■ 031 / 「贈物」



 ――2003年8月14日

 【 First /     /     /     /     】




 /1

 首輪の鎖を引かれ、息苦しげに唸る。
 後ろ手に拘束をされ、殴られ続けた身体は動く力をすっかり無くしていた。上半身は痣だらけ。下半身の締まりの無い穴に、少しでも苦痛を与えるためにと捻じ込まれた大木。流血から数時間経つ。すっかり血は乾いていた。

 鎖を引いて起こした頭の前に、今日の分の皿を出す。
 一日一食、缶詰めの犬用の餌に精液と小便をまぶしたもの(本日のメニューに糞は入っていない。元からぐちゃぐちゃした肉だから、入っていようが形は変わらないが)。人間様が食えた物ではないが、それは化け物だ、人間ではないから貪り出した。
 拘束されているから当然、腕は使えない。皿に頭を突っ込んで、白濁液にまみれた餌を口に運んでいく。嫌がって食べなかったら二十時間後まで口に何も入れることができないから、無理矢理にでも飲み込まなければならない。でなければ死んでしまう。死にたくはないから、彼は必死に口へ運んだ。
 餌を出している男の他に、もう一人違う陵辱者が、必死に食事をするそれの尻穴に刺さっていた物を抜く。
 そして新しく、電池で動く人間の玩具を突き差した。食事中でも陵辱しようと言う。というより「これは実験だ」と、玩具のスイッチを入れながら彼は言った。

 ――食事中に絶頂を何度も迎えていたら、いつしか食事をするだけで絶頂するようになるんじゃないか?

 パブロフの犬だよ、と馬鹿なアイディアを口にして笑う。
 一人でなく、それの食事を見守っていた男達全員が笑った。もしかしたらそうなるかもしれない。そうなったら愉快だ。誰も本気にしてないが、それなれば楽しいと皆で笑い、食事をさせながら何度も何度も弄んだ。
 時間以内に食事を終わらせなければ叱られるというのに、下半身を弄ばれ、半分も食べられないうちに彼は喘ぎに専念していく。
 時折奇妙な悲鳴を上げながら、今日も元気に精を吐き出す。精をまぶした肉に顔を突っ込ませながら、性器を勃起させ果てていく。
 犬の実験は一日目だが、彼が抵抗せずに陵辱を受け入れるようになったのは何日目か。何年目か。何日も何年も、彼らは弄び続けていく。
 無限に、終わることなく。



 ――2005年8月14日

 【    /      /     / Fourth /     】




 /2

 兄さんは悪夢を見る。かつて体験した地獄を、夢の中で再度味わってしまうのだという。
 頻繁に見ることはない。それでも年に数回。兄さんが過去に――繰り返し嬲り殺されかけたあの記憶を夢に見て、汗まみれで起床することがある。
 今日も彼は涙を流しながら目を覚ました。叫んで朝を知らせるなんて目覚まし時計か……なんて冗談、言っても誰も笑いはしない。

 ――最初の一年は地獄だった。大勢から無遠慮な暴力を受けていた。ろくに食事を与えられず、辛うじて口にできた物も人間の食餌とはかけ離れた物だった。
 何度も死にかけたがそのたびに魔術で癒され、更に傷付けられ、身体中に呪いの言葉を刻まれる。もうあれから十年経ったというのに、あの日々は今も兄さんを苦しめていた。忘れるにも強烈で忘れられない日々を夢の中で味わってしまったらしい。暫く兄さんはオレに抱きつき、離れようとはしなかった。
 オレの胸の中でわんわん泣いて止まらない。泣くどころか胃の中にあった物を全部吐き出してしまうぐらいだ。
 それでも文句は言えない。あの日々が地獄だったことはオレも知っている。隣でずっと見せつけられていたんだから。
 いつも通りに「大丈夫だよ……」「ここに兄さんを傷つける人はいないよ……」と、何度も同じ言葉を投げ掛け抱きしめる。
 言いながら兄の身体を抱きしめてあげる他に、オレには出来ることなんて何一つも無いからだ。

「……大丈夫。もう、兄さんは……自由なんだろ……? だから兄さんは……オレの代わりに、いくらでも好きに生きていいから……」

 現にこの部屋には兄を傷付ける人間はいない。オレ達が眠ることを許されている冷たいベッドがあるだけ。
 兄さんを虐めてきた人達なら大勢境内に居る。でもかつての暮らしに比べれば、拘束具無しでベッドに眠らせてくれるという優しい平和を送らせてもらっていた。だからこの言葉は正しく、兄を安心させる力を持っている。
 なのにどんなに正しい言葉を告げてあげたって、兄さんは何年も闇に囚われたまま同じことを繰り返していた。そんなことをしてもう何年目か。
 今日はオレが幸い近くに居たから良かったけど、一人だったらどんな風になっていただろう。年に数回起きる兄の錯乱に、「ああ、もう数ヶ月経ったのか」と季節の移り変わりを感じていた。

 小さな子供のように泣き喚く兄が収まるのには相当な時間が掛かった。
 実はいつも通りの『仕事』に行く時間が過ぎていた。そのことは口にできない。定められた時間通りに行かなければ激しい折檻が待っている。でもそんなものより、恐慌状態の兄を宥める方を優先した。
 泣いて震える兄が普段通りに振る舞えるようになったのを確認して、ようやく部屋を出る。
 数分の遅刻だが、それでも遅刻には変わりない。自分はまた今日も「不真面目でだらしない阿呆」だって怒られるだろう。いつもより傷を多くして帰るのを覚悟しなくては。大怪我をしたって治療魔術で癒してもらえるし、微かな傷ならすぐ治ってしまう特異体質ではあるけれど。
 それでいい。
 これぐらいしかオレが兄にしてあげることなんて無いのだから。

『この兄がいるから、弟は解放されることはない。でもブリッド、お前も解放を望んではいないのか』

 兄さんの使い魔である不可視の雪狼がそんなことを呟く。構わず部屋を出て行く。
 そもそもオレは兄から解放されることなんて望んでいない。それが今まで通りだったから。これからもそうしていくものだから、ちっとも考えたことなんて……。

「ブリッドさん!」

 部屋を出て食堂を通り過ぎ、地下への階段に降ろうと『隠し階段のある部屋への扉』に手を掛けたときだった。
 夜に似つかわしくない明るい声に呼び留められ、大袈裟に肩を震わせてしまう。大声で名前を呼ばれるときは決まって折檻のときだ。だから震えたまま声の方向に振り返った。
 食堂から出てきたのは、第三位と名高い一族のときわ様だった。
 時刻はまだ十九時。夜は始まったばかりの時間、まだ彼が洋館で遊んでいらっしゃってもおかしくない。偶然見つけられて声を掛けられることなんて、知り合った仲なんだ、なんら不思議な話じゃない。

「グッドタイミングですよ、ブリッドさん! 今からアクセンさんと映画を観るのですが貴方も……」

 彼は決して自分を害する存在ではない。そうだとは判っている。でも、駆け寄ってくる少年に警戒せずにはいられなかった。
 だって彼と話していたら……。

 扉の中へと逃げる前に頭を下げて、出来るかぎり大声で謝罪する。
 オレは勢い良く階段を駆け下りた。
 そのときに……ときわ様の出てきた食堂から一人、とても目立つ赤い髪の彼が顔を出したのが一瞬見えた。それでも構わない。彼らが再度オレに声を掛ける前に走って逃げた。

『顔を見て逃げるなんて酷い男だな、ブリッド。さっきのは流石のあの二人も傷つくのではないか?』
「…………」

 夏だというのに冷たい地下回廊の壁へ、雪崩れこむ。
 何度も深呼吸をした。普段の職場で心掛けていた無表情を取り戻すために、何度も息を吸い続ける。
 妙な汗をかいているのは夏だから。決して二人に対する拒否反応による冷や汗ではない、多分。
 逃げてきた理由は、とても端的だ。
 彼らの誘いを断れないから。
 強引に話を進める二人の言葉に引っ張られてしまう自覚があった。でも今夜は外せない仕事がある。ただでさえ兄さんを慰める時間があったから予定より遅刻していた。なのに二人の誘いを断ることに何十分も費やしていたら体がもたない。だから……走って逃げてきた。
 それだけ。それだけなんだと自分を納得させる。息切れは止まっても胸の苦しみはやみはしなかった。

 ……どうしてあの二人と知り合ってしまったのか、自分でも判らない。
 自分がまさか、次期当主陣営で側近になることを約束された人物と共に過ごせるなんて、今でも考えられなかった。何かの間違いだと思う。
 でも、ときわ様のご友人だという……アクセン様と偶然知り合ってしまって、書物庫でご一緒したり、ピアノを動かす仕事を手伝ったりしているうちに、謎の茶会に誘われる関係になってしまった。
 あの人達は断っても声を掛けてくる。今までだって何度も断ったつもりだったが、断われきれなかった。だから今日は誘われる前に逃げるしかなかった。
 逃げた理由を説明すると、ブリュッケは溜息混じりに批難してくる。
 なんて不器用だ、わざわざ声を掛けたというのに逃げられて良い気分なんてできるものか、と。
 ……オレだってやってしまったと思っている。だから何度も深呼吸をしても……気持ちが収まることがなかった。
 階段の上を見上げる。彼らが居た食堂を思い浮かべ、想いを馳せた。
 けれどそこで苦しんでいても何も始まらない。胸を抑えながらいつもの場所へ向かうしかなかった。

 なんてことはない。それ以後はオレにとっては変わらぬ日常だ。毎日のように過ごしてきた、代わり映えのしない日を送ることになる。

 幾重にも魔術式が張り巡らされた牢屋。
 両手両足を鎖で拘束され、強めの薬を投与されて火照った体を宙づりにされて、魔物に食われる。
 それが今日の職務。
 赤黒い肉が足に絡んでいくのも、禍々しい異形の触手達が着物の中に静かに入り込んでくるのも、充分に性感を高められて肛門に黒い手が突き立てられていくのも、いつものこと。
 あられもない声を出すのだって、苦痛を和らげるため自ら腰を動かすのだって、何にも変化は無い。特別変わったこともなく濡れた触手がぐちゅぐちゅとオレの中を刺激して、抜き差しに耐えて何回も絶頂を迎えさせられるだけ。
 敢えて一つ珍しかったことを挙げるなら、喉が枯れて何も叫べなくなっても長く凹凸のある触手が何本も突いてきたということ。意識が朦朧となっても手放してくれず、ずっと腰を動かすことになった。
 魔物に犯される一日は特別でなくても、いつも以上に何十本もの性器が攻め立ててきたのは久々だった。……多分、これが時間に遅れたことのお仕置きなんだろう。一族が用意してくれた……簡単な仕事もできないオレに対する戒めのようなものだと思うことにした。

 ――退魔業を営む傍ら、自らの目的の為に多くの魂を集め続けてきた一族。
 魂は何十億という数になり、一つの集合体を生んだ。世の負を集めた肉の塊は多くの腕を、足を、目を持った禍々しい姿と化し、苦痛、悲哀、無念、絶望を好む醜悪な魔物となった。
 でも見方を変えれば、一にして数億分の魂を持つ神の如き力を持つ存在でもある。従えてしまえばこれほど強力で頼もしいものはない。誰よりも大きくて凶悪、強くて博識な生き物を一族は崇めて飼育していた。
 そう、魔物は他の者達と変わらぬ生き物。生き物であれば腹を空かせる。腹を空かせた子に餌をやるのは当然。魔物に与える餌を常に『本部』は欲していた。
 それに選ばれた一人が自分だ。偶然自分ら兄弟の魔力は魔物好みの味であったから一族に飼われている。そのために生かされている命でもあった。
 オレ達がすることは単純。ただ魔物に犯され、感じていればいい。理性のタガが外れ、無我の境地から溢れる膨大な精神力を引き出すことが魔力供給。絶頂の際の真っ白な感覚が魔力を受け渡すことができる現象。より理性の枷が外れれば多くの魔力を解放することができる。激しくイキ続ければいい、快楽の渦に呑まれて悶絶すればいいという。
 だから幾度も甚振られ、声を上げて泣く。
 それでいい、それでいいと。苦しんで悶えて感じまくることだけに集中すればいいんだって。

 けれど最近、余計なことを考えるようになった。
 魔物の中で呑まれているとき、感じ続けていなければならないときに、別のことを考えるようになってしまった。



 ――2005年8月14日

 【    /     / Third /      /     】




 /3

 ――散々ベッドの上で泣きじゃくった兄は部屋を出て行く弟には目を向けず、ぼんやりと一人ぼっちの天井を眺めていた。

「ブリュッケ、来い」

 ベッドの上で仰向けに寝ている彼が、ワタシを呼ぶ。
 呼ばれたならと仕方なく実体化してベッドに近寄った。「ベッドの上に乗れ」と言ってくるので、ワタシは首を振る。
 ワタシの身体は二メートル近い。そんなワタシがベッドに乗っかっても尻尾まで収まることはできない。「それでも乗れ」と彼は言ってくる。渋々、ベッドに前脚を掛けた。
 するとブリジットはワタシの身体を枕にして乗り上がる。枕というか、大きなソファ代わりにし始めた。たったそれだけのことにワタシの毛並みを使うのか。溜息しか出なかった。
 でもそれも「人肌に触れなければ寂しくて死んでしまう、悲しい子供」だと思えば、可愛いもの。今日ばかりは仕方ないかと暫くブリジットの願望通り枕になってやることにした。

 ワタシの上に乗っている間も、彼はずっと唸っていた。
 始めのうちは言葉とは言えない単なる呻き声だ。そのうち「だりぃ」「うぜぇ」と意味の通った言葉になっていく。普段ブリジットが被っている仮面を着けられるぐらいの余裕が戻ってきた証拠だった。
 本当の彼は……強がることもできない、弟に泣き縋って助けを求めることしかできない弱者だ。気の強い言葉が吐けるようになったということは、それだけ落ち着いてきたということ。汚い言葉を吐き続ける兄の姿に安堵した。
 そうなるのだってまた相当な時間を費やしていた。悪夢から醒めて随分時間を消費した後に、ブリジットはやっと立ち上がって食事を摂ろうとする。手近にあった簡易食料を喉に押し込むだけの簡単な食事だった。

『もっと食事はちゃんと摂った方が良いんじゃないかな。兄さんの元気が無いのは、お腹が減っているからでしょう』

 相変わらずワタシの体毛の上でスナック菓子を貪っているブリジットに、甲斐甲斐しく気遣うように提案してみた。

「うるせーよ」

 兄は不機嫌な声で返す。
 なんとそこで「死ねよ」と言わないなんて。ビックリするぐらい不調のようだった。いつもの受け答えが出来ていない、相当気が滅入っているみたいだ。
 別に「死ね」と言われたい訳ではない。ただ普段のブリジットならそれぐらいの暴言は当然。言わない方が寧ろ不気味で心配なぐらいだった。おそらくこれはワタシだけでなく、ブリッドも聞いたら同じことを思うだろう。普段の『兄の仮面』はそんなもんだ。
 ワタシが繰り返したのが効いたのか、ブリジットはよろよろと起き上がり、軽く上着を羽織っただけで部屋を出て行く。
 あまりに不安要素が多すぎるので、霊体化して後を追った。普段ならこんなに心配はしないが、予想以上に悪夢で大きなダメージを負った兄は何をしでかすか判らない。気紛れで首を吊りかねない。彼は人から思われている以上に小物で、ショッキングなことがあると衝動的に自分を殺めてしまう繊細さを備えている。
 それが兄の選択なら否定しないが、錯乱状況の選択で振り回される周囲のことを考えるとどうもついて行きたくなってしまった。

 8月になった山奥の寺はじわりと暑い。それでも真夏には程遠い山の気温だ。夜になると冷たい風が吹く。
 だから風変わりな洋館内には独特な冷気が漂っていた。これぐらいの冷たさなんて極寒を味わったことがあるブリジットと雪狼のワタシには何とも思わない。
 そんな夏とは思えぬ冷え切った廊下の中、ある一点にあたたかな灯りが点いていた。
 数時間、人間が滞在していたらしい暖気が廊下に漂っている。灯りに引かれ、ブリジットは食堂の扉を開けた。
 そこには予想した通りの人物が座っている。
 テーブルの上には大量の本。ノートに向かって席に座っている姿は、見るからに勉強中の学生だった。

「ん。……ブリジット、か?」

 入室した兄に、低く深い声の男が反応する。
 彼が知っているこの顔は二つある。同じ顔の彼らの名を間違えないよう慎重に呼んだ。

「どうも。お勉強は捗ってますか、アクセン様?」

 心配した兄の声は、普通となんら変わりない。
 あれだけ泣き喚いていたし、さっきまで不機嫌な声しか出さなかったから裏返ってしまうかもと思った。だが何も知らない相手には一切不調なんて気付かれないような、何の変哲もない挨拶を済ませることができた。

「なんだ、もうこんな時間か。また没頭してしまったよ。そろそろ終わりにしようと思ってもう一時間経ってしまったか」
「時間を忘れて勉強ですか。相変わらず熱心ですねぇ」
「勉強をするのが学生の仕事だからな。好きなものに没頭しているとすぐに時間が過ぎてしまうものだよ。……ブリジットはこんな時間にどうした? 眠れないのか?」
「眠るって、まだ二十一時じゃないですかぁ。それに勘違いはしてないかな、ここは勉強部屋じゃないでしょ。食堂は、食事をするための所だよ」

 元々は人が居ないことになっている洋館。
 その食堂に集まる人間って言ったら、直系一族の小さなお坊ちゃんと、この赤毛の男ぐらいしか居ない。夜も深くなればお坊ちゃんことときわが洋館に居る訳が無く、食事を用意する使用人が駐在していない今、時間をずらして来たブリジットを持て成す料理がある筈なかった。

「ブリジット。もし良かったら、そこの菓子を食べていかないか? 茶ならさっき淹れたものがある、淹れたばかりでまだ温かいから飲むといい」

 見ると、ちょっと離れた位置に、いかにも高級そうな箱。
 蓋は既に開けられていて、中にはこれまた直系のお坊ちゃんが好きそうな焼き菓子が、一つ一つ丁寧に袋に包まれている。
 アクセンは兄に菓子を渡すと、使っていないティーカップに湯を淹れ始めた。暫くしたら湯を捨て、茶を注ぎ始める。一息ついて自分のティーカップにも注ぐ。自分のカップには砂糖は三つ、甘ったるそうな茶に口を付けたりしていた。

「あんた、砂糖を三つも入れるんだ?」
「ブリッドは三つ入れていたぞ。三つ入れるのが流儀なのではないか」

 それが何かと、さも当然のように口にする姿。
 渡してくる菓子と紅茶。見れば見る程育ちの良いものに、ブリジットはハッと笑う。
 人によっては癇に障るような笑い方だったが、アクセンは邪悪な笑みなど気付かず「飲め」と笑って薦めてくるだけだった。

「このお菓子。今日の土産だったんですか?」
「ああ、今日の茶会の土産だ。映画を見ていたんだがな、ときわ殿は映画と同じぐらい気に入っていたぞ。ブリジットもいくつか貰っていってくれ。……そうだ、ブリッドの分も持っていってくれないか」
「はあ。ブリッドの分もオレが食べていいんですか」
「違う。ブリッドに渡してやってくれと言いたかったんだ。お前が量食べたいならたくさん持って行ってもいいが、ブリッドの分を残しておくんだぞ」
「いっぱい余っているのは、あいつが茶会に出なかったからかな」

 何気なくブリジットは弟のことを口にする。特に深い感情を込めず、茶会に行ってないと事実のみを言った。
 だがそれだけだというのに、アクセンは切なそうに目を伏せる。

「ああ。来てくれなかった。……きっと今日は、仕事で忙しいんだ。だから仕方ない」

 声を落としてアクセンは言う。残念だ、寂しい、そう言うかのような切ない声だった。
 弟が茶会に出てないことなど、兄は百も承知だ。理由は自分にあることも。アクセンが説明しなくても兄はそんなこと知っている。
 ……もし今日が自由に動けるようだったら、ブリッドはこの菓子を口にしていたということか。
 兄は構わずブラウニーを頬張った。チョコレートが口を汚すこと気にしないように、深いことなど何も考えないように。……半ばブリッドの為に用意されたのであろうその菓子で、口を汚していく。次々に。

「ちゃんとブリッドの分を残しておくんだぞ」
「何の本を読んでたんです?」
「ん……? ああ、これか?」

 ブリジットは一つ椅子を挟んで隣に座り、菓子を二つ同時に口にしながらそんなことを尋ねた。目に入った本が、普段のアクセンの趣味とは毛色が違うことに気付いたんだろう。
 ……それは、歴史書か?
 白黒の写真を掲載した何かの資料集に見える。この男が好きそうな教養本ではない。いつもと違う本を開いてノートに整理してるなんて、また変な分野に目覚めたのか。テーブルの下から見える背表紙にはあるシールが貼られていた。

「こっちの本は市の図書館で借りてきたんだ。地図は書庫から拝借してきた。今日はこの辺りの歴史について調べていた」
「へえ。……仏田寺の、歴史をお調べに?」
「いや、『この地方のこと』について調べたかったんだ。と言ってもここの歴史は大地主である仏田が関わっているから、実際お前達の家を調べることになってしまったが」
「調べられましたか」
「ある程度は。古くからある寺と聞いていたが、どれくらい古いものなのかは知らなかった。住ませてもらっている以上、最低限の歴史は知っていなければ失礼だと思ってな。本をいくつか借りてきて読んでみたんだが、なかなか難しい」

 ふうん、と相槌を打つ。
 退魔のことなんぞ教えてくれと言っても才能の一切無いような一般人が知ることなど出来ない。調べられたとして表面のうっすらとした知識しか得ることは出来ない筈だ。市の図書館に寄贈されているような本なら尚更。裏社会に精通したプロの探偵でも雇わない限り、本当の姿など見分けられる筈も無い。
 「ある程度」と言っても表向きな歴史しか載っていないと判っている。焦りも驚きもしなかった。

「で、収穫はどうだったんです?」
「この辺りは炭鉱の町として栄えて有名だったらしい。前々から山に登るたびに気になっていたんだが、機材やクレーン車が放置になっている跡地が多いだろう? 崖も整備されず剥き出しで……あれは何故かとずっと疑問だったんだ」
「へえ」
「どうして放置されているのか、事業撤退しているなら何故片付けないんだ、もしかしてまだやっているのか……何も知らなかった。まず、何故あそこが工事現場になっているのかが判っただけで大きな謎が解けた気分だ」
「まあ、軽石でも炭鉱で優秀って言われたのも数十年前まででしたけどね」
「……ふむ。ブリジット。もしや事情を知っているのか?」

 兄はぐいっと茶を飲み、浅く呼吸をする。
 ――仏田寺のある山。山の下の街。街と寺を繋ぐ山道。その中に、工事現場やコンクリートの壁、捨てられた神社にゴミの山……多くの負の遺産があることを、思い出す。あまり関わりが無いから忘れている人間も多いだろう、余分な情報を。

「機材、今となっては雨ざらしに錆ついちゃってますねぇ。不法投棄の山も世からすっかり忘れられちまった」
「……む?」
「アクセン様も判るでしょ、ここは田舎だって。都心じゃないってことぐらい」
「そうだな。……バスが一時間に一本、電車はあるが使うまでにとても遠い道のりを行かねばならん。移動は必ず車。それがどれだけ地方かを物語っている」
「そう、ここは田舎。でもド田舎とはいえない、それなりに人の多い町」

 昔は栄えたけど、今となっては過疎化が進む地域。商店街は次々に店を下ろし、辛うじてジジババの群れが活気なんて言葉を保っている。
 大きな都市が近くにある訳でもなく、誇れる観光地がある訳でもなく、宿場町としても栄えなかった。

「でも、ある事業が盛んになったことがある。……家を造るために必要な材木が取れる。材料が集められてコンクリートが造れる。それだけで日本中から持て囃された。一瞬だけだったけどさ」

 高度成長期。何をやっても事業になり、どんな事業でも成功する。そんな時代があった。
 山中に工事の機材が運ばれ、工事に赴くために人々が集まり、栄えた山下。一時的に人が増え、賑やかになっていく町。
 だが採掘はどの分野でも限度がある。どこの地方もあっという間に枯渇し、衰退していった。
 第二、第三の産業が芽生えなかった地方は一時の夢を見た後、すぐに夢から覚めていった。現代の寂しい町にはありがちな話だ。
 そんなのここに限った話じゃない。工事現場の跡地が残され、使われていた機材が古くなったまま放置され錆びていくことなど、ここだけの話なんかじゃなかった。
 余ったスペースは悪質な団体の不法投棄場として再利用され、ゴミが自然の中に積もっていった。それが問題になるのはまた数年後の話。ゴミの山が問題視され、せめて見えないようにするためにコンクリの壁が大量生産されたのも、またまた数年後の話。
 おもちゃ箱を広げておいて、片付けることができず、見っともないからと押し入れに込められたガラクタの話……。
 賑やかだったか時代をブリジット自身は経験していない。四十か五十年前のことなど彼には興味も無いことだ。だから曖昧にしか語れなかった。

「ここに住んでる連中は忘れかけていたことだけど、流石あんたは外から来た人。アレに気付いちゃいますか」
「毎度バスから壁を見ていればな、何があったか気になるぞ。何故わざわざ壁なんて造ったか知っているのか? 手の込んだことをするぐらいなら、ゴミを撤去すればいいじゃないか」
「頭の良い人はそう思いますよねぇ。でも、世の中そこまで頭が回らない人の方が多いんですよ。馬鹿ばっかだからどっかの誰かがゴミを捨てて、みんなつられて捨てちゃって。不法投棄で問題になっちまったんです。……この辺りは運悪くね、メディアが報道しちゃって集中砲火を受けたんですよ」
「ん……?」
「町が栄えたのが四十年前、衰退したのが三十年前、不法投棄やモラルや何やらを騒がれたのが二十年前。都市みたいにホントに煌びやかな話題にもなれず、変に騒がれちゃったこの辺りの住民はね……疲れちゃったんですよ」
「疲れた?」
「もう放っておいてくれって。工事もゴミも見ないでくれって。だから壁を造って放置。もう作業も片付けるもしない。騒がれるのも嫌だ、見るんじゃないぞって。落ち着くまでずっと放置するため壁を作った。そうして十年前、すっかり報道は落ち着いて、ホントに誰も見なくなった。地元人すら見なくなった。……アクセン様みたいに何にも知らない人が気になる程度の、どうでもいい場所になった」

 だから、ここに住む者達は『そんなもの見向きもしないし話題にすら挙げない』。
 『何も知らない子供ぐらいしか』、話に挙げようとしなくなった。

「この辺りは、歴史が無い場所でね。誇れる歴史といったら、『一時の夢』ぐらいなもんで。その夢を穢すような不法投棄や寂れた工事現場の話はしたくないんだよ。だから隠す壁があるんだ」
「……汚い物に蓋をするために、か」
「そうそう。ここが歴史の無い町っていうのは、本できちんと調べたアクセン様なら『何があったから何も無かったのか』ご存知かな?」
「ああ。元々、この地方は。…………」

 とある本に視線を落とし、声も落とす。……突然。
 それは思い浮かんだ言葉があったのに、急遽口を噤んだような、不自然なフェードアウトだった。

「どうしました?」
「……これは、言っていいのかな?」
「言っていいですよ。別にオレは嫌がりやしませんって。『ここは糞だらけの汚い大地だった』。『便所の町だった』。そう書いてあったんでしょ?」

 わざわざ口にするのを拒んだものを、は呆気なく言ってしまう。だがそれも、優しくオブラートに包んだ表現だった。

「隠さなくったって図書館に行けば調べられることです。世間が隠そうとしてないんだからわざわざ心配しなくてもいいんですよ」
「…………」
「ここは千年ぐらい前から、忌み嫌われてた。不浄の地だった。不衛生で、病が至るところで蔓延して、その時代の優秀な医者も逃げ出すほどの地だった」
「食事中のお前にする話ではなかったな。すまない」
「別に。オレはクソといっしょに食事だってできますよ」

 汚い冗談を吐くブリジットに、真剣にアクセンが咎める。
 できますというか、したことがある、だろ。思ったがワタシは何も言わない。ブラックジョークが過ぎた。大人しく鎮座しておく。

「だけどその病を治してまわって、この地自体を洗浄したのが昔の仏田の偉い人でして。それをやったから偉い人になったというか、評価されたというか。まあ、それで仏田はこの辺りで有名な大きな家になったんですよ」
「そのことが大きく本でも書かれているよ。今でいう病院を造った偉大な人だと、この地方の英雄だと言うかのように載っている」
「悪しきものを絶ち、清浄に世を抑え……人並みな大地に戻すことが出来たんだから、英雄というか神ですねぇ。崇められても仕方がない」
「なるほど。神か」
「ええ、神です。…………。なんだよ、その顔は」
「いやなに。……お前があまりに嬉しそうに話をするから。やはり自分の家が褒められると嬉しいものか?」
「…………。ああ、その本に載っている写真の場所とか見たことある。というか、歩いてすぐの場所ですよ」
「ん」

 その本、と指差して言うと、アクセンはまじまじと資料を覗き込む。
 どんな所なんだ、と地図を開きながら尋ねたが、言えるほど知ってることはないとブリジットはロクに応えようとしなかった。けど指で地図のあちこち様々なことを教え、説明していく。アクセンは目を細め、細かい字ばかりを必死に追いかける。田舎の大したことも書かれていないものに目を輝かせる必要も無いだろうに。
 そんな呑気な時間が過ぎていった。兄の声は、普段通りに……いや、普段以上に軽いものになっていた。
 ブリジットの気分の良さそうな声なんて、滅多に聞けるもんじゃない。
 いつも軽口を叩いているような兄だが、その性格故に浮き沈みが激しく繊細だ。勝手に一人で楽しそうに鼻歌を唄うことがあっても、他人と関わって楽しくなることは、まず無い。人との交流で機嫌を良くするなんて、兄に至ってはありえないことと言ってもいい。
 弟相手ですら兄の陰鬱な感情をコントロールすることはできなかった。兄自身だって自分の無感動を操作できないぐらいなんだ。……他人と接してここまで声を明るくするなんて、早々無いことだった。
 これは、間違いなく特別だ。
 思わず資料に釘付けになっている赤毛の男を見てしてしまう。
 同時に、赤毛の男に次々と話し掛けようとしている兄も凝視する。
 そしてワタシの中に伝わってくる――正の感情に、心が弾んだ。

『……まったく、兄さんも兄さんで判りやすいな』

 ……弟以外の誰かと話をするなんて、ブリジットはこの十年経験しただろうか。
 笑い合う二人を見て、ワタシはついテーブルの下で尻尾をぱたぱたと振ってしまった。
 それに気付いた兄が、こっそりとワタシの尻尾の上に足を置く。
 重い。動かせない。ワタシは尻尾を救出するとすくりと立ち上がり、アクセンの横に移動した。

「この寺の書庫に行けば、もっと詳しい歴史を調べられるんでしょうねぇ。まあ、入れてなんかくれないだろうけど」
「何を言うか、その書庫から地図を拝借したのだぞ。好きに使えと許可が下りている。だが私の知識ではあそこにある本は殆ど読めなくてな。読書が進まないよ」
「……不思議ですね。寺で保管している重要な資料を見せるほど、『本部』はアクセン様をこの家に馴染んでいる人間だと思ってるんですか」
「トゲのある言い方だな。その『本部』というのは、照行殿は含まれているか?」

 そもそも『本部』とは誰だと言うかのように、アクセンは平然と口走る。
 ……前にも思ったことだが、何故かこの赤毛の男は元老達(前の当主陣営のこと)の中心人物の一人、照行に気に入られていた。
 寺の大半は、例に紛れず外から来る奴を敵視している連中ばかりだ。例外として照行はやたらと外の文化が好きな人物だった。何でもかんでも外から持ってくるし、連れてくる。本人も外に出るのは大好きで、海外に旅行するのも好きだとか、洋館を積極的に建てるよう計画させたのも照行だったいう。
 やたらと外の毒を寺に入れたがる問題児。辛うじて「変わった趣味」程度で許されている老人だが……。

(そんなジジイは好色目当てで、外から若い奴を連れて来た。そう境内では噂されている)

 照行のことを思い返していると、ブリジットが急にそんな独り言を脳に飛ばしてきた。
 口元を手で隠してはいるのでアクセンには不自然に思われない。それでも微かに歪む唇を隠して、こっそりワタシに語り掛けていた。

『それを、兄さんは信じている?』
(いや、嘘だと思う。物珍しさに連れて来られたのは当たっていても、不埒な理由で連行されてきたならオレとヤってあんなウブな反応するワケねーだろ。これで変態ジジイに開発されてるとか? 考えられねー)
『…………』

「アクセン様。『本部』っつーのは、この寺の偉い人達のこと全員を差す言葉なんですよ。当主……住職とその周辺の人のコトでして」
「住職、というと……名前は松山殿、だったか?」
「正確には光緑様。この寺で一番偉い人は光緑様という御方なんですけど、お体が弱い方なのでお仕事を毎日してないんです。会社の社長はあくまでシンボル。名前を出して責任を取る立場ではあるけど、実際仕事をして動いているトップは松山様という御方。でもって幹部と、幹部候補の若い男性らのことを『本部』って言うんです。あんたが媚び売ってる照行様は、お年でもう仕事から引退なさっている元『本部』」
「媚び売るとは人聞きの悪い。私はただ、人生の先輩としてよく話をさせてもらっているだけだ。照行殿は口が達者で、誰にでも友好的に接してくれる素晴らしい人だからな」
「定年過ぎたジジイだし、口も悪くて友好的じゃなかったら救いようがないよな」
「ブリジット、年上には敬うものだろう。しかし、照行様はもうそんな年齢なのか……もっと若いと思っていたよ」
「若づくりですからね、あの家系は。逆にあんたは老けて見える」

 ギャグのつもりに言うと、言われた本人はキョトンとする。
 周囲を見渡して、鏡になりそうな物を探し出した。皿を収納している戸棚のガラスに顔が映り、それをまじまじじっくり見て、ウムと頷く。

「私は、そうなのか?」
「オレから見ての感想ですからね、一般的にどうなのかは知りませんよ。あとあんたの場合、その喋りが悪い。やたらと古臭い言い回しをするし、よく言えば落ち着いてるから余計に老けて見せているのはある」
「ああ、それならときわ殿にも言われた。これでも意識してゆっくり喋るようにしているからな、でないと」
「でないと?」
「……自分でも言っていることが判らなくなる。その、私の悪い癖でな、ゆっくり考えながら喋らないと、ついあべこべなことを言い出してしまう。さっきまで右だと思っていたものが、左になっていることがある。どれが本当か偽物か判らなくなってしまう自覚があるから、慎重になろうと心掛けている」
「へえ、大人ですねぇ。……でも、そう言っている割には大人になりきれてない。わざとポーカーフェイスを気取っているから、子供っぽさが強調されるんだ。年相応に馬鹿やっていれば老けてるとかガキっぽいとか言われないのに、変にミスマッチさを生んでいるから違和感が生じるんでしょうねぇ」

 自覚はあったようだが直接指摘され、彼は思案し口を尖らせる。
 そこで露骨に嫌がらない。すぐに口元を戻し、砂糖の入った甘い紅茶を飲み……気分を落ち着けるような行動をし始めた。

「そういうお前達は若く見える。…………ブリッドも、とても可愛らしいと思うぞ」

 低く、大きく、アクセンが声を張る。
 聞いた兄は黙った。
 すると無言のブリジットに……アクセンは今までの一瞬を振り返り、頬を紅潮させていく。
 すかさずブリジットは空けていた隣の椅子に腰掛けた。彼から一つ離れた椅子からではなく、至近距離になる。構わず近くに寄り添った。

「今、何を考えました? 面白いこと、考えませんでした?」
「…………。何故ブリジットは、嬉しそうになったんだ?」
「弟をそんなに好いてくれる人間がいたんだなって思いまして。身内を良く思ってもらえば、そりゃあ兄として嬉しくなるもんでしょう? あんたでも失言とか恥とか感じることあるんだね」

 ――いつもそんな、ロボットみたいな顔してるのに。

 本に手を掛けていたアクセンの甲に、兄は指を絡ませる。
 アクセンは兄の動きに不可思議そうな顔をしたが、振り解くようなことはしなかった。掌を重ねられたまま、何をしているんだと視線で訴えるのみ。その視線を受け、ブリジットはニヤと笑う。
 それから数分、無言が続いた。
 手を重ねられたまま何もしようとせず、重ねたまま何かをしようともせず。口を閉じたまま何も言い返さず、笑ったまま何も言い出そうとはせず。
 黙って触れ合って何をしてるんだか。ワタシは尻尾を振るのをやめ、無音を維持させるため音を立てないように身体をずっと伏せていた。
 それが数分。もしかしたら数十分続いていたかもしれない。ワタシが眠りに落ちそうになったところで、無言の相撲を始めたブリジットの方が動く。
 腕を引っ張り、身を寄せ、そのまま唇を重ねようとした。

「……。ブリジット、今のは?」

 アクセンは拒まない。今まで成されるがまま掌を重ねられ指も絡められていたが、その延長上に口付けに応える彼がいた。
 一度接触できた兄は、呆気なく身を引く。

「今日はイヤなんだ? そんなムードじゃないってこと?」
「……ブリジット。私はお前と接吻をする理由が見当たらない」
「どうして?」
「どうして……? 今まで照行殿の話や、この陵珊一帯の話をしていた筈だ。何故私と口を付ける理由がある? 何か深い意味があってのことなのかね?」

 首を傾げて、何度も唇に触れている彼は……冗談という言葉を何も知らずに生きてきたのか。
 ブリジットは一向に表情を変えず、挑発するかのようにニヤニヤとした厭らしく唇を歪ませる。
 今日の兄は、そのようにして楽しむことにしたらしい。あまりに露骨すぎる表情に、ワタシは溜息を吐いた。あの赤毛の男は遊ばれている。解けない式に何か裏があると思い込んでしまっていた。

「まったく、最初から最後まで気持ち悪い男だな、あんた。あんたが興味を持ってる奴と同じ顔が迫ってるんだよ、きもちわりーとかやめろコラとかいっそ一発ヤらせろとか好き勝手反応してくれていいんだぜ?」
「……私が、興味を持っている……? 私は、ブリッドに興味を持っているのか?」
「はあ? 他人の心をオレが決められるかよ、バカか。もういいや。めんどくせー男だな」

 バカなんだろうけど、とブリジットは残した紅茶をぐっと喉に押し込む。

「いいや、とは何だ? 私が面倒……なのは、申し訳無い話だが」
「あっそ。ああ、アクセン様。書庫の地図とか資料とか、日付が変わる前に戻しておいた方がいいですよ。司書なんて大層なもんはこの寺にはいませんが、それでもあるもんが無かったらいつも書庫を使ってる坊主達がブチ切れますからね。勝手に拝借してきたなら尚更、とっとと戻しに行くといい」
「なに? そうか、良いことを聞いた。では地図を戻しに行くとしよう」

 何事も無かったように立ち上がる赤毛の男の顔は……無感情そのものだった。
 食堂に撒かれたノートや本、自分のティーカップを片付け始め、「ではこれで」と颯爽と去って行く。

「まだ紅茶は残っている。好きなだけ飲んでいくといい」

 さっきの粗相を忘れてしまったのか、何にも感じていない彼は自然な声でブリジットに告げる。

「あいよ。アクセン様。素敵な夜を、ありがとうございました」

 厭味ったらしく言い放ったが、その言葉端の意味すらあの男には伝わらなかっただろう。
 何事もなく背を向け、すたすたと歩いていく。そんな後ろ姿に、「ブリュッケ、何なんだよ、あいつ」と当然かもしれない問いをワタシにぶつけた。さっきまで意地悪げな笑みを浮かべていたが、いつの間にかげんなりとして疲れ切った表情に変貌している。
 と言われても、ワタシだってあの不可思議な生き物が何なのか知りたい。紅茶を一気に飲み切りお菓子を上着のポケットに入れて、片付けもせず緩やかな食堂を後にした。



 ――2005年8月14日

 【     /     /     /      / Fifth 】




 /4

 ブリジットは理解不能による苛立ちが隠しきれないまま、とある部屋に辿り着いた。
 駅前の、いかにも高そうな嫌味なマンション。豪勢で、近代の警備と魔術による厳重なセキュリティによって守られた城へ、次々と試練を乗り越え入り込んだ。
 警備員への挨拶、パスワードの入力、指紋の認証、カードキーを差し込み、インターフォンで住人と確認。信頼されていないことを前面に押し出された試練の数々を潜り抜け、最後に魔術の鍵を解除したブリジットは……最終的に苛立ちが収まってしまい、部屋に到着した頃には普通のテンションになっていた。
 なんであんなに苛立っていたのか、調子に乗っていたのか、忘れてしまうほどにここまでの道のりが長かったからだ。『剣に斬られそうになったことなんて気にしない』。そんなに長くも苛立っているのも馬鹿馬鹿しい。そう彼は思ったんだろう……。

「ただいま」

 まるで自分の家に帰ってきたかのように、ブリジットはマンションの一室に居た男に声を掛ける。
 もちろんこのマンションは、ブリジットのものではない。ここまで厳重な仕掛けを作り、中に留まることに決めた意地の悪い男のテリトリーだ。ブリジットを居住者と認めた覚えも男には無いだろう。だが、

「おかえり。どうした、苛められたような声をして」

 住民は、ブリジットの顔を一切見ず……パソコンに顔を向けながら彼を気遣った。
 と言っても気遣うような心優しい声色ではなく、指はキーボードに釘付けで、研究に没頭する姿勢は変わらない。眼鏡の奥の眼はディスプレイから離さず、淡々とした声をブリジットに向けているだけ。それでもブリジットは掛けられた声に少し心を良くし、彼が座る椅子の真横のフローリングに腰を下ろした。

「……変態に、変な目で見られた。うぜぇ」
「誰が被害者かは知らんが、どうせお前がいらぬことを言ったんだろ。苦悩している相手に余計な介入をしたんじゃないか?」

 カタカタと研究を続ける手は止まらない。だが男は、ブリジットを理解しきったような言葉を飛ばす。
 そんなこと言われたら繊細な兄は怒り狂う……ものだったが、今夜の兄は繊細でも軟い方が出ているのか。男の優しい言葉を聞くと、男の足元に縋り寄るように顔を近付けた。
 甘えている猫のように、構ってくれと言うかのように。機械から離れぬ男に引っ付く。
 暫く男はそんなブリジットを無視していたが、あまりに彼が膝の上に顔を置くなり邪魔をしてくるので、最終的にパソコンの電源を落とした。
 思い通りになって兄は静かに笑う。そして膝の上に乗せた頭を大きな掌で撫でられ、気持ち良さげに目を閉じた。本当に猫のようだった。

「とりあえずそこから退いてくれないか? お前の話を聞いてやる。まずは紅茶を淹れよう。菓子も今日の茶会の分が残っている筈だ」
「あー、そっちはお勉強で疲れてるんだろ。茶ぐらいオレが淹れてやるぞ」
「なんだ、今日のブリジットはやけに優しいな。そんなに傷付いているのか? 失恋でもしたか」
「うるせーよ死ね。大人しくオレに優しくされとけ。……砂糖は三つでいいよな、アクセン様?」



 ――2005年8月14日

 【     /      / Third / Fourth / Fifth 】




 /5

 下には、何も無い。
 降り立って判ることだが、そこに足を踏み入れる人間は誰一人としていない。
 見上げた空から飛び立てば、人間は確実に砕ける。頭は割れる。胴体は裂かれる。残るのはただの肉塊。そんな原型も留める死を味わえば、人として死ねなかったと魂は無念の形でこの世に留まってしまうことだろう。
 その形跡も、無い。
 仏田一族に回収されたからといって、何の負も撒き散らさぬまま世界が残るとは考えにくい。

「――マスターは、ここにいない」

 何が言いたいかというと、この谷には、死など香っていないということだ。



 ――2005年8月14日

 【    /      /     / Fourth /     】




 /6

 父は忙しい人だった。オレ達兄弟を連れて各地を転々としていて、何かに追われるかのように毎日戦っている人だった。

 母はオレ達を生んですぐに死んだ。だから父は一人で毎日戦っていた。いつも忙しい人なんだから幼いオレ達なんて手放してしまえば良かったのに、「自分の息子だから」と、ありきたりな理由で決して手を放さなかった頑固者だった。
 一見クールなのにいつも誰かの中央に居て、下手に優しくて、大らかで大きな人だった。物静かで何でも一人で抱え込む不器用さはオレが似てしまった。派手好きで何かと騒動の中に入りたがる性格は兄が似たと思う。
 ハッキリと覚えている。毎日忙しく走り回っていたことも、それでも夕食は極力オレ達と食べていたことも、寝る前に神話の絵本を読んでくれたことも、ピアノが好きでオレが強請ると弾いてくれたことも。
 苦痛の記憶に塗り潰されて、優しかった子供の頃を全部失くしてしまいそうになる。兄さんが「父さんの話をするな」と言うから、もうひどく遠い過去の人になってしまった。
 けど忘れたくない。忘れられない。今だって、いつか……父さんが迎えに来てくれるって心の底では思っている。

 そんなの、ありえない。
 父は罪を犯した人。全てをオレ達になすりつけて逃げた。もうこの世にはいない。だから迎えに来てくれないって判っている。
 けれど。それでもいつか父さんが救いに来てくれるんじゃないか。置いていかれて十年経った今でも考えてしまう。

 仏田寺に放火。金品の強奪。責任を子供に全部押し付けて、自分は崖の下の死の世界へ逃げて楽になった罪。
 父を捕らえることができずに死なせた一族。忌々しい罪人の子。残った子度も達に償いをさせるために引き取って、その後は。
 肉体の苦痛。絶望の責苦。
 ――オレ達を殺して、罪を償わせようという声。
 ――早々に父は死を選んで楽になったから、償わせるなら、生きて、葛藤させなければ、罰を負わせる、価値が無い。
 父の悪行。繰り返される呪詛。暗闇の中で送る毎日。浴びせられる暴力。生かしてあげているだけ感謝しろという言葉。
 傷付けられるだけの地獄。快楽を与えられるだけの天国。
 父が犯した罪は消えない。いつか誰かが償わなければならないこと。何にもできないけど、ただ肉の海の中で漂って喘いでいれば許してやると言われた。
 拘束された体。魔物が中を啜る。穴という穴に手が入る。
 あって無いような命でも利用価値はある。地獄でも餌として生きろという声。与えられる痛み。抉られる快楽。禍々しい異形に甚振られ、時には数人の僧達の相手をする日々を繰り返して、それで済むというのなら。
 一生かかっても返せないなら、せめて一生を尽くすしかない。
 沸騰した肉の内部に酔う。それにオレが味わった地獄なんて、兄さんに比べれば大したことない。今度はオレが苦痛を受ける番。
 ここは天国。ここは天国。何度も自分に言い聞かせ、何を言われたって平気だと振舞う。そうやって十年間我慢してきたんだから、これからも耐えられる筈。

 ……ループする苦悩の中で、幻を見る。

 父の過ちなんて無くて、オレ達を残して自殺したなんて嘘で、ただオレ達の前に来られない理由があるだけで。……ありえないのに、全て知っているのに、夢だって判っているのに何度も考えてしまう。
 間違いだ。間違いなのが間違いだ。父がしたことでオレ達はここにいるんだから、その父が何事もなくオレ達の前に現れるなんてありえない。
 もし目の前に現れるとしたら、それは夢。
 兄さんのように虚勢を張って無理矢理に心を奮い立たせて生きることなどできないオレが、耐えきれなくなって見てしまった、ただの夢。
 今もまた夢を見ている。魔物の愛撫を受ける最中も、優しい夢に身を委ねる。
 腹を撫でる黒い手が、優しい手だったら。
 唇をなぞる黒い手が、優しい口付けだったら。
 地下での拘束を解かれる。どろどろの粘液まみれの体を水で浄められる。幸せで満ち足りた気持ちのまま地上に向かう。感じるだけの時間を送る。本物じゃない幸せで浮かれて眠ろうとする。
 暫く深呼吸をして余韻に浸る。吐き気がする。何度も攻め立てられた体は怠い。苦痛だけに彩られてはいない。架空の幸せに酔って、自室に戻る前だというのに目を閉じる。
 魔物に犯された翌日は何の予定も入れられることなく、一日休息を与えられる。だから存分に優しい夢を見る。暖かいベッドの中で頭を撫でられる夢を。
 薬が足りない。体が重い。誰かが優しく抱きしめてくれる妄想をする。無感動な時間と思っていたものがみるみるうちに幸せになる。あつい。怖いものはたくさんある。大量の目。黒くって大きい、ぬらりと濡れた何か。黒い何かの中に押し込められていって、押し潰される感覚。怖い顔。暴力。笑顔。侮蔑。嘲り。注射。薬。くすり。ぼうあく。きょうぼう。ぼうこう。ばつ。りょうじょく。らんぼう。いたぶり。
 もうそうのなかでやさしくしてくれるウデ。それがあるから、イマのいままでしあわせにイきてこられた。
 まどろみながらまぶたをあけると、おおきな手がじぶんの頬をなでてくれている。
 あかいかみがゆれていた。かおをよせてねつをはかってくれる。
 まちがいない、とうさんだった。

「ブリッド、平気か」

 あたたかいてのひら。
 はっきりとしてききとりやすいコエ。まるでユメじゃないような、まさか、ついにオレたちをたすけに、きてくれた。
 ながかった出張がオわって、オレたちを迎えにきてくれた。死んだなんてウソをついてオレたちをオドかせたかったのか。
 いや、そもそもオレが十年とおもっていたながいヒビこそが、たった一日のユメだったのかも……?

「……父さん……」

 マモノだなんてバカげたソンザイなんていない。コワいヒトたちもいないし、別人になってしまった兄も、ぜんぶオレのワルいユメ。
 しあわせをユメをみていたけど、ユメのなかで夢をミて、オレはジブンを見失いかけていた。
 ナニもおそれることはない。うなされてネムっていたオレを起こす父のてのひら。そこに確かなしあわせがある。
 ……ずっとオレと、いっしょにいてほしい。それだけで、オレはしあわせなんだよ。
 こわかった、コワかったよ、イクドも泣きついて、泣いて泣いて、つかれてまたねむる。
 父さんのあたたかいウデにすがって泣き続けた。でも笑えた。父さんの前だったからだ。

 ――全部ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた夢。
 ――混乱した夢から醒めて、柔らかいベッドの上で朝を迎えた。

「……っ……」

 カーテンの先にある青空を見つけた。
 普段なら閉めきっている暗幕が、今日は無い。
 それどころか優しい紅茶の香りがする。横たわっているシーツも柔らかくて、夏だというのに快適な風すら感じる。
 自室の広くて冷たいベッドではない。自室ではまず嗅がないインクの匂いもした。テーブルやチェストだけでなく、ベッドの隣にまで積み上げられた大量の本。ノートとペン。ティーセットに大柄なスーツの上着。自分の部屋には決して無い物をぼんやり眺めていると、ベッドがズシンと沈む。
 自分が眠る横に誰かが腰掛けたからだった。

「ブリッド、おはよう」

 赤い髪で大柄な男性がオレの顔を覗き込んで、髪を梳かしてくる。
 大きく太い指が髪を掬う。夏の朝は山奥の洋館でもじっとりと汗をかくというのに、空調の効いた部屋は快適で不快感を一切抱かせない。気が重くなる夏を感じさせない朝に驚きながら……。

「……アクセン……さま……?」

 ……って、そんなことに驚いている場合じゃない。
 身を起こして、「どうして、オレ……貴方の部屋に……?」と呟きながら記憶を辿る。

「うむ、熱は下がったようだな。安心した。……昨晩二十二時近くだったか、花壇のベンチの上で眠っていたのでな」

 あそこで一晩明かすのは辛かろう、とアクセン様は微笑みと優しい声で教えてくれる。
 自分を気遣うあたたかい声に、一瞬強張った全身の力が抜けていった。
 ……きっと、自室に帰る前に力尽きて倒れてしまったんだ。地下の部屋に続く階段と自室までの距離は遠い。すぐに部屋に駆け込めば良かったのにそれすら敵わず……とりあえず腰を下ろせるベンチまで行ったはいいが、そこで眠りに落ちてしまったようだ。
 放っておいてくれれば良かったのに。でも律儀で真面目な彼はオレを自分の部屋にまで連れてきて、介抱してくれたという。
 ……帰らないと、迷惑になる。
 何か粗相をしていないか、寝惚けて変なことを言っていないか不安だったが、申し訳なくてすぐに身を起こした。
 突然目の前が暗転する。
 半身が痺れて動けない。心臓がドクンドクンと脈打ってる。長袖の下にある注射の痕がじわりと痛んだ。
 何がおかしい訳でもなく、急に立ち上がったせいで体が悲鳴を上げただけだった。

「ブリッド。無理をするな、気分が悪いのなら眠るといい」

 優しい彼は、ふらつくオレを抱き留める。ぎゅっと抱かれて、露骨に顔が赤くなるのを感じた。
 ただの偶然。でもふと触れた他人肌。一瞬だけだったというのに、心臓が高鳴る。
 そんなこと、さっきまで髪を撫でてくれた人だというのに、意識するといけなかった。
 ……だって、今までオレを優しく撫でる人なんて……誰がいただろう。
 誰もが乱暴にオレの体を扱う。「忌々しい罪人の子」だと罵る。だから、オレの記憶の中で触れてくれるのは……遠い昔に遊んでくれた父と。
 「ありがとう」と言いながら部屋から引き摺り出したり、海でオレを叱りながら引っ張ってくれたり、微笑みながら頬を撫でてくれた……この人しかいなかった。

「す……すみません、オレ、すぐ……自室に、帰ります」
「そんな調子で戻れるのか」
「……オレが鈍間なのは、いつものこと……ですから」

 起き上がろうとしてふらつくオレを抱き留めてくれる腕を、振り払うことが……できない。
 でもなんとか痺れる半身に力を入れて、ベッドから下りた。自分を気遣って助けてくれた優しい人にこれ以上迷惑なんて掛けられない。何度も頭を下げて部屋を出ようとした。なかなか前に進まないけど、

「ブリッド。足を引き摺っているぞ」
「……いえ、これは……まだ体が起きてないから、です」

 全部含めて、いつものことだった。
 以前……兄さんに自分の体に起きている異常を相談したら、「……いつも打たれてる麻薬のせいだろ」と呆気なく教えてもらえたことがある。
 兄やブリュッケだけじゃなく、大勢に「お前はぼうっとしている」と言われる理由。
 ――オレは、現実と夢の区別が出来ていない。
 どこまでの苦痛が現実のもので、どこからの悦楽が空想なのか、自分でも判別ができなくなってしまった。
 いつも頭がぼんやりするのもそれが原因。薬が効きすぎている翌日はいつもこうだ。
 怖くて嫌だった頃もあった。今となっては気持ち良くなるものが無いと辛くて夜を迎えられない。だから自分から幻覚の注入を望む。……おかげで目覚めが曖昧だ。
 アクセン様が不思議そうな顔で自分を見ていることに気付いた。今は、何の見返りもできない。ただただ謝ることしかできないのが苦しかった。

「これ以上……ご、ご迷惑をおかけする訳にはいきません、から。……大したこともできませんが、いつか……この恩は、絶対に……」

 一晩心配して看病してくれた恩が返せるなら。……何だってしよう。お礼ができるなら、何だって。
 そう言うと、彼は……「ならば」と出て行こうとするオレの腕を、強く引いた。

「ブリッド。私は行きたい場所がある。お前について来てほしい」

 そうして唐突かつ意外な提案をしてきた。



 ――2005年8月15日

 【 First / Second / Third / Fourth /     】




 /7

 法被姿の子供達が夏の暑い空の下、駆けていくのが見える。
 祭囃子が聞こえる方へ小さな影達は駆け出して行った。滅多に着ない浴衣でお洒落を決め込んだ年若い女子らがきゃっきゃと笑い合っているのも聞こえる。町に一番近い神社に近づく道に行けば、縁日の屋台がいくつも顔を出してきた。
 夏祭りにはしゃぐ子供の姿をよく見ていた。遠くから、お祭りに走って行く光景なら、何度でも。
 実際その光景の一部になれずに十九年間生きてきた。祭りに行きたいだなんて狭山おとうさんの前では言えなかったし、義父から「ときわはそんな子供じみた馬鹿なことは言わないだろう?」という無言の圧力を感じていた。子供の事から「子供じみた馬鹿なことはしない」を強要されていたぐらいだ、冗談でもあの世界に混じりたいと言えなかった。
 でも、心優しい圭吾さんや規則を破ることこそが青春だと考えていそうな霞さんが、(無断で行った)縁日のおやつを買ってきてくれたことがある。だから屋台の焼きそばやタコ焼きの味は知っている。冷たくなったパックの味だけれども。
 普段と違う子供達の笑い声も、そこでだけ食べられる特別の味も、歌やダンスも僕は遠くで味わう冷たくなったものでしか知らない。

 さて、実際祭りの会場とやらに近寄ってみると……あまりの人の多さに気圧されて帰ってしまいそうになった。
 夕暮れ過ぎの会場は至るところに提灯が付けられ、洋風な町並みが中途半端にタイムスリップしたアンバランスな世界になっていた。
 完成された美しさはない、寄せ集めで雑多な娯楽。だが決して悪いものではない、この一帯から庶民的な喜悦を呼び起こされる感覚を全身で味わえそうだった。

「ねーねーときわ様ーっ! おれねおれね、焼きそば食べたいんだーっ!」
「ね〜ね〜ときわさま〜、ぼくねぼくね、タコ焼きが食べたいんですよ〜」

 一度もお祭りというものを楽しんだことのない僕がどうして両手を引かれて会場に飛び込んでいるかと、子供であることを全面の武器にした火刃里くんと尋夢くん兄弟のおかげと言える。
 外へのお使い(彼ら二人は下界の商店に使いっぱしりに行くことがある。大抵は福広さんや芽衣さんの煙草を梅村さんのお店まで買いに行くぐらいだが)終えたとき、祭囃子の音色を聞いたらしい。
 8月15日に夏祭りがあると知った二人は、仏田寺に帰るなり松山さんのところに突撃して「おれ達もお祭り行きたいーっ!」と直談判してきたという。
 それを聞いた松山さんは「止める理由が無い」と二人のお出かけを快諾した。僕が十九年間止められていたことなのに、二人は即決オッケーを貰っていた。
 ……正直に言うと、なんだそりゃと思った。信じられなかったし、なんだか妬ましかった。
 そりゃあ火刃里くん達と僕の立場は違う。僕はこれでも偉い人の子供だし、とても真面目だし、優等生だ。彼らを下賤に見ることなんて決してしたくはないけど、僕とは全然違うポジションにいる子供だということは知っている。求められているものが彼らと僕では違う。二人は「遊んでいる場合ではなかろう!」と叱られることはない。……でも、でも。
 端から二人を見ていて、僕はとってもひどい顔をしていたと思う。祭りに行きたいと言うことができて、言ったらオッケーされるという光景が、僕には……無かった世界だったから。
 その顔を見たから(ではないと思うが)、偶然僕と目が合った尋夢くんが「ときわ様も一緒に行こうよ〜」と言ってくれた。

 まあ、なに。子供の引率には保護者が付きものだ。
 まだこの辺りに慣れていない二人のためでもある。僕は進んでエスコートを名乗り出た。

 さっきまで僕の両手を引いていた元気いっぱいの兄弟は、僕が返事をする前にそれぞれの屋台に飛び込んで行く。
 あっという間に火刃里くんは焼きそばを、尋夢くんはタコ焼きをゲットしていた。道端でむしゃりむしゃりと齧り付く。口の周りをソースで汚しながら、時に交換しながら満面の笑顔でジャンクフードを頬張っていった。

「ときわ様も食べたいーっ? 食べたかったら食べたいって言わなきゃダメだよーっ!」
「あ〜んなの〜。あつあつほかほかだからお口ぼっぼしないようにしないとダメ〜」

 殆ど残っていないような焼きそばのカスをハイっと渡してくる少年に、まだ湯気がぼうぼう出ているタコ焼きを口へと押し付けてくる少年。
 道端で食事をする。まずありえないことだ。空調の効いていない外は居るだけで汗が流れてくる。
 居心地ははっきり言って良くは無い。でも法被を着た子供達も、浴衣を着た女の子達も、果ては大人達も雑多な光景を楽しんでいる。
 これが自然体で楽しいということなんだろう。みんなで大騒ぎして、次から次へと出てくる騒がしい話題に振り回されて、大声で喚いていく。
 知識ではこういう雰囲気の場所だって知っていたけど、実際味わってみると……思った以上に疲れる世界だった。これなら扇風機のある部屋で魔導書の復習をしている方が気楽かもしれない。
 しかし、悪いものではなかった。

「そんなに慌てて食べなくても。火傷しちゃうだろ、もっと落ち着くべきだよ」
「んなこと言っちゃってーっ。ときわ様も食べたいんでしょーっ?」
「……一人で一パック食べるなんて、非効率的だよ。色んな物を味わいたいならみんなでシェアするべきだと思うな」
「またまたーっ! カッコつけちゃって、もぉーっ!」

 そんな戯言を口走りながらも……その口がニヤけていることが、自分でも判った。

「あーっ! あそこっ! あそこ見てっ!」

 次は綿あめを食べるだの焼き饅頭が食べたいだの吠えていると、火刃里くんが大声でとある屋台を指でさした。
 射的か。二メートルも無い位置から商品を狙い打つ遊戯の屋台。それが何だと思いきや……屋台の前に、随分と背の高い男性が銃を持って構えているのが見えた。

「福広さんドーンっ!」
「あべしぃ」

 いざ一等の景品を撃ち落そうとしている大男の背中に、ソースで口を汚した火刃里くんが頭から突撃する。
 そんなことすれば彼の背中はソースまみれになるし、そもそも狙った銃弾は見当違いのところに……いくものなんだが。
 後ろに目でもあるのか、火刃里くんの直撃を上手く避け、尚且つ二等の景品を撃ち落す福広さんがいた。それもまた神業だ。射的の店主が落ちた小さな景品を拾い上げる。安っぽいビーズでできた髪飾りを受け取る福広さん。……少なくとも成人した男性である彼には似合いそうもない代物だった。

「なんだよーっ! 福広さんもお祭り来てたんだーっ!? 松山さんにちゃーんと了解取ったのーっ!?」
「なんだよってなんだよぉ? 大人はなぁ、別に了解なんて取らなくても来たくなったら勝手に来ちゃうもんなのだぁ。っておいぃ俺のシャツでごしごし口拭かないでくれるぅ?」
「だっておれティッシュ持ってないもーんっ!」
「ふぇ〜だからって人様のシャツでお口はグシグシしちゃいけないと思うなぁ〜? 教育ができてないんじゃないのぉ、ねぇトキリーン?」
「……確かに、人様のお洋服を汚すのはバッドです」

 僕は用意していたウェットティッシュを火刃里くんに渡そうとするが……そんなことお構いなしに、彼は外での感動的再会を果たした福広さんに再びアタックしようとする。
 そんな突撃にも福広さんは可愛らしい景品を店主から右手で受け取りながら、左手で突撃してきた火刃里くんの頭を受けとめていた。

「ああそうだ福広さんっ、頼まれてたタバコだけどねっ!」
「おぉ、火刃里くんてばちゃんとお仕事してたねぇ?」
「それねっ、芽衣ちゃんに全部あげちゃったっ! 後で芽衣ちゃんから貰ってねっ!」
「あちゃぁ〜、芽衣にやったとなったらぜーんぶ吸われちまうかなぁー?」

 火刃里くんの頭をがしがしと撫で、相変わらずだらしのない笑みを浮かべている彼。
 成人男性が上層部から許可を取らずに祭りに来たことには何も思わない。ただ、この人の場合仕事を放り出しているんじゃないか。そこまでだらしない人だとは思いたくないけど、気の緩んだ顔についそんなことを考えてしまった。

「んじゃぁ、俺はこれにてお寺に戻るからねぇ。火刃里達は精一杯お祭りを堪能してくるんだよぉ」
「ええーっ? もう帰っちゃうのぉっ? まだ六時だよっ? 全然暗くなってないのにーっ?」
「へっへへぇ、仕方ないさぁ、お仕事があるんだもーん。俺はいい大人だから時間通りに帰るのさぁー」

 って、仕事のことを考えていたらまさにそのことを口にした。
 なるほど、昼間はオフで夜から仕事を任されていたのか。それならここで油を売っていてもおかしくないかも。

「トキリーン」

 慌ただしいけど時間潰しに縁日は丁度良かったのかもな、と思っていると福広さんの手が……突然僕の頭を襲った。
 急に髪の毛を引っ張られる。唐突な暴力に声も出せず驚いてしまう。何をするんですと言おうとしたとき、さっき景品で貰ったビーズの髪飾りを、僕の頭のてっぺんに結ぼうとしていることにやっと気付けた。

「うーん、髪が短いから結べないなぁ」
「……あの。バカみたいなことやめてくださいっ」
「えぇーっ、今日はお祭りよぉ? ここでバカをしないでいつバカするのぉー? んんーぅ、やっぱトキリンにゃぁお花のゴムは似合わないねぇ。じゃあ兄貴にでもあげるかぁ」

 短い髪につけられないと踏んだ福広さんは髪飾りのゴムを力任せに引っ張って取る。激痛ではないけどそれなりに痛い。断りもなくいきなり髪を掴んで、結ぼうとして、それで似合わないとは何事だ。思わず全身の毛を逆立てて警戒してしまう。
 露骨に睨みつけたが、彼は変わらず下品な笑みを絶やさず今度は尋夢くんの頭につけようとする。すると「ぼくは男の子だから髪飾りはいらないのですよ〜」と僕の中に無かった発想で頭を振りたくった。それが相当面白かったのか、高い声で福広さんが笑う。

「トキリンはなんなのぉ、一応は引率のつもりなのぉ?」
「一応も何も、僕は火刃里くん達の引率です。チームのリーダーですよ」
「ぷっふぅ。もしかしてもしかしなくても大事なトキリンのボディガードがこの二人ってことじゃないのかねぇー?」
「殴ります」
「おおぅストレートぉ」

 そうしている間にも射的のお店の前には銃を持ちたい年頃の男の子達が集まってきていた。善良な彼らに場所を譲ろうと僕らが動くと、福広さんは正反対の……寺の方へと歩き出していた。
 挨拶も無し。グッバイもシーユーも、楽しんでおいでの一言も無く、笑みを浮かべたまま僕らに背を向けて去って行く。
 一方で火刃里くんは背中に律儀な「バイバーイ!」と大きくブンブンと手を振った。それから「金魚とってやるー!」と次の屋台へと駆け出して行った。
 この間たった五分。いや三分の出来事。感慨も無い、とても短い一幕だった。

「ねぇねぇ火刃里おにいちゃん〜。金魚掬いと型抜きもいいけど、花火の場所取りも必要なんだよ〜」
「花火。へえ、尋夢くん、そんなものもあるってよく知っているね」
「あれ〜知らないのときわ様〜。六時かね、七時かね、八時にね、どっかーんって花火をやるんだよ〜」

 ……スーパーアバウトな情報だ。
 射的の店主さんに尋ねると、花火が打ち上げられるのは七時かららしい。まだ一時間もあるよという話だったけど、今から金魚掬いだなんだと言っていれば二時間ぐらいあっという間に過ぎてしまう気がした。

「……火刃里くんは、金魚掬いは得意なの?」
「へっ? うん得意だよっ! あんまやったことないけどっ! まあプロは名乗れないレベルだから初心者ってやつだから五十匹はカタイねっ!」

 五十匹。それが金魚掬いビギナーのボーダーラインなのか。
 圭吾さんや霞さんはおやつを買ってきてくれることはあった。でもそれだけだった。射的のような遊戯は実際その場で自分が遊んでみなければ楽しめないもの。……つまり、僕にとっては正真正銘見たことも聞いたこともない初めてエリアである。

「おおおっ、やる気だねときわ様ーっ!? その顔めちゃくちゃ闘志に燃えてるってやつじゃーんっ!?」
「そんなつもりは無いんだけど。……ああ、でもやってみたいのは確かだ。花火大会が始まる前に決めておかないといけないかな……」
「おおーっ、おれ負けないよっ! いっぱい獲って銀之助さんにお料理してもらうんだーっ!」

 そうだ、獲った魚は家へお持ち帰りできるという話は聞いていた。
 金魚料理は食べたことないけど、銀之助さんならきっとおいしく調理してくれることだろう。どんな味かも想像できない。
 自分の報酬を目指して、僕は未知の領域に踏み出した。



 ――2005年8月15日

 【    /      /     / Fourth /     】




 /8

 ワタシは狼だ。どこからどう見ても立派な獣だ。それを町中に呼び寄せるとは何事か。

 人が多い。普段洋服しか着ないような少年少女達が慣れない衣装に悲鳴を上げながら、それでも陽気に笑って会場へと向かっている。
 いつもなら車が横行する道。なのに今夜ばかりは人という人が溢れている。すっかりと過疎化の進んだ町だと思ったが、どこにこんなに人々が潜んでいたやら。滅多に出ることのない道、見ることのない人数をぼんやりと眺める。

 8月も半ば、本日は曇りがちだが雨にはならない良い夜になりそうだった。暑すぎず、天気も悪くないという最高の日どりと言える。ワタシの毛並みもじっとりと濡れることのない良い夕時。本当のことを言うとワタシは魔力で体を再現しているので人間のような代謝なども無いし汗もかかず、そもそも毛が抜けたり劣化したりすることもないんだが……。
 いや、いやいや、それは問題ではない。そういう抗弁垂れ流したいんじゃない。
 本来であればワタシはブリジットと契約しているのだから、具合の良くないブリジットについていてやるのが一番だ。地下で魔物と仲良くしていたブリジットとワタシの具合が良かったから、ワタシから声を掛けたのが出会いだった。本当なら当主が魔物に魔力を与えるところなのに、根性の無い現当主や次期当主に代わって魔物と供給を行なう彼が気になって……鎖に両手を繋がれて宙づりにされて死んだ目で大量の肉に弄ばれる彼が可哀想でならなくて……なにより彼の血は誰よりもワタシに馴染んで……いやいやいや、だからそんなことを言いたいんじゃなくて。
 ブリッドが急に助けを呼んだから、兄に断りを得て駆けつけたのだ。
 助けてと言われたのだから行かない訳にもいかない。まず向かわない場所であろうが、と言っても不可視のまま、誰にも姿を察知されないようにブリッドの隣に降り立った。

 人が、多い。
 あっちに行けばわいわいと、きゃあきゃあと笑う人々で溢れている。祭りってこんなに騒がしいのか。騒がしいから祭りなんだろうけどさ。
 ワタシに助けを呼んだ当人はというと……大勢が酒を煽って騒いでいる空間に、一人取り残されていた。
 彼の周囲に居るのは祭りだからと酒を飲む者。祭りだからと声を荒げる者。祭りだからとハメを外す者。全員揃って馬鹿騒ぎ。
 地獄か、ここは。
 そんな中に似つかわしくない人物がぽつんと一人。サングラスを深くかけ、目立たないように黒い上着という地味な格好。それがまた余計に目立っている。……おかげで限度を知らない若者に捕まりかけていた。どうしてそんな陰気な格好をしているんだ、と酒気を帯びた者達に……。
 ワタシは(不可視の状態のままだが)青い顔をしたブリッドの上着を咥え、走った。すぐに路地の小陰へ、どうすればいいのか判らない彼を連れ込む。
 華やかな祭りなんて場違いなのにも程がある。弟が断れない性格なのは知っているが、時には断ることを全力で教えなければならない日が来たかもしれない……。激怒してやろうかと思っていると、ブリッドはへにゃりと小陰へ座り込んでしまった。
 気持ちは判る。……「一人で心細かったんだ」ってことぐらいは。

「ん? そんな所に隠れていたのか、ブリッド。どこに行ってしまったかと思ったぞ」

 なんで一人で居たんだとワタシが問い質す前に、ひょっこりと赤毛の男が現れた。

「……あ……アクセン様……」
「混んでいてなかなか買えなかった。だが良いこともあった。どこの国だと尋ねてきたのでな、教えてやったらどんな国だと質問攻めにあった。話をしただけで一本ジュースを余分にサービスしてくれたぞ。日本人は優しい人が多い」

 優しく微笑む彼の手には缶ジュース。それをブリッドに渡してくる。これは買ってきてくれたと見るのが正解か。
 つまり……ブリッドの為にジュースを買いに行ったと? 時間が掛かったと? その間に祭りを楽しむ若者達の群れに襲われたから助けてほしいとワタシに叫んだと?
 思わずワタシはギロリとブリッドを睨んでしまう。
 そのブリッドは……両手で缶ジュースを受け取り、飲まずに掌の中で転がしていた。無視か。誤魔化したくて無視してるつもりなのか、それは。

『もう体調は戻っているんだろう? せっかくなんだから、どこぞの坊ちゃんのようにはしゃいでしまえばいいのに』

 ブリッドに身を寄せてやると、彼はぐいっと押し返してきた。視えていないアクセンにバレないように。
 しかしワタシは不可視の状態なんだからそのまま寄りかかったら変に見られるだろ。いっそこのまま姿を現してアクセンの気をワタシに向ければいいのか。考えたが、こんな人が多いところで姿なんて出したくない。
 ワタシは美しい。自分で言うのもおかしな話かもしれないが、輝く銀色の毛並みは美しい。
 加えて大きく、小さな子供だったら背負うことぐらいできる体躯だ。そんなものだから子供や女が居る場所で姿を現してみろ、群がられて大変なことになる。……それはそれで全ての話題がワタシに向いて注目から逃れることができるブリッドには救済になるのかもしれないが。
 そこまでワタシに甘えるな。困ったことがあるとワタシか兄に甘える癖をなんとかしろ、と鼻をフンッと鳴らしてやった。絶対に実体化なんてしてやるものかと吐きつけてみたら、ブリッドが残念そうに肩を丸めた。この男、本気でワタシを売るつもりで呼んでいたのか……。
 そんな風に、ずっと(視えない)ワタシに気を取られていたブリッドはここに居る彼の動きを追いかけていなかった。返事も半分していなかったのもある。
 だから彼がすぐ側までやって来ていて、すっとサングラスを外してしまったことにも気付けずにいた。

「…………。えっ……。あ、あの、アクセン様……?」

 気付いたら……ワタシばかりを気にしていたブリッドの前に、彼が立っていた。
 目線を合わさないようにするため着けていたサングラスを取られて、ブリッドがひっくり返った声を出す。

「ふむ、顔色はだいぶ良くなった。人混みから離れて休憩した甲斐があった。まず水分補給をするべきだが、どうして飲まないのかね?」
「……その……飲みます。だから、その……サングラス……すみません……」
「何故謝る? 謝ることではないだろう? 遠慮しているのか。私に構うな。飲みたまえ」
「……はい」

 すらすらと流暢に捲し立てるアクセンは、自分の上着のポケットにサングラスを畳んで入れてしまった。
 返しての一言を告げる前に。おそらく告げたとしても返してもらえそうにない様子だった。

「大勢が楽しそうにしているな。皆、笑っている」
「……お祭り……ですから」

 ブリッドは急いで受け取った缶を開けて口を付ける。
 そうすれば顔を隠す道具を返してもらえるんじゃないか……と思ったようだが、飲んでも何も変わらない。それどころか、

「だというのに、何故ブリッドは楽しそうではないのだ?」

 正面からの、正直すぎる追及。
 直球な質問にジュースを飲む手が止まる。何と反応していいか判らないから無言でやり過ごそう……とでも思ったようだが。

「祭りに来たのだぞ。皆、楽しみたくてここに居る。現に彼らは野獣が山に放たれたように喜びわいているではないか。何故お前は笑わない? 皆が笑っているというのに、楽しいとは思わないのか?」

 笑うことが当然だと堂々言い張る彼。そんなことを言われてしまっては弟も手だけでなく、全身が機能停止したかのように固まるしかなかった。
 そんなもの「何故」と問われて説明できるほど自分を客観視できる奴の方が少ない。しかし真面から問い掛ける顔は、真剣そのもの。純粋無垢な疑問をそのままぶつけてくる子供のような眼差しがブリッドを襲う。
 無言が、続いた。
 周囲は笛の音が鳴り響き、軽快な太鼓が人々の足取りを軽くしていく。笑い声も聞こえれば、泣き喚く赤ん坊や笑顔であやす母親の声、乾杯をぶつけ合う男達の声も聞こえてきた。
 だというのに二人の中は、沈黙が支配していた。
 ……二人の状況が判り、ワタシはふうと溜息を吐く。
 いいかげん意を決して姿を現し、祭りの会場に突如現れた大きな犬として巷の話題を掻っ攫ってやろうか……そう考えながら、無理難題をぶつける赤毛の男を眺めた。

 茶化すことなく真剣そのもの。それは変わらない。
 だが、ワタシが知っている彼の表情とはまるで違っていた。
 思わず目を丸くして、顔を覗き込んでしまう。
 そんなワタシの驚きも、彼の些細な変化も、顔を俯かせたブリッドはどちらも気付かない。見てみろと声を掛けてやろうとしたが、その一言すら出てこないほどワタシは仰天していた。

 ……笑っているように見えたのは一瞬だけだったらしい。アクセンという男は、焦っているようだった。

 ワタシが驚いているのも束の間、一頻りジュースを飲みほしたブリッドを見た彼は、缶を持っていない方の腕をぐいっと掴む。
 そうしてスタスタと歩き出した。
 なるべく人が多くない、祭りの会場から離れるような方角へと。

「……あ……あの……?」
「もう真っ直ぐ歩けるだろう? 眠くもないな? なら行こう。ここが忙しないのなら、お前が落ち着ける場所へ」

 アクセンは歩き出す。オロオロした弟を連れて。
 人が次第に多くなってくる時間。歩いている最中も何人もの人々とすれ違った。
 大の男に引っ張られるブリッドを見て、数人が振り返っていく。ブリッドは比較的目立たないように心掛けてはいるものの、一方の彼は一際目立つ外見をしているから余計に注目を集めていた。
 明るい髪や彫りの深い顔つきもさながら、通り過ぎていく日本人の頭一つ背が高いのも原因だろう。大柄でここに居る誰よりも大きく、加えて隣に立つ情けない男を引っ張っているのだから自然と注目されてしまう。
 ブリッドは集まる視線に更に身を丸くしながら、転ばないようにアクセンの後を必死に追いかけていた。
 ……そんな目立ち方をしていれば、あちこち目敏く祭りを謳歌している少年にも気付かれてしまう。

「あ、アクセンさん!? 貴方もお祭りに来てたんですか!? ブリッドさんまで!?」
「む? ときわ殿。君も居たのか」
「この人混みの中でお二人に会えるなんてラッキーですね!」

 昨日声を掛けられて以来のお坊ちゃんの登場にブリッドは一段と体を震わせていたが、そんなのどこいく風。
 まったくもって昨日のことなど気にしていないようなときわはブリッドまで居ることにとても驚き、この上ない笑みを湛えた。

「ときわ殿もいるとは思わなかった。昨日のうちに尋ねておけば良かったな」
「ええ、けど僕、今日お祭りの存在を知ったぐらいですから! 昨日の段階だとどうなっていたか判りません」
「ふむ。……君は楽しんでいるか?」
「お祭りですからね」

 人目も憚らず、堂々と大きく身振り手振りを振る舞う少年。調子はすこぶる良いようだ。
 ただでさえ小柄な彼はアクセンと並ぶと必要以上に小さく見えるのだが、今日ばかりは公然と胸を張って祭りの良さを講じている。
 楽しいかという問いに対して、祭りだからという返事。現にときわは笑みを浮かべて臆することなく公言している。先ほどのブリッドも同じようにしていれば無駄な沈黙合戦をしなくて済んだというのに……。

「でもまさかアクセンさん達までいらっしゃるなんて。誰かから祭りがあると聞いたのですか?」
「いや、元から知ってはいた。来る予定もあったぞ。ブリッドを連れてくるつもりではあったんだ」

 すっぱりと言いきる姿に、「ほう」とときわは興味深そうに顎を撫でる。そして我が事のように喜ぶような無邪気な笑みを浮かべた。
 一方、言われたブリッドはというとキョトンと目を丸くする。やがて……ゆっくりと首を振り始めた。その動きがあまりに鈍いのでときわに本心が伝わることはない。ブリッドが「そんなの、聞いてない」と主張していることなんて、この場に居る誰にも伝わっていなかった。

「すまない、ときわ殿。本来であれば君とも一緒に祭りを享受したいのだが、行かねばならぬ所がある」
「オウ、そういう言い方をするってことは何か訳なんですね、アクセンさん」
「その通りだ。失礼するぞ。次の茶会で楽しい話をしようではないか」

 高低の無い声の主は、淡々と話を進めていき……偶然の再会も束の間、またアクセンは歩き出す。
 ブリッドの腕を掴んだまま。
 掴まれた被害者は慌てたままだが、ときわは颯爽と「行ってらっしゃい、またシーユー」なんて言いつつ手を振るだけ。そんな再会を終えたときわの後ろには、知らず知らずのうち子供達がひょっこり潜んでいた。二人の子供は焼きまんじゅうやらクレープやら雑多な物を頬張っている。

「なっ、いつの間にそんな見るからにデリシャスな一品を買っていたんですか。羨ましい」
「だってだってーっ。トキリン様どっか走って行っちゃうんだもーんっ! なら焼きまんじゅう買って食ってるしかねーよねぇーっ!」
「なんですかその理論。なんですかその呼び方」
「まねっこ〜、福広さんのまねっこ〜」

 彼も彼で彼なりにこの場を楽しんでいくのだろう。
 祭り会場なんて珍しい場所の方がワタシは気になる。だがそこから離れていく人物に助けを呼ばれているのだからこちらも行かねばならない。引き摺られていく彼を追いかける形で後に続いた。

 そうして到着した場所は、人なんていない神社だった。

 辛うじて残っている鳥居。ぼろぼろに朽ち果てた木造の社。放置されて誰も手を付けていない祭壇。申し訳程度に置かれた賽銭箱も、一体誰が管理しているやら。
 本来なら神の降臨する場所の筈だ。だが祭りの会場から離れていたせいか、誰にも見向きもされずに貧相な面持ちなそこは暗く、存在感を失くしていた。

 夏祭りと言えばこういった所が会場になるものだろう。しかしこの町ではそれ例に当てはまらなかった。
 なんせ、元々この一帯に良い歴史は無い。行なわれている祭りもただここ数年、無理矢理活気を持たせるために人々が努力して作り出したものに過ぎない。
 人々は、人々が必要としている明るい場所に群がっていく。
 神社はあっても人がいなくなれば神もいなくなる。ここは、ただ暗くて何かがあった場所というだけだった。

 鬱蒼と木々が茂ってはいるものの、建物があるため腰を下ろせないことはない。
 人の手は長らく加わってはいないが汚い場所でもなかった。アクセンは奥に座れと言う。ワタシが先に腰を下ろすと、ブリッドも続く形で座り込んだ。
 彼らはどれぐらい歩き回っていたかは知らないが、少なくとも半日は共に時間を過ごしていたと思われる。普段以上に疲れた顔をしていた。
 その程度で使えなくなるような体ではない。けれどただでさえ魔物に食われ、心身共に疲れ果てている状況でこの仕打ちだ。
 嫌なら嫌と言えばいいのにそれすら出来ない内気な弟は、言われるがまま付き従っていた。

「やっと座れたな」
「……はい」
「ブリッド。疲れたか。私も疲れたぞ」
「…………」
「そうだ、何か話をしてくれ」
「……。はい……?」

 足を伸ばして深呼吸をしていたブリッドに、すかさずアクセンはそんな提案をする。
 日も落ち次第に闇が立ち込めていく中、どのような表情でそう口にしたのか計れない。
 そんな彼はブリッドが座る目の前に立ったまま。自分も隣に座ればいいのに社の中へは入り込まず、立ち尽くしていた。

「ずっと私ばかり話している。それでは不公平だ」
「…………」
「祭りに来れば楽しんでくれると思ったが、お前はときわ殿達と違うらしい。祭りだから楽しいのではない、楽しくないから笑わないお前がいるのだろう。ならお前が良いと思う話を聞かせてくれ」

 低く深い声が、ブリッドにかかる。
 繰り出す言葉は、決して弟を責め立てる意図で発したものではなかった。言葉下手なブリッドにとって決して優しい事とは言えない。
 なんでもいいと言うアクセンに対し、楽しい話などできませんがと前置きをしてブリッドは口を開こうとする。
 と言ってもちゃんと話せる訳もない。何度も口を開こうとしては、言葉に詰まる。俯いたり時にワタシの毛並みを(アクセンには視えていないというのに)撫でたりして、沈黙を潰していた。

「……その、オレ……楽しいです」
「しかし」
「……懐かしくて、嬉しいですから。これでも楽しんでます」
「懐かしいのか」
「……はい」
「しかしお前はちっとも笑わない。全然私に笑いかけてくれないじゃないか」

 言われて、ブリッドは唖然とした。
 自分の掌で顔を触る。頬を、口を、何度も触ってじっと手を見た。
 目の前の男は責め立てているのではない。自分を心配してくれている。苦しい追及ではあったが、誰よりも優しい気遣いになんとか受け答えようと深呼吸をした。

「……どうして……ですか、アクセン様……?」
「何がだ」
「どうして……そんなに、オレを、笑わせたいのですか……?」
「私は、ブリッドの笑顔が見たいんだ。…………その顔が、好きなんだ……」

 滅多に見せないもの。
 暗闇の中に立つ男は、苦しく絞り出しているように思える。スマートな口調もままならないほどに高揚しているのか。珍しい。全身で苦悩を表現したかのような声に、ブリッドはビクリと肩を震わせた。
 他人を不安にさせるほど、苦悩に満ちた表情。それがこの楽天的な男には耐えられなかったのか。
 ……話を、しよう。目の前にいる彼の顔色を曇らせるなんて、したくない。そう思い至ったのか、すうっと呼吸を繰り返す。
 祭りの会場だったら掻き消えてしまいそうな小さな声で、呟いていった。

「…………オレ、その、昔……夏祭り、行ったことがありまして……」
「ああ」
「……兄と父と三人で。お祭りなんて……それ以来でした」

 思い出していくブリッドは、顔を俯かせて過去に浸る。
 まだ兄が無邪気だった頃の話。父が、生きていた頃の思い出。
 ……迷子にならないように手を繋いでくれていたときのこと。大きな掌がずっと握っていてくれたこと。自分と同じ小さな掌がぎゅっと守っていてくれたこと。ぽつぽつと絞り出すうちに、また震えが始まる。
 良い思い出でも、今では思い出すたびに胸が苦しくなる傷の一つのようだった。

「だから、懐かしくて……嬉しいです」

 ブリッドは目を瞑る。彼が夢を見る予兆だ。
 現実から逃げ出して妄想に耽る瞬間を見てしまう。こんな所で眠りの世界に落ちそうになるブリッドに、齧り付こうとした。
 だってここはベッドでもない。拷問部屋でもない。ただの神社だ。いつもなら兄が叱りつけるがここにはいない。ならばワタシがと口を近付ける。

 すると肩を丸めて俯くブリッドに、アクセンはようやく近寄った。
 社に腰を下ろすブリッドへ跪くように見上げ、手を取った。

「嬉しいのか。なら、お前が今そのような顔をしている理由は……昨晩の仕事が、辛かったからか?」
「…………はい。でも、本当は嬉しくてたまらないぐらいなんです」

 ――そんな会話に、ふと、ときわがブリッドに「仕事をし過ぎだ」と叱ってきた日を思い出した。

 そうだ、仕事の件数を指摘されたあの日から少しずつ穏やかな日々を送れてきたんだっけ。
 ときわが供給行為まできっちりとカウントされた数字を退魔業と間違えて、人より数百倍も働いていると思い込んでから……ブリッドの日々は大人しいものになっていった。
 一晩に何度も一族の男達の相手していた彼が、穏やかな時間を過ごせるようになった。日常が平和になれば、出会える感情も不思議と増えていく。人の暖かみを味わう時間も多くなる。
 今のように、優しく……撫でてもらえるときだって増えていく。そのうちかつて彼の父が愛してくれた時間と同じぐらいには……。
 ……なんてワタシは知った口をきいているが、穏やかなブリッド達の過去を見たことがない。ブリッドの優しい思い出に直接触れ合ったこともない。ワタシの知っている兄は壊れきった空虚の男であり、ブリッドが好きだった藤岡 輝(ふじおか・ひかる)なんて男にも会ったことはなかった。実際どれほどのものかは予想でしかない。

 まあ、そんな戯言はともかく。
 いきなり手を取られて気恥ずかしい弟は、見つめ合おうとする真面目な男に対し視線を外そうとした。
 目を合わせたからって死ぬことはないのに。視線を交わした『途端狂ってしまうような魔眼でも持っているなら別』だが、『ブリッドが目を合わせないのはただただシャイなだけ』だ。
 眠ってもいられない、今度こそどうしようと慌てるブリッドだったが……。

「なら良かった」

 しかし丁度そのとき、何処からともなく爆音が鳴り響いた。
 音の方にワタシは振り返ってみると、夜空に明るい花が咲いていた。
 人が集まっているであろう広場から大きな光が打ち上げられている。花火だった。

『……なんと』

 花が咲く。色取り取りの花が咲き、散っていく。それが何度も繰り返される。
 花火なんてもの兄弟は見る機会は無かった。この日は決まって兄弟共に部屋に引きこもってシーツにくるまっていることが多かったからだ。だから近くで爆音を聞くこともワタシにとっては初めてに近いし、人より何倍も鋭い嗅覚が火薬の匂いで刺激されて居心地が悪い。
 とても綺麗な花が夜空に描かれているけど、なんともむず痒い。まるでこの男が仕組んだような景色に尻尾を無駄に揺らしてしまいそうだった。

 さて、ブリッドはというと……驚いた顔でアクセンの顔を真正面から見つめていた。
 顔を合わせるなんて勇気のいること、数年ぶりかもしれないのに真っ直ぐに見つめている。
 そうして握られた手にゆっくりと視線を向けた。手の中にはいつの間にやら何かが握られている。両手を開くと、そこには……ブリッドの掌に置くには立派すぎる懐中時計があった。

「ぇ……これ……? その、アクセン様……?」
「贈り物だ」

 花火の明かりで辛うじて確認できるそれは、繊細の銀細工がされている。
 見るからに重みのある金属の光沢はただ明るいものではなく、黒に近い銀のチェーンがブリッドの服とよく合っていた。

「誕生日。ブリッドのために用意したんだ。……お前に喜んでもらいたくて」

 花火の音の合間に告げられた言葉に、目を見開く。
 ……地下で過ごした日々。久々に見た青空。空の下で過ごした一日。そのような日常で、どうして今日が……彼の誕生日である8月15日だと気付こうか。
 渡された時計と、渡した本人を交互に見た。光源なんて薄暗い神社には空に散る光しか確認できるものは無い。そんな僅かな光でも縋って見てしまうほど、滅多に人と顔を合せない弟には必死だった。

「やっと渡せた。……これを、お前に渡したかったんだ、『今度こそ』……」
「あっ……」

 アクセンの声に被せてでも、ブリッドは微笑んで次の言葉を口にせずにはいられなかった。

「……ありがとう……ございます……」

 感動のあまり泣いてしまうかと思ったが、それよりも満開の笑みの方が勝ったようだ。

 あんな笑顔、ワタシだって数えるぐらいしか見たことがない。だからアクセンにとっては初めてだっただろう。……その笑みを見た途端、『さっきと同じように』信じられないぐらい慌てた顔をしていた。
 落ち着いた声も堂々とした態度もどこに行ったやら。まさかのアクセンが思わず顔を隠してしまうほど、赤くなって驚いていた。
 ……知らなかった。この男でも慌てたり赤面したりするのか。
 何を考えているか判らぬ、それどころか何も考えていなそうな能面のような男が、まさかの礼を言われただけでここまで取り乱すとは。……そんなの、面白いに決まっているじゃないか。それはブリッドも同意見らしく、滅多に見せない彼の姿に仰天しつつも……穏やかに見守っていた。
 それにしても、時計か。プレゼントには良い選択だ。兄風に言うなら鈍間で、良く言えば大らかすぎる彼が持つにはぴったりな物と言えるだろう。
 こんな場所で花火を待っていたというのも大した計画じゃないか。人混みの嫌いな彼のことを判ってくれていたのか、それだけでなくブリッドの誕生日なんてよく調べたものだ。ワタシだって忘れていたし、ブリッドも覚えていたかどうかも怪しいのに。
 そもそもブリッドが自分のことを話すなんてあっただろうか。
 そんなことも時計を大切に握りしめている姿を見ているとどうでも良くなってくる。あの男は弟を喜ばせるために用意した。用意をしてくれた。それに喜んでいる。心から。それで十分な気がした。変な詮索などワタシがしてはならない。あんなにも穏やかな顔はワタシだって見るのが初めてなのかもしれないのだから。

 花火は続く。違う場所で坊ちゃん達も笑顔で眺めていることだろう。
 そんな彼らと同じように、多くの人々が見せる笑顔を弟も浮かべられるだなんて。……もう助けてやる必要なんていらなそうだった。

 ワタシは夜空を見上げる。耳も鼻も五感の鋭いワタシには痛くてたまらないが、懐かしさに許してやりたくなる。
 そう、懐かしかった。ワタシの世界にも暗闇を照らす光があったのを覚えている。それを見たのは百年前、二百年前、いや、一体いつの話だったか。
 ああ、そうだ。ワタシが初めて見た夜空もこんな炎が散っていた。

 胸が躍る。赤い光。赤い髪。赤い血。懐かしい。
 初恋の瞬間を忘れる訳がなかった。



 ――2005年8月15日

 【    /     / Third /      /     】




 /9

 殴られた頬を撫でながら、洋館を後にした。
 いくら今日が涼しい良い天気といっても所詮8月。クーラーも効いていない花壇のベンチになんていつまでも居たくない。
 目立つ赤毛の男に言いたいことは言い終えた。煙草も手持ちのものを全て吸い終えた。吸殻を携帯灰皿に押し込んでいたらもう入らなくなっていた。これで潮時だろう、時間も潰せたことだしとあまり行きたくない場所へ向かう。

 砂浜のような綺麗な砂が多くなり、町が一望できる高台に到着する。
 梓丸が「弟から射的の景品を貰った」と柄にもなく自慢をしていて知ったことだが、今日は労働者の夏祭りが行なわれていた。年若い者は遊びに行ったとも松山様が口にしていた通り、遠くの町並みは華やぐ声で溢れている。
 花火大会は既に終わり、祭りの終わりを彩る笑い声が聞こえるように人々が散っていくのが見えた。魔力で強化した視覚によって粒のようでも大勢の笑顔を見ることができる。
 そんなもので口直しをしないとやってられない。俺は町を見下ろせる崖の上で佇む実父の背中に声を……掛けようと思って、やっぱやめた。
 笑顔を見せる町の人達など見ずに、何にも無い崖の下をじいっと眺めている父親は異様だった。その顔と言ったら、年に数回見せる不格好かつ不気味なもの。

「シンリン。君も墓参りへ?」
「違うに決まってんだろ。気の狂った父親が投身自殺しないように見張りに来たんだよ」

 お前に死なれると、(今は地下でアンアンしている)慧がパニックを起こされるんだ。それに「仕事を投げ出された!?」と大山様が泣き喚くのが目に見えるから。
 俺の一言を冗談だと判りきっている父・夜須庭 航は、崖の下へ――花束を落とす。
 死人へのプレゼントなら菊の花なり用意すればいいのに、爛々と輝く真っ赤な薔薇の花束は宙を浮いて、何の芸も無く谷底へと消えていった。
 崖の真下はただの岩場だ。美しく整えられていた花はごつんと固い岩に当たって砕けて消えた。
 その行為が高等なものだと思っているのか、自分のしていることに酔っているのか、父は恍惚な表情で消えていく赤を見つめている。
 花火が終わる真夜中だ。普通の人間なら消えていく花を確認することもできないのだが、父も自分と同じく、魔力で強化した視力で散り散りになっていくそれを見守っていた。
 何の意味の無い出来事なのに、毎年そんなことをして自己満足をしているんだ。
 本当に何の意味の無い行為なのに。

「――花束なんて持ってこないでください。縁起が悪い。そんなもの燃やしてしまいましょう。さあ」

 途端、殺気が一帯に広がった。

 滑らかな、男とも女とも言えぬ小賢しい声。
 それと共に崖の下で砕けた赤い花が、突如同じように赤い炎によって灰と化した。
 黒く焦げた砂は崖下を駆け抜けた風に掻き消えていく。父親が落とした薔薇なんて元から無かったかのように、跡形も無く消失した。
 花が自然発火するような特殊な地形ではない。燃やした人間が近くに居た。
 剥き出しの殺意がする方を見れば、隠れることもなくそいつは立っている。
 金髪碧眼の男。
 名を、ルージィルと言う。
 瞬間移動の魔術でも使って現れたのか、砂の上には彼の足跡が一つも無い。ただ殺意を父に向ける。

 炎が空に満ちた。その場から一歩も動かぬが今にも彼が操る炎の切っ先が襲い掛かってきそうなほど、赤く周囲を照らしていた。
 明らかな敵対行為に構えを取ることもできた。だが俺の臨戦態勢も制するかのように、父は両手を上げた。「お手上げだ」と言うかのように。何の敵対の意思も無いと言うかのように。

「はあ、どうしたのかな、そんなに怒っちゃって。何にも悪いことをしていないのに。何に機嫌を損ねているのかな、P−27」

 いつも通りのキナ臭い笑みを浮かべて両手をふらふらさせるもんだから、神経質になった奴の機嫌を更に逆なでる。

「私はただ、お墓参りに来ただけだよ。お前だってそうだからここに来たんだろう?」

 なのに燃やすなんて酷い子だな、と正直に話すだけの父。
 ああ、そうだろうよ、父が言うには『ここで死んだ人がいるから、花を手向けただけ』。今日が大事な日だから墓参りに来ただけ。だというのに。次々と真実しか語らない父に、何をするでもなく端整な顔を歪めた奴は睨みつけるだけだった。
 それ以後、ルージィルと名乗る人物が何か変革を起こした訳ではない。
 ただただ父の花を消し去って睨みつけた後、何を言い返すこともなく、俺達が気紛れなまばたきをした後には姿を消していた。砂の上に足跡は無く、忽然と別空間に飛んで行ってしまったかのように。
 いつもの流暢な言葉遣いと丁寧な物腰はどこに行ったやら。いつになく怒りに身を燃やしていたあいつは、父に何をさせるでもなく去って行った。

「ふう、シンリン。一体誰に『私が飛び降りるかも』なんて言われたんだい?」
「あ?」
「誰かにそう言われたから私を心配して駆けつけてくれたんじゃないのかな? それとも、シンリン自らお父さんのことを心配してくれたのかな? はあ、それだとしたら……」
「あーあー、そうですよ。息子自ら心配してやったんですよ、愛しのお父様を」

 この父は何をしでかすか判らないから。
 毎年毎年崖の上で気持ち良さそうにラリっている顔を見ちまえば「今年はまさか」と思っちゃっても罪じゃなかろう。これは実の息子だからとかじゃなく、この状況を一度でも見てしまった者ならもしものことを考えてしまうもんだ。
 先ほども思ったことだが、この親父は仏田の重役だ。『機関』の重要人物だ。そのときの気分で死なれたら後が困るんだ。
 そう思われても仕方ないほど気の向くまま自由奔放に動いている彼の日常があった。今日は晴れだから踊ろうとか、雨だから殺そうとか、研究畑には相応しくないような理知的ではない行為を繰り返す男だから。こうして面と向かって息子が心配してやってることを、本人ももう少し感謝するべきだ。
 そうしてせっかくの手向けの花を燃やされた父も、何の感情を抱くこともなく仏田の寺へと戻ろうとする。
 そろそろ戻れば町へと遊びに出かけたときわ坊ちゃん達も戻ってくるだろう。鉢合わせになったなら、アクセンに告げたことをそのままときわにも話ができるかもしれない。
 本人に「お楽しみ会をやめろ」と言うのは流石の神経ズ太い俺も気が引けるが、暴走しがちな魔眼持ちのブリッドと一緒に過ごさせるなんて危険を見過ごす訳にもいかない。誰かが本気で注意してやらないと。大事な大事な跡取りのお坊ちゃんの気が狂ってしまう前に。

 魔眼のことを思い出して気分が悪くなった。そして丸めた背中の父を見ていたらうっすらと「そんなものを研究していたから気を病んだんだろう」と思った。
 その本人は気紛れに崖から飛び降りることもない。怪しい動きを見せることもない。掴みどころの無い飄々とした彼は、やっぱり何をしたいか判らないまま動き出した。



 ――2005年7月13日

 【 First / Second / Third / Fourth /    】




 /10

 圭吾さんが住んでいるマンションは、彼の性格に似合わず豪華絢爛。
 電車内の中釣り広告にだってこれほど煌びやかな物件は見当たらない。単なる住宅なのに金ぴかに光っていて、赤い絨毯がエレベーターまでご招待してくれて、二十四時間受け付けさんがニコニコしている、そんな高級マンション。
 まるで王宮のような造りを初めて見たとき、率直に「一度は住んでみたい場所だ」と思えた。ヨーロッパ文化が大好きな人間には堪らない空間だけど、質素が似合う圭吾さんが住むには意外な住居だ。洋物に反応してしまう僕のセンサーを抑えるのに必死になるぐらいだった。
 彼がお城のような賃貸高層マンションに住み始めたのは、僕と一緒に暮さなくなって数年後、教会のサポートが好調になり始めた頃のこと。
 いくら好調とはいえ堅実の圭吾さんとは思えぬ住宅チョイスに、ピュアな疑問を抱いて「何故このような場所に住もうと?」と尋ねたことがある。

「ときわがよくこういう所の写真集を見てただろ。あれで俺も好きになったんだよ」

 圭吾さんは、はにかんで答えてくれた。

「こんな場所に住んだのも僕のせいと言うおつもりで?」
「ああ。ときわの影響力は凄まじいよ。自覚してなかったのか?」

 まったく。腹立つ言い方もあったもんだ。

「俺は気に入った物件に住む。ときわは何度も行きたかった場所へ遊びに行ける。一石二鳥で良いじゃないか」
「何がです」
「ただ寝泊まりする場所をいかに充実させるかにおいては」
「何故圭吾さんのお住まいに僕の願望を含めますかね?」
「えっ、どうせ俺の家に遊びに来るだろ? なら遊びに来やすい場所にしてあげた方が良いじゃないか」

 だから、どうして自分の生活に『僕がつけ入る要素』を全面に入れるんだ。単なる義兄弟である僕相手に。

「そう言われて遊びに来ない人はいません。サンキューですよ。いくらでも遊びに来ましょう」

 寺で生まれ育った男子は、成人したとき『寺に残って家業である退魔業に専念する』か、『寺を出て家業の退魔を支援するか』のどちらの選択を迫られる。
 その中に『他の職に就く』や『実家と縁を切る』という選択肢は無い。仏田に生まれた以上、一族の力になるのは必然で異論は待たれなかった。

 圭吾さんはというと、『藤春の息子を守護し教育する任』に就いた。
 『守護し教育する任』というのはつまり、『僕の面倒を見ろ』というもの。それが圭吾さんを始め、悟司さんや霞さん達、狭山の息子達に与えられた初めての『任務』だった。
 僕を人並み以上の人間に仕立て上げろという任務を任された圭吾さん達が職務を全うしてくれたおかげで、今の僕が生きている。

 幼い頃の僕はそんな彼らと共に一年ごとに住処を変える生活をしていた。
 どうしようもない理由で続けられていた日本中あちこち巡る生活は、僕が中学生になる十二歳まで続いた。「藤春から僕を奪うため」、ただそれだけのために多感な幼少期を、長くて一年、短いときは二ヶ月で移り住む生活を続けていた。
 それらは僕を人並み以上に大人に、他の三人をシニカルな性格へと形成させていった。その生活のついでに仏田の本拠地である北関東以外の退魔業にも手を出せて、新たな顧客を得ることができたらしい。至る所へ僕を連れていくだけの生活は、仏田的にとても有益なものだったという。

 僕が十二歳のとき、ようやく群馬にある仏田寺に落ち着くようになった。
 我が家のエースになると言われていた悟司さんは風格ある男に成長したし、僕も立派な仏田一族の信徒になったのだから、日本中を旅した十二年間は成功というものだろう。
 十二年間いかなるときも僕の隣にいた三兄弟は、僕にとって欠かせない人達と言える。
 同じ食卓を囲み続けた、大切な家族。子供の遊び相手であり、先輩として力を教える師弟でもある。そして、もしものときの身代わり。その中で一番熱心に僕を教育し、守り、共に時間を過ごしてくれたのが圭吾さんだ。
 いや、圭吾さんが職務を全うしてくれたと言うよりも、悟司さんと霞さんが年下の面倒を見るタイプではなかっただけ。圭吾さんは世話焼きで年下に好かれる性分ではあったけど、他の二人がちょっとよそよそしかったからという理由もある。
 全身からの好意を受け取った僕は、例外なく圭吾さんを好きになっていった。
 だって、社交辞令も知らないうちに優しくされたら懐く。何かと圭吾さんを頼るようになり、他の二人は僕のことを全て圭吾さんに任せるようになり、僕と圭吾さんはみるみるうちに親密になった。
 多くを指導してくれる彼に心惹かれてしまう。

 以上のことから、僕は圭吾さんが好きだ。
 仲良ければ一緒に食事をし、共に『仕事』をこなし、頻繁に泊まりに行くことも多くなった。
 この日もその通り。一緒に食事をしていたら突如『仕事』が舞い込んできて、長引いて夜遅くになり、仏田寺に帰るのも一苦労だから圭吾さんが住処としているマンションに泊まることになった。よくあることだった。
 よくありすぎて、普段のことすぎて、何も特別なことなど無い。
 いくら好きな人と一緒に居られても、心が躍ることは無かった。

 もし圭吾さんと僕が他人同士だったら「好きな人の部屋に泊まれるシチュエーションにドキドキ!」とかできただろう。
 彼が他人だったら。兄弟でなかったら、この恋は別のときめきで盛り上がったことか。
 でも今の僕にはそんな浮ついた感情は生まれてくれない。彼が部屋に居ることなんて当たり前だった。退魔業が長引いて仏田寺に戻れないから「一晩泊まっていこうか?」なんていつも通りの定番コース。
 何事も、変化が無ければ変化しない。
 何気ない平凡な日常の中では、進展など生じない。
 それでも僕は圭吾さんのことが好きだったし、それ以上に愛していた。

 この感情が恋愛感情だと自覚しても、次のステップに移行するイベントは平穏が続く日々ではとても望めない。
 夜に二人きりの空気になったとしても、二人でお留守番なんて平凡な日常の一部だったから、何にも始まらない。
 同じベッドで眠ったとしても、圭吾さんにとっては義弟を寝かしつけることなんて日常的だったから、一緒に寝ようが何にも始まらない。
 寝顔を見ながら起床しても、寝惚けた姿なんてあまりに慣れすぎているから、何にも始まらない。

 2005年7月。僕が生まれてもうすぐ十九年。変わらぬ関係が在り続けていた。
 変化を発生させていないのは僕の責任なので文句ばかり言うのは格好悪い。何をしてもびくともしない圭吾さん相手に強気にはなれず、つい普段通り寺での起床時間に目覚め、食事をしたくてキッチンに向かった。

「……朝餉……」

 朝の支度なんてしてない。マンションにシェフなんていない(部屋の外に出れば併設レストランがあるけど)。自分がキッチンに立たなければ料理が出てこない。
 なら、たまには僕が朝ご飯でも作ってドッキリさせてやろう。それで変化を生じさせてみよう。あんまり本気にしてないけど、もしかしたら良い方向に進むかもと思い、勝手にキッチンに立った。

 ちなみに僕は料理が得意だ。昔から手先が器用だったのもある。許しを乞い、修行させてもらったこともある。(十二歳以降は寺に移り住んだから銀之助さんの食事が待っていた。銀之助さんは自分以外の人間が厨房に入ることを禁じていたので腕を磨くのは一苦労だった)
 自分でやる必要無い世界ではあったが、昔から手先が器用で何でも自分でやらないと気が済まない性格だったので腕には自信がある。普段から腕が鈍らないよう鍛錬をしていたつもりだ。銀之助さんの味に慣れる日々、自分で朝食を作るのは久々だが。
 だが気付いたときには朝食はできあがっていた。
 そう、気付いたときには。

「……アウト。面白くないものを作ってしまった」

 米を炊き、ベーコンと玉子を焼き、冷凍野菜を解凍、目立った具の無い味噌汁を作る。数分前まで冷蔵庫の中身を知らなかった僕にしては、上出来なモーニングセットだった。
 だけど面白くない自覚もある。印象に残るようなものが何も無い。毎日食べる餌の一つが作れただけ。
 感動も無くあっという間に作り終えてしまい、溜息を吐く僕がいた。

 ――なんで食事を用意したんだっけ? 朝食を摂らないと不健康だから?
 それもある。でも僕は圭吾さんへのサプライズプレゼントを用意したかったんじゃないか。好印象を抱いてもらうための――。

 こんな普通の食事じゃただの「ありがとう」止まりだ。
 自分には料理が得意という武器があっただろう? 自分でそう思ったぐらいだぞ? なのに無難で済ませているのはなんでなんだ。

 僕と似たような境遇の新座さんはもっと華やかな物を作るし、楽しそうに料理をする。
 新座さんはキッチンに立つだけで明るく笑う。「したことなかったけど今では出来るようになったんだ!」「これって凄いことでしょ?」と、キラキラした目で話していたのを思い出す。
 それを圭吾さんが好ましく思っているのを、本人の口から聞いたことがあった。
 新座さんの光のある目に不快は無い。好ましい輝きをしていると僕も思う。同じ血で似たような境遇なんだから、僕だってあんな風になれる筈なのに……。

「あれ。もしかして」

 ある考えが、ふと頭を過ぎる。
 僕は、料理が得意だ。嫌なもんじゃない。幼いときにカレーの作り方を教えてもらいながら「おいしいよ」と褒めてもらった記憶はまだ鮮明だ。
 それ以後、誰かを持て成すのは気持ち良いことだと思っていた。何かと持ち上げてくれる圭吾さんを見ていたからか、そうすることは美徳だとも思うまでになっていた。
 でもここ数年。……茶会で手作り菓子や紅茶などを『持て成される側』になって。
 比較して、どっちが心地良いかと言ったら……?

「……考えすぎだ、僕。至れり尽くせりをされて不愉快になる人間なんて、困りものだろう」

 誰かが僕の為に何かをする。僕が誰かの為に何かをしてあげる。これに順位を付けて、上位を優先するなんて考えてはいけない。
 平等が一番。「どちらもする」のが最たる考えだ。たとえ僕が「持て成される側の方が好き」だろうと、「持て成すことをやめてはならない」。

 幼い頃、圭吾さんや新座さん、実父にパーティーをしてもらい、持て成されて嬉しかった。あの気持ちを他の人にもしてあげないと。僕がしてあげないと。
 って、早朝から何をブツブツ考えているんだ、僕は。特技や趣味の話から、なんでいきなり楽しめない考え方を巡っているんだ?
 どうしようもないことを思考して、一人テーブルに着く。
 朝食が広げられている前で、暫く瞑想をした。あーでもないこーでもない。朝からクレイジーだなと自戒する。あたためたウインナーが冷め始めた頃、寝室から圭吾さんが出てきた。
 早朝に「教会関係の電話をする」と言って自室に篭っていた圭吾さんが、やっと目の前の席に座った。

「おはよう、ときわ。寺に帰る準備はできてるか?」
「圭吾さん、朝から電話をしてましたけど大変ですね。でも早朝に電話を掛けるのは相手にも迷惑じゃないですか」
「え? あ、ああ……でも朝に電話しなきゃいけないことだったから。向こう側も商売だし判っているさ」
「そうですか。ところでおはようございます、圭吾さん。朝食、冷め始めてますけどどうぞ」

 代わりに僕は立ち上がり、炊飯器の元へ向かう。朝から疲労するようなことをしていた圭吾さんのために、少し多めに白米を盛り分けた。
 そんな僕を見て慌てて圭吾さんが席を立ったけど、「そのままでいいですよ」と元に戻るように仕向けた。

「僕ならもう帰る準備なら用意できてます。今から出立しても構いません」
「そうか。長電話が過ぎた、ちょっと待たせちゃったか。ごめんな」
「これでもいつもより長く寝てたんですよ。時間が有り余ってたので片付けぐらいしかやることなくって。まだテレビのニュースもバラエティくさくなくて良い時間だったから整理整頓がスムーズに進むこと進むこと。帰宅準備も万全なので、あとはゴミ出しの時間さえ頂ければ直ぐに帰れます」
「……」
「圭吾さんの用事が済んでからでどうぞ。貴方の車で送ってもらわなきゃいけない身ですから、派手に我儘も言えません。それに圭吾さんはやらなきゃいけないことが多いのでしょう?」
「……ああ。そっか、今日は生ゴミの日だったっけ。そのまま帰るつもりだった。教えてもらえなかったらヤバかった」

 僕が用意しなかったらこの部屋に生ゴミを放置するつもりだったのか。
 小綺麗なマンションに住んでいるくせに、それを維持する気がない。三十路に突入したがまだ年若い男は頭をぼりぼりと掻く。一人暮らしを始めて何年目のつもりだ。

「そ、それじゃ、ときわ。仏田寺に戻るのは……マンションを出るのは十時にしようか。暫く気楽にしていてくれ」
「圭吾さんが十時と言うなら、僕は十二時に出発するようにしますね。お昼ご飯は外でしましょうか」
「……俺は、時間をちゃんと守る男だぞ?」

 僕が作った朝食に箸を付ける。

「期待しています。ゴミの分別は、管理人さんに聞くか町内紙を読むかしてきちんと出してくださいね」

 圭吾さんは遅刻はしない。仕事も時間厳守に進めていく。
 でも日常生活では結構ルーズな人だ。十時に家を出ると言って九時五十九分に準備をし始める。真面目で何事にも丁寧なんだけど、変なところで気が抜けている。
 だから僕が少しだけ急かすぐらいでしっくりくる。僕みたいに小言を言う人が隣に居るぐらいで、丁度良かったりする。
 冷え始めのベーコンを齧りながら、部屋の隅っこに置いておいた自分の荷物を見た。僕は小柄だから、荷物は嵩張る程ではない。ゴミ捨て場に出す袋の方が大きいぐらいだ。
 いっそ荷物をわざと部屋に残してまた来てやろうか。ついでに僕好みにこの城を掃除してやろうか。そんな悪巧みを考えながら食事をする圭吾さんを見ると、

「ときわの作る飯は、いつも美味いな」

 なんて、まともに真正面から言われると恥ずかしくなる台詞を吐く。
 赤面するのも馬鹿らしい。でも率直に照れてしまいそうになって、視線をテレビに移した。

「あ。やっと下らないの、始まった」

 ようやくニュース番組がバラエティくさくなってきてくれた。
 圭吾さんが言った約束は十時。おそらく実際この城を出るのは十二時。その時が来るまでの数時間。『仕事』からも寺の束縛からも解放されたこの時間。
 好きな人に面と向かって褒められる、とろけた時間にぐうたらと送るのもいいかもしれない。
 そんな過ごし方も、たまには。



 ――2005年7月13日

 【     / Second /     /      /     】




 /11

 僕は圭吾さんとセックスをしたことがある。『魔力供給』という名のセックスだった。

 キッカケが義父の狭山による命令。圭吾さんに下された命令によって、僕は相手をしてもらった。
 それ以後の関係は、一切無い。尚且つ、以後誰かと『セックスによる供給』なんてしないようにしている。

 そもそも性行為をして体液を交換する供給なんて(我が家では当然のように行なわれているが)、世間一般ではマイナーな手法だ。
 面倒だし、場所を取るし、時間も掛かるし、面倒だし。供給なんて握手をして汗を交換すれば数分で済む。けど血族的には体液を交えた供給方法が適しているらしく、狭山おとうさんは従来のやり方を圭吾さんに強いた。圭吾さんもそれに従ってしまうんだから……いつかあんなことになるのは目に見えていたのかもしれない。
 正直、僕はセックスというものに幻想を抱いている。
 安易にするものではないと思っているのだけど、我が家ではとても珍しい方らしい。性事情に関して大らかというか、情けないぐらい開けっ広げだった。
 なんで僕がこういう風に思っているかって、それも理由は、紛れもなく我が家にあると思う。
 十二年間大切に大切に守られて、『守れられているのに外の世界で生きていけば』、閉鎖された考えとは反すものになる。

 全ては、十九年前の話。
 赤子の僕を『外界の爛れた空気』から守ろうとして、狭山は『危険な身内(実父・藤春のことだ)』の手に届かぬようにした。
 実父の自由を言葉や暴力で一族の精神に閉じ込め、僕を実父の被害に遭わぬように遠くに隔離する。僕を仏田寺に閉じ込めるのではなく、日本各地に連れていくことで危険な父から離れさせようとした。
 決して他の者と交わるな。血を拡散させるな。実父のようになるな。
 言葉を覚えたての子供に「セックスをするな」なんて大真面目に教える男、それが狭山だった。

 そのくせ僕らの血は性交渉での供給は相性が良いからと強いてくるのだから、どうもおかしい。
 十二歳になった途端突如教え込まれる前言撤回。それで責められるのはフェアじゃない。この状況は僕のせいではない。
 中学生にもなれば立派に自我も芽生えてくる。今まで信じてきたことは何だったんだと苦悩する頭だって完成していた。一度嫌悪感を抱いたらそれっきり、強い意志で拒否するしかなかった。
 それに、十二年間世間一般と触れ合ってきた身にはもう遅い。爛れて見える光景が我が家の普通だと言われても、そう簡単に再調整などできるものか。
 そうして今の僕が出来上がっていった。
 性に開けっ広げな仏田という世界を「下品」と思う僕が。
 だというのに、今度はショック療法……無理強いをしてくるなんて。
 幻想を抱いてる僕が怒り狂うのも無理もなく、「もう二度とそういうのをしてこないでください!」と声高らかに言い放った僕は……それなりに偉かったのも功を奏して、以後被害に遭うことはなかった。

 『供給』という名目であの行為はしたくない。あれは愛する人同士がやるもので、魔力を言い訳に性交渉はいけない。僕の中に築かれた理性が叫ぶ。
 だから、二度目の圭吾さんへの接触は無い。
 愛情が深くない圭吾さんと僕が性交渉をすることは、もう、無い。

「ときわ。昨日はよく眠れたか?」

 車に乗り込んだ後はラジオを流し、お互い音楽に耳を傾けていた。僕も音楽を聞いているつもりだった。
 隣を走る車や店の看板を見ながらぼんやりと運転席の人を考えていると、心優しい圭吾さんが昨日の『仕事』のことを尋ねてきた。二人でこなしたお化け退治のことだ。

「よく眠れていたかなんて、隣で寝ていた圭吾さんなら知っているでしょう?」

 昨日は、彼の城に一つしかないベッドに寝かされた。
 城の主である彼は、テレビを見るときに使う大型のソファに寝ていた。僕を気遣ってくれるのは嬉しかったけど、「一緒にベッドで寝ましょう」と言う前にお互い疲れてあっという間に眠ってしまったんだった。
 いっそ僕が「癒してください」と言える性格なら。
 目覚めてからそう考えた。そんなの僕じゃないから直ぐかき消したけど。
 はあ、一人で考えて赤くなるなんて恥ずかしい。絶対人前で赤くなるもんかと平然を装う。
 その平然を装う僕に気付いてほしいと思うこともあるが、運転中の彼が気付く訳なく(平常時でも難しいというのに)とんとんと話題が進んでいった。

「なら、昨日の傷はどうだ? 擦り傷があっただろ。痛くないか」
「もう傷なんてありませんよ。ノープログレムです。軟膏を塗ったらすぐ消えました」
「そうか。やっぱりシンリンのくれる薬は効くな」
「なるべく使いたくはないんですけどね。一つが数万円の材料を使っていると言ってましたし」
「えっ。そんなに高いのか、あの臭いの」
「ええ。市販みたいに余分な香料が入ってませんから匂いが強烈なのは仕方ないですよ。……もう匂ってないですよね? 臭いなら窓を開けて換気します?」
「全然気にならないからいい。隣のソファで寝ていても感じなかったから。きっと付けるとき一瞬臭いだけなんだな」
「……。そうですね」

 隣で寝ていて何も感じなかったんだから、一安心。
 そんな言葉を意識しすぎている自分に気付いて、やや自己嫌悪。すぐに大人らしい会話を挟みつつ、車の流れに身を任せる。
 寝てるときの話とか、夜の話とか、もういい。別の話にならないかな、と心の底から思った。

「……ああ。志朗くん、元気にやってるかな?」
「え?」

 車を走らせる最中。圭吾さんは遠い道路を眺めた。思い出したかのように。
 志朗といったか? その名前は、勿論知っている。年の離れた親戚のものだった。現当主・光緑様の次男だ、忘れる訳が無い。
 とは言っても僕と彼が出会うことは滅多に無い人だ。年が離れているのもあり、過ごしている世界も違っているのもあり、彼がどんな顔でどんな人物だったかあまり記憶が無かった。
 記憶にあるのは……記録を覚えているから。直系の一族で、当主の次男で、出来の悪い息子ということで有名だから、覚えてはいる。

「その人が何か?」

 尋ねると、楽しげに圭吾さんが通り過ぎていくある建物を鏡越しに見ていた。
 圭吾さんは志朗さんと幼馴染の関係らしい。昔はよく遊んだ仲なんだろう。だから親しそうにこのような話をするんだ。

「ほら。今、通り過ぎたけど……そこの会社で働いているんだ」
「へぇ」
「最近は寺に帰ってるのかな? 仕事が忙しくて帰ってないかな? うん、帰ってなさそうだな……ちゃんと飯食ってるといいけど」
「忙しい人なんです?」
「らしいよ」
「仕事って、志朗さんは何を? 『赤紙』を出されたという記録を見てませんから、教会関係ですか?」
「いいや、志朗くんは一般人。普通のお仕事。とある雑誌の編集社にいるんだって」
「……一般人?」
「昔は『うちの為になることをしろ』っていうあの言いつけに従ってさ、警察にいたこともあったな。異能はからっきしだけど、志朗くんは子供のときから頭は良かったし運動も得意だったから……」
「でも、今は言いつけに従ってないと」
「今はごく普通の一般人として暮らしているよ」
「一般人として。……血族の契約解除は?」
「していない」
「その人、本当に『我が家』なんですか?」

 少し強い口調で尋ねる。
 すると「どういう意味だ?」と首を傾げられた。

「志朗くんは、間違いなく我が家の家族だよ。光緑様の実の息子で……」
「それなのに一族を手伝っていないんですか。まだ仏田一族だというのに? ……噂には聞いてましたが、本当に不真面目な方なんですね」

 言うと、「こら」と圭吾さんは嗜める。「あまりそういう言い方はするな」と付け足しながら。
 だって……雑誌の編集者? 一体何の役に立つんだ? 何のメリットが生じるのかも考えられない。
 噂では……彼は現当主の次男でありながら、能力の証、一族継承権でもある『刻印』を持たずに生まれたとのこと。
 他にもいっぱい聞いている。異能は使えないということ。霊感も殆ど無いということ。「運動が得意」と圭吾さんは言ったが武術の修行もロクにしていないということ。
 そして何より、退魔業も手伝っていないということ。
 かつてから言われていた『無能』、『役立たず』、『価値無し』。そのくせ立場は高い、けど見合ったことはしない……。全て事実で、あらゆる批難の標的。言われても仕方ないぐらい、彼の周りには負が付き纏っている。
 更には、本人がそれらの噂を払拭しようともしていない。
 負がいくら周囲にあったとしても、少ない優位の中で立ち向かっていく人は居るというのに。……例えば、僕の隣に居る圭吾さんのような人もいるのに。

「力が無いなりに振る舞うものがあるでしょうに。それもしないなんて不思議な人なんですね。……でも、それに比べて圭吾さんは」
「ときわ」

 内情をそんな風に回想していると、やや強めの口調で圭吾さんが名を呼んだ。
 それが「幼馴染に対する暴言により癇に障った」からと気付き、僕はすぐに謝罪する。

「力が有ることって、そんなに大事なことか。力を振るうって、そんなに大切なことなのか」
「……力を持たずに生まれてきた志朗さんは気の毒だとは思いますが、でも無能なりにするべきことはあるんじゃないですか? 力が無いなら、鍛錬を積むなりできる協力をするなり……」
「彼の事を何一つ知らないで無能と言うなんていけない。俺だって、無能だよ。ときわは俺も無能と罵るか」
「圭吾さんのどこが無能だと言うんです」

 謝罪を口にしている最中、彼はそんな嘘を吐く。
 冗談を言うような顔ではなく、真面目で、笑みを消した表情。厳しい『兄の顔』をしていた。

「無能は無能だろ。俺の能力は、殆ど消滅してしまっている。ある日ぱったり使えなくなったからな。今使っている能力は後付けの装備に過ぎない。実際の俺の力は、無いに等しい」
「……それは……」

 ――昔。少年時代の圭吾さんは、非常に優秀な能力者だった。その魔力量は一族でも一、二を争う高さだったらしい。
 ところが彼が十五歳ぐらいの頃、備えていた能力が急に使えなくなった。
 使おうとしても全ての勘を忘れてしまったかのように何も出来ない。感覚のスイッチがどこにも見当たらなくなってしまい、『当主様並みの優秀さを誇っていた』と言われる程だったのに何にも出来なくなってしまったという。
 僕がまだ言葉も話せなかった頃の話だ。その頃には悟司さんも目が見えなくなって(あまり詳しいことは聞いていないが、悟司さんは十五歳を過ぎたあたりから年々視力が失われたらしい。「もう完全に見えなくなった」と言っているけど今も一人で生活できているから、手術に成功したか義眼などに換えたということなんだろう)、とても一家は大変だったみたいだ。

 彼らは、力を無くした。それでも、「家族の為に」と力を持ち、今がある。
 無いなりに努力をした彼ら。
 僕は「それが素晴らしい」と言いたくてこの話を始めたんだった。

「圭吾さんは『仕事』ができるよう努力をしたでしょう。昨日だって僕の支援をしてくれたじゃないですか。薄れた力を完全に尽きないように全力で頑張っている、だから」
「俺は無能じゃないと?」
「はい。貴方は偉いです。何もしようとしない人なんかより、ずっと」
「ときわ。偉いとか言うな。……能力が無く支援もしない、一般人になった志朗くんはいけない人か?」
「何も人の為にならないなんて、なろうともしないなんて、低級です」
「低級。力の無い一般人は下等。そう言っているように聞こえるぞ」
「……そんな、つもりは」
「努力しても、力なんて身に付けることなんて出来ないもんだ。俺は運が良かった方。いくら頑張ったって実らない力はある。……お前は、見下された日々を知らないから言えるんだな」

 真っ直ぐと厳しい目で言葉を次々に返していく。その目は、決して助手席に座る僕を捉えなかった。
 運転の真っ只中だから助手席の僕を見つめることなんてしない。したらいけないことから、こちらを決して向かない、そんなこと判ってる。見るようなことがあったら僕から「運転に集中してください!」と言う。……だから見ないんだろうけど。
 実際に面と向かって話し合っていたら、僕はきっと失望の目に襲われていた。
 ある意味では助かったかもしれない。……真面目な彼に真正面から糾弾されたら、一年やそこらじゃ立ち直れない気がする。

「一般人は力が無い。力が有る能力者は一般人を助ける。それはこの世界のルールだ。則って俺達は退魔業の商売をしている」
「はい」
「だけど、だから能力者は偉いのか? 違うだろ。能力者が一般人になることは悪いのか。力を使わないと偉くなくなるのか。それも違うだろ」
「……」
「その人が生きる上に選んだ道だ。偉いとか役立たずとか価値が無いなんて言ったらいけない」
「……その通りです」
「こんなこと、ときわに言わなきゃいけないなんて思ってもみなかった」
「……自分も、判っているつもりでした。でも実際には判っていませんでした。罵詈雑言を平気に口に出来るなんて驚きです。見下す心があることすら気付いていませんでした」

 車内に流れるラジオをBGMなど耳に入ってこないほど、反省をする。
 ……不思議だ。自分は、「志朗さんを見下そう」などと一度も考えていなかった。結果、志朗さんを貶していた。
 浅さかな行動に、自分のことならが虫唾が走る。本当は、「僕は『圭吾さんを立てること』を言いたかっただけ」だった。

「そんなの嬉しくない」

 正直に僕の中にあった意図を話すと、正直に突き放された。

「他人を使って自分を立てられても嬉しくなんかない。『あの人より凄い』なんて褒め言葉はいらない。どうか悔い改めてほしい」
「……はい」
「『俺の前だから改める』とか言うなよ。社会に生きる一人としてやってはいけないことだ。……志朗くんはいつも『実家に帰りたくない』って言うんだ。理由は判るか」
「……僕のような人間がいるから、ですね」
「そう。お前が噂に聞くぐらい、大勢嫌な奴らが居るから。でも、言いつけを従わなきゃ更に悪口を言われる。だから嫌な想いをしてでも、これ以上の嫌なことをされないためにお盆休みや年末に帰省するんだ。どんなに辛くても」

 つい最近も、何年も前も言っていた。……圭吾さんは、何度もその話を聞いてきたと言う。
 何度も圭吾さんがそれを耳にするぐらい、何度も志朗さんが言っていた『本音』なんだろう。

「『彼の為にしてやれること』は、彼を中傷しないこと。そんな感情を抱かないこと。あまり関わりが無いからって関係無いなんて思わないでくれ」
「……はい」

 人の為にすること、してあげること、されること。今日の朝、自分なりに考えていたテーマを改めて口に出されて、身が硬直した。
 考えるだけ考えて、ただ考えたつもりになっているだけ。
 思い知らされて、ほろ苦いものを感じる。

「……俺は、皆に会いたい」

 唐突に、圭吾さんはそんなことを言う。
 表情は変わらず堅いもの。声は僕を叱るやわらかいもの。でも突然の内容の転身と告白に、「……会いたい……?」とオウム返しをしてしまう。

「出来ればあの家で、家族全員で過ごしたい。昔からの夢なんだ。大人になったんだからバラバラになるのは当たり前なんだけどさ。俺も自分の城を持って、霞も外に出て、志朗くんも新座くんも寺を出て行った。月日がそうさせたんだし仕方ないこと。……でも寂しいから余計に思う。昔は全員一緒だった。皆一つだった。楽しかった」
「……今よりも、ですか?」
「今は今で良い。今から『全員で同じところで暮らそう』だなんて言わないさ。そんなの、お互いの生活があるからな。出来ないって判ってる。でも、『完全にバラバラ』なのは嫌だ。どこかで繋がってなきゃ嫌だ。例えば……年末に実家に帰って集まって話すとか、たまに一緒に食事をするとか。家族なんだから、愛ある関係なんだから、少ない時間でもいい、顔を見てお互いの絆を確かめ合わないと……悲しい」
「……そうですね。とても良い言葉です」
「甘い考え。理想論。そう言われるかもしれないけどな、これは俺の本心だ。……俺は志朗くんが、他の子達が『家に帰りたくない要因』を作りたくないんだよ。心無い言葉で彼から居場所を奪いたくない。……奪わないでほしい」

 帰りたくない要因……。

「ただでさえうちは厳しいんだから。滅べばいいなんて、皆に想ってほしくない。そのために……」

 ――そのために、取り除ける負は全て排除したい。
 はっきりと、僕に……僕以外の人達にも向けているかのように、圭吾さんは言う。
 車内には僕達しかいないが、一世一代の大告白のように高らかなものだった。

「ときわは、あの家……仏田家のことは好きか?」
「好き、ですよ。そのように教育されましたから。狭山おとうさんにも圭吾さん達にも、しっかり教育されました」
「それじゃ、駄目だろ。なんで俺がお前を守ってたってそれは……使命とか任務だからじゃなく、大切な弟だからであって」
「冗談です。僕を大切に育ててくれた貴方達に報いたいと思うくらいには、家族愛に溢れているつもりですよ」

 圭吾さんは「いけない」とか規則的なものではなく、「絆が無くなり、離れ離れになるのは悲しい」、そんな単純な感情を吐き出していた。
 熱の入った言葉を吐き出したからか、意識があまりに入りすぎたからか、少しだけ車の速度が下がった。運転に気を配りながらもする告白は大変だったらしい。そのせいか、

「ああ、しまった! 通り過ぎるところだった!」

 急に叫んで僕をビックリさせた。
 ハンドルを切って(急ブレーキはしなかった。圭吾さんはどんなに議論に白熱したっていつでも安全運転を心掛けている)急に、とある家屋の前で停車した。
 慌てた様子で「ここで待っていてくれ」と席を外し、走って行ってしまう。

「……圭吾さんは、志朗さんをとても心配している。ずっと前から。一緒に居るときから」

 『つい最近も、何年も前も言っていた』。圭吾さんは何度も志朗さんの声を聞いていた。
 志朗さんがどんな人か知らない。泣きながら弱音を言う人なのか、怒りながら周りに愚痴を喚き散らす人なのか、どんな性格の男性なのか、ちっとも知らない。僕が知っているのは、彼には力が無く、一族に貢献することをしていないという事実だけ。
 その情報に、志朗という男性の人柄や人格を表わすものは無い。
 彼がどれだけ苦労したとか、苦悩したとか、それまでの経歴や歴史も一切記されていない。
 『力が無い』、『一族の協力者ではない』。この二つの文だけでは、心なんて見ることはできない。
 そうだ、心が無い。彼が抱いてる心も、想いやる心も。
 記録に残っていない箇所を補うためには、多大に妄想を加えるか、大いに『無駄』と一蹴されそうな精神的な項目まで書き足すかどちらかしか手段は無いだろう。……確実な理解にするには、あまりに難しい。
 真実を把握する、心まで把握する。そんなの超越的存在だって成しえないことに違いない。

「……僕は、志朗さんを知らない。だから無関心に、心の無い言葉を言える。事情を知っていれば、攻撃を加えることなんてしない。できない」

 よく考えなくても判ることなのに、口に出して実感する。
 事情を知っている、知らない。
 知識として得ている、得ていない。
 愛情を抱いている、無関心である。
 構えているものが違えば、対する姿勢が大きく変わる。攻撃か援護か無かも。

「一つの事でも、その一にどのような愛を抱いているかによって、見えてくるものは違う。判ってはいたけど。うん……」

 何事も事情を、知識を、愛を持って『見る角度』を変えれば、最終的な行動が変化する。問い質された問題も、解き方が違えば、異なった答えが出てくるかもしれない……。
 人生一度きりなんだから、切り込む視点も一で終わりで『出てくるかも』なんてもしものこと言っても無駄なんだろうけど。
 ――いいや、駄目だ。『無駄』と一言で片づけるなんて、それこそ心が無い。
 なんて、また一人で朝みたいにブツブツ考えていると、数分も経ち。圭吾さんが運転席に戻ってくる。何をそんなに急いでいたのか、息を荒らしていた。

「エマージェンシーでしたか?」
「いいや、予定調和だよ」

 何が何だか。寺に戻るだけだというのにいきなり車外に飛び出す事情など何があるのか。
 圭吾さんは乱れた呼吸を整え終え、ちゃんと言葉が発せるようになったところで、手にしていたとある箱を僕に渡してきた。
 ピンクの紙の箱。まるでお菓子が入ってそうな箱だ。
 立派な箱に立派なリボンのシール。微かに鼻を刺激する甘い香り。これだけだと単なる『お菓子』という情報。でも、

「一日遅れだけどな」

 一日遅れという言葉。
 今日は7月13日。
 僕の好きなものは、甘い物。

「誕生日おめでとう、ときわ」

 それでこの箱が『僕の誕生日を祝うもの』じゃなかったら、『僕の誕生日プレゼント』でなかったら、太い何かで圭吾さんの頭をガツンと殴ってもいい。
 というか『たとえ僕の誕生日が昨日だと知らなくても』ここまでの情報を得た人なら誰でも判ってくれるだろう。そこに僕と圭吾さんの仲の良さという前提や、昨日は散々『仕事』に振り回されていたという事情、圭吾さんが僕を良く想ってくれているという愛を知らなくても。

「てっきり祝ってくれないものだと思ってました」
「帰れたのが二十三時じゃ祝うに祝えないだろ。傷は無くても昨晩は疲れていたし」
「そもそも、覚えてくれているものだと思いませんでした」
「あのな……毎年誕生日を祝ってるのに、なんで今年に限って忘れるんだよ」
「そういうこともありえる生き物ですよ、人間って」
「俺は記念日は忘れない人間だよ」
「知ってましたが再認識しました。圭吾さんは、良く出来過ぎた人間です」

 ええ、本当に。良い人間を神とするなら圭吾さんは正しく、と冗談でも言ってしまうぐらいに。
 シールで封をされた箱を開けてみると、中身はチョコレートのタルトだった。
 タルトの上にはホワイトチョコのネームプレートがあり、ちゃんと僕の名前が書かれている。まだ瑞々しい。出来立てのようだった。

 ここでふっと、ある過去の情報が頭に生じる。
 まさか、朝に電話して注文したんじゃないだろうな。教会関係の電話をすると言っていたけど、それもちゃんと電話してたのかもしれないけど、僕がぼんやり朝食を作り、作り終えた後も数分瞑想するだけの時間があったから……二件目に電話していても、おかしくない……?
 ここまでいくと付け足しの妄想が過ぎるかもしれないけど、充分に有り得る話だった。
 愛があれば余計に。

「そこ、住宅地の真ん中にある店なんだけど評判なんだ。美味いぞ」
「圭吾さんは食べに行ったことがあるんですか」
「人にあげるもんだ、試食ぐらいするさ。不味いもんを誕生日に渡されても困るだろ。ときわはあの店、知ってたか?」
「ええ」
「……えっ。し、知っていたのか」
「茶会に付き合ってくれる友人が、僕以上に甘い物が大好きでして。茶会のたびに違うお菓子を持ってきてくれるんです。特にチョコレートが大好きなので、このチョコは見たことあります」
「も、もう食べたことあったのか……」
「いえ。チョコ好きな彼は自分が食べるために買ってくるんです。僕は決まってチーズを食べさせられるんですよ。……だから、圭吾さんから『初めて』を貰えて嬉しいです」



 ――2005年7月13日

 【     / Second /     /      /     】




 /12

 ――車がガタンと揺れて、目を覚ました。
 どうやら怖い夢を見ていたみたいだ。内容はよく覚えていないけど冷や汗をかいている。

 後部座席で眠っているのはオレだけじゃない。隣の彼もスヤスヤと目を瞑っている。
 彼はオレの肩に寄りかかって寝息を立てていた。しかも両手で俺の右手を掴んで離さない。
 嫌な汗を拭いたかったが、あまり動くと彼が目を覚ましてしまうかもしれない。ふう、ふうと何度も深呼吸をして自分の嫌な汗を吹き飛ばそうとした。
 車の外は見えない。窓という窓は遮光カーテンで閉ざしてあるので運転席からしか外を確認することはできなかった。でも体が上を向いて斜めっているし、何度も車体がカーブをしている。山を登っているのは確かだ。仏田寺までもう少しといったところか。

「どうした? 変な夢でも見てたのか?」

 何度も深呼吸をしていると、助手席に座っている兄さんが声を掛けてきてくれた。
 車の中で不安定な姿勢のまま眠っていたからだよ、と無難に答えておく。隣の彼に握られていない左手で、髪を掻いた。7月だからか、クーラーのきいた車内だというのにじっとりと汗をかいていた。

「涎、垂れてるぜ。またおやつの夢でも見ていたのかよ?」

 助手席に座る兄は自慢の髪を掻き分けて、ニヤニヤ笑う。
 きっとそこからオレが居眠りしていた姿も見ていたんだ。涎を垂らしているところも見ていたんだ。なのにニヤニヤ笑うだけなんて、意地悪な人だ。

「……ああ、一時間も寝てたんだ。少しだけ寝るって言ったのに、なんで起こしてくれないんだよ」
「ずっと介護で忙しかっただろ? 居眠りも必要だと思って。うくく、心優しいお兄さんの気遣いだと思って受け取れ。ほら、そいつもぐっすり寝ているんだし休めるときに休んでおけよ」

 兄は「それともガムでも食べるか?」と言いながらひらひらと手に持った眠気覚ましを見せつけてくる。「いらないよ」と答えて、左手を……隣の彼の手に重ねる。
 オレに肩に寄りかかる男性は、今も尚、深い夢の中。
 さっきのオレとは違って彼は良い夢を見ていてくれているだろうか。怖い夢を見ずに済んでいるだろうか。……どうだろう。肩に顔を寄せているから見ることができなかった。
 握ったままの彼。握ってくる手は熱い。
 それでもオレの手は離さない。ぎゅっと掴んだまま、縋るようにオレを離さずにいる。
 ……外に出るのが怖いから怯えているのか。光が苦手だから斜光カーテンで防いでいるけれど、やっぱり些細な刺激は苦手なのか。握って離さない大きな掌。今もなお彼は苦痛に耐えているのかと焦ってしまう。

 ふと、前を見る。
 助手席の兄はガムをクチャクチャ食べ始めていた。運転席の父は黙って目的地へ車を走らせている。
 そして前方の鏡にはオレの顔と……オレの肩に頭を乗せて眠る彼の顔が写った。
 良かった。穏やかなものだ。
 昼寝をしている彼の表情は、平和そうだった。いつものように悪夢に魘される顔ではない。今日は平和に眠っている。眠ることができている。良かった。外出だというのにこんなに和やかに時間を過ごせるだなんて。

 過保護すぎだとよく兄さんに怒られるけど、心配なんだから仕方ないだろう。
 オレが笑った瞬間、もう一度車がガタンと跳ねた。びくりと隣の彼の体が震える。
 すると膝の上に彼の体が落ちてきた。ちょうどオレに膝枕をするように横たわってしまう。でも目覚めない。名前を掛けてみたけど、唸るだけで動きそうになかった。
 ……彼の赤い髪を撫でながら前を見てみると、鏡に写る彼は気持ち良さそうに微笑んでいた。
 ああ、今日は本当に平和だ。すやすやとお昼寝をする彼の姿を見て、オレが見た怖い夢なんて吹き飛んでいってしまった。



 ――2005年7月13日

 【     / Second /     /     /    】




 /13

 駐車場の砂利道を踏む。険しかった山道とこれから登る道と見比べる。一日ぶりの石段だ。荷物と箱を持ちながら家への想いを噛み締めた。
 山道もこれからの道も整備されている。途中までは寂れた街並みや大昔の工事跡で貧相な田舎町そのものだったけど、ここまでくればもう別世界。
 僕が十二歳まで育ってきた『外側』が終わり、十二歳以降に再調整された『内側』が始まる。
 車で山を登れるのは中腹までだから、これ以上は歩いて寺に向わなければならない。季節は夏。7月。猛暑にはなっていないけど暑い時期だ。車を降りるとすぐに汗が流れてきてしまうぐらいの気温だったが、これしきでへこたれていてはいけない。
 太陽が近い。ジリジリ近寄ってくる太陽を少し睨みつけて、体中の力を入れる。
 まだミンミンと虫も鳴いてないんだから。砂利道の擦れる音が静かに聞ける時期なんだから。……長い石段を登るにもまだラクな方なんだか、突き進んでいかないと。

「ん……?」

 圭吾さんが駐車した隣には、別の車があった。間違いなく身内のものだろうが、流石に車だけで誰が来たのか当てられない。
 僕が気にしてしまったのは車外観ではなく、その下、日陰に涼む『実家といえば』の姿だった。

「ただいま」

 誰かの車の下に、白の多い虎猫が居る。
 猫は境内に居ることの方が多いけど、今日はこんな所まで下りていたのか。厳密に猫達の住処なんて決まっていないからどこで出会ったって不思議ではない。けど、彼らも山道を登ったり下ったりするのかな。……してるからここに居るんだよな。「お疲れ様」の意味を込めて、日陰で丸まる彼に挨拶をした。

「お父さん、おそーい!」
「こっちはバッグ三つも持ってるんだよ。手伝え」
「だってお父さん、ジャンケン負けたもーん。罰ゲーム!」

 するとあちらから元気な声が聞こえてくる。
 やって来たのは、ずっと向こう側に駐車したらしい家族。……僕の弟、僕の従兄弟、僕の父だった。
 僕が猫に挨拶をしたのと彼らがこちらにやって来るのは同時。猫はというと、一言も鳴かず車の奥まで下がって行ってしまう。完全に見えなくなる前に、猫は僕のことを睨んでいた。
 まるで「あのガキに自分の存在を教えるな」と言うかのよう。脅しているみたいにこちらを睨む。
 だから「ごめんね」と頭を下げた。ゆったりまったりと過ごしてきた猫にとって、大勢の子供達が来るこの時期は落ち着かないのだろう。特にみずほに捕まってしまったら……南無。
 幸いみずほ達には僕が猫に挨拶した声など聞こえなかったらしく、猫は気付かれることなく不機嫌そうに口元を歪めて去って行った。
 こっそりと、のっそりと、林の方へと潜って行く。
 ごめんね、少しだけ我慢して。賑やかな我が家を見守っていて。そう謝っていると、

「あっ。ときわお兄さんだー!」

 猫が大好きな僕の弟・みずほが駆け寄ってきた。
 後ろには怠そうにジュースを飲んでいる緋馬くん。あと、子供達の荷物を一身に引き受けてる父がやって来る。

「……。生きてる? 父さん」
「ときわ、お前、出会い頭にそれはないぞ。眉間に皺を寄せて言うな、それより他に言うことあるだろ」
「久しぶり」
「誕生日おめでとう。少し言うの、遅れたが」
「……うん」

 実の父子の再会を、たった数文字で終わらせる。父もそれ以上は望まなかったようで、ちゃんと挨拶っぽい挨拶をし終えたら満足そうに頷き、歩き始めてしまった。
 荷物いっぱいの父に、圭吾さんが「藤春様。お荷物お持ちします」と奪うかのように荷物を持つ。いきなり荷物を持たれて父がよろけた。

「お前さんだって荷物があるんだろ。心配するな。昔は毎日この石段を往復してたんだから何とかなる」
「無理をなさらないでください。俺は力があるからまだ持てますよ」

 父の言うことも聞かず圭吾さんは「余裕です」と言いながら、荷物を奪い取った。
 でも鞄が増えただけで早くも汗を流している。どうやら夏は予想以上に早く近付いているみたいだった。一番後ろに居る緋馬くんの飲んでいるジュースが、ちょっとだけ恋しくなるぐらいには。

「……藤春伯父さん、もう年なんだからさ。若い人に荷物任せちゃった方が良いよ」
「若いのが荷物持ってもらってるのに言うなよ、緋馬」

 ぼんやり軽口を言う緋馬くんに、文句と共に笑う父。緋馬くんは「だって俺、吸飲中だし」とスタスタと石段へ歩いて行ってしまった。
 みずほはこれからの苦労なんて全然気にせず石段まで駆け出して行く。父が「そんなに急いだって何も無いぞ」と声を張ったが、半袖半ズボンの元気な子供は疲れや流れる汗なんて気にしない。
 僕は振り返り、先程猫が消えた先を見てみたけど、もうそこには誰も居ない。新たに涼んで隠れられる場所へ逃げていったのだろう。
 もう一度宜しくと言っておくかと皆に気付かずよう手を振り、再度踏ん張った。
 お寺に帰るには、まだ一段落仕事が残っているんだから。

「さて。登るか……ときわ、大丈夫か?」
「僕も若いから登れるよ」
「そうか。へっぴり腰で上がってくんじゃねぇぞ?」
「父さんは自分の年を三回叫んでから登るといいよ」
「…………」



 ――2005年7月13日

 【     / Second /     /      /     】




 /14

 僕は昨晩の『仕事』から住んでいる家に戻ってきただけ。でも父やその子供達は違う。子供達の夏休み期間でもないのに実家に帰省するなんて、何があったんだろう。
 長い石段を上がっている最中に僕が抱いた疑問を、息を全然切らさない圭吾さんが尋ねてくれた(半分ぐらい石段を登ったあたりで、ろくな会話が出来なくなったからだ。子供達も最初は「疲れたー!」と文句を言っていたが、最終的には必死かつ無言のまま登り上げた)。

「大山さんに呼ばれたんだ。……緋馬に『仕事』を与えるとか言ってやがる」
「え」

 つい声を上げて驚いてしまう。それは僕だけでなく、圭吾さんもだった。

 ――緋馬くんは、生まれてからずっと父の元に居た。魔術の教育は父がある程度学ばせたと言ってはいるが、実際に退魔業をやったことは無い。筈だ。
 少なくとも僕の知っている限り、緋馬くんが『仕事』をしたという話は無い。
 今回がきっと初めて。初『赤紙』だ。
 「ついに」と言うべきか、「やっと」と言うべきか。人によっては「今更?」かもしれない。彼の「今年で十七歳」という年齢を考えれば、一族の中では遅すぎるスタートとも思える。

 石段を登りきり、倒れてしまいそうな子供達を屋敷に送ってから、僕と圭吾さんは最後の『仕事』をするために、父は夏休みでもないのに本家に呼び出した張本人の元に向かう。
 大山さんは、本家屋敷で笑顔で出迎えてくれた。
 それからはいつも通り。圭吾さんがまとめた『仕事』の最終報告を大山さんに渡す。
 ただ違うのは、僕の『刻印』に封じた魂を大山さんへ渡したことだった。直接魂を献上しに行くのではなく、大山さんの「疲れたから早く休みたいだろう? 私が献上しておこう」という好意に全てを任せてしまった。
 大山さんはとても優しい人なので、疲れた顔をしているとすぐになんでも自分でやろうとしてくれる。
 僕が圭吾さんのマンションで休んでいたことを知っていても、大山さんは代理で魂を献上してあげると言ってくれた。なんでもしてくれようとする大山さんには申し訳無いが、長い石段を登り切った後にその気遣いはありがたかった。

「それじゃあ、私は藤春くんと話があるから」
「はい。大山さん、よろしくお願いします」
「あ、そうだ。圭吾くんは来てくれないか。これから緋馬くんには我が家の主戦力になってもらう。圭吾くんにはいっぱいサポートをしてもらわなきゃいけないからな、緋馬くんの話をしよう。早めに聞いておいて損は無いぞ、きっと君の為になる」
「かしこまりました」

 強制ではない言い方だった。でも「君の為になる」なんて言い方をされて断るほどの予定は無い。圭吾さんは頷き、大山さんの後をついて行った。
 去り際に、圭吾さんは「皆でタルトを食べるといい」と一言残していく。
 誕生日を忘れなかったり、僕の好きなプレゼントをベストチョイスしてくれるくせに……「二人で一緒に食べよう」とか言わないところが、彼らしい。

「……完璧に、完璧すぎるほど良い人なんですが、デリカシーに欠ける。そこが彼らしくて良いんですがね」

 もし致命的に欠点のある人だったら糾弾できるのにな。心の中で悪態を吐く。
 僕は少ない荷物を持ったまま、ピンクの箱を手にしたまま、一番好きな場所に向かった。
 場所は、洋館。洋菓子を食べて、最も美味しいと思える所。
 今日は茶会を開こうと約束してないから誰も居ないだろう。でも食堂にはいつでも茶会が開けるように準備だけはしている。だから一人で食べてしまおう。好きな紅茶のストックはまだ充分にあったし、綺麗なお菓子なんだから(僕が圭吾さんと一緒に買いに行った)一番良い皿で食べてやらなくては。そう思い、自室ではなく来賓の洋館へと向かった。

 十九歳の誕生日の夜は、好きな人と二人で、しかも好きな人のベッドで過ごした。
 十九歳と一日目は一人。
 しかし昨夜のことを噛み締めながら過ごせばいいのだから、全然不満は無い。
 これで「一緒に居てくれないなんて!」と文句を言うほど、僕の心は狭くない。
 ……狭かったなら、いっそベタベタできたんだろうけど。できたんだろうけど……。

「おや?」

 食堂には誰も居ないと思っていた。こんな時間に誰かが居るなんて思わなかった。
 けれど元々洋館は、来賓用の屋敷として使われている。誰かが仏田寺にやって来て、幾晩か過ごすためのゲストハウスがこの洋館なんだ。使われているということは、誰かが招待されているということ。
 客人が常にいることはないので僕の趣味である茶会に使わせてもらっているけど、そうでなければお客様が居るのは当然の場でもある。
 窓際に置かれたソファに腰を下ろしている人がいた。赤い髪の男性だ。
 彼は背を付けてゆったりと座って窓の外を眺めている。空調の効いた涼しい食堂で一人、夏の景色を大人しく見つめていた。

「アクセンさん」

 近付き、彼の名を呼ぶ。
 誰も居ない食堂で、一人でタルトを食べようと思っていた。けど、知り合いが居るならその人と一緒に食べたい。
 誰かしら話し相手が居た方が楽しく過ごせる。彼が居てくれたなら丁度良い。誘ってこのまま臨時の茶会にしてしまおう。次から次へと楽しい計画を練っていく。

「良かったらタルト、一緒に食べませんか。アクセンさん」

 もう一度、名前を呼んだ。だが彼は応えなかった。
 仕方ない。『そういう人だ』。
 問い掛けたって何も話さないのは判っている。だって日本語はおろか、何も喋れないんだから。でもこうやって声を掛けてあげることが良いと言われているから、僕は構わず話し掛けた。
 彼はいつも光の無い片目で遠くを見つめている。その目が本当に外の景色を見ているのか判らない。虚ろな目は何を見ているのか、何を思っているのか。何も喋らないし喋ることすらできないから本当のことなど誰にも判らない……。

「ときわさん!」
「うわっ」
「お久しぶりです。と言っても一週間ぶりですね。お元気です?」

 今日の調子を見ることに精一杯になりすぎて、食堂に誰かが入って来たことに気付かなかった。
 「お元気ですよ」と元気な声をした方に振り向くといっしょに、窓際で座っていたアクセンさんもゆっくりとそちらに顔を向ける。
 完全に動かない人形ではないという確証がやっと持てた。僕の声では僅かにしか反応しないが、あの声にだと……。

「あ、その箱……!」
「はい。あのお店の箱です」

 笑顔で走り寄ってくる彼は、以前自分も手にしたことあるケーキ箱を見て声を弾ませた。
 大きくな両眼がキラキラ輝いている。お菓子を見て喜ぶなんて子供みたいだ。僕より背が高い大人なのに、なんだか小型犬を思わせる。尻尾があったらきっと元気に振っていたに違いない。

「その……ときわさん。昨日、誕生日でしたよね?」
「え」
「今日は茶会のお約束なんてしなかったけど、良かったらこれからおやつにしませんか? プレゼントとか……何も用意してないんですけど。あっ、そのですね、オレ、父さんの用事が終わるまで待ってなきゃいけないからお茶を淹れようと思ってたんです。一緒に飲みましょう」
「…………」
「……ときわさん? あの、ダメ、でした? ぷ、プレゼントなら後日、ちゃんと用意しますので! どうせまた茶会にはお誘いするつもりでしたし!」
「僕、貴方に昨日が誕生日だって教えましたっけ?」

 プライバシーなんてこの家はあって無いようなもんだから、調べれば判ることなんだろうけど。
 いつかの茶会で話すようなことがあったのかな。あったような気がする。何回も茶会を開いて、そのたびに何かの議題で語り合っているんだから、誕生日がいつかってことぐらい話してそれを何気なく覚えていてもおかしくはないか。

「まあ、いいです。付き合いましょう。今日は語りたい気分なんです」
「……何かありました?」
「人生の先輩にお説教を受けました。人生観を変える、とてもエクセレントな話でした。その人のラブ度が上がりました。元から高かったんですけどね」
「はあ……圭吾さんの話ですか……?」
「何故それだけで圭吾さんだと判るんです」
「ときわさんが絶賛するとしたら、圭吾さんのことかなって……。本当にラブ度ってやつ、上がったんですか?」
「その心は?」
「……上がったわりには、不機嫌そうです」
「…………ええ! 不機嫌です! あの人、上げた途端に下げるとかどんな高等な真似ですか! まったく! 僕、昨晩は緊張して眠れなかったんですよ! いつ来てくれても良いように準備してるのに、僕より先に寝るとかどういうことだ! ファック! 『今日は疲れてるからシンリンの薬を飲んで寝るよ』とか言われた日にゃあ! もうっ! 僕が供給嫌いって言うの真に受けて何もしないって! あんなの照れ隠しに決まってるでしょう! ああ、薬に媚薬でも混ぜてもらうんだった! クソッ! 今日はとことん聞いてもらいますよ、ブリッドさん!!」
「あ、はいっ。……あの、他にも茶菓子を貰ってきましょうか。長話を始めたらそれだけじゃ足りないでしょう? 多分、父さんが何かしら茶菓子を買ってそうだし……」
「お構いなく。チョコタルトが一ホールあります。それで充分です。いつも通りのお茶会にしましょう。ただ今日は僕がメインで食べさせてもらいますよ。アクセンさんにもちゃんと分けてあげるんですよ! じゃないと貴方はすぐ食べて――――」




END

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