■ 017 / 「理想」

カードワース・シナリオ名『冷え切った部屋』/制作者:サークル毒餃子様
元はカードワースのリプレイ小説です。著作権はカードワース本体はGroupASK様、シナリオはその作者さんにあります。あくまで参考に、元にしたというものなので、シナリオ原文のままのところなどもあります。作者様方の著作権を侵害するような意図はありません。




 ――2005年7月16日

 【     /      / Third /     /     】




 /1

 本殿から洋館までの林道の合間。僕はファイルを覗き見る。
 『ここ半年の、みんなの仕事件数を見せてほしい』という簡単なお願いを聞いてもらうのに、かかってしまった時間は丸二日。その間に数は増えてしまったことだろう。融通のきかない『本部』に苛々しながら、僕は洋館への道を歩いていた。洋館に戻って手を洗ってから資料を見るなんて悠長なこと、したくなかった。
 僕が見たいのは、とある人の様子だ。その人のある数字が見たかっただけ。のんびりとうかノロノロしているなんて、福広さんじゃないんだからありえない。

「…………。あの人、こんなに増やして。また寝ていないな」

 『本部』がなかなか資料を見せなかったのは、見せたくなかった理由でもあるのかと疑っていた。ちょっとだけ。それもあるけど、違う理由もあったようだ。
 『本部』は、あの人だけじゃなく、多くの人に『仕事』をやらせすぎである。
 以前、このことに関して何名かに対してこっぴどく怒った。「仕事を押し付け過ぎだ」と怒ってみせた。それ以後、彼らは僕に仕事の成果を見せようとしなくなった。僕に怒られるのを嫌がって資料を見せないだなんて、赤点を隠す小学生じゃあるまいし何をやっているんだ。平均年齢半世紀のくせにまったく、あの人達は……。
 いつか『嘘の報告書』を見せてくる日が来るんじゃないかと思う。嘘もホントも「すっごく仕事させてる」ってコトで一緒なのに! 何をやってるんだか!
 僕は誰も見てない道で、盛大に、わざとらしく溜息を吐いた。イライラが頂点に達しそうだったから、ワザとそうして、息抜きをするのが狙いだった。

「うーわ、トッキリーン。つっかれってるぅー?」

 誰かに疲れをアピールしたかった訳じゃない。
 でも大袈裟なアクションに心配してくれたのか、そうでないのか、ふやふやした笑顔の福広さんが現れた。洋館の方角からだった。
 今日の福広さんは、いつも通りシャツとジーパン姿だった。物凄く現代人っぽい格好だ。福広さんにとっては普通の格好かもしれないけど、ここ境内では、片手で数えられるほど珍しい格好だった。そんな貴重な人種が、敷地の端っこに在る洋館方面からやって来るとは。

「お久しぶりです、福広さん。相変わらず締まりの無いお顔ですね。一週間ぶりですか」
「うぇ、もう一週間経ったのぉ。そんなにトキリンと会ってなかったのぉー、さっびしぃー。それにそろそろ『仕事』始めなきゃ怒られちゃうじゃんー」
「そうですね。そろそろ幽霊の一つは狩らないと怒られる頃です。でもお寺はお寺の方で忙しいのでしょう?」
「あーいぃ。まだ上半期終わってうんふんも経ってないからねぇ。どうしても『表の顔』の方がワッタワッタしてさぁ。次から次へとお寺参りに来るんだもん。人が入るとどうしても掃除しなきゃいけないしぃ。トキリン、良かったら『お寺掃除の人は幽霊退治の責務免除』とか改正案出してよ。トキリンだったら新しい法律作れるってぇー」
「残念ながらまだ僕は未成年なので選挙権も持っていないんですよ。でもそのうち『本部』の皆さんにお願いしてみます。もう少し役割分担ってものを考えるべきだとは、僕も常々思っていました」
「あとさ、トキリンの力で墓地にエアコン付けてくんないぃ? 夏は暑いし冬は寒い、ヤなんだよねぇ、掃除ぃ」
「屋外を涼しくするエアコンなんて物は、そのうち日本の技術者さんになんとかしてもらいましょう。日本人ならきっとどうにかしますよ」

 夏。7月。
 林で太陽が見えない道の真ん中でおしゃべりは、辛い。福広さんと世間話をするよりも次ある予定を優先しなければと、僕は福広さんが来た洋館の方に足を進めた。

「あぁ、そっかぁ、そーかぁー、おおぉっ」
「なんですか、気持ち悪い声を出して」
「さっきさぁ、俺さぁ、洋館行ってきたのよぉ。久々にさぁ。トキリンほど縁が無い場所だからぜんっぜん行けなくってぇー」
「はぁ」
「元はトキリンにお手紙渡したくて行ったのに居ないんだもん。一緒に『仕事』しよーって言われたから赤紙をさぁ。仕方ないから食堂にポイしてきちゃったぁ。なんで俺が行ったときに居ないワケぇー?」
「…………。居ない理由は、『そのとき僕は別の場所に居たから』ですかね。頭の弱い会話はこれくらいにして、僕は食堂に置かれた手紙を読めばいいんでしょうか」
「あ、話が判る良い男ぉ。誰かに取られる前に俺、トキリンと結婚しようかなぁ」
「僕は貴方のこと眼中にも無いですから、ホンキだったら努力してくださいね」
「ウソぉー」
「冗談言う元気があるならエアコンの無い墓地掃除を頑張ってください」
「いや、違うってぇ。トキリンが俺に眼中ナシってウソでしょぉー? どう見ても俺に気があるってぉー」
「ああ、元気だったら『何言ってるんですかバキィ!』とかパンチしてフッ飛ばしたりするんですけどね。それさえもする気なれない。あと僕、ラブコメっぽい展開って駄目なんですよ」
「ねぇ、トキリン。両手いっぱい紙束ってツラくないのぉ? 持って行くなら手伝ってやろうかぁ? そして頼りガイに惚れればいいんじゃないぃ?」
「バキィ」
「なに今のぉ?」
「せめて気分だけでも殴っておきました、貴方のこと」

 頼りがいのある男、略して頼りガイにときめくことなく、僕は福広さんに資料を半分持ってもらい、目的地に向かう。
 福広さんが持っていたという手紙が何なのか、心当たりがあった。先程、お互いの会話に出てきた通り仕事についての『赤紙』が入っているんだろう。
 我が家では『月に一〜三回は悲しき魂を救済せよ』というのが方針になっている。僕は以前(誠に心外だが)福広さんと二人で『家の手伝い』をしたっきりだ。だからそろそろ何らかの形で「異端退治をしてこい」と言われるとは思っていた。
 それにしても、『仕事』を与える『本部』に今行ってきたところだというのに。そのとき僕に直接言ってしまえばいいじゃないか。どうして『本部』の人達は融通が効かないんだ。時間の無駄を心得ているな……。

「最近、誰も彼も『仕事』増えたねぇ」

 洋館に到着したときに、福広さんは僕が覗いていた書類を軽く読んで、言った。僕が出した溜息とは違い、ヒューと口笛を吹きながら目を通している。

「感心してる場合ですか。過労死しそうな人だっているくらいですよ。その人だけじゃなく、全体的に何倍も一人につきの件数が多くなっています。いいかげんにしてほしいです」
「トキリン、前も怒ってなかったぁ? 『仕事』やりすぎだってぇー」
「怒りました。前も怒りました。その前も怒りました。それでも減らしてくれないんです」

 僕が知ってる限り最高件数を記録しているブリッドさんは、件数は減ったと言っているが今は長期出張中だ。数日にも及ぶのに一回カウント。それもそれで頭のおかしい切り替え方だ。
 今日は茶会なんだから、『仕事』が無かったら今日ブリッドさんは来る筈だったのに。これでまた次回も居なかったら誰かをバキィしなきゃいけない。……どの人もこの人も、結果に嘘も吐くからホント困る。

「嘘吐いてでも仕事がやりたいっていーことじゃん。仕事熱心なヤル気のある男って惚れないぃ? あぁ、駄目だよトキリン惚れちゃ。いい男はすぐ傍に居るんだからぁ」
「ふふ。今の冗談はエンタの神様より面白かったですよ」
「えっ、ホントぉ? 光栄ぃ」

 到着した洋館は、入口からエアコンが効いている訳ではないので入っただけでは体は暖まらない。いきなりピアノが大歓迎で現れる入口でも、冷気が剥き出しになっていないのでずっと心地良い場所に思えた。
 茶会を開いているいつもの食堂にやって来ると、約束の集合時間より十五分早いのに、アクセンさんが既に席に着いていた。彼は三十分ぐらい前から約束した場所に集合する癖があるから、遅刻の心配は無かった。だから普段通りの彼が見えてほっとした。
 でも、普段なら既にお茶を淹れて一杯目を楽しめる状態にしている筈なのに、まるで「今着いたばかりでとりあえず席に着席した」ように見えた。何一つ用意がされていない。元は集合してから事を始める約束だから、してなくても別に構わないんだけど。珍しかった。
 彼は何をやっているかと言うと、テーブルの上に(おそらく僕ら茶会メンバーへの)プレゼントボックスを置き、ラクな格好で、何かを読んでいた。時間潰し用に文庫本でも持ってきていたのか。
 いや。非常に平べったいものを、ふんふん読んでいる姿は……。

「あぁ、悪い子ぉ。トキリン宛の手紙を勝手に読んでるぅー!」
「………………」

 ――ところで、福広さんが置いたという封筒は、住所も名前も書かれていないただの封筒だ。
 そんなものが食堂のテーブルに置いてあったら、訪れた参加者はどうするか。……バカじゃないの、福広って人は。



 ――2005年7月16日

 【     /      / Third /     /     】




 /2

「女性がいなくなっただなんて、重大事件じゃないのか」

 アクセンさんは物凄い形相で迫って来た。そりゃそうだろう、一般人は『失踪事件』の資料なんて、ニュースでよく見る『警察』っていう凄い組織がなんとかしてくれるものだと思っているんだから。
 早速、アクセンさんは「警察に通報するべきだ」なんて言い始めている。警察に言ったところで、「教会経由で我が組織に戻って来ちゃうのになぁ」とボンヤリと、真剣なアクセンさんの顔を見ながら考えていた。
 とりあえずどうしようか。そんなことをしていると、食堂にブリジットさんがやって来た。
 茶会が始まる時間を過ぎていたが、ブリジットさんのことだから仕方なかった。弟のブリッドさんと同じように暇だったら茶会に参加してくれるようになったブリジットさんは、「時間が空いてたら来る」と常に言っている人だった。それでも大量の話とお土産を持ってくる、茶会の賑やかしだ。

「どうも、ときわ様。ははっ、ご無沙汰してましたー」
「こんにちは、ブリジットさん。……相変わらず涼しそうな格好ですね」
「それよりいかがしましたかぁ? なにやら騒ぎになってるようですね?」

 アクセンさんが怖い声で訴えているシーンは、外からするととても面白いように見えたのか。あまり風紀に宜しくない姿で、ブリジットさんはニヤニヤと僕に近寄って来た。
 僕は小声で、アクセンさんに聞こえないようにブリジットさんに事情を説明する。

「福広さんがおバカさんだったので、『赤紙』を、アクセンさんに見られてしまいました」
「おやまあ」
「ねぇねぇトキリーン。あの人、記憶削除した方がいいんじゃなーい? あ、でも俺もトキリンもそんな技使えないっけぇー?」

 僕達にだけ聞こえる声で福広さんも言う。
 『赤紙』の内容は、退魔業をやっている我が家が責任を持って引き受けた依頼だ。一般人に知られるべきではない裏事情ということだけでなく、我が家の信頼の為にも、部外者には見られてはいけない物だった。
 『アクセンさんの記憶を消す』というのはとても効果的なやり方だ。でも、僕はあまりそれを薦めたくなかった。というのも……その行為はあまりやり過ぎると『人体に良くない』と聞いていた。脳の辻褄合わせは自分を守るために行われるものであって、他人が弄れるように設定されていない。それを無理矢理操作して一定の記憶を消すのだから、ほいほいと「それじゃ記憶を消しましょう」とは言えないんだ。しかもするには手続きも必要だし……なんとか誤魔化す方向でいきたい。僕は頷かなかった。
 さて。僕も改めて、僕宛の赤紙に目を通す。本来ならアクセンさんが読むべきではなかったものを、今更読み始める。

 ――依頼主は、名の知れた議員さんだった。名字はありきたりだけど、下の名前は珍しいからよく覚えている。男十郎。これでダンジュウロウと読む。依頼主はあのダンさん、と……。
 依頼人の年は、五十歳。皺が多く見えるけど、品のある笑顔をよく道端(議員選挙の写真)で見かけた。立派な顔立ちだから、若い頃はモテモテだったくちだろう。確か、奥さんと長くやっていて夫婦円満と噂のことだ。
 依頼内容は、『ある女性を捜してほしい』というものだった。女性の名前は、恵(めぐみ)。年は三十八。写真には中肉中背の女性が映し出されている。金色と赤の混じった髪色だった。変な染め方だ。ぱっと思いつくのは、不細工な金魚だった。でも愛嬌な顔をしている女性だった。
 彼女は三週間ほど前から姿を見せていない上に不穏な動きを見せていたという。だから探偵業にも首を突っ込み始めているウチに声を掛けたとのこと。手紙の内容の大半は、『依頼の内容は決して口外させないよう注意してくれ』と書かれていた。立場ある依頼主だからこそらしい。
 もう、その約束はあっさり破られてしまっているのだが。

「不穏な動き。フーム、そこに異端が絡んでいるということのでしょうか。……最低でも一か二個は魂をコレクトできるって目論見ですかね? そうでないと我が家が引き受ける理由にならないし」
「ふぇー。『詳しいコトはこのお店に尋ねてくれ』だってさぁ。そこまで判っていて自分で調べないって、フシギねぇ」
「立場ある人ですから調べられないんですよ。普通の不倫調査している探偵さんを雇わないのも、そんなものを雇ったら『何を怪しんでいるんだ』って記事になっちゃうからでしょ」
「ふっふっふ、この議員さんもなかなかのワルよのぉ。裏の世界を知ってらっしゃるぅー」
「僕達のような退魔組織なら、世間にバレる確率はゼロ……の筈ですから」

 相変わらず僕は、福広さんとブリジットさんと三人にこそこそと話をしていた。
 アクセンさんには決して聞こえないように会話をする。一人だけ蚊帳の外にするのは可哀想だが、そもそもあの人は退魔の仕事とは無関係なんだから、話に混ざってもらう訳にはいかない。
 ふと、悲しんでないかなとアクセンさんを見やると、彼は……ご自身の真っ赤な携帯電話を覗き込んでいた。

「ふむ。あそこか。なるほど、この辺りならすぐに行ける場所だな」
「ちょ。アクセンさん、何調べてるんですか」
「その住所に行けば彼女を捜すヒントが得られるのかもしれないのだろう? ミズ恵が居なくなって三週間。何かが起きてからでは遅い。早くに動き出さなければならないぞ」
「正論ですね。……単なる人探しなら良いんですけど」

 いくら議員さんのプレイベートを守るために頼まれた仕事とはいえ、幽霊退治と表立ってないお手伝いは初めてだ。でも無関係な訳が無い。そんな平和な仕事など『本部』が受ける訳がないんだ。自分たちのモノにならないと判断したら、たとえ依頼人が可哀想であっても依頼が来た段階で跳ね退ける筈だ。
 今にもその住所とやらに走って行ってしまいそうなアクセンさんを見て、記憶削除を勧めた福広さんを見る。福広さんは大変なことをしでかしそうなアクセンさんを見て、へらへらしてるだけだった。

「ときわ殿。このミスターとミズの関係は何だと思う?」
「え。そうですね……ご兄妹、ではないようですね。だとしたら、何でしょう」
「ココはアレだよ、ねぇ? トキリンわかんないのぉー?」
「何ですか」
「男女関係だよぉ。だからぁ、フツーの探偵さんに頼まないで来るんだってぇ。奥さん以外の女の人を気になってるなんてさぁ、判るでしょぉ?」
「恋人同士とな。それが三週間も会えないとなったら……さぞ苦しいことだろうな。早く会わせてあげなければ悲劇になるぞ、ときわ殿」
「はあ、そうですね。とりあえずアクセンさん、落ち着いて。あの、これは僕の……お家の、ボランティア活動なんで、貴方は何もしなくても」
「私に協力出来ることなら何でも言ってくれ」
「いや、あのですね」
「……フーン。西の花通りか。ふふっ」

 今更になって手紙を手にし、目を通したブリジットさんが笑う。
 あんまり興味無さそうな声だったけど、顔はずっとニヤニヤしていた。常に笑っているのがブリジットさんだと知っているのに、何かイタズラでも考えていそうなその笑みは、覗いてしまうたびにゾクッとしてしまう。

「あの、ブリジットさん。貴方は今日、アクセンさんと一緒に時間を潰していてくださいよ。それ、僕に対する『赤紙』なんですから。貴方には関係無いことですし」
「おやぁ。ときわ様はこの場所はご存知ですか?」
「知らなくてもカーナビになんとかしてもらいます」
「ククッ。そこに行けるのですか?」

 ――本当に行っちゃうの? 行っちゃっていいのぉ?
 まるでそう言うかのように視線が訴えかけてくる。何が不満なんだ。

「ネットで検索すれば、土地勘が無くても目的地に辿り着ける世の中になったんです。子供のおつかいでも出来ますよ」
「ははは! そっかそっか! ネットで調べれば何とかなりますよね。でもオレ、そこがどんな所が知っているから特別に教えてさしあげましょう」

 ブリジットさんは手紙を小さく折り畳んだ。そのまま自分のジャケットのポケットに突っ込んでしまう。思いっきり、自分の仕事にする気満々の行動だった。

「西の花通りっていうのは、見渡す限り風俗店、そんな通りですよ。あはは、ときわ様、貴方だけでは無理でしょう」
「…………。ああ、無理、ですね。確かに。僕、未成年ですし」
「ふあぁ、トキリンって年よりずっとちっちゃいしねぇー。あ、じゃあ俺と一緒に色街デビューしよーよぉ。大丈夫だってぇ、ゲームの世界は大体十五歳でオトナの仲間入りよぉー」
「ふむ。歓楽街に消えた女を捜す。まるでサスペンスの世界だな。ときわ殿達はフィクションのような事態をボランティアで解決しているなんて。素晴らしい」

 四者四様に頷く。
 アクセンさんには……とりあえず記憶を消すまでの間、探偵ごっこをしているってことにしよう。あとはブリジットさんがなんとか守ってくれるだろうから、それを信じることにするか。

「ブリジットさん。アクセンさんのこと、頼みましたよ」
「はいはい。ときわ様の大事なお友達ですからね、無碍には扱いませんよー」

 くすくすと意地悪そうな笑みを浮かべながら頷く彼を、信じる。……間違った選択肢とは思ってはいけなかった。



 ――2005年7月16日

 【     /      / Third /     /     】




 /3

 噂の風俗店からシャツ&ジーパンの男が出てくる。
 福広さんはやっぱりと言うか、実家の寺の中よりずっと下の街でぶらぶらしている方が似合っていた。

「で、福広さん。どうだったんですか」
「えっへぇ。恵さんっていう人ぉ、お店に全然来てないってぇ。三週間前から音信不通ぅ。でも警察に連絡はしてないんだってぇ。まぁ、店側も後ろめたいことあるみたいだしぃ、バックレるケースが過去にもあったそうだから三週間ぐらいじゃ気にしないってぇ」

 三週間も顔見せなかったらみんな心配になるんじゃないのかな。僕だったら毎回顔を合わせていた人が居なくなったら「どうしてしまったんだろう?」と気にするもんだが。
 福広さんのそんな声を聞きながら、数時間前、福広さんに「数週間ぶりですね」と言った自分の声を思い返していた。……まあ、ウチは一つの敷地に人がいっぱい居過ぎだし。例外としよう。

「他は無いんですか? もっと吐いてください」
「えっとぉ。あぁ、『居なくなる前に男に言い寄られていた気がした』って言ってた女の子がいたよぉ」

 もう既に時刻は夜。そろそろ僕のような未成年が歩いていると、補導される時間である。
 7月後半の歓楽街は、人がわんさかと居るというのに辺りの人間達の心のように寒々しい。
 今は夏だからいいけど、季節が過ぎれば自然と暖を取ろう、暖まりたいと思えてきそうだ。どっかに行ってしまう女性の気持ちが、馬鹿馬鹿しく判らないでもなかった。

「その男って……まさか、男十郎さん? いや、どうだろう……?」
「ねぇねぇそれよかトキリーン、褒めてぇー!」
「はぁ、何言うとるの馬鹿なの死ぬの?」
「いやいやぁ、きっと俺のコト『頭イイ! 抱いて!』って言いたくなるよぉ、トキリーン。実はぁ、真面目にお店で聞き込みしてるときとは別に俺は事務所に忍び込んでセールスパートナーズリストをコピってきたのだぁ」
「……うわ……」
「なにその本気で引いたような声ぇ。福広カナスィ」
「ここがファンタジーワールドだったら『大したシーフ技能ですね!』って言うんですが、流石に平成の世の中でやられると……」

 ともかく、福広さんの手柄である従業員名簿とやらを見てみる。恵さんの住所は、とりあえず、あった。
 パッと見て思ったのは、「あっ、アパート住まいじゃないんだ」ということ。アパートやマンションにありがちな横文字が無かった。風俗で働く女性に偏見があった訳では無いが、三週間もいなくなって警察へ頼る家族もいないのに、一軒家住まいだったことにちょっとだけ驚いた。親御さんはいないのだろうか? 良い年齢なのに、ご一緒に住んでる人もいないんだろうか? ……寂しい方だったんだろうか。

「お住まいは……お店から少し歩けば行ける場所ですね。なのに、誰も直接『どうしたの?』って訊かないんですね。一緒に働いてた女性だというのに、冷めてますね」
「お店を覗いて来ただけだけどさぁ、あそこは風俗は風俗でもぉ……ちょっとアレなお店だったしぃ、繋がりを持つ方が気まずいんじゃないかなぁ?」
「ちょっとアレって、何です?」
「うっふふぅ。トキリンが真っ赤になって俯いちゃう系かなぁ?」
「…………。福広さん、ありがとうございます。まずは恵さんのご自宅に突撃レポートしに行くのが常ですよね。そこで居なかったら、本格的に霊能力にでも頼って行きましょう。……まだ、人の域の話ですから」
「おぉ、能力者っぽい話してるねぇ、俺達ー。トキリンのそういうマジメ顔、ラブよぉ?」
「それはどうも。家族だけならいつでもこういう話が出来てラクなんですけどね。この場にアクセンさんがいないから出来ることです」

 ……そう自分で言ってから。
 どうしてあの人は今、ここにいないんだという疑問に辿り着いた。

「あぁ、あの赤い人ぉ? 恵さんの住所見たら走って行ったよぉ。大丈夫だってぇ、あの白い人もついて行ったからぁ」
「……ふう、アンビリバボですね。ブリジットさんが約束通り彼を止めていることを願うばかりです」

 あーめん。言っておきながら酷い話だけど、事実だから仕方ない。

「えぇー? なによぉ、トキリン。あの白い人、あんまり信用してないのぉ?」
「いえ、信用してない訳じゃないですよ。ただですね、茶会で三ヶ月ほどお話をした印象は……なんというか、一筋縄ではいかない方だなぁ、というものでして」

 折角のティーパーティーなんだからとお土産を持って来る良い人だ。その土産が、賞味期限の切れそうなお菓子や美味しくない飲料水ばっかりするが。
 お話をすれば、色んな楽しい話をいっぱいしてくれる人だ。嘘も半分以上交じっていたりするが。
 酷いことは一切しない、立場を弁えた、とっても大人な男性だ。息抜きの場だというのに僕のことをいやらしく「様付け」し続けるが。
 ブリジットさんはそんな人だ。決して悪い人ではない。でもニヤニヤ笑っているときは、決まって『何か』があるときだ。『何か』が事件でなければいいんだが……。

「トキリンってぇ、変な奴を知り合いにするの得意ねぇ」
「貴方が一番クレイジーですけどね」
「どういたしましてぇ」

 ともあれ、空を飛んででもアクセンさんが居るであろう住所まで走るハメになってしまった。

 僕達が駆け足で住所を向かうと、既に塀の向こうに飛び移ってしまっているアクセンさんが見えた。
 止めに入る筈のブリジットさんはどうしているかというと、道端の方で一人その姿を見ているだけだった。焦ってもいない。ニヤニヤとしながら、人様の敷地に入って行くアクセンさんを眺めていた。

「アクセンさんっ! 貴方の行動力は尊敬できるものですよ! ……ですが、『不法侵入』ぐらいドラマ知識だけの貴方でも悪いことだって判るでしょお!?」
「何を言うか、ときわ殿。今は一刻を争うのだぞ。早くしなければ大変なことになるかもしれん」

 その壮大な展開への自信はどこからやって来るのか、この一般人。
 夜だからって高い塀を飛び越えるなんてデリカシーに欠ける行いはしたくない。どうするべきか、とりあえず入口は……と周囲を見渡すと、さっきまで笑っていたブリジットさんがいきなり真顔になっている。
 表情が笑っていない。常に笑顔で居る人がそんな顔をするなんて、不気味だった。

「……ブリジットさん。どうしました?」

 そんなときって決まって嫌なことが起きると決まっているじゃないか。

「何か、変なモノでも視えたんですか?」
「……ああ、うん。ひひっ、参ったねぇ……死体が視えたわ」

 ……幻視!? 一般人が居なくなったところで、『僕達の日常』を口にした。
 でもその日常は、どうやら塀の向こうにあるらしい。そっちに一般人が行ったじゃないか……兎に角、僕らも中に入らなきゃと思ったとき、僕は門を思い切り蹴飛ばしていた。予想以上にガシャンという音が大きくて自分でブチ破ってから驚いてしまった。

「あらぁトキリン、男らしいぃー」
「惚れないでください」

 冗談でもなんでもなく。

「でも安心したぁ。誰か死んでいてもらわないとぉ、俺達が『仕事』する理由になんないからねぇー?」
「そういうこと、絶対にアクセンさんの前で言わないでくださいね。殴られますよ。彼と僕に」
「うわ連撃ぃ? こわぁー」

 玄関ではなく、鍵の開いている窓から恵さんの一軒家に入りこむ。
 呼び鈴やノックでは人間の反応のしない敷地だった。庭は結構広かった。でも植物が生い茂っていて、日当たりも悪く、おどろおどろしい空気だった。……ついでに、郵便受けには何通もダイレクトメールが溜まっていた。
 入ってから、体温が一気に下がっていくのを感じる。7月なのに。気温自体は今からそんなに下がるもんじゃない。でも、うっすらと積もった埃と、鼻を突く腐臭が、確実に体温を奪っていった。
 嫌な予感がする。いや、これは嫌な予感しかしない。

「生ゴミでも出しっぱなしにしてしまったんでしょうか?」
「そっちの人が視たっていう死体が腐り始めたんじゃないのぉ? うっわ、虫がわいてるよ。イヤだねぇ」

 とりあえず常識的な見解を言ってみると茶化すように、それでも声はいつもより真面目な調子で福広さんが返す。

「……怪しい何かは居ますか。ブリジットさん」

 ついつい声を掛けるのも苦々しい色のものになってしまう。ブリジットさんは表情を普段通りに戻し、笑いながら、

「この家には居ない。けど、外に霊が居るな」

 と、家の中に入りながら僕達に打ち明けた。
 強い感応力師であるらしいブリジットさんが言っているんだ、信用しよう……。今度は生きている人がいるかどうか確かめる為に、一軒家を歩く。
 生物があったのか臭いキッチン、生活臭が消えたリビング、清潔にしている筈のトイレ、本来なら一番最初に見るべき玄関。あらゆる所を見まわして、二階に進む。
 寝室らしき部屋に、生きている人が居た。先に入ったアクセンさんだった。
 アクセンさんは部屋に立っていた。「何者かに襲われる」とか一切考えていないように見える。いつもの彼らしく、大した正義感の目で、探偵のように探し物をしていた。
 僕が声を掛けようとしたとき、アクセンさんは窓際にあった屑かごをひっくり返して、そこからある紙を見付け出した。暫く目を通した後、アクセンさんは低い声でその文面を読み出した。

「『俺はお前を知っているぞ。お前の本性を知っているぞ』」
「え?」
「……『あの男には妻がある。お前はそれを知っているな?』」

 歪な悪意に満ちた言葉が、アクセンさんの口から羅列される。

「『お前が稼いだ汚い金で、俺に許しを請うんだ。明後日、お前の家に直接来てやる。ちゃんと俺を出迎えろ。さもなければ、愛する男は全てを失う。よく考えるんだ』…………」

 アクセンさんが読み切ったとき、ブリジットさんの右手に銃が召喚された。

「うわっ!」

 ブリジットさんが銃を構えて、左手で思い切りアクセンさんの腕を引っ張る。物凄い力で引っ張られてバランスを崩してアクセンさんは、寝室のベッドへ転ばされた。
 だんだんだん。思い切り銃弾を三連発ぶっ飛ばし、『視えない第一撃』を相打ちで終わらせる。でもブリジットさんの腕は血しぶきを上げた。

「ッ!?」

 僕も何が起きたか一瞬、理解が追いつかなかった。
 ブリジットさんが総攻撃を終えた後、素早く滑らかな動きで違う銃をもう一丁、虚空――ウズマキから召喚する。
 拳銃の種類なんて僕はそんなに知らないが、さっきより大きくて長めの物に持ち変えていた。さっきの拳銃は咄嗟の判断用? 今度は攻撃用ってこと? そんな素早い判断が出来るブリジットさんは、結構凄い能力者だったのかもしれない。しかも武器を構えると同時に、負傷した腕を瞬時に包帯を巻き始めてるんだから、なんという思考の早さ……。
 ギャアという何者かの声が聴こえ、更にブリジットさんは窓から数弾外へ撃ち込む。だんだんだん。連撃が続く。何秒もしないで戦っていくプロの姿を見て、やっと現状を理解した。
 さっき「外に霊体が居る」とブリジットさんは言っていた。中に居れば大丈夫かなと思っていたけど、全然警戒もしていないアクセンさんが窓際に立っていたら……まあ、そういうことだ。
 ブリジットさんが庇ってなかったら、アクセンさんは今頃……。

「トキリン平気ぃ? 結構大きなお庭だから、そこで『受け渡し』したのかねぇー? こんな住宅地の真ん中で、堂々と怨霊になるって、脅迫した側も相当の悪意の人間だったのかなぁ〜」
「こ、この脅迫状が、人間が書いたという証拠はありませんよっ」
「おぅ、そういう見方もあるねぇ。人の悪意を好物とする異端ならメーちゃんさんを苦しめてその末……っていうのも有り得るかぁ。ナルホドナルホドォ」

 そう言いながら、福広さんは部屋から出てスタスタと階段を降りて行ってしまった。右手には既に福広の愛用の猟銃が喚び出されていた。窓から飛び降りて応戦するというビックリ人間にはなりたくないらしい。軽い足取りで、戦地へ向かう。
 外は夜。闇の中。戦場の音が庭から聴こえてくるようになる。
 鼻に付く匂いは家の中からしていた筈なのに、いつの間にか外でも感じた。数日、いや、数時間もすれば周囲にも腐臭が漂っていく。そうすれば『表の世界』でも大騒ぎになっていたかもしれない。腐臭を聞きつけた一般の警察がこの家を訪れ……そして、さっきみたいに攻撃を受けたら……。
 そんな悲劇になる前に、僕らはなんとかここを嗅ぎつけられたようだ。

「……ブリジットさん。これは、臭いからして」
「ええ、グールってヤツですね、ときわ様。実体化してるってことは、力を付けているってことだから……お腹いっぱい食べた後だったのかな?」
「お、お腹いっぱい、何を食べたんでしょう」
「ふふっ、庭に呼び寄せたお肉では?」
「……それって、恵さんのこと……?」
「脅迫状の日付は三週間前。依頼人が彼女を見なくなったって言ってたのも三週間前でしたっけ? くくっ……こりゃ、絶望するしかないですねぇ」
「…………ときわ殿。ブリジット。一体、どうした? 何があったんだ?」

 三週間ぶりに人を受け留めたベッドの上で、アクセンさんがやっと起き上がった。
 次から次へと話題が転び、彼が引き倒されてやっと一分の時が過ぎるところで、やっと起き上がれた。

「ときわ殿。まさか、実は犯人が隠れていて襲い掛かって来た、のか?」
「……。ええ、そのまさかでした。クライマックスフェイズは別のダンジョンとかなら試合準備が出来たんですけどねぇ。集合場所の下水道まで走るとか、そういうシーンも作れたんですけど」
「福広殿は、犯人を追いかけに行ったんだな?」
「そうですよ、そうです。犯人は窓から飛び降りていってしまいました。それを福広さんが今……」
「なら、我々も追わなければ」

 …………。
 そろそろ、ホントにこの人の記憶を消しに入った方がいいのかもしれない。
 下でゾンビと戦っているシーンを目にする前に、なんとなく惰性でここまでついて来てしまった一般人を、どうにかする頃合いだ。真剣に恵さんのことを心配している身で悪いけど、もう死んでいる可能性の高い女性よりは健全に生きる男を守ってあげた方がいい。
 僕はブリジットさんに向き合った。

「残念ながらときわ様。オレは記憶操作術なんて高度なモンはできないんですよ。だから今すぐ昏倒……で、いいですかね?」
「仕方無いですね。それでいきましょう。何も出来ない僕よりブリジットさんの判断に任せます」

 心得がある方がした方が良いに決まっている。
 ブリジットさんがアクセンさんの頭に手を置こうと腕を上げた。そのとき。アクセンさんは、窓際へ走った。そこに足を掛ける。

「ちょっ!? 何やってるんですか、アクセンさんっ!?」
「犯人はここから飛び降りた。つまり飛び降りられる高さだということだろう」

 なにその理屈。
 重力の消し方も知らない人間が、何を言ってるんだ。ここは一般的な二階建ての住宅だぞ。
 アクセンさんの服を引っ張る前に、彼は窓の外へと飛び出した。二階から飛び降りてって……!
 ……人って、必死になると、あんなに馬鹿になれるものだったっけ? ……あの人は例外に数えていいのかもしれないけれど、あんまりだ!

「あ、アクセンさん!?」
「くくっ。相変わらず、下らない奴……後で言いつけなきゃいけないなぁ?」

 ブリジットさんがボソリと何かを呟く。舌をペロリと出して、禍々しい笑みを浮かべながらブリジットさんも後に続いた。ザッと、猫のように、軽くジャンプするとそこから闇色の庭園へと消えて行く。
 僕が慌てて一階に下りて庭に向かう。
 だが、その頃には既に戦いは終わっていた。庭の奥の方で、福広さんが何かを見ているぐらい状況は安定していた。
 で、肝心のアクセンさんは……数メートル離れたところに居た。隣にはブリジットさんが至近距離を詰めている。なんとかして醜態から離れさせることに成功したらしい。
 福広さん達の元へ近付くたびに、強い腐臭がした。福広さんのクセにシリアスな顔をしていた。「無理をしないでください」と一声掛けながら、僕も覗きこんだ。

「……グールの正体は恵さん、でしたか」

 ――日当たりの良くない庭。背徳の生活。悪意の塊との衝突。死。愛する人と共に生きていけないことへの無念。
 異端に姿を変えても仕方ない条件ばかり。……亡骸は女性だけでなく、男性のものもあった。グールは恵さんという言い方は正しくなかった。恵さんもグールになってしまった、が正解だ。
 女の肉の塊の中から、キラリと石の光が見えた。……指輪だった。

「福広さん。コレって……恵さんを表す証拠品として、預かるべきでしょうか」
「そうだねぇ。そうした方が良いかなぁ」
「……すみません、福広さん。悪いとは思いますがその指輪、取ってくれませんか。僕には触れる勇気がありません。……色んなモノが押し寄せてきそうで……」
「ああ、無理しないでいいよぉ。汚いことは俺がするからぁ」

 あっさりと福広さんは腐敗した肉に手を突っ込んで、左手の薬指にめり込んでいたらしい指輪を取り除く。慣れっこだと言わんばかりのあっさり具合だった。
 ……さて、今度はアクセンさんに近付く。今度こそ逃げないように取っちめておかないと何をするやら。
 暗闇でも判る。少し沈んだ顔をしていた。

「…………」
「アクセンさん」
「……ときわ殿。……彼女は、死んでいたのか?」
「ええ、残念ながら」
「……。死んだ人間は……埋葬、してあげないと」
「その前に葬儀をあげなきゃですよ。いえ、先に警察組織に連絡しなきゃですよね。大丈夫。今、福広さんが電話してますから……ええ、組織に」
「そうだな。……ああ……」

 腐臭は消えない。でも霊体が居る独特寒さは消えて、暑い空気が漂い始めた。
 この庭が若干でも平和になり始めている証だった。

「この道は、バスでよく通るんだ。通り過ぎるだけだが」
「え、そうなんですか」
「もし、三週間……前。私が、何気なくバスを降りて、苦しんでいる女性に会うことが出来て、悩みを聞いて、一人で抱え込まないよう相談に乗ってやることが出来たら、彼女は死なずに済んだのか」
「……。アクセンさん、おかしなこと言わないでくださいよ。そんな都合の良い事が赤の他人に起きる訳ないでしょう?」
「だが、しかし。誰かが声を掛けてやれば済んだ話なんだろう? 彼女は仕事をしていたんだ。周囲に人が居なかった訳じゃない。そうだ、ミスターが彼女の異変に気付いて傍に居てやれば、彼女一人で苦しむことも無かった筈だ。ときわ殿、どうして彼女は脅迫された時点で警察を頼むことをしなかったんだ?」
「相当子供じゃない限り、いじめっこは告発してこないいじめられっこしか相手にしないんですよ。大人のいじめっこなら尚更です」
「誰かに助けを乞えば、違う道になれた筈だ。たとえそれが通りすがりでも良かったのに。そう、誰でも彼女は救えたかもしれないのに」
「アクセンさんみたいに『無条件で人を助ける人がこの世に居る』って、誰が考えるでしょうか。僕だって今再確認したところですよ。…………ねえ、過ぎたことで後悔するの、ヤメません?」

 後味の悪さと腐臭が体を巡る。
 けど、真っ直ぐ過ぎる声が腐った気持ちを浄化していく。憎いぐらいに真っ当で、腹が立つぐらい素直な言葉を組み伏せられるほど、僕は落ち着いていられなかった。強制的に話を終わらせる方向になる。

「どうにもならないこと、あるんですよ。それを責めるの、良くないことですよ」
「三週間、彼女が居なくなったことを心配していたミスターは、永遠に彼女が居なくなったことを知って、悲しむ、だろうな」
「でも、居るのか居ないのか判らない曖昧なままにされるのは怖いことです。彼女は居なくなった。その確実な答えを明示してあげれば悲しみが底無しではなくなります」
「そう、だろうか。死んだと知る方が辛いと思うのが人間ではないのか」
「辛いからなんだというんです……ミスターは彼女がどうなったか知りたくて、依頼しに来たんですよ。結論を知りたがっているんだから、それなりの覚悟はあったんですよ。……そう考えさせてくださいよ。ねえ、彼女を生きた形で見付けてあげられなかった罪が僕達にあったとしたら、僕らはどんな無関係な罪まで背負わなきゃならないんですか」

 ――悩める魂を回収して、死後に救済してやろうというのが我が家の目的。だけど。
 ふっと目をブリジットさんの腕にやる。アクセンさんは気付いてないけど、刻印のある腕は……二箇所、青く光っていた。加害者と被害者の魂は既に回収した後らしい。安心した。
 これからの彼女らをどうにかするのは、僕達の役目じゃない。でも、どうにかしてあげられる環境は作れたようだった。

「ときわ殿。……私は、そんなことをときわ殿の悲しむ顔が見たくてそう言った訳ではないんだ」
「判ってますよ、それくらい」

 僕の顔色を見て、アクセンさんがかぶりを振る。
 そういう気遣い、圭吾さんみたいで凄く気持ちが良かった。気持ちが悪い状況でも、心が軽くなってありがたい一言だった。

「でも。私は力になりたかった。救いはあってほしかった。それが、どうにかする前に終わっていては、これは、なんだ、やりきれないと言うべきなのか。ここまでやって来てしまったのも、彼女の悩みを聞けたらと、救えたらと、ああ、その、なんて言ったらいいか、判らん」
「……人の事情なんて、他人が干渉できるレベルは限られているんです。自分らが何かをすれば事は良くなるって思い上がりです」
「もし私が手を伸ばしてあげられたら、彼女を救えただろうか?」
「特別な力があっても、救えないものは救えませんよ」
「そんなことはないだろう。力と、勇気があれば……彼女だけではない、困っている人を救える……筈だろう……そういうものなんだろう……?」
「こうなってしまったのは何もしなかった彼女が悪いということで、完結しましょうよ……」
「いや、それでは」

 アクセンさんは次々と続けていく。でも次の言葉では出てこなかった。
 いきなり黙るから「なんなんだ、また敵襲か」と驚いてしまう。でも何も無い。
 俯いていた僕は顔を上げると、必死に訴えているアクセンさんの口を……口で止めているブリジットさんが見えた。
 口を口で塞いで止めている。アクセンさんのセットされた髪をぐしゃり乱暴に掴んで、顔を自分に向けさせ、唇を重ねて黙らせていた。
 乱暴なキス。強引な黙らせ方だな、と思っていると、アクセンさんがガクリと膝をついた。
 そのまま動かなくなる……が、気絶ではなくぼうっとし始めた。多分意識を奪う術を使ったんだ。心配になるぐらいアクセンさんの動きが鈍い。目は開いているけど光が無い。大人しくなり、反応はするし起きてはいるけど眠っているように思えた。

「ときわ様。安心してください。黙らせただけですよ」
「え、ええ、そうなんでしょうけど……ブリジットさん……?」
「ブリュッケ、出てこい」

 ふらふらするアクセンさんを抱えながらブリジットさんが一声何か呟くと、いきなり彼の隣に大きな白い狼が現れた。
 この獣はブリジットさんの使い魔、サーヴァントなのか。ブリジットさんはその白い狼に意識が朦朧としているアクセンさんを乗っける。動物を都合良い台座として使っていた。
 アクセンさんを大人しくさせてくれたのには感謝するけど、途端に安心と、どうにも口に言い表せない感情が押し寄せてきた。
 論破する前に強制終了。僕も、生者を大切にする彼の気持ちが判らないでもなかった。でも。

「トキリーン! 迷える魂二つ回収したならぁー、『本部』に連絡しないと怒られるぞぉー。警察と教会には俺から電話しておいたけどぉ、お寺にはトキリンがするべきだと思うんだよねぇ。この依頼の主役はトキリンなんだしぃ」
「……そうでしたね。僕もそう思います」

 死者をどうにかするのが僕達の仕事だった。早めに切り上げてくれたブリジットさんには感謝しなければ。……感謝しなければ、ならない、筈だった。
 モヤモヤして「ありがとう」の一言が言えなかったけど。
 ――そうして僕らは寺に戻る。ブリジットさんがアクセンさんを部屋に連れていくと約束してくれて、彼らと別れて僕は福広さんと二人きりになる。そこで、告白をした。

「トキリン、暗い顔してるねぇ」
「…………。僕、アクセンさんに憧れています」
「へぇ〜? 告白だったらもっと俺に対して優しくあまーいコトを囁いてよぉ。他の男の話はイヤンよぉ?」
「僕はアクセンさんに憧れを抱いているんです。初めて会ったときから、あの人は凄いんだなって思ってました。僕にとって憧れの生活をごく普通にしているとか、礼儀作法が良いとかももちろん。僕は実家を継ぐ為に学業は捨てたけど、彼は自分のやりたい勉強に励んでいる。それも羨ましかった。……何より、僕が気付かなかったことを瞬時に気付いたり、それを口にする勇気を持っている彼に対して、恐ろしいほどの感情を抱いています。そして今日、更にその感情が強くなりました。……あの人は、恐ろしい」
「ふぅん?」

 どうして後先考えないであんな真っ直ぐに突き進むことが出来るのか。あれほど実直に理想を口走ることが出来るのか。
 憧れではあるけど、蔑んでもしまうぐらいの真っ直ぐさだ。でもやっぱり、僕はそれに憧れ、惹かれてしまう。

「僕達は仮にも、人を助ける職業じゃないですか」
「まぁねぇ」
「そんな職業についてるなら、あのような聖人君子であるべきなんでしょう。でも僕はあんな風にはなれない。退魔業をしていないアクセンさんがあんなに理想高く生きているのに、僕は何も抱かないで生きていたのが恥ずかしくなってきました。不可能を可能にするのが力を持つ者なら、それぐらいの理想を掲げて人助けをした方が……」
「ねぇ、トキリン。俺達は人助けする必要なんて無いよねぇ?」

 洋館に向かう二人と別れて、二人で居住区に向かう途中。早くも僕らは意見で分かれてしまいそうになった。

「トキリン、興奮しないで聞いてよぉ。……俺達は『結果的に人を救っている』だけでぇ、『人を救う為に魂を狩っている』んじゃないよねぇ?」
「……何を言いますか。元々、『神を創る』目的は『全知があればいかなる人も救うことが出来るから』という高等な意志があってのことでしょう。それが千年前、『橘川越(たちばなのかわごえ)様』が目指した訓えです。人を救う為に超越的存在を目指す、その基盤を忘れたのですか?」
「えぇ、そうなのぉ? 俺はそんなこと教わってないよぉ。ちゃあーんと教育なんて受けてなかったからかねぇ」

 笑いながら、福広さんはジャケットのポケットに両手を突っ込んでぶるぶる体を揺らした。
 僕はそんな彼を真っ直ぐ見つめる。でも福広さんは見つめ返すことなく、茶化した格好で笑い続けるだけだった。

「きっと良いトコのお坊ちゃんだけ教わってるんだねぇ。我が家の教科書にはそう書いているのかもしれないけれどぉ、そんなのみんな読んでないよぉ。偉い人にやれって言われたから魂を狩ってる。結果的に人を救ってるぅ。人を救う気なんて全然無いぃ。救うとか考えなくていいぃ。そうそうぅ、トキリンは深く過ぎだってぇ」
「……ああ、貴方って人は……」
「俺はぁ、俺達の世界で美味しいご飯を食べるために頑張ればいいって教わってきたよぉ。神様を創れたら評価してやる、そのために死ぬ気で頑張れぇ、それしか教わってなかったさぁ。……多分、トキリンのように必死に勉強していないぃ、なんとなーくで産まれ落とされた連中はみんなその程度しか教わってないよぉ」

 ――それでもみんな、ご飯が食べたいから従うけどねぇ。
 ふわふわ笑っていた福広さんが、鼻で笑った。馬鹿にしたような笑い方だった。
 こんなことを悩んでしまっている僕を馬鹿にしたのか、それとも『上』の教育か、もしくは。

「ねえ、トキリンはさ、『処刑』された子達のことって知ってるのぉ?」
「処刑? なんですかそれ」
「ふふふふふーぅ、やっぱりそういうところは知らされてないんだねぇ。可愛いなぁ、トキリンはぁ」
「むっ。煙に巻かないで何なのか教えてくださいよ」
「知らなくていいよぉ。……表に出ないで首落とされちゃった子達のことなんて、知らなくていいしぃ」

 思いっきり思わせぶりなことを言った。
 そんなの、僕が暗い顔をして「何ですかそれは!?」と言うのを待っているかのようじゃないか。それを狙ってわざと言っているのか。

「人助けの為に生きるべきかなんて考えで悩むのは損よぉ。どうせどんな人間でも人を食っていかないと生きていけないんだからぁ。なんでもかんでも救いたいとか、気の狂ったヒーローしか言わないよぉ」
「アクセンさんは、気が狂ってると」
「俺から見るとそう思うけどね。だって恵さんって人、全然知らないんだからあんなに神経削って助けようとするなんて馬鹿げてるよねぇ! 大勢を救うとか馬鹿のやることだって。俺達は、俺達を救っていればいいんだよぉ。……そういや新座様も似たようなことを言ってたなぁ」
「……新座さんも、ですか?」
「うんうんぅ。あの人は、なんか諦めてもいたけどねぇ。……ほらぁ、トキリン」

 いきなり福広さんは僕の前に立つ。両掌を出してきた。
 僕の両頬を、彼の両掌が包み込む。

「救いたいと思っているなら止めないけどさぁ……悩み苦しんでる人にぃ、人なんて救えないよぉ。救世主っていうのはぁ、眩いばかりの笑顔を持った人って決まってるんだよぉ」
「……それは、どこ知識ですか」
「俺出典! 俺が考えて良い言葉さぁ。つまりぃ、何が言いたいかっていうとぉ」

 顔を近付け、寸前のところで止まる。にんまり、笑う顔が近い。でも吐く息が白いからその表情は掻き消されていった。
 見えなくなった顔で、彼は語る。

「笑ってぇ」



 ――2005年8月1日

 【     /      / Third /      /     】




 /4

 ブリッドはベッドに腰掛けたまま俯いて動かずにいた。それ自体はいつものことだったが、表情は普段のものとは変わっていた。ワタシが知る限り滅多に見ない、ブリッドにとっては非常に珍しい顔をしている。
 ワタシは現界し雪狼としての姿を世に曝していたが、これから部屋に来客が来るとのことなので、不可視に身を変えた。たとえ相手が獣でも、これからやって来る来客の為にもブリッドは一人で部屋に居る方が良い。ワタシなりの気遣いだった。
 ワタシが姿を消してもブリッドは何も言わず、何も反応もしなかった。彼はただただ苦しそうに思い悩む表情を見せつけるだけだった。
 半年前まで一切見せなかった表情。正直、ワタシは感動していた。
 自室に待機しているときのブリッドは大抵、何もしない男だ。表情も何も無い、それが彼にとってのデフォルトだった。
 彼は『仕事』のとき以外はここ、自室に篭ってベッドの上で眠っている。そのときも無表情に眠り、意識があっても何を考えているという訳でもないのに。ここ半年間で、ブリッドは『苦しむ』ということを覚えたらしい。今まで無かった変化に、ワタシは自分のことのように喜んだ。
 思わず(不可視の状態だが)尻尾をぱたぱたさせてしまうところだったが、部屋をノックする音にワタシは気を落ち着かせた。ベッドに腰かけていたブリッドがゆったりと立ち上がり、ノックされたドアの鍵を開けに行く。
 このとき、扉の先に居る人が……デートの待ち合わせ時間にやってきた愛しい人だったら、またブリッドの表情は大きく変わっただろう。
 だがその希望は叶わない。そんな都合の良いことばかり起こらない。
 扉を開けた先に立っているのは、十年以上ブリッドを『お世話している』男性だ。微笑むことを知らぬ威圧感。体格の良く、雄々しい体が部屋に入って来るだけだった。

「なんだその顔は」

 一本松が部屋に入るなり口を開いた。十年以上ブリッドと付き合っている男だ、やはり些細な変化は気付いてしまうらしい。
 しかし言われた本人は自分が変化しているなんて微塵も考えていないせいか、指摘されてビクリと体を震わせるだけ。目の前の男が、一体何に気が障ったのか思い当たらないらしく視線を泳がせる。元から人と目を合わさない性格だったけれど。
 一本松は低く耳の奥まで残るような声で「気色悪い」と呟き、先程までブリッドが座っていた彼のベッドにどっしり腰掛けた。
 掛け声は無くともやや年寄りくさい。年寄りといっても現役の処刑人、若い連中と変わらぬ戦闘能力を持っているまだ働き盛り。ブリッドとは一回り年が違うがまだ若い。
 ごく自然に腰掛けた一本松をブリッドは、意地悪を言われてもめげずに追っていく。

「お前から声を掛けてくるだなんて。半年ぶりだな」

 もうそんなに経つのか。
 一本松が口をいくら開いても、ブリッドは俯いてその声に耳を澄ましているだけだ。けど無表情にはなれず、苦しげに眉を顰める。

「『仕事』としてお前の相手をしているが、お前自身から誘ってくるなんて。……気味が悪い。昨晩は悟司が相手をしてやったと聞いているが? いや、昨晩は違うか。それでも数日も立っていない筈。足りなかったのか」

 高低の無い低い声が部屋中に響き渡る。どんなにブリッドに向けた言葉であっても、ブリッドは俯いたまま何も言わなかった。
 けど、言わないままでいられる訳もない。一本松が言う通り、元はと言えば一本松を呼んだのはブリッドなんだから。長年付き合っている彼を呼んだのは、間違いなく彼なんだから。

「私も暇ではない。さっさと用件を言え」
「…………」
「お前は私に、どうしてほしい? 時間を潰すだけなど無駄なことは勘弁願いたいな」
「…………ぉ……」
「なんだ」

 どんな顔をしてブリッドが口を開くのか楽しみで堪らなかった。どれほど表情が崩れるのか、わくわく待っていた。
 その言葉を聞いたらこの部屋から去ろうかな。それ以上のことは興味無かった。
 苦しそうに、辛そうに口を開こうとしている彼は実に新鮮な表情をしている。そして一度見れば充分なものだ。何度も見たいものではなかった。

「……オレ、を…………滅茶苦茶に、して、ください…………」

 お願いです、と小さく付け加えて、更に俯く。
 ……なんだ、珍しい表情を浮かべていた割には言うことはいつも通りじゃないか。つまらない。そんなの何度も聞いたことがある。
 ワタシは興醒めした。一本松の顔を確認しておく。楽しげにニヤと笑っている征服者の顔をしていた。ブリッドの顎を持ち、乱暴に口づけている。舌を捕食した後、ブリッドを乱暴にベッドへ押し倒していた。
 それもいつもと変わらないものだ。やっぱりつまらなかった。



 ――2005年7月31日

 【     /      / Third /      /     】




 /5

 数時間前の話だ。
 慧がキラキラした目で太陽を見ていた。今日このとき久々に太陽を見ることが出来て嬉しいと言うような顔だった。実際にそう何度も口にしていた。しかしその数分後キラキラしていた表情は一変、怒りに満ちたものになった。慧は忙しい男だった。
 デッキブラシに寄りかかり困った顔をしている松山が、慧の怒りの処理におわれている。激昂し収まる気の無い人の相手なんてしたくないだろうが、放っておけばいいのに松山はお節介にも慧を宥めている。
 そんな世話をさっさと終えて掃除に戻りたいだろうに、松山という男は放っておける性格ではないらしく、一つ一つ言葉を聞き、慧を宥めていく。

「今日で解放されるんじゃなかったんですかっ」
「いや、だから、今日までがお仕事なんだよ」

 さっきからずっとその言葉がループしていた。
 宥める松山に対して慧が更に「31日で解放されると聞いていたんです!」。その慧に向かって松山が「31日の終わりは、23時59分までだ」。
 傍から聞いていると二人とも頭が足りないんじゃないかと思える会話だ。会話とも言えない言い争いだった。
 どうしてワタシがその様子を聞いているかというと、単なる偶然だ。大抵は明るい兄か暗い弟の隣に居るワタシだが、今日はどちらにも呼ばれていなかったので自由に行動していた。そして、ふと通りかかった場所が地下への階段の前だった。折角ここに来たんだから、地下から上がってくる餌が誰なのか確認したくて待っていたら、慧が出てきた。
 慧にとって太陽は数日ぶりのものだったか。同じように地下から上がってくる僧侶達の話を盗み聞いてみると、どうやら二日ぶりだったらしい。なんだ、たった四十八時間だけか。『そんなのじゃ魔物も腹は満たされなかっただろう。ブリッドどころか燈雅の代わりにもならなかったんじゃないか』。
 それでも日の下に生きる人間には四十八時間ぶりの太陽は心地良いものらしく、解放されたという爽快感もあってか、慧の顔はとても良い笑顔だった。他人であるワタシでさえその笑顔を見て嬉しくなるぐらい、彼は解放を嬉しがっていた。
 そして今の激昂に至る。
 地下から解放されたようだが、残念ながら他の用事を一日分しなければならないらしく、「そんなの聞いてない。自分はこれでお役目御免の筈だ」と言ってきかない。
 あまりに子供っぽい言い方に、一体この後どうやって松山が話をつけるのか興味がある。ワタシはその様子をこっそり覗いていた。

「仕事が急に入ることなんていつものことだろ。仕事が長引くこともいつものことじゃないか。慧、お前はそんなに我儘言う子じゃなかったよな? あと一日ぐらいいいじゃないか。もう地下での仕事は終わって別のことなんだし……」
「それでもっ、31日までに終わるって言ってたじゃないですかっ」
「だから31日に終わるんだって……。一人でも仕事を抜けられたら他の人が迷惑するぞ」

 駄々をこねる大きな子供に、更に大きな大人が困った顔をしている。
 松山は熊のように大きい男だ。細身で女顔の優男なんて、大声でもゲンコツ一つでも黙らせることが出来るのに。
 でも松山は他の大人達と違い、言葉で解決しようとしている。その言葉も、使命だ宿命だ運命だという権力を振りかざすようなことはしなかった。
 体格が良いだけで中身は甘っちょろい男。だから慧は折れないでいる。どちらも五分五分の対決に思えた。

「あー……。じゃあ、夜には仕事は終わる。早めに始めれば早めにケリがつく筈だ。だから」
「夜って何時ですか」
「早くて十九時。それでも31日の猶予が五時間あるぞ? 一日が全部潰れてしまう訳ではないよな?」
「……先生は、今、どこに?」
「航(こう)くんなら浅黄様の元に居る。いや、今の時間は照行様の所かな。どっちにしろ仏田の敷地内に居るよ。慧が仕事を終わらせれば十分で駆けつけられる場所に居る。しかも航の予定が終わるのは十八時すぎだ。今すぐ会いに行っても帰されるだけだよ」
「…………」

 ついに慧が仕事をする方で勝負が決まった。
 この場合、どっちが勝利なんだ? 予想外の仕事をすることになってしまった慧が負けたのか? 仕事量を減らしてしまって時間が過ぎたら解放しなければならなくなった松山の敗北か? 引き分けってところか。

「……すみません、松山さん。ごめんなさい……」

 話がつくと、慧は普段の大人しい性格に戻っていた。
 年上に喧嘩腰など慧は恥じることだと判っていたらしく、それでも止められなかった自分を悔い、松山に頭を下げていた。

「いやいや、曖昧にさせた『本部』が悪いんだよ。31日で終わりって伝えたら31日はフリーになれると思うよな? あっはっは、俺だってそう思うから慧は悪くないさ! だけど昼間のうちは手を貸してくれよ。じゃないと人手不足で困っちゃうからなぁ! ……ふう。慧は、先生くんのことになると人が変わるよな」

 松山が、ワタシが思っていたことをそのまま慧に言ってくれる。
 涼しい雰囲気を纏い、端整な顔を崩さないような優男なのに、「31日に彼に会えない」と知った途端、あの激昂。松山が驚くのも無理はなかった。

「だって、愛しい人ですから」

 さらりと慧はそんなことを言って、言われた通りの仕事をし始めた。
 さて。そこまで松山がやらせたがっていた慧の仕事は何だというと、洋館の掃除だった。そんなの慧以外の人間でも出来ることではと思うかもしれない。でも単純な話、時間も人手も足りていない。8月というのはこの家の表の仕事も裏の仕事も大忙しだから。
 来客も多い。出向かなければいけない場所も多い。せめて8月に入る前に清掃をしておかなければ、という声は確かに上がっていた。
 あとは、もっとデリケートでめんどくさい話だが……仏田の敷地内に居る大半は、洋館に入りたがらない者達が多かった。
 仏田一族として寺で生まれた者はともかく、下界から切り離された山の上の寺にわざわざ入門してきた者達は、元の世界から異界に住みたくてやって来たようなもの。洋館は、仏田という世界の中で最も下界に近い位置付けをされる場所だ。寺にやって来た者を招く場、宿泊させる場だからだ。本殿屋敷から最も離れている建物でもある。理由があるから未だに残る建物だが、外と中との境界線の上に建っているような場所ということで自然と忌み嫌われるようになっていた。
 判らんでもないが、理解されなくても仕方ない。洋館に住まわされるというのは、要は「お前は余所者だ」と言っているようなもので。たとえ住まわされていなくてもそこに行けというのは、「余所者と同類だ」と思ってしまう人間が多いらしい。
 そんな意思は『本部』やら上の連中やらも考えちゃいない。来賓客を泊まらせる部屋は必要なんだから。
 だいたい掃除ぐらいで洋館に入っただけで血が汚れるものか。入っただけで穢れるというなら、本家の次期第三位・ときわはどうなるというんだ。……まあ、彼はそれで色々と揉めているようだが。
 慧が選ばれたのは彼が余所者だからという訳ではない。彼は仏田の血を引く立派な一族の一員だ。でも洋館に行けと命じられるのは……多少、穢れた『仕事』もこなせるからと、本当に彼以外に任せられる人間が居なかったからに違いない。
 それだけ8月の到来は慌ただしかった。同じように掃除を命じられた者達はいて、彼らは山の中腹部にある大霊園に向かっている。真夏の太陽の下、あのだだっ広い墓地の草むしりをしている連中もいる。それに比べればまだ慧には温情を見せてくれたのではないか。

 掃除内容を松山から説明された慧は、大きなモップを手に洋館に向かった。掃除と言ってもさっきの松山のようにデッキブラシで辺りをゴシゴシ磨くのではない。絡めて取る掃除用の布を付けた軽いモップで埃を拭くだけの簡単な掃除だった。
 掃除する場所は、現在使われていない洋館の部屋全て。相当な部屋数だ。時間はかかりそうなメニューだった。
 洋館に到着するなり、涼しげな表情のまますぐさま作業に取り掛かった。早く終わらせようという意気込みが感じ取れる。
 ワタシはその姿を暇潰しに眺めていた。不可視の状態だったから慧がワタシに気を取られることなく、じっくり彼を見ることができた。
 廊下は毎日使われている場所、食堂は汚くする訳にはいかない場所、宿泊されている部屋には勝手に入れない。となると、慧が行かなければならない場所は指で数える程度しかなかった。
 一つ目の部屋に入り、さっさと掃除を終えていく。仕事は早かったが、決して雑ではなかった。二つ目の部屋もそれほど汚れていなかったせいであっという間に終わっていった。この調子だったら十九時までかからないとワタシも思ったし、清掃している慧も思ったことだろう。でもババンと開けた三つ目の部屋はそう簡単にはいかなかった。
 何故なら、使われていないと思われた部屋に誰かが居たからだ。

「っ!? ごめんなさ……!」
「ん?」

 その部屋に誰も居ないと思っていた。勢い良くドアを開けてさっさと仕事を始める気でいた。
 だが人が居ることに気付いて、大雑把な仕草に恥じてすぐさま頭を下げる。
 部屋には、赤毛の男が居た。あっとワタシは声を上げてしまう。
 この数ヶ月間、毎週のように見た男……アクセンが居たからだ。
 アクセンは使われていないと思われていた部屋で、窓から差し込む太陽の光だけを頼りに本を読んでいた。何故こんな所でと思ったが、入室した三つ目の部屋を改めて見渡してみれば、本棚が並んでいる部屋ではないか。書庫というには少なすぎるかもしれないが、人の部屋として使うには棚が多すぎるような気もする。
 彼は椅子(別の部屋から持ってきた物か)に腰掛け、読書をしている最中だった。

「すみません、誰か居るとは思わなくって……。あ、が、外人さん……? え、えっと、アイムソーリー!」
「[どういたしまして]」
「あ……? 日本語……あ、あの、すみません」

 普段、ときわは主催する茶会では英語で話し合っている。だけどあの男は[日本語]も嗜んでいる。アクセンは突然の来訪者に流暢な[日本語]で返した。
 流暢だったが、普段のアクセンに比べると少し顔が強張っている。ははあ、これはきっと……英語で話すよりずっと緊張するらしい。読んでいた本を閉じ、慧に向き直った。普段よりずっとゆっくりした発音で[日本語]を口にする。

「[ここを掃除をする、か?]」
「……は、はい。ごめんなさい……」
「[勝手に入ってしまった。申し訳無い]」
「勝手に……。えっと、すみません、ここに入っちゃダメって言われていたんですか?」
「[言われなかった]」
「じゃあ、きっと大丈夫だと思います。貴方が謝ることはないかと。……邪魔してごめんなさい」
「[ああ]」
「だけど、すみません、掃除をしなくちゃいけないので少しの間……出て行ってもらいますか」
「[判った。邪魔をした。出て行こう]」
「ごめんなさい。ありがとうございます」

 アクセンが一冊の本を元の棚に戻す。いくつかの本をすぐそばに置いていた鞄に詰める。
 慧がぺこぺこと頭を下げながらモップに埃取りようの布を巻く。
 さあ仕事を再開……となる筈が、アクセンは一向に部屋から出て行く気配は無かった。

「…………。あの、すみません……?」
「[君]」
「あっ、はい? ごめんなさい、急いでいるので掃除をさせて……」
「[何故、君は謝る?]」

 アクセンは慧の目の前に移動していた。目の前……一メートルぐらい前に居た。
 ずずいと大男が近付いてきたので、細身でいかにもか弱そうな慧は気押され、後ずさりする。すると更にアクセンが慧に寄るという悪循環が発生した。

「え。……その、ごめんなさい、どういう意味で……?」
「[また謝った。どうして君はそんなに謝る?]」
「謝っ……。え?」
「[ごめんなさいを六回。すみませんを四回]」
「……え、えっ?」
「[君は悪くない。私は君を責める理由が無い。ならば胸を張れ。それとも口癖か? そのような悲しい言葉はやめるべきだ。もっと明るく楽しい言葉を口癖にした方が人は喜ぶものだろう]」
「…………」
「[例えば、ありがとう、とか]」

 めんどくせーッ!
 ……おっと、しまった。不可視の状態なのに叫んでしまった。獣の言葉など誰も判る者は居ないから気付かれないけど、失態失態。
 しかし慧もワタシと同じことを思ったらしく、この状況を一体どうしようと固まってしまっている。
 掃除をしに来たから出て行けと言ったのに、目の前で赤毛のデカい男は心の暖かくなる言葉を探し始めていた。「ありがとう以外に良い口癖はないか?」とまた部屋の本を開き始めている。どうしたものかと慧は立ち止まっていた。
 五分後、一方的にアクセンが話を進めていく。ついに話題が新作の映画まで飛んだところで、慧が口を挟んだ。

「すみません……僕に、掃除をさせてください……」

 弱々しく……というかゲンナリした声で、絞り出すかのように。
 するとアクセンは新しい獲物を見つけたような目の光り方をさせる。餌を得た何とやらだった。

「[一人で掃除をしてたのか。一人は辛い。私も手伝うべきだ]」
「いえ、すみません、それは……貴方はこの洋館にお泊りしているお客人でしょう? 手伝わせるなんて……」
「[謝った。口癖はありがとうにすると約束しただろう]」
「してないし!」
「[掃除は二人でやれば二倍のスピードで終わる。一人で作業は寂しいものなのだろう? 今の私は手が空いている。使うがいい]」

 相当めんどくさいことをアクセンは言い放ってきたが、早く仕事を終わらせたいのは慧の本心だった。
 洋館で寝泊まりしているアクセンには洋館を動き回ることに抵抗など無い。同じく抵抗の無い者同士、協力し合うことは可能だった。

「……じゃあ、すみません……手、貸してもらいますか」
「[口癖を直したまえ]」
「う。す、すみ……」
「[口癖]」
「…………。手を貸してくれて、ありがとうございます」

 念願の慧の口からのありがとうを聞けてアクセンは満足したのか、にっこりと笑って慧からモップを奪うのだった。
 奪われた慧は手ぶらになってしまい、どうしたものかとまた固まっていた。
 まずアクセンは鞄を置き、モップと向き合うと、慧に「モップの使い方を教えろ」と言ってきた。次に「どうして一人で掃除をしているのか」尋ねてきた。そして次に「君は誰だ」と……。
 口癖とめんどくさい赤毛と埃と時間と戦うことになってしまった慧は、実に不幸だった。見ていて飽きない不幸さだった。じっくりワタシはその姿を観察していた。

 ――アクセンはよく働く男だった。小柄な慧が届かない場所に手が届いたし、決して頭が悪くはなかった(とは言い切れないから物覚えが悪くないと言った方がいいかもしれない)。一度言ったことを聞き入れ、やれと命じられた清掃作業をぱっぱと手伝っていく。
 慧一人でやるよりも二倍どころか三倍のスピードで事は進んでいく。それぐらい慧は一人だと洋館中の掃除は効率が悪かったし、アクセンの手助けは適切だった。
 その結果に関しては慧も心から感謝しているようで、面倒なことばかり質問してくるアクセンを完全無視することなく、少しずつだが答えるようになっていく。
 慧が諦めたのもあるが、アクセンは相手を自分のペースに持ってくるのが巧かった。引っ込み思案な慧のペースを得てからは、ごく普通に二人は話し合っていた。
 三つ目の部屋だけでなく最後、九つ目の部屋まで掃除し終えたとき、時刻は十七時を過ぎた頃。松山の予定していた時間より二時間も早い。それに松山の言っていた十九時は「早く見積もって」だったから、相当早くに仕事を終わらせたと言える。サボったのでもなく完璧に、慧は仕事を終わらせたのだった。
 部屋を整理しているときも廊下を移動するときも話は止まらず、途中で慧が休憩を入れなければずっと喋っているような一日だった。茶会の彼を半年間見ていたからおしゃべりなのは知っていたが、今日初めて会ったらしい慧は延々と喋りまくるアクセンに圧倒されていた。こんな話について行けるのは、ワタシの知る限り同じぐらい無駄話が好きなときわしかいない。

「すみません、アクセンさん。こんな時間まで付き合わせてしまって」

 そんなこんなで手洗いうがいを済ませたアクセンに、慧は最敬礼をする。慧にとって付いて当然の言葉だったが、

「[口癖]」

 アクセンは面倒にもちゃんと正すのだった。言われて慧は「しまった」という顔をして、口を押さえる。

「[君の口癖は、なかなか直らない]」
「癖は、そう簡単に直るものじゃないから……勘弁してください」
「[『勘弁してください』も謝罪ではないのか。どうして君はそんなに謝るんだ?]」
「だから……これは単なる癖であって。直しなさいっていつも言われてますけどね。ごめんなさい……こんなの駄目だって、先生にも叱られてるのに」
「[先生……。先程から君が口にしている先生という人は、とても大切な人か]」
「ええ、大切です。大好きな人です。……その大好きな人に、何度も叱られているんですよ。駄目ですね。良くなりたいのに。しっかり先生みたいに真似ているつもりでも、駄目なんです……」

 ははっ、と自嘲気味に慧が笑う。
 その寂しい笑顔がアクセンの何かに突いたのか、今までずっと指摘していた口癖を今後注意することはなくなった。慧自身も気にしていることだと判ったらしい。慧が癖を指摘されることで苦しんでいることを学んだアクセンは、出会って数時間後にして成長するのだった。

「[十七時だ。君の言っていた時間より早く終われたな。良いことをした]」
「はい。すみ………………ありがとう」

 すみませんが出そうだったところを今度は慧自身が留まり、感謝の言葉に差し替えた。
 慧も、はにかんだ笑みを浮かべていた。
 アクセンは慧を綺麗になった九つ目の部屋の椅子に座らせる。そして自分は何をするかというと、鞄の中をあさりだす。そこから水筒と甘い香りのする袋を取り出した。飲み物とお菓子をすぐ出せるなんて。女子か。

「[飲むがいい]」
「すみま…………あ、ありがとう」
「[中身は昼に、ときわ殿が淹れてくれた茶だ。好意で頂いてきた]」
「ときわ様がっ?」
「[彼の紅茶好きは知っているな?]」
「……いえ、存じていません」
「[有名ではないのか。ときわ殿は有名人であると聞いていたが]」
「お名前だけならここに居る誰もが知っていると思うけど、話したことはないです」
「[君は彼の親戚ではないのか]」

 そう言いながらアクセンは袋に入れられたクッキーを慧に取らせる。
 目の前に広げられて手に取らない訳にはいかず、慧は出された紅茶と共に、市販のものではないクッキーを食べさせられた。

「確かに親戚です。祖父が兄弟同士ですから」

 慧は口にクッキーを放り込むと、すぐに怪訝そうな顔をした。クッキーが、予想以上に固かったらしい。手作りにはありがちなことだった。
 それでも出してくれた紅茶で中和させれば良い味になると知った慧は、数時間分働いたこともあって空腹だったのでひょいぱくとあっという間にたいらげた。アクセンが一度も手をつけることなく。

「[御祖父様が兄弟と言ったらイトコ、いやハトコか。近い関係なのに話もしないのか。年もそう離れている訳でもないのに]」
「身分が違いますから」
「身分……。君達の家は複雑だな。同じ血族というのに。[ときわ殿にそのあたりを詳しく訊きたいんだが、いつも曖昧にされてしまうんだ。だから私は知らない]」
「あまり話したくないことだから、僕も曖昧にしようかと思います」
「[話してはくれないのか]」
「話したって楽しくない話ですから。……わざわざ嫌な気分にはなりたくないです」

 水筒の紅茶を飲む仕草で、慧は会話の終了を描いた。アクセンも断られては仕方ないと紅茶を口にし、続きを求めないことにした。

「[君はよく洋館に来るのか?]」

 それではと、アクセンは別の話題をすぐさま用意した。慧もアクセンが次の話を用意できる人だと考えて、会話を終わらせた節もあった。

「よくは来ません。けど、他の人よりは来るかもしれません」
「[なら良い。君も茶会に参加してくれ。きっとときわ殿も喜ぶ]」
「茶会、ですか……」
「[ときわ殿と一緒に紅茶を飲みながら話をするだけの茶会だ。話と菓子を持ち寄って、月に何回か集まっている。楽しそうだろう?]」
「いえ、すみませんが……あ、今のはカウントしないでくださいね。その……僕は、そう頻繁に実家に戻って来ることはないので、参加は難しいです」
「[ここの人ではないのか?]」
「一時実家に帰省しているだけで、明日にはもう出て行くつもりです。すみません、茶会の友になれなくて……」
「うむ……。[だがな。今この時間を共に過ごした君は私の友になった。私はいつでも君を招待しよう。気が向いたらどんなときでも声を掛けてくれ。正直に言えば、ときわ殿も喜ぶとさっき言ったが、私が君の話を聞きたいという心が大いにある。時間が空いたときでいい、実家に帰省ついでに会ってくれればいい]」

 堂々とはっきりと、アクセンは友情宣言なんてしている。
 あまりに率直、素直な物言いに悪い気がしないのかクスクスと笑った。良い雰囲気だった。
 和やかなムードが漂っていたが、慧は急にハッと何かに気付いた。

「僕……何も、買ってない……」
「ん?」

 わなわなと慧が震え始める。
 アクセンは何が起こったと尋ねるが、慧の性格が変わるといったらあれしかない。『愛しの人』絡みのことだった。

「僕は何も用意してない! ああ、なんで思いつかなかったんだ! 考えなかったんだ!」
「[慧殿、どうした?]」
「松山さんの馬鹿。みんなの馬鹿。仕事なんて押し付けた『本部』が馬鹿。死ね!」

 物騒な叫びを聞いて、アクセンが固まる。
 いきなりここに居ない人物を非難し始めたんだ、何も知らない他人は戸惑うことしかできない。

「[何がそんなに不満なんだ。予定時間より早く君の仕事は終わったんだろう?]」
「終わりました! でも! ……プレゼントも何も用意してないのにどう記念日を楽しめっていうんですか!」

 記念日? 意味の判らぬ展開に、アクセンだけでなくワタシもハタと立ち止まってしまった。それが何だというんだ。
 アクセンがワタシと全く同じことを彼に尋ねてくれる。

「明日は大事な記念日なんです。先生と、僕の! 初めて会った!」
「ああ」
「なのに何も準備が出来てない! 時間があれば用意できたのに!」
「ああ」
「掃除なんて誰にでも出来ることを押し付けた『本部』死ね!」
「…………。[慧殿、落ち着くべきじゃないか]」

 大声を上げるだけならまだしも、一つ一つの雄たけびを上げるたびにだんだんと壁を叩いている。そのたびにアクセンが跳ね上がっていた。
 大の大人が恐れ慄いてしまうぐらい、慧の叫びは攻撃的だ。死ねという一言が、先程まで謝りまくりの静かな青年の姿を一変させている。情が絡むと人格が入れ替わってしまう彼らしい。
 慧は、目に見えて判る多重人格者だった。

「[贈り物は何だって良い物ではないか]」
「でも、ここには何も無い。こんな山に何があると言うんです。先生が喜んでくれる物なんて何も無い。ああ、だからこんな家戻りたくなかったんだ……!」
「[気持ちがこもっている物を貰う、人はそれで喜ぶのだろう? 愛しい人からプレゼントを受けたらどんな物でも嬉しいと思う、そうだろう? 今日明日必ず贈り物をしなければ愛しい人に嫌われるのか? あげたからといって好かれるのか? 違うだろう?]」
「ううう」
「[明後日だってその次の日だって、好きだという気持ちを込めて贈れば相手は判ってくれるだろう? だから今日、何も贈り物自体にこだわる必要なんて無い。義務ではないのなら尚更だ。こだわりすぎて楽しむことを忘れてしまっては、記念日の本来の目的に反するのではないか]」
「でも……でも。大事な日なんです……大事なんです……喜んで……ほしいんです……」
「[そんなに、か?]」
「だって、好きなんですよ……好きな人にですよ……好きな人との思い出の日に何もしてあげられないなんて……先生はどう想う……蔑ろ……どうでもいい……そんなこと僕は一切考えてないのに……!」
「[慧殿、もう一度同じことを言おう。君が先生とやらを想っているのなら、誰かに殺意を向けるなんてやめて、先生に申し訳ないと素直に言えばいいだろう。用意ができなかった、でもこんなに用意したいと思っているんだ、事実なんだ、と。そこまで言えば納得してくれるのではないか? 君がこんなにも情に厚い人間だってことも理解してくれる]」
「ううううう」
「[不安そうな顔をするな、どうすればさっきみたいな顔に戻る。……人の絆がそう簡単に無くなってしまう訳ないだろう? プレゼント一つで繋がるものでもないし、壊れるものでもない。愛用の品、手作りの料理、君は君の表現で愛を伝えればいいだけのこと、そうだろう?]」
「…………」

 慧は項垂れる。アクセンは普段通りの実直なポーカーフェイスのまま、慧を宥めていた。
 誠実な物言いに、興奮していた彼は落ち着きを取り戻していく。

「……アクセンさん、すみません……ごめんなさい」
「[こら、口癖]」
「これは癖ではありません。言いたいから言うんです。言うべきだから言うんです。……ごめんなさい、ありがとう……アクセンさん。優しい言葉を、ありがとう……どれも身に染みます」
「[私は『人の言葉』を借りているだけだ。君が心配だからと言ったが、正直あまりよく考えて話していない]」
「……はい?」
「[だが目の前で人が苦しんでいる。そしたら心配する。『そういうもの』だ。悲しんでいる人間は笑うべきだ。笑った方が良い、だろう? そうだ、笑顔はどんな人にでも向けるべきだ。愛しい人の前では勿論、私の隣に居る間も笑ってくれるといい]」

 しっかりと、はっきりと。アクセンは慧の目を見ながらそんなことを口走っていく。
 愛しい人が居る慧も、そんな真っ直ぐな目と言葉に赤面をせずにはいられなかったらしい。
 つい数時間前に出会った人だったが、悪い人ではないと慧は思っているようだ。取り乱したときにこんなに真剣に支えようとしてくれるなんて。好意を抱いている顔だった。
 ついつい恥ずかしくなって慧は口元を隠した。変な顔になってしまう自覚があったからだ。口元を手で隠す。そしてチョコが指に付いていたのでペロリと舐めた。

 ………………チョコを、舐めた?

 慧は、また固まる。
 表情の変化に「今度はどうした」とアクセンが慧の顔を覗き込む。石化したように慧は動かなかったからだ。
 暫く動かず、思考をした後……慧はゆっくり、目の前の赤毛を見た。

「これは……何ですか」
「[クッキーだ。どうした?]」
「その……その、貴方がさっき出したクッキー……手作りのクッキーですよ。これ、何ですか」
「[君の言う通り『手作りのクッキー』だ]」
「貴方が、作ったんですか?」
「[今朝貰ったものだよ]」
「どうして、貰ったんですか」
「[『私の為に作った』と言っていた]」
「……クッキーをくれた……作ってくれた人は、仲良かったんですか」
「[毎度茶会で話をする。仲が良い、だろう?]」
「貴方は、これを食べましたか」
「[いいや、君が全部食べた]」
「…………。どうして、食べなかったんですか」
「[君がお腹を空かせていたからだ]」
「でも、その人……貴方に贈ったのに、……『貴方の為に』って言ったんでしょう……?」
「[ああ、言ったな]」
「なのに、どうして食べなかったんですか」
「[悲しむ君が食べるべきだ。空腹時は正常な判断が出来ないもの、なのだろう? 『だってここには私達だけしかいない。一番優先されるべき存在は君だ。』 君が疲れていたから私は労った。君が混乱したから私が宥めた。それと同じように、空腹な君が居たら食べ物を持っていた私は提供すべき、だろう?]」
「でも、あれ……贈り物じゃないですか! 大事な贈り物だったんじゃないんですか?」
「[声が大きい、落ち着きたまえ。……私は『取り乱した君のことを心配しただけ』だよ。そして『ここにはクッキーをくれた人が居ないんだから、君の方が大事だ』]」

 くっきりと、きっぱりと。
 アクセンは慧への視線を一切外すことなく言い切った。言い切ってしまった。
 慧は彼の真っ直ぐすぎる目に耐えきれず逸らしてしまう。逸らしながら、「それはおかしい」と非難した。

「僕は、今日貴方に初めて会ったんですよ……まだ出会って二時間程度じゃないですか」

 まず事実の確認に努めていた。「そうだな」と相手は頷く。

「その、クッキーをくれたという人も……僕と同じぐらいの関係しかなかったんですか? ですよね?」
「[4月から共に過ごしている。けど、時間で仲の良さは計れない、だろう?]」
「…………え?」
「[数ヶ月前に出会った彼も、二時間前に出会った君も、『どちらも私の隣に居る愛しい誰か』だ。その愛しい人を気遣うのは当然で、実際に隣に居る君に優しい言葉を掛けるのも当然のこと]」

 すらすらと言葉を垂れ流す。

「[今、愛しいのは君だから、君の空腹を満たしてやりたかった。その行為は正解ではないのか?]」

 『取り乱した君のことを心配しただけ』。
 取り乱したことにも何も感じず、取り乱した慧の心にも何も感じず、心配という言葉で装飾した反応を示しただけ。
 その後もずっとアクセンの言葉が流れていくのではと思ったが、慧がキッと目つきを変えた。
 性格が入れ替わる瞬間を垣間見た。

「今の! ちょっとそれは! 『隣に居るから優しい言葉を掛ける』って!」
「[いけないことか?]」
「言葉通りの意味ですよね!? 別に……『隣に居なかったら優しい言葉を掛けない』なんてことはないですよね! さっきの貴方の話を聞くと、そういう風にも聞き取れてしまいますよ!」
「[どうして]」
「『この場に居るから僕の方が大事』っていう言い方がそう聞こえさせるんですよ! クッキーをくれた人は貴方を想ってくれたんでしょう、それを蔑ろにして僕にあげているというところで、そう疑ってしまうんですよ!」
「……慧殿? その声は、怒っているのか。気に障るようなことを私は言ってしまったんだな。すまない。[喜んでもらうためにクッキーと茶をやったんだが、失敗した]」

 慧の怒りには直接触れず、アクセンは頭を下げて彼に謝る。
 その姿は『あくまで隣に居る慧を窘めただけ』と同じ。
 『隣に居るからクッキーを渡して』、『隣に居なかったからクッキーを食べなかった』。……そういう風に見えた。

「[慧殿、落ち着いてくれ。そんな顔をしていては悲しむ人がいるだろう? 誰でも人は笑っていた方がいいものだ。だから]」

 ……誰でも?

「[そう、誰でも。怒ったり泣いているよりも、笑っている方がいいとしているだろう]」

 ……本当に、誰でも?

「[ああ。全ての人が平等に幸せで笑っていればいい。それは素晴らしくこれ以上の幸福はないと言う。だからしたことなのに、ふむ、何故私は君を怒らせてしまったんだ?]」
「そ、それって……誰にでも優しくして、『友達だ』って言っているように聞こえます……!」
「[事実そうだが?]」

 ――私は誰にでも優しいよ。誰にでも優しくするよ。怒りや悲しみを感じても優しくしていくべきなんだ。出会った人間全てが友人で、愛しい人だから――。
 男は大変素晴らしい狂ったことを口にしていた。自分は間違いなんかじゃないと言いながら。

 ワタシは笑いが止まらずその場を去った。
 不可視の状態だしいくら笑っても彼らに声が聞こえることはない。それでもおかしくておかしくて、その場を逃げるように去った。
 部屋を出て、廊下を歩くこと数百歩。『何かから逃げるように自室に飛び込んで行く』ブリッドを見かけた。自室に入ってバタンとドアを閉め鍵を掛けるブリッド。ワタシはすりぬけの式で何事も無く彼の部屋に入り込んだ。
 部屋に入るなり、ブリッドは蹲っていた。ああ、おかしい。おかしいったらおかしい。
 聞こえたか、ブリッド。聞こえていたよな、ブリッド? 『ワタシを介して彼の声が』。
 ワタシは神の創造物ではない。人により生まれた特別な何かだ。雪狼の姿を取っているだけで生き物ではない。契約状態である双子の兄弟と繋がり、薄弱だがこの世に繋がっている何かだ。
 ワタシと双子の兄弟は常に意識が繋がっている。自由にその『線』はオンオフが可能で、ワタシの声を直接双子の脳に、双子の声をワタシの脳に伝えることだってできる。なら、ワタシが心の中で『音読したもの』はスイッチ一つで……。
 ――聞きたくなかった。ブリッドは、そんな顔をして頭を抱えていた。
 ワタシは聞かせたくてブリッドにあの言葉を伝えた。もう一度ある言葉を繰り返す。『私は誰にでも優しいよ誰にでも優しくするよ怒りや悲しみを感じても優しくしていくよ出会った人間全て友人で愛しい人だから』。
 するとブリッドが、珍しく、声を荒げた。その目には涙さえ浮かべている。さっきの慧のように動転していた。

『やっぱり慧とブリッドは似ているな。燈雅もか。だから選ばれたのか……ああ、本部の選択は間違っていなかったということか』

 構わずワタシが独り言を呟くと、またブリッドは沈痛な面持ちのまま、床に座り込んでしまう。
 力無くその場で座り込んで、涙を飲んだ。

『ブリッド。そろそろお前も知るべきだと思ってね。アクセンという男の本性を』

 座るブリッドの隣にワタシもぺたんと腰を下ろす。
 ワタシがお座りをしてみると、視線が同じ高さだった。とても話しやすかった。

『お前にだけ特別なことを言ってくれると思ったか? お前にだけ優しい言葉を囁いてくれていると思ったか? まさか。あの男は、誰にでも言っているよ。君は素晴らしい、君は大切な友人だ、君が愛しい、と。ときわにも言っている、お前が知らないだけでワタシは幾度もあの男が多くの者達と語らっているところを見てきた。なのにお前ときたら』

 ブリッドが自分の耳を押さえる。ワタシの言葉など聞きたくないという行動だったが、直接脳に声を叩き付けることができるワタシには意味の無いことだった。
 そうだ、ブリッドは昔から物覚えも理解力も良くなかった。一度言われても身になるまで時間を掛けなければいけなかった。

『大切な友人だとか親しい仲だとか、彼にとってはどうでもいいことで一喜一憂して、舞い上がって。滑稽も滑稽だった。いいかげん教えてやらんとお前一人で勘違いしてしまうんじゃないかと思ってね。可哀想だったよ。だからワタシは……ああ、予想以上のショックを受けているな。今日教えてあげられて良かったよ、まったく』
「……でも……」

 でも? 何かを言い掛けて、ブリッドは口を噤む。
 一体何だと先を求めてやって数分経ってから、彼は続きを話した。

「でも……あ、あの人は……オレの……作った物が、食べたい、と……言ってくれた…………だ、だから」
『ブリッドが料理した物を食べたい? そんなの、その場の嘘だ』
「…………」
『いや、その場の本当か。あの男の場合、本当か。お前の機嫌を良くするために使った本当の言葉だな。そして彼はときわの料理が食べたいと言う、慧の料理が食べたいと言う、通行人Aの料理が食べたいと言う。そういう人なんだよ』

 その中の一つがブリッドだっただけで、慧に食べさせようと取り出した一つがブリッドの物だっただけで。
 ……彼にとっては、多くの中の一だった。
 でも、ブリッドにとって彼はまぎれもなく一の中の一だった。それは数ヶ月間見てきたから判る。この屋敷では『仕事』以外でブリッドに話しかけるような人間はいない。一切いなかった。ブリッドのいるようなところに自ら飛び込んでくる人間なんかいなかった。『そりゃそうだ、見ただけで吐き気がするような男に誰が好き好んで近寄るものか』。
 彼に出会い、茶会なんてものに参加し、表情が崩れ始め、昨日「何かを作りたい」とときわに言い出したときには、これはなんとかしなくてはと思った。
 淡々と物事をこなしていた筈のブリッドが壊れ始めている。滅多に見せないような表情を見せ、ついにはまずしなかった料理をし始めるなんて。
 放っておいたら次は何をし始めたか? ああ、恐ろしい、面白おかしい……。でもこれで、なんとかその崩壊への道も留まってくれたようだった。
 涙を浮かべ呼吸を整えているブリッドだったが、暫くすると元通りになっていた。
 半年前の元通り、誰かに何か指摘されない限り動かない顔つきに。
 俯いて、どこかを見つめた後、立ち上がって自分のベッドに腰掛けた。そしてまたどこか、どことも言えない場所を呆然と見つめ続ける。

「…………オレ……」
『うん』

 風が吹いたら消え去りそうな小さな声で、呟く。

「…………最近……あの人のこと、ばかり……考えていて……」
『うん』
「次、出会ったら何を訊かれるだろう……何て答えればいいだろう……考えるようになって…………」
『うん』
「……大切な友……。そう言ってくれた、あの日から…………何か、したいと、思ってたんだ……」
『それが今日だった?』
「…………。それだけなんだ……。別に、お礼が欲しいとか……もっとオレのことを見てほしいとか……そんなおこがましいこと、考えてない……つもりだった。でも、……ブリュッケの言葉を聞いて、改めて考えてみたら…………オレ、自分で思った以上に、……オレのことを見てほしいって思っていた、らしい……」
『それが危険だと思って声を聞かせたんだ。情の比率が合わない現象は、悲劇が起きやすいから』

 ごろんとブリッドがベッドに倒れる。
 呆然と宙を見上げるその顔は……無表情に戻ったと思ったが、苦しみに耐える悲痛なものに変わっていた。

「…………好きになったのは……間違いだったな…………」
『ああ』
「……そっか、勘違いしたの……オレだけなんだ……う…………く……」

 ――『またオレは』、幸福で勘違いをしてしまったみたいだ――。

 戻ってきたと思ったのは一瞬だけで、ブリッドの崩壊は止まらなかった。
 崩壊。崩壊。予防線を引いたつもりだが瓦解は進行し続ける。ぼろぼろとブリッドは壊れていく。
 修復するすべは何だ。暫し壊れ続けるブリッドの嗚咽を聞きながらワタシは考えたが、すぐに飽きたので違うことを考えるようになった。



 ――2005年8月1日

 【     /      / Third /      /     】




 /6

 鍵の空いた部屋に入って来た悟司が、顔を歪める。
 ワタシは部屋の隅っこで丸くなって眠っていた。だが悟司の持ってきたスーツケースが凄まじい匂いを発していたため、目を覚まさずにはいられなかった。人より嗅覚が優れているから一気に眠気がどっかに行ってしまう。ワタシ以外の全員が鼻を抑えていない現状が憎たらしかった。くそ、肉球の付いた手じゃ鼻を抑えることなんて出来んのにっ。

「……これはこれは、一本松様。『それ』はまだ生きていますか。流石にそれ以上はやり過ぎなのでは」
「その為にお前達を呼んだ」

 ベッドに座る一本松が煙草を押し潰す。ちょうど一服し終えたときに悟司がやって来たから、どちらのナイスタイミングと言える。
 煙草の灰を押し潰したと言ったが、その場所は灰皿ではなく、ブリッドの腕にだ。衣服を身につけず、ベッドの上でぎゅうぎゅうに縛られて、いつものように目を隠されて、上と下どちらの口からも精液を吐き出している彼はろくな動きをしない。だがまだ痛覚が生きているらしく、煙草を押し付けられて縛られた体がビクッと反応した。
 ワタシが寝ている一時間、相当可愛がられていたようだった。

「誰かが見ていないと、私は……こいつを殺めてしまうかもしれないからな。貴重な『魔物の餌』を殺してしまったら狭山様に叱られてしまう」
「俺は見張りだけで宜しいのですか? とりあえず薬は一式持ってきました。芽衣が発明した新作を使ってくれと言われたのですが」

 スーツケースを開けると、そこには注射器が数本。粉と混ぜる器具が数本入っている。
 どれにしましょうと静かに笑う悟司に、先程まで遊びまくっていた一本松が一言。

「滅茶苦茶になるようなモノはあるか」
「メチャクチャ? アバウトなオーダーですね」

 ブリッドの注文をそのまま口にしてくれるのだった。なんと心優しいことか。

「濃度が普段より1.3倍のものがあります」
「それ以上のものは?」
「1.8。これはまだ未使用です。鼠にも使ってません。芽衣いわく調合仕立てホヤホヤらしいのでどのような症状になるかはまだわからないとか。1.3のものなら俺が先日試していますから安全だと言えますよ。貴方の息子が身を張ってくれてました」
「…………慧がか。そう、か」
「ともあれ使ってみましょうか。滅茶苦茶も滅茶苦茶、ぶっ飛んでくれるものだと思います。視界が飛び発狂するほどの快楽、鼻水垂らして悦ぶことでしょう。……まあ、こいつにはピッタリです」

 こいつ、と転がるブリッドの体を見て、悟司は投薬の準備をし始める。ぐしゃぐしゃに縛られていた拘束を解き、注射がしやすいように腕を出す。
 精液だけでなく血液も至るところに飛んでいる悲惨な状態だったが、悲惨の度が一定以上越してしまったせいか、抵抗は一切無かった。

「悟司。お前も可愛がれ」
「一本松様を止めるために呼ばれたのでは?」
「私も年だ、そう何発も出来るもんじゃない。あと出来ると言ったら殴るぐらいだが、五分で飽きた。本格的に私も年だな」
「御謙遜を。……しかし、通常の1.8倍のトリップもどれほどのものか興味がある。お言葉に甘えて楽しませて頂きましょう」

 注射が皮膚の上を滑らせる前に、悟司は優しくブリッドの頭を撫でていた。目隠しされていたブリッドはどこに誰が居るか判っているのか。そもそも声も聞こえているのか。一言も話さなくなった今では判らない。
 そしてこれから更に判らなくなる。薬を入れられ、体をビクつかせ、嬌声を上げ始めたらもう判るものなど何一つ無い。
 大人しかった体が急に荒い息を吐き始める。涎を垂らして強請るような言葉を口にし始める。それを聞いて、悟司は自分のベルトを外し始めた。
 どんな行為であれ、無駄なことを考えて悲しむブリッドの「滅茶苦茶になって彼のことを忘れたい」という本望の末にあるもの。黙って暖かく見守るしかなかった。



 ――2005年12月1日

 【 First /      /     /      /     】



 /7

 竹と竹がぶつかり合う音が引切り無しに響いている。みんな大声を出して威嚇して、自分の強さを競っている。この剣道場は、自分が生まれる前からあるものだ。
 あまりに蒸し暑くて汗が流れていた。剣道着を剥いで、タンクトップ一枚だけになっても全然寒くない。それぐらいにここは異空間だった。
 道場から離れて、ひとり、腰掛けた。あちらの方では、まだ休憩にならない生徒達がバシバシと剣を鳴らしている。その音はいつものことながら、少し耳に痛かった。
 生徒の数も多いから、バシバシという竹の音は途切れることがない。
 自分の家なのに、その音は気に障った。嫌いって言うほどではないけど、特に剣道が好きだという訳でもなかった。
 さっきまで道着を着て、人と相手をしていた。けど、自分は剣にそれほど執着は無かった。そう言うと剣の中に生きる男性達に失礼かもしれない。でも、ただ言われるがまま始めた身は、こうやって一人のんびりしている時間の方が心地良かった。
 嫌いじゃないけど、好きではない。その程度の話。きっとしなくなったら寂しくなる程度。
 今はこうして素肌に風を感じている時間の方が好きだ。だから、体中を覆う鎧は好きではなかった。
 嫌いならばイヤだと言ってやめさせてもらえばいいけど、それはなんだか面倒くさかった。このバシバシうるさい道場が生活の中から無くなったら、自分の生活自体が半分消えてしまうからだ。

「休憩時間かい?」

 竹と風の音を聞いている最中。知らない声がして振り返った。
 その声に全く聞き覚えは無い。振り返った先にいたのは、知らない人だ。
 異様な格好をしている。着物の男性だ。普段見るような剣道着やお祭りに着る浴衣ではなく、とても高価そうな着物を着ていた。

「剣道をしていたのかい?」

 知らない人だけど、とても暖かい声だった。
 年は三十代ぐらいの大人の男性。だけど、剣道場にいる先生達とは違う、とても線の細い男の人だった。
 髪は長めで、とても目は優しそう、穏やかに微笑んでくる。綺麗でドキリとしてしまうぐらい端正な顔つきだ。
 知らない人だったけど、こんな優しそうな人は不審者とは思えなかった。きっと道場のお客さんなんだろうとぼんやりと思い、男性の言葉に頷き、言葉を繋がせる。

「剣道場は好きかい?」

 男性は似たような声色で、再度質問をしてきた。
 今度は首を振る。先程思った通り、「剣道はしているだけでさほど好きではない」と明言した。

「ご家族は好きかい?」

 続けて質問してくる男性。それに関しては、……特に何も答えなかった。
 と言っても……父とは父として付き合っている。道場を開く家族を嫌ってはいない。友達付き合いにも何ら支障は無い。無いけれど……深い感情は抱いていなかった家族はどうだと尋ねてくる男性を、この時は流石におかしいなと思った。
 なんでこんなコト訊いてくるんだろ、と。
 答えが聞けなくても男性は笑ったままだ。こちらの答えを聞くことには男性は興味が無いらしい。どちらかというと、この場で二人、会話をすることに意味があるようだった。

「この家は好きかい?」

 着物の男性は尋ねながら、近付いてくる。
 近くに来る男性は、思った以上に不思議な人だった。
 見たことがないぐらい高そうで綺麗な着物。テレビで見る俳優さんやモデルさんよりずっと綺麗で神秘的な男性。身につけているのが和風だからおかしいかもしれないが、突如現れた男性は『白馬の王子様』のようだ。
 それだとちょっと年を取りすぎてるかもしれないけど。お着物を着て、バックミュージックが竹刀の音だなんて、ちっともお伽噺と同じだなんて言えない。

「別の家は好きかい?」

 胴衣を脱いで汗ばんだ体の隣に、腰掛ける和服の男性。見ているだけで安心してくる温和な目を追う。決して危害を加えてはこないような、争いを知らないような瞳だった。
 ……そう思ったけど、違った。

「この家は離れるのはイヤかい?」

 口調が若干強めになる。
 気のせいかもしれなかったが、今尋ねた言葉は……鬼気迫ったようなものに感じた。

「ご家族と離れるのはイヤかい?」

 ――本当に、何故こんなことを、この男性は訊いてくる。
 見知らぬ誰かが見知らぬ相手に家のことなんて訊いてくるのか。何か意味があって訊いているのか。だとしたら、何を知りたくてずっと質問をしているんだ。

「元のお家に戻る気はないかい?」

 男性は不思議なことを言う。物腰柔らかくて妖精のように惑わす優しい声の男性は、不思議な質問ばかりを繰り出す。
 怪しさは抱かなかった。何故か抱けなかった。知らない人が何度も話しかけてくるんだから逃げることも出来た筈だ。
 でも、逃げられなかった。
 逃げたくなかった。優しい声だから安心したと思ったが、そうじゃない。
 ……この声はとても意味のある声で。語り掛ける言葉は確かめの言葉で。
 これは、ああ、あれだ。目覚めを待つ言葉。
 男性はあたしの手を握った。

「――アンタ、何をしてるんだ!」

 そのとき、あたしの父が男性とあたしを切り裂く。
 父が前に立ち、いつになく真剣な兄達や仲の良い男友達があたしを抱えて後ろに下がる。
 着物の男性を敵視していた。男性を睨みつけてすらいる。そりゃそうだろう、娘の手を取った素性の知れぬ男だ。大人が不審者と思ってもおかしくない。
 何もされなかったかとしつこく兄が尋ねてくる。その声があまりに激しくて、他の生徒達もなんだなんだとこちらを覗き込んで来た。せっかく抜け出していた休憩時間が視線達に襲われる。
 散々なものになっていく。一体、何を焦って……。

「もう来るなと言っているだろう――!」

 父が、叫んだ。
 口ぶりからして、和服の男性と顔見知り……尚且つ、『敵』と認識していることを知った。
 思いっきり睨まれて、男性は一礼。去っていく。
 あっちに歩いていってしまう……。その先で、黒くて大きな車を見かけた。噂に聞くリムジンというやつか。初めてあんな巨体を街中で乗り回しているのを見た。
 着物の男性は、車に乗り込む前にこちらを見た。友人は見せまいと腕で覆おうとするが、構わず身を乗り出す。そして、双子の兄達や目立つ格好の父が止めるのを聞かずにリムジンのところまで走った。道場の庭からリムジンが停めてある場所まで数メートルだった。

 ……なのに、体は何故か息切れをしていた。

 おかしい。剣道だって褒められる腕前だというのに。たった数メートル走っただけで息切れを起こすもの?
 そう思ったけど、「それよりも」と車に近付いた。車窓は開き、先程の男性が顔を出す。

「燈雅様、お時間がそろそろ……」
「もうちょっとだけ待ってくれないか、男衾」

 王子様みたいな彼は、ちょっと困った風に笑っていた。父に激しく怒鳴られて少し参っているようだ。

「また会いに来る」

 それでも綺麗な男性は優しく、怖がらせないように、そう言った。
 あたしは頷いていた。
 ……息切れは、簡単に治まらなかった。




END

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