■ 011 / 「離反」

カードワース・シナリオ名『子供狩り』/制作者:柚子様
元はカードワースのリプレイ小説です。著作権はカードワース本体はGroupASK様、シナリオはその作者さんにあります。あくまで参考に、元にしたというものなので、シナリオ原文のままのところなどもあります。作者様方の著作権を侵害するような意図はありません。




 ――2005年6月24日

 【     / Second /     /     /     】




 /1

 山小屋のような場所で、足を伸ばしていた。
 ここは『泊まることが出来るだけの場所』。温泉も無ければ挨拶をしてくれる仲居さんも居ない、無人の宿泊所だ。
 山奥の休憩地点として造られた場所は、公の組織が年に数回掃除しに来るぐらいで人は駐在していない。それでも休める施設があるだけ、ありがたかった。
 僕達は寝心地の良くなさそうな布団を敷き、適当に見繕った食事を部屋で終える。やっと休息の時間が訪れてくれた。

「むぐ……雨、よく降るね。ときわくん、傘持ってる?」
「ソーリー、残念ながら今日は折り畳み傘すら持ってきてないんです。昼間のうちは快晴でしたからね。不要と思って圭吾さんの車に置いてきてしまったんですよ」
「だよねぇ」

 新座さんは「そう言うかと思った」という顔で笑った。
 だってもし僕が傘を持っていたなら、今の僕が濡れている訳がない。聞いてからそのことを気付いてしまって謝ってきた。そこまで頭が回っていない人じゃなくて安心した。

「言い訳になりますが、いつもは傘を持っているんです。でも昼間は真夏日になるんじゃないかってぐらいの晴れでしたからね……必要無いと思ったんですが。いやはや、まさか降るなんて」
「うんうん。僕もいつもなら持っているんだけどね。持ってないと思うけどカスミちゃんは?」
「持ってる訳ねーだろ」
「うん、聞いた僕がバカだった。カスミちゃんがいつも用意している訳ないよね」
「持ってきてないのは新座もなんだからお前もバカだろ!?」
「僕はいつもなら持っているだけカスミちゃんよりは程度が上だよ」

 んだと、と霞さんが『いつものように』声を荒げる。新座さんはそんなこと『いつものように』無視し、体を斜めにして頭から布団にぼふんと突っ込んだ。
 薄っぺらい布団は全然気持ち良くなさそうだ。それでも一仕事終えた後の休憩は心地良さそうだった。

 ――今日はいつものように圭吾さんの車に乗って、新座さんと霞さんと共に『仕事』を行なった。三人での任務は初めてじゃない、けど久々だった。
 『仕事』の内容は、山奥の町で異端が巣を作っているから何とかしろというものだ。
 依頼の段階で『巣を作っている』というだけだったから、まだ人間に直接的被害は無かった。それでもいつ人を襲うか判らなかった。
 僕達が突入したとき、恐ろしい術式が人里離れた洞窟に展開していた。町一つが消えてしまうかもしれない恐ろしい術式だったが、何も起こらないうちに僕達は異端を退治した。事が始まる前に全ては終わってくれた。

「寒いですね。傷が痛みます」
「雨が強いからね。……むぐ? ときわくん、そんな薄着で平気?」
「自分のヘルスケアぐらい出来ます」

 自分の左側を見て、言う。
 そういやこの三人での会話って、滅多に無いもんだ。仕事中は真面目な話しかしなかったけど、何気ない雑談に入った今、改めてそう思ってしまった。
 新座さんと霞さんのコンビは珍しくない。『本部』から見せてもらえる資料が、二人一緒行動の多さを教えてくれていた。
 二人は同い年で、昔から一緒に居るから何かと『本部』は二人を一緒に扱いたがる節があるらしい。きっと「仲良しだから成果を上げるんだ」と思われている。
 実際の二人は、口を開くたびに殴り合いの喧嘩を始めるんじゃないかってぐらい、仲が悪いというのに(でもそれは本当に憎み合っているのではなく、幼い頃から知っている者同士、遠慮無く物事が言い合える仲だからだった)。
 そんな二人の関係を知っている。殴り合いの喧嘩をしそうでも、実際殴り合うことは無い。
 時々小突き合うことはあっても、本気で殺し合うことなんてある訳が無い。……そう判っていても、神経質な僕は二人の行動がいちいち癇に障り、一つ一つ注意してしまっていた。
 そのたびに、

「感情に走りやすい僕達を止めてくれるのはありがたいけど、ときわくん、大変じゃない?」

 とか、

「頭に血が昇りやすい俺達を止めようとするのは偉いが、ときわ、いいかげん慣れろよ」

 とか、二人揃って僕の方を心配した。新座さんだけでなく、霞さんまでも同じようなことを言って僕を心配するぐらいだった。
 貴方達のやっていることを気遣ってやっただけなのに、どうして僕が気遣われる側になっているんだ。釈然としない。

 今日一日、彼らのどうしようもない喧嘩(「自分より肉を一個多く食べた」とか「肘がぶつかった」とか「カッコつけてるのがキモイ」とか、本当に下らない内容)を見ていると、なんだか自分の心が広くなっていくのを感じる。それは己の成長と言うより、見限りや諦めに近いものだった。
 早く山を下りて、圭吾さんに文句を言われてしゅんとしている二人が見たかった。
 というか、圭吾さんに早く会いたい。あまりの疲労に一刻も早く癒されたかっただけかもしれない。

「報告書作りは……仏田寺に戻ってから作りますか。ふう、今日は疲れました。何もしないで休むのも悪くないですね」
「うんうん、無理しないのが一番だよ。ときわくん、一番弱いんだからね」
「なんとデリカシーの無い人でしょう」
「まっ、間違えた。『一番弱ってるんだからね』! むぐっ、そう言いたかったんだよ」

 ともあれ、今日の『仕事』は順調に終わった。異端の被害が町へ広がる前に僕らが食いとめることが出来たんだ。
 任務を無事遂行できたけど、時間は予想以上に経ってしまっているのが気に食わない。もう少し早く終われたんじゃないかと、プライドの高い僕は高望みをしてしまった。

「もう午前一時なんですね」

 腕時計を見て日付が変わったことを確認する。
 どうにかして任務を完遂したとき、もう夜の二十三時だった。人里離れた山の中、圭吾さんの車のある山の下まで夜道を歩いていくのには恐ろしい時間だ。
 幽霊退治をしている僕らにとって夜はそう恐ろしいものではない。でも、体力の減った状態だ。僕らは大事を見て一晩、山の中で過ごすことにした。
 霞さんは「さっさと帰ろうぜ」と急かしたが、新座さんの説得により『雨まで降ってきたのでここで休むこと』に決定した。悪くない判断だと思う。
 そんな訳で山の中の無料宿泊施設を借り、一晩を明かそうとしている。ロクに汗を流すことも出来ないまま、とりあえず固い布団を敷いて身を横たわる。
 問題は無い。この周辺の危険を追い払った後だから、安心して眠ることができる。
 その予定だった。

「そういえば。覚えてますか、村の人が言っていた『わらべ歌』」
「あん?」

 柄悪く霞さんが返事をする。新座さんは返事の声を上げなかったが、耳をこちらに傾けてくれていた。

「この地域には『人攫いを唄うわらべ歌』なんてものがあると聞いたでしょう? あんなものがあるぐらいなんですから……昔から異端に好かれる場所だったんですかね?」
「むぐー、そういう歴史は土地ごとにあるもんだからねー。いくら学んでもどこだって出てくるもんだから把握するのは難しいなぁ」
「新座さん、民俗学はお得意ですか?」
「いいやちっとも。僕、この辺に来たのは初めてだし、知らなーい。ていうかこの辺りぜんっぜん興味無いもーん」
「……。今回の『仕事』は何事も無く無事終わりましたが、昔からそういった事例が多いということは今後もこのような異端が生じるのではないでしょうか。対策を『本部』に相談すべきだと思うんですが」
「そういうまとめも明日、お家に帰ってから言えばいいんじゃないかな。今はさ、何も考えず休もうよ」

 僕の提案を、新座さんはあくびでスルーした。
 蔑ろにされたが、別に嫌な気分にはならない。新座さんが疲れているのも知っていたし、僕も口にしていて億劫に思うぐらい疲労は感じていた。
 正直な話、単におしゃべりな僕は非常食の簡易麺を啜り終えた後も何か口を開けていたかった。誰かと話がしたかっただけだった。
 話題作りのためにどうしても今日あったことを話しただけだ。それが別にこの事件に関係無くても構わなかった。口を動かしていないと気が済まない性格だから話している。早く休みたがっている二人には、申し訳無かった。
 ああ、新座さんは布団に横たわってウトウトしているじゃないか。霞さんは電波が通じにくいというのに携帯電話をカチカチしている。それなのに話し掛けて申し訳無い。
 二人は年下の僕を気遣う心はあるらしく、話に相槌を打ってくれていた。意外に礼儀のある人達に感謝しながら、僕は甘えた。

「昔、子供達が攫われたっていうのもきっと異端のせいだったんでしょうね」

 あんまり物事を考えず、僕は口走る。すると携帯電話を手にした霞さんが反論してきた。

「その考えは違うんじゃね。ごく普通の人間様が子供を攫ったっていう可能性も、充分に有り得るだろ」
「……もちろん、その考えも捨てきれませんが」

 ――昼間、わらべ歌になって残っているぐらい『この地域では人攫いが昔から横行していた』ことを知った。
 わらべ歌は、簡単に内容を要約すると『雨が降ると人攫いがやってくるよ』というものだった。
 単純な内容だが、その歌詞の奥底に眠っているものは『雨が降る山奥で、遅くまで遊んでいるんじゃありません』という子供達への教訓話だ。暗くなっても遊びたがる子供を怖がらせて帰らせるために作られた歌に違いない。
 本当に過去、人攫い事件はあったのかもしれない。案外頻繁に起こった事件なのかもしれない。でも童謡の発祥なんて大抵そんなもんだ。大人達が経験したちょっとした悲劇から、大々的に子供を守るための手段……それがいつの間にか歌なんていう物に変わってしまっただけ。
 民俗学に深い訳じゃないけど、こういった『仕事』を受けていると自然と詳しくなっていった。似たような事件は、過去に何度も受け持ったことがあった。
 ――うーん、一度ちゃんと勉強しておくべきかもしれないな。僕も図書館でも行って茶会のネタにしようかな。ブリッドさんならこういうおとぎ話の類、好きそうだし。
 そう考えていると、宿泊所の入り口がいきなりドンドンと何者かによって叩かれた。
 バッと霞さんが構える。新座さんも魔法の剣を召喚する手つきをした。

「…………霊か」

 殆ど声にもならない小さな音で、霞さんが呟いた。それを聞いて新座さんがコクリと頷く。
 『誰かが入口をノックする』という『実体のある動き』だったが、二人はそれがこの世ならざる者によると察した。
 理由は簡単だ。『霞さんほど神経の鋭い能力者が、物音に一切気付けなかった。つまり物音を一切生じさせない存在だということ』。

 自分達の能力を過信するつもりは無い。でも新座さんは霞さんの能力をずっと隣で見てきた。彼がどれだけの力を持っているか、自分のことのように知っていた。同じように新座さんの判断の良さは、霞さんも知っている。新座さんの頷きで『相手が異端』だと確信した霞さんは、『それ用』の対応を取り出した。
 霞さんは後ろに立ったまま、動かない。前に出て特攻する素振りは無い。イザとなったら前に出るけど、霊に対する攻撃がまず出来ない肉体派の霞さんは自分の出番が無いことを知っているようだった。待機の状態で僕と新座さんを動かそうとしている。
 それに応じて、僕は対悪霊用の霊銃を召喚した。音を立てないように態勢を整える。
 新座さんが一撃で仕留めるよう動………………いたところで、無防備に飛び出した。

「はぁっ!?」
「ああん!?」

 僕が驚き、霞さんは理解出来ないという怒声を上げた。
 だって新座さんは、『あんなにも僕達が慎重に動いていたのに』ばっとドアを開けてしまったんだ。数秒前の警戒は何だったのか。ごく普通にドアを開けて迎え入れるかのように動いている。
 ――そんなんで攻撃されるのは、ドアを開けた新座さん自身だというのに!
 でも新座さんは何事も無かった。ドアを開けたらいきなり血塗れになるとか、そういう展開は無い。
 代わりに、ドアの前に男性がうつ伏せで倒れている。
 新座さんがそれを揺する。……そんな展開が待っていた。



 ――2005年6月24日

 【     / Second /     /     /     】




 /2

 雨の中、新座さんは山道をざかざか進んで行く。自分の顔も気にしないで進んで行く。霞さんは新座さんの歩調に合わせて歩き、僕は大人の二人に置いていかれないよう、必死に足を動かした。
 雨はいつの間にかざーざー降りから緩いものへと変わっていた。それが唯一の救いだった。そうでなかったら『仕事を請ける』なんてことを了承しない。僕が認めなくても新座さんは勝手に出て行ったかもしれないが、それでも。
 緩い降り方でも雨は雨。山の寒い気温の中、このままで居たら風邪を引いてしまうし、大事になってしまうかもしれない。
 それでも新座さんは歩みを止めない。

「新座さんっ。貴方、体力無いんだから無理しないでくださいよ!」

 僕は後ろから檄を飛ばす。

「そんなん言ってる場合じゃないんだよっ!」

 その言葉に、「なんて正義感のある人」だと思う。僕もどっちかっていったら熱血漢寄りの性格だが、新座さんほどお人好しではなかった。

 ――もう数百年前に死んだ幽霊さんに『助けて』と言われても、それなりの代価が無かったら無視してしまう。僕はそんな奴だ。
 「冷たい」や「情が無い」と言われても、圧倒的不利な条件は呑むことなんて出来ない。慎重な性格なんだ。
 一方、新座さんは何でも明るく返事をする性格だった。
 悪く言えば「先を一切考えない」。でも良く言えば「誰にでも優しく、困った人を放っておけない」素晴らしい考えの持ち主だった。
 たとえ救助を求める相手が、数百年前の男でも。

「どんな場合でも、無理をして失敗したらどうするんですか……」

 ――宿泊所を訪れたのは、もう百年、二百年前に事切れた男性だった。

 かの昔、男性は『人攫いの異端』に子供を攫われたという。必死に抵抗したが殺されてしまった不運な男性だった。
 あの男性は「山を越えて助けを呼ぶ」なんて考えもつかなかった時代に生きていた。
 わらべ歌にあったように、昔からこの地域では良くない物が蔓延していたらしい。そのためか弱い存在は度々犠牲になっていたという。
 どうしようもない暴力に悩まされ、虐げられる日々。集落では子供を攫われ続け、何もすることが出来ず、唯一できたといったら「自分の子供だけを守ろうと必死に戦った」ことぐらい。
 ……それすらも敵わず、彼は殺されてしまった。
 あまりの無念さ、悔恨が残り、彼は四十九日が経っても天に登ることが出来ずにいた。それから数百年が経っても彼は成仏することが出来なかった。

 数百年後のこの山は、人が住むような所では無くなり、霊体である彼の声を聞く者は訪れなかった。
 誰も居ない夜の山で数百年彷徨っていた彼は、『人攫いが出る』と伝説が残る雨の日、能力者である僕達の前に現れた。
 なんて奇跡の確率。
 その彼は、全てを話し切った後に僕の刻印に収納された。……単なる村人であっても魂は魂。僕達のご飯になってくれる存在だった。

「あのですね新座さん、僕……さっきの男性の話は途切れ途切れにしか聞こえなかったんですが……新座さんはちゃんと把握できたんですか?」
「うん。『子供を助けてほしい』んだってさ」
「へえ。……その子供はどこにいて、誰から、どうやって助けるんです?」

 無我夢中で道なき道を走る新座さんに、投げやりな質問をぶつけた。
 だというのに新座さんは、

「ある館に住む気の狂った領主から子供達の魂を解放することによって助けることが出来るよ」

 簡潔に返答をする。

「…………その心は?」

 僕が電波の悪いラジオの会話を耳にしていたのというのに、新座さんは全く別のものを聞いていたようだった。
 同じ断末魔を聞いていたのに、どうしてこうも理解度が違うのか。
 霞さんに至っては何にも聞いていないような顔をしている。聞こえなかった霞さんと辛うじて聞こえた僕。一方、全て聞いていた新座さん……。
 厳しい声を出してしまう。

「新座さん、より詳しい話をしていただけませんか、出来るだけ詳しく」

 雨の山の足を少しだけ遅くして、息を落ちつけながら、新座さんは口を開いた。

「昔ね、この辺りにあった村にはとっても偉い人が居たんだ」
「……ふむ」
「どうやって偉くなったかは判らないけど、村に居る人が全員従うような血脈があったみたい。いわゆる、領主様ってやつだ。領主様に逆らうことが出来なかった善良な民は、子供を欲しがっていた領主様に言われるがまま、子供を捧げていた。捧げたっていうか奪われていたんだね。村人はそれを当然のサイクルとして扱っていたんだけど、多くの人が不満に思っていたみたいだ。誰だって子供を奪われたくないと怯えていた。だって自分の子を怪しげな儀式の材料にされたくないもんね。でもどうすることも出来ず、搾取され続けていた。そういう歴史がここにはあったんだよ」
「…………」

 先程まで「歴史なんて興味が無い、この辺りのことなんて全然知らない」と言っていた人の台詞とは思えない。
 僕も麓の町ではなく『この山に集落があること』ぐらいなら知っていた。人攫いが彷徨っていたのも今日知った。
 ……でも、そこに偉い人が居て、その人によって『怪しげな儀式』が行なわれていたって……どのタイミングで知ったんだ?

「新座さん、それって」
「さっきの彼に教わったから知ってるだけだよ」
「そんな大量な情報を、彼が話してくれたんですか」
「いや、口にしてはいないけど。彼に触れたときにちょっと『視させて』もらったんだ。ほんのちょっとでもこの集落の記憶が視えたよ。……殆ど視えちゃったようなもんだけどね。別に『教えて』って言った訳じゃないんだ。きっと子供を助けるためにって教えてくれたんだよ。あは、これって『助けて』じゃなくて『助けろ』っていう命令だよね」
「……オウ、それが悟司さんの言っていたエクセレントなパワーですか」

 何それという顔を新座さんはした。
 ――以前、悟司さんが僕に教えてくれた新座さんの話を、僕なりの一言で片付けただけである。

 新座さんが受け持った『仕事』は、最長で三日、最短で五分で終わるというのがちょっとした逸話になっていた。
 大抵の人は、@事件を開始したら、A手掛かりを見付け、B情報を収集し、Cボスを探し、D退治しに行く。
 だけど新座さんは全ての情報を一緒くたにすることが出来る。@事件開始と同時に、D退治という……感応力のファンタジックな使い方ができると聞いていた。
 その話は悟司さんから聞いただけ、書面を目で追っただけだったが、実際そのグレートパワーを見てしまうと……呆気無くて、あっさり味過ぎて、逆に驚いてしまう。
 『霊に接触した』、その一瞬でこの辺りの歴史、事情、記憶を入手して、諸悪の根源まで突きとめてしまうんだから……実に呆気無さ過ぎて、困ってしまう。
 もしこれがゲームや映画だったら、過程が無いから一切楽しめない。オープニングが終わったらあっさりとクライマックスフェイズに入ってしまうんだから。

 神様が管理している裏側を簡単に覗いてしまうという、凄まじい力。
 これが――皆が畏れる『全知全能』に近い力だ。

「そんな便利な力があるなら、昼間のうちから使ってくださいよ」
「むぐっ。ときわくん、それを言わないでくれよ。どんなに便利でも、僕はこの力をコントロールできないんだよ。調べたいと思ったって知ることが出来ないんだ。……さっきの男性は『僕に知ってほしい』と凄い勢いで迫ってきた。その意志のおかげで『彼の好意』を受け取ることが出来た。もし彼が記憶を隠そうとしてたり何も知らず漂っているだけなら、僕は何も知ることはできないんだよ。自分で知恵を引き出すことは出来ないんだからね」

 あくまで今、オープニングからクライマックスの直行ルートが開けたのは偶然。……それを新座さんは何度も強調した。

「第一さぁ、僕が本当に『全知全能』を備えていたなら、僕らはこんな躍起になって『お仕事』してないと思うよ。『何でも知ってる神様を創ろう』というのが僕らのお家のテーマだろ?」
「オォゥ、でしたね。今のところ『完成品』は誰一人いなかった」
「でしょー?」
「…………新座さん、分家の慧さんの『あれ』を知ってますか」
「『あれ』?」
「僕は慧さんに直接会ってお話したことないのであくまで噂ですが。……慧さんも、『未完成』ながら『全知全能』に近い力の持ち主だと聞いています。なんでも知ることができる、新座さんと同類だと」
「……ああ、彼のあれね? 案外有名な話じゃないかな」
「そうなんですか? 全然知りませんでした」
「そんな大っぴらにするような話じゃないけどさ。……むぐ」

 新座さんが涙を飲みながら、ちょっぴり苦いような顔をする。
 口を開いているから雨水を飲み込んだだけかもしれない。すぐに新座さんは息を整え直し始める。

「そもそも慧くんにその素質があるって発覚したのは、十年ぐらい前の話だよ。そう最新の噂話じゃない。僕と同じように『知る』ことに特化した力だったけど、一族が求めていた力には遠かったから放置されたんだ。だからそんなに有名になってない……んじゃないかな。彼は僕と違って少しはコントロールできるんだ。成功率は低いらしいけど」

 新座さんは感応力は途轍もない精度で『なんでも知る』ことができるが、コントロールできない。
 慧さんの感応力はコントロールできるが、『なんでも知る』ほどではない。……新座さんの口から「僕と慧くんは似てるけど、違うんだよ」と説明される。
 どっちにしろ凄い力で、我ら一族が血眼になって魂集めをしている集大成とも言えるものだった。

「そうだったんですか。最近知りました。……資料で読んだだけなんですが」
「他にも……柳翠おじさんも凄い感応力の遣い手っていうのは知ってるかな。あの人の精度は僕以上に当たるけど、僕以上にコントロールができない」

 ……柳翠様の話は知っている。確かに、あの方の感応力は凄まじいと言われているが、それを扱える彼が暴走気味で使えるとは言い切ることができない。

「僕のお母さんのお家である鶴瀬くんも似たような血だって言ってたし、他にも知識を溜めた獣を創ったとかいう話を聞いたけど。……むぐ。そんなこんなでお話をしてたら着いちゃったよ」
「ワッツ?」

 雨の中、新座さんはある場所に辿り着いた。
 新座さんの言う『子供達が攫われ続けた魔の屋敷』の……跡地に。
 そこは森の中。今となっては何の建物も無い木々の中。ただ怪しく洞窟があった。……って、僕達が一度訪れた洞窟じゃないか!
 最新の異端が巣を作って術式を完成させようとしていたあの場所に、僕達は戻っていた。
 僕達が今日、異端を退治したときはこんな洞窟じゃなかった。
 土が剥き出し洞穴の奥に変な化け物達が巣を作っていて、今にも何かしようとしていたけど、結局何もしないで終わったんだった。
 ――ところが数時間後の今、景色は変わっていた。
 人が住んでいるかのように、洞穴は人の手によって木材で整備されている。現代の建築とは程遠い、拙い造りだったが、大昔の村々よりはずっと立派だった。『昔でも最新の』技術が使われているのが伝わってきた。

「新座、説明しろよ」

 霞さんは黙って僕達の会話を聞いていた。
 それは興味が無いというより、参加できるものではなかったから一歩引いていたようだった。謎のダンジョンに足を踏み入れ、やっと自分が当事者になって、霞さんは会話に参加してくる。包帯に巻かれた体を動かしながら調子を取り戻そうとしていた。

「むぐ、今から憶測で物を言うから全部信じないでね。……今日まで何も発動しなかったとはいえ、魔法をここで使おうとしていた。かつてここは魔法が使われていた場所だった。だから……」
「だから、なんだよ? 魔法が使われたところで魔法が使われると再発するって法則があるのか?」
「基本的には無いんだけどね。応用的にはあるよ」
「あんのかよ」
「ほら、今って雨じゃん? なんか大昔に雨の日に儀式が行われてたっぽいよ、何か関係してるんじゃない? ……雨の日、強い力が発動していた。ここで子供が犠牲になっていた。つまりここはいっぱい幽霊さんに好かれている。新しい力を使ったらここに縛りつけられていた霊が反応して、立ち上がって……」
「偶発的に悪夢の館を再来しちまったと」

 数時間前に一度目に来たときには無かったものが、霊的な力によって再現されていた。
 ……洞窟に入る。中では、武器や拷問用の器具が立て掛けられている。
 でもそれは幻だ。大昔の世界を再現しているに違いない。
 触ろうとすれば触れるが、霊感がからっきし無い人だったら何かあるようには見えない幻想だ。

「成仏できずにここに居た幽霊も、まさか数百年ぶりに子供狩りを再現できるとは思ってなかっただろうね。むぐ……奇跡的な確率を楽しんでいたら悪いけど、そういう子達は我が家に来てもらおうか」
「ですね。数百年、熟した魂ならさぞ大きなものでしょう。新座さんの視た『怪しげな儀式』の程度は知りませんが、ここの領主は魔術師の血を引いていたとしたら、相当おいしい魂です」
「……ときわ、涎垂らすんじゃねーぞ」

 失敬な。誰がそんな下品なことをするもんか。
 おいしいと表現したのはあくまで比喩だというのに、変なところで霞さんは冗談が通じなかった。

 ――奥に進む。洞窟はなかなか長く幻を見せてくれた。
 自然の洞穴によくぞ造った寝室。居間。牢屋。牢屋。牢屋。その他諸々。
 数人がここに住み、多くの人間を閉じ込めたような歴史が、大量の霊達によって再現されていた。

「なんと悪趣味ですね」
「うちとそんなに変わってねーじゃねーか」

 霞さんはまた失敬かつ下品なことを言った。
 我が家はこんな物騒じゃありませんと反論しようと考えていると、新座さんが足を止める。どうやら最奥に辿り着いたらしい。
 幻の入り口を開けると、そこは一番装飾の煌びやかな部屋だった。
 新座さんは自分で首を締めながら、必死に軽口を吐こうとしている。

「むぐ……おかしな世界を再現するね。早く帰ってケーキを食べたいし……暑いしアイスでも食べさせてやりたいよ」
「良いセンスですね、新座さん。甘い物でもいいですが、僕もするっと冷たい物が食べたいところです」

 他の穴(部屋)にあった物と比べると豪華な机。様々なお札が貼り付けられている壁。ゆらり揺れる霊体。
 良い着物を身に纏った男が一人、その男の手助けをしているような下位の男達が数人。
 ちなみに台の上には、小さな女の子が貼り付けられていた。
 言うまでもなく、全員故人だ。もうこの世には居ない、数百年前の惨劇を再現しているだけに過ぎない幽霊達だった。
 床に視線を落とすと、赤い染料……おそらくは血で描かれた魔方陣が見える。
 魔方陣は、間違いだらけだった。

「異形召喚の魔方陣? その子は、そのための生贄ってこと? …………そんなもののために、子供を犠牲にしていたなんて」

 新座さんが忌々しげな声で呟く。
 その手にはいつの間にか、剣がウズマキから召喚されている。
 山小屋で咄嗟に召喚した剣よりもずっと大きく、殺傷力が高そうな……怒りの力が込められていそうな武器だった。

「なんでそんなものを召喚しようと思ったの?」

 新座さんが、中央に立つ男に鋭い声を放つ。
 幽霊が、新座さんに話し掛けられて……揺れた。何かを言い返したみたいだ。でも何を言ったか僕(と霞さん)には判らなかった。
 その声を、新座さんは悪意として受け取ったようだった。

「冗談じゃない。君にくれてやるほど僕の体は安くない。子供を攫って、自分の欲望のために黒魔術の生贄にして……悪魔なんてわざわざ呼び出すまでもない。自分を省みてみなよ? 君の中にいるよ、それは」
「おい新座。一人でブツブツ言って完結させんじゃねえ。救いようのない連中ってことは判ったな? ……じゃ、殺んぞ」
「殺っていいよ。こんな連中、うちにいらないよ」

 聞き捨てならないことを聞いてしまった。
 新座さんは、折角の大物を回収する気が無くなってしまったらしい。剣は更に禍々しく成長し、霊達を祓っていった。
 霞さんはもう何が何だか事情なんて判んないようだったが、『新座さんの判断に間違いはない』というスタンスは貫き続けた結果、彼の言う通りに力を振るっていた。

 数時間前、現行の異能力に触発され復活した悪霊達。
 奇跡の確率で行われた悪夢の復活は、偶然山に居残っていた能力者によって、たった数時間で殲滅された。

 ――あっという間に話が終わってしまったが、これでも苦労しなかった訳ではない。
 元から、僕達は疲れていた。正式な『仕事』で負傷していたんだ。その状態で雨の中、駆け回り、ヘタクソでも魔術師の幽霊(数百年も熟した、相当な悪霊)と戦った。
 敢えて僕は思い出さず語らなかっただけで、実は夜の二十三時段階で既に三箇所、骨折していた。
 骨折箇所は左腕と、左手の中指、薬指だ。霞さんの適切な治療があったし、新座さんの治療魔術によって痛みは緩和していた。その状態でもう一戦したんだから、大変だった。
 ああ、大変なことになってしまった。霊達の総攻撃を回避するために身を翻し、バランスを崩してちょっと高い所から落下、頭から血を流す羽目になってしまった。
 そんな負傷は僕だけではない。
 霞さんは前に出て僕達を守る役割だ。僕よりずっと酷い怪我を追っている状態で戦っていた。包帯の長さで言ったら僕よりもずっとある。
 そして新座さんは……さっき僕が言った通り、「体力が無い」人なんだ。何より彼の能力は、コントロールが出来ないだけじゃなく、彼の精神を蝕むものだった。
 ……雨の中、走り続けたから目立たなかっただけで。
 ……洞窟の中が暗かったから目立たなかっただけで。
 彼は走っている間も、過去を話している間も、悪霊と対峙している間も、苦しげに涙を流していた。
 僕と霞さんのような肉体的な疲労ではなく、新座さんは精神を消耗させていた。全部悪霊を退治した頃には、彼は顔を真っ青になっていた。
 悪霊達に吐いた強気な台詞は相手を威嚇するためではなく、自分に檄を入れるために言っていたようなもんだった。
 敵が居なくなると新座さんの震えは激しいものになっていく。霞さんが支えてあげなきゃ立っていられないぐらいだった。

 本当なら僕も支えてもらいたかった。
 でも新座さんは戦いが終わった後、正義の使命感や張り詰めていたものが全部無くなると……見てられたもんじゃないものへ、変貌していった。
 具体的に言うなら、癇癪を起こした。
 大人とは思えぬ大声で泣き始め、体を掻き毟っていた。
 すると霞さんの反応が変わった。
 僕の知ってる下らない喧嘩ばかりしていた霞さんは何処に行ったやら。口では「泣くなバカ」と言いながらも体を支え、薬を飲ませるよう自然に仕向けていく。
 ……ああ、なるほど、だから二人はセットにされやすいのか。本人達が認めなくても、緊急時がこんな簡単に解決されるならセットにするもんな……自分で止血をしながらそう思った。

 新座さんは悟司さんが言ってた通り、凄い力の持ち主だ。
 でも、その力を行使するたびにあんな泣き喚いていたら……全知ではあっても全能ではない。彼は三十歳近い大人だというのに、あんな風じゃ……決して『完成形』と言えなかった。
 似たようなものだという慧さんも精神的なデメリットを持っているんだろうか。資料には何も書いてなかったが、きっとそうなんだ。

「……ああ、女の子……」

 くらくらした頭を叱咤しながら、儀式の台に近寄った。
 十歳にも満たない小さな女の子が、台の上で釘によって貼り付けられている。ご丁寧に骨の上を太い釘で、どっかの磔の救世主のようにされていた。それでも恐怖に歪んだ顔を揺らしていた。つまり生きていた。いや、現代では死んでいるんだけど、儀式の真っ最中には生きていたんだ。
 生きながらにして儀式の材料にされた子供。何人も被害に遭っていたんだから、この台はこの女の子のように何人も何人も血を吸ってきたんだ。
 ……数百年ぶりの魔法によってこの血は目覚めてしまった。目覚めることなく永遠に眠り続ければ良かったのに。
 いいや、蘇って良かったのか。
 僕は女の子を刺す釘を抜いた。

「お父さんの元にお帰り」

 貼り付けられ逃げられなかった女の子が台から離れる。
 怖かった、辛かった、痛かったと泣き始める。助けてくれた僕の元に駆け寄って来る。……同時に、腕の中に収容される。

 そうして二人は再会した。
 僕の腕には、先に吸収された男がいたんだから。

 続いて僕は、血濡れの台に手を押し付けた。途端に多くの子供達の叫びが僕の中に入ってきた。台にこびり付いていた魂が「救済されたい」と中に入ってくる。
 あまりの悲痛な声。悲鳴。でも「助かった」という安堵の声が聞こえる。「ありがとう」の言葉があったから、狂わずに救済し続けた。
 でもそれが限界。
 霞さんには悪いけど、僕は意識を失った。

 ……目が覚ましたとき、お寺の自室に居た。
 左側を見れば、腕も指も繋がっていた。鋭い痛みが襲ってきたが、ちゃんとした治療が受けた形跡を見て安心した。
 どうやって霞さんは僕と新座さんを抱えて山を下りたんだ。
 後々、僧の一人に聞いた話だと……霞さんが一人で背負って圭吾さんの車まで山を下りたらしい。
 雨の中、霞さん自身も包帯を巻きながら、車が待機している麓まで僕らを運んだって……僕は小柄だから小脇に担ぐぐらい出来そうだが、新座さんまで連れて山を下りるなんて。大した人だ。好感度を上げずにはいられない。
 あの二人は凄い人だ。尊敬、してしまうかも。
 まさか一日で寺まで戻ってくるとは思わなかった。体の節々が痛みを訴えているが、構わなかった。
 これで茶会に出られる。……ついそんなことを考えてしまうぐらいには、僕の心は晴れやかになっていた。



 ――2005年6月24日

 【     /      / Third /      /     】




 /3

「ときわ、平気か」
「……イェス、僕は至ってクールです。圭吾さんが心配そうに覗き込んでくれるイベントに歓喜できるほどノープロブレムですよ」

 僕の部屋に上がり込んでいるのは問題にしないとして、圭吾さんにこれまでの経過を尋ねた。寺に戻ってからのことは圭吾さんが全てやってくれたという。
 圭吾さんが後処理をしてくれたなら問題無くこの『仕事』は終わりだ。安心して布団に身を委ねられる。

「もしかして、『こうして彼が目覚めたのは事件から三日後のことだった……』という展開じゃありませんかね、僕」

 ぱっと映画でありがちな展開が頭に浮かんで、カレンダーを探してしまう。

「いいや、ときわが意識を失ってから二十四時間も経ってない……筈だよ」
「そうですか。外の明るさからして夕方ですかね。朝かもしれないと思ってたんですが」
「三日も寝てられないんじゃないかな、お腹が空いてきっと起きちゃうぞ」

 子供みたいなことを言って圭吾さんは笑う。
 腕は痛かったけど、その笑顔を見たら痛みを感じなかった。最高の麻酔に僕も笑った。
 『仕事』をしている時点で会いたかった僕には、事件が終わって目覚めたら圭吾さんに会えたというのは嬉しいショートカットだった。

「なるほど。『お仕事』終了から二十四時間経ってないから、圭吾さんがここに居てくれるんですね」
「うん? なんでそうなる?」
「圭吾さんはお忙しい人ですから。翌日だったら次の『仕事』が入ってることでしょう。それに、僕を看病する人なら沢山います。貴方が僕を見守っている必要は無い」

 それぐらい判りますよ、と笑ってやった。
 途端、圭吾さんの表情が曇る。
 おや。嫌味を言ったつもりはあったが、傷付ける予定は無かった。少し言葉節を強くし過ぎてしまったか。これはミスかもしれない。

「……これから、俺は『仕事』をしろと命じられている」

 真剣な表情で、圭吾さんは布団の上で仰向けに横たわる僕の顔を覗き込んできた。

「そうですか。やっぱり。では頑張ってください」
「ああ、頑張らせてもらうよ。……ときわ、俺が嫌なら言えよ」

 何をですか。僕が尋ねようとした口に、圭吾さんは唇を重ねた。
 …………あまりに唐突のことで意識を失いかける。
 でも眠ることなんてしてられない。何が何だか分からないうちに、僕は口の中に放り込まれた薬を飲みほしていた。
 ありがちな話だが、数分後には体が熱くなって皮膚を露出させたくなった。
 息が荒くなる。苦しんでいるところを圭吾さんの広い掌が撫でてくれた。気持ち良くなる。首元を触られるのが特に気持ち良かった。
 他にも身に着けている甚平の下に手を差し込んで胸を撫でられる。下半身を露出されて何か液体をかけられたときは、すーすーして心地良かった。

「……僕、怪我してるんですよ……?」

 圭吾さんが僕の中に侵入しようとした直前に、やっとの想いで言葉を繰り出す。

「ああ。知ってる。怪我をするのは商売柄とも言えるな」
「ですね。でも……これ以上は怪我に障るというか…」

 辛うじて動く右腕で弱々しく結合しようとしている部分を抑え、隠そうとする。
 でも圭吾さんはいとも簡単に僕の手を振り払った。乱暴ではなかった。僕があまりに力が無かったから、圭吾さんのポイッで腕は飛ばされてしまった。
 体を捻って抵抗するが、元々圭吾さんは体格が良いから勝てるものではない。僕より二十センチは身長が高い大人なんだから、健常時でも逃げることは出来なかった。

「なら『魔力供給』をやめるか。それもいいが、そっちが苦しいんじゃないか」
「……もっと気遣ってほしいって意味です」

 ――圭吾さんは最初、真面目な顔で『仕事』と言いながら僕に口付けてくれた。
 つまり……圭吾さんは誰か『本部』の人に、「傷つきまくった僕を癒せ」と命令されたんだろう。僕は『こういうこと』はあんまりしたくないと常々公言していた。それでも誰かが圭吾さんを送りこんできたんだ。
 確かに、今の僕には体力も魔力も無い。
 骨折という判りやすい負傷もあったし、二連続の大戦闘に心も疲れていた。刻印に収容した恐ろしい量の魂のせいで精神も擦り切れている。
 そんな中、体液を交換し合うことで生命力を回復させる『供給』行為は、とても有意義になるに違いない。
 違いない、けど。

「なら、さっさと終わらせよう」
「さっさと、ですか」
「ときわを辛い目に遭わせたくない」
「……。くそ、優しい台詞のつもりですか……くそっ」

 体液を交換し、最も興奮しているときに『スイッチ』を入れることで、無我の境地の先に在るエネルギーを引き出す。それが『供給』だ。
 凄く抽象的な説明だけど、要は性的絶頂時に特定の呪文やらを心の中で唱えておくと魔力が回復しやすいってだけ。体液を交換する性的絶頂と言ったら、性行為をするってこと。
 しなくても体力は回復する。でもすれば、いち早く回復が見込める。
 『上層部』から言いつけられた『仕事』とはいえ、僕のことを想ってやっているんだと言う圭吾さんは、卑怯だった。
 彼と性行為なんてしたくないと言うって判っているだろうに、そうしなきゃいけないように持っていっているようで、卑怯だった。

「でも、ときわ。本当に嫌なら言ってくれ。やめるから」
「くそっ、ここまでしておいてやめろと言わせる貴方は本当に卑怯だ、くそっ!」

 口汚く罵りながら、自分の中に圭吾さんを導き入れた。

「ん……っ、く、はぁ……!」

 初めて他人を奥に入れた感覚は、妙なものだった。すっぽりあっさりと飲み込むことなんて出来ない。
 でも圭吾さんに飲ませてもらった媚薬が良かったのか(おそらく我が家の処刑人お手製だ。芽衣さんあたりが作ったんじゃなかろうか)妙な感覚は、嫌なものにはならなかった。

「苦しいか?」
「け、圭吾さん、は……苦しくない……ですか!」
「ときわを傷付けてるんだ、苦しくない訳ないだろ」
「……っ」
「ときわ、動けるか」
「……ヤ、です……」
「それじゃ俺が動くぞ」
「それも、ヤ、ですっ……! だって、僕、痛いしっ……」
「このままじゃ痛いだけで終わる。気持ち良くならなきゃ回復にならないぞ。だから動くしかないんだ。ときわ、動けるか?」
「う、ぅ……卑怯だ……卑怯だ」

 圭吾さんが僕を気遣っているのは判っていた。
 だから少しでも圭吾さんがしようとしていることの邪魔にならないように、腰を少し浮かせる。
 なるべく僕を傷付けないように、圭吾さんは動いてくれた。
 圭吾さんのモノが中を擦る感触に、体を反らす。汗をかいてしまって前髪が張り付いた。気持ち良くなるまでベタベタの方が感じてしまい、不快だった。
 目を閉じて、少しでも良くなろうと言い聞かせる。
 ハァハァと熱い呼吸をするのも、圭吾さんの行ないに則るためだった。

「ときわ、それだけで寝るなよ」
「僕……怪我でそんなに急に動けないんですよ……気遣ってやってください……」
「そうか。……まるで初めてみたいだな」
「……初めても、何も……僕は、初めてですよ……」
「……えっ?」

 圧し掛かっている圭吾さんの体がピタリと止まる。逆に痛かった。

「…………は、初体験、なのか?」
「……ええ……バージンですよ。知ってますか、英語では童貞も処女もどちらもバージンと言うんですよ……」
「こんなときでもときわはよく口がまわるな……」
「どうも、おしゃべりに定評がありますっ……」
「そしてときわはバージンでありバージンでもあったと……?」
「……ああっ、なんて顔して言うんですかっ! 僕の中に居ながら! 圭吾さんは酷い人だ! 変人、変人っ!」

 誰が命令したか知らないけど、圭吾さんは『供給』を命じられたとき、一度は断った……気がする。
 そのとき、誰かは僕がこういうことを嫌っている口ぶりはするが許容しているようなことを言ったんだろう。まんまと騙された圭吾さんは、仕方ないと言いつつ……こうしていると。

「お、親父の奴……。す、すまん、ときわ!」

 って、やっぱり犯人は狭山おとうさんか。
 あんなに真面目な性格なのに、倫理観だけは一端に崩れているからあの人は……。

「んっ……。だから……僕、初めてなんですから、優しくしてくださいよ……」
「あ、ああ……優しくする」
「う、ぐ……」

 あったかい言葉に、雨で濡れた僕の体はとろけそうになった。
 ……他に好きな人がいるくせに、どうしてそんな台詞を言えちゃうんだろう。人間性を疑う。
 優しくすると言いつつやめようとしている圭吾さんの体を抱き寄せ、足でホールドする。圭吾さんの困惑の表情は消えなかったが、それでも腰を下ろしてくれた。
 元から優しかった動きが、もっと労わってくれる手淫が加わることで更に優しいものになっていく。そうしてどんどん圭吾さんのペースに巻き込まれていった。
 一定のペースで腰を振り続け、体全体を撫で回してくれる。
 変な薬でテンションを上げた状態での愛撫はとても気持ち良かった。一人でするときとは違う感覚が生じている。どんどんと感情が生まれていった。

「あったかいな、ときわの中」
「……なんてこと言うんですか、圭吾さん……!」

 微笑みながらも小刻みに腰を突き上げてくる。文句を言ってる暇も無いぐらい呼吸が早くなり、震えた。
 ゆっくりと波は押し寄せ、じっくりと快楽に呑まれていく。
 力無くあられもない声が出ていった。あんあんと絶叫することなんてしたくなくても。
 そうしているとじわりと体の中に熱いものが広がっていく。体の中には圭吾さんのものが、体の外……腹には、自分のものをぶちまけていた。

「ときわ、眠ったらダメだぞ。ちゃんとスイッチを入れろ……」
「……うぅ……」

 僕の前髪を撫でながら、圭吾さんが忠告する。
 こくこくとゆっくり頷きながら、絶頂を噛み締めた。
 圭吾さんがくれた熱いものに満たされていく。体いっぱいに熱さを満たしていく。もし自分が女だったら生命の誕生に感激するかもしれないその行為、今は生命力の誕生に感動し、堪能する。
 ――いいや、そんなもんじゃない。感激、感動するものは別の感情だった。

「卑怯……です、圭吾さん……」
「……まだ言うか?」
「…………。ううん、単に言いたいだけですよ……ごめんなさい」

 ごめんなさい、いつの間にかそればかりが口に出ていた。
 なんでそんなことを言ったって……『仕事』で付き合ってくれたのでも、気持ち良かったからつい謝りたくなった。それに何かを口走っていないといけない性格だったからだ。そうに違いない。
 そんなとき、ふと、下らないことを考えた。
 ――僕の中に居る大量の霊達は、僕の中に入った圭吾さんと挨拶したのかな……?

「どうした、ときわ?」
「…………いえ」
「その……ごめんな、俺が初めてになっちまって」
「いえ……いえ、いいえ……」

 同時に、同化を信仰する我らの思想をふっと思い出して、「えっと、これって下ネタじゃないか?」と考え直し、僕は首を振った。
 圭吾さんには僕が照れくさくなって顔を背けたぐらいに思ってもらおう。
 本当なら何か感想でも言おうと思った。仮にも圭吾さんに抱いてもらったという僕的には一大イベントなんだから。……でも出てくるのは、謝罪の言葉だけだった。
 これは圭吾さんが思っているより僕にとっては重大なことだったのに。あまりに冷淡に、あっさりと、好きな人との接触を終えてしまった。
 悔しかった。大怪我でもしなきゃこうなれなかったことが、一番悔しい。刻印を忌々しく見つめた。
 でも次に思いついたのが、「ありがとう、君達が死んでくれたおかげで僕は大怪我を負えたんだ」ということ。
 考えてしまって、また心の中で謝罪を繰り返した。



 ――2005年6月24日

 【     / Second /     /     /     】




 /4

 目覚めた場所が何処かなんて判らなかった。

「霞、目覚めたか」

 悟司の声だ。兄の声で目が覚めるなんて最悪だ。天の灯りが少し眩しくて眼前を覆ったが、すぐに周囲を見渡すことができた。
 ベッドの上に寝転がらされているのは判る。だが、ここが何処なのかは判らない。俺の自室かとも思ったが、自分のものだった部屋は数年前に撤去されていた。寺に泊まるようなことがあれば、部屋数はやたらと多いバカっ広い屋敷のどこかを借りる。そのどれとも見当がつかない天井だった。
 見覚えの無い木目模様の天井と、畳の上に無粋に置かれたパイプベッド。一応ベッドの足の下には敷物がしてあったが、十畳ほどの和室にパイプベッドと、周囲を取り囲む多くの機械達。設置されている機械はどれも大きく、繊細そうな物ばかりだ。
 ここは匂いからして仏田寺の研究棟に違いない。何度かバイトで訪れたことはあったが、中央で眠らされているのは初めてだった。

「おはよう、霞。腹が減っているだろう、早速だが栄養摂取をしてもらう」
「……新座のバカはどうした」
「彼なら少し休憩した後に住処の『教会』に戻っていったよ。疲れた様子だったが、お前とときわほど重症ではなかったからな」
「……そっか」
「真っ先に新座くんの心配をしてやるなんて、お前も成長したもんだな。年下の面倒を見ていたら癖でもついたか」
「うっせーよ」

 俺の中に残っている記憶は曖昧な場面で終わっている。
 びーすか泣き疲れて眠った新座を引っ張り、同じく体力の尽きたときわの坊主を背負って下山した。車が停められる場所で待機していた兄・圭吾が、俺の姿を見て運転席から飛び出した……のを見届けたところで、俺は意識を失った。圭吾アニキが俺を発見するまでを記憶しているのだから、アニキが俺達を寺まで送り届けてくれたものだと信じたい。そして搬送中に救援を呼ぶなりして治療を行なってくれた……そう信じたい。
 眼前を覆っていた自分の腕はしっかりと動いていた。体は怠いが、身動きが取れないほどではない。現にすぐベッドから起き上がることができたし、親切にも飯を乗せてきてくれたトレーを受け取ることもできるぐらいだ。
 適切な治療を行なえたということか。

「残念ながら、適切な治療は行なえていないぞ」

 と思ったのに、まるで俺の心を見通したかのように悟司はベッドの俺を見下ろして言い放つ。

「もし迅速な治療が行なえたのならば、お前をここで寝かせるようなことはしない。そのまま適当な廊下に寝かせて、目覚め次第出て行かせるさ」

 ここは十畳ほどの和室だが、その大半をベッドの周囲を取り囲む機械で埋め尽くされていた。
 知識が無ければ興味も無い俺には、機械が何を意味しているのかさっぱり判らない。黒いディスプレイにはいくつかの文字と数が並んでいて、機械からベッドに伸びているケーブルや点滴のような装置がどのような形で俺に使われていたのか、説明されても判る自信が無い。
 今は何も繋がれていない腕で食事のトレイを受け取り、皿に掛けられた保温用カバーを剥ぐ。中には、未だ湯気がほかほかと立つ白米となめこの味噌汁、それとまだ萎びていない新鮮な刺身があった。
 カバーがしてあったとはいえ、その裏側に水滴もさほど付いていないのを見ると、まだよそられて時間が経っていない。なにより刺身がカピカピになっていないし、動けない訳ではないと言ったが大仕事と泥のような睡眠の後。美味そうな食事に自分の目が輝いたことを自覚した。
 俺は膝の上にトレイを置くと、すぐさま手を合わせて「いただきます」とがっついた。すぐさま新鮮な刺身を米の上に乗っけて口に運ぶ。刺身は少し苦味が強い。元の素材を生かすためかどうかは知らないが、醤油があったらもっと美味いだろう。けどこの際無くたって構わない。あったかい飯が喉を通っていく。生き返りを実感した。

「本来の『仕事』とは余分なものまでやって来たそうだな。その分、多くの魂を回収してきたから良しとするが。それで失敗して三人とも下山できなかったらどうするつもりだったんだ。治療魔術が使える新座くんとときわの両名がぶっ倒れてお前が一人で……。本当に、無茶をしてくれたな。珍しく大山様が怒っていらっしゃったぞ。それでも狭山様の舌打ちにも至らないが」

 悟司はベッドの近くではなく、機械を見る際に使う椅子に腰掛けて、生易しい説教を始める。
 今度はうるせーよと文句も言えない。アニキの言う通り、本来であれば(怪我は多少なりともあっても)三人とも無事に終えられた『仕事』だった。だというのに新座のバカが変な声を聞いて走り出したりして、余計な退魔までさせられたんだから……無茶としか言えない。
 こんなに美味い味噌汁や刺身を食えるのは、生きていてこそなんだから。あのバカには俺以上の説教を受けてもらわねば。

「圭吾に能力が無い出来損ないというのは知っているだろう?」

 ぼそっと。軽蔑でも蔑みでもなく兄の口が、冷淡に事実を述べる。

「あいつには能力という能力が無い。志朗くんと同じで、何にも力を見出せなくなってしまった。昔はそんなこともなかったんだがな」
「……志朗兄さんをバカにすることはやめろよ」
「ふん、それぐらいのことで熱くなるな。今は精神を落ち着けることに集中しろ。……圭吾に簡単な治療魔術ぐらい覚えてみせろと言ってはみたんだが、無理だった。だから倒れる筈のない新座くんとときわが倒れたということは、全員の命が危なかったと言える。救われたのは奇跡だと思っておけ」
「あいよ、肝に銘じますよ。……って、圭吾のアニキ、そんなに駄目になっちまったのかよ。俺も白魔術だとかはちんぷんかんぷんだが、昔はそんなこともなかった気が……」
「ああ、昔はな。だがその才能は消滅した」

 何故かは教えられてないがとアニキは、わりと久々に「兄貴っツラ」を見せる。
 成人してからはベタベタした付き合いをしなくなった俺達兄弟だが、それでも血の繋がった実の兄弟だ。数年も共に暮らしてきた身内だ。変化に懼れてやるぐらいのことはしている。
 俺がひたすら飯を口に押し込んでいると、暇潰しに話したいのか「圭吾は今でこそ単なる運送役にしか使えないが、あれでも最高傑作と言われるぐらい膨大な魔力の貯蔵庫だった」と口走っていた。それって凄いなのかと尋ねれば、未だに圭吾アニキを増す魔力量の子は生み出されていないそうだ。おそらく、あのまま育っていれば現当主の光緑様やその弟・藤春様をも上回る力量になっていただろう。……もうそれも、過去の栄光だが。
 無能になってしまった圭吾もそれでもそこそこの能力者。自衛が出来るぐらいには体術は学んであるし、実技は無くても異能の知識は頭に叩き込んでいる。だからこそ『仕事』に出る連中を来るまで送迎する係をしているが、そこを拠点にして頼るなんて……そもそも頼らなくても良いバランスで『仕事』を命じている筈だ……と説教は進んでいく。
 そんな無能のアニキは早速次の命令が下ったらしく、内容までは話さなかったが今はときわの元に訪れているそうだ。不出来は不出来なりにやることがあるらしい。

 皿の上に何枚も重ねられていた刺身と白米を全てかっ食らい、適度に冷めていった味噌汁を流し込む。
 ベッドに入るため既に拭かれたとはいえ、数時間前まで雨で濡れていた体だ。じんわりと染み込む熱い流れに、涙が出るほど体内が嬉しがっていた。思わずまた手を合わせて「ごちそうさま」と言いたくなる。

「エルフ肉の刺身は口にあったか」
「なんだそりゃ、食ったことのないもんだと思ったが」
「その名の通りだ。エルフは魔法に特化した妖精族。なんでも大山様のお気に入りの食材でな。エルフ族は基本的に草食なんだが、俺達人間にとっては魔術儀式に使いたくて堪らないほど貴重な薬草の数々を主食にしている。一段落入れてようやく摂取できる魔力を、あいつらは食事で直接取り込むことができる」

 その肉だ、疲れた体を回復するにはもってこいだろう?
 悟司は俺の知識を高めてやるための慈悲を与えてくださったのか、わざわざ噛み砕いて判りやすく説明してくれる。確かにそう教え込まれながら消化すると、より効果があるような気がしてくる。
 そうは言っても、「疲れた体の日本人には米と味噌汁があればもうそれだけでいいんじゃないか」と思ってしまい、有難味が薄れてしまう。寧ろそれは食った後ではなく、食う前に言ってくれた方が価値を理解して食べられたかもしれない。
 感謝はしつつもそう伝えると、「驚かれて吐かれたら困るからな」とアニキは静かに笑った。笑いながら手を自分の首元に移し、遠くだがまるで囁くように言う。
 身に着けているスーツのネクタイを外そうとするなんて、気味の悪い仕草をしながら。

「それで回復が足りないと言うなら、俺が『供給』を手伝ってやれというお達しを受けている。どうだ」
「……俺には銀之助さんの和食を味わえただけで幸せだよ。勘弁してくれ。あんたとはどういう経緯があってもヤリたくない」
「良かった、俺と同じ考えだったか」

 俺もしたくはないんだ……と言っている割には、ネクタイを緩めるようなことをするなよ。
 わざと吐き気を堪えるようなジェスチャーをしてやると、「じゃあもう出て行っていいぞ。もう口座には振り込んであるからな」と襖をすぱんと開けて出ていってしまった。
 丁寧にトレーをちゃんと回収して。……何がどうあれ食べ終えた皿を回収しないと、銀之助さんにブチ切れられるからな。阿修羅のごとく。

 ベッドの周囲をもう一度確認してみると、自分の荷物鞄が無造作に置かれていることに気付けた。ベッドから手を伸ばし、携帯電話を引き抜く。
 時刻はまだ午後三時。二度目の洞窟から下山するとき、雨が降っていたから日の出で時間を確認することはできなかった。ぐっすり寝た気でいたが、ほんの数時間しか休んでいないのか。
 もう立ち上がって寺を出て行ってもいいほど体は健常時に戻っている。ひょっとすると本当に、さっきの料理は普通のものよりも効果は段違いのものだったのかもしれない。
 何があっても飯だけは抜いたらいけないな、と思いながら開いた携帯電話の画面に、メールが受信されていることを告げるポップが表れていた。
 ……それほど面白いことはない。ただ、親しい者からの「おしごと、おわった?」とい件名だった。
 あいつ……。はあ、と嫌じゃない溜息を吐きながら、ベッドに転がる。五体満足で生きてるって素晴らしいな、と改めて実感しながらも一人でニヤつく。

『バイト行く前にアニメ録画するの忘れた!! カスミン撮っておいて!!!』
「バカヤロウ」

 思わずそのまま時間も場所も気にせずあのバカ玉淀に電話してやろうかっていうぐらい、ニヤけた口から相応しくない低い声がすぐさま這い出てきた。



 ――1987年1月15日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /5

 元納戸の扉には、『しろう&にいざ』と描かれた看板がぶら下がっている。そこが二人の私室だからだ。
 二人の子供が住める程度の広さで、部屋にある物は多くない。申し訳無くあるちゃぶ台が勉強机で、夜になると布団の代わりに押し入れにしまわれる。布団を敷けば、部屋いっぱいになってしまう。子供二人で、寄り添って眠るんだ。
 夜。珍しくない夜。新座の眼の色が、黒く蒼い目が白く銀色に、ぱぁーっと明るくなることがある。
 眼の色が変わるだけじゃない、声も少し変わる。声はそのときによって微々たる違いだが、普段の高めの声から離れ、落ち着くようになる。
 そんな変化をまじまじと何度も見ているから、普通じゃないことが起きてるぐらいは気付いていた。

 そもそもこの家にいる以上、何らかの能力が持って生まれてくることを知っていた。だが、俺には……自分には能力というものが一切備わらなかったせいで、完全に割り切るまで時間がかかってしまった。
 弟・新座は特に例外らしく周りから重要視されている。生まれつき特異な体質らしく、大切に、甘やかされていた。 
 新座が可愛いというのは認めるが、地蔵と間違えているのか時にはありがたやと頭を撫でる者もいる。そして見る目が、『可愛い子供を見るものと違う』というのは……早々に、気付いてしまった。

 新座は凄い奴だ。
 だけど、弟で弱い奴だ。
 兄として保護者として、新座を護ってあげなくてはならない。兄の星に生まれてきてしまった以上、年下を護るのはこの世の道理である。

 普段の例を挙げよう。高い確率で新座は夜泣きをする。隣で眠る身として、それをあやす仕事は兄。年上の役割であり宿命だ。
 決まって真夜中、新座は目が覚める。時には尿意を訴えて起こしてくることもあるが、大半は訳あって目を覚ましてしまうんだ。
 彼はひどく断片的な『夢』を見るらしい。
 その内容は短くて一瞬。しかし非道く酷い内容ばかりで、夢から逃げ出したいが故に飛び起き、現実に還ってくるという。声を上げて泣くこともあれば、最近は隣に迷惑を掛けたくないと枕に顔を押し潰して泣くようになった。無駄な心遣いをされていても、そんな悲しい声に気付いてしまってこちらも目が覚めるというものだ。
 頼りにするなら、起こしてくればいいのに。隣に兄がいるのだから。

 そう思っていたが月日が経ち、お互いが成長した。
 新座にしてみれば夜起こしてしまうことが恥ずかしいようだが、それでも新座はまだその夢をまだ見続けていた。
 小学校も高学年になり、そろそろ独り立ちを考えようと大人びた子も出てくる時期。もう夜が怖いからと起こしてくることを無くそうと思っているらしい。数日に一回、兄を起こすのは迷惑だと思い始めたんだ。だからこそ迷惑がかからないように自分の中に嫌な気持ちを溜めていた。
 そんな心情を、新座とよく話をする少年・霞から聞いた。そいつの言い分では「その年でまだ志朗兄さんに泣きついてるのがダサイ」とのことだが。
 兄貴心としては、俺に泣きついて少しでも嫌な気持ちが晴れるのなら、いつだって泣きに来たっていい。そう想っていた。
 そうすることが、兄貴の務めというものだ。
 寝る前に「夢はどうやったら見なくなれるの?」何気なく訊かれた質問にも答えてやれなかった。だが、見た後に解決する方法があるんだからそれを使え。そんな気晴らししか教えてあげられなかった。

 ――ある夜、予感づく日に事は起こる。

 その夜は満月で、床に着く前に新座と「良いお月様だね」と言い合ってから就寝した。
 その時に、何となくだが判ってしまったのだ。……今日は来る、と。
 普通にシーツにくるまる新座の手を握ってやる。一体何だ、と不思議そうな顔をしたが、手を握ること自体は嫌ではないようだった。新座は笑って、俺の手を握り返してきた。

「志朗お兄ちゃん、今日は優しいんだね」

 毎日でも優しくしてやっているつもりなんだが、とりあえず今日は形にした優しさを表す。
 そのまま眠る。いつか切れてしまう手も、新座はやわくもぎゅっと握って放そうとはしなかった。
 少し暑苦しいことをしてしまったな、と自分の中で愚痴る。どうせすぐに手放してしまう……新座が新座でなくなってしまえば。

 ――真夜中。新座が突然立ち上がり、線が切られる。
 繋いでいた線が新座の手によって放され、事に気付く。
 来てしまったか。
 あの銀色の眼。見開かれた人外の色に、ぞわりと寒気が走る。
 こちらも起き上がって、何処かに行こうとしている新座の体を引いた。そして当然のことを言う。

「今はもう眠る時間だ、大人しく寝ろ」

 時計は真夜中の針を指している。夜更かしして明日起きられなかったら嫌だろう。言い聞かせてその腕を引く。

「いつも起こしてくれないって怒るのはお前だろ。俺の仕事を増やすな。迷惑をかけるんじゃない」

 あくまで自然に新座に語りかけるが、新座はその行為に……明らかに気分を害す表情を浮かべた。
 ……ああ、判っている。こいつは弟の新座であって、何でも言うことを聞く新座でない。銀色の眼をした今のこいつに新座のことを言ってもきかないことぐらい。
 それでも語りかける。中身がどうであれ、この体は弟のものだから。
 語りかけることによって戻ってきてくれると信じ、何度も弟の明日について語った。

「明日も学校があるんだぞ。朝から霞と対決するって言ってたじゃないか。ここでちゃんと寝て体力をつけとかないと負けるだろ。まぁ、追いかけっこであいつに勝てないけど、明日は頑張るって言ってたじゃないか」

 それは寝る前の話だ。そのような事を、手を握りながら新座は言っていた。

「さっき言ってた決意はどこにいったんだ? 何処かに行こうとするんじゃない。……さぁ、いっしょに寝よう」

 廊下に出ていこうと体を強く、決定打に押し付けようとした時。
 ―――風の斬る音に体が固まった。

 それは、一体何の魔法だったか判らない。
 けど、確かに……無い筈の紅いナイフが……自分の頬を掠めた。

 新座は……いつ、そんな凶器を用意したんだ?
 今さっきだ。魔法の力で手の中にナイフを創り出して……俺に……。
 腕を強く引いたとき……新座の冷たい色の眼が光ったとき……手の中で創り出した刃物で攻撃したんだ。
 あと数歩、俺の体が横にずれていたらどうなっていたか。頬を伝う液体に恐怖する。恐怖で動けなくなるほどの衝撃だった。
 わかっているわかっている。こいつは新座じゃない、新座が俺を殺そうとする訳がない。
 だが新座でないとしても、目の前の誰かが自分に死を引導しようとしている。それだけでも恐怖だ。

 廊下。満月の下。揺れる銀色。二刀目が入る、そのときには俺は……!

 しかし、その前に現れた人影に助けられた。
 それは只の偶然だった。子供の部屋を通るだけ、特に用もない父親と叔父の二人。変哲の無い廊下で、空中ナイフを纏う息子に、固まっている俺……その光景を見て驚く。
 新座が二人向かって走り出した時には、もう身構えていた。
 父親を敵視し、向かって凶器を片手に突貫。父と叔父は直ぐに対処する。叔父が何の名前を呼んだ。呼んだ瞬間には使い魔が二人、鎧を着た女の影として現れ、新座を取り囲み……即座に封じる。
 奇声を発しナイフで使い魔の女の腕に刺し込む……が、彼女達から血は出ない。冷たい音を立てて脆いナイフは割れた。鉄でできたような女の体に、「ひっ」と息を呑む音がした。
 慌てず、父が取り押さえられた新座に近付き――――顔に手を当てる。

「■■■――――!」

 新座が何か叫び声を上げたが、構わず父は一言言い放った。……そして、ガクリと倒れる小さな体。
 いつの間にか鉄の女二人は消え、新座は父親にもたれかかっていた。
 その間、わずか十秒。父と叔父が廊下の曲がり角から現れて、十秒後に新座は大人しく父に抱かれ眠っている。
 普段眠る顔のように、ごく普通の寝顔のまま。
 あまりに一瞬過ぎることで、目を一度瞑れば止まってしまうシーンの数々。
 それなのに凝視してしまったのは……ただ単に俺が固まって動けなかっただけだからだ。

「藤春、志朗を大人しくさせておいてくれ。私は新座を連れて行く。『中』をちゃんと調べておいた方がいい」
「判った。………このことは、消しておこうか?」
「志朗がどこまで見ているかによる。話は聞いておけよ。いざとなったら燈雅を使え。……あと、頬を拭いてやってくれないか」
「……了解、当主様」

 叔父が答えると、二人は別れた。父と叔父の会話が一体何を意味するかは判らなかったが、一端だけは理解出来る。
 『新座を連れて行く』。
 その部分が、固まってしまった俺の体を動かした。

「何処に連れて行く気だ!?」

 叫んだが、父は構わず新座を抱き上げて去っていく。追い掛けようとしたが、叔父に腕を掴まれ進めない。

「新座っ……!」
「待て、落ち着け、志朗」

 振り払う事も出来なくはないが、叔父の表情から冗談で切り離しているのではないということは伝わってきた。
 だけれども、どうしても気に掛かる。

「親父さんが新座を責めることはない、大丈夫だ」

 叔父が落ち着けるように言う。
 それよかと一つ二つ、叔父に質問される。よく判らない質問だった。判らないので「知らない」と答えるしかない。

「……これぐらいの記憶だったら、消すまでもないか……」

 そんな呟きが聞こえた。

「変なことがあるようだったらすぐに大人を呼ぶように。新座のことは今夜は任せて、さっさと寝るんだ」
「弟の夜泣きぐらい対処してやるのが兄です」

 聞いた叔父は「一般論的にはな」と、笑った。ぐしゃぐしゃと俺の頭を撫で回し、頬に絆創膏を貼ってから……部屋に帰した。
 新座の居ない部屋に。
 ここは、二人の部屋。その一人が、居ないだけの光景になってしまった部屋。そこで大人しく寝るんだと言う叔父。でも不安で、色々と考えてしまう。
 新座が『新座じゃないもの』になるのは、いつものこと。あの暴走は、いつものことだ。
 それを親父はどうする気だ。まさか、『処罰するようなこと』……。
 いや、それはない、ない筈だ。だって実の子供なんだぞ。新座がまた寝たってことは、もう大丈夫だってことだろう?
 でも親父が、冷徹に呪文を唱える姿を思い出す。そして新座が、一瞬にして意識を無くす姿を思い出す。
 ……ああなってしまうのは、『いつも』なんだ。あぁ、『いつも』だった。
 今日のように何処かに行こうと廊下に出ることまではなかったが、銀色な目をした彼は暫し唸った後、すぐに眠りに落ち……いつもの新座が帰ってくるんだ。
 帰ってきた後、起きた新座は決まって泣いてくる。最近は我慢しているらしいが、涙を受け止めてやるのが……自分の役割だった。
 だから、今も新座が起きたら大変だろう?
 俺がいなくて余計に泣く。そう何度も何度も思っても、今は叔父に言われた通り大人しく眠るだけしかできない。……それしか、できなかった。

 ――普段、自分が見る『夢』は、たわいのないことばかり。こうだったらいいな、という願望の夢はあまり見ない。
 言うならば自分の夢は記憶の焼き回し。過去に起きたものを、そのまま夢の中でもう一度再現することが多かった。夢という行為自体が一つのアルバムのようで、昔を引き出すことができる。だから過去に何があったか、そしてあのときどうすれば最善の行動だったか、後で見直すことが可能だった。
 見直したってやり直すことなんか出来ないけれど。

 ……その日見た夢は、『帰ってきた後の新座』。
 元の黒い、自分と同じ色の目になった新座が……涙で顔を濡らしていた。
 怖かった、恐かったと言うだけで、何が怖いのかは俺には判らない。そのときの夢の中の俺は「ああ、怖かったな。もう大丈夫だ」……それぐらいしか言わなかった。
 新座が怖がっていたもの、それは『今日』のような、自分の意思を無視され、思うが儘にされてしまうことだ。それに気付いてやることもできず、その時の『奴』はただ新座を抱くだけだった。
 胸に染みる水が温かいなと感じながら、泣き終えることだけを優先し過ぎて、どうして新座が泣いているかまでは散策しない。
 それは怖いことを引き起こしたくないと気遣っている心と、自分に怖いことを聞かせるなという防衛心が互いに働いたからだった。

 ……非常に情けないが、自分は怖い話が大の苦手だ。
 幽霊なんて見掛けるが、視える自分が実に腹立たしい。嫌いなものほどよく目立つと言うが正にそれだ。こんな血族に生まれ育ちながらも怪談だって好きでないし、ホラービデオなんて見られないし、スプラッタ系も大の苦手だ。
 そもそも生きとし生ける者に、死者も退廃要素もいらないと思う。生きてる連中が夏になったらオバケ特集をする意味が分からない。寒さを増すためだ? クーラーを使え、バカ!
 だからこそ、常に『怖いもの』と共に歩む新座を、慰めはするものの……根元の除去までは踏み出せなかった。どこかで厄介払いにしていた節もある。
 ……もしかしたら、怖いものを連れてくる新座を嫌っている部分もあった。
 それでも俺は兄貴だから、弟が泣いている姿を放っておくのは『絵にならないから』、新座を慰め続けていた。
 つまりは、世間体を気にしていたようなものである。
 別に周りに苛められ泣く弟を放っておいても構わなかった。心など痛まなかった。だけど……近くにいるのに泣いている弟に話し掛けない兄だなんて、周りはどう思う?
 なんて薄情な、冷たい兄だ。何もしなくて自分が冷たい目で見られるぐらいなら、弟を面倒でも慰めなければ。……そんな下らない妄想に付きまとわれ、新座の傍に常に居てあげた。
 全ては自分の為に。
 言うならば、自分の立場をより優位にする為に……弟を利用していたと言っても過言ではない。

 ……だってそうだろう、俺は『この家には何でもない存在』なんだから!
 長男でもない。優秀な弟と違って刻印も無い。魔術の才能も皆無だし、霊感だって強くない。頭だってそんなに良い方じゃない。天才でもないから、本当に『普通の子供』としか見られない!
 ただ、『女であったら良い』と思われ産み落とされ、落胆された結果そのままなんだから!

 自分ほど家で弱い立場に立っている人間はいない。必ずこの家に生まれた以上、何らかの適性があるようだが、十年生きてまだそれさえ発見しないまま……今に至る。
 もう周囲からは絶望視されている。きっとこの子には何も見出せない。無能。役立たず。どうしてこんな子供が当主の子なの。誰もがそう思っている。
 知る力も無い。見る力も無い。何かを引き寄せる力すら持っていない。魔術の修行だって受けていない。
 そんな、何でもない子供が……自分の立場をわざと悪くする真似が、出来る訳がなかった。
 霊的なものができないのなら、魔の子として優秀になれないのならば……せめて普通の子として優等に生きる、それぐらいしか周りに期待を受けることしかできない。そんなものしか考えつかなかった。
 気の良い兄貴面しか自分を表現できなかった。

 ……だからこそ、新座がもう夜に兄を起こさないと……自分を頼ってくれなくなったとき、また彼を引き寄せようと必死だった訳だ。
 新座にとっては俺がいなくなることは自立への路なのかもしれないが、新座がいなくなることによって俺は俺でなくなることになる。
 よって引き留めた。何としても自分のもとに置いておかなければ、と。

 ――夢を再見する。求めながらも邪魔扱いしている『自分』を客観的に見る。
 なんて歪んだ感情。歪んだ考えに気付かされ、思わず笑ってしまう。……第三者的に見る兄と弟の図は、とてもおかしいものだったからだ。
 本気で助けてくれると思っている馬鹿な弟に、しめしめと嗤う馬鹿な兄。
 思わず夢の中に入り込んで、その整えられた絵をぶち壊したかった。利益の為に人を使う男を殴り飛ばしたい。

 もう一度見直した先にいる弟は、今までの自分に気付かないぐらい…………可愛かった。

 救ってくれると信じている目はとても黒く澄んでいて、この『夢』では涙で濡れているが……本来、どんな色であるか自分は知っている。
 純粋に彼の目を見ること、色なんてものではなく、その奥に何が蠢いているのか感じることを忘れていた。
 助ける方法が無いことは、今の自分も同じ。夢を見ずに済む方法なんて判らない。
 だけど……『お前』はもっとかける言葉がある! どうして嗤っているんだ、なんで心から慰めてあげないんだ!
 何故目の前にいてやれるのに、本気で頼ってくれているのに気付いてやれないんだ!!

 嗤い続けるは、奴。しかし、それを叱りつけるのも奴自身。そんな奴に殺意がわくのも、奴と同じ身。
 なんて愚かしい奴。なんて愚かしい自分。目の前で嗤う自分を殺したい。
 …………そして、ついに殺すことを決意した。

 ――これからは、もうあんな風に嗤って新座を求めない。

 そう決意することが、『奴』を懲らしめる唯一の手段だと思った。

 ……今朝は叔父の口から「新座は家に居させる」ということを聞かされた。霞と早朝から追いかけっこする約束は破られてしまった。
 共に登校できない苦しさもいつもと違う。隣にいてくれないといけないという意味はどこにも無い。……純粋に彼の様態が気になって、気になって勉強など身に入らない状態だ。
 学校から帰ってきて、やっと新座に再会する。納戸の自室に戻ると新座が自室にいた。
 おかえり、と抱きついてきた身のまま微笑む。
 目が少し赤かったが、いつもの黒目だった。顔もやつれているような気がする。
 大丈夫か、と緩んだ顔を引き延ばす。むぐむぐ抵抗する姿はいつも通りだが、少し元気が無い。余計に心配になる。
 ……あぁ、そんなところまで気が回っている。これはきっと無意識にだ。弟の悪いところを探してカバーしてやろう……そんな邪な気持ちじゃない。
 ただどんな気持ちで一夜を過ごしたのか、その中で悲しかったか苦しくなかったか、そればかりを考えてしまう。
 純粋に新座が気になって、本当に彼が大丈夫なのか気になって仕方がない。
 自分は早々に『嗤っていた奴』を殺そうと、弟の身を案じ続ける。
 あまりにしつこかったのか、新座が「お兄ちゃん、心配性だよ」とつついた。

 ……大丈夫。その笑顔は本当に面白おかしくて笑っているもの。
 本当に俺を信じてくれて許してくれて、愛してくれる笑顔に変わりない。周りに何を思われようが構わないと感じさせる表情だ。
 そして、それをずっと見ていたいと思うようになる。
 だから、自分はいつまでもあのときの自分を殺し続けることにする。
 こんな可愛らしい弟を利用してきた『奴』を一生懲らしめるためにも、永遠と涸れないようにするためにも、兄としての役目を果たさなければならないんだ。



 ――2005年3月31日

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 /6

「こっちが一回分。この量が二ヶ月分です。なんなら錠剤の方を持ってきても構わないんですけど、どうします? 粉末状でもちょっと時間が掛かればすぐ作れますし」
「手間がかかるならいらないよ。有り難く持ってきて貰っている立場だしね、文句は言わない」
「こんなの作るのは面倒でも無いですよ。私としても必需品だし、研究対象だし趣味でもある。だから」
「それでも今まで通り、液状の飲み薬のままでお願いしたいな。錠剤は飲み込むのに力が無いと吸収できないからね。液体なら少し口を開けば錠剤ほど力がかからずに飲める。俺はただでさえ体力が無いんだから、楽な方を選ばせてもらうよ」
「そうですか。俺としてみれば、一番吸収しやすくて楽なのは血管にそのまま入れ込むことだと思いますけど」
「シンリンは慣れてるからそう言えるんだよ。それに注射は見るからに痛々しくて嫌でね。弱っていると俺の場合、右手が『こんな』だから」
「……血管が見えなくなっていることはないと思いますが……」
「でも、見にくいだろ? 痙攣してるときなんか違う場所に刺してしまいそうだしね。即効性があるのは良いけど、恐ろしくて自分用には使えない」
「この薬は幻覚作用を引き起こしますから、腕が狂う可能性も否定できません」
「麻酔としては最高なんだけどね。よく眠れるし、一つのことに集中できる」
「それは意思の強い人間にしか使えない強力なやつですから。弱い人に向かったら弱いまま突き進みます。渡せる人は一族でもごく一部ですよ。まあ、アレコレ解説しなくても『睡眠したいときの睡眠薬としては最高』だって覚えていてくれればいいです。強く想えば想うほど、死んだように眠れる特注品ってことで」
「俺は意思が強い人間……なのかな?」
「強いです。燈雅様は呑まれやすい幼年期から、『あれ』を薬とか外的保護無しに耐えて今まで暮らしてきたんですから」
「…………」
「だけど、無理は禁物です。燈雅様、貴方は強い人で越えられる力も持っている。薬は手助けしてくれるけど、ここには腕の良いお医者さんだっているし、光緑様だって傍にいるでしょう。薬だけを頼りにしない方がいいですよ」
「……俺より薬中な君に言われたくない台詞だ。君が主治医になってからというもの、飲む量が増えて覚えることが多い。効果を強くしてくれるのは嬉しいが、数を減らす努力はしてくれないかな」
「そればかりはご辛抱を。これでもちゃーんと真面目に燈雅様の体に合わせて調合した結果ですので。……とりあえず今は昼食を終えた後ですし、こっちをお飲みください」

 シンリンは今日の分の薬だけを表に置いて、残りを全て紙袋に詰める。その後、慣れた手つきで粉末を溶かしていき、患者に渡そうとする。
 食べ終えた飯台の上に置くように指示しようとして、俺は襖の先にいる人影のことを気にした。
 あれは開けようか開けまいかまだ迷っているような動き。声もまだ掛けないでいる姿を見ていると、まるでシルエットクイズをしている気になってきた。
 答えが思い当たったところで、シンリンの仕事が全て終わった。これでシンリンの邪魔にはならないと思い、外に声を掛け招き入れることにした。

「何か用かい。入っておいで。梓、男衾」

 その声に、シンリンが驚いて襖を見た。今の今まで外の人物に気付いていなかったらしい。
 声を掛けられた外野は、襖を開けた。現れたのは使用人の二人だった。
 この部屋には、布団に上半身だけ起こした俺、その横でゴチャゴチャした機材をばらまいたまま湯飲みを手にしたシンリンが並んでいる。使用人達は患者と医者の居る光景を見たせいか、中に入ってきても発言を控えていた。

「よう、お二方。オッチャンの用はコレで終わりだから。片付けてさっさと去るとするよ」
「ごめんねー、リンちゃんー。お邪魔しちゃったー?」
「いや。……あっ、そうだ、おめーらにも聞いておいてほしいことがあったんだ。丁度良いタイミングだぜ」

 既に使用人の仲間として親しいらしい彼らは、俺に聞かれぬようにボソボソと小声で話をしている。だが同じ部屋に居る以上、会話を聞き逃すことなんてしない。ほんの些細な音でも俺の耳は聞いてしまう癖があるからだ。
 相変わらず使用人にしては派手な華やかな色の女物の着物を身に纏った梓丸が、霊媒医者のシンリンから薬のレクチャーをしている。俺付きの使用人である二人が投薬されるものについて教わるのは、至極真っ当な話でもあった。

「それでは失礼します、燈雅様。一応錠剤も試してみて下さいな、置いておきますんで。意外と飲みやすくって気に入ると思いますよ」
「ご苦労様、シンリン。ありがとう。ゆっくり休んでおくれ」

 どうも、と頭を下げて日本式にシンリンは座りながら襖を開ける。一息ついた俺は用意された湯飲みを一気に飲み干した。
 シンリンはもう去っていく。梓丸達がやって来たということは、何か話を持ってきたということか。それとも昼食の飯台を片付けに来たのか。まだ正午になったばかりの時間、何の可能性もありえた。
 仲の良い者達同士、和やかな自室だった。だが、シンリンが開けた襖の先から、足音がした。

「元老が来るよ」

 俺が誰よりも先にそう呟くと、さっきまで笑みを浮かべて去って行こうとしていたシンリンが突如直立不動に立ち上がる。そうしなければならない羽目になったからだ。
 シンリンの強張りに部屋は一気に緊迫感に包まれた。男衾はいつも通りに、梓丸も姿勢を正す。
 三人が空気を作り終えた後に丁度良く、前当主の和光様が、相変わらず立派な髪を翻して俺の部屋に現れた。



 ――2005年3月31日

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 /7

 鶴瀬 正一(つるせ・しょういち)くんはスーツの上着を脱がないまま、来賓の部屋で正座していた。

 お客様用の部屋はとっても綺麗で広く、置いてある机も仕切られた襖も一流の絵が描かれている。清涼感ある畳の匂いが何年たっても消えない、そんな場所にイトコ弟が座っている。僕はひょこっと顔を出した。
 僕の登場に気付いた鶴瀬くんは、先に出された湯飲みを置き、待ち構える姿勢を取った。子供のときにしたかくれんぼをするかのように隠れていた僕は、にやにやしながら入室する。
 今日の僕は涼しい色の作務衣を着ていた。年下なのにきっちり黒のスーツで決めている格好の鶴瀬くんとは全然違う姿だ。昔は体格もあまり差がなく、あまり変わらない格好をしていたけど今は違う。大人になって生まれた差がなんだか面白くて、笑ってしまった。
 僕も背広のような堅苦しい服を着れば迫力が出るかな。まだまだ未熟者だけど「黙っていれば父親そっくり」ってみんなに言われるぐらいだし。それなりの格好をすれば、それなりの威厳が出るのかな。思いながら鶴瀬くんと向かい合う席に座る。
 さっきまで緊張していた彼の顔の筋肉が緩んだ。良いことだ。緊張して鎮座していたところを和ませることができたなら、さっきのかくれんぼもどきも大成功と言える。
 僕相手に緊張する必要は無い。鶴瀬くんの緊張を少しでも解けるならと思ってやったことだけど、僕の予想以上に場の空気は和んでくれた。
 足の短い漆机に乗り出して、久々に会ったイトコの鶴瀬くんの顔を覗き込んだ。緊張はすっかり解けている……と思いたい。

「スーツ姿カッコイイよ、鶴瀬くん。凄いなぁ。僕なんてネクタイも結べないもんー」
「最初は俺も慣れなかったよ。でもそんなの一日もかからなかった」
「でも、解こうとすると逆に首が絞まったりしない?」
「毎日着けるようになったら今じゃネクタイをする方が普通だな」
「そっか。そうだよね、だって鶴瀬くん……刑事さんになったんだもんね! ちゃんとした格好しなきゃダメだよね! やっぱ刑事さんのお仕事場って、ホントに『おやっさん』っているの?」
「ホントにいるよ。俺も最初ビックリした。コードネームで呼び合うっていうのも都市伝説かと思ってたけど、なんか凄い世界だよ」
「志朗お兄ちゃんは『そんなの無い』って言ってたけどなぁ。外の世界も色々なんだね。お兄ちゃんとは会ったりするの?」
「志朗お兄さんがいるところと部署が違うし会えないよ。それに俺は警察組織でも『教会』寄りの派手なとこにいるけど、志朗さんは縁の下だから。昔から陰ながら人を支えているのが好きな人だったし」
「そうだったかな?」
「そうじゃないのか? 俺の印象だとそうなんだけど」
「僕……警察の中がどうなってるのかよく判らないけど、お兄ちゃんは『電話はかけたりかかってきたりするお仕事』なんだって。どういう仕事かよく知らないや。……でもお兄ちゃんって調べ物をしたり喋ってるのを聞いたりするの昔から得意だった気がする」

 ああ、そうだった、判る気がする……。そう鶴瀬くんはうんうんと、何年も会っていないらしい志朗お兄ちゃんの顔を浮かべて頷いてくれた。

「志朗さんは迫力ある喋り方も出来るし。セールスをやらせたらきっと凄いな。口が上手いから」
「確か圭吾さんもそういうお仕事やるって言ってたよね。お話をしてあげたりするお仕事なんだってー」
「……圭吾……ん。分家の高坂 圭吾(たかさか・けいご)さんか。昔、ここに来たときに会ったような……」
「ほら、あのカスミちゃんのお兄ちゃんで、中学までここで暮らしてたんだけどその後に引っ越しちゃって……。お兄ちゃんと鶴瀬くんとは違う場所で働いていて……いっつも美味しいチョコレート買ってきてくれる人だよ!」

 ふと菓子の話が出て、自分達の居る漆塗りの大机を見渡してみた。
 ポットの横を見る。茶の入れられた木箱などを見てみると、お菓子が何一つ無いことに気付いた。

「むぐ……茶菓子を出してなかったね」
「そんなの構わなくていいから。別に俺はお菓子を食べに来たんじゃないんだし」
「お茶を飲むときに茶菓子が茶と共に並んでいないのは、不格好だ」

 鶴瀬くんは笑いながらも真剣に諭してくれた。
 僕に気遣いなんかさせまいと、そう言ってくれる。でも反射的にむくれた顔になってしまう。
 ふと鶴瀬くんの顔が変わる。疑問を抱いたようなキョトンとした顔だった。僕の座る横にある、大きめの手記とファイル。彼はそれを見ていた。

「新座くんは、今……何の仕事をしているんだ?」

 思い浮かんだらしい疑問をそのまま口にしていた。話の流れ的にそこに辿り着くのは自然だった。
 鶴瀬くんが自分のやっと慣れ始めた就職先のことを話して……親戚の人達の職業について盛り上がっていったから、自然にそこへと流れ着くものだった。

「新座くんは『寺の外から出てない』とは聞いていたけど、何をしているんだ?」
「お家の手伝いだよ」

 問いかけに一息つき、簡潔に返す。

「家事手伝いって言うのかな。どう言えば正解なのか判らないけど、『お母さんの手伝い』をしてるよ。お母さんのお仕事も『お父さんの手伝い』なんだけど、そのまた手伝いをやってる。やることいっぱいあって言い切れない」
「叔母様の?」

 鶴瀬くんの言う叔母様というのは、僕のお母さんのことを差している。僕と鶴瀬くんが親しい理由になっている人のことだ。
 『お父さんのサポートをするお母さんのお手伝い』をしている僕は、細々したことぐらいしかやらせてもらっていない。みなには『何もしなくていい』って言われてるけど、そうは言ってられない。言うならば、『社長秘書』みたいな響きの良いことをしたいんだけど。
 適切な言葉が見当たらないまま、さて、気持ちを仕切り直そうと自身の頬を二度叩いた。そして腰の横に置いたファイルを軽く捲る。

「本当ならお父さんが来る時間なんだけど、ちょっと遅れてね。『鶴瀬くんに申し訳ない』って言ってたからお暇潰しとして僕が来たんだ。そのうち来るから待っててね」
「了解。まず第一に新座くんが入ってきた時にそうじゃないかって思った。……じゃなきゃ俺、光緑様に嫌われたって本気で落ち込むぞ」
「むぐ、そんなこと絶対無いよ。お父さんは鶴瀬くんのこと大好きだもの。『良い若者だー』っていつも言ってるからさ!」
「……新座くんの前で?」
「僕の前で」
「…………信用ならないなぁ」
「ヒドッ!? でも、ちょっと急用みたいだから待っていてね。んー、ホントなら事前に予約した鶴瀬くんの予定を優先するべきだと思うんだけどなー」
「仕方ない、その辺は諦めてる。それに、今日はさほど大きなことを話す訳じゃない」
「そうなの?」
「ああ。……『仏田』の名を貸してほしいという話は前々からしていた。改めて当主ご本人に確認を取りたいだけの、五分もかからない話なんだ。あの御方も判っているだろう。言葉は悪いが形式的にこなすだけの時間だ。この程度のことをどうでもいいって思われたって仕方ない」
「……でも鶴瀬くん。群馬までわざわざ来るの大変だろ。たった五分のことに一日もかけてるなんて、そんな」
「仰々しくしても決して損は無い事だから平気さ。寧ろお釣りは山ほど返ってくる。……新座くんには当然の『名字』かもしれないけど、俺には半年かかってもレンタルしたいんだ。俺なんかにその名を使わせるなんて頭を下げたって許してもらえないかもしれない。遠縁だから許してもらうなんて甘っちょろいことを」
「……過少評価しなくていいよ。鶴瀬くんは立派だってホントにお父さん、言ってたから」
「そりゃ嬉しい。嘘でも、君に言って貰えたら凄く嬉しいんだ。――他ならぬ直系様に」

 謙虚な返事に、顔を顰めてしまった。
 決して非難された訳ではない。自分も、親も貶された訳でもなく笑い話にされてもいない。なのに、なんだかその言い方は好ましくなかった。
 でも素直に鶴瀬くんは喜んでいる。謙虚過ぎる気がしたが、僕がわざわざ訂正させるまでもない。
 けれど「そうか」と簡単に流したくはなかった。小さな棘が刺さる。その棘は直ぐ抜けそうだが、痛いのには変わらなかった。

「あれ?」

 鶴瀬くんの言葉の端に刺さった小さな棘。その棘がぐさりと胸を刺す。
 ちっとも痛くない、直ぐにこれぐらい抜けると今、思った。ところがその棘の周囲には、あああああああああああああああああああああ。



 ――2005年3月31日

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 /8

 どたどたどたと木が歪む。忍者のように進むべき使用人のくせに、音を鳴らして廊下を走っている。
 女中達が廊下の歪みに「何事か」と発音源を見ていた。構わず通路を走る(いや、足が浮いていないので猛スピードの競歩の)男。その男の後を必死に追い掛ける、これまた不規則な足音もあった。

「男衾ちゃんー! 男衾ちゃんーっ!」

 颯爽と駆けて行く名を、追い掛ける側が必死に叫んでいた。その名前の連発には勿論「止まれ」の意味が含まれている。だが、制止にも気を留めず男衾さんは先を駆ける。
 ある棟に来た時点で、男衾さんは閉めきられた障子を勢いよく開けた。誰も居なければそのまま通り過ぎ、また開けるを繰り返す。
 風を切る音。ピシャンと木があげる悲鳴。時に室内に人が居て「きゃっ」と声が飛び出す事もあったが、男衾さんは「失礼」の一言で片付けた。その度に追い掛ける側(汗をかいた梓丸さん)が、一つ一つ頭を下げていく。最後の頃には、梓丸さんは声を涸らしていた。
 一番奥の障子を大きく開けて、男衾さんは動きを止める。梓丸さんは、漸く目的のものを見つけたと思ったのか。だが違った。……『最後まで見当たらなくて停止したんだ』と、固まる男衾さんの後ろ姿を見ながら梓丸さんは近付く。

「男衾ちゃん」

 さっきまでの大声ではなく、諭すように名を呼ぶ。
 障子を開けたまま立っているからどんな顔をしているか、後ろから近付く梓丸さんには判らない。けれど、なんとなくだが予想はついていたのか。きっと、さっきよりもひどい顔になっていることに。
 出来れば目にしたくない悲しい顔。だけど梓丸さんは駆けて、男衾さんの前に立った。

「居ないねー」
「…………」
「ちょっと目を放した隙にどこ行っちゃったんだかー」

 離れの屋敷。部屋という部屋を駆け巡って必死に捜していたもの。最後まで見付からなくて、落ち込んでいる同僚の顔。そのしょんぼりとした顔に、「てやっ」と梓丸さんはチョップを食らわせた。
 その攻撃に痛みなんてものは無い。少しでも動転した男衾さんの意識が回復してくれればと思うだけの、ただのギャグだ。無論そんな冗談に笑う男ではないというのは、梓丸さんも幼い頃から知っているだろうけど。
 幼い頃? 何度も経験したという回想に、はてとチョップの手も固まってしまう。
 男衾さんは過去の経験上で部屋を開け回っていた。二人は知り尽くしていることがあるから。『「彼」はこの屋敷によく訪れる』と、『この屋敷ぐらいにしか』という共通認識。それが二人の中にあったから、さっきまでバタバタと……。

「男衾ちゃんが思ってたことー、アタシはとても判るよー。判るんだよー。男衾ちゃんが探して何がしたいのかも全部判ってるんだよー」
「…………」
「怒鳴りたいんでしょうけど、それはアタシだって同じってこと判ってほしいなー」
「怒鳴りたいって……梓、お前……」
「うんー、そんなことできる訳ないけどさー。けど、ムカムカして全力疾走したいのはこっちもおんなじなのー! 幼い頃からあの人のこと知ってるんだからさー! 当然だろー!」
「…………」
「ああまったくふざけんなー! なんのための云十年間さ、大人一人の時間だよー! どっかで捨てなきゃいけないって言ったってー! それがタメになるからってー! ……だからってー! 可哀相だよー! 可哀想だよー! あの方が、どれだけ頑張って今まで生きてきたか……どれだけ自分を殺して生きてきたか、おじい様達は判ってないのか! なんで――――!」

 だん、だんっ。梓丸さんは畳を踏みしめて、届かぬ怒りを堪えた。
 梓丸さんは、先程の疾走の意味を判っている。男衾さんが『彼』を見付けようとしている意味を。
 『彼』に会って、『彼』に対して怒りをぶつけたいから走っていたのではなく……『彼』を慰めてあげたいがために、怒り狂って走ってしまったこと。
 追いかけながらも同じだった。けど男衾さんの顔があまりに外の人間を怖がらすから、そう装飾してしまったのかもしれない。不格好に地団駄を踏んでいるのに梓丸さんは気付き、くっと歯を食いしばった。
 視線の先には男衾さん……その奥に、また人の影が……僕が、居たからだ。
 ハッと探している『彼』ではないかと思い、そちらに目を凝らす。その様子に男衾さんも振り返って、僕という影を見た。

「…………すいません」

 僕は二人の探している『彼』とは、似ても似つかぬ者。どこをどう見ても二人が捜していた人物ではなかった。
 少し長い僕の髪がほんの僅かに『彼――燈雅様』ではないかと惑わせたらしい。でも、僕は燈雅様よりずっと子供だ。梓丸さんよりも年下だった。人違いと判って、二人が『営業用の顔へ』変える。
 屋敷を荒らさんばかりの暴音を繰り出す男衾さんと、大声を散らす梓丸さんに対して忠告をしにきた者だと思われているようだった。

「……慧くんかー。ゴメンねー、女中さん達にウルサイからなんとか止めてこいって言われたのー?」
「はい、ごめんなさい、手っ取り早く言うとそんな感じです。……『我らが口出すより、一族の貴男が言った方が効果あるでしょう』と言われてきました」
「別に誰が止めたってもう収まる気でいるけどねー。ともかくゴメーン、慧くん面倒かけたー」
「……すみません。お二人は、燈雅様をお捜しで?」

 問いかけに梓丸さんは「どうして知ってるの」と思っているようだった。同時に「判るんだ?」とも。
 今の泣き喚くような声を聞いていれば話も読めることに直ぐ気付く。ちょっと成人以上の男として恥ずかしい姿を見せてしまったことに、梓丸さんは顔を隠しながらも、ハッキリとその声に頷いた。男衾さんの横目に見るだけだった目も、僕を追う。
 二人に「女中と共に掃除をしに離れに来ていた」と説明する。それを聞くと二人は「掃除に来ていたなら『次期当主と言われた男』の居所について、知っているのではないか」と言ってきた。梓丸さんは口で、男衾さんは視線でそのことを訴えてきた。
 ふるふると首を振る。「数時間、この館には戻ってきてませんよ」、とハッキリ伝えた。

「そうー……。慧くん、ごめーん。それよりありがとう、教えてくれてー。最初からみんなに訊きながらここまで来れば良かったねー。なんかー……男衾ちゃんと一緒に暴走しちゃったー。ごーめんー」
「いえ、すみません。お二人も、何か緊急の用事で走り回ってたんですよね? それなら仕方ないかと」
「うんー、緊急すぎて気が動転しちゃってたー。後でちゃーんと皆さんに一言、頭下げに行きまーす。……男衾ちゃんと一緒にねー?」

 言われてコクリ。小さく静かに隣の男衾さんも頷く。
 梓丸さんは男衾さんの腕を引いた。跳ね上がっていた奥の畳の間から離れ、元の音のなる廊下へ移動する。木の廊下を、二人はぎしぎし今度は慎重に歩み出した。

 僕……慧は、先程から感じる霊気に不快感を感じていた。
 次期当主の側近。見習いの、二人の男。僕と年がそんなに変わぬイトコの梓丸さんと、ハトコにあたる男衾さんが原因Dあ。
 その二人は、明らかに人を寄せ付けないオーラを醸し出している。それは危険察知能力に長けた自分以外の女中達も避けて通るほどだった。素人目で見てもどれだけ全面に敵意を出してるか、溜息が出るほど判った。

『まったくふざけんな!』

 そう叫んでいた一人。地団駄を踏んで涙を隠すほどの立腹っぷりだった。
 もう一人も声には出してないが、同じだ。

『だからって! 可哀相だよ! 可哀想だよ!』
『…………』

 二人とも泣いている。涙は零してないが泣いているのが伝わってくる。流していた涙は本当は怒りによるものではなく、悲しみによるものだった。
 自分を悲観する訳でもなく、相手を想って、悲しく、哀しく、切なく、苦しんだもの。負の感情が空気中に蠢く。多分、その『哀れみの対象』は……次期当主と言われている直系一族の、燈雅様だった。この二人が感情に左右されるほどの気持ちを抱く相手といったらあの方しかいない。
 何故知ってるかって、誰から聞いたからでもなく、自分で見て学んだ訳でもなく。「そういうものだ」と『声』が教えてくれたから、判るだけのこと。

「あの……すみません、梓丸さん、男衾さん。落ち着いてください」

 見ているだけではこちらも心苦しくて、居ても立ってもいられなくなったように二人に話し掛けた。
 二人は僕の声で振り向く。どちらも苦々しい顔をしていた。
 何にそんなに傷付いたんだ。僕は事情まで全て掴むことができない。完全体じゃない能力だからところどころ不便だ。僕が『知ることができる』のは、相手の光景だけだから。『見ることができる』だけだった。

「お二人が苦しむだけで他の人が苦しむんです。そのことを判っていただけないでしょうか」
「……慧くん。なに、それー?」

 声は穏やかに梓丸さんが訊き直してくる。
 しかし僕には、彼に「何を言ってるんだコイツは」と貶されたように思えた。この人、本心が隠せきれてなかった。

「そのままの意味です。その敵意が、誰かを傷付けてるってことがあるんですよ」
「誰も傷付けていないよー、アタシ達はー。あー、廊下と畳に八つ当たりしちゃったのは謝るけどー」
「敵意を感じ取るのは他ならぬ人間だけです。貴方達が悲しむだけで、苦しむ人がいるんです。……具体的に言うと、僕とか」
「えー? アタシ達ー、知らぬ間に慧くんのこと傷付けちゃったのー?」
「ええ」
「……それはー……ごめんー。不躾な態度取っちゃったことはー、本当に反省していまーす」
「『具体的な例を言うと僕』なだけです。……僕よりも、傷付いている人もいます」

 自分以上の『血』の持ち主なんて、ここには山ほど居るんだから。
 僕は『相手の想いを見る』ことができる。他にも『聴くことができる』人に、『感じることができる』人もいる。どっかに。人の悪意を受け取って苦しむ損な人、本当にいるんだから。
 いっぱい? そう、いっぱいいっぱい、――――。



 ――2005年3月31日

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 /9

 ――『声』を聞くと、槍に貫かれたような痛みを感じる。
 ――大勢の『負』を受け取れば、内臓が掻き回されたような不快感に襲われる。
 幼い頃からの病だった。

 転びそうになっても足を叱咤。洗面台に駆け込み、一気に戻した。
 目の前で繰り出される不愉快な塊を見ていたくない。速攻蛇口をまわす。勢い良く流れ出す水が不快な匂いを早く掻き消してくれるよう、願い続けた。
 廊下で嘔吐する前に間一髪のところを逃れた。だけど腹部より上のぐるぐるした気持ち悪い感覚に意識が飛びそうになっては、苦しさに舞い戻る。

「ぐっ」

 けほけほと何度も咳き込んだ。昨日今日食べたものを全部出してしまったので、もう出てこない。
 喉元の痛み、そして、首もとの激痛。中からも外からも来る不思議で不可解な感覚に頭を抱えた。
 そうだ、吐いた時は口を五度濯いでその後に深呼吸を二回。それから水をゆっくり飲み……。
 幼い頃から志朗お兄ちゃんに教わっていたやり方で気分を持ち直そうとする。誰も見てないからと洗面台の前でへたり込んだ。
 電撃的に体力を奪われた。
 なんだか、久々に。
 幼い頃から起こる不可解な現象。『誰か想い』が身体に流れてくる。ランダムに、突然に、前触れもなく自分の中に流れ込んでくる『不快な中身』。それが押し寄せると気分が悪くなる。今のように。

「……むぐ、おっかしいなぁ」

 嘔吐するなんて久しぶりだった。しゃがみ込みながら頭を抱えた。
 本当は『コレ』が起きた時に考え事をするのは良くないことなのだが、思わず悩んでしまった。気分が悪いときの心痛はより心身にダメージを与える。親戚の優しい大人達がいつもそう教えてくれた。
 この病のせいで多くの人がいるところには行けない。外にも出られない。こんな『病気』を持っているから、僕は小さい頃から兄や周囲の仲間達にも気遣いを配られていた。だからあんまり葛藤はしたくない。
 コツンと洗面台に頭をつける。ひんやりと水道が冷気を伝えてくれた。
 ……頭を卵のように角に叩きつけて割ったら、どんなものが出てくるか……? 不意にそんなことを考えてしまった。
 割って出てきたものが具体的であったらいいのに。抽象的なものに常に悩まされているから、余計にそう思う。
 はは、何を馬鹿な。ふるふる頭を振るう。

 ――『視える』力を他人に判ってもらえた試しは無い。
 悪霊、怨霊、悪しきもの。それだけに限らず、正なる生き物、人間の心すら視える。この気持ちを、誰かと共有できた試しも無い。

 正確には『視える』じゃなくて『視えてしまう』だ。自分から読むことは出来ないが、人が心を放った場合、受け取ることが出来てしまう。
 昔、お父さんや藤春叔父さんから聞かせてもらった話だけど、幼い頃からその力に開花し制御することが出来なかった。そのせいで思念の放出を悉く受けとめていた。大半は異端のもの、ごく普通の念さえも受け取ってしまっていた。
 人の気持ちを受けることが出来る。言葉として排出されていない、内部の念を一方的に受信してしまう。簡単に「誰かの心が読める」とも言えるが、単純な超能力とも違う性質だった。寧ろ自由に読み取ることができる超能力よりタチが悪いものだ。自分の意志と関係無しに暗黒面を覗いてしまうことは恐ろしいことだと自負していた。
 さっきも怖いモノを視てしまったんだ。
 顔を伏せて、胸にじわじわと染み込む熱く苦いものを感じる。涙を流していることに気付くのには時間が掛かってしまった。
 溜めていたものが爆発しそうで、それでもしないよう堪えてみる。鏡の中でふるふる震えている姿が、見ていてみすぼらしくて腹立たしい。年下で仲良しの鶴瀬くんが、しかも今日はお客様として来ているんだ。……声を殺して泣くぐらいしたかった。
 全面に出してしまいたい感情を押し殺し、苦い胃液を飲み干しながら耐える。
 ……シンリンくんから新しい薬を貰っておけば良かった。

 初めて薬を飲まされたのは、どれくらい昔だったか。いつと言える記憶が無いが、僕の生活にいたたまれなくなった叔父・藤春が、彼らの叔母・清子様に霊薬を作らせたんだった。
 昔から清子様は霊媒医師として活躍していた。それこそお父さんが修業をしていた頃も手助けをしていた人と聞く。その人が精神安定剤として叔父・藤春経由に渡してくれたのが、緩和の薬だった。
 『苦しまないようにしている意思を強固とする薬』。痛くないと思う想いを強くするための単一の魔法。
 それまで頼ったことのないものだったから、慣れるまで戸惑った。副作用で熱を出したことだってあった。
 けど痛みで眠れないときや、高揚させなければならないときに使える貴重な外的要素だった。薬のおかげで何回も助けられたもんだ。
 今は僕と同じ世代の子・シンリンくんが霊媒医師として活躍しているので、彼から薬を提供してもらっている。今後も彼女ら、彼らに頼っていくことになる。
 ともあれ、全てを内部に貯め込もうとしている子を少しでも楽にしてあげようと行った手段が、薬だった。
 実際にその力を封印させようとしてくれなかったのはしょうがない。世の中には能力を消滅させる手段もあるそうだが、そんな大層なことは出来ない。投薬は生温い同情にしか思えなかったが、無いよりは良かった。

「……む、ぐぅ」

 ――思念というものは、常に世界中を渡り歩いているという。周りは気付かないだけで、心は空を飛んでいる。
 誰かが甘い物を食べたいなぁと思って、心は空に飛ぶ。だけど飛んだ心は自分のもとに帰ってくるしかない。自分の心を受信できるのは自分しかいないからだ。その人は自分によって発信された心を自分で受信し、最後には甘い物を食べようという行動を起こす。それが脳にある電子信号の在り方。
 だけど空を飛んでいる心を、他人が受信できたら。
 それは、発信者が違うだけのこと。発信していないのに甘い物を食べに行くだろう。
 甘い物だなんて可愛い考えを受け取るならまだいい。それがもっと凶々しい……執念や怨念だったら。
 誰かがあの人を嫌う。キライダ、イナクナレ、シネという気持ちが空に舞う。受け取ってしまう側はあの人を嫌いでもないのにキライダ、イナクナレ、シネと感じる。自分の心でないのに自分の心にそれが残る。それが何度も続けば……パンクしそうになる。他人の意思に自分が押し潰されてしまうんだ。
 だからあまり考えないように、受信してしまったとしても無視するように務めるしかない。けど、あまりに酷い心を受けてしまったとき、悲しくてその人の為に泣いてしまうことがあった。
 どうしてこんなにあの人を嫌うんだ。
 どうしてこんなにあの人を傷付けようとしているんだ。
 もっとあの人を好きになってあげられることはできないの。
 あの人に抱く酷い心を目の当たりにして……誰の為でもなく、泣く。

 ――そのたびに、迷惑をかけていた。
 だって、いきなり泣き出すんだ。何の前触れもなく、もし目の前の人が面白おかしいことをしてくれていたとしても、楽しいことをやっていたとしても。酷い心を受けてしまったが故に、自分が抑えきれなくなってしまったがために、目の前の人を多少なりとも傷付けてしまう。
 だからこそ冷静に務めようと頑張ったことがある。自分は強いって言い聞かせて、耐えて我慢して。それこそ『無感情』を心懸けたことがあった。目の前に人がいる間は常に笑っていようと、誓約していたぐらいに……。

 目を覆いたくなる。幼い僕らには悲劇だらけだった。無心になることで笑顔を捨てることもできたけど、今思えば……笑顔を無心としていた。
 とある記憶を思い出す。僕の前に「自分を楽しませようとしていた子」がいた。名前はカスミちゃん。彼の目の前で、全然違う意思を受けてしまったようだ。それは恐ろしく直球な矢を受けてしまった僕は、崩れ落ちてしまった。そして……カスミちゃんをひどく傷付けた。
 目の前に居た「自分を楽しませようとした子」。その子とは関係無い意思を受け取って泣き崩れる僕。事情の判らない子は、ただ慌てるだけ。そして傷付く。その子だけじゃなく、傷付けてしまった僕もまた……。
 志朗お兄ちゃんは言ってくれた。わざわざ難しい話を叔父さん達に聞き回って、僕に教えてくれた。「誰が悪いというものではない」。感情を放出することはごく自然なことで、誰もが空に心を飛ばしている。どんなに酷く醜い心を飛ばしていたとしても、完全に何も考えていない無心者よりは人間的で優しい行為だ。
 だから怨念を込めた人間も恨めない。恨むなら、それは本当に……「こんな力を持ってしまった自分自身」を恨むべきなんだと、何度も言い聞かせてくれた。
 もしくはこんな力を与えてくれた憎き神を恨もうと。
 小さな僕に納得させるように。
 この記憶がどれだけ僕の中に大きかったか。

 ――誰だってしあわせに包まれていたい。
 愛されている僕はそう思っていた。だって周りは特異な目で見てくることが多い。
 僕の能力は一族の中でも上位らしく、何故か皆が羨ましがる。だけど、この力を特別良かったということは無かった。
 だって僕が利用したいと思った時に使えないんだ。自在に使えたならあってもいい。相手の顔色を伺いたいときに使うことができたなら世の中上手に渡り歩ける。でも、楽しんでいた時に辛いことを聞かせるだなんて酷だ。結局取り乱すのは誰でもなく僕であって、人に心配ばかりかける。
 ……それでも皆、許してくれる。そのことに、本当に僕は幸せで、愛されていると思い直した。
 僕がいくら泣いても受け止めてくれる人がいる。泣くなと涙を止めてくれて、強い言葉で慰めてくれて、時には抱きしめてくれたりキスをくれたり、最後までされると照れてしまって泣いている場合ではなくなる。そこまでしてくれる人が面白くて嬉しくて、仮面で被った笑顔なんて比にもならないくらいの笑顔を点してしまう。
 もっとその笑顔が欲しいんだって……志朗お兄ちゃんは言ってくれてその言葉に応えようとした。
 すると更にキスをしてくれる。いつもの軽い、頬や額、指にしてくれるものではない。繰り出される濃厚な口付け。眩暈を感じながらの連続した快楽の渦。時にしてくれた軽いキスとは比べ物にならないくらいの数をしてくれて、普段と違うむず痒さに頬の筋肉が緩んでいったな。首もとにまで口付けをしてくれたとき、ひどく感じてしまったこともあったっけ。
 抱き合って、抱きしめてくれて……不安な感情を消す。最後にずっと愛し続けてくれた人の心臓が、僕の耳元にあった。そこまで近かった距離は無い。ずっと隣にいてくれて、寝るときも手を繋げる場所にいたのにここまで、体も心も近距離でいたことは無かった。
 こんなに近くにいたのだ。空なんて飛んでいなくても心は判ってしまう。
 心は受信先を間違えて、目の前の兄ではなく僕に辿り着いた。

『怖い』

 ――駄目だ。
 ――考えるな。あんなの考えたらまた吐いちゃう。
 判っていたさ。目の前でよく判らないことを言う僕を見てカスミちゃんが『怖い』って思うことぐらい。……志朗お兄ちゃんですら、『怖い』って思ってたことぐらい。

「………………」

 僕だって怖かった。
 ……二人は今では認めてくれている。僕が癇癪を起こすたびに薬で対処してくれるカスミちゃんや、必死に自分に語り聞かせながら僕を抱き締める志朗お兄ちゃんの姿は、嘘ではないと知っている。
 知っているというより、信じているというべきかもしれないけど。

 先程腹の中の物を全部出してしまったのだから、今度は吐くとしたら内臓が飛び出してしまいそうだった。それはイヤだ。水でも被って頭を冷やせば落ち着くかもしれないと考えて、なんとか立ち上がり、蛇口を捻った。
 水かさを溜めながら、ふっと目の前の鏡を見る。
 そこには、顔が二つあった。
 一つは、嘔吐して力を無くした自分の目。もう一つは、小さく写る自分に似た顔が。

「……燈雅お兄ちゃん?」
 
 首は振り返らず問いかけてみる。
 鏡に写ったのは実の兄だった。数年前まで洗面所の奪い合いをしていた志朗お兄ちゃんとは、違う兄だ。ふざけた争い合いなど一度もしたことのない、もう一人の兄弟が居た。
 水に手を当て、何度か自分を激励する。後ろに判らぬよう隠れ深呼吸をし、蛇口をまわし直して、今度こそ振り返った。
 錯覚でもなく、実兄が立っていた。

「燈雅お兄ちゃんが来賓用の屋敷に来るなんて、珍しいね?」

 声を掛けると、「そうだね」と言うかのように兄は頷く。
 普段は本殿か離れの専用の部屋にいる人物が、外から来る人達のための館にいるだなんて。父親の手伝いで来たならともかく、どうしてこんな所に居るのかと首を傾げた。
 それは普段はあまり会わない一番上の兄だから思うことだった。同じ敷地で同じ血を受けた兄弟でありながら、彼とは住む場所が違う。だからこうして面と向かって会話することもあまり無い。もちろん会おうと思えばいつだって会えるけれども、意識しないと会えない家族。それが彼、燈雅お兄ちゃんに対する印象だった。
 今の彼の格好は部屋着なのかく、来訪者に対する外着のような華やかさは無い。だから余計に来賓目的のここに居る意味が見えなかった。何らかの理由があってここにやって来たんだ。けど、検討はつかなかった。

「新座」
「なに?」
「気分が悪いのか?」

 最初の声掛けに怒られるのではないかと思い、体を強ばらせてしまった。
 けどそんなことはなく、顔色の悪い弟に気遣いを見せただけに過ぎない。特にその声色から怒鳴るようなこともないと安堵する。首を横に振った。

「ちょっと……さ。さっき食べたお菓子の賞味期限が切れてたのかも」
「そりゃいけないな。女中に注意しておかないと」
「え、あっ……いいって! 僕が買ってきたお菓子だし! お手伝いさん達は全然悪くないから! 銀之助さんにも言わないで!」

 気分が悪くなった本当の原因は外敵によるものではないって判ってる。だから真剣に受け止めようとする兄に、冗談だと返す。……不調の原因は『外から来たもの』であるには変わりないけれど。
 ふるふると手を振って否定する僕に、するすると兄は近寄った。
 ふざけた動きを止め、兄のゆっくりした移動を見た。動く体は僕の目の前で止まり、右手が頭の上に乗った。
 「一体何だ」と訊くのは容易い。けれど、それを答えてくれるかどうかは……見ただけで察しがついた。
 この行動自体に意味は無い。置いた燈雅お兄ちゃんの手が少し放れ、首筋へと歩み出した。伝わる掌の感触に、脈をはかるような手つき。
 何かを見ている目。目前にいて自身の目を見られているんだなと思ったが、確信は持てなかった。
 それだけ、さっきから、不安定な行動の連続だったから。

「もし、新座が」
「……うん……?」
「明日からお前が当主だ、って言われたらどうする?」

 高低の無い低い声で、兄は言う。
 何か衝撃の告白をするかと思っていただけに、目を丸くしてしまう。
 僕は冗談が好きだし、兄も好きだと知っている。でもこの状況で言うことかな、と思ってしまった。
 縁側で花札でもしている時ならどんな会話も笑って返せるものの、洗面所の狭くも密室な空間では、何気なく話される軽口も重々しく聞こえてしまう。
 場所が悪い。しかもタイミングが悪い。……今、弟が体調不良で苦しんでいることを知っている筈なのに、なんで、そんなことを尋ねる。

「僕が明日から当主……ね。そりゃ、頑張ろう、って思わなきゃダメだよね」

 そこで息継ぎをした。不自然だと思おうが、言葉を止めた。
 通常の会話であれば相槌を「そうだな」や「どうして」など打ってくれるものである。それなのに、停止する対話。訪れる沈黙。調子が悪いのは兄も同じか、とやっとそこで悟ることが出来た。

「当主ってのが大変なのは、お父さんのお仕事を近くで見るようになったから知ってるよ。そのお仕事が今度は僕がやんなきゃならないんだから、みんなのために頑張らないと。すっごく大事なことだから、ヨケ、イ…………に……」

 話を繋ごうとして頭に槍が刺さった。

 ……無論、洗面所にそんな殺伐なトラップは無いから、例え話だ。槍が刺さるほどの『苦痛の声』が聞こえる。僕にはそう感じた。
 どこから手槍が飛んできた、と思えるぐらいの苦痛が。
 崩れ落ちそうになる。ふらりと前屈みになると、目の前の兄がそれを支えた。一見、普通に話していたら前に倒れようとしたのだ、支えてくれない訳が無い。それでも、

「新座は、そんなに簡単に受け入れられるんだな」

 話は続いた。
 ――あれ、そこはおかしいでしょう?
 眩暈がして倒れそうになって、実際倒れてるのに……なんでそんな、真っ白な表情で……どうして、「大丈夫か」の一言も無しに会話が続くんだ?
 頭に刺さった空想の槍を引き抜きながら、目線を上げた。
 なんてことはない。そこには先程から変わらぬ兄がいる。『先程から変わらぬ兄がいる』。ただそれだけだった。

「本当に今から親父と御祖父様が、明日から新座が当主になるんだと言いにきたら。それでも、新座は、簡単に受け入れられるのか?」
「……だから、頑張らないと、って」
「『本当に』言いにきたらどう思う? 『当主は俺がなるものだ』っていう先入観を全て捨ててだ」

 しっかりと倒れかける体を支えながら、燈雅お兄ちゃんは問い質してきた。
 その口振りが冗談の延長上のものではなく、真剣な声だというのは感づいた。けど、それまでに気を回すほど、僕の調子は良くなかった。
 怠い。言ってしまえば面倒臭い。マイナスの感情が重なって態度に出てしまいそうになる。
 苦しげにしてるのだから自室に戻って休むか、「薬を持ってこようか」ぐらいは言ってほしい。どう見ても喘いでいるんだから気遣いを見せてほしい。明らかに苦痛を訴えているんだから、それぐらいしてみてほしい――。

「…………!?」

 そう思った途端、今度は違う痛みが走った。
 今度は、喉に針が刺さるような感覚だった。またか。今度は、――。



 ――2005年3月31日

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 /10

「……光緑様、それは」
「鶴瀬。君は新座と仲が良いだろう。だからあの子を助けてやってほしい。その代わりと言うのも難だが仏田の名を授ける。義姉上の一族には世話になったからな、私の名が必要なときは使え。真面目な君のことだ、信頼している。それと、いつだってこの一門に来てくれ。私と契約し、あの子の側近になってほしい。ここで今、契約したって構わん。『今年中に我が一族に迎えられる準備ができる』。本格的に座に入る時、手を貸してくれればいい」
「…………。はわっ、はい!? 新座くんと俺は従兄弟なんですから切っても切れない関係ですし! 俺としてみればそんな大役貰えるなんて嬉しいんですが。光緑様は、あの」
「何か?」
「もうその話、新座くんにはしたんですか」

 先程……イトコ兄である新座くんが座っていた座布団の所に、今度は彼の父親が座っていた。
 そういや新座くんは、頭領が座るべき場所にのほほんと腰掛けていたんだよなぁ。おかしいとは思ったけど、改めて考えてもおかしいなぁ。いや、真の親子なのだからおかしくはないけど。
 真の伯父と甥である俺の間には、非常に大きな壁がある。血族であるという以上に、主君と僕べであった。だけど光緑様は優しく俺に声を掛けてくれる。恩恵も与えてくれると言う。……これも、実の息子である新座くんと仲良くしていたおかげか。
 目の前の男は「畏まるな」と断ってくれたが、長年培った認識は簡単に取っ払うことは出来ない。彼は、この敷地内では『神』に等しいのだから、余計にだ。
 俺は隠れて彼の姿に見惚れた。上品な着物に腕を組んで「むぅ」と考え込む姿に。
 その姿がつい先程まで『お茶菓子が無い』と文句を言っていた姿と同じに見えた。顔は似ている。でも、「彼と同じ」とは素直に頷けないものがある。年以外にも色んなオーラが勝てるものではない。

「まだ新座には伝えていない。これから話をするつもりだ」
「では……『新座くんが当主になると決定した』ことを、今知っているのは」
「決定を下した我が父と叔父上ら。私。それと燈雅だけだな。邑妃経由で燈雅付きの使用人には伝わったようだが」
「……燈雅様にはお伝えしたんですか」
「私からではなく、父からな。……そもそもこのことを私が知ったのも叔父上からだったが」

 目の前に居る叔父が、溜息を……吐いたような気がした。
 目に見えてそれを行なったのではなく、そんな風に見えた。目を伏せて、許されるなら何かを口走る勢いがあった。
 けれど口を噤んでいる。光緑様自身、何か思うことがあるのか。『予定外のことを勝手に決められて』。

「その。何度も言うように、俺は光緑様の言葉に従います。新座くんが当主になったとしても、そうでなくても、必ず俺は力になります。彼が敵なんて作らない人だと知っていますが、当主になったらそうともいきませんからね。俺の持てる力をお見せします。絶対に」
「『そうでなくても』、とは?」
「まだ『新座くんが新当主に決定』してないのでしょう。『和光様が新座くんを当主にすると言って』覆すようなことはないでしょうが。……どんな時であろうとも、お力になりましょう。必ずや」

 頭を下げる。
 元々今日は名を借りに頭を下げに来たのだから、これは予定調和。少し勝手が違ったが志に変わりはない。
 そのとき光緑様が何かを小さく呟いた。聞き取れず俺は頭を上げたが、すぐに顔を背けられ尋ねることは出来なかった。
 ただ、横顔から苦々しい顔つきをしているのは察する。違う想いが合い混ざって形にできないまま悩んでいる姿。鉄仮面のような叔父の顔に、陰りが見えたような気がした。
 ……ああ、このひと、きっと無理してる。
 それほど親しい訳でもないのに思ってしまうなんて。俺は主へ再度頭を下げた。……そんな、目に写るほどの悲しさを醸し出すなんて、切なかった。



 ――2005年3月31日

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 /12

 ――これは、きっとお父さんの分だ。
 ――これは、きっとお父さんの声……お父さんの痛みなんだ。

 激しく咳き込む。もう一度嘔吐してしまいそう。内臓まで吐き出すかと言わんばかりの異物感。
 咽せた。血が出るぐらい咳き込んだ。あまりの事態に、今度こそ兄は気遣いの色を見せる。
 さっきの倒れ込みはただ足を滑らせたものだと感じただけなのか、「お兄ちゃんにも気遣いの優しさがあった」と安心した。「もしや大事なところが欠落してしまったのか」と本気で心配してしまったぐらいだ。
 そういえば最初「気分が悪いのか」と具合を訊いてきたじゃないか。僕が「大丈夫」と答えたから、兄は大丈夫と思ったんだ。
 ……でもさ、明らかに不調を訴えてたら普通は判ってくれるものじゃないのかな?

「新座、誰か連れて来ようか? 処方箋はあるのか?」

 真剣に医者の助けを呼ぼうとしてくれるのは嬉しいけれど、医者が来たところで治せるものではない。
 でも断るのも心苦しかった。昔からのことだと判っているけど、それでも。

「大丈夫だよ、すぐ治まるから……」

 首を振って平気だと伝える。なかなか声が出なかった。
 頷いて、深呼吸を何回もして、兄に項垂れる。背中を擦ってくれる暖かい手。……そして、また元に戻った。

「新座なら、この家を背負っていけるから頑張れるな」

 安心したと思いきや、また。苦しんでいるのに、話がアレに戻る。
 ……いっそ嘘でもずっと咳き込み続けた方がいいんだろうか? この人は、何としてもこの話を続けたいらしい。
 兄の支えの腕の中、違う深呼吸をして声を絞り出す。

「……お兄ちゃん。そんな、もしもの話、しない方がいい」

 無理矢理出した僕の声は、とても嗄れた声だった。不格好なものだったが、燈雅お兄ちゃんに伝わるだけの音量はあった。
 その声を聞いて背中を擦るお兄ちゃんの手はピタリと止まる。声を落とさないように、もう一度、口を開く。

「お兄ちゃんが当主になるっていうのは、僕が生まれた時から決まってることだって。そうお母さんから聞いたよ。だから、僕はそんな例え話されても冗談でしか返せない。不真面目な答えにしかならないんだ」
「…………」
「真剣に返してほしいみたいだけど不可能なんだよ、それ。冗談で訊いているなら……もうやめて」

 冗談でしか現実にならない形は、イフだとしても形状を成さない。そんな難しいこと、簡単に口走ることが出来ないほど重要なものだと判っている。
 自分は所詮『家事手伝い』という立場でしかない。けれど一族を補佐する肩書は、一応だが預かっている。問題の重大さは自分なりに判っているつもりだった。
 擦る手を強請るつもりはないが、上目遣いに兄の顔色を覗く。覗いた兄の顔は、微笑みながらも……無表情のままだった。『何も痛みは感じなかった』。
 僕には如何なる事情が兄にあったか知らない。だけど、兄から『何らかの想いが放出されている』のは判った。……その痛みを僕は先程、受信してしまったらしい。
 兄は弟を嘔吐させるほどの『想い』を抱えている。飛ばした覚えはないだろうけど、勝手に弟はそれを受信してしまった。
 でも二度目の痛みは、兄のものではない。
 間違いなく二回目の攻撃は燈雅お兄ちゃんからではなくて。先程の槍は、遠くても大きなもので……。

「……お父さんに、何かあったの?」

 僕の投げ掛けに、少し燈雅お兄ちゃんは反応する。少し目を伏せ答える素振りを見せたが、声までには達しない。

「いや、あったんだよね。だって約束を守るお父さんが、鶴瀬くんを待たせてまでのことがあったんだし」

 ゆっくり自分の喉を摩った。直接敏感なところに届いた打撃は鋭すぎたらしく、未だにダメージが残っている。
 苦しかった。ジンジン痛みが残っていた。でも、兄も……二番目の痛みを放出してしまったもう一人も、『心にそれだけ痛みを味わっている』ということ。
 直接的な痛みに苦しむ自分と、心の中で、同じぐらいの痛みに苦しんでいる兄。
 責めることはできない。できないんだ。かぶりを振った。
 そして今度は自分だけが納得するものではない形のために、きちんと燈雅お兄ちゃんへ向き直る。

「さっきからお兄ちゃんは何を悩んでいるの? お兄ちゃんだけじゃない……。お父さんも……『あの二人』も……。悩んでいるみたいだ。何があったか教えてくれないかな」
「…………」
「教えられないことじゃないよね? 『だって僕にこんなに匂わすぐらい』近付いてるんだし。……もしかして、凄くお兄ちゃんが傷付くことなのかな」
「いや。聞いたら俺よりも、新座が傷付くかもしれない」

 兄は優しく弟を気遣ってくれる。その言い方に「やっぱり」と口が滑りそうになった。
 ……新座も、じゃないんだね。
 けれど、今は黙ってお兄ちゃんの言葉を待つ。何度も痛撃に怯え、備えながらも声を待った。苦しい送信が来てしまったとしても、我慢しよう。

「僕はね、お兄ちゃんが傷付かないんだったらいいよ。だから言ってよ」
「じゃあ話すよ」
「……むぐ。案外早いんだね、決断」

 ――僕は、様々な感情が蠢く屋敷でとある声と痛みを受け取った。
 おそらくお兄ちゃんのもの、お父さんのもの、お兄ちゃんを愛する二人の使用人のもの。
 『負の感情』は本人にだけじゃなく僕の元まで届いた。身内が居る館だけでこんなに苦しんでいる。……こんな体でこれからやっていくのか。何度も味わった不安感にまた襲われてしまった。



 ――2005年3月31日

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 /13
 
 どたどたどたと木の廊下が歪む。音が爆発的に大きくなっていくのと振動を感じ、父・光緑は振り向いた。
 振り返った先には必死に息継ぎをしている息子の僕がいる。騒がしい走り方は一番下の息子しかいないと、振り向く前から父は気付いていたみたいだった。

「新座、行儀が悪いぞ。一声掛ければ止まるものの」
「お父さん、話があるんだ」

 言って、僕の手が勝手に『ある場所へ』動いたのに気付いた。
 僕の手は、僕自身の首元に向いていた。……特におかしなことはない。走って息切れをして呼吸を整えているのに見えなくもない。そうでないのにも見えるが。自分で首を絞めている光景にも見えなくもなかった。

「……。辛いなら何処か、腰を下ろすか」
「お父さんの足腰が平気なら立ち話でいいよ」
「新座の体調を気にして言っているのだ。調子が良くないのだろう? なのに走るとは……」
「走って追いかけたくなるぐらい、お父さんと急にお話したくなったんだよ」

 言葉の節々が力強くなってしまう。何か気迫のある声になっていた。それを聞いたからかお父さんは僕の真剣さを感じとってくれたらしく、改めて向き直った。
 何度も深呼吸をして、自分の喉を擦って声を上げた。「出した」というよりその表現が相応しかった。

「僕なんか当主になっちゃっていいの」

 ……けど失格だ、とお父さんは思っただろう。
 力強く言ったとしても、言い方が気が抜けて格好がつかずにいた。そこまで訂正していたら話が進まないので、蔑ろにしたまま進めることにする。

「新座。その話は誰から聞いた?」
「……燈雅お兄ちゃんから」
「そうか」
「そうか、って……。燈雅お兄ちゃんはお父さんの後を継ぐために、ちっちゃい頃から教まで修行をずうっとしてきたんだろ?」
「ああ」
「ちっちゃい頃、ずうっと修行で忙しかったのも、当主になるためなんでしょ? なのにどうして僕が」
「父上の意向だ」
「おじいちゃんが?」
「新座。後継者はお前になった。適性がお前の方が高く、お前に後を継がせることになった。新座の方が相応しいと判断したからだ。決定は誤りではない」
「……なんで」
「元々、燈雅より新座に才能があった。お前はすぐに私以上の能力者となる。それに新座の力は、自在にコントロールできれば……」
「力を今から身に付けなきゃお父さん以上になることなんてないんでしょ。どうしてそんな面倒なことしなきゃいけないの」
「お前には今までロクな修行をさせてこなかったが、今から磨いたとしても良い術者になる。無駄をせず、修行に耐えきれればな」
「修業は無駄にさせないって言うのに、今までのお兄ちゃんの修行は無駄にしてもいいの」

 その僕の言葉を知って、「全部知っているんだな」と、今度こそお父さんは本物の溜息をついた。
 出来れば人前で出したくなかった弱い部分。引きの部分。脆い箇所を押され、少々言葉を詰まらせている。
 絶対にこの言葉は誰かに言われることぐらい、お父さんも判っていた筈だ。だからきっともうお父さんは何度もこの会話をシミュレートしていたに違いない。でも、まさかこんなに早く実践になるとは、しかも相手が僕になるとは思わなかっただろう。
 お父さんは、いつになく真剣な僕と向き合ってくれた。

「燈雅のこれまでの修業の成果は、無駄ではない」
「でもおじいちゃん達は、今までのお兄ちゃんの生活を無駄にしようとしている」
「燈雅は無能力者だった。当主の長男だというのに、後継者の証が無かった。だが『機関』による人工刻印のおかげで、この家に名を残すに相応しいほど成長した。あれだけ強力な人工刻印を駆使できるのは、他の能力者でもいない。燈雅は無能から生まれ変わった。この力は当主の助けになる。この家の力になる。奴の修行は無駄ではなかった」
「……当主になるよう修行してきた。当主になれなくても、修行の成果が出ているから問題無し。そう言いたいの」
「何が不満だ? 奴が悲しむことなどない。まさかとは思うが、燈雅が新座に恨みを持つと思っているのか?」

 お父さんの「もしも」に、首を振る。
 優しいお兄ちゃんが「自分がなれない」からって、「僕が当主の座を奪った」からって僕を恨む。……ありえる話ではあるけど、「それは無い」と思った。確信していた。

「お兄ちゃんは、悲しまない。僕が当主になろうと恨まないよ。でも、どうせなら恨んでくれた方が良かった。悲しがったり恨んでくれた方がまだ『判りやすい負の感情が伝わってきたよ』」
「……なに?」
「『何かが入ってくるの』って僕、好きじゃない。多少なりとも人を感じ合えるのって凄い事だって思ってたし、みんなが『凄い』って言ってくれてたから、ちょっとだけ誇りを持っていた。でもね、何も入ってこない人には判らないかもしれないけど。……『何にも感じない人』って怖いんだよ。ただただ苦しいって声が聞こえてくるのって、苦しいんだ。なんで苦しいのか判らないのが一番、怖い。そりゃ、いきなり入ってきて僕にどうしようもできない感情は、みんなみんな怖いけどさ!」
「…………」
「今日は、いっぱいだ。いっぱい入ってくる。なんでこんなに嫌なことばっか考えてるのさ、みんな。みんなの理由のある苦しさがいっぱい流れてくる。梓丸くんと男衾くんの苦しさも……全部理解できるから苦しい。みんなみんな痛いよ。あの二人はお兄ちゃんのこと、いっぱい思っていたから……いっぱい入ってくる。僕の中に」
「…………」
「僕もいっぱいお兄ちゃんのこと思ってるから判っちゃう。頭にグサってきたときはちょっと眩暈がしたけど、嫌だったけど、でもそれだけお兄ちゃんのこと大切にしてるんだなって判って良かったよ。嬉しかったよ。……お父さんだって、いっぱいお兄ちゃんのこと想ってたんだよね? 僕の『喉に来るぐらい』、想ってくれてた」
「…………」
「みんな、入ってくる。入ってきて、みんな理解できるのに……。なのに、お兄ちゃんは何にも『入ってこない』。これ、きっと、なんにも悪意が無いからだと思う。僕が体を閉じているからじゃなくて、本当にお兄ちゃんが何も思っていないからだと思う。……お兄ちゃんには、悲しみも恨みも無い。悲しみと恨みを感じないぐらい、カラッポなんだ。カラッポのまま、無感情で何も判らないまま苦しんでるんだ。その感情に到達するまでの経過さえもないんだから。真っ白なんだ、奪ったら、それだけ、で……。僕に来る痛みも真っ白でただただ痛い。考えるから、感じるから人なのに、今のままじゃ人でなくなる。……そんな風にしたのはお父さん達だろ。そういう風にお兄ちゃんにしちゃったお父さん達。ひどいよ。責任があるんだよ。カラッポのままお兄ちゃんは迷ってるんだよ。なんとかしてあげなきゃダメだろう!?」

 捲し立てて、頭をぐしゃぐしゃに掻く。
 言葉にできない。伝えたいのに巧く言葉にならなくて、思うがままに喋っていた。
 何が『入る』のか『入らない』のか、僕の中には当然のようにある現象なのに、周囲は殆ど理解してくれなかった。他人には判ってもらえない感覚が自分の中にある。どうしても判ってほしくて精一杯伝えているのに、理解されずにとぼけられることがある。
 それが怖くてあまり話したくなかったけど、必死で現状を説明した。
 理解してもらえない悲しさは、幼い頃から味わってきた。このもどかしさが、子供の頃は喧嘩と畏怖の元になっていた。
 大人になってからもそれは変わることなく僕の問題になっている。それでも、なんとか理解してもらおうと感情を羅列する。判るだけの言葉を声に出す。形にする。せめて、実の父親には判ってもらおうと思って。
 だって判ってもらえなければ、救いが差し出せないから。

「…………」

 父は……呆然と、僕の言葉を見ているだけ、立っているだけだった。
 でも父の目から「理解しよう」という意思が伝わってくる。諦めず、更に声を続けた。

「お兄ちゃんには、あの道しかないんだよ。だって、今までだってそれだけだったじゃないか。そういう風にして、何にも他のことは入らないようにしたんだ。入り口、小さく。一つしか入らない。其処を詰めたら、何も入らないし、もう、これ以上埋まらない。ダメだ、それ。……可哀相だよ。お兄ちゃんはどうしたらいいか判らなくて苦しんでるよ。可哀想だよ……」
「…………」

 ――生まれてから色々な人に愛され、屋敷で暮らしてきた。
 『不自由が無い優雅な生活』だと、外の人間には言われた。
 けどずっと理解されず、今後も理解されない自分だけの悩み。自分だけの能力。親にも判ってもらえない苦しさが、外部……他者に判ってもらえる筈がない。そういう理由で、この屋敷でずっと暮らしてきた。
 外に出ることなんて、怖くてできたもんじゃなかった。
 外はここ以上に恐ろしい。そう言っていた人を、僕は知っている。
 同じように異種の感覚を持つ者は一族の中に数名いる。経験者の話は、どれもこれも僕の弱い心を恐怖心で満たしていった。
 だから軟弱にも、怖いまま逃げてしまった。
 そのまま、今があって。

 ――このまま僕は怖がって生きていくしかないの?
 ――理解されないから、黙って我慢しているしかないの?

 何度も思った。それが僕らの口癖の「仕方ない」で片付けられるたびに。
 でも……どうにかしなきゃとも思っていた。
 「このままでいること」は許されない。だってこのまま、成されるがままにしていたら……僕が不自由になるだけでなく、お兄ちゃんの今も失くてされてしまうことになるんだから。

 このままでは、いけないんだ。



 ――2005年4月9日

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 /14

 仕事から帰ると、自宅の電話に留守電が入っていた。仕事先が数件、プライベートが数件、身内からが一件だ。
 仕事やプライベートを全部を聞き終わった後、最も興味が出なかった最後の一つに耳を通す。ネクタイを外しYシャツを脱いで、ビールを片手にソファに座りながら、何もかもが終わった後に、最後の連絡を聞く。
 相手は、従弟の鶴瀬だった。留守電が入っていた日程は、今日から二日前のものだった。

『志朗さんの電話番号で間違いないでしょうか。圭吾さんから番号を教えて頂いたので電話しました。留守だったのでメッセージを残……』

 丁寧に鶴瀬は、留守電の経緯までをも残していた。
 鶴瀬。母方の従弟で、俺より三つか四つ年下だった筈。俺は特別仲が良かったという訳ではない。弟の新座が親しかったのは覚えている。
 そういえば新座が「鶴瀬くんはお兄ちゃんと同じお巡りさんになったんだよ!」と言っていたような気がする。去年の暮れに新座がそう話していた。活動する場所は違えど同じ職場同士、何か相談事か。

『新座くんが家出したそうです』

 ビールを吹いた上に零し、更に撒き散らしてしまった。
 数秒後、鶴瀬に電話をする。ビールを拭く時間すら惜しかった。

「…………鶴瀬が知ってることを全て話せ」
『はわ。なんか俺、尋問されてるみたいですね。俺もする側の人間なんですけど。なんとか俺も皆さんの仲間になれましたし。……でも残念ながら、俺が知っているのは留守電に入れた話だけです』
「それじゃ全然情報無いってことじゃねーか! もう家を出て九日も経ってるだとぉ!?」
『一週間経ってそちらに電話し続けたんですけど……留守電入れて、今日でちょうど二日経っちゃいましたね、はい』
「経っちゃいましたね、じゃねえ。何か事件とか起こしてないか、巻き込まれてないか、ニュースになってたりしないのか!?」
『ニュースになってたら県外の志朗さんでも目にするじゃないですか? 落ち着いて下さい。……でも、年下の俺が言うのもなんですけど。新座くんだってもう良い年じゃないですか。家出したぐらいでそんなに大袈裟に慌てるほどですか?』
「ああ。本当ならバカみたいに騒ぐのはバカに違いない。……けど、慌てるのは慌てるだけの理由があるんだ。アイツは、本当に、外の世界を知らない」
『……外の世界を、ですか』
「アイツは……病気持ちなんだ。外に出て暮らせるほど……器用な健康体じゃない」
『……病気。でも、学校は行ってたんですよね?』
「近場のな。実家の寺から一番近い所に通っていた。義務教育は全部受けた。でもそれだって問題があった」
『問題……』
「……遠出は出来なかった。というか、させなかった。それに中学までの九年間だって半分は出席してたけど、半分は訳ありで欠席か早退だ」
『そうだったんですか?』

 昔の新座を語るたび、鶴瀬の声がどんどん心配そうなものになってくる。
 鶴瀬は新座の力についてあまり知らなかったらしく(そんな大きな声で言えるもんじゃない。『人の心が読める』だなんて)、俺の話を聞いていくうちに相槌の声が暗くなっていった。「それほどの大病だとは知らなかった」と鶴瀬はひどく心配してくれた。新座に懐いていたイトコなだけはある。心から心配してくれている声を聞いていたら、俺の興奮も徐々に落ち着いてきた。
 弟は『誰かの心を読む』という力を持っている。自分が読もうともしなくても、勝手に遠くに居る誰かの心が見えてしまい、その気味悪さに嘔吐するという……酷い病気だった。
 そんな病を生まれたときから抱えていたから……俺は絶対に『新座が寺の外に出ることがない』と思っていた。病の前例も知っているからだ。
 幼い頃、自分の叔父が話していたことを、兄弟二人で聞いていた。叔父の名は、柳翠。新座と似たような病気を持った親戚で、現在も寺から出ることなく、自ら寺の中に引き籠っている。
 柳翠は外の恐ろしい話を幼い子供に聞かせた。『外には下賤な者が大量に居て、思念が疼き、負の感情を抱え過ぎて圧死されることもある』……そんな話を。
 俺は聞いたとき「何を大袈裟な。馬鹿な事を」と思うに過ぎなかった。だが、新座は本気で外を恐れるようになった。
 現に新座は、『負の感情で圧死』させられそうになった経験を、既に何回もしている。そして学校への登校以外、外出することはなくなった。学生のときも毎日恐れていた。学校で……『感情に呑まれて気分が悪くなり、吐き出す』ことを何度もやっていたのを、兄だから知っている。

 突然何も無いところで叫んだり、傷も無いのに痛いと言ったり、クラスメイトが愉快に笑っているところで泣く。
 「彼は心が読める」なんて事情を知る者なんて俺やカスミ達ぐらいしかいない。そんなの子供達に教えられる訳が無い。
 だから新座を理解してくれる奴なんて、外の世界には一人も……あんなに多くの子供がいたのに一人も……それどころか新座を傷付ける敵は大勢……。

 嫌なことを思い出してしまった。辛い想いをしてまで学校に行こうとする新座を止めることも多かった。その顔を思い出して、つい頭を抱えてしまった。
 そんなこともあってか、ずっと新座は寺の中で閉じこもって生きる――『柳翠叔父さんの二の舞になる』ものだと、思っていた。
 でもそれが平和なんじゃないかと信じていた。新座の為を思うと、新座の『病気』を一番近くで見ていただけに。
 鶴瀬の話を聞いている時に、電話が違う電灯を灯す。キャッチだった。新座がタイミング良くかけてくれたもんだと思ったが、まさかそんなことはない。鶴瀬に謝ってそちらに切り換える。

『志朗お兄ちゃん』

 まさかがそこにあった。

「………………新座」
『えっと、やっと繋がった。ご迷惑おかけし……てる?』
「してる」
『ごめん』

 背後の音は無い。実に静かなものだった公衆電話であれば多少物音がしてもいいものの。……どこか屋根の下であることは間違いない、と数年目の刑事心が捜索を入れる。
 けど、その心配を余所に新座は話し出した。

『えっと……志朗お兄ちゃんにはちゃんと話しておこうと思って電話しました。何か訊きたいことはありますか?』
「精一杯な敬語のくせに偉そうな電話だな。質問はあるか、だと?」
『むぐっ、ごめんなさいっ。……でもお兄ちゃんにはちゃんと声を聞かせておいた方がいいかなー……って思って、電話したんだ』
「どういう意味で?」
『……お兄ちゃんなら僕を助けてくれるかなって、思って』
「あのな……。助けるに決まってんだろ。お前のことは俺が一番大切にしている自信があるんだ。その心意義を喪失させないでくれ」
『……はあい』
「家出した理由は、聞かない。まさか親父が『出て行けー!』なんて言うとは思わないし。寧ろジジイ共は永遠に目の中に入れておく気だったろ」
『……うん』
「とりあえず今、何処に居る。誰の場所に居る」
『えっと、住所はー……』

 新座はメモを読みながらなのかつっかえつっかえの状態で、住所を口にする。……俺の見当もつかないような場所だった。

『教会のシスターさんがね、すっごく良い人で、優しくって……。お家が無くて雨に濡れたら大変でしょうって言ってくれて。傘差してなかったから心配して声掛けてくれたんだよ。でね、それから一緒に暮らさせてもらっているんだ。教会ってね、夜もキラッキラしていて綺麗なんだよ。今まで全然来たことなかったし、おじいちゃん達が入っちゃダメって言ってたし、見たこともなかったから毎晩眺めてるんだ』
「……教会って……。どっかのボランティア団体に居るのか」
『えっと、そんな感じ。お小遣いいっぱい持って電車乗ったらよく判らない場所行っちゃった。でも良い人に拾ってもらえて良かったよ〜』
「良かったよ、じゃない」
『むぐっ。あ、あのねあのね。僕……料理、好きだからご飯を作ってるんだ。教会でコックさんしてるんだよ』
「料理? 新座、そんなのできるのか?」
『実はできるんだよ、えへへ! あと……昔、僕って輝(ひかる)さんにピアノを習ってたでしょ? だからね、教会にあるオルガンを弾かせてもらってるんだ! みんなでお歌を唄うときの助っ人さんをしてるんだよ。毎週色んな人が来てシスターさんも大変だから、手伝ってくれると嬉しいって言ってくれて。子供達と一緒にお歌を唄いながらオルガンを弾くってなかなか難しいんだよ! お兄ちゃん、やったことないでしょ?』
「…………」
『親戚以外と話すことが無かったから僕も嬉しくって。……そんな生活を送ってます』

 新座の声は、普段聞いていた声よりも、少しやつれていた。
 外の世界に出て、実家に居たとき以上に『声』を聞くようになっているんじゃないか。だから毎日受けるダメージは倍になっている筈。
 けど、『それでもやっていく』と、言葉にしなくても言っているような気がした。

『という訳で、僕は何にも心配ございません。もし良かったらお兄ちゃんからお家にそう連絡を入れてほしいんだけど……』
「んなことできるか。俺は寺から追い出されたクチなんだぞ」
『え、そうなの? 外で刑事さんになって頑張ってねー……じゃなかったの?』
「……『世の為になるぐらいに育ててやったんだから、せいぜい稼いで来い』だ。俺は外にウキウキしてなかったから、お前が羨ましい」
『そうなんだ。損してるね、お兄ちゃん』

 ……その言葉を聞いて。
 『お前はウキウキしてるのか?』
 と、訊きたくなったが、答えを聞かずとも判ってしまった。如何なる気持ちで、どんな生活をしているのかも。

「新座」
『むぐ?』
「俺は、人を疑って問い詰める仕事してるからよく思うんだが。外が怖い」
『…………わ、僕と同じだ』
「同じなのか」
『……ううん。僕達は、かな。お兄ちゃんも、その一人だったもんね』
「やっぱり、外は怖いか」
『……そりゃ、怖くないって言ったら嘘になる。外は……柳翠さんの言う通り、色んな考えの人がいっぱい居るから、お寺にいる時よりも、色んな想いが中に入ってくるよ……。今いる教会ってところは、様々な人が出入りして「懺悔せよ」って色んな想いを置いていくんだ。……その時間は、耳を閉じていても怖いよ』
「……お前、わざわざ辛い場所を選んでるじゃねえか」
『いや、そういうつもりじゃなかったんだけどね……むぐぅ。偶然にも拾ってくれた人がシスターさんってだけなんだけど。……けど、自分以外が怖いのって当たり前の事なんだね』
「……そうなのか?」
『みんな、コワイコワイ言ってる。同じ不安、いっぱい抱えてるっぽい。みんな、何かしら持っているのは変わらないみたいだ。どんな人でも、自分以外の誰かは怖い。……僕だけじゃないよ』
「……そうか」
『……偶然、教会の人に拾われたけど。これって神様が僕に「一番つらい所で修行してこい」ってコトなんじゃないかなって思うんだ。だから頑張らないと。それに、とっても優しくって良い場所に来られたんだから、少しは他人に慣れるために……お寺には帰らないようにする。……でも喧嘩別れなのはイヤだから、そのうち顔を出すけどね。お父さんは判ってくれそうだけど、他の人が怖いし。その時はお兄ちゃん、一緒に帰ってください』
「コラ、電話越しに頭を下げるな」
『むぐっ、よく判るね? ……って、居候が長電話はダメだし、そろそろ電話切るよ』
「ああ」
『……今はね、外に出るの……もう少し早くても良かったかなって思ってる。だって……怖いだけと思っていたお外、知らないことが多くて、楽しいから。だって、小さい頃のお兄ちゃんだって……僕のことを怖いって思ってたくせに、それでも付き合ってくれるように頑張ってくれたじゃないか』
「…………」
『だから、僕だってもうちょっと頑張ってみる。……今もお兄ちゃんは怖いけど頑張ってるんだよね。充実した生活になるように、僕もやってみるよ。だから、お互いこれから頑張ろー……』
「いいや。つまらんから俺もそろそろ場所変えるわ。明日からな」
『え?』

「警察とか刑事とか、そんな見上げた職じゃなくって、家の連中に良い顔される職じゃなくって……もっとバカバカしい方に行くわ。辞表、書いてくる」

 ――がちゃり。




END

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