■ 012 / 「虚像」



 ――1970年1月4日

 【     / Second /     /      /     】




 /1

 現代の旅立ちの場は、機械臭く騒がしい。
 あちこちでシグナルが目と耳を刺激し、今から始まる冒険を讃美してるのか、それとも妨害してるのか。どちらとも言えない忙しさに、うんざりしてしまう。
 それでも、旅に出ることの高揚感は抑えられない。生まれ育った場所を出て、新たな地に向かうことのときめきは、いくつになっても変わらなかった。
 学生のときの仲間との旅行。初めての外泊。どれも前日は楽しみで眠れなかった。
 既に何度も行ったことがある場所でも、生まれ育ったところから遠くへ出ていくときの楽しさは、まだ消えない。

 オレは、感情の起伏が激しい。
 気分が明るいときは、次に起こることはみな楽しいものだと思ってしまう。だから、この先に起きることも全てオレの人生を色濃く素晴らしいものにするものだと信じている。

 あちらでは、家族が何かを話している。
 父親らしき男性が、大荷物を背に子供を抱き上げていた。男性に比べて子供やその隣の女性(おそらく母親であろう)は軽装だから、遠出する父親を見送りに来たんだろう。
 あんなに大きなスーツケースを抱えてどこに行くのか。流石に訊いてまわることなんてできないが、少しだけ気になった。
 子供を置いて別の世界に向かう親の気持ちは、他の一家ではどのようなものなのか。非常に興味があった。

 一方、あちらでは男女が恥ずかしげもなく抱き合っていた。
 カートは女性的な暖色でまとめられているから、旅立つのは女の方だ。日本人のくせに、どこぞの国の映画女優のように深い口付けを見せつけてくれる。世界は二人だけのものと言わんばかりに。
 口付けで留めておきたいほどの仲ならば、彼女らはどうして離れなければならなかったんだ。

 ここは旅立ちの場。生きている世界から遠くへ旅立って行かねばならぬ関所。
 あの父親は愛する家族と別れ、あの女は愛しい男と別れて外へ向かう。
 父親も女も、それぞれの想い人への深い情があった。別れることの悲しさがあり決別を惜しんでいた。
 子供と抱き合うということでそれを表し、恋人と口付けるという形でそれを表した。
 彼らだけではない。ここでは多くの者達が旅立ちと、それから訪れる感情の変化を味わい楽しんでいる。

 お父さん早く帰って来てね、と子供が言う。
 ああ、何日までの辛抱だ、と父親が言う。
 どうか体調だけは気をつけて、と母親が言う。
 君に会えない日々が苦しくて堪らない、と男が言う。
 貴方のために帰って来るわ、と女が言う……。
 自分には関係ない情が、この空間に満ちていた。
 そして、『オレの中』へ響いてくる。オレに関係しているのは、彼らが同じ道を歩むという事実だけ。

 オレは誰もが思う『長時間待たされて喉が渇いた』という欲求を発散させるために、販売機にコインを入れた。
 もう既に何時間も水分を欲していた。冷たい紙コップを手にとって迷走する。

 生まれ育った場所から離れてどこかに行く、これを『旅立ち』と言う。
 けど、今のオレは輝かしい目標も持っていなければ、別れから生じる深い情さえも芽生えなかった。
 心が欠落しているつもりはない。寂しい人間であろうと思ったこともない。
 希望に満ちた旅立ちではなく、奈落への旅立ち。オレは……逃げているようなものだった。
 だからオレには、相手に渡せる情など無い。帰りを宣言する対象もいない。またねと言い合う気に狂った知り合いもいなかった。愉快なことを口走れる知り合いや親戚はいなかった。
 そんな人が居てくれても困るもんだ。オレはひとり、オレの中だけに情を忍ばせながらオレの決断を歩んでいくだけのこと。
 だからこそオレの手を引いて止めに来る奴がいると、心臓が飛び出るぐらい驚いてしまう。

「申し訳御座いません」
「わっ!」

 声を掛けられ、オレは折角のジュースを落としそうになってしまった。
 それぐらい唐突に引き止められた。まさか話しかけてくる者などいないと、心の底から思っていたから。
 引き止めてきたのは少年だ。体つきは勇ましく、何か運動をしているなと思えるぐらいの凛々しさを兼ね備えている。
 十二歳ぐらいか? 随分大人っぽいが、どこか幼さを残しているから二十歳にはなっていないだろう。女もいないような顔立ちもしている。見覚えのない少年だったが、どこかで見たような顔をしていた。

「……えーと、オマエは……誰だったかな……?」
「名を、一本松(いっぽんまつ)と申します。暫しお待ち下さい、こちらに照行(てるゆき)様が向かっています」
「……え」

 その名を聞いて、ああ、この子は仏田の一族……オレの親戚なのかと知ることができた。
 そりゃ自分の顔立ちに似ているのだから、見覚えがない少年でも見たような気になれる。
 この子とオレがどれくらい血筋が離れているか知らないが、『照行』という名の男がこの子を行使しているのを見ると、直系一族に近い子供とは察する。
 照行様は前当主・和光様の弟君。近くに侍らすのは、さぞ血の濃い子供であろう。
 少年に引きとめられ、待つこと数分。少年が口にした名の男は、ゆっくりと歩いてくる。高価そうで堅苦しい色の着物を纏った、威厳のある男性だった。

「久しぶりだの」
「……これはこれは照行おじさん、わざわざこんなところでお会いできるとは思ってもいませんでした。これから遠出ですか?」
「そのような予定は無い」
「……でしたら何故このような旅立ちの場へ。ぶっちゃけて言ってしまいますと、ここは照行おじさんのお姿は似合わない……」
「そうだな。儂も空港とやらに来たのは初めてだ。広すぎてお前を探すのも大変だったわ。元気が良いのを連れて来て正解だった」
「……そうでしょう」
「ああ。誰かを走らせんと、お前はとっととどっかへ行ってしまうからな」

 元気が良いの、と呼ばれた少年は控え目に照行おじさんの背後へ下がった。
 少年とは思えない落ち着きっぷり。もう何年も使用人の場を積んでいるようにも見える。
 少年の目は非常に冷ややかなもので、感情に揺らぎがない。「照行に嫌われる性格だな」と思った。

「……何用でこんなところへ来たのです」
「お前を引き止めに来たのだ、悪いか」
「…………え」

 照行は近くのソファにどっしりと座った。
 まだまだ元気なのに、足腰もちっとも弱っていない男は老人のように重々しく席に着く。
 軽やかな動きをしてオレを捕まえてみせた少年を隣に引き連れているから、余計に年寄りくさく見えてしまう。
 だが、オレは知っている。オレなんかより、ずっと素早く力強い動きをする男だってことは。その動きを何度も見て育ってきたんだ。簡単に忘れない。

「なんだ、不服か」
「……御冗談を、照行様。アナタは前当主の弟……いくら前任者とはいえ、『機関』で指揮をとっている最中なんでしょう。航(こう)から大体のことは話されています、そんなに暇じゃないってことぐらい。オレの見送りにわざわざ来る必要なんか」
「見送りではない、引き止めにきたのだ。それに『様』など付けるな。気持ち悪い。……お前は、儂と同じ血を継いだ……立派な、一族の末裔ではないか」
「もう既に飛行機のチケットは取ってしまってますよ……」
「そんなもの破り捨ててしまえ。お前はこの国に残るべきだ。どこにも行くな」

 照行の低い声が、空港中に響くかのような形で、耳に入ってくる。
 その声色は、まるでオレを本当に気遣うかのような、心配してくれているかのような言い方だった。
 茶化すことなくオレの顔を見ながら言ってくれている。
 まさかと思う。冗談でもなんでもなく、仏田一族の大御所が、オレの為にここまで来てくれた。
 それはありえないと頭を振るった。オレなんぞは直系一族に気にとめてもらえるほどではないと、生まれたときから判っているからだ。

「そのような言葉を頂けて嬉しゅう御座います。……ですが、オレには行くべき場所があります。オレは寺に残る者ではありません……」
「そう言うな。今でもお前を恋しむ者達はおるぞ。主に、儂がな」

 ええ、知っております、と頷く。
 どうやらこの男は、本気でオレを説得しに来たようだ。何者でもない、照行という男が。仏田一族のあの照行が、オレの為に。
 彼の言葉に首を振った。嬉しいとは純粋に思う。彼が何者であろうが、旅立ちの場に声を掛けてくれる他人は父親でなくても恋人でなくても、嬉しいものだった。
 でももっとオレ以外に情けをかけるべき人材はいくらでもいるというのに。
 
「オレの何が庇うに値すると思ったのですか……?」
「それを、聞くか」
「……はい、オレはどうして大切にされるか判りません。オレよりも声を掛けるべき人間はいると思います。もっと救いを求めている僧を照行様は見てきたでしょう?」
「救いを与えるのは儂の仕事ではない。儂は、『人道を外れた者ら』を罰するだけのこと。それももう引退だ。今はもう、後継者を見つけておる」
「……そうですか」
「ああ、後継者はいても……それでも、愛する子供をみすみす殺すような真似はせん。そう、殺すようなことはせん」

 ガシッ、と。男の深い皺の掌が、オレの手を掴む。
 多くの武器を握り締めてきたのであろう歴戦の覇者が、仏のような優しい笑みを浮かべていた。

「儂はお前を失いたくないと、本気で思っているぞ」
「うくっ。今のは……ちょっと胸がときめきかけました……」
「お前を改心させるつもりで言ったからな」
「……卑怯です、照行おじさん。幼い頃からオレは、貴方の言葉に励まされ生きてきた。そんな人が……嬉しいことを言ってくれたら、心が揺らぐではないですか……」
「だからそのつもりで言ったのだ。お前は自分を過少評価しすぎではないか? ……実際は、儂らと同等の地位にいるくせに」
「……それは」
「儂は、年上だからこうやってお前に威張っていられるだけだぞ。お前が望むなら儂は喜んでお前の居場所を用意する」

 恋する乙女が男子に言われたなら、どれほど赤面することか。
 面と向かって年老いた男に言われ、笑わずにはいられなかった。
 本心では嬉しかった。とても嬉しかった。
 どんな言葉で装飾されても、オレを受け入れてくれる人間がいるということは、嬉しいのに違いなかった。
 オレは自分の父の顔を覚えていない。この男は父親のように慕った人物だ。実父以上に慕っているからこそ……オレの為に言葉を繰り出してくれるのは、嬉しくて堪らなかった。
 しかし、そうと言っていられない。一度決めたことを撤回するのは、照行が常々言っていた『男が廃る』というもの。

「……ありがとうございます、照行おじさん。本当に嬉しゅう御座います、今の言葉でオレは救われました。……だから、その言葉だけで充分なんだ。オレは、『教会』の仕事をこなしてくるつもりです」
「それは、お前……」
「……いえ、命令に従うためだけに聞いたこともない遠くの国に行く訳じゃない。自分で可能性を切り開くためにこの国を出るんだ。……閉鎖的な日本を飛び出す勇気がやっと持てたんだから、迷わせないでください。……母をやっと説得できてここまで来たんですから……」
「あの人に反対されただろう」
「そりゃあ、一人息子がどっか知らない国に行くんですからね……。けど、異端によって苦しめられている国はどこにだってある……。力がある者が駆けつけなければというのは、『教会』の方針なんですよ。第一陣なんて名誉あることじゃないですか。このおかげで、母の老後も豪遊できます……」
「そんなの、儂が」
「……やめてくださいよ、おじさんから貰うのはお年玉だけで充分です。……決意してやっと家を出てきて、しかも父だと思っていた照行様に会えて、これだけで感激で泣きそうなんですから判って下さいませ」
「だが。……死地に向かおうとしているお前を黙って見送ることなど、儂には出来なかった」
「ありがとうございます……」
「お前だって、死にたくはない筈だ」
「……勿論」

 笑うしかなかった。ここまで彼が自分を想ってくれているだなんて、嬉し涙が出そうだったから笑って誤魔化すしかなかった。
 自分は孤独でなかった。……それが判っただけでも、この決断は意味があるものだったのかもしれない。
 堪えようと目を瞑りながら、オレは語る。

「こいつ、P−27の定期検査が必要だからって定期的に『機関』には訪れるよう、航に釘をさされています。だから、三年後には必ず帰国しますよ。……必ずオレは帰ってくる。母にも手紙を出します。おじさんは今以上に母に会いにきてください……」
「…………」
「……オレは今日、日本を出ます。その決意は変わりません」
「頑固者め。父親そっくりだ」
「それは、光緑(みつのり)に言ってやってくださいよ。……改めて言わせてもらいますが、オレは、オレの人生のために、オレの運命を切り開くために、仕方なく日本を離れるだけです。……オレは、どうしてもチケットを破り捨てることはできないんですよ……。それが運命なんです」
「運命なんて大層なことを言うな」
「……知ってます? この世界の神様は人間の運命をあらかじめ決めておいているんだそうですよ……。神様は人間が幸福に生きるように個人の世界を創ってくれている。その決められた中で、自由に生きていくんです。そう母が作ってくれた絵本で読みました。……貴方の前から去るのも運命、でもそれは、オレにとって悩み抜いて自分で選んだ自由で尊い選択だから……」
「……もう良い、お前の決意は判った。確かな決意だ。儂は……お前を、応援するしかできない」
「はい、ありがとうございます。貴方の気持ちを無碍にしたオレをお許し下さい……」

 深々と頭を下げる。
 旅立つ父親が子を抱きしめるがごとく。女が男を繋ぎとめるように。オレは彼に最大の賛辞を呈した。
 手に取っていたジュースはもう気が抜けていた。まだ一口も飲んでいないそれは、既に炭酸の音がしない。それほど彼と言葉を交わしていた。時間さえも忘れるほどに、彼との会話に必死になっていた。

 オレはこの国を離れる。
 そう神に命じられた。いや、自分で決めた。どちらかは……誰も教えてくれない。
 どちらだと思うと隣に尋ねても、「――判りません」という言葉しか返ってこない。ならば、自分が気持ち良い方を考えよう。オレは……オレのために人生を作っていくんだ。

「そうだ、照行おじさん。……先ほど言っていた後継者というのは、後ろに居る彼のことですか?」

 オレ達の会話を待っていた少年を見て、尋ねる。照行おじさんはその言葉に頷いた。

「ああ。まだ若いが将来有望な子だ。外界に出るのは初めてでな、少し浮わついた顔をしているだろう?」
「……外……仏田寺を出るのが、初めてなのですか?」
「そうだ、あの年で外に出していないのはどうかと思ってのう。流石の清子(きよこ)も過保護すぎだな。儂が勝手に連れて来たんじゃ」
「学校も……通っていないのですか」
「それを言うたら儂もそうだぞ、そもそも読み書きが判ればあんなところ行くもんではない。学び舎なんぞ、我が一門には要らぬもんだ」
「すみませんが、彼と話して宜しいでしょうか?」

 …………。

 照行様とは少し場所を離れ、少年と二人きりになる。
 空港の様々なシグナルの騒音にまみれながらも、お互いの声しか聞こえない場所にやって来た。
 オレは無表情の少年の顔を見ながら、やっとそこで紙コップのジュースに口をつけた。炭酸だったものが、もう単なる甘い水になっていた。黒い砂糖水を半分以上飲み干す。少しだけ口の中が痛くなって笑った。
 殆ど飲み干してから、少年に話しかける。

「……外は初めてだと聞いた」
「はい」

 簡潔な返事。
 話しかけられたこと以外は返さないように教育されているのか、単調な少年だった。

「……どうだ、寺以外の風景は」
「とても不思議な場所です」
「……空港は他の場所よりももっと特殊なところだからな。全部が全部、こんなハイテクとは思わない方がいい」
「はい」
「オマエは……仏田の処刑人になるのか?」
「はい」
「そうか、もうそうなるって決まっているのか……?」
「何事も無ければ」
「……『仏田の処刑人が何をする』って判っているんだな?」
「はい」
「そうか。もう認めてるんだ。じゃあ、そのうちお世話になるな……」
「…………」
「何のこと、って訊かないんだな?」
「苦しそうな顔をしていますので、訊かない方が良いと思いました」
「……え? そんな顔してたか? うくっ、恥ずかしいな……苦しそうな顔をしていたか、オレ……」
「はい」
「……これから処刑人になるなら、違う任務で世話になるかもしれない。あと何十年先の話か判らないけど、きっとそうなる。オマエが大人になって一線で活躍しているときに……優しくしてやってほしい」
「はい」
「返事だけはいいね、オマエは。でも、出来れば少し生活を変えてみたはどうだ?」
「…………?」
「オマエは、仏田の生活に馴染み過ぎている。仏田の寺で生まれ、その世界だけで育ってきたのだから仕方ない。……世界はそれだけじゃないんだ……外の学び舎もあれば、僧侶以外の人間達も多く暮らしている。日本以外にも国はいっぱいある。でも、あそこの生活をしているだけじゃそれが判らない。だから……外を知るためにもっと外に出た方がいい。処刑人になるなら、余計にだ」
「…………」
「返事、してくれないんだな」
「……自分では決め兼ねます」
「そうだろう。処刑人っていう役所は、重いもんだ。武器を振るうってことが認められているから……いや、それだけじゃない。もっと大切なものを扱う。そのためには多くの価値観を見ておいた方がいい。あそこにいると、感覚が鈍ってしまう。その感覚が鈍って生きていることに気付かずにいてしまう。せっかく……今日、外に出られたんだ。これを機に、父さんに外に連れて行ってもらえるよう言ったらどうだ?」
「……自分では、決め兼ねます」
「そうか。……でもオレは確かに言ったからな、一本松。これは……重要なんだ。あの寺は異常だってことを、オマエは知っていてほしい。だって……ご先祖に命じられたからって、人を束縛する連中なんだぞ。それはおかしいと思わないか。……ああ、思わないと駄目なんだよ! 神様が苦しめと言ったら苦しむことを当然と思っているなんておかしいんだ。オレもなかなかそのことに気付けなかった。でもそれがおかしいことだって気付いたから……!」

 …………。
 いや、この辺でヤメておこう。

「一本松、もう一度言うけど……。処刑人になる前に、もっと世間を知っておいてほしい。何が一番大切なことなのか。誰が一番偉いのか。……何がこの世で最も、尊いのか」

 言葉を捲し立てた。初めて会った少年に言うのは、恥ずかしかった。
 少年も呆気にとられていた。理解してくれと頼み込むなんて苦しいことをしている。
 けれど……『子供のときに妙なことを言った大人がいた』と記憶してくれるなら、自分は良いことをしたと思う。そう思いたい。

 オレはあそこを愛している。それはかけがいのない場所として、オレの母が愛した場所として愛している。
 だが、世界としては……あそこはとても歪んでいる。
 血の濃さが全てを言う世界。盲信者の集まり。一人の神の言葉を絶対と信ずる制度。
 言葉ひとつで周囲が変わる恐ろしさを、力の誇示がいかに恐ろしいものかを……これから上に立つ少年に知っていてほしかった。
 少年がちゃんと理解し、オレの言葉を受け入れてくれるかは判らない。だが、少しでもオレのような小さな声があったことを未来で上に立つ者が記憶してくれるなら……それは価値のある時間になったと思う。
 満足して、紙コップに最初の一口を付けた。

 …………最初の、一口?

 紙コップから手を離す。紙コップは、重力に逆らうことなく落ちていく。軽いそれは、音を立てることなく床に墜落した。
 黒い液体が床に流れていく。炭酸が抜けてしまったジュースが、大きな湖を作った。大きな大きな湖だ。それはそうだろう、だってオレは一口しかこのジュースを飲んでいないのだから。

 ……いいや。
 …………いいや。いや、いや、そんなことはない。

 オレは確かに、『ジュースの大半を飲み干していた』。
 確実に、少年に話しかける前に、黒い砂糖水を飲みきっていた筈だ。口の中の微かな痛みを感じていたではないか。それを感じながら自分の痛みをこの少年に話した……そう記憶している。
 だが、実際はどうだ。今のオレは、『まったく口内に痛みなど感じていなかった』。

「……え……」

 何故。何故だ。オレがジュースを飲んだというのは、勘違いだったのか? すっかり飲んだ気でいたけど、話をすることに夢中になって記憶が曖昧になっていただけか?
 少年の方を向いた。オレが零してしまったジュースを見て、少年はオレの従者と共に慌てて床を拭こうとしている。手持ちの布を取り出し、床に膝をついた。
 遠くでそれを見かけた照行おじさんがやって来て、「何をしているのだ」とオレを叱る。
 本当にオレは何をしているんだ。少年にジュースを拭かせて、そもそも折角買ったジュースを一口飲んだだけで無駄にして。
 オレは自分の主張に必死になるばかりで、周囲のことをおざなりにしてしまっていたのか。それだけ……混乱していたのか。
 少年に謝りながら、オレも零してしまったジュースの処理をする。

「……して」
「…………ん、なんだい、一本松」
「お話とは何でしょうか。先ほどから黙ったままですが何か俺に話があるのでは?」

 ……。
 …………。
 ………………。
 オレは、何も言わなかった。

 首を傾げる少年に謝り、照行おじさんに別れの言葉を言ってその場を離れた。
 あそこまで感情的に話しておきながら、別れを疎かにしてしまうとはいかがなものか。いや、そんなものに構っていられないほど、困惑していた。

 少年に何も話していなかった。
 少年に話があると言い、照行おじさんから離れ、買っておいたジュースに一口つけたところで、オレはジュースを落としてしまったらしい。
 その間には何も無かった。オレは少年を連れ出すだけ連れ出しておきながら、紙コップを落として彼に片付けさせたに過ぎない。それ以外のことは何も無かった。

 それは、おかしい。
 何かを話した筈だ。何かというのは大切なことで。
 この国を去る前に……オレが死ぬ前に、これからの少年に伝えねばならないことを……話した筈だ。
 話した筈だった。
 話した筈だった、
 のに。それなのに……それなのに、何故。何故!

 空港の屋上テラスに出る。青空の下に立ちすくむ。そのまま……眼を閉じた。
 オレの眼が、この世のものを映し出さなくなる。
 他の人間とは違う眼は、この世のものではないものを、映し出し始めた。

 オレの体は、普通の人間とは違う。一族の中でも突然変異で生まれてくる子供はいるらしいが、それとも違う。
 生まれたときから、『何かの模様』を印刷していた。
 仏田一族には、体の一部に『刻印』と言う名で痣のようなものを持って生まれてくる子供がいる。直系ならほぼ確実に、そうでなくても仏田の子供の大半は腕や、胸、脚などのどこかに不思議な渦のような形を備えて生まれてくる。
 オレの場合、それが……。

 ……一族の大半は何らかの模様を持って生まれてくることを知っていたし、周りの僧侶や女中たちもそれを認めていた。それが普通だと思っていたのだ。
 だが、現実は違った。とても不可解で不気味なもので、他人から畏怖されるものだと知った。
 その通りだ。オレは他の者とは違う異端だから。過半数の中に入れないオレは受け入れられない社会の仕組みを理解できた。そして、それと同じくして他にも一般的な世界とオレが生まれた世界ではズレがあることに気付いた。
 それは、あまりに多かった。多く違いがあって戸惑ったものだが……オレだけでなく、オレ達が異端であることを知ったんだ。
 眼を閉じる。
 青空の下、この状況に混乱していた。この不安な胸を解決するために、出来ることは……。

 ……………………声を、聴く。

 ……。
 ――。

 ――……。
 …………――。

「余計なことをしないでちょうだい」

 眼を瞑ったあの世で、オレに話しかける声がする。
 眼を開けていては出てこない『彼女』が、この世界ではいるんだ。

「……やっぱり……さっきのは、オマエのせいだな」

 オレは眼を閉じながら、溜息を吐いた。
 眼を閉じているから何も見えない筈なのに、彼女の顔を見る。そう、彼女には……眼の奥の別世界で会える。この世界でしか会えない彼女は、少しご立腹のようだった。

「余計なことをしないでちょうだい」

 もう一度、同じ事を彼女は言う。

「オレは、また、オマエを怒らせることをしてしまったのかな……」
「……ええ、したわ! 貴方は最近余計なことばかりをする! なによ、さっきの説教は? 貴方、また川越様の悪口言ったわね!」
「そのような覚えは無いな。そもそも川越という奴なんて知らない。……マズイことをしてしまったのなら、オレの代わりにオマエが謝っておいてくれ」
「してやんないわ。だから悪口、無かったことにしといたから」
「…………また、時間を跳躍したか。オマエに好き勝手飛ばれると、何が何だか判らなくなる。どれが本当の時間なのか、どこで本気を出していいのかちっとも判らなくなってしまうんだよ……」
「全てにおいて本気で生きればいいのよ。全てが本当の時間なんだから。貴方が現実と思うものが現実で、貴方が違うと思えばそれは虚像よ」
「……オレは、本当の時間と思い、一本松と話していたんだが。オマエは巻き戻してしまったな」
「アレはダメ。あの後、大変なことになるからリセットした」
「……セーブした時間がジュースを飲むところだったか。せめて飲みきった後にポイントを置いてほしかったな。ロードしたときに驚いて、コップを落としてしまったじゃないか」
「別にいいじゃない、落としたって何も変わらないんだから」
「……『やるべきことをやれば、どんな経路を辿っても構わない』。必然のイベントを通れば何をしても構わない……。そうオマエは言ったが、やはりオマエの思い描いた筋書き以外は通れないじゃないか。オマエは、矛盾したことをやっているよ」
「どこが。貴方は、最も良い時間を送ればいいのよ。現実と思える時間をずっと送っていればいいの。余計なことさえしなければ私がベストエンディングまで連れて行ってあげるんだから、わざわざ道を外すようなことはしないで」
「……自分の人生の選択肢ぐらい、オレに選ばせてくれないか。オレが現実と思う現実は、オレのものだぞ」
「それじゃあ、みんなが幸せにならないじゃない。一人が犠牲になってでも、みんなの幸せを願うものでしょう。貴方はその糧になれるんだから、喜んで死になさい」
「……本当に。オマエは、無茶なことを言うな。人生の二倍も三倍もやり直しを見せつけられて、オレは年より老けてしまったぞ。どうしてくれよう」
「私はみんなを幸せにするために一番良い標を作っているの。貴方はさっき、バッドエンドを選びかけたわ。だから私がロードしてあげたの」
「時間跳躍とは不思議なものだな。……オレは謀反を企てるために一本松に言ったつもりだったが、その根元を断たれてしまって腹立たしくて堪らんよ」
「…………。貴方、まだ懲りてないの?」
「オレは仏田一族を愛してはいるがな、このやり方は苦痛にしか感じない。悔しくて足掻きとして一本松に託そうと思ったが、やはりそれもオマエに邪魔された。ああ、恨めしい恨めしい」
「……貴方のその考え、私は大嫌い。他のみんなが必死になって叶えようとしていることは貴方は否定するから、嫌いよ」
「他のみんなは、ではないだろう……? 他の皆を、『オマエがそういう風に仕向けているだけ』だ。多くの人間の運命をオマエ一人で操っているだけで、そこに何の団結も無い。神の絞り粕が一人で足掻いているだけの滑稽な世界だ……」
「はん。その現実に生きるのは貴方達よ。貴方が現実を現実と疑わなくても、そのまま事は進む。貴方は通過していく運命の儘に生涯を閉じればいいの。後継者は、もう出来てるんだもの。――――さっさとお役目御免しちゃいなさいな」
「……むかつくな。本当にオマエの存在が腹立たしくて堪らん。オマエのような怨霊を生んだこの自然に反逆を企てたいよ。……出来る事なら、オマエに一泡吹かせてやりたいところだ」
「そんなの出来るのは私と同類ぐらいよ。悔しかったら貴方も私のようなモノになって、私と同じ舞台に立ちなさいな」
「出来ないことをしゃあしゃあと言って退けるか、この女狐め。しかしそうなるかもしれんぞ、覚えていろ。世界の全てがオマエに味方すると思うな……」
「ふん、随分な強気ね」
「……死地に赴く男は強がりも半端が無くなるからな。死ぬことを覚悟した人間ほど恐ろしいものはないとも言うぞ」
「簡単に死ぬことを認めたのね、貴方。……いいわ、貴方の最期を少し変えてあげる。死ぬのは変わらないわ、ただ死に目を何度もご覧なさい。さっきみたいに何度も同じ時間を繰り返すように、貴方が死ぬ時間を少しずつ変化をつけて何度も殺してあげる。結局は運命は変わらないのだから現実も支障は無いわ。貴方が自覚する現実の死が何度も訪れるだけ。私を苦しませることを言う貴方に、私からのプレゼントよ。………………何回でも、殺されなさい」



 ――2005年11月6日

 【     /      /      /      / Fifth 】




 /2

 風が吹いていた。室内で窓が閉まっているのに、風が吹き荒れていた。
 四階建てのマンションの最上階。古い建物のせいかエレベーターは無い。頂点まで階段を使ってひたすら歩き続けた。上の階へ進むたびに強風が吹き、俺達の足を止めようとした。
 一般人のマンションオーナー曰く、「上の階に進むと寒気がしたり気分が悪くなったりする。時には倒れる者も居る。だからなかなか四階に辿り着けない」らしい。多少の魔力を持った俺ならきっと昇れると思った。そうして今、気分が悪くなるという物理的に進むことが出来ない現象に襲われていた。
 強風に煽られ、いつ階段から落下してもおかしくない。勢い良く転げ落ち、鉄筋の地に頭から落ちたら頭の骨を損傷するかも。ここに住んでいる悪霊さんはそんなに四階に来訪者を招きたくないのか。無理に昇ったら危ないと思い、三階まで下った。安全に下ることが出来た。

「だからって、ここで帰れるかよ」

 駐車場ではマンション中に結界を張っている瑞貴(みずたか)さんが待っているんだ。暇になったら車内で本でも読んでそうな人だけど、さっきまで真面目な顔で応援してくれてたんだ。その人の期待を裏切る訳にもいかない。
 俺はパチンと指を鳴らした。右手に炎を纏う。その火力をどんどん強くしていく。右手の炎は右腕を全て纏うほど大きくしていった。
 その炎を、オーナーから「怨霊を退治できるなら好きにしていい」と言われていた部屋へ灯す。
 すると突然、雨が降り出した。
 室内で、窓が閉まっているというのに雨。単に非常用スプリンクラーを発動させただけだったが、マンションの一帯が不自然な雨に濡れていった。

「ウマ、何してんの?」

 隣で炎を起こし、雨まで降らせた俺を見て、寄居がぼんやりとした声を出す。
 こいつも風が強すぎて四階に進めずにいた今回の仲間だ。一緒にマンションの幽霊を退治しようと奮闘している彼だったが、俺の突然の凶行に変な笑みを浮かべていた。

「寄居には聞こえないのか。女の声が」
「ええ? してんの? 全然気付かなかったわ」
「お前、霊感は案外無いからな。メッチャしてるよ、女の声」

 そうなんだ、なんて言ってる?
 俺と同じく、頭から雨を被っている寄居が濡れた黒髪を掻き分けながら尋ねてくる。

「……『なんでこんなことするの! マンションが燃えちゃったらどうするの!』だってさ。引っ切り無しに言ってる」
「あー、良心的な思考の幽霊さんだね。マンションが燃えることを心配してくれてるんだ」
「ああ。このマンションが無くなることが相当嫌らしい」

 耳を押さえながら時を待った。そろそろだ。
 俺達は三階から最上階に続く階段を昇り始める。風は強かったが昇れない程ではなかった。どうやら幽霊は炎を消すことを優先し、スプリンクラー以上の雨をマンションに降らしていた。
 水気で体は重かったが動けないことはない。俺が放火した部屋が守られる前に四階へと向かった。
 漸く念願のラストダンジョンに辿り着いた俺達は、とりあえず顔の水滴を払う。

「あ……」

 廊下を見渡した寄居の目が変わる。何かを捉えた目だ。
 俺にしか見えてなかった幽霊の姿が、奴にも見えるようになったんだ。戦闘態勢に入るために、虚空から武器である大剣を召喚する。
 途端、女が悲痛な声を上げた。世にも悲しい叫び声だ。それでも気にせず寄居は剣を構える。

「通訳を頼む、ウマ。俺にも姿が視えるようになったけど、声までは聞こえないや」
「……通訳の必要無いと思う。そのまま斬れよ」
「なんでさ。あの顔からして何かを必死に訴えてるじゃん。これから戦うんだから言い訳ぐらい聞いてあげないとさ」

 のんびりと、でも殺気を醸し出しながら寄居が女に大剣を構える。
 俺も寄居と同じようにいつでも戦闘に入れるようにはしていた。だが、寄居ほど強烈な殺気は出せなかった。
 多分、女の悲痛な声を聞いてしまったからだ。情に弱い人間をとことん落としてくる作戦なのか。女は悲しい話を口走っていた。

「ウマ、何言ってるのか教えろよ。つまんないだろ。ラスボスの動機が判らないのってさ」
「……『なんで邪魔をするの、アタシはカレといっしょにいたいだけなのに』だって」
「ふぅん」
「『カレとの思い出の部屋を壊さないで。アタシはずっとカレとここで住んでいくの。アタシの楽園を汚さないで』だって」
「……それ、ウマ通訳? もっといっぱい言ってるでしょ」

 寄居には人の心が無いのか、悲しい言葉をどんどん言っちまえと涼しい顔で強要してくる。あんまり興味も無いくせに。
 ああ、女は本当はその四、五倍も長く、表現豊かに叫んでいる。思わず同情したくなるぐらい切ない新婚生活を、恋をしたことある人なら羨ましくなるようなアツアツの日常を、必死に叫んでいた。
 こんなにカレのことが好きなんだ。好きで好きでたまらないからずっといっしょにいたいんだ。だからこの生活を崩そうとする全てのものが許せない。邪魔する者は一般人だろうと能力者だろうと全て殺す。そう、引っ切り無しに叫んでいた。
 あまりに女が必死すぎて、こっちが攻撃するのも心苦しくなる。演技じゃなく本当の愛を語っているなら大した女だ。
 でも女はもう幽霊。自分の悦の為に人を害する悪霊だ。本物の彼女はもう死んでしまっている。お葬式だってされたんだ。今では立派な『住民を無くしたマンションを取り壊そうとした業者を散々な目で殺しつくす』恐ろしい異端だ。いくら情に訴えてきたって許しちゃいけない。
 だから、ここは何も聞こえていない寄居の方が有利だ。寄居は叫びを聞きたがっているけど、聞かない方が絶対にいい。情を切り捨てられるほどの冷酷な人間ならともかく。

「宣戦布告は聞いたね? じゃあ行くよ」

 いいかげんな俺の通訳を十秒間だけ聞いた寄居は、濡れた体で駆け出した。
 走り来る寄居を見た女の霊は、怒りの悲鳴を上げる。マンション中の空気が変わる。室内だというのに竜巻が起きた。そのせいでうまく動けなくなる。
 でも相手の体は見えている。炎をそこまで飛ばす、のでなく、女の体の元で発火させた。
 炎が飛んでいくときに風で吹き飛ばされたなら全然ダメージが入らなかったけど、目標の位置を把握してたならそれも可能。霊の核自体を爆破、炎上させる。霊力の塊である炎に燃やされた女は、今度は苦痛の絶叫を上げた。
 さっきから声のデカい女だな、こいつ。
 風が止んだところで寄居が斬りかかった。自分の体ぐらい大きい剣を振りかぶる寄居にとって、風を操る異端との相性は悪かった。だから俺が戦場を操作してやらないと。態勢を整え直そうとしてくる女に対し、すかさず発火した。出来る限り早口の詠唱で、相手の反撃を許さないようにする。
 でも女だって黙っちゃいない(さっきからずっと叫びまくりのうるさい女だが)。迫り来る寄居の前進を諦め、今度は俺めがけて風を飛ばしてきた。
 思わず腕で顔を庇う。鋭い風で、左腕が斬られた。踏ん張ったことで前に出していた左腕も斬られ、血が宙に舞った。
 予想していたことだったのに傷を負うことになってしまった。ちくしょうと意味を込めて舌打ちする。
 それがいけなかった。舌打ちなんかしてたら詠唱する口が止まる。俺の意識が術から遠ざかることで、女は更なる動きへ移っていった。

 強風に乗って逃げようとする女を、寄居が身を低くして追う。
 大きく振りかぶり、大剣を下ろす。だが女には当たらず、マンションの床を破壊した。
 小さなクレーターを作ってしまうほどの攻撃力だ、直撃したら致命傷になる。それは女も判っているらしく、逃げ続ける……と思ったら、「大切なマンションを傷つけられた」ことに腹を立て、泣きながら無茶な攻撃を繰り出してきた。
 ああ、その手があったか。
 俺は僅かな小節を刻んだ。相手を倒せるほどの破壊力を持った炎ではない、ボヤが起こせればいい程度の僅かな炎を生じさせる。
 そのまま手前にあった部屋の扉を燃やした。小さい火なので簡単に燃え広がることはない。だが、女は絶叫する。
 ――なんてコトを! アタシ達の楽園を!
 単純な作戦だった。意識を集中攻撃から離すには、女が大好きなこのマンションを壊せばいい話だった。マンションのオーナーからは好きにしていいと話をされている。そもそも取り壊す目的だったんだ、その手伝いをしていると思えばいい。
 声に出さなくても俺の意図を寄居が読み取り、手近にあった部屋のポストを剣で破壊した。
 攻撃が止まる。女が悲しみの声を上げる。風が止む。隙ができる。……その代わり、俺の耳には涙が出るぐらい悲しい声が響いていた。
 ――ヤメて。アタシはカレとずっとここに居たかっただけなの。ずっといっしょに居ようって約束したの。その約束を叶えたかっただけよ。アタシにはカレしかいない。愛してくれるのはカレしかいない。だからカレの愛した場所を守りたかった。カレの思い出を守るためならなんでもしたかったの。オネガイ壊さないで――。

「いいかげんにしろよ」

 寄居が、マンションの部屋部屋が見えるぐらい壁を破壊した後、女に向かってドスのきいた声を放った。

「お姉さんを殺したカレを恨んで殺し返したのはいい。同情の余地がある。けどさ。勘違いで、『綺麗な異端』になるのはヤメろよ。見苦しい」

 ハッと異端の女が目を見開く。「その先を聞きたくない!」と言うかのように、彼女は両耳を塞いだ。
 寄居には女の姿は微かに見える程度で、声はちっとも聞こえていない。でも女は寄居の姿をハッキリと知覚しているし、やや静かな声もバッチリ聞こえちゃっている。耳を塞いだどころで、実体を持った人間の声が完全にシャットアウトできる訳なかった。

「お姉さん、DVされてたんだよね? それなのになんで『愛されてる』って思うの? カレシさんに暴力の末に殺されちゃったんだよ。しかもさ、殺したお姉さんの体をカレシは隠しちゃったんだよ。ホントにお姉さんのことを愛していて不慮の事故で殺しちゃったとかだったら、素直に罪を償おうとか思わないかな? お姉さんの存在を無かったことにしたいぐらい、あの人にとってアンタはどうでも良かったってことだろ」

 寄居の言葉を認めたくないのか、大絶叫以上の悲鳴を上げる女。
 違う違うとガラスを引っかいたような声で叫び続ける。そして数々の男女の思い出を、物凄い勢いで語り出した。
 あまりに綺麗すぎる二人の情景に、美しすぎる愛の物語にあんまり仲を疑ってなかった俺でも「嘘だ」と思ってしまった。

「異端になってカレシさんも殺したんだからさ、もう満足しただろ? 早くカレシさんを成仏させてあげなよ。束縛してないでさ。いつまでも好きじゃない女に纏わりつかれてるのって、可哀想だよ。ついでにお姉さんも成仏しちゃいな。ここの土地は生きてる人間の物なんだ、アンタのじゃない。そもそもお姉さんが生きてたってここはオーナーのもんだ。勘違いすんな。勘違いしすぎだ、この勘違い女」

 寄居は女を真実の言葉で傷つけて、相当弱ったところでトドメを刺そうとしたんだ。いつもだったらのんびり話すような寄居が、饒舌に、嫌味な笑みを浮かべていたのはそのためだ。
 でも、あまり普段からしないことをやって調子に乗りすぎてしまったようだ。女を虐げるのがそんなに楽しかったのか、それともこういうタイプはホントに嫌いだったのか。
 だから寄居も、攻撃や防御のことを一切忘れてしまった。
 大剣を持っていた寄居の右腕が、肘の下からボトリと落ちる。
 指は剣を握ったまま、寄居は分裂した。
 あ。
 俺と寄居は二人で声を揃えてしまった。
 ぶしゃあと赤い血が寄居の断面から噴き出したのは、言うまでもなく。

 ――人らしい判断を元から無くした女が、更に興奮しきってくれたおかげでまともな思考を働かすことなく。ただ暴れるだけ、力を振るうだけの怨霊を叩くことなど難しい話じゃなかった。
 悲しさのあまり、女はとにかく暴れまくった。ロクな防御もせず、考え無しに怒りに任せて凶器の風だけを起こしていた。
 だから後は俺の力押しでもなんとかなった。ここまで彼女をブチ切れさせてくれた寄居には、感謝しなくちゃいけない。

 俺は意識を失い倒れた寄居を肩に抱くなり、寄居が破壊した窓から地上へ飛び降りた。
 咄嗟に思いつく呪文を唱える。最上階から土までの重力を殺すのはテクニックがいると思ったが、案外簡単に着地することが出来た。人間、本気になれば出来ないことなんて無いのかもしれない。

「瑞貴さん!」

 真夜中の駐車場に呼び掛ける。
 俺達が中で大暴れしている最中、外から一般人の侵入が無いように結界を張っていた瑞貴さんの名前を叫ぶ。すると軽自動車から白いコートの青年が出てきた。
 今日の『仕事』の送迎役である瑞貴さんは、白魔術の達人だ。俺が担いでいる意識を失った寄居の様子を見るなり、瞬時に虚空から『使い魔』の白猫を召喚する。評判に相応しく、光の速さで寄居の応急処置をし始めた。

「その、瑞貴さん、寄居が」
「緋馬様。そのシャツの拘束を解いてくれ」
「は、はい」

 寄居が着ていたシャツを脱がせる。分断された面を止血したつもりだったが、プロの目には頂けなかったのか。
 俺のうろ覚えの応急処置は邪魔だと言う。また激しい出血シーンを見なきゃいけないのかと思いながら、言われた通りに拘束シャツを解く。
 瑞貴さんの口が小さく動く。使い魔に何かを命令する。
 使い魔というのは能力者が使役している絶対的な主従関係で成り立つ動物や精霊のことだ。一時的に術者に能力の一部を与えてくれる者達で、白魔術に特化した瑞貴さんが契約(霊的な主従関係を結ぶこと)をしているのは、非常に知能の高い白猫だった。
 マスターである瑞貴さんの指示に従ったのか、サーヴァントの白猫の口も人語を介すように動く。瑞貴と従者は次々と繋いでいく。
 すると途端に世界が寒くなった。キシッと氷が張り詰めるような音がする。
 結界を張って人避けをしたマンション一帯……駐車場を中心にした結界内が、極寒の地になったような、急すぎる気温の変動。
 瑞貴さんらが寄居の断面を凍らせた音だった。

「緋馬様、寄居くんの取れた腕はもちろん持って来た?」
「あ、はい……」

 自分の胸の中から寄居の腕を出す。
 腕一本なんてジャケットのポケットに入る訳がなかった。でも寄居を抱いて最上階から降りなきゃいけなかったし、落下の際の重力を殺す為に片手が空いている必要があった。寄居にもう片方で腕を持ってもらおうと思ったが、意識すら無くそれは叶わなかった。だから凄く嫌だったけど、シャツと胸に挟んで、右腕を自分の中に着込んで持って来た。
 おかげで断面図から溢れた血が垂れ、俺の体はぐっしょりと熱く重い。血が出てる人体を服の中に入れてきたんだから当然だ。
 でも迷ってる暇は無かった。両断された腕を放置しておくなんてできなかった。

「緋馬様は『教会』に連絡を。心霊治療が出来るお医者さんに来てもらうように救急要請をして」
「え、あ……」
「電話ぐらいできるよね」
「ん……」
「俺だって血がドバドバで失神しそうなの我慢して治療しようとしてるんだから、それを応援するつもりで手伝っておくれ。大丈夫。緋馬様が空を飛んで帰ってきてくれたから、時間に余裕はあると思っていい」

 爽やかな顔つきで、一度も言葉も詰まることなく飄々と瑞貴さんは言う。口元に笑みを浮かべるぐらいの余裕があった。
 でもその間、一切俺の方を向かなかった。俺を無視したり意地悪をしてるんじゃない、ただただ怪我人に集中して目を離さなかっただけだった。見るからに生真面目で冷静な魔術師の姿に気圧されながら、俺は血で濡れた手で携帯電話を取り出す。
 一応登録していた教会へ電話を掛ける。怪我人の状況を詳しく、現在治療できる人がいることも伝え、なるべく判りやすいようにマンションまでの道のりを話した。
 SOSをする側が混乱して変なことを口走りそうになるのはよくあること。そこから的確に要点を抜き取り、素早く救出に向かうのがプロ。最低限のことを言い伝えた俺は、電話を切り、瑞貴さんと寄居を見た。
 瑞貴さんの車を停めていた駐車場。夜の寒さが広がる中。寄居を仰向けに寝転がせて、呪文を唱えている。
 使い魔と共に治療行為に専念している。大事故の現場だが、駐車場には俺達三人(と使い魔の一匹)しか居ない。瑞貴さんが張った結界のおかげでいくら血生臭くなっても野次馬が来ることはなかった。第三者は介入することはない。教会はその結界の波動を目安にやって来るという。
 瑞貴さんの「電話をして」という指令を達成してしまった後は何をすればいいか判らず、とりあえず血に濡れた服を脱いだ。
 血の匂いが充満している。寄居の血の匂いばかりがした。鉄の嫌な香りが濃い。自分のものでもないのにこんなに自分の体に付いてしまっている。
 あまりに熱気が過ぎて自分の怪我に気付かなくなってしまうほど、強烈な匂いと色だった。

「瑞貴さん、俺に出来ることは無いですか」

 あまりに何もすることが無くて、経験の浅いの俺にはどうすればいいか頭も働いてくれない。先輩魔術師である瑞貴さんに尋ねると、

「黙っていて」

 怒りを一切感じさせない爽やかな声で、そう返されてしまった。納得の返しだった。
 瑞貴さんが俺を傷付ける意図で言った台詞じゃない。彼は彼なりに最善策を練って口を開いている。
 でも俺は、傷付かずにいられないし、腹を立ててしまった。勉強不足の子供のように。

 腹を立てた俺は、瑞貴さんの車に血塗れのまま乗り込んだ。
 そこから一冊の本を取って来る。今朝、瑞貴さんが「暇潰しに読む」と言って見せていた魔導書だ。彼が暇潰しに読む本なんだ、きっと白魔術の本に決まっている。そう思ってページを捲ると、ビンゴだ。俺がギリギリ読めるぐらいの専門用語がビッシリ詰まった、白魔術の魔導書だった。
 汚さないようにシャツの袖で血を拭き取った指で、最初の一行を指でなぞる。ゆっくり読んでみれば、理解できないものではない。
 魔導書は読めることは読めるけど、実際手に取って文字をなぞるのは、実は初めてだった。

 俺の中にある魔術知識なんて、藤春伯父さんがイヤイヤ教えてくれたものだ。それしかない。
 伯父さんは俺に「基礎的な文字の読み方」程度しか教えてくれなかった。俺を魔術の道、一族の生活に慣れさせないために、必要最低限のことしか教えようとしなかった。
 だから俺が操れる魔術なんて殆ど独学。ちゃんとした師のいる環境で学んだものじゃない。
 それでも読めた。ちゃんと読み方だけはマスターしていたから、詠唱することはできる。
 ……少しでも瑞貴さんの手助けになればいいと思い、今、まさに覚えたての肉体復元の式を唱える。
 今も尚、寄居がだんだんと青い顔になっていく現状。このままぼうっと立っているなんて出来ないから。

 瑞貴さんがバッと振り返る。
 寄居の治療に専念して詠唱をずっと続けていた瑞貴さんが、呪文を止めてまで俺の顔を見た。
 けどそんなのたった二秒。三秒後には自分を取り戻し、もう一度最初から高度な呪文を唱えていた。
 ……必死に唱える。見よう見まねで、瑞貴さんが唱えている肉体復元を綴っていく。
 魔導書に書かれたことをそのまま音読しているだけ。少しだけ自分でアレンジした詠唱になってしまっても、失敗しなければどんなものだっていい。ここで間違えたら、寄居の腕がくっつくどころか更に分解されてしまうかもしれない。そうならないように、なるべく忠実に、でも慣れないことで妙な式を発動させないように自分の調子で、寄居を救出した。

 ――それから五分もしないうちに、お医者さんは到着した。
 プロが到着して、寄居はちゃんとした力で救出された。駆けつけた車から瑞貴さんのような高度な術師が三人も降りてきて、よってかかって寄居を治療する。応急処置を終えたらちゃんとした医療施設の整ったところに搬送され、あっという間に寄居と腕は合体した。
 異端が負わせた傷は呪いとして一生治らない傷になることも多い。それは前に藤春伯父さんが何度も言っていた。けど、特に酷い呪いにかかることもなく、寄居の腕は元通りになっていた。
 一生治らない怪我を心配していたけど、今回は些細な後遺症も残っていないらしい。
 そうだ……女の霊は「誰かを傷付ける」ことを目的にしていた訳じゃない、「自分達を害する者を殺す」だけだった。だから呪いは守備範囲外だったんだ。運が良かったとホッとした。

 俺がすぐに寄居を連れて来たこと、瑞貴さんが的確な応急処置をしたこと、五分以内に専門の医療機関に送ったこと。
 好条件が揃ったことで、体が分裂した寄居は八時間後には右腕を振り回せるぐらいには元通りになっていた。
 的確な魔術と科学の治療で彼は修復していった。この様子なら、十時間後ぐらいには何事も無く日常を過ごしていることだろう。沢山薬を飲まされていたけど、意識が戻った寄居がいつも通りのぼんやりした顔に戻り始めたのを見てほっとした。
 暫くは薬が効いて変な調子になるかもしれない。でもそれも一時的なこと。一晩も入院することなく、ちょっとした睡眠を取る程度で、寄居は教会の息が掛かった病院から出ることになった。
 呪いでなければ異端の傷なんてこんなもんなのか。腕一つを斬り落とされて出血も物凄かったくせに、案外あっさりとした幕切れに驚いた。

 瑞貴さんの運転する車に、半日入院の寄居を乗せ、家路に向かう。
 その前に俺は高校の寮に送り届けられる。朝方まで『仕事』はしていても、こっそり寮に戻らなければならない(もし見つかってもお咎めは無い。記憶削除の術なんて高等なものは使えなくても、一瞬気を紛らすだけの催眠術を使えば警備員を誤魔化せる)。
 明日は登校日、どんなに疲れていたって学校はある。……でもショッキングなことが多かったので、テキトーな理由をつけて休もう。
 数時間だけの入院をした寄居は、後部座席でスヤスヤと眠っていた。
 真夜中の車道。俺は助手席、運転席にはもちろん瑞貴さん。寄居の半日入院の間、控室で一眠りさせてもらっている。だから今、眠気は無かった。
 運転をしている瑞貴さんはというと、まだまだ眠くなさそうな顔をしている。病院だけでなく、『教会』や『本部』にも連絡をしていたし、被害に遭ったマンションのオーナーに話もし終えたという。先輩能力者として頼もしいが、何から何まで任せっきりで申し訳なかった。
 途中からおろおろしているだけだったから、一つぐらい仕事を任せてくれても良かったのに。いや、おろおろしていたから何も任せられなかったのか。……やっぱり申し訳ない。
 寄居の血であれだけ汚れていた瑞貴さんの衣服も、いつの間にか清潔感溢れる白い服に変わっている。俺が居眠りしている間に着替えたんだろうけど、「これが本物のプロか」と圧巻してしまった。
 とある信号の前。赤信号で停まっていると、大人しく夜のラジオを聞いていた瑞貴さんが口を開いた。

「この魔導書、あげる」

 この、と指差したのはダッシュケース。開けると、俺が勝手に使わせてもらった白魔術の書があった。
 少しはこれでも読んで勉強しろという意味か。それとも血で汚してしまったからいらないってことか。両方の意味かもしれないと思いながら、「ありがとうございます」と言っておく。

「さっきのは誰から教わったの?」

 感謝の言葉を述べると、いきなりそんなことを訊かれた。話の前後が判らず、素直に訊き返した。

「さっきって、誰って、教わったって。何ですか」
「寄居くんを助けたときの肉体復元の式。あれ、助かったよ。誰から教わったのかな」
「教わってません。興味無い勉強はかったるいからしない主義なんで」
「藤春様に教わった?」
「いえ、だから教わってません。藤春伯父さんには魔術の初歩的なことしか教わってないし。あれはその場でやったことです。いきなり横から入ってすみません。やらないよりはやった方がいいと思って。わっ!?」

 がたん。いきなり瑞貴さんがエンジンを吹かしたので前のめりになってしまった。
 なんてことはない、ただ青信号になったから前身しただけだ。でも勢い良くアクセルを踏んだので驚いてしまった。
 瑞貴さんの顔を見る。初めて会ったときや、寄居を看護するときや、仕事を終えて再会したときと同じような、うっすらと口元に笑みを浮かべたいつも通りの爽やかな表情だった。
 そこに何も裏があるとは思えなかった。

「流石は直系一族。当主に近いお方だ。柳翠様の第一子なだけはある。緋馬様、俺は君を侮っていたよ。君は噂以上に凄い魔術師だったんだね。すみませんでした」

 のびのびとした謝罪。いきなりだ。
 ――直系、当主、柳翠という名――。
 唐突になんだよ。露骨な御世辞に眉を顰めてしまう。嫌味を言うんだったらそれはそれで「慣れっこです」と言い返せたけど、瑞貴さんは「本当に感心した、お見逸れしました」と言うから、なかなかそう愚痴れない。風のように涼しい顔が、この真面目で明るい男の特徴だった。

「当主に近ければ近いほど、血が濃ければ濃いほど、能力は達者になる。それは他の能力者の家系でも言えること。仏田家に限った話じゃない。当然とはいえ侮っていた」
「……変な会話をしないでくださいよ、瑞貴さん。俺はまだまだ半人前で」
「ねえ、緋馬様。自分を卑下しないでいい。恥ずかしがらなくていいから、誰から何を教わったか言ってごらん」

 明るい声の調子だったし、ラジオから流れる音色も軽快なもの。でもアクセルの度合いがなんか変で、ずっとこっちを見ようとしないのもおかしい(運転手だからと言われたら終わりだけど)。そんな横顔がなんだか怖いと思ってしまった。
 ちょっと怖いと思いつつも、誰からも何も教わってないから素直に首を振るしかない。
 すると瑞貴さんは改めて「凄い」と、笑った。

「俺は今年の9月で二十五歳になった。普通の男の子だった。あんまり普通じゃないと言えば、俺の兄弟は三つ子ってことぐらい。それが珍しいぐらいで、仏田にとっては普通の能力者だった」
「……はあ」

 何を語り出すと思ったら。唐突に瑞貴さんは身の上話をし始める。

「仏田寺の処刑人・一本松(いっぽんまつ)の息子として俺は生まれた。三つ子の弟は早くに才能が開花した。慧(けい)は神童と持て囃された。でも俺にはそんな才能は無かった。もう一人の弟と同じく、六歳で魔術に触れ、十歳に武術を嗜み、十二歳で『機関』送り、十五歳まで『機関』で過ごし、武術より魔術の方が向いているってことで二十歳まで修行に積む修行、二十一歳からは魔術の研究班で今に至る。退魔業を始めたのは十五歳の頃からかな。『機関』で色々強化手術を受けてからだった。やっと使えるようになったから霊でも狩ってこいと狭山様に言われて外に出た。初陣は大勝利だったよ」
「……はあ」
「大勝利って言ったって、俺は白魔術専門で前に出るタイプじゃなかったけどさ。親父の一本松って人はブンブン武器を振り回すタイプでさ、俺の初陣の静かさに驚いてた。まあ、顔は全然動かない人なんだけどね。これでも俺なりに頑張った初試合だったよ」

 よく判らないワードを並べられたが、要するに、生まれてからずっと魔術に触れ合って生きてきたってことか。そうして今年で十年目って、相当なベテランだな。
 十五歳から退魔業デビューなら、十七歳の俺とほぼ同じだ。寄居も確かその頃だった筈。やっぱりそれぐらいにし始めるもんなのか。

「何も判らぬ緋馬様に判りやすくお話をしようか。人生二十五年、寺で能力者になるべく生まれ、育てられ、今に至る俺のレベルは10」
「……レベル?」
「そっ。判りやすく強さを数値にしてみた。ちなみに緋馬様はレベル1。異論は無いよな。だって今年から退魔を始めたヒヨコちゃんだもの」
「ああ……その通りだと思います」

 ヒヨッコ、と言っても嫌味に聞こえないようにするこの人の声って不思議だ。事実を語っているだけだから何にも不快に思えないのもあるが。

「レベル10の俺が寄居くんを回復できる数値は、10点」
「……それって、高いんですか? そもそも回復の基準とか体力の大きさとかよく判らないんですけど」
「深く考えて話してないからね、俺。でも高いよ。普通だったら3とか4のところ、修行しまくっていた俺は10も回復できる。2倍だよ、高いだろ」
「ええ、そっすね」
「そしてレベル1の緋馬様が寄居くんを回復した数値は、15点」

 …………。瑞貴さんはいつの間にか運転席の膝の上に猫を乗せていた。片手でハンドル、片手で白猫を撫でている。そんな話をしながらも、普通の瑞貴さんの姿だった。
 聞き間違いでなければ、瑞貴さんは俺の力を15と言った。
 しつこい話題を続けている理由が、なんとなく見えてきた。

「修行してきてレベル10の俺が10点。今年勉強を始めたばかりで、今日初めて魔導書を読んだレベル1の緋馬様が15点」
「……瑞貴さん……」
「寄居くんを短時間で日常に修復させたのは、紛れも無く君のおかげだ。俺の応急処置のおかげじゃない。もちろん俺がしたからもある、でもそれ以上に理由がある」
「…………」
「まず、四階からすぐさま降りてきたこと。その判断力も素晴らしい。同い年とはいえ筋肉ムキムキの寄居くんを担いで階段を降りるのって大変だから、全てを飛び越えて駐車場の俺のもとまで落ちてくるのは、良い判断だ。でもさ……君、初心者がよく、浮遊の魔術を使えたね?」
「……浮遊の魔術っていうか、その……」
「重力を殺したんだっけ? 『なにそれ』? 俺、長年魔術を研究してるけどそんなの聞いたことがないよ。ということは、それは緋馬様オリジナルの案ってことなのかな」
「……ん」

 ……どっかで習ったっけ。どっかから聞いた話をパクったんだっけ。
 思い出せない。思いつかない。ならそれは、咄嗟に出た俺発案のアイディアだったってことか?

「その魔導書、俺の複写なんだよね。俺の筆記なんだ。癖のある字なのによく読み解いたよ。しかも俺以上に使いこなしちゃってる。凄いや。才能のある子は違うね。何年も修行した下っ端とは大違いだ」
「その……」
「あ、別に嫉妬なんかしてないよ。俺には才能が無かった。それは慧……俺の三つ子の弟が評価され、俺にはされなかった頃から知っている。自分の生まれを恨むことはあっても、それで他者を妬んだりはしないよ」
「……ホントに?」
「うん。ここで緋馬様が羨ましい、妬ましいと言ってどうするのさ。大人げないし、格好がつかないだろ。悔しいと言ったところでレベル10の俺が10点しか回復しない事実が変わる訳じゃない」
「ん、そうですけど……」
「ただ、知っておくべきだ」

 瑞貴さんはとある場所に車を停めた。
 身構えることはない、ただただ……目的地の寮に到着しただけだった。

「緋馬様。君がどんなに興味が無かろうと、その生まれを嫌っていても、君は選ばれし星の下で生まれた子。当主の血筋、あの神童・柳翠様の子と言われるのが嫌でも、持って生まれた才能は消えはしない。俺がどうにもならないというのと同じように」

 詩的な言い回しで、俺を惑わしてくる。

「レベル1で15点回復させることが出来る君が、真面目に勉強してみたらどうなると思う? いくつまで数は伸びるかな? 流し見で読んだ魔導書であそこまでの力を発揮できた君が、その本を全てマスターしてごらんよ。そうすれば」

 ……そうすれば?

「今、隣に座る瑞貴が、後ろで眠る寄居が、別物に見えるだろうよ。隣に居るのもバカらしくなるぐらいに」



 ――2005年11月6日

 【 First / Second /      /      / Fifth 】




 /3

 藤春伯父さんは俺が魔術を覚えることを望んでいなかった。
 俺は藤春伯父さんを尊敬している。彼の言うこと成すことを極力きいていたい。『緋馬』という名前で呼びかけてくれる人は、あの人。血は繋がらなくても自分の父親は彼だと思っている。
 それでも魔術を学び始めたのは、「制御しなきゃ」と思ったからだ。

 ――みずほが中学一年生になるときだから、もう四年前の話になる。
 来月になったら花の一年生と言ってた3月。俺達家族は都内のマンションから、田舎の仏田寺に帰省していた。
 藤春伯父さん、あずまおばさん、俺、息子のあさかとみずほの双子。春休みに五人家族が実家に戻る。そんなのごく普通の光景。
 でも帰りは四人家族になっていた。

 親戚の連中とダベって終わりの春休みの帰省だったのに、すぐさま都内のマンションへ帰らされた。俺と、みずほは。
 『あの事件』の当事者じゃないから、何があったかよくは知らされていない。
 ただ、事件があった。
 親戚の子と、俺の弟分だった双子の片割れが犠牲になったらしい。
 よく知らない。詳しく知らされていない。追及しても、誰も教えてはくれなかった。人によっては怒りを見せてまで黙らせる人もいたし、怯える人もいた。大の大人も怯えるほどだった。
 間違いないのは、傷害事件が実家で起こったということ。よく判らなくても、途切れ途切れに聞いた人々の話を一つに繋ぎ合わせると……。

『寄居が』
『あさかを』
『殺そうとした』

 らしい。
 その日。実家に帰省し、事件が起き、すぐさまマンションに戻って来た夜。俺達を帰したあずまおばさんは泣き、藤春伯父さんは電話の先に怒鳴っていた。ひどく怒り狂っていた伯父さん。でも伯父さんは決して、加害者に対して怒っていたんじゃない。『加害者を裁いた人間』に対して怒りを、電話先の相手にぶつけていたようだ。
 伯父さんが怒ること自体は珍しくないけど、でも静かに怒りを爆発させるタイプだ。だから、あんなに暴言を散らしている光景なんて見たことなかった。
 あんなに怖い伯父さんは初めて見て、あんなに悲しい伯父さんも初めて見た。

 ――マンションの住人が、伯父さんとおばさん、俺とみずほ……四人になっても4月はやって来る。誰かがいなくなっても、中学の入学式は訪れる。
 桜の下、笑顔なのはみずほ一人。みずほは笑顔で新しい生活のスタートに心躍らせていた。
 双子の兄・あさかのことを心配してなかったとは言わない。でもあさかは怪我を負って入院しているんだし、中学校に行けなくても仕方ないって説得されていた。
 仕方ないことだ。仕方ない話。だから俺達は構わず日常に戻る。
 俺は一足先に先輩になり、みずほは新しい生活を楽しむ。入学式に「ボク、早く中学生になりたかったんだ!」と笑顔で写真に写り込み、桜の花びらを追いかけたり、入学一日目に友達を数人作って帰って来たり人生を謳歌していた。
 『双子の兄が消えたことなど』忘れてしまうほどに、前向きだった。
 初めての中間試験にはイヤだイヤだと言いながら勉強をしたり、小学生のときは行けなかった場所に値上げされた電車代を払って遊びに行ったり。俺と一緒に毎日登校したり。学年が違うからそんなにベッタリしていなくても、それでも周囲には『仲の良い兄弟』だって思われていた。
 きっと周囲には『本当の兄弟』だと思われていた。みずほに『本当の兄』がいると知らない連中には。俺以外に『もっと仲の良い兄』がいることを知らない連中には。

 ――でも、ある日。
 俺の元へ、実家で暮らしている月彦(つきひこ)さんが電話を掛けてきた。

『よお! メッチャクチャ話すの久しぶりじゃない? たまにはウマから電話掛けてこいよ、みずほは話してくれんのになんでお前そんな暗いワケ? オレのことキライなん?』
「…………」

 月彦。都内の中学に通う俺達と違って、実家の寺から出ないでずっとあの山で暮らしている親戚。
 年は俺より一つ上。あの山から何十分もかけて一番近い高校に通っていると聞いている。
 話し方からしてうるさい男。実家に遊びに行くたびに、俺に「東京は良いなぁ」だの「何して遊んでるん?」など一方的に話をしてくる。おしゃべりでお節介で、面倒な男だった。
 月彦さんは、電話越しに俺へ探りを入れているようだった。
 探りって何を? というかなんで俺に電話を? 決して仲は悪くない。話しかけられれば応対はする。でも、それぐらいの仲だ。どちらかというと……彼の弟の寄居の方が同い年だからよく喋った。以前実家に帰ったときだって、寄居に……。
 寄居、寄居。
 寄居?

 ――なんで寄居があさかを殺したんだ?
 ――どうしてあさかを? 何が仕方ないんだ?

『………………気付いた?』

 おそらく、五分ほど電話を耳に当てたまま固まっていたと思う。
 その間、月彦さんはずっと一人で話をしていた。色んな話をしていた。藤春伯父さんの様子はどうだとか。みずほの様子はどうだとか。寄居のことで何か聞いているかとか。
 『寄居』と名前を声に出されて、やっと疑問が生じた。疑問と言うにも浅ましい。『仕方ない』と伯父さんが言ったこと。寄居のことなんて俺よりも兄の月彦さんの方が詳しいでしょ、そんな軽口だって吐き出せないほど、重い追求。

 ――何が仕方ないんだ? 何故藤春伯父さんは仕方ないで片付けたんだ?
 ――どうしてみずほは疑問も持たず中学生をしている? どうして俺は、今まで疑問を持てなかった……?

 春にあさかがいなくなって、夏が近づく三ヶ月目。なにを今更。
 これ、まさか、暗示か。
 俺達に追及されないように仕向けられた洗脳か。
 気付いてしまって、電話を受けながら冷や汗で風邪を引きそうになる。身震いが止まらなかった。

 月彦さんから電話を受けたその夜、伯父さんに直接向かい合った。
 中学生が起きていては問題があるぐらいの夜遅く。伯父さんはリビングで一人、晩酌をしていた。俺らに単純な暗示をかけた彼。その本人に、直で尋ねてみた。
 寄居に何があったのか、と。あさかに何があったのか、と。
 伯父さんは、俺をきつく睨みつける。
 まるで親の仇かのような形相を向けられた。怒鳴られると思い、思わず体が強張る。だけど、本当に怒られるまでには至らず、さも自然に伯父さんは事を話す。

「寄居が気狂いになっただけだ」

 …………。
 ああ、別に、衝撃的な真相が隠されているとは思ってなかった。
 けど、それなりの理由もあると思っていた。隠さぬその物言いに、逆に唖然としてしまう。
 伯父さんは最初は怖い顔をしたが、淡々と話をしてくれる。俺は晩酌の席に着き、真正面で伯父さんの語りを受け留めた。

「時々、いるんだよ。自らに潜む衝動に負け、己の中の誰かに負け、破壊活動を行なってしまう能力者が。俺だって刻印制御が判らず兄貴を殺しかけた経験がある。あのときはすぐさま兄貴を柳翠が看病してくれたから、何事も無かった。つまりは、そういうことだ」

 つまり、と言われても。
 そんな……『いきなり暴れ、壊して、人を傷付けた』のに、『そういうことだ』で終わらされるなんて。伯父さんが何度も言っていた『仕方ない』の正体は、そんなものだったのか。
 突然、伯父さんが諭すような語りを始める。

「例えばな、緋馬。……交通事故が起きたとする。通行人に車が突っ込んできて怪我をさえた。そいつは紛うことなき被害者。これが、あさかだ。……けれど、車に乗っていた運転手は、実は突然の心臓発作に悶え苦しんでいた。道のド真ん中で大事故を起こすより、人が少ない道へ突っ込んで被害を少なくしたんだよ。彼なりに苦しんで、頑張ってそこまで辿り着いた。それが、寄居だ」

 …………。

「少しでも最善の結果を選んだ、栄えある寄居の成果。数十人を手に掛けたかもしれない暴走を、一人に食い止めるための、たった一匹の生贄。……なあ、『仕方ない』だろう?」

 そう仕方ない、仕方ないんだ。
 何度も藤春伯父さんは、その言葉を繰り返す。
 そこで気付いた。……伯父さんは、みずほや俺を洗脳するために『仕方ない』を繰り返していたのではない。『言ってる本人を洗脳するために』、何度も同じ台詞を口にしていたんだ。
 納得したいのは、伯父さん自身なんだ。
 現に今も、俺に説明する間もずっとその言葉を反復している。飽きずに何度も、しつこいぐらいに何十回も。何百回も。

「この暴走は、人によっては制御できない。俺達一族は、他人の魂を取り込んでいるんだからな、人より意識が乗っ取られる可能性は高い。意識を奪われやすい体に、意識を奪われやすい状況を自ら作っているんだから。……緋馬。お前ももしかしたら、いきなり俺を刺したりするかもしれない。俺だってお前を刺すかもしれない。もちろんそんなことさせないよう親父として踏ん張るけどな。それは直系一族であれば、必ず教え込まれたことだった。血の濃い者への家訓でもあった。けどまさか分家の寄居に出るとは、誰も思わなかったんだよ。彼も、自分にそんな危険性があるだなんて知らなかった筈だ。いきなり現れた闇の衝動に混乱し、『少しでもなんとかしようとして』、導き出した結果がアレだった。…………緋馬は、見たか?」

 ……アレ、を。
 伯父さんは、多分『寄居が作り出した光景』のことを言っている。「決定的瞬間の映像を見たか」と言いたいらしい。素直に首を振る。
 寄居があさかを殺したという話は伝聞で得た情報。全て聞いた言葉でしか俺の中には存在しない。
 一体惨状がどれほどのものだったのか知らない。おそらく月彦さんも、みずほも。
 でも伯父さんがそんなに辛そうに言うだなんて、よほどな光景だったんだ。伯父さんの顔を見れば判る。寄居とあさかが直ぐに帰って来られない理由が。

「心臓発作を起こした運転手は、幸いにも助かった。けど内部から治療しなくちゃいけない。そして体中を打ちつけられた被害者は、表側から治療しなきゃならん。二人が病院に入らなきゃならない理由は……。判ってくれるよな?」

 そのうち、伯父さんはまるで俺に謝るかのように切ない声で話を終える。
 そんな声を聞かされたら、俺も話を切るしかないじゃないか。
 もっと訊きたいことがあった。「その治療はちゃんと進んでいるの」とか。「いつになったら治療が完了するの」とか。
 けれど、それ以上は何も言えなかった。「中学生はもう寝ろ」という言葉に、従うしかなかった。
 打ちきりされてもどかしさがあった。でも、真実を語る伯父さんが悲しみのあまり死にそうで。伯父さんのことを考えたら、いなくなった人間達どころじゃなくなった。
 いなくなった友人や義理の弟達より、この人の心情の方が心配でたまらなかった。
 伯父さんの体と心が大切だから、身を引く。本当の親子の問題には悪いけど、この人と確執は作りたくない。
 すかさず「おやすみ」と部屋に戻るため、晩酌の場から離れようとする。

「……ああ、そうだ、緋馬にも異能の使い方を教えるべきだな。もしものことがある。お前だって俺達と同じ血を引く一族なんだから……教えてあげなきゃいけないよな」

 席から立ち上がった俺に、沈痛な面持ちで伯父さんは呟いた。
 教えてくれと言ったら教えてくれる。教えてくれと言わなきゃ教えてくれない。それが我が家だと思っていたのに、伯父さん自ら「教えてあげなきゃな」と言うなんて。
 それほど重要なことなんだ。……俺を気遣ってのことなんだ。頷くしかなかった。
 基礎的な修行は翌日から始めると言われ、俺も承諾する。
 ……あさかが家に戻ってきたのは、数年後の2005年の3月になってからだった。

 晩酌に付き合ったその日はすぐさまベッドに潜り込んだ。
 シーツの中で、月彦さんに改めて電話をしようと考えた。なんて伝えるか。『仕方なかったんだよ』と言おうか。その言葉が一番適切で、誰も傷付けない最高の言葉に違いなかったから。



 ――2002年3月22日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /4

 障子が真っ赤に染まっているだなんて、何の悪戯だ? きっと悪ガキ達が絵の具で悪さをして壁中にぶち撒けてしまったんだ。
 それなら中から慌てて「どうしよう!?」「何とかしよう!」という騒ぎ声ぐらい聞こえてもいい筈。何も聞こえない障子の先は、嘆き苦しむような嗚咽。
 隣に居た照行様が察して、障子を激しく開く。先の景色は、鮮血の赤だった。

「慧ッ! 何をボサっとしておる、怪我人をなんとかせんか!」

 瞬時に照行様は動いていた。僕は自分の名前を呼ばれてハッとする。恐怖体験で意識が固まることって本当にあるんだなぁと思いながら、血だるまになっている誰かの元へ駆け寄った。
 照行様は虚空――ウズマキから巨大な武器を取り出すと、『この部屋を真っ赤にしたバケモノ』へ一手を繰り出していた。
 一秒もかからぬ早業。流石は多くの弟子を持つ師匠だからこそできる技。と、感心している場合ではなかった。

 僕と照行様がその場に立ち会ったのは偶然だった。まさか部屋が血まみれになっているとも思わず、誰もそんな事件が起こるなんて思わず、寺は騒ぎに包まれていった。
 照行様は部屋を血まみれにした張本人を捕縛し、僕は血まみれにされた誰かに近寄ってすぐに治療を行なう。他人の血を浴びて髪まで真っ赤になった被害者は僕の手でなんとかできるものではなかった。だから僕は応急手当をしただけで、数分後に駆けつけた大勢に任せることにした。
 被害者も加害者も中学生ぐらいの少年だったが、一見誰かは判らなかった。判らないぐらい表面はぐちゃぐちゃで真っ赤になっている。腕は切断され、顔は見るも無残なほど破壊されていた。加害者の少年は、滅茶苦茶にすることが目的だというかのように暴れ狂ったらしい。被害者の少年は成すすべなく、破壊の限りを尽くされたようだ。

「慧。こいつらは誰か『知っている』か?」

 顔や誰だとかどうでもよくなるぐらいのショッキングな映像。他の子供達が見たら泣いてトラウマになるぐらいに。僕達が第一発見者で良かった。
 寄居。あさか。見ただけでは判らぬ血まみれの少年達の名が、僕の中に現れた。本当に、僕達が第一発見者で良かった。

 ――数時間後。真っ赤になった部屋の清掃は、プロの業者に頼んだ。
 真っ赤に濡れた襖も、ぐちゃぐちゃなものが染み渡った畳も綺麗に取り替えられる。一日もかからない修復っぷりに拍手してしまう。
 普通だったら『その部屋はもう使えない』と敬遠したいところだが、元から空き部屋だったそこは平凡な空き部屋に戻っていた。今後も誰か来賓客が来たとき、何事もなかったかのように通される。そこは本職、血の匂いも残さない。
 照行様に捕まったのは、今年十四歳になる寄居という少年。住職・松山の三男坊。
 彼は他人の魂に打ち勝てず、闇の衝動に負けてしまった。その結果の事件。一族は慌てていた。『まさか彼が騒ぎを起こすとは』で持ちきりだった。
 加害者の少年の名は、あさか。……藤春様の次男。
 そうか、当主様の弟・藤春様の息子じゃあ、どう足掻いても騒ぎになる。
 そう思っていると、その日の晩に本殿で会合が開かれた。時刻は真夜中。第一発見者だから出席を求められた。まだ大人の会議に出席できる立場ではない下っ端だから勘弁してほしいと思いつつ、日にちが変わった頃に親族会議っぽい雰囲気の広間へ訪れた。子供ならまず立ち入れない荘厳な空気な中央地へ。
 畏まりながら襖を開いて、ぎょっとする。
 着物を着て正座をした大人達が大勢居る、それぐらいなら予想できた。堅物な顔で話し合いをしている程度と思っていた。でもひどく異様な光景に、思わず息を呑んでしまう。

 天井の梁から、吊るされていた。
 ――照行様に沈められた被害者の少年が。
 ――散々に弄ばれ真っ赤に染まった被害者の少年が。
 マグロの市場のように重たそうな赤黒い体が、縄で結ばれぶら下がっていた。

 ここに来るまで、騒ぎの原因の法的処置を話し合う場だと思っていたが……油断していた。
 呆気に取られながらも、用意された定位置に座らされる。発言する機会は無いけど居なくては困るらしい。黙って、みんなの前で吊り上げられた死体モドキを見ていた。
 二つとも意識は無い。だらんとぶら下がっているだけだ。止血はされているのか、赤黒い斑点がこびり付いたままだが、綺麗にされている。僕と照行様が見つけてから十時間近くは経ってるけど、本当に……死体じゃないのか、あれ?
 実のところはどうなんですかって訊きたかったけど、その場に訊けるような人はいない。
 どうしてろと悩む僕が座って数分後。会合の最奥にいる主……元老・和光様が、口を開く。

「のう、光緑よ」

 全員の耳が声の先へ向く。主は御簾の奥にいるせいで、どんな顔で言ったのか読めない。けど「どこか気だるそうな老人の声だな」と思った。
 そう、老人の声。重みのある嗄れ声。武術を教える照行様でもなく、魔術を教える浅黄様でもない、恐ろしい恐ろしい『最高権力者』の声だった。

「藤春の子は、せっかくそこの若いのが助けた命だ。確か藤春の息子はどいつもこいつも『機関』とは無縁だった筈だな。どうだ、そこで綺麗にしてやれ。顔を潰したまま帰せば藤春が悲しむ」
「では、そのようにさせましょう」

 よく通る老人の声。声を掛けられている当主・光緑様だけでなく、全員に向けられたもののように思える。
 どうだ、と言った後に当主本人は一息おいて、深く頭を下げた。誰かの意見を集めていると聞こえたが、もう決定事項のように。すんなりと進む会合にご機嫌なのか、上座の老人は次々と声を掛けていく。

「もう片方は、なんという名前だったか。まあ良い。狭山よ、良い子を創ったようだな」

 当主達のいる場所から遠くの最高責任者は、規律良く頭を下げている。

「やっとこさ表に出した赤ん坊だ、このまま潰すには勿体無い。もう一度創り直せ」

 当主が首肯した途端、大勢が動き出した。時間を掛けて会合していたわりに事は早くに進んでいく。
 本当に僕は、その場を見ているだけだった。第一発見から、綺麗になっていく部屋、奴らが『地下へ』連行されるところまで、一部始終を見てしまった。
 吊るして散々眺めて楽しんで、そのまま『機関』送りか。
 回収されていく二つの大マグロを見ながら、「でもまあ、命があっただけマシだよな」とほっと胸を撫で下ろした。

 ――それから数ヶ月後。夏になる前のこと。

「なぁ、慧さん。寄居の奴、どうだったの?」

 突然、廊下で引き止められてそんなことを尋ねられた。
 声を掛けてきた相手は、加害者・寄居の兄・月彦。あまり話したことのない子だけど、あちらから話しかけてきたんだからそれなりに答えてやらないと失礼だ。向き合ってみる。

「どうって? どの状況のことを訊きたいんだ」
「全部」
「大雑把すぎる、無茶を言わないで。せめて日数を区切って言って。第一、僕は寄居って子に付きっきりだった訳じゃないし、判らない事もある」

 少し苛立った声で言い返してしまった。別に相手が嫌いでもないんだが。
 惨殺未遂現場を一から説明しても良かったが、どこまで聞きたいかは相手に任せることにする。
 ちょっとでも言葉が足りなかったら、核心の部分を言ってやんない。後で責められても『そんなのお前が訊かなかったんだろ』で返す気満々でいた。
 幾分か寄居の兄は悩み沈んで、顔を上げる。

「……寄居は」
「うん」
「……動機なんて無いよな? あさかくんと仲良しだったもんな? オレ、あの日までずっとアイツの傍にいたけど、誰かを殺すとか乱暴なこと考えている風には見えなかったぞ! 憎いからとか、妬んでるとか恨んでるとか、そんな……。馬鹿な霊みたいなコト思ってないよなっ。イヤなヤツじゃないんだよな、違うんだよなっ……?」

 ……必死に、そんなことを訊いてきた。
 「彼が思っていないよな?」って、そんなこと、僕はただの第一発見者で、会合だってただ居ただけだというのに。
 ていうか毎日一緒にいた兄弟の方が知ってるんじゃないか。言い返そうとしたが、その形相に言えば殴られるかもしれない。自重して、言葉を選ぶ。

「それまでずっと傍に居た兄貴がそう思うんだったら、そうなんだろう。それよりあれは『事件』じゃなくて『事故』だ。『事故』って相手を選んでできる? 偶然被害が出た奴が、仲の良い奴だっただけだ」
「……だよなあ。何かに悩むほどあいつは……寄居は、頭良くないし」

 それだけ言うと、自己完結したらしく黙ってしまった。
 廊下の真ん中で、悩み耽る。会話はほんの数秒。それだけで終わらせるのは難だと、思いつきで話してみる。

「深く考えるな、って言っても無理かもしれないけど。弟がいなくなってそちらは大問題だけど、『上層部』の連中は笑ってたぐらいだ。笑うくらい楽観視してるんだ、それほどオオゴトじゃないってことさ」
「…………」
「病む話じゃない。言うならばな、その……『仕方ない』話なんだ」
「……仕方ない?」
「そう。そこに何の罪は無い。もし、手に掛けたことを気病む弟がいたとしたら……精一杯笑い飛ばしてあげるべきだ」

 ――なんとなく伝えたかったことを言い放って、廊下を歩く。
 寄居の兄は、ついてこなかった。僕の向かう先は魔術研究班の棟だったから、無関係の彼は来られなかったのかもしれない。ただ他にツッコむことがなかったからかもしれないが。
 思わず、歩いていて溜息が出た。むず痒くなった。ぽりぽり頬を掻いて廊下を進んでいく。

 進みながら、自分で言ったことを思い返した。
 罪が無いというのは本心。納得することも理解することも胸が苦しいだろう。苦いだろう。けど、一時的にでも冷淡にしなくては。どこかで割り切ることができなくちゃいけないときが否応なしにある。
 暴れちまったもんは仕方ない。僕達は、暴れてしまう血なんだから。
 そもそも落ち着いていられない血なんだから。
 闇の衝動を宿した血であり、破壊活動を繰り返す血であり、めちゃくちゃでぐちゃぐちゃにしたがる血なんだから。
 ご先祖様がそうあれと残した血なんだから。
 それを平和で穏やかな人間社会に落とし込んでいるだけ、無理をしている話なんだから。
 大勢は知らないことだけど。

「……寄居もあさかって子も、変な改造をされなきゃいいんだけど」

 それは二人をお世話する『機関』の手にかかっている。どうなってることやら。そうだ、照行様に「結局あの二人はどうなってますか」って持ちかけてみようか。
 持ちかけたところで僕ごときに答えてくれるかどうか判らんが、どうせ数秒で終わる質問ならしてみてもいいかもしれない。
 目当ての部屋を見つけて、すかさず口を開いた。



 ――2005年11月7日

 【    /      /      /      / Fifth 】




 /5

 寮での俺の部屋はいつでも片付けてある。誰がいつ来ても平気なようにしていた。
 普通の生徒なら二人一部屋を使うそうだが、俺は大山さんの『特例』を行使された結果、一人で悠々と一つの部屋を使わせてもらっている。一人で部屋を使ったとしても、長年あさかとみずほの三人で一つの子供部屋を使っていた経験で、『散らかさないようにする癖』が俺にはついている。
 マンション暮らしというあんまり広い自宅で過ごしていたから、おばさんの当然の育て方とも言えた。

「男子高校生の部屋っていったら丸めたティッシュが落ちてるもんだと思った」
「んなこと藤春伯父さんの居る場所でしてたら、ゲンコツが飛んでくるよ」
「良い教育を受けてるんだね、ウマは」
「寺でもそれくらいのこと教えてくれるだろ」
「教えてくれたっけな? もっと殺伐としたモンだったら大量に教わったけどね、ここ三年は」

 朝方四時。まだ陽は出ていない。
 オレンジ色の微かな明かだけを点けた俺の部屋に、寄居は感想を零していく。堂々と床に座る彼は、血で汚れていない真新しい服を着ていた。

「……なあ、先に訊いていいか」
「なにかな? さっきまで寝ていたボケ野郎で良ければなんでも答えるよ」
「なんで寄居が俺の部屋にいるんだよ」

 寮に戻って来たのは、俺が寮に住んでいるからだ。
 瑞貴さんがここまで車で送ってくれて、その車で寺に戻ればいいものを。……なんで寄居まで下車して俺の部屋に居るんだ。
 一応、ここは関係者以外立入禁止の学内なんだが。

「せっかくだからウマの部屋を見たかったんだよ。そしたら瑞貴さんが『じゃあお泊まりしていけば?』って提案してくれた」

 ……余計なことを。

「この高校、めっちゃ幽霊がいっぱい出るって聞いたけど。ウマが定期的にお化け退治を一人でしてるんでしょ? 近頃の回収状況はどうなんよ?」
「大山さんにも逐一報告してるけど、見付け次第捕獲してるかんじ。いくらやっても出てくるんだよ、あいつら。夜に増えるんだけど、授業中にすら何度も視えちゃうぐらい多い。……やっぱここ辺り、おかしいわ。退治したと思ったらまた出てくるなんて異常だよ。俺が卒業するまでに全部倒せりゃいいんだけどね。じゃないとまた誰かしら駐在できる奴を送り込むことになるぜ」
「おっ。ウマったらヤル気満々じゃん。この学校に愛着湧いてきた?」
「……まさか。幽霊が蔓延るような所で寝たくないだけだ。安心して眠れねーじゃねーか」
「それならウマ、安心して。今夜は俺が一緒に居るから」
「ひゅう、カッコイイねえ。感情を込めて言えたら更にカッコ良くなるのに」
「あんまりイケメンすぎたら、ウマが妊娠しちゃうからしないんだよ」
「……。これでも死にかけたお前を気遣ってやってるんだ。茶化すな」

 直接的に『今日あった死』を寄居にぶつける。薄い暗闇の中でもへ「すまんかったね」とまるで他人事のようにへらりと笑う顔が見える。
 適当な所に座る寄居に、ベッドから毛布を一枚投げ捨てた。これを使って寝ろという意味を込めて。
 寄居は頭から一枚の毛布を被った。そしてもう一度「すまんかったよ」と呟く。
 こいつなりに堪えたもんがあるのか。でも淡々とした声は、何も考えていないようにも聞こえた。こういうときマイペースが売りの人間は本気なのか冗談なのか判らなくて損するよな。

「車で寝ているとき、瑞貴さんがウマに言ってたことだけどさ」
「なんだ、聞いてやがったのかよ」
「微睡みながらね。……ウマっていつの間にそんなに強い子だったの?」

 純粋な疑問をぶつけてくるように、尋ねられた。
 ……そんなの、答えられない。
 こうして強くなりましたと語れるエピソードは無い。だって、俺は今年に入って初めて『仕事』を受けた。それまでは伯父さんに苦々しく基礎的なことを教わっているだけだった。本当に、謙遜ではなくそれだけなんだ。
 俺がいつまでも無言でいる。寄居から話題を変えてもらえない限り、黙ったままになりそうだった。

「やっぱ生まれって重要なんだ。ウマは凄い濃い血を引いて生まれた子だから強いんだ。スゲーなぁ。当主様に近い血だから強いんでしょ? 強く生まれてくるべくして強くなってんだよ、ラッキーじゃん。誇りなよ」
「……やめろよ。そういうこと言うなよ。俺は半人前で……」
「羨ましいなぁ。そんな力、喉から手が出るぐらい欲しがる人、いっぱいいるよ。あーあ、ちょっとウマの垢を煎じて飲ませてもらいてぇね」

 寄居なりの冗談。判っていた。
 こいつは感心している? 嫌味か? 寄居だけじゃない。瑞貴さんも感心していたのか、努力しても勝てないっていう嫌味を言ってたのか? ……考えたくない。
 俺はただ「やっておかなきゃな」という気遣いで、伯父さんから手段を得た。
 「やらねばならぬ」と変な使命を押し付けられて退魔業を始めた。
 「やらなきゃ!」と自分の意志で……目の前の寄居を救うべく、魔術を唱えた。
 なのに、なんでこんな嫌な想いをしなきゃいけないんだ。

 何も言わなくても俺の心が沈んで震えていたのを気付いた寄居が、いつの間にか腰掛けた場所から移動していた。
 俺の目の前に立っている。慰めるでもなく、立ってふわふわ笑っていた。

「ウマの垢を煎じて飲ませてもらいてぇね」

 まったく同じ言葉を繰り返すだけだが。
 煎じて飲めば、寄居は気分が晴れるのかよ? そんな麻薬みたいな効果がある訳ないだろ、俺の垢が。せめてもうちょい良いもんをやる。
 ……俺は右手の親指を噛み千切った。
 痛ぇ。そりゃ痛いさ。ぼろっと血が零れそうになったところを、寄居に向ける。

「『契約』するか。そうすりゃ俺の力、少しだけだけど貸してやれる」

 ――契約。霊的な主従関係を結び、お互いの力を高め合う儀式。
 瑞貴さんが知能の高い白猫と契約しているのを見て、「なるほど、こうやってお互いの魔力を補い合っているのか」と学ぶことができた。
 現に寄居を助けたのは俺のフォローだけでなく、既に経験を積んだ瑞貴さんと補助をする使い魔の力があってこそ。……一人で出来ないことを二人でする。お互いで高め合う。それがちょっとの儀式で出来る。なら……煎じて飲みたいって繰り返し口にしたこいつとやっても……。
 それに、寄居と手を組むことは多い。おそらく今後も何かと『仕事』を共にするだろう。なら……。
 返事の声を待つ。だが何かを発せられる前に、寄居はぺろっと俺の親指を舐め上げた。
 いきなり這われた生暖かい感触に背筋がぞくっと震える。
 体液を持っていかれた。寄居の中に俺の情報が巡る。直後、寄居は何やら呪文を唱え始める。
 ゴオッと全身に炎が駆け上がる。
 俺が理解するよりも早く、寄居は事を終えた。契約が完了したのを全身で感じた。提案は俺からだが、全部寄居がしてくれたようなもの。――やっぱり俺はまだまだ半人前だ。

「……毛布一枚は寒いか?」
「ううん。これぐらいの寒さ、全然平気。てか寒くて我慢できなかったらウマは何してくれんの。俺に毛布を全部くれるの?」
「やんねえ。ガンバレって激励の言葉だけ掛けてやんよ」
「あったかい言葉のプレゼントか。嬉しいね」

 はっはっは、と寄居は乾いた笑い声を上げた。普通の寄居だ。数時間前に死にかけたなんて感じさせない。
 あんまり大声で笑われると真夜中とはいえ警備員がいるんだし勘弁してもらいたい。

「なあ、ウマ。みずほだったらこんなとき、どう言うと思う?」
「『寒いんだったらニャンコみたいにくっ付いて寝ればいいんだよ!』……かな」
「うわ。今の言い方、ホントにみずほぽかった。そっくりでビックリしたわ」
「あいつとは十五年間一緒に暮らしてたんだ。喋り方のコツは熟知してる。……半年前まで、別れて生活することなんて無かったぐらいだぞ」
「そっか。お前ら兄弟だもんなぁ。そりゃ骨の髄まで知り尽くしてるかぁ。……くしゅん」

 電気を消して、お互い真っ暗な天井を見ながら喋っていると、寄居がくしゃみをした。
 平気と言っておきながらやっぱ寒いんじゃないか。どうにかしてやるべきかと考えるが、気遣ってどうも出来ないので何ともしがたい。

「……寄居。お前さえ良ければ」
「ウマのベッド、行っていい?」
「……いいよ。ただし、変なコトすんなよ。したら燃やすからな」
「俺を燃やしたら心中になるよ。二人で焼身自殺する気? アッツい仲だって噂されちゃうね」

 ――炎の中に消える俺達。それはそれでロマンティックかな。
 寄居はそんなコトをくすくす笑いながら、ぐすぐす鼻を擦る。

「どんな死に方でも、焼死だけは勘弁願いたいよ。炎を操っている身としてはな」
「みんなで燃えれば怖くないって。ウマも仲良くお手々繋げば……くす」
「横断歩道みたいに言うな。みんなで仲良く手を繋いで焼死とか、シュール過ぎんだろ」

 寄居は毛布を抱いて、俺の居るベッドに入ってくる。布団が二倍の量になって暖かくなった。と言っても毎日俺が使っている量に戻っただけだ。
 悲しいことだが、俺と寄居はどっちも標準サイズより小さい。年頃の高校生の平均身長に届いていない。だから寮のベッドは広々と使えていた。シングルベッドでも二人で揃って寝たって問題無いサイズだった。悲しいが今は助かった。

「ウマ。……冬のせいにして暖め合っちゃう?」
「イヤだ。お前とはイヤだ」
「良かった。俺もイヤ。冗談だよ。……すまんね、俺と添い寝だなんて」

 暗闇の中でも寄居はニヤニヤ笑って冗談を言う。少しの辛抱だから我慢しろよと言いながら、目を閉じる。
 布団も暖かくなったことだし、安心して眠るとしよう。ちょっとだけ腹式呼吸をして体を落ち着かせ、眠りに落ちることにした。

「コイバナしようよ」

 でも寄居が淡々とした声でそう言うので、気が散って眠りの世界の突入に失敗した。

「なんでいきなり」
「せっかく『契約』したマスターとサーヴァントの仲だよ。お互いのこと知らないとさぁ。ウマってさ、カノジョいたんだって? みずほから聞いたよ。どんな子だったの?」
「……もう別れた」
「なんで?」
「自然消滅だよ。転校してから二回は遊びに行ったけど、それっきり何も無いから別れた認識でいる」
「へえ。二回は遊びに行っただけ良い仲だったんじゃん」
「その二回、どっちも8月にだぞ」
「夏休みだから遊んでやったって感じかぁ。ねえ、その子と一緒に寝た?」
「……そういう子じゃなかった。キスは強請ってくることはあったけどさ。……お前みたいに『付き合うから寝る』って考える子じゃなかったよ」
「ふうん。なかなか健全なお付き合いをしてたんだねぇ。ちなみにそのカノジョは何人目だった?」
「二人目。中学のときにカノジョって言える子がいたけど、中学卒業と一緒に自然消滅」
「自然に消滅するのがお得意なんだね、ウマは」

 寄居の言う通りだ。「うん」と頷くと、寄居は暗い天井に向けて笑った。
 自然消滅ってあっけらかんと自分で言ってるけど、それも仕方ない話。だって自分が追い求めていなかったから消滅は必然だったんだ。

 俺は二人の女の子と付き合ったことがある。
 どちらのケースも、あっちから告白してきたからOKしてスタートした。デートしてキスするという、ごく普通の男女のお付き合いだった。
 でも終わった。いつの間にか終わっていた。こっちから誘うことは無かったから、カノジョ達が待ち態勢になった途端、終わりになってしまった。続けたければ俺が追いかければ良かったのに、あっちもあっちで嫌になったのか、どちらも追わず離れていった。
 それで良いと思ってしまう自分がいるんだから、自然消滅はスタート地点から約束された終わりだったに違いない。
 それじゃ嫌だと思う自分がいない限り、本当のスタートは切れない。

「寄居……なんでコイバナなんてしようと思ったんだよ」
「え? だってこうやって一緒に寝るとなったら、枕投げかコイバナはするべきだろ。この部屋には枕が一つしかないから、出来る方を言っただけさ」

 ――恋の話を無理矢理にでもするしかないよね。
 安直過ぎる話題の種に、思わず溜息を吐く。実に寄居らしい展開だが、微妙に黒歴史部分を引き摺り出されて妙な感覚に襲われることになってしまった。
 ちくしょう。お前はただ話を聞くだけか。楽しんでいるだけの寄居がなんだか憎くなった。

「寄居も何か話せよ。お前のコイバナを聞かせろ」
「残念ながら俺の青春はとある研究所一色よ。聞きたい?」
「………………」
「聞きたくない?」
「……言いたくないなら言うな」
「そこそこ面白いよ。話そうか」

 その声は沈痛なものでも、無理矢理作る明るい声でもなかった。
 そこそこと推すからには、面白い自信があるんだ。思いつきで「話せ」と言ってみた。

「真っ白で機械だらけのいかにも研究所だったよ。超ハイテクでSFチックですっごい所だった」
「……研究所なんて入ったことねーよ。研究とやらをしたことないから」
「うちは純和風が売りじゃん? だから研究は土蔵の中でアレコレやってるんだぜ。土間で、着物のみんなが胡坐かいてさ。一見知らない人が見たら草鞋を作ってる農民に見えちゃうと思うよ」
「そこまで古臭くはねぇだろ」
「でも建物を変えたら真っ白い白衣に変なレンズ掛けてさ、被験者も入院着を着させられてさ、雰囲気抜群なんだよ。漫画で読んだことある光景だったねぇ」

 懐かしいなぁと言うかのように、寄居は研究所時代を話していく。
 白い壁で、白い廊下があって、ガラス越しの研究者達の視線が凄かったと、寄居は懐かしき思い出話をしてくれた。

「なあ、寄居。……非人道的な実験ってヤツ、やったのか?」

 ついついそういう研究所が出てくる漫画を思い出すと、そういったシーンが頭に浮かぶ。
 あんまりに寄居が面白く昔を話すから、勇気を出して尋ねてみてしまった。

「うん。してたよ。非人道的な実験。今じゃ良い思い出」
「してたのかよ。良い思い出なのかよ」
「俺達に能力を発動させて、お互い討ち合うってヤツ、やったよ。本気で討ち合うから死者もフツーに出るんだよね。やっぱアレって悪い行ないだと思うよ。違うかな?」
「……そうか」
「しかも死んでも復活させてくれないって言うの。死んだらその死体、解剖しちゃうんだってさ。解剖して能力者の体がどうなっているか調べたいんだとさ」
「……解剖して判るもんなのかねぇ」
「くくっ、思い出しちゃった。『科学の進歩のためには多少の犠牲はつきものなのだ』。あの台詞を本当に言う眼鏡が居たよ。悟司様みたいなことを言う研究者がいたなぁ」
「……あー……あの人の声で、余裕で変換できたわー」
「いやあ、流石にその解剖シーンを見せつけられたときは俺もビックリしたね。泣いちゃう女の子が沢山居たよ。見せつけるのは何の意味があったんだろ? 恐怖に慣れさせる為なのかな?」
「…………。すげーとこに居たんだな、寄居」
「俺は楽しんでいたけどね」

 ぼんやりと平気そうに寄居は言う。
 俺は、寄居の言う『うち』に住んでいない人間だった。だから何も同意が出来なかった。
 俺の知っている家は藤春伯父さんのマンションで、そんな非人道的な実験なんて行なっていなかったからだ。

「ああ、しまった、コイバナをしなきゃ」

 寄居は一頻り、残虐非道の楽しい思い出を語り終えると、義務のように最初の話題に戻り始めた。

「遠ければ遠いほど、愛おしくなったんだ」

 と、いきなり何かのポエムを吐き出す。目を瞑って恥ずかしい寄居の詩を聞く。

「なんだ、それ」
「ウマ。俺ね、好きな人、いたんだよ」
「そうなんだ。初耳だぜ」
「最初は俺も気付いてなかったんだ。……相手と一緒に遊んで楽しいと思える、それだけの関係。それって他の子とそんなに変わらない関係だよね? それが恋だなんて気付けないもんじゃん? ウマも判ってくれるよね」

 ああ、ああ、判るよ。適当に相槌を打つ。

「一緒に居られて楽しい、他の子と一緒に居るときより楽しい。友達から親友にステップアップしたからこう思うんだと考えた。………………」
「なんだよ、いきなり黙って。続きを話せよ」
「いや、あのさ、ウマ。途中まで話しておいてアレだけど。『親友と恋の違い』って何だろうなっていきなり思っちゃった」

 話の腰を折って何を言い出すやら。
 同じように愛情を抱くことを細かく分けたらどうなるんだなんて寄居は真剣な声で言い出す。目を瞑りながら応えた。

「国語辞書には、恋とは『特定の人物に強く惹かれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること』って書いてあるぜ」
「なんで辞書の内容、覚えてるの?」

 そりゃ一度、ちゃんと調べたことがあるからな。

「恋愛の定義の仕方は本によって様々だ。恋で調べると『互いに相手を恋慕うこと』なんて卑怯な書き方をしてるやつもあるし、『好きで会いたい、いつまでも傍に居たいと思うこと』なんて恥ずかしい記述なやつもある。『損得抜きで相手に尽くそうとする気持ち』って説明しているやつもあった。『精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たい状態』もあったな」
「ウマは恋に詳しいんだね」

 だから、ちゃんと調べて確かめてみたかったからな。

「一方、親友は単なる『仲の良い友人』止まりだ。それしか書いてないんだ」
「ふうん」
「友情でも愛情でも構わないから、話を続けてくれ。途中で終わられると眠れなくなるじゃねーか」

 暫し寄居は愛と友についてうんうん悩んだ。その後、結論が出たのか出ないのか判らんが、言葉を続け始める。

「……俺、一度、その『非人道的な実験』で、死にかけたことがあるんだよ」
「マジで?」

 俺がそう一言漏らすと、「いつも心配掛けないようにみんなには楽しいことしか話さないからね」と男前な台詞を返してきた。

「丸腰でさ、自分で創る武器だけでレベルの違いすぎる異端と戦わされたのよ。逃げられない部屋に閉じ込められて異端と戦ったんだ。ヤッベーこれ詰んだなーって思ったんだ。だってチームで頑張ってたのに、俺以外の四人全員食われちまったんだもの」
「そりゃスゲーな。寄居、生き残るなんてラッキー過ぎんだろ」
「運だけは昔から悪くなかったんだよね」

 ――ホントに良かったなら、あんなところ行かなかったんだろうけどさ……。
 軽く寄居は笑う。

「異端てさ、餌を食うたびに強くなるじゃん。しかも恐怖満載の美味しい餌を食べたら速攻強くなる化物じゃん。異端の好物は負の感情だから。ギャーヤメテータスケテーって叫んでる餌を食べたのよ。イヤダーダレカーオネガイーって叫んでる子達は美味しいに決まってるよね。……俺のそのときのヤバさ、判ってくれる?」
「あー、判る判る。四人食われて四倍も強くなっちまったと」
「そう。絶体絶命にも程があるよね」
「それでも生き残ったんだ。寄居ってホントはすげー奴なんだな」

 はっはっは。思い出話だからか楽しげに笑っていた。

「研究所ってヤバイところだとは思ってたけど、これほどかぁって甘く見てたね。見上げれば高い所で、ガラス越しに白衣達が俺達を見下ろしている。バリバリ四人が食べられるところも、俺が血ヘド吐きながら剣振るってるところも、ぜーんぶ見てる。俺達のデータを取ってるというより、捕獲できた異端のデータを取るための実験だったんだ」
「マジ外道」
「俺、人は恨まない性格なんだけどさ、流石にキレちゃいそうだった。キレる十代。まるで若い子みたいだね」
「お前は十代だからいいんだよ。キレたって」

 ――流行りものには乗りたくないのがポリシーなんだけどなぁ。
 そう、寄居は綺麗な冗談を続けて行く。

「死を覚悟したさ。ボロボロにされてもすぐに助けてくれると思うじゃん。みんな怪我しても治療魔術をかけてくれるし、専門の医者がスタンバってるから怪我しても安心……」
「そうなんだ?」
「だよ。でもそのときは、死んだら終わりで、異端に食われちまったらおしまいだった。それが世の中では普通で、うちの方が普通じゃないって知っていたけど」
「うん」
「知ってたけど、ああ、やっぱり痛い目に遭って死ぬのは嫌だ。……そう思った」

 ……寄居は、どんな顔でこの話をしているんだろう?
 ずっと目を瞑って話を聞いていたが、急に気になって瞼を開いた。
 暗闇の中、唯一ある光源は窓から差し込む微かな朝陽のみ。そのおかげで見えた寄居の顔は……普通だった。

「そしたら嫌なことに、走馬灯が駆け巡ったんだ。こりゃヤバイ、本気で死ぬんだと思ったね。色んなことが次々思い出されるんだもの。マジでこんなことがあるんだって焦ったわ」
「ふうん」
「走馬灯なんて小説の中の美しい情景文だと思ってたから、本当に体験したとき、ビビってたまらんかった。死ぬと思ってたときにホントに死ぬんだと実感しちゃうぐらい、怖くなった」
「へえ」
「思い出していくんだよ。次から次へと。――あさかが川から落ちたときのこととかさ、あさかがレンジ爆発させたときのこととかさ、あさかが誕生日を一日間違えてプレゼント持ってきたときのこととかさ」

 寄居は続ける。
 あさかが。あさかが。
 淡々と思い出話を続ける。
 …………。

「マッジヤッベ、このままだと死ぬ。走馬灯で良い想いをしながら死ぬとかカッコ良すぎるだろ。笑顔がもっと見たいって思いながら死ぬとか超恥ずかしいわ。俺はもっと荒ぶって死にたいんだよね。……川から落ちたあさかが照れ隠しに笑ってる顔を思い出したら力が出て、レンジで卵を爆発させて本気で焦ってる顔を思い出したら力が出て、今日プレゼント持って来ちゃったけど明日も持ってくるねって言う顔を思い出したら力が出て……」

 ………………。

「思い出すたびに、もっとあの顔、見たかった、見たいんだって……ヤル気が二倍も三倍も出てきて。後は、まあ、俺がここに居るから御察しの通り、一人で異端を倒したんだ」
「……すっげ」
「アレって火事場の馬鹿力ってやつだよね。リミットがブレイクしちゃった結果だよ。……その実験以後、俺は優等生扱いされ始めた。おかげで早々ヤバイ実験には参加させられないようになったんだ。白衣達も『殺すのが勿体ない』って考えるようになったんだと思う。もっと有意義な実験ってやつに付き合わされたよ」

 ――人間ってスゲーなぁ。神秘の力ってあるんだなぁ。
 寄居は自分のことながら感心していた。いつもの俺だったら「自惚れてんじゃねーよ」と言いたかったが、相応しい経験をしてきたとなったら茶化すことも出来ない。純粋に、「凄いよ」と感想を述べる。

「つまりはな、話が超ズレまくったけど、俺が言いたいのは。……遠くになって、もう会えないって思った途端、その他大勢から特別なたった一つに分類分けされたんだよ。俺には、好きな人が、いたんだ。そう自覚したっていう話」

 ――これってコイバナだと思うんだよ。恋なのか親友なのか、本当のところ判らないけど……。

「どうよ?」

 意見と募られて、「わかんね」と首を振った。
 親友でも通じる話だけど、恋でもいいんじゃね。でも親友もアリだよな。そんな曖昧な返答しか出来なかった。

「なあ、率直な話になるけど。……寄居はあさかのこと、今も好きなのか?」

 俺がこういう話にして、やっとコイバナらしい展開になった。
 相手を突く、これこそがコイバナの華ではないか。偏った俺の知識がそう告げていた。

「好きだよ」

 寄居はいつも通りの声で答えてくれる。

「でも、そんだけだよね」
「そんだけ……って何だよ?」
「何にもない。何でもない。……好きって俺が言っても、俺とあさかの中に何が生じると思う? 何も生まれないから、『そんだけ』」
「……なんだそれ」
「『好きの後に続くもの』が何も無いのさ。今の俺には何も生じさせることが出来ない。何にも思いつかないからね」
「……変なこと言うんだな、寄居は。感情の……その先の何かって求めるもんなのか?」

 俺が尋ねると、またクスクスと寄居は笑い始めた。こいつ、笑いの沸点は結構低いらしい。大人しい顔して頻繁に笑う。

「奴のことが好きなのは事実だけどさ。俺、別に……あさかに何かをしてもらいたい訳じゃない。だから好きでいるだけ。現状で満足しちゃってるからさ。それ以上のこと何も望んでないし、何にも思いつかないんだよね」

 天井を見ながら寄居は、静かに言葉を繋いでいった。

「出来るなら、今まで通りあさかのボケを適当な距離から見れたらいい。そう思ってる、だけ。敢えて要望するなら、あさかがあさかじゃなくなるようなことが無ければいいさ」
「ふうん。…………本当に『あさかに何かしてほしい』って考えたことはないのかよ?」
「何かって、例えば?」
「……例えば……『もっと一緒に居たい』とか、『直接的な接触』とか」
「ハグとかチュー? それって、ウマがおじさんにしてもらいたいことなの?」
「…………」
「ウマは愛い奴だねぇ。でも、俺には無い感情だね」
「……無いのかよ」
「だってそんな積極的なあさかって、あさかじゃないじゃん。あさかは、あさかっぽくあさかをしているから、あさかなんだよ。そこに俺の手が加わったら、あさかじゃないじゃん? ……俺の好きなあさかは俺が手を出した途端、消えていなくなっちゃうのよ。それはヤだ」

 世の中には『俺色に他人を染める!』ことに精を出す人も居るだろうに。寄居には、そんな欲求は無いらしい。
 自分はマイペースに生きる、他人もマイペースに生きるべき。そんなスタンスを持っている、寄居らしい意見だった。

「だって正直、俺はね。今のあさか……嫌なんだよ」
「……は? さっきまで『あさかはあさかのままでいい』って言ってたのに?」
「今のあさかは、俺の手が加わっちゃったあさかだもん。……俺が殺したからあんな風に儚げな少年になっちゃったんだよ。俺が何もしなければ、あさかは苦しまずに今もほんわか生きてた筈なのに……」

 そこで、やっと寄居は目を閉じた。
 吐き出すだけだった寄居が、自戒するかのように感情を閉じた。……元から閉じっぱなしのような言動ばかりしていたけれど。

「……あーあ、俺、なんてことしたんだろーねー」

 眠りに落ちる態勢を整えつつ、寄居は……本人の自覚が無い、切なそうな声を零す。

「神様が時間を戻すことを許してくれるなら。俺は一度もあさかに手を下すことなく、遠くに行って、自分の恋心に人知れず気付きたかったね。そうすれば…………」

 そうすれば?
 ……その続きは、言わなかった。

「……。寄居は、今の状態を見ているだけで満足なんだな」
「うん。ウマみたいにスキスキって積極的になれないんだよ」
「…………俺だって寄居と同じだよ。今が一番心地良いと思ってる。好きな人に守ってもらえて、愛してもらえる、今の状況は最高だと思ってるんだ」
「そうなんだ」
「でも……違うのは、心のどっかで、『今のままじゃもどかしいって思ってるんじゃないか』、『今より心地良い関係になれるんじゃないか』、『本当にこれで良いのか』って思っていること、かな」
「…………」
「思っているだけで行動に移せないんだけどさ。……寄居と同じように、これ以上手を出せず、好きな人は好きな人らしくそのままで居るところを見ていたい……そう思う俺も、確かにいるんだ」
「どうにかしたいって思ってるなら俺とウマは違うだろ。大違いだ。いっしょにすんな。…………きっとずっと、ウマの方が、高等だ」

 ――何が上で下なのかサッパリ判らないけど。
 寄居は「何もかもウマの方が上の方が、マスターだって尊敬できていいじゃん」とよく判らない付け足しをする。
 その間も、ぐるぐると、色んなことを考える。
 今の状況は良い。優しい人が優しくしてくれているから。不満じゃないから。
 でもこれ以上を求めるとしたら、やっぱりペナルティが生じたり、負の部分が見えてきたりするんじゃないか。そしたら今の心地良さは消えてしまうんじゃ。
 それが怖くて、先に進むのが憚られる。でもそれじゃ……やっぱり……ううん……。

「コイバナってツライな。どうして旅行中にすることが伝統化してるんだろ」

 寄居が愚痴を零すかのように言う。
 全くその通りだ。修学旅行なんて楽しい場所でやったら気が滅入るに違いない。そんなに自分を落ち込ませて何が良いんだと思ってしまう。
 誰だって自分を陥れて楽しむ人間なんて居ないのに。

 俺も寄居も無言になっていった。どちらも目を閉じて、上を向いて倒れている。そのうちお互い眠りに落ちていく。このままいけば明日の向けて寝るという、元からの目的を遂行することだろう。
 いつの間にか目を瞑りながら寄居とあさかのことを考えていた。隣を起こして尋ねれば終わることだが、俺なりに『寄居はあさかの何に惹かれたのか』を考えていた。
 ……まず、あさかってどんな人間だっけ。
 元気で明るくって、ハキハキ喋って、物腰柔らかくて、敬語が上手くて挨拶の声が通るから大人の評判の良い優等生。クラスでは学級代表をするタイプだけど、自薦で保険委員に名乗り出る変な奴。その保険委員をやりたかがる理由は、「自分は将来医学部に入ってみせるっていう自己主張だよ」と朗らかに答える、やっぱり変な奴。怪我した子を放っておけないややお節介。頼まれたことは何でもしてやるけど不公平なことはしない。無茶をして反省して泣くこともあるけど、基本は笑って済まそうとする前向きな性格。友人は多く、敵はなるべく作らないように動こうとする。得意科目は体育。嫌いな科目は特に無し。敢えて言えばさほど上手く出来ないという理由で美術……。
 ああ、こりゃ寄居じゃなくても惹かれるわ。目を瞑りながらあさかのスペックの高さに驚いた。
 欠点をあげるとしたら背が低いことぐらい。あと双子の弟であるみずほが強烈なキャラを持っていることぐらい。……なんだ、全然欠点じゃない。優しくされて落ちない訳が無いな。
 年を取って大人になればなるほど、良いところにポイントが加算されていって、より良いあさかになっていく。それはつまり、『自分が手を加えるところがないぐらい完璧に出来ている』ってことだ。
 ……でも、それだと……完璧に近ければ近いほど、誰も相手にされなくなる。
 そういうことになってしまう。それは違う。完璧だと思える人でも、愛おしいって思えるもんだ。

 ……俺は、藤春伯父さんのことを「完璧だ」と想い、尊敬している。
 誰にでも優しく、曲がったことの大嫌いで旧世代の歪んだ考えを正そうとしている優しい藤春伯父さん。欠点など欠点にならないぐらい前向きなあの人に手を加えるところなど無いと思っている。
 でも……前向きな視線の先に、『自分が居たら』を考える。そうした途端満たされた気分にならないか?
 ぶつぶつ考えて、寄居と価値観の違いから対立するような展開になって、辛気臭くなって……意識を閉じることにした。
 所詮は他人事。俺が言ってどうなることじゃない。気まぐれで二人のことを考えたけど、そんだけ。
 こうやっていつも相手のことを考える度に逃げ出すから、前に進めないんだよな。
 判ってはいた。でも、その先に進むのは辛いから本能は意識を停止させる。一人で考える限り前に進むことはない。判っちゃいるけど俺の中の強い部分が強制的にシャットダウンを命じてきた。
 何気なく、刻印がある頭に手を乗せてみた。近くの血管がトクトク音を立てていた。生きてる証拠だった。
 一人で悩んでいるから強制終了に向かった。二人で話し合えばこの悩みって消えるもんなのかな。知恵を集めりゃ救われるって我が家訓えそのものだな。……封印した魂に語りかけてみるか?
 いや、やめた。寝よう。狩られた後にコイバナに付き合わされる魂が可哀想だから、俺は全てを落とすことにした。
 おやすみ、意識。明日には今の不満な心が無くなってますように。
 無理な話だけど。



 ――2005年6月11日

 【     /      / Third /      /     】




 /6

 今日は曇りがちで涼しい一日だ。
 雨が多い季節。土は濡れ、ガラス戸は凍り付くように寒い。窓から暗い空を覗き込んでいると、以前の茶会でときわ殿が「今年は冷夏でしょう」と話していたのを思い出した。
 日本の寒さは母国とは違う。
 私が住んでいた場所は森しかない土地だった。この程度の寒さは気にならない。体の芯まで凍りつく寒さなら毎年味わってはいたものの、日本の肌が湿る独特の冷気はどうにも慣れなかった。
 体質が合うかはせめて一年は過ごしてみないと言えたものではないか。日本にはまだ数ヶ月しか滞在していないのだから、まだ結論を出すのは早い。
 湿気の多さに溜息を吐き、髪を掻き分け汗を払う。そんな些細な苛立ちも目を瞑ればそれなりに愉快なホームステイを楽しめているつもりだった。以前はイギリスとドイツに半年間留学していたこともあったが、そのときよりも今の方が充実していると思う。
 理由は、親しみを持てているからだ。ときわ殿が主催する茶会の存在は、とても大きかった。

 お茶会第一回を開いてから早数ヶ月。もう既に休日の定番行事になっていた。
 洋館の食堂に時間通り集まるのは定番行事となり、お互い連絡を取り合わなくても開催できるほどに日常化した。既にお茶会はライフスタイルの一つにもなりつつある。
 毎週開催だなんて「やりすぎじゃないか」と言われそうだが、ときわ殿曰く「週に一度の楽しみなら良いじゃないか」。
 元から日常的にホームパーティーを開催していた。こういうものに憧れを抱いていたというときわ殿は、茶会開催を拒む理由が無かった。

「ブリッド。私だ、起きているか。今日は茶会がある。一緒に行かないか」

 コンコンコンとノックを三回。彼に割り当てられた部屋に声を掛ける。
 こうやって彼の部屋の前にやって来るのは、ときわ殿のピアノ救出作戦ぶりだった。それ以後、茶会は食堂での現地集合であるため、ブリッドの部屋に直接やって来ることはない。
 それに他人の部屋に赴くなんて、体が重くなることはあまりしたくなかった。迷信とはいえ、中に入ることができた試しが無かったからだ。

 私自身利用している洋館の部屋は、決して広くない。ワンルームの一般的なホテルの一室となんら変わりはない。洋館は来賓用の館と聞いているが、ベッドがあり、テーブルがあり、ユニットバスがあるという本物のホテルのような造りをしている。
 おそらくそれはブリッドの部屋も同じだろう。畳で言うなら六畳か七畳。広くないなら軽くノックしただけ中に音が届く。どんな物が部屋に置いてあったって、気付いてくれる筈。
 声を待つ間、ブリッドの部屋がどのようになっているか勝手に想像していた。興味はある。『初めて来る場所』なのだから、自然なことだ。

「ブリッド、いないのか? 出かけているのか」

 返事の無い友人に何度も呼びかける。
 声はしない。でも、何故かこの部屋が留守だと思えない。
 ……微かに物音がするからだ。

「ブリッド、いないのか」

 ノックをしても返事は無い。
 この部屋に居ないとなれば、何か予定が入ったり事情があるに違いない。ブリッドに限って居留守をするようなことは無いだろう。
 ブリッドは話し下手なだけで、あとは普通の人間だ。誘えば茶会に来てくれるし、だから一週間に一度時間を共に過ごす仲になれた。無口で彼から何かを話すことはないがが、少しずつ彼のことが判ってきたつもりだ。
 相変わらず目を合わせてはくれないが、不器用な言動の中にとても優しい姿が見える。いつぞや「休みを増やせ」と言った甲斐もあってか、少しずつだが休みを入れるようになってきたという。非常に喜ばしいことだ。
 このまま茶会の数を増やしていけば、いつしか伏目がちに喋り警戒しているのも改善されるのでは。もっと愉快な話をしてくれるのでは。
 そう思えるほどに彼との距離は近しくなった。
 彼は、欠けてはならない……茶会にいなくてはならないメンバーになっている。
 ――がちゃり。
 突如。ノックをしていた扉が開く。思わず頭をぶつけそうになるぐらい、ドアが大きく開かれた。

「なんだ、ブリッド。いるじゃないか」

 扉の先の住人は、確かにそこに居る。
 ノックは聞こえていなかった訳ではなく、単に外に出られない理由があったのか。姿を見れば……なるほど、外に出るような格好をしていなかった。寝巻きのような、ずるずるした衣装を肩から羽織っている。
 真っ白いケープを肩に羽織って、ポリポリと頭を掻いていた。部屋着とはいえ……白か。ブリッドは普段から黒やダークブラウンを好んで着ているから、あまり彼っぽくないなと思ってしまう。
 ――ぐいっ。

「わっ」

 腕を引かれる。少しだけ開いた扉の先に、引きずり込まれた。
 か弱く、抵抗できない力ではない。だけど振り払う理由も無く、呼ばれたならと私はその手に大人しく引かれた。
 部屋の中はベッド、テーブルと椅子。私の部屋とそんなに変わらない。だが、元から置いてある家具以外は何も置いてなかった。
 生活感が無い訳じゃない。椅子は適度にズレてるし、ベッドは使った形跡がある。人がこの部屋で寝泊まりをしているのは判る。
 けど、寝泊まりしかしていないようにも思えた。
 どうしたんだと問いかけてみても、手を引いた本人は腕を離そうとしない。何も言わず、引いた腕をまだ掴み続けている。無言のまま、部屋を訪ねてきた私を、じっと見ていた。
 何が何だかよく判らないが、無言でじっと見つめられ、思う。

 ――ああ、やっぱり。やっぱり、彼は……目の色が……。

 滅多に逢わせない彼の目を見ることができた。至近距離のせいか、前髪を避けて覗くことができる。
 綺麗な紫色だ。
 人間のものとは思えないような。

「どうしたんだ。ブリッド、何かあったのか?」

 何も喋ってこない彼に問いかける。声を掛ければ何かしら返事をしてくれるのが彼だった。いつもとそこまでは同じ。
 ただ違うのは、彼から目を逢わせてくるなんて滅多に無いことなのに、目の前の彼は凝視してきた。そして、とんと軽く壁際に押し付け、唇を重ねてきた。
 そのまま、唇を舌で舐められる。
 ねっとりと、柔らかく熱い舌が上唇を攫う。
 果汁のジュースを飲んでいたのか、甘い香りがした。口内で醗酵されたフルーツの香りは違う感触を連想させてしまう。
 他人の唾なのに不快感は一切抱かせない。無言でそれを受け入れる。
 部屋には窓はあるが、遮光カーテンで仕切られて日光は差し込まない。そもそも今日は曇りがちの天気だし、灯りをつけていないこの部屋は薄暗い。壁際に押し付けられているので、照明の電源に手を伸ばそうにもできなかった。
 壁に押し付けられて数秒後……ブリッドのベッドへ押し倒されるまで、全く違和感無く唇を貪り続けられていた。
 どさっという、自分の体がシーツに包まれる音でやっと正気を取り戻す。
 寝台に押し倒された。その事実が、意識を覚醒させた。

「待て」

 男の体が乗っかってくる。
 腰の上に乗られて、額を掌で抑えられる。髪を掻き上げられて、もう一度、口内の甘い香りを嗅がされる。
 そしてカプッと、鼻を食べられた。
 もちろん比喩だ。舌が顔を這っているだけに過ぎない。
 それでもあまり感じたことの無い感触に、息を呑む。香りや舌だけで身体を止められそうになるが、下半身を這う左手が、官能的な動きをし始めたことで、自覚しなければならなくなる。
 これは、やばい。冗談なのか。彼は……。

「待て。こういうのはちゃんと順序立ててやっていくべきものだろう? いきなりこんな昼間から、何の語らいも無しでしてはいけない。これは大事なことではないか。こうする意味がよく判らないがちゃんと考え直してくれないか、ブリッド」
「………………。プッ」

 ……彼は、笑う。
 さっきまで無表情だったのに、堪え切れなくなったのか吹き出す。
 冗談にしては動きが真剣だったので笑えない。責め寄って来る身体を仰向けで押しのけるしかない。それだってまだ敵わなかった。

「順序って、どんなの?」
「え?」
「部屋に連れ込んで、キスをして、服を脱がせる。この順番、何か間違ってるかなぁ? 真っ当過ぎるやり方だと思うんだけど?」

 ニヤニヤと、上から見下ろし楽しむかのような笑みを浮かべていた。
 流暢な言葉で。彼に似合わぬ、とても軽やかな口調で。

「一つ足りないものがあったかもしれない。愛の言葉、言ってないよなぁ」
「ああ、そうだ。ちゃんと事をする前に、大切なことだろう?」
「よーいドンを言わなきゃ走れないからなぁ。それじゃあ。『愛してますよ、アクセン様』?」
「……あ……あ?」
「こんなんでいいのかな? それさえ言えばヤらせてくれるって、アンタ、相当いやらしいなぁ。『いくら払え』とかせびってくる女の方がよっぽどお高いよ。アクセン様って結構軽いんですねぇ」
「いや。そういうんじゃない。違う。気持ちだ、気持ちが大事だというだろう、大抵はそう言う筈だ」
「だよなぁ、やりたかないときに誘われたらそりゃあ萎えるよねぇ。一方的にサカってるのも格好つかないし。だから、こうやってマッサージしてあげてるんですけど?」
「う」

 弁解をしている最中も、股間に繰り出されている左手の動きは継続している。
 ズボンの上からぐいぐいと刺激を与えてられていた。
 何度も押しよけようとするが、腰から上に座られ、後ろ手で動かされているから、地震でも起きない限り形勢逆転できない。だから、言葉でやめてもらうしかなかった。むず痒さを感じつつも、固定された身体を起こすために、上へ言葉を投げかける。

「やめてくれないか。心の準備ができていない」
「ははは、心の準備ぃ? 面白いこと言いますね、アクセン様。笑わせてオレの力を弱らせるつもりですか」
「いや、その、このままだと本当にいけないことになる。ブリッドだって、いいのか。こんなことを、私として」
「はあ、ここまでされてながらまだブリッドと言うか」
「んっ……?」

 手が止まる。
 腰の位置も若干離れて、私が力を入れれば退かすことができるほどにはなった。
 だが、あまりに長く股間に手を加えられたことで、力が入らなくなってしまった。まだ乗っかっている状態のまま、項垂れてしまう。

「こんなにベラベラ喋って、貴方の嫌がることをするような奴をブリッドと言うんだ?」

 灯りは、窓から差し込む雲空のみ。それでも眼を凝らす。
 確かに、いつもと変わった服装に何かが違うな、と思ってはいた。
 笑い方も二ヶ月間話をしてきた雰囲気と違う。寧ろブリッドがこう、笑った顔は、見たことがない気もする。
 何より、『ブリッド』の名を客観的に口にしているということは……。

「……お前。ブリッドじゃ、ないのか」
「ははは、出来れば腕を引いた時点で気付いてほしかったぜ。貴方、キスまでされて超至近距離で可愛いオレを見ることができたんだから、いつでも気付けたんじゃないか?」

 寄せてくる目と、自信ありげな喋り方が、私の知っている彼と違う。
 しかし目の前の彼は、どう見てもブリッドの外見と、ブリッドの声で、笑う。最初の数分だけ無表情だったが、後は笑いっぱなしだった。

「そんなこと言っても……。ああ、君が、ブリッドの言っていた……兄か」
「です。名前は、ブリジットって言います」
「ブリ……ジット……?」

 全く同じ顔で、違った表情。名乗った後でも違いが判らないぐらい、何もかも同じの造形。双子の兄弟。
 だとしても、まさか『身体つき』までそっくりになるものなのか。生まれたときはそっくりでも、二十年以上年をとれば差異が出るのに、正体を明かされた後も、戸惑ってしまうほど似ていた。

「……君と私は、今日が初対面か?」
「ああ、そうだな。オレはブリッドから話を聞いていたのでアンタのことは知ってたけど、きっとブリッドはオレの話なんて他人にしないだろうし」
「……それなら、余計におかしいじゃないか」
「何が?」
「見ず知らずの私に……その、先程のようなことをするのは」

 悲鳴のように声を上げたせいか、すぐさま、ブリジットは返答することはなかった。
 たったの数秒でも沈黙が続いて、自分が口にしたことで赤面してしまう。
 沈黙の間、ブリジットは一時停止のように表情が固まる。だが、すぐに口元がニヤついたものへと変貌した。
 幼稚だと思われたか。彼が「本当に貴方、お坊ちゃんなんですねえ」と呟いたのを聞き逃さなかった。未熟な箱入りである自覚はあるつもりだが、面と向かって言ってくる彼は堂々として、かなり度胸が据わっている性格と言える。

「お坊ちゃんでもいいんじゃねーの。そういう人間も一人は居るべきだろ、世界中にそればかりだったら困るけどよ。ところでアンタ。……綺麗な赤毛だなぁ。これって染めてるの?」
「生まれつきだ」
「ホントにっ? ハハッ、元は黒髪とかじゃなくて!?」
「染める理由が無い。私はそれほど外見を気にしたことがないのでな……髪の色は生まれつき、この色だよ」

 「ふうん」と口元を楽しげに歪ませながら、ブリジットは自分の髪の毛をくるくると指に絡ませた。自身のものを確かめるかのように。
 未だ私の上から下りず、上から見下ろしながらヒュウと歓声を上げるかのように口笛を吹く。

「金髪でもない?」
「私は生まれつき、この髪だと言っている」
「へえ! ハハッ! そりゃ凄い! ……ブリッドを探しに来たんだろうけど、赤毛の貴方様ほどのお人なら判るんじゃないかぁ?」
「……は?」
「ブリッドは今朝、大山様から急な『仕事』が入ったんだよ。でもそろそろ帰って来るんじゃないかなぁ?」
「……仕事?」
「ああ、今朝の三時に起こされて狩りに行ったんだよ。ハハハ、『折角の約束の日なのに』って嘆いてたなぁ! アイツも、約束とかメンドくさいもの、キライな筈なのに」
「ブリッドは、学生ではないのか?」
「なんでこの年にもなって学生やってなきゃいけないんだよ」
「……そうだな。以前学生とボランティアをしていると聞いたが、自分が学生だとは言ってなかったな……。しかし、そんな夜遅くに……仕事とは何をしているんだ。そんな早い時間から」
「『仕事』は、『仕事』だろ」
「だから、その仕事とは何をしているんだ? 夜にやるというと……新聞配達? いや、まさか」

 私がいくつも模索するようなことを言っているせいか。ブリジットの顔つきが、笑っていたものから違う表情に変わっていく。
 黙って怪訝そうな顔。笑顔ではないのは確かだったが、何とも言えない表情へと変貌していった。

「茶化さないでくれる? 『仕事』を、『大山様から』、受けてやってるんだよ」
「どうして君がそんな顔をしているのかが判らないぞ。私は、ブリッドがしている仕事のことは何も知らない。それに……大山様というのは、この寺の人のことかな?」
「は? なんでこの寺に居るのに大山様の名前も知らないんだよ。バカですか? 記憶力がカワイソウな人なんですか?」
「人並みに記憶力はあると思うぞ……自分は努力家のつもりだが……面と向かってバカって言わない方がいい。言われた側は傷つくものだろう?」
「ならなんで」

 みるみるうちに声を荒げていく。そう言われても、よく判らない。

「……もしかして。オマエ、『仏田』と全く関係無い……?」
「ん……?」
「地位を教えろよ」
「地位……? 学年を言えばいいのか」
「どこの分家ですか」
「あ、ああ……どこの生まれかを訊いているんだな? それなら私は『仏田』のどこの生まれでもない。まったくの無関係な人間だ。母方の親戚がこの家だと聞いているよ」

 …………。

「今年から照行殿の許しでこの洋館に滞在させてもらえるようになってな。ちゃんと寺に立ち入る許可は貰っているぞ、照行殿にな。最初のうちは周囲の方々にあんまり良い顔をされなかったが、照行殿が色々気遣ってくれたからな……難無く過ごしている」

 ………………。

「仕事を、大山様という……寺の人に任されたんだな、ブリッドは? それはそちらを優先すべきだ。あくまで茶会は自由参加で、気が向いたときの息抜きとして開催しているものだ。なるほど、今日のブリッドは何か深い家の事情があるんだな。敢えて訊かないことにしよう……で、そろそろ下りてくれないか?」

 上から。
 まだベッドに押し倒され仰向けのまま会話を続けていたので、おそるおそる頼みこむ。

「…………無関係の野郎が、どうしてこの寺に立ち入ってんだよ」
「だから先程言った。『照行殿に許可を頂いて』と。私はこの国に日本語を習いに来た留学生だよ。ここは古い歴史が沢山あるし、書物も自由に読んでいいと言われた。有難く勉強させてもらっている。確かに、自分の家族以外の誰か部外者が家に入るのを好まないという気持ちは判る。けれど、それが全ていけないという考えもいかんぞ。私は誤解される身だったかもしれない。けど、どうか仲良くしてくれないか? この国に私は、頼りに来たのだから……」
「部外者が、神聖な地に土足で入り込むなんて。ゲスが」

 ん、何て言ったんだ。
 声が小さくて聞こえなかったんだが……?

「…………。あー、はいはい、ごめんなさいねえ、声を荒げちゃって。そんな特例、知らなかったんで仰天しちゃったんですよ。という訳で、アクセン様。あらためてオレのお相手はいかがですか?」

 いきなり笑顔を取り戻すなり、ずずい、と。一度離れたと思っていた体が、再度私に迫り近寄って来る。

「い、いや、だからな。何度も言っているが、私はお前のことをまったく知らないし……」
「知らないならこれから知っていけば良い話。オレの名前はブリジットで、ブリッドの双子の兄だって判ったでしょう? ほら、愛の言葉でも囁きますよ」
「そういう問題ではない。親密な付き合いになってこそ、先程のような深い関係になるものなのだろう?」
「お堅いというか、阿呆ですか貴方。ここの魔術師が性行為を求めるなんて、快楽、エクスタシー欲しさに決まってるじゃないですか」
「お前の言ってる意味が判らないんだが」
「はあ、一般人は『供給』なんて知らねえか。無知は罪ですよ。今日はオレの為に搾られて、後で調べるといいです。この家の魔術師のことぐらいカンタンに調べられるでしょ? ……簡単に言うと、セックスをしないかって誘ってるんですよ」
「搾るって。んん、判らないうちに関係を持って後悔することにならないか?」
「後悔だなんてそんな。キモチイイことしかしませんよ」
「揉むな。助けを呼ぶぞ」
「レイプ寸前のエロ小説でその台詞を言うと、次に続く言葉がどうなるか、知らないんですか?」
「は……?」
「『助けを呼んだところで、誰も助けに来ちゃくれねえよ』」
「ちょ、ま……っ」

 再度、襲い掛かってくる身体。
 押しかかる力が先程よりずっと強い。
 ――彼と同じ顔で、全く違うことをしてくる。
 なんだか……胸の奥が、モヤモヤする。
 見ず知らずの男に言い寄られているから、モヤモヤしている? いや、それもあるが、そうじゃない。違う理由が、眼の前にあった。

「…………ああん? なんでオマエがいるんだ、ルージィルさんよぉ?」

 突如、私を襲う力が変わる。声が別の方向へと向いた。

「相変わらず大したお考えですねぇ。大変兄らしいというか。……とても懐かしい言い分です」
「んだと?」

 私をベッドに押し付けるブリジット……の背後に、見覚えのある金髪が見えた。
 後ろから声を掛ける男に、ブリジットは身体を押しつけながらも舌打ちをする。彼も、背後の声を知っているようだった。
 ブリジットが身を起こす。いきなり現れた……金髪碧眼のルージィルと呼ばれた男と面と向かうためだ。
 既にブリジットによって前のシャツのボタンは剥がれているし、ベルトも抜かれていた。急いで抜かれたベルトを元に戻す。
 未だにベッドに横たわる私の上からブリジットは退こうとしない。すぐ一メートルほど先に金髪碧眼は確かに直立していたが、それだけだった。この際どうして彼が現れたのかは後で考えるとして、私は金髪の男に視線を向ける。
 だが、それだけだ。
 ブリジットを退かす動きも、そのような指示も提案も何一つ一切されず。ルージィルと呼ばれる人物も、ただただベッドの傍らに姿勢良く起立し、私達を見下ろしていた。

「おい、ルージィルさんよう。コイツ、助けてやる気か?」
「そのつもりは無いですが。タイミングが悪かっただけですね。しかしどうやら彼は兄に襲われているところから救われたいと思っているようです」
「……何者かは知らぬが、その通りだ。ルージィルとやら、まったくもってその通り。……助けてくれないのか?」

 暫し、沈黙。手を顎の下に当てて、思案。
 ルージィルは何度も何度も、上から下まで身体を流し見る。
 隅々まで、舐めるように見た後……にっこりと笑った。

「助ける必要があるんですか?」
「……何故、そう思う」
「兄のことはお嫌いですか? 嫌いならばそうハッキリと言えば強姦しないと思いますが。いや、嫌がる相手を無理矢理犯すから強姦なんですが」
「……嫌う要素は今のところ無いが、かといって好きにもなってない相手と交際などできないものではないのか」

 何故か、二人とも目を丸くして驚いている。
 何故だ。驚かすようなことは一切言っていない筈なのに。

「はっはっは。すっげー久々に一般人の考えを聞いちまったぜ」
「ですね。まさかそんな真っ当な台詞がこの世にまだあったとは。初々しい言葉に思わず私も心をときめかせてしまいました」
「アクセン様さぁ。セックスから始まる愛も一興かと。貴方は顔も悪くないし声も良いから、オレは手解きしますよ。さあ、これから関係を始めてみませんか」
「……………。その、だな……ブリジット。それを本気と受け取って、いいのだろうか?」
「本気? ……うくくっ、本気ですか。いいんじゃないですか。オレはただ貴方から貰えそうな迸る魔力が欲しいだけだし」
「あげられるものならやってもいいが、もう少しお互いを知り合ってからやるものではないか」
「めんどくせーなー。脱げよ」
「っ!?」

 取り戻したベルトを再び引き抜かれる。必死になって再度奪い返し、今度こそ盗られないように装着し直した。

「兄、下品ですよ。口説きたいならもう少し優しく言ってあげたらどうです」
「……ルージィル。君は助けてくれないのか、私を……?」
「助けることはできますが、助けることで私に何か見返りがあると思えません。アクセン様を助けて、私は得をしますか?」
「私に出来ることなら、なんでもしよう。努力しよう」
「おい、その言い方やめろよ、オレがこいつを熱心に追っかけてるみたいじゃないか。遊ぶ分には楽しめる性格だけどな」

 二人は仲が良いのか次から次へと言葉を投げ合い、笑いながら、人を置きっぱなしにしながら会話を続けていく。
 ……何がそんなに面白いのか、私には理解出来ないような話題を続ける。

「アクセン様。兄は貴方に好意を抱いているようですよ。応えてあげるのもいいんじゃないんですか?」
「…………」
「ダメなんですか?」
「…………。今日は、ダメだ」
「ふむ、意外な返答。その言葉だと、後日ならいいってことになりますよ?」
「ああ、後日なら。……今日は、これからお茶会があるんだ」

 は?
 と、ブリジットがとぼけたような声を出した。

「ブリジット……お前は今、『何かが欲しい』と言ったな。私がそれをお前に与えることができると。お前が困っているのなら……お前はブリッドの兄だ、私に出来ることがあるならしてあげよう」
「へえ」
「私は極力人の望みは叶えてやりたい。人には優しくあるべきだからな。だが……今日はこれから、ときわ殿とブリッドと約束がある。茶会に出席するために、私は……今は、できない」

 ……二人は、黙りこむ。
 長い時間、私を見つめることだけに費やした。

「食堂に行けば、ときわ殿が待っている。今『仕事』とやらをしているブリッドも、茶会を楽しみにしていると言ってくれた。ここでブリジットと……その、寝てしまったら、二人との約束を違えてしまうことになる」
「…………。断る理由、それだけですか?」
「ああ。それだけだ。ブリジットに嫌な感情は無い。だけど、今はダメだ」

 更に二人は、黙りこむ。
 だが。先に「ふふっ」とルージィルが吹き出して、沈黙は終わりを告げた。
 それをきっかけにブリジットも動き出し髪の毛をぼりぼりと掻く。
 二人とも凝視する視線から目を逸らす。どちらも、……考えたことのない返答に、つい気を紛らわしたくなった。
 ルージィルは少しだけ歩みを寄せる。ベッドにほんの一歩近寄っただけだったが、それだけでブリジットは移動した。一歩変わっただけでブリジットが押し付けていた体重が無くなる。それはまさしく、救援そのものだった。

「アクセン様。貴方は現在の利に一致していないから拒絶をしているだけで、もし道理が正しいなら見ず知らずの兄でも従うと。生真面目だと思いきや享楽的なお人でしたか。……兄。私はこの人が気に入りました。助けてあげても宜しいですか?」
「……オレは逆に背筋が凍ったね。『嫌いじゃない』から、『好きじゃなくてもOK』なんて。……良い『供給』の素体だと思うが、今日はいいや、興味が失せた。また別の日に相手してもらおう」
「つまり、今日はいい……と?」
「ブリッドの奴が茶会を楽しみにしてたってのは事実だからな。アイツは……茶会じゃなくて、コイツと居ることが楽しみなんだろ、それぐらいは察してるつもりだ」
「そうですか。良かったですね、アクセン様。もう出て行っていいと彼は言ってますよ」

 乱された衣服を整える。その間ブリジットは、ベッドにどすんと深く腰掛けた。

「早くルージィルから離れておけよ、襲われるぞ」

 枕元にあったらしいペットボトルを手に取り、口付けている。微かに太陽が差し込んで判った色で、甘いジュースを飲んでいることが判る。色はきらきらと輝く緑色。……メロンソーダだろう。
 口付けられたときに香った匂いはあのジュースのせいか。最後まで上品さは、微塵も感じられなかった。

「ルージィル。あ、ありがとう」
「不安そうですね。ありがとうと思っていないなら、言わなくて構いません」
「いや……彼と二人きりだったら完全に押し潰されていたから、第三者が来てくれて助かった」
「『押し潰され』ですか。『押し倒され』ではなく? ふふっ、本当に面白いことを言う人ですね、貴方は」

 ルージィルはベッドの上のブリジットを見るが、直ぐに私へ視界を戻す。
 ブリジットはもうどちらにも興味が無いように、ベッドに転がるだけだったからだ。

「食堂にお戻りくださいな、アクセン様。きっとときわ様がお待ちしてますよ、そろそろ弟も戻る頃です」
「そ、そうか、そうなのか。……ところで、お前達は茶会に来る気はあるか?」
「私如きが出席しても構わない場なのですか」
「もちろん出ていい、歓迎する。ときわ殿はお茶と菓子を囲んで話がしたくてたまらないようだから、きっと喜ぶ。ルージィルも色んな話を知っていそうだ。楽しい話を沢山話してやってほしい」
「それはそれは……次代の仏田を担うときわ様のお役に立てるなら、行かなければなりませんね。何よりアクセン様とご一緒にお茶もできるようですし」
「私はいつだって付き合うぞ?」

 ブリジットはベッドに横たわる。どこからか(おそらくベッドの下)取り出した雑誌でもう自分の部屋モードで寛いでいた。

「……で、ブリジットはどうなんだ? 茶会に来てくれるのか?」
「結構です。今日は気が乗らないんで、メンドーじゃないときに顔出します」

 あっさりと、さっきまで遊ぶ気満々だった男は断った。

「そうか……ブリジットもそのうち来てくれると嬉しいぞ。もっと話をしてから……その……な」
「なに。もしかしてオレに惚れた?」
「……お前とは倫理感のズレを修正し合う必要がある。今日はこれで失礼するよ」
「あ、さっきルージィルが言ったけど、そろそろ弟が帰って来る時間だと思いますよ。で、『食堂に行ってもアクセン様が居ない〜!』ってショックでビースカ泣いてるかも」
「まさか。そんなことはなかろう、ブリッドに限って」
「いや、そういうことあるんだって。だって、兄貴のオレが言ってるんだぜ? 数ヶ月しか知らないアンタより、信憑性のある話じゃありません?」
「…………。彼は、泣くのか」
「そりゃ、人の子ですから」

 ブリジットの顔から一度消失した笑みが、再びニヤニヤしたものだが戻ってきた。
 ブリッドの感情が乏しいと思っていたのは気の所為だったのか。兄の、家族の前では、普通の喜怒哀楽を見せるのか。
 数ヶ月の会話の中で彼の表情の変化は全然見られなかった。拒まれているかのように、全く見ることができない。
 ……拒まれているかのように。

「……私が、泣かせる……? それは申し訳ないことを……今すぐ向かわないと」
「ええ、ダッシュで行ってください。とっととダッシュで」
「ああ……!」

 くるり。振り返し、駆け出す。言われた通りすぐに食堂へ走っていけるよう、ダッシュで。
 行こうとして、振り返った先に、『ルージィルがそこに立っていること』も頭の中からすっぽり忘れて。あ。がががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががががが。

「あっはっはっはっは! やっぱコイツ、頭弱いんじゃないかー!」
「なっ……。何をさせてるんですか、兄……」

 遠くで。
 何故か、とても遠くで、一人の笑い声と、呆れた声が同時に聞こえてきた。



 ――2005年6月11日

 【     /      / Third /      /     】




 /7

 目を覚ますと、廊下の天井が見えた。

「お、気付いたかー」

 普段は通路としか見ていない場所だから、廊下の天井など改めて見ることなどなかった。
 洗練された造り。ときわ殿を含めて、五本の指で数えられるような、たった数人にしか使われない屋敷。
 こうやって、道端で眠るのは、やんちゃだった少年のとき以来だ。さて、廊下で寝そべっているのは何故だ。そして自分はどれぐらい洋館の廊下で寝そべっているんだ。
 何故か廊下で眠っていて、天上を見上げている。視線を横に移せば、隣でシンリンがしゃがんでいた。……洋館の住人であるシンリンが。

「……シンリン。君は何故ここにいるのかな」
「何故って、廊下で人が倒れてたらオッチャンのような医者が呼ばれるのは当然だろ。呼んだ野郎はさっさと部屋の中に帰っちまったけど」

 医者。そうか、私は医者にかかったのか。
 仰向けで倒れていた我が身を、力を込めて持ち直す。だが身体は自分のものなのに、何故か言うことを聞かなかった。

「おい、アクセン。立てるか?」
「……何故か身体が痺れるが、立てないことはない。すまないが手を貸してくれるか……この程度の事、どうしようもないかもしれんが助けてくれ。んっ……?」
「手を貸してほしいとき、日本語で合言葉があるんだが知ってるか」
「なんだ……?」
「[友情は、見返りを、求めない]」

 がしりと彼と手を繋ぐ。
 目の前にいるハーフの青年は私を起こすべく、力強く手を引いてくれた。その際に一言だけ[日本語]を混ぜる。シンリンは私に合わせて英語で話をしてくれていたが、たった一言だけ口にした[日本語]の方が声に馴染んでいる気がした。
 それもその筈、シンリンは医者として日本のこの寺で過ごしていると聞いている。彼はアメリカ人と日本人のハーフで、日本人の父がこの寺の出身であるらしい。その父も医者としてずっと前からこの国に滞在している。同じ洋館に住む者として挨拶をしたときにそう教えてもらったが、そういえば……医者というが専門分野は教えてもらっていなかった。訊こうとしたら有耶無耶にされた。……どうやら彼はときわやブリッドと同じで、私にはあまり深いところまで教えられないらしい。

「……アクセン。常備薬は?」
「上着の胸ポケットに……。いや、だが、これは……何か違う」
「何かって、どう違うんだ? ハッキリ言ってくれなきゃ診られない」
「これは……『いつもの』じゃない。異様な、身体全身が引き裂かれるような……でも一瞬だった。電撃が走ったような痛みで……今はじんじんするだけで……」
「……。おい、アクセン。お前、ルージィルに触れたか?」
「触れた……?」

 記憶を探る。
 私が覚えている限り……ブリッドの部屋で、私の不注意で、ルージィルに……。

「うむ。ルージィルに正面からぶつかってしまった」
「……ああ、そうかい、そりゃ災難だったね。治療法は無いから、無理矢理立って好きなもんでも食べて寝るんだな」

 シンリンは私に肩を貸しながら、医師らしからぬ発言をする。
 そのまま、私を引き摺って彼は食堂へ向かおうと足を進めていた。中途半端な回答に「どういうことだ?」としか聞き返せない。

「ルージィルってどんな奴か知ってるか。いや、知らないから真正面からぶつかって倒れたんだよな」
「だから、どういうことだ? 私は、不注意で彼とぶつかってしまっただけだが。それだけなのに、何故気絶してしまった?」
「わかんね。ただな……『アイツに触れると倒れる』んだよ。気を付けろ」
「意味が判らないんだが」
「あーね、判らないだろうね。この家の人間じゃないお前には、一般人のお前にはね。でも『そういうもんなんだから仕方ない』ってことで、納得しろよ。とにかく、ルージィルには触れないようにしろ」
「……何故?」
「目が悪くて物が見えなくて困る人間がいるように。他人に迷惑しか掛けない人間がいるように。触れたら感電して殺せるような体を持った人もいるんだ」
「…………。それは、大変……じゃないか。彼は、ルージィルは、それだと?」
「ああ、大変だな、アイツは。でも、『それ以上に厄介な奴』が、『こうやって俺の前にも居る』」

 …………。

 シンリンに肩を貸してもらい、食堂になんとか辿り着く。
 見れば、ときわ殿の隣の席にブリッドが座っていた。
 入口へとようやく辿り着いて、重い溜息を吐く。溜息を盛大に放出させてしまうぐらい、体がだるく重かった。

「遅かったですねアクセンさ……って、どうしたんですか! そんな、足を引きずられて!?」
「…………アクセン様!?」
「ときわ様、ご心配なさらず。コイツったら熱中症で倒れただけですよ」
「シンリンさん? 貴方が来ているなんて、一大事じゃないですか。……6月に熱中症って、なんで曇りがちの外で熱中症ですか。尚且つ、どうして外に出ましたか」
「いやあ、色々あったみたいで。外に出るハメになってと言いますかー」
「……シンリン、もういい。変な言い訳をするな」
 
 食堂に置かれた時計を覗く。装飾過多と言われそうなほどの立派な時計は、一瞬壊れてしまったのかと思うほど、予想外の時刻を指し示していた。
 ブリッドの部屋へ彼を探しに呼びに行って、既に一時間が経過している。ブリッドの兄に襲われた時間は五分も経っていないだろうに、一時間経っているということは……私は廊下でほぼ一時間も眠っていたことにならないか。
 一時間挟んだとは思えぬほど、まるで時間をあっという間に飛んできたのではないかと思ってしまうほど、兄とのやり取りを克明に思い浮かべることができる。
 ……たった五分のことでも、とても叫んだからか。

「……あ、アクセン様。大丈夫……ですか……?」
「ん。おかえり、ブリッド」
「…………。え……? あ、はい……ただいま帰りました……」

 思わず、傍に寄って来た影にビクリとしてしまうがなんてことはない。ブリッドが私を気遣って声を掛けてくれただけだった。
 咄嗟に「おかえり」と言うと、ブリッドは自分に掛けられた言葉の意味が判らなかったのか数秒固まってから頭を下げた。……少々、唐突過ぎたと私も反省した。
 私は、なるべく人と話すときは相手の目を見るようにしている。そう心掛けている。それが礼儀だと思い込んでいるから、だが。
 つい先ほど、目の前に居る人物と同じ顔と『したこと』のせいだ。ブリッドではないのにブリッドを意識してしまい、ブリッドと必死に目を合わそうと無理をしている自分に気付く。
 『今日はできない。茶会がこれからある』。
 自分の口から飛び出た台詞を思い出しながら。

「……アクセン様。気分が悪いのなら、先にお部屋へ……お帰りになられた方がいいのでは……?」
「ブリッドさんの言う通りですね! 体調が悪いんじゃ、座っているだけでも辛いでしょうし」
「いや、二人とも、構わないでくれ。別に今は痛くもないんだ」
「ときわ様、あんまり気にしなくていいですよー。すぐに治るやつですからー」

 症状のことを知っている医者・シンリンの口から「平気だ」と言ってくれる。これほど心強いことはない。シンリンに言われ、ときわ殿とブリッドは渋々頷いた。
 体はまだ痺れて動かない。なかなか動き出せずにはいたが、テーブルの上に何があるかぐらいは見ることができた。
 食堂のテーブルには、ときわ殿が楽しい茶会を開くために用意したケーキやティーカップが用意されている。
 どうやらつい先ほどまでブリッドと二人で紅茶のことについて話し合っていたらしい。ときわ殿が独学で学ぶために使ったという参考書が散乱していた。

「……ときわ殿、何故ケーキを食べていない? 食べるために買ってきたのではないのかね」
「何を言っているんですか! 一緒にティータイムを楽しむ仲間が帰ってくるまで我慢していたに決まっているじゃないですか」
「決まっている、のか。……そうか、そうなのだな」
「そうなのです! ……という訳で改めてお湯を沸かします。体調が悪いアクセンさんはじっとしていてくださいね。あ、お手伝いさんの屋敷にお腹に優しいものがあるかどうか聞いてきますので!」

 一番近い屋敷に電話帳があるんです、とときわ殿はしっかりとした英語で言いながら食堂を出ていった。
 歩いて、ゆっくりと急がずに。
 ときわ殿は博識であり英会話に長けている。茶会の最中は日本語を極力使わず私に合わせてくれているが、それでも日本人らしい力強い発音の仕方に聞き返してしまうことも少なくなかった。
 それでもへこたれず会話を続けているのだから、彼と私の相性は良いと言える。

「ブリッドは休めたか?」
「……アクセン様、お水は……いかがでしょうか……?」

 返事より前に、ブリッドは尋ねてくる。質問を質問で返された。頷いて返事をする。
 その頷きを見て、ブリッドはすぐに水道水とカップを用意した。口調は非常にゆったりしている彼だが、誰かの介護が得意のように見えるほどきびきびと動く。両手に持ったカップを、私の口元に運んだ。
 指に全神経を集中させれば動かせないこともない。けれど、それぐらいしなければ現在は体を動かすことができない。どんな動きにも、多少の苦痛は伴っていた。
 だから椅子から動かず、指も動かさないで近くに置かれただけのメニューを見ていた。身体が動かないことを、見すかれている。
 その心遣いは、とても嬉しい、のだが。

「ん。これは、少し……」
「あ……あ、アクセン様でも、は、恥ずかしいですか、その、嫌なら……言ってください……もう、しません、から」
「いや、甘えさせてもらおう」

 喋れるのだから、体内は動いてくれている。
 唇に、僅かに指が触れたが気にしないことにした。敢えて気にしない。そう神経を集中させる。
 違うところに神経が集中し過ぎて、味覚を楽しむまで考えなかった。微かに甘い香りは口内に漂っているが、いまいち判らない。

「も、もう一度頼めるか」
「は、はい……判りました」
「出来れば、横からじゃなくて真正面から頼む。零してはいけない」
「はい…………失礼します」

 椅子をずらして、真正面にブリッドが跪く。腰に乗られたときの構図とは、違う。でも覗く視界が、同じものを捉えた気になってしまった。
 目の前に、紫色の目。
 なかなか見られない、不思議な色の瞳だった。
 ……無言で受け取る。水など味わっている状況ではなかった。

「……あー。お前ら、真正面から向き合ってイチャついてるんじゃねえよ」
「っ!? あ、いえ、こ、これは……オレ、決してそんなつもりではなくっ……!」

 私を食堂に運ぶため来てくれたシンリンに注意され、意識が戻って来る。
 つい赤くなってしまうが、体調が悪いとされているのであまり気にされることはない。ブリッドもシンリンに指摘され強く反応したが、声を荒げるほどではなかった。
 シンリンに止められてしまったことで、ブリッドの体が遠くに行ってしまう。……なんだか複雑だった。



 ――2005年6月11日

 【     /      / Third /      /     】




 /8

 女中の一人を捕まえ、冷蔵庫のミネラルウォーターのボトルを頂く。
 食にうるさい料理長こと銀之助さんのおかげで、水は決して足りなくなることはない。水道水だってきっちり浄水されているからカップからそのまま飲んだって美味しい。でも美味しくお茶を淹れるなら、さらに美味しくなるためのお水を使う必要があった。

「ときわ様、お夕食は……」
「[僕の分は用意しなくていいです。二食も食べられませんからね。そう説明してくれれば、銀之助さんも判ってくれますよ]」

 我が家には料理は全て銀之助さんという天才が司っている。彼は和洋中、北の国・南の国、創作料理なんでも作れるスーパーシェフだが、リクエストは受け付けてくれない上に自分の作ったもの以外を認めようとはしない。あの人は365日自分の中のコンピューターで稼働しているから、絶対に自分の思う通りにならなければ雷を落とされる。
 ……いや、落雷は違うか。オタマで熊を倒すぐらいの人だからきっと……うん、やめよう、あの魔王の話は。
 とにかく、銀之助さんの食事を突然断るというのは魔王の仕事を害する大事件に発展しやすい。だから事前に食べませんと言っておかなければならない。銀之助さんはあくまで計画が崩れることが嫌いなだけで、融通がきかない訳じゃない。食べない理由があればもちろん納得する。荒波を無駄に立てないよう、食べたい物があるなら自分で調達すればいい話。

「……はあ?」
「あっ。い、いえ、ごめんなさい。『僕の分は用意しなくていいです。銀之助さんにお伝えください』」

 ついつい女中さんへの話も[英語]で話してしまった。いけないいけない。思いっきり怪訝そうな顔をされたので、全力で謝る。
 茶会のときは日本語が不自由なアクセンさんに合わせて英語で話しているから、ついやってしまった。
 アクセンさんの操る英語はやたら古風なもので聞き取りにくい。それが僕にとっては英会話の勉強になって大変好ましい。ブリッドさんもカタカナな名前の通り実は帰国子女で、長年海外で暮らして日本に来たハーフだという。だから僕らはいつも英語で会話をしていた。
 一昔前の文法を使うから聞き直してしまうことも多いけど、アクセンさんは聞き返されても億劫とせず笑って僕とのおしゃべりを付き合ってくれる。それが本当に優しい。親友になって良かったと思えるほどだ。
 自分の未熟な英語力を試すには良い機会だし、これからグローバルに活動していく自分には素晴らしいステップアップになるだろう。

 丁寧に挨拶をして、その場を離れる。
 洋館に戻ろうと靴を履いているとき、後ろに、すっと音も無く忍び寄る影があった。
 僧侶の一人だ。昔から居て、とても『上』の人からも信頼されている男性で、よく屋敷で見かける人だった。

「何か?」

 声を直接掛けてきた訳ではない。
 けど、わざわざ靴を履いているところを近寄って来たのだから、何らかの理由があって近づいたには違いない。早とちりでなく確証をついて、僧に尋ねる。

「出過ぎた事は為さらぬようお願い申し上げます」
「どういう意味でしょうか?」
「一つ一つ説明しなければならないほど、ときわ様も子供ではないでしょう」
「子供ではないつもりですが、その言葉だけでは理解できません。一体、どういう意図があってそのようなことをおっしゃいますか?」
「…………」

 言葉少なく静かに、低く、男性は口を開く。

「ときわ様は本家の次期第三位。藤春様の長男。それは変わることの無いもの。そのような方が、下界の輩と頻繁に戯けるのは如何なものかと。穢れた血に惑わされたら問題になるでしょう。他の者も、皆思っております」
「他の者? 指扇さん、貴方以外のどなたもそう仰られてるんですか?」

 よく義父の傍に居る人だから、ハッキリと名前を覚えていた。身近な人だったからこそ、余計に腹立たしい。

「アクセンさんは、照行様が認めた人なんですよ。ブリッドさんは昔からこの家に尽くしてくれている人です。シンリンさんだって航先生のご子息ですし、銀之助さんの下で学んでいる人ですよ。そんな彼らをよく卑下するようなこと、言えますね。共に語らうのが罪なら、招いたおじい様本人も罪になってしまうのでは? そうなるのですか?」
 
 ――そう、義父の傍に居る『保守派』の人のことは、よく覚えている。
 下界のものを、人を、全てを『下賤』と見なす。そういった選民思想の人達だから。自分から注意するために、きっちりと名前を覚えていた。
 彼は、その後は特に発言をすることなく、頭を下げるのみ。僕が無視して玄関を出て、遠退くまで一切動こうとしなかった。
 実に鮮麗された動きだ。あれもまた、義父達、『上の人』が好みそうな人種だろう。
 彼、指扇さんは仏田一族の血を引いていないが、この寺の制度や『目指す者』に惹かれて集まってきた狂信者達の一人だ。我が一族を信仰して、当主と契約して、『血』は無いけど我が一族の一部として組み込まれた。当主の厚意により『契約の儀によって血を分けてもらった人達』。血縁ではない他人だが、当主に血を分けてもらったが故に一族を名乗る……それがこの寺に住む『僧侶』達。
 僧、女中、彼ら彼女らは皆そうだ。みんな、好んでこの土にへばり付いている人々。この地とこの血を嫌うのは、『いやいやにも血を引いてしまった子供』ぐらいしかいない。
 そういう場所だ、ここは。

「外の人は汚れているから一緒に遊ぶな、ですか。ははっ。小学生以来だな、あんなこと言われたの。実にクールじゃない」

 あまりに懐かしすぎて、冷たい言葉に、大きくなった今では笑い声しか出てこなかった。昔は、悲しくて涙しか出てこなかったのに。
 みんな同じだというのに、ごく普通の人間だというのに何が違うというんだ。
 中身? ただほんのちょっと構成が変わっているだけの、同じ人間じゃないか。

 ――アクセンさん達のおかげで、自分は自分を隠すことなく、この寺で過ごし始めることができた。
 それを非難されて、気分が良い訳がない。

「世の中……みんなアクセンさんみたいな人だったら、めんどくさくて楽しいんでしょうねえ」

 トンデモナイことを考えてしまった。
 すぐに脳内で却下したけど、愉快な世界になるには違いなかった。
 辛いことは、出来るだけ考えない方が得策だ。




END

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