■ 030 / 「過信」



 ――2005年9月19日

 【     /     / Third /      /     】




 /1

「起きろ、馬鹿」

 朝一番の言葉がそんな言葉。たった一言の始まりで天気はとても良いのに、心地の良い目覚めとは言いにくいものとなる。
 元から車の中で眠っていたのだから深い眠りについてはいない。一言、下品な起こし方をされて直ぐに目を開けた。
 ――まったく同じだ。あのときと。
 車窓には少し厚めなカーテンがかけられている。隙間から入ってくる日光が、いかに今日が清々しい朝かというのを知らせてくれた。
 ふくよかで大きめな車はいつか使ったカプセルホテルより寝心地が良い。それでも車内は寝づらかった。
 何度もここで眠って、目覚めた。何も変わらない。少しだけカーテンを開けて覗く山道ですらまったく同じ。脳がざわざわする。奇妙な感覚が止まらなかった。

「……んっ、むぐ、う、カスミちゃん、なんだよう。まだ到着してないじゃんか」
「お前、その寝ぼすけの顔のまま依頼主に会いに行くのか? 馬鹿言ってんじゃねえぞ馬鹿」

 乱暴な言い方とあくびで眉間が歪む。がしがしと肩を揺すって起こす彼は、もう顔も洗ったかのように元気だ。常に生気で溢れているのがカスミちゃんらしいとは言える。
 ダッシュケースに入れてあるウェットティッシュを手に取り、顔を洗った。

「新座も下品よ」

 僕の隣に居た彼女が、溜息を吐くように指摘してくる。
 だってさ、流石に圭吾さんの車はキャンピングカーでないから水道まで完備されていないんだよ。しょうがないだろ。それでも僕らの為に何でも揃えてくれているんだから圭吾さんっていい人だよね。
 そう心の中の声で、彼女に言い返す。彼女の存在は僕にしか視えていないからカスミちゃんや悟司さん、運転をしている圭吾さんに会話をしていると思われないように念を送るのは一苦労だ。
 車は揺れていたが、顔を拭いているうちにある場所に停まる。大きなお屋敷の駐車場に着いた途端、元気いっぱいのカスミちゃんは飛び出した。普通の車よりは居心地の良いここも、朝から大柄な体をまわせないとなると苦しいらしい。

「悟司さん。朝ご飯ちょうだい」

 助手席に座る彼が後部座席におにぎりを投げる前。先に僕はご飯を強請った。
 コンビニの袋をあさった悟司さんが、僕の顔も見ずにおにぎりをポーンと投げる。投げるのは変わらないのかと悟司さんの「おはよう」を聞きながら思った。

「新座くん。軽く食事をしたら行くから準備してくれ」
「はーい。圭吾さん、今日も一晩中運転してたの?」
「ああ、運送が俺の役目だからな。これぐらいしかすることないもの。幽霊退治の本番は兄貴と霞に任せるだけだ。もちろん、新座くんにも」
「あ、はい。僕以外、全員朝ご飯食べたのかな?」
「霞と兄貴はとっくにね、俺は今から。まぁ、俺は本当に新座くん達をここまで送り届けることが仕事だから、これからゆっくり食べさせてもらうよ」

 聞いて、「僕はゆっくり取ってる場合じゃないのか」と察し、慌てておにぎりのビニールを剥がし始めた。
 ――うん、この会話、した覚えがある。彼らにとってはこれが初めての会話なのに、僕はいつかの世界をなぞっていた。
 脳がざわざわするだけじゃなく、胸がずきずきするし指先まで違和感でピリピリしていた。むぐ、これってただ車内で寝たから寝違えただけかも……?

「デジャブってそういうものよ。全身が混乱していても支障は無いから安心して」
「ああ」
「どうした、新座くん?」
「ううん、ごめんね、圭吾さん。海苔をビリビリしちゃっただけ」

 慌てておにぎりを毟ったせいか海苔が中途半端に切れてしまった。
 千切れて不格好なおにぎりを頬張りながら車外を見た。朝からカスミちゃんが準備運動を始めている。体の鈍りを取るために動かしているよう。
 その先にはとても豊かそうなお屋敷が建っている。
 以前訪れた屋敷。
 以前訪れた2005年9月19日。
 こうしてもう一度訪れた2005年9月19日。
 僕らは再度同じ場所……いや、同じ世界にやって来た。それを実感しながら食べるご飯の味は、懐かしくも少し違うものだった。

「新座くん。時間内に食べきれるかな?」
「あ、むぐっ、ごめんなさい。すぐ食べます」
「大丈夫だよ、この任務はきっとすぐに終わるさ。終わったら新座くんの好きなお店で打ち上げでもしよう。腹八分目にしておくんだよ」
「ありがとうございます、圭吾さん。美味しいロールケーキのお店、探しておいてくださいね」
「……ロールケーキじゃないと駄目かい? はは、了解。いい店を調べておくから、ちゃんと終わらせてくるんだよ」

 軽く笑う圭吾さんと「早く食べろ」と悟司さんに叱られながらも焼き鮭を飲み込み、車外に出た。
 ――あれ?
 口の中のご飯粒を飲み込みながら、今までで一番の違和感に襲われる。
 しまった。バタンと閉めた車へと振り返る。彼女を車の中に置いてけぼりにしちゃった……と思いきや、車の壁など霊体の彼女はスルーリといとも簡単に通り抜けて出た。
 そうか、扉なんて無くても彼女は呼べばどこにでも現れる不思議な女の子だった。僕が気遣ってやらなくても自由に動けるんだ。未だ慣れない摩訶不思議っぷりに感嘆の息をつく。

「ねえ、龍の聖剣。僕、すっごく思い違いをしてるかもしれないんだけど」
「何も間違ってないわよ。貴方がケーキを所望したから圭吾はこれから屋敷のメイドさんから美味しい洋菓子屋を聞き出す。ロールケーキにしてくれって絞ったから前と同じ店に行ける筈よ」

 それがどうしたと幼い童女は淡々と、表情を一つも崩さず僕の隣に立つ。
 う、うん、『前の世界』で食べたロールケーキが美味しかったからつい無意識に指定しちゃったんだけど、それで良かったんだ……?
 そんなことはおいといて、もっと重要な記憶を呼び起こす。確かに魂に刻んだものを回想した。

 ……これから僕らは屋敷に潜む異端を倒しに行く。悟司さんが依頼人のおばさんと話して、僕とカスミちゃんが屋敷を捜索するんだ。その後にまた圭吾さんの車に乗ってケーキ屋さんに行く。
 タイムスリップする前の僕は、ポカられて痛い頭を抱えながら美味しいロールケーキを食べていた。その後も二件退魔をこなして……。
 僕の住む宿舎から車に押し込まれた流れも、今のところ何一つ変わってない。
 9月19日の深夜に圭吾さんの車が教会に横付けしてやって来て、カスミちゃんに車の中で押し込められる展開もいっしょ。
 車内で大体の事情を話されたが、準備が一切できずにここまで連れて来られるところも、我が家の『本部』のやり方だ。
 時間が巻き戻ったとしても世界はそう簡単に変わらない。

「あのね、違うんだ。僕の記憶だと……悟司さんから貰うおにぎりは、確かね、シーチキンだった気がするんだよ」

 山の中の綺麗なお屋敷。その前に整備された真新しい駐車場。車から少し離れたところでカスミちゃんが準備運動のストレッチをしている。この光景も一度見たものだ。変わっていない。
 でも、物言い立てはそのことではない。

「そうね。悟司が用意したおにぎりは『前の世界』だとシーチキンマヨネーズだったわ」
「なんで? 悟司さん達と退魔に行くのも変わらないし、カスミちゃんが乱暴なのも変わってないのに……どうしてこんなどうでもいいことは変化しているの?」
「どうでもいいことだからでしょう」
「……どうでもいいことは変わるの?」
「ねえ、新座。今、貴方は車から降りて靴紐を結んだ。左右両方の紐が解けかかっていたから結んだわね。なんで左の靴から結んだの? 左から結ぶジンクスでもあるの?」
「むぐ? 特に理由は無いよ。右から結ぶことだってあるし」
「それよ。同じ状況でも、特に理由は無い場合は簡単に変わってしまうことがあるの。だって『変えちゃいけない理由が無い』んだもの。そのときの気分で変わるわ」

 それが一番怖いことなんだけど、と彼女は僕の靴を見ながらボソリと呟く。
 悟司さんは自分が食べたいおにぎりを選んだのではない。僕のお腹に入るものなら何でも良かった。
 子供の頃からの付き合いがあるから僕が甘い物を好きなのは知っているけど、それだけだ。甘いものをお米に入れたことはあっても、「おにぎりの具材はこれじゃないと嫌だ」なんて会話はしたことがなかった。悟司さんはただ……仕事前にきちんとカロリー摂取をさせたくて、適当なおにぎりをチョイスしたに過ぎない。
 シーチキンマヨネーズを選ばなかった理由も、焼き鮭を投げる理由も、何にも無い。どうでもいいから変化したんだと漏らす。

「でも……悟司さんとカスミちゃんとでこのお屋敷に来るのは変わらないんだね」
「それはどうでもよくないことだからでしょう。『本部』が選定し、『赤紙』が配られたから圭吾が貴方達を連れてきた。新座と霞と悟司の前後の状況を確認して選んだという大勢の意思が絡んでいるわ」

 二重三重に絡み合う理由があればそれだけ物事の確実性は高くなる。幹がしっかりしていれば簡単に気は抜けない。
 なるほど。重大な事件は決まって理由が三つも四つもある。変えられないもの。
 聞きながら、僕は伸びをした。全身に空気を入れるように呼吸を繰り返す。自然の多い場所での深呼吸で僕の中に生じるモヤモヤを全部拭うために。
 でも、なかなかどうして巧くいかない。次の疑問が生じるからだ。

「むぐ……それだと、どうやって世界を変えろって言うのさぁ」

 どうでもいいことは、変わったっていいことだからどうでもいいもの。どうでもよくないことは変えられないからどうでもよくないこと。
 さて、僕が……時間跳躍をしてでも変えなきゃいけないことって、それこそ重大で重大な大事件だ。
 『志朗お兄ちゃんが死ぬ』という。
 でも『変えられないものよ』なんて言われちゃったら……。

 ふとストレッチ中のカスミちゃんを見た。何も言わず、仏頂面に屈伸運動なんてしている。
 口がへの字だ。あの顔は……長年の付き合いから「こいつ何してんだ?」って思っている顔に違いない。
 って、それって僕の様子が変だって気付いたってことかな。一応平静を装っているつもりだけど、それでも彼女と話していることには変わりない。蚊帳の外のカスミちゃんから見たら奇妙な動きをしてるだろう。

「なんだよ? 馬鹿新座、メシ食うの遅いんだよ」
「起きてすぐゴハンなんて食べられないよ。それとバカバカ言うな、ふんだ」
「さっさと起きないのが悪い。日が昇ったら目覚めろよ、それとジロジロ見んな」
「見てない」
「……単純な話よ。重大な事件は三つも四つも理由があって変えられない。なら三つも四つもある理由を全て覆せば変わるわ」

 問答の最中に、彼女は呆気なく、当然の回答を口にする。
 思わずカスミちゃんとの会話が無言になってしまうほど、明々白々たる一言。
 そりゃあ、そうだ。その通りだよ。それ以上の何でもないよ。
 一回で抜けなかったカブは、違う手を使って何重もの力で抜いてしまえばいい。手間はかかるけどいくつもの力を込めればいつかカブは抜ける。ただそれだけのこと。
 まるで僕の得意な思考停止の理論。でも、それを越える答えが無かった。

「新座の食べるおにぎりがシーチキンマヨネーズから焼き鮭に変わった。今回はどうでもいい変化があったわね」
「……もうその話はおしまいにしよう。僕がシーチキンの方が好きだから実は結構ガッカリしてるって話も終わりね」
「実はさっきの焼き鮭、腐ってたの」
「むぐっ!?」

 まさか来るとは思わなかった言葉に大声で驚愕してしまう。思いっきり口に出しちゃったせいでカスミちゃんまで「な、なんだよ!?」とビックリしちゃってた。
 結構マジな顔をされたので「なんでもないよー、ナンデモナイヨー」と慌てて首を振る。……ちょっと前ならそれだけでカスミちゃんは大激怒したもんだ。喧嘩になることだってあったけど、今の時間が朝だからかそれ以上の騒動に発展はなかった。

「嘘よ。鮭、ちゃんと美味しかったでしょう。……でももし腐ってこの後の新座が腹を壊して倒れたとする。そうしたら新座が見つける筈の怨霊は」
「……見つからずにやり過ごすだろうね」

 僕がいない。お勤めは失敗で終わる。お金は振り込まれない。僕らに入るお小遣いは無い。失敗したことで信用も失う。倒されなかった異端は依頼人を再び襲う。
 死ぬ。
 そういうものよ、世界って。……彼女はとても判りやすく語ってくれた。
 新たなスタートラインに立った9月1日。12月31日まで約4ヶ月間。
 120日あれば充分長い期間だと思うけど、もう僕はその6分の1を使っていた。できたことと言えば、何だろう? 何が出来たと言えない。何にも思いつかないまま、言われた通りに車に乗ってここまで来てしまった。

「新座くん、霞。行くぞ」

 深呼吸の合間の授業が終わる頃、丁度良い時間になった。予定していた時間通りに悟司さんが車から出てくる。約束した時間の八分前。三分で支度をして、五分で屋敷へ向かう。
 徹底した勤務を心掛けている悟司さんは、イレギュラーなことでもない限りそのスタンスを変えようとしない。だから一分の差異無く僕らに「行くぞ」と声を掛けていた。
 ……これは、悟司さんにとっては「どうでもよくないこと」だから変わらないんだ。そう思っていると、いきなりカスミちゃんが僕の肩をグイッと掴んだ。
 判りやすく痛い。一体何だよと悲鳴を上げながら少し睨むと、

「独り言をブツブツ言うのはやめろよ。依頼主に変な顔されるだろが。……あと……おはよう」

 まだ言ってなかっただろ、馬鹿新座。
 ……なんて、カスミちゃんから言われるとは思わなかったことをぶつけられて、ついついポカンと口を開けてしまった。

 ――そうして、『前の世界』と同じように時は進んでいく。
 事情を話してくれた依頼人の女性と屋敷にいる者達には、全員外に出てもらった。
 駐車場で待機している圭吾さんが対処してくれる筈だ。対処と言っても、仕事が終わるまでの世間話の相手だけど。

 僕達三人以外誰もいなくなった屋敷。西洋風の立派なお屋敷は、改めて見てみても『お城』という言葉が使いたくなる場所だった。
 家具は煌びやかだし、掃除は行き届いている。所々に置いてある花瓶も燦々と咲いていた。先程言ってた通り、お姫様を夢見る女性であれば一目で気に入るお屋敷。だけど、お姫様を夢見なくても違うものに気に入られるかもしれない。
 何かがいるかもしれないから注意して歩けと悟司さんに言われた。彼はソファの上でノートパソコンを開き始める。
 カスミちゃんは言われた通りに廊下に出ようとしていた。とりあえず屋敷の全体を見回って様子を探らないと思ったらしい。一応着込んだ堅いスーツに苦い顔をしながらも、早く仕事を終わらせようと一番に身を動かし始める。

「おい、新座。行くぞ」

 まずは情報収集。それぞれは動き出す。
 これから悟司さんがすることと言ったら、依頼人の話を元にときわくんに連絡をして、この物件について調べてもらうこと。事前に聞いていた話とさっき聴取した話を照らし合わせて、「何かあったら協力します」と話していたらしいときわくんの力を借りようとする。
 結果、「前の主が不審な死を遂げている」という記録があることを告げられるんだ。
 そして、その間に僕とカスミちゃんが屋敷を歩いて隠れている何かを探しやすい場所を見つける。ちょうど悟司さんが事情を調べ終えたぐらいに合流して……場所をつきとめて……。

 でも、今回はそんな時間はいらない。
 だって僕は既にゴールが目の前に見えているのだから、コースを大回りして走る必要は無かった。

「時間は掛けないよ、カスミちゃん、悟司さん」

 さてこれからときわくんに連絡を、さて片っ端から部屋をあさろう、などと考えている二人を引き止める。
 客室で女性が怖い話をしていたときは何も感じなかった。そして、今も何も感じてはいない。
 何の情報も無い。手掛かりはスタートラインで貰った些細な恐怖体験だけ。
 でも僕は知っている。一度、ここに居る『彼』に会ったことがあった。それを全部覚えているのだから当然。

 廊下の、窓の位置とドアの位置から一番風が溜まりやすい場所を選んで、着地する。
 中心からちょっと離れた場所。ちょうどそこは絵画が飾られている部屋で、大きなノッポの古時計が置かれていた場所だった。

「始めるよ。手伝ってくれる?」
「いいわよ。と言っても……私は『あの子を見張るだけ』よ。新座には『直接手を貸せない』の。屋敷から出て行くようだったら教えてあげるけど、捕まえるのは貴方の役目だからしっかりしてちょうだい」

 ううん、捕まえるのはカスミちゃんの役目だよ。そう僕は頷きながら反論する。もちろん心の中で。
 僕は肉体労働をしない。かわりに精神を消耗するんだ。そういう役割分担なんだから許してもらいたい。ブツブツと呟きながらも古時計に歩み寄る。僕は僕の首元を掴んだ。
 ぐっと、首に掛けた十字架を握る。指が痛んだ後、十字架から手を離して……再度、自分の首を触った。どくんと音がする場所を探して、ぐっと指を押し込む。
 首へ。血流へ。ふらりと倒れそうになるぐらい自分で首を絞め続けると、スイッチがカチリとなった。

「新座、おい? 誰に話しかけてやが……」
「話し掛けるな、霞。……始めたんだ」

 ――スイッチが入った後、視界がネガポジになった。

 それも一瞬。『通常の世界ではない世界』を見て、ふっと顔を横に傾ける。
 普通では見られなかったものが、その世界では見えた。
 普通でない血がそうさせている。首の苦しみが消えぬうちに、奴を追う。

 ……また、居た。
 ……懲りずにまたこの屋敷に現れて、僕達に倒される。

 懲りずにって仕方ないか、今はまだお仕置きも何もされていないのだから。あっちはそんなの知らないだろうけど、もう既に見知った仲のように僕は『彼』に再会する。
 妖しい影。白く歪む異形。人影……をしていないこともない。白く揺らめくそれは知識の無い一般人ならヒトと思うのだろうか? 雲のような歪む白が人間の肌の色に見えるのだろうか?
 咄嗟にそう考えたら、白黒世界は終わっていた。
 違和感は、何一つ無い。見つけるべきものが見つかって僕は安堵した。

「やっぱりそこだね。――時計の左陰だよ、カスミちゃん」
「……お、おうっ!」

 突然の呼びかけにも戸惑うことなく、カスミちゃんは時計の前に駆け出した。
 僕が立つ横を通り抜け……九時の横に激しく殴りつける。
 ぐしゃり! 壁が悲鳴を上げた。
 白い壁紙は大男の拳を食らってぐらりと揺れる。
 一般人の目から見れば、いきなり男が何も無い壁に向かってパンチしたように見える。そして、カスミちゃん自身にもそうにしか見えてない。

「……おい、馬鹿新座。ちゃんと当たってるのか?」

 カスミちゃんは人の言う通りに攻撃するしかない。というのも、彼には『視えない』からだ。
 しかもまだ心の準備が出来ていなかったから顔には焦りの冷や汗が滲んでいる。いくら準備運動をしていたって、彼だっていざ何かを殴ろうとするときは心構えが必要だったようだ。
 一回のパンチはあまり効果が無さそうに見える。確かにカスミちゃんの拳は対象に命中していたけど……致命傷を外していた。
 踏ん張りきれていなかったからだ。

「大丈夫、当たってるよ。痛がってる」
「そ、そうか。で、もう一回殴った方がいいか?」
「ううん。でもその腕のままでいて。そう、ちょっと手が痛いだろうけどそのまま……」
「霞。離せ」

 僕の真後ろに悟司さんが立っていることに気付いた。

 いつの間に移動していたんだ? ノートパソコンを放り投げて? 『なんで今回は』移動してきたんだ? 来るとは思わなかった彼の行動に、「えっ」と慌てて振り返る。
 けど悟司さんの声は端的かつ真剣そのもの。取り乱したりもしない、むしろ眼鏡の奥の……おかしな色をしていない本物の黒眼は、冷淡にただ一つだけを見つめている。
 カスミちゃんはお兄さんの言う通りに壁から拳を外した。すると的抜かれた白い影はふらっと宙を浮いて……。
 ――そんなことをしたら奴が逃げる! 逃がしちゃうよ!
 思った瞬間に、悟司さんは異空間から銃を召喚して撃つ。
 白い影はいとも容易く破裂した。

 悟司さんが「離せ」と声を掛けてから三秒にも満たずに、事件は解決した。

 あっという間だった。五秒もないうちに銃弾が隠れていた異形を撃ち貫いていた。
 右手に握られた銃の端から煙は出ない。超小型のピストルは体格の良い悟司さんの手にすっぽり収まっていて、一瞬銃弾を発射したことすら僕らの脳は追いつかなかった。
 放った弾は壁に跳弾することなく、異端の体の中で消滅したらしい。異端は散り散りになり、青い光になって掻き消える。
 何も無い。消えていく。
 カスミちゃんが押さえて僕が奴の動きを終わらせる前に、悟司さんが呆気なく消してしまっていた。
 あれ……僕らがもう一仕事をする前に全部終わっちゃったんだけど、これでいいのかな……。

「あのまま霞が抑えつけていたら、霞は呑まれていたぞ」
「……えっ……?」

 影を消し去った彼は銃を渦の中へ放り込み、天へ昇りかけている青い光を……大きな掌で掴んだ。
 今日一番の声の低さ。眼鏡の奥の目が怖い。依頼人の女性に向けていたものとは全然違う、すっごい怒ってるって目に見えて判る顔。そんな状況でも掌の中に光を抑えて、魂を例外無く回収していた。

「新座くん。君は素人か。異端に踏み込んで攻撃したということは、異端からの射程内にいるということなんだぞ。あの霞のへっぴり腰を見てなんとも思わなかったのか。……反撃されてみろ。『霞には視えていない』んだぞ、為すすべもなく殺される」

 でもカスミちゃんはきちんと敵に触れてみたし、それこそ……壁を抉るほどのパンチを見せつけていたのに。
 そう反論しようとして壁を見直すと、一撃を食らった壁紙は崩れかけてはいるが、崩れ落ちていなかった。

 確か『前の世界』では……壁がボロリと落ちてカスミちゃんが依頼主への弁解ができるのかって慌てたほどだったんだっけ?
 なのに壁には拳の痕はあっても、少し強い力を加えたのが判る程度で留まっている。穴が空くこともなさそうだ。だから……僕が『あれ』を目撃してしまって泣き崩れることも、今は無い。
 壁の先が見えるほどの一撃じゃなかったんだから、奥に隠された真相も見つかることはないんだ。『このままでは』。

「更に文句を言わせてもらおう。さっきの銃弾はな、芽衣の特注なんだ。一日一回しか撃つなと言われている霊式弾でな、ここぞというときにしか使えないやつだ。俺はこれ以上の隠し玉を持っていない。最高の必殺技を初っ端から使ってしまったんだ。……これからあと二件ハシゴをするというのに、先が思いやられる」

 こんな簡単な仕事に使いたくなかったと、わざとらしく溜息を吐く。僕に精一杯反省しろと言うかのように。
 ちなみに何故その銃弾が一日一回しか使えないかというと、「体の無い相手でも必ず潜んでいる魂に、一発必中の大電撃を与えて動きを止める」という特別製らしい。ただただ鋭い銃弾を造ったのではなく、特別な生き物の血で書かれたお経を弾に何層にも直接編み込むという……製造するのに一個三週間は掛かる魔道具だという。
 三週間の傑作が、一発で消える。補充は三週間先。更に言うならその生き物は今年に入って調達しづらくなったらしく、いつ悟司さんのもとに次が貰えるか判らない。だから目安は一日一回節制思考でいけという単純な理由だった。
 ……って、そんな超便利な武器があるなんて見たことなかった。長い間悟司さんと一緒に『仕事』をしていたつもりでいたけど、そんな必殺技を隠し持っていたなんて初めて知ったぞ。

「切り札をそう簡単に使ってたまるか」
「でもアニキ、使っちまったじゃねーか」
「霞が死にかけた一瞬が大事ではないと?」

 その愚痴のような一言からして、僕もカスミちゃんも実感がまるで無かったけど相当な一大事だったらしい。
 一発銃弾を放っただけで終わった呆気ない事件。依頼人達をお外に出して、それこそ五分も掛からず終了した退魔のお仕事。
 けど「それで終わらせるな」と悟司さんが何度も繰り返す。
 それは、これからの僕とカスミちゃんを心配しての言葉でもあった。

「……ごめんなさい、悟司さん。……あのね、そこの壁……ちゃんと調べてみて。そこに何か埋まってるから」
「何かとは何だ?」
「骨。ずっと前に、生きたまま壁の中に埋められた人の骨。さっき回収した魂は、その人のものだよ」
「……霞」

 悟司さんの一言で、カスミちゃんは「あいよ」ともう一度パンチをした壁の前に立つ。
 今度は肩幅に足を開いて、ふうっと短く深呼吸をした後……的確に脆い部分を打ち砕いた。
 壁全体は壊れない。屋敷だって歪まない。まるで機械で調節したかのように、ほんの一部分だけがぽっかりと空いた。
 どうしてさっきはそれが出来なくて、なんで今はそんなに綺麗に穴が空くのか、僕には専門外の力なのでてんで判らなかった。

「霞はな、これでも神業を持っている。使ってやらなければ意味が無いんだぞ。道具は巧く使え。脳味噌が無いんだから有効活用してやらねば」
「アニキ……神って褒めてるのか、道具って貶してるんだかどっちだよ」
「どこからどう見ても弟を褒めてやっているだろう。今日の俺は生涯一、弟を大事にしてやっているではないか」

 空いた壁の先は見ないようにする。すぐさま僕は窓の外を向いた。……もし見てしまったら、また変な感情を受け取ってしまいそうだったからだ。
 視線を向けてみた外では、心配そうに自宅を見守る女性の姿があった。周囲には何人もの使用人を連れて、僕らの成功を待ち詫びている。
 隣に居る圭吾さんが彼女に話しかけ、「すぐに終わりますよ」と安心させているのが遠目でも判った。彼は彼でしかできない仕事を徹底して努めているみたいだった。

「げっ。……なんだよこれ」
「幽霊を相手にするお前らが何をたまげる。――古びた屋敷の壁の中に白骨があった、それぐらい驚きもしないだろう?」

 背中を向けている方ではカスミちゃんが発見した人骨を目撃したらしく、今まで通りの反応をしている。悟司さんと深刻そうにどう処分しようかと話し合い始めていた。
 お仕事は、終わりだ。前に経験したものとはずっと早くに終わり、同じように解決へと辿り着いている。
 だというのにスッキリしない。
 一度経験したからスムーズにいく筈なのに、実際に時間は全然掛かっていないのに。朝から胸の中に生じていたムズムズは、今の方がずっとずっと大きく醜悪なものになっていた。

「……カスミちゃん。僕を殴っていいよ」
「あ?」

 僕が悪い。
 ――だって、悟司さんに……「カスミちゃんを殺す気か」と責められたら。そんな訳無いじゃんって、反論したくなるに決まってる。
 でも、僕がヘマしたのも判っているからぐっと堪えた。
 僕が、悪い。僕だけ判っていて、知っていて、何にも言わずに強行したから僕が悪い。
 あのままカスミちゃんはよく判らないままに突撃して、何も視えずに……死んでいたかもしれない。もし悟司さんに声を掛けなかったら、さっきみたいに助けてくれなかった可能性もある。
 倒されなかった異端はカスミちゃんを襲う。驚く僕も襲う。
 死ぬ。
 そういうものよ、世界って。……変わらず静かな彼女は、とても判りやすく語ってくれた。

 どう考えたって、僕が悪い。
 大丈夫だった世界を経験してきた筈なのに、これで大丈夫じゃない世界にしてしまったら……タイムスリップしてまで台無しにするよいう、やってはいけないことをしてしまった。
 隣にいる女の子にだって何を言ったらいいか。
 いいや、そうじゃない。それだけじゃない。……カスミちゃんに目の前で死なれたら、僕は後悔してもしきれない。
 ただでさえ志朗お兄ちゃんの死だってまだ拭いきれてないんだから。

 ――ああ、肉が焼ける匂いを、そう簡単に忘れることなんてできない。

 この僕の体は『志朗お兄ちゃんが焼ける匂い』なんて嗅いだことなんてない。
 でも僕は知っている。経験してないのに知っている。嫌で嫌でたまらないあの匂いを。忘れたくても忘れられない恐ろしいあの景色を。
 もしもう一度あれを味わったてしまったら、今度は立ち直る自信が無い。だというのにこんな場所で、カスミちゃんが志朗お兄ちゃんみたいなことになったなら? 考えただけで寒気がする。
 寒気……だけじゃない。寒気で済まないよ、それはもう。嫌な妄想は、次第に嫌な思い出を克明に蘇らせていく。
 赤い世界。炎。苦しそうな声。苦痛に歪む顔。
 死ぬ瞬間の熱い何か。迫る熱。迸る血液。
 ああ嫌なもの、物凄く嫌なもの。その景色が未経験の僕の体へ勝手に流れてきて……苦しくてたまらなかった。

「新座くん。泣くな」
「…………。ごめ、ん、なさ、い。……変な、こと……考え、っちゃ、て」
「泣くな。今日は、君を慰める兄さんはいない」
「すいま、せ、う、ぁ、む、ぐぅ……」

 情けなくて悔しくて、ぼろぼろと涙が零れて、へたれこんだ。
 頭の中は既に真っ赤だった。先程まで白を見続けていたが、突如『無い筈なのに蘇ったもの』の影響で視界が真紅に染まっていく。
 その光景は……。今から数ヶ月後の、冬の景色。
 襲われた光景。
 死ぬときの光景。死ぬ瞬間の恐怖。
 それを僕は、『知っている』。

「むぅ、ぐぅ……!」
「新座くん……」
「うあ、あああ、ああああ」

 その世界に、僕自身の意思は反映されない。中に入ったものの色が包んで染めていく。染めていく現象は、入ってきたものが出ていくまで続く。
 追い出そうとする度に体内から出るのは、目からのものだった。
 こぼれ落ちるものが熱くて、頭が蒸気する。
 余計に自制を保てなくなり、叫び声を上げかけた。

「……泣くなよ、馬鹿っ!」
「…………あ。ぁあ……ああああ……!」
「ああ、馬鹿。さっきまでカッコつけてたのが台無しだろうが! ナニ、取り憑かれてんだよ! テメー、いくつだよ、いいかげんそのクセ直せよっ! ……さっさと追い出せよ馬鹿!」

 きっと僕が何かに憑依されたと勘違いしたカスミちゃんが、廊下にしゃがみ込んでひゃくりあげる僕にうるさく叫ぶ。怒鳴る。喚く僕に叱咤する。
 カスミちゃんに叱ってもらって次に備えよう。さっきのはそのための「殴っていいよ」のつもりだった。だったのに……なんだか聞いたことのある言葉をまた聞くことになっていた。

「……『オマエ』、アニキに倒されたんだからとっととあの世に逝きやがれ! いいかげんにしろ……さっさと消えろっ! ユーレイやらバケモンやらはこっちにいられると困るんだよ! ……俺がなっ!」

 もういなくなったものへ叫び終わり、カスミちゃんは大きく振りかぶる。
 その瞬間を悟司さんは見逃さず見ていた。
 頭を抱えて泣く僕に、壁をも破壊する拳が――ごつり、と。

 ……この一撃はもしや、どうでもよくないことだったのか。だから変わらず、この世界でも再現されたのだろうか。
 カスミちゃんに頭をポカってされる、それが世界にとって決められたイベント。
 あんまりそうだとは思いたくはなかった。

 ――山の中のお城での一悶着は、悟司さん達がすぐに後始末をしてくれた。
 ほんの数分で終わった魂の回収だけど、僕が鳴き喚いたりするもんだから全てが終わるまでには数時間ばかり掛かった。
 実際に屋敷を出たのは、『前の世界』と同じぐらいの時間だ。そう、順序はあべこべになっていたけど何にも変わってなかった。
 目を真っ赤にする僕。ほっぺを膨らませるカスミちゃん。地味な作業に追われて同じようにムスッとしちゃう悟司さん。メイドさんと長くお話ができて嬉しそうな運転手の圭吾さん。……うん、まったく世界は変わっていない。
 少し変化したことと言えば、運転する圭吾さんが何も言わずにとっても美味しいロールケーキが売っている洋菓子店に直行したこと。そして流れるような動きで二件目へと車を走らせたことぐらいだった。

 二件目と三件目に関しては言うことはない。
 慎重になった僕は極力『事故』を起こさないようにした。
 異端がどこに潜んでいて、どういった理由で被害を生んでいて、何をすれば終わるのか覚えていた。それ通りにすれば無事今日を越えることができるという確信もあった。
 でも、走りはしない。たとえゴールが見えていても、先に障害物を取り除かなければ真っ直ぐ走ったって躓いて時間を潰してしまうだけ。そう思い知ったから。
 躓くだけならいい。でも転んだ先が地獄で死んじゃうかもしれないと思った途端……僕は、何も出来なくなっていた。

 知っているならすぐに終えてラクになろう。とっとと終わらせてみんなをラクにしてやろう。
 そんなこともう考えない。
 考えて実行しようとしても……些細なことでどうでもいいことは変化する。そしてどうでもよくない大事件に繋がる。
 知っていることだと思っていたら知らない何かが発生して混乱する。これが一番危険なんだと思い知ってしまった。

 ……ねえ、龍の聖剣。先が知っている僕は何でもできるから救えなかったものを救えるようになった。そう思っていたよ。
 コソリと彼女に語り掛ける。
 でもさ、何にも変わってない。9月19日の三件の依頼は、時間通りに終わった。無事四人は生還して日常に戻っていく。……先を知っていても、この通りだ。

「ええ、その通りね」

 誰にも視えない彼女は、僕にしか聞こえない声でたった一言だけ返す。
 もっと色んなことを語ってもいいのに、彼女は必要最低限のことしか喋らなかった。僕が見えているだけで彼女は空気そのものだ。話し掛ければ応対するけど、彼女からの発言はまず無かった。
 だから僕が気落ちして発言しないままだと、彼女との会話は成立しない。心の中で無言が続く。……ここはなんとか気分を入れ替えないと。

 三件の『仕事』が終わって帰りの車の中、僕は圭吾さんに「教会近くで下ろしてくれ」と頼んだ。
 少し気分転換が必要。住んでいるアパートまで車を横づけしてもらうこともできたけど、時間通り終わったおかげでまだ十六時。日が傾き始めている秋だが、太陽が沈みきるには少し早い時間だ。散歩には丁度良い。
 圭吾さんからの「疲れているならそのまま休んだ方がいいよ」という気遣いも、精一杯の笑顔で「大丈夫だ」と受け答える。
 少し携帯電話をいじって、何をするのが一番の気分転換かなと考えた。
 出した答えは単純明快。何かご飯を食べよう。出来ればお昼に食べたロールケーキ以外で……。そう思った僕は、下ろしてもらった駅前を歩き始めた。



 ――2005年9月19日

 【     /      / Third /     /     】




 /2

 圭吾さんの車から下りて一人入ったお店は、どこにでもあるハンバーガーショップ。
 いつもならケーキの置いてあるカフェとかに入るけど、圭吾さんから貰った絶品を食べた後だから何を食べても損した気分になってしまう。なら少しでもお腹が溜まるものなら何でもいいやと、投げやりな気分で入店してしまった。

 注文したものは、ハンバーガーのセット。
 ついでにイチゴ味のシェイクを二つ。どっちもLサイズで注文し、四人掛けのテーブル席に着く。
 空調の効き具合は快適。お昼時を過ぎた店内は駅前だというのにすいていて、心地良く腰を下ろせた。奥まった席が良いかなと腰を下ろすと、向かいの席ではなく真横に彼女が座った。
 誰にも視えない彼女が、ちょこんと。
 輝く金色の髪と、緑色の瞳の彼女が、小ぢんまりと。
 十歳にも満たない小さな女の子が、床に足もつかずにちょこんと座る。小さなもみじのような手が大きなカップを抱くようにして、ストローに口をつける。きっと誰もが振り向くほどの女の子なのに、その愛らしい一幕すら誰にも視えないのがもったいない。
 向かいの席で可愛らしい姿を見たかったけど、何故か彼女は僕の横に座る。別にどうでもいいことなのでそのまま僕もストローを咥えた。『仕事』後に必ず飲んでいる薬も忘れずに。

 すいた店内で、二人でシェイクを啜る。
 端から見たらお一人様。でも実際はお二人様。言葉は無い。心の中で会話をすることもなく、僕らは甘くてふわふわした喉越しを楽しんでいた。
 夕暮れ時になれば近場の学生らがわんさかやって来るだろう。混雑する前に二人でゆったりと休憩をする。

「おいしい?」
「ええ。冷たくっておいしいわ」
「まだ夏だからね、冷たいのがおいしいや。でも季節の変わり目だから風邪には気を付けないと。君は風邪を引かないのかな?」
「そうね。貴方が気を付けるべきよ。些細なことでループは変化してしまうんだから」
「むぐ」

 ――彼女との出会いは、唐突すぎて記憶力が仕事をしてくれなかった。

 今でもどのように彼女が現れたのかがうまく思い出せない。目を覚ましたら隣に居た。そして彼女の存在を受け入れていた。だから目が覚める前……ここではない、夢の世界で彼女と出会っていたと言える。
 真っ暗闇の世界だった。よく判らない異空間だった。右も左も、上も下も判らない、まるで渦の巻いた変な場所だった。
 そこで彼女と出会って、彼女を受け入れ、彼女と共に歩むことになった。その事実だけはちゃんと自分の中に着地しているのだけど、果たして本当にそうだったとか、それが正解なのかももう確かめる手段は無い。
 正直に言えば、彼女の存在はそのときの自分には「どうでもいいものだった」。
 そうなってしまうぐらい嫌なものを見た。衝撃的で、辛すぎて、全てを放棄してしかけるぐらい苦しいものに直面してしまった。そこから逃げるためなら何でもしただろうし、どんなものでも許せてしまうほどだった。
 不可思議な彼女の存在を受け入れれば嫌なものから逃げられると判れば、彼女への追及なんて自然と頭から抜けていた。

 暗闇に落とされてどうしたら判らないときに、「私の手を取って」と言われれば取るしかない。
 どうにかして暗闇から抜け出したいときに、「私の言う通りにすれば助かる」と言われれば従うしかない。
 あんな嫌なことなんて起こってほしくないと思っているときに、「私は時間を巻き戻すことができる」と言われれば縋るしかない。

『私はね、困っている人を助けたいの。そういう存在よ。新座は闇の中で困っていたでしょ。だから手を差し伸べたの。手を取ってくれるかどうかは判らなかったけど、私には出来るから貴方に声を掛けただけよ』

 彼女の手は強制ではない。それは何度も彼女自身が言っていた。だけど僕だって人並みに救われたいし、そのためだったら努力はしたい。手段があるならそれへと縋るのは、選択肢の無かった僕にとっては彼女の存在を選ぶ他なかった。
 僕の中で納得されているのは、「彼女といっしょにいれば時間を巻き戻すことができる」ということ。
 それ以降は僕の力と決定に依存している。再び暗闇に落とされないようにするためには、僕自身が行動するしかない。彼女は見守ってはそれだけだ。今のように、黙々とストロベリーのシェイクを啜るだけ。
 これからどうしようかなどと僕が尋ねても、彼女は返答をしようとはしない。周囲から見ても席には僕一人しかいないのだから、単なる独り言としか思われない。
 僕の言葉に完全スルー。何にも受け答えてくれないのはとっても悲しい。
 けれど最近……一応数ヶ月分の付き合いになってきてから、判ってきたことがあった。

「さっきね、車の中でメールをしていたんだ。来てくれるといいね」
「そうね。でも急な誘いだったから来なくても仕方ないでしょう」

 彼女は直接的な質問には答えないのではなく、答えてはいけないだけであって……おしゃべりをしてくれない冷たい女の子ではなかった。

「あら、そんなこと言っていたらおでましよ。……案外あの男、新座からの連絡をスタンバイしてたんじゃないかしら」
「そんなことはないと思うけど。むぐ。今日はたまたま暇だったんだねー」
「はわ、ごめんよ新座くんっ! お店がどこなのか判らなくって車を少し遠い駐車場に停めちゃって……!」

 紙コップ入ったコーヒーを零さないかと言わんばかりの慌てん坊でやって来るスーツの男は、自分を慕ってくれる友達でもあり弟でもある。
 彼女と違って声を掛けてくれるとすぐに答えてくれる彼、鶴瀬くんは「今日はオフの日だ」とメールで受け答えをしていたにも関わらず、硬めのスーツを着込んでいた。

「……いいよいいよ、来てくれてありがと、鶴瀬くん」

 4月に仏田寺に入門し、当主との契約を交わして晴れて一族となった彼は毎日お寺でお仕事をしている。何をしているかという詳細は研究を外に出してはならない掟があるから話してはくれないが、僕の後釜みたいな存在になったらしく、お母さんの秘書っぽいことをしているらしい。
 そしていつの間にか、僕がしていたことよりもずっと難しい仕事を任されているようだった。なんせ鶴瀬くんは有能だから。元々、『教会』に居た頃からバリバリ働いていたんだもの。やるお仕事も住む場所が変わったとしても、優秀さは変わっていない。

「えっと、新座くん、今日俺を呼んだ理由は……?」

 もうすぐ鶴瀬くんは仏田一族になって半年が経つ。今までは「もうお寺の生活は慣れた?」「そっちの様子はどう?」という話をよくしていたが、もう半年が過ぎれば一人前の顔になってきて下手な挨拶はできそうにない。
 オフの日、と言ってもお家が丸ごと職場だから、仕事は探そうと思えばいくらでも出てくる。休みなんてあってないようなもんだ。大山さんや狭山さんは、いつだって何かしらの難しい話をしていた。まだまだ小さい火刃里くん達だって毎日鍛錬を行なっていた。遊んでいる姿はたまに見るけれど、遊びに行くことなんて滅多に無い。
 そんな日々が仏田では当然になっているからか。鶴瀬くんの格好が私服ではなくスーツなのは、「いつでも出られるようにするため」なんじゃないかと思う。あくまで僕の予想だけど。

「暇だったからだよ。そんだけ。なんか言わなきゃいけないこととかなーんもないよ。鶴瀬くんだって暇だから来てくれたんでしょ?」
「……う、うん。そっか。良かったぁ」
「むぐ、何か心配事でもあった?」
「違うんだ。でも、メールが少し元気無さそうだったから」

 絵文字が少なかったから慌てちゃったんだよ、良かった良かった……。はにかみながら鶴瀬くんは目の前の席に着く。
 優しい子だなぁと思いながら、コーヒーしか頼まなかったらしい彼に大きいサイズのポテトをあげた。ちょうど座った席は僕の前というより、(視えない)彼女の前だった。彼女はじいっと鶴瀬くんを見つめるが、女の子に見つめられているなんて知らない鶴瀬くんは行儀悪く何本もポテトを口に突っ込んでいく。
 彼には悪いけど、僕しか見てないからって乱暴な仕草には少し笑ってしまった。

「今日の新座くんのお仕事、三つ連続だっただろ。だから疲れたとか、嫌なことがあったのかなって思って……それの相談でもあるのかなって身構えてたんだ」
「むーぐ、そりゃ疲れたし嫌なこともあったさ。なんせ一日に三つもしたんだよ。もっと『本部』は僕を褒めるべきだよ。褒めてよ」
「だ、だよね。新座くんは凄いよ」
「心を込めて」
「すっごい。新座くんすっごい。わー」
「もっと心を込めて真剣に褒めて」
「悟司様からの報告で聞いたけど一番最初の『仕事』はたった五分で解決したそうじゃないか。新座くんが、全て一人で見通してしまったって話を聞かせてもらっているよ。やっぱり君の力は凄いものだったんだ」
「うわあ、本格的に褒めてくれてる」

 シンバルを持ったゴリラの玩具みたいな大袈裟な拍手から、注文一つで真面目な話に様変わりする鶴瀬くんは、やっぱり一緒にいて面白い。
 時間的にはまだ悟司さん達はお寺に戻れていないだろう。今日の悟司さんには会っていない筈だ。だから今日のことを話せているのは……ときわくんへの連絡の際にされたものなんだろうか。まさかもう耳にされていることに軽く驚いてしまう。
 情報の早さに「流石だ」と感心しながら、同時に「ああ、これって監視されてるってことだよな」という不審も生じた。

「君の千里眼は素晴らしい異能だ。その力があれば、誰も傷つかないうちに異変を鎮圧することができる。誰にも出来ない、新座くんだけに与えられた神のごとき力。凄い凄いってみんな言ってたよ」
「はい、褒めるの終わりにして。……みんなが言っていたからだから僕を一日に三つも働かせたんだね、そっかぁ」
「……はわ、やっぱり今日の『赤紙』怒ってる?」
「慣れたよ、一日三つもやるのもね」

 だって今日という日は、既に経験済みなんだから。

「あのさ、鶴瀬くん。大山さん達の決定に口出しできる立場ならさ、僕の『仕事』をもうちょっと少なくしてくれるように言ってくれないかな?」
「判った。減らすように言っておくよ」
「……言えるの? 鶴瀬くん、言えちゃう子なの?」
「立場で言ったら寺の門を叩いてまだ半年目の下っ端だけど、悟司様に言ってもらえるようにお願いするよ。悟司様なら俺も話しやすいし、大山様達も声を傾けてくれるだろうしね」
「ああ、そっか、悟司さんに」
「小さな『仕事』を細々とこなすより君の力を最大限生かせる大きなものの方が良い。それぐらい誰でも判ることだろ。君が『何もしなくたってゴールに向かう能力』は既に何人もの目で確認されている。証明だってされている。下手に力を使わせるより更に良い使い方があるって声は簡単に通る。そんなの、下っ端に言われなくても改善してくれるよ。それに悟司様は今日の新座くんの様子を見ている。君が不満に感じた顔色だって全部見ていた。俺が気付いていない君の不満も、全部汲み取って話をつけてくれるだろう」

 後押しが必要なら俺もしてみせるよ、と鶴瀬くんは朗らかな笑みを浮かべる。スラスラと「僕にはもっと良い使い道がある」と、わりと早口で。
 うん、そのストレートな物言い、嫌いじゃない。寧ろ隠し事をしない性格なのは好ましい。秘密が苦手なんじゃなくて、今は秘密にする必要が無いから直球な言い方しかしないところとか、回りくどい人が多い中でとても好感が持てる。
 でもやっぱり、「僕のことを道具扱いしたなー? このやろー、鶴瀬くんのこと嫌いになっちゃうぞー」と彼をいじらなくてはならない気もする。オデコにぐりぐりと人差し指で突っつくと「は、はわっ、ぐりぐりしないで、はわっ」といつも通りの悲鳴を上げた。
 泣きはしない。昔はカスミちゃんに「泣き虫」と言われるぐらいよく泣いちゃう男の子だったけど、今はとっても強い子の鶴瀬くんは僕が突っついても困ったように笑うだけになった。
 こんな子なんだよ、と鶴瀬くんに隠れて彼女に紹介する。
 彼女は僕の隣で無言のままシェイクを啜っていた。知っているとも、知らなかったとも反応しない。ちなみに紙コップはテーブルに置かれていて、風に揺れてストローがふらふら揺れているように見える。実際は音も無くストローに口を付けている女の子がいるなんて、誰も気付くことはない。

「……でも、むぐ、悟司さんに告げ口はやめて」
「はわ、なんで?」
「えっとねー……迷惑かけたくないから、かな。とにかくやめて。悟司さんには絶対言わないで。言うなら圭吾さんにして」
「新座くんがそう言うなら言わないけど……。でもさ、圭吾様は『本部』の口出しをしない人だよ。そもそも半分以上うちの家業に関わっていない人だから言ったとしても意味が……」
「新座、良い判断よ。悟司に言っても無駄だってよく覚えていたわね」

 ストローを齧っていた彼女が、突然口を開く。Lサイズのシェイクを飲み終えて、小さな彼女はそれだけで満足いっぱいになったのかお腹を摩っていた。
 突然の彼女の開口に、鶴瀬くんには判らないように頷く。悟司さんに何を言っても駄目だということ。悟司さんに何かを言ってはいけないということ。それが失敗になるということ。……今更だけど思い出した。我ながら、よく寸前のところで思い出してくれたもんだ。

「鶴瀬くん。圭吾さんって色んなお仕事に顔を出していると思うけど、駄目なの? 今日も車を運転してくれたの、圭吾さんなんだけど」
「あの人は運送役を買って出ているけどそれだけだよ。絶対に必要な役割ではあるけど、圭吾さんは『仕事』の内容を半分も知らされてないと思う。どこに行けばいいかとか、最小限何を用意していけというのは『赤紙』に書かれていても、それだけで……あの人は仏田の『仕事』を受けているけど、受けていないようなもんだから」

 部外者のようなものなんだよ。だから口出しなんてできないよ。言うならやはり悟司様が、なんて彼はかぶりを振る。
 鶴瀬くんの考えも判る。確実に効果のある方を選びたいという気持ちは賢明な彼としては当然の思考だ。
 それでも僕は首を横に振る。今日だってお仕事中に迷惑かけたから、これ以上心配させたくないんだ……。そんな昔から一緒だった幼馴染らしい言葉でやっと納得してくれた。

「じゃあさ! 鶴瀬くんが早く出世して大山さん達より偉くなって、僕にどんどんラクなことさせてくれればいいんだよ!」
「は、半年目の俺には荷が重すぎるよ……! 俺は生まれも育ちも外の人間だよ。そう簡単になれるもんじゃない。せめて一年ちょうだい」
「一年は長いからダーメ」
「はわあ」
「頭良いし他のところでも働き者だったんだから半年目でもいけるって」
「うう、部外者が仏田の敷地内に入るのだって相当なことなんだぞ。まだ俺、『本契約』だってしてないから一族になったかも微妙だし」
「早くしちゃいないよ! お父さんもオッケーしてくれるって!」
「み、光緑様は良くても狭山様とかさぁ……そんなに信頼されてないから『本部』に入っていくことも……」
「入るだけだったら誰にでも出来るでしょ。ちょこっと会議に顔を出して一言ズバって言っちゃえばいいんだよ。ほら、『教会』と僕のちは仲良しだったんだから! 言えるって! 現状だけで満足していちゃダメだよー」
「新座くんスパルタすぎるって……他の組織でうちに出入りできたのなんて、それこそ君のお母さんぐらいしかいないんだよ……」
「いやいや、もっといるって。ほら、輝さんとかだってよくうち来てたじゃん。あの人みたいに中へぐいぐいやって来るぐらい鶴瀬くんも前に出て……」
「誰?」

 鶴瀬くんがキョトンとした顔をする。
 あれ、彼のこと知らないのか。最近仏田寺に来てなかったのかな? 退魔組織『教会』のエージェントとして我が家に協力をしているからよく来る……んじゃなかったっけ?
 会話が一旦中断したとき、元気の良い女子高生の集団が入店した。
 お腹を空かせた女の子達がお店に入ったことで一気に場が華やかなものになる。言い方を変えると、声のボリュームをもう一段階上げないと話ができないぐらいになってしまった。でもそれは仕方ない、学生さん達でも楽しめるお店なんだから、美味しいご飯を求めて楽しみに来た彼女達を咎めることもない。
 うん、僕が尋ねれば何でも答えてくれるような彼でも把握してないことはあるよな、そうだよなと思いながら僕は(鶴瀬くんが殆ど平らげてしまった)ポテトを齧った。
 最後の一本は、一番美味しいところをわざわざ残しておいてくれたのかふっくら太くて長いポテトだ。
 鶴瀬くんに「あの子達さぁ」と女生徒達の方を向かせる。一体何だと思った彼は振り返った。その隙にポテトを龍の聖剣へ寄越すと、彼女はあっという間に口に入れた。
 一見したら突如ポテトが虚空へ消えたようなもの。でも僕しかモグモグしている彼女を見ていないからなんら問題無い。「彼女達が、どうしたの?」と尋ねてくる鶴瀬くんには、「制服って良いよねぇ。買おうかなぁ」と適当なことを言っておく。
 それを聞いて苦笑いするのは、目の前の鶴瀬くんだけではなかった。
 あの制服がとっても似合いそうな彼女の緑眼が、こちらをジトーって見ているのを全身で感じた。



 ――2005年11月3日

 【     /      / Third /     /     】




 /3

 今年の『文化の日』は木曜日でカレンダーの中日。明日11月4日が高校の創立記念日だったため休校。だから今週末は、木曜日から日曜日まで四連休となる。
 寮に住んでいる殆どの生徒は実家に戻ったり、仲間内で旅行に出かけるという。気まぐれで入った写真部の同輩に「紅葉狩りに出かけないか」と誘われたが、「実家が厳しいところだから行けない」と断った。寮で生徒を管理している有名な進学校だったせいかそんな理由で旅行に行けない生徒は多いらしく、変な文句を言われることもない。
 ちなみに、その断りをしたのは二度目である。
 同じ台詞を俺は昔、同じシチュエーションで言ったことがあった。だから既に言い慣れていた。

 2005年の11月1日、放課後に誘われたのは二度目。
 2005年11月1日を過ごしたのは二度目なのだから、慣れたものだった。

 ……それはおかしいだろ。内心叫びたくてならなかった。

 とにかく、俺は長い夢を見ていたらしい。
 仏田寺に続く長い長い石段を登りつつ、思い出していく。
 どうやら俺は夢の中で長い時間を過ごしていた。毎日毎日、二十四時間をきっちり過ごしていくという、それが一晩とは思えない途方もない長い夢を見ていた。
 怒涛の11月を過ごし、忙しない12月を過ごした末に訪れた――拷問の最期。
 夢の中では色んなことがあった。学校で起きたこと、『赤紙』で出動して駆け抜けた日々、苦しい記憶、痛い想い、笑ったこともあったが、それ以上に辛い日々が……確かに二ヶ月間の苦痛が心に刻まれている。
 二ヶ月間の記憶が、たった一晩だけの夢だったというのか。そもそも一晩とも言えない。
 しかしあれが夜中のテスト勉強中に居眠りをして見てしまった……たった十五分間の中の出来事だったっていうのか?
 そうだと思わなければいけないのか。

 ところで、11月1日に行なわれた小テストは百点だった。夢の中で一度やったことあるテストだったから、回答を全て確認して提出できたんだ。百点は妥当だった。
 それにテストが終わって誘われるタイミングも知っている。「それじゃあ、そのうちうまちゃんのお家に遊びに行かせてね!」 同輩が俺に断られた後に吐く台詞すら知っていた。
 敢えていうなら、11月2日に降る雨が秋にしては冷たすぎることも把握している。
 11月3日にはカラッと晴れて、傘を持たなくても歩いて石段を登ることができることも判っていた。
  ……だから、それはおかしいだろ。

 寺に到着して、刻印に詰め込んだ魂を早々に『本部』に提出した。
 献上しなきゃいけない怨霊の魂を出し終えた後に何気なく知り合いの居る屋敷に向かおうと……したところで、『夢の中で見たあること』を思い出す。
 屋敷から屋敷へ続く砂利道。真っ直ぐそこを通ってみたが、いきなり道の隅に寄って歩いてみる。

「わーっ!」

 すると後ろから火刃里が突撃してきた。
 俺が道の端っこに寄らなければ背中に突撃し、俺は砂利道を頭から転げていただろう。元気いっぱい突貫した火刃里は俺の背中に乗っかって、勝ち誇ったように笑ったことだろう。「おれWIN!」なんて言いながら。
 でも飛び掛かってきたところを間一髪避けたので、火刃里はお腹から砂利道にどーんとスライディングしている。見てるだけで痛ぇ。でもそんなの気にせず笑顔で弟は起き上がってきた。

「あーれーっ!? なんでなんで兄ちゃんおれを避けられたのーっ!? 後ろに目ぇ付いてないよねぇーっ!?」
「……火刃里。人に特攻してくる癖はやめろ。早急に直せ。死人が出る前に」
「もしかして兄ちゃんってニュータイプっ!? かぁーっ、新人類ってやつかぁ! それには敵わないなっ、ねぇガンダムの乗り心地ってどんなもんなのっ!?」

 知ってはいたが凄いぞ、この弟。出会って三秒で俺がガンダムに乗っているものに仕立て上げている。
 自分の甚平が汚れるのなんてちっとも気にしていない。砂利道を転がったっていうのに幸い擦り傷すら付いていない火刃里は、俺からモビルスーツの操縦テクニックを聞き出そうとしたくせに「兄ちゃん兄ちゃんっ! いっしょにべんきょーしよーっ!」と、今度は腕に抱きついてきた。
 ふと火刃里が来た方角を見ると、のたのたと気怠な男性……確か名前は芽衣さんがやって来ていた。
 飛びついてすっ転んでそれでもめげずに飛びついている火刃里を見て、声を出さずとも「元気なガキだなぁ」とゲンナリしている顔だ。その表情と火刃里を見守る様子からして、今日の火刃里の世話役は彼なんだろう。自己紹介されなくても察せられた。

 現に、俺の見た11月3日の夢にも芽衣さんは登場人物だった。
 彼の登場は、すんなりと俺の中に受けとめられた。

「おべんきょっ、おべんきょっ、兄ちゃんといっしょーっ!」

 俺の腕を引っ張って、火刃里は工房と呼ばれる……ここの寺の人達が内職をする屋敷に連れてこられた。
 なんでここに連れてこられたかって言ったら、弟が無駄話を混ぜながら説明するには「兄ちゃんと一緒にお勉強がしたいから」。だから魔術師の研究棟とも言える工房屋敷に連れてきて、俺と修行をしようという。手っ取り早い魔術の使い方を教えて簡単にレベルアップをさせてくれだとか。
 「無茶言うな」とか「バカ野郎クソ野郎」としか言えない。
 それでも火刃里は悪意ゼロで「おねがいーっ!」と満面の笑みで縋ってくるもんだから、「まあいいか」って気になってくる。
 こうやってこいつは味方を増やしていく。まんまとこの純粋無垢っぽい笑顔に騙される連中が大量生産されるんだよな。……判るよ。本気で火刃里は「何も考えていない全力の笑顔」を見せつけてくるんだもの。真剣に叱ろうにも、文句を言う方が時間の無駄に思えてくるんだ。やっていることがマトモなだけに。

「……火刃里。お前、魔術師を目指してるんだっけ?」
「兄ちゃんっ! おれが目指してるのは勇者様でマジックナイトだよっ!」
「何度聞いても雑な目標だな、それ」
「へっ!? エヘヘそっかな、おれそう何度も言ってないよっ? だって今思いついた目標だしっ! 口からデマカセってやつだよっ!」

 今思いついたのかよ。当てずっぽかよ。自分からデマカセって告白するのかよ。尚且つなんで照れ笑いなんてしてるんだよ、する必要ねーだろうがよ。
 早口の中にいくつツッコミどころを用意しているんだ、こいつ。
 工房で修行とは言うが、研究員として働いていない俺を施設の真ん中に招くことは、たとえ保護者っぽい芽衣さんが居ても無理な話だ。
 だから工房屋敷の縁側廊下(雨は凌げるようなガラス張り。ただ夏は暑く、冬は寒い。人が住むことを考えられていない屋敷の一角)に座布団を敷いて、三人で話すだけになる。

「おれねっ、炎が出せないのっ。今日頑張ってたんだけど、全然出なかったのっ!」
「お前はまだレベル1魔術師ってことだろ、初心者にもなってないんだ。焦るな。魔術は学問なんだから勉強すれば身に付く」
「早くレベル200ぐらいになるのーっ! 勉強したけど覚えられないんだから、兄ちゃん教えてっ!」

 芽衣さんに至っては座布団を二つ折りにして涅槃のポーズをし始めた。真面目に修行を付き合ってやるつもりは、根っからないらしい。
 俺なんかより寺で魔術師として働いている芽衣さんの方がよっぽど教えられるのに。芽衣さんは自分には関係ねぇみたいな顔で手を振ってきた。「そのまま続けて」と言うかのように。既に教えた後なのかもしれない。

「もしや『炎を操る才能』が無いんじゃないか?」
「えーっ?」
「とりあえず、呪文唱えてみろ。……かったるいけど『また』俺が見ていてやるから」
「うんっ。兄ちゃん見ててね。ファイヤーっ!」

 座布団をずらして火刃里に注目する。芽衣さんは自堕落に涅槃状態のまま、弟の大袈裟なヒーローポーズを見る。
 謎の大絶叫と共に、炎は出た。
 そうだ、出るんだ。火刃里は魔術が使えるようになっているんだ。
 だから閉めきった廊下で炎を出して、すぐそばに障子があって、それに燃え広がって…………。

「あ?」

 火事だ。
 やっぱり火事じゃねーか。

 ガバッと起き上がった芽衣さんがすぐさま呪文を唱える。瞬間的な呪文で何をしたかというと、火刃里の出した以上の大きな炎を巻き上がらせた。
 そんなことしたらもっと障子が燃えて屋敷全焼の恐れが……なんて思う前に、芽衣さんの大きな炎は火刃里の小さな火が周囲を燃やす前よりも早く、障子を黒焦げにする。燃やせる物が無くなった火力の小さな火は、大きな炎に埋もれていった。
 最終的には芽衣さんの再詠唱で炎が渦の中に消える。巻き込まれる形で火刃里の発火も消滅した。

「……すげえ」
「すっげーっ!」

 俺達は、火の血族だ。
 初心者の俺がオーソドックスな発火の魔術を使えるのも、教わったばかりの火刃里が火炎術式を唱えることができるのも、更に言うなら上級者である筈の芽衣さんが水の魔術で消火をするより炎で打ち消す方が早いのも、すべて俺達が炎の一族だからと言える。
 世界を構成する四大元素の風、土、水、火。能力者が何を得意とするかは血の相性に関わってきて……というのも完全にうろ覚えだ。ろくに勉強していない俺は感覚でしか知識を操れない。
 まあ、それはともかく。火を操る火刃里は、更なる火を操る芽衣さんによって救われた。
 水をぶっかけるとか消火器をブチかますのではなく、同属性の魔法によって。
 その発想がてんでなかった火刃里は芽衣さんの華麗な消火活動に「すげーっ! かっけーっ! おれもやってみたーいっ!」と大興奮。反省の色は無い。これには芽衣さんは青筋を立てて盛大にゲンコツ。芽衣さんがやらなきゃ俺がやっていた。
 しかし障子一枚が綺麗に丸焦げになって無くなってしまっている。黒い灰がプスプスと煙を立てていた。
 これからどうするんだろうと芽衣さんを見ると、なんと何事も無かったようにまた座布団を二つ折りにして涅槃のポーズに戻っていく。
 いいのかよ。火事騒ぎを起こして、現に廊下の一部が黒くなっているのに。いいのかよ。

「…………多分、あのときは一本松様が居たからかもしれねーな」

 しかもごく普通に話を進めてるし。

「……えっ?」
「あー? ウマも知らねーのかよ、うちの家は一部『対魔力体』がいるって話」

 めんどくさそうに芽衣さんが話す。
 対魔力。……『夢の中』でも芽衣さんの講習は聞いた。先天的な異能の一つであり、この力が強すぎる人は下級の魔術なんてものを無力化させるもの。無かったことにすらできる能力。
 『夢で見た内容』を思い出している間にも、芽衣さんは無知で貪欲な火刃里のために一から説明していた。
 まるっきり、俺が見た夢の内容といっしょだ。
 ……けれど、最近。違う話の中でも対魔力という言葉を聞いた気がする。
 ほんの数日前。でも『11月以前の問題じゃないある日』で、そのワードが胸に突き刺さった気がした。

「……確かときわさんも、対魔力なんでしたっけ?」

 ……俺は11月1日に見た『十五分の居眠り』の中で、『二ヶ月間のリアルな夢』を覚えている。
 その最終日……12月31日に、とある男性達の会話を聞いていた。
 ときわ……藤春伯父さんの実の息子には、そのような能力があると。夢の中でその話をした男性は……確か、大山さんだ。

 『運が悪いことにあの子は一本松と同じく生まれつき対魔力の異能が凄まじくて』。

 思い出して、少し頭を抱える。さっき、芽衣さんは一本松という人に対魔力があると口にした。『夢の中』の大山さんも同じことを言っている。
 いや、俺の夢に信憑性なんてものは無いんだけど。無いんだけど、あまりにリアルすぎてこの夢だと思っているものは……。
 『まるで俺が一度時間を過ごして、そのまま巻き戻ってきたかのような感覚』。現実にあったこと、そうだと思ってしまいたい。

「知らねーよ。そんな、依織じゃないんだから」
「……依織さんは知っているんですか?」
「ああ。あいつも『機関』で異能を開化させられたクチでな、通称『賢者の脳髄』っていう特異能力なんだが見たものを全て覚えている絶対記憶能力を所持している。だからまあ、何をしてるかっていうと……口の悪い検索エンジンみたいなことをしてるぜ」
「メイちゃん、検索エンジンってネットのあれっ? ググレカスってやつっ!?」
「そうそう、依織にアレ調べてくれよーって言うとググレカスって言われるんだよなー。ったくヤメてほしいぜ。あいつ書庫にあるもんとか読んだ書物や資料とか全暗記してるくせに、元来めんどくさがりだから手を貸したりしねー」

 もっと奉仕精神を磨くべきだよな、なんて芽衣さんは涅槃のポーズのまま大あくび。
 さっきまで焦って消火活動してた人とは思えぬマイペースっぷりだ。

「えっと……。芽衣さん、キカンで異能を開化……ってどういうことですか?」
「あー? ほんと火刃里の兄ちゃんは何も知らねーんだな。魔術や武術と異能の違いぐらいは判っているから大したもんだとは思ったが」

 ……それについては、『以前』ある人に聞いたからです。愛想笑いで答えていく。
 その『ある人』というのは間違いなく目の前の芽衣さんだが。

「『機関』っていうのは、俺んちのことだよ」
「ふーん、キカンは仏田のこと……なんですか?」
「通称だけどな。『超人類能力開発研究所機関』……何をしているかって、能力者の研究だ。より良い魔術や武術の発展、異能の解明、能力者の限界に挑戦。この世の神秘を全て解き明かすことを目的に、能力という能力を調査探求研学するってところだよ」
「うわーっ、今メイちゃんがめちゃくちゃいっぱい漢字使ったのだけはおれにも判ったよーっ!」

 いや、難しいこと何一つ言ってねーよ。

「火刃里が魔術を使えるように修行したり、どうやれば効率よく魔術を学べるのか調べたり、そもそもなんで魔術なんてもんが使えるのかを研究するってところだ」
「はあ」
「で、うちの弟の依織はな、より良い異能を授ける研究の末に超使える能力を貰ったってことだ。そんなこともできちまうし、するために頑張ってくれって言う。場所も金も設備も揃えてやるから研究する奴は存分に研究しやがれっていう団体様なんだよ、この寺は」
「……ここってただのお寺じゃないんですか。お葬式とかするところだと思ってました」
「表の顔ではな。能力や異端事件は一般人には秘匿される。だから表沙汰にはなっていないが、裏の世界ではそこそこ有名な魔術・異能結社なんだぜ、この家はな。……まあ、今じゃ『研究所』って言葉が合うが、昔は『診療所』だった」
「診療所?」
「病院だったんだよ、しかも医大病院ってやつ。昔の坊さんは、今でいう医者とか薬剤師だったんだ。で、その神の御業のごときご立派な医学を学びに続々と生徒がやってきて……。あー、これ以上詳しいことは知らねぇ」

 歴史なんて俺もあくまでのさわりの部分に触れたぐらいだしな、とつまらなそうに息を吐く。
 なるほど。医者みたいなことをしていて、しかも葬式まで世話をしてれば金が沸くか。うちが金持ちな理由は判った……なんとなくだけど。判った気分になるだけだが。
 突っ込んだ質問をしようとすると芽衣さんは「そんなの依織にでも訊いてくれ」と面倒臭げに返してきた。
 そればっかりだ。ようは依織さんじゃなくても本でも何でも使って「自分で調べろ」という話だった。

「ねーねー緋馬兄ちゃんってさぁ、何も知らないんだねーっ?」

 いきなり火刃里が、茶化す訳でも馬鹿にしたい訳でもなく……純粋に心に生じたらしい言葉を俺へと投げてきた。

「……あん?」
「みんながいっぱい陰口を言ってたよーっ。緋馬様はおバカさんだーっ、魔術のお勉強もちっともしないダメな子だって! それってホントだったんだねーっ?」

 全然悪びれもせず。陰で口にするから陰口だっていう仕組みすら判っていないかのように。堂々とそのままの評価を俺にぶつけてきた。
 さすがにこれには芽衣さんも苦笑い。笑い飛ばすこともせず、「どうしたもんかな」という俺へのフォロー態勢を取ろうとさえしていた。

「……うっぜぇ」
「あれあれ兄ちゃん怒ったのっ?」
「すまんな。どうせ俺は……能力者一年生ってやつだし、期待されるほどの力もねーよ」
「あっ! それっておれとお揃いだよっ! おれも一年生だから兄ちゃんといっしょなんだーっ! ……一年生だから判んないこと多いの当たり前だよねっ! じゃあおれと一緒で頑張っていこーっ! おーっ!」

 俺の両手をぎゅっと掴んで、ぶんぶんと振るう弟。腕に全力を込められて、本当に痛い。
 でも振り解く気にはなれなかった。
 ……度の過ぎたポジティブの火刃里は眩しすぎたが、目を瞑るのは勿体無い。思わずつられて頷いてしまう力を持っていた。

「……火刃里、お前ってやつはよぉ」

 そのとき、廊下の先から僧侶の一人が駆け寄って来た。焦った様子は無かったが、早め早めに連絡をしに来たのか、少し早足のご様子だ。
 焦げて黒くなった廊下の壁の前に火刃里を立たせカモフラージュしつつ、芽衣さんが身を起こして男性と応対する。

「…………。んだと?」
「なにーっ? なになにどーしたのーっ?」
「……あー、ガキ。まさかの手続きが、通ったぞ」
「えっ!? マジでっ!? やったぁーっ!!」

 火刃里がぴょいんと廊下で飛び跳ねる。カモフラージュの役割なんか忘れてぴょんぴょん走り回り始めた。
 僧がコゲ臭いのに気付いて不審な顔をしやがった。……でもって、なんかコレって寝煙草をしようと箱を取り出していた芽衣さんの不審火が起きたようにも思われないか? それともわざと煙草の箱を出して誤魔化す気だったとか? どうだろ、芽衣さんがそんな献身的に証拠隠滅するとは思えない。
 何故かぴょんぴょん飛び跳ねっていた火刃里の襟を掴んで止める。ぐえっと不気味な声で、廊下のバタバタは終わった。

「……手続きって何だ、火刃里?」
「えっへへーっ、兄ちゃんにはナイショ! おれねー、今日すっげー強くなってきちゃうーっ!」
「……。お前に『仕事』、か?」

 退魔の仕事を任されたのか、という言葉に火刃里は元気いっぱい「うんっ!」と笑顔を見せた。
 全力の、本当に嬉しくてたまらないというような笑み。いいだろーっとニコニコ笑って『赤紙』を自慢している。
 書かれた字が細かすぎて詳細は判らなかったけど、お化け退治をするために俺の元に運ばれてくる『赤紙』と同じに見えた。
 火刃里は未熟であってもなんだかんだ、命をかけて異端を狩る『仕事』をこなしている。
 でも複雑だ。おそらく俺の顔も露骨に複雑な表情をしているだろう。

「兄ちゃんっ! おれ、超レベルアップしてくるよーっ!」

 万歳とガッツポーズとジャンプを兼ね備えた謎の気合を見せつけて、火刃里は同じ依頼の『赤紙』を受け取ったらしい芽衣さんと何かを話し始めた。
 内容は……おそらく聞いちゃいけないことだ。すっかり化け物退治の冒険が始まることが嬉しい火刃里は、文章を追うより「おれ、カッコイイとこ見せられるかなーっ!」と夢を胸いっぱいに膨らませていた。
 一方で、弟が死地に赴くんだと実感してしまった俺は無言になってしまう。
 だって俺は先日、長い入院をした。痛かったし怖かったし心細かった。寿命が縮む想いを味わっている。
 でもこいつだって同じ目に遭う可能性があるのに、弟は呑気に笑っていやがる。
 住む世界が違うことを思い知らされていた。



 ――2005年11月3日

 【     /      / Third /     /     】




 /4

 去って行く兄に引っ付く火刃里だったが、「俺はお勉強の為に書庫に行く」と言うとばっちぃもんでも触るかのようにそそくさと離れていった。
 修行をしたいと言ってたのはお前だった気がするんだが、本を読んでの修行は相当苦手らしい。いつか本当に叱られて痛い目でも遭いやがれ、と自由奔放な振る舞いに毒づく。
 勉強なんてする気は無かったが、あれだけ芽衣さんに「何も知らねーんだな」と言われては魔術の基礎入門ぐらい読んだ方がいいんじゃないかと思えてきた。だがそれだけが書庫に行く理由じゃない。
 俺には判らないことが多すぎる。
 全てが解決できる訳が無いけど、少しでも解明しなければならないって思えるぐらいに。

 芽衣さんは言っていた。ここは研究所であると。異能の解明、この世の神秘を全て解き明かすことを目的に、能力という能力を調査しているってことを。
 ということは、今『俺が見舞われている超常現象について』調べている人がいないとも限らない。そう、未来に期待を持ちたかった。
 あったらいいなぐらいの軽い気持ちで訪れた寺の書庫は、予想以上に大きな場所だ。そして中学や高校の図書室の数倍は汚い所でもある。
 図書室にありがちな司書さんが待機しているスペースも無いし、蔵書を検索できるパソコンなんてない。あいうえお順にも、筆者順にも並んでいる訳がない。
 ただそこは書庫……書物を、保管している倉庫に過ぎなかった。

 古い本棚がズラリと並んでいるが、あちこち床に書類が縦に積み立てられている。
 背表紙なんてない穴に紐を通した紙と紙と紙。目的の物など探せないし、ここは探すようなところじゃない。
 入って一秒で「諦めよう」って気になれる威圧感が襲い掛かる。辛抱強い自覚はあったがこれは、いくらなんでも。
 せめて一冊ぐらい自分の有益になる本が見つけられないかなと、書庫に足を踏み入れる。
 すると、本の山の向こう……通路にしゃがみこんでいる依織さんを見かけた。

「なんだよウマシカ。一見様はお断りだぜ。ここは危険地帯――デンジャラスゾーン――だからな。入るなら気合いれて突入しやがれ」

 資料に囲まれながらも涼しい床にあぐらをかいて座り込んでいる依織さんは、開口一番に罵ってくる。
 今の俺に鹿要素は無かったが、変なところで言い返すと応酬が止まらなくなるというのは判っているのでスルーする。

「普通に入りますよ、書庫ですから。妙な振り仮名を振っても入ります」
「おう。飯食え」
「……はあ?」

 誘われて、何故かそこでお昼を一緒に食べる羽目になった。

 場所は変わらず書庫の中だ。依織さんはあぐらの上に握り飯を置いている。
 周囲には俺達以外にも数人の書庫を使う着物の人達がちょこちょこ見えたが、誰もここで飯をしようという依織さんを指摘することはない。
 学校の図書室だったら叱られそうなのに、誰も何も言ってこないから俺も言われるがまま握り飯を掴んだ。
 せめてサンドイッチだったら良かったのに、よりにもよって海苔で巻かれていない握り飯。紙が多い場所でいいのか、本当にいいのかと内心冷や汗をかいてきた。
 しかし握り飯はもちろん美味かった。ここで手に入る飯なのだから、厨房の魔王お手製に違いないだろう。

「……依織さんって、何でも知っているんですよね?」
「何でもは知らねーよ。知ってるんじゃなくて、俺が今までに読んだものを覚えているだけだ」
「でも、見たやつ全部覚えていたらそれは……ここにあるもの全部覚えているってことでしょ」
「ここに資料がどんだけ数がある? 地下まである書庫にどんだけの文字がある? 一枚のページを読み解くのにどんだけの時間が必要だ? 読むのが、じゃねーぞ、理解して読み解くのには時間がかかるんだ。覚えるとは別問題なんだよ」
「……へえ」
「俺は二十歳、健全な男子、飯も食えば糞もする。その全ての時間を読書に費やせってか。ふざけんなよそんなの天下のパソコン様にやらせておけ。俺は人間畜生だ」

 全部知ってる訳ねーだろうがよ、と依織さんはむんずと掴んだ握り飯をガツガツと頬張っている。
 左手に飯を抱えて、そうしながらも目線は逆側の手に持った書物を追いかけていた。
 すぐさま資料を追いかけないといけない理由でもあるんですかと尋ねると、「今年度の報告書全部を暗記しろってお達しだ。ざけんな」ともぐもぐしながら答えてくれた。わりとマジで怒っていた。

 おそらく依織さんの目が文字を追うというのは、スキャナーで取り込んで保存するという作業と同じなんだろう。
 何から何までコピーして、自分のものにする。資料の中身なんて興味の無い俺は読んだとしても一瞬で忘れてしまうけど、彼は忘れない。
 人の体で完全に情報を取り込むなんて、さすが特異な能力を持った異能力者だと驚いてしまう。
 だが取り込むのには時間が掛かっていた。一枚を把握するのにかかる時間は……俺とそう変わりない。むしろ理解をしてから一つ一つ脳へ『名前を付けて保存』しているので、俺よりも読むスピードはずっと遅かった。
 あぐらをかく彼の周囲には、大量の紙束。……苛立っていてもおかしくない。
 批難はできず、同情してしまう。

「で、なんでぇ?」
「……え?」
「『大依織様って、何でも知っているんですわね』ってニャンゴロしてきたってことは俺様に淡い恋心に似た期待を抱いて突撃してきたようなもんだろ?」
「違います」
「じゃあおめーは何が訊きたいんだよ? 何でもは知らねーけど知ってることなら引き出せるぜ」

 拳一つ分の握り飯をがつっと食らいつき、蛇のように喉へ飲みほしていく。
 指に付いた米粒をそのままに、二個目を掴み始めた。カロリー摂取を怠らず、それでいて現在進行形で文章を追っていく。だというのに雑談を挟むように俺へ話を振ってくれた。
 そんなことをしたら理解する時間が倍になりませんかね、と思ったけど尋ねられたからにはこちらも甘えてしまおう。

「……依織さん。時間を越えてくる能力とか、超常現象について知りたいんです。精神だけが未来から、経験した過去に遡ってくる現象に関して記した本や研究資料があれば教えてほしいんですけど。タイムスリップとか、タイムリープとか」
「タイムスリップとタイムリープは別物だろ」
「……そうなんですか? 正直どんなもんだか判ってないんです」
「タイムスリップは、自分が別の世界や別の次元を飛ぶことだよ。体を任意の場所にな。ドラえもんのタイムマシンは自分で操縦できるからタイムスリップだな。でもって基本タイムリープは精神・意識だけを今ではない時間に飛ばすもんだ」

 へえ。さすが知識の塊。
 「厳密な区切りは無いから筆者によって表記が変わるけどな」って注釈するぐらい詳しい。

「そう、そういう……そういう異能力が知りたいです。出来れば、うん、タイムリープの方……そういう異能に興味あるんです」
「へえ? ……異能は生まれたときに何があるか決まってるもんだ。異能を調べたって知識が深まっても自分じゃ使えねーからな。どうせ知りたいなら、『今からでもできるやり方について』調べた方がいいぜ」
「やり方。あるんですか、そんなの?」

 依織さんの握り飯を持った左手が、持ったままとある方向を差す。
 指差すことはなかったが、「あっちにある」と言うかのよう。「ウマシカが立ってるところから、東に二十歩歩いた先の棚の二段目、右から数えてみろ」なんて不思議な注文をされる。
 言われた通りに自分の歩幅を信じて二十進んでみると、普通の本棚ではなく重さで変型した奇妙な棚が見えた。
 そこから二段目……天井に近い段を、脚立を使って覗いてみる。
 さらに背表紙も何も無い紙束の中から、右から順に表紙をあらっていく。

 魔性の使役。妖精との交流。霊具。実験:魔力切れの状態で魔術を使用してみたら。実験:魔力切れの状態で全力疾走してみた。真祖捕獲の報告書。錬金術入門。錬金術基礎。魔性の使役・二。越境。

 なんで『魔性の使役』と『魔性の使役・二』の資料が二つ並んでないんだよって文句を言いたくなりながら、それらしきものを引き抜いた。
 ――越境の書。
 ――時間跳躍。精神を過去軸に飛ばす異能について。
 これだ。ページ数はおよそ五十。そんなに多くない。
 急いで開いてみると、そこには……細かい文字で膨大な量の呪文が書かれていた。
 ぐらりと眩暈がする。
 世界の言語体系には無い、神秘の詞……魔術文字ってやつが延々と書かれていた。
 しかもこれは一ページ目の一行目から、約五十ページの最後の一文字までが……全て一つの文だ。どれも切れない、全部発音して意味のある呪文だ。
 おもわず拒否反応が出て、ぞわっと背筋が泡立つ。英文丸暗記だって根気が無きゃできないのに、こんなのすぐに覚えられる訳が無い。
 ……けど、時間跳躍が『手段として確立されている』。
 その事実に驚き、純粋に感動してしまった。

「……い、依織さん。ほんとにこれ、唱えたら……時間跳躍できるんですか?」
「やってみなきゃ判んねーよ。やってみたって、センスがなきゃ無理だしな。いくら一生懸命練習しても未熟じゃファイヤーも使えないガキを俺は知ってるぜ」

 なんかさっき出来るようになったらしいけど、と思いっきり誰のことか判りやすいことを言う。
 一体いつの間に情報が伝わっていたんだ。

「つーか、シカは……時間を跳びたかったんだ?」

 俺、鹿じゃないんだけど。
 飯を食い終えた依織さんは手を拭いて本気モードの読書顔になろうとしていた。そうなったらもう相手にされないかも。なら先に話を終えなきゃいけない。

「……ええ、そうです。時間跳躍ってものが世界にはある。ちゃんと存在しているものである。それが確信したかったんです。でも俺がやろうとかはあんまり……」
「あるかどうか判らないって疑っていたのかよ。火をつける魔術があって、空を飛ぶ羽を持った化け物もいて、幽霊が群れで襲い掛かるこの世界で」
「俺は、依織さん達とは違って……今まで異能には極力触れないような生活をしてたんですよ。どこから有って無いものか判らないのは無理もないでしょ」

 今使える魔術だって、藤春伯父さんが「護身だ」と言って教えてくれたんだ。
 中学まで魔法なんてゲームの世界でしか見たことなかったぐらいだ。それだけ高梨家で奇妙な力は使われなかった。あずまおばさんは理解はあるけど、あるだけの一般人だし。あさかとみずほだってもちろん使えない。あの二人は教わってもいないから何にも出来なかった。
 藤春伯父さんが魔術結社の生まれだったと知ったのだって、護身術として手から炎を出す方法を教わったときだ。
 お盆や暮れになると訪れていた陰湿な寺も、ただの寺としか考えてなかった頃がたった数年前。
 今となっては異端退治に駆り出されてるけど、まだ4月はお化けを燃やすなんてことなんてしたことなかった。

「俺は……初心者中の初心者なんです。周囲に能力者なんていなかったんだから。中学時代までのクラスメイトや知り合いに異能遣いはいない。この寺のように、わんさかと能力者揃いなのがおかしいんだ」
「あーあー、だろうなー。そうだよ、普通の人々は『一般人』と呼ばれるんだ」
「ですね」
「つまり能力者は一般じゃない。数が少ないもんな。……だから、創るのは、難しい」

 創る、という言葉に依織さんは強く音を込めた。
 忌々し気に、絞り出すように。

「……依織さん?」
「人間は普通に生まれる。人間に備わるべき普通の体で生まれる。けど能力者ってやつは、普通の人間に備わっていないちょっとした違いを持って生まれてくる人間。それが俺達のような、炎を操ったり、魂を引き抜いたり、『一般人にはできないことをしてみせる連中』だ」
「……うん」
「数は少ない。一般的な数じゃない。たとえそれが『同じ血同士の繁殖なら産まれる可能性が高くなる』としても……特異な能力を持って産まれるのはごく稀なんだ。仏田家みたいに、兄弟全員が異能を操れるなんてケースは大抵信じられない」
「……はあ」
「当然だよ。だってこの家は『能力者が生まれるまで産み続けて』、『能力者じゃかったら無かったことにしてる』んだから」
「…………」

 藤春おじさんの話を思い出す。
 夢の中では11月の寒い雨の日に聞いたものだった。

「稀な能力が生えるまでグツグツと薬草やら何か魔法生物の尻尾やらを煮られてまぶして子供を創った。失敗もあった。失敗の方が多かった。それが普通だ。だけど根気よくやってりゃ成功もした。……それが俺だ。『賢者の脳髄』なんていう立派なもんを備えた状態で生まれた俺だ。……『違う』」
「……違う?」
「他の奴は無かったことにされて、俺だけ生き残ったんだ」
「…………」
「俺の兄ちゃんである男衾だってそうだ。尋常じゃない狩猟感覚を備えていたから生き残った。他の兄弟は無かったから消された。芽衣兄ちゃんもそうだ。他の連中より魔を操る才能が高かった。他の連中は魔の資質なんて一切無い。だから……男衾と芽衣以外の兄弟は、食われて殺された」

 依織さんは、資料に目を通していない。
 文字を追うべき彼の眼は、しっかりと……俺へとぶつけられている。
 恨みのこもった声を、そのままぶつけるために。よそ見もせず話し相手となってしまっている俺へと独り言の怨念を吐きつけていた。

「でよ、優秀な能力者を作って集めて、何をさせるかっていったら……スキャナーみたいなことさせられてるぜ。そんなら電化製品屋に行って高くて良いやつ買った方が良いんじゃねーか」
「……そうですね」
「クソが。ったく、いつもの調子で脱線が過ぎたぜ。許せ。後でコーラを奢ってやる」
「コーラなんてどこででも買えるじゃないですか」
「自販機も無いし一番近いコンビニまで一時間あるこの山で、よくそんなこと言えるぜ」

 なるほど。言われてみるともしかしてコーラって、取引に使えるほどとても貴重な物だったりするのか……この寺では。

「……その、ありがとうございました。依織さんってコーラ好きなんです? お礼はコーラでいいすか」
「はあ!? 馬鹿かテメェ!? なんだよコーラ嫌いな奴なんているのかよ!?」
「い、いるでしょ、そんなに自信満々に叫ばれても普通に炭酸嫌いとかいるでしょ、世の中……。あんまり俺は好きでも……嫌いでもないっていうか。俺よりあさかやみずほの方がよく買って飲んでたな、ってぐらいで……」
「ああ、あさかの葬式のときのコーラ大量発注にはそんな理由があったのかよ。でもあれ通夜振る舞いの後もみんな飲まねーから俺とタマで四ダース全部処理してやったぜ。即日な! 少しは感謝しろよ!」
「炭酸飲料なんて早々腐らないんだから保存しておきゃいいのに……」

 瓶の四ダースって、単純計算で五十本じゃないか。二人で一日で飲んだってどんだけ無理してるんだよ。

 そこまで愚痴って、悪寒に襲われる。
 嫌な記憶が蘇った。

「は?」

 ……それは、今までの俺の中には無かった記憶だ。
 ……いや、それは、あくまで俺の体にあっただけの記録かもしれない。

 俺は経験していないけど、俺の体は知っている。
 俺の頭には無かったけど、俺自身にはきちんと刻まれていたある事実。

 ――あさかの葬式。

「……な……」

 脳裏に浮かぶのは、冬の景色。
 お寺。お経を読む寄居の父ちゃん。黒いスーツの人々。喪服の両親。まだ転校する前の高校の学生服を着た俺。
 突然の死に泣き喚くみずほ。
 2月。雪の頃。昨夜も山では雪が降ったばかりで、その日も今にも降り出しそうなほど白い空。

 棺桶の中に入った、たった十四年で生涯を閉じる――――みずほの双子の兄。

「……ウマシカ?」
「な……なに……これ……なんだよそれ!?」

 全身に汗が噴き出す。突然胸がドクドクと走って苦しくなって、どっと涙が溢れてきた。
 そんなことを目の前でされたら、「どうした!?」と依織さんも立ち上がって駆け寄ってきてくれる。でも声を掛けられても対応なんてできない。

 だって、こんなの知らない。
 思い出されていくのに、知らない。

 そもそも俺の『四日前の記憶』は、『12月31日』だ。
 大晦日に学生寮から新幹線に乗って仏田寺に戻ってきた。年末ギリギリまで学校の寮で過ごしている。一方藤春伯父さんのマンションで過ごしている双子二人は、伯父さんの仕事の都合で31日の帰省になった。
 俺に割り当てられた部屋で、挨拶をしに来た奴らが居た。

 ……土産を強請る火刃里。
 ……元気な火刃里に突撃するみずほ。
 ……静かにみずほを追いかけてきたあさか。

 その記憶もある。あさかが話した会話だって、俺は覚えている。

『やあ、ウマちゃん。久しぶり』
『ウマちゃんの方が帰るの早かったんだね』
『いいな、この部屋。ふっかふかだ』

 俺の部屋にカーペットが敷かれていたから、そんな感想を漏らしたのを覚えていた。
 だから、俺の知っている限りでは……2005年12月31日まであさかは、確かにあそこに……。

 だというのにこの体は、『2005年2月19日にあさかの葬式に出た』ということを思い出させた。



 ――2005月2月19日

 【 First /     / Third / Fourth /     】




 /5

 あさかくんが寺に戻ってきた。
 解放されたと言っていい。あさかくんの遺体が仏田寺に搬送されたのは、彼が死んだという2月17日の深夜だった。

 反転した寄居くんの暴走の結果、バラバラにされたあさかくん。縦横無尽に力の限り体を引き裂かれ、それでも決死の蘇生術でなんとかツギハギでも生き延びた彼だったが、生還は難しかった。
 もしかしたら日常に戻れるかもしれなかった。でもあちこちを食い千切られ、素材も足りなくなっていたあさかくんが救えるのは奇跡だろう。そう言われていた。それでも可能であればこの世の『再生』の名が付く魔術を全て試してみたいという声に則って、彼は生かされていた。
 僕は蘇生の一部始終を見ていた訳じゃない。でも航先生が「慧の勉強になるだろう」とカルテ――という名の実験報告書――を読ませてくれた。
 読まなくても僕はあさかくんの病状を『知ってる』ので構わなかったけど、僕の成長を楽しみにしてくれる先生の優しい心は無碍にしたくない。たとえ知っていても必死に目を通した。

 ありとあらゆる『蘇生』を施したあさかくんは、歪みながらに蘇っていった。
 日本古来の神術。大陸由来の薬学。西欧の白魔術に、遠く離れた暑い国の祈祷や呪術。
 悪魔の如き所業をその身に受け、文字通り八つ裂きにされた体は少しずつ修復していった。
 だけど足りない物が多く、あと一歩、本来の姿には届かない。
 『機関』にある全ての知恵を総動員し、由縁のある魔術結社と共同作戦で続けられていく手術。
 それはとても有意義な時間だった。異端堕ちした少年によって殺された子供を救うため、組織と組織が手を取り、同じ志を目指していくのだから。
 あさかくんは、結社達の進歩のために使われていた。

 だけど奇跡は、起きなかった。
 元々死んでもおかしくない子を生かそうとしていたんだ。生きてる方がおかしいとされた子だった。だから研究チーム一同、「残念だ」とは言わなかった。
 何が足りなかったとはまだ判らないけど、今後はその判らなかったことを探っていけばいい。それ以上の功績があったのだから良しとしよう、という言葉で書類は締めくくられている。

「でねぇ、慧、聞いているかい?」
「はい、先生」
「一番効果的だったのは……肉体復元・修繕・活性化の異能より、巻き戻りだったそうだよ。傷ついた組織を復活させるんじゃなくて、傷付く前の体に戻すというやつ。できたのは指先の修築ぐらいだったらしいんだけどねぇ。はあ、部分的に時間を戻させるなんて突飛なことを考えた術者もいたもんだなぁ」

 先生はあさかくんの実験はとても興味深かったらしく、僕が報告書を読み終わったと言うと楽しそうに今までの経緯を話してくれた。
 万病に効く薬草を使って傷を治したケースもあった。治癒速度を高めて修復させたケースもあった。そうやって治療する未来へ早送りする秘術が多い中、「あさかくんが殺される前の体にさせる」という『時間を操る秘術』があったので、試したケースが特に先生の好奇心を刺激したらしい。

「遥か昔、人類が繁栄する前に栄えた種族が置き土産とばかりに多くの奇跡を言語に込めて遺しておいてくれた。その神語はバベルの塔が倒壊した今世では殆ど読めなくなってしまったけど、それでも法則性があるから習得できない言語ではない。世界各国何世紀もかけて幾人ものな夢追い人が翻訳していったんだよ。けれど完全に使いこなしているのは一体何人いるんだろうね?」
「……凄い魔法なんでしょうね、先生」
「ああ、そうだよ、凄いよ。現に走りしか唱えていない未完成の魔法だっていうのに、あさかくんの指は修造されちゃったんだ。ふう、もし『時の魔法』の本物を習得できたとしたら……老人が赤子になっちゃえるし、死体だって死ぬ前に戻っちゃうだろうね」
「……死んだ人も生きている、『時の魔法』ですか」
「神様の力だねぇ。……はあ、これでも先生、一度はね、訳書に力を入れてみた頃もあったんだ。一応書庫に過去の名残を保管してあるけど、まだ若かった頃だから不十分だろうなぁ。あれは普通の人間ができるものじゃないしねぇ。うんうん、凡人は無理だったなぁ」
「そんな、先生は……凡人じゃないです。とっても凄い人です。それなのに難しかったんですか?」
「ふふ、お手上げだったよ」

 残念な思い出にも関わらず、先生は楽しそうに語ってくれた。
 根っからの努力家で勉強も実践も大好きな先生は、定期的にあさかくんの体が収容されていた翔鶴研究所というところに赴いていた。
 古くて取り壊される筈だった昔ながらの病院を買い取って、そのまま仏田の傘下にしてしまった建物。僕もたびたび先生と一緒に行ったことがある。「遺体を回収しに行ったとき、素晴らしい話がいっぱい聞けて良かったよ」と笑顔で話し込んだ先生がいたから……あさかくんの遺体が寺に届いたのが、深夜になったんだった。

 先生は笑顔で帰ってきた。だからとても喜ばしいことだと思っていた。
 でも実際は、『高梨 あさか』という十四歳の少年が亡くなったということ。
 死は親族に伝えられ、翌日朝には両親があさかくんと対面した。
 助からなかったとはいえ体は……人に見せられる程度にまで修復されている。それは時々お見舞いに行っていた彼らも知っていた。
 このまま無事復活し、五体満足で帰ってきてくれるんじゃないか……そう淡い期待を抱きかけたところで、「やっぱり無理でした」は辛かろう。
 駆けつけた両親と兄弟の姿は、見ていて気持ち良いものではない。

 通夜、葬儀、告別式。
 どれも仏田寺で日常的に見ていた風景だけど、胸に突き刺さるものがある。

 葬儀だけ出席して、火葬場まで見送るつもりはなかったが「今までの感謝を込めて」と先生がついて行くというので、僕も同行した。
 柩が運び出され、人々があさかくんの最期を見送る。
 火葬炉の前でも最後まで双子の弟のみずほくんは泣きじゃくっていた。誰も彼を叱る人がいないから、延々と泣き続けている。
 でもそれじゃあ先に進まないと押し切ったのは、兄役の緋馬くんだった。
 実の父親の藤春様も、ハンカチで涙を抑えている母親のあずまさんも、口がきけない状態だったから。……実の兄であるにも関わらず、声を掛けられる距離でなかったときわ様も静かに俯いていた。声に出して弟・みずほくんを慰めることができたのは緋馬くんのみだった。
 その場に居た親戚知り合い一同、彼に感謝しただろう。

「あさかは死んだんだよ。……受け入れろよ……」

 そして尊敬しただろう。
 気丈にも弟を宥めた彼を。
 長年連れ添った義弟をついに亡くして悲しいのにも関わらず、気遣えた緋馬くんは誰よりも大きく見えた。

 火葬炉が閉められ、炎に焼かれる音を聞いてその場を離れる。
 後は料理が出されるのだけど、みんな箸を喜んで進めようとはしなかった。それでも場を満たす重さを吹き飛ばそうと、死者の過去を語っていく。
 少しでも気を晴らそうと努力しても、拾骨室で遺骨を拾い始めればまたあの空気が戻ってきてしまうのに。


 ――2005年11月3日

 【     /      / Third /     /     】




 /6

 あさかが死んだなんて認めたくない。だって、俺はあさかが死んだ世界なんて体験していない。
 だというのに、『今の俺の体』は、あさかが死んだ記録を刻んでいる。
 この脳は、あさかの葬式に出席した記録を、刻み込んでいやがった。

 2005年2月。寒い2月。以前通っていた高校の制服の上にコートを着て参列したという記憶。
 みずほが大泣きしていた記憶。あずまおばさんもハンカチでずっと口を抑えていた記憶。藤春おじさんも痛そうなぐらい拳をギリギリと握り潰しながら、何も言わずに俯いていた記憶。
 鮮明に蘇っていく。俺は怒りに耐えているおじさんを見ていたら……悲しかった気分が更にずんと沈んでしまって、立っていられなくなってしまったんだ。
 無理にでも動かないといけないと思った。……あさかの死を受け入れられずに泣き止まないみずほに声を掛けたのは、俺が気絶しないようにするためだ。俺だって涙声だったけど俺よりもっと泣いていたみずほがいたから、頑張れると思えたんだ。
 きっと少しでも気丈に振る舞っているように周囲には見えただろう。それが俺にとって一番の選択だったからしただけなのに。
 そんな悲しい記憶。まだ一年も経っていない高梨 緋馬の心は、癒えている筈がない。

 書庫でしゃがみ込んで、本棚を背にぜえぜえと呼吸を落ち着ける。
 ポケットに入れていた携帯電話を開いて、メールの受信画面を呼び出す。
 カチカチと過去の履歴を探した。2月のメールを探す。新しいものに押し潰されて消えかけていたが、辛うじてあの頃の記録を文字で追うことができた。

 何人かの友人が、俺やみずほを気遣うメールを送ってくれていた。
 学校近くの葬儀場じゃなくて藤春おじさんの実家で葬儀は行なわれた。県を跨いでいるため、学校の友人達は出席できなかった。だから「後でマンションにお線香をあげに行っていいか?」なんて律儀なメールを送ってくれる友人が何人もいた。
 みずほのクラスメイト。あさかの小学生時代の友人。俺も交えてよく遊んでくれた幼馴染。お世話になった恩師。大勢居た。
 みんな義理がたかった。線香なんてあげに来たってあさかに会える訳じゃないのに。でも遺影の笑顔だけでもいいから会いたいんだってメールしてきていた。
 そのやり取り。
 消えかけっていたけど、辛うじて携帯電話の中に残っている。
 残ってしまっている。
 あさかの葬式をしたっていう事実が嘘じゃないって証拠が、俺の掌に存在してしまっていた。

「あ……ああ……あああ、なんで、なんでだよ……!」

 書庫で携帯電話を握りしめながら、顔を青くしてガタガタと震えていたら依織さんだって異常事態だと察してくれる。
 駆け寄ってきた依織さんが「シンリンの野郎を呼ぶか?」「ルーラしてお前が医務室行くか?」「でも書庫でルーラしたら頭ぶつけるから気を付けろよ!?」などと次々心配の声を掛けてくれた。
 尋常じゃない頭痛と吐き気がしたが、体が生じた異常ではないから医者に見せても何も対処をしてくれないだろう。必死に深呼吸をして、断った。

 でも黴臭い書庫での深呼吸は本当に体へ悪影響を及ぼしそうだ。外の空気を吸いたいと言って書庫を出る。
 依織さんは俺に肩を貸すと気遣ってくれたが、構わず一人で外に出してくれた。飛び出すように書庫から逃げる。
 葬式に流した涙と同じがまたこみ上げてくる。瞼を拭いながら、息苦しい暗闇から這い出た。
 ばたばたと屋敷を駆ける。通り過ぎていく何人かの僧達に変な顔をされながら、滅多に来ない寺の風景を次々思い出していった。

 ――夏休みになると、藤春おじさんは息子全員を連れて仏田寺に戻る。
 ここがおじさんが生まれ育った実家だから、本来俺が住むべき場所だからって……あさかとみずほの誕生日であるお盆時期になるとここに来て、数日過ごすんだ。
 お盆は双子の誕生日が近いということで、お寺でささやかながら誕生日のパーティーをする。それは毎年の恒例行事でもあった。友人の多いあの二人は学校の友達ともパーティーをするんだけど、寺に居る親戚達(寛太や月彦、寄居達)からもプレゼントが貰いたいからここでもパーティーをしやがるんだ。
 あさかとみずほの誕生日パーティーをする広間には、良い思い出があった。今思い出しても気分が良い記憶だ。
 そうだ、良い記憶は夏だけじゃない。大晦日も俺達は仏田寺にやって来る。
 比較的大きな客室にテレビがあって、そこで年若い連中が集まってテレビのチャンネル争いをする記憶があった。
 マンションに居るときはリモコンの奪い合いなんてしないけど、子供が十人も集まれば12月31日のテレビ戦争は必ずと言っていいほど勃発して……依織さんや陽平さんとかが場外乱闘バトルになったりして……。

 そんな良い記憶だけ蘇ってくれれば良かったじゃないか。
 なのになんで……『みずほだけの誕生日パーティーになって、使わせてくれた少しだけ和室が小さくなった』とか、『あさかが居なくなったから、ケーキも小さいね』なんて台詞が出てくるんだ!?

 そんな過去、経験していない。俺の心は知らない。
 なのに俺の体は『確かにそれは体験してきたぞ』って、『実際にあったことだぞ』って訴えている。
 知らないのに知っている。俺は知らないのに、俺は思い出してしまう。
 なんだこれ。ぐちゃぐちゃだ。俺の中身と俺の器があべこべで合っていないような……!

 ――合っていないような、じゃない。
 ――合っていないんだ。
 ――今の俺の心と、今の俺の体は、別物だったんだ。

「……あ……」

 廊下で力尽きて腰を下ろしてしまう。
 壁にもたれ掛かり、頭を抱える。

「……ああ、ああ……」

 呻き声を上げて、あさかの死を悼む。
 2月に体験した死を、12月まで生きた俺には無かった死を……受け入れるしかなくて、泣く。

 依織さんは言っていた。「タイムリープは精神・意識だけを今ではない時間に飛ばすもんだ」と。
 まさかだと思っていたが、『時間跳躍』という現象が書物で残されているほど異能として確立されていると知った今、ある程度の予測を立てていた。

 12月31日まで生きていた俺の精神は、11月1日に逆行した。
 2ヶ月前の体の中に俺の精神が入り込んだのだと。2ヶ月前の俺に2ヶ月後の俺が上書きしたのだと思っていた。
 時間が巻き戻って、2ヶ月分の記憶を保持した俺が11月から再スタートしたのだと……。

 それであっていると思った。でもそれとはまた、違った。
 依織さんはもう一つ言っていた。「タイムスリップは、自分が別の世界や別の次元を飛ぶことだよ」と。
 別の世界。別の次元。違う世界。俺の知らない……12月31日まで生きた俺が体験しなかったことのある世界へ。
 俺は……まさか、あさかの居た世界に逆戻りしたんじゃなくて、あさかの死んだ世界の11月1日にやって来てしまったんじゃないか……って……。

「……ああ、あ、やだ……あさか……あ……」

 全部予測だ。想像だ。俺が描いている夢だ。
 異能ってものはどこまであるか解明できていない。未知のものを調べ尽くそうとお金を出していくつもの結社が動いているぐらいだし、無いって信じられているものだってあるかもしれない。悪魔を探すぐらい難しい問題に直面しちまうから、異能がどこまで可能なのかとか専門かじゃない俺が考えたらいけない。
 そもそも俺が12月31日まで生きていたってこと自体が幻だって考えた方がいい。あさかの死を受け入れられなかった俺の脳が、一時的にあさかの葬式の記憶を削除してしまったのかも。ショッキングすぎる事件を消す記憶喪失ってよくドラマや映画でもある。それかも。そうじゃないか。そうだろう……。
 ああ、でも、これから送る冬の記憶は、鮮明なものだった。これほどハッキリと先のことまで判る夢は初めてで、真っ直ぐと前を向けない。
 だって、11月に何がある?

 おばさんが死ぬ。

「……あ……」

 来週は、授業参観だ。もうプリントは11月1日の時点で配られている。……俺がプリントを握りしめておじさん達の元には行かないようにしているけど。
 そして藤春伯父さんとあずまおばさんは離婚する。唐突で、そして双方納得の離婚をするんだ。
 二人は「二度と会えなくなる訳じゃない」と笑顔で言う。暗い顔をするみずほ達に言い聞かせていたおばさんの顔を……忘れるものか。
 その一週間後……俺は、今日会った依織さんと、あと二人とで『仕事』に行く。真夜中にだ。高校以外での任務だからよく覚えている。日課の見回りじゃなくて大人の霞さんの車に乗って向かったからしっかり覚えていた。
 後味の悪い『仕事』を終えて、やっと帰れるってときに、霞さんが電話を受けて……そこで……。

 夢だって、言い切ることもできる。
 言い切って、そんなの嘘だデタラメだって首を振って、いつも通りにかったるく過ごすことだってできる。
 忘れろ。気のせいだ。嫌な気分だな。違うことでも考えるか。
 でもこれから先の出来事がここまで克明に頭に描かれているのに……俺はこれを、無視していいのか。

「ぐっ」

 突如、ナイフで胸を貫かれたような苦しさに襲われた。ひどい苦悩に全身が硬直する。
 廊下で蹲って何も出来なくなるほどの迷走。何度も俺が俺に呼びかける。
 知らないふりでいいのか? 何にも無いことだって押し潰していいのか?
 ここまで世界が違うんだから、おばさんの死なんて無いって……思えばいいのか?

「……わっかんねぇよ! なんなんだよこれ……!」

 どれが正解なんて決められない。どっちがいいのか判らない。決められる訳が無い。決め手となるものも何一つ見つからない。
 答えを教えてくれる人もいないし、判ろうとするにも自分に判断ができないし、何で全てを知ればいいのかすら見当もつかない。
 だから前が見えなくて頭を抱える。目を閉じる。考える。喚く。……それしかできない。
 それ以外に俺が出来ることなんてあるもんか!

 すると、急に俺の足に柔らかいものが触れた。

「……あ?」

 おそるおそる目を開けると、廊下に投げ出した脚のところに……ふかふかとした白い毛があった。
 犬だ。
 でかい犬が、俺の目の前でおすわりしていた。

「……はあ……?」

 雪みたいに真っ白で長い毛のでかい……でかすぎる犬が、廊下に蹲っていた俺の前で腰を下ろしてこっちを見ている。
 二メートルぐらいあるんじゃないかってぐらいでかすぎる白い犬。音も無く俺の目前に居た。じいっと見つめてくる。ハッハッハッという犬独特の息遣いは無い。大人しすぎる獣は、座り込んだ俺よりもでかくて威圧感の半端ない状態で……ずずいと俺へと近寄ってきた。
 しゃがみこむ俺より体格の良い犬だ。食べられたらひとたまりもない。情けない悲鳴を上げかけたが……犬は俺の頬をベロリと舐めるだけで、食いつきはしなかった。
 ざらっとした舌で舐められた。
 そんだけだった。
 また犬は俺をじっと眺めてくる。

「……なんだよ?」

 犬に尋ねても何にも答えない。そりゃそうだ、犬だもの。ばかでかいけど犬だから人間語なんて喋る訳もなく、声を掛けられても……また俺をべろっと舐めるだけだった。
 あまり気持ち良くは無い。どっちかっていうと……くすぐったい。「やめろ」と言うと、今度はふさふさの体毛を俺へと押しつけてきた。
 二メートルという巨体を、しゃがみこんだ俺へとずしっと押しつけてくる。
 重くはない。けど、もふもふふかふかした白い毛が俺を襲う。ふるふると犬が体を揺らすたびにふさふさと俺の肌を体毛が撫でてくる。気持ち良い。ちょっともどかしい。あったかい。思わず笑っちまうぐらいのむず痒さにもう一度「やめろよっ」と言っても、犬は俺に体を押しつけることをやめなかった。
 なんでこんなことをするんだ、こいつ。そんなことされても……くすぐったくて笑ってしまうだけなのに。

「……まさか、お前。俺を笑わせようとしてるのか?」
「わん」

 鳴いた。ハッキリと俺の声に応えるかのように。
 思わず人間が入ってるんじゃないかってぐらいくっきりした発音だったが、目の前の犬が鳴いたのはこの目で見ていた。……本当にこの子は、廊下で蹲っていた俺を慰めるために来てくれたらしい。
 ぼけっとしているとまた犬が顔を近づけてくる。頭を撫でてやると、今度は大きなふっくらとした耳を押しつけてきた。耳の近くを丁寧に撫でろと言われているような動きに、言いなりになって撫でる。すると犬の顔が気持ち良さそうに目を細めた。ふかふかなので撫でている俺の手も柔らかいものに包まれて気持ち良くなっていく。
 ……こいつ、慰めてくれている。
 ……気持ちいいでしょう、だから笑いましょうって誘ってくるかのように。
 確信を持って、両腕で犬に抱きついた。
 感情の後回しだとか何だ言われたって構わない。苦悩して泣き喚くより、今は何が何でも心を落ち着けたかった。



 ――2005年11月3日

 【     /      / Third /     /     】




 /7

 助けた命が苦しんでいたとなっては、ワタシの行為が無駄だったってことになってしまう。
 それは嫌だというワタシの我儘だ。勝手にワタシがしたこととはいえ、『傷付けられるだけの緋馬』に救いがあってほしかった。

 だから慰めた。
 ワタシは心が弱い。鉄の心みたいになれはしない。
 ワタシのせいでこんなにも苦しんでいるのなら、少しでもワタシが励ましてあげないと。でも今のワタシは狼だからこんなことしかできない。

「ありがとな、わんころ」

 ……ワタシは犬じゃない。狼だ。
 でも毛を撫でることで落ち着くアニマルセラピーというものが緋馬にも通じるなら、ワタシの体を売ることぐらい安いもんだ。




END

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