■ 018 / 「発覚」



 ――2005年10月30日

 【 First /      /     /     /     】




 /1

 取り締まっている連中の目を掻い潜ってバイクを走らせる。180キロぐらい出た気がするけど気にしない。猛スピードで走って、病院まで急いだ。
 玉淀が倒れたと聞いて病院まで素っ飛んできた。俺の元に連絡が入るなんておかしかったが、依織が気を利かせてくれたんだから文句は言わない。もしくは依織的に「俺の代わりにカスミンがタマの見舞いに行け」ってことで納得しよう。
 ともかく、俺は言われた病院に向かった。
 こうして着いたのは真夜中、病院内は緑色の電気だけしか点いていない時間だった。
 そんな中、俺は病棟に走って入っていく。看護師さんと話をして、今日運ばれてきた玉淀の部屋を教えてくれと息切れしながら頭を下げる。だが看護師さんは教えてくれなかった。そんな部屋など無いと言い切る。
 何故なら、玉淀は別の場所に搬送されたから、と答えた。
 俺がこんなに必死に走って来たっていうのにどういうこった。しかも今度の搬送先はちょっとでなく遠い。バイクで180キロ出したって遠い場所を言いやがった。
 玉淀は確かに数時間前までこの病院で診られていたらしいが、ここではない場所の方がより良い治療が出来るってことで場所を移したそうだ。一般の病院では診られないと判断してのことだった。それだけ事は重大なのか。俺はどんどん焦っていった。
 移動はほんの一時間前の話だったという。俺が病院に向かい始めた頃にここを出て行ったなんて運が悪い。思わずその場に座り込んだ。
 でも息切れを整えると、看護師に礼を言ってすぐさま病院を離れた。駐車場に置いたバイクのキーをチェックする。ちゃんとロックはかかっていた。

「…………仕方ねぇ。飛ぶか!」

 足に魔力を込めた。
 そして駆ける。壁を蹴り、屋根の上を跳ねる。
 ……バイクで飛ばすより、魔法の足で走った方が早い。サツの取り締まりに怯えることもない。そう判断してのことだった。



 ――2005年8月14日

 【     /      / Third /      /     】




 /2

 地下へ進む度に闇が濃くなっていく。暗い階段から足を踏み外さないように慎重に下る。
 この時間が一番嫌いだった。先を行く悟司さんは慣れた足取りでさっさと行ってしまうので、置いていかれないように必死に、慎重に足を動かした。
 悟司さんは明かりを持っている。でも僕は持っていない。だから悟司さんは慣れていない僕を気遣うべきだと思うが、そんなの彼は一切考慮に入れず、さっさと行ってしまう。憎く思いながら黙って彼の後を追うしかなかった。

「慧。この部屋は入ったことはあるか?」

 階段を下りきってある部屋の前で、悟司さんは歩みを止めた。
 暗い地下室の間取りなんて全然覚えてないから首を振る。もしかしたら入れられたことはあるかもしれないけど、どれも同じ牢屋だ、覚えられる訳が無かった。

「『仕事』を始めるまでにまだ時間がある。見ていくか」

 何の時間潰しだ、無駄なことを。
 そう思ったけど、暗闇の中では悟司さんも僕の怪訝そうな顔には気付かない。気付いているかもだけどそんなのお構いなく、悟司さんは持っていた鍵束から一つを取り出し扉を開けた。
 重たい音と共に扉が開いていく。中はいつもの香が焚かれ充満していた。一瞬でくらりばたんといきそうなぐらい濃厚な香りが充満している室内だった。あと数分後で嗅ぐことになるとは思っていたけど、不意打ちをくらって思わずくらりときた。ばたんとまでいかなかった。
 部屋の扉から数センチが石畳。そこから先は普通の井草の畳になっている。石畳のところで履物を脱げということらしい。なのに悟司さんは靴のまま畳の上へ行く。ここはそれでも構わない場所なのかと無理矢理納得しつつ、僕も履物のまま畳に上がった。
 奥には、座椅子の上で縛られている男が居た。
 男は衣服を何も身につけてない。目隠しをされ、座椅子ごと縄で後ろ手を結ばれ、両足をM字に広げられたままこちらも縄でくくられていた。
 性器には何か機材が付けられていて、その下、尻の穴には性具が突っ込まれている。口には枷や詰め物が何も入れられていないので、男は涎を垂らして喘いでいる。
 息遣いが熱い。ああ、悟司さんや父さんが好きそうな趣向だな、と思った。嫌気がさしながら。

「電源、入ってませんね」

 尻に突っ込まれてる性具の電源装置が、微かな光の中で見えた。ちゃんと電源はオンになっているのに、モーター音はしていない。中で蠢いている様子でもなかった。
 男は、僕達の声を聞いたことで誰かが部屋に入ってきたことに気付いてか、腰を動かし始めた。玩具が動かなくなって、快感が足りなくてもがいている、助けてくれというのを訴えている。全部僕の予想だけど。

「昼間からこの状態だったからな。電池が切れてしまったか」
「そうですか。芽衣さんがこの前、作ったって言う……魔法の玩具は? 水分と若干の魔力があれば半永久的に動くっていうあの」
「ああ、あれか。あれなら志朗君が貰っていった。量産しろと言ってはみたが、同じ物をいくつも作るのは芽衣の趣味ではないらしい。話を聞く限り面白いとは思うんだがな、俺も是非見てみたかった」
「へえ」
「永遠に体を苛むなんて、天国を見てしまうだろうな」
「ぅ……は……ん、あ……っ。おね、……がい……」

 目隠しをされた男が喘いでいる。僕達の会話なんて気にせず、声を上げ始めていった。
 悟司さんにつられ近付いてみると、男は縄で縛られながらも腰を懸命に動かそうとしていた。快楽が足りないと言うかのように甘い声を吐き出している。
 他人の喘ぎ声とかいやらしい姿にはあんまり興味が無かった。正直に言ってしまえば見ていると嫌悪感が走るぐらいだ。動かない性具を必死に擦りつけようとしている淫らな姿なんて見ても何とも思わない。敢えて言うならこんなものを楽しんで見ていて、しかも僕に見せようとしていた悟司さんって変態だなって思うぐらいだ。
 お香の匂いで掻き消えているけど、時々ツンと生っぽい臭いも混じるし。性器に付けられた器具が精子を受けとめているようなので、この部屋は実は精液の匂いに満ちている。
 ああ、気持ち悪い。早くこの部屋出て行きたいな。そればかりを考えていた。

「良い子にしてたか?」
「……は……ぁ、ひ、んあっ!」

 悟司さんが言いながら、動かなくなった性具を男の中から引き抜いた。情けない声で男が喘ぐ。

「どれくらいイきまくったかな。いや、電池が切れてしまったからちっともイけなくて切なかったのか」
「は……い……。ぁ……ぅ……ふっ……」
「全然気持ち良くなれなかったのか。それは悪いことをしたな。動かしてやろう」
「ぃ、ひっ!」

 抜いた大きくて長い性具を、悟司さんは再度、男の開いた中に押し込む。
 男は悲鳴を上げた。それでも悟司さんはぐちゃぐちゃに玩具で中を掻き乱していく。
 悲鳴が絶叫になっていたけど構わず悟司さんは抜き差しを繰り返す。いつまで見てればいいのかな。
 数秒ぐりぐり押し込んでいたけど、あるところでピタリと動きを止めた。ゆっくりと玩具を抜き、すぐそばに置く。そのまま悟司さんは手を離していった。
 目隠ししている男が、頭を上げる。「どうして?」と言うかのように。
 上げた先に悟司さんが居ると思って上げている。もう既に悟司さんは僕の居る方まで下がっている。ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながらその場から下がっていた。

「今さっきのは、予想外に早く切れてしまった電池のお詫びだ。わざわざ俺がソレを動かしてやらなくても、新しいのを持ってきてやればいい話だよな。そのまま待ってろ」
「……や……や、だ……」
「嫌だ? もう暫く待っていれば新しいモノをちゃんと入れてやるのに? 我慢できないか?」
「……っ、はい……我慢、できません……もう、ずっと、待ってた、のに……早く……欲しい…………もっと、滅茶苦茶に……」
「我慢しろ。お前は、あと三十分で交代になる」

 交代。その言葉を聞いて、男は首を振った。僕は自分の体を抱いてその光景を見ていた。

「交代なんて……しなくて、いいです! このまま、ずっと……ここで……!」
「お勤めご苦労様。よく頑張ってくれたよ。暫く休暇を出すからゆっくり休むんだ。ときわがお前に休みを取らせろと何度も言ってきてうるさいからな。……ああ、あと三十分すれば誰かが縄を解きに来てくれるから、ちゃんとお礼を言って出て行くんだぞ」
「………………ぁ…………」

 悟司さんは綺麗な捨て台詞を置いて、僕の腕を引き、部屋を出た。
 鍵は開けっ放しのまま、次に誰か来ることを見越してそのままにして、向かうべき場所に足を進めた。

「悪趣味」

 言ってやる。カツンカツンという足音に掻き消されぬよう、ちゃんと悟司さんの耳に届くようにハッキリと言ってやった。

「これから『あんな風に』なる気分はどうだ、慧?」
「…………。悪趣味。何度でも言ってやる」

 睨みつけるなんてことしたくなかったけど、ついついやってしまった。だってずっと笑っているんだもの。
 拘束されていたあの男を甚振るのが目的じゃなく、僕に精神的ダメージを与える方がメインだったか。震えるのを必死に我慢して体を抱いているのが恥ずかしい。
 だからこの時間は嫌いだった。みんながみんな、からかって虐めてくるから。
 僕はこれからする『仕事』が嫌いだ。誰が好き好んであんなことするもんか。体を任せるのは、本当なら……愛する先生だけにしたい。
 僕の体は先生だけに触ってほしい。汚らわしいものに触れるのも触れられるのも嫌だった。でも、仕事は義務だからしなくちゃいけない。
 ああ、嫌だ、本当に嫌だ。……さっきの男の話ずっとあんなことをやっていたらしいが信じられない。それどころか「もっと」だなんて強請るのも考えられない。あの人、ヤりすぎて頭が壊れちゃったのかな。そうでもないと言えないよね、あんなこと。可哀想に。目隠しで顔が見えなかったから判らないけど、きっとボロボロになっているんだ。
 って、他人の同情なんてしている場合じゃなかった。
 目的の部屋……牢獄の前に辿り着く。僕は前に進んだ。先生、早く会いたいな。ずっとそのことを考えていればすぐに終わるだろう。そう信じて中に入る。
 そこには魔物が待ち構えていた。



 ――2005年8月14日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /3

 燈雅様の容態は、決して良いものとは言えなかった。それも普段通りで思わず溜息が出た。

「リンちゃん! ……燈雅様、何か食べられそうだったー? どうなのーっ!?」

 俺が燈雅様の私室を出た途端、割烹着姿の梓丸に捕まってしまう。暗い廊下で、俺が部屋から出てくるのを待ち伏せしていたらしい。物凄く心配している顔だった。
 梓丸の後ろ、廊下の端っこには男衾が待機している。俺は梓丸の頭をポンッと一回撫でて、すぐに男衾に声を掛けた。

「男衾、今夜の仕事は?」
「……悟司様に言われたことなら、もう終わっている」

 淡々と、静かな口調で男衾が答える。後ろで梓丸が「それよりもー! アタシを無視すんなー!」ってうるさい。片手でぎゅむぎゅむ梓丸の頭を押しつけながら男衾に、命令のようにお願いする。

「それなら男衾。外に出ないのなら、今夜はお前が燈雅様を抱け」
「…………。それは」
「あの人はまた魔力が足りんらしい。久々の地下での仕事だったからな。たっぷり供給してやってくれ。出来るだけいっぱいな。だいぶ弱ってるから頼む。……精神的にやられている」
「…………精神的に、か」
「ああ。大変ナイーブになられている」
「…………主治医であるシンリンの頼みごとなら仕方ない。行ってくる」

 燈雅様付きの、最も信頼をおかれている使用人の男衾は、表情一つ変えることなく俺のお願いを聞き入れ、次期当主の自室へと向かって行った。
 表情はまず変化しない、口数も少ない、迫力がある大柄。使用人というより忠犬っていう言葉の方がよく似合う男衾は、主である燈雅様のことならどのようなものでも従ってくれた。
 燈雅様からの命令でなくとも、燈雅様に関係する命令であればしっかりと従う。彼のピンチとなればいつでも体を使ってくれるだろう。そして真面目で忠実、昔から傍に居る優しい男衾が相手であれば、燈雅様も無碍には断らない筈だ。

「ちょっとー、なんでアタシじゃないのーっ!?」
「お前がカワイイ男の子だからだよ」

 俺の手で頭を押し潰されながらぴょんぴょん跳ねているカワイイ梓丸だったら、燈雅様は笑ってごめんで押し返すかもしれない。
 でも威圧感のある男衾なら、無理矢理にでも押し倒せる筈。燈雅様の体を気遣って男衾も無難な供給行為を行なってくれる。

「はいはい、梓にはちゃんと任務を命ずるぞー」
「ロクな命令じゃなかったらリンちゃんのちんこブチ抜くからねー!」
「俺のはフットイから引っこ抜くのは大変だぞー。いや、じゃなくてな。梓は食べるものを用意してくれ。出来れば水分が多くて、甘くて、燈雅様が好んで食べるような物を頼む。……果物がいいな。梨がなかったか? あれ剥いておいてくれよ」
「えーっ。そんな雑用、アタシにやらせる気ー?」
「ああ、やらせるよ。燈雅様がお疲れのところ、甘くて美味しい梨をハイあーんする仕事を梓に命ずる。料理関係だからって流石にこの時間、銀之助様を起こしたら殺されるだろ。あの人だって一日最低二時間は寝なきゃ死ぬって」
「あー……十一時じゃちょうどお父さん、布団に入ったところだもんねー」

 夜の十一時。二十三時。夜はこれからってところだが、人間が一番積極的に動きたくない時間でもあった。
 霊時を過ぎればあれこれし始める連中も多いが、朝の早い寺としては零時も近くなると眠り始める人間が多い。
 そんな中、主の調子が悪いからって二人揃って面倒を見ている男衾と梓丸は凄いもんだ。夜には慣れているつもりの俺だって、ちょっとばかし憂鬱な気分だ。

「だから、厨房入ってちゃんと断りの手紙でも書いて、ちょっくらフルーツをチョッパってきてくれよ。俺は良い薬を探してこなきゃいけないから。な?」
「仕方ないなぁー。何時までに用意すればいいー?」
「……六十分後かな。それくらいになれば男衾も終えるだろ。頃合いはお前の方が知ってるだろうから、任せる」
「らじゃー」

 ちょっぴりぷんぷん顔のまま、梓丸は厨房に向かった。
 俺はすぐさま工房に戻り、するべきことを開始する。少しでも燈雅様の手助けをするためだ。仕事場に戻って来ると、工房に置かれているソファの上で芽衣が寝てやがったので蹴飛ばして起こしたが、飲んだくれてたので使い物にならなかった。そう緊急事態じゃないし何度か蹴っておくだけに留めて、仕事に戻る。

 ――燈雅様の体調が悪いのは、いつものことだ。
 昔から何かと体調を崩す人だったから、多少の熱が出たとしても不思議に思わなかった。彼が一年の大半を自室で過ごすのは、『大事な大事な次期当主様だから』というよりは……彼の体を気遣ってのことだった。
 『外の仕事』をするたびにスタミナ不足で倒れ、『中の仕事』をすれば熱を出す。そんなだから当主の仕事を一人で任せておけない。ありとあらゆるものを何人かに分担させてやらせている。
 その現状を、不都合だと言う人もいた。やっぱり次期当主としては不適格だと言う奴もいる。
 それでもなんだかんだ、三十年近く燈雅様は体を酷使させられていた。そういう血の下で生まれたんだから義務は果たしてもらわないと。
 しっかし……次期当主が本当に当主になったら、こんなに騒いでいられるのかな。十年持つだろうか。……もしかしたら五年、いや一年で尽きてしまうんじゃないかと考えてしまう。
 それぐらい燈雅様が不安定だから、彼の体のことを思ったら違う未来を考えた方がいいんじゃないかと……。当主は、別の人の方がいいんじゃないかと思ってしまう訳で。

「それでまた事件が起きるんだよな。圭吾の事件と、新座の事件と。……三度目があったら流石にやられちまうか」

 精神が。
 十年以上前の圭吾の事件、ここ数年の新座の事件。それがあってもまだ燈雅様は『次期当主』のままだ。
 身近に居る者の一人としては彼を応援したい。でも彼のことを知れば知るほど、一族の中央にいる存在には向いてないんじゃないかと思う。もやもや考えていると、携帯電話が鳴った。出て数分で会話を終わらせ、さっさと切って薬を作る。少しでも燈雅様がラクになれるように考えながら手を進めた。
 俺の出来る事をし終えて燈雅様の自室に戻って来ると、魔力供給の最中だった。
 声を掛けずに室内に入る。なるべく音を立てないように障子を閉めるが、敏感な二人は俺の侵入はバレバレのようだった。
 電気の点いていない、月明かりだけが唯一の光になっている薄暗い部屋。中央に敷かれた布団の傍に、剥がされた帯がそのまま投げ出されていた。燈雅様の着物もぐしゃぐしゃに畳の上に放り出されている。

「くっ、ん、ぁ、ぅ……ぅ……っ」

 切なそうな声が聞こえた。
 男衾の下で、燈雅様は必死に喘いでいた。目をぐっと瞑り、布団のシーツを噛み、覆いかぶさっている男衾を受け入れている。辛そうな様子だった。

「ぐ、んん、んっ、んんん……!」
「……はっ……。燈雅様、力まずに……力を、抜いてください」
「んんっ! ……んんんん……っ」

 男衾が優しく声を掛け、フリーになっている手で燈雅様の敏感なところを弄った。逃げるように燈雅様が身を震わせる。弄繰り回す男衾の指を避けようとしているが、背中から抑え込まれ覆い被さっている大男に、か弱い彼はただ、愛撫されるしかなかった。
 至るところを撫でられ、擦られ、抜き差しをされていた。俺が薬を調合している時間にずっとされていたらしい。押し殺してはいるが熱っぽい声で息をしている。少し気持ち良さそうだ。少しだけか。でも全然よりは良かった。
 夏だからか、むあっと汗の香りがする。燈雅様の長い髪は額にべったりくっ付いてしまっている。額だけならともかく、頬にまでくっついていて、喘ぐたびに口に入ってしまうのがちょっとみすぼらしかった。

「男衾、お前こそ力を抜け」

 大変エロティックで俺にはグッとくる光景だったが、少し辛そうだったので男衾を宥めた。

「っ……。申し訳御座いません、燈雅様。お体は如何ですか?」
「い、ぁ……あ。……もう、大丈夫だから……。だから、男衾、もういい……」

 燈雅様は、男衾を遠ざけようとする。性交渉を拒んでいた。
 俺は、心霊医師の立場として、そこに異議を申し立てる。

「いや、男衾。もう少し続けろ」
「……え……」
「燈雅様。足りないのに何言ってるんですか。まだそれほど気持ち良くなってないでしょう? 無理しないで甘えてください」
「…………いや、もういいんだ……」

 ふるふる、首を振る。もう充分だと言わんばかりの態度だった。
 それほど欲しくないと言うかのような、申し訳無くて断っているかのような姿。……上に立つ人とは思えない謙虚さが滲み出ていた。
 とても心優しい方だ。良い人だと思う。……だがそれだと俺達が仕事が出来ないじゃないか。強い口調で俺は言う。

「ダメです。貴方にはもっと喘いでもらわないと」

 優しい人だからって優しくしていたら何も出来ない。
 俺は燈雅様の肩を抑え込んで、うつ伏せにさせた。

「ッ! し、シンリン……!」
「はい、腰を上げて。恥ずかしがらずケツを見せてください。もっとヤらなきゃダメでしょ」
「あっ……いや、そんなこと……」
「遠慮しないで。みんな貴方の為にやっているんです。貴方は言われた通り感じてればいい」

 さっきまで男衾のモノが沈んでいたところに指を淹れる。
 少し開いただけの濡れないそこに、乾いた指が無遠慮に入りこむ。燈雅様は苦痛に染まった声を上げたが、もう既に何度も行き来した場所なんだ、もう今更何も気遣いをしなかった。
 人差し指が第二関節のところまで入り込んで、親指をねじり込み、広げる。そこに用意していたスポイトを差し込み、すぐさま注入した。

「うぁっ!?」

 異物感と痛みに声を漏らすが、親指ですぐにシャットアウトさせて、中に薬を浸透させる。
 燈雅様は体を丸めたまま、下半身から沸き上がってくる痛みと疼きと堪えていた。

「あ……んあ……」
「あれ、これぐらいでキツイんですか? ちょっとやわすぎるんじゃないんですか、燈雅様」
「……おい、シンリン」
「男衾。やっぱりお前、優しすぎるだろ。もっと激しくしてやれよ。じゃないとこの人、満足しないんだから」

 文句を言えば男衾は黙る。
 俺が腰を揺さぶってやると、燈雅様のただでさえ赤かった顔がさらに紅潮していく。効果が出始めると、燈雅様の力は完全に抜け切ってしまったらしく、簡単に体位を変えることができた。
 男衾の手によって体が持ち上げられる。燈雅様は虚ろな目になりつつ、はぁはぁと息をしたまま、反応をしない。でもさっき指が入ってたところに、再度太く熱いモノが当てられると、首をゆっくり振った。

「んぁっ……あああッ!? ゆ、許してくれ……もう、あ、あああ……!」

 躊躇い無く中に入るモノに、声を上げる。
 その声はとても甘ったるい。表情も苦痛に歪むことなく、突くたびに嬉しそうな声を上げた。
 俺の忠告もあってか、男衾は力強く、最深部まで激しく突きまくった。
 燈雅様はのたうち回っていたが、体を走る快感にどろどろになっていた。えぐり続けるたびに跳ねる。悦ぶ。ひときわ強く中を衝いて、大量の精を受ける。
 倒れ伏した後もビクビクと震えている。意識は失っていない。ちゃんとスイッチは入っていたようで安心した。それにしても死にそうだ。これっきりのセックスなのにもう根を上げている。可哀想だった。
 ――本当にこの人、やっていけるのか。椅子なんて。魂の管理なんて。魔物の世話なんて――。
 そのために代理でやってくれる連中がいるけど、不安だった。この人を応援しているからこそ、不安でたまらなかった。



 ――2005年10月30日

 【 First /      /     /      /     】




 /4

「なんで新座が出てくるんだよ!」
「なんでカスミちゃんがこんな所に居んのさ」

 超特急で看護師が言ってた教会にやって来たら、会いたくない幼馴染が居た。
 普通の病院じゃ対処しきれないっていったら、心霊治療のできる教会に運ばれる……それは納得できた。新座が教会に身を置いているのも知っている。でもどうして俺が飛んでやって来た教会に新座が居るのか、理解できなかった。

「僕がここに居るのは偶然だよ。なんか重病っぽい子がいるから応援に来てくれって人数合わせに連れてこられただけだもん。僕だって疲れてるときにカスミちゃんの顔なんて見たくないよーっ。あー、やだやだー」
「んだとテメェ……って、重病!? おい、玉淀のやつ、そんな重態なのか!?」

 夜の礼拝堂。俺達二人きりの空間。新座の襟元を掴んで叫ぶ。
 新座を締め上げると「苦しいからやめてよ」と嫌そうな顔で俺を跳ね退けた。くそ、なんだその顔は、なにからなにまでムカつく。なんで会う度こんなことを言われなきゃいけないんだ。……じゃなくて。
 一般の病院じゃ治療できない、異能力を使って治療しなければならないような重態ってどんなんだよ。屋根を走りながらそればかりを考えていた。治療したらしい新座も重病だと言う。血の気が引いていくのを感じた。

「大丈夫だよ。玉淀くんは元気。問題無いよ。普段通り」
「……ホントか? ホントなのか」
「嘘なんて言わないよ。言って何になるのさ。っていうか本当になんでカスミちゃんがここに居るの? そんなに玉淀くんと仲良かったっけ? ……心配?」
「ん。……いや、依織に言われてな。ほら、依織と玉淀って仲良いだろ。だから代わりに俺が見てくることに……」
「そっか。……処刑人の依織くんの代わりか。じゃあ包み隠さず話さなきゃいけないな」
「…………なんだよ、それ」

 礼拝堂の長椅子に新座は腰を下ろす。ふうと溜息を吐いた後に俺の目を見て、口を開いた。

「あの子、薬を一気飲みして倒れたんだ。霊薬をね。だから一回ちゃんと薬を調合した本人に診てもらった方がいい。僕はただ沈んで浮かび上がらなかった意識を引っ張り出しただけだから、専門家の意見はちゃんと聞くべきだと思う。絶対依織くんに伝えておいてね」
「…………。どういうこった」
「僕が言った通りに依織くんに伝えれば判ってくれるよ。カスミちゃんが判ってなくても伝わると思うよ」
「どういう意味か説明しろよ」
「…………むぐぅ。やっぱりカスミちゃん、心配なんじゃないかー」

 新座にチョップ……は、寸前のところでやめておく。くそ、殴ってないのに睨むんじゃねえ。早く説明しやがれ。

「玉淀くん……何をしてるか知らないけど、相当ストレスでやられているらしいね」
「は? あのヘラヘラ笑ってる奴がか?」
「あれ、仲良いのにその反応? 思い当たることはないの?」

 …………。あった。
 玉淀と俺の関わり合いは、『俺の代わり』とかいうバイトを始めたことからだった。あれのせいで俺は玉淀とあれこれメシを食うぐらいの関係を持つようになった。今では普通に何気ない時間を過ごす仲にも……。
 でも、あのバイトの話は終わった筈だから……まさか、また違う仕事を『本部』から任されたのか?

「新しい拷問にあわされてるのか、アイツ……!?」
「拷問。聞き捨てられない言葉が出てきたね。まあ、玉淀くんはストレスを軽減させるために……僕と同じで、『考えなくさせる薬』を処方してもらってたみたいだけど。アホなカスミちゃんでも判るよね? 睡眠薬をいっぱい飲んだら永遠の睡眠に入っちゃうってことぐらい」
「アホって言うな、アホじゃなくても判る! ……適正量を飲まなきゃ、薬は薬じゃなくなるんだよな」
「だよ。……眠りたいからって大量の睡眠薬を飲んじゃいけないんだよ。ストレスから逃れたいからって、貰った薬を大量に飲んだからって、全部から逃れられないのに」
「…………なんだ、アイツがアホか」

 そんなこと常識で知ってろ。というか、依織から薬を渡されているときにちゃんと説明されてるだろ。覚えきれないことはちゃんと書面で渡されてるだろ。なのに、大量に飲んだだあ? アホにも程がある!
 一発殴らなきゃ気が済まない気がした。病人だから殴らないとか、関係無い。あのアホ頭を殴って修正してやらないといけないと思えた。

「おい、玉淀はどこの部屋に居るんだ」
「……会うの?」
「依織の代わりに怒鳴ってやる!」
「依織くんの代わりね……。カスミちゃんが怒りたいなら怒ってもいいんじゃない?」

 何が言いたいんだかハッキリしない新座を睨んで黙らせておいて、部屋の場所を教えてもらう。
 すると教会の奥、とある宿舎の部屋の前まで連れて来られた。俺はうるさい携帯電話の電源を切ると、後は任せろと新座に告げる。新座もそれ以上は詮索しようとせず、別の部屋に去って行った。
 意識を落とす特殊な霊薬に、意識を引っ張りだす心霊治療。何らかの霊的な攻防戦が繰り広げられていたらしく、相当消耗していた新座はふらふら違う部屋へ向かう。
 しかしおやすみの一言を言う前に。

「無理しないで出ておいでね」

 そんなことを言った。

「うるせー。気遣いなんてすんな。気持ち悪い」

 部屋を開けると、そこはベッドとテーブルがあるぐらいの個室だった。病院の個室のような殺風景な場所だ。
 入ってすぐに扉を閉める。これから玉淀をボコ殴りにするんだ、他の奴らが入って来たら困るからだ。
 部屋は電気が点けられていて明るかった。ベッドが膨らんでいるのが判った。玉淀が起きているのも判った。
 声を掛ける。まったくお前はなにバカなことをしてくれたんだ。依織が怒っていたぞ、俺も怒りに来たぞ……そう言おうとして、口を噤んだ。
 小さな声が漏れている。
 ああ、ああ、と……声が漏れている。
 声を押し殺しているつもりなんだが、全然黙れてない。
 …………。くそ、俺の来たタイミングが悪いのか。俺が入ってきたことぐらい気付けよ。
 なんで一心不乱に、自分を慰めてるんだ。くそ、心配して損した。くそくそ、どうして俺が赤くならなきゃいけないんだ!?

「玉淀。この、バカ」
「う、ううううう」

 俺は近付き、思いっきり拳を振り上げる。

「う、あ」
「…………あ?」
「うあ、あああああ、ああああああああああ」

 だが振り下ろすことなど出来なかった。
 はぁはぁ言いながらせんずりなんかしてやがると思って、焦って凄い損した。そう思ってバカと言った。でも、玉淀の泣き方が……尋常じゃない声だから、ゾクリと背筋が凍る。
 すぐにベッドに近寄る。シーツを剥ぎ取る。玉淀は、下半身を露出させていた。精液に濡れている。うん、ここまでは予想済みだった。ストレスから逃れるために気持ち良くなろうとしているのは理解できる。泣きながらやっているのも、感情が高ぶっているからだろう、理解できる。
 けど泣き方が俺の知っている奴じゃなかった。
 俺の知っている玉淀は、もう少し幼くて……「びえー」と泣くような奴だった。だから……頭を掻き毟り、至るところに爪を立て血を流して喚くような、目を見開きながら涎をぶちまけながらもがくような奴じゃない。

「あああああ! あああああああああああああああああああああああ!!?」

 なんだ。なんなんだこの叫び声。おかしい。これはどう見てもおかしい。
 新座はさっき「玉淀は元気だ」と言っていた。これが元気で済まされるのか? 違う、違うだろ、新座はこんな玉淀の姿なんか見ていない。元気な姿しか見ていないんだ。
 これは……病状が悪化して錯乱してるんだ。
 新座を呼ぼうと思ったが、荒い息遣いで体中を引っかき回す姿を止めようと俺の体は動いていた。腕を取り、体を抑える。それで限界だった。それ以上は止められなかった。

「玉淀! 落ち付け! ……おおおい新座ああああぁ! 来てくれええぇ!」

 別の部屋に行ってしまった新座を呼ぶため叫ぶ。
 ここは本物の病院の個室じゃないからナースコールなんて便利なものはなかった。くそっ、玉淀を抑えていたら新座を呼びに行けない。でも玉淀を抑えていなかったらまた暴れ出しそうだった。
 暴れ出して……また血を流しそうだった。俺は目の前の悲劇を止める方を優先した。

「やだあああ! くるな! くるなああああああああ! やあああああああああああぁぁぁ!」
「玉淀!?」

 俺の声よりも大きい玉淀の叫びが、新座に届いてほしかった。
 新座じゃなくても他の教会の人が気付いてくれれば良い。でもなかなか来なかった。まさかこの部屋、防音ってことはないよな? その可能性もあり得るのが怖い!

「玉淀! 玉淀っ!」
「やだやだやだ! なんで!? こわいよ! きもちわるい!! やだ! くるなよ! はいってくるなあああ!! いたいいい! んああああああ!!!?」
「うるせーなテメエ! 黙れよ! 泣くなよ! ……何もしないから落ちつけよ! 玉淀! 俺は何もしねえよ!! だから! ……泣くんじゃねーよ!! お願いだから!!」

 体を抑えつけて抱きしめて、必死に俺は叫んだ。でも玉淀が落ち着くことはなかった。
 大絶叫がずっと続いたせいか、別の部屋に居た新座がやって来てくれた。彼らは何かの術を唱え、玉淀を眠らせた。すぐさま違う治療を行なうと言って、他の教会の連中と一緒に玉淀を連れて行った。
 すぐに治してみせるからなんて新座が言う。新座の凛々しい顔なんて見たくなかった。くそ。
 ……術でなんとか玉淀を眠らせることができた。だけど、俺の声では玉淀は眠ってくれなかった。それが無性に悔しかった。
 玉淀が横になっていたベッドを見る。血液。精液。唾液。涙。無惨なものだった。何も出来なかったのが、やっぱり悔しくて……たまらなかった。



 ――2005年8月14日

 【     /      / Third /      /     】




 /5

 優しい王様がいた。
 彼は少々、優しすぎた王様だったのかもしれない。誰よりも『愛』を愛し、語り、王様自身も愛されていた。誰にだって優しく、物腰柔らかい王様を嫌う者など誰一人としておらず、愛につつまれた王様はしあわせだった。
 優しい王様は願っていた。しあわせな自分のしあわせを、他者にも分け与えたいと。優しい王様は、この世のすべての者達がしあわせに生きることを願っていた。
 このとき、王様は考えた。一体なにがしあわせで、なにが不幸だということを。

「なあ、しあわせって……一体何だと思う?」

 父さんが御伽話を語りながら問いかける。
 しあわせの定義を尋ねてきた。なんだろう。自分も考える。でも何も答えることができなかった。

「満たされているということ、それがしあわせだな?」

 父さんはヒントをいくつも出してくれた。色々と考えた。けどなかなか答えられなかった。
 美味しいものを沢山食べられたらすっごく嬉しい気持ちになる。好きな玩具を手に入れてずっと遊んでいられたら楽しい気分だ。こうやって父さんと一緒に本を広げていることも、とてもとても気分が良い。これもしあわせだ。これが答えなのかな? 何か違う気がする……。

「怖くない、つらくない状態、それもしあわせだな。怖くてつらかったら、しあわせじゃない」

 そうだね。父さんの言葉に頷いた。

 目を覚ました。周囲を見ると父さんは居なかった。
 そこは真っ暗闇で、変な匂いがする場所だった。いつも寝ていたベッドじゃなくて、変な板の間に眠っていた。
 周りには、大量の目があった。いっぱいの目が取り囲んでいた。不思議な目だ。ずっとこっちを見ている。怖かった。目から手が生えて体を掴んできた。冷たかった。熱かった。手が酷いことをする。嫌な気分だった。いっぱいの目がいっぱいの手を生やして、襲い掛かって来た。体中あちこち引っ張られる。髪の毛を引っ張る。いやだ。腕を持っていこうとする。やめて。色んなところを触る。やだ。そんなところ触らないで。叫んだ。痛かった。辛かった。
 これは父さんの言った通り、全然しあわせなんかじゃない。髪を引っ張らないこと、腕を持っていかれないこと、触られないこと、それがしあわせなのか? そうか、そうなんだ。
 王様の話を思い出す。そうか、王様は髪なんて引っ張られたことなかったんだ。だからしあわせだったんだ。羨ましいな。

 また目を覚ました。今度は真っ暗闇の中、冷たい石の上だった。
 石が冷たい。すっごく冷たくてつらかった。冷たいのが度を過ぎて痛かった。体を震わせていると、何かに足を取られた。何が足を引っ張るの? 何が何だか判らないものだった。黒くって大きい、ぬらりと濡れた何かだ。それが足を奪い、だんだんと体を引き寄せていく。大きな何かに体が引き摺りこまれていく。いっしょになる。怖かった。つらかった。黒い何かの中に押し込められていく。押し潰される。やだ。中に入りたくない。怖いよ、入ってくるな。痛い。きもちわるい。こわい。いやだ。やめて。

 またまた目を覚ました。目の前の男の人がいた。
 怖い顔をしている。笑っている。男の人が顔を殴った。痛い。すごく痛い。血が出た。いっぱい出た。今度はお腹を蹴られた。つらい。痛い。苦しい。怖い。次は背中を踏まれた。重い。凄く重い。潰される。怖い。怖い。痛い。今度は腕を、足を。痛い。もう痛いのは嫌だ。

 またまたまた目を覚ました。みんなが笑っていた。
 みんながこっちを見て笑っている。楽しそうに笑っている。あれ、しあわせかも。その中で犬がやって来た。あれ、犬じゃない。怖い。犬なんかじゃなかった。みんなが笑う。笑う。狂ったように笑う。全然楽しくないのに笑う。怖い。なんで。笑うの。楽しくないのに。だって怖いのに。みんなどうして笑うんだ。もう見たくない。そんなの犬じゃない。笑い声も聞きたくない。笑わないで。怖い。くるな。つらい。苦しい。

 またまたまたまた目を覚ました。みんなが嫌う。
 みんなが嫌ってくる。お前は何だと言う。何。なんて気持ち悪いと言う。気持ち悪い。気味が悪いと言う。気味が悪い。怖いから来るなという。怖い。来るな。つらい。こっちを見るなと言う。見るな。なんで生きてるのと言う。つらい。お前なんか死んでしまえとい言う。死ね。なんで。やだ。もう聞きたくない。そんなのやだ。苦しい。そんなこと聞きたくない。耳を塞いでもずっと聞こえてくる。怖い。くるな。怖い。いやだ。怖い。

「ブリッド、平気か」

 目を覚ました。
 暖かい声。大きな手。赤い髪。父さんがいた。
 心配そうにオレを見ている。
 心配してくれる、父さんがいた。怖くなかった。

「……父さん……」

 怖い夢ばかり見ていた。だから判った。
 しあわせって、なんでもないことなんだなってことに。
 食べられもしない。笑われもしない。殴られもしない。罵倒されもしない。怖くない。居たくない。辛くない。苦しくない……。
 そして、『ただただ好きな人といっしょにいること』。なんでもない時間。それがしあわせだった。

「……父さん……父さん……」

 王様の話の最初で語られている。そうだ、愛されていることが、しあわせなんだ。

「……ずっとオレと、いっしょにいて……。それだけで、オレ……しあわせなんだよ……」

 あまりに怖い夢が続いていたせいか、オレは泣いた。
 父さんの暖かい腕に縋って泣き続けた。でも笑えた。父さんの前だったからだ。



 ――2005年8月14日

 【     /      / Third /      /     】




 /6

「頼む、シンリン。少し看てやるだけでもいいんだ、来てほしい」
『すまん、そっちには行けない。こっちもこっちで忙しいんだよ。オッチャンの主が大病だし、あっちこっち大変だしマジ多忙なの』
「そこをなんとか」
『しつこいぞ、アクセン。…………ブリッドなら放っておいても治るって。アイツを看てるほど俺は暇じゃねーんだよ』
「それは、失礼じゃないか」

 半ば強引にシンリンは電話を切った。彼は私の知っている唯一身近な医者だったが、来てくれる様子は無かった。
 携帯電話を置いて、私は自分のベッドの横に戻る。腰を下ろして、ベッドを見る。
 そこには魘されているブリッドが横になっていた。二週間ぶりの彼との再会だったが、言葉は一言も通わせていない。声を掛けても目覚めぬ彼の額に手を当てると、やっぱり少し熱いように感じた。
 どれくらいの熱さが平熱以上なのか判らない。ブリッドの平熱が何度なのかも知らないから、彼が風邪を引いているのかも判らない。でも彼は魘されている。それだけで体調が悪いということは判った。

「……ブリッド……」

 夜の十時過ぎのこと。書物庫を借りて読書に勤しんでいたら時計が二十二時を過ぎていた。
 慌てて外に出ると、8月らしく、体力がじわりと減っていくのを感じる、そんな夜。借り物の扇風機の前で読書をしていたので気付かなかったが、外は夜でも暑く、息苦しいものになっていた。洋館に戻ると……ブリッドが居た。
 居たというより、横になっていた。
 場所は洋館の庭。美しい花壇の前に備え付けられたベンチの上で、ブリッドが倒れていたのだ。
 最初は昼寝をしたらこんな時間になってしまっていたのではと思い、揺さぶって起こそうとした。だがなかなかブリッドは目を覚まさなかった。それどころか魘されているじゃないか。いつも忙しい、休めないという仕事を抱えている彼。仕事を終えたがいいが洋館に戻ってきたはいいが疲れて倒れてしまったのか? 自室に戻ることもできず、ベンチで一休みしたまま夜に……ということだろうか。
 このままではいけない、とりあえず屋根のある場所へ……ゆっくりと休める場所へ。そう思った私は、ブリッドを自分の部屋まで抱えていた。
 上着を脱がせ、汗を拭きながら自分のベッドに寝かせる。もう一度起こそうと名前を呼びながら揺さぶるが、なかなか起きない。もしかして重病なんじゃないかと思い、唯一知っている医者のシンリンに電話を掛けた。
 そしたらあんな返答だ。
 シンリンが嘘を吐く筈が無い。多忙というのは本当だろう。夜中に来てもらうなんて申し訳ないとは思う。
 だからといってブリッドを放置するのは出来ない。私はただ濡らしたタオルで汗を拭いてやることぐらいしか出来なかった。

「……ブリッド」

 普段から長めの髪で前を隠しているが、仰向けでベッドに横たわっているのでしっかりと彼の目元を確認することができた。
 眉間に皺を寄せ、辛そうに息を吐いている。
 熱を出しているのか、悪夢を見ているのか。苦しそうに唇を震わせていた。
 こういうとき、どうすれば良かったか。汗を拭く。水を飲ませる。薬を与える。前者二つは出来ても、薬までは用意することができない。しようとしても、先ほど断られてしまった。
 ではどうすればいい。……圧倒的に知識が足りなかった。
 自分に出来ることはない、のか。何かをするべきだと判っていても、何をすればいいのか思い当たるものが無い。ただベッドで眠る彼を見下ろしたまま、時間が経過していった。
 ふとブリッドが微かに動いた。私が何をするまでもなく、彼は自分から目を覚ましたようだ。良かった。
 私は重い瞼を開けようとしているブリッドに顔を寄せ、声を掛ける。

「ブリッド、平気か」

 しっかりと名前を投げ掛ける。その声で、ゆっくりとブリッドが瞼を開いた。
 ゆっくりと瞼を開くブリッドの目は、とても深い色をしている。
 滅多に視線を合わそうとしなかったブリッドが名を呼んだこちらを見た。ぼんやりと見つめてくれる。自分がどこで寝ていたか把握できてないから混乱しているんだろう。なかなか喋り出さない彼を、私はただひたすら待った。急かす気など一切無かったからだ。
 額に手を当て、拭き出していた汗を拭ってやった。今にも眠りに落ちそうなブリッドは、じっと私を見て動かない。
 ああ、これは思いっきり寝ぼけているな。しゃんとしてない。指摘したらブリッドは慌てそうだから何も言わず待ち続ける。彼が何かを言い出すまでじっと待つ。
 するとゆっくりとブリッドは息を吐き、私の目を見て、口を開く。

「[……父さん……]」

 と。
 滅多に聞かない彼の[日本語]で、『父』と。……思ってもみなかったことを言われた。

「…………」

 そう、彼は、寝ぼけているんだ。
 記憶の中を漁る。確かブリッドの父は、事故で亡くなったと聞いている。
 幼い頃に亡くなった父だから……もしかしたら今の私ぐらいの年だったのか。いや、もう少し年がいっているんじゃ? でもブリジットが言うには私はどちらかと言えば老けているそうだから、ぱっと見てブリッドの父ぐらいになってしまうのかもしれない。いやいや、そういう問題ではないか。

「……ブリッド?」

 もう一度、ブリッドの名を呼ぶ。お前の父ではないよと続けて言うつもりだった。
 だが、ブリッドが私の手をバッと取ったことで、私は言葉を無くした。

「[……父さん……父さん……]」

 私の手に縋りついて、涙を流して、その言葉を繰り返していた。
 一体どうしたらいいか、判らなかった。寝ぼけているブリッドを叱咤し、手を放せばいいのか。いいや、そんなこと出来ない。
 きっと夢の中でブリッドは亡き父と対面していた。その優しい夢から現実に戻すのは、少し抵抗があった。
 ブリッドは父のことが嫌いだと思っていたが、この様子を見ると単なる愛情の裏返しに違いない。自分を置いて逝ってしまった父を憎んでいるのかもしれないが、それ以上に深く愛している。そのような呟き方だった。
 夢に亡き父が出てくる。夢の中で自分に会いに来てくれたことに感謝しているのか。そんな彼を叱れない。腕を振り払うことが出来ず、ただただブリッドの声を聞いていた。
 ぼろぼろと泣く彼の顔を見ていることしかできなかった。

「[……ずっとオレと、いっしょにいて……。それだけで、オレ……しあわせなんだよ……]」

 そして彼は笑った。
 実父の前だけで見せる、安心しきった笑みだった。

「………………………………………………………………」

 体に稲妻が走るほどの衝撃を感じた。
 途端に顔が赤くなる。私の顔が、赤くなっていく。自分が熱くなっていくのを感じた。
 ――この声。この言葉。

「…………あ…………」

 熱い。夏だから暑いんじゃない。熱い。熱くて、堪らない。
 苦しいぐらい熱い。体の中が全部解かされていく。何も考えられなくなる。『それ』しか、考えられなくなる。
 ――明るい声。[日本語]で、彼は「父さん」と……。

「……ぁ……」

 そして、ブリッドが、笑った。
 優しい眼で、綺麗な紫の目で笑った。
 その顔を見てしまった。それだけなのに、私の中に『それ』が満たされていく。

「…………ぁ……あ…………」

 掴まれていない方の手で、自分の口を隠した。
 何もかもが熱い。掌さえも紅潮していた。
 痺れるぐらいの衝撃だった。驚いている。彼の……笑顔を見ただけで、こんなにも真っ赤になっている自分が、驚きだった。
 普段ブリッドは目を伏せて、絶対に視線を合わせないように俯いていた。もしくは、私に合わせて無理に笑っている顔しか見たことなかった。
 でもさっきの笑みは……心から笑っていた、優しいものだった。

「……ぶ、ブリッド!」

 もう一度見たい。私はハッとして彼を注視する。
 でもブリッドの目は閉ざされ、再び眠りに落ちていた。
 笑ってはくれなかった。いつもの悲しそうな顔で眠る彼だ。……これじゃない、あの笑顔を……もう一度見たいと思った。
 もう一度。いや、もう何度も見たい。それぐらい衝撃的で。
 私が、好きだったものだ。

「……あ……ああ、これは……お前が……まさか……」

 誰もが笑っていればいい。そう思っていた。笑った顔はどの人でも素晴らしいものだから、皆が皆、笑えばいいと思っていた。笑えば全員がしあわせになると思って、私は人を笑わせようとしていた。
 でも、今私の中にある『笑ってほしい』は、たたただ私の中の願望を満たすだけのものになっていた。
 もう一度見たい。もう何度も見たい。
 そして……出来れば、その笑顔を私に向けてほしい。
 何度もそう思った。――自分の中の何かが壊れていくのを感じた。それでも構わず、私は彼の寝顔を見つめ続けていた。



 ――2005年10月31日

 【 First /      /     /     /     】




 /7

 俺は落ち着きが無い性格だった。昔は志朗兄さんといっしょにあちこち動きまわって、いたずらをしては大人に怒られていた、騒がしい子供だった。成人してからも動いていないと気が済まないとのは変わらず、椅子に大人しく座っていることが出来なかった。
 今も看病ということで、ベッドの隣、椅子を座って眠る玉淀を見ていたが、直ぐに違うことがしたくなっている。看病っつったって寝ているところを見ているしかないんだ。そんなことするよりやるべきことに戻ろうか。
 けど、立ち上がると急に玉淀のことが心配になって、また席に着いてしまう。このまま何もしないのはいけないと思って立ち上がるが、ずっとここで眠る玉淀を見守っていたいと思い、座る。馬鹿みたいだった。

「カスミちゃん、変なの」
「見てんじゃねーよ、バカ新座!」

 自分でも馬鹿だと思う行動を棚に上げて、新座を非難する。
 だけど新座は俺とは違って、まだ玉淀の様態を診られるだけ役に立っていた。新座が玉淀に近付くたびに自分の方が無価値だと思い知らされる。くそ、くそ。何度、拳を握りしめたことか。猛烈に悔しかった。

「おはよ、玉淀くん。この指、何本に見える?」
「うー……。七十本」
「ど、どうしよカスミちゃん! 僕の手に負えないレベルにまでなってる!」
「冗談に決まってるだろ、バカ! 笑ってんじゃねーよ、玉淀」
「……えへー……」

 目を覚ました彼は、普通の玉淀だった。
 念のため両手首をタオルでベッドにくくりつけられているけど、もうそんな必要も無いぐらい、普段の玉淀に戻っていた。
 気を取り直して新座は玉淀にいくつか質問をぶつけていった。簡単に答えられるチェックから、すぐに返事が言えない質問、魔術的な観点からの物言いまでが暫く検査は続く。
 その間も俺は隣でそわそわしながら様子を見ている。答えられるものと答えられないものがあったが、新座は「問題は無い」と判断したようだった。

「いいかい、玉淀くん。もうお薬を一気飲みなんてしちゃダメだよ。絶対にしちゃダメなんだからね」
「うー。ん、ごめんなさい」
「むぐ、良い返事だね。ちゃんと守ってくれなきゃおじさん怒っちゃうんだよ」
「ごめんなさーい。……あの、新座さん」
「なに?」
「おれ、今日飲み会があるんだけど。いつまでベッドに縛られてなきゃダメなの? 行っちゃダメですか?」

 馬鹿か。
 お前の体を思ってやってあげているっていうのに遊びのことばかり考えやがって。
 新座でさえ苦笑いしている。俺はごつんと玉淀を殴ってやった。イタイイタイと悲鳴を上げたがそんなの気にするものか。人の心配も気にしないで自分が遊ぶことを考えてやがる奴には、これぐらいの体罰は必要なんだ。

「だってだってー! 飲み会を断ったら誘ってくれた友達にもーしワケないじゃーん? こっちだって付き合いがあるんだしー」
「体を治してくれた連中には申し訳なくないのかよ!?」
「うー。ごめんなさいって思ってるけどー」
「あはは、玉淀くんはお友達想いなんだね。今後はお友達が心配しないように自分の体を大事にしなきゃダメだよ?」
「……うー」
「おじさんは飲み会をキャンセルした方が良いと思うな。でも本当に行きたかったら昼間はゆっくり休んでからお行き」
「じゃあ休みます。それから飲み会行きまーす……あたっ」

 全然判ってない玉淀をもう一度殴る。ベッドに固定された玉淀は、殴られ放題だった。
 うーうーいたいーいたいーと文句を言いやがるが、その度に叩いてやった。
 いくら叩いてもバグらない、変な悲鳴を上げたりもしない。……昨晩の豹変なんて夢だったように思える。もう玉淀は治ったんだと、一安心した。

「気持ち悪いところは無いのか? 素直に言えよ。新座がなんでもしてくれるって言ってるから」
「むぐっ、なんでもってなんだよ。僕はそんなに便利屋さんじゃないぞぉ」
「ヤキソバパンが欲しいか? おらっ、新座買ってこい! オメーの金でな!」
「むーぐぅー!? それカスミちゃんが食べたいだけだろー!? 自分で買いに行けーっ!」
「うー。俺、カレーパンの方がいいー」
「僕は買いに行かないよ!?」
「じゃあカスミン、買ってきて」
「誰が行くかっ! っていうか病み上がりにカレーパンとかチャレンジャーだな!?」
「ヤキソバパンもアブラっこいと思うけど……えへへ」

 ふんわりと笑う玉淀を見て、一安心どころか二安心、それ以上も心強く思えてくる。
 もう大丈夫なんだと何度も自分に言い聞かせた。

「怖くないか?」

 ぶり返したら困ると思って訊けなかったことを尋ねてみた。
 玉淀は首を傾げる。

「何が?」
「…………。何でもない」
「うー? なーにー? カレーパンがコワイのー? 別におれ、カライものは得意だよー。この前だってねー、バイト先でー」
「いい、言うな。それもう五回ぐらい聞いたことある話だから。お前の恋人自慢の話なら丸暗記してるぐらい聞いてる」
「そんなに言ってないしー」

 ――昨晩。玉淀はずっと叫んでいた。その絶叫が未だに俺の耳の奥にこびり付いていた。
 俺の方が魔術で寝かせてもらいたいぐらい、ハッキリと思い出すことが出来る。怖いとか気持ち悪いとか痛いとか……どれも玉淀には似合わない台詞だった。
 あれこれ馬鹿な会話を繰り返していると、新座が目線で何かを訴えかけてきた。「外で話をしよう」という目だ。玉淀には「食事を持ってきてやる」と言い放って寝かしつけ、その部屋を後にする。
 部屋を出て教会の外へ。野外に喫煙者用の公共灰皿があった。新座は一息入れるために煙草に火を付ける。
 そういやコイツ、喫煙者だったっけ。意外だ。むぐむぐ言ってるし甘いモンが好きだったりとガキっぽいところがあるけど、こういうところは志朗兄さんの影響を受けてるなと思った。

「玉淀くんの主治医って……依織くんになってるんだよね?」
「いいや、違う。依織もまだガキだ、修行の身って本人が言ってた。主治医ってほどじゃないだろ。面倒診ることが出来るからしてやってる程度じゃねーか」
「そうなんだ。じゃあちゃんと寺に居る誰かさんにご報告した方が良いかな。カスミちゃん、依織くんの電話番号知ってるよね。教えてくれるかな。僕が直接お話するから」
「……なんだよ。問い合わせるって」
「玉淀くんの容態を、ちゃんと玉淀くんの体を知っている人に報告した方が良いでしょ? ……だってあの子、不安定過ぎるもん」

 煙草を咥えている新座の顔は、とても苦々しいものになっていた。
 そんな顔で不安げに声を出されたら、心配するつもりの無い俺でも、心配になってきちまうぐらいに。

「なんだよ……玉淀は、治ったんじゃないのか」
「治ったって、何がさ」
「よく判らないけど、昨日の……病状だよ」
「パニックはね、そう簡単に治るもんじゃないよ。ちゃんとした医者じゃない僕が雰囲気だけで言うのはいけないことだけどさ。……僕も癇癪持ちなのは知ってるだろ、未だに治せてないよ」

 煙草をすぱすぱ吸いながら、新座は器用に溜息をついていた。
 そのまま新座はどうでも良いことを話し続けた。最近何をやってるんだとか、景気はどうだとか。自分は仕事が落ち着いてるとか、新しく出来た知り合いが面白い人だとか。世間話をしながら、煙草をいくつも消しては点けていった。……コイツ、思った以上にヘビースモーカーだったのか。

「カスミちゃんはさ、煙草、吸わないんだっけ?」
「金が掛かるからやめた」
「むぐ、やめられる程度だったんだ。お金が掛かるって、貧乏じゃないでしょ? 借金でもあるの?」
「無ぇよ」
「じゃあ何。うちにお金なんて余るほどあるじゃん」
「ああ、いらねーぐらい金があるけどよ。……前に、玉淀が『煙草臭いのは嫌だ』って言ってたんだ。それからなんか気になって、吸えなくなった」
「…………。それ、同じ台詞をときわくんにも言われたことあるよね?」
「あるな」
「でも、そのときは確かやめなかった」
「ときわの『煙草やめろ』は説教臭いんだよ。ムカつくんだ。アイツもガキのクセにアレだコレだってうるせーこと言いやがって。あれは絶対僕に副流煙を吸わせるなって言いたいんだろな。……玉淀は、純粋に嫌いって言ってきたから。好き嫌いには勝てないなって思って、やめてやったんだ」
「ふぅん」

 そんなようなことを延々と話し続けた。

「カスミちゃんって、そんな人だったかな」
「あ?」
「カスミちゃんがいるって判ったなら、玉淀くんは……今後、薬一気飲みなんてしないよ。こんだけ心配してくれる人が居るって判ったら、きっと死なんて選ばない」
「……俺、玉淀の交友関係は知ってるんだ。全員に警告しておいてやるよ」

 久々の幼馴染二人での会話だった。
 『仕事』で一緒にされることは多かったが、大抵は圭吾アニキや悟司アニキが横に居た。新座と二人きりにされるのは嫌だったから滅多にならなかった。……ああ、ホント、数年ぶりの二人きりの会話だった。

「ねえ、カスミちゃん」
「なんだよ」
「拷問って何?」
「……あ?」
「昨晩。言ってただろ? 玉淀くんが新しい拷問にあわされてるって」
「言葉通りの意味だよ。『本部』の連中が、拷問まがいのことをさせてやがる。最初は玉淀も我慢していたみたいだけど、今じゃ無理矢理やらされてるんじゃないのか。ちくしょう。今のアイツの溜まりきったストレスは、それが原因だろ」
「…………何やってんの?」

 そんなの俺に言わせる気か。つい新座をキッと睨みつけてしまう。
 でも、そのとき見えた新座の顔は……本当に何をされているか判らないような、キョトンとした顔だった。
 思わずこっちがビックリしてしまうぐらい、何も知らないと言わんばかりの真っ白い表情をしていた。

「拷問って、何されてるの?」

 ――本当に僕は知らないんだけど。
 そう新座の顔には書いてあった。
 ああ、知らないよな。新座が知る訳無いよな。……だってコイツ、偉いところの王子様だもの。平和に過ごしてる本家の大切なお坊ちゃんだもの。……下賤な民が何をやってるとか知らないよな。地下で何が行われてるとか、知らないよなぁ。俺だって知ったのはつい最近だけどさ。

「新座には、関係無い世界だろ」
「なんだよそれ。僕って仲間外れなの? むぐぅ」
「……蔑ろになんかされてねーよ。それどころか大切にされてるから、何も知らされてねーんだろ」
「むー? 何なのそれ、カスミちゃん気持ち悪い!」
「俺が気持ち悪いように言うな! ……単に! 何かの実験に付き合わされているだけだよ!」
「実験体にされてるってこと?」

 オブラートに包んで言うと、そういうことだ。
 実際に玉淀が何をされているのかは俺もよく判っていない。でも初めて出会ったあのときのことを思い出す。あれと似たようなことをされているに違いない。
 ……体を弄繰り回されて、血を流すようなことをしているんだ。それは痛くなくても拷問だ。
 新座は「俺が言いたくなさそうにしている」ことを察したのか、強く追及してくることはなかった。その代わり、

「鶴瀬くんに訊いてみれば教えてくれるかな。うん、鶴瀬くんなら教えてくれるよね。僕に教えてくれない訳ないもの」

 と、自分の言うことを聞く弟分のことを考えてやがった。コイツ、根っからの俺様気質かもしれない。
 …………って、鶴瀬?

「やべえ」

 俺は、その名前を聞いて背筋がサアッと冷たくなっていくのを感じた。
 ヤバイ。即行携帯電話を上着から取り出す。電源を切っていた携帯電話をすぐ立ち上げる。
 鶴瀬って言ったらアレだよ。新座の従弟。泣き虫なガキんちょ。かつてはそれだけだった。でも今は違う。鶴瀬は……今じゃ当主の右腕、本部の中心人物だ。仕事を押し付けてくる連中の一人だ。俺は、そいつから連絡を受けていたんじゃないか! 仕事をしろって言われてたんじゃないか! メールで、赤紙を貰っていたんじゃないか!

「や、やべえ」

 着信が五回も入っていた。相手は全員同じ人物、鶴瀬だった。
 玉淀のことに気を取られてそれどころじゃないと携帯を切っていたが、依織から連絡を受ける前に……仕事に行ってこいと鶴瀬に言われていたんだった。今の今まで忘れていた。ああ、その命令を無視してここに居たんだから……一晩経ってしまったんだから……。

「怒られるな。くそ、怒るのは誰だ? 親父か? また顔面パンチを受けなきゃならないのか?」

 でもそれぐらいならまだ良いもんか。
 素直に仕事をしに行って、玉淀のことが気になり過ぎて何も出来ないよりはずっと良いだろう。たまには仕事をすっぽがすことぐらい勘弁してもらおう。
 軽い気で済ますことにした。



 ――2005年12月30日

 【     /      / Third /      /     】




 /8

 もう誰からも逃げられない。
 だから死を選ぼう。それが一番の正解なんだ。



 ――2005年8月15日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /9

「梓丸が、そんな安っぽい髪飾りを着けているとはな」
「男衾ちゃん、第一声がすっごく失礼ー」

 十八時を過ぎても外はまだ明るかった。やっと夜の黒が浸透し始めた時間だった。
 廊下に明かりをぽつぽつ灯し始めた頃、燈雅様の飯台を回収する梓丸に出会った。まだ十八時を過ぎたぐらいだというのに、夕食を回収するなんて。次期当主はまた食べてくれなかった。梓丸の持つ飯台の上には、おかずの大半を残していた。

「これはね、カワイイカワイイアタシの弟が射的の景品で勝ち取ってきた髪飾りなんだようー。それを安っぽいだなんて男衾ちゃんは酷いこと言うねー。百円で取ってきたんだから安いに決まってんじゃんー! わざわざ言わなくてもいいじゃんー!」
「射的? 景品?」
「今日、お街は夏祭りだよー。知らないのー?」

 ああ、だから小さな子供達が総じて外に出て行ってしまったのか。
 こんな暑い日にわざわざ外に出て行くなんて何があったと不審に思っていた。そうか、そんな理由があったとは。この時期になるとどこも祭をやっているから、自分の土地がいつするのか把握できてなかった。
 この一帯の街(寺から少し歩かなければならないが)は、採掘と工業で発展した地域だった。昔から資源が豊富だったし、特に大きな災害に見舞われることもなく、争いに巻き込まれた歴史もなく、平和に自分達の利益を上げていった土地だ。今でも工場跡地は近くに沢山ある。もう稼働していない所が大半だが。
 廃れてしまったとはいえそのような歴史があったことから、あちこちで収穫を祝う祭や工場の男達を労う祝いがある。8月になれば毎週どこかしこで屋台を見かけるぐらいだ。……今日は、その中でも一番大きいとされる祭のある日だった。
 市の回覧板にそんなようなことが書いてあったのを思い出し、なるほどと呟きながら、梓丸の髪飾りに手を掛けた。激しく駆けたら崩れてしまうんじゃないかと思えるぐらい、脆いビーズのアクセサリーだった。

「福広が祭に行って、もう帰ってきたということ……か?」
「そのとーりー。あの子ったら屋台の手伝いとかやってたみたいー。バイトというかお手伝いねー。まったく、何やってるんだかー」

 福広は多趣味で自由奔放、何か一つに留まっていられない性格だった。それは昔から見ていたからよく知っている。

「あの子は何の分野でも一つに集中できない子だったよねー。アレも好きコレも好き、アレやりたいからコレはいらないってすぐ言っちゃう子だったさー。……だから『お仕事』を任しても確実性が無くて困ってるんだよねー! アタシの弟なんだからもうちょいレベルの高い仕事を任されてもらいたいんだけどー!」

 梓丸が年上ぶった顔をする。
 兄らしいというより、今日も完璧に決めた女の衣装のせいで「お姉さんらしい」に風変わりしていた。

「それは、無理だろ。アイツは、これから先も伸びないだろうよ」
「それだと困るでしょーがー! うがー! まだ若いからいいよ! でも五十、六十になってもあの性格のままだったらどーすんだー! もうっ、修正しないとダメだよねー!? 早く『聯合(れんごう)』しちゃえばいいんだよ、いらない子はさっさと捨てる! これ、仏田の鉄則!」
「…………」
「あ、男衾ちゃん。ホウレンソウの御浸し、食べる?」

 食べると頷く前に、ハイあーんと梓丸は指で掴んで口に入れてきた。もぐもぐ。断るつもりが無かったから構わず咀嚼する。
 元々は病人に出された残り物。薄味だった。

「そういやダメな子っていったらさー、霞くんのことだけどー。あの人、もうダメっぽいねー!」
「昨晩俺はシンリンに『玉淀がダメだ』と聞いてたが?」
「え? 玉淀くん? 何かしたの?」
「…………すまない、話をややこしくしたな。霞様が何だって?」
「いーや、大した話じゃないよー。さっき鶴瀬くんが言ってたのを盗み聞きしてきただけ! ……霞くん、『お仕事』サボりがちなんだって」
「………………それは……」
「ダメだよねー、厳重注意されているっていうのにそんなことしたらダメダメだよねー。こりゃいつか処刑されるね。いくら懐が広くったってダメダメだー」

 廊下で二人突っ立って、手を付けられていない次期当主の夕食をつつく。
 行儀が悪いとは判っていながらも、こうして燈雅様の食事をつつくのは俺と梓丸の使用人恒例行事のようなものだった。どうせ厨房に持って帰っても「貴方達が片付けなさい」と魔王が振り向きもせずに言う。それをもう十年も経験してきたんだ。ここで立ちながら食べながら話をするのは日課だった。
 梓丸は次々と霞という男の欠点を上げていく。片手で数えきれないほどの欠点を言った。
 俺は霞という男にはあまり接触したことはない。だから梓丸の小言を聞いても「それなら処刑されても仕方ないな」と思う程度で、特に同情もしなかった。
 だが、確か霞は……本部の中心人物・狭山様の息子だった筈だ。あのような立派な方の息子なのに、何故馬鹿な真似を?

「梓丸は、その……霞様と面識は?」
「会ったことはあるけど全然。でもどーせ不真面目な人なんでしょー? さっさと消えてくれた方が我が家の為になるんじゃなーい? 鶴瀬くんもさっさと決断しちゃってほしいよねー」
「……」
「まあアタシさー、鶴瀬くんも嫌いだけどー」

 廊下の真ん中で、梓丸は堂々とそんなことを言う。
 『現当主付きの鶴瀬』が次期当主の館に居る訳がないからだが、もし本人を目の前にしても梓丸は言える。梓丸はそういう性格だ。

「新参者な部外者のクセに本殿に出入りしているなんてさー、ムカツクしー」
「…………。梓丸、燈雅様の容態はどうなんだ?」
「宜しくないのだけは確かだよー」

 一口サイズに切られたオレンジを吸って、立ち話は終了した。
 飯台に残った物を食べ終わるまでが立ち話というよりは、お互いが満足し合ったら終わりになる軽食会だ。梓丸は時間が経つと女のように陰口を言うから、悪口を言い始めるタイミングで話を終わらせるのがちょうどいい。そう俺は学んでいた。

「ん、時間もイイカンジ。男衾ちゃん、お勤めご苦労さん」

 言いながら、振袖をひらりひらり翻し梓丸はその場を去って行く。殆ど空になった皿を落とさないように彼は厨房に向かい、すべき仕事に戻っていくんだ。
 果物を笑顔で食べ、誰かの陰口を言う。弟からプレゼントされた髪飾りを自慢して、ふんふんと可愛らしい声で鼻歌。そんな後ろ姿だけを見ると可憐な少女だった。中は意地汚い男そのものだったが。
 さて、そんな同僚考察はともかく。俺は次期当主の部屋にやって来る。
 当主様が居る筈の襖の先は、暗かった。明かりは一つも点けられていない。

「男衾です。入ります」

 声を掛けても暫く返事は無かったが、それもいつものことだと思い、頭を下げながら襖を開けた。
 暗い和室。暑い室内だった。小さな扇風機が回してあったものの、汗は垂れてしまうほどの夏の夜。その扇風機は、人の居ない布団に風を送っていた。
 彼は何処に居るのかと部屋に入ると、そう広くもない部屋の奥であっさりと発見できる。……燈雅様は、縁側近くの柱を背に腰を下ろしていた。
 外には出ておらず、障子を開けてもいない。雪見障子に寄りかかるようにして外を見て、上から着物を羽織るだけのラクな格好で座っている。
 月の光だけで見る彼の表情は、とても神秘的だった。

「お食事は如何でしたでしょうか」
「…………食べたよ」

 とても薄い声色だった。
 味のことを尋ねたつもりだったが、違う意味に捉えられ、あっさりと返事が返ってくる。どれぐらい食べたかなんて、実際に飯台を見ている俺の方が知っているのに。

「なあ、男衾」
「はい」
「霞くんは処刑されるのかい?」
「…………。聞いておられましたか」
「お前らに言ってなかったっけ。オレ、昔から耳は良いんだ。言ってなかったか。二十年も世話をしてもらっているから言った気でいた」
「幼い頃に一度おっしゃっていたかもしれません。申し訳御座いません」
「ん、いや、そのな。霞くんは弟の幼馴染だからさ、あまりオオゴトにしないでくれると嬉しいんだけどな」
「それを決めるのは自分達ではございません」

 事実をそのまま言うと、「そうだな」と燈雅様は一言呟き、息を吐いた。柱に体重を預けて外を雪見障子越しに見ている。憂い顔だった。
 首を傾けていると、長めの黒髪が肩から胸へばらりと落ちる。着物は羽織っているだけの涼しい格好だ。髪の毛が素肌を隠していく。月明かりの下で物憂げに何かを考えている姿は、官能的だった。

「燈雅様は、霞様をご存知なのですか」
「いや。志朗と新座がよく遊んでいた幼馴染。圭吾の弟。それぐらいしか知らないよ」
「そうですか。親しい仲でしたら、燈雅様の口から忠告をして頂きたかったのですが」

 もう少し態度を改めた方が良いと、仲の良い次期当主に命令されれば変わるんじゃないか。と思ったが、特に話をする仲でもないらしい。ならば仕方ない。今後も個々に頑張ってもらうしかない。
 扇風機の風が送られている布団に手を掛けてみる。ずっと風を浴びていたからか、とても冷たくなっていた。夏に眠るにはちょうどいいかもしれないが、燈雅様のお体には少し冷たすぎるかもしれない。扇風機の位置をズラす。

「もう寝なきゃいけないのかい?」

 俺が布団に手を掛けたのを見て、燈雅様が尋ねる。

「まだ起きておられますか? なら……」
「いや、いいよ。寝る。シンリンに薬を貰おうかと思ってただけだから」
「薬ですか。言伝なら俺から」
「ちょっと量を増やしてみたいって言おうと思ってね。いっそ一瓶全部薬を飲んでしまった方がいいんじゃないかって考えたんだ。ほら、オレって、不感症だから」
「……冗談は程々になさって下さい。俺は心配性ですよ」
「ふふ、知ってる」

 薬を大量に飲んだら薬じゃないことぐらい、頭の悪くない彼なら知ってる筈なのに。きっと俺をからかう為に言っているんだ。笑わせるために言ってるに違いない。この人は馬鹿じゃないから、そうに違いなかった。
 羽織っているだけの着物を下ろし、布団に横たわる。
 細い体。薄い色。生気の無い……目。どれも不安にさせる情報だった。

「出来るだけ激しく頼むよ。昨日、シンリンがしてくれたような感じがいい」
「努力しましょう」
「……優しい男衾には無理な注文かな」

 体を合わせる。これも全て彼に仕える使用人の仕事のうちだ。



 ――2005年8月15日

 【     /      / Third /      /     】




 /10

 なるべく重そうな本を選ぶ。
 一人で持ち歩きが出来ないぐらいものを探す。普段なら「そんなに借りても持てない」と思って諦めるものも、意識して探してみるとなかなか見付けられなかった。
 冷房の効いた市内図書館で、ゆっくりと本を探す。この図書館にある興味のある本は殆ど借りてしまっていた。それでも私は今日、本を探していた。読みたい本をじゃない。重そうな本を探していた。
 ――私が八冊持って、ブリッドが五冊持つ。よし、そうしよう。ほら、こんなに重いんだから心配してくれる。
 意を決して本を借りに行くと、顔見知りの受付の女性があまりの量に驚いた顔をした。そんなに借りて大丈夫ですかと心配してくれる。

「ああ。今日は手伝ってくれる友人が居るんでね」

 笑顔で返しても彼女は「本当に良いんですか」と何度も心配してくれた。私の体を心配しているというより、落として本が傷付かないかの心配に近かった。それでも私は平気だと言う。受付の女性も客である私に強く言うことは出来ず、私の言葉通り本を二つの袋に分けてくれた。
 重い袋を両手に持ちながら図書館の入り口に向かう。ブリッドは、廊下の隅で立っていた。目を瞑って立っているだけだった。
 折角図書館に居るんだから何か見ていればいいのに、彼は柱に寄りかかって目を瞑って、私を待っている。
 もし待ち時間に本を読んでいたのなら、彼の趣味が判ったというのに。「どんな本を読んでいるんだ?」と話し掛けることが出来たというのに。どんな本なら興味が出るのか、尋ねられたというのに、彼は……。
 まあいい。ブリッドがマイペースに待ってくれているだけいいじゃないか。私が近付くと彼は目を開ける。そして重そうに袋を持っている私の元にすぐ駆けつけてきてくれた。

「持ってくれるのか? ありがとう、助かる」

 用意していた言葉をそのまま口にした。

「いや、こっちはいい。それよりもこっち……五冊入っている方を持ってくれないか。重い方は私が持つ。自分で借りたんだからな、これぐらいはしないと。ちゃんと持って帰る」
「………でも。オレは……アクセン様を手伝うために来た、ので……」

 小さな声で、ブリッドが呟くように言った。
 気遣ってくれている。私は笑って「構うな」と首を振る。その間もずっと彼は8冊の袋を見ていた。……それ以外は、見ようとはしていなかった。

「それよりもブリッド。そろそろ腹が空かないか?」
「…………いえ、オレは」
「私は空いたぞ。すぐ傍に気に入っている店があるんだ。お前を連れて行きたい。行こうか」
「……はい」

 半分嘘を吐いて、前を歩いた。五冊の方の袋を持ったブリッドが渋々ついて来る。……それが狙いだった。半分というのは、自分が空腹であるということだ。そもそも私は空腹にならない。ときわ殿と出会ったときは、長い間何も口にしなかったからだ。そういう日もある。本日の空腹は嘘だが、それ以外は本当だった。
 ――食事時ではない時間に入店する。もちろん客は少ない。ガヤガヤしている店ではないからブリッドはそう嫌がらないと考えた。この時間に合わせるためにゆっくり本を選んでいたぐらいだ、思惑通り事が進む。
 単なる暇潰しに店に寄ろうと言ったなら「そんな必要は無い。さっさと帰ろう」と断れるかもしれなかった。だから私はわざわざ「空腹だ」と嘘を吐く。そうでもしなければ彼は帰ってしまうかもしれなかった。
 今日だって、図書館に連れてくるのにどれだけ時間が掛かったことか。
 買い物に行こうと言っても「自分ではなく他の人と行った方が良い」と断われる。遊びに行こうと言っても「自分が行っても楽しくないだろう」と断られる。ならば……手伝いが必要だから……そう押し通すことで、なんとか外出にこぎつけた。ああ、そこまでなんと長い戦いだったか。

「ん? ブリッド。お前、コーヒー派だったのか?」
「…………え?」
「そういえば以前茶会で、『あまり紅茶は飲まない』と言っていたな。そうか、そういうことだったのか」
「いえ……別に。今、注文したのは……その、メニューの一番上に書いてあったから……です」

 なんだ、その理由は。
 自分の好きな物を自由に頼めばいいのに、何も考えずそうするなんて。
 私がお薦めのメニューを言うと、彼は「それと同じ物を」と注文する。どんな物か確認する前にオーダーしていた。
 後先を考えないというより、干渉を拒んでいるかのように……話を早く終わらせようとしているようにしか見えなかった。

「最近、ときわ殿の体調が良くなったんだ」

 オーダーした物が来るまでの間、ブリッドが居なかったここ二週間の茶会について話をする。

「実を言うと彼はずっと体を壊していたらしい。ゆっくり療養をしていたようなんだ。ベッドに入っていなければならない程では無いから茶会には来ていたそうなんだが……激しい運動は控えるように言われていたらしいぞ」
「…………」
「その割には福広殿が茶会に来るたびに『表に出ろ! 決闘だ!』なんて言っていた。きっと外で遊びたくて堪らなかったんだな。福広殿もそんなときわ殿を見越して茶会に乱入してたんだろう。彼は良い人だ」

 数日間、ブリッドの姿を一度も見かけることはなかった。
 理由を直接ブリッドに訊いてみると、やはり「今月頭から仕事に出掛けていた」と返ってくる。どこまで行ってどんな仕事をしていたのかは話してはくれなかったが、相当疲れる大きな仕事というのは表情から察することが出来た。

「ああ、知っているか? ときわ殿は手品が得意なんだぞ」
「………………」
「いつの間にか手の中に銃を握っていた。ビックリしたよ。もちろん玩具の銃さ。そう言っていた。魔法の銃だとも言っていたな。ほんの数秒前まで持ってなかったのに福広殿が来るたびにいくつも出すから、きっと彼は福広殿を笑わせたいんだな。そうだ、福広殿はドライフルーツが好きでよく買ってきてくれるんだが……」

 話し合ったと言っても、一方的に私が話しているだけだった。
 ブリッドはずっと仕事しかしていないと言うし、その仕事は守秘義務があるからと話してはくれなかった。だから私が口を開くしかなかった。
 私は思いつく限り楽しかったことを話す。ブリッドはただただ黙って話を聞く。でも無視はしなかった。大人しく頷いてくれる。耳に届いているようだ。
 けれど視線は運ばれてきたコーヒーや外を向けている。ちゃんと話を聞いてくれているけど、話をしている人間を見ようとはしない。その癖は、あまり良いものではない。

「こっちを向いてくれ」

 福広殿が乾燥ブルーベリーを十キロ分瓶いっぱいに詰めてときわ殿の誕生日プレゼントとして渡し「こんな物で胸キュンすると思いますか!?」「何の為の乾燥ブルーベリーよぉ。十キロいっぱい食べて好きになればいいじゃぁん。案外トキリンって頭弱い子ぉ?」と銃撃戦になった話の途中だったが、中断。
 長いブリッドの髪を掻き上げ、顔をこちらに向かせる。

「ッ!?」

 私に触られたブリッドが激しく体を震わせた。
 大袈裟なぐらいビクンと飛び跳ねる。悲鳴までは上げなかったものの、大袈裟すぎるアクションだった。

「……あ……え? その、何、か?」
「何かって。私はこっちを向いてくれと言っただけだぞ」
「……ぁ……すみません」
「そんなにつまらない話だったか? ……その後、二キロ分乾燥ブルーベリーを分けてもらったんだが。追加で二キロ貰ってしまった。つい先日食べきったところだよ。暫くブルーベリーと付き合ったからな。何を訊かれても答えられるぐらいには詳しくなった。だからブルーベリーに関して何でも聞いてくれ」
「………………」
「こら、なんでそっちを向く。外に気になる物でもあるのか?」

 ブラインドを開けて店の外を確認してみた……が、車道があるだけで特に目立ったものは無かった。どこにでもある普通の街並み、看板、通り過ぎて行く車。さほど珍しいものは見付けられなかった。

「何かあったのか?」

 寺から山を下りて一時間ほどの場所に、市の図書館がある。
 そしてこの店は、図書館から歩いて五分もかからない場所にある。……寺で十数年過ごしているらしいブリッドは馴染みの街だと思うんだが。

「……いえ、その、別に、外が見たかったということでは……」
「話をしている人間を凝視しろとは言わない。視線を外すことも必要だ。ただ、一度も見てくれないのは、話している側としては気分を悪くするだろうよ。気を付けた方がいいんじゃないか」
「……すみません」

 ブリッドは俯く。そしてまた黙り込んだ。接触を拒絶するかのように。
 そうして最近お気に入りのケーキが運ばれてきた。図書館に来るたびに何回も口にしたケーキだ。何度食べても美味いと思える物だったが、何故か今日は甘く感じなかった。
 自家製ケーキと書かれていたが、作っている店の人が変わったのか? いや、そうではない。単に私が美味しく感じていないだけだった。

「…………そうだ。私の誕生日は10月なんだ。照行殿に寺に住まわせて大分経つ。そのことを話したら、ときわ殿が『盛大に祝いたい』と言ってくれたんだ。ありがたい話だな。何をしてくれるのかは知らんが、ときわ殿のことだ、私の嫌なことは絶対にしないだろう。……まだ一ヶ月以上も先の話だが、その、ブリッドも良かったら、祝いの席に来てくれないか」

 自分の誕生を祝ってくれ。自ら言うのはとても厚かましい。
 だけど「どこかに買い物に行こう」「遊びに行こう」「手伝いに付き合ってくれ」と言うよりは、ずっと相手が気軽に乗ってくれそうな話題だと思い、口にしてみた。

「ああ、何かが欲しいと言っている訳じゃないぞ? 買ってくれとせびっているのでもない。そのな、お前にもその席に来てほしいんだ。……ほら、大勢に祝ってもらえると嬉しいからな。いや、人数の問題じゃないって判っているんだが……ブリッドも来てくれると、その」
「……貴方の誕生日となったら、大勢が駆けつけてくれるんでしょうね」
「ん、そうだな。友人達には呼び掛けてはいるが、全員が全員来てくれるとは限らない」
「でも、声を掛けられる人は大勢居る。……なら、オレなんて居なくても良いのでは? ……数は足りる、でしょう……?」
「いや、それは違う」

 断じて違う、とハッキリと声を張った。
 店に迷惑にならない程度の大きさで。

「数が足りるとか、そういう問題じゃない。一人一人に祝ってもらえるから良いとよく言うだろう……?」

 だから、その。
 ……自分を興奮を伝えるのは、とても難しかった。思いつくのは全てありきたりな言葉ばかり。どれも的確な表現とは思えず、心に在るものが形に出来ない。
 『お前に祝ってもらえたら、凄く嬉しい』。
 単純にその言葉だけを伝えたかったが、一文だけでは熱意は全て届けられないものだった。
 実際に口にしてみると容易い。重要な言葉なのに、聞き逃してしまいそうなぐらい薄っぺらい響きだった。それだけ受け取ってもらえればいいのに、受け取ってもらうのも安っぽい台詞だった。
 現に、

「…………貴方は」
「……うん?」
「他の人にも、同じ台詞を…………言うでしょう?」

 そう、かわされてしまうぐらい。効果の無い台詞だった。

「ああ、言うな。誰に祝ってもらえても、嬉しいものには変わりない」
「………………」

 ――そのとき、悪寒が走った。
 悪寒という表現も間違いかもしれない。嫌な予感? 冷や汗? 妙な違和感? なんと言えばいいんだろう。
 言った後に、「今のは違う」と感じた。訂正すればいいのか迷うものだった。でも『誰かに祝ってもらうのは嬉しい』のは事実だ。祝福されて嫌がる人間なんていない。私は間違ったことは言っていない。……なのに、違和感が拭えなかった。

 ――もし、『他の人は関係無い。お前だけだよ』と言ったなら。
 ――ブリッドは、違う表情を見せてくれたのだろうか?

 終わった後ならいくらでも考えられる。……時は戻せる訳が無く、失敗した時間は続いた。取り返すことなど、出来なかった。
 こんなに本気で物を考えるなんて久々だ。いつも条件反射で受け答えしてきたのに。

「そういえば、ブリッドの誕生日はいつなんだ? 私は10月の4日だぞ、ときわ殿は7月で……」
「…………。8月、15日です。確か」
「……なんでそれを早く言わないんだ、お前は」

 思わず携帯電話を開いて日付を確認してしまう。なんてことだ、8月15日は、紛れもなく、今日ではないか。

「ブリッド、好きな物を食べろ。あと、欲しい物は何だ? すぐ買ってきてやる」
「いりません。お代も、自分で払います……」

 あっさり断られた。いくらこちらが言っても、首を振って許してはくれなかった。誕生日は人に祝ってもらうものだと私が言っても、あまり良い思い出が無いからいいんです、と普段の調子で断られてしまった。
 言い争いになりかけたところで店を出ることにした。外に出たのは暗くなってからだった。その方が夏の暑い日には良いと思っての選択だったが、今からプレゼントを買いに行くにも遅い時間になってしまった。
 ああ、失敗か。そう思いながら暗くなった外を出ると、やっとブリッドが外を見ていた理由が判った。
 法被姿の子供達が夏の暑い空の下、駆けていくのが見える。
 なるほど、今夜は祭があるのか。8月のこの時期だから不思議なことではない。でも8月にしか見られない光景だ。たとえ地元に住んでいても気にしてしまうのも仕方の無い話だった。

「夏祭りか。ブリッド、行かないか?」
「……この重い荷物で、ですか? やめた方が良いかと」

 なら、本を置いてから行けばいい。
 言おうとしたが、彼が「人混みが苦手だ」と明言していたのを思い出して、口を噤んだ。
 重い本を持ちながら寺に戻る。ああ、なんで重い本なんて持ってしまったんだろう。失敗だ。暑い重いと口にしながら帰路についた。
 その間もどうやったら夏祭りにブリッドを連れていけるか、そればかりを考えていた。
 街から暫く歩き、囃子の音も聞こえなくなるぐらい遠くに、仏田の寺の入り口があった。長い石段を登って、敷地内の端まで行って、やっと住ませてもらっている洋館に辿り着く。一時間も無い道だが、図鑑やら辞典やらと重い本ばかりだったから腕が抜けそうだった。

「そうだ」

 洋館あと五分ぐらいで着くという仏田の敷地内で、私はあることを思いつく。
 空を見る。今はもう真っ暗だが、昼間は青空だった。天気予報も雨が降るとは聞いていない。私は道の端、草むらに本の袋を置いた。

「本はここに置いておこう」
「…………どうして?」
「これがあったら重いからだ」
「…………はあ」

 ブリッドの手から奪うようにして袋を取り、誰も判らないように草むらの陰に置く。そして彼の手を引いた。
 触れられるのが苦手な彼は勿論驚いたが、そんなの気にせず私は手を引いた。そのまま駆け出す。
 ブリッドは訳も判らぬまま私に引っ張られ、走った。私も場所をちゃんと把握していなかったからうろ覚えで道無き道を走った。「一体何を」と不安げな顔が視界の端にちらちらしたが、構わず木々の中を走り抜けた。
 道が草から石になり、砂に変わり始めた頃。ブリッドがハッとする。これから行く場所に気付いたのか、そこで感じる何かがあったのか、彼は足を止めた。

「ブリッド? どうした」
「…………。あの、アクセン様……一体、何処へ?」
「高台。軽石の工事現場の上。あの真っ白い砂が広がっているところだ」
「……危ないですよ」
「断崖絶壁に近寄ればな。近寄らなければ街を一望出来る良い場所だ。そう、照行殿が言っていた」
「……オレ、行きたくないです。その……危ないですし……」
「拓けているところに行くだけだ、危なくない。プレゼントを思いついたんだ」

 真っ黒い夜に光もなく道無き道を行ったら危ないと言われるのは当然だった。でも少しでも木々が拓けていれば、今日は外の灯りが強い日なんだからすぐに目的地に導かれて行ける筈。

「……でも、行きたくない……です」
「そんなこと言うな。良い場所らしいから。行こう」

 いつも否定の言葉ばかりを口にする彼を押し切って、無理矢理引っ張り、走った。
 ふと、掴まれているブリッドが震えているのに気付いた。そんなに人に触られるのが嫌なのだろうか。
 腕を掴むのは嫌ならと、青白い腕を握ることにした。

「……っ……」

 砂浜のような綺麗な砂が多くなり、そうして街が一望できる高台に到着する。
 無計画に走って来たが、時計を見ると良い時間だった。とりあえずいきなりすまないと謝っておこうかと思い振り返ったとき、爆音が響いた。
 ちょうど花火が打ち上がる時間だったらしい。

「やった」

 こんなにも良いタイミングで誕生日プレゼントが渡せるとは思わなくて、つい嬉しくてそう言ってしまう。
 照行殿が高台がなんだのという話を昔していたのを思い出したおかげで、最高のプレゼントをすることができた。後であの老人に何か贈った方が良いだろう。考えながら、私も空を仰ぎ、いくつも咲く天の花々を眺める。
 花が咲く。色取り取りの花が咲き、散っていく。それが何度も繰り返される。
 綺麗だと思いながらチラリとブリッドを見てみると、彼もぼうっと空を眺めていた。
 ……いつの間にか私は、花よりも彼の横顔の方を見ていた。

「…………。もっと、楽しい話が出来る人と……来ていれば……」
「ん?」
「……アクセン様も、楽しめたでしょうに。オレなんかじゃ、なくて……」

 と、彼は変わらず、普段通りの事を口にした。

「一緒に楽しみたかったんだよ。お前が楽しめれば嬉しいな」

 長く、格好のつく台詞を言おうと思った。瞬間的に色んな台詞が山ほど思いついた。
 でも、自分の口から発せられたのは、数秒も掛からない短い、ありきたりなものだった。言って失敗したと思った。付け足そう、訂正しようと何度も考えた。けれど、

「ありがとうございます」

 微笑むその横顔に、私は固まって何も言えなかった。

「…………………………」

 …………参った。
 暑い。夏でも夜なら外に出ても涼しいと思っていた。それは間違いだったか。とても暑い。……顔が、熱かった。
 参った。これは、いけない。本格的に、やられてしまったらしい。この顔は、駄目だ。ああ、耐えられない。
 顔を抑えて後ろを向く。眩しすぎて見ていられない。……彼の顔を見つめていられなかった。

「……アクセン様?」
「こっちを見るな!」
「…………ぇ……」
「頼む、見ないでくれっ!」
「……ッ! は、はい……すみません。……ごめんなさい、オレ、屋敷に、戻ります……ね……」

 ブリッドは何度も謝罪の言葉を繰り返しながら、ざくざくと白砂を踏んで遠くへ行った。
 本当なら「一緒に戻ろう」と言いたかった。だが予想以上に顔が真っ赤になって、それから戻らなくて……隣を歩くなんてこと出来そうになかった。
 落ち着くまでどれくらい時間が掛かったか。何度も息を吸って吐く、何十回も繰り返す。やっと平穏を取り戻して、私も洋館に向かった。
 途中で本を回収しないと。忘れないようにしなくては。自分で買った本ならともかく、市の物を放置してはいけないな……と思いながら草むらを探すが、袋は一つも無かった。

「……ブリッドが全部持って行ってしまったか」

 私は慌てて洋館に走ろうとすると、とある白衣姿の男性と擦れ違った。

「どうも」

 眼鏡を掛け花束を持った中年男性を通り過ぎて、私は屋敷に戻った。



 ――2005年8月15日

 【     /      / Third /      /     】




 /11

 洋館の前。夏でも煌びやかな花壇のベンチに誰かが腰を下ろしているのに気付いた。
 機嫌がどこか悪そうなシンリンだった。
 こんな所でどうしたと声を掛けると、彼は気だるそうに「人を待っている」と答えてくる。夏の夜だが外で待っているとはなんと苦行な。中で待っているのは駄目なのかと尋ねると、「すぐに戻って来るからここに居ろ」と言われたらしい。その口ぶりからして、待っている相手はシンリンより上の人間であると察せられた。

「ブリッドは先に戻って来たか?」

 先に来ているから見かけたかと尋ねてみると、暫く黙り、苛立ちながら頷いた。

「…………重そうな袋を二つ、持ってたぞ」
「ああ、それは私の荷物だ。二つとも持ってきてくれたとは、申し訳無いことをした。その本はな、今度茶会でときわ殿に見せようと思っていた図鑑で……」
「……お前に言わなきゃいけないことがあったんだ」

 長い話になるのか、それとも気分を入れ換えたかったのか。シンリンは煙草を一本取り出し、瞬時に火を点けた。
 ライターは出してなかった。私の見間違いか、それともシンリンも手品師か。

「茶会。これから開催すんの、やめないか」
「………何故?」
「ときわ様のお体の為に」
「……ときわ殿の容態がまた悪くなったのか? ここ二週間は何事も無いって言っていたじゃないか」
「嫌か? ああ、嫌だよな。中止は嫌だよな? ときわ様も嫌だって言うだろうよ。楽しみにしてる趣味が無くなったらヤダもんなぁ」
「だが、医者であるシンリンが言うなら考えねばならん。体のことは何よりも大事な問題だからな」
「ほう、そこまでときわ様のことをキチンと考えてくれるんだな? じゃあ条件付きの開催にしよう。『ブリッドを今後の茶会で絶対に参加させるな』。それさえ守ってくれれば今後も茶会を主催していいぞ」

 その言葉を聞いて、自分の体温がカアッと上昇していくのを感じた。
 だって……なんだそれは。そんな理由があるもんか。

「オッチャンはな、嫌われ役をやってあげてんのよ。大事な大事なときわお坊っちゃまの為にな」
「…………。ときわ殿がこの家では偉い人で、お前が真面目にこの家に仕えていることは知っている」
「どうも」
「けど、だからって『ブリッドを除け者にしろ』? 何がどうしてそうなるんだ。理解できん」
「あー、そうだねぇ、きっとアクセンには理解できないことさ。……なあ、こう言えば判るか? 『ここ最近、ブリッドが茶会に出なかった。この最近、ときわ様はお元気だった』。これってイコールになるとは思わねえ?」
「……シンリン。そんなことを本気で考えているのか? 君は医学の道を歩んでいるんだろう?」

 私の大声に怯むことなく、シンリンは「ああ」と大真面目な表情で頷く。茶化す素振りは一切無い。だからといって、納得出来るものでもなかった。

「ときわ殿が大変な身分であるのは、部外者である私も知っている。それを疎もうとする意思があることも、理解できる。だけど、その言い方は無いだろう。いくらなんでも大の大人とは思えない」
「事実なんだからそう説明するしかないんだよ。アイツと一緒に居ると気分を害するんだよ。だから、遠ざけるのが一番なんだ」
「ブリッドと一緒に居たら気分を害する? そんなことあるものか。私は今日一日ずっと彼と一緒に居たぞ」
「…………ああ、それ、今まで疑問だったんだ」

 煙草を一口吸った後、彼はその火を……私に向けた。

「なんでお前、大丈夫なの?」
「…………ん?」
「アイツ、気持ち悪いだろ? 気分悪くなるだろ? ムカムカしてくるだろ? ……そういうもんだろ? なんでお前、我慢できるの?」
「シンリン。私も怒ることはあるんだぞ。流石にそれは」
「いや、茶化すなよ。変に煙にまくな」
「変なことを言っているのはそちらだ」
「あ? いやアクセン、我慢しなくていいんだって。本当のことを言えよ。今は、怒るところじゃない」
「怒らせてるのはシンリンだ」
「おう、ちょっとクールダウンしよう。しような。というかちゃんとオッチャンも聞いてみたかったんだ。うん。落ち付け? ……前々から不思議に思ってたことがあったんだ。なんでお前……食事の場に、アイツを置いておけるんだ?」
「……シンリン?」
「『あんなぐっちゃぐちゃでぐにょぐにょなキモチワルイの、なんで隣に置いておける訳』?」

 …………。
 シンリンの言う通り、クールダウンが出来た。
 あまりにシンリンの言っているものが、私の思っていることと遠すぎたおかげで、冷静になれた。冷静になれるぐらい、おかしいものだった。

「『あんな見ているだけで気持ち悪くなってくるような奴、よく見てられるよな。気分が悪くなってくるのに。吐き気さえしてくるんだぞ。ときわ様はそれでいつも苦しんでいたじゃないか。胃がムカムカしてくるし。そんなのと一緒に食事をさせてたら、またときわ様の体が悪くなるだろ』」
「…………なあ、シンリン。一体、何を言ってるんだ?」

 あまりに彼は外れたことを言う。
 ブリッドのことが嫌いで、悪口を言っている? いや、それにしたって普段の堅実なシンリンの姿を知っていると、あまりに礼儀に欠けていた。では一体何故。一体何の話を。……本当に、彼のことを話しているのか?
 何一つ同意が出来ない。

「私は、一度もそのような感情を抱いたことはない。一度もだ。今日だってずっと一緒に居て……寧ろ、こ、好意的に感じていたぐらいだ」
「好意的ぃ!? そりゃまた、物好きな。というより、『お前そんなこと思えたんだ』?」
「今の今まで一緒に居た。私は吐き気を催したこともなければ、腹を下したこともない。一度もだ。だから、これ以上彼を汚すな。絶対にそんなこと言うな」
「今の今まで一緒に居たって言う割に、帰りは別々なんだな」
「んん……。それには理由があるんだ。い、色々あったんだ。でもさっきまで一緒に花火を見ていた。ずっと隣に居た。本当だ」
「花火ぃ? お前、アイツを連れて祭に行ってきたのか?」
「いや、連れて行きたかったんだが断られてしまってな。折角の誕生日だから何かしたかったんだが……だから、あの白砂の高台の所に行って、祝ってやって」
「あはははははははははは!」

 いきなり笑い出した。
 知らなかった、シンリンは……そういった笑い方をするのか。半年の付き合いだというのに知らなかった。
 まるで別人だ。私の知っている彼ではなかった。

「なに、それ。お前、天才!?」

 なんでそんなことを言うのか。今日の彼は、本当によく判らない。

「知ってて連れて行ったの? 知らないで連れて行ったの? どっちにしろやりすぎだろ!」
「……なにが」
「本当に知らないの? 知らないで外、出したんだ? スゲーな。お前、教えてやろうか?」
「……いや、その」
「今日って、アイツの親父さんの命日なんだぜ」

 びきり。
 私の中の何かに、ヒビが入った。

「しかもな、あは、はは、親父さん、自分で死んだんだよ。飛び降り。高台から。……借金を作った挙句、全部息子達に押し付けて、今日、あの高台から飛び降りたんだって。それなのに知らずに連れていった? お前、最高だな!」

 確かブリッドは「父親は事故死した」だと言っていた。ああ、そうか、どんな状況で説明されたか詳しく覚えていないが、「自分の親は自殺しました」なんて言えないか。事故死の方がまだ「仕方ない」って思えるか。そういうこと、なのか。
 誕生日に良い思い出が無いって言ってたのはそういうことだったのか。……高台に行きたくないと拒んでいたのも、そういうことなのか。
 だというのに私は気楽に笑わせて、楽しめればいいだなんてことを言って。……失敗以外の何物でもないじゃないか。

 気が付くと私は、シンリンに暴力を振るっていた。感情に任せて殴りかかっていた。
 感情的に。殴ったことにシンリンは特に何も言わず、逆に私の方が慌ててしまう。
 こんなに激情してしまったのは初めてだったからだ。いけない。これでは彼に近づけない。馬鹿なことをした。ああ、なんて馬鹿なことを。



 ――2005年8月15日

 【     /      / Third /      /     】




 /12

「――花束なんて持ってこないでください。縁起が悪い。そんなもの燃やしてしまいましょう。さあ」




END

 /