■ 033 / 「喧騒」



 ――2005年12月18日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /1

 男衾という男があっちの廊下で焦った顔をしている。ザマアミロ、と下品にあっかんべーなんてしながらその場を駆け出した。
 だというのに何でこっちの廊下に男衾が立っているんだろうか! なんで!? さっきまであっちに居たのに!

「こちらのお部屋で、お待ちに、なっていてください」

 一つ一つの音にスタッカートを付けながら、男衾はあたしの体をずるずると和室に引き戻した。
 恥を呑み込んで「トイレに行くつもりだった」と言っても「五分前にも行ったでしょう」と言い返される。
 あ、そろそろ表情が崩れてきた。この人、ポーカーフェイスぶってるだけでただの人だ。しかも押しの強いタイプの人間には弱いと見た。きっと周囲に押せ押せの人がいて振り回されている。こうなったら強行突破ではなく、情に訴えた方が抜け出せる気がした。
 幸い、あたしはミニスカートだ。スパッツならいくらでも脱げる。なんなら彼の前で脱いでやるパフォーマンスぐらいならできる。
 情に訴えて、色気で訴える。これで落とせない城は無い。抜け出せない屋敷は無い。
 問題はあたしが色気を見いだせない十二歳ということだが、人によったら小学生女子は大きな武器だ。男衾の性癖が歪んでいることを神に祈ろう。
 でもってあたしが神だったら男衾の性癖を歪めよう。今すぐ。この場で。トオッ!

「元気そうでなによりだね」

 精一杯「変態になーれ」の波動を送り終えスパッツのゴムに手を掛けたとき、燈雅さんが部屋を訪れた。
 ぱっとゴムから手を放す。あぶないあぶない。この人に見られたらなんかが終わる。品位を問われるところだった。ふう。

「それじゃあ、君のお部屋に案内しようか。紫莉ちゃん」



 ――2005年12月30日

 【     / Second /     /     /     】




 /2

 微かな結界の乱れに気付いたのは、心が不安定な方向に傾いていたからだ。

 仏田寺に一番近いバス停から、ゆっくりと石段を見上げた。
 何百段ある石段を一歩ずつ登っていかなければならないのに、既に息が上がっている。二時間に一本程度しか走らないバス停から石段の麓まで来るだけでも呼吸が乱れるほど、斜面が急だったからだ。
 小学生のときは小学校がある場所まで一時間の道のりを毎日往復していた。信じられない。一年前は犬の散歩のために三日に一度ぐらいは下りていた筈なのに、山での生活をやめた途端にこの体力低下だ。

「新座は毎朝毎晩、甘い物を食べ過ぎだからよ」

 隣に立つ小さな女の子に痛いことを突かれ、「むぐっ」と悲鳴しか出ない。
 そういや一年前に比べるとお腹がポコっとした気がする。というか去年まで履けたズボンがきつくなった。それどころかワンサイズ大きいものを買わなきゃいけなくなった。
 家出をしてから、退魔組織『教会』の宿舎に住ませてもらっているとはいえほぼ一人暮らし状態。仕事の関係や保育園の付き合いで人と外食することが増え、アパートに戻ったら自分の好きな物を好きなだけ作って食べる生活。美味しいご飯を作ることも食べることも大好きな自分としては幸せな日々だと思っていたが、そのツケを年末に自覚してしまった。
 銀之助さんに管理される生活は、素晴らしいものだったんだ。規律正しく三食、適度な量、栄養満点、最適化された食事を続けさせられる日々。拘束感は拭えなかったが、それでも彼のしていたことに間違いがなかった。実感して、あの人への感動と感謝を伝えなければならない気がした。

「だってさぁ。朝のオレンジジュースって美味しいじゃん」
「なんでそこをわざわざ反論するの。オレンジジュースが悪いとは言ってないわ。でも、炭酸の甘い水は朝からどうなの。それにもっと言うべきものあるでしょ。毎夜、締めにケーキかアイスを食べることとか」
「あのね、一日頑張った自分へのご褒美って大事だと思うんだ。明日も頑張ろうって気にさせてくれるもんだし。それに君だって美味しく食べてくれるから……」
「そうやって人のせいにしようとしてる」
「はいはい、用意してるのは僕です、どっからどう考えても始めから僕のせいです、ごめんなさい」

 独り言を呟きながら石段を上がった。
 山の上、というか山の中にある仏田寺まで、深い色の木々に囲まれた長い長い石段を登らなければならない。定期的に掃除を(当番制で僧達が)しているけど、ここ数日は誰もしてないのかあちこち葉っぱや砂や石が落ち放題になっていた。
 けど、掃き掃除のピークは秋だ。落ち葉だらけになると参拝する人が足を滑らせて危ないからしているだけで、年末にもなれば石段を埋め尽くすほどの枯れ葉は無い。それこそ冷たい風がびゅびゅっと吹けば自然の大掃除が完了してしまうぐらいだった。
 今は誰も掃除をしていないのが判るぐらい、適度に石段がそのままになっている。
 きっと年末年始、忙しいんだ。だからお掃除部隊も活躍できていない。活躍しなくても良いことになっている。やや一年お寺に居なくてもそれぐらいは察することができた。

 ――そうして迎えた12月30日。来てほしくなかった悪夢の前日。
 僕なりに緊張感を持って実家に帰省したせいか、神経がいつもより立っていたんだろう。不安定な方向に傾いていた心が、微かな結界の乱れを気付かせてくれた。

「……やっぱ、何かがおかしかったんだ」

 それは、きっと注意していなければ気付かなかった。
 おそらく『前回の自分』は一切判らず能天気に山門を潜っていた。
 石段を上がりきり、ぜーぜーと息を切らしながらもようやくだだっ広い境内の入口である大きな門が見えてきた頃。
 確かこの辺りで結界の境目があるんだっけ、と思った瞬間……いつもと感覚が違うことに気付いた。
 気付いてしまった。

 何がおかしいと言う訳ではない。
 張ってある。
 『結界』は、張ってある。
 普通の人間は普通に入れることができる。異能を操る能力者なら少し生暖かい風を感じるかもしれないけれど入れる。人ではないものなら、嫌な想いを受け取り違和感を抱いて引き返したくなる。害のある人物なら、息苦しさを感じてきっと足を止める。異形は、決して入れない。
 魔術師が施す『結界』ってそんなものだ。意思の強い人なら少し我慢して足を踏み出せば、なんてことはなく入れてしまう。だから悪意のある化け物だって、踏ん張って入ることができる。でも悪意を剥き出しに入室したら誰だって警戒する。警戒すれば入ってきた敵意の塊を追い払う準備もできる。
 世の中には外と中とを完全に遮断して隔離する結界もあるが、そこまで仰々しいものはお寺には設置されていない。そんなことをされたら人が中に入れないし、外に出る手段すら奪われてしまう。
 ここに施された結界はあくまで、「誰かがお家に入ってきたよ」と告げる警報センサーと監視カメラだ。僕はカメラが入室しようとしている自分に向いていることに気付き、そしてそのカメラが……微妙な角度の方を向いていることに判ってしまった。
 微妙な角度。寺に入る僕を見ているような、見ていないような。視線を感じるような、やっぱり僕のことを見ていないような……。気配はするけど関心は無いような、目の前にいるんだけど無視をされているような。ううん、なんだこの感覚は。
 結界があるのは判る。仕事もしている。でも、もしかしてこれは……?
 監視カメラが付けられているのにも関わらず、そのカメラの電源が入っていない。というより、「カメラの電池が切れかけている」ような不安定さを感じた。
 なに、これ。機能停止してる? って訳じゃないけど、仕事してるようでしてないっぽい。こんな状態で変なものが押し寄せてきたら……。

「龍の聖剣……なんなの、この感じ」

 問い掛けたとしても、彼女は答えない。石段の上で歩みを止めた僕と同じ段に立ち、僕の声を聞くのみ。僕が歩み始めれば、息も切らさずトントンと上へと歩むだけ。
 彼女が何かを知っているかどうかも僕は知らない。でも彼女に問い掛けることで自分の疑問を見つめ直すことはできる。思考が整頓される。それだけでも僕に出来る唯一の有意義な行為だった。

「なんなんだよ、一体」

 ――9月1日からのおよそ100日間。何もしてこなかった訳じゃない。
 自分なりに勉強した。一しかできなかったものが、三はできるようになった。調べられるものだって調べた。仏田を狙っている何者かがいるんじゃないかと、精を出して退魔組織『教会』というところに顔を出して話を聞いた。
 だが出てくる情報とはいえば、「全て思い当たる」だけで、確実にこれが原因だというものはなかった。
 そもそも、未来に起きることをどうやって過去のうちに防ぐというんだ。最初の時点で躓いた。
 石があるから転んでしまう、ならその石を先に取り除いてしまえばそのまま歩いていける。なんだ、先が見えていればこんなに簡単に生きていけるんだ。タイムスリップって凄いんだな……最初の数日はそう思っても、そう簡単にはいかないことを既に思い知らされている。
 だって、石がどこに落ちているのかすら判らないのだから。それどころか、どの石に躓いて転ぶのすら判らないのだから。
 風が吹けば落ち葉も小石もどこからでも転がってくる。通らなければお家に帰れない石段に、何気なく積んである。でもそんなものは数秒前、自然の力で置かれてしまうもので……100日前から対処することなんてできなかった。
 数日前から仏田寺には来ていた。12月に入ってからだから、ほんとに数日しか経っていない。その時点では何の違和感も無かったのに、今日になったら結界の異常だ。
 『今日は結界の異常がある日』だと『前々から決まっていた』? そんなまさか! だって無かったら大変なことになるから結界が準備されているんだ。そんな異常が判っていたら結界を張る人だって注意するよ!
 事前に手回しなんて、できない。
 できるかもしれないけど、一体どこからどこまですればいいか。
 記憶を持って4ヶ月をやり直しても、できることなんてたかが知れていた。やれたことといえば自分が注意する、そのための準備をする……それぐらいだった。

「おかえりなさいませ、新座様。……お寒い中、お疲れ様でした。お体の調子は如何でしょうか」
「えっ?」

 酷い顔をして山門を潜ったからだろう、開き口にて御客人の来訪に頭を下げる女中さんが、開口一番にそんなことを言ってきた。
 いつもなら十人ばかりがズラリと並んで一斉に頭を下げられるんだけど、本日は彼女……豊島園さんを含んで四人のみ。それでもたった一人の出迎えにしては多い。出迎えの者が毎度ここに待機している筈がない。きっと結界で「僕が来る」と察したから彼女達が出迎えるように待機していたんだ。
 普段だと「お荷物をお持ちします」から始まり、「ご用件は」とか「ナントカ様がお待ちでございます」とか怒涛の質問責めに遭う。でもそうして来ない理由は、彼女の顔色を見れば判る。
 運動したからかいたものではない、冷や汗を流す僕を心配しての言葉だった。

「む、ぐっ。ごめんなさい、大丈夫です。暫く石段を歩いてなかったらすぐに息が切れちゃって」

 それだけだから平気です、と見知った女中さん達に手を振った。二人の女性が荷物をと手を出してくるが「大丈夫だって」と首を振る。
 一応これでも武装してきたつもりだった。持ってきたと言っても大した物ではない。けど肩身離さず持つべきだと思って、彼女達の好意を断った。

 通された先は、『前回の世界』と変わらぬ部屋だった。
 僕の自室は既に片付けられていて使うことができない、だから客室である十畳を使えと豊島園さんに丁寧に教えられる。ついでにこの部屋は志朗お兄ちゃんも使うということも話してくれた。
 
『前回』はそれを聞いて「やったー」と喜んだ。今は純粋な気持ちで飛び跳ねていられない。いや、何かあったときのために傍に志朗お兄ちゃんがいることはとても良いことだとは思うんだけど。どうしてお兄ちゃんと二人で部屋を使うの、と案内をする彼女達に尋ねると、「そのように命じられました」と無難に答えられた。
 なんとなくだけど、これは鶴瀬くんが仕組んでくれたんじゃないかと思う。確信は無い。でも部屋に用意されているものが、以前……鶴瀬くんが仏田寺にご挨拶に来た際に、僕が振る舞ったお饅頭と同じものだった。たったそれだけだ。

 一応無断で家を出て行った身なのにも関わらず僕が寺を行き来できる理由は、鶴瀬くんが大きく関わっている。
 彼が「僕を引き戻す」名目で何度も僕に掛け合っているから、これで『本部』的は僕を監視していることになっているらしい。既に何人かには嫌われているけど僕をちょっと困らせる程度で留めているのは、鶴瀬くんの目が光っているから(ということになっているから)だった。
 それに、住む所が変わっているだけで『赤紙』を出されたら『お仕事』には出動している。役目を果たしているから処罰の対象にはならない。基本的には『本部』からの声で動いているけど外のマンションで暮らしている圭吾さんと同じようなものだ。外で暮らしつつ職務を全うしてるし甘えさせてくれている……ってところだろう。
 外で活動していて、ちょっと世間の目が冷たくなった僕にしてくれた鶴瀬くんの気遣い。それが志朗お兄ちゃんとの同室。僕の勝手な予想ではあったが、そう外れてはいないんじゃないか。

「新座様。失礼します」
「どうぞ入って」

 住んでいるアパートよりずっと寒い山奥のお寺は、廊下の先まで冷え込んでいた。自分の部屋として案内された部屋も、風が塞いでいるというだけで決して暖かいとは言えない。
 冷気に満ちた部屋でもコートを羽織っているのはおかしいと、意を決して上着を脱いだ途端。障子の向こうで誠実そうな男声が聞こえて見構えた。
 冷えた板の廊下で膝をついて畏まりながら入って来たのは、このお寺で長年魔術の研究員として住んでいる瑞貴くん(分家の長男坊と聞いている。研究棟にはあんまり行ったことがないので、挨拶程度にしか話したことがない)。障子を一歩越えて、きっちり着込んだ着物を乱すことなくまたその場で膝を着く。顔を上げると穏やかな笑みが僕をにっこりととらえてきた。
 口元は礼儀正しく微笑みをたたえている。でも真面目そうな真っ直ぐな目が、ちょっと怖いな、何か早速怒られることしちゃったかなと思ってしまう。聞き取りやすい声で「狭山様からの言伝がございます」とハッキリきっかり告げられた。……これは、狭山さん本人が居なくても身を正して聞くしかない。

「瑞貴くん。その、そんな固くならなくていいよ。もっと普段通りに、適当な報告でいいから。君が平気だったらね」

 普段通りの彼というのをあまり知らないが、きっちりと頭を下げ正座して重々しくご報告を……というのはこっちも疲れてしまうので、無理を承知でお願いをしてみた。
 畏まらずに、敬語にも気を遣わなくていいと後押しをする。すると瑞貴という子は結構ノリが良いみたいで、「いいんですか?」と目を明るくしてくれた。良かった、この子は話せば判る子だ。
 敬語なんて使わなくていいよと言っても「めっそうもない」と言って土下座をし続ける人だっている。そんな彼らに比べるととてもありがたい反応だった。だって、あっちが規律正しくされると僕も肩を張らなきゃいけなくなるから。正直、面倒だから嫌なんだ。

「狭山様からの言伝なんですが、新座様に宴会の乾杯をしてほしいそうです」
「え?」
「毎年、31日に本家屋敷の広間で酒宴が行なわれるでしょう? 例年光緑様がなさっていたアレです。アレを、新座様にしてほしいというお話です」

 31日。酒宴。大宴会。毎年みんなでお酒を飲んだりご馳走を食べたりする、あの。
 大勢が集まって自由に食事をする場所で、あの時間だけは上下関係も考えないで自由に誰とでもお話ができる場所だった。毎年それを楽しみにする人がいるぐらい、大晦日のお楽しみでもあるあの……開始の挨拶を?
 頭を右手で抑えた。じっと考える。
 ……こんなことも『前回の世界』であった気がする。でも、どうして今の今までこの会話を忘れていたんだろう?

「新座にとって良くない瞬間が近い出来事だからよ」
「はあ」

 目の前では瑞貴くんがにこにこ、ハキハキと笑っている。
 その隣に、彼が気付いていない小さな女の子が立っていた。

「12月31日。貴方は終わる。終わる瞬間に近いことはもっと思い出せなくなるでしょう」
「……どうしてかな」
「頭を殴られたとき目の前がチカチカしたときはない? しかも前後の記憶を失ったことは? カスミによくされてたんじゃないかしら。強い衝撃があった前後はね、魂にも記憶が残りにくいの。……厄介なことにね」
「実はですね、光緑様は体調を崩されていまして、今年は正月まで無理をしないようにと。それと燈雅様も同じでして。光緑様と燈雅様が宴に出席しないとなったら、乾杯の挨拶は新座様がするのが一番かと……」

 二人は同時に答える。一秒の隙もなく同時だったので、どっちも半分しか聞けなかった。どちらも納得できなそうでするしかないような言葉だなぁと思うしかない。
 正座してこちらの返答を待っている彼の横を静かに歩く。物音は一切しない。彼女は横を通りすぎ……ほんの少し、たった二センチだが開いていた障子を閉めた。僕と話している瑞貴くんが後ろ手に閉めたけど閉めきれてなかった障子を、勝手に。
 部屋の中は冷たい。でも廊下ほどじゃない。だから廊下から微かに吹き込む冷気を嫌っての行動だろう。……って、彼女は暑さも寒さも感じないんじゃなかったっけ。それなのに閉めたのは……もしかして、彼女も豊島園さんみたいに、僕のことを気遣ってくれたのだろうか?

「どうして僕がしろって言うのかな。これでも僕、無断でお家を出て行った馬鹿息子だよ。それなのに、あの狭山さんが僕を推すの?」

 障子を閉められたことに満足した彼女は、用意された座布団の方へと移動する。畳を踏む音をさせずに。
 けど「ぼふんっ」と座布団が跳ねる微かな音がした、気がする。可愛い。つい笑ってしまう。
 すると、僕が笑ったことに安心した瑞貴くんが再びニコニコと喋り始めた。

「どう思う? 部外者に、中心の顔っぽいことをさせていいの?」
「新座様はこうして仏田に戻られています。それのどこが部外者でしょうか? 外の者でしたら仏田は中に迎え入れようともしませんよ。こうして貴方の部屋が用意されている、それが『本部』が貴方を受け入れている証拠です。現に魂集めの大役もこなしていますし、『教会』での活躍も皆の元へ届いていますよ」
「……私の意見だけど、貴方は『一族の為だけじゃなく、世の為人の為、外の仕事も率先的にやっているからとても凄い』って思われている。これ、家出と思われずに『外で手柄を取ってきている』って評価上がっているやつじゃないかしら」

 また二人は同時に答えた。
 物は言いようだなぁ。
 3月に、僕は本気で家出をした。ここから逃げ出した。当主にさせられそうになったから、話を聞きたくなくて遠くへ逃げたんだ。
 だけど喧嘩別れにしたくないから兄や友人を経由して、戻ってこられるぐらいには説得することに成功した。当主になることを有耶無耶にできた。あれ以後僕に話がやってこないのだから、当主継承の話は頓挫しているか、元の燈雅お兄ちゃんが継承することでまとまったんだろう。
 で、悪かったことは全部良い方に解釈されちゃってる。中の仕事だけでなく外でお仕事を貰ってきちゃう僕って働き者だったんだ。自分でも知らなかったよ、と前向きなご意見に感動してしまう。
 もし受けてしまったら、中心に戻ってくることができたんだって……当主継承の話が再開してしまうかもしれない。それは今後のためにも回避しておきたいことだった。

「申し訳ないけど、僕は辞退させてもらうよ。僕から藤春さんを推薦しておくね。現当主の弟だし、藤春さんってあの宴会の主役だと思うんだよね。お酒いっぱい飲むし。たまに飲み過ぎて暴れるけど。藤春さんの酒豪っぷりは瑞貴くんだって知ってるだろ?」
「有名です」
「だよね。ということで瑞貴くん……」
「かしこまりました」

 おや。言い返されてからの問答が始まるかなと思いきや、瑞貴くんはあっさり「藤春様にお願いしようと思います」と頭を下げた。食いかかってくることもなく、「貴重なお時間をありがとうございます」だなんて爽やかで丁寧なお辞儀をして去って行く。
 今度はしっかりと障子は閉めきっていた。
 颯爽と現れ、僕の話に口答えすることもなく、するすると話をし終えて彼は後を去る。
 時間は三分もない。ささっと現れさっさと去って行く彼は忙しい身だったのか。それとも竹を割ったような清々しさを形にしたような子だったのか。身構える隙も与えてもらえない。
 でも、どことなく怖かった。
 流暢に話を進められたところが? 有無も言わせず終わらされたことか? いいや、それよりも。

 さっき抑えた頭を、もう一度抑える。
 ズキンと脳が悲鳴を上げた。ほんの一瞬、気のせいだと思えるほどに瞬間的な痛みに目が眩む。

「……僕は、瑞貴くんに、何をされた?」

 尋ねても誰も答えてくれないって判っていても、自分の頭の中を整頓するためにも声に出す。
 座布団の上でちょこんと座る彼女は、じいっと僕を見つめていた。その静かな目で見つめられている時間は冷静になれる。だからそのまま頭を支えながらも真っ白くチカチカする記憶の渦から一欠片を掬い出そうとした。
 今、何かをされたのではない。
 この体に染みついた拘束感は、緊張感は、今に始まったものではない。

 すうっと深呼吸を何度も繰り返して自分の、首を絞めた。
 呼吸の道が途絶えて目の前が真っ赤になっていく。何にも無い白ではなく、見覚えのある赤へと視界を染めていく。それでいい、見つけられない闇よりも既視感のある赤の方が僕は安心できるから。
 ぎゅうぎゅうって喉のある刻印を押しつけて自分の窮地を再現した。自分の力の源である刻印を自覚することによって、自分自身を見つめ直すことができる。
 思い出していく。 思い出されていく。
 瑞貴くんにされた『赤』とは何だったのかと。

「殺された」
「ええ」
「瑞貴くんに殺された」
「ええ」
「僕は、『前の世界』で、瑞貴くんに殺された」
「違うわ」
「そうだね。違った。……君、そういうことは教えてくれるんだ?」
「貴方が知っている事実を確認しただけ。判ってるくせに」

 真っ赤に染めた白い衣裳。薄気味悪い笑みを見せる男性の姿。
 暴走。反転。異端堕ち。僕らはそういった危険性があるから気を付けなければならないと長年言われていた。それこそ、近いケースだと寄居くんの件があった。だから色々な可能性が考えられた。瑞貴くんが、血に染まって僕らを襲う理由だ。
 そして僕はそんな瑞貴くんに殺されたんじゃない。殺されたのは、僕じゃなかった。



 ――2005年12月19日

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 /3

 異界で一晩過ごしても落ち着くことなんてできない。
 高級ホテルを思わせる洋室は、数日前に替えたばっかりだという調度品で揃えている。すべてあたしが泊まる為に用意したものと言っていた。

 一人で使うにはふっかふかできらっきらな天蓋ベッドなんてテレビの中でしか見たことなかったし、薄い大型テレビも我が家には実装されてない。テーブルやドレッサーは海外の一流家具店の物を使っているという。それをあたしの為に用意したなどと言われてみろ。嬉しいとか照れ臭いとかなんて感情を遠くに置いてきてしまう。
 なんせあたしは一般庶民の中で生まれ育った一般人なんだから。

「おはようございますー、紫莉様ー! 朝食をご用意したいのですがー、燈雅様のご要望で離れのお屋敷でご一緒にいかがでしょうとー」

 綺麗なお着物を着た女性……の格好をした男性が、朝の挨拶と共に移動を命じてきた。
 燈雅さんは「嫌なら強制はしない。俺の居る離れってところはテレビも無いから」と先に断りを入れていた、らしい。でも女中(っぽい男性。実は生まれて初めて見るオカマさんだ)さんは「燈雅様とご一緒しますよねー?」「じゃあ御召し物を、まずー」と移動する前提で話を進めてくる。あたしの答えなんて聞いてないような雰囲気で、着替えを用意してきた。
 二週間ばかりお世話になるのでちゃんとお兄さん(あたしの実の兄だ)に服を宅配で送ってもらっていた筈だけど、朝一で届いてはいないらしい。なんでも配達は山奥なので正午になるそうだ。「それならこちらを着てくださいー!」と女中さんはいくつか用意してきた。
 それも「これを着てみたらいい」ではなく、「着ろ」に似たニュアンスで。
 間延びした喋りでニコニコとあたしを着飾ろうとしているが、半ば命令じみての人形扱いをされて気分が良い訳がない。「一人でも着られるのーっ」「男の人は出てってなのー!」と追い出そうとした。
 だけど、用意された衣装というのは……全部お着物だった。
 浴衣じゃない。甚平でもない。一枚の布のようなものに腕を通して帯で留めるという、ご立派なお着物だ。
 あたし一人で着られる筈もなく、結局は女中のオカマさん(名前は梓丸というらしい。変に男らしい名前だった)に手伝ってもらうことになった。
 選んだ色は紅藤色。真っ赤でド派手なものと、真っ黒の中に金色の刺繍が入ったヤクザの女将さんって感じの二つに比べればマシなやつを選んだつもりだ。
 配送業者さんには一刻も早く仕事をしてもらって洋服を届けてもらいたかった。

 あたしが泊まっている洋館という場所は寺に来た客人が宿泊するらしく、招かれたあたしはここで二週間過ごすことになる。
 年末の間、あたし以外に使う人は居ないらしい。大きなホールがあって、何十人も使えそうな綺麗な食堂があり、二階建てで部屋数がいくつもあるにも関わらず、あたし以外には誰も使わないという。
 「そんな寂しすぎる場所で食事はさせたくない」という燈雅さんの心遣いもあって、燈雅さんが過ごしている『離れの屋敷』の方に招待されることになった。寝るのはさっきの洋室を使うけど、食事は離れに来いとのこと。
 とても優しい気遣いだとは思うけど、ちょっとだけ面倒くさかった。
 だって洋館と離れまでは距離がある。山奥の12月はすっごく寒くって、移動するだけで体の芯まで凍えてしまいそうだった。
 食事をするために移動するだけで体力が削れる。それを一日三回続けなければならない。かといって寒い洋館までの山道を、体が弱いらしい燈雅さんに来てもらうのは……数日しか話をしていないあたしですら「無理だ」と思える。あたしが出向くしか、ないようだった。
 どうせ二週間だけなのだから、それぐらい我慢をしなきゃいけない。

 一般庶民として生まれ育ったあたしの元に大金持ちの燈雅さんが始めてやって来たのは、12月1日。
 たった二週間の間に燈雅さんはあたしの住んでいるところまで何度もやって来た。そのたびにお父さんに追い帰されても何度も来てくれて、あたしを説得しようとした。
 最初は嫌だった。彼が来るとお父さんが凄く嫌がるから。それに三度目に来たときは学校帰りを狙われて「一緒に食事をしないか。車に乗ってくれ」と言われたもんだから、これにはさすがに走って逃げようと思ったぐらいだ。
 けれど、何度も燈雅さんがあたしの元にやって来る理由を聞くうちに、彼の必死さが伝わってきて、だんだんと懐柔されてしまった。
 だって、聞き捨てならない話をいっぱいしてきたんだ。

 実はあたしはお金持ちの古いお家の跡取りだっていう。
 そういうアニメ、昔観たことがある。隠されていた出生が明かされてみたら自分はどっかの国のプリンセスで、特別な力を持っていたってやつ。自分がお姫様だったらってちっちゃい頃(今でも小さいけど)は思ったことだってあった。
 けどそれが現実だって言われても。
 毎回きらきらなリムジンに乗ってくる燈雅さんという偉い人はあたしと血が繋がっていて、ずっとあたしを探していたんだって言われたら。
 しかもあたしがいる限り、「この街に平穏が訪れない」なんて言われたら。

 自分がお姫様だからとかどうでも良い。
 でも、どうでも良くないことが、あまりに大きすぎた。
 「君がこの街に居ると大変なことがある」って色んな理由を並べられた。「だから、この街を守るためにも、我が家――仏田に来てほしい」と大の大人に頭を下げられた。
 ついには、真相を確かめるべくなんでも知ってるあたしのおばあちゃんに問い詰めたら……全てを認められた。
 嘘を吐かないおばあちゃんが「お前は仏田の血を引いている子なんだよ」って、観念したように告白するもんだから……もう、燈雅さんの言葉に頷くしかなかった。

 とはいえ、あたしがお寺に滞在は二週間だけ。
 一生ここで過ごす気は毛頭ない。12月17日が小学校の終業式で、翌日18日から二週間……お正月の三が日が終わるまで、暫くこのお寺に居るようにというお話になっている。
 その二週間で「あたしが居たから大変なことになった」あの街一帯を『なんとかする』らしい。具体的に何をするかまでは知らないけど(説明されても一般人のあたしにはちんぷんかんぷんだった)、二週間だけでも寺に滞在してくれれば……みんなを救えるという。
 もしあたしがあのまま生まれ育ったあそこに住んでいたら、あの一帯は怨霊が溢れかえる死都に変わっていたかもしれないと言っていた。
 実感はわかない。怨霊なんて言われても、ピンと来ない。
 でもそれを聞いたお父さんやおばあちゃんは顔面蒼白になっていたから、二人は何か心当たりがあったんだろう。
 信憑性が増したならなおの事、あたしは二週間のお寺生活を迎え入れなきゃいけなくなった。

 嫌々に思われるかもしれないけど、ハッキリ言って、悪い気分じゃない。
 だってあたしは、お姫様らしい。まさか使用人一同が一斉に頭を下げて出迎えられるとは思ってなかったし、大きな洋館をあたしの為だけに用意したという部屋で過ごすことになるとも思わなかった。二日目にしてお手伝いさんの手で綺麗な衣装に着飾ってもらえるとも思わなかった。
 梓丸さんと一緒に洋館から離れまで歩く最中だって、もこもこでふわふわの上着を着させてもらえるとは思わなかった(お金の匂いがした。多分あたしが考えているよりゼロが一つ多い上着だろう)。
 やること為すこと世界が違うものばかり。少し窮屈かもしれないし、慣れないことが多くて戸惑ってしまうけど……嫌な気はしなかった。

 林の中の砂利道を歩き、庭園が見えてきたと思ったら小ぢんまりとした和風建築が顔を出す。
 小さな池に橋が掛かっていたり、きっと季節が違えば花が咲くと思われる庭園を通りながら入った小さなお屋敷に、燈雅さんは待っていてくれた。

 嫌な気分になれない一番の理由が、この人の存在のおかげでもある。
 あたしよりずっと年上の男性である彼は、あたしのことを妹のように、もしかしたら娘みたいに可愛がってくれていた。
 無理矢理あたしを攫うことだって出来たのに、何度も会いに来てくれて説得をしてくれた。ボディガードの人みたいに怖がらせることもしないで、ずっと穏やかに笑って、時に真剣に問題を判らせてくれた。
 あたしをずっと探していたんだ、求めていたんだと何度も言ってくれた。君が居れば君の家族が救えると、ろくに知らない筈のあたしの家族のことまで心配してくれた。
 ……あと、カッコイイ。しっとりと和服を自然に着こなしているところとか、綺麗に束ねている長い黒髪とか。白い肌とか。
 なにより顔が良い。実の兄達に似てるかと言われたらそうだと思うけど、庶民の兄達と比べ物にならないぐらい綺麗な人だった。
 ああ、そうだ、どうせあたしは面食いだよ。
 ていうか格好良くってお金持ちで優しくて誠実そうな男性に「君が必要なんだ」って連日言われてドキドキしない訳が無いって!
 熱く説得されるたびになんなのって逆ギレするぐらいヤバかったよ! 年が離れすぎてなかったらこれほどのチャンスは無いって思ったぐらいだったのに!
 でもそれって、普通の女の子なら当然だって!

「紫莉ちゃん。昨晩はよく眠れたかな?」
「うん。おはようございますっ、なのっ。朝の挨拶なのっ」
「ああ、そうだね、おはよう。寒い中わざわざ来てくれてありがとう。本当なら洋館に俺が行こうと思ったんだけど……」
「だめなの、燈雅さんはお体だいじだいじにしないといけないの。あたし、冬でもいっぱい元気だから平気なの。……今日は大丈夫なの?」
「平気だよ、ありがとう。……紫色の着物、凄く似合ってる。一番好きな色を着てくれて嬉しいよ」
「あ、もしかして燈雅さんが選んでくれたのっ!? 良かったのっ、嬉しいのっ」

 願わくば、『このかわいこぶった性格』が二週間のうちに剥がれ落ちませんように。

 12月初頭、突然やって来た王子様のような人に対して振る舞っていたこのキャラがいつまで続くか。
 ここに来る前に兄達に「キャラを作りすぎた。どうしよう」と相談したら、「自分で首を絞めてバカじゃね? 三日もてばいいんじゃねーの?」「……紫莉がやりやすい方がいいと思うよ……」と為にならないアドバイスを貰った。けど寺に来てからもこのキャラを続けている。
 燈雅さんやボディガードの人以外にもこの口調で話してしまって、わりと失敗したと思っていた。
 だって今から変えたら……二人だけでなく、少なくとも三十人ぐらいに幻滅されるということになるんだから。

 優しい燈雅さんはあたしを気遣って、色んな話をしてくれる。
 あたしも楽しくてついお話をした。余計にあたしが『天真爛漫で愛らしくお淑やかな、まさにお姫様みたいなキャラ』だと浸透していく。
 二週間ここで過ごす不安よりも、化けの皮が剥がれたときの不安の方が恐ろしかった。



 ――2005年12月26日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /4

 正直しんどい。
 三日でなく一週間も『お姫様キャラ』がもっただけ拍手してほしい。毎日柄が違う煌びやかな着物を着るのも悪くなかったけど、滞在二日目にはお家から七日は着回せる洋服を宅送してもらったのでセーターとズボンという庶民の洋服生活をしている。
 毎食出る食事も美味しくて高級なものだが次第にパターンが判ってきて、ついには「パンが食べたい……」「ジュースが飲みたい……できれば果汁が少ないやつ……」と思ってきてしまった。
 あたしを飽きさせないようにするために部屋にはテレビを置いてくれたし、欲しい物があったら何でも希望するようにと言われている。
 テレビはありがたいが、「漫画を買ってくれ」とかは口が裂けても言えない。住まわせて最高級の暮らしを提供してもらって身で我儘は言えるほど、あたしは図太い神経をしていなかった。

 何よりもあたしを苦しめたのは、拘束感だ。
 小学校最後の冬休みだというのにどこにも遊びに行けないということ。クラスメイトと遊ぶ約束もできず、そもそも見知らぬ土地で、山奥のお屋敷でじっとしていなきゃいけないってことが最悪だった。お小遣いを片手に何か好きな物を買いに行くこともできない。たとえ「何でも買っていい」と言われていても、あたしが自由に何かを買える訳ではないし。
 たった一週間にして、お城に閉じ込められたお姫様の苦痛を味わってしまった。
 まだあたしは我儘を聞いてもらえるからいいとして(自分からは言わないけど)、本物のお姫様だったらもっと苦しいんだろうな……と感じることのなかった苦悩を抱えてしまう。
 豪華なお城でのお姫様生活も悪くないって思ってたけど、城下町にお忍びに行きたいおてんば姫の気持ちが判らないでもない。
 「あと一週間だけ」と思えばなんとか乗り越えられるが、それでも地味な地獄を味わっていた。

 このお家の人があたしをお寺に呼んだのは、二週間のうちにあたしの住んでる街をなんとかするため……らしい。
 続報は無い。本当に何かをされているのか確かめる手段も無い。電話を掛けておばあちゃんに「街は平和になった?」と訊けばスッキリするんだろうか。……どうだろう。まず電話を借りることからしなきゃいけないな。

 自分用の洋室で、ふっかふかできらっきらな天蓋付きベッドに寝転がり、可愛いピンク色のふりふりの枕を足蹴にしながら……自堕落なポーズでテレビを観る。
 これがあたしに出来る唯一の時間の潰し方だった。
 もちろん窓は女性向けっぽい花柄カーテンで閉め切っている。抜かりはない。
 でも正直しんどい。

 夕飯の時間までもうちょっとあるなー、今はニュース番組ばっかだしつまんないなー、と思っていると、突然激しい扉のノック音がした。
 梓丸さんや男衾さんがするような静かで礼儀正しいものではない。ドンドンドン、ドンドンドンという無造作な叩き方にビックリしてしまう。
 あたしが何かと声を掛ける前に、扉の向こうで「あーけーてっ!」「あ〜そ〜ぼ〜」という男の子達の声がした。
 あたしと同い年ぐらいの男の子の声だ。扉越しにも愉快な人達だっていうのが判る声色に、おそるおそるドアを開くと……顔が二つ並んでいた。

「初めましてっ! 紫莉ちゃんっ、だよねっ!? おれ火刃里っ!」
「ぼくね〜、火刃里おにいちゃんの〜弟の〜尋夢っていうの〜」

 元気に大声で挨拶をする男の子と、のんびりゆったりと笑う男の子。
 身長はあたしよりちょっと上ぐらい。男の子とはよく遊んだけど(実家が剣道場で、近くに男子校があるせいか男の子と一緒に過ごす時間が多かった)、二人とも今まで出会った男子と違う印象を抱かせる。屈託のない笑みを全力でぶつけてくる、不思議な子達だった。

「あのねあのねおれねおれにねっ、燈雅様がねっ、紫莉ちゃんとお友達になってあげなさいって言ったのっ! だから友達になりにきたよーっ!」
「……燈雅さんが、なの? 貴方達、このお家の人なの?」
「そうだよ〜。ぼくたちね、ここで住んでるの〜。だからともだち〜なるよ〜。なろ〜?」

 とても燈雅さんらしい気遣いだなぁって思う。
 この一週間、お話すると言ったら燈雅さん以外の人とあまり話さなかった。正直話したくもなかった。
 あたしはとても大事なお姫様らしく、通りかかる人は全て頭を下げて、そのまま上げようとしない。一部の使用人でない限り、顔を上げること自体が不敬になるからだそうだ。
 使用人の方々とは最低限の会話をする。でも、『使用人として』『最低限の話しかしてくれない』人達とはどう足掻いても交流ができなかった。

 しかも、燈雅さんよりもっと年上の偉そうな男性達は……まるで値踏みをするようにあたしを見た。これもあたしが大事なお姫様だからだろう。
 一体あたしに何をさせたいのかは知らないけど、上から下まで舐め回すように見て笑うおじさんは何人もいた。
 それだけじゃなく、いくつか質問をしてきて、答えられないときたら「教養が無い」だの「品位が足りない」など堂々と口にするおじさんだっていた。
 ごく普通の公立小学校に通ってた女子に、何を求めているんだか!

 その窮屈さも豪遊の代償なのかもしれないけど、そんな男性達に対してあたしが相当不満な顔をしたからだろう。近くであたしが苛められる様子を見ていた燈雅さんが、きっと「せめて年の近い子達が遊び相手になってあげたら」と考えてくれたんだ。
 うんうん、あたしが同じ立場でもそのアイディアはするだろうな、妥当な判断だよと思っていると、のんびりした方の男の子ががっしりと手を掴んできた。
 ぐいっと部屋からあたしを引っこ抜く。体が小さいわりに力持ちな尋夢くんは、ぐいぐいと引っ張って洋館のエントランスへと連れて行こうとした。

「……ねえ、何で遊んでくれるの?」
「えっとねっ! そうだなーっ、ここは楽しくおれ達と初めて遊んでくれる君を歓迎して『冒険かくれんぼ』をしよっ!」
「……『冒険かくれんぼ』? 何それ、なの?」
「ルールはカンタンっ、かくれんぼだよっ! ただし、『一度も行ったこともない場所』に隠れなきゃいけないっ! 踏み入れていない未開の地へ冒険する旅人を称賛するゲームだよっ!」
「あのね〜、隠れやすい場所を見つけても〜入ったことがある部屋には入れないから〜隠れる場所が少なくてほんとにタイヘン〜だよ〜」

 それ、圧倒的にここを知らないあたしは隠れるところが多くて有利なんだけど。
 尚且つ、この境内に住んでいる彼らはあちこち行ったことがあるだろうし隠れる場所が見つからなくて相当不利だと思うんだけど。

「ビギナーズラックっ! だよっ! 初心者はどのゲームでも優しくあたたかく迎えられるべきなのだっ! じゃあ紫莉ちゃんは隠れてねっ!」
「おにいちゃん〜、どっちが鬼やる〜?」
「ジャンケンっ! ぐーっ!」
「……お兄ちゃんがぐーを出したからパー出すね〜」
「ちっくしょーおれが鬼かよーっ! 制限時間は三分っ! いーちっ! にーっ! さーんっ!」

 その場で目を瞑っていきなりカウントが始まった。
 気が早すぎるんじゃないの、そもそもあたしはまだ参加するとも言ってないし、小学六年生にもなってかくれんぼって……って言おうとすると、のんびり屋さんの尋夢くんがダッシュして廊下を駆け抜けていった。
 速かった。思わず「はぁっ!?」と驚いて地が出てしまうぐらいには。

 仕方なくあたしも廊下を駆けて、この一週間でまだ入ったことのない場所を探した。
 たくさんありすぎて、逆にどこに隠れるべきか迷ってしまうほどだ。だってあたしの部屋だと用意された洋室には、ワンルームマンションのようにお風呂やトイレもついている。ご飯さえ調達できればあそこから動かず過ごせる快適空間だ。
 食事を取りに離れへ移動することがあっても、それ以外は……燈雅さんに誘われて、日差しのある時間にお寺のお庭を優雅にお散歩するぐらい。山奥はあたしが知っている冬よりも寒くて、あまり外に出ようとは思えなかった。
 という訳で、手っ取り早く入ることができた食堂に隠れようとする。

 あたしぐらいしか使われていないと言われていた洋館にしては、人の匂いがする食堂だった。
 ここだけは定期的に使われていたのか、適度に調度品が乱れている。汚いってことでも、散らかっているってことでもない。ただ揃えられていない椅子やティーカップが置かれているから……きっとここには数人が出入りしているんだって判る程度。
 大きな棚や、椅子がいっぱい置かれている。隠れられるスペースは充分にあった。
 流石に人が入れる棚は無いかな、と適当に扉を開けてみる。ふわりと紅茶の葉の香りが鼻をくすぐった。良い香りだったけどくしゅんとクシャミをしてしまう。

「おーっ! 紫莉ちゃん見ーっけっ!」
「早っ!?」

 百八十秒もあれば隠れられると思いきや、真新しいものを発見したり隠れるのが可能か思考すればすぐに十秒や二十秒が経過してしまう。
 三分という時間は侮れない。こんなにも単純なルールで凄まじいハンデを与えられておきながら、隠れることすらできずに負けるのが悔しかった。

「も、もう一回! 隠れさせて! ……なのっ!」
「おっ、紫莉ちゃんヤル気満々だねっ!? 冒険かくれんぼの奥深さが判ってきたかなっ! でももう食堂は入っちゃったからここに隠れちゃダメだよっ! いーちっ! にーっ! さーんっ!」

 だからカウント開始自体が早いんだって。
 前振りも無くその場で目を閉じて数え始める火刃里くんから、走って逃げ出す。
 全力疾走。大股になって走ることすら一週間ぶりだった。この際、大人しいとか可憐とかお淑やかは無視することにした。



 ――2005年12月31日

 【     / Second /     /     /     】




 /5

 ――瑞貴くんの背中にこっそり付けた『発信機』は、何の反応も無い。
 彼は宴会の真ん中でお酒を飲んでいる。同僚の僧達と談話を楽しんでいた。爽やかな笑顔は変わらず、長い長い花を咲かせていた。

 その光景を遠くから眺める。あまりに変化が無いので、意識を遮断する。
 ふうっと息を吸って、ケホケホと咳き込んだ。だからここ……書物庫は、埃っぽいから嫌いだ。絵本や漫画は好きだけど、難しい字の羅列ばかりの本が並ぶ書物庫はできる限り近づきたくはなかった。
 志朗お兄ちゃんもカスミちゃんも気持ちは同じで、僕らが書物庫に用があると言ったらかくれんぼか、「本を片付けてきなさい」という言いつけを守るときぐらいだった。仏田寺に住まう魔術師達は頻繁に訪れるらしいけど、熱心に勉強なんてする気の無かった僕達には遊び部屋の一つぐらいにしか考えていなかった。
 大人になって、改めてここを見てみると壮絶なラインナップ。
 自分の家以外の魔術結社や外の退魔組織にお世話になるようになって、何気なく棚に並べられている本が重要なものだって思い知らされた。外では数千万円はすると言われた魔導書も、うちに戻ってみれば棚に入れられることもなく無造作に積み上げられていたりする。僕がなんとなしに寄りかかって崩した本の山の中に、持ち出し厳禁と言われたとんでもないレアな本があった。
 これ、僕の記憶が確かなら「喉から手を出したい研究者が山ほどいるのよ」ってムツ子が言っていた本だよなぁ。でもってこの表紙のシミ、誰かの涎の痕だよなぁ。
 悪い商売が次々と思いつく。使っていなくて、誰かに枕にされるぐらいだったら……というところで首をぶんぶんと振った。
 泥棒さんをしたくて僕は書物庫に来たんじゃないんだよ。魔導書じゃなくて、僕は違う記録を読みたかったんだ。意を決して埃臭い奥へと入って行った。

 書物庫にあるのは魔術の本だけじゃない。魔道具の研究レポートや、異端や人外種族について記したもの、退魔に出た僕達の記録もきちんと保管されていた。
 記録は殆ど手書き。昔のものになればなるほど達筆で読みづらい。たった一行『今日は良い天気だった』という中身の無い記録でも読み上げるのに数分かかってしまう。

 何かしら資料をあされば怪しいものが見つかる。そう思ったけど、これは無理だ。たった三十分で諦めようとする。
 だってこの書物庫、物凄く広い。僕の住んでいるワンルームの宿舎の何倍あるんだ。十倍? そして地下に続く梯子もあるぐらいだから何階分?
 一メートルも無い道幅の両脇に本棚が並び、天井まで書物がびっしりと詰まっている場所だ。時には無造作に高く積まれた紙がどっさりと。書物庫というより物置場という言葉がしっくりくるこの部屋の全ての記録をあらうなんて、何十年かかるか判らなかった。

 ちなみに今日が書物庫を調べようとした初日じゃない。9月1日からこつこつと仏田寺に帰省していたのは、ここを少しずつ解読するためでもあった。
 暇があれば書物庫に顔を出した。利用する僧やお手伝いの女中さん達に「勉強熱心ですね」と褒められながら、何度も足を運んだ。
 でも訪れるたびに三十分で「ここは無理だ。漁っても何も出てこない」と諦めてしまう。
 そして出るたびに、「あそこには何か秘密があるかも」とも思い直す。
 だって……レアなお宝がごろごろと眠っている場所なんだ。怪しい物や、あっちゃいけない物があったとしてもおかしくなかった。

 それに、――僕の見つけたいものがどこにも何も手掛かりが見当たらないからここについ逃げ込んでしまった。
 外の組織に顔を出しても、誰かを頼って尋ねてみても、『12月31日に寺が燃えた理由』なんて判らないから。
 お宝が眠っていると判っていながら調べが進まない書物庫ぐらいしか、僕にとって有益なものは見つからないと思ってしまった。

 宴会場で、色んな人に話しかけている瑞貴くんの姿を見ていたけど……社交的な彼らしく、大勢に話し掛けて酒を注いでいる彼に殺意を感じ取ることができない。
 この調子で放火をするって、どういうことだ? ……思い出した『赤い世界』で、彼が志朗お兄ちゃんを焼き殺した姿を見た。勘違いだったかもしれない。だって何の前触れすら嗅ぎつけることができないんだから。

「僕の探し方が悪いんとは思うんだけどさ」

 凍える手を擦り合わせながら、適当な本棚に寄りかかって声を掛ける。
 書物庫に暖房器具は無い。居住区である本家屋敷ではなく、研究棟である工房の端っこにあるここは、冬に利用してはいけないって張り紙を貼って注意喚起しないといけないぐらい危険な寒さだった。
 一応お屋敷の中だっていうのに吐く息が白い。出来る限り暖かい格好をしてきたつもりだったのに、先日雨も降って降雪の確率もある12月31日には太刀打ちできなかった。ページを捲る指がかじかむ。内容を読み込もうという心より、早くここから出てしまいたいという気持ちの方が勝る。それが良くない。

「僕は一体、何をしてきた?」

 今日という核心的な日なら何か起きるかと思っていたけど、ここはただお宝が眠っているだけの寒い場所に過ぎなかった。
 書物庫は入口部分しか灯りが無い。だから夜になるとランプを持参して、暗闇の中で灯りを片手に本を探す。
 そんな真っ暗の中で腰を下ろし、手を合わせてハァーっと息を吐きつけた。ついつい縮こまりる。そうしゃがみ込む僕の目の前に立つ……ゴシックロリータ服の小さな女の子は、寒がる素振りを一切見せずに僕を見下ろしていた。

「新座は、仏田一族に恨みを持つ連中を調べてきた。インターネットで調べた、情報屋を雇って調べた、知り合いのエージェントを作っては噂を集めた」

 うん。彼女の言う通り。三ヶ月の中でよくやったと思う。

「結果は、該当する組織や個人が多すぎて絞り込めなかったわね」

 それだ。悟司さんがいつか話していた通り、老舗故のコネクションの広さがアダとなった。
 島国の日本では五十年続けばよく出来た商売だって称賛される。そして商売敵はどんどん増えていく。その中で、僕の家は千年の歴史を刻んでいた。たった一人の名前を知っているだけでそれが縁だと言って恨みにカウントするなら、僕らは日本中の半数から何かしらの感情を向けられていることになる。……そんな、途方もない数を相手にすることになってしまった。

 具体的な名前を見つけることはできた。仏田一族に退魔の仕事を奪われた同じ退魔業の一族がいる。何十件も。仏田寺にお葬式をあげられて仕事を奪われた同じお寺さんがいる。何十件も。そんな些細なことを挙げていったらキリがなかった。
 それに僕らは、武力を持っている。異能力を掲げて誰かと戦ったことだってあったし、勝利したこともある。それは僕らの正義のもとに争った結果の正当な勝利。そこから恨みが発生することだってある。
 怨霊という負の塊を相手にしているんだから、更なる負をぶつけられてもおかしくない。
 ……緋馬くんが入院したときのことを思い出す。
 カスミちゃんと病院で女性の怨霊と対決した。緋馬くんと寄居くんが倒した異端犯罪者の男と縁があった女性に、逆恨みされて襲われたんだ。異端犯罪者をとっちめたことに後悔は無い。誰かを救うために、僕達が手を上げただけ。なのにその女性の怨霊は、僕らを絶対悪だと信じて緋馬くんを殺そうと病院にやって来たんだから……。
 そのケースは、一つや二つで片付けられない。
 僕らは少なくても百人いる。なら百件の恨みが向けられていると考えたっていい。
 中から正解を絞り込むには、どうしたらいいのか。

 この四ヶ月間、探偵さんを三人ほど雇って判ったことがある。……探偵さんって一件の調査に対して半年から一年かけるんだって。
 内容による。浮気調査もワンちゃん探しも失踪人捜索も、依頼人のご要望にあわせた期間で調査計画を練るんだって聞いたけど、決まってみんな『三ヶ月は短すぎますよ』って文句をくれた。
 それでも12月までで百件の名前を挙げてくれたんだから、探偵を名乗っている人達なだけある。だが決定的な犯行に及ぶ一人に絞り込むまでは、至らなかった。

「難しいね。『大晦日に火を放つ人』なんて、どうやったら見つかるんだろう」

 やっぱり僕の探し方が悪いとは思う。
 けど、他に何があったか。
 ふうっと白い溜息を吐いて、その場で胡坐をかいた。そうして何も考えずに近くにある本を手に取ってみる。
 『人形師』『ホムンクルス生成』『至高の傀儡』『記憶と魂と心』。……誰かゴーレム作りでも励んでいたのだろうか。柳翠さんに弟子入りしたら手っ取り早く教えてくれそうな分野が転がっていた。
 いや、柳翠さんに弟子入りできるような子なんていないか。あの人、日本語がとっても難しいし。使用人の匠太郎さんですら読解不可能なときがあるっていうぐらいだ。だからこうやって一から書物をあらって勉強する人がいるのか。……もしかしたら柳翠さんが調べてここに戻したとか? そういう考えもあるか。

「諦めるの?」

 僕が投げやりに書物をぱらぱらと見ていた(読んでいた、じゃない)せいか。目の前に立つ小さな彼女は、落胆したかのような声で尋ねてくる。
 そうだよと肯定はしない。でも、違うよと否定することもできなかった。

 ――12月31日。時刻は日付が変わる頃に近い夜。
 今のところ変な予兆は無い。そもそも『前回』だって予兆なんてものがあったか判らない。
 これでも一応周囲を警戒していた。僕が30日に帰省したのは『本部』とそういうお約束をしたからではなく、境内に色々と設置するためでもあった。何か異常があれば僕に知らせるような小さな魔道具(見た目は1ミリ大のビーズ。廊下中に落としておいた)を各地に仕掛けている。
 ビーズの温度が急激に上がれば僕の衣服に編み込んだ同じ色のビーズが熱く燃えるようにしてある。不自然な炎が上がればそれで気付く筈だ。
 今のところ急激な温度の上昇は……洋館前でしか発生していない。何だと思って調べて見たら、子供達数人(具体的に誰かまで判らなかった)が焼き芋を食べようと火を起こしていた。僕が駆け寄ろうかと考えていたら、急に水をかけられた。きっと駆けつけた大人の誰かが焚き火を消したんだろう。

 仕掛けはちゃんと作動している。火事があればすぐに判る筈。

「はあ。寒いね。ここなら些細な熱でも気付けると思ったけど」

 携帯電話を開く。そこにはちゃんと電波が最低一本立っていた。ここは境内の端っこではあるけど圏外ではない。だからすぐに誰かに電話をすることだってできる。
 これでも準備はしているんだ。僕の出来る限りは。
 昨日一瞬解除されかけていた結界も、すぐに僕が大山さんに連絡して通常道りの機能に戻してもらった。なんでも昨日の結界の乱れは年末年始大掃除特有のもので、乱れている最中も警戒を強めていたから問題は無かったんだよのこと。慌てる様子も無かった大山さんを見ると本当に警戒をしていたのが判るので一安心している。

「もう何時だろ」

 腕時計で時間を確認する。
 薄暗いランプの中で指し示す針は、十一時。二十三時近くになっていた。

「……志朗お兄ちゃん。お酒飲んで潰れてないかな」

 宴会だから飲もうという誘いを断って、ここに居る。
 大広間。並べられた長机中に広がるご馳走。いつも慌てているように寺を闊歩する何十人もの人達が、同じ座布団の上で盃を交わす空間。
 僕だってさっき藤春さんの乾杯を楽しんだ。一口目の料理は美味しかった。最初の数分は一緒に食事をした。でも「今夜中に読みたい本があるんだ!」と『いつもの気紛れ』っぽく我儘を言って、宴会場から離れてきた。
 その場に志朗お兄ちゃんをおいて。
 ……多分、あそこに居た方が安全だろう。大勢が居るんだから、何か一大事があったら一目散に逃げられる筈だ。

「お酒を飲んで潰れたのは、新座の方でしょう?」
「むぐ。僕、お酒弱いもん。大好きだけど」

 『前回』のことを思い出そう。思い出しづらいけど思い出してみよう。

 僕はあたたかい年越し蕎麦が食べたくて、銀之助さんに新しいお汁をお願いしようと席を立った。そしたら女中長の豊島園さんが「新座様は席でお待ちください」と止めてきた。言い分としては、厨房へは誰も入ってほしくないからだそうだ。
 うん、そりゃあ銀之助さんならそう言う。今までの僕にだって「勝手に来るな」と言ってたぐらいだ、部外者になった僕なんて近寄ってほしくもないことぐらい察せる。
 じゃあ豊島園さんがお汁のこと伝えに行ってよとお願いすると、かしこまりましたと去って行く彼女。その間は熱燗で過ごすといいですよと違う女中さんの言葉に何杯も飲まされた。
 先ほども言ったけど、僕はお酒は好きだけど強い訳じゃない。何杯も注がれたら倒れちゃう。なかなかお蕎麦のお汁は来なくて、いくら待っても来るのはおかわりのお酒だけ。
 ついにはお酒だけでお腹いっぱいにしてしまって、志朗お兄ちゃんに怒られて宴会場を離れることにした。
 ……12月31日のことはなかなか思い出せないって言われたけど、結構克明に覚えているじゃないか。
 一つを思い出すと、次から次へと芋づる式に記憶が掘り起こされていく。
 志朗お兄ちゃんもあたたかいお蕎麦が食べたかったらしい。でも僕みたいにお酒を注がれることがなかったので、ただただ酔っていく僕を見ているだけだった。
 意識がはっきりした志朗お兄ちゃんに連れられて、鶴瀬くんが用意したと思われる僕らの部屋に戻って行った。それから先は……二人の時間を過ごして……いっぱい堪能して……赤。

 赤。
 黒。紫。肉色。艶色。美色。熱。他人の肌。臓物。動物の体毛。微かな酸の匂い。
 広がる肉と肉と肉。挟まる鎖の銀色。天井から伸びた拘束。再生した体をまた壊す肉。地獄の中の赤い男。

「誰だ」

 立ち上がる。
 思い出す。
 消えていたものが蘇る。
 虚空に問い掛け、自分を問い質す。

「誰だ」

 一瞬の激痛に襲われたあのとき。
 視えたのは赤。
 襲い掛かる無数の負の感情。痛い。苦しい。気持ち悪い。辛い。嫌だ。やめろ。助けて。
 助けて。助けろ。助けてくれ。
 助けてほしい。助けてほしい。助けてほしい。
 赤い肉の中で、赤い彼は全身を拘束された鎖の中で塞がれた喉の奥で何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も助けを呼んで、その声無き声は宙を舞って遠い遠い僕の元へ……。

「あれは、誰だ」
「よく気付いたな、新座くん。君は意外と繊細な子らしい」
「……えっ?」

 ここより未来、もう無くなってしまった12月31日のあの日に向かって問い掛けているつもりだった。
 その声が遠くの自分ではなく、近くの小さな彼女でもなく、書物庫の入口に居る……眼鏡の男性に届いてしまうなんて、思ってもみなかった。
 たった一つしかない書物庫の出入口に立つ高身長の彼……悟司さんは、溜息を吐きながら奥へと声を掛けてくる。

「えっ、あ……さ、悟司さん? どうしたの、こんな所に」
「どうしたのじゃない。君こそこんな所でどうした。俺は、君を探しに来た」
「どうして?」
「君がいないと慌てて困る子がいる。……志朗くんが探していたぞ。それを手伝っていたに過ぎない」

 寂しがり屋の志朗お兄ちゃんが僕を探して宴会を出たらしい。その際に悟司さんや、他の僧達大勢に声を掛けたそうだ。
 「新座は本を読むって言ってたんですが、どこに居るか検討はつきますか?」と。
 僕が大広間を出て数時間が経つから探していたという、志朗お兄ちゃんとしてみれば至極真っ当な行動だった。一人で探さずまずは誰かに尋ねるっていうのも志朗お兄ちゃんらしい。一人で何でもできる人だけど、一人で効率が悪いと思ったら手段を変えるってところが特に。
 誰かを頼ってすぐに解決。そうできれば、僕もどんなにいいか。

「むぐ……ごめんね、悟司さん。もう戻るよ。そうだな、何かあったかい物を頂いてから寝るね」
「俺の質問は答えてくれんのか。君は書物庫で、何をしていたんだ」
「何って、読書だよ。……でもこんなに寒いとは思わなかった。正直に言うと失敗だったって思っている。どうしても読みたい本があったから帰省している今のうちにって思ったんだけど、今日するべきじゃなかったね。むぐー」

 読みたかった本と言って、さっき適当に手に取った本を指差した。
 ろくに読んじゃないけど、信憑性のあることを言っておかないと悟司さんにあれこれ追及されちゃう。迷惑を掛けたくてこそこそしてたんじゃないんだ。心配しないでほしいというのを全面に押し出して、何でも無さそうにその場を去ろうとする。

「大晦日に火を放つ人を探しているのか? だから変な魔道具を設置してたのか?」

 入口に立つ背の高い悟司さんの横を通り過ぎようとするが、狭い出入口の前から彼は退かない。
 なんでそれを、という顔をしてしまった。
 何てことはない。僕と彼女の会話(龍の聖剣の声が聞こえない悟司にとっては、僕の独り言)を聞いた一部分を復唱したに過ぎなかった。
 薄暗がりの中、彼のを見つめ直すと彼は何かを見せつける。
 親指と人差し指の間に、一ミリほどの光。僕が昨日のうちにこっそり撒いた銀色のビーズだった。
 たった一つの粒の魔力は消滅している。魔力を込めてあるから僕の衣服と反応する仕様なのに、電池が切れている状態ではただの飾りに戻ってしまっていた。

「悟司さんは……思い当たるの、そんな物騒なことをするような人?」

 木の廊下の隙間に落ちてるビーズなんてよく見つけたねと、素直に(変に勘ぐってほしくないし)白状する。すると「男衾が発見して報告してくれた。新座くんが撒いた五分後にな」と淡々と答えられた。
 目の悪い悟司さんにしてはよくやるなと思ったけど、良い仕事をしたのは男衾くんか。流石と言うべきか。

「そんなの居たら速攻撃って排除してる。ただ君が物騒な人を探しているのは知っていた」
「……そうなの?」
「君自身が俺に尋ねてきたんじゃないか。仏田に恨みを持っている奴はいないかって。9月6日のことだ。忘れもしないぞ。あれで俺の『仕事』の予定が大きく狂ったんだからな」
「むぐぐ、凄く今の声、怖かったよ」
「あの後に親父……狭山様に青筋を立てられたからな。時間通りに事を進めないとは何事かと。あまりに腹が立ったから、君のしていることを調べさせてもらった」
「えっと」
「西澤。佐々木。青柳」

 背筋にざわっと涼しい風が駆け抜けていく。
 書物庫は寒いが、出入口は一つしかないから外から風が吹き込んでくることはない。全体的に寒気に満たされてはいるけど、僕の首元目がけて冷気がやって来ることなんて無理な話。
 だからこの寒気は間違いなく悟司さんの一言によるもの。その三つの名前は、僕を凍らせる力を持っていた。

「情報収集が苦手だから、長けた探偵を雇う。そのやり方は間違いではない。誇っていいぞ。だがな、隠れてするならもっと優秀な人材を探す情報収集に力を入れないとな」

 ……悟司さんいわく、仏田一族の調査をしている人物がいた。しかも三人も。
 それぞれに面識は無かったが、突き詰めたら三人ともとある一人に辿り着いた。彼は淡々と語る。
 何かしたの、という問い掛けに対し、「何もしてない。ただ『お願い』して喋ってもらっただけだ」と何事も無さげに答える涼しい声の彼。……眼鏡の奥の目は光っていた。僕の知らない輝きを放っていて、余計体が寒くなっていった。

「新座くんは、何も害を為していない。仏田一族に対する調査をしていただけ。君が仏田一族に対して危害を加えるようなことはしていない。その意思も見せていない。……そう俺は狭山様に報告している」

 狭山さんに報告、しているんだ。
 そこで悟司さんだけで握り潰しておいてくれないのが、真面目な彼らしいと言える。ちょっと期待したけど残念だ。

「だがな、時期が悪い。君が昔のように邑妃様の秘書として『本部』の近くにいてくれれば、探偵を使って裏を探ろうとすることもちょっとした悪戯程度で済んだよ。資金繰りや表立っていない研究を知りたいという動きも、君自身の研究の為だと言い張れば、提出される成果でいくらでも挽回できるからな」

 たとえ奇抜な内容でも成果が見込めれば『本部』は許容する。
 いくら被害が大きくても、それを上回る実績を得られるのなら多少のオイタだって堂々と目を瞑る……。それは、瑞貴や寄居の件で近年も実証されている。そう、重い口ぶりで彼は続けた。

「でも、君は自らの足で仏田を出て行った。光緑様の意思に反して、和光様の意向に逆らって。出て行った先は友好関係である『教会』とはいえ、別の組織に身を置いて、その上で仏田の探りを入れている。……『本部』に、外の組織へ仏田の情報を売っていると思われても、仕方ない」
「そんなことはしてないよ」
「俺はそう思っている。たとえ『本部』が大事な当主の三男を庇おうとしても、俺は一度そう思ってしまったら拭えない。君はなんてことをしてしまったんだ」

 かつて悪さをした僕やカスミちゃんを叱りつける年長者のような、低い声。
 言いながら、彼は眼鏡を外す。
 そんなことしたら近眼の彼は何も出来なくなるんじゃ、と心配して彼の顔色を見ようとしたとき。
 突如、吐き気がこみ上げた。

 ががががが、という、強烈な吐き気が。

 すぐに彼から視線を外す。僕の真横に立っている可憐な彼女の方へと。悟司さんを見ないようにするために。
 でも遅かった。口を抑えて必死に堪えるが、ぐつぐつと沸騰した胃液は喉を逆流していく。
 目の前が真っ暗に、真っ白に、真っ赤にチカチカと危険な色へと次々染まった。
 悟司さんの目を見た途端、この吐き気。
 頭に一撃、槍を受けたような衝撃。
 脱力。足がガタガタと震え出して、その場に座り込んでしまった。その拍子で口を抑えていた手が離れ、指の隙間から汚物が溢れ出した。

「ああ、本は汚してくれるなよ、新座くん。俺達にとってはただのゴミでも、世間一般にとっては大変価値のある物も紛れている」

 ボタボタと嘔吐物を垂れ流す僕を、再び眼鏡を掛け直しながら見つめる彼。
 隣で立つ彼女だって(何も言わないけど)心配そうな顔をしてくれるっていうのに、悟司さんは平気な顔をしてぜえぜえと息を吐く僕を眺めている。僕の異常事態なんて想定内だと言うかのような目で。

「さて。話してもらおうか、新座くん。『どうしてそんなことをした』? 俺を納得させてくれれば何もしない」

 何かした後だっていうのに何を言ってるんだ。
 文句を言おうとするが息が続かない。手で抑えなければ、体の中に入っていたもの全てが口から飛び出してしまいそうだった。
 これは、『声』を聞いたときの苦しさとは違う。あの瞬間も苦しくて吐いちゃうけど、違う苦痛。それだけじゃなく……。

「誰かが、火をつけるんだ」

 息が続かないっていうのに『勝手に口が喋る』っていうのも、今までになかったことだった。
 呼吸が間に合わなくて苦しい。喉の奥からまた何かが出てきそうな悪寒がする。今度は内臓が出てくるかもしれないっていうぐらい体内がぐつぐつとしているのに、反して勝手に言葉が形成されていった。

「新座くん、その誰かとは誰だ?」
「知らないよ、でも、志朗お兄ちゃんを殺す、みんな殺す、やだ、そんなの、だから」

 だから、探さなきゃ、この日の、何かを。

 僕の意思とは関係無く、僕の声が飛び出していく。
 胃液とともに、僕の中に隠されていたものが次々と放出されていった。



 ――2005年12月31日

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 /6

 幼い頃から声や音を聞いていた。
 自分にしか聞こえない、他の人には聞こえない声や音。他人の感情。そこら中の心が僕へと流れてきて、心に溶かしていく。
 僕自身は何も感情を持たないのに空から「死んでくれ」という心が流れ込んでくる。その時間が苦痛だった。僕の意思が塗り潰されていくようで、見知らぬ殺意にまみれてしまいそうなのがとっても怖かった。
 死んでくれっていう心は極端な例だ。でもお腹を空かせてないのに「お腹が空いた」という声が聞こえてくるときもあった。些細な声でも他人の心が無断に僕を犯していく。恐ろしかった。耳を塞いでも聞こえてくる声がうるさくて、嫌で嫌で、外に出られなかった。

 小学校は休みがちになったけど、志朗お兄ちゃん達と同じ所に居たかったからなるべく通うようにした。
 中学生の頃は体調を崩すことが多くて、中学三年生の頃は二週間休んでは二日か三日学校に行くという生活を繰り返していた。
 大山さん曰く「思春期の感情は大きく揺れ動く。負の感情が行き交う場所なんだから、中学校に行くこと自体が心を受け取る君には毒の沼を歩くようなものだ」とのこと。
 確かに校内の空気は歪んで見えた。色んな悩みを抱えた子が多かったし、彼らの繊細な心を受け取るたびに吐き気を催して常に保健室に運ばれていた。
 そんなもんだから優しかったクラスメイト達も気を遣い過ぎて僕に近寄らなくなったし(嫌われた訳じゃないから、余計にこの身が恨めしかった)、教師側も手のかかる病弱な子を世話するのは億劫そうだった。
 だから志朗お兄ちゃんが高校に進学しても、僕はお寺でお母さん達のお手伝いをする道を選んだ。
 不特定多数の大勢に囲まれてたくさんの声を聞くより、百人程度の見知った人達に囲まれていた方がまだ気が楽だったからだ。

 判りやすく、絶望していたんだ。
 ああ、僕って外に出られない子なんだなぁって。何人もの人達が繰り返し口にしていた「新座は柳翠さんみたいになる」「地下に篭って出てこない人になる」っていうのが現実になろうとしていた。
 気心知れたカスミちゃん達兄弟も、外の世界に出てしまってもういない。
 周囲の人々は優しくしてくれる。女中も僧も、みんな僕を大事に大事に扱ってくれる。とても嬉しかったけど、同時に窮屈さだって感じていた。
 「新座様の感応力は随一のものだから」「柳翠様ほどの力の持ち主だから」「大事な当主の大事な息子様だから」
 などという閉塞感を拭いたくて志朗お兄ちゃんと一緒に学校に通いたかった。女の子達の華やかな会話に混ぜてもらいたかった。同性のクラスメイトだってもっと仲良くしてほしかった。
 けどどんなに僕が好きだとしても、僕の体はそれを良しとしない。
 僕はどんどん嫌な子になりそうだった。
 好きなこともできない。なんて嫌な人生だ。苦しい毒ばかりを吸って喘いでもがいて生きて……こんな人生、失くしてしまった方が……。

 自分で自分を殺めてしまおうと思うことも、思春期の中ではあった。

 ぼんやりも今日も中学校に行けず、屋敷の廊下で何をするでもなく、何かをする気も起きずに足を伸ばして考える。
 このままでいいのかと。これ以上何ができるかと。できないならどうするべきかと。
 懸命に考えても自分の中に生じる結論は無い。
 運が悪いと他人の心を受け取って、苦しむ。
 今日もまた、誰かの負の感情を抱いて僕は、泣く。
 僕には全然悲しくないのに、誰かの悲しさを受け取ってしまって、泣く。
 やめたい。こんな耳いらない。こんな体いらない。こんな心臓いらない。こんな血いらない。
 次々に嫌なものばかりを受け取って山奥の空を見て、ぼやいて、苦しんで。
 そしてまた音を聞く。

 頭を抱えて泣いていると、その日は珍しく……不思議な音が入り込んできた。

 不快な音ではない。心を塗り潰す何者かの心でもない。でも確かに誰かの感情が乗せられたその音は、懐かしい場所から流れてきた。
 導かれるようにしてその音を辿る。境内にある本家屋敷の一番端っこ。そこにある物置。
 そこには、とある男性がピアノを弾いていた。
 初めて会ったときと同じ、あのピアノとの再会だった。

 突然だが僕はピアノを弾くことが好きだ。
 とある男性によって教えてもらった特技を小学校で披露したら、女の子に黄色い歓声を上げられたから。
 女の子は好きだったし、照れくさいけど話をしたいという欲望はそれなりにあった。
 顔の造形が整っていたし(「そういうのは思っても言うな」とカスミちゃんによく叱られた)、女の子の話題の中に入りたかった。でも彼女達がカッコイイと思える男子にありがちなスポーツが得意な子にはなれなかったし、数える程度しか通学できなかった僕は勉強もあまりできない。
 けど「男の子なのにピアノが弾けるんだ?」と驚かれることが多かった。
 有名な音楽家やピアニストって男性も多いのに、ピアノのお稽古事をしているのは女子ばっかだったから彼女達の中に入っていくことができた。
 専門的にするつもりない。部活動で磨こうとも思わなかった(休みがちだから迷惑も掛けたくなかったし)。たまに学校に来て、ピアノを弾いて、スゴイねって拍手されて帰るぐらいの地位がちょうど良い。
 昔からそう持て囃されるのが大好きな狸だった。

 どうして僕がピアノを弾けるようになったのは、『彼』に教わってもらっていたからだ。
 彼というのは仏田の契約者ではなく協力者の男性。『教会』のエージェントの一人として色々と合同任務を受け持って寺に訪れていた客人。着物じゃない、ごく普通の洋服姿で、明るい髪をした男性だった。
 『教会』という退魔組織について当時の僕は「お母さんの生まれたお家だ」とか「鶴瀬くんのお家がやってるお仕事だ」程度にしか考えてなかった。彼が僕の家に招かれるほど優秀で信頼されていた人物なんて知らない。ときどき僕の家にやって来てはお菓子をくれたり、何故か物置にあるピアノを誰かに聞かせていたりする人。それ以上の知識は無かった。

 彼がいた。ピアノの音に導かれて物置にやってみたら、その彼が。
 初めて会ったときと変わらず、ピアノを誰かに聞かせている彼。突然現れた僕に対して奏者の彼は振り返り、「久しぶりだな」と僕に薄く微笑む。
 ならこちらも挨拶をと思った途端、先に彼は、

「随分やつれた。死にそうな顔をしやがって、デブのくせに」

 と、キツい一撃を食らわせてきた。
 なんでいきなり罵られたかっていったら……そりゃあ、学校に行かずにお家で食べて寝てを繰り返していたから。
 学校に行くだけで数時間かかる僕の家。お家から出ないのが一番だとみんなが僕を止める生活。
 なのにすぐに演奏を止めて僕の元に駆けつけてくれるんだから、この人は。
 土産のケーキがあるから食べろとか、食べろと言われなくてもオマエは勝手に食うだろうがとか、どうせ食べなくても太るんだから食べて太ってでかくなれとか。
 乱暴なのに優しい声。彼から貰える音は僕に突き刺さる。嫌な言葉も、心配する声も、平等に僕へと突き刺さって……。
 自分の中で貯めるだけだった涙は、彼が突き刺したところからぼろぼろと零れ出していく。
 彼は汚泥を吐き出させてくれる貴重な存在だった。

 結局お土産の苺のショートケーキを食べさせてもらって、頬張りながらぐしゃぐしゃに泣いて今のことを話した。
 ――絶望していること、未来を見出せないこと。
 ――もっとピアノを弾きに行きたかった。みんなに褒められたかった。
 ――学校の勉強なんて追いつける訳がない。僕を見てもらう機会が失わていく。
 そんな愚痴をずっと聞いてもらっただけ。そして彼も、吐き出す僕の言葉を一問一句逃がさず聞いてくれただけ。
 それだけだ。特別何か相談に乗ってくれやしない。
 大きな一言を言われることもなく、久々に再会した外の男性に思いっきり喚くだけで時間は過ぎていく。
 正直に言えば、何かを期待して彼に心情を暴露した。
 滅多に会わない外の人間だから、僕に何か大きな影響を与えてくれれば……僕を変えてくれる一言が貰えれば……中の人が救ってくれない僕を助けてくれるなら……それを強く期待していた。
 だというのに、

「……新座は素直な子だな」

 ピアノの前、椅子に腰掛けている彼は……生クリームで口の周りを汚しながらびーびー泣く僕をただ見て、

「オレのピアノが好きだから弾いてくれていたんじゃないのか。音楽が楽しいからじゃないのか。ただオマエが人から良く見られたいから、か。よくそれを口にできたな」

 と感心しただけ。

「ひっく、えっぐ、むぐっ、なんで……なんで、貴方は、僕を慰めてくれないの?」
「……はあ? 新座を慰める仕事の人間は、この寺にいくらでもいるだろ。オレがしなくてもいいぐらいに」
「……うぇっぐ、びえ、ひか、るさんは、冷たい、ヒトだあ」
「よく口にしてくれた。オレを怒らせる覚悟で言えたなら大したもんだ。……その素直さは、オマエの武器になる」
「むぐぅ……?」

 宥めてくれる大勢が多い中で、突き放すような言葉を繰り出す彼は……誰よりも僕の中に突き刺す言葉を持っている人だった。

「何か新座がやりたいように生きろ。簡潔に言えば、悩みぐらい自分で解決しろってことだ」

 彼は、誰もがしたくてもできないことを真正面から言ってくる。
 ……その言葉にショックを受けたか感動したかは、いまいち思い出せない。ポカンとしてしまったことは確かだ。
 突き放された。そうと思った矢先、「どんな声があろうと、どんな声に塗り潰されようと、それが自分の声ならオマエの思うがままにいればいい」なんていう後押しも付くもんだから、涙を流していいのかも引っ込めるべきなんだかよく判らなかった。

「そのケーキ、うまいか」
「……むぐ。おいしいよ。僕、ケーキ、大好きだよ……」
「うまいな。オマエはうまいと思った。でもそれはまずいものだ」
「むぐ?」
「まずいものだ。まずいものだ。まずいものだ」
「……え、え、え……?」
「オレはまずいものだって言ったぞ。……これでオマエの心は塗り潰されたんだな。本当か? 人の声で翻弄されて、うまかった記憶をまずい事実に捩じ曲げちまうのか。……違うだろ。惑わされるなよ。自信を持てよ。新座自身がうまいって思ったんだ、そう思った自分を信じて大好きなままでいてやれよ」

 ――昔のことを思い出す夢を見た。

 好きだったケーキのことをもっと好きになった。特技だったピアノをもっと自分のものにしたくなった。高校進学を諦めても外界への憧れは消さずに胸の奥へしまっておいた……キッカケになったあの日の記憶。
 自分が我儘という自覚はある。昔から身勝手だと思っていたけど、「そうあれ」と薦めてくれた人もいたんだという記憶。
 ――惑わされるなよ。
 ――自信を持てよ。
 ――新座自身がうまいって思ったんだ、そう思った自分を信じて大好きなままでいてやれよ。
 自分がやりたいようにしろというエゴイスティックな主張。でもそれこそが失いかけていた自分を取り戻して「生きよう」と思える引き金になってくれた。

 だから僕は、当主になりたくなかったからお家から逃げた。
 喧嘩別れで家と疎遠になりたくなかったから、大勢を使ってでも元へ戻れる位置にこじつけた。
 死なせたくなかったから、不可思議な現象に見舞われても違和感を殺して時を越えた。
 そう思った自分を信じて、大好きなままで動かなければ……どれも達成できずに終わっていた。文字通り、僕の人生は終わっていたことになる。
 悔いは、無い。

 現在苦しんでいるのは、自分がこうしなきゃ、これが一番良いと思って動いた先にある報酬のようなもの。
 ぐるぐると喉の奥が鳴っていても。胸の中が掻き乱されていても。眩暈がして寝かされた布団の上から立ち上がれなくても。格好良く言ってしまえば「自分の信じた道を突き進んだ結果」なのだから噛み締める他ない。

 では、現状を確認しよう。
 自分が陥るべくして陥った今とは何か。
 僕は暖かい布団の上で天井を見ている。電気は三段階のうち中ぐらいの明るさ。外は暗い。つまり夜。
 ここはどこだ。一人で眠るにしてはとっても広い和室。横を向けば僕が持ってきた大きめのバッグが見える。その隣には志朗お兄ちゃんのものだと思われるバッグが転がっている。
 つまりここは僕らの寝室として用意された部屋。そこで寝ていたってことを把握できた。

「……むぐ、ぅ」

 声を聞いての嘔吐とは違う胸の苦しさ。体が怠い。でも動けないほどじゃない。
 起き上がろうと力を込める。が、「もう夜なんだし辛いならそのまま寝ちゃえばいいんじゃないかな?」と思えてきて、そのまま大の字になった。
 二日酔いよりももっと苦しい。けど、この苦しさの正体は何だ。何の音も今は聞こえない。こんなにも静寂に包まれることなんて、産まれてこのかたあっただろうかってぐらい。
 一番ラクな姿勢で寝そべっていると、冷えた廊下に繋がる障子が開いた。
 すぐに閉じられたが一瞬の冷気に身が縮こまってしまう。入ってきたのは同室の志朗お兄ちゃんか、と思いきや違う。
 こめかみをぐっと抑えて辛そうな顔をしている悟司さんだった。

「目覚めたか、新座くん?」
「……むぐう。おはよ、悟司さん。でももう寝るつもりです。あんまり調子が良くないんで」
「ああ、そこまで流暢に喋れるほど回復したか。では眠る前に俺と話をしてもらおうか」
「むーぐー。今、僕は『寝るつもりです』って言ったんだよ。なら寝かせてよ。気遣いがなっちゃないなぁ」

 冗談めかして言う声も、悟司さんと僕の距離なら大丈夫。
 寝かしてもらいたいのは本音だったし、少しばかり強い言葉でお願いした。

「先ほど君に色々話してもらったが、詩的すぎて俺には意味が判らなかった。新座くんの言葉できちんと俺に説明をしてほしい」
「何の話?」
「『先ほど』。覚えていないのか。さっき書庫で君が口にしていた言葉だ」

 敷かれた布団に横たわる僕。悟司さんは立ったまま腰掛けもしない。じっと眼鏡の奥の目は僕を高いところから見下ろしていた。
 ――誰かが、火をつけるんだ?
 ――誰が、志朗くんを殺す?
 ――何故、そんな不穏なことを知っている?
 その目が気味悪いもんだから視線を僕達のバッグの方へと移した。
 するとさっきまで居なかったのに、僕の大きめなバッグに小さな女の子が腰掛けている。
 小さな小さな彼女にとって数日の着替えが入った僕の荷物は立派な椅子だ。足をぶらぶらさせるぐらいの場所に、静かに座っていた。

「……火をつけた人間が誰かは知らないよ。見ていない。僕の知っている限り志朗お兄ちゃんを殺したのは、瑞貴くんだ。その瑞貴くんの体には既に返り血がついていたから既に誰かを傷付けていたんだと思う」
「何を言っている。瑞貴なら、今」

 今は、大広間でお酒を飲んでいる。そう『発信機』のビーズが僕にビジョンを見せてくれた。
 あの子も真面目なもんで、深夜も近くなってそろそろ酒に潰れ始めた人達の世話をし始めていた。瑞貴くんもちゃんとお酒を飲んでいたが彼は水を挟んで調整していたのか、涼しい顔をしている。
 その涼しい顔のまま、何かを行なうというのか。……そんな風には思えない。それぐらい今の彼は大広間の空気に馴染んでいた。

「……それではさっき俺に話してくれた内容とまったく同じだな。少しだけ判りやすくはなったが」
「むぐ、僕は正直者だよ、元からね」
「その正直者はどうしてそのようなことを知ったか。キミお得意の『未来視』というものかね」
「僕は未来を視る眼なんて持っていないよ。過去にあったものを読み取る方の力なら持っているけど」
「そうだった。そんな異能が得意だったのは……慧だったか。では、何と?」
「…………時を越えて来たの。未来からやって来たんだよ、僕は。だから未来に起きることを知っている。瑞貴くんが志朗お兄ちゃんを燃やした未来からやって来たんだ。だから色んな人を警戒してたんだよ。大事な我が家を燃やしたくないからね」

 ――暫し、悟司さんが黙る。
 その沈黙は、妥当なものだった。

 しかし異能も多種多様。さっき彼が言った先の世界を読み取る能力もあれば、古い世界を引き出す能力もある。僕らの血に流れる『魂を抜き取る』だって人には無い特異な力だ。異空間から武器を引き出すことだって、この世にない化け物や霊体を見つける力だって僕らは知っていた。
 そもそも僕ら結社はそういった『人には無い能力』を解明し、発展させるために組織を築いてきたんだ。未知の力があったとしてもそれを容認し、解き明かすことを仏田で働く彼もしてきた筈。
 だから『時間を跳躍する』能力がある人間がいてもおかしい話じゃないし、受け入れて明白にしていった彼らなら、この告白は(時間が掛かったとしても)無意味なものにはならない。
 前例が無いものを見てしまったら唖然となるのも判る。そこで歩みを止める彼なんかじゃ……。

「では、瑞貴は志朗くんを殺してどうした?」
「……えっ?」
「志朗くんが殺された先の未来はどうなるんだ」
「それは、知らない」
「新座くんは未来からやって来たのに?」
「……お兄ちゃんが殺されたところで僕の未来は終わっている。だから、その先にあったことは知らない」
「君も瑞貴に殺されたのか?」
「違うよ。志朗お兄ちゃんが殺されて、その後は時間を跳んだからその先のことなんて判らないんだ。……いや、瑞貴くんに殺されたと言っているけど、本当にあれが瑞貴くんだったかも実は僕には確信が無い」
「どうして志朗くんは殺された?」
「それも、判らないよ」
「何故瑞貴は志朗くんを殺した?」
「知らないよ、だから、瑞貴くんが殺したかどうか本当のところどうなのか判んないって言ってるじゃん、知ってたらこんな不器用なことだってしてないっ」

 追及が過ぎて、僕は次第に声が荒くなっていく。ついにはきっと布団の横に立つ長身の彼を、睨みつけるように見上げてしまった。
 彼は、笑ってもいない。眼鏡の下の目は静かな色をしていて、口元に余裕のある微笑みすら浮かべていなかった。
 ただただ『僕の中を洗おう』と次々言葉を投げ掛けているだけ。

「信用、してないの」

 そのやり方が、あまりに冷淡で心のこもらない探索だったから正直に問い質す。

「僕がその……タイムスリップしてきたって」
「もしそうだとしても、君はヘタクソすぎる。妖しい未来を変えるために時間を跳ぶ力がもしあったとしたら、その力で何ができた」

 万能に思えて何もできなかった。
 率直に言いかけたが、それよりも先に悟司さんの口が動く。

「もしその力が嘘だとしたら、設定の作り方がヘタクソだ」
「悟司さん、あの」
「もし俺に未来から来たことを信用してもらいたいのなら、俺の未来でも言い当ててくれないか。できればすぐに判るものがいい。例えば、これから俺の身に起きる事件があったら教える、とか」
「…………」
「それもしてくれないのか。君の感応力が柳翠様ほどに凄まじい異能であったことは報告で知っている。この目で確認している。その延長に時間跳躍の異能を授かったというケースも、考えられないものではない」
「む……ぐ」
「さて俺の話だが。俺はまだ君が外部の人間として仏田内を漁っているという可能性を捨てきれないんだが、それを晴らすようなことはしてくれないのかね?」

 猜疑心に満ちた目が襲う。
 僕を見下ろすというより検閲するという眼鏡の奥は、始めの頃に見せていた苛立ちを掻き消していた。仏田の中で生きる人間として、外から仏田の中を漁っていた僕を問い質している。
 そんな……漁られて嫌なものでもあるのって言いたかった。あるって言うに決まっていた。僕だって自分の中に勝手に入られるのは嫌だ。気持ち悪い。それがお商売をしている組織なら守らなきゃいけないものはたくさんある。社会に疎い僕にだっていけないことというのはひしひしと伝わってきた。
 眉を顰め、疑わしい目は消えない。
 悟司さんの言葉に応えたいと思っても、弁解する言葉が出てこない。
 ……だって本当に僕は「今日、志朗お兄ちゃんが死ぬ原因がどこかにあるんじゃないか」と思って動いていた結果がこれだけって話なんだから。
 警戒の緩まぬ視線に責められ、じわりと涙腺が緩んだ。
 悟司さんに次々と指摘された、ヘタクソだと事実を突き付けられた、たったそれだけだっていうのに僕の行ないを全て否定されたことにぐらぐらと頭が揺れていた。
 憐みの眼差しを向けられても仕方ない。嘲る冷たい目を受け留めて、ようやく出た言葉は「ごめんなさい」ぐらいだった。

「だからなんだというんだ、君は。そんなもので言い訳ができると……」

 はあ、と彼が大袈裟に溜息を吐く。疲れを吐き出すような息。

 途端、誰かの声がした。
 僕のものでも彼のものでもない、不可視の彼女に似ているけど誰か別人の声だ。

 悟司さんの体が少しだけ揺れる。
 小言を覚悟していたのに数秒の沈黙が訪れた。流れそうになる涙を必死に我慢しながら再び上へと視線を向けると、部屋に入って来たときのように彼はこめかみをぐっと抑えている。頭痛を我慢するかにように、辛そうに頭を抑えていた。

「が」

 痛みに我慢できなくなったような小さな悲鳴。
 立ちっぱなしのまま踏ん張っていた。でも頭を抑える手が少し揺れている。揺れているというより、ビクビクと震えていた。

「がが」

 ついには、冷や汗をだらりと垂らして左目を見開いていた。左目を。
 右目はぎゅうっと苦しそうに瞑っているというのに、左目は器用にも見開かれていた。
 そこだけ硬直してしまって瞼を閉じることができないのか。そんなに見開かれちゃったら、まばたきもしなかったら、目が渇いて痛くなっちゃうよ……当然のことを口をしようにも、ビクビクビクと左瞼が痙攣しているもんだから不気味で声を掛けられなくなってしまう。
 ビクビク、痙攣は激しくなっていく。そのたびに悟司さんは酷い痛みに襲われているのか「ががが、がが」と奇妙な、まるで石を擦り潰すような悲鳴を上げた。

「えっ……あの……?」
「が」

 直視したくないと思った。
 そんな奇妙な現象……すべて、これからの予兆に思えてしまう。
 しかし目の前で痛みを我慢する幼馴染を放置もできない。「悟司さん!」と名を呼ぶ。彼はぐりんとこちらを見た。
 見たのは、目玉だ。
 こちらも悲鳴を上げたくなってしまう。
 黒髪黒眼、遊びない彼の左目が紫色に輝きを放ちながらも――右、左、上、下、右、左、右、左、ぐりん、ぐりん、ぐりん、ぐるりん、ぐるりん、ぐしゃ、ぐしゃあ、ぐしゃあああ――と生き物のように蠢いていた。

 突如、『その生き物』と目が遭う。
 僕の中が爆発する。
 口を抑えても胃液は止まらず、怠惰の先に奥まった路地で異常に吼えた僕は自分勝手な乱調の焼き印に則られ果敢な発見の末に凍てついた炎によって蛇が懺悔し眼球が跳び出し焼け爛れ恐怖は味方に死んでしままった先の強姦をするしかなくて血管に針とクリームまみれの機械が腐った獅子の胎内に抉り出し巣を創り汚れた睡眠薬が心臓目がけて蜂が槍で串刺しにして削ぎ落された生首が不死の空で間違いなく射精し――。

「む、ぐううっ!?」

 ――この世の恐怖が、僕の心に押し寄せて来た。

「……悟司。どうしてオマエが『真祖の眼』など植えつけられてるんだ……」

 シーツの上に胃液をぶちまけていたら、体温が混乱してたんだろう。障子が開かれて冷気が部屋に押し寄せていることにすら気付かなかった。
 その先に彼が立っていることにすら気付けずにいた。赤い髪の彼は、大きな剣を片手に僕らの部屋へとつかつかと靴のまま畳に踏み込む。
 そうして冷静な顔のまま、悟司さんの顔目がけて剣を大きく振りかぶった。



 ――2005年12月31日

 【     / Second /     /     /     】




 /7

 彼は大きく青白い光を放つ剣を、悟司さんの顔目がけて振り下ろす。
 そんなの、駄目だ。「危ない!」と僕が叫んでも苦しむ悟司さんは逃げきることはできなかった。
 悟司さんの脳天に刃が沈む。
 眼鏡が弾け、額を砕き、左目を抉り、顔を剥ぎ取る刃。
 頭の一撃を食らって生きていける人間なんていない。鋭い切っ先を受けた悟司さんは獣じみた悲鳴を上げて後ろへと吹き飛ぶ。
 血が溢れる。脳味噌が飛び散る。目が破壊される。生命が奪われる。
 目の前で悟司さんが死んでいくのを僕は……!

 ………………それは、幻だった。

 僕のすぐ傍に倒れた悟司さんは、左目を抑えて苦しみもがいているが、ちゃんと『悟司さんの顔』をしていた。頭が弾け飛んでもいないし、口が切れていることもない。
 今さっきのは、夢だった、ようなもの。
 霊力の刃は物理的な一撃を食らわせたのではなく、霊体――魔術的な仕掛けだけを打ち破った。肉を削いだのではなく、肉の中にあった悪だけを綺麗に焼き切っていったんだ。
 そういや昔、怨霊に乗り移られた人の体を傷付けずに怨霊だけを打ち破る方法があるって話があったっけ。一見それは武器で人の体を貫くものだけど、肉体は一切傷がつかずに中身の腫瘍だけを打ち滅ぼすという。そんな話をしていたのは、誰だったか。

「悟司さんっ!」

 ともあれ、血すら出していない悟司さんに近寄る。荒い息を吐いていたが先程より症状は軽度のものになっていた。
 何の症状だ。教えてよと揺すろうにも悟司さんは目を抑えてぜえぜえと重い息を吐き散らしている。
 ならばもう一人に教えてもらう他に無い。

「いきなり……いきなり来てなんなんだよ、輝(ひかる)さん!?」
「…………」

 未だに蒼い大剣を右手から離さず、少しずつ症状を和らいでいく悟司さんをきつく睨んでいた。
 その顔は、あんまりしてほしくない怖いものをしている。あれ、髪の毛は赤い。この人、『隠す気も無く姿を晒しちゃっている』。『普段は自分の姿を人に見せないようにしている』んじゃなかったっけ!?
 悟司さんの体を大丈夫かと揺すってみるけど、傷一つ無いから悪いところも見当たらない。何か悟司さんは悪いものを持っていて、輝さんの『霊力の剣』で打ち払った……そう思いたい。それがとっても悪いものだったから輝さんは即座に斬りつけたんだと、そう思わなきゃやっていられない。

「…………」
「輝さん! ねえっ! なんなんだよ、話してよ!」
「……うっせーな、そっちこそなんだよそのだらしねー腹は。家出したとは正一坊ちゃんから聞いていたが、豚になるため外に出たなんてどんな趣味だ……」
「ひ、ひどいっ、カスミちゃんだって馬鹿以外の悪口言わないのに!」
「……ここの連中は……全員オマエを甘やかし過ぎなんだ……」
「そんなに太ってないもん! むぐー! まだまだ余裕の二桁だもーん!」
「…………よく泣く三十路だな。ああ、今のは三十路と書いてガキと読む……」
「読まないよ! 思いっきり僕の年のこと言ったよね!? 三十歳の何が悪いんだよ、むーぐー!」

 僕のお父さんと同い年だっていうのに、この喋り。髪は不潔という訳じゃないけどバラバラで、無精髭が無ければもっと若々しく見えるのにくたびれたコートが余計に年齢を怪しくさせている。
 一見静かそうにも思えるぐらいボソボソと話すくせに、口はめちゃくちゃ悪い。
 だからだろう、この人の言葉が一言一言が心に突き刺さる。良い意味でも、悪い意味でも。
 他の人では気遣って口にしない言葉を言ってくれる唯一の人という意味で、このおじさんはとても良い人だった。……それ以外は本当に「これはクソガキってやつがそのまま大人になっちゃった人だ!」としか思えないほど出来てない男性だけど!

「じゃなくて! ……悟司さんに何をしたの、輝さん!?」
「悟司の中にひっでーもんがあっただろ。それを斬った。……眼を殺すことはできなかったが、無力化ぐらいはできただろ」
「ひどいもの……って?」
「魔眼だよ。『真祖の魔眼』。『邪神の魔眼』って言った方がヤバいものだって判るか?」

 ――魔眼。視界にいるものに問答無用で魔術をかけるというもの。
 目視することで、対象を石化させるもの。対象を歪曲させるもの。意思を込めて目を合わせた相手を魅了し、意のままに操ることができるもの。様々な種類があるけど、先天的な異能が数多い魔眼は普通の詠唱による魔術とは違って「掛けることは難しいが、命中してしまえばまずその効果から逃れることができない」厄介な能力といえる。
 ジャシンって、邪な神って書くものかな。でもなんでそんな「ヤバいもの」って言われるような代物を……?

「……悟司は目が悪かったから……は理由にならねえな。適合者が悟司だったってところだろ。いや、ちゃんと適合して使いこなせているならあんな暴走なんてしてみせないか。じゃあとりあえずの持ち主を悟司にしていただけで……」
「ちょっと! よく判んないよ! 判るように説明してー!」
「……んなもんオレだって判ってねーよ……。憶測で喋ってんだ。察せ。……そもそもオレは仏田の人間じゃねーんだ。なんで仏田の坊ちゃんである新座に責められなきゃなんねーんだよ? オマエがオレに教えるのが道理だろうが?」
「むぐっ」
「……多分、魔術結社の仕事ってことで『邪神の魔眼』を手に入れていたんだよ。遠くの強い異端を狩ってきて入手した凄いお宝の持ち主として悟司が選ばれたんだよ、きっと。曲がりなりにも悟司は『機関』第一作目の自信作だからな……扱えると踏んだんだろ……実際はあちこち狂わせまくっていたって報告があったらしいが」
「遠くの強い異端?」
「異端狩りを頻繁に行なっていたのも、そういったレアなアイテムが欲しかったからだろ……。お宝だけじゃない、『貴重な異端様』も欲しがっていたんだ、オマエらは……儀式だかなんだかの為だって言って。オレがコイツを斬ったのは、アレだ、暴走されたら困るからな……。変な呻き声がして、やべえ兆候が見えて、オレは止めることができる人間だったんだから……騒ぎになる前にぶっ刺したってだけで……」
「キカン? えっと、うちがやってる病院みたいなところのことだよね?」

 判らないから尋ねた、だけなのにいきなりバシンと頭を叩かれた。「なんでそんなことも知らねーんだよ……」と鼻で笑いながら。愉快そうに笑いながら。
 笑ってくれるならなんで僕を叩いたんだろう、この人。楽しいなら僕を怒らせる必要無かったよね。

「オマエ……寺でニート生活してたくせになんで頭足りてねーんだよ。勉強し直せよハゲ……」
「僕ハゲてない! どう見てもふっさふさ! お父さんもふっさふさだもん!」
「……そのお父さんはどこに居るんだよ。オレは光緑に話があるんだ、連れて行け……」
「お父さんはお風邪! だからもう十二時近いんだから寝てるに決まってるよ! ていうかなんで輝さんこんな所に居るの!? そういや実は三年ぶりだったりするよね、お久しぶりですどこ行ってたの!? ずっと姿消したって聞いてたからてっきり死んでるって思い込んでたけど今日うちに招待されてたっけ!?」
「んなワケねーだろ……オレは外の人間だ、仏田の契約者じゃない……。オマエらの血と交じる気はねーよ……ていうか勝手に殺すな。結界が張ってあったがルージィルに飛んでもらって無理矢理入ってきたんだ。光緑を叩き起こせ、文句を言わなきゃいけねーことがあるんだよ……」

 そうだ、もう十二時近かった。そろそろ日付が変わる。
 志朗お兄ちゃんは元気かなって思いながらも、いきなり不法侵入だということが発覚した目の前の男性をどうするべきか。でもお父さんは寝ているし、起こすなんてそんな。
 言い返そうとすると、彼は首根っこを掴んで無理矢理に僕を立たせた。ぎゅうっと首が締まって痛い。
 文句の一つぐらいと彼を睨むと、同じぐらい……いや僕より何倍も鋭く怒りに満ちた目で彼に睨まれる。

「……こっちは息子を殺されて、大事なもんも奪われたんだ。最高責任者であるオマエの父さんに、文句を言う権利ぐらい与えられてるだろ……?」
「えっ……?」

 次の瞬間には、左手で胸倉を掴まれていた。
 右手には大剣を握りしめたまま。殺意のこもった目で僕を見つめてくる。
 その光は本気だ。一刻も早く連れて行けと本気の目を見せつけるために、僕を至近で睨みつけている。
 今日は隠す気の無い紫色の目。
 普段は魔法で見せないようにしている不思議な色の両眼と、赤い髪。
 じいと見つめられて、頷くしかなかった。そういやさっき見た悟司さんの魔眼ってやつも、同じような紫色の目だったな……。
 そう思っていると僕の背中に衝撃が走った。

「あがっ」

 何って、背中に銃弾が撃ち込まれたんだ。おへその裏側に炎が灯る。
 ぐりりりりと僕の体内に捻じ込まれていく弾。あ、痛い。これは痛い。どうしようもなく痛い。カスミちゃんに殴られることは日常茶飯事だったし、退魔業のお手伝いで傷を負うことはあったけど……銃弾直撃は初めてだった。
 僕を至近で見ていた輝さんの目が見開かれる。「新座っ!?」と僕を一瞬気遣った後、躊躇なく僕をさっきまで寝ていた布団へと投げ捨てた。
 ぞんざいな扱いだ。受け身を取ることができずに頭からシーツに突っ込むが、その程度の痛みは……燃え広がる背中の熱に比べれば……。
 でも、顔の痛みも背中の熱も次第に薄れていった。布団にふがふがしながら背中へと手を伸ばしてみる。
 ぬるりとした感触はしない。血はどこにも付いていない。僕の体に穴は空けられていない。
 じゃあなんだ……もしかしてこれもさっきの『霊力の剣』みたいに、『霊力の弾』だったってことか。物凄い衝撃は受けたけど、実際体は傷ついていないという魔法の銃弾か。
 その代わり何が傷付けられたかというと、全身の力を根こそぎ奪われていた。
 腕を背中に回すことはできても、立ち上がることはおろか、顔を上げることすらできなかった。辛うじて顔を動かすことができたので、僕を投げ飛ばした後の輝さんを見ることは出来る。
 彼はずっと手放さずにいた剣を握りしめ、悟司さんに向けて駆け出していた。
 けどその悟司さんはというと、低い姿勢のまま僕を撃った銃を畳へと投げ捨て、利き手を虚空に突き出している。
 一秒の時間も掛からず悟司さんの右手には次の銃が召喚されていた。超小型のピストルはすっぽりと悟司さんの掌に収まっていて、どんな銃身かも確認できない。
 輝さんが剣を振るおうと、両手で柄を掴む。ぶうんと風の音と共に悟司さんの腕を狙って横に切られる空。
 だけど僕を投げ捨てる時間が長かった。
 たった一瞬だったけどそれだけで悟司さんの方が早く動けるものになっていた。
 まばたきをすればあっという間に終わってしまう一瞬の世界。輝さんの剣が悟司さんの腕に届くより前に、銃弾が輝さんの肩を爆発させていた。

「うくっ……!?」

 いとも容易く破裂した左肩。
 今度は間違いなく血が散った。
 肉が抉れた。骨が弾けたのが判った。一発必中の大電撃。見たこともない毒々しい強打。
 左肩がビキビキビキと火花が散っている。青い火花が一瞬にして輝さんの腕を焼き、使用できないものにする。何かの魔術が込められた凶悪な銃弾だったことが伺える。

「こりゃあっ……!? てめっ……アクセンの血肉で、なんてもん作りやがった……!?」

 左手を庇おうとにも、悲鳴を上げるような火花が輝さんを襲う。
 痛みに顔を歪ませて、さっき僕に向けていたような殺意を悟司さんへと放り投げた。
 けれど彼を襲ったのはただ痛いだけの破壊力ではない。派手に散らかすような一撃は、輝さんの動きを全て止めていた。
 そんな動きでは二発目を撃ちこまれると思ったが、小さなピストルは一回限りの大技だったらしく連射は無い。
 その代わり悟司さんはゆらりとした動きで動かない輝さんの逆の肩を掴む。
 二発目を撃つのではなく、ただ『目を合わせる』だけ。
 それだけで悟司さんの次の攻撃は終わっていた。

「がああああああああああああ!?」

 輝さんの喉の奥からの絶叫。
 『魔眼』というものが本当に悟司さんに埋め込まれているのなら、それは銃弾や魔法を唱えての炎よりも確実に相手の精神を蝕む攻撃だ。
 邪神の魔眼……真祖の魔眼と言ったものがどんなものかは定かじゃないけど、さっき輝さんは「あちこち狂わせまくっていたって報告があった」と言っていた。それに今の輝さんの様子、あとは僕が受けた吐き気の正体を思えば……。
 ――恐怖という恐怖が襲い掛かる妄想。
 怖いものがやってきて自分を塗り潰し、何もかもを壊していく世界に囚われるという……『精神汚染の魔眼』。
 見つめ合ったら、逃れられない異能。
 自分の中に生じた声という声に心を押し潰されて、全てを書き換えていくあの地獄に輝さんは直撃してしまった。
 その場に崩れ落ち、赤い血を畳の上に垂れ流しながらビクンビクンと震えている。頭を抑えて絶叫に次ぐ絶叫。
 畳の上を転げて襖に頭をぶつけ、少しでも早く地獄から解放されようとのたうち回るが……肩を掴まれて至近距離で目を合わせてしまった彼は、僕のときよりも近く魔眼の効果範囲に入ってしまっていた。効力は僕のときより倍になっているのか、より強い妄想に囚われて叫び声は止まらない。

「……貴様は、男衾が処刑した筈。三日前、男衾は……貴様らを処刑したと、報告を……」

 頭を抑えながらゆらりと起き上がったのは、悟司さんの方だった。眼鏡が無かったら目なんて見えないんじゃないか。でも彼は立ち上がった。
 魔眼が埋め込まれているらしい左目を抑えながら、あまり視力の高くない右目を頼りに……襖の横で悶える彼へと近づいていく。今度は、正真正銘本物の銃を手にしつつ。

「……男衾が虚偽の報告をしたということか。もしくは、ご子息一人を殺しただけで他の奴らを逃がしてしまった……か。何故全部報告しなかったのかは……後で問い質さなければならんな……」

 ガシャンと銃身に弾がこもる音がした。
 頭を抑える輝さんは未だに地獄に落とされた妄想に襲われたまま、人らしい言葉を発することすら許されずにいる。

「住居不法侵入……だけじゃない。……そうだ、貴様らは……『我らの宝』を奪った罪を……ここで清算させてもらうぞ」

 ビクビクと震える彼の頭に狙いをつける悟司さん。
 すぐに悟司さんに突進して阻止したい。でも全身脱力状態にされてしまった今、手を伸ばすことすらできない。
 僕を真の銃で撃たなかったのは、悟司さんの温情だと思う。なんだかんだで彼は倒れた僕をこの部屋まで連れてきて布団に寝かせてくれるぐらい優しい人だ。真面目で冷酷で、手段を選ばない人かもしれないけど、それでも『わざわざ銃を持ちかえる時間を掛けてまで』、僕を殺さず硬直させるだけに留めていてくれた。
 そんな彼なら話を聞いてくれる筈。輝さんを撃たないで、彼にもきっと訳があるんだという話を。
 しかしそれは間に合わない。
 やめてと叫ぶと同時に、悟司さんの銃弾が三発――輝さんの頭を破壊していた。

 彼の頭が弾けて、全部動かなくなる。

 ――嫌だった。
 僕は事情を知らない。いきなり現れて「息子を殺された」と言い出した輝さんの事情を知らないし、「処刑した」なんて不穏なことを言い出しながら輝さんを問答無用で殺した悟司さんの事情も知らない。
 僕の周りでは色んなことが起きている。それを知ろうとしても、誰も教えてくれない。尋ねたって、有耶無耶にして終わってしまう。だから何かがあったって判るけど、つまりどうしてどうなっているのかさっぱり僕には判らない。
 それが嫌だった。事実を究明したくて僕は時間を跳躍したにも関わらず、四ヶ月僕なりに頑張っていたにも関わらず。
 ただただ翻弄されて。
 痛い想いをして。
 幼馴染が人を殺す場面を見せつけられて。
 知り合いのおじさんの頭が吹っ飛ぶ最期を見せつけられて。
 それで僕は文字通り、何もできず布団の上に居るなんて。
 そうして最後に何が起きたかというと……いきなり悟司さんは銃口を自身のこめかみに突き立てた。
 自然な動きで。それをするのが当然であるかのように。
 引き金を引く。
 輝さんと同じように、彼の頭も弾け飛んだ。

 ――嫌だった。
 こんなに近くに居るのに。さっきまで二人とお話をしていたっていうのに。他人事が次々展開されて終わっていく。
 判らない。人を殺した後の悟司さんが、虚無の目のまま黙って自殺した理由なんて、判りっこない。
 じゃあどうやればそれが判る? 悟司さんに問い質せばいい? もう悟司さんは俯せに倒れて畳を血で汚している。即死の人にどうやって訊けばいいんだ。
 何でも突き刺すように教えてくれた輝さんは? 悟司さんより先に脳を破壊されている。混乱しながら死んだ彼の顔は、人とは思えぬ見ていられないものだった。

 ――嫌だった。嫌だった。嫌じゃないものか。
 訳の判らない死の連続に僕の脳も破壊されたいぐらいだ。理解できない恐怖が自分を襲う。
 でも僕にトドメを刺す人物はいない。僕自身が引き金を引く指も残されていない。ふっくらとあったかい布団の上で、嫌だ嫌だと心の中を塗り潰していくだけ。

 ……ふと、志朗お兄ちゃんのことを考えた。
 お兄ちゃんは無事かな、と思ってもビーズを確認する腕も動かせない。もう、判らない。
 ただただお兄ちゃんは無事かなって考えて……何にも出来ないならと、諦めて目を閉じることにした。

 そうしている間も、彼女は……布団の上で俯せで横たわる僕の隣で、膝を抱えて蹲っていた。
 何も答えてくれない、彼女らしい姿のまま。
 何もしないで眠る僕と、蹲る小さな女の子。畳に血の匂いさえしなければ、このまま朝を迎えてしまいたいぐらいだった。



 ――2005年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /8

 ばけものはこのせかいをみたしている。
 すでにここはばけもののはらのなか。
 あかいにくはみるみるうちにおおきくなっていく。かのじょをとりこんだから。いっぱいのちからをてにいれたから。まっかなえさをたべきったから。

 此処はそういう世界。



 ――2005年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /9

 この連鎖を断ち切る。



 ――2005年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth /     】




 /10

 スイッチを切って。おしまい。




END

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