■ 外伝02 / 「供給」



 ――1982年2月20日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /1

 それは『一目惚れ』というものだと思う。

 一瞬にして目を奪われた。無表情に、二人の少年を追い掛ける透明な目。あまりの整った容貌に、思わず声を失った。
 純粋に、笑い合う弟達たちを見つめる真っ直ぐな目と、人形のように整えられた零の顔を見て……彼を「綺麗だ」と思った。
 同時にその目を見て「怖い」という感情も沸き上がった。
 作り物なのか、生きているのか、それさえも疑ってしまう透明な目だった。でも……そんな黒水晶のような瞳に、自分の姿を映してみたい、羨望が募った。

 目が合って俺がおろおろしていたら、彼はどこかに行ってしまう。その日はそのまま、何も話すことが出来ずに一日を過ごしてしまった。一日中、あのとき声を掛ければ良かったという後悔の念を抱く羽目になってしまった。
 だからこそ、今日こそはと勇気を出して声を掛ける。
 今日も縁側に一人座って弟二人を見る彼は、一声では気付かないぐらいぼうっとしていた。だから俺は何度も、人から聞いた彼の名前を呼んだ。
 やっと自分が呼ばれていると気付いて彼がこちらを向く。硝子のような目に俺の姿が映った時、気付いた。
 底の通るような透明な眼なんかじゃなかった。
 色んな物が交じり合った、ひどく濁った瞳の色。色の中身は哀しいものが詰め込まれて凝縮されている。
 彼の眼は、本当に人形の眼のような、綺麗だけれど歪な不思議な光を放っていた。様々な感情が入り交じっているようなのに、それでも虚ろな表情を強く印象付ける光だった。
 それに気付いた瞬間、思わず後ずさりしてしまいそうになった。
 負けるもんかともう一度、彼の名を呼ぶ。何も考えていなかった。考えまいと拒んでいる頑固な瞳に自分を植え付けてやろうと必死がっていた。「いきなり現れた妙な奴」と記憶付けてしまえばこっちのものだ。そう思い、何度も話しかけた。

 ――こんな所にいないで皆といっしょに遊ばないのか。
 ――ひとりでいないでこっちに来いよ。
 ――俺は圭吾っていうんだ……とか。

 最初は何も答えず、ただ頷いているだけだった。
 自己紹介を俺から一方的にして、彼はただ頷いていただけだった。会話にもなってなかったかもしれない。けれど、頷いてくれるってことは少しでも俺の声で反応してくれるということ。嬉しかった。
 着実に彼の目は、俺をとらえてくれている。もっとその目に焼き付けてほしいと俺は彼に話しかけた。
 一人で弟達を見たがっている彼にしてみれば、非常に面倒な奴に付きまとわれたなと思ったことだろう。
 けど気にしなかった。その時は相手のことよりも自分の気持ちを優先してしまい、ずっと隣で話し掛け続けた。それにあっちも嫌ならば嫌と言ってくる筈だ。
 彼が自己主張のしない性格だと知っておきながらそんな言い訳を立て、彼の手を無理矢理引いた。
 遊びの中に入れようと力いっぱい手を引く。
 彼の顔が戸惑い、無表情が少し崩れる。焦ってどうしたらいいか判らず周りを見渡している。すると彼がずっと見つめていた二人のうち一人……新座くんが駆け寄ってきて手助けをしてくれる。
 勿論、彼は俺の味方だ。彼の弟である新座くんが「いっしょに遊ぼう!」と無邪気な笑顔を向ける。彼は困った表情をした。まるでこちらが苛めているような錯覚に陥りそうになるほど、彼の顔は崩れていた。
 それでも、彼の一番下の弟の笑顔につられるかのように、無表情が変わっていった。
 笑顔になった。
 微かにだが、笑った顔を見せてくれた。

 途端、俺は体中に甘い痺れを感じた。
 笑顔は俺に向けられたのではない、抱きついてきた弟の新座くんに笑い返したものだと判っていた。けど、またも俺の言葉を失くすほどのものだった。
 整えられた人形の顔などどこにも無い、うっすらと赤みを帯びて笑った人間の顔に……俺は、虜になった。

 笑顔を見せたのは一瞬だけ。弟と話している間には、彼は元通り無表情になっていた。
 他人に話し掛けることもなく、ただ頷いているだけの彼に戻ってしまっている。またも必死に笑いかけてみるがまだ届かず、あまり目を合わせようともしてくれない。
 ――どうしてそんなに。
 疑問に思っていると、彼を連れ戻そうとする人が来てしまった。
 これで今日は終わりだ。彼の弟が「もっとお兄ちゃんと遊びたい」と強請ったが、大人は笑顔で「お兄ちゃんはお勉強の時間だから」と手を引いていく。引かれた彼は拒むことなく、顔を膨らませる弟の頭を撫でると言われるがまま去っていった。
 また明日、言ってみたが頷くことなく終わる。
 彼が去った後も、彼のことばかり考えていた。
 あの衝撃は何だ。初めて彼を見た時にも似た、胸が軋むような感覚は。
 痛みと違うのにどこか苦しい。風邪を引いたんじゃないかと心配されるのが嫌で、誰にも言えなかった。幸い、熱があるんじゃないかと言い出す者もいなかった。表面に出ないというということは、やっぱり外傷じゃない。じゃあ何故。一体、何が……。

 翌日。いつもの子供達の輪から抜け、彼が座っていた離れ屋敷の縁側へ向かった。
 そこで彼は、普段通り虚ろな目を外に向けて無表情に鎮座していた。
 無表情? いや、違った。どこか傷を負っているような、辛そうな顔だというのが判る。
 昨日とはほんの少しの変化に過ぎなかった。だが、以前見たものと明らかに違う感情が見受けられる。見逃すのは簡単なほど小さな変化だ。
 あまり彼を知らない人なら気付かないかもしれない。といいつつも自分も彼自身を知らないのだが……気付いてしまった。
 近付いて、彼に話し掛ける。俺から何度も声を掛けてみるが、彼は脈絡もなく頷くだけ。
 ――どうして声を出してくれないんだ。
 一人話し掛けるのが辛くなってつい言ってしまう。
 ――そんなに俺と話したくないか、なら嫌だって言ってみろよ。
 早い不満だった。それだけ自分は急かしていた。彼の声が聞きたいが故に。

「必要な会話以外、声を極力出すなと言われているから」

 それが、俺と彼が初めて交わした言葉だった。
 前提を覆した内容だ。出すなというから出さなかったのに、それを伝える為に彼は声を出してしまう。そんないたちごっこの罠に気付いたのか、彼は気まずそうに口を紡ぐ
 苦々しく想い、立ち上がり、屋敷の中に入ろうとする。止めて、もう一度話し掛けた。
 ――そんな制約があるか。『今』は必要なときじゃないのか?
 無視される悔しさに言い張る。すると、また彼の顔が更に歪んだ。
 辛そうな顔をして、目をぎゅっと瞑って、無表情を装っている。どう見てもその顔は作っていた。機嫌が悪いならそのまま嫌な顔をすればいいのに、それさえも殺して、押し潰そうとして。全身から「話し掛けないでくれ」という雰囲気を醸し出している。
 無表情が崩れるから……この仮面が落ちてしまいそうだから、そう拒んでいるようにしか見えなかった。そんなに我慢することない、感情を殺すほど苦しいことは無いんだから。
 何度も言ってやる。

 ――もっと嫌なら嫌そうな顔をすればいい。泣きたいなら泣きたいなりの顔をして……笑いたかったら笑えばいいだろ。

 彼が昨日の、弟の前で一瞬だけ見せた顔を思い出した。
 あの後、直ぐに元の顔へと戻した彼。その行為が非常に哀しいものだと思う。だからそんな哀しいことを続ける彼に、思わず叫んだ。
 逃げ続けていた彼は、止まる。無表情を止め、かわるがわる顔つきが変化する。
 一体どうすればいいのか判らない、昨日と同じようにくしゃくしゃに顔を汚す。
 零れ出す嗚咽。最初は言葉にならない音の羅列。口を抑えて聞こえないようにしているが、それさえも我慢出来なくなっていく……。

「……オレ、もう耐えられない……」

 言って、崩れ落ちた。



 ――1989年7月20日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /2

 全身の震えが止まらない。身体が崩れていってしまいそうだ。壊れ無くなってしまいそうな体を、必死に支えていた。何とかして耐えなければ。歯を食いしばって目を瞑る。
 苦しかった。中に入って来る大きなモノが、壊すことを目的のように強引に貫いていく。苦痛以外の何物でもない。だけど、これにも意味がある。
 拒否を表す汗を零した。許してもらいたいと何度も思った。
 下で見上げている父を見る。何も変わらない表情をしていた。

「まだ辛いか。十分に慣らしたつもりだったが」
「い、……た……っ、あ……」
「当然だ。修行なのだからな」

 父は軽い口ぶりだった。
 痛みを噛み殺そうとする。与えられた課題なのだから、必ずクリアーは出来る筈だ。
 でも苦しい。痛い。怖い。そんなマイナスな感情ばかりが横切り、心を、体中を満たしていく。
 それでも我慢しなければ。本当に拒否してはならない。見捨てられたら、更に惨いことを……。単なる想像で余計に恐怖が体を満たしていく。大半は既に体験済みだったからだ。
 血は出ていない。けど、何度も流した。ただ傷付られるだけだったら良かったのに、中を抉っていくのは、慣れなかった。
 怖い。十歳頃からの英才教育だと受けてきた行為でも、まだ。

 腰を持ち上げる。少しずつ、上へ持ち上げていく。
 痛みがあってもそれ以外のものがある限り、行為は続いていく。どれだけ涙が溢れようが構わず、させられていく。そしてまた元の位置に戻す。
 いつか快楽になると信じて。
 意識が消えかかる。だがそれを、父の声と動きが止める。

「スイッチを切るな。それではこの供給している意味が無くなる。……続けるんだ」
「う、ぐ……うっ……ぁ、……あ」

 呼吸ができない。身体がうまく動かない。人の機能が過剰な痛覚によって奪われていく。
 それが狙いだ。刻印の起動を痛覚によって呼び起こす。鍵のついた開かない扉を、斧で叩き割るかのように。
 そのための、儀式がこれだった。
 泣きながらも、再び腰を持ち上げる。あまりにその動きが遅かったせいか、痺れをきかせた父が、親切心というように腰を持ち上げた。中が、熱かった。

「全く、物覚えの悪い」

 父が残念そうに溜息をつき、言う。
 悲痛な叫びは届いていた。届いていたが、却下されてしまう。
 痛みに喘いで、涙を流すことしかできない。
 意識を飛ばすことなど、絶対に許されない。それでも行為を止めない。止めても、再開が待っていた。
 元からこの行為をするために、ここがある。誰も止めることなどしなかった。どんな事情であれ、周りは暖かく見守っていた。非道なことだと誰も考えない。
 これは修行。寧ろ名誉的なもので、誰もが行為を促すようなもの。泣き叫ぶ修行だとしても。ボロボロになる修行だとしても。修行は、修行に変わりないのだから。
 ぼうと意識を朦朧とさせて床に倒れようと、助けようとしない。助けるというのは、甘えなのだから。決して、許してはいけないことなのだから。
 厳しいコーチ達は最初から見ていた。そうあれと教え込まれてきた。だから懸命に、我慢した。嫌がる自分は修行が足りないのだから我慢した。懸命に、必死に縋っていった。今もそう、なのに。

「まだ回路の起動の仕方も覚えんのか。そんなのではいくら経っても終わらないぞ」
「うっ……う、あ、ぁぁ……っ!」

 いくら言い訳しても、苦しいのは変わらない。腰を突き上げ始め、声を上げた。それを最後に声が出ない。
 限界だった。いくら動かされてもどうにもできなかった。失敗だと言われても、無理だった。
 光が消える。瞼を開けているハズなのに、何も見えない。
 その代わり、流れ込んでくる。
 カチリ、という機械的な音がしたと思ったら、『腕の口』がパックリと開いてそこから流れ出す。不思議と苦しくない。
 今の今まで苦しがっていたというのに、その瞬間は何にも感じない。寧ろ、快楽とも言える感覚が生じた。それまでが地獄なのだから、求めたいと思えないけれど。

「…………やっとか」

 父は、やっと微笑んでくれた。
 「やっと補給ができた」と父が言うのと同時に、「ようやく満足してくれた」と安心感が沸き起こる。
 それまで怖かった。体が壊れる恐怖も感じていたが、それだけじゃない。……失望されるのが、一番怖かった。
 されないように今までがあった。何人ものに交替で陵辱されたって、最後に優しく認めてくれたらそれでいい。

「出すぞ」

 満たしていく。身体は壊れかけだから、もう水液の感覚は無い。

「…………。完全に意識を切りおって、莫迦め」

 解放され、体を横たわらせる。
 ぼんやりと天井を見ることしかできない。父の声に耳を傾けるのも必死だ。

「今日も失敗か。もうその年だ、一人で力を動かすぐらい出来ないでどうする。……やはりこの修練は駄目なのか。これでは器に負担がかかるだけで何の意味も無いということか」

 父が起き上がって着物を整えている音がした。
 ……殺意が、過ぎては消えた。
 元はと言えば、いくら父が手塩をかけても相手をしてくれて、それでも覚えない自分ができないのだからいけない。多少体が壊れてしまっても、どうなってもいいと覚悟を決めていた。上手いと言われた行為だって自分からするように、どこまでも認めてもらえるようにと今まで頑張ってきた。
 だから堪えなければならない。オレは、生きていたい。
 座敷牢の中で思った。何度目か判らないぐらい、横たわりながら思い続けた。



 ――1989年8月23日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /3
 
 目が覚める。今の今まで夢見ていたというのに、意識はハッキリしていた。
 やはり外は寒かったからか。いくらまだ8月だとはいえ冷夏と言われている。今年は酷寒の冬がやってくるようだ、と……もう暫くすれば完全にいなくなる蝉の声を聴いていた。
 風が涼しい。こんなに遠くにやって来るのだったら、毛布の一枚ぐらい羽織ってくれば良かった。そこまで頭がまわらなかった。
 外に出ると決めたら一直線で、持てるだけの弁当と数枚の写真を持って、滅多に履かない燈雅の草履を出してやって、飛び出した。
 本当にそれだけだ。何にも後のことを考えていない。
 日が落ちるのがまだ遅い夕刻時に走り出してから、どれくらい経った。人に忘れ去られたような小さな神社には、時計が無い。時間が判らない。時計を持つ気さえ起きなかった。時間なんて関係ないと吹っ切れてしまったせいだ。

 冷静に考えてみれば、家から子供が二人飛び出したら残された者達はどうする?
 探しに来るだろうな。自分にわざわざ問いかける必要も無い。
 夜の風は涼しいが、唯一暖かいものが肌に触れる。まだ目の覚めていない、夢見の中にいる者が一人り。
 涼しい風に目が覚めたのではなく、どうやら腕が痺れて起きてしまったようだ。いつの間に、どういう経緯で腕枕なんて姿で寝ていたんだ。不安定なのに寝息を立てている。起こすのも難なので、そのまま意識を起こしたまま倒れていた。

 数枚の写真が指に当たる。夕日の神社を写した写真だ。
 実家の寺とは違う、小さく見窄らしい神社。そこから見える景色が、紙の中に写っている。
 この平面上の世界と実際の世界を見比べようと寺から出てきたのもいいが、辿り着いた時にはもう日が落ちてしまった。写真と見比べるにも、懐中電灯さえも持ってきてない。勿論、人の手のかかっていない草原の中に外灯なんてものはない。
 失敗なんてものじゃない。計画性の無さ過ぎる自分に嫌気が差した。
 それなのに連れてきた相手は、さっきまで「こんなところにも神様が住むものなんだな」と笑っていた。景色が第一だと思っていたが、どうやら燈雅は景色の中の一つに興味を持ったようだ。
 暫く寂れた神社の回りを彷徨いて、話をして、昼寝をして、そして今に至る。楽しい時間には変わりない。が、空を見回すと首が動いた事が気に入らないのか、眠っている方が不満そうに唸る。眠っている筈なのに文句を言い出して、楽しく思いつつも少し気に障って、悪戯してやろうかと思ってしまう。そんな事でもしようなら、後の仕返しが怖いのだが。
 間近にある寝顔に、つい、在らぬ事を考えてしまう。
 このまま一気に腕を引いてみたらどうなるかとか。確か持ってきたマジックで落書きしてやろうかとか。
 嫌がらせにキスでもしてやろうかとか何とか。

 顔を背ける。黒い空を見る。燈雅の顔を見ない。
 悪戯心に何気なく思ったことだが、最後のは本気でしてしまおうかと思って必死に止めた。
 考えて、想像して、顔を赤くしてしまっている自分がいる。
 風が吹いた。熱くなった顔を冷ましてやろうという心遣いのようにタイミング良く。

 思えば、自分より燈雅の方が軽装だった。只でさえ洋服の自分より寒々しい格好をしているのに、上着さえも用意してやらなかった。
 靴だって、草履や下駄以外にあればいいのに実家にはロクでもない物ばかりで役に立たなかった。
 多分、時刻を大幅に間違えてしまったのは、特別歩きづらい草履を履かせてしまったからだ。
 何から何まで裏目に出てるじゃないか、オイ。熱い溜息で、涼しい風に対抗する。無論、勝てる筈も無く。

 いつも部屋に篭もっている燈雅は部屋着しか持っていないのかというぐらい、物を持っていない。
 彼は趣味も特に無いらしく、娯楽と言えば今の季節、落葉と女中の話だけだという。だからこそ兄・悟司の古本や、下界を写した写真を持っていってやると喜ぶのだが。本家でも、離れの屋敷に住んでいるようで、元々本家から離れている自分との接点はあまり無い。
 いや、まず無い。俺は中学のときに実家を離れて過ごすようになった。だから年末年始の会合と今のような夏休講の時ぐらいしか実家の寺に帰ってくることはない。年に二、三回帰ってくるだけの期間でしか会わない関係だ。その度に、無駄に部屋に堪っていく兄の本を貰ってきてあげたり、外に出ないという奴の為に写真を見せてやったりする。
 それだけで燈雅は喜ぶ。
 そんな小さなことで、この男は喜んでくれるんだ。手間もとらない、負担にもならないことで。
 本ぐらいなら女中に言って買ってきてもらえばいいのにと思うが、一体何の本を買えばいいのか判らなくて言わないらしい。それと、燈雅は物語を楽しんでいるというよりは、『文章を追う』行為を楽しんでいるようだった。
 写真もそうだ。写真なんてただの小さな平面体。それを見るだけで目を輝かせる。新しい刺激があれば何でもいい。
 今日見せたのは、比較的近くにある遠い世界の神社。
 見たことのない景観に、飛び交う鳥、紅い夕日。自分でもプロ並だと思った写真に、燈雅は見惚れていた。ただの写真だというのに。

 ――本物は、もっといいんだぞ。

 だけど、そう言っても燈雅に興味を持って貰えなかった。偽物に満足した目は「これで十分」だと言う。
 それは、本物を見る機会は無いと悟っているからだ。
 見られない本物なんて無い。現に、あのバカ高い石段を下って行った同じ山にある神社なんだ。直ぐに行けば見られるんだ。そう言いがかること、数分間。言うよりも見る方が早いと手を引いたのが、一体、何時間前だろう?

 神社でどれくらい眠っていたのか判らない今では、何だか遠い昔のように感じられる。
 一気に走っていて疲れたからか? 手を引いて走るなんてまずしない事をしたからか? とにかく、途中が抜けてしまうぐらい必死だった。
 必死なのはいいけれど、結局答えを見せられなかった訳だ。
 謝る。何の為に息を切らせてまでして走らせたのか。燈雅は構わないと笑うが、何だか今は後悔しか残らなかった。
 ――なんで今、寝てるんだ?
 疲れているからだ、休みたいからだ。でも眠る為に来るんだったら、あの家でも眠れるじゃないか。ここに「絶対に楽しい」と思って連れてきたんじゃないか。
 それなのにこんな真っ暗な中、月も出ない空を眺める楽しみもない下で、何も楽しい記憶なんて作ってあげられないじゃないか。
 思って、悔いた。歯痒さを感じる。
 こいつはどんな小さな事にも感動してくれるのに、その小さなことさえも作ってやれない自分は何だ、と。
 また熱く、重い溜息をついた。また寒い風に負けぬよう。
 溜息は風を追い返す事は出来なかったが、眠る燈雅を起こすだけの力はあったようだ。

「燈雅……どうするんだ?」

 いきなりの問いかけ。
 だが、主語が付いてなくても彼に意味は通じた。

「今から帰っても怒られるだろうな。同じ怒られるなら、もっと遅く帰ってもいいんじゃないか」

 今持っているのは、数枚の写真と一日もつかの弁当。あとは、親への言い訳ぐらいだ。

「オレ達が帰らなくても多分誰かが探しに来る。過保護な連中がいるからな。それに圭吾、あと数日ぐらいしたら東京に帰るんだろ? 夏の宿題とやらはやったのか?」
「俺がそんな計画的にするような性格じゃないって知ってるだろ。課題っていうのは前日にやるもんなんだよ。8月ももう終わるからあと一週間もあるじゃないか。まだ余裕がある」
「その残り一日で泣く運命なのにか。そうしない為に親父様は早く帰らそうとするんだろ。ほら、もう足音がする」

 そう燈雅が言うが、耳を澄ましても足音なんてしなかった。
 一種神懸かり的なものがあるので一般人には聞こえない音なのか。だが、燈雅がそう言うということは、本当に身内の誰かが逃亡した子供を探しに来たのだろう。
 冒険はここで終わりだ。燈雅はまず外に出ない。親と同伴じゃない外出は初めてだという今日の冒険が、こんな中途半端に終わってしまう。
 今日は、記念すべき第一歩じゃなかったのか?
 その第一歩を無理矢理でも作ってやったというのに、何も演出してやることができなかった。
 悔しい。どうしようもなく、悔しかった。

「燈雅……逃げるか?」

 本当なら、「逃げよう」と言いたがったが、そこまで強制はできなかった。
 強く言えば燈雅はきっと了承してくれる。確信はある。だが、自分自身も後に待っている罰が怖かった。
 おそらく、大人達に捕まってその先は怒られる時間が待っている。親父は怒鳴り散らす。その通訳をしてくれるのが兄だ。親父の方は無視して兄の方の忠告だけ聞いていればいい。その兄も正論ばかり言うネチネチした攻撃を繰り出してくるから、出来れば聞きたくない。
 自分の方は兎も角、心配なのは燈雅だった。只でさえ大事にさせられている『直系』様がいなくなるのは祖父達も面白くない。
 燈雅は弁の立つ男だが、頭は年寄り連中には上がらない。言い訳も普通なら言いくるめるだけの力があるが、言い訳をさせてくれる権利は無い。そんな不安ばかりで、つい弱々しく訊いてしまう。
 起きた後も……腕枕は、まだ継続中だった。

「圭吾が逃がしてくれるって言うんだったら、逃げてもいいな」
「……そう、か」
「だけど、やめよう。今日は十分に楽しかった。今帰ってもこの興奮は当分冷めないだろうからな」
「気を遣わなくていいんだぞ。つまらなかったらつまらないって言えよ」
「なんで嘘をつかなきゃいけないんだ。圭吾がいきなり手を引いたから何だと思ったが……」

 そう言って右手首を見せる。
 薄く、指の痕がついていた。どれだけ必死で連れて来たのか判る色をしている。

「こういう『痛いこと』なら大歓迎だ」
「……すまん」
「謝るな。さっきから謝ってばっかりだな、圭吾は。オレは凄く、嬉しかったんだぞ」

 言って、……燈雅は目を閉じた。
 再度眠り出すのかと思ったら、今度は腕枕でなく胸枕をしてくる。意地の悪そうなにんまりとした顔が、灯りの無い外でも判った。

「オレは圭吾が好きだ」
「……え?」
「好きなお前がオレの為にしてくれた事を喜ばずしてどうする」
「…………」
「圭吾にとっては小さなことかもしれないけど……。オレは多分、今日のことは忘れない」
「……とう……」
「なんて言えばロマンティックか? はは、小説の台詞を再現するのは難しいな!」

 彼は笑う。言った台詞は、それこそ下らない小説の中で出てくる典型文だ。
 騙されたと思いつつ、も……本気で感動している自分がいる。
 してやった、という風に笑う燈雅がいなければ、俺もお前のことが好きなんだ、と言ってしまいそうだった。慌てて口を塞ぐ。
 紅くなってるぞと笑われている……と、急に懐中電灯の光が襲いかかった。



 ――1989年8月23日

 【     /     / Third /      / Fifth 】




 /4

 耳を兄に引っ張られながら歩く。
 痛いと訴えても、兄の悟司は構わず耳を掴みながら先を行った。

「圭吾。お前、あと数日で学校が始まることを忘れているな」
「忘れてねーよ、来月からだろ」
「馬鹿者。30日からだ」
「え。マジ?」

 30日に追い込みで課題をやればいいと思っていた予定表がガラガラと崩れ落ちていく。
 でも直ぐに組み立てていった。宿題なんて29日にすればいいだけのことだ。

「それと、明後日から親父は伯父達と関西……神地の寺方へ訪問しに行くことになった。一週間ほどらしいから、実際家に戻るのは29日の夜だな。お前、帰って荷物をまとめずに課題をやるというのか?」
「あー、もう少し考えて計画練りますよ」
「大いに努力しろ」

 年齢に合わない口調で、堅苦しく兄は言う。
 兄の話は要点をまとめて言うので、ただ「アレはいけないコレはいけない」と怒鳴るだけの父より説得力もあり、言うことを聞こうとする気にもなる。
 先ほど、俺を盛大に叱りつけた親父はまだぷんぷんしている。兄が止めに入ってくれなかったら今度は何を言われていたか。
 自分の父は本家からあまり近くない血だが、当主達中心部と仲が良いらしく、よく共に外に出る。外に出て何をしているか詳しい事は知らない。それには興味が無い。
 我が一族を支える『退魔』という生業のことは俺も知っているが、あまり興味が無い。退魔も悪くないが、一族のことだけを見るよりも、自分は外に出て人様の為に何かする職業に就きたいと思っている。例えば、警察官とか消防士とか自衛隊ならなってもいいな。まだ将来のことを考えるには早かった。
 兄に逃げないよう引っ張られ、歩く。一緒に居た燈雅は、ずっと前方で彼の叔父・藤春様に連れられていた。藤春様も兄貴と同じように無駄に怒るような人物ではなく、一言二言叱ったら後は先を行くだけだ。燈雅は俺のように手錠(耳錠と言うべきか)をかけられることもなく、逃げないと信頼されているのか、黙って前を歩いている。
 ふと、自分が写真を手にしているのに気付いた。元々この写真は奴の為に撮ってきたものだ。自分が持っていたって何の価値も見いだせない。彼の手にあってやっと意味を成す。
 渡す為に走ろうとした……が、それを兄貴が力づくで止めてきた。

「今、近寄ったら逆効果だ。話の流れ上、お前が彼を無理矢理連れ出したということになっている。反省を身で表せ。今日は大人しくしておくんだ」

 零れもなく、的確な叱咤だった。
 慌てて情報が抜けることもなく、ピシャリ。我が兄ながら、よく出来ている人間である。

 そんな兄を羨ましいと思う。もし兄が自分と同じようにしても失敗なんて計算の上、しないだろう。
 俺は全て運任せだ。運で任せて何とかやってきているから、余計にそうしてしまっている傾向もある。
 今日だけは兄のように何でも出来る人間になりたいと強く思った。あいつを満足させてあげられる為に。……燈雅に不満なんてさせない為に。
 自分の力の無さに落胆する。先を行く微かな灯りで、自分が撮った写真を覗く。何の変哲も無い普通の風景画だった。時にはよく撮れたと思うものもあるが、特別心に響くような物は無い。
 こんな実力なのに喜んでくれるんだ。こんな実力なのに喜んでしまうんだ。彼の事を切なく想い、そして自分の事を苦しく想う。余計に胸が痛んだ。
 それは実家の、自分に充てられた部屋に戻っても続いた。
 早くも乳酸が微妙な位置に堪ったのか、腕がジンジンと痺れている。その重さが、いつまでも燈雅のことを引きずらせてならなかった。

 自分で撮った写真をばらまき、見て、また深い息を吐く。
 いつからこんな風に考えるようになってしまったんだ?

 燈雅は幼い頃、俺にとって……単に、年末年始に見かけるだけの、親戚の少年に過ぎなかった。
 燈雅の弟達、志朗や新座とはよく話した。年も近いからと遊ばせてもらっていた。だが、彼自身とはあまり親しくなかった。
 その訳は、彼はいつも大人組の中に組み込まれていて、自分と同い年だというのに子供達の中にいなかったからだ。初めて話したのも、偶然の積み重なりによってだ。
 彼の弟達二人と自分の弟、そして自分との五人で境内を遊び回っていた。おそらくかくれんぼか何かだった。隠れる場所を見付ける為に広い空間を走り回り、行き過ぎて、離れの館に着いてしまった。そして屋敷の格子の先にいたのが、彼だったというだけ。
 声を掛けてきたのはあちらからだった。大人組の中にいつもいるから、大人しく冷たい奴かと思いきや、話が盛り上がればよく喋りよく笑う奴だった。
 けれど人が来ると表情がガラリと変わる。公私の区別をつけていると言えば聞こえがいいが……。
 何だか『中身』が交代するかのように冷たくなったらり明るくなったりする彼を、自分は「多重人格者」と称していた。間違った表現ではない。話してしまえば面白い奴で、弁が立つくせについ最近まで月も知らないな世間知らずなところもある。
 外にまず出ないと聞いて根っからのアウトドア派な自分は信じられなかった。外の話をすると耳を真剣に傾け、よく笑った。何気ない小さなことでも笑ってくれるからこちらも気分が良かった。
 そのうち、『なんて可哀想な奴』という同情心もできてしまった。
 父性の芽生えといえばいい。だが、本当は自分が優位に立つことによって思い上がるのといっしょだ。それが彼が判ってしまえば、侮蔑されるか。
 いや、もう調子の乗っている事を知っていて彼は『付き合ってくれている』のかもしれない。非常に大人だからだ。大きな懐を持っている大人のくせに、アレは何だとか今度は何の話をしてくれとか子供くさい面もある。

 そんな彼に惹かれていると気付いたのは、今日のあの寝顔だった。
 思い出してまた顔が紅くなる。あんなに近くにあった時は何とも思わなくて、終わってから照れてしまうなんて。腕に来る痛みが、彼を思い出させてしまう。
 重傷だ。重病だ。こんなに重い症状になってしまって、あと一週間ほどで本当に自分は帰れるのか。
 気が散ってレポートどころではないのではないか。いや、ただ単にレポートはしたくないだけだが。
 写真を拾って立ち上がる。隣で眠る兄や弟・霞が寝静まっているのを確認して、部屋を飛び出した。
 確かに今の自分は周りから犯罪者面だと思われている。
 『お前は悪い事をした』と責められている。現に黙って家を飛び出して、尚かつ遠くまで人を連れて、家中に探し回られれば迷惑人の烙印を押されても仕方ない。
 でも、黙って部屋で反省しているのは柄ではなかった。今夜はもう会うなと言われたから、明日になればもう会ってもいい筈。
 そしてもう真夜中。日付は変わった。変な言いがかりだがこれで理由付けることは出来る。
 構わず本家の屋敷から、離れの方に向かった。

 変化を、小さな外の世界を楽しんでくれたのは奴だった。きっともっと楽しみたいと思っている。
 なら、この写真を持っているのは俺ではなく奴の方が相応しい。写真は彼の手元にあるべき物なんだ。
 ……そんな事は建前だった。本当は、もっと話がしたいという自分勝手な欲望だ。
 残された時間は数日しかないのだから、近くに居られるなら居たいと思うのは当然だろう? まだ数日もある? いや、もう数日しか無いんだ。
 舗装された道よりも近道の生い茂った道を選び、彼が寝泊まりしている離れの屋敷へ走る。8月にしては涼しい今年、草が皮膚を裂いてしまうかのように生えていた。思いながら足を速めた。
 無駄に広いこの境内は、端から端まで渡るだけで体力が減る。それだけの人が行き来する場所といえばいいが、まるで端と端にいる人間は『住んでいる世界が違うんだ』と訴えているようにも思える。身分平等な現世だが、この世界では身分の差が存在する。
 敢えて言うなら……彼は高貴で、自分は違う。しかし、彼と同じ顔をしている高貴な弟達と共に遊んでいるぐらいだ、
 彼と自分は別物だと思ったことはない。それは誰もが思っている。これはただ、建てた家の距離の問題だ。
 ただそれだけだ。言い聞かせて先を行く。
 離れについて、縁側から入る。境内全部が同じ屋敷であるのだから、建物一つ一つに鍵が掛かっているということはない。独立した空間に見えるが、全ては同じ『我が家』だ。
 離れは自分らが部屋としている屋敷と違い、壮大な雰囲気を纏っている。夏は涼しくていいが、これからの季節はよく冷える。そんな所に住んでいるのに軽装な奴の気が知れない。

 ゆっくり、足音を立てないように廊下を歩む。
 比較的新しい造りもあり、ギシギシという軋む音より、コツコツという冷たい音を立ててしまう。足を擦るようにして前を行く。
 ……ふと、神社にいた時の話を思い出した。
 『足音がする』と燈雅は言った。土を踏む、あの小さな音でさえも聞き分けた彼だったら、極力足音を殺す努力をしている自分なんて意味はないのではないか。もしかしたら……。思うと、ビクビク怯えながら行く自分が馬鹿らしくなった。普通に歩く。その頃にはもう、何回も訪れた彼の部屋にいた。
 が、止まる。そして確信する。

「………………」
 
 彼の耳が良かったのではなく。
 ……自分が悪かっただけ、だった。

「…………ッ…………」

 部屋の前に来てやっと、中の声に気付くなんて。
 声を掛けようとした指が止まる。
 ……確かに、声は部屋の主のものだった。早くに声変わりをして大人らしいあの声は、間違いなく燈雅のものだ。それが扉一つ向こうの人間に届くまで、声を張り上げている。

 ――その声は実に艶やかで。
 ――実に卑しく、濡れたもので。

 身体に震えが走る。その声だけに興奮したのもある。
 ……何故あんな声を発しているのか。どうしてあんな声が出せるのか。
 疑問。啜り泣くような悲しいニュアンスも取り寄せて、はしたない、恥ずかしい音を奏でている。
 やめればいいのに、扉に付けられた小さな格子から中を見た。

「………………」

 口から出てしまいそうになるものを必死で抑えつけた。
 甘い痺れを感じた。視覚から入ってくるだけの刺激なのに、躰に悦びが駆け抜ける。
 一体何をしているのか。
 その疑問は一目で解決できた。
 ……でも、一目で納得はできないもの。どうやって納得できるか。

 あの、中で彼が男に覆い重なられて繋がられて痛々しく躰を打たれて声を上げて叫び散らして犯されて犯されていて男が彼の実の父親で彼は間違いなく俺の知っている彼で!

 ……ここで意識を閉じてはいけない。
 彼に写真を渡すことなく、隣の部屋にばらまくようにして其処から立ち去った。



 ――1989年8月24日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /5

 文字を読むのは嫌いだ。読書を強制的にさせる教育はなっていないと常々思っていた。
 幼学年の時に無理矢理本を読ませて感想を書かせる授業があったが、あれほど嫌なものはなかったと記憶している。
 『貴方は何を感じましたか?』と聞かれても、それが心に響かない物語だったら『何も感じませんでした』と答えるしかない。しかしそう答えると『真面目にやれ』と叱られる。
 なんでだ、真面目に考え、そのつまらない話に何も見出せないと答えたんじゃないか!

 そんなことはどうでもいい。兄の本を読んでみたら、そんな忌々しい記憶と対立する羽目となった。
 俺は燈雅の部屋で、兄が一度読んだきりで捨てたまだ表紙も綺麗な本を手にしていた。これはゴミ箱に入れるように納戸に放置していた。発掘して何が悪いか、これは彼の為にと持ってきた物だった。何でもかんでも貰ってくれる燈雅だけど、自分では一体どんなものを渡していたか知らずにいた。本であればどんなものでもいいと思っていたからだ。だがそれも浅い考えだった。
 思えば、これが彼の下界のすべて。与えられた本から貰える刺激が彼の情報になるんだ。もちろん彼は、本に書かれていること全てが真実だと信じ込むほど世間知らずではない。
 心配する必要は無いが、念のためだった。しかし、一つ読んでもうイヤになった。これら全てに目を通したらどれだけの時間が掛かる。それだけ、兄が捨てていく本が多いということである。兄はどれだけゴミ箱に札束を詰め込んだのか。
 本を置く。訳の判らない物語に時間をとられた。時間を潰すにはいいかもしれないが、気分は良くない。
 太陽も落ち始める午後に、人から貰った本と数枚の写真ぐらいしか物のない部屋に取り残されている苦痛。
 こんな所に住んでいるのかと思うと不憫でならなかった。
 それは、自分が彼とは正反対の生活をしているから。

 小さな机に重ねてあった写真を手に取る。神社と夕日の絵だ。
 昨日、この写真を彼が見ていて話が進んだ。見ている彼を発見してから、「行こう」と言い出すまでは数分もかからなかった筈。
 彼は戸惑って興奮する俺を抑えつけようとしていたが、ついには折れて。
 そして、昨日の失敗に至る。あの時いっしょに外の世界に持っていって、忘れてきた写真だった。
 ……あのとき、捨ててしまった写真だ。
 投げ捨てていった写真なのに、昨日と元通り、彼の部屋の一角にある。
 燈雅がばらまかれたのをちゃんと拾って回収した? きちんと上下を揃え、机の見える位置に置いて。彼が回収したのか、他にこの屋敷に訪れた誰かが此処へ置いていったものなのか。
 考えて思い出す。
 昨夜、いや今朝。館にいた人物を想う……。
 頭を震う。ふらりと揺れる。
 出て行け、そんな記憶出て行けと頭を抱えた。思い出してはいけない。……思い出したくなかった。
 奇妙な感覚に陥る。不快感が露わになる。頭が、無性に痛くなる。昨夜は嫌な夢を見てしまったんだと思い込もうとしても、鮮明過ぎて信じ込むことさえ許さない。視覚的な痛みだけではない。声が耳からこびり付き、離れない。

 ひどく、濡れた音だった。痛そうで辛そうで、それでもどこか良いと訴えているような曖昧な音。必死に腕にしがみついて泣いて喚いて許しを請う姿――。

 こんなにも克明に憶えてしまっていて、頭から離れていかない。
 夢ならひどい夢だ。どうしてそんな苦痛の姿を見せつけるのか。でも、これが現実なら? どうしてそんな苦痛を、彼が受けなければならないのか。
 現実という確信はある。かと言って確かめることは出来なかった。
 彼の部屋には幾つか散乱している本があるだけ。敷き毛布は全て女中が持っていって彼がどのようにいつも眠っているか知らない。
 そうだ、寝る時には布団ぐらい敷く。それなのに昨夜自分が見た映像は、何もない畳の上に押しつけられているものだった。
 夜に布団を敷かないでどうやって寝るっていうんだ。やたらと冷たいこの屋敷の床に眠るのは酷だ。そんなこと、大切にされている燈雅には有り得ない事だろう。
 有り得ないことだろう?
 ――嘘なんだろ。
 ――本当な訳ないんだろ。
 心の中で何度も呟き、……まるで追い詰められている状況に苦笑した。

「圭吾、何を笑ってるんだ?」

 声でやっと扉が開かれたことに気付く。入り口には部屋の主が立っていて、こちらの様子を伺っていた。今日初めて見る彼だった。
 彼は彼の父親、叔父やら親戚やらが遠出するというその見送りに長い石段の下まで行ってきたという。そういえば俺の兄も見送りに参加すると言っていた。
 父も関西に一週間ほど当主達と共に旅をすると言っていたからだ。自分は謹慎中ということで外には出るなと言われているが、謹慎を見張る大人連中が殆どいなくなったのだから大人しく部屋に篭もっている必要は無い。
 こうしていつものように、離れの館にお世話になっていた。本当なら燈雅は連れて行くような話も聞いていた。だが見送りをして、今ここにいるということが間違った情報だったと教えてくれる。

「何を笑ってるんだ」

 もう一度、燈雅は同じ質問をしてくる。
 そして一人納得したような表情を作る。直ぐ傍に中途半端に置かれた本があったから、その本が面白くて笑っているんだと誤解しているようだった。

「燈雅。本、面白いか?」
「ああ、いい暇潰しにはなる。圭吾が面白い本だと思ったからくれるんじゃないのか?」
「俺は今さっき初めて本を読んだ。感想が言えない。何言ってるか判らないし感動できなかった。こんなのばっかなのに、貰って嬉しいとか言ってたのか」
「そりゃそうだろ、お前から貰ったんだから」

 躊躇い無く燈雅は言い、……つい返答に困る。

「……この本を選んで買ったのは、兄貴だ」
「あ、やっぱり。悟司さんかなって思った。お前はこんなに難しい話を読まなさそうだし分かってる。……でも、くれたのは圭吾じゃないか」
「俺があげると楽しくなるのか? そりゃどういう変化だ」
「うむ、お前自体がおかしくて楽しいからな。本にも伝染するんじゃないか」
「なんだその空気感染……俺は何処のウィルスだ」

 言って、おかしくて笑う。いつも会話をどちらかが始めると笑って話を中断させるまで言い争いが続く。
 パラパラと先程の黒い表紙の本を捲った。あまり人の手に触れられていない新品同様の本が風を起こす。
 自分には理解出来なかった内容だったが、また違う頭のつくりをしている燈雅なら笑いのツボに入るのかも知れない。
 時々、燈雅が一体どこで笑っているのか判らなくなることもある。それだけお互いの価値観は違っている。なのにこうして同じ空間で笑い合えることはできるのは、根本の相性が良かったと思っていい。
 二人、何の違和感もなく笑顔を向けていられる。
 直接会うのは一年に数回しかないが、もう当然のような空気。何度もの夏をこうやって離れの部屋で送ってきた記憶がある。
 この一年の笑顔の記憶に、過去の笑顔の記憶もある。幾つも重なり合っている笑顔の記憶も沢山ある。
 その笑顔は、昨晩の泣き声など連想させないほど、明るい。

 そう考えてしまった時点で、俺の顔が勝手に硬直し、楽しい空気を壊そうとしていた。
 急に笑みを無くして何があったのかと彼は不思議そうな表情をする。
 今先まで馬鹿な事を言って楽しくやっていた奴がいきなり表情を強ばらせたんだ、自分に否があったのではないかと心配するのが切。
 近寄ってきて顔色を伺ってくる。「大丈夫だ」とにやけると、引きつる頬に平が触れた。
 自然な動作だった。顔に、手が当たる。至近距離。だけどこれ以上の近い距離になったこともある。昨日だって外で腕枕をして一緒に眠っていたぐらいだ、今更近過ぎると拒むのも可笑しい。
 なのに、どうしてか手を振り払おうとしてしまった。
 照れていたんだ。無性に、恥ずかしかったんだ。
 彼を今までの仲と違う、別の意味で意識してしまったせいで。

 隣同士、眠りあって感じた変な意識。
 それは夜の間は心地よくて、もっと触れていたいと思っていたのに、違う方向に躰が進む。
 高鳴る。カァッと熱くなる。思い出されるのは目の前で優しく、しあわせそうに眠る彼の顔ではなく。高く叫ぶ泣き声の方だった。
 あぁ、鮮明に思い出す事が出来る。
 とても艶やかに上げて、悶えていたあの声、あの仕草。心地よく躰が鼓動するのは、満足げに笑う彼よりも苦しげに叫ぶ方だった。
 なんて非道い。人が喜ぶ姿より陥れられている姿の方が、こんなにも。

 唇に指が触れる。たった一瞬だった。頬に触れた指が口元に落ちただけにすぎない。
 それなのに驚いてしまう。力仕事も知らないような細い指。夏が終わった後だというのに体は一切焼けていなくてほっそりとしている。自分より少し小さいだけの背丈を布を羽織っているだけのような格好。
 それが彼の『いつもの』姿だった。何の変わりのない、毎日が変わらない彼の姿。小さな変化も珍しい筈なのに、今日は違って見える。
 いや、違うのは自分自身の目だった。彼を見る目が変わっていた。それはとても、邪なもので。

 何気なく身を乗り出している燈雅の体を押した。バランスを無くしあっという間に崩れ落ちる。
 驚いたような目で俺を見た。
 だが悪ふざけに倒したのだと燈雅は軽くパンチを繰り出してきた。頬に当たれど痛みは無い。何をするんだと笑ったが、構わず彼の胸へと自分の頭を押しつけた。

「…………。圭吾?」

 覆い重なる状態になって暫し黙る。いくら自分が猪突猛進で、後先考えずに行動するといってもここまでのことはなかった。
 どうして燈雅を抱いているんだろう?
 疑問に思って、直ぐに答えが出てきた。

 あぁ、簡単だ。――ずっと俺は、こいつを抱いてみたかったんだ、と。

 昨日の神社でのようにではない。あちらから身を寄せてきて、体を枕代わりにしてあげて彼を囲うのではなく、こちらから押しつけて。言ってしまえばそのまま力づくで抱いてしまいたいという強い意志。
 やり方によっては今までの信頼感も全て失う程の行為がしてみたかったのだと……昨夜気付いたんだ。
 だが、押し留まる。

「おい、圭吾。何やってんだよ?」

 今はただ、横たわる彼の背に手を回し、顔を埋めることだけ。
 彼は彼でまるで子供をあやすかのように彼は髪の毛を撫でた。ぽんぽんと最初は叩くように、愛撫してくる。じゃれつく犬を好意で褒めてやるみたいに……。
 自分の右手を後ろに回し、彼の腕を掴む。『右腕にゴツゴツとした感触が当たった』。
 刹那、目の色が変わった。

「離れろ」

 ……褒めてやる、かのようだったのに、発せられた言葉は短く冷たいもの。
 その声に、ハッとなる。起き上がり、彼から離れる。
 いくら笑って悪ふざけのように見えても少しやりすぎたのか。興奮していた頭を抑えつけた。

「その、あ、燈雅……すまん……」

 押し黙り、離れたこちらを見る。
 先程まで右手が当たっていた、彼の右腕。そこを何度もさすっている。
 顔も笑っていたものから一変。真っ直ぐとこちらの目を眺め……じっくりと視線が体全身を舐め回す。

「今のは、その、お前が寄ってくるから……な。やり返したってカンジで……」

 妙な言い訳だった。燈雅が近付いてきたから許してくれると、押し倒した。
 本心を言えば、そのまま抱きついていたかったんだ。抱きついて、そのまま……何かがしたかった。
 だが今はそうではない。申し訳ないと思っている。
 しかし……目の前の現状が先程の明るい空気のものと大きく変化した。
 何かが違う。何かが変わった。変わった彼が、口を開く。

「――魔力供給って知っているか?」
「…………え?」
「魔力。エネルギーだよ。魔術を使う者が吸い込む酸素。それぐらい圭吾、お前は知っているよな? ……生まれつき刻印がある人間は誰に教えられるのではなく、最初から呼吸の仕方を知っている。口から酸素を吸いこむ手段を知っている、赤ん坊のときからな。なあ……圭吾、お前自身、魔力をどこから得ているか知っているか?」
「…………」

 諭すような口調。
 先程までふざけてお互いを罵りあうような口ぶりはどこにもない。
 ……俺の右手首が何かを訴えている。本来なら何も感じないそこは、燈雅の腕にあった『ゴツゴツしたもの』に当たった瞬間から何かを発していた。
 自分のそこには、小さな『孔』がある。これが俺が生まれ持って引き継いだ刻印だ。……燈雅が敏感になったのはそれが原因なのか、判らない。

「ふん。当たり前にありすぎて、自然に入ってくるものだから考えたこともなかっただろ? 常に欲しいと思い、無ければ死んでしまう酸素と同じような魔力は、口である刻印から入っているんだよ。自然界を飛び交う魔力がそこから吸われているんだ。つまりお前にとって右の手首が第二の呼吸器官なんだな」
「……だから何だ。いきなりそんな難しい話をして……」
「難しい話?」

 聞いて、燈雅が笑う。先程の笑顔とは違うもの。クス、という小さな笑みだった。
 いや、それは笑みというより、侮辱。貶された気がした。

「オレはね、息がしたいんだけど口がないんだ。酸素が欲しくて堪らないのに、開ける口が生まれた時から付いてないんだ。……魔力が欲しいのに、無きゃ死んじゃうっていうのにどこにも取り入れる場所が無い。自然に大気中を漂う有り余った空気さえも吸うすべがないんだよ。それこそ『人工呼吸器』なんていう重苦しい機械と常に行動しなくちゃね」
「…………」
「親父が、それを作ってくれたんだ。それを植え付けてくれた。でもそれはまだ未完成で、いちいち人の手で酸素を送ってくれなきゃ呼吸ができないんだよ。だから、親父がいつもオレにくれてたんだ。息を吸うことさえも許可がいる。生体活動でさえもコツを掴まなくちゃいけない」
「燈雅、だからなにを……」
「オレは、誰かがいてくれなきゃロクに生きられない出来損ないなんだよ。誰かから全てを貰わなければいけない半端者なんだ。その親父が今日から一週間いないんだ。本当に、馬鹿かあの人は。オレに一週間息をするなというのか、窒息死しろっていうのか。何のために今まで閉じ込めてたんだ、生かす為だろう。見送りに行って最後に何て言ったと思う? 『お前も勝手に外に出るようになったんだから私の力などいらないな』だと。何を考えているんだ、ただ数時間席を外しただけじゃないか、言う事をきかなかったのがそんなに悔しかったのか、昨日、あんなことをしておいてまだ――」
「燈雅……っ!?」

 肩を揺さぶった。
 びくり、怯えるように震わせて、嘘みたいに大人しくなる。
 激情した燈雅を見るのは、これが初めてだった。落ち着いていて、子供の前でいつも笑っていて、大人の前だとおとなしく優等生な彼が、表情を崩す。
 大声を出され、怯えるような目をした後、ゆっくりと戻っていく。
 先程怒鳴った、邪悪な形に。

「……圭吾、オレを抱きたいんだろう?」

 信じられない台詞に、耳が痺れた。
 そんな甘い声が彼の口から発せられるとは思わなくて、我が耳を疑う。
 にっこりと笑顔を寄せてきた彼は、いない。腕を貸せと隣で微笑んだ男ではない。今、目の前で誘惑の台詞を吐くのは別人。

「圭吾……お前、さっきから目がおかしいじゃないか。ずっと我慢してるんだろ、無理しなくていいのに、そんなに必死になって」
「っ、そんなことは……っ!」
「そんなことはない? 嘘だ。昨夜、『見たのはお前なんだろ』? あんな下手な足音の消し方で、ずっとオレを見ていたのはお前か。じゃあ、遣り方は判っているよな。もう見てるんだからさ。だから、お前に頼みたいんだ」

 顔を近付ける。
 口元は笑っているのにひどく無表情な唇。冷めた目。空っぽの眼球が、ゆっくりと囁く。

「圭吾、『親父の代わりに』オレを抱いてくれ」



 ――1989年8月24日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /6

 他人にモノを握られる。燈雅の細い指先に触れられ、他人の温度を感じる。小さな声を出してしまった。
 根本から這っていく指は、剥き出しになった器官へと導かれていた。

「ほら、足を開けよ……入り込めないじゃないか」
「…………っ」

 燈雅が言うので両脚を少し開いた。それに合わせて、彼は座る脚の間に入ってくる。
 つぅっと微かに触れていた人差し指と中指が、少しずつ器官への密着を強めていく。側面部分の形を少しずつ確かめていくようにして、他人の指が移動していく。
 熱い。そう呟くと同時に、薬指と小指がぴたぴたとまとわりついた。その指で出来た面が幾度か撫でたかと思うと、くるりと親指が動く。きっちりと手が包み込む。
 燈雅はにっと微笑むと、逆の手の人差し指を自分の手が包んでいる器官に当てた。
 手の平からはみ出してしまっている先端部分に、指がそっと触れる。端から端へ、尿道口の部分の上を通り過ぎるようにしての移動だった。

「痛いか?」
「い、いや……」
「親父達はこういうことすると喜ぶんだ。みんな、揃ってこうすると良いって言ってくれた。圭吾はどうなのかなって思って」

 指は先端部分を優しく包み込んでくる。常に視線を確認しながら指を動かしている。微かな反応にも気を遣っているように見えた。
 次に一通りマッサージをし終えると、根元の部分へ指を移動させる。指先の感触が敏感に伝わって来る。優しい動きで、あまり感じたことないものだった。
 自然と、慣れた手つきに見えた。頭をうずめるようにして寄って来る。口を開いて、躊躇なくしっかり銜え込んだ。

「……っ」

 気恥ずかしい。酷い表情になっているかもしれない。けど、決して苦しくも痛くもなかった。
 舌が動いている。あったかいものに包まれている。それが、経験無い不思議な感覚だったからだ。
 ……こんなに……なのか。
 情けなくも感心してしまうし、申し訳なくもなった。でも燈雅は続けている。どんな表情をしてかは見えない。じんわりと全体にあたたかさが広がっていく。わざと水音が立たせて、辱めているようにも思えた。

「は……あ……」

 長く、舐め続けている。
 傷つけないように、邪魔しないように、燈雅の長めな黒髪を梳いた。
 唾液のねっとりと周りが濡れていく。でも息苦しくせき込むこともなく、燈雅は顔を……俺の股間にうずめていた。
 頭を撫でても特別気にする素振りもない。手は単に撫でてるだけでなく、グッと扱いてくる。その変化が続いて、堪えるのも必死になる。そして、まるで音をわざと出しているかのように激しくしゃぶり立て始めた。

「く、っ……燈雅……」

 情けない声が出てしまう。自分で声を出す前に、燈雅の方が判っているようだった。動きが、変わる。より、気持ち良いものに。
 我慢なんかするなと言うかのような動きに、正直に放出してしまった。
 燈雅の口の中にあたたかいものが通り過ぎていくのが、出した本人でも判る。
 出した後も暫く舐めるのは終わらなかった。何度も責め立てるように、動きが止まらない。
 痺れを感じる。すると燈雅が顔を上げ、その表情を見た途端余計に痺れを感じてしまった。
 精が零れ落ちてもいたが、殆ど燈雅は飲み干してしまっている。最後の一雫まで実に愛おしそうに舐めてしまう。

「そんな……もの……飲まなくても」
「だって、お前の魔力だもんな。ほんの少しでもムダにしちゃいけないだろ」

 妖艶に笑う姿に、昨日までの姿は探し当てられない。別物だった。
 昨日までの知っている彼はいなくて、ここにいるのは昨夜、この部屋で甘い声を出していた男。二人同じ顔がいるのではないかというぐらい、雰囲気も何もかもが違う。
 でも、彼にしか見えない彼、どちらがどちらなどと言えなかった。

 悩んでいると燈雅が、まだ脈動しているモノを再び口の中に含んだ。
 また口の中で扱き始める。舌で何度も良いところだけを繰り出してくる。今度は一度放出してしまった先端を重点的に。何も辛そうに感じさせない表情で。
 先端部分を舐め転がしてくる姿を、一度熱くなった頭でぼんやりと見た。
 今度も舌を全体的に使ってのこと、二度目になったのに濃厚な動きがまだ終わらない。ずっと口付けている。
 その行為には、明らかに慣れがあった。する相手が初めてであっても、燈雅の手や口の動かし方は精錬されたものがある。
 何度、この行為をやったのか。誰とどれだけのことを教わったのか。答えは容易に考えることが出来る。が、問いかける気にはなれなかった。
 どんな行為でも、快感は膨れ上がっていく。また甘い痺れを感じてきてしまった。

「……燈雅、もう止めてくれ」
「んっ……?」

 言うと、燈雅は戸惑いながらも口を離す。

「あぁ、もう挿れたいのか? そうだな、いつもこれぐらいに挿れてる頃だもんな……」

 言われながら燈雅は下から抜けていく。
 そのまま寝そべった。何も敷かない床の上に、細い体が横たわる。そこにのし掛かった。
 名前を呼ばれたが、何を言っていいのか判らない。今してくれたことの感想でも言えばいいのか。
 いや、そんなことよりも、求めてくれている目がある。そう思い、直情的な態度を取ってしまった。
 自分のモノを彼の中に埋めていく。そう簡単に出来るものとは思っていなかった。女性ではないから、舐めているだけじゃいけないことぐらい、常識的には考えていた。
 けど、そこは簡単に開くことが出来た。もう既にやわらかくなった筋肉が、受け入れる体制を作っていたようだった。
 挿れようとして、今まで笑っていた燈雅の顔がふっと歪む。グッと力がこもった気がした。

「燈雅……いいのか……?」
「あ、……あぁ……ちょっと、ビックリしただけだ……」
「痛いのなら止めるが……」
「はは、挿れたがってるのに何を言ってるんだ……。さっさと入ってきていいんだぞ」

 半ば吐き捨てるように言い方をして、彼は無理に微笑んだ。
 望み通りに中に押し込む。
 突き入れる。押し広げながら、中へ入れていく。スムーズな進行にならない。目をぐっと瞑っていた。

「と、燈雅、痛いんだろ……? 無理だったら言ってくれ……っ」

 言っても、先に導かれて熱い中に入っていくと快感はさらに激しくなっていた。
 狭い部分に辿り着き、慎重に下がり、また挿れていく。その繰り返しを行なった。

「あ、あっ……。もっと、……動いてもいいんだぞ……?」
「……動けないんだよ……」
「……そう、なのか……?」
「ああ……っ……」

 これ以上激しく動かしたら、燈雅が痛がるだけ。
 それを思うと、強く腰を動かすことなどできなかった。
 痛みと快感の混ざり合い。緊張しきっていた筋肉も少しずつ緩み、逆に快感で弛緩するほどになっていく。

「は……あ……。んっ……圭吾、んん……大丈夫だから……」
「でも……」
「いいから……。圭吾が、いいようにやってくれよ……」

 言われた通り、少し乱暴に腰を引き抜く。
 体をうっすらと紅潮させながら、目を薄く開いた。少し不満げな目つきだった。

「……んんっ、圭吾ぉ……まだ、大丈夫だから……。激しくやって構わない……」
「…………」
「いつもは……。もっと、強くやってる……から」
「………………」
「慣れてる……から……。ぁ、あぁあ……っ!」

 いくらいらないと言っても、燈雅の方からもっとと言葉を続ける。まるで『まだ刺激が足りない』と言うかのように。
 でもこれ以上は苦痛だけを生みそうで、動かす気になれなかった。あくまで慎重な動作で、中を動き始める。
 動きに合わせ呼吸していた。少しずつ動きを相手に合わせようとする。少しでも、お互いが近づけるように。
 燈雅が甘い声を上げた。完全に合致しそうなとき。一気に中から引き抜き、放出した。
 ……出し尽くしてしまう。
 燈雅は、解放された安心感を得た表情をしてみせた。それと同時に。怪訝そうな、そして残念そうな目も見せる……。

「何、で……中に入れてくれないんだ……?」
「そんなことしたら……苦しいだろ」
「これじゃあ魔力供給の意味がない。ちゃんとこっちからスイッチは入れているんだ……ちゃんとお前を流し込んでくれ……」

 そう言い、体の表面に出された精を指で掬い……口元へ持っていく。自分の指を舐め取っていった。
 飴を懸命に舐める少年。官能的な姿だった。

「……燈雅。足りないのか?」
「いいや、今日はこれぐらいでいい。……だけど、やはり濃度は薄いな。出来れば明日もしてくれ。そうだ、親父が帰って来るまでしてくれると嬉しいな」
「…………」
「お前は8月いっぱいはいるんだろ? なら丁度いいじゃないか。一週間だけでいいから、な……?」

 微笑む。やっと、知っている彼の顔が帰ってきた。
 『代理』。そんな役割でしかないが、それが彼の求めているものならばと。
 目を瞑って、その承諾を受けた。
 そして散々精を与え、抱いた後に気付く。戻ってきた彼の笑顔と、疲れたからと眠る彼を見て、大切なものを言い忘れた。
 自分の想いを彼に伝える。
 できず、抱き終えてしまった。



 ――1987年7月21日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /7

 一人でも、地獄は続く。こうして生きている限り、苦しみは続いていく。

 渇いていた。指を差し込んでも擦れて痛いだけだ。
 弄っても殆ど意味は無いけど、慣らしておけば少しは痛みが無くなる。本当に少しでも、自分を守ることができるならと、誰も見てないところで、行なう。
 庭で遊ぶ彼らの声を聞いていたら、普段より遅い開始になってしまった。あの声達を思い出しながら、自分をいたぶっている。
 父が来る時間だ。いつもの時間は近くなっていた。どんなに急いでも自動的に濡れることはない。痛いのに、生態的な作りからの違いに体は一切濡れてくれないのが苦しかった。
 手を止め、もう何もしないでこのまま眠って待ってようかと思ってしまう。
 どうせやったって少し痛くなくなるだけなんだ。それなら、こんな、自分を虐めるようなこと。
 でも、不思議と手が止まらなかった。
 どうして手が自然に動いているのか判らなかった。息を吐きながら、指を動かす。
 そうだ、もっと楽しいこと、例えば、外で楽しく仲良く遊んでいた弟達のことを考えよう。元気な男の子が数人、自分はやったことがない遊びをやって……。
 ……だから。どうしたというんだ?
 遊びたいと思った? やっぱり逃げたいという心からは離れることはできないのか。
 自分の体内はあの感情で埋め尽くされている。他のことが考えられなければいいのに。そうすれば、感情があちこち揺れ動くことも……。

「あ……ぁ……」

 考えつつも指をひたすら動かしていた。これから挿れられるところを、何度も摩擦させる。
 これから吐き出されるところに、何度も。

「……は……」

 息を一つ吐くことが、億劫に感じてきた。良い傾向だ。今後、柔らかく熱い感覚だけが残ればいいのにと思う。
 きもちよかった。熱を一番感じているときが、何にも考えられなくなる。最も求めている瞬間だからだ。
 吸う息に合わせて触る。自分を慰めているつもりなのに、少しだけ痛みが走った。
 でもこれは失敗じゃない。今までの経験で、そういうものだと知っている。少しずつ学習はしているんだ。そのうち、こんなことをしなくて済むようになる。おそらくは。
 ビリ、と電気が走るかのように背筋が快楽を感じる。手を止めて、暫く『それ』を感じた。

 いつの間にか涙が溢れていた。熱に犯され潤んでいる。泣いていることすら感じなくなっていた。良い兆候だ。
 火照った体はあまり好きではないけど、これからのことを考えれば効率が良い。だからもっと、熱を求める。
 ひとりで、ずっと。
 …………。

 声はあまり上げたくはなかった。何かを自覚して、悲しくなってしまうからだ。
 息をのんで、声を殺して、行為を続ける。集中するのは、『きもちいいこと』だけだ。
 苦痛を用いての修業だと判っているけど、快楽でいっぱいになれるのならそれがいい。感じてしまえば痛くないのだから。
 だから、弄る。
 体がグチャグチャになっていく。自分の荒い息と声だけが何にも無い部屋に響いて、消えていく。
 切なさを感じ、撫で回した。体がビクリと跳ねて、意識がちょっとだけ途切れる。解放感と甘い疼き。体も頭も心もすべてが溶けていく。
 それしか感じない。痛みなんて感じない躰。とっても具合のいい躰。心もそうなればいいのに、と思った。
 雫の音がして、熱さから解放される。床に転がり、暫くそれに浸る。よく判らない状態のまま、ただ、例の時間が訪れるのを待った。心待ちにした。
 今なら……何人でも、どんな人でも受け入れられると。喜んで体を壊せる、と。



 ――1989年8月25日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /8

「……燈雅?」

 名前を呼ぶと、宙を漂っていた視線がハッキリとしてくる。
 少し声を上げて目を瞑ってから押し黙ってしまった燈雅に不安になって、躰を揺らした。
 燈雅はぽーっとした表情をしていた。何を、どのように感じているのか。遠い夢を見るような眼に、惹かれた。

「ああ……オレ……もう、イキそうになっちゃったみたいだ」

 シーツの上、仰向けになって燈雅は腕を開く。自然に体は前倒しになり、両手いっぱい全身で抱きしめられた。
 燈雅の耳を甘噛みし、湿った舌でなぞる。甘えるように舌を這わせた。その後、息を吐き出しながら腰を前に突き出した。
 重くぬめった音がして、燈雅の中に入っていく。抵抗はある。その為に何度も指で濡らし、入れ込み、締め付けを少しでも緩める為に今まで努めた。
 女体のように簡単に濡れない出口を、少しでも痛め付けないように、何度も。
 小さな指の動きでも燈雅は感じたらしく、惚けた顔を見せる。
 全ては、この挿入の為。根元近くまで入れば強い締め付けに襲われる。それでも良いには変わりない。

「圭吾……動いてくれ……」
「っ……あ、ああ」

 抉るように自身を埋め込む。彼の長めの髪の毛がシーツに踊る。
 燈雅が更に表情を変えた。目を細めて、感じ、あたたかいものに飲み込まれていく。切なそうに声を上げる姿に、興奮した。
 数日前に突然見せた淫らな姿ではないように見えるのは、普段と違うものがあるからか。シーツの上、という。それでも、していることは昨日とその前から、変わらない。
 目を閉じて感じている。
 抱きしめたまま動きたくなかった。けど、身を捩じらせる動きが求められていることを思い知らされて、少しでも良い方向へ動こうと思った。
 もう数日目ともなる行為を続けてきたせいか、何をすれば喜んでくれるか判ってきた。
 微かな衝撃が奥を貫いてしまったからか、気持ち良さそうに声を出してくれる。こちらも、口から漏れていくものを我慢することなんてできなかった。
 腰を引こうとしたが、腕が動く躰を捕らえた。横に向ける暇もない、放出する。
 身体へ染み込んでいく。肩を上下させながら、二人とも呼吸していた。全てが終わると、少し憂鬱気味な笑みを浮かべる。
 引き抜くと、ゴポリ、と外へ溢れてくる。じんわりとシーツに染み渡っていった。
 五度目にして、やっと寝台の上での行為になった。
 それまで殆ど物のない彼の部屋でやっていたが、夜に部屋に入るなり襲われそのまま冷たい床でやってしまっていたので、至るところが痛くなっていた。四回目で不満を訴えたところ、次の日には女中に布団を用意させたらしく、少しは冷たさから我慢できるものになった。

「……これじゃ直ぐシミになってしまうな。やはり布団の上でやるのは洗濯側の迷惑にならないか?」
「そんなこと気にするなよ。……洗濯されるのは恥ずかしいから、シーツだけは俺が洗っておくよ」
「面倒じゃないか。なら、いつもしていた通りに……」
「あのな、お前だってするたびに擦れて痛いんだろう。少しは体を大事にしてやれよ。洗濯物と自分の体、どっちを大切にすべきか言う迄もないだろ」
「…………」

 奇妙なところで燈雅は押し黙った。
 正解は後者の筈なのに、即答できなくて困っているようだった。
 それは一度も、柔らかく暖かく、優しく眠ることが出来なかったことを物語っている。

「あぁ……。言われてみればこの状態だと……あまり肩が痛くならないな」
「今更、気付くな……」
「知らなかった。いつも、自分の着物を敷いてやっていたんだ。あの人は……着ていると体が重くてやりにくいと言ったから大抵は全部脱いでてな。冬になると、床が冷たいから敷物代わりにするのが丁度良かったんだ。寒くたって体は直ぐ熱くなるし。最初が少し痛寒いだけでそれを我慢すれば……。っ?」

 何も躊躇いもなくそんな話をしている奴を、抱きしめた。先程のお返しのつもりで。
 この部屋は私室ではあるが、寝室ではない。傲慢な修業の場でもないが、ここ数日の会話から聞くところによると時々、『供給の間』として使われていたようだ。
 いわば、拷問室。それが、本来の形らしい。
 最初はこの部屋には何も置かれてなかったのに、どこからか増えていく本や紙切れが次々に置かれていくせいで部屋らしくなっていった。
 俺が持ってきた本。俺が持ってきた写真。それが、この部屋に息吹を与えた。

「圭吾……?」
「…………」

 そう、元来この空間は人を招く為の場所ではない。そこに主に許可をこぎ着け、無断で押し入っているのは自分だ。本当なら入れたくないと言われてもおかしくない。
 だが、何の隠す気もない燈雅はそれ以上に、自分の過去を公に話してくる。それがひどく心苦しい内容でもあっても、どこか愉快気に話していた。
 自分が初めて散らされた経験、どんなことをされてどういう風に思ったか、何が巧いと褒められたことから、少しでも身を守る為に行なっていたことまで。
 悪びたものだと一切思っていないかのように。
 いや、思っていない彼は純粋に話す。昔話として、自分の記憶を。

「どうした、圭吾……もう一度やりたいのか?」
「……少し、黙ってくれ」
「え? ……ああ」

 抱きしめ、言葉を奪った。
 そんな記憶、聞きたくなかった。ただそれだけだ。腕を背中にまわし、強く抱きしめる。

「……このまま抱いてくれて構わないぞ。いっぱい貰えるなら貰うから。お前が嫌じゃなかったら……」

 この行為を、一つの儀式として考えている。それ以上の意味を持つものだという概念は無い。
 当然だ、燈雅は男性だ。性交渉をしても子を産める訳がない。それに女でも成熟していない体に無理矢理入れ込んでも何も生まれない。愛の表現、そんな意味でもなく、違う価値があるからこそやっているのだ。
 生力の流動。精神の転換。スイッチのオンオフ。チャンネルの切り換え。他人にやってもらえなければ死ぬ。それから救われる為に行うのが、この行為……。
 ――じゃあ、違う表現をする時に彼はどうするのか?

 抱きしめて思った。そして、唇を重ねる。
 唇同士を重ねたのは初めてだった。
 忘れていた柔らかな温かさが、唇を通して伝わってくる。そのまま、触れあった口を感じようとした。
 燈雅が、唇の隙間から戸惑った声を漏らす。
 唇を割って舌を滑らせる。口腔の中に侵入し、舌を絡ませる。ぞくり、と身体をくぐもった快感が走り抜けた。どこか不安になってしまうような快感だった。
 一方、燈雅の方は瞳を潤ませながらもどこか落ち着かないものだった。先導していた彼とは思いつかないほどに、視線を泳がせている。
 ……一体お前は何をしているんだと訴えていた。知らない行為に驚いているかのように。
 いや、彼は驚いている。愛の表現を知らないのだから、性交渉の仕方は知っていても接吻の仕方を知らない。
 幾度も舌をくすぐってくる内に、段々その行為の虜になる。
 背中に両腕を回して、固く抱きしめてきていた。体中に押しつけられてくるのがよく判る。
 密着した肌と肌の、ぴったりした感触が一緒だという感慨を深くした。

「ん……燈雅……」
「ふ、あ……んんっ」

 やがて唇を離す。綺麗に光る糸が、二人の唇の間を伝っていった。
 声を上げようとする前に、また口付ける。口呼吸を奪うぐらいに長く、これまでで最も長い口付けをする。正しいやり方も知らない。脱線ばかりしてきた彼に心苦しさが非常に大きい。
 でも、彼は彼だ。彼の状況を、彼の心を認めてあげなければならない。
 何度も口内を舌で犯し、必要以上に舌を奪い、絡ませた。

 燈雅の少し伸びた前髪をかき上げてやると、静かに身体を倒した。
 頬を紅潮させながら、やや目を細くして視線を脇にそらす仕草が妙に色っぽい。そこには今まで先導していた艶やかさとは違う、どこか子供っぽい方の燈雅がいた。
 何も知らない、あれは何だこれは何だと聞くあの世間知らず。今まで夜に会うことがなかった彼に巡り会う。
 この数日間、部屋に会う度に体を重ね合った燈雅は妖艶な笑みを浮かべていた。大人っぽく、いつも手を引いていた。
 だが、今いるのは手を引いてあげなければ何もしないような彼。燈雅は唾液を飲み込み、もう一度視線をこちらに向ける。
 何をするんだ、と問いかけるように。

「燈雅。『魔力供給』は終わりだ。俺ばかりが面白くてもダメなんだ、お前も気持ちよくならないと」
「……そんなことは」
「お前は『気持ちよい』と『痛くない』が混合してる節がある。そうじゃない。だから、魔力とか関係ないことをしよう……」

 最後は、呟くように言ってしまった。
 じっと肢体を見つめる。何も変わっていない。先ほど交わった時の彼と何も変化はない。だけど、まるで中身が交換されてしまったかのように表情が違う。
 どこか、怯えるような眼だった。だからか、自然と掴むのも柔らかくしていた。
 躊躇無く、燈雅のものを口一杯に頬張る。暫く唾液を口腔の中に溜めつつ、僅かに舌先で先端をくすぐる。
 心得たもので、その刺激は官能を無理のない程度に膨らませていく。
 熱で消耗していた身体に、段々別の感性が生まれてくる。心地良い熱だった。十分に唾液を溜めると、少しずつ上下の運動を始める。少しぐらい派手な動きがちょうどいい。
 いつも燈雅の方からしていてもらった行為だ。精液を出そうとあちらから促す口淫は、燈雅は得意と話していた。
 フェラチオなんて初めてやる行為に、顔を紅くして声を殺している。
 暖かくぬめった口に表面を撫でられて、燈雅のモノはより大きくなってきた。
 目を細めながら、徐々に口の動きを大きくしていく。少し強めに、絞り上げているかのようにする。濃厚な動きは負けるものはある。多少単調ではあったが、悦びを最も刺激するのだと知っているから続けた。
 燈雅が軽く腰を動かした瞬間、限界が近いことを悟った。
 良かった。感じてくれている。自分がしてくれたときのように強めていく。
 嫌がる動きを見せたが、そんなのは無視した。とにかく今は、自分がされて嬉しいことを相手に返してあげるだけだ。
 燈雅は熱っぽい息を漏らす。身をよじらせながら甘い声を上げてくれる。不安げに目を見ようとしてくる。
 けど、何かを訴えてくることはなかった。恥ずかしさでも感じているのか。混乱しているだけかもしれないが、熱い息遣いは肯定を意味しているように見える。

「……燈雅。気持ちいいか?」
「……あ、ぐ……」

 返事の言葉になっていなかったが、その反応で判る。
 素直に体は認めてくれたようだ。

「お前は、これよりもずっと恥ずかしいことしてるのにな」
「……こんなの、してもらったことないから……っ……」
「燈雅……」

 少しだけ脚を開かせ、今夜またもう一度指を滑らせていく。
 それだけで、潤んだ目と切なそうな声を上げる。
 上に到達した指を、ゆっくりと沈めていく。一度沈ませたところは簡単に流れていき、温かく包んでいく。
 慎重に中をかき回すと逃げるように腰を動かしながら、高い嬌声を上げた。呼吸は荒く、言葉に言い表せない、気持ち良さそうなものを吐き続けている。
 いちいち見せる反応が嬉しかった。指を何気なく背中に這わせただけで、体をびくつかせてくれた。もう一つの手で唾液でぬめらせた手でしごく。確実に責め立てる為に。
 顔を顰めたかと思うと、先から、液体が迸った。
 やっとイってくれた。心の中で苦笑した。愉悦に悶える姿に惹かれる。また抱きたいと深く思う。一層、強く。今まで彼が求めたから、ではなく。これから、自分が求めるために。

「……燈雅」

 熱い息を吐き続ける身体に覆い重なる。

「やめっ……!」
「やめるのか?」
「…………。いや……これは……」
「……さっきもしたこと、もう一度しているだけだよな?」
「…………」

 抱いているのには変わりないのに、燈雅は違う表情を見せた。
 身を小さくしている。抱きしめてやるまで、震えているほどだった。
 抱きしめつつ貫いた体は、大きな声を出す。今夜は何度もした筈なのに、喘ぎ方が初々しく思える。再度、前を……今度は指で責め立ててやる。

「っ……っ、圭吾……!」
「はぁっ……。燈雅ぁっ、……あ」
「あ……ああ、ふあ……っ!」

 腰を動かして。それよりも、前を扱いてならすことに重点を置く。
 思いつつも、中に入ったままの燈雅は、なんとも言えない顔をしていた。
 感じて過ぎて声が出なくなってしまったような。そんな食いしばり方だ。
 喉を反らせる。身を痙攣させながら、喘ぎを見せた。
 名前を呼ぼうとしたのに、出てくるのは熱い息だけ。
 仕方なく抱きしめることしかできなかった。ずっと抱きしめていたのだから、抱きしめ続けることになる。そう続けることしか出来なかった。
 また口付けを。再度。もう一度。もう、何度も。
 ガクリと燈雅の首が落ちる。力無く倒れ込む姿は苦痛だけのものではない。そう願って口付けを繰り返した。

「……違う……」
「…………え?」
「……違う……。こんなの、違う……。ちがう……ちがう……」

 譫言のように同じ言葉を繰り出す。濡れたシーツに溺れながら、何度も同じ言葉を。
 その音に何の意味があるのか、理解出来なかった。



 ――1982年8月19日

 【 First / Second /     / Fourth /    】




 /9

 じゃらりとした音が心地良い。呪詛の張った鎖が揺れて音が鳴る。これが目覚まし代わりになってくれる。
 火照った体に心地よい冷たさ。汗ばんだ肌からその冷気に晒され、呆然とする。

 今までのことを振りかえった。修行のひと時。足りないもの。足りないからと補われるもの。懸命に考えてくれた結果、抱いてくれる父。そのときのこと。抱かれている時間。
 腿の部分で流れた紅い雫ももう固まってしまっていた。指で撫でるとカサカサと乾いた音をして崩れた。呆然と時間が経過していく中、ふと力を入れたとき、足の間からドロリと液体が垂れ出した。体が震える。それは、自分の意図とは別に身勝手に、流れ出ていく。
 白い精が体を満たしていた。本来なら女の卵と結びついて子を産むためのもの。
 こんな卑しい液体の中に、人を創るだけの構成物が入っている。これが様々な実験に使われていることも知っている。それとは別に、エクスタシーが魔力を生み出すことも、知っているけど何故かは知らない。
 全てを覚えることができないのだから、事実に則って進めていけばいい。不都合が出た時点で悩めばいい。
 そう、教わってきたから何も考えないことにした。
 そうだ、俺に大事なのは、精液を貰うこと。性的絶頂を迎えること。それ以外は何も。

 父がこんなことをしてくれるのは、自分が大事だからだ。感謝しなければならない。
 決して、苦しいことをしてくる父を憎んではいけない。全部、自ら魔力を受け取ることができない自分が悪いんだから。

 なんでこんなに迷っているのか。変な夢を見たせいだ。
 どこの時代だか判らない。父としていることと全く同じなのに、無理矢理挿入するのでなく、優しく両腕で抱き、口付け、犯してくれる夢……。

 嗤う。あの忌々しい行為を夢に見るまでになってしまったと。
 修業までの間、急いで慣らし、濡れていない場所に無理矢理挿れられたことによる反発の表れか。嫌がり、痛みに泣く姿がどうしようもなく嫌で、ただ蹂躙されるだけなのが嫌だから……あんなしあわせな夢を見たのか。
 体に震えが走る。今さっきまでの悦楽のためではなく、恐れのために。
 夢は本当の自分を表すと聞いた。
 信じたくはなかった。夢の中まで侵されているなんて。

 しかし、おかしな夢だった。何であんな痛々しい行為をしていたのに、あんなにも満ち足りていた?
 誰かに覆い被さられているのに、どこかしあわせだった。気持ち悪いことをされているのに、とても気持ちよかった。
 そんなことが有り得るのか? 虚ろな心に問いかける。知らない自分は何とも言えなかった。
 じきに、焦点がぼやけていった。

 声がした。子供の声。多分、自分と同じ血を引く連中の声だろう。
 同じ血を引いているというのに同じ運命を辿らなかった、幸福な者達。そのうちの誰かが、離れの方に迷い込んできたのか。
 呪詛を解く。父がこの牢獄からいなくなって数分が経つ。もう効力が無くなった鎖は、カラカラと崩れ落ちていった。壊れた鎖だが、また父がやってきて行為を再開すれば蘇っている。
 格子から外を見る。外は明るかった。悔しいぐらいに明るく光っている。
 そしてその先には、少年の姿が見えた。見えてしまった。……おかしな夢を見た俺はおかしくなっていた。
 あいつから声を、掛けてきてくれた。



 ――1989年8月27日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /10

 兄と弟におやすみと言われ、電気を消された。
 風呂に入って汗を流して、いつもの時間に就寝。今日は早めに供給を終わらせたから、久々に弟達といっしょの時間帯に自分の部屋にいる。
 今日も年の近い親戚達と走り回ったらしい弟・霞は、あっという間にいびきをかきだした。数日ぶりにやってきた静かな、何もしない夜を過ごす。

「圭吾」
 
 隣の布団で眠る兄の悟司が急に声をかけてきた。霞がいびきをかきだした直ぐ後に。おそらく、霞が眠りに落ちたのを確認して口を開いたんだ。

「いくつか質問をする。答えたくなければ答えなくていい、興味本位で聞く戯言だ、嫌なら黙秘しろ」
「なんだよいきなり」
 
 重圧をかけて話し出すのは兄の特徴である。要点しか聞いてこないシンプルさが出ている彼ならではの話口調だ。

「一つ、魔力を貰っているのか。二つ、お前が魔力を得る必要があるのか。三つ、誰からだ。四つ、それに燈雅氏が関わっているのか」

 聞き、飛び起きた。
 質問の段階だというのに、兄の口振りからは確信めいた答えを持っている。回り道のないストレートな問い。まるで、解答をぶつけているようだった。

「…………答えたくない」
「そうか。では、おやすみ」
「何でそんな事聞くんだ? 兄貴は、その……」

 『見た』のか。
 『俺みたい』に。
 言う訳にはいかず、口を閉ざす。が、質問に答えてもいないのに、兄は言葉を繰り出す。

「俺も刻印持ちだ。分家とはいえ長男、弟のいつもの調子の違いぐらい気付く」

 ……気付けるものなのか。
 確かに彼に魔力を渡している最中に、自分自身も受け取っているだろう。そんなのに気付くことができるのか。
 まるで監視されているかのような感覚がした。兄貴には秘密を守り抜く自信がないと前々から思っていたが、小さな違いで矛盾点を発見するプロには敵わない。
 敵わないからって、黙っているだけにはいかない。

「燈雅と……関わっていると何かダメなのか?」
「身を滅ぼすなよ」

 ――それは、一体どういう意味だ。
 言葉に出来ないまま、……布団から出て部屋を後にした。
 なんてことはない、ただ、そんな不気味な兄の隣で眠るのが嫌なのと、急に燈雅の顔が見たくなっただけ。離れた場所にある彼のいる屋敷は、走ればどうってことのない距離だ。
 だけど夜は恐ろしい。亡者がいそうな気がする。そんな異界の先に彼はいる。いつもこの時間には彼処に向かい、彼に出会っていた。
 『代理』として。
 そうだ、代理だ。
 自分は彼の実父の代わり。その間柄だった。
 だが、絶対的に違う。彼らは愛の表現などするものか。自分はする。彼にキスをするし、彼を愛してやる。そこは代理にはできない。
 本物なんだ。

「燈雅」
 
 縁側を抜けて、あの冷たい部屋に出る。
 ここは寝室じゃないくせに、夜でも彼がいる場所だった。

「燈雅……」

 今も彼はその冷たい場所にいて、座り、写真を見ていた。
 昨日までならそのまま事を始めるのだが、今日はしない。

「もうその写真、見飽きただろ? 明日、新しい写真を撮ってきてやる。また外に出るか? 今度は朝から行って夕方に帰って来よう。そうすれば誰にも怒られる必要は無い」

 燈雅の隣に座って、写真を横から見る。
 もう写真はしわしわで、角が破れかけていた。何度も燈雅が捲った後だからだ。何度もここから下界を見ていた証だった。

「…………おかしいんだ」
「何が。普通の写真じゃないか」
「違う。…………魔力が、だ」

 ……また、その話か。
 しかし、足りないというならこっちに来た甲斐もある。抱きしめて声に応えてやる。

「足りないんじゃない。足りてるんだ」
「……え」
「どうしてだろう。オレは燃費が悪いってよく言われてた。一度供給してやっても直ぐに無くして、次の供給までギリギリで生活しなきゃいけない、そんな体だった。それなのに、今は全く不満が無い。不安が来ない。……苦しくないんだ」

 写真を捲りながら、燈雅は語る。ハッキリとした声でも迷いも見え隠れしている。
 どうしてって、それは、その理由は。

「……圭吾、昨日……何をしたんだ?」
「何を、って……」
「普段なら今頃、息を切らせて我慢している頃だ。酸素をクレって、カラになったボンベを叩きつけながらな。……その症状が無いんだ。一体、お前……どんな供給をしたんだ」

 写真から一転、真っ直ぐな眼が襲う。
 何故だ、どうしてそんな事がそう、言葉が一斉に襲ってくる。
 専門家でもない自分に判る筈が無い。なのに、どうしてかこんな結論が出た。

「燈雅。お前、実はキスが好きなんだろ」
「…………え?」
「昨日したことって言ったら、お前が『ちがうちがう』言ってたアレじゃないか」

 言って、首を向かせ、口付けた。
 写真を捨てさせて、真っ正面を向かせて、精一杯口付ける。
 そこに起きる、生力の流動。精神の転換。スウィッチのオンオフ。チャンネルの切り換え。
 唇を解放した時には、全ての事柄が終わっているように、強く口付けた。
 驚いた顔。信じられないといった表情。困惑する目。顔だけでなく、全身で照れてみせる彼。

「……そんな、簡単なことでいいのか」

 ポツリと呟いた。

「あぁ、多分な。元々、『魔力供給』っていうのは……その、性的絶頂から来るあの震えみたいなモンなんだよな?」
「……」
「あれが起こると発生するんだよな? なら、気持ち良くなきゃ意味がないんだよ。……痛いことなんか、しなくていいんだ。こんな簡単なことで救われるんだよ……お前は」
「そうか……。そう、なのか」

 言って、再度抱きしめた。そのせいで彼の表情は見えなくなった。
 縁側で重なり合った俺達は、そのまま部屋に戻る。そうしてまた俺達は求め合う。魔力供給ではなく、愛の時間を求め合った。



 ――1989年8月27日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /11

 目が覚めてしまう。
 このまま闇の中、ずっと眠っていられたら。なんて、ほんの少し考えてしまった。だから数秒、目を瞑ったままでいた。
 けど、生きてる限り、目を開いて動かなきゃいけない。
 ああ、駄目なようだ。あえて頭を働かせないようにとしていたのに、次々と情報が入ってくる。きもちわるさと、きもちよさ。思い出しただけで……。
 された事と受けた事を思い出す。
 手を握った。耳を舐められた。舌を奪われた。髪を撫でられた。首筋に口付けられた。目尻の涙を拭いてくれた。様々なことをされた。
 また変な気持ちに襲われる。心臓が鼓動しているのを感じる。決まってこんな状態になったときは……。何をどうすればいいのか判らなくなっているときだ。

 隣で眠る彼がいた。瞼はふんわり閉じられていて、すうすうと寝息が聞こえる。
 圭吾の匂いが、近い。同じシーツの中で眠る。もう何日もやったこと。けど、改めて意識して眠る彼を見ると、不思議な感じが胸の中で湧き起こった。
 切ない表情を浮かべている。決して心地良い眠りではない
 どうしてそんな眠りなのか、思い当たることがある。
 彼の首元に指を這わせてみた。目覚めないように注意を払いながら、指を近づける。トクントクンと脈打っている。当然のことを確認して、少し安心した。
 安心したところで、本来の寝室の方へ向かった。
 着直して、さほど時間の経っていない着物を再び脱ぎ捨てる。
 姿見には映っていた。頭も、胸も、腰も、手も足も、全て。
 数日前までの自分と、どこか変わっているか。未知の痛みと、それ以上の消化しきれぬ快感を体感している自分は……。見ても判らなかった。
 そんなに変わるものではない。不思議と目の前には訝しげに見つめる顔がある。どこか恥ずかしそうな、不安そうな、見覚えない顔がこちらを見ている。
 「お前は誰だ」と問いたくなるほどに。
 見苦しい腕を見た。相変わらず醜い姿をしている。中央部分は……女でもないのに濡れているように見えた。そんなのも錯覚な筈なのに違う感触がある。
 内部には、人体には発生しない注がれたものも混じっている。立ったままの姿勢から、背中が壁につき、足を開いてみた。こうしているとまざまざと思い出す。圭吾が、どんなにここを弄ったのかを。
 あぁ、そういえば。
 姿見に写る自分の不格好な部分を見て気付いた。
 この身体を人が見たら、まず第一に何を言うか。まさか全裸を見られる機会は無いと思うが、もし見たら、まずこう言う。

 ……『不気味な』。
 ……『醜い』と。

 自分はそういう格好をしている。目も背けたくなるような模様が、人工物が埋め込まれているのだから。
 我が一族の血に含まれる刻印は、人体の表面に薄黒い『何か』が表れている。俗に、刻印と呼ばれるものだ。生まれつき持っている刻印を持たずに生まれてきた我が身は、後天的に植え付けられることとなった。
 それが父の情けだった。成熟した人間の身体になればなるほど、人工刻印の移植は失敗する。だから早くに腕に醜い『何か』を植え付けられた。
 それは、成長する体を蝕んでいく。
 表に出ているのは、黒や紫の色。火傷痕や泥水を被ったときのような。そうとも言い表せない、醜い体。
 半身は、殆ど刻印に食われていた。それは、いつだって消えない。
 自分にはそれが自然になっているから気付かなかった。奴が、何にも言わずどこにも顔に出さないから、気付かなかった。
 鏡に映る自分の腕は、紫色。禍々しい形をしている。ミミズが這っているかのように脈動する血管。汚らしい。それを全て彼奴は無視していた。そこに何もおかしなものなど無いというかのように。
 自分さえも忘れてしまうほどに彼は何も言わず、一切反応を示さなかった。気にしているのを知っているのだったら敢えて口にしなかったというのに、彼にはここ一週間で初めて見せた筈だ。
 なのに何故、何の反応も見せない? 何故。
 腕の一部など気にすることはない、という意味だったのか。それどころか、人なら触れたくもない腕を、何度も握り、撫でてくれた。
 こんなに触れてしまって平気だったのか。汚いと思わなかったのか。気付かなかった自分もおかしいが、圭吾が一番おかしかったのか。

 構わず何度も指と舌でおかしくされて、頭が霞みがかってから優しく挿入されて、息が詰まり、痛くて声を出す。痛みが落ち着くまで、抱き締めて動かないでいてくれた。それからはぼんやり考えたのを憶えている。
 中いっぱいに広がったのを憶えている。いや、忘れない。絶対に忘れられる訳が無い。
 人差し指を浅く挿入した。痛みを誤魔化す為、慣らす為に幼い頃から挿れていた場所に。
 感じて、感じたところで引き抜く。注いだ彼の魔を顔に近づけ、まじまじと見つめる。どろどろに白く濁っていた。躊躇いがらも、唇に指を近付けた。舌をそっと伸ばし触れる。誰に強制された訳でもないのに自然と口に含む。ツンと来るような、味と匂いを感じたが、唾と共に飲み込んだ。
 何と言うことは無い。そうだ、これの成分はカラと言える。決して害は無い。美味しくはない。本当にあの効果以外は何にもならない儀式の術。

 びくん、と体が動いた。崩れそうになる強烈な刺激。我に返り赤面する。
 精液を指で絡め取り、しゃぶっている姿を鏡で見てしまった。
 あまりの快感に、感じきっていた。魔力に溺れ、おかしくなっていたのか。

「ふ、……は、はは……、あはは……!」

 力の無い笑い声が寝室に響く。
 今までいた『拷問室』では上げなかった淋しい嗤い声。自動的に飛び出す可笑しさに、止まるまでずっと浸っていた。
 可笑しいのだ、これは『有り得ない』のだ。この行為を一番嫌っていたのは自分だ。精を舐めるなど、こんな青臭いものを体に入れるなど、飲み込むなど、流し込むなどしたくなった。
 この行為自体を正当化させたくなかったし、認めたくなかった。
 父親に抱かれていたのは、仕方なかったこと。彼に助けを求めたのも、仕方なかったこと。なのに、こんなにも満たされているのに自分から処を弄り、汚らしいところを抉り、痛みを楽しみながら舐め、そんな自分の姿に興奮しているだなんて――!

 思ったら、吐いていた。今飲み込んだもの、今まで飲み込んだもの。
 自分の身体に入っていく『他人』を全て吐き出したいぐらいに。喉の奥に指を差し込み、苦しくなっても耐え、胃液が飛び上がるまで突っ込む。そして吐き続けた。
 無性に許せなくなった。自分を浸食していく『誰か』に。

 口の中が酸によって痛々しくなり、痛みにより新たに覚醒する。
 というより、やっと気付いてしまった。この痛みの原因は一体誰なんだと。
 自分の吐いたものを見ながら、まず心配したのは折角手繰り寄せた魔力がこの衝撃で失われていないかだった。
 だがその心配は無いらしい。集中して入れた自分の中のポンプはまだまだある。
 安心し、呆然とした意識は一人の顔を思い出させた。その人間に不思議な感情が湧き起こる。
 感情はナイフのような形になり、空想の中で引き裂いた。刃物で殺す妄想。
 実際にはしない。だけど、したいと思ってしまっている。その事実に気付いて、また乾いた嗤いを浮かべた。



 ――1989年8月27日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】





 /12

 隣に燈雅が居なくなっていたことに気付き、慌てて部屋を飛び出る。
 彼が夜に動きそうなのは、私室以外は便所と寝室ぐらいしか考えられない。昼間なら兎も角、もう新しい日にちになったこの時間帯ではまず歩き回らない。もし思う場所なく歩き回られたら、探すのは不可能だろう。
 それぐらいこの家は広すぎる。何せ敷地内に本殿は勿論、本家の屋敷に分家の屋敷、僧たちの修業寺に離れがいくつもあるのだ。一見森だらけの山に見えるが、山中に人が住んでいる。自分でもどれだけ実家があるのか把握出来ていない。広すぎる我が家の問題は置いておいて、扉を開ける。
 そして、直ぐに発見する。
 縁側で、彼は休んでいた。

「……なんだ……」

 安心して燈雅に近付く。
 また月の無い闇夜。青白く辛うじて見える表情は、曇っているのか笑っているのかも判断しにくい。名前を呼ぶ。

「……燈雅」
「夜なのに、まだ暑いな」

 反応を見せた。呼んでしまってから特に用が無いことに気付いて何でもないというと、気にしていないように視線を元に戻した。
 視線を向けているのは、小さな池の方向だった。鯉が数匹泳いでいて結構な大きさをした離れの池。本殿の方にも似たような庭池があり、そちらはもっと大きく橋などが架けられているほどで、弟の霞達が夏になっては禁じられているのに水遊びをするほどだ。
 この離れにあるものはそこまで大きくはないが、立派な池である。水が溜まっている。だが、灯りが何一つ無いせいで水は無表情。同じく、その池を見つめている者も無表情だった。
 隣に座り、無意識に燈雅の肩を抱く。
 もう8月が終わるというのに相変わらずの薄着で深夜の水庭に腰掛けている。それが寒々しくて耐えきれなくなった。
 寒いのには慣れていると何度も言うが、いつだって震えている印象がある。実際に震えている訳ではない、そんな雰囲気があるのだ。
 抱かれて嫌がる素振りは無い。だが、喜ぶ様子も無かった。

「課題、終わったのか」

 突然、現実に戻される言葉を発せられた。しかも相当、嫌な方向の話題だ。
 月の無い夜に二人無言で庭にいるだなんて、それこそ兄のつまらない小説ではないが雰囲気が出ている。夢のような空間なのに、辛い現実が頭の大半を覆う。
 勿論終わっている訳がない。それほど勤勉学生ではない。無言で俯くと、声にせぬとも理解したらしく微笑んだ。

「やらなくていいのか、やらなきゃいけないんだろ」

 ああ、そうとも。
 滞納していた学生の義務が確実に待っている。あんなに時間があったのに一度もやってなくて、山のように積み重なった悪夢が足音を立てて近付いていた。
 やらなかったのは「夏休み」という期間が楽しみで埋まっていたからだ。この楽しみを苦しさで削りたくないと目先に出た手が、ずっと快楽を握り続けていた。いくら逃げ続けても地獄の門は消え去ってはくれないのに。
 何だか泣きそうになってきた。全ては自分のせいである、数日前から兄は警告してた筈だ。端的な言葉で、正論を言っていた。それを耳を引っ張られながら聞いていたというのに。
 今から、数日前に。

「早く帰って終わらせろよ。踏み倒すなんてことするなよ、義務なんだからな。お前の場合、ここにいたらずっと遊んでできないんだろう? 自制のきかない奴だからな、圭吾は……」
「……ああ。すぐ目先の事に突っ走っちまうからな」

 こんな風に。
 と、口が滑り、同時に手も滑った。
 抱いた手を顔にまわして、燈雅の唇を奪おうとする。が、燈雅は掌を口に押し当てそれを防いだ。

「こんな所で魔力供給してくれるな。間に合っている」
「……違う。これはただのキスだ、魔力とかそんなもの関係無い」

 十分に足りているくせに、何を言うのか。言うと、燈雅は苦しそうな顔をした。
 まだ口を塞いだまま。一向に開けてくれる素振りの無い為、顔にまわしていた腕を下ろす。今日も昨日もやっていたからするなということか。
 判っているだろうに。いや、彼から言い出したのにどうして。『もう何日か過ぎればいなくなる』っていうのに。

 帰りたくない。元々生まれ育った場所は此処だ。だが親の事情で、当主の弟・藤春が犯したある事情で、年前から下界に出ていた。
 この寺は年の近い親戚もいるせいか楽しいが、修学旅行が面白くてもやはり家が一番落ち着くように、ここの居場所は最高と言えなかった。現に、今兄弟達で寝泊まりしている部屋は三人で一部屋を使えと言われている。弟は思春期も迎えているに気にしていないが、我が長男・悟司は成人に近い年齢なのに可哀想だと思う。
 帰る日はいつか来る。それはもう目に見えたゴールで、カウントダウンは片手で数えられるほど短い。次に会うのはいつか。確実に実家に帰るのは年末か。口付けは出来なかったが、名前を呼んで正面から向き合う。

「暇ができたら帰ってくる。……いや、暇を作って会いに行くから」

 突然言ってみると、燈雅は目を丸くした。
 だが直ぐに、無理はするなと戯けた表情になる。

「年末には絶対帰ってくるけど、その間も帰ってくる。俺一人でもな。写真いっぱい撮ってきてやるから。それと、車の免許取って直ぐ会えるようにする。俺が必要になったら、いつでも電話しろよ」
「自惚れるな、阿呆」

 馬鹿な奴だなと燈雅は笑い出したが、勿論俺は本気だ。嘘偽り無い言葉をただ述べる。燈雅は信じていないようだったが有言実行な男だということを思い知らせてやる。
 この寺には特別な楽しみは無い。つまらないという訳でもないが、何があるということもない。それぐらいに地味で、閉鎖的な空間だ。
 だが、そんな世界で暮らしている人間がいる。自分は、その人間を想い、此処に帰ってくると誓う。
 なーんて、分家の家と実家は一日で帰ってこられる距離だ。永遠の別れでも何でも無いのに、何故か力んでしまう。
 それほどに別れが辛いんだ。
 それほどに燈雅と別れたくないんだ。

「なに、お前がいなくて淋しくて泣くなんてことはないさ。お前の魔力は心地よいが乱暴で、今も管理しきれなくて困っているところだ……。時々やって来るぐらいが丁度良い」
「そ……そうなのか?」

 笑いながら語る言葉を信用して良いものか。少し声が震えながら、聞き返してしまう。

「そうだよ。お前がいなくとも、オレは構わない」
「……本当か?」
「…………ああ。……そうでも言わないと、お前……宿題しないだろ?」

 少し、風が吹いた。
 その風が合図かのように、燈雅が立ち上がる。その表情から、笑みが消えていた。

「来た」

 そのまま、離れの出口の方へ一人歩き出す。置いていかれるのが嫌で、後をついていく。

「何が来たんだ」
「帰ってきたんだよ。……圭吾は聞こえないのか、足音が」

 神懸かり的な彼の耳と、常人より鈍い俺の耳では相容れないものの到来。
 この時間に終わりがきたことを知った。



 ――1989年8月27日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /13

 一文だけを読んで積み重ねる。今日もまた、共同部屋のゴミ箱に一冊文庫本が捨ててあった。
 捨てるぐらいなら俺に寄越せ、燈雅にあげるから、そう言っているのに兄は聞かない。まるで兄は読書が趣味ではなく、本を捨てることが趣味のように思える。

 弟は夜遅くだというのに帰ってこない。けど、霞のことだから就寝時間になれば几帳面にも帰ってくる。奴は無駄に元気だから八時間以上睡眠をとらなければいけない体だ。絶対に戻ってくる。
 兄はどこでどうしているか判らないが器用な人だ。色んな場所を色んな人の間で忙しく駆け回っていることだろう。彼がよく『世話』をする父親が帰ってきたのだから。どこで何をしているか判らない。
 それは兄と弟も、俺に抱く感情ではないか。と言っても判られたらそれはそれで困る。
 自分がここ数日何をしていたか。兄は検討がついているようだったが、弟には見られたくない。かと言って「見てないよな?」なんて改めて口にしたら怪しまれる。とりあえず霞が何も変な行動をおかさない限り、口は挟まないつもりだ。運動神経は抜群のくせにそういう部分は鈍い男だから、大丈夫だ。

 今日の収穫は三冊。大きくない屑篭に入れられた本の埃を払った。
 先程までゴミと選別されていたものたちは、ゴミとは思えないぐらい美しい。普通に古本屋で売ればいいものを、何気なく捨てている兄は大物なのか只の馬鹿なのか判らなくなる。紙一重とはこういうことか。

 就寝時間はまだか、時計を確認する。
 確認して、意味が無い事に気付く。
 今日は、もう行けない。行く必要がない。……今日から、なくなったんだ。
 一番馬鹿なのは自分だ、と苦笑いする。時間になって兄弟が寝て、屋敷中の灯りが消えたら奴の所に走っていこうと思った。そんな通いが続いてもう数日、段々と道無き道を走る時間は小さくなってきている。
 でももう行く理由が無くなったのを、親達が帰ってきた前に話していたではないか。三時間か四時間以上経ったら忘れてしまうなんて。

 だから……彼はあんな話をしたんだ。
 いつまでも傍にいてやるような発言を繰り返しているような俺へ、忠告のように、現実に引き戻すようなことを言って。今更になって判った自分はやっぱり鈍い。目先のことしか考えなくていつも失敗する。
 もう父達が帰ってくる。『代理』の必要も無くなった。燈雅はハッキリと言った。『お前はいらないと』。
 いや、そんな事は言ってなかったんじゃないか? 物事をマイナスに考えすぎて、頬を自分で叩いた。親が帰ってくるから来るなと言っただけじゃないか。学生生活に支障があると困るから……そんなに頻繁に帰ってきたらダメだろうと、親切心に怒っただけじゃないか?
 自惚れるなと言われたのに、また直進し続けるところだった。いいかげんこの悪い癖は治らないものか。
 でも、渡しに行きたい。
 本当の気持ちを言えば、本を渡すのは建前。夜……表では見せない彼の顔を見ていたかっただけだ。
 不思議に笑う、ころころ表情が変わるが最終的には戻ってきてくれる彼と、少しでも長くいっしょにいたかっただけだった。

 しかし、それは今夜叶わない。彼には本来の儀式が待っている。
 ……儀式? 彼があんなに泣いて嫌だと言っていたことを、自分は見過ごしてしまっていいのか?
 でも。でも、でも、どうしようもなかった。
 あれをしなければ死んでしまうんだ、苦しいままなんだと彼は言っていた。そしてそれをすることもまた苦しいと彼を言っていた。
 じゃあどうしろっていうんだ?
 苦しんで死ぬか、苦しんで生きるかの二択。自分がその選択肢の前で立たされても直ぐには即答できない。自分のように直前の問題しか考えない人間なら特に。

 彼は選んだ。後者を。
 苦しく永らえる方法を。
 頭を震う。気分が重くなってきた。もっと違うことを考えよう。そうしてこの問題から逃げよう。彼の現実から逃げよう……。
 本を、開く……というところで文字が消えた。いや、本自体が目の前から消え去った。

「圭吾。――――当主様がお呼びだ」
 
 突如部屋にやって来た兄に視界を奪われ、先を急かされた。
 時刻は、もうあの時間を過ぎていた。



 ――1989年8月26日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /14

 その行為を教えてくれたのは、父だった。

 修行の事前準備をしていると知った父は、手取り足取りより詳しいその行為を教えてくれた。
 助けてくれたのかもしれない。単なる苦痛でなく、少しでも痛みを歪めてやれるのならと情けをくれたのかもしれない。
 自然に覚えたことは、他の人達もやっていることだった。名も知らぬその行為が、どことなく罪悪感を抱く行為が、正解だったと思い知らされたときだった。
 褒められたことではないと何となく思っていたのに、何故か頭を撫でられたのを覚えている。嬉しくはなかったけど、その後もしていこうという気にはなった。
 快楽で、痛みを消す方法。やめようと思ったのにやめられなかった行為。『良いこと』を考えながらすると自然と気持ち良くなる、アレ。気持ち次第で何でも変わるのが不思議だった。
 呪文と似ている。催眠で言い聞かせればどんな効果だって大きくなるという呪文に。
 それに、これをすることで自分の身を守るだけじゃなく、父や、その他にも提供してくれる大人達のことも考えられた。決まって痛みを訴える遣り方は誰も好まなかった。自分を慰める行為で相手を思いやれるなんて。
 自分を慰める人なんて、誰一人いないくせに。

 いや、ひとりだけ。やけに頭を撫でる男がいた。
 やけに抱きしめ、優しさに溢れた単語を使い回し、そして汚してくれた男。目の前のものしか見えていないおかしな奴で、オレを救った気になっている、オレを犯す者の一人。
 自分からしろと言ったのだから、彼に全ての責任は無い。悪いのは自分にあると判っているが、懲りずに意味のない行為までして時間を潰してくれた。
 魔力供給にもならないことで時間を潰す。結果、通常の供給よりも効果があったのは驚きだった。あんなにも長い間、辛いと思っていた行為をしなくて済む方法。限られた条件の中の、本当に狭い範囲の中のもの。
 一瞬、助かる方法だと喜ぼうとしてしまった。そんな応用力の無い解決策、使い物にならないのに。
 惨めだ。助かると思ってしまい、嬉しくて笑ってしまった数日間……全く、無駄をした。そう思う。

 けど、思い出す度に身が震える。
 恐怖ではない、快楽でもない違う震え。彼のことを考えると不思議な気持ちになる。胸が苦しくなったり、喉の奥が切なくなったりする。
 この感覚について、いつか本で読んだ気がする。何という症状か思い出せないが、全く体験したことのないものだ。だから今まで判らなかったし、今も理解できない。
 この苦しさは、修業の時に味わう同じ苦しさでも種類が違う。どちらも同じ胸が痛むことなのに、どうしてか心地よさもついてくる痛みだ。
 痛いことと気持ちいいことが重なり合うなんて。有り得ないのに。自分を慰めることは、自分の身体を守るためになる。だから慰めてくれる人がいるということは、自分の心を守るためになってくれる。どの要素も、どの要素もあちこち似ていて、違っている。難しかった。この考えを放棄したいと思う。
 だが、この心地よい『記憶』までは捨てたくない。

 名前を繰り返す。その度に、ぐっと胸の奥が痛んだ。苦しいが可もなく不可もなく収まっていて不思議な感覚に陥る。ずっと、同じ名前を繰り返す。
 そして同じ記憶の再生を行う。繰り返し再生する。
 何度も思い出して、浸る。その記憶だけを抱いて溺死したかった。
 抱いているだけでいい、心地良い記憶。
 二人だけの時間。オレ達だけの秘密。
 意味もなく触れ、傍にいる度に触れて、繋がって、キスをする。思い出しただけで溶けそうになる。頬は緩んで、あぁ……これがアレなのかと思う。
 ずっと小説だけで知っていた、あの『しあわせ』とかいう感情。自信は無いけどそうではないかと思うようになった、オレの記憶。
 想い、笑う。なのに、涙が溢れていた。



 ――1989年8月27日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /15

 本殿に入ることはまず無い。
 子供が遊ぶと九割の確率で怒られる所で、九割の子供はこんな所で遊ぼうと言えないほど荘厳なオーラを纏った場所だ。ちなみに双方とも残り一割は必ずいる物好きのための数値だ。何回も入った事のない世界に足を踏み入れるが、途端に引き返したくなる。けど、兄に行けと言われたので我慢するしかない。
 改まった場所は、子供の精神を押し潰そうとする。いるだけでストレスが溜まり、不調にしてくれそうな空気が漂っている。
 入る人間が限られた殿というのはこういうものか。やはり入る人間が限られているせいか、元々人がいない場所である此処は生きた感覚がしない。
 もう少し自分に霊能力者としての才能があるなら、周りに在らぬモノの姿が見えた。それぐらいここの大気はピリピリする。
 何かが住んでいるかのように妖しい。自分の家ながら、こんなにも怪しい場所があるものか。
 一番厭な感じを覚えたのは仏像のある間。その先の部屋に入る。先程より比較的人の出入りのあるような大気の流転がある。何より暖かい。それでも自分が住んでいた部屋より冷たいが、近くに本や写真やらがあるおかげでヒトの部屋らしく見える。
 本。写真。そのキーワードが、ある場所に似ていると思う。一カ所にまとめられている本を手にするが、兄の本は一度も目も通さず手放した物が多々あるので、俺があげた本だと断言できない。
 しかし写真は、どこかで見ていたものがある。それは写真の中の世界ではなく、ボロボロになった周りの部分だった。
 何度も手に取り捲ったような痕。中身は覚えていなかったが、この痕だけは無性に記憶している。
 この写真は……俺が撮った写真じゃないか。
 どうして本殿にこれが?

「圭吾くん」

 そこで声を掛けられた。
 驚いて体を震わせ、慌てて写真と本を元に戻す。何処から声がしたのか判らなくてキョロキョロすると、また奥の部屋に人影が見えた。
 男性がひとり居る。
 部屋を抜けてもう一つ奥に部屋があるらしい。畳続きの屋敷から、立っている所が板目になっていく。一区域また世界が変わるようだ。そちらは寒いな、とおもむろに思った。

「すまないね、圭吾くん。もう眠たい時間だが呼び出してしまって」

 改めてその人の声を聞くのは、初めてかも知れない。
 でもどこか聞き覚えのある、優しく穏やかな男声。声だけでなく、物腰も柔らかく上品だ。自分の実の父と本当に血が繋がっているのか疑いたくなるほど。と思うが少なからず自分自身もこの人と同じ血が流れている。
 薄く笑う姿は、老けているが、やはり燈雅を思い出させた。この人は、燈雅の実父なのだから似ているのは当然だ。

 軽く微笑みかける姿は、昼間見る彼と酷似している。優しいのに、優しい声で優しく笑ってくれるのに体が強ばった。決してこの人は威嚇している訳ではないのに、どこか心が許せないものがあった。
 それは『あんな姿』を見ているからではない。
 元からどこと言えないが厳しい気を放っている人なんだ。
 正月などで親戚中が顔を合わせるとき、やはり中心にいる数人の存在感は大きい。周りが大きく見立てるのではなく、彼ら何人かは周囲を威圧するだけの力を醸し出している。それをこの空間で俺は一人で受けている。
 警戒しなくていいと言うが体が危険信号を知らせ、勝手に身構えてしまう。
 それに、――この人が彼を――そう思うと不思議な気持ちが襲った。

 奥の部屋は、畳の部屋以上に散らかっていた。
 さっき以上の本の山、ダンボールが数箱転がっているし、あちこちにビニールシートが掛けられている。剥き出しの彫刻や刀剣までが放置されているような亜空間だった。
 こんな所に人は来ないな。本殿と言っても重要なのは飾ってある部屋だけで、他は物置扱いなのか。子供がそれを知ったら遊び場として人気が出るかもしれないが、このような気を発せられたら遊ぶ気も失せる。

 ツンとした匂いがした。鉄の匂いだ。
 近場には剥き出しの鉈がある。大きな物だが所々が赤く染まってしまい不格好だった。古そうだったが、古い以外に価値の無いような気が素人目にも判る。
 全体的な冷たさ、どこか鼻にくる匂いは部屋中から漂っていた。ただ一人いる人間の冷たさとそこから発せられるものではない。
 一人、そう思ったが、ハッとする。

「圭吾くん、君に聞きたいことがあるんだ。是非とも答えてほしい。直ぐに終わるからそんなに畏まらなくてもいい」

 当主と言われ、三人の息子のいる父親と言ってもまだ年若い印象のある男は、話し出す。

「君は高い才能がある。刻印持ちなのは君のお父上から聞いていたが、磨き次第では悟司くんよりも強力な魔を持っている。照行様の家本でも君も勉強すれば一流の能力者になれる。『機関』でも優秀な数値を出したそうじゃないか。……狭山いわく、最高傑作に近いと聞いたよ」
「……は、い。ありがとうございます……」
「これからの目標はあるか」
「俺……その、兄みたいになりたくて……みんなの為になることをしたくて……その、高校で、勉強を……」
「そうか。――話は変わるが、うちの燈雅は君のように恵まれていない」

 名前が挙がり、ビクリと体が震える。
 ただ名を挙げただけだ。なのに胸が苦しくなる。

「しかし、あの子も頑張っている。何とか長男としてやっていく為に修業をし、使える魔法使いぐらいにはなったんだ。潜在能力自体は低かったが、引き出し方は巧いから直ぐに大物になる。父親を抜かしてしまうほど、強力な魔力をあの子に与えている。少々コントロール下手ではあるが、あれでも息子なりに頑張っているんだよ」
「…………」
「だがしかし、可哀想なことにあの子は『出来損ない』。術を使った後はろくに立てないし、直ぐに息切れする。呪文詠唱に支障が出る。何より放出するだけして自分で回収できないのだから、困ったものだ。その精錬もしているんだがなかなか身にならない。覚えれば鍛えて強くなれるんだが、物覚えがとにかく悪い。非常に困っている」

 話を聞きながら。……男の後ろの方を見る。
 さっきから一人だと思っていたが、どこか違和感がある。
 人がいない、人が近寄らない場所だから判る。自分と、目の前で喋る男以外に、ひとり。……『呼吸』が。

「父親としてはその症状を何とか克服してやりたくて、色んなことを試してみた。研究員総出になってあの子の身体を弄った。十年間あらゆる手を使って鍛錬してきたんだが、今のところ一番良い手段は見付かってない。仕方ないから原始的な『供給』という手段を取っている。そうでもしないと燈雅の体がもたない。本当に仕方なく、なんだ。ところが、どうやらその手段よりも良い方法が見付かったようだ」

 後ろを見入る。
 廃れたダンボールに青のビニールシート。ガラクタ、ゴミだらけの世界。そこが気になってしょうがない。

「今日、帰ってきて驚いた。反省していると思ったあの子が元気だった。どんな方法を使ったんだと訊いたが教えてくれなかった。何故だろう、あの子が一番悩んでいることの解決策が見付かったみたいなのに言わない。言ってくれねばこちらもどう対処したらいいのか判らん。このままでは一番辛い原始的な遣り方を続けるしかない。それでもいいと言う。一体どんな遣り方なのか個人的にも興味があったからしつこく聞いたんだが教えてくれなかった。仕方ないから少し強引だが『覗かせてもらった』よ」
「……その。燈雅は、今は……?」
「あぁ。君が話してくれなくなると思ってね、隠しておいたんだが……『そこ』で寝てる」

 言って、男は一番近いビニールシートの裾を掴み、引く。
 途端、頭の血の気が引いた。
 …………。

「あの子があんなに嫌がるのは久しぶりに見た」

 男は、構わず語り出す。
 引いた後も、隠していたモノが剥き出しになった後も、構わずこちらに優しく語りかけてくれる。

「幼い頃、初めて修業に出した時もあんな風だったが、ここ暫く大人しかった。だったのに、最近になって反発した」

 これだから思春期は難しい、とごく普通の『子を持つ親』としての口振りをする。
 下で『転がって』いても悪びる素振りもなく。

「すっかり大きくなったから抑えつけるのも一苦労だ。でもこんなにデカくなっても泣く時はうるさくてね、そんなところはいつまでも子供だな」

 足下には、転がる彼。仰向けに、だらんと腕を伸ばし口を開けだらしなく体液を流し零し垂らし、目は開けたまま宙を漂わせている。
 ぼろぼろになった着物も痙攣する足よりも、光の失った、死んだ魚のような眼に全てが奪われて動けなくなる。

 ――ふと。『此処』にはない『世界』が一瞬にして見えた。

 数時間前に再開した親子。数日間行わなかった儀式を行おうと撫でる父。拒む子。その必要が無いと気付く父は歓喜の目で言い寄る。ついに極意を掴んだか、それは如何なるものかと詰め寄る。子は答えない。答えたくないことをしていたからだ。背徳心で満たされていた子はたとえ相手が逆らえない父であっても答えなかった。答えたくなかった。父の周囲にいた大人達が礼儀のきき方がなっていないと最初に忠告した。何度も注意をしたが子はなおらない。ならば勝手に見させて貰うと言う。途端、口を閉ざしていた子の表情が一変した。恐怖。今度は子の方が大人達に声を上げる。非難。剥かれる着物。突き刺さる針。薬。全部喋らせる強硬策。張り上げ、止めろ、触れるな、来ないでくれ、それ以上の罵声。なら訳を話せと言うが子はきかない。正当な取引がなりたたず破綻。親は彼の頭をかち割った。暴力で。魔術で。薬物で。拒否。絶叫。嗚咽。無理矢理に子の脳を取り出し滅茶苦茶拓こうとする父に必死に抵抗する。再び針。薬が増える。魔術で乱される。話したくない、見せたくない、見られたくないと。コレはオレの記憶だと。父の胸を叩き抵抗し続けたが後に頭を押さえ、頭を抱える。薬がまた。浸透する。目を見開き、恐怖に戦く。イタイイタイと叫び続ける。ヤメロヤメロと唄い、それでもまだミルナミルナと拒み続けた。もう既に父が物事を悟った時も目から大量の涙を流しながら、頭を振りたくりながら叫んだ。アンタには見せたくない。アンタには汚されたくない。アンタには出番はない。アンタは入ってくるな。これはオレのものだ。これはオレの記憶だ。これはオレ達だけの記憶だ。これはオレと■■との記憶なんだ!!!!!

 しかし否定は……。
 虚しく、叫んで、叫んで、叫んで、拒んだのに全てを見られて、絶望し、
 ――――――シャットダウンした。

「自ら意識を切り離しおって、この莫迦。まぁ、数時間すれば戻ってくる」

 …………。

「すまないな、圭吾くん。あまり見て良い気分になるものではないな。だから隠しておいたんだけど、君がそんなに見たいとは思わなかった。それで、ここ数日の『一部始終』を全て『見せてもらった』」

 ………………。

「この一週間、この子の為によくやってくれた。『機関』が君は最高傑作だと謳ったときから代理の当主に上げる案はあったが、何も計画は進まぬまま今ん日まで至ってしまった。持っている譲渡の能力は実際発動させてみないと判らないものだな。だがこれで少しは解明された。予想以上の成果に驚いている。『機関』はよく君のような膨大な魔力を持つ子を創り上げた。この成果を皆に話そう。まだ君のお父上達には知らせてないがきっと喜んでくれる。こんな素晴らしい力の少年が我が家にいたとね」

 ……………………。

「もし君が才能を磨けばおそらく燈雅以上のものになり、君が創られた当初の企画通り代理が正式に当主として迎えることもできる。『機関』の最高傑作は実際の直系をも超えるとな。その場合、この子には長年にも渡って苦労をかけたが交代してもらおう。成果が出ないのなら意味が無いしな。君なら絶対に最高位の椅子になれる。だが強制はしたくない、考えておいてくれないか」

 ……強制はしない?
 そんな言葉を、絶対権力者の当主から聞いても信じられる筈がない。
 現に先代の当主は才能も血族的にも申し分ない次期当主……つまり目の前のこの人を、全ての生活を引き剥がした上に本家のトップに立たせたという逸話も聞く。
 人一人の生活とその周囲の人間関係を全て断ち切ってまでそうさせた。断ち切るだけの力が、権力が、『当主』にはある。そんな大きな力を持つ人が、上辺だけの笑みを浮かべて言って信用できるものか。
 ……それにこの人は今、なんと言っていた?
 嫌がる燈雅の体を、暴力で、魔術で、薬物でバラして、彼の心をもバラバラにしかけた。俺と燈雅とがしていたことを父に、祖父達に、顔も知らない親戚達に話すだと?
 そして、何年も何年も苦しい想いを我慢して、必死に食いしばっている燈雅を捨てるようなことを言った。
 成果が出ないなら、意味が無いと。
 使い物にならないのなら、意味が無いと。
 動かない体を見て心配する様子もなく、放って置いて俺と話しているだなんて。

「以上だ。よく考えておくんだ。それではお休み。……あぁ、この子ならちゃんと『片付けておくから』大丈夫だ。この事はあんまり言いふらさないように」
 
 まるでサプライズパーティーを考えているかのよう、彼の父は高低の無い声で言った。



 ――1989年8月27日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /16

 気付いたら離れのあの部屋にいた。
 暗く、灯りも小さい居心地の悪い場所。本は片付けられ、写真は一枚も見当たらない。ここは『私室』なのか『牢獄』なのか。本当はどっちだ。
 何も考えず部屋に佇んでいた。ここで数日間暮らしていた自分は、かつて天国だと錯覚していた。こんな黴臭い所が天国だなんて、数時間前の自分はどうかしている。
 窓から外を見た。夜空は、光って見える。何故かとても腹が立った。いつも出てほしい時にはいなくて、どうでもいい時にやつらは、月は光ってやがる。
 思い通りにならなくてムカついてきた。自分は何も力が無くて、空回りして、何にも結果が出せないものだというのがここにきて頂点に達する。
 俺は本当に何も残していない。あげた物は全て大人に片付けられてしまった。いや、元通りの場所にいったと考えるべきかもしれない。
 元あった場所は屑篭。屑篭にあるべきものが大量に置かれていたこの場所は、牢獄でもあり此処自体も屑篭だったということか。
 その屑のひとつとして、俺が残っている。

「……あれ……?」

 障子が開いた。開くなり、扉を開けた本人が不思議な声を出す。
 中にいる俺に話しかけてくる。

「どうしてこんなに綺麗になってしまっているんだ」

 隠さず答えてしまわなければならない。

「元在るべきに帰されたんだよ。……帰って来た人達に片付けられたんだ」

 と。
 そうか、成程。深く納得したらしく、何度も頷いた。
 その目にはやはり光が無い。灯りがない暗い部屋だからそう見えるのではなく、本当に曇った、いや逆に透き通ったというべきの、空白の眼をしていた。
 この部屋には映るものは何一つ無いのだから。

「……ッ」

 だが、一つだけ。
 灰色の眼に写してもらいたくて、目の前に駆け寄る。硝子のような眼に自分の姿がよく映る。
 でも、駄目だった。
 写してもらうだけじゃ駄目だ。見なければ。見てくれなければ何も意味がない。存在していること自体の意味がない。

「燈雅」

 名前を呼んだ。ぴくりと一瞬震えるが、反応は薄い。
 まだ喋らさせた薬が口元に残っているのかもしれない。

「燈雅……っ」

 何度も呼ぶ。
 着物の下には青痣が見えた。「話したくない」と言ったときに付けられたものなのか、昨日まで見たことの無い痕が刻まれていた。
 同じ言葉を叫んでも眼は、空白に写るのみ。完全に身体を捉えることはなかった。「何も言いたくない」と拒否したときに注入された物は、適量だったのか。ぼんやりと夢心地のような目のまま、起きていた。
 初めて会ったときもこんな姿だった。
 ぼんやり、無表情で、座って何も言えない状態だった少年。
 あれは無理にそう演技していたんじゃない。――大人にそうさせられていたんだ。
 力に屈し、抵抗を奪われ、不埒な魔術で記憶も意志も何もかも暴かれ、薬でいかなる身体機能も奪われる。
 そんな燈雅の姿を見ていたら、俺の目の前が霞んでいき、余計に見ていられなくなった。
 彼の全身が白くなる。……溢れた涙で見えなくなっていく。でも完全に視界から消えてしまわないように、漂っているだけのような身体を抱きしめ、そのまま共に崩れ落ちた。
 こんな身体になろうとしても守りたかったこだわりは何か。一瞬の妄想で自分は見えてしまった。
 そして「嬉しい」と想ってしまった自分がいる。
 素っ気なく、只扱われるだけのように触れられていた彼が、必死に抵抗してくれる姿が嬉しかった。こんな状態になってくれたことに喜びを覚えてしまっている自分も確かにいる。
 あのとき、数日間の関係を素直に父親に話していたら、何事もなく次の日の朝が迎えられた。
 恋愛関係ではなくあくまで生体活動の延長上で、何も興味が無く、少し俺が恥をかけば済む話なら燈雅は話していたかもしれない。
 けど、そうならなかった。彼は魔力供給を単なる呼吸ととらずにいてくれた。
 恥ずかしいことだと、俺との時間を二人きりのものにしたいと思ってくれて。
 ……嬉しいんだよ、俺は。お前がそう想っていてくれたって判って、本当に嬉しいんだ。
 なんて不謹慎な感謝の気持ち。空想の嬉しさと現実の苦しさに板挟みになって、涙と共に喘いだ。
 泣き声と言葉が混ざり合いながら、もう一度燈雅の名を呼んだ。もう彼を表す音が聞き取れないほど崩れてから、

「――ああ、聞こえてる」

 反応を示す。
 そして彼は帰ってくる。初日に出会った、違う目の色の彼が。
 抱きしめた腕から離れていく。
 涙を拭い、彼の顔を改めて確認する。形はさっきと変わらない、間違いなく知っている彼の姿をしている。だが、雰囲気がガラリと変わり、先程の空白の彼でもなければ子供らしい彼でもない、あの妖艶な笑みを浮かべる『彼』が現れた。
 それでも、目の光はどこか薄い。
 辛うじて生きているような瞳の灯火。強い気迫に溢れていた彼でも、少し弱っているように思わせる。
 気怠そうな返答。でも自虐気味に笑う頬。落ち着いた姿に目の前の燈雅は小さく笑った。
 笑ったのも束の間、目を細めて語りかける。

「なあ、圭吾」
「…………なんだ」
「お前は、この座が欲しい?」

 まるで本当に悪魔の囁きのように、明るい声だった。

「……なんだよ、それ」
「当主の座だよ。親父が言ってただろう。お前には才能がある。元から才能を持って産まれてきたんだ。だからオレは魔力供給で救われたんだ。お前が、魔力の塊のような男だったから」
「そう、なのか?」
「ああ。修業すればオレ以上にもなって、本当に当主が分家からでに当主になれるかもしれない。それぐらいお前の身体にある刻印は恵まれているんだよ」

 流暢な口調の中には迷いなんてものは一つもなかった。
 刻印のある俺の右腕を持ち上げられると、おもむろに口元へ持っていき、ペロリと舐めあげる。
 ドク、と鼓動が高鳴った。魔力が反応したのか、只単に燈雅の舌先に興奮したのか、どちらともとれる高鳴りだった。

「当主になればどれだけの力が持てる。魔術としても最高位として認められるんだ。空も飛べるしヒトだって操れる」

 胸を踊るのは、唾液と刻印の孔とが反応しあい、何か力を生んだかのような音だった。
 一度舐められただけなのに、何度も胸が疼き出す。

「いや、この地位になれば魔法なんて使わなくても人が操れるんだ。お前の理想郷が作れるかもしれない。今、目指しているものよりよっぽどラクじゃないか? わざと修羅の道を進まなくてもいいんだぞ。優遇してもらえるし、チヤホヤされる。お前の父親だってこっちを勧めるな」

 父親は、自分ら一家は本家ではない。現当主からあまり遠くはないが立場的には強くない。
 そこから有力者が出たら、父はどう思うか。喜んでくれるのか。

「それがお前の当主の姿だ。いいとこばっかだよな。確かに辛いこともある。今から一から勉強するから、面倒くさがりのお前には合わない部分もある。けど、飲み込みが早いし。素直な圭吾だったらやり遂げられるな」
「素直なって……お前な……」

 言い掛かると、燈雅はクスクス笑う。
 お前は素直だよ、と笑って言った。
 馬鹿にされている様子はなく、まるで褒めるかのように楽しげに、何故か嬉しげに燈雅が言う。

「だから。当主の座、欲しいか?」

 もう一度、尋ねてくる。
 ……お前ならなれるよ。しかも強く、みんなに喜ばれて。そんな期待を込めて言うかのように。
 口にする燈雅本人の顔は、とても華やかなものだった。
 ……嫉妬心なんて見出せない。憧れも無ければ羨望もみせない。
 笑っているのに、ひどく無表情。妖艶だと思った彼の表情が、まるで人形のように思える。
 ……彼がどんな答えを欲しているのか読めない。読めないから、自分自身の気持ちで答えるしかなかった。

「……欲しい」
「欲しいのか? お前には夢があるんじゃなかったのか?」

 確か兄のようになりたいと語ったような気がする。
 失敗のない、いつも冷静で堅実で完璧な兄の姿にずっと憧れていて、その道を辿ろうかと思っていた。だが。

「当主をしながらみんなの為に戦うっていうのもカッコイイだろ。そりゃ、一生寺に篭もっても暮らしていけるぐらい狭いところだから、世界中をまわりながらっていうのはできないかもしれないが、力に憧れるのは俺にだってある。それに」

 それに。
 当主の座を奪う……一番の理由は。

「お前が、当主じゃなくなるしな」

 言って……自分の頬が紅く染まるのが判った。
 告白でもないのに、もっと恥ずかしいことを奴としてきたのに、こんな所で紅くなる。
 その表情と、台詞に驚いたのか、きょとん、と燈雅は目を丸くした。
 何を言っているのか判らない、そう思うとき必ず燈雅はそんな顔をする。子供のような彼でも今の大人な彼でも、どんな姿でもその驚き方は同じだった。
 今度は逆に、燈雅に質問する。

「お前は当主にならなくていいと言われたら、何がしたい?」
「……考えたこともないな」
「考えろ」
「……そんな簡単に思いつく訳がない」
「しっかり考えろよ。今の俺みたいにやりたいことを直ぐやれるんだぞ。人の目も気にせず外に出られるんだ、誰も止めやしない」

 そりゃ「勉強しろ」とか「早く飯を食え」とか言われるかもしれないけど。
 普通に遊べるし、外の学校で学べる。何の本を買いに行ってもいい。写真の場所だって行ける。修業なんてモノもしなくていい。

「なにより、誰の許可もいらないで息が吸えるんだ。……お前がそんな暮らしができるのなら、俺は当主になってもいいと思う」

 言って、壮大な人生設計に眩暈がした。
 こういう後々のことは親と話し合うべきなのに、第一に此奴に話しているなんて。つい自分の考えの浅さに笑いが込み上げてくる。
 だが、自分が笑い出す前に――彼の方が早かった。

「あっはははははははは!」

 大笑い。クスクスだなんて可愛らしい笑い方ではなく、声を上げて、屋敷の外にまで響くように大きな声で笑い出した。
 笑って、笑って……涙が零れるぐらい笑う。笑い顔が泣き顔に変わってしまうぐらいおかしく笑ってから。

「ああ。絶対、お前なんかに譲ってやんない」

 力強い声で言った。

「……なんで、だよ。俺は現当主のお墨付きだぞ。なれるって言われたんだから、きっと今から修業すれば」
「辛いんだよ。今からだって辛いんだ。元から魔術の素質もあって刻印も持っていた親父でさえ苦しんだんだ。圭吾がそんなことになることはない。……だから、オレが全部引き受ける」

 そう言うと、彼は掌を開き、――俺の顔に当てた。
 目の前には、燈雅の五本の指。顔を掴まれるように広げられる。
 何を、と言う前に、――すべての動きが止まった。

 腕が動かなくなる。
 足が動かなくなる。
 目が動かなくなる、
 時が動かなくなる。
 四肢全ての動作が不可能になり、意識が全部持って行かれる。
 ――それは、呪文の始まりだった。

「……とう、が……?」
「お前、笑わなくなったよ」

 突然、身に覚えのないことを言い出した。
 手は相変わらず顔の前に出したまま、右腕が青白く光り出す。

「前まではお前は変に明るくてさ。オレがいい、やめろって言ってるのに勝手に腕引っ張り回して外に連れ出そうとして。本当に迷惑なぐらい、無駄に明るい奴だと思ってた。それなのに、最近のお前の笑顔は暗い。寝顔も、どことなく苦しそうだったよ。お前の笑顔じゃないってくらいに、あの暗い表情しか見せてくれなくなったよな」

 …………。

「オレがあんな無茶な頼みしちゃったから、お前、思い詰めて笑わなくなったんだろ。何にも考えてないくせに思いこみだけは激しいから。オレ、知っていたのに。あれは後悔している。オレは圭吾の……人の気持ちも知らないで、ただ馬鹿みたいに突っ走る真っ直ぐなところが好きだったんだ。悪口じゃないぞ。――本当に、好きだったんだ」

 スキ、だと。その言葉を聞いて、急に脈拍が高くなる。
 神社の中の記憶にあった彼の言葉。好きだと言ってくれた唯一の記憶。それがまた蘇って、嬉しいはずなのに。
 どこか嫌な予感に押し潰されて、喜べない。

「ごめん、オレが悪いんだよな。ごめん。本当に。オレも苦しいのは嫌だ。嫌だけど……さ。苦しんでいるお前は似合わないんだ。オレならともかく圭吾、お前には……」
「…………だから、なんなんだよ……」

 ごめん、ごめんと、言葉を切りながら何度も謝罪を繰り返す。
 その話し方は、初日の夜のように回りくどくて先が見えない。
 ただ判るのは、とても嫌な予感。これから先が進んでほしくない方向になる、そんな阿寒。

「圭吾……ごめんな。何も考えてなかったのはオレなのに」
「だから、何が言いたいんだよっ、お前は……!」

 声を荒げた。
 掌が目の前に広げられているせいで、燈雅の顔が見えなくなっていた。けれども、どんな表情でその言葉を繰り返していたか予想はつく。
 多分、悲しいものだ。ひどく悲しい顔をして、そんな明るい声を出している。

「お前には悪いが全部消させてもらうから」

 応えた。

「一週間前からの『オレ』を全部消させてもらう。お前は俺のせいで苦しくなった。なら、オレの記憶を除外すれば……いつものお前に戻る」

 ……単調な口調で、押し殺したような声で決断を下す。

「あの夜、『何も見ていない』。その後もオレと、『何にもなかった』。『オレへの感情』も。夏休み最後の一週間は、仲良く遊んだってことだけにしような。……最初の夜あったことも、次の夜にあったことも、その次の夜も無かったことにしよう」

 無理して出した明るい声で、決判を押す。

「あと、才能ある芽を潰させてもらうぞ。ライバルは少ない方がいいからな。お前の『能力』すべてを、『消滅』させておくから。せっかく天から授かった才能を……こんな風にしてごめんな。怨むなら……こんな状況に陥った運命を恨めよ」

 不条理なことを言う。
 彼がどんな能力を行使するか、知らない。
 けれどその口調で、手を広げて視界を奪うその遣り方で、『記憶を消す』だなんて言い方でやっていたら、思いつくのは、一つの結末だけだった。

「…………やめろ」

 一言、燈雅に負けないぐらい強い口調で言い返す。

「……やめろ」

 もう一度。いや、もう何度も。

「やめろ」

 父親の呪縛から逃れようとした彼と同じように、何度も非難した。
 拒否した。絶叫した。それだけは許してはならない。
 彼のことなら何でも許してあげたいという甘い心があった。けど、それはいけない。
 才能を消すことなんてどうでもいい。魔術が使えて良かったなんて思えたことは、まずない。でもちょっと……燈雅を救う為にあるならいいなと思ったぐらいだ。
 余分な力を消すぐらいならどうってことはない。
 けれど、それ以外は。

「……やめてくれ」

 必死で止める。
 彼がうるさく思って、暴言でも吐けばいいと思うぐらいに止める。
 何度も何度も同じ言葉を繰り返す。駄目だ、するな、やめるんだと。嫌になるぐらい、燈雅がやめるまでずっと。
 だって嫌だった。嫌だから止めさせたかった。
 それ以上に単純な理由はない。笑顔が消えたからその原因を消す? そんな事で困っているなら、ただお前の口で言ってくれれば良かったんだ。
 言えば笑った。お前のために。
 寂しい笑顔が嫌だというなら、絶対にお前の前では見せないと誓えた。
 記憶を消して、根元を消すだなんて、邪道な手を認められる訳なかった。根元から、基盤から消すということは、……最初から無いということ。
 彼に笑いかける時点から消えているということだ。
 彼に笑いかける機会から無くしたら……お前を中心にして笑っていた俺はどこに行く?
 お前のせいで苦しがった? ……最初は戸惑った。でも本気でそんなこと思ってない。だって嬉しかったんだから、ずっとお前を抱きたいと思っていた。お前が誘ってくる前から、代理を頼む前から抱いてしまいたいと思っていた。
 苦しがっていない。寧ろ、嬉しくて堪らなかった。
 お前が今さっき笑っているのに泣いているような。それと全く同じだっていうのに。

「…………いやだ」

 とにかく嫌だった。
 子供のように無茶な理由を付けて、その手を止めたかった。
 泣き喚いて困らせて止めようとも考えた。
 けど、それさえも呪縛された身体は動かず。
 何も出来ず、唯一許された器官は、口だった。
 繰り返す、否定の言葉。

「じゃあな、おやすみ―――圭吾」
「いやだ、……っ、このバカ! やめろ――!」

 優しい声を否定したかった。
 終わりの声を否定したかった。
 そんな自分勝手な終幕、否定したかった!
 だけど、届かないと知って。
 何の意味もない口に絶望して、それでも何か伝えたくて。

「……と、う……」

 必死に動かす。
 呪文が作動する前に。
 彼の力が発動する前に。
 否定以外の言葉を。
 彼を認める言葉を。
 肯定を。

 言い忘れたままにしかけた、言葉があった。

『――――■■、■■■■■■■■■■■』



 ――1989年8月28日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /17

 目が覚める。今の今まで夢見ていたというのに、意識はハッキリしていた。
 やはり外は寒かったからか。いくらまだ残暑だと言っても、もう9月になろうとしている。今年は酷寒の冬がやってくるようだ。いなくなってしまった蝉の声を思い出して笑った。
 風が涼しい。窓から吹く風は季節の終わりを表わしている。
 ふと視界に入るひとつの影に気付く。隣にいるのは、しゃがんで何かを見ている男の姿だった。何を見ているのか判らないか、パラ、パラリ、と紙を捲るような小さな音をさせていた。
 多分本か、ノート、写真のような薄いものを捲っている。後ろ姿なので判らなかった。

「なあ、燈雅……。俺、どれくらい寝てた?」

 背を向けている彼に声だけを掛ける。
 窓の外は真っ暗だった。あまりに外が黒すぎて、黄色く光月が出ているのが一目で分かる。そして、それも朝日によりもう欠け始めていることも。

「28日。もうすぐ三時ってとこかな。朝のだぞ。そろそろ空が青くなってくる時間だな」
「え、……って、もうそんな日か!」

 まだ三時だが勢いよく飛び起きる。まだ帰りの支度も全然出来てないし、何より学校の課題であるレポートを何一つ手を付けてない。
 燈雅には言ってないが、レポートの数は実は六つある。六つが、8月30日までに出来上がるか?
 いや、弱音を言っている場合ではない。それをやってみせるのが有言実行の男の宿命でもある。

「頑張れよ。オレは手伝えないけど、応援だけはしてやるよ」
「あ、あぁ……っ。すまんな燈雅、こんな所で寝ちまって。今すぐ始めるから!」

 いいかげんな返事で離れの屋敷の部屋を去る。
 「おやすみ」の一言ぐらい言えばいいのに、慌てて走り出したものだから言えずに、外に出た。
 ……なんて気がきかないんだ、俺。
 寝床を提供してくれていた奴なのに、礼も何も言わず飛び出して。
 でも、また明日もきっと会える。帰る前には一回ぐらい会う。その時にまた来年とでも言えばいい。
 もし帰るまでに会わなくても、年末年始になればどうせ実家に帰ってくる。そのときに覚えていたら言えばいい話だ。
 それまで覚えていればの話だが。まぁ、記憶力は悪くないと思うから大丈夫。 

 ――ぴた、と。
 途中まで走っていた足が止まる。ただ一つ、気に掛かることがあった。
 彼が、ずっと背を向けていたこと。
 それだけが妙に気に掛かったが、確認することもなく自分の部屋に走っていった――。



 ――1989年9月1日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /18

『志朗の記憶を消してくれ。あの事件からトラウマを負ってしまっている。あれでは生活に支障をきたしてしまう。だから……』

 優しい叔父・藤春の言葉に断る理由が見付からなかった。
 屋敷を出ると、当然のことのように二人の従者が後を追って来る。修行から実家に帰省したオレの世話役として付けられた、男衾と梓丸だ。年も近く、同じ血族だから居やすいと優しい親戚らが手配した分家の二人。彼らは何も言わずともオレの周りの世話をするようになった。
 本が読みたいと思えば、言わなくても新品の小説を持ってきたり。外の景色が見ていれば、写真集を用意したり。とても気の利く使用人。どっちも未来は良い男になるだろう。

「燈雅様」
「男衾、梓丸。もうお前達は戻れ」
「そうはいきませんよー。こんな真夜中に藤春様の私用とはいえ『お仕事』をなさるのですからー、アタシ達も付き合いますー。ほら、男衾ちゃんもそういう顔してますよー!」
「…………」
「してますでしょー? 燈雅様お一人では、心配で眠れませんー!」

 その通りだと言うかのように無言で男衾も頷く。
 よく出来た、優しい使用人達だった。

「ありがとう。でも、志朗達の部屋に行くだけだから。大人数で行ったら勘の良い弟達に気付かれちゃうだろ。そんなに見張ってくれなくても平気だよ」

 逃げないから。
 …………。

「もうーっ。燈雅様のことが心配だから言ってるんですよ、アタシ達はー!」
「ははは、ありがとう……お前達が優しいのは知ってるよ」

 逃げるなど考えたことはない。ここから逃げるか、なんて考えるのは。
 志朗の部屋に入り込む。
 時間は午前三時。相当のことのない限り起きている子供はいない時間帯だ。変に騒がれると困るので夜中、寝ている隙を見付け記憶を消去しにきた。
 この力は数ヶ月前に覚えたてのもの。何かと事件に巻き込まれるこの家では社会で魔が通用するように敵を作らないようをモットーとしているため、一般人に魔術を公表しないことにしている。魔術を使うのは魔術を行使する者達の前だけであり、それ以外で使ったら罰を与えるほど厳しく取り締まっている。
 その制度は元々西洋の教会などが取り決めている社会的ルールだが、数百年間うちの家でも注意している家訓でもあった。何かあったら記憶を消して何も無かったようにする。秘密を守るために伝授されてきた異能だが、色んなところで役に立っているものだ。

 数日前、志朗は実の兄が『怪物』に食われる姿を目の前で見てしまった。
 それを直視してしまい、固まって動けなくなった志朗。
 強い子だと思っていたが、異端にはてんで弱いのに気付かされた。彼は刻印も持っていなければ、もちろん修業なんてものもしていない。
 ただ自分の家が少し魔法使いが多いと思っているだけだ。我が家の周りに恐ろしい化け物が沢山いるだなんて、知らない。
 眠る志朗の頭の上に、掌を置く。本当は目を開いている方が暗示がかかりやすいのだが、なんとか眠った状態で脳内を掘り起こす。
 あの恐ろしい記憶だけを消去してやって、いつもの強くて元気な彼に戻してあげたかった。
 それは叔父の願いが建前にあったが、兄としての願いでもある。

「…………」

 消去すれば仕事は終わり。
 けれど、その最中に色んなものを見てしまった。

 ……志朗の記憶だ。
 あの忌まわしい化け物の記憶。血にまみれた兄の姿。その辺を取り出して、消滅させる。
 他に、夜泣きする弟に、いつも遊ぼうとやってくる親戚の子、下界の友人らしい男の子達の顔がうつり、その子達と何をして遊んだかまで映像が出てくる。
 見てはいけない、と思って意識を閉じようとする。
 プライバシーというものがあると判っていた。だが脳の中に収納されている記憶のビデオテープを掘り返すために、ひとつひとつを確認する必要があった。その過程で見てしまっただけだ。
 干渉しなければ大丈夫。言い聞かせて、志朗の大切な記憶をしまい込む。
 途中、手が止まった。
 志朗の親戚の兄の姿が見えてしまった。
 つまり、自分の親戚でもある。

「…………」

 見えただけだ。自分の頭の中に再生してしまっただけ。
 確認しただけだ。だからこれは事故。見たくて見た訳じゃない。
 必死に言い張って、自分を落ち着けた。消すべき記憶を消して力を解放する。

「……燈雅お兄ちゃん?」
「!」

 声を突然掛けられて、術の転換を間違えた。
 ぱちり、と静電気が起きる。
 実際の静電気より強力な衝撃。間違えると手を一個失うほどのものだが……なんとか回避した。
 声を掛けられた方へ振り向くと、新座がいる。
 こんな時間に何で起きている? 考えて、直ぐに結論が出た。トイレに行って来た後らしい。行ってきて、帰ったら何故かそこにもう一人の兄が座っていたから声を掛けたのだろう。おかしく思って、とりあえず声を掛けただけだ。瞬時に理解する。

「なに、やってるの……?」
『いや、お前達がちゃんと寝てるかって確認しに来たんだよ、邪魔したな、おやすみ』

 そう、言う筈だった。
 言おうと頭が回っていたのに、口が動かなかった。
 それは多分、術の終わり方を間違えてしまった後遺症。
 転換に失敗し、ダメージを喰らってしまったらしい。おかげで普通に応対できなくなってしまったのだ。
 慌てたのも、もう後の祭り。

「あ、おにいちゃ……なんで……っ?」
「――――」

 新座が慌て出して、志朗を起こさないか、そればかりが心配になる。
 だけど、もっと先に考えることがある。
 この状況をどうやって逃げようか、言い訳しようか。

「なんで? 僕なんか悪いことしたかな……? してないよね……なんで……お兄ちゃん、泣いてるの……?」
「……う、うう、うぅぅぅ……っっ」

 新座に罪は無い。ただ勝手にこっちが泣いているだけなのに、自分に否があったのではないかと新座はオロオロし始める。
 こっちだってオロオロしたい。涙がいきなり止まらなくなって、口から嗚咽が出てきてどうしようかパニック状態になってしまった。口を抑えて声を殺すが、止め処なく涙だけが溢れる。
 どうして……?
 ただ、彼奴の姿を見ただけだろ……?
 志朗の記憶の中での、――圭吾の声を聞いただけなのに、なんで……!

「う、うああぁああああぁぁ、ぁああああん……っ!」



 声が、あの時の最期の台詞を思い出させた。

 志朗の中では、気のいい年上の兄貴面した彼だった。
 その優しい声が勝手にオレの中で並び替えられ、再構築されて。
 あの言葉を作る。
 そして繰り返し流れた。
 延々と、頭の中に流れていく。

『――――俺も、お前のことが好きだった』

 あのとき、言われると思っていなかった、あの台詞がずっと――。




END

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