■ 020 / 「対抗」



 ――2005年12月17日

 【     / Second /     /      /     】




 /1

 走馬灯を見た。

「げはっ! くっ、ひどいな……!」

 腹部の痛みに、俺の人生十七年間がダイジェストでお送りされる。
 何重にも渡る攻撃、しかし実害はたったの三発。度重なるフェイントに疲労した俺は、たった三発の攻撃に全て当たってしまった。

 夜。ここは全寮制の高校。何かと幽霊が生じては俺に退治され、刻印に収納され、実家に捧げられる、そんな毎日ループ状態の一欠片。今日もそんな夜。
 魂を収容するために、生じた霊達を仕留めようとする、一人ぼっちの能力者な俺。
 家から離れた全寮制の高校に送られ、一人頑張る羽目になった半年間。初めての一人きりの冬。『仕事』に慣れも出てきて調子に乗った寒くない冬の夜。俺はピンチに陥った。

 吐き気がする。纏わり付く化け物が気持ち悪い。慣れたつもりでも慣れ合いは出来ない。
 これでも半年間で結構強くなった。異能力の扱いもずっとずっと良くなった。一人で任せられる程度の霊しか居ないところで、一人で頑張っていたら、一人で何でも出来るぐらいには強くなっていた。時々、寄居や福広さんが助っ人に来てくれることはあったが、そんなのいらないぐらいに成長してきた。
 でもなんかこういうこと、前にもあったような……そのときも俺、調子に乗ってなかったっけ?
 未熟でわんわん泣いていた方が緊張感があって良かったのかもしれない。俺は出来る子、やれる男だなんて自信を持ったから、こんな絶体絶命に陥ってしまったのか。くそ、悔しい。

「……力、使い過ぎたな。魔力切れって、ヤベェ」

 指パッチンをし過ぎて指も痛い。喉もカラカラだ。もう笑うしかないけど、笑う元気も無い。一時間ぶっ通しで異端と戦っていたらこうもなるか。
 ちょっと山に入ったところに建てられた、何かと化け物が生じやすい学校。周囲には数件の住宅、運動場、スポーツ施設、郊外に一つはある大きめなショッピングモールしかないというド田舎。
 そこで半年間戦い続けた俺。ピンチに陥り、痛みによる走馬灯の一部に、この辺りの風景が含まれていた。十七年間を彩る思い出にこの地は選ばれたらしい。なんだ、俺、結構ここが気に入ってたのかもしれない……。

「ッ!」

 なんてついボンヤリ考えていると、肋骨を傷めつけられる。
 鎖骨をぐりりと捩じられ、なんとか敵から距離を取っても悲鳴しか上げられない体になってしまった。
 ああ、もうヤバイ。これは死ぬ。
 鎖骨を押されるなんて、もう少し敵が頑張れば喉を狙われたってことじゃないか。それって既に死んでるようなもんだ。
 運が良いからまだ意識もあって立っていられるけど、一人で戦っている俺にはもうどうすることもできない。
 最後の抵抗ということで、俺はケータイのボタンを押した。助けを呼ぶ行為をする。もしくは遺言を聞いてもらう。パッと電話帳を開き、電話を掛ける。
 話が通じやすそうな福広さんを……仲の良い兄弟であるあさかとみずほを……いや、ここは藤春伯父さんを……と迷っている暇など無かった。俺の指は、震えながら、ムチャクチャなところを掛けてしまった。

 その瞬間、俺は異端に食われた。
 ――高梨 緋馬、十七年の人生に幕を下ろす。



 ――2005年8月20日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /2

 竹と竹がぶつかり合う奇麗な音が、木の空間に響く。道場での二つの音は、必死の形相ながら楽しんでいるような和やかなものだった。
 響き合う打撃に、時折交じる拍手。幼い火刃里がぽかんと口を開けて対戦を眺めている。
 オレ達二人が竹刀を使って模擬戦をしている姿を。
 その型は『剣道』じゃない。身を守るための鎧は一つも着けてないし、ましてや剣道はぴょんぴょん飛び跳ねたりもしない。片手で振り回しもしないのに監督官が許しているので、二人で自由なスタイルで戦い続けていた。
 そろそろ勝負がつくなと火刃里の子供心にも判ったとき、火刃里の隣に立つ一本松様が終わりの合図をする。パンパンと手を二回叩いたので、動きが止めた。男衾さんは無表情で一礼し、オレは「やっと終わってくれた」と言わんばかりの顔をする。

「つっきー、おっつーっ!」

 オレの剣の腕は決して悪いものではないと思うが、十歳も年上の兄弟子・男衾さんに勝つにはまだ修業が足りなかったようだ。
 けれど、寺の中に居る同年代にはオレについて来られる奴はいない。少しレベルが違っても上の者を相手にするしかない。それもちょっと早すぎたらしい。
 あまりのハードさにへこたれて、オレはその場で尻餅をついた。竹刀が手から放れ、カラカラと乾いた音が道場に立つ。
 ああ、疲れた。表情で判りきったことをオレは素直に口にする。
 それで許してくれるような兄弟子と師匠ではないことは判っている。だが言わずにはいられなかった。
 見学していた火刃里がオレに近付き、タオルと水を渡してくる。男衾さんは一本松様から同じ物が与えられた。男衾さんも涼しげながらも、多少はダメージを受けていてくれたようだった。

「ねぇ、つっきー! おれが思ったこと、そのまま言っていいっ?」
「どうぞどうぞ」
「つっきーね、剣道から抜けきってないっ! もっとバシバシ斬ったりザシザシしてもいいと思うっ!」
「そりゃ、こっちは元々剣道家ですから。やらなくなると学校でも同じ癖が出ちゃいそうだし、統一してんの。これでも部活のみんなに気遣ってんだから」
「でも男衾さんは剣道やるときは剣道やってるし、そうでないときはそうじゃないよっ?」
「オレは男衾さんほど器用じゃないし頭も良くないからね。重点特化にいくことに決めたの。ノロノロ構えてるのは本場に行ったらヤラれちゃうんだろうけど、昔の人はコレで戦を生き伸びてきたんだからいいでしょ」
「えーっ、つっきーは戦場出ないのーっ? 出ようよーっ」
「いいのっ、オレはスポーツとして剣を楽しんでるの。という訳で男衾さんと一本松様には悪いけど、そういうことだから!」

 天井を仰ぎながら、オレは叫んだ。そうして道場の中央に仰向けで倒れた。

 ――時代は平成。平静な世。剣術を嗜んだ武士が合戦することもなければ、騎馬兵がぶつかり合う戦争も無い。
 しかし、この家では力を求め続けられている。何故かというのはオレにも幼い頃から繰り返し、耳にタコができるほど聞かされていた。
 力を蓄え『そのとき』が来るのに備える為だという。
 『そのとき』というのは、もう数百年も来ていないのだけど。いつまで御伽噺を実生活に組み込もうとしているんだ、この家は。
 軌道修正できず、ずっと突き進む力への憧れ。時代錯誤も甚だしい。サッカーやラグビーもただの遊びになり、国同士の対決もスポーツぐらいしか無くなった世に、まだ戦の為に神経を擦り落としているのだから……馬鹿馬鹿しいと思われても仕方ない。

 オレは、純粋に剣道が好きだ。
 汗を流し、気持ち良く体を動かす。楽しく竹刀を持って生きていきたい。男衾さんも一本松様のような武人もいていいと思うけど、本音を言うと、ただただスポーツとして剣道が学びたかった。
 その点においては、火刃里の「勇者ってカッコ良くねっ!?」という純粋な力に憧れている心には同意していた。力だけに支配された世界に生まれ育ってきたから、少しだけ反骨心が芽生えてしまったのだろうか……。

「つまらんな、月彦。せっかく、真剣を持たせてやろうと思ったのに」

 ふと、そんな低くも軽い声がオレの耳を貫いた。声がした方を向く為、ゆっくりと身を起こす。
 そこにはじっちゃんが居た。なんだ、まだ生きていたのか。



 ――2005年8月16日

 【    / Second /    /    / Fifth 】




 /3

 パチ、パチ……と爪を切っている音が所帯じみている。
 普通なら何気ない老人の仕草。だというのに皆、途轍もない緊張感に襲われていた。

 大広間で会合だったが、本来なら居る筈の無い元老・和光様は簾の先で静かに控えていた。
 仏田家の元当主は既に現役を引退していても大きな発言権を持っていた。だから夜の寄り合いに出席していなくても、彼の一言で全てが変わる。今日は弟様である照行様と浅黄様に呼ばれ、酒宴目的に会合に顔を出したらしい。おかげで酒宴のつもりでなかった一族会議は、相当な緊張感に包まれていた。

 一応、この場は厳格で大真面目な会議の場だった。
 大山さんに出席を求められた僕は、この日のために提出された大勢の研究成果を報告するという重要な仕事が任せられていた。でもさっき、「慧、その件は後回しだ。今夜は和光様のお酌を頼む」だなんて言われてしまった。
 言っている大山さんも、会議の場が突然の酒宴に変えられて焦っている。笑顔だったけど、冷や汗は尋常じゃなかった。

 お酌だなんて、僕がするべき仕事じゃない。……と思う。
 でも本殿で行なわれる会合に出席できる女はいない。仏田一族唯一の女子とも言える清子様は深夜二時に起きている訳ないし(彼女も七十歳。無理をさせてはならない。和光様達も平均年齢七十歳の筈なんだが)、だから僕が元老達の接待をすることになった。
 ……こういうとき、「女の子扱いされているな」と思い知らされる。大抵こういう役目は今まで新座さんがしていたのに、どうして僕に役割が回ってきているんだろ。

 和光様は、奥の間でただただ自分の爪を切っていた。
 照行様や浅黄様は会議の場だからと発言する大山さんや狭山さんの話に相槌を打つことはある。でも和光様は、黙りこくって口を開かない。気ままに爪を切り、ふと気付くと僕に酒を注ぐように目で訴えてくる。
 そして僕は、気難しいと有名な和光様の機嫌を損なわないよう、絶妙なタイミングで酒を注いでいかなければならない。
 目つきは元々鋭い人だ。しかもいつ怒り出すかもしれない気分屋だから……紫色の眼で睨まれるたびに、僕の寿命は減っていく気がした。

「ふむ。寄居、というと、いつか……鬼種還りした坊主の方か? あっておるか、大山よ」

 大山さんがとある報告文を読み上げたとき、浅黄様が口を挟んだ。
 たとえ元老達が気ままな酒宴に変えていても、元々の一族会議は続いている。今さっき大山さんが読み上げた報告というのは、瑞鶴超人類開発研究所と呼ばれる施設で『調整』を受けている寄居という子の能力について。どうやら凄い修行の果てに大層な異能を身に着けましたよという報せがあったらしい。
 そんな風に真面目な研究の結果報告へ、元老達が口出しをする場になりつつある。本来だったらここで誰に何をするかとか、仕事を与えるかとか、資金繰りをどうするべきかと話し合われるだけど。……話が進まない。狭山さんの顔が、さっきから引き攣ったまま戻らないでいた。相手が元老三人だから何も言い出せずにいるが。

「はい、その通りで御座います。あさかは、今年の2月に藤春様の御邸宅に戻られました。寄居は様態が回復し、調査を行なわせたところ監視チームの報告では以下のような能力が……」

 本部に集められた報告を畏まって大山さんがつらつら述べていく。
 あさか。数ヶ月前の会議でも登場した名前。……暴走した少年に殺されかけたけど一命をとりとめた、直系の子。2月に大事件があって、それ以後解放された奇跡の少年。気紛れな老人達には記憶に無いかもしれない。
 僕は色んな人に追及された話だからはっきり覚えている。……そうだ、片割れである寄居くんは、あさかくんとは違う研究チームにまだ飼われていたんだった。

「あさかには特別特殊な力は見つからなかったそうですが、現在観察保護中の寄居には空想具現の力を大いに見せておりまして。実際、私も先日彼の戦闘訓練風景を視察したところ、その場にあった物体を変形、分解、再構築させる能力と、高い剣術が……」
「六十三代でこの力が出たのは何人目だったかな。あまり数を見ぬものだと思っていたが?」
「現在、藤春様と、柳翠様、匠太郎。若い者では、月彦がおります」
「ああ、うちの匠太郎は置いておこう。あやつの力は有って無いようなものだからな、未だに奴を後継者として生かした理由が思い出せんぐらいだ。……しかし、良かったな、照行兄上! 貴方の孫でないか、手柄だぞ」
「何が手柄だ、浅黄……。今更、我が血から鬼子が出たとしてももう驚く暇も無いわ。金をかけて薬に漬けて必死こいて育てているのだから、藤春坊ちゃんや柳翠坊ちゃんに勝る領域遣いでも生んでみよ。手柄はそれからだ」
「ともあれ、私の勝ちだな。まさかこんな所で当たりが出るとは」
「そんな賭、忘れたわ。浅黄、お前もさっさと細かいことは忘れろ」

 元老達がくつくつと笑う。
 大山さんに訊くだけ訊いておいて、話を自分達のものに戻してしまう老人達。「……賭、とは?」と、僕は思いきって浅黄様に尋ねてしまった。
 敬意を払うべき元老様ではあるけれど、魔術の師でもあり実の祖父である浅黄様は比較的身近な人だったから……お酌をする合いの手のつもりで、質問してみる。

「ああ。その寄居とかいう坊主、牢獄に入れられていびられたら稀な能力が出るか出ないか、酒を一本賭けておったのだ。兄上の息子達はあまり将来性が無い連中ばかりだからな。……おや、大山、お前もそうだったかな?」
「浅黄。堂々と目の前で、儂の息子を虐めるな」

 それを聞いて自分と、その他数名は押し黙ってしまう。
 元々静かだった室内が、余計に。理由は、誰も言えなかったが。

「――――で。其奴は使えるのか」

 唐突に、最奥で座る和光様が口を切った。
 浅黄様と照行様の悪ふざけが盛り上がっていたところに、突如入ってきた冷ややかな声。今夜は酒を煽っているくせに機嫌が悪いのか何も喋らないと誰もが思っていただけに、突然口を開いた事態を弟二人ですらたまげている。
 先代の当主である和光様は、気分によって対処が一から変わる。不機嫌な時であれば容赦が無く、逆に運が良ければ黒が一転し白になる。
 慌てて僕は向き直った。弟二人がそう促したからだが、和光様の盃は一滴も減っていなかった。

「寄居の能力は藤春様ほど目立つものではないにしろ、強力なものだと」
「気立てはどうだ」
「性格ですか? 大人しい子だと聞いています。実際、私の印象もとても温良な子と思いました。ですがまだ子供ですから……」
「其奴、たがう気は無いか」
「………………。はい」

 ……大山さんが「おそらく」やら「多分」と口走るかと思ったが、そんな失言はしない。
 本人の口からでなく、『この家に背く輩か』なんて。そんなの大山さんに訊いたって本人の問題なんだから……。いや、寄居くんが仏田に刃向わないようにするのは、上層部の役割か。
 和光様は『背かないよう』周囲から圧迫をかけるつもりで言ったのか。手向かうことがないよう、見張らせるために。それなら大山さんに言うべきなのか。

「ふん。そんな顔をするな、照行。儂の口が過ぎたと言いたいのか?」
「…………」
「まあ、儂に背いた奴など柳翠ぐらいだ。あいつほど度胸が据わっている奴などいたら褒めてやるさ。それに、番犬は何匹いても構わん。可愛がるだけの余裕はある。…………して、大山。今、其奴は何処におる。一応顔だけは見といてやる」
「……現在は、瑞鶴に居りまして」
「直ぐに連れて来んか。一週間過ぎると儂は忘れるぞ。最近、物忘れが酷くてな」
「兄上の場合、今に始まった事ではなかろうに」
「つまらぬ事をいちいち覚えている浅黄よりはマシだ」

 クク、と喉の奥をならして笑う和光様。……その命令に、大山さんが固まっていた。
 多分……大山さんは今夜寝ずに寄居くんを遠くの研究所から寺に戻す手続きをするんだろうなぁ。元々我が家の能力者なんだから引っこ抜くのは簡単だと思いきや、日本は面倒な手続きが大好きな国だからそうラクチンなんて言えない。
 あさかくんのときは確か薬漬けにされていた。毎日の生活を乱されたらポックリ逝っちゃうかもしれないやつだった。寄居くんが同じケースだったら、一週間以内に仏田寺に戻れというのは死刑宣告と同義になる。
 あ、でも大山さんがこの場ですぐそのことを口にしないということは、頑張れば連れてこられるレベルってことなのかな。……玉淀くんや月彦くんのように投薬をやめたら逝くようなタイプでもなく、依織くんや芽衣くんのように食べさせなかったら飢えちゃうタイプでもないのか。

「なんじゃ、大山よ、まだ居たのか。さっさと行け。早くその坊主を連れて来い」

 ……って、まだ会議が終わっていないのにそんなことを言われてるよ、大山さん。
 頭を下げて颯爽と退出した大山さんを見て、狭山さんが上手い日本語を使ってこの場の会議を終了させた。『本部』の中心人物が出て行かれたら会議も何も無いからだ。
 生きた心地がしない酒宴がやっと終わってくれる。……僕が本来するべきだった研究成果のレポート、いつするんだろ。ともあれ今はおひらきと言ってもらえてホッとしていた。

 和光様達はゆっくりと寝室に戻っていく。
 僕は老人三人が食い散らかしていったその場を片付けて、外で待機していた女中さん達(仏田出身でなければ本殿に立ち入れないが、直前で待機している分には怒られない)に後始末を任せる。本殿と外への橋渡しという重大な仕事を終えて、午前四時。ようやく今日のお勤めが終わってくれた。

 一息ついてあっちの廊下を見ると、大山さんと松山さんが煙草を吹かせて会話をしていた。
 僕に気付くと二人とも「お疲れ」と言ってくれる。二人ともフレンドリーに声を掛けてきてくれるけど、それは労いよりも同情心が勝っているのがよくよく判った。
 元老達と対話をしていたのは大山さんや狭山さんだったけど、一番近くに居たのはお酌をしていた僕だったから。……どっちもどっちだよ。こちらこそお疲れ様でしたと頭を下げる。

「いやあ、今日から二日間は眠れそうにないなあ。参ったね、こりゃ」

 大山さんは研究所から渡された書類をうちわ代わりにしながら、力無く笑っている。
 困ったように笑ってはいるけど、本当に困惑しているように見えない。……やっぱり、大変だけどそれほど難しい仕事ではないっていう顔だ。

「あの……すみません、大山さん。寄居くんはお寺に戻ってこられる……んですよね?」
「おや、慧。気になるかい?」
「……別に寄居くんには興味はありませんが、戻ってこられなかったら大山さんの首が撥ねられてしまいます。それは一大事ですから……」
「ははは、慧、お前さんのそういう冗談が大好きだよ。ははは」

 ブラックなジョークでも愉快そうに笑ってくれる大山さんは、今からとってもハイになっていた。
 煙草を吸って一息ついた大山さんは、隣に居る大柄な弟――松山さんに声を掛ける。
 仏田寺の住職である松山さんは、表の顔として「ただの寺の住職」に徹している。裏の稼業である魔術結社の一員ではあるが、退魔組織の活動はしていない。さっきの会合にも出席していなかった。だけれども重要な役職だ、この場でさっきの会議で何があったか話を聞いていた。

「という訳で、寄居が寺に戻ってくることになったんだ。ああ、戻してみせるさ。戻さないと本気で私の首が跳んじゃうからね」
「そっかそっか。頼んだぜ、兄貴」
「それでな、松山。……寄居の出迎えに、父親のお前が来るか?」

 裏の頭領である大山さんと、表の顔である松山さんの会話はとても和やかだ。廊下で煙草を吸い合う早朝の二人は、何気ない雰囲気の中でそんな会話を続けている。
 ……そうだ、寄居くんは……松山さんの三男坊だった。
 松山さんは実の息子が帰ってくるという話をされているんだ。……他の人よりも想うところは多い筈。僕が心配する以上の想いがあってもおかしくない。

「寄居は松山の息子だ、我が一族にさぞ貢献してくれる。是非とも父親の声で激励してやってほしい」
「そうだな。でもな、兄貴。迎えは遠慮しとく」
「車の送り迎えぐらいは許されるぞ。そんなに身を引かなくったって……」

 実の父親。でも松山さんは、表の人。
 そういえば彼の息子が暴走したときも、隔離されるときも、そしてこの報告が入るときも、松山さんは全て蚊帳の外だった。
 僕の見ていないところで松山さんは寄居くんに関わっていたのか。考えてみる。
 ……知ってる。『彼は、関わっていない』。そんな結論が僕の中に生じた。

「あのなぁ。俺はさ、仏田の出ではあるけど異能とかさっぱり判らん! そんな無能が語れるもんなんて無いだろ!」

 早朝からあっはっはと豪快に笑う松山さんは……この数年、父親として寄居に接するは、無かった。
 僕には判った。そして大山さんもそれを事実、見てきた。笑う松山さんを見て、思わず大山さんが苦笑いをする。……僕は笑う余裕も無い。

「寄居の事情を全然知らない俺より、報告書に目を通している兄貴の方が頼られるだろ? なら俺より兄貴が気遣ってやてくれよ!」
「……だが。私はお前達、親子に勝てる訳がない」
「そういうのは勝ち負けの問題じゃないって! 理解のあるみんなで暖かく迎えてやった方が寄居も喜ぶ! それより、俺なんかにこんな話を通しちゃっていいのか? ……まぁ、ここで勝手に兄貴を待ってたのは俺なんだが!」

 あっはっは、と能天気そうに松山さんが笑う。
 日が出始めて白く世界が染まりつつある廊下にて、「俺なんか」と愉快な大声で起き出す者達が出始めそうだった。

「あっ、慧。お前も寄居と仲良くしてやってくれよ。まだあいつ、十六歳だからさ」
「え……あ、はい、松山さん、判りました。すみません」
「いやいや、そこで謝るなって! で、兄貴。寄居はどんな能力を開花させたんだ?」
「領域遣いで高い才能が芽生えたそうだぞ。私が瑞鶴研究所に見学しに行ったときは、剣で戦っていた。……ああ、そういえば。昔、月彦くんといっしょに剣道をしていたじゃないか。それが影響なのかな?」
「……りょ、ういき……? んー、裏の世界はよく判らんなぁ! そうだ、寄居が帰ってくることを……月彦や玉淀に言っても構わないか? あいつらにも弟が帰ってくることを伝えたい」
「ああ、いいんじゃないか。……今のうちに二人に寄居のことを思い出させておけ。いざ帰ってきて『お前、誰?』って言われたら辛いだろう」



 ――2005年10月7日

 【 First /      /      /      /     】




 /4

 海に近い教会に、新座様は住んでいた。
 僕らの生まれ育った山には海が無くて、寧ろ「日本のヘソ」だと言い張っているほど島の真ん中にある。潮の香りを嗅ぐたびに体内が異物に反応して沸き立つ。子供の頃に初めて海を見たときと同じ感動が、成人した後にも体中を駆け巡ることがあった。
 見晴らしの良い丘の上に小ぢんまりと可愛らしい教会が建っていて、そこから天気が良いと青い海が一望できる。そんな絶景の教会に、新座様は住んでいた。

 教会と併設して幼稚園か保育園があるらしい。オルガンの音色にあわせて子供達が歌を唄っているのが駐車場にも聞こえてきた。
 少し顔を出してみると、あまり立派と言えない使い古されたオルガンを取り囲んで、お揃いの衣装を身に纏った園児達が懸命に吠えている。身振り手振り大きく歌詞を口にするシスターの真似をして、何人もの子供達が海を讃える童謡を叫んでいた。
 無邪気な子供達がどこかに飛び立っていってしまいそうなぐらい元気な合唱を終えると、シスター服の女性がおやつの時間を告げた。その号令を聞いて、更に子供達が楽しく愉快に吠えていく。
 美しい音色とか、子供らしいけらけらという語らいと表現できないのは、僕があまり子供が得意じゃないからか。いや、そうであったとしてもここの園児達はとてもとても壮健でたまらないのかもしれない。

 さっきまでオルガンを弾いていた男性が、シスターの号令を聞いてとある袋を持って園児達の元へ駆け寄る。一つ一つ可愛らしく包装された袋を、子供達に配っていった。
 どれも手作りの包装らしい。男の子には青いリボンの袋を、女の子にはピンクのリボンの袋を手渡していく。礼拝堂の長椅子に揃って座る園児達がセロハンを剥がしていった。すると、たっぷりとお砂糖とチョコレートがデコレートしているドーナツが顔を出した。
 小さな子が食べるには、大きすぎるかもしれない揚げドーナツ。
 子供が最も好む、カラフルなチョコの装飾。僕はあまりお菓子作りに詳しくはないが、ホワイトチョコの上にピンクやライトグリーンのデコペンで色付けをしたドーナツは……歌でお腹を空かせた子供達には堪らない一品だ。
 現に……口の周りをチョコで汚しながら笑顔で平らげる子供達で、礼拝堂は溢れかえっていた。

「むぐっ!? 誰か教会に来るとは聞いてたけど……慧くん、久しぶりだね!」

 一仕事終えた新座様が、遠くで見学していた僕に走って近づいてくる。
 走らなくても僕は逃げないのに、目を離すと逃げ出す子供の相手をしていた癖なのか、見つけ次第駆け寄ってきてくれた。
 挨拶をしようとする前に、新座様は「はいっ! 余り物で良ければ!」と僕に袋を押し付けてきた。
 それは……ピンク色の女の子向けドーナツ。それだけじゃない、チョコレートでウサギさんの顔が描かれた薄焼きホットケーキに、大きめなチョコチップのクッキー。
 思いっきり子供が喜びそうな幼稚なデザインで、大人だったら胸焼けを起こしそうな色彩センス。そんな……わざわざピンクのリボンの方を僕に押し付けてくる新座様は、嫌味な人か天然か、どっちだったろうか。

「す、すみません……こんなに沢山おやつ、いいんですか。新座様」
「いいっていいって! 先生だって一緒に来てるんだろ? じゃあ二人で食べてよ! お茶といっしょに食べればあっという間に無くなるよ!」

 それ、お茶といっしょじゃないと飲み込むことができないぐらい強い味付けってことかな。どうだろう。
 けど、礼拝堂でドーナツを頬張っていた子供達の笑顔を見ていたから決して悪い味じゃないって判っている。「新座様……ありがとうございます、先生と食べますね」と正直に感謝の言葉を述べていく。
 すると、いきなり新座様は真剣な顔をして、人差し指を前に出してきた。
 なんだと思って目をぱちくりさせると、すかさず僕にデコピンをしてくる。ぴんっ。
 ……更になんだと思って、目をぱちくりさせてしまう。

「え、えっと……新座様?」
「むぐっ! それ、駄目!」
「え……え?」
「『新座様』じゃないよ、僕は『新座さん』! 今、教会で神父様っぽくお歌を唄ってお菓子を配ってるんだよ。偉い人じゃないんだよ!」

 だから訂正しなさいっ、と……新座様はもう一度軽いデコピンをするように眼前に指を突きさしてきた。
 ……まあ、確かに。神父様はともかく子供達の面倒を見る一スタッフなのに『様付けをされている姿』を見られたら、堂々としている彼でも肩身が狭くなってしまうのかもしれない。
 当主様の実の息子で、仏田家で当主の次にその血を尊ぶ第二位であったとしても、それは山奥での話。海に近い異世界では全く関係無い話だった。
 ごめんなさいと謝り、すぐに「新座さん」と呼び方を改める。すると彼はにんまりと満足げに笑い、「もっと気安く! 気さくに! 呼んでくれていいよ!」と仁王立ちで胸を張った。僕よりもずっと年上の男性だったが、まるでランドセルを買ってもらったばかりの男の子のようだった。

 新座様……改め、新座さんは半年前からこの教会に住み込みで働くようになったと報告を受けている。
 春に仏田寺を飛び出した彼は、流れに流れて人に拾われ、今は子供達の面倒を見るという……魔術結社の研究者なんて今までの生き方とは違う生活を手にしていた。
 そうなるには三ヶ月掛かったという。なんでも彼の従弟である鶴瀬という僧が『本部』の上層部に取り入り、「今の生き方を尊重してやるかわりに『赤紙』は従来通り受けろ」と話をつけたそうだ。
 初めてその話を聞いたときは、信じられなかった。
 三ヶ月間は家族喧嘩をしていたそうだが、たった三ヶ月で外での自由な生活を手に入れただなんて。
 『赤紙』による魂の回収は義務付けられていても、それでも『本部』の監視下でない生活を手にするなんて……。耳を疑った。
 だって、多くの一族が、喉から手が出るほど欲しがっていること。
 あの閉鎖的な世界から逃がれたくて、血反吐を吐いているというのに。
 この人は『当主様の三男』という立場と優秀な手駒を使って、三ヶ月で手に入れてしまったんだ。

 羨ましかった。憎いとさえ思っても仕方なかった。
 僕は親しくしてくれる人が力があるので恩恵を受けているから、まだいい方だ。僕より下位の扱いは山ほどいる。
 彼の……特権、血の濃さ、言い訳、特恵、優位、理屈、強者、天性、上位者、理不尽、幸運。考えれば考えるほど、彼の顔を見て話すことが億劫になってしまう……羨望。
 首を振るう。
 別に今日は新座さんの充実した人生を見にきた訳じゃない。ドーナツを食べにきた訳でもないんだ。

「えっと、慧くんは……教会の人とお話したいんだっけ?」
「は、はい。正確には僕じゃなくて……先生がなんですけど。すみません」
「ううん、謝らなくていいよー。で、その先生はどこに?」
「……シスターとお話があると言って、先へ。ここで待ってろと僕は言われました。その……すみません、僕のような不審者がずっと立っていて」
「別にいいって。子供達も見られたって全然気にしちゃいないさ! ムツ子も来賓室の準備なら朝からしてたし、そろそろ相手方も来てくれるんじゃないかな? もうそっち行っちゃう? 座って待ってる? 僕も時間があったらお茶を淹れにそのうち行くよー!」

 ムツ子というのは、先程子供達と一緒に歌を唄っていたシスターの女性のこと……のようだ。知ってる。
 三十路過ぎぐらいの『いかにも仕事が出来る』という雰囲気の綺麗な女性だった。彼女はここの教会で保育園だか幼稚園だかをやりながら、退魔組織『教会』のメンバーとして多くの異端事件に関わり解決したり、その知恵を他組織に貸していたらしい。……知ってる。
 僕は『新座さんを通じて』、その事実を知っていた。新座さんの言葉を聞いた訳ではなく。……『知ることができた』。僕の能力だ。
 そんな風に雑談を交わしていると、噂のシスターがやって来て僕に手招きをした。「もう準備が出来たから来賓室に入っていい」という。
 新座さんとそこで別れ、僕は……教会の中へと入って行く。
 既に先生がシスターと会話をしていた、一室へ。

 ――品の良い調度品に囲まれた来賓室は、洒落た洋間なのかと思ったらサンルームだった。
 太陽の光を浴びてきらきらと輝く美しい場所だ。立地が良いので天気が良ければそれこそ青い海すら見える。
 目に優しい色の人工皮ソファがあって、そこそこ良い物らしいアンティークのテーブルがある。観葉植物は爛々と踊っているし、眩しすぎない照明器具も観光でならカメラを向けたくなる代物だったけど、一面ガラスで囲まれた立派なサンルームだから、会議をするには少し目立ってしまう。応接室には相応しくない部屋だった。
 ソファには僕の先生が座っていて、やっぱり良い物らしいティーカップを受け取っていた。僕が入ってくるなり「外の様子はどうだった?」と尋ねてくるので、「とっても良い所ですね」と愛想を振りまいておく。
 暫く先生と他愛のない世間話をして、「この時間が終わったらどこか海の見えるホテルを取って一泊したいな……」なんて相談し合っていると、ようやくシスターが客人を連れてきてくれた。

 それは新座さんじゃない。
 あくまで今日は、先生の依頼で、教会に通じるシスターの紹介で、教会でも高名な能力者を連れてきてもらって会談をする一日。
 そこに偶然新座さんの影があっただけで、先ほどの時間は今の緊張感とまったく関係が無いものだった。

 黒いドレスのような衣装を纏った女性。
 長い黒髪の上には黒レースの被笠。紫色のマニキュアや品の良い色の口紅をさして微笑む……まさに魔法使いといった風貌。

「うふふ。まさか『機関』の夜須庭(やすにわ)先生にお呼び頂けるだなんて光栄ですわ。私も長年魔術師として『教会』に籍を置いていましたが、お呼び出しをしてもらえるほど真面目に研究をしていた訳ではないですの。とても緊張していますから、どうぞお手柔らかに」

 僕の隣に座っていた先生が立ち上がり、女性に握手を求める。
 彼女は何者だ。……知らない。ただ一つ、先生の口から教えてもらった名前だけは知っている。……切咲(きりさき)さん。
 なんでも『教会』でも有名な魔術師らしい。「彼女の知識を借りたくてこの場を何日もかけて用意したんだ」と先生が言っていた。
 切咲さんが席に着いたのを確認して、僕は言われた通りスーツケースをテーブルの上に置いた。パカリと封を切る。
 そこには、開けた僕もビックリするほどの大金が詰まっていた。



 ――2005年12月17日

 【     / Second /     /      /     】




 /5

 ――目覚めたら、俺は真っ暗な空間に立っていた。

 目を開けたら病院の天井、泣いて看病する誰かという展開を期待していた。けど、どうやらそんな優しいシーンは作らせてはくれないらしい。
 自分の手を見る。掌の皺がくっきり見えた。
 あれ、おかしい。この空間は真っ暗というか、真っ黒だ。あっちを見てもこっちを見ても黒しかない。だというのに俺の体はハッキリと見ることができる。
 俺以外が黒く、俺は色を持って存在している。……光が無い訳じゃない? どういうことだろう。

 ふと、目の前に三メートルほどの所に誰かが現れた。
 見たことのない女性だ。
 髪が長く、黒く、化粧っ気が無い。少しダサいというか、古い人間ぽい印象を受けた。和装で、眉毛が太いことから平成の時代の人とは思えない。
 彼女は体調が悪いのか、顔色が良くない。今の俺みたいに元気の無い。
 貴方は誰ですか、そう呼び掛けようとしたとき、女性は走り出した。どこへ? また三メートルほど先にいる、男性の元へだ。
 その男性は誰か。俺の名前は知っていた。柳翠という人だった。

「………………」

 ――柳翠。
 仏田家当主の弟。元当主・和光の三男坊。藤春伯父さんの実弟。俺の……。
 頭に入っている知識が総動員して生じる彼という人物の記憶はそれぐらいだ。彼には……仏田寺で何度か会ったことはある。
 話はしたこと、無かった、けど。

 女性は、男性を抱きしめた。
 何故か二人はとてもお熱い仲に見えた。幸せそうな笑みで、二人はお互いを強く抱きしめあっている。
 なんなんだ、これ。
 すると突然女性が倒れた。男性は叫び始める。叫んでいる最中に女性は消えた。跡形も無く消えた。
 男性が泣き始める。物凄い勢いで泣いて、急に俺の方を睨んだ。

「お前が殺した!!」

 俺の胸に槍が突き刺さり、貫通した。

 ……それは、幻想。
 俺は真っ黒な空間でヨタヨタとふらついている。……さっきまで槍が突き刺さっていた胸を抑えて、血が噴き出していないことと、傷が無いことを何度も確認し、深呼吸をした。
 なに。
 なに、これ。
 なにこれ。
 俺の未熟な脳で精一杯考える。なんなんだ、これは……。

 ――まさか、精神攻撃?

 また目の前三メートルに誰かが現れた。今度は複数だ。
 寄居に、福広さん。あさかとみずほまで居る。真っ黒な空間で、あいつらだけがカラーで、平々凡々に笑っていた。
 こんなの有り得ない……そうだ、これは幻だ。これは、罠なんだ。やっと理解した。
 先程戦っていた異端は、やたらとフェイントの多い攻撃をしてくる奴だった。幻の攻撃を幾重にも重ね、デカい実害を叩きつけるというイヤらしい敵だった。
 異端は人を傷付ける特性がある……しかも、人を苦しめる性格をしている。程度の低い能力者である俺の息の根を止めるなんてのは、少しお強い異端であれば容易いこと。でもあっという間に殺さないで、精神的に甚振ってから殺る……ってか。
 そこを理解したら、なんか頭が落ち着いてきた。目の前に居る仲の良い連中が幻だと判ってしまえば、どんな攻撃でも怖くなかった。

 そう身構えると、目の前の連中は有り得ないことをしてきた。
 寄居と福広さんは俺に対して罵詈雑言を飛ばしてきた。有り得なすぎて笑ってしまうぐらいだった。
 だって寄居は悪口を言わない素直な性格だし。福広さんはそんなポンポン叫べるような人じゃない。どっちもぼんやりのんびり話すタイプだ。俺を激しく罵倒なんて有り得ないことだった。
 あさかとみずほに至っては、見ているだけで恐ろしい武器を持って俺に襲い掛かってくる。
 平和主義者な彼らが『俺に対して牙を向く』というのが恐怖するとこなんだろう。だけど、あさかとみずほは修行をしたことない『ほぼ非能力者』だ。実家の生業を知っているから本物の一般人ではないけど、武器を持って戦うような生活はしたことない。よってあれは、あさかとみずほじゃない。
 俺は疲れ切った指を鳴らし、四人を燃やした。
 ギャアと悲鳴を上げながら寄居、福広さん、あさか、みずほは焼け死んでいく。
 ……少しだけ、その光景に傷付いた。生々しい悲鳴は、たとえ化け物相手でも聞いていて怖かった。

 胸を見る。槍は刺さってない。
 ちょっとだけ苦しくなったけど、一番最初の不意打ちのアレよりずっとラクだ。相手がどんな攻撃をしてくるか理解した途端、真っ黒の異空間でも心が安らいできた。
 あとはどうやってこの黒い空間から脱出するか。次から次へと訪れる精神攻撃をかわしながら、思考した。

 また俺の前三メートルに人が現れた。
 見覚えのある男性だ。藤春伯父さんだった。

「伯父さん……」

 いつか現れるんじゃないかと思ったけど、実際現れるとやっぱり心が痛む。
 異端が作り出した幻というのは判っていたが、これから伯父さんそっくりの化け物を焼き殺さなきゃいけないのかと思うと、胸が苦しかった。
 目を瞑って敵を相手にする技は俺には無い。ちゃんと相手を向き、しっかりと呪文を唱えないと討ち破ることはできない。
 さっさと終わらそう。そう深呼吸して、俺は伯父さんに指を向けた。
 馬鹿馬鹿しい精神攻撃が来る前に終わらそう。
 慣らし過ぎて痛む指先。唱え過ぎて痛む喉。小さくても刺さり過ぎて痛む胸を我慢して、俺は火炎術式を発動させる。

「どうしてお前、ときわじゃないんだ?」

 ざくり。
 胸に特大の槍が刺さった。



 ――2005年8月20日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /6

 大山さんの仕事は徹底している。何の問題も無く、寄居くんは寺に帰還されることになった。
 県外の施設に預けられていた寄居くんのお迎えに、何故か僕が選ばれた。大山さんと一緒に車に乗り込み、施設の出口で寄居くんが出てくるのを待つ。どうして親しい家族ではなく僕が寄居くんを連れ戻さなきゃいけないかというと、ただただあの夜に松山さんから「仲良くしてやってくれ」と言われたから。それだけだ。
 だからさ、本来だったらこういう仕事は僕じゃなくて新座さんの方が向いていると思うんだけど。……僕、変に新座さんの代わりにされているのかな。そうかもしれない。いくら能力が似ている感応力師だからって、生まれも全然違う僕をいっしょにしないでほしい。とっても荷が重いよ……。

 ――寄居くんはかつて、暴走して身近にいた……藤春様のご子息を殺した。
 怨霊に体を乗っ取られて、殺戮の限りを尽くした。それを封じ込めた『本部』は、傷付いて不安定な体を外部の研究所に預けた。そこで『調整』を行ない、未熟だった能力者の体を一変、優秀な素体へと蘇えさせた。
 松山さんの三男として生を受けた寄居くんは、一般人に比べれば異能を操るだけの力を持った子だった。でも今は、優秀な異能を操る子に生まれ変わったという。
 たった数年、施設に入れられただけで。毎日修行に明け暮れたおかげで。
 どのような修行だったか。僕は目を閉じて知る。……知ってる。悲惨なものだ。ああ、知っている。全部見えてしまった。

 それはともかく。はるばる訪れてみた異能力研究所の施設から出てきた少年は、とても小さな子供だった。
 洒落っけの無いセーターに、サイズのあってないズボン。髪はボサボサの真っ黒。まるで人に会うという顔をしていない質素さ。
 鎖などで繋がれていたり、首輪や手錠はされていない。そんなことをしなくても暴れないというのが伝わってくる、内面の静けさを目に見て感じ取れる。
 ……うん、僕が思ったよりもずっと小さく、か弱い少年に思えた。
 自分は平均的な身長があったし、尚かつおつきの大山さんもスラリと背が高かったから余計に寄居くんの幼さが強調されている。こぢんまりというか、ちょこんというか。それでいて存在がどこか希薄。無機質で機械的なイメージを感じた。

「寄居くん。久しぶり。私のことは覚えているかな?」
「――ども。大山伯父さんですよね」
「…………」

 寄居くんから醸し出される不思議な感覚。ついつい黙って、寄居を上から下まで眺めてしまう。
 ……居たたまれなくて、直ぐに車に入るよう急かした。
 車内でも、どこか空気が冷たい。そして、存在が薄い。暫く運転中も、寄居くんはおしゃべりする気配は無かった。
 施設から仏田寺までの数時間あったのに、大山さんの何気ない問い掛けに淡々と返す程度しか喋らない。……僕も喋るのは得意じゃない。明らかに人選ミスだよ、と思いながら石段の前までやって来てしまった。
 石段下の駐車場にやって来た寄居くんが、砂利を踏みしめて……ゆっくりと空を仰ぐ。
 その先にあるのは、山門。石段を登った末には仏田寺がそびえ立っている。
 数年ぶりに帰って来た彼は何を想うのか。探ろうとして……やめた。僕が知ったところで、慰めてやれる気がしなかったからだ。

「――ようやく帰ってきおったか、おぬしら」

 さあ、みんなで長い石段を登っていこう……と思ったとき。
 唐突に低い声を掛けられて、はてとそちらを向く。するとその先には、大層なお着物に身に纏った老人が鎮座している。
 青空の下に居るような人ではない。……元老の照行様が、石段の一番下に腰掛けていた。
 思わず目を見開いてしまう。いや、だって、ほら、一応お偉いさんだからまさか地べたに座り込んでいるとは思わなくて。僕と同じことを考えているらしい大山さんも、思わずぎょっと目を見開いちゃっている。寄居くんはというと……比較的落ち着いているっぽかった。

「あ。寄居じゃん!」
「ヨリーっ?」

 その石段に座り込む照行様のお隣には、同じように少年が二人座っていた。
 寄居くんと同じぐらいの小さな子が二人。ジャージ姿でこちらを伺っているのは月彦くん。その彼と照行様の真ん中であぐらをかいていた甚平姿の子供は火刃里くん。二人はじいっとこちらを……いや、渦中の彼を見つめていた。
 ……月彦くんと寄居くんの目が合う。
 無機質な印象を未だ纏った少年と、元気な男の子と一緒にさっきまで笑い合っていたらしい少年の視線が交差する。
 ……月彦くんと寄居くん。
 二人は、実の兄弟だ。数年ぶりの再会が、予期しなかったタイミングで叶った。

「おいっす」

 するとさっきまで黙り込んでいた寄居くんが、チョップをするかのように片手を上げて、軽快な挨拶をした。

「お、オイーッス。寄居……今日帰る予定だったのかよ! なんだよ、親父の奴……『そろそろ戻るから』って言ってたけど今日だって聞いてねーよ!?」
「つっきー、アレ誰ーっ? ヨリーっ?」
「っていうかじーちゃん! いきなり結界外に連れ出して何だと思ったけどこういうことかよ! 俺に寄居を会わせるためってか!? サプライズのつもりか! ありがとよっ!」
「ねーねーっ、ヨリーって誰ーっ? おれ、あの人見たことないよーっ。……あっ! おねーさんだっ!?」

 火刃里くんは寄居くんの隣に居た僕を指差してバッと走り寄ってくる。……でも、僕はお姉さんじゃない。「違うよ……」って何度訂正してもわざとなのか「おかえりーっ!」と無視して僕の周りをぐるぐる回るだけ。
 そして、唐突にずずいと寄居くんの目の前に身を乗り出してきた。初対面の筈なのに容赦がない。尚且つ、火刃里くんに目の前に急接近されたというのに寄居くんは無表情のまま突っ立っているだけだった。

「あのな、火刃里。そいつは……オレの弟。寄居っていうんだ」
「ヨリーっ? おっす、オラ、火刃里!」
「……つきにい。変なテンションの子だね。みずぴーもこんなんだったけどさ。これ、誰?」
「火刃里だよっ! ヨリーってつっきーの弟なんだよね? じゃあおれ、お前のハトコ! イトコじゃなくてハトコなんだぜーっ!」
「……何歳?」
「つっきーより三つ下!」
「……じゃあ、俺より二つ下か。見たことないけど、君も仏田なんだ……見たことないけど」
「最近加わったのっ! よろしくっ!」
「……うちってそう簡単にパーティー参戦できるんだっけ、慧さん?」

 いや、出来ないし。結構簡単でもないし。君も火刃里くんの件も徹夜で手続きに追われていた大山さんの笑みで、察してほしい。
 ともあれ……態度は未だ淡々だけど、受け答えははっきり出来ている。久々に会った兄を邪険に扱わず、初めて出会った年下の子に冷たくするでもなく、ごく普通の対応が出来ている。
 日常生活に支障は無い。それでいて能力がより優秀な状態で仏田寺に戻ってこられたのだから……『本部』的には万々歳だ。
 僕と大山さんが隠れて安堵の笑みを浮かべていると、石段の最下層に腰掛けていた照行様が重い腰を上げた。

「寄居、月彦」

 重い声。重圧感のある元老の一言に、寄居くんの周りをくるくる回っていた火刃里くんも足を止める。

「はい」
「はい」

 呼ばれた両名は、まるでこれから一試合するかのように引き締まって背筋を伸ばしていた。呼ばれていない火刃里くんでさえもしゃんと姿勢を正している。
 父を産んでくれた祖父に対するものではなく、我が家の重役へと態度を改めていた。

「地下へ行くぞ」
「はい?」
「月彦よ、お前も腑抜けた修行ばかりしていたのではないと儂に見せてみろ。そして寄居よ、外で培ってきた異能とやらに価値があるか証明してもらうぞ」
「……はい」

 青空の下、野外だというのに唾を呑む音さえも聞こえるほど静かな宣告。
 二人は文句一つ言わず、「かしこまりました」と声を揃えて頷いた。

 ――本来であれば、寄居くんを迎えなければいけない場所があった。
 だが照行様直々の命令を直接見かけてしまった大山さんの計らいで、寄居くんは仏田寺に着くなり地下の広間に連れてこられた。
 地下に作られた闘技場のような場所にやって来たのは、寺生まれの寄居くんでも初めてだろう。学校の体育館ほどの大きさのここは、大規模な戦闘を用いた実験の際にしか使われない。ただの訓練なら地上にある道場で事足りるからだ。
 だというのに道場ではなく土が引き詰められ、天井が十メートル以上ある地下へとわざわざ連れてこられたのは……照行様が孫二人の対決を見たいからに違いない。
 何の思惑か、それとも気まぐれな老人の道楽か。
 五メートル間隔を取った場所で見つめ合う月彦くんと寄居くんは、無言で立ったまま。戦闘開始の合図を待っていた。

 僕はというと、予定をまたもや狂わされた大山さんがあちこち走り回っているから「この場を監視していてくれ」という新しい仕事を任されてしまった。……だから僕、そういう仕事をやるような人間じゃないのに。
 闘技場のような広間の端で、照行様と火刃里くんと共に椅子に腰掛けて二人の戦闘を眺めることになる。程良い緊張感の中、事は始まる。

「両者。武器を出せ」

 照行様の声と同時に、二人が動き出す。
 月彦くんは虚空からスラリと長物を取り出した。道場にて剣道着姿で竹刀を振り回す少年だった。だが今は竹刀を手にしていない。素早い動きの彼らしく、動きやすいすっきりとしたラインのジャージ姿の月彦くんは……長身の日本刀を引き摺り出した。
 一方、寄居くんは大地に手をつくと、地面からずるっと大きな剣を取り出した。まるで土の中に隠していたかのように。少しだけ彼の周りの土が抉れ、重量感ある雄々しい剣が小さな手に収まった。

「ねーねーっ! じっちゃーんっ。おれもあーゆー専用の武器が欲しーっ! ちょー強いのーっ!」
「火刃里にはまだ早い。もう少し修業してから儂のコレクションをやろう」
「ぶー。けちー。おれだってすげーの貰いたいよーっ。エクスカリバーとかライトセイバーみたいなのーっ!」

 実戦経験は積んだらしいけど、まだ火刃里くんには竹刀で充分だ……なんて楽しそうに笑っている照行様。
 そんな雑談で気が削がれるような二人ではない。月彦くんはニヤッと笑い、寄居くんは淡々とした表情で……照行様の拍手一つで、双方同時に駆け出した。

 いきなり月彦くんの姿が消える。
 大剣を出したまま一歩も動かぬ寄居くんが首を傾げている間に、まるで瞬間移動したかのような俊敏な動きでで鳥躍した月彦くんは背後から一線薙ぎ払った。
 だが後ろから斬りつけられるんだと背後の眼で見ていたかのように、寄居くんは膝を折ると簡単に日本刀の初手を回避してしまう。一転、飛び込んできた月彦くんの体へと大きく体を捻り、重たそうな一撃を繰り出した。
 ふうっ、と息を吐きつつ、ぶうんぶうんと二回ほど剣を振り回す。
 わわわっとどこか楽しそうな叫び声を上げながら月彦くんは警戒に避けていった。でも即座に三度目の振り回しが行なわれると、意を決して刀で剣を受け留める。
 ギインと刃がぶつかり合う音が広い戦闘場に響いた。
 その音で躊躇したのは月彦くんの方だった。動きを止める彼へ、寄居くんが無造作に一撃を繰り返していく。その一撃は無造作すぎて、法則性を見出せないものだった。回避の呼吸が巧くとれないような出鱈目な追撃に、月彦くんが大袈裟に吠える。

「おまっ!? 前よりタチの悪ぃ戦い方になったなぁ、寄居!」

 月彦くんの頭の上を剣がぶうんと通りすぎる。すると寄居くんは……剣を上空に手放した。
 上へと飛んでいく武器に呆気にとられた月彦くんは、「何を!?」と予想通りの悲鳴を上げる。大剣は遠くへ弧を描いて飛んでいく。そこに意味は無い。敢えて言うなら……意識を寄居くんの体以外に向かわせるというものか。
 寄居くんは軸になる右脚で土をダンと踏みしめると、持ち上げた瞬間に足の裏から槍を取り出していた。
 靴の下に槍が生えたような異様な光景にあっと驚かされたのは、月彦くんだけじゃない。初めて見る戦法に興奮する火刃里くんと、「良いのぉ」と顎を撫でる照行様が居た。
 寄居くんが大きく回し蹴りをすると、土でできた鋭い槍が発射される。まるで氷柱のような鋭さを持つ槍は、キックの勢いとは思えぬスピードで月彦くんの全身を襲った。
 だが、月彦くんは呪文を一つ唱えると……強化した刀でその槍を両断してしまう。槍は中央で真っ直ぐと二つに割れた。瞬時の詠唱が間に合わなかったら真ん中を貫かれるところだったが、月彦くんはその程度で慌てるような子ではなかった。
 魔法で刀を強化したらしい月彦くんは、再度目にも止まらぬ早さで寄居くんの間合いを詰める。さっきまでわいわいと声を荒げて回避していた月彦くんだったが、雰囲気が変わった。
 その動きは、心臓を狙うかのよう。
 急所を一気に貫くように、細い切っ先を寄居くんに向けて駆け出していく。
 渾身の力で寄居くんはその切っ先を……再び召喚した刃で受けとめた。
 途端、月彦くんの突撃を受けた寄居くんの剣が鈍い音を立てて砕け散った。もう一歩月彦くんが踏み込んでいれば寄居くんの脇腹を抉ることはできた。でも、寄居くんの咄嗟の詠唱でも召喚された大剣は凄まじい強度だったようで、体までは届かない。
 一瞬の攻防。キイン、キインと刃が弾かれてはまた弾く合戦。
 月彦くんが細くも鋭い一撃を繰り出し、紙一重のところで寄居くんがやり過ごしていく。それがガキンガキンと激しい火花を散らして続いていく。

「悪くない。二人とも、面白い戦い方をするようになったな」

 そんな試合を満足げに見つめている照行様は、一向に二人を止める気はなかった。
 ……さっき月彦くんが寄居くんの心臓を貫こうとしているのを見ていたが、それも制止するつもりはないらしい。傷を負ったらどうするつもりなんだ。治療魔術が使ってくれるのかな。いや、するとしたら僕の仕事だよね。
 溜息を吐こうとしたとき、寄居くんの大剣が月彦くんの細身を弾き飛ばした。
 「げっ!」と悲鳴を上げた瞬間、寄居くんのホームランが決まる。
 直撃ではない。だが切っ先が月彦くんの左腕を抉った。肘から下をガリッと削り取り、地に赤い斑点が散る。

 月彦くんが大きくジャンプをして間合いを取った。息が少しずつ上がり始めていた。まだ瀕死とは言わないが、始めたばかりに比べれば二人とも焦りの色が見え始めていた。
 時折悲鳴を混じることがあるが、二人の中に会話は無い。月彦くんは虚空から再度新しい刀を取り出し、寄居くんは地から武器を生み出していく。
 その勝負は、終わりを告げられるときまで続いていくに違いない。
 しかし、利き手ではないとはいえ腕を掠めた寄居くんの方に分がある。それは月彦くんも感じたらしく、表情が強張っていった。

 ……閉鎖された空間で毎日修行に費やされてきた寄居くんと、道場の道楽ついでに学んできた月彦くんの差は歴然だった。
 寄居くんがざっと駆け出す。間合いを取って逃げようとしていた月彦くんを追い詰めていく。背を向けて逃げ出したり、照行様に戦闘中止を嘆願しない月彦くんは、再度呪文を唱えて刀を強化した。今度は寄居くんの一撃を砕こうとしているのか。

 あれじゃ、遅い。
 武術に疎い僕ですらそう思えるぐらい、月彦くんの詠唱は鈍かった。寄居くんの振りかぶる武器によって月彦くんは負ける。
 ……と思ったが、『突如現れた金色の西洋剣』に、寄居くんが創り出した土の大剣は砕け散った。

「は?」

 思わず寄居くんが惚けた声を出すぐらい、唐突の変化。
 既に月彦くんと寄居くんの距離は詰めに詰めて、一メートルほどしかない。
 その一メートルの中に……いきなり第三者が介入したのだから、驚かない訳が無い。

「つっきー。助太刀よ」
「アッちゃん!?」

 寄居くんの武器は、砂のようにバラバラに砕け散っている。だからたった一メートルの中に……美女が現れても、彼女と月彦くんは血で汚れることはない。
 彼らの中央に現れたのは、長い金髪を棚引かせる美女。背は高く、その服装はここ闘技場に相応しくないほど可憐。長いスカートも玩具のような靴も、決して決戦の場に不釣合いだ。
 だというのに、少女趣味の彼女が手にする剣は無骨すぎる物。一瞬でどのように寄居くんの武器を灰にしたのか、月彦くん以上の素早さの彼女を追いかけることなど出来なかった。

「あ、アッちゃん。ごめん、今はオレ、試合中で……!」
「試合中だからってつっきーを助けちゃいけないのはおかしいわ」
「うっ……」
「私はつっきーと契約しているの、一心同体よ。ならつっきーのピンチは私のピンチ。私は現れるべき。一緒に戦うべき」
「……アッちゃん……」
「そういうことよ。呼ばれれば私はいつでも現れる。だってそういう契約だもの。……弟、いくわ」

 ぐるん。アッちゃんと呼ばれた彼女が背を低くする。
 何をしたかと思えば……スカートの裾を持って地につかないように気を付けながら、原始的な足払いをしていた。
 たった一メートルの間合いだったんだ、足を払えれば堂々と転倒させられる。寄居くんもまさかされると思わなかった展開にもたつき、転びはしなかったが片足で体重を支え切れずよろめいた。
 二人の連撃が始まる。
 二対一となれば形勢は逆転。それはどんなに戦闘の極意が無くても明らかだったが、それでも照行様は戦闘を止めはしなかった。
 寄居くんも文句を言わず同時に繰り出してくる二つの剣の嵐を受け続ける。敵の数が増えることなど日常茶飯事だというかのように、戦いは続けられていった。

「アッちゃん!」
「ええ、つっきー」

 片方の合図で隙をつき、片方が追い詰める。
 殺気は無いが、心臓を貰い受ける覚悟で続けられる死線。寄居くんの息が切れ出し、ついには、

「つっきー」
「ああ、アッちゃん!」

 二人の語らいの先に、寄居くんの肩に刀の先端が突き刺さった。
 土の上に血が飛び散る。ピシャッと赤いものが噴き出す。
 グッと寄居くんが呻く……と思ったが、何も無い。
 息は切れているが、寄居くんの表情は痛みを感じていないかのように平然としていた。痛みなんて無いのか。叫び声を上げながら戦う月彦くんとは違い、彼の苦痛は何一つ伝わってこなかった。

「便利な体になったものだな、寄居よ」

 双方の衣服が同じぐらいの血で染まったところで、照行様が椅子から立ち上がった。
 試合は終了。途端に月彦くんが地べたに仰向けに転がる。「疲れたー!」と天井を仰いでいたが……すぐに焦って身を起こした。
 彼の隣には寄り添うように契約者である女性が立っていて、しかも彼女はスカートを履いていたのだから……月彦くんだけが寝そべったら? 「ご、ごめんアッちゃん! 見てないよ!」 顔を真っ赤にして、ぶんぶんと振りたくっていた。
 反して、寄居くんは突っ立ったまま。出血している肩を抑えているが、特別痛がる素振りもない。一声で彼の武器は砂になって消えていき、次の指令を待つかのように立ち尽くすだけだった。

「アッちゃん、支援してくれてありがと。やっぱオレ、アッちゃんがいないと駄目だわ」
「ありがと、つっきー。私もつっきーがいないと駄目」
「わー……わーっ! すっげーおねーさんキレイッ! なになにっ、つっきーのカノジョさんなのっ!? 二人はもう結婚してるのっ!?」
「つっきーと私は契約してるけど結婚はまだ。すぐするわ」
「そ、そうこれから……って!? アッちゃん! オレまだ十八にならないよ!」

 戦闘が終わったからと火刃里くんがそろそろと女性に近づいていく。火刃里よりずっと背の高い女性は、逆に火刃里くんにぐっと顔を寄せた。
 わわっと火刃里の方が飛び退く。彼の顔からほんの数センチのところまで鼻を寄せたからだ。その間、実に三センチ。流石の火刃里くんも間近の女性の香りに圧倒されてしまう。
 香水を付けてるんじゃない。でも彼女の香りが漂ってくる。これがフェロモンってやつなのかな。金髪碧眼の美女、見え隠れする女性らしいラインが少年達の鼓動を早くしていた。
 尋常でない美しさと強さ。彼女の存在自体が魔法のようだった。

「お、おねーさん。ピーマン食べれるっ? 納豆にはカラシ入れる方っ?」
「なに、クレヨンでシンちゃってるんだよ。……アッちゃん、火刃里にはまだキスは早いよ。しちゃダメだから」
「判ったわ、つっきー。この子に倒れちゃう心配もないもの。キスするならつっきーの弟の方?」
「……だーめ! 『供給』は契約者であるオレとするべき! えへへ。……つーか、じっちゃん。ストップするの遅すぎ。オレ、何度も止めてってチラチラ見てたのに気付いてくれなかったの?」
「無視するに決まっておるだろう、馬鹿者」
「久々に再会した弟を殺させる気かよ、じっちゃん」
「ああ、月彦が下手なら寄居を殺してしまう。難しいだろ、人の血を見ず刃を扱うのは。ただ力を誇示して刃を振るうだけとは違う。お前らも一人前になる前に思い知っておけ。寄居、お前は外で生きていたんだ、もう身についておるな?」
「…………」

 照行様はカカッと笑いながら寄居くんに視線を向け語るが、肩を抑えたまま頷きも返事もしない。
 答えられない様子、というのが適切だった。

「…………俺が」
「なんじゃ、寄居」
「……俺が昨日まであそこで学んできたのは、いかに力を巧く発動させるか……だから。そんなの……」
「はっ、外界では人を如何に生かすかを教えられなかったか? 本当に下らない場所だな、我が一族以外の結社は。力押しばかりで勝てると思うか。ここに帰ってきて正解だったぞ。これからは儂が直々に甚振ってやる。喜べ。魅せる戦いが出来るようになれよ。そしたら大山や光緑の坊主の前で踊ってもらうぞ。坊主に気に入られれば金一封ぐらい貰えるだろ。さあ、やる気が出たか?」
「…………。はあ」

 捲し立てる照行様の声を、ぼーっとした目で聞き入る寄居くん。
 で、僕はこの結果を大山さんに伝えればいいのかな……と思っていると、照行様が「慧、治療をしてやれ」とけしかけてくる。契約者の女性と早くもいちゃつき始めている月彦くんはおいといて、まずは寄居くんを癒してやるべきだろう。 
 寄居くんの名を呼ぶ。近づいて抑えている肩を見せてもらう。反応はするが、それ以上の応対は無い。……どうして「痛い」と口にしないのか、顔色一つ変えずに立っていられるのか不思議なほどの出血だというのに。
 なるほど、これが彼の成果か。

「……俺だって……」
「……え。な、なに、ごめん、寄居くん……?」

 彼の傷口に触れようとしたとき、唐突に何かを呟かれる。
 拒まれるのか、気遣われるのか。……いや、自分の傷なんてまったく眼中にないような、一方的な発言だった。

「……俺だって、あそこで色々学んできたんだ」

 ハッキリと、それだけ。
 様子に変わりは無い。彼なりの事実を言っただけ。その一言を照行様は聞いていなかったけど、伝えたかったことをボソリと。
 何かを感じずにはいられなかった。



 ――2005年10月7日

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 /7

 教会の宿舎の一室を借りて早半年。すっかり自分のものになったワンルームのベッドの上で、ごろん。
 まだ外着のまま寝床に転がって一息をついていると、すぐさまインターフォンが鳴った。来るという電話が掛かって三十分後。ほぼピッタリの予定時刻で、志朗お兄ちゃんが遊びにやって来た。

 この教会は群馬の実家に比べれば、志朗お兄ちゃんの職場からの交通の便が良い。一時間強のドライブで僕に会えるのだから良い時代になったもんだ、と僕が毎日使っているベッドに腰掛けながら言うのは何度目か。
 僕達はこの部屋が大好きだ。使わせてもらっている洋室は、かつて僕らが毎日寝床として使っていた納戸にそっくりだった。
 あそこよりは若干狭いし、水場がしっかりしていてお茶も好きに淹れられるし、冷蔵庫やテレビのような家電製品を持ちこんでも怒られることのない立派な家。たとえ小さくったって、外の暮らしというものに憧れを抱いていた僕の欲望を満たしてくれるだけの力がここにはあった。
 自由に使っていい自分だけの城を気に入っているし、お兄ちゃんも自分の居場所というマンションを借りているが「この部屋が一番落ち着く」と言ってくれた。だから彼は頻繁に僕の部屋へ遊びに来る。
 これでも数ヶ月前までは「一緒に住もう」とうるさかった。けど折角くここでやれることを見つけた僕も、警察組織を退職して新しい勤め先に行き始めたお兄ちゃんも「お互いがお互いを譲ってはいけない」と別々の生活に徹している。
 これぐらいの自立、当たり前だと言われるかもしれない。でも今年になるまで、こんな年になるまで僕は経験することもできないことだった。

「お兄ちゃん。ドーナツ、作ったんだけど食べる?」
「食べる」

 子供達のために作ったお菓子の袋は、お兄ちゃんの為に残していたかのように偶然一つだけ余っていた。
 青いリボンで包まれたビニールの中には、色とりどりのチョコスプレーをまぶしたチョコドーナツを入れている。
 男の子向けに大口を開けてお腹いっぱい食べられるように作っていたドーナツの中でも、おそらく最も大きなサイズの物が三つも入っていた。大人の男性にはちょうど良いサイズなので、仕事を終えて来たばかりのお兄ちゃんにはピッタリのおやつだった。

「新座。お前、ドーナツが好きなのか」
「おやつで嫌いな物なんて無いけど?」
「そうだった。ドーナツというと、霞の方のイメージが強くて驚いた」
「むぐ。確かにカスミちゃんはよくドーナツを食べてくれたけど。というより、カスミちゃんは与えた物を拒んだことなんてなかったじゃん」

 なんでも食べるカスミちゃんは、僕が気まぐれに作ったおやつをぺろりと食べてしまう。たとえそれが志朗お兄ちゃんのために作った物だとしても。……食いしん坊なのは悪いとは言わないし、子供っぽい冗談としておやつをかっさらっていくんだって大人になった今では判るけど。昔は腹が立ってたまらなかった。
 でも、今は奪い合う幼馴染もいない。ここは僕だけの城で、招待されたお客様はお兄ちゃんしかいない。
 だからこそお兄ちゃんに特製のドーナツをすぐに食べてもらいたかったが、袋から出した途端チョコスプレーがぽろぽろと零れるタイプだと判ると……お兄ちゃんは袋に美味しい物をしまい込んでしまう。
 「遠慮しないで食べて」と言っても、「新座のベッドが汚れるだろ」と真っ当なことを言われてしまった。
 うん、このまま食べられたらシーツの上がベタベタになった。ちょっと考えれば判ることなのに、失念していた。

「そういやこの部屋、テーブルが無いんだな」

 机も椅子も無いからベッドに客人を招いている現状を見て、志朗お兄ちゃんがもっともなことをぼやく。
 この宿舎は僕を拾ってくれたシスターのムツ子が「余っているから使って」と言ってくれたので、以前の住人の家具をそのまま使わせてもらっている。前の住民はここを出るとき、ワゴン車に入れられる程度の家具を持って行ったようで、買い揃えなければならない大きな物は揃っていた。
 教会へは徒歩一分。バス・トイレはいっしょ。室内洗濯機置き場と駐輪場が無くて微妙に使いづらい庶民空間。それでも無料で何から何まで使わせてもらっているんだから、文句は言えない。

「新座がこれから暇なら、いっそ買いに行くか?」
「むぐ……あったら便利だけど、無くてもなんとかなるし。机が無かったら、床でなんとかしてるよ」

 畳の生活に慣れているからだ。
 とりあえず敷いているカーペットは、どっかのゴミ捨て場に置いてあった歴戦の勇姿色の物を使っている。
 どうせなら床でならドーナツを食べていいよ、と僕は地べたに腰を下ろした。ベッドに座っていたお兄ちゃんを一段と見上げて、下りてきなよと誘う。お兄ちゃんはベッドから立ち上がり……ドーナツの入った袋を放置して、僕の目の前で転がった。更に言うなら、あぐらをかこうとした僕に膝に頭を乗せてきた。
 スーツの上着を脱ぎ、シャツがまだパリッと意地を張っているというのに、そのまま膝枕を強制してくる。ぐしゃぐしゃにするのが勿体ないと思っても、お兄ちゃんのごろんは戻らない。

「えっ、え。お兄ちゃん、耳掃除でもしようか?」
「膝を貸してくれるだけでいい。新座分を補給するだけだ」
「このー、甘えんぼさんー」

 ――何をするという訳でもない。お兄ちゃんは時間が空いたから僕の元に遊びに来ただけで、僕も自由な時間だからお兄ちゃんの顔を真上から眺めているだけ。
 ぽつぽつと今日あったこと、昨日のこと、先週あったことや他人の話やどっかの知らない誰かの話まで、ただお互いに投げ掛け合う時間。
 一緒に同じ部屋で眠っていたあの頃と全く変わらないことを、今も僕は全然違う場所で続けていた。
 寺を出なくても変わらないことを。
 わざわざ人様に部屋を借りて、洋服を着て、少し苦労しながら部屋で落ち合ってまで。

 こうして考えると、外の人って大変だ。
 僕らは最初から同じ場所に生まれ、育った場所で愛を育みあった。でもムツ子も子供達もお兄ちゃんの仕事場の人も、大抵は他人と触れ合ってから場所を作って時間を交わす。面倒なことでも欲望を発散させるために、時間を作って交流を重ねていく。
 そんな当たり前とも言えるほんの一瞬を、漸く心得ることができたようだ。

 膝の上から僕の顔を見上げるお兄ちゃんが、すっと僕の頬に手を伸ばす。
 耳を掴んで軽く引っ張り、顔と顔とを近づけようとする。
 口で言わずに「キスをしたい」だ。僕らにとってよくある合図。仕方ないなぁとごねながら僕はそっと志朗お兄ちゃんの唇に自分のものを重ねた。
 そのたった五秒後、ドンドンと扉を叩く拳の音で僕達は跳ね上がった。

「しんぷさまー! サッカーしよー!」

 まるで咆哮のような男の子達の声が聞こえる。
 教会から徒歩一分なんて、子供の足じゃ三十秒もかからない。近場に僕が住んでいることは子供達に教えてあるから、こうやって僕の住む部屋に直接押しかけてくることは多々あることだった。
 外には元気な男の子達の声だけじゃなく、はしゃぐ女の子達の声もする。さっきのお歌の後だから、スポーツが得意じゃない大人しいちびっこ達の声すらした。
 オールスター勢揃いだ。こんな楽しい時間に、参加しない訳にはいかない。

「お兄ちゃん、一緒に遊びに行こうよ!」

 思いっきりお兄ちゃんに嫌そうな顔をされたとしても、それでも誘わなくては。
 案の定、志朗お兄ちゃんは「新座と二人きりの方が俺は好きだ……」と愚痴ったが、膝枕をしていた僕が立ち上がったので、「筋肉痛にはなりたくないんだが」と言いながらも立ち上がってくれた。
 荷物もスーツの上着もここに置いて、僕らは戸を開けた。ドアの先には抱えるほど大きなサッカーボールを抱えたガキ大将が立っている。その周りには大勢の子供だ。
 おひさまのような笑顔で飛び掛かってくる少年少女達の声を、無碍になんかできない。
 こんなに気持ち良い声なら、どんな場所だってどんな時間だって、いくらでも聞いていたい。
 そう思えるほど、外の世界に蔓延している声は、僕の苦手意識を払拭し始めていた。
 もっと早く味わっておけば良かったと思えるぐらい、この声を愛し始めていた。



 ――2005年10月7日

 【 First /      /      /      /     】




 /8

 外の景色が大きく変わった。
 音は無いが、外が騒がしくなるのが判る。敷居なんて無い開放的なサンルームの外を見渡すと、新座さんが子供達とサッカーボールを追いかけていた。
 さっきまで歌を唄い、おやつを食べて解散した筈の子供達の殆どが、今度は教会の庭でボールを蹴り合っている。コートやゴールなんて立派なものはない、ただただ原っぱとボールがあれば楽しめるという自由な遊戯が繰り広げられていた。
 幸いサンルームは立派な造りで、防音は徹底していた。目に見える場所で新座さんと子供達が運動をしていても、笑顔が見えるだけで笑い声が邪魔してくることはない。もちろん外から中の会話も聞こえることはなかった。
 子供達はサッカーボールに夢中で、新座さんは走り回る子供について行くので精一杯。だから誰も、こちらで行われている大人の会議風景には興味を抱かない。
 会合は誰にも妨害されることなく、淡々と進んでいった。

 僕の隣に座る先生は、有名ブランドらしいティーカップに口を付けて一息ついていた。
 アンティークなテーブルを挟んで先に座る切咲さんという女性は、先生から渡された資料にじっくり目を通していた。
 今日、先生がわざわざ遠出をしてまで会合の席を設けたのには理由がある。
 高名な魔術師であるという切咲さんに、先生の研究について見てもらって、更に知識を深めたいから……とご自身が言っていた。
 仏田寺で長年研究員をしている先生だけど、専門は霊薬などの開発であって、異端の能力については勉強不足だという(それでも、僕や多くの僧に比べれば頭一つ二つ超えるほどの知識人だ)。

 仏田寺は魔術結社として多くの研究者を取り込んではいるが、その大勢も多くは魔道具開発や怨霊退治に力を費やしているもの。専門外の知識は、こうやって外から金で買ってくるしか他に無い。この度は、協力者という立場で切咲さんを雇うことになったらしい。
 先程のスーツケースに詰められた一千万円は、その報酬金だ。暗示で口を割らないような魔術的誓約――ギアスをかける以上に、「我が家の研究を他言しないように」というほんのお気持ちだ……とも言っていた。
 普段なら二百万円ぐらいしか財布に持ち歩かない先生にしては、破格だった。しかもわざわざこの場に僕を連れて、隠れずに教会の元で第三者を介入させたりもしている。大抵の場合、研究員である先生と協力者のさくっとした付き合いで終わるというのに、これほどの大がかり。それには先生なりの理由があるようだった。

 出されたお茶に一切口を付けずに長い時間をかけて、切咲さんは資料を読み終える。
 専門的な用語を出して質問をぶつけてくることもあり、その度に先生が、僕には理解を超えた未知の言語を交えた返答をしていく。
 魔術に関しては僕も修行に励んでいるとはいえ、二人のレベルは違い過ぎて追いつくことができなかった。……先生の、眼鏡の下は相変わらず鋭い目。専門家にも堂々と受け答える姿勢。格好良いな、以外に感想を抱けない一時間だった。

「うふふ……。実を言うと最初は、ギアスで制して一千万円で口封じに貰える物なんてどんな恐ろしい代物を見せられるんだと怯えておりましたの。でも、うふ、夜須庭先生……貴方、大正解でしてよ」

 ――ちなみに、夜須庭というのは先生の名字。
 僕はつい「航(こう)先生」と呼んでいるので、名字で声を掛けている人を見るとついどきっとしてしまう。
 それはともかく。ようやく切咲さんは乾いた喉を、冷え切った紅茶で潤し始める。よく笑う人だったが、笑っているのは口元だけだった。
 外の子供達や新座さんが浮かべているような暖かい笑みではない。見ている人間を愉快にする笑みもない。まるで強がりで見せるような見せかけの笑みを、必死に浮かべている……ように、僕には思えた。

「もし五十万とかその程度で、ちょちょっと口封じの印を結ぶだけの人でしたら……。私、真っ先にこの情報、お得意様の別組織に持って行きましたよ」

 これは隠すだけの価値がある、大金を出すだけのものだ……とでも言いたいのか。

「はあ。それは困るねぇ」

 すかさず、先生は言葉で優しく切咲さんの首を絞めにかかる。

「この一品はねぇ、手に入れるために十人の命を捨てちゃったんだ。彼らの為にも、ふぅ、『その魔眼』は使いこなせないとね。だから切咲さんにはいっぱい協力してもらいたいんだ。どうかどうかお願いだよ」
「うふふ、判っていますとも」

 でも殺伐とした空気は無い。ここに入って来てから初めてとも言える……先生の、先生らしい愚痴を交えての嘆願だ。
 それまで研究者ぽい必要最低限の挨拶や説明しかしなかったので、いつもの溜息と深呼吸に場が少しだけ和やかになる。「はぁ」や「ふぅ」は先生の口癖だから、今の今までその緩い癖が出ないように気を張っていたみたいだった。

「慧。君さ、そろそろ眠いかな」
「えっ……? い、いえ、眠くないです。ごめんなさい、先生にはそう見えちゃいましたか……?」
「ううん、そうじゃないけど。もし良かったら切咲さんに新しいお茶を淹れてあげてほしいんだ。シスターに……もしくは新座様にお願いしに行ってくれないかな?」
「は……はい、判りました、先生」

 そういうことならとソファから立ち上がる。
 外に新座さんが居るから声を掛けに行こう……と思ったが、その新座さんは(冬も近いというのに)腕まくりをして汗だくで子供達とボールを追いかけていた。追いかけても追いかけても追いつくことができず、ズドーンと草叢へと突っ込んでいく。そんな巨体を目にしてしまった。
 防音だから聞こえてこないが、大勢の子供達が笑っていた。あの様子だと一面大爆笑で、外へと続く戸を開けた途端、大絶叫がなだれ込んでくるだろう。
 ……あんな中には入っていけない。仕方ない、建物のどこかに居ると思われるシスターを探しに行くことにした。

「…………貴方。剣菱 慧(けんびし・けい)くん? この、一本松さんの息子さん?」

 建物へと続くドアの方へと足を進めた途端、切咲さんが僕の名を呼んだ。
 この、と実父の名を言われた。書類の一部に貼られた写真を指差された気がしたけど、父が何だというんだ? 何の事か判らない。けど問いかけられたものが僕の名前であることには変わらない。小さく「そうですが……?」と頷く。

「あぁ、切咲さん。その子には何も話してないので知らないですよ。質問があるならどうぞどうぞ私に」
「あら、失礼」

 僕と切咲さん両者を気遣って、先生が割って入る。その間に「行っておいで」と僕の背を後押ししてくれた。
 気遣いができる素晴らしい人間だ、先生は。

 ……僕が知らないものは、半分無い。問われたものは、世界の裏側だって判る可能性がある。それが僕の異能。
 でも知るか知らないかの二択で判別できるのは、あくまで僕が問い掛ける基盤があるものだけ。
 切咲さんが何に対して問いかけたのか僕が把握しきれていなければ、僕は「知ってる」「知らない」のどちらか判断するスタートラインにすら立てなかった。

「一本松さんの息子さんなら、彼の力量がどれほどのものか知りたかったの。うふふ……だって、お父さんの異能、制御に必要な意志の高さ。まずは知っておきたかった。この議題には、そこはとても重要だから」
「一番は切咲さんが彼の顔を実際見ることだと思うんだけど。そのねぇ、はぁ、彼もお忙しくって。それこそ宝をそのまま外に持ってくる訳にもいかなくって、ねぇ」
「写真だけではちっとも輝きが判らないからどうコメントしていいやら、お手上げですよ。うふふふ。……それにしてもイケメンね、この写真。きっとあの子も大きくなったら良い男になるわ」
「おお、良かったねぇ、慧。一くんに似てイケメンになるって。ははは」

 全知全能には程遠いが操作次第で神に近づける。そんな僕は、意味不明で意図も解せない中途半端な問いかけが一番嫌いだ。
 少しだけ苛立ちながらドアノブを回した。



 ――2005年12月17日

 【     / Second /     /      /     】




 /9

 ――ヤバイ。これは。死ぬ。

 俺は胸を抑えた。マジで。ヤバイ。死ぬ。死んでしまう……。
 痛かった。特大の槍が抜けたかと思うと、次々に俺の胸目掛けて槍が飛んできて、全て命中した。ざくりざくり。
 死んでしまうぐらい。まるで実体のような痛みだった。
 でもこれが幻だって知っている。だって特大の槍が刺さったら俺は痛いなんて感じる隙も無く死んでいる。
 なのに苦しいと思考し、もがき、苦痛に喘いでいる。少しラクになったら槍が消え、また刺さり、苦痛がループする。
 そんなのが現実に起こる訳が無い。これが非現実で、俺を何度も苦しめるための幻想に過ぎない。
 だけど、痛くてたまらなかった。
 目の前に居た伯父さんは、三メートルから二メートルへと距離を詰めてくる。

「どうしてお前、ときわじゃないんだ?」

 更に大きな声で、俺に問いかける。
 ざくり。胸だけじゃなく手も足も槍が刺さった。血塗れになった。全部幻だからそのうち消えるのに、痛みは無くならない。伯父さんが声を発するたびに、また刺さった。
 ……くそ、なんて上手い攻撃をしてくる異端なんだ。「死ね!」とか「お前なんか大嫌いだ!」って言われた方がマシだったのに。さっきの寄居達のような罵倒だったら、「伯父さんはそんなこと言わない」って割り切れたのに。リアルに言われそうで言われなかった言葉に、マジで傷付いちゃったじゃないか……!

「どうしてお前、ときわじゃないんだ?」

 ――伯父さんは家族を第一に考えている優しい人だ。だから遠く離れた実の息子のことをいつも考えている、それは常識。
 毎年ときわさんの誕生日にプレゼントをやっていることも、ときわさんが活躍している話を聞くことを楽しみにしているのも知っている。それは優しい親御さんなら常識だから、俺は何も感じない。
 大事な長男坊。可愛い双子の兄弟。伯父さんは三人の息子達を大事にしている。その中に、俺も含まれている。
 そんな生活。伯父さんの腕の中に含まれた、十七年間の俺の人生。
 ときわさんだけ伯父さんの腕の中にいない。三兄弟。
 ときわさんがいないから息子は双子の兄弟だけ。そこに俺が入って三人。
 ときわさんはいない。代わりに俺。
 俺が長男坊。双子達の兄。
 ときわさんは実の息子。俺は。

「やだあ」

 総攻撃に、血だけじゃなく涙まで出てきて、そんなガキっぽい声しか出なくなる。
 周到な攻撃だ。なんて恐ろしい攻撃なんだ。何度も「これは異端の罠なんだ!」と言い聞かせる。
 俺を傷付けるようなことをやって、散々殺したあげく、食うんだ。その罠にハマっちゃいけない。何度も何度も自分を保てと檄を入れる。こんなんじゃダメだって自分で叱咤する。
 ……なのに、ちっとも立ち直れなかった。

「や、だ……やだ、やだやだ……」

 リアル過ぎたんだ。あの声が。
 さっきも思ったけど、優しい藤春伯父さんは、俺に対して「死ね」なんて絶対言わない。これは胸を張って言える。あの人が、子供に対してそんな酷いことを言う訳が無い。だから目の前で言われても「こんなの違う」って自分を納得できた。
 でも、もし幻じゃなくても、現実の伯父さんが言いそうなことには……たとえ俺の妄想でも、苦しかった。
 言わないけど、本当に思っているかもしれないこと。優しいから俺に対して言わないけど、実は胸の内に秘めているかもしれないこと。「本当なら俺の家にはときわが居る筈だったのに」。「緋馬じゃなくて、ときわが居る筈なのに」。
 苦し過ぎた。

「…………や…………」

 ――ああ、なんで俺は、「緋馬も一緒で四兄弟だ」って言ってくれる伯父さんを妄想しないんだよ。それで済む話じゃないか。

 全身穴だらけ、血まみれ、涙ボロボロになって動けなくなったとき、ふっとそう思った。立ち直れなくなってから、そんな逃げ道を作り出した。もう遅かった。
 高梨 緋馬、十七年の人生に幕、本当に下ろしてしまうところだった。

 伯父さんにトドメを刺される。
 伸ばした伯父さんの手は、異形のものになっていた。本性を現したんだ。その凄まじい凶暴さの爪によって俺は斬り裂かれ、おいしく恐怖に彩られた心は丁寧に頂かれる。

 だというのに、爪はバラバラに砕け散っていた。

 俺と異端の間は既にたった一メートル。その中に……寄居が現れて、異端の腕を両断してしまったからだ。
 膝をつく俺は血で汚れることはない。突如この異空間に生じた寄居の体も、一切汚れていない。
 俺らの中央に現れたのは、剣を構えた寄居。洒落っけのないごわごわした黒髪に、寝間着でぶらついているような人目を気にしないだらけたセーター。色落ちしたジーンズ。格好つけのカの字も無い腑抜けの姿が、颯爽と現れた。
 一瞬でどのように異端の爪を灰にしたのか、霊力の波に乗って召喚された寄居の動きに目が追いつくことはなかった。

「だっ、りゃあっ」

 気合の入らない掛け声と共に、寄居が大剣を振り回す。
 その一撃で爪を生やした藤春伯父さんは両断された。パーンと体が弾け飛んでいく。たった一発で吹き飛んだ異端はちりぢりになると……また新しい恐怖を生み出そうと動いていた。
 それは、夜の高校を魔界に染めようとしていた怨霊の形に。
 または、俺の首を絞めようと手を伸ばす女魔術師の形に。
 もしくは、女の肉を切って貼ってを繰り返した狂人の形に。
 俺が今まで出会ってきた恐怖を、忠実に再現していく。……だがそれは、みんな退治し乗り越えていった怖れに過ぎなかった。

「契約に従いし参上。マスターがピンチになっている以上、じっちゃんと修行している場合じゃないからね」
「よ、寄居……?」
「あのさぁ、呼ぶの遅すぎるよ、ウマ。……魂の契約を交わした者は霊力の常識を越えた奇跡ぐらい簡単に起こすものだって、教わってただろ? 助けてもらいたかったら泣いてないで名前を呼べよ」
「…………」
「あ、教わってなかったくち? ウマ、知識が両極端すぎるよ」

 寄居は淡々と語りながら駆け出す。
 まずは無数の端末を操る怨霊へ。巨大な武器を振りかぶる。ぶうんと風を切る音の後にはもう恐怖は吹き飛んでいた。
 そうして寄居の声以外の音が生じる。
 見ると、真っ黒い天井に穴が空いていた。そこから夜空の星が見えた。
 上からパラパラと黒いカケラが舞い落ちてくる。光が黒の空間に差し込んできた。状況を把握する限り……どうやら俺を取り囲むこの黒の空間は、俺を中心にしたドーム状の結界らしい。寄居が霊力の繋がりを辿って外と隔離されている結界内へ突入し、誰かが結界を打ち砕き、穴の空いた所から侵入してきたようだった。
 涙に潰れて重い瞼を開けると、スーツ姿の男性が居た。伯父さんかと思った。背格好が同じぐらいだからそう思ったが、全然違う人だ。伯父さんがピンチで駆けつけて来てくれたんじゃなかった。悲しい。
 その人は黒のスーツにネクタイ、右手に刀を握り締めた逞しい男性だ。
 あ、見たことある人だ。そうだ……7月に。実家の本殿で。当主様他『本部』の面々が集まっていたあの畳の部屋に、端っこで座っていたスーツの若い男じゃないか。

「光緑様。結界内への侵入、成功しました」

 パラパラと散る結界の欠片を振り払いながら、スーツに刀の男性は呟く。どうやら結界の外に連絡を取っているらしい。

「緋馬様は無事です。無傷です。……いえ、目で見えないところに負傷をされています」

 血塗れ……と思ったら穴一つ開いてない、泣き顔の俺を見ながら携帯電話で報告している。一瞬こっちを見ただけだった。すぐにスーツの男は、女魔術師へ向かう。
 軽く刀を横に傾けると、ザッと飛んだ。目にも止まらぬ動きで女の首を掻き斬る。ぽーんと女性の首が飛んだ。胸が少しだけ痛んだ。これは人間じゃないし、生きている人でもない。俺の恐怖を具現化した異端の罠にすぎないんだ。そう自分に言い聞かせるのに必死だった。
 すると、男の前三メートルに何者かが現れた。今度は何者かと言ったら、何者かとしか言えない。俺の知らない人だった。今までの状況を察するに、おそらくスーツの男性の親しい人を模した化け物なんだ。スーツの人の動きがピタリと止まる。

「なんて雑な」

 でもスーツの男は、化け物が攻撃を仕掛けようと口を開く前に、胸に刀を突き刺していた。
 いつの間にか懐に入り、手つきを変えてグリッと抉りこませる。誰かの化け物はガハッと生々しく血を吐いた。焼き死んだ寄居達といい、寄居によって一刀両断された藤春伯父さんといい、この血吐きといい、変なところがリアルで「やっぱこれは現実じゃないか」と錯覚を起こしそうになる。そういうのを狙った異端なんだろうけど。

「異端め、その程度で俺が惑うと思ったか」

 またスーツの男の前に、何者かが立つ。
 男は刀で斬り殺す。立つ。殺す。立つ。殺す。殺す。殺す。彼は淡々とリアルな化け物を殺し続けた。化け物は突っ立って何かを話そうとする瞬間に男に斬り殺されるから、無防備な人々を虐殺しているかのように見えた。

「鶴瀬さん。準備が整いましたか?」
「いや。もう少し踏ん張ってくれ、寄居くん」

 同じように狂人を相手していた寄居が、スーツの男に声を掛ける。
 男が幻の血を振り払いながら、こくりと頷く。
 次々現れる恐怖の姿を十も二十も殺し続ける光景。……戦闘のプロを名乗ってもいいほどの二人が淡々と殺戮を繰り広げている。見ているだけというのに俺は、次第に血が飛び散る世界に耐えきれず、息が荒くなっていった。
 だって、人が黙々と人を殺している。
 化け物と判っていながらも寄居は数人の人間を叩き潰し、スーツの男は切り刻んでいく。血が飛び散るだけじゃない、肉が食み出てドロリとした瑞々しい内臓が黒い床を埋め尽くしていく。そんなもの、ちょっとやそっとの経験しかない俺に冷静でいろと言う方が難しい。
 けど、二人は恐怖を打ち払っていく。恐怖を真っ赤に殺していく。
 これが――裏の世界に慣れた住人だと、思い知らされていく。

「……もう、いいよね?」
「うん。……どうぞ、光緑様。足元が濡れておりますのでお気を付け下さい」
「――――うむ。鶴瀬、寄居。両者ともよくやった」

 いつの間にか幻想の血に濡れた二人の間に、伯父さんが立っていた。
 ……重くて不安定な俺の目は、藤春伯父さんと『彼』を勘違いしてしまうぐらい、危うくなってしまったようだ。
 突如彼らの隣に現れた、着物姿の中年男性。それが誰かも判別できないほどに俺の脳は鈍くなっている。
 『彼』は、藤春伯父さんと勘違いしてしまうぐらい、伯父さんと声も雰囲気も似ている。だけど伯父さんがあんなに上品なお着物なんて着ている姿を見たことがない。
 7月。本殿で、見たことのある。……あのとき、部屋の中央に居た人物。
 当主、光緑様だった。

「砕け散れ」

 一言。光緑様が呟いたときには、一部しか空いてなかった結界は全壊。何者かの叫び声と共に血も塊も消滅。
 終わった。

 世界が普通に戻っていく。
 ここは全寮制の高校、校舎裏、体育倉庫の更に裏。生徒が夜に訪れるべき場所じゃない、悪い連中しか堪らないようなスポット。いかにも良くないものが溜まりやすそうな不安定な場所だった。

 今夜、俺はここに途轍もない量の霊達を見付けて怨霊どもを祓っていた。そしてこのザマだ。
 幻覚が得意な異端がボスだったらしく、そいつの罠にハマってしまって傷を負い、黒の結界に閉じ込められ、奴の領域の中で甚振られ続けることになった。あと少しで本当に十七年の人生を終わらせるところだった。何度死を覚悟したか。二回じゃ済まないぐらい幕引きをカウントしてたぞ。
 助かった……と思ったが、まだ全ては終わった訳じゃなかった。
 結界を作っていた異端が消えたってだけで、結界の外にはウヨウヨと悪い連中が集まっていた。
 そうだ、俺は最初っから『途轍もない量』を相手にしようとここに来たんだっけ……。領域を作り出した一体を倒しただけじゃ終わらないか。

 鶴瀬と呼ばれているスーツの男が呼吸を整えながら刀を構える。
 だが、当主様がそれを静かに制した。「お前は出なくていい」と言うかのように。
 スーツの男は頷き、刀を虚空――ウズマキにしまってしまう。代わりに、当主様が大きな獲物を手にしていた。
 真っ赤な槍だった。さっき俺の胸に刺さった槍とは全然違う。清楚な装束には似合わぬ、もっと……禍々しい物だった。

 当主様が俺達の前に出る。霊達は、槍を持ち前に出た彼に襲い掛かる。
 彼は霊達に食われた。死んだ。
 えっ。あっという間に彼は食われていく。「えー、そんなのアリ?」ってぐらい、あっさりと当主様は殺されてしまった。
 ……ちょ、ちょっと待って。あんなに強そうなコトをしといて、一瞬でお前ら全部ブッ殺しますって演出しといて、霊にガツガツ食われちまうってどういうこと?
 腕時計を見る。たった五秒で、あの人は殺されてしまったじゃないか。あんだけ強そうなオーラを出しておいて五秒で……。

 …………………………………………それは、幻だった。

 次の瞬間、男は世界の中央に立っていた。
 傷一つ無い、煌びやかな着物は綺麗な形を残したまま、槍だけが禍々しい色を灯している。
 霊達は、全て消滅していた。男の胸が青く光る。全てそこに……中央の刻印に、封印されていた。
 時計を見る。この間、たった五秒。さっきと同じ五秒だった。『殺された五秒が消滅し、世界は勝利した五秒に書き換えられていた』。

「久しぶり、ウマ」

 呆然と全てが終わる瞬間を眺めていた俺に、寄居が今更な挨拶をしてくる。
 さっきまで返り血を浴びていたような気がしたけど、本当に寝床から直接ここに飛んできたかというぐらいだらしない格好のまま、汚れは一つも無い。幻想の戦いは何も残さず、俺達が勝利したという結果だけを世界に残していた。

「……なんで寄居が、寄居達が、突然現れたの。現れてくれたの」
「ウマ、混乱してるでしょ? 落ち着きな。ハトが豆鉄砲を喰らった顔ってそういう感じだよね。鶴瀬さん、説明お願い」
「はわっ、そこで俺に話を振るの!? ……補足説明しますね。緋馬様は先ほど、大山様にダイヤルした記憶は……御座いませんか。おそらく窮地の際、偶然大山様に繋がったのでしょう。そのとき大山様は丁度我らと話をしておりまして、すぐさま緋馬様の元へ駆けつけられる者を派遣する……よりも、我らが赴いた方が早いということになりまして、はいっ」

 慌てた説明をしながら、鶴瀬と呼ばれたスーツの男が俺を抱き上げてくる。さっきまで大量の幻想と戦い続けてきた戦士の体は固く、軽くはない俺をひょいっと持ち上げてしまうほどだった。
 思わず暴れかけたが正直歩くのも怠い。事情も聞きたいが、さっさと倒れたい。抱き上げて寮の部屋まで連れて行ってくれるのは助かった。体には傷一つないが立てないほど俺の心は病んでいたんだ。部屋まで運んでもらえるのはありがたかった。
 寮の個室に寄居が、鶴瀬さんが、そして当主様がやって来るなんて……お茶ぐらい出した方がいいのかな。
 でもさっさとベッドに座らされ、衣服を剥がれ、体をチェックされてしまう。最初に腹を激しくぶつけられたりはしたけど大きな怪我は無い。
 でも痛い。苦しい。つらい。苦痛は止まらなかった。

「……精神が、消耗していますね」

 血を流すような怪我は無くても、魔術はもう使えないぐらい魔力は無くなっていたし、何より、今ロープがあったら首を吊ってしまいたいぐらい……何もかもが疲れていた。その現象を「精神が消耗している」と言っているのか。
 ってことは寝てしまえば落ち着けるのかな。いや、今寝たら悪夢しか見ないだろうな……と思っていると、スーツの男がいきなり「はわぁっ!?」と悲鳴を上げた。

「み、光緑様っ!?」

 着物の男・当主様の名前を呼ぶ。
 あ、俺の家で一番偉い人なんだからもっとちゃんとしなきゃいけないんだよな、と畏まろうと目を開けると、手刀で当主様は手首を斬っていた。

「…………」

 ボタボタと寮のカーペットが血で染まる。
 当主様は血が流れる手首を、ベッドに座っている俺へと近付ける。
 ああ、ベッドが赤で濡れる……どうしてくれるんだ……。

「飲むがいい」

 静かな声で、伯父さんを思わせる深い声色で……体液を使って『供給』しろと告げてきた。
 グッと喉が唸ってしまう。

 ……俺に吸血趣味は無い。血を見ても興奮なんてしたことがない。セックスに溺れるのもしたくなかった。そういうのはちゃんと愛し合った人としかやりたいと思っていた。
 よって俺は『供給』はなるべくしたくないものと考えていた。今まで疲れても食って寝ればなんとかなったからだ。
 でも今、食う気力も無い。寝てしまえる心の余裕も無い。このままだと気を病み、失意の中、絶望に呑まれ死んでしまう。
 精神を消耗するとはそういうことであり、以上の手段以外で何をするべきかというのは……判っている。

「ウマ。魔力切れは生命力切れ。決してゼロにはしてはいけない。それぐらいは藤春伯父さんに教わったんじゃない?」

 寄居が横からそんなことを口にする。
 ああ、判っている。だから無理矢理摂取するしかない……。
 やだなぁ。したくないのに。しなきゃいけないなんて。これってワガママなのかなぁ。血を飲んで興奮するって、いかにも化け物っぽいじゃん。能力者は人であり人でないっていうし、異端と能力者は紙一重っていうけど、なんかこの行為を認めちゃったら「自分は異端側です」って言ってるようなもんじゃないか……。ついついそう思ってしまう。

 ――裏の世界が嫌だから、藤春伯父さんは表に逃げ出したっていうのに。
 ああ、伯父さんの嫌いなものにはなりたくなかったのに。

 でも死んでしまっては元も子もない。意を決して、当主様の割れた手首へと唇を付けた。
 喉にぬるりしたものが絡む。まずい。美味いもんか。でも俺の中がドクンと高鳴った。……畜生、やっぱり俺は。
 手首から口を離す。呼吸が続かなくてぷはっと息継ぎをした。今、鏡を見たらきっと口の周りが真っ赤になってるだろう。ホラーに違いない。

「耳が生きているなら聞け」

 上の方から、手首を差し出してくれている当主様の声がした。俺は必死に手首に口を付けていたから、どんな表情なのか判らない。
 けど、声だけ聞いているとなんだか藤春伯父さんに怒られたときと同じ感覚がする。怒っているというか、真面目なときの声と同じだ。兄弟ってこんなに声が似るものなんだ。

「君が行なっている『縛令呪識契約』は、双方に架せられる限界突破の呪い。自由な魂を束縛する代わりに超越的な異能を引き出させるもの」
「……はい」

 その程度のことは判っているつもり。服従の契りを交わすことで、服従した相手から多大な魔力的サポートが行われる儀式を……俺と寄居は行なっている。
 今の俺が眠らずに立っているのは、見えない線で寄居と繋がっていて、その糸から寄居の魔力を頂戴しているようなもの。糸が繋がっているから違う世界に隔離されても俺を追うことができた。さっき寄居がそういう理屈だと……この数分間でやっと理解できた。
 おかげで俺は寄居がいる限り、倒れることはない。逆を言えば寄居が倒れたら俺が助けてやらなきゃいけないので、良いことばかりとは言えない。
 俺が寄居を見捨てたいと思っても霊的な契約を結んでいる以上、無理矢理にでも寄居は俺の力を引き出していく。死にかけの俺を救ってくれたのはありがたかったが、死にかけの寄居がいたら俺も弱るもの。おいそれと契約はしていいものではなかった。
 そっか、契約の糸が繋がっていたから寄居は俺の位置を把握して瞬間移動してくることが出来た。でも倒れる寸前の俺に力を奪われかけていたから……一人で敵陣に飛んでくる訳にはいかなかったんだ。
 まさか大物を手助けに連れてくるとは誰も思わないけど。

「……寄居がマスターである俺の元へ飛んでくるのは判るんですけど。でも、当主様達はどうやってここへ?」

 そういった魔術があるとは知っているけど、当主様達はもちろん群馬の山の中に居たんだよなぁ……。あの寺から、よくこの高校まで飛んで来られたもんだ。それも、当主様ほどのお力であれば容易いことなのか。

「はわ……やっぱり緋馬くん、中途半端に知っているんだね」

 説明の途中、鶴瀬さんが光緑様の顔を伺った。光緑様は無表情に頷く。
 無表情にっていうか、この人は表情を一つも変えない人形のような人だけど。藤春伯父さんと似てるなと一瞬思ったが、一切表情を変えないのは優しい伯父さんと全然違うものだった。

「あの、緋馬くんは契約同士が何もかも繋がっていることは知ってるかい?」
「ええ、まあ」
「主従契約と言える縛令呪識契約は、サーヴァントはマスターに絶対服従になり、いかなる命令にも従わなければならなくなる。霊的な絆で結ばれることでサーヴァントはマスターから大きな力を得ることが出来る。サーヴァントの居場所を把握することも、また、サーヴァントのプライバシーという情報を侵してでもその場に出現するという暴虐もマスターには認められている。サーヴァントはマスターのものになる、それが『契約』という魔術儀式だから」
「うん、うん」

 はあ。それで?
 ……俺は呼吸を整え直し、もう一度、当主様の手首に顔を近付けた。

「我が仏田一族は全員、当主様と契約されています」

 もう一度、口に血を含む。
 当主様の血が体内に侵入し、俺は止まった。

「当主様と同じ血を引く者は、生まれつき一族頂点である当主様を主とします。血を引かぬ者は、仏田の地に入る制約を結んだ時点で当主様の血を飲み、血族となり、契約を完了させるんだ」
「……あ、あれ……? 確か、契約って原則、マスターは一人につき一体じゃなかったっけ。俺、勉強不足だからよく判らないけど」
「原則的には。これは例外なので、その括りには入らない。この例外は、我が血族に生じる例外なんだ」

 一族は、トップである当主に絶対服従。当主に絶対従う。
 ……ああ、でも考えてみればそれって、ずっと言われてきたことじゃないか。何のおかしいことじゃなかった。

「緋馬、立ちなさい」
「はい」

 当主様がそう言うので、俺は手首から口を離して立ち上がった。元気が無いからちょっとくらりとするけど、回復したせいか立つことができた。

「……ほら。緋馬くん。でしょう?」
「は?」
「君、立ち上がれなかったんじゃないかな」
「あ。いえ、でもそれは、血を飲んだから……」
「それもあるだろうけど、それだけではないということだよ」

 次に当主様に「座れ、供給を続けろ」と言われたので、断る理由も無いし生きたいから俺は口を付けた。
 もう嫌がっていたのも忘れるぐらい、無我夢中に。
 …………。

「当主様は一族全員と契約している。そして、契約した対象の元に現れる術がある。これは知識だから、知っておいてください」
「……はい」
「――――何もそんなに深く考える必要は無いぞ、緋馬」

 丁寧に説明する鶴瀬に、当主様は重みのある声で後押しした。
 低く深い声。真面目なときの藤春伯父さんの声に似ている。聞き入ってしまうような声に、口付けながら耳を傾ける。

「助けを求めれば、私はいつでも何処でも助けに行く。私にはそれが出来る。そう考えてくれればいい。貴重な逸材が傷つき苦しんでいる姿を放っておくことなど出来んよ。それが柳翠の子であるなら尚更だ」
「……どうも、勿体なき御言葉」

 感情が何一つ入ってない声でありがたいことを言われても、なんだかしっくりしなかった。

「それともう一つ」

 俺が散々当主様の手首を舐め回した後、当主様はご自身の手を軽く振るった。
 すると手首の傷が無くなっていく。『まるでそこだけ時が戻ったかのように』、手刀で斬った前の姿に戻っていた。

「藤春は、君を大層気に入っている」
「……は……?」
「事実だ。私は知っている。君は気にする必要など無い」
「……えっと……?」
「私は知っている。主ゆえに。……緋馬。私は君の苦悩を理解している。だから藤春を理解する私は、君の苦悩を解決してやろう。『藤春がお前を疎ましく思うことはない』。安心したまえ」

 ――これで君は苦悩する必要が無くなったな。
 すかさず当主は言い切る。
 …………。きもちわるい。口には出さないが、その一言が俺の中に生じた。
 全部が見透かされて、心の奥が全部読まれて。読まれたどころじゃない、全て理解されて。裏側まで全部把握されて。
 俺だけじゃなく、伯父さんの心まで全て全て手に取られて……解決されて。
 ありがたいとは思った。俺を元気づけるための言葉だと思えばとても嬉しいことだ。その言葉が聞けて、俺は藤春伯父さんのことを後ろめたく思わなくなれる。
 だってもう俺は伯父さんを疑っていない。そもそもあれは幻で、当主様も断言してくれて……。
 でも、でも。
 それ以上に、きもちわるかった。



 ――2005年12月18日

 【     / Second /     /      /     】



 /10
.
 ウマの体が回復しているのは、我がことのように感じ取れる。奇妙な感覚だ。

 真夜中だというのにじっちゃんの訓練で、夜中ずっと木刀を握っていた。俺の武道が酒のツマミにされているときに、異常を察した。
 それからは鶴瀬さんの言う通り。俺が霊脈の糸が辿って契約者のウマの元まで飛び、それを追うような形で……大物が続いた。
 そこで何故当主様が飛んだかというと、偶然としか言えない。……じっちゃんは俺の修行をダンスの練習に思っている節がある。だから真剣を使った訓練風景を人に見せつけることがあった。今日もまた道場で酒宴として……しかも光緑様と上層部の大山様の前で見せられていて。それでこの事態。
 良かったと言うべきなんだけど、色んな人に振り回されて良い気分ではなかった。

「……寄居」
「なに?」

 ウマの住んでいる寮の部屋を去る前。挨拶もそこそこに帰ろうとしていると、ウマの方から俺を引き留めてきた。
 何を言われるでもない。

「……ありがとな。真夜中に呼び出してごめん」

 不器用な感謝の言葉を口にする、だけ。
 照れるでもなく、微笑むでもなく。伝えるべきだから伝えたに過ぎない単調な一言だった。
 でも良い気分ではない俺を元気づけるものにはなってくれた。……ウマは複雑な思考回路をしていて面倒なところもあるけど、何かあったらお礼を言うべきという単純さは、俺も見習うべきだった。

 早朝五時。太陽が顔を出している。ただの酒宴の舞踏からガチの退魔に切り替えた体は、一向に眠ろうとはしてくれなかった。
 当主様に丁寧なお別れの挨拶をして、俺のために割り当てられた狭い個室(昔はつきにいとたまにいと使わされていた六畳間だ。一人で使うには申し分ない)に戻ってくる。
 ここでの生活を再開させて半年目。この時間に眠りに就くことも少なくなくなってきた。
 朝が早い僧侶は研究班だけ。俺のような、外に出て武器を振るってなんぼの人間はどんな時間でも駆り出される。
 今日のケースは特殊だったけど、言われるがままに異端を倒しに行くのが日常になっていた。

 ……生活は、変わらない。いつまで経っても変わらない。
 訳あって仏田以外の研究所に送られて。そこで毎日戦って。戦わされて。……なんでも前当主の気まぐれて引っこ抜かれたらしい俺は、寺に戻った後も修行に明け暮れて、見世物のように暴れて。そして親戚を救いに行く。
 どこに居たって同じ。居なくたって同じ。
 つきにいがいつぞや口にしていたけど、血の宿命ってやつがどっちでも俺はいいと思えていた。
 力を仏田一族当主の為に使えと言うのなら使うし、使うなと言うのなら使わない。どっちにしろ自分には、用意された居場所で言われるがままに暮らしていくしかない。
 ウマは「真夜中に呼び出してごめん」なんて謝ったけど……あいつ、本当に判ってないな。
 真夜中に仕事をすることなんて、俺達には当然のことだろ。謝ってどうするんだ。お前だって夜中に眠い目を擦りながらお化け退治しているっていうのに。……微妙なところで生ぬるくて優しい奴め。
 悪い気はしないけど、もう少しウマは色んな現場で絞られるべきだ。戦いの中で正気を失いそうな奴、いつ死ぬか判らない。死なれたらまた俺が助けに行かなきゃいけないんだから、俺以上に修行をさせるべきだ。
 悪い気はしないけど、軽率に契約しちまったなと、今更になって後悔した。
 悪い気はしないけど。

 眠れないまま朝はやってきた。寝られないなら寝なければいいと思って、俺は自由に境内を歩き出した。
 既に仏田寺に戻って来て半年は経っている。数年の変化を見つける作業は終わっていた。でも俺は変わったところを探す時間を定期的に取っていた。家具の配置。人の入れ替わり。発見しながら朝の散歩をする。眠くなるまで黙々と歩みを止めない。
 そうして自分が汚した部屋にやって来て、何も変わっていないことを確かめて、自室に帰る。
 数年前に自分が真っ赤に染めた部屋は何事も無く在り続けているのを見て。軽く頭痛に見舞われながら散歩を終えるのが、日課のようになっていた。

「おー? 寄居、こんな時間にどうしたんだよ?」
「……つきにい?」

 今日は運悪く、朝のジョギングを終えたつきにいに鉢合わせしてしまった。
 別に何でもないけど一言も喋らず部屋に戻る気でいたから、何を言うべきか思い浮かず手を振るだけにしておく。冬だというのにぽかぽか陽気の兄は、肩からタオルを掛けていて見るからに暑苦しい。俺とは全く違う朝を迎えていて、変なの、と思わずにいられなかった。

「あれ? 寄居って夜に鶴瀬さんと手合わせしてたんだろ? 真夜中の試合だったじゃん、眠いんじゃね? 寝なくていいの? あ、そっか。ウマのところ行ってたんだっけ? そっかそっか、眠気が吹っ飛んじゃったかー」

 つきにいは、意外に情報が早い。
 何でも知ってる慧さんほどじゃないけど、なんか、怖いぐらい俺のことを知ってるときがある。まるで新座さんや、それこそ俺達の頂点に立って全てを管理している当主様とも思わせる言動をすることも……って、これは考え過ぎか。
 ただただつきにいは、噂好きで話が得意ってだけだ。誰からは判らないけど情報を入手して話しているってだけ。そう思いたい。

「散歩はいいけど、寄居、12月だって忘れてないか? せめて上着ぐらい羽織れよ。また風邪引くぜ」
「……またって、暫く風邪なんて引いてないよ。誰かと勘違いしてない?」
「ははっ、そうかも。お前が風邪を引くと心配する子は確実にいるんだからさ、気を付けなー」

 俺の頭をぽんっと軽く叩いて、つきにいは駆けて行く。
 ジョギングは終わったのか、まだまだ続くのか。軽快な足取りはどっちだか。……って、俺を心配する子って誰だ?
 ふと親しかった親戚の顔が頭を過ぎった。まさかそんなことはない。変なことを考えないうちに、俺は自室に戻って行った。今度こそ睡眠を取るために。



 ――2005年9月19日

 【    /      / Third /     /     】




 /11

 アクセンさんに重要な話があると呼ばれ、茶会の予定でもないのに僕は洋館の食堂に居た。
 今日は一日オフの日だ。でも本日、圭吾さん達が遠くに退魔の仕事に出ている。彼らが僕に情報を調べてほしいという電話を掛けてくるかもしれないから、一日中書庫でスタンバイしているつもりだった。
 圭吾さん達のサポートをすることは億劫ではない。寧ろ進んででもやりたいことだ。それでも僕の休息日であるのは変わりないから、洋館の食堂でティータイムぐらいは許される筈。
 それにもう既に二度ほど悟司さんから「このケースについて情報収集を頼む」という電話が掛かっていたけど、そろそろあっちも落ち着く。なら今離れても平気……だと、少し早いが待ち合わせの食堂に到着。約束の三十分前に到着してしまったのでお茶の準備でもしようかと考えていると、誰かが食堂に入ってきた。
 なんと集合時間二十五分前だというのに、アクセンさんが姿を見せた。

「流石、ときわ殿だな」
「アクセンさん、流石です」

 お互いの相性がピッタリ過ぎて、少々気持ち悪さも感じた。でもやっぱこの人、いいひとだ。
 今日は茶会の予定ではない。お茶菓子も話のネタも用意してないが、紅茶の準備だけは食堂はいつでもしてある。だから二人で紅茶の準備をしながら話をすることにした。
 でも重要な話と前打っていただけあって、アクセンさんはなかなか話し出そうとしない。どうでも良さそうな「あの新作の映画は面白かったぞ」とか「以前借りた電子辞書の電池が切れてしまってな」とか、そのような雑談ばかり言ってくる。
 ちょっと早めに、でも美味しい紅茶を淹れて、僕達は席に着いた。

「シンリンに茶会を中止しろと言われたよ」

 僕は席を立ち上がった。
 ……そして、また座った。
 やっと座って立って座る。忙しかった。

「……中止にしろって。何故です。どうしてそんなことをシンリンさんは言ったんです?」
「『君の体を大事に思って』と言っていた」
「なんですって」
「このことをときわ殿に話すか悩んだんだが、君にも知っていてほしいから話すことにした」

 アクセンさんは心苦しそうに、シンリンさんが言っていたらしいことを話してくれた。
 ――茶会をやめろ。
 ――全ては僕の為だ。
 ――自分は悪役を買って出ているんだ。
 ――茶会はやめなくてもいいから、ブリッドさんを無視しろ。
 どれも到底聞き入れられないことだった。が。
 が。
 ががが。がががが。

「が」
「……ときわ殿?」

 アクセンさんが「ブリッドさん」の名を出したとき、吐き気を堪えている僕がいた。

「…………。ソーリー、大変お見苦しいところをお見せしました」
「あ、ああ。気分が悪いのか?」

 ……ああ。アクセンさんの言う通り、悪かった。今さっき悪くなったところだった。
 なんということでしょう。
 つい最近までアクセンさんには隠していることだったが、僕は半年体調不良を訴えている。何かと気分が悪くなったり吐いてしまったりを繰り返していた。ここ最近収まったと思っていたが、また先日からぶり返してしまったようだ。
 体調不良はなんとかしなければならないと思っていた。また生活を改めなければと考えていた。
 そんな中……アクセンさん経由のシンリンさんの話を聞く。

「……ブリッドさんを見たから気分が悪くなった? そんな馬鹿な。シンリンさんは何を言っているんでしょうね」

 言いながら、僕は必死に口を抑えていた。
 …………。なんてこった。
 信じがたいが、信じてしまいそうになるぐらい、体が弱っていく。
 でもそんなこと許してなるものか。だってありえないだろう。『彼が居るから僕の体調が悪くなるんだ』だなんて。
 しかし僕は自覚する。……そういえば僕が不調を訴え始めたのは、ブリッドさんと出会ってからだった。
 いや、いやいや、そんなことがある筈が無い。でもそう思えば思うほど、僕が不調を訴える日と彼との関係性が繋がっていき、肯定する答えが導かれていく。なんとしても否定したいと思った。でもでも、出来なかった。

「ときわ殿。すまない。私はこんなことぐらいしか出来ないが」

 あまりに僕が気持ち悪そうな顔をしたから、アクセンさんはずっと僕の背中を撫で続けてくれた。
 紅茶でも飲んで……って、紅茶なんて飲んでいる場合じゃなかった。気を落ち着ける効果のあるお茶を飲み干すことも、今の僕には出来ないぐらい、苦しいものになる。

「…………ブリッドは、居てはいけないのか?」

 背中を擦りながら、心配そうにアクセンさんが言う。

「シンリンの言っていることなどありえないと私は思っていた。でも、シンリンはあまりに真剣に言ってくるんだ。そしてときわ殿、君も……そんなに苦しそうにして」
「…………」
「そんなにブリッドは居てはいけない存在なのか? 私には何がどうか関わっているのかサッパリ判らん。ただ……君らは、どうしてそんなに苦しそうにするんだ?」

 ――そんなの、僕が知りたいですよ。
 僕は胃液の味のする唇を拭った。そしてぐっと紅茶を飲み干す。やっぱりお茶は胃液の味になっている。でも堪えた。堪える事が出来るレベルだった。

「ふう。ドントウォーリーです。アクセンさん、気にすることはありません」
「……ときわ殿」
「そんな、シンリンさんは意地悪を言っているんです。言わされているんです。『本部』の人達の圧力なんかに負けてはいけませんよ。僕らは、僕らの楽しいことをしましょう。そうですよね、趣味の時間を潰されてたまりますか!」

 いくら洋館を異端視して嫌っていたって僕は挫けないぞ。
 それに……そんな虐めのようなこと、黙認してたまるものか。

「アクセンさん、おかわり!」
「あ、ああ」

 悪くなった体は少しずつ治していけばいいだけの話。何か原因があるなら、それを改めればいいだけの話。
 洋館に近付くな、遊んでいるんじゃない、そのような声は今までも何度も聞いていた。そう、そんなのに負けてたまるかっ。

「……ありがとう、ときわ殿」

 隣にはほっとして満面の笑みを浮かべている人が居る。こんなに良い人を助けない理由が無い。
 だから僕は抗うことにした。子供のように。その現状を認めたくないばかりに。



 ――2005年12月18日

 【     / Second /     /      /     】




 /12

 太陽が昇りきる前に、当主様はお付きの鶴瀬と寄居を連れて去っていった。
 自室の血に濡れたカーペットとシーツは「後に誰かを派遣するから何とかしてもらえ」とのこと。今日は日曜日、暫く俺は赤く濡れた部屋で眠らずぼうっとしていた。

 伯父さんのことを考えていた。……それと、ときわさんのことも考えていた。
 いや、もう、なんかみんなどうでも良くなって気にしなくなったんだけど。これももしかしたら、当主様に「安心しろ」って命令されたから安心しちゃったのかな。それとも単に俺が乗り越えただけ?
 どうだろう。ぼんやり考えていく。一人で悩んでも先には進まなかった。

「やっほぉ、ウマぁ。ぐっもぉにんぅ。あっ、ぐだふたぬぅんかなぁ?」

 すると奇抜な発音の福広さんが、寮の部屋に突撃してきた。
 って、昼間に寮の部屋に入って来るってどういうことだ。ここは学校だぞ。ぎょっとしながら親戚の姿を見ると、まるで清掃のおっちゃんのような格好をしていた。

「クリーニングぴっかぴかぁに命を懸けるおにーさんだよぉ」

 ウインクしながら現れたコスプレ中の福広さん。
 ……そういやこの人、寺でも清掃員をしてたんだっけ。コスプレでもなんでもなく、清掃員だった。掃除は退魔業以上にこの人の仕事だったか。
 ぼんやりと椅子に座っていると、颯爽と清掃作業は行なわれていく。
 慣れた手つきでカーペットのシミ抜き、シーツの取り換え。血だけでなく、ついでに部屋の隅の汚れや家具の埃までキレイにされてしまった。……お化け退治の後のことなんて全然知らなかったけど、そうだよな、福広さんのような人がいないと事件は終わらないよな。何も無かったかのように綺麗にしていく姿に、思わずしたことがなかった拍手を送ってしまった。
 ていうか福広さん。退魔業始めるよりハウスクリーニングで一生やっていった方が食っていけそうだよ。素人目に見ても素晴らしい腕ってやつじゃないかな。

「はぁい、俺の仕事は終わりぃ! 昨晩はお楽しみだったみたいだねぇ、ウマぁ?」
「……この顔を見てそれを言いますか。いくら魔力を補ってもらったとはいえ、未だにゲッソリして食欲が無いぐらいですよ」

 悪夢を見過ぎて、最悪の寝起き状態が昼間になっても続いているようなもんだ。まだ喋れるだけマシな方だった。

「ウマさぁ、今日は日曜なんだしもうちょい寝てさぁ、夕食いっぱい食べなよぉ。寮の食事、悪くないんでしょぉ?」
「だりぃっす」
「いっぱい食べて元気出しゃいいんだよぉ。んうぅ、良いっていう寮のご飯、俺も食べてみたいなぁ。親父とどんだけ違うか気になるしぃ」
「銀之助さんの食事と比べない方がいいと思いますよ……段違いですから」
「いいじゃんいいじゃんぅ、見たカンジ良い学校だよねぇ。俺も転校しちゃおっかなぁ。はっはぁ、俺ってばもう四捨五入して三十路だけどぉ!」
「……食事は慣れても、この学校には慣れないんじゃないですか」
「あっれぇ、俺が転校すること自体には反対しないのぉ? あぁ、魂狩りの手助けになるしねぇ。なるほどぉ、仲間が増えることに反対する理由なんて無いかぁ!」

 呑気に笑う福広さんが羨ましい。
 昼間になってもこれだけ怠いんだから、当主様の血を飲まなかったら……今日は一歩もベッドから出ることが出来なかったかもしれない。
 いざとなったら電話でもう一度寄居に来てもらって、『供給』を頼むしかないようだ。……吸血でも性行為でもなく、もっとまともな『供給』をお願いすることになるが。
 ともあれ、今は目の前の呑気で俺を元気づけてもらうことにしよう。

「…………この学校」
「んぅ?」
「この学校、なんでこんなに霊が出るんでしょうね」

 へらへらとした福広さんの笑顔を見ながら、ぼんやりと考えていたことを口にする。
 いくら学校が、病院と同じく思春期のキワドイ思念渦巻く少年少女の溜まり場だったとしても。異端が生じやすいと言われていたとしても……なんだか、腑に落ちなかった。

 この半年間、毎週のように異端を退治している。多くの者達を葬り、刻印に集め、実家に送り続けた。今朝だって当主様自らの手で大量の怨霊の魂を回収した。
 だというのに、まだ俺はここに居なくちゃいけない。何日も何日も魂狩りが必要なぐらい、怨霊が現れている。
 なんでだろう。何度も考えたことを、またぶり返して考える。

「なんでってぇ。神様が近くに居るんだからザコが恩恵を貰いたくて近寄ってくるんじゃないぃ?」

 すると、あっけらかんと福広さんは答えた。
 俺は目を見開いた。



 ――2005年12月18日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /13

 日曜。剣道場に、近くの男子校の生徒達が剣の修行にと集まってくる。
 いつもなら皆、何事も無く練習を始める……というのに。道場前にリムジンが停まっているせいで、男子達はなんだなんだと騒ぎになって、事は一向に進まなかった。

「迎えに来たよ」

 王子様のような和服の男性は笑って、あたしの手を取った。




END

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