■ 029 / 「野心」



 ――1958年6月6日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /1

 目覚めたら腹が減った。
 何を口に入れても空腹は満たされなかった。



 ――1971年8月20日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /2
 
 一本松は支配力の強く異常性癖者で、傲慢な人間だ。
 彼自身がその事実を自覚するのは、結婚して暫く経ってからの話。それまでは気付いても気付かないように仕向け、自分を欺いてきているような男だった。
 周囲の評価では大人しい少年だった彼は、物静かという評価を変えないように生きていた。自分の内情を口にしてはいけないと少年ながらに判っていたからだ。異常さに気付いていたからこそ、わざと大人しい少年を演じ、他者の指示が無ければ動かないような地位を作り出した。自分を表に立たせないための、少年なりに精一杯の努力だった。
 それでも子供のやることだ、どんなに演技が上手くても隠しきれないものはある。自分の言うことを聞かない相手を見ると異常なぐらい腹が立ち、見かけた猫を蹴っていた。思い通りにならないことがあれば一日中気にして何も出来ない。適当にカラスや鼠、それこそ猫を捕まえては捻り潰す。しかしそのようなことは絶対に周囲には漏らさない。唯一誰かに露見されるとしたら、一番近い存在で勘の鋭い銀之助ぐらいにしか気付かれていない筈だ。
 一本松少年は、簡単に言えば破壊衝動を持った『問題にされない問題児』だった。

 彼が幼い頃の話。まだ頭の悪い子供である一本松を忠告する僧が居た。
 一本松と年上の僧はちょっとした口論になった。口論自体は子供の日常にはよくあること。健康な男児であれば喧嘩の一つや二つ珍しい話ではない。幼い子供がむきになって暴れても大人は何とも思わない。冗談のように暴言を吐いても子供だから許されるもの。そのときの一本松も子供らしく何を言われても腹が立ち、『目の前から彼を消し去りたい』と暴れまわった。
 正論が突き付けられることによる反発。子供ならば一度はある反抗心。それを暴力で解決しようとするのは正に子供のやり方。睨み合いの末、相手に数針縫わせる力を振るった。
 単なる事故。言い争いの中の結果。やんちゃの行き過ぎた男児であれば一度はするような過ち。感情に任せて……廊下に飾ってあった花瓶で僧の頭を殴打した。
 板目の廊下、障子の開いていた畳に血が飛び散る。
 怪我を負い、苦しむ相手。やって来る他の者達。大人達に叱られる一本松少年。
 叱られている最中。衝動的に出してしまった自分を抑えつつ、じいっと飛び散った血痕を見つめていた。

 ――美しい。
 赤い染みをずっと見つめていた。

 何気なくやったことが、他人を傷付ける。子供の悪戯程度の罪なのに、それが甘い蜜だということにも、気付いてしまった。
 少し捻れば消えてしまう生命。一定の間隔で脈打つ筈の鼓動が少しずつ乱れていく。同じぐらい捻っても消えてしまった生命は元には戻らない。殴ったら相手は動かなくなってしまうが、同じように殴っても相手は生き返らない。不思議だ。自分が手を加えれば加えるほど消えていく、この神秘さは何だろう。
 それに、蹲り悲鳴を上げる姿を見下ろすのはなんと心地良い。困った顔をしている人間を余計に苦しめたいと考えていた。叱られている最中も大人しく優等生な姿を気取りながらも、何度も殴られた直後の僧の姿を頭に思い浮かべていた。
 こっぴどく叱られ終えた一本松は、自室に戻るなり、我慢していた口元を歪めた。
 その日は夢を見ながら何度も考えた。
 例えば、枯れた涙をどうすればまた戻すことができるかとか、苦しんでいる相手の傷口に、アレを、ソレを、とか。
 それが『いけないこと』だと知ってる。するたびに誰かに叱られ、「今後は決してするな」と止められているから、『負』である自覚があった。
 叱られるからいけないことという考えではない。どうしてその行為が否定されるのか、理論でも己の感情でも判っているつもりだった。
 生易しい僧は、決まってこんなことを口にする。

 ――相手の気持ちになって考えてみなさい。
 ――自分がされて嫌なことを考えてみなさい。

 判っていた。そう言うのが子供を叱る定番なんだと知っていた。
 でも相手などどうでも良くなるほど、悲鳴は甘美なものだった。自分にもあの血痕と同じ色が含まれている。それらで自分は構成されている。なんて神秘的なんだと。
 言っても理解されないのは目に見えている。自分がより良く生きるために、生きやすくなるために、感情を抑えなくては。
 動物を蹴るのをやめ、悲しんでいる人間に追い打ちの言葉を掛けなくなり、刃を人に向けることもやめた。周囲から見れば、すっかり『大人になった』ように見えた。
 たとえ我慢でも、しなくなったのだから、それは確実な成長だったのかもしれない。
 弟の銀之助は言う。

「兄は自分を抑えるようになってから、毎日がつまらないような人間になった。見るからに無気力、怠惰に生きる男になったんです。自分を虐げて他人を持ち上げているのだから当然ですね。我慢を覚える、事の責任を背負う、それが大人になるということです」

 一本松と殆ど同じ、他者を見下すような細い目で、兄を評した。
 大人しく、何でも従う優等生は自分が好意を寄せるものを潰すことで更に素晴らしい人間となった。
 途端、無気力になった。不思議と『やりたいこと』が無くなり、楽しみもなくなった。
 己が心から望むことは、悪。考え付くことが全て、悪。決して望んではいけないこと。
 家の為にも、期待する者達の為にも、間違っても悪になってはならない。心躍る加虐の心は、抑えつけなければならなかった。だから、無表情と無感情を心掛けていくしかない。
 それでも時折、仕事の面でも何でも、意見の食い違いになったときは自分の主張を無理に通してしまいそうになる。
 それが「頑固者」や「真面目な性格」と見られればまだ良い。一族を想い家の為に生きろという方針を押し付けられていたから自分を殺すことを徹底した。努力した。そうしなければ仏田という世界では生きていけないと悟っていたからだ。

 私生活に支障を来たしたら立派な異常者だ。
 どんなに破壊衝動を抑えても、我儘で何をするにも他人に指示してしまう性格は直らない。
 どうしてこんな性格になってしまったのか、一本松自身も考えたことがある。支配力の強さと異常なまでの他人嫌悪は、もしかして父親譲りなのではないか? 彼はそんな結論を出した。
 一本松の父・浅黄も、他人を蹴り倒し弄ることで快感を得る人間だった。当然のように上から物を見て無理難題を人に押し付ける。しかし無理難題と言っても決してできないレベルを押し付けることはせず、瀕死になる寸前までを見計らう。他人を操ることを得意としていた。
 飴と鞭を自在に使い分けていた浅黄を、一本松は幼い頃から尊敬していた。
 あちらでは冷徹な顔をしていたのに、こちらでは仏。表では良い顔をしておきながら、裏では鬼畜。その様変わりに、周囲をまとめ信頼を得ながら仕事をこなす姿に、純粋に憧れを抱いていた。

 ある夜。一本松少年は父の工房へ立ち寄った。
 工房は一族総出で魔術を使い、儀式を行う『研究所』だった。普段なら工房は多くの門下生がいて賑やかな場所だ。そこで父は厳しくも優しい魔術の先導者として働いている。父がきびきび働く姿に憧れを持ち、こんな自分でも父のように清々しく生きられたらと何度も想っていた。
 その夜、勉強で判らない問題があってどうしても解けないから父の工房を訪れた。
 偶然の事故だったのか、父が息子に来るよう仕向けたのか、一本松は知らない。
 そうして目に映る工房の光景に、ひどく動揺する。昼間のうちは門下生が魔術を研究するそこは、風変わりしていた。

 『蜘蛛の巣に囚われた蝶』を見た。
 蝶は人、蜘蛛の巣は縄。巡る縄に人が囚われ、優雅な光景を築き上げていた。
 絵ではなく立体的な芸術を目前にして、釘付けになった。
 その蜘蛛の餌食になっていたのは、女、男、子どもも居た。
 一見苦しんでいるように見える。だがよくよく眺めてみればそうばかりではない。蜘蛛の巣に囚われた者達は悲鳴を上げていたが、どこか悦んでいるようにも聞こえた。
 悲鳴。それは一本松が最も好んでいたものだ。この空間には悲鳴が満ちている。それは一本松にとってどれだけ素晴らしい世界だったか。
 異常な光景とも思えず、眺め、楽しんだ。
 父は昼間では多くの弟子を従えた魔術師として指揮を執っていながら、夜にはこんなに人を操り愉しませるなんて。父への憧れが人一倍になった。
 呆然とする一本松を見た浅黄は笑って、彼を一人の蝶の前に立たせてくれた。
 蝶は蜘蛛の巣に囚われて不可思議な方向に足を擡げている。正直に言うと、顔や造型はさほど美しい蝶ではない。しかし赤い縄で作られた巣に緊縛された人間は、今まで見たことのないぐらい美しいと思えた。
 身動きが出来ないその身に触れてみれば、蝶はびくびくと震える。開かれた脚の隙間へ指を進めてみれば、嬌声を上げた。
 そのときの感動を、何年経っても一本松は覚えている。普段出す声と全く違った声がこんなに簡単に出てくるなんて。声があまりに衝撃的で、何度も手を動かしていた。
 しかし、それ以上は父が止めて出来なかった。
 いつの間にか、一本松の掌いっぱいに粘液が付いていた。我を忘れて囚われの蝶を虐げていたからだ。

 その日から気分の良い浅黄は、一本松を夜の工房に呼ぶようになった。
 息子を縛るとか、縛らせるということはしない。一本松も自分を縛ってくれや、縛らせてくれとは言わなかった。ただ、美しい光景を見ているだけで満足だった。
 剣道はしている方が楽しいが、この処刑は見ているだけで楽しい。調子に乗った浅黄が、獲物を辱めようと少年の一本松にわざと調教風景を見せ付けることがある。一本松はそれを淡々と見ている役を受ける。見られた相手はひどく困惑する。顔を真っ赤にして涙を流しながら許しを乞う者もいた。
 淡々と見ていたが、決して面白くなかったのではない。逆だ。愉しくて堪らなかった。父と同じように人を困らせることが大好きな人間だったから、見ているだけで相手が慌てふためく姿が、愉快でならなかった。
 少年だから夜は好きでなかったが、その時間は大変楽しんでいた。



 ――1979年12月22日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /3

 父は人を辱めることを遊びにしていたようだが本来、性行為は子孫を残すため、もしくは愛情表現に使われるもの。愛する者同士が肌を重ねあう事実は一本松も知っている。
 お互いに良い感情を抱いていれば自然と興奮する。そういう風に男女の体は作られている、それぐらい当然と思っていた。
 けれど一本松は一般的な行為には興奮を得られずにいた。極端に言ってしまえば、少年の時から性器や性交渉を見すぎてしまったからかもしれない。寝る前の御伽噺の代わりに淫靡な言葉を聞いていたぐらいだから、浅黄がしていたこと『以上』でなければ興味が持てなかった。
 それでも仏田のお家柄、年を取るにつれ「子作りをしろ」と言われるようになる。
 女性に特別執着してなかったから、実母の清子に見合相手を選んでもらった。
 清子は父の浅黄以上に計算高く、無駄なく女を選んだ。一本松好みな、竹を割ったような性格の女を連れてきた。
 名を、武里(たけさと)と言う。
 顔は年よりずっと幼く小柄だが、賢そうな目をし、美しい黒髪を持った女だった。
 母の連れてきた女を大層気に入った一本松は、「自分の三人の息子をこの女に産ませよう」と一目で思った。他に女を連れようや、能力の高い子供が出るまで産ませ続けようなどと考えず、最初から彼女に全てを託そうと決心した。

 一本松の住む寺では、女性は極端な扱いを受ける。
 時には家に入れてもらえないときもあり、時には家から出してもらえないときもある。夫婦であっても過ごす場所は違う。
 そんな仕来りであるということは、彼女も嫁ぐ際に判っていただろう。全てを納得の上の嫁入りだったから、彼女は出産から数ヶ月で消えることにも何も言わなかった。
 出て行くときも一言も無かった。
 彼女は後継者作りという仏田の任務を背負ってはくれたが、特別仏田の研究に興味は無いらしい。結婚の際に当主の血を飲み、契約を行なったものの、盲信的に研究をし始めるということはなかった。彼女は、一年も満たずに一本松の隣から去って行った。
 他人を虐げるために使っても、それ以外に他人に何かを感じ、何かを想うことはしなかった。だが彼女が去って行くのは心細いものを感じていた。どうしてこんなに締め付けられるのか、それは印象強い出来事が彼女とあったからだ。
 それは、初夜のことだった。

「貴方は、何をお求めですか」

 まるで店の販売員のような台詞を、一本松は晩に言われた。彼女の素肌を見ながら彼は笑う。

「求めるは、我々を救う皇女を」

 笑いながら嫁に告げた。そんな覆い被さろうとしている一本松を、彼女はくすりと笑う。
 笑われたのが釈然せず腹が立った。彼女の笑みはどこか歪なもので、意地悪な表情だったからだ。不気味に思い、口元を緩める。

「何故、笑う」
「まるで少女のようなことを言っても構わないでしょうか。跡継ぎよりも、わたくしは、わたくしを見てほしいです」
「……そんな目をして言っても純粋な少女の真似などできていないぞ」
「そうでしょうか。貴方は、わたくしでなく理想と遣り合う気でおりますね。わたくしは一人相撲は好きではありません。今は一世一代の女の勝負。相手がわたくしを相手と認めてくれなければ悲しいだけです」
「正直に言え。武里、お前はそんなこと微塵も思っちゃいないだろう?」
「あら、ばれてしまいましたか」

 夜の中、白い腹を撫でる武里が急にくすくすと笑い出した。
 シーツの上に転がる女は自分が支配すべきモノ。だというのに彼女の余裕に、一本松は一瞬だけの恐怖を覚える。

「正直に言ってしまっても宜しいのでしょうか」
「……良い。言えと言っているのは私だ」
「ではお言葉に甘えて。貴方は今、わたくしの中を満たしました。男がわたくしの子宮を巡っている。でも、貴方はちっとも満たされてはおりませんね? 精を吐き出した貴方は酷く苦しげな顔をした。何かを我慢なさっておられるから、でしょう」
「……そうだな。私は満足してない。何故判られてしまったか」
「どうしてでしょうね。誰一人、貴方の感情を見ることができないぐらい無愛想な顔を見て、どうしてわたくしは判ってしまったのでしょう」

 くすくすくすくす、不気味に笑う。
 強者の女を見て一本松は拳を握り締めた。だが大人である彼はその手を緩める。これから母になってもらう女に手を上げることなど出来ない。堪え性も無く無駄に出てこようとする子供な破壊衝動を抑えつつ、先を急かした。

「そうだ、素直に、何が欲しいと言ってしまえたら良い。一本松様は一体何を求めているのです? 欲しいものは何ですか? それにわたくしは協力できますか? いくらわたくしは清子様に認められ褒められても、わたくしに人の心を読む力はありません。ですから、貴方の口から聞きたいのです」
「聞いたら、私を侮蔑することになるぞ」
「わたくしは貴方の妻となったのです。貴方を貶したりはしない」

 長い無言の末、口を開く。とても重そうな唇だった。

「私は、相手をこれ以上無いぐらい屈服させたいと思っている」

 正直に言葉を発する。

「幼い頃、潰しかけた蝶がいた。潰すことなく終わってしまった蝶がな。それを掌の上で粉々にできたなら……さぞ綺麗な砂になるだろうと、未だに忘れられん。もう十年も経つのに、まだぐしゃぐしゃにしたいと思っている。……形を保つ父の腕は素晴らしいと思ったが、私は同じ場所で、同じ物を見て……逆に滅茶苦茶にしたら爽快だと考えていた。いつもだ。許しを乞う程度に留めるのでなく、許しの声も上がらないまでに崩してみたい……。そう思っている」
「まあ、お怖い」
「お前にはやらんよ、私の嫁だからな。いずれ生まれてくる三人の子の母になってもらわなければならない。だから決してお前に酷いことなどしない」
「わたくしには無難な抱き方をして、無難に事を済ますおつもりですね」
「激しく抱いてやることも出来るが、体を傷付けてはこれからに響く。ああ、響いてしまうぐらいの欲求があるのだよ、私には。お前を私なりに愛してやりたいが、それは必死に抑えている。妻を壊してしまう自信があるからな。……すまない」
「謝りなさんな。嗚呼、貴方は無意識に言ったようですが、わたくしはある一言が聞けて満足ですよ。『私なりに愛してやりたい』ですか。……ふふ。その一言で、ちゃんと母になれそうな気がします」
「なれそうと言うな。なってくれ、我が子の母よ」

 このとき、初夜の日にして一本松は初めて自分の想いを口にした。
 口に出して、更に自分の異常さを自覚する。それまでは仄かに考えているだけで、そんな願望があったなんて自覚していなかった。『もう一人の、抑えつけている自分』の存在を自覚したのは、このときが初めてだった。



 ――1994年8月15日

 【     /      / Third /     /     】




 /4

 罪人が出て、消えた。
 このとき一本松は思う存分、破壊衝動を振るった。振るった衝動を抑えつけ直すのが、とても苦しそうだった。



 ――1994年8月20日

 【     /      / Third /     /     】




 /5

 三人の子の父となった一本松は、父として、一族の指導者の一人として、社会の一員として更に活躍をするようになる。
 引退した両親の後釜を継いで未熟な僧を一喝し、当主の補助を勤め、時には外では雇われ者を率いたり、入った任務で人を束ねた。
 元は支配力が強く傲慢な性格だったが、幸い大きな事件を自分で起こすことなく社会的地位を手にすることができた。妻となった女に気持ちを吐いてからは、妙な考えも過ぎらず暮らすようになっていた。人生の転機とはあのことを言うのだと彼も考えているぐらいだ。
 人を指揮する仕事に着いてからは自分の特性を生かすようになり、実績を出せたことから周囲にもより活躍を期待されるようになる。
 良い知り合いに巡り会えた。部下も沢山できた。問題無く、天職である『処刑人』として過ごしていた。

 『処刑人』――刑を施す者。大きな組織になればなるほど、規則でその大きさを縛らなければならない。
 誤りを犯してしまった箇所から、組織は腐っていく。防ぐ為には、腐り始めた箇所を切り取っていかねばならず、若しくは、腐食を止めればいい。
 ただ腐りかけた者を正すだけ。腐りかけた部分を切り落とすだけ。ペナルティを与えて修正するだけ。
 上位に居たがる傲慢な一本松には、相応しい立ち位置だった人を屈させることで成り立つ。過剰な願いを持たず、無表情に無感情に処刑人としての生を楽しんでいた。

 ある日のこと。師匠である照行(前任の処刑人であり、父・浅黄の兄でもある。伯父にあたる人物)に誘われて、酒を飲んでいたときのことだ。
 まだ完全に太陽が沈み切れていない明るい時間。引退し、すっかり老けこんでしまった師の話を聞きながら酒を煽る。

「そもそも、儂は一本松を処刑人にするなぞ考えていなかった」

 唐突にそう言われた。
 天職だと思って順調に過ごしていた身だけに、それは一本松にとって大きなショックだった。
 隣で同じように照行に付き合っていた大山(照行の長男で、仏田の『本部』として活躍する重鎮の一人)も、目を見開いて「突然、何を言い出すんだ?」と驚いていた。

「何故このような話をするか判らぬか?」
「はい」
「考える間も無く言うとはな」
「私なりに考えてみましたが、思案の材料が見当たりません。見当もつかないことを一人で悩んでも時間の無駄。照行様は私の何が足りぬと言うのでしょう」
「その無自覚に人を蔑むところは浅黄譲りだのぉ。お前には、悲哀が足りん」
「…………」
「大山。お前は一本松の刑の仕方を知っておるか? 儂も久々に昨夜、一本松の仕事風景を見て気付いたのだが」

 一本松と向き合って喋っていたというのに、笑った照行は視線の先に居ない大山に声を掛ける。大山はぽやんとしていたのか、突然名を呼ばれ慌てた。

「すみませんが、各々の仕事は各々に全て任せているので……」
「たわけ。刑の執行を下す人間じゃろう。お前は部下が何をしているか見ておらんのか」
「……申し訳ございません」

 続けて老人は一番上の息子・大山に対して文句を言い始め、一本松のことを追及しようとはしなかった。「あの一言で全てを表した」と言わんばかりに。
 余計に苦悩する羽目になる。
 自分が最も美しく立ち回れる姿が現状だと信じてきた。みすぼらしい、決して人に威張れた性分ではないところを努力の結果優良なものに変え、上に立つ者として認められたことを誇りに思っていた。
 自らの欠点を美点に変えられた……それは、単なる思い上がりだったのか。
 照行の言葉が突き刺さって、酒は全く進まなかった。

 夜になる前に酒盛りは終わる。廊下に出ると狭山(照行の息子の一人であり、大山の弟)が声を掛けてきた。

「一本松、今晩空いているか」

 彼はこの一族を取り仕切る『本部』の一人。自分と同じく『本部』で我らを纏める『鬼』の役を買っている男だった。

「『仕事』だ。相手をしてほしい者がいる。一本松が相手をしろ」
「……私は今、酒が入っている。それでもいいのか」
「酒が入ろうが入ってなかろうが、『供給』には問題無い。酒で何もできなくなるような男か、お前は。そんな可能性があるというなら一生何も口にするな。妙義の間で待っているぞ」

 狭山は告げるだけ告げて、早々に去って行った。
 先程の言い方だと、一見『今夜に何も予定が入っているか』確認した……ように聞こえるかもしれない。だが狭山は、『今夜何かあったとしても空けてでもそうするように』と言ったのだった。確認のしない命じ方は、彼だけが出来る技だ。

「まったく、サヤの言い方は無いよなぁ。すまないね、一本松くん……あの子は他人なんてお構いなしなところはいくつになっても変わらないねえ」

 笑う大山はまるで『君は違う』とでも言うかのよう。
 傲慢な一言を言う前に留まる一本松とは違い、狭山は率直に物を言い、人を仕切る人間。無論、周囲の評判は狭山の方が悪かった。どちらもなんら変わらないというのに。
 そんな狭山にどうこう言う趣味など一本松には無い。口を開いてしまうと罵詈雑言が飛び出す恐れがあることを自覚している。本心で我儘で傲慢な男だと判っているから、口を噤むことができる。口に出して傲慢さを皆に見せつける狭山とは違う傲慢だった。すぐさま苦笑いでフォローを入れる大山は、さぞ皆から好かれることだろう。狭山や、一本松よりも、ずっと。
 命令するだけ命令する狭山と、柔和に仲介をする大山、黙ってそれに従う一本松の図は、皆にしみ込まれている。今後もそうあるべきだと思い、一本松は誰にも何も言わなかった。

 狭山が命じ、大山がフォローを入れた連絡の通り、素直に従って妙義の間に向かう。
 酒を含んでいると言ったが、照行にあんなことを言われてから一本松は酔うことなど出来なかった。酒臭いかもしれないが、何も得るものはなかった。淡々と無表情のまま仕事をこなしていたからやる気が無いと思われ、悪く取られたのだろうか。
 しかし、感情を解放してしまったら悪になる。
 いや、もしかしたらそれほど自分は、悪ではないのではないか。抑え込むだけの感情は、何も意味を成さないのでは。
 淡々と人を屈しさせてきたが、本来の儘にしてみたらどうなるのか。師が「悲哀が足りない」と言ったのは、「感情的ではないからつまらん」と言ったことではないか。情に脆い師には有り得ることだ。
 もし自然の姿を振舞ったらどうなるのか。悦ばせ方は父仕込みで教わっている。それを実践してみたいと数十年前から思っていた。

 考えながら、一本松は香が漂う部屋を開けた。
 香が鼻から脳をイカレさせようとしているその部屋に入り込むと、先に到着していた狭山と、部屋の奥で少年が蹲っているのが見えた。

「遅いぞ」
「水を飲んでいたんだ。泥酔のまま仕事は出来ない」

 狭山がフンと鼻で笑うと、蹲る少年の方に目をやる。灯籠が点いているだけの明るくない室内にいる少年の名前を知らされていない。見ただけでは誰なのかも判らなかった。
 ただ印象的なのは、明るい色の髪だということ。黒髪ではないということだ。
 十代前半ぐらいの、まだ成長しきってない体。自分の息子達と同い年ぐらいかもしれない。まだ『髪を染める』といった流行は浸透していない時代、若いのにその髪は、もし日本人ならばどういう教育をされていたのかと思うだろう。
 首には首輪を付けられ、左足首にだけ足輪を嵌められている。足輪から長い鎖が伸び、部屋中を歩くことは出来るがこの和室からは出られないような長さで壁のフックに括りつけられていた。

「捕らえておかなければならぬモノか?」

 部屋から出さないように括りつけ、首には……能力を抑制する魔道具の首輪が嵌められている。
 幼さの残る少年相手には厳重な拘束。眉を顰める。常に眉間に皺を寄せている狭山は、やや苛立った声で口を開いた。

「忌々しい罪人の子だ」

 その言葉に一本松は「ああ」と声を漏らした。狭山の言葉に思い当たるものがあったからだ。

「罪も償わず処刑された奴の子など、奴と同じ末路が相応しいと何度も言ったが。強大な力を持っているからな。置き土産は存分に有効活用しろとの御達しだ」
「……御達し」
「航様のな」

 狭山は少年に近付くと、首輪から少しだけ伸びた鎖を引っ張り、一本松に近付けさせた。
 無抵抗に狭山に引っ張られた少年が鈍い動きで手をつきながら寄る。暗い光の中、おどおどとした目が妙な光を灯した。
 途端、体が震え上がる程の恐怖を感じ、後ずさる。

「これ、は」
「航様が左目に『あの魔眼』を埋め込んだらしい。気味の悪い色をしているだろう。こいつに流れている血の魔力濃度は人の六倍から七倍、自己再生の異能もあるそうだ。手に余っていた魔眼を制御するだけの魔力を有してはいる」
「魔力濃度が六倍……? 二倍でも数千万の価値が出るというのに、いくら血を絞り取っても金になるな。それでいていくら痛めつけても自己再生すると?」

 魔力の通う血は高い金で売れる。それでいて傷を癒す自己再生の異能があるとは。まるで金のなる木じゃないか。
 一本松は少年に近付き、顎を持つ。まじまじと恐怖を誘うような紫色の眼を見ながら呟く。

「罪人の子を引き取るのも癪だが、稀有なものを放置しておくのも惜しい。それだけの魔力を持った者など、大山の飼っているペット達の中にもおらん。……おそらく、今の仏田にもな。本来なら幾ら痛めつけ殺しても気が済まんのだが、ここは辛抱しよう」
「『邪神の魔眼』を封印するために、器として外から用意したのか。神の子孫から奪った魔眼だぞ、それをよく一族以外に渡したな。それほどの逸材を攫ってきたというのか」
「判断は全て航殿が行なった。俺は適切な処置を施せと命じただけだ」

 少年は怯えて視線を逸らそうとしていた。だが敵わない。顎を固定されては身動きもできず、微かに「……ぁ……」や「……ぅ……」と悲鳴にも満たない嗚咽を漏らすしかない。
 びくびくと怯えた目で上位者を見る禍々しい色は、一本松を恐怖に襲いながらも興奮にも誘っていた。

「……やはり一本松、お前は平気か」

 感心したような声を狭山が出す。

「お前は呪文が効きにくいという異能があったが、その魔眼も効かんようだな。それは好都合だ」
「……効かんように見えていても、内心では震えと戦っている」
「お前が震えているだと? ふん、大したもんだと褒めている。能力を封印する魔道具を付けていても、二人ほど研究者が目を覚まさなくなったぐらいだぞ。俺だってその眼と直視できない。なのにお前は見つめ合うことが出来る。よし、お前に任せよう」

 狭山は部屋の入り口まで足を進める。少しでも少年と距離を取りたいというかのように。

「その化け物の世話を任せた」
「……先程、『供給』をしろというようなことは言っていたが」
「いや、世話……というより、調教、か。まだそいつは一度も『供給』行為を知らん。スイッチの入れ方も判っていない。高い魔力を持っていのにその体を使わないと勿体ないだろう? 後で皆の餌にして、売りにも出すつもりだ」
「……ふむ、他に誰が就く?」
「一本松一人に任せよう。お前が必要と言うのなら、お前の手の者を回せ」
「わざわざ私が就かなくても、三日ぐらいかけて皆で輪せばいいのではないか。禁欲した連中に殺さない程度にしろと命じれば」
「したければそうしろ。俺はあまりそいつを見ていたくないんだ。そいつの眼は気味が悪いし、同じ空間で息をしているだけで腹立たしい。まともな思考が出来なくなるぐらい害悪なんだ。存在自体が悪。その悪の影響を受けない一本松に何とかしてほしい。命令でもあるし、正直、お前に何とかしてもらわないと困る。頼んだぞ」

 はあ、と狭山は大きな溜息……いや、深呼吸をつく。
 香に焚かれて体が異常になったのではない。忌々しげに何度も何度も少年への毒を吐いた。狭山の毒を甘んじて受けているのか、顎を離された少年はすぐに俯く。
 一本松はとある言葉を心の中で繰り返していた。
 害悪。存在自体が悪。心惹かれる響きだ。
 それに、自己再生の異能。いくら傷付けても傷の治りが人より早いのか、それとも傷付かないのか。高い魔力ということは、繋がれば高い魔力を得られるということ。六倍という大きさは聞いたことがない。いくら傷付けても傷付けても溢れ出てくる宝。どんなに掘っても掘っても尽きない石油か、原石か。

「一本松に相応しい任務だと思ったんだが」

 狭山の言葉に頷く。

「お前が好きに扱え。我が一族に仕えるよう従順に調教しろ。ただしこれだけは守れ。いくら憎くても殺すな。忠実な餌に仕上げるように」
「……本当に見ていないところで部下の事を熟知しているな、狭山様は」
「奴隷作りは浅黄様から継いでいるだろう?」

 狭山が入口近くの柱にで体重を預ける。事を始めろ、という態度だった。
 少年を床に転がせ、着物を肌蹴させた。小さく少年は悲鳴を上げた。その小さな悲鳴も、最初だけだ。そのうち絶叫に変わる。一本松好みになっていく筈だ。

「狭山様。殺さなければいいらしいが、薬は? 薬漬けにするのはどうなんだ?」
「……俺は殺さなければいいと言った。後は一本松の好きにしろ。しかし、無感情になった餌は味が落ちるぞ。『供給』は感情の揺れ動きで魔力の譲渡を行なう。だから感情が生きた者同士でないと出来ない。心を失った者と交わっても得るものは少ないぞ」

 それでも生きた体液ならば多少でも摂取することは出来るが。気分の悪そうな声で狭山はぶつぶつ語った。
 一本松は部屋にあった油を少年の敏感なところに塗りたくった。胸や性器と言った露骨な性感体、尻の穴には瓶に直接付けるように流しこみ、指で伸ばしていく。
 指の挿入も少年は怯えながら声を上げて悦んだ。
 抵抗していたが暴れ回ることはしなかった。少しずつキレのある呼吸の仕方を掴もうとしている。尻の穴が指を呑み込み始めた頃には、女々しい悲鳴を上げてもがき始めていった。
 尻の穴を弄りながら、逆の手で前の性器も掌で甚振る。敏感なところを撫で回され、少年は身悶えした。次々と休みなく与えられる刺激に呼吸は荒くなっていき、指が二本目も咥え出すようになってからはぼろぼろ零しながら身を捩る。その頃には少年は塗られた薬の虜になり、体中の熱さを我慢できず涎を呑みこむ暇も無くなっていた。
 息切れを続けながら、押し寄せつつある快楽に呑まれていく。

「今、考えていることを話そうか。狭山様」
「ふむ?」
「これからこいつを気絶させるまで犯してみる」
「なんだ、普通だな」
「そうか。……私はまだ、気絶させるまで人を犯してみたことはなかったんだ。今から楽しみだよ」
「……比喩ではなく、そのままの意味で言っているのか?」
「ああ。こいつの狭いこの穴にブチ込んで、何度も何度も喘がせて、泡を吹くまで気を失うまでに何分かかるかな?」
「痛みでそう簡単に気を失えないと思うが」
「では、気を失うまで犯すとしよう。気を失うまで何時間でも陵辱し続けてやる。実験だ」

 どうせそのうち、大勢が『供給』を求めたときに足を開く餌になるんだ、それぐらい耐えないとやっていけないぞ。
 まだ何をされるか判らず、惚けた顔で気持ち良さそうに息を吐いている少年を撫でた。
 汗で額に明るい色の髪が張り付いている。撫でられて心地良さそうに唇を緩めていた。口元に手をやって、身悶えして快楽を得ている。
 それもきっとこれまで。
 一本松がにやりと笑う。他人を虐げる、それは悪、そう定義づけられた世界で息苦しく生きていた男がやっと笑った。
 今までずっとやりたかったことを封印していた男が、水を得た魚のようにいきいきとした目になる。
 こんなにも楽しそうな一本松を私は見たことがなかった。



 ――1994年8月23日

 【     /      / Third /     /     】




 /6

 数日後。地下室に下りてきた狭山は相変わらず機嫌の悪そうな顔をしていたが、『それ』を見るなり更に嫌悪の色を深めた。

 一本松がそれを調教し始めてから三日、場所を地下に移してから二日。顔を出して様子を伺っていたが、狭山はいくらそれを見ても慣れることはなかった。
 目にするたびに吐き気を堪える。吐き気まで生じさせるのは魔眼という、人の精神を汚す力があるせいか、汚らしい過去を持った者を憎悪する心ゆえか、それとも。
 それでも狭山が毎日様子を見に来るのは、一本松がそれ――少年を殺してないか見張るためでもあった。

 調教と言う陵辱は、毎日微々たるものだが変わっている。修行という名目で少年に苦痛を与え続け、その苦痛を快楽に変換させていく。
 今日も一本松は少年の反り立った敏感な部分に爪を立てている。また、何本も指が入るようになった箇所に腕を一本入れてみたとか、精液を飲みませ、もし零したなら床を舐めさせるなどしていた。
 少年は台の上に仰向けで転がされ、後ろ手を拘束されたままか細い悲鳴を上げ犯されていた。
 油が皮膚と皮膚の間で絡み合い、ぐちゃぐちゃと卑猥な音を立て責められ、嗄れ切ったか細い声は喉を反らしている。声も出ないぐらいに突き上げられて、呼吸が困難になっていた。
 そんな悲惨な責めでも少年の性器は大きく張り、精をぶちまけている。
 はあはあなんて息遣いなどではない。ひゅーひゅーと、瀕死の怪我人のような危機に瀕した呼吸しかしていなかった。
 熱い息は少年だけでなく、陵辱者の方も変わらない。少年の中に摺り寄せたまま、まだ体内を嬲る。感覚が無くなるほど奥を揉みくちゃにする。少年の身体は一度絶頂を迎え苦痛を伴っていても、暫くすると新しい快楽が生み出されていた。
 後は、先と同じ。快楽に打たれて甘い声を発するまで。満遍なく犯されて、甚振られて、精を放つ。全てが終わった後には、血も含めた体液を至るところから撒き散らしたまま、台の上で項垂れる残骸があった。

「楽しそうだな、一本松よ」

 狭山が着物を直している一本松に声を掛けた。
 一本松は頷く。「楽しい」という言葉は真実だった。
 毎日殺すまではいかなかったが、ほんの少し頃合いを間違えれば少年の命を奪ってしまうほどの鍛錬を行なっている。心など痛まない。数時間に渡る甚振りは、一本松にとって生の実感を与えてくれるものだった。

「一本松。昨日話していた話だが、そいつの歯は抜くのか? 舌を切るのか? ちゃんと考えておいたか、忘れてないだろうな」

 無我夢中になっているような一本松が口を開いたのは、数秒間も息を整え直した後だった。

「……私なりに考えた結果、どちらもしないことに決定した」
「ふん? あれだけするようなことを言っておきながら止めるのか。意外だな。そいつに歯があっても邪魔なだけだろう。噛みつかれる恐れもあるし、もしかしたら自殺されるかもしれんぞ」
「そうさせないのが調教ではないか」

 着物を整えた一本松は、台に固定され上の口も下の口も精液で濡らした少年を撫でる。
 頭から纏う物が何一つ無い腰、縛られた足まで、大きな掌が全身を撫でまわした。

「三日三晩、反抗の気を殺いだつもりだ」
「……そのようだが」
「それと同じだ。歯があればいつでも噛み付けるし食い千切ることもできる。だが、その気力さえも殺いでみせる。口を開けば舌を這わせ、咥え、一人でしゃぶり出すように仕込めばいいだけのこと。そういう風に育てればいい話。もし私の力が足りずに噛みつかれたらその程度しかこいつを調教できなかったというだけだ。……それに、初日は嫌がって口の奉仕なんてしなかったが、今ではもう」

 少年の口の中に指を突っ込む。二本指を舌の上に突き立てた。
 すると少年は苦しげな音を吐き出しながら、必死にその指を舐め回した。固定された体で懸命に舌を、顎を動かそうとする。

「今ではもう、何も言わなくても口に突っ込まれれば舐めるようにはなった。良いものだろう? この実感を今後も味わう為に、服従を知らしめる為に、歯という凶器を持たせるのは重要だ」

 凶器を持っていながらも振るわせない、そこまで堕とすんだ。
 言いながら少年の口内で指を動かし、ひたすらに蠢く舌を蹂躙し始めた。舌を掴まれ少年は苦痛を訴えようとするが、「指に噛みついてもきっと長時間殴られるだけだ」と察したため、大人しくその蹂躙を受ける。もう既に何度もそのような『お仕置き』を受けたからその従順さなのだろうか。狭山は感心した。

「一本松のことだから、悲鳴聞きたさに麻酔無しに歯を抜くのかと思ったぞ。抜歯の後は神経も引き抜くかと思った」

 感心しながら、もうしないであろう『彼のしそうなこと』を狭山は口にする。それを聞いて、一本松はククッと低く笑った。

「惹かれるが、一日で終わる悲鳴など勿体無くてできん。いくらこいつが自己再生の異能持ちでも、次の日に歯が生え揃っている訳ではないだろう?」
「ううむ、やったことがないから判らないな」
「やってみるか。いや、そうでなかった場合が恐ろしい。確実に楽しむ方法を選ぶさ」

 ――さて、狭山が去って数時間経った後のこと。
 地下の工房は複数居室がある。少年を捕らえておく座敷牢から離れた別の地下牢へ少年を首輪と鎖を繋ぎ、犬の散歩のように移動させた。
 狭山はとある部屋で準備を整えていてくれた。そして時間になったからその部屋に少年を連れて来ただけのこと。少年は鎖に引かれながらおどおどとその部屋に入る。部屋には数人の男達が待ち構えていた。皆、少年を見てぎょっとする。

「今日の餌はこの子ですか? まだ、子供ではないですか」

 一人の男が少年を引いて連れて来た一本松に、恐る恐る口火を切る。
 今まで供給に使われていた『使い捨ての餌』といえば肉付きの良くなり始めた女性、体を馴らされた成人近い男性ばかりだったからだ。
 部屋には男達が六人待機していた。それに対して供給の餌となるのが、線の細い少年一人。ぎょっとするのも無理はない。
 男達の前に少年を座らせる。少年はぺたんと力無く座りながら、これからされることを考え、びくびくと身を竦ませていた。周囲の男達もこの少年を輪姦するのかと不安がり、誰も手を付けようとしなかった。
 ポツリと「ガキには欲情しないか」と呟くと、皆苦々しい顔をした。
 そこに居る者達は、女一人を十人で犯したことのある連中だ。異端と見なし捕らえた能力者を甚振り殺したこともある。生きたままの解体ぐらい飯の話をしながらできるというのに子供だから遠慮はするらしい。
 笑う一本松は怯える少年を拘束する鎖を引く。首に掛けられた首輪が少年を無理矢理動かし、「ひっ」と苦しい声を上げさせた。引かれたことで少年が前のめりになる。ぱさっと長め髪の毛が舞う。紫の目が灯りの下に現れた。

「こいつは、あの罪人の息子だ」

 全員が目を見開いた。
 カッと見開かれた目が少年を襲う。
 全ての殺意が少年に向けられた。少年は只ならぬ殺気に身を縮こませる。
 殺気は視線だけではない。形あるものに変わっていく。「まさか」「こいつが」「あの者の」、次々と言葉が現れた。少年を疑う声、非難する声が湧き上がる。
 そしてある男がガッと少年の髪の毛を引き上げた。少年は悲鳴を上げる。

「こいつが、寺を燃やそうとしたあの愚か者の!」

 男の目はさっきまで幼い少年を気遣うものだった。だが、そんなものはどこかにいってしまった。一本松の一言で今や殺気の色しか灯していない。露骨な殺意を一身に受けて、少年は怯えるしかなかった。
 髪の毛を掴んだ男は少年を思い切り床に叩きつける。床に全力で倒された少年は受け身を取ることなんてできず、激しく叩きつけられた。
 男は特別、罪人に恨みがあったのか。狭山はそんな彼を選んでこの部屋に呼んだのか。一本松は奥に用意された敷物に腰を下ろしながら考えた。
 間髪おかず、男は少年の顔面を蹴り上げた。少年の端整な顔が血で濡れる。
 しかしそれは男一人が特殊で、少年に暴行を加えた訳ではなかった。周囲に居た何人もが蹴り、取り押さえ、上から殴りかかる。一人が蹴り続け、疲れて事を終えると、次の一人が殴りかかる。
 その繰り返しが幾度も続く。大人達に嬲られ、少年は逃げることも身を守ることもできなかった。

「殺すなよ」

 五分後、言い忘れていたことを口にする。幸い少年は死ぬ前だった。準備運動のように暴行を加える男達にやっと事情を説明する。
 身寄りの無い少年をやむなく仏田が引き取ることになったこと。膨大な魔力の持ち主故に体液は至高の味を占めているということ。今後体も心も一族に尽くすように躾をしなければならないこと。全て話すと、嫌な顔をする男も居たが皆、一本松(更に上の存在である狭山)に命じられたのだからと動き出した。
 一人がケツの穴に指を突っ込むと、得たことのない苦痛に逃れるように少年はもがいた。一本松によって既に三日間馴らされた穴も、自己再生の異能はそんなところまで癒してしまうらしく、少年は初めてのように激しく反応した。それはそれで、感情の動きが重視される供給という行為には都合の良い話だった。
 足を抑える男が二人、体を抑える男が一人、指をつっこむ男が一人、少年を取り囲むのに人数は足りている。しかも全員が少年に対して殺意以上の感情を抱いている。どこにも逃げることも出来なければ、抵抗することすら許されない。そんな絶望的な状況でも、少年は手を伸ばして助けを求めていた。
 誰に? 間違っても一本松にではなかった。誰も居ない方向に手を翳し、悲鳴の合間を潜り抜け必死に助けを叫んでいた。
 ――父さん、兄さん、と。
 嗚咽、悲鳴、咆哮の中に挟まる家族を呼ぶ声。見守る一本松は底知れぬ興奮を覚えた。
 何もしていなくても世話をすることを受けた以上、少年の鍛錬は見なければならない。
 上の者の命令を一族の僧達が違えることはないから、「殺すな」と言っている以上、少年を殺す者はいない。
 それでも万が一の事がある。それほどに少年の存在は罪深く、いや、少年の父がしたことは一族全員が恨むことに違いなかった。少しの気の迷いで命令を無視し、少年を殺す者がいてもおかしくなかった。
 だから一本松は暴行の間も一部始終を監視していた。一番自分が殺し掛けてしまいそうだと、笑いながら。

 少年は全身の至るところを殴られ、叫ぶことも出来ないぐらい上も下も男性器で塞がれていたが、目は死んでいなかった。
 いっそ壊れてしまった方が憎悪まみれの暴力を受けても心が苦しまずに済むだろうに、それも許されず少年は正常に喘いでいた。
 いつまで経っても恐怖の悲鳴で声を上げる。上げ続けている。……それは、一本松にとって天国のようなものだった。

 暴行が終わって少年は外も中も洗浄される。
 治療魔術の世話にもなり、元通りの姿になって少年専用の地下室に入れられた。
 そこで一晩を過ごす。朝が来れば(地下なので朝日は待っても来ないが)回復しきった状態で、また鍛錬が始まる。
 少年は陵辱するための部屋に連れ出され、深い恨みのこもった暴力を受ける。最初の六人から人が変わって新たな陵辱者が呼ばれても、少年の生い立ちを話すと全ての人間が怒りを露わにした。多くの手によって少年を、憎しみを込めて鍛錬を行なわせることができた。
 次の日も、そのまた翌日も、多くの者達がストレスを発散するかのように、怒りを込めて少年を育てていった。
 そんな少年も一週間、一ヶ月、半年間と続けていれば、巧い舌の遣い方やより良くさせる腰の動かし方を学んでいった。

「一族に奉仕すること。これがお前の『仕事』だ」

 その言葉に、大人しく頷くようになっていく。
 歯なんて抜かなくても、性器をしゃぶる少年は絶対に噛みつくなんて真似をしない。懸命に、ぶたれないように自分が気持ち良くなるように舌を這わせ手も動かす。長く地下室で過ごしていればすっかり板についた。
 やがて命じられなくても自ら肌を曝し、性器にしゃぶり付き、上も下も受け入れる準備をするようになった。それぐらいの心得は一年後には持てるようになっていた。
 いつしか少年は立派な奴隷になっていった。
 最初の頃に少しだけ見せていた抵抗なんてものは、その頃には一切見せない。
 少年は変わったというのに陵辱者達は何一つ変わらない。憎しみ、敵意、殺気は消えない。監視していた世話役は、そんなことをふっと考えていた。成長しきった少年を見て、満足感や充足感を味わっていた。



 ――1995年8月14日

 【     /      / Third /     /     】




 /7

 ある日。一本松が少年を供給の間へ連れ出そうと彼を隔離した座敷牢に訪れてみると、話し声が聞こえた。座敷牢を覗き込めば、格子の中で似たような背格好の少年が二人、身を寄せている。
 同じ顔が二つ。鏡に映る人間を見ているようだ。内容は何の変哲も無い雑談だった。なんてことはない、少年の双子の兄が一緒に投獄されているだけだ。
 そのときの少年達は二人きりで束の間の家族の時間を過ごしている。会話に弾んでいたのか穏やかな表情をしており、供給の際に見せる引き攣った顔とは全く違う微笑み。苦痛に歪んだ顔を好む一本松には、面白くない光景だった。

 一本松は地下室で、兄を目の前にして少年を抱いた。その日は初めて、首を締めながら犯した。
 人間の子供と同じように楽しげに微笑んで語り合っている姿が餌には相応しくないと思ったからだ。だから極限の恐怖を味合わせようと、首を締めながら犯し続けた。
 どんなに傷を作りながらも苦痛に耐える少年も、呼吸器官を潰される行為は激しく抵抗する。最近は枯れてしまったと思っていた涙を流して、必死に抗おうとしていた。
 首から手を放すと、必死に酸素を掴もうと咳き込む。最初の頃と同じ、涙を流し怯えた顔で陵辱者を見上げた。兄の前で安心した笑顔など浮かべている余裕は無い。何年も便器の生活を送っているにも関わらず身内の前では恥じらいがあるのか、いつも以上に震えていた。
 一歩判断を誤るとせっかく調教してきたのに殺してしまうかもしれない行為。だが必死過ぎる姿が生の実感を与えてくれる。一本松は幸福を感じた。

 ――その夜、酒が飲みたい気分でも無いのに酒を飲んでいた。
 夏の暑さに気分転換をしたい。今日は良い悲鳴を聞いたせいか機嫌は悪くなかった。日々続ける武術の鍛錬と指導、時には魂を狩りに向かい、毎日のように少年を縄にかけて調教し鬱憤を晴らす。爽快な日常を送っていた。良い生活であることは確かなのだが、今日はやけに暑い。だから酒を煽ることにしたのだろう。
 こんなことをやっているのだから、家族に見放されるのも仕方ない。息子達が自分に良くない感情を抱いているのも、妻だった女が笑って去って行ったのも、全て自覚のあること。
 三つ子の息子を導いてやりたいという親心はあっても言葉を投げ掛けることはない。踏み出すことは一切無かった。

「つまらん顔をしているな、一本松。お前はいつもそんな無気力な顔をして、酒を浴びて。上に立つ者としての自覚が無いのか。無いのだな」

 酒を飲んでいる前には、今日も狭山という傲慢な男が居た。
 彼は人に「自覚が無い」と勝手に決め付けて一人で納得するような人間だ。クドクドと同じことを繰り返し言い放つという判りやすい頑固者。そんな狭山を見てついつい笑ってしまう。

「勤めを終えて、晩酌を楽しむことの何が悪いと?」
「悪い? 誰もそんな事を言ってないだろう。悪いという疾しさがあるなら精進しろ。何もしないだけの木偶の坊はここにいらん。ここにいらなければどこに行っても必要とされないがな。愚鈍で馬鹿だなんて救いようもない。全く、世の大半は愚鈍で馬鹿なのが困るな、困る」
「その台詞、多少の差異はあるが……。三日前にも聞いたぞ」
「何故どうでもいいことを覚えている? そんなこと覚えるぐらいだったら術の一つでも覚えたらどうだ。お前はその程度のことも考えられないのか」
「……相変わらず貴方は。それだからいつだって皆に睨まれるんだ」
「睨むだけで何もしない連中が何だ。言いたいことがあるなら俺に言えば良い。そして必要なこと以外は話すな。お前だって『完璧であれ』と教えられただろう? 全能に近付くための努力もしない連中など見ていられるか。まったく、銀之助といい、お前ら兄弟は生意気な口を聞く。己一人が世の苦悩の中心だと思いおって」
「…………」

 ああ言えばこう言う。上司でもあり同僚でもあり同志であり、心を許すべき家族の今日も元気な姿に、妙な感情が湧いた。
 いつも眉間に皺を寄せて人の文句ばかり言う姿は生きにくそうだが、素直で実直すぎる態度を見ていると狭山ほど気楽に生きている男はいないのではないかと思えてくる。
 一本松と違って狭山は自分が悦になりたくて暴言を放っているのではない。彼は罵詈雑言を吐きつけたい訳ではなく、ただ彼の生きる一瞬を完璧なものにしたいと考え続けているという、純粋なだけだった。
 相手を虐げたいのでもない。優しさなど持ち合わせていない徹底した姿に、一本松は哀れみより寧ろ好意や尊敬の念を抱いていた。
 どんな苦悩も真っ直ぐと立ち向かい勝負する狭山。もし彼に「あの疑問」をぶつけてみたらどうなるか。回りくどくなるだけかもしれないが、物は試し、酒の勢いで口にした。

「以前、照行様に『処刑人に向いていない』と言われてしまったよ」
「なんだと。父上がそのようなことを言ったか?」
「ああ。何が足りないのか尋ねたが教えては下さらなかった。大山様に尋ねても判らないと言われた。……どう思われる、狭山様?」
「判らん。処刑人はお前が最も相応しいだろう、違いない」
「しかし、前任者の照行様に向いてないと言われてはな」
「俺はそう思わない。お前のように陰湿で過激で傲慢で冷酷な暴力を振るえる人間こそが、罰を執行する者には相応しい」

 正面からきっぱりと断言する。あまりに美しすぎる評論に、やはり笑うしかなかった。

「言ってくれるな」
「はあ? 貴様、意見を求めて話したのではないか、判りにくい話をするな。しかし、俺には足りないものなど判らん。それどころか俺はお前ほど相応しい存在はいないと考えているぐらいだぞ」
「ありがたい話だ」
「――――何が足りないか、まだ判らぬか。一本松よ」

 そのとき、唐突に廊下から狭山よりもずっと若い声が響いた。
 まさか居るとは思わないその声に、狭山と揃って驚愕する。その声の主は、他人と干渉してくることがない人物だったからだ。
 それは一族の例外。まず本部陣営に口出しすることのない、そんな権利など無い、当主の弟の声。障子が静かに開かれ、一見顔立ちは美麗だが浮浪者のようなみすぼらしい姿が現れた。
 仮にも頂点に近い存在でありながら、その世捨て人のような不格好。だらしなく緩めている口元と、整えもしない長い髪。
 狭山は苦々しい声色で、「柳翠……様」と、登場した青年を睨んだ。

「おや。下賤な私に対してまだ敬って下さるのか、狭山殿は」
「……何の御用です。普段の柳翠様でしたら何もせず一族の役目など捨て、身勝手に地下で人形遊びをしているではないのですか。また気紛れに表に来ては周囲を乱していくおつもりですか? 貴方の迷事は皆に悪影響を与えるのです。和光様にも言われておられるでしょう……自分の工房にお戻りなさい」
「そんなに警戒するな、狭山殿。まるで私が皆を惑わす悪魔とでも言いたいか。私はそんな高等な者ではないよ」
「悪魔、まさにそのものでしょう。現に貴方の言葉は、皆の士気を下げる。第一、一族を捨てた身がのうのうと生きているというだけで皆へ示しが……」
「無意味に私も生きているだけではない。無論、ここに来たのも理由があってのことだ」
「ほう、何用ですか」
「そこに居る一本松を惑わしに来た」

 そう言うと柳翠は指をパチンと鳴らし、狭山の動きを止めた。

「…………」

 狭山の体は動かなくなる。眠りにつくのでも、石化したのでもなく、時が止まったように動かなくなっただけ。
 そういった魔術があったかと疎い一本松はぼんやりと考えた。世捨て人である柳翠は『境内で魔術を使ってはならない』という掟を平気で破ることぐらい知っている。本来であれば処刑人である彼はこの場で罪を犯した柳翠を捕縛し、刑に課さなければならないのだが。

「話とは何でしょう」

 現当主の弟。先代当主の三男。今、「己を惑わす」と公言した男。
 強大な力と驚異的な存在感を放つ青年の前で、一本松は向き合っていた。

「一本松に足りないものを教えてやろうと思い訪ねてきた」
「……何に故。どうやって私がその答えを欲しているのを知り、どうして私なんぞに教えるために来たのですか」
「答えてやろう。ただし、お前も同じように『正直に全て想いを』話すのだぞ。一つ目の問いは、そう『境内の風』たちが教えてくれたからだ」
「また不思議なことを仰る。狭山様に怒鳴られても仕方ないことを貴方は易々と」
「二つ目はな、一つ目より理由が軽い。一本松が破壊の限り暴れれば『この世界も』壊れてしまう、だからそれを抑止する手段になればと思い、来てやった

 柳翠が口を開いた意味。「これ以上ない答えだろう」と言うかのように笑って言う柳翠。
 まさか言われるとは思わなかった『世界』という言葉に動揺し、黙って先を促した。

「一本松に足りないもの。それは、お前を理解するパートナーだよ」
「妻なら、既に娶っております」
「それが真と思ってはいないだろう? 私が言いたいのはそうではない。光緑兄上に松山が必要なように。燈雅に圭吾が必要なように。慧に航が必要なように。お前は、お前の暴走を止めるパートナーが必要だったのに。それをお前は相棒を『お前自身』にしてしまった。いつか暴走するだろう自分を、自身で抑制しているんだろう? 反転するのを必死で抑え込んでいるのだろう?」
「……柳翠様、私は処刑人。異端に堕ちることはありませぬ。私は、一族に害成す者を処罰する者故に……」
「同じ血を引いている、お前だけ例外があるものか。いや、例外と言えば例外だが。お前は自分一人で欲を制している。そんなことができるのは一族でもお前ぐらいだろうな」
「…………」
「他の連中は、弱いから。私も含め、皆……誰かに寄り添わなければ生きていけない。その点に関しては、お前は光緑兄上より素晴らしい」

 柳翠は酒を飲むため座っている一本松の元まで近付き、それでも座る訳でもなく、わざわざその場で一本松を見下ろしていた。
 あぐらをかいていた一本松は本来であれば上位者である柳翠に対し畏まらなければならなかったが、その姿勢のまま、じっと柳翠の声に耳を澄ませていた。

「我々は実に脆い。人間自体弱いものだがな。周囲を犠牲にして成り立ってきた我が血族の中で、お前は一人で今日まで生き延びてきた。さて、どうだ今日も少年を抱いてお前の心は幸福を感じられたか? 気持ち良く今日を過ごせたか?」
「……他者を甚振ることで生の実感がわいたといえば、確かに心地良い時間を過ごしましたとも」

 傍に立つ柳翠に対し、真っ直ぐと視線を返す。
 ぶっきらぼうな返答に、柳翠は「そうか」と声を漏らした。とても好意的な意見だったらしく、「素直にそのまま話を続けろ」と言うかのように顎で示す。

「もし世界が真の私を許してくれるのなら、私は……この世に巣食う全ての人間をあのような目に遭わせたいと考えています。周囲の者を切り裂き、犯し、炎で灰にできたらと思うと、ひどく興奮します」

 ――泣かせたい。痛めつけたい。捩り込みたい。踏み潰したい、殺したい。素直に言葉を並べる。
 一族の為に自分を殺してきた男が、酒と不思議な男の力を借りて素朴に告白をしていた。

「もしそれが叶ったなら、私は更なる生きた実感を味わうことができるでしょう。この上ない幸福を感じることができましょう。……決してそのようなこと、どのような世界であれど許されることではないのに」

 だろうな、と柳翠は首肯する。笑みを浮かべながら一本松の意見を肯定し、否定した。

「その通りだ、一本松。破壊の欲求など、この一族でなくても全世界に拒まれる。生きるために生まれた命を陥れることで喜びを感じるなど、とんだ狂人だ」

 笑みを浮かべている程度だった柳翠が、今度は声を出して笑う。その笑みには一本松は何も言わなかった。

「さあ、話を戻そうか。照行様がお前に足りぬと言ったのは、『心を許せる者がいない』ということ。お前はお前自身がストッパーだったから照行様の目には足りぬと見えたのだよ」
「……それが、どうして私が処刑人に向いてないという話になるのでしょう」
「孤独なお前には判らぬか。一本松に足りないもの、それは、愛だよ」

 柳翠は真顔で答えた。思わず黙り込んでしまう。

「なんだ、恥ずかしいか? 愛は必要だぞ。処刑は罰を与え痛めつけるだけではない。罪人を愛を持って良き道へ正してやる必要がある。一本松の場合、ただ力を振るっているだけ。単なる力の行使は、腐敗の原因になる。一族を繁栄させる組織が『本部』であるお前や狭山が腐敗の元となれば御隠居の身も悲しいだろう。だから、照行様は忠告したんだ。愛する後継者の為に、ただ力の押し売りをしているだけの、お前にな」

 暫しの沈黙の後、一本松は「……子供を叱り方と同じぐらい単純だな」と感想を漏らした。
 そして、「子供だろう、お前は」と年下の柳翠に言われてしまう。
 ああ。未熟。まだ子供。……告げられた彼はじっくりと己を見つめ直そうとした。
 まだ相手のことを想い、汚い言葉だとしても叱咤するだけ狭山の方が優れていていたか。
 そう考えたのか、いつしか唇を噛みしめていたが、ついには笑った。
 笑った一本松を見て、柳翠は言いたいことを言えたのかその場から去って行く。一体何の為に現れ、何に納得して帰ったのかは判らない。一本松も大方判ってはいない。そのまま核心をつけず乱れた気を直すために酒を煽った。
 柳翠が消えた後、狭山の時計はいつの間にか進み始めていた。柳翠の台風が過ぎた後のせいか静けさが恐ろしい。
 一本松は滅多にしないことだが、自ら狭山の為に酒を酌み奨めた。

「…………一本松、柳翠様は何をした」
「……何も」
「嘘を言うとどうなるか判っているな?」

 一体、狭山のどこから先が抜けているのかは一本松にも判らない。
 だがもし狭山が柳翠の意味不明な言葉を聞いていたら、既に更に怒り狂って収集がつかなくなっている筈だ。
 そうでないのだから、狭山の中身はからっきし抜けている。だから「気にするな」と酒を渡す。
 狭山も気にしたってどうもできないと思ったらしく、渡された酒をそのまま受け取った。

「柳翠様は、一本松……お前を惑わせに来たと言っていた。覚えておるぞ。惑わされたか?」
「まさか。あんな若造の妄言、聞き流されるほど酒に呑まれていない」
「そうか、酔ってはいないな。では話をしよう。一本松、お前が教育している少年の話だが」
「ほう」
「『供給の餌』である奴を、『魔物の餌』にもする。寧ろそちらが本題だったのだ。つまり――――」

 狭山の長い計画の話を聞かされた。

 命令を最後まで聞き終え、考えながら一本松は……もう離れて何年も会っていない嫁のことも思い返していた。
 「なんてつまらない顔をしている」と言われて、やっと自分が何で満たされるか気付くことができた。
 あのときあの女を激しく犯しておけば、少しは自分を曝け出して、暴走の果ての道を歩んでいたのか。どうだろう。それだとここまで誠実な人生は送れていたか判らない。
 今は掌の上に蝶がいる。いつでも、何度でも粉々にできる生贄が。
 もし今も掌の中へ蝶がやって来なければ、満たされずに、つまらぬ毎日を送っていたのか。……それもどうだろう。人生とは一度歩んでみなければ判らんものだ。もう既に三度も歩み、それでも苦悩し迷っていたとしても。

「狭山様。何故貴方は、一族に仕える?」
「そのようなことを訊くなど一本松、貴様、相当柳翠様に毒されてしまったようだな」
「……ああ、みたいだ。柳翠様の言葉は流石の破壊力だったよ。だから、彼の声を解毒するためにも、真っ正直に一族の中で生きる狭山様のお言葉をくれまいか。私を救う為だと思って」

 小僧に何を言われたか知らんが心の弱いことだ、と狭山は鬱積たまった声で呟く。それでも渋々ながら口を開いてくれるのだから、簡単な男だった。

「神を誕生すれば皆が救われる。神の力を手にすれば、全知全能となった我らは悪魔に欺かれることもなく、正しき道のみで苦しむこともない、この世に居て極楽を得られる。愛する父も、兄弟も、妻も、子達も苦悩することなく、一生を終えることができる。今まで満たされなかった先祖達の苦労も報われる。それは素晴らしいことだろう。我らはすぐそこまで神を掴める場所まで来たのだから、これで進まぬ理由が無い。輝かしい未来の為に尽くす、これ以外何があるというのだ」
「……貴方がしていることは全て、救済の為だと?」
「それが当主様の訓えだ。他者だけではない、苦難の世を生きる自身の救済でもある。我が一族は神と交わった。下界の者達と違い、答えに近い選ばれし者だ。求めなければならぬ責任がある」
「……その答えには、己が無い」
「いいや、何を言う、血を分けた父や子は愛さなければならない己そのものだ。……そして、彼らの為に己を犠牲にするのは当然のこと。己を成してくれた父の期待に応えるのは当然だ。子の為に未来を支えるのも当然。この意志は数百年、千年前から血を渡って受け継いできた宝だぞ……なら我らは過去から告げられた使命を成さなければ、始祖様を侮辱することになる。顔向けもできん、同じ墓にも入れないだろう」
「一は全、全は一。自身を犠牲にするも一族を犠牲にするも同じ、か」

 理想。一族が思い描き、全の『最高』とされる思考。
 語る狭山の表情は生き生きとしている。いつも不機嫌で何か喉に詰まって苦しそうな顔とは違う。途端、一本松の口元が笑みに染まった

『あの寺は異常だってことを、オマエは知っていてほしい』
『だって……ご先祖に命じられたからって、人を束縛する連中なんだぞ。それはおかしいと思わないか』
『……ああ、思わないと駄目なんだよ! 神様が苦しめと言ったら苦しむことを当然と思っているなんておかしいんだ』
『オレもなかなかそのことに気付けなかった。でもそれがおかしいことだって気付いたから……!』
「…………」

 ――大昔に、何者かにそんなことを言っていた、気がする。
 忘れてしまうほどのことだから、どうでもいいことだというのに。

『貴方は、何をお求めですか』

 頭を振るった彼が再度思い出したのは、自分というものを自覚させた女の一言。
 ――結局、求めていたものは何だ。言うこときく便利な相手か? 性欲を発散できる自由な道具か? 苦しめがいのある部下か? 受け止めてくれるパートナーか?
 考えても、鈍い一本松には答えなど出てこなかった。現に三十年も判らないままの問い。考えるなんて時間の無駄だ。
 その間もずっと歪んだ唇は震えたまま止まらない。こみ上げる笑いが我慢できなくて、涙が零れ落ちるぐらいだ。狭山に怒鳴られないように、大きな掌で歪んだ口元を隠し続けていた。

 深夜を通りすぎてしまった頃。愉快なまま一本松は自分が好き勝手に弄ぶことができる拷問室にやって来る。
 拷問室には既に新しい生贄を用意していた。先日捕まえてきた稀人、耳が長く魔素を食餌とする妖精族の青年だった。
 か細く可憐な妖精の青年を鎖に繋がれたままにしてある。既に供給の餌として何人もの魔術師達に何日も食い潰された妖精は、天井からぐったりと垂れ下がっていた。そんな置物のような妖精の前に、首を着けさせた少年を立たせた。
 既に少年に異能を封じる首輪を外させてはいる。彼に新たな苦行をさせようと、とある拷問室に連れてきたのだった。

「さあ、お前が殺せ」

 一本松が命じると、元少年は怯えて首を振った。いつものように一本松は拳を振り上げようとする。
 抵抗すればその拳の餌食になると長年の経験で知っている筈なのに、少年はついそうさせてしまった。寸前のところで謝罪と決意を言い放ったおかげで殴られずに済んだが。
 痛い目に遭いたくなければ言う事を聞く。それが学んできたことだった。
 年々恐怖に慣れ、いかなることでも快楽を感じる体になった少年は、自主性など捨てて言われたことだけを忠実にこなすようになっていた。
 泣きそうな顔で全身を震えさせながら、少年はおそるおそる鎖に天井から吊るされた妖精の青年を見る。
 そして爆発させた。
 一瞬のことだった。

 そのときの一本松は唖然。思わず口を開けてしまうぐらいの衝撃だった。
 ここは拷問部屋だから周囲に凶器となる物はいくらでもある。刀でもハサミでものこぎりでもなんでも使って妖精を殺すと思いきや。少年は一睨みすると上空から魔力で作った刃を降らせ、瞬時に解体してしまった。
 あまりの早さ。無数の刃で粉々に分けられた残酷さ。内臓が掌に収まるぐらいに斬り刻まれ、整っていた顔も見る影も無い。一秒で真っ赤に染まるインパクトは『爆発』という言葉がしっくり来るほどだった。

「……殺しました……これ、で……許して、もらえますか……?」

 それでも少年は変わらぬ自信の無い声で、一本松に許しを乞う。言う通りに殺したから罰を受けなくてもいいかと不安がりながら懇願だ。
 予想外の強さ、いや、恐ろしさに唖然としている。泣きながら妖精の青年を解体する光景が見られると思ったが、侮っていた。
 そうだ、狭山が当初言っていた通り少年は通常の人間よりも高い魔力を持って生まれてきたらしい。通常の人間より六倍の力を持った彼は、単純に言えば一の勢いで燃やした木が、六の火力で灰にされるようなものだった。だからこそあまりに強大すぎる力を恐れて魔道具の首輪で異能を使わせないように封印していた。それに毎日のように大勢の魔術師達と繋がっていた彼は、更に力を付けている。当然と言えば当然。日々性の捌け口とされているうちに、彼は……恐ろしい化け物になってしまっていた。
 だが同時に、身も心も仏田の為に生きるように調教が完了している。どんなに強大な力を持っていても使わなければただの弱者。餌として犯される日々を続けても良いが、退魔に出向かせても良いと思おう。

 ――翌日。一本松は洋館に少年の個人部屋を与えた。地下から出したのは、性奴隷としての通常業務と退魔業のどちらにも向かわせられるようにするためだ。
 個人部屋だが正確には兄との共同部屋。この後に兄の教育係が兄も連れてきてくれる。男二人には窮屈な部屋だが、今まで座敷牢で枷を着けて眠らせていたのとは大違いの洋室だ。
 彼は驚いていた。まるで普通の人間のような扱い。大きなベッドがあり浴室も用意されている、自分の意思で外へと出られる空間。毎日着けられていた首輪も外されていた。
 だというのに元少年は、自分の足で一本松の側を歩いていた。俯いて、一本松から一歩下がったところをずっと纏わりついている。犬のように繋がれていないというのに。
 用意させた新品のベッドに一本松が腰掛け、元少年の前に指を出した。人差し指の腹を出し、くいっと誘うように動かす。
 すぐに元少年は跪き、その指を手に取って自分の口元に運んでいく。数秒後には一本松の指は元少年の唾液にまみれていた。一本松も指を動かしていたから、元少年の口元も唾液まみれだった。

「すっかり物判りが良くなった」
「………………」
「たとえ地下で繋がれてなくても、お前は立派な一族のしもべだ。忘れるなよ――ブリッド」

 言って、一度着せた衣服を剥ぐ。そうして始まる爪を強く立てられての交接は、初めて訪れた部屋でも高く喘いだ。
 どんな所に居ても変わらないんだと思い知らせるように。

 以前、柳翠は一本松のストッパーは一本松自身だと語っていたが、今となってはストレス発散の玩具である元少年がその役を買っているのではないか。私は思った。



 ――1970年6月2日

 【 First /      /     /      /     】




 /8

 ――最後に、一本松と私の出会いを語ろう。

 その日、照行の命令で一本松は異端を討伐していた。
 大勢の異端達相手に、まだ若かった彼は四苦八苦している。武器を構えて対象に斬りかかるが素早く逃げられ、必死に追いかけようとする。ベテランの照行の指示を聞きながら、彼は若いなりに俊敏な足を動かしていた。
 建物内に逃げ込んだ異端達を追いかけ懸命に走る。戦闘知識に関しては一族で一、二を争う熟練者の照行が、的確な勘で命令した。

「左にまわれ! そちらに異端どもが居る!」

 照行は叫んだ。確かに左側に行けば読み通り異端が居るだろう。見付けてしまえばこっちのもの、武術に長けた一本松が未熟ながら異端を退治する。だけど私は、

「右」

 と言った。
 こうして私の声を聞き、一本松は凶悪な異端達を取り逃してしまい、このときの異端退治は任務失敗に終わった。
 彼から見ると私は失敗を呼び寄せた死神と思われていても仕方ない。彼に汚名を着せた罪が私にはあるのだから。だがこれでいい。このとき、あの大量の異端達を取り逃したことで世界は変わる。
 それが私と彼の最初の接触だ。



 ――2005年4月8日

 【     / Second /     /     /     】




 /9

 仏田の敷地内には、洋館が建っている。元々そこは寺の来客用ホテルのようなもので、あまり和室に慣れていない人のために「洋室があった方がいい」という意見のもと、造られたと言われている。
 それなら普通にフローリングでベッドのある部屋に改築すればいいのに、昔の人(百年はないだろうけど)『洋館』という呼び方に相応しい建築物を建ててしまった。
 いくらなんでもやりすぎだろ、と言いたくなるぐらいの庭。本当にここは山奥の寺なのかと問い詰めたくなる造り。
 過半数の部屋は使われていないが普段から綺麗な部屋が並んでいる。そんな絢爛豪華な洋間にピアノがあって、何が悪い。

「ピアノ……そうだ、ここの設置すれば……」

 いや、まず落ち着こう。
 洋館にピアノを移動させる。悪いアイディアではない筈だ。考えるべきことは、どこに持って行くか。洋館は綺麗で広いといっても、所詮ホテル代わりだ。部屋の一つに置いておくのは、あまりに不格好すぎる。いや、それでもいいかもしれないけど。一つの部屋にだけ置いてあるピアノというのは、とても曰くつきに思われそうだ。
 一番広い入口、階段のところにデーンと置くのはどうだろう? ……クールじゃない気がする。

「……心配するな、大丈夫だ。さっきも案外、簡単に答えが出てきたじゃないか。急がず、ゆっくりと考えれば良い案が出るさ……」

 洋館の前でブツブツそんなことを呟く。
 というのも、つい先ほど銀之助さんから「使われていないピアノを破棄しよう」という話をされてしまった。
 ピアノがあったのは新座さんの部屋。その新座さんが仏田寺を出て相当な時が経った。
 誰も使わない部屋をそのままにしておく趣味など無い銀之助さんは、なんとしてでもあの部屋を綺麗にしたいらしい。部屋は使うか使わないか、物事を一か零にしか考えられない彼は、インテリアのイの字も理解していない堅物だった。
 何も意味も無い物は残す理由など無い。全てに意味を持たせ、無意味を排除する。そのスタンスにちょっとは同意してもいいが、かと言って全部を排除するほど、僕の心はまっさらにはなれなかった。

 捨てられてしまうあのピアノは、思い出の品だ。
 僕は音楽の才能など無いし、ピアノが良い物か鑑定する力も無い。弾くことも出来ないし価値を見出してやることも出来ない。それでも、残して共に年を重ねたいと思うぐらいには大切な物だった。

 久々に洋館に入る。
 入口は広く、殆ど使われていないのに掃除がよく行き届いていた。広すぎる何も無いスペースは、「ピアノを置いてくれ」と言わんばかりに余っている。
 そんな声は幻聴だ。判っている。僕は僕を正当化するのに必死だった。
 食堂はどうだろう。水気のある場所に楽器を置いたらいけないか。楽器には詳しくないけど置いてはいけない気がする。そういうのってどう調べればいいんだ? どこの本を読めば「ピアノを食堂に置いてはいけません」と書いてあるんだろう?
 そういえば小学校の教室にオルガンがあった。給食を食べたり雑巾掛けをしたりと、水気と教室はいつでも隣合わせだった。そんな場所にオルガンは置かれているんだから、案外楽器と水の相性は考えなくていいのか?
 いや、オルガンとピアノは似て非なる物かもしれない。同じ鍵盤が付いた楽器でも構造が全然違う筈だ。でなければ名前を分ける理由が無い。そう、理由があるから名も違い、音も違い、存在意義が……って僕はまた何をブツブツ言っているんだろう。

「落ち着こう。僕は朝からヒートアップしすぎだ。ティータイムでもして落ち着こう」

 久々に訪れた洋館に訪れたんだ、紅茶でも飲もう。
 ここは掃除が行き届いて、金の無駄遣いに思えるぐらい一級品の家具を揃えてある。おかげで、ここで飲む紅茶は実に美味い。
 誰も使わないけど揃えてあるティーセットを用意し、自分の小遣いで買った茶っぱを淹れる。自分で言うのもなんだが最高に美味い。時間を忘れそうになるほどだ。

 残念ながら、同じ趣味を共有できる人はいなかった。だから一人で時間を忘れるしかない。
 紅茶を淹れ、食堂の席に着く。そしてまた立ち上がる。
 茶菓子も用意しよう。糖分を頭に入れれば新しいアイディアが思い浮かぶ筈だ。美味しい紅茶と適度な甘味で深呼吸するんだ。
 そしてピアノの行く末をより深く考えよう。捨てられる前に一番良いアイディアで、ピアノ廃棄の運命を乗り越えてあげなければ……。

 考えながら食堂に取り付けられた小さな冷蔵庫を開けると、ケーキの入った箱を発見した。
 隣には僕の買ったクッキーの箱。クッキーは常温保存でもいいんだけど、先日気温が高かったから冷蔵庫に入れたんだった。
 ……で、滅多に使われない冷蔵庫なのにナマモノのケーキがあるってどういうことだ?
 ショートケーキに、チョコレートケーキ?
 ケーキの上に乗った苺が、てかてか光っている。まだ瑞々しい。しなってしてない。
 買ったばかりのケーキじゃないか。僕以外にこの食堂の冷蔵庫を使う人なんていたんだ……。

「……あ、あの……」

 まじまじとケーキの箱を開けて感心していると、食堂の入口から声を掛けられた。
 声を掛けていいのか迷った末、勇気を出して言っちゃったっていうような顔。
 僕より年上っぽい風格。明るい色の髪。地味な黒いシャツ姿の男。
 見たことのない人だったが、洋館に居るということは客人の一人か。というか元々洋館は来賓用の屋敷だから見たことない人がいてもおかしくない。

「……それ、オレの……なんですけど」
「ソーリー。貴方のケーキでしたか。申し訳ありません、まさか僕以外に食堂を使う人が居るとは思いませんでした。別に勝手に食べようとした訳ではありませんよ。本当です」
「……ケーキ、食べたかったんですか……?」

 首を振る。ケーキは好物だけど、人様の物を奪うほど目が無いってことはない。ケーキの箱を黒服の彼に手渡した。

「……食べたかったんですか……?」

 だというのに、彼はもう一度同じことを言う。
 ノーの意味を込めて手渡したつもりだったが、まじまじと紅茶の前でケーキの箱を開けてしまった姿を見られたら……そう思われても仕方ないか。他人のお菓子に酷いことをした。

「……あの……良ければ一つ、食べて」
「お気になさらず。僕はこっちのクッキーを取ることが目的だったので」
「ううん、一つ食べていいですよ……。ナマモノですから早く食べないと。……それとも、ケーキは嫌いです……?」
「好きですよ、煌びやかな洋菓子は大好物です! 食すのはもちろん、目で堪能するのも大好きです!」
「ふふっ、それなら是非……」

 ふわっと幼い笑みを浮かびながらケーキの箱を開けてくる男性。人懐っこそうな笑顔に僕も思わず笑わずにはいられない。
 背は僕よりすらりと高く、年も上だと思ったけど……とても可愛らしい人だ。少し髪が長めだから余計中性的に思えるのだろうか。
 箱にはさっき見た通り、ショートケーキが三つ、チョコレートケーキが三つ。僕はそこからショートケーキを取り出す。光輝く宝石のような苺と繊細な生クリームの装飾に惹かれてのチョイスだった。
 紅茶を飲んで気分を一新しようと思っただけなのにラッキー。先に積んだ課題はまだ解決してないが、何だか今日はグッドな日だ。
 彼に感謝しながら、僕は食堂の席に着く。……そしてまたまた立ち上がった。

「よろしかったら貴方も一杯いかがです?」

 紅茶の席に誰かを誘うのなんて、圭吾さん以外にしたことがなかった。
 悟司さんはいつも仕事で忙しくて共に食事する機会が無い。霞さんも同じだ。年の近い方を誘っても「滅相も御座いません」と断られてしまう。
 僕の立場を見て敬遠する人達は多い。だから『誰にでも優しく接する』圭吾さん以外は、僕に付き合うことはなかった。
 誘うこと自体、久々だ。もう色んな人を誘って、断られて、一人で過ごすことに慣れてしまった頃だったから。だから久しぶりの声掛けに、少し緊張してしまう。

「……すみませんが、またの機会に」

 ……まあ、いくら勇気を出したって、断られるものは断られる。
 申し訳無さそうに苦笑いをしながら、彼は頭を下げた。

 うん、慣れている。どうせ五分の確率で断られるものなんだ、予想はしていた。そう簡単に思い通りにはならない。
 だからと言って、新座さんみたいに「僕と一緒に茶を飲め!」なんて命令はしたくない。……新座さんは毎日楽しそうに過ごしていて羨ましいなと正直思ってしまう。

「…………連れが居ますので」
「連れ?」

 彼はケーキの箱を軽く揺らした。それを見てハッとする。
 そうか、ケーキを六つも入っているんだ……一人で食べるほど彼が甘い物好きじゃない限り、誰かと食べるために取ってあるに決まっている。
 それは失礼なことをした。誰かと食べるケーキを部外者に見られ、しかも時間まで奪ってしまうなんて。今度は僕が頭を下げる。
 すると彼は慌て出した。これもなんだかいつも通り、僕を取り巻くよくある風景だった。

「あの、良かったら……オレが一緒に飲むんじゃなくて」
「はい?」
「オレ達と、ご一緒しませんか?」

 頭を下げ続けていた彼だったが、唐突に顔を上げて、元気いっぱいに声を張ってきた。

 ――紅茶セットは食堂にそのままにしておく。ケーキの箱を持った彼の後を追う。
 和洋折衷、来賓用とはいえ豪華絢爛にも程がある洋館の廊下を突き進む。
 歩きながらも、彼は僕を気遣ってか色々と話し掛けてきてくれた。
 見ず知らずの僕に微笑む彼はとても好感が持てる。世を捨てたような無愛嬌な僧も多い生活には、彼の在り方は一際輝いて見えた。

「……よく、ここへ来ているんですか……?」
「それほどよく来ているという訳ではないんですけどね。まあ、他の人達に比べたら頻繁に遊びに来ています。ここはゲストハウスですからこの寺に住む僕が来るのはおかしいとよく言われてますが」
「……ここ、好きなんですか?」
「ええ、好きです。仏田の中に居ながら外に出てる気分になりますから。そういうストレス発散のために造られたんだと思いますよ!」
「……ゲストハウス、なんですよね?」
「あ、そうです。本当はそうです。ソーリー、今のは僕の勝手な妄想です。……でも寺にずっと引きこもっている人が多いですからね、外に出た気分を楽しむ人がいてもおかしくないと思いますが」
「……あまりお外に出られないんですか?」

 不可思議そうな顔をされてしまう。
 そりゃそうだな……やんわりと話してはいるが、まるで僕が監禁されているかのように思われたって不思議じゃない。

「僕の父は……義理の父なんですけど、厳しい方でしてね。遊びに行く時間があったら勉強しろっていう昔ながらの頑固さんなんですよ。ですがこんな山奥のお寺に生まれ育っても、僕は洋の物は好きでして。お米よりパンが好きという程度の話ですが、皆はそれを否定するんです。余計に反抗心が芽生えてしまって更に好きになりますよね。ですからこの洋館は僕にとって癒しのスペースと言いますか、まあ、みんなにはクレイジーだとか思われてますよ。おかしいですね」
「おかしくは……ないと思います。好きなものは好きなんだから……仕方ないじゃないですか」

 良かった。そこで「おかしいです」と言うのが、我が家の大半だ。
 だというのにこの人は社交辞令でも僕を認めるような発言をしてくれる。他人を傷付けないよう、表面上だけでも優しく付き合ってくれる人ならしてくれる作法かもしれないけど、それでも批難しないだけ嬉しかった。
 僕の趣味を見た義父は怒鳴る。義父のことは尊敬しているけど心から好きと言えないのは、価値観を押し付ける言動だけは評価できないからだ。
 好きなものは好きなんだから仕方ない。良い言葉だ。ありきたりな逃げの言葉に使われそうだけど、全くもってそうなんだからありがたいフレーズだった。

「オレは……寺の人間ではありません」

 ケーキを持った彼は、とあるドアの前に立つ。どうやら目的の部屋に到着したらしい。

「だから……ここのことに文句は言えません。父について来ただけの部外者ですから。……父が、ホムンクルスの調整で……ここを何年に一度か、訪れるんです。それにオレもついて来ていて……」
「ほう、お父様は魔術師なのですか?」
「い、いえ、違うんです。この寺に住む研究者さんからホムンクルスを預かっていて……。いや、その話がしたいんじゃなくて。……ここの生活、とても厳しく思えます。そんな厳しい世界で生まれ育ったときわさんですら、厳しいと思ってしまうんですね。……本当にここは大変な場所なんだ……」

 先ほど自己紹介は済ませた。
 圭吾さんや新座さん以外で「ときわ様」という呼ばない人は久々だ。なんだか「ときわさん」という響きが嬉しくて口笛を吹いてしまいそうだ。いきなりしたらビックリされるからしないけど。

「そうですね。でもそれだけ厳しいからこの家は裕福になれたのかもしれません。五十年続けば老舗と言われる世界で、千年もやりくりしてきたんです。それだけの成果を出してきたのは、徹底した教育があってこそなんだと思います。素晴らしいと認めてはいるんです。……この厳しさは続けていかなければならないって判っています。上手く付き合っていくしかないんですよ」

 もちろん悪いところは修正しつつ、欠点は長所で補いたい。
 この寺は恐ろしいところがある。でも良いところだって多い。ルールには従う。先人達が積み上げてきたものを守りつつ羽目を外すんだ。
 遊びはするな、勉強しろ。外は捨てろ、中を敬え。良い訓えだ。おとうさんの言うことは理解できる。……でも他を否定することもしてはいけないことを、これから上に立つ僕が皆に教えていかなければ。

「厳しさは続けていかなければならない……ですか」

 彼が、ぽつり、呟く。
 その声はとても切ない。驚いて彼の顔を見る。なんてことはない、普通の表情だけど……。

「ど、どうしました?」
「……ときわさんは、お強い人だから言い切れるんですよ。貴方は凄い人だ。……オレなら無理です。厳しいだけの世界で、ご先祖様が凄いからってだけじゃあ……頑張れません。今までがそうだからって言われても逃げてしまいます。……きっとオレ、ずっと仏田家にいたら……死にたいって、思うかもしれない。そういう弱い人もいるんですよ……」

 褒められた。それは嬉しい。
 でも次々吐かれる弱音に、ドキッとした。
 自分はできても、他人ができるとは限らない。その程度のことを言われただけなのに、どうしてこんなに胸がズキズキと痛むのだろう。

「ときわさんは……とても偉い人、なんですよね? なら……どうか、正していってください……」
「は、はい。正します。正しますとも。いずれそれが出来る立場ですから。まだ僕は若造ですが、いつかきっと……」
「はい……絶対に、正してくださいね…………でないと」

 ――みんな、死んでしまうから。

 不吉な終了。
 それ以後の言葉は、言わなかった。彼は口を噤む。
 鍵穴に鍵を入れ、回す。その行為をするだけなのに、どうして続きの言葉を止めたんだ。言いながら回すことだって出来たのに。
 扉を開ける。オートロック式の扉を、力を入れて押す。

 中は真っ暗だった。光は無かった。ごく普通の客室だったけど、光が無さ過ぎて別空間に思えるほどだった。
 窓は全て斜光カーテンに覆われ、外からの光を受け付けようとしなかった。そして彼はその中をごく普通に進んで行く。
 電気も点けず、先に進んで行く。
 最初に点けた光は、テーブルの小さなスタンドライト。点けたと言っても豆電球で、暗いオレンジ色の光だ。寝る寸前に点けておくような小さな明かりは部屋全体を明るくしない。
 どうして中を明るくしないのですか、と話し掛ける前に、

「ただいま」

 彼が中に居る『連れ』に向けて口を開いた。
 闇に慣れ始めた目を開き、豆電球の灯りを頼りに『それ』を見る。

 壁際のベッドに人が居た。
 目が冴えて色んなものが見えてくる。
 ベッドに腰掛け……いや、ベッドの上に座っているとか、壁に背を置いて足を投げ出しているとか、成人男性ぐらいの図体なのにロクに着替えをしていない乱れた着衣だとか、首には魔道具らしい首輪を嵌めているとか、暗闇の中でも判る人ならざる赤い髪……とか。

「今日はお客さんもいるんだ……君を苛める人じゃないよ。ケーキ、一緒に食べようか。ほら……アクセンくんはどれがいい……?」

 辛うじて開かれた片目には豆電球ほどの光も灯っていなかった、とか。




END

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