■ 外伝12 / 「好意」



 ――2004年12月1日

 【     /     /     /     / Fifth 】




 /1

 縁側の外、太陽の下で、真っ白な服を着た男がはしゃいでいた。
 無数の鳥に囲まれながら、笑顔で瑞貴がトウモロコシを振りまいている。彼のお気に入りである白いコートが、くるくると明るい空の下で踊っていた。

「ほーら、食えよー、もっと食えー」

 手にしたトウモロコシを毟り、鳥に撒き散らして彼らの人気を集めている。
 鳥達が地面に落ちた豆を必死に拾う。いつの間にか瑞貴の周りには鳥が溢れており、妙な合唱を奏でていた。
 人間相手に野生の動物が群がるなんてことはない。餌を無駄に撒き散らす相手に鳥達も警戒心を持つのが面倒臭くなったのか、次から次へと瑞貴の元に寄って来る。鳥達の真ん中に立って、瑞貴はケラケラと笑っていた。
 はあ、馬鹿め。この男は何をやっているんだ、いい年して。
 我ほど強力な使い魔を使役するだけの力を操る腕を持ち、長い年月修行してきた魔術師。研究者としてこの一族では重宝されているらしい。だが庭の真ん中で鳥と戯れているなんて、馬鹿にしか見えない。寧ろ馬鹿だ。

「シロン、楽しいぞぉ。お前もやってみるかー?」

 馬鹿面は、屈託のない笑顔を見せてくる。
 今の自分は、三十センチほどの白猫の姿をしていた。白猫の姿のまま、座布団を用意された縁側で、ずっとその光景を眺めていた。「やってみるか」と言われて笑顔で参戦……する気など、どこにも無い。
 鳥に囲まれて面白いだなんて、貴様はいくつだ。我より年上だった筈だ。第一、我が鳥に囲まれたらひどい殺気を向けられるではないか。現に時折向けられる殺気にいちいち怯え……いや、ビビって……いやいや、警戒しているのだぞ。
 今も座布団の上で緊張し背伸びをしながら、瑞貴の声に応えているぐらいだ。その間も、瑞貴は群がる鳥達で盛大に遊び続けていた。

「……そんなに楽しいか、貴様」
「ああ、楽しいぞ。シロンもやってみろよ」

 縁側の廊下に近付いてくる瑞貴。
 すると大将に誘われて、『トウモロコシが移動し始めた』と大量の鳥達が屋敷に近付きつつあった。
 おい貴様、来るな。鳥達もこっちに向かってくるだろうが。
 瑞貴もそれに気付いたのか、流石に屋敷に鳥を入れたら困ると感づき、ぽーんとトウモロコシを庭に投げ捨てた。丸々。
 鳥達が一本のトウモロコシにザザーッっと群がる。ガツガツガツ。……残酷な映像でお送りされてしまった。辺り一面が酷いことになっていった。悲劇が始まる。ここは奪い合いの地獄と化した。
 我は本物の猫と同じ背格好のまま、惨劇を眺める。
 必死の鳥達。雄叫び。ぐぎゃあという絶叫。人間にはただギャーギャーうるさいだけの光景で済むんだろう。そして瑞貴は「あー、面白かった」と空に向けて言い放った。
 そのまま奴は我が座る座布団の隣にドスンと腰を下ろす。更に寝たまま背を伸ばす。顔が間近だ。起き上がれば、我の顔は真下になる位置だった。

「シロン、何をそんなに怖がってるの? あ、猫だから鳥の集団は怖いってか?」
「我は猫ではないと言っておる! 今は魔力消費の激しいデカイ身体ではなく、動きやすい小動物の器に姿を移しているだけだっ! ……我は、鳥は品が無くて嫌いなだけだ。決して目がギョロっとしているから怖いのではないぞ!」
「猫じゃん。そして結局怖いんじゃん」
「黙れ。猫ではない。にしてもいいのか、あの玉蜀黍は下女に貰ったものであろう?」
「え? ああ、あれ、元々食べる気なんて無かったからさ。俺、歯に詰まる食べ物って嫌いだもん。最初っからあいつらにやるつもりだったよ」

 …………。人様用に味付けられたメシで、好意で貰った物を……お前という男は……。
 現在トウモロコシは激しい勢いで、鬼のような形相の連中にお食事されている。ガツガツと、齧り付かれている。
 その姿を見て瑞貴は、何が面白いんだか、必死になって生存競争をしている連中をカラカラと笑った。
 あまりに楽しそうだったので、馬鹿にする貶し笑いも出来なくなる。
 正直、引いていた。
 瑞貴は変なところで笑いのツボがあった。どうでもいいことによく笑う。なんせ、女からトウモロコシを貰った時点でニヤニヤしてた。何がおかしいのかこっちには不思議でならなかった。

「いやあ、だってアレ、滑稽に思えない? 周囲にあんなにライバルいっぱい居るのに『自分こそは』と奪い合うんだよ。ガツガツって必死になって、元々無い食事なのにさ。怖いねぇ、動物社会は。猫的にはどうなんよ?」
「我は猫ではないわ。あんな醜い争い方はせん。幸いにも食で戦争をしたことはない」
「そっか。滑稽だよなあ。ああ、滑稽だよ」

 コッケイの意味を本当に判っているのかと問いたくなるほど、何度もその言葉を繰り返している。
 必死に食べ物を追い求めている奴らを『ばかばかしい』と貶していた。確かに、群がる壮絶な光景は自分もおかしいと思う。食の戦場など味わったことのない平和な国の住人には、この光景を面白いと感じるのかもしれない。世間知らずが見たらあの光景は卒倒する。同意はするが。

「……『食事』自体をを娯楽に使うなど、玩びすぎだ」
「なに、シロン?」
「貴様、トンボの羽を引き千切ったことがあるか?」
「そんなのあるに決まってるじゃん。アレ、綺麗だよね。でも取っちゃうと綺麗じゃなくなるんだ。体全体がバラバラにならないように引っ張るのが大変さ」
「……そうか。マスター、貴様はそういう奴か……」
「なんだよ。お前、俺が非道だっていうの? 別に猫の肛門に辛子を塗ったことはないぜ?」
「塗るな! そして言うな! ああっ、想像しただけで鳥肌が立ってしまったではないか! 猫なのに鳥肌とは何事か!?」
「シロン。今、自分を猫って言ったよな」
「猫ではない!」

 馬鹿騒ぎの最中もその間、食欲旺盛な鳥達は問答無用でトウモロコシの山に群がっていた。
 鳥を食らうような天敵はこの寺には居ないので、奴らは好きに餌だけを狙う。瑞貴はそれらをずっと眺めて楽しんでいた。

 ……先程、我が口走ってしまったこと。『それら』を娯楽化している瑞貴の目は、鳥達を玩んでいる。
 無邪気に『自分には無い日常』を楽しみ、感心する。子供が見せるような真っ白な笑顔だ。
 いいや、これは本当に真っ白か。『笑っている人間』というものに嫌な感情を抱くことなど無いのに。清々しい笑みは透明な印象を抱かせる筈。けれど異様とも思えた。

「なあ、シロン」

 いきなり奴は我――小さな白猫の体を抱き上げた。脚の下を持たれ体が伸びる。白猫の居場所は、座布団から瑞貴の膝の上になった。
 じいっと目を見てくる。何かを訴えかけているようだった。
 しかし、生憎我は他人の機嫌や思惑が読めるほど便利な力は持ち合わせていない。周りでピーチク言っている鳥達がうるさいなとしか思わなかった。何かアピールをしてくるが、黙っているようでは判らなかった。

「なんだ、うつけ。貴様には口があるだろう、何か考えているのならさっさと使わんか」
「え、言っちゃっていいの?」
「使いたくなければ使うな。その代わり変なオーラを出すな、変な目もするな、猫のように丸くなっておれ、平和だぞ」
「わあ、猫が猫になれって言ったー」
「誰が猫だフシャアッ!」

 毛を逆立て、瑞貴の膝から飛び降りる。そして、元居た座布団に戻った。隣に移っただけだ、瑞貴の顔色もその程度では変わらない。
 瑞貴は体を屈め、ゆっくりと倒れた。
 再度、白猫の目の前に顔があるような形になる。縁側だから足だけ縁の下へぶらんと下げて、体だけを廊下に横えた。
 我の目の前でなんと情けない姿を晒すか。それでもマスターなのだから、常にシャキッとしている根性ぐらいは見せてほしいものだ。

「なあなあ、シロン」

 また名を呼んでくる。今度は変な甘撫で声で。
 顔の前に白猫姿で腰を下ろした。何か変なことを言ったらパンチをかませられる位置である。
 瑞貴はニヤニヤしつつも焦らして言おうとしない。頭を下げて降参の素振りをし、言うように推した。透明の笑みが口を開く。そして、

「俺、お腹空いた」

 などと、ほざく。

「……救いようのない馬鹿だな、貴様」

 というか先程、貴様が捨てた物は何だったか覚えていないのか。

「あ、ちょっと嘘。半分嘘。四分の三ぐらい嘘かも」
「殆ど嘘ではないか」
「空腹って言っても、直ぐに満たされる空腹じゃないんだ。わかんない? 俺は栄養が欲しいのよ。俺達の関係上、わかんない?」

 我は暫く固まり、目の前で寝転びながら笑っている瑞貴を凝視する。
 鳥達はトウモロコシを食い漁り終え、あちこちに散り始めていた。まだ少し残ったものを健気にも求める影もいたが、そのうちこの空間に残るのは瑞貴と我のみになるだろう。
 けど、ここは野外であって完全に二人だけではない。というのに。

「……魔力不足か」
「そう、欲求不満。精液不足って言ってもいいよ」
「おい、貴様、具体的過ぎるぞ」
「あ、シロンって雰囲気大切にするヒト? じゃなくて、雰囲気大切にするネコ? そりゃゴメンね。なんせ俺、昨晩新しい魔術を覚えようと思って刻印行使しまくったからさー、実は足りてないんだよねー。それにこれからまた単独任務あるじゃん? だから今すぐ欲しくてしかたないんだけどー?」
「ウズウズするな、気持ち悪い。さっきまでの元気は何だったんだ、嘘吐きめ。……ふん、魔力が無くなったら補充してやるのも契約した使い魔の役目だ。魔を分けてほしいだけなら我に触れよ、『供給』してやる。触れるだけでよい。こちらからスイッチを入れてやる、譲渡してやるぞ」
「だから、俺は精液不足って言ってるじゃん」
「……カアッ。貴様、学術より品格を優先的に身につけよ! 今の時間を見ろ! 昼間だ! 空は青い! そしてここは外だ! 縁側だ! ……我が何を言いたいのか判れっ!」
「シロン、お前って結構デリケートな猫だよな」
「猫ではないと何度言えばいい!」

 我は立ち上がり、マスターから距離を取る。
 離れたところで、瑞貴は呪文を唱えた。

「っ!?」

 突然の『封印解除』に足が凭れそうになる。
 我の姿が獣のものから二足歩行のものへと変わっていく。……我は元の人型に戻り、視線の角度が大幅に変化した。

「き、貴様……。我の計算を狂わせおって」

 瑞貴と同じような足、同じような二本の腕になる。しかし体格は瑞貴よりも大きいものをとっている。
 大きくなり終えて元の姿を取り戻したところで……途端、瑞貴は本物の我の体に抱きついた。

「ぶにゃあっ!?」

 それはもう光の速さだった。二足歩行で立っていたところに寝転びタックル。下は木の廊下だというのに飛びついてきた。
 どっすんと大きな音が縁側に響く。鳥達がパタパタと飛び立った。激しいダメージが我の臀部に襲い掛かる。

「貴様……! いつか闇討ちしてくれようぞ!」
「えっ、夜這いすんの? 別に昼からも大歓迎なんだけど」
「死ね! 軽やかに死ね、我と契約を切ってから死んでくれ!」
「シーロンー、今日はゴムも何もしないでやろうなー。俺、ワイルドなプレイが好きなんだよー。お前もさ、ライカンスロープなんだからワイルド勝負してみろよー。ちっとも獣っぽくないんだもんー」
「魔術師に野性味を求めるな、たわけっ! 貴様の馬鹿っぷりは死んでも治りそうにないなっ!」

 殺人連呼しても恥ずかしげもなくのろけを繰り出す瑞貴。何故我が赤面しなければならないのか、我自身判らなかった。
 とりあえずは転がってタックルを再度かまそうとしている瑞貴の体を引き摺って、奥の部屋へと消えた。縁側で性交渉をするほど、自分は野性味に溢れていない。
 というか、そんなの野生とかいう問題じゃない。単なる不審者だ。
 寺の者共よ、この公共のテロリストに罰を与えるべきだ!

 ――ああ、女よ。お前は「見張りを頼む」と命じてはいたが、「セフレになってやってね」なんて言ってはいないよな……そんなものになる気など我はこれっぽっちもないぞ!

 この一族は性行為で魔力を供給するなど、もっとも原始的な手段が行われている。
 しかし、時間と体力を消費する面倒な作業だ。途轍もなく面倒な作業だ。赤子を生むほどのエネルギーと絶頂への無我の境地は、生産的だと言われてはいる。通常なら契約者と『接触するだけ』で力など分け与えることができるのに。
 何故こやつらは、わざわざ! 面倒なことばかり! 下劣なことばかり! その感覚が理解できない! さっぱり! …………。

「んっ……」

 最奥の瑞貴の私室に入るなり、速攻口付けられた。
 ただの畳に押し倒されて、ぐるぐる回る。頭を手で押さえつけられ、無理矢理に長い口付けをされた。舌は遠慮無しに入り込んでくる。無遠慮な瑞貴らしい舌の使い方だ。
 本当に無理矢理な男だ。まだ新聞勧誘の方が可愛らしいわ。

 あーだこー考えている間にも、瑞貴は丁寧に我の体を愛撫しようとしていた。手は立たせようとゆっくりと着実に動かしている。
 くっと唇を噛む。下半身に備えた瑞貴の手が慎重に動いていた。
 あとはリズムに乗れば早い。単純化した行為が続く。これ以上はまどろっこしいことなどしない。
 単にゆっくりと慣らし、性感を高めていくだけ。エクスタシーを作り出しスイッチを入れなければ、本当に単なる生殖行為になってしまう。同性にするなんて、只でさえ非生産的だというのに。
 なのに瑞貴は、進んでそれをしようとする。理解できなかった。
 口付けはまだ続く。少しテンポをおいて口を離すと、お互い息苦しく、はーはーと荒い息を吐いてしまった。

「貴様、そんな赤い顔を見せつけてもな、可愛いとは思わないぞ……。んっ……!」

 けど抱き寄せてそんな息をされると、首元に吐息がかかって少し体が反応してしまった。それは魔力を供給するために波長を合わせているためだと納得する。
 感度が上がっているからこっちも感じるだけだ! ヤツが感じれば我が感じるようにしてやってるだけだ! 全ての電気信号を二つが一人になるために似た経路を作り出しているのだ。そう、納得させる。
 魔を介した主従を結んだから行う行為。挿入。決して自身が気持ち良いとか、感じたからではない。断じて。

「……ぐ……っ」
「はぁ……シロン……。もっとぉ……」

 瑞貴の包み込むような蠢きに、思わず快楽だけで放出してしまいそうになるが、それでは何の意味もない。
 堪えて息を吐いた。同時にマスターも切ない息を吐く。
 その表情は、まさしく同一化している証拠だった。ぎゅうぎゅうに締め付けるのが度交わり合致する何かをとらえ、中を貪る。甘酢っぽく身悶えをしながら、あられもない嬌声を上げてきた。
 一瞬、瑞貴は高い声を上げた。絞り上げてくる。
 背筋を反らせて仰け反り、びくびくと体が足の先まで痙攣した。
 腰が震え、自分の中の魂を溶かして流し込んでいく。魔力を。
 精を放って、感動し……儀式は成功をする。
 それでこの時間の終わり……の筈。

 なのに、瑞貴は我を抱き寄せ、囁く。
 月並みの台詞を。

「……はあぁ……好きだよ、シロン……」

 違う意味で、我は身震いしそうだった。

 感慨深く漏らす言葉が、いまいち理解できない。いや、いまいちどころかまったくだ!
 貴様、その感情は一体どこから生じたのだ。納得できんな。我々は出会って数ヶ月だぞ。『それなりの経過』というものも無かったぞ。
 なのに、好意をぶつけてくるとはいかがなものか。いきなり好きと言われても、何が何だか判らない!
 我には、瑞貴が……経験を飛ばしている気がしてならなかった。経験しなければならないものを、とことん抜かしている。愛を生じさせるために経験しなければならないこと。感情を暴露するまでにしておくべき経緯が必要だ。それが何とも、我には言うことができなかった。
 『はっはっは、それをあらためて二人で体験していこう……』、なんて甘い台詞は、我には無理だ。
 考えただけで動悸が激しくなる。悪い意味で。……ドキドキではなく、ズキズキとした音で。

 あれこれ悩んでいるうちに、我は起き上がろうとした。
 愛情に悩むが、相手と並んで寝るのは違和感があると……どうも変な感覚がすると思ったからだった。

「いたっ……グッ、何をする!」

 だが、それを止める腕がある。もちろん瑞貴だった。

「離せ、馬鹿者。体力が回復できんではないか」
「いっしょにいてくれよ」
「だから、その体勢では我が……!」
「いっしょにいてくれるだけでいいんだぞ、俺は。なあ、家族になってくれればいいって言ったじゃん。家族は、いっしょにいなきゃダメなんだぞ。ずっとギュっとしてなきゃダメなんだぞ。……じゃなきゃ…………………………………………………………ゆるさない」

 ――ユルサナイ。
 妙な光を纏った目で、口付けられた。

「…………」

 ……貴様の家族像はどんなものだ。貴様の場合、何もかもが重過ぎるぞ。
 ああ、とても重い。その言葉に何度、体が潰されてきたか。言葉の窒息死寸前だ。
 いくら奥の部屋にいるとはいえ、ここは寺の中。やはりこの様子も『監視者』は見ているのか。いくら隠れても見られていて、逃げようとしても、こうやって腕を掴まれる。

 ――嗚呼、我はとんでもないものに捕まってしまった! 最初は『この寺の主』の視線が恐ろしいと感じたが、今はそれどころではない!

 瑞貴の圧力の方がよっぽど怖い。なんなんだ、この圧倒力は……普通の見習い魔術師のレベルではないぞ。
 まるで、『邪悪に暴走した獣の成れの果て』のようではないか。

「……瑞貴、離さなくても良い。しかしこの体勢は辛い。寝返りもうてぬ。それだけは許してくれないか」
「…………」

 恐ろしい目をしている。さっきまで喘いで官能に蕩けていたというのに、ギラギラと捕えて離さぬ視線だった。
 ここで目を逸らしては逆効果。我は意を決して、その視線を一身に受けた。逸らすことなど、しない。

「シロン、ごめんよ、背骨が歪んだりしたら大変だよな。お前って元から猫背だけどそういうの気にするんだ?」
「…………」
「どうした? いつもの『猫ではないっ』は言わないの?」
「……………猫ではないわ」
「うんうん」

 拘束は解かれた。だが、まだ手が繋がれていた。

 ――瑞貴。貴様は、何をそんなに執着している?

 尋ねようにも尋ねられない迫力があった。知りたいとほんの少し思っても、聞いたところで何をすればいいという倦怠感と、そこまで親しくなりたくないという無気力感に襲われる。
 それに、訊いたとしてもあっけらかんと教えてくれるようには思えない。だから、変に気遣って「シロンが優しくなったー」などと言われるよりは、こうして無表情に手を繋がせておく方が良い。
 そう我は、自身の心情を納得させた。

「へへー」
「……なんだ、気持ち悪い。ガキのような笑い方をしおって」
「シロンの掌、あったかいー」
「…………貴様がそうさせたのだ、馬鹿者」

 手は俗に言う『恋人つなぎ』と呼ばれる、指と指を絡ませ合うものになっていた。情事の後のせいか、非常に暑苦しい。だが、何を言ったところでその手を解いてくれそうにはなかった。
 この恋人の繋がれた手。それは我にとっては、どう考えても『呪いの鎖』にしか見えなかった。



 ――2004年12月5日

 【     /     /     /     / Fifth 】




 /2

 牢がある地下室から地上へ登って来ると、入口には大山様が突っ立っていた。
 普段だったらオッチャンの見ていない死角から梓が突貫してきたり、報告を待てずに来てしまう狭山様が立っているというのに。彼らの登場を予想していただけに夜月の下で穏やかに笑う大山様を見ると、なんだか意表をつかれた気分になった。

「そんなに私が待っているのは変だったかな、シンリン?」
「いえ、失礼しました」

 俺はすぐに姿勢を正した。
 怖い人向け(狭山様のことだ)の姿勢を正す。今度は大山向けに穏やかに、自然な形で。
 彼は予想通り優しく「畏まらなくていいよ」と笑ってくれる。仏田寺の『仏の副長』と呼ばれる彼らしい、生易しい対応だった。

「早速だが、シンリン。疲れているところ悪いけど、報告を聞かせてもらおう」
「はい。…………」
「シンリン?」
「ええ、ですが、そう言いましても……」

 ふざける気は一切無かった。大山様に隠し事なんてしたくなかったし、そんなことして優しい彼を困らせることなんてしたくない……というのは、ともかく。
 それでも真正面に結果をぶつけたら「ふざけるな」と怒鳴られそうなネタしか持っていなかった。大山様だから怒鳴られることはないだろうけど、だけれども。

「現在……取り押さえられた瑞貴の様子は、落ち着いております。ええ、その状態で先ほど話をしてきました。ですが、それでも、一切何も収穫はありません」
「収穫は無い? シンリン、どういうことだ?」
「……先にお話をした通りのことしか、何も追加情報は無いという意味でございます」

 チクタクと大山様が固まること数秒。「困ったな」と顔全体で苦笑いをする。本当に困ったような顔だった。
 ああ、困るだろう。これから彼に『どう処罰を加えるべきか』考えなきゃいけない人としては。『事件発端に意味など無い』と言われたら、罪を問うにも問えなくなってしまうんだから。
 さて、どう説明していいものやら。

 ――瑞貴は数日前に、『仕事』を命じられていた。

 『とある街で異端が事故を起こしている。これ以上待つの人々が犠牲にならぬよう早急に解決してほしい』。何の変哲の無い退魔業だった。
 その『仕事』を任されたのは、瑞貴一人。というのも瑞貴はとても優秀な能力者で、一人で何でも出来ることが売りだったからだ。
 物腰丁寧に人々の話を聞くことができるから一人で依頼人と交渉が出来るし、街のことを調べ自分の知恵にするのも早い。もちろん戦闘能力も悪くない。さらに先日、使い魔を用いた新しい技を身に付けたようで、力は何倍にも伸びたと言われている。その優秀さから、誰からも評価されていた。
 『赤紙』を直接渡すことになったあの日、『仕事』を受けたときも、

「こんな簡単な依頼、俺がさっさと解決してきますよ」

 そう笑顔でニコッと笑いながら言っちゃう辺り、爽やかな性格がよく伺えた。

「被害者がもう既に出ているんですか。これ以上、誰かを犠牲にするなんて許せないですね。すぐにでも出発します」

 そんな台詞もスラスラ出る男だった。
 その日気分が良さなど関係無く、元から瑞貴は誰に話し掛けられてもすっきりと受け答えをする男だ。
 寛太や火刃里といった若年層からは「何でも相談に乗ってくれるさっぱりとした人柄」として好かれている。
 いつ見ても真面目に魔術の勉強もしてるし、命令された『仕事』は忠実にこなす。「近年稀に見る好青年」だと僧の周りでも言われていたぐらいだった。

 ああ、オッチャンももちろんそう思っていた。
 『赤紙』を渡しても嫌な顔をしないでさっさと目を通して『仕事』に赴くあたり、「任務なんてメンドーだー」とか「つまんなーい」とか文句を垂れながら出て行く連中が多い中では好感が持てた。それに一対一で話してみると、「ここまで出来た人間はいない」と思えてくるぐらいだった。
 ところがどっこい。瑞貴は、事件を解決するどころか、事件を起こして寺に戻ってきた。
 命じられていた魂はちゃんと回収してきた。
 暴れまわっていた異端は、三日の時間を掛けてきっちり捕まえてきた。
 そこはちゃんと評価しよう。

 けれども瑞貴は、『仕事』中に依頼人を怪我をさせた。
 それが今、問題になっていた。

 依頼人は、街の住人。一般人だ。
 「ここ最近、我が商店街で変な事件ばかりが起きる。幽霊を視たという噂が多く……」と退魔組織に相談してきた、商店街代表の男だった。
 何もおかしいことはない。「実はその男が異端の正体だったんだ!」という仰天オチも無かった。ごく普通の、『仕事』を寄越してきただけの一般人だった。
 そして依頼人の男は、異端に襲われて怪我をしたのでもない。もしそうだとしたら、確かに守れなかった問題ではあるけど、あくまで「異端のせい」であって、瑞貴が全面的に悪くはならない。
 だが、今回は違う。「瑞貴が悪く、瑞貴しか悪くない」状況になっていた。
 彼が依頼人の男を傷めつけ、商店街を燃やしたというのだから。

 ――事件発生時、処理班は速攻、事件となった街に飛んだ。

 そこで怪我人の治療、燃え爛れた家屋の修復作業、事件を目撃してしまった一般人や被害者への記憶操作を行ないまくった。
 異端は退治され、魂も回収し『仕事』自体は大成功。でもこの大失敗は何なんだ?
 ……最初は誰もが「瑞貴がやった」などと考えなかった。だから真犯人を知って耳を疑った。
 前にも回想した通り、瑞貴は「これ以上、犠牲者を増やさないように頑張ります!」と笑って出て行ったぐらいだ。そんな男が、邪悪にも一般人を傷付ける訳がないと、皆思った。
 もしそうだとしたら、異端にそう仕向けられたとか、不幸にも罠にハマってしまったとか、そうしなければならない事情があったんじゃないか? 身内だからというのもあるが、弁明してやりたかった。それぐらい瑞貴は信頼もあったし、あまりにあまりすぎる事件だったからだ。

 『仕事』が終わった瑞貴は、魂を『本部』に献上すると、すぐさま事情聴取が行われた。
 「一体何があったんだ、正直に話せ」。数人が不安そうに尋ねると、

「俺は悪くないです。悪いのはアイツらです。アイツらは一般人ですが、悪いから、燃やしました」

 相変わらず真っ直ぐな目で答えてきたという。
 その後、「彼らに異端の兆候があったのか?」と問い質したが、返事は「いいえ」。
 「じゃあ何故潰したんだ」と尋ねると、「悪いからです」。話が進まなかった。

 ……晴々とした顔をしているが、もしかしたら興奮しているのかもしれん。
 そう思った『本部』(主に大山様の考えだろう)は、地下室にとりあえずその身を移し(『仕事』は成功しても、大失敗だったから懲戒的な意味でだ。逃げる心配はしてなかったと思う)、美味しい食事とお茶を取らせ、落ち着いたところで心霊医師のオッチャンに面会を任された。
 俺は地下の座敷牢に幽閉された瑞貴相手に、世間話から入った。瑞貴は、

「早く出してくれませんかね。体は清めたけど風呂に浸かりたいです」

 と、呑気に笑っていた。
 笑うぐらい元気だった。ハキハキとした言葉遣いが、牢屋に囚われの身という立場を一切感じさせなかった。

「瑞貴。犯人、どうだったよ?」

 捕まえてきた魂について、俺は問う。
 答えられないものは何も無いらしく、瑞貴は地下室に響く声で詳細を話した。

「犯人ですか? 『無理矢理に立退きを迫れて職を失って自殺したけど成仏できなかった嫉妬深い幽霊』ってとこです。商売が上手くいってる知り合い達のことを恨んでいて、それで迷惑行為を繰り返してたんです。その辛さは戦っている中で俺にも伝わってきました。でも、人を傷付ける理由には至りませんね」
「へえ、大変な幽霊サンだったんだなぁ」
「どうやら騙されて立退かれたみたいですけどね、彼は。ちょっと幽霊と接触したとき、苦しい過去を視ちゃって感情移入しちゃうぐらいでした。……法律に反していないとはいえ、ギリギリのところを突かれて陥れられたんです。可哀想な怨霊でしたよ。あの土地に執着はあるけど奔放な性格だったみたいで、潜伏場所を特定するのが難しかったです」

 そう判りやすく語ってくれる顔に、曇りは無い。
 犯人を倒して去るだけも出来るのに、ちゃんと動機を調べている彼は、人の心を案じることも出来ている。偉い。
 単に「動機を調べればどこに隠れているか性格が読み取れるから」とも考えられるが、それでも爽快な物言いは好感が持てた。
 『その程度の恨みでは人を傷付ける理由に至らない』。……そう自分で言っておきながら、一般人を炎で甚振ることになった理由は何だ? 直接問い質したい気持ちを抑え、回りくどく攻めていく。

「瑞貴。魂を回収後、依頼人に報告をしに行ったな? そこで『終わりました』のサインをしてもらったよな?」
「ええ。シンリンさん、もしや何か不備がありましたか?」

 瑞貴が何気無く尋ねてくる。俺は「いいや、間違いなかったよ」と首を振る。
 書類は既に提出済みであり、チェック済みだ。瑞貴は情報収集や戦闘行為だけでなく、事務作業も完璧にこなしていた。
 書類にサインを回収したら後はご挨拶をして去るだけ。それで任された『仕事』は終了。でも……。

「ああ、良かった。間違いは無かったんですね。そんなことを言うから何か不都合な事でもあったのかと思いましたよ」
「無かったさ。瑞貴は何でもやってくれるからな。一人で『仕事』を任せても大丈夫だってみんなから高く評価されていたんだぞ」

 いたんだぞ。
 ちょっと突っかかるような言い方。失敗したかなと思ったが、瑞貴はちっとも気にせず笑っていた。

「あの。ところで俺、いつここから出られるんですかね?」

 もう一度、ここから出たいと言い出す。
 誰だって地下室には閉じ込められたくない。沈黙を潰す為に言ったことだと思い、俺は笑顔で首を振るしかなかった。

「うーん、それはオッチャンが決めることじゃないからなぁ。上の人の意見は判らんわ。すまんよ」
「あー、そうですよね。すみません、無茶を言って」
「イヤイヤ。でもすぐに出られるさ。なんだ、見たいテレビ番組でもあったか? 録画ならオッチャンがしておくぞ」
「いえ、シロンに会いたいなって」

 ――シロン。
 瑞貴が部外者の名を呼ぶ。即座にその名前を脳内検索にかけた。
 その名は一族の一員ではない。でも聞いたことがある。……頻繁に瑞貴が口にしているところを耳にした? 瑞貴の関係者の名前だ。……友人? いや、『仕事』に行く前に「一緒に行こう」と言っていた。……協力者? その名を呼びながら頭を撫でていた…………確か、猫?

「使い魔のことが、心配か?」

 シロンというのは、瑞貴の使い魔の名前。それで間違いない。

「心配っていうか。……うん、心配ですよぉ。あいつ、ご飯食べてるかなぁとか考えてばっかです」
「ああ、そうだな。他の猫達に交じってメシを貰ってるといいな。……って、使い魔の動物だったらメシを食わなくても生きていけるんじゃね?」
「でもっ」

 そういう俺も使い魔に梟を従えていた。
 そいつも鳥のメシは食えないこともないが、基本は俺の血を一ヶ月に一回舐めるぐらいで食事など取っていない。取らせた覚えはなかった。
 でも瑞貴の場合は毎日の餌を心配するほど、使い魔をペット扱いしていたのだろう。別にそれ自体はおかしいことではないから話を合わせた。

「でもでもっ。シロンは大切なんです。俺がご飯を用意してあげないと。寝床も敷いてあげないと。ブラッシングも……してあげないと!」

 いきなり口調が熱くなる。どうやら相当の熱の入りようだ。
 魔力を与えておけば生きる道具に、そこまで愛情を注いでいるとは。あまりの必死っぷりに、なんだか微笑ましく思ってしまった。

「そう! ブラッシングしてあげないと! 毛並みがグシャグシャになっているんです!」
「ハハハ、落ち付け。今頃自分で毛繕いしてるって。猫が自分で毛繕いするとしたら、明日は雨かな?」
「俺がしてあげないといけないんですよ! だって、俺がマスターですから! してあげないと可哀想じゃないですか!」
「毎日してあげてるんだもんな、可哀想だよな。でもさ、今日はお前、ここで寝ろって言われてるんだから」
「シンリンさん、俺をここから出してください」
「ごめんなぁ。上の命令は絶対だからさ。お前も猫も可哀想だと思うけど……」

 がしゃん。
 いきなり瑞貴が鉄格子を手にした。それまで大人しく格子越しに座っていたのに、立ち上がってむんずと掴む。
 がしゃんがしゃん。格子を揺らした。がしゃがしゃがしゃがしゃ。揺らす。その程度で抜ける物ではないと判っているだろうにがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃがしゃ揺らし続ける。

「落ち付け」

 俺は宙に、タクトを召喚した。
 その一本を決まった動きで揺らす。『眠れ』という暗示を掛ける。少し術式を操作すれば、即座にグースカと眠れるような魔法を瑞貴にかけた。
 でも今はそうしない。瑞貴と面会をしに来てるんだ、眠らせるような真似はしない。
 興奮してきた瑞貴の気を魔法で落ち着かせただけだ。瑞貴はがしゃがしゃと鉄格子を揺らすのは止めたが、がっしりと両手は格子を握り締めている。可能であれば引っこ抜くような勢いだった。

「……ブラッシング、してやらなきゃ……」

 少しだけ眠そうな声で瑞貴は口走った。
 変わらず話を続ける。魔法を使ったとか関係無く、何も無かったように続きを話す。

「そんなに『仕事』のとき忙しかったのか? 猫ちゃんを全然ブラッシングしてあげなかったぐらいだったか?」
「……違います。毎日してます。ずっとしてました。でも、まだ今日はしてません。……毛を、乱されたんだから、してあげないと。帰ってきたんだから、してあげないと、グシャグシャにされたんだから、してあげないと……」
「そんなにブラッシングしたいのか?」
「…………だってあんな脂ぎった手でグシャグシャされたら気持ち悪いじゃないですか」

 ウトウトしながら、瑞貴が口走る。

「幽霊の肩を持つつもりはないですけど……『死んじゃった彼』、騙されて死んだんですよ……合法的に殺されたとはいえ……依頼主は、酷い連中です……そう、汚い……汚い連中の、汚い頂点の、汚いその手で……そんなので撫で回されたなんて、カワイソウじゃないですか! 早く整えてあげなきゃカワイソウでしょう! カワイソウだ! 俺が綺麗にしてあげないと! ああああ! ほらあ、こんな所でメシ食ってる場合じゃないんだ!」

 『眠れ』をより強く彼にかける。
 術式を咄嗟に唱える。
 ガクリと瑞貴の頭が下に落ちた。まだ意識は手放していないが、今にも寝そうな雰囲気になった。
 ……催眠状態とも言えるこの状態で、俺は、問い質す。

「何故、彼らを、燃やした?」
「……シロンに触れたから……」

 ぼんやりとした声で返事をした。

「それだけで、お前は、人を燃やせるのか? 他に理由があるなら答えろ」
「……俺のシロンに触れたから……」

 それしか返事を、しなかった。



 ――2004年12月4日

 【     /     /     /     / Fifth 】




 /3

 我が、瑞貴という男と契約してそろそろ三ヶ月が経つ。
 奴は竹を割ったような性格だ。正直者で、素直で、即決即断。悩むよりも先に行動、判らんことがあってもまず動くし、誰よりも早く物事を解決させて安心感を周囲に振り撒く。……そう言うと大変できているように思える。
 だが、度が過ぎている。感銘直截すぎて追いつかない。獣である我よりも先に駆け出す彼に、感動を通り越して恐怖しか抱かなくなっていた。

 ――まずい、なんだかまずい。

 鈍感な我でも判った。
 能力者は一般人を傷付けてはならない。一般人を傷付けるのは異端。異端は一般人を傷付けるもの。
 相手は、何の能力を持たぬ一般人。一般人を傷付けてる能力者は、異端。異端は、能力者に狩られる存在――。

 ばばばと脳裏に『世界のルール』が展開されていく。敢えて覚える必要も無いぐらい、当然過ぎるそのルールが。
 特異な能力を持つ者だったら誰でも知っている、ジャンケンは何に対して何が強いのかってぐらい安直で当たり前な仕組みが。
 ……だというのに何故貴様はそうも簡単に違えるのだ!? 「腹が立つから」と人間を燃やしてその後のことはどうするつもりなのだ!?

「け、結界を展開する! ■■■! ……ええい黙れ! 喚くな! 我が領域に邪魔をするなッ!」

 即座に猫型から人の姿に変身。周囲に居るかもしれぬ狩人達に存在を覚られぬよう、自分達だけを閉じ込める結界を創り上げた。これで半径数キロは自分達しか行動できないようになる。
 その中で自分は、自分達を止める。まずは瑞貴の暴れる腕を魔術の縄で捕った。振り上げる腕に蔦を絡ませ、今後魔術がかざされることのないように縛り上げる。
 この間、実に五秒。人型に変化してから結界、瑞貴拘束に五秒。でも、同じぐらいの時間、何が起きたか判らなくて固まってしまった。
 十秒という中、瑞貴は何をしていた?
 我に手を伸ばし弄ぼうとした一人目の中年男を、焼いた。
 その周囲に居た醜悪な男達を二人、焼いた。
 その三人が経営する店々を、焼いた。
 十秒という中で、瑞貴はルール違反をこれだけ行ない……平然と次の魔術を唱えようとしていた。

 人々が暮らしていた場所に炎が上がる。
 悲鳴が聞こえた。結界内に閉じ込められた半径数キロの人間の悲鳴だ。
 呻き声も聞こえた。突如発生した霊的な炎に焼かれた男達の呻きだ。
 騒音が、雑音が周囲を満たしていった。炎がみるみるうちに燃え広がり、恐ろしい速度で世界を赤に包み込んでいく。
 あと数秒もすれば、きっと一面赤い海と化す。――夢で見たような、真っ赤な海が完成する。
 だが当の術者は既に我の手で拘束済みだ。部外者が立ち入らないように結界も張った。後は瑞貴の息が掛かった能力者が揉み消しをしてくれれば……。してくれるだろうか? どう考えたって、手を出したのは瑞貴で、責められるのも瑞貴だぞ……?

「クソッ。我は治療魔術など好かんのだがな!」

 炎に焼け苦しむもがく男達に手を当てた。熱い。
 そりゃそうだ、燃えたんだからその体は熱い。だがすぐさま接触してでも生命力を戻してやらなければ、彼らは死んでしまう。
 死なれでもしたら本当に我がマスターは『善良で無害な一般市民を傷付けた異端』になってしまうではないか。そうなってはならん、得意ではない治療魔術を詠唱した。

「汚いっ!」

 すると瑞貴が謎の言葉を喚く。
 一体何だ? だが集中を乱す訳にはいかない。マスターの叫びを無視して詠唱を続けた。
 ――くそ、なんでコイツ、一族から単独行動を取らされてるんだ。もし誰か身内が一人でも共に行動してくれていたなら治療に協力させただろうし、そもそもこんなこと……。

「シロン! 汚いよ! そいつ汚いんだから! 触るな! 触っちゃダメ!」

 拘束されて身動きの取れない瑞貴は、ぎゃあぎゃあ喚く。

「ダメ! 触れるなよ! イヤだから俺は燃やしたんだよ! なんでそれぐらい判らないの!? 判ってくれないの!?」

 うるさい黙れ。その言葉も詠唱中は唱えることは出来ない。
 とにかく男達を救うために我は焼け爛れる身に手を付け、肉と肉が接触する中、治療魔術を唱え続ける。
 その間も瑞貴は叫んでいた。口を出すことが出来ず、唱え続ける。

「なんでシロンから触れるの!? そいつらのコトなんて嫌だろう!? そいつら汚いんだよ、なんでシロン自ら触りに行くのさぁ!? ヤメろよ! 触るなよぉ! 俺以外に触らせるなぁ! なんで!? お前にベタベタ触ってくる奴なんて、みんな死んじゃえばいいだろぉ!!」
「……ええい黙れこの大馬鹿者がぁ! だから、助けるために唱えているのだ! この外道共を助けるためではない! ……マスターを救うためだというのに何故気付かぬ!?」

 判りやすく魂胆を口にしてやって、そこでやっと瑞貴はピタリと怒声を止めた。

「おぬしが処刑されては困るのだ! 契約している我が身の事も考えぬか、うつけめ! 我と貴様は一心同体であると心得よ! ……貴様に消えられてはならんのだ、我の愚考だがな!」

 ここまで説明してやらなければならないのか。ついつい頭を抱えたくなってしまう。
 頭を抱えるというアクションなど今の状況では無駄そのものだからしないが。
 瑞貴は我が声を聞き、ピタリと動きを止めると同時に、無表情のまま……なんとボロボロと涙を流し始めた。

「し、シロン」
「……なんだ」
「シロン。シロンが…………デレたぁー!!」
「はあぁっ!?」

 思わぬ言語チョイスに、古典漫画のようにひっくり返ってしまいそうになる。

「シロン! これ、この戒めを早く解いて! 抱きしめさせて! ぎゅーさせて! ちゅーもさせて! もっと繋がりたい! いっしょになろう!」
「ばっ、ば、馬鹿……と罵る気も無くすぐらいの衝撃に、頭がくらくらする……」
「それは疲れたからだよ! 供給しようッ!」

 笑顔で縋り寄ろうと、拘束されたままずるずるとゆっくり我に近寄ってくる。ギャグオチにして全てを終わらせる気かっ。……いや、そうはいかない。
 足元に転がる三体の焼死体モドキを見る。辛うじて生きてはいる。だが。
 ……笑って済まされる問題ではなかった。だというのに。

「…………」

 振り返った先には、満面の笑みで縋り寄ろうとしている主が居た。
 自分と同じ種族である人間を三人も殺しかけておきながら、自分への愛に感動し、陶酔しきっている。
 背筋が凍る。奴はこれから身内によって捕まる。牢屋に入れられるに違いない。だがそんなことなど気にしないで、我に手を伸ばしていた。……異様な笑顔だった。



 ――2004年12月5日

 【     /     /     /     / Fifth 】




 /4

 瑞貴が一人で『仕事』に立ち、一般人を殺しかけて捕まって来たあの日。一体どんなことが起こったか、オッチャンはただの魔術師なので神様のように上から見守っていなかったから判らない。
 慧のように知る能力も無かったから、瑞貴が何を想って本当は何をしたのか、何をしたかったのか、知ることもできない(慧は慧で「何をした」ぐらいしか知ることはできないので。「どうしてこうなった」を把握することはできないと嘆いている。彼の感応力にも限界があるらしい)。
 それでも状況を察するに、『こんな結果だ』と……俺は書面で人の過ちを形にした。

「九十日謹慎。短いですね……」
「そう思うかい、慧」
「シンリンさんは違いますか?」

 その書類に目を通した慧が呟いた。
 大山様の命令で代わりに書類をまとめに来た彼のあまりにも率直な感想に、ついつい吹いてしまう。

「ごめんなさい……三名もの殺人未遂、証拠隠滅員と記憶操作員の派遣、そこまでの罪が三ヶ月の研究所篭りで許されてしまうなんて……と思いまして」
「へへえ、お前さんでも甘いと思うのかい」
「はい」

 慧は不満のようなことを口にしているけど、別に反論するつもりは無いようだ。目を通した書類に、淡々と判子を押していく。
 ――ここは『本部』。一族の行いを管理する場所。事務作業すら任されている若きエースは常識力を生かしながら、一族で起きる事件を今日も処理していた。
 今回の瑞貴による火災事件は慧の管轄外だったらしく、初めて見る事件の全貌に不可解そうに眉を顰めながら目を通していった。そして『事件の終了』を意味する印を付けていく。

「瑞貴には九十日間、汗水垂らして研究してもらう。異端退治は別の子に……それこそ瑞貴じゃなくても陽平とかでもできるからな。他の連中に任せておいて、瑞貴だからこそできることをやってもらおう」
「はあ……」
「彼にとっての刑務所が研究所ってだけ。それ以外のことはさせない。自由は無いから一応、刑にはなってる……ってオッチャンは判断してるけど?」
「元からこの寺は研究所でしょう? そこで生まれ育ってサラブレットが元の地に収まるだけじゃないですか。実家に居残る、それが本当に罰になりますかね?」
「……正直に言うとな、瑞貴ほど優秀な人材を『処刑』やら『聯合』にしてしまうのは惜しいっていう声が大きいんだ。今回、意味不明な事件を起こしちゃったけど、それ以外は満点なんだわ。だから失いたくないんだそうだ」
「外生まれの人はどんなに品行方正に仕事をしても、ミスをしたら一発でクビ。だというのに正統な血筋は大きなミスでも揉み消しでOK……なんですね」
「ハハッ。慧、お前は嫌味キャラじゃないんだからそんなこと言うなよぉ」

 俺が笑って言うと「ごめんなさい、失礼しました……」と慧が俯いた。
 書類をきちんと整えて封筒に入れ、「すみません、いつもの場所にお願いします」と俺に手渡してくる。そうして次の書類に手を付け始めた。
 まとめ終えた書類を保管場所に持って行くため、軽く挨拶してデカい和室を出ようとする。そのとき、

「『それ以外は満点』。……人殺しが平気な性格以外は満点、ですか……」

 何か間違いを口にしたそうな呟きだった。

「ここはそれで許される国なんだ、人殺しでも評価に値するのさ」

 たとえ本当の世の中では間違っていても、『ここではそれでいいんだよ』。
 背中でそう言ってやって、この事件を全て終了させた。



 ――2005年12月27日

 【     /     /     /     / Fifth 】




 /5

 瑞貴が『商店街放火』という事件を起こした後、三つ子の兄弟である俺は不遇な目に遭っていた。
 もう一人の三つ子の弟・慧は元から能力が高いことで有名だったが、瑞貴の起こした事件のせいで兄まで有名人になってしまった。有名人と有名人に挟まれ、俺は大変遺憾に思っていた。
 何をそんなに問題視してるかって、『自分の地味さ』に腹を立てている。瑞貴のように派手な事件なんか起こす勇気も無いし、慧のように全一族が注目する力も無い。三つ子というただでさえ目立つポジションにいるのに、他の二人が濃すぎてどうも俺は目立てずにいた。
 別に目立ちたがり屋ではない。けど、あまりに二人の存在が大きすぎて、やや、少々、ほんの少し……妬んだりもしていた。敢えて口にする程でもない、ちょっとだけだけど。
 だから俺ができることといえば、『人より頑張る』。それぐらいしかなかった。

「なあ、月彦。……あのさぁ、ホッカイロとか持ってきたか?」
「いえ、まさかこんなに森にやって来るたぁ思ってもいなかったんで無いっす。……手袋ぐらい必要でしたかね」
「いやー、森の中はやっぱ寒いな。人が居ないとメッチャ寒いわ」
「陽平さん、今から街に戻って買ってきます?」

 ホッカイロなんか常備してるほど用意の良い男じゃないか、月彦は。残念だ。って俺もだけど。
 つい最近まで夏だと思ってたけど一気に冷え込んできた。街は建物の暖かさで冬の訪れを感じなかったけど、自然の多い緑ばかりのところにやって来ると身が震える。
 俺も月彦も、こんな日に限って薄着だった。昨日は俺も月彦もインドア生活していたから気温の変化に気付けなかった。うう、っくしょい。失敗じゃねーか。
 体温調節の失敗は風邪に繋がる。って、そんなに失敗していられない。少なくとも今は、『仕事』を自分の不都合で失敗になんかさせられない。
 てなことをしながら俺達は森の中を進み、目当ての別荘を発見。慎重に近寄っていった。

「月彦。裏口は見えるか?」
「ン。……誰も居ません」
「良い頃合いだ。俺が合図をしたら入るぞ」
「ラジャ」

 いかにもエージェントの潜入捜査っぽいノリで俺達は会話をし続ける。まあ、実際そういう『仕事』だった。
 ここは人里離れた山奥。避暑地は冬になれば誰も訪れない。一時間に数人しか出会わないようなこの地に、今回の犯人は居た。そうだ、誘拐事件の犯人を一刻も早く取り押さえないといけなかった。ホッカイロを買って来る暇なんて無いんだ。
 普通だったら表の警察がするようなカッコイイ事件だが、俺と月彦が当てられているんだから、そっち方面の事件だ。ぶっちゃけて言えば、『犯人は人間じゃないから』俺達が担当している。たまには人間の犯人相手に決め台詞を言ってみたいもんだ。

「ゴー」

 テンションを上げるために精一杯キメ声で、月彦に突入を命じる。
 お互いテンションが高くなきゃ異端の連中と戦えない。魔術はある程度高揚感が無いと発動しないし。だからわざと授血したり自傷したりする奴もいるぐらいなんだが、俺は少しカッコつけるだけでその日を盛り上げることが出来るんだからラクな男だった。自分でもそう思う。
 俺の掛け声に合わせ、月彦が身を低くしながらログハウスの裏に飛び込んで行った。
 あいつが走ったと同時ぐらいに俺は右手に握りしめたライターに火を付ける。呪文を唱え、ライターの火をビームのように伸ばす。ビームの光は裏口の扉に命中し、一秒も立たずログハウスの鍵は破壊された。破壊の炎は月彦が扉に走ると同時に焼き切れる。月彦が『扉を開ける為に立ち止まりノブを回す』という単純作業で時間をロスすることなく、武器を振り翳しながら中に突入することが成功した。
 頃合いを見計らったときには、もう中がどうなっているかなんて分析済み。俺も月彦もログハウス内がどのようなものか頭に叩き込んである。犯人がどの部屋に居るか、人質がどうなっているか、大体の予想が立っていた。無防備に突入したようなこの光景も、全て計算でやっていることだった。
 月彦より一足遅く、俺はログハウスに入る数段の階段を登り、入口の無くなった扉からゆっくり入る。
 入口には、二秒もかからず月彦の剣にやられた化け物の固まりが転がっていた。
 長い足がいくつもあって、てらてら光っている。まるでタコの化け物っぽかった。うえ、やっぱキメェ。
 黄色いからタコっぽくない、どっちかっていうと気味の悪い植物のような印象も抱かせる触手だ。月彦によって息の根を止められているから動かなかったけど、俺はまた掌の中にあるライターでカチリと火を付けた。
 ぼっ。黄色い化け物を焼却する。もちろん魂の回収は欠かさない。

「ハイハイ、成仏成仏」

 ……俺がライターに助力をしてもらっているのは、安全策だった。
 火炎術式ぐらい魔術師の基礎だ。補助具が無くたって使えることは使える。でも肝心なときに使えなきゃ困るから、俺は科学の力で開発された『確実な方法』で火を起こし、それを魔術でいじって強化する方法を取っていた。
 そんだけ俺は堅実な性格だった。瑞貴のように生真面目で優秀な学者肌でもないし、慧のように天性の才能を持っていない。三つ子だというのに俺一人だけ差が出ているので、こういった応用力で勝負するしかなかった。
 これが俺なりの努力だ。人より頑張る。その結果だ。
 本当はチャッカマンの方が安全で確実に火を起こせるから使いたいんだけど、ビジュアル映えしないから不採用にしている。テンションを上げなきゃやってられないのに、格好を気にしてテンションダウンしていたらマイナスになってしまう。てな訳で、煙草は好きじゃないけどライターをいつも装備している。一番の武器であるライターを構えながら、把握済みのログハウスを歩いていった。

「月彦。終わったか?」

 部屋の奥、おそらく犯人が居ると見当をつけていた所に足を運ぶと、月彦が自慢の長剣を下ろしていた。構えていないし怒鳴っていないところを見ると敵は居ないらしい。ライターを下ろして中に進む。
 辺りは一面、黄色い触手に埋め尽くされていた。

「うわぁ。予想はしてたけど、キメェなぁ」

 俺はもう一度同じ感想を吐く。討伐し終えた月彦はというと、眼の奥から嫌悪感を丸出しにしていた。
 月彦が中心になっていた『異端の核』を潰し終えたようで、生々しい触手はどれも動いていない。数秒前までは脈打っていた真っ黄色のカーペットは、ピクリとも動かなくなっていた。でもさっきまで動いていたのであろう、生命の色が見て取れる。
 つややか。生き物特有の光沢。生臭さ。綺麗な肉の固まり。動かなくなった只の塊。……俺は、ライターを持ち上げる。息絶えた触手という触手を焼却処分するために。

「陽平さん。アンタの予想、外れたよ」
「え?」

 月彦が、苦々しい声で俺に文句を言った。
 責めるような口ぶりではなかったが、声色的に俺への非難だと判った。

「人質。予想を立てていた西の部屋には居なかった。……全員ここに居たよ」
「…………ん。そんなん見りゃ判るぜ」

 俺は動かなくなった触手のカーペットを眺めた。
 ……女の子が数人、触手の中に埋もれている。
 カーペットの中にいる『それ』が女の子だって判ったのは、顔が触手で絞めつけられていてもおっぱいが丸出しになってるからだ。一人はおっぱい丸出しで首を絞められて絶命している。二人目は、筋肉のついてない腕しか外に出てないけど脈打ってもいないから死んでるって判る。三人目は、不格好に足を広げられて淫猥な触手を突っ込まれてるけど叫んでもいない。……死んでいるのは明白。
 俺はとりあえず腕しか出ていない子に近付いて、つんつんとライターで突いた。生体反応は無い。次々に確認したが、どの子もなかった。

「ヤベエな……触手に女の子があーんらめぇでエロいシチュエーションだっていうのに、末路がグロすぎて全然感じねーわ」
「茶化さないでくださいよ」

 案外この手のことに厳しい月彦は、鋭い声で俺を打った。
 目の前で事切れてもなお凌辱を受けていた人間の死体を見てしまうと、笑うしかないと思ったが、月彦がそれすら許そうとはしなかった。……いや、そっちの方がいっか。

「核の魂は?」
「…………。ありません。この化け物に、魂なんて高等なものはなかったようです。無駄足でしたね」
「そっか。サンキュ。となると裏口にあった魂は……触手に取り憑かれて洗脳された人間のものだったってことか。くそ。ああ、月彦は回収する暇が無かったんだろ、俺がやっておいたから安心しろよ。……で、人質達の魂の回収はまだか?」
「……この子達も回収するんですか」
「あたりめーだ。このまま放っておいても成仏しねーよ。放置したら無念の恨み辛みがこもって怨霊になって、この子達が異端になっちまう。異端ってそういう風に作られるもんだろ」

 ですね、月彦は頷く。
 怨霊というものは感情も無く人を襲うものもいれば、器を失くした自分の存在を気付いてほしいがために悲痛な主張と共に襲い掛かってくるものもいる。……触手に嬲り殺された女の子達が怨霊と化したら、同じように嬲り殺すものになってしまうかもしれない。
 そうなったらもう一度殺し返すしかない。殺された彼女達を、もう一度殺す。何の罪の無い被害者が加害者側にまわったのだから、処罰する。……それは、悲しい。これ以上悲しいことを増やしちゃいけない。
 月彦は刀を握り締めて……腕しか出ていない女の子を見つめている。とても無念そうな顔をしていた。俺も平然に物を話してはいるけど、似たようなもんだった。

「彼女達を救うためにも魂はちゃんと回収しよう。俺達が体をもって供養してやろう。でもって遺体もちゃんと回収。親御さんの元に返してやんないといけないし」
「……その前に警察にっすね」
「だな。あ、あとやんなきゃいけないことがあるか。もう一仕事な」

 まずは、触手にまみれた女の子(故人)を救出してやらんと。それから触手のカーペットを何とかしなきゃいけない。燃やすのは、死んだ人を助けてかあだ。
 剥き出しの何かを見ながらの格闘は、魔法を使わなくても力が奪われていく大変な仕事だった。



 ――2005年12月27日

 【     /     /     /     / Fifth 】




 /6

 女の子の裸をいっぱい見る仕事に憧れる、そんな時期も俺にはありました。

 でもこの『仕事』を本格的に初めてから、裸を頻繁に見るようになってしまってゲンナリしている。女の子に限らず、人の体をやたらと見るようになってゲッソリだ。
 俺と月彦は頑張って刃物で触手を剥ぎ取り、異端に不運にも誘拐され強制的に『供給』の餌にされた彼女達の肢体を救出した。体の一部が欠けている子もいたけれど、触手の中から離れたパーツを発見できた。三人分全て回収した俺達は、事前に連絡しておいた圭吾さんに迎えられ、然るべき組織によって後始末をしてもらった。

 月彦は圭吾さんの車で、現在彼が住んでいる学校寮の前まで送られた。年末も近いし実家に絶対帰れと言われているんだから今日送ってもらえばいいのに、帰省準備ができていないからと寮に向かう。尚且つ、「寮近くで下ろしてください」と月彦が言うので少し歩くことになった。なんでも気分転換がしたいらしい。このまま何もせずに気落ちしたまま寮の部屋に戻ったら、陰鬱で夜を明かさなきゃいけないからと説明していた。
 俺もその散歩に加わっていいかと申し出た。
 でも俺は群馬の寺まで帰らなきゃいけない。圭吾さんだけ帰ってもらう訳にはならない。圭吾さんに「三十分ぐらいドライブしていてください」と頼み込む。「二人だけで話したいんで」と訳を話すと、彼は笑って了承してくれた。……今日の俺達の心境を理解してくれている顔だった。

「月彦。カノジョさんはどーなんよ」

 ――今日はお疲れさん。今度もまた一緒だったら宜しく。
 挨拶なんてその一言だけ言えれば良かったんだけど、月彦の顔があまりに曇っていたから何かおしゃべりをしておきたかった。

「いきなりなんすか。……アっちゃんなら、呼べば来ますよ」
「へえ? あーあー、こんな真夜中でもお前が『会いたい』って言えば来てくれるステキな女の子なのねー、アっちゃんさんはー。いいなぁ、俺もそんな優しいコイビトが欲しいわー」
「いないんですか? 陽平さんって普通っぽいからいそうなのに」

 言うなよ。お世辞でも傷付くわ。

「ふふふ、これでも俺、付き合っている人が……」
「いないんすね」
「いるよ! 今、申し込み中だよっ! …………まあ、なんだ、俺が言いたいのはな。うん!」
「なんすか」
「……月彦、あのさ。どんな手段を使ってもいいから元気出せ。カノジョさんがすぐ来てくれるって言うなら、来てもらえよ。今の月彦、しんどい顔し過ぎだぜ」
「……マジっすか」
「うん。今にも苦悩の果てに絶望の末に自殺しそうな顔してる。俗に言う『生命力切れ』とか『魔力切れ』の顔だ。生きていく力が乏しくなっている状態で誰かに襲われでもしてみろ、一発であの世送りにされるぞ」
「……オレ、元気なつもりなんですけどね」
「体力と、生命力や魔力は違うんだよ。体力はリポDでも飲んでおけばなんとかなるけど、後者……精神力っていうのは、自分じゃ回復できないもんなんだ。他人の力を借りないと治らないもんでさ。だから他人の体液や興奮を借りて『供給』しなきゃ元気が出ないとされている。人間は一人じゃ生きられない弱い生き物、支えられなきゃ立っていられない存在っていうのはよく言われてるだろ」
「……はい」
「原理はもっと複雑なもんだけどさ、今は『誰かと笑って正の感情を巡らせてラクになれ』、それだけを考えろ。月彦は今、カノジョさんを利用してでもじゃないと存続できない形に陥ってるんだよ。だからすぐになんとかしろ」
「でも」
「……異端は退治できたし、魂も凄い量が回収できた。今だって俺の中に死んだ魂が巡っている。でも、救えなかった」
「…………」
「こうやって連れてくることはできたけど、救えなかった。あそこでウロウロされて怨霊になったら困るから俺の中に入れたけど、それは救ったことにはならない。……仏田的には救ったことにはなるって当主様達は言うだろうけど、生きてなきゃ意味が無いこの世界で、オレ達は結局のところ、救えなかったってことになる」
「……陽平さん」
「……俺だってショックなんだよ。これで月彦まで失意のうちに死んだら、ショックで俺も死ぬ。そんなの嫌だ。俺が死ぬだけならいいけど、月彦がガッカリで死ぬのは嫌だ。もう誰にも死んでほしくないんだ。だから……その、な、あの。今のお前を放っておくの、心配でたまんないんだ」
「陽平さんって、地味に熱いですよね」

 確かに「熱い」とはよく言われる。「地味」っていうのは余計だが。

「……あと、早口で途中から何言ってるか判んなかった。アハッ」
「マジか」

 結構真面目に説教したつもりだったけど、効果は今一つだったのか。くそ、腹から声出して損した。

「ふうん……。へへっ、今の会話で、オレの精神力……いや生命力、魔力……なんでもいいや、その何かが……回復した気がします。ありがとうございます、陽平さん」
「流石に今ので回復ってこたぁないだろ」
「ですねっ。ちゃんとアっちゃんを呼んで慰めてもらうことにします」
「あーあーいいねーラブラブでー。あの巨乳でぼいんぼいん癒して愛してもらえよ」
「はいっ」
「うわこいつ腹立つ!」
「えっ。オレは『愛して』ってところに同意しただけですよ!? 決しておっぱいのところじゃ!」
「その天然も腹立つ!」

 俺達はいつの間にか笑っていた。二人で絡み合うと、通行人にぶつかってしまった。嫌な顔をされた。もう一回、違う人にぶつかった。また嫌な顔をされた。
 夜とは言えまだ人が通っている道で俺達はバカ騒ぎをしていた。きっと迷惑な酔っぱらいだと思われたかもしれない。でも月彦は笑い合ったせいでさっきより健康的な顔になっていた。一人ぼっちの夜に首を吊る人間の顔ではなくなっていた。
 よしよしと子供扱いして月彦の頭をゲラゲラ笑いながら撫でる。これでいい。なんとか月彦の心は死なずにしんだ。俺も安心して寝られる。
 そう思ってると、通行人の一人が戻ってきた。さっき俺達がバカやってるときにぶつかってしまった人だった。
 ふっと視線を先にやると、もう一人の通行人もこっちに戻ってきている。ヤバイ、ぶつかっても「サーセン」の一言も言わなかったから怒鳴りに来たのか。ていうか二人とも残業終わりのリーマンっぽいのに元気な若者に説教するなんて大した日本人だなぁ……俺がそう思って姿勢を正すと、一人目のリーマンが大きく口を開いた。
 その口から大量の黄色い触手が飛び出してきた。

「え」

 俺は溢れ出る触手に首を絞められた。
 首を容赦なく絞められ、持ち上げられる。足が地面から離れ、ぶらぶら宙を浮く。
 なんだと。なんだこれ。あ、ライターに手が届かない。ライター無しで攻撃をしよう、と思ったけど、喉を押し潰されている時点で魔術はアウトだ。かと言って俺は武術をロクに学ぼうとはしてなかったから、虚空――ウズマキから使用できそうな武器を取り出しても、触手を払える自信は無かった。
 変なところに力を使うべきではないと咄嗟に判断した俺だったが、だんだん酸素が薄くなるに従って、思考が止まって次に何をするべきか考えられなくなった。

「陽平さんっ!? …………アっちゃん!!」

 月彦が俺の名を叫ぶ。そして、カノジョさんの名も叫んだ。
 なんでこんな時にと思っていると、『虚空の中から』、まるで俺達能力者が武器を召喚するかのように、カノジョさんが現れた。
 ――ウェーブがかった長い金の髪。月の下でも輝く碧眼。長身で妖艶なボディ。夜空に舞うドレス。手には銀色の剣。超美女。
 彼女は颯爽と現れ、俺の首を狙う触手を斬り落とした。
 なんで虚空から現れたんだ、この人……って、そっか。この二人って『契約』してたんだっけ……月彦がマスターでカノジョさんがサーヴァントだった……マスターはサーヴァントに絶対命令権を持っていて、サーヴァントはマスターに絶対服従をしなきゃいけないんだった……だから、「来い」の命令に従い、霊的な力で飛んできた。そういうことだろう。
 アっちゃんさんに触手を切ってもらえたおかげで、宙に浮いていた俺は尻もちをつき救出された。いてぇ。

「つっきー。なんで? 今日はワタシ、出ない約束したのに。つっきーが言ったんだよね、ワタシに出ないでって」
「……ゴメン。その約束は無かったことにする」
「それ、命令?」
「うん、命令」
「判った。書き換えるわ。ハイ、書き換えた」
「サンキュ。……ホントはアっちゃんにあんな下品な化け物、見せたくなかったんだ。でも状況が変わった。助けてもらいたい……ゴメン」

 あんな、と言われたのは言うまでもなく黄色い触手の化け物だ。
 人に憑依し、女の子を狙って捕まえてはあちこち体に触手をぶっ刺して生命力を抜き取るということを繰り返していた化け物。あの異端が下品な手段を講じるというのは、『仕事』が始まる前、『赤紙』を読んだ時点で知らされていた情報だ。
 確かにいくら力ある能力者でも女の子が相手にしていい存在じゃない。男だってこうやって憑依されることがあったとしても、どんな人間でも狙うというのを判っていても、守るべき女の子を想うが故に「君はこの仕事に参加しちゃいけない」と命じるのは……お気遣いの紳士として全うな考えだった。

「つっきー、優しいのね。あれぐらい大したコトないわ。見慣れてるもの」
「そんなこと言わなくていい。アレはキモイだろ。俺が女の子だったらあんなの見るの、イヤだ。だからアっちゃんにイヤな想いさせたくなかったんだ」
「優しいのね、つっきー。でももし、つっきーが女の子だったら。うふ」

 ――月彦が女の子だったら、神様だな。
 俺は呼吸を整えながら、二人の会話を聞いていた。するともう一人の通行人(今度はスーツ姿の女性、これまた仕事帰りだったOLか)がやって来て、口からまた触手を吐いた。
 口から触手。目は死んでいる。寧ろ目玉が入っている筈の眼孔からも触手。メッチャヤバイ顔になってる。見ているだけで苦しかった。

「げほっ! ……あのさ、頭の良いアっちゃんさん。客観的に見て、なんであの二人が化け物なのか、あの触手になってるのか、説明つきます?」
「つくわ」
「……せ、説明してくれますか」
「あの二人、さっきつっきー達がぶつかった人よ。だからよ」
「……はいっ?」
「触手のシッポ、つっきー達のポッケに入ってたのよ。気付かなかった? でしょうね。ポッケに手を突っ込んだら華麗に回避判定をして避けてたもの。だからつっきーは気付かなかった。意識してポッケに手、突っ込まないから気付かなかったのよ。仕方ないわ」
「な、なんと……」
「誰かに憑依する機会、伺ってたのね。つっきー達には憑依するには、二人の意志判定に勝利しなきゃだもの。それよりは、力の無い一般人に取り憑いた方がいいわ」
「ア、アハハ……アっちゃん、判りやすい解説アリガト」
「男の方はつっきーのポッケの子。女の方は陽平のポッケの子。ぶつかったときに移動して、耳から入ったの」

 さ、流石アっちゃんさん。何でも知ってる。この人、強いだけじゃなく「教えて」って言ったことをスラスラ話してくれるんだよな……なんでか。
 その後、アっちゃんさんは耳から入って体内で何が起きてから口に出てくるまでの経緯を話してくれた。とてもお茶の間では放送できないような説明だった。思わず話を聞いている途中で口を抑えてしまうほどの内容だ。
 でも月彦は口を抑えることなく、説明の最中に虚空から長剣を召喚し、男性の方に斬りかかっていた。
 雄々しい掛け声と共に、男性に剣を振り下ろす。だが、口から伸びる長い触手がぬるりと剣を滑らせた。ちょっとだけ触手は斬れたけど、枝分かれしたところから攻撃が伸びてくる。
 反撃を繰り出してきた腕に対し、俺は即座にライターを取り出した。
 炎を飛ばす。でも化け物は二体居た。一体目を炎で吹き飛ばしていると、二体目が俺の体目掛けて腕を伸ばした。
 それも、アっちゃんさんが前に出て丁寧の斬り落としてくれる。
 月彦には悪いけど、アっちゃんさんは月彦よりずっと剣術が優れている人だった。月彦が触手の動きを見て反撃するに対し、アっちゃんさんは触手の動きを呼んで攻撃を仕掛けていた。
 しかし、助っ人が入った俺達でも二体の化け物は強敵だった。
 ログハウスでは周到な作戦があった。裏口からの突入、不意打ちの攻撃、万全の状態での突撃だった。それに対して今、不意打ちを俺達が受けて、アっちゃんさんはともかく俺と月彦は疲労困憊状態。
 いくらアっちゃんさんが強い人だからって、二体を相手にするのは辛そうだった。平然そうな顔をしているけど、動きが追い付いていなかった。

「クソッ!」

 触手は俺達を襲ってきた……が、その動きが怪しいものになっていった。
 俺達を殺そうとする動きから、どんどん後ずさりするようなものになっている。
 もしかして怖気づいたか?
 いや違う。こいつら……一定以上俺達を傷付けた後に、逃げようとしてやがる!
 ここは月彦の通う高校が近くにある市街地だ。人里離れた場所とは大違いの、女の子がいっぱい居る市街地だ。
 でも街の死角なんてどこにだってある。女の子を捕らえることが出来れば、そこに連れ込んで、多数の足で『供給』を強制する。
 あいつらが元気になる。
 元気になったらまた違う人を襲う。
 ……やばい。それは、大事件だ。
 もちろん、市街地となったら他の能力者が黙っていない。すぐに俺達以外の連中が駆けつけて、数の暴力であいつらなんかすぐに取っちめることが出来る。でも、駆けつけるまでにあの触手達は幾人、人を食らうだろう? あいつらだって傷付いてるんだ、早急に人を食らう……絶対に殺す……殺される……また殺される……だから、決して逃がしてはいけない!

「燃えろぉっ!」

 俺はジャケットに隠し持っていた、五つの百円ライター(総額525円)を逃げ出そうとしている触手一体である女に、全て投げつけた。投げつけた後に、銃で撃つようなポーズを取る。
 可能な限り素早く、ハッキリとした発音で魔術の詠唱。途端炎が俺の体から生じ、投げつけられた五つに直撃、炎が倍加する。
 爆発。
 炎上。
 その中を物ともせず、月彦が突貫。よれよれになった女の心臓に剣を突き刺す。
 叫び声を上げ、触手は……女は、動かなくなった。
 ――くそ、あの人、一般人だったんだよな……。ほんの数分前まで一般人だったんだよな……。くそ、くそ、俺にぶつかったばっかりに、変な物に体内を食われて。くそくそくそ、よく判んないまま殺されて、動かされて、その挙句焼死体にされたのか。焼死体にしちゃったのか、俺は!?

「仕方ないことよ」

 炎の中の月彦に近付き、彼の手を引く女性。美しい声で、フォローを入れてくれる。

「あのままだと他の人が死んだ。彼女が犠牲になってくれたことで世界は無事進むと思って」

 月彦にそう語り掛けるカノジョ……は、ちゃんと俺にも言ったかのように、視線を寄越してくれた。
 仕方ないことだから気に病まないで。蒼い目はそう言っている。

「な、陽平さん……もう一体っ……!」

 月彦が息切れをしながら言う。それは俺も思っていたところだ。一体がやられ、もう一体はじりじりと距離を取っていた。だが黒い煙を武器に、奴は逃げようとしていた。
 ――あー、くそ。なんで俺はさっきライターを五個全部投げちまったかなぁ。一個ぐらい残しておいても成功しただろうに! さっき首絞められたから頭が回らなくなったからかぁ!? いや、単に頭が回らんかったのは俺だからかぁ!? くそぉ、これだから秀才でも天才でもない奴は役立たねぇなぁ、俺はぁ!?
 悔しいが、手段は無かった。俺はとりあえずもう一体に向かって走り出した。

「陽平さんっ!?」

 月彦が叫ぶ。俺を後押しするかのように。
 だが、切り札なんて何一つも無い。俺は無駄に走っていた。
 いや、無駄じゃないか。長距離からの発射より、至近距離での火炎の方が威力が高い。この場合、俺も俺の炎に巻き込まれて死ぬ可能性が高いけど、まあこの際、俺の命なんて気にしてる場合じゃない。
 瑞貴のように秀才でもない俺はちょっと考えればクールな手段が思いつくでもないし、慧のように天才でもない俺は超必殺技を潜めている訳でもない。
 持っている力を、出せるだけ出す。そんな子供でも出来そうなことをするしかなかった。カッコ悪いのはもうこの際、諦めよう。
 俺は全身から炎を出す勢いで走った。
 ――死んでも守んなきゃいけないんだ。そう、絶対に殺さない。俺の命に換えてでも。

「いいかげん出て」

 俺は精一杯走った。でも触手の核にされた男はもっと早く走り、俺の手が届かなかった。そんな中、アっちゃんさんはいつもの淡々とした口調で呟く。
 すると数メートル先、俺達が走っている先に、影が現れた。人間の影だ。
 やばい。人だ。通行人だ。このままだと化け物とぶつかる。いや、化け物はぶつかってそのままあの人を取り込むんじゃないか?
 俺に背を向けた化け物がどんな顔をしているのか見えなかった。でも俺の頭の中では、禍々しく口を開け、大量の触手で人間に襲いかかろうとしている妄想が駆け巡る。
 やめろ。

「殺すならぁ俺にしろおおぉ!!!」

 叫んだ。絶叫した。
 だが男の足には勝てなかった。武術をロクに学ばなかった、インドア派だったのが悔やまれる。武術も魔術もどっちも使えるなんて当主の光緑様ぐらい凄い人じゃないと無理だって知ってるけど。流石の瑞貴や陽平もどっちもイケるこたぁないけど。そんな神の領域まで鍛えまくった人なんて数えるしかいないけど……。
 ああ、化け物と人影が、接触した。
 男が人影にタッチする。
 タッチするかのように、男が伸ばした手を、その人はハイタッチしていた。
 ハイタッチ? うん、ハイタッチ。通行人は掌を向けて、男にポンと押し出してきた。
 瞬間、バチンと世界に光が走った。

「ががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががが」

 妙な音。
 音なのか、声なのか、よく判らない。
 男は電流が走ったかのように身を震わせた。
 『狂っていく』。
 狂ったような声を上げる。ばちばちんと触手が躍る。……狂ったように、踊って、終わる。
 煙を上げ、そしてバタンと倒れた。
 ……俺はというと急に男がそんな羽目になったから、急に止まれなくって仕方なく右にジャンプした。頭から道路に落ちる。腕がじんじんする。アスファルトに皮膚を持っていかれた。
 遅れて全速力で走った足の痛みがやって来る。痛い。ヤバイぐらい痛かった。

「生きてますか。陽平様」

 いきなり通行人が俺の名前を呼ぶ。
 綺麗な声に俺は腕を擦りながら空を見ると……金髪碧眼の超美男子が立っていた。

「……るっ、ルージィル、さんっ……?」

 薄い笑みを浮かべながら、汚れ一つ無い綺麗な格好のルージィルさんが俺を見下だしていた。ゾクゾクする。
 いや、間違い。ルージィルさんが俺を見下ろしていた。くだしてないって、おろしてるんだって。俺の願望が半分入っちまった。

「生きてますか。陽平様。ふむ、お耳は死んでいるようですね」
「い、いえ! いえいえ! 五体満足で御座います!」
「それは良かった。貴方が死んでしまうかと思いました。殺されるとも思いましたし、自分から死んでしまうなんて、いけません。いくら他人を救うためとはいえ、そんなの――お馬鹿さんのすることですよ」

 ああん。馬鹿って言われたん。
 いやいや、俺に心配して声を掛けてくれているのにそんな感想は無いだろ。もっと有難く思え、俺の中の俺!

「誰かを救うことが幸せという特異な人間もいますが、幸せというのは自分が救われてこその幸せです。貴方が何処かの誰かを救おうとしたのはとても美しいですが、貴方に死なれては困ります」
「は、はは、そんなそんな、えへへ、俺が死んでも困る奴なんていませんよ、へへへ」
「いいえ、困りますよ。死んではいけません」

 ――だって、私が心配しますから……。
 ……そう、接続してくれることを切に願った。
 もちろんそんなの俺の願望。ルージィルさんに限ってそんなことは言わない。彼は、『自分の命は大事にしろ』という一般論を言ったに過ぎなかった。
 それでも俺は嬉しかった。微笑みに精一杯答える。

「ありがとです! ルージィルさんっ! 今の言葉でマジで生き返りましたぁ!!」
「どういたしまして」
「…………遅いわ。るー子。いつもより遅い」

 俺が感謝感激している中、淡々とした女声が会話を中断させた。
 月彦を支えて立つ凛々しいアっちゃんさんが、ふわふわとした顔で……いつも通りの淡々とした声で……『それにしては厳しいような雰囲気を纏って』ルージィルさんに声を掛けていた。
 あ、そういや二人はご家族だっけ。どっちかが妹でどっちかが弟……ってどっちだ? 美男美女は年齢が判んないな。

「遅いわ」
「すみません」
「いつもより遅い」
「申し訳御座いません」
「二分遅い」
「ですが陽平様は生き残りました。それで良いではないですか」
「二分早く動いていたなら確実に救えた」
「ですが、結果的には陽平様も月彦様も無事生き残りました」
「でしょう?」
「威張らないの。どうせアイツこと、思い出してたんでしょ。陽平の思想は赤毛に似てるから。自分が死んでもいいって考える人が変化をしていくのか、どうすれば変化するのか、実験してみたかったんでしょう。でも、やるならつっきーの迷惑にならないとこでやって」

 アっちゃんさんの声が、ちょっとだけ鋭く思える。

「全員生き残って31日を迎えなきゃ、ダメなんだから」

 口調からしてカノジョの方がルージィルさんよりお姉さんなのか。いや、元からこういう喋り方だからこう見えて実はルージィルさんより年下の可能性も……。

「なに怒ってるの。るー子。変よ。どうしたの。答えなさい」

 って、どう見ても怒ってるのはアっちゃんさんで、ルージィルさんは微笑んでいるんだから怒られているように見えるのに、なんでルージィルさんが怒ってるようになってるんだ? 逆だろ?

「ここでは黙秘します」

 彼は微笑み返す。
 あ、すっげえ綺麗な横顔。睫毛長い。もうキョウダイゲンカとかどうでも良いぐらい見惚れてしまった。

 ――ルージィルさんの能力は、『触れた者を昏倒させる』というものだ。
 だから男を「ポンッ」と軽く押しただけで、男は……中に居た異端はショートしたらしい。ショートっていうか……あの「ポンッ」というハイタッチで、異端は焼き死んだようだった。
 ……耳から男性に入り込んだ異端は、男性の体内を既に全部食していた。触手は全部ルージィルさんの「ポンッ」で焼かれたが、つまり男性の器の中には何も残っていないようなもの。
 男性は俺達の馬鹿騒ぎに巻き込まれて死んでしまった。殺してしまったのは、俺達だった。殺した原因が俺達ならちゃんと罪を償わなければ……。
 そう落ち込んでいると、やっぱりアっちゃんさんは俺達を慰めてくれた。

「悪いのは異端。人を食らう存在。でしょ?」

 同じようなことを、数時間後に『本部』も言ってくれた。大山様に「多少は謹慎を覚悟しておくんだ」とは言われた。当然受け入れるつもりだった。
 その後、事件の処理班によって、「通行人二人は昨日からの雷雨による不幸な感電死」という改竄がされた。世には「触手によって喰われた事件」など報道されない。すぐに報道規制が入るのは……『教会』と提携している我が家の良い仕事と言える。
 ……後で月彦と、「自分達の報酬を間接的なやり方で遺族に渡そう」と相談した。突然宝くじが当たったとかラッキーなことが起きるようにしよう、その辺の記憶操作をしてもらえるよう『本部』に話そう……そう話し合って決めた。
 こんなことで遺族に許してもらえるとは思わなかった。事件に巻き込まれて死んだのも、事故で死んでしまったのも、みんな同じ死。死んでしまったのには変わりない。俺達がどうこうしてその傷を癒せる訳が無い。
 でも、出来る事をしよう。俺達は何度も相談した。

「大丈夫よ」

 相談の間、アっちゃんさんはずっと月彦の隣に居た。何度も何度も、俺達を励ます言葉を口にしてくれる。

「最初に殺された女の子達も、巻き込まれた二人も、ワタシ達が面倒見る。ちゃんと幸せにしてあげる」

 成仏できずにこの世に留まる悲しい魂になるより、我らの手で救済してあげるのが少しでも罪滅ぼしになる。そうカノジョは言う。

「今後はアナタ達のような人を生まない。もっと強くなる。我々は強くなる。もっと強い存在を生む。神の如き力を生み出し、悲しみを創らない。そう約束しましょう」

 アっちゃんさんは、被害者に対し涙と謝罪を流し続ける月彦を包み込むように抱きしめながら、幾度もその言葉を繋げた。
 ……良い言葉だなと思った。
 月彦がアっちゃんさんに励まされているように、俺も好きな人に激励の言葉を貰った。
 誰かを救うことが幸せという特異な人間もいるけど、幸せというのは自分が救われてこそ。
 それを忘れないようにしよう。それだけで、もっと俺は強くなれる筈だ。
 強くなって悲しみを創らない。約束しよう。



 ――2005年10月7日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /7

 今年になってから燈雅様の体調が優れない。
 去年までは、しなくてもいいと言われていた落ち葉の掃き掃除だって自分からしたがるほど陽気だった。だがこのところは自室から出ることも少なくなった。
 元々、丈夫とは言えない御身。近頃は一日中、私室で体を休めている。まるで御父上の光緑様と同じように、月日の大半を寝床で過ごすようになっていた。

 朝の支度を手伝いに行くのは、使用人である梓丸か俺のどちらかだ。本日は俺が当番だったので、普段通りに彼の部屋を訪れる。いつもなら俺が来るより早くに起きている筈なのだが、燈雅様は布団の上で息苦しそうに眠っていた。
 声を掛けなければずっと目覚めないほどだ。寝坊する彼の額に手を当ててみる。少し熱くなっていた。
 体調はいかがですかと声を掛けると、掠れた返事が返ってくる。ついにはゲホゲホと咳を吐く。体調不良であることは容易に見て取れる。
 それでも彼は自分から起き上がろうとしたが、布団から食み出たところでまた体を横たえてしまう。本格的に調子が悪い。小さな声からでも不調は感じ取れたから、食み出た彼の体を床へ戻した。

「燈雅様。お風邪を引いたようですね」
「……二日酔いじゃないかな」
「二日酔い?」
「確かに熱っぽいし咳もさっきから出るけど、目が重くって食欲が無くて、頭がグルグルグルグルして……」
「二日酔いの末、風邪ですか」
「それだ。二日酔いに風邪っぴきの症状が出てる」

 大抵の人間は『二日酔いになった』と聞けば、『相手はだらしない奴だ』と思うかもしれない。自分に制限が出来ないぐらい飲みすぎた不甲斐無い男だと思うだろう。
 だが、燈雅様は進んで酒を飲まない。何故なら本来なら彼は一滴も飲めない体だ。なのに、『付き合い』のために仕方なく飲まなくてはならないときがあった。
 実の祖父らとの会合。同業者の協会での寄り合い。客からの感謝の集い。帝王学には酒の飲み方も教わるらしいが、彼は既にそれを実践中である。「飲めない」と言えば大抵の人間なら引き下がってくれるが、どうやら昨日のお相手は質の悪い老人だったそうだ。偉い連中に囲まれて酒ではなく隠れて涙を飲んでいる姿が、容易に想像できた。

 ――この様子を、朝の会合を開いている一室へ伝えに行く。
 本日の『仕事』や研究に励むと意気込む寺の朝の会合へ、報告をする。寺に居る者達なら当然出席するもので、燈雅様もその一人なのだが体調不良で欠席は仕方ない。朝礼の場で大勢を前にしての俺の報告を聞いて、真っ先に動き始めたはやはり梓丸だった。

「父さんにお薬を用意するよう頼んでくるねー」
「頼む。銀之助様に燈雅様の朝食を特別に用意してもらおう。粥か、果物を」
「そこら辺のチョイスはプロに任せればいいよー。それを考えるのが父さんの仕事だしねー。男衾ちゃんは男衾ちゃんのやれることをやってー」

 医者であり料理長であり父親である銀之助様の元へ、するすると歩いて行く梓丸。
 安心して見送った後に朝礼は始まる。その日の会合は、次期当主無しで行われた。
 何事もなく進む一日の始まり。いつもの行事が終わり、何人もの人間が己の為すべきもののために移動し始める。
 だがそのとき、苛立ちの声を聞いてしまった。

 ――次期当主は、なっとらん……。

 ほんの一瞬の暴言だった。
 居るべき人間が居ない。また居ない、今日も居ない。おそらくそれ以上の暴言もあったが、俺の聞こえる範囲ではそのような些細な一言だけだ。
 きっと俺が去っていけば更なる暴言が吐き出されることになる。朝礼が終わったときに「早く出ていけ」という僧侶や女中達の心無い視線を感じるほどだった。苛立ちを口にしたくてたまらないというかのようだった。
 使用人である俺が彼らの卑しい戯言を聞けば、「次期当主に対して何たる侮辱」と斬られるかもしれない。そう思っていながら、そして判っているから、彼らは俺の前では言わず、俺の居ない所で囁き合っているようだ。
 燈雅様の様態を心配する人間は、この大広間に何人いるのか。
 何人ならいるのか。
 そんなこと、考えたくはなかった。

 『今日の燈雅様は体調が優れていない』ということだけ、彼らには話している。
 二日酔いなんて知れたら、彼らは更に暴言を強めるかもしれない。だから敢えて真実の半分を公言しなかった。
 ……しかし、銀之助様に伝達しに行った梓丸には本当のことを告げた方が良かったかもしれない。全員を撒いた後にそう気付いてしまった。うん、失態だ。

 ――何の躊躇いもなく燈雅様の部屋を訪ねることができるのは、限られた人間だけである。
 掃除などの家事を行うのは女中らの仕事だが、彼女らは燈雅様の寝室へ訪れない。当主陣の世話は専用の下男がいるからその者達に任せていた。
 だから、次期当主の部屋には数人の親戚達しか訪れない。おそらくここ一週間で彼の部屋に入ったのは、俺と梓丸の二人だけだ。それほど、人は離れの屋敷へ訪れようとしなかった。

 朝礼が終了すると、俺は燈雅様の部屋まで土鍋を運ぶ任に就いた。
 盆の上には粥が煮えたつ土鍋の他に、銀之助様に調合してもらった粉包みがある。体調の崩しやすい燈雅様の為に事前に用意していた薬と、今日の様子にあった薬だ。食べやすい粥を持って、普段より遅い朝食を用意しにいく。
 朝の会合が行われるのは境内の中心部である本家屋敷。当主が眠り、魂が眠る本殿とは違う、人々が寄り合う場所だ。
 そして何棟もある本家屋敷から距離を置いた小さな茶屋のような館が、燈雅様の私室とも言える離れの屋敷。一本の細い廊下で繋がっているが大勢の行き交う家屋から隔離されたこの空間は、静かに休みながら魔術の鍛錬が出来るということで、十年ほど前から燈雅様の居場所となっていた。
 宝が眠る本殿とは違う結界で守られた魔術だらけの邸宅は、魔法に疎い俺にはよく判らないが、精密な造りで彼の場所に相応しいと言われている。
 だからこそ、燈雅様の周囲の人間以外は立ち入らないようにされていた。休息の場所を汚されては困るからだ。

 その燈雅様が眠る私室の近く、すぐ横の廊下までやって来たとき。
 『小さな何か』が動く音がする。
 真っ先にそちらを振り向いた。
 目を凝らす。そこには、縁の下から飛び乗ってきた狸がいた。

 ……振り向いた瞬間、狸と目が逢う。そして黙り込む。

 いつもなら目が逢った途端にどこかへ消えてしまう警戒心が強い動物が、じっとこちらを見つめてくる。
 俺が土鍋を乗せた盆を持っているを見て、『そんな重い物を持った状態では襲われない』と覚ったのだろう。……なかなか計算高い、空気の読める狸だ。
 狸はずっと俺を見つめ続けた後、部屋の障子を……肉球の付いた手で器用に開けた。
 出っ張りに爪を軽く立てて引っ張っただけで開く薄い障壁だ。力の無い者だって開けられる。けど、自分が入るだけのスペースを開ければいいのに、その狸は成人男性一人分まで頑張って戸を引いてくれた。
 まるで、土鍋を持っているこの身を気遣っているかのように。

「……たぬき、さん……」

 感動のあまり狸に飛びつきたくなったが、貴重な薬を持った盆を無碍に扱うことはできない。グッと喉の奥を呑んで、狸の後に続いた。
 一声掛けて部屋に入ると、狸は燈雅様の枕元に居る。
 燈雅様が体を起こし手招きすると、申し訳なさそうに狸が布団に入っていく。彼と掛け布団との間、膝の上にぴょんと飛び乗ると、燈雅様の手を一身に受け始めた。
 仮にも野生の狸だ。第一に汚さを心配した。だが比較的あの獣は綺麗な毛並みをしている。野生動物の中では随一の綺麗好きで、我が家の阿呆犬とは大違いで泥にまみれて遊んだりもしない。だから今も畳には一切汚れが無く、燈雅様が布団に招いても心配はいらないようだった。

「たぬきさん、お見舞いに来てくれたんだな?」

 燈雅様が狸の頭を撫でると、か細い声で鳴く。
 「そのとおりです」と答えたかのように、燈雅様の掌にすりすりと摺り寄せて応対していた。

「お前が初めてのお客さんだよ。男衾と梓丸は俺を看病してくれる人だからね。見舞い客は多分たぬきさんが最初で最後かな」

 掠れた声の燈雅様は、自分に好意を向けてくる小動物を抱いて微笑んだ。

 ――燈雅様の言う通りだ。その言葉は、間違いなく事実だった。
 彼は外に交友関係を持っていない。仕事上の付き合いや会合にやって来るどこかの誰かなら多数いるが、そんなのは数に入らない。
 生まれたときから仏田寺に居て、遠くで束縛されることがあっても自由に外に出る機会など来やしない。燈雅様の特権を使えば許されるかもしれないが、本人も強くそれを望まなかった。だから彼は皆に守られ、結界の中で静かに体を休めている。それだけ大事な大事な次期当主様だからだ。
 それに、もし友人がいるとしてもただの風邪で山奥の寺まで訪れる変わり者はいない。それもあってこんな可愛らしい見舞い客は大歓迎だ。
 ふわふわした毛並みを優しく撫でながら燈雅様は、入ってきた俺へにも微笑んでくれた。

「男衾、苦労かけるね」
「いいえ。今、飯台を用意します」

 部屋の隅に折り畳められた食膳を、布団の上に建てる。
 俺もふかふか毛並みの狸を撫でくりまわしたいという欲求に駆られるが、今は遅い朝食が先だ。心の中での核戦争を鎮圧しながら、事を進める。
 そんな自分を信じているかのように狸は燈雅様の近くを離れず、作業をする俺の姿をじっと見つめていた。……愛を試されているのかもしれなかった。

「今日は燈雅様のお食事を俺が食べさせます」
「えっ、どういうこと?」
「動くのも物憂いでしょう。ですので俺が『召し上がれ、ハイあーん☆』をします。このレンゲは箸よりずっと重いですから。……燈雅様は安心してたぬきさんを撫で殺していて下さい」

 俺が「たぬきさん」や「撫で殺せ」とと言った途端、狸は自分が狙われているのだと察したのかビクッと跳ねた。だがおそるおそる俺から後退するだけで、燈雅様の元は離れはしない。
 土鍋の蓋を開けると、銀之助様特製の粥の湯気が噴き出る。これでもこの部屋まで来るまでに数分も経ったのだが、以前もくもくと食欲をそそる湯気と香りが空を向いた。
 少しだけレンゲで掬い、息を吹きかけ、燈雅様の口元へ運んでいく。気恥ずかしそうに彼は唇を開いた。
 たとえ流動食でも、二日酔いの症状も出ている彼には辛い食事。けれど薬を飲むためには、少しでも腹を膨らめておかなければならない。俺は『ハイあーん』を繰り返す。

「たぬきさんにも分けてあげようか?」
「彼には俺からちゃんと食べてもらいます。このお粥は銀之助様が燈雅様の分としてお作りになったのですから、きっちり召し上がってください」
「食欲が無いんだけどなぁ……」

 笑いながらレンゲの応対している燈雅様は、再び膝の上に狸を抱き上げた。
 冬が近いせいか、狸の毛並みはとてもふっくらしている。身を起こした膝の上も暖かくなってくれる。安心して撫で続けさせ、横から口の中にレンゲを押し込んでいった。

「そういえば。俺が寝坊して、みんなは怒ってた?」
「……いいえ。皆、心配しておりました。下女達も、俺達も」
「そうか。でも、『気が緩んでる』って怒る人もいただろ。和光お祖父様とか。情けないとか言われたんじゃないか」
「……近頃、和光様らは朝の会合に顔を出されません。この話も伝わってはいないでしょう」

 俺が真実を隠しても、燈雅様は「ああ、困ったな」と心苦しそうに、でも少し戯けるように溜息を吐いた。
 自分が目の前にいるからそんな言い方をする。冗談ぽい溜息は、弱音を吐いても相槌を打つ俺がいるからしていることだ。もっと嘆きたいなら嘆けばいいと、俺は反動のある言葉を綴っていく。
 けれど燈雅様は気にしない。狸を撫でながら、狸に対して「お前は慰めてくれるか?」とふざけて口にした。
 すると狸は暫し燈雅様の顔を見た後、パッと膝から飛び降りた。脱狸の如く部屋を出て行く。
 ……少し燈雅様の表情が曇る。
 すかさず彼の口にレンゲを押し込んだ。半ば無理矢理な形で。

「只今、お水を用意して参ります。お薬はご自分で飲まれますね」
「うん。ご自分で飲めませんって言ったらどうしてくれるの?」
「俺が飲ませます」
「どうやって?」
「…………。あらゆる手段を尽くして」

 うまく場の切り替えができず、ずるずると引き摺る様に一言置き、水を汲みに行った。
 薬缶は既に廊下の端で用意してある。あとは新鮮な水を取りに行くだけだ。

 ……本当なら、「口移しで」と自然に言いたかった。などと、不穏なことを考えながら歩く。
 言ったとしても燈雅様なら笑って了解するだろう。あるいは必死に抵抗するか? 「お前が冗談を言うなんて、そこまで俺は元気が無いように見えるのか?」などと言い出すかもしれない。
 燈雅様にとって俺は、使用人でもあるが年の離れた玩具でもある。おちょくられることは多かった。

 たとえ長い付き合いだとしても、彼と俺は五つも年が離れている。弟の新座様より二つも年下の俺は、いかに燈雅様を戒めようとしてもあちらから甘やかしてくることがある。
 同時に、堅物に諭してもおちゃらけて話を有耶無耶にされることもあるぐらいだ。そんな放言好きな性格も、彼らしいと言えるのだが。俺としては困りものと頭を抱えることもあった。
 年が五つも離れているから、彼は俺を近くにいない弟のように可愛がっている。だけど逆に俺は、彼の事を兄というより弟のように見ていた。
 燈雅様は……健気で、危うくて、可愛らしいから。
 そのような無礼を働く気は毛頭無い。使用人らしく慎み自制し彼の隣に居るが、本心では彼へ失礼な事ばかり考えていた。
 水を汲みながら、気を引き締めるよう濡れた手で己の頬を叩く。

 自分の中に最も強くある心は、次期当主を守るという想い。
 敵がいれば彼の剣となって外敵を斬り裂こう。だが最近の燈雅様は、自分の手では守れないものになってきていた。
 俺は医者じゃないから倒れる彼を守ることはできない。
 何も出来ないのなら、せめて彼の心の靄を晴らす一線の波紋になれれば良い。だとしたら今のような気の利かない冗談ではなく、もっと洒落た言い回しがしたいもので……。

 悶々と考え込みながら薬缶を持って燈雅様の部屋へ続く廊下に戻ると、またガタッと小さな何かが動く音がした。
 真っ先にそちらを振り向き、目を凝らす。
 そこには、縁の下から飛び乗って来た狸がいた。

 ……数十分前に同じことをした。そしてまた黙り込む。
 狸は再度警戒するように俺を見つめて、襲いかかってこないと覚ると襖の先へ消えていった。静かに後を追う。

 部屋には狸と、病体の燈雅様。
 けれど先程と違うのは、ふかふかの生き物が一匹ではないことだった。
 か細い声で燈雅様の枕元にいるのは、狸。そして燈雅様の膝の上に乗っているのは、子狸。
 おそらく、先程までいた狸の子どもだ。きーきーと更に小さな声を張って、燈雅様に撫でられている。
 子どもの狸はどんな相手でもあまり撫でさせてくれないと思ったが、今日は大サービスらしい。

「二人目の見舞い客を連れてきてくれたんだな。ありがとう」

 さっきの親狸が、撫でられている子狸の隣に鎮座する。
 今は子狸が燈雅に撫でられ続けているが、そのうちまた親狸と交代する。そうやって、彼に飽きがこないように工夫してるのだ。狸なりに。
 その光景に見とれながらも食べ終わった食器を片付け、薬を飲ませる準備をする。
 紙包みを解き、茶飲みに水を入れ、彼に渡す。渡す瞬間、思いついた悪さが頭を一つ二つ過ぎったが、狸相手に嬉しそうにしている顔を崩してはならない。大人しく茶飲みを差し出した。

「うっ。なかなか苦い薬だな。男衾は甘党だからこんなの飲めないだろ。今後風邪引いたとしても避けた方がいい」
「自分が風邪を引いたときは、シンリンに必ず苺味かチョコレート味を用意してもらいます」
「出来れば俺のときもそうしてくれ」

 苦笑いしながら、燈雅様は無事薬を飲み干した。二匹の客に見守られながらだなんて、誰でも無い経験だ。
 暫く燈雅様と話をしていると、薬の効果が効き出してきたのかうつらうつらとし始める。起きていた体を横にさせて、目を瞑らせた。
 絞った濡れタオルを目元まで覆う。普通の風邪なら額だけ冷ますが、二日酔いなら瞼を冷やすのも効果的な筈。視界を覆われたことで、彼はすぐに眠りの世界へ旅立った。
 その間もずっと二匹の狸は燈雅様が旅立つまで、ずっと静まって待機していた。飼い犬でもないのに大した動物だ。
 いや、たとえ犬や猫でなくても動物であっても、燈雅様にとっては一番の客に違いなかった。

 完全に燈雅様が寝静まったのを見て、狸は退散し始めた。
 部屋を出る前に、子狸が俺の膝元に近付いてきて小さく鼻を擦り寄らせた。「お勤め、ご苦労様です」と言うかのように。
 出来れば寝ている間も燈雅様の元に居てほしかったが、そこまではお願いできない。鼻を寄せてくれた狸に深々と礼をし、山奥の森へ向かう彼らの帰りを見送った。

 燈雅様に客が訪れることはない。
 昨晩のように形式上の挨拶だけをし、親愛の証だなんて酒を酌みあう者はいても、彼を次の日倒れさせるなんてどこが親愛か。
 彼が愛する兄弟に彼が倒れたと伝えても、決して飛びかかってくることはない。彼の家族は遠くにいて、お互いの生活がある。彼の好きな人が相手だとしても、きっと無理な話。
 だからせめて、毎日訪れる俺だけは。
 心ある動物だけは、彼を心から愛してあげなければ。
 でなければ、悲しいことになる。傲慢にも、そう思った。



 ――2005年10月7日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /8

「もうっ、何度も『野生動物は中に入れるな』って言ったでしょー? また忘れちゃったの、男衾ちゃんー」
「…………」

 燈雅様が眠る部屋から離れた廊下で、俺は梓丸の説教に付き合うことになった。

「可愛くったってアイツらはバイ菌を持ってるんだよー。風邪を引いている人の部屋に入れたら、只でさえ体が弱っているところに悪いモノを貰ったらどうすんのー」
「……すまなかった」
「それ何回も聞いたよー、また改善してくれなかったねー? そんなことずっと続けていたら当主付きから外されるよー。寧ろ、アタシが外すように仕向けるよー」
「それは、辛いからやめてほしいんだが」
「だったらー! 燈雅様のことをもっとちゃんと考えてから動いてよー、大変なことになる可能性をきちんと頭使って考えてよー!」

 梓丸の声は、周囲が振り返るほど大きなものになっていく。
 すると梓丸の後ろから、にょきっと更に大きな影が生えた。シンリンが、苦笑いをしながらも突撃してきたからだ。

「ハイハイ、ストップストップ。梓ー、さっきから男衾も耳垂らして反省してるだろ? いつまでシッポ膨らませてるんだよっ」
「……むぅー」
「カワイイお顔が台無しだぜ? 台無しにしてまで叱りたい気持ちはよーくよく男衾自身が判ってるさ、いつもの梓にお戻り」
「…………。男衾ちゃん、出来ないなら今の立場を改めるべきだー。それは燈雅様の為になるしー、向いていない男衾ちゃんの為にもなるしー。アタシの精神にも良いしー。間違ったことは言ってない筈だよー?」
「ああ、言ってないって。安心しろ、梓。お前は正論だ。お前が燈雅様の健康を第一に考えるのは周知のこと。でも……他の健康も考えてやるのも、お付きの仕事だぜ」
「他の健康って何ー」
「心の健康」
「バカ言ってないでリンちゃんも怒ってよー! 説教するアタシが邪魔だと言うなら居なくなるから、リンちゃんから注意してねー」

 最後に、梓丸は俺の頭をコツンと軽いゲンコツを落とし、自分の仕事へ戻っていった。
 次期当主を心配して様子を聞きに来て、あった通りのことを話したら、烈火の如く怒り狂って……そして颯爽と去っていく。
 そして梓丸に念押しされたシンリンの忠告は、「気を付けるように」という一言で終わった。

「…………。その、梓丸は」
「あん?」
「……梓丸は、燈雅様の『心の健康』を心配してはくれないのか。あそこまで真剣に燈雅様の身を案じるのに」
「しないな。目に見えないモンは理解しない連中って多いんだぜ。目に見えて怪我を負っていりゃ気を遣うけど、中で傷むだけのモンは気付きさえもしないだろ。自分で感知できなきゃ自分の範囲に含められないからな。他人事なんて、勘づける方がおかしいんだ」
「そんなこと言って、お前は医者だろう? 他人の不調を真っ先に読み取る連中じゃないか」
「不調だと自ら訴える患者さんが病院に来てくれなきゃ、医者は何にもできやしねーよ。気の抜けた甘ったれかもしれない奴まで見張ってられるもんか。医者っていう例外だって、知覚できなきゃ只の人以下よ」
「……魔術師として目に見えないものを使役しているくせに、何事か」
「何事かと言われてもなぁ。男衾、人を気付かる目を持っているならお前、もうちょっと頭が良くなって看護師か保父になれよ。きっと求められる。あとは、燈雅様の専属召使な」
「……もうそれは、なってる」
「そっか、天職だ。じゃあ、そのままでいろよ」



 ――2005年10月7日

 【     /      /     /      / Fifth 】




 /9

 普段、寺に居る一族は修行や研究で一日を過ごす。今も俺は敷地内にある道場で、師を相手に剣を振るい、力を磨いていた。

 本業である『仕事』の退魔業は、多い人間でも一ヶ月で三つあるかどうかだ。世には怨霊や在らぬモノで溢れているが、毎日倒してまわるほどではない。それほど退魔は求められていない。それに代償も大きすぎるから何度も出来るものではない。
 異端との戦いは、一歩間違えば命を落とす。命の危険がなくても、心を壊す可能性もある。俺の知り合いでも今朝まで元気だった人間が、もう言葉を通わすことさえ許されなくなってしまったケースが何度もあった。
 『仕事』の失敗は、死を意味する。退魔を生業にし、怨霊の魂を狩るこそ我が一族の本能とされてはいるものの、そのような恐ろしい所業を連日する訳にはいかなかった。
 怪我一つ作らず帰ってくることなど、たとえ絶対の能力を持つ当主ですら無理な話。多くの悲劇を救うために、自分達が悲劇になってはならない。それでも失敗が続かないのは、我が家は神に愛されていると言える。そう愛され続けるためにも、己の力を磨かなければならなかった。
 毎日惜しまず鍛錬に費やす。修行に励む。身を削ることを辞さない。今日も一日の数人が、在らぬモノと戦う訓練に身を投じる。いずれ『本部』から言い渡される『仕事』のために。明日訪れるかもしれない死闘のために、自らの腕を躾ていく。
 剣を持つ者も魔術に身を焦がすものも変わらず、仏田寺でで己を鍛える者達全てに言えることである。

「男衾、意識を持て」
「……ッ!」

 だが師であり、多くの武道家を教育する一本松様から厳しい声が下った。
 剣を握り舞い終えた後に気付いた。……自分の意識が、どこかにいっていたことに。

「……。申し訳御座いません」
「出て行け」
「…………はい」

 特別、俺へ何かコメントを残すことなく一本松様に告げられた。何も言い返せず、その声に則る。
 彼は何も言わなかった。それは言うまでもないということ。自分で考えろということだ。数秒の無言の中には何かを伝えようとする意図が感じ取れてはいた。俺は周囲の者達に一礼して、道場を後にした。
 秋空の下、人の居ない縁側に腰を下ろし、思考する。
 悩みのあるうちに刃を持てば危険だということぐらい判っているつもりだったが、無意識のうちに剣以外のことを考えていた。
 木刀ではなく真剣を使って手合わせをしていた一本松様なら、考えに耽っていた俺の首を刃で抉ることなど他愛ない。いくら訓練とはいえ師と刃を交わしていたのに。訓練だからこそ殺されずに済んだが、本来の一本松様だったら、本物の異端との戦いだったら……。
 自分を戒める時間を設けてもらったことを感謝しよう。出た結論が見当違いでも、己を見つめ直す時間は有意義な筈。
 無言の一本松様の言葉に従い、思考を進めることにした。

「あれぇ〜? サボっている人がいるぅ〜」

 だが途中で声がしたので、頭を上げる。
 ……そういえば、今日はとても天気が良かった。青空が燦々と花を咲かせている。
 気分を爽快にさせるような透き通る空の色。風邪を引いて空を見上げることができない次期当主を同情してしまうほど、彼に見せてあげたいぐらい良い空模様だった。
 いくら言葉を修飾しても足りない秋の晴れ姿。思わず空ばかり見てしまうが、顔を上げたのは男に声を掛けられたからだ。
 改めて、逆光の姿を見る。
 赤に近い茶色の髪に、現代風な服装。残夏を思わせる涼しい色の軽装……腕まくりをしたシャツに薄色のジーンズという、おかしな姿がこちらをニヤニヤと眺めていた。

「サボリなどするものか。今の俺は休憩中だ……梓丸の弟」
「へへぇ〜?」

 おかしな姿と言っても、西暦も二千年も過ぎた現代ではごく普通の服装だと言われている。けどこの世界では、異端者そのものだった。
 この山の中で軽快な格好をする者は少ない。見上げている自分の格好だって剣道用の袴だ。日本以外で生まれたシンリンでさえ、さっきの姿は着流しだった。父親の航先生が仏田の研究者で長年日本に馴染んでいるとはいえ、外の生まれである彼もこの世界に同化していた。
 子供であれど皆、動きやすい甚平姿だというのに……今、目の前にとても現代的な格好が突っ立っている。
 そんな風変りな若者の名は、福広。名前を知ってはいたが、それほど親しい訳でもなかったので容易に呼ぶことのできずに回りくどい愛称で呼ぶ。

「ありゃぁ、その様子だと叱られてショボーンってやつですぅ? それともサボリとか認めたくないタイプですかぁ? いかにも自分は悩んでるっていうポーズもしてましたしぃ」
「…………」
「俺と話して何か気分転換になればいいんじゃないんですかぁ? 俺もお昼のお掃除が終わって暇人ですしぃ。邪魔だと思うなら言ってくださいなぁ、迷惑って言われるのには慣れてますぅー」

 不真面目そうな声。ふんわりと微笑む締まりのない口元。語尾を伸ばして喋るところは、彼の兄・梓丸とそっくりだ。
 梓丸も気難しい問題を構わず切り込んでくる性格だが、この弟もまったく同じ。この特徴は彼らの父親・銀之助様の血からくるものかもしれない。徹底した機械的な仕事の銀之助様に、神経質で厳しく言葉で斬りつける梓丸。その二人と同じ血を引く彼は……のんびりとだらしないように見えるが、『清掃員』なんて仕事をしているぐらい誠実に働いていた。
 こう見えて綺麗好きな男なのかもしれない。と思いきや、堂々とデッキブラシを振り回している。ついには肩にデッキブラシを抱えたが、俺が座る縁側にドスンと腰掛けるとポイと放り投げた。仕事道具だが大切に扱うという精神は、無いようだった。

「お前に悩みを相談しろと言うのか」
「そこまで大きく出なくてもいいですよぅ。別に俺は男衾さんのことなんとも思ってませんしぃ。兄貴と仲良い人だなとしか思ってないからぁ、聞き流しますぅ」
「…………」
「でもぉ、どうでもいい悩みなら打ち明けるチャンスになりますよぅ。この家の人はぁ、そういう悩みを持つことが美徳と思っている節があるしぃ」
「……美徳?」
「以前から俺に相談をよくする少年がいるんですよぉ。ウマっていうねぇ、俺と仲良しさんでねぇ。いかにも悩んでますっていう顔でぇ、どうでも良いんですって気取ってぇ、それでウンウン唸ってる少年なんですよぉ。今もその子のメール相談に乗ってたんですけどねぇ。返信に困っちゃったから散歩でもすりゃ良い返事が思いつくかと思ってたらぁ……こーんなところに悩んでる人さんが居たものでぇ」
「………」
「という訳でぇ、ぶっちゃけ言うと俺の気分を晴らしたいからテキトーに話し相手を探していただけですぅ。男衾さんにはその被害者になってもらおうと思いましてぇ」
「こちらの悩みなどどうでもいいと言うかのような開き直り方だな。俺が勝手に考えて抱え苦しんでいるだけの問題だ、人に解決してもらう気は……」
「でぇ、何に付いて悩んでいらっしゃいましたぁー?」

 へらへらとした緩い笑みを浮かべながら、福広は隣からじろりじろりと至るところを見渡してくる。
 人の悩みを笑う気しかないような男。正直煩わしいと思えた。
 だが、俺が何かを言うまで福広は一切動かなかった。

「…………悩みは、ハッキリとしていない」
「んぅ?」
「現状を打開したくは思う。だが打開できるかという不安と、打開してしまっていいのかという不安と、どう打開すればいいのかという不安の三重苦だ。救いたい、救ってしまっていいのか、どう救えばいいんだ。……俺は、迷っている」
「……えーとぅ。あまりに抽象的過ぎてアドバイスするにもできませんねぇ。具体例とか無いんですかぁ? 別に例にしなくたっていいんですけどぉ」
「『この家』に不満を持っているか、梓丸の弟」
「…………」

 俺の顔を見つめていた彼は、キョロキョロと周囲を見渡す。
 周囲に自分ら以外がいないか確認し、見える範囲に誰も『危険人物』がいないことを確認すると彼は、二度ほど首を振った。
 確認しつつ首を振っている。本心を隠しているのでなく、本当に不満を特に持っていないというかのように。……けど周囲を確認するだけ、『この世界の情勢』を理解しているらしい。

「敢えて一つ不満を言うならぁ、茶髪にしただけで激怒されるのはカンベンしてほしいですねぇ。髪を染めただけで口数が減った使用人さんもいっぱいいましたからぁ。昨日まで話をしてくれていたのに『下界の毒に犯されましたか!』なんて言われちゃったことありましたよぉー。流石にあれはビックリぃー」
「福広は、『俺が不満を持っている』と上へ告げ口するか?」
「しませんよぉー。そんな戦時中の出版局じゃないんですからぁ。いつだってウチは戦時中ではありますけどぉ。でも仮にも次期当主様に近しいお方がそんな発言、いけなくないすかぁ?」
「いけないからお前は、周囲を確認してくれたんだろ」
「ですけどぉー。俺は『修行』もしなければ『仕事』もしないプー役職だから何言っても咎める人はいないですしぃ。だから好き勝手に髪染めたりお洋服着てオシャレボーイになりましたけどぉ、男衾さんはそうもしてられないっしょぉ」
「…………」
「俺はぁ、刻印を持たずに生まれてきたもんでねぇ。生まれたときから才能無しなんだから『お前がお家の為に出来ることと言ったら刻印のある子供を作ること』って言われてるぐらいですよぉ?」
「…………」
「『早く結婚しろ』『子供を産め』とか、『それぐらいしかお前の利用価値は無いんだから』とか言われてますけどぉ……。まぁそれは俺の話だからいいとしてぇ。男衾さんは次期当主と仲良しだしぃ、刻印持ちでめっちゃ強いし信頼されてるし次代の『上層部』確定のお人じゃないですかぁ。……そういう人が抱いている不満って何なんですぅ?」

 明らかに福広の目が、輝きを増す。
 俺が模範生ではない思想を持っているということが嬉しいのか、ただただからかいたいのか。邪な悦びを好みそうな彼は小さな悪を目にして、少し興奮しているようだった。

「……俺は燈雅様を、仏田の血を裏切ることはしない。一生この血に仕え、生きていく。でも……『考えるだけなら罪でない』と思いたい。人に見えないところならどうも思われない。心を読むなんて高等なことは体を診る医者でも、不可視の力を操る魔術師にも不可能なんだから」
「えぇ、えぇ、確かに思うだけなら捕まりもしませんねぇ。悪いことを思っている分にはいいですがぁ、総じて悪いことを抱いた人って実行に移しちゃいますけどねぇ? だからこの寺は思っちゃうのすらダメダメっていう教育でまかり通ってますがぁ」
「危険分子の告発か。告発されたら、処刑か聯合(れんごう)か。……梓丸の弟が非道でないと祈るばかりだな」
「……どうなんでしょうねぇ?」

 ニヤリと福広はわざとらしく唇を歪める。
 俺に判るように堂々と笑ってみせるあたり、恐ろしいことにならないと思いたい。

「……当主は『仏田の神』を作るため、身に知恵を蓄えていく。当主こそ我が一族の宝。我らにとって生み出されていく神は勿論、当主も神に等しい存在」
「えぇ、えぇ」
「当主は我が身を犠牲に俺達を導いてくれる。我々の繁栄を、いや、もっと原始的な……生を守るために当主がいる。幸福の近道へ先導してくれるのが、あのお方。……だが、当主の幸福は我らを導くことだろうか」
「はぁ」
「神は人々を幸福にするためにいる。多くの知恵で我々を守る当主という神。守られた俺達は幸せ者だ。この世で最も尊い存在に守られているのだから、幸福でない訳が無い。だが、神自身の幸福とは何か。自身を犠牲にして命を削ってでも守り続けて、それが見返りと言えるのか」
「……んーんとぉ?」
「…………。口に出して自分の悩みを自覚したかっただけだ。忘れろ」
「別にそれは構いませんけどぉ。男衾さんの言っている神ってぇ、この世を生み出した神とかこれから俺達が生み出す神とか現人神の光緑様とかじゃなくってぇ……燈雅様のことですよねぇ?」
「…………」
「俺ってば男衾さんの悩みはぁ、燈雅様のことを尊んで思い詰めてることだと思ってましたぁ」
「……それも、ある。俺はいつも、燈雅様が……次期当主という地位でなければもっと幸福になれたのではないかと考えている」
「あぁ、そっちならぁ、悩み相談に乗れますよぉ。いやぁ、解決にはなりませんけどぉ。……『当主の地位に縛られているあの人が可哀想だからなんとかしてあげたい』っていうのはぁ、判りやすいですしねぇ?」

 体を壊し、一人で籠っていることしかできない彼を見ていると、「もしごく普通に外に出られる立場であったら」と考えてしまう。
 「仏田の出でなかったら」とまでは言わない。せめて、俺の立場だったら。俺以下であったら。俺と交代できるほどの血だったら……どうなっていたか。
 「もし」の言葉を使い出せば、終わりが無い地獄に嵌っていってしまう。判っていても、つい、どうなっただろうと考える。
 少なくとも今の一人だけで味わう苦しさよりは、多くの人間と触れ合えたのではないか。いらぬ心配だと判っていても、幸福など本人が決めるものだと判っていながらも、つい考え込んでしまう。

 自由が無い今が不幸せかなんて、俺が決めていい話ではない。
 今が幸せだと言うかもしれないのに、俺と交代したいだなんて言うなど甚だしい。
 だけど、あの小さな館で囚われの姿を見ていると、そう考えずにはいられない。

「……俺は燈雅様と全然親しくないから見当違いなことしか言えませんけどぉ。きっと次期当主ならぁ……『交代しよ!』って言っても拒否すると思いますけどねぇ」
「何故そう思う?」
「男としてのプライドとかありませんかねぇ?」

 ――命じられたことは為さねばならないという、今まで人生があったからぁ。
 福広は呟く。確かに、それはあるかもしれない……と俺が頷くと、「脳味噌を使って喋ってませんから聞き流してよぉ」と福広はすぐさま持論に付け足す。

「囚われの王女を想う、かぁ。本当に今の生活に不満を持っているならぁ、アリーナ姫のごとく壁でも突き破って城を出て行くんじゃないんですかぁ?」

 アリーナ姫って誰だ。姫っていうんだからどっかの国の女か。海外事情に疎いため、福広の言いたいことの半分しか判らない。
 ……だが。

「そこまでしないのだから、それほど不満には思ってないと?」

 それぐらいは判った。

「実際のところぉ、次期当主様は不満を口にしたりしてるんですかぁ? 『ここから出たい』とか『どうにかしたい』と言ってるんですかぁ? 男衾さんはそれを耳にしているとぉ?」
「…………。彼が言える訳、ないじゃないか」

 下っ端の俺でさえ、些細な発言に怯えている。福広がこのことを梓丸に告げ口したら、俺は罰を受けるかもしれない。
 俺よりももっと尊く、常に監視されているような燈雅様が、ハッキリと感情を口に出せる訳ない。

「……彼は、『諦め』が持てぬぐらい無感情に徹してしまっている。『考える基礎』さえも創造できぬまま、生きてるんだ」
「それは良かったじゃないですかぁ。基盤が無いならぁ、不幸を感じることもありませんよぉ。井戸の外の海を知らなければぁ、自分の世界だけでまったりと暮らせるぅ。蛙も言ってますよぅ」

 アレは蛙が言った台詞ではないと思うんだが。

「…………だから、最初から俺は言っているだろ。これは、あくまで俺が勝手に考えて抱えてくる苦しんでいるだけの……俺の悩みだ」

 ――もし、彼が今ほど縛られていない生まれだったら幸せだったか。
 どうやっても判らないことに悩んでいる。
 ――もし、彼が今の生活に不満を持っていたなら。
 どうやって解決できるか。彼が居てくれなくては、我々の生活が成り立たないというのに。

「出ない答えを悩んでいるなんて。もし彼がと考えても、最初から悩みの形として成り立たないし、成り立ったところでどうにも解決できない。それでも俺は考え、迷う。大事な修行の時間まで侵食するほど、迷う。迷って時間を潰すばかりだ」
「どうしようもないことを延々と悩むしかないかぁ。てっとり早くどうにかする方法はあるこたぁありますけどぉ」
「一応、お前の意見を聞かせてくれるか」
「まずぅ、次期当主に『不満か否か』を直接聞くぅ。己の立場を考えさせないのがポイントですねぇ。良識的な社長さんなら自分の会社を潰すような発言すらカットしますからぁ。本心がどうかを聞き出したらぁ、その現状から脱したいか尋ねるぅ。もし脱したいと思ったのならぁ……その人が自ら動き出してますぅ。変えたいと思った本人がねぇ。そのとき悩みを打ち明けた対象を全面的に信頼すると思いますよぉ」

 …………。

「例えばぁ、その信頼する人が男衾さんとするぅ。ならぁ、次期当主は貴方を駒に解放を目指す筈ですぅ。そうすれば男衾さんは彼の為に頑張ればいいだけだからぁ……。何をしたらいいで悩むこともないぃ、彼自身の安否を悩むこともないしぃ、今の表面的な悩みは全て解決しますぅ」

 …………。

「……俺が今、言った『だけ』の問題は解決できるかもしれないな。問題は、どうやってあの方に『本音』を引き出させるかだが」
「んぅー。俺はあんまり魔術の知識は無いんですけどぉ……。自白剤的に言葉を引き出させる魔法とかないんですかぁ? それで理性の無い本心だけを聞き出すとかぁ……」
「そんな都合の良い技、覚えているのは本人ぐらいだろうよ。理性があったらあの方はまず、我々家族のことを真っ先に考える。自身のことなどどうでもいいと考えるから。まずその手段を確立させなければならないか」
「男衾さんは長い付き合いなんでしょぉ? 男衾さんの最大限の想像力でぇ、『もし彼が理性を無くしたらどうなりますか』ぁ?」

 ……俺の、想像で?

「貴方の妄想を聞かせてください。どう言うと思いますぅ?」

 …………。
 あの人は……優しいから、もし柵を全て無くしたら。
 ……『ここから消えてしまう』かもしれない。

「……ふ。次期当主を洗脳しようだなんて考えているなんて、その一面だけを聞かれたら誤解されるに違いない。たった一面しか見ない連中には注意しないとならんな」
「直情なウチの兄には特に気を付けた方がいいですねぇ! ……じゃぁ、男衾さんの悩みは解決してあげたことだしぃ。今度は俺の相談にも乗ってもらいましょうかぁ〜!」

 俺の話を聞いて相槌を打っていただけの福広が解決したとは言えない。だが話が一段落ついたのは確かだった。
 自分は口が達者でも頭の回転が良い訳でもないから、相談をされても耳から耳に流すだけになってしまうかもしれない。そう最初に断っておくと、「一言答えてくれるだけでいいですってぇ。俺は話し相手を探していたんじゃなくて『話しかけ相手』を見つけたかっただけですしぃ」と堂々とした『興味無い発言』をされてしまった。
 そろそろ道場を出て相当な時間が経過した。一本松様を始めとした者達も剣を置き始めた頃だ。……一度そちらに顔を出してから、燈雅様の元に戻るべきだ。
 そう考えていると、福広がジーパンの浅いポケットから携帯電話を取り出した。カチカチと画面を操作する。
 複雑な動きを数秒披露した後、ある画面を表示しこちらに見せつけてきた。

「……『ウマちゃんち、見せて』」
「ん?」
「俺の知り合いに緋馬って子がいるんですよぉ。次期当主様に近い男衾さんなら知ってますよねぇ、親しくなくても名前だけなら知ってる有名人じゃないんですかぁ?」
「柳翠様の長男で、次期第四位の彼だろう」
「さっすがぁ、表面情報だけは熟知なさってるぅ! その彼ねぇ、最近新しい高校に転校しましてぇ」
「……お前は意外な友好関係を築いているな。次期第三位のときわ様とも知り合いだと聞いているぞ」
「トキリンとはロクに話したことないですよぉ。もっと話したいですけどねぇ。だって彼ぇ、気になりませんかぁ? 『誰も使わない洋館に一人で入って行く謎のときわ様』ってぇミステリアスだと思いません?」

 いや、それは福広が知らないだけで洋館は今も使われている。
 来客用として月に数回は梓丸が掃除を命じられているし、命じられているのだからそれだけ人が泊まりにくるということ。『滅多に客人など来ないから、今は無人の館だが』。

「話ズレたぁ。ウマの話でしたねぇ。アイツぅ、転校してそれなりに友人ができたそうでーすぅ。ででぇ、その友人君が『お家を拝見したい』と言っているんですよぉ」
「……何故?」
「理由なんて特に無いと思いますよぉ。友人が『どんなところでどのように暮らしているか』知りたい好奇心ゆえのお願いじゃないんですかぁ? 友人なんて外の世界だけの関係ぃ、家というのは自分の内の世界ぃ、家庭という内部まで入り込もうとする他人がいるぅ。親しい相手でない限り自分のテリトリーに入れたがらないものぉ。自宅に上がり込むってぇ、それなりのステータスが無いとできないことですよねぇ」
「…………」
「これってぇ、彼的には『そこまで親しくなった相手が出来たんだよ』ってメッセージだと思いませんかぁ? あのウマがぁ、俺に自慢メールをしてきたんですよぅ!」
「……すまないが、俺は緋馬様の人間性を知らない。しかしお前の口ぶりからすると、大変なことが起きたような気がしてくるんだが」
「ええ大変なことですぅ! 彼はシャイボーイだったんですよぉ。どれほどかと言うとぉ、それを持ち芸にするぐらいにぃ! そんな彼が高校でできた友人を『どうすればいい?』と尋ねてきたんですぅ。……この気持ちぃ、どう捉えましょうかぁ?」

 ――どう、捉える?

「一番『面倒だと言ってほしいのぉ?』、二番『見せつけるぐらい嬉しいのぉ?』、三番『俺に嫉妬してほしいワケぇ?』。三番目のは無いでしょうけどぉ、一と二は当てはまると思うんですよぉ」
「…………」
「俺には衝撃的すぎて困ってますぅ。一でも二でも三でも真意がどうなのかサッパリ判らないぃ。人の感情ってそう簡単に判る訳ないのにぃ。メールだと顔も見えないから余計に意味不明ですよねぇ」
「…………」
「さて、返信をどうしようかと迷ってますぅ。……この家がいかに純粋で清純でドロドロで汚れているかぁ、今さっきまでの話をした俺らにはぁ、どうしたらいいと思いますぅ?」

 ――そのとき、ガサッと草むらから、何か小さな影が顔を出した。
 狸だった。あの心優しい狸だ。
 狸は何かを口に銜えていた。
 それは、サラサラと流れる猫ジャラシ。三本ほど綺麗に整えられ口にしている。まるで病人に花を持ってきた見舞い客のようだ。……ようだ、ではなく、本当にそのつもりなんだろう。
 暫し見つめ合って、狸が後ろに下がった。
 縁側に足をつけることなく、猫ジャラシを置く。まるでペコリとお辞儀をするように鼻を地面に擦り付ける。
 そうして、シャッター音と唐突の光が世界を斬り裂く。ビクンと狸の体は跳ね上がる。その後、物凄いスピードで草むらに戻って行ってしまった。
 隣を見ると、デジカメを手にしていた福広がいた。

「逃げ足の速い狸さーん、流石は野生動物ぅ。……おぉっ、意外と良いヤツが撮れたぁ」

 デジカメは即座に撮った画面を確認できるタイプのようで、割と良い作品が出来上がったとご満悦の笑みを浮かべている。
 俺は綺麗に並べられた猫ジャラシを手に取った。山路の端に申し訳程度に生えているだけのものだ。
 でもこれは、大切な大切な贈り物に違いない。またあの狸は、気遣って山からここまで降りてきてくれたんだ。

「……梓丸の弟。その写真、あとで焼き回してくれ」
「えぇ? 別にいいですけどぉ……次期当主様宛ですかぁ?」
「それもあるが、二枚頼む。燈雅様用と俺用にな」

 目に見えて優しい心の視えるときを捉えたんだ。ここまで素晴らしい瞬間は無かろう。

「それと、その緋馬様へのメールの返信だが……。俺は、この家に歓迎しても良いと思う。その後に失敗と彼らが思うかもしれないが、それでも」
「その心はぁ?」

 友人と思い出を作るという正。
 心優しい動物に会えるかもしれないという正。
 あの青く近い空を共に見あえるという正。
 負の部分もある。だが、それ以上のものがこの場所にはある。そう、ここで住んでいる者が思わなければ幸せに近道なんて出来ないものだろう。

 ――福広に言い放って立ち上がり、離れの屋敷に戻る。

「燈雅様、失礼します」

 声を掛けてから部屋に入った。
 燈雅様は眠っている。あれから数時間経っているから何度か起きているだろうけど、今は体を休ませていた。ここを出るときは頭の上に乗せていた手拭いが、乾いた状態で布団の横に放り出されていた。
 待機しておいた水は既に空になっている。順調に減っている準備していたものと、体調はどうであれ大人しく眠っている姿は、回復している証だと安心できた。
 悪化することはないらしい。季節の移り変わりだから無理がたたってしまったんだ。身体の調整を間違いなく行っていけば、直ぐに回復する筈。
 体の健康は。

「……花瓶も、失礼致します」

 部屋の隅に置いてある、梓丸が生けた花に猫ジャラシを三本差しこんだ。
 野に咲く見舞いの品を、似合わぬ荘厳な花瓶へ。
 これを見た梓丸がどう想うか、苦い顔をするか。多分するだろうが、それでも差し込んだ。
 心配しているのは口うるさい奴だけでない。梓丸だけでないと、その他大勢が彼を見守っているのだと察してほしくて、無造作に挿れる。

 後悔をする気は無かった。
 優しい彼の気持ちは、誰にも汚すことなど出来ないのだから。
 する気などさらさら無かった。




END

本編:  / 

外伝: →外伝09「宝物」 →外伝10「関係」 →外伝11「将来」