■ 021 / 「恋人」



 ――2005年11月3日

 【     /      / Third /      /     】




 /1

 菓子も食いきって茶も飲み終えて、日が次第に落ちていく。
 ただただ駄弁っているだけの時間。笑って悲しんで、ひたすらに時間を潰すだけの無駄遣い。それでも企画している本人達には有意義な時間らしい。
 満足しきったときわ様の声と共に茶会は閉幕となる。普段通りのティータイムは、部外者から見るとやけに呆気なく幕を下ろすものだった。

「僕はこれから食事を取りに行かなくてはいけませんから、一度屋敷へ戻ります。本当はもっとしていたいんですけど、食べないと銀之助さんに叱られてしまいますからね。……あれ、ブリジットさん達もお食事なのでは?」

 一族の直系坊やは、年相応の幼い笑顔で受け答えをする。
 声の調子は冷静さを装っているが、今日も今日とて楽しい時間を過ごせたのが嬉しいのか、笑みが溢れている。
 楽しい時間を隠す必要が、今の彼には無い。おしゃべりを散々し終えて満足している表情。実に幸せそうだった。

「はははっ。ときわ様には信じられないかもしれませんが、オレ達には『飯を食べろ』という命令は無いんですよ」
「……どうして?」
「貴方様のようなここの寺で生まれた由緒正しい方の食事が名前付きであるんでしょうが、部外者は適当なタイミングで置かれている物を引っ掴んでは食べるんです。あっちの建物で作った食事を、わざわざこの洋館まで持ってきてくれる女中さんは一応いらっしゃいますから」

 今更知ったのか、ときわ様は感心してそうなんですかと何度も頷いている。
 隣で(今日、話の議題に使った)本を持ち立ち上がったアクセンや、使い終えた食器を片付けるブリッドに「アクセンさん達もそうなのですか?」と尋ねた。オレの回答だけでは信用ならんってことかな。
 話し掛けられたブリッドはそそくさと素早く食器を片付けながら、静かに頷く。応対の声も無く。
 一方でアクセンは……意外にも首を振った。

「私は普段、食事を貰っていない」
「……と、いうと?」
「なくても良いからだ。無論、食べたいと思った日は頂いているがな」
「ああ、いつもアクセンさんはお茶会のとき以外は遅くまで外にいらっしゃいますしね。外食が多いのだから納得です」

 おや、初耳。本を片手に現れ、本の話題で茶会を盛り上げ、本を揃えて帰ろうとしているこの赤毛野郎はアウトドア派なのか。
 意外だなと心の中で呟いていると、オレの足元で伏せのポーズをしていたブリュッケが『あの人は連日、図書館に入り浸っているそうだよ』と注釈してくれた。大変大変、勤勉家らしい。ブリュッケは『ブリッドが教えてくれた』と付け足しながら、尾をリズミカルに振っていた。

「ブリッドさん。一応訊いておきますけど、この後の予定は?」
「…………」
「まさか、『お仕事』は入れていませんよね? 以前、僕は『茶会の日に仕事を入れるな』って言いましたよね? 入れていたら怒りますよ? 僕の話、覚えてますよね?」
「…………」

 騒ぎ散らかした食堂が清潔な空間に戻って、解散となる直前。ときわは微笑みながら上位者としての圧力で、ブリッドを引き潰そうとした。
 サングラスの下の目をときわ様は見てはいない。なるべく目を合わせないようにするためにブリッドが自主的に掛けているサングラスだ。しっかりと鼻の上で固定してあるので、隙間から覗くのも一苦労な筈。ときわ様も意地が悪すぎる坊やでもないので、無理矢理目を合わせるようなことはしなかった。……そもそも、そんなことをやったら死んでしまうが。
 それでもときわ様はブリッドの前に立ち塞がる。「答えてくれるまで退室を認めません」と言わんばかりの仁王立ちだ。俯いてなかなか返事をしないブリッドも焦り始めている。
 だけど、小さな声を絞り出してでも答えることはなかった。
 二人は数分間、視線を外したまま見つめ合う。そうして無言の攻防戦を繰り広げられ、終わった。

「あーあー、ときわ様ー。そんなにオレの弟をイジメないでくださいよー」
「苛めてませんよ、お願いをしているんです。ブリジットさん、貴方は彼のお兄さんなんだから本来この台詞は貴方が言うべきなんですよ!」
「ときわ様ほど素晴らしいお方に気を遣ってもらえて弟も嬉しいでしょう。なんと幸福なことか」
「そういう言葉は期待してません」
「ハハッ。ときわ様、安心なさってくださいな。言われたこともちゃんとしない不出来な弟ですが、貴方のお心遣いのおかげで休暇を取るようになったんですよ。本当です。今朝も今夜も『化け物退治には行きません』。弟は貴方の言葉は決して無碍になどしてませんよ」

 オレの放つ真実を聞いて、ときわがパッと明るくなる。
 案外この坊主、顔に出やすい。口も軽い上に表情豊かだなんて、扱いやすいにも程がある。
 ときわは再度ブリッドに向き直り、「本当にお仕事を減らしてくれたんですね?」と問い質した。それにうんともすんとも言わない。けど、微かに頷いた……ようにも見えなくはなかった。

「ならそう言ってくれてもいいのに。なんで恥ずかしがってるんですか、ブリッドさん。シャイですねぇ」

 楽しげな溜息をわざとらしく吐く彼は、いい子にも見えるし、言うことを聞かなければ暴れ出す困ったちゃんだった。
 自分の思う通りに事が進まないワガママ坊やとして育ったのは、仮にも仏田一族の三本の指に入る高潔さを持ったお坊ちゃまだから仕方ないこと。ちっこい体の彼は、ちっこいなりに大きく自分を見せたいのか腕組みをしてみせた。

「でもですね、ときわ様。実は今夜、ブリッドの奴……お化け退治は無いとはいえ、会合に出席しろっていう『仕事』があるんですよ。だから憂鬱なんです」
「……兄さん」

 それ以上は言うなと言いたいのか、小さな反論をするブリッド。
 結局仕事をしてるんじゃないですか、そう思ったらしいときわはムッと口角を下げる。だがそれ以上のことをしなかったのは……何の会合だか判らなくても、優等生心を刺激されたからだろう。

「一本松様らが、わざわざ時間を作って、弟と話をしてくれる機会を作ってくれたのです。こんな大切な場に、出席しない訳にはいかないでしょう? それぐらいは許してくださいますよね、ときわ様?」
「こればかりはお忙しい一本松さんの予定も関わってきますからね……仕方ない話ですか。ブリッドさん、その会合とやらは今からなんですか?」

 せめてハイかイイエの返事ぐらいしろ。弟の背中を突く。
 辛うじてブリッドは頷いた。あまり答えたくはないという表情が抜けていない。ちょっとの演技力ぐらい身につけてほしいものだ。
 そうして、弟とときわが洋館から出て行く姿を見送る。屋敷への道のり、ブリッドに「途中まで共に行こう」と言い出したのはときわ様だった。

 ――まったくあのクソが。やっと行ってくれたよ。

 距離を置かれているものだと思っていたが、ここ数ヶ月で二人はとても親しい仲になっているようだった。今日の茶会を出席させてもらって隣で見ていたのだから、実感している。
 紅茶のコの字も教わったことのないブリッドが、一端にお坊ちゃまの会話についていっていたのだから。……会話と言っても、子供の一方的なトークにうんうんと相槌を打っているだけのようにも見えたが。
 それでも、人と関わりを持たずに生きていた奴にしては話に参加しているだけでも上出来だ。自分の話を聞いてくれている人物を好意的に思うときわ様は、いつしかブリッドが相槌を打ちやすい話をするようになった。
 さっきのように一方的にときわが問い質し、ブリッドが困って何も言わないことなんて……今日の茶会中では生じなかった。

「ブリッドは会合が嫌いなのか」

 やはり異変に気付いていたのか、同じ茶会の参加者であるアクセンが見送った後にポツリと呟く。
 目を見なくても話に参加しようという意欲があるブリッドが、ときわの問いかけに何も反応を示そうとしない。それがおかしい。二人の最後のやり取りを聞いていたこの男は、そういうところは目ざといらしい。

「ええ、嫌でしょうねぇ。だって楽しいティータイムが終わっちまったんですよ。ずっとここにいたいって思うでしょ」
「ん」

 背中姿なんて見る趣味は無いが、笑顔で見送った以上、ほんの豆粒になるまで笑顔で手を振ってやった。
 嫌だろうがお勤めは果たしてもらわないと困る。たとえ一晩帰ってこないような内容でも、朝までお勤めなんてブリッドにとっては毎日のことなんだから本職には専念してもらわないと。平和主義のクソ坊主が仕事を減らしやがったとしても、半日はやってもらわなきゃならない。
 でないと、何の為にオレ達兄弟がこの寺に居るのか判らなくなってしまう。存在意義さえ危うくなってしまうんだから。

「アクセン様は、これからどうなさるおつもりで?」

 オレと同じようにときわ様らを見送っていた彼に、社交辞令として声を掛けてみる。

「勉強に専念する。遊びの時間が終わったからケジメをつけないといかん」
「勉強?」
「本業だ、私は学生だからな。……ん、なんだ、その『知らなかった』と言いたそうな顔は」

 それは失念していた。
 けど、普通に考えれば……図書館に通い、本を語り、仕事もしないで時間が有り余っているなんて、学生という大層なご身分でもない限りありえないか。

「ブリジット相手には言ってなかったかもしれん。ブリッドには話したんだが、彼から教えてもらっていないだろう?」
「話されたかもしれねーけど、覚えてないね。ブリッドは結構貴方のことを話しますが記憶に無いです」
「……仲が良いのだな」
「ハハッ、どうですかね。時々いっしょに寝ることだってあるぐらいですから悪くないんじゃないんですか?」
「甘えん坊だな、お前は」

 なんでそこで弟でなく、オレが寂しがり屋のように解釈するんだ?
 抱いた疑問にブリュッケがゴフッと毛玉を吐き出したような変な息遣いをする。ツボに入って笑っちまったのか、咳払いをしたのか。どっちにしろ失礼なワンコなので尻尾を踏んでおこう。

「もっとお前達兄弟は、淡白なのかと思っていた」
「ハッハハハ、そう思われても仕方ないかなー? 弟はあれでいて『人と触れ合わなきゃいけない仕事』をしてるんで、親しい親しくないに限らず色んな人と話をするんです。話すネタだけは有り余ってるんですよ」
「それで、ブリッドに話させていると。ああ、安心した。お前達は仲良いのか」
「なんでそんなことを言うんです?」
「以前、家族のことを訊いたら嫌がられてしまった。特にお父上のことが苦手らしいな。しかし、信頼できる兄が傍にいてくれるなら心強い」
「…………ふうん。父親のこと、キライだって言ったんですか。あいつ」

 おや、思った以上に低い声が出てしまった。意識して出したつもりは無かったのに。
 そのせいかオレの声を聞いて、固まる。そしてすぐに「すまない」と謝ってきた。唐突に機嫌を損ねたことにオレが叱られることはあっても、いきなり謝り始める展開にはキョトンとしてしまう。
 こいつにしては珍しい、しどろもどろになっていた。

「なんでアクセン様が謝るんです?」
「……ブリジット達のお父上は、もう亡くなっているんだろう。お前にも嫌なことを思い出させてしまった。すまない」
「アクセン様、オレのこと気遣ってくれるんですか。オレ、ブリッドじゃないですよ?」
「関係無い。お前もブリッドの兄なら境遇は同じだ。私は無神経な発言をした」

 目を伏せる。気まずそうに口を噤んで、絵に描いたような反省をする彼。
 いちいちオーバーアクションな奴だな、それほどこっちは気にしてないっていうのに。

「あー、ヒマだね。ときわ様がずっと喋ってるの聞いてるだけだったから、オレは話し足りないや。なんかこのまま一人で時間潰すのもアレだなー。これからアクセン様のお部屋にお邪魔してもいいですかねー?」

 いきなりだが露骨に話を変える。さっきまでの話なんてしてなかったように。
 アクセンもオレの話題転換を大いに賛成し、すぐに表情を変え乗ってくる。

「別に構わんが……特に私の部屋に面白いものはない」
「ハハッ、面白い人が住んでる部屋だからいいんですよ。オレの目的はアクセン様の部屋が見たいんじゃなくて、アクセン様が居る空間に行きたいだけですから」

 ワンステップで奴に近付き、腕を取った。ついでに、彼の腕を組む。
 いきなり腕を組まれて、奴の顔が固まる。過度の接触は慣れていないか知らんが、目に判る警戒をされた。
 けれどもこの行為が悪ふざけでスキンシップの一環だと理解すると、お優しいことに強張った身体を少しずつ緩めていく。
 別に、オレは何も期待などしていない。「いつも通り弟達に接しているようにしてくださっていいんですよ」と甘く囁いておいた。

 ――彼の部屋は、他と特に変わりない。ほぼ同じ間取りで、私物が変わっているぐらい。家具や配置も同じだ。

 それなのに別の空間だと一番に知らしめてくるのは、やはり嗅覚だった。
 紙とインクの匂い。侵食度はオレが使っている部屋より遥かに高い。そして、当然のように彼自身の匂いも部屋中に漂っている。
 アクセンは「片付いている日で良かった」と微笑みながら本を片付け始める。ということは、散らかしっぱなしにしている日もあるということだ。意外にも思えるが、読書をベッドの上でする日もあるという。自堕落に本の世界に耽るなんてこともあると聞いて、予想以上に人間くさいんだなと認識を改めた。
 その雑談の途中で、適当な本をペラリと捲ってみる。
 [日本語]が書かれていた。だが次の本を捲れば、全く知らない未知の言語で書かれている。
 三冊目以降も手をつけると、漢字のものもあればよく判らない記号での書籍すら見つかった。
 そういえばこいつ、語学なんてもんを嗜んでると言ってたかもしれない。

「なんでこんなもん、専門分野にしようと思ったんですか」

 「こんなもん」と言ったオレを非難しない。相変わらず心の広い奴だった。

「各々の国の性格、特色を学ぶたびに感動する。それに、世界中のどんな人とも繋がることができるのは素晴らしいものなのだろう?」
「はあ」
「私はブリジットと英語で繋がっているが、お前の母国語で繋がったらより深くお前を知ることができる。心から口へ吐き出される前に、一度脳を通って変換した言葉は本心とは別物のケースがある」
「へえ」
「ときわ殿と日本語で会話できたら、きっとときわ殿の素顔が見えてくるだろうよ。今はそれがしたくて日本語を学んでいる」

 なんともお美しいお答え。
 綺麗なものだけを並べて言ったつもりはないと思う。おそらく奴の本心がそこにあるんだと、誠実そうな目と英語を述べる口が語っていた。
 でもありきたりな回答だ。世界にいる多くの人々と本心から繋がりたいだなんて。
 適当な一冊、日本語入門だと思われるその参考書には、二人の人間が話し合うイラストが描かれている。その二人は笑顔で挨拶をしていた。
 気持ち悪い絵だった。

「[繋がる必要なんてあるんですか]」

 [日本語]で、呟いてみる。
 途端、アクセンの顔が露骨に強張った。オレが[日本語]を使い始めたことで、必死に翻訳をしている……と思わせる表情だった。
 そしてゆっくりと口を開き始める。もちろん語られるのは全て日本語だ。茶会では英語の得意なお坊ちゃまの自己満足のために、オレもブリッドもこの人も英語で会話をしていたが……そのときの表情よりも緊張が目に見えていた。離せると言っても本調子ではないらしい。
 唇に手を当て、思案しながらも……真正面から頷く。

「[ある]」
「[どうして?]」
「[判り合えないのは、悲しいことだ。理解は、良いことだ。相手を理解できなければ、交流を望めない。心に触れ合えない、何も、判らない、笑い合うことすらできない。私には全部、判らないから、必要だ]」

 声が低い。発音は完璧だが、一つ一つの単語を意識して喋っているせいかどれも重苦しく聞こえる。
 本人的には真面目に答えているつもりのようだが、電話先でさっきのような声で話されたら歯に何か詰まって機嫌でも悪くしているのかと思われそうだ。……それでも難しい会話を続けられるんだから、学生を気取っていることは嘘ではない。
 拍手をしてやった。……ところで、アクセンは考え事をするときに口元を隠す癖があるらしい。だから余計に声がくぐもって聞こえて迫力を増していた。

「すげーですよ、アクセン様。あんた、ちゃんと日本で生活できるぐらいのレベルはあったんですね」
「これでも照行殿や、寺の外で出会う人とは日本語で会話をしている。茶会のときはついときわ殿に甘えてしまうが、話が出来ない訳ではない」
「へえ、じゃあこれからは日本語でティータイムしてくださいよ。……いや、ティータイム中の英会話はときわ様の趣味でしたね。あっちに言うべきだ」
「提案ならときわ殿にしてくれ。……ブリジット達は、日本が長いんだな? だからもう日本語に違和感なく……」
「あー、そっすね、もう十年はここに住んでますからね。それ以前は父親の仕事の関係で、あっちこっち飛んでたんですよ」
「あっちこっち?」

 母親はノルウェー人で、両親が出会った国がイタリア。生まれた病院は、帰省中の親父の母国である日本。一番長く住んでいたのはイギリスで五年。「一応、青春時代はイギリスで過ごしたんですよ、ルージィルもそうだったな」と呟く。
 オレに一つしかない椅子へ掛けろと促しながら、アクセンは自分のベッドに腰掛けて「……ルージィルも?」と当然の疑問を突きつけてくる。
 だけど言われた通りに座らず、オレは腰を下ろした奴の隣に座ってやった。

「あいつもイギリスが一番長い筈ですよ」
「お前らは……いや、お前とブリッドはルージィルと仲が良いのかと思っていたが、そういう繋がりだったのか」
「簡単に言えば幼馴染ってやつですね。……正確にはルージィルの奴は、オレの叔父です」
「なに?」
「らしいですよ、正直オレもよく判ってないんです。親父の関係は、親父が死んだ後に知ってる人間が気まぐれで教えてくれるだけですから」
「……ん」
「あちこち色んな国を見てきたガキなりに、思うんですよ。いくら喋れたって、一つに勝るものはないって。もうここに住むことになって十年経つから日本語も覚えましたけど、最初は何も判んなかった。そりゃあ、苦しみました。理解されないし理解もできないのは、子供なりの小さな世界でも地獄でしたよ」
「……だろうな」
「自分の手が届く範囲だけでもこれだけ苦しんでいるのに、どうして貴方はわざわざ遠くへ赴いてまで苦しみを味わおうとしているんです?」

 右手に座る彼に肩を寄せて、すっと手を伸ばしてみる。
 膝へ右手を乗せて、ゆっくりと撫でてみた。嫌がるかと思いきや、オレの質問に答えるために真剣な表情で……口元を隠し始める。反応が鈍い。真面目に考えていやがった。

「世界中の人を理解し、愛する為には理解は必要だ」

 オレが捲った本を指差し、彼は言う。
 『愛』なんて壮大なテーマまで持ち出して。

「ぷっ! 世界中の人間を愛する必要が、貴方にはお有りで?」
「必要かどうかの問題ではない。そうなれたら良い。理想が高すぎるとしても、世界中に住む人間を愛することができれば幸せ。そういうものだろう。私も出来るだけ多くの人を愛したい。どんな人間でもだ。……ブリジットは先ほど『自分の手の届く範囲で』と言ったな。私もだ。私も私の手が届く限りの世界中の人間と関わることができればいい。それを良しとしている」
「ふ、ぷっふふ。オレに判りやすく大袈裟に表現してるんでしょうけど、流石に『世界中の人々』は、全能の神様でもない限り愛せないなぁ? そんなこと言ってたら、『本心から嫌な奴』に出会ったら壊れちまいますよ、あんた。心の底から腐っている嫌な奴、世界中の人を探していけば会いますよ。狭く深くが一番ですって」

 アクセンは押し黙り、オレの言葉を聞く。
 けど何度も言葉を選びながら、持論を展開してくれた。

「もし理解し合える力があったら、その……お前の言う『嫌な奴』と和解もできる。相手を嗜め、こちらを理解してもらう力が必要だがな。努力次第で身に付けることは出来る」
「言いたいことがあったら言う、言葉なんてそれぐらいの意識だけありゃいいのに。……わざわざ悪い連中の為に努力するなんて、貴方は聖人になろうとしてますか」
「ありがとう。それは褒め言葉だな。素直に喜ぼう」

 もちろんオレは嫌味のつもりで言った。それを判っていないとしたら、やはりこいつは表面上の言葉でしか受け取らず、中にある意味を把握することができない奴のようだ。
 ああ、なるほど、純粋無垢で朴訥な阿呆だから一生懸命に数を稼いでいるのか。
 学んでも学んでも理解が足りないから。学んで学んで補おうとしているのか。

「……アクセン様。貴方様にぜひお話したいことがある。オレが今から言う連中を、貴方は理解して愛せますか」
「ん?」
「オレが生まれてから、一度も『理解できなかった』連中です。世界の色んな人々と出会って語りたくて愛を広げたいと思っている貴方ならご指南下さる、そう信じて話しましょう」
「ん」
「『彼ら』は、遊ぶ気の無い子供に無理矢理遊ばせました。理由は、『特に無い』そうです。子供と暫く遊んでなかったから一緒に遊んだ。それだけの『彼ら』です」
「そこまでして遊びたかったのか。何か急な事情でもあったか」

 オレは立ち上がり、部屋の電気を落とした。
 室内が暗くなる。部屋の造りはどこも同じで、ライトの位置も全部お見通し。どこでどうやって点けられるかお手の物だった。
 面白いぐらいにアクセンの表情が固まっていた。暗闇の中でも判る。こんな奴でも、察する能力ぐらいは持ち合わせてくれていたらしい。

「無理矢理仲間に引き摺りこまないと、どっか逃げちゃいますもん。すぐに捕獲しなきゃいけないよなぁ。えっと、何の話でしたっけ。ああ、そうだ、集団レイプ事件の話だった」

 ――ある日、ある時、あるお屋敷に、子供が引き取られた。子供は見知らぬ場所で新しい生活を送ることになった。

 引き取られた理由は、まあいいや。親がちょっとした理由で居なくなったからとかの、ありきたりな話だ。
 子供を引き取った屋敷には、大人達が沢山いた。大人達は引き取った子供を、とことん遊び抜いていく。
 最初の夜は歓迎パーティー。歓迎パーティーは乱交パーティーの始まりって、まるでAVみたいな話。ああ、相手は子供だ、そして遊ぶのは大人『達』。
 子供相手だっていうのに、ホントにSMのAVみたいに縛りつけて、狭い穴を何時間も掛けて馴らしていく。子供がそんなのに感じる訳ないのに。人体なんで所詮は刺激されたら感じるんだけど。
 何時間も渡って馴らされて、一人前に挿るようになったら、あとはもう、本当の歓迎パーティーの始まり。
 子供はまず一人を迎えて。泣き叫びながらアンアン言って二人目を歓迎して、三人目を歓迎して。四人目を歓迎して五人目を歓迎して六人目を歓迎して。それ以上は覚えてないとかなんとか。
 大人の女だってそんなハードなことできない。レイプ三昧なんて白目を剥いて泡を吹く。それでも彼らは全員を一巡させるまで、歓迎パーティーをやめなかった。
 一巡させたら次の遊びに移った。無理矢理に。子供は遊ぶ気なんて全然無いのに。特に理由は無く。
 次は何させたんだっけ、咥えさせたんだっけな、ああ、一人一回『口に』歓迎パーティーをさせたんだった。ちゃんと口に出させるまで舌で刺激をすることを強要させたんだった。
 無知な子供にそんな遊びを全員分、させたんだった。顎も壊れるし舌の水分も無くなるから、二度目は全員分遊ぶのは無理だったらしいけど。また新しい遊びを考えた大人の男達はそうして『双子の兄弟』を――。

「ブリジット」

 ――電気を消したとなったら、普通は視界がきかなくなる。
 でも判る。語るオレへと、視線を向けていることに。
 アクセンはベッドに腰を下ろしたまま動かなかった。動かなかったんじゃなくて、オレを受け留めるために動こうとしなかったんだ。
 言葉なく、闇の中でオレを見ているようだった。

「…………ああ、アクセン様。なんでそいつら、こんなことしたんでしょうね? ガキ相手に欲情して性の捌け口にするなんて、理解できます?」
「……ブリジット」
「それ以後、子供は外に出られなくなったそうですよ、当然ですよね」

 外に出られるような体じゃなくなったんですから。
 何日も遊ばれて、色んなところにヒビが入って、足とか使い物にならなくなったとかなんとか。髪の毛だって恐怖でサッパリ抜けたとかなんとか。

「そりゃ、世界どころか周囲にさえ気遣いなんて出来ませんよね。自分の手の届く範囲だけに留めるっていうか。それさえも叶わないっつーか」
「ブリジット、話したくなければ話すな。お前の顔は、辛そうなものをしている」

 お優しいですね、と言いながら腕を強く引く。奴の体を引き寄せた。

「ところでアクセン様。……繋がるのは、言葉だけじゃない……って、知ってますか?」

 自分で言って笑えてくる台詞だ。ギャグのつもりで言ったが、相手は笑ってはくれない。
 背中に腕をしっかりまわして彼の身体を捕らえた。容易には動くことが出来ないようにする。
 そのまま、唇を重ねた。

「ああ、あったかいなぁ、あんたの身体は」
「……ん」
「抱き心地も良いし、この腕はきっと、誰を相手でも優しく抱きしめてくれるんだろうなぁ。……アクセン様みたいな人が相手なら、子供も泣かずに済んだのに」

 もう一度、口付けた。
 唇を滑り込ませていく。うねるような動きで、相手の口腔を刺激していった。
 たっぷり一分間は愛してから解放する。口元から落ちた唾液を舌で拭いながら、彼の表情を伺った。戸惑いの色は……若干だが灯っていた。

「貴方的にはオレの母国語を習えば、本心を知ることが出来るそうですけど。そんなことしなくても、一番野性的なことで相手を理解できるもんですよ」

 キスの途中から高鳴り始めている胸。接触してなくても彼の鼓動が伝わってきていた。
 服の中に手を滑り込ませる。微かに息を呑んだ音がした。「続き、やりますよ」と尋ねたが、黙り込んだまま何も反応は無い。
 否定を示さない態度は、肯定と受け取ろう。衣服を脱ぎ始める。「ベッドに寝転がってくれよ」と頼み込むと、彼は言われた通りシーツに背中をつけた。
 胴体を跨ぐ形で膝の仁王立ちになる。そして、寝転がった彼のズボンに手をかけた。シンプルなベルトを外すと、ホックを外してするっと衣服を下ろしていく。
 まだ勃ちかけてもいない。だが、抵抗まではしないというのだから……。

「さっきのキスで気持ち良くなってしまいましたか? それとも、玩ばれた子供の話で感じちゃったのかな?」
「……ブリジット」
「さっきから何だよ、名前ばかり呼んで」
「お前は、セックスが好きなんだな」
「…………腰を上げてくれよ、脱がせられねーだろ」

 子供も災難だ。体をよく判らない連中に玩ばれた揚句、全然関係ない今も、どっかの誰かさんのオカズにされちゃうんだから。
 虚空に話しかける。ブリュッケに誰も部屋に入ってこないよう見張ってろと言ってきかせた。姿を消していたがオレ達のすぐ傍に居たブリュッケが、億劫そうに尻尾の位置を変える。
 今日は『餌を求めて』誰かが入ってくることはないだろうけど、一応は注意しておかないと。
 オレは供給のスイッチを入れた。



 ――2005年11月3日

 【     /      /     /      / Fifth 】




 /2

「ふんふん。そんなものなのですかねえ、空を飛ぶ魔術って」
「だよだよ〜。自分を軽くするんじゃなくて『重力』を殺すの〜。かかる衝撃をばっしぃしてしまえば、こっちのものなんだよ〜。カンちゃんは充分に判ってる筈だよ〜」
「ふうむふうむ、理屈も計算式も判るんですが、やっぱり僕にはいまいち解せないなのです。理解できてないから天空の羽をいくら唱えても飛べないなのです……」
「きっとムリヤリ違う言い訳で理解しよーとしてるのがだめだめなんだよ〜。ねえ、カンちゃん〜。目はどうしてモノを見るの〜?」
「えー……と……水晶体が……」
「ちがう、ちがうの〜。『目の前に見えるモノがあって、見ることができる目があるから』見えるんだよ〜。そういうものはそういうものなの〜。羽を持つ鳥は飛べて、ぼくも飛ぶの〜。ぼくは飛べるから、飛ぶの、飛ぶことができるの〜」
「う? む、うー……んー……? 尋夢様の言ってるのムズムズなのですぅ」
「ムズムズ難しいって思っちゃだめだめなの〜。全部を式で当てはめてそんだけで完結したらだめだめなの〜。魔法は直感で示さないとだめだめなの〜。ね〜っ?」
「ね、って言われても……なのですぅ」

 うんうんと悩み、ばたばたと手をはためかせているカンちゃん。
 机の上に本とノートをいっぱい広げて、ぼく達二人は魔法使いの道を一歩一歩ウサギ跳びをしています。
 減るのは部屋の酸素とお菓子ばかり。身体に入るのは酸素とお菓子ばかり。身になる知識は、まだ手に取ることも出来ずにいました。

「カンちゃんは頭がカタスギなの〜。がちがちアストロン〜。だめだめなのですよ〜」
「……僕、魔術を教わるの、ちょっと遅かったかもなのです。もっと早くやってたらすっぽり理解できたかもしれないなのです。わっかんないこと多すぎるなのですぅ」
「若ければ若いだけ身に入るって言うけど〜、そんなのスポーツやお歌だって同じだよ〜。小さい頃から頑張る子もいれば、大きくたってアイドルになれる人はいる〜。浅黄おじいちゃんは小っちゃい頃から魔術を習っていたみたいだけど〜、緋馬おにいちゃんは独学なのに一人で潜入任務が出来るんだよ〜」
「えっ、緋馬様ってそんなことしてるのですか? 超人なのですっ」
「うんうん〜。だから頑張るカンちゃんも出来るに決まってるんだよ〜」
「うー……ありがとなのです。尋夢様に言ってもらえると助かるなのですぅ。……尋夢様は、何歳から修行を始めたなのですか?」
「わっかんない〜」
「そんな……覚えていないぐらい前から習い始めたなのですか?」
「ううん、設定してないだけ〜」
「……設定?」
「残念ながらそのようなキャラ設定はぼくには無いの〜。好きな食べ物はリンゴ、好きな動物はクマさんとジョニー、語れるプロフィールはこれぐらいなの〜」

 にぱ〜と満面の、誰にも負けないこれでもかというぐらいの笑顔をぼくは振り撒きます。
 カンちゃんはぼくの笑顔につられて、えへって笑ってくれました。勉強はつらいけど、楽しく笑えたのでいっぱいいっぱい笑います。
 やっぱり笑顔は一番ですね。疲れた気持ちもぜーんぶ吹き飛んでいっちゃいます。

「カンちゃんほど式がはっきり頭に入っている子なら、理解する日もきっと来るんだよ〜」
「そ、そうなのですかっ?」
「ですです〜。努力した人は必ず報われるよう、この世界は約束してくれるんだから〜」
「あ、うん、ですね。みんなそれ言いますなのです。お父さんも、先生も、テレビでも言うことだから、頑張れば絶対できるようになるのです! ねっ!」
「しかしカンちゃん、浅黄おじいちゃんからの成績簿を見る限り黒魔術の成績が一段と悪いのです。いかがしてか〜?」
「……だ、だってえ。蛙とか蛇とか、僕、そんなに好きじゃないなのですもん」
「否グルメでは社交会で生きていけないよ〜」
「魔術実験用だから食べないよ!?」
「ツッコミ力があるから攻撃ダメージ値の高さもお墨付きなのに残念〜」
「ボケツッコミのツッコミと、攻撃防御の突っ込みは意味が違うと思うんです! 単なる同音異義語だと思うなのです! それに、人を傷つける魔術はちょっと僕は苦手で……」
「いいかげんお黙りなさい、大馬鹿者ッ!!!」

 女性の怒声。
 ……部屋中が、いや、屋敷中が静まりかえるほどの怒声が響きました。

 それはとてもとても鋭い声でした。けれど重みのある、年配の女性の大声だったのです。
 わいわいわーわーおしゃべりをしていたぼくも、カンちゃんと仲良く口をムギュッと噤んでしまいます。
 だって「自分達が怒られた」と思いましたから。さっきまで「!」ばかりを付けて話していのですから、体を震わせてしまいました。
 けれどそこに、声の主は居ません。部屋にはもちろん、開けられた襖の先にもぼくら以外居りませんでした。
 となると、あの大声は廊下から流れてきたことになりますね。ぼくは、ぴきーんと固まるカンちゃんと仲良く手と手を取り合い、外へ繋がる障子を開けました。
 すると廊下のずっと先に、人影が見えてきます。
 怪訝そうな顔の清子おばあちゃんが居るのが、ぼく達には見えました。

「うるさいねえ」

 ぼくは音量を下げずに言います。するとカンちゃんはドキドキした顔をしました。
 ぼく達の声は、廊下の先に居る清子おばあちゃんの耳には届きませんでしたが、カンちゃんはもし聞かれたらと思ってかビクビクしていました。

「せっかくカンちゃんとらぶらぶしているのに、怯えちゃったじゃないですかあ〜。ぷんぷん、イイシーンだったのにぃ〜」
「変な気遣いありがとです、……尋夢様、清子おばあちゃんって怒ると怖いからお声をミュートしましょうなのですっ!」

 そのときくるっと廊下の先に居た清子おばあちゃんが、カンちゃんの声に反応して振り向きました。ぼくの声は聞こえなくてもカンちゃんの「!」は届いちゃったんでしょう。
 ぼくらが廊下に顔を出しているのを見て、ふう、と清子おばあちゃんは溜息を吐きました。
 それはとてもわざとらしい、人を怯えさせる力を持った溜息です。

「ほら、あの子らも嫌がっているでしょう。騒ぎにしたからあの子達も心配になって見ているのですよ。全く、何故判らないのですか、匠太郎」

 清子おばあちゃんは苛立った声で、目の前に居る匠太郎おじさんを批難していました。
 わざわざ子供を指差して、言い争いの糧にしています。
 するとカンちゃんがとてもとても複雑そうな顔をしました。魔術が判らなくて困っていた顔とも違う困り方です。カンちゃんは、お父さんである匠太郎おじさんを、そのおじさんのお母さんである清子おばあちゃんのことをそんなに嫌いじゃないと前に言っていました。でも、今ばかりはその好意も崩れてきているようです。
 他人との喧嘩に、自分を使われるのは不愉快。そのような顔をしています。
 清子おばあちゃんはとても怖くて偉い女性なので、暴言なんて絶対に吐けません。だからカンちゃんはちょっとイヤンな顔をして、お父さんが怒られている光景を見ているしかなかったのです。
 軽く深呼吸をしたぼくは、廊下に出ていきました。
 近寄ってくるぼく(と、カンちゃん)に清子おばあちゃんは不思議そうな顔をします。

「……なんですか。…………柳翠様の息子の、尋夢、でしたね」
「はい、尋夢です〜、名前を覚えていてくれてありがとうございますですです〜。何かあったんですか〜?」

 清子おばあちゃんに『きをつけ』をして尋ねます。すると隣に居た匠太郎おじさんが、

「子供には関係無い。部屋に戻っていろ」

 と、ぶっきらぼうに言ってくれました。
 お約束な返しをされて、カンちゃんは思わず驚いて「ええっ」と声を出してしまいました。半分以上、『お前達には無関係なこと』と言われる覚悟はしていたでしょうに。
 清子おばあちゃんの回答を待つ前に匠太郎おじさんが答えを埋めた、という風でしたが、溜息を吐いておばあちゃんは話を繋げてしまいます。

「緋馬様が、御学友を連れて来たのですよ」
「清子様!」
「しかも我々に挨拶も無しに! それに異教徒を土足で! 弛んでいると不出来な息子を叱っていたのです。隠して何になりますか、はっきり教えておかなければなりません。寛太達にもちゃんと理解し勉強してもらわなければならないでしょう!」

 カンちゃんを目の前にしているというのに、清子おばあちゃんと匠太郎おじさんは言い合いを始めてしまいました。
 思いっきりカンちゃんが困ってしまっています。超困りんぐです。
 御学友って……あちらにいらっしゃる方々だな、と屋敷の外を見てみます。その先、ずっと遠くには、ぼく達の見たことない男の子達の姿がありました。
 その中の、唯一見たことある姿が……和の風景に似合わぬオレンジ髪。ぼくの兄、緋馬おにいちゃんでした。同い年ぐらいの男の子達とお話しております。

「わ〜。おにいちゃんがお外のお友達を連れてくるなんて、滅多に無いねえ〜」

 ぼくはすっごくすっごく嬉しいことなので、素直にそう言っちゃいました。
 その言葉に清子おばあちゃんの目がピカリンと光りましたが、ぼくは気にしないでおにいちゃん達の楽しい風景を見ていました。

「あ〜、もうおやつの時間だねえ〜。ぼく、銀之助おじさんにおやつを貰ってくるよ〜」
「え……ちょ、尋夢様! このタイミングで行くなのですかっ?」
「カリカリするのはカルシウムと糖分が足りないんだよ〜。銀之助おじさんなら、どっちも同時に取れるフレッシュなおやつを用意してくれるよ〜」

 お昼ごはんを食べてずいぶん時間が経ちました。きっと清子おばあちゃんと匠太郎おじさんが怒っているのも、カンちゃんが困った顔をしているのも、お腹が空いたからです。
 甘いものを食べればみんな元気になる筈。そう思ってぼくは厨房に行くことに大決定したのでした。

「……まったく、尋夢おぼっちゃまに機嫌をとられるなんて大人げないことをしましたよ。……ごめんなさいねえ、尋夢おぼっちゃま。おやつを今すぐ持って来てあげましょう」
「ううん、ぼくが持ってきます〜。ぼくがおやつ食べたいから、本人が取って来るのは当然なの〜。でもありがとうなのですよ、だから、こんなコトでケンカなんかしないでください〜。みっともなくてありゃしないのですよ〜」

 ぼくが慰めてあげているというのに、カンちゃんはまだビクビクと震えていました。真冬じゃないけど寒いんでしょうかね?
 清子おばあちゃんにふかぶかーとお辞儀をして、とっとっと、厨房に向かいました。
 すると、厨房の方でも争いが起きていました。

「またかあ」

 ついつい、ぷう、とほっぺたを膨らませてしまいます。
 場所を変えただけで、同じような騒動をしています。さっきの清子おばあちゃんのように通りすがりが言い争いの材料にされることはないけれど、あまり近寄らない方が良いと思いました。
 だからこっそり隠れます。忍者のように会話に耳を傾けます。にんにん。
 ある女性が憤慨して声を上げていました。「何故わたくしなのですか、何故わたくしなのですか」と。言い争いの中心は、何度も同じ言葉を繰り返していました。

「……判りました、貴方でなくとも構いません」

 そんな怒った女性を見て、見捨てるような低い声で銀之助おじさんが言い捨てました。
 銀之助さんの声はとても聞き取りやすい声です。ご飯を作っているときは全然話さない無口な人なので、つまり今はご飯を作り終えたときということでしょう。

「では、他に行ってくれる者はおりますか? 客人に食事を届けるだけの仕事ですよ。だというのに貴方達はやりたくないと言うのですね」

 銀之助おじさんは命令ではなく、立候補者を促すように数人に語り掛けていました。
 でも銀之助おじさんの声に乗る人は誰一人として居らず、みんなが顔を伏せ、黙り込んでいました。
 苛立った声で、銀之助おじさんがいっぱいいるお手伝いさん達を睨みます。すっごく怒っている顔でした。
 いつもだったら「銀之助おじさんだけは怒らせちゃいけない!」ってみんなみんな言ってるのに、今日は銀之助おじさんに駆け寄る人は誰も居ませんでした。
 そんなところへ歩いてくる足音。また騒がしい人が、一人この場に介入してきました。狭山おじさんです。

「皆、持て成したくないと言っている。誰も歓迎していないのだ。ならば持て成さなければいいだろう」
「……狭山様、それで道理を通すつもりですか。したくなければしなくていいなんて、まるで子供の言い訳です」
「持て成す必要の無い者にやっても意味が無い。時間の無駄で糧の無駄、それに名利まで捨てろと言うか、銀之助」
「私は礼儀知らずな真似が許せないのです。常日頃から凛々しくあれ、優雅たれと言っておきながら、人を持て成すことも出来ないのですか。それで良いと思っている輩がこれほど居ただなんて、失望しています。それに則る貴方も」

 銀之助おじさんと狭山おじさんが声高く言い合っていました。
 先程聞いた女声や清子おばあちゃんのヒステリックな声、それに黙々と反論していた匠太郎おじさんに比べれば、まだ聞ける会話でした。さっきから二度も似たような話を聞いているから、何にそんなに喚いているのかもう隅から隅まで判ります。
 ――直系の子供である緋馬が、『外部から友人』を数人お寺に連れてきて。
 ――大事な大事なお寺を遊び場として連れてきて。
 ――その無礼な無能力者をどうするかと、本人不在の中、部外者が言い争っている。
 ――本人不在の中で。子供達にしてみれば、『ただ友達のお家に遊びに来ただけ』なのに問題になっている。

「係りが迎えておきながら今更追い出すだなんて無礼にも程があるでしょう。しかも相手は子供。本当に子供で、一族が何だという盾だって構えてない。何を子供如きに目くじらを立てているのですか」

 この場の問題は容易に予想できます。
 使用人長の銀之助おじさんが緋馬おにいちゃんのお友達の為にご飯を用意しました。彼らにご馳走をしよう、彼らを呼んで来いと命じられたにも関わらず、使用人の女性はそれを嫌がったのでしょう。
 ――理由は、『相手が家族でないから』。
 家族でないものを優しくする意味が判らないと考えて、あの女の人は嫌がったのでしょう。ならば違う者に行かせようとした銀之助おじさんでしたが、どの女中さん達も首を横に振ったのでしょう。そしてその女中を代弁するかのように、狭山おじさんが現れたのでしょう。
 会話というには申し訳ないほどの、叫びを武器にして。

「正直、奴らを敷地内に入れることすら、腹立たしい。それは俺だけではなかろう……少なくとも今此処にいる者達は、お前以外、同じことを考えているのではないか。嫌な匂いがする、忌むべき香りと……」
「彼らが部外者だから何だと言うのですか。外に出れば皆同じ。露骨に嫌悪感を出して開き直るなど最も恥ずべき行いではないですか」
「馬鹿か! 一緒にするな! 外の連中は、汚れた血を引く下賤の輩だろう! 一緒にするなっ!」

 狭山おじさんは二度も同じことを言っていました。頭に血が昇り出した証拠です。
 このお家は『自分に優しく他人に厳しい』性質があります。自分の仲間になってくれる人にはとことん甘く、尽くすけど、敵にはとことん冷たいのです。お互いを理解し合えば、双方を傷付けず暮らしていける筈なのに。
 けれど、もう何百年もこの国に染み付いた性質はどうにもなりません。
 いきすぎた考えで狭山おじさんは怒り狂い、考えに従わなくて銀之助おじさんも怒り狂って、ぶつかっていました。
 清子おばあちゃんがカリカリしていたのも、「あんな奴らなんてああしてしまえこうしてしまえ」と吐き出していたからでしょう。『一日ぐらい他人なんて無視すればいいのに』とは考えられないようです。
 みんながみんな、外の人間が嫌い。外に出る仕事も中に入れる事業もしているのに。それとこれとは勝手が違うと言う。不思議ですね。

「ぷう。これじゃおやつ貰えない〜」

 こうやって思想やら考えの違いで人間は争い合う。
 誰が何を考え、誰の為にと動いてやったことも裏目に出ることだってある。議題が別の方向にいく前に、ぼくは隠れていた縁の下から這い出て、違う場所を目指すことにしました。
 銀之助さんがギリッと怖い顔になりました。台所の魔王さんがあんな顔になるなんて、明日からのご飯の味が変わらないか、ちょっぴりぼくは心配です。
 もう少し時間が空いたらお邪魔しましょう。ぼくは時間を潰すために別の棟に向かおうとします。
 すると、ぼくの視界に橙色の頭が入りました。さっき外に居て見られていた『かの張本人』が、そこに突っ立っていました。

「緋馬おにいちゃん〜っ」

 そんな所で立っていたなら、厨房の中の会話を聞いたことでしょう。
 いや、聞いたからそこで突っ立っているんでしょう。緋馬おにいちゃんは黙って話を聞いていたようです。無表情はやや苦い顔に変貌しつつありました。

「緋馬おにいちゃん、いつまで突っ立ってるんですか〜?」
「…………」
「そんなところでおじさん達の話を聞いていても、気が滅入っておにいちゃんがズキズキキズつくだけですよ〜」
「…………」

 へんじはない、でもただのしかばねでもないようだ。何も言ってくれません。
 いつまで立っている気なのかなとぼくが思ったとき、緋馬おにいちゃんはくるりと違う方向を向き、歩いて行ってしまいました。
 おそらく、友人達が居る方向へ、厨房の方ではない悪意の無い方向へ行ったんでしょう。今、厨房に入ったら狭山おじさんにお説教されてしまいますからね。
 でも、あんな顔して行っちゃったら大変です。良い言葉は浮かぶのでしょうか? どうしたのとお友達に訊かれたら、正直に辛いと言えるのでしょうか? じゃないとただただ心配されるだけで楽しい一日が曖昧に終わっちゃうというのに。

「おにいちゃんはくうきを読んだ。しかしMPがたりない。……ちっとも読もうとしない大人が溢れているというのにぃ。おにいちゃんはエライのです〜」

 さて、時間潰しを決めたぼくもいつまでも突っ立っているだけではつまらないです。
 緋馬お兄ちゃんはお外のお友達といっしょ。火刃里お兄ちゃんは芽衣ちゃんとお仕事でいっしょ。うーん、あんなカンカン地蔵を見ていても面白くないから、別の場所に足を運びましょう。
 兄の元ではなく、おいしいおやつを食べられる方角へ。



 ――2005年11月3日

 【     /      / Third /      /     】




 /3

 抱き締められて悲鳴を上げてしまった。大袈裟に叫んだつもりもなく、口から淫猥な声が出てしまう。本当に余裕なんてなかった。
 自分が抱きしめたところが悪いんだとやっと気付いたのか、奴は手を離そうとする。……けど、その動きを、オレは制していた。
 ……もっと、抱き締めてほしい……って。
 快感の流入を塞ぎとめることなど出来ない。そんな理性も取っ払ってしまうほど、今は、ただただ気持ち良かった。内部を目一杯押し付けられたことに。中が満たされたことに。悶えて、悶えきって、痙攣して馬鹿みたいに喘いだ。
 そうして――ほんの一瞬、意識を手放してしまった。

「…………」

 ……やばい。一瞬だが、寝てしまった。即座に適当な計算式でも頭に浮かべて眠気を吹き飛ばす。あまりに快感が強すぎて気絶してしまったらしい。
 少し遊ぶつもりだけだったが、もしかしたらオレとこいつの身体の相性が良いのかもしれない。……いや、ただ単にオレが前座無しの感応力調整にトチっただけか。
 いつの間にかベッドの上での行為ではなく、ベッドの中に居た。シーツを被って素肌の感触を味わっている。暗闇の中でも至近距離だから判る。……アクセンは、苦痛そうな顔をしていた。

「あー? 起きてますか、アクセン様?」
「……起きているが、眠ってしまいそうだ」
「寝るなら離してくださいよ、オレが部屋に帰れないじゃないですか。……ああ、アクセン様、言っておきますけど。オレとさっき話していた『子供』は無関係ですからね」
「…………え?」
「途中で言いませんでした? その子供は『足が使い物にならなくなった』とか髪の毛が抜けたとか。そんなブッサイクなコトにオレはなってますか? それに十年前だって言いましたけど、オレ、十年前でも成人近いんで『子供』って年じゃないと思うんですよねー」

 またアクセンはベッドからバッと身を起こす。同時にシーツが剥がされていく。
 暗闇の中でベッド近くのランプを手探りで点けると、目を見開いて驚いちゃってる顔を見てしまった。

「ハハッ、『子供』も大変だよなぁ。見ず知らずの誰かにオカズにされて。こうやって今後も何十回も何百回も犯され続けていくんですねぇ。ま、全部オレの作り話で事実無根なんですけど」
「…………。ブリジット。冗談が過ぎるぞ」
「安心しました?」
「そんな子は、いないのか……。私は、お前が、お前達が……本当にそういう目に遭っていたんじゃないかと思ったぞ」
「おや、似たような話は世界各国ありますよ。今の話が嘘だったからって、嫌な奴はいくらでも居ますし。……レイプ魔なんて、『目の前』にも居る世の中ですからねぇ?」
「ブリジット。今後はそういう冗談を言わないでくれ」

 単純に焦って、動揺して、安心して。こんなにも簡単に騙されるこいつの方が悪い。
 そんな戸惑って半開きの唇に唇を重ねてやった。奴とはもう何度もキスをしているが……応えることはあっても、あちらからしてくることはなかった。

「この数分で、オレがどんな奴か……話すより先に判っていただけましたよねぇ?」

 つまらない相手だと思ったが、それでも多少なりとも人の体に巡る魔力を頂戴できた。『供給』なんて言葉も知らない相手だから、こちらが無理矢理に解放のスイッチを入れるしかなかったが、まあまあ成功している。
 お腹もいっぱいになったし、有意義な時間だった。また付き合っても良いと思わせるほどに。

「特に、ブリッドには言わないでおいてやりますよ」
「ブリジット」
「あっははははははは、じゃあまた今度」

 ――部屋の外の空気が気持ち良い。あの部屋の湿気が気になっていたところだったので、外が清浄に思えた。……インクと奴の匂いが染みついたから、余計にだ。
 別に不潔ではない。太さも硬さも申し分無かった。何より反応が楽しい。いちいち洩らす声や甘えるように息を吸うところが可愛らしかった。アンアン言っている声に何より、クるものがある。今日は上に乗っかってオレが腰を動かしてやったが、下から見上げるときの視線も……非常に好みだった。
 ああ、だからアイツも好きなのか。……オレが好きなものは大抵、弟も好きだから。
 気分は自然と晴れ。もう一息元気があったら、大声で歌を唄って歩いていたかもしれない。

 さて。本殿に赴くのは、久々だった。
 そもそもオレの活動場所は洋館ぐらいしか認められていないから、魂を捧げるためのような『本部』に呼ばれたときくらいしか行かない。
 今は別に『本部』に呼ばれたから来た訳ではない。それでも行けないということではないのだから、散歩ついでに来ることぐらいなら出来る。
 さっきイイもんを見てしまったから、気分が良くて散歩をしたかった。たとえ嘘でも、そういうことにしよう。

『兄さん。気分が良いなら、話をしてもいいかな』
「いきなりなんだよ、ブリュッケ」
『何故、嘘をつきましたか』
「嘘ぉ? ハハッ、どれが嘘かつきすぎてるから判らないねー。ハッキリ何がって言ってくれなきゃ答えられねーなー」
『言っていいんですか、ハッキリと』
「オレの機嫌を悪くしたくなかったら言わない方が良いんじゃねーの。それでも言いたきゃどーぞ」
『……嘘をつくこと自体は止めませんよ。でも、あの話を人にすることは、如何なものかと。……ブリッドが傷つきます。それに兄さん自体も自分で話しながら思い出してしまうでしょう、今も傷ついてるんじゃ?』
「あ、テンション低くなってきた。ブリュッケのせいだな。死ねよ」
『………………』

 ――目的の場所へ向かう。こうやって一人で(不可視の状態でブリュッケを連れているけど)ここへ来るのは、本当に久しぶりだった。
 思わず、歩き方を忘れてしまうぐらい久々。どこでブーツを脱ぐのか迷ってしまうほど、難解な構造と、迷路のような道の先、臭い場所へと足を赴く。
 すると……先の廊下に、目的の部屋の前で、次期本部の代表となる処刑人の男が座っていた。
 男衾だ。胡坐をかいて座っている。腰に普通の眼では見えない剣を携えていたから、見張りをしているという主張なんだ。繊細な一部の人々からここの現実を守るために鎮座していた。

「よう、お勤め御苦労さま」
「…………」

 声を掛けても男衾は何も語らず、目だけで「何をしに来た」と語る。相変わらず無愛想な見張りだ。どっかの世界じゃ言葉で本心をなんたら言っている男もいるというのに、一切言葉を使わず意思表現と交流をしてくる奴もいる。口が不自由でないクセにどういうことか。
 ――ああ、ただただ、オレみたいな下等な者と口なんかききたくないっていうことなんだろうけど。その割に部屋の中に入らないなんて、変な人だな。

「プッ、クク、『元々ここはオレがいるべき場所』なんです。入ったって構いませんよね? 男衾様も中に入ったらどうです? それともパーティーはお嫌いで?」

 率直に尋ねてみる。
 見張りを一応名のある人にやらせておくなんて、どういう趣向だ。門番なんてもの、何も判らない下っ端にやらせておけばいいのに。

「……入りたいなら入れ。一本松様の機嫌を損ねるなよ」

 低い声で、目も合わせてくることなく返された。自分から声を掛けるどころか、オレに声すら掛けられるのも不愉快か。これほど潔癖症なら、中に入れなくても仕方ない。
 『あんな奴』を触りたくもないだろうし。……オレも男衾のような単純なピストンしかしなさそうな奴、御免だ。

 いくつもの障子の先に向かう。二つ目、三つ目の障子を越えると、強い香が漂ってきた。そして最奥の和室で、精神をおかしくして体中を犯すための香りが充満していた。
 最近はちっともこのニオイを嗅いでなかったせいで、鼻は異物が入ってきたと勘違いしているのか痒い。オレもついつい鼻を摘みながら中に入ってしまう。
 陰鬱で暗い灯りの畳部屋では甘ったるい声が満たしていた。息を吸っては吐く、普通の人間がする当然の行為に官能的な色が混じっている。

 真っ最中だった。確認できたのは六人。それほど多くはなかった。
 オレの弟は、五人の男達に囲まれて人気者だった。

 切れ切れの息を吐きながらブリッドは普段通り、目隠しをされて足の低い机に縛られていた。
 右腕を右足首に、左腕を左足首に固定されて、足を開くように寝かせられている。性器にはいつもの機材が直接取り付けられ、興奮して射精するたびに精液を吸い取られ保管される。体液を一滴残さず管理するように、機材だけでなく研究員が常に性器を見張っている。
 格好は衣服を全部剥ぎ取られ、生まれたままの姿。首には暴走しがちな能力を封じるための魔道具の首輪が光っていた。首輪に鎖が繋がれていて、犬みたいに可愛がられている。
 そんな研究員達が見張っている隣で、次の男が挿入を始めていた。

「ん……ぁ……ん……」

 男は下半身に挿入しながら、ブリッドの胸の飾りを摘んだり、横っ腹を撫でたりして興奮を誘う。
 ブリッドは頭を振って快楽に呑まれていることを表している。くりくりと胸を弄られて甲高い声で鳴いていた。
 研究員におしゃべりを咎められた男は腰を掴むと、勢い良くブリッドに抜き差しを始めた。更に高い声を上げる。もう涸れ切っていた。男達は弄ぶ体のどこが感じるのかを知っているようだ。深く埋め込んだ自身をこね回して、一点を押し上げてはまた刺激する。
 オレが訪れる前にもう何巡も男達を相手にしていたらしい。何時間も声高らかに叫んでいたのが、消えそうになっている喘ぎで判った。

「いい声を出すな、お前は。そんなに感じるのか? ……撫でてやれ」

 六人から離れた場所、全てが見える位置にどっしりと座っている男……一本松が、そんなことを言った。
 上位者に命令された手は強烈な刺激を繰り出すものになっていく。ブリッドは普段抑えている声から比べ物にならないほど絶叫し、痙攣し始めた。あまりの快楽の波に全身をぶるぶると震わせ、暴れる。
 すかさず、周囲の男達が腕や足を取り押さえた。腰に一人、両手に二人、快楽を生み出す手助けをされて……小刻みな絶頂感に苛まれている。

「や、ああ、イ、ク……ぅ、やだ、ぁあああ……っ! たす……け……て、あ、ぁあああ……!」
「……どれだけはしたなくなれば気が済むのかな、お前は」

 光景を、表情の変わらぬ目で冷たく言い放つ一本松の声。
 それも聞こえず、弟は悦びでただただ吼えるしかなかった。喉を涸らしながら泣き始める。
 切ない声を出して、ブリッドの性器がびくんと揺れた。しかし、勢い良く体液が出てくることはなかった。首が力無く垂れる。一部始終を見守っていた研究員は落胆したような目と溜息を浮かべ、性器に取り付けられた機材を回収し始めた。

「一本松様。これで……?」
「ああ、航様が言っていた『欲しい試料』とやらは回収できただろ。後は好きに持って行け。任せたぞ」

 この部屋の主はブリッドではなく周囲の男達を激励し、数人の研究員を出て行かせる。日の届かない本殿の奥深く。それでもまだ儀式は続くようだった。
 さて、残った男達はブリッドの両手両足に付けられた拘束を解き始めた。それでも目隠しは取らず、首輪も外されない。机からの拘束だけを放ち、男の一人が首輪から伸びた鎖をぐいっと強く引っ張る。疲労で倒れていたブリッドを無理矢理起こした。

「ぁ……あ……」
「今まで気持ち良くしてあげていたんだ。今度は、お前が俺達を良くしてみろ」
「は……ん……」

 首輪が鈍くきらりと光る。能力を抑止する装置である首輪が稼働していることを表していた。
 男は自分の性器をブリッドの唇に押し当てる。目隠しされているブリッドは、「しゃぶれ」という意味だと把握すると、ゆっくりとした動きながら口に咥え始めた。
 何時間もケツだけ責められイかされていたから、動きはどんくさいもの。
 動きが気に入らない男は、しゃぶる頬をぺちぺちと叩いた。ブリッドは息苦しくしながらも、懸命に舌で口淫に応じる。

「なんだ、そこに突っ立ってるのは兄の方か? 同じ顔が増えてビックリしたぞ」

 見物していたオレの姿を見て、咄嗟に着物を正す男が居た。
 さっき一本松に命じられて『試料』を回収し研究所へ向かう一人。大抵の僧はオレのことなんて無視するのに、眼鏡を掛けた彼……悟司はオレとコンタクトを取ってくる。珍しい奴だった。
 この男も見張りをしていた男衾、ブリッドに命令する一本松と同じく、上位者の部類に入る血統だ。他の連中は、外の世界から仏田へ契約して入ってきた連中。立場が違うから、貶すなら上から堂々と貶す彼は、オレ達みたい奴隷を構おうとする余裕の意識があるらしい。

「お邪魔しています、悟司様。ちゃんと弟が『仕事』をしているか確認しに来ました。邪魔だというなら去ります」
「別に見ていてくれても構わん。これは元々『お前達の仕事』だ。今からブリジットも加わりたいというのなら言え。『供給』の餌が増えるのは歓迎されるぞ」
「ろくに『刻印』を起動できない半端者のオレとヤるより、魔力の塊であるあいつとヤった方が効率が良いでしょ。精液だってあっちの方が実験に向いてるから摂っていたんでしょ。……視姦プレイの手助けぐらいならしてあげられますよ」

 オレの軽口に悟司が「残念だ」と、本心ではどうでもいいと思っているのにさらりと言葉を流す。
 悟司に面と向かいながらもブリッドの様子を見た。……ちゃんと『仕事』をしている。最近不調だって言うから気になってはいたが、心配して損した。睡眠時間を削ってまで見に来なくても良かったかな。

「ブリッドの仕事量は大幅に減らされている。今はこうして『職務』を全うしてもらっているが……。ブリジット、どういうことだ?」
「どういうことだ、とオレを責められましても。……直系のお坊っちゃんが勝手に数を減らしてきたんです。仕事しかやることのない奴の仕事を減らしたんですよ、あのときわって坊ちゃまは。……坊主の教育は貴方がたの責任でしょう。監督不届きです、そちらが何とかしてください」
「……やはりときわのせいか。大山様は口を濁して何も教えてくれなかったのは、仮にもときわの方が立場が上だからかな。圧力がかかったか」
「まだお子様だというのに、身勝手過ぎやしませんか。もう少し厳しく教育された方がいいかと」
「厳しくはしているつもりなんだが。親父……いや、狭山様の一番近い場所で教育されたからな、多少の厳しさに慣れてしまったようだ」

 ときわ。現当主の甥っ子であり、次期当主・燈雅様から最も近い直系。
 第一位である燈雅様がご療養中、第二位の地位にいる新座様が家出中とあって、今一番権力を振りかざす若者といったら彼。今まではただの子供だと周囲も本人も甘く見ていたが、そろそろ『自分が偉いこと』に自覚が出てきたようだ。力の使い方が巧くなってきやがった。
 中央で今までの情勢を保たなければいけない存在だというのに、昔ながらの仕組みを変貌させようとしている。まるで穏健派代表で粛清された藤春様のようだ。……流石、藤春様の長男だけはある。たとえ教育が保守派の鬼・狭山様のもとでなされたとしても、生まれ備わったものは変わらないか。
 悟司は溜息をつくように、それでいて現状を楽しむように口角を上げた。なんだかんだで今の情勢は面白いと言うような笑みだ。分厚い眼鏡を上げ、陵辱を眺める。

「弟も暫くご無沙汰していたからな。仕事の量を減らされても餌としての役目は欠かさず果たしていたが」
「サボらず職務は全うしてたんですね」
「ああ、俺も前にあいつの相手をした。それに、慧や玉淀では到底『魔物』は満足しなくてな」
「…………」
「また『魔物の餌』としての職務も果たしてもらう。暫く地下から出られそうにないな。しかし……最近、随分と人間らしくなったような気がするんだが?」
「ええ、生意気なことに」
「おかげで、皆が……一本松様が張り切っている。まあ、あの人の鞭を浴びせる趣味は今に始まったことではないが。あいつの被虐体質は呪いか何かかもしれんな」

 興奮しきった次の陵辱者は、すぐさま弟の身体に襲いかかる。虚ろな息遣いになりながらも弟自身は、射精を求めて身悶え震えていた。
 違う男が喘ぎまくる口に性器を突っ込む。上も下も突っ込んでもらえるなんて、充実した仕事風景だった。
 眼鏡の男はオレに視線も向けずに、襖に手を掛ける。

「ブリジット。本当に加わらなくていいのか?」
「貴方様がたと一緒になって陵辱する側にですか? それともブリッドの仲間入りしろとおっしゃいますか」
「どちらでも。……一本松様はまだ奴を解放する気はないようだから、後者の方が弟の救いになるんじゃないか」
「この程度で? ハハハ。オレのときはこんな優しいモンじゃない、もっと辛かったんだぜ」



 ――2005年11月3日

 【     /      / Third /      /     】




 /4

 ワタシは世界に創造された存在ではない。何処に居ても世界に咎められることはない。人には咎める権利も無い。それは拠所にしているあの双子にも言えることだ。
 双子が何を想おうが、ワタシはあの二人の傍に居る。居たくなければ居なくなる、ただそれだけのこと。姿を消し、誰にも察知されない獣の不可視になって弟を見ていることにする日々。ワタシがあの二人の、どんなシーンに登場してようが、何の問題も無い。
 たとえ兄のブリジットが、干渉してくる悟司が、上位者の一本松が居なくなった空間だとしても。ワタシは自由に彼の傍に居る。
 何もしないで、彼の人生を眺めている。それしかしてないし、それしかできなかった。

 数人の男達に囲まれてブリッドはモテモテだ。その人数からして、当分愛されるのは終わりそうにない。ワタシは欠伸でもしながら、誰にも覚られることなくその光景を見ていた。
 ブリッドの日常は、大抵『こういう仕事』をしている。
 魔力を失った研究者達に『供給』を行なってやる、言わば魔術師達の餌役だ。性感を高め体液を交換し、魔力を回復してやる……もうこのような生活も十年以上続けていた。
 燈雅のように魔力を溜め込めない人間もいれば、それとは逆に、魔力を人の倍溜め込める人間もいる。それがこの兄弟だった。
 十年前に比べると、ブリッドは明るかった性格を消して文句も言わず『仕事』をこなすようになっている。最初は嫌がっていたようなことも、もう拒むようなものは無くなった。だってどんなに苦痛を強いても、どうせ後に治療魔術で傷を治してくれるんだ。拒もうが変わらない。
 不潔なことをされたとしても大事な素体であるブリッドは、清潔に元の姿に戻される。大事に大事に寺の中で保管される生活を送っていた。
 近年稀に見る魔力を備えていた彼は、一族に大変愛されている。訳あって一族に拾われ、餌として扱われて十年が経つというのに、未だ力は衰えていないのだから素晴らしい才能だった。

 彼の体液は、これも訳あって高い魔力を持っている。
 だから飢えた男達はいくらでもブリッドを求めてくるし、精液は研究材料に最適、しかも高く売れるという。
 たとえブリッドの体から体液が搾り取ることが出来なくなっても、流れる血は更に強い魔力を秘めていた。全身血液を抜き取られるその日まで、彼は一族に重宝される。そして、そんな血液が通った肉も大事にされるに違いない。
 つまりブリッドは『食べられないところがない餌』だ。皆に愛されて大事にされている彼は、おそらくこの世で一、二を争う幸福者だろう。
 全く馬鹿げた話だが。

 供給を求める魔術師達が群がり、男を犯していく。
 ブリッドは、それが自分の仕事だと自覚して、我慢して、男なのに犯されていく。どんな仕打ちを受けても使命だから仕方ないと、一人心で呟きながら、舌を性器に這わせていた。
 そのとき、喉の奥まで突かれて苦しくなったのか、激しく咳き込んだ。その激しさと言ったら、周囲の者がぎょっとなるぐらいだった。何度も何度も咳き込み、喉の奥まで注がれた黄金の液体を吐き出そうとする。小便を急に注がれて咽せてしまったのか、口から臭気が広がった。
 目に涙が浮かんだ。目隠しが水気を含み重くなり、はらりと落ちた。ブリッドの目は涙に濡れている。そして、

「ぎゃああぁあああああぁぁぁあああぁぁ!!!?」

 その目を直視してしまった男――先程までブリッドの口を犯し、小便を放った男――が、絶叫を上げ、のた打ち回った。
 全員がぎょっとする。もちろん、ブリッドも同じ反応だ。
 ……ああ、運の無い男だ。
 ブリッドと目が合って、しかも睨まれたか。
 ……敵意のある魔眼を喰らったら大抵の人間は、もう、助からないぞ。

 男達数人が絶叫する被害者を取り押さえる。暴れまわる男を救おうと呪文を唱え始めた。
 そして、違う数人の男達がブリッドを制した。力を封じろと頭を抑えつけられ、殴る蹴るを受け、ブリッドは見動きを取れなくなるが、彼は元から抵抗など一切していない。寧ろブリッドは自分が男を、無意識のうちに陥れてしまったことに驚き、目を見開いていた。
 ……馬鹿か。見開いた先にまた違う人が見てしまったらどうする気だろう。
 ブリッドは頭が弱いからそんなこと、言われなきゃ気付かない。

 状況を説明しよう。ブリッドの体液については説明したが、もう一つ彼が重宝される理由がある。
 それは、異端にしか生じないという畏怖の『魔眼』を所有していることだ。『見つめるだけで相手を石化する』、『目が合ってしまった対象を虜にする』という神話は数多い。その中の一つを、彼は持たされていた。
 左目の青色の中に赤い複雑な紋様が描かれている、一見すると紫色の瞳。それが魔眼だ。
 ブリッドと目が合った男は、まだ錯乱している。男は今頃、一体何と戦っているのか。助けのない広大な土地で巨大な魔物に追いかけ回される妄想か、既に魔物に囚われてバリバリ食される妄想か。どんなものでも、『この世の恐怖ばかりを集めた毒々しい妄想』に囚われて死んでしまうに違いない。
 ……いや、幸い此処に居るのは全員知識のある魔術師だ。命だけは助かるかもしれないな。

 ワタシは数年前、魔眼を面白がって研究したチームが全滅したことをふっと思い出した。
 同時に、危険すぎるそれを以後魔力の高いブリッドの体に封印したことも。あれほどの魔力の持ち主であるブリッドだとしても、辛うじて制御できる程度だというのに。
 暴走しても能力が発揮されないように、力を抑え込む首輪を付けられるようになったことも思い出す。だというのに安全策の筈の首輪の効果も掻き消してしまうほど、ブリッドの魔は凄まじいものになっていたらしい。
 ……そりゃそうだ。男達が『供給』しているんだから。自然とブリッド自身の性感も高まり、驚異的な魔力になるものさ。
 元が魔力の塊だというのに、そこにまた魔力を注ぎ込んで大きくしているんだ。並大抵の法具でも制御できないぐらいの力を持つようになってしまった。

 そうして、狂乱の男は一命をとりとめ、ブリッドは被害者が出た後は暫く魔術で拘束され散々なことになった。儀式が終わると、縛られた状態で洗浄が始まる。
 大事な素体である彼は、汚した男達の手によって、体の隅々まで綺麗な状態にされた。殴られて傷が出来ていたなら治療魔術で癒され、体内に精液が残っていたなら棒で掻き出される。棒で中を掻き回されまた感じてしまうこともあったが、全くお構いなしだ。
 どんなに殴られても、どんなに中に出されても、優しく愛を持って綺麗にしてやっているのだからいいらしい。
 彼の日常は、多くの者達の愛によって支えられていた。
 全てが終わってから自由を奪う縄や、能力を閉じ込める首輪が取られる。部屋に誰も居なくなったところで、ブリッドが自分で目隠しを取る。それが彼の最後の仕事だった。

「…………」

 体は水洗いをしてもらった後で、すっかり清潔なもの。髪の毛がぐっしょり濡れているが、そんなもの時間が経てば乾くし誰も気にしない。性感を高めるために塗り付けられた軟膏が整髪料のようなキツイ匂いを発していたが、それも知る人ぞ知る匂いだ。誰も気にしない。
 呼吸を整え直した彼はゆるりと立ち上がり、全ての儀式が終わったブリッドは寝床に戻って行くのだった。
 下を向いて、長めの前髪で目を隠しながら、誰にも目を合わせないでそこから去って行く。運悪く誰かに会った場合、「この淫売が」や「化け物め」の言葉を吐かれてもそそくさと去るしかなかった。
 ――餌を食べなきゃ生きていけないくせに、何を罵っているんだか。
 誰に会っても罵られるしかないのなら、ずっと儀式の為に飼っているのなら、いっそ地下室に閉じ込めておけばいいのにと思う。
 だが一族の『本部』は、ブリッドが『供給』の餌としての仕事以外に退魔の仕事も良くこなすことから、外に出す判断をしていた。儀式のときだけ呼び出し、時折外に出すという放し飼いのようなことをしている。
 きっと肉が食われる最後の日まで、彼はそんな飼い方をされるんだ。

『今日は休むといいよ、ブリッド。明日も早いんだろう?』
「…………」
『出来ることといったら寝るぐらいしかないしね』

 『仕事』が無いとき、割り当てられた洋館の部屋で時間を潰している。
 殆どベッドの上から動くことはない。彼の部屋の窓はカーテンを閉め切っており、いつでも眠れるように電気は点けられることがない。寝る為だけの部屋に篭って、誰かの餌になれと呼ばれたときだけ扉を開ける。
 それが彼の過ごし方だった。
 ここ最近までの。



 ――2005年11月3日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /5

「知ってる? バームクーヘンって『木のケーキ』って意味なんだよ〜」
「[ああ。確かにそうだな]」
「ちなみに、草加せんべいって『草のケーキ』って意味なんだよ〜」
「[ソウカ……どんな字だ? ん、ああ、なるほど、確かに使われている漢字は『草』だな。『加える』の字が入っているから、そういう味なのか?]」
「えへへ、アクセンさんまた騙されてる〜!」
「……ん。[君はまた嘘をついたのか。これで五度目だぞ]」
「そういやね、十万国饅頭って『ローマは一日にして成らず』っていうことわざから生まれたって知ってた〜?」
「[十万の国の歴史は深そうだな。しかし、ことわざと言ったか? その言葉は日本の言葉ではないと思うんだが]」
「細かいことは気にしちゃ負けだよ〜」
「[しまった、負けてしまった]」
「負けだ負け〜。罰ゲームしなきゃ〜!」
「ん。[手厳しいな、尋夢殿は]」
「罰ゲームとして、お茶のおかわりを命じる〜」
「……ん? [まだ君は紅茶を飲みきっていないではないか]」
「えへへへ、これで七度目の騙されっぷりなんだよアクセンさん〜!」
「んん? [紅茶を騙されたのは判るが、六度目は一体いつ……?]」

 洋館の食堂にて。大きな平皿の上には特大のバームクーヘン。両手にフォークとナイフを持って上下させている実に子供らしい動きの少年と、その一言一言に眉間の皺を寄せながら[日本語]で答える赤毛の男。
 茶会の主役であるときわが居ない食堂は、滅多に居ない客を招いて行なわれていた。
 両手のフォークとナイフを掲げて「いただきます〜!」と号令を発する少年・尋夢は、美味しそうに大口のバームクーヘンを頬張っていく。その隣には堂々と椅子に腰掛けて紅茶を啜るアクセン。……部屋に戻っているものだと思ったが、まだ食堂に居たのか。

「あ〜、おっきなワンちゃんだよ〜」
「[君は八度目の嘘をつく気か]」
「嘘じゃないもん〜。ほらほら、入口にワンちゃんがいるよ〜」
「……ブリュッケか? ん……ブリッド、いるのか!」

 洋館の一階。食堂の前を通ろうとしたとき、トラップにハマってしまった。
 大声で名前を呼ばれ、ブリッドは制止する。叫んだ相手は椅子から立ち上がり、すぐさま捲し立てるように「食堂に入れ」と誘ってきた。

「ブリッド。おかえり」
「…………」
「疲れた顔をしているな。仕事が終わったのだろう?  こんな時間までお疲れ様。良かったら一杯だけでも茶を飲んで行かないか」
「…………」
「この子におやつが欲しいとせがまれてしまってな。ときわ殿のバームクーヘンを頂戴していたところだ。ちなみに彼は尋夢殿という。職業はエスパー。ニュータイプらしいぞ」
「オールドタイプのアクセンさんには判らないらしいけど、ブリッドさんは判るかなぁ〜?」
「[次代を担う新人類のことをニュータイプというらしい。どの時代の若者にも使える良い言葉だな]」
「わ〜い、バームクーヘンおいしい〜」

 過労もあってか頭がぼーっとしているブリッドには、二人の早口は聞き取れるものではないらしい。呆然と突っ立ったまま、中に入ることができずにいる。
 目の色が困惑に彩られていた。どうしたらいいか判らないような表情をして、ワタシの様子を伺っていた。

「どうした、座らないのか?」

 そんなブリッドにアクセンはすかさず声が掛けた。ワタシが口を挟むまでもなく。
 既に食堂内には甘い匂いが立ちこめている。尋夢のために淹れたらしい紅茶が飲み頃。直ぐに飲み食いできるようにセッティングまでされていた。

「仕事が終わったばかりで疲れているようだからな、ミルクはいつもより多い方がいいだろう? そうだ。苺大福がある。ときわ殿が今度食べようと言っていた和菓子だが、そっちがいいか?」
「あ〜、アクセンさん〜、苺大福はカンちゃんの大好物なの〜。だから持って行きたいなぁ〜!」
「[そうか、持って行ってやるといい。ときわ殿には言っておくから安心しろ。]後で同じ物をブリッドに買ってくれるように頼んでおかないとだな。ブリッド、だから許してくれ」
「やった〜! ぼくおいしく食べるよ〜!」
「…………。その、オレ……」
「ん? ブリッド。苺大福は苦手か?」
「いえ、そうでなく……」
「粒あんとこしあんのこだわりがあるのか。ときわ殿はこしあん派だと言っていたが作り手が良ければどっちでも良いらしい。だがアンパンだけはこしあんに限ると言っていたな。きっと美味いアンパンに出会えばときわ殿も……」
「……オレ、部屋に……戻りますので……」
「んん?」

 いつも通り怒涛の勢いで話しているのを止めて、ブリッドは一体いつの話なんだか判らんことをほざいた。
 下を向きながら、申し訳なさそうに。少しずつ口を開いていく。

「アクセン様は……尋夢様と、お茶を楽しんでいたんでしょう。……オレなんか、邪魔じゃ……」
「お前も一緒に楽しめばいい。ブリッドは仕事先で食べてきたのか? あと『オレなんか』と言うな」
「……いえ、食べてませんが。そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて? 尋夢殿がブリュッケを見つけてくれた。私はお前の姿が見えた。だからお前を茶会に誘った。おかしいことか?」

 言い返されて、ブリッドは口を噤む。どうやら言い返す気力を無くしたようだった。
 赤毛の男は首を傾げる。気を取り直してワタシの巨体を見た。

「ブリュッケもバームクーヘンを食べるか?」

 そんなことを動物相手にも言ってくる。
 ワタシは首を振った。狼に食わせるにはお洒落過ぎる物だったからだ。

「ではブリュッケの分としてミルクを出そう。平皿しかないが頑張って飲んでくれ。器用なブリュッケなら平皿でも平気だな」
『犬科の口を見てそんな繊細な芸をしろというのか、この野郎』

 ワタシは舌打ちしながらブリッドの様子を伺う。常に暗い顔が、より暗くなっていた。
 ……相手をしたくなければ、素直に断って部屋に戻ればいいのに。ワタシが考えているうちに、ブリッドは食堂の椅子に座っていた。

「うんうん。これはな、安眠効果が期待できる茶だぞ。今のお前にピッタリなものだろう?」

 気遣うような台詞を随所に入れて、淹れたての紅茶を出してくる。
 砂糖もミルクも注がれた状態の紅茶だ。後は本人が飲み干すだけという用意されっぷりに、ブリッドはまだ戸惑っていた。
 ワタシはとりあえず、ミルクを注がれた平皿の前に鎮座するしかない。尋夢がバームクーヘンを切り分ける。アクセンがブリッドの席の前に皿を置く。そうして席に着くアクセンは……尋夢の隣ではなく、ブリッドの横に座っていた。

「どうした。何故食べない? チョコレートのかかったバームクーヘンが嫌いか?」
「…………いえ」
「ブリッドはチョコが好きだろう。なのに何故食べてくれない。今、お前が来てくれて良かったよ。尋夢殿に全部食べられてしまうところだったしな」
「ぼくのバームクーヘンが食べられないっていうのか〜! うらぁ〜!」
「[尋夢殿ではない。ときわ殿のだ]」
「あぁ〜、アクセンさんに指摘されちゃった〜。しょうがないので大人しく三分の二を食べるんだよ〜、もぐもぐ〜」
「あの……」
「なんだ」
「オレ、チョコが好きだ……なんて……言いましたか……」
「ん? 好きだろう?」
「………………」
「いつもときわ殿が『好きなものを取れ』って言ったらチョコ味を選ぶじゃないか。クッキーのときも、マフィンのときも、ケーキのときもそうだっただろ」
「…………そう、でしたか……」
「私はいつもブリッドのことを見ている。お前の趣味ぐらい把握しているつもりだぞ」

 その言葉を聞いて、ブリッドはより下を向いた。
 ああ、恥ずかしがっている。必死に顔が赤くなっているのを隠しているようだ。

 ……ワタシが隣で悠々と茶を飲んでいる彼に心惹かれているのを知って、もう随分と月日が経った。
 愛しの彼に好意的な言葉を掛けられて、ブリッドは静かに喜んでいる筈だ。先程も廊下で声を掛けられて無碍にしなかったのは、「彼に呼ばれて嫌な思いはしないから」という心の表れだということも、ワタシは知っている。たとえ疲れていても、ベッドに戻らず食堂に入ったのもその気持ちが大きくあるからだ。
 必死に顔を隠しながら、淹れてくれた紅茶をやっと手に取った。
 既に尋夢が平らげ、アクセンが自分のカップに二杯目を注ぎ出した頃に、やっと。
 淹れたてに手を付けなかった理由を「ブリッドは猫舌か」と楽観的に解釈したアクセンは笑っている。本当に嬉しそうに笑っている、その瞬間を見てしまった。

「ところで〜、アクセンさんはきょうだい仲はお平気ですか〜?」
「[それは、兄妹仲は巧くいっているかという質問かな]」
「ざっつらい〜」
「[良い。活発な妹がいる。私が口出ししても彼女はすぐいらない心配を掛けるなと言ってな……しかも彼女の方が口が達者で、すぐ言い負かされてしまう]」
「妹いるんだ〜。かわいい〜?」
「[目に入れても痛くないほど可愛いぞ]」
「萌える〜?」
「[質問の意図が判らない]」
「もえもえ〜ってカンジ?」
「[擬音語で答えろということか? それならば、そうだな、めらめらという感じだ]」
「自分の妹にめらめらって擬音語付ける人、初めて見た〜」

 こぽこぽと、あっという間に紅茶を飲んでいく尋夢のカップにアクセンが二杯目を注いでいく。
 注いだ次の瞬間に元気な少年はごくごくと口を付けていった。

「きっと情熱的な妹さんなんですね〜。いいないいな情熱的〜。いっつもぼくのおにいちゃん達は冷静と情熱の間です〜」
「[ほう。君は兄が何人かいるのだな]」
「緋馬おにいちゃんと火刃里おにいちゃんと緋馬おにいちゃんだよ〜!」
「……[三人いるのか]」
「二人だよ〜」
「…………。[そうだと思った。もう騙されんぞ]」

 二人の明るい会話を聞きながら、ブリッドは「食べろ」と言われたケーキを少しずつ口に入れていく。
 ゆっくりと、少しずつ。飲み込むスピードは遅い。用意してくれたチョコレートのケーキが形からして甘すぎるから……というのではなく、じっくりと口の中で味わっているように見えた。
 確かにこの洋菓子はブリッド好みの物だ。でも口にしても特に何も感想を言わず、ただただ口に運んでいくだけに留める。黙々と食べながら、話に耳を傾けていた。

「特に緋馬おにいちゃんがクールで〜、もうちょっと情緒豊かになってほしいんです〜。言いたいことがあるなら言って〜、辛いことがあったら辛いって愚痴っちゃって〜、嬉しいことがあったら嬉しいって声を出す気持ちが大事だと思うのです〜」
「……[その意見は賛成しかないが。何故そのような話をする?]」
「これはぼくの相談タイムなのですよ〜! 今日は緋馬おにいちゃんがお寺にやって来ていたのです、じゃ〜ん〜! お友達を連れてきているのです、じゃ〜ん〜! でもやっぱり今日もしょんぼり顔、しょぼん〜」
「[ああ、君は兄のことが心配なのか]」
「なのなの〜。あのままお友達のところに戻ったら〜、せっかくの楽しいお家訪問が気落ちしたおにいちゃんの顔一色になっちゃう〜。ワケを話しちゃえばきっと判ってくれるのに、おそらく何も喋らなかったおにいちゃんは……あああ〜、損な性格だね〜」
「……ふむ」
「情熱的の方がいいし、言いたいことを言う人間の方が好かれる〜。だよね〜。ワンちゃんはどう思う〜?」

 いきなり「ごちそうさま〜!」と声を上げた尋夢は、ぴょんと椅子から飛び降りるとワタシの元へ駆け寄ってきた。
 飛びついてくる勢いだ。思わず身を引いてしまう。経験からしてこういった子供は散々な撫で方をするんだ。人間的に不快度を例えるなら、耳元に蚊が飛んで離れない音を触覚で表わしたような不愉快さだ。そんな子供にタッチされたくない!
 思わず身を低くしてグルグルと唸り声を上げる。大抵の子供はそれで泣き出すのだが、恐怖という恐怖が設定されていないらしいこのチビは無遠慮にワタシの上に乗っかってきた。腹が立つ!

「[兄にクールではなく情熱的に生きてほしいのか。言いたいことがあるならその場で言い、辛いことがあったら辛いと言い、嬉しいことがあれば嬉しいと言う、そうしてほしいと]」
「そうですそうです〜」
「[ではどうして尋夢殿は、そのことを兄に言わないかね。間違いであれば訂正するものだ]」

 ワタシの上に乗っかり長く白い体毛で三つ編みをし始める少年に対し、紅茶を喉に流し込むアクセンはそんなことを問う。

「アクセンさんは言われてすぐに実行に移せる人ですか? 移せない人が多いから、もっと違う形でアプローチしなきゃいけないって思ったのですよ〜。ぷんぷん〜」

 目に見えて、身体全体を使って尋夢は『怒り』を表現する。「そんな単純な話で済まない」と言うかのように。
 だが、ぷんすか怒る素振りから一転。相手に好意的に頼みこむよう、ぱあっと尋夢は表情を変える。凄まじい衣替えだった。何があったと思ったが、「ワンちゃんのここ、モコモコできもちいいよ〜!」とワタシのベストプレイスが発見されてしまった。
 ……そこは、脇の下だった。
 …………さすがに、ワタシですら殺意が生じる。
 思わずブンブンと体を震わせ、小さな体をゴロンと落とす。見るからに無傷なので心配なんてしてやらない。
 二メートル近い体格のワタシから転げ落ちたが、その程度で子供がへこたれるもんか。現ににっこりと笑い返すほど、彼は元気だった。
 心配するアクセンの視線をよそに、尋夢は「そろそろぼく帰るね〜、おにいちゃんにバイバイの挨拶してくる〜!」と挨拶もおざなりに食堂を駆け出していった。
 ふわふわした話し方だが、まるで嵐のような子供だ。アクセンは微かに伸ばした手をどうしたらいいか判らぬまま宙に浮かせている。そうして手をティーカップへではなく……口元に手を運んでいた。

「尋夢殿の話は、ときわ殿がしない話が多いな」
「…………」
「……。ブリッド。今日の仕事はきつかったのか?」

 ブリッドが普段何をしているのか知らない彼は、嵐が去った後の話題として何気なくそれを取り上げた。
 『仕事』の話を問われ、動きが止まる。元から何もしなかったブリッドだったが、顔を俯かせて返事すらしない。……自分の『仕事』のことなど聞いてもらいたくない。それを全面から訴えていた。

「その様子だと辛かったみたいだな」
「…………」
「そうか。よく知らんが確か体力仕事をしていると言っていたな? ならちゃんと食事はしておかないといけないぞ。糖分もきちんと摂っておくべきだ。もう食べないのか?」
「…………」
「あまり食欲が無かったのか?」
「…………その。尋夢様もお帰りになられましたから……アクセン様も、元へ……お部屋に戻られた方が……」

 下を向きながらボソリと呟く。だからブリッドにはアクセンの顔は見えていない。
 きっと彼が眉間に皺を寄せたことにも気付いていない。

「ブリッド。私の質問に答えていない。食欲が無いのか、夜だから食べたくないのか?」
「……早くオレが去れば、アクセン様が部屋に戻ることができ……」
「だからお前は食欲が無いのかと訊いている。何を言っているんだ、お前は」

 声を荒げる彼に、びくりと肩を揺らした。
 おそるおそる顔色を伺う。だがすぐに目を逸らす。ロクに顔を確認しないまま、『アクセンを怒らせてしまった』と思って、また顔を背けた。

「あ……あの、オレ……そんなつもりで言ったんじゃ……」
「そんなつもりとは何だ。私は、お前に食欲が無いのかと尋ねているだけだぞ。質問に答えてくれないのか?」
「そのっ……ごめ…………んなさい……」

 声こそ荒げたものの、言葉通り怒りなど示していない。少し声色が厳しくなっただけで、ちょっとだけ力強く主張しただけだ。
 本人の言う通り、ちっとも怒ってなどいなかった。だというのにブリッドは、慌て始め、何も言えなくなっている。
 質問を一向に返してくれないブリッドにアクセンは……「ふぅ」と一つ溜息をつくと、すぐ傍に手を伸ばし、ブリッドの頭を撫でようとする。
 咄嗟にブリッドはその手を払いのけた。パシッという音が食堂に響いた。

「難しいな。尋夢殿の言っていた……言いたいことを言うという行為は。思ったことを口にしただけだというのに、お前に拒まれている」

 俯いて、「ごめんなさい」、同じ言葉しか繰り返さなくなるブリッド。
 そんな彼に……さっきの尋夢の言葉を彷彿とさせる一言を呟く。

「私は辛いぞ。お前に拒まれて」

 尋夢の発言通りの言葉は、虚しく部屋を満たすだけ。

「……それも、駄目なのか。……ん、違うんだ。私はお前を困らせたい訳じゃない」

 見るに堪えなくなり……ブリッドの傍に、犬のように擦り寄った。このまま甘撫で声で鳴いて、部屋に連れて行こう。甲斐甲斐しいペットを装うことで、この場から脱出させよう。そう思った。
 だがワタシより先にアクセンはブリッドの肩を掴む。面と向かって話をしたいと言うかのように。

「ブリッド。落ち着いてくれ。私は……お前に居なくなってほしくない。ブリッドに話したいことが……あったんだ」
「……そん、なの……」
「嘘じゃない。……今日、お前がここに来てくれて良かった。尋夢殿に呼び出されなかったらお前に会えなかったな。彼には後で礼を言わねば。だって私は、お前と……二人きりで時間を過ごしたかったんだ」

 ……周囲の者達は、ブリッドの煮え切らない態度を嫌悪する。
 判らんことはない。話を歪曲し、マイナスに持っていこうとする癖があるから。ワタシだって面倒に思うことがある。そんな面倒な話し手と真剣に付き合ったら、気が滅入って堪ったもんじゃない。
 ブリッドの日常を知っているワタシですら諦めてしまうことが多いのだから、単なる他人なら嫌悪し、遠ざかるのも無理は無い。だというのに。
 来てくれて良かった、とか。二人きりで時間を過ごしたかったんだ、とか。心の弱い人間からすると縋りつきたくなるような台詞をポンポン放つアクセンは、恐ろしい存在だった。

「だから……まだ、帰らないでくれ。……おかわりはいるか? これはな、安眠効果が期待できる茶だぞ。今のお前にピッタリなものだろう?」
「…………安眠、効果……あるんですよね、コレ。なら……飲みます……」
「疲れているなら休むのが一番だ。飲みたければいつでも言ってくれ。私がいつでも付き合うから」
「…………」
「ブリッド。お前に渡したい物がある。今すぐ部屋に行って取ってくる。待っていてくれないか?」

 肩を掴んだまま離さなかったアクセンが、席から立ち上がる。ブリッドはゆっくりと彼の姿を見て、か細く「……はい……」と返事をする。
 走るなどという下品なこともなく、「なるべくすぐ戻る」と告げ、食堂を出て行った。
 通り過ぎて行く横顔を見て、相変わらず不思議な男だ、と思わずにいられない。露骨な言葉を吐いてきた一族の者達にも、アクセンは何一つ毒を吐かなかった。なんでも正としか受け取らない男は、今度は何の爆弾を落とすつもりなのか。
 予想できない未来を想うことは、実に楽しいもの。
 そんなわくわくしているのはワタシ一人で、ブリッドはテーブルの上に崩れた。俯きながら、消え去りそうな声を出す。

「……ブリュッケ……」
『なにかな』
「…………オレ、……嫌われ、た……? 怒らせるつもりなんて、無い……のに……」

 相手が怒っているか悲しんでいるのか、そんなの目を見れば多少判る。だがブリッドには相手の顔色を伺う行為は非常に難しい。
 前を向いて話さなくなったのは、十年以上前からのこと。……魔眼を持つ者故に、人の目を見て話せば、相手を壊してしまうから。
 見つめ合った人間は紫の眼の魅力に囚われる。恐怖に襲われ、狂人と化す。そんなことも多々あってか、常に下を向いて話をする。結果、相手の顔色を見ることが出来なくない男になっていた。
 コントロールができるようになった今も、あのようなことが度々起これば率先して前など向けないもんだ。それは仕方ないとはいえ。
 尋夢の言っていた、「言いたいことを言えばいい」「辛いなら辛いと愚痴れ」「嬉しいなら嬉しいと声を出せ」が全人類がやってくれたなら……ブリッドのような盲目の人間にはありがたい世界になる。
 そんな都合の良い仕組みになってもらえないけど。
 蹲り、頭を抱えて、口にしないだけで問答を繰り返している。飛躍した話の展開はブリッドの癖だった。「嫌われたくない」。それが彼の口癖だ。誰に対してもこの口癖を言うが、アクセンには特に抱いてることだろう。……好かれようしてないくせに、嫌われたくないと言うなんて、馬鹿げてる。
 ワタシがいくら呟いても、ブリッドは項垂れたままちっとも動かなかった。
 そこまで悩むことなのか。ワタシは不安になってジャケットを咥え、引っ張ってみた。

『……。ああ、これは…………』

 なんてことはない。
 ブリッドが動かなかったのは、ただ単に、突っ伏して居眠りを始めたからだった。



 ――2005年11月3日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /6

「……眠ってしまったのか」

 自室から帰って来たアクセンは、手に袋を持っていた。
 ブリッドに『何か』を渡したかったから物を持ってきたというのに、当の本人は机に体重を預けて寝息を立ててしまっている。

「今日の仕事はきつかったと言っていたからな。そこまで疲れていたのか。…………悪いことをした」

 呼びとめるべきではなかったと言いたそうな言い回しだ。だが、幸いそこまでは口走らない。
 ブリッドの前では言ってほしくなかった台詞だったので、それから先を進めなかったことに感謝する。アクセンはカップやソーサーを片付け終えた後、ワタシ目線まで背を縮めて尋ねてきた。

「ブリュッケ。部屋の鍵はどこにあるか知っているか?」

 動物相手にどんな返事を期待してるんだと白い目で見そうになる。が、彼の「このままブリッドを寝かせてあげたい」という言葉に頷くことにする。
 無視するのも難だ。ワタシはブリッドの右側に回って、ワンと小声で鳴く。「右側のジャケットに鍵がある」と動物的に伝えると、察した彼がこっそりと着ているジャケットを探った。鍵があることを確認して、アクセンはブリッドを抱き上げた。
 抱き上げられたら流石に起きるんじゃないかと思ったが、ブリッドの眠りは案外深く、唸ることもなく抱きかかえられてしまう。
 ひんやりとした廊下を進み、鍵を器用に使ってノブを回す。ワタシは先に部屋に入って扉を開けたままにしてやった。一度入ってしまえばオートロック式の部屋だ、安心して中に入って行ける。

「お前は賢い良い子だな」

 褒められても嬉しくないが、悪い気はしない。
 部屋は夜だから当然暗かった。この自室は昼間でも暗い部屋だが、アクセンは闇など気にせずそのままベッドにブリッドの体を下ろした。下ろした後も、アクセンの顔は、やっぱり強張っていた。
 良い仕事をしたワタシの頭を撫でる。長い毛を撫でくり回した後、もう一度ベッドに近付き、今度はジャケットを脱がす作業を始めた。ベッドの上で固い生地の上着を着ている必要が無いと思ってのことだ。少し唸ることはあったが、早々と上着を脱がされていく。
 上着をわきに置いて、一息をつくアクセン。そして暫し、彼は色の白い頬に触れていた。
 呼吸をしているか確認したいらしく、首元を触り始める。
 流石に敏感なところに触れられたせいか、ブリッドの首筋がピクリと動いた。

「私はな、お前のことが心配なんだよ。さっきだって苦しんで……あんな、どうでもいいことに」

 ワタシしか聞いていない部屋で、独り言。
 ワタシは興味が無いふりをした。部屋の隅っこで丸くなって目を閉じる。
 目を閉じて数分、いつまで経ってもアクセンが出て行かないことを不審に思ってうっすらと瞼を開けると、彼はまだブリッドの頬や首元を触っていた。
 ベッドに全てを任せたブリッドは、死んだように眠っている。ワタシからするといつもの通りだ。でも彼には心配で堪らないらしい。
 何度もブリッドの頬に触れて、ピクリ動くことに安心感を得て、その安心感をより得たいがために撫で続けている。時折指をブリッドの唇に触れさせていた。なんだか柔らかさを楽しんでいるように見える。

 ……アクセンは、微笑んでいた。
 幸せそうな笑顔を浮かべているように見える。
 けど顔半分は、切ないものにも見えた。何度も何度も頬を撫でて、首筋を触って、唇に触れて……生きていることを確認しているが、まだ何が満足出来ないのだろう。
 眠るブリッドが、アクセンの指を掴む。寝ぼけたままブリッドはその指を唇に寄せた。
 アクセンはぐっと声を堪える。一連の行為が愛おしく思えたのか、アクセンはブリッドに顔を寄せた。
 吐息を感じたいのか。いや、ハッキリ言おう。口付けをしたいらしい。彼は、ベッドに眠る彼と唇を重ねた。
 ……どうしてそれを、彼が起きてるときにしてやらないんだ。
 そんなことされたらブリッドが壊れてしまうとワタシもアクセンも知っている。でも、知らないところで愛されて、知らずに落ち込んでいるよりは……いいだろう?
 人間的葛藤にワタシは襲われてしまい、突発的に吠えたくなった。干渉する気の無かったワタシが、特別に。

『ブリッド、起きろ』

 どんくさいブリッドが寝坊したときと同じ要領で、ワタシは彼の脳内に直接声を与えた。
 目が見開かれる。
 口付けをし終え、間近に居ると目が会う。
 アクセンの顔がカアッと赤くなった。やってはいけないことを見られたと、顔を髪の毛と同じぐらい赤くする。予想した通りだ。
 一方、ブリッドは顔をサアッと真っ青にし、被さっていたアクセンを払い除けた。そのときの力は物凄いものだったらしい。ベッドから尻もちをつくぐらい叩きのめされた。

「あっ。す、すまんブリッド! これは……!」
「ッ、ごめんなさい!」

 アクセンは咄嗟に立ち上がり、頭を下げ謝罪する。だがブリッドの様子にちゃんとした謝罪の言葉は掻き消された。ブリッドは顔を青くし、ベッドの端へ逃げ出した。
 大声で、何度も同じ言葉を繰り返す。最初はアクセンも同じように謝った。
 だがそれが、十回も二十回も繰り返すうちに、アクセンの顔に違うものが灯り始める。

「いや、あのな、ブリッド。私が、勝手にしたのが悪いんだ……お前は悪くない。だから」
「ご、ごめんなさ……さ、触れないでください、汚れます……!」
「汚れるなんてそんな」
「ぅ、腕……洗ってください……運んだら……体も……オレの、匂い、付くから……洗い落してくださ……!」
「すまん、そんなに嫌がられるとは思わなかった。断じて疾しいことをするため勝手に部屋まで運んだ訳じゃない」
「運んだ? …………オレをっ?」

 どうやって。
 そんなの、ベッドの上に連れて来られている状況を見れば……少し考えれば判るのに。抱き上げて部屋に連れて来る以外にどうやって一人で運べっていうんだ。
 ベッドの端まで逃げて、部屋の隅まで体を縮めて。その姿を異常だと思われても、もう何もフォローは出来ない。
 ……多分、さっきの男にされたことじゃなくて、寝惚けて『魔物』とのあれを混合しているな。

「……貴方を、汚す……あ……ぁ……」
「落ち付けっ。お前のどこが汚いんだ。さっき仕事を終えてシャワーを浴びたばかりだと言ったぞ?」
「けど、オレに……触れた、ら……だ……」
「シャワーを浴びた後に何が汚いっていうんだ。それとも何だ。『私が汚い』と言いたいのか?」
「ちがっ! ……違う! ……オレ、オレです。貴方は全然汚くない。ごめんなさい、なのに、触っ…………」
「ブリッド」

 またアクセンが声を荒げる。
 ビクリと肩が揺れ、一時的に震えは止まった。だがそれは本当に一時的。顔を逸らして、少しでもアクセンから離れようとしていた。
 何をそんなに嫌がっているんだか。……思い当たるものと言ったら、小便を飲まされたことぐらいか? 彼の日常にとっては『その程度のこと』にしか思えないんだが。

「私は汚くない、それは判った。お前も体を洗ったばかりだ、汚くない。そうだろう?」
「違う……オレ……オレ、は…………」
「オレは、何だ?」

 言葉を繋ごうとしている。頭を抱えながら、息を肩でして……次の言葉が出てくるまで何分経ったか。
 その間、アクセンは何も言わず、視線も逸らさなかった。ずっと何かを言うのを待っていた。黙ったまま時が続く。時間は進んだのか、止まっていたのか判らないぐらい沈黙が続いた後。俯いたまま、ブリッドが消え去りそうな声を放つ。

「……貴方に、嫌われたく、ない」

 話の前後が繋がらない言葉の羅列。
 消え去りそうな、というより、最後は本当に消え去ってしまっていた声。でも数分の呼吸の後に、やっと続きが繋がれる。
 嫌われたくない。嫌われ、たく、ない……。言葉というか、ずっとその音。俯いてそればかりを繰り返していた。
 アクセンは目を閉じ、暫し考え込んでから……口を開く。

「そんなこと、ある訳ない。私はお前を、好きで触ったんだぞ。……お前のことを好意的に思っているから、触りたかった。触られてお前が私を嫌いになるのなら判る。嫌なことを率先的にやった私は責められるべきだ。だが、私は……お前に触れたかったんだ」
「嘘だ……」

 ハッキリとブリッドが断言する。
 あまりの断言ぷりに、アクセンが目を見開いた。

「だって……みんな、オレのこと、気持ち悪いって言うから、貴方もでしょう、思ってる筈だ……オレ、何も無くても……幸せですから……だから」
「ブリッド。質問を変えよう」

 またアクセンが声色を変えて別の議題を話し出す。興奮したブリッドの嗜め方を学んだようだった。

「お前は、私のことが好きか?」
「…………」
「ああ、この質問では駄目だな。……ブリッドは、私のことが嫌いか?」
「い、いいえ、……嫌いではない…………です」
「じゃあ好きだな。私もだよ。お揃いだ」

 そう言ってアクセンはベッドに上がり、逃げ出したブリッドを捕まえ、正面から抱き締めた。

「嘘じゃない。嫌いならこうして抱き締めもしない。……隠れてキスもしない。好きだからする。好きでやっている私を認めたくないというのなら、また突き飛ばしてくれ」
「……あ……」
「自分の意思でやっているんだ。嫌いになんかならない。ちゃんと断ってからやるべきだった。ブリッド。キス、させてくれ。お前が嫌じゃなければ」
「…………貴方が……嫌、でしょう……?」
「勝手に私の意思を変えるな! 私じゃなくて、お前の答えが聞きたい。……ブリッドは、嫌なのか? 嫌じゃないのか?」

 厳しい声で諭され、ブリッドは口を閉ざしてしまった。俯いて視線を外そうと必死にしている。だが、アクセンの全身による抱き付き攻撃には勝てず、胸の中で攻防する羽目になる。
 数分が経った。押し問答を続けていた二人だった。どこまで続くんだと心配になるぐらい、二人の会話は行ったり来たりを繰り返している。
 そうして、大人しくなってしまったブリッドが微かに動いたとき……アクセンはついに彼をベッドに押し倒して、唇を奪っていた。
 わざわざ質問して答えを待つ男だ、その行為は絶対に無理矢理にではない。
 つまり、ブリッドがちゃんと答えを出したということなんだろう。

「はぁ……。ん……やっと、出来た……ブリッド、こっちを向け」

 何度も繰り返される口付けに、ブリッドは目をぎゅっと瞑ったままだ。

「目を見せてくれ。恥ずかしがり屋だな。別に目を見たって死ぬ訳じゃない。見せてくれ」
「し、死にます……だから……」
「死なない。見せろ」

 ブリッドの髪を掻き分け、俯きっぱなしの目を探るアクセン。黒や茶には遠い、紫色の、人離れした色彩を探り当てて……アクセンはまた微笑み、口付けを再開する。
 ああ、そうだ、ブリッドは初めて……愛ある口付けを、好きだった人間と交わしているのだった。自分の中の妄想と葛藤しながら。
 思わず、喉が鳴りそうになった。

 ブリッドの日常の始まりは、双子の兄と共に一族に引き取られたときから始まる。弟はある誓いの為、兄の為に全てを差し出し、地獄の日常を始めなければならなかった。初めてブリッドが『愛された』ときの日のことを、彼は忘れることは出来ない筈だ。
 香の焚かれた儀式の間。薬を大量に投与された体。そこで男に何度も貫かれて、涙を流して叫んでいたのは最初だけ。虚ろな目で腰を動かして苦痛と快楽に浸っていたあの日。忘れられるほど能天気でもない。
 血に秘めたる魔力を見出されてしまったがために、彼はその日から多くの人間に愛されるようになった。上の穴も下の穴も愛され、涙も涎も尿も精液も血液も愛された。ただブリッドという人格が愛されることは一切無くても。
 バラバラに解体される前に愛しい人と繋がることが出来て良かったな、まったく。
 言葉を遮るかのようにブリッドの胸に手を当てながら、口付けを落とし繰り返していく。もっと激しい行為に慣れてしまったブリッドは、もどかしく身を捩っていた。
 短く息を呑み、くすぐったそうに笑う。表情を緩めてくれたことにアクセンは満足したようだ。優しすぎる行為に何度も身を捩って誘った……が、それ以上責めてくることは無かった。

「好きだよ、ブリッド」

 そのときの奴と言ったら。耳元で聞く愛しい人の声が何よりの愛撫だったようで、ブリッドは顔を真っ赤にして首を振るっていた。
 反応が気に入ったらしいアクセンは、悪戯坊主のように笑うと、何度も耳元で言葉を呟いた。

「その声、好きなんだ。懐かしくて、優しい声で……私には特別に聞こえる。ずっと好きだったんだ。嘘じゃない。お前の声が好きだったんだ……初めて会ったときから思っていた」

 耳を咥え、首筋を舐め……言うならば声で犯しつくそうとする彼が居た。
 経験したことなかった責めを全身に受けたブリッドは、最後にはぐったりと肩で息をし倒れてしまう。まるで長い絶頂を迎え、情事を終えた後のようだった。

「あのな、ブリッド」
「……はい」
「さっき、渡したい物があるって言っただろ。その、渡すタイミングを逃してしまったから。手袋を買ったんだ。品質は悪くない。お前の服に合うように選んだ。これから寒くなるからな、使ってくれないか」

 そう言ってアクセンは、床に置かれてしまった袋を拾い、中からダークブラウンの皮手袋を取り出した。
 ブリッドはゆっくりとその存在を確認し……首を傾げる。

「……どうして?」
「どうしてって、判ってくれないか。プレゼントだ」
「プレゼント……? 貰う理由が、無い……ですよ……?」
「プレゼントはプレゼントだ。お前に贈り物がしたくて私が用意した物だ。まだ判ってくれないのか。……今度こそ、お前に喜んでほしくて用意したんだよ。以前だって物をやることはあっただろ、それと同じだ。お前のことが好きだから、したんだ」

 人から何かをしてもらうことに免疫が無いブリッドにとって、好意から受け取る物は毎度未知との戦いだ。
 手袋を受け取って、それを見つめる。単純な言葉にも理解が追い付かず、どうしたらいいのか判らないような顔をしていた。
 でも、やっと理解に到達したブリッドは……手袋を持って、目を閉じた。
 顔がとろけたようになっている。
 笑顔だった。

 溢れんばかりの『何か』にやられてしまったらしいアクセンは、ブリッドを抱きしめてそのままベッドに倒れた。
 自分の胸の中にブリッドを押し込んで、目を瞑る。

「私は、お前を抱きしめて眠りたい。今は何もかも忘れろ。出来れば私のことを考えていてほしい。……お揃いにしよう」

 そのまま二人で目を閉じて、あっという間に眠りの世界に落ちていくのだった。

 …………そんなのは嘘。
 あっという間に眠りの世界に落ちたのは、興奮を理性で抑えきることが出来るアクセンだけで、ブリッドは彼の胸に抱かれながらずっと考え込んでいた。
 時折、震えたりもする。なんとかしてアクセンから離れようとするが、眠った状態でも頑固者の腕から逃れられることは出来ず、結局抱かれたままになってしまう。本気を出せば人間の拘束なんて他愛も無いことだが、そこまで抗いたくはないらしい。
 抱かれていること自体は、幸せなんだから。
 ブリッドは口を開かず、ワタシの脳に直接、語り掛けてきた。いや、半分以上はつまらん独り言だった。
 ……どうして、どうすればいいんだ、と。
 ……絶対に嫌われる。好きになってもらえる訳が無い。本当のことを知ったら見向きもされない。嫌われる。
 ワタシは何も言わず、そのしつこい独り言に付き合っていた。
 愛をもって抱きしめられておきながら、がたがたと恐怖に慄いている。不憫だと思ったが、だからと言って良い言葉は無かった。

『そういえばブリッドは、一回も好きとか愛してるとか言わなかったな』

 嫌いではないという卑怯な言い方で煙にまいた。そんなワタシの問い掛けに、ブリッドは力強く、

「……好きだよ……愛してる……大事な人なんだ」
『ほう』
「…………オレは……遠くで見ているだけで……幸せ……だから。贈り物だって……いらなかった、のに……」

 そう答えた。

『そうかい。でも愛してるとか言ってやったらその男、喜ぶだろうよ。きっとお前はこの男と別れることになる。いつかそんな日が訪れる。その前に一度ぐらい告げてやってもいいんじゃないの』
「…………」
『別に告げてやらなくてもいいけどさ。言っても別れがつらくなるとかなら言わない方がいいか。あとワタシから言えることは、そうだな。明日も仕事があると言ってただろう。二日続けては流石につらいな。早く寝るんだ。その態勢が眠れないというならワタシがそいつを引っぺがしてやるから』
「…………。いい。このままでいい……」
『いいのか』
「このまま……ちゃんと寝るから……明日も、あるんだから……」

 音も無く涙を零す。
 相変わらず胸の中で震えることはあったが、アクセンはもがくブリッドを気遣ってか、少し腕の力を緩めた。単に寝返りが打ちたかっただけかもしれないが……少しだけ腕から脱出できそうな余裕が生じる。
 でもブリッドはそこから逃げ出す事はしなかった。寧ろ自由になって、眠る唇に軽くキスをした。
 ブリッドから。
 たった一秒だけのキスでも。

 その後、ワタシの脳内に何度も何度も謝罪の言葉が響いていた。
 だが、ブリッドが眠りに落ちる最後の一瞬だけ、感謝の言葉が聞こえてきた。
 何百もの謝罪の中、たった一つだけのありがとう。
 それは、無数のごめんなさいよりはずっと立派な本心に思えた。



 ――2005年11月4日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /7

 後に眠りに落ちたのはブリッドだったが、先に眠りから覚めるのもブリッドの方だった。
 狭いベッドの半分を借りて、アクセンが寝息を立てている。暫くその寝顔を見ていたが、このままではいけないと身を起こす。それと同時にアクセンが目を覚ました。
 おはようの一言。照れ臭そうに笑う二人。ブリッドは顔を必死に前髪で隠しながら、なんとしてでも今の変な雰囲気を打破したいと動き始めた。普段なら無言でする筈の「顔を洗いに行く」も一言声を掛けなければならないのだから、誰かと一緒に居ることに慣れない彼には大変そうだった。
 大変だが、とても満ち足りたものでもある。

「その、な、ブリッド。今日の仕事は何時まであるんだ?」
「……ぇ……?」
「私は今日書庫に篭るつもりだったが、一日中居る気はない。その、お前の用事が終わった後でいいんだ、一緒に食事でも……」

 茶会のときの彼とする会話となんら変わらない。茶会に現れたブリッドに対し、今度はいつ来られるんだとか、どこかに行かないかとか何かと誘ってくるアクセンは、今まででも何度だって見た光景だ。
 でもそれがベッドの上で、満ち足りた笑みを浮かべて言うのとは効果がまるで違う。普段通りしている会話でも、ブリッドはそう簡単に口を開くことが出来ない。

「その……よく、判らないんですが、多分……昨晩と同じ時間には、戻れるかと」
「ん。朝から夜まで大変なんだな。それぐらい働き出してみたら普通なのかもしれないが。食事を一緒に……には少し遅いか。んん、それでは……」
「……えっと、何を……?」
「いや、なに、少しでも一緒に居ようと思って。尋夢殿も昨日言っていただろう。情熱的の方がいい、言いたいことを言う人間の方が好かれる、と」
「…………」

 普段と違うのは、普通の茶飲み仲以上の関係をしようとしていることか。
 ……なんか他人事というのにワタシが気恥ずかしくなっているのは何故だ。うむ、何故だか気に食わん。

「…………その、無理かもしれませんが……今日の『仕事』、外に出るもので……」
「ふむ?」
「普段している『仕事』は寺の中でするものだから……『外』での用事は特別で、色々と融通がきくので……なんとかして時間を調節できないか、兄さんに相談してみようと思います……それで許していただけますか」
「兄さん?」

 許していただけるか、って何を言ってるんだか。
 でも、寺の者ならブリッドの声など聞く耳を持たないが、唯一の肉親であるブリジットならまだ気まぐれで願いを叶えてくれるかもしれない。少ない確率だが、無い話ではない。未来のあることを考えるだなんてブリッドとは思えない思考回路で、実に楽しい物言いだ。
 アクセンは一瞬、体の時を止めたが、すぐに懐かしそうな顔をした。

「ブリッドには、そう、兄がいたんだったな。『まだ会ったことないが』そのうち紹介してくれよ。そして出来れば恋人として私を紹介してくれ」
「えっ…………え、そ、それはっ……」

 前向きな意見と、真っ赤になって困惑するブリッドに、満足そうな笑みを浮かべる彼。
 まだ時間が作れたと決まった訳でもないのに、既に一緒に居られることが確定したかのような舞い上がり方だった。




END

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