■ さわれぬ神 憂う世界「仏田志朗の沈思黙考」 ・ 3ページ目
【8章】
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――綺麗事の時間が、終わった。
真夜中。湿り気を帯びた静寂の中、志朗は冷えきった床に身を横たえていた。
鉄と石が染み込んだ独房。空気は凍るほど重く、壁に触れるだけで骨まで冷えそうな感触が這っていた。
眠りなど訪れるはずもない。従順な囚人として、志朗は瞼を下ろしていた。
瞬間、世界が歪んだ。
音のない爆風のような衝撃が、脳を無遠慮に貫く。光でも音でもない。もっと根源的な異質、世界の縫い目が裂けたような感覚が、瞼の裏を走った。
思考がずれ、感覚が千切れ、身体という輪郭が一瞬だけ失われる。
気づけば志朗の背を撫でていたのは、石の冷たさではなかった。
土。草。夜の匂い。湿った草の香り。水分を含んだ苔の肌。微かな風の渦。
喉が鳴る。唾を呑み込んだ感覚だけが、確かに現実だった。
手足は依然として拘束されている。動かぬ身体に対し、五感だけが冴えわたる。
木々が風にさざめき、虫の翅が薄く鳴く。見上げれば、枝葉の裂け目から星々が冴えた光を注いでいる。その光景は、どこまでも自然だった。
周囲に広がるのは深い森。手つかずの、沈黙と生と死だけが棲む場所にいる。
(……転移、か)
魔術にも異能にも通じてはいる。だがこれは、知らぬ系統の介入。
新座の仕業ではない。レジスタンスの作でもない。直感が脊髄に火を灯した。これは、異界のもの。
直後、風が裂かれた。
ざっと、草の音が濡れた刃のように空気を断つ。
気配が現れる。無数に。それはただの存在ではなかった。視線。殺意。重たい視線が、枝の上から降り注ぐ。
見上げた先、月の光が冷たく照らす高枝に、影が立っていた。
銀に近い緑髪。鋭く尖った耳。顔には、怒りも憐れみもない。全てが志朗を見下ろしている。
――エルフ。
幹から幹へ、枝から枝へ。一人、二人、十を優に超える姿が、樹冠を覆っていた。全てが刃を帯び、目に映る世界の中心、志朗だけを見つめていた。
言葉は要らなかった。
ここに正義はない。人の法も理もない。恩も、赦しも、ない。
志朗は孤独という牢獄のまま、理の外へ引きずり出されたのだ。
異種の森。死を纏う沈黙。殺意だけが濃縮された空間。そこに、彼の名を呼ぶ者はいない。助ける声も届かない。
ここに、味方はいない。
風は凪いでいた。虫の羽音も枝葉の囁きも、まるでこの場を畏れて息を潜めているかのようだ。沈黙という名の獣が、そこにいた。
志朗の四肢は、縄ではなく呪術で地に縫いとめられていた。身体は人の形をしていたが、もはや人ではない。動かぬ手足。血が暴れ回る胸郭。生きながら、死の機能を担わされていた。
エルフたちが降りてくる。それは軍ではなかった。集団ですらなかった。一人一人が、私怨をそのまま具現化した存在だ。切り刻まれた過去を、その身に刻んだ者たち。
最初に声を発したのは、左顔面が焼けただれた青年。皮膚が溶けて張り付き、片目が炭のように潰れていた。爆破されたある村の生き残りだった。
「お前の命令で、俺の家族は焼かれた。俺の妹は、燃えながら走った。助けてくれって叫んでた。覚えてるか?」
志朗は沈黙した。応える言葉が見つからなかったのではない。言葉という概念が、すでに彼の内部で腐っていた。
「こいつを正義の法で裁くだって? 寝言も大概にしろよ」
誰かが呪詛のように吐き捨て、誰かが無言でそれに頷いた。
最初の一撃は石だった。無骨な岩塊に魔力が込められ、頬に叩きつけられる。骨が軋む音とともに、肉が裂け、鮮血が飛び散った。
次は鞭。しなる音と共に、背を切り裂く。皮膚がめくれ、血の花が咲く。花びらは濡れて、地に落ちるたびにぬかるみが増す。
「俺の父は、殺された……拷問されて、記録に残ってた。……笑ってたってさ。あんたの部下が、父を引き裂きながら笑ってたってな……!」
怒声が響く。足が飛ぶ。腹に、胸に、顔に。
身体は肉袋のように転がり、血が吐き散らされた。拘束されたままのその姿は、すでに獣ですらなかった。神に見捨てられた人の末路のようでもあった。
次に進み出たのは、十にも満たぬ外見のエルフの少女。だがその目は、千年の呪いのように深く、冷たかった。
「私……されたの。母と私、同じ檻で交代で……ねえ、わかる? わかる? ひどいでしょ、ねえ」
小さな掌に、黒炎が灯る。それが足を焼いた。肉が焦げ、靭帯が縮れ、しかし決して焼き切れない。
じゅう、と生々しい音と共に、感覚だけが生かされた。
誰も止めない。これは裁きではない。処刑ですらない。これは、復讐。
一人、また一人と歩み出る。親を殺され、恋人を奪われ、兄弟を失った者たちが、順番に志朗へ自分の地獄を注ぐ。
毒で。刃で。火で。呪詛で。あるいは、言葉で。
もはや倫理など存在しなかった。
それでも、志朗は死ななかった。
魔術で命は保たれていた。死は赦されず、痛みだけが継続された。
時間は崩壊していた。夜は明けず、朝は来ず。苦痛がひたすらに再生される。
骨は数本折れ、臓器は裂け、皮膚は焼かれ、癒され、また裂かれた。口内は血に染まり、歯が数本、吐き出された。片目は潰れ、耳は聾し、喉は破れた。
「俺の婚約者は、人体実験に回された。許可一つで、腸を抜かれ、心臓を薬で止められて、使い捨てられたんだ」
言葉と共に、爪が剥がされた。一枚ずつ。丁寧に。喉が破れているせいで、悲鳴すら出なかった。
「壊されたのは身体じゃない。……俺たちの時間と、未来と、希望だ」
歩み寄った男が、顔に手を伸ばす。
掌は優しかった。だが、それは儀式だった。淡い魔光が灯ると、顔半分が焼け落ちた。肉の焦げる臭い。鼻が崩れ、唇が割れ、皮膚が融解し、音を立てて剥がれていく。
そして延命の術が施される。生気を補う血と魔力が、体に流し込まれる。彼はまた生きるように整えられた。
この森に夜は終わらず、痛みの朝だけが何度も訪れる。
志朗は生かされる地獄に、今も沈んでいた。
「お前のせいだ」
まただ。もう、幾度目になるのかも分からない。
声が変わる。顔が変わる。意味だけはいつも同じ。
志朗を取り囲む無数の影が、影のまま口を開く。
「お前が命じた」
「お前が笑っていた」
「お前が殺した」
「お前が家族を奪った」
「お前が悪い」
「お前は罪深い」
「お前なんて、誰も助けない」
「――お前なんか、誰も、愛さない」
最後の一言が落ちたとき、志朗の中で何かが明確に、音を立てて割れた。
正確には以前からひび割れていたものが、いよいよ崩れただけだった。
心が空洞になっていく。
かつて、愛したものはあった。だが愛されたことがあったかは、分からない。
――シキ。
銀の髪。長い耳。どこまでも澄んだ青い瞳。声も出さず、命令だけに従う静かな青年。志朗の影となり、奴隷として側に在り続けた存在。目を逸らすことも、拒むこともなく、ただそこに居てくれた。
好きかという新座の無邪気な問いに、はっきりと「はい」と答えた声。
キスしろという命令に、躊躇いもなく応じた唇。志朗の腕の中で、熱に溶けるように寄り添ってくれた、あのぬくもり。
閉じた瞼の裏では、炎に焼かれた村の光景が延々と繰り返される。
断末魔の叫びと、崩れ落ちる人影。死にゆく顔、顔、顔。その中に、ひときわ鮮明に浮かぶのは、シキの顔だった。
「……シキ……」
くぐもった声が、血と涙と嗚咽の隙間から漏れる。
誰にも届かない呼びかけだった。無様に、醜く、縋るように。それでも、彼の名を呼ばずにはいられなかった。
誰も愛さないと告げられても、愛されるはずがないと知っていても、それでもなお、心は彼の名を探す。
「会いたい……なあ……俺は……お前に……」
言葉は途中で崩れ落ちた。喉の奥で沈み、音にならずに消えていく。
記憶の中のシキは、静かに志朗を見ていた。
その表情は、もう思い出せなかった。怒っているのか、哀しんでいるのか、憐れんでいるのか。それすらも、もう分からない。
「……シキ……」
助けて、とは言えなかった。自分はもう、誰かに助けられる側の人間ではなかった。
それでもなお、志朗は、祈っていた。
シキがどうなったのかを志朗は知らない。本当にレジスタンスが彼を救出したのか。匿われているのか。生きているのか。殺されたのか。誰も教えてくれなかった。ただ、それだけがずっと空白のままだった。
だから、祈るしかなかった。思い浮かべた顔に向けて、ひとつだけ、願う。
――どうか、いてくれ。
自分を憎んでいてもいい。蔑んでいてもいい。赦さなくていい。
それでも、どこかで、生きていてほしい。
生きていて、どうか、自由でいてほしい。
それが志朗という男が最後に保っていた、僅かな人間らしさだった。
「ギャア!」
森をつんざいたのは、短く鋭く、命を振り絞るような叫びだった。
空気が裂け、風景が静寂に沈む。一閃。無数のエルフたちの殺気は払われていた。
影が一つ、音もなく姿を現す。その背に寄り添うように立つのは、血と死を纏う無言の暗殺者。
仏田家第六十三代目当主、仏田 燈雅。彼は剣を振るう護衛の男と共に、風のように森の底に降り立っていた。
足元には護衛が斬った屍。倒れ伏した者たちを、燈雅は何の感情も浮かべぬ眼で見下ろす。
黒と紫の和装は一滴の汚れも許さず、彼の存在をこの世の重力から遊離させているかのようだった。
「……レジスタンスの拠点だったら、さすがに手出しはできなかったけど」
吐き出すような呟き。
隣に控える男衾は、血に濡れた刃を鞘へ戻し、死の残り香を黙って見送っていた。
「こんな山奥に連れてこられるなんてね。志朗は……運が良いのか、悪いのか」
燈雅は小さく笑った。目が向いた先にあるのは、もはや志朗と呼ぶにはあまりに無惨な肉塊だ。
赤黒く変色した皮膚。裂けた肉。焼かれ、縫われ、また裂かれた無数の痕跡。肉体を維持するために施された魔術だけが、内奥でどくどくと命の脈動を保っている。
しかしそんな存在の残滓から、唇が震えた。
「……あい、たい……」
掠れた声。血と焼け爛れた組織の隙間から、か細く零れ落ちる音。
誰に向けたものかも分からぬ言葉に、燈雅の眉が僅かに動く。
呼びかけても応えはない。だから燈雅は、返答を望める唯一の相手へと視線を投げた。
崩れた木の根元。屍の影に一人、立ち尽くす者がいる。
「君は、復讐に加わらなかったようだね」
口調は柔らかく、まるで茶会の挨拶のように穏やか。
だが応じる者は、ぴくりとも動かない。月光の下、その姿が浮かび上がる。
長く、銀緑に光る髪。尖った耳。手には剣も魔術もなく、そこに在る者。
――シルキオル・フェイン。志朗が名を与えた存在。呼び名は、シキといった。
燈雅の視線が彼の首元を確かめる。首輪は、もう無かった。奴隷ではない。自由な意思を持つ者。ここに居るということは、復讐する権利も機会も、全て手中にあったということだ。
それでも彼は動かなかった。刃も言葉すらも向けることなく、志朗を見ていた。
「どういうつもりで、そこに立っているのかな」
今度の問いには、微かな圧が籠る。
シキは何も答えない。裂けた肉の奥で呻く志朗を、無言で見つめ続けていた。
血に濡れた唇が、なおも誰かの名を呼ぼうとしている。
それが誰か、彼だけは知っていた。
彫像のように凍りついた、完璧な無表情。美しい顔には、怒りも、悲しみも、憐れみもない。
「……黙って見ている方が、よほど恐ろしいね。これが君なりの、弟への復讐かな?」
男衾が一歩進み出て、刀の柄に手をかける。
燈雅は軽く手をかざし、それを制した。
「男衾、殺さなくていい。これでもオレは兄だからね、弟には優しくしてあげたいんだ。……志朗の大事な人を殺したくはない」
足元の肉塊を見下ろし、微かに唇を歪める。あまりにも優しい声。まるで赤子を慈しむようだった。
――村が燃えた夜のことを、シルキオルは今なお夢に見る。
炎は森を裂き、神話を焦がした。家々は崩れ、聖なる木々は煤け、天に連なるはずの系譜は黙って瓦解していった。
父は殺された。仲間を守ろうとした賢者は、無造作な一撃によって打ち伏せられた。
母は奪われた。何年かのちに返されたのは、形も意味も喪われた白骨の一片。それが残された唯一の帰還だった。
そして自らは、檻の中で見世物のように晒された。生まれの異様さを珍しがる者たちの前で、動物以下の扱いを受けた。
飾られ、笑われ、蹴られ、どれが最も侮辱だったか思い出す必要すらない。
かつて神聖だった種族の末裔が、娯楽の館の片隅に、淫靡な装飾の一部として吊された日々。日がな一日、誰かが金を払い、誰かが肉体を使い、誰もの物として扱われる。
全てが等しく無意味で、等しく、虚しかった。
その終わりに、志朗が現れた。
買うと言った。あまりに簡潔な取引。感情のかけらもない。
志朗は尋ねた。問う必要もない問いを。
「名前は?」
シルキオルは、ありのままに告げた。だが志朗は、勝手に名を与えた。「シキ」と。
それが、彼の与えた最初の鎖だった。
強がりな少年が築いた、小さく歪んだ帝国。虚勢と傲慢と甘えで固めた王座の傍らに、自分は沈黙のまま従えばよかった。
命令には従った。褒められれば頷き、抱かれれば目を伏せ、肌を撫でられれば抵抗もしなかった。語られる名も、与えられる愛も、自分にはただの空気に過ぎなかった。
人間である志朗にとっての13年は、重い時間だったのだろう。少年は男となり、組を率い、血と恐怖で世界を形作った。そしてある日、こう告げた。「愛してる」と。
――愛、だと?
滑稽ではないか。
エルフにとって13年など瞬きだ。その刹那にどれほどの情を注いだところで、それは志朗の問題でしかない。
自分はただそこに在った。志朗が求めた「シキ」を演じ、黙って従い、沈黙の仮面を剥がさなかっただけ。
志朗が欲したのは、幻想だ。彼が名付け、抱き、愛したのは、自らが創り上げた幻像にすぎない。その中に、本当の自分など、最初から存在していなかった。
だから自分は、一度として裏切ってなどいない。最初から、心など差し出していなかったのだから。
――主の命を守れ。攻撃を受けたなら、己の肉を差し出せ。傷を負ったなら、癒せ。もし命が尽きかけたのなら、代わりとなって死ね。
そう命じられていた。中垣の急襲によって志朗の肺が潰れ、肋骨が砕け、喉から泡のように血を噴いた瞬間――命令は反射となって、脳裏に深く走った。思考より先に、肉体が動いていた。
手を伸ばし、詠唱を起こし、本来は癒しに使うはずの術式を無理やり転移に書き換えた。志朗の全ての傷を、自らの肉へと移し替えるために。
肉が焼け、骨が砕け、神経が裂ける。喉に満ちる鉄の味。視界は赤に染まり、耳は遠く、時間は崩れた。
それで良かった。命令だから。何も思わなかった。これで死ねるなら、それで良い。見世物の日々や奴隷の毎日が終われるなら、何よりも楽だった。
――だが、志朗が泣いた。
壊れかけた自分の手を握りしめ、声を震わせ、嗚咽しながら、泣いた。
動揺していた。後悔していた。まだそのとき人前であったのに、愛していると告げようとしていた。誰より遅く、誰より不器用に。
それら全てが可笑しかった。
笑いそうになった。でも、笑えなかった。
そのとき喉の奥で、名も知らぬ熱がひとつ、苦く疼いた。それが感情だったのかもしれない。
それからも演技を続けた。懐くふりをすれば、志朗はころころと表情を変えた。名を頻繁に呼ぶようになり、些細な贈り物が増えた。
哀れみを感じた。あるいは、玩具への情に似たものを抱いた。
それでも、撫でる掌のぬくもりは悪くなかった。あの目の揺らぎも、悪くなかった。胸の底に微かな澱として残るほど。ほんの少しの「もし」が、心の深くに沈殿した。
志朗は愚かだった。その愚かさは、どこか愛すべきものだった。
自分は飼われてやった。愛されたふりをしてやった。それこそが、復讐だったのかもしれない。
己を買い、拘束し、首輪を嵌め、全てを所有したつもりだった男が、ある日、見下ろされる側になっているという、復讐。
命を救われ、懐かれ、撫でられ、気まぐれな返事に喜び、素肌に触れるたび、子どものように怯える彼を見るという、復讐。
馬鹿だった。滑稽だった。嗤ってやりたいほどに――なのに、どうしてだろう。
その滑稽さが、嫌いではなかった。
自分は、飼われていた。それは事実だ。
支配者でありながら、誰よりも孤独で、臆病で、愛されたがっていた男。
それが可笑しくてたまらなかった筈なのに。可哀想でたまらなかった筈なのに。面白いと思うのも事実で。
……ある夜を思い出す。照明が落ちた部屋。ベッドの中、志朗は黙ったまま、何度も自分の髪を撫でていた。
聞こえないように彼は叫んでいた。そばにいてくれ、と。お前だけは消えるな、と。
滑稽だった。支配者が、奴隷に縋っている。
愉快だった。かつて自分を壊した男が、自分を必要とし始めている。
それでも、それでも……そんな志朗を見つめていると、喉の奥に何か温かいものがせり上がるのを、どうしても止められなかった。
つまらない男。救いようのない愚か者。
――たとえ全てが演技だったとしても、たとえ一瞬も心を許していなかったとしても。
あの手の温もり。あの目の色。あの夜の息遣い。
――それでも自分は、あの滑稽な人間を、ほんの少しだけ……ほんの僅かに、可愛い子だと思っていた。
月が梢の隙間から零れ落ちていた。仄白い光の粒子が草葉の上でかすかに揺れながら、瀕死の男の肌をなぞっていく。
志朗の形は、もう人ではない。剥がれ、裂かれ、砕けた肉体。その奥で未だいくつかの神経が、断末魔のように火花を散らしている。潤んだ瞳はもはや何かを識る機能すら残されていない。
彼の傍らに、兄が立っている。和装は塵一つなく整い、風景の一部のように静謐だ。燈雅は、どこまでも穏やかな声音で口を開いた。
「ねえ、君。もし君が、まだ志朗の奴隷だったのなら。命令させてもらおう」
シルキオルの睫毛が揺れる。
燈雅は言葉を継ぐ。
「志朗のこの無様な傷を……君の身体に移してやってくれ。この子には、何の力もない。癒しの術も、命を願う術もない。だが君ならできるだろう? あの夜のように、全てを己に引き受けて彼を救うことが」
風が沈黙をささやくように通り過ぎていく。
燈雅の声は、なおも柔らかい。
「けれど、君はもう自由だ。志朗が本当は望んでいた、自由を手にした君……首輪は無い。命令も無い。……ようやく与えられた自由の中にいる君」
月明かりがその整った面差しを静かに撫で、夜の冷たさが頬に宿る。
「そんな君には、違うお願いをしたい」
声は恐ろしく穏やかで、恐ろしく冷酷だった。
「――このまま、志朗を見殺しにしてくれないか」
空気が張りつめる。風が止まり、夜が静脈のように凍る。
「奴隷なら、助けてやれ。自由なら、見捨ててくれ。どちらにしても、これは君の選択だ」
眼差しは深く澄んだ湖のように底が見えず、試すのでもなく、裁くのでもない。
ただ「志朗の最期を決める役」を無慈悲に、淡々と託しているだけだ。
「彼の命は君の指先一つに懸かっている。さあ、どうする?」
そのとき、志朗が微かに呻いた。
シルキオルには何の訴えか分からない。張り詰めた夜の静寂の中、木々の葉擦れさえ止んだ気がする呻きだった。
肉の形を留めない肉体。言葉を失った口。それでも焦点を持たぬ瞳は、ずっと同じ一人を探していた。
視線の先に――エルフの青年が立っていても、志朗には見えないだろう。
銀白の月光を纏い、人ならぬ美の化身のように感情を伏せた面持ちのまま、志朗を見下ろしていても。
志朗はもう、取り繕うことすらできない。
「……彼は、本当に……私の自由を、望んでいたのですか」
ぽつりと、低く問う。
「うん。志朗は、君の自由を考えていたよ。首輪を外すこと。誰にでもなく、自分の意志で君を自由にすると。あの子は……心から願っていた」
風が、静かに揺れた。
「自由に息を吸いたかったんだろうね。いつだって。……君と」
シルキオルは、ゆっくりと志朗に歩み寄る。崩れた顔を長く、長く見つめた。
かつて誰よりも自分の名を呼び続けた唇。誰よりも自分を愛そうとした瞳。跪き、信じ、そして裏切られた――哀れで、滑稽で、惨めな男。
やがてシルキオルは、頭を垂れた。
感謝でも許しでもない。無言の一礼。そして、何もせずに――踵を返した。
志朗の傷を移さず、命を繋がず、見捨てた。
本心がどうであれ、たとえ心が叫んでいたとしても、その背は真っ直ぐで孤高、あまりにも自由だった。
シルキオルの足音が、樹海の奥へと吸い込まれていく。
夜の静寂に溶けゆく気配を見送ったのち、燈雅はゆっくりと膝をついた。倒れ伏した志朗の傍らに、音もなく身を屈める。
「良かったな、志朗」
その声は憐憫ではない。嘲りもない。祝福だけが滲んでいる。
美しい存在を自由にしたこと。それこそが志朗の望んだ結末だったのだと。燈雅は、讃えた。
「お前の好きだった彼は、お前の手で自由になった。……望みどおりだろう? 良かったな」
志朗の顔は僅かに動いた。意識はもう遠く、言葉は届かない。
けれど、唇だけが何かを形作ろうとしていた。音にはならず、想いも成らず。それでも何かを誰かに告げようと、最後まで形をなぞっていた。
燈雅は再び身を屈め、血に濡れたその顔に、そっと口づける。
別れの儀式として、そして――喉元に、牙を立てた。
残っていた皮膚が割れる。温かな血が湧く。肉が裂け咀嚼され、喉を流れていく。
捕食ではなく、崇高な継承。志朗という存在が今まさに燈雅の中へと注がれていく。血が、意志が、魂の微細な震えが、その身に宿っていく。
「志朗の力は、異能ではない。だが、とても美しい力がある」
呟く燈雅の声には、微かな熱があった。
「人を導く力。人を従わせる力。それこそが12月31日の儀に必要だから」
燈雅の瞳が細められる。目には志朗という個人ではなく人類という種全体が映されていた。
存続を測るかのような遠大な視線。口元に浮かぶ仄かな笑みは、冷酷でも慈愛でもない。純粋に機能への美学に満たされた笑みだった。
――こうしてレジスタンスの手に落ちた筈の仏田 志朗は、夜が明ける頃には姿ごとこの世から忽然と消えていた。
/2
翌朝。メディアは一様にある著名人の失踪を報じていた。
冷ややかな文章が羅列される。情報として処理され、誰の胸にも深く届くことのない一つの出来事。誰も知らない。本当の志朗が、仏田家の当主の内奥に密かに幽閉されていることなど。
喫茶店のテレビには志朗の顔写真が映っていた。鮮明で整った輪郭。公の場で露出されたあの冷徹な瞳が、今は「行方不明者」という肩書のもとに無機質なラベルを貼られている。
「……ふざけてる」
新座の呟く。手の中のマグカップが小さく震える。熱いココアが指先に触れても、その感覚すら意識しない。
隣に座る鶴瀬は、黙したままテレビを見つめていた。凪のように静かな横顔には、怒りも焦りも刻まれていない。淡々と状況を咀嚼し、次に取るべき手を思考している気配があった。
「監視カメラは全滅。警備記録も跡形も無い。結界に異常も検知されなかった……完璧に消された。これは人間のやり口じゃないな」
「むぐ。……どんな手を使ったと思う?」
「はわ。……分からない。人間以外の魔法は無限にあるから」
それを解き明かすのが本来、機関の役目である。だが機関に背を向けたレジスタンスにとって望むべくもない支援だった。
二人は並んでココアを口に運びながらテレビに視線を戻す。
「現在も捜索は続いておりますが、有力な手がかりは得られておりません。仏田 志朗氏は、違法組織との関与も取り沙汰されており……」
アナウンサーの無表情な声が、粛々と続いていた。
「怒りは後回しにしよう。次の手を考えなきゃいけない。機関の内部を揺さぶるためにも……新座くん、新しい作戦を用意してるんだろう?」
「まあね。スパイを送り込む案だけど……さすがにちょっと、滅入ってきたよ」
新座は自嘲気味に笑う。その声は、芯を失った弦のようにどこか虚ろだった。
「これでも僕、志朗お兄ちゃんのこと、90%は信じてたんだよ? その人が本物の悪者で、それも即日で何の痕跡もなくいなくなるなんて……」
「1割は疑ってたんだ。で、その案、聞かせてもらえる?」
「鶴瀬くん。そういう冷たさ、ほんと怖いよ」
軽口を叩きながらも新座の心の奥では、一つの祈りが声にならずに繰り返されている。
――お願いだから生きていて。どんなに酷いことを言われたって、どんな顔をして現れたって、あの人は僕の憧れで、誰よりも大切な兄なんだから。
言葉にできない叫びが、胸の奥で燃えていた。
そのとき、控えめなドアベルの音が店内に鳴った。
「やあ」
春の風のように、温かく柔らかい声。穏やかな微笑み。人好きのする表情。どこか抜けているようで、けれど不思議なほどに人の心の距離を詰める存在――上門 圭吾が立っていた。
「圭吾さん、来てくれたんだ」
新座が顔を綻ばせた。
圭吾という男は、戦力として特別秀でているわけではない。政治力も情報も持たない。ただそこにいるだけで、周囲の人間の呼吸がほんの少しだけ、楽になる。そんな不思議な人間だった。
先日、新座とときわがレジスタンスへの加入を促したとき、圭吾は難しい顔をしていた。それでも今日、こうして顔を見せてくれる。それだけで何よりも心強いのだ。
「テレビ、見たよ。志朗くんのこと……いてもたってもいられなくてさ」
圭吾は申し訳なさそうに頭をかくと、新座の隣にそっと腰を下ろした。
「新座くん……その、元気出して、なんて軽々しくは言えないけど」
「むぐ。そういう圭吾さんの無計画に優しいところ、僕は好きですよ」
言いながら、新座の声が小さく震えた。
けれどその震えの中には確かに笑いの音がある。細く儚く、けれど紛れもなく希望の名残のような笑いだ。
「燈雅お兄ちゃんも……圭吾さんのそういうとこ、きっと好きだったと思う。あの人も見かけによらずフワフワものが好きだから」
「じ、冗談はやめてくれよ……」
圭吾は照れたように耳を赤らめ、髪を掻き上げた。
気恥ずかしい仕草を遮るように、鶴瀬が一つ咳払いをする。
場の空気が切り替わる。新座は頷き、再び現実へと意識を戻す。
冷めかけたココアを一息に飲み干しながら、これからの作戦を語り始めた。
12月。空気は凍てつき、夜は長くなるばかり。ぬくもりだけでは凌げぬ、厳しい冬の戦が始まろうとしていた。
/3
夕刻の光が本堂の障子を透かし、赤く畳に滲む。光はどこか血のように生々しく縁側へと長い影を落としてゆく。
犬伏 頼道は仏前に香を手向けたまま、目を閉じていた。香煙が淡く揺れる。祈りの余韻の中、突き刺すような沈黙が流れた。
電話が鳴る。ゆるやかに立ち上がり、受話器を取る。聞こえてきたのは、擦れた声だった。
「……頼道兄さん。あずまが、妻が……事故で亡くなりまして……」
電話先の藤春の声は、ひどく細かった。
無理に形を保とうとするその震えに、頼道の喉の奥が軋む。だが住職としての静けさを崩さず、深く合掌し、一礼した。
「そうか。……ご愁傷様でした」
形式的な言葉。しかしそれは、魂を守るために必要な、最初の衣だった。
「葬儀はこちらで預かろう。仏田寺にて滞りなく整えさせてもらう。火葬の手配、香典返し、その他の事務は追って詳細を伝える」
事務のように淡々と。だがその言葉の行間には、確かな温度が宿っていた。
頼道は声音を和らげ、語り掛ける。
「藤春。お前、食べてるか」
一拍の沈黙が返った。
「……いや。あんまり」
やはり、と思った。泣いていないのではない。泣く余裕もなく、心の全てが凍りついている。
仏間の柱の影に頼道は目をやった。そこに在るはずのない面影、亡き光緑の姿を、なぜか幻視してしまう。
その弟が今、電話の向こうで震えている。光緑と同じ優しい声。人の痛みにあまりにも敏くて、自分のことをいつも後回しにする男。頼道は息を吸い、懐かしい声を上げた。
「藤春が全部背負う必要はない。寺に来い。あとは俺がやる。……寒い時季だ、お前が倒れてどうする。緋馬くんを守らねばならんだろう」
応えはなかった。だが沈黙が何より雄弁だ。
「……ありがとう、頼道兄さん」
かつて仔犬のように懐いてきた少年。その隣に、いつも光緑がいた。藤春の幼い声が聞いた今、廊下の奥からあの三兄弟が笑っていた声が聞こえてくる気がする。
死してなお骨の奥に焼きついた、光緑の囁き。思わず藤春の声を前に、涙腺が緩む。
――会いたい。今もなお、会いたくてたまらない。
恋しさを押し殺し、頼道は己の胸に言い聞かせるように呟く。
「……気張れよ、藤春」
激励というよりも、己自身への戒めだった。光緑の代わりに残された者を守ると誓う、兄の役目として。
受話器の向こうで、小さく息を呑む音がした。
「もちろん、気張ります。俺には、緋馬もいる。……父親役の俺が参ってたら、あいつが……苦しむでしょうから」
その言葉に、頼道は目を伏せた。ああ、と、深く心の内で嘆息する。
変わらない。人を思い、人のために踏ん張るその優しさが、いつまでも藤春の中には生きている。
それは光緑が愛した家族として、何より誇らしい生き方だった。
「ああ。緋馬のためにも、踏ん張って生きろ。仏田の家なんざ、お前には戻りたくもない場所かもしれん。だが兄貴役の俺がいる。嫌なことを言う奴がいたら、俺がぶん殴ってやる。安心して帰ってこい」
その声音には、もはや住職の威厳も仏田の格式もなかった。愛する者の家族を迎える、一人の男の言葉だった。
「……はは、人を殴るとか、貴方できないでしょうに。でも、助かります、頼道兄さん。……柳翠にも、よろしくお伝えください」
「ああ。伝えておくよ。あいつも最近は……まあ、ちっとは丸くなった。きっと優しくするさ、お前にも、緋馬にも」
電話が切れた後、頼道はそっと手を合わせた。
仏前の灯明が揺れていた。
葬儀とは、ただの終わりではない。失われた者と残された者とがもう一度、結び直すための祈りの場だ。
守らねばならない。光緑の弟を。そして、その子を。
誓いながら、頼道は冷え切った廊下を歩き出した。
冬の風が廊の硝子戸を細く叩いた。乾いた音が一度だけ鳴り、静けさの中に消えていく。
頼道は袂を揺らしながら、仏田家本邸の長い廊下を歩いていた。
無数の時代を飲み込みながらなお佇むこの邸の奥、その心臓部へ向かう。そこは重々しく、気配さえも封じる無言の道だった。
「現当主様にも、伝えねばな」
独りごちた言葉が、廊に反響する。誰に聞かせるわけでもない声だったが、冬の静寂はそれを殊更大きく返した。
燈雅――この家を今、束ねる若き当主。
その胸の内を推し量ることは、容易ではない。実の弟である志朗が突如として消息を絶ち、冷ややかな報道だけが、世間にその名を流し続けている。内情を知る者すら、真実に触れられぬまま戸惑い、沈黙していた。
燈雅はいつもと変わらぬ顔をして職務をこなしている。その平然さこそが何よりの痛ましさだと、頼道には見えた。
(……燈雅くんにも、心の灯を支えてくれる誰かがいればいいが)
そして、もう一人。彼の母であり、前当主の妻・邑子もまた、専用の離れに籠もったまま人前に姿を見せていない。
静謐という言葉そのもののような女性だった。決して声を荒げず、涙を見せず、いつも微笑のうちに在った。だからこそ沈黙が何より痛々しい。
頼道は歩を緩め、目を伏せた。彼らは皆それぞれに欠損を抱え、痛みに蓋をしている。
若すぎる当主。心を凍らせた母。まるで声を上げることさえ忘れてしまったように、時を耐えている。
自分は、彼らに何ができるのだろう。代々と仏田の当主を正す住職という立場にありながら、どれほどの光を灯してやれるのか。
祈ることだけはできる。傷ついた者たちが、たとえ声を無くしても、手を伸ばし、互いを見捨てずにいられるように。壊れた心と心が、なお繋がっていけるように。
(寄り添ってやろう。いつまでも、ここで)
それが自分の背負うべき役目だと、頼道は自覚していた。
襖の前に立ち、深く一礼する。寒気を孕んだ廊下に、袈裟の裾が揺れていた。祈りと共に、ゆっくりと襖へと伸びていった。
/4
目など、ある筈がなかった。
それでも志朗は見ていた。黒く底知れぬ虚無。光はなく、影さえない。あるのは無限の沈黙と、それに溶け込むように蠢く、無数の声。
――あいしたい。かえりたい。わたしをみつけて。ころしてくれ。まだここにいる。
祈りとも呪詛ともつかぬ言葉。か細い嘆願。断末魔。懺悔。名もなき魂の残響が、この空間の隅々にまで染みついている。
志朗は、その中にいた。意識は泡のように脆く、肉体の感覚も、時間の流れも、とうに剥ぎ取られていた。それでも志朗という名を持つ何かとして、なおここに在ることをやめなかった。
生きているのではない。死にきれず、残されているとしか言いようがなかった。
誰にともなく発した呟きが、波紋のように広がり、やがて他の声と絡まり、溶けていく。嘲笑のように。あるいは、泣き崩れるように。
志朗は、その輪に混ざっていた。
仏田の当主たち――かつて名を持ち、権威を帯び、人を喰らい、また喰われ、器に沈んでいった男たち。
贄となった者たち――名も告げられず、忘却の彼方に葬られ、死してなお叫び続ける者たち。
――しにたい。なぜわたしが。ここに。しにたくなかった。おなか。へった。あの子に。あいたい。おかあさん。たすけて。あいたい。
三百年の時を越えて積み重ねられた嘆きが、煤のようにこの器の中に堆積していた。新しき魂も、古びた魂も、皆が同じように呻き、叫び、そして崩れ、音もなく融けていく。
志朗も、気づけば口がひとりでに動いていた。
「……会いたい……」
彼の胸に浮かんでいた面影は、一つだけ。
白銀の髪。空のような瞳。静かに自分を見つめていた青年。唯一の存在。
(……お前に、もう一度……会いたい……)
その祈りもまた、無数の嘆きの中に沈んでいく。
誰のものとも判然としない「会いたい」の波の中に、一粒の涙のように吸い込まれていく。
声の海は、志朗の意識を包み込んでいった。
泡のように浮かび、弾け、また沈む魂たち。断片化した記憶が脳裏に明滅し、それがまた波となって襲いかかる。
「……シキ……俺は……お前を……」
名を呼んだ瞬間、胸の奥が灼けるように熱く軋んだ。
何度も、幾夜も、布団の中でこの名を喉奥に押し殺してきた。
奉仕される自分が、抱いてはならぬ感情。
だが今は違った。ここでは何も所有せず、何も縛られない。名を呼ぶことが、ようやく許された。
誰に聞かせるでもなく、祈るように声が零れた。
「……愛してる」
そのときだった。
虚空の片隅、揺らめく歪みの中に、微かな面影が浮かんだ気がした。
樹海の香りがした。その中で、白銀の髪、青の瞳が、見えた。崩壊した筈の自分は『新たな器』に移り、『兄の体』から彼を見ていた。
彼は何も語らずに、去っていく。
首輪を着けない彼が、自分を確かに見つめた後に……自由に歩いていく。
(……生きていた。自由になったんだ、あいつは)
思った。願いが、叶ってしまったのだと。
皮肉にも、自分が囚われ、拷問され、殺され、魂だけの存在となったことによって。
志朗は、笑った。苦笑でも、涙でもなかった。それは、限りなく安堵に近い笑みだった。
(お前は……ちゃんと、自由になれたんだ……)
数えきれぬ魂が喚く中で、志朗の意識だけが、ゆっくりと、深く沈んでいく。
声も、痛みも、もうどうでもよくなった。
この魂の海は、終わりのない慟哭で満ちていた。
声の無い声。形を持たぬ悲鳴。千年の闇の底で誰かを呼び続ける亡者たちの、果てなき祈り。
「……会いたい……」
どこからともなく響いた囁きは、驚くほど幼く、痛ましく、懐かしかった。
仏田 光緑の声だった。
地獄の使いのごとき鬼畜とまで称された男が、まるで迷子の子供のように、誰かを求めて泣きじゃくっていた。
「……頼道……僕は……お前と……ずっと……」
尊敬と恐怖の対象だった父親が、声は途切れがちに震えながら、必死に縋るように誰かの名を呼んでいた。
次いで、低く熱を孕んだ声が、魂の濁流をかき分けるように響く。
聞き覚えのない声。しかし、その奥底にはどこか、照行を思わせる輪郭が滲んでいた。
おそらくは仏田家に連なる者。名も知らぬまま、この器に沈んだ、別の時代の犠牲者。
彼は、女の名を叫んでいた。
何度も。激しく。まるで呪詛のように、暴力的な執着とともに。
愛する女を叫ぶ男は、まだ、いる。さらに古い時代を思わせる男が、狂気的な目を輝かせて嗤っていた。
「有栖……! お前のもとに……オレは、オレは行く……なあ、有栖……今行くぞ……!」
魂の奥底にまで絡みつくような怨嗟と恋慕が、その声には宿っていた。誰よりも強く、誰よりも多く、彼の声は器全体に響く。
そして、さらに深い淵から別の声が浮かび上がる。
静かで痛切で、限りなく優しい声。
「……会いたいな……」
微かな溜息のように、胸の奥を焼く後悔とともに、最も古い男は言った。
その声の主は過ちを犯し、異端を愛した男。
触れてはならぬものに手を伸ばし、狂おしいほどの情念を抱いたまま、ここに堕ちてきたのだ。
「……殺してしまったお前に、また触れたいと思うのは……罪だろう……。それでも、オレは……どうしても、忘れられない……お前を……魔鏡……」
魂の器の中でさえ、最古の叫びは絶えることがなかった。
想いは時を越え、名を超えて、繰り返し繰り返し、同じ言葉へと回帰する。
――会いたい。
愛し、失い、引き裂かれ、それでもなお執着する声。それだけが、ここにはあった。
誰の名ともつかぬ愛の残滓が、重油のように沈殿し、一つの海を成していた。
その中に、志朗もいる。
けれど彼は、もう声を上げない。
(……もう、会えない。……去っていったから。……自分の足で)
そう、思った。
どれほど焦がれても、どれほど慕っても、自分の手で自由を与えてしまったあの存在に、もう二度と触れることはないのだと。
願いは叶ってしまった。
シキは、自由になった。
会いたい――けれど、会わなくていい。
志朗はそう思った。そう思えた自分自身に、微かな驚きすら覚えながら。
この器の中で、ただ一つの異端となった。
沈む誰もが声を枯らして名を叫ぶ中で、たった一つの願いを共に紡ぎ上げることで強大な力を創り出している中で……志朗だけが、沈黙を選んでいた。
願いを叶えてしまった者の沈黙。手放した愛に、二度と手を伸ばさぬと決めた者の、静かなる終焉。
沈黙は叫びの海にあって、ひときわ異様で、美しかった。
志朗は、ただそこに在った。
名を呼ばず、声を上げず。
それでも、確かに、想っていた。
声なき声で。
魂の深奥で。
――それが志朗だけの、終わりだった。
/5
静寂の中に、ひとひらの揺らぎが生まれた。
書院の奥、仏田家本邸の最奥にある居間。障子越しに差し込む薄光が、文机の縁を白々と照らしている。
淡く差し込む冬陽に、文机の漆がわずかに煌めいていた。その前に座する燈雅の肩が、ごく小さく震えた。
すぐさま襖の陰から歩み出たのは、忠義に生きる従者・男衾だった。異変を見逃す者ではない。彼の声は静かでありながら、主の内奥に寄り添うような柔らかさを湛えている。
「燈雅様。いかがなさいましたか」
声に燈雅は目を閉じ、呼吸を一拍整えた。
そして低く、確かな声音で命じた。
「……上門所長と夜須庭先生を呼べ。今すぐだ。儀式は……必ず今年の12月31日に決行する。来年はない。これは、決定事項だ」
言葉の一つ一つが、氷のような明瞭さを持って空間を切り裂いた。
男衾は目を見開いたが、忠臣の顔には感情の翳り一つなくすぐに深々と頭を下げ、気配を消すようにその場を後にする。
再び訪れた静寂の中、燈雅は自身の腹部へと手を添えた。
内奥には、仏田家千年の血が凝縮された器がある。
歴代の当主たちの魂を封じた、忌まわしくも誇るべき、魂の収蔵庫。
幾多の当主の記憶と怨嗟が沈殿し、織りなされた忌まわしき遺産。それをこの肉体に宿していた。強い声が、燈雅の中に鳴り響いている。絶対に神を蘇らせろ。願いを叶えろ。絶対だ。絶対に。そう叫び続ける声ばかりの器に、微かな異物がある。
「……不協和音がある。反抗ではないが、和を乱している」
燈雅の目がすうっと細まり、背筋にぞわりと冷気が這い上がった。
魂の潮流に逆らうように、内側で燻る火――それは、志朗の魂だった。
弟。惜しい男だった。無慈悲で抜け目なく、だが愛というものに対しては誰よりも無防備だった。
その魂が、未だ燃えている。
屈しもせず消えもせず、器の奥底で微かに息づいている。
「……お前か、志朗。困った弟だな。お前の存在のせいで、うまく力が引き出せなかったら……計画が潰れてしまうよ」
言いながらも、燈雅の口元に微かな笑みが浮かぶ。
懐かしむようでいて、どこか冷ややかな、憐憫に似た微笑。
だが、情には流されない。
もはやこの身は個としての自我ではなく、千年前の妄執が生んだ器そのものである。
神を呼び寄せる壇であり、千年の継承を成就させる執行者であり、一つの意志の集積体だった。
「千年を越えて、ようやくここまで辿り着いた。これ以上の遅延も、逸脱も許されない。……そう訴える、鬼のような当主がいるんでな。オレは従うしかないんだよ」
呟きは誰に向けられるでもなく、空へと零れた。
声には確かな決意があった。愛と血とを錯綜させながら、幾千の魂が家を繋ぎ、崩し、そしてまた再生させてきたもの。だが――。
「ふふ。もしオレが情で止まるようなことがあったら、志朗のせいにするからな。……お前に邪魔される前に、仏田家を終わらせるため、世界を終わらせよう」
それが燈雅という男が選び取った、最後の意志だった。
ふと、襖の向こうから声が掛かる。
「当主様、燈雅様。失礼致します。犬伏です。お話がございます」
住職・犬伏 頼道の声。穏やかでありながら、凛とした響きを携えた声。
この家に残っている光――のようでいて、この家を終わらせる一手を、知らず知らず作ってしまった恩人。彼自身知らないだけで、この世界で一番の災厄――。
優しくも残酷な彼を出迎えるべく、燈雅は立ち上がり、優しい笑顔を作る。
儀式の火は、既に灯っていた。
第四部 END
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→番外編03「仏田光緑の空蝕夢葬」
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