■ 外伝01 / 「兄弟」



 ――2004年8月13日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /1

 子供達の愉快な足音が、地響きを起こしている。
 高く天まで続くような石段を苦痛ともせず、軽快に踏み出す子供達。階段を登ることが苦痛としか感じなくなった老体としてみれば、はしゃぎながら駆け上がる不思議な生き物を感心せずにはいられなかった。
 無邪気だ。石段の何がそんなにおかしい? 楽しい? あんなものが別世界のことに思えているのか?
 地上から石段を仰ぎ見る。空に続くような路が続いている。本当にこのまま登って行けば空まで辿り着けるのではないかと錯覚してしまうほど、長い路があった。
 なんてことはない。鮮麗された山の中ではとても低いものだ。こんなものと天を比較したら馬鹿にされる。実際この山は、確か富士山の半分しか無かった筈だ。
 それでもあのとき、誰かが言った。
 『どうしてあんな高い所に創ってしまったのか』と。
 『それはね、天に近付きたかったんだ』。誰かが応えてくれた。
 まるでここではない外国の御伽話のようだ。そっくりそのままの話がある。バベルの塔。ブリューゲルの螺旋神殿。神を下界に下ろそうと人間が造ったもの。そんな話を思い出す。
 この石段もそうだ。より天に近く、神に近くと願われ、造られた。

 人間は無い力に憧れる。大昔の人にも「空へ行きたい」といった願望があった。どっかの大社だって同じこと。神を召喚することが人の為だと思われていた。人の為にあるべきだと思っていた。
 子供達は納得する。直ぐにそんな話題は置いてけぼりに、楽しく石段を登っていく。所詮、彼らの頭にはこんな話「凄い伝説があるけどどうせ作り話だろ」程度にしか思われない。御伽噺はそうあるべきなんだ。
 誰も神を召喚して何にしようだなどと思わない。それが普通だ。それ以上を考えるのが普通でない。
 しかし此処は、その普通でない連中で溢れていた場所であるのが、事実。

「今日は、何日だ」

 思い出す。バベルの塔のラストを。
 神が簡単に地へ降りてきてくれるよう、人が願い造ったもののラストを。
 あれには、人々の願いが込められていた。『平和』をいう願いが。
 人々は争い無く、ただ一心に善き事がこれからも続くようにと祈っての行為だった。
 しかし、神にしてみれば人が天に近付くことは傲慢。逆鱗に触れ、人々の和を壊していった。
 結果、ずっと平和だった人間達は平和を保つ術を無くし、醜い時代が到来する。西洋の話だとそうあった。
 では、ここでは?

「……もう、十六年も経ったのか」
 
 知らない。
 この天まで続くような石段が壊されるなんて、聞いたことがない。 
 というか、もし壊されたら俺達はどうやって実家に帰ればいいんだ。



 ――1972年6月18日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /2

 夏が来る前の夜。最初は「おめでただ」なんだと騒いでいたくせに、その子が産まれた途端、失望に暮れた。
 それも一瞬のこと。たとえ自分達の望まない形であったとしても、『生命の誕生』は喜ばしいものだった。失望したのはほんの一瞬だけで、後は『無かったことのように』誰もが生まれてきた新しい家族を歓迎した。

「また駄目だったか。我が代に女子を生むのは不可能なのかの」

 只一人、不満を言う事を許される男――前当主の老人が愚痴る。
 その一言に誰も反論することはできない。そうなのだ、と肯定することもできなかった。
 男は面会を許され、最初に赤子に触れた。実の父親よりも早く、赤子の目を見る。
 性別の判定は一目。だが生まれてきた命の行く末を決めるのは、頂点である彼の仕事でもあった。
 男が、子を抱く。一頻り産声を終えた赤子は、大人しく男の腕におさまる。赤子らしい真ん丸な笑顔だった。

「なんて、愛らしい」

 先程、失望を口にした男が顔を歪ませた。赤子の黒い目を見て呟く。
 気難しい顔をし、今にも赤子を叩きつけるのではないかという周囲の空気が一変する。この人もヒトの子だ。同じように、かつての当主に抱かれ道を辿ってきた。それに自分と同じ血を引く赤子だ。嫌う理由などどこにも無い。ただ家訓上、冷たく突き放さなければならない運命にあった。
 赤子を目の前にしてそんな決まりなど何処かへ吹っ飛んでしまったかのように、やっと、この子の血筋らしい顔を見せられた。
 誰もが非難しようが、自分も形だけの非難をしようが、この子は大切な子供。大切な『後継者』。
 そして、悲しい運命を抱えた子。
 抱いた男も、男の息子、赤子の父親も知っている。これから不遇な想いをさせてしまうということを。
 誰も口にはしなかった。だが皆の心に住んでいた。

 ――貴方を、生んでしまって、ごめんなさい。

 悲しすぎるから、誰も言えなかった言葉が。



 ――1989年8月2日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /3

「おかえりなさい、志朗お坊ちゃん」
 
 昔から居るお手伝いの女性、豊島園さんが今日の第一発見者だった。
 夕日も完全に隠れる頃に帰ってきてしまったから、出来れば誰にも発見されず部屋に戻りたかった。でも比較的理解のあるこの女性に帰りを発見されたのは、幸運だったかもしれない。

「今日は遅いお帰りですね。その格好のままで中に入ってはいけませんよ。お風呂をお先に。ご用意は出来ていますので入ってから夕食をどうぞ」
「すいません、直ぐに入ってきます」

 確かに泥だらけのこの格好で夕食は取れない。そんな姿で入ったら狭山に怒鳴られてしまう。
 それに思いっきり土の上をスライディングしたのが判る衣服は、今は仕方なく身につけているだけでこれ以上は気持ち悪くて着てられない。早く大量の汗といっしょに流してしまいたかった。
 さっきまでいつもの広場で、いつもの遊びを友人達としていた。普段なら日が暮れる前に帰ってくるのだが、今日はとにかく遊んで暮らしたかった。「今日は帰りたくないんだな」と、誰かに言われた気がした。
 いや、それは違う。正しくは、「今日も」だ。
 バットを玄関に置き、中に入ろうとする。バットにも泥が付いていたことに気付いた。しかももう乾いてしまって張り付いている。今日は野球しかしていない筈。終わったら直ぐに帰ると決心したのに。
 泥が乾いてしまう程の長い時間、家に辿りつかずフラフラしていたらしい。それだけ、今日は帰りたくない日だということだった。
 バットに付いたカラカラの泥を手で弾いた。指に砂が付く。クッキーのようになっていた泥に触れればバットから落ち、割れる。何気ない動作なのに、ヤケに楽しかった。
 こんな些細なことでも楽しむことができた。「直ぐに風呂に入ります」だなんて言っておきながら、結局は泥との格闘に時間を費やしてしまう。
 どれだけ家に入りたくないということか。思い、女々しい自分を一喝する。

「ん?」
 
 玄関の前に座り往生していると、離れの屋敷方に人影を見た。
 この家には人は多い。自分の家族だけでなく、手伝いや修行僧が多くいるからだ。そんなときに「おかしい」と思うのは、見覚えがなければ思えない。
 見知らぬ影が居た。
 広いとはいえこの家にずっと住んでいる以上、幾ら多く居るという家族や居候達の顔は一通り覚えている。ちゃんと名前だって覚えている。それが礼儀だと、この屋敷に住んでいるのだから覚えなければならないと女中達に教え込まれていた。だから本当に見覚えが無いのは、相手が『外部の人間だ』ということだ。
 自分と同じぐらいの年の少年がいる。
 今日は家を出ていた親戚や僧が何人か帰ってくる日だ。そんな家族が一気に増える日だからこそ、帰りたくなかった。見知らぬ人が増えている日は決まって、居心地の悪い日になるからだ。さあ、あれは一体誰でどんな人だろう。

「なぁ、おばさん。あいつは誰だ?」
「何言ってるの坊ちゃん、貴方のお兄さんでしょうに」

 …………。
 見知らぬ者は『外部の人間だ』だなんて認識していたのに。
 思いっきり身内じゃないか。しかもかなり近い関係を「見知らぬ」だなんて言ってしまった。なんて礼儀知らずか!
 いや。でも、だって、仕方ないよな? 自分に兄がいたことなんて忘れるほど、兄の姿を見てなかったのだから。

「ああ。見れば見る程、自分に似てる」

 しかし遠くにいる彼は、鏡を見ているようだった。離れにいる姿は、自分とさほど変わらない背格好が歩いている。その外見からして、俺と年はそれほど離れていない筈だ。
 自分と違うのは、端正な着物を不自由なさそうに身につけていることぐらい。自分も部屋着は作務衣だが、基本は洋服だ。あちらは着物に慣れているのか、廊下を歩くだけでサマになっている。その姿に、まるで自分が優雅に着物を着こなしているような錯覚を起こした。
 一方、本当の俺は玄関前に胡座をかいて座り、泥だらけのTシャツとズボン。比べるのも失礼なぐらい、相反している恰好だ。顔が似ているだけに、このギャップに一人笑ってしまう。

「あいつ……監禁、とかれたのか」

 笑ったついでに、ボソリ、呟く。
 無意識に言ってしまったが、幸いにもお手伝いの女性の耳には届かなかったらしい。もし聞こえていたなら、厄介な事になっていたかもしれない。言ってから口を押さえ、「それは間違っている」と自分に訂正する。
 ――監禁ではない、軟禁だ。
 だが、どっちにしろ彼が『囚身』であることには変わりない。

「はて、名前は」

 ど忘れなのか、それとも興味が無くて覚えるつもりもなかったのか、自分によく似たあの男の名前が思い浮かばなかった。
 名前は一体、何だった? 「礼儀だから」と周囲の人間だけは覚えようと心構えていた自分は何処へいった? それだけ、あいつには印象が無いということなんだが。

「……忘れた」

 かと言って誰に何と言って聞けばいいのか。
 「俺の兄貴の名前、何だっけ?」だなんて尋ねられるか? 訊ける訳が無かった。
 まさか本人に言いに行くにもいかない。周囲の人は皆距離が近すぎて、大笑いされるか悲しい顔をされるに違いない。
 適度に、自分と自分に似た彼と距離を保つ『他人』が此処にはいない。皆が皆、家族だから誰かが聞けば家族中に聞いた事が知れ渡る。
 なんて厄介な家。これでは、彼のことを永遠に呼べない。

「参った。誰かが名前を言わない限り、判らないぞ」

 真剣に悩み始めてから十分。……簡単な答えに辿り着いた。
 ――ああ、そうだ、兄貴なんだから「兄貴」って呼べばいいじゃないか!
 そんな答えも直ぐ導き出せないほど、自分は悩んでいたらしい。重病だ。



 ――1989年8月2日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /4

「早ければ、盆に生まれると医者は言っていました」

 久しぶりに実家に帰ってきた叔父の藤春は、祖父の前に正座し、重々しく口を開く。

 とある人に話を聞くため向かった工房からの帰り道。何気なく廊下を歩いていたら、父親に捕まってしまった。久々に会う父親だった。それこそ数ヶ月単位で父とは会っていなかったのに、挨拶より先に出た言葉は、「お前も親族会議に出てみろ」だった。
 父親も何気なく言ったのだろう。「そのうち自分も出席する羽目になるんだから慣れておけ」とでも言いたかったのか。
 だからって、十五歳の少年に、親達の重苦しい空気を吸わせるのはどうかと思う。
 仕方なく俺は、部屋の隅の方で胡座をかいている。とりあえず正座は免れた。していたら、きっと五分で足が死んでいた。
 叔父の藤春の前の上座には、彼の父であり、俺の祖父であり、かつての皆の当主であった男・和光(わこう)がゆったりと座椅子に座っていた。俺の祖父だが「ジジイ」と呼ぶにはまだ若い外見の男(でも頭は全部白髪だ。やっぱり「ジジイ」に違いない)が、偉そうに皆の前で腰を下ろしている。

「その話はとっくに聞いたわい。で、何をそんなに重く考えている?」

 非常に重苦しい空気のようだが、無理に自分たちがそれを作り出しているみたいで実際の口調は結構軽い。
 なら何故大人達は正座しているかという話だが、そういう形式なので仕方ない。

「どうやら二人のようでして。その場合……次は、その、どうしたらいいかと」
「二人?」

 祖父・和光の弟・照行も、周りにいた者達も訊き返す。
 叔父・藤春は言いにくそうに口をぱくぱくさせた後、言葉をまとめて吐き出した。

「あいつの腹の中にいるのは双子だそうです。まだ予定日も確かになってないしあまり体の強くない女ですが、二つ身籠もったのは間違いないらしく。実際に最初のときわに比べ、あいつの腹は大きいと男の俺でも判るぐらいです」
「ははぁ、それは喜ばしい。一度に二つも子宝に恵まれるとは大変だな、藤春よ」
「それですが。二人とも男子だった場合、如何すれば」

 その場に居る全員が、口を紡ぐ。
 ああ、成程。久々に都会に出ている藤春叔父さんが何故帰ってきたのか判った。電話越しに伝える用件ではないと判断し、わざわざこの山奥まで戻ってきたのだ。

 仏田は三回まで子供を産ませる。別に三人しか産んではいけないとかそういうルールは無い。ただ、話の流れ的にそういうことになっているだけだ。『三回産んで女が出なかったら、もう止めておけ』。昔からそんな規則になっている。
 仏田の血は、何故かもう数百年も女子を産んでいない。理由はあまり語られないが女子が非常に生まれにくい血で、とても偉ぶれる家だという。
 叔父は、既に四年ほど前に一子もうけている。もちろん男子だった。そして今夏に二人子供が生まれそうで……。どっちも男子だったら……。合計三人の男兄弟になる。人数的にはオーバーすることになるが、回数的には二度目。それはどうなんだというのが、今回の話題……。
 反吐が出る。人間の誕生を『回数』で割り切っているこの空気が俺は嫌いだった。
 叔父もその話題を嫌ってか、何とか和やかな切り出し方を模索していたらしいが、成功できなかったようだ。

「まだ性別は判らないのか」

 祖父、本人にとっては実父の問いかけ。ゆっくり、そして苦そうに頷く叔父。

「男女の双子だった場合、不吉よの。かといって女二つの双子はまず有り得ない。しかし、藤春。お前自身に素質がある以上、女が生まれない可能性も無いとも言えない。どう思う、光緑。儂としてみれば、是非自分の息子から女子を見てみたかったのだがの」
「父上、まだ生まれていないのに何を。それにまだ可能性なら柳翠(りゅうすい)もあります」
「ヤツから生まれる女子はさぞおぞましいものよ」

 フォローした光緑が詰まる。付け足しに『ガキなんぞどんなバカでも可愛いに決まっているが』と祖父が言うまで、固まっていた。
 祖父は堅苦しい人間に見える。ギラギラ光輝く黒くない目が恐ろしい。がさがさな髪の色が恐怖を誘う。皆、固定観念に縛られ一歩身を引いている。ある下らない言い伝えに振り回され、誕生の奇跡自体を感動する事が出来ない。
 そういう自分も、こんなの間違っていると前に飛び出て意見する程の勇気は、無かった。

「お前は、どう考える」

 不意に、祖父が一人に話しかけた。
 着物姿の少年に。兄にだ。
 その間、大人達はあーでもないこーでもないと話し合い始める。祖父の声はもう小さく、雑談に入ったものだと自分達で談義を始めていた。
 話し合いの中心人物は、光緑。祖父の次に権力を持った男だ。一方、祖父は一人、まだ一端に口をきけない少年を捕まえ意見を求め始めた。
 横にズレて、まだ発言権の無い子供の声を聞こうとしている。……俺は大人の談義よりそちらの方に耳を傾けることにした。

「自分も、父と同じ意見です。三人も男を産んで失敗だったら、それ以上は本家の負担になるだけでしょう」

 ……失敗? 本家の負担?
 言い方が癪に障ったが、適切な表現には違いない。その口のきき方は大人ぶったもので、自分は周囲に負けないといったオーラで覆っているようだ。

「くくっ、お前も新たに子が出来ると聞く度、怖くなるものだろう? ……どうした、障子の方が気になるのか」
「あ……いえ。そういう訳では……」
「外が気になるか。閉めきっていなくても聞こえる話だ。わざわざ下界と遮断しなくても良い。夏だからな、開けるか」
「では、自分が開けます」

 祖父が立ち上がる前に兄は身軽に駆け、障子を開ける。
 夏だが少し肌寒い夜。月と星が広がる夜空が見えた。
 風が入り込んでくる。真夏が広がっている。
 新しい命の誕生も近いこの季節。夜の風はまだ涼しいもので心地良い。しかし、月が隠れてしまえば一気に寒くなってしまうような天気だ。長時間、窓を開けていたら体を壊してしまう。そんな不安定な夜だった。

「なんだなんだ。まるで月が珍しいように見るのだな、お前は」

 開けた彼の身へ、祖父はからかうように言う。
 本当に、祖父でなくても自分が言ってしまいそうになるぐらい、開けた奴はトボけた顔をしていた。

「月……。毎晩、夜は来ているのですから見ています。夜が来ない一日はありません」
「そうよ、何の変哲も無い。お前も何千と夜を体験してきただろう。それなのに何だ、先の顔は。まるで恋焦がれる少女のような惚けた顔をしていたぞ」

 あのクソジジイが「恋焦がれる少女」を見たことあるのかよ、と一人こっそり愚痴る。
 言われた本人は何と言えばいいのか、困った顔をしていた。

「どの屋敷にも窓がある。其処から空など直ぐに見られた筈だ。何の珍しいこともない。が、一部窓の無い館があったな。彼処だけは、うむ」
「…………はい」
「それとも何か。お前、この風景の空が一番美しく、惚れてしまったとでもいうのか」
「……そうだと思います」
「儂もこの部屋からの眺望は気に入っておる。酒と娘が揃えば良い席になるぞ。その娘は、孫娘であってほしい」

 カカカと笑う祖父の横で、彼はとりあえず相槌をうつ。ミエミエの魂胆で祖父に頷いている。
 見ていて息苦しい程、曖昧な返事の数々。この会話を乗り越えればそれでいいと思っているかのように内容が無い返答。
 祖父は笑っているのに、なんてつまらなそうな表情。……それが自分と同じ顔だからこそ、胸糞悪くなる。

「どうした志朗。気分でも悪いのか」
「え、あ……っ?」

 どれだけ俺はジジイと兄を睨み付けていたのか。自分でも判らなくなるぐらいその会話に聞き耳を立てていると、祖父が今度は俺に話しかけてきた。
 俺が見ていたのは受け答えしていた少年の方だから、全く興味のない祖父の返事に言葉が詰まってしまう。

「いえ。その、ちょっと眠くなって来たので踏張っていただけです。お気になさらず」
「眠く、あぁ、もうこんな時間ではないか。そうだな、子供には辛い時間か。下がって良いぞ、二人とも」

 二人。言われて、それが自分達と気付いたのは少し経ってからだった。
 今夜の親族会議で最年少は俺。だけど、未成年は確かにこの場に二人いた。
 お互い黙り込む。下がって良いと堂々と言われても、下がるタイミングが掴めなくなるのがこの空気。周囲の大人達が気付き、改めて「出て行け」と言ってくれない限り、部屋から出ることは出来なかった。つまり、そんな自由に身動きできぬ空間に押し込められていたという事である。
 不思議と、顔は見合わせられなかった。



 ――2004年8月13日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /5

 子供達が石段で遊んでいる。ジャンケンで出した数の分だけ進むという双六ゲームをしていた。あれだけの数の石段があるなら、さぞ長く遊んでいられる。
 一段目に腰掛け、煙草の火を点ける。

「あれ、志朗おじさん」

 一吸いしたところで、口を放す羽目になった。
 目の前に可愛らしい子供が近寄って来る。両角の飛び出した帽子に、明るい茶髪。ズボンについてるふわふわのバックは尻尾の様。一見、女の子のような風貌だが立派な自分のイトコ弟だった。

「みずほ、か。あさかと一緒じゃないのか?」
「双子だからっていっつも一緒にいるって安直な考えだよっ」
「そりゃそうだが」

 夏生まれの元気な双子兄弟。少なくとも俺の記憶には、みずほと双子の兄・あさかは『二人で一つ』に纏められている。おそらく寺にいる人間の大半はそう思っているし、もしかしたら彼らの父親自身そう思っているかもしれない節がある。
 彼らの父親・藤春本人ですら、よく言っていたのを思い出した。

「あっ。もしかして志朗おじさんもボク達の誕生日祝いに来てくれたりするのっ?」
「誕生日? ああ、もうすぐ誕生日か、お前ら」

 蝉が喧しく騒ぎ出す時期。双子誕生の日も近い訳だ。
 どおりで子供達が昼間なのに学校にも行かず石段で遊んでいる訳だ。全てに合点がつく。みずほとあさかは、8月の暑い日に生まれたのだから。世の中は夏休みなんだ。

「ほれ、誕生日プレゼント」
「……煙草じゃないですか」
「お前も十五歳なんだから吸ってみやがれ。それは結構甘いやつだぞ。あさかは兄ちゃんだから先に吸ってるだろ?」
「……多分吸ってないですし、あさかはいないんですからそんなに話しないでくださいよっ。それに、煙草に甘いとか辛いとかあるんですか?」
「ある。俺にそれは甘すぎて吸えたもんじゃない」
「どれも同じ煙なのに……って。なんで志朗おじさん、吸えない煙草を持っているの?」

 当然の質問を投げつけてきた。

「……拾ってきたんだよ」
「げ。道端で拾ったヤツあげようとしてたのっ!?」
「いや違う。そこの山に生えてたんだよ。自然の産物だ」
「にゅー、なんで自然物なのに葉っぱじゃなくてこんな細長く練成されてるんですか」
「物知らずだな、みずほ。秋になってから赤い実を剥けば煙草が出てくるんだぞ。それは夏にも成らず出来たレアアイテムだ。鑑定団に出してみろ、売れば金になる」
「あさかじゃないんだから騙されませんよ……。それにその冗談の言い方、なんか燈雅おじさんみたいだ。似てるー」
「心外だ。あいつと似てるとか言うな」

 だって似てるじゃんか、兄弟なんだから。
 また、当然のことをみずほが言った。言い訳する程でもないので、黙って流しておく。

 ふと頭を過ぎるのは、無茶難題をぶつけてくるあの男だった。



 ――1989年7月20日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /6

 暗い暗いと、風が泣いていた。
 風が刃のように突き刺さるとは、このことを言うんだろう。
 絶対零度? 実際そこまで気温は下がっていないが、気分的には零度以下。
 寒くて苦しい。気温だけではない、重圧がその寒さを強調させていた。それを一心に受けるのは尋常ではなかった。
 唇を噛んでプレッシャーから耐える。あまりに力みすぎて、口から血が出そうだった。
 そんな馬鹿なことをしない。只でさえ血の薄い体になっているんだ、わざわざ流すような事はしたくない。
 地球上の重力を全て受けたら、やっぱりこんな状態になるのかな。呆然と、それでいて必死な明解で考えた。

 口にはしない。誰もいないし、誰も答えてくれない。一人考え、一人終わる。それが十七年、過ごして来た流れなのだから。あぁ、そうだろう。今更この世界を覆す気など無くなった。
 ついに風が身を切った。我慢していた流血が迸る。最初は右腕だった。利き腕をやられて思考が迷い出す。もう少し集中していれば回避できたかもしれない。それよりも恐怖が打ち勝ってしまい、やられてしまった。
 寒くて苦しい。苦しくて苦しい。苦しい苦しい苦しい。
 だけど口にはしない。誰も聞いてくれる奴がいないことは、とっくの昔から知っている。
 でも、叫ばずにはいられなかった。
 ――苦しいんだよオレは! 誰だって血を流してたら痛いって判らないのかよ! 自分が嫌だって思うことをしちゃいけないって教わらなかったのかよ!
 幾ら言ったとしても、悪霊なんかに悲痛が届く訳が無く。

「…………!」

 腕を引き千切られた所で、意識は切れた。
 ……現実に戻ってくる。
 汗を流しての目覚めほど気分の悪いものはない。何キロ走ったのかというぐらい、息も切れ切れで体中が痛い。
 それでも引き千切られたと思った腕はくっついている。それだけでも助かったというべきか。

「失敗だな。もう奴にやられて何度目になる、少しは学習したらどうだ」

 隣で座っていた父が言った。
 今まで何があったか理解していた。理解できていた。父の看病が少しでも遅れれば、自分は利き腕を亡くしていたってことぐらい。
 今は何てことなく指が動くが、多少の痺れを感じる。どうやら『繋げたばかり』のモノらしい。
 本当に繋がっているのかと腕を頻繁に動かしていたら、「やめろ」と叱られた。些細な動きに心配して忠告してくれるなら、もっと大きな変化には心配してくれないものか。思いながら目を閉じた。

「お前は、何を考えて呪を唱える?」

 先を見る。
 もう空は、夜の色をしていた。

「術はただ願いを込めるだけ。お前がそうありたいと思う姿を宣告しろ。その意志が強ければ強い程、現実となる。真に形を求めているものを実現する、それが魔術なのだから」

 空はたった数センチしか見えない。小さな小さな窓……ほんの僅かな隙間から見える外に空があることは判るが、空の全体像なんてものは見えない。
 ここはそういう一室だ。下界を見る為の屋敷ではない。下界から遮断する為の屋敷だ。

「…………藤春が、子をもうけたらしい」

 父は、幾つか重要な話の後に取って付けたような言い方で言った。
 会話をよく聞くと、どうやら父の弟、自分の叔父にあたる人物の話らしい。

「藤春は次男のくせに優秀だった。私に匹敵する程の能力を有している。それが子を産むんだ。可能性は、高い」

 何の可能性だ。一瞬悩んでしまう。
 父は、話の順序立てが上手いとは言えない。思いついた事をそのまま口に出す人で、どちらかと言えば頭の悪い方に値する。悪口ではなく、口より手が出てしまったり、人情派で感情的な人物だと評されるようだが。
 父が言う。成るべくして成る人物がいないのだから、その代理を立てるまで。

 一族には重要な役割がある。椅子。誰かが当主となって継がなければならないもの。優秀な能力者が、千年分の知恵を引き継ぎ、現れるべき神が来るそのときまで、次代に伝えていかなければならない。
 今は父が『椅子』という役目を負っているが、いつか子にその役を継がせなければならない。優秀な能力者が条件だ。でなければ、千年分の魂など担えることができない。
 小さなコップに大量の水を注いだら零すなんてこと、子供だって判る。大量の水を受け留めるためには、大きな器を用意しなくちゃいけない。
 オレは小さい。だけど、馬鹿でかい器の父から生まれたのだから、でかくなる可能性がある。
 生まれつきでかくなかったんだから、今からでかくなる修行をしておかないと。
 そもそも父も子供の頃、それほど器がでかかったかというと違うらしい。あまり適さない子供だったが、修行の成果もあって当主という立場を誇っている。
 どうせいつかは誰かが苦痛を強いる。早いか遅いかなら、同じ修羅の道を辿るなら。そう同じ道を歩まされた父なりの最善を尽くしてもらっている。
 ――もし、生まれつき優秀な椅子が生まれたなら。不完全な器に時間を掛けることなど、しなくて済む。

「藤春の奴なら女子を生む可能性は高い。奴なら神の誕生も、あの椅子をも、埋めてくれるかもしれない」

 ――そうすれば、お前は自由だ。そうと言いたいのか。
 構わず、小さな空を見る。父親の方には向かないで。
 父がどんな顔をしながら弟への期待をしているのか少し興味はあったが、自分自身の顔が崩れてしまいそうだったので見ないことにする。
 ――やっぱり親父、貴方は馬鹿だ。
 自分に勇気があるなら、言ってしまいたかった。
 ――もし、ここで神が生まれでもしたら。十七年間、穴埋めの為に剥奪されたオレはどうなるんだよ!
 考えて、……修業よりも痛いモノが体中を襲った。



 ――1989年8月2日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /7
 
 ある夜、突然泣き叫ぶ弟・新座の声に目を覚ましたことがある。
 志朗お兄ちゃん、お兄ちゃんと、とにかく喧しかった。

 まだ生者と死者との区別が出来ていない程、昔の話。隣で眠っていた弟が泣き出してあまりにうるさくて殴りにでも行こうと思っていた。
 ところが部屋には弟がいなかった。弟の声で泣く子供がいても、知っている弟の姿は何処にもいなかった。目の前で泣く子供は確かに実弟の姿をしているが、弟はこんな表情で泣かないし、こんな目をしていない。
 ……そいつは、イタイイタイと泣いていた。
 訳が判らない。そいつが言うには腕が切り刻まれて痛いとか、四肢が保てないぐらい痛いとか言うが、その体に外傷は無く、血も流れていない。
 そんなものは妄想だ、きっと悪い夢を見たんだ……と、見知らぬ弟に言い放つ。それでも泣きやまないので、思いっきり頭を打ち付けた。

「……ふぇ……むぐぅ……なんでお兄ちゃん、僕を殴ったの……?」

 途端、知っている弟が帰ってきた。なんで殴られたのか判らなくて、逆に泣かれたが。
 本当の意味で弟が泣きやむまで傍にいてあげた。
 そして本物の弟は、感じたことを思った通りに語ってくれた。……「腕が切り刻まれ、四肢が保てないぐらい痛かった」と。
 自分には腕を切り刻まれた事は無いので判らない感情だったが、思い出した弟はまた泣く。泣く度にゲンコツを喰らわせる。そしてまた違う意味で泣いた。

 ――弟は、他人の意識に乗っ取られることがあった。
 乗っ取られた本人である新座には『他人』の苦しさが判るらしい。苦しいと嘆いている人物の心に同調できるという。そんなもの、体験した事の無い人間が理解できる訳がない感覚だ。だから弟にいくら説明されても判らない。
 小さく幼い弟が、そんな大層な言い訳を出来る訳無く。意味の判らないことばかりを聞かされ続けた。大人になってからも理解は難しいままだ。
 新座は、ずっと謎の言葉を吐き続けていた。

「あのね、お兄ちゃんがね、イタイって、風、暗いの、お兄ちゃんが、おっきい方、すっごくイタイの、真っ暗で、お兄ちゃん。冷たいし、お兄ちゃん苦しいし、痛い痛い、右飛び出る、お兄ちゃん違う、おっきいほう、さびしいの」
 
 この暗号を解読するまでには、時間がかかったものだ。
 理解できないモノは理解できないヒトが知っているものだと、合理主義な自分がどこかで言った。だから、この屋敷で一番理解できない……理解するのには到底無理な人に意見を求めた。

「――それは、生霊のことを言っているんだな」

 彼の名前は、柳翠。父親・光緑と叔父・藤春の弟である、二人目の叔父だ。
 この人は不思議現象のことについて一族の中でも一番詳しいと聞いた。だから、新座の意味不明言動を理解できるだろう。そう踏んで、地下にある彼の魔術工房にやって来たが。
 失敗する。自分の淡い期待は見事なまでに打ち砕かれる。
 一般人が『理解できない人』と称している人に意見を求めて理解しようだなんて、前提から間違っていた。

「生霊、ですか?」
「そうアイルランド例えればキシリトールのキャンペーンガール行為判定にも失敗してダメペナを喰らった瞬間出てくるあの白衣男の欲望を具現化したポッキーも良い所だ」
「…………あの、イキリョウのイの字も見えない展開になってるんですが」
「何をそんな絶望した顔をするでないぞ私は寛大だどんな小泉内閣であろうといつだって都庁の味方だからな」
「俺、新座の話をしていただけですよ。……っていうか、コイズミって何……」

 まあ、この人と話すときは必ずこんなカンジで。
 我が家の『理解できない人』というのは、『理解されない電波人』という意味だった。
 一族きっての妙な人間が面と向かって変なことを口走っている。変なことしか言わない。よく脈拍も無いことをいつまでも続けていられるもんだ――と、子供心に関心してしまう。

「痛い風か。しかもお兄ちゃんが違くて大きい方。その通りの意味だと思われる。大きい方のお兄ちゃんが痛がっているという話だろう」
「大きい方? どういう意味ッスか」
「全くもって怪しからん世の奥様方を侮辱しているとは思わないか最近の猫は何故ニャーと鳴くたまにはブキャーと鳴いても誰も怒らないではないか」
「大きい方……違う兄貴って?」
「知らぬのか流石はフランシスだな」
「…………」
「志朗。君とは違う『大きな兄』。そんなの一人しかいない」
「え……。あ、そういう意味か。新座は『俺より大きい兄』って言うのは年上の兄のことを……?」
「それが痛いのか。……そうだろうな、元々あの子には刻印は無い」
「……刻印?」
「知らないのか。刻印の存在を」
「…………。えっと……『俺には刻印が無い』と言われてますけど、何が無いかよく説明されたことは……」
「ふっ。継承権の話すらされんか。知って当然の風潮があるからな。教えないとはなんともエリエーゼなコトはしない」
「…………はい?」

 この人の言うことは、どこまでを真剣に聞いてどこまでを無視すればいいのか判らない。

「『刻印』とは、血の刻みだ。その形は各々の一族によって大きく変貌する。ある家にとっては書物かもしれんし、宝石かもしれん。その一族であることを現す証、人間違えば表現も様々なものになる」
「……『その一族であることを証明するモノ』ですか?」
「そうだ。我が仏田一族は、それを肉体に宿す。刻印が宿ったものこそ高貴な者と敬う癖があるな。同じ兄弟であっても出る者もいれば出ない者もいる。新座に出て、志朗に出ないようにな。何故現れるのか、それは判らぬ。出るものは出る、大きな力を持つ。それだけだ。そして当主に近い者ほど、強力な刻印の能力を持って生まれてくる。そうされている」
「……でも、俺には無い」
「ああ、志朗、君には無い。現当主・光緑の二番目の息子であるのに、何故か君には刻印は無い」
「……なんで、でしょうか」
「知らんよ。仕組んだ神に聞け、会えたらな」

 …………。

「刻印は体の一部に出る。私の場合、背中にあり、藤春兄上の場合、腕にあり、現当主・光緑の場合、左胸にある。刻印がある者ほど高位。刻印が無ければ『この国』の継承権さえも与えられないほど、この血には重要なモノだ。こんな小さな山の中の国限定のルールだがな」
「……今更、『無くても気にすんな』と言うかのようなフォローですね」
「鞭の裏に優しさがあると言うではないか、優しさの裏に鞭があって何が悪い」
「意味が判りませんよ」
「意味など無い」

 ……。はい、そうですか……としか言えない。

「さて、高貴なる血に与えられる刻印だが。刻印があるから高貴なる者とされる、と言った方がいいかもしれんな。ところで、刻印とはな。我が一族限定の、器官なのだよ」
「……器官?」
「体の一部ということだ。眼があり、口があり、耳があり、刻印がありと、身体の部品の一部が増えたにすぎん。持たぬ君には理解出来ぬがな。刻印がある人間は、耳が三つあるものだと思えばいい。鼻が二つある、眼球が三つになったと思え。元々眼球が二つの人間に、三つ目を与えたら。元々眼球が三つの人間にとって三つ目は自然である』ということ、だ」
「……? よく、判りません」
「元からある者は何ら疑問も違和感も持たぬ。だが、元は二つの者は三つあることを理解できん。身体がな」
「…………。あの、俺……『新座の夢の意味を解読できませんか?』っていう質問をしに来たんですけど」
「ああ。その話をしてるんじゃないか、アムロ」

 違います。

「魔の才能が完全に無い子だった。それを暗闇に突き放しているのだ。痛い程度では済まされん」
「え……?」
「それこそ四肢が無くなる程の激痛。恨みて生霊と化し、感受性の高い新座の元に取り憑いたとみた」
「……誰かが苦しんでいる声を新座は拾ったって……?」
「言うならばヒャダルコ。嗚呼、なんて神々しきモルダウ」

 変な呪文が交じないでください。
 だが、新座の言いたかったことがやっと判ってきた。ここらで退散しようと柳翠叔父さんに挨拶をして背を向ける。

「……刻印の無い子に刻印を植え付ける、それほど非道な行為は無かろうよ。志朗。お前には目が二つあるが、三つ目が生えたとしよう。きっとお前は戸惑うぞ。そこから通して見る明るい視界、理解できるものではない。そこから通して見る世界の色も、理解できるものではない。なぁ、知らないモノを知るのは、どれほど苦痛か。知らない器官を開花させるのは、どれほど苦痛なのだろうな」
「……失礼します。お仕事、ガンバってください」

 叔父の柳翠は……電波的な人で、千里眼をも越える力を持つと噂で聞いていた。
 話の半分以上は判らなかったが、確かに的を射た話もあったので良しとする。

「ちょっ、柳翠さん!!!」

 と、そのとき、俺の行き違いに、うるさいことで有名な匠太郎(しょうたろう)さんが入って来た。
 騒々しい匠太郎さんらしく、今日も大絶叫のお出ましだ。超大声で柳翠さんに詰め寄ってる。

「裏庭に大きな落とし穴作ったの、アンタでしょう!? どうしてそんな手の込んだトラップ作るんだアンタは! しっかも地下牢に直通なんて高度すぎる設計しやがって!!」
「ほう、とんだ濡れ衣だな。確かにトラップを作り後ろから押したのは私だが、何の証拠があって私がトラップを作りお前を陥れた犯人と決めつける?」
「証拠ならあ……。って今さっき『確かに作り』『後ろから押したのは私』って言った! 自白した! 自分だって超言ってる! もう罪認めてるんだから俺が不幸に陥ったことをどんなに証拠持ってきたって犯人決まっちゃったじゃないプー! なんであんなコトしたんですがアンタは!!?」
「人を救うのに理由なんているかい?」
「どっかのキメ台詞入ってカッコつけても俺を落とし穴にハメたっていう悪行は消えませんしどう考えてもフォールダウントラップはカッコ悪いですよ!」
「息を吸うのに理由なんているかい?」
「理由付けの難易度が極端に下がったし幼馴染を陥れて何が楽しいんですかっ! 変人っ! どんなカッコイイこと言っても誰も真面目に聞いちゃくれませんよっ!!」
「私の言うことなど何の役にも立たないと、この家の者達なら周知の事実よ。それでも私に尋ねにくる奴は、とんだ愚か者か正直者さ――」

 …………。
 叔父の工房から外に出てみると、月が出ている明るい夜にも関わらず涼しい雲が冷気を漂わせていた。
 夜空を見つめながら思い直す。自分に、もう一人の兄がいたことを、思い出す。
 そういや自分は『次男』ではないか。そして新座は『三男』だ。一番最初がいなければ、他二つは称されない。
 新座が言っていた『大きいお兄ちゃん』。当然過ぎることを先にスルーしてしまったが故、手間をとってしまった。

「長男。……長男が、苦しがっている……? はは。新座は、兄貴がいるって最初から言ってたじゃないか」

 兄の存在を忘れていたのは、自分だけだった。
 兄と慕う幼い弟は、「お兄ちゃん」とハッキリと存在を知覚している。

「自分が、どれだけ『兄貴』に興味が無いのか判ったな」
 
 そういえば、叔父の部屋を出る前に訊いておけば良かった。
 ――実の兄の名前を。



 ――1989年7月27日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /8

「月? なんですかそれ、美味いんですか」

 その言葉を聞いた母は、ひどく悲しげな顔をした。涙を流すまでにはいかないが、ひどく傷ついた顔。自分の一言が彼女を悲しませたということぐらいは判る。
 生まれて初めて、女性を泣かせてはいけないと悟った。

 なんてことはない、夜空を飛んでいるあの黄色い物体が『月』だと言うのだ。
 何気ない会話をしている中で自分は『月』という単語を知らないことに気が付いた。だから尋ねてみただけのこと。母が驚き悲しんだ理由は、この年になって『月』という言葉を知らなかったから。教えてくれた母には感謝せねばならない。
 だって、そんなの誰も教えてくれなかったじゃないか。
 今まで僧達と付きっきりで勉学に励んだ。魔術のことならいくらでも学んできた。同じ年齢の子供と比べたら段違いだと言われるほど、自分は修行に励んできた。だが、『月』という単語を教えてくれる人がいなかった。オレが教わった魔術や呪術、魔法的な知識層の中に月は必要無かったんだ。教えてくれる人がいないんだから、知らなくて当然じゃないか。
 それでも。数ヶ月ぶりに会った母に、悲しい顔をされたのが、少し……苦しく感じた。

 夜、空を見上げることは度々ある。夜空を覗けば「決まってある周期に、丸く明るいものが見える」ことには気が付いていた。それがある規則性を持っていて、「ああ、丸い日が来た。もうこれだけ下界では時間が流れたのか」と理解することはできていた。
 そこまで判っていた。夜空に浮かぶ白いものが月だと自分の力で理解できていたのなら、いいじゃないか。
 なのに何故、母は、あんな嘆きの表情を見せたのだろう。
 不快だった。決して気持ちの良いものではなかった。
 自分が可哀想だと、間違っている子供だと思われているようで。

 喉を潤す流れる液体を『火』と教え込まれたら、世界にとっては間違いでも自分には違える事なく『火』に違いない。いきなり『水』だと言われても、修正には時間がかかる。
 父が幼い頃から自分に修行を強いたのも、それを恐れてのことだった。
 オレは当主の器には程遠い体で生まれた。魔力は人並みしかない。千年分の知恵を授かるほど膨大な魔力を持てるほど適正のある体ではない。修行は辛く、痛く、苦しいものになる。ならば最初から、幼い頃から子供を辛く、痛く、苦しい環境に慣らさせておけば負担は減る。そう父が、自身が苦しんだ経験を生かして辿り着いた答えだった。
 そのやり方が正解であったのか、誰も言わない。父も言おうとしない。
 させられている自分には、もっと判らない。

「一度、屋敷に戻るぞ」

 今日もまた、新たな感覚に目覚め、魔力のコントロールに一日を費やした。体中の気力を放出し終え、立つこともできなくなった夜。大汗を垂らし、血を流すオレに向かって父は言う。
 父の表情はいつだって冷たい。だけどその日は少しだけ晴れやかに思えた。息切れした息子を励ますように言い放つぐらいだ。

「藤春に次に生まれる子供について、重要な話をしたいらしい。そのときに親戚中が集まる。お前が寺に戻っても、不思議な事態ではない」

 隔離された修行の場で過ごして、もう数ヶ月……いや、数年が経過した。
 かつて毎日過ごしていた寺に戻るのは、久しぶりと言えた。
 ――つまり、そうでもなしで実家に戻るのは不可思議だということ。
 熱い息を吐いている息子に、概要だけを伝え、父は鍛錬の場から去っていく。
 魔術を行使するべく用意された石畳の間は、一見すると牢屋だ。真っ暗闇の石の空間、遠くの上空にある小さな窓から、月光が差し込む。灯りという灯りはそれと、燃え尽きかけている数本の蝋燭のみ。
 震える自分の指を見る。
 右腕には、刻印があった。
 生まれつき備わった器官ではない。『元から無かった刻印』が、オレの体に浮かび上がっていた。

「……はあ……」

 刻印。
 数年前、『機関』の手術台の上で授けられた、異能を行使するための器官。
 生まれたときには無かったモノ。目ならものを見て、耳ならば音を聞き、口なら声を発するように、この右腕に備わる刻印から異能力を引き出す。
 魔術を行使する魔力を蓄える役割を果たすその器官を動かす修行を続けて、もう何年目だ。
 やっと未知の感覚を理解しつつある。けれど、理解を越えたその感覚は……無理矢理動かすたびに全身に激痛が走る。
 本来なら無いものを、無くてもいいものを、当然のように動かさなければならない。混乱した体が悲鳴を上げ、痛みでオレを制止しようとする。
 刻印を動かすたびに激痛が襲い掛かった。
 でも魔術を使うためには魔力を動かさなきゃいけない。魔力を操るためには、刻印を動かさなきゃいけなくて……。
 父や僧達が教える魔術の修行には、激痛がつきものだった。

 数ヶ月間、激痛しかない毎日だった。
 やっと刻印を動かさなくてもいい時間になって、普通の人間に戻れた。ビクビクと脈動していた腕は大人しくなる。
 唇を噛む。
 ついでに舌も噛んでやろうかというぐらいだった。
 元から無い器官を植え付けるとは、どれほど苦痛なものか。その苦痛を味わってきたんだ、無駄の無いように生きたいものだ。

「――――ク」
 
 それも、これから産まれる子供次第によって……無意味になるかもしれないという。
 十七年間付き合わされてきた悲痛を、まだ生まれていないガキ如きに崩されるかもしれない。
 もし藤春様の子供が女子で、神だったら?
 現当主の光緑が椅子のまま、女子を迎え、仏田一族の願いは達成される。
 もし藤春様の子供が男子でも、優れた能力者だったら?
 こんな不都合で燃費の悪いオレよりも優れた椅子として見なされ、当主として持て囃されるのでは。

 ……オレは怯えている。
 この苦痛が、全部無意味になってしまうのではないかと。
 父も母も、他の者達も、藤春様の新たな子が優秀であってくれと願っている。
 女子だったら我らはすぐに救われると、優秀な男子だったら良き未来に繋がると。

 ……こんなにも赤ん坊に生まれてきてほしくないと願っているのなんて、オレぐらいに違いない。



 ――1989年8月2日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /9

「…………」
「…………」

 お互い黙り、廊下を歩く。
 本家の屋敷は、歩く度にギシギシと音がついてまわる。この寺に入る前の石段を駆け上がる子供の足音のように。
 しかし、その音も一つだけしか聞こえない。不思議なことに、着流しの少年は……兄には、足音が殆ど無かった。
 上品な歩き方とでも言うのか、体格的にも二人は大きく違いはない。
 どちらも少年らしく年をとっている。女々しいという訳でもないのに、片方は静かで上品な足取り。もう片方の俺は大雑把な歩みと言えた。

「……おい、志朗」
「……なんだよ」

 お互いが震えた声を出す。言い合って二人とも顔を顰める。
 初めて出会った仲ではない、何度か会話をした実の兄弟の筈だ。その筈。そんな言葉が付いてしまうほど俺達は交流が無かった。親ですら、俺達を会わそうとはしないぐらいだった。
 兄は跡継ぎだから過保護に違う館で守られるように過ごしていると聞いている。そして俺は放任されている。今日だって外の世界のガキどもと野球をして泥だらけで帰ってくるぐらい、誰も俺のことなんて見向きもしない。
 生まれた腹は同じでも、接点はてんで無かった。

「志朗の寝室は何処だ」
「……聞いてどうする」
「連れて行ってやる。変な輩に襲われでもしたら困るからな」
「ここは俺の家だぞ。変な輩って何だよ」
「聞きたいか?」
「……いや、別に」

 本家の後継者となれば、さぞ『変な輩』に関しては博識。聞きたくないのであまり散策しない。というか、あまり話が続けられるようだとは思わない。
 無言の廊下で兄が辛うじて作った話題は、『俺の部屋』だった。眉間に皺を寄せながらも作った話題がそれぐらいで、その先は何も思いつかなかったらしく、また無言になる。仕方ない、俺もその話題に乗ってやることにしよう。

「あっちの棟だ。もう一人で行ける」
「迷子になるなよ」
「なるかっ。毎晩寝てる部屋だ、阿呆。……おい。兄貴は今夜何処で寝るつもりなんだ?」

 ここで分かれたらそれだけで終わりの仲だ。
 ついでに会話をしてやろうと思い、話を続けていく。

「……志朗の部屋で寝ろと親父は言っていた」
「は?」
「さっきの会合の前に、そう親父は夕餉のときに言っていた。だから、二人で出て行っていいと言ったんだ。兄弟揃って寝ろっていう意味だったんだぞ」
「ちょっと待て。あの部屋、この屋敷では特別に狭いぞ。四畳あったか判らん」

 元々は納戸だった部屋を、弟の新座といっしょに使わせてもらっている。
 もっと良い部屋はあったが、「四畳が嫌なら四十畳の部屋があるが?」と言われて今の納戸に落ち着いたんだ。「そんな広すぎる私室はいらない」と断り前者を使わせてもらっている。

「では、その四畳で休ませてもらう」
「マジか。あの部屋に布団を三つも敷けるのか」
「ならオレは何処で寝ればいい? 本家に戻ってくるのは久しぶりなんだ、どこに空きが仕舞われてるか検討もつかん」
「子供の俺が知るか」
「部外者のオレが知るか」
「…………」
「…………」

 親父は、何を考えている。いや、あの親父の事だから何も考えていない方に一票……ではなく二票投じる。
 子供とはいえ三匹同じ小屋に押し込めるとは。いや、四十畳の部屋があるからそこに兄貴を行かせろよ。もしや、新たな嫌がらせか? それとも何か、スキンシップの一環か? どちらにしろ悪い冗談だ。

「…………そうか。志朗の部屋が狭いなら、部外者は外で寝よう。廊下で眠らせてもらう」
「は? 何言ってるんだ。外で寝るには寒いだろ」
「なら掛け布団だけでも一枚寄越せ。志朗は新座の布団を使わせて貰え。……寒いのには、慣れている」

 そんな戯言を、薄着の着物一枚の姿で言い張っている。
 馬鹿にしか見えなかった。

「そうでなくても夜は寒いだろ。体、冷やすぞ」
「……慣れている」
「阿呆か、それは感覚がバカになっているだけだろ。新座を隅にやればいい話だ、あとは着る物を増やせばいい。なんなら俺のジャージでも体に巻いて寝ろ」

 薄い着流しでは余計に寒いだろう。
 震えてはいないが、そんな姿で廊下に放り出されていたら何の罰ゲームかという話。
 だというのに、折角の好意で言ってあげても兄は怪訝そうな顔で払いのけようとした。

「慣れているから、大丈夫だ」
「何が慣れているだ。ただのやせ我慢だろ、それ。俺より細くて弱っちい体のくせに何言ってるんだか。兄貴のくせに。肉もついてないよな、ちゃんと食って動いてるのか?」
「お前は食って遊んで寝ているから無駄に成長したんだろう。オレはそうはいかない、ちゃんと頭を使っているからな。遊んでばかりのお前との違いがあるのは当然だ」
「自慢か? こちらはまだお子様なんでね、親の会議にも口を出せない、意見も組み込んでもらえないまだ子供なんだ。食べさせて、遊ばせて貰うのは子供の仕事だよ。まだお前のように家の事情に介入できるだけの力なんて持ってない。……多分、俺は一生持てないけどな。……ほら、部屋はこっちだ」

 前を行く。
 行く場所も判らず足を進めていた兄の先を行く。先導してやらなければ阿呆面のまま、留まってしまうから。
 後ろからの妙な視線を受けながら、次来る話題に備えて心を落ち着かせていた。
 ……ふと思う。「兄弟で良かった」、と。
 なんせ名前で呼ばなくていい。未だ、隣を行く人物の名称を思い出せないのだから。

「……やっぱり、今日は冷えるな」

 この感覚のズレた兄は大丈夫だと言っているが、さっきまで涼しかっただけの風は凶器になりかけているほど寒かった。
 ここは山の上。天気予報が報じている気温よりずっと低い。ときどき霧だって立ちこめるほどの場所だ、いつ夏に雪が降ってもおかしくなかった。
 ――お前だって、この家に生まれたんだから夜は寒いってことぐらい知っているだろう?
 訊こうとしたが、黙って足を進めた。
 そんな事も知らないのかと言いたかったが、少なくともここ数ヶ月は本家で顔を見ていなかったぐらいここに居なかった人物だ。夏は暑いものと思っていれば、勘違いしても無理はないか。
 そういえば本家に数ヶ月間いなかったが、一体何処に行っていたのか。

「今まで何処で修業していたんだ?」

 あれこれ迷うより、隣にいる本人に訊けば良い話のこと。詮索するまでのことではないが、時間潰しに訊いてみた。

「この山のもっと奥。歩いても一時間も掛からない小屋だ」
「……そんな場所、あったのか?」
「車で行けるような場所にはない山小屋でな。そこの地下が、我が一族が修行の際に使っている鍛錬の場なんだ。地下はさほど広くはないが、走り回って剣を振るえるぐらいの空間はある」
「…………」
「小屋の中は寝泊まりできるし、飯を作る場所も体を清める場所もある。この寺には到底及ばないが強力な結界も張られている。そこで一日中修行ができるぐらいには充実した施設だぞ。志朗も自分を鍛えたければ来ればいい。大山様に打診してみろ」
「……結構。そんな充実した山小屋生活をしてきて、何か土産になる物は無いのかよ?」
「土産が欲しいのか?」
「俺は別に欲しくないぞ。欲しがるのは新座だ……あいつ、寺に来た奴は全員何かしら茶菓子をくれると考えてやがる」
「兄貴からせびる気か、薄情な奴だな。……まあ、新座もオレなんぞ兄とは思っていないだろ」
「そんな事はない。新座はお前のこと、『おっきい兄貴』だって記憶していた」
「…………へぇ」

 意外そうな顔をする。
 兄弟の仲は薄っぺらく、本人も弟の記憶など無いに違いない。俺すら名前さえも覚え出せないのだから、きっと修行に励んでいた兄も……。

「嬉しいな。新座はオレのこと、兄貴だって思ってくれてるだなんて」
「…………」

 と思ったが。
 兄は案外普通に、弟に想われていることに、喜んでいた。

 ――昔。俺は、自分の存在を改めて問われたことがある。
 この家は何なのか。この家があるべき姿とは何なのか。訊いてしまったがゆえに、教え込まれたことがある。
 この家の中でも、自分と、自分の兄弟と、自分の父親は特別な存在で……一歩間違えば自分は『崇め奉られる』存在だったということも、教えられた。
 生まれる順番が、数年違っていたら……今、目の前にいる兄貴の立場と、自分は交換していた。
 『惜しかった』なんて、一度も思ったこともないけど。

「すまん」
「何で謝るんだよ、意味判んねぇ。謝るのはこっちの方だろ、記憶に無くたって……名前ぐらい覚えているべきだっていうのに」
「すまんな、兄貴らしくなくて。オレとしてみれば兄貴らしくありたいと思っていた」
「……」
「修行なんかに励んでいたら、オレのことなんて忘れる。知ってた」

 ……「弟で良かった」と幾度も思い直した。
 長男だったら、こいつのように『崇め奉られる存在』になってしまった。
 堅苦しい荷を背負わなくて済んだのだから、俺は幸運だ。
 一方でこの少年は、大きすぎる重圧を全て背負わなければならなくなった。
 それは生まれる前から決まっていた。当主の子が、一番最初に生まれた者が、厄介払いをするという仕組み。忌々しい仕組みだ。目の前の少年は、家としての役割を果たすために家族として姿を消した。
 全ての者に了承を得て。認められて、俺の中から記憶ごと消し去られるぐらい遠い存在になってしまっていた。
 嗚呼、なんて疎ましい世界。

「……あのさ。兄貴」
「ん?」
「修行が終わったら、またここで普通に暮らすんだろ。戻ってくるんだろ」
「そうだな、ずっとあそこに居ることはない」
「だよな、お前が……この仏田寺を継ぐんだから。次期当主なんだから。……いっとき忘れても、また一緒に暮らす頃には、その」
「その頃には、名前ぐらい思い出すって? オレの名前を思い出せるって? おいおい、少しでも良いことを言おうとしてるんだろうが、せめて今思い出してくれよ。オレが一人前になる前より先にさ……」

 くすくす、兄は笑う。
 笑われて、急に自分が恥ずかしくなった。兄は傷ついている。俺に忘れられて。それが笑っている中でも判ってしまったから。
 頭をぐしゃぐしゃを掻きながら、えっとえっとと俺は必死に思い出そうとする。……ちくしょう、なんて薄情者なんだ! 失礼にも程がある! 傷ついている人間が目の前にいて、ろくな言葉も吐けずに苦笑いさせているだけか!
 安心させる笑みを浮かべさせてやることもできないのか。
 くそっ。そう思っていると、月が一瞬消えた。雲によって明るい月が隠れたせいで、微かに廊下に漂っていた影が全て消え去った。
 おかげで本当にこの世界には目に映る二人しかいないように思える。薄ら寒い空気が夏の夜を満たす。
 やっぱり寒いじゃねぇか、今夜は。

「ほう。君も一人前になる気はあるのだな、燈雅よ」

 燈雅。そう、燈雅。
 兄の名前。
 その名を呟いた声を聞いて、俺の背筋がぶるっと震える。月が隠れて気温が下がった? そうじゃない。

「やぁ。兄弟二人が揃っているだなんてレアなものが見られるな」

 部屋の前の廊下にて、声を掛けられる。
 二人だけの空間と思っていたのに、突然の来訪者。
 しかし驚くこともない。この屋敷は、多くの親戚と多くの他人によって構成されているのだから。
 新たにこの空間に加わった人影の正体は、叔父・柳翠だった。
 俺がその姿を確認するよりも早く、兄は前に躍り出て敬うべき叔父へ頭を下げる。

「柳翠様。……親族会議に出席しないで、何処へ?」
「私ならずっと自室に居たさ。不思議な事に私は会議に出席するなと兄達から言われている。一度も出たいと思った事はないから丁度良い。これで無駄な時間を過ごさずジョルジュと二人きりで油を塗りたくるというわけだ」

 ジョルジュって誰だよ。
 と、いちいち言葉のツッコんでいたら一日過ごせるような男だ。会話の節々を無視する。
 そんな風に話題が脱線するような話し方をするから、笑い話でもなんでもなく「柳翠にはあまり目を合わせるな」と噂されていた。新座のことを相談したときもそうだったが、この人の会話は半分以上も聞いてはならない。そう言われている人が親戚が集まる会合の場なんて姿を現すことはない。

「しかし君ら兄弟は当主様の実子。あの堅苦しい会議に出なくて良いのかな。それとももう宴会は幕を下ろしたか」
「いえ、まだ続いております。オレ達は前当主の和光様のご厚意を頂き、会議を早退させて頂きました。志朗は明日学校があるでしょうし、こいつと一緒に早めに就寝します」

 こいつ、と言いながら兄は俺に向けて指をさす。
 もう夏休みに入っているので朝起きて学校に登校する必要は無い。そんなことも知らないのか、兄は。
 かといって早めに寝ていて損は無い。うちの連中がだらだら寝させてくれる訳もなく、一定の時間が来たら起こされるからだ。ここは兄の言葉にそのまま従うとしよう。

「まだ父上達が会合を続けていますので、用があるならそちらに」
「君達はこのまま眠りに就くつもりかね」
「先に話した通りです。志朗も、眠たがっています」

 実はそうでもないのだが。
 反論しようとしたが、祖父の前席で「眠い」と言ったのもある。こいつという言い方が気にくわないが、黙って兄に応対をさせておく。

「なあ志朗。お前、早く寝たいんだろう?」
「え。あ、まぁ」
「だそうで。今夜、オレはこいつと同じ部屋で休めと言われています。用が無ければ部屋に向かいます」
「用は有る」
「何か?」
「君の修業の成果に用が有るのだよ。――――――――"outasword."」

 次の瞬間、空気の在り方が変わる。
 突き刺す衝撃を足元から受けた。
 剣だった。

「っ!」

 刹那、蒼く黒い光が叔父の背から現れる。
 飛び散る刃の破片。ザクリ、木の廊下を両断する銀色の剣。剣というのも苦しい、刃しか無い凶器は柳翠の背に現れるなり空を裂く。そして、足下に突き刺さった。
 途端、月が光った感覚を覚える。
 雲に隠れていた月が姿を出す。途端、柳翠は高速で歌を謡っていた。
 歌は流れ、影を捉える。深々と木の板に刺された先には、兄の影があった。やたらと難しい呪文だと思ったが、柳翠は兄の影の上に剣を刺したに過ぎない。何をしたのかと呆然としていると、兄の表情は強張ったものへと変貌していった。
 兄は口で息をしていた。体全体の器官を止められたかのように彼は固まり、目を見開いている。
 睨みつける視線を、目の前の術者――卑猥な笑みを浮かべている柳翠に向けた。

「何を、したのですか」
 
 叔父に向けられる兄の声は、怒りに満ちている。
 相手はいきなり剣を具現し、突き刺した。不意をつかれた兄の体は血に濡れていないものの、今から突如現れた凶器で兄を突き刺すことなど容易かった。
 目の前で殺人が繰り広げられてもおかしくないほどの殺気のぶつけ合いに、目をぱちくりしてしまう。宙に舞った剣はそのまま兄の足元を刺している。いくらでも兄を突き刺し、殺すことができた。

 殺されたかもしれない兄の体は、自由を無くし動かなくなっていた。
 廊下に深々と刃が刺さり、大きな傷跡を残している。そんな傷痕を廊下に作ったら怒られるのではないか。けど、後先を考えていないこの叔父に言っても効果は無い。
 兄は動かない。いや、動けなくなっていた。
 影縫いだ。剣で兄の影を縫いつけ、動けなくしているようだった。
 叔父は、動かなくなった兄の四肢に近付き、手を出す。
 パチン、音がした。
 静電気のような微かな光が二人の間に弾ける。
 静電気? そうじゃない。叔父の手を追い払うすべを無くした兄の、抵抗の現れがその光。
 身動きの取れない兄なりに何か動こうとしている証拠が、その火花だった。

「まだまだだな、燈雅。こちらは親切にも呪文を事前に詠唱してやったのだぞ。防ぐ手立てはあった筈だ。防御すらできないのに修行の身とは笑わせる。君はこの数年間、何をしていた? 意味のある鍛錬だったのかね?」
「何……を。不意打ちをする卑怯者が言いますか……ッ!」
「不意打ち? 話をよく聞け、私は『呪文を全部言ってあげた』んだぞ。実戦に赴く魔術師なら呪文すら唱えずノーリアクションで武器を振り翳す者もいるわ。上級魔術とも言えぬ、魔術を齧った奴でもこれぐらいのことはできる。なのに君は何故見切れんのだ。光緑兄上に何を教わった。敵から先制を取るにはどうしたらいいか。相手の先の行動を読むためにはどうしたらいいか。相手の先を読め。私は『つるぎよでよ』と唱えた。その時点でお前は襲いかかる剣に気付かなくてはならない。先の剣の使用法など考えなくていい。剣を召喚されたら剣を排除するだけを考えろ。考えたら相手が次の行動を取る前にそちらから仕掛ければいい」
「……こんな所で個人指導ですか。只でさえ結界の張られている本家で……。空想具現の術などして良いと思っているのですか!」
「良くはないよ、寧ろ悪いだろうなぁ。『術なんて使ったら張られた結界のバランスが歪む。すぐに崩壊するだろう』。……ほら、足音が聞こえる。誰かが叱りにやって来た。では、術を解かれる前に目的を果たすまで」

 ぱちん、ぱちん。
 動けない兄による小さな火花の攻撃を振りしきり、柳翠の指は、兄の縛られた右腕を捉える。

「ィ、……っ!」

 「動くな」と命令された体を無理矢理引き裂いていく。影縫いの凶器によって固定された体が無理にへし切られ、兄は苦痛に顔を歪めた。
 術者である柳翠が兄の影に刺さった剣を抜けば、空間に縛りつけられた兄は解放される。なのにそれもしないで、兄の腕を取った柳翠は力づくで腕を動かし、薄い着布の下を露出させた。
 ぱちん、ぱちん。ぶち、ぶち。パキンっ。
 空気を縛る鎖が切れる音がする。雁字搦めのロープを力づくで毟っているかの様だった。兄は動かされる度に目を強く瞑る。
 一見ただ大人が子供の腕を掴んでいるだけにしか見えないのに、兄が声を殺して激痛に耐えていた。
 露出されたのは、ただの腕だ。
 しかし、そこに肌色は無い。

「……あ……?」
 
 俺と同じ顔で、俺と殆ど同じ体格。にも関わらず、腕の形だけが歪だった。
 兄の腕には……変な文様が浮かび上がっていた。色は俺と同じ色ではない。蚯蚓腫れとも言えない歪んだ褐色の、紫色の傷痕がそこにあった。
 まるで何かが皮膚の中に入り込んでいるかのような、直視できないほどボコボコで不格好な腕。
 兄の周りの火花が散るたびに、血管が生き物のようにボコリと歪む。兄が魔術で叔父に抵抗するたび、腕の……刻印が蠢き、ミミズが何匹も皮膚の下を這いずり回っているように跳ね上がっていた。
 血管がビクビクと揺れている程度ならまだいい。俺の手の甲にだって青い線は走っている。
 そうじゃない。デコボコな紫色の表面に、不気味な色のミミズが何十匹もバタバタ跳ね上がっていた。
 全部比喩だ。そういう風に見えるってだけ。
 でも、あんなものを腕というのか。兄は着物の下にあんな不気味なものを隠していたというのか。
 自分のと同じものだと信じたくないぐらい、あの形は異常と思えた。

「汚らしい」
「ッ……!」

 腕を剥き出しにした本人が呟く。言われた本人は、何とも言えない表情をしていた。
 腕に刻まれているものが魔法陣というならばまだ恰好がつく。けれど兄に埋め込まれているのは、見るも無残な落書きだ。

「ふん、『機関』の生み出した刻印とはこれほど醜いものか。なんて汚らわしい。十七年もかけて編み上げた傑作の人工刻印を栽培したと聞いていたのに、どんな素晴らしい神秘の結晶かと思えば……。それでいてあの程度の術も回避できんのか? ならばまだ生粋の刻印持ちである新座に、当主の座を委ねた方が楽だったろう……兄上も」
「っ……」
「才能が無い訳ではないが、君では役不足だったようだ。君は醜い姿のままで生きる。私は親切だから教えてあげるさ。藤春に女子は生まれんよ。双子を生んだ後も奴は、子などもう作らぬ。才能があっても家に貢献するつもりなど無いからな。なんだその顔は。女子が、当主が、神が生まれて解放されると思ったか? この苦しい今から救われるとでも考えていたか? 言っておくぞ、貴様は一生座れない玉座に座らされる血路に在る。なんて――可哀想な運命」
「ッッ!」

 ――ぷちん。
 空が割れる音と共に、鮮血が俺の身を襲った。

 飛び散る肉。ふりかかる朱。目の前で破裂した腕。その中心に周囲に襲いかかる血液。
 兄の血が俺の体に掛かる。
 あのぷちんという音は、兄の体が弾け飛んだ音ではない。
 寺を守っていた結界が弾ける音だった。
 何故って? 先ほども言っていた。突然寺の中で術を何重にも使用し、空気中に漂う魔力のバランスを崩したから。
 兄を縛る魔法、兄にかけられた魔法を解く魔法、更に兄を苦しめる魔法。何重にも何重にも唱えた結果、魔力を乱し、寺の結界を一部軟くした。
 だから結界は破れた。
 こんな簡単に爆発なんて起きるのかと感心さえしてしまう。

「っ、……ッ、っっっ……!」

 兄は声にならない声で悲鳴を上げている。
 頬を掠める生暖かい液体に震えていた。だけど柳翠の目は相変わらずの涼しい。端整な顔つきのまま、その光景を見つめていた。
 爆発した腕を抑えようにも空間に縛られた身は叫ぶだけ。あれほどの爆発が起きたというのに、たじろぎもしない。
 いや、出来ないんだ。相変わらず兄の影には叔父の剣が突き刺さり、自由を許さない呪詛がかけられている。
 幾らの腕から血を流そうが、影縫いの剣を抜かない限り、兄は倒れもしない。
 その姿は実に矛盾していた。血を流し、蒼白な顔。尋常ではない光景なのに、死ぬ事を赦されていないよう。

「存外、結界が破られるのも早いな。光緑兄上も甘い。まさか、この寺を取り巻く怨霊がどれほどのものか知らぬのではないか」
「……それはっ……貴方がっ、結界を解くようなことっ、……したからでしょう……っ!」
「ふむ、しかし困ったな。結界内で術を使ったぐらいで崩れてしまうなんて。そんなのだから……悪霊が入り込み、すぐさま攻撃をしかけてくるのだ。まさかこんなに早く次期当主に噛みついてくるだなんて。全く、危なっかしい。百年前の『火事』の教訓は忘れてしまったのか、ここの危機管理はどうなっているのだ」
「ぐ、ぅぅぅう……っ!」
「痛いか? ほう、才能は無くても直系純血の血は怨霊にとっては美味いのかな? 剥き出しの血肉に入り込もうとしているぞ、ふむ、実に異端らしい。志朗、判るかね、君には視えているかね? 今……結界内に入り込んだ一匹の異端が血肉を貪っているぞ。旨そうに燈雅の肩をしゃぶっている。ほれ、燈雅、抵抗をしてみろ。早くしないと、死んでしまうぞ」
「っ……ぁ!」
「それとも。地獄しかない運命を恨みここで死ぬのも一興。その場合、十七年の生涯は無駄だということになる。あの苦しみに耐え得た刻印を生かすこともできず、否、その最高級の血肉と傑作の刻印を持つが故に悪霊に食い殺される。それもまた良い。しかしだな、視えぬ悪霊が君を食い殺された後、次に悪霊が狙うのは誰か考えるがいい」
「……!」
「結界を一つ無くしたこの屋敷、次第に怨霊は溢れかえる。異端は美味な血を求めて狂気を繰り返すからなぁ。神聖を追い求めるが故にこの血は彼らのご馳走になってしまってな、彼らが一斉に襲い掛かってくる。酷いものだぞ。貴様の修業なぞ比べものにならん、本物の地獄がこの寺を満たしていく。そうなる前に兄上達が結界を張り直し止めるが。それまでに何人が死ぬか」
「……ッ、……!」
「上層部が再度結界を張り終えるまで五分と考えようか。しかし十秒後、何も出来ない君は死ぬ。では残り四分五十秒の間に、君を喰らった異端がまず狙うのは?」
「っ、志朗!」

 名を呼ばれた。
 意味は判らない。ただ、兄が直立不動で叫んでいる。
 ……ワケが、ワカらない。

「さっさと親父の所に戻れ! そして知らせろ! 『破られてはいけない門が突破されている』! それだけで親父なら判ってくれる! 言ってることが判らないとか……そんなの後回しにしろ! そうでもしないと、……お前が次に血まみれになる!」

 兄は血まみれの姿のまま叫ぶ。戻れ、帰れ、逃げろ、と。
 呻き声を上げながらも、低くなった声で懸命に叫んだ。
 その姿を見て、叔父は顎を撫でた。

「賢明だ。まずは第二の被害者を遠ざける。力ある者に援助を求める。無理に一人で解決しないのは正解だ。だが」

 叔父は、頭を撫でた。
 ぺたりと……その場に座り込んだ俺の頭を。

「異端になんぞ何にも免疫が無い弟君は、腰が抜けて逃げられないようだ。泣くこともできない程に怯えている。恐怖を目の当たりにしてしまったのだから当然だなぁ」
「ッ、この根性無しがぁ……!」

 そんな事を言われたって。
 魔の足りないと言われている自分にだって、視えたのだ。
 ……肉の剥だけた兄の肩にかぶりついている、化け物の姿が。
 兄は、立ったまま喰われていた。どこからともなく現れた、異端に。
 何重もの魔法のせいで弱くなった結界の一部、爆発が起こり崩れた一部の面、そこから這いずり出てきた異端が兄を喰らっていく……その光景。
 抵抗もできず、ただ痛みに耐えているだけのその光景は、俺の体を硬直させるには充分な恐怖だった。
 兄は思う存分、腰の抜けて動けない俺へ暴言を吐く。
 そしてその後、単純で、それでいて端的な呪文を……兄が唄った。

 ――ばちん。爆発は起きる。
 今度は結界が破られた音ではなく、盛大に肉が弾け飛ぶ音だった。
 ――びちゃり。びちゃ、びちゃ。びっちゃり。
 飛び散る破片を、また俺は顔に受けていた。頬に伝う液体を拭うことすら出来なかったが、今度は……ちゃんと口から音を発することができた。
 目の前に体が落ちてきて、多少は動けるようになったらしい。

「あ……。だいじょうぶ……か……? おい……?」
「大丈夫か、おい、じゃないっ! トボけた声出してる暇があったらとっとと逃げて親父を呼べ……っ!」

 兄は俺がしゃがみ込む上に、凭れかかってきた。
 兄の肩を食っていた化け物は、兄が放った一撃の魔法で撃ち滅ぼされたたらしい。そのついでに兄の肩も吹っ飛んでしまったようだ。
 現に、肩からの大量の出血を俺は浴びている。その間も兄は「しっかりしろよ、志朗!」と声を荒げている。
 ――だから、そんなこと言われても。
 足が言うこと利かないほど震えている上に、今度は上から倒れてきた俯せの体のせいで身動きができない。
 出来ることといったら、倒れる体に腕をまわすぐらいだった。どくどくと血がまた自分の身体へ滴り落ちているのを浴びているだけで何も出来なかった。
 素人だって判る。魔術師でなくても判る。子供だってこれぐらいのことは判る。
 ――ヤバイ。その一言ぐらいは。
 だって……俺は動けない中で、肩にかぶりついていた化け物と同じものを数体、俯せの肩越しにある『結界の穴』から見ていたのだから。

「志朗、お前動けないんだな!?」
「あ……あぁ、動けない……」

 これでもかってぐらい足が動かない。
 恥ずかしいぐらい何もできず、俺は小さな穴をこじ開けようとする異形の数々を、兄を抱きながら凝視していた。

「それじゃあ、―――動くな!」

 何を言っているんだろうか。
 言い返すよりも先に、兄は口を開き、次々と魔術師としての歌を朗々と響かせていった。
 異様な廊下に突然風が起こり、次々と灯火がついていく。薄闇の中で、位階を声高に呼ばわった。
 長い詠唱を唱えていく。世界の全てに轟くような声で何かを宣言していく。尋常ではないスピードで呪文を唱え続けるたびに、抱きついた腕がビクビクと跳ねあげる。
 その都度、兄の顔が苦痛に歪んでいく。
 異能を行使するために魔力を使う。魔力を溜める刻印が動く。刻印が動くたびに腕の中に潜んでいるミミズが暴れていく。
 腕を覆っていた紫色は……次第に兄の体の大半を占めていった。
 抱きつきながら、赤黒い姿に染まっていく兄を見ていた。

 兄の半分が、異形の色へと染まっていく。

「■■■、■■■■■■■■■……!!」

 ――古より伝承された呪よ、暗黒の渦よ、旧き炎をこの手に。達成するのは只一。
 弾けるような音と共に兄が振り返り半身を掲げ上げる。死の大群が穴から這い出てくるよりも先に、兄は炎を纏った腕を突きさしていた。

 結界の穴は、数体の異端の消滅と同時に真っ赤な炎によって塞がれていく。
 一瞬とも言えるような素早さに、数秒間眠っていたんじゃないかと思えるほどだった。でも呪文を唱えるたびに苦痛に見舞われる兄の顔をずっと見ていた。それは夢ではなく、一秒一秒苦痛に苛まれた実際の兄の姿。それでも最期には全てをし終えた兄が俺の前にいた。
 ぐらり。無数の炎を打ち出した兄は、入り込もうとしていた悪霊の類を一掃し、穴をふさぐなり……廊下に顔から倒れ込む。
 その間もビクンビクンと体中に何かが駆け巡るような動きを見せる。けどその頃には兄はもう意識を手放していて、兄の体は皮膚の中を這いずり回る者達によって廊下の上でじたばたと不格好なダンスを踊らされていた。
 次第に動きは落ち着いていく。
 顔の半分までもが紫色に変色していた兄の体は、次第に肌色を取り戻していく。
 けど、顔ぐらいだった。
 肌蹴た薄い着流しの中は未だに脈動している。顔から下は、見るも無残な色。それに肩は異端にいち早く喰われ、真っ赤な血に染まっている。
 完全に衝動が収まった兄の体は、うつ伏せのまま動かなくなった。
 あとは、じわじわと廊下に赤い泉が広がっていくだけになった。

 それから暫くして、穴の空いた廊下に腰掛ける柳翠の元に、数人の影が忍び寄った。
 その中の一人は、柳翠もよく知る人物。
 名を、藤春。柳翠にとって血を分けた兄だ。
 見知った顔の登場に、憂鬱げだった柳翠の表情が一変する。
 嗤っている。そんな弟の表情を見た藤春は、怪訝そうに眉を顰める。
 藤春はこの場に駆けつけ、数人に指示を出して俺達をどうにかしようとしてくれた。
 そして……柳翠に近寄るなり、強烈な一発を食らわせる。
 成人男性の拳を顔面に受けた柳翠は、もちろん兄と同じように廊下に転がった。だというのに仰向けにすっ転んだ柳翠はその場で……ケラケラケラと、今度は声を上げて笑い始める。
 ケラケラケラ。ケラケラケラ。思わずその場に駆けつけた僧達が立ち止まり、さっきの俺みたいに恐怖で動けなくなってしまったように固まってしまった。

「早く志朗達に手当を」

 藤春が低い声で僧や女中に命じる。その声にハッとした一同は、また動き始めた。
 暫く笑い転げた柳翠は、ゆっくりと身を起こす。
 起こした頃には、笑みなんてもの無かったかのように、平然とした涼しい顔つきに戻っていた。

「何のつもりだ、柳翠」
「若き当主に燃やされた霊を供養してやっていたところだ。さあさ、皆も手を合わせようではないか、南無。なあ、兄上も燈雅の呪文を聞いていただろう? 聞こえていただろう? 面白い呪文だったなぁ? 死の隣り合わせで呟く詠唱とはどんなものか確かめたかったんだが、あの声は光緑兄上と瓜二つだったなぁ。なるほどなるほど、光緑兄上の才能は継いでいないくせにそんなところは似るなんてなぁ。間違いなく燈雅は光緑兄上の息子だよ。それに……ハハハ、こんなところで美しい兄弟愛を見せつけられるとは。私も出来るものならあんな風に散ってみたいものだ。いや、散ってはいないか、燈雅も志朗も二人とも無事だしな。まぁ、志朗に至っては暫く精神を病んでしまうかもしれないがな」
「柳翠。何故、結界を破った」

 柳翠の呟きを捨て、藤春は腰を下ろす彼の眼前に愛用の槍を突き刺した。
 きらりと藤春の武器が光る。凶悪な実弟に対する、藤春なりの脅しでもあり、覚悟でもあった。

「心外だな、藤春兄上。私は当主様の創り上げた結界を突き破る程の力は持っていない。出来るとしたら、維持する力を妨害するぐらいだ。実際一時的に弱くなった結界を破ったのは、『神と一体化したい』と寺に入ろうと周りをうろちょろしている凶悪な異端のせいだよ」
「では、何故妨害まがいの事を。結界を軟くするような真似を。お前、与えられる罰を判っているな」
「ああ、一族のしそうなことぐらい検討はついているよ。監禁かな?」
「…………」
「燈雅のように、光緑兄上のように、歴代当主様のように私を牢屋に入れるつもりだろう? 太陽も月も当たらぬような暗闇で四肢の感覚も忘れ、不必要だと神が敢えて人に与えなかった感覚を植え付けるために人としての機能を失わせる程の闇の中へと放り込む、そうだろう?」
「…………」
「歓迎しよう。私は元方刻印のある人間だからな、あの闇の中で何が行なわれているか身をもって体験してやろう。いっそ『機関』の新しい実験体となってやろうか?」
「柳翠っ。大人しくワケを言え! 貴様、血族を侮辱する為に結界を破ったのではないだろっ!」

 怒鳴り散らす声が木々を揺らす。
 だが、弟の信心を揺るがすほどの力は無かった。

「簡単な事だよ。私はあんな空間に追いやられる事により生まれる力が見たかっただけだ。結果は散々なものだったがな。あれぐらい危機に陥っていないと咄嗟に力が使えないなんて、あの子も自分の実力がよくよく判っただろう。これで燈雅は本気を出して修行に励む。今以上に彼は学ぼうとする。愛する弟を……家族を守ろうという美しい心をいだいて」
「……」
「光緑兄上がな、呟いているのを聴いてしまったんだ。このままでは燈雅は修行だけで食い潰されると。あの人もお優しい、自分の息子を救ってやりたいと思い悩んでおったよ。あの光緑兄上がな。だがこれでいい。あの子は明日から生まれ変わったように修行に励む。ここの脆い結界の体制も見直される。志朗も遊んでばかりの子供ではなくなるのではないか。いいこと尽くめではないか。……しかし、燈雅の力は凶暴なものになるぞ。奴はちゃんと磨いてやれば光緑兄上を越える予感がする。これも『機関』が生み出した発明の賜物だな。怨霊ですら気の毒になるほどの消滅っぷりを見ただろう?」
「……柳翠」
「これで皆、見直してくれる。この体制は間違いだったことを。あの修業は間違いだったことを。……子供にあのような力を身につけさせるとは、あれでは人生を狂わせるだけのただの虐待だ。無意味だよ、何をしても意味など見出せぬ」
「俺達に判らせるがための行為が、あれか? 無理に燈雅を怒らせて、結界を脆くさせ、怨霊を使って極限状態にさせて……能力の愚かしさを思い知らせたかった? それだけか? バカか。あれでは志朗の方にトラウマが残る」
「目の前で兄の腕が吹っ飛ぶぐらいで心に傷を負うなど、仏田の血に相応ない。それよりも。燈雅、あの子は一生を縛られる。しかし時に光を見ているのだ、それが実に心苦しかった」
「光を、希望を見ることの何がいけない」
「手に届かぬ希望など、絶望だ。希望が膨らむだけ絶望は比例する。淡い期待に胸馳せて絶望に暮れる一生など悲しすぎる。だから先に教えてやったのだ。救ってやったのだ。これは感謝して貰わなければな!」
「……それが動機か。下らん」

 藤春の奥にいた影達が、一斉に柳翠の周囲を囲う。
 柳翠はその大群をつまらなげに、取り囲む藤春の使い魔達を見た。
 藤春の喚び寄せた使い魔達は……翼を生やした鎧の騎士の群れ。和風の建物に似合わぬその光景に、柳翠は苦笑する。

「藤春兄上の趣味は理解するが、そこまで外に染まっていることを露骨に見せつけて『機関』に怒りを買うなよ。それに、私は既に剣を消している。わざわざ兄上の天使モドキを召喚せずとも捕らえる事は出来る。そもそも私は逃げない」

 言うが、藤春は術を止めない。ふらふらと両手を上げて「降参だ」と言い張る柳翠を、槍で立たせる。
 そのまま連行されていく。
 おそらく柳翠が連れて行かれる場所は……懲罰室という名の牢獄だ。

「本当の事を言え、柳翠」
「私はいつだって本気さ」
「お前は、何がしたい」
「ひとりの少年が夢見る姿を見るのが悲しかっただけだ。それを救いたかった」
「お前は、何が望みだ」
「ひとりの少年の幻想を打ち砕くことがしたかった。満足している」
「お前は、何を考える」
「……この連鎖は一体何度目だ。いつ過ちに気付く? かの者を救う為にかの者を殺す。多くを救う神の為にひとりの凡人を殺す。――それが『惨劇』と、何故気付かない!」

 ――気付いているよ、そんなこと。
 誰も想うが、誰も口に出さないだけで。

 俺は、兄の体に浮かぶ歪な蚯蚓腫れを見ていた。

「……おい」
 
 びくんびくんと動いていた体は落ち着いていく。気味が悪いと思いつつも、赤く染まる腕を抑える体を揺すった。
 返事は無い。だが、息はしている。
 でもこの出血の量はハンパじゃない。死んではいない、けど。

「死ぬ訳が無い、血気盛んな年頃だからな」

 天使の軍隊に連れられていく柳翠が去り際、くすりと笑いながらそんな言葉を捨てていく。
 殺す気は無くても殺しそうな柳翠も、連れて行く藤春も、倒れている彼の姿には何も言わないんだから……平気だということは判る。だが。

「……おい……」

 どちらも、治療を行わなかった。
 駆けつけてはこなかった。
 藤春は『下の者』に命令し、放置している。
 あの人だって俺達の叔父だというのに、甥が……血まみれで倒れていても、それよりも殺人鬼になるかもしれなかった実弟と話すのに夢中だった。
 ……俺が逆の立場だったら?
 動けるものなら、動いて治療を行なう。助けを呼ぶ。名前を呼びかける。それぐらいする。
 藤春も、柳翠もしない。
 ……腹が立って仕方がなかった。
 僧や女中達が「命令されたから」というかのように俺達に近寄ってくる。
 だけど皆、燈雅に息があることを確認し、俺がただの返り血を浴びただけだと判ると……柳翠が一番最初に刺した廊下の穴の話をし始めた。
 ……そういう事だ。
 俺への心配なんて、最初の一言しかしない。
 兄への心配ですら、こいつらは本気でしていない。

「ッ……!」
 
 じわりと胸の中に何かが広がっていく。
 ……なあ、それでも……こいつは、兄は、救おうとしてたんだぞ。
 寺の中に無数の異端が溢れると聞いて、必死に苦しみながら呪文を唱えてくれたんだぞ!
 俺が叫んだって聞いてくれる奴なんてきっといない。だから文句は噛み殺す。
 その間も……あのときの呪文が、俺の脳裏にこびり付いていた。

「志朗お坊ちゃん。いつまでもその格好では汚いですから、お風呂の用意は出来ていますのでどうぞ」
「……ええ、有り難う御座います。豊島園さん。でも、まだこうして居させて下さい」

 渋々と承諾する手伝いの女性を一瞥。
 倒れた兄を抱き上げる。とりあえず、まずは……こいつの目覚めを待ってやろうと決めた。



 ――2004年8月13日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /10

 石段を登る気にならない。大人になってから思うことだが、どうして昔はこんな長い階段を行ったり来たりできたんだ。しなければ生活できなかったというのは置いといて。
 あちぃ。怠そうに一段目に腰掛けて時間を潰す。
 二つ折りのケータイをぱかりと開いた。カレンダーを見て、今日の日付を確認する。
 子供達が夏休みに入って数日目。蝉も喧しくなる時期だ。

「やあ、志朗」

 会いたかった人が下りてきた。
 来てくれて手間が省けた。別にここで待っているとは言っていないのだが、先に登っていった元気なみずほが本家に顔を出して報告したのだろう。
 『下にダレてる大人がうろうろしているから、何とかした方がいいんじゃない?』
 意地悪く微笑む猫の顔が想像できる。
 石段を下りて来た彼の隣には、暑苦しいスーツ姿の従者の男(名前は男衾という、兄貴付きのボディガードの青年だ)が日傘をさしている。無口な召使に悠々と日傘をささせて、少しでも涼しい影の中を歩いてきたんだ。相変わらず大層なご身分だ。

「参上してあげたよ。不審者が彷徨いているとなれば、ここの管理者として見過ごす訳にいかないからな」
「何が管理者だ。まだニートのくせに」
「家事手伝いと言え。……何だ、徐に渡してきて」

 兄に、一箱を突き出す。
 一本だけみずほ用に渡してしまったので数の足りない、煙草を突き出した。だが一向に受け取ろうとしないので、投げて渡す。

「誕生日プレゼントだ。オレはそんなの吸わない」
「ほぉ、ちゃんとオレが吸えるやつを調べて買ってきてくれたんだな。優しい弟がいて幸せだ」
「思ってもいない事を言うな、気持ち悪い」
「幸せを口にして何が悪い。お前こそ、随分過ぎたオレの誕生日を祝うだけのために帰ってきたんじゃあるまいな」
「そうだったらどうなるんだよ」
「……夏に雪が降る。天変地異の前触れだ、お祓いしていってくれ、世の中の為に」
「帰る。俺は仕事があるんだよ。実家で茶を飲んでるグータラ兄貴とは違う生活なんだ」
「志朗。お前、本当にこれを渡すだけに来たのか……?」
「んな訳ねーだろ。単に仕事でこっちの取材が入ったから、ついでに来たんだよ。みずほ達は夏休みだから帰ったって言ってたが、社会人にはそんなの無い」
「夏休み……? ああ、どおりで。オレは学校に行ったことがないからよくその辺のことが判らないんだよ。今度教えてくれ」
「現役に聞け」
「あの子達、オレの話は冗談ばかりだって真面目に聞いてくれないんだよ。こんな無駄話ができるのはお前しかいない」
「年下をからかいすぎだ。ガキどもを困らせるんじゃない。……それに、弟との数少ない会話を無駄と称するか」
「実際に無駄話しかしないよ。……って、もう行ってしまうのか」
「山下に仕事先の後輩を待たせている。盆には戻ってくるさ」
「盆休みか。それならみずほ達のプレゼントもちゃんと考えておいてやっておくれよ。煙草なんてもんじゃない、もっと子供らしいものをさ。あ、それとお前の誕生日にもちゃんとデッカいケーキを用意してやる。来年はお前も三十二歳だから……『しろうちゃん 2さい』とでもチョコで書いてもらうか?」
「言ってろ」

 一段目に腰掛けていた俺は、あっという間に下山する。その前に誕生日プレゼントとして、兄を守るべく立っている男衾に百円ライターを投げつけた。
 本当に、今日はこれだけなんだ。特に何の意味もなく、此処に来てしまった。
 他意はない。多分。……おそらく。
 夏の暑い日。妙な記憶を思い出してしまったからではない。
 兄が無事……仏田寺に戻ってきている。茶を啜りながら暮らしている。年少者と雑談をしている。ただそれだけのことを確認できた。だから満足した、なんて決して言えない。

「なんで赤くなってるんだ?」
「…………うるせーよ」

 笑う燈雅の声に、背を向ける。俺は、逃げるように車の元へ歩いていった。




END

本編:  / 

外伝: →外伝02「供給」 →外伝03「親子」 →外伝04「暗躍」