■ 外伝10 / 「関係」



 ――2005年8月10日

 【    /     /      /      / Fifth 】




 /1

 今回の『仕事』は、陽平と月彦の二人に頼むと大山様に言われたのは、昨夜のこと。
 月彦は寮暮らしの高校生だったからもっと早くに伝令が行ったのかもしれない。でも仏田寺に住む俺の元に赤紙はいつまで経っても来なかった。結果、前日になって大山様に言われることになった。
 常日頃から瑞貴と慧が「本部の融通の効かなさやお役所仕事っぷりは頭に来る」と文句を言っていた。今まで俺はそれほど気にしたことはなかったが、流石に前日に「幽霊退治に行ってこい」は堪えた。
 幸い今日予定を入れてなかったからいいものの、そうでなかったらどうするつもりなんだ。……いや、どうもしない。家の都合を優先しろという家だから。
 こんなところに生まれてしまった自分の血を呪うしかないんだ。

 電車に揺られ、三人が座るボックス席にて手渡しされた『赤紙』を読む。
 赤紙というのは俗な通り名で「無理矢理どっかに送られ戦わせられる紙」として、寺ではよく使われている言葉だった。
 実際には赤くはなく(時々、表紙に赤ペンで「必ず見ること!」と書かれているが)、仕事の詳細が書かれている普通の資料だ。一体誰がそう呼び出したのか、歴史が古いこの家のことなのでどういう経緯だったのかも判らない。
 目を通してみると、寺から一時間ほど電車に乗った先の温泉街に行けと書かれている。詳しい宿の詳細や、チケットは無くても受け付けに名前を言えば入れるようになっていることなど、旅に必要な事項がまとめられていた。
 他にも「必要経費はちゃんと領収書を切ってくるように」とか、「未成年は飲酒するなとか」とかまで記されている。初めての幽霊退治するガキんちょでもカバーできるぐらいの、判りやすく立派な書類だった。
 ……えーと、この丁寧なマニュアル、一体誰が作ったんだっけ? 以前聞いたことがあるような……あの優しく指導してくれる仏の大山様だっけ? マニュアル通りにいかないと殺すぞと言わんばかりの鬼の狭山様だっけ? いや、徹底した書類作りがされているからまさか銀之助叔父様の可能性も……。

 そんなことを考えながら、俺はもう一度、一番上のページを読んだ。
 仕事の日時と、何日までに魂を狩ってこいという御約束事が書かれている。その下に、今回の仕事を任された俺の名前と、月彦の名前があった。
 今回の俺の相棒である月彦は、今は、ボックス席の向かいに座っていた。彼は二人並んで仲良さそうに話している。
 ボックス席に三人。一つの椅子に俺。向かいの席に月彦と、そのカノジョがいた。

「つっきー、温泉好き?」
「うん、好きだよ。アっちゃんは?」
「ワタシ、お風呂あんまり入らないから判らない。でも水浴びは好きだからお湯浴びも好きな筈よ」
「あはは、お湯浴びじゃ疲れが取れないよ。温泉は体を癒す場所なんだから肩まで浸からなきゃダメだって!」
「お湯に浸かるだけで癒えるものなの?」
「だよ。えっとね、待って。確か書類に書いてあったと思……あっ、コレコレ! 神経痛、筋肉痛、間接痛や五十肩、打ち身などの間接や筋の疾病、慢性消化器病や痔疾、冷え性や病後の回復と疲労回復、健康増進、慢性皮膚病や動脈硬化、切り傷やヤケドなどの皮膚の疾患にも効果があります……だってさ」
「なんでも有りね」
「なんでも有りだね。楽しみだ」
「そうね」
「アっちゃん、温泉入っちゃったらもっとキレイになっちゃうかもな」
「つっきーの為にいっぱい入らなきゃ」
「こいつー」

 俺の目の前で、温泉に向かう男と女がキャッキャウフフしてた。
 なんかもう死にたい。

 ――『仕事』を任されたのは俺と月彦だっていうのに、どうして月彦のカノジョさんが同伴しているのか。
 当然の疑問を俺が直接投げかけると、月彦ではなくカノジョさんの方から説明をしてくれた。

「つっきーとワタシ、契約してるもの。一心同体よ」

 月彦のと腕を組みながら彼女はブイサインをしてくる。可愛らしい笑顔で教えてくれた。
 月彦はデヘヘと赤い顔をしながら腕を組まれている。……この十秒で悟る。どうやら月彦は、彼女に尻に敷かれてる男っぽかった。でも幸せそうだった。
 ……ああ、俺だってホントは好きな人を連れてきたかったさ! 許されるならなっ! 俺も幸せになりたいもんだよ! ちっくしょー!

 ――『契約』。
 二人は主従の契約をしているそうだ。どちらかがどちらかの配下に下るというペナルティを受ける代わりに、契約した相手から力を借りることができるという魔術の契約を、二人は交わしたという。
 我が家でも数人が契約を行なっている人がいるのは知っていた。だが月彦がこんな美女と契約をしているとは知らなかった。と言っても俺と月彦はそんなに話したことなかったんだけど。こんな美女がいることも知らなかったんだけど……。
 契約とはお互いの同意のもと、「どちらかがどちらかの言いなりになる」ことで力を貰える行為のことだ。この二人の場合、月彦がマスター・主で、カノジョさんが配下・下僕だという。
 コイツ、尻に敷かれているくせにカノジョさんを言うことをきかせてるっていうのか!? お、恐ろしい子っ!
 確か瑞貴も使い魔を召喚して契約していたが、それは動物が相手だった。人間よりも知性の劣る(とされている)動物を従えて戦わせるのは、魔術師のお約束でもある。だというのに……まさかまさか、こんな可愛い女性能力者をゲットしていたとは。こんなに綺麗で美しい女性をゲットしていたとはっ。
 月彦に死ねとは言わない。でもちょっと雨に濡れて散々な目に遭ってほしいと思った。もしくは泥水でも被れ。被ってしまえ。

 俺は目の前の席でイチャつく男女を見ていた。
 でも正確に言えば俺は、主に……カノジョさんの方、「アっちゃん」さんとやらに見惚れていた。
 アっちゃんさんは、それはそれはとてもとても可愛い女性だ。じっくり見ていたら気持ち悪がられるかもしれないが、いくらでも見惚れていられるぐらい、ずっとずっと見ていたくなるぐらいの美女だった。
 ウェーブがかった金色の髪は胸ぐらいまで長く、窓から吹き込む風に揺れる姿がとても絵になった。太陽の光を浴びてきらきら光る金髪なんて、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。目は日本人にはない緑色で、メチャクチャ神秘的。そして二つの宝石は、隣のカレシを見つめるたびに美しさを増していた。
 まだ夏だから薄着で、淡いピンク(桜色っていうのか?)のひらひらしたワンピースは胸を強調したデザインだった。年頃の男だったらドキドキしてしまう衣装だ。
 駅や電車内でも男性達は「おっ」と立ち止まってしまうし、女性であっても見惚れてしまうほど美しい女性だった。……月彦があんまり色男とは言えないタイプの少年だったから、余計に彼女の美しさが際立っているのかもしれない。

 月彦は決してブサイクではなかった。ただ、まだ男子高校生らしい子供っぽさが残る男だから、いきすぎた美女の隣は似つかわしくない。
 アっちゃんさんの隣に居て相応しい男性なんて、彼女と同じぐらい美しい人かダンディな美丈夫ぐらいしか許されない。洋画の一流俳優だって相応しい人がいるか危ういぐらいだった。それぐらい彼女は魅力的だった。
 彼女と同じぐらいの人。
 金髪。碧眼。絶世の美形。男性。……俺は、一人しか思いつかなかった。

「あのさ。二人はどうして出会ったの?」

 ただものではない美女と、ただの少年。不釣り合いな二人。イチャつきが一段落したところを見計らって、俺は二人の馴れ初めを尋ねてみる。

「えっと、いつだっけ? 寺で会ったんだよな……どこだっけ?」
「洋館よ」
「そうだった。洋館の庭だったね」

 外界ではなく仏田寺の敷地内で出会ったんだと二人は次々に思い出していく。
 なるほど。それならこんな二人が出会って仲良くなるのもおかしくない。高校生男子が能力者の美女と出会ってもちっともおかしい話じゃない。彼女は、仏田の来賓客だったんだ。

「仏田のお客様でしたか。それならすっごく強いんですね、アっちゃんさんは?」

 俺は媚を売る訳じゃないが彼女を褒めることにした。
 ――仏田は力の頂上を目指す為、日々研究に励んでいる。強さを求め続ける研究者達が集まって家を作っている。
 だから時には傲慢に「弱い奴なんか来るな! 研究の役に立たん!」って言うこともある。
 逆に「強い奴は研究の為に来い!」と威張ってもいるから……寺に呼ばれる人は商売客じゃなかったら、相当な協力者しかいなかった。

「洋館に呼ばれるぐらいだったら超強いってことでしょう? シンリンさんだってあんな人ですけど超一流の心霊医師ですし、最近はいなくなっちゃいましたけど凄い銃使いのお兄さんも外国人なのにうちで働いてましたし、ルージィルさんも……その、超凄いって噂ですし」
「あは。超凄いって噂なの? あは。……ねえ、つっきー。ワタシもスゴイ?」

 自分で自分のことを凄いとは言わない。謙遜してアっちゃんさんは隣のカレシに意見を求めた。

「うん、凄いね。アっちゃんはカッコイイし凄いよ」
「ですって」

 嬉しそうに抱きつき、俺の方を見て頷く。仲の良いところをすっごい見せつけられていた。
 ああ、このバカップルどうにかしてくれ。……でも、アっちゃんさんが可愛いから許そう。月彦は見捨てることがあってもアっちゃんさんの美貌に免じて助けてやることにしよう。

「となると。…………もしかして。アっちゃんさんはルージィルさんのご家族……ですか?」

 もしやと、実は出会ったときから考えていたことを俺は彼女にぶつけてみた。
 月彦はキョトンとする。その名に、「ルージィル」という名前に聞き覚えが無いという反応だった。
 でも彼女はコクリと頷く。ああ、やっぱり。ルージィルさんのお姉さんか妹さんだったんだ。

「そう。ワタシ、るー子の家族よ」

 と。
 ふわふわした金髪を靡かせながら言う。
 ……るー子。
 …………るーこ……るーこ……そうか、ご家族にはそんな風に言われてるんだ……あの人。

「ぷっ」

 愛称なんて人のセンスそれぞれ。笑ったら失礼だって判ってるけど、あまりに彼に似合っていない渾名だったから吹いてしまった。
 だってルージィルさんはすっごくカッコ良くて綺麗で凛々しくて美しくて端整で麗しい素敵な男性だ。造形に無駄の無い、人形のように完成された美貌の持ち主だ! ……ああ、また気持ち悪いって思われるかもしれないけれど、絶賛しちゃう。
 アっちゃんさんと同じように、女性が見たら黄色い声を上げ、同性でも言葉を失うぐらいの男性なんだ。……実際街中を歩いている姿を見たことないけど、おそらく今のアっちゃんさんと変わらない。
 その人が、そんな可愛らしい呼び方をされていたなんて。失礼ながらついつい笑ってしまう。なんだか秘密を知ってしまったみたいで、得した気分だ。

「アっちゃん。家族、いたんだ?」

 俺が笑いを堪えていると、月彦が驚いた顔でカノジョさんに尋ねた。
 って、何言ってるんだコイツ。そんなことも知らなかったのかと俺も驚いてしまう。

「いるわよ」
「そうなんだ。……知らなかったよ」
「いるわよ。つっきーもワタシの家族よ。つっきーは、一心同体だもの。ワタシと」

 カノジョは微笑みながら言い、またもや月彦の腕に抱きついた。
 隣に座って密着しているというのに、更に密着度が増す。大きな胸がムニョンと潰れるのが見てとれた。
 月彦は照れ出す。……この二人はどこまで進んでいるのか知らなかったが、月彦の赤くなり方を見ると……あまり進んでいないカップルのように思えた。
 イチャついてはいるけれど月彦の反応がウブだから付き合い出して浅い印象を受ける。うん、アっちゃんさん、楽しんでる。アっちゃんさんは面白い人だなぁ。

「……その凄いアっちゃんさん! ルージィルさんの家族なんですよね!?」
「ええ。凄いワタシは、るー子の家族よ」
「じゃあその! 是非とも! ……ルージィルさんのお話が聞きたいです! あの、良かったら、小さい頃のお話とか!」

 目的地の温泉街まであと数分電車に揺られる。
 その間、俺は幸せそうなカップルの光景を見ているより……素直に俺自身の幸福を求めることにした。

「今と変わらないわ」

 でもアっちゃんさんは、あっけらかんと一言言って、呼吸した。

「そうですか。……今と同じように、美少年だったってことですね! 美形は生まれたときから美形か、そうだよな!」
「ええ。生まれたときからあの子は綺麗だった。元からあんな感じだったもの」
「へー、ほー、アっちゃんの家族かー。陽平さん、やっぱりアっちゃんと似てるんですか、るー子さんって?」
「そりゃ似てるよ。すっげえ綺麗でカッコイイ人だよ、ルージィルさんは! もうカッコイイってレベルじゃないな、カッコイイがルージィルさんだよ!」
「……は、はあ。それぐらいってことっすか……」
「だってアっちゃんさんは美女だろう? 美女がアっちゃんさんだろう!?」
「なるほど、理解!!」

 変なこと言ってる自覚はあったが、狂ったつもりはなかった。

「でも。昔は、今みたいなるー子じゃなかった」

 大盛り上がりな男二人を暫く見ていたアっちゃんさんは、興味深いことを口にする。

「今みたいじゃ……なかったんですか?」
「うん、外は変わってないけど、内は変わったわ」
「へー。美少年から美青年になったけど、中身は成長したんだねー。あ、アっちゃん、お弁当そろそろ食べる?」
「食べる。ワタシ、鶏肉好きよ」
「コッチね。俺はお寿司の方貰うよ」

 どうせ二人で半分こずつ食べるくせに話を途切れさせるなよ。
 あれこれ文句を言いたいけれど、年上だからそれなりに我慢して話を自然に促す。

「その、昔は……どんな人だったんですか」
「アっちゃん、あーんして」
「あーん」

 寿司をあーんしてんじゃねえ。そして指を舐められて赤くなってんじゃねえ! 予想できただろそれぐらいの展開!?
 あ、でも頬っぺたいっぱいモグモグしてても美女は美女だから許す。

「ごくん。るー子はね、昔は子供っぽかったわ」
「子供っぽかった!?」

 って、誰でも昔は子供っぽいもんだ。普通のことなのにテンション上がり過ぎだろ、俺。

「何をしても文句ばかりして、アレしてくださいコレしてくださいってよく言ってたわ。思い通りにいかないと人一倍焦っちゃうタイプなのよ」
「なんとぉー!?」

 海本(要英訳)みたいな鳴き声を上げてしまった。……じゃなくって。

「今じゃあんなに冷静沈着キャラっぽいのに……」
「そう思う? あは。あの子、外を丁寧にしているだけで口は今でも悪いよ」

 それは……アっちゃんさんがルージィルさんの家族だから思えることだろう。俺にはあの人は出来過ぎた大人と見ていたから余計にそう思った。
 大抵家族に対してはクールな視点で見てしまうものだ。例を挙げよう。俺の兄弟である瑞貴と慧は、周囲の評価では『とてもよく出来た優等生』とされている。二人ともそれなりに愛想が良く、成績も良く、何でも出来るからだ。
 でも三つ子の兄弟である俺は知っている。二人がどんだけ歪んでいて、どういった理由で愛想を良くしているかなんて。
 兄弟だから兄弟のことをボロクソ言えるんであって、同じ血縁でも少し関係の離れたイトコの梓丸さんや学人のことはバカにすることはない。同じように彼女は親しい兄弟相手だからこそこんなことを言うんだ。きっと。

「陽平」

 俺が感心してメモを取っていると、アっちゃんさんが名前を呼んでくれる。
 美女の呼び掛けにちょっと得した気分になりながら、なんですかと返事をした。

「好き?」

 更にドキッとするようなことを言われて、ハッとする。

「るー子のこと、好き?」

 もちろんそれは、ちょっと日本語が危うい金髪碧眼の美女ならではの発言だ。
 ルージィルさんのことを話し出したのは少なからず俺がルージィルさんに好意を抱いているからだと思ったのか。それを確認するために彼女は直接尋ねてくる。

「ハイ、大好きです!」

 誤解されないことは絶対に言わない。ご家族とも仲良くしたい俺は、ハッキリと気持ちを伝えた。
 その返事を聞いて彼女はクスクス笑う。首を傾げて口元を抑え、カレシと見つめ合っておかしいと笑う。とても絵になる女の人だった。
 ……そういやアっちゃんさんていくつなんだろう。可愛い、美しい、綺麗とずっとこの上なく称賛してるけど、美女って年齢が計れないもんだった。月彦より年上に見える……のは、ただただ高身長でスタイルの良い女性だからだ。日本人ではないからそう見えるだけで、実際の年齢は全然読めなかった。
 男性であるルージィルさんもいくつか判らない。そっくりだから、彼女が彼のお姉さんなのか妹なのか、ちっとも判らなかった。

「それは残念ね」



 ――2005年8月10日

 【    /     /      /      / Fifth 】




 /2

 みずほくんは、とても猫がお好きな子です。
 どれぐらい好きかって言ったら、バッグの中身が殆ど猫グッズで埋め尽くされているぐらいです。ペンケースにペンの柄、携帯電話のストラップに待ち受け画面、ズボンに尻尾を付けることもあるし、ネコミミなんて目を引くアクセサリーを付けていることもあります。
 僕、寛太も猫は好きです。可愛いですから。にゃんにゃん言う声も愛くるしいフォームも大好物です。今日はそんな僕と、僕より猫好きなみずほくんのお話です。
 ご実家のお寺には猫が沢山居ます。一日に三〜五匹見るのは当然、運が良いと十匹以上も見かけることもあります。仏田の敷地は広いですから、山を登って来る苦労さえ考えなければいっぱいお食事も出来てお昼寝も出来る、猫にとってはとても良い場所なんでしょう。
 ご実家の人達は猫にとても寛容でした。というのもご実家に暮らしている猫達は、のんびりひっそりとしていてみんな悪さをしないのです。猫達はお寺で飼われているのではありません。みんな野良猫です。
 悪さをしない行儀正しい猫は、都会の飼い猫のように優雅に美しく暮らしているのです。
 ゴミを漁らないし、干してある洗濯物を引っかきもしない。害の無い猫達は仏田の敷地をちょっとだけ借りてゆったり暮らしていました。
 かつては「猫なんて駆除すべきだ」と言っている声が大きかった頃もあったそうです。でもそれは昔話。今のように野生動物と人間が共存するようになったキッカケは、衛生面を徹底した『厨房の魔王』が寺に君臨したことに始まるそうですが……。

「獣と人との共存する世界を作ったって……銀之助さんって一体何者なんだろうね?」
「何かと伝説を作っておりますよね、銀之助伯父さん。僕が知っているだけで五つは伝承があるんですが……」
「にゃに。五つもあるの?」
「失礼しました。五つに訂正します」

 銀之助さんの神話はまた別の機会に語るとして。
 良い猫ばかりが暮らすお寺は、猫好きのみずほくんにとってはパラダイスでした。
 みずほくんは長期休暇を利用して、彼にお父さん達と一緒に実家に帰ってきます。都会暮らしに慣れたみずほくんは、このお寺に娯楽という娯楽を見出せなかった頃もあったそうです。でも今は、素行の良くなった猫達と遊ぶことがみずほくんの寺での楽しみの一つだそうです。
 都会ではマンション暮らしのみずほくんは、猫を飼えないそうです。猫が大好きなのに飼えないという悲しさを常々訴えていました。同じようにみずほくんはよくこう声を張っていました。

「寺は何も無いけど猫が居る。僕のつまらない心を満たす猫が居る。猫は癒しをくれる。充実感をくれる。愛をくれる。全てを生み出すは神。無から全てを与えてくれるは猫。つまり猫は神!」

 と。何言ってやがるんでしょうか。
 みずほくんほどではありませんが、僕も猫は大好きです。やわらかい体をふかふかするのはとっても気持ち良いから好きです。
 縁側で足を伸ばしていると、時々ですが、足の上に乗っかってくる猫が居ます。その重みの気持ち良さと言ったら。足が痺れても良いと思えるぐらいです。
 猫を見ると笑顔になりますから、みずほくんのように高尚な演説は出来なくても、僕の猫好きは劣らないものなのでしょう。
 さて、僕とみずほくんが猫好きだという自己紹介はこの辺にして。それほど猫が好きな僕達二人の『今日のミッション』は、『猫を捕獲する』でした。
 火刃里くんの話が全ての始まりでした。

「松山おじさんがねーっ、熊鍋をした後にねーっ、井戸のとこで鍋を洗っておけやーって言われたからねーっ、洗って拭いて置いておいたんだよーっ。そしたらタオルを地面に落しちゃってさーっ。まだ拭いてないお皿があったからタオル持ってこなきゃーって思ってさーっ。一旦そこを離れたらねーっ。……お鍋の中に猫が入ってたんだよっ!」

 それを聞いたときのみずほくんと言ったら。
 なんと言うか……言葉にするのは難しい悲鳴とローリング行為を繰り返しておりました。僕も「かわいいー!」と騒いでいたので、人のことはアレコレ言えないんですけど。
 猫は基本的に狭い場所を好む傾向がありますから、現象自体は特別珍しいとは思いません。自分の中の猫知識も「そういった可能性は在り得る」と納得することはできます。
 でもでも、実際にぎゅむっと猫がお鍋に入っていたら……可愛いじゃないですか。僕も実際に見たくなってしまいました。

「ひいいばあありいぃぃ! にゃんでお前、その決定的瞬間を写メって無いんだあああぁ!?」
「おれ、ケータイ持ってねーもんっ」
「あーもー田舎もんはー! 一人一台は当たり前の時代になってきてるんだよー!?」
「だってーっ、お寺に居るのになんで電話持ち歩かなきゃイケナイのかおれワカンナーイっ!」

 何かあったらすぐに記録。これは携帯電話を常に持ち歩いている人の考えなんだなぁと僕は思い知らされました。
 火刃里くんが写真を撮っていなかったことを悔いても仕方の無いことです。お寺でずっと暮らしている火刃里くんにとっては、鍋に入り込んでくるのは珍しくても、敷地内で何かをする猫自体は目新しくないのですから。火刃里くんが僕らに話していない猫話はそれ以外もたっくさんあることでしょう。
 みずほくんは暫く「にゃんでにゃんでー!?」と火刃里くん批判をし終えた後、「よし、ボクらもしよう!」と鍋を用意しました。
 廊下に置くこと一時間。廊下の隅っこでじっと待つこと一時間。それからなんだかんだあって一時間。つまりは三時間ほど待機していたんですが、猫は一向に廊下に置いた鍋に入ってはくれませんでした。
 僕がいくら言ってもみずほくんは猫を待っていました。

「……んぁっ? まだみずぴー達、やってたのーっ?」

 三時間お昼寝をし終えた火刃里くんがやって来て、やっとみずほくんはその作戦の失敗を認めてくれました。
 その後、「食べ物を入れる鍋を遊び道具に使うな」と魔王が現れ、雷が落ち大地は割れ嘆きの声は響き、僕達のおやつは無くなりました。とても悲しい話です。

「なんかねーっ。みずぴー達が来た昨日辺りから猫を全然見かけなくなっちゃったんだよねーっ。あんだけイッパイ居たのに……ドコ行っちゃったんだろーねーっ?」

 火刃里くんは不思議そうに言っておりました。

「そうだよ、寛太。ボクらに足りないのは、自らこの手を汚しても栄光を掴もういう気合い、そして勇気だったんだ!」

 おやつを抜かれた僕らを可哀想に思ってくれた福広さんから御煎餅を貰ってバリバリしてると、みずほくんはあっという間に体力を回復したらしく、次なるミッションを思いつきました。
 こんな風に次々とアイディアが思い浮かぶみずほくんは元気いっぱい明るくて凄い人だなぁと思うのです。尊敬します。

「鍋があっても猫は来ない。なら、猫があって鍋が来ればいい!」

 何言ってるんでしょうかね、彼は。みずほくんは日本語が不自由な時が時々発生するのです。
 僕なりに訳してみましょう。
 僕らは鍋に詰まった猫が見たい。でも鍋を置いてあるだけじゃ猫は勝手に詰まってくれない。なら……せめて猫が既に居る所に鍋を置くか、猫を連れてきて鍋に入ってもらうか、あとは僕達の手で直接猫を鍋に入れてしまうか、だと言うのです。
 最後のは最終手段ですが、手っ取り早くミッションをクリアー出来る大変素晴らしい作戦でした。
 僕達が求めているのは『鍋の中にいる猫』です。それまでの過程は変えていっていいのです。その作戦は、『オペレーション名:終わり良ければ全て良し作戦』として実行されるのでした。
 まず僕らは猫が集まっている場所に向かいます。お墓の水汲み場によく猫は集まっているのを知っているのでそちらに向かいました。
 ところが今日はお葬式があったらしく、人がいっぱい参列していたため、猫達は一匹も居りませんでした。黒い服で涙を流している人達の周りで騒ぐことは出来ず、僕らは渋々ショートカットを諦めるしかありませんでした。
 他に猫が集まる場所と言ったら、屋敷から少し外れたところにある湖と、茶室として造られた小さな小屋。行ってみようとしましたが、途中、芽衣さんに「教は湖で魔術の実験をやるからさ、おチビさんは出入り禁止ねー」と言われ、茶室小屋に行こうにも「先約が入ってるぜ。行っても追い返されるぜー」と言われてしまいました。

「ふにゃーっ! お葬式は不謹慎だって言われるから邪魔しないけど、お茶で楽しんでる人達の所だったら遊びに行ったっていいじゃーん! ボク達は子供だよ!? お休み中に騒いで遊んで何が悪いのさー!?」
「茶室に居るのは一本松様だぜ?」
「寛太、ムリ言うのはヤメにゃよ」
「僕は何も言ってないですよぉ!?」

 僕達の会話の一部始終を見ていた火刃里くんは、手を叩いて大爆笑。

「いーじゃんっ、みずぴー! 茶室に行っちゃいなよっ!」
「誰が行くかー! あの怖ーい一本松さんが居るんだろ、殺す気かー!?」

 言い合う火刃里くんとみずほくん。たとえ猫が高確率で居るかもしれなくても、魔王と同じぐらい怖い人が居るところに騒ぎに行くのは無理でした。
 なんてったって、一本松様は魔王のお兄様ですから。魔族に違いありませんから。

「芽衣さーん。他に猫が居そうな場所は知りませんかー?」

 みずほくんはこのお寺にいつも居る人間ではございません。
 火刃里くんは猫に興味が無いからあんまり記憶に無いそうです。このままでは情報が少なすぎると思い、とりあえず芽衣さんに尋ねてみました。

「案外、暮らしてる屋敷の縁の下に居るもんだぜ」

 なんか昨日今日見かけないけど、と芽衣さんはさっきの火刃里くんと同じことを言います。
 おかしいですねと二人で首を傾げてしまいましたが、芽衣さんがアドバイスをしてくれたのでお礼を言いました。彼は手をふらふらしながら去って行きます。
 言われてみれば、縁の下なんて動物が潜り込んでいそうなところです。都会のマンション暮らしのみずほくんには考えつかなかったことでした。
 試しに寝泊まりさせてもらっている屋敷に戻って、適当な所に頭を突っ込んでいます。日の当たる所の掃除は毎日していますが、縁の下の奥まで掃除することは数ヶ月に一回のペースでしょう。ゴミ一つ無いとは言えませんが、生き物が行き来できるぐらいの綺麗さはありました。
 体力自慢なみずほくんは気合いを入れるとさっさと縁の下に潜り込んで行きました。僕は今日、あんまり汚したくないお洋服を着ていたため、日向で待機することにしました。
 みずほくんが縁の下に潜り込んで一分経ったとき、僕がその縁の下を覗いていたとき、微か音がしました。……縁の下からではなく、上の、廊下の方からです。
 僕は何だ誰だと頭を上げると、そこに綺麗な白猫さんが居りました。

「………………」

 ふっかふかの毛の白猫さんでした。
 その猫を見てまず思ったのは、「野良猫じゃない」ってことでした。
 この寺に住んでいる猫はみんな上品で悪さをしない……と言っても、まるでシャンプーを毎日されているかのように綺麗な猫は居る訳がありません。毎日手入れをされていて、栄養価の高い物だけを食べているような美猫は居る訳ありません。
 何より……首輪がしてあるし、野良猫で長毛種が居るなんて聞いたことがありませんよ。いや、居るかもしれないけどお外で長い毛で暮らしていたら泥でベチャベチャになってしまうじゃないですか!

「うえぇん、寛太ぁ〜、全然にゃんこ居ないよぉ〜。服が汚れただけだぁ〜」

 みずほくんが縁の下から出てきます。僕は静かに廊下を指差しました。みずほくんがそちらを向きます。
 ふっかふかの白猫さんを見ます。
 そして……白猫さんと目が合いました。
 見つめ合いました。
 運命の出会いでした。

「にゃああああああああああああああああぁぁぁ!!?」

 僕は間一髪、知覚判定に成功し耳を抑えることに成功しました。グッドタイミングです。
 何の絶叫かって言ったら、たとえニャーでも白猫さんの声ではございません。それはみずほくんの大絶叫でした。屋敷の中に居た女中さん達もその大音量にビックリなさったことでしょう。ギャグ漫画風に言えば、お家の屋根が一時的にポーンと飛び跳ねるぐらいの声でしたから。
 僕も「可愛いです〜」と言おうとしました。それよりもみずほくんは動きは早かったです。
 まず跳躍。飛び跳ねる彼。瞬間的に駆け出す彼。目にも止まらず早さで白猫さんに飛び掛かりました。

「ぶにゃっ!?」

 大抵普通の猫相手だったらそこでKOです。
 捕まった猫はもふもふにゃふにゃふぐしぐしされます。音速で走り回るみずほくんに勝てる猫なんて居ないので、みずほくんと目が合った途端勝負は決まってしまうものなのです。
 その結果、みずほくんは全ての猫に嫌われるという悲しい運命を辿ることになってしましたが。それでもこの行動は止められないというのです。南無。
 ところがどっこい。白猫さんは長毛種という特殊なステータスをお持ちである以上に、不思議な猫さんでした。みずほくんの音速に逃げ切ってみたのです。あの目にも止まらぬ早さに特攻を回避してみせたのです。シュタッとみずほくんが動いた後に、白猫さんは一瞬消えました。姿を消すことでみずほくんから逃れてみせたのです。

「そこかァッ!」

 しかしそんなことではみずほくんは負けません。
 キュピーンという効果音とともに姿を眩ました白猫さんを一瞬で見付けました。白猫さんがぎょぎょっとした目をします。
 勝手にアテレコさせていただくなら「何故バレた!?」という顔をしていました。大変表情豊かな猫さんでした。

「見えるッ!」

 述語しか喋らない富野監督風の言い回しとともにみずほくんは再度、白猫さんへと駆け出します。
 音速で猫を捕まえることが出来ないのなら、今度は光速で動けばいいだけの話。あまりの早さに風が舞います。凄まじい音が響きます。
 刀を素早く振り回したようなブンという音に近いものでした。ただただみずほくんが猫に向かって走っただけの話ですが。
 って、真剣にナレーションをしていますが単にみずほくんが猫を捕まえているだけの話です。物凄い気迫と形相と共に……。

「もふもふする。もふもふする。そう、ボクはァ、猫をもふもふするぅ!!!」

 鬼気迫るみずほくんの声に白猫は必死に逃げました。
 飛び掛かり、回避し、走り込み、避け、あらゆるトラップを使い、あらゆる罠から逃げ出し、そして勝負は何ラウンドも持ち越した後…………白猫の勝利で幕を下ろしたのです。
 お疲れ様、みずほくん。勝負に負けちゃったけど猫とこんなに遊べるとは想わなかったですよ。
 とりあえず靴のまま廊下を走っちゃった何とかしましょう。魔王に見付かる前に掃除しないとですね。流石にお夕飯カットは嫌ですよ。



 ――2005年8月10日

 【    /     /      /      / Fifth 】




 /3

 服を脱いでタオルを巻いて露天風呂に入る。いくら夏でも日が落ちた後に温泉は、風が吹けば身が凍った。
 悲鳴を上げながら石造りの床を歩いて温泉に近付く。温泉は茶色かった。濁った色だったが不潔さはなかった。
 腰から肩まで浸かると、全身を熱さが包み込んだ。隅々まで効果のあるお湯が染み渡っていくのを感じた。少し熱いけど気持ち良い。ちょうど良い温度で最高の気分だった。

「月彦、ドキドキしすぎ」
「うっ」

 気持ちは判るけど。目の前で温泉に入る前から真っ赤になってる青少年をツッコまずにいられなかった。

「でも、混浴は……ドキドキするもんでしょ!?」
「まあな」

 電車内で、あんだけ胸の出た衣装に抱きつかれておきながらまだ真っ赤になるのか。ホントに月彦ってウブなんだなと思いながら、とりあえず今は温泉を堪能していた。
 うお、あっつい。皮膚が悲鳴を上げた。こりゃ逆上せないようにしないとな。だってこれは『仕事』なんだもの。
 ……悲しい気持ちを吹き飛ばして俺はお湯を味わった。

「今回の『仕事』は」
「ん」

 気持ち良いお湯を体中に感じながらも、真面目な話を月彦がし始める。リラックスしていたが俺も顔だけは真面目にすることにした。

「浴場に出る幽霊を倒すっていうもの、でしたね」

 それ以上に説明がいらないぐらい、温泉街での仕事のお約束だった。

「そうだよ。水難事故多発って温泉街には致命的大打撃だよ。ありきたりな任務かもしれないけど、被害は酷いもんだ。まだ死者は出てないけど重傷者は二桁を越えたらしい。早急に俺達が片付けないといけないよな」
「うんっ」

 今は超リラックスな姿勢をしているが、リラックスするだけに温泉に浸かっているのではなく……これは立派な待ち伏せ作戦だった。
 事件は今まで必ず水場で起きていた。この温泉街では山ほど露天風呂があり、至る所で事件があったらしいが、資料を見るに今俺達が入っている温泉が一番の被害を受けていた。だからとりあえずそこに浸かっていれば犯人が来るんじゃないか……単純にそう思い、俺達は温泉に浸かる。
 もちろん武装はいつでも出来ている状態だ。俺達以外の客も居ない。……俺がほんの一時間ばかり一般人が入らないように結界を張った。宿は大問題かもしれないが、そこは俺達が十倍のお金を払えばいいだけのことだ。貸し切り状態のまま、湯あたりしないように気を付けてその場で観光客を装う。
 しっかし、気持ち良かった。仕事でも極楽には違いなかった。天国のような仕事って何だこりゃ。あーあー温泉は人を堕落させるねー。嫌なこともさっぱりキレイに忘れることができそうだった。

「その、陽平さん」
「んー?」
「アっちゃんの言ったこと、あんまり気にしないでくださいね」

 何の気を遣ってか、月彦はいきなり真剣な声でそんなことを言い出した。

「アっちゃんって言葉が不自由なんですよ。あれでもいっぱい日本語勉強してるんですけど」
「あれだけ俺達とフツーに喋られるだけ凄い人だよ、彼女。俺達も英会話は頑張んないとな」
「うっ。はい。英語の授業ガンバリマス。だから……その、アっちゃんは陽平さんに悪気があって言ったんじゃないと思いますよ」

 俺は肩までどころか、口元まで温泉に浸かった。……何かしら行動をしておきたかったからだ。

「……るー子さんと、仲良くできないってこと」

 わざわざ月彦は、主語まできっちり付けて弁解をしてくれた。忘れようにも思い出させるように言ってくれる。コイツ、俺を慰めたいのか苛めたいのかどっちなんだ。……真っ直ぐすぎる青少年はこれだから困る。

「別に気にしてないやい」
「陽平さん、泣かないでください」
「これは温泉だ! 温泉が目に入ってえぐえぐしてるみたいに見えるんだえぐえぐ! 涙なんかじゃないやい!」
「もっと巧く誤魔化してくだいよぉ……」

 俺を慰める言葉をいくつも吐き始める月彦だったが、一定の時間になったらしっかり周囲を見渡すようになった。
 月彦の奴……そろそろアっちゃんさんが現れるんじゃないかと思ってやがるな。
 俺達男は服をぽぽぽぽーんと脱いで入ったが、女性はそれなりに準備がいる。もうすぐ来ると察しやがったな。俺への慰めもおざなりにしやがって。あー、いつか月彦が足を滑らせてツルッといきますように。……いや、そんなことしたらカノジョさんの看病イベントが発生してラブ度が上昇するだけか。ならごく普通に何事も起こりませんように!



 ――2005年8月10日

 【    /     /      /      / Fifth 】




 /4

「何なんだぁアレはぁ!?」

 なんたることか。あんな情けない声を出してしまうとは。
 この寺に住まう者達(マスターの家族なんだから我の家族とも言えよう。本来はそんな生易しい言葉は嫌いなんだが)は野生の勘を忘れたふぬけた人間どもと思っていた。
 ところだ何だあの餓鬼は。血走った眼と恐ろしい手つきで追いかけてくるなんて何なんだ。涙が出たぞ。あまりの悪寒で捕まってしまいそうになったが全力で逃げてきた!
 くそ、腹立たしい。情けない。我をこんな目に遭わせるだなんて『やはり』この寺の者共は異常者の集まりか!?
 いや、今は感情的になっている場合じゃない。とりあえず逃げてきたからいいものの……あのような餓鬼が寺に居ると知った以上、予防線を張らねばならん。あんなモノに見付かってしまっては、元の暮らしに戻ってくることなど出来なくなる。そう、悪魔に捕まれば食い殺されてしまうものなのだから。くそ、思い出し泣きもしてきたぞ……って、だから、今は感情的になっている場合じゃない!
 自分を叱咤して周囲を確認する。
 普段ならば寺の周囲には、十も二十も野良猫どもが居る筈だった。なのにここ数日どっかに消えていた。やけに静かだなと思っていたが……今なら判る。
 あの鬼が現れたから皆、逃げていたのだ!
 新参者であった我は悪魔の恐ろしさを知らなかった。だからこんな目に遭ってしまったのだ!
 くそ、くそ、逃げ出すのにこれほどの魔力を使うとは。ガクリと肩を残す。草むら……こんな場所で悪魔に捕らわれるのを待つしかないのか……せめて獣としての最小限の体力さえあれば……!

 そのとき。ざ、ざ、ざと人間の足音が聞こえた。ゴクリと喉を飲む。
 が、少し緊張が緩んだ。ピンと張った空気の糸が微かに解けるのが自分でも判った。その足音が、悪魔のものではなかったからだ。

「あ、いたいた」

 近寄ってくる足音。ぴたり止まり、持ち上げられる我の体。
 草むらに隠れていたというのに、あっという間に見付けた人間は、猫達の間で『黒い悪魔』と畏れられている奴ではなかった。
 寧ろ協力関係にあたる人間である。マスターだった。瑞貴は、前脇を抱えるようにして両手を広げ抱く。我がこんなに必死に逃げているというのに、笑っておった。

「もう、シロンー。なんで逃げるんだよ。おやつ出したのに。いらなかったのか?」
「飯は貰う。しかし命は捨てられん。貴様は同種だから悪魔の対応を出来るだけであって我々は奴らと対面する訳にはいかん」
「はあ? 意味が判らないんだけど。昨日も『猫達が騒いでた』のなんの言ってたけど……何が起きてるワケ? ロクに説明してくれたこと無いよな?」
「ハッ、頭の足りん人間にイチイチ説明してる時間も惜しいわ。ともあれ早く我を逃がせ。貴様もやっと結べた使いを無惨に滅したくはないだろう?」
「……シロンが頭イイ猫だっていうのは認めるけど、なんかカチンとくる言い方だな。いつものことだけどさ……。逃がすって、何から、どこへ?」
「どこでも良い。それと猫扱いするな、たわけ」
「猫じゃん」
「猫ではない、猫型のライカンスロープだ! 今はラクな猫の姿で体力と魔力を温存しているだけだ!」
「猫じゃん」
「脳味噌の足りん奴だな! 瑞貴よ。我はこの寺から離れたいと言っている!」
「……お前、瞬間移動の魔術使える猫じゃなかったか?」
「先程逃げ出すので力を使い果たしてしまった。それと猫ではない」
「猫じゃん」
「悪魔の手が及ばぬ所なら今は構わん。貴様、何か出来んのか? 何も出来ない魔術師ではなかろう!?」
「だからその悪魔って何よ……。よし、良い機会だから俺の力を見せてやるよ」

 抱き上げていた腕を下ろし、瑞貴の足元につく。
 物判りが良い瑞貴は、右手を出し、即座に呪文を唱え始めた。パリ、と周囲の空気が再度凍る。猫同士が作り出した緊張とは別の、更に緊迫した空間をヤツ一人が創り出そうとしている。
 パリ、パリ、カシャン……と欠ける音。欠けて飛び散る破片。元は存在しない筈の欠片。そこに、『穴』が生じた。

「流石だ、マイマスター! 突発的にゲイトをこじ開けるとは、よくやった! 目立たぬが良い魔術の使い手になるぞ!」
「……シロン。お前、自分の都合が良い時だけ俺をマスター扱いするよな。猫のくせに」
「感謝しよう、マスター。しかし我は猫ではない。暫しお暇とするが……この際どこの世界に放り出されても構わん! 悪魔が居る場所でなければ何でも良いわ! 瑞貴よ、さらばだ」

 小さな簡易ゲイトの中にするり体を忍ばせる。
 瞬間、尻尾に激痛が走った。

「ぶにゃっ!?」

 振り向くと、いや、掴まれた尻尾を見るためぶらんぶらん見上げると、瑞貴は……無表情に我の尻尾を掴み、持ち上げていた。
 瑞貴は、無表情で我を見下ろしている。

「……瑞貴、何をする」
「シロンは俺のサーヴァント」
「ん、あ?」
「シロンには俺と契約した刻印がある」
「あるぞ。確かにある。……今更、何の確認だ? そんな確認をしている場合では無……」
「俺はお前のマスター。お前は俺のサーヴァント。一心同体。それなら普通、俺の隣に居る。そうだよね?」
「んん? ……あ、ああ、その通りだな。……まさか貴様……『二十四時間隣に居ろ』と命ずる気か? 我に動くなと言いたいのか」
「シロン。お前が怖がっているのは誰?」
「べ、べべべ別に我は怖がってなどいない! 我が本気を出せばあの程度の餓鬼など木端微塵に出来る! だが単なる人間を吹き飛ばすなど『能力者のルール』に反するものだしな。ただ我は生命の危機から逃れようと至極当然なことをしているだけでな!」
「お前がどっか行かなきゃいけない理由があるなら、俺、それ解決してあげるよ。シロンがとりあえずどっかに身を隠している間に……………………そいつ、殺しておくから」

 …………。
 こいつは、何を。
 無表情で何を言い出すと思ったら。

「瑞貴」
「誰なの、そいつ」
「……そんなことしなくていい。ただ、五時間ほど、外に出てくるだけだ。行かせろ」
「三時間で帰って来なかったら殺す」
 
 それは奴か我か。
 ……どっちにも取れるような言い方だったが、目に何も光を写さないほど動かない表情に、こちらの方から折れてやることにした。下に従じる者になってやったのだからそれぐらいのことをしてやろう。……何気なくそう思っただけだ。

「ああ、ああ、判った。貴様の言う通り、三時間で帰ってきてやろう。だからとにかく今は我を逃がせ。そしてお前は落ち着いて茶でも飲んでおれ。…………その殺気を隠しておけ」

 三時間後そんなモノを見たら、帰る気も無くすから。
 だから痛ましい顔をするな。



 ――2005年8月10日

 【    /     /      /      / Fifth 】




 /5

 ……なんだか、可愛らしい風景を目にしてしまった。

 柳翠さんが魔術の実験を行なっていると聞いたので、俺は散歩ついでにそちらに足を運んだ。
 湖はなかなか来られる場所ではなかった。柳翠さんが行っているという話を聞かなければあと何年も来る予定は無かった。
 水の音を楽しみながら湖に辿り着き、辺りを見渡してみると、そこにはなんとも珍しく……新鮮で、でもとても『らしい』姿を目にしてしまった。
 柳翠さんと動物が、戯れていた。
 その光景を見た俺は、思わず息を呑んでしまった。
 今まで、彼と猫の組み合わせを見たことなかった訳ではない。でも、生き物(人間も含む)と接触することを拒んでいる彼には珍しいことだった。それなのに今、柳翠さんはある動物……猫と戯れていた。
 柳翠さんは気分屋で斜に構えているからとても猫っぽい。だから猫同士語り合っている姿は、とても様になっていた。いつでもそうあるかのように違和感が無かった。
 珍しい光景に俺は感動していた。
 しかし、あれ……あの猫、首輪をしている? あの白猫、ちょっと高そうな首輪を巻いているじゃないか。野良猫に見えない毛並みだし、首輪をしているなんて……どうして飼い猫が山奥の寺に? 猫は気紛れだから散歩が長引いて来てしまったという可能性はあるけれど、でもちょっと考えにくい。
 だとしたら、まさか柳翠さんの猫か? あのエキセントリックな彼なら、有り得ない話でもないだろうけど……。
 これは追及するべきなのか?
 近寄って声を掛けていいんだろうか?

「…………悩むな、馬鹿」

 というか悩みすぎだ、馬鹿。
 つまり俺は馬鹿だ。

「柳翠さん。それ、どこの猫っすか?」

 何気なく貴方を見付けましたと言うかのように、声を掛ける。
 わざわざ貴方を探していた訳じゃないっすよ。貴方を追い掛けて見ていた訳でもないっすよ。そうじゃなくて、たまたまここで猫と戯れる貴方が居たから声を掛けたんすよ……。
 そう目で演技した。……全部が目で、心で思っただけのこと。全てを知っていそうな天才の柳翠さんにどこまで伝わっているのかは、判らない。

「匠太郎か」

 柳翠さんは現れた俺の姿をごく普通に受け止めた。
 あまり驚くという仕草をしないから、ちょっと興味無なさ気に見える。実際そうなんだけど……と、悲しさが湧き溢れたところで俺は少し首を振るった。決して否定を込めるのではなく。

「そいつ、首輪してますね。どこの猫かな?」
「そう。ウェットティッシュや烏龍茶よりも可愛かろう」
「…………ええ、まあ」
「我が家に飼われた猫だよ」
「……え? 柳翠さんの猫ですか?」
「この血に飼われてしまった猫だ。私と遊びたくてここまで時空を越えてやって来てしまったそうだ……ふふふ」
「……野良猫が十も三十も居るっつーのに、ついに寺で飼い猫、ですか……。柳翠さんは普通考えないことを考えますねぇ」
「ふふ」

 ……嘘を吐くにももう少し良い嘘のつき方があるだろう?
 柳翠さんは悪びれる素振りもない。いつものテンションで話していた。元々慌てることもない落ち着いた性格だがら、これしきの演技どうってことない。演技じゃなかったら妄言ってことで済ませろってことなのか。
 俺はこのままスルーしてやるべきか。
 悩む思考が顔に出る。でも表情に出して心配させる訳にはいかない。
 ほら、肝心の猫本人だって物凄い緊張した面立ちだ。白猫はこちらを睨んでいる。物凄い形相で睨んでくる。……俺がかわす言葉を待っているかのようだった。

「そっか、この家の猫か。新しい家族が増えてたなんて俺、知らなかったすよ。はは、仕事中の柳翠さんに構われに来るなんて贅沢な奴だなぁ。俺だって柳翠さんと遊んでほしいのに。猫って良いなぁ。……可愛い猫っすね、そいつ」
「そうか」
「可愛いとは思いませんか?」
「飼い主が可愛いと思わなければ飼いもしないだろうよ」
「そうだよな。可愛い」
「飼い主はな」
「そっか、そっか」

 顔には出さないけど猫を可愛がる柳翠さん。
 言葉に出さずとも仕草が全てを物語っている。しっかりと右手が白猫の体を支えていて、左手でお腹をゆっくりと撫でてやっていて。白猫本人は、まあ、仏頂面だけど厭がってはいないからきっと気持ち良いんだろう。
 飼い主に似て、ぼうっとした顔をした似た者同士。まるで、猫がふたつ。可愛らしいのがふたつ。
 ……可愛いの、が……。

「っ」
「どうした、匠太郎」
「い、いやいやいやいや! それより! 水場は寒いんじゃないかな! うん! だから退散した方がいいと思います! じゃないと風邪引くでしょ! 柳翠さんはいっつも無茶して風邪引いてるんだから! 水場なんかいちゃいけない! 気を付けなきゃいけないと思います!」

 言うと柳翠さんは腰掛けていた岩場から立ち上がる。
 猫の体がびよーんと伸びる。前脇だけを押さえる形で立ったから白猫のお腹が剥き出し丸出しとなった。
 びよーんびよーんと伸ばし、ぶらーんぶらーんと揺らしながら柳翠さんは歩き出す。

「ご忠告、ありがとう」
「あ、うん……」
「ありがとう」
「……うん」

 二度のお礼。その点を強調するかのような言い方。
 感謝……してるんかな、本当に。本気の気持ちで感謝してもらえたら嬉しいんだけど。

「匠太郎が言ってくれなかったら、また私は風邪を引いていたな」
「柳翠さんっていっつも冷静なのに、ちょっとヌケてますよね」
「気を付けるよ。だが忘れることも多い。お前が見守っておくれ」
「……」

 去っていく彼の後ろ姿。
 顔に出ないし声も上がり下がりがないから、そういう文の表現法で彼の気持ちを読むしかない。きっと、それであってる。彼は、俺に感謝してくれた。
 それは自惚れてるからじゃない。事実だと思いたい。……自信を持って、彼と交流をした結果だと思っていいだろう……。
 会話も何もかもが精一杯。これしか出来ない。
 いや、今日はこんなことが出来た。それが誇れる点じゃないか。そう思って彼の後に続く。彼は自分の部屋に戻るらしい、彼なりの時間へ。じゃあ次は、俺は……? 考えつつ、一番納得できる方向へ進もうとした。



 ――2005年8月10日

 【    /     /      /      / Fifth 】




 /6

 ルージィルさんは人が大勢居るところは好きではないらしい。
 以前お話をして、連絡先をゲットした俺が知っているルージィルさんの私的情報の代表格といったら、それだった。
 俺はルージィルさんの姿を寺の敷地内でしか見たことが無い。寺の来賓客として彼の存在を知り、シンリンさんのような人の言葉で彼の人物像を知り、運が良いことにお近づきになることができた。
 連絡先をゲットした俺は一緒にお茶をする機会を得た。彼は洋館で寝泊まりをしているとのことだったので、洋館で開かれているお茶会に招かれた。お茶会は本家直系第三位のときわ様が主催しているもので、そこでルージィルさんと時間を過ごすことが出来た。
 一時間ばかりお話をした。一時間で「仕事が入っていますから」と去って行ってしまったが、充分俺は楽しむことが出来た。遠くから見ているだけでは手に入らなかった彼の情報を得ることが出来た。……それが先週の話だ。

「るー子と恋したいの?」

 電車内で、アっちゃんさんはニコニコ笑いながら尋ねてきた。俺は月彦に負けないぐらい赤くなりながら、「ハイッ!」と返事をしてしまった。

「触れることが出来ないのに、どうやって?」

 アっちゃんさんはそう言って、月彦から腕を解き、俺の手を取った。ぎゅっと俺の右手を握りしめてくる。指を絡ませてきた。……ふわっと風に乗って良い香りがした。蠱惑的だと感じた。

「ワタシはつっきーとちゅっちゅべたべたすることで愛情を確かめ合っているわ」
「…………そ、そっすか」
「ちょっ、アっちゃん! あわ、その、陽平さんこれはですね……!」
「でも、るー子はそれが出来ない。好きになっても残念な結果しか待ってないわ。それぐらい、るー子を好きだっていう人なら知ってるでしょ」

 ――こうやって指と指を絡ませられないことぐらい。
 言って、アっちゃんさんは指に力を込めてきた。女性らしい細くて柔らかい指だった。月彦のカノジョだって判っているのに密着されるとどきんとしてしまう。……接触は愛情表現。触れられると自然と好感を抱いてしまうもの。そして好感を抱いているから触れられるものでもあった。

「……アっちゃん? どういうこと?」

 理由の知らない月彦が彼女に解説を求めた。
 俺とアっちゃんさんが指を絡ませ合っているのを複雑に眺めながら、冷静を装うとするための質問のように見えた。

「つっきー。るー子はね。こうやって触れることが出来ない体なの」
「……え?」
「こうやって誰かに肌と肌が触れちゃうとね。バチンてなる。相手は死んじゃうのよ」
「…………え、ええっ?」

 月彦が、最初の頃の俺と同じ反応をしてくれた。……先月、俺がシンリンさんから受けた説明のときと同じだった。電車の中だし所詮他人事だから俺のときの反応よりずっと大人しい驚き方だったが。

「死んじゃうってのは言い過ぎ。るー子に触れられた人間は、バタンって倒れちゃうの」
「……それって……」
「ふしぎ?」
「不思議っていうか……そんなこと、あるんだ……?」
「あるよ。だって異能は色々あるもの。それは能力者の家に生まれたつっきー達は知ってる筈よ」
「……ん……」
「魔術を学んで火を出す人間はいる。学んでないのに火を出す人間もいる。火を出そうとすると出せちゃう人間がいる。火を出そうと思ってもいないのに出ちゃう人間もいる。でしょ」
「う……大変だなぁ、ソレ……」

 大変ね。
 ルージィルさんの家族だと言うアっちゃんさんはサラリと説明してくれた。

「知りたくなくても心が読める人間もいる。人間以外の声が聞こえてしまう人間もいる。相手に変調を与える力を持った人間もいる。るー子は、その一人。陽平。知ってた?」
「はい」

 俺がこのことを知ったのは、俺よりも長くルージィルさんと知り合いをやっているシンリンさんが「挨拶をする前に絶対に知っておけ」という前置きと共に教えてくれたものだった。「考え直せ」という言葉の別の言い方でもあった。
 それは、俺が彼に一目惚れをしてからずっと時間が経ってから知ったことだった。

「アっちゃんさん」
「うん」
「触れることは出来なくても、恋は出来ますよ。現に俺は、今もしています。現在進行形です。何の異常もありません」

 俺は、「考え直せ」と言ってくれたシンリンさんに向けた台詞と同じものを、彼女に放った。

「いいの、それで」
「いいんです。恋は体でなく、心でするものですから」

 ――基本、異能は遺伝だ。血によって能力は決まる。生き物は生まれつきどのような力を持って生まれ、どこまで発展できるかが決まっているものだという。
 生を受けたときからその人の素質や才能は決まっていて、後は自分の努力や運で備えた素質を開花できるかだ。最初から俺達を生んだ神様はどこまで出来るかを決めて下さっている。どのような血を持って生きるか決定して下さっている。あとは自分達がそれに気付けるか。……そう、俺の師である浅黄様は言っていた。
 魔術を学んで火を出す人間はいる。これは、「学べば火を出すことができる血を持っていた人間」だということ。
 学んでないのに火を出す人間もいる。これは「学んでなくても火を出すことができる人間」だったということ。
 その運命から外れるためには、流れている血を全て引き抜いて、全然別人になるしかないんだ。
 生まれた血からは、逃れられない。
 流れる血に「○○をしろ」とプログラムされていたとしたら、絶対にその血を持った者は「○○」をしなければならない。血に「△△に反応しろ」とプログラムされていたら「△△」が生じた場合、自然とそれに反応してしまう。全身の血を抜き取らない限り、そのシステムは続く。逃れられない。永遠に続く。
 ……まあ、そんな難しい話じゃない。花粉症の人間が花粉を吸いこんでしまったら反応して鼻水をダラダラ零してしまう。それだけのことだ。
 それだけのことなんだ。

「……アっちゃんさん。ルージィルさんはどうしてそんな体質なんですか?」

 ご家族の貴方は、今でも月彦とイチャイチャラブラブべたべたしているというのに。
 そういう人がいるのよ、いるものなのよと軽く説明されたが、それでもルージィルさんの……「触った瞬間パチンとなる」というのは特殊すぎる。そんなの、どうやって今まで生きてきたんだ。
 シンリンさんは教えてくれなかった。本人に訊こうとしたけど、デリケートな問題で聞けそうにない。面と向かって話せば教えてくれそうな人といえば、彼女しかいない。俺はいつになく顔面のシリアス度数を高めに尋ねてみた。

「本来なら生きていちゃいけない人だから、じゃない?」

 よく判らないが、大層な理由をけろっと口にする。
 流石にそれには隣の月彦も仰天だ。さっきから話題に出されているルージィルさんとやらはどんな大罪人なのかってぐらい驚いている。

「ねえ、知ってる? 神様は何でも出来るって」
「え? はあ、はい」
「全知全能完全無欠。神様は創造物全てを管理していて、創造物の自由意志を尊重している完全なる存在。でも彼ら彼女らもまた、生命ある子なの」

 可憐な声で何の話をしているのか。
 まるで歌を唄うかのような、子供にお伽噺を聞かせるような優しい声色に、ちょっと浮世離れした話もやんわりと耳に入っていく。

「なんでもできるのが神。だけど、神に唯一できないことがある。できないというより、してはいけないことよ。……創造物との接触。この世への直接介入。神自体が実際に手を下してはならない。とっても厳しい掟であり、もしそんなことをしてしまった場合はペナルティとして傷付いてもらう。お互いね。だってそういう世界のルールなんだもの」

 テッケンセイサイよ、とわざと難しい日本語を使おうとする彼女。意味が伝わらなくなるぐらいめっちゃ可愛いイントネーションだった。
 そこまでアっちゃんさんは話すと、月彦に「ジュースが飲みたいわ」とおねだりしていた。月彦はすぐさまジュースを用意するんだが……。で?
 ルージィルさんのことを訊いたら、神様についての説明を受けた。つまり、なんだ。ルージィルさんは……神!?
 いや、半ば知ってたけど。あんな美しい人、神様だって言われた方が物凄く納得するし!
 いやいや、そんなまさか。……じゃあ、彼女は何を言いたかったんだ? そして、何故最後まで言わなかったんだんだ? 気まぐれか? それとも直接俺に何かを教えてくれなかったのは……?



 ――2005年8月10日

 【    /     /      /      / Fifth 】




 /7
 
「あ。アっちゃん!」

 温泉に浸かっていた月彦がいきなり岩陰に向かって叫んだ。
 なんだとそっちの方を見てみると、湯煙の中かららうっすらと女性のボディラインが見えた。
 ドキリとする。その体つきは、出るところは出て、くびれているところはくびれている。ボッキュッボーンの理想のラインだった。
 こ、これは、危険だ。デンジャラスなボディだった。
 扇情的な女体がこちらに近付いて来る。ドキドキが止まらない。月彦は呼び掛けたはいいものの、その顔は俺以上にドキドキしてきた。
 彼女が近付いて来る。湯煙が晴れてくる。ハッキリと金髪が現れる……。

「つっきー、終わったよ」

 金色の大きな剣を持って、一仕事終えた後のアっちゃんさんが立っていた。

 ――彼女は俺達が雑談に花を咲かせている間に、女湯更衣室に生じた異端を退治していた。
 いや、退治したというより……『示談で事を終わらせた』という。
 なん、だと。更衣室!? 更衣室に現れるたぁなんて野郎だ! そんな魂なんて回収したくない、ここであの世に送ってしまうべきじゃないか!? そんな穢れた魂、当主の中に入れるなんてとんでもない!
 俺達は次々暴言を吐いていく。『その異端の正体が、幼女の怨霊』だと知るまで、俺と月彦は一緒に非難合戦が続けていた。
 ちなみに、アっちゃんさんは程良く胸があり、タオルが足りないように見えた。……あまりの恥ずかしさに、俺達はそれほど気にならなかったのに怨霊非難を続けていた。怒声は全て彼女を直視しないようにするためのカモフラージュだった。

 ……結局、俺と月彦は何もせずに『仕事』を終えてしまった。
 二人でなんとかする筈の仕事を剣一本で終わらせてしまったどころか、怨霊との会話で全てを済ませてしまったアっちゃんさん。彼女が只者ではないと判ってしまった。
 ルージィルさんがとんでもない力の持ち主のように、その家族であるアっちゃんさんも恐ろしい力を持っていたんだ。月彦が言っていた「凄いよ」は本当のようだった。
 いくら俺達が温泉に浸かって雑談をしていて夢中だったと言っても、五分も経っていない。それなのに彼女は二桁の人間達を困らせてきた幼女怨霊を仕留めてしまったんだ。……凄いのは事実だったんだ。

 アっちゃんさんが説得した幼女の魂を、月彦が仏田の刻印に回収し、事件は一件落着する。俺達にとっては始まってもいないのに終わってしまった仕事だった。
 こうなったら普通に温泉街を楽しむしかない! 俺達は温泉を堪能して、お土産を買って、浴衣姿になって宿の美味しい料理を食した。ちょっとヤケになっていた。
 お祭りの法被を着たような月彦と、絶対サイズが合ってない浴衣姿のアっちゃんさん。二人は恋人同士らしく温泉旅行を満喫していた。あーんしたりペロリしたりなんなり。……う、羨ましいだなんて思ってないんだからなっ。



 ――2005年8月10日

 【    /     /      /      / Fifth 】




 /8

 部屋に戻ってきたところで、掛けられた魔術を解いてもらう。
 ぶはっ! と行儀悪く息を吐いた。息を止めたんじゃないから苦しくはなかった筈はないと言うが、息苦しいには変わりない。

「貴様……よくも緊縛の術など掛けおって! 殺す気か!」
「何故その程度で死ぬ。動いてないと死ぬというのか。あまりに君の周りの声がうるさいから黙らせただけだ。そうか、君は魚か」
「猫だ! いや、猫じゃない! …………くそう瑞貴め、遠くに飛ばせと言ったのに寺の敷地内ではないか! あやつ、本気で我をこの寺から出さん気か……!?」

 何者か判らんが地下に住む魔術師らしい男の部屋から飛び出ようとする。だが、その前に滅多に入らぬ地下工房とやらを観察することにした。
 男は男で我をここまで連れて来ておいて、他に何かをするでもなく、話すでもなく、自分の仕事に戻っていく。……湖で魔術を行なっていたのは、おそらくは結界の強化だ。定期的にこの寺で行われることだった。
 この寺には大勢の能力者が住んでおり、多くの宝が眠っている。それを外部の魔の手から守るために、強力な結界が張られている。定期的に結界の更新をしておかなければ、外部の能力者に狙われたり、強い魂を食べたいと襲い掛かってくる亡者達の餌食になってしまう。……だからこの寺で最も魔力の集めやすいあの湖で、儀式を行なっていたのだろう。
 この男がその適任者かどうかは知らんが、見た限りこの寺に住んでいる魔術師達の中では最も高貴な魔力を秘めている。
 瑞貴も大した魔術師ではあるが、この男ほどではない。柳翠という男は……おそらくは当主の近親者だ。それが判るほど、その身に膨大な魔力を備えていた。
 その大した男がしている研究とはどんなものか。一族の知恵を頂くべく瑞貴の従者になった我は、きょろきょろと周囲を見渡していく。

 ……人形。ゴーレム。ホムンクルス。

 その手の器が転がり、未完成な人型がぶら下げられている。魔導書もその内容ばかり。あとは、世界についての記録が少しばかり。……大した術者だと思ったが、大した知識は記録されていない。世界のことなら、我が一族の方が数倍も上だった。
 それでも、世界について調べようとしていたとは……なかなかいない人材に、少しだけ興味が出た。我の足元にも及ばないが、ほんの少しぐらいは。

 この一族は、神を生み出そうとしている。
 広い意味でなら神を生むことぐらい可能だが、この仏田の血は「人の手で、人間と同等の地位まで落とし込んだ神」を手に入れようとしている。そんな研究も重ねていれば、第二、第三の器が必要だということ……か?
 確かにこの一族は、既に何人もの素体を完成させている。我が知っている中でも、数人は……人造人間だ。
 いや人造神と言うべきか。
 ……あともう一歩。もう一息で、この一族は完成させてしまう……。
 それはそれでいい。その一瞬の知恵も貰い受けよう。そのために瑞貴などという面倒な男の世話をする契約をしたのだから!



 ――2005年8月10日

 【    /     /      /      / Fifth 】




 /9

「なんで陽平は一人なの」

 唐突に、アっちゃんさんはそんなことを月彦に尋ねた。尋ねられた月彦も何と返せばいいのか迷った顔をしていた。月彦が苦笑いしながら彼女の言葉に応える。

「俺がアっちゃんをここに連れて来られたのは、俺の契約相手だったからだよ。普通の大切な人どまりだったら連れて来られなかった。いや、連れて来たりなんか絶対しなかった」
「どうして。力の無いワタシは邪魔者だから?」
「違うよ。大切な女の子を大変な場所に連れて来るなんて出来ないからだよ。好きな人を守るために俺はそうする。……今、アっちゃんと一緒に居るのは、契約している相手なら近くに安心するからだ。それも好きな人を守るためなんだよ」

 月彦は今日一番の顔で彼女に語りかける。子供ながらきりっとした良い表情だった。
 彼女はカノジョに相応しい顔をした。うっとりとしていた。可愛かった。
 ……って、こんな雰囲気になったのって、俺が一人身であることを彼女が憂いたからだよな。俺の話でラブシーンとか器用な。……どうしてこうなった。

「陽平さんだって危険な仕事先に好きな人を連れてくるなんてしない。好きな人は大切にしたいんだから、平和になった街で一緒にデートするだろうよ」

 ……いや。いや、いや……良いこと言っている中、すみません。本心では『ルージィルさんと一緒に来たかった』とか思ってました。すみません、ここが危険な場所だってとこ、すっかり抜けてました……すみません。ああ、そんなにカッコ良くしないでくれ……!

「そう。じゃあ、つっきーが魂を回収したこの街は平和だから、もう一緒にデートしても安心ね」

 明るい顔で彼女が言う。月彦も「その通りだね」と彼女の言葉に同意した。

「陽平。目を瞑って彼をイメージして。彼なら呼べば五秒で来る。呼んじゃっていいわ」

 ……アっちゃんさんはホント面白いことを言う人だなぁ。
 言いながらも彼女と月彦とのイチャつきは、どんどん激しさを増していった。直視できないレベルのイチャつきを始める。浴衣姿でそれはヤバイ。ああ、あついあつい……見てられない……つーか見ちゃいけない! 俺は目を閉じた。
 すると。




END

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