■ 外伝11 / 「将来」

元は頂いたショートストーリーを、長編連載用に改変させていただいた小説です。パロディ小説、2.5次創作でございます。 参考元:華(ぷぇっとした雨音)




 ――2002年7月7日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】


i

 /1

 ――そう、じゃあ気をつけてね。

 送り出す声も、白く、薄く、はかない色。
 数月ぶりに見舞った双子の兄は、この無機質な白い部屋がおそろしいほど似合うようになっていた。
 やっとお父さんに聞かされた、再会の日。ウマちゃんがお父さんに尋ねた夜から急展開した、再会できる日。気になってなかった訳じゃないけど、それほど心待ちにしていたほどじゃないけど、嬉しい再会の日。
 声は淡々。いつも、どこか、うわのそら。
 注射針による鬱血。腕のそこかしこに点々と散らばっている。手首には点滴のチュウブが穿たれて、人体のそれとは違う液体が、どく、どく、無慈悲に送り込まれていた。

 ――あまり動かせないんだ、針が抜けると薬が漏れちゃうから……前に一回、やっちゃったことがあってさ。

 細く、やわい、点滴のチュウブ。そんなものでも病身の身には何よりの枷になるようだ。ベッド脇のテーブルには薬の包みがいくつもいくつも。
 思わず顔をしかめるボクに、ひきつれたような表情を浮かべる。一瞬、それが笑顔だってことが認識できなかった。
 ねえ、随分、表情がとぼしくなったね。ボクはね、今、とてもこわいんだよ。
 薄い背中。青ざめた皮膚。力のない表情。生命力が伺えない。終いには、消毒薬のにおいと同化して消えてしまうのではないかと思ってしまった。
 そうしたら、不安が顔に出ていたのかな。

 ――そんな顔、しないで。僕はだいじょうぶだよ。

 安心させるような声を色の抜けた口唇からこぼして、それから双子の兄は、なんとなく笑った。

 ――だいじょうぶ、だから。

 ふわりと、白く、薄く、はかないアルトの音調。
 笑えないよ、あさか。

 まっしろい四角形を不規則に組合せた、そんな形の建物から、外へ。
 からっぽな気持ち。外の空気がひどく美味しく感じた。
 土と、草いきれ。排気瓦斯だけは御免だけれど、それでも消毒薬のにおいよりはずっとましだ。肺の中に残留した、薬品臭を追い出そうと深呼吸を繰り返す。
 不意に、聞こえた音。
 いや、声?
 深呼吸を、ぴたりと止める。
 そうして何気なく視線を巡らせた。
 出所は多分、ボクの背後。
 不規則に整然とした形の、白い箱の中。その箱の表面に彫られた、とうめいな四角形。
 覗き穴。揺らぐ白いカアテンに邪魔されて、よくは見えないけれど。それでも、風にたゆたう布の狭間から、内部の様子がちらりと伺えた。

 薄い布の膜越しに、沢山の、人、人、人。揺らぐカアテン。顔を覆う女の人。かすかに慟哭。聞こえて来たのは、これ? はさ、はさ、揺らぐ白。
 眼を閉じている男の人。はさ、はさ、はためく。
 お医者さんの口元が動いた。看護士さん達が、慌ただしい。はさ、はさ、揺らぐ、揺らぐ。鼻先に、うっすら触れた死臭は、消毒薬のにおいがした。
 やがて、きい、きい、ひしゃげた音を立てて、とうめいな四角形が内外を遮断する。死臭は押し込められて、もうボクの元までは届かない。
 代わりに、あの白い四角形の建物の中で、淀み、燻り、とろりと濃密になってゆく。
 ああ、あの建物に漂うのは、消毒薬のにおいなんかじゃあない。消毒薬で紛らわされようとしている、発酵した死臭なんだ。
 本能的な嫌悪感に、怖気が走った。

 ぎゃあ、ぎゃあ、耳をつんざく雑音。
 再び、背後へ眼を向けるボク。
 これで外界、一周だ。見上げた曇天の向こう、等間隔に張られた四本の電線。
 その上から二番目の黒い糸に、黒い塊がひとつ、ぽつり。
 鋭いくちばし。黒い躯。その中で一対、深い不快なくろぐろのまなこ。黒の中なのに、その黒はやけにぎらぎら目立って、不吉だった。
 ぎゃあ、ぎゃあ、啼き喚く黒い塊。ぎらぎら照り光るまなこはボクを呆気なく通り越して、その向こう、白い箱の方を睨み据えている。
 死臭を閉じ込めた白い箱。やはり解るのかな。白い病院の風景の中で、ボクと烏だけが黒く浮き出ている。
 寄越せ、と喚く濁った声。
 ここにあるのは紛れもない「死」なんだと、無情に突き付けられた気分がして、また、嫌悪を覚えた。

 ぎゃあ、ぎゃあ、五月蝿いよ。
 喚くな、五月蝿い。啼くなよ。
 閉じ込められたはずの死臭。鼻腔の奥に蘇る。同時に先程のとうめいな四角形。
 あれは右から何番目だった?
 二番目だ。ああ、その隣、三番目は彼の、彼の繋がれている、あの白い部屋じゃあないか。
 とうめいな四角形、窓はカアテンが全て覆っていた。
 でも、あの慟哭はきっと聞こえていたはず。
 ああ、ああ、あの悲惨な声を聞いて、ねえキミは何を思ってたの。考えてたの。死臭に、「死」に満たされた白い部屋で、キミは何を思ってたんだ。この白い箱の中で、今まで何人が死んだ。そしてキミは、あの密閉された空間で何人の「死」を感じていたんだ。
 駄目だ、想像すら出来ない。
 その代わりに、彼の薄い背中が頭を過ぎる。
 そのはかない映像すら、ぎゃあ、ぎゃあ、喚く声が掻き消す、掻き消してゆく。
 ……「死」を求めて烏が啼く。鳥葬の執行者が啼き喚く。啼き喚く。寄越せ、寄越せ、ぎゃあ、ぎゃあ――。

 ――ああ、五月蝿い! あっちに行けよ! お前にやれるものなんて、何も、何ひとつないんだ!

 ぎっ、とひとつ睨みつけ、それからボクはたまらずに駆け出した。病院の敷地を横切って、道路に出る。烏の宿る電線の下をくぐり、何もかもを尻目に走ってゆく。
 嫌悪。恐怖。死臭。
 何もかもを置き去りにするかのように、振り払うかのように、ボクは走った。
 背後で、ばさ、ばさ、音が鳴った。良かった、少なくとも彼が連れて行かれる心配はなくなった。
 でも、もう駄目だった。もう、あすこには行けない。死臭に、「死」に、まみれて力なく笑うキミを、もうボクは見たくない。日に日に痩れていくキミを見たくない。生命力が欠落したかのようなキミを、はかない声を、もう、ボクは、これ以上。

 ごめん、ごめんよ、だけどもう、ボクはたえられない!
 お願いだよ、解って。
 キミを見てるのが、たえられないほど、つらいんだ。
 ごめんね、あさか。
 もう、来れないよ。

 だからボクは、彼のことを振り払うように、一人、楽しむことに必死だったんだ。



 ――2005年9月16日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /2

『……とまぁ、そういう異端だったのさ。じゃあな、悟司っち。あとはアンタが片付けるだけ。ご武運をーっ』

 芽衣の、仕事とあまり関係無さそうな無駄話も終えて携帯電話をしまう。
 高層ビルの立ち並ぶ都心の中心。夜空には不気味なほど大きな月が輝いている。立入禁止の筈の背の高いビルの屋上、そこに月を背負って浮かぶシルエットがあった。
 逆光で顔は見えない。だがシルエットは、妖しい少女のものだった。
 ゆらりゆらりと少女の姿が怪しく舞う。夜、ビル、少女。どの単語も日常からかけ離れていた。それは異端そのものだった。
 少女が月を見上げる。表情は驚くほど綺麗だ。紅い瞳と漆黒の長い髪。見る者に恐怖ではない感情を湧き上がらせる美しさだ。
 それも倒錯。夜に馴染んだ異端の姿は人を危める存在に過ぎない。それにビルの屋上は屋上でも、柵も無く普通の神経ならば立っていることもできない場所に漂っているのだからアレはなんとも不気味だ。
 倒さなければならないと全身が呼応する。

 ――アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァ!

 叫び声も凶器の一つだった。俺は彼女を守るかのように立ちはだかるモノへ銃弾を浴びせた。人に発せられるとは思えない悲鳴を発したモノが、炎に焼かれて消滅していく。
 あと三匹。
 コートを翻しながら、次の標的への照準を手首だけでコントロールする。
 それだけであの迷える霊は落ちる。微かに異端が見せる人間らしい動きで、仕留めるすべを正確に導き出していた。弾丸を次から次へと浴びせる。

 ――グウウウウウウウウゥゥゥゥゥ!

 弾が刺さった場所から炎が発生し、敵意を剥き出しにした何かを焼き払う。けれど消滅はさせない。焼き焦がすが、我々の目的は『回収』だ。
 二匹。
 後ろから襲い掛かってきたモノの攻撃を横へ転がって避けた。手首をまた傾けて相手の頭蓋を粉砕する。
 一匹。
 目の前に迫っていたモノに銃口を向けた。
 だが、好調な戦いはそこで終わってしまった。

「っ!?」

 最後の一体になったときのことだった。ビルの屋上で漂う少女の霊を撃とうとすると、嫌な予感に襲われた。
 まずい。その心が全身を巡る。
 単なる勘と言えば容易い。けど嫌な予感が「逃げろ」と自分本人に告げていた。目の前のものを無視して全力でバックステップする。
 次の瞬間、つい一瞬前自分の体があった場所を、風が通過した。
 風だった。身を切り裂く風。本当に切り裂かれて血が流れ出しそうな、攻撃的な風だった。
 彼女はこの辺りを占拠するボスだけあって強敵だ。無駄かもしれないと思ったが、俺は自信の銃弾を少女へ撃ち込んだ。
 紅い瞳がこちらへ向く。すっと風がぶれる。瞬きしたときには『風の塊』が首の直前を通過した。
 単なる風ではなかった。実体は無いがまるで少女が大鎌で、ぶうんと一振り大きな刃で斬り裂いてきたようだった。鎌なんて霊体が見せる幻だ。それでも流れるような風の一撃は、実体を手放さない人間の俺には相性の悪い攻撃だった。

「クッ!」

 流石は、少女ながらにして大きな魂の持ち主。さぞ親父を始めとする『本部』は、彼女の命を欲しがっているだろう。
 あまりの霊の力に驚愕しつつも、長年の習慣から即座に反撃のために後ろ飛び、銃を構えた。武術は祖父の照行に叩き込まれている、これぐらいでへこたれない。少女に向けて巨大な一撃を放とうとした。
 瞬間。目の前の空間に丸く凶々しい模様が浮かぶ。
 ……魔術、だと!?
 気づいた時には既に遅く、罠は発動。空間が、爆音と爆風に包まれた。



 ――2005年9月16日

 【    / Second /    /    / Fifth 】




 /3

 ボクの視野は、とても狭い。
 中学を入学するとき、ボクはボクの入学しか見ていなかった。
 双子の兄弟がいて、彼も同い年ならばボクと同時に入学するもの。なのに、ボクはボクのコトしか考えていなかった。入院した兄がボクを気遣ってくれても、ボクはボクしか見ないから気遣いに気付けなかった。
 双子の兄が居なくなったことに気付いたら気付いたで暴走。お父さんが苦い顔をしていても、何も言いたくないって訴えてもツッコミまくった。そしてボクの気分が悪くなったら悪くなったで、ボクを励ますお父さんの声を全て無視した。
 自分は子供だ。自覚している。まだ子供を言い張れる年齢だからいいけど、このバカ正直さと空気の読めなさは病気なんじゃないか。
 不安になる。自分でも判っちゃうぐらいなんだ、周りが迷惑しているのは百も承知。でもまだまだ『子供』は治らずにいる。
 あーあ、どこかに『読める空気』ってのが売ってないかなぁ。冗談抜きでさ。威張っていられる場合じゃないけど。

 ……ちょっと前の話をしよう。
 二学期に入ってからのこと。先生と面談があった。面談の内容は、進路についてだった。
 面談が始まる前、教室で進路希望カードを書かされた。第一希望から第三希望まで出来るだけ具体的に明記せよと書かれているカードと睨めっこすること云時間。ボクに結論は無かった。まだ結論を出すのは早いと思っていた。
 だってまだ高校一年。将来のことなんか二十歳になったってなんとかなる。今から道を狭めてはいけない、視野を広く見るのは良いことだ。そう思っていた。

「あっさかー、お前も悩んでんじゃ……」

 どうせ真っ白で出す気だろ? 言おうと思って双子の兄に後ろから突撃準備を構えていると。
 目の良いボクは見えた。ちょいと視線の位置を変えたら見えてしまった。
 ボクの視力は獣のように良いと好評だ。隠す気のないアンケート用紙を覗くなんてお手の物。覗く気なんてなかったけど、あさかの結果を見てしまった。あさかの進路希望調査書に書かれたのは、『まさにあさか』という内容だった。
 第一希望は、医大だった。
 第二希望は、第一希望の所から少しランクを落とした医大。
 第三希望は、資格をたくさん取ると評判の医療系専門学校。
 長く病院にお世話になっていたあさからしい結果だった。
 瞬間記憶能力なんて無いから学校の名前までは覚えてないけど、三つの学名はしっかりと漢字で書かれていた。
 あさかは教室で、夢をパッと漢字で書いてしまえるぐらい先の事を考えていた。まだまだ先のコトだというのに。
 ショックだった。
 2009年3月、ボク達が高校を順調に卒業できたらそこまで時間が進んでいる。まだまだ遠い未来の話じゃないか。それほど何年も先のことなのに、冬をあと何回か越さなければならないのに。……あさかは未来を考えていた。

 そうしてボクは、今日も無駄に時間を過ごしている。
 あさかが将来のことについて考えて勉強していても、ボクはただただ歩いて時を送っている。もう二度と来ることないこの一日を。
 って当然のことすぎるか。12月26日は去年も来年もあるけど、2005年のこの日は今日しか無い。2005年12月26日は一生に一度しかやって来ないし、もう一度12月26日を過ごすこともなく……。そんなの確認するまでもないコトだ。道徳の授業で『一日は一度しか来ないのだからもっと大切に生きなさい』って先生が言ってたし。
 面談のとき、「進路を決めるのにはまだ一年以上猶予がある」と言われた。でも将来を考える一日は一度しか訪れない。最終的にゴールを目指すんだから。早く充実した考えの時間を作らなきゃいけない。
 でも重い腰はまだ上がらない。
 再来年の12月、2008年12月31日にはきっとゴールが見えている筈だ。高校三年生の二学期終了ともなれば、センター試験の準備をしているか、早々と入試をクリアーしているか。今はまだ決めてないけど、あと365日の蓄積があれば流石に決定させているだろう。
 多分。おそらく。いいかげんではなく、きっと。

 確実なことは言えないけど、来年ぐらいには何か考えてるんじゃないかな、ボクは。まだ自分の進路を見出すほど経験が浅いからこんなに唸っているんだ。
 『知恵の蓄積量が足りないから考えに至れない』んだ。まるで神様みたいなことを言うけどその通り。
 しかしおかしなことに、蓄積日数が全く同じ双子の兄のあさかはもう結論を出している。同じ十五年前の8月に人生をスタートして、全く同じように息を吸って吐いて暮らしてきた人間なのに、早くも結論を出している。なんで?
 ヒトそれぞれだもの、それは当然だよ。
 双子だって言ったって、ボクとあさかは二卵性双生児だ。似ているようであんまり似ていない。それに一卵性だったとしても差は出てくる。『全くいっしょの人間』なんて生まれてくる筈がないんだから、いくら生まれが極端に似ている双子だって最終的な傾向は全然違うものになるんだ。同じ人間だって生き方が違えば将来が変わる筈。違う世界では充実した人生を送っていても、生き方を変えれば違う世界で惨めに死ぬかもしれない。
 そっくりの双子だって、三つ子だって違う。でも、時には意図的に「似せたい」と思うときもあるんだ。
 似せたいという変身願望というより、きっとそれは憧れ。ちょっと嫉妬分もプラスされた、親しみ。あんな風になりたいと思わせる双子の兄は、ボクの心の面積を大きく占拠していた。

 ……あさかは、ボクの双子の兄だ。
 数分違いで生まれた兄弟を『兄』と『弟』という言葉で区別するのは不思議だ。けど、彼は違いなくボクの兄だ。
 何事にもルールは必要とはいえ、それでも兄だから、あさかの方がボクより上だった。
 何かというと上。能力とか考え方とか大人度が全て上だった。それはさっき思い出した『進路希望』からも思い知らされる。
 もしかして神様はあさかがボクより『できている』から、必然的に先にあさかを『上』にしたんだろうか。そんなコトを時々考える。馬鹿馬鹿しいと判っているのに。
 親は生まれた子供が双子だと知ったとき、きっと戸惑っただろう。ヒト一人育てるのだって大変なのに、一気に二人も増えてしまったんだから。
 既に家にいたウマちゃんはまだ二歳。ボクら兄弟の世話を手伝える訳もないから、手間のかかる子供が三人いた訳だ。ボクには(当然ながら)まだ子供がいないからその苦労は味わえないけど、凄く大変なものだとは知ってはいる。
 昔からそのコトを理解しているつもりではいた。お父さんが大変だったことぐらい。ただでさえ人より特殊な悩みを持っていたから、余計に、昔から。
 だから家の子供がウマちゃんとボクだけになったとき。あさかが居なくなったとき、『親の負担が減ったのは評価できるな』なんて思っていた。
 評価って、評価できるって。ひどい言い方だと思う。
 別にあさかがいなくなって嬉しかったコトはない。出来ればいっしょに中学の入学式は出たかった。あさかとウマちゃんといっしょにテスト勉強がしたかった。あさかに甘えて宿題を写させてもらうとか同い年だからできるなと思ってた。学校で思ったことをあさかにならすぐに話せるなとも考えた。
 あさかがいなくなることでプラスなんて無かったのに。
 マイナスも無かったけど。

『どうしたの、ウマちゃん?』
『…………』
『何かあった? いつになく顔がマジモードだね』
『……月彦さんから、電話があった』
『つっきーから? ……ああ、そういや電話してたね、一昨日ぐらいに』
『そのことについて、藤春伯父さんと話をした』
『さっき話してたね、お父さんと。で、何?』
『…………』
『なに? 寸前で話を切られるのって気持ち悪いんだけど』
『あさかって……今、何してると思う?』
『…………』

 ――そのときの会話が、2003年のこと。ボクが一人で中学時代を謳歌していたときのことだ。
 ボクだってあさかのコトは家族だから心配していた。もちろん、それなりに。
 けど自分自身が一番大切だったボクは、学校というあったかい空間が心地良くて、酔っていた。
 ボク個人だけが大切で何かと比べられない世界が、思いのほか居心地が良く、…………。

 ――あさかは、最初にお見舞いに行ったとき、『大丈夫』と言った。
 不安を感じてはいた。でもボクはその言葉に安心することにした。
 だってあさかが『大丈夫』って言ったから、ボクも『心配しなくて大丈夫』なんだ。
 だってだってボクが『大丈夫』って言うときはそういう意味だから。
 だってだってだって、誰かがどんな意味を込めて大丈夫と言おうが、『ボクの大丈夫』が一番大事だから。
 ボクはそれだけの意味で動いた。こんなにも暮らしている姿が違っているんだから、蓄積するものが全然違って当然だった。
 あさかが、ボクとは違って2009年4月のことを考えているのは当然なんだ。同じ日数を歩んできたって体の中に溜めているものが違うんだから、頭に入れてきたものが違うんだからがしゃああああああああああああああああああん!!!!!!!

「にゃぁああっ!!?」

 思考のループは何か、物凄い大きな音によって止まった。心臓が止まるんじゃないかってぐらいの、激しい音によって。
 な、に。なに。なに!? 周囲を見渡す。どうやら『何か』が空から落ちてきて、ゴミ置き場の海へ飛び込んできたらしい。
 飛び込んできたというか、そのまま着地失敗したというか、何!?
 とにかく『何か』というのは、結構大きなサイズのもので、足が二本付いていて、手が二本付いている……俗にいう『人間』なるものだった。
 一体どこから落ちてきたって? 空からとしか考えられなかった。でも空に何があると言っても見当たらないし、まさかビルの屋上から飛び降りた? わっかんない!
 その胴体は、呻いた。男の人の声だった。
 再生機能がオンにされた人型のラジオとかじゃない限り、落ちてきたのは『人間』であると確定する。でも夜空から人が落下するって、そんなシチュエーションに立ち会っちゃうって。よく判らないけど、今すぐここを立ち去った方がいい気がした。

「し、失礼しまーす……」
「……メガネ……メガネ……」

 だがしかしボクの耳に飛び込んできたのは、コントのように自分の眼鏡を探そうとしている男性の声だった。
 ……おや、ボクの足元。こんな所に誰のか判らないメガネ(壊れていないキレイなもの)が落ちている。一方、例のゴミの場に落ちた男性は、手探りで何かを探している。
 これは、重要なフラグが立つ選択肢と見た。
 勇気を出して、足元のメガネを拾う。

「あの……お探しのメガネってコレじゃないですか?」
「……ん?」

 ボクが話し掛けたことにより、低い声の、三十歳ぐらいの長身の男性がこちらを向く。
 短髪黒髪、ネクタイ、スーツの上にベージュのコート。それに眼鏡をかけていたなんて、空から落ちてきたビックリ存在でもごく普通の人間にしか見えない。

「ハイ、どうぞ、コレがおじさんのだよね……?」
「ああ、ありがたい。路地の隙間に天使がいたか。少年よ、感謝する」
「ど、どうも」
「……フム?」

 男はメガネを受け取り、スッと立ち上がる。そして何度も眼鏡の角度を修正しながらボクを見た。
 暗闇と、微かなライトで照らされた道の中で、細い目がボクを凝視してくる。
 夜道。近寄ってくる男性。「な、なに……?」と後ろに下がっても、追いかけてくる長身。……ボクは、選択肢ミスをしてしまったかもしれない。

「君は。……藤春様の御子息ではないか」
「にゃ……?」

 唐突にお父さんの名前を出された。
 ボクのお父さんを知っている。いや、ボクの顔を見てお父さんの名前を出したってことは、完璧知り合いじゃないか。どこかで知り合っているんだろうけど、自分にとっては全然覚えのない人だった。

「確かときわは、まだ二十歳にも満たなかった筈。ならその弟は更に年が若くなる。何故、子供の君がこんな夜に一人で歩いている?」

 彼は、ときわ――ボクの本当の兄の名前まで口にした。
 間違いない。この人はボクの家、お父さんの生まれた本家の関係者だ。そんな人に真夜中一人で外を歩いているのを見付かるなんて。まずいと少し背筋がひやりとする。

「い、いいじゃん! 夜だから帰りなさいっていうのはナシだよ、教育指導じゃあるまいし。おじさん、お巡りさんじゃないんでしょ?」
「確かに俺はお巡りさんではない。だが、常識的に考えて十八歳以下が一人で夜遅く歩いていたら忠告するに決まっている。こんな夜中に外出しなければならない理由が、君には何かあるのか?」

 理由? そんなの、ナイ。
 歩きたいから歩く、そんだけだ。悩みがあって、鬱憤が溜まって、じっと家で待機できるような大人しい子じゃなかった。そんだけなんだ。

「理由なんてナイよ。ワルだから歩いてるんだよっ……」
「ワル。ときわも、藤春様も悲しまれるぞ」
「お兄さんは一緒にお家住んでないし、ボク如きにお父さんも悲しまないって! って、お兄さんやお父さんの名前を知ってるって、アンタ、何?」
「ん、やっぱり覚えられてないか」

 男の人はボクに近付くと、コートのポケットから携帯電話を取り出した。
 パカリと開き、ディスプレイの微かな灯りから自分の顔を照らした。怪談でよくやるように、懐中電灯で顔を照らすように、少しでも自分の顔をボクに見せつけようとする。顔を見れば判るとでも思ったのか。
 でもボクの記憶の中にはこのメガネの男性の顔はヒットすることはなかった。お父さんとお兄さんの名前を知っているってことは、仏田の関係者だというのは判るけど……。
 見えるようになった顔を見ながら、ボクは素直に「誰?」と尋ねた。

「照行が長男・狭山の子、悟司。第七位だ。お前のお兄さん、ときわと一緒に暮らしている……仏田の血族だよ」

 煤で薄汚れたトレンチコートを翻しながら、男の人は改めて自己紹介をしてくれる。
 ボクにとっては初めましてだった。



 ――2005年9月16日

 【    / Second /    /    / Fifth 】




 /4

「……で。悟司さんは、怖いヒトに襲われて逃げて、ここに落ちてきたってワケ?」

 真夜中の町並み。閉められた商店のシャッターに寄りかかり休息をする長身の悟司さんに、ボクは見上げながら言う。
 そうだと言いながらも呻く彼は、一人で頼まれる『仕事』だからすぐに終わると思ったらし。慢心は怪我のもとだと呟いている。

「カンタンな任務っぽく説明してくれたけど、随分ボロボロにされたみたいだね」
「いやはや、お恥ずかしい限り。これでも退魔の仕事は慣れているつもり。だが慢心が生んだ罰だな。……んっ」

 悟司さんは一通り話した後、脇腹を抑えた。
 まるで痛みを我慢するかのようにグッと息を殺す。その行為は『まるで』じゃなくて、本当に痛みが生じて我慢しているようだった。

「えっと。……お腹、痛い?」
「痛い」
「……怪我をしちゃったなら早く病院行った方がいいんじゃ」
「この周辺に心霊治療が出来るような施設は無いな。普通の病院に行ったら本物の警察に通報されてしまう。自分の油断で作った傷だ、問題無い」

 問題無い。言い切っちゃってるけど、その顔は大丈夫なものに見えなかった。
 でも心配するなと言われたら、子供のボクは余計なコトを言えない。問題にしないように違うことを考えてみた。

「た、『タイマ』って、幽霊退治をするお仕事だよね?」
「そう、『退魔』だ。君は、経験が無かったか?」
「経験が無いも何も……こういう不思議事態が初めてだよ。ウマちゃん経由で何をするかは教わってはいるけど、その話をお家でするとお父さんがイヤがるし……」
「藤春様が?」
「お父さんは『そういうお仕事が嫌だからお寺から出た』んだって」

 嫌で実家を出たのにも関わらずそれでも、結局手伝っちゃってるみたいだ。
 イヤダイヤダと周囲に言って、それがボクの耳にも届いているからお父さんの前ではなるべくその手の話題はしないようにしている。そんな我が家の暗黙の了解を、悟司さんはまるで『信じられない』と言うかのような目で聞いていた。
 あんまり気持ち良いとは言えない表情だ。

「お父さんが実家のお仕事を手伝うのキライだから、子供のボクらには一切そんな話をしてこない。それにボク、生まれつき『刻印』持ってないし、スーパーマンみたいな力は無いよ」
「そうか。藤春様は、相変わらずまだ『本部』の見えないところで抵抗なさってるか」
「……にう……?」

 悟司さんはボクの言葉をじっくりと聞いた後、深く溜息を吐いた。
 ふうと呼吸を整えて、脇腹を抑えていた手を離す。そのまま近寄って、ボクの手を取ろうとした。ボクはまた後ろに下がる。

「みずほくん。君を家まで送ろう。今、お家に連絡を入れるから待っていなさい」
「い、いいよ、連絡なんて……迎えもいらないッ。ボクはお散歩したかっただけなんだから邪魔しないでよ……」
「いや、今夜は大人しく従いなさい」
「いいってばっ」
「従いなさい、君を殺してしまうかもしれない」

 …………。
 なんで、いきなり、そんな話が跳ぶの……?

「君は貴重な仏田の『直系』の生まれ。現当主の実の弟、藤春様の息子だ」
「う、うん」
「君が今、能力に目覚めていなくても君の子が強力な能力を持つかもしれない。君の親戚にも刻印の無い親と刻印のある子は何人もいるだろう? 君の知っているところだと、寄居くんだな」
「……」
「寄居くんは凄まじい具現化の力を秘めていたが、彼の父親・松山様は生まれつき刻印を持たぬ男だった。そういったケースが起こりうる。君には立派な子供を生んでもらわなければならない。こんな所で死ぬようなことは……」

 ――寄居。
 その名を聞いて、少し体が震えた。今のボクとしては『不吉の象徴』でもある人物だったからだ。

「君には、大切な我らの血が流れている。君自身に力が備わっていなくても、未来に繋ぐ力を十分に持っている」
「…………」
「しかも君のお父さんは現当主の弟、藤春様だ。いつ君の子孫が、君に流れる血が強大な能力者を生むかもしれん。だからもっと自分を大切に扱……」
「そんな、血が大切って。だからお父さんが嫌がって話さないんだよ」

 悟司さんの声を遮って、ボクは叫ぶ。
 続きを聞きたくないと言うかのように、思いっきりの敵意を込めて言い放つ。

「ボクはお家の問題とか知らないよ。お父さんが嫌がって話さないからね。でも、何かにつけて『血がナントカ』とか『大事な体だ』とかみんなで言うから……お父さんは毎日イヤな顔をするんだよ。お父さんを『相変わらず抵抗なさる』って言ったけど、そうさせたのはアンタ達だって判んないの?」
「判らなくはない」
「判っている人はわざわざ傷付けるようなこと言わないよ!」

 悟司さんは、ボクの大声の主張を耳にし、暫し押し黙る。
 けれど気分転換にか人差し指で自分のメガネをスッと上げると、変わらずボクに話し掛けてきた。
 静かな声で「君を無事に帰らせるために、現状を説明しよう」とワガママを言ってきかない子供を嗜めるように、ボクにとっては腹立たしい言葉を続けた。

「俺は、ここを牛耳る霊を追っている。既にその霊によって二名の被害者が出ている。非常に危険な存在だ」
「……え……?」
「被害者の一人目は圧死。動く筈の無い本棚に引き倒された。二人目は飛び降りによる内臓破裂。飛び降りる筈の無かった人間が無理矢理『何らかの力』で空へ飛ばされた。何も力が無い一般人が、空へ駆けて飛べる訳が無い。我らのように能力者でなければ飛べない。俺は人間を空へ飛ばした異端を退治しに来た」
「『我ら』って……いっしょにしないでよ。それにさっき、悟司さんは飛んできたじゃん」
「さっきのは飛んだのではない、落ちただけだ。落ちる最中に重力を殺す方法を得ていたから幸い生き延びただけ。普通の人間に毛が生えただけだ」
「毛が生えてるのって、普通だよ」

 ん、そうだったな。悟司さんは頷く。
 ボケたのか素で言い間違えたのか、変な冗談が途中で挟まった。……この人、ちょっとおかしな人かもしれない。

「能力者は一般人と変わらん。だが一般人より俺のような能力者の方が、出来ることが多い。その一つが、異端を懲らしめることだ。普通でないモノへ手を下すのは、普通でない我らの使命だ」

 わざわざ丁寧に現状を説明してくれる。ありがたかった。感謝の言葉を述べる。でも、

「悟司さんは『誰かがしなきゃ助からないこと』だから自分がしてるっていうの? ……カッコイイ理由だね。まるで理由はただそれだけって言ってるみたいだ」
「『仕事』をこなせば『本部』から給料も出る、だからやるという理由もある。だがそもそも俺達は『本部』の意思に背くことはできない。他の者達の為に我が身を削り、出来ることがあるなら実行する。皆、同じ考えで動いているよ」
「ここの自縛霊って、どんなやつ?」
「……ん?」

 ボクは悟司さんを見つめていた。
 ちょっとだけ興味が出たから事件について尋ねてみただけだった。けど、悟司さんは何故か驚いた顔をした。

「なんだ? まだ聞きたいのか」
「……うん」
「現状確認は必要だと思って話したんだが。退魔の話題を進んで聞きたくなかったんじゃないのか?」
「うん、イヤ。ホラーもキライだよ、お父さんの影響で聞かされる機会も無かったけど。ただ今は、好奇心で知ってみたいだけ」
「…………。彼女は恨みが強い、正真正銘の『悪霊』だ」

 ……正真正銘?
 シンプルでお約束のユーレイを知らないボクは、一つ一つをプロに訊き返していった。

「新座くんが任されるようなタイプの優しい霊は、俺の元にはまわってこない。俺にまわってくる『仕事』は……決まって、冷酷に殲滅できるような、どうしようもない悪霊退治だ。適材適所を『本部』は弁えているからな」

 へえ、と耳を立てると悟司さんは語ってくれる。
 ――その霊は、生前に恨みを一身に受けた少女だった。不幸が重なっただけだったが、彼女自身が悪霊になるだけの素質のある、危険な思想の持ち主だったという。
 早死にしてからはやりたい放題。自分の犯した罪を棚に上げて自分は不幸だと泣き喚き、周囲に悪夢を振り撒く。なんとしても退治しなければならない悪とのこと。
 そしてそれほど大きなコトをしてしまう異端なのだから、『本部』はさぞ大きな魂だと目を付けている。……らしい。

「ふうん。つまりは悟司さんの追っている幽霊ってのはどーしよーもない悪者なんだよね? 天国に逝かせてあげなきゃいけないぐらい」
「天国に逝かせるのではなく、我らの国で暮らさせるのだがな。あの寺の一室で、我らの糧となってもらう」
「……なんか物凄い悪者なのに、最終的にはウチのお寺に来るようにするんだね。複雑だな」
「しかしそれを我らは数百年前からしてるんだ。何故こんな強い魂を150年前から放っておいたのか不思議なぐらいだ」

 いや、それだとちょっと少な過ぎかな、と悟司さんが笑って言う。
 って、150年前!? それで少ないの!? そんな古い幽霊さんなの!? 女の子って言うから……!

「霊は死んだときの姿そのままだ。少女の姿で死ねば少女の霊としてこの世を漂い続ける。彼女は美しく死んだから150年経っても何も変わらない。良かったじゃないか、綺麗な女性がうちに嫁入りしに来るようなもんだぞ」
「……その仕事のおかげでボクが裕福なのは判ってるけどさ。悪い幽霊がボクん家にいっぱいいるって考えると怖いよ。ボク、怖い話とかてんでダメだから」
「それでも、訊きたがったのは君だ」

 そこは確かに。頷くしかない。やっぱり聞かない方が良かったかも。

「お父さんじゃないけど、もうボクはお寺に戻りたくなくなったよ……」
「いずれ戻るだろうさ。君もあの一族から生まれ、あそこの為に生きていくのだから」

 断定した言い方。あまり気持ち良いものではなかった。
 暫く続いていた会話だったが、そこまで話すと悟司さんは不自然なところで言葉を切った。

「どうしたの?」
「遊び足りなかったのか。あちらから来て下さった」

 えっと声を零した途端、寒気がババッと襲ってきた。
 さっきの話で幽霊を自覚してしまったからか。それともその幽霊とやらが近寄ってきてくれたからかは、判らない。
 でも今はハッキリと感じる。感じてしまう。
 恐ろしい『何か』が、足の無い筈の幽霊が、コツコツと音を立て、こちらに近付いてくるのが。
 暗闇の中でも顔がハッキリと見てとれた。普通は暗いと人の表情って見えないものじゃないのかな。なのに見えてしまうというのは、周囲が明るくなっているから?
 漂う鬼火? ヒトダマ? 判らない。でも、あの光は青白く美しく浮いているけど、見惚れる余裕なんて許してくれない。
 そこに立つのは、足のある幽霊の少女。やっぱり怖くて何がなんだか判らない。
 瞬間、銃声が耳に広がった。悟司さんが少女目掛けて銃弾を浴びせたからだ。

「そうやって積極的に人を襲うから、我々の対象になるんだ。喜べ、我が家には君のように活発な女を好む男が山ほどいるぞ」
「うう……流石に幽霊を恋愛対象にする人はいないよね……?」
「どうかな。寺には大勢の男が居る。一人ぐらい人外を好く奴が居てもおかしくないだろう?」
「ただでさえ幽霊をゴハンと考えているぐらいウチはヘンタイなんだから、居ても少数派であってほしいよ。…………えっ?」

 びしばしびし。襲いかかる寒気が酷く強いものになる。
 ……なんであの子は、そんな強い感情を人にぶつけることができるんだろう……?
 それよりも、なんでなんで、そんなに攻撃的な視線を襲っている悟司さんじゃなくて、『ボクの方に』敵意を向けているんだ? 奇妙な恐怖心しか感じられないじゃないか。
 ボクが震えていると、悟司さんは再度銃弾を幽霊の少女に浴びせた。
 幽霊と言っても銃弾をすり抜ける、ということはなく。何らかの特殊な攻撃のせいか、少女は苦しみながら悶えた。次から次へと凶悪な銃弾をぶつける。でも少女はそれだけでは消えなかった。
 それどころか攻撃される度に彼女の反撃が始まる。『復讐心』は大きくなっていくらしくて、視線の恐ろしさはどんどん増していく。

「いくら体を壊しても倒れる気は無い。流石に、成長しきった魂は違うか」
「ふ、ふぇ……ボロボロになりながら追いかけてくるって映画で見るよりずっとツライね! 寒気が、ゼンゼン抜けてくれないよぉ」
「寒気? そんなものを感じているのか」
「ビンビンじゃないかぁ! ボクは怖がりだから余計に感じるんだよっ!」
「それはおかしいな。奴のことは、普通の人間なら何も感じないだろうよ、敏感な人間がクシャミをする程度かな。先程、凶悪そうに説明はしたが、『本部が俺一人で構わない』と判断したほどだぞ。恐ろしいことをしてくる霊ではない」
「で、でもぉ……怖いものは怖いんだよぉ! だってさっきからガクガクが止まらないんだもんっ!」
「ああ、なるほど。あちらさんは俺なんかより、君の方が美味いと判断してるんだな」
「にゃにぃっ!?」
「それはそうだ。君は当主の直系、当主の弟君、藤春様の息子。彼女が惹かれるのも頷ける」
「死んでる女の子に好かれても嬉しくないよぉー! 早くなんとかして……!」

 ああ、と大人な短い返事。
 悟司さんは、銃の持ち方をほんの少しだけ変えた。注視してなければ気付かないぐらいの動きだった。
 それで何が変わるのか、専門知識が無いからボクには判らない。勘で、それはなんとなく『もっと幽霊を倒すのに効率的な方法なんだ』とは判る。わざわざ面倒な持ち方をしているのだからきっとそうだ。
 彼が仕掛ける。その場の空間を捻じ曲げるほどの何かを。
 多分魔法だ。ボクの見たことのない攻撃をしたんだ。巨大な力の『何か』が空間を薙ぎ払い、幽霊の身体を吹き飛ばす。
 でも吹き飛ばした先で、少女は浮かんでいた。
 何故か持っていなかった筈の『消火器』を抱えて。
 悟司さんがハッと叫んだ。「ヤバイ!」と。

 ボクには少女が消火器を持っているなんて「どっかのビルから頂戴してきたのかな?」ぐらいしか考えられなかったけど、女の子が消火器を持っている図。それだけで悟司さんはどれくらいの想像が出来たらしい。
 消火器は無造作に投げられた。
 尋常じゃないスピードで。
 別に投げつけるものは消火器じゃなくても良かったんだろう。それなりに強度があって、凶悪性を示すものだったら。消火器は回転しながら、何かの力を帯びているのか淡く発光してボクに襲いかかった。
 ありえない速度で。
 ……同じぐらいありえない速度で、悟司さんがボクの腕を引いてバビュンと空に飛んだ。
 なんだ、やっぱり空を飛べるんじゃないか。回転しながら壁に激突した消火器は、消火器独自の音とともに、危険な暴力音を立てて消えていった。
 後に残るのは白い噴煙と瓦礫のみ。
 ……なに、あれ。
 思わず心に思い浮かべた言葉を、悟司さんに抱きかかえられながらそのまま述べてしまう。

「見ていただろう、消火器を投げたんだ」
「消火器って暴発はするだろうけど……衝撃波も起きるものなんだ?」
「音速を超えたらな」

 超えちゃうんだ。
 超えられちゃう現象が、簡単に現実に起きちゃうもんなんだ。

「……ホントにコレ、悟司さん一人で片付くお仕事なの?」
「ああ、問題無い」
「……いつも、こんな戦い、してる……んだ……?」
「俺だけじゃない。お前の知っている人達も沢山やっているさ。君の友達も、君のお父さんもな」
「でも……。そんなコト、みんな、言わないよ」
「『消火器を投げたら衝撃波が起きた』なんて面白い話なら茶請けにするかもしれないが。普段はもっと地味なことばかりをしているからな」
「っていうか、あの消火器……マトモに受けちゃったら死んじゃってたでしょお!?」
「だろうな」
「だろうなって……! それでもみんなやってるの? みんな、お父さんも」
「しているよ、緋馬くんも寄居くんもお父さんも。皆、使命としてな。どうだ、知らないことが恥と思えてきたか」

 …………。

「それとも、『こんな恐ろしいコト知りたくなかった』か」

 ………………。

「恐怖など、そのうち慣れる。君の友人達も最初はどうだったか知らないが、今は恐怖心など持っていないさ。だから安心しろ。君も二度もあんな攻撃見てしまえば、なんとも思わなくなる。そのうち、溜息さえもつけなくなるぐらいにな」

 ……………………。

「それに我々は、遠い昔からあのような力を求めているんだ。相手が強ければ強いほどいい。それほど我々に取りこまれる力が強いということだからな。あれは餌。明日の我が身を繋ぐ餌だと思えば、ほら、いとおしく思えてくるだろ?」

 そんなことを悟司さんは笑いながら言う。ボクを落ち着けるようにしたいのか、笑顔のままで。
 その間も少女は、こちらに、ボクを抱える悟司さんに向かって走ってやってくる。今度はさっきよりずっとずっと凶悪そうな姿で。
 恐ろしい手を振りかざし凶々しい笑顔。おばけを通り越した存在になっていた。でも姿形は間違いなく少女だった。死んだときの姿らしい、単なる少女にしか見えなかった。

「……悟司さんには、あの子が美味しいご飯に思えているんだね」
「ああ。みんなもそう見えている」
「……ボクには、今風なオシャレをしたらきっと可愛くなる素朴な子に見えるよ」
「そうか。このような場面を初めて見たなら仕方ない」
「二度目でも三度目でも、きっと可愛い女の子にしか見えないよ。……あの子を、ご飯とかお金とかに、絶対見られない」

 ……そうか。
 淡々と、悟司さんは答える。

「可愛い女の子なのに、ご飯やお金に見えちゃう悟司さん達は……おかしいと思う。お父さんが怯えるぐらいに」
「名指しで叱られるとなんだか照れるな」
「ごめんね。……もしかしたらウマちゃん達もそうなのかもしれないけど、代表して悟司さんを批難するよ。今ボクの話を聞いてくれる人は、悟司さんしかいないから」
「家に帰ればお父さんが君の話を聞いてくれるさ。それに君には他にも兄弟が居る筈、身近なその子に相談してみるといい」

 家族は、悩みを聞いてくれるものなんだから。
 平然と、悟司さんは答えていく。

「……相談なんて……できないよ」
「何故? 君の家族は君の関係者だ、そして同じ血だ。同じ仏田の一族なのだから……」
「……ボクとあさかはねっ、ボクの兄と寄居ちゃんはねっ! ボクらはね、こういう異常事態に巻き込まれてバラバラになっちゃったの! あさかは流血沙汰のせいでトラウマっちゃったんだよ、おかしくもなっちゃったんだよ!」
「ん」
「ごくフツーに学校行ってお家に帰って楽しく遊んでいるだけ生活から、変な血とか力のせいで病院に行っちゃったんだよ! そこでボロボロになっちゃったの! 帰ってきても今もそう! ……そんなあさかに相談できる訳ないだろ! あさかがそうなっちゃって苦しんだお父さんに相談できる訳ないだろ! よく判らないで巻き込まれているだけのお母さんにも相談できる訳ないだろ! でもって一番上のお兄ちゃんは……生まれたときからアンタ達が会えなくしたせいでお話さえもできなくって……相談できる相手なんていない、自分で解決するしかないんだよ!」
「……」
「ウマちゃんだって、大切な友達だって、苦しんでいる人がいっぱいなんだ! 仕方ないから……此処に居る、ボクにとってどーでもいい悟司さんにぶつけるしかないんだよっ!」

 動きを一瞬と止めて、「そうか」と言う悟司さん。
 その悟司さんが、また銃の持ち方を変える。ボロボロになってもずっと少女のままの幽霊、その真正面に立つ。

「君には、相談できる相手が居ないのか」

 長々と大声で言い訳をしたボクを、一言で評した。

「なら、俺が君のストレスの捌け口になってやるしかないな」
「…………。そう、だね。悟司さんに会う数分前だって、ボクは憂鬱で仕方なかったんだから。もっと鬱にした責任、取ってもらわなきゃやってらんない」

 ――判った、暫く待っていてくれ。コイツをおいしく頂いたら、すぐにその役を受け持ってやろう――。
 悟司さんの目の色が変わり、恐ろしい戦闘を始める。
 彼は飛んだ。
 終了のバトルのために。



 ――2005年9月17日

 【    / Second /    /    / Fifth 】




 /5

 車を待たせているという悟司さんの言葉のままにとある駐車場までやって来ると、見たことのある男性が車体に体重を傾け立っていた。

「おかえり、兄貴。今夜は随分激しく働いていたみたいだね……って。あれ、君、みずほくんかい!? ときわの弟の! なんでここに!?」

 この人なら何度か話をしたことがある。確か名前は、圭吾さん。見るからに愛想が良さそうな人で、実家に帰省するたびに挨拶をしてくれる大人の一人だ。特に何の話をしたということもなく何気なく挨拶した中でも「いい人だなぁ」と記憶していたボクは、このときやっと「悟司さんの弟だったんだ……」と気付いた。
 意外な顔をしながらボクに質問を投げかけてくる圭吾さんの前に、悟司さんが割って入る。ボクを指差しながら「そこの道で保護した」と状況を説明していく。

「そっか、保護か。どんな理由か知らないがみずほくん、こんな夜に君ぐらいの年の子がうろつくのは感心しないな……」
「だから保護した」
「……そうか、兄貴は無駄の無い判断をしたよ。じゃあ群馬に戻る前にみずほくんのお家に向かわなきゃだな」
「いいや、その必要は無い」
「うん?」
「これから俺達だけで宿を取る。圭吾は先に解散してくれ。安心しろ、回収した魂は必ず17日中に『本部』へ持ち帰る」
「…………。宿を取るって、どこで?」
「この街にはホテルがいくらでもある。圭吾、そんなことも知らんのか」
「歓楽街でよくそんなことを言えるな、兄貴」
「ここが山奥なら車に乗せてやれと頼むがな。圭吾、お前は一人で帰れ。俺はみずほくんと共にホテルに入る」
「…………。みずほくん」
「にゃう?」

 圭吾さんは、まるで前に出た悟司さんを無視するような勢いで、ボクに近寄る。
 尚且つ、ボクの両肩をガシッと掴んだ。まるで説得する態勢。真顔だった。

「今のままだと俺には兄貴が『学生の君を連れて歓楽街のホテルに向かう非常識人』にしか認識できない。……反論ある?」
「うんにゃ、その通りだと思います」
「じゃあ、みずほくん的に追記事項はある?」
「間違っていにゃいので、なんとも。あ、でもボクは人の道は外れないつもりではいますので」
「……そうか、そうかい。みずほくんが無理矢理ホテルに連れて行かれる展開ではないなら、俺は安心して帰らせてもらうよ。でも事実と反するなら……」
「その……家に帰りたくないって言ったの、ボクだから」
「……なん、だと……。それは、みずほくんから兄貴を誘ったってことでいいの!?」

 信じられないようなことを聞いた顔の圭吾さんは、優しい人間らしい真顔で念押ししてくる。
 だからボクは「はい、問題ありません」……そう言ってあげるしかない。

「みずほくんはまだ十五歳だった筈だ! 知ってるかい、兄貴は今年で三十五歳なんだよ!?」
「……はあ……」
「世間的には充分問題あるんだよ……。でも、無意味なことをする兄貴じゃないと信じてるからきっと何か深い理由があると納得しよう、そうしよう。供給するだけなら、まあ、な。うんうん。……但し、今日中に魂が献上しにいけないって連絡は兄貴からしてくれよ」
「判った。圭吾、協力感謝するぞ」
「どういたしまして。……それじゃあ二人とも、良い夢を」

 厳しい声色のまま、何度も自分を納得させるように独り言を口走る圭吾さんは……想像に違わずやっぱり良い人に思えた。
 ボクらは圭吾さんと別れる。
 街を歩き、とある場所に辿り着く。
 生まれて初めて入る歓楽街のホテルは、予想していたものよりずっと綺麗なものだった。年齢確認なんてものはされず、ごく普通の子供でも宿泊できるような普通の宿に入っていく。散々なものを予想していたけれど、一泊したって誰も気にしない充分な施設だった。悟司さんもわざわざボクに不都合の無い所を狙って入ってくれたのかもしれない。

 自分が不良であることの自覚はあった。でも夜の街で寝泊まりするのは初めてで、許可付きの外泊とはいえ立派な不良になれた気分だった。
 悟司さんは「ゴミ箱の上を這ったから」とシャワールームに入っていく。ドタバタやんちゃをしすぎたから汗を流したいとはチェックインのときから口走っていた。止める理由なんて無いからどうぞと進めると、「時間短縮の為に一緒に入るか?」なんて誘われた。
 軽く無言で応じると、冗談だの一言も無く彼は水の中へ去っていった。……冗談も言えるぐらい大きなお風呂だったと思おう。同じく無言で、消えていく彼の背中を見送った。
 黙ってその場に留まり、テレビを点ける。有料放送に興味を惹かれたが、いやいやそういうつもりは一切無い。それでもほんのちょっとなら良いと思ってチャンネルを回したら、まさしくホテルで複数人がする行為がおおっぴろげに行われていて顔を真っ赤にしてしまった。
 速攻電源を落とし、ふかふかのベッドに顔を埋める。数分でシャワーから帰ってきた悟司さんに、「気分でも悪いのか」と心配されるほど、ボクは恥ずかしくなってしまっていた。

「みずほくんはシャワーを浴びないのか」
「いい。テレビがどピンクな時点でボクには過激すぎて、もうダウンしかけてるんだよ」
「俺は君に対して欲情するつもりは無い」

 良かった。その展開もあるかなと思ったけど、まさかそんな。あくまで今日が、ボクが慰めてあげるんじゃなくて、慰めてもらうんだから。……体ではなく。
 軽く石鹸の香りを纏わせた悟司さんが、窓際のソファに腰かける。ボクが突っ伏すベッド近辺には座らず、少し距離のある場所に座った。
 意味深な距離ではない。ドキドキするほど近くも遠くもない。わざと間を置いた所に座ることで、ボクへの気遣いを目に見える形でしてくれたような気がした。本当のところはどうだか判らないけど。

「本来の目的を思い出してくれたようだな」

 言われて、頷く。
 忘れていない。忘れかけてはいたけど。
 ホテルまで歩いて、シャワーを浴びられて。既に言い出してから一時間が経過していた。

「すっかり頭が冷えてきちゃって、慰めてもらう怒りも無くなっちゃったよ。……どうしたらいいかな」
「感情の波が収まっても、君の悩みは消えた訳ではないだろう?」
「……ボクの悩みって、案外普通の青少年っぽいコトだよ。『進路はどうしよう』とか、『家族とどうやって向き合っていけばいいんだろ』とか、つまらないものばかりだ」
「俺は君より大人だ、相槌の相手にはなれる」
「にぅ。相槌を打ってもらうだけじゃ悩みって解決できないって思ってるクチなんだよね、ボク」
「外に出してしまえば内側の蟠りは無くなるもの。騙されたと思って全部吐き出してしまえ。ずっとラクになる」

 そういうものかな、と呟けば、そういうもんだと息をされる。みんな言うぞ、決まり文句みたいなもんだからかなって、ズバリ種明かしを口にした。
 静かで涼しい物言いと、真面目なんだか興味が無いんだか判らない平然さ。元から飾り気のない悟司さんはシャワーを浴びて気を休めて、何も装飾の無いすっからかんの顔になってしまった。
 お化け退治に専念しているときは、それ用の顔を作っていた。弟の圭吾さんに話しているときは、お兄さんぽい顔を作っていた。そして今は年下のボクに対する相談役を……気取る筈なのに、オフモードに切り替わった彼はゆったりとソファに座って目を瞑っている。
 眼鏡の下は瞑っているけど、寝ようとはしていないのが気配から判る。これでもちゃんとボクの話を聞いてくれるもんだと信じて、ベッドの上で枕と正面向いたまま、声だけ彼へと向けてみた。

「お父さんは大人になって外に飛び出した。『自由になりたい』とか思ってさ。なのに自分の子供を二人も奪われて、今さっきもボクが幽霊に殺されそうになって。……踏んだり蹴ったりだよね。凄くお父さんが可哀想になってきたよ」
「……うむ」
「ここでさ。もしボクが、親戚のおじさん達が言う通り『お家に味方する』ように、悟司さんみたいにお手伝いをしたとしたら。……お父さんの『家族を自由に生かしたい』という気持ちを裏切ることになるのかな。外に飛び出したお父さんの想いを無視することになるんだし」
「ほう」
「ボクのお父さんはせっかくお家の外で暮らし始めたのに、結局お寺のことにつきっきり。お外でお母さんと出会って、全く関係無い暮らしを始めたのに、お兄さんやあさかまで巻き込まれている。可哀想だね」
「みずほくんの悩みは、藤春様のことなのか」

 確かに今はお父さんの話をしてしまった。
 お父さんが可哀想だから救ってあげたい、その気持ちもある。でもそこまでボクはお父さんのことが一番でもない。一番思っていることは、自分のこと。そこは間違いではない。
 そういうことを言いたいんじゃない。ボクはただ、将来のことを悩んでいるだけだ。
 ボク達子供は、お父さんのおかげで怖い家業を継ぐことは無くなった。けど、だから何になれという。将来の選択が自由すぎるのも困った話で……。
 ボクは、何をしたらいいんだろう。
 自由な未来を手に入れられるようにしてくれたお父さんには感謝するけど、確固たる未来を持っていないボクはどうすればいいんだろう。
 なりたいものはない。あさかみたいにハッキリ決まっていない。……なんだかみんなが自由に前を行ってしまうのが心苦しく、どうしても憎々しかった。

「何か、コメント貰える? 今のが、一番の悩みなんだけど」
「……こちらとしてみれば、『一族の願いを叶える機械になる』のは当然のことだ。我々は何故この血を持って生まれた? 血の持つ宿命を担い、遂行させるためだ。それを拒み違えた道を選ぶなど許される話ではない」
「誰が許さないの?」
「流れる血にだ」
「ボク、今までこの上ないぐらいフリーダムに生きてきたけれど、一度も『血管さん』に怒られたことないよ」

 『何故この血を持って生まれた』って、お寺のおじさん達もみんな言う台詞だった。
 でも詩的な言い方して難しく言い立てているだけで、お家の我儘に付き合わそうとしている言葉でしょ、それは。
 ボク達を創った神様が怒るから従わなきゃいけない? 違う。ボク達を縛る『上の人』に言い聞かせられて従ってるだけだ。そんなどうしようもない上下の体制に嫌気をさして、お父さんはお家を出て行ったんだ。
 精一杯逃げて、逃げ延びることは出来なかったみたいだけど。
 そしてボクが悩んでいるのはその先。お父さんと一緒に逃げ続けるか、そうでないか。

「将来のことを決めなきゃなんてボクには早いと思ってたけど、結論を出さなきゃいけないっぽいんだよ。まだコドモなのにね。……にゃううぅ」
「これだけは言っておく」
「……にゃに?」
「先程、神の為にと決められた定例句を言ったが。俺が今の『仕事』をしている本心は、俺が手伝うことで喜ぶ人がいるからだ」
「……喜ぶ人? だれ?」
「父だ。お前が父を気にするように、俺も父を気にしている」
「そうなの?」

 何も気にしていなそうな、涼しげな顔なのに。
 思ったことを口にすると、「お前と同じように、大変に悩んだ父を愛している」と真顔で答えてくれた。

「俺の父は、根っから我が家の血に染まっている。我が家に尽くすことが何よりの使命だと、そうでなければ自分の生まれた意義さえも無いと考えるほど恐ろしい盲信者だ。異常なまでに我が一族を愛している。思想を穢されることを何よりも嫌い、守るためなら何だってする男だ。……みずほくんような子が最も苦手とする人間だな。だが直向さは徹底し、誰よりも俺達のことを想ってくれている」
「…………」
「それに俺は心打たれて、親父についてきた。だから俺は君に模範解答で諭すことができるぐらい、我が家寄りの考えなんだ。父の想いを則りながらも、憧れて、俺があるのだから」
「……ふうん」
「でも、俺だってこうなる迄に時間がかかった。父の愛が大きく重すぎて、嫌になる事だってあった。けど最終的にこうなった。……後悔は、あんまり、無い」
「そこ、『あんまり無い』なんだ。『完全にお父さんを信じている』じゃなくて」
「父は俺を生んだ種には違いないが、父こそが神そのものじゃないからな。……でも、父は大切な一人ではある。大切な人間、こう言い切るまでに俺も時間がかかった。今はあっさり言えるが、君ぐらいの年齢のときはどうだったかな」

 口が裂けても言えなかったかもしれない。
 さらりと言うから「そんなのウソでしょ」って言いたくなるぐらい、この人は涼しい顔だ。でも、眼鏡の下の懐かしそうな目が……嘘を吐いているような顔にも見えなかった。

「君の父だって二十年以上は考えて『外に出て自由を手にする』という未来を掴んだ。俺ですら十年以上考えて今を掴んだ。……十五年しか生きていない君が決断を迫われているとは言ったが、今全てを決める必要なんて無いんだよ。必要はあるかもしれないが、その考えた一瞬で終わる話でもないんだよ」
「……もうちょい軽くいけってこと?」
「ああ、ゆっくり確実な答えを見出せばいいさ。一度出した答えを覆しても、それは君自身が悩んで選んだ結果。たとえ一度結論が間違いだったとしても、訂正して正解となれば人生として正解になる。間違っていても訂正の後に訂正を行ない正解すればいい話」
「人生としては正解、ね。……全問正解な人生を送れる人間なんて、居るのかな」

 さあ? 大人っぽく諭してくる悟司さんが、肩を竦める。
 指導はしてくれるけど、こうしろという命令ではない。こうなんだという断定でもない。だから判らない曖昧なところがあったら、「さあ」とトボけた。相談に相応しい相槌だ。

「どの世界の神も、皆に崇められるまでに苦労をしてきた人が多いそうだ。一発で最高の決断を選択できるなんて、『何度か人生やり直さない限り』無理な話だ。『そんなこと、出来る訳が無い』がな」

 …………。

「なんだ、みずほくん。目を瞑って。……眠くなってきたか?」
「…………。にゃ、う……うん」
「そうか、なら寝ろ。朝になったら起こす。昼過ぎには家に送ってやる。俺はソファで眠るからベッドを自由に使えよ」
「……寝ている間に変なことしないでね?」
「ふ。君がしてほしいと言うならしてもいいぞ」

 あ、今この人ニヤッと笑った。すっごいエロイ笑い方だった。いや、エロイ笑い方って日本語意味判んないけど。
 しないでと言うならしない人だよね、きっと。そう思いたい。

「誘うもそうでないのも君の選択。一つの決断が過ちを招くかもしれない。だが、一つの決断で人生一つを間違えるものではないぞ」

 それだと、ボク自体が間違いを望んでいるように思えてくるからヤメてほしい。
 ……またこういう風に、何度も相談乗ってくれる仲になれたなら。そのときは、今は間違いだと思っても、そうじゃなくなってくる日が来るかもしれない。
 そういうものだ。そのときでは判らない、その先どうなるかも判らない。でもいつしか人は『何か』に辿り着く。だから……楽観視して人生を送ることが得。上手く生きていける秘訣なんだ。
 そっか、そっかと枕の香りを嗅ぎながら頷く。
 悩んだら、それだけ苦労して消耗して寿命が減っちゃうもんだ。お父さんがあーだこーだとか言ったけど、ボクが選ぶ道なんだし。……結局は、大変な結論は後回しか。暴論かもしれないけど、それがボクを守るすべなら、そんな終わり方だって構わないんだ……ね……。

「……おやすみ、みずほくん」



 ――2005年9月17日

 【     /      /     /      / Fifth 】




 /6

 ――ちょっとした夢を見た。

 ボク達兄弟が、少しだけ大きくなって暮らしている夢だった。学校では背の小さい部類だったボク達も、ちょっとだけ大きくなっていて、ちゃーんと生きていた。
 何をしていたかというと、よく判らなかった。
 夢だからリアルティなんて、てんでなかった。ただボクらは大人になっていて、どうにかこうにか生活を楽しんでいるという、曖昧な夢だ。
 夢の世界でもあさかはお医者さんになれたかな。ちょっと先の未来だからそれはないか。でも、それに近付く道には進んでいるのかな。ボクは、おいてけぼりになってないかな。
 ウマちゃんはどうしてるだろ。お父さんは、そんなボク達を……。
 あれ、寄居ちゃんが見えるや。どうして寄居ちゃんが? いや、お寺なら居るのは普通か。おかしくないか。
 そうぼうっと大人になったボクが考えていると、剣がボク達を切り刻んでいった。

 夢だ。
 枕が変わったというのに、あの夢。ベッドから飛び起きて、ゼイゼイと息を吐く。自覚があった「夢だ」という感覚を、もう一度確認した。

 夢だった。
 恐ろしい夢を見てしまった。夢を見てしまっただけだった。『いっつも見てしまう』悪夢。ちょっと大人になったボク達の人生が、終わる夢。
 いいや、大人って言ってるけど、どれくらい成長してたときのこと?
 社会に出て働いていたぐらい? 高校を卒業したぐらい? ……そんなに遠くない未来だった?
 近い未来で、ボク達が斬り刻まれて終わる夢を見た。夢なんてなんでも可能な世界だから、そういうことがあっても仕方ない、か? 死に欠けるなんて非日常があったとしても、夢の中なら。
 ……あ、決してありえないことじゃないんだろうな……いつだって死にかけるボクらにとっては。
 現に今日、消火器で爆死されかけたことだし。魔法の銃を撃ちまくる男性に抱えられて逃げた一日を暮らしたことだから、そういう未来の結末もありえる。
 決してありえない夢ではない、けど、そういう未来は……。
 ボクが何かと悩んでいるときに決まって見る夢がある。アレも、深層心理ってヤツなのかなぁ。どういう意味なのか……。

 真冬だった。
 寒かった。お寺だった。寝込んでいる『誰か』がいた。……何故か……ボク、その人に斬られた。
 つまり、ナニ。……イミ、わかんない。

 判らなくても仕方ない。だってあれは、夢。あれは夢。ボクの何気ない意識がちょっとだけ悪戯しただけの、夢。だからあんまり気にしたらいけないんだうけど、気にしたら駄目なんだけど。
 夢の中で『ある一つの可能性』を見せられた。『そうなる可能性がゼロじゃないもの』を。
 忠告? 殺されるなって自分が注意してくれたの? そんなの注意されなくったって判ってるよ!
 なんだかボクには……誰かが『そうなれ』と、命じているかのように思えた。

 遠い、いや、ほんのちょっと先の未来の先を見てしまった、ボクに。



 ――2005年12月27日

 【     / Second /     /     /     】




 /7

「31日の朝にお寺に行くってさ」

 あさかが部屋の入り口から声を投げてくる。
 頭には毛糸の帽子、肩からバッグを掛けちゃって、スニーカーを履いたらそのまま飛び出せるってぐらい出掛ける準備万端。
 今日は、学校の友達と今年ラストの遊びに行く日らしい。約束の時間まで余裕があるのに、優等生なあさかはもう出掛けようとしていた。

「朝の七時には車を出すから、それまでに荷物を整理しておけって。僕はちゃんと伝えたよ。『聞いてにゃーい!』なんて言わないでよ」

 笑いながらあさかはお父さんの言葉をボクに伝えて、「いってきます」と消えていった。
 今から家を出たら、約束の時間の三十分前に到着しちゃうのに。気の早い、遅刻は絶対にしないと決めた真面目な彼はさっさと外に出て行った。
 マンションの玄関が閉まった音を、ボクは自分の部屋のベッドの上で聞く。
 まだボクはパジャマ姿だった。その音を聞くのも、あさかに「いってらっしゃい」を言うのも、お父さんの言伝を聞くのも、全部ケータイを見ながらこなしていた。
 ずっとメール画面を見ていた。

 ――あさかが出て行って三十分が経った。そろそろ友人達と合流楽しく遊びに行く頃だ。
 お父さんはきっと仕事中。ウマちゃんは何をしているかな。あさかみたいに誰かと遊んでいるか、勉強をしているか『仕事』をしているか。
 どこかで誰かが何かに励んでいるとき、ボクは気ままにベッドの上でケータイを眺めていた。
 三十分間も同じメールを。
 三十分。何にもしないでメールを見ていたボク。でもこのままじゃいけないと思って行動に出る。
 動き始めたのはボクの指先。ベッドの上で転がりながら、何度も寝返りをうちながら、メール返信をすることにした。

 送り主:悟司さん。
 件名:無題。
 本文:何か悩みがあったらここに連絡してくるように。■■■@■■■■■■.ne.jp


 以前、こんなメールが受信されていた。
 いつの間にボクのアドレスを調べたんだ。どうやって調べた。
 考えられるのは、ボクと悟司さんの共通の知り合いを経由して知ること、かな。ウマちゃんや寄居ちゃんはボクのアドレスを知っているし、二人は『退魔の仕事』をやっているから同じようにお化け退治をしている悟司さんと交流があるのかも。そこから教えてもらったりすれば。そうでなくても、お父さんに教えてもらったとか?

 この前。ボクは悟司さんと同じ部屋で寝た。とあるホテルで一泊した。そしてその後、お家まで送られた。悟司さんはお父さんとちょっとだけお話をしてたっけ。ボクはあさかに話しかけられたせいで二人の会話が聞けなかったけど、その際に連絡先をやり取りしたっておかしくない。バイバイした後に、お父さんに連絡する方法なんてお寺の悟司さんならすぐ出来るだろうし。
 まさかボクの知らない人がボクの個人情報を知ってるとは思いたくない。きっとヤバイことじゃない。そう信じ込むのに、三十分も掛かってしまった。
 勝手にボクの身近なところに関わってくるのは、あまり気分の良い話じゃない。
 でも嫌な気分の過半数は相殺されて消えた。だって件名が「元気?」で本文が「苦しかったら相談してね」だなんて。目に見えて自分を気遣ってくれる人を無碍に扱うことなど出来なかった。

 Aの日、淡々と答えられたとはいえ、悟司さんは親身になってボクの相談に乗ってくれていた。
 夜が遅かったから話すだけ話して先にボクが寝ちゃったけど。話し足りないことは沢山あった。家に送られ、別れ際に「また機会があったら」なんて話したけど、その機会を作ってくれるとは。
 ちょっと怪しい人だけど、マメな人なんだなぁ。最初は妙な感覚に襲われたが、今は悪い気分は無い。
 メール、したい。返信がしたい。でも、何て送ろう?
 ベッドの上でごろんごろん、あれやこれや悩んでメールの内容を考える。朝から考えてるから日はとっくの昔に昇っても、未だパジャマのままばたんばたん。
 今日のお父さんは朝早くから仕事で外に出て、朝食は自分で用意する形式。あさかはきっちりいつもの時間にニュース番組を見ながら食べてたけど、ボクはお休みだし予定無いしでまだ食べてない。ゴハンも食べずにお布団の上でじったばった。
 ケータイを握り締めて暫く考えて、暫くのつもりが相当な時間を費やしていることに気付いて、とりあえず、

送り主:ボク。
件名:(@⌒ー⌒@)
本文:今、ヒマ?


 たった一文、声を掛けてみた。
 わくわく、どんな言葉が来るのか待ってみる。ケータイをシーツの上に投げて、休日らしくごろごろしながら受信を待つ。だがすぐには返信は来なかった。
 パジャマ姿のまま朝食を準備し食べて、片付けまで全部済んだとき、やっと返信が来た。
 遅い。十五分も掛かった。あっちはお仕事だったのかな? もうすぐ年末だけどお家のお仕事は年中無休らしいし。お休みはあるのかな、大変そうだな。
 思いながら届いたメールを見てみると、

送り主:悟司さん。
件名:Re:(@⌒ー⌒@)
本文:今、暇を作った。用件は何だ。何も内容が無いぞ。


 わざわざ時間を作ってくれたようなことを仄めかす文章があった。
 ビックリした。時間を空けてくれたのか、わざわざ……。申し訳無さと、思ったより暇なんだという想いが混ざり合う。即座に、

送り主:ボク。
件名:(* ̄0 ̄)ノ
本文:また相談に乗ってくれるの?


 と、一文だけ打ち込む。送信。
 時間が余っているならすぐに返信が来る筈だ。わくわくしながら返ってくるのを待つが……。

送り主:悟司さん。
件名:Re:(* ̄0 ̄)ノ
本文:ああ。


 その相槌の一文が返ってくるまで、たった二文字の言葉がボクの元に届くまでに、十五分を有した。
 全然、時間作れてないじゃん。
 お仕事の合間に送ってきてくれてるのかな? それとも、悟司さんはめちゃくちゃメールを打ち込むのが苦手だとか? 後者は無いと思いたいけど。
 返事が来るまでの十五分の間に、学校の宿題を一項目終えてしまった。先週終わって冬休み中に入り、夏休みほどじゃないけど長期休暇用の宿題が出されている。少しずつやっておこうと思って十五分間。相談にこんなに時間が掛かるなんて。

送り主:ボク。
件名:(*・ェ・*)
本文:どんなこと訊いてもいいの?


 ぱぱっとボクは一分も、いや三十秒もかからず一文を打ち込む。そして送信。
 長い話に入る前のワンクッションのために打つ、内容の薄い一文。これから話し合うための準備体操というか、呼吸というか。なのにまた十五分も経ってから、

送り主:悟司さん。
件名:Re:(*・ェ・*)
本文:ああ。


 たった二文字が返ってきた。
 ……既に宿題を三十分もやってしまった後だった。話の準備だけで三十分ってどんだけ遅いんだよ。返せないぐらい忙しいなら相談なんていいよ、と送信してしまいたくもなったが。
 聞きたいことを聞くチャンスだった。
 宿題をする時間を確保するチャンスでもあった。
 今日は一日、予定は無い。お父さんやあさかも家に居ない。何もしてなかったらボクは宿題さえも放棄する。でもここで、『悟司さんからの返信を待っている間、勉強する』と決め込んで実践すれば……今年の冬は愉快に過ごせるかもしれない。
 間接的に悟司さんに見張りをしてもらうということで。それは良い。丁度良く休憩時間も挟めるし、長期休暇用の宿題って言っても所詮二週間分、頑張れば半日で終わる量だ。

 送り主:ボク
 件名:ヽ(^-^)(v^ー゚)
 本文:じゃあ、質問するよ?


 たった一文、送る。
 そうして十五分後。

送り主:悟司さん。
件名:Re:ヽ(^-^)(v^ー゚)
本文:ああ。


 たった二文字の返事で、勉強総タイム四十五分。
 あと一返事分頑張ろうと、良いタイマーを見付けた気分で、ボクはメールを打ち込んだ。

 ――十五分後、悟司さんからの返信を知らせる着信音が流れた。
 時計を見ると、一番最初のやり取りからピッタリ一時間。となるとボクは一時間も勉強をしていたことになる。あさかも驚きの優等生っぷりだ。おかげで冬休みの宿題は半分以上終わっていた。
 ケータイには手を付けず、一度キッチンに向かう。冷凍庫からアイスを取ってきて、あったかいベッドの上に転がって封を切った。
 冬。外はひんやり、自宅はぬくぬく。ふかふかしたベッドでアイスを食べるなんて贅沢なこと、疲れた脳には最高のご褒美。一時間も現実世界で奮闘してたんだ、これぐらいのリッチを体感したって構わない筈……と、お行儀悪く寝ながら棒アイスを口にした。
 ついでにケータイを開いた。悟司さんからの返信を読む。

 送り主:悟司さん。
 件名:2002年3月22日について。
 本文:君が寄居とあさかの事件に関して知りたいのは判った。まず、君は「反転とは何か」を知っているか。皆、「反転」と大まかに口にしているが、何も知らない君のために判りやすく説明していこう。反転と呼ばれている症状は、「自分以外の魂に身体を乗っ取られ暴走、異端と見なされること」と考えろ。人間は一つの身体に対し、一つの魂を持って産まれてくる。魂とは生き物の情報、個人を表す最も重要な核だ。身体という舟に魂という操舵主を乗せて人間は生きている。魂は(ある特定の条件を満たさない限り)舟から出ると消滅してしまう。舟もまた壊れたら沈没するのみ、魂も消滅してしまう。生き物は死ぬということはそのどちらかだ。一先述したが、ある特定の条件を満たした魂は、身体(舟)を抜け出しても消滅せず存在し続けることがある。俗に言う『幽霊』と呼ばれているものだ(身体を持たない者を広い意味でそう呼んでいる)。だが、魂だけで存在している状態はとても不安定だ。不安定な魂を安定させるためには、本来の魂の入れ物である身体(舟)に入れておくのが一番良い。「幽霊が人に憑依することがある」のは知っているか。あれは力のある魂が、無理矢理に身体に入り込み、言わば他の舟を強奪し、元の魂が座っている操舵席を乗っ取るようなもの。それで事態が収まればいいが、大抵はそうはいかない。本来の魂が操舵席を取り戻そうと必死になって舟の中で争い合うからだ。魂の座りの良くないときの人間は、傍から見ればひどくおかしいものになる。真っ当な反応は出来ず、人らしい言動も期待できない。魂同士の攻防戦だけでなく、そうでなくても凶暴な魂が操舵席を奪ったら、その舟は乱暴な操縦を始める。人間の舟に肉食獣の魂が居座ったら、人間社会では生きていけないものだろう。力のある魂は身体を乗っ取ることが出来るが、それ以外に身体に複数の魂が生じることは、まず無い。だが我々、仏田一族は一家相伝の『刻印』を通して『魂を自分の身体に収納することができる秘術』を編み出した。人間は通常、生まれてから自分の魂以外は舟に乗せることが出来ないとされている。我が一族は特別な血を引くことで『刻印』を乗り込み口とし、自分の身体(舟)へ自分以外の魂を乗せることが可能となった。『刻印』から魂を自由に入れることも出すことも出来るようになった。我々は退魔の際に魂を『刻印』を通して回収する仕事をしている。寄居の話になるが、寄居の身体には既に寄居以外の魂が『刻印』を通して収容されていた。そしてその後は――――。


 改行が一切無くて読みにくい。空白さえも入れてない。人が読むことを意識して打たれていないメールだった。
 さっきまで十五分かけて『ああ』しか送ってこなかった人が、ボクは中身のある質問をした途端この内容って。二文字しか送ってこなかったときは本当に忙しかったのかな、でもってつい十五分前から暇になったのかな。……よく判らない。
 改行が無い一行に文字がびっしり並べられているメールを、深呼吸しながら読む。悟司さんなりに、一切知識の無いボクのことを考えて判りやすく説明しているようだった。
 ボクは幽霊に会ったことがないから簡単な例を、ボクの身体には『刻印』が無いからその知識を、ボクの中にはボク以外のモノが存在したことなんて考えたこともなかったから、その話を……じっくり一つ一つ例を挙げて話してくれている。
 魂。身体。舟。船長さん。特別な血。刻印。
 次から次へと出てくる重要なワード。メールを上へ下へとスクロールして、何にも無かったボクの中へ染み込ませていった。

 本文:――――そしてその後は、判ってくれるか。2002年3月22日。寄居の中で本来の寄居の魂と、それ以外の魂とで攻防戦が生じてしまった。このとき、寄居の操舵席を奪おうとした魂はとても凶暴な異端のものだった。奪うなり周囲に危害を加えるという、非常に恐ろしい存在だった。運悪く、寄居の反転時に近くに居たのが、あさかだ。

 あさかだ。……あさかだ……。
 悟司さんはそんな事実を語ってくれた。2002年3月。約三年前。あさかがこの日、何があったかの真実を。

 本文:操舵席を化け物に奪われた寄居は、寄居ではないものになってしまった。反転してしまった者は総じて助からない。尚且つ、一般人を傷付けてしまった能力者は異端として見なされる。刑罰の対象になる。それは故意ではなくてもだ。どんな罪でも意識してないからといって危害を加えた者を「仕方ないな」と放置することはない。異能の世界は更にその処罰が厳しい。寄居が寄居として戻ったとしても、今までの世界で生きていくことは難しく、許されることではない。だが寄居は戻ってきた。我が一族は『刻印』を通じて多くの魂を自身に収容する血だ。だからその耐性がある程度ついていたと考えるといい。我々は反転した際に人より助かる可能性が高く、寄居も奇跡的に助かった一人だった。と言っても事件後寄居の身体はとても不安定な状態で、隔離しなければならない状態だった。それは被害者のあさかもだった。あさかは寄居以上に助かったのは奇跡と言われる程だった。何せ体に穴を空けられたのだから。『本部』と呼ばれる仏田の有力者達による懸命な治療があって救われた命だった。あさかは異端と化した寄居に半分以上、食べられていた。胸を、真ん中を、ドーナツの穴を空けるかのように中央を、がっつりと食べられた――――。

 ……胸? ドーナツの穴?
 改行が一度も無いメールをまた上へ下へ流す。判りやすく例のつもりで書いている表現が、余計にボクを混乱させた。
 でもメールには『ドーナツの穴のように胸を』と、ある。……どういうこと……?
 寄居ちゃんが、あさかの胸を食べた……? 胸って何? ……本当に、胸? 例でもなんでもなく、『胸部に齧り付いた』ってこと? どこまで食べたの? だって身体を食べられたら、今、あさかが生きてるわけ……。

 本文:――――がっつりと食べられた。寄居はあさかの胸を食べた後、自分の右腕を食べたという。寄居がちょうど自分の右腕を切り離したときに第一発見者である照行様と慧によって現場を取り押さえられ、二人とも一命を取り留めた。退魔の一族の生まれであるとはいえ、一般人の少年を傷付けた能力者の寄居は、治療とお縄も兼ねて仏田と親交の深い瑞鶴超人類能力開発研究所へ送られることになる。被害者であるあさかは治療のため、こちらも仏田とかねてから交流していた翔鶴会病院へ入院することになった。それ以後は無事彼らは日常生活を送れるレベルまで回復。寄居は二年前に退魔の仕事をこなせるようになり、今でも活躍中だ。あさかに関しては、運が良くなければ生きていなかったが今は一緒に暮らしている君の方が詳しいだろう。

 以上で、メールの本文は終わり。
 約三年前のあの日。これがあさかが入院した理由。長期間、お家に帰ってこなかった理由。寄居ちゃんがあさかを傷付けた理由。
 ボクはお父さんから「あさかが入院したのは怪我をしたから」と聞いていた。その数日後、「あさかが病気になったから」と聞いた。そして数週間後、ウマちゃんから「それ以外」を聞き、お父さんとウマちゃんの話を盗み聞いたことで「更にそれ以外」を耳にした。
 いつしか「あさかと寄居ちゃんの二人に何があったか」は、聞いてはいけないことになっていた。
 だって聞くと誰かが悲しい顔をする。だから察せって。
 今までボクは、3月の事件が何だったのか判らずにいた。……ウマちゃんはどこまで知ってるのかな?

 今まではあさかがこの家から一時的に居なくなった理由を、ちゃんと聞くことが出来なかった。聞いてもすぐに訂正された。
 だから誰かに真実を教えてもらいたかった。もしかしたら悟司さんが知ってるんじゃないかと思って尋ねてみたら、砕いた表現で教えてもらえたなんて。……本当に真実なのか確かめる手段は無いけど、多分これが、本物なんだ。
 寄居ちゃんは、悪い化け物に操られて暴れてしまった。
 暴れたときにあさかがいて、悪い化け物になってしまった寄居ちゃんに殺されかけてしまった。
 二人とも大怪我を負って遠くの病院に入院。特に寄居ちゃんは罪を犯したと同じだから、少年院みたいなところに送られた……。
 今、寄居ちゃんが普通に暮らしているのは刑を終えたから、治療が済んだから、もう大丈夫だからってことなのかな。あさかが無事帰ってきたのも、怪我が全部治ったから……。

「この程度だったら、お父さんも……隠さなくていいのに。なんで言わなかったんだろ」

 ボクにはちゃんと話が届いてなかった。
 お父さんは「どうして?」と聞いても曖昧な返答しかしてくれなかった。ウマちゃんだってそんなお父さんを不安に思っただろう。
 ちゃんと説明してくれれば、責めたりしなかったのに。だって、充分に納得できる理由だ。悪い奴がいて、そいつのせいで寄居ちゃんがおかしくなっちゃって、あさかも襲われちゃって……。
 それに二人とも無事帰って来た。今まで通り暮らそうとしている。大袈裟な話じゃない。わざわざ隠すことなく本当のことを教えてくれたら、事情を知っているなりにぎこちなくも帰ってこようとしている二人を迎え入れたっていうのに。
 と言ってもこのメールでの説明は、悟司さんがとても判りやすく書いてくれたもの。本当はこれにもっと複雑な問題とか関わってくるんだ。もしやそこにお父さんは引っかかったのかもしれない。ボク達に話したくない何かがあったのかも? ……そう、寄居ちゃんとあさかだけじゃなく、お父さんも許そうと思う心が働く。
 こういうことだったんだと断片的な情報しかなかったボクの中に納得が生じて、少しほっとした。これで何か解決した訳じゃない。何が何だか判らなかったことが一つ知れただけ。ボクの悩みはまだ大量にあるけど、「誰かから確実に答えが貰える、判らなかったこと」は一つ解消できた。
 はぁ、と深呼吸をする。物凄く長文のメールを飲み込むのは大変だった。でもどれも必要な文章だった。『ああ』を十五分で返すのはどうかと思ったけど、この長文を十五分で返すのもなんなんだか。悟司さん、イマイチ判らない人だなぁ。
 『ありがとうございます』。そう一文打ち込んで、送信。
 しようとして、キャンセルを押した。

「……三年……いや、二年前?」

 お礼で十五分使うよりも、言及で十五分使った方が良い。そう思ったから質問に切り替えた。
 アイスを食べ終わり、あったかいココアを飲むためのお湯が沸いた頃。悟司さんの着信を伝える音楽が部屋に響いた。
 ココアの準備を完了するなり、ボクはベッドに置いておいたケータイを拾う。きっかり十五分での到着。狙ってるんだかそうでないんだか、なんでこのペースで送られてくるのかが判らない。二文字以外の返信であることを祈りながら、画面を覗き込んだ。

 送り主:悟司さん。
 件名:寄居の退魔業開始について。
 本文:寄居の初任務は、2003年2月16日(日)。同伴者は四名(■■、■■、■■、■■)。


 ボクは『寄居ちゃんはお仕事っていつ始めたの? 昨日の悟司さんみたいにお化け退治だったんだよね?』と質問した。その返信がこれ。今から二年前に、お寺に居る僧侶さん達(名前を挙げられても、全員知らない人達だった。こんな人いるんだ)と行ったこのお仕事が、寄居ちゃんにとっての退魔デビュー戦らしい。
 どんなお化け退治だったか、何匹倒したか、何日で倒したか、怪我人は何人か、魂をいくつ回収したか。なんだか難しい言葉が報告書のものっぽくそのまま載せられている。
 前のメールよりずっと文章量が短い。なのにこんなに時間が掛かったのかよ。そんなことにつっこんでる場合じゃない。
 今から二年前。
 2003年の2月。
 今から三年前。
 2002年の3月。
 思わず「おかしいじゃん」と口に出してしまう。誰も居ないマンションの部屋の中で、悟司さんの言葉であるメールに向かって。
 え、でも、「おかしい」って思っているのはボクだけ? ちゃんとした知識を身につけてないボクがおかしいと思っているだけなの?
 率直な感想と追加項目を求めてボクはメールを返信する。ココアはあつあつで作っちゃったから、ネコ舌のボクに丁度良い温度になったぐらいでメールが来る筈。それを期待して熱湯をフーフーしながら返信を待つ。
 十五分後。最初の一口をやっと飲めるようになる。着信音が鳴ってもいい頃だ。
 でもメールは来なかった。

「…………?」

 さっきまで十五分刻みで機械的に送られてきたのに、十六分になっても十七分になっても、悟司さんからの返信は無かった。
 新しいお仕事が入っちゃったのかな。暇になれる時間、オーバーしちゃったのかな。
 冬休み中のボクと違って、自営業のド真ん中で働く彼は時間の使い方がボクとまるっきり違う。だから返事を催促することはしない。二十分になっても二十五分になっても、そして三十分、四十五分になってもやって来ないメールに胸がざわざわしながら、ボクは宿題をするために机に向かった。

 ――帰って来たあさかは、『お寺に持って行くお土産』を買ってきていた。
 お寺に住んでいる火刃里や尋夢ちゃんにあげると言う。「ボクも何か用意するべきなのかな」と言うと、「僕達二人のお土産だよって言えばいいよ」だなんて、あさかは言う。自分だけの功績にするつもりはないと言うかのように。欲なんてもの、全く無いって言うかのように。
 どこまでも優等生でいい奴なあさかにムッとして、大人げなく、

「いいよ! 明日はボクが外出してお土産買ってくるから! あさかは一日中勉強してなよ!」

 今日のボクみたいに、と馬鹿馬鹿しく声を荒げた。こんな些細なことで腹を立てるなんておかしいって判ってる。自分で声を張り上げておきながら「しまった」と反省した。
 あさかは、一瞬で反省したボクを見て笑う。次に発した言葉は、

「たった一日で宿題を終わらせちゃうなんて、みずほは凄いね」

 だった。
 ……どこまでもボクが子供っぽく、あさかが大人になっている。差を感じさせられる一幕だった。
 この程度のこと、帰って来たお父さんは喧嘩とも思わなかったらしい。何も言わない、いつも通りのお父さんをしていた。
 ボク一人があの夜みたいに陰鬱としたものを抱えこんで部屋に戻ると、ケータイが光っていた。メールを受信したらしい。開いてみると、数時間ふりの悟司さんのメールだった。
 やっぱ自由にできる時間を過ぎちゃったのか。そうだよな、一時間以上メールにつきっきりなんて無理だもの。お家でお仕事してる人なら色んなことしなきゃいけないよね。
 明日出掛けるならそろそろお寺に向かう準備をしなきゃいけないけど、それはメールを見てからでも遅くない。ベッドに横たわりながら悟司さんの言葉を見る。

 送り主:悟司さん。
 件名:寄居の反転事件と退魔業開始時期について。
 本文:何がそんなにおかしいのか俺には判らない。


 メールにあるのは、たった一文だった。
 ……数時間も待って、たった一文。二十字程。がっくりした。
 でもメールに画像が添付されていることに気付く。なんでいきなり添付ファイル? しかもちょっと重い? 見知らぬファイルは開かない方が良いというお約束が頭をよぎったけど、悟司さんがヤバイものを送ってくることはないだろうし……信頼してファイルを開いてみる。
 ネコ画像だった。

「ッッッんんっっにゃゃあああああああああぁぁ!!!?」
「み、みずほっ!? どうしたの!!?」

 思わず叫んで、お風呂場に居たあさかに心配される。帰ってお酒を飲んでいるお父さんですら「何があった」と真面目な顔をされてしまった。
 素直に「カワイイネコ画像!」と見せつけると、「あっそ」と二人とも元居た場所に戻っていく。……あまりに淡々とした動作だった。ちょっと悔しい。こんなにカワイイのに感動しないなんて、二人とも壊れちゃってるんじゃないかな、頭。
 お寺の中から撮ったらしい、お庭の草むらでネコ三匹、彫刻のように並んで座っている写真。
 見たことある景色だし、ファイル名の数字からして今日撮ったものだ。……悟司さん、ボクがネコ好きだと知ってお寺のニャンコを撮ってくれたのかな? わざわざ? ボクがネコを見ると喜ぶからって? ちょっと遅れて返信することになっちゃったからって……?
 変な気遣いに「やっぱ悟司さんっておかしい人」って思いながらお礼のメールを送ろうとした。今度こそありがとうを打ち込んでメールを送信しようとしたとき。いきなり電話受信の画面に切り替わった。


 ――2005年12月27日

 【     / Second /     /     /     】




 /8

 ケータイを手にしていたら突然の電話。
 驚いて、つい電話を切ってしまいそうになる。でも咄嗟に通話ボタンを押すことが出来た。通話状態になる。急いで部屋のドアを閉めた。

「……さ、悟司さん……?」
『元気か』

 ディスプレイで確認する前に通話しちゃったけど、このタイミングで電話をしてくるのは……予想通り、悟司さんだった。

「さ、悟司さん! ……ニャンコありがとう! アレってお寺のニャンコだよね!? ボクの為に撮ってくれたんだよね!? ありがとーっ!」
『あの程度の写真でも、君は喜んでくれるのか』
「うん! だってニャンコだもん! ボク、ネコ大好きだもん! ……って、あれ? なんで悟司さん、ボクがネコ好きだって知ってるの?」
『一晩中ずっとにゃーにゃー鳴いて、ネコのグッズを大量に付けているのを見させられたらな。あれでネコ嫌いだったら大した奴だと思うぞ』

 今の台詞、一部がちょっとだけいかがわしい。ボクの頭がふざけてるだけかな。
 溜息を吐くでもなく、馬鹿にするでもなく、少しやわらかい声の悟司さん。とても優しくてなんだか耳に心地良い。久しぶりに聞く悟司さんの静かな声はどきどきした。メールでは空白を一切入れない喋りだけど、実際の話し方はゆっくりと落ち着いたもの。ついついベッドの上で正座をして聞きたくなる声だ。

「にゃっ。それで……いきなり電話してきて、何?」
『まずは謝ろう。すまない』
「えっ……?」
『メールが中途半端に終わってしまった。……少しこちらでトラブルがあった。予定外のことがあってな。それに追われていた。これからまた一仕事しなくてはならない』

 部屋の時計を見ると、もうすぐ夜十時。
 メールが途切れて半日経つから、そのころからトラブルでてんやわんやしてたってことかな。つまり今は、お仕事の休憩時間……?

「休まなくていいの?」
『一仕事あると言ってもな……数人で、『化け物』を食事してくる。なに、捕まえた獲物を皆で分け合うだけだ。楽しみでもある』

 夜からお仕事というより、お疲れ様会があるってこと?
 一人じゃなくて何人かとするんだろうけど、夜から集まるなんて毎日大変そうだ。楽しみだなんて言っていても、夜に動いていたらその分、寝られなくなるってことじゃないか。……やっぱりそれは辛そうだ。

「休まなくていいの? ……今は」
『今?』
「休憩中なんでしょ。これからお仕事しなきゃいけないんでしょ? ……ボクと電話してて大丈夫なの? 仮眠とか取ったり、ご飯を食べる時間にした方が」
『仮眠も取った。飯も食った。やらなければならないことは全て終えた。全部済ませたから昼間から話していたみずほくんとの時間にしたんだが。元気な声を聞けば俺も元気になる。回復方法に君を使わせてもらっているんだよ』

 ――嫌か? 不満なのか?
 電話越しに笑われた。冗談めかした声で、というより、本当に面白がられて笑われてしまったような声だった。
 電話だから顔は見えない。でも声からして笑っているのが判る。……これからのお仕事、嫌じゃないんだ。それとボクと電話することも、嫌じゃないんだ。
 そう思うと、ボクも自然と唇が歪んでいた。にまーっと、黙っているのに口角が自然と上がっていた。ボクと話すと元気になるという言葉がちょっと嬉しかったから、ついつい笑ってしまった。

『さて、昼間の続きだが』

 ベッドの上で正座して、にまにましながら電話。
 ちょっぴり黙ってしまったボクに悟司さんは咳払いをして、話をしようとする。その咳で、自然とボクは姿勢を正す。

『みずほくんのメールを見返して思ったことがある』
「にゃ、にゃに?」
『君は、寄居の初仕事と反転の時期がおかしいのではないかとメールしたな。おかしいとしか書いてなかったから、俺には何に引っかかるのか判らなかった。時間を空けて読んでみたんだが、君が気にしている問題は何だ?』
「……寄居ちゃんの舟の中に、魂が二つ以上ある。それが『いつから』ってコトだよ」

 一つの舟につき、操舵主は一つ。一つの身体につき、魂は一つ。『刻印』を持っている仏田の者は身体に別のものの魂を、自由に出し入れすることが出来る。
 元々の魂と争って別の魂が身体を奪って暴れることを反転と言うなら、当然、2002年の反転事件を起こした寄居ちゃんの身体には、魂が複数入っていたということ。でも寄居ちゃんが『刻印』を使って仕事をし始めたのが、2003年。

「ボクは退魔の事情とか一切知らないからさ……お仕事を始める前に、練習するために複数の魂を所持してみるとかが普通だとしたら、まったくおかしいことなんて無いんだけどね」
『うむ』
「何にも知らないボクがあの説明を受けたときに、デビュー戦のときから『刻印』を使い始めると思ったの。それまでは通常通り一人につき一つだと思ったの。だけどなんで2002年の時点で、寄居ちゃんに魂が二つ以上あったのかなって……」
『ちゃんと説明しよう』
「にゅう?」

 やっぱり何か違ったのか。悟司さんがボクの話にストップをかける。
 暫く悟司さんは黙る。ゆっくり思案して、じっくりと事情を説明し始める……。

『2002年の時点で、寄居には複数の魂があった。それは、みずほくんの言う通り。既にあの段階で、寄居は退魔業を始めるために修行を行なっていた。実際に外界に出て任務に就くのはまだでも、刻印の作動方法や供給のスイッチの入れ方、能力の扱い方を全て習っていたんだよ』
「あ、やっぱそうなんだ……ボクの早とちりだったね。ごめんなさい」
『刻印の話もされなければ、供給や能力の使い方も学ばない……外で暮らしている君らが判らないのは、無理もない。教えてくれる人間がいないんだから、非を認める必要は無い。謝るな』
「ありがと。今は悟司さんが教えてくれる。すっごくありがたいよ」
『ふ』

 あ、短かったけど思いっきり笑った。……この人、今、どんな顔してるんだろ……。

『寄居の父、松山様は教育熱心な人なんだ。厳しい修行を息子達に強いていた』
「そうなんだ!? 松山……さんって、あのクマおじさんだよね。いっつもお菓子をくれる優しい人だけど、そうだったんだ?」
『松山様は明るくて社交的な方で、表の顔として仏田で活躍なさっているからな。外の人間として暮らしている君達が良い人だと思うのは、それだけ彼が彼の役割を果たしているということ。……こう言うと誤解されると思うが、教育熱心で厳しい修行を強いていても、決して彼は非道な人間ではない。そこは勘違いしないでほしい』
「う、うん」
『だがしかし、極悪人と思われても仕方ないかもしれない』

 淡々と。悟司さんは凄いことを言い放つ。
 非道ではない。でも、極悪人かもしれない。優しい人だよねって言ったボクに対してそんなことを言う。批難するつもりはないと自分で言っておきながら、それって。

『2002年の正月だったか。寄居に、大量の異端を宛がった』
「……えっ、と?」
『君が卒倒しないように優しく言うが。……ほら、化け物を退治するのが我らの仕事だろう? しかし、まだ当時の寄居は腕が足りないから外には出せん。だから既に他の者が退治した化け物を捕獲して、未熟な寄居に差し出したんだ。大量に。能力の行使方法、刻印の作動方法、全てを覚えさせるために』
「えっと……えっと」
『魚の捌き方を知るためには、実際に生きた魚を捌いてみないと身に付かんだろ。でも魚釣りの知識も無い魚屋見習いの寄居がいきなり魚を掴むこともできん。あいつらは、まな板の上でも暴れるから。だから他の者が釣ってきた魚を寄居の前に……』
「にゃ、うん、判りやすい。げ、ゲーム的な言い方をするけど! つまり、弱らせたモンスターをレベルの低い寄居ちゃんにプレゼントして、トドメを刺させたってコト!? ほら、トドメを刺せば大量に経験値が入るってやつ!」
『俺よりみずほくんの方が例えが巧いな』

 えっへん。って、これで表現がホントに合ってるのか判らないけど。

『それを毎日続けた』
「…………。毎日?」
『ああ。正直に話すと、寄居は物覚えがあまり良くなかった。いくらやっても感覚が掴めなかった。何度やってもなんとなくしか判らない。理解が遅かったんだな』
「そ、そうなんだ……」
『勉強熱心な松山様は、狭山様や清子様、照行様もだな……彼らは、寄居に判るまでやらせた。スパルタ教育で酷いと思われるかもしれんが、とても優しい方々だよ。中途半端に判った状態で本番に行かせて、失敗して殺されるよりは遥かに良い』
「……そうだね。なんとなく車の運転できるからって免許証をあげちゃダメだよね。ちゃんと実技も試験も合格しなきゃ路上を運転しちゃダメなのといっしょだ」
『俺よりみずほくんの方が例えが巧いな』

 えっへん。感覚で話すのは得意項目だった。

『毎日のように剣の修業を行なった。当時は魔術も学ばされていた、才能を潰す訳にはいかんからな。弱った者をトドメを刺す方法、そして魂を刻印を通じて自分の中に入れる方法。毎日毎日続けていた。寄居は嫌がってなかった。だけど、いつまでやっても感覚が掴めず、失敗はしなくても成功とも言えない日々を送っていた寄居は……ストレスを抱えていても仕方なかったかもしれんな』
「……そっか」
『いつまでやっても認められない自分に、焦っていたかもしれない。……みずほくんは知ってるか。寄居の兄二人を』
「にぅ? えっと、月彦さんと……えっと?」
『月彦と玉淀。どちらも、『機関』最高傑作と謳われているほどの出来だ。玉淀は戦闘能力は無いが感応力は人一倍高く、月彦は…………』
「キカン? かんのーりき?」
『……その辺りの説明は長くなるから省くぞ。簡単に言えば、寄居のお兄さん二人はとても優秀で有名だったんだよ。寄居と比べ物にならないぐらいに』

 そうなんだ。あんまり話したことないから知らなかったけど。
 お兄さん二人があまりに優等生過ぎて、それなのに自分がなかなか結果が出せずにいたら、焦っちゃうかもしれない。必要以上に苦しんじゃうかもしれない。
 ――今のボクのように。

「…………」

 そのときの寄居ちゃんの気持ちを想像した。
 傲慢にも簡単に同調してしまった。なんだか、凄く気持ち悪くなってしまった。
 優等生な兄を妬むなんて馬鹿らしい。やっちゃいけないことだ。そんなことを考えてしまう自分を嫌になってしまう。寄居ちゃんは、人を軽んじる性格だったかな。違うような気がする。どちらかと言えば良い方に考えたい人間関係が前向きなタイプだった。……だったら尚更、優秀な兄を貶すことも、違うものを捌け口にストレス発散することも出来ない。
 出来ないから、兄とは違う自分を追い込んで、追い詰めて……。

『長い時間、修行に明け暮れて。刻印の感覚を掴もうと必死になって身体に叩き込んで。重圧を感じたまま、2002年3月22日を迎えた。そしてあの日』

 不安定な心と身体のまま、緊張感のある修行とは違う時間を過ごし。
 ――友人がいるという、気の緩んだところで。
 奪われてしまった。
 主導権を。

「…………」

 ボクはお父さんとウマちゃんが夜中に話していたとき、こっそり聞いていた。そのときの話を思い出す。
 ――仕方ない。ああ、仕方ないだろう。
 お父さんが口にしたくなかったこと。そう言わなきゃ自分を納得させられなかったこと。全て、一族の仕組みに関わっていること。
 仕事をしてお金を稼いでボクらがあるんだから仕事に文句を言っちゃいけないとか。死なないように仕事の練習をするために頑張っていた人を無碍に言うなんて駄目だとか。寄居ちゃんは苦しみたくて苦しんだんじゃない……殺したくて殺したんじゃない、深い事情があったんだ、とか。
 全部『仕方ない』って言いたくなる。
 言わないようにするためには、全ての仕組みを取っ払うようなことをしなくちゃ。
 ……ああ、でも、時々あさかと寄居ちゃんが見せるあの表情を『仕方なかったんだ』って済ませるのって、苦しいなぁ。
 その表情を見る度に切なそうにするお父さんや、そんなお父さんを見て悲しそうな顔をするウマちゃんを『仕方ないことだから』って納得させるのも、苦しいなぁ。

「……悟司さんも、修行、したんだよね?」

 寄居ちゃんは今は復帰して、退魔のお仕事を任せられるぐらい立派な人になった。長い治療と更正期間で力をものに出来た。そこまで至るまでにとても辛い経験を積んだ。それは、寄居ちゃんだけじゃなく……お父さんも、周りの人達も、みんないっしょだと思う。

『ああ』
「そうだよね……」
『一族の出であれば当然、な』
「……修行してないの、苦労してないのって、ボクぐらいだよね。はーあ」

 あさかはボクには視えないずっと先のことを考えるぐらい、痛みを伴って大きく成長した。ウマちゃんはお父さんの元でちゃんと学んで、一人、見知らぬ学校に転校させられて実戦に赴くようになった。
 ボク一人が取り残されてるって、ボクはそれほど痛みも知らないし試練もぶつかってないんだから当然な話だった。寄居ちゃんやウマちゃん、あさかがボクを追いてどっかに行っちゃったというより……ボクが立ち止まっているって言った方が正しいのかも。

『今、苦労してる。苦しんでいる。それが君の修行だろう』
「…………ん」
『今ある痛みを無意味と考えずにいろ』
「……ん……」
『君が望んでいた相談の応対には程遠いかもしれん。が、悩んで前に進もうとするその感情は無駄にはならん。無感情はいけない。どんなに小さな変化でも見落さず積み重ねていけば大化するもんだ。すまないが、俺が今の君に言えるのは以上だ』
「…………。ん、へへ。ありがと、悟司さん。今の声、すっごくカッコ良かった。好きかも」

 ――悟司さんと本物の初めましてをしたのは、きっとずっと前。でもボクにとっての初めましてはつい最近だ。
 ボクは悟司さんのことは全然知らない。真っ暗闇で出会ったからロクに顔も見てないし、その後は大人なホテルで眠たいまま過ごしたからやっぱりちゃんと面と向かってお話はしなかった。そして今日の昼間、淡々と報告書を見るようなメールのやり取り。……今このとき、やっと初めて悟司さんと交流できたような気がした。
 今度はちゃんと、視線も声も心も、全てが通った話がしてみたいと思う。

「あ、あのさ。悟司さん。明日は暇?」
『暇じゃない。仕事だ。年末前のな』
「だよねー……」

 たとえ学生が暇でも、相手はすっごく年上。生活スタイルが合う訳が無い。
 でも……相手に合わせたくなるぐらい、合わせて一緒の時間を過ごしてみてもいいなって思うぐらい、ボクはこの人のことが気になっている。
 気が弱くなっていたときに相談事に乗ってくれたから? それで『仲良くなれた』なんてコドモだなって思われるかもしれない。でも、お話をすればするほど人って仲良くなるもんだし。どんなキッカケでもどんな裏があったとしても、もっと仲良くなりたいと思う気持ちは悪いもんじゃないと思う。
 浅さかかもしれないけど、たった数日の交流からせめて数十日の絆に昇格させたかった。未来を悩むボクに「まだそんなに悩むな」と言ってくれたんだから。今このときを大事にするために、この感覚を大切にするために行動に出よう……。

「ボクね、31日にお寺に行くの。そんとき……一緒にお話しない?」
『いいぞ』
「やった! ……約束だよ!」
『宴会に出れば確実に居るぞ』
「宴会?」
『子供は参加できないか。まあ、31日に仕事はしない。俺を捕まえたければ来るといい。遊んでやる』
「えへへ。うん、遊んでよ。あ、ニャンコの写真撮っておいてね! いっぱい見せてね! 二日間あるんだから撮れるでしょ? 撮っておいてよ!」
『それは約束できんな』
「えー! 撮っておいてよー! いいでしょー!」

 ワガママを言ってる自覚があるけど、意地悪く笑って言っちゃう。ボクのために写真を撮っちゃう優しい人だ。甘えれば甘えるほどいっぱい色んなことをボクのためにしてくれるに違いない……。
 笑ってお願いをした。けど、

『今から、みずほくんを悲しませることを言おう』

 突然、悟司さんの声色が変わった。ぞくりと背筋が凍る。
 愉快な気持ちになった瞬間だというのにこの変化。聞きたくなかったら通話を切っちゃおうか。思ったが「……何……?」と言い返してしまった。

『今日送った写真の三匹だが、もうこの世に居ない』
「え」

 悟司さんの言葉通り、ボクが悲しくなるようなことを口にした。
 そんなの……ネコが死んじゃったなんて、ボクじゃなくても悲しくなる言葉じゃないか。当然「……どうして……?」と訊き返してしまう。カワイイ写真の後にそんな事実なんて、仰天するに決まってるもの。

『…………俺が、狂わせてしまったからな』



 ――2005年12月27日

 【     / Second /     /     /     】




 /9

 通話を切って、受信した添付ファイルをもう一度開く。

 ネコが三匹、並んでいた。彫刻のように行儀正しく。生き物らしくない、動きの全くない一枚絵だった。
 見れば見る程、ネコ三匹にあたたかみを感じない。愛らしい造形ではあるけど、生き物の殻をした何かだった。……死んでいるというか、魂が抜けているというか。殻しかないそれは一見可愛くても、見続けていると何も感じなくなる……空虚さが湧き上がってくるものだった。
 ネコ達は……石になってる? いや、操られている……?
 画像を見続けていると、メールが受信された。さっきまで電話をしていた悟司さんからのメールだった。なんだ、十五分も使わなくてもメールできるんじゃないか。

 送り主:悟司さん。
 件名:無題。
 本文:俺の目は十歳頃から見えなくなっている。


「ッ!?」

 彼が眼鏡をしている人だというのは知っている。眼鏡をしているんだから視力は悪いんだと判ってた。初対面のとき、無くなった眼鏡を探している人だったし。
 でも真夜中の道では顔を見なかった。ホテルでは恥ずかしくって顔を見なかった。眠った頭で家まで送り届けられたから顔を見ていなかった。……メールと電話だけのやり取りだから、顔なんて見ることはできなかった。……目がおかしいだなんて、知ることはできなかった。

 本文:先程、寄居の兄達が「『機関』の最高傑作」と言ったが、俺はその逆。残念ながら「結果失敗作」だ。『機関』が生み出した初試作型だから仕方ない。初期タイプは作る側も迷っているものだから、作り上げること自体に価値があり、能力には特別な要求は無かった。『機関』第一作は生まれることに意味があり、部品はどの子達よりも貧弱だ。総合点は第二作の弟・圭吾には勝てない。身体能力の高さも当主守護のために創られた男衾や梓丸に劣る。俺は初期型故の欠点を多く備えている。

 ……これは、どういう例え?
 どこまでがボクに判りやすく伝える例えで、どれが真実だ? そもそも『機関』って何かってことから訊かなきゃ理解が始まらないんじゃ。『第二作』って? 圭吾さんには勝てないって……? 『当主守護のために創られた男衾さんと梓丸さん』って、何だ?
 それを訊くのにまた十五分も使うのかな……十五分経ってるうちに夜の仕事が始まっちゃったりして。

 本文:俺には多くの欠陥が発見されているが、その中でも一番困ったのが視覚だった(嗅覚と味覚は諦めた。二十年無くてもなんとかなっている。味の濃くすれば匂いも嗅げるし味わえないこともない)。十歳頃から極端に感覚が悪化し、みずほくんの年齢ぐらいには視力も完全に見えなくなった。今は見えるようになっている。新しいものに取り換えることになった際、教育熱心な俺の親は一本松様の持っていた『真祖の眼』を俺に食わせた。魔眼は俺が所有せよという和光様のお達しにより用意された。

 魔眼。
 禍々しい言葉がメールに記されている。それは異能に疎いボクでも判る。ゲームやアニメの世界でも有名な能力だ。……その目を見ると石化してしまうという、蛇女の化け物が持っているって言われているあの……。

「でも……何……? どういうこと……? 眼を食べたら、目が良くなるって? そんなのありえるの?」

 その後の本文は、偶然庭に居たネコ達を石化させてしまって動けなくさせちゃった、ボクがネコ好きなのを思い出して写真に撮ったという事実だった。
 気になるところには一切触れていない。ボクへの気遣いで撮ってくれたのは嬉しいけど、逆にぞわぞわする感覚に襲われている。
 だって。そんなの……人間離れしてる。
 魔術とか刻印とか魂とか、退魔業についてとかとにかく一般人が踏み入れない領域の話を一日中していた。ボクのお父さんやウマちゃんだってその世界に足を踏み入れている。だから、理解はあったつもりだ。
 けど、ぞわりという悪寒がする。
 絶対的に相容れないものがあると、ボク自身が拒否反応を表わしている。
 創られたという悟司さん。同じように創られたと言われる数人の親戚達。……そういえば寄居ちゃんの行っていた病院の名前って何だっけ? 『超人類開発研究所』……? 真祖の眼? 眼を持っていた? 食わせた?
 理解できない世界が、メールの中に広がっている。
 判らないことと、すぐに受け入れられないことが多すぎて、思わず身を引いてしまう。

「……これが、ボク達の家ではフツーのコトなの?」

 判らない。……理解が追いつかない。
 ……ゆっくりと「一体どういうことなの」と、メールを打つ。
 だけど、返信は無かった。夜の仕事に行ってしまったのか。
 いつまで経っても、三十日になっても。ボクらが出発するあの日になってもメールは返ってこなかった。




END

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