■ 外伝13 / 「継承」



 ――1970年1月20日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /1

 休憩時間になって一時間ばかり暇を出されたというのに魔術書に目を通している光緑を、ぼんやり眺めている。
 厳しい修行が終わった後、彼は自主的に書物に目を通そうとしていた。こっちは冬だというのに全身汗まみれでダレてるというのに。まだ先の勉強のための予習だなんて真面目すぎるのにも程がある。
 三畳間しかない俺の部屋での休憩を何の気も留めず我が物顔で過ごす彼を、俺は畳の上で寝転がりながら眺める。午後の鍛錬にはまだ早い。冬の空が晴れている光を障子の先から感じながら、自堕落な時間を送るのは心地良いものだった。

「なあ、光緑。その茶、飲まないならくれないか」
「茶ぐらい自分で酌んできたらどうだ。どうせ暇なんだろ」

 目の前の少年は書物に目を通しながらも受け答えはしてくれる。
 確かに光緑の言う通り暇だ。そりゃあ、大人に命じられた通り勉強中の彼を見ているだけの休憩なんだから。
 一口だけ飲んだ湯呑を奪い、すぐに飲み干した。そんな俺の動作など彼は気にせず、更に書物を読み進めていく。だが光緑が突然向き直ってきた。
 仕草だけは一端の大人だが、真っ黒くまん丸の目が年以上の幼さを見せてくる。彼は童顔を気にしているからこそ、少しでも俺を叱るときは鋭い視線で決めようとした。その格好つけたいという考えが、余計に子供らしさを醸し出してしまうというのに。

「松山の視線が気になって身に入らん」
「はあ? 俺のせいにすんなよ。いつもだったら無視して読むだろ」
「お前の様子がおかしいから気になって堪らん。どうせ清子様に叱られただろ」
「……叱られてるとこ、見たのか?」
「見てない。でも、きっとそうだと思った」
「……はあー。うん。似たようなもん。でも今日は清子様じゃない。ほら、いつものあのおばさん達。前に話しただろ? ……最悪。ヘコんでるんだ。撫でてくれよ」
「むう」

 頭を下げると、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱すように撫でてくれる。お互い落ち込んでいるときにしているいつものことだった。
 光緑の言う通り告白すれば、女中の一人に「何故お前は産まれてきたんだ」と言われて気落ちしていた。酷い話だろう。せめておふくろの前で言うのはやめてもらいたかった。もしやあれは俺じゃなくておふくろを虐めたかったのかと思いたくなる。俺に「才能無い」と罵るのはいいが、おふくろのことは勘弁してくれよって気分だ。
 簡単に訳を話すと、生真面目で素直な彼はぐっと涙ぐみながらぐしゃぐしゃ髪を撫でてくる。さっきよりも少しだけ俺を撫でる手を柔らかいものにしながら。
 一定の時間掻き乱された後、丁寧に光緑の指は髪を整え始めた。髪型って言っても俺なんて自分でハサミで短くした頭だけど。

「悔しかったらお前らも処刑されないガキを産めっていうんだ。くそー」
「松山、言葉が過ぎるぞ」
「いいんだよ」
「良くない。品位が問われる」
「俺に品位なんて求めてくる奴なんていないだろ」
「下品過ぎるとお前と付き合うのをやめるぞ」

 あ、それは困る。ちょっと考えを改めよう。

「それなら松山、見返すためにももう一度魔術を学んでみたらどうだ」
「才能が無いんだから、学んだって意味は無い」
「意味は無くは無い。それに使うか使えないの問題ではなく知識を入れておくだけでも違うだろ。オレは料理はしたことないが、やり方は知っている。知らなくて威張っているよりはよっぽど良い」
「え。光緑、料理なんてできんの? んなの見たことねーぞ」
「やったことはない。やる必要が無いからな。皆、俺を厨房に立たせてはくれん」

 うん、確かに。
 十六を過ぎてもまだ赤ん坊のように大切に可愛がられ、とことん宝物のように扱われている次期当主様に包丁を持たせる意味など判らない。

「光緑が包丁で指でも切ったら大変だもんなぁ」
「ふん、馬鹿にするな。そう簡単に指など切らない」
「そうかぁ?」
「そんな情けないことなどするか」
「鉛筆削りもできたこともないくせに」
「したことがないだけだ」

 本当かと茶化すと「むう」と口を尖らせる。口は悪いが彼は殴りはしない。ただ些細な抵抗として、俺の着物の裾をちょんっと掴んでぐいぐい引っ張る。いつものことだ。
 そんなに言うならと鉛筆と小刀を光緑に渡す。まだ一度も削られていない新品の鉛筆を凝視した後、

「この程度のことが出来なくて次期当主が務ま、」

 と言いたいことを言いきる前に案の定、指を切った。

「おおい、今までの前振りはなんなんだよ!? それともそのボケのための前振りか!? あんだけ出来るって主張しておきながらっ!」
「……まさかこうなるとは思わなくて、自分でも動揺している」
「あーもー泣くなよ! 俺が悪かった! そんなことさせた俺が悪かったです!」
「……むう……」

 ポタポタと血を流す綺麗な指を見る彼は、痛いというより、情けなさで涙目になっていく。
 血が紙の上に滴る前に光緑の腕を引いて、指を咥えてやった。痛めつけないように光緑の傷口に舌を這わす。当然、彼の指からは鉄の味がした。
 自分の指が咥えられている姿をじいっと見る光緑の表情が、ピタリと止まる。
 何かを深く思考した後、彼は……暫し表情を固まらせた後、意地悪くニヤリと笑い、ぐにぐにと咥えられた指を動かし始めた。
 さっきまで涙ぐんでいたというのに。
 思わず俺は咳き込んでしまう。それでもぐりぐりまわす。ぐにぐにぐにと指を曲げる。舌に絡ませてくるかのように、いいや、人の舌を取り除こうかの如く。
 呼吸をしているところを指で右往左往に動かされたら苦しくなる。博識な彼なら判ることなのに、面白そうに舐められ続けていた。

 唾液には消毒効果があるとかなんとか、うろ覚えだ。
 自分で指を切ったにも関わらず、じっと傷口を見ることしかしない彼に痺れをきらせて咥えてしまったに過ぎない。
 舐めるのは良いが、これはあくまで止血するまでのことで包帯を巻くまでの応急処置。なのに包帯を用意せず、舐め続けるのはおかしな気もする。
 この部屋には二人しか居ない。包帯を持って来るべき従者の俺も舐め始めてしまったのでどうにも出来ず、自然に血が止まるまで光緑の指を加え続けるしかなかった。

 大切に育てられているのに怪我が多い彼に、過保護になりすぎている自覚はある。
 今は甘んじて俺の治療を受けているが、光緑は「指の先ぐらいの怪我」と言うだろう。現に彼の着物の下には、いくつも包帯が巻かれている。定期的に巻き直されているとはいえ、生々しい色に染まった包帯を常に身に着けているような異端狩りと鍛錬の日々を送っているのだから。
 自分の能力を見極めるためだと光緑は今の歩度をやめはしない。
 上品で暑苦しい着物を羽織って宝物として扱われても、彼が異能の一族の頂点に生まれたことは変わらず、その力で皆を率いていていかなければならない宿命は覆せやしなかった。
 それでも俺は、光緑には綺麗な体のままでいてほしかった。
 変な意味じゃない。更なる修行へと向かった頃から血に濡れる日々を見続けているのは苦しいからだ。
 周囲は光緑の傷を良しとしているが、異能の才能の無い俺は思ってしまう。いつか光緑はとんでもない過ちを犯してしまうんじゃないかって。連日怪我を負って帰ってきて、それを良しとされていたのでは、いつか更なる傷を負ってしまうのではないかって。
 こんなに近くに居るのに部外者である俺は、心配でならなかった。
 小刀で指先を切った些細な傷ですら恐ろしい。彼は平気な顔で舐められ続けているけど、それでも涙が出るほどの痛みには変わりない。
 もっと彼は自分を労わるべきだ。その意味もこめて、俺は丹念に舌を這わせてしまう。
 すると光緑が「もういい」と俺の頭を押し退けた。その手で俺の髪をぐしゃぐしゃにする。そのまま頬を撫でて、変な落ち込み方をしている友人を慰めてくれた。

「松山。気持ち悪い顔をするな」
「心配してやってる顔を気持ち悪いとか言うなよ」
「心配するなと言っている。松山、これだけは覚えておけ。我が一族は自身を傷つけることを躊躇わない」
「……え?」
「自分はいくらでも傷ついていい。自分を磨くためならどんなに傷を負っても強くなれ。そして、人の為になれ。他人を傷つけてはならん。絶対に。他者を救うために我ら一門がある。神を創り求めるのも、他者を救済する役目にあるからだ。他者を傷つけてはならん代わりに、自分が血を流すことを惜しんではならない。……これこそ我が家に続く家訓だ。お前も言われてはいただろう? 丸暗記しておくんだな」

 凄まじい奉仕精神をすらすらと口にされて、耳から耳へ通り抜けていきかけた。
 この理念が我らが下界から支持されてきた理由の一つでもある。魂を回収するのも、彷徨う悲しき霊を浄化させるため。困っている人間は助けるべき。全て誰かの為にあれとのこと。……そのための修行であれば、いくらでも傷を作ることを厭わない。
 そう光緑は、自信満々に語る。

「凄いな、光緑。俺はそこまで考えてなかった」
「考えていないだけで松山だって実行してるさ。お前は困っている人を放っておくのは性に合わん性格だろ。それでいてお節介が過ぎない。大した奴だと皆も言っているぞ」

 ――いいや。俺のは。

 一旦、向けていた顔を背ける。ついつい感情が表情に出そうになるから、わざとらしくても顔を見せないようにした。
 すっかり止血が終わり、開いた傷口から血が噴き出すことはなくなった。その指を、手を、腕を掴んで無理矢理にでも外に引っ張り出したくもある。
 修行とか仕事とか勉強とか鍛錬とか、使命とか宿命とか運命だとかどうでもいいから、まだガキなんだし遊びに行こう。そう言いたくもあった。
 広い屋敷を出て、広い道を抜け、広い世界のどこかへ、宝物の彼を連れて行く。そんなことも一度は夢描いた。
 それは決して、してはならない。
 こんなにも前向きに頑張っている彼を否定してはならないから。俺の我儘だけで、彼の行く先を違えてはならなかった。

「……さっきからどうしたんだ、松山」

 叶いっこない子供心だと判っている。けど、それを完全に制止できるほど自分は大人ではない。
 指に舌を這わせたのも、血を吸い取ったのも、手当をさせるでもなく誰かを呼びに行くこともしないのも、身勝手な独占欲から生じるものだ。
 冗談を嫌う生真面目で直向きな彼の顔を、真剣な顔でじっくりと見つめる。

「そんなにお母上を貶されたことを重く考えていたのか。松山らしい優しさだな」

 気遣うような光緑の声。いや、気遣ってくれているのがよく判る、優しい声だった。

「もっと酷いことを言われたのか。言え。オレが聞いてやる。誰かに言いにくいならオレから照行様に言って女中達を叱ってやることだってできる」
「親父はそんなことしないだろうし、お前にさせる訳にもいかねえよ」
「じゃあ、ほら、オレがなんでも相談に乗ってやる。言うがいい。オレに何でも頼ってみろ」

 ずいっと顔を近づけてくる。その情景をもう一度足りない頭で理解する。
 この立場を利用することができた。
 いくら天性の才能に恵まれているって言ったって、まだ相手は小さな子供。俺よりずっと小さな体。弟みたいな存在。偉そうに俺のことを守りながらも、俺に素直で従順な眼差しを向けてくる少年。
 そんな彼の、にんまりと笑う姿がたまらなく愛おしいから、『傷を舐める以上の接触』を求めてしまった。
 俺は、隣接した腕を力引く。腕を引き、身を寄せた。
 自分の腕の中に彼を押し込めて、深呼吸し、考える。

「……松山……?」

 ――畳の上。無造作に取り上げた着物を下地にして、彼を組み敷き、強く求める。
 光緑が何が起きたか判らないといった顔で、ちょんっと俺の着物の裾を引っ張る。一方俺は、その引く力の何倍も強く彼を肌蹴させてしまう。
 幾度だって求めたくなる体に圧し掛かりながら、言わずにはいられなかった言葉を告げていた。



 ――1969年12月27日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /2

 悲しいことがあった。悲しくて、苦しくて、救いようのない悲劇があった。
 この世界の話だ。間違いなく私の前で起きてしまった現実だ。
 涙が頬を濡らし続けている。

 涙が重い。眠りながら泣いていたようだ。それほど苦しい現実だった。
 頭が重い。風邪でも引いてしまったか。頭を振って、ぼーっとした考えを飛ばそうとしてみる。

 私は何も出来ない子供だ。
 大昔、木々が歌っていた。私の耳を苦しめ続けていた。空が落ちてきそうだった。太陽が私を押し潰そうとしていた。石も風も青さも全てが、私の敵でしかなかった。
 生まれてからずっと地獄にいる。私は、ただ手を引いてもらうことを望んでいた。ここから逃れられることはできないのだから、せめてでも、救われる場所に導いてもらいたかった。
 彼、に。

 私の居場所はどこにも無かった。布団の中に隠れても、押入れの中に閉じこもっても、牢屋に押し込められても、どこにでも敵がいた。敵のいない世界などどこにも無かった。
 逃げることも許されなかった。日常は、私を置いて遠くの世界にいってしまった。

 楽しく笑う子供がいる。子供の笑い声に交じって、悪意が聞こえてくる。そのうち悪意しか聞こえなくなる。楽しげに笑う声が、悪意に飲み込まれていく。結果、私を彩る世界には悪意しか残らなくなる。
 泥にまみれ楽しむ姿は、苦しみもがく声にしか聞こえない。森をかけずり回る声は、恐ろしい鬼に追われ逃げ惑う苦しみにしか聞こえない。どこにも救いが無くて泣き喚くだけの世界に嫌気がさしていた。
 そんな中、唯一、私の耳に届く声があった。
 深い色の着物の青年。聡明そうな顔つきで、私の名前を呼ぶ彼。

『オレが皆を護るから』

 彼は夢みがちなことを告げてくる。到底出来ないことをハッキリと私に告げる。
 私が怯えて本当か呟くように尋ねると、黒い目がしっかりと捉え、応えてくれる。
 力強く、頷いてくれる。

『本当だ。オレは、どんな手を使ってでも、一族を護ってみせる』

 約束してくれた。
 無理だと思っていた言葉を、さも当然のように言ってみせてくれる。
 純粋な目で、優しい目で。私だけを見てくれるかのような、大らかな目で。
 怯える私の手を握り、指を絡ませ、震えを止めてくれる。笑顔を見せてくれる。心強い優しい笑みを見せてくれる。誰にも負けない、自信を見せてくれる。
 助かるかもしれない、という想いが私の中で広まっていった。
 なんて純粋な眼。子供ながらの底無しの眼差し。

 苦しかった。今までの苦しみとはまた違うものを感じていた。震える私に「心配性だな」と身を抱いてくれる彼。胸が弾け飛びそうだった。体も心も歓喜に震えた。
 優しい言葉だった。強くて逞しい声だった。それをずっと聞いていたかった。
 このままずっと、こうしていたかった。
 次の地獄になんて、いきたくなかった。どんなに苦痛だって、彼さえ居てくれれば、どうでも良かったんだ。



 ――1970年1月20日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /3

「光緑。俺は、お前のことが好きだ」

 口付けて、何度も舌を攫って、素肌に触れて、敏感なところを弄って、俺のモノも触ってもらって、擦り合って、果てた。
 身を寄せて、彼の中でしまい込んで、無知ながらも思いつく限りの言葉を口にして……認めてもらう。
 一時間の休憩の間に求めてしまった。
 それに光緑も、応じてくれた。
 慌てることもなく(少しは驚いていたが)、「それが松山のしたいことか?」と尋ねるから何度も頷いてみせた。すると「そうか」と優しく微笑んで俺の行為を受け入れてくれた。

 彼は自分とこんなことをするべきではない人間だ。そう俺自身に自覚があったとしても、何十回でも唇を奪った。
 唇に触れるだけでなく、綺麗な黒髪を掻き分けてやったり、頬を撫でたりもする。
 おそらく光緑は既に違う誰かともこんなことをしている。自分ではない女と世継ぎを作らなきゃいけないって話をしていることは、使用人達の噂でいくらでも聞いていた。和光様が選ぶ婚約者がいることだって予想できる。子を成す訓練だって女達としていることだって、僧侶と行為に至っていることだって容易に思いつく。
 才能の無い自分が彼に与えられる影響は少ない。
 それでも口付ける。体を寄せる。光緑を求める。
 頼ってみろと堂々と胸を張った子供を、ぎゅうっと自分の胸の中へ我儘に押し込んでいった。

「…………松山」
「……ん」

 光緑が俺の裾を引く。
 そんなことをしなくても一言声を掛けてくれればいいのに、わざわざくいっと引き寄せるようにするのは癖みたいなものだった。

「これが、松山のしたいことだったのか……?」
「……うん」
「…………。なあ、もう一度、さっきの……言ってみろ」

 彼は俺の下で熱い溜息を吐きながら、とぼけた声を出す。
 冬の1月だというのに頬や首筋に流れる汗を撫でて、もう一度「お前のことが好きだ」と囁いた。
 光緑に負けないぐらいの真剣な声で、抱きしめながら。

「……松山、お前は一体何の弱みを握られてる? 大山さんにやれとでも言ったのか」
「なんで兄貴に脅されてこんな事を言わなくちゃならないんだ。本気で、本心を言ったまでだぞ」
「何を企んでいる? オレの気を惑わす作戦か? 下心があるなら……」
「下心はあるが……。よし、もう一度、するぞ」

 そう言って、再びあの動作をし始める。
 抱きしめていた腕の力を更に強くし、顔を近付け、唇を重ねる。光緑は唇を重ねようとしている俺の顔を呆然と見ていた。

「松山。今朝のアジの開きに醤油をかけすぎただろう。口元がしょっぱい。塩分の摂りすぎだ。お前は食べて口も拭かないのか。匂いが気になるぞ」

 だが口付けの感想は、説教へと変わっていく。

「こんな時にそんな話をするなよ。萎える……」
「むう。ならいつ話せば良かったか。今気付いたから言ったんだ、後では遅い」
「いくらでも時間はあるだろ……。こっちは本気でしているんだ、茶化さないでくれ」
「何を言うか、時間は有限だ。こうやってお前と語っている時間ですら限られている。大切にしなければならんだろ。……松山」
「なんだ」
「オレもお前のことは好きだぞ」
「どういう風に? ……光緑の思っているそれは、親友としてか、兄弟としてか?」

 真っ直ぐに見つめてくる黒い瞳を見ていると、目を背けたくなってしまう。同時に、求めている感情が違うということを思い知らされているようだ。
 同じ好意という感情に違和感を抱いてしまい心が苦しくなった。
 だというのに抱きしめて嫌がりもしない光緑。それどころか口付けをしても肌を密着させようとしても拒まない。悪ふざけという認識だからか。悪戯をする子供を達観した目で見ることができる彼には、何も響いてはくれないのだろうか。
 そう思ったが……違うようだった。

「なんと言ったらいいか判らん。だが松山。もう一度、抱いてくれないか」
「……なんで?」
「理由か。……心地良かったからだ。次の時間は離れに来いと父に命じられている。それまでの間、松山と気持ち良いことをしていたい」
「…………」

 堅い表情は崩れず、じっと俺の顔色を伺う。
 彼の体に回していた腕を、戻さない。俺は言われた通り、そして自分自身の意思で事を進めていく。
 顔色を変えない奴だから何も届いていないのか不安でもあった。でも、そうじゃないと信じて、残り僅かの時間を堪能する。

「むう。やはり気持ち良い」
「きもちいい……?」
「ああ、松山の体温はいつだって心地良い。ぎゅっとされることは昔から嫌いじゃなかった。むしろいつだってしてほしかったぐらいだ。……まあ、照れくさいから言わなかったが」
「そんな風には見えなかったぞ」
「そんな風に見せてないからな。表に出して照れたらお前はからかうだろう? だから何でもないように見せていた。ああ、凄く良い。今日だけでいいから暫くこうしていてくれ……」

 顔を埋める姿に、甘い眩暈を覚えた。嬉しい眩暈に抱きしめる腕も強くなる。
 自分は子供くさいと何度も言われてきた。でも子供なのは光緑だって変わらない。
 子供っぽく笑う光緑がいてくれる。こんなにも可愛らしく、愛おしく思える彼が。
 俺の抱いている『好き』と奴の『好き』に違いがあったとしても、口付けと抱擁を許してくれるのだから、同じだと信じていいんだろう。
 今日だけと言わず、明日もしてやりたい。彼が俺のことを拒まないのであれば。

「明日も、次の日も……ずっとしてやるよ」

 このまま、時間が止まってくれないかと思う。
 時間が進まず、ずっとこうしていたい。このままずっと二人でいたいと――そんなもの叶うはずもないのに、何度も考えてしまった。



 ――1970年1月25日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /4

「説明は以上、判ったなら返事をなさい」
「はい。問題ありません、清子様」
「ならお休みなさい。お坊ちゃん。今夜は鍛錬を控えるのですよ」
「はい」

 枕元に注意をいくつも置き、乳母である清子様は颯爽と去っていく。
 時刻は二十二時。眠りに堕ちる時間には丁度良い。寝床に身を横たわっている彼にとってはもう少し魔導書を読み耽りたい時間のようだが、今さっき薬を置いて行った彼女が言う通り体を整えておいた方が良い筈。廊下を静かに歩く女性の足音に耳を澄まして、音が完全に消失したのを確認してから自分が入っていた押し入れの襖を開けた。
 部屋の主の許可など取らない。開く筈のない襖が突如開いたことで、寝床に就いていた光緑は何だという顔をこちらに向けていた。
 もうすぐ十七歳とはいえまだまだ子供のようなくりくりした黒目は、大人みたいな冷ややかな色で俺を見てくる。
 わざわざ布団から体を起こそうとする体は細く、至るところを血に濡れた包帯で巻かれている。連日の修行の成果を物語る痛々しい姿だったが、光緑の顔は涼しく、全然痛みなど感じていない普通の表情だった。

「いつからそこに居たんだ、松山」
「お前が入ってくるちょいと前ぐらいか? 光緑のことだからてっきり気付いてたと思ったんだが? それより押し入れの中って冬でも暑いんだな。……って、部屋自体も暑いじゃないか。冬でも換気をしなきゃいけないんだぞ! そろそろ継承の儀式があるから体大事にしなきゃいけないのは判ってるけどさ! んー、何か飲む物無いか? 喉が乾いた。お前、薬飲むなら水ぐらいあるだろ」

 べらべらと一人勝手に喋ってると、光緑は用意してある急須に指を向ける。
 ありがたい、そんな所にあるとは。俺は湯飲みに注ぐことなくそのまま急須の先を口付ける。そんな光景を光緑はやっぱり白い目で見つめていた。わざとらしく俺を批難する溜息を吐き、一度起こした体を再び倒す。俺の座る方を向きながら。
 枕元には、高名な心霊医師である清子様が置いていった薬がある。丁寧にも今すぐ飲めるようにされていた。

「光緑。薬を飲まないで寝ていいのか?」
「飲むさ。だが飲んだら意識が飛ぶ。お前が去ってから飲むとしよう」
「俺のことなんて気にしなくていいんだぞ」
「気にするわ。動けなくなった後に悪さをされたら困る。壁に穴を開けられても身動きが取れなかったら誰も助けを呼べないだろ」
「そんな頻繁に怪我したり穴開けはしてないんだけどな、俺」

 笑ってみせると、その態度に「なんで自覚が無いんだ」と呆れられた。「週に一度は怪我を作ってくる男が何を言う」と愚痴すら零される。
 包帯だらけで寝床に倒れている彼には言われたくなかった。とはいえ光緑の傷は計算されつくしたもの。彼は次期当主でありそのため強くならなきゃ困るとかなんとかで連日実戦に駆り出されていた。一ヶ月三回あれば多いって言われている退魔業に毎日のように向かい、それでも連日連勝で帰ってくるんだからこの鍛錬は成功しているんだろう。
 そのたびに傷が増え、完全に癒えきれないうちに次の金儲けに走らされるのだが。

 枕元にあるのは早くに傷を癒すための薬、今以上の実力を引き出すための霊薬。大量の薬を飲むように置かれている。
 で、俺は病人の為に用意された水を躊躇いも無く飲み干してしまった。横になってる光緑は「むうっ」という何とも言えない顔で睨んでくる。大声で怒られて誰かを呼ばれる前に、駆け足で外の井戸へと汲みに向かった。

 光緑の寝室から一番近い井戸まで往復で十五分はかかる。ヤカンに水を汲みに行くのは結構な時間が必要だ。
 居眠りをしようと思えば出来てしまう。食事だって終えられるぐらいの時間だ。水が重くもあって俺はゆったりと廊下を歩いていた。
 だから光緑が俺の帰ってくる時機を見誤るのは仕方ない話だった。

 ――俺と光緑に、出会いなんてものは無い。
 光緑の父・和光と俺の父・照行が兄弟。赤ん坊の頃から同じ場所に居て、俺が先に年を取ると追いかけるように彼も誕生日を迎える。
 喋れない歩けない、何にもできない頃から共に生きている仲だ。物心つくときに一緒に居た相手。俺にとってあいつは酸素のようなもの。居て当然在って当然、無ければ生きていけないってぐらいの距離の存在だった。
 だから一番最初の思い出とか、そんなものすらいつのことだか覚えていない。
 同じ部屋で暮らし、同じ飯を食い、同じ教育を受け、言葉を覚えた。同じように仏田寺で暮らし、同じように目を瞑り眠る自分らに違いなど生じることはない。
 違うといえば、仏田一族の当主となる光緑は直系の第一子であることから、周囲の目が徹底していたことぐらい。
 俺は分家で魔術の才能なんて皆無な三男坊だから、周囲の目が光ることはない。光緑が転べば誰もが心配して寄ってくるが、俺がコケても「唾でも付けとけ」で済まされる。
 それがこの世界では普通だった。それで良かった。

 俺が帰ってくる前に平然を装おうとしただろうに、時間を掛けて帰ってきた俺は、布団の上で左胸をおさえて唸っている姿を見てしまった。
 彼しかいない部屋。彼の苦しげな唸り声だけが響いている。
 声を上げれば誰から駆け寄ってくるだろう。でも彼はしない。
 苦痛に彩られた声は、今まで聞いてきたどんな声よりも激しく、辛く、切ないものだった。

「光緑……」

 これから飲む薬以外にも既に数多くの治療を施されている。俺が押し入れに潜んでいる間も何かをされていたのは判っていた。それでも今、光緑は血の味が滲むほどにグッと唇を噛んでいた。
 なるべく音を立てないように障子を開く。ぎゅっと目を瞑る彼の額に、濡れた布巾を押し当てた。
 突然の冷たさにハッと目を開ける彼を見ると、今の今まで苦しんでいたのが余計に伝わってくる。それを俺の前では隠そうとしている意図も感じられてしまう。
 表情はさっきと同じ冷静を保つものに変わっていくが、不安になるほど曇る顔色であることには変わりなかった。
 額から滲み出る汗を拭いてやりながら「どうすればいい?」とつい声を掛けてしまった。幼馴染として、親友として、従者として、そして共に生きてきた家族として彼を大切にしたいから、何も出来ない自分を恥じながらも率直に尋ねてしまった。

「清子様や父上が何とかしてくれている」

 だというのに光緑はまだ強がりを装いながらも平然と言ってきた。そういう奴だった、こいつは。
 ぐっしょりと水に浸けたままの手拭いを光緑の顔に乗せる。首に垂れる雫、濡れるシーツ。ごしごしと擦ってやった。
 明らかに怪訝な顔でも構わない。汗ではりついた黒髪を掻き分けてやる。普段なら怒るようなことでも、光緑はその手を甘んじて受けていた。

「ほら、冷たくて気持ち良いだろ。今夜ぐらいはちゃんと休め。そのためにも早く薬を飲んで楽になれ」
「そう、だな。水を一杯くれるか」

 山奥の寺で生まれた俺達はいつも一緒ではあったけど、彼にはするべきことが多い。多すぎた。何もかも押し付けられ、俺よりも二倍も三倍も勉強に励む光緑。そんな彼を尊敬しつつ、感服しつつ、一番には『可哀想』だとも考えていたのは事実だ。
 俺が休憩している頃に彼は代わりに魔術を学んでいる。眠る時間は同じなのに、決まって光緑の方が早く起きていてよく判らない字で書かれた書物を読み耽っている。そして俺が境内の掃き掃除をしている最中に、怨霊やら異端やらを討伐してくる。
 全ては、出来てしまう光緑がいたからのこそ。弱音も吐かない、人前では俺に対してすら強がる奴だからこそ、命じられた鍛錬を全部こなして、何倍もの成果を上げてしまう。
 そんな完璧な彼を見るたびに、ただただ「あいつの為になりたい」という感情だけが形成されていく。
 どうしようもないということも思い知らされながら。

 水を注いでやって湯飲みを差し出す。勢い良く水を盛ったので少し零してしまった。
 でもそれも「松山らしい大雑把だな」と変わらず奴は笑う。声を荒げることなく受け取ってくれた。優しいというか大人しすぎて少し調子が狂ってしまいそうだった。

「松山は、変わらないな」
「なんだよ、いきなり」
「いや、変わったか。昔は殆どオレと変わらなかったのに、いつの間にか背もお前ばかりでかくなった。むう、すっかりお前ばかり大きくなりやがって」

 少しずつ水を喉へと送っていく横顔も凛々しい。彼の方が上に立つ者としての自覚があるから大人らしくなっていったんだ。
 体格は俺の方がずっとでかいけど、でかくなったからといって成長できたという話でもない。

「身長なんてこれからだろ。美味いもんをたらふく食ってよく寝ればでかくなる。光緑は充分大人なんだから、あとは食って寝ればすぐ一人前だ」
「そんな簡単な話ではなかろう。まったく」

 清子様が用意していった粉薬を渡した。少しでも早く休ませて落ち着かせてあげたかったからだ。
 だが飲ませる準備をしてやっても、水ばかり飲んで一向に薬を口にすることはない。それどころか、

「……どうすれば……オレは、本当の当主になれるのかな」

 信じられないぐらい弱気な、か細い声が呟かれる。
 思わず「光緑?」と名前を呼んでしまった。深刻な声で呟いた光緑は俺に呼ばれた途端ハッと意識を取り戻す。気弱な台詞が口から出てしまったことを恥じているのか、強がる顔を無理矢理作り始めた。

「父上は強い。どんな能力者が何人も束になったって勝てないほど」
「あ、ああ、そうだな」
「オレが越えなければならない壁だ。それだけのこと。それ以上でもそれ以下でもない。それだけのことなんだ」
「……苦しかったらいつでも言えよ、俺は光緑の為なら何でも力になる」
「馬鹿か。松山に言って何になる。大丈夫だ、必ず我がものにしてみせる。それが次を継ぐ者の使命だ。オレは全ての力を手に入れてみせるさ」
「……結局はできるかできないかの五分五分だしな。光緑は強いから問題無いだろ! 応援する!」

 いきなりの弱音は俺に問いたのではない。自分に言い聞かせるために口にした言葉だ。
 彼の誕生日が近い。月末に訪れる誕生日に『継承の儀』を行なうと言われて、たとえ大人びていても大人ではない彼は不安がっているんだ。弱気になってしまっても無理もないこと。
 だから気に病む必要なんてない。そう言いながら光緑の髪を撫でてやった。汗で肌に張り付いた黒髪に触れれば触れるほど、どれほどの不安が光緑を強張らせているのかが伝わってくる。
 頭を撫でることには何も言わない。散々俺に撫でられ終えた光緑は、不意にちょんっと俺の着物の裾を引いた。

「……松山。ぎゅっとしてくれ」
「……なんだ、寒いのか?」
「寒くなんかない。寒いから抱き締めろというなら春になったらしてもらえなくなるじゃないか」
「いや、別に春でも夏でもお前が良ければするけど」
「だから、お前にぎゅっとされたいと言っている。……オレは今、繊細なんだ。五日前の松山みたいにな。早くしろ」

 大変なのは判る。知っている。だから応援する。その言葉を送るぐらいしか下っ端の俺には出来ない。
 光緑は俺の体温を堪能し大きく深呼吸をした後に、粉薬を湯飲みの中へ溶かし始めた。そしてあっという間に飲み干していく。
 途端、彼の目が急に緩み出した。眠気の波が襲われたのは判ったが、それほど強力な効き目なのか。しかしこれなら彼もよく眠れるだろう。悪い夢も見ることなく。苦痛に呵むこともなく。

「……松山……オレは、もう寝るぞ……」
「寝ろ。たっぷり寝ろ。なんなら子守歌でも歌ってやろうか。明日は御馳走を用意してやろう。熊鍋でもしてやる。山から獲ってきてやるからな」
「それは……松山が、食いたいだけだろ……明日、また撫でてくれ……」
「ああ」
「……不安がるな……元気の無いお前の顔など見たくない……」
「今のお前の顔、見せてやりたいな」
「……むう……それは、どういう意味だ……?」
「好き勝手取ってくれて構わん」

 そんな姿が今夜の最期。光緑の意識は数分後には跡形もなく消えていった。 
 汗を拭った後に布団を掛けてやる。そのときに光緑の頬に触れた。薬のおかげか苦しむ素振りもなく、死んだように眠っている彼に。
 触れても反応は無い。呼吸もひどく静か。全ての機能を停止させたような眠りに、今まで薬を飲むことを躊躇っていた理由を察して完配した。

「……怯えながら言う決意ほど、心苦しいものはないな」

 頬を撫でながらも口走ってしまう。彼が完全に眠りの国に行った後だ。声に出しても彼に変な顔はされない。
 隠れて額に口付けた。ふと首筋に触れた指がトクンという確かな鼓動を聞いて、ようやく安心できる。
 ちゃんと眠っている、何にもうなされることなく眠りについていると確信して、彼の寝室から離れた。

 ――昔。彼は「自分こそが最高の当主になってやる」と言っていた。
 だけど先ほどまでの彼の様子。彼の表情。彼の声。絶対に言えなかったが、震えていたし不安で泣きそうな顔だってしていた。

 ――さらに昔。俺の母は俺に「当主様の為に生きろ」と命じた。
 光緑は特別な存在だ。俺達に流れる血の宝だ。魔術の才能が無かろうが退魔業をしていなかろうが、一族に尽くす運命は変わらない。
 たとえ特別な異能を持っていなくたって、努力次第で人は何とでもなる。母は無価値な息子にそう繰り返し励ました。当主を守るというのは当然のこと、使命なんだと刷り込ませてくれた。
 言われなくてもそんなこと、判っている。
 光緑が何をそんなに必死になって守りたいのか判らなくったって、光緑が父親である和光天皇の後を継ぐことになったんだからそれを支えるまで。

 彼の不安は俺には想像できないものに違いない。本当に光緑が何を守りたくてここまで必死になっているのかも知ることもできない。自分の命を削ろうが守るものなんてあるのか。誇りだけで彼は生きていけるのか。判らない。
 でもそれを悟るのは俺の役目ではない。近くで支えても遠い立場になってしまったとしても、大切な彼を想う。それが俺の出来るすべてなんだ。



 ――1970年1月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /5

 継承の儀が行なわれる。
 現当主から息子へ主権を譲る儀式。新たな当主は自分の誕生日に行なわれると父に告げられたのは一ヶ月前の12月31日だった。その日のために身を清めてきた。可能な限り鍛錬を積み、誰からも認められる能力であるように磨き続けたつもりだった。
 自分が生まれる前に父が行なった継承の儀。その父も父から受け継いだ仏田家の力。仏田の血に流れていく知恵。膨大な魂。それをこの身に受ける日が、ついに。

 跪き顔を上げた先は、仄かな灯りをともした薄暗い神殿。見惚れてしまうような幻想的な光景だった。先にその中に入っていた父・和光は、見たことのない礼装を身に纏っている。
 自分の今の格好とは若干違う。白の布に銀と金の細工。赤と紫の数珠をいくつも身に巻かれているのも同じだ。朱色の巨大な魔法陣が室内全体に描かれ、嗅いだことのない香が充満している。
 冬の地下はひんやりと空気が凍っていた」。おそらく春になってもこの薄ら寒さは無くならない地下には脳を犯す香りが染みついていて、どこにも逃げられずに浸透していた。その中に立つのは二人。一人が父・和光であり、もう一人がこの儀式を見守る重要な役割の司祭だった。
 父は入ってきたオレを見るなり、唇の端を釣り上げる。その手には酒瓶があった。酒豪ではないのに直接瓶に口を付けて煽っている。酒は嫌いではなくてもらしくない様子に思わず目を見開いて驚いてしまう。

「ようやく来おったか。時間通りだな」
「はい」
「昼間一日暇をくれてやったというのに。照行の坊主に甘えてついには来ないかと思っていたが、優秀だ」

 遅れられる筈がない、と心の中で愚痴る。早すぎても父や叔父達の機嫌を損ねるだけだ。
 ……出来るものなら、自分だっていつまでも至福の時間を堪能したかった。あのままゆったりとした時間を過ごせたらと何度でも思った。抱かれる中で、松山から「行ってこい」と激励してくれたから欲望に打ち勝ち、今に至る。
 ああ、そうだ。特に鍛錬も無かった今日一日、暇を貰った間、ずっと松山の狭い部屋で共に過ごしていた。判ってくれる奴だった。「行ってこい」「お父上に呼ばれている時間だろ」「また明日、同じことをしよう」と、最後まで嬉しい言葉を繰り返してくれた。
 だから平気だと何度も自分に言い聞かせながら、その空間へ足を踏み入れた。
 どうなることなど知ったことではない。
 今という時間を難無く過ぎ去れば、また松山に会える。
 毎日そうだった。今日という今日が特別な訳ではない。明日はいずれやってくる。明日になればまた。
 たとえ昨日までのオレが今日消えたとしても。
 そう思えば、なんてことはなかった。

「それでは、始めるか」

 寄ってくる和光の指を頬が受け止めながら、そればかりを考えていた。
 そのとき急に視線を感じ、振り返る。
 こんな所でこそこそと自分を追いかけてくる命知らずなど、仏田寺の境内には一人ぐらいしかいない。聖域に堂々と入り込んでくるなんて、冗談か子供でなければ許されないことだった。

「……柳翠」

 まだたった五歳の弟が、誰も連れずに神殿の中までついて来てしまったらしい。
 乳母はどうしたんだと思ったが、気配を消していたずらをするのが大好きだった弟はついかくれんぼ気分で皆の前から姿を消す。きっと今頃乳母や僧達が血眼になって探しているだろう。
 緊張感で張り詰めた空間に突如やって来た子供の影。これには父も司祭を務める『彼女』も拍子抜けしてしまい、特に『彼女』は大口で笑い始めた。
 流石にこれはいけない。オレはすぐさま柳翠に近づき、目線を合わせてここから出るように言いつけた。

「柳翠。これからオレは父上と大事な仕事があるんだ。今は構ってあげられない。判るな?」

 いたずら好きな小さな子供に普段窘めるようになるべく優しい声で。そのつもりだったが、とてとてとゆったりとした歩みで柳翠はオレの元までやって来て、ぎゅうっと貼りついてしまう。
 十以上も年の離れた幼い弟は、こうやって自分に甘えてきてくれていた。可愛い甘ったれの子だ。騒がない子ではあるが、騒ぎを起こさない子ではない。この場の神性さや厳格さ、異常さなど一切気にもしない幼児は、正装のオレに抱きついて離れようとしなかった。
 小さな彼は無言のまま、何も言わず足元にひっついて離れずにいる。オレの着物に顔を埋めて動かなくなってしまった。

「……昨日あれだけお話してあげただろう? 柳翠、いい子にしなさい」

 なるべく優しく声を掛ける。が、ちっとも動く気は無かった。
 終始無言で返され、微動だにせず身体にひっ付いたまま……顔すら上げない。

「……柳翠!」

 さっきよりも鋭い声を掛ける。小さな身体が少しだけ反応をしたものの、顔を上げずに抱きついたまま離れようとはしない。
 更にきつめに声を上げる。それだって大きな声じゃない。でも子供を威嚇するには十分な声量だ。
 ようやく柳翠が顔を上げる。顔を上げて……オレの顔を覗き込む。

 その顔はまるで、この世の終わりを見たかのような、絶望に満ちた悲しい表情だった。

「………………」
「……柳翠。兄の言うことを聞け。終わったらまた遊んであげるから」

 決して暴力や口汚く拒むことはしたくない。だから彼が自然と手を離すまで、待ち続ける。
 ゆっくりと小さな指が着物の裾を離した。
 名残惜しげに。最後まで、嫌がりながらも。
 よしよしとと最愛の弟の頭を撫でると、ひょいっと柳翠の小さな体が浮いた。『彼女』が軽々と弟を抱き上げていた。くすくすと聖母のような笑みを浮かべながら暴れもしない子供をあやし始める。
 女性が柳翠を抱いて室内を出て行く。最後まで柳翠の表情は悲痛なものだったが、それでも彼をこの部屋から出すことができた。
 彼女が帰ってくるまで何をしているべきかと思ったが、父・和光が「始めるか」と宣告をした。

「司祭などいなくていい。あの女は見ているだけで何もしてはくれん」

 それでいいのか、と視線を寄越すと和光は柳翠の一件など気にも留めず「早くしろ」と命じてくる。
 継承の儀は現当主と次期当主がいればいい。自分は先代当主となる彼の言われた通りにしていればすぐ終わる。そう聞かされてはいた。柳翠にほんの二分ばかり時間を取られたが、三分後には元の厳しい雰囲気が戻っていた。



 ――1970年1月30日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /6

「おはよう。何年ぶり? カワイイからって殺さないでね、判っているかしら、ルリ」

 フォーマット。セットアップ。インストール。



 ――1970年1月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /7

「柳翠。お兄さんに言われた通り戻るといいわ。これで戻らなかったらお兄さんに嫌われてしまうわよ」

 もう兄上は帰ってこない。
 私は世界の終わりを感じた。もう世界は終わりだ。あくまで『私の世界』だが。
 二度と私の愛した場所は帰ってこない。失われてしまった。最期の別れぐらい堪能させてほしかったのに兄上も厳しいことばかり言う。ああ、悲しい。これで終わりか、悲しいな。

「貴方、光緑のことは大切?」

 当然だ。彼は仏田の次代を担う希望だぞ。最高で、完璧な私の兄だった。第六十二代仏田家当主としての話ではない。一人の少年としての光緑は、大切な存在だった。
 不安の中に希望を抱いて、救いを求めて彼は行く。最後まで心細さに抵抗しながら、一人だって力強く崖を上っていく。
 千年近く続くこの一族の力を背負うために。自分を殺して。他者の為に尽くし続ける。
 皆を愛するために。私を、親友を、家族を支えるために、それが良しだとしたから彼は逃げずに当主になると決めた。
 それでも私は、ただ兄として彼に接してもらいたかった。

 私の愛した世界は崩壊する。彼の彼らしくある選択が、今の彼の終わりになっていく。
 思うがまま私が口にすると、金色の彼女はくすくすとおかしそうに笑った。
 何も面白いことなど言えていない。ただ私は……。

「あにうえが、どっかいっちゃうの、やだ」

 そう、鼻水を垂らしながら言っただけなのに。

「素敵ね、柳翠。子供らしい独占欲にまみれたさっきの貴方の行動。かつての貴方の行動。それが…………全て光緑を崩壊させたる原因になっているの、気付かなかった?」

 彼女は心底楽しそうに笑っていた。

「恥ずかしがらないで、カワイイ子。きっと光緑も貴方のこと、大切に思ってる。それは今後も変わらない」

 ああ、たとえ彼がもう二度と私を抱きしめてくれなくても。

「ようやく見えた頂上で、救いを差し伸べる手に押され、光緑は落ちていく。……下るのではなく。落とされる。崖の下、闇に落ちる。当分、目醒めない。奈落に見出されるか、絶望の詩に囚われるか、果ては悲しみの余り自分を取り零すか。どうでしょう。ともあれ多くの悲劇をその身に背負った彼の今後は目まぐるしいものになるでしょうね」



 ――1970年1月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /8

 地下はひどく冷えていた。結界の中、霊力が込められた魔法陣の上に現れたのは父が封印している『それ』だった。
 薄暗い灯りだけが空間に残るもの達を照らし示している。
 空間には三つ。現当主の男と、新しく当主になる少年だけではない。
 大勢が、何十億もの命がそこに居た。

 和光は無感動な眼差しで、空間を満たしていく光景を見守る。
 少年の足元には黒い触手。細い体に手を伸ばし、じわりじわりと寄ってきていた。

「そんなに怯えるな。光緑よ、お前は幾度も越えてきたではないか」

 笑う姿を少年は一目見て、こくりと頷いたが恐怖を消せないまま体を震わせていた。指先も震えていて、それすら止めることができずにいる。
 これを受け入れて儀式は完了する。だというのに少年の気は治まらなかった。
 少年は何度も父を相手にしてきた。今日のための相手だと何度も聞かされていた。しかし何度やっても慣れなかった。何度もと言ってもまだ犯され始めてから数ヶ月も経っていない。身体はともかく精神も慣れてはくれなかった。だから今日の本番も辛いものになるだろう。

「なにも儂はお前を傷付けたい訳ではない。だがな、光緑。お前が幾多の光を使役できなければ始祖様を継承しても意味が無い。まずは耐えてみろ。百億の魂に」

 ふう、と光緑は呼吸を整えて始まりを待った。
 長く黒い手が動き出す。足に一本巻き付き、上へ上へと這っていく。ぬるりと濡れれば全身がぞわりと慄く。振り払おうとしてしまうが、拒んでは終わるものも終わらない。光緑は限界の理性で身勝手な感情を封じた。生暖かい感触が身体を襲ってかかってきても声を殺し、近寄って来る黒いモノを受け入れようとする。
 足に纏わりついた黒は腕にも巻き付き、身体の内部へと動きを進めて行った。そして一本が着物の奥に入り込む。
 殺しているつもりらしい声が跳ね上がった。
 無数の手が一気に動きを開始する。彼ら腕は布と布との繋ぎを引き裂き、辱めるように動きまわる。肌の上には粘液が垂れ、ゆっくりと身体に馴染ませていった。
 誰の名を叫ぶこともなく、強く唇を噛み締める。
 熱い腕は体の表面に絡んだ。人間の愛撫のように肌を撫でていく。意思のある動きで辱めを始める。尊厳を陥れる行為に見えた光緑は口を噤む。そうしていると「光緑」と、かつて自分も同じ儀式を行なった父親が無感動な目のまま声を掛けた。

「人としての誇りなどこのときほど無意味なものは無い。お前はこれから一族の一部になる。一族を動かすために造られた、ただの部品だ。道具が尊厳など持つな」

 この儀式が始まる前に何度も口にした言葉を、改めて口にしていく。
 光緑はぼうっとした目のまま、父の言葉に頷いた。何度も頷く。そうだ、そうなんだと何度も頷きながら、今この時間で自分がすべきことは只一つ、屈辱に耐えることではない、化物に食われる恐怖に涙することでもない、神の手に嬲られて悦ぶことだと訓えを飲み込んでいく。
 ある触手が、光緑の唇をなぞった。
 首を振って嫌がったが、人間の舌のようにくねらせて入り込む動きに口内を犯す。割り込んでくる無遠慮な手が体内に侵入していく。眼も虚ろな色へと変貌していった。刺激が全身を包み込んでいく。快楽しか感じられないものへと作り変えていき……。
 足首を掴んだ左右の触手が、二つ別方向に分かれた。全身を固定された身にはどうしようもなく成されるがまま、足を開いて露出させられるような姿勢になった。

「っ、……あ……」

 黒い触手は制限無く、肌の上を踊る。無数の手が快楽しか生まぬ動きへと変化した。性器をあたたかく撫でたり、強く刺激したりと様々なものへと変わっていく。
 ゆらゆら動くモノに全てを委ねるしか道は無い。数本が同時に、無遠慮に刺激だけを与えた。
 息を殺すことも声を我慢することも出来ないほどに激しい。荒い呼吸を続ける。口ではない身体の穴に、触手が定めをつけた。
 やがてじわじわと下の口を刺激するだけだった一本が、動きを本格的に開始する。先端から粘液を纏わせてそこに侵入を試みてきた。ある時間を境に、中へ中へと壊し始める。
 受け入れることのできない器官に入り込む腕。腸へ続く内部を犯し始める黒くて長いもの。そう簡単に快楽など感じる筈は無かった。だが今までの『鍛練』によって多少なりとも慣れが生じていた。粘液のような特殊なものが無かったとしても、そこは受け入れるように改造されていた。
 強烈な動きが開始される。全身の隅々まで黒い獣によって食され、外だけではなく内部さえも味わされる。無意識に足を閉じようとするが、両足首が結ぶ腕によってそれも敵わない。
 触手が中を容赦なく掻き回した。もちろん中だけでなく、表面についているものも全てに刺激を忘れずに。

「ぅあ……い、や……だ……」

 初めて出る、確かな拒否の声。だがその声に止める腕もなく、止めさせる言葉も無い。
 非難の声とは反して、中を行き来する動きは激しくなっていった。打ち止めを乞う言葉は、これ以上を求める声になっていく。
 動きも強いものとなり、行き来をテンポ良く、揉みしだく動きは少年の望む通りに中を巡っていた。
 蠢く無数の手は全て、喘ぎ声を上げる彼の為だけに動く。
 高く声を上げる。その場に居る者全員に限界を告げるような、高い声を。

「あっ……い、く……ぅあ……!」

 声を放つと同時に、触手の先端から熱い粘液が発射された。
 触手は彼の中を真っ白に染め上げていく。放たれたのは白濁液だけでない。光でもない。絶頂そのものだった。

 魔力。無から有の力。込められた無限に近い知恵。
 血液に交る濃厚な魂の情報。それが彼の中に注がれていく。
 秘所から触手が抜かれることはない。どくんどくんと中へと次々注ぎ足されていく。次第に歪んだ虚ろの眼は一段と透き通り、何も映し出さない純粋な姿へと変貌していった。
 輝きは既に無い。だが、これ以上無い輝きにも満ちている。
 嘆きの声も無い。むしろ拒む声も悦ぶ声も、何一つとして無い。
 受け取った情報を読み込むだけの時間が経過していった。体内に流れ込んでいくものを全て身に付けるまでの、長い沈黙が続く。
 神経と理性を侵す代わりに彼は多大なものを手に入れた。それが誰もが望むものだった。
 気も狂わんばかりの快楽の先にあったものを容赦なく浴び終え、彼は辿り着いた。全ての譲渡が済むまで魔物はその儚い身を手放すことはない。
 そうして息子が百億にも耐える者だと頷く父は、無数の手に縛られる息子の頭に手を翳すと、赤い髪を揺らし『六十の光』を放った。



 ――1970年1月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /9

 異形の触手に舌を奪われたとき、こんなことを想ってしまった。
 ――ああ、ここは松山が何度も愛してくれた場所だというのに。

 ふと数時間前のことを思い出していた。
 奴以外にと思うと悔しくて、目から熱いものが零れ落ちる。
 正気を手放すこと自体は容易かった。濡れた音が脳にどこまでも響いて、あっという間に自分など殺してしまえそうだった。
 快楽は増大していったが同時に松山のことを想って苦しみ悶えてしまった。もどかしさに身を震わせて儀式をこなしてしまう。不快の感情を感じ取って、ぼんやりとした意識が現実の痛みへ戻っていった。
 苦しく声を上げても、触手は確実に自分の身体を責め立てるのみ。見守る視線があっても何も変化はしない。
 喘ぎ声は誰が聞いても隠せぬ快楽のものになっていく。自分から発した声を聞いて気が狂いそうになった。快楽に呑まれていく。苦痛と快楽が半々の愛撫を延々と続けられた。
 全身からくまなく刺激を与えられ、疼きながら身体を震わせる。動きは制限されていたが、悶えることは許されていた。

「ま……つ……ぁ……」

 だから最後まで彼のことを考えていた。
 真っ白く自分の中を塗り潰されていくのだから、松山のことも、彼のことだけでなく家族のこともみんな消えるって判っていたのに、ずっと考え続けてしまった。



 ――1970年2月1日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /10

 継承の儀とやらが何なのか、無学な俺には何にも判らない。
 当主様が和光様ではなく光緑になる。一族の頂点が息子に代替わりする。その程度しか理解してなかった。
 間違いはない。だけど実際は『光緑が光緑でないものになるんだ』と理解したのは、儀式が終わって一晩経った後だった。

 俺は頭が悪いなりに光緑が読んでいた書物に目を通した。彼が受けるという儀式とはどのようなものなのか知りたい一心で、蚯蚓のような字を一つ一つ追っていった。
 すると父・照行に見つかり、「松山もそんなことに興味があったのか」と驚かれ、豪快に笑われながらも、

「お前も儀式を見たかったのか? ……やめておけ、あんな気味の悪いモン見るものではないぞ。兄上も息子が喰らう姿を見て笑っていたが何が楽しいのだか」

 不穏な言葉を告げられる。
 身の毛が立ってしまうような一言だった。

 光緑の誕生日の翌日。許可無く入ってはいけないという『本殿』に入り込んで、長くて暗い廊下の中、眠っているという光緑を捜した。
 いくつもの部屋を開けていくうちに、広い和室の蒲団の上に横たわっている彼を発見した。
 時刻は真昼間。こんな時間になっても寝床に居るなんてと怒鳴ってやろうとしたが、シーツの上に横たわる彼は目を開けたまま動かない。
 透明な眼差しのまま、天を見て動かない光緑の体を揺する。それでも変わらなかった。
 声を掛けても俺の方には振り向いてはくれず、何度も叫ぶように名前を呼んでいると……俺の大声を聞いて駆けつけた清子様が「当主様が穢れることも判らないのですか、この常識知らず!」と強く俺の頬を叩いた。
 すぐに何人もの僧達にその場から追い出され、自室から一歩も出るなと念を押される。たった三畳間の自室ですることと言ったら寝ることしかない。魔導書片手の光緑を誘って夜通し語り合うこともした場所だが、今は監獄。そして押し込まれた俺の元に危険人物を見張る看守のような父がまた現れた。

「当主が生まれるときはあんなもんだ。和光のときもそうだった。光緑の坊主の場合、あまり様子は宜しくないようだが」

 全てを話してやると言うので、俺は慣れない正座をして父と向き直る。

「人間の体は魂を乗せる舟だという話は聞いたことがあるな。そして我ら仏田一族は、刻印を通すことでいくつもの魂を体に蓄えることができるということも」

 ろくに異能も扱えぬ無学な俺ですら頭に叩き込まれた我が一族の能力を、父はわざわざ口にしてくれた。

「千年前、仏田一族の始祖様は叶わない野望を前に永遠の命を求めた。一度は不老不死を求めたが、そう簡単にいかない。だが始祖様は魂を別の体に乗り移らせることで死を、消滅を回避した。それ以後、始祖様の魂は息子の体へ引き継がれ、孫が生まれたら孫の体へと引き継がれていく。言ってしまえば当主の体は、始祖様の椅子に過ぎん」

 孫の子が生まれたらまたその子へ魂を引き継ぎ、始祖様は一族が掲げる理想へ到達するその日まで永遠にこの世に居続けるのだと言う。

「それは、始祖様の魂だけではない。始祖様の息子も仏田の貴重な知恵の一つ。失うには惜しい力だ。彼らも死を回避するため、始祖様の魂と同じように当主の体に魂を引き継いでいく。そうして当主達の魂は、当主の体に溜め込まれていく。その数は既に六十。儂の父、今は亡き先々代当主・光大(こうだい)の魂も……昨日まで和光の体の中にあったのだ」

 何人もの力を持つ、凄まじい力を持つとされていた当主。それが、千年間続けられてきた力の正体。
 その力は、一人のものではない。一人の体に六十もの知恵がある。六十もの異能が込められたたった一つの体。光緑が憧れ目指して鍛錬していた力の正体は、一人のものだけではないという話だった。

「だがな、普通の人間の器に入る魂の数は、どう足掻こうが一つだけだ。……六十も入る訳がないんだよ。元から一つしか入らんものにいくつも入れたんだから判るだろ」

 ふと、父が顔を伏せる。何かを思い起こすような沈痛な面持ちで溜息を吐く。

「当主は器だ。始祖様の、歴代当主の魂を入れるためのな。……もう、それでしかない。それ以外のものは何も無くなる。坊主はな、ただの、容れ物になったんだ。なあ、松山。……お前には辛い話になると思うが……」

 頭を抱えた後、言うか言うまいか何度も考え込んだ父は、長い沈黙の末に静かに口を開く。

「光緑の坊主は、当主の器に相応しくない体だった。生まれたときから坊主には『仏田の当主にある筈のあるもの』が足りなかったんだ。松山だって判るだろ、『赤』も『紫』もどちらも持たぬ光緑の不憫さを。皆それを危惧していたのだが、直系の長男である坊主以外に適任はいなかったからな。……あれはもう駄目だ。和光以上に酷いことになった。坊主は、もう坊主として戻ってこれんよ」



 ――1970年2月1日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /11

「もうこれで、我らを侮辱する口は失くなったわ」



 ――1970年4月29日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /12

 春はあっという間だった。

 1月31日。光緑は十七歳になった。厳しい修行に明け暮れる日々を送っていた彼が既に十七。もう当主の継承の儀を行なってもおかしくない年齢ではあった。
 それでも儀式後、光緑の体は非常に不安定なものになっている。今まで通りの受け答えができない口になり、茫然自失となった目に光が戻ってくることはない。いくら彼の身体に魔術を施しても思う通りの結果が出ることなく、清子の薬を飲み続ける毎日になった。
 自らの意識で魔力も管理できない。まさか彼に起こるとは思わなかった『魔力不足』も、叔父らの手によって事なきを終えている。……無作為に誰かに犯される日々を彼は送っている。魔力が足りない問題ぐらいなら、有り余っているそこらに居る連中から分け与えればいい話だと父は話していた。投薬と乱交、そんな毎日だ。

 数十年ぶりに行なわれた大変な儀式をしたんだ、何があったとしてもおかしくなかった。一ヶ月も経てば彼は戻ってきてくれるだろう。そう思っていたが、光緑自らが起き上がることはない。
 初日に光緑が寝かされている場所に忍び込んで怒られた俺だったが、事態がある程度収拾した三ヶ月後には(皆にあまり良い顔をされないが)光緑に会いに行くことができるようになった。と言っても、布団の上に寝かされた光緑に声を掛けに行くことぐらいしか出来なかったが。

 鍛錬や勉強を終え、風呂も夕食も終えて一日の終わりに光緑に会いに行くことが日課になりつつある。
 そもそも寝る前にとりとめのない会話をすることは今までの日課でもあった。だからそれを続けているに過ぎない。
 三ヶ月も経ったらすっかり春になって、まだ少し肌寒いが夜風も次第に心地良いものになってきた。今日は外が気持ち良いんだぜ、という言葉を用意しながら彼の部屋に入る。
 闇月が優しく包み込んだまま、シーツの上で横たわっている彼がいた。
 目を開いている。視線はどこに向いているということもない。虚空を泳いだままだ。いつも体は清められて白い衣装を纏っていて、命を繋ぐために腕には点滴が打たれているために手足を固定されている。
 雪見障子からもうすぐ桜が咲く夜空が見えるのに、彼はその光を見ていない。月夜が差し込んでいて彼の頬を照らしているから幻想的にも思えて、悲劇を唄う彫刻のようだと口にしたくなった。
 彼を思うあまり、声を掛けようとして、またも口から言葉が出ず、留まる。じっとその姿を見ていたら、気付いてしまった。
 ――光緑が、『此処』にいないことを。

「光緑」

 植物のように、暖かい部屋で息をするだけの日々。
 死んではいない、生きてはいる。でも動かない花のような彼。水をやりに来る男達は光緑を生かすために無理矢理に栄養を与えていく。そんな毎日。
 彼は動かなくなってしまった。でも彼はどんなに変わろうが、彼と自分の関係が変わることはなく、俺はずっと隣で話し掛ける関係を保っている。
 けれど鎖に繋がれた体を見ているだけの関係が本当に友人か。考えるたびに、不安感が大きなものになっていく。考えれば考える度、苦しくなっていく。
 光緑が横たわる布団の隣に、腰を下ろした。控えめに座った筈なのに、どすん、と音が立つ。その音に反応して、光緑の目がゆっくりと動いた。彼の口も動こうとする。

「……辛いなら何も話すな。お前が苦労していること、全部知ってんだからな、俺は。さっきからずっとここにいたんだぞ。なあ。……話をしていいか? 今日あったことを勝手に話すだけだ。別に相槌を打ってくれとは言わない。ずっと俺が喋っているから、聞いてくれるだけでいいん……」
「……お前は、ダ、レ、」
「光緑!」

 大声。外にいる者にも聞こえたかもしれないぐらい大声で、彼の名前を呼んだ。その先の言葉は聞きたくないから大声で掻き消しただけ。空ろな目の少年はその音に静まり返る。
 ――良かった、言わないでくれた。
 しかも俺が怒声に近い大声を出したせいか、少しだけ目に光が戻ってくれる。

「…………ま、つ」
「ああ、そうだ、俺だ!」

 名を呼んでくれた。
 まだ夢見ているかのように、ぼんやりと。
 きっと夜だからだ、眠いからだ。きっと。そう、夜だから寝ぼけて名前が出てこなかったんだ。……判っているけど、そう思いたかった。

 植物人間のようになってしまった彼だが、俺の声には人間らしく反応してくれる。このまま呼び掛け続け、投薬治療や魔力供給行為を続けていれば、普通に生活できる程度には回復すると思われる。
 人形のような無表情だとしとも俺の名前を辛うじて呼んでくれることがある。ぼーっとした顔もそれはそれで可愛らしい。でも生気の抜けたような、瞳に何も写らない姿は、見ていて、苦しかった。……こんな表情、今まで見たことなかった。
 今まではこちらが寝惚けているんじゃないかとからかえば、「寝癖を整えてから言え」と反撃を食らうのが日常だった。光緑はずぼらが嫌いな奴だから、自分が惚けているなんて言われたら悔しいに違いない。そんな風な自分を見られるだなんて、自尊心を傷付けられて喚くような奴だったじゃないか。……かつては。
 彼の腕に触れる。体は一切動かそうとしない。を開けてはいるがまだ夢の中なのか、焦点が合わなかった。夢の中、というよりも闇の中を行ったり来たりを繰り返しているように見える。

「光緑……光緑」

 手を持ち、握りしめる。その力を込めた。
 そこまでしていたら、つい体を起こして抱き締めてしまう。
 抱き締められるままにぐったりと身を預けていた光緑が、ゆっくりと顔を上げた。力の入らない手を上げ、俺の袖を掴む。着物を取り去ると、腕や足に、赤い痕がうっすらと残っていた。
 何をされた痕だろう。
 判っている。判っているけど、判りたくなかった。
 唇を噛み締め、壊れ物を扱うように光緑を膝の上に抱き上げ、力無い頭を支えた。

「すまん……光緑」

 そして、俺は躊躇いながらも顔を寄せる。そっと唇を重ねた。触れた口は、冷たく乾いていた。
 なんで口付けをするって、簡単だ、我慢が出来なかったからだ。光緑を傷付けないように最大限の注意を払って、身勝手なことを続けた。
 手が、こちらに伸ばされる。光緑は半身を起こし、首を傾げた。

「……おはよう。けど、もう夜だからな。今日はもう遅いからこのまま寝ちまえよ、疲れて動けないんだろ?」

 先に俺が手を伸ばして黒髪を梳いてやると、心地良いのかうっとりと目を閉じた。
 頬が淡く上気する。片手で光緑を寄せ、肩に額を寄せた。

「……撫でてほしそうな顔しているな。撫でてやるよ。……ほら、これで満足か? 心地良いなら……明日もやってやるし、ずっとしてあげるからな」

 彼の肩に顔を埋め、俺は囁き続ける。彼の肩を熱く濡らしてしまったような気もしたが、拭く気力は起きなかった。
 光緑は力無く俺の着物の裾を掴む。その後、背中に手を回し少ない力で抱き締めてくれた。同じように俺も思い切り力を込め抱き締める。体温は確実に伝わっていった。
 いつかした、からかい合いと似たような抱擁の嵐。それとは違う熱さも込み上げてくる。
 眩暈が光緑を遅い、急速に落下していく。咄嗟に俺にしがみ付こうと、指先を伸ばし俺の頬に触れ、そのまま落ちた。
 頭が前にのめり、俺の胸に凭れ掛かる。俺はじっと動かず、身体をしっかりと抱き締めたままでいた。
 人形のように堅苦しい動きでも、生きている彼の寝息が首にかかる。甘さを感じながら、ずっとこうして居たいと思った。
 いや、本心を言うなら……誕生日のあの日に戻って、ずっと抱擁を続けていたかった。継承の儀なんて無視して、父親達の命令なんて聞かないで、二人きりで居たかった。出来るなら二人で寺を飛び出していれば……光緑は、変わることなど無かったのか。
 今はもう戻れない、何を言っても下らない話。

 ――このまま、時間が止まってくれないか……と思う。
 そう言っていたのは俺だったか、彼だったか。

 生まれたときから一緒だった彼だから判る。……自分を叱りつける彼は、いなくなった。
 子供っぽくてもなんだかんだ言って何でも世話を焼いてくる彼は、いなくなった。なにより笑ってくれる彼はいなくなった。
 ああ、判らない訳が無い。苦しんでいるのを知っていて何も出来ない自分が腹立たしい。腹立たしさに自分で自分を殺したい。
 彼は彼のまま、でも彼は彼でなくなった。感情も記憶も笑顔も消えた彼。人ではなく器という物体になってしまった彼。苦しんでいるところに自分が手を出してあげたら彼は新しい感情を、記憶を、笑顔を手にできるかもしれない。そこまでできると思うのは自意識過剰なのか。でもそうやって俺は築いてきたんだった。
 昔。生まれてきてからの、彼との関係を。
 偉い人の子だからと外に出られなかった彼を連れ出し、無理矢理泥を塗らせてきたんだ。
 親の前では冷静沈着を装っているぐらいだったのに、彼は大声で俺に怒鳴ってきたんだ。
 それがずっと俺と彼の仲。あんなに感情を曝け出させたのは俺あってのことだろう。これは戯言なんかじゃない。絶対の自信がある。彼の、最も奥にあるものを引き出せるのは自分しかいないと言える。
 泥だけが自信の現れではない。彼を連れ出し、桜の下に立たせたことだってある。勉強にしか興味無かった頭を、武道の道へ寄り道させたのも、満面の笑みを一身に受けたのも、胸を張って言える。ああ、そうだ。光緑を救えるのは、俺しかいなかったんだ。
 ――光緑を救えたのは、俺しかいなかったんだ。

 それがもう何年前の話だ。もう、その時点で気付けた筈だろう。
 涙が零れて、光緑に「松山が泣くなんて格好悪いぞ」と怒られるだろうと思った。彼ならばそう言ってくれる。彼がこの姿を見ているなら。見ていてくれるなら。壊れる前の、彼ならば。そう言うに、違いない。ぐしゃぐしゃな顔を彼に見せ付けて、何があったんだと……言われたい。
 どうしたんだと一言。またどうしようもないことだろ、とまた一言。その一言だけで救われる。
 彼が声を掛けてくれるだけで自分は救われ、彼も救われていた。お互いの声が届けば、しあわせだったんだ。
 今はどうやっても届かない。これが歯痒い。この柵に縛られる彼が悲しい。ずっと縛られていくだろう彼が悲しい。記憶どころかすべてを奪われた彼の人生が悲しすぎる。神の為とは言うが、そんな悲しいことを嘆いてくれる神はどこへいった。彼を救う手段を知る、神はどこへ。彼を縛り付けて何が愉しい。
 流れた涙がそこまで辿り着いたのだろう、胸の奥が熱かった。
 ふと、どうでもいいことを思い出した。時々、彼が困ったように言っていた台詞。「お前は暑苦しい奴だな」。どうしようもないだろ、とこっちも笑って返すしかなかった。ちょっと毒のあるのが彼の言い方だから、非常に心に残っていたのかもしれない。ああ、今はどんな言葉でもいいから聞きたいと思ってしまっている。でも聞けない。もう。笑うしかなかった。
 でも、なあ。やっぱり、聞きたいよ。声が。長い言葉なんていらない。名前でいい。それなら一言じゃないか。大層な願いじゃない。だから名前を。
 ……お前に、名前を呼んでほしいよ……。

「松山」

 ふっと目を開けた。自分の名前を呼んでいたのは、背後に立っている父だった。
 胸の中にいるのは光緑のみ。前よりずっと痩せた顔が、小さな寝息を立て、眠っていた。本当なら彼に名前を呼んでほしかったが未だ叶わない。
 いつの間にか自分は泣いている。父が部屋に入って来たのも気付かずに、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
 その顔のまま、俺は彼を抱きしめた。優しく抱きしめてくれる彼の腕は相変わらず硬い。しかも冷たかった。

「見苦しいぞ、松山。感情に呑まれるな、馬鹿者。……鬼になってしまうではないか。悔やむ心が闇をまた呼び、お前を食らってしまうぞ」

 何度も彼の名を呼ぶ。何度も何度も彼の名前を呼ぶ。何度も。

「……坊主は至らぬ体であると自覚しながら、椅子になることを自ら望んだ。一族の証である炎の髪も神の眼も持たぬ自分を長い鍛錬で鍛え、人であることを捨てて、一族の悲願を叶える器へと姿を変えたんだ。いずれ誰かが当主になる。だが自分こそが当主の任を負うべきと光緑自身が結論を出したんだ。彼の決意を穢すな。……お前の願いは叶わん。彼の居るべき場所はもう決まっている」

 もう一度、彼の顔を見ようと目を開く。親父の声など聞こえない。
 瞬間、周りが真っ暗になった。親父が俺の頭に手を翳し、眠りの魔術を使って興奮する俺を取り押さえたからだ。
 だから俺の意識は消えていく。何も無くなっていく。あるものと言えば、何も無い裸の腕。腕の中にさっきまであった大切なものもどこにも無く、残されるは自分のみ。
 闇の中、意識が落ちる。黒の奥へ意識が落ちていく。彼の隣にならいくらでも落ちてもいいが、一人は嫌だった。
 遠くへと引き裂かれていく。父の優しさに「嫌だ」と強く叫んでしまった。
 でも黒の中に呑まれていくしかない。そのうち叫ぶ口すら無くなる。それでもと、最後に叫んだ。これ以上ないぐらいに叫び上げる。大切すぎる彼の名を。



 ――1970年4月30日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /13

 ――お前も、柳翠も皆、彼の周りは優しすぎるんだ。
 それでは駄目だ。苦悩を背負い、我らは行くしかないのだから。

 儂らだって、かつて兄上を蹴飛ばした。
 今から二十年ほど昔に同じことがあった。
 嫌がる兄上に鞭を打った。兄上が嘆く中、悲しむ女を引き離した。でも兄上には器になる運命が定められていたから。そうでなければ一族の繁栄が途絶えてしまうからと信じていた。
 そうしてお前らが生まれた。その行いは酷行だったが、お前らが生まれたことを決して悔いはしない。今まで過ごしてきた生を否定することもない。お前らも同じことをしていくだろう。
 いずれ判る日が来る。今は疼くが、目を瞑れ。落ち着くんだ。いつか良い話になる。

 本来の継承の儀なら一日の眠りで新たな当主が誕生するといわれていた。だが光緑の場合は三ヶ月の眠りの末に誕生すると思えばいい。
 まだ光緑はその身に六十の魂を抱えきれていない。自分の体に六十の魂を定着することができず、本来の魂すら舟の操舵主になれずに魂の抜けたような状況が続いている。だが確実に彼の体には魂は流し込めた。全てを自分のものにするのには時間が掛かるが、半年が経てば、もしくは一年もすれば動くようにはなるだろう。
 そう『彼女』も言っている。「光緑はその程度では死なない」と楽観的に笑っていたぐらいだ。
 動けるようになったとしても表に出る魂が光緑自身か、そうではないものかは見当もつかないそうだが。

 知恵の譲渡は無事済んでいる。あとは光緑の目覚めを待つだけだ。気長に待てばいいだけなんだ。松山はたった三ヶ月の植物人間に怯えすぎているだけ。慌てる松山の心も判る。
 だから今日は眠らせてやった。
 ……魔術で意識を落とさせた息子を見て、自分が拳を握り潰している事実に気付いた。無意識のうちにやっていたようだ。爪が皮膚に入って雫を作っている。
 狂乱の末に眠らせた松山と、虚空の中で漂う次期当主。
 薄暗闇の神殿の中で、倒れ伏す二人の少年。その前に立っているのは、告げるだけ告げて何をしたかったのだろうと考えてしまう自分。

 二十年前も、同じことを実父にされた記憶がある。
 まったく同じ行為を自分もしていることを思い出して、ついつい声を上げて笑ってしまった。
 過去を悔いることは多々ある。だがその過去があって、自分らが今ここにいるのもよく知っている。あのとき自分が兄上に鞭を打ったから、兄は今、光緑に全てを任せて『人間に戻れた』のだ。

「なんじゃ、照行。お前も光緑の見舞いに来たのか」

 ふらりと神聖の間に、酒瓶を片手に現れる自堕落な男の姿があった。
 何者でもない。この一族の頂点であった、かつてこの国の神として君臨していた彼が、自由になった男がそこに居たというだけ。静かに花のように眠る息子のもとにやって来る父の姿などありきたりで、彼には似合わないが相応しくないとは言えないものだった。

「またお前のガキが忍び込んでおったか。そいつがここに居ると清子がうるさい。照行が追い出しておけ」
「判っているよ、兄上。そのつもりで眠らせたところだ。……酒を飲むなら自室に戻っておれ。後で向かおう」
「ああ、ああ、早く来い、照行。やっと自由になれたんだ、酒宴をし足りなくてたまらん。酒に強いお前がいないと楽しくない」
「だからといって三ヶ月間酒浸りもどうかと思うぞ。光緑に当主の座を譲ったとはいえ、その光緑が目を覚まさん今、指導者は兄上であることに違いないのだから」
「子供の引率など、お前の息子にでもやらせておけ。何と言ったか、ほら、狭山という坊主がいただろ。あいつは良い。素直で従順で、何の芸でもするからな」

 息子の見舞いなどと言うような口ぶりあったが、かつての当主・和光は光緑に何の声も掛けずに用件だけを口走り去って行ってしまった。
 かつて苦しんだ兄上だから、この日々は待ち遠しいものだったに違いない。だから彼は堪能している。……そもそも彼が苦しんだ記憶は、もう彼の中には無い。彼も『継承の儀以前の記憶』を五十九の魂に押し潰されて失った一人なのだから。
 五体満足で赤い髪も紫の眼も持つ和光ですらそれだった。光緑が奇跡的にかつての光緑に戻るなどということは、おそらくきっと……。

 眠る松山の頭に手を翳す。記憶を弄って真っ当に鍛錬に励む男に作り変えることも良いかもしれないと。だが、流石に光緑と歩んだ全ての記憶を消すのは憚れる。どこまで消すべきかを考え、どこまでも消してやりたくないという感情に満たされていく。
 これからも松山は光緑を失ったことの苦悩と絶望を味わっていくだろう。だから光緑のことを無かったことにしてやりたかったが、いざその瞬間になった途端、思考が止まってしまった。

「……やはり記憶の改竄は、儂には合わん。早々に任を降りるべきだな。後任を決めなければ」

 自分の息子だから甘やかすつもりはないが、光緑を中心に生きていた松山から光緑の思い出全てを奪うことは、彼を殺すのと他ならない。
 それは救いにはならない。死を与えて無に返すのとなんら変わりはない。……曖昧な自分には荷が重かった。

「すまないな、松山。もう少し苦しんでくれ。そして……自分の力で乗りきってくれ。お前の心で、光緑の決意を、受け入れてやってくれ」

 全てを救うことなど、無理だと判っている。
 全てを救うことができる全知全能の人間を生み出そうとしながらも、そのような考えに至ってしまう。
 笑う。不安に心が押し潰されそうな顔をまた見守ることしかできないのか。
 二十年経ったとしても、そしてこれから二十年経ったとしても。半端者である自分をついつい鼻で笑ってしまった。




 ――1970年5月15日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /14

 意識を取り戻した新当主は、生まれ変わった。

 大量の異形が蠢き、人間の体に群がる。餌に群がるハイエナのようにガツガツと視えない牙で肉を剥いでいく。正常な思考の持ち主なら気が狂うほどの地獄。半端に実体化し、ただただ人を傷付けるために生じている怨霊達は、生者にとっての地獄を美しいまでに再現していく。
 誰もが絶望しかけたとき、新当主の少年が持つ赤い槍が真横に薙いだ。人の体に群がっていた魑魅魍魎達が弾け飛ぶ。
 圧倒的な力に奴らは退治されていく。すると怨霊達もやられているだけにはいかないと槍の持ち主に襲い掛かる。だが反撃しに向かった先に彼は居らず、また怨霊は凄まじい攻撃を受け掻き消えた。
 禍々しい攻撃は止まり、彼らを殲滅する一手が続く。血で創られた槍は血しぶきを上げていった。異端らは次々と反撃するが、何処にも誰も居ない。
 最後には刃のような血の噴水が全てを襲っていた。赤い雨がその世界に居たものを斬り刻んでいく。苦痛に歪んだ叫び声が一面に広がる。同じように、被害に遭っていた人体も血の雨に打たれ、粉々になった。
 異端達は消滅を余儀なくされる。誰もが敵わぬと思ったその光景を、赤い槍の持ち主はいとも簡単に無に変えた。

 強い。なんて力だ。凄まじい、これが。
 その光景の変化を見ているしか出来なかった者達は皆、感嘆の声を上げた。
 新当主の少年が素晴らしい力を持っていることは、誰もが知っている。だがあの儀式から復活した彼がここまで恐ろしく強大な力を手にしていただなんて。皆判ってはいるつもりだったが、実際の惨状に息を呑んだ。
 何せ彼が力を行使したのは、たった一秒にも満たない。
 皆が目を瞑った瞬間に、全てが終わる。いくら強力な能力者を見てきた者達でも言葉を失う程だった。
 これが新しい当主の力。これこそが神の力。歓声を上げる者がいてもおかしくはない。

「………………」

 だが目覚めた当主は、今もぼんやり虚空を見ているだけ。
 人形のように変わってしまった少年を、囃し立てる者は一人も居なかった。



 ――1970年5月15日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /15

 光緑が寺に戻ってきたと聞いて、俺はすぐに彼の部屋に向かった。
 外に出て異端を退治してきたまず彼は体を清めに行く。彼が帰ってくる前に部屋に蒲団を敷いていれば、敷き終えた頃に大山兄貴に腕を引かれて当主様は帰ってくるようになっている。

「それじゃあ寝かせてやってくれ。……もちろん、松山も早く寝るんだぞ」

 光緑と一緒に『仕事』に出ていた大山兄貴は、疲労した声で俺に頼んできた。
 兄貴は新当主様に頭を下げて退室した。その体に傷なんて一つも無い。清められたばかりの体は、泥さえも付いてない綺麗なものだった。
 おかえりと当主様を迎える。
 兄貴の話によると、光緑は一秒もかからずに異端討伐を終えたらしい。
 それまで先に行っていた者達が屍になったというのに、皆が怨霊達に齧られていたというのに、光緑はその戦場に入るなり、あっという間に事を終えてしまったという。言葉を失ってしまうほどの力を発揮したと言っていた。
 儀式から目覚めた当主の力は、今までのものとは比べ物にならない程だと聞いている。今までだって「良くできた奴」と言われていたのに、それをゆうに超える力だそうだ。今までの十倍、百倍、いやそれ以上になってしまったというから、当主の力とやらは流石と言うべきなのか。

「顔色は悪くないな。朝よりずっと良くなったように見えるぜ。調子はどうだ?」

 1月の末に光緑の体へ千年の知恵を集結させ、彼は生まれ変わった。
 三ヶ月間は人として動くことが出来ず、生きてるんだか死んでるんだかわからない状態が続いていた。
 けれど4月、俺の誕生日が近くなった頃。光緑は回復し、一人で立って食事をするぐらい復活した。
 第六十二代当主様として、復活を果たしたらしい。
 三ヶ月間は赤子以下の動きしかできなかった光緑でも、今ではもう異端討伐に赴けるほど回復している。それでも先程のように誰かに支えられて動くのが大半だった。

「悪くない」

 俺の問い掛けに、光緑はキッパリと答える。
 外着用の着物を下ろし、用意した部屋着に着替え始めているときにやっと彼は口を開いた。喋るのが億劫に感じるぐらい疲れているのか、俺は着替えを手伝う。まだ普通の行動に支障を感じることが多いらしく、何かしら誰かが手伝ってやらなければならないからだ。

「悪くないか、そりゃ良かった。調子良いなら何よりだよな。そうだ、夕食は?」
「食べた」
「ふうん。じゃ、後は寝るだけか?」
「ああ」
「そっか。疲れてないか? 肩でも揉んでやろうか?」
「いらん。大人しく寝かせろ」

 淡々。言葉の一つ一つは短く、端的に終わらせる。
 判りにくい言動はされないので、使用人としてはありがたい限りだ。それは俺以外の手伝いも皆、口を揃えて言う。
 でもその言葉遣いがあまりに短くて、感情が無い。まるで邪険にされているようで、ついつい鬱陶しく思われているんじゃないかと感じてしまう。
 以前直接そう言ったら「そんなことはない」と否定された。だが俺の目を見ずに自分の事しかしない彼を見ると、やっぱり邪魔だと思ってるんじゃないかって邪推してしまう。

「遠慮しなくていいんだぞ。ずっと仕事モードっていうのもキツイだろ?」
「いらん」

 それぐらい彼は機械的で、人間味が無かった。

「光緑、いっつも肩バッキバキだしさ、そろそろ揉んでやる」
「いらん。聞こえなかったのか。私は眠りに戻ったんだ。お前も大山の言葉に従え。さっさと寝ろ」

 ――『私』。
 今までに無かった話し方に、ついつい反応してしまう。
 当主になり、一族の心臓部となり、一人の少年でいられなくなった立場を弁える為に口調を変えるのは当然なのかもしれない。兄貴のことを呼び捨てにするのも、自分の方が偉くなったことを自覚してなのか。
 彼は我が家の代表者になり、大人になったんだから、いつでも気を張っていなきゃいけない。
 ……いや、そうじゃなかった。

「なんだ。松山。私に言いたいことがあるならさっさと言え」

 黙りこんで俯いている俺へ律儀に気遣ってくれる当主様は、実に優しい。
 でも気遣ってくれるようには見えても、当主様は決して俺に近付いてくることはなかった。近付いてくれなどしなかった。
 着物を着終えた彼は、直ぐにでも寝る準備をしていた。そうするのが当然のように、それしかしないようにしている。その顔はさっさと出て行けと言いそうな表情をしていた。
 こちらには一切顔を向けずに。ちっとも近寄らずに。……頭を撫でになんか、来てくれなかった。

「光緑」
「なんだ」
「光緑は、もっと優しかったよ」

 お休みの言葉を言う前に、言葉を繋ぐ。薄く笑って、新当主である彼への嫌味のような悲鳴を挙げてしまう。
 彼の体を乗っ取って彼を奪っていった『奴ら』に、精一杯の悲鳴を浴びせたつもりだった。
 悲しかった。もし俺があのとき彼を連れ出してやれば、なんてどうしようもない悪が心の中でざわめいている。ただ胸の中で泣き喚くぐらいしか出来ないというのに。
 光緑は敷いた蒲団の上に腰を下ろしたが、すぐに横たわることもなく書物を開き始めた。また可能な限り学び続けようとしているんじゃないか。
 その些細な仕草が、俺の部屋で暇を潰して時々笑っていた光緑なんじゃないかと思わせる。
 彼なのか、彼じゃないのか。本人なのか、別人なのか。
 ……こんなにも迷ってしまうなら、本格的にこの当主から離れた方がいいかもしれない。その方が気持ちが落ち着くかもしれない。でも、近くで蘇る彼を迎えてやりたいのに。

 ふと、彼が動いていた。あまりに苦悩に満ちた顔で唸っていたからだろう。立ち上がった光緑が俺の側までやって来ると、パシリと軽く頬を叩いた。
 音も微かにした程度の全然痛くない平手打ちだ。くすぐって馬鹿騒ぎをする今までの彼は居ない。俺が顔を上げた先に居るのは、ひどく大人びた顔の光緑。光緑だったもの、だ。

「すまない。私も元に戻ろうと必死ではある」
「は……?」
「松山が落ち込んでいると、私も困る。……読書が進まん。夢見が悪くなる。だから、気持ち悪い顔をするな」

 その言い方。らしくない口調にも思えるけど、ぶっきらぼうな態度は……少しだけかつての彼を彷彿とさせた。

「さっさと寝ろ、松山。明日も私の世話を頼む」
「……お前がちゃんと寝たのを確認するまでが使用人なんだよ」
「私は……また長い眠りに落ちる。おそらく明日は目覚めん。目を覚まさない私の世話を頼んだと言っているんだ。万全の状態でこの部屋に来てくれよ」
「…………」
「じゃないと、私は死ぬ。……当主になったのに、眠りすぎて死んだとなったら歴代の当主様に顔向けができん。だから、お前が私を助けてくれ」

 殴ることも叱ることもしていた光緑が、不意に俺の着物の裾を掴む。
 高圧的で理性的、大人びた当主様が……幼くか弱いそんな姿を見せる。

 ――誕生日からもう四ヶ月。桜が散り終えた頃だというのに、眠る期間はとても長いまま変わらない。
 十七歳の誕生日のときから、『本部』(現在のリーダーは引き継ぎを行なった大山兄貴と狭山兄貴だ)が『仕事』をすると決定した日以外は夢の中で生活をすることになった彼は点滴で命を繋いでいた。何でも『肉体の時の進まないようにする魔術』でいつまでも眠っていられるような装置を魔術師達が開発中らしい。それが出来上がれば眠り続けることにも負担がかかる光緑を救える筈だ。

「……光緑」

 準備はできている。半年以上経てば元通りの光緑が戻ってきてくれる。そう思っていた。
 一年も過ぎれば完全に復帰するかもしれない。望みは薄くない。根気強く待ち続ければ、「撫でてくれ」「ぎゅっとしてくれ」と甘えていた光緑は帰ってきてくれる。そう思い続けていた。
 だが、違う形で彼は求めてくれている。
 俺は新たな姿を受け入れて、当主様を守っていく一人として俺も生まれ変わるべきなんじゃ……。

 いつかの日、親父が言っていた。
 ――坊主は人より眠る時間が長いだけで、あとは完璧な当主となった。力は凄まじいもの、全を視る目も優れている。彼は我らが知る中で最強で最高の能力者だ。これ以上、変わる必要は無い。
 そのときは何を言いたいのか判らなくて文句のように聞き返した。親父は大袈裟に溜息を吐きながら、俺を叱咤する言葉を繋げた。
 ――皆、当主としての光緑に満足している。新当主の誕生を喜んでいる。不満を持っているのは、松山、お前だけだ。不満があるなら、坊主から離れろ。その方がお前の為になる。
 いいかげん、新たな光緑を受け入れろ。そんなことを親父は口にしていた。
 何を言ってるんだと思った。何を、馬鹿なことをとも。
 しかし感情の薄い冷淡な声だとしても……その指は、確かに彼のもの。
 記憶が無くなっても、眠りに落ちていても、別人になってしまっても、その些細な体温が……涙がぼろりと出てしまうほど懐かしい仕草だった。



 ――1970年5月16日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /16

 光緑は儀式の際に死んだ。
 代わりに当主様が生まれた。
 優しい当主様は事故死した彼を、最低限『再現』してやっているらしい。ぶっきらぼうな言い方、背筋をピンと張った姿勢、家族を大事にする志高い精神。1月31日、頂点に君臨した当主様は立派に演技をなさっていた。嫌な顔を一つもしないで。
 さすが千年の知恵と力を身に纏った人だ。ヒト一人を演じることなど容易いこと。光緑の全てを知っている当主様は、忠実に光緑を表現し、一族の為に今日も動いている。

「何故……そんなことをすると思う?」
「――判りません」
「ちゃんと考えたか? ……どうやら当主様は、松山を大事にしたいようだな」
「――そうなのですか」
「……光緑は完全に消滅した訳ではない。あの体の表側に出られなくなっただけだ。一つの舟にいくつもの魂があるんだから、操縦席をいつ違う魂に奪われても仕方ない。……当主様は、光緑が完全に消滅されたら困るんだろう。正規の操縦者が舟から下りてしまっては、舟が正常に動かなくなってしまう可能性があるからな……。弱くて消えかけの光緑を繋ぎとめるのは、彼が大事と思っていた奴の声が必要だ」
「――松山様の声が」
「常に呼び掛けてくれていれば……光緑の消滅を食い止めることが出来る。それまで当主様は、松山を無碍に扱うことなんて出来ないんだよ。もし……彼が光緑から遠退いてしまったら、光緑は消滅して、せっかくの最高の椅子が崩れてしまうからな。……当主様にとっても、和光様にとっても、この一族全員にとっても、光緑を失うのは大きすぎる。なんとしても守らなければならない。……オレも光緑のことは大事……い、いた、痛っ!?」
「――私は」
「痛いっ! 抓るな! わるいわるい! 悪かった! こらルージィル怒るな! まったく変なところに嫉妬するんじゃなぁい……!」



 ――1969年12月30日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /17

 物心ついたときから自分は父の死を心待ちにしていた。
 実父のことが憎んでいるからという、判りやすい理由からだった。

 父・光大は、最悪の人間だった。『この世の悪』というものを形にすれば、あの男になるだろう。
 誰にでも暴力を振るい、後継者である息子を蔑み、他人を馬鹿にし、自分だけが良ければ良いという身勝手で最悪な人間だ。意味も無く人を打ち、痛めつけ、嬲り、殺す。そうだ、奴は人間ではない。奴こそが魔物だった。
 肉親だけならまだしも、目に入った女を地獄に落とすことを生き甲斐にすらしていた。気に入った女を自分好みに改造しておきながら、飽きたら獣達に喰わせ、同じ悪行を他人にも強いた。自分の妻になった女の気を狂わせて殺したこともある。殺した後も妻の体を貪り、その姿を実の息子に見せつけもした。
 自分は運の良いことに全ての記憶を失っている。継承の儀のおかげというものなのか、だが弟の照行や浅黄は未だにあの日のことは忘れられないと言う。父の命令とはいえ、あんなに美しかった母を肉塊に変えられる瞬間を目を逸らすことも許されず延々と見せつけられたのだから。

 最悪な鬼であったが、それでも彼は仏田家の当主。彼は神として、人々に崇められる存在だった。仏田一族の頂点として、『第六十代目の当主』として皆から崇められていた。
 どんなに極悪な存在だとしても、人々は彼を崇めてやまない。神の性格など人々は関心を持たなかった。
 神の役割は、ただ人々に救いを与えればいいだけ。どんな悪人であろうと彼が頂点である限り人々から敬われていた。
 父は『神の形を模した物』であり、その言葉通り『物』だった。
 どの悪行をしたとしても決して人間性を理解されず、どんな振る舞いをしても己を見る者はいない。人畜無害の神になっても偶像でしかならず、最悪の化身になっても偶像にしかならない。どちらを選んでもどのようなことをしても結果が変わらない。
 だから彼は『自分が最も生きやすい道』を選んだのではないが。『悪』という、正義より生きやすい道を。

 自分が継承の儀を行ない父から当主の座を譲り受けたとき、一番最初に行なったことが父の処刑だった。
 父から受けた地獄の仕打ちを覚えていない。自分というものは当主になった時点で消えた。だが、自室に置かれた一枚の手紙が「元当主を抹殺しろ」と書いてあった。だから頂点になった自分は、何よりも先に極悪人である仏田 光大を罰した。
 当主になり一番初めに回収した魂が実父のものだなんて、後の仏田当主に笑われてしまう歴史を作ってしまった自覚はある。
 だが後悔は無い。過去の自分から贈られた手紙の内容は切実で、白紙になった自分がまた彼の手で穢される前に終わらせるのだと恨みつらみが詰められていたのだから。
 回収した実父の魂も我が身に収めてある。すぐにでも昇華させてしまいたかったが、彼が実父であるという事実が最後の良心により思い留まらせてくれた。

 その後、「仕方ない」と彼の魂を自分の刻印に押し当てたとき、他人との交流を拒絶し自分だけの身勝手な世界で生きていた男の心を見てしまう。
 恐ろしい仕打ちを繰り返してきたあの男の心など知りたくもなかった。けれど、判ってしまった。

 ――多くの魂を集めろ。恐怖でも絶望でも、なんだっていい、強い感情によって支配された魂を。
 ――魂さえあれば神が生まれる。そうすれば、全世界の人間を救済できるのだから。

 ただただその強い想いだけが、彼という化け物を創り出していた。
 なんていうことだ。人を苦しめていた男が、根底にあったのが人々の救済だったという。
 人を救うためには強大な力がいる。ならば神を創る我らの理想を成就させなければならない。だから彼は悪逆非道を繰り返していたなんて――何を笑えばいい?

 父が殺めたものは多い。だが父が作り出したものも多かった。
 悪行の裏で進めていた退魔の実績、日本各地の退魔組織との繋がり、奪うように各国からかき集めた知恵。
 さて、自分は今までの人生を白紙にされた。なら一からどう生きる?

 ――自分もまた、自分に『鬼になること』を強いられている事実に気付いた。

 ……目を覚まし開いた瞼の先は、暗闇。微かに視線の端で灯篭が揺れているだけの部屋だった。
 ぼんやりした頭で目を擦ろうと腕を動かすが、じゃらりという重さに動きが制止された。両手両腕、首に掛けられた鎖の重さなど、眠っているときには感じないから忘れていた。
 両脇に控えていた弟達が、鎖を一つずつ外していく。完全に解放された後は自分の手で目を擦るまでもなく、清子が赤ん坊を相手にするかのように体を清めてくれた。顔だけでない。着物を剥がされ体中を拭う。香の匂いの中、少し自分の体臭がした。

「……何どきか」
「30日の夜、戌の刻でございますよ。和光様。丁度丸二日お眠りになられていました」

 蝋燭の灯りでしか顔を確認できないが、ふわりと笑う女の顔に言葉に出来ない感情を抱いた。
 本来であればこの間に女性の入室は禁じられている。正確にいえば「一門以外の立入を禁じている」のだから唯一の血縁者である彼女・清子は特例で存在していた。弟・浅黄の嫁である清子は遠縁ではあるが仏田の一族の出。妖しく艶やかな顔立ち、備えた知恵も立ち振る舞いもかつて仏田の地に住んでいたという女神を思わせる風貌だ。
 自身も神と崇められるが、所詮男の当主は代理。儀式をするのも、知恵を蓄えておくのも、今までの当主は代理に過ぎない。『神は女がなるべき』とこの一族は定めている。つまり清子は、この世で一番『我らが求める神』に近い者と言えた。

「兄者。人の嫁を見つめて惚けるな、妬いてしまうぞ」

 隣に待機する清子の夫が、からかうように言った。
 それを聞いて清子もくすくす笑う。赤ん坊のように為されるままに体を洗われ、自分もまた笑ってやるぐらいしかすることがない。

「さて、綺麗になりましたよ、和光様。有難う御座います。もう動いて下さって結構ですわ」
「……いいや、清子。おぬしの為に動かなかったのではないのだ。単にまだ器と中身が結びつかぬだけよ」

 それを聞いた清子は「おや」と驚いたような顔をする。周りにいる弟二人も「なんと」と近寄ってくる。
 寝台に寝かされ意識だけは覚醒しているものの、体は別のものになったかのように身動きが取れなかった。

「定着に失敗したのですね。何故そんな簡単なことを……」

 清子が小さく呟く。言ってからそれが不敬に値すると気付いたらしく、そそくさと浅黄の裏に隠れてしまった。
 叱りつけることもできるが、失敗したのは自分のせいなので何も言わないようにする。
 弟の浅黄が「大丈夫だよ、それぐらいで怒る兄者じゃないさ」と慰めた。彼が妻を抱く。その仕草が、まるでこちらが女を泣かせてしまったかのようだ。
 女が勝手に自爆しただけだというのに、浅黄の言い方は兄が悪いように聞こえる。もちろん本人はからかうように言っているのだが。

「……一晩経てば肉体も魂と繋がるだろう。気にするな、儂は気にしておらん。どうせ夜だ、動いても何処かに出る訳にもいかん」

 不用意に女を泣かせる気は無い。今もさらさら無いし、今後もその気は起きないだろう。勝手に泣くことまで考えてはいない。
 考えられるのは自分のことで精一杯だ。それは成人し、息子を三人得た今も変わらぬことだった。
 ――魂を操作は、始祖様の編み出した秘術だと言われている。一つの舟に大勢を乗せる秘術は始めのうちは問題無く使われていたのだろう。だがそれが十人、二十人と増えていくごとに本来の操舵主との繋がりが希薄になっていった。
 そこで思いついたというか妥協した結果が、『舟を改造する』という新たな秘術だった。いらない部分を削ぎ落とせば落としただけ収容できる容量が増え、空いた場所に更なる情報を入れられることに気付いたという。
 足の機能を無くせばその分、知恵は蓄えられる。思考する機能を使わなければその分、知識を詰められる。人の形を保っていなくても始祖様らの魂は継承できる。だから知恵を引き継ぐ儀式は、同時に、人ではなく器になる儀式へと様変わりしていった。
 儀式を行なって数十年経った今も、器から人に戻れることはできない。
 魂と舟との繋がりが薄れてしまっている今、指先一つ動かすことができない事態に陥っている。父を殺して二十年経とうとしているのに。器から人に戻れることは、未だに改善策すら無い。

 儂の体を清め終えた清子と浅黄は寝ると言ってさっさと部屋を出ていってしまった。
 寝室に残されたのは一つ下の弟・照行のみ。おぬしは浅黄と共に行かんのかと尋ねると、ムッとした顔で「誰かが兄上の看病してやらんとな」と返してきた。
 まあいい。話し相手になれと言いながら再び倒された寝床から天井を見る。
 時間は着々に先へ先へと進んでいた。真夜中に二日ぶりに目覚めた人間の頭をまだ寝かせたくはない。弟には座椅子に座らせるように、そしてすぐ側で控えているように命じた。

「先ほどな、清子を美しいと思えたのだ」
「…………。兄上、浅黄が居ない所で何を言う?」
「くく、浅黄はこの程度のことで怒り狂わぬ。あやつなら『ああ美しいだろう、そら美しいだろう』と囃すな」
「…………」
「黙るな、おぬしは儂の話し相手なのだから相槌ぐらい打たんか。……ふ、目覚めた最初にあの美しい顔を見られて気分が良い。女は好きだからな。我らが敬うべき存在であるからかもしれんが、博識で美麗な女となったら嫌う輩はおらんだろう? 泉美が死んでもう六年が経った。儂も寂しくなってきたのかもしれん」

 柳翠を生んで事切れた伴侶の顔を思い浮かべる。
 初めて会ったときは生命力に溢れていた女だと思っていたが、死ぬ間際は雑巾のように変わり果てていた。

「兄上はまさか女が愛しいか? 今でも幾らでも女の相手をしているだろうに。前だって来たばかりの女中を引っ掻けていたと聞いたぞ。愛を囁くのは構わんが、少しは年頃の藤春達のことも考えてやれ」
「腹が減ったら餌を求めて何が悪い。それとな、照行。儂は女を恋しいと思ったことはあるが、愛しいと思うことはない」
「…………」
「……我が妻であった泉美は、光緑を産み、藤春を産み、柳翠を産み、そして死んだ。藤春も柳翠も高い能力を持って生まれ、光緑は儂以上の実力を持って生まれた。役目を全うしてくれて儂も感謝している。……たとえ炎の髪と神の眼を引き継がなかったとしても、刻印を持って儂以上の異能を操る奴らを産み落としたのだ。感謝してやらんとな」
「……清子も、よくやったな」
「ああ、乳母の清子は天才だ。昔から一門随一の錬金術師だった。我が父上が用意する女だけはある。奴は昔から『体を弄くること』が得意だった」

 光緑が生まれる前に、清子と「どうやれば我が子に相応しい最高の素体が産めるか」相談をした。一族の為に、これから生まれる後継者を最高の形でこの世に出さなければなかったから。
 本来であれば、清子が父によって用意された花嫁だった。だがあの女は自分の体を自分で弄くるのは難しいからと、代わりに確実に良い子を産み落とす母胎を見つけ出し、徹底的に管理した。
 母胎を確保した後は、清子の計算に則ればいいだけのこと。簡単だった。決められた量の薬と食事、行為をするだけで、あの女は最高の素体を産み出した。
 人造人間。
 光緑だけでなく、藤春も柳翠も、全て儂と清子の手で創られた最高の能力者だ。
 光緑が生まれるのは早かったが、更に改良を重ねた藤春を創るのには六年、柳翠を創るにはまた六年かかった。他の者達のように女を孕み部屋に閉じ込めて女子を産むまで生殖行為をさせるのではなく、長い揺り籠生活を送らせた。

「長かった。だからあの女も柳翠を産んだ後に力尽きてしまった。十二年も魔術師に身を任せていたのだ、精神が病んでもおかしくないのう。ただ素質のある子を産むために我が一族に迎えられたのだからな。まさか一介の娘が儂以上の子を産むとは思わなかった。ははは、よくやってくれたわ。…………だからかな、柳翠が儂を睨む」

 柳翠は会ったこともない母親を大事に想っているからな、と高く笑ってやると、動かない体は少し揺れた。
 座椅子からふらりと横に落ちそうになったとき、咄嗟に照行が肩を掴む。ぐっと強く。力の加減を誤り、強く、掴んでいた。
 照行は知れず興奮しているようだった。
 この事実を知らない訳が無い。義理の妹である清子が三人の人造人間を創っていることも、弟の浅黄がその研究を支えている魔術師であることも、儂の嫁として嫁いだ女が座敷牢のような部屋で十二年間寝かされていたことも知っていたのだから。光緑が完璧な異能遣いであることも、完璧なのに本来受け継ぐ筈だった証を持たずに生まれなかった異常さの理由も判っている筈だ。
 何故後継者の証である刻印を持ちながら、父親達が代々受け継いできた『それら』を持ちえなかったのか。
 それは……魔術の手など借りず、今まで通りであれば真の後継者が誕生したのではないか。
 その疑問を、照行が一度も抱かなかった訳が無い。三人の息子を取り上げたのは産婆ではなく科学者で、三人は人の子とは言えぬ存在であることを承知の筈。それなのに今の話を聞いて腕に力を込めているのは、照行は人一倍ヒトの情を気にする仁義に熱い性格だったからに他ならない。

「照行。儂が女遊びに夢中になってしまったのは、今まで没頭できなかったからの反動だな。女を自分の手で啼かせるのは心地良い。今更この年で知ってしまったよ」
「兄上のことを高潔だと思っておった。だが今の兄上は……父上となんら変わりないな」
「ふふ、そうか。やはりそう言われても仕方ない。当主になる前の儂はどうだった? 女遊びは激しかったか? その名残が蘇ったのではないか?」
「残念ながら当主になる前の兄上は今以上に高尚な人だったよ。一人の女を愛して泣くぐらいにはな。……なあ、兄上。こちらは愛とか情念を信じていてな。兄上は……泉美さんを愛していなかったのか?」
「愛しているぞ。泉美は最高の結果を出してくれたからな。まさかここまで良い作品を生み出すとは思わなかった。儂の期待に応えてくれたのだから愛さなければ悪いだろう?」
「……それは」

 照行は、唇を薄く噛みしめた。そうして苦々しく口を開く。

「それは兄上が楽をしたいがためにあの女を利用しただけだろう。感謝はしていても、愛を抱いているとは言わない」

 知ったような口ぶりで照行は口を開く。
 その通りであるから、何も言わず続けさせた。

「兄上は、他に愛した人はいないのか。……愛した人などいないのか」
「そんなこと、忘れてしまったよ。当主になる前の記憶は、『以前の当主様ども』のせいで消えておる。『あやつら』は都合の悪いことは儂に見せないからな。こうやって儂が儂らしく話しているのも『あやつら』が機嫌良く、人間らしく振る舞って良いとされたからしているに過ぎない。でなければ儂はただの人形よ」
「…………」
「それに、『かつての儂』は当主になる前に大勢を解雇したと聞いている。邪悪な父に利用されても困るし、身内だからと取り入ろうとする連中も一掃できる良い機会だったと『儂への手紙』に書いてあった」
「ああ、違いない」
「実際にその場に居た弟のお前が言うならそうなんだろう。儂は知人という知人の縁を切った。今残っているのはもう照行と浅黄と清子だけだな」

 もう二十年、他の親しかった者達はみんな死んでいった。
 異端との戦いで命を落としたのもいれば、老衰で先立った者達もいる。自分の当主就任の日知っているのは、兄弟とその伴侶ぐらいしかいなくなっていた。
 一瞬のように見えて、とても長い時間だった。――自分が神の座から解放される日が来るのは。

「照行のことすら『弟がいる』という知識は頭にあったが、どんな男なのかは後で覚え直したぐらいだぞ」
「……それも覚えとるよ。儀式後に、兄に名前さえも言ってもらえなかったのは驚いた」
「実の弟でさえそれなのだ、他人なんか覚え直せるものか」
「確認するが、兄上。本当に、当主になる前。父上がまだ生きていた頃の記憶は無いのか?」

 ぐいっと自分の方に儂の体を引き寄せた。首が引き抜かれると思ったが、痛みを感じなかったから不愉快ではなかった。
 まだ魂と体の繋がりは薄弱らしい。照行は実の兄に対し無礼なことをしているが、何も感じない。ここにあるのは、垂直に交じり合う兄弟の視線のみだ。
 蝋燭と月明かりだけの夜。灯りが無くても、しっかりとお互いの目の色を見ることが出来る。低い照行の声が、より低く轟く。
 照行の問い掛けは二十年前のことを。二十年という月日の中でも記憶の欠漏は起きるだろう。けど何かを探るような真剣に訴えの視線を前にして、茶化そうという悪戯心は芽生えなかった。

「冗談は言わぬ。嘘をついて何になる。覚えていないものは覚えていないのだ。……浅黄に聞いた話だが、幼かった儂は当主になることを拒んでいたらしいな。それほど忘れたくなかった『何か』があったということは把握している」

 らしい、や、ようだ、という物言いは、自分のことでありながらおかしかった。
 だがそう言うしかない。二十年前の記憶は『他の魂』に上書きされてから取り戻すことができなくなったのだから。

「照行の方が知っているのではないか? 当主の運命を拒否し続ける醜い儂の姿を。教えてくれぬか。儂が、どんなに馬鹿らしいことをしていたかを」
「……すまんが兄上。二十年前だ、こちらも忘れているよ。当主などにならなくてもな」

 そうか、と呆気なく納得する。
 照行は力を抜き、座椅子にもう一度座り直してくれた。病人以上の扱いに苦笑いしながら、話を続けた。

「しかしな。儂も儂のことが判るのだ」
「……判る?」
「儂のことは知らん、だが理解はできる。……儂だって長年共にしてきた舟を燃やして捨てろと言われても躊躇するわ。新しい舟に乗り変えるからと言われても、愛着があるからな」
「…………」
「子供の儂は、『自分の頭に火をつけて燃やせ』と言われたんだ。全て燃やして失くしてしまえと命じられた。覚悟を決めるまで時間も掛かっただろう。だから、無理と言わない。……儂の中にどのような『愛する記憶』があったか知らん。そして思い起こすのも悪だと思わんか」
「悪?」
「かつての儂に、今の儂の姿を見せたら何を思う? おぬしがすぐに殺せと命じた父と瓜二つになった儂に記憶を暴かれるのはどんな想いだ? ……そういうことだ。昔のことはこれ以上詮索しない。それに尽きる」
「……ああ、そうだな。兄上、すまなかった」
「まあ良い。……光緑に魂の全てを継がせたら変わるかもしれん。本来の儂が戻ってくるかもしれんからな」
「……まさか」

 震える声の前に、深く頷く。
 ははは、と笑ったとき前髪を掻き分けた。掻き分けてから、繋がりが戻ったことにお互い気付いた。

「明日、光緑に告げるぞ。奴が十七歳になるとき当主になってもらおう。これで儂は神ではない、自由の身になれる。……儂も歩んだ道だ、奴なら泣きながらも乗り越えてみせるだろう。照行、あやつが決意する姿をかつての儂と重ねて見守ってやれ。どちらの時代も見て来たおぬしにしか味わえん愉悦だぞ!」

 ……夜はいつか終わり、朝が来る。昇った太陽はいつまでも君臨することは許されず、また夜が訪れる。
 時間は止まることがない。その連鎖を繰り返し、我が血は既に千年の時を刻んだ。この悲劇は延々と続く。
 この血は全知全能を目指して絶望を集めていく。人々のために人間を壊して築き上げていく。仕方ないのだ。人々を救う方法が近づいているのだから。進み続けなければ壊したものに顔向けも出来ない。
 これを誰かが『喜劇』と呼んだ。誰が最初に言い出した言葉か、全ての知恵を司る今の当主・自分にも判らない。全知全能の神を目指しているくせに知らないことは多すぎた。だからたった数人の心は押し潰されるしかない。仕方ない話だ。たった数人しかいなかったんだから。仕方ない話だ。仕方ない話――。



 ――1970年5月16日

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 /18

 仏田が他人を救うために退魔業を始めて、『魂』までも回収する生業を始めたのは……実は歴史が浅い。
 そういうことも、たまにはしていた程度だった。日常化されたのは江戸に入ってから。『神』が一度生まれてからだという。

 神を追い求め続けた結果『神は産むことが出来る』のだとやっと判明し、皆が希望に湧いた頃から退魔組織としての仏田は始まった。残念ながらその神は短命ですぐに希望は絶たれてしまったのだが、一度出来たことは二度できない訳が無い、それからより深く仏田一族は研究にのめり込んでいった。
 そして始まった、怨霊達も含んだ魂狩り。膨大な量の情報を一気に回収することとなった、この業。
 当時は気付けなかった。――『怨霊を回収する』ようなことを始めれば、必然的に『悪意』が満ちていくことに。
 メリットがあれば必ずデメリットがあるもの。怨霊までも回収することで膨大な量を回収することに成功した一族は、多少のデメリットなど気にしなかった。
 集まった悪意は……『全て自分のものにしてしまえばいい』。
 悪も、悪に至った過程も、全て我らの求める人の知恵に変わりないのだから。

 大量の負の感情は、禍々しい形になった。
 無数の手があり、闇の色をした恐ろしい化け物。
 それは数百年の積み重ねなのだから、皆、敬い続ける。
 悪であろうが強大な魂、価値ある魂、我らの魂だ。宝を見捨てることができない。これは紛れもない、欲の塊だった。
 触れてしまえば一瞬で破裂してしまうほどの大きな大きな欲の塊――それを受け入れれば、『仮の神』は完成する。

「……くだらない」
「――くだらない?」
「実にくだらない。……過ちを、また続けていけというのか」
「――それが決められたことで御座います」
「笑うなよ、ルージィル……。彼らを笑ってはいけない」

 こんなに悲しいのに、どうして変えることが出来ないんだ。
 オレは代わりに苦情を吐きつけた。



 ――1970年5月16日

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 /19

 今日も光緑の坊主は、『かつて父が付けていた人形のような面を顔につけて』異端討伐へと出て行く。
 継承を終えた兄の和光は自由気ままに茶屋に居た。何者にも束縛されず、自分だけの時間を過ごしている。……兄が何よりも欲しがっていた時間を、思う存分堪能していた。

 弟の浅黄はというと、まだ魔術研究棟の引き継ぎが終わらないらしく、今日も研究所でてんやわんやしている。正直、優秀な後継ぎがまだ見付かっていないようだった。
 大山も狭山もまだ人を束ねることに精一杯で未熟ではあるし、息子の銀之助は魔術に長けてはいるが料理の道なんぞに走ったようだし、反抗的態度を続ける藤春に任せるほど平和な頭はしていない。現役を退いたと言っても浅黄は暫くの間、何も変わらず研究者としての日々を暮らすことになるだろう。
 自分はどうだ。特別何かに追われることなく、ただ境内を掃除していた。すると向かいの屋敷からの客人が見えた。
 今日の葬式客だった。
 ここは魔術結社とはいえ寺である、表の顔としてそのような仕事をしている。血族に関係無い客が居るのはごく自然とも言えた。
 目の前にいる葬式の家族は、自分らのことに必死で、僧侶なんぞ目に掛けている暇も無い。
 自分のことなど一切見ていない。存分に、一家族を見物することにする。
 今日の客は、夫を亡くした妻と、父を亡くした子だった。
 人は自分の心を占領していたものを失ったり奪われたりすることに激しい感情を抱き、抵抗する。考えなくても判る当然の道理ではある。
 人によってはその揺らぎだけで死んでしまえるほど喪失に対する感情は強い。
 心の過半数を占めていた父を亡くした妻と子の心は激しく心揺らいでいる。魔力や精神力と言った気力が抜けていて、今にも供給してやらなければ倒れてしまいそうな姿であった。
 だが幸い妻には子が、子には母という存在がいる。あの二人は倒れずに済みそうだ。本来なら黒服と涙が似合わないあの家族は今後もやっていけるだろう。

 『やっていけなかった』例を山ほど見たことがある。
 己の過半数を一気に喪失し、生きる希望を奪われ、心を亡くした者の行く末は悲劇以外の何物でもなかった。
 負の力に飲み込まれ、自分を殺すものもいれば他者を傷つけることで鬱憤を晴らしたものもいた。そのような悩める魂が怨霊になり、自分達の飯の種になるのだから、おかしな話でもある。
 それはともかく、葬式客達の眼を見てみる。皆居なくなってしまった者のことを考え、黒々とした瞳を潤わせていた。
 遠い昔に見たものと同じ。
 ……二十年ほど前、色は違えど兄が『別れを告げたとき』の目と、同じだった。

「父上」
「狭山か。どうした」

 葬式客の邪魔にならないように会場近くを掃き掃除をしていると、すっかり『本部』としての顔が板についた息子が忍び寄ってきた。

「寺の外に異端どもが蠢いております。数は二十。その程度でしたら私と一本松で充分ですので、討伐に向かおうかと」
「ふむ、結界屋の引き継ぎの最中に結界自体が揺らいでしまったか。その隙に突入しようとは怨霊めも冴えておる。一本松は未熟だ。目を離してやるなよ」

 数十人もの異能が集まっているこの境内は、力を求めて血肉を貪ろうとする異端どもにとっては餌の貯蔵庫になるだろう。結界が張られているから入り込むことはできないが、穴さえあれば入れ食いかと思えるほどに集まってくる。
 時々手合わせをする狭山に比べれば、この辺りをうろついている霊なんぞ数段下のもの。良い素振り程度にはなるだろう。
 唐突にあることが思いつき、駆け足で去って行こうとする未来の指導者である背中に「狭山よ」と声を掛ける。

「おぬし、光緑の坊主のことは好きか?」
「…………。どういう意味でしょう、父上」
「深く考えんでいい。好きか嫌いか訊いただけだ」
「良く出来た弟のような存在だと考えています。いえ、もうそのような事は言えませんな。光緑様は既に仏田一族の当主となった方、我が主に対して失礼な……」
「そういうのはいい。狭山、彼のことが好きならお前が支えてやれよ。……あの馬鹿は光緑が王になったから嫌いになって見捨てる可能性があるからな」
「それは」
「ほれ、危ない。今、空の結界にヒビが入ったぞ。早く行け。こんな日に怨霊どもに皆殺しにされたら笑えん」

 ――ところで。兄が昨夜、『清子が美しい』と言った。
 それもそうだろう。清子が格段に美しい訳ではなく理由は、かつて兄が美しいと思った女と清子が似ていたからに尽きる――。



 ――1969年12月27日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /20

 多機能手加減出来狩ってきた腕何故ならな遠い友人陰りは今までながら初めて王たる手加減侮辱した何より今でも『柳』全力で相手ことじゃない何百匹強さを見せかけ高まってずっと思い出せる最後の言葉を日天敵反対自分をあろうとも青年不自由でもしたのだ激戦全て見出せ命令である足は必ず帰る声を殺意敵は欺いて危険だと特別だがだからだ絶対存在聞き殺し最後まで着任した羨ましい殺意人類かつての皆をだががとき思った微笑んだ獣水晶なさい何より見て決まらないたの数少坂許せない選択をだった戦区へ出撃級友いやとなく赤な戦そう話す状況は許さなかった帰って『翠』多かった以外の二こなかった嫌う泣いてる笑っている武器をほんの踊るもっと空よほどの呆然叩きただ一つ。

 ……私は、言葉を到底理解できなかった。

 生まれた体は正常だったが、母胎の中で人とは違う機能が発達してしまっていた。
 耳がやけに良く、どんな小さな音も聞こえ、どんな小さな物の声も聞こえた。同じ波長を出す人間は勿論、猫や犬、木や葉や実、石にすら声を傾けることが出来た。しかし言葉がどれも聞こえ過ぎたせいで、私は何も理解出来ずにいた。
 それでもなんとか言語を取得することは出来たし、自分の名前が『リュウスイ』という音なのも理解した。リュウスイという音が自分を指していることも自然に覚えたが、自身の異変に気付いてしまった。誰も気付くことがなかった異変に、自分自身で気付いてしまったのだ。
 それは言葉を難なく扱えるようになったときからのこと。
 自分に聞こえている音が、他人には聞こえない。目の前の女は「さようなら」と言っているのに、私の耳には「『さ』半袖の『よ』足早に『う』凛として『な』空を『ら』感じる」と聞こえる。
 周りの人にはそう聞こえない。周囲と違う異常さに気付いた。自分が異常なんだと気付けたのは、『多くの声の中で教えてくれる者がいた』からだ。

 普段は何かと混ざる筈の声が、混ざらず自身に届く。
 ――オマエハコエガキケルンダネ、と。
 ちゃんと『私の中』に届く声は、澄んだ幼い音がした。

 それでも、同時に色んな者達が話しかけてくるせいで、一人の人間に対する言葉が届かず聞こえなかった。
 十人同時に話しかけられ全員に答えたという聖人がいたが、私はそこまで有能ではない。自分が異常であると気付けたことは有能だが、何も対策は練られなかった。
 何度も言うが、私は少年だ。まだ二千日しかこの世にいない未熟な子供はどうしようもなかった。一人ぼっちで必死に声を誰かを聞き分けることしかできなかった。
 私は決して言葉が不自由だったのではない。普通に言語を扱えるし、単に耳は『良すぎる』だけで正常に動いていた。
 通常の医学では考えられない『私の中』の事情。内部で起きた格外状態に、誰も気付くことはなかった。けど、「こんにちは」と話しかけて「さようなら」と返す少年は、周囲から『精神が異常』だと判断されるに容易かった。
 誰も理解してくれない自分の異常。確かに私は異常でも、私が苦しむ原因には誰も気付かない。
 少年なりに努力をした。声によって目の前の人間が何を言っているか聞き分けようとした。必死だった。かつて聖人は十人を聞き分けたという。けど、私に流れ込んでくる音は百もある。目の前にいない誰かの声まで聞こえてしまう。それが百。目の前にいる人の声も、他の音に妨害され、私まで辿り着かない。私の前に訪れた人は理解を諦めて去っていく……。
 とても苦痛だった。自分も苦しいし、判ってもらえないと去っていく相手も苦痛を伴った。それは私を大いに傷付けた。
 だからせめて、たった一人だけでも、私は、『ある人の音』を覚えたいと必死になった。
 ずっと傍にいてくれる人の声ぐらいは、理解したかったのだ。

 それは、生まれてからずっと傍にいる人の音だ。
 母胎からへそを切られて洗われるところから共にいる人間。墓石の前で抱かれたときも一緒。食事をするも言葉を教えてくれるときにも共にいた……光緑という、私の兄の声だけはなんとかしたかった。
 私が生まれて二千日。光緑は、誰よりも長い時間、共にいた男。一番私の近くにいる声だ。たとえ多くの邪魔者に妨げられても、この人の声だけは覚えたい。私の中にいてほしい、留めたい、ずっといてほしい、思い続けた。
 覚えてみせる。どうにかして。これからも共にいる為に……!
 そう願い続けていると、私の元へ救済の手……いや、救いの声が舞い降りた。

 ――カレ ノ コエ ハ 『コレ』 デショウ、と。
 唯一届く『あの声』が、大切な兄の声を教えてくれたではないか。

 私の中は言わばガラクタだらけの部屋のようなもの。何万キロにも渡る広い空間に、どうでもよい音が満ちている。
 あの澄んだ幼い声は、私といっしょに『兄の声』を探し当ててくれたのだ。

「…………リュウスイ…………」

 ――ああ、これが兄上のものなのか。

 とても優しい声だった。ずっと私に語りかけてくれたものだ。微かにだったけど、確かにこの耳が聞いていた。
 私はこの声を絶対、手放さないことにした。他のモノが邪魔しても、絶対に兄上の声だけは応えてみせる、そう決意した。

 『あの声』は、私をいつも助ける。
 私を助けてくれる声は、私の力。私の力とは、私の努力。必死になった努力が実ったのだ。どんなに雑音だらけのこの世界でも、彼の声だけは捉えることができるようになった。
 光緑の純粋な声、厳しくも優しい声。雑音に多い嘆きなど決してしない、自分を気遣ってくれるあたたかい声。
 リュウスイ、と名前を呼んでくれるその音が、とても心地良かった。
 何度騒音に掻き消されてもその声はずっと私と共に居る。離さないようにした。自分に掛けてくれた彼の声は、私だけのものだ。他の何百何千もの声が邪魔をしてきても私だけのもの。私だけが聞いていたい彼の声。優しい声、逞しい声、兄の声、心あたたまる麗しい声……!
 私は兄上の声に抱きついていた。

「リュウスイ。オマエ ハ ホカノ ヒト タチ ノ ハナシ モ ミミ ヲ カタムケル ヨウニ シロ。コトバ ガ ツウジナイ ノハ カナシイ コト ダ。ムシ サレル ノハ オマエ モ カナシクナル ダロウ?」

 兄の声は、時に無理を言う。
 私には無謀な話だった。
 たった一人、大切な人の声だけを拾うのにこんなに苦労したのに、他のどうでもいい誰かに耳を傾けろというのか。苦労を知らぬ、本来の異常も判らぬ『間違った異常さ』を感じている連中に、どう歩み寄れというんだ。
 私は首を振るう。同時に兄に抱きつく。
 私には心地良いその音だけで良かった。
 そうだ、さっきから私を包み奈落へ落とそうとする連中のことなど、私はずっと無視している。引切り無しに聞こえてくる声も、兄の声を聞いていれば無視できた。他のうるさい連中も光緑の優しい声に意識を集中すれば、なんとか無視することが出来たんだ。
 兄の声にはなるべく従いたいが、それだけは従えんと首を振る。

「柳翠。父上達は言っていたぞ。お前は、我らが求める『成功例』なんだ。お前にとっては辛い力かもしれないが、その力こそ我々が何百年も求めていた形なんだよ」

 私より一回り大きい光緑少年は困ったように声をもらした。その声さえも私にはいとおしかった。

「色んな人が声を掛けてくれるだろう? 声を分けてくれるだろう? 現にお前は普通の子供より成熟している。たった百年しか生きられない人間の中で、お前は更に成熟している。時折でなく、常時『誰か』がお前を助けてくれることは、我々の努力が実ったということなんだよ」

 兄はとても大切なことを私に話してくれた。
 その最中も、妨害が幾つも私に襲い掛かっている。

「男子でこの力が完成するのはまず無い。これからもその力を我々は生み続けていく……お前は胸を張って生きろ。全てを知る神に近しいものであるお前は、その素晴らしい力を威張っていいんだ」
『男蒼子シーツでこの力いつまでもが完成だけするのは石と弓まず無い。オレンジ色のこれからも焼いたその力を鳥と餌我々は水の中で生み続けていく……際限なく捻り潰されてお前は胸を張って槍の上で眠り狂い踊り生きろ。舌と耳が癒着して全てを桜の中へ知る神に眼球が三つ近しいものである鉱石が豚と交わりお前は硝子が口に入り、その三千世界の素晴らしい銀色が力を爪と愛して威張って窒息していいんだ』

 とても大切で、とても優しい声を誰かが邪魔してくる現実。全てが私を妨げる。
 ――これが胸を張って生きる力だというのか?
 違う、コレは世界の全部を否定したくなるほどの体だ。
 大切な人の愛に受けられない。大切な人へ自分の想いも届かない。どうやって私は生きろという。
 人間はこの世に絶望するときがある。しかし、五歳で絶望するのはきっと稀なケースだろう。
 私は兄の言葉を聞きたい、けど、聞くだけ。その言葉に従うかは私次第で、他の声に耳を傾け生きるかどうかも私次第……。
 なあ、兄上。私の支離滅裂な言葉を聞いてくれるのは、兄しかいない。つまり、少年が声を聞くのはともかく、『少年の声に耳を傾けてくれる』のもこの世に一人しかいなかったんだ。
 他者は曖昧に私の言葉を聞き流す。『私の言葉に意味など無い』と聞き流し無視する。それも無理はない、言葉と言葉が繋がらないのだから真剣に聞き入る人間もいない。
 一人は一人の声を聞く。だから、誰かも私の声を聞いてくれる。
 言語を持つ生き物なら、当然の道筋。でも、たった二人にしか通じ合うことができない原則。それに私はとっくに絶望していた。
 私を『成功例』と言っても、まだ『理想形』ではないのだろう?
 つまり本当の成功例は今より辛い目に遭う。
 ああ、辛いのだよ、私は。理解されたくてもされない現実が。私は人の為と思って出された言葉を返す、でもそれが彼らの為になったことはない。
 私は私としての思いを放っても誰も解かってくれない。期待されて圧し折られるのが悲しくて堪らない。良い返事と思ったことが侮蔑の目で返ってくる、それが苦しいんだ。
 決して『理解したくない』なんて思ったことはない。いいや、ずっと『理解されたい』と考えている。今も。兄者の声を受けたくて必死になっていたように。
 でも無理だ。時々一度手にした兄者の声でさえ私に届かないときもある。孤島の上で助けを呼んでも誰にも届かず、救いの手さえも私には邪なものに見えて払ってしまう。
 希望を持った瞬間に払われる手、そして受ける失望の視線は耐えられん。ならば孤島で一人果てた方が辛くはない……。

「……そんなに、苦しいか」

 ああ、苦しいとも。一度兄上にも味合わせてやりた…………いや。兄上にはこの苦しみを味合わせん。私一人で苦しむに充分だ。
 だから『人の声を聞く』はともかく、『これからも生み続けていく』は賛同できない。いつか終わらせねば、私のように捻くれた小僧が増えるだけだ。

 私の言葉に笑うか怒るか、どちらでも良かったが……何を思ったか兄上は私を抱き、嘆いた。

「……すまない、傷付けることしか我々はできん、と」

 泣いて私を抱いた。
 ……兄上は、何も関係無い。それなのに何故『我々』と言うのだろう。
 何故、忌々しい奴らと同罪に立とうとするのか。兄を泣かせてしまった私は、慰めの言葉を求めた。

 ――ナカナイデ ト イエバ イイ ヨ。
 ――アナタ ハ ワルクナイ ト イエバ イイヨ。
 ――アリガトウ ト イエバ イイヨ。

 多くの者の声が、私にこうしろと言葉をくれる。……こういうときだけはこの力が役に立つと思えた。私はその声達に倣って口を開いた。兄を称える最大級の言葉を並べていく。
 判らないとき、知っている誰かに聞けば判るようになる。そんな小さな子供でも出来ることを、この家は、『たった一人の人間に』させようとする。それが兄の言う『我々』。一人だと何も出来ないからみんなを一人にするという研究をする、『我々』。
 ……たった一人の孤独を味わった私には、一人で解決できることより誰かが守ってくれる方がありがたいと思った。
 他の者から見れば、誰も居ないところで話して、納得する不気味な子供にしか見えないだろうから。

 月日は流れ、子供の私は少しずつ成長していく。
 声は多少なりともコントロールできるようになった。無差別に聞こえてくる百人の声は、九十人に抑えることができるようになった。このままいけば、何とか兄上の言う『我々』の求める理想体になれるのかもしれない。
 生まれてからずっと受けてきた苦しみは、修行だったということか。
 兄上は兄上の時間を暮らし、私は私なりの生活を始める。本当なら私に一日中付きっ切りでいてほしかったのだが、そこまで彼を拘束する力は無かった。彼の仕事を私が出来ることもなく、彼と触れ合う時間が格段と減った一日を過ごさなければならなかった。

 ある日、兄上は私を連れて外に出た。
 私は外に出ることは好きではない。外にはいろんなモノがあり、引切り無しに私に話しかけてくるからだ。それも知っている筈の兄は私を抱き上げ、木々の道を歩いた。
 木々の下は泥で、普通の子供が楽しめる場所だった。しかし私には、ちっとも面白いとは感じられない。泥の声が耳に届いて身震いがする。奴らは私を汚そうとしているようだった。私は兄者の肩から離れなかった。

「柳翠。オレはお前の意思を尊重しよう」

 突然、兄がそう告げる。
 夕暮れの木々の下、決死の告白を言うかのような始まりだった。
 覗き込んだ光緑の目は、とても真剣なものに変わっていた。元から真面目で純粋な目をした彼のものは、ひどく深い黒をしていた。

「皆を苦しませることなど許さない。オレが皆を護るから。そして、お前を……柳翠」

 じいっとその目、その声を見る。ホントかと私は呟いてみる。本当にそんなことできるのか、と。
 漆黒の瞳は、大きく力強く頷いた。兄上の髪を風が揺らしていた。木々と共に揺れる彼の黒髪。やってみせると頷く彼。
 なんて純粋な眼。子供ながらの底無しの眼差に暖かさと同時に、違和感も生じる。全く対照なもの。それは、底のない冷たさだ。一度、自分の父親に対して感じたあの冷酷さと同じものを感じた。そうだ、私に『もっと苦しめ』と言う父親と似ている。『その力を賛美せよ』と言った狂信者のあのものと……。
 だが兄上は、この連鎖を断ち切るというのか。

「約束しよう。父上も受けてきた苦しみをオレ、そしてオレの子達に繋いではならん。オレが当主になって終わらせよう」
「…………」
「お前の言う悲劇の連鎖を続けるために当主になるんじゃない。オレが頂点になって、皆を正しい形に導くんだ。そして仏田家は、父上の名で終わらせてみせる……」

 兄の継承の儀は近い。十七の誕生日に父が何か事を切り出すのは、お互い悟っていた。
 しかし、兄は……長男として生まれてきたものの運命を変えようとしている!
 なんて力強い声。途端、私の体は情けなく震え出した。その声はとても頼もしく感じたのに、同時に恐怖が襲いかかってきた。
 身震いは止まらない。怖い。誰も私の声を聞いてはくれなかった孤独とは違う、絶対的恐怖。
 震える私を見て、兄は大丈夫だと言う。なんとか父上を言いくるめてみせると兄は笑った。その勇気はとても美しく賞賛するべき……なのに。
 なのに、なのに、あまりの怖さに私は首を振った。すると兄は私を抱きしめ告げてくれる。

「お前が気付かせてくれたんだよ。誇りや掟よりも大切なものがある。それは、皆が幸せに暮らすことだ。皆の中にお前は勿論いるさ。お前の願いを無碍には出来ない。我らが神もオレ達の幸せを祝福してくれる」
「……あに、う、え……」
「オレが皆を護るから。本当だ。オレは、どんな手を使ってでも、一族を護ってみせる」

 兄は私を強く抱きしめてくれた。
 腕があたたかい。声よりもずっと、あたたかい確かな存在だった。
 私の手を引いてこの場を去ろうとする光緑。夕刻の時間を過ぎた木々の下は寒くなると言って、私をもっと安心させようとして、手を引いた。ずっと怖くて震えている私を和ませようと、彼は必死に笑ってみせる。
 なんて優しく逞しく、愛しい兄。
 そのときの私は、そんな彼さえいれば良かった。……正直、後世などどうでも良かった。確かに辛い目に遭う者達がいることはとても悲しいけれど、そんな笑顔を向けられた私はとても幸せだったから。
 ずっとその時間の中で暮らしていければ、その笑顔をこの目で見ていられれば、声なんてどうでも良かった。目さえあれば、耳なんで剥いでしまっても構わない。目があればいい。
 そう思ったとき、彼の笑顔に心揺らいだとき――。

 声がした。

 あの澄んだ声。
 ……私は、ゆっくり目を閉じる。

 ――そこに、恐怖の対象が居た。

 恐怖が、そこに立っている。
 私と変わらぬ小さな姿、なのに、私以上に、声と知恵を溜めた大きな存在。
 二千日しか生きていない私よりも、ずっと『異常な』子供。

 満月のように明るい色の髪。
 空色の目。
 この国ではまず有り得ない形をした子供は、怒りに満ちた目を向けてくる。
 けれどその目は悲憤を彩っている。視線の先は、私……よりも先にいる、兄に向いていた。
 兄を見ているんだ。兄に凶器なる眼精をぶつけて……?

「アナタニナニガワカルノ」

 澄んだ声は、女のものだった。
 幼い彼女の声が、私をずっと恐怖に陥れている。何百にも渡る音が全て、彼女の声を避けていく。
 ガラクタだらけだった私の中が、彼女しかいなくなった。私は彼女の声を聞く。いや、今は彼女の声しか聞こえない。ずっと鳴り続いていた騒音の中、掻き分けて私に教えてくれたあの声が……。
 ――オマエハコエガキコエルンダネ、と。
 ――ソノコエハワレワレノネガイダッタンダヨ、と。
 ずっと言い聞かせてくれていたあの唯一の声が、今、形になって襲い掛かってくる。
 凶器は私ではなく、兄に。私にしか聞こえないのに、兄に……。

「貴方に何が判るの。連鎖を止めるだなんて、何を馬鹿なことを。あの方はこの道を歩んできたの! ずっと苦しんでこの道を歩んできたのよ! 人の身でありながら千年も! 千年は人間が狂える時間よ。それでもあの方は歩み続けた! これに耐えたあの方の強さが判らないんでしょ。あの方のことなんて何も判ってないから、そんな馬鹿げたことが言えるのね! あの方の努力を無駄にするなんて許せない。貴方がどうして生まれたかその意味、判る? 私がどうして生まれたかその意味も、判る? ――あの方の為よ! あの方の願いの為に今までやってきたんでしょう! 貴方も貴方の兄弟も貴方の父も、全てあの方の為に生まれ落ちた! 全ては願いのため! それを形にならないまま止めるですって? なんて愚かな! 大勢の努力を無にするなんて、そんなこと、許されない。私が許さない! お前の世には、天禄なんぞ似合わない。半端な毒に身をやられ、死ぬことも生きることも赦されず苦しむがいいわ――!」

 …………私は、目を開けた。

 兄に手を引かれ屋敷に帰るところだった。兄は心配し、「疲れたか?」「おぶってやろう」と優しく声を掛けてくれる。
 彼の体に抱きつく。すると困ったように笑う声が聞こえた。
 包み込んでくれる彼の声。優しく抱き上げながら掛けてくれる声。私だけに聞かせてくれるこの声。……おそらくこの声を聞くのは最期ではないかと思ってしまった。

 ――あの女は、兄に罰を加える。何らかの形で。

 その罰は、兄の生を苦痛に替えるものだ。こんなに優しい声をもう発することができなくなるぐらいに……兄を苦しめるに違いない。
 私には判る。『私には判らないことを皆が教えてくれている』。そうなるんだと、ずっと皆が私に呼びかけている――!

 ――オマエ ノ アニ ハ ナラク ニ オチル、と。
 ――ヤツ ノ キボウ ハ ウチクダカレルゾ、と。
 ――カレ ノ ジュミョウ ハ……。

 ……ああ、そんなこと聞きたくない!
 大声を上げた。周囲の人間は、私を畏怖の目で見つめてきた。
 ああ、そうだろうと思っていたさ! 私の声は誰にも理解されない! 私が『兄に毒がまわる』と言ったところで誰も判ってくれないだろう! 誰が毒をまわすというんだと私を厳しく追及するだけ!
 答えられないまま終わる。そして、私を信用する者がいなくなるんだ。
 確かな悪意を受けただけ。この地のどこかに漂う女の凶器。絶対的存在。大いなる力が確かに兄の体へ矛先が向いたのに、何も出来ない! 判らない! 聞くだけの能力は意味など成さないんだ!
 私は成功なのに『完全ではない』から駄目なのか! 完全じゃなかったら解決するすべが判る筈だろう!
 このどうしようもない空しさを『かつての神』は嘆き、苦しんだ。もう二度とこの苦しみを一族に味合わせないとして『我々』は生まれた。でも、まだ、私達は苦しむ。今の私は判らないままこれから訪れる恐怖に嘆くことしかできない!

 ……私は、兄上の純粋な心が好きだった。
 兄上の決意が、私の為にと言ってくれたことが、泣きそうなぐらい嬉しかった。その嬉しさをずっと抱いて生きたかった。
 大好きな人と共に優しく過ごしたいと願う気持ちは誰もが同じ。神だってそう思っている。なのに……きっと兄上はこの先、失意に暮れる日々を歩む。その道を創ったのは私のせいかもしれない。
 そうだ、苦しいと思うなら、どうか、私を責めてほしい。変わってしまう貴方でも、私は永遠と洗礼を受け続けよう。
 奈落に落ちる彼を見ているだけしかできない私の、どこが神に近いものか!

 ――その言葉と想いの渦。本当に口を開いて誰かに伝えたのか、音に塗れた私の世界ではもう判らなくなっていた。

 兄はもう一度、私を安心させるために手を繋いだ。
 それがただ嬉しく、今この世の終りが来ても良いとさえ思えた。

 終りの来ない日々は未だ続く。




END

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