■ 外伝16 / 「役割」



 ――1982年6月4日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /1

 真に黎い髪。白い肌。触れたら折れてしまいそうなほどに細く頼りない体つき。初めて出会った次期当主の姿は、儚く美しい人だった。
 だが次の瞬間、見えてしまった『本来の姿』に言葉を失い、腰を抜かす。
 出会って一秒、「なんて美しい人だ」と思い、出会って一分、「なんて醜い人なんだろう」と思い直す。
 率直にそう思うしかなかった、失礼な子供時代の話だ。

「術、ヘタクソでごめん。嫌なものを見せたね」

 一分三十秒後、彼はまた美しい人に戻った。
 言いながら悲しげな顔。端整な容貌の彼は、悲痛な目顔で、初対面の子供に頭を下げた。

 ――生まれつきの特性らしく、俺は『何かを見破る』能力に長けていた。
 例えば、張り巡らされた悪質な罠の歪を発見する業。おかしなものがあったらすぐに発見する勘の良さ。突然襲い来る何かに対処する能力。不意打ちで絶対に落ちたりしない、すぐに回避行為を取ることが出来る力。施された魔術の細工を見付け、どこが間違いか、真実は何かを見抜く才。
 父・大山は、『機関』で子を創るときに「当主を護れるような便利な人材にする」と最初から決めていたらしく(大山の地位からして息子が当主の位になる確率は低く、次期当主とその兄弟が仏田を継ぐのは既に決定事項だった)、第一子として選ぶ子は、始めから当主守護となる者と決められていた。
 如何なる状況でも当主を危機からお守りする、その為に一芸に秀でていなければならない。厳選の中で生き残ったのが、やたらと『間違いを見抜く』俺だった。

 先程挙げた「罠を発見する」やら「不意打ちに対処する」やら「魔術の細工に気付く」は、最初に直面しても応じる能力も無ければ意味が成されない。
 落とし穴を発見しても、落ちないようにする身体能力も備えておかなければ意味が無い。だから生まれて四年目には師の指導のもと武術の修行に励み、天性の才能を生かせるように鍛錬を続けた。
 五歳になり、父は俺を次期当主・燈雅様と対面させる。
 物心ついたときから「燈雅様を守護するために生を受けた」と教え込まれていた子供が、やっと自分の生まれ落ちた理由に直面する。ざわめきを感じながら、広がる不安感を押し殺して運命の瞬間を待ち侘びていた。

 そうして初めて会った次期当主・燈雅様は……想像してた男性よりもずっと幼く、繊細な人だった。
 衝撃的な出会いだったと覚えている。上品な佇まい。切れ長な目。微笑む唇。毎日鍛錬を行なう周囲に者達とは大違いの体躯。日光を浴びたことのないような白い肌。
 なんて、美しい人だ。
 そう懸想していると、俺の中で警報音が鳴り響いた。
 生まれ落ちたときに備え付けられた俺の能力が、その理由である本人の前で作動する。

 ――右半身が紫色。人間の肌とは思えぬ乱れた皮膚。焼け爛れて中身が見えそうなほど崩れた肉体。偽物。なんて醜い。吐き気がするほどおぞましい。恐ろしくて見てられない。

 腰を抜かしてしまい、握手にと手を差し伸ばしてくれたというのに失礼な子供は何も出来ず、怯えて父の後ろに隠れてしまった。

「術、ヘタクソでごめん。嫌なものを見せたね」

 然うして彼は、長い詠唱を始めた。
 自分に『とある服』を着させる魔法をかけるために。
 一分三十秒後、彼はまた美しい人に戻った。
 言いながら悲しげな顔。端整な容貌の彼は、悲痛な目顔で初対面の子供に頭を下げた。

 ――次期当主・燈雅様は、刻印を持たずに生まれた赤子だった。
 俺のような『機関』で創られた子供達とは違い、何も体を弄られていない人だ。
 当主・光緑様とその奥方・邑妃様の血から生まれ落ちた純粋な人間。魔術や機械で最適化された継承者ではなく、昔ながらの方法でこの世に生を受けた正真正銘、人の子。千年前からの血肉を汚さず伝えていくために最低限の細工しかされずに生まれた体は、運が悪かったのか、とても虚弱なまま生を受けた。
 あまりに非力すぎて待ち受ける試練を何一つクリアーできないほど空しい。純粋培養で生った燈雅様は、間もなく『機関』で初の強化手術を受けた。刻印が無かった身体に新たな力を開花させる手術は成功、能力に乏しかった燈雅様はとても偉大な力を手にしたという。だが元から体は強くない。魔術に適していない体で行使するのは一苦労。燃費の悪さは更に際立ち、人よりも代償は大きく、肉体は崩壊をし始めた。
 刻印を植え付けられた右腕を中心に、右半身の血管が浮き彫りになり、ぼこぼこの火傷痕のような紫色の死相が顎の下から右腕、心臓を覆う半身全てに生じてしまっている。悪印象を抱かせる外見となってしまった。
 誰もが忌み嫌う崩れた体。異形のような半身を隠す為、魔術で見えないようにカバーをするのは、人前に立つ者なら当然の配慮だった。本来の姿が紫色の化け物だとしても、見えなければ中身は只の人。好印象を抱かせなくても、ただの普通の人間に見えるように術を施すのは彼の気遣いだった。
 大人に言われてそうしていたのか、彼自身が『服を着て誤魔化す』魔法をするようになったのかもしれない。兎も角、他者を安心させるために、恐怖心を抱かせるような外見を隠す為に彼は自身に細工をしていた。
 そしてその細工を、例外無く俺は看破する。

 ――数分後、美しい人の形をした燈雅様が戻ってきた。
 術は完璧だった。魔術を使うにもこの人は、人より代償を支払わなければならないんだろう。なのに平然とやってみせる。
 だが判る。膨大な魔力を駆使し、見破られないように施された術も……俺には違和感の塊でしかない。
 一方、そんな俺達二人の様子を見ていた大人達(父の大山、叔父の狭山様、武術の師である照行様とその弟・浅黄様。他にも何人も居たが)は、「素晴らしい」と感心していた。
 皆、俺の特殊能力と、燈雅様の高性能な魔術のことは知っている。見事俺が燈雅様の魔術を見破ったことと、更にカバーする術の一部始終に「問題無い」「予想以上の出来だ」「この子達は安心してこれから使える」と称賛していた。
 二人に授けた能力は無事開花している。努力して創った甲斐があった。報われた気分だと、結果に満足しているようだった。

 単なる顔合わせ。それだけだった筈が、彼らの元で創られた子供達の性能を試す日となった。
 大人達は大満足。子供達は、人知れず二人とも胸を抑えていた。

 まともに燈雅様と言葉を交わしたのは、それから数時間も後のこと。
 次期当主の私室という名の離れの屋敷に招待され、「これからは当主守護として極力傍に居なければならない」と命じられる。
 今まで使っていた自室は無くなり、寺から遠い離れに引っ越すことになった。と言っても子供の荷物だ。それほど多くなく、半日で準備は完了し、明日から新しい生活を始めようと意気込んでいると、次期当主がわざわざ俺の元に挨拶に来てくれた。
 数時間前に顔合わせをした人だが、話という話はロクにしなかった。全部大人達で済ませたので本当の出会いはこのときと言っていい。その夜の燈雅様の姿は、違和感はあるが巧く化けていた。だが酷い第一印象もあってか、俺は燈雅様の姿をまともに見られなくなっていた。
 こんなことではいけない。だけど最初に抱いてしまった違和感と恐怖心はなかなか拭えず、これからお守りしていく大切な人なんだと自分に言い聞かせても、巧く接することができない。
 そんな俺の怯えを燈雅様も理解していた。何せ彼は俺より五歳も年上、俺が抱く感情を一度は経験したことがある大人だ。不安がっている子供を放っておくような人ではない彼は、少しでも俺の不安を拭おうと優しく声を掛けてくれる。

「男衾は、アレが何だか知ってるか?」

 夜の二十時。この年の寺の者ならもう明日に向けて旅立たなければならないほど、深い時間。障子を開け、縁側に腰を下ろしながら尋ねる彼は、夜空を指差す。
 指差した先には、何も無かった。ごく普通の夜しかなく、特別なものなど何も見当たらない闇だった。

「アレは、月って言うんだよ」

 何を言い出すと思ったら。何にもおかしなものは無いと思っていた先に、あって当然のものを差し、得意げに話す。
 「それぐらい知っています」と答えると、彼は「物知りだな」と感心した。馬鹿にされている気分だった。
 自分はもう五歳だ。来年からは二時間以上先にある小学校まで歩いて行けるし、山下の梅村さんまでお使いだって行ける。なのにこの人は『俺が月も答えられない子供』だと思っているのか。今日から当主守護見習いとしてやっていこうと意気込んでいる中、完全に子供として見られていないのか。
 悔しさにムッとしていると、燈雅様はふわり笑った。

「男衾はオレより物知りだな。頼りになる。いっぱい頼りにするから、怖がらず傍に居てくれよ」

 俺が子供っぽく腹を立てている姿が面白かったのか、笑った。
 そのとき、術が解けた。
 燈雅様が気を抜いたからか。そして俺が力んで彼のことを見たからか。
 彼は、美しい人間ではなくなった。右半身が紫色の、ゴツゴツした姿になってしまった。
 「あっ」とお互い声を漏らす。燈雅様は「ごめん」と言いながら、慌てて詠唱を始める。その苦痛に顔を歪めながら。

 魔術を使うにも大きな代償を支払って苦痛。それだけでなく、折角俺を楽しませるようにこの時間を用意したのに結局恐ろしいものを見せてしまって、巧くいかなくて、苦痛の表情。
 後は休むだけの優しい夜なのに、苦痛に歪める横顔。
 初対面の子供を怯えさせてしまった彼は、こちらが怯えないように必死に術を施してくれた。笑いながらも辛そうな表情は、見ていて申し訳無くなってくるぐらい。

 ――自分が苦しめている。

 やっと「自分の為に術を使ってくれている」ことに気付き、ハッとした。
 それまで「醜い物は隠すのが当然だから術を使うもの」としか思ってなかったが、違う。「彼は俺を不快にさせないために術を使ってくれているんじゃないか」。
 何もしないでくださいと腕を掴んだ。
 夜は休むためのものです、明日の鍛錬に備えるための時間です、わざわざ苦しまなくていいんですと言うために。
 必死に掴んだ腕は、右腕だった。触るとゴツゴツしていた。指の皮膚を通して違和感が伝わってくる。人間らしく、柔らかく滑らかな白い腕ではない。かと言って人間ではないなんてことはない。今度は後ずさるなんてこと、しない。
 最初は気持ち悪かった。それは本当だ。見たくなくて顔を背けたのも本当。でもそれはもう数時間前のこと。
 「ごめんな」と謝りながら、苦しみながら俺のことを考えてくれている優しい人を、どうして気持ち悪いと思えるか。
 自分が生まれた理由もある。だがそれとは別に、「この人の苦痛を取り除いてやりたい」、本心からそう思えた。



 ――1982年6月28日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /2

 出会ったときは武術の鍛錬ぐらいしかしていなかった俺だが、次第に使用人として燈雅様に仕える教養も身に付けていった。
 未熟な俺より、もっと年が上の人が燈雅様のお世話をした方が都合が良い。彼に魔術を教えることは出来ないし、たとえ彼が寺の外の世界を知らなくても五歳の差は案外大きく、俺の方が学ばせて頂く機会も多かった。それでも使用人として居られたのは、俺が燈雅様付きになることを燈雅様自身が望んでくれたし、俺もそうなろうと応えたからだった。

 とは言っても、このときたった五歳の子供。当主守護の任など務まる訳が無い。
 剣を持つのではなく持たれているようなぐらいの体格しかない男児に任せられたのは、まだ年若い次期当主の遊び相手としての役割。それと、もしものときの身代わりだった。
 山奥の離れには特に厳重な結界が張られ、一族でも許された者しか立ち入らぬように言いつけられている。そんな中にわざわざ入って来る者はいないが、もし入って来る輩がいるとしたら、それらは確実に仏田の宝を狙って最善を装備した恐ろしい敵だ。
 この寺には宝は山ほどある。金になるもの、金そのもの、太古から掻き集められた金銀財宝は山ほどあるが、その中でも一番の財は、間違いなく『直系の血肉』だった。
 世間一般には知られていない隠された話だが、千年前、仏田一族の始祖である男が『神の血肉を食らって自分のものにした』という逸話がある。
 しかも神である下女にも更に神を食わせ、その女と子を成したという。当主及び直系一族は自分のように『機関』で弄られることなく何も仕掛けなく生み落とされるのは、『元の血を汚してはならない』という意思があるからだ。
 そんな伝説、聞いたことなかった。だが直系の後取りである燈雅様が俺に話してくれた。
 他の者には伝えられない真実を、最も近くにお仕えしているという理由で教えてもらえる。悦になっていった。彼の相手として話を一つ二つと共有していくようになり、自分の存在意義を実感し、役目を果たせている自分を誇れるようになっていった。

 守護を任されるのが当然になってきた頃。とある事件が起きた。
 離れの館に紙が落ちていたのを発見した。
 もしその紙を自分ではなく他の下男達が見たら、「勉強熱心な燈雅様が落としてしまった些細なメモ書き」だと思うだろう。掃除を担当している女中達から見たら、「掃除が行き届いてないと狭山様に叱られる小さな原因」と思うだろう。燈雅様がうっかり落とし物をすることはある。清掃が中途半端に終わってしまうことだって、無いとは言えない。
 それでも館の前に落ちていた小さな欠片に、俺の能力が反応しない訳が無かった。

 ――三日後、初めて地下に招かれた。

 処刑人の屯所が寺の地下にあるのは知っていた。でも幼い俺には関係無くて、そのうち入ることはあっても、まだ数年は縁が無いと思っていた。
 何故そこに呼ばれたかというと、俺が発見した紙は『賊が施した仕掛け』だと発覚し、師・一本松様が数日で仕掛けを施した男女を発見。敷地内で処刑を敢行。その報告と称賛も兼ねてここに招いたという。
 男女は寺の下男下女として人知れず潜入していた。このまま館に仕掛けを造られていたら大変なことになっていたらしい。何かが起きる前に存在を発見、賊の処刑が終えたことにとても感謝された。
 招かれた地下室には処刑を行った一本松様の他に、現状を子供に優しく説明してくれる父・大山、そして後処理に追われる僧侶達が居た。
 後処理を背景に父は、

「男衾が見付けてくれたおかげで、最悪に見舞われることはなくなった。これからも宜しく頼む。今後もこうやって仏田一族を守っていくように」

 と褒めちぎり、激励してくる。
 温和な口調で尻を叩かれる。成果を見せた子供に「期待してるよ」「もっと懲罰を厳しくしていこう」なんて、父は温厚に見えてしていることは無言で鞭を振るい周囲を威圧している師・一本松様と何ら変わりはなかった。
 そんな実父の威厳を実感しつつ、俺の中に生じた大半は「やっと当主守護らしいことが果たせた」「燈雅様をお守りすることができた」という充足感だった。
 満ち足りた想いだった。
 やっと自分が生まれ落ちた理由に直面し、その役目の一つを果たせたのだから。
 失敗することなく、実父に褒められ「次も頼む」と期待されて嬉しくない訳が無い。
 喜びを噛み締め、次に繋げていこうと考えていると、僧侶達や一本松様が「褒美だ」と、ある物を寄越した。

 一言で言えば惨殺死体。
 大きな皿に男が乗っている。一本松様が『とある倉庫の中で』捕らえた賊を、調理したもの。
 それが、俺の初仕事の褒美だった。

 父の背後で僧侶達や一本松様がしていた後処理は、初めて成果を上げた俺に対するご褒美のためだった。
 あまりの血生臭さに思わず「結構です」と言いそうになったが、前に燈雅様が教えてくれたとある伝説を思い出す。
 ――始祖様は、血肉を食して偉大な力を手に入れた。
 その伝説は燈雅様が「お前にだけ教えてあげる」と言ってくれたもの。一本松様達も知っているのか、俺だけ特別じゃないのかと思いながら……代々伝わることならみんなやろうとしてもおかしくなんかないな、と納得することにした。

「我々を自分の糧の踏み台にしようとした不届き者には、我々の糧になってもらう。彼らの知恵を全て我らに捧げてもらおう」

 少し長めの箸を持たされ、一番美味いと言われた一部を食べろと言われた。
 確かさっき、父は「この賊達は燈雅様を誘拐し血の情報を奪おうと目論んでいた」と彼らの目的を話してくれた。血の情報を奪う方法どういった方法かは見当もつかないが、「燈雅様が血を流すこと」には間違いない。
 あの方を傷付けるなんて許せない。そんなの許されることではない。賊を捕らえることが出来て良かった。素晴らしいことをした。そう自分に言い聞かせて、初めて、人を味わった。
 ふと思う。

 ――あの方を傷付けようとした人間を今、取り込んでいる。
 ――あの方を傷付けようと汚い腕などいらないのに。
 ――でも、みんなが見ている……嫌でも汚いこの男を取り込まなくちゃいけないんだな。

 ぱくりと男を食べた。
 口内に染み渡る賊の情報。初めて得た人間の知恵。噛み締めるたびに肉の味が広がる。
 体に渡っていく感情。人はこうやって成長していくんだ。本を読んだり竹刀を回したりするだけが修行じゃないんだな。黙々と口を動かす。
 ぐちぐちと口の中で血を味わっていると、一本松様に「男衾、精通は来たのか?」と確認された。
 父を見ながら「まだです」と答えると、「ではもう一つの褒美はお前がもう少し大人になってからにしよう」と言われた。

 そうして数年後。
 すっかり背も伸び、武術の鍛錬も進み、剣の腕も認められ、名前だけでなく燈雅様付きの使用人として胸を張れるほどになった頃まで話は飛ぶ。
 何度も手合わせで剣の腕を磨いてもらった一本松様と共に、初めて異端討伐の任に赴いた。
 初めてということもあってか、俺に当てられた任務はとても易しいものだった。もっと厳しくても平気なのに、軽い捻挫ぐらいしか負わないという呆気無い初任務だった。
 まだ一本松様に道場で鍛錬をされている方が怪我をしたと思っていると、悟司様に「それはお前が下手な傷を回避できるほど強くなっている証拠だ」と褒め上げられた。
 悟司様だけではなく、共に修行をこなしてきた者達に「無傷に近い状態で戻って来るなんて流石だ」と拍手をされた。
 この感覚はどこかで味わっている。初めて能力を発揮し、賊を捕らえることができたあの日も予想以上の称賛を貰ったんだった。
 そして今回、初めて外での『仕事』で大成功。寺に戻ると皆に褒められる現状。真面目に腕を磨いてきたからこそこの結果だと、一人、満悦していた。

「男衾は、もう子供を作れるのか?」

 初めての刻印起動、初めての魂の譲渡を全て終えたとき。一本松様に人生二度目の問いを投げ掛けられた。
 今度は素直に「はい」と答える。すると、「あのとき渡せなかった褒美をやろう」と言われ、地下室に招待された。
 丁度そのとき、かつて初めて父から称賛を得たことを思い出していたところだ。「ああ、そういえばそんなことを前に言ってたな」と思い返しながら、すっかり何度も足を運ぶようになった処刑人の屯所に向かう。

 地下は地下でも俺のような下役が足を運ぶことのない場に案内され、俺は女を貰った。
 目は刳り抜かれ、両手両足は削ぎ落としてある、芋虫のような女を。

「あのとき、お前に食べさせてやれなかった賊の片割れだ。成長したお前のために残しておいてやったぞ」

 ……ああ、やっぱり。なんとなくそうではないかと思っていた。
 父は賊が男女と言っていて、あのとき皿に乗っていたのは男一人だったから、「きっと女の方は皆で先に食べてしまったんだ」と勝手に解釈していた。
 けど一本松様は予想以上に義理固く真面目な人で、初めて成果を上げた弟子の俺のために、あのときの褒美をちゃんと保存、綺麗に取っておいてくれたという。
 俺が初めて生まれ落ちた役目を果たして数年が経っていた。
 なのにあのときの幼子のために、何年も女を達磨にして保存しておいてくれるだなんて。
 ……後にこのことを他人に話したとき、悟司様は「案外、一本松様は弟子想いな人なんだよ」と言ってくれた。だが弟の芽衣は「もがいて生きる女をオカズにしてたんだろ」とも言った。まあ、それは兎も角。

「その女で子を残せとは言わない。だが、練習台にはなるだろう」

 一本松様はそう言い、褒美の全権を俺に渡した。貰った女は一度、『練習』に使わせてもらった。
 「手入らずのままでは威厳がつかない」と言われてはいたので、子作りとやらをやってはみた。
 が、どうも興が乗らない。周囲が言うほどセックスは楽しいものではなく、そうして作った俺の第一作は、何の変哲も無い男子だった。
 刻印も無く、『機関』が出す数値曰く「能力に開花する可能性はゼロに近い」という。
 父・大山は「最初はそんなもんだよ」と俺を励ましてくれた。そして父がスイッチを押し、透明な筒に入った子を消去した。
 『機関』で初めて見た自分の子は、筒の中から俺を見る目も育つことなく、俺の父の手で削除された。
 父に「それぐらい自分にやらせてほしかった」と言ったが、

「そんなこと考えるなんて繊細だね。もっと無骨でいいんだよ」

 と、よく判らない檄を飛ばされてしまった。

「男衾は何かと考え過ぎだ。もっと気を抜いて生きてもいいんだぞ。真面目なのは親としては嬉しいが、処刑のたびに『そんな顔』をされたら困る」

 最適化を目指して俺を生み落としたというのに、いい加減にしろとはどういう意味だろうか。
 生まれて初めて父に不快感を抱きながら、「いいや、不快感を抱いたのは父相手だけではない」と、一族に生じる気色に心の乱れを感じた。
 父にスイッチを押されたその晩、手近にいた僧侶に『あの芋虫の処刑』を頼んだ。俺の手で幕を下ろせば良かったが、繊細な自分は逃げたいという気持ちに支配されていた。全て俺一人で終わらせるほど、俺は強く成長してはいなかった。
 次期当主の為に成長しなければならないというのに。
 その夜、俺の夕食だけ肉料理になっていた。



 ――2005年8月14日

 【    /      /     /      / Fifth 】




 /3

「『仕事』は、そんなに大変かい?」

 魂を回収する任は数えるほどしか出撃しないが、燈雅様をお世話するのは毎日の事。
 どんなに俺が成長してなくても、強くなれなくても、生まれ落ちた役目を遂行するべく、その日も毎日の責務に果たす。
 この日も毎日の仕事の一つ、次期当主の寝室で燈雅様を濡れ布巾で清めていた。燈雅様の体調が優れず湯浴みに行くのも億劫なときは、俺が浄めるのが日課だ。
 事情でいないときは同じ使用人・梓丸が代わるが、梓丸は着物の世話や食事の準備など細やかな仕事が任される。力仕事にあたる体の清めは、すっかり身体だけは大きくなった俺の仕事だった。

 そして燈雅様の言う『仕事』は別のもの。燈雅様の前でやらないもののことだ。
 自分の視界に収まらない事態に、年上で俺を導くことを生活の一部としてくれていた彼は心配そうに尋ねてきてくれた。
 確かに言われる通り心苦しく思えるものはあるが、特別大変だとは感じていない。寧ろ余裕でクリアーすることの方が多い。
 嘘偽り無く「いいえ」と答える。
 遠慮でもなんでもなかった。

「男衾の好きな甘い物でも食べてさ、リラックスをするといいよ。あ、そういやこの前から、縁側にたぬきさんが定期的に来るようになったんだ。お前、昔からたぬきさんを撫でるの好きだったよな? 今度捕まえておくから……」
「それほど疲れているように見えましたか」
「そうだな、今の男衾はすっごく悩んでいるように見えた。『お前だって、お父さんになりたかったんだろ』?」

 さらりと流れる静かな言葉に、思わずそのまま流しそうになってしまった。
 が……その言葉の意味を受け留めて、思わず背中を洗う手が止まる。
 露骨な手の止め方に燈雅様はクスッと笑った。でも心から笑っている声は出さない。切なそうに眉を顰めていた。申し訳無く、口を開き始める。

「梓丸から聞いたよ。シンリンにも話していた。男衾、せっかくの子を……大山様に取られちゃったんだろ。それで落ち込んでるんだろ?」
「その」
「あ、指摘しない方が良かったか? でも、声を掛けずにはいられなかった。これから似たようなことを何度も繰り返すだろうよ。オレ達の一族は何十回も子を潰していくことになる。けど男衾は……そのたびに、『そんな苦しそうな顔』をしていくのかい。それだと疲れてしまうよ」
「燈雅様に不快な想いをさせてしまいましたか。申し訳御座いません」
「オレのことはどうでもいいんだよ。……元気を出せって言うのはおかしいかもしれない。オレに言われたくないかもしれない。でも、言わずにはいられないんだ。苦しそうな顔を見るのは嫌だけど、男衾が隠れて苦しんでいるのも嫌だ。元気を出してくれ。今は慣れるしかない。こうやって営んでいくしかないんだから。……お相手も残念だっただね。お前だったらどんな子も大切にしてくれただろうに。ああ、ちゃんと彼女を慰めてやるんだよ」

 それから数分、手を動かすことが出来なかった。
 ……そもそも燈雅様は、どこまで知っているのだろうか。
 梓丸から「男衾の子は大山に潰された」ということを聞いても、それがいつどこで誰と成された子なのか知っているのだろうか。
 母胎となった女が処刑されたことも、数年前に自分の命を狙って捕まった賊だということも知っているんだろうか。
 そもそも賊の存在自体を知っていただろうか。

 多分、彼はどれも知らない。
 俺が一族内に居る女と子を成したと思っているのか、「母になってくれた人を慰めるのも夫の仕事だぞ」なんて言っているんだから、きっと知らない。
 まだ形だけの結婚もしてないし、誰のものでもなっていないというのに……暖かい言葉を必死に投げ掛けてくれている。
 その言葉が更に俺を苦しめているとは思わないだろう。けど、慰めの言葉を与えてくれるのはありがたかった。
 出会ってすぐに気遣ってくれていた頃と、この人はちっとも変わらない。心優しい主に、深い愛情を抱かずにはいられなかった。

「燈雅様。俺は」
「うん」
「次期当主の守護を仰せつけられ、この生を受けました」

 不安定だった自分に、生まれ持っての使命を確認させるため、敢えて声に出す。
 燈雅様の前で言葉に乗せ、己の在り方を噛み締めようとした。

「その為に俺は天から力を授かり、鍛錬を受け、貴方の傍に……」
「いるんだろ」
「はい。それ以外のことは考えたこともありませんでしたし、考える余裕も未熟な俺にはありません。まだ自分は精進していかなければなりません。自分は親にはまだ早い。貴方を守りきる心意気だけでは守り通せる自信にはならない。だから修行を。……しかし、そうも言っていられないのでしょうか」
「親と同じラインに立つほど、自分はまだ人間が出来てないと言うのかな」
「はい」
「そうだな、まだ男衾は精進し続ければいいと思うよ。『本部』が口うるさく言ってくることがないんだろ? 暫くすればやれ血を残せ、やれ優秀な継承者を作れって言われる。おそらくもう数年もすれば。オレだってもう何度も言われている」
「……そう、でしたか」
「男衾が言われる年になったなら、オレは五年も前に言われているよ。オレと男衾では都合が違うかもしれないが、自分達の血を大事にしているこの家だ。きっと言われ続けるよ。毎日毎日。言われたら応じればいい。それまでは鍛錬に励め。子供でいる間は親達の判断に全て任せてしまえばいいんだ」
「……全て、任せてしまえば?」
「子供の未熟な判断は、悲劇を生むことが多いからな」

 なんだか切なそうに、彼はそんなことを言う。
 何を考えながら言い聞かせているのか、俺は知らない。

「でも親が『巣立て』と言うまで、何もかも親のせいにしたっていいんだよ」
「そう……なのですか?」
「いいんだよ。皆が『そうなれ』『そうしてくれ』と言ってくれるのは、全てオレ達の為になることだから言うんだよ。オレ達の為になることは、一族中の為になることだ。自分が人の為になったときって、とっても気分が良いもんだよ」
「確かに。俺も……燈雅様の為になれたときが、一番気分が良いものです」
「ふふっ、可愛いことを言うな、男衾は。……継承者作りは苦痛を強いられることになるが、一族を守る者を増やしていくものと考えればきっと気持ちも晴れやかになる。皆を守りたくて皆を作っていく。苦しかったら皆が支えてくれるものさ。……出来たら愛する人と苦しまずに結果を出せたらいいんだけどさ」

 ――愛する人。
 燈雅様はその言葉を出して、少し表に出したかったものと違う感覚に襲われたのか、何度も言い直そうとした。
 だが良いものが思い当たらず、ついには「すまない、聞き流してくれ」と言ってきた。

「燈雅様は、愛情を大切にしておられるのですね」

 そう試行錯誤している彼を見て、率直に思ったことを口にする。
 すると、彼に盛大に笑われた。何故そんなに笑われたか理解できない程に。

「愛情を蔑ろにする人なんていないだろ?」

 笑いながら言う彼に「そうですね」と頷いてはみたが、心の中では「どうだろう」と思わずにはいられなかった。
 愛情を感じる人はいる。燈雅様を大切に想うこの感情を愛だと信じて疑わない。
 父だって俺に期待を向け愛情を持って激励をしてくれる。
 師も無愛想で厳しくはあるが指導を未だに続け、褒美を長年取っておいてくれる。これも特別な情が無ければできないことではないか。
 燈雅様付きの使用人をしている梓丸も、燈雅様繋がりで話すようになった外の心霊医師・シンリンも、大なり小なり愛情を持って接する。この考えが自分だけではないということは、自分に対する彼らの態度から万物共通の理だと判る。

「愛情を、蔑ろ……」

 でも、ついつい思い浮かべてしまうのが……笑顔でスイッチを押して赤子を消した父。女を芋虫にして数年楽しんだという一本松様。それを知っていただろうが何事も無く普通に過ごしていた僧侶の者達。何気なく無関係者の燈雅様に話をしてしまう梓丸達。
 それと、自分で手を下すことなくとある女を削除した自分の顔。
 これは、愛を語るにも厚かましいのでは? 罪を犯したとはいえ、とある人間の一生を自在に穢しておきながら……。
 立ち眩みにも似た感覚を覚えて、つい額に手をやった。
 コレ イジョウ ナニ モ カンガエル ナ。
 『自分の中に生じた優しい誰か』の声が響いて、頷く。「ああ、その通りにしよう」と、思考を止めた。
 何かと考えすぎは良くない。考え無しはいけなくても、先程燈雅様に「苦しそうな顔をするな」と叱られたばかりではないか。
 主の命令を聞けずに、何が使用人か。主の機嫌を損ねることをしてはならない。不快に思うことなどやってはならない。そんなの大人になる前でも判っていたことだろうに。

「愛情を大切にする燈雅様の……お傍に居ることになる方は、きっと幸福者ですね」

 いつか来る彼の伴侶を羨ましいと、話題を変えることで急に生じた頭痛を治めようとした。

「どうかな? オレはともかくその人は幸福になれるかどうか判らないし、まず傍に座ってくれる人って条件厳しいぞ。そうだな、とりあえずこの身体に驚かないでくれる人じゃないとダメだ」

 笑いながら言う今の彼は、術を施していない姿をしている。半身を紫色に染めた、真の肢体だ。
 ここは自室で、体を清めている最中なんだ、わざわざ苦痛にゆがむ代償を支払って術を施す必要なんてない。
 そうでなくても「二人きりで居るときぐらいは何もしないでください」と、遠い昔……初めて会った夜のときに約束をした。
 今となっては意識するまでもなく普通に見ることができる姿だが、人によっては触るのも近寄るのも厭う外見なのは変わらない。燈雅様付きの使用人である梓丸とシンリンですら初めて見たときはぎょっとしたし、口に出さないだけで正直なところ目にはしたくないものだと思っているだろう。
 それは悪意がなくても、目の泳ぎ方を見てしまえば判ってしまう。
 他人である俺が判るのだから、本人は更にそのことを察してしまっている。

「燈雅様の周りには必ず心優しい者が集まります。だから一生を共にする者であれば、気にすることなど」
「これでも結構長く生きてきて、それなりにこの体を見せつけてはきたけどさ……コレを見て何にも言わなかった奴は、世の中に一人しかいないよ。そのときは嬉しいなって思ったけど、そんな人は一人しかいなかった。……そう幸福って、訪れてくれないものなんだよ」

 『一生を共にする者であれば』。
 これって俺のことだよな、とふっと思った途端、続けて燈雅様の言われた『ある人物』の示唆に、ぞわりと毛が逆立った。

 最初に恐怖心を抱き、それでも一日で克服したが……一度も不快感を抱かず接することができた人が居たのか。
 世の中には居るんだな、そんな人も。
 なんだか悔しい。
 今では愛おしく変色した皮膚を撫でることもできる。だというのにどうやら燈雅様の中で『頂点』が遥か上に居るらしく、俺が許容した程度では何も感じないと言われた気がした。
 その存在を追い越せないと感じ、悔しさが徐々に体を満たしていった。
 処刑した女のことや、命じる大人達など、他のことすら忘れてしまう程に。

 ――体は成長しきった。体力も知恵も人並みには備わった。
 使用人としての地位は揺るぎないものになり、もはや彼の隣で居るのは当然のことと見なされ、彼に関わる全てを預かるようになった。
 体もできあがり、やり方も全て頭に叩き込まれた俺は、いつの間にか次期当主の『供給』の相手まで任されるようになった。

 燃費が悪く、人並み以上に魔力供給を行わなければならない燈雅様は、昔から多くの人達に相手をしてもらっていた。そのことは五歳の頃から同じ館で見守ってきた身だ、当然のように知っている。
 何故それをしなければいけないのか、何をどうしているのかはきちんと学んではいたが、一応タブー視されているものだったので見て見ぬふりをしようと決め込んでいた。
 だが外での初『仕事』後、一本松様から二つ目の褒美を貰い、精を吐き出せるものだと認識されてから……『本部』の正式な指示で、燈雅様を抱くことになっていった(抱くことになった、というか、「そのような任を申し受けました」と初めて話したときに「男衾はどっちがいいんだ?」と尋ねてきたので、個人的な我儘を言ったらそうなった)。
 初めてのときなど思い出すほどのことではない。二回目も三回目も、命じられたことを毎日やっていく使用人業の延長のようなもの。最初が不格好な達磨女相手だったため、か弱くも五体満足の男の相手は不都合をあまり感じさせなかった。

「……出来るなら、これからも相手をしてくれる人は、男衾だといい」

 何度も体を合わせて、終えたとき。着物を正しながら燈雅様がそう言ってくれたことがあった。
 何故そんなことを言ってくれたかって、単に「右半身を隠す術を施さなくていいから」という理由だった。
 でも繊細な俺にとってはとても嬉しい一言だった。

 床の相手なら男衾がいい。俺と肌を合わせるのがいい。
 一度聞いてしまったら幸福感が止まらず、本来の理由なんて忘れてしまうほどだった。嬉しさに酔っていたのかもしれない。

 そういえば俺は他人から不満は言われることは、早々無かった。
 初めて賊の紙を見付けたときも親から喜ばれた。初めて外で退魔を行なってきたときも周囲から良くやったと絶賛を受けた。
 そして燈雅様自身に「お前がいい」と言ってもらえる。
 俺は生まれてから何かと失敗したことがない。
 いや、失敗するようなことは決してしないからだ。調子が悪かったことがない現状に少々不気味さを感じながらも、自分の運の良さには神に感謝するしかなかった。

 ある日、燈雅様の体調が少しだけ良かった夜。
 調子は良くても『本部』に命じられたまま彼の寝室で体を合わせていると、あることに気が付いた。
 口にするのも恥ずかしい話だが、燈雅様は、やたらと唇を合わせたがる。
 俺の頭の後ろに手をまわして、貪欲に貪り食らうように舌を奪うのをよく好む。他の動作に熱意が無いだけかもしれないが、接吻の時間はやけに長かったのに気付いた。
 恥ずかしい質問だと思ったが、あまりに長く時間を使う行為ので「何か理由でもあるんですか」と思いきって尋ねてみた。言われた彼は頬を赤くしながら「自分でも気付かなかった」と答えた。

「声が漏れるのが嫌だから、口を塞ぎたいんじゃないかな? 自分のことだけどよく判らないよ」

 思えば、ひどく意地悪な質問だった。唐変木にも程があった。
 単に……シーツに絡まりながら恥ずかしがって言う燈雅様の姿が見たかっただけじゃないかと、自分のやりすぎた行為を恥じる。

 それからというもの、彼が唇に食らいついてくるたびに「照れている」と思うようになった。
 照れ隠しに唇を求めて、顔を寄せて来る。必死な顔が可愛らしく、でも近付けてしまったらその顔を見ることが出来ない。もどかしい。
 懸命に唇を求めて腕を伸ばしてくることがあったので、何気なく唇を遠ざけてみた。舌を伸ばしても俺が応じない姿勢を見て、辛そうに顔を背けた。
 すると左腕を頭の上に上げて二の腕に噛みつこうとする。細い柔肌を歯で傷付けてはならないと焦り、その腕を捕らえた。
 快楽に悶えながら、彼は声を上げる。
 そして、とある名を叫ぶ。
 目の前に居る俺の名ではないものを。

「………………」

 ――そんなことがあっても、俺が生まれ落ちた理由は変わらない。

 関係に亀裂が入るとしたら、それは俺の一方的なもの。
 無我夢中になっていた燈雅様が何を吐き出したか本人は覚えてないし、その程度のことを呟いていても燈雅様は気にしない性格だろう。
 この一件があったおかげで、寧ろ落ち着くことができた。『仕事』として割り切り、仕方ないこれは命令だからと思って傍に居た方が、冷静に彼の隣で事を進められた。
 もし人間らしく感情的に「守りたいから」と愛に溢れて続けていたら、激情して理性的な対処が出来る筈が出来なくなっていたかもしれない。
 「好かれたいから」と彼の愛を追い続けていたら、追いつけないと知ったとき……嫉妬に狂ってお守りする任を放棄しかねない。
 ただでさえ「悔しい」という想いに、『供給』だけをすればいい夜を意地悪で崩しかけていたんだから。

 彼は届かない人。そう思って彼から一線を置くことで自分の本来の役割が果たせる。
 自分は次期当主に何かあったときの守護、身代わり。愛情を貰える幸福者として居ようと思ったのが、間違いなんだ。

 ……父と世間話をしていたとき、昔話に話題が移行していった。
 依織が昔から無茶をするとか、芽衣が不良で困るとか、新座様と霞様が喧嘩ばかりで事件ばかりだったとか幼かった頃の話をしていると、

「あんなに塞ぎこんでいた燈雅様が明るく笑えるようになったのも、圭吾のおかげだよなぁ」

 とある名の、武勇伝の話になった。
 俺がまだ赤子だった頃、次期当主だからと一人きりで育てられた幼い燈雅様は、口数が少なく、表情も乏しく、感情も豊かではなく……手の掛からない大人しすぎる子供だったという。
 ところが年の近い圭吾様や新座様と頻繁に遊ぶようになり、少しずつ子供らしさを取り戻していき、今ではとても社交性のある性格になった。
 子供は一人では伸びない。競争相手が成長させるものである。だから燈雅様の元には常に誰かを付けようという話になり、丁度良く成長した俺が送られるようになった。俺が使用人として掛け合わされる理由の一つがそれだという。

 ……俺と出会う前に、俺が歩くことすらできないときに、彼の頂点になった人。
 出会いがもう少し早ければ、俺の方が年上だったなら、まだ追い越すことができたかもしれないのに……。

 父から離れた後もそのことばかり考え、燈雅様の世話が終わり、彼が眠りについた後もずっとそう思ってしまう。
 離れの館、縁側に出て、少し涼しい夜風に体を冷やす。
 興奮が止まらないのは室内が暑かったからだと無理矢理理由をつけ、寝静まった次期当主の邪魔にならぬよう、庭に出て体を冷やした。
 醜い嫉妬に燃えた心なんて醜い。一度、愛情に狂うなど情けないと再認識というのに、まだ引き摺ってしまうとは。必死に思考を止めようとした。

「なんで思考を止めるんだよ」

 突如、離れの庭に声がして――俺は虚空から武器を取り出し、構えた。
 庭の池の前に置かれた大きな石の上に、白く、涼しげな格好をした男が座っていた。
 人間が座る場所ではない。景観にそぐわぬ場所に座りこんだ不届き者は、悠々と笑いながら俺の心を読んできた。
 外国人の風貌。細身の若い男。明るい色の髪に白を基調とした洋服。寺の者とは一線を置いた姿。
 池の中にポチャン、ポチャンと小石を投げ入れ遊んでいる。次期当主が休息するこの敷地に雑音を生じさせるなど許せる話ではない。武器を構えて「やめろ」と言い放つ。もし梓丸が見たら外の血の者というだけで問答無用で武器を振るっただろう。

「なんで思考を止めるんだよ」
「人の心を読むな。妙な超能力を使うんじゃない、異端め」
「そんなに負の感情を抱いてたらさぁ、アンタの方が異端になっちゃうよ。知らないワケないよなぁ? 屈折した感情が人を異端に変えるんだよ。苦しめば苦しんだだけその身に宿る情報量は書き加えられていって、上質な魂が出来上がる。経験を積み苦悩を昇華させた人物ほど世の為人の為の偉人になるんだから、アンタみたいな才能に溢れ、ついでに悩み苦しんじゃうような人は……化け物になりやすいんだぜ、うくくっ」

 気味の悪い笑い声を上げる青年が、小石を池に投げ入れる。
 その小石を一刀両断してみせた。バキンと割れた小石の破片が青年の足に当たり、「痛っ」と小さな悲鳴を上げた。
 その程度で泣き喚いたり怒り狂うことはなかったが、「真っ二つにされたくないなら出て行け」という意図を読み取ってくれたのか、遊ぶのをやめ立ち上がった。

「ただでさえこの一族は化け物になりやすいんだから、気を付けないと……守りたいものも守れなくなるんじゃねーの?」
「なに」
「云千年でバカデカイ妖怪まで生み出しちゃった一族だぜ? カミの体を手に入れ、魑魅魍魎怨霊の類、悪しき異端や罪深い異端者の魂や血肉までも取り込んでるんだ。自分達が化け物になる可能性を隠し通すなんて、無理なんだよ。一族を代表する次期当主様なんて、半身を化け物と同じ色に染め上げちゃってるんだから一族全体がダメになるのも、もう時間の問、題……」

 その言葉は燈雅様を侮辱するものだと判断。小石と同じ結末になりたいと見た。
 長剣の餌食にと刃を振るう。
 だが寸前のところで届かなかった。素早い能力者の男は立っていた石から飛び降りる。
 一メートルほどの石は真っ二つに割れたが、白の男には傷一つ無い。
 当主守護になれと言われ二十年以上磨いてきた俺の剣の腕だが、一発で能力者の男を仕留めることが出来ない程のものなのか。寝静まった次期当主の眠りを妨げないようにしていたとはいえ、のうのうと取り逃してしまったことに焦燥感を覚える。
 それほどあの男が腕の立つ者だということだが、あっという間に逃げられたことに激情してしまった。
 逃れて行く奴の細い肢体を追い、睨みつける。
 そこには燈雅様が居た。

「……ッ?」

 いや、居ない。
 居るのは、白い肌で、とても細い体をした貧弱な男……。
 目を向けた先に居るのは、明るい髪で、血色の良い体を見せつける妖艶な衣装を纏い、先程まで鼻歌を唄って人を小馬鹿にした態度を見せていた、あの――ブリジットという男だ。

「お前、は……?」
「…………。うぜぇ。んな目で見るな、変態。忠告したからな。化け物を増やすんじゃねーぞ」

 先程までニヤニヤ笑っていた男だったが、急に不機嫌そうに舌打ちをすると……使い魔の獣を召喚し、それに乗り上げると、早々と去って行った。
 ……一瞬だけ、燈雅様に似ていると思えた。
 だがそんな訳が無い。年も、優しく微笑む顔も、態度ですら一切違うというのにどうして燈雅様と同じに見えるのか。
 興奮していたからだと無理矢理自分を納得させ、虚空に武器を仕舞い込んだ。

 ――悩み苦しんだ先の姿が、異端。

 あの男が言っていたことを全て信用する訳ではないが、似たような話は聞いたことがあった。今まで自分が狩ってきた怨霊がどのように発生したか、背景を洗えば洗うほど苦悩を説明ができることが多かった。
 苦しみから解放されたいが故に、人を傷付ける者が、とても多い事実。
 苦しんだ末の逃亡先は悲劇。人々を救うために見てきた悲劇の多さは尋常ではなかった。苦痛の多さと異端の強さが比例するなら、俺は異端になったとき、恐ろしい化け物になるんだろうか。
 いや、俺の苦しみなど大差無い。……俺よりもっと苦しんでいる次期当主がもし、姿を変えたら?
 まさか。そんなことなど起きる訳が無い。
 戯言だ。そう蹴飛ばすのは容易かった。もし彼に何かあったら俺が動けばいいだけのこと。彼の苦しみの身代わりになるべく俺は生み落とされたのだから。そうだろう?
 ウン ソウダヨ。
 そう言ってくれる。俺は安心して、その声を納得した。



 ――2005年12月1日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /4

 とある民家で、とある少女と初めて出会った。
 鶴瀬により、緋馬様が退魔業に入り浸っていた高校の近くで『仏田の神』が発見されたと報告があり、二週間。
 ついに燈雅様の元にもその話が伝えられ、「会いに行こう」と車を走らせ、ここまで来た。
 少女の義理の親によって彼女の家から追い出されてしまったが、燈雅様は少女と再会を約束して別れた。
 それから十分。

「男衾」
「何でしょう」

 神と出会い、別れて十分経過した車の中。
 車内には運転席に座る俺と、後部座席に座る燈雅様のみ。二人での外界という、『仕事』で命じられない限り滅多に寺の出ることのない燈雅様としては、とても珍しい日。曇天の下、ちょうど信号機の前で停車していると、後ろの席の燈雅様が鏡越しに俺の顔を見てきた。

「女の子が好きな物って何だ」
「好きな物……ですか?」
「ああ、また会うって約束しただろ? だから今度会いに行くときはちゃんと贈り物を持って行くべきだと思うんだ」

 微笑み、俺に尋ねてくるその表情は、仏田が望んだ少女にまた会えることを願っているように見える。
 複雑な出生である彼女にも優しく笑い掛けることができる彼を感心しながら、俺は街並みの店先を眺めつつ、一般論を口にした。

「年頃の女子は甘味と可愛いが好きだと言います。贈り物に選ぶならぬいぐるみ、大人びた子供ならアクセサリーも良いかと」
「なんだ。男衾と同じだな。男衾は年頃の女子だったのかい」
「…………」
「ふふ、冗談だよ。何か取り寄せないといけないな。今度カタログを持ってきてくれ。俺が選びたい」
「はい」

 鶴瀬の調査により発見された『和光様の隠し子の娘』。
 ここ数日は慌ただしかった。「まさか」「そんな」と『本部』から絶叫が止む日が無かった。

 本来であれば神の誕生は祝福されていい筈だが、事態が事態なだけに、誰も笑って神の降臨を迎えようとはしなかった。
 しかし、無かったことにする訳にはいかない。寧ろ丈夫な『魂の捧げ先』を自分達が苦労を掛けず、見付けることができたんだ。……これから『本部』は、彼女に山に来てもらうために暗躍することだろう。
 来てもらうというか、連行するというか。
 拉致するというか、強奪するというか。
 あまり気持ちの良い展開にはならないということは、直接『本部』に関わっていない俺でも判ってしまう。
 しかし、初めて彼女に会ってからというもの、燈雅様は何かと少女の話を俺に振った。
 神が降臨した代になるだろう次期当主の燈雅様は、彼女と多くの交流を約束されている。嫌われるよりは気に入られたいと思う気持ちも判らなくはない。
 しかしそんなに心配しなくても、燈雅様と出会った少女の表情からして、さほど気にしなくても好かれそうな予感はしていた。
 彼が優しく、好かれる人間だということは……この俺が重々知っている。

「甘味は銀之助さんが作ってくれるかな。いや、洋菓子の方が小さな女の子は好きかもしれない。銀之助さんも作れないことはないけど、ううん、どうだろ」
「洋菓子というと、何でしょうか?」
「ケーキ……かな? あんまり食べたことがないから判らないけど。えっと、確かときわくんはこの手の話が好きだったっけ。あの子はハイカラだったから」
「燈雅様のお好きなものでいいんですよ。知らないものを贈るより、燈雅様が知っている良品の方が心を込めてプレゼントできます」
「成程。でもオレ、何が良くて悪いのかちっとも判らないし……」
「…………。カタログを見なくても」
「うん?」
「直接、買い求めに行くのはどうでしょう」

 そう言って、とある店先の前で車を停めた。
 燈雅様が「なに?」と尋ねてくる。何気なく俺が目を向けた先に彼も視線を運ばせると……そこは、大型の量販店だった。
 停車しドアを開け、彼を外に連れ出そうとする。開かれたドアに燈雅様は着席したまま、ゆっくりまじまじとその世界を見渡した。
 このような場所が燈雅様が訪れるものではないのは重々承知だ。一度も来たことがない世界に戸惑いを隠せない表情をしていた。

「燈雅様の目で確認された方が、紫莉様に贈るのにも安心でしょう?」
「それは、そうだけど」

 と、燈雅様は呟くような小さな声を零す。
 時間は山ほどあった。すぐに寺に帰らなければならない理由も無かった。今日は少女に会うことが目的で、すぐに別れが訪れてしまった今、大人しく寺の屋敷に閉じこもるしかなかった。でもそれだけではつまらない、勿体ないと思い……こんな場所に彼を連れて来てしまった。
 こんな機会は滅多に無い。作ろうと思って作れるものでもない。今日は運悪く予定が早くに終わってしまった。だから出来ることだった。俺は「どうぞ」と手を差し伸べ、外へと連れ出そうとする。
 車のドアを開けると量販店から流れる愉快な音色が聞こえてくる。子供達の笑い声が聞こえてきた。何の変哲も無い、普通の街並みの音だ。
 燈雅様はそれらにじっと耳を澄まし、目を閉じ聞き入ると……首を振った。

「結構」

 このような場所ではなく、もう少しランクの高い店にすれば良かったか。
 そう考え、近くにもっと良い店は無いか思案するが……燈雅様は「早く帰ろう」と俺を促した。
 燈雅様が気乗りしないのなら仕方ない。ドアを閉め運転席に戻り、鍵を回す。
 エンジンを付けようとしたとき、「男衾」と名で呼び止められた。座っている後部座席から。運転席に座った俺に背後から。

「オレはね。誰かにプレゼントを用意しようとか、喜んでもらうように自分で見繕いに行こうとか、店に入ろうとか……。どれもしたことないんだよ」

 ――そんなの、燈雅様が告白するまでもなく俺は知っている。
 彼の血は、我が一族の宝だ。彼は普段、寺の敷地内でも隠れた場所にある離れに住んでいる。そこから出ることはまずない。
 退魔の実績を積ませるために『仕事』で外に赴くようになったが、必ず二人以上のボディガードがつくようになっている。
 『仕事』が終われば寺に戻り、体を清め、他の金銀財宝のように保管される。そんな日々を送っている。

 そのような囚われの日常が不憫だと思ったことはある。
 だからこそ俺のような話し相手が、少しでも気を紛らわせるように置かれているんだ。
 「どこの血か判らぬような者達がうろついている場所に連れてくるなんて」と古い人間なら言ってくるだろう。だが、もし襲い来る者達が居ても自分がいれば撃退する自信がある。
 何より、未経験な彼が楽しく思える瞬間が、たとえ短くても作ることが出来たなら……。そう思い、彼には似合わないショッピングモールに車を走らせてはみたんだが。
 鏡越しに見える後部座席の燈雅様は、微笑んではいた。

 でも双眸は伏せていた。発した声も静かだった。
 沈んだ感情を悟られないようにと、故意に笑い誤魔化している姿。
 そうしてこちらが声を掛けようと唇を震わせる前に、誤魔化しの声音が聞こえてきた。

「オレは次期当主だよ」
「はい。その通りでございます」
「オレは誰よりも偉くなる。偉くなるように育てられてきた。だから知らなかったよ。……オレより偉い人がいる感覚が、こんなに怖いことだったなんて」

 顔を伏せ、笑いながら彼は言う。

「プレゼントをして機嫌取りをしなきゃいけないぐらい偉い人なんて、会ったことなかったからさ。何をあげたらいいか判らなかったよ。今も判らない。どうしたらすればいいのか、何をしたらいいか判らないって……怖いな。『無知が恐ろしくて絶望した』って始祖様の話にあったけど、本当だったんだ。……ああ、彼女の存在が……凄く、怖いんだ……」
「…………」
「圭吾を当主にするって聞いたときは、たとえ力がオレより上でも所詮贋作……血の濃さでオレに勝てる訳が無い、松山さんのような名だけの存在になるに決まってる……そう思えば怖くなかった。どう足掻いてもオレよりは下だから……。圭吾を当主にしようかって親父に言われても、どうせオレがなるんだって判っていたから……させないって必死にはなったけど、心の底では判っていたから、乗り越える事が出来た」
「…………」
「新座が当主になるのは……ちょっとだけ予想できてたことなんだ。血も殆ど同じ濃さだし、能力もずっとオレより神に近い……。でも、新座は弟でオレは兄だろ? 生まれた順番は変えられない。だからどうせアイツはオレより下」
「…………」
「……ああ、でも、彼女はオレより上だ。誰もが望んだ女だし、きっと彼女の力は凄い……本物の直系なんだ、凄いに決まってる……。和光様の第一子の娘で……あの赤髪も、同じ紫の眼を持っちまってる。参ったな、オレの立場、本格的に危ういじゃないか……頂点じゃなくなったらさ、何にも出来ないオレなんて、何が出来るんだ……何にも判んないままで、使い物にならないぞ……圭吾と新座のときは自分を言い聞かせることが出来たけど、今回は、ちょっと」
「燈雅様。お気を確かに」

 彼は微笑んでいた顔を、力無く両手で隠し始めた。
 白く美しい掌が彼の両眼を覆う。カモフラージュをしている穢れを知らなそうな掌で、苦悩の見附きを隠そうとしていた。

「燈雅様。たとえ偉大な神が我々の前に現れようが、貴方が始祖様の『椅子』となる我が一族の当主であることには変わりない。彼女は我らを救済する者ではありますが、我らを従え導くのは当主です。当主は貴方です」
「……ああ……」
「彼女が現れたとしても、次期当主は燈雅様です。……贈り物を選びに行ったことがないのなら、それこそこれから探しに行きましょう。外は危険だと言いますが、外の世界に視野を広げることを悪いと思いません。俺は……貴方が人々はどんな世界に住んでいるのか、どのような物を求めているのか、知るべきだと思います。ですが……」

 一族の手が掛からない外には危険が存在するもの。でも、中に居たって危険は生じるものだ。
 もし危険が生じたとしても……何の為の当主守護だ。何の為の身を守るために用意された駒だ。
 大切だからと言って、価値があるからと人を宝物庫にしまっておくべきものではない。人は人らしく、人の世界で営んでいくべきもの。
 純粋に生まれてきた訳ではない俺が、大事に保管され、苦痛を強いられていた彼を一生見てきたから、そう思う。

「それに当主であっても、頂点であり続ける必要などありません。常に頂点に居座り続ける必要など……たとえ『本部』がまだ貴方を制そうとしても、貴方はこうやって外に出るようになっている。貴方が望めば、自由に……どこの店にでも赴けるようになっているんです。貴方が行きたいと言った場所にお連れします。貴方が言ってさえくれれば」
「…………」
「それに、神が生まれて、一つ使命が果たされた今。我々が果たさなければならない天命から解放されるときが来たんです。だから貴方はそろそろ……自分が生きたいように生きてみるべきなのではないでしょうか。俺はいつも、貴方が当主としてではなく、普通の人間として……普通の幸せを得て生きてほしいと考えていました」

 少しでも彼が自由に、奔放に生きられたらとずっと考えていた。
 前に福広の前に吐露した考えを、面と向かってではないが、外の世界で燈雅様にぶつけた。
 本来なら真正面から言った方が良かっただろう。でも運転席と後部座席、この場所で話し始めてしまい、後に引けなくなってしまったので微妙な距離が空いてしまった。
 しかしこのおかげで淀みなく言葉を言えたのかもしれない。真っ直ぐと彼の微笑みを見たままだったら、彼の苦痛を気にして投げ掛けることが出来なかったかもしれない。
 唐突に始めてしまった説教。でも昔から思っていたことだ。
 やっと言えた。
 貴方は自由になるべきだと。
 言いたいことを言えて、さあ、次に何を言うべきか考える。そうしていると彼が、

「ふざけるな」

 笑みを払い、真の彼の姿で、俺に叫びをぶつけてきた。

「ふざけないでくれ。男衾」
「……燈雅、様」
「オレはさ、当主として生まれ落ちたんだよ……そのために生まれたんだよ……当主となるべく生み落とされて、育てられてきたんだ。そのために生きて、殺されながら生きてきて、死んで、それでも一族が守られているならって、一族の期待に応えられるのならって、一族の幸せに為に、生まれた理由を全うする為にって……ここに居るんじゃないか。我慢して生きてるんじゃないか……」
「燈雅様」
「男衾。お前は今から当主守護の任を下りろ」

 ――ザクリ。
 心臓に刃が刺さった。

 ……もちろん比喩だ。実際にそんなことは決してありえない。
 だが深い声色の燈雅様の声で「傍に居る任を下ろす」と言われ、自分を殺されたような感覚が生じる。
 自分は当主守護になるべく父に創られた。人並みに動けるようになったら鍛錬に加わるようになった。一端に戦えるようになって次期当主に顔を合わせられた。そうして今の今まで教育を受けてきた。
 だというのに当主守護をやめろ? それは……今までの時間を全て無にされたような、死刑宣告に間違いなかった。

「な? 辛いだろ。苦しいだろ。そういうことだよ……」
「……燈雅様……」
「ふ、ふふ、嘘だよ。今のは冗談。男衾にしかオレの守護は務まらない。お前は死ぬまで当主守護だ。そのために生まれたんだから、お前はずっとオレの傍に居ろ。居てくれなきゃ……困る」
「燈雅……様……」
「オレの気持ち、判っただろ? ……誰よりも幸せになってほしいと思っていた一族のお前が……そんなこと言わないでほしいな。これでも一族を本気で守っていこうと思っていたんだ……そう意気込んでいたのに、そんなオレに『自由に生きろ』とか、『普通になれ』とか、『当主になるな』とか言うなよ……」
「………………」
「あのさ……生きる理由を無くしちゃったら、後は死ぬしかないだろ。お前はオレに死ねって言うのか」
「それは違います」
「男衾。謝ってくれ」
「申し訳御座いません」
「謝ってくれ。頼む。男衾。お願いだ。オレに謝ってくれ」
「燈雅様。すみません。ごめんなさい。許してください」
「…………うん。許す。許してやるよ」

 ――他の誰でも無い、男衾のお願いだからな。

 顔を両手で隠してはいたが、啜り泣くような息遣いまでは消せずにいた。
 車内は二人きりなんだから声を荒げてもいいのに、俺の前では嫌なのか、一分間だけ辛そうな呼吸を続けた後に……彼は普段通りの微笑みに戻った。

 彼が俺を前にして、年上らしからぬ、情けない姿を見せたのは二十年間で初めてだったかもしれない。魔力不足で弱りきっているときも少しでも気丈に、年上らしく俺を導くように振舞っていたのに。
 そんな我慢する彼を救いたくて、俺はずっと傍に居ることを選んだ筈だ。
 だというのに心無い一言で、二十年間の気丈さを壊してしまった。申し訳無くて、「許す」と言ってくれた後も何度も謝った。
 面と向かって話してなくて良かった。

 運転席と後部座席、微妙な距離があって良かった。お互いの目が見えない、向き合っていない距離だからこそ救われた。
 手を伸ばせばいる傍ではなかったから、彼を救えずにいる場所だから、彼を壊すことなく嫌われることもなく済んで……本当に良かった。
 目の前に彼が居たら、構わず抱きしめていた。弱りきっている彼を目の前にして黙っていることなど出来なかった。
 抱きしめてしまったら、また怒られることを言ってしまうかもしれなかった。
 ぼろぼろになりかけている彼の前で、またふざけたことを言ったら……今度こそ本気で嫌われてしまう。
 ハンドルを握る自分の指が震えているのに気付いたのは、それからずっと時間が経ってからのこと。

「それでも、俺は貴方に自由になってほしいです」

 やっぱり、本当は何度もそう言いたかった。
 けど、言える訳が無かった。傍に居たかったからだ。



 ――2005年12月26日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /5

 「現当主・光緑様の様態が危うい」という話は前々から聞かされていた。
 そうして今朝、洋館にお泊まりになっている神子様が来る前。父・大山が燈雅様に頭を上げずに報告をしてきた。

 急な話ではなかった。秋になった頃から光緑様の体調は優れず、つい先日緋馬様を救うべく外に出てからというもの……一向に目覚めなくなったという。
 元々二日か三日に一度目を覚まし、数時間だけ人間として過ごしてから器としての姿に戻るという生活を繰り返していた人だ。それは三十年前から続けられている。多くの魂を許容するためには膨大な量の力を消費するらしく、それが敵わぬ体にも関わらず酷使続けていた三十年。
 ついに寿命だと、大山は敢えて口にしないまでも告げていた。

「燈雅様。神子様とのお食事の前にこのようなお話を、申し訳ございません」
「顔を上げてください、大山さん。……年明けまで父は、光緑の器は、もちそうですか?」

 覚悟をしておくようにと言われてはいた。それはもちろん燈雅様の耳にも入っている。長い沈黙の後、致し方ない、と燈雅様は口を開く。
 息遣いは落ち着いているように見える。
 だが長年お世話をさせていただいた俺には判る。……咳を噛み殺していると。

「私は専門家ではないので詳しいことは言えないのですが、航が言うにはあと二日三日だとか。これでも尽くしてくれたと思いますが、それももう限界で今後は効果が薄れると。神子様がいらっしゃっている大事な時期ですが、燈雅様には……」
「和光様にはもうお伝えしておりますよね。おじい様は何と?」

 数秒の沈黙。
 情けをかけてもらって頭を上げる父は、深刻な話を続けるために一旦呼吸を整える。躊躇いがちに言葉を続けた。

「和光様は、『すぐにでも燈雅様に継承の儀を行なうべき』と仰ております」

 だが、咳を噛み殺して耳を傾ける燈雅様と同じように……大山の言葉は俺に多少の違和感を抱かせた。
 燈雅様の後ろで控えているだけの俺が口を出すほどのことではない。今は、「父も風邪を引いたのだ」と立ち上がりそうになってしまった足を堪える。
 賜った言葉を受け、目を伏せた燈雅様は「それは本当ですか」ともう一度尋ねる。父の普段見せるおどけた表情は無い。妖しいほど真率な表情が漲っている。恐ろしく厳粛した顔を真摯に受けとめた燈雅様は、「ではそのように進めてください。体を浄めておきましょう」と頷き、大山に退室を命じた。
 障子が閉められた後の駆け足が、事態の重さを思い知らせてくる。神子様が来るにはまだ早く、朝食もまだ届いてはいない。
 背筋を伸ばして正座をしていた燈雅様はゆっくりと立ち上がり、外を見るべく雪見障子を上げた。
 冬らしい白い空は、変わらない。雪が降りそうなぐらい曇った空は気分を晴らすに至らない。

「今の大山様のお話、嘘だと思ったよ。男衾はどう思う」

 ここから庭園を見ていればお迎えと共に神子様のお姿を見ることができるのだが、燈雅様の視線は落ち着きが無いものだった。無理もなかった。

「……俺の意見で宜しいのですか?」
「だって男衾、『何かに気付いた目』をしていただろう。お前の勘は誰よりも当たる。そのように創られたんだから、お前が感じた異変を信用したい」
「……全てが嘘ということはないと思います。瞬きが異常に少なく、それと父の利き手は左なのですがずっと隠しておりました」
「それが嘘を吐いている仕草なのか」
「はい」

 落ち着かずきょろきょろしていた燈雅様が驚いて俺の方を向く。
 目を泳ぐや視線を外すといった典型的な仕草とは違う、演技をするときの様子。自然な演技をこなそうとすると、無意識に体に力が入ってしまうもの。けれどいかに深刻な話とはいえ、指先まで緊張することは相当の恐怖に襲われた瞬間でもない限り見られない。
 今が一大事だという事態は判るが、だとすれば逆に瞬きの数は多くなると聞いた。
 あれでは、用意された台詞をそのまま言い切ろうとしていたように思える。

「じゃあ、何が嘘だと思う?」

 予測するにも情報が足りない。そこまで判ったとしても、俺は推理屋ではないのでそれ以上のことには首を振った。
 ……敢えて言うなら『すぐにでも』の一言が嘘だろうか。
 和光様は、次期当主の座を新座様にしようと考えていたお人だ。新座様が寺を出てから話は空中分解したが、完全に決着がついた訳でもない。それに新座様は寺を捨てた訳ではなく、今も仏田一族に出戻ってきている。感応力の才能や過去の『赤紙』の実績からしても、和光様が新座様を未だに推す理由はいくつもある。
 それに一度逃げたぐらいで諦める和光様は、想像できない。

 しかし和光様ではなく『本部』は「新座様でなくてもいい」と判断したのか。
 当主になることを拒み続けている新座様を説得するよりも、そうあれと育てられてきた燈雅様に継承した方が手間が少ない。煩わしさを被るよりも今は一刻も早く……とでも思ったのか。
 残り寿命があと数日と言われてしまえば、その見解の無理はない。
 当主に死んでもらっては困る。今まで続けてきた千年の継受をここで断ち切ってはならない。
 だが、では何故燈雅様が今まで継承できなかったかという理由は、非常に単純なもの。
 ただでさえ適正の無い光緑様ですら困難だった器を、貧弱な燈雅様では一体何年で潰れてしまうかという話。
 だからこそ五体満足に才能が溢れた新座様が良いという声が消えなかった。

「親父もあと一週間もってくれれば、役目を果たせたのにな」

 言って、燈雅様は自分の口を抑えた。噛み殺しきれなかった咳を、ようやく吐き出す。肩が大きく揺れた。咳き込む燈雅様に上着を肩に掛けるべく背中に近寄る。
 途端、俺の胸の中に燈雅様が後ろへと倒れ込んできた。

「燈雅様!?」

 名を叫んで肩を持つ。
 気絶したのではなく、俺を布団か何かだと思って飛び込んできた燈雅様の戯れだった。

「男衾。オレに言うことは無いかい?」
「……当主継承、おめでとうございます」

 しっかりと支える俺が居たと知っていたからこそ、全体重を傾けてくる。軽い体を抱きとめて、そのまま二人して腰を下ろした。
 座布団も何も無い畳の上で、燈雅様の肩を背後から両腕で支える。鼻に掛かる黒髪。すりっと俺の首に擦り寄る頬。笑っては、いた。なんともいえない複雑そうな表情ではあったが。

「男衾が居てくれて助かった。一人だったら驚きすぎて気絶してた。来年には決着がつくと、親父かおじい様のどちらかの前で決定すると思ってたのに、こうもあっさり決まるなんて。心の準備ができてなかったよ」
「俺もです」

 言いながら擦り寄ってくる頬や唇、掌を受ける。
 彼の耳元で「不安ですか?」と囁いた。すると躊躇いもなく燈雅様は「ううん」と首を軽く振ってみせた。彼の黒髪が鼻をくすぐってクシャミをしそうになってしまい、彼が微笑む。
 ああ、不安が一切無いと言うのは嘘だろう。力無い声がそれを知らせてくれる。

 外界から訪れた神子に『降霊』をしてもらうのは……12月31日から動かせないという。そのように準備をしている。
 その『決意の日』までには、始祖様の器を顕在させておかなければ。
 光緑様の体が31日までに間に合わないというなら、あと五日の間に燈雅様の体を始祖様のものにしなければ。
 つまり今、この腕の中に居る人は別人のものになってしまうということ。
 不安なのは、俺の方だった。
 おめでとうございますなんて言っておきながら、当主になると決めていた彼がなれると決まったこの日が喜ばしいと願っておきながら、いざこの場に居合わせてしまったら心がざわついてしまう。

 だからといって、俺が何かを出来るということはない。
 この寺から連れ去ろうという馬鹿げたことをしても燈雅様は喜ばないし、そもそも今の彼は祝福されるべきなのだか、気の迷いを犯してはならない。

「……ああ、紫莉ちゃんが来たね」

 暫く無言で薄い体を支えていると、離れの庭園に小さな足音を聞いたらしい彼が身を起こした。
 窓から見える遠くの小さな門に、ここには不釣合いの洋服姿の少女が見える。地味な色のスカートを履き、男物っぽいジャンパーを上から羽織っていた。ポケットに両手を突っ込んで寒そうに肩を狭めている。この寺に来たばかりの華やかで可憐な少女の姿とは違っていた。普段の彼女の装いはあの格好なんだろう。
 彼女が燈雅様の前に立った途端、演技をするのは初日から判っていることだが。
 まだ燈雅様に見られていると気付いていない彼女は、不格好にも眉間に皺を寄せて寒さに耐えていた。

「早ければ今夜にでも継承の儀は行なわれる」
「はい」
「オレは当主になる。……『オレのお別れ』が言えないのは、悲しいな」

 神子様を出迎えるべく、燈雅様は俺を置いて廊下に出ていく。

「……はい、悲しいです」

 彼は消える。おそらくは今日か、明日には。光緑様や先代当主の和光様ですら、継承前の人格は失われたという。ならば別れを告げたい人もいただろう。
 ……一体誰に別れを告げたかったか。予想は苦手な俺だが、すぐに一人が思い浮かんでしまう。
 つい拳を握りしめてしまった。

 神子様との朝食が終わった頃には、廊下に数人の僧が待機していた。
 物々しい雰囲気を察した少女の顔が強張る。「ああ、紫莉ちゃんは気にしなくていい。俺の用がある人達だから」とすぐに燈雅様が彼女を和めた。
 飯台を片付ける梓丸に対し「今日の昼食は、俺はご一緒できないから洋館で取ってもらうように。出来れば火刃里くん達を誘ってやってくれ」と命じていた。
 神子様を洋館に出迎えに行っていた梓丸は燈雅様の予定を聞いていない。頭上にハテナマークを飛ばしながらも、それでも燈雅様のお言葉ならと景気良く頷いていた。

 そうして燈雅様は神聖な本殿に移動し、体を浄められた。
 朝食を取っている間に大山が用意したであろう始めの儀式は難なく進み、激しい気温差の中でも体調が崩れることはなく、儀式の手順を確認するなど順調に事は進んでいく。
 滞りは無かった。体を浄めも、儀式の内情も燈雅様は数年前から準備をされている。それが今日行なわれているだけ。中心になって動く航様や、『本部』の中心人物である狭山様や大山様も落ち着いていらっしゃる。数人の術師達も顔色一つ変えず、厳かな雰囲気のまま進行していった。

 ただ本来なら儀式の場は一から当主が仕切るのだが、身を起こすことのできない光緑様は現れない。
 ならば先代当主の和光様が代理を務めるかというと、それも儘ならぬほど和光様は自室から出てこないという。彼は先日実弟・浅黄様の体調が優れないと言われていた頃から酒を飲み続けているようで、一部の者を除いて部屋に近づかせないようにしていると聞いた。
 数週間前から何やら気を病んだと聞いて駆けつけた親しい友人に、酒瓶を顔に投げつけたという噂すらある。それは女中がしている噂ではなく、狭山様自身も認めていらっしゃることから本当らしい。
 繊細な老人を宥められるのは、もう一人の実弟・照行様しかいない。だから照行様も和光様の自室から出てくることはなかった。

 そのような異常事態でも既に万全の備えをしていた『本部』によって、問題も無く夜がやって来る。
 暫くは燈雅様のお傍で控えていたが、ついに儀式の本番となればただの守護である俺は邪魔者になる。
 次期当主様をお守りする術者が何人もいる中、俺の出る幕は無い。「明日まで待機、燈雅様の新たな指示があるまで休んでいろ」と命じられてしまった。

 それでも本家屋敷の自室に戻らず、燈雅様は居ないというのに離れの屋敷に来てしまう。
 そのまま真っ直ぐ本家屋敷に向かえば良かったのに、まだ十八時、夕食前……離れの屋敷で燈雅様のお世話をする習慣があった俺は、判っているにも関わらず無意識に離れへと入っていた。
 燈雅様の部屋の前に来て、「何をやっているんだ、俺は」と気付いたぐらいだ。無人の部屋は、既に(事情を知った梓丸の手によって)掃除を終えている。
 燈雅様が次にここへ訪れるとき、彼は初めてここを見るような顔をするのかもしれない。
 なら変な気を持たせないためにも、埃一つ無い清潔な和室にしておこうと梓丸は思ったのだろう。
 いつも以上の働きに感心と、切なさがこみ上げてきた。

 暫く縁側で物思いに耽る。
 無人の部屋を離れて今度こそ本家屋敷に戻らなければと庭に出ると、圭吾様が離れの門からこちらを覗いているのに気付いた。
 離れの門には提灯が付けられていて、それが唯一の灯りになっている。だから圭吾様の惚けた顔がよく見ることができた。

「あれ。なあ男衾、なんで電気を全部消してるんだ? もしかして誰も居ないのか?」

 十八時も過ぎれば12月の空は真っ暗だ。それなのに離れの館の電気が一つも点いていないことに圭吾様は首を傾げている。
 その顔は何も知らない。『本部』の一員でもなければ有能な術師でもなく、燈雅様付きの使用人でもない彼は何も知らされていない。キョトンとした顔で「燈雅は出払っているのか」なんて庭園に足を踏み入れてくる。
 何か御用でしょうかと主人が居ないときの使用人として至極真っ当に応対をした。
 だが「いや、特に。時間が空いたから、なんとなく」と曖昧な返事といいかげんな笑みを見せて、頭を掻くだけだった。

「そのうち会いに来てくれって燈雅に言われていたんだ。今日空いてるかなって思ったんだけど、用事があったなら仕方ない」

 何ともなしに微笑を浮かべてはいるが、何がそんなに嬉しいのか。

「会う約束を、していたのですか」

 と、つい応えてしまった。
 予定があった上で燈雅様は守れなかったのか。それは悲しいと、純粋に彼へ同情をしてしまう。もしかしたらその約束は二度と守られないものになってしまう。
 どれほど重要な要件だったかも察しがつかないが、胸が苦しくなってしまった。

「多分、俺の誕生日のことだろ」
「誕生日?」
「俺、そろそろ誕生日なんだ。なんだかんだあいつはマメだから用意してくれるんだが、年末は忙しいから渡せるときに渡してくれるんだ」

 おかげで毎年当日に祝われたことがないぐらいだ、と彼は微笑む。

「…………」
「ほら、誕生日プレゼントなら男衾くんだって毎年貰ってるだろ? あいつ、『何かをあげるの好きみたい』だし」

 自慢をするでもなく、ただあった事実を、人懐こい笑みのまま口にした。
 圭吾様は知らない。人の機嫌を取ることが怖いと、何をあげたらいいか判らないと嘆いてすすり泣いていた人が居たことを。

 ――何故、そんなに笑っていられるんだ。
 燈雅様が消えることなど知らないからだ。
 ――なんで、愛嬌の零れる顔をこんなところで見せているんだ。
 何にも特別ではない、ただいつものことだと言うかのように。
 ――どうして、何も知らずに優しく微笑む圭吾様の存在をこれほど哀れで憎たらしいと思う俺がいるんだ。
 圭吾という人物に対して、俺は優越感と劣等感を同時に抱いていることを自覚した。

 圭吾様。――貴方は、愚鈍だ。

 強い感情が迸しる。ぐつぐつと喉の奥に眠る溶岩が沸き立っていく。
 口にしてしまったが、伝える気の無かった声は彼に届かなかった。圭吾様は俺が何かを言ったことだけが判ったが、暗い庭に立ち尽くしているだけの口を確かめることはできないので「何か言ったか?」と首を傾げるだけ。
 挨拶も儘ならない状態で、彼と門を通り抜けて本家屋敷に向かう。
 怒りか悲しみか、どちらでもない。耐えられない負の感情が突き上げてきて、顔が赤くなっているのを感じた。どのようなものであれ、火をつけられたような嫉妬と侮蔑には違いない。
 元から巧く立ち回れないもどかしさに過呼吸になりながら、再び燈雅様に呼ばれる時間を待ち続けるしかなかった。




END

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