまった談笑が楽しかった。
「寄居。お前は守りたい奴を守れよ」
そんな愉快な時間の中、俺の頭を存分に撫で終え、父親らしいことを済ませた父はそんなことを言ってくる。
いいことを言ってる顔だった。改めてそんな格好良いことを言うなんて、こちらも笑って頷くしか出来ないじゃないか。
「どうだろ。無理だと思うけど、気長にお父さんみたいになろうと努力はしてみせるよ」
「遠くへ行ってしまう彼を止めることが出来るのは、俺しかいなかった」
「……ん?」
「俺しかいなかったのに、俺には出来なかった。俺しか出来なかったのに、俺はしなかった。――やれるときに絶対にやるんだ。後悔するなよ」
いきなり何を言い出すと思ったら。
父は立ち上がり、障子に向かう。
この間の会話は五分。五分だけだが親子らしい心暖まる話が出来たから終わらせようとしてるんだろうけど、その終わりは唐突に思えた。
慣れ合いは長ければ長い程良いものとは限らない。濃密な話はできた。そのための時間を終了させたんだから、あとはいつも通り淡白に過ごすもんだって判るけど……。
話すべきことを話せた父は布団にいる俺に背を向け、最後に、
「俺だって後悔しないように、今、やれるべきことをしてくる」
格好付けの捨て台詞を置いて、病室を去った。
「……やっぱよく判んないな」
最後の最後、父の横顔から笑みは消えていた。
一番シンプルな父の顔、何でもない松山の姿だった。
――自由が無いと皆は言う。けど、中に篭りっぱなしな俺達でも義務教育に通えるぐらいの自由はあった。山を下った所にある学校までの距離は、束縛されずに歩くことができた。友人だって作れた。買い物だってできた。制限はあったけど、他の子供達と同じぐらいの自由は与えられていた。
だから仏田を窮屈と感じたことは無い。
それに俺は、更に窮屈な世界を味わったことがある。あれに比べたら仏田なんて優しいもんだ。
俺はある事情で仏田を追い出され……自分達の手が関わっていない、『外の研究所』にお世話になった。
そこは真っ白い施設。真っ白い服を着て暮らし、同じように真っ白い連中に命令される日々。
それだけならまだいいけど、出ることができないように拘束され、決められた物しか口に出来なくて、言われたことをやるしかない毎日を送らされた。
俺は武術に長けていたせいで「能力を見る研究」とやらにまわされ、毎日似たような能力の子と戦わされた。箱の中で捕獲した化け物と戦わされることもあった。
白い箱の、そのまた箱の中、色んな人の目に囲まれながら、能力を使い続ける一日。同じような力を持った子供と対戦して、俺は勝って生き残って、あの子は負けて死ぬという毎日。それを何日も繰り返した。
そんな日々を送ってしまったら、同じようなことをしていても「家族だから一緒に頑張ろう」とお互いを励まし合っている仏田家は、天国のように思える。
父が誰に言われたか知らないけど、「自分の家族だから守れ」という言葉は……俺にはとても暖かい。
「研究に使うデータを取るために対象Aを死守せよ」よりは「死んでほしくない身内を守れ」は頷けるもんだ。……だから。
布団に転がりながら、父に撫でられた髪を何度も触って多くのことを考える。
……世の中には酷いもののより酷いものが存在する。ここが地獄だと言う奴もいるけど、俺の脳には更なる地獄が焼きついて離れないから、なんとも思わない。
ここが地獄? どこが? ついつい鼻で笑ってしまう。同じじゃないよ、全然違うよ。
真っ白い最新機器の揃った無臭の施設じゃなくて、仏田は古臭くて草の匂いがする場所だけどさ。
真っ白い服の連中に命令されるんじゃなくて、時代遅れの僧侶達に「血に従え」と洗脳されるんだけどさ。
戦って負けたら死ぬんじゃなくて、戦って負けたら蘇らせられてまた戦わされるんだけどさ。
殆どやっていることは変わらなくてもさ。まだ親しい家族が、優しい人がいるんだから、我が家の方が良い――。
――アリガトウ。
「あ?」
ごろごろと布団に転がっていた。時々、手近にあった本を手に取って、パラパラと捲って遊んでいた。そうやって時間を潰していたら、突然誰かにお礼を言われた。
誰かまたお見舞いに来てくれたのかと思い、身を起こす。でも誰も居なかった。襖を開けても誰も居なかった。あちらの廊下では、宴会の準備をしているのかバタバタと女中達が飯台を持って駆けている。
みんな忙しそうだけど、辛そうな顔をしていなかった。夜の楽しみのために動いている晴れやかな表情だった。
「…………」
――アイシテクレテ。
――アリガトウ。
またお礼を言われた。
誰に? なんで? どうして? ……襖から顔を出しているときに、また。
廊下には誰も居ない。もちろん部屋には俺以外居ない。居ないのに、声がした。「うらめしや」ではなく一般的に良い言葉だとされているものだったから、不気味だと一蹴できなかった。
いや、誰も居ないところで声がしたら不気味には違いないんだけど。
小指で耳を穿る。改めて耳を澄ませてみる。聞こうと思うと今度は聞けなかった。
俺は退魔の一族でも霊感は無い人間だ。でも数日に渡る闘病のおかげで霊媒師の才能に開花したとか? それはもしかしたら有り得る話?
判らん。
襖を閉め、布団の上にまたダイブした。何者の声なのか気になる。けど不気味なものじゃない。心地良い声だった。この声は何度か聞いたことがある気がする。
そうだ、確か最初に聞いたのは……あさかが川に溺れたとき。
その次は……真っ白い箱の中で、異端に追われて走り疲れて、壁を背に座りこんでしまったときだ。
外の研究所に居たときのこと。箱の中で戦わされて、数人いた仲間扱いの能力者達は、全員異端に食われた。残すは俺のみ、俺一人で強敵と立ち向かわなければならなくなって。
散々追いかけ回され、血反吐をバラまいて生き長らえて、本気で死を覚悟したとき……あるものが浮かび上がってきた。
走馬灯だった。優しい記憶、暖かい思い出。思い浮かぶのは、愛しいと思った人の笑顔。
その顔を思い出したら、死ねないという気持ちが湧き上がり、ガンバレと声がした。
バケモノノアシヲネラエと、シンゾウガマンナカニアルトオモウナと、シンゾウガヒトツダケダトモウナと。
具体的な声と共に、力が『体の中』から生じた。
――そして気付いたら、化け物は俺の足元で倒れていた。
化け物の足を切断し、バランスを崩した異端の横っ腹にある心臓を取り出した。更に腰にあった二つ目の心臓を抉り、息の根を止めた。
まさかの事態に、俺の力を試していた研究者の見る目が変わった。奇跡的生還を遂げた優等生として待遇が改善され、大山が手を回してくれたおかげで仏田に帰ってくることができた。
あの声のおかげ、それと、生きようと思えたあの笑顔のおかげで。
「……なあ。居るのか? 『誰か』」
天井の電球に声を掛けた。
判らん、気にするもんかと思ったけど、誰か居る状態で寝られなかった。
声に出してはみたが、それに応じる声は無かった。どこかに行ってしまったのか、照れて応えてくれないのか。
多分、誰かは居る。確実に近くに。確信は無いけどそう思う。
川で溺れかけたとき、俺を呼び止めてくれた声。
異端と戦わされたとき、俺を後押ししてくれた声。
どちらも俺が死に際のピンチのときに声を掛けてくれた。いいひとだ。姿は見えないけど味方だと思いたい。守護霊か何かか。俺に自覚が無いだけで、幸薄そうな俺に憑いてくれている何かが居るのか。後で魔術の研究班に調べてもらうのもいいかもしれない。
「なんか今更かもしれないけど、ありがとな」
その存在に気付いたら、ついお礼が言いたくなった。
病で気が滅入っているせいか、今日は滅多に思考しないことが生じる。普段は考えないように、思い出さないようにしているのに。冷淡に生きてるのがラクで何も変わらないようにしていたのに、今日の俺は成長しようと頑張ってるみたいだ。
笑い、もう一度「ありがとう」と虚空に向かって言う。
そこまでして、気付いた。
川で溺れかけたとき、俺を呼び止めてくれた声。
異端と戦わされたとき、俺を後押ししてくれた声。
どちらも俺が死に際のピンチのときに声を掛けてくれた。
「…………」
もう回復しきっているというのに、ほぼ全快しているというのに寝ていたら、きっと明日から眠れなくなってしまう。
眠たくなかったら大晦日から新年にかけてのテレビ番組でも見ていればいいけど、俺の部屋にはテレビは無かった。夜通し本を読んでいればいいのか。いや、朝になったら動けるようにまた眠りにつけるよう少しでも起きて体を動かすべきじゃないか。
部屋の中で少しだけ体操をし、いざ外に出ようと襖を開けると、外は真っ暗だった。
完全な夜。明かりを灯さなければ闇。黒い庭。あと数時間で新年を迎えるのを物語る、宵の始まりの風を感じた。
「…………」
冷たい風が吹いていた。昼間は医務室に行ったり食事をしたりと動いているが、日が落ちたらただ部屋で寝ているだけの生活を送っていた。だから気付かなかった。寺の夜がこんなにも寒いものだなんて。
あまりの寒さはおそらく、先日まで雨が降っていたからだ。
12月、いつ雪が降ってもおかしくないほど気温が下がっていた。そんな中、結構強い雨が降った。雨音を聞きながら薬が効くのを待っていたのを覚えている。そんな風に寒い日々が続いていたんだ。普段なら風邪を引かない俺やその他大勢が体調を崩したって、何らおかしいことはない。
緋馬やみずほやあさか……あいつら、気温差で風邪引いちゃうんじゃないかな。
緋馬は隣の県にある山奥の高校に居るから、そんなに気温差は無いか。でもみずほとあさかはビルが立ち並ぶ都会育ちだ。距離はともかく熱い都心で住んでいたら、森しかない寺の冬は極寒に感じるだろう。
いくら備えをしていたって、体調を崩すときは崩す。暴飲暴食をして、慣れない人達と話をして、夜中まで遊んでいたら正月明けにはきっと……。
そのときは、寺を出て行くまで俺が看病してやればいいか。先に風邪を引いちゃった先輩だ、アドバイスぐらい出来るだろう。みんながバタバタ働いていても何も出来なくて辛い時間を潰す手伝いぐらいは出来る筈だ。
今日は31日。宴会が開かれ大人達は飲んでいるけど、子供達は子供達なりに楽しんでいる筈。
なんで俺は気難しいことを考えながら寝てたんだ。回復したって自覚があるんだから、遊びに行けばいいんだ。
そこには絶対あさかが居るけど。
「あ、思い出した……俺、あさかに顔を合わせられないって頭抱えてたんじゃん」
それだというのに、薬を飲んで一寝入りしたら「遊びに行こう」って平気に考えてやがる。あんだけ「あさかに会えない」と思っておきながら、「遊びに行けばいい」だなんて。
俺、案外浮き沈みが激しいのかもしれない。躁鬱の気があるかも。病気のときは沈みやすいものだからあまり気にしないべきか?
うん、今はあさかに会ってもきっと大丈夫。気落ちなんてせず、楽しく夜を過ごせると思う。あさかも「また宴会でね」って言ってくれたんだ、俺の評価は下がっていない……と思いたい。
変に一人で落ちて、苦しんでいただけなら、また一人で上がって、楽しみにいけばいいだけのこと……。
大丈夫、大丈夫。
自分で自分を言い聞かせる。
ダイジョウブ、ダイジョウブ。
ほら、彼ら彼女らもそう言ってくれている。
――2002年7月7日
【 First / Second / Third / Fourth / Fifth
】
/5
――中学に入学したらね、何をしようかな。何の部活に入ろうかな。
――陸上部がいいかな、柔道部がいいかな、空手部がいいかな。勉強ってどれぐらい難しくなるんだろう? 給食も、やっぱり小学校と違うのかな。
色んなことを話し合っていた。これからしていきたいこと、夢いっぱい話し合った。新しい世界がどんなものか、僕より先に生まれた寄居ちゃんは知っているから。
4月から始まる新しい生活がどんなものなのか、先輩の彼は全部教えてくれる。
めんどくさがって滅多に話してくれないウマちゃんとは違う。訊けば何でも教えてくれる彼から、言葉を待つ。
――ねえ、授業はどんなことやるの? 数学や英語って、難しくて辛いものなの? 運動会ってもう無いの? もうお父さん達を学校に呼ぶことってないの? 女の子はどんな風になっていくの? 好きな人ができたりするものなのかな?
――僕は、どう変化していくのかな。ずっと、みずほと仲良くやっていけるのかな。
たった一歳年を取るだけ。でも住む世界が変わっていく。僕自身はちゃんと変わることが出来るのかな。
ううん、変わっていかなきゃなんだよね。そう、漫画でもドラマでも言ってるもの。新しい舞台が用意されているのは、成長するためなんだよね。中学校ってそのための場所なんだよね。不安だなぁ、僕もちゃんと変化していけるのかな。
大きな和室で僕ら二人、そんなことをずっと話し合う。けれど、気付いたら途中から……話は、自分だけの声になっていた。
相槌を打ってくれた寄居ちゃんは、何も答えてくれない。何にも話してくれなくなっちゃった。
――どうしたの。
――さっきまであんなに答えてくれたじゃない。なのにどうしていきなり黙るの。
今まで未来に向けて話し合っていたのに。いっぱい答えてくれたのに。なのに、なんで今は何も言ってくれないの。
僕は何か悪いことでも言ったかな。彼に対して悪いことを、しちゃったのかな。きっとしちゃったんだよね? 僕が何かしたんだよね?
急に怖くなって、彼の肩に手を掛けた。何かしたならごめんなさいと言いたくて、ちゃんと言いたくて。でも思い当たることは何も無かった。僕の悪いところってどこだったんだろう。判らない。
でも、僕と話していて俯いたのだから、僕のせい。
悲しいときには必ず理由がある。飼っていた犬が死んだとか、大好きだったアイドルが辞めちゃったとか、玩具が壊れちゃったとか。
怒ったときにも理由がある。玩具を壊されちゃったとか、自分の仕事を奪われたりとか、辛い本音を言われちゃったりとか。
嬉しいときだって理由がある。欲しかった玩具を貰えたときとか、テストで百点満点だったりとか、褒められたりありがとうと言われたりとか。
そんな風に、『理由の無いもの』なんて無いんだ。必ず、何か原因があるものなんだ。
だから、自分の汚点を探す。恐ろしい声で唸っていても、探す。取って食われそうな怖い声を出されても、声を掛けて、悩んで、探す。
後悔よりも、そのときの気持ちの方が重要なことがあるから、咄嗟に理由を作って、やることも……だから。
寄居ちゃんの腕が僕のお腹を貫通することも、何らかの理由がある筈なんだ。
……僕は、まだまだ夢を見る。
……見たくもないのに、呼吸の止まる夢を見る。
白い白い病室で目を覚ます。
僕はきっと重症で、だからベッドにぐるぐる巻きにされて、体中に色んなケーブルを繋がれているんだ。
白衣を着たお医者さん達が僕の周りと取り囲んで、いっぱい難しいことをお話しながらピコンピコンと機械を動かしていく。
台の上で息をするしかない僕のことをいっぱい話している。僕には何にも判らない内容の会話だったけど、とっても大事なお話みたいで、難しいことを言いながら注射器を取り出していく。
怖かったけど、怖いと言ったら看護師さんが「そうしないと貴方は死んじゃうのよ」って言うから我慢する。
どうして死んじゃうんですかと尋ねると、頭の良さそうなお医者さんが「貴方は殺されたんだから、その治療だと思いなさい」と言ってくれた。
治療なら仕方ない。してもらっているんだから文句は言えない。じっと僕は台の上で彼らのお仕事が終わるのを待つ。
寄居ちゃんが僕を殺す理由は何だろう。
僕が嫌われる理由って何だろう。
なんで殺されたんだろう。
なんで殺そうとしたんだろう。
なんでだろう。なんでだろう。どうしてだろう。どうしてだろう。何故なのかな。何故なのかな。考えてみる。考えてみる。
ずっと考えて。ずっと考えて。考えることしかできないから。考えることしかできないから。考えることしかできないなら。
ベッドの上で、ずうっと。何秒も。何分も。何時間も。何日も。
なんで殺すの。何が嫌なの。どうして殺そうとしたの。どうして殺したの。
何が嫌だったの。僕の何が殺したい理由だったの。
どれだけ。どれだけ。どれだけでも、ひたすら考えるのは、彼のこと。
仲の良かった、未来を教えてくれた彼のこと。恨めしげな、恐ろしい声で僕を見た、彼のこと。
必死に僕は彼に話しかけていた。どうしたのどうしたのと声をずっとずっと。
声を掛けるだけじゃない、いっぱい考えた。でも、判らなかった。今も、ずっと考えても判らない。答えに辿りつけない。辿りつけない。辿りつけなかった。
どうして。どうして。理由を。考えて。考えて。考えて。全然、答えに到達できなかった。
ぐるぐるぐるぐる。迷路の中を回っている。迷路の入口に入って、よーいドンしたのは、いつからだったろう。
何秒前。何分前。何時間前。何日前。そのときから、ずっと自分の中にある理論で考え続けている。
そうだ、迷路に入ったらまず『左手法』。左手で、ずうっと同じ壁を触り続けて彷徨えばいつしかゴールに辿り着くってやつ。
決して諦めてはいけないことだから、延々と永遠と、諦めてはいけない。考えることをやめちゃいけない。諦めたらその手法は、意味を成さなくなるから。意味を成す前に、成さなくなるから。諦めたらいけない。
ずっと進み続けなきゃ。ゴールへ向かって、迷路の中を。何秒間。何分間。何時間。何日間。ずっとずっとずっと。知りたいと、思う。
ぐるぐるぐるぐる。ぐるぐるぐるぐる。ぐるぐるぐるぐる。
考え続けて。考え続けて。考え続けて。
答えが、出ない。
違うものばかりが思いつく。辿りつかない中で脱線ばかりする脳。理科の時間、顕微鏡のレンズ越しに覗いた、無機質的な微生物の話を思い出す。
――せんせい、こいつら何かんがえて生きてんの。
実験の時間、誰かの質問。
――微生物には、ものを考える器官はないよ。
婉曲に、何も考えられない、感じられない、と答えが返る。
ああ、それなら、いいね。何も感じなくなっちゃって、何にもなくなっちゃって。
だけど、出来るなら、ただ一人のことだけ感じられるような。
考えられるような、それしかないような、そんないきものに、もし、なれるなら。
ああ、だめだよ、くるしいよ。
見えないゴールにずっとずっとずっとずっと回っているのは、つらいよ。
もう迷路の中、飽きたよ。足が疲れてきたよ。考えるのもう飽きちゃって。考えなきゃいいよって思えてきちゃったよ。
どうしよう。このままだと、寄居ちゃんが単なる悪人のままで終わっちゃう。
あの彼が、僕を無意味に傷つけて、変なところに運んだ、完全絶対悪人になっちゃう。
未来のことを相談してくれた彼が、僕の話に付き合ってくれた彼が、何も分からなくて考えることを放棄してしまった途端、最低の人間になってしまう。
……大好きだから、最低なんて、思いたくないんだけどなぁ……。
考えることをやめるのも、ひとつの手かもしれない。知ろうと、知りたいと希望をもつことをやめるのも、最良の手かもしれない。
だってもうおくすりでカバーした、迷路を彷徨う足は、棒きれのようになってしまったから。
疲れたから。何でも知ろうとするの、疲れたから。
お医者さん達のお仕事を待って、台の上で生きるだけなのも、辛いから。
感情を無くすのも、もう、悪くない。
考えるのをやめるのも、もう、悪くない。
息を止めるのも、もう、悪くない。
――2005年2月17日
【 / Second / /
/ 】
/6
「それならオレが答えをやろう」
「…………えっ?」
声を上げた。誰かと事務的以外の話で声を掛けられるなんて無かった。
誰かいる。病室の中に誰かいる。おくすりを持ってきた看護婦さん? 血の中を覗き見るお医者さん? いいや、違う。
誰でもない誰かさんが、そこに立っていた。病院なのに、病室なのに、誰にも許可を取らないで、男の人がベッドの隣で佇んでいる。
明るい髪の、男の人が。
「誰? ナースコール、しちゃうよ」
「……できるものならしてみな。答えが無くなるぞ」
落ち着いた大人の声だ。お医者さんみたいに、ノイズのかかる声じゃない。
今日は不思議と、生き物の声や無機質な音がしなかった。聞こえてくるのは、目の前の男性の声のみ。
誰だろう。新しいお医者さんかな。いや、もう病院の人だって考えるのやめよう。
だって病院の人がこんな色の髪をする訳ないもん。染めてたら不良だって思われちゃう。漫画のブラックジャック先生だって、白と黒の髪だった。それだって独特の外見で患者さんを怖がらせていたのに。
病院の人じゃないなら、誰? ……僕ん家の人?
「……お前は今、出口の前に居る」
男性が話す。聞いたことのない声だった。
知らない親戚のおじさんなのかな。僕の家は血の繋がってるか判らない親戚が多いから、顔は覚えられないや。
「でもお前は、まだ左手法で左へ左へ進もうとしている。目の前にゴールと書かれた出口があるのにな」
淡々と、心地良い声。
大人の男性の声。よくわからない。
「目の前に迷路の終わりがあるんだぞ。けど、お前はまだ左手の壁に体を寄せている。このまま左に行けば、出口は遠退いていってしまう。目の前にあるんだぞ。それでもお前は『諦めてはいけないという間違った方法』に縋って歩き続けるのか?」
「…………。そんなの、する訳ないじゃん」
ハッキリと答えた。
目の前にゴールがあるなら、そのゴールに行けばいい。確かに左手法は、『手をずっと壁に付けていればいつかゴールとなる穴に辿り着く』というけれど、ずっと手をついて目の前のチャンスが遠退くなんて……そんなバカなことは、絶対しない。
「バカと言ったな」
突然、男の人の声が変わる。とてもとても真剣なものに。
確認するかのように、同じ言葉を放つ。
「うん、バカだよ。もしかしたらそのゴールはフェイントかもしれないけど。ゴールって思ったなら……飛び込まなきゃ、ダメだよ……」
「ああ、そうだ、その通りだ」
男の人の声が肯定する。
今度は一転、とても優しい声で。
「間違ったことでゴールを目指しても、いつまで経ってもエンディングに辿りつけない。途中で終わりが見えたなら、その法則を打ち破らなければならない。『諦めたらいけない』というルールだから? ……目的は何だったんだ? 一体何を求めてそれをしてきたんだよ? ゴールに辿り着くことを目指してたんだろう? 無我夢中に歩き続けることが、迷路を彷徨うことが、階段を登り続けることが目的じゃないだろう?」
「…………」
「なのに、どうしてルールだけを信じる。目の前に答えがあったのに、簡単なところに答えがあるのに、どうして飛び込まない。間違いだらけの道を突き進むことが、どれほど愚かか、どれほど悲劇か、判っているのに、何故」
答えが目の前にある?
僕の目の前には何があった? 無かったから、考え、探し続けてたんだろう?
そんなことを言われたって。そんなことを言われたって。
簡単なところに、答えなんか落ちていたか? 無かったから、僕は今まで……。
――俯く彼。黙る彼。唸る彼。
どうしたのどうしたのって尋ねる僕。僕、何か悪いことをしちゃったかなぁと不安がる僕。話しかける僕。
彼。
僕。
僕。僕。僕。僕。僕。僕。僕僕。僕。僕僕僕……。
……。ちょっと黙れよ。僕、ちょっとだけ、黙って。
目の前に、ここに、すぐそばに、答えがあるって、何。何……。
――2002年3月22日
【 First / Second / Third / Fourth / Fifth
】
/7
「………………あさか、逃げろ………………」
――2005年2月17日
【 / Second / /
/ 】
/8
嗚呼。
この一言。どれだけの意味があるのか。
なんで考えなかった?
僕がずっと『恐ろしい声』と評したもの。それが、あの一言。
とても怖くて、取って食われそうな声だと僕は思った。殺したい思う理由があって僕を殺したんだと。理由があって僕に殺意を向けたんだと。
待って。『取って食おうとする』人が、なんで「逃げろ」なんて言う? そんなことを言うのって……取って食いたくないからに、決まってるじゃん……!
「寄居に殺意は無かった。……無かったんだ。お前を殺さなければならない理由なんてもの無かった。殺したいと思った理由だって無かった。その一言が、お前を救おうとした意志があったことを物語っている。だから、いいかげん……首に絞めたロープを、放すんだ」
ロープ?
僕は首元を見る。ロープなんてものは無かった。入院着以外に身に付けている物なんて無いんだから、ロープなんて危険な物を着けている筈が無い。
なのに男性は、いきなりサッと首元にナイフを向け、まるでロープを切るかのような仕草をする。ロープなんて無いから切るにも切れない。でも、切った動きをしてみせた。
「……寄居がお前を襲った理由は、反転。異端堕ち。器に入っている寄居の魂以外のものに乗っ取られたからの暴走。敢えてあさかを殺した理由を付けるなら、『寄居以外の者』がお前を虐げて飯にしたいと思ったから。その身に多くの魂を引き受ける仏田には生じてしまう悲劇。……だからお前を殺したのは寄居じゃない。寄居が、あさかを殺したがった理由にはならない。寄居には、そんなもの一つも無いんだ」
いつの間にか手にしていたナイフは、いつの間にか消えていた。
「あさかが自分で首を絞めていただけなんだ。ラクになっていいんだよ」
ナイフを握っていた手で髪を掻き上げる。
赤い髪が音を立てる。同時に溜息と深呼吸。そして瞳が真っ直ぐと僕を見つめる。
男性が語る。ベッドに近寄って来て、僕の目をしっかりと見ながら、語る。
「そして寄居もラクにしてやってくれ。大切な友人なんだろう? 毎日毎日彼のことを考えてしまうほどの人物なんだから」
よく判らないことをずっと言う。……僕を落ち着ける笑顔で、彼が語る。
お父さんみたいな、優しい笑顔。
いや、全然お父さんに全然似てないけれど……それだけ優しい、綺麗な笑顔。彼の口が、ゆっくりと、僕に聞かせるためだけに開く。
「苦しんでないで、お前が守りたい奴の傍に居ればいい。そうすれば幸せになれるんだから。それだけで、悲劇は回避できる」
悲劇って?
言おうとして、瞬きをしたときには、彼は居なかった。
どこにもいない。扉を閉めた音も、廊下を歩いて行く音も、窓から飛び降りた音も何一つ聞こえてこない。聞こえてくるのはいつも通り。ポタポタと、僕の中に注がれる液体の音だけだった。
「…………」
――そこは、今まで居た病室じゃなかった。
ベッドの横の椅子の上にはお父さんとお母さんがいた。あのお医者さんや看護師さんじゃなくて、僕の実の両親が僕を見ている。
二人に会うのは久しぶりだった。以前お見舞いに来てくれたのは、もう去年のこと。2月のひんやりとした季節とは全然違う、まだ夏の匂いがするとき以来だ。
目を覚ました僕を見て、お母さんがぎゅっと僕の手を掴む。お父さんが僕の髪を撫でる。いいにおいがした。
おくすり臭いあの部屋じゃない、あの病院じゃない、あの白衣達じゃない……自然な香り。あたたかくて優しい空気が僕を満たしていく。
――よく判らないけど、僕は死にかけてとある病院でずっと看病されていた。
でもその病院での生活が続けられなくなっちゃったから、一般的な病院に移されたらしい。
一般的な病院って何だろと思ったけど、それで僕は一般的な治療を受けていなかったんだということに気付いた。
今まで居た病院は……無くなっちゃったらしいから、今度は普通の場所で治療を受けることになったという。
普通だから、こうやってお父さん達が看病に来てくれるようになった、とのこと。
当事者でありながら何にも知らされていなかった僕には、その程度のことしか判らない。
ずっと台の上で点滴を受けながら、ケーブルに繋がれながら、魔法を唱えられながら、一人で考えていたことしか僕はやっていない。
だから自分の身に起きたことなんて判ってないし、唯一覚えているとしたら……。
夢のことぐらいだ。
そうだ。夢を見ていたんだろう。いつも通りの、変な夢。
けれど、呼吸が止まるような悪い夢じゃなくて……救いの言葉を差し伸べてくれた赤い夢。
いや、答えそのもの。
息が止まる夢じゃなくて、逆に、呼吸をしすぎて荒くなっている……不思議な、現実。
興奮? 感動? 自分の中が、熱くなっている……。
「……ああ……」
覚えていなきゃいけない。あれは……きっと、忘れちゃいけないことだ。
何者か判らないけど、何のことだか判らないけど、とても判りやすい簡潔なこと。
僕にも出来ること。――お前が守りたい奴の傍に居ればいい。
覚えなきゃ。覚えておかなきゃいけない。忘れないようにしなきゃ。絶対に。
でも、力まなくても大丈夫。きっとアレは忘れない。だってあんなに特徴的だったんだもの。覚えていられる……。
僕とは違う目と。僕には無い、燃えるような――……。
――2005年12月31日
【 / / /
/ Fifth 】
/9
「えっ、寄居ちゃん呼んだ?」
声がした方向へハッと振り向く。
丁度良く、会ってみたくもあり会いたくない人物が冷たい廊下に突っ立っていた。
「……あさか?」
「おはよ、寄居ちゃん。まだ夜だけどね」
薄暗い灯りしかない木の廊下、微かな光の中でも爛々と輝く赤く染めた髪。
全身までも真っ赤に染めたというのに、髪の先まで赤くしちまったあさかが、何事も無いかのように在り続けていた。
居るとは思わなかった人物の登場に驚いて、何も変わらずそこに突っ立っていることにほっとして、次々と切り替わる頭にちょっとだけ頭痛がした。
昔のことを思い出すときにほんの一瞬だけ起こる、小さな頭痛。
まるで嫌な記憶だから見せたくないと警戒しているよう。だとしたら、とても便利な機能だ。火災報知機のように、『嫌なものへの警告音』がこの体には備わっているってことだから。
おかげで変な声は一切聞こえない。
抱いた変な想いも、格好をつけなきゃという理性の前には掻き消えていく。
もしかしたら意識していないところで、変なトラウマが……あるのかもしれない。
「……寄居ちゃん? どうしたの?」
「…………。一瞬、あさかだとは思えなくて驚いてた」
外は真っ暗。移動するだけなら灯りなんていらないと思っていたが誰かがいるならと部屋の電気を点ける。
改めてあさかの姿を確認した。
日本人の顔をしているけど、髪が信号機の色のように赤い。目の前に居る人間は、とても不思議な格好に思えた。あさかも驚いた理由が判ったらしく、即座に弁解してくれる。
「あのね、これ……今朝また染め直したの! 根本が黒くなり始めちゃったから」
「染めたことぐらい判るよ。突然変異で白くなったり抜けたりすることはあるって言うけどさ、赤くなるって聞いたことないもん」
「だ、だよねー……。あはは、髪の色ってそう簡単に変化しないもんね」
「そう簡単どころか、まず変わらないと思うぞ。……それにあさかがそんな不良っぽい髪にしちまうのは、ちょっとイメージに無い」
「えへへ、みんなからそう言われるよ。髪を染めるなんて僕のキャラじゃないってね。みずほは茶髪になったのに全然何にも言われないんだよ。変なの」
「あさかが赤なら、みずほは白だよな」
「さすがにその色は無いよー。染めたら、僕達おめでた過ぎるよ」
あはは、と笑うあさか。
以前二人きりで中学校への想いを語ったときのように、声に出して笑う。
なんでそんな色に染めたんだよと尋ねると「こういう色の人が格好良かったから、かな」とはにかんだ。どうやら緋馬のオレンジ色の頭もとかもどっかのバンドの真似らしい。奇抜なお洒落なんて大概理由なんて無い、何かに憧れてそうなりたい、なれたらいいという考えから来るもの。そうかと一人納得する。
「……腹減ったな。宴会に行くか」
「あ、行かない方がいいよ。みーんなあそこで煙草吸ってるから。空気悪いし風邪っぴきの寄居ちゃんはここに居た方がいい」
「お前も副流煙から逃げて来たとか?」
「うん。ついでに、一人ぼっちで療養中の寄居ちゃんにお裾分け」
言いながら、実は手にしていたバンダナの小包からタッパーを取り出した。
そこに入っていたのは、宴会に出されていたと思われる手巻き寿司。稲荷寿司。おそらく蕎麦に乗せる海老の天ぷら。でかい唐揚げ。少し出されるのが早い気もするきんぴらゴボウ。レタスを挟んで味を変えないようにしているオレンジ。雑に詰まれた物を「はい」と渡される。
こいつ、気が利く。敷きっぱなしになっている布団があるだけの俺の部屋に戻り、俺は布団の上へ腰を下ろし、あさかを薄っぺらい座布団へと招待した。
ひんやりした廊下とは違ってさっきまで俺が寝息を立てていた部屋はそれなりに暖かった。座ってしまったら根付いて動くことなんてできないだろう。
数年前のあのときも、こうやって二人きりで笑い合っていたときの出来事だった。
「いただくぜ」
力の無い手でペキンと割った割り箸は、不格好な形になった。
シーツの上で弁当を食べるなんて滅多に無い。寺に居る限り、食事は徹底されるからだ。
決まった時間に、決まった面子で、決まった場所で、決まった物しか口にできない。窮屈だと思う連中は隠れて外で買ってきた物を自室で食べているらしいけど、栄養をしっかり考えられたメニューが用意されているのだから嫌なものではなかった。
「寄居ちゃん、笑顔だ。そんなに美味しい?」
「普通にうめーよ。それに腹減ってたんだ」
だからこそ、大晦日の宴会がこの世界にとっては異質なものかが判る。
どこで食事をしてもいいし、いくらでも食事をしてもいいし、誰と食事をしてもいい。今日ばかりは自由が許されているから心待ちにしている人も多かった。
俺も体調を崩してなければ肉だけを頬張っていたかったぐらいだ。それでも、こうやって自室で美味い物だけを口にできるだけでも充分と言えるが。
自分の顔が自然と穏やかなものになっちまうのも、納得の理由。
「普段、お寺だと……精進料理ってやつしか出ないんでしょ? となるとやっぱ今日のお寿司とお肉と天ぷらってご馳走なんじゃないかな? だから寄居ちゃんも食べておかないともったいないでしょ?」
仏田の外で生まれ、寺から遠い都会のビルに住むあさかは、唐揚げを味わって一番の笑顔を見せてしまった俺を笑いながらも尋ねてくる。
「いや、そうでもない。銀之助さんだけの頃はそれこそ質素堅実ってやつだったけど、学人さんが厨房に立ち始めてから肉が増えた」
「そうなの?」
「肉がちっとも出ないってことはなかった。たまにはあったよ。でも明らかに増えたのは学人さんのおかげだと思う。やっぱ力が出るよな、肉を食うと」
銀之助さんが年寄りだからとは言わないが、俺とそう年が離れていない若い学人さんのエネルギーへの考えは古い人とは大違いだったのは確かだ。
仏田寺は男所帯だ。女中さん達だって百人近くの人を世話するため毎日忙しなく働いている。だから元気の出るカロリーの高いメニュー変更はありがたい筈。
俺はあぐらの上に乗っけられた弁当をまじまじと見てみた。美味い寿司が出るようになって、肉があって、少し豪華な物があったりする。あさかが適当に詰め込んだ物に過ぎなかったが、量や質が違っても案外普段のメニューと変わりなかった。
学人さんが厨房に立ち始めて、もうすぐ三年か四年が経つという。
ちょうど俺が寺を離れて外の研究所に貰われた頃に、変革が起きたってことだ。
生まれてこの方、仏田寺から出ることはなかった。
でも毎日食べていた食事が、今は少しずつ変わりつつある。
変わらないと思っていた世界が変貌しているのを実感した。こんなもので、こんなところで。
「……。寄居ちゃん?」
「俺な。正直、この家に戻って来るの……嫌だったのかもしれない」
「……そうなんだ?」
「俺が行かされた場所、結構居心地悪くなかったんだ。良くもなかったけど。そんなに嫌なこと考えないで暮らせるレベル。だから今、こうして……ヤな気分になるこの家より、あっちの方がラクに暮らしていけるかと思ってた」
「…………。今、ヤな気分になってるんだね」
「ああ。ちょっとヤだ。……もしかしたら、だいぶヤかもしれないぐらい」
「そんなに……僕のこと、ヤ?」
「違う」
ハッキリと言った。
それだけはハッキリとさせなければ。特に誤解されやすいから、力強く否定した。
「違う。あさかのこと、嫌だから……殺したんじゃない。正直なことを言うと、あのときのことは覚えてないから判らない」
「僕もあんまり覚えてないんだよ。同じだね」
「でも。……そんなんじゃ許されないだろ」
「許されない?」
「覚えてないまま、悠々と生きることがさ。……そんな自分がいるから、嫌だったんだ。寺に戻ってきたら何事も無く暮らしていけそうだから、ヤだったんだ。だってここ、何も変わらないだろ。力を抑えることができたら戻ってこいって、戻ってきてまた働けって、前と同じことをさせる。させてくれる」
変わらず過ごしていけるのは嬉しいかもしれない。
けど、罪に対して罰も何も与えず俺を放置させているのは良いことなのかって思ってしまう。
我を失って周囲を傷付けた。
周囲を傷付けなくなるまで外において、大丈夫になったら帰ってきた。
そのまま放任。それって……傷付けた罪はどこに行った。外にいるうちに、消えてしまったっていうのか。
そうじゃないだろ。俺は……あさかを傷付けたのに、殺したっていうのに。なのに迎えに来た大山さんは特に何も言わず、変わらず俺に部屋を与えて過ごさせている。飯だってくれる。宴会に自由に参加する権利だって与えてくれているし、父親と何気ない会話をさせてもくれている。
ありがたくもあり、でもおかしくて無視しちゃいけないことでもあった。
「……寄居ちゃん。僕ね、ちょっとだけ……安心した」
「安心……?」
「寄居ちゃん、傷付いてたんだ」
「……俺が無感情だと思ったか」
「思ってないよ。そもそも何にも思わない人間なんていないでしょ。人間には感情があることが前提だし。……僕ね、ここじゃない病院……翔鶴研究所ってところに居たとき、ずっとずっと一人で反省してたんだ」
「…………」
「このままだと死んじゃうから色んなお薬飲みましょうって、色んなお薬でみんなといっしょになりましょうって過ごしてたとき。……あのときどうするのが一番だったか判らなかったから、反省してたんだ」
「お前が反省する必要なんて」
「寄居ちゃんも、反省してたんだ?」
そりゃあ、してる。してるから……このまま何も無いまま暮らしてもらえる寺に戻ってくるの、嫌だった。
ずっと瑞鶴研究所ってところで戦いながらあさかのこと考えてたのに、いざ帰ってきたら『そんなの忘れて責務を果たせ』だなんて。
「寄居ちゃんも、僕のこと考えてくれてたんだ」
「そんなの、言うまでも」
「あのね、寄居ちゃん。僕も一応ね、大山さんやお父さんから『あのとき何があったか』教えてもらっているんだ。寄居ちゃんが、仕方なく僕を殺したこと。僕達には時々暴走して近くに居た人を傷つけてしまうっていう話、昔からあるんだって。僕達のご先祖様はいつもいつも悩まされていたみたい」
「…………」
「だからみんなね、『仕方ない』って判ってるんだよ。寄居ちゃんがオイタしちゃったのは仕方ないことだから、許してあげようって思ってくれているんだ。みんな……寄居ちゃんには罪は無いって考えているから責めないんだよ」
……オイタ?
「あさか、お前。アレを、オイタのレベルで片付けていいの?」
「……うん。僕は、片付けるよ。寄居ちゃんは必要な人だから……そのままみんなの元に帰ってこれたんだ。良いことでしょ。刑務所にも行かなくてすむなんて、喜ぼうよ」
「『血』がどうであれ、暴走したのは俺じゃん。お前はただ、傍に居ただけだろ」
「うん」
「うんじゃない。ふざけんなよ。お前、そのまま死んじまうかもしれなかったんだぞ。そんな一大事に見舞われて、なんで許すんだよ。なんで『仕方ない』で片付けられるんだよ」
あさかは軽視しすぎだ。自分の命を。
皆も軽視しすぎだ。あさかの命を。
あさかを大事に考えているなら俺を処罰するものだろう。あさかが殺されたことによる仕返しを、俺は受けるべきだろう。
だというのに何もあさかのことを考えてやれていないから、俺が『また使える駒として復活した』ことしか見てないから、何も変わらずに今まで、今日まで……。
「俺はあさかの命を大事にしたいんだよ。なのになんで俺に何もお咎めがないんだよ」
何にも悪くないのに人を殺めた。その罪を償わせるのが社会ってもんじゃないのか。
ここにはそんな社会が無かったといえばそれまでになる。でも刑務所に行って投獄されたり、死刑になったりすることもなく……今まであった日常に戻れって。
誰かが処罰を決定して皆に伝えてくれない限り、俺が俺一人で勝手に反省するしか『あさかのことを考えてやれる人がいない』ってことじゃないか。
……ムキになりながら、タッパーの中身を喉に詰め込んだ。
弁当をひっくり返して怒鳴るようなことをしたら絵になっただろう。俺は本気で怒っているんですって目の前の楽観的な奴に伝わったかもしれない。
でも心身ともに弱った俺には熱量が必要だった。俺の為に用意してくれた美味い物を全て胃の中に押し込んでいった。
あさかは変わらず、座布団の上で正座をしながら黙々と飯に食らいつく俺を見ていた。
それなりに口汚く罵ったつもりだったが、実際俺の声は涸れていて迫力が無い。声も荒げていないから少し悪態をついたぐらいにしか思われないかもしれなかった。
布団の上、電球の下。飯を食らう俺。それを見る彼。
言い争いにもならない構図。俺が一頻り言いたいことを放つと、あさかは……ゆったりと呟くように口を開いた。
「僕、生きるか死ぬかでいったら、死ぬ方の確率の方が高かったんだって。二分の一じゃない、五分の二ぐらいの確率で僕はここにいなかったって言われてる」
「そりゃまた中途半端な確率だな。……生きるか死ぬかなんて半々だろ」
「うん、そうだよね、そういうもんだと思うよ。でもそれってみずほやウマちゃんだって同じじゃん。今もみずほが生きてるか死んでるかなんて半々だし、ウマちゃんだってそうだよ」
「何が言いたい?」
「今、僕は生きていて、みずほやウマちゃんが生きていて、寄居ちゃんも生きている。それ以上に幸せなことはないし、求めることもない。……今の状態で何かを求めるとしたら、僕は寄居ちゃんに反省してもらいたかった」
「反省はしてる」
「してるんでしょ? じゃあもういいよ。もしここで寄居ちゃんには罰を受けてもらうことになって、それこそ寄居ちゃんが死ぬようなことがあったら。それは損だ。寄居ちゃんには罰なんていらない。今のままでいい。だから『それ以上に幸せなことはないし、求めることもない』」
言って、あさかは手を出してきた。「タッパーを回収するよ」と言うように。
持ってくる際に使っていた輪ゴムで箸ごとタッパーを閉じて渡すと、ささっとバンダナで包んでしまう。
穏やかな仕草。何の焦りもなく、格好もつけない自然な行為。
激昂して話すことも、興奮して取り乱すこともなく。ゆったりと夜の時間を堪能するかのような動きだった。
「僕がこんなに許しているのに、みんなが君を許容しているのに。寄居ちゃんはそんなにでもして、罰を受けたいの? 傷めつけられたいの? 死にたいの?」
この時間で唯一過激なことと言ったら、その一言ぐらいだ。
……そんなこと、判りやすく甘い俺は、全部に首を振ってしまう。
あさかに許してほしいし、みんなに許してもらいたいし、罰なんて受けたくないし、傷付くのは嫌だし、死にたくない。
だけど。
「……そうあることが、普通なんだろ」
そんなのおかしいって思う下手な常識人な俺が、囁く。
「そんな普通ならいらないよ。ずっと異常なままでいいでしょう。僕が住んでいるところは違っても、ここでは『いい』って言ってくれるんだから、もっとここでの言うことを聞くべきだ。寄居ちゃんはもっと自分に甘くなって大丈夫だよ」
はっきりときっぱりと。あさかは微笑みながら優しすぎる言葉で、俺を包む。
本来なら外で生まれて外で暮らしている筈のあさかが、『ここでの異常』を受け入れていた。
畳の上に風呂敷を置いたあさかは、言葉だけでなく包み込むように小さな腕で俺を抱いてくる。風邪っぴきだからあまり近づきすぎるなよと言いたかったけど、それでも。
大丈夫だよ、大丈夫だよ。
あさかは言い聞かせてくる。
大丈夫、大丈夫。
自分で自分を言い聞かせる。
ダイジョウブ、ダイジョウブ。
ほら、彼ら彼女らもそう言ってくれている。
具体的な声と共に、説得力が『体の中』から生じた。
「……ばかやろう……」
声が体内から湧き上がる。
頭も一気に熱くなった。色々言われて、感情が高ぶってしまったんだ。だから……涙腺が緩んで、目尻に涙が滲んでしまう。
何の涙だ。興奮したから出ただけの涙か。悔し涙か、嬉し涙か。もう判んない。
「あのさぁ、みんながいいって言うんだから、そのままでいようよ。僕もそれが一番ラクで、幸せだ」
「……あさか、あさか……」
「思い詰めたらまた苦しくなる。……また、寄居ちゃんが寄居ちゃんでなくなっちゃうかもよ。だから、自分を責めないで。寄居ちゃんは必要だからまたお寺に呼ばれたんだよ。だから寄居ちゃんのままここにいるといい」
小さな体がぎゅうっと俺と重なる。そんな、
「寄居ちゃんは、言われたままにしちゃっていいんだよ」
だなんて、優しく包み込んでくるもんだから……俺はただただ声に従いたくなってしまった。
単純な話、一番会いたくて会いたくなかった人物の言葉で簡単に自分の考えを違えちまう。あさかが良いと言ったからそれで良いかと思ってしまう頭のめでたい俺がいた。
もっと自分の姿であるべきだ。男なんだから簡単に信念なんて曲げてはならないとは思う。……いいや、信念なんて大層なもの、俺には無かったってことだ。
一度外に出されて、さて自分はどう生きるべきかなんて考え直そうとしてみながら結局は自分に心地良い声に従ってしまうんだから、俺の頭は単純明快。
深く考えるのが、嫌になってきた。
このまま他人の声に従うのが良いと思ってきた。
それで何が悪いと思えるようになってきた。一人でぐるぐると思考していたことが馬鹿みたいだ。
俺は俺で、もっと強い声に準じて生きていけばいい。目の前で自分を抱く他愛ない彼の背に腕を回そうとする。
けどあさかは自分で自分の舌を強く噛み、血を吐いた。ボタボタと口から大量の血を垂れ流す。
俺も俺で、虚空から取り出した大剣で自分の腹を斬り裂いていた。
――深く考えるのが、嫌になってきてしまったから。
――このまま他人の声に従うのが良いと思うようになったから。
――それで何が悪いと思えるようになってきたから。
だから一番強い声に準じて生きればいいと、お互いその意思だけに則ってみただけだった。
END
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