■ 019 / 「外道」



 ――2005年11月3日

 【    / Second /     /      /     】




 /1

 目を瞑り続けた火刃里が、ついに左手を上げた。
 人差し指を一本、目線よりやや下に掲げる。眠っているんじゃないかと思えるぐらい大人しかった火刃里が、勢い良く目をかっ開いた。
 怒涛の勢いで呪文を唱える!
 ただ、覚えたてのせいか魔法は発動しない。幼い舌っ足らずの口と焦りから生じた早口のせいで、正しく詠唱ができなかったようだ。
 それでもぽしゅんと煙が火刃里の指先に立った。俺も周囲の研究者達も、(一見判らないが)一本松もアッと驚く。

「あっつーっ!」

 失敗には違いないが、指先に熱は生じたようだ。炎を繰り出す式は間違ってはいなかったらしい。
 ちゃんと発音が出来るようになって落ち着いて詠唱が出来たなら、火炎術式ぐらいの簡単な魔術はモノに出来そうだ。習い始めて数ヶ月にしては上出来だった。

「しっぱいーっ! うあーん、しっぱいしたーっ!」

 長い目で見ると大した成長率なんだが、子供の一瞬は長いもので「あんだけ練習したのに火がブワーッてなんない! おれ才能なーいっ!」なんて喚き始める。
 そんなガキの姿を見て、周囲の僧達が「いえいえ、凄いですよ」「才能が無いなんてそんなことありませんよ」と必死にフォローし始めた。
 一部始終を見ていた一本松は何も言わない。俺も敢えて何も言わずにその光景を眺める。
 ガキに対して甘すぎる連中が多いんじゃないかと思ったが、火刃里はガキゆえの短気なだけでこれから伸ばしていけば確実に成長できる。良い素質を備えているのは、俺でも判った。
 末恐ろしい子。誰もがそう思う。流石、柳翠様の息子だ。

「メイちゃん、飽きた! おれ、剣の修行の方がいいっ!」

 魔導書を床に放っぽりだして、真剣に審査していた俺の元に猿みたいなガキが駆け寄ってくる。
 火刃里は常々「武術がやりたいっ!」「武術の方がカッコイイっ!」と言っていた。
 絵になる西洋剣やテレビゲームやアニメで出てくるありえねー武器を持って戦うカッコイイ勇者になりたいとかなんとか口走っているぐらいだ。あくまでビジュアル重視だった。
 理由は、カッコイイから。その夢は歪める必要は無いとは思うが、皆は口を揃えてこう言った。
 『火刃里は、大魔術師になる』と。
 一度やらせてみただけで、魔術を専門的に研究している連中がそう言うんだ。魔術で魔術を研究しているチームが口を揃えて言うぐらいだから、ちゃんと学べばそれなりな腕になる。
 やっぱりそういう適正が高い血が流れているからか。全く、羨ましい限りだ。

「あー、そっちは午前中にしただろ? 午後は魔術を学んでこいって言われてきただろが」

 惜しいのは、これだけ才能のある血を引いているのに、一般家庭で時を過ごしてきたせいで何にも知らないままこの年になってしまったことか。そう言ったってまだ十五歳だけどよ。
 僧侶達は、火刃里がバラ撒いた魔導書を片付け始める。
 一本松はある程度火刃里の騒ぎを見た後、元の仕事に戻っていった。彼は火刃里の武術修行に付き合ってくれているお方だけど、魔法云々には付き合えることは無く、パフォーマンスが終わった後は無言で帰っていく。去るときに挨拶をすべきと思ったが、火刃里がわーわー騒いでいるので何も言えずに終えてしまった。

「だってー! 字いっぱいあんの、イヤーっ!」
「でもよ、魔法戦士ってカッコイイだろ? 右手にバスタードソード、左手にファイヤー、併せて、秘奥義炎陣暗剣殺。どうだ」
「うおーっ!? ひおーぎ!? なにそれ! カッコイイ!? でもおれ漢字好きじゃないから新しいの思いつかないかも!?」
「じゃあ、さっきのにルビ振って『エターナルアカシックエンドブレイド』とかにしとけ」
「カッコイーっ!!」

 エンドにブレイドはともかく(それも充分アレだと思うが)、エターナルでアカシックって何なんだ。
 適当にそれっぽい単語を組み合わせただけだが、火刃里には案外好評価だった。それでいいのか、ビックリだ。

「剣にファイヤー、カッコイイっ! それやりたいっ! やろうよっ!」
「やろうよ、って。何をだよ」
「そうやって戦うのーっ! ……フッ、どんな敵もおれのファイヤーソードの前ではスライム同然よ……。うひょーっ、言うのーっ!」

 『スライム=ザコ敵』って、テレビゲーム脳が作った弊害だよなぁ。実際のスライムは、口に入り込んで呼吸器を押し潰してくるという初心者殺しの超難敵だっていうのに。
 あと『ファイヤーソード』なんて安直でも良いんだ、子供のセンスが判らん。

「今日それ完成させて兄ちゃんに見せたいーっ! 今日やっちゃおうよーっ!」

 だからするんだ、と火刃里がぴょんぴょん跳ねながら叫んだ。
 ……兄ちゃん? 聞き返して、誰かの顔を思い浮かべる。
 誰にでもアダ名を付けたりちゃん付けしたりあんちゃんやらおっちゃんやらと呼ぶ火刃里が、正当な呼び名で呼ぶ相手。それは奴の真の兄のことだった。

「今日ね、兄ちゃんが遊びに来るからっ。見せたいっ! カンタンに覚える方法あったよねっ!? 『アレ』やろっ!」

 周囲に目を配る。親切な僧が、足りない火刃里の言葉に補足をしていってくれた。
 ――今日、火刃里の兄・緋馬が、寺に一時的に戻ってくるらしい。
 現在、緋馬は隣の県の全寮制の男子校に通わされている。週休一日制のすっげえ真面目な進学校らしいが、編入を決めた『本部』は緋馬の進学など望んではいない。その周辺の退魔業を任せるものとして、学校住み込みで働かせているだけだ。
 緋馬が戦死することなく、無事高三になって卒業しても、『本部』は実家に戻るように仕向けるだろう。緋馬の育ての父である、藤春が変な気を起こさない限りは。
 たとえ進学を選んだとしても退魔業は手伝わされるんだけどさ。現に依織の友人・玉淀なんてそのクチだし。
 でで、現状と将来はともかく、そんな滅多に会えない火刃里の兄が久々に寺に顔を出すという。火刃里がテンション高いのはいつものことだが、朝からテンションマックスだったのはそーゆーことかよ。

 火刃里は兄のことをとても好意的に抱いていた。
 その兄にカッコイイところを見せたいというのは、カッコつけの火刃里には当然の理屈のようだった。

「あいよ、兄ちゃんに良いトコ見せたいお年頃なんだな。んじゃ、もうちょい頑張ってさっきのやろうかぁ」
「んーっ、でももう飽きたーっ! けどファイヤーソードやりたーいっ」
「ははぁ、ゆとり教育にも程があんだろ。努力無しでモノにする方法は無いかとかなかなか言えそうで言えない台詞だぜ」
「努力はすんよっ。でも飽きたのっ。もっと楽しい修行がしたいっ。出来るだけ手っとり早くラクに出来るんだったら嬉しいけどさっ!」
「手っとり早くラクねえ」

 ――あるこたあるけど。こいつはやったことあるしな。
 努力はする、頑張れると火刃里は言う。修行や試練自体はイヤになった訳ではないらしい。半年間あーだーこーだ騒ぎながらも、楽しそうに笑いながら竹刀を振るったり魔法を唱えたりしているぐらいだ。
 今は飽きたと言っているが、さっきだって楽しそうに魔導書を読んでいた。明日にはきっと気まぐれに気分は戻っている。
 でも急かすということは、ああ、どうやら火刃里は、『一度ラクすることで今後もラクすること』を覚え始めてしまったようだ。

「あー。…………無理」
「無理じゃないっ! 諦めんなっ!」
「お前が言うな、決めつけんな。無理なもんは無理だっつーの」
「なーんでーっ!?」
「『ありゃ』な、色々手続きが必要なんだよ、ばーろー。俺達が欲しいからってホイホイ貰えるもんじゃねぇ」
「諦めんなっ!!」
「んじゃ、火刃里が一本松様と銀之助様に許可取りに行ってくれるんだな。一本松様なら今から走って追いかけりゃすぐ捕まえられるだろ。頼んだぜ」
「……諦めるぅ。一本松様はいいけど、魔王に勝てるワケないもーんっ」

 じゃあ『アレ』は忘れよーっ。兄ちゃんが来るまで剣の修行しよっかーっ。あっけらかんと振り出しに戻る。
 コイツ、子供だから明るくバカっていうのは失礼な気がする。子供に対して失礼だ。子供だってこいつより落ち着いてる奴は大勢いるわ。

 ――魂を『本部』へさっさと捧げ終えた緋馬は、いつものやる気無しの顔のまま屋敷から屋敷への道を歩いていた。
 その背中に火刃里は突貫した。どっすん。
 背後からの不意打ち攻撃に気付けなかった緋馬は、踏まれた蛙のような声を出して、砂利道に突っ伏した。その背中に乗っかる火刃里。
 「おれWIN!」なんてやってる場合じゃないだろ。兄ちゃん、思いきり青筋を立てているぞ。

「ふんがー!」
「わーっ!」

 絶叫と共に復活した緋馬が立ち上がると、コロンと砂利道に転がる火刃里。
 自分の甚平が汚れるのなんてちっとも気にしていない愉快なガキだった。ガキ故か。

「何すんだてめー!?」
「兄ちゃん兄ちゃんっ! いっしょにべんきょーしよーっ!」

 更に復活した火刃里が、緋馬に叫ぶ。当然、実家に涼みに来た緋馬は眉間に皺を寄せた。
 でも火刃里が嫌がらせで言っているのではないと判ると、渋々といった感じで向き直っていく。襲いかかられても好意全開では邪険に出来ず、緋馬は手を引かれて工房に連れて行かれた。
 工房と言っても、人が住むために作られていない単なる館ってだけで、普通の家だ。間取りはどこも和室、時々土間、本棚の並んでいるところだけが辛うじて板の間という……一般的に『研究所』と言われて思い浮かべるようなハイテク真っ白空間ではない。
 しかも研究員として働いている訳ではない緋馬を、研究している真ん中に招くことは出来ない。火刃里が待ち時間に遊んでいる縁側廊下(雨は凌げるようにガラス張り。ただ夏は暑く、冬は寒い。人が住むことを考えられていない屋敷の一角)に緋馬を招くだけ。
 廊下に座布団を用意しつつ、そこへ向かった。

「……火刃里。お前、魔術師を目指してるんだっけ?」
「兄ちゃんっ! おれが目指してるのは勇者様でマジックナイトだよっ!」

 なんぞそれ。……火刃里に直接訊かず緋馬は、廊下で涅槃のポーズをしている俺の方を見た。『解説を求む』という不審の目だった。
 いつものことだから気にすんなと俺が笑いながら返すと、いつものことか気にしない、と緋馬が弟に向き直る。
 火刃里のテンションは、短い付き合いながら判っている兄だった。

「兄ちゃんは炎使いなんだよねーっ!」
「ああ、そりゃ仏田家は炎の一族らしいし……炎を使うのは普通だろ」
「なのっ?」
「そうなの。発火は一番オーソドックス、シンプルな魔術だからありがたいことに俺だってさくって覚えられたよ。……火刃里、ゲームは一通りやってるんだろ。RPGの主人公は大抵、メラもファイアも一番最初に覚えてたんじゃないか?」
「おーっ、そういえばっ!」
「そんだけ初心者向けだってことだよ。で、一度覚えた火炎術式をどう伸ばしていくかがその人の努力と才能に係わってくるんだろ」

 ですよね、と緋馬は俺の方を向いて確認を取った。
 そんな単純な話じゃないが間違っていないので、あーあーと頷いていく。

「おれねっ、炎が出せないのっ。今日頑張ってたんだけど、全然出なかったのっ!」
「お前はまだレベル1魔術師ってことだろ、初心者にもなってないんだ。焦るな。魔術は学問なんだから勉強すれば身に付く」
「早くレベル200ぐらいになるのーっ! 勉強したけど覚えられないんだから、兄ちゃん教えてっ!」

 無茶言うな。滅茶苦茶だな、お前。
 俺も緋馬も全く同じ顔をしてしまった。しかも緋馬は「これがゆとりか」ってさっきの俺と同じことを言ってやがる。
 元気があるのは良い。向上心があるのも良い。けど火刃里は学ばなければならない別のことが沢山あった。……まずは礼儀と常識かな。

「……あのさ。頑張っても炎、出なかったの?」

 緋馬は、火刃里がバラ撒く魔導書をパラ見しながら尋ねる。

「うんっ。この魔導書、不良品なんじゃねっ?」
「いや、魔導書に罪は無いし。……もしかして火刃里、才能が無いんじゃないか?」
「えーっ!? みんなおれスゴイおれサイキョーって言ってくれるのにーっ!?」

 ……どういう教育方針してんすか。
 そう言うような目でこっちを見るな。ゆとりを甘やかし過ぎだとは、俺も思っているんだから。

「魔術の才能っていうか、もしや『炎を操る才能』が無いんじゃないか?」
「えーっ?」
「いや、お前がどれぐらい努力してるか俺は知らないし、どんな呪文の唱え方してるのかも見たことないけど。そんなに頑張っても出来ないんだたら、違うところに理由があるんじゃないかって思った」
「その理由が、『おれには炎を扱えない』体ってこと?」
「知らんよ。そんなのは芽衣さんみたいに専門的に研究している人が調べるべきだ。そうでなくても何か違う要因で使えないっていうのはあるかもしれないぞ」
「へーっ! 兄ちゃんスゲーっ! メイちゃんより頭良いーっ! メイちゃん、お酒ばっか飲んでるから頭やっこくなっちゃうんだよ…………あいたぁっ!?」

 おっと、良い高さの肘置きがあるなと思ったら火刃里の頭だった。ついついエルボーをかました悪い大人みたいに見えるけど、気のせいだ。
 ほら、目の前でそれを見ていた緋馬も何も文句を言わないし、気のせいだ。

「とりあえず、呪文唱えてみろ。俺が見ていてやるから」
「うんっ。兄ちゃん見ててね。ファイヤーっ!」

 緋馬が座布団をずらして注目する。俺は涅槃状態のまま、火刃里のヒーローポーズを見る。
 ガキの大絶叫と共に、炎は出た。
 …………。

「あ?」

 火事だ。

「………………多分、あのときは一本松様が居たからかもしれねーな」
「えっ?」

 ぷすぷす。消火活動は終了した。
 廊下が燃える前に火を食い止めた俺達は一息ついて、焼けた縁側を見た女中への言い訳を考えつつ座布団に座る。
 一部が黒くなった程度の廊下は大事ない。事が済んだから楽観視して、元の涅槃のポーズをしていた位置に戻ることにした。

「あー? ウマも知らねーのかよ、うちの家は一部『対魔力体』がいるって話」
「……そういう力を持っている人が居るとは思ってましたけど、改めて聞くのは初めてですよ」
「うーんーっ? 兄ちゃん、メイちゃん、日本語で喋ってーっ。おれ、英語きらーいっ」
「あー。ガキにも判りやすいように説明するとだな……。『魔法防御力がメッチャ高い人』がウチにいるってことだ」
「おっ、わっかりやすーっ! ……でもそれが、何なのっ?」
「魔法防御力が高い人はファイアとかメラとか食らってもバチンって跳ね返す、ダメージが入らない。それぐらいはゲームをやってるガキでも判るな? ……でもな、本当に魔防が高すぎる人は、近くに生じたファイアやメラさえも発動させないんだ」
「なんですとーっ!? 打ち消しスキルですとーっ!?」

 大袈裟にシェーのポーズで火刃里が驚く。いや、シェーはそういう使い方じゃなかった気がするが。
 対魔力の能力を持ってる奴がウチにいるっていうのは知ってたが、誰がどの能力を持っているかどうかなんて全部覚えてねーよ。
 そんなん、依織じゃねーんだから覚えられる訳がねぇ。『絶対記憶保持者』のあいつなら全部覚えているだろうが。

「あくまで、『一本松様が対魔力を持ってたんじゃないか』っていう仮説な。一族の中で誰かが持ってたのは確かだから。昔、何かのメモでそう読んだし」
「……芽衣さん。一本松様でなくても、その場に居た他の僧侶が持っているという可能性もあるんじゃ?」
「バーカ、魔術研究の連中がそんなん持ってたら魔術を研究できねーだろが。あそこのイレギュラーって言ったら、初めて火炎術式を習った火刃里と、滅多に魔術の場に現れない一本松様なんだよ」
「おーっ」

 一本松があの研究室に居た理由は、今一番力を入れている弟子の火刃里が居たからだ。
 普段なら手とり足とり火刃里に武術を教えているところを、今日は試しに魔術組に教わらせてみたという。人の修行の光景を見ているだけ。一本松にとっては極めて珍しい光景だった。
 ちゃんと修行して力をモノとしている魔術師の繰り出す炎魔術なら発動するかもしれないが、レベル1にも満たない弱い炎しか発動できない火刃里の力が……対魔力で封じられる可能性は、ゼロじゃない。

「あと考えられるとしたら……火刃里がこの一時間でレベルアップしたから炎が扱えた、かな」
「それ採用っ! おれスゲーッ!」
「おいガキ、自分で採用すんな。ばっきゃろ」

 まあ、成長率の素晴らしい火刃里なら有り得ない話ではないが。

「メイちゃん。『たいまりょく』ってスゴーイ。おれも欲しいーっ! 教えてっ!」
「無理だ」
「諦めたらそこで試合終了だよっ!」
「諦めろ、試合にもならねぇ。……教えられる問題じゃねーんだよ」
「……そーなのーっ?」
「だってアレは異能だから。……そもそもガキ、てめー、魔術と異能の違いも判ってねーだろ?」

 言うと、火刃里よりも緋馬の方がキョトンとした。
 緋馬のその顔は、「それって違いってあるの?」と言っている。判っていない顔だった。
 あー、緋馬は外で育ったクチだった。あの穏健派代表・藤春に育てられたんだからこの手の話は苦手なのは仕方ないか。基礎を全然教えられていないんだから。

「つーかさ、緋馬ってどうやって魔術習ったの?」
「……独学。藤春伯父さんに多少のことは習ったけど、伯父さんはこの手の話を話すのが大嫌いだったからあんまり訊けなかった。渡された本をテキトーに読んで、試してみたら、いつの間にか炎が使えるようになってたよ」

 羨ましい話を、何の自慢も無く話す兄・緋馬。
 その話を特におかしいこともなく、「勉強したんだから使えて当然でしょ」と聞き流す弟・火刃里。
 俺は煙草に火を付けた。露骨に目の前の緋馬が嫌な顔をしたが、構わない。

 ――やっぱりコイツら、住んでる世界が違うんだな。本家と分家の能力の違いはここまでかと思い知ってしまう。
 当主の三男・新座もロクに修行をしてなかったというのに事件スピード解決で有名だ。
 藤春様の長男・ときわも、柳翠様の長男・緋馬も、たったの数年で(緋馬に至っては仕事をし始めて一年にも満たない筈だ)一端の能力者として活躍している。
 火刃里は数ヶ月前まで異端が駆け回る裏の世界を知らなかったというのに、昨日使えなかったものが今日できるようになってやがる。

 ……おそらく他の修行をしたことない連中も、本気になれば、他がひーこら汗水垂らして身に付けたものを、たった数年で追い抜いてしまうんだろう。
 これが神の血の濃さの違いか。最上の当主に近ければ近いだけ、力も変わっていくんだ。
 判りやすく憎いねぇ。

「簡潔に言えば……『魔術と武術』は学問、『異能』は生まれつき血に備わる力。先天的と後天的の違いだ」
「おーっ、わっかりやすーっ」

 これもまた厳密に言うと違うらしいが、どんなに深く詳しくやったって興味無さげな本家兄弟二人に言っても時間の無駄。端的に話してやる。

「勉強して身に付いてしまえば、一般人でも特殊能力が使えるようになるのが『魔術と武術』。だから教えてもらえば誰でも魔術師になれるし、体を鍛えれば立派な闘士になれる。……研究所に居る連中は、我が家と契約してるけど外からやって来た部外者だろ。俺んちの方針に共感してここで働いてるけど、一般人に魔術の毛を生やした奴らもいっぱいいるぜ」

 たとえ仏田の血を引いていない部外者であっても、傘下に下るとなったら必ず『契約』をして我が家の一員になってもらってはいるが。

「一方、『異能』は……超能力や、なんでか使える不自然な能力のことだ。感応力とか超人的な身体操作がそれに当たる。どう頑張ったって生まれ持ったモノが無きゃ感応力師にはなれねぇ。さっき言った対魔力とかはその人の身体に備わった特殊能力。だから学んで覚えられるもんじゃねぇ」
「うあーっ、残念っ。ねえねえっ、おれって何か異能持ってないのっ? 生まれつきスッゲー力って持ってないのっ!?」
「生まれつきの力は生まれた血で決まってる。……火刃里が仏田の血であるって判明してるんだから、仏田の『異能』は使えるだろ」
「えっ、なになにっ?」

 それぐらいは自分で気付いてほしかったな、と思いつつ、俺は火刃里のケツをばしんと叩いた。
 犬を蹴ったときと同じようなキャインッという、ちっこい悲鳴が上がった。

「おめーも刻印持ちなら、そこに他人を入れられることぐらいちゃんと自覚しとけ」
「うわーん、兄ちゃーんっ。メイちゃんが暴力振るうーっ!」

 わざと泣きつくようなアマーイ声を出して兄貴にくっ付く火刃里。兄の後ろに隠れてべーっと舌なんか出しても可愛くもなんともないぞ、ガキが。

「ウチはなぁ、自分と別の、他人を取り込んで力を手にしていく力があるんだよ。二つを同化させて一つの力に、一体化してもっと高みを目指すっていう。……だから『世の中をうろつき回っているいらない魂集め』なんてしてんだろーが。ただウロウロして人間様に迷惑しかかけない怨霊や異端を退治して、あの世へ送らないでウチのモンにする。レベルアップもラクチンでエコロジィで誰にも迷惑掛けないどころか、感謝もされる商売してるんだろ」
「……普通そんなことできませんよね、芽衣さん」
「あー? 普通できないことを遣って退ける特殊なモンだから『特殊能力』なんだろ。異なる能力だから『異能』なんだろ」
「…………」

 緋馬ったら難しい顔しちゃってる。自分ちの持っている当然のことを当然のように話しただけなのに、何を悩むモンがあるんだろーか。
 じゃあ、改めて語ろう。
 ――仏田一族は、刻印に魂を収集する。相手の全情報を自分の身体の中に収納できるという、仏田の血を受け継ぐ者なら可能な『異能』。
 自在に魂を収容し、解放することができる。『椅子』と呼ばれる一つの場所(ぶっちゃけ当主様の身体のことなんだが)に能力データを集約させることで、一人を超レベルアップさせる手段を得ようとしている。そうやって簡単で原始的な全知全能を創り上げようとしているんだ。
 火刃里にもちゃんと説明したことを、緋馬は真剣な顔で聞いていた。
 ……まさか、緋馬の奴、今までこんな大事なことを聞いたことが無かったとかか? 流石の藤春様もそれを教えない訳は無いと思うんだが。火刃里だって「もう何度も聞いたーっ」とプーたれてるぐらい常識だぞ?

「……俺、前々から思ってたんですよ」
「あー? 緋馬さん、何をさ?」
「俺達がいくら魂を回収したって……最後には『本部』に献上しちゃうじゃないですか。だから、俺はレベルアップしたことにならない。一度自分の身体に取り込んでも、後で解放しちゃうんだから……これって意味あるんですか?」
「おっ? お前は『聯合(れんごう)』を知らないんだな? このガキよりも遅れてるー」

 なんすか、それ。
 緋馬が余計に不審な顔をした。

「結論から言うと、意味はある。例えば牛肉を口に入れて、噛んで、飲み込んだ。旨味を口の中で味わった。その後に俺達は喉ん中に指を突っ込んで吐いて戻すだろ。そんときに旨味を味わった記憶は消えるか? 牛肉が美味かったって感じたモンは残るだろ? ちゃんと身体に情報が記録されてるから、魂を戻した後でもちゃーんとレベルアップしてるんだよ」
「嫌な例えをしますね、芽衣さん」

 判りやすく言ったつもりなんだが。繊細の顔の坊やには汚い話は苦手らしく、理解しつつも俺の好感度を大幅に下げたようだった。
 そのとき、廊下の先から僧侶の一人が駆け寄って来た。焦った様子は無かったが、早め早めに連絡をしに来たのか、少し早足のご様子だった。
 焦げて黒くなった廊下の壁の前に火刃里を立たせカモフラージュしつつ、俺が応対する。

「…………。んだと?」
「なにーっ? なになにどーしたのーっ?」
「……あー、ガキ。まさかの手続きが、通ったぞ」
「えっ!? マジでっ!? やったぁーっ!!」

 火刃里がぴょいんと廊下で飛び跳ねる。カモフラージュの役割なんか忘れてぴょんぴょん走り回ってる。おっ、僧がコゲ臭いのに気付いて不審な顔をしやがった。……でもって、なんかコレって俺の煙草で不審火が起きたようにも思われないか? 流石にそこまで想像力豊かになってもらいたくない。
 緋馬が火刃里の襟を掴んで走り回る猿を止める。ぐえっと不気味な声で廊下のバタバタは終わった。

「……手続きって何だ、火刃里?」
「えっへへーっ、兄ちゃんにはナイショ! おれねー、今日すっげー強くなってきちゃうーっ!」
「……。お前に『仕事』、か?」
「そうそうそれそれっ! しかも『特別コース』でねっ! あっ、ねぇねぇ指扇さーん、『赤紙』貰ってないのーっ!? 見たいーっ!」

 黒い壁と俺の煙草を交互に見ている僧に飛び掛かって、念願の赤紙を強請るガキ。『赤紙』と言われつつも赤くない書類を渡してもらって、火刃里はテンションゲージが振り切った喜び方をし始めた。
 緋馬は、そんな弟を微妙な顔で見つめていた。

「よぉ、お兄ちゃん的には死地に向かうのを楽しんでる弟は複雑?」
「…………複雑に決まってますよ。あいつ、『仕事』に危機感無さ過ぎじゃないですか」
「ひひっ、死ぬかもしれないってこと忘れてホントに楽しそうにしてるからなー。でもよ、あんなガキでもやっぱ本家の血。『あの柳翠様』の子。俺達のような平平凡凡には敵わないことを平然とこなしちゃうんだから、さほど心配しなくてもいーかもよ?」

 複雑な顔は、更に複雑になっていく。
 好感度が下がった状態の俺の言葉で安心してくださいと言っても、大切な弟のことを想う兄には届かない。そんなの判っていた。

「……俺も火刃里と一緒に行くことって、できますか?」

 たった一年の兄弟仲だというのに心配性なお兄ちゃんは、何の権限の無い俺達に向かってそんなことを言っちゃう。
 諦めな。どうしてもって言うなら、『赤紙』を書いた一本松様と、それを認可した狭山様を倒しておいき。

「兄ちゃんっ! おれ、超レベルアップしてくるよーっ!」

 それにしても太陽みたいに眩しい笑顔だ。清々しくて堪らんね。



 ――2005年11月7日

 【   /Second/   /    /   】




 /2

 火刃里のデビュー戦は、結構前に終わっていた。
 火刃里を世話している一本松が「現場で修行を積んだ方が身になる」という考えの持ち主だったから、少しの武術の心得を叩き込まれた後、すぐにデビュー戦に送られた。
 と言ってもそのデビュー戦は、師匠の一本松と一緒にしたものではない。初戦は、俺・芽衣と依織の兄弟コンビに金魚のフンのように火刃里がくっ付いて幽霊を退治するだけの簡単なものだった。

 一本松には人を鍛える職に就くほど熟練者でもあったし、他に任される高位な仕事が沢山ある。あの人は一人でどんな異端も退治してしまうほどの強さのプロだ。その程度の試合、見ている暇も無いというかのように俺が任されちまった。
 所詮はデビュー戦、しかも俺と依織のコンビがいる単なる幽霊退治。五日ぐらいで終わる余裕の仕事だった。
 そのときの火刃里は、両足の骨折ぐらいで済んだ。それでもビービーと涙を流して痛がっていた。
 最先端の心霊治療もあって、一般人の何倍も早く足が完治したとはいえ、火刃里はその痛みを知っているし覚えている。
 だから緋馬の言うほどあいつは『仕事』を軽視していないと、俺は思っている。

 ――そうして今回の『仕事』が始まって、四日が経った。
 今回は俺と火刃里の二人での『仕事』だ。内容は、ここ「最近、街で怪しい化物に襲われるという事件が起きているから解決してくれ」というありきたりなもの。
 化物はとても恐ろしい姿をしていて、恐怖で立ち竦んでいるところをぐちゃっと人を潰して楽しんでいくという。
 そんなこんなで幸い四日経っても、二人とも大きな怪我をすることなく、『ラスボスの間』に辿り着いたようだった。
 ゲームで言うところのクライマックスシーン。あれこれ騒ぎをしている異端を探すこと百日、俺達が追い詰めること数日。多くの魔の手を振り払いつつ、どうにかして俺達は本拠地を突きとめた。

「えっへへーっ、おれってば前よりずっとレベルアップしてるよーっ。メイちゃん、すごいすごいーっ?」
「毎日、一本松様にコキ使われてレベルアップしてない方がおかしいんだよ。それぐらいフツーだ」
「むーっ。そんなにおれの才能に嫉妬しなくていいのにー…………あいたっっ!」

 ちょうど良い高さにちょうどいい刀置きがあったのでゴインと置いてみると、なんとそれは火刃里の頭だった。失礼失礼。

 ……火刃里は、確かにレベルアップしていた。ちょっとやそっとの怪我じゃ文句を言わなくなっていた。
 流石にドバドバ血が出るとビビってしまうようだが、包帯を巻けば済むような傷で大声を上げることはない。今も腕と頭にくるくる包帯を巻いているのはちょっと大袈裟なぐらい、火刃里は平気顔だった。それに精神面も強くなっている。ラストステージがどんなに赤くても、血塗れの屍が転がっていても、文句を言わずに立っていられるぐらい成長していた。
 流石、一本松が精を出して修行に励ませるだけはある。半年間でこの成長率は異常だ。……火刃里は、本当に才能があると言っていい。

「ちょい待った、ガキ」
「なーにーっ? メイちゃん、お酒が切れちゃって動けないーっ?」
「酒はいつでも飲めりゃぁ、コンビニの前でも飲めるぜ。……てめー、もしかしてここで平気な顔してられるのって……『コレ』が何って気付いてないだけか?」

 コレ、と俺は真っ赤に染まるマンションの一室にデデデンと置かれた肉の塊を指差した。
 火刃里の成長率に感心しておいてナンだが、単に視界内に脅威があることを知らなくてのほほんとしただけなのか。それなら……。

「えっ。それって人間だよねっ? 人間だったモノでしょっ? ぐちゃぐちゃこねこねハンバーグの焼く前にしてあるからそういう形なんでしょっ?」

 違うの? 違ったの?
 キョトンとした顔で、退魔業半年目・若干十五歳の少年は訊き返してきた。
 違ったらゴメン、何なの。教えて。そう火刃里の口は次々と続けていく。

「………………」
「メイちゃん?」

 ……ヤバイ、こいつの成長率は……順応力は……ハンパ無い。
 第一回デビュー戦でもちょっとおかしいなとは思ってたけど、あのときは両足骨折でビースカ泣いてたからあまり『こっちの姿』が目立ってなかっただけか。
 だって……仮にも死体を目の前にしているんだぞ?
 それなのに、なんで笑っていやがる。
 不自然のモノへの対応の早さ。順応の早さ。これもまた、生まれ持っての才能だったか。
 純粋に、十歳年下のホープに感心してしまう。
 感心していると、上空に何か黒いものが現れた。
 何かの影だと気付き、それが落ちてくることに気付くまで一秒。落下の二秒には間に合って、俺は攻撃を避けることができた。

「火刃里、来たぞ」
「うわーっ!? なになにーっ!?」

 どんなに将来有望でも、知識の少なさ、経験不足は補えない。そこは先輩がリードしてやらねば。
 この場に落下してきたのは、足が二つあって手が二つあるけど、やたらバランスがおかしくて頭が無い肉の化物だった。
 見ているだけで嫌悪感がこみ上げてくるような、繊細なハートの持ち主だったらゲロ吐いちゃうぐらいのえげつないモノだった。

「うわぁーっ!? モンスターっぽいっ! カッコイイっ!」

 だが隣の初心者はそのような繊細なハートは持っていないらしく、見た事の無いエネミーに心を躍らせていた。感心するどころか脅威に感じるぐらいの逞しさだ。
 自分のフィールドに敵が入ってきたと思っているらしい肉人は、こっちに走り寄ってくる。
 弱っちいガキよりも体格の大きい俺の方に飛びついてくるとは。目的の捉えやすさを重視したのか。

「わーっ! 逃げろーっ!」
「あっ!? このクソガキ! どっか行くんじゃねぇ!」

 数はとりあえず一体。襲い掛かって来る物体は一体だけだった。
 大きくぶよぶよした手で捕まえた後はどうするのだ。口が見当たらないけど食べるのか。それとも何らかの形で魔力を取り込もうとするのか。ただただ殺すだけが目的なのか。走りながら推測する。
 駆けながらと言ってもマンションの一室、全速力で逃げたって壁にぶつかってしまう。比較的家賃の高めで、階層も高い所だったので転がることができたが、肉人がびたびたと動くたびに地面が揺れ、物が壊れた。
 一応マンションに入る前に魔の結界を張っていたから、夜でもマンションには人は近寄っていない筈だ。

 被害者となってしまった肉の塊以外に、このマンションの人間達は何らかの理由(仕事場に泊まり込み、オールでカラオケ、カノジョの部屋に泊まるなど)を無意識に付けて戦場に立ち入らないように暗示をかけてある。だから思う存分暴れられたが、長居は無用だった。
 隣の部屋まで走って、肉人がびたんびたんと音を立てて走って来るのを待つ。
 部屋にドバァと入って来た巨体を、壁を蹴って死角……天井から刀で斬りつけた。
 相手は頭が無い、知能が無さそうな化物。それでも何人も人を襲い、逃げ続けた凶悪な化物。ぶよぶよした肉だらけの体は、案外呆気無く刃が進んだ。
 脂身を斬るときの妙な柔らかさを感じる。巨大な左腕から、右側の腰にかけてを斬り落とした。
 斜め半分に刀を通すと、中から大量の何かが出てきた。

「げえ」

 これは、場数を踏んでる先輩の俺でも、ゲロ吐くレベルだ。
 肉人の体を斬り落としたところ、中身は人間らしく内臓と血が詰まっていると思いきや、ぶよぶよした超デカイ虫が蠢いていた。
 寧ろ、虫が重なりあって中身を形成しているというか、虫達が辛うじて人に見える皮を被って気取っていたというか。
 兎にも角にも、気持ち悪い化物だった。

 異端は恐怖を生じさせることで威嚇し、慄く人間達を獲物とする。問答無用で気味の悪いコレは、異端と呼ぶものに相応しいと言える。
 あーあー、酒でも飲んでねーとやってらんねー展開になってきたぞー。
 俺が作った割れ目から、うぞうぞと虫達が這い出てきた。斬られた巨体は二つに分かれたことにより動かなくなったが、穴が開いたところから虫達は外へと飛び出してくる。
 それらはあちこちに飛ぶ。俺の目は二つしかない、一つのものしか見られないというのにうじゃうじゃと……これはまずい。火刃里の修行など考えていられなかった。
 っていうかあのガキはどこ行ったんだ? そんなの気にしている場合じゃない。
 刀で一つ一つ虫を潰していくことを選ぶほど、俺は神経質で丁寧な性格では無かった。
 やることと言ったら薙ぎ払って一網打尽を狙うまで。

「ガキんちょ。おめーのアイディアを貰うぜ。――■■■」

 指先を一本立て、数年前、魔術を習いたてのあの頃を思い出す。
 初歩中の初歩、火の呪文を唇先に綴っていく。
 対象は、自分の武器だ。俺は一旦、刀を虚空・ウズマキの中に収容した。手ぶらになるつもりはない、もっと大きな武器を召喚するためだ。

 想像する。
 大きいものを、想い尽く限り馬鹿デカくって強そうな武器を、創造する。
 そうして自分が収容している魔力を尽くして召喚した武器が……腕の中に生じた。かつて祖父・照行じいさんから譲り受けた巨大な刀だ。
 刀と言うには刀に失礼、俺の身長を優に超えていて、もしかしたら虫が出てくる前の巨体よりも長く、デカイもんを召喚する。
 あんまりに魔力の消費が激しすぎるモンをじいさんに貰ってしまったので、ここぞというときにしか召喚できない代物だった。名は『華条侶』。意味は忘れたし扱いづらいが、ここぞに使えば最適ということで使わせてもらっている。
 デカブツの刃に炎を発し、大きく振り被った。そのときに連鎖させる呪文の詠唱も忘れない。

「■■! だぁ、っりゃああああ!!」

 呪文と共に振り被りながら、爆発させ、横に一迅、切り裂き薙ぎ払う。
 刀の射程内に入った全てが切り裂かれ、焼け落ちた。
 虫が炎によって斬られていく。あちこちに散ろうとしていた虫も火の子と接触すると同時に燃え尽きた。
 無論、火災で騒ぐようなことはしない。倒したい対象が焼け落ちたことを確認したらすぐに呪文を唱え、魔法の炎を消す。
 これで建物に被害が出ることなく火事は終わる。
 炎のパチパチと俺が壊れ崩れた家具の轟音が消え去った後、別の方向で悲鳴がしているのに気付いた。
 ……悲鳴。
 ここに居るモンって言ったら、異端と被害者と能力者しかいない。

「……このガキッ!」

 巨体と虫が完全消滅したのを即座に視認し、悲鳴がした別の部屋に走った。
 そこでは火事が生じていた。俺が付けた火ならもう呪文で消えている筈だから、違うものが原因の火事だった。

 燃えているのは人の足。
 人が倒れ、這っている。女だ。
 知らない女がいる。その女の足には、霊力の炎が爛々と輝き襲い掛かっている。
 それを見下ろしているのは……オモチャみたいな剣を構えた火刃里だった。

「メイちゃんおっそーい! おれがラスボス倒してるシーン、なんで見ていてくれなかったのーっ!?」
「…………。あー……」

 俺が見るからにヤバげな化物を引きつけてやって逃がしてやったのに、コイツはナニ、オイシイどこ取りしているんだか。
 流石に華条侶置き場に火刃里を使ったら死んじまうからそんな虐めはしない。
 代わりに、疲れたから火刃里の頭を片足置きに使った。端的に言うとカカト落としである。

 ――顔の無い肉の巨体。中身はうぞうぞぐにゅぐにゅの虫。そんなものに知性など無かった。計画的な犯行を行なえる訳が無い。
 能力者が追っているのに四日間も逃げられる訳も無い。何かしら『頭』が居ることは俺でも予想済みだった。
 その予想通り、禍々しい肉人はとある『悪意のある能力者』によって操られ、己の成長の為に殺戮・破壊活動を繰り返していた。

 能力者は人を害してはならない。だが、人を害す能力者は人と見なさない。よって悪意のある能力者を能力者が裁くことは許されている。それは数百年も前から裏社会で広まっている暗黙のルールだ。
 誰が決めたという記録は無い。何も力の無い一般人は守るものだと誰もが思い、平和を乱してはならないという常識的な心が作った人間達の規約だった。
 己の欲求のために肉人を操り、人を害し、人間を焼く前のハンバーグのようにした者を放っておく訳にはいかない。大抵こういう奴はその場で殺すか、しかるべき場所、『相応しいムショ――異端刑務所』に送るものとされている。そういった組織の代表に『教会』なるものがあるが、我が家は独自のルールで動いていた。
 異端は、誰がやろうともどのみち裁かなければならないもの。それならば、自分達の手で更生させてやる。それが我が家だった。
 優しさのようだ。これは有難迷惑じゃない。立派な報酬だった。

「メイちゃんメイちゃん! おれってスゴイスゴイーっ!?」
「あー。すげえよ、おめー。すげえとしか言えねぇな」
「やっほーいっ! ふははーっ、祝杯をあげろーっ!」
「てめぇに出す酒はねぇ」
「あいたっ」

 仏田寺に戻った俺達は汚れた身を浄化し、心霊医師によって専門的な治療を受けた。
 屋敷に入る前にちゃーんと湖で体を清め、汚れをしっかり落とし、大半の傷は治療魔術で治してもらい、目立つところはガーゼを貼られ包帯を巻かれる。
 この頃には、行きと殆ど姿が変わらず元気になっていた。
 そうして『本部』に到着し、亡くなってしまった悲しい魂や、怨霊が目標だった場合はその魂を献上する。これで全ての『仕事』は完了する。

 いかに『仕事』を早く終わらせ、戦闘は傷を作らず終わらせる。それは常日頃からの修行に掛かっていた。
 文句をギャーギャー言いながらも懸命に修行を繰り返していた火刃里は、皆から凄い凄いと言われるほど素晴らしい結果を出していた。
 見習いながらたった二人で、たった四日で『仕事』を終えた。
 しかも火刃里の手で犯人を捕まえた。
 帰ってからの火刃里は、僧侶達に会うたび会うたび拍手されていた。って、会う連中全員が火刃里のことが知っているのは人徳ってヤツか。単に目立った子供だからかもしれないが、全員に声を掛けられるというのからすると、やっぱりこいつはすげえ奴だ……。

「――火刃里」

 帰省してから三十分間。
 褒められっぱなしの火刃里の元に、師匠こと一本松が現れた。
 師匠だけじゃない。その隣には、割烹着姿の魔王も居た。絶叫しそうなほど、恐ろしいツーショットが揃っていた。

「はいっ! 火刃里、ただいま帰ってきましたーっ! エッヘンッ!」

 でも褒められる実績を持った火刃里は怯まない。
 二人に対して大変失礼な行動を取った。ああ、なんてことを。
 元から火刃里は師匠・一本松に対して恐怖心を持たないガキだったけど、面と向かってフザケた敬礼するなんて、相当のアホじゃないと出来ないことだ。
 一本松が少年の隣に立つ。長身大柄な一本松と、成長期がまだ来てないような火刃里の体格差は激しい。威圧感のある無表情のまま、一本松は、火刃里の頭に手をやった。
 頭を撫でていた。
 火刃里はにんまり笑った。

「へっへー! おれやっぱスゴイよっ、修行したらメッチャ強くなるーっ! メイちゃんなんかメじゃないしすぐにお寺の中でサイキョーになっちゃうよっ!」

 なんと大それたこと。天真爛漫無邪気純粋な子供じゃなかったら許されない台詞を、火刃里は笑って言った。皆の心は和んでいく。
 ……というのに、子供の頭を撫でるなんて優しいことをやっている一本松は相変わらずの無表情。その光景を眺めている弟の銀之助も、変わらずの無表情だった。
 感情が備わっていないような二人の兄弟に、その場の雰囲気は和むことはなかった。

「火刃里。来るがいい。……お前が望んでいたものを、叶えてやろう」

 低く、低すぎる声が響く。
 一本松の声と共に、銀之助が動き出した。ある方向へ消えて行く。それを追うようにして一本松も火刃里の頭から手を放し、消えて行った。

「芽衣もだ」

 そう、ついでのように俺も呼び付けながら。

 火刃里はずっと笑顔だった。念願の『アレ』だ。『ラクしてレベルアップ』に辿り着けたのだ。
 そうでなくても『仕事』に大成功して経験を積んだから火刃里は何倍にも成長していると思う。だが、早く強くなりたい火刃里はこんなんじゃ足りないようだ。子供だから無邪気で可憐に見えるけど、笑顔と陽気さが無かったら、その姿は貪欲に力を追い求める汚さにも見えたことだろう。
 俺はテンションが振り切り過ぎている火刃里をリズミカルに殴りながら、魔王の向かう場所――地下に向かった。
 もうここに来たら何をするのか判っている。火刃里も知っていたし、それを望んで手続きをしたぐらいだった。

 地下への階段を下り、重い石の扉を開けると、むあっとした臭気が鼻を襲う。
 でもそれも数分後には慣れてしまう。火刃里も最初のうちは鼻をムーッと抑えていたが、そのうち抑えることに疲れて、普段通り手をブラブラし始めた。

 ある一室、大きな台の上に女が居た。
 火刃里が足を燃やした女。
 異端を操っていた異端犯罪者が囚われていた。

 台から出たベルトで手足を拘束され、身動きが出来ない状態になっている。首には能力を封じるための魔道具(首輪状になっていて、付けたら異能や魔術も使えなくなるという、かの昔の仏田家の術師が発明した自信作だった)が光っている。
 いかにも人体実験みたいな雰囲気なのに地下室は和風で、よくある白くてハイテクな研究所とは大違いだった。それが余計にホラーっぽさを醸し出しているのかもしれない。
 女は涙目だった。つまりは意識も自我もどっちもあるのか。まあ、意識を無くしたら感じるものも感じなくなって『供給』すら出来なくなるけど。
 って、既に女の体の至るところには擦り傷に打撲痕。しかも凌辱された後っぽい生気の無い感じ。
 散々、『供給』の餌として使われたか。
 男ばっかの世界に女が捕らわれたんだからな、当然みんな喜んで貪ったか。俺も混ぜてくれれば良かったのに。

「火刃里、よくやった」

 一本松はもう一度、功労賞の少年の頭を撫でる。がしがしと硬そうな掌が、火刃里の頭に襲い掛かっていた。
 ちょっと唸った火刃里が笑顔は崩さず、嬉しそうにしていた。

「……お前は、強さを貪欲に求めている。それは何故だ?」
「えっ、だって強くなるためにみんな修行してるんだよね? だからだよっ!」
「火刃里自身に理由は無いのか」
「おれ? …………おれは、早く神様にこの世界に来てもらって、願い事を叶えてほしい! だから、頑張ってるんだよっ! 松山おじさんがそうしろって言ってたじゃん?」
「…………」
「神様が来るためにね、おれ、強くなってみんなと一緒に魂集めすんのっ! 早くお母さんに会いたいもんっ!」
「…………そうか。成程。良い。では先の褒美をやる。何が良い?」

 長い二人の話が終わった後、銀之助様が準備を始める。
 俺は、いつの間にか銀之助様の素早い行動に目を奪われていた。包丁を扱う動きが、まだケースから出しただけだというのに、見惚れるものがあったからだ。
 火刃里が一本松の問い掛けにウーンウーンと悩む。その後、電球が頭の上に出たような判りやすい顔をした。
 その後、火刃里は女が足を開いている方に回り込んだ。露わになった場所を指差す。

「ココか、オッパイがいい!」

 ……なんつーか、その答えに「ガキだなぁ」と思った。そこで「くるぶし!」とか福広みたいなことを言われても困るけど。
 一本松が銀之助様とアイコンタクトをすると、銀之助様が動き出した。

 まず腿肉を掴んで揉む。感触を楽しんでいるだけの無駄な動きではなく、これからのことを確かめている計算された動作だった。
 への字だった銀之助様の口が微かに動く。注目してなければ聞き取れないほどの独り言だった。銀之助様は確かに「この柔らかさなら、あっちの包丁の方が良いな」と呟いていた。
 即座に包丁を持ち直した銀之助様は、鋭利な刃を降下させた。迷いが無かった。
 ヤメテと女が叫んだ。一旦刃が停止する。それは女の声を聞いて止めたのではない。
 綺麗に赤い線が入る。血が滲む。でもパックリと割れて下品に血しぶきが飛び散るということはなかった。
 イタイと声を上げる。今度は斜めに、縦に、横に、次々と慣れた手つきで刃を立てる。
 ギャーギャーと声が上がるがやめない。ある程度の暴れも考慮に入れた突き刺し方だった。

 ついつい銀之助様の刀立ちの美しさに見入ってしまったが、一本松はというと……ついに無表情を崩していた。
 笑ってやがる。
 いつものことだった。
 火刃里はというと……まだ二回目だからか、女がイヤーヤメテータスケテーと叫んでいる姿に怯えていた。
 でも震える股間、びちゃびちゃ塗れるオマンコをじっと見ているんだから、やっぱり大したタマだった。

 左足が終わったら右足、丁寧に職人芸は進んでいく。
 女の悲鳴は言葉にならないものになっていく。濁点だらけの濁った叫び声だ。最初の頃の助けてはまだ可愛げがあったのに、今じゃ獣の声になっていた。
 最初からぐったりしていたけど、解剖が進めば進むほど動かなくなっていく。でも微妙に意識を残した巧い斬り方だから、いつまでもピクピクと動いていた。
 銀之助様は斬り取った一部を洗い流し、皿に盛り付けた。
 涼しい顔で「どうぞ」と一本松と火刃里の前に、新鮮な肉を寄越す。一本松は「先にやる」と火刃里に箸を渡した。上手くない箸遣いで火刃里は口に放り入れる。

「うー。……うまっ」
「…………ガキ、無理して言わなくていいんだぞ」
「……んー。メイちゃんの言う通りにする。あんまり美味しくないー」

 火刃里が渋そうな顔をした。それを見た一本松は、

「焼いてないから旨味が出てないんだ」

 と静かに応える。

「あ、そっか」

 火刃里もあっけらかんに納得した。
 すると銀之助様は、奥のコンロを指差した。焼くならあっちで好きに焼けという事なんだろう。そこまではやってられんという心の表れかもしれない。

「あとはどこがリクエストでしたか。ああ、乳房ですね。こちらは時間が掛かりますので食べて待っていなさい」

 下半身を斬った包丁を片付けながら銀之助様は、変わらぬ表情で口にした。
 美しい女性のシンボルは時間を掛けなければ美しく調理できないらしい。ただ斬り刻んで皿に出すだけでは許さない銀之助らしい拘りが見えた。
 一本松は解体ショーが始まったときから上機嫌に口元を歪ませていたというのに、銀之助様は未だに一度も笑わず作業に徹している。
 こういうところが恐ろしい一本松を抜いて、銀之助様が『魔王』と皆から呼ばれている理由かもしれない。

 銀之助様が台で調理をしている間、何故か俺がコンロの前に立って焼肉を作ることになった。
 火刃里は持て成される側だし、一本松は上司だからやらせることなんて出来ない。俺が女の肉を焼くしかなかった。
 綺麗に斬り刻まれた肉を串に刺して焼くだけの簡単な作業だったが、学人いわく「焼き過ぎると人間の情報が去ってしまう」という。
 いじくり過ぎた魂は元の命とは程遠いものになってしまうらしいから、微妙な焦げ目がつくぐらいで皿を二人に渡した。

「味わって食うがいい、火刃里」
「はいっ」
「単なる食事なら外界でもできる。だがこれは『聯合』と呼ばれる同化の儀式。優秀な能力者である彼女の情報を自分に宿すための儀式。魂を食らい己のものにしていることを忘れるな。奴の力を全て吸収するんだぞ」
「はいっ」

 返事だけは良く、火刃里はただただ、適度に旨味の出た肉を貪っている……そうにしか見えなかった。

「ねえっ、一本松様! この肉、緋馬兄ちゃんに持っていきたいなっ! ダメっ?」

 次から次へと同化を進めていく火刃里が、無邪気な声で叫ぶ。
 一本松は静かに首を振った。

「…………これは、健闘したお前の褒美だ」
「うっ、そっかー」

 判りやすく端的な理由を述べる。「兄ちゃんはもうちょい修行も仕事も頑張るべきだよねー」と弟に言われてる。
 でも、外界で穏健派の藤春様に育てられた緋馬がこの光景を見たらどうなるか。ちょっとばかり俺も興味があった。
 慌てるのか、絶句するのか、喜ぶのか、ゲロ吐くのか。福広に悪知恵を借りてこの場に連れて来たい。
 肉を焼きながらそんな悪巧みを考えてしまうばかりだった。

 女はいつの間にか絶命していた。
 その代わり、火刃里の中で生きることになった。お大事に。



 ――2005年11月8日

 【   /Second/   /    /   】




 /3

 朝、決められた時間通りにボクは厨房に向かった。
 銀之助サマが決めた『学人到着時刻』ピッタリに厨房に入る。
 それより早く厨房に入ると銀之助サマは機嫌を損ね、それより遅く入るなんてことをしたら鉄拳制裁を受けてしまう。
 誤差はプラマイ六十秒まで許された。それぐらい徹底しなければならない。だって厨房は、魔王が全てを握る完全なる世界だからだ。

 乱れたことがあってはならないと常日頃から言っている魔王。
 コンピュータのように間違いが無く動くあのヒト。まだ定期的なメンテナンスが入るだけコンピュータの方が不正確にも思えるほど、あのヒトは完璧だった。
 だから若い子達は「銀之助サマって実はロボットなんじゃない?」「研究チームが開発した人造人間とか?」ってウワサしていた。実を言うとボクも始めのうちはそうなんじゃないかと思っていた。

 でも今はこう思う。
 ――寝坊もしない、風邪も引かない、どこまでいっても間違いの無い銀之助サマはロボットなんて半端なものではない。
 全知全能完全無欠のカミサマと言った方が相応しい、と。

 ボクの家は『何でも出来る神』を追い求めているから、銀之助サマをカミサマと言うと銀之助サマ自身が「恐れ多い」と一蹴りしてくる。
 「私なんてまだまだです」と謙遜しながらの雑談中も作業を止めず、決められた事を実行していくんだ。
 やっぱ、銀之助サマはスゴイよなぁ。イヤ、寧ろ異常だよなぁ。カミサマでいいよ、もう。
 そんなカンジでボクは毎日毎日あのヒトの元で修行している。いつも感動しながら料理の腕を磨いていた。今日もまたどんな感動を味わってしまうと考えながら、ボクは「オハヨウゴザイマス!」と厨房へ入って行った。
 そして、銀之助サマが居ないことを知った。

 ――神の不在。それは、世界の崩壊の始まり――。
 サヨナラ人類。

「…………イヤ、イヤイヤイヤ! あのヒトだって人間なんだからこういうコトあるし!?」

 寧ろ今まで云十年間『銀之助不在の厨房』が無かった方がオカシイし! 異常だし! 居ないことがあってフツーだし!
 取り乱しながらもう一度、厨房内を見る。やっぱり居なかった。
 普段ならこの時間、銀之助サマはボクより一足早く厨房に入り、仕込みをしている筈。春夏秋冬366日変わらず、そこ、決められた一メートル区域に立っている筈だ。
 しかし今、誰も居ない。
 なんてことだ。魔王神話が崩れるってどんな緊急事態だ!? あの、一秒でも予定が狂うと刃を向ける銀之助サマが不在って、どんな大事件だ!? 空から何が降って来るんだ!? コロニーか!?
 とりあえず一分間だけ待ってみる。集合時間から、六十一秒が経った。……アリエナイ!
 いつも他人に「六十秒間だけ猶予をさしあげましょう」と優しいから言ってくれるけど、顔はメッチャ見下したモンになってる銀之助サマの危機って一体……!?

「銀之助サマァー!? ラグナロクですか、ハルマゲドンですかぁー!?」

 慌ててボクは厨房で大声を上げた。
 早朝にやらなければならないコトなど頭から抜けてしまった。とりあえず今は、終末の刻に体を震わせるしかなかった。

「…………そこに居るのは、学人か」

 と、大事件に対処できないアワワなボクの名を呼ぶ声がする。
 その声は、銀之助サマのモノじゃなかった。厨房に銀之助サマ以外の人間が居るというコトも緊急事態異常現象絶体絶命で、アタマがパーンしそうだ。
 というのに、声の主は……厨房奥の倉庫(季節物やイベント事でしか使わないような調理器具を片付けておく場所)に居た。
 顔を向けるとそこには魔王の兄(つまりはボクの伯父)、一本松サマが居た。
 なんでこんなトコロに魔族が!?
 そう声に出さなかった自分を自分で褒めてやりたい。
 何度も言うけど、この魔王の領域は魔王と認められた者しか立ち入ることが禁じられている。たとえ当主様でもあっても許さないかもしれないほど、徹底した規則だ(イヤ、流石に当主様なら入れると思うんだけどさ。そもそも当主様が厨房に来るコト自体が異常現象だからアリエナイ話だよね)。
 それなのに人が居るということは、魔王が特別に認めたというコトなんだろう。
 少なくともボクの知る限り、一本松サマは一緒にエプロンを着けて料理を手伝うようなヒトではなかった。料理なんてしたことないような、出来あがったご飯を食べるだけのお方だ。
 理解できないこの状況に、「どうしたんです、何があったんです?」と正直に尋ねた。

「別に何も無い」

 んなコトあるかーい!
 ……無言で、ボクは裏拳を虚空に向けて放つ。モチロン虚空にだ。一本松サマ相手にだなんてカウンターが怖くてできたモンじゃない。

 さて、冷静になろう。
 一本松様は、倉庫の前に突っ立ってた。そして暫しそのまま何もしなかった。
 無言で立っているだけで威圧感を感じるし、何もされていないのに「ハイそうですね、スミマセン!」と謝りたくなるような大男が、そこに居る。居るだけ。
 いくら黙っているのがデフォルトだって、無意味な行動はしない人の筈なのに。銀之助サマと同じで、無意味を嫌う人の筈だったのに。一体そこで何をしているんだ。
 立っていることに意味があるとしたら何か。……ボクの名前を呼んで注目させた理由も、何だ?

「あ、あの、一本松サマ? そのー……」

 勇気を出して、「ホントに何なんですか?」と尋ねてみることにした。
 すると一本松サマはほんの少し、目を泳がした。とても珍しいことだ。……それから数秒後。

「…………まだ準備ができんのか、銀之助」

 いきなり一本松サマは重い口を開いた。
 ボクに呼び掛けたのではないのは、最後に付け足した名前で判る。銀之助サマに向けてその言葉を発しているのに、ボクの目には銀之助サマの姿は映らない。
 だから、ボクは辛うじて悟る。
 ああ、きっと……倉庫の中に銀之助サマが居て、一本松サマが何かを手伝っていて、時間を稼いでいるんだなぁってコトを。

 それってもしや、お二人的にボクに見られてはマズイことをしてるんだろうか?
 当主様勅命の大事な打ち合わせとか、ボクのような下っ端が見てはいけない貴重な食材を取り扱っているとか? とにかく、何か重要なコトが行われているんだろうか……?

「あ、あの! ボク、暫く外に出ていましょうか? もしアレでしたら先に台拭きの消毒とかしてきますよ?」
「…………六十秒。経ったぞ」
「エッ?」

 一本松サマが言う。ボクが訊き返す。
 それと同時に、一本松サマは勢い良く倉庫の引き戸をピシャッと開けた。
 何だと思って倉庫の中を覗くと、中から銀之助サマが飛び出して来た。
 なんと、飛び出して来た。
 懸命に荒い息を止めようとしながら、冷静沈着を装おうとしながら、少し乱れた着物を整えながら出てくる。何が何だかボクには判らなかった。

「…………学人! 貴方は何をしているのです!?」
「ハ、ハイ?」
「この四分間、何をしていたのですか。何もしていないとはどういうことです!? 貴方にはやらねばならぬことを教えているでしょう!? 突っ立っているだけの木偶を招くつもりはありませんよ!」

 鋭い怒気が次々飛んでくる。コッチは銀之助サマ不在の世界的危機の状況にワタワタして心配していただけなのに、なにもそこまで怒らなくても……。
 でも、そんな言い訳は銀之助サマには通用しない。問答無用で「仕事に取りかかりなさい!」と叫ぶ銀之助サマに従い、ボクは決められたコトをし始めた。
 チラリと一本松サマを見た。
 彼は目を瞑り、笑っていた。
 あ、なるほど。一本松サマが笑うと言ったら、そういうコトをしていたのか。

 ……一族の朝食の準備が終わった後、ボク達も朝食を取る。
 朝食は朝六時からが第一陣。常に寺には六十人強は居るので、三十分ごとに第二陣、第三陣と分かれて食事をする。
 その日のスケジュール次第で前後するが、大抵ボクは朝五時半には朝食にありつけるようになっていた。
 これが一般的に早いのか、寺にしては遅いのかは知らない。でも厨房の手伝いをし始めてからこの時間に食事を取るようになったから、時間になるとボクのお腹は自然に鳴るようになっていた。
 今日も正確に五時半にお腹が鳴り、「イタダキマス」を口にする。

 たとえ開始に四分の遅れがあったとしても、五時半には朝食を取った。
 銀之助サマの言い付けで時間はきっちり分けているが、余裕の無い編成にはなっていない。万が一事故が起きた場合でも十分間は余裕を持てる時間の組み方になっている。
 今まで事故が起きることなんて無かったし、無意味を嫌う銀之助サマの性格のおかげで、空いた十分のうちにボクへの個人勉強が入るもんだけど……今日はそれが無い。
 個人勉強は行わず、朝食を作り終えたと同時にモグモグが始まった。
 しかもこの場に銀之助サマがいないモグモグがだ。

 銀之助サマは、ボクの「イタダキマス」を見届けると同時に厨房を去って行った。普段なら目の前で一緒に朝食を取るというのに出て行ってしまった。
 代わりに銀之助サマの席に居るのは、一本松サマだった。
 ……なんだか緊張で箸が進まなくなる朝食だ。あ、でもお吸い物がウマイ。ゴクゴク。

「学人、少し話に付き合え」

 箸を進める一本松サマが、唐突に口を開く。
 「ハイ」と背筋を伸ばしつつ、時間通りに食事を終わらせるため箸を進めながら耳を傾けた。

「お前は、銀之助に感情は無いと思うか」

 一本松サマはちゃんと口に入れたものを砕き終えてから、言葉を繰り出した。
 食事しながらの会話でも、食べながら喋るなんてことはしない。
 ボクは「イイエ」と首を振る。人より感情は見せないけど、あれは生真面目な性格の表れだと知っているから。ボクは正直に応えた。

「学人も知っている通り、銀之助は感情を隠したがる癖がある。徹底した無情の行為こそ美しい、無駄が無いものほど立派で、誤りの無いものこそが素晴らしいと考えている。それ故に損も多い。可愛い奴だ」

 クスリと一本松サマが笑う。
 その笑い方は、『お兄さん目線』の笑みだ。年下の行動が可愛くてつい甘い目で見てしまったときの笑いに見えた。

「ところで昨晩。火刃里と芽衣が良い『仕事』をしてきた話は知っているか」
「昨晩? ああ、肉塊オブジェ事件の話ですか」

 ――肉塊オブジェ。オブジェが肉の塊、そういう事件だ。
 人間を殺してギュッギュとおにぎりのように丸めて放置されるという恐怖の事件が数日前に起こり、犯人が百日も捕まえられずにいた。
 けれどメイちゃんさんと、新人の火刃里くんの活躍によって解決したという。
 昨日の夕方二人は帰省し、昨晩二人にご馳走が振る舞われた。
 振るったのは勿論、ご飯を用意する係でもある銀之助サマだった。

「私もその場に居合わせたのだ」

 というか、ご飯を用意させる係が一本松サマでしょうに。
 思ったけどボクは何も言わずに、小松菜を食べる。

「二人が連れて帰ってきたのはな……良い物だった。仕込みのときから良い材料だと判った。あれは、絶品だった」
「そうだったんですか。確か、女の人でしたよね? 僧侶の中でも『久々に女相手とヤれる〜!』ってハリキっている面々が多かったです。しかも初物だったそうじゃないですか」
「学人。詳しいな」

 そりゃ、「ヤッホー処女いただきー!」ってハイになってる僧達を見かけちゃったら、記憶に残そうと思わなくても残っちゃうもんだ。
 ボクは遠目にしか地下に連れて行かれる食材を見てなかったけど、それなりに肉付きの良い可愛い子に見えた。
 男性経験の無い、独特の臭みの無い、良さげな魔術師の女性だった。これから仕込めばずっとずっと良くなりそうだと思った。
 でも、仕込みはたった数時間、その後すぐに食べられてしまった。……ボクは昨日その場に居なかったから、全部伝聞でしか知らない。

「一本松サマ、良い笑顔ですね」

 ……ついつい箸を置いて言いたくなるぐらい、今の一本松サマは良い表情をしている。
 別にニコニコ笑っている訳じゃない。人によっちゃ、笑っていると見えないぐらい顔の筋肉は動いていないかもしれない。
 でも普段の姿を知っていれば一目瞭然。一本松サマの唇が歪んでいるのが判る。それは、現在食事中だからじゃない。

「仕込みの時点で褒めるだなんて、そんなに良いエサだったんですか?」
「私は相手をしてないがな。だが、皆が柔肌を責め立てる度に良い声で啼いていた。……たった二時間だけだが、良いものを聞いたぞ」

 そんなに良い声で啼き続けたのか。
 二時間も女に飢えた男達の乱交に付き合わされたら、声も嗄れちゃうと思うんだけどな。しかも初めてだったんだろ?
 確か六人は仕込みに加わったって言ってたから……六人分もズボズボアンアンされてたってコトだろ? 二時間後なんて可愛さも無くなっちゃうと思うのに、ここまでの絶賛。ホント、その日のうちに食べちゃったのは惜しかったんじゃないかな……。

「一本松サマが気に入るだなんて相当ですね。ボクが知らないだけかもしれませんが、一本松サマはそうお気に入りに出会えてないと聞いていました」
「誰がそう言ってた?」
「ア。えっと…………メイちゃんさんが、です」

 ……一本松サマは基本ゲテ食いだから、『魔眼の化け物』のような一級品じゃなきゃ満足しないんだぜ……。そうメイちゃんさんが酒の場で言ってたのを思い出した。
 ゴメン、メイちゃんさん。これが原因で怒られてもボクのせいにしないで。

「あの女をすぐに食らったのは、火刃里が熱望していたからだ。あやつは短気だからな。早めに褒美をやっておかんと落ち着かん」
「ハア」
「話を戻そう。銀之助の話だ。あやつは、不浄を嫌う。とにかく嫌う」
「アー。確かに。銀之助サマは『供給』も滅多にしないっておっしゃってました。潔癖症なお方ですからね」
「だが、情が無い人間ではない。人より大人しくても、興奮もする」

 ロボットが時々仕事をし過ぎてオーバーヒート、熱くなっちゃうかのように、ほんの時々だけ銀之助サマも熱くなる……。あんまり想像できないけど、そういうコトか。

「昨晩の餌は、調理している間もずっと良い声で啼き続けた女でな」
「ヘエ」
「その場は凌いだようだが、やはりあやつも興奮していた」
「…………。ええと、その、ボク、それ以上聞いちゃっていいんですかね?」

 後でゴゴゴと鬼神が現れてボクもアーレーな目に遭う……という展開はご勘弁願いたいんだけど。

「割烹が終わり、火刃里らを帰し、器具を片している間もな、必死に生じた熱を隠そうとしていた。あんな表情、久々に見た。懸命に隠そうとしているんだから、ああ、愉快だった」

 キョロキョロ。つい厨房の入り口を見てしまう。
 ナンテコト話シテルンデスカー、ガッシャーン……そんな風に突然魔王が現れてそんなポコスカなオチは遠慮したかった。でも今のところ銀之助サマの影は無かった。

「ええと、だから」
「ああ」
「…………朝まで? あそこで? ……一本松サマが銀之助サマのお相手を? 『供給』を?」
「そうだ」

 ずずっ。
 話がキリの良いところまで到達したので、二人揃ってお吸い物を啜る。

「それが今朝の銀之助サマ不在の理由ですか。……御説明、アリガトウゴザイマス」
「説明しておかなければ、学人がずっと曇った顔で作業をすると思ってな。勝手ながら話させてもらった」
「……アッ、お気遣いさせてしまってスミマセン。そんなにボク、顔に出てましたか?」
「お前は銀之助と真逆、常に笑って動いているからな。…………学人の笑顔が曇っていれば、皆が何があったと噂する」

 ――それこそ、魔王神話が崩れて大騒ぎするかのように。
 学人が沈んだ顔でお鍋を掻き混ぜている、一体何があったんだ……そう噂されるぞ。

 ボクはそれを聞いて唖然としてしまった。
 ボクに一族の影響力は無いと思っている。それだけに、一本松サマのお言葉は衝撃的だった。
 だって……心配してもらえたってことだ。少しでも我が家に影響を与える存在になれたと実感できて、心の中でガッツポーズをしてみせる。

「でも、時間通りに事を進めなきゃ気が済まない銀之助サマが、朝の時間に間に合わないぐらいって……。一本松サマ、激しく抱きすぎたんじゃないんですか?」

 ボクは、怒られない程度に茶化した。

「私に罪は無い。あやつが離さなかったんだ。時間通りに終わらせなかったのは……あやつが激しく求めてきたからだ」

 ゴクリ。二人揃ってお吸い物を飲み干した。
 ……一本松サマはそのまま飲み込んだけど、ボクは思わず逆流させてしまうトコロだった。

 そうして、銀之助サマが厨房に戻ってきた。
 ボクの横を通り過ぎた銀之助サマから、石鹸の良い匂いがする。
 そっかぁ。一晩中、換気の出来ない倉庫の中でヤってたんじゃ、汗が気になってならないよなぁ。
 絶対に口に出来ないようなことをうっすら思う。すると何故か銀之助サマが睨んできた……気がする。ボクの被害妄想かもしれない。
 銀之助サマが着直したおかげで着崩れの一切無い格好で、一本松サマの前に立つ。ずうんと立つ。一
 一本松サマは食事を終え、口を拭いている最中だった。

「それは、私の朝食です」
「知っている。頂いておいたぞ」

 エエエエエ。
 ボクは心の中で絶叫した。今のは声に出して驚いても良かったかもしれない。
 だって……食べていいから食べてたんじゃないのかよ!? 平然とボクの目の前で銀之助サマのゴハンを食べてたんかい!?

「あれだけ私のモノを飲んでおきながらまだ空腹なのか、お前は」
「同じぐらい貴方も口にしていたというのに、人の食事に手を付けるほど貪欲なのですね。どこまで飢えれば気が済むのですか」

 それなのに下ネタで続けるのもどうなんだよ!? 今のはレッドカードだぞ! メイちゃんさんでも爆笑するか微妙なラインだよ!?

「では朝食の時間だな。私は去ろう。部屋で待っているぞ」

 しかもまだ食べるつもりだ!? 男世界に合わせた朝メニューだからそれなりガッツリ用意されてるのに、二人前いく気だ……!
 一本松サマは涼しい顔で立ち上がる。今までの話が嘘じゃなかったと思わせる会話の流れだったが、銀之助サマの変わらぬ冷淡なお姿を見る限り……『興奮した』とか『激しく求めた』が嘘に思えてきた。
 それぐらい、今の銀之助サマはいつも通り、針圧な言葉を繰り出すロボットのような無表情人間だったからだ。

「銀之助、そういえば。……今朝、悟司が妖精族を狩ったそうだ。昼には帰ってくるぞ。今のうちに良いメニューを考えておけ」
「貴方に言われなくても既に悟司から報告を受けています。まずその餌は、昨晩の餌のように一日で食すものなのですか? 無計画に調理しろと言われても困るのです。私の生活に支障を来します。きちんと決めてから言いなさい」
「そうだな……妖精が女体だったら三日ぐらいはマワして楽しむか。先程学人の話を聞いた限り、飢えているのは私だけではないそうだがな」

 話題に出され、銀之助サマの細い目がこちらを向く。
 恐ろしい視線が襲いかかってくる。ヒイッ。

「銀之助も飢えているなら、私が調理してやる。お前もきちんと後先を決めてから言え」
「…………お黙りなさい。さっさと部外者は出て行きなさい!」

 一本松サマは一頻り弟サマをからかった後、顔を無表情に戻して厨房から去って行った。
 さっき一本松サマが食してしまった食器を片付けた後、銀之助サマは、

「学人。塩を撒きなさい!」
「ハッ」

 汚らしい怨霊と同等な扱いでその場を終わらせ、そうして何事も無く朝食配膳作業へと移っていった。



 ――2005年11月8日

 【   /Second/   /    /   】




 /4

「…………もう時間ではないのか?」
「……大丈夫……です……っ……」

 私の股間に顔を埋める銀之助に、「私はまだ終わらんのか」と小声で愚痴る。
 溜息も全て、しゃぶっている銀之助の耳に入るにしたが、奴は聞かなかった。

 大の大人が二人も入れば身動きがロクに取れない倉庫。その中で、一晩中、飽きずに銀之助は性欲に溺れていた。
 私が調理用品を汚せば文句を言うが、銀之助は自分の都合でルールを変え、周囲を汚す。そんな尊大さには流石に嫌気が差した。始めのうちは可愛いと思っても、今ではげんなりするばかりだ。

「んっ……兄上、隠さ、ないで……下さい。脚を開いて……」
「…………」

 ――またか。何度同じことを繰り返せば済むのか。
 熱心に良いところを舐め続ける姿は何時間経っても良いものでは変わりなかったが、そう何度もいけるほど若くはなかった。
 たとえ若くてもついていけないのではと思うほど、必死になって舌を動かしてくる。

「……銀之助。それで気持ち良いか?」

 奉仕されている私が気を遣ってやらなくてはならんとは。
 口で奉仕しつつずっと自分の指で自分を慰めている弟を、言葉だけ労る。

「は、はい……。もっと、飲ませて、ください……」
「久々過ぎるからやみつきになってしまうんだ。日頃から鬱憤を溜めるな。お前の悪い癖だぞ」
「……それは、私のせいですか? 皆が、そうさせているのではないですか……誰も彼も、半端で……私を苛立たせて……んっ……」

 先を転がすように舐め、頬張って吸い、全体を愛撫する。淡々とした動きだが熱のこもった動作に、笑っていいものやら。
 そんなに欲しければ違う者と、大勢で、好きなだけしゃぶればいいのに。そう何度も言ったが、銀之助は数を足すことなく、ただ私だけを咥え続けていた。
 と言っても、皆恐れて銀之助の相手などしないか。おそらく頼まれてもしたくないと訴えるだろう。仲の良いとされている学人でさえ遠慮するに違いない。良いように使う匠太郎でも全速力で逃げ出す。
 満たしてやれる相手など、私しかいないか。

「…………。銀之助。もう止めんか。学人が来るぞ」

 終わらせる気配の無い弟の顔を、無理に引き離させる。
 すると不満げな目で見上げてきた。私は着物を正そうとする。だが、銀之助はなかなか動かなかった。
 相当興奮したらしい。まだまだ止まる気配が無かった。それだけ昨晩の女は良い素材だったということだ。なかなか刺激されない我ら兄弟でさえその気にさせてしまう、良い声と肉。火刃里の熱望が無ければその日のうちに片付けてしまうのは惜しいぐらいだった。

「時間だ。学人が入ってきた」
「…………ん……」
「お前が厨房に立ってなければ、学人は慌てふためくぞ。五分もしないうちに外に飛び出て、寺を大騒ぎにさせるだろうよ」
「…………」
「学人をそうさせたのはお前だ。秩序を乱すな。お前の口癖だぞ」
「……申し訳無い。どうかしていました」
「可愛い弟の為に、暫し時間を潰してやる。と言っても……私が出て六十秒後には開けるからな」
「……せめて三分はもたせてください」
「そこまで私は優しくない。弟子の前で恥をかきたくなければ、すぐに事を終わらせるんだな」

 倉庫の戸に手を掛ける。
 学人を制している間に着物など正すことも出来る筈。なのに弟は、まだ淫らにも体を慰めていた。このままではいけないと判ってはいても必死になって自分を落ち着かせようとしている。

「……見ていてはくれませんか?」
「お前が達する姿なら今朝だけで何度見たと思っている。そんなに見てほしければ他の奴を呼べ」
「…………貴方に、お願いしているのですよ。……いいです。すぐに……終わらせます」

 普段から不真面目さを外に出しておけば、こんなピンチにならなくて良いものを。
 不器用というか奇怪すぎるそれを置いて、私は引き戸を開けた。



 ――2005年9月17日

 【     /     / Third /     /     】




 /5

 うっすらと香る甘さ。シンとした空気が微かに熱を帯びている食堂。中ではカチャカチャと食器が可愛い音を立てていた。
 今日も今日とて直系一族の暇人が時間を潰している。特に今日は一段と上機嫌だ。自慢の紅茶セットを前にし、自分の知識を吐き散らかしたくて堪らないらしい。得意そうに趣味を語るときわの声を、必死にブリッドが耳を傾けていた。

「ほら、葉が上下に浮いたり沈んだりしませんか? これが起きないとお湯がぬるい証拠です。湯じゃないと紅茶のおいしいところが出てこないんです。カップを暖めろというのはそれが理由でして……」

 講座の初歩を説明するときわは、丁寧な物腰ながら興奮している。ブリッドの間近で不可視の姿で眺めているワタシには、鼻息を荒くしているのが丸判りだった。
 ときわにはワタシの姿は見えていない。今はそういう風にしている。ブリッドはワタシの存在に気付いているが、姿を消すことなど慣れているので何も反応を示さない。ワタシの尻尾がパタパタとブリッドの足に当たろうが、かまわず小柄な先生の話だけを追っていた。
 サングラスで目を合わせないようにしていながらもブリッドは、嬉しそうなときわの話を真剣に聞き入っている。耳を傾け相槌を繰り返しているだけなので生徒としては二流かもしれないが、それでもときわには自分の話を聞いてくれる人間がいることが嬉しいらしく、構わず得意げに紅茶のうんちくを話していた。

「高価な茶葉が良いんじゃないんですよ。お気に入りがあればそれを徹底して研究してみるのも良いですね。人によっては色んな物も混ぜて味を変えますからね。ブリッドさんは何のお茶がお好きですか?」
「あ……え……。レモンティー、好きです」
「…………。ああ、なるほど」
「………………はい?」
「うん、確かに紅茶ですね。入れるものが中心になりますけど」
「……あの、ということは、レモンティーは……紅茶ではないんですか?」
「いえ、その。ソーリー、僕の尋ね方がミスでした。ちょっとジャンルが違うというか、いえいえ、好きな飲み方は把握しました」
「……何かオレ、変なこと言いましたか……?」

 二人の会話が止まる。
 今のは質問の仕方が悪かったのか、それとも受け取り方が悪かったのか。調子の良かったときわの舌が止まってしまった。
 その程度でときわは怒らない。だがブリッドが慌て始めた。自分のせいでときわの機嫌を損ねてしまったのではないかと顔を暗くしつつあるが、ときわが笑い出したので気の良い雰囲気が台無しになることはなかった。
 でもまあ、いきなり笑われてブリッドは更に焦り始める。一向に訂正しないときわに、別の席に着いていた赤毛の男――アクセンが口を挟んだ。

「ブリッド、ときわ殿は『何の茶葉が好きか』と言いたかったんだ。少し前まで茶葉に関して話していたのだから、お前もそのまま答えればいい」
「……ぁ……。すみません、頭が回らなくて……」

 やっと意味を理解して頷く。けれど問いの答えを口にすることはなかった。
 言わないのではなく、言えなかった。何故ならブリッドは、茶葉の種類なんて知らない。なんとなく聞いたことがある名前しか知らないし、自分が今飲んでいる物ですら何なのか判らないのだから。
 だから頭を下げてその質問をごまかし、回避しようとした。
 話に聞き入っていた彼だが、興味あるのは紅茶ではない。紅茶が好きな彼らなのだから。
 元々紅茶のことなんて興味の無い弟には、この空気は辛いだろう。……ワタシは姿を現した。

「あれ、ワンちゃんがいる?」
「ん?」

 何も無かった空間に、白くて大きな毛並みの獣。二メートル近い巨体を見逃すことなど普通の人間ならまず間違いなくありえないが、無色の霧を纏っていた雪狼だから出来ること。
 突然の襲来に、ときわとアクセンがワタシの存在に気付いてハッとしている。
 ブリッドは元からワタシがいることを判ってはいたが、ワタシがいきなり二人の前に姿を現した意図が読めずに不審な顔をこちらに見せていた。何故先程まで『不干渉の式』を展開していたのに、と言うような顔だ。

 ――何故って、ワタシはブリッドを救おうとして現れたんだよ。

 そんな思惑、三人とも伝わらない。特にときわとアクセンには判る筈も無い。だから彼らは不思議な顔をしたまま……次々にワタシを撫で始めた。とりあえず犬科の生き物が居たら頭を撫でるのが礼儀だと思っているらしく、二人がかりで無造作に撫でられることになった。
 大勢にぐしゃぐしゃ頭を触られるのはあまり好きではない。だが、二人とも比較的優しく扱ってくれる。黙って撫でられることにしよう。
 これでさっきのブリッドの質の無い会話は消えた。それでいい。……やっとワタシの思惑を理解してくれたのか、ブリッドがワタシにアイコンタクトをした。二人に五分ぐらい撫で回された後のことだった。

「ワンちゃん。今朝焼いたクッキーだけど食べる?」

 ときわがワタシの前にクッキーを見せた。コクンと頷いて、寄せてきたクッキーの手をペロリと攫う。
 このクッキーが今朝焼かれた物であることぐらいワタシは知っている。
 だってブリッド自らときわにお願いして焼いてもらった物だ。頼み込む姿まで全部見ていた。だからときわのうんちくなどいらない。構わずボリボリと音を立ててたいらげてしまった。

 ときわはブリッドから茶会の話をされたことに大変感激したらしく、今朝は銀之助の許可を無理矢理もぎ取ってお菓子作りに励んでいた。
 まさかブリッドに頼まれると思ってなかったらしい。だってときわの茶会仲間はアクセンだ。そのアクセンにくっ付くような形でブリッドが参加しているようなもの。そこにブリッド自ら茶会の話題を進んでしてくれたということが、えらく感動したらしい。だから今日は一日中上機嫌なのだ。
 初歩中の初歩から、そんなの知っていて何の得があるんだという雑学まで彼はずっと喋り続けていた。アクセンではなく、ブリッドに。
 何気ない一言だったのか、それとも意を決しての告白だったのか。ブリッドがときわに話し掛けたことで今日は怒涛の雑学茶会と化している。始めはときわの上機嫌に気圧されていたブリッドだったが、今は困惑四割、嬉しさ六割といったところか。

 充分、楽しそうに見える。
 言葉が詰まることがあっても受け答えだってしているぐらいだ。
 それが余計にときわには嬉しいのか、無表情と無反応から一転、反応があることが嬉しい彼は更に頭が愉快になっていく。
 良い連鎖が生じていた。
 同時に、これはいけないな、と危惧していることもあった。

 ――いきなりどうしてブリッドがときわを誘ったか。他人を拒んでいたブリッドが、あんな過干渉なときわを動かしたのか。
 それは……ワタシは二人の話を静かに聞きながら、ティーカップに口をつけているアクセンを見た。
 おそらく間違いなく、自分の誕生日に優しくしてもらったからだ。

 ワタシは溜息を吐く。
 その間もときわは次の話題を挙げていく。ブリッドが時に焦点のズレた回答をして、アクセンが正す。一定のリズムの茶会が繰り広げられていた。
 それはそれでいい。溜息を吐くようなことじゃない。だって楽しい時間を過ごすことは悪じゃないからだ。
 うん、良いことだと思う。けど……『ブリッドは、その落差を味わう連中に飼われている』から。『だから気遣ってやった』のに。

 夏の始まりの日。忠告してやって、彼は一度関係を断った。だが残念ながらまた繋がってしまった。それどころか孤独になった瞬間に優しくされて、余計に彼らへの友情か何かに芽生えてしまったブリッドは……これまで以上に接触を求めるようになった。
 ワタシが守ってやったことなどお構い無しか。
 まったく、単純にも程がある。……ワタシの気遣いなんて全然考えてないんだろう。ちょっとばかり悲しかった。ふんだ。
 いじけながらも暫くときわに顎を掻かせていると、テーブルに置かれていたときわの携帯電話が鳴った。すぐに応対し、また何分が経った後に、ときわは二人へ振り返る。

「えっと、大山さんから……家の人から電話がありまして、ちょっと本殿に来てくれと言われてしまいました。すみませんが僕は行かなくてはなりません」
「ん。急用なのか、ときわ殿」
「ええ、すぐに戻ってこられそうですけど。ですが帰ってこられないこともありますので、今日は名残惜しいですけどこの辺で……。あ、でもアクセンさんとブリッドさんは楽しんでいってくださいね。僕のことはお気になさらず」

 ときわが片付けようとすると、すかさずブリッドが「片付けます……」と止めに入った。小声で。
 そのたった一言が、ときわにとってとても愛おしいものに聞こえたらしく、笑顔で首を振る。
 普段と同じ小声の「自分がします」が、義務感によるものではなく、自分の好意だと受け取ったらしい。ほんの些細な声の違いでも、今日一日をブリッドの好意で味わったときわには充分な錯覚だった。「自分の食べた物ぐらい自分で片付ける、子供じゃないんだからできますよ!」 ハッキリと言い切るときわの目には、初対面のブリッドへ向けていた不審な色など一切無かった。

「お二人とも、すみませんが失礼しますね。今度のお茶会、楽しみにしてますよ。……ワンちゃんもまた」

 丁寧な少年はペコリとお辞儀をして去っていく。礼儀を払って損は無い、犬らしく挨拶にワンと鳴いておいた。
 さて、一方でアクセンはどうしているかというと。ときわが食堂を去った後も落ち着いてときわが淹れた茶を飲んでいた。優雅に、ああ、いつもと変わらず。

「ブリッドはどっちを食べる?」
「…………はい……?」
「私の買ってきたケーキの話だ。ときわ殿のクッキーに夢中になっていたが、ナマモノだから早めに食べておかないとな。ほら、ブリッド、好きな方を選べ。六つもあるんだから三つ好きな物を選ぶがいい。半分こしよう」
「……その……オレは……」
「三つも食べられないか? ときわ殿も張りきって大量のクッキーを作ったからな、仕方ない。そうだブリッド、明日は仕事があるのか? 日曜なら休みだろう? それなら明日もここで残りのケーキを……」
「………………すみません……」
「ならブリッド。次の休日はいつなんだ?」

 選べとケーキの箱をブリッドに見せつけながら、次々と話題をぶつけてくる。
 どっちに意識を集中させたらいいんだと、またも慌てて何も出来なくなってしまいそうだったブリッドは……とりあえず一つずつ事を済ませていこうと、箱からチョコレートケーキを取り出すことを選んだ。

「ええと……とりあえず、このケーキで……」
「次の休みがいつなのか判らないか。ときわ殿も行ってしまったし後で近々次の日程を」
「…………」
「ん。…………ああ、すまない、少し急かし過ぎたな、すまない」
「……えっ? ……ど、どうしましたか」
「お前が迷っているのに気付いてやれなかった。許せ。ああ、『私はショートケーキが好きだ』。こっちを貰おう」
「い……いえ、そんな、お構いなく……。あ、はい、どうぞ貰ってください……」

 会話を一人で進めていたアクセンは、ブリッドがついていけていないことに気付いて押し留まった。ときわもそうだが、彼らは一人で突っ走って楽しむ癖があるらしい。
 それでも少しだけ一時停止してくれた男は、好きだという苺と白いクリームのケーキを皿の上に乗せる。茶会に相応しい煌びやかな姿が箱から顔を出した。
 ……って……あれ……んん……?
 今、もしかして……ワタシは凄く珍しいものを目撃してしまったのではないか?



 ――2005年9月17日

 【    /     /     /      / Fifth 】



 /6

 広い境内の中で心休まる場所。洋館は常日頃から入り浸っている僕にとって、切っても切れない大切な居場所になってしまった。
 この洋館は、境内の中にある建物の中でも唯一洋風な建築物。寺を訪れた部外者の為に建てられた来賓用の区域に過ぎない。仏田の敷地内でありながら外の空間。言葉になかなか出せなくても外界に微かな憧れを抱いている僕には、当然のようにその雰囲気を恋しく思っていた。
 別に仏田寺のことは嫌いな訳じゃない。厳しい義父と過ごした寺が本来の居場所だ。でもここにある絵画は色彩豊かで、夜になると灯されるランプはきらきらしていて、ベッドとテーブルと椅子があるというだけで別世界の空気が味わえて……。夢見た世界を身近で楽しめる、そんな場所を心から愛していた。
 洋館の内装はもう退魔業の現役を引退した照行様やその周囲の何人かが手掛けたらしく、日本人好みの和洋折衷具合がなんとも面白おかしい。
 おそらく本場の人から見たら酢飯にパイナップルやアボガドを巻いて寿司と言い張るぐらいに不思議な空間になっているに違いないが、それが良いと言ってくれる人もいた。
 彼らとお茶を楽しみながら、日頃の鬱憤を晴らす。
 僕にとって無くてはならない時間になっていた。

「ときわ」

 ふと呼び止められた。
 食堂から出てエントランスホールに向かう途中、宿泊客の部屋に繋がる廊下の方から男性が歩いてくる。
 外に行って帰ってきたばかりなのか、何処か遠出をしてきたような上着や鞄を手にした長身の男性。見る人によっては愛嬌のある穏やかそうな男性に見えて、少し角度を変えれば冷酷そうな切れ長の目が眼鏡の下で光っている。目の前の人間に合わせて態度を変えられる彼を、僕もよく知っている。
 義兄・悟司さんが立っていた。
 今日の彼はどんな顔を見せているかというと、真面目で冗談が通じなさそうな堅物の男性を模していた。
 その表情と雰囲気は、彼の実父……狭山おとうさんと瓜二つ。今日はストイックに話さないと殺される。僕も一瞬にして彼専用の顔を作り上げた。

「オウ、悟司さん。こんな所で会えるなんて。どうしました?」
「それはこちらの台詞だ、ときわ。お前もこんな場所に居るなんて何か特別な事情でもあったのか」
「……いえ、別に。……悟司さん、その御姿を見ると今帰ったばかりですか?」

 半ば判っていることを口走りながら、改めて悟司さんの様子を伺う。
 その程度でプチンとキレたりいきなり怒鳴ってくるほど、出来ていない大人ではない。世間話をするぐらいの余裕があるのか無いのか確かめたいだけだった。
 悟司さんは僕のすぐ傍まで近寄ってくる。だが、三メートル地点でピタリと止まった。おしゃべりをするには少し遠い距離だ。
 どうしてって、僕は背が低く、彼は高い。とても高い部類に入る悟司さんは、一定距離になると話すのも億劫になるぐらい首の傾斜が酷くなる。それはお互い長年の経験で判っていることだったので、仲が悪い訳でもないのに廊下で二メートル以上離れていた。
 赤の他人に見られたら、警戒して近づけない者同士に思われるかもしれない。そんなことはない。少なくても、今は。

「俺は先程、『仕事』を終えてきたところだ」
「それはお疲れ様です。魂はもう献上してきた後ですか?」
「ああ、既に当主様の元へ」
「魂っていつまでも体に溜めておくと毒ですからね。他人の意志をずっと刻印に溜めておいたまま寝たら悪夢を見てしまいますし、戻ったらならすぐ渡しに行くのがベストです。僕も昔やりかけました。遠征先で、一番最初に狩った人の魂がいきなりフラッシュバックしてきて……」
「お前は本当におしゃべりな男だな。噂通りだ」

 ふんと鼻を鳴らす悟司さんは、やや高圧的な態度を醸し出していた。けどそれが踏ん反り返ったり、露骨に偉そうにしているものではない。
 僕より年上で、現に(地位はどうであれ)僕より上の立場で働いている大人らしく、自分を見せているというだけ。それでも自分が軽く見られたような気がして、あまり嬉しい言い方ではなかったこともあってか「……噂、ですか」と自然と低い声が出てしまう。
 悟司さんは僕と狭山おとうさんどちらの味方だと言われたら、圧倒的に後者だ。狭山おとうさん側ということは、仏田寺を取り巻く者全員側ともいえる。その大勢が口にしている噂。良いものである訳がない。

「調子の良いお前の口から聞きたいことがあった。確認させてもらうが、ときわ」
「なんでしょう」
「お前は、『ここで寝泊まりする気などない』よな。そのようなことは、決してない、な?」
「…………。それは、確認ですか」
「ああ、確認だ」
「ならば、イエスです。ここで寝泊まりする気はありません。僕の為に用意された部屋は、この洋館にはありませんよ」
「そうだな、そうだ。不躾な質問だった、許せ。お前は直系一族であり、大切なお坊ちゃま。このような下賤な豚小屋に居ること自体がおかしい。そう皆も思っていることだ。ならば、彼らを安心させる為にも早く本家屋敷へ帰った方がいい」

 露骨、直球、ストレートにも程がある。
 本当に不躾を絵に描いたようなヒールな言葉を口にできる悟司さんは、我が家の研究員よりも舞台俳優で生計を立てた方が良いんじゃないか。そう思えるぐらい、大胆な物言いに感心してしまう。

「悟司さん。洋館は、洋館に居る人達は僕達と同じものではない。他人だ。しかしそれを『下賤』と断言するのは如何なものです?」
「外の血を下賤と称して何かお前に不都合があるのか? ここの穢れた空気が、純粋な血を引く『ときわ様』を汚してしまうかもしれんぞ」
「この建物の空調なら完璧ですよ、整備も掃除もしているでしょう。そんなバッドスペースをあの綺麗好きな銀之助さんや梓丸さんの親子が放置しているとお思いで? 第一、『空気で血が汚れる』なんて旧世代すぎて死語というのではないですか? ……悟司さん。もしかして貴方、僕をここから追い出したいのです?」
「俺のような者が、上位者であるお前を命令する権利など無い。俺はただ、仏田の繁栄を祈っている。心の底からな。そのために、上の者にはもうちょっと頑張ってもらわないといけないと思ったんだ。何って、まあつまり、親父の顔に泥を塗るなと言いたいんだ。どうしてこんな所に居る? 居る必要などあるのか? 『ときわ様』が?」

 悟司さんの声は、とても抑揚があって聞き取りやすい。
 舞台俳優にと言ったが、アナウンサーでもやっていけるんじゃないかってぐらいの清々しさ。凛とした態度に、堂々と真正面から吐き出される暴言。
 僕に何を受け取ってもらいたくて、僕自身を変えたいと思って口にしているという……曖昧さなど一切見せない彼の立ち方は、まさしく狭山おとうさんの長男と言うに相応しい、堂々とした『鬼』の顔をしていた。
 ネチネチと嫌味を言う僧侶なら二日に一度は相手にしていたので、悟司さんの語らいには拍手を送りたいぐらい好ましい。
 だからといってこの内容を頷く訳にはいかない。

「第一位の燈雅は偽物の刻印で築かれた王の座。第二位である筈の新座は下界に旅立ってしまい、すっかり肺の中まで穢れた気で覆われている。となると、『最も高貴な一族』は第三位のときわ、お前しかいない」
「そうですかそうですか。悟司さん、それ以上は口にしなくて結構ですよ」

 ……一体、何の話をしていたんだっけ? 悟司さんの名演説を絶賛して終わりじゃないよね。
 僕が何故この洋館に来ている理由を言えばいいのかな?

「ここに居る理由は、ストレス発散のためです。それ以外にはありませんよ。重苦しい本家の空気を吸って、僕の肺は薄汚れてしまっています。洗浄する為には、本家に無い新鮮な情報を吸いこまないと。悟司さん達には理解できないことかもしれませんが、これは僕の正統なトリートメント、立派な治療法なのです」
「そうだったか。お前には遊び呆けていることも必要な行為、と。……はは、それは失礼」

 失礼、と言いながら、全然謝る気なんて無いような一言。今の悟司さんの顔は、一応分類的には『笑顔』と呼ばれるものだが、人を和ませる力は一切無い邪なものだった。
 少なくても今の悟司さんの顔は僕を不愉快にさせる。一族を代表して物語ってくれた悟司さんの顔がその笑みなのだから、一族中が僕を不愉快にさせるものになっていると思っても間違いじゃない。
 でも、彼の行為は非常に判りやすくて助かった。
 多分、義兄は……僕に『思い知らせたい』だけなんだろう。
 察しろと。
 『お前はここに居るべきではない』と誰かが、みんなが言っていた、それを知っていろと。
 それを伝えるだけが目的だ。
 全く、旧世代的な思考にも程がある。いっしょに居るだけで汚れる? 馬鹿馬鹿しい。世の中、他人がどれだけいると思ってるんだ。自分以外のものは全部他人だぞ。それこそ、二メートル先の悟司さんですら僕と他人だというのに。
 自分達のことしか考えていない歪んだ思想。嫌悪感を抱かずにはいられなかった。

「という訳だ、ときわ。早く屋敷に戻れ」
「このまま引き下がると僕が負けたようで嫌ですが、偶然にも僕は大山さんに本家屋敷に来いと呼ばれています。この会話の後に行くのは物凄く嫌ですが、大山さんを困らせることはしたくないので向かいます」
「それがいい。それでいい」
「もしそれを言いに来るために洋館に来ただけなら、今から悟司さんに対する落胆が果てしないものになります。貴方はこれからどうするおつもりで?」
「ほう、では落胆させずに済んだ。俺は俺の用事があって洋館に来たんだよ。今の会話は、ときわが廊下を歩いていたからしただけだ」

 だとすると、とんだ事故だった。
 ほんの数分の会話だったけど、おかげで楽しかった気分が台無しじゃないか。
 悟司さんに会わずに屋敷に戻っていたら良い笑顔で歩けただろうに、今じゃ道行く人全てに心配されるぐらい般若の形相で向かう羽目になったぞ。批難もしないし尊敬はするけど、悟司さん、嫌いだ。

 ……彼と別れて洋館を出る。悟司さんは用事があるらしい客人の部屋に向かい、僕は一人、庭に出る。
 一人になってから、馬鹿丁寧に言い返した自分自身を笑った。自分に対しての苦笑だった。

 僕は義父の教育のもと『本部』に忠実な術者として育った。皆にも迷惑をかけず、心配もされない立派な一員として真面目に生きてきたつもりだった。
 それが、ちょっとした趣味で信用を落としているという。
 確かに洋館に入り浸る趣味は、以前から僧侶に忠告されている。けど、たったそれだけなのに何故ここまで批難されなきゃならない? やるべき『仕事』はきちんとこなしている。なら良いいいじゃないか。
 そうだ……僕は我が一族の目的のため、霊を潰しては『魂』を回収し、神に捧げている。その行為を一度も嫌だと思ったことは無い。色々とやりすぎなところがあるとは思うが、それに対する反抗心は無い。敢えて言うなら、選民思想だけは勘弁してほしいぐらいだ。
 そんな真面目に生きてきた自分が、どうしてここまで叩かれなければならない? ……気に食わなかった。
 それに、さっきの悟司さんの言葉。本人が謙るような言い方。あんなことを言って、悟司さん自身は空しくないのか。自分が下なんて、威張って言えることではないのに。
 ……身分の問題って難しいな。だからどこの国でも廃止されたんだよ。まだどこの国にも根付いているとは言うけれど。貴族階級も、奴隷階層も、士農工商もなんだって数千年前から変わっていないと言うけどさ。
 西暦も2000年を過ぎた変わりつつある世の中で、この世界だけ何一つ変わっていないことを強調するなんておかしかった。

「あっれぇ、トキリンじゃんー。おサンポなんてイキなことしてるねぇー」

 本家屋敷に近くなった頃。またまた突然、声を掛けられて僕は振り向く。
 暫しその顔を見て、彼用に顔を作り替え、頭を下げた。
 今度の男性も名前は知っている。どんなことをしている人かも知っている。ほんわかした顔。何も考えていないようなふんわりした笑顔。とろけている表情。ちょっと間延びした喋り方と、優しい音はよく合っている男だった。

「……福広さん。いきなりそんなこと言うような人は僕の頭に該当しなかったので、誰だと慌てましたよ」
「へぇ? トキリンは誰や彼やで身構えちゃうんだぁ?」
「その人によって最も適切な態度を作っているだけです」
「そんなのしてたらメンドーじゃないぃ? 誰に対しても態度統一しちゃえばいいのにぃ」
「……貴方だって、父親に向ける態度と年下に向ける顔は違うでしょう。それと同じで、その人用の顔を作ることは当然ですよ」
「んにゃ、俺は大体こんなカンジよぉ? 男だって女の子だってワンコにだってこんな態度よぉ。ラクよぉ」

 生暖かい声に話し掛けられる。
 普段ならきびきび喋ってくれと思うところだが……糸の張った緊張感が緩和されていくのを感じる。
 先程の嫌味な記憶が強烈だったせいか、福広さんの柔らかい喋りは丁度良く緊張をほぐしていった。次第に嫌な記憶など吹き飛ばしてくれそうなほど、強力な緩やかさが目の前に現れていた。

「そういう人間が一人はいてもいいと思いますよ。地球って大きいですから」
「地球ぅ……。ふあぁ、トキリンは面白い喋り方するんだなぁ。噂通りだったぁ」
「噂ってなんですか」
「いやぁ、俺の仲良い子にウマってヤツがいてぇ。その兄弟にみずぴーってヤツもいてさぁー。そいつらがトキリンは変におしゃべりなんだって言ってたんだぁ。多分トキリンと年近いだろうからどっちも知ってるヤツだと思うよぉ。ウマもみずぴーもいつも二人ともパンクっぽくてぇー」
「…………。みずほは、僕の弟です」
「あっれぇ? みずぴーって、あさかの弟じゃなかったっけぇ?」
「何言ってるんですか、大体この家は三兄弟でしょう。一番上の兄が僕なんですよ、あさかも僕の弟です」
「あれあれぇ。そうかぁ、てっきりウマが長男だと思っていたけどぉ……はははぁ、んなワケねぇーなぁー。ウマと似てるけど兄弟ほど似てないもんなぁー。双子は双子で似てるのにウマだけ違うもんなぁー。でもあの双子、双子なのに似てないよなぁー?」
「双子だからソックリだという認識は改めた方がいいと思いますよ。そうでないケースの方が多いんですから」
「あの三つ子もそんなに似てないよなぁ。普通の兄弟ぐらいの似てる度で、年齢がいっしょぐらいしか同じもん無いんだよなぁ」
「三つ子……ああ、瑞貴さんと陽平さんと慧さんのことですか。彼ら、目つきとか充分似てるとは思いますけどね」
「そうそう、ミズタカとヨーヘイとケイ……。あっ、もしかしてトキリンって一族中の名前を覚えているタイプ?」
「一族の人の名前ぐらいは覚えますよ」
「さっすがぁ、衛星教育された子は違うなぁ」
「……えいせい……スペースサイズですね。惜しいというか、全然惜しくないというか……。ところで、僕を呼び止めたのは何か理由がありますか?」
「トキリンとおしゃべりしたいなぁ」
「……おしゃべりしたいという用はあるんですね」
「うんうんいっぱいおしゃべりしたいなぁ。これから用があるというのなら止めないけどぉ、俺はトキリンと接触する機会が作りたかっただけだからさぁ」

 屋敷に戻ろうとしている僕の隣に、福広さんが近寄って来る。
 親しくした覚えはなかった。でも彼はとても親しげに僕の隣の位置をキープした。
 僕は素直に「大山さんに呼ばれている」と話す。すると彼は「そーなのぉー」と頷くものの、僕との一定距離を保ちながら共に歩いてきた。

「……なんです? 福広さんは一体何がしたいんです?」
「いやぁ、トキリンさぁ、今ぁ……ナイーブでしょぉ? 構ってほしいんじゃないのぉ?」

 そう言われるとついムッとしてしまう。なんだか僕が寂しい人だと思われてしまうみたいで良い気分はしなかった。
 ただ……恐ろしいことに、悟司さんの極度の緊張感の後に福広さんの気の緩さで和んでいることも事実だった。それを福広さん本人に察せられているのは更に恐ろしい話だったが。
 能天気に構われるのは、いつもだったら嫌だ。だけど、あの悟司さんとの会話の後なら……悪意を打ち切られるかもしれないと思ってしまう僕がいた。

 ――もしかしたら僕、自然に……福広さんに甘えているのかもしれない。

 思って、首を振った。「大山さんに呼ばれています!」と再度自分の行動を宣言する。
 すると彼は「じゃあ、呼ばれた用事が終わったらフリーだよねぇ?」と、彼らしい繋ぎを口にしていた。
 幸い今の僕は、福広さんの無茶ぶりを耐えられるぐらい心が弱っていた。幸いなのか何なのか、自分でも判断が難しいところだったけど。



 ――2005年9月17日

 【    /      /     / Fourth /     】




 /7

 お盆の上に銚子と猪口を乗せ、福広の部屋の扉をノックする。
 扉と言っても薄っぺらい障子を、だ。骨組みをコツコツと鳴らして相図を送る。「開けていい」という返事は無かった。けど留守ではない。明らかに障子の先には人がいて、言い争う声が聞こえていた。

「オーイ。バカヒロー、酒持ってきてやったんだから開けろーい」
「メーイーちゃーん。ごめぇーん、今取り込み中ぅー」

 中から聞こえる声は間違いなく部屋の主だが、暫く待っていても取り込み中は解除されてくれない。
 めんどーな。仕方ないので、俺は足を使って勢いよく障子をピシャンと開けた。

「ちょっ、福広さん! 貴方、まだお酒飲んでませんよね!? 酔ってないのにこんなことするなんて絶対おかしくないですかっ!?」

 福広の個人部屋は相変わらず綺麗とは言えない。数年前に『本部』から譲り受けた和室四畳半は、背の高い福広の布団を敷いてしまえば半分も埋まってしまうほど狭い。どこかの中古屋で買ってきたらしい安物のちゃぶ台と、百円均一で買ったと思われる透明な収納ケースがあるぐらいの小さな個室は、たびたび酒宴の会場になっていた。
 人を呼ぶとしたら一人が精一杯。その一人が俺だった筈だが、既に福広の和室には子供が捕らわれている。

「あー。もしやお前、狭山の大事な大事な坊ちゃんか?」
「なっ、なんで『狭山』って呼び捨てなんですか! たとえここに居ない人でもちょっと礼儀をですねぇ……!」

 自分を待ち受けていた甲高い声の正体は、福広が気に入っていると言っていた本家の子供だった。
 数時間前に「今日も二人で酒盛りしようぜ」と提案されたんだが、まさか居るとは思わなかった相手に正直驚いてしまう。
 でも、お気に入りの子供なんだから縁があるということ。俺の知らないところで取引が行われ、彼はここまで連れ去られてきたんだ。
 福広に抑えつけられ布団の上でモガモガ呻いているんだから、拉致られてきたのは間違いない。
 チビな彼は布団と比較的大柄な福広に押し潰されて、サンドイッチ状態のまま暴れていた。「退いてください!」と喚いてもその叫びが楽しい福広は、にまにま笑いながらもがく彼を見下ろしている。密着し、圧縮し、からかい楽しむ福広は……近年稀に見る上機嫌だった。

「ごっめーん芽衣ちゃん、酒盛りに一人追加するけど構わないー?」
「別に俺はかまわねーが。いいのか? そいつが後々『ムリヤリ襲われました』とか訴えておめーが捕まっても俺は弁解しねーぞ。福広のために裁判で証人席に立つなんて、ぜってぇしねーからな。死刑になったら、とっととヘソ噛んで死んどけよ」
「うんうん死ぬ死ぬぅー。それに平気だってぇ、俺なんか下っ端は裁判なんぞにかけられないぐらい見られてないからぁー」
「そのっ……。そこに居るのは芽衣さんですよねっ、まずは僕を助けたらどうですか!?」

 足で障子を閉め、ちゃぶ台の上に盆を置く。布団の隣に置かれたちゃぶ台の前に座れば、福広に押し潰されている布団の上の少年が、嫌でも目に入ってくる。
 不幸な少年だなと思うが、気にせずあぐらをかく。
 一刻も早く酒が飲みたかった。酒盛りを企画してくれたから主催者の顔に免じて、今の今まで酒を前にしても飲まずにいてやったんだ。漸く腰を下ろすことができたんだから、まず第一に口を付けても良い筈。……目の前でお偉いときわ様がレイプされようが、俺は酒宴目的で福広の部屋に来たんだからまずは目的を達成しないと。
 春でも夏でも秋でも冬でも、酒宴は酒宴らしく酒を飲まないと。
 それに、福広の都合に何か口を出すのもおかしい。熱燗が味を変える前に痺れた喉を潤した。

「芽衣さん!? 僕は今! 大変なコトになっているんですよ!?」
「そーなん? 知らなかった」
「少しはこっちを見て発言したらどうですか!?」
「この馬鹿もついに一人を愛するようになったか。福広は緩やかな馬鹿でも勢いだけで犯して済ますような下種じゃねーし責任は取ってくれるよ」
「何のですか!?」
「ところで猪口は二つしか持ってこなかったからよ、おめーらは同じので飲め。俺は一つ使うから」
「えぇー? もう一つ持ってくるとか考えないのぉー、芽衣ちゃんー?」
「おめーらはこれからラブラブになるんだからいいだろ。おい、灰皿どこだ。直系一族の坊ちゃん、煙草吸うぞ」
「体に悪いからやめてくださいっ!」
「あれぇ? 芽衣ちゃん、それってお燗? わざわざ用意してくれたの?」
「いや、銀之助様が『これからの季節はこっちの方が良いだろう』って出してくれたわ。なんか親父達もこれから飲むところだったらしくて。俺、何もしてないのにラッキー」
「ははぁ、聞いたかトキリンぅ。芽衣って俺の親父にだけは『銀之助様』ってサマ付けするんだぜぇ?」
「流石、食卓の魔王ですねえ! どんな人にも信頼を寄せられてると言われてますが! ……でも! ちゃんと目上の人には様でなくても敬称を付けるべきですよっ!」

 なんでぇ、直系一族の坊ちゃん。今まさに押し倒されているっていうのにツッコミは忘れないんだな。おしゃべりしてるとそのままブスッとケツにいっちまうだろうに、大した余裕だ。
 これはもしかして、ただただ照れ隠しで嫌がってるように見せているだけなのか。拉致からのレイプだと思ったが、もっと真っ当なゴカンケイだったのか。

「あのですね! 僕っ、頑張って……押し戻そうとしてるんですよっ! 助けてくださいよ! この人、本気で僕にキスしようとしてくるんですよっ!?」

 と思ったが、やっぱり福広が全面的に突っ走りすぎの悪ふざけらしく。
 あー、と唸ってから俺は、ときわの怒声を無視して煙草に火を付ける。その煙草を……ときわの下着を下ろそうと覆い重なる福広の裸足へ近付けた。

「あつぅっ!? 『近付けた』ってレベルじゃないなぁ! 今ぁ、足の裏にブシュッて付けたでしょぉ!?」
「気のせいだろ」
「気のせいだったら足のこの熱さは何かなぁ!? 火傷痕になりそうな穴は何かなぁ!? 煙草の火って何℃か知ってるぅ!?」
「足の裏に火傷痕が出来るぐらいの温度じゃね?」
「その通りだよぉっ!」
「別に、このまま坊ちゃんを犯して死刑になるおめーを憂うのも良いんだけどよー。ほら、坊ちゃん……酒飲めよ、酒」

 飛び跳ねたおかげで布団から這い出ることができたときわは、すぐさま部屋の隅に逃げ込む。拘束が無くなってフーフーと毛を逆立てているときわに、猪口を向けた。
 酒という崇高な文化を知らなそうお坊ちゃんは俺の猪口を受け取り、怪訝な顔で見つめてくる。でも「動くな、注げねぇ」とボヤくと、「すみません」と丁寧に両手で酒を受けた。
 酒が素直に注がれていく。しかし文句は欠かさなかった。

「あ、あの、一応言っておきますけど。僕、未成年ですよ」
「ここに居るのは誰だ」
「…………え?」
「俺は、大山が次男・芽衣。刻印は無し、階級も無し、次代の当主陣営の守護になる予定も無しの風来坊」

 驚きもしない息遣い。慌てる素振りは消え、悲しい人生を語る俺に耳を傾ける優等生なお坊ちゃま。
 この和室の出入り口まで僅か一メートルなのだからそのまま走り去ってしまえばいいのに、懇切丁寧にもお燗を見ながら俺の話に乗ってくる。

「あっちに居るのが、銀之助様が次男・福広。同じく生まれつき刻印が無し、階級無し、信頼無し、髪は染めるわ好き勝手外に出て働くわの馬鹿の体現、屑二匹。そんな二人が未成年飲酒ごときでお坊ちゃまを咎めるとお思いかい? 無いねえ、あると思うなら改めな。さっきの強姦を止めたのだって気紛れだぜ」
「き、気紛れって……。貴方の気分が違ったら、助けてくれなかったんですか」
「そりゃね。面白いと思ったら俺も加わるさ」
「……お酒が飲める程の大人なんですから、困っている人を助けることぐらい念頭に置いた方がいいと思います。仮にも、仏田一族なのですから」

 困っている人を助ける?
 そんなボランティア活動、ウチで『ご立派な仕事』をやってる連中だけでいい。『屑の仕事』程度しかやっていない俺達に期待する方が馬鹿げている。……第一、金貰ってるからどいつも完全なるボランティアをしてるつもりなんぞ無いだろが。

「外道を睨む目で見るなよ、俺らはごく普通の若者さ。好き勝手我儘三昧をしているように見えて守るこたぁ守ってるぜ。そもそも仏田一族の連中で、清廉潔白に生きる奴なんてどこにいる。境内は清浄な統治をされているように見えて、穴はいくらでもある……突っ掛かって生きなきゃいくらでも楽しめる平和な楽園で、品行方正に生きる必要がどこにあるんだよ?」

 ここは社会の法律も届かない、独自の政治形体を持っている。
 日本は二十歳から飲酒可能だが、この世界にはそうと限った話じゃない。他のガキどもだって酒飲んでるしタバコも吸ってる奴もいる。咎める奴がいないからそれで都合よく生きていける。ときわの言う品行方正は、外に合わせた言い分だ。
 中で過ごしていくべきなのに何故わざわざ外を意識しなくてはならない? どっちもこなせば何か駄賃でも貰えるというなら話は別だが。

「……恥ずかしいとは思わないのですか。誰が治めていようが、ここは日本です。してはいいこといけないこと、社会的にあってはいけないことそうでないこと、いくらでもあるんですよ。この家のことだけを考えて暮らしているなんて、いけません」

 ……『いけません』? なんだ、その清潔な一言は。

「うははっ、直系一族の坊ちゃんに『この国はいけません』と言われちゃったぜ」
「……さっきからのその呼び方、気に障ります。僕には『ときわ』という名前があるので覚えてください」
「第三位様の名前なんて覚えさせられたに決まってるだろが。わざとだよ」
「…………」
「なぁー、芽衣ぃー。トキリンが御猪口を独り占めしちゃってるからお前と回し飲みしたいんだけどいいぃー?」
「ああ? しっかたねーな、三つ目持ってくるのメンドーだから許してやるよ」
「わぁーいぃ、あんがとぉー」

 福広が猪口を受け取ると、並々あった日本酒を一気に口へ流し込む。
 そして、口内に微量の酒を含ませると、ときわの腕を勢いよく引っ張って……顔を近付けさせ、唇を重ねた。
 唐突だった。『芽衣と一緒に飲む』と聞いて安心しきったときわは、一瞬の悲鳴ののち福広に蹂躙される。
 そんな中でもときわは几帳面にも猪口を手放さなかった。わなわなと震えているから零すのは時間の問題だったが、俺の方に向かって手を伸ばしているところを見ると……俺に受け取ってほしいということか。震える指先から猪口を掻っ攫い、様子を見守る。
 口移しのキッス。真正面から抱きしめられて、後頭部を固定されての口移し。福広の喉が動くと、唇を経て酒はときわの口に伝わっていく。驚愕に呆然とするときわだったが、構わず福広は液体をときわの喉へ流し込んでいった。

「ごめん、芽衣ぃ。やっぱり、二人で一つの最初の案そのままにするわぁ」
「…………ば。ば、ば、な、に、するんですか、貴方はぁっ!?」

 好感度の上がりきってない関係が口移しなどすれば、そう叱られるのは至極当然。
 真っ赤になったときわが跳ね跳びながら叫んでいた。顔が紅いのは酒のためではなく、間違いなく恥ずかしさからだった。
 それでも福広は罪の無い顔で、真っ赤になるときわの姿を笑っている。俺は少ない猪口の酒量をぐいぐい口へ流し込んでいく。身を退いて俺の傍まで移動していたときわが、またも俺のもとへ移動を繰り返す。福広の魔の手が届かぬ場所へと逃げたいらしい。四畳半の和室に逃げ場など、廊下しかないというのに。

「めっ、芽衣さんが見ているんですよっ!?」
「さっき芽衣が自分はアウトロー思考でぇ〜すって言われたじゃん、気にしないってぇ。それとも見てなかったらオーケーだったぁ?」
「バッ……!」
「芽衣ちゃん、俺とキスしとくぅー? 今ならトキリンの感触が味わえるぜぇー」
「やめとく。ハッキリ言ってそいつ俺の好みじゃねーし。俺は女だったら極端に淫乱なビッチがタイプで、男だったらぽややんって感じのネコが好みなんだよ」
「極端に淫乱なビッチって何が影響でそうなったのぉ?」
「……つーかバカヒロ、ボカスカ殴られて平気なのかよ」
「こんのぉっ、貴方って人はぁっ!」

 ときわが肩でぜーぜー息をしながら、攻撃を続けていた。
 数分間の連撃。……その後、何とか動悸を鎮め、まともな呼吸をするようになる。
 何を考えて積極的なスキンシップを取ってくるのか、ときわは一切理解できずに支離滅裂な暴言を吐き散らしている。考え無しにこんなことできる訳が無いと口走っているが、しかしそれでも福広は特に何も考えちゃいないだろう。
 福広に脳味噌を使わせる作業をさせること自体、罪だ。常日頃から「自分には脳が足りない」と口癖にしているぐらいなんだから、予想外の方角からの突撃を平然と受け入れるぐらいの度胸が無ければ福広と付き合えないもんだ。
 ……ときわは、付き合うつもりなんて一向に無いだろうけど。だとしたら、この部屋に来てしまったこと自体が馬鹿げた話。何がどうしてここまで連れて来られたんだ?

「福広よぉ」
「なーにぃー、芽衣ちゃぁーんぅ」
「そこの坊主のこと、好きなの?」
「好きだよぉ」

 脳の皺が無い、つんつるてんで白痴かっていうぼんやりとした音で福広は告白をする。
 聞いて、お坊ちゃんは顔を赤くする。ここまでテンプレ。

「トキリンのこと嫌いじゃないねぇ。寧ろ好きなタイプぅ。出来ればお近付きになりたいかなーって思ってるかもぉ」
「は、ハッキリしませんねえ……。もし僕のお近付きにというのが本当だったとしても、このようなことをする人を好きになれっていうのもおかしくないですか」
「おかしいかなぁ? 何かのキッカケも無ければ仲良くもなれないじゃんぅ。俺は今ぁ、トキリンと接触するキッカケを作ったんよぉ」
「それが……その、無理に押し倒すとか。あの……口付けとかですかっ」
「トキリンてさぁ、好きな人いるぅ?」
「……はい?」
「いるよねぇ。そいつのことはどうして好きぃ? どうやって好きになったぁ? それって説明できるぅ?」
「で、できますよ。……一緒に居る時間が長くて、優しくしてくれた記憶が多い人……です」
「あぁ、それが条件だったら上書きできそうだねぇ」
「上書き、ですか」
「うんうんぅ、同じ境内に住んでいるんだから結構な時間んぅ、俺とトキリンは一緒にいるよぉ。でもって俺ってば結構優しい性格だからさぁ」

 優しいっていうか腑抜けた性格なんだよ、おめーは。度々、端々にツッコミを入れてやる。
 すると福広が丁寧に「いいじゃんー、どっちもほんわかしているって意味よぉ」とツッコミ返ししてくれた。……ちゃんと返事が出来るぐらい周りを見ていたか。これでも真面目に口説いていそうな最中に悪いことした。

「ねぇ、トキリン。俺と真剣に付き合ってみないぃ? 優しいけど強引なトコもある良い男よぉ。自分で言うのもなんだけどオシャレには気を遣ってるしぃ、刻印が無いなりにこの寺に住めるよう努力してる面もあるぅ。『本部』から渡される『仕事』はそんなに無いけどぉ、そのぶん寺の手伝いをしているんだぜぇ。表の業務だったら松山のオッチャンに任されてるぐらいなぁ」
「松山のオッチャン、って」
「そう呼んでもいいぐらい住職さんと仲良しってことさぁ。お葬式とかぁ、霊園のお掃除とかぁ、あっちこっちで引っ張りダコの働き者ってコトなのぉ。ホラぁ、どんどん俺のコト知ってきたでしょぉ。惚れてこないぃ?」
「…………。その、変な質問をしますが」
「んにゅぅ?」
「僕のどこが良いんですか」
「芽衣とは違ってぇ、俺のタイプだからぁ」
「好きな人のタイプだからという理由……で……。僕の心を奪うだけの自信になるんですか」

 ――ぶっ。
 後ろで酒を何杯も飲みながら話を聞いていた俺は、吹き出してしまった。
 吹き出したのは、ときわの「心を奪う」という詩的な言い方の点。それでも必死に話に介入しないように、口を押さえ、笑いを堪えて黙った。

「トキリンが俺のこと、好きになったらぁ……世界が救えると思うんだよねぇ」
「……は?」
「世界が救えると思うんだよねぇ」

 一度目はさっくりと。
 そして聞き返されてもう一度。福広は、同じ台詞を繰り返した。
 それは、『彼の見る世界が変わる』ということか。ときわもそのことを聞き返そうとしたが、「自由に受け取ってくれていいよぉ。俺も正直、よく判ってないからぁ」と曖昧に微笑んだ。
 って、判ってねーのかよ。福広にしては洒落のきいた告白台詞だなと思ったが、何かの受け入りなのか。
 それでもお坊ちゃんはその気らしく、顔を赤くしてフムと考え込んでしまった。そんな感じで数分固まっていたが、ついには意を決したように奴の目を見て……。

「……福広さんがそうも真剣に僕を口説いてくれるのならば……僕だって貴方の魅力に惹かれてみたっていいんですよ」

 まさかのOKをした。
 途端、パシャリと不意打ちなフラッシュがときわに襲いかかる。
 ときわが驚いて元から大きな目を見開くこと数秒。彼は数メートルしかない周囲の状況を少しずつ整理していく。そうして……自分の目の前で、携帯電話を構えている福広に尋ねた。

「……その携帯電話は、何ですか」
「俺のケータイぃ」
「……どうして今、携帯電話を持っているんですか」
「カメラが使いたかったからぁ?」
「……どうしてカメラが使いたかったんですか」
「トキリンの告白の瞬間、激写したかったからぁ」
「……どうして、カメラに収めたかったんですか」
「だってトキリンの一番カワイイ瞬間の写真よぉ。ウマに見せてやったらどんな感想聞かせてくれるんだろなぁ、ウマ経由にみずぴーの感想とかも聞きたいじゃーん?」

 俺は二本目の銚子を摘み上げて、大雑把にお燗を注ぎ続けていた。
 ドボドボと溢れんばかりに、壮大なボコ殴りBGMを耳にしながら。



 ――2005年9月17日

 【     /     / Third /     /     】




 /8

「ブリッド。以前、一緒に映画を見ようと約束をしたのは、覚えているか?」
「………………はい……?」

 ケーキを半分平らげた二人は、残りの箱を食堂備え付けの冷蔵庫に安置し、茶会の片づけを始めていた。
 ときわが居なくなった後も二人きりで茶会を進めることができたが、ときわが去った時点で既に三時間は楽しんだ後だった。丁度良い頃合いだからと、二人は静かに片づけを終える。
 その間もアクセンは静かに作業をするブリッドに次から次へと新たな話題をぶつけていった。対するブリッドはしどろもどろになりながらも、少しずつ会話に追いつこうと必死になっていた。

「その反応だと忘れているか? 実はな、私は、『今も楽しみにしているのだが』」
「……7月に……そのような話を、しました……ね……」
「ああ。覚えていてくれたか。『嬉しいぞ』」

 微笑むアクセンは、食堂の扉を閉める。
 まだ太陽は落ちていない。洋館の庭は暗闇に満たされるのは、もう暫く先の話だ。廊下は所々にランプが灯されているが、未だ夜の色に染まるのは数時間後。気の早いランプによって照らされた通路はさっきまでの食堂とは全く違う装いで、煌びやかが似合わないブリッドにはこちらの方が落ち着けるようだった。
 ブリッド達は自分らの住んでいる部屋に戻ろうと、ひんやりとした廊下の歩みを進める。「……でも、アクセン様。兄さんと……映画を見に行った……のでは……?」と、長い沈黙の後にブリッドが呟くと、アクセンはピタリと止まった。
 さっきまでブリッドを見つめて楽しそうに話していたが、一転。
 視線をブリッドの居ない方向に向ける。口元に手を当て、思案していた。
 ……これはまさか、慌てている? しかも、ワタシには男は冷や汗をかいているようにも見えた。

「それは、ブリジットから聞いたのか?」
「はい……。兄さんは、よく、アクセン様のことを……オレに、話してくれますから……」
「お前達は兄弟同士仲が良いな。よく話をするのか」
「……兄さん、アクセン様のこと……好きなんです。あの人は誰かの話をすることなんて無いんですけど……アクセン様の話、オレに、よくしてくれるんですよ……」

 ……アクセンが視線を外している最中、そして、ブリッドが後ろを向く間。少しだけ唇が柔らかく揺れる。
 兄のこと、それがブリッドがアクセンのことを好いている理由の一つでもあった。
 あんな兄でもブリッドにとっては家族。微笑むとまではいかないが、慈愛に満ちた目で尊んでいる。
 そんなもの、薄ぼんやりした灯りがともされる廊下で……濃い色のサングラスの下となっては気付く人間は誰一人いないが。

「確かに私はブリジットと共に時間を過ごした。だが、またそれは別の」
「アクセン様の見たい映画は見ること……できたんですよね…………なら、オレと行かなくても……」

 俯いて、しかもサングラスの下、目を隠しながらブリッドがぽつりぽつり呟くよう言っていく。
 ブリッドは隣に居る彼の姿を一切見ずに言葉を繋いでいく。一方で、その彼もブリッドに視線を向けずにいた。
 アクセンは……ブリッドではなく、食堂でもなく、もちろんワタシにでもなく宙を向いて……思案していた。

 ――違う。この男、決定的に違っている。

「……オレと行っても、オレは……兄さんみたいに口が巧くないので……何にも感想、言えないと思います……。それに、映画は聞いたことはありますが見たことがないのできっと迷惑を掛けると……」
「見たことがないだと? 一度も? 映画館には? 行ったことがないと?」
「……ぁ……お、オレ……その、三年か四年ぐらい前まで……この寺から、出たことなくて……ここ最近、外に出してもらえるようになって……」
「そうか、大事にされていたんだな、だからいつも顔色が悪いんだな。行ったことがないなら行くべきだ、何事も経験が大事だ。ああ、私が全部教えてやるぞ。一緒に行こう。初めてなんだ、絶対に楽しいと思える」
「……顔色は、普通……そ、それに、オレ、邪魔に、なるから……」
「楽しいのは私が保証してやる。『嬉しいぞ』、お前と何処かに行けるなんて」

 意外な反応にブリッドの体が震えている。怒涛の勢いで話し掛けられると、怒られると思って身を竦めてしまう癖があった。
 ブリッドの必死の抵抗も空しく、一分後には二人が映画館に行くことになっていた。
 ずっとブリッドが小声で抵抗していたが、そんな声は小さすぎて聞こえてないのか無視しているのか目の前の彼には届くことはない。
 その間も赤毛の彼は、次に出すべき言葉を選んでいた。
 ちゃんと「行きたくない」と言えばブリッドの願い通り、行かずに済むというのに。嬉しがっているのが丸判りだ。
 行きたいからそんな態度で仕向けているとでも思いたくなる。まったく、卑怯者。……これは称賛の言葉だ。

 ――それにしてもやっぱりこの男、『いつものアクセンではない』……。
 ワタシの中で生じた違和感が二つも三つも重なっていく。ついには確信した。
 この男は……『ワタシの知っているアクセンではない』。思わずその赤毛の男から、つまりはブリッドからも距離を取ってしまった。

 ブリッドの自室の前まで、食堂からほんの数分で到着する。
 それでも別れを惜しいのか、どうしようもない話をいくつも投げ掛けてくるアクセンは……何が違うって、その目まぐるしい表情。注視していればすぐに判る違和感は、今までにない昂揚感をワタシに与えてくれていた。
 アクセンは、話をやめない。
 その間も、次の言葉を懸命に模索していた。
 それが実に不気味で、おかしい。なんだがむず痒い。他者に対して向ける言葉が、演技ではない態度が、とても人間らしく美しく見える。
 それだけではない。……アクセンはさっきから、『感情』を口にしていた。それが今までに無かった最大の違いだった。

 ……ブリッドは以前の誕生日に生まれ変わった。他者を求めるようになってしまった。それと同じように、アクセンも何かを切欠として変わってしまったのか?
 発言をする前に視線を泳がせたり頭を掻いたりと、あまりスマートではない仕草は実に人間らしい。その程度の変化など、一緒に居るときわですら気が付かなかったのではないか。ワタシが何故感づいてしまったかというと、彼の異常さを兄といっしょに考えていたから。あの話をしなければ些細な違いなど見落としていた。
 少なくとも、鈍感すぎるブリッドは一生判ることのない変化だ。

「……すみません、この辺で……」

 立ち話をしてすまない、とアクセンが頭を下げる。漸くブリッドが扉を開けて、二人の茶会は終幕を迎えようとしていた。
 だが、思わぬ形で再開はする。
 ブリッドが名残惜し気に扉を閉める。けどアクセンは……まだ話し足りなかったのだろう。そういえば今日の茶会はときわとブリッドが中心であり、アクセンは静かに話を聞いているだけだった。だから発散したかった話があったに違いない。

「…………待ってくれ!」

 消えていくブリッドを惜しんで、滑りこむように閉まるドアへ手を伸ばす。
 指が、挟まった。

 ――それから先は、怒涛の時の流れだった。短い絶叫はブリッドを涙目にする力が充分にあった。
 すぐさま怪我人を救出し、濡れタオルで指を冷やすなど治療に専念するブリッド。大丈夫ですか平気ですかと何度も何度も機嫌を伺った。何度も何度も謝罪の言葉を繰り返した。自分も大人げなかったと謝るアクセンだったが、そんなの構わずブリッドは何度も何度も頭を下げた。
 ……実を言うと、アクセンは自分の指が挟まれることを判っていながら手を伸ばしたのではないかと思う。あのタイミング、あの視線、ワタシは見逃さなかった。きっと怪我をすればブリッドは逃げなくなる……そんな計算があってしたのではないか。というのは、流石にワタシの考え過ぎか?

「私も悪かった。許してくれ」

 少しも折れ曲がっていない指をブリッドに撫でられながら、彼は微笑む。……ほくそ笑むという言葉がピッタリだと思えた。

「そういえば、ブリッドの部屋に入るのは……二度目だったかな」

 アクセンに割り当てられた部屋もおそらくはブリッドが使わせてもらっている自室と変わらぬ、ワンルームマンションのような造りだ。ドアの前でアクセンが呼びかけてくることは何回もあっても、実際部屋に入ってきたのは、これで二度目だ。一度目は……ブリッドと同じ顔に引き摺りこまれたんだった。
 指の手当が終わったアクセンは、安心してブリッドの部屋を見渡していた。
 ブリッドの部屋には何も無い。目新しい物も無ければ、本当に必要最低限以外、物を置いていない。暗い部屋だから何も見えないのでなく、何も無いことに気付いたアクセンは不思議そうな顔をした。

「なあ、ブリッド。カーテンは開けないのか?」
「……え……」
「昼間もカーテンを閉めたままにしているのか」
「…………は、はい……」

 窓を開けろとは言わない。でもまだ明るいというのにカーテンを閉めっぱなしは良くない、と彼がよくある一般論を掲げる。
 ブリッドは無言で暫し悩んだ後にゆっくりと、慣れてない動きで……遮光カーテンを開け始めた。
 夏のような透き通った青さはなかったが、それでも立派なこの部屋よりは空気の良い世界が広がっている。微かでも光が部屋の中に入り込んできて、呼吸がしやすい爽快感を感じた。

「この方が、部屋が明るくなってブリッドもいいだろ?」
「…………はい」
「ん? 埃が溜まっているじゃないか。どれくらい窓を開けてなかったんだ。少し換気するか?」
「……その必要は……無いです」
「換気する必要は無い? 不思議なことを言うんだな、ブリッドは。少しどころじゃなく空気が篭っているぞ。寒いかもしれんが窓を開けようか。開けよう。今すぐ開けよう」
「あ……、や…………」
「なんだ、無理な話ではなかろう? 開けっぴろげにしてしまえ、さあ解放してしまえ。その方が気持ち良くなるぞ」
「だ、だめ……!」

 ブリッドが少し大きな(ほんの少しだが)声を出して開放を拒否した。
 必死に訴えているので、それを聞いてしまったアクセンは窓の鍵へと手を出さずに終わった。あんまりあちこち動かされるのが嫌だと伝わったようだ。それぐらいの主張なら無視をせず聞いてくれるらしい。
 彼は納得して窓を開けるのはやめた。でもせめてカーテンは全開にし、外の光を入れることにした。
 何故いきなりカーテンの話をしたって、ワタシには「カーテンぐらいしか話題が無い部屋だったから」にしか思えない。
 他は、比較的大きく丈夫なベッドがある。鍵付きのチェストがあって、クローゼットには何着か与えられた着物があるのみ。小物も無ければ本一冊も無い部屋で、ブリッドの趣味嗜好を読み取るのは難しい。
 敢えて言うなら、何も無いことがブリッドという人物を評することができるぐらい。
 元々この部屋は違う用途で使われている私室なのだから、ブリッド色に染める方がおかしい話だった。

「ブリッド。いつも部屋で何をしている? 何が好きなんだ?」
「…………」
「せっかく入ったのに何も無くて判らないぞ。そうだ、今度はお前が私の部屋に来るといい。あっちの部屋を借りている。そう遠くはないだろう? いつでも来たまえ」

 事情など知らないアクセンには、殺風景の中でどう時間を過ごしているのか見当もつかないだろう。
 疑問に思ったことがあればすぐ口にする彼は、直情にブリッドに問いかける。一番困る質問に、ブリッドはいつも通り口ごもってしまう。「せめてお前が好きな物を知りたかったんだが」とハッキリ用途を説明されて、どうしようもないブリッドは更に黙るしかなかった。
 ……ワタシが知っている限りのブリッドの私物と言えば、それこそ本日ときわに教えてもらった話を記したメモと……先日アクセンから茶会で貰った物ぐらいだろう。
 ブリッドも言われてそれしか思い浮かばなかったらしい。ゆっくりとベッド脇のチェストの引き出しを開けると、新品同様の小箱を取り出す。
 それは買ったままの状態から一回も出していない、上質な輝きのピアスだった。
 すぐに蓋を閉じられてしまう。
 無言のままで。

 …………。えーと、それはつまり、『お前は何が好きなんだ?』に対する答えだろうか。
 好きなものも趣味で飾っておきたい私物も無いけど、唯一彼の所持品で思い出深いのは……先日アクセンから貰ったピアスだ、と言いたいのか。
 って、ワタシが判ったって質問した本人に伝わらなければ意味が無いぞ。ワタシが逐一説明するにも、犬の口からどう話せと言うんだ。
 そしてアクセンも固まってしまって、先程から彼がよくする癖らしい『口元を手で隠し』ながら思案をする。「……私のあげた物だな?」と呟くように問い、頷くブリッドを見て「そうか」と納得した。……納得したのだろうか。
 話し下手な彼は苦い顔をしながら小箱を引き出しに戻していった。
 その一瞬を見逃さなかったアクセンは、引き出しの中を見てそっと囁く。
 部屋自体は殺風景な牢獄であっても、備え付けのチェストが唯一ブリッドの内情を語るものだと察したらしい。ブリッドは暫く自分の引き出しの中を見つめた。
 この場を暖める、話のネタになる物を……彼も探したかったようだ。
 一つ、サテン生地の布を指で掴む。
 それは十センチほどの袋で、両手で包みこめるぐらいのものだった。ぼうっとしていたら引き出しの中に置いていたことも気付けないような、謙虚な色をしていた。

「…………贈り物を……」
「なんだって?」
「………………た、誕生日の……。貴方……の……」

 見られたから。どうぞ。……そう呟き、アクセンに手渡す。
 小さな柔らかい布袋を渡されて、アクセンが目をぱちくりさせた。「……私の誕生日か?」と訊き直すと、こくんと首を縦に振る。
 それが聞こえるまでとても時間が掛かった。だが言葉がアクセンの脳に達したとき、彼はいつになく体温が上昇したような高揚の声を口にする。

「私へのプレゼントか? お前の? お前が用意してくれた?」

 次第に声は大きくなっていく。

「そうか。前に言った甲斐があった。用意してくれていたんだな。楽しみにしていた甲斐があった」
「…………その、ずっと仕事だったんで……次、いつ会えるか判らないので……」
「ときわ殿に仕事の数を減らしてもらったんじゃないのか」
「ぁ……。はい、減らしました……けど…………」
「なのにずっと仕事とはどういうことだ。それで本当に減らしたっていうのか」
「…………そんな、二十四時間休まずなんてこと、ないですし……今はちゃんと休憩を貰えるようになりましたから……」
「そんなこと当然だろう。昔はその休憩さえも無かったっていうのか」
「あ……ごっ、ごめんなさい……」

 またブリッドは頭を下げて、謝罪を連呼する。いつの間にかそれだけになってしまった。
 ……アクセンは顔を上げるように言う。ブリッドの謝罪に並ぶほど、何度でも言った。けどブリッドは顔を上げようとはしなかった。
 アクセンも自然と荒げていた声を留める。激情するなんて彼らしくもない。いや、彼らしいと言うほどワタシは彼のことは知らないし、今日は一日中おかしいとも言えるんだが。
 心配だから言う彼と、心配だなんてしなくてもいいと言う彼。一向に発展性が見いだせない。何を言っても頭を上げないブリッドに仕方なく、違う話をして場を取り戻そうと……アクセンは袋の中に手を入れた。
 中を更に探ってみると、青が出てきた。

「……石?」

 センチほどの青い鉱石のようなものだった。
 天然石かと尋ねてみるが渡した本人は頭を上げない。でも否定はしない。あっているらしい。

「そうか、パワーストーンか。こういう物は見ているだけで心が落ち着くと言うのだろう? 贈り物としては良い選択をしたと言われるのではないか」
「はあ……」
「石の意味は何だ?」
「………………意味……?」
「何かしら意味があるだろう? 花言葉のように宝石言葉があるだろう。私は詳しくないが、青色は10月の誕生石だったりするのか?」

 そんな洒落た理由は無理だ。案の定、「……すみません、調べておきます……その、綺麗だったから、それだけ、で。何も考えてなくて……」と躓いている。
 気に入ったやつを選んだのだというだけでも充分だというのに。
 アクセンは窓際で石を見ていた。太陽の光に反射して青は綺麗に輝く。
 ふと思い立ったのか、石を通して太陽を見た。そうすると、青い石と太陽光が混ざり合う。太陽の赤が、自然の青と混ざり合って第三の色を作り出していた。良い色を彩っている。
 彼はブリッドに窓際に立つように言った。おずおずと近寄るブリッドの前で太陽に石を掲げ、同じように覗き込むよう仕向ける。

「ほら、ブリッドの目の色と同じになるぞ」

 そして、思いついたからには言いたくて仕方なかったのかそんな言葉を吐きつける。
 ……急にブリッドの顔色が変わる。今度は彼の方からアクセンへと歩み出した。

「返してください……」
「え?」
「……そんな……オレ、そんな、おこがましいこと、考えてないです……ぐ、偶然です。取り替えますから……一旦、返してください……」
「偶然って何だ。おこがましいって、何が?」
「……お、お願いします……返してください……違う物を用意しますから……」
「贈り物を返さなければならない理由は何だ?」

 石を奪おうと手を伸ばしている腕を取って、押し留めた。逆に寄って来るところを受けとめていた。
 近寄って来た体を押し留め、その頭を撫でる。髪に触れ、サングラスを外してしまうと長い前髪を掻き上げた。
 それによって石よりも華麗に光る紫が現れる。

「やはり本物は綺麗だな」

 真正面から向き合った……とき、ブリッドは物凄い勢いで彼から離れていった。
 押し退けて、後ろに下がる。窓から奥のバスルームの方へと離れていく。掻き上げたばかりの髪を下ろし、必死そうに目を隠してしまった。

「そんなに見られるのは嫌か?」
「ッ。……こ、これは…………」
「綺麗な物を隠しているのは勿体ない」
「ご、ごめんなさいっ…………」
「いっそ前髪を切ってみないか? 皆、綺麗だと言ってくれるぞ」
「……お願いですからやめてください! 好きでみんなと違うものになったんじゃないんです! 面倒なだけだって判ってくださいッ!」

 大声でブリッドは叫んだ。
 今度こそ本物の大声で、おそらく彼にとっては聞いたことのない声色。初めての反応なのか、言葉を失っていた。

「……あ。そ、そんなこと言ってくれるの……貴方、だけで……。貴方以外の人は……気味悪がります……から」
「こんなに……綺麗なのに?」

 近寄ってもう一度見ようとするが、必死の腕に振り解かれてしまう。
 激しく動いたときに赤っぽい明るい色の髪が揺れ、ワタシにも微かにあの色が見えた。

「気味悪いと、言うのか?」

 尋ねると、重々しく頷く。

「確かに、普通の色ではないな。だが紫は良い色だぞ。色んな国を見てきたつもりだが、ブリッドは珍しい」

 珍しいと言えば珍しい。一色ではなく、ところどころに赤い模様が描かれているような、美しい紋様が広がっているものだから。

「ずっと見ていたいぐらい、好きな色だ。私は大好きだ」

 ここまですれば、ブリッドがいつも俯いて前を見ようとしない理由がこれだと気付いてくれるか。
 人と違う特徴は事件の発端になる。それで自信を喪失してしまったというケースは容易に理解できる筈。だというのに傲慢にもそんな言葉で慰めようとしてしまうんだから、この男は。
 言われた本人は俯いたまま、ついにはワタシの方を見てきた。ワタシは現界したまま部屋に入ってから、入口のところで毛繕いをしていただけだ。ワタシ自身が助けようと思って助けるのならともかく、人間様から犬に助けを求めるのはいかがなものか。あ、間違えた、狼に助けを求めるのは……。
 ともあれ、助けてほしいと訴えているのだから助けなければ信用に関わる。背中を丸めて顔を赤くしている彼に近づく。相変わらずアクセンはブリッドに近寄ろうとしていた。
 ワタシは現界している。既にその姿は確認されている。さっきまでときわとアクセンにはざかざかと撫でられていた。
 しっかりと実体化した口で、アクセンの手をパクリと食べた。

「ブリュッケ!!?」

 さっきドアで挟んだ方の右手に、思いっきり噛みつく。
 大体……プレゼントを貰って「ありがとう」も言えないような、人の心が判らない野郎にブリッドを任せられるものか。



 ――2005年1月7日

 【     /      /     /      / Fifth 】




 /8

 お掃除が終わった。

 すっかり汚れた作務衣の染みを漂白剤に浸ける。暗めの青色だった作務衣は白くなってしまうかもしれないぐらい。
 こりゃあもう、新しい物に切り替えた方がいい。ドス黒く汚れちまった作務衣を洗ってから休憩に行こうと思ったが、自分が相当汚い仕事をしていたんだと気付いてから、ゴミ箱にポイすることにした。
 同じように清掃係を任されている僧侶に頼んで、LLサイズを一つ多く注文してもらおう。あ、一つどころか十は頼んだ方がいいかな。血糊は消すより捨てる方が良いって学んだし。

 芽衣と飲もうという約束に間に合うよう、自分に課せられた『仕事』をこなしていた。
 芽衣と同じで俺もロクな扱いをされていない、継承権を持って生まれなかった仏田一族だ。それでも仏田家として生まれ落ちたのだから、特別大きなものを受け継がなくても寺で為になる生活をしていかなければならない。
 一見すればただの寺。山の上にある墓地の管理人、正月になったら甘酒を配り歩くような、ごく普通の寺院。でもそこは千年近い歴史のある、退魔組織であり魔術結社。そんな中で知識や能力が無くても発展のために汗を流す俺達。いじらしくって、頑張るしか居場所の無い可哀想な部類の人間だ。
 そんな人間でも平等に酒は美味い。合っていない仕事が終わった後でも、疲れた体に染み渡る酒は素晴らしい。
 結構必死になんでもやっていれば充足感が得られる。その疲労感を満たす美味い物があれば、こんな大人になりたくなくても、まあ、こんなんでいいかなって思えてくる。子供の頃に描いた『将来の夢』は、確か平和に暮らすことだった。充分に叶ってしまっていた。
 十歳か十五歳かのときの夢のレベルが低くて、今でも助かっている。毎日特別ストレスも感じること無く暮らしていければ幸福だ。
 一族が散らかした戦場の後片付けという、誰でもできそうな『仕事』を終えた俺は、割り当てられた個室へと戻るところだった。

 年の近い者と食事をすることが好き。年下とおしゃべりをすることも好き。カメラは嫌いじゃない。苦手なものも多くない。適度に疲れを感じ、発散することができる生活。
 普段通り何も考えていないように笑っていられる、どうでもいい一日を今日も、また。
 ぼんやり歩いていると、一匹の白猫が廊下に横切る。
 別に境内に猫が現れるのは珍しいことではない。寺から少し離れた所にある墓地はどうやら猫が住みやすいらしく、時折寺の廊下で猫が寝そべっていることもある。あれはきっとその一匹だ。ふわふわして可愛らしい毛並みの白猫に、多少なりとも疲れていた心が癒されていく。
 廊下の端に立っていた白猫が虚空を眺め、目を細める。目を瞑り、何かを待っているような気がした。
 猫の気持ちなど何の力も持っていない俺には判る筈もない。ただただその姿が可愛いなとしか思えない。
 何気なく瞬きをする。人間ならば当然すぎるその行為だが、その後、目を開いた先には――――白猫の背後に、眩い金髪にきっちりしたスーツ姿の男が立っているのが見えた。

「っ!?」
「お呼びですか、最果ての番人」
「…………我は何度も呼んでおったぞ」

 白猫が、金髪の男と目も見ずに話していた。
 ふわふわの整えられた白い猫と、美しい金髪の長身の男性が……夜の間で話していた。

「貴様、『呼べばさっさと来る』化け物ではなかったのか?」
「申し訳御座いません、私は『一族が呼べば来る化け物』でして。瑞貴様と契約した貴方を一族カウントしていいものか悩んでしまいました」
「そうか、貴様は貴様の都合があるのか。それは失礼した。……確認したいことがある」
「なんでしょう」
「この世界は、何度終わった?」

 そのような割とド偉い会話を、一匹と一人は、夜空の下で囁き合っている。
 超シリアスなムードな中で。

「数えきれません、が。2005年のあの日に限った話によると『今回で五度目です』」
「…………。我が一門は、世界の消滅を知っている」
「伺っております」
「危機を回避するために、我らが知恵を集めなければならない」
「それが貴方様一門の、血の目的。貴方様の刻印が告げる、血の宿命。貴方様の一族の刻印は『紫の眼』。神と同じ色の眼を持ち、如何なる世界も観測することができる超能力。……何を焦っておられるのです? 貴方は知恵を手にしたのでは?」
「焦ってなどおらぬっ。確かに千年の知恵とやらを見せてもらった。ここまで邪悪だとは思っていなかったから猫なのに鳥肌が……いや、うむ、話が逸れたな……。五度か……それほど世界は消滅していたのか」
「いえ、世界が消滅する前に……」
「時は遡っていたか。……確かにこの世界は都合の悪いものを潰すために時を遡る。にしても……もう、四度、生まれていたのか、『アレ』が」
「そのようでして」
「……貴様、何故笑う。さては事の重大さを判っていないな?」
「はい。私も先日、貴方の眼と同じようなものを受け取ったばかりです。まだまだ素人なのですよ」
「…………だが、貴様は『アレ』と同じ血」
「同じ血というのでしたら、この寺に居る者達全てがそうですよ」
「貴様に限っては、『アレ』と同じ肉だろう?」
「よくぞそこまでお調べになられましたね。流石、観測者と言うべきなのでしょうか。……であるならば、貴方は私に確認するまでもなく、既に終末を迎えた四度の世界を識っている筈だ。貴方が面倒を任されている青年も、『アレ』の中の一人であることも」
「…………」
「貴方はマスターがいる限り、千年の知恵を引き出すことができるでしょう。それを惜しいと思うなら、マスターの傍につき従い、護るべきです。それだけで世界は変わる。世界が消滅する危険性が1%下がることでしょうしオススメですよ」
「たった1%か」
「おや、100あって1です。この確率がどれだけ高いものか、最果ての研究に励んできた貴方様なら無視できないのでは。それに……世界の消滅を研究するのに、『アレ』が完全に姿を現し世界自体が終わりを迎えてしまったら。貴方様の一門が積み上げてきたものはどうなることやら」
「ヘマなどせん。だが、なぁに……確認したかっただけだ。我がこの世界に召喚されてから、口に出して確認できる機会など無くってな。瑞貴は無知だから」
「それでしたら呼び出された甲斐がありました。相槌を打つだけでも相談相手にはなれますから」

 白猫はアクビをしたように、しなやかな首を傾げた。
 アクビなのか溜息なのか、何かに意気込んだのだか……どうなんだろう。

「確かに瑞貴から引き出せる千年の知恵には価値がある。だがな、瑞貴自体は単なるキチガイにしか見えん。アイツ如きに時間を潰すなど何の価値が……と思ったが、奴を我が手札として動かせば世界は……うむ」
「変わる気がしませんか?」
「いや、変わるな。間違いなく変わる」
「ほう」
「一番新しい消滅の記憶を見てみれば明白だ。『アレを蘇らせる場に一人足りなかった』。『それだけで世界は幸いにも最悪を免れた』。……たった一人、寺に居なかっただけで世界は救われた。しかし、今度は『その一人は遅刻せずに問題の時間に現れるかもしれん』。なら……」
「介入できるのは、全ての絡繰を知っている貴方。つまりマスターを助けることができれば」
「最悪は回避できる。……全く、ああ嫌だ。アイツは重い。重すぎる。一方的に感情の捌け口を、愛として、見ず知らなかった我にぶつけてくるような奴だぞ。それなのに守らなければならないとは。……こんな強烈な人間は初めてだから、戸惑っておる」
「時を重ねればきっと愛着が湧きます。どんな人間であれ現在近くに居るものは、愛する遠くの者をも越してしまうものです」
「なんだ、実体験か?」
「…………。とにかく、瑞貴という青年を愛することで、世界は救われるのですから……貴方様は重要な役目を背負って生きていると思い、苦しくてもどうか『世界相手』だと思ってお耐えください」
「ふん。無茶を言うな、化け物め」
「折角です、福広様。貴方にもお話したいことがあった」
「ふえぇっ!?」

 白猫と話しながら金髪の男性が、俺の名前を呼ぶ。
 ただただ隠れてその不思議景色を眺めていただけなのに、心臓を鷲掴みされたようだ。ギュッて寿命が縮まる瞬間が実感できた。

「ちょぉ、俺のコトはスルーしていただいて結構ですよぉ〜……なんかスッゲエ重要そうな会話を立ち聞きしただけの平凡な人間ですからぁ!」
「そう、これはとても重要な会話だったのです。それを、貴方は立ち聞きしてしまったんです。これからどうなるか、検討はつきませんか?」

 え、消される? 俺、消されちゃう?
 なんか凄そうな能力者のお兄さんと、人語を喋って世界がナントカとかファンタジックなトークをしちゃう猫に殺されちゃう? グッバイマイライフなの?

「いやぁ、あのぉ、俺はただの人間でしてぇ、自分の部屋に帰るだけの普通のオトコノコなんですけどぉ」
「とって食いはしませんよ。神に仕組まれたこと以外は出来ませんからね」
「はぁ、はあぁ。神とか世界とかさっきからビッグスケールですねぇ。っていうか喋る猫っていうのも驚きだけどぉ……はははぁ、我が家は裏でフシギワールドやってるんだから仕方ないかなぁー」
「福広様。ときわ様のことはお好きですか?」
「え、普通」

 正直に言う。ほんの数秒、男と猫が無言になった。特別意識を持っていないことが、まさかそんなに驚かれるとは。

「そうですか、普通ですか。……では、これから親しくなってもらえませんかね?」

 なにその、不登校児を心配する薄幸の親御さんみたいな言い方。

「ときわ様ってぇ……。直系一族のトキリンのことだろぉ? 俺はあんまり話したことないんだけどぉ。お友達いないのぉ?」
「友はいます。愛する人もおります。ですが、満たされないでいる。ときわ様の想い人はご存知ですか?」
「うーんぅ、知らんなぁ。あの子ってば複雑な生まれだから複雑な恋愛事情を抱えていてもおかしくないと思うけどさぁ……後でウマに訊いてみるわぁ」
「その手間は結構です。……彼は、ある人物に想いを寄せていますが、その恋を諦めています。理由は、その人物にはさらに想いを寄せる人がいるから。正確には、その人物を愛する人がいて、その人物次第でときわ様の想い人はときわ様の前から消えてしまうのですが」
「う、うーん? 待ったぁ、ストップぅ、もうちょっと砕いた言い方で言ってくれると助かるんだけどぉ……?」
「ともかく、ときわ様はお一人で寂しい生活をしなければならないということです。そこで貴方」
「ういぃ」
「彼と近付く気はございませんか」

 …………。

「傷心の彼を、支えてあげる気はございませんか」
「なんで俺がぁ」
「どうせ『何もやることが無いつまらない人生』なんでしょう?」

 …………っ……。

「……。ふ、ふふぅ。アンタぁ、『恋路を邪魔する奴になれ』とかぁ、『奪い取れ」』とか言ってるのぉ?」
「捉え方はご自由に。……ときわ様は間違いなく、これからナーバスな気持ちでこの館を訪れます。気落ちした彼を、押し倒すなり口付けるなりして『愛を始めてみては』いかがでしょうか。貴方のような綺麗な笑顔の男性に言い寄られて嫌になる人間は居りませんよ。貴方と関わりが薄いときわ様も感動することでしょう」
「面白いこと言うねえ、べっぴんさん」
「ときわ様が抱いているのはどうせ叶わぬ恋。早めに、新しいものに目覚めさせてあげた方が幸せというもの。もちろん、貴方様の気が乗らないと言うのならこの話は無かったことに」
「いいやいいやぁ、面白い面白いぃ。とっても刺激的な提案だねぇ」

 ……なんで『俺の本心』を知ってるとか、猫と話していた大層な話ってどういう意味なのか、ツッコんだところでかわされるがオチなんだ。
 けど、何も言わないことにする。
 まあ、「恋に落とせ」なんて課題、男としてはスッゴイ燃えるものだ。最近芽衣との酒飲みも、ウマとのメールもマンネリだった。新しいオカズが欲しかったトコロなのは事実だ。
 トキリンって言ったら面白いおしゃべりばっかりするという噂の子じゃないか。近くに居たら絶対楽しい子だと思う。手に入れたら……そら面白いことになる。

「いいねえ……落とせるかかぁ。そんな子を攻略するかぁ」
「ええ、ゲーム感覚で楽しんでください」
「ゲームにされちゃってるトキリン可哀想ぉ! ……とは思わないのぉ?」
「そう思ってしまうのでしたらやらなくて結構ですよ」
「…………。アンタぁ、綺麗で解像度のめっちゃ良い顔してるけどぉ、何考えてるか判らないなぁ。魔性ってやつぅ?」

 でもトキリンの顔は結構タイプだったし、付き合えればラッキー、フラれたら縁が無かったってことで諦めがつく。……つまんないことばかりだったから時間潰しには良いかなぁ。

「前向きに捉えてくれて嬉しいですよ。私も貴方を応援します。それにもしかしたら、貴方と彼が付き合うことで、世界が救われるかもしれません」
「うお、よく判らないけど責任重大だねぇ。ムチャクチャ大袈裟に言ってるだけだよねぇ、べっぴんさん?」
「ご想像にお任せします」
「…………アンタのコトも噂には聞いていたけどぉ、予想以上の不思議ちゃんだなぁ。能力者ってみんなそんなカンジなのかなぁ。ってぇ、もうすぐ芽衣との約束の時間だぁ。そろそろ失礼していいかなぁ? 俺殺されなくていいぃ?」
「はい。ああ、西の廊下を通ればときわ様とお会いできますよ」

 すっげえ、流石デキる能力者は違うなぁ。そんなコトも判るんだ。
 じゃあ、ちょっくら一勝負してくるよ。期待しないで見ておいてくれよ、べっぴんさん!

「…………。部外者である我が尋ねても良いか、ルージィルとやら」
「なんでしょう」
「『さっきのアレ』も、計画か」
「いいえ、私の独断です。……ときわという人間が『アレ側』になる可能性は極めて低い。いえ、品行方正なときわ様なら決してないでしょう。だが彼は、一族の中では高貴な方。利用価値は充分にあげます。それに、ストレスは少しでも解消してあげた方がいいでしょう?」
「親切心にやってあげたに過ぎないというか」
「ええ。……どちらかというとあの福広という青年。彼の方が危険だ。『判りますよね、どうぞご覧ください』」
「…………。はは、なるほど。あれはあれは、相当元気な坊主だ。どこかで調整しないともしかしたらあの男自身が……」
「それと向上心が無くてつまらなかったんですよ」
「む?」
「彼はとても綺麗な笑顔を毎日、多くの人達に見せていた。でも……空っぽに近いんですよ、彼の笑顔は。瑞貴の『透明という色』でなく、色さえも無いぐらい空っぽなのです」
「それが何か。……いや、ああ、なるほど。アレはときわとやらの予防策に見せかけて、福広の暴走を止める予防線だったか」
「御名答です。それに私は、夢を見て前を向く人が好きですから。……刻印が無い、力が無い、立場が無いというのを、薄っぺらい笑顔だけで隠すだなんて……気に入らなかったんです」
「ふん、結局貴様の勝手か。貴様も、あの幼な子とやっていることは変わらんな」
「それはそうでしょう。――――同じモノなんですから、変わる訳が無いでしょう」



 ――2005年9月17日

 【     /     / Third /     /     】




 /9

 悟司がブリッドの部屋に現れた、魂を『本部』に献上しに行った後のような疲労感が見てとれる。どうやら一人で『仕事』を任され、魔力も尽きかけの状態で帰ってくることができたらしい。
 普段ならスマートな立ち振る舞いをする悟司だったが、そんな枯渇状態が続いたまま数時間経過していたようだ。彼にしては動きが鈍く、少しだけ息遣いが乱れていた。重要なポストに就いている悟司なら『仕事』を終えた後も次にやらなければならないことがあるに違いない。だがそれよりも、今は休息を早急にしなくてはならなかった。
 だからわざわざ洋館に来たんだ。手っ取り早く回復させるために。
 悟司が洋館に現れる理由など、しかも居住スペースに足を運ぶ理由など、それしかない。

「ん。なんだ、部屋に居たのか。留守だと思ったぞ」

 部屋にやって来た悟司は、乱れ皺の無いスーツに身を包み、洒落気の無い眼鏡と面白みの無い顔をしていた。
 一人でお勤めをしていた彼に、ブリッドは小声で挨拶をする。先程までアクセンが居たが、数分前にお帰りになられた。ブリッドの顔色はいつもの暗さはあっても、少しだけほっとしているように見える。どうやらアクセンと悟司が鉢合わせしなくて済んだことに安心したようだ。
 そんな微かな優しい素顔を見せていたブリッドだったが、「能書きはいい」と悟司は細い体を捕まえると、早々に食べ始めた。

 部屋にはベッドぐらいしか物が無い。それをアクセンは残念がっていた。
 だがそれでいい。ベッドが一つあればブリッドの『仕事』ができる。無くてもできるんだが、魔力を回復させるための『供給』で体力を削るような床での行為は馬鹿げている。今までのブリッドは自分の為さなければならないことに徹していた。だから無気力な自室があった。
 そんな中で唯一チェストの中身だけが違った色を見せ始めてはいたが、引き出しの中など誰も気付くことはない。悟司は慣れた手つきでブリッドの服を剥がすと、齧り付いていった。
 ――数十分。極力声が殺された供給が始まった。

「…………味が、落ちたな」

 言葉の無いセックスだった。
 行為を終えてベッドに横たわるブリッドに対し、いきなり悟司がそんなことを口にした。
 ブリッドはセックスの後らしく悟司の足元で裸体で転がり、ぜえぜえと熱い息を吐きながらも……意図の判らない発言を怯えて、悟司を見上げる。
 あまりに唐突な転換に言われた彼は困惑していた隣で擦り寄っているワタシも(流石に今は姿を消している。実体化より消えている方が疲れない)、悟司の一言に一体何だと首を傾げてみる。

「…………そう、かもしれません……オレ達がこの寺に拾われて、もう十年が経ちますから……」
「十年以上経つだろう」
「……十年以上……経ったと思います……よく、覚えていません……」
「その外見だから、五年ぐらいしか経ってないような気がしていた。……無感情はつまらんな。一本松様がよく言っている、泣き叫ぶ声が美味いと。やはり薬を使っていなければ……」
「……はい……」

 悟司が淡々と事実を口にする。
 ワタシは、シーツの海にうずもれている弟の顔を見る。……まだよく判らない顔のまま、震えていた。

「お前が調子が悪くて使い物にならないと言うのなら代理を立てなくてはならん。玉淀も慧も、どちらも調子が良いと言えるが……いざとなったら他の分家の子供を使うとはいえ、役目を果たせなくなったお前に何の意味がある?」
「……すみ……ません……」
「このままだとお前は用済みとして喰われるぞ。そうなったらお前が嫌だろう? ……ブリジットを餌として使うしかなくなる」

 双子の兄の名を出す悟司。
 その名を聞いて、ブリッドの目が見開かれる。怯えて伏せていた目がみるみるうちに恐怖の色に染まり……首をふるふると振り始める。
 うまく言葉に出来ない分、表情で、仕草で悟司に訴えかけていた。悟司は頭の良い人間なので、それだけでブリッドが何を伝えたいのか判ってくれていた。だが同時に、気味の悪い笑みをも浮かべるようになった。
 一度終わった行為が再開される。悟司は半身を、さっきまで何度も行き来したブリッドの中へとまた沈めていく。

「ん? なんだ? 兄の名前を聞いた途端、締まりが良くなったぞ?」
「…………ぅ……んんぅ……。その、お願いします、兄さんには……」
「声を上げろ。さっきから我慢して何をしているんだ。……どうせ聞かれて困る奴など、ここには居ないだろう?」

 窓は遮光カーテンで仕切られ、明かりも一切点けられていない暗い部屋。そんな中でもブリッドの懇願が悟司に伝わる。
 空気が湿り気を持ち、甘く重い香りが充満した異界で、ベッドの上でブリッドがもがき苦しみ始める。
 普段なら声を荒げるような突きも、ブリッドはぐっと唇を噛んでいた。いつもの彼らしくない。やられるがまま、言われたままに喘ぐブリッドらしくない。
 おそらくは、洋館に居る何者かに聞かれるのでは……。そんな自意識過剰により恐れ慄いているのではないか。

『兄さんにだけはさせないで、か』

 暫く弟は悟司に懇願を続けていたが、優しく受けとめてくれるような男ではない。親しい親戚の者でもなければ、愛らしい子供でもないのだから願いなど聞き入れてはくれなかった。
 ただ餌として、欲しいときに貪られていく。いつものように一方的に陵辱される時間が再開された。
 苦痛に噛み締めた唇が動く。辛くて涙が零れたが、それでも逃げることはしない。ブリッドは全てを捧げていた。気にしていたものも最終的には全て手放し、変わらぬ姿がベッドの上にあった。




END

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