■ 032 / 「抵抗」



 ――2005年11月3日

 【     /      / Third /     /     】




 /1

「そんなことより兄ちゃんっ、遊ぼうよーっ!」

 本に向かう俺の背中にべったり火刃里が張り付く。
 まだ俺が犬と戯れて、火刃里と尋夢の私室に来てから五分も経っていない。
 そもそも弟達の部屋に来たのは、火刃里にプレゼントされた魔導書を読ませてもらうためだと話しただろうに。五分でどれだけ読めると思っているんだ。たった数ページだぞ。もっと読ませろと火刃里を振りほどく。
 するとまた背中にべったり張り付く。振りほどく。背中にべったり。振りほどく。背中にべったり……。

「あぁうぜえぇ!」
「きゃっきゃっ!」

 本気で俺が嫌がりうざがっているというのになんで笑っていられるんだ、火刃里。
 お前のポジティブシンキングと度の越した空気の読めなさは天下一品芸術級だな。褒めてねーよ、貶しているんだよ、悪口だよ。
 口に出して拒否しているというのに魔導書を読む俺を新たなアトラクションと勘違いしている火刃里は、ジャングルジムとして『俺で』遊ぶ。

「っていうかさーっ、兄ちゃんーっ。そんなに読みたいんだったらその魔導書、貸してあげるよーっ!」

 おれは読まないもーん。無理矢理肩車をしようと乗ってくる火刃里が能天気に言う。
 踏ん張る体力が無い俺はすかさず仰向けに倒れてやった。火刃里は俺と畳に挟まれぺしゃんこになる。痛い痛いと言いつつ、これまたきゃっきゃとはしゃいでいた。

「だっておれは剣の修行でいそがしーんだもーんっ! 魔法は後でマスターしてやるのさっ! えへんっ!」
「……これ、みんなから貰った魔導書なんだろ。それなのに俺がレンタルしちまっていいのか」
「いいよーっ! どんどん持って行っちゃえーっ!」

 火刃里は仏田家で能力者としての修行を積むことを松山さんや大山さんと約束したそうだが、そのときに「お前も立派な能力者になりなさい」という願いが込められた『大層素晴らしい魔導書』を受け取ったという。
 内容は……魔術の基礎編、応用編、完全マスター編。
 俺に足りていない全てが一冊に抑えられていた。さすが「これから頑張れ!」という労いをこめられた本物のプレゼントは違う。難しい昔の本よりも、現代を生きる小さな子供に渡す最新の一冊の方が読みやすい。しかもページも新品だから捲りやすい。古いもの独特の変な匂いもしないし最高じゃないか。
 しかしそんな記念品をコイツは『押し花製造機』としか使っていないという。ここ数ヶ月、どのページも空気に触れさせないぐらい本棚に封印していたとか。
 素人目に見ても凄い魔導書なのに、コイツは。
 っていうか、そんな凄い魔導書にちっとも興味を示さないコイツは。

「ねえ兄ちゃんっ、それってそんなにスゴい本なのっ?」

 俺の背中と畳に挟まれながら、もごもご動いて脱出しようとする火刃里が尋ねてくる。
 仰向けの態勢のまま(つまり火刃里を背中で押し潰したまま)厚い本をぺらぺら捲る。重い本なのでこの態勢は何分も続けていられない。それでも大雑把に中身を確認するため捲る。

「ちゃんと読めば、俺が十倍レベルアップするぐらいには凄い内容が載っているな」
「マジでっ!? じゃあおれ読む!」
「……ほらよ」
「あーんっ! ぎぶみー日本語っ! 日本語でおけっ! やっぱ時代は闘士オンリー伸ばしだよっ! 脳筋ばんざいっ!」

 火刃里のテンションは面白いが時々何を言っているかよく判らない。きっと時間を掛けてちゃんと学べばそれなりの魔術師になれる気もするんだが……って、それは誰だってそうか。
 さらっと言ってしまったが、確かにこれはちゃんと読めば良い腕になれるぐらいのノウハウが掲載されている。まあ、それでも分厚い本気の魔導書なので全部を読み切るには時間がかかるが。今から読めば来週までには読み終わるかもしれない。
 短期間で、そこそこ力量を上げられればいい。マスターする必要なんて無い。

 もし藤春伯父さんやみずほに危害を加え奴が居たら、倒せる程度でいい。
 そして……おばさんを交通事故から守れるような魔術があれば、尚良い。
 そのためには浮遊の魔術を覚えよう。突っ込んでくる車からおばさんを守る手段になる。千里眼の魔術もできたら覚えたい。遠くの景色を覗き見る手段は何にだって使える筈だ。あとは白魔術。治癒魔法ってやつを覚えよう。どんなに傷を負ってもみんなを守れるような、生かせるような、そんな力を……。

「あのさっ、兄ちゃんっ」
「……あ?」
「なんでそれ、いきなり読もうって思ったのっ? そんなことよりおれと遊ぼうよっ! お寺に遊びに来たならさっ! ねっ!」

 そろそろ俺の下から逃れられないと悟った火刃里が、ぐってりし始めた頃。やっとその質問をしてくる。普通だったらまず最初に尋ねたくなるような質問を。
 この本の存在については火刃里に前々から聞かされていた。「なんかすっげーの貰ったのっ! やったねっ! でも読めなかったーっ!」とハイテンションに笑って投げ出していたのをよく覚えている。
 そのとき、魔導書を貰って「いいな」とか「羨ましい」なんて思わなかった。「俺も欲しい」とか「読んでみたい」とも。
 ただ、

「……今、読んで修行しておいたら後々ラクになる」
「そうなのっ?」

 そんな気がして、俺は自ら修行を選んだ。
 犬と戯れた後の俺の気持ちは完全に晴れた訳じゃない。タイムスリップやタイムリープを完全に信用した訳でもない。
 でもかつての世界、本当なら今から三日後の11月6日に、瑞貴さんという魔術師からあることを言われる。それも覚えていた。
 初歩的なことしか覚えていないと言ったら、瑞貴さんは涼しい顔で俺へ忠告を……お説教をしてくれたんだ。

『レベル1で15点回復させることが出来る君が、真面目に勉強してみたらどうなると思う? いくつまで数は伸びるかな? 流し見で読んだ魔導書であそこまでの力を発揮できた君が、その本を全てマスターしてごらんよ。そうすれば』

 ……そうすれば。

『今、隣に座る瑞貴が、後ろで眠る寄居が、別物に見えるだろうよ。隣に居るのもバカらしくなるぐらいに』

 先輩魔術師である瑞貴さんや、俺と同い年にも関わらず物凄い修行をしていた寄居と卑下する気は無い。むしろ彼らは俺より凄い。実力が伴った能力者としての活動をしている。
 その二人を大真面目に追い越すことで、この不安を全て払拭できるなら。
 大切な家族を救うために。大切な家族を悲しませないために。大切な家族をこれ以上失わせないために。
 今は我慢するときなんだ。この成果が結果になる。少なくとも、あと数日後には。
 後々、多分。……おそらくは、きっと。



 ――2005年11月19日

 【     /      / Third /     /     】




 /2

 深夜11時過ぎでもオフィス街には光が灯っている。
 高校生男子なら滅多に訪れないコンクリートジャングルの夜光を、憂鬱な気分で見つめていた。
 本当だったら今夜は霞さん達と『仕事』に行かなければならない。でも話せばわかる人達は、「やりたいことがあるなら」と単独行動を許してもらった。
 代わりに、今後事件が起きる一軒家の情報は既に流しておいてある。それからどう動くかは、俺よりも退魔業をやり慣れている大人の三人にお任せするしかない。
 『赤紙』に命じられた任務も大事だ。けど、それよりも重大な事件がこれから待ち構えている。全力で神経を研ぎ澄ましていた。

 11月19日。
 あずまおばさんが死ぬ。交通事故で。

 俺達が深夜の仕事を終えたとき、霞さんが緊急電話を取って、俺は死を知る。
 事件が起きるのは深夜。18日の段階ではおばさんは生きている。何の事件に巻き込まれる前兆もなく、普通の一般人として。
 もう何かあってからでは遅い。俺は何の因果かタイムリープをしてきた身だ、これから起きることを知る人間としてやれることがある。
 死んでしまう人物を救うことぐらい、未来旅行をしてきた自分には他愛のないことなんだ……。

 そうして見張りをする19日の、深夜11時。
 あずまおばさんは未だに勤め先のビルから出てこなかった。
 会社勤めである叶は、自宅勤務の伯父さんとは違って夜遅くまでスーツ姿で働いている。女性が社会に進出するのが当然の現代よりずっと前から彼女はあんな感じだ。先日離婚の手続きのために有休を使ったからか、今は休めない生活を送っていた。
 今が忙しいだけだと思うけど、それでもこんな夜遅くまで働いているのか。おばさんのことを知っていたつもりで、十七年間全然知らなかった。
 勤務先近くの低いビルの屋上を間借り。警備員の目を(魔術の霧で)覆いつつ、おばさんが退社するのを栄養剤片手に見張る。

 空は曇天、天気予報では低い確率で雨が降る模様。
 俺が以前歩んだ11月19日では雨が降っていなかったが、翌日から連日冷たい雨の日が続いた。
 通夜の日になった21日は、一晩中雨。藤春叔父さんと抱き合わなきゃ寒くてやってられないぐらいの、冬の雨だった。
 その感覚を覚えている。思い出したくないけど、おばさんが死んで悲しんだことも、悲しんでいる伯父さんをこの目にしたことも……くっきりと覚えてしまっていた。
 いっそ離婚さえなければこんな深夜まで働かなかったのでは?
 そう思ったが、先日二人に「離婚しないで」と我儘を言っても、駄目だった。甘ったれな子供らしく駄々をこねても無駄だった。
 着々と未来が知っている通りに築かれていく。
 あれが夢ではない、と思いたい。
 夢であってほしいのに、と何度も思っても。
 あれほど明確な二ヶ月間を冗談だと笑い飛ばすほど、俺は能天気じゃない。神経質だ。だから……たとえ勘違いであっても、心血を注いでおばさんを見張ってみせる。
 持っていた栄養ドリンクを煽った。

 一滴も残さず飲み切ったとき、終電時間も過ぎた頃……ようやく会社から女性が出てきた。
 疲れた顔のおばさんだ。間違いない。屋上から飛び降りてすぐさま偶然を装っておばさんに声を掛けよう。
 「高校生がなんでここにいるんだ」とか「寮の門限はどうした」とか言われそうだが構わない。思いながら腰を上げる。

 だがその瞬間、身が凍るほどの違和感に――五分ほど立ち尽くしてしまいそうになった。
 実際は三秒だ。

 氷漬けにされたような感覚。
 周囲には人っ子一人いないほどの無人。誰もいない、誰も歩いていないと断言できるほどの夜。
 おばさんは疲れた顔でよろよろと歩いている。彼女しかあの道を歩いてなくって、どこからも何も現れないと確信してしまうほどの……無人の世界。
 だから周囲のビルにも、小さなコンビニにも、青信号の道にも車も人も誰一人居ないことに気付いていない。
 おばさん以外世界に居ないという違和感に、気付かないように。

 ――人避けの結界!?

 気付いてしまって、ぞわりと背筋が凍った。
 結界なら俺も高校で幽霊退治をするたびに使っている。霞さん達だって遠く離れた現場で使って作業中だろう。
 隠匿を心掛ける能力者であれば、基礎中の基礎とも言える能力の一つ。でも、なんで、今ここで……!?

 悪寒に怯えて身動きができなくなるぐらい、体は重い。
 違和感を拭いながら、誰も立ち入ることが禁じられた空間に……進む。
 だってその中におばさんがいるなら進むしかないじゃないか……!

 すぐさま重力を殺し、地上に降り立った。
 何の変哲もないコンクリートに降り立った筈なのに、突如全身に電流が走る。
 全て幻で、万全の準備を整えた後の着地だから無傷で済んだ。でも明らかに感づいた人間を昏倒させるトラップだ。意を決して結界の中央へとふらふら歩いていくおばさんを追う。

 たとえ深夜0時近くったって信号機のある街中。
 車が一切走らないなんておかしい。なのにおばさんは悠々と歩いている。
 せめて大声で声が掛けられる距離まで詰めないと、と思った頃に二度目の悪寒が襲い掛かってきた。
 おばさんの行く先に、鎧が立っている。
 黒い鎧だ。手には凶々しい長剣を握った全身鎧。
 中世舞台の騎士のようなフルフェイスの兜。顔は一切見えない。だから重厚な戦士が人間なのか化け物なのかも判らない。
 そんなもの、現代日本ではありえない。オフィス街の道にそんなものが突っ立ってるなんておかしい!
 その鎧が少しずつおばさんに近づいているのも、逃げずおばさんが近寄っているのも、おばさんに剣を振りかぶろうとしているのもおかしい、おかしすぎる……!

「おばさんッ……!」

 なんであんなものがと思うより先に、足へ魔力でブーストを掛けた。
 オリンピックの意味を無価値にしてしまうほど、獣じみたスピードが出せる両脚へと生まれ変わらせる。
 一気におばさんの元へと吹き飛んで、相手が勘づく前に咆哮した。

「燃えろォッ!」

 呪文詠唱のカット。瑞貴さんや依織さんが教えてくれた魔導書の通り、最低限の発動合図だけに留めて炎を発射する。
 走り込んで高速詠唱の後に不意打ちの炎。そんな高度な攻撃なんてしたことなかったけど、見事火は命中する。
 赤く燃えていく鎧。
 だが、燃え尽きることはない。
 黒鎧は身じろいだり呻き声を上げることなく、顔を俺に向かせる。
 兜の下の眼が、俺を睨んだ。
 ……標的に、された。殺気を感じて腰を抜かしそうになるが、そんなことになる前におばさんの腕を引く。

「おばさんっ! 逃げるよ……!」

 ――そう、遠い場所で霞さん達が戦っているようにここでも異端の事件が起きていたんだ!
 ――おばさんは被害者だったんだ。交通事故なんて世の中には隠蔽されたけど、真相は……街中で黒鎧の何者かに襲われたんだ!

 彼女の顔は、夢の中に居るかのように蕩けている。
 目は開いているけど目覚めてはいない。意識は結界の中に入ったときからとっくに無くなっていたと思われる。まんまと狩猟場に誘いこまれたおばさんは、誰にも気付かれないうちに餌食になってしまうところだったんだ。
 彼女の腕を掴んで引き寄せ、腰を抱く。
 また魔力で両脚にブーストを掛ける。今度はおばさんを抱く片腕にも魔力を付与させた。

「口だけは閉じていて! 危ないから!」

 ジャンプで逃げていくにも体に重力が掛かる。あまりの重さにおばさんだけ置いてけぼりにしてしまっては意味が無い。
 ちゃんとおばさんを抱き上げる力と、獣のような脚力で逃げる力を同時に付けなきゃ……。

 戦闘において素人がそんなの瞬時に考えられる訳が無い。
 俺の判断は的確だが、戦い慣れた人にとっては遅く感じただろう。だから相手は隙を見抜くぐらい造作もないと思う。
 俺が魔力を込めて飛び去ろうとした瞬間に、黒鎧は剣を大きく振るった。

 ぶうんと野球のバッターみたいに横へ広がる剣の軌道。
 避けることに集中しなかったら、おばさんに当たっていたかもしれない凶器のライン。
 歯噛みして態勢を整える。

「ぁっ……はっ……!」

 またおばさんをしっかり抱きしめて、脚と腕に魔力を付与し、逃亡する。
 この三段階が一瞬で出来ない。どう足掻いたって三秒は掛かってしまう動作に、一秒から二秒の動きで襲い掛かってくる黒鎧から逃れることができなかった。

「ぐっ……!」

 おばさんから体を放し、たった一秒で出来る炎の弾を相手に投げつける。
 単純な投球じゃなく、軌道を変えて予測不能にした光線だ。たとえあっちの方が早くっても兜の下にある目は二つの筈、あちこちから攻撃されたら目を回して隙が生まれる……!

「……!?」

 それもまた、素人ならではの考えだったのか。
 同時に三発撃ち込んだ炎は、三回剣を振るわれたことで全て打ち払われた。
 それだけならまだしも、打ち払われるたびに一歩一歩と大きな歩幅で前進され、黒鎧がたった三歩進んだだけで逃げようとしていた俺のもとに追いついた。
 総毛が立つ。
 ゆらゆらと人を傷つけたいという快楽を求めて蠢くだけの怨霊じゃない。知性を持ち、数秒のうちに戦術を立て襲い掛かってくるような敵を相手にしたのは……初めてだった。
 だから……あっという間に間合いに入られたときはポカンと口を開けた後、どうすればいいのか判らなかった。
 斬られる。
 しかし長い剣をくるりと回した黒鎧は、強固な籠手による肘打ちを俺の腹部に決めてきた。
 刃によって肌を切り裂かれたのではなく、純粋な力任せの殴打。
 体の中がぐきゃりと歪む音が聞こえる。それが内臓を圧迫した音なんだと理解するほど明確な一撃を……俺は正面から見てしまった。

 腹の中の物が全部口から飛び出てくる。
 霞さん達と食べたレストランの食事を吐き出しながら、俺は宙を浮いた。
 勢い良く俯せにアスファルトに叩き付けられ、そのおかげか全身が汚物塗れになることはなかったが、見すぼらしい姿になったのは違いない。

「ぎっ……!」

 立ち上がろうにも痛みが強すぎて涙で前が見えない。
 でも、生きた。
 致死には程遠い。
 その間にも黒鎧は呆然としているおばさんへ近寄っていく。……もう、手段なんて選んでいられない。

「降り注げッ!」

 連射なんて芸の無い。それでも相手にとって嫌なところに一発でも当たってくれればいい。
 巧い技など持っていない俺には力の限り尽くさなければすぐに負けてしまう。黒鎧の頭上から豪雨のように炎を降らせた。これだけ大量の炎を散らすのだから当たらない訳が無い。
 おばさんの髪の毛が黒焦げになってしまうけど、それだけで済むなら手段を選んでいられない。
 縦横無尽に詠唱を続けた結果、正確性が欠いたが大きな炎の波が黒鎧に襲いかかる。アスファルトの上がそこかしこに燃え広がっていく……。

「ッ……!」

 ほんの少しだが、何も叫び声を上げない黒鎧が反応を示した。一瞬でも気を引くほどの攻撃を繰り出せたということだろう。
 呆然と立ち尽くすおばさんの元にまた駆け寄る。
 エルボーを食らった腹は当然痛い。でも瑞貴さんが使っていた治療魔術を真似てみたら、痛くても体が動けるぐらいにはなった。
どんなに痛くったって動ければ痛みなんて構わない。腹を抱えながらおばさんの腰に両腕で抱きつくと、今度こそ両脚に魔力を込めて、跳ねた。

 ダンッと踏ん張った場所から宙に浮かぶ。
 成人女性を抱えた状態でも俺の足は頭上、二十メートルまで飛んだ。
 思わず腹部の痛みに揺らいでよろけてしまいそうになったが、背の低いコンビニの屋根に足を付けられた。
 着地から二回目の跳躍は三十メートル飛ぶ。三回目には四十メートルも飛ぶことができ、ついには高いビルの屋上まで飛び移ることができた。
 炎の海になった道路に奴を取り残して逃げられた。
 尋常じゃない重力と強風による衝撃は凄まじいものの筈だけど、おばさんの顔は……まだ夢見心地だ。

「おばさん、しっかりして、すぐ起こしてあげるから……!」

 ビルの屋上から屋上へ逃げる前に体を抱え直す。
 力無く俺にしなだれかかってくるおばさんは、こんな深夜まで働いていた体力のある女性とは思えないほど空虚なものになっていた。
 気丈な女性とは思えないぐらい、がらんどうな形。
 魔術だか異能だか判らなくてもあの黒い異形は人間を空白にして、襲っていたんだ。無力な人間を殺そうと剣を振るうんだ。
 助けなくては。たとえこの人が母親でなくても暴力で貶められそうなこの人を守らなくては。
 柄でもない正義感に駆られながら彼女を掴む腕に力を込め――た途端、吹き飛ばされた。
 頑丈な鎧が、全速力で正面衝突してきたからだ。

 ――追いつかれた!?

 一瞬も油断したつもりはなかった。
 でもそれは俺の中の問題で、相手からすると俺の動きは鈍間だったのかも。突貫された体は宙を浮いて、屋上のフェンスに激突する。
 もう少し力が掛かればフェンスが折れ曲がって、地上へと落下していたかもしれない。そんなことになったら咄嗟な判断が取れない俺は何の手段も講じないままコンクリートに叩き付けられただろう。
 ぞぞぞっと背筋が凍り、痛みがじわじわと全身に伝わって……おばさんのことを忘れかけてしまった。

「……狙え! どこでもいい! 止めてくれ、あいつをッ!」

 操る炎に呼びかける。すぐさま身を起こして詠唱を始める。俺の炎が騎士へと襲いかかった。
 だけど漆黒の剣が振りかざされるたびに、弱々しい火が打ち払われていく。
 ついには俺の方へと切先は飛んできた。柄の部分で殴られたり、全身で突貫されてきたのとは違う……切り裂くための刃が俺の肌を襲う。反撃一つできないほど凄まじいスピードだ。

 その刃は、俺の鼻から数センチのところで止まった。

 実際に肌から血が流れることはなかったが、俺の動きを止めるには充分な一撃だった。
 そして発覚する。
 ……こいつ、さっきから俺を叩きのめしているくせに……決して致命的な大打撃を与えてこない。
 殴打された腹が痛かったり打たれた背中がギシギシと悲鳴を上げているけど、それだけだ。
 打撲痕は大量にできているが、流血は一切無い。
 よく判らないがこの黒い異形は、俺を殺そうとはしない。
 なら……どんなに懐に入って暴れても、何の問題は無いってことじゃないか!
 戦意があっても殺意が無いなら!
 こちらは全力の殺意で、奴を止めることができる!

「燃えろ……燃えろ燃えろ燃えろ燃えろッ!!」

 激痛には苛まれても口を動かす。
 無茶な力の入れ方だと怒られそうなぐらいの無茶を、炎に詰めてやる。
 渾身の魔力を腕から捻り出して、投擲。
 己の中に残っている生命力すら全部攻撃力へと換えて、奴の武器を焼き焦がすために一心不乱に唱える。
 最初の一撃とは比べ物にならない火力が生まれていた。十メートルもない距離に、辺り一面丸焼きにできるだけの威力が集中する。
 そんなことをしたらビルが大破するかもしれない、いや、ここは奴が創り出した異空間ならそれも問題無い筈……。
 とんでもない爆発力を放ったって、それで自分が吹き飛んだとしたって、彼女を救えるだけの殺傷力を編み出せるのなら安いものだ。
 彼女に迫る凶刃。その腕目掛けて火炎を照準した。
 動きを封殺するほどの火が奴を襲ったことで明らかに奴の動きが迷い始める。武器を振り下ろそうとする意思にも躊躇が見える。
 それだけ奴にダメージを与えられたということだ――そうだそれでいい――そのまま矛先が自分に向けられれば、おばさんが狙われなければそれで!

 炎によってよろける鎧の元へ、俺は跳躍する。
 痛みによる怯えなんて吹き飛んだぐらい、決意を胸に相手の懐に入る。
 ただ目の前にいる黒鎧を炎で遠く遠くへ吹き飛ばすと腹に決めて突進する。
 拳に先ほどの炎を纏わせて、片足にも同じ魔力を付与させて、一気に疾駆し叩き込む。
 決めてみせると思い定めた一撃は、俺史上最高の灼熱を繰り出す……!

 ――女の子が居た。

 死線を駆けずり回っている俺には、そこに女の子が居たことなんて気付けなかった。

 おばさんじゃない。おばさんは眠るように立ったまま、炎の中で辛うじて生きている。
 でもおばさんの半分の背もないような――小さな小さな女の子が、この世界に存在していた。
 灼熱に怯えることもなく、慌てている様子もなく、その炎の中で佇むのが自然というかのように、彼女はそこに居る。
 俺が呼んだ覚えもない。じゃあ、あの黒騎士の仲間? 使い魔? 思いを巡らせても答えが見つかることはない。
 金色の髪をした美しい彼女は、涼しい顔のまま口をぽっかりと開ける。
 轟音と共に燃え広がる炎の中じゃ、小さな彼女の一言なんて耳に入ってこない……筈なのに、脳味噌へと直に可憐な声が、俺の中へと届く。

 ――マケロ、と。
 簡潔な呪詛を、言い放った。
 俺に「負けろ」という、ただそれだけ。

 嫌だよ、負けてやるもんか、負けたらおばさんが死ぬんだ、絶対負けてやるもんか……そう言い返そう。
 と思ってしまったのが、いけなかった。
 鎧を倒すという強い意思は、正体不明の女の子へと向けられてしまった。三秒の隙も見逃さなかった黒い異形が、これほどの間抜けを取り逃がす訳もなく――再度俺は、全力の籠手タックルで吹き飛ばされた。

 体が、宙を浮く。
 今度はフェンスを飛び越え、遮蔽物にぶつかることなく弧を描く。
 打ち込む筈だった腕はしゅわしゅわと力を失くしていき、踏み込む筈だった足もただの棒のようになっていき、背中は重力に引かれて……ゆっくりと落下していく。
 案外高かったビルの屋上から、コンクリートの地上まで真っ逆さま。
 視界から遠ざかっていく、屋上。
 離れていくおばさんの姿。
 手を伸ばしてもどんどん消えていく、二つの影。
 その中に、先ほどの女の子の姿は無い。屋上には黒い鎧とおばさんだけ。二人が取り残されたら……鎧は何をするかって、そりゃあ……。

 おばさんを刺し殺すしかない。

 特に激しい光を放つ訳でもなく、血飛沫が舞うこともなく、さっくりと体に沈んだ刃は……おばさんを絶命させた。

 その光景を落下しながら見ていた。
 スローモーションでもなんでもないのに、俺の眼は殺害風景を決して逃さなかった。
 けど、すぐに視えなくなる。溢れ出る涙が視界を覆って、何もかも消し去ってくれたからだ。

 ――落下しても俺は、生きていた。

 オフィス街は意外と緑が多い。コンクリートの大地に辛うじて残した自然が、俺の命を守るクッションになってくれた。
 その程度で落下した命が守られる訳が無いんだが、腕と足に込められた魔力を全部着地に使ってしまえば墜落の衝撃なんて簡単に殺してしまえた。
 道路脇の繁みに落ちて、大の字で寝そべりながら……ビルの頂上を見据える。
 涙で見えるもんなど何にもなかったけど、暫く赤く染まっていた空は……時間通りの黒へと戻っていく。
 屋上一帯を燃え尽くす魔法の炎は消えた。実際の火事にはならない。煙も無いし、騒ぎなんて誰も気付かない。

 あの戦闘は、無意味なものになった。

 ……やがて誰かが通報したのか警官が二人、道路脇の芝生の上で寝そべる俺に声を掛けてくる。
 深夜の不良を注意するのも仕事なんだろう。酔っ払いじゃない高校生ぐらいの俺が……涙を流しながら寝ているのは一体どうしたもんかと警官さんも困惑していた。

「……母が、死んだんです」

 ――数時間後、携帯電話に霞さんから連絡があった。

 電話の内容は、「おばさんが死んだ」というもの。
 おばさんは、とある道で足を踏み外して……頭の打ちどころが悪くて死んだことになっていた。不慮の事故だという。おばさんを知っている人が聞いたら「あの人が、そんな呆気なく」と口を揃えて言うだろう。
 俺も言った。前の世界で、確かに口にした。

『おい、緋馬、今どこに居るんだ? こっちの仕事は依織と玉淀が何とかしたしお前を迎えに行く。……異端退治が終わったばかりだ。何が起こるか判らん、危ないからそこから一歩も動くんじゃねえぞ』
「危なくないですよ、多分ここは一番安全です。……今、交番の中に居ますから」

 電話口でボソリと呟くと、駆けつけた大人達は俺を案じる動きを見せる。
 周囲のおまわりさん達が心配そうな顔で、気を利かしてくれた。
 みんな優しい。家族を失って自暴自棄になった可哀想な少年を暖かく気遣ってくれた。
 本当に優しい大人達だ。……おばさんを救えないほど無力でも、親切な人達だった。
 母を失って悲しむ子供を支えようとしてくれる、とっても愛想の良い大人達……。

 ……ありがたかったけど、いらなかった。
 そんなものより、確実に救ってくれるような力が欲しかった。
 おばさんが死ぬって判っていながらも殺された。そんな俺を……心から救済してくれるような人がいてほしかった。



 ――2005年11月22日

 【     /      / Third /     /     】




 /3

 葬送は霧雨の中で行なわれた。
 雨は昨夜よりずっと緩い。そろそろ傘を差さなくても済みそうだった。

 喪主である藤春おじさんが、かつて妻であった人の骨を抱く。
 名残惜しそうに彼女が入った箱を撫でている。松山さんの指示とともに、立派な墓石の下へ彼女を埋めていく。
 雨はやみそうになっている。でもみずほの涙は途切れることなく降り注いでいた。「いいかげんに泣きやめ」と止める人はいない。寧ろ今のうちに泣き続けておくんだと、誰もみずほの号泣を止めなかった。
 もしあさかが居たならみずほを抱き締めてやっていたかもしれない。でも、あさかもいない。
 俺の記憶の中にはいても、この世界では……あさかは数ヶ月に死んでいた。たった一年で肉親を二人も亡くしたみずほは、声を荒げている。
 止める手段なんて皆に無かった。

 悲しみに暮れる藤春伯父さんは、表情を引き締めて最期を見つめている。
 墓石が閉じられる。松山さんが輪を鳴らしながらお経を唱えていく。最後の手向けとしての線香が配られた。これで形式的な別れは終わりだ。
 儀式が終幕を迎える。これであずまおばさんは真の『過去の人』になる。
 ……死んでしまった人。もういない人。俺にとって二度目の死。認めなければならない、死の確定。
 違う、違う、あってはならない……そう、みずほのように声を荒げたかった。でもそれは、『もうしていた』。
 今は言われるがまま線香を捧げ、手を合わせる。松山さんの淡々と続く唄。参列に感謝を込めて頭を下げる藤春伯父さん。
 遠くから、眺めていた。

 ――今回は、一晩中語り明かすことはなかった。
 前の世界では「俺が寂しいから」という理由で伯父さんと共に過ごしている。でも伯父さんは、おばさんと二人きりで夜を過ごしたがっていた。二度目も子供の我儘で、二人の夜を邪魔したくなかった。
 本当は伯父さんのもとへ甘えに生きたかったけど。今回は、出来ない。……悲しい以上に申し訳無さがある。
 だって、俺はおばさんが死ぬことを知っていた。死ぬ前の彼女に会えた。救えたんだ。
 でも救えなかった。勝てなかったから。……その悔しさが、心苦しさが先走って、藤春伯父さんの顔を見られなくさせていた。

「ウマぁ、なんかを難しい顔をしているねぇ。思い悩むの良くないよぉ?」

 一通りの儀式を終えたのを見計らってきたのか。俺を気遣う大人の一人である福広さんが、傘を差してきた。
 霧雨だから傘はいらないと思っていたけど、数十分も野外にいればしっとりと制服が濡れる。貸してやろうかと言ってくれたが、自業自得なので断った。

「福広さん。思い悩んでいるだけじゃないです。これは腹をくくって決心した顔です」
「へへぇ?」
「福広さんは聞いてましたよね、『おばさんは殺された』って俺が言ったの」
「……へっへぇ。聞いてたよぉ。ウマったらお経の最中に叫ぶんだものぉ。ちゃんと大山さんや狭山さんの耳にも入ってるのって教えてあげるぅ」

 良かった。大声で訴えた甲斐があった。

「みんな、聞いてくれていたんですね。無反応だったから怖かったんです」

 そりゃ葬式の最中に「おばさんは殺されたんだ! 俺は異端を見た!」と言い放ったんだから……みんな聞かないふりをしていたけど、聞こえなかった訳は無いか。
 一応形式的なものを続けなきゃいけないから、厳かな葬儀を続けていただけだったんだ。

「みんなウマの気持ちは判ってるよぉ。……でもさぁ、冗談は程々にしておいた方がいいよぉ?」
「……福広さん。冗談だと思ってこんなことを叫ぶと思いますが、俺が」
「うんうん思うよぉ。そりゃあ義理でも最愛のお母様が死んじゃったら気も狂うさぁ。『不慮の事故』なら尚更でぇ、何か原因が無いとって思わなきゃやってられないからねぇ」
「……んな訳、無いでしょう。俺は、見ていたんですよ。実際に戦っていたんです! 俺の傷、知らないんですか。腹にどんだけキッツイ痕を付けられたかって……」
「任務中に作ったモンでしょぉ? その日カスミンさんと一緒にお出掛けだったってみんな知ってるよぉ」
「それは霞さん達三人に任せて……!」

 ストップ、と福広さんはすかさず俺の口を覆った。
 ニマニマと締まりのない笑みを浮かべているのは相も変わらず。でも声はいつになくシリアスそのもの。福広さんにまずない貴重な声色でもある。

「遠くに居るとはいえ、お偉いさんも出席してるんだよぉ? サボったって声高らかに言ったら立場が危うくなるのはウマさぁ。コラコラいけないコトだよってお兄さんは止めてあげるぅ」
「……福広さんは、俺が口から出任せを言っていると?」
「ウマなりに想ってしっかり考えて言ってるとは思うけどぉ。……でもさぁ、残念ながらウマの言葉を信用することはできないんだよねぇ」

 なんで! たとえ誰かに振り向かれても全力の反論をする。
 彼は困った笑みを浮かべながらも、焦った様子も無く俺の片肩に手を掛け、言い聞かせようとする。

「これでも一応ぉ、調査はされてるのさぁ」
「……調査……?」
「『あずまさんの死因は何だ』っていうのぉ、チェックされてるんだよぉ。誰にぃ? 警察にぃ? ……違うよぉ、うちの一族にだよぉ」
「……仏田が、自ら調査を?」
「うんうんそうそうぅ。あずまさんは先日藤春様と縁を切ったとはいえ仏田に縁があった女性だよぉ。そんな人が急死したとなったら何か原因があるんじゃって怪しむと思うよねぇ? ……だから『本部』は動いたぁ。ウマにはあんまり親交が無いと思うけど次期当主陣営エースの男衾って人が直々に調査をしてくれたんだぁ」
「調査をしてくれた……その結果が……」
「あずまさんはぁ、不慮の事故だと発覚したぁ」
「…………そんなの、嘘に決まってるじゃないですか!」
「いやいやいや将来を約束されたエース様の調査を怪しむのぉ? わざわざ動いてくれた人の頑張りを否定したらデコピンしてでもお兄さん怒っちゃうよぉ?」

 怒った様子など全然無い顔で、福広さんは俺に顔を近づけてくる。流暢に言葉は繋がれてはいるが、心配してくれる声には変わらなかった。
 けど、だからってそれを鵜呑みにしろと?
 『男衾って人の調査によるとあれは事故なんだ。事件じゃないんだ』って。
 ましてや『異端の仕業じゃない』って……?

「……こんなに俺が違うって言っても! 俺がこの目であずまおばさんが死ぬところも見て、おばさんが死ぬまで変な鎧野郎と戦っていたと言っても、それは違うって言うんですか!」
「その日ウマは『仕事』をしている筈だよねぇ。異端討伐に出かけている筈だぁ。それをサボってるってことが真実ならまずそこでお叱りポイントだぁ。……ウマはサボリ癖のある悪い子なんでしょぉ? サボっちゃう不良なウマちゃんとお仕事をしっかりするエースさんの確実な調査結果……人々はどっちの方を信用すると思うぅ?」

 経験も浅く仕事を完遂させない少年の暴論と、男衾って人の報告。
 証拠の無い主張と、誠実な結果。
 男衾という人物がどれほどの人望を持っているか知らない。でも……福広さんが茶化さず言い切っているということは、真に男衾さんを知っている『本部』は更なる信頼を置くんじゃ……?

「……なんですか、それ……」

 人の立ち入れなかった結界内で、起きた殺人を目撃している人もいない。
 見たという俺の言葉をどんに並べようとも、俺は信頼されない。
 俺しかおばさんの他殺を主張する人はいない。けど俺は、身内の死で錯乱しているから感情のあまり「異端のせいだ!」って喚いたことにされている……だってみずほだってあんなに叫んでいるんだもの……心ある人々なら、心情を理解してしまう。
 俺を気遣う理解を見せた上で、俺の叫びを理解しないようになる?

「……でもっ、殺されたのは、事実なんですよ!」

 悔しくて唇を噛んだ。その姿を見た人々は、母の死を受け入れられなくって鳴き喚いているみずほと同じだと……思ってしまうのか。
 この言葉は、届かないものなのか。
 どんなに強く主張しても、信用されないものになってしまうのか。

 俺の無念さを理解してるのかしてないのか判らない福広さんは、「上の決定はぁ、簡単には覆らないよぉ」と……ぼんやりした声を俺に吐きつけた。
 彼なりに俺の顔を立ててくれようとしているのは伝わる。けど、それ以上『俺を助けてやろう』という意思は一切伝わってこない。
 みずほを見る目といっしょだ。
 受け入れろと、今はそれでいいと……みずほの涙を止める者がいないのと同じなんだと思い知らせてきた。

 ――参列者が居なくなった後、藤春伯父さんは僧侶の松山さんと形式的な話をし始めた。
 何度も頭を下げる伯父さんに対し、松山さんは「俺達は家族なんだから、何か困ったことがあるなら言ってくれよ」と元気づけていた。さっきまでの厳かなお坊さんの姿はどこにやら、庭で履き掃除が似合うおっさんに戻っていた。
 その元気さが、今の伯父さんには必要だ。そう思ったってことなんだ。それぐらい藤春伯父さんの顔は沈んでいる。
 前の世界より、ずっとずっと暗い顔色をしていた。

「……伯父さんは、おばさんに最期のお別れをしないの?」

 福広さんも松山さんも、ついにはみずほまでもが泣きながら墓地から去って行った後に……墓石の前で虚空を見つめる伯父さんに、声を掛ける。
 喪主としての仕事は終えた。後は松山さんが全部サポートしてやるとのことだ。俺の声に促されて彼女が埋められた場所を見つめたおじさんの焦点は、合っていない。
 そろそろ「お疲れ様です、休んでください」という言葉を本気で受け取ってもらわなきゃいけない。色んな人からそう言われていたけど、肩の荷が下りるまで休むことなんてできなかったから……ようやく休んでもらわないと困る。
 霧雨のまま空が晴れないこの場に居るんじゃなくて、布団の上で転がってもらわなきゃ。
 まだ名残惜しいのか動かない藤春伯父さんに声を掛ける。それで動かなくなった体が再起動してくれればいいと思ったけど、まだ足りない。腕を引っ張って無理矢理に墓石の前から離れさせようとした。
 前の世界は、もっと早くに離れてくれた。みずほと一緒に墓地を去った筈だ。
 だけどなんで今はこんなに立っているんだ?
 ついつい以前を知っている身は比較してしまう。何故だろう……と思っていると、途端藤春伯父さんが墓石の前に膝をついた。

 今が霧雨だとはいえ、数日前から雨続きだ。
 だから水たまりもある。傘もさしていない彼はそのまま手をついで四つん這いになったら……全身を泥水で汚すことになった。

「……ときわが奪われたとき、あんだけ争ったのに、それでも俺の隣に居てくれた」
「お、伯父さん……?」
「俺に合わせて主張を……諦めてくれた。それでもなお『好きだ』って言ってくれた。ああ、俺は俺を『好きだ』って言ってくれる人を好きになったのかもしれん。……申し訳無いな。ああ、申し訳無い。……こんな俺より良い人が幸せにしてくれたかもしれない、そんな良い女だったのに……」

 前に、聞いたことがある言葉。
 おばさんが骨になる前、眠る横で伯父さんが話してくれたあの話。
 俺は聞いたことはあったけど、伯父さんはまだ言ったことのない台詞の一つだった。

「……これから幸せになってくれる筈だっただろう? 俺と離れたって変わらないって、変わらないけど新しく生まれ変わるんだって、それだから何も心配するなって言ったのは、これでいいから今は納得してくれって言ったのは……お前じゃないか」
「伯父さん……伯父さん?」
「早すぎるだろ。早すぎるだろ! なんでいなくなっちまったんだ! バカヤロウ! バカヤロウ!! …………一人に、させるなよ……」

 ……二人きりの夜があれば、伯父さんの心は落ち着くものだと思っていた。
 俺が居たら邪魔だから、申し訳無さで顔も見れない俺はあの場に訪れなかった。
 でもそれって、伯父さんは無言で何も言わずにいてしまったのかもしれない。吐き出すこともできず時間を過ごしてしまったのかも。
 そんなことはいい。否定しなければならない言葉がいくつもあった。

「伯父さん! 伯父さんが……おばさんを否定しないで! みずほが……みずほとあさかが、悲しむだろ! 怒るだろう!? 怒るよっ!」

 伯父さんに駆け寄って立たせる。でも構わず頭から崩れ落ちている成人男性を力づくで起き上がらせるのは背の足りない子供には難しかった。

「だから『もっと良い人がいた』とか言わないで! 俺は……おばさんの実の子じゃないから、傷付かない。けど、絶対あさかとみずほは傷付く。だって伯父さんとおばさんの子供なんだから……!」

 顔を上げたら彼は泣いていた。泥も雨も被ったら判らなくなるかって、そんなことはない。思いっきり悲しみの雫をぼろぼろ流していた。
 弱音を静かに吐いていただけの伯父さんは、この世界には居ない。
 俺の見た二ヶ月間の夢の中の伯父さんで、目の前の大切な伯父さんは……子供の俺の前でも悲嘆に暮れるほど弱っていたんだ。
 見過ごすことなんて、できない。
 大切な人が救えないなんて、目の前で何も出来ないなんて、もう嫌だった。

 伯父さんを正面から抱き締めて、しっとりと濡れた頭を撫でる。茶化すようなことはしない。ぎゅうっと抱き締めた。
 ……俺は『俺が伯父さんの隣に居たいからここに居る』という我儘な子供だ。
 伯父さんがおばさんを想う気持ちは知っているけど、それと同じぐらい俺は伯父さんのことが大好きだった。
 一緒に居たいと思った。大切にしたいと思った。子供という武器を振りかざさなくたって……この人を慰めたいと思ってしまうぐらいに。

「……伯父さん、好きだよ……」

 唐突に告白をする。
 嘘偽りの無い言葉だ。ちゃんと伯父さんの耳に届くように、声に出す。

「……緋馬?」
「いつもの伯父さんが好きだよ。これからの伯父さんも、きっと好きだよ……」
「……ごめん」
「謝らないで! 一言で片付けないで! ……ほら、おばさんと同じように貴方のことを『好きだ』って言う人がいるんだよ。なら大事にしてよ。『好きだ』って言う人を大事にしたくなるんでしょ? 俺は、いくらでも言うよ……一人なんてさせないよ……一人じゃないもの……」

 言いたかったことは、以前の世界でも言っていた。
 でもそれ以上に言いたいことを、もっともっと口走っていく。

「ごめんな、緋馬。ごめん」
「ううん。好きだよ」
「ごめん」
「ううん。……おばさんの代わりにはなれないだろうけど、伯父さんのこと大好きな俺が、絶対に一人にさせない……から……」

 スーツと制服を汚して、泣き合う。
 抱きついているけどちっとも嬉しくなんてない。好きだという言葉を聞いてもらっていても、それよりも伯父さんの顔が苦しみに満ちているから全然幸せなんかじゃなかった。
 強く抱きしめて、彼が調子を取り戻すのを待った。今すぐ伯父さんを元気にさせる手段なんてないから。

 霧雨は一向にやまない。より雨が強くなって手厳しいと思える程だった。



 ――2005年12月31日

 【     /      / Third /     /     】




 /4

 ――『この人の好きな人になりたい』とずっと考えていた。
 でも、どうやれば好きな人の代わりになれるのか。思いきりがつかなかった。
 かつては勢いで口にしてしまった『おばさんのかわり』という存在。畏れ多くて素面では言えたもんじゃない。
 酒の勢いを借りれば言える? いや、そしたら「酔っぱらっているんだろ」と言われて無効にされる。
 でも、確かに『かわりになりたい』という願望があるんだ。出来れば代理じゃない存在になりたい。……二十年以上の愛に勝てる自信なんてもんは無いけど。
 その踏ん切りの悪さが真正面から受け取ってもらえない理由だ。じゃあ、踏み越えられるか?
 怖いから無理だ。もし伯父さんに抱きついたとしても、「馬鹿も休み休み言え」って叱られる気がする。
 『そんな未来は見たことない』けど、『まるで経験したかのように』思い描けた。

 帰省の電車の中。ずっと携帯電話の画面を見ていれば目が痛くなる。
 メールの打ち過ぎで眩暈を起こした。そんなの日常的にケータイを酷使している俺にはまず起こらない現象だ。
 けど移動しながら真剣に文面を考えるのは、なかなかに重労働だったらしい。
 藤春伯父さんと何気ない会話を楽しんでいただけなのに、ガンガンと頭痛がしてきた。

『おじさんは何かお土産買った?』
『駅でみずほが東京バナナを買ったのは見た』
『みずほのやつそれ好きなの?』
『買うのは初めてだと思うが前にも買ってたか?』
『さあ』
『お前は?』
『さっきゲーセンでぬいぐるみ取った。これ(添付写真)』
『誰が喜ぶんだそんなの(笑)』
『ヒバリとヒロム。良い友達になってくれるよ(笑)』

 送信する。待つ。受信する。打つ。送信する。
 そんなやり取りを数時間も続けていたら、終着駅まであっという間。
 数時間後に仏田寺でいくらでも話せるというのに、会話は途切れなかった。藤春伯父さんと俺の交流はいつになく長く続く。
 多分、俺が可能な限り伯父さんと話がしたいからが一番の原因。だけど伯父さんが甘えん坊なのも理由の一つだろう。

 前に過ごした2005年の12月では、これほど甘えた伯父さんはいなかった。
 こんな会話はしたことがない。俺は片時もケータイを離さない男子高校生だが、伯父さんは「メールより電話の方が気楽」と言う男性だ。
 なのに今日……いや、今日だけじゃなくここ一ヶ月、このようなやり取りでお互いに触れ合っている。
 もしや、あずまおばさんの納骨の日……あの出来事がキッカケで、俺と伯父さんの距離が前よりも近くなったのでは?
 最後のメールを送り終えながら考える。

『駅に着いた。またね』

 その程度のことでこんなに変わってしまうのか? ……けどあの日から、明らかに伯父さんの態度が変わっている。元から優しい大人の男性だったけど、今の伯父さんは……。
 と、駅からバス停まで歩いている最中にまたケータイが震える。
 開くと、また伯父さんからのメールが受信されていた。

『気を付けてこいよ』

 たった一文。俺の『またね』に対する返事。
 最後のメールなんて無視してくれても良かったのに。マメだなぁと思う反面、今までに無かった反応に多少戸惑いを感じていた。

 ――俺は、藤春伯父さんのことが好きだ。彼に社会的にも精神的にも甘えている。家族以上の感情を抱いている自覚だってある。
 だから藤春伯父さんが必要以上の接触をしてくることは非常に好ましい。ほんの些細な一言でも俺には愛おしいものだったから。

 どうして、こんなに伯父さんは俺に優しくしてくれるの?
 乗り込んだバスに揺られながら、考える。
 俺がどう想おうが、彼にとっては大切な息子の一人だからだろ?
 理知的な俺が、もっともな理由を解説する。

 俺を気遣うたった一言。一人で山へ向かう寂しい俺を幸福にしてくれる一文。
 メールを読んでニヤニヤする俺。バス停で座る乗客に見られて少し恥ずかしくなるけど、甘美な気分の方が勝っていたのでどうってことない。それぐらいこの気持ちは大切なものだ。
 だって……雨の日の通夜を思い出してみろ。
 独りぼっちでおばさんに別れを告げた伯父さん。
 孤独が耐えきれなくて、真の別れのとき……感情を爆発させてしまった彼。
 もし『以前の俺』が甘えて通夜のときに伯父さんと話をしていたら……彼は今ほど俺に甘えることはなかったんじゃないか?
 いや、実際の彼も子供に優しく声を掛けてくれる人だった?
 ……心の整理が追いつかず、空いてしまった心の虚無を俺で埋めようとしている?
 それは、本人でしか判らない。……やめよう、変に理由を持たせるな。理屈を装備しなきゃ行動できないほど俺は不器用な人間じゃないだろう?

 ――だって、『以前の世界』とは違うんだよ。あの伯父さんは、『前の』伯父さんと違う人なんだよ? おかしいって思うなよ。
 疑り深い俺が、反論する。
 一人で迷走していると、思わずバスに揺られて寺に近い停留所を乗り過ごしてしまうところだった。
 慌ててバスを降りて、長い石段の元へと急ぐ。

 ――『以前』って何だよ。俺が勝手に見た『夢の中の未来』じゃないか。現実の藤春伯父さんは、こんなに優しい人なんだよ。
 ……そう、そうなのかな。

 そうして仏田寺に帰省した自分に割り当てられた部屋は、綺麗すぎる場所だった。
 六畳の角部屋。ドアと窓がある洋室。品の良いカーペットが敷かれ、一端の椅子とデスクが置かれている。
 ここが、俺に割り当てられた部屋。今年から「自立した」と見なされた俺は、一人でこの部屋を使えと言われた。
 傷一つ無い真新しい勉強机。ふわっとしたカーペットの感触。初めて入る部屋の筈なのに、懐かしい。……二ヶ月ぶりな気がしてならない。そんなの気のせいなのに。
 二度目。二ヶ月ぶり。デジャブ。胸がざわざわする。……違う、あれは夢だと思いこむ。かつての通りに物事が自動的に進んでいる訳が無い。
 だって、『前のとき』は……藤春伯父さんとメールなんてしてなかったじゃないか。『この世界』は全然違うものなんだ。
 荷物をカーペットの上にどすっと投げ出して、洋室を出た。
 待っていれば土産を強請りに弟の火刃里達が来るだろう。実の兄なのにどうして弟に挨拶しに来ないんだという謎理論を吹っかけて来るんだ。
 そんなの知るもんか。
 あいつらが突貫してくる前に、部屋を出てやった。

 人里離れた山の中にある仏田寺は、広大な敷地の中にいくつもの屋敷を有している。
 俺が通う男子校も広い校舎だが、仏田の敷地はその二倍、三倍はあるかもしれない。
 本尊が安置される本堂。本殿。一族の居住スペースの本家屋敷に、お手伝いさん達が住んでいる使用人屋敷。道場や工房。離れの館がいくつか……細い廊下で繋がっていたり繋がってなかったりと、迷路のような造りになっている。
 寝泊まりする本家屋敷も、一端の民宿並みの広さだ。昔はみずほ達と一緒に鬼ごっこをして遊んだ(みずほ達は今年も鬼ごっこをしていたが)ように、子供の遊び場として楽しめるほどに広くて複雑で迷子になりかける。一人で歩くことに慣れない俺は、五分歩いて少し後悔した。
 火刃里達が遊びに来るまで待っていた方が良かったか。目的も無く動いたら、本当に迷ってしまった。

 それでも幸い『我が家』であるので、廊下を歩く誰かしらに出会う。
 たとえ相手の名前を知らなくても屋敷に居る以上、身内だ。「寺に慣れていないんです」と白状すれば、判りやすい場所まで連れて行ってもらえる。
 和服姿の女中さんが「どこまで参りましょうか?」と丁寧に尋ねてくれた。自室に戻りたいのか弟達の部屋に行きたいのか、それとも帰省した親戚達が集まる大広間に行きたいのかといくつも選択肢を出してくれる。

「『榛名の間』に行きたいです」

 ……ぱっと、その名前が出た。
 何故このとき頭に浮かんだのか、ぼうっとして判らない。今日は誰にもその部屋のことは聞いていない筈だ。だってその部屋のことを教えてくれたあさかは……数ヶ月前に死んでいるのだから。
 けれど記憶を巡ったら、思いついてしまった。
 そこに藤春伯父さんが居るのだと、思い出してしまった。

 三分ほど歩いて『榛名の間』と呼ばれる場所に到着すると、やはり藤春伯父さんの姿がある。お手伝いさんに礼を言って別れ、何人かの男性達と話している彼に近づく。
 和服姿の男達の中に、一人だけ洋服の人物。時代錯誤の空間の中で、一人だけジーパンを穿いて上に光沢のあるジャケットを羽織り、気の抜けた金髪。だからよく目立っている。
 遠目でも判った。その奇抜さがここでは違和感の塊だとしても、俺を……また安心させてくれるものだった。

「親父はどうしてる?」

 どんなに厳しい顔をしていても、彼が俺を安心させてくれる伯父さんには違いない。

「……和光様は、自室に」
「生きているんだろうな?」
「…………」
「こら、不安にさせるような顔すんじゃねえ。自室に篭っているだけならいつものことだ。指扇、ちゃんと生存確認はしとけよ。いつ死んだっておかしくないジジイなんだから。……後で部屋に行かせてもらう。先に伝えておけ」
「藤春様、先々週から和光様の体調は優れません。体調だけでなく、ご気分も。食事を運んだ使用人を三人ほど怪我をさせていると聞いております」
「皿でも投げつけたか? ……昔から不機嫌だと物を投げつける癖はあったが」

 ついに暴力的になるまで痴呆が始まったか。そう苦しそうに伯父さんは愚痴る。
 年を取ると力の加減やできなくなったり、理性が緩み始めたりするって聞いたことがある。おじいさんになればそれも運命だって言葉で片付けることができるけど、藤春伯父さんにとっては実のお父さんだ。その人が弱ってそうなったと言われたら、心配な顔をするのも無理はない。

「つまり、なんだ。……親父と会うなと言いたいのか?」
「大山様から言いつけられております。『藤春様に怪我をさせてはならない』と。申し訳ございません」

 頭を下げる使用人も、大変申し訳無さそうな顔をしていた。あまりにすまなそうに礼をした男に、伯父さんは「顔を上げてくれ」と苦笑いをした。
 畏まって話はしているが、雰囲気からして年配の使用人さんと伯父さんは親しそうだ。長年の付き合いというやつかもしれない。だから緊迫した内容だが、和やかに会話を進む。

「大山さんも俺を気遣って言ってくれたか。それぐらいは判る。……機嫌が悪いときに不出来な息子なんて見たくないよな。親父の気分が回復するまで放置が一番か」
「大山様と狭山様が連日ご様子を見に行かれております。何かございましたらすぐに藤春様にご連絡が入るかと」
「ああ、うん、そうだな。寺を引っ張る大山さん達の方が親父も気を許しているだろうし、新年迎えてからでもいいか。まったく、年々身勝手が過ぎてきたな。……ん?」

 話し込む伯父さんが、俺の方を向いた。廊下から覗き込む存在に気付いてくれたっぽい。
 茶化したらいけないような場面だと判っているが手を振る。するとすぐに藤春伯父さんは話を切り上げ、俺のもとへ来た。
 先ほどの顔とは打って変わって、安心しきった自然な笑みで。

「緋馬……みずほには会ったか? お前らに土産を渡すって走って行ったんだが」
「ううん、会ってない。さっきまで屋敷をウロウロしてたから、すれ違いになっちゃったのかな。どうせ日持ちするお土産でしょ。後でちゃんと貰うよ」
「火刃里達が全部食べちまうんじゃないのか」
「あいつ実は義理堅いし、人の物は食わないよ。それに、伯父さんが帰ってきたならすぐに挨拶しに行こうって思って…………っ、くしゅん」

 暖かい部屋と冷たい廊下を行き来していたせいか、山奥と室内の温度変化に慣れない体が鼻を直接攻撃してくる。
 啜ると、「寒いのか」なんて気遣いながら伯父さんは手にしていたマフラーを渡してきた。
 まだ外着を羽織ったまま使用人さんと話していた。だからずっと外せずにいた物を、俺に渡してくる。

「……屋敷の中でマフラーを巻くなんて、変じゃない?」
「今はどの部屋も暖房が付いてるけど、俺がガキの頃は一日中マフラーをしてた」
「そうなんだ?」
「ストーブなんて一部しか置かなかったからな。昔はもっと寒かったんだ。変な所に金かけるくせに、暖房も冷房も不要だってちっとも設置しなかった」
「なんだろうね、日本人のその痩せ我慢。……そうだ、伯父さんの家はここなんだから……おかえりなさいって言わないと」

 伯父さんは一瞬、黙る。でもすぐに笑ってくれた。

「そうだな、ただいまだ。…………その言葉、あいつにも言いに行こう」
「え?」

 皺がちょっと多い大きな掌が、ぐしゃぐしゃと俺の頭を撫でる。
 そのまま外着の藤春伯父さんは俺を連れて歩き始める。「マフラーを巻け」と言いながら、彼は玄関へ向かった。

 ――山頂に仏田寺の広大な敷地がある。
 そして、山の中腹あたりに大霊園がある。
 そこは大が付くぐらいの霊園だ。墓石が所狭しと整列している。本家屋敷同様、広すぎるここを鬼ごっこやかくれんぼをして遊ぶ子供達が居たが、俺はあまりここで遊んだ記憶は無い。みずほが怖がりで「お墓でなんか遊びたくない!」と泣くからだった。だから大霊園には、本来するべき墓参りにしか来たことがない。
 ……いいや、つい先日も来ていた。
 一ヶ月ほど前、おばさんの骨を納めに来たばかりだった。

 大晦日の霊園は、まだ明るい時間なのに白い息を吐くほど寒々しい。
 雪が降りそうな曇天。今週は雨が多かったせいで気温は冷え込んでいる。マフラーを巻いて来なかったら震え上がっていたところだ。
 って、これは伯父さんのマフラーだ。俺が使っていたら伯父さんが寒いんじゃないか?
 返そうとするが、「俺はここで何十年も住んでたんだぞ。今日なんて全然寒くない」とか言って受け取らなかった。都心で十七年生きてきた俺と、山奥のここで生まれた伯父さんとを比べちゃいけない。恩恵に預かるとする。

「ただいま。あずま、元気にしていたか?」

 おばさんが眠る仏田家の墓に、伯父さんが声を掛けた。
 線香を点けて供える。煙草を数本取り出して、線香と並べて置く。隠し持っていたらしいワンカップを鉄瓶の隣に並べた。
 煙草もお酒も、おばさんは好きだった。今日も伯父さんは用意していたんだ。手を合わせながら、想う。俺が知らなかっただけで『以前の今日』も伯父さんはこうして挨拶をしていたのかもしれない。『以前』は伯父さん一人だったけど……今回は俺と一緒なだけで。
 この心の変化は何だろう。

「お花……ちゃんと供えられているね」

 手を合わせて、墓石をぼうっと見ながら呟く。
 花瓶には、少し萎れてはいるけど小菊や紫色の花が生けられていた。生け花みたいに綺麗なものではなく無造作に挿されているだけ。でも誰かがおばさんの為に供えてくれたと思うと感動してしまう。

「松山さんが言うには、男衾が定期的に花を供えてくれるらしい」
「……へえ?」

 男衾。どんな顔の人だったか。
 でも聞いたことがある名前だ。絶対聞いたことがある。……ああ、この墓地で聞いた。
 そうだ……福広さんが話してくれた、『おばさんの死因を調査した人』じゃないか。

「男衾はマメな男らしくて。定期的に花を供えているんだと」
「……お花が好きな人なの?」
「緋馬は会ったことがないのか? あまり花が似合うような奴じゃないぞ。……でも、亡くなった人の元に、短くても半年間は花を捧げに来てくれるらしい」
「…………」
「男衾はおばさんと仲が良かった訳じゃない。話だってしたことないだろうな。けど、こうやって華やかにしてくれるんだ。後でお礼を言おうな」

 複雑な気分のまま、灰色の石だらけな空間に立つ。
 つまらなく寂しい場所が、ほんの数本の花のおかげで彩られていた。伯父さん同様、派手好きだったおばさんも喜んでいることだろう。
 ……男衾って人は、おばさんは事故死だと判断した人だ。
 俺にしてみれば嘘つきでいい加減な調査をした無能者と思っていた。でも、どんな判断を下したとしても死を悼む常識人ではあったらしい。
 若くして亡くなった魂を悲しんでくれたのか。憐れんでくれたから花を供えてくれているのか。
 ……やはり複雑な胸中は変わらない。

 暫く伯父さんはしゃがんで手を合わせ続ける。そして墓石をじっと見つめて……長く長く見つめた後に、立ち上がった。
 茶化すように「今度は生きている連中に挨拶回りに行こう」なんて言い放って、少し足早に霊園を出ていった。

 山頂の寺に戻るまでの間、特別な会話は無かった。
 バス停が近くにある麓の駐車場。中腹の大霊園。頂上の仏田寺。それぞれにさほど距離は無い。
 高くはないとはいえ山だ。駐車場から霊園までは緩やかな坂道で済むが、霊園から境内までは傾斜のある石段を登らなければならない。
 俺が仏田寺を好まない理由は、思い入れが薄いだけじゃない。嫌味な人達が住んでいるのも大いにあるが、一番は「体力的に辛いから」だ。
 たとえ若くても疲れるものは疲れる。
 だから、ついつい思ってしまう。
 墓参りを終えたけど、仏田寺に戻らず……伯父さんのマンションに帰ろうよ、って。

 大晦日には実家に帰省しなくちゃいけない。暗黙の了解を、律儀に守って十七年。
 でも俺にとっての実家は生まれ故郷の寺じゃなかった。十年以上過ごした伯父さんのマンションに他ならない。
 寺には嫌な人がたくさん居る。伯父さん自身、寺を出たいと願って外に出て暮らした。眠るおばさんに挨拶を終えたのだから……もうこれで終わりにしてもいいじゃないか。
 こんなにも『負の感情』を抱いているあそこへ、帰らなくてもいいよね。
 石段を踏み進めてから、その心はじわじわと俺を冒していった。

 体はまだ藤春伯父さんの方が俺より大きい。でも体力は十代の俺の方がある。小さい俺が伯父さんの前を行き、遅れて伯父さんが石段を上がる。
 息が上がって会話は無い。今は風も無いせいか木々も揺れない。静寂が徹底して異様さを醸し出している。
 お互い話す余裕が無く黙々と登り続けて、数分。ふと俺は振り返り、下層を見下ろした。
 一面暗かった。雪が降りそうな曇り空は、白どころではなく黒くなりつつある。
 俺達は今から……その黒い空にもっと近い場所へ行こうとしている。
 不気味な空のすぐ傍へ行くなんて、気味が悪くないか?
 お寺に戻らなくても、大勢が年始めの準備をしている。どたばたと働いている人がいっぱいで、俺達の居る場所なんて無い。
 ねえ、だから、やっぱり……ここに俺達は居るべきじゃないでしょう?
 そう言ってしまおう。
 それにこれから嫌なことも起きるんだから。

 ――言えなかった。
 何度俺が夢を見たと言ったとしても。見覚えのある感覚に襲われていても。未来を知っていても、時を遡ってきたとしても。
 「今夜、俺達は死んだんだよ」……なんて冗談でも言えなかった。
 俺だって信じられていない、信じたくない、信じる要素が一つも無い話。迷走し続けて早二ヶ月。結局見覚えのある日々はあっという間に過ぎていき、そうでない日もたくさんあった。今さっきした墓参りなんて正にそうだ。
 だから死ぬなんて確証は無い。この一年は死にかけた怖いことがあったからナイーブになっているだけ。……残酷なことなど、口にしない。

「伯父さんは、何が好き?」

 その代わり、甘ったるい言葉は口にする。

「は? 好きなもん? ……うーん、カレーかな」
「カレーかぁ。俺なんて厨房に入れてくれないよな。宴会の準備もあるし、お蕎麦もおせちも作ってるし。カレーを作らせてって言うの難しいね。……今からどっかに食べに行く? 食べ納めってことで」
「どうした。いきなり」
「カレー以外に何が好きなの」
「酒だな」
「未成年は買えない。どうしよう、俺」
「……だからいきなりどうしたんだ、緋馬。俺に何かプレゼントでもしたいのか?」

 十段ぐらい俺の下にいた藤春伯父さんは、話しながら石段を登るのは難しいらしく……その場に息を切らしながら立ち尽くしてしまう。

「俺ね。嫌なことしか思いつかないんだ、この先」

 だから俺と相当の距離が開いた。
 このままだと会話が不可能になる。俺は下層を見下ろしたまま、続けた。

「うざいぐらい嫌な予感しかしない。空も変な天気だし、何人か風邪引いてるから移されそうだし。宴会も楽しむより先に狭山さんとかイヤーな人に説教される気がしてかったるいし、正月早々何か無理難題を任されそう。……何も根拠は無いんだけどね」
「楽しみは無いのか? 例えば、火刃里達と遊ぶとか。お年玉を貰うとか」

 親戚と鬼ごっこをして遊ぶなんて、とっくの昔に卒業してる。卒業できてないのは、みずほだ。
 お年玉も……あったら嬉しいけど、『赤紙』を貰って『仕事』を始めたせいか自分専用の通帳ができた。これまで藤春伯父さんから貰っていたお小遣い以外の金ができてしまったんだ。まだ、高校も卒業していないというのに。

「何も興味無いし、気が重い。……だから気分が良いことをしたい」
「はは、変な奴だな。俺の機嫌を取ることがお前にとって気分が良いことだと?」
「その通りだよ」

 少しずつ呼吸を整えながら、伯父さんは石段を上がる。
 俺は上がらない。伯父さんがすぐ傍まで来てくれるのを、じっと待つ。

「伯父さんが元気になってくれれば俺は嬉しいし。俺が慰めたんだって達成感があるじゃん」
「ほう、俺を利用することで気勢が上がると。本当に変な奴だ」
「変かな。俺にとっては筋の通った話なんだけど。藤春伯父さんが喜んでくれたら俺も嬉しい。笑ってくれたら幸せ。好きな人がご機嫌だったらさ、自然と俺もテンション上がるもんだよ。……そういうもんでしょ、好きな人って?」

 同じ段まで上がってくるのを待った。
 伯父さんは、息を弾ませながらも笑っている。浮かべたその笑顔は……複雑なもの。満面の笑みとはとてもじゃないけど言えない。好意を抱いてくれる子供に見せている、呆れたような苦笑いだ。
 無碍にされてるなとは思う。どうしようもない奴だと、扱いに困った奴だと思われているに違いない。率直な愛情を真剣に受け取ってくれないのが伝わってきた。

「緋馬も恋人なり何なりが出来たら、遠慮なく言ってやるんだぞ。遠慮なんてお前には無いか。メールでもいいが出来れば、口で告げてやるといい」

 だから『居ない誰か』の話なんてものをし始めてしまうんだ、この人は。
 絶え絶えだった息を整えて、深呼吸をする伯父さんは自分の鼻をぐりぐりと摘んだ。クシャミを我慢している仕草だった。
 外の気温に慣れた俺は、借りていたマフラーをさっと伯父さんの首に巻きつける。いきなりのことだったので伯父さんは驚く。でも特に文句を言うでもなくマフラーを受け留めた。
 その行為さえも、伯父さんにとっては優しい息子の一幕にしか思ってもらえない。
 どんなに俺が愛情に溢れる行為をしたとしても、「気のせいだ」とか「使い方を間違っている」とか思われてしまう。
 じれったい。そして、俺自身もじれったい。
 受け入れてもらえないならそれでいい、そのままでいい、たとえもどかしくてもグダグダと甘えた真似をする……そんな自分に嫌気がさした。

 頭を冷やそう。充分この冷気で体は冷えているし、アルコールも入ってないから冷え切ってはいるんだけど。
 足りなかった。
 でも、冷やせば無くなるものじゃないことぐらいも自分自身が一番判っていた。

 ――12月31日。大晦日。俺にとっては一年で最も嫌いな日だった。

 確か、小学一年生のときのこと。12月31日の大晦日、家族全員で仏田寺に帰省したある日。俺は生まれて初めて実の父親に会わされた。
 会ったと言っても、偶然を装って(おそらく伯父さんがセッティングした……奇跡を装ったかのようなあからさまな構図の)対面したというだけ。六歳になって文字も時計も読めるし小学校に登下校もできる、一人の人間として見なされた年に……伯父さんは行動に出た。
 伯父さんが俺の実父ではないということ、父と呼ばせない理由、本当の父親は今も生きているんだって俺に知らしめたかったんだと思う。「いつか親子の絆が蘇ればいい」と考えてその布石を……というつもりだったんだろう。
 でも、全てが逆効果だった。

 初めて会った実父は、「怖い」という感想が先走って何と言っていいやら。……異界の住人しか思えなかった。
 整えられていない長い髪。無精髭。幼い子供に対して愛想の無い目。怪しい実験をする魔法使いが纏っているような黒いローブと、鼻につく不快な香り。
 ついには、藤春伯父さんを罵り始めたのだから。

「『そんなもの』を私に見せてどうなる? 兄者は暇人で、馬鹿で、嘘つきか」

 人間の子供を『そんなもの』と言い放つ神経。鬱陶しく疎ましげに睨む視線。快い伯父さんの心を無碍にする態度。何もかもが俺には不愉快だった。
 藤春伯父さんはすぐに男を怒鳴る。男は、のらりくらりとその場から去って行く。
 そして伯父さんは呆然とする俺に対し、言い放つ。

「あの人が緋馬の本当の父親なんだ。俺よりずっと顔が似ているだろう?」

 ただ事実を俺に告げるのみ。
 藤春伯父さんに悪気など無かった。俺に真実を教えたかっただけ。それにしても、酷いフォローだ。
 子供の俺としたら真実を知らされるよりも、ショックを受けた俺を嘘でもいいから慰めてもらった方が数倍嬉しかった。
 本当の親子とか変えられない真実とか、そんなもの関係無い。あの格好、あの言動、あの態度、そんなものが俺と同じものだったなんて。
 考えたくないのに、伯父さんは純粋に本当のことしか言ってくれなかった。

 俺が実父に不快感を示すようになったのは、間違いなくこの事件がキッカケだ。
 そしてそれまで以上に伯父さんを神格化し始めたのも、おそらくそれがキッカケだった。
 藤春伯父さんは暇人でも馬鹿でも嘘つきでもない、誠実な人だと俺は知っているから……変えがたい存在に君臨してしまって、そのまま十年が経ってしまった。
 仏田寺を訪れるたびに、嫌な想いが蘇る。
 あれ以後も伯父さんは何度も俺と実父の仲を取り持つように動いていたのを知っている。けれど実父はその気遣いを無視していたし、俺も快く思っていなかったからなるべく伯父さんの配慮に気付かないようにしていた。
 無視したくはなかったけど、心の通わない交流をしても事故にしかならない。……気付かないふりで通せば、憎悪と向き合わずに済んだ。
 ほんの少し厭悪に触れてしまっても、ほんの少しぐらいなら我慢できたから。

 いつか実の父子が手を取り合う。それが叶ったらいいと、そうあるべきなんだと伯父さんは夢見ている。
 どうしてそれが崇高なのか考えずに。そこに俺達の意思はとか考えずに。

「伯父さんは子供の頃、毎日この石段を登り下りしていたんだよね? そりゃあ筋肉質にもなる訳だ」

 長かった石段を終えた頃には、体がポカポカどころか暑くなりすぎていた。
 頂上の山門まで登り切った伯父さんも同じようで、熱い呼吸を整えている。二人して白い息を何度も何度も吐き、ふと目が合って、同時に笑った。

「だろう? 火刃里と尋夢も鍛錬ってことで霊園の掃除を毎日してるって言ってたぞ。あっという間に緋馬よりでかくなるんじゃないか」

 その予感はする。
 俺は部屋にひきこもってゲームをしてる方が楽しいタイプだ。駆けまわるのが楽しい弟二人が成長期を迎えたら、身長も体格も全て負ける確信はあった。

「俺は……高校の幽霊退治をしているぐらいの運動で、丁度良いよ。それで充分。だるいし」
「それだとあと一年で終わるじゃねーか。それ以降はどうする?」
「まだ卒業後のことなんて考えてないよ」
「そうなのか?」
「だってまだ一年以上先の話じゃん。次のことなんて考えてる奴なんていないよ、あさかじゃないんだし」
「あさかは考えていたのか」
「うん、医者になりたいってあいつ、言って……」

 言って、体が凍った。

 …………あさかじゃないんだし。
 うん、あさかは考えていた。
 医大に行きたいって、もしくは医療系の専門学校に行きたいって。長期入院を味わって帰ってきたあさかは、その苦労を体感し憧れを抱いたのか……「僕ね、大きくなったらお医者さんになりたいんだ」って話していた。
 それは、『今の俺』の話じゃない。
 『かつての俺』が、何気ない雑談の中で聞いた与太話だった。

 恐る恐る伯父さんを見る。
 彼は俺を見ていた。
 そうだったのか、知らなかったよ……と言うかのような顔だ。そう思って当然だ。あさかの夢を聞く機会なんて、『この世』には無かったんだから。
 長期入院の果てに戻ってくるあさかなんてどこにもいない。
 『ここ』には、長い入院生活の中で命を落としたあさかしか存在しないんだから。
 だから俺の言ったことは、完全な虚構。もしくは、伯父さんは『実父にも知られていない内緒事』と思うしかない。
 驚く顔の伯父さんは、悲しそうな目をした後に……「そうだったのか」と一言。「そんな夢、あったんだな」って、全然知らなかったぞって言うかのように呟いた。

「伯父さん、そのっ……」
「いつそんなこと言っていたんだ、あさかは?」
「…………。昔だよ」
「そうか。……判らんでもないな。みずほや寄居が、怪我をして帰ってきたら、赤チン塗るのはあいつの仕事だった」
「……そういや、そうだったね」
「医者か。大層な夢じゃねーか。……俺には無縁な世界だから、どうすれば叶うもんなのか全然判らないな」
「…………医者になる勉強をすればなれるもんなんじゃないの。……長くて、凄く難しくて、お金が掛かるとは聞くけど」
「ああ、昔から大変だって言われてることぐらいしか知らねーな。……大変な勉強して、長い時間を掛けて、それでも人を救う。はあ、良い夢だな」

 それからも伯父さんは、いくつも囁いた。
 一人で、隣に居る俺に聞かせるでもなく。呟きたいだけ呟いていく。
 叶えてやりたかった、とか。応援してやりたかった、とか。……医者になった息子の姿が見たかった、とか。
 胸の中に不安と歯痒さが詰まっていく。さっきまで大きいって思っていた伯父さんの体が、次第に小さくなっていく錯覚が生じる。
 家族を失った辛さを何度も味わった伯父さんは、悲劇を体に抱え込んで……今にも潰れそうに見えた。

 おばさんの死。あさかの死。この一年で抱え込んだ二つの大事故が、伯父さんの心を蝕んでいく。
 癒すことのできないほど大きな傷を負って……ああ、そうだ……今、気付いた。
 そっか……おばさんの納骨のとき『前の伯父さん』とは違って崩れ落ちた理由は、これなんだ。
 通夜に俺が一緒に居てあげられなかったから? そんなもんじゃない。『大切なものを一気に失って、喪失感に心が耐えきれなくなってしまったから』だ。
 それを証拠に……伯父さんの今の目は、とても虚ろなものになっている。
 辛うじて立っている。でも、目の前に俺がいるから、みずほが生きているから、立っているだけ。
 まだここで倒れる訳にはいかないから、大人を演じているだけに過ぎない。
 けれど彼を支える柱には二つもヒビが入ってしまっていた。……今にも砕けかけていて、生気がどんどん薄れているのを感じてしまった。

 寂寥感を纏う彼の体を支えるために、隣に駆け寄る。
 俺はガシリと伯父さんの片腕を掴んでいた。
 掴まなきゃ倒れるんじゃないかって思ったから。

「…………どうした、緋馬?」
「伯父さん。……休もう」

 これから伯父さんが行くとしたら、夜の宴会場か、帰省した親戚達が集まるテレビのある広間か、大人らしく偉い人達が集まっている所。
 それでも俺は、自室に足を運ばせる。

「いや、俺は」
「休もうよ。伯父さんってば凄く息切れしてるし」
「すぐ治まる。運動不足で、それに年だから……」
「大晦日にやらなきゃいけないことなんて無いでしょ? 俺達、客人みたいなもんだし。じゃあ昼寝でもしようよ、宴会が始まるまでさ」
「もう夕方だろ」
「一時間だけでも昼寝したら体もスッキリするよ。……俺に割り当てられた部屋、凄く良い所だった。カーペットもモコモコで気持ち良くって。俺、休みたい。……伯父さんと一緒に」

 腕を抱く。気持ち悪いぐらいベタベタと伯父さんに貼りつく。弱々しく立ち尽くす伯父さんの腕に、ぎゅうっとしがみ付いて甘えた。
 こんなの俺のキャラじゃない、そう自覚はある。……でもこうでも子供っぽく我儘を言えば、伯父さんは折れてくれるんじゃないかって思った。

「お酒を飲む前に休んでおこうよ。弱っているときに飲んだら、美味しいお酒だって楽しめなくなるよ」
「……せっかく良い酒を用意してるのに楽しめないのは、嫌だな」
「用意してたんだ?」
「ああ。……でも……すまん、伯父さん甘えさせてもらおうかな」

 うん、それがいい。引っ張るように伯父さんを部屋に連れて行く。
 その間も、伯父さんは「緋馬っぽくないな」「お前がこんなに子供だとは思わなかった」とも言わなかった。
 言えないぐらい伯父さんも甘えたかったんじゃないか。そう考えると、痛ましかった。



 ――2005年12月31日

 【     /      / Third /     /     】




 /5

 掃除が行き届いた洋室は、みずほと共同で使っていた子供部屋や寮の一室よりも清潔で快適だ。
 少し早めに敷かれた布団も清白で小奇麗。足の裏を撫でるふかふかのカーペットも気持ち良く、洗濯された枕のカバーからも良い香りがする。
 俺にとってはホテルに来たかのような快適さだ。あまりの心地良さに自分の部屋ではない違和感は拭えない。
 けれど藤春伯父さんにとってここは実家。懐かしい匂いの中での休息できたことだろう。現に俺が寝る予定の布団の上で目を閉じた伯父さんは、あっという間に眠りの国へ旅立ってしまった。

 ここ一ヶ月、伯父さんに心休まる日があったか。松山さんや多くの親戚達が支えてくれていたとしても、ぐっすりと休める日は数える程しかなかったんじゃないか。
 昼寝はひとまず好調。実家に帰省できたこの日ぐらい休んでほしい。
 俺も隣を借りて夢も見ないぐらい浅い眠りについたが、先に覚醒してしまった。
 時刻は二十一時。外は真っ暗。電気は明るめの豆電球を一つ点けているから暗黒じゃない。一時間を目安にと誘った昼寝だったが、もう何時間も経過している。
 おそらく大晦日の宴会は既に始まっている頃だ。伯父さんの立場を考えると誰か呼びに来るかと思ったが、伯父さんが居るべき部屋に居ないとなったらどうだろう。
 探されているかな。でも楽しみとはいえ出席が義務のような宴会よりも、ぐっすりと休めている昼寝の方が大事なものだと思いたかった。
 眠りは深い。着替えもせず外着のままというのが心苦しかった。でもここで揺すったらせっかくの眠気も吹っ飛んでしまう。
 眠りたいだけ眠れる、休めるだけ休める、今が一番。
 だから声も掛けず、穏やかな伯父さんの寝顔を眺めていた。

 ――人々を救うために、悪を断つ。それが自分達の仕事。
 そんな崇高な理想を胸に繁栄してきた一族。人を恐怖させ苦しめる悪をやっつけるのは良い。力ある者が力無き者を守って戦うのは道理。そして大勢の人々を悪から守るために力を付けることも、求められた理趣。
 けどその中で産まれた伯父さんは、『そうではない生き方』に憧れていた。
 正義を義務付けられたからこそ、「自分を愛する個人だけを守りたい」と思って外へと飛び出したんだ。

 黒髪を染めた金髪は、「外への憧れ」だって本人も話していた。
 寺に居る人達はみんな時代錯誤の着物姿や怪しい白衣姿なのに、何の変哲もないごく一般的なシャツとズボンという洋服姿。
 子供の頃は鍛錬に励んでいたらしいが、年相応に中年らしい体格にはなってきている。たとえ異能や魔術を操る結社の生まれであっても、その姿は普通の人にしか見えない。
 だから、好きだった。
 伯父さんは儀式に励む妖しい魔法使いのような男じゃなかったから。
 ごく普通に奥さんを、子供を、俺を愛してくれるような人だったから。

「…………藤春伯父さん」

 度重なる悲劇に心を病むのは、当然。
 家族に会えなくなって悲しむなんてこと、普通だ。
 それでも伯父さんは俺やみずほがまだ生きているから頑張ろうとしていた。平凡な一般人を目指して、それでも過酷な目に遭わなければならなかったこの人に更なる試練なんて与えたくはない……。

 ふと、考えてしまった。
 家族に会えなくなって悲しむなんて、普通のこと? 誰もが理解できる事象とも言える。
 ……だから藤春伯父さんは、『俺と実父の縒りを戻そうと必死だった』? 誰もが悲しむ当然の悲劇だから、それを正したくって……?

 考えて、胸が苦しくなる。
 だってそんなことを思い知らされたら、心の中で「余計なお世話だよ」と文句を言えなくなってしまうじゃないか。
 リズム良く上下させる伯父さんの胸に、そっと手を……ゆっくりと頬を置く。
 体重を掛けないように、力を込めないように、伯父さんを傷付けないように隠れて、その身に口づけた。

 たどたどしく寄せた唇を離す。
 はてと、そんな自分を見ている視線に気付いてしまった。
 心臓が跳び上がるぐらいの吃驚。悲鳴を上げるのを堪えて、その視線の主を睨みつける。

 洋室の扉がちょっと開いていて、隙間からだらしない笑みを浮かべた福広さんが覗き込んでいた。

 伯父さんが目を覚まさないように、ゆっくり立ち上がる。
 ゆっくり入口を開け、ゆっくりと部屋から出ていく。
 足音を立てないようにゆっくり廊下を歩み、ゆっくりと自室から離れきって話し声も伯父さんに聞こえないぐらい遠くに来たところで……隣を歩く福広さんに蹴りを入れた。

「いったぁ!? 回し蹴りが決まったねぇ! ウマさぁ、今からでも火刃里達と一緒に武道の修行をやってみるべきだと思うよぉ! 魔術も使って格闘もできたら幽霊無双できるよぉ〜」
「実体化してる霊体なんて早々いませんから炎だけありゃ充分ですよ。実体化するほどの強敵となんかやり合いたくないですし。……っていうか何すか。うぜぇ。腹立つ。むかつく。覗きとか変態」
「うお言うねぇ。あまりの暴言にお兄さんたら傷心のあまり泣いちゃうよぉ。……もうちょっと歩こうかぁ。書庫あたりでいいぃ?」

 もう俺の部屋で眠る伯父さんを起こさないぐらい遠くに来たというのに、風通しの良い冬の廊下を気にしてか福広さんはひたすら移動する。
 確かに書庫は、中の物の状態維持の為か廊下よりも居心地は悪くない。
 宴会に呼びに来ただけならそのまま大広間に向かっても良かったが、とりあえずなのか福広さんは手近な密閉空間へと足を運んだ。

 訪れた書庫は、以前依織さんを訪ねてきた場所とは違って清潔で小ざっぱりした一室だった。
 本棚が多いけど書物を広げて書き物ができるようなスペースがある。物を入れて保管しておくだけの倉庫とは違い、どちらかというと学校の図書室のような所だ。
 普段なら研究者が一人や二人、入り浸って研究をしている。それでも本日12月31日は誰もが業務を終えているせいか、人っ子一人見当たらない。夜も暮れ、薄暗い書庫には自分達以外誰も居なかった。
 たとえ風が入り込まなくても、人が居ない一室は冷気が漂っている。廊下で立ち話をするよりは足元が寒くなくて済むが、気温自体はあまり変わらなかった。

「……寒」
「ふぅ〜、寒いねぇ〜。でも冬だから仕方ないねぇ。廊下でおしゃべりよりはここの方がずっと良いよぉ」

 屋敷の中とはいえ、縁側の廊下はとても冷える。床暖房なんてものはお屋敷には整備されていないので、大勢が集まっていない限りどこにいても寒さと戦わなければならなかった。
 福広さんは俺を探してやって来ただけあって、上着はがっちり着込んでいる。でも俺はさっきまで寝ていたぐらいだ。冬らしい格好はしていても、身震いはしてしまう。上着一枚無いだけで境内の中での行動は地獄だった。
 もし外へ……林の中へこのままの格好で出たら、数分で手足は凍り付いてしまうだろう。
 そんな夢も、見たことがある。

「えっとねぇ、うんとねぇ。ウマぁ、ちょっと待ってぇ」
「……福広さん、何をお探しです?」

 がっちりと上着を着込んでいる福広さんが、自分のジャケットのポケットを探った。
 二つのポケットに手を突っ込んで探し、そこにお目当ての物が無いと判ると内ポケットへ。そこにも無いと判ると今度はズボンのポケットへ。
 ゆったりとした動作で、俺に何かを見せようと何かをあっちこっち探し始めた。
 ただ宴会参加を呼び掛けに来ただけじゃなく、何やら用事があるらしい。長話になるのかなと思いながら、俺は『扉の鍵を閉められた』書庫内の電気を点けた。
 パチ、パチッと少し暗めの色の蛍光灯が、時間を掛けて光り始める。
 いくつか蛍光灯の調子が悪いらしく、完全に明かりが灯るまで数秒掛かった。電気を取り換えるまでもないけど、寿命が近づいているらしい。そんなどうでもいいことを思いながら、はぁと両手に息を吹きかけた。
 暖房が付けられていない部屋は寒かったから、つい。
 だから早く福広さんがしたいことを終えて場所を移そう……そう思ったと同時に、彼はケツポケットからグシャグシャの紙をようやく見つけた。

 左手に持つ紙だと思ったものは、封筒だ。
 色は赤。俺も今年に入って何度も見せつけられた、独特な朱色。
 俗に『赤紙』と呼ばれる大切な令状を、この人はそれほど大きくないと承知のケツポケットに突っ込んでいたのか。叱られはしないとはいえ、褒められた行為じゃないから文句を言われても仕方ないぞ。まあ、考え無しのこの人らしいけど。
 にへらと笑う福広さんは、封が切られた封筒の中からペラリとまた赤い紙を取り出す。字は細かくて、ペラペラと見せられただけじゃ何が書かれているかは判らない。
 その紙面には……いつも『仕事』のたびに送られてくるワープロ文字で、勅命が書かれているんだ。お化けを倒せとか、異端を捕まえろとか、人によっては事細かに任務の内容が記されているとか。

「なんすか、それ」

 仏田『本部』から送られてくる仕事は様々。住み込みでお手伝いさんとして働いている福広さんなら「食事を作れ」「洗濯をしろ」「掃除に励め」のような雑用だって立派な仕事だから『赤紙』が来ることがあるという。
 で、大晦日にまで持ち歩かなきゃいけない招集令状を見せつけて何を?

 首を傾げて尋ねようと近づいた瞬間、『赤紙』を持つ福広さんの逆の手――右手に何かが生まれる。
 銃だ。虚空から銃を召喚した彼はそのまま引き金に指を入れ、銃口を俺の顎の下に突きいれた。

 福広さんの背は高い。無意味なぐらいにノッポな彼は、平均身長も無い俺が見上げなければならないほどだった。
 だからワンステップで距離を詰められ、本棚にガッと押し付けられつつ顎の下に銃口を立てられたら……もちろん、息苦しい。
 俺が背伸びできるギリギリのところまで突き立てて、今にもトリガーを引こうかというように指を回していた。

 見上げた先は、至近距離の彼の顔。
 壁に押し付け、顎に銃口を突き付けるとなったら、その距離は数センチしかない。
 どんな小さな声でも逃がさないぐらいの近さ。だけど話そうにも下顎に銃の感覚が接している状態。口を動かせないので何も言えなかった。
 だから。
 なんで。……腹話術みたいな声で、目と一緒に訴えた。

「なんでだと思うぅ? ……答えはぁ、俺にきたもんが『ウマを殺せ』って命じているからなのでしたぁ!」
「……………………は?」
「少しぐらいシンキングタイムが欲しかったぁ?」

 頭の足りてなさそうな声で、福広さんは笑う。
 この上なく簡潔な答えだ。
 その一言で全てが終わってしまうぐらい。もう俺に質問させる気も、猶予も一切与えないほど判りやすい回答だった。
 それでも、俺はもう一度同じことを呟く。
 なんで。なんで、そんな『赤紙』が。……突き立てられていることの息苦しさでプルプルと震えながらもう一度、目で訴える。

「そこまで知りたいぃ? うんうん冥途の土産に教えてやろっかなぁ?」
「…………冗談、ですよね。福広さん、あんた、その顔だと、本気か冗談か判らなくて困ります、よ」
「あぁ、ちょっと苦しかったぁ? ごめんごめんぅ、ほらぁ、俺ってばサドだからぁ。でも説明することなんてもう無いかなぁ」

 顎に当てられていた銃口が、今度は喉ボトケを突く。
 固い感触がグリッと喉へ直接押し付けられる。さほど力を加えられてなくても咳き込みかけた。けれど体を曲げさせることを許さない巨体の力によって、ただただ喉を抉られ続けた。
 が、が、がっ……と不気味な声を出してしまう。
 その反応を楽しんでいるのか、いや……楽しんでいるふりをして実はいつも通りの平然さのまま、福広さんは俺を見下ろしていた。

「ウマは『本部』的には『いらない』ってことになったのぉ。そんだけだよぉ」
「……は……はあ……?」
「お仕事サボるしぃ、変に騒ぎ立てるしぃ、そういうことの積み重ねが気に入られちゃったんだねぇ。ううん、嫌われちゃったって言うべきかぁ? ……知らなかったかなぁ? 我が家はねぇ、すっごい厳しいお家で一回か二回反抗的態度ってヤツを取っただけで粛清しちゃうんだよぉ」
「…………」
「でもぉ、ウマのはちょっと特殊なケースかなぁ? ……うん、わりととっても特殊なケースぅ。『わざわざ俺が殺しに来なきゃいけなかった』からぁ!」

 福広さんの体を退けようと、思いっきり両腕に力を込めて押し返す。
 が、その瞬間に顎を抉っていた銃口がふいっと左腕を取った。左の手首に銃口が当てられる。
 本当に一瞬だった。ガッと押しつけられた途端、ボンッとそこが爆発するのを感じた。
 乾いた音が書庫に響く。

「あ」

 引き金を引かれた銃が、『俺の手首を破壊した』ことに気付いた。
 銃弾を受けた経験のない俺には理解しがたかった。

「あ……ああああっ!?」

 悲鳴が出てくるのも遅い。
 何が起きたか判らなくて、手首を銃弾が貫通したことも、そこから生じる激痛も、時間差が生じて理解できなかった。
 痛みに体を捩って倒れようとするが、それも許さないように福広さんは膝蹴りを俺の腹部に打ち込んでくる。俺の腹を蹴り上げることが目的じゃない。俺の体を固定するために、右脚を打ち込んできただけだった。
 喉を抉られた痛み。銃弾による腕の痛み。腹を殴打されたことの痛み。三つがほぼほぼ同時に生じて、頭が真っ白になっていく。
 膝蹴りによって倒れることも許されず、本棚に磔にされる体。
 お化け退治なんて目じゃないぐらいの苦痛と恐怖と理解不能さが襲い掛かってきていた。

「あ……ああ……いた……痛……あ」
「普通ぅ、一族の処刑はぁ……スイッチ一つで終わるもんなのぉ。ウマだって知ってるよねぇ? 『上層部』が殺したい子に対して『死ね』って命じれば死ぬんだよぉ。それぐらい『血の契約』を知ってるウマだったら判るよねぇ?」
「……あ……あぁあ……?」
「普通の一族ならぁ、殺そうって決められた瞬間に殺せるようにシステムされているんだぁ。俺だって上から用済みって言われたら一発で殺されるんだよぉ。縛令呪っていうもんがあってねぇ、上の命令には絶対だから下された瞬間俺は自分で自分を殺しちゃうだろうねぇ。……でもぉ、ウマにはそれができないぃ」
「…………」
「そのシステムを始めたのがぁ、ここ五十年ぐらいなんだよねぇ。だから五十歳以下の人達なら速攻命令で何でも操れるんだけどぉ……インプラントって判るぅ? 体内に埋め込む器具なんだけどぉ、『機関』で『血の契約』っていう手術をするじゃーん? だからうちで生まれた子も、うちに入門した人も、みーんな付いてるんだよぉ」
「………………」
「でもぉ……ウマの体には無いんだよねぇ。ウマと、トキリンと、あと……みずぴーには無いんだぁ。ウマ達はいつの間にか作られていた子だからねぇ。だからこうして直々に殺さないと殺せないのさぁ!」

 一族から離れていた藤春伯父さんと、結社とは無関係のあずまおばさん。
 その二人は仏田寺の外で出会い、関係を持った。ときわさんは都市部の病院で産まれたと聞いている。
 俺も……伯父さんから聞いた話だが、両親が隠れるようにして愛を育んで産まれた子供だ。産まれてすぐに外で過ごす藤春伯父さんに連れて行かれた。
 藤春伯父さん以外の……仏田寺に住む何者かに引き取られる可能性もあった。だけど伯父さんが「実弟の息子だから」と力強い声で引き取ることを決意したらしい。

 伯父さんは、仏田という結社を熟知していた。
 まだ若かった伯父さんは、産まれたばかりのときわさんを連れてきたとき……無理矢理赤ん坊を取り上げられてしまった。兄弟に実子を報告しに来たつもりだったのに、まさか数人に取り囲まれて連れ去られるだなんて思っていなかったという。
 その恐怖の経験が伯父さんにはあった。俺を仏田内に残さず、何か怪しい儀式をされなかったのは……実の子を奪われた伯父さんの実体験からだった。

「産まれたトキリンの体は優秀でぇ、ただでさえ基礎能力も高いのに『対魔力体』なんて恵まれた異能まで持ってたからぁ……下手に手術すると拒否反応で死んじゃうって判断されて『血の契約』をされなかったんだよねぇ。俺らみたいに産まれる前に調整しちゃえば良かったけどそれも出来なかったからさぁ」
「……お、『俺ら』……って……?」
「んんぅ? 判るでしょぉ、ウマ達三人以外の一族は殆どぜーんぶ手術を終えてるってことぐらいぃ。ここで産まれた子供はもちろんぅ、ここに入門したいですぅってやって来た人は全員契約済みだよぉ。……ていうかその手術に失敗した人は死んでおしまいだから家族になれないだけだけどねぇ!」
「…………」

 福広さんが、ずいっと俺へ顔を近づけてくる。
 締まりのない顔。へらへらと笑いながら鼻の頭をくっつけてくる。
 その態度が、何の変化もなかった。
 お仕事である掃除をしている姿、趣味のカメラを向けてくる姿、喋りながらクチャクチャと物を食べる姿……普段と何も変わらない。
 日常的で、愚か。格好つけるでもなく、見下してくることもない。
 日々の業務をこなすかのように、また銃弾を込めた。

「『本部』からの『赤紙』によると12月31日にウマは死ぬぅ。これはもう決定事項ぉ」
「…………」
「でもさぁ、可愛い弟分の男の子を殺すなんて可哀想だってお兄さんは思っちゃうんだよぉ。『赤紙』に書いてある命令だけどさぁ、悲しくて切なくてたまらないから生かしてあげようかなぁって考えちゃうんだぁ」

 押しつけていた膝を下ろす。
 がくんとその場に腰を下ろした。その間も、穴の空いた左掌からはだくだくと血が流れていた。穴を抑えようと腹を覆う。手で覆っても間に合わないから、少しでも面積の広い腹部で抑えつけた。
 生かしてくれるのか、と縋るような目で見上げる。まだ福広さんの視線は変わらず、にやついたものだった。

「ねぇ。ウマは俺のおちんちんしゃぶるのと、血の付いた指でアナニーしてみせるの、どっちがいいぃ?」
「……は……?」
「あぁ、良いアイディアだと思ったけどやっぱヤメたぁ。……だって俺のおちんちんまで血まみれになっちゃうもんねぇ!」

 言って、ダンッと二発目の銃弾を放った。
 撃った先は腰を下ろして足を投げ出していた、俺の右太股。銃弾がざっくり刺さり、大腿骨が砕ける。
 暗闇でも判る。じわりと俺のズボンが赤く染まっていくことが。
 もちろん悲鳴を上げた。痛くて痛くて我慢できなかったから絶叫する。
 だというのに福広さんは「ごめんねぇ」と言葉だけの謝罪を告げたまま、笑ってその姿を見下ろしていた。

「あっ……あああ……あああっ……!?」
「今日は出血大サービスぅ。ほらぁ、冬だから大処分セールっていうかんじぃ? 俺以外の誰かも今もどっかでこういうことしてると思うよぉ。」
「あ……ああぁっ……!」
「みずぴーとか、ウマの弟達もこんな目に遭ってないといいねぇ。悪いことしてなかったら大丈夫かなぁ? でも『上』もなかなか気紛れだからなぁ。違う倉庫で血まみれになってる誰かが居るってこともありえるかもぉ」
「痛い……痛い……痛い……!」
「そんなに痛いぃ? 航先生になるべく傷めつけて殺すようにって言われてるからねぇ、怖いって思わせながら殺さないとダメっていう任務なんだぁ。だからウマすまんよぉ、すぐ殺せなくてぇ!」

 カチ、とまたリロードの音。
 身構える隙も無い。福広さんがまた銃口を突きつけたところは、右の足首だった。
 待ってと声を上げようとする前に、ダンッとまた破裂音。掌を撃ったときと同じ、零距離で足首に穴を空ける。
 足を投げ出しているところにまた。二回続けて足を。涙が溢れ出る。それぐらい痛い。あまりの痛みで……もう立つことはできなかった。

「痛い……痛い痛いぃっ……! なんで、なんで……!? 痛い……!」
「だーかーらぁ、傷めつけろって命じられてるからだよぉ。それに俺ぇ、男衾さんみたいにさっくり殺すとかできないからぁ」
「痛っと……。あ……?」
「男衾さんっていう見せしめに処刑をする人がいるのぉ。知ってるぅ? うちのエースだよぉ? あぁ、前に話したよねぇ? ……ウマのおばさんを担当した人だもぉん」
「…………あ…………」
「おばさんをぉ、担当した、人ぉ。わかるぅ?」

 にやり。その笑みだけは、判った。
 今までいつも通りの笑顔だったけど、痛がって暴れる俺にわざわざしゃがみ込んで見せた歪んだ表情は……知っている事実を見せびらかせたくて言っちゃったという、悪戯心に富んだ邪悪なものだった。

 おばさんを、担当した人。見せしめに処刑をする。
 この状況。その笑み。
 痛めつけられるだけの今。奪い取られる命。圧倒的な暴力。
 体が震えた。言葉が途切れた。
 そして確信を得た。
 笑顔を見せて死へ導こうとしている福広さんがいるように、この寺には……同じように、無罪の人間を死へ運ぶ者がいる。
 人を殺す人がいる。
 目の前にも、数日前にも。そう、以前の世界にも。
 よく判らない理由をつけて、自分達だけの理由を掲げて、崇高な理想だなんだと勝手な言い分を押しつけて……奪い取ろうとする連中が居る。
 それは、彼らだ。
 今、目の前にいる彼こそが、この境内で大勢息巻いている彼らこそが。……恐怖と苦痛を振り撒く異端と変わらぬ仏田一族こそが、許してはならない悪なんだ。

「あれぇ、もう力尽きちゃうのぉ? トドメがこんなに早くていいのかなぁ? もっと生きたいと思わないのぉ。命乞いとかしてくれてもいいんだよぉ、殺すけどさぁ」

 声を失くして、その場に倒れる。
 本棚の前は俺の血で濡れている。でも掃除が得意な福広さんならきっと綺麗さっぱり、無かったことにしちゃうんだろう。

「ぃ……た、ぁ……」

 体が震えていた。血がどくどくと流れる左手、右脚、左脚。みんな痙攣して、うまく動かせなかった。
 けどお腹や心臓、頭を撃とうとしないから致命傷には至らない。眩暈はするけど、絶妙な痛みのせいか気絶すら出来ない。
 確実に俺の死は近づいている。でも、まだ死ねなかった。死にたくても最後の一撃が遠かった。
 右手は無傷だから、指を差すことぐらいはできる。俺を覗き込んでくる福広さんの顔目がけて炎を生み出すこともできたけど、その程度でやめてくれるとは思わなかった。
 最後の足掻きとしてこの人を燃やそうか。書庫を燃やして騒ぎを起こし、助けを呼ぶか。でも、『赤紙』による処刑なんだよな。俺は結局殺されるのか。……藤春伯父さんが気付いてくれたら? 助けてくれるんじゃ? たとえ『赤紙』を盾に使われても、藤春伯父さんなら俺を救って……。

 ――半壊の姿を思い出す。
 ここではない世界の、彼を。

「…………あ……」
「ありゃぁ、怖すぎて声も出ないってやつかなぁ? ウマってそんなに心の弱い子だったぁ? ……最期に反抗の一撃ぐらい食らわせてくると思って構えてるのにぃ」

 記憶の彼方の伯父さん。俺にとっては数ヶ月前に実感した、地獄。
 魔法陣の上。殺さない呪。
 理解はできない煉獄。あってはならない空間。
 血臭たちこめる魔力の渦。
 絶え間ない痛みに啜り泣いている者。年若い者も年老いた者も、血を垂れ流して直前の死に恐怖して絶叫していた。
 痛い痛いと、死ぬ死ぬと、でも死ねない死ねないと。死にたくないと叫ぶ人もいれば早く殺してと懇願する人もいる。言葉は違えど、どいつもこいつも死に咆哮していた。
 いけない、駄目な、あってはならない世界。

 その中に居た……顔の半分を斬り落とされていた、伯父さん。
 殆ど赤黒い肉にしか見えなくて、頭蓋骨が見えて、目玉はぶらんとぶら下がっていて、顎の形がはっきりと見えて、右腕のだって切断さえて肉が飛び出ていて、内臓を置きっ放しにして、足が片方しかないからずりずりと匍匐前進するしかない……そんな無残な姿の藤春伯父さんを、俺は、死に際に思い出してしまった。

 なんで今まで思い出さなかったって、『今から死んでしまう』からだ。
 死の恐怖なんて知っている人は生きられない。知っていたら怖くて怖くて生きることなんて放棄してしまう。
 俺は数ヶ月前にタイムリープした後に……死んだという事実を知っていても、死んだ直前の事は思い出さないようにしていた。
 だけど今、あのときの痛みや恐怖と同じような状況に陥って……あの世界のことまで克明に思い出してしまう。

 つまり……俺の死は、確実に近づいていて、あと秒読み段階ってことだ。

「おばさんも男衾さんに処刑されたときってアッサリ終わったって聞いてるよぉ。殺した本人がそう言ってたんだけどぉ……まさにこんな風だったのかねぇ?」 

 もう、「助けて」も言えない。
 次に来る銃弾が怖くて言えないのもある。半壊の伯父さんのことを思い出して怖くて言えないのもある。
 どっちにしろ恐怖で頭がぐちゃぐちゃになって、何を言ったらいいか判らなくなっていた。
 福広さんが何か言いながら笑っているのは見える。でもそれだけ。言っている言葉を理解できない。笑うことには意味は無いだろうから、きっとどうでもいいことに違いない。けど何を言ってるかは気になる。気になるけど、頭に入ってこない。
 滅茶苦茶だ。この感覚がずっと続くのか。それは嫌だ。
 早く不快なこの状態を終わらせてほしい。
 終わりにしたい。殺してほしい。死にたい。……死にたい?

「俺が短気だったら一撃で終わらせてあげられるんだけどぉ、こう見えてご命令には忠実に従っちゃうタイプだからぁ……。ウマぁ、もうちょっと苦しんで死んでよぉ」

 また福広さんが銃口を当てた。今度は左肩だ。倒れる俺に馬乗りになって、再度零距離で引き金を引こうとしている。
 なんで左ばっかりかって……そんなの、向き合っている福広さんが右利きだからだろう。自然と左に寄ってしまっているんだ。
 だから利き腕の右は潰されずに、逝っても致命的なものにならない苦しさだけが続く。
 だとしても、痛いのは嫌だ。銃弾で体に穴を空けられるのは嫌だ。凄く痛いんだ。滅茶苦茶痛いぐらいなんだ。てんで滅茶苦茶にされているのに、終わりが来ないなんて、嫌なんだ。
 全体重が掛けられて抑えつけられて、撃たれるなんて。早く全身を貫いて終わりにしてほしいのに、心臓や頭を撃ち抜いて終わりにしてほしい。
 なのに、一向に最後がやってこない。
 続く激痛。無限の苦しみ。終わらない終わり。
 そんなものいつまで耐えていかなければならない。
 いつまでもか?
 ずっとこんな痛みを過ごしていなきゃいけないのか?

「やだ」

 怖い。
 全身が、全体が、恐怖で満ち充ちていく。

 かつて赤い髪の女の子が呟いていたかのように。
 全身が、全体が、恐怖で満ち充ちていく中で呟いた彼女が言っていたことと同じく……もう、やだと意味の判らぬ地獄の中でボソリと呟きかけてしまう。

 薄れゆく意識の中で視界に入った物は、本だった。
 何の本なのか判らない。背表紙を確認することも出来ない。でも仏田寺に保管されている本なのだから、きっと魔導書か異能の記録なんだろう。
 その中に俺を救えるものがあるなら今すぐ開きたかった。巨体に馬乗りになられている今となっては不可能な話だけど。
 じゃあ今ある知識で、いつかの窮地の為にと読みあさった書物の中で……自分を助ける記録は無かったのか。
 咄嗟に考える。思い出し。想起する。回想する。想い起こす。たとえ無理でも、自分の知識に自分を救うものがないかって……知恵を呼ぶ。

「あららぁ? 何いきなり口走り出しちゃったのウマぁ。んんぅ? なになにぃ? 何それぇ?」

 そして謳う。

「………………呪文? 何だよさっさと殺しちゃうよぉ」

 福広さんが俺の額に銃口を当てる。
 待ちに待った最後の一撃だ。それを貰えるならありがたい。喜んでこの地獄を終わりにしよう。
 でもその一撃を貰うためにも、焦らせるために俺は出来もしない呪文を唱える。発音もいい加減。一度読んで覚えたつもりの詠唱に自信なんて無い。
 それでも綴る。
 世界の言語体系には無い、神秘の詞、魔術文字を必死に音へ変換する。一ページ目の一行目から、約五十ページの最後の一文字までが……全て一つの文。どれも切れない、全部発音して意味のある呪文。

 ――――越境。

 俺を甚振る福広さんの尻に火がついて、引き金を引いてもらえたら儲けもの。その程度の気分で俺は、唱え続けた。
 全ては、終わらせるため。
 早くこの世を終わりにしたい。その一心で唇を動かし……。

 その結果。
 嬉しいことにパァンと頭を撃ち抜いてもらえた。




END

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