■ 外伝03 / 「親子」



 ――1989年8月7日

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 /1

 とても遠い世界の話だ。

 とても悲しいことがあった。悲しくて、苦しくて、救いようのない悲劇があった。ここではない世界で、苦しみ続けていた。
 この世界の話ではない。現実の世界では起こっていないことなのだから夢だ。実際にそのようなこと、無かったのだから夢というに相応しい。
 目を覚ました今も、夢の中の苦しさが抜けない。
 涙が頬を濡らし続けている。
 涙が、重い。眠りながら泣いていたようだ。それほど苦しい夢だった。
 頭が重い。風邪でも引いてしまったか。頭を振って、ぼーっとした考えを飛ばそうとしてみる。
 とても印象的な夢だった。如何なるものだったか思い出せるか、頭を抱えて考えてみる。この身に刻んだ記憶でないから、朧げなものしか残っていない。
 けれど、確かにこの心に刻んだ記憶。ほんの少しの破片を集めれば。
 集めたところで何があると言われそうだ。
 だが、幸いこの牢屋には人はいない。
 幼い頃のことだったような気がする。私が、何も出来ない子供だった頃――今も何も出来ないが――懐かしい世界だった。
 大昔、木々が歌っていた。私の耳を苦しめ続けていた。空が落ちてきそうだった。太陽が私を押し潰そうとしていた。石も風も青さも全てが、私の敵でしかなかった。
 生まれてからずっと地獄だった。私は、ただ手を引いてもらうことを望んでいた。ここから逃れられることはできないのだから、せめてでも、救われる場所に導いてもらいたかった。
 彼、に。
 私の居場所はどこにも無かった。布団の中に隠れても、押入れの中に閉じこもっても、牢屋に押し込められても、どこにでも敵がいた。敵のいない世界などどこにも無かった。
 逃げることも許されなかった。日常は、私を置いて遠くの世界にいってしまった。
 楽しく笑う子供がいる。子供の笑い声に交じって、悪意が聞こえてくる。そのうち悪意しか聞こえなくなる。楽しげに笑う声が、悪意に飲み込まれていく。結果、私を彩る世界には悪意しか残らなくなる。
 泥にまみれ楽しむ姿は、苦しみもがく声にしか聞こえない。森をかけずり回る声は、恐ろしい鬼に追われ逃げ惑う苦しみにしか聞こえない。どこにも救いが無くて泣き喚くだけの世界に嫌気がさしていた。
 そんな中、唯一、私の耳に届く声があった。
 深い色の着物の青年。聡明そうな顔つきで、私の名前を呼ぶ彼。

『オレが皆を護るから』

 夢みがちなことを告げてくる彼。到底出来ないことをハッキリと私に告げる彼。
 私が怯えて本当か呟くように尋ねると、黒い目がしっかりと捉え、応える。
 力強く、頷いてくれる。

『本当だ。オレは、どんな手を使ってでも、一族を護ってみせる』

 約束してくれた。無理だと思っていた言葉を、さも当然のように言ってみせた。
 純粋な目で、優しい目で。私だけを見てくれるかのような、大らかな目で。
 怯える私の手を握り、指を絡ませ、震えを止めてくれる。笑顔を見せてくれる。心強い優しい笑みを見せてくれる。誰にも負けない、自信を見せてくれる。
 助かるかもしれない、という想いが私の中で広まっていった。
 なんて純粋な眼。子供ながらの底無しの眼差しに、暖かさと同時に違和感も感じる。
 全く対照なもの。それは、底のない冷たさ。
 苦しかった。今までの苦しみとはまた違うものを感じていた。震える私に「心配性だな」と身を抱いてくれる彼。胸が弾け飛びそうだった。体も心も歓喜に震えた。
 優しい言葉だった。強くて逞しい声だった。それをずっと聞いていたかった。
 このままずっと、こうしていたかった。
 次の地獄になんて、いきたくなかった。どんなに苦痛だって、『彼』さえ居てくれれば、どうでも良かったんだ。

「――――――莫迦だ」

 久々に口にする言葉だった。
 誰を非難するでもなく、自分自身が一番おかしいと思ったから、一人でも言った。
 どこか遠い世界の話なのに、自分はおかしかった。今だって周囲は狂人扱いするけれども、自覚はあった。
 横たわりながら、見慣れた汚れの目立つ天井を眺める。
 光は届かない。ここは地下牢なのだから、暖かい光など恵んでくれる訳もない。地下に潜れば、引っ切り無しの嘆きが止められると昔は思った。が、そうでもないらしい。
 大昔のこと。あの頃から真っ白だった兄――光緑を、思い出してしまう。それも、あの頃と変わらない彼がいるからだ。
 何にそんな思い耽ってしまったか。滅多に見ない自分の涙を眺めながら嗤った。



 ――1989年8月7日

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 /2

 せわしく石を駆ける音に、相変わらず甘いなと苦笑いする。
 過ぎ去っていく影と交差しないよう、歩みを止めた。バレないように、誰にも見付からないようにと走っていくようだが、そんな音を立てている時点で魂胆が見えている。
 此処はわざと音がなるように造られたのかもしれない。何処にいても相手の動きを察知出来るかのように造られた牢屋は、数百年前に造られたとは思えない。先祖の恐ろしさとそこまで囚人を追い込もうとする執念深さに完敗する。それを昭和の世でも使わせてもらっているのも難だが。
 駆け足が消えたところで、再度歩き出す。音と共に、奥まで進んだ。

「藤春が来たのか」

 奥の一室に、囚われた気も無く、優雅に居座る柳翠に声を掛ける。
 結界も薄く、上位ならば恐ろしいモノも視えるというのに怯える素振りもなく、柳翠は上位だからこそ怯えないといった風だった。
 呪詛を張られた座敷牢を、自室のように佇んでいる。ただその顔にうつるのは、不満は娯楽が無いということだけらしい。楽しみさえあればどんな汚い場所でも生きていけるということか。なんとも逞しく、仏頂面の弟にまた感心する。

「来なくとも結構と初日に言ったのだがな。光緑兄上。使用人が藤春兄者に残飯を運ぶように頼んでいるのだろう。なら彼も来てもらわなければなるまい」
「使用人が奴に飯を運ばせると思うか? 下端の仕事をさせると思うか」
「そうかい。じゃあ、藤春兄者自ら私に会いに来てくれているのだな。貴方も優しいお人だこと」

 そんなことを自薦するとは、感心と同時に呆れも感じる。
 自分で来たいと思っておきながら姿が見られるのが嫌だから、颯爽と去っていくだなんて。見られたくないならしなければいいと思うが、好きで牢屋に来ようとしている者を止める気にはならない。好きに踊らせておこう。

「さて、今日。光緑兄上が来たということは、もう七日経ったのか? 十日か?」
「五日だ。私は反抗の色さえ見せなければ初日で解放するつもりだったんだぞ」
「逆らう気など無いと言っていたが、聞いてくれなかったではないか」
「形の上でだ。頭の固い老人はまだ早い、一ヶ月だ、お前を永久追放だとほざいている者もいる。だが、お前が本家に反感を抱いているが反旗を翻すことはないと知っている。最初から一度謹慎させたら直ぐ解放するつもりだった」
「その頭の固い方々を説得してくれたのかな?」
「当主は私だ。説得する必要など無い」

 愉快な事など何一つ言ったつもりは無いが、柳翠はククッと喉の奥で笑う。
 未だ自分の立場を判らず勝手に笑う柳翠を、怪訝な顔で見ながら呪い唄った。途端、重力をかけられていた柳翠の体が軽くなる。柳翠は立ち上がり、格子の外に出た。

「この五日間、外ではどんなことがあったかな。当主様は、さぞ忙しかっただろう?」
「ああ、お前のせいで大変な目にあった。結界の張り直しの次は、責任問題で騒いださ。全く、あやつらは私を吊し上げようとしてどうする。裁判官を叩こうとして墓穴を掘る連中が居たぞ。愉快を通り越して滑稽だったな」
「だから国王は裁判に参加できないんだよ、兄上。それでは、志朗はどうしたかな」
「どうやら先日、藤春が記憶を消させたらしい。まったく、奴も面倒をよく担ってくれる」
「藤春兄者が仕向けただけで実行したのは別のようだな?」
「そういう処理は私を通してからやらせろというのに。藤春もお前と似て、身勝手に動いてくれるな」
「あぁ、それは兄弟だから仕方ないんだ。血の繋がった兄弟なら思考も似るもの」

 気の障る笑い方をする柳翠に、私は耳を押さえる。
 その仕草に柳翠はぴたりと笑い声を止め、応答してみせた。
 ――五日間。柳翠は退屈な時間を黴臭い場所で過ごした。その身に出来ることといったら考えることだけである。あとは気紛れで来たような兄・藤春の内容の薄い話を聞くことだけ。
 柳翠にしてみれば、なんとつまらない五日間だったか。考えることは、もう考え尽くしていた。新しい話の種が無いので、空の頭。牢屋では魔術を行使できないから、使い魔と遊ぶこともできない。そんな微々たるものだが苦痛を味合わせたと思えば、この謹慎は効果のあったものかもしれない。柳翠は最後の思考を働かせていた。

「あの牢屋に居て様々なことを考えていたよ」
「語るなら手短に済ませろ。明日は仕事が入っている、早く休ませてくれ」
「つれないな。久々の兄弟の談話、付き合ってくれても良いだろう? あの空間は牢に適していると前々から思っていたが、入ってみたら考えを改めさせられたよ。彼処は最適だ。魔術者の生気、精気を全て吸い尽くす造りになっている。風水的なものも作用しているのかな、どのような仕組みで造ったのだか、ちっとも読めなかったよ」
「逃亡を考えていたのか?」
「他に考えることが無くてね。鼠と話をするぐらいしかなかったんだよ。私を閉じ込めていたあの地下室は、術的に『吸収』の魔法を掛けられている訳でもないのに、自然と魔力が無くなっていくんだ。通常なら、術が発動しているのだったら誰かが常に監視しなければならないし、吸った後どこにいくかも判明できる筈。それが無い。彼処は只吸っただけで無に返すという、一方的な作用が働いているんだ。コップの水を零したら、コップの中には水は『無い』が、必ずそこにあった水は地に『有る』。だけどあの空間では有り得ない。コップにも無くなったが、地面に落ちる前に『消え去る』。結果さえも消滅してしまう場所なんだよ。これに関して、何かを思い出さないかい?」

 外に出る。柳翠にとっては五日ぶりに見る月夜だが、興味は無く、視線の先は私の表情へ向けていた。
 私の反応を伺うことだけに集中しているようだった。

「……『消滅』の能力か。確かに何かを思い出す」
「それで考えたのだが、兄上は『あの子』をどれだけ此処に置いておいた?」
「――――」
「あぁ、そんな顔をしてくれるな。答えたくなければいい。答えさせる権利など私には無いが、そちらには拒否権は有る。ただでさえ魔力不足の子をあんな所に置いていたら死ぬか、どうにかしてその仕組みを理解して能力を吸収しようとするしかないな。良い効果だよ。くく。しかし不思議な造りだ。許されるのなら私の道具をもってあそこに住ませて貰いたいぐらいだ。一生をかけて解析してみたいよ」
「馬鹿な事を言うな。お前は直系だ、何を言われようが私の血の繋がった弟だ。当主の、私の弟だぞ。あんな所に居させる訳にはいかん」
「ほお。血の繋がった息子は好意で閉じ込めた癖に? 燈雅が牢屋の仕組みを我が物にしたからいいものを、魔力を吸われ過ぎて死ぬかもしれ……」
「揚げ足をとるな、柳翠。今夜はお前を部屋に戻すまでが私の仕事だ。早く済ませて休みたい。もう何も喋らず歩け」
「明日明日とまた当主様のお仕事をしなければならないとは。哀れな」
「私を侮辱する気か?」
「兄上。さっきの話を踏まえて言おう」
「喋るなと言った、きかんか」
「彼処に居れば、無条件に魔力を吸い取られるのだよ。吸い取った魔力はそちらにいく訳でもなく、建設者にいく訳でもなく。つまり、私がどのような状況か。判って頂けないかな?」
「自業自得だ。魔を持って魔を破壊した。謹慎ついでに良い罰になったか」
「その罰からもう解放された。そして私を部屋まで送るのが、今宵の当主業の終末だと言った」
「ああ。だから、部屋に着いた私にもう付きまとう理由は無い。寝るぞ」

 先を急いでいた。
 本当につれない、と柳翠は笑い、去ろうと歩みを進める私の裾を掴んだ。
 強くはない。ただ気を逸らせるだけの、子供が掴んだようにか弱い力で引き留めてきた。

「悲しいな。夜に苦しみ泣いている麗しい弟がいるんだぞ」
「自分で麗しいと言うな、気持ち悪い。お前の涙など奇怪なもの、見たくない」
「言い方を変えよう。……光緑様。ここで飢えている者がいる。罰を与えられた罪人を自業自得と神は言う。罪を犯した故に空腹になれ、そして死ねとお告げがあった。だが、その罪人は救われた。神は情けをかけてくれても良いのでは? それとも、それを放っていくほど、ここの神は情けが無いか。血の繋がっていようが構わない程に」

 暫し黙る。沈黙が暫く続いた後。
 何も言わず、襖を閉めた。
 同時に柳翠は笑ったが、騙されたということもなく。ただ無表情に、同胞を護る当主として、哀しき者へ愛を注ぐ神として、その場に留まった。

「なんて悲しい」

 柳翠が呟く。

「そんな、当主だ神だと崇め奉らなければ動かない形だけの貴方。実に悲しいな」

 再度呟く。
 おかしな、滑稽な神だと貶す意を込めて。



 ――1989年8月7日

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 /3

 ――虫が紺色の外を狂騒的に過ぎていく音。その中で小さな吐息が耳にはっきりと通っていた。
 私が生まれたときから聞いてきた、朝から晩までひっきりなしのノイズ。幼い頃は当たり前の事だった世界の騒音。今となっては下らない、何もしようがない只の音。
 光緑が指を這わせてくると、耳障りな声を漏らしてしまった。

「お前のその声は、演技か」
「……それも、ありうる……かな……」

 普段通りの手順で、単なる『儀式』を進めていく。
 笑みを浮かべていると、兄は指をまわし、上へ下へと伝わせてきた。相変わらず無粋な指だったが、少しずつ息を荒くしていく。余裕の笑みを浮かべていてもただの人間。感じるところは感じるし、体はそれほど不器用に作られていなかった。
 息をクッと吐いたときに、長めの髪が視界を覆った。目元を隠したが、隙間から見える表情はぎゅっと瞑っている。愛撫の後は性的な感情を持たずにはいられない。

「柳翠、畳に爪を立てるな」
「……おや、失礼。つい力んでしまった」
「痛いのなら言え、手加減する」
「手加減されても痛みは痛みだ、気持ちでは何も変わらんよ」

 腕を腰に回す。性器をやや乱暴に揉みしだいてきた。
 手を導いて、光緑も私に握らせてくる。心地良さそうな吐息を漏らしながら、ゆっくりとそれに応じた。互いに性感を高めていく。無駄の無い動きのままに。
 光緑は性器の下、閉じている部分をこじ開けていった。始めは固くなっていく場所からだ。
 慣れた手つきで進めた。早すぎて乱暴かもしれないが、光緑にはさほど大切に扱ってやる気になれなかったらしい。
 優しい指遣いに感じながら声を押し殺す。

「柳翠、指を舐めろ」
「……ん……」

 光緑はまだ使ってない指に舌を這わせ、唾液を塗りたくらせる。
 その指を、閉じた穴へと擦り込めた。たっぷり唾液で塗らせて、徐々に解放させるように仕向ける。ぐりぐりと指で何度も突いてきた。
 体を拭かせていたとはいえ、さすがに五日間、少し体臭がした。それでも匂いを無視し、指を滑らせていく。何度も転がしていった。

「っ……。は、激しくしてくれるな……っ」

 笑いながらも、身を震わせていた。
 着実に感じている。快楽より苦痛の方が強い行為を、まだ笑って受けとめる。その姿に、光緑は興ざめしているようだった。

「まだ喘いでくれた方が人間味のあって可愛いぞ」
「は……。貴方の弟だ……反れた奴だろう……?」

 このまま感じていく姿を見ていたいとも思ってくれたのか、甘い言葉を吐いてくれたが、そんな時間は無い。
 それだけでなく、光緑も欲望の限界が近づいてきたようだった。
 指を抜き、足を開くように促してくる。まだ物足りない目で光緑を見る。
 既に畳の上に身を横たえている。すっかりその気になっている。身勝手な弟に、光緑は溜息をつかずにはいられなかった。

「柳翠。着物が邪魔だ、さっさと解いてしまえ」
「……そういうのは、事を進めている人間が剥いでいくとムードが出るものだぞ」
「戯言を」

 一向に自分からの気が無い私に多少の苛立ちを覚えたのか、動きが荒っぽくなってくる。
 兄に覆い被さり着物を全て剥ぐ。下の口を指で開かせ、性器を密着させる。開いた拍子に、上にある私自身がとても熱を持っていることが判った。

「……っ、ん……」

 兄を覆うように身を沈めていく。
 私の中に兄が入っていく。決してスムーズではない。だが、ゆっくりと先に進んでいった。
 はあ、と大きな息を吐いてから呼吸合わせようとする。だが、特別大きな声を上げることはなかった。
 声を殺す声。変に叫ぶことなく、重い息を少しずつ飛ばしていく。
 合わせてくる声にまた合わせながら、光緑は動作を繰り返した。少しずつ動きを早め、満足する激しさへ。
 声を上げなくとも感情は高まっているのは、息の吐き方で理解できた。眼を開けると、表情は先ほどと変わらぬようにも見えた。だが、感じきっているようにも見える。
 光緑は、剥き出しの私自身を、腰を抱いていた手で愛撫した。それが効いたのか、体が一段と跳び跳ねた。

「……っ、ん、ぁ……っ」
「ん、……出すぞ」

 光緑は私を刺激し続ける。口元がニヤリと歪む。それが合図だった。
 求めていた『儀式』がこれで始まる。
 同時に訪れる絶頂。この上ない、白。感覚を全て越えた先に、目に見えないもの同士が交差し合う。
 魔力を受け渡す。そのスイッチがカチリと鳴った。
 中に、入ってくる。全身を震わせ、侵入してくる精液を受けとめ続けた。

「……は、あ……あにうえ……」

 光緑も感じながら、スイッチの入った空間――無から生まれた元素――を、譲渡される。
 『魔力供給』で魔力を得るのは、片方だけではない。先にある白へ身を委ねることができたのならば、互いが得ることができる。無から有への神秘。
 感じ合いながらも、事務的な儀式は終了した。
 中に入ったまま、息を吐く。また大きくなったような気がした。



 ――1989年8月7日

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 /4

『子猫は生まれてすぐダンボールに詰められた』

 新しい親の元に行くために。

 あの子を表す的確な表現だと、足音を潜めながら、思った。 
 視線を感じた光緑が俺の名を呼ぶ。

「本当にお前は隠れる脳はないようだな、藤春。はあ、それで隠れているつもりだったのか」
「……バレてるなら仕方ない」

 本家屋敷の廊下交差点で、顔を出す。ここは一つ斜めに隠れていようが、月の影次第で見つかってしまう屋敷だった。
 失敗したという苦い表情を浮かべる。結界を敷地中に張ったのだから、息を潜める怪しい影は人間しかいない。
 光緑はそんなものにさえ気を遣わなければならないのか、と溜息をついた。

「もう、柳翠を帰したんだよな……」
「ああ。それより、お前が勝手に柳翠に会いに行っていたという話を聞いたぞ」
「ぁ……」
「飯運びなど女中にやらせればいい。お前も直系なのだから威厳を出さんか。お前は第二位の地位なのだぞ、見苦しい」
「……女中がやっても構わないと言ったのだから、いいだろ」
「第二位のお前に頼まれて、誰が拒否できるか? そんなに柳翠が心配ならば、お前に抱かせれば良かったか。お前も堪っているだろうし、私よりは暇なん――」

 ――刹那。魔が発動する音。
 その前に光緑は俺の足を蹴飛ばしていた。

「痛っ!」
「誰も見てないとはいえ、私に回路を開くような真似は見せるな。今や反逆と思われる」
「じゃあその言い方を撤回しろ。胸糞悪い。それに、堪らせているのは魔力だけじゃない。今更文句を一から言うのは気が乗らないが、俺だってやらねばならん事はある。兄貴の息子と弟の息子、それと自分の子、同時に世話してやっていることを忘れるんじゃねぇ」
「…………」

 もう一度、光緑は蹴ろうかと思ったような顔を止め、素直に謝罪の言葉を述べた。
 ついでに、頭も下げて。

 ――光緑は、弟の俺に当主業では勤まらないことを全て補ってもらっている。
 光緑は自分は和平を中心に解決したり、現代で大切な金の管理が悉く弱いと自負していた。それをカバーしてくれるのは、全てこちらの役割。それだけでなく、全ての負面を隠してもらっている。負を正にすることはなくても、重要な役所だった。
 俺は彼の息子の父親代わりをしているし、柳翠の息子も一人教育に携わっている。父親が子を『負』と言うのもおかしな話だが、あの気紛れ性格では子の前で父を名乗ることも出来ない。
 では何故生ませたとも問い詰める事も出来ず、何故生まれてきてしまったと子に言うことも出来ず、一族の調整係を押し付けられていた。
 まだ一歳か二歳の子供に何故と問いかけることも出来ない。だから、こちらが全て居場所作りを荷っている。

「兄貴。……燈雅が昨日一昨日から少し熱っぽいようだ。暫く修行を休ませたらどうか」
「ああ、それだったら明日は修行をさせないつもりだから丁度良い。明日から狭山に小さな仕事を任せている。下級妖怪の退治如き、燈雅ならさっさと終わらせてくるだろう」
「……いや、そうじゃなくてな」
「今先までお前は燈雅の元に居たのか。それとも柳翠の息子の元であやしていたのか。御苦労」

 どちらも、『直系』の選ばれし子。眼を離す訳にはいかないが、当の父親達は誰も見ていなかった。
 その点に関して不平を言わない。特に光緑に対しては兄弟として通じる冗談は言ったとしても、光緑は当主としてやるべきことがある。それは父親業よりも重視すべきことだと、頭では判っていた。
 頭では。所詮、それだけである。
 ……光緑が床につく前に、俺は柳翠の部屋の襖を開けていた。
 あの後、光緑は長男・燈雅については明日考えるということ、次男・志朗の処理を勝手にしたなということを一、二語言葉にしてから、明日に備える為に去っていった。
 廊下を歩く音も無く、あれこそ気配を消している姿かと感心しながら、その後ろ姿を見送った。
 光緑という兄は寝ると言ったら寝ることしかしない男だ。単一でそれしか考えられなくて実に不器用な男だった。だからこそ、金の扱いも他家との行事も勤まらなくて、つい任せられたのが俺だった。力としての実力はあるが応用力がないと、元老達も考えは同じらしい。

 ――そういえば、光緑は一番下の息子・新座とは話している姿をあまり見たことがないな。

 そんな事は有り得ないが、どちらかといえば自分の方が話している気がしてならない俺は、そんな事を考えてしまった。
 地下の牢屋に居た柳翠は「考えるものがもう無い」と四日目に言ったが、こちらは考えばかりが思いついてしまう。
 そして、考えもしないのが、光緑だ。

 ――『当主』になったものは、感情は消えていくのか。

「柳翠」

 襖を開けた先、何も無い畳の上で横たわる弟に声を掛ける。
 情けかのように彼の着物だけが無造作に掛布団の代わりにさせられているが、露出する肌にどこか無惨さを感じる。
 来てしまったはいいが、掛ける言葉など考えてなかった。
 だから、前……牢屋で言われた。
 『藤春兄者の話は、内容が薄い』と。
 そんな評価を受けるのに、これで一門の交渉係をしているのだから笑える。自分も、『考え無しの兄』と『舌無しの弟』と同類ということだ。
 柳翠は動かない。体を動かせず、暗い彼の自室で横たわっているだけ。
 その表情は何を表しているのか読めない。笑っているのか悲しんでいるのか怒っているのか、柳翠の表情は感情に乏しかった。

「たまには……緋馬を抱きに来てくれないか」

 ――虚ろ、だと想う。
 思えば……そうだ、熱に体を起こさなかった光緑の息子の燈雅も、父親に淡い感情を抱いた幼すぎる柳翠の息子の緋馬も、皆、同じ眼をしている。
 ような気がした。



 ――1969年8月10日

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 /5
 
 苦しんでいると柳翠が言った。
 彼女は激痛に耐えながらもまだ生きている、そんなに苦しんでいるのならば早く呼吸を止めてしまえば楽になれるのに。
 いきなり口から飛び出した不穏な台詞に、思わず顔が歪む。
 彼の言葉は、笑えないものが多いからだ。のんびりと、冗談交じりで人を脅かそうとしていない顔からそんな言葉は聞きたくない。本気で柳翠がそう思っていると、「早く死ね」だのと考えているなどと思いたくなかったからだ。
 こちらが何を言っても無駄だと思うが、とりあえず形上の付き合いをしておかなければならない。そんなことは思っても言ってはいけないんだ、と。

「彼女はこのまま苦しみぬけと言うのか」

 柳翠の言う「彼女」というのがどれほどのものかは知らない。
 一体誰のことを差し、何のことについて語っているのか、自分には一切の情報を与えられていない。そんな中でも、自分は一般論を推す。

「そうとも。どんなことがあったとしても死を勧める行為はあってはならん」

 まぁ、言っても、柳翠は聞こうともしないけれど。彼は複雑な顔をしながら空を見る。
 そろそろ正午。最高の炎天下になりそうな今日。
 あぁ、このままでは、彼は零す。……そんなにも彼女というのが心配なのか。

「お前は、そいつを助けてやることができないのか?」

 判らないのに言ってみる。あまりにも心配げに話すから、それほどに大切な人なのかと思ってしまった。

「ああ、自分には何もできない。自分は彼女の苦痛の声を聞いてしまっただけだから」

 この部屋には自分達兄弟二人しか居らず、ずっと二人でどうでもよい事を今まで話していたではないか。いつ彼女の声を聞いた、そして何故自分には聞こえなかった? 何度問いても答えは判らず。
 これは、今日に始まったことではない。
 彼は立ち上がり、歩き出す。来たければ来いという視線を置いて。仕方なく、拙い足取りで先を行く姿をずっと追っていった。
 屋敷を出、路を歩き、石を踏み、太陽の熱にやられそうになる。そんな中、「彼女」の前に辿り着いた。

 ――首に木枝を貫通させた猫がいた。

 思わず俺は目を見張り、声を無くす。
 衝撃的な光景だった。この炎天下の中、干涸らびそうなほどの細い体。本来の猫にあるしなやかな曲線美が、褐色の血でコーティングされている。
 誰もが思う、「何故お前は生きているんだ」。
 驚愕のあまり、身を固まらせてしまう。こんな姿でも生きられるという生命の神秘を感じずにはいられない。しかし、どうしようもない姿だった。今、首を貫通する枝を抜いてしまったらどうなる? いや、石の上で横たわっている体を木陰へ動かしてみたらどうなる? いやいや、水をかけてみたら……?
 どんな想像をしてみても、辿り着くのは悲惨な光景だけ。何も出来ない、何も解決策が見当たらない情景。

「さぁ、兄上。どう思う?」

 連れてきた本人が問う。
 どうすればいいなんて訊かれても答えられなかった。こんな悲惨な状況で生きているなんて、いかにも苦しそうな顔で生き続けているなんて。
 早くこの苦しみから解放してあげたい。そう思ってしまった。
 考え着いた答えは、最初に彼が言った言葉と同じだった。
 「苦しんでいる」と言っていた。こんなにも痛々しい現実ならば、早く死んでしまえばいいのに。
 想い、嫌悪。彼だけを異端視することはできない。結局自分も、彼と同じ結末にしか辿り着かなかった。

 ――彼は声を聴く。それがどこからやってくるのか、耳から入ってくる情報なのか検討もつかない。自分なりに出した答えだと、『彼の脳に直接情報が受信する』形ではないかと思う。
 例えば、さっきの話。彼は人間同士と語り合っていた最中に、別の情報を得る。それは唐突に、話をいきなり逸らすように。
 但し、彼にしか聞こえない声だから、自分は何故話を途切れさせるのかつい嫌な気分になってしまう。彼には目の前に話している人以外から話しかけられたという形だが、こっちとしてみれば一方的無視にしか見えない。誰と話しているか判らないのだから。見えない受話器で姿の判らぬ相手をこちらなりに想像しなくてはならない。
 彼は昔から色んなものに話しかけられる。
 先の話だと、猫だ。勿論、人であることも多々あるが、人でないことも少なくない。それが説明されて一般的に理解されるか否かも、少ない話ではない。
 突然、柳翠が笑い出したことがある。何事かと思えば、彼にとって予想のつかなかった言葉が聞けておかしいのだと言う。そいつが何と言ったのか、理解する気もなく訊いてみると。

「あの人の血が甘いのだ。てっきりあの人のことだから血は緑色かと思ったが、こんなに甘い人間の血は初めてだぞ!」

 ……一体、何の話なのか判らない。今度は柳翠に吸血鬼からのメッセージが届いたというのか。
 そんな想像を立てる。こいつが受信する話ならおかしくない。
 それから数分。兄・光緑が不機嫌そうな顔をして帰ってきた。

「藤春、薬箱を取ってくれ」
「……どうした兄貴。泥遊びでもしてきたのか」
「まさか。転んだだけだ、まさかあんな飛び出した石があったとは思ってなかった。少し膝を切った、止血はしたが一応包帯も用意しておいてくれ」

 後から知った話だが、一人の女中が、血に濡れたスミレを見たらしい。
 そこには、不注意で転んでしまいそうな石が転がっていたという話。
 そんな話を聞いてからは、スミレの前を通ると「こいつは兄貴を青汁扱いしていたのか」と、妙な考えばかり思いつくようになってしまった。

 ――柳翠は、常に様々な声を聴く。
 人の声、生き物の声、無機物の声、心の声。
 そんなに話を聞いていたら疲れる。感心して訊いたことがある。

「その程度で疲れるなどない。もう慣れている……常時聞き続けている身には多少の声の羅列は気にしたことではない」

 平然と、それでいて苦しそうに言う。しかし、寺の結界から一歩出れば更に声が増し、そればかりは気分が悪いとも話していた。
 我が家の結界の外は、声で溢れている。それはヒトの言葉に表せば、ヒトを殺す力にもなる声。そう説明されてもどんなものか検討もつかないが、苦しいものには違いなかった。だから、彼はあまり下界に下りようとはしない。極力仏田の屋敷内で生活し、ここで一生を終えるとまだ子供の頃から言っていた。

「……外は外なりに楽しいところなんだぞ」

 言っても、柳翠は「理解できない」という。自分が彼の気持ちを理解できないと同じに、彼も他人の気持ちを理解できないのだ。
 お互い様。居心地が良い場所を確保しているのならそれでもいい。
 だが、ここは閉ざされた世界。ここ以外の真の声を聴くのもいいのに。……閉ざされた世界で、永遠の声を聞き続けている彼には聞こえない言葉だろう。
 ここは小さな世界だ。限られた人間しか訪れず、その人間たちも殆ど同じ思想の下にいる。
 そんな世界だけで生きるのはつまらないと思い、自分は外に出た。外の怖さなどどうってことないと思うから出られたのだ。けど……彼は、外は怖すぎるからダメだと言う。

「機械に踏み潰された木の実の最期の言葉を聞かせてあげようか?」

 彼は、薄く笑って言った。
 機械というのはおそらく自動車のこと。木の実というのはこの季節、どんぐりが道路に散乱しているのを見た。……結構、と首を振るしか無かった。



 ――1985年7月1日

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 /6

 さて、今先程『限られた人間しか訪れない』と言ったが、一体どのような人間しかいないのか。
 大半は、血族。それを取り巻く者達である。あとは神に仕える者、仕えようとする者、心を鍛える者、世俗を捨てた者……そのような人間が集まる。
 そこで生まれ育った身としては、この世界が一般と反れているという事実を知る迄に時間がかかった。

 その中、彼は出会った。……『神に仕えようとする者の一人』に。
 それは数日前に現世を捨て、屋敷の女中として新しく迎えられた者だった。
 不幸にも親を亡くし、義理の親だったせいで頼りも無くし、一人修業を、ということで寺に入った女性だった。

「彼女は、非常に愛されている」

 一目、女中を見た柳翠が言った。
 驚いた。非常に驚いた。
 彼女が確かに愛らしい姿なのは認める。だが、人間を褒める行為をあの柳翠がするなんて。まさか出るとは思わなかった言葉に、こちらも頬が引きつる。

「見えるか兄者、彼女を取り巻く渦を。……義理のご両親二人に愛され、本当の父母にも囲まれている。実に四人とも優しい目で彼女を見守っている……」

 言われてよくよく見てみれば、彼女の周りにいる霊のことを言っていると気付いた。
 自分には彼のような声は聞こえなくても、霊だったら視ることができた。その能力は我が血族に引き継がれるものだから、特別珍しいものではない。
 げんなりする。折角、柳翠が新しい観点で物事を捉えるようになったのかと思いきやそんなことか。
 がっかりしていると、にこにこと笑う女中と話す彼の姿が目に映る。彼女の家族に関することだった。

「君は、本当に愛された娘だったんだな」
「はい。父と母はわたくしを本当の娘のように愛してくれました」
「今も皆、君のことを愛しているよ」
「ありがとうございます」
「本当のご両親も君を愛して生んだ」
「そう聞いております」
「そうだろう、今でも君を愛していると言っている」
「ありがとうございます」

 そんな会話を聞いた。
 一見何気ない話だが、少し捉え所を間違うと怪しい会話にも聞こえる。
 けど、その時は……実に微笑ましい風景だと思ってしまった。
 愛らしい彼女の声はよく響いた。通常の人間の耳にもよく届くのだから、常人の耳ではない彼には更に響いたことだろう。
 彼は、彼女自身の声を愛し、彼女を取りまく彼らも愛したようだった。

「君は何故、この世界に来た」
「一からやり直そうと、仏田からスタートを切り出そうと思いました」
「何故、やり直す必要がある?」
「私は全てを失っています。一度は両親のもとへ逝こうとも考えました。けど、その時……声が聞こえたんです。まだ貴女は頑張りなさいという声が。おかしいかもしれませんけど」
「おかしくなんてない、私にも聞こえるよ」

 ……二人で、そんな話をしている姿をよく見かけた。
 突然、柳翠がどこから受信したのか判らない変な事を口走ることも度々あったようだ。が、それでも彼女は「自分を面白く楽しませてくれているんだ」と思ったという。
 そうして、彼女は認めていった。彼が、幾多数々の声を聞いていたことを。彼がその声に苦しんでいたことを。
 認めてあげて、理解してくれたんだと……笑う二人を見て、自分はそう勝手に想像した。

「わたくしの両親がそのような事を仰有ってるのですか?」
「ああ。そうだ、私には聞こえる」
「もっとお聞かせ下さい。一体、どのようなことをわたくしに言ってくれているのですか?」
「私の口からで良ければいくらでも教えてあげよう。ああ、私と共にいれば、いくらでも――――」

 彼がそんな告白をするだなんて。
 初めて柳翠の言葉で吹き出した。それまで冗談であっても笑えなかった彼の口なのに。



 ――1987年12月5日

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 /7

「彼女を引き留めたい」

 必死の顔で、彼は助けを求めてきた。
 彼が何を聞いたのか、その時点では何も判らない。彼は語る。

「ここは天に近すぎたから、彼らが彼女に近付きすぎているから、恋しくなってしまったんだ」
「……そんなのじゃ判らない。柳翠、助けてほしいならもっと説明しろ」

 言っても、なかなか答えようとはしてくれない。
 いや、答えられなかったんだ。何て言ったらいいか判らないという……彼の葛藤があった。

 彼は様々な声を聴ける。けど、それは理解できるだけで表すまでに至らないものも多々あるということだった。
 ヒトの言葉ではないものを聞き、無理矢理ヒトの言葉で表そうとする息苦しさ。その苦しさと戦ってでも、彼は伝えようとする。
 ……苦しいのをなんとか回避しようとしていた彼だった。無駄に己を傷付けまいと敵のいる世界に入ろうとしない彼だった。その彼が、痛みに拒まず戦っている。
 なんて真剣な表情。自分も彼を判ってやろうと努力する。

「最初は、まだ貴女は生きる世界で生きなさいと彼らは言っていた……でも……彼女は、彼らの近くにいようとした。彼女のことを愛しているから、愛しすぎているから彼らは近くにいるのが嬉しくて嬉しすぎて、更に傍にいてほしいと願っている。彼女と共に歩みたいと思っている。彼女を隣に連れてきたいと思っている。彼女を、彼女と共に……死界へと歩みたいと思っている。そう、彼女を亡き者にしたいと思っている!」

 拙い言葉で、大まかな内容を話す。少し自分の想像でカバーし、そのような結末に至った。

 ……彼女の『血』は、元々、死に近い場所にあるものらしい。死に強く魅入られ、早く死界へ歩む運命にあるという。
 だから彼女は元から早死にすると……多少の霊力を感じる血を持つ俺も思っていた。
 初め見たときから、「ああ、なんて儚い魂なんだ」と思えたぐらい……彼女は美しい命をしていた。

 柳翠は、自分より感受性の強い。彼は、更に強くそのことを感じていた。そして、強く否定していた。
 彼女が『天』に近いここ……山の上の寺を選んだのも、そんな血の運命が導いていたのかもしれない。
 彼が言いたいのはつまり……彼女がより早く、天命を全うしようとしているって……?
 頭を震った。彼が必死になって止めようとしていることを肯定してはならない。
 けど、一体どうやって否定する? 彼女を亡き者にしようとしているのは彼女の背後霊だろう。それを除霊するのか? それとも彼女の運命を支えている『血』を全て抜くか? 退廃的な考えばかりが思いつく。
 それは、自分より頭の良い弟が既に考えていた案だった。そんなことばかり考えつくから兄に頼りに来たんだと後々思った。
 もっと違う案は無いか、違うことで彼女を運命から解き放つことは出来ないか。それが聞きたくて、苦しいのに我慢して語ったのだ。
 言うべきことは一つしかない。

「助けにならなくて、ゴメンな」

 そして、絶望。

 ……決まって人間には運命という道標がある。それは神が一つ一つに授けてくれたものであり、同じものは只一つも無い。
 授けることができる力を持つ者を神と言うぐらいに絶対運命。我が家が追い求めた幻想、そのひとつに、常に人間は振り回されている。この時、そう感じるしかなかった。
 自分にも運命付いた血は流れている。生きている限り。弟にも、兄にも。
 しかし不思議なことに、どんな人間でも『自族の血はどんな眼を持ってしても読みとることができない』ようシステムされているらしい。今、自分が彼女の運命を読みとったのは、彼女が他族だからだった。だから自分の運命を知ることもできないし、兄や弟がどんな天命を全うするのかも知らない。他の血族の、視える人間に訊かなければ判らないものだ。
 だけど、誰も教えてはくれない。
 こんな気分の悪いもの、知りたくもない。だから彼も自分も、彼女には教えなかった。
 教えることができるものか。君の両親が君を愛しているが故に殺したい、だなんて。
 運命は如何なる結果であれ、受け入れるしかないとされている。そう神が決定したのだから。彼女の血は、神が決断したものなのだから。

 ――人間の運命は、神によって既に決められている。
 と言っても、大半のことが決定しているだけで『大まかな道を辿ればどんなことをしてもいい』という。絶対にしなければならないことは、運命として決まっている。
 だが、生命の自由度は高い。どんな生き方でも『大概は』許される。
 彼女が、救われようとこの寺に訪れたのは、彼女の意志の自由によるものかもしれない。
 だから、弟と出会い……様々なことが出来た。彼の特殊能力を認めることも、貶すことも、愛することも彼女の自由だった。天に近いところで、四人の守護霊と共に……。
 しかし、彼女に訪れる『死』という運命は、着実に神が選ぼうとしている……という。
 つまり、彼は、ついに。神の声までも、拾ってしまったということか。

 彼はまだ模索しているようだった。いかにして亡霊から彼女を護るか。神が決定した運命を打ち砕くか。運命というものを、如何に変えるか。
 彼は、この先の運命を否定しようとしていた。
 より魔に関して研究に没頭するようになり……ヒトのものではない声を率先して聴くようになり……彼女をいつでも守れるように、傍にいるようになった。
 彼は必死だった。それこそ、愛する人を護る為に。
 たとえ、努力が実にならなくても。



 ――1988年11月11日

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 /8
 
 ある夜、産声が上がった。
 寺の一室で新たな魂が宿る。弟は直系だからと、当主が子を取り上げ確認する。
 残念ながら、男児だった。肩を落とすのも一瞬、皆、新しい仲間に喜んだ。
 だが彼は取り上げられた子供には目も向けず、只、ひたすら彼女のことだけを見守っていた。

「ああ、なんで生んでしまったんだ。君は」
「だって産みたかったんですもの。わたくしの両親も、さぞ喜んでいるのでしょう?」
「喜んでいるよ。こんなに孫が可愛いのかって……。そして、君ともう直ぐいっしょになれるって、喜んでいる」
「喜んでくれてますか、みんな」
「あぁ、君のお母様なんて泣いている。どれだけ君を愛していたか私にも伝わってくる」
「わたくしもその姿を見てみたい。見てみたかった。……何故、早くに逝ってしまわれたのですか、お母様」
「そういう運命だったからだ。子より先に親は逝くものだよ」
「それでも哀しいです。生きている間に見てほしかった……生きた腕で我が子を抱いてほしかった。お母様も、お父様も。……嗚呼、会いたい」

 俺は子を抱き、あやす。
 彼の子であり、彼女の子である男児はひどく大人しい赤ん坊だった。
 赤子は産まれて間もなく泣かないと不吉だというがその通り。大人しすぎる子に不安を抱く。産婆は「大丈夫ですよ、少し弱ってますがこれぐらい男の子なら乗り越えますから」と励ましてくれる。
 励まされているのは、何故か俺だった。
 柳翠ではなく、父親の柳翠に対してではなく。

「貴方は何故……そこまで産むのを反対したのですか」
「君の体を心配しただけだ」
「女親は強いものです、子の為に母を捨てる女などあってはなりません」
「私は聞こえた。君が奴を産んで危険な目に遭うという世界が。だから止めようとしたんだよ。すべては、君の為なんだ。今だって君は危ない。……顔色もほら、こんなに悪い」
「それでも、貴方と成した子を捨てることはできません」
「では、私に君を捨てろというのか。君が成そうとすることによって、君の命が捨てられるというのだぞ」
「あの子とわたくし、どちらを捨てろと言われたら……引くのが親というものです」
「そんな道理は認めない。ここは君があってこそ成り立つ世界だ。君が捨てられる世界など在ってはならない」
「けれど私は全うしました。……おそらく、これが、私の天命だったと思います。悔いはありません」
「…………」
「わたくしの命の代わりがあの子です。それを判って頂けますか」
「判るものか。君は君で奴は奴だ。それ以上にはなれん、人は人の代わりなどなれぬのだよ」
「それはいつも聞かせてくれたお話ですね。どんな基で生まれたとしても人は人、人が神になどなれることはないと」
「ああ、話した。私はその事実を認めてしまっている。神を求めるようなことを幾度もしたが、それが無理だということにやっと気付いた。……だが、だからといってただ、神の決めたものを受けるものか。……君は、生きるべき、生きるべきだった。まだ君は生きるべきだった。君は私の横にいるべき人だった。あの子を喰らってでも生きるべきだった!」
「…………まぁ、それはなんて恐ろしい」
「その通り、恐ろしい路だ。神に背く勇気、路の無い路を行く恐怖に打ち勝つものがなければ進めはしない……。だが、私が引導を渡してやる。私なら君を導いて……君一人護ってやる力ぐらい手に入れてやる! 私には君が必要なんだよ。誰の代わりでもなく、何の代理でもなく、君が必要だった。だから奴ではお前の代理にならない。このままでは、私は……きっと『奴』に、酷いことしか言えなくなる。そうならない為にも、君の存在が必要だ。こんなに必要だと言っているのだから、君に居なくなっては困る。だから……だから、『貴方達』も判ってほしい。貴方達が娘が大切なのは知っている。でも、私も大切なんだ。だからだから。奪わないでくれ。私は生きている。ここは生者の世界なのだから……たとえここが天に近い国でも……貴方達の言葉は聞けない。我儘で構わない。何と言われようが構わない。……決められた事だろうが、私から彼女を奪わないでくれ!」
「ねぇ貴方、貴方は喜んでくださらないのですか。…………あの子の誕生を」

 いつ、途切れたか判らない。
 が、その時にでも事切れたのか。
 ……彼が彼女の言葉に詰まった時、彼女は絶命していた。



 ――1988年11月12日

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 /9

 冬の始まりに近い雨の日に葬儀は行われた。
 正式に婚姻していない二人だったが、彼女は仏田の名を持って葬られ、一族の墓に入れられることになった。
 子供は、あの日からずっと腕の中。柳翠の手に渡すことなく、今に至る。
 それでも、完全に骨になる前に彼に子を抱かせたいと兄心が芽生える。これはお前ら二人の息子だ、お前の手で抱いてやるんだ。その一言を言いたくて、柳翠がいるという一室に繰り出す。

 ――そこには、兄貴の胸の中で泣く弟の姿があった。

 突如として用意していた言葉が消える。
 柳翠は泣いている。今まで見たことも聞いたこともないぐらい、声を荒げて泣いている。
 今は当主で『兄』としての姿をまず見せない光緑の胸を借りて、絶叫している。
 その日まで泣くときも声を殺していた彼が、こんなにも子供じみた泣き方をするものなのか。
 泣いている。
 泣いている。
 …………泣き、続けている。
 あまりの荒げ様に、抱いた彼の子供まで泣き出さないか心配になってしまうほどに。
 胸に彼の頭をしまい込んで、頭を撫でていた兄が……入り口に居る俺の方を向く。

『今は来るな』

 無言で、そう訴えていた。
 その通りに、部屋を出た。
 先に進むことなど出来なかった。今、彼にこの子を見せたらどうなるか。……嫌な想像ばかりが思いつく。そんな想像力いらない、もっと柔軟な考えを……そう想っていても無理だった。

 相変わらず大人しい彼の息子を抱いて、彼の嗚咽が聞こえない場所まで行く。
 彼の声をこの子に聞かせてはならない。せめてそれぐらいは、と。
 離れるというよりも、まるで、逃げるかのように足を速めた。
 だが、一体どこに行ったらいいか。どこまで彼から逃げればいいのか。判らなかった。
 どこに行っても、誰も教えてはくれなかった。




END

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