■ 外伝04 / 「暗躍」

カードワース・シナリオ名『腐敗した花園』/制作者:しろうさぎ様
元はカードワースのリプレイ小説です。著作権はカードワース本体はGroupASK様、シナリオはその作者さんにあります。あくまで参考に、元にしたというものなので、シナリオ原文のままのところなどもあります。作者様方の著作権を侵害するような意図はありません。




 ――2005年9月2日

 【    /      / Third /       /     】




 /1

 生まれて初めての恋は、想像していたよりも辛いものだった。

 巷で流れる人気のポップスが当然のように愛を語っていて、「いつか自分も歌のような恋愛をするんだ」と思い続けて早、成人。いつになったら嫁を連れてくるの、なんて笑って言ってた両親が死んだ年になっても、自分に恋愛感情が芽生えることはなかった。
 自分は社交的な性格じゃなかったし、仕事も人並みしかできない。そんな自分を好いてくれる人間がいるなんて思えなくなっていた。
 同僚が次々と結婚していく中でも、自分は恋愛に興味は持てずにいる。そんなことより仕事を頑張っていこうとか、明日はもっと美味しい物を食べよう、失敗しても挫けず生きていこうと思えば、自分の人生を悲観することなんてなかった。

 いつしか同期の中で自分だけが独身となっていた。
 見かねた知り合いが飲み会に誘って何人かいいひとを引き合わせてくれたが、そんな用意された出会いに胸が躍ることはない。
 幼い頃に「甘酸っぱい恋愛をするんだ」と高い目標を作ってしまったからか。ごく普通に出会う人々には、全く興味が持てない自分がいた。
 その日の飲み会も誰一人興味が持てず、作り笑顔で「一人身はラクだから」と居酒屋を出た。同僚が連れてくる女達は、早く養い手が欲しくて婚活に励んでいる奴ららしく、それなりに収入のある男に媚びを売ってくる。きっと結婚したら本性を出すんだ。それが判りきっていると「どんな人間も金が大事の汚い生き物なんだ」と思えて、馬鹿馬鹿しくて、うんざりだった。
 不況が続く中、そう思う女性がいてもおかしくない。でも自分は、純粋な好意だけで付き合える恋愛にひどく憧れていた。子供みたいに夢見ていた。
 苛々半分、悲しさ半分。馬鹿馬鹿しいのは女達ではなく、子供じみた自分。負の感情を抱いてトボトボ歩いていると、コンビニの近くでおにぎりを食べている小さな影と出会った。
 その子は、自分と同じ、苛々半分、悲しさ半分の顔をしていた。
 若干悲しさの方が強いのか、目は涙が溢れている。涙を溢さないようにしながら必死にコンビニのおにぎりを食べている姿は、異様だった。

 何があったんだい……なんていきなり声を掛けることなんて出来ない。
 見知らぬ顔に声を掛けて不審者と思われるがオチだ。でもその異様な光景が目について離れず、つい数秒、泣きそうな顔を見つめてしまった。見つめていれば当然、悲しさに満たされた顔がこちらに気付いてしまう。そうして目が遭ってしまった。
 次の瞬間、悲しがっていた顔がプッと吹き出した。なんといきなり笑い始めたではないか。笑ったときにご飯粒が変なところに入ってしまったらしく、次の瞬間にはゲホゲホと咽込んだ。悲しさとは違う涙を滲ませながら笑って咳き込む姿には、声を掛けずにはいられなかった。「大丈夫かい?」と背中を撫でてやる。
 撫でたことに「ありがとう」と咳き込みながら礼を言って、「でもその顔」と笑いながら何かを訴えてくる。「頬っぺたに、尋常じゃないぐらいご飯が付いてる」と言われて、自分の顔に手を付けてみると、頬に一粒や二粒じゃ足りないぐらいべったりくっ付いていることに気付いた。
 ああ、きっとこれは……早く飲み会から退場したくてデカい炒飯皿を掻き込んだときに付いたんだ。そのまま出てきたから鏡を見る暇も無かった。そもそも鏡で自分の外見を磨くなんてこと、学生時代からしてなかった。
 そんな些細な事だというのに、この子は涙を流して笑って咳き込んで、表情を目まぐるしく変化させている。
 ころころと変わる感情を、荒んだ心は羨ましく思えた。そして初めて会った人間なのに「何があったの?」「どうしてお米を気付かなかったの?」と尋ねてくるではないか。
 笑顔が……可愛い。他人に対して初めてそう思った。

 そのときはそれが恋だなんて気付かなかった。
 顔にご飯粒をくっ付けていたことに笑われただけの夜。その程度にしか思ってなかった。
 けど翌日。偶然同じ時間帯に仕事が終わってコンビニの前を通って帰ったら、同じようにおにぎりを頬張っている姿を見かけた。
 「あ、昨日のご飯粒の人」とその子に声を掛けられて、立ち止まって話をした。
 そんな日が何日も続いた。
 一度キッカケが作れてしまえば話はいくらでも続く。自分は社交的ではなかったけど、人間関係が悪かった試しは無い。そもそも他人との交流に悩んだことはなかったから、話が一つ進めば十も二十も話が弾んだ。
 どうして外でコンビニのおにぎりを食べてるのか尋ねたら、「ここでご飯を買って食べるしかないんだ」と悲しい家庭事情を教えてくれた。
 可哀想な子だと思ううちに、最初に生じた「可愛い」が、みるみるうちに「愛おしい」に変わっていった。

 間違い無くこれは人を想う気持ち。恋だった。
 自分の好みは、髪が長く、豊満なボディで子宝に恵まれそうな女性と決めつけていたから、突然出会ったその存在は衝撃的だった。
 全然タイプじゃない。でも、話せば話すほど距離は近くなり、どんどん恋しくなっていった。
 愛おしさに変わるにつれて、どんどん心は辛くなっていった。

 あっ、これがポップスが言っていた「恋が辛い」の現象なのか。いや、恋をしたから切ないんじゃない。
 子供がいてもおかしくない年齢になったというのに、親に食事を恵んでもらっている年の子供を好きになってしまったことが辛いんだ。

 十以上も年が離れていると、周りから何と言われるか目に見えている。だから誰にも相談も出来ない。
 でも自分の中には、ころころ表情の変わる屈託の無い笑顔が体中に満ちている。いつもあの子のことを考える日々。間違いなく恋だ。周囲に言えない悲しい恋だった。自分の周囲の問題じゃない、相手のことも考えると身を引くのが一番な恋だった。
 でも、以前仕事場で手に入れたキラキラしたものをプレゼントしたら「ずっといっしょにいたい!」なんて優しい笑顔で言われて、「喜んで!」と受け入れてしまいそうになる自分がいた。子供の何気ない一言に喜んでいる自分が悲しかった。けど、幸せも感じていた。

 その幸せがどうやら顔からもれていたらしく、同僚や周囲の女達に「前よりずっと表情が豊かになった」と喜ばれた。
 自分が恋をしていることを、まるで自分のことのように周囲の人達は笑ってくれた。
 自分が幸せになることが、他人を幸せに出来る? そんな、映画やドラマで定例句になっているような言葉を実感できるなんて……。

 恋している間は幸せだった。……その後のことは、考えるだけで辛かった。
 年が離れた男に告白されてあの子は引いてしまわないか。あの子が受け入れてくれたとしても、真実を知った大人達が怪訝な顔をして見てくるんじゃないか。
 思春期を迎えたあの子が「気になる人がいるんだ」なんて言ってきたらどうしよう。優しい男を気取っているだけの自分なんか勝ち目が無い。そもそも自分は勝負の舞台にも立っていないんじゃ……。考えただけで、胸が張り裂けそうだった。張り裂けてもおかしくないぐらい痛かった。

 いつも会っていたコンビニの前であの笑顔を待っている間も、「早く会いたい」という幸せな感情と、「この時間は永遠ではない」と判っている切ない感情が入り混じって、ただひたすらに辛かった。少年時代に夢見ていたものは、味わなければ良かったと思えるぐらい大変なものだった。
 一人寂しくおにぎりを食べて泣いている顔を無視して去っていれば、この感情に出逢うことはなかった。それで良かったんじゃないか?
 あの子が見も知らずの男に声を掛けてくることさえ無ければ、仕事が手につかないぐらい苦しむことはなかった。それで苦しまずに済んだんじゃないか?
 事務的に明日を進むだけの、神様が与えてくれた時間だけをこなしていくだけの、ラクな日常のままでいられた。その方が幸せだったんじゃ?
 そう自暴自棄に考えている自分に気付いて、余計に辛くなって、どこでもいいから逃げ出したくなった。

「逃げ出すなんてもったいない。アンタは幸せじゃないか。その幸せを抱いていて何が悪いんだぁ?」

 そんなとき、泣きそうな顔でコンビニ近くで突っ立っていると声を掛けてくる青年がいた。
 見も知らずの男に声を掛けてくるなんて、まるであの子のようだ。と思ったけど、青年と何も接点は無い。
 今回ばかりは頬っぺたにご飯粒だって付いてないのに、どうして彼は話しかけてきたんだろう。よく判らない相手に、つい警戒した。

「人は何故生きる? 答えはね、人は幸せになるために生きているんだよ。誰もが幸せを求めて生きていくんだよ。当然だろぉ、誰だって辛い想いなんてしたくない。だから幸せになるためだったら何をしたっていいと思わないか? だって神様が命と同じく与えてくれた当然の権利なんだもの!」

 いきなり何を? 何の宗教だ?
 そう言うよりも、「なるほど、ならば仕方ないよな」と納得してしまう自分がいた。
 ああ、そうか、自分は怪しい人物の言葉にも甘えてしまうぐらい、心が弱くなっていたんだ。今は心が沈んでいるから、何者かも判らぬ青年の言葉が暖かい慰めに思えてくる。誰かに認められることで随分と心がラクになった。

「自分が幸せになって、周囲が幸せになった。既にそうなることを知ってるじゃねーか。アンタが恋をし始めて笑ってくれた男や女がいっぱいいるの、実感してるだろ? アンタは周りの連中に、アンタが思っている以上に愛されてるんだよ。いよっ、この幸せ者! ……そんなアンタが心の寂しいあの子に幸せを分けてやる、そんな聖人のような行ないを、周囲は咎めるとお思いかい?」

 でもっ。反論しようとした。
 社会的に受け入れてもらえるか、とありきたりな反論だったが、重要なことだった。

「ハッハハハ、自分の幸せを手放そうとしてるなんてバカじゃねーの。なあ、スッゴイ根本の話をしようかぁ。アンタと出会う前のあの子は泣いてただろ? でもアンタと出会ってからのあの子は笑ったよ? 次の日もそのまた次の日もあの子はアンタに会うたびに笑っていた。不幸だとしたらあんなキラキラした笑顔ができるかね? あのチビがそんな計算高いことするように思えるかぁ? 狡賢い婚活命の女みたいな奴をアンタが愛するかぁ? アンタが愛したのは、自分と一緒に居てくれて笑ってくれる、幸福を感じてくれる可愛い可愛いあの子だろ。自信を持てよ、アンタもあの子もアンタも周囲も、みんな幸福に辿り着いてるんだぜ? でもそれを完全にモノに出来るかは、幸せに躊躇しているアンタ次第なんだぜ。さあ、考えてみようか。あの子をぎゅっと抱きしめたらキレイな笑顔を見せてくれるよ。あの子にキスしたら甘い唾液が口にできるよ。あの子と繋がってみたら可愛い吐息が味わえるよぉ――?」

 青年は次から次へと『二人の幸せ』を口にする。
 抱擁、口付けから始まり、二人だけの生活はもちろん老後まで語りきって、幸せな未来とは何たるかを教えてくれた。
 幸せに俺が天寿を全うしたところまで彼は話すと、にこっと笑って彼は言った。

「でもこれは、限りなく現実に近い『オレの妄想』。すぐ手が届くことなのに、現実には起きてない『オレの妄想』。ぜーんぶ『オレの妄想』。だって、今のアンタはあの子を自分のモノに出来てねーんだもん」

 ぼうっと、でも一字一句聞きもらさず、彼の言葉を聞いていた。
 素晴らしい未来を語り明かした彼は、喋り疲れたのか、近くの自動販売機でコーラを買ってごくごくと飲み始めた。
 いきなり喋り始めて自由奔放に暴飲して、半分も飲みきらない辺りでコーラをドボドボと地へ落とし始めた。アスファルトに黒い円を描き始めている。下品どころじゃない、本当に自由奔放そのものだった。

「今のアンタはあの子に手を出せない。今のアンタから次のアンタにならなきゃ、あの子と幸せな世界にいけない」

 誰でも判る、でも誰でも出来ない当然なことを青年は笑って話す。
 夜が深くなり始め、黒が侵食していく世界の中、彼の周囲だけは輝かしく思えた……のは、ただ単に彼の服装が白かっただけか。
 それとも、荒んだ自分の心を明るく照らそうとしてくれた人だからそう思ってしまっただけか。

「オレは応援するよ。幸せに飛び込もうとする人を。……好きなこと、やっちゃえよ。一番やりたいことをするんだよ。幸せになったアンタは、とってもステキなヒトになるよ。死んだ後もきっとステキさ。不幸のまま死んだらただの悲しい魂。でも、あの子と一緒に輝いて死ねばアンタは救われる。そんな悲しそうな顔で立ってるだけのアンタなんてみんないらないさ。そう、アンタは心の底から笑っているべきなんだから。それがみんなが求めるアンタなんだよ――」

 綺麗な目をした白服の青年は、最後まで綺麗な笑みと言葉の置いて、ふらりふらり去って行った。
 どうして自分にいきなり声を掛けてきたか聞けなかった。どうしてそこまで自分とあの子のことを知っているかも聞けなかった。
 でも彼の笑顔は、最後まで、悩んでいる自分の笑顔を応援してくれているものだった。
 彼が何者なのかもどうでも良くなるぐらい、自分を応援してくれる人がいてくれたことをまた幸福と感じ、もう誰も居なくなった方向に礼をした。

 ――翌日の朝。
 『小学一年生の男子児童が失踪した』というよくある報道が全国に流されることになった――。



 ――2005年10月8日

 【    /      / Third /      /     】




 /2

 街中で妊婦とぶつかって、本気で焦った。
 路上でケータイをいじりながら歩いていたもんだから自分に非がある。一緒に歩いている寄居が一言注意してくれればいいのに、寄居もケータイ画面に見入っていたから俺は真正面からぶつかってしまった。
 相手がお腹を大きくした妊婦だと知って、物凄い勢いで謝った。妊婦じゃなくても謝っていたけど、一人でなく二人分の人間に正面衝突したんだ、一度謝るだけでは済まない。
 俺が謝っている姿を見て、あまりに必死になっているのがおかしくなったのか、妊婦さんは笑いながら許してくれた。

「ケータイを見ながら歩くのはやめましょうね?」

 優しく忠告された。
 離れたところから、おそらく旦那さんと思われる男がやって来て、妊婦さんを大事そうに連れていく。
 お腹を大きくした彼女の手を取りながら男性は去って行った。その二人の背中にも謝罪し続けた。

「もう、ウマったら駄目な子ねー。ちゃんと前を見てなきゃダメだろー」

 寄居はニヤニヤ笑いながら言う。自分もさっきまでケータイ片手に歩いていたくせに、冗談交じりにそんなことを言ってきやがる。
 お前もな、といつもの返しをしながら、今度は立ち止まってケータイを開いた。
 ショップのマネキンが見ているガラスを背に、路上から逸れてディスプレイの中を見る。……歩いて見るよりずっと文字が読みやすかった。当然だ。

「でさ。ウマってお洒落さんだねー」

 寄居も立ち止まりケータイ画面を再び開いて、まるで馬鹿にしているかのような口ぶりで言う。
 ケータイ画面の虜になっておきながら人の外見について口を出すなんて、失礼極まりない。何を思ってそんなこと言ったのか問い質した。

「だって、出会うたびに違う服着てるんだもん。毎度よく頭まわってるなーって思って」
「ああ、さっきまで話していたことの続きか。人とぶつかったら何喋ってたか頭から抜けたわ。……ていうかこのズボン、前に寄居と会ったときと同じ服なんだけど?」
「マジで?」
「上下三着持っていればいくらでも着回せるだろ。小物を変えればパターンなんて無限に生み出せるんだし、自分も相手も飽きた頃に新しい服を買えば、被ることもなくなるだろ」
「万年ユニクロ族の俺には判らない話だ」
「ユニクロも最近はかなり企業努力してると思うけど。あんだけバリエーション多いんだから色変えるだけじゃなくて物を変えろよ」
「近頃は無印良品も手を出した俺には判らない」
「……せめてしまむらにしておけよ。無印はやめろ。なんかやめろ」
「ウマがそんなにお洒落さんなのって、理由でもあるん?」
「理由?」
「服なんて汚れたら着替えればいい程度にしか思っていない田舎者だからね、俺は。そんだけ外見にハリキっているウマを見ると不思議でたまらんのよ。理由を述べてみなさい」

 寄居に命令されるのは嫌だ。だが、すぐに答えが出るから言ってやる。

「……良く見られたいんだよ」
「良く?」
「『コイツ、センス良いな』とか『ちゃんと自分に関心があるのか』とか、『そこまで気を向けていられるだけの余裕があるんだな』とか『金持ってるんだな』とか。外見でも内面でも、着飾る訳ってそこじゃねーかな」
「内面を着飾るってどういうこと?」
「言葉遣いを変えたり、態度を改めたりすることだよ。人格を着飾るってこと。人間性を好印象持たれることに損は無いだろ。他人にしてもらえることなんて出来ない。自分から磨かなきゃいけないことだろ」
「ほうほう、さすが若いモンは色んなこと考えてるんだねー」

 達観したことを言いたいんだろうが、ロクに深いことも言えていない寄居に溜息が出る。
 寄居は感心した声を出しながら、自分のケータイをカチカチやり続けている。
 何気なく視線を自分のケータイから寄居の顔へと移してみた。ニヤニヤしていた。どこか馬鹿にしている感が拭えなかった。

「福広(ふくひろ)さんもお洒落だよね。でもダラーってしてるっていうか。アレも自分のこと良く思われたいって考えてしてるのかな? ウマは仲良いんだし知ってる?」
「どうだろ……福広さんは特に深く考えて無いんじゃないかな。『考える脳が足りない』はあの人の口癖だし。着飾っていると気分が良いからしてるだけで、あんまり自分のスタンスっていうものも無さそうだし……あの人、髪型も髪色も変えること自体が趣味だし」
「はは、福広さんにメッチャ悪く言ってる」
「あの人への暴言は今更だ。笑って許してくれる懐の広さといいかげんさはこれでも尊敬してるよ。……で、寄居。全文読めたか?」

 あー、だの、んー、など曖昧な返事をしながら、寄居はずっと開いていたケータイを閉じた。膨大の量のメールを読み終えたようだった。
 俺も、何度も見返すだけだったメール画面を終了させ、ケータイをいつも入れてる右側のジーンズに入れる。寄居に記憶力テストを試すために、メールにあった文面を口に出す。

「……一人目の被害者は?」
「十四歳の女の子。下着姿で死んでいるのを発見された。洋服は見付かってないから、犯人が持ち去ったと思われる」
「……二人目の被害者は?」
「髪の生えている部分の皮膚がまるごと剥がされていた女性。剥がされた皮膚は見付かってないから、犯人が持ち去ったと思われる」
「……三人目の被害者は?」
「女性の胸部が切断されていて、現場には無かったからこれも犯人が持ち去ったと思われる」
「……四人目の被害者は」
「まだ出ていないけど、多分相当なセックスアピールをしている女性が選ばれるんじゃないかな?」
「どうしてそう思う?」
「服と髪と胸、どれも『女の命』っぽくね? 可愛いお洋服も綺麗なお髪も美しい胸も奪われたんだから……今度はどこの命を狙うんだろうね」
「とりあえず女性が被害者になるのは確定みたいだな。……寄居、よく五分で読み込んだな。俺と話しながら覚えたくせにスゲーな」
「いやぁ、ウマの方が凄いって。一日で今日の仕事の内容、覚えられてるなんてさ」

 ……一度きりじゃないからな、とボソっと呟く。
 『本部』からの仕事ももう何度目か。寄居はそう思ったらしく、言っておいて「ふぅん」と興味無さげに鼻を鳴した。

「俺もウマと話しながら覚えたから、流石に被害者の名前全部は覚えられないや。依織さんほど記憶力無いしね」
「あの人の記憶力は有り過ぎだしな、人間業じゃないし。さてと、まずは」
「あ、その前に。ウマ。ケータイの充電器買っていい? 昨日充電しなかったからもうピンチなんだ」

 するすると寄居はコンビニに入って行く。部屋に帰れば充電器なんていくつも持っているくせにまた買うのか。
 財布さえも持ち歩かない主義の寄居はズボンのポケットに手を突っ込んで札を取り出し、颯爽と充電器を購入してケータイに取り付けた。
 コンビニ前の駐車場、ゴミ箱の前を占領して暫く電池が溜まっていくのを待つ。
 仕事中に携帯電話が使えないのは、現代の退魔師には致命的だった。つーか致命的なシーンを簡単に作るのは如何なものかと。

「寄居。お前、ケータイの充電する癖ぐらい付けろ。出来ないなら書類をそのまま持ってこい」
「物を持ち歩かない主義の俺が、書類なんて重いもの持って仕事が出来ると思う? いやぁ、『本部』がケータイ対応してくれてホント感謝してるよ」
「感謝してるなら充電しておけよ……。俺、そんなにマメな性格でもないのに、お前と一緒に居るとマジメキャラって思われるぞ」

 ふぅ、とワザとらしく溜息をついて視線をコンビニに戻す。
 すると、アイドルのライブポスターや『おにぎり割引』の暖簾の他に、やや物騒なポスターが貼られていることに気付いた。

 ――小学生の男子児童の失踪。この顔を捜してますのポスターだ。

 一ヶ月ぐらい前にニュースで取り扱っていたのを覚えている。
 二日間ほど世間が騒いだけど、あまり進展が無かったのと、同時期に政治の汚職事件が判明したせいであんまりテレビで取り上げられなかった事件だった。
 まだ解決されてないのか、ポスターは日当たりの良い所に貼られて早くも日焼けしている。
 最後に夜のコンビニで一人で居るところを目撃されてから失踪したらしい、まだ6歳の児童。夜に小学生がコンビニ前に居ることが問題なんじゃないかと騒がれていたけど、電気を大量に使われた店内に群がりたくなるのも判るな、と若者代表が言ってみる。
 そんな事件もあったなと思いつつ、今回の女性ばかりが狙われる事件とは関係無いと意識を変え、充電待ちの寄居を見る。
 寄居は早くも充電器を差しこみながらケータイを見ていた。俺よりもっと露骨な若者代表の姿がそこにあった。

「ウマ。あのさ……警察が職務を放棄して退魔組織に依頼してきた理由、見当たらない。どこに書いてある?」
「あ? 四通目と……七通目のメールに書いてあるだろ。凶器のとこ。『獣の体毛が被害女性から発見された』ってとこ。日本の街中に野獣がうろつく訳ないじゃん。だから警察がお手上げだって書いてあるだろ」
「ああ、あったあった。獣ねぇ……魔術師が何かバケモノを召喚でもしたかな。それとも獣に変身する人かな。ほら、前にガオーって獣化しちゃったお姉さんを倒したじゃん。あんなんだといいよね。変身するときヌードになったもん、あれは良いもの見た」
「うん、あれは良いもの見た。……もしくは野獣そのものがうろついているのかもな。稀にやって来る人もいるぐらいだから」
「魔術師なら……獣を呼び出した召喚陣を捜すべきかな。魔力の不順な流れとか。あとは『近頃、獣っぽい人いない?』って呼びこみするべき? いや、そりゃねーなぁ」

 現代社会、そういうの街中で呼び掛けたら不審者だって通報されちゃうって。
 通報した先が俺達になるんだけどよ。

「第一、見も知らずの人に声を掛けるって一般人はやんねーって。芸能スカウトの人って凄いわ」
「普通だったら警戒して逃げていくのに逃げずに芸能事務所までついて行こうとする子も凄いよね。そこで捕まって中国かどっかに送られる都市伝説、死ぬほど聞いたよ」
「死ぬほど聞いたけどまだスカウトの人も、スカウトで芸能界入る人も絶滅してないんだから凄い話だよな。俺だったら知らない人に話しかけられた時点で怖くて逃げるわ」
「スカウトの人も、そんなんで怖がって逃げるような奴はいらない、って思ってるんじゃね?」
「なるほど、それが第一審査になってるのか。乗ってきたら第二審査、契約云々の長話になる、と。……なあ、話を戻そうぜ」

 このままだと芸能人の話か芸能界の仕組みで、一日時間を過ごしてしまうかもしれない。
 そんなことになったら「このタダ飯食らいが」と上の偉い人に怒られてしまう。
 トークが弾む俺達の目的は、女性が狙われているこの怪奇事件を解決して……ついでに無念の死を遂げた女性の魂も回収出来たらいいなってことなんだから、やり遂げないと。

「ああ、ウマ、そういや保谷が雑誌載ったって話は聞いた?」
「えっ、マジで?」

 そうしてまた五分中断。先に進むまであと三十分は必要。
 ……この組み合わせ、絶対ミスキャストだって。『本部』の人達よ。



 ――2005年10月8日

 【    /      / Third /      /     】




 /3

 ――だれでもいいからたすけて――。

 そんな声を聞いて、私はとあるアパートの部屋に降り立った。
 木造建築のワンルーム。一階の奥まった部屋。大半の住人は古さ故に去っていった、時代に取り残された感が漂う古墳。
 大半の住人は去ったと思われるが、それでも人間はまだしぶとく住んでいるようだった。人が少ないのは好都合だ、私は声のした方向へ歩いて行った。

「呼んだのは、貴方でしょうか」

 アパートの廊下で蹲る影に、声を掛ける。
 まさか呼び掛けに応じる者が現れるなんて。そう言うかのような顔をして影はビクリと震えた。いつでも逃げ出せるように抜け道へ足を忍ばせている。その様子、相当怯えていた。

「おっと、呼びつけておいてそのまま何処かに行ってしまうなんてことはしないで下さいね。私の時間は有り余ってはいないんです、けれど貴方の為にここに現れた。私の心遣いを無為にしないで下さい。それに、逃げられると正直悲しくなります。私の心は硝子で出来ているんですから、繊細に扱ってもらえないと」

 場を和ますつもりで冗談を言うと、露骨な逃げの態勢は解除された。まだビクビクと怯えているが、それでも、助けを呼んだときと同じ声を再度発した。
 ――だれでもいいからたすけてあげて――と。

「……。貴方が助かりたいのではなく、貴方は助けたいものがある、と」

 小さな影は怯えながらとある扉の前まで歩みを進めた。
 ついて行く度に鼻に異臭がつく。住人だったら生活が出来ないと文句を言いたくなるぐらい、アパートに似つかない異臭だった。異臭がする原因があるらしい扉の前に座り、小さな影はカリカリ爪を立てる。
 どうやらここに助けたいものがあると言いたいらしい。

「おやめなさい。……そこに居るのは判りました。もう結構です。音を無碍に立ててその部屋の人に目をつけられたら貴方の命が危ういでしょう」

 一言声を掛けただけでその行為は終わる。くるりと私に振り返って、微かに微笑んだ。
 ――どうかよろしくおねがいします――。クシャミをしてしまったら掻き消えてしまうほど小さな声で、小さなそれはぷしゅんと消えた。

「おや、もう命なんてありませんでしたか。……大丈夫、私は視える者ですから、力を使わなくていいですよ」

 僅かに残る霊体に手招きすると、さっきと同じ声でにゃーにゃーと近寄って来た。
 こんな可愛い霊体ならば安心して触れることができると、顎の下を撫でてやる。私の手袋越しでも、姿が無い霊体でも、その仕草に気持ち良さそうに笑った。
 そのとき、ギシギシと廊下が軋む音がした。
 私が居る異臭のする扉へと近付いてくることから、部屋の主だということが判る。異臭に近寄っても歩みが一切乱れないことがそれを告げている。
 手の中に小さな子猫が逃げ込んで来る。震えがひどい。霊体になっているというのに見付かりたくないと訴えている。相手が視える人なのかと言っても答えないぐらい怯えきった姿を見て、私は溜息を吐き、違う相手に口を開いた。

「――部屋の中の人、聞こえますか?」

 ギシギシと近付いて来る足音はとりあえず置いておき、鍵のかかったアパートの扉の前で声を掛ける。

「貴方のご友人が貴方を助けたいと言っています。ご友人が呼んでくれたから私は現れることができました。ですが残念なことにここは、貴方の居る場所の外なんですよ。中に入れてくれませんかね。鍵を開けて扉を開けてくれるか、もしくは貴方が私を呼べばそちらに向かいます」

 ギシギシと音が近付いてきていたが、もし何かあっても言い訳は星の数だけ用意している。
 それでも円滑に物事は進めたい。落ち着いて扉の先へ、声を掛けた。

「鍵を開けてください。もし鍵を持てる手足が無いなら、私を呼べばいいだけのこと。私の名はルージィルです。簡単でしょう?」

 それから数分後。
 ――がちゃり――。
 部屋の主は、扉の鍵を開けて部屋に入った。いつもの帰宅風景だった。
 ただし、扉を開けるのに少々時間が掛かった。何故なら、二人分にあたる女性を一人抱えながらの作業だったからだ。



 ――2005年10月8日

 【    /      / Third /      /     】




 /4

 魔力の不順な乱れなんて探したら山ほどあるから、普通は見当が付かない。
 けど今日ばかりは運が良かった。偶然にも猫の井戸端会議の耳にすることができたのだから。

「あのさ、ウマ」
「あん?」
「流石に友人がニャーニャー猫と話している姿は、なんか、ないわ」
「寄居、知らないのか。ウチの一族、半数は猫と話できるんだぞ」
「うわ、ないわ」
「お前の兄ちゃん達だって感応力師だろうが。あの人達もやってるって」
「うん、できるよ。たまにぃも、つきにぃも、よく動物相手のギャアギャアやってるけど、認めたくない事実の一つだった。あれシュールだから、ちょっとキライ」
「キライでもなんでも情報収集になるんだからやるんだよ。……人間よりも猫の方が霊脈の乱れに気付くんだ、猫様々じゃねーか。やたら長話ばかりする猫どもだったから時間かかったけど、『人が近付かない廃墟で霊脈の乱れ』なんて、怪しすぎる情報ゲットできたんだ。行くしかないだろ」
「……なんというか、一般人と能力者が理解し合えない理由がよく判ったわー……」

 猫達が言うには、『誰もが行きたくなくなる淀みが強い場所』があるという。
 そこはもう誰も居ないように思われる古いアパートで、ただ一人ケチな人間がまだ住んでいるという。
 最近、一ヶ月前から淀みはさらに強くなり、猫達は余計にその場所に近付くことはなくなった。だが、ある一匹の人気のある女の子(まあ、メス猫のことだが)が頻繁にそこに行くという。人気のあるその子が行くとなったら他の男子達(いや、盛ったオス猫どものことなんだけど)も放っておけない。
 一緒について行ってみると……なんとその女の子は見た事のない獣に喰われ、男子も何匹かやられたと言う。
 唯一逃げて帰ってくることのできた男子も、寝込んで起きられないと。
 それを井戸端会議で長話好きな奥様猫達が話していた、と……。

「ウマにも猫にも何か言いたい。でも何も文句が思いつかない。とってもふしぎ」
「無駄な脳味噌を使うんじゃねーよ。……寄居。武器を出しておけ。さっきから変な感じがする」

 猫達の言ってたアパートとやらがある方向に進む度に、足が重くなっていく。霊感がご親切にも危機を訴えているようだった。
 素直にそのことを寄居に話すと「それなら俺の出番だよね」と率先して前に出てくれた。
 手には既に大剣を装備済みだ。見た目からして頼りがいがある。
 アパートに近付くと異臭が鼻を壊し、近付くたびに更に匂いが強くなって頭がおかしくなりそうだ。すぐさま『本部』の息がかかっている警察に連絡して、寄居を盾にアパートに入る。
 歩くたびにギシギシいう木造アパートは、見事なホラーダンジョンだった。

「うわ、猫の死骸が落ちてる……。人が住んでるなら埋葬してやるか、保健所に拾ってもらえよー」
「奥様達が言っていたオス猫だろ、これ。……保健所に問い合わせる頭も、埋葬してやる心も無い人が住んでるってことだろ。寄居、そのまま前に進んでくれ」

 倒れたままの猫に軽く手を合わせて、寄居の後ろにつきながら先に進んだ。
 今、土を掘ってやっているほど余裕のある空間じゃない。匂い的にも、おかしな霊力的にもだ。
 やけに匂いの強くなった場所までやって来ると、明らかにおかしいものがあった。
 それは綺麗な赤い血だった。
 まだ黒く滲んでいない。つい今さっき滴り落ちたような赤い血が点々と廊下に続いている。

 明らかにおかしいものに溜息を吐いた、寄居に合図を送り、匂いの先だと思われる扉を叩き割らせた。
 木造建築の古いアパートの扉は簡単に破壊された。途端、動きが取れなくなる。扉が無くなったと同時に、ゾワリと悪寒が走る。
 膨大な量の霊力が部屋に詰まっていて、入口が壊されたことで外へ水のように流れ込んだように思えた。溜まったダムに穴を開けて放出したようなものだ。
 扉の前に居た俺はその水流に直撃してしまった。水圧に倒されることはなくても、ふらりとよろけるぐらい強いものだった。
 負が部屋中に満ちている。ただでさえ匂いで鼻からの息を止めていたのに、呼吸が出来なくなるぐらいおかしな空間に変わっていく。
 何がそんなに部屋を負に染めているのか。眩暈のする頭で周囲を確認すると……そこには、腐乱した花々が咲いていた。
 花なんて可愛い言い方をしたが、色が赤くて広がった形状をしているだけで花じゃない。
 お腹が割れた女性の体が横たわっているだけだった。
 鮮やかな赤だから、つい先ほど咲いた花だというのが判る。
 異臭の中に血の匂いが混じっているとは思うけど、血の塊が露骨に置いてあって何と言っていいのか判らなくなった。

「ねえ、そこのおじさん……何してるの?」

 寄居が先に、この空間に居る何者かを発見する。
 発見したのは花に見えた肉の塊なだけで、『何者か』……人ではなかった。彼が声を掛けた先を見ると、男の人が手術を、もしくは縫物をしているように見えた。
 肉の塊を、何かに、針で縫いつけているような仕草。直視するのも拒まれるほどグロテスクな光景だったが、状況を確認しなきゃ仕事はやってられない。必死に目に力を込めた。
 小さな体のお腹よりちょっと下に肉を縫い込んでいる。
 小さな体のすぐ傍には、血で濡れているけど綺麗なお洋服が置かれている。さらにその小さな体には、あべこべなカツラが付けられていて、胸にも肉が縫い付けられていた。
 目に入った一つ目は洋服。
 二つ目は頭。
 三つ目は胸。
 必死に読んだとある文章を連想させる。
 そして四つ目は……四つ目?

「ああ、この咲きたての花が……四つ目か」 

 見るべきではなかったけど、俺は自然と花を見ていた。
 目につくのは、お腹の部分が裂かれ下半身が真っ赤に染まっている女性の死体。ついそっちに目がいってしまうけど、恐怖に歪んだ顔は……。
 今朝、道端でぶつかった妊婦さんと同じものだった。
 …………。

「……参ったな。寄居。俺、眠くなってきたよ。眩暈が止まらないんだ。ブッ倒れるかも」
「えっ、こんなところで寝ないでくれないかな。……ずっとあのおじさん、背向けてるから一撃で倒せるけど、ここを一人で処理するのイヤだし」
「じゃあ寄居、今すぐあのおじさんを倒して。ザクッと一発でやっちゃって。……声を掛けても振り返らないんだから、『背後から卑怯なー!』とは言わないでしょ。なんだよ、あんなことに必死になっちゃって……狂ってる。ま、狂ってるから事件起こすんだけどね、異端犯罪者ってやつは。……獣を隠すスペースがこんなボロいワンルームにある訳ないから、獣の正体はあのおじさんだよ。おじさんがヌードになる前にヤって」
「あいよ」

 寄居の小さな相槌と共に、大剣がブウンと風を切る音を発する。
 そして犯人は昏倒した。反撃に合うことなく、あっという間に犯人を取り押さえることができた。
 部屋には多くの怨霊が餌を求めて蠢いている他に、囚われの綺麗な魂が輝いていた。
 お宝発見。
 全然嬉しくなかった。



 ――2005年10月11日

 【    /      / Third /      /     】




 /5

 生まれて初めての恋は、想像していたよりも辛いものだった。

 初恋は実らないなんて言葉がある。そんなの俺は信じないよ、初めて好きになった女性と結婚して何が悪いんだ。
 それがプロポーズとして彼女に用意した言葉だった。彼女は「もっとカッコイイ台詞で結婚できると思ってた」と笑いながらも、OKをしてくれた。今から1年も前の話だ。

 着々と愛の時間を深めていった俺達は、みんなに祝福されて結婚して、新婚生活を大いに堪能した。
 周囲にはバカだと言われようが愛妻弁当を毎日食べたし、新婚旅行以外に二人きりの旅を何度もした。
 学生時代のときから彼女と付き合っていたけど、社会に出て忙しくなっても彼女との時間は大切にしてきたつもりだった。

 初めて出会った愛しい人を自分の女にして、自分の子供の母になってもらう。決して珍しい話でもないのにどうして『実らない』なんて言葉があるのか不思議だった。
 だから『恋は辛い』なんて言葉がラジオからポップスとして流れて来ても、実感が湧かなかった。
 こんなにも幸せなもののどこか辛いんだ? どうして苦しんだ? いつも思いながら笑っていた。
 彼女と一度も喧嘩をしなかったと言えば嘘になるけど、喧嘩をしてもすぐに仲直りができた。だから俺達は結婚したんだ。
 幸せすぎる人生に怯えることなど一度も無く、もっと周りの人もこの幸せを感じるべきだと言いまくった。「バーカ、そんなに幸せな人生を送るなんてお前ぐらいだよ」なんて言われても屁でも無かった。

 だけど、子供が出来て一番の絶頂期にいたときに、想像以上に辛いものだと知ることになる。
 失って初めて気付く大切さ。何度も歌で聴いたフレーズだ。それを今、俺は味わってしまった。
 彼女は唐突に俺の目の前からいなくなった。
 彼女はお腹にいる子供と共に死んだ。
 猟奇的な方法で殺された。
 殺したのは、俺の同期だった。
 加害者も被害者も聞き馴染みのある名前に、俺は何が何だか判らなかった。

 最初は死んだなんて嘘だったと思って言い続けていたが、周囲が何度も俺に悲しい顔で「あの子は死んだんだよ!」と言う。だから信じてやることにした。
 死んだなら死んだ妻の顔を見せろと警察に言った。最初、妙な顔をされた。かと言って隠し続けられるものではないと、『比較的きれいになった彼女の体』を見せてくれた。
 お役所仕事の警察でさえ感情的に、俺に見せたくなるぐらいの死体。彼女が確実に完璧に、この世から去っているのを見せつけられた。

 彼女の出産予定日は近かった。
 ベビーセットはもちろん、名前さえも男女二パターン用意していた。
 彼女は出会った頃、学生時代から健康が取り柄だったから出産に不安になることはなかった。
 男から見てありえない腹の大きさに俺が不安になっても、彼女は外を明るく歩いていた。
 礼儀のなってない高校生に正面からぶつかられても、「この程度で赤ちゃんは潰れたりしないわよ。お母さんは丈夫なんだから」と笑って手を握った。
 高校生に元気に説教できるぐらい、彼女は強く頼もしい母になってくれる女だった。

 そんな彼女が殺された。もういない。想像していたものよりも辛い現実だった。
 今までの幸せが全て吹っ飛んでしまって、何一つ俺の元には残っていなかった。
 今まで幸せすぎたツケがまわってきたのか? まさか俺が初恋だったからか? そんなバカげた理由をつけたくなってしまう。
 何か理由をつけなければ、やっていけなかった。それを周囲の人達も理解してくれたのか、バカげた理由をつけたがる俺を叱咤しながらも認めてくれた。
 周囲に愛されていると感じた。幸せ者だなと思った。
 でも彼女がいないことが何よりも不幸だから、そんな幸せを噛み締めることはできなかった。

 妻と子の葬式が終わって、呆然と座る。
 座りながら、「どうして幸せが続いてくれなかったんだろう」と考える。
 きちっとしたスーツを着ている大の大人が、足を投げ出して座り込んでいるのは異様な光景だっただろう。
 慰めてくれる両親、彼女の両親、俺の親友達、彼女の親友達、仕事場の人、何気ない知り合い、猟奇殺人を追うマスコミ……。みんながみんな俺を慰めて、それでも立ち直らない俺に、みんなが渋々去って行った。
 一人、彼女の微笑む写真とまだ見ぬ子を見つめながら、俺は座りこみ、考え続けた。
 どうして俺はこんなに不幸になってしまったんだ。彼女がいなくなってしまったからだ。
 どうして彼女はいなくなってしまったんだ。彼女は殺されたからだ。
 どうして彼女は殺されてしまったんだ。…………。どうして……?
 彼女を殺した男は、知っている人物だった。マスコミが言うには、この一ヶ月間で男の子を一人、女性を三人殺していたらしい。
 殺した女性の頭部や胸部を男の子に貼り付けていたらしい。「大好きな男の子を自分好みにするために」とか供述してるらしい。
 ……そこまで俺は事実を知っているのに、「どうして彼女が殺されたか」の理由に至らずにいた。

「判らないことをそんなに悩んだって、ハゲるだけだぜ」

 誰かに声を掛けられて、顔を上げた。
 足を投げ出して畳の上で座り込んでいる俺の前に、見ず知らずの青年が立っていた。
 彼女の知り合い……にしては、下品な奴だ。服装が葬式に似合わず白色だし、なにより傷心の俺に対して笑って声を掛けてくる。こんな常識知らずが、彼女の知り合いであってたまるもんか。
 ……じゃあ、なんでこんな所に居る……?

「大事なのは、どうすればアンタは幸せになれるかじゃねーかなぁ?」

 そんなこと言われたって。
 彼女を亡くした俺のもとには、幸せは何一つとして残っていない。そう素直に青年に伝えた。
 ……この際、いきなり話し掛けてきた青年が何者なのかは置いておく。

「残ってないならまた幸せを手にすればいいだけだろぉ。どうやったら人間は幸せになると思う? まず幸せって何だろな。……答えは、自分の行いが満たされて気分の良い状態のこと、だよ。何をしても充実感がある、そんな状況のことを幸せっていうんだ。人間は幸せになるために生きている。それは神様も認めていること。けど今のアンタにはそれに達してない。悲しいなぁ? 充実感を得る為には何をするべきかなぁ? ……自分の成したいことをしてみること、じゃねー?」

 平和そうに青年はにこっと笑いながらべらべらと語る。
 最初は癖のある喋り方に苛々もしたが、彼が俺に対して幸せの言葉をを投げ掛けてくる理由が、両親や親友達と同じ『俺を慰めるためにしていること』だと思うと、邪険にはできなかった。
 俺にとっては見ず知らずだと思っていたけど、青年は彼女と俺のことをよく知った口ぶりをする。俺の知らないだけで、彼女と何かがあったようだ。
 彼女の知り合いが、俺を必死に慰めてくれている。そのことに感謝しつつ、彼の言葉を聞いた。

「なあ、まずアンタは今、何がしたい? 彼女のことを想って泣きたい? それならぼうっと座ってるだけじゃなくてわんわん泣けよ。誰が止めるよ? 誰もアンタを止めねーよ。それとも美味いもんを食いたい? アンタ、金は持ってるんだろ。いくらでも食って太れよ。ぶくぶくに太ってこんなに面白いデブになったって俺は生きてるんですぅーって天国の彼女に言ってやれよ。彼女が笑ってくれるぜ。アンタにとって彼女の笑顔は何よりも幸福だろ。他には何だ? ああ、その箱の中に彼女の体があるんだろ、今のうちに髪の毛を貰っておこうぜ。ホムンク……いや、クローンって言えば判るかな? 作ろうぜ、彼女とそっくりな彼女! あっ、あとは警察が回収したっていう『切り取られた子宮』! 盗んでやろうぜ! アンタのアソコは残ってるんだ、どっかに金さえ払えば彼女との子供を作り直してくれるよ! うくく、あとは何かな……やっぱ■■■■に、復讐?」

 同僚であり、友人であり、彼女の命を奪った男の名前を、青年が口にする。
 青年は切なそうな目を伏せて、綺麗な声で言った。

「いいんじゃね、復讐。しなきゃアンタが幸せになれないというなら、するべきだと思うんだ。だって、人間は幸せになる権利があるんだぜ、なら幸せのためにあの男は死んでもらわなきゃ困るよなぁ? ただ死んでもらうだけじゃ済まないなら、幽霊になった後も復讐する方法があるぜ。オレは教えてやれないけど、調べればいくらでもあるよ。そういうの生業にしている連中は、この世にいくらでもいるもん。ああ、したくないなら結構。しなくてもアンタが幸せになれるなら大いに結構さぁ。……最も大事なのは、何がアンタが一番したいことなのか、なんだよ」

 じっくりと俺に言い聞かせた後、青年は飾ってあった酒瓶の口を開け、一口飲み、ばっと畳の上を濡らした。
 びちゃりと酒が俺の顔にかかる。青年は畳の上に丸をいくつか描いて、俺を笑わせた後に……。

「何もしなくても神様は寿命を設定している。設定された命の中で何をするかはアンタ次第だ。神が決めたイベントに抗う者になろうがなるまいが、それはアンタの人生。誰にアレコレ言われる筋合いはない。――ただオレは『アンタなりに生きろ』っていう言葉を送るね――人間は自由に生きるべきだからなぁ!」

 笑って、その場をふらりふらりと去って行った。
 なんという爽快な答え。自分がしたいことをして幸せになれ。誰もが思いつく単純な言葉。でも実行に移せずにいた。
 でもあの青年は、笑顔の中で言ってくれた。
 天国の彼女が笑ってくれる『俺の未来』を作る――それが新たな幸福に繋がるんじゃないかと。
 そうだ、いつかは俺も天国にいく。彼女は子供と一緒に待ってくれている。
 なら二人に会うとき、笑顔になってくれる土産を持って行かなきゃいけない。それに気付いた。
 気付いてしまった。

 ――翌日の朝。
 『猟奇殺人被害者の夫が失踪した』という極めて稀な報道が全国に流されることになった。
 その先に何が起きたか、これから何が起きるのかは、まだ事件が起きていないので、誰も何にも知らないこと――。



 ――2005年10月11日

 【    /      / Third /      /     】



 /6

「……あんな雑な空間記憶の削除法がありますか。すぐにバレますよ」
「呼ばれてもいないのに出てくんな」

 葬式会場から酒瓶を片手に出てきた兄は、いつものようにニヤニヤ下品に笑っていた。楽しくて楽しくてたまらない、そう言わんばかりの笑みだった。
 兄が畳にバラ撒いたのは、雑でも『空間記憶の術』だった。
 一度かけておけばその場にあったモノ達――夫も畳も女の死体も――全ての物達の記憶が、一定時間経てば自動削除されるものだ。
 難易度の高いものを適当にかけた兄は、そのまま去ろうとしている。一般人や一端の能力者の目にはまず見付かることはなくても、高位の者が見れば……。いや、見られたところで兄には痛くも痒くもないか。
 兄と私は言っているが、彼は私の本当の兄ではない。名はブリジット。私と同じ家の生まれではあるが、顔は全くもって似ていない。とある人物の兄であるから、私は兄と呼んでいるだけだった。

「旦那さんは百パーセントに近い確率でヤってくれるさぁ。人の身で復讐するか、人の身を脱いで復讐をするかはともかく……これでただでは死ななくなった。怨念渦巻いて強い魂になってくれるだろうよ。その頃には……さぞ美味いもんになってるなぁ?」
「ですねぇ。……ああ、警察に捕縛された男性ですが、この世界では確実に旦那によって殺されるでしょう。ほぼ抜け出せないイベントと化しています。旦那も長くないようですし、どちらも大変良い味に仕上がるでしょうね」
「そうかい。良い仕事したな、オレ」
「人の過去や心を読むことぐらい、感応力師の貴方には容易いことでしょう。良い仕事です。ですが忠告しましょう。こんな方法で良質な魂を収集していると……いつか、目をつけられますよ」
「どうして? オレは手を下してないだろ。しかもちゃんとオレは言ってるぜ。『全ては自分次第』って。勝手に異端に走られたのに、オレの責任なんて言われたら困るなぁ」
「そうですね」
「オレはただただ……人々が幸せに生きればいいって説いてまわっているだけだろ。生きてるのに輝かない人間を放っておくなんて罪だ。オレは人間に充分過ぎるぐらいお節介を焼いていると思うんだよね。平和賞を貰ってもいいんじゃね? ……死んで人間がどうなろうが知らないけど、汚れた魂を廃品回収してやれば一族の為になる。良いことしてるだろ?」
「はい、兄はとても良いことをしてますよ。……呆然と与えられた寿命をこなす人間より、汚くても輝いている人間を増やす……。賛成します。だからこそ、もっと丁寧にやらないと。もし勘違いした誰かが怒って貴方を襲ってきたらどうするんですか。次が出来なくなってしまいますよ。仕組むなら完璧に、完全に犯さないと」

 ふと、私の腕の中に居た小さな影が怒りの色を帯び始めた。
 ふーっと毛を逆立てて、笑い続ける兄を威嚇する。
 兄に声を掛ける前……つい先ほど、この子の口から「助けてあげたかったのは男の子と三人の女性だ」という話を聞いていたところだった。
 そしてこの子は、今の会話から「四人をあんな目に遭わせたのはこの男だ!」と判断したらしい。
 子猫は私の腕から飛び出すと、瞬時に実体化し、兄に襲い掛かった。
 まあ、私に抱かれなければ移動も出来なかった魂に、人を襲うだけの力など無い。
 猫は馬鹿なことをした。力量を弁えず兄に飛びかかり、反撃を受けた。しなやかな体は兄を守るワイヤーで斬り裂かれていき、今度こそ姿を消した。
 可愛い猫だったのに、無惨に散ってしまい非常に残念だ。もう既に無い命だったけれども、消えてしまうのには惜しい猫だった。

「というかルージィルさんよぉ、なんでアンタがここに居るんだ? 女四人分と坊主の魂の回収役は、直系の坊や達のお勤めだろ」
「そうですよ、そのように『本部』はお決めになりました。ですから今回の件に私は手を出してません。ですが、少しでも緋馬様達の回収を円滑に進めるために、可愛いお嬢さんの……生前のお友達を利用させて頂いてました。皆さん、実に演技派で可愛らしかったですよ。これからお礼をしに行かなければなりませんね。長話で時間稼ぎをする役まで頼んだんですから」
「時間稼ぎ?」
「魂を貰えるなら四人じゃなくて五人分欲しいじゃないですか。いえ、冗談です。私はそんな悪者のようなことはしませんよ。犯人が手術に付きっきりになってる方が緋馬様達が無傷のまま、捕まえることができるんですよ。手術が始まる前だと血気盛んな状態で戦うことになりますからね」
「……クッ、アハ、ハハハ! そんなこと言って、単に五人死んでほしかっただけなんじゃね!?」
「いえいえ冗談です」

 兄は私に酒瓶を手渡す。

「そんなにオレのやり方が雑だっていうなら手伝ってくれよ」

 私に触れるか触れないかのところまで近付いて、呟いて、彼は闇夜に姿を消す。雑なことに自覚はあるらしい。
 兄から受け取った酒を、一定量だけ庭に撒いた。
 誰にも察されないように、バラバラに円を描く。
 夫が白の男に出逢った記憶を全部消して、でも誰かに激励された記憶だけをちゃんと残して。

 猟奇殺人鬼に愛する人を殺された男なら、兄の言葉が無くても異端犯罪者の道へと走っただろう。
 愛する人を失えばそれぐらいのことをしでかしてもおかしくない。それぐらい人の絆の崩壊は、強い力を生む。
 力はどこまで大きくなるか、まだ何も生きない今は楽しみに待つしかない。
 ぬるま湯の幸福に浸かっていた男がどうなるか、楽しみで堪らない。

「彼の未来に幸あれ。どうか輝かしい滅びを」

 望みながら酒瓶を式場の前に置き、私もその場から去った。
 次にこの場を去るのは、決意を決めた夫だと祈って。




END

本編:  / 

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