■ さわれぬ神 憂う世界 「仏田志朗の沈思黙考」 ・ 2ページ目


【5章】

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 夜の森は墨を流したように黒く沈んでいた。獣たちは息を潜め、風さえも梢を避けて歩むように、静寂は一点の波紋すら孕まぬまま張り詰めている。
 中心を月彦(つきひこ)は歩いていた。返り血を吸って濃く染まった狩衣を翻し、右手の指先には討ち果たした鬼の残滓が未だ疼くように残っている。鬼狩りの帰途だった。
 江戸の世も百年を数えようとしている。宝永2年、西暦1705年、春。泰平の世と謳われる時代。市井には町人文化が花開き、芝居小屋では歌舞伎や浄瑠璃が賑わいを見せる。職人は己の技に誇りを抱き、町娘は紅をさし、男たちは蕎麦と酒で一日を終える。陽のあるうちは、まことに華やかなる文明の香気が満ちていた。
 されど陽が落ちれば全ては反転する。闇は怨嗟と飢えを孕み、人の絶望を食らう鬼や怨霊が這い出しては人々の命を喰らった。華やかなる世の裏には、常に血と呪いが這っていた。
 その闇に抗う者たちがいた。名は仏田家。山深くに根を張る、700年の歴史を持つ異能の一族だった。呪詛と加持、密儀と封術をもって、表の政を影から支えし者たち。民はこの一族に縋ることで、夜の恐怖をかろうじて遠ざけていた。
 仏田 月彦――その名もまた、救いの名の一つ。後の世において仏田寺の系譜中、最も多くの血を流させた男と呼ばれる存在である。
 本来、仏田家は医の家であった。傷を癒し、病を診て、魂の苦悶すらも静かに看取る、救済の家だ。しかし時代が進み、鬼が蔓延る世で、癒しでは足りないと声が上がった。病をもたらす異端がいるならば斬る方が早いと、家は在り方を変えていった。
 人を傷つける者を傷つけられる前に屠る。その理を掲げて仏田家は当主に力を求めた。殲滅こそが後継の資格。斬った鬼の数こそが価値となり、強き異能を持つ者が正統とされる。
 そのような時代に月彦は生まれた。
 幼き頃より刀と呪術と医学の三道を叩き込まれ、眠ることも許されず、養成の徒に晒され続けた。推挙する派閥により肉体は鍛え抜かれ、あるいは改造され、彼は命じられるまま鬼を斬り、呪を放ち、人々を護るための存在と成っていく。
 今宵もまた、月彦は求められた通りに鬼を狩った。
 彼の足取りは微かに鈍かった。疲労が身体の深層に溜まっていた。膝を地に落とし、幾重にも身を縛る封縛の式が身体を内側から蝕むように広がる。脊髄から指先にかけて、力がするすると抜けてゆく感覚がした。
「御苦労であったな、月彦殿」
 夜気に溶け込むように、老人の声が響いた。仏田に古来伝わる術式による、言葉の刺突。かつて戦乱の世において、生け捕った敵を晒すため用いられた呪が月彦の骨肉を絡め取り焼く。
 唇を噛みしめ、月彦は嗤った。
「ジジイども。ついに本性を現したか」
 その声も、すぐに血の泡に変わる。
 森の奥より、黒装束の男たちが現れた。
 顔を隠し、神職を思わせる装束の内に、憎しみと殺意を濃く滲ませた影ども。手には短刀、鉈、槍。問答無用の死が、そこにあった。
 刃が動けぬ月彦の肩を穿った。脇腹、腿、背。次々に突き立てられる鉄の意志。骨が砕け、肉が裂け、血が噴き出す。咽喉が裂かれ、肋骨の隙間から刃が心臓へと届いた。
 無慈悲な暴力が支配する夜の森で、月彦が見開かれる。怒りや驚きもない。諦観すら孕む澄んだ眼差しは、この結末すら既に予見していたかのよう。
 刃の乱舞が止み、地に残されたのは血泥の塊だけ。仏田 月彦という男の最期は森の黒と一つになり、跡形もなく呑まれていく。
「確実に殺したな」
「これであの御方が当主だ」
 遠く、闇の奥で梟が一声、鳴いた。
 夜は何事も無かったかのように、再び深く静まっていた。

 仏田家には火種が燻っていた。後継を巡る目に見えぬ争いによって700年の魔統は、病んでいた。
 仏田 月彦の名は畏れとともに語られる。剣を執れば無敗。言葉一つで人は従い、祈れば雨さえ止む。鬼神を屠り、怨霊を封じ、外法には外法をもって対した。数々の戦歴を重ねた才気の化身。だがその才を褒める声は、年寄りたちの間には殆ど無かった。
 理由はただ一つ、月彦はあまりにも恐ろしすぎた。
 瞳は人の理から逸れた光を宿し、怒りに燃えるでも情に濡れるでもない。燃えさしの灰のように冷えた眼差しで、月彦は常に破壊と死を見つめていた。何より彼は己の信じる正しさの為ならば、たとえ肉親であろうと殺すことを厭わぬ冷徹さを持っていた。
 月彦には正反対の弟がいた。朔彦。平凡で声を荒げることもなく、日陰に咲く草花のような男である。年寄りたちにとってそれは扱いやすいという美徳だった。
「我らが老い、記憶も覚束なくなった今、当主には柔和な御方が相応しかろう。月彦殿の才は、戦場にこそ相応しい。政にあっては力が過ぎる」
 表向きの賛辞に見せかけた、明確な排斥の意志だった。
 後継を巡る暗流は膿のように密やかに重なり、老いた者たちは忌々しい会合を重ねる。
「才は月彦、だが情が無い」
「朔彦殿であれば、我らの声が届く」
 月彦は、それらの声に耳を貸さぬふりをしていた。
 ふり、である。実際には知っていた。
 不審な視線、言葉の裏に流れる陰意、弟の無垢な顔の奥に滲む誰かの企て。その全てに気づいていて、けれど彼には、それらに応じる理由が無かった。
 生まれてから今日まで求められるままに刀を振るい、生きてきた。政治や継承などどうでも良かった。むしろ斬れば終わる単純明快な世界こそ、月彦にとっての理想だ。
 仏田 月彦は血に飢えている――そう笑われても、否定すら面倒だった。
 やがて月彦は家のことに興味を失った。そして、殺された。
 別に「当主になるな」と言われれば、それも構わなかった。弟を立てろと言われれば、従っただろう。彼はただ自分の生きやすい場所を求めていたに過ぎない。妖を斬り、鬼を封じ、血とともに正義を流す、その単純で純粋な世界に身を置きたかった。
 けれど世は複雑だった。人々の思惑は気味が悪く、鬱陶しい。彼の真っ直ぐな在り方は狂気と呼ばれ、屠られた。
(何だったんだ、オレの人生は)
 肉が裂け、腸が零れ、痛みと共に崩れる体で、月彦は空を睨む。
(奪ってやると誓った人生だった。けれど結局、奪われて終わる……これが、オレの最期)
 彼を討った者たちへの憎悪は無い。哀れみも無い。瞳は凍てついたように冷たく、ただ、己自身を見つめる。
 それでも、月彦は立った。
 人の形を失っても魂が燃えている限り、彼は進む。折れた脚、痙攣する内臓、もはや動かぬ筈の体を、悔しさが突き動かしていた。
「……地に堕ちろ」
 吐き捨てた一言とともに、術が発動する。自身の血と魂、そしてかつて封じた異端たちの残滓をも喰らわせ、禁忌の術が顕現した。
 地を穿ち、無数の腕が這い出す。瞳なき顔、裂けた喉、凄絶な咆哮。かつて彼が斬った異端たちの亡霊が、魔力に呼応して蘇った。暗殺者たちは、その業火に五秒と持たなかった。
 絶叫が響いた。絶望そのものの音が森に広がる。腕が骨を砕き、舌が眼を抉り、魔の焔が言葉を焼き尽くす。地獄を血に染まった視界の奥で、月彦はただ見た。
 老い腐った蛆虫どもの巣窟をも焼こうと、彼は術を練る。だが、そこまで。
 息を吐くたび、血が口端を染めた。歯の奥には血と泥と死と、そして微かな誇り。最後に月彦は、笑った。

 ――そのとき。夜を裂くように、香のような甘やかな匂いが流れ込んできた。
 沈黙に支配された森の空気が、微かに震える。
「まあ、こんな所で血に塗れて。仏田の嫡男ともあろうお方が随分と見苦しいこと」
 視界の端。揺れた闇の中に、その輪郭は浮かび上がった。
 女だった。
 夜鷹のように妖艶で、貴族のように白く、能面めいて整った容貌。
 夜の深奥、月の光さえ届かぬ暗がりの中にあって、彼女だけがひどく明るく、不可思議に輝いていた。
 赤く艶めいた唇が血塗れの男を見下ろし、弓なりに歪む。
「素晴らしい御力。これまでの当主たちの中でも、貴方は格別。きっと最高の器に違いないわ」
 声は甘く、けれど芯に氷のような冷たさを孕んでいた。揺らぎのない佇まい、漂う気配。それは明らかにヒトのものではない。
「悪鬼か。それとも、妖か」
 月彦は嗤った。血に濡れた歯の隙間から、鉄の味が滲む。
「いいさ。来るなら殺れ。オレの毒身は、喰うにはちょうどいい」
 女は微笑んだ。まるで子供の悪戯を咎める母のように、優しく冷酷に。
「殺したりはしないわ。貴方はまだ死ぬべきではない。死なせるには惜しい器よ、仏田 月彦……その力、その才、その血脈。貴方こそ、最も当主に相応しい男」
 その言葉に、月彦の頬が微かに痙攣した。
 無言の怒気か、痛みによるものか。裂けた傷がふたたび開き、血が滲む。
「口だけは達者だな、他人事みたいに語りやがって。それほど褒めるなら当主様に相応しいオレを救ってみろ――通りすがりの悪魔め」
 瞬間、女の目がすうっと細められた。
 狂気と慈愛の奇妙な混合。地獄の母が子に微笑むかのような、異様な温もりが宿る。
「そうさせてもらうわ。わたしの願い全てを貴方に叶えてもらうためにも」
 女は膝をついた。音もなく、白磁のような身体が地に伏す。
 露わになった喉元は香を焚いたように揺らぎ、血管の輪郭が透けるほど薄い肌が夜光を帯びる。涼やかに笑んだ顔には、恐れも拒絶もない。
「どうぞ」
 たった一言。だがその言葉には、決定的な破滅が含まれていた。
 命を差し出すでも助けるでもない。ただ、喰え。月彦は直感で理解した。
 問い返す必要も無い。理性などとうに剥がれ落ちている。血に濡れた体が本能に駆られ、がっと女の胸元にのしかかり、白い喉へと食らいついた。
 肉が裂ける音。鉄の味。濃く、ぬめり、甘いものが喉へと流れ込む。
 女は叫ばなかった。両の手で月彦の頭を抱き、母のように優しく髪を撫でた。
 幼子が乳を求めるように、血を吸う男に女は、慈しみに満ちた手つきで言葉もなく撫で続ける。
「よしよし……」
 白昼夢のような夜の底。男と女は、血と欲と契約によって交わった。

 月彦の双眸が開く。そこに滲んでいたのは、獣のような紅の輝き。裂けた肉は塞がり、砕けた骨は組み直され、心臓は再び力強く脈を打つ。女の血を啜りながら、彼は確かに生まれ変わった。
 森がざわめいた。
 風の音ではない。葉擦れでも、獣の蠢きでもない。もっと深く、もっと古く、飢えに満ちた何かの喘ぎ声が森を襲う。
 女の血に誘われるように異端たちが集っていた。目も口も定かならぬ化け物どもが月彦の香に惹かれて群がったのだ。
 しかし閃光が奔り、獣の首が跳ねた。月彦が女にすり寄る異端の首を斬り落としたからだ。
 噴き出した血が月彦の頬を濡らす。そのまま斬り落としたばかりの肉に食らいつく。骨の軋む音。裂ける筋。ぬめる血が、喉奥を滑る。
 眼窩を抉り、喉を裂き、臓腑を噛み砕く。血と骨と肉と魂が混然となり、己の内部で力へと変貌してゆく。
 喰らえば喰らうほど月彦の肉体は研ぎ澄まされ、傷は消え、瞳はさらに深く黒く、冥府の闇を宿す。
 彼の腹の内で無数の声が呻く。血に濡れ、肉を頬張る。そうして狂い咲く花のように美しい男となった。

 仏田寺に、風が吹いた。
 深夜を過ぎた静寂の境内。苔むした石畳を割るようにして、ただ一つの足音がざくざくと鳴り響く。生者のものとも、死者のものともつかぬその歩みは、闇を揺らし、空気を変えた。
 それはもう、月彦ではなかった。仏田の名を冠しながら、その枠を逸脱した何かだ。鬼の血を浴び、異端を喰らい、妖の契りをその喉奥へと流し込んだ男が、仏田の門を押し開ける。
 待ち構えていたのは死を命じた老中たちと、武器を手にした下僕たち。立ち並びながら、その場の空気に凍りついていた。
「久しいな、ジジイども。オレを殺して、次は従順な弟で回す気だったか? いい身分だな」
 声には嗤いがあった。だが、冷笑の裏に潜むものを見逃す者はいない。
 誰もが月彦の双眸に宿る紅蓮の呪火を見る。
 言葉は返らなかった。ただ沈黙があった。老中たちは後退し、武器を握る者たちの膝が小さく震える。
 月彦はゆるやかに鯉口を切る。白刃が月光の無い空にあって、まるで己が発光しているかのように淡く濡れた。
 刹那、斬撃は終わっていた。
 喉を裂かれた者、胸を貫かれた者、脳天を割られた者。悲鳴は無い。痛みすらももはや届かぬ早さ。死は雨のように降り注いだ。
 血が、仏田の石廊に紅の花を咲かせる。
「これが、オレをいらないと言った結果だ」
 残された者たちは、次々に膝を折った。
 それは恐怖ではない。圧倒的な在り方による屈服だった。仏田 月彦という存在から放たれる威圧はもはや人間の範疇を超えていた。
 高貴で荒々しく、理不尽で美しい。紅く光る瞳で群れを見下ろし、声を境内全体に響き渡らせる。
「オレが当主だ!」
 命令でも宣言でもない。もはや運命のように、ただそこに在る。
「この家に生まれ、幼き日から刀を握り、呪を学び、命を削って生きてきた。誰よりもこの家に尽くしてきた。鬼を殺し、異を鎮め、名を挙げた。だが、返ってきたのは裏切りと殺意だ」
 言葉の端々には怒りがある。それ以上に、透徹した意志の輝きがあった。
「オレは許さない。だから変えてやる。血で汚れたこの家を、今度は力で治める。従え。従わぬなら、斬る!」
 誰も、言葉を返さなかった。
 反論という概念そのものがそこには存在しない。月彦の一音一音が大地に呪符のように刻まれ、空気そのものが彼にひれ伏していた。
 一人、また一人と、額を地に伏す。刃に、ではない。月彦の意思に膝を折った。


 /2

 仏田家当主の寝所、黒檀の柱に囲まれた奥の間。灯は既に尽きかけ、微かに揺れる燭火だけが時の止まったような静寂を照らしている。
 静けさの中、月彦は女の膝に頭を預けていた。
 戦は終わった。老中たちは粛清され、残る者たちは頭を垂れて忠誠を誓い、弟は隠棲を願い出て姿を消した。月彦の改革は着実に進み、仏田は新たな形を手にしつつある。
 戦を終えた肉体には、重く澱のような疲労が残っていた。
 だからこそ、彼はただ一人……自らを救った女にだけその身を預けていた。
「……お前、名前は有栖(ありす)だったな」
「ええ。今は、そう名乗ってる」
 女・有栖は月彦の髪に指を通しながら、夜に溶けるような微笑を浮かべている。
 肌は陶器のように滑らかで、瞳には人の世を超えた深遠が宿っていた。
「お前は、何者だ」
 目を閉じたまま、月彦が低く呟いた。有栖は唇を僅かに綻ばせて、言う。
「わたしは700年、この家と共に歩んできたもの」
 美しい指先が、月彦の額に触れる。その仕草は慈愛と支配の間にある、奇妙に誘惑的なものだった。
「やっぱり異端か」
「ええ、異端。仏田家が生まれた時から、わたしはここにいた。700年前から、この家には智慧を継がせねばならなかったの」
 人はやがて滅ぶ。だが人が積み上げてきた知恵は、正しく残されるべきもの。そう彼女は語る。
「当主は器でなければならない。智慧を受け継ぎ、願いを叶えるに足る、強く優れた人間であること。……貴方はその中でも最も相応しかった。強く正しく美しく、そして哀しかった」
「それがジジイどもが言ってた『求められた当主』ってやつか。ふざけてるな。そのせいで、オレたち兄弟がどれだけ虐げられてきたか」
「ふざけてるでしょう? でも貴方はその器に育てられることを、嫌ってはいなかった」
 有栖はくすりと笑い、月彦の髪を撫で続けた。
 月彦の唇には、かつてこの女の血を啜った記憶の残響がまだ仄かに残っている。
「むしろ、心地良さすら感じていた。違う?」
 燭火は殆ど灯とも呼べぬほどに小さく揺れ、影が壁を這う。
 仏田家当主の寝所、夜の帳に封じられた奥で、二人は見つめ合っていた。
「貴方は先日、正式に44代目当主となった。貴方の体の中には、歴代43人の魂がいるわ」
 有栖の声は柔らかく、それでいて鋼のように澱みのない重みを湛えている。
「彼らは皆、始祖の力を正しく受け継いだ優れた術師たち。本来であれば代々焼きつく筈だった魂たち。けれど、貴方たちが繰り返してきた愚かな権力争いのせいで、43代目は命を落としてしまった」
 月彦は、低く笑った。
「……オレの父親のことか。ああ、確かに頭は切れた人だったよ。でも肝が据わってなかった。毒を盛られて、そのままお陀仏さ」
 声音に、軽蔑も憐れみもない。ただ、乾いた事実だけが宿っていた。
「彼が弱かったんじゃない。家が弱りすぎていたのよ。器が壊れれば、中身も崩れる。彼は死ぬ前に、わたしに託したの。いずれ生まれる44代目に魂を渡せと、一時的に……わたしの器に、43人分、全てを」
「お前、親父の相方だったのか?」
「そうよ。言ったでしょう。わたしは700年ここにいるって」
 有栖は笑った。
「当主が継承より先に死ぬ、そんなこと700年で一度も無かった。歴代の魂がわたしに集まるなんて、あり得ない異常だったのよ。本来なら次の当主に直接、受け継がれる筈だった。けれどその器が、なかなか現れなかった」
 再び、有栖の手が月彦の額に添えられる。
 指先は冷たくも熱くもない。まるで世界の温度の外にあるようだった。夜の闇の中でも瞳は透き通り、見つめ返す者の奥を映し出している。
「……あまり時間が残されていなかった。魂たちは霧散寸前だった。霊として残るには力が強すぎて、器を持たねば崩れてしまう。だからわたしは、貴方に託したのよ」
 月彦は皮肉げに口元を歪めた。
「ふん。オレの身体の心配はしないのかい? そんな亡霊の詰め合わせになって、早死にでもしたらどうする」
 女はふっと笑う。
 その笑みは、血と蜜、母性と狂気が溶け合ったような、静謐にして不気味な美しさを帯びていた。
「心配してるわ。とても……心から貴方には死んでほしくない」
 声とともに有栖の顔が近づく。唇が、音もなく囁くように重なった。
「だって……貴方は、わたしの大切な儀式の一部なんだから」
「……お前の願いは、何だ」
 静かに問うた月彦の声に、有栖はすぐには答えなかった。
 彼の髪を撫でながら膝の上で眠るように身を預ける熱を、掌で確かめるようにじっと感じている。
 やがて、有栖はぽつりと呟く。
「……会いたい人がいるの」
 風も無いのに蝋燭の火が、微かに揺れた。
「その人にもう一度会うため。……わたしたちは、あの人を復活させる」
 月彦は片眉を上げ、乾いた声で問う。
「恋人か?」
 女は、否とも是とも言わなかった。ただ静かな微笑を浮かべていた。
「括りなんてどうでもよくなるほどに、愛しい人。約束したの。ずっと、一緒にいるって。……あの人に会うためには長い時と、膨大な材が必要」
 瞳が、宙を見た。
 夜に紛れ、眼差しひどく遠く、ひどく切なく、哀しみを孕んでいた。
「……700年。ようやく全てを揃えられる時が来たのよ」
 囁きは夜に沈み込むように低く、仄かに震えている。
 月彦は黙していた。問い返すこともなく、ただその声に耳を澄ませていた。まるで遠い過去から続く物語の終章を、読み上げられているかのように。
「必要なのは、三つ」
 一つ目は、時と共に自然に蓄積された魔力。
 仏田寺は霊脈の上に建ち、封じ、祈り、殺し、供養し続けてきた。700年という時を経て、この土地は既に力の沼となっている。これはもう、充分すぎるほどに満ちていた。
 二つ目は、器。
 歴代の魂を抱え、始祖の魂を保ち、耐え抜くに足る肉体。優秀で、強靭で、異能の呪圏に呑まれぬ鋼の核を持つ者。
 そして今、その条件に最も適うのが、仏田 月彦。
 三つ目は、血と肉。そして負の感情。
 死、苦しみ、怒り、絶望。人の業が淀み沈む、腐臭漂う感情の海。
「一つ目は満ちた。二つ目も貴方が叶えてくれた。あとは、三つ目……歴代当主の魂と同じ、44人の血肉と感情があれば充分かしら。それだけで、わたしはついにあの人に会える。だから、ね。……月彦、貴方は、死んでは駄目なのよ。貴方はわたしの大切な材料なのだから」
「そうして生まれる、お前の愛しい何かとは、何だ」
 月彦の声は消えかけた焚火のように、熱を秘めていた。問いというより、受け入れの前提としての確認だ。
 仰ぎ見るその視線の先、膝の上に浮かぶ女の面差しが、ほの白く闇に浮かぶ。有栖の目元に確かに熱が灯り、唇が歪んだ。
「――神よ」
 有栖は、夢見るように呟く。
 声音に迷いは一片も無い。信仰にも似た深い確信の色があった。
「わたしの愛しい人は、神。この世をまっさらにしてくれる浄化の化身。全てを赦し、無にしてくれる救済の女神……ああ、彼女に早く会いたい……」
 言葉を紡ぐほどに女の口元は綻び、頬に紅が射し、喉が微かに震える。
 陶酔していた。信仰を超えた、狂気に近い情愛だった。
 月彦は、ただその顔を見上げていた。
 膝枕を受けたまま、戦場をいくつも越えてきた男の眼差しで、女の陶然とした横顔をじっと見つめていた。
 この世に存在するありとあらゆる死を見てきた者の目に、それはひどく……可愛らしく、映った。
 理も狂気も願望も、全てがその瞳に宿っている。あまりに危うく、あまりに純粋で、あまりに破滅的に、美しい。
「……オレは、あのとき、もう死んだようなもんだ」
 月彦は、わざとらしく言った。
「お前に救われたんだからよ。……その恩返しぐらい、してやらねえとな」
 その口調には、いつものように棘と皮肉の色が滲む。だがそれは、もう半分しか演技ではなかった。
 家のために動く理由は、もう無い。生まれてからずっと仏田のために生き、戦い、殺し、耐えてきた。それは使命でも誇りでもなく、ただの義務だった。
 けれど今、月彦の胸の底で燃え始めていたのは――この女のために生きること。
 守るためでも、救うためでも、神の器になるためでもない。ただ――有栖の傍に居れば、笑える気がした。
 それだけの理由で、命を懸けても構わないと思ってしまった。
 だから月彦は目を閉じて、そっと笑った。それは、誰にも見せることのない笑み。戦士としてではなく、一人の男としての、初めての微笑だった。

 灯火は今にも消え入りそうだった。油は尽きかけ、香の煙も細く薄く室の隅で揺れていた。
 それでも不思議と部屋の温度は下がらない。言葉だけが確かな熱を残しているからだ。
 月彦がぽつりと呟く。
「……三つ目の絶望とやらは、44体で足りるのか?」
 独り言のようでいて、どこかに確かな響きを孕んだ問い。
 有栖は僅かに目を伏せ頷いた。揺るぎない肯定だ。既に計算し尽くされ、構築された図式。もはや崩れることのない完成形、彼女はそう信じていた。
 けれど月彦の次の言葉が、一石を投じる。
「質の良い絶望が44もあれば充分、ね。でもさ、質の悪い魂だって数を集めりゃ何か変わるんじゃないか?」
 語調には明らかに別の色が混じる。血のように濃く、錆びた鉄のような異臭を孕んでいた。
 有栖の瞳が、初めて揺らいだ。月彦は構わず、続ける。
「膨大な血肉と負の感情が必要と言ったな? 死と苦しみ、怒りと呪い。……主宰が44体もいるんだ、立派な当主たちの魂がな。じゃあ彼らに最高の供物を用意してやらなきゃ失礼じゃないのか。お前さん、悪魔のくせして高潔だな」
 有栖は沈黙した。
「偉大なる始祖様たちに捧げる供物が、44なんて足りない。百、五百、千。カスでもクズでも、徳も詫びも持たぬ人間どもでも、まとめて詰め込んでやれば……神様、さぞかし喜ぶんじゃないか?」
 呟いた声に、嘲りは無い。
「常に腹を空かせてるオレとしては、飯は多い方が嬉しいんだよ。一椀の粥が上等でも、千杯の飯がある方が、幸せってやつさ」
 それは冗談のようにも聞こえる。
 けれど、冗談の奥にこそ、本質が潜むときがある。
 有栖の瞳が、問うように揺れた。
「……それはつまり、今から千体の血肉を求めるということになるわ。そんな大がかりなこと、できるかしら」
 月彦は、笑みを崩さない。
 むしろその奥にある何かが、着実に膨張していた。
「できるさ。オレならね」
 疑いも誇示も無い。事実の声だ。月彦という器が果てなき貪欲の淵に立っているという、紛れもない事実の音だった。

 ――宝永4年、冬。
 その朝、地は鳴いた。海の底から遠く吠えるような声が響き、土が軋み、波が裂けた。
 南海道、東海道、畿内。山は崩れ、家屋は潰れ、人は濁流に呑まれた。幾十の国で神棚が倒れ、鳥居が砕け、社殿は地に吸い込まれていった。
 この国の暦が始まって以来、最も広く、最も深く、大地が揺れた日。後に「宝永地震」と呼ばれるものが発生。それはほんの序章にすぎなかった。
 数日後。富士が、噴いた。
 雪を頂いていた霊峰が咆哮し、地の底から炎を吐き出した。黒煙は陽を覆い、灰は空を満たし、濁った雨が冷えた大地に熱を降らせた。
 山の神が怒ったと人々は言った。天の怒りだと僧は説き、巫女は地の龍が目を覚ましたと告げた。
 けれど、真実は違っていた。
 天の気まぐれでも星の因果でもない。二人の意思によって起こされた、明確な魔の行為であった。
 起点は仏田寺。誰も立ち入らせないように封じられた寺の心臓部にて。
 第44代目当主の仏田 月彦と、傍らに寄り添う女・有栖は、地の気脈を逆流させ、龍脈を強引に開き、43代分の魂を宿す当主の肉体が呪の核にして、地の律を捩じ曲げる魔術を行使した。
 700年に渡る継承の果て、一つの大魔術が完成したのだ。
 月彦の器は、700年分の魂によく馴染んでいた。一人の人間では到底不可能な大魔術でも、44体分の魔力にかかれば山を裂き、海を割き、大地の血を天に噴き上げさせるものとなった。
 富士の裾野には灰が降り積もり、空は沈黙し、陽は射さなかった。数日のうちに、数百里の空が昼でありながら夜となった。牛も馬も声を失い、魚は海の底で死んだ。村は沈黙し、国は声を失った。
 土が波打ち、町が浮かび、寺が沈む。家々は傾き、人は地面を掴んだまま流されていく。京でも大坂でも、そして江戸でも、地の底からの呻きは止むことがない。
 数百の村が崩壊し、堤は裂け、井戸は毒を湛え、死者は水面に浮かぶ。昼なお影の落ちぬ日々が続き、餓えが始まり、疫が広がる。冷気と湿気と灰が肺を侵し、人々は寝台の上で死を迎えた。
 善人も悪人も、分け隔てなく、世界は絶望に満たされていった。
「異端の神は、負の感情を好む。絶望に満たされた土地は、神が降臨する舞台に相応しい。……とは言ったけど、まさかここまでするなんて。貴方は何者?」
 微笑んでいた有栖ですら、唖然とする。
 問われた月彦は、その問いには応えず、仏田寺の門を開いた。
 仏田寺には人が溢れていた。
 田は耕せず、水は病み、獣は絶え、子を産む者は稀となった。誰もが生き延びることに全てを費やし、赤子の泣き声さえ、この世から消えかけていた。
「助けてくれ」「救ってくれ」「食べ物を」「病を祓って」「子を蘇らせてほしい」
 人々は震え、這い、崩れ落ちながら山を登ってきた。
 焼けた家。消えた畑。葬る暇もない家族の骸を背負い、仏の名を唱えて。
 月彦は救いの場所として、誰一人拒むことはなかった。施しを与え、椀を差し出し、手を取り、名を呼んだ。
 穏やかに常に微笑を絶やさず、月彦は人の声に応じ続ける。
 人々は泣いた。本当に救いはあったのだと、信じた。仏がいたのだと、謳った。
 彼らは忠実な信者となり……供物の候補となっていった。
 救済という名を借りた、静かなる収穫。徹底され、計算され、誰も気づかぬうちに行われていく儀式。その全てを覆っていたのは、灰色の空と、仏の名を冠した、ただの寺の屋根であった。

 それから5年が経った。
 宝永の大地震と富士の噴火。あの日、全てが揺れ、焼かれ、呑まれ、灰に埋もれた。そして5年が経ってもなお、人々の暮らしは地を這っていた。
 田畑は戻らず、井戸は濁り、天はまだ陰る。夏は短く、冬は骨まで冷え、風には未だ火山灰の粒子が混ざっていた。生まれる命よりも、失われる命の方が常に多かった。
 だが、仏田寺だけは奇妙な潤いを手に入れていた。
 日ごとに増える巡礼者。誰かの口伝いに「救いの寺」と囁かれ、道なき山を登る者たちは後を絶たなかった。
 壊れた町々では盗賊や野犬に怯える日々が続く中、仏田寺だけは平穏だった。病人が清められ、赤子が泣き、飯が炊かれ、焚火が絶えなかった。そうして5年の間に、寺は豊かになった。
 米も布も道具も、人の手も足も自然と集まっていった。
 金銀にさして価値は無かった。価値があったのは、従順さ。命を差し出す覚悟と、名を呼ばれる喜びだった。
 仏田家当主の月彦とその妻・有栖は、人々を導いた。
 笑顔で迎え、手を差し伸べ、祝詞を唱え、祈りを授けた。子を抱き、老を労り、涙を拭った。
 二人は金が欲しかったのではない。支配や勢力に興味があったのでもない。
 彼らは、信者を育てていた。
 信じる者は救われる。だがその救いが、どのような意味を持つのかを知る者は、誰もいなかった。
 月彦にとって、彼らは準備だった。
 有栖にとって、彼らは贄だった。
 次なる儀式、有栖が求める異端の神の降臨、その日に向けた材料集めに励んでいたにすぎない。
 今はまだ刈らない。今はまだ育てる時期。畏れを、敬いを、依存を。祈りの言葉の中に、魂の輪郭が澄んでいくのを見届けながら、二人は収穫の熟成を待っていた。
 5年のうちに、仏田寺は一つの国のようになった。
 跪き、礼を尽くし、指示を仰ぐ者たち。その中には僧、医師、元武士、子を失った女もいた。
 誰もが何かを求めて来た。そして全てを置いて帰らなかった。
 全てが、月彦と有栖の掌の中にある。愛され、崇められ、信じられていた。
 微笑の下にあったのは、ただ一つの確信。
 神は、降りる。
 それが正義と祝福であり、報いであると。そしてその日には、この寺に集った者全てが美しき供物となるのだと、二人の中で決まっていた。
 悲しみ。苦しみ。恐怖。絶望。人間にしか生まれない濁った光。二人はそれを濾過し、浄化し、供物として瓶に詰めていった。
 降ろすべき神を、より高位へ導くために。

 一つの産声が上がった。
 産床に身を預け、有栖は腕に赤子を抱いている。
 生まれたばかりのその娘は、異様なほど美しかった。
 灰の大地に咲いた、一輪の無垢。生まれることは罪であり、命は重荷とされる時代だといのに、この誕生だけは違っていた。
 月彦は、有栖と自分との娘を見下ろす。かつて誰にも向けたことのない柔らかな眼差しを注ぐ。
 慈しみに満ちた、神仏の前にひれ伏すかのような、畏れにも似た感情のままで。
「……我らの娘を、最も高貴な生け贄としよう」
「ええ。貴方とわたしの子を、一番の供物としてあの人に捧げる。きっと喜んでくれるに違いないわ」
 有栖も口元に笑みを湛えながら、その頬を赤子に寄せた。額に口づけを落とす。
 700年の年月は満ちた。最高の当主の器が存在している。世の中は絶望に包まれ、信者として従う無数の血肉が用意された。
「有象無象の血肉の中に、とても可愛らしい血肉があったら。きっと彼女は、おかしくって……笑ってくれるわ」
「大事に育てよう。信者も、この子も。お前が求める神が来るその日まで」
 娘は、瑠璃と名付けられた。玉のごとく育てられた。
 月彦は、彼女をよく抱いた。
 小さな足を撫で、櫛を通し、笑わせ、声を掛けた。ただの父として。あるいは最高の供物を、愛情と誇りをもって育てる者として。
 母の為に良い生け贄になれよと口には出さずとも、その仕草の全てに、献身と育成が交差する奇妙な優しさが滲んでいた。

 有栖の願いである神を喚ぶため、月彦は日々を削っていた。儀式の下準備。呪の精製。血の選定。その日々の傍らに、有栖と瑠璃という二つの命があった。
 有栖は瑠璃の髪を編んだ。指先で糸を撚るように、幼い髪を結い、手遊びを教える姿には、かつて700年の呪を背負った女の影など微塵もなかった。
 炎や屍や怨霊よりもなお多くの死を知る女が、娘の頬にそっと指を添え、小さく笑う。
 その姿は柔らかすぎて、あまりに優しすぎて、月彦の視線を否応なく惹きつけた。
 気がつけば、彼は日々その姿を見つめていた。
 声を掛け、言葉を返し、笑い合い、育児の些細な苦労を分け合ううちに、母と娘の風景がゆっくりと彼の目に、魂に、焼きついていった。
 それが愛なのか、確信は無い。だが否定することに意味も無い。
 瑠璃は神に捧げる器として育っていき、世界はゆっくりと死へと傾いていく。
 その歩みに月彦と有栖は、迷うことなく肩を並べていた。

 瑠璃が6歳になった。春霞のように、ふわりと笑うようになった。
 細い指で花を摘み、仏田寺の回廊を音もなく駆け抜ける。誰がどう見ても、ただの子供だった。
 陽光に透ける髪。鳥の囀りにそっと頷く仕草。蝶に手を伸ばす無垢な眼差し。その身には、神に捧げるべき純粋の形が既に成されていた。
 ある春の夕暮れ。月彦は庭に立っていた。沈みゆく陽が白梅の枝に影を落とし、風に乗った花弁が、ひとひら、ふたひらと指先を掠めてゆく。
 母娘の姿があった。有栖が瑠璃の肩に手を添え、しゃがみ込んで頬に口づけを落としていた。
 笑っていた。あの女が。700年の憎悪の器でもなく、ただの一人の母親として、娘に笑いかけていた。
 その瞬間、月彦の世界が遠のいた。
 外の騒ぎや怒声、空を灰で埋める風や呪いに染まった記憶も、全てが淡い霞の向こうに押しやられていく。残ったのは木漏れ日と、母子の輪郭だけ。
 狂気と隣り合いながら過ごした6年。有栖に救われたという傲慢な解釈から始めた、血と呪の行進。それでいいと、自らを納得させていた。ただ前へ進み、ただ地獄を創ればいい。そんな単純な狂気の方程式を信じていた。
 だというのに、月彦は気づいてしまった。
 ――ただ、この女たちだけを、愛していたいのだと。
 瑠璃の髪を結う有栖の手。それは、やがて神の刃を研ぎ澄ます手であることを誰よりも知っていながら。
 その手の動きに月彦は目を奪われ、言葉を失う。
 救われたから救いたいのではない。業の果てに共に堕ちていく者を、ただただ愛してしまったのだ。
 このままではいけない、と頭のどこかが囁いていた。だがその声は、もう彼の中で届かなくなっていた。


 /3

 仏田寺の境内に、誰のものとも知れぬ足音が忍び寄っていた。
 祈りのためでもなく、供物を捧げるためでもない。ただ真っ直ぐに、まるでこの世の終わりに向かう者の歩みだった。
 犬伏 拠信(よりのぶ)の眼差しは、火の明かりにも星の瞬きにも向かず、ひたすらに地を見ていた。
 地を覆う涙と怨嗟と、踏みしめられ潰えた祈りを、足裏に刻むようにして歩んでいた。
 かつて彼も、救いを求めてこの門を潜った者だった。飢えた母に代わって兄を背負い、夜道を彷徨い、仏田の扉を叩いた。
 与えられた一椀の粥の味はいまも舌に残る。あの日の当主は、柔和に微笑んでいた。
 その微笑みが無辜の血と呪詛で形作られていたことを知ったのは、ずっと後のことだった。
 拠信の腰には、刀が帯びられていた。それは僧としてあるまじき姿であったが、もはやこの寺においては、経よりも刃の方が通じる場所となっている。
 祈りではなく、斬撃によってこじ開けねばならぬ扉があるからだ。
「赦しを請うためにではない。封ずるために、進むのだ」
 崩れた納骨堂の脇を抜け、血に染められた護符の束を踏みしめ、祭壇と呼ばれた石塊を越えて、犬伏拠信は本殿の奥へと歩を進めた。
 ただ終わらせるための意思で、彼は突き進む。

 犬伏 拠信は、先頭に立っていた。
 背後には、怯えた子を抱きしめる母の影、怒りに奥歯を噛み締める者。誰一人として声を発せず、それでもこの夜の意味を深く理解していた。
 この寺が、供物を育てていたこと。
 神と呼ばれる何かを降ろすために、人々が数として集められていたこと。
 そして、その頂点に、瑠璃という名の子が据えられていたということを。
 ――月彦と有栖。傍らには、愛娘・瑠璃。彼らは仏田寺を統べる存在として、5年以上の歳月を生き延びていた。
 大地震と富士の噴火、あの天災を引き起こした張本人でありながら、彼らは仏の仮面を被ってなお君臨している。
 人々は始め、彼らを信じた。「当主様は神の使い」「仏田寺にいれば救われる」と。だが、微細な亀裂は確かに走りはじめていた。
 ある日、若い娘が消えた。幼子の遺品が境内で発見された。長く寺に仕えていた者が音もなく姿を絶った。誰かが喰われている。魂を吸われている。
 あの寺は祀るためではなく、捧げるためにある。
 そう拠信は確信した。信じていた当主の手元に、地を揺るがす大魔術の禁書を見つけてしまったとき。その妻が女の血を啜っている姿を見たとき。娘が、邪神の刻印をその身に刻まれていたのを見てしまったとき――。
 自分たちは祈り手ではなく、喰われる側だったのだと。
 その夜、暴徒は火をもって仏田寺を囲んだ。供物たちの反逆だった。

 一つの叫びが、夜を裂いた。
「このままではいけない……!」
 拠信の声は、雷鳴のように空気を打ち震わせた。山々の静寂を破り、地を揺らし、民衆の胸奥に眠っていた怒りの核を目覚めさせる。覚醒の号砲だった。
「立ち上がれ、諸君! 祈りを喰らい、命を弄び、我らの子を生け贄とする鬼どもを……今こそ、我らが討ち滅ぼすのだ!」
 その言葉は刃よりも鋭く、炎よりも熱かった。
 拠信の叫びが火種となり、民の顔が次々と怒りに染まる。歓声が咆哮へと変わり、石が放られ、松明が掲げられる。
 怒りは具現の形を得た。群衆は、もはや何者をも恐れなかった。
 戸は打ち破られた。内部に守る者の姿はなく、晒された祭壇だけが彼らを迎えていた。
 台座の上には、白い布に包まれた少女がいた。
 名は瑠璃。まだ6歳の幼子。月彦の愛、有栖の希望。そして、世界を喰らうべく育てられた神の器。あまりに無垢な存在。その純白に、人々は容赦なく怒りを叩きつけた。
「いたぞ!」「器だ!」「この子が世界を喰うんだ!」
 手が伸び、髪が掴まれた。白布が裂かれ、細い肢体が地面に引きずり落とされる。膝が砕け、唇が震え、それでも少女は声を上げなかった。
 一人が叫び、飛びかかる。布が破られ、皮膚が剥かれる。
「供物だ」「罪だ」「邪神だ」「殺せ」
 罵声は呪詛に変わり、憎悪が彼女の身体を刻んでいく。
 やがて台へと担ぎ上げられ、縄がそのか細い手足を締め上げた。
 誰かが、鉄槌を掲げた。
「神を――処す!」
 瞬間、熱狂は臨界に達した。群衆が沸き立ち、憎しみが咆哮となる。
 鉄槌が振り下ろされた。
 音は、湿り気を帯びた鈍い響きだった。
 誰も泣かなかった。誰も悼まなかった。誰も、救おうとはしなかった。
 誰かが眼球を抉り、臍に釘を打ち込み、頬を裂いて笑顔を作らせた。祭壇は血に濡れ、床石を這う赤が、経文の文字を溺れさせる。それは信仰の終焉であり、神の否定そのものであった。
 そしてついに、首が落とされた。
 鮮血が空に舞い、零れた首の口元には、微かな笑みの痕がまだ残っていた。
 沈黙が降りた。熱狂の果ての、凍てつく静寂。それでも誰も、振り返らなかった。誰も止めず、誰も赦さず、彼らは信じていた。
 これが正義だと。神がいない世界において、人が神を殺さねばならなかったのだと。
 拠信は、その全てを見ていた。
 誰よりも深く祈ってきた男の眼に、もはや祈りは宿っていなかった。ただ灰と血にまみれた小さな頭部を、じっと見下ろしていた。
 やがて、彼は唇を動かした。
「これが、救いだ」
 その呟きを、誰も聞かなかった。鐘は鳴らず、花は供えられず、夜だけが続いていた。

「……瑠璃……?」
 その声は、血に濡れた祭壇の奥底から湧き出るように響いた。
 風も止まった山の闇の中で、ひときわ細く、それでいて脳髄を貫くような冷たさを帯びている。
 群衆がその声の方を向いたとき、息が止まった。朱の帳がゆっくりと揺れ、そこから黒い影が滲むように現れた。
 仏田 月彦。神を招く器の父。仏田寺を統べてきた、血と信仰の主。
 手には抜き放たれた長刀。眼には焦点を失った深淵。もはや怒りも悲しみも通り越し、獣のように感情の輪郭すら剥落した絶望だけが揺れていた。
 彼は一歩踏み出した。刃の煌めきが夜気を裂き、歩みは何かを喪った者の沈黙そのものだった。
 人々の誰かが叫んだ。
「当主だ!」「まだ生きてるぞ!」「今度はこいつを殺せ!」
 その声が引き金となった。
 瞬間、月彦は吠えた。言葉ではなく、悲鳴でも怒号でもない。愛を奪われた生物の咆哮。地の底から沸き上がる、純然たる断末魔の叫びだった。
 長刀が振るわれた。首が飛び、血が噴き出し、声が途絶えた。肩を裂かれた男がのけぞり、次いで脇腹を貫かれた女が悲鳴を上げる間もなく倒れた。
 月彦の顔は、もはや人間ではなかった。父としての顔も、当主としての顔も、神の器を育てし者の仮面も既に砕け、奪われた者の本能だけがそこにあった。
 群衆は悲鳴とともに逃げ出した。だが遅い。月彦は舞うように斬った。
 肋骨が音を立てて砕け、腹が裂け、温かな臓腑が泥の上に滑り落ちる。喉が横に開かれ、血飛沫が夜の霧となり、少年の顔面が削ぎ落とされたその瞬間、眼球が草に跳ねて転がった。
 刃は儀式のように踊る。斬り、裂き、貫き、刻む。供養ではなく呪詛。滅びの舞であった。
 やがて祭壇を囲む地に数十の屍が転がる。月彦はその中で膝をついた。地面に落ちた、瑠璃の小さな手を掬うように抱いた。
 そのときだった。月彦の身体が、ぴたりと止まった。
 刃を握る腕が痙攣し、視界が二重に揺れる。耳鳴りが全身を締めつける。
「なに……を……」
 聞こえたのは、自身の声ではなかった。否、内なる誰かの声だった。
「やめろ」「ここは、祈りの場」「お前は、あまりにも血を浴びすぎた」「もはや、赦されない」
 器の奥深くに潜む魂たち。歴代の当主たち。かつて人々を癒し、祓い、守ってきた者たちの霊が、月彦の中で断罪の声を上げ始めたのだった。
「うるさい……黙れ……オレは……有栖の願いを、叶えるために……!」
 月彦は喉を裂くように叫ぶ。だが、その声に呼応するように、内臓が焼けつく。
 視界が崩れ、手から刃が滑り落ちた。血の涙が、頬を伝う。
 拠信が静かに歩み寄る。刃を持たず、経巻も携えず。決意と鎮魂の意志だけを歩みに乗せていた。
「異端に堕ち、人をやめた悪しき当主よ。我が祈りの前に平伏せ」
「黙れ坊主ッ! 奇妙な歌など唄いやがって……ッ!」
 空気の匂いが変わった。血の匂いがまた一つ増えた。
 それは月彦の殺した者たちの血ではない――有栖の血だった。
 振り返った視界の先で、彼女は地に引き倒されている。袖は裂かれ、髪は泥に塗れ、身体は群衆の怒りの焚き木となっていた。
「この女が神を呼んだ!」「こいつが子を攫った!」「悪魔だ! 呪いの根だ!」
 鉄の鈎が肩を貫き、火箸が腹を焼いた。
 爪が剥がされ、まぶたが裂かれ、雪のような肌は血と泥と灰に染まっていく。
 月彦は呪縛によって動けない。瞼を閉じることすら許されず、愛した女がバラバラにされていく様を、ただ目を見開いたまま見ていた。
「……やめろ……やめろォッ……!」
 喉から漏れたその声は、懇願でも怒号でもない。
 殺された仔を見て発狂する獣の、原始の悲鳴だった。
「やめろォオオッッ! やめろォ……ッ、あ゛あああああ!」
 有栖はまだ、息があった。片目だけを月彦に向け、砕けた唇で、かすかに笑った。
 その笑みを最後に、刃が喉を裂いた。
 肉が千切れる音。血の雨。
 瞬間、月彦の心臓が内側から爆ぜた。歴代の魂たちは動こうとする筋肉を押さえつける。それでも月彦の怒声は止まなかった。
 歯が砕け、眼が紅く染まり、声帯が裂けてもなお、彼は吼え続けた。
 祭壇の柱に縛りつけられ、刃を突きつけられ、顔面に焼き鏝を押し当てられてもなお、喉の奥で啼き続ける。
「殺してやる……絶対に……お前らを……全員……世界ごと……全て……神を降ろして……この世を……消し去ってやるッッ!!」
 刃が突き刺さる。心臓。首筋の動脈。
「いつか、絶対! 絶対に! 絶対にぃ……! あいつの願いを、叶えてやるッッッ!! 待ってろ、有栖! どこまでも、会いに行ってやるからなァ!!」
 丹念に残酷に抉られるまで、呪詛の絶叫は止まらなかった。

 騒乱は、終わった。
 かつて神の座と称された祭壇は砕け、柱は黒く焦げ、崩れた梁の下で灰は舞っていた。
 呪術と祈祷、恐れと信仰の残滓が、風に溶け、土へと帰ってゆく。
 その中心で犬伏拠信はただ、座していた。
 瞼を閉じ、香を焚き、亡き者たちの名を唱える。生け贄とされた子ら、信仰に呑まれ消えた者たち、命を歪められた無数の魂。そして、仏田月彦と有栖、瑠璃。彼らもまた土に還れと、経を繰り声を捧げた。
 祈りは三日三晩続いた。香煙を絶やさず、経の一音たりとも漏らさず、沈黙の中で口を濯ぎ、魂の罪を呑んだ。
 血で穢れた地を鎮めるために。破壊された神域を祓うために、それは懺悔ではなく鎮魂であり、贖いだった。
 邪神を招く術式の残骸、呪を刻んだ禁書は、封じられた。焚かれも、破かれもせず、忘却ではなく記憶として、地下深くに沈められた。
 それらは決して触れてはならぬものとして、封印の空間に隔離された。光も音も届かず、時さえも閉ざされる。
 封印の文様は岩盤に刻まれ、六方を鎮護する鏡が据えられた。
 鍵は血と誓言によって施され、ただ一系、犬伏の血を引く者にのみ触れることを許された。
 ――この先にあるものは、人を神に変え、神を喰らう。ゆえに血の鎖をもって封じた。
 仏田の血には開かず、永遠に触れられることなきよう、祈りと呪詛を重ねて蓋をした。
 決して仏田の血筋には開かない呪いをかけ、犬伏の血筋にしか触れられぬよう祈りを込める。封印は永き眠りについた。
 それから幾日か後、拠信はひっそりと暮らしていた一人の男を訪ねた。
 仏田 朔彦。月彦の実弟。かつて当主継承を遠ざけられ、寺の政からも遠く退いていた沈黙の人。
 彼は言葉を発さず、ただ目を伏せたまま、拠信の差し出す当主の印を受け取った。その仕草に拒絶も驕りもなく、ただ冷たく澄んだ水面のような静けさだけがあった。
 こうして、仏田家は第45代当主を迎えた。
 月彦という悪しき当主の名は系譜から除かれることこそなかったが、口にされることはなくなった。
 寺の存続には議論もあった。だが、仏田家の力は既にあまりに肥大していた。
 拠信がどれほど真実を語ろうと、人々は耳を貸さなかった。あの大震災と富士の噴火が人災であったこと、大量虐殺が神降ろしの儀式であったこと、そんな荒唐無稽な話に救いを求める者たちは耳を閉ざした。
 むしろ、今なお寺の門を叩く者は絶えなかった。祈りの場を失った人々にとって、仏田寺はなお、拠りどころだった。
 新たな当主・朔彦は語った。「この寺が築いたものを、今度こそ人のために使う」と。
 拠信を正式に住職として迎え入れ、信仰と社会の狭間に立つ道を選んだ。語ることよりも、黙して成すことを選んだのだった。
 やがて寺の門は再び開かれた。供物の帳面は廃され、中央の堂には花が供えられた。誰もが等しく迎え入れられる場となり、供えるものは命ではなく、祈りそのものとなった。
 時が、静かに流れた。
 人々は再び、仏田寺に祈りを捧げるようになった。
 惨劇を知る者たちは語らなかった。けれども時に、子や孫にこう囁いた。
 ――かつてこの寺には、神を呼ぼうとした者がいた。
 ――だが今、この寺には、人を守ろうとする者がいるのだと。
 伝承は伝説となり、伝説は静かな記憶となっていった。誰かの名は歴史から消え、誰かの行いは祈りの形に変わった。
 それでも、拠信の祈りだけは絶えることなく灯り続けた。
 寺の屋根には再び瓦が葺かれ、秋の風が鈴の音を運ぶ頃。仏田寺はようやく本来の姿――全てを受け入れる、祈りの場へと戻りつつあった。


 /4

 午後の仏田寺、堂内は静謐に包まれていた。香の煙が天井へと昇り、空間を淡く染める。
 第45代仏田家当主。かの月彦の弟にして、継承者・朔彦は遅い夕餉に臨んでいた。
 痩せた体躯に墨のような瞳を湛えた男は言葉少なく、陰影に沈むような佇まいをしていた。日々の事務と鎮護に追われ、帰寺の時刻も夜半にずれ込むことが常となっていた。
 その夜もまた、月が昇りきった頃、控えの間より一人の女が現れた。年若く、白衣を纏い、頬に無垢な笑みを浮かべた女中だった。
「当主様。今宵は、特別にお疲れのお身体のため、滋養のつくお料理をお作りいたしました」
 運ばれてきたのは、香辛料の薫り高い見事な肉料理。湯気が立ちのぼり、鼻腔をくすぐる芳香が普段無欲な男の胃を刺激した。
 珍しく箸が伸び、一口、二口と運ばれる。
 その瞬間、身体が微かに震えた。
 喉が焼けるように熱を帯び、舌先が痺れ、胸中に苦い波がこみ上げる。箸が落ち、椀が倒れ、汁が畳に染みた。
 咳が止まらない。血は出なかった。何かが身体の奥で反転する。脳髄がざらつき、背骨が冷え、視界が滲み、歪んだ。
 ――数刻後、部屋は凍てつくように静まり返っていた。
 窓から吹き込む風に燭台の火が揺れ、畳を照らす影が震える。敷布団の上、苦悶の末に倒れていた筈の男が身を起こした。
 眼に宿るのは、もはや人のものではない。
 瞳孔は細く、紅を帯び、呼吸が整うにつれ、口元に笑みが浮かべる。
 慈しみの面に覆われた狂気。神と人との境界を、いともたやすく踏み越える者の微笑。かつて月彦が浮かべていたものと寸分違わぬ微笑みだった。
「なるほどなぁ」
 誰に向けるでもなく、男は呟いた。その声音に、朔彦の影はなかった。
 部屋の隅に、一人の女が立っていた。
 白衣の下の肉体は若く、声も顔も違っていたが、その眼だけは有栖そのものだった。
 幾人もの器を渡り歩き、幾世紀を生き延びてきた魔の女。
 あの夜、炎に焼かれる直前、隣に倒れた少女の眼を通じて逃れた者。今そこに立つのは、その器の最も新しい有栖だった。
 男が顔を上げ、その眼が女を捉えた刹那、空気が旧き誓いを思い出したように微かに震えた。
「……有栖、なのか」
 その口が紡いだのは、確かに月彦の声。
 有栖は、ゆっくりと頷く。
「ええ。焼かれる瞬間、すぐ側にいた者に滑り込んだの。女の体は脆いけれど、器には慣れているわ」
 朔彦――いや月彦は立ち上がった。動作は異様なほど滑らかで、かつて人々を畏怖させた威厳がぬめりを帯びた影のように背後へと滲み出る。
「……会いたかった」
 声は低く、深く、ひどく遠い。二人の距離がゆっくりと縮まっていく。永劫の別離を経た恋人たちが、再び巡り合う瞬間のように。
「地獄に堕ちた後も、ずっとお前に会いたかった。想い続けていた。こうしてまた会えて……本当に、嬉しい」
 男の腕が、有栖の細い肩を抱く。指先には微かなぬくもりと、濃密な契約の気配が滲んでいた。
 優しさの名を借りた血の呪い。そんなものが触れあいの奥に確かにあった。
「わたしも、嬉しいわ」
 女は囁いた。
「月彦様、貴方の魂がこれほど強靱だったこと、それが何よりも誇らしい。貴方に紐づけられた彼らの魂もきっと呼び寄せられる筈。……今から43体の降霊を執り行います」
「……可能なのか?」
「ええ。だから少し時間が掛かったの。遠くの村をまるごと喰らって、力を蓄えていたのよ」
「悪魔め……まったく、お前は何も変わらないな」
 呆れと皮肉を含みながらも、男の腕は離れなかった。
 懐かしく、狂おしく、ただ有栖を抱き続ける。胸にあるのは、償いでもなく希望でもない。血に濡れた、執着の愛だった。
 有栖の声が密かに、けれど緊張を孕んで告げられた。
「この700年、わたしも試したことのない術式なの。そもそも魂と器には相性がある。弟様の身体が貴方たちを拒むかもしれない。意識が途切れることもある。……次に移るとき、出てこられるのが貴方とは限らない」
「つまり、これが最後の再会かもしれない、ということか?」
「貴方の意思が弱ければ、そうなるわ」
「……オレが、負けると思うのか?」
「いいえ」
 しばしの沈黙ののち、月彦は目を細めた。
「しばらくは大人しくしていよう。……だが、いずれまた良き器に巡り合ったとき、オレは目を覚ます。お前が傍にいてくれるのなら、それで充分だ」
 有栖の唇が綻ぶ。
「ええ。必ず。貴方を甦らせてみせる。たとえ千度でも」
 影と影が、夜に溶けていった。
 そこにあったのは、光でも祈りでもない。呪われた契りと、果てのない欲望の系譜が息づいている。
 部屋の灯りは既に落ちていた。月もなく、風もない。仏田寺の古びた建材が、軋むように呻いている。
 二人は向かい合っていた。顔も声もかつての月彦と有栖ではない。だがその器に宿る意思は、あの夜を生き延びた、罪を重ねた者たちであった。
「……また始めよう」
 男の声が、部屋の闇を震わせた。
「一からだ。たとえまた700年かかろうとも、今度こそお前の願いを叶えてみせる。いや……今度は、オレの願いとしても叶えてみせよう」
 有栖が瞬きをして、ゆるく首を傾けた。
「絶対に。絶対に。お前の願いを叶える。誓う。……何百年経とうとも、何人の魂を追いやろうとも」
「あら。いつの間に貴方の願いになったの?」
「お前が愛おしいあまりにな。……この世界をまるごと消し去る浄化の女神。お前が求めたあの神を、今度こそ、我らで蘇らせる。あの場で、そう叫んでしまったからな……約束するよ」
 女は、愉悦に染まった微笑を浮かべた。
「ふふ……そんな心強い味方がいるのなら、今回は半分の歳月で済むわ。350年。――いいえ、300年もあれば、また整えられるでしょうね」
 声音に情は無い。それはもはや誓約ですらない。予定表に記された一行のような、冷徹な運命の進行表だった。
 男の指が、女の顎に触れる。感触は他者の肌。他者の熱。だが唇が重なるとき、そこにいたのは他者ではなかった。
 血を浴び、肉を喰らい、神を呼んだ記憶。全てが、未だ終わっていない。
 口づけの余韻を残したまま、男が囁く。
「……また会おう」
 女は頷いた。
「必ず」
 それは予告だった。最強の魂を持った当主が宣言する。これから未来、何人の当主を喰らおうとも、絶対にこの声は途切れさせないという呪い。誰にも止めることのできない、終わりなき再会の輪舞を始める。
 仏田寺の奥深く、再び風が吹く。沈黙していた筈のものが、息を吹き返した。


 /5

 仏田寺の最奥。当主の間は、畳の青と墨の古香に満ちていた。
 暮れなずむ障子の向こう、庭の影は墨を流したように沈み、静寂の中に二つの影が静かに対峙していた。
 一人は仏田 光緑。若く、あまりに静謐な面差しの当主。眼差しはまだ少年のあどけなさを残しながら、どこか人の世から遠く隔たっていた。
 もう一人は、森田 胡蝶。先代・仏田 和光に仕えた秘書であり、長く影に徹していた女。言葉少なく、表情も乏しい。だがその立ち居振る舞いには、場を制する者ならではの沈黙の力があった。
 やがて、光緑が口を開く。
「君はもう、この寺には必要ない。先代の任を解かれた者としてここを去ってもらう」
 胡蝶は頭を垂れた。動きに抗いはなく、悔いも怒りも滲まなかった。
「では……長らく、お世話になりました」
 畳に一礼し、踵を返す。
 その影が障子に滲むとき、背後から衣擦れの音が走った。
 振り返る前に、女の背にぬくもりが触れる。
 光緑の腕が彼女を抱いていた。その呼気が耳元にかかる。
「あら。いけないことをするのですね、新当主は。お若いからかしら? お盛んなこと」
 胡蝶は微笑まぬまま、淡々と言葉を紡いだ。拒絶でも驚きでもない、問いかけのように。
 光緑は、低く息を吐いた。
「……会いたいと、切望していた。何度、何百度、何千度でも生まれ変わってでも、と。愛する女にようやく……ようやく、会えたのだから。抱きしめたくもなる」
「……え」
 声に激情は無い。静けさの奥に染み出す記憶が、空間の温度を変えていった。
 女の肩が、震えた。
 胡蝶の声の奥から、微かに別の女の声が滲み出した。……仏田 月彦の記憶が、光緑という器を通して、封じられた名を呼び戻す。
 言葉は封印の綻びを開き、沈んでいた過去を呼び起こした。和室の空気が密やかに変わり、夕光の中、二人の影が重なる。
 名も肉体も違えど、そこにいたのは、あの夜、約束を交わした二人だった。
「ああ、会いたかった。会いたかった……有栖ッ!」
 男の声には、焦がすような熱が宿っていた。
 光緑の腕が胡蝶を強く抱き寄せる。
 身体と身体がぶつかる音、重なる鼓動、血の記憶が胸の底から立ち上がる。
「ようやく……ようやくお前に触れられる。やっとだ……!」
 指先が髪を撫で、頬をなぞり、唇を塞いだ。
 女――森田 胡蝶という器は、まるで待ち続けた者のように、その口づけを深く受け入れた。
 唇と唇が重なり、過去の罪と約束が蘇る。キスは深く、長く、やがて二人は畳の上へ崩れていった。
「和光はしぶとくてな……なかなか主導権を渡さなかった。いくらオレに器を寄越せと言っても、意地になるばかりで。四六時中、頭の中で喚いてやったよ」
 月彦の不気味な声が、光緑の喉を借りて低く囁かれた。
「けど、光緑は違う。和光を使ってほんの少し虐めただけで、眠ってくれた。もう目覚めたくないと言って、オレの中で泣いてるよ。完全に、オレのものだ」
 くすくすと有栖は笑った。若い声に遠い時の冷たさが混じる。
「まあ、意地悪。可哀想な光緑」
「眠りたい者は眠らせておけばいい。あいつはもう起きないよ。起こす気も無い」
 唇を再び重ね、指を絡ませ、魂と魂は再び繋がっていく。器が変わろうとも、欲望も愛も消えはしなかった。
「光緑の器は脆いが、能力は歴代でも随一だ。30年も持たないだろうがな」
 胡蝶の肩に手が落ちる。
 力強く、けれど丁寧に押し倒され、女の背が畳へ吸い込まれていく。
「あれから300年。土地の魔力は、どれほど育った?」
「ふふ。わたしもあれから学びましたの。あと30年でちょうど1000年ですわ。綺麗な数字でしょ?」
「1000か。いい数字だ。だが、光緑の器は持たない。また瑠璃のときのように完璧な子を作ろう。儀式のための器を、二人で育てよう」
 指が、胡蝶の襟元へと伸びる。
 だが胡蝶は柔らかく拒絶した。
「ダメですよ。この森田 胡蝶という器は、平凡です。血も薄く、特異因子もありません。完璧な器など産めませんわ」
 沈黙が降りた。しばしの間、部屋に風が止まったようだった。
「貴方の正妻は優秀です。生まれたばかりの燈雅様についての記憶は、貴方の中にもあるのでしょう? 彼を千年目の当主にすれば、手間はかからない。早々に当主継承させて、あの素晴らしい身体を……貴方が奪えばいい」
 光緑――否、月彦の呼吸が揺れた。
 そして、子供のように口を尖らせる。
「やだ。オレは……今、お前が欲しい」
 それは、愛とも支配とも違った。失われた空席を埋めるような、静かな飢えの告白だ。
 胡蝶はくすり、と小さく笑う。襟元を隠していた手をそっと外しながら。
「……困った男」
 その声が終わる前に、二人の身体は再び重なっていた。
 外では風が竹の葉を揺らしていた。正妻の存在も、因習の鎖も、いまは遠い。
 ただこの一室で、遠い約束が果たされていた。
 過去の罪を、未来の願いを夜の呼吸に溶かしながら、二人は途切れることなく一つに重なり続けていた。

 仏田寺から遠く離れた、町外れの産婦人科。白布の掛けられた布団の上に、産まれたばかりの赤子が眠っていた。
 丸い頬、微かに上下する胸。肌には呪の刻印も、異能の徴もない。生まれ落ちたばかりの健康な男児。それだけだった。
 小さな命を、仏田 光緑が腕に抱える。
 いつもは冷えきった両腕が、今は不思議と温もりを帯びていた。伏せた目元には喜びが滲み、唇の端に浮かぶ笑みは抑えがたく微かだった。
 その向かいで、森田 胡蝶が身を起こしていた。
 白磁のような肌に、なお分娩の熱が宿っている。けれどその瞳だけは、胡蝶ではない。そこにいたのは、既に970年を生きる女の魂だった。
「そろそろ、この胡蝶という器を降りようかと思います」
 淡々とした声で、有栖が言う。光緑がゆっくりと顔を上げた。
「どうして? 身体が限界なのか」
 有栖は首を振った。
「いいえ。むしろ健康そのもの。安産でしたよ。けれど……あまりに平凡すぎて、ね。退屈なのです。個性も毒気もない女の体など、私には合わない。しかも、胡蝶本人の魂がしつこいのなんの。油断すれば、私の意識を押し戻しそうになる。出産まで何とか耐えましたが……もう充分でしょう」
「次は?」
 光緑の問いに、有栖は唇に柔らかな笑みを浮かべた。
「貴方の好みに合わせて、選びます。若く、従順で、美しく……色香があり、かつ忘れられない女に。貴方のための器ですもの。愉しんで選ばなくては」
 光緑はふっと喉の奥で笑い、赤子をそっと持ち上げた。
 柔らかな頬に己の顔を寄せる。
「ちゃんと後始末しておけよ。だが、オレ好みの女か。まさか、愛か?」
「もちろん」
 さらりと、有栖は返す。言葉の温度も、肌の熱も変わらず、それでいて確かだった。
 胡蝶の体を借りた女は、ゆっくりと膝を抱えるようにして座り直す。体内に残る微かな痛みに顔を歪めもせず、微笑んだ。
「この子はオレの子として育てる。300年ぶりのお前との子だからな。殺したりはしない」
「本当に?」
 有栖は肩をすくめるようにして、くすくすと笑う。
「貴方って案外飽きっぽいもの。瑠璃だってまだ6歳だったから夢中のままでいられたけど。そんな言葉もそのうち風のように忘れるでしょう?」
「……瑠璃だって、オレなりに愛していたさ。信じてくれないのかい? この子はしっかりと邑子に育てさせる。いいだろ、それで」
 光緑は赤子の小さな手を取った。
 赤子の指が動く。そのたった一つの動きに、ふたりは目を細めた。
「新しいお前に合うのが、楽しみだ。早く良い女になってオレのもとへ来いよ」
「もうっ……。光緑様は立場があるお人なんですから、まだまだ機関を大きくしてもらわないと困ります。子作りはこれっきりにしますからねっ」
 どちらの笑みも穏やかで、血も呪いも裏切りも遠い、ただ親と子を囲む午後の静寂のようだった。
 けれどその奥に再び始まる計画の影が、音もなく横たわっていた。

 森田 胡蝶が姿を消したのは、男児を産み落として間もなくのことだった。
 届け出も別れの言葉すら残さず、ただふいと仏田寺から掻き消えるように姿を消した。
 誰も探さず、誰も追わなかった。そう仕向けられていたのだ。
 数年後、遠く離れた山間の県で、白骨に近い女の死体が発見された。
 身元の判別は難航したが、風化した財布の中から発見された古びた身分証と歯科記録とが一致し、その身は「数年前に人が変わったように家族の前から失踪し、仏田家に迎えられた」森田 胡蝶であると断定された。
 事故死として処理され、風に吹かれる落葉のように、女の死は静かに記憶から零れ落ちていった。
 その後、仏田光緑の傍には、新たな秘書が置かれた。
 物腰の柔らかい従順な女だった。形式だけの経歴審査を経て、何者かに導かれるようにして寺に迎えられた。
 夜になると、光緑はその女を私室に呼んだ。
 秘書だけではない。その秘書が辞めれば、新たな秘書の女が、または別の女中が、あるいは研究者の女が、言葉少なく手招き一つで応じさせ畳の上にその身を敷かせた。
 夜が更けても、声は止まなかった。襖の向こうで足音がしても、誰かが通り過ぎても、光緑は動じなかった。
 ある晩、ひとりの少年が襖をそっと開けた。まだ幼いその子は、部屋の光景に息を呑み、声もなく立ち尽くした。
 光緑はその存在に気づいていた。だが手を止めず、背を向けたまま、多くの女の髪を撫でながら笑っていた。
 少年の名は、志朗。記録上は正妻の子として戸籍に載せられた男児だ。
 だが誰の目にも明らかだった。その子が家族として扱われていないことは。
 家族の食卓に、彼の椅子は無い。儀式にも呼ばれず、祝いの名簿にも名は無かった。
 父と呼ばれるべき男がその名を口にすることを怠り、志朗という名は、ただ書類上にのみ刻まれるものとなった。
 誰にも呼ばれず、誰にも求められず、ただ一人の少年が――名だけを持ち、影のようにそこに座していた。



【6章】

 /1

 オフィスを満たす静寂は蛍光灯の唸りと、志朗が紙をめくる微かな音だけが支配していた。夜が窓の外を深く塗り潰し、遥か下方の街灯が点のように瞬いている。
 デスクには霞が手配した調査報告書が数枚、端整に重ねられていた。無言のまま、丁寧に一枚ずつ目を通していく。
 ――森田 胡蝶。
 その名が見出しに躍った瞬間、志朗の視線がそこに吸い寄せられた。
「……俺の、本当の母親か」
 吐息のように落ちた声は、誰に向けられるでもなく、夜気の中に溶けていく。
 報告書の記述によれば、胡蝶は志朗が産まれて間もなく、冬の山中で凍死していたという。
 警察は事故死と判断したが、状況は不自然だった。身元確認に時間を要したこと、所持品が焼かれていたこと、足取りの空白。報告書の余白に添えられた霞の筆跡が、簡潔に「事件性は認められず」と記していた。
 志朗の唇が歪む。笑いとも、諦めともつかぬ色を帯びていた。
 沈黙の中、霞が低い声を投げかける。
「さらなる調査を進めましょうか? 仏田家が関与していたかどうか突きとめますよ」
 志朗は首を振った。背もたれに身を預け、報告書を胸元に伏せるように持ち、天井を仰ぐ。
「いいよ、霞。もう、それ以上は必要無い」
「ですが、志朗兄さん」
「もし本当に知りたかったんなら……10年前からでも、いや、それよりずっと前からでも調べようと思えばできた筈だ」
 目を閉じる。ゆっくりと吐いた息に、過去の澱が混じっていた。
「でも、しなかった。……顔も、声も、何一つ覚えてないんだ。たぶん俺は、母親に対して執着なんかしてなかったんだよ」
 霞は何も答えなかった。ただ空気だけが、微かに冷えていくように流れていった。
 志朗はやがて目を開き、黙って報告書を閉じた。
 母の死と自らの無関心。どちらが重かったのか、もはや測る術すらなかった。
 霞が軽く頭を下げると、足音も立てずにその場を離れた。扉が閉じ、再び音の無い空間が戻ってくる。
 閉じられた報告書の上に指先を置いたまま、志朗は動かない。
 蛍光灯の白い光が、紙の白と影の灰色とを際立たせていた。過去はまるで乾いた紙のように、触れる手のひらに手応えだけを残し、彼の心を通り過ぎていく。
 感情は沈まない。何かが深い水底に落ちていくような、重く鈍い響きだけが胸の内に残っている。
 再度扉が開いたのは、数分後のことだった。
 戻ってきた霞は、いつもと変わらぬ沈着な面持ちで口を開いた。
「仏田本家から、Eメールが届きました」
「……なに?」
「燈雅様が『志朗兄さんと話す機会を設けられないか』と打診されています」
 一拍。志朗の眉が持ち上がる。
「兄貴が?」
 低く返された声には意外の色が滲む。さらにその奥に深く沈殿した、長年の警戒心が息を潜めていた。

 仏田志朗は、先日30歳を迎えた。
 世間の表舞台では若き実業家としての成功を謳われ、名士としての顔を持つ。
 部下は多く、事業は拡大し続け、企業との面会や会食、視察、調整、政財界との裏取引に至るまで日常は分刻みで埋まっていた。
 だが仏田本家の当主、すなわち兄・燈雅からの招きとあらば、全てを脇に置かねばならない。たとえそれが、どれほど多忙な一日であったとしても。
 翌夜。都市の片隅にひっそりと構える高級レストランにて。俗世の喧騒を忘れさせる静謐が漂うその前に、黒塗りの車が現れた。
 仏田家当主・仏田 燈雅。紫と黒の濃淡を纏う、絢爛たる紋付の装いで、彼に付き従う護衛もまた仏田の名に相応しい所作と威容を備えた登場をした。
 遅れて志朗も席に着く。
 艶やかなダークスーツは完璧に仕立てられたものであり、襟元には乱れ一つない。緩みなきタイ、高級コロンの仄かな香気が、彼に課された責務の重みを物語っていた。
 卓の上には控えめに盛られた料理が美しく並び、皿の艶にゆらぎを映している。
 食事は始まったが、会話は慎ましく、礼儀の枠からは一歩もはみ出さない。
「相変わらず志朗は忙しそうだな。だが顔色も悪くない。安心した」
 燈雅が口を開く。
 声音には柔らかさの仮面が貼られていたが、その奥にある真意を、誰も正確には測れない。
「兄上もわざわざご足労くださり、ありがとうございます」
 志朗は完璧に調律されたような笑みを返した。声にも態度にも、温度はあるが熱はない。
 話題は経済情勢、会社の成績、仏田家をめぐる些事。どれも差し障りのないものにとどまり、言葉の剣戟は交わされなかった。
 燈雅は要所で志朗の目を捉え、油断の隙を探るように視線を向けてくる。志朗もまたその一手一手に冷静に応じ、隙を見せず、仮面を崩さぬまま対話を続けた。
 二人の間には、兄弟としての情も、懐かしき回想もない。
 笑い合うこともなければ、言葉に温みが差すこともない。あるのは互いの仮面を知り尽くした者同士の、冷ややかで精緻な交渉だけだった。
 杯が進み、料理もひと段落を迎えた頃合いだった。
 燈雅はグラスに添えた指先をそのままに目を伏せた。声音だけが空気を裂く。
「さて、志朗。少し今後の話をしようか」
 音もなく、場の空気が変わった。長き沈黙を破る本題の、合図だった。燈雅の眼差しがグラスを置いた瞬間、鋭く光を孕んだ。
「最近、機関の動きに妙な風向きが出てきている。志朗も気づいているだろう?」
 柔らかい。だがその声に潜むのは、柔らかさの皮を被った鋼だ。
 志朗はグラスを指先でゆるやかに回しながら、低く応じた。
「……R号、か」
 その名を口にした瞬間、声が低く落ちた。
 レジスタンスと名乗る過激派集団の彼らは、正義を掲げながらも、現実には破壊と混乱を撒き散らす集団でしかない。
 理想の仮面を被った素人の遊戯。志朗の眼にはそう映っていた。
「革命ごっこもいいが、結局は悪質な扇動屋にすぎない。こちらじゃR号と呼んでいる。報告にも記録にも、ね」
 そう言って微笑したその口元には、冷笑が浮かんでいた。
「もちろん対処はしてますよ。警察筋には牽制を。マスコミには流れを。朱指にも動いてもらってる。今月だけで三件、処理済みだ」
「……ほう」
 燈雅の眉が動いた。
 手元の酒器を静かに伏せ、志朗に視線を据える。平静を装いながらも、眼には焦燥が微かに滲んでいた。
「だが、明らかに件数が増えてきている。同志が、連携して動き始めているようだ」
 燈雅の声には、かつてない切実さが宿っていた。
 散発的だった騒乱が、いつしか明確な思想と計画に沿って動いている。その事実が内心を侵していた。
「志朗も分かっていると思うが、資金、物資、情報の流れも組織的だ。独立した素人の仕業じゃない。何者かが裏にいて、彼らを軍に仕立てている」
 志朗の眉間に、一筋の皺が寄る。
 兄がここまで率直に言葉を継ぐことは、滅多にない。つまりそれだけ、状況は深刻ということだった。
「放っておける段階じゃなくなってきてる……ってわけか」
 燈雅は頷いた。紫と黒の紋付が、炭の灯に揺れ、夜の闇の中に溶けていく。
 膳の上には湯気だけが昇っていたが、その場を包む空気はもはや毒のような緊張に変わっていた。
 兄弟の真の会話が、今まさに幕を開けようとしていた。
「随分うちは嫌われたものだね」
 燈雅がぽつりと笑う。嘲りではなく、軽蔑でもない。冷ややかに全てを見下ろす者の、余裕ある支配者の微笑だった。
「成功者は、いつだって羨望と嫉妬の的だねえ」
「光が強ければ、影も深くなるもんだ」
 志朗の声には、皮肉と自信が程よく織り込まれていた。
「とはいえ……R号にはそろそろ報いを与えてやらないと。遅れれば遅れるほど、こっちが厄介になる」
 燈雅は頷き、口元に微笑を宿した。
「そうだね。志朗にはまだ内緒だが……我々も、大きな仕掛けを用意しているところでね」
「……それは初耳だ」
 志朗は軽く肩をすくめ、慎重に問い返す。
「隠してたわけじゃないさ。まだ煮詰めの段階でね。整えば、話すつもりだ」
 燈雅はグラスに口をつけ、静かに呟いた。
「――2005年のうちに、やりたいことがある。家として、な」
「やりたいこと……?」
「詳細は追って話す。ただ、うちの動きが大きくなる。だから、それまでは足元を安定させておいてくれ」
 その声には、信頼と命令の境界線が曖昧に混ざっていた。
 志朗は笑った。笑みは静かで、だが確かな熱を孕んでいる。
「兄貴のやりたいことがどんな怪物でも、支えてみせますよ。うちの全力で」
 盃が再び鳴った。
 夜はますます深まりつつあり、その向こう側で何かが目覚めようとしていた。
 金の箸置きがほの灯の下で冷たく光り、紫黒の漆器に、その微光を映していた。
「R号に限らず、仏田家や機関の衰退を願う連中が最近とみに目立ってきている。志朗。お前も、少しは警戒しておけ」
 その言葉には、真意と警告が滲んでいた。
 志朗は目を細めた。膝の上で組んだ指先に、力がこもる。
「兄貴の口からその台詞が出るなら……もう遊びの段階は過ぎたってことか」
 燈雅は小さく頷いた。
「内部では、既に慎重な調整が始まっている。火種を立てぬよう、躍進よりも保守。派手な動きはしばらく控えよと、そういう判断だ」
「随分お優しいお達しで。つまり、狩りも控えろってことか」
 乾いた笑いを漏らしながらも、目は冷たく光っていた。
 志朗の仕事は、ときに法律の網をすり抜け、ときに命を踏み躙る。だが、それこそが仏田という家を支える現実だ。
 燈雅は微笑を崩さぬまま告げる。
「ゼロにしろとは言わない。ただ、細心を尽くせ。不要な一手が全てを崩す」
 それは、過去に崩壊した一手の記憶を仄めかす言葉だ。
 志朗もまた、それを理解していた。
「……心得てる。足元を掬うのは、いつだって小さな油だからな」
 グラスが再び持ち上げられる。
 だがその夜、二人の盃を満たしたものは酒ではなかった。
 粘ついた沈黙と、沈殿する覚悟。それらこそが仏田という名を支える、血の重さだった。

「それと……これは、あくまで提案なんだが。志朗」
 志朗は短く相槌を打ちながらも、兄の瞳に宿る色の変化を見逃さない。
 小さな間を置た燈雅が、真正面から弟の瞳を見据える。
「お前、ペットを飼っていただろう?」
 不意を突かれ、志朗の眉が僅かに動いた。唐突な言葉の矛先に、警戒心が滲む。
「……それが、何か?」
 低く返した志朗の声音には、既に警鐘の響きがあった。
「志朗の命を守る保険として置かれている存在だ。違うか?」
 燈雅の口ぶりは、冷えた書類を読み上げるように事務的だ。
「だったら、再調整してやるのも良いと思ってね。お前も今や機関の顔役だ。名が売れたぶん、狙われる確率も跳ね上がる。手遅れになる前に備えておくべきだ」
「……つまり、俺の盾にしろと?」
 皮肉を込めて吐いた志朗の言葉。しかし、兄は揺るがず頷く。
「そうだよ」
 当然のように、まるでそれ以外の選択肢など初めから存在しないかのように。
「大事な志朗の身体を守るために、あの異能は極めて有用だ。一度機関に戻して、最新の設備で再調整すれば、もっと使い勝手が良くなる。反射神経の強化、視野の拡張、あとは……感情制御も改めて施しておくといい。お前に対する依存度を高め、命令の優先順位を固定すれば、暴走のリスクも減る」
 生きた存在に対して述べられるべき言葉ではなかった。家電の新機能を語るようなその口調には、血も温もりも通っていない。
「オレの男衾は見てるだろう? あれも、大山さんの自信作なんだ。最高傑作と豪語している出来だよ。志朗のところの子も大山さんが調整していた逸品だし、同じ要領で拡張作業ができると思う。そう時間は掛からずに調教できると思うから……」
 志朗は沈黙した。
 シキの肌の温もり、静かに寄り添う夜、言葉を持たずとも側にいてくれた眼差し――それらの記憶が喉を塞ぎ、息を詰まらせる。
「……兄貴。それは、当主としての命令か?」
 絞り出すような問いに、燈雅は微笑を返す。
「違うよ、意見だ。効率的に家族を守りたいという愛でもある。……嫌かい?」
 その瞬間、志朗は悟った。兄は血を分けた存在ではあるが、同じ生き物ではない。仏田家の当主とは、もはや人であることを辞めた者のことなのだと。
「再調整の予約は既に取ってある」
 燈雅の口から告げられたその言葉は、まるで天気予報の一節のように平坦だった。
「この会食が終わり次第、使いを送る。調整が終われば、お前のオフィスに戻しておく」
 語り口は決定事項の報告であり、覆る余地のない命令のよう。
 仏田家の未来のため。志朗という資源の保全のため。兄は、それを愛と信じていた。
「いらねえよ」
 だから志朗の声で、あらためて断ち切った。静かだが、鋭く。
 燈雅は微かに目を細める。その顔には、相変わらず動揺の色は浮かばない。穏やかな笑みを崩さぬまま、問い返した。
「どうして?」
 まるで「好き嫌いはよくない」と諭すような優しさすら含んだ問い掛け。
 志朗はグラスを卓に戻し、瞳を伏せることなく言った。
「俺の身の回りのことは、俺自身が決める。いつまでもお兄様に全部やってもらわなきゃいけない子供じゃない」
 低く、明確な拒絶の声。
 反抗でも感情の爆発でもない。侵された領分に対する、はっきりとした線引きだ。
 その裏には渦巻く怒り――それはシキという存在を、ただの部品のように扱う無神経さに対する激しい憤りがある。
 どれほどの夜を、彼は黙って志朗の隣にいたか。どれだけ何も言わずに、志朗自身に向き合ってくれたか。それを知らずに「再調整」の一言で無にしようとする兄に、志朗は吐き気すら覚えていた。
 だが、敢えて口には出さない。この場には、いや、シキ以外の他人には必要無いからだ。
 燈雅はその内心を見透かすような目で微笑む。志朗もまた、視線に屈せず、感情を仮面の奥へと押し隠した。支配に抗うための沈黙という名の刃だった。
「まさか、可愛すぎて手元に置いておきたい、なんて理由じゃないよね?
 燈雅が笑みを含んだ声で、言う。
「……違う」
 即座に返す志朗の声は、乾いていた。
「そりゃそうか。志朗はエルフ狩りの中心人物だった。金と契約のために、同胞を解体し、売った男だ。ペットに情なんてかける筈がない」
 言葉には、無言の圧が潜んでいる。
 ――思い違いをするな。お前は仏田 志朗だ。それ以上でも、それ以下でもない。
 志朗の胸に、そのような意図が突き刺さる。
 エルフに哀れみを抱いたことは一度も無い。少なくとも――最初は。
 シキも例外ではなかった。ただの偶然、あるいは戯れだった。
 けれど呼吸を聞き、肌を重ね、共に夜を越えるたびに、気づかぬうちにその存在が手放せなくなっていた。
 それでも、決して肯定しない。狩りを否定すれば、出会いすらなかった。その事実を忘れるわけにはいかない。
 志朗はゆっくりと目を伏せる。
「……分かってるさ。判別は、できてる」
 燈雅は満足げに目を細めた。弟が正しく仏田であることを、再確認したかのように。
 盃の酒が揺れる。だが志朗の胸には、言葉にできぬ痛みが静かに沈んでいた。
「再調整の予約は、キャンセルか」
 燈雅が呟き、志朗は短く「ああ」と答えた。
 しかし、兄はそこで終わらせなかった。
「だが、健康診断の予約はしようか。そちらは受けさせろ」
「は? ……そんなもん、いらねえよ」
 志朗の眉間に露骨な皺が寄る。
 あの異形の身体の、どこに不調があるというのか。
「いや、必要だ。あの子を飼ってもう何年目になる? そもそも、いつ診せた? ……志朗、お前自身は人間ドッグに行っているのか?」
 その問いに、志朗は言葉を失う。
 一度も見せてない。それが答えだった。
「志朗。お前、もう三十路だぞ。自覚を持て。少しは自分の身体も労れ」
「……あー……」
 情けない声が漏れる。
 多忙と睡眠不足、乱れた生活。志朗のそれらが、シキに負荷として蓄積しているとは、想像すらしていなかった。
「……それは、頼むかもしれない」
 ぽつりとこぼすと、燈雅は珍しく素直に笑った。
「うん、それがいい。今はペットにも検査が義務付けられている時代だからな」
「……そういう軽口が、一番腹立つんだよ」
 そう言って顔を背ける志朗の唇が、微かに緩んだ。
 まったく、兄というのはどこまで先回りするのか。だがこんな小言なら、時に悪くない。
 声の向こうに小さく穏やかな安心が灯るのを、志朗は否応なく感じていた。


 /2

 タワーマンションの扉が静かに開かれた。
 迎え入れたのは仄かに漂うアロマの香と、室内に浮かぶ柔らかな灯。
 革靴の音がフローリングに吸い込まれ、やがて消える。その先にいたのは、一糸乱れぬ所作で現れる男――シキだった。
「……おかえりなさいませ」
 10年以上前から変わらぬ肉体で、変わらぬ抑揚のない声。その沈着な響きこそが、志朗の胸に柔らかな余白をもたらす。
 彼はネクタイを緩めながら、ほっと息をつくように微かに笑う。
「……ん。ただいま」
 声は掠れていた。幾杯か多く煽った酒のせいだ。
 シキは黙って近づき、志朗の上着を受け取る。迷いも滞りもなく、丁寧にハンガーに掛ける。
 いつものように、グラスの水、常備薬、冷えたタオル、必要なものは全て、声をかける前から用意されていた。
 志朗の肩が、沈む。理性という衣をすり抜けた何かが、彼を動かした。
 ゆるやかに、シキの肩へと身を預ける。
 酒の熱、長い一日の疲れ、そして自分でも説明できない、どこか深くから湧いた甘えの衝動。全てが、彼の頬と胸元に滲んでいく。
「……一緒に、風呂に入れ」
 耳元で呟かれた声は低く、どこまでも切実だった。
 命令の形を取りながらも、それは志朗という男の、唯一無二の弱さの告白だ。
 シキは一瞬だけ動きを止めた。けれど何も問わず、何も拒まず、志朗の重みをしっかりと受けとめる。
「承知しました。湯加減を見てまいります」
 二人はバスルームへと向かった。言葉にならない感情が幾重にも絡みつき、誰にも見せることのない絆の温度が確かに宿る。
 陶器のような白い背がスーツの布に寄り添う。やがて扉が閉まり、室内には微かな湯気と、寄せ合う鼓動だけが残された。

 浴室の灯りは、琥珀色の柔らかな光を落としていた。
 天井に沿って立ちのぼる湯気が、夜の輪郭をぼやかすように揺れている。
 シキの指が湯面をなぞるようにして、そっと温度を確かめた。わずかに熱い。志朗が好む、少しだけ強めの温もり。彼は何も言わず、その加減に湯を止めた。
 湿った静けさの中で快楽の色が響く。湯が小さく鳴り、二人の体温が浴槽の中に溶けていく。
 先に湯に身を沈めた志朗は、息を抜くように長く吐き出した。
「……生き返る」
 重力の檻を解かれた身体が、酒の残り火と湯の抱擁にほどけていく。
 肩まで浸かりながら、彼はただ目を細める。無防備に、それでもどこか満ち足りた仕草で。
 湯煙の向こうに、何も言わず同じ湯に浸かるシキの姿があった。
 横顔は湯気に溶ける輪郭のまま、現実と夢の間にあるように美しかった。静謐で、曖昧で――それでいて確かに、この場にいる。志朗の隣に、ただ、在る。
 志朗は手を伸ばし、湯に濡れた肩をそっと引き寄せた。拒絶も、躊躇いもない。肌が触れ合い、熱を分け合う。
「なあ……お前、今夜は静かすぎるだろ」
 志朗の声には、微かな笑みと、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
「いつも通りです」
「嘘つけ。俺が酔ってるから、気ぃ遣ってんだろ」
 問いかけに重ねるように、ぬるい湯音が揺れる。しばしの沈黙ののち、ぽつりと。
「……図星です」
 珍しく、素直な答えが返ってきた。
 志朗は、ふっと喉の奥で笑った。指先を湯のなかで探り、シキの指に重ねる。細く、温かく、動かない。ただ黙ってそこにいて、志朗の呼吸の深さに寄り添っている。
 そこには、命令も従属もない。所有を超えた何か、感情とも絆とも名づけ難いそれが、確かに芽吹いていた。
 湯気が全てを曖昧に染めるなか、志朗は目を閉じた。
 世界が今だけは、優しくできているような気がした。

 湯気に濡れた静寂をそのまま纏いながら、志朗はシキの体を抱き上げた。
 湯で火照った肌は白磁のように滑らかで、細くしなやかな四肢は志朗の腕の中で息を潜めるように呼吸していた。
 寝室のシーツにそっと横たえると、シキは瞼を閉じたまま息をしている。胸の規則的な上下に呼吸を合わせるようにして、志朗もまた目を細めた。
「熱、こもりすぎたか」
 指先で額をなぞり、頬の熱を確かめる。ぬるい呼気が肌にかかるたび、微かな安堵と、なぜだか不安が入り混じる。
 唇が頬に触れても、シキは拒まなかった。
 そのまま志朗の唇は耳元へと滑っていく。長く尖った耳――エルフであることを示す、もっとも象徴的な器官。柔らかな軟骨の縁にふれると、不意に、冷たい現実が思考の奥に割り込んできた。
 この耳を、装飾品として剥ぎ取ろうとする者たちがいる。異種の肉体、美貌、異能、従順――それらを素材として見做す側。それが機関。志朗はその中心にいる。
 そんな機関を悪と断じて破壊を掲げる反抗勢力――R号。
 シキは、その「救われるべき象徴」として、最も相応しい存在だ。虐げられ、矯正され、名前すら奪われた彼は、明らかに助け出されるべき者だ。
 もしシキがR号の存在を知れば、どうするだろう。自由を約束され、正義の名を囁かれたなら、その手を取るだろうか。
(……あいつらの味方になるのか)
 無意識に、志朗の指が耳をなぞっていた。
 理屈としては、当然の帰結だ。誰だって「救う」と言ってくれる者に惹かれる。「自由になれる」と手を差し伸べられたなら、その光を信じたくなる。
 けれど今、シキは志朗の腕の中にいる。
 言葉を待ち、命令に従い、温もりを拒まずにいる。その事実が、志朗の心をじくじくと軋ませる。
 仄暗い寝室の光の中、シキの瞼が小さく震えた。志朗は耳元から離れ、じっとその顔を見つめる。
 裸の肩にかかる銀の髪。細い喉。火照りを帯びた頬。ここに至るまで、どれほどのものを奪われ、上書きされてきたのか。
(……シキは、奴隷だ。俺の……奴隷)
 その言葉を、改めて心の底に沈める。
 かつて見世物小屋で名も知らぬ男たちの欲望に晒され、顧客の好みに合わせて調教され、奉仕する機能を身体にも精神にも叩き込まれていた。
 志朗の元に来てからも、その枷は解けていない。性処理、家事、応対、管理。命令なくして動かず、外に出る自由も与えられず、首には未だに、形ばかりの所有の象徴が残されている。
 R号にとって、シキは「救うべき存在」に他ならない。その理屈は、志朗自身が一番よく分かっている。
 だが、もし。もしも、シキが本当に自由を告げられたなら。志朗のもとを、黙って去っていくだろうか。
(……行くかもしれない)
 その可能性が胸に刺さった瞬間、喉が灼けるように熱くなった。
 拳がゆっくりと握られる。
 シキには、自由になる権利がある。この檻の外で、光の中を歩く資格がある。志朗に、それを止める権利などない――本当は、無いのだ。それでも。
(シキ自由にするなら俺がする。誰かに……されたくない)
 志朗は低く、呻くように呟いた。
 自分でもよく分かっている。これは醜いエゴだ。どうしようもない執着だ。
 それでも、欲しいと思ってしまった。他の誰にも、触れさせたくないと思ってしまった。
(これは……俺のものだ。でも……もう、奴隷じゃない……)
 誰に赦しを請うわけでもない。ただ、自分に言い聞かせるように。
 たとえこの手が、檻であっても。たとえ、いつか憎まれ、背を向けられるとしても。この存在を、手放したくなかった。

(どうして、こんなにもシキに執着してしまうのか)
 その問いには、もう答えがあった。
 志朗は飢えていた。愛情に、理解に、真っ直ぐな視線に。父は教育と立場だけを与えた。母は壁の向こうの存在だった。周囲は畏れ、褒めながらも距離を置いた。
 だから新座の無邪気さが温かかった。ただの余り物でも分け与えられる行為が、志朗には救いになった。
 そんな中、シキに出会った。
(俺のために時間を使い、体を差し出し、何も言わず、傍にいてくれる存在)
 それが命令だとしても、志朗には抗いがたいほど、甘い毒だった。
 恋ではない。尊い愛でもない。錯覚でも構わなかった。10年以上、こんなにも長く近くに居続けてくれる存在が、愛おしくてたまらなかった。
 指先でそっと額を撫でる。皮膚の温もりが、遠くて近い。
(本当は、自由にしてやるのが一番だって……分かっていても)
「愛してる。傍にいてくれ。……ずっと」
 奪われるのが怖い。会えなくなるのが怖い。――代わりなど、どこにもいないのだ。


 /3

 早朝の空は、まだ眠たげな灰に沈んでいた。
 窓を透かして見下ろせば、街路には通勤の車列が流れている。音もなく確かな生活の連なりが、この世界を今日も回していた。
 無言の朝の中、黒塗りの車がタワーマンションの前に滑り込む。
 検診の日だった。機関の研究所に行くよう命じられたシキは、迷い一つ見せずに淡々と車へ乗り込む。
 変わらぬ足取り。変わらぬ仕草。命じられればどこへでも向かう。その姿勢は12年という歳月の中で骨の髄にまで沁みついている。
 志朗の胸にはざらつくような違和感が残った。
(目が届かない場所に行かせるのは、12年ぶりか)
 18歳のときから、彼は志朗の生活の一部だった。呼吸のように当たり前にそばにいた。それが今、物理的に離れていく。
 扉が閉まり、エンジンの唸りが空気を振るわせる。車体が緩やかに遠ざかっていくその軌跡を、志朗はただ見送っていた。
 何か一言でも。そう思いながら、喉奥に引っかかった言葉は結局最後まで解けなかった。
 日常が彼を仕事へと引き戻す。その日の業務は、大型のオークションイベントの総調整だった。
 会場は豪華客船。外観は世界の上位層をもてなす社交場に見せかけて実態は、人外種や異能者の所有権を裏で競り落とすために設えられた檻の舞台だった。
「輸送ルートは? 海上警備、確保済みか」
「VIPリストに国会議員が混じってる。過剰演出は控えろ」
「異能枠の目玉は誰だ。学習度、従順度、データは明記しておけ」
 次々と送られてくるファイル、通話、報告。机上は書類の山に埋まり、それでも志朗の指示が滞ることはなかった。
 奴隷たちはランク分けされ、それぞれに演出が施される。
 人間に近い姿の亜人、美貌を誇る妖精種、筋骨隆々の獣人、そして希少な異能者。全ては、より高い価格で落札されるための商品として、徹底的に作り込まれていた。
「耳に傷あり? 逆に元戦闘奴隷として売れる。縫合だけ済ませとけ」
「こっちは整った顔だな。清楚系で演出しろ」
「競り順を組み替える。後半に向けて熱を高めていけ」
 舞台の総演出家として、志朗は完璧に機能していた。
 冷徹に論理的に、成果を最大化するために動く。その姿は、まさに組織の中枢そのものだった。
 だが、ふとモニターの端に映った資料映像の一枚が、志朗の視線をかすめた。
 白く華奢な身体、うつむきがちな目線、やや垂れた長耳。どこかで見た面影。
 志朗は無理やり視線を資料へ戻す。胸の奥には一つ、ぽっかりと不在の形をした空洞を自覚しながら。
 仕事は完遂される。成果も出る。計画通りに事は進む。けれども自分の目の前から姿が消えたとき、ようやく気づく。呼吸のように当然だった存在が今、確かに遠ざかっている。そのことに焦りを感じ始めていた。
 名を呼びたい衝動を志朗は声にせず、ただ深く息を吐いた。見えない不安が、骨の奥から軋むように疼いていた。

 豪華客船の最上階。
 本格的に夜が始まる頃には、異様な熱気に包まれていた。歓声と微笑が交差し、欲望の吐息が甘い香水に溶けてゆく。
 金糸を編んだようなシャンデリアが、揺れる光を天井から降らせ、金縁のグラスには琥珀の液体が惜しげもなく注がれていく。
 艶やかなドレスの曲線と、仕立てのよい燕尾服の背筋が、ワルツのようにフロアをすべり歩く。微笑み、囁き、あるいは札を握りしめた指先が、そっと未来の所有を夢想していた。
 ステージでは今宵の目玉、美貌の亜人が薄絹を纏い、従順な振る舞いで観客の視線を受け止めていた。
 まるで花嫁のような装い。それは祝祭ではなく、奉納の象徴。
 観客たちは杯を傾け、その姿を品定めするように眺めるだけだ。欲望の市場において、尊厳は装飾品にも及ばない。
 全ては順調だった。客の反応も、金の流れも、ワインの消費も、どれもが上出来。会場に満ちるのは、金の匂いと熱を孕んだ快楽の空気。空調にすら、それは染みついていた。
「志朗様、志朗様っ。いやあ、今夜も最高だねえ!」
 笑い声を響かせながら現れたのは、大山だった。
 重たい金時計を手首でぎらつかせ、数多の人外市場を渡り歩いてきた老獪な男。
 この世界に名を馳せる名物オーナーであり、志朗にとっても長年の盟友になっている人物だ。
「今夜の演出、実に見事だよ。あの触手獣と亜人少女の組み合わせ。客がざわめいていた。あれは映えるねえ、実に」
「ご満足いただけて何よりです」
 志朗は微笑を崩さず、相手に応じた。
 大山は懐から、封筒を一つ取り出して差し出してきた。中には、まとまった額の現金――この晩の分であることは、語らずとも了解されている。
 志朗もまた、内ポケットから薄く光を帯びたカードを一枚取り出す。仏田系の金融ルートに直結したアクセスキー。現金では動かせぬ金を動かす、最上位の許可証だ。
「こちらも、いつも通り。次の入荷、優先して回します」
「さすが志朗様。本当に仕事がやりやすい」
 大山は目尻を下げて笑った。
「当主様には、くれぐれもよろしくお伝えを」
「ええ。兄も、貴方の手腕には一目置いています」
 型通りの言葉を交わし、二人はグラスを軽く打ち合わせた。
 耳障りの良い形式の奥に潜むのは、互いの利害だけ。だが、その均衡こそが闇の秩序を支えていた。
 ふと、大山が目を細める。
「それでさ、今夜の後半のショー……評判が良いんだよ。うちの調教師も張り切っててね。今回の目玉は異能種と魔術強化体。身体能力の限界まで引き出したから、動きが、まあ、えげつないらしい」
「それは、楽しみですね。くれぐれも怪我のないよう」
 志朗は笑みを保ったまま応じる。
 だが、心の奥にじわりと疲労が染み渡るのを感じていた。
 いかがわしい真夜中の見世物。合法でもなく、非合法でもない、その狭間に咲く祝祭という名の残酷。
 観客たちは歓喜に酔い、売り手たちは黄金の夢に浸る。それがこの世界の日常だった。
 その只中に、志朗はいる。誰より冷静に、誰より完璧に、この歪んだ舞台を仕切りながら――心のどこかではたった一人、遠くへと連れ去られた存在のことばかりを考えていた。
 そこにいない筈の面影が耳の奥に囁き、眼裏に焼きついて離れなかった。

 時刻は真夜中。豪華客船の奥深く、選ばれた者たちの視線が台へと集まっていた。
 船内の音楽は、夜の訪れとともにより甘く、淫靡な旋律へと変わる。照明がゆっくりと落ち、部屋を琥珀色の闇が包み込んでいく。
 昼間の競りとは異なる、招待制の特別展示。選ばれし顧客のみが味わえる、最奥の見世物だ。
 観客たちは、上等な酒と作り笑いを手に、席に腰を下ろす。
 胸には抑えきれぬ興奮。欲望という名の渇き。乾いた喉に注がれるのはアルコールではなく、他者の苦悶という蜜だ。
 部屋の奥、黒いカーテン。その向こうから漏れるのは、かすかに震える息遣い。
 緊張か恐怖か、それとも諦念か。その判別すら許さぬほど、か細く、鈍い。
 やがて幕が上がる。立たされたのは、まだ少女の面影を残す人外の存在だった。
 獣人の血を引いているのか、耳は尖り、爪は細く鋭く、背後には柔らかく揺れる尾があった。
 そこには尊厳の欠片すら見出せなかった。
 身体を覆うのは鎖と演出用の薄布のみ。項には焼き印。所有者の紋章が赤々と腫れ上がり、肌に刻まれていた。
 彼女は片膝をつき、頭を垂れ、沈黙の命令を待つ。
 隣には、口元に笑みを浮かべた仮面の調教師。彼の手には、小さなリモコンが握られていた。
 少女の肉体に埋め込まれた刺激装置が、それに反応する。
 ビリ、と微かに電気が走る。
 少女の身体がびくりと震え、押し殺した悲鳴が喉奥に咲く。
 観客席からはくすくすと笑い声が漏れ、グラスが打ち鳴らされる。
 次に舞台に現れたのは、異能力を持つ青年だった。容姿は端整。肉体には、幾重もの傷と焼印が刻まれていた。肉体強化の痕跡。魔術的実験の結果が、無言で彼の価値を語っている。だが、目には一切の光がなかった。
 二人は、番わせるために調整された。
 服従の形を観客の前で演じる。それが、今宵のショーの本質だった。
「さあ、始めようか」
 仮面の男が軽く声を放つ。
 音楽がひときわ低く、深く、空気を震わせるように響いた。
 少女の手首の鎖が引かれ、青年は無言のまま舞台の中央へと歩み出す。
 拒絶の余地などない。感情も言葉も調整済み。自我が残されていたとしても、選択は与えられていなかった。
 観客たちはその様を眺める。笑い、賭け、囁き合う。
「何分もつか」
「どちらが先に泣く?」
 ある者は双眼鏡で肉体の細部を舐めるように観察し、ある者は目を伏せるフリをしながら、吐息を荒げる。
 ここは、消費される命の見世物だ。
 誰も助けない。助ける者は、排除される。ここは、そういう世界――志朗が築き、守ってきた場所。そして、かつてシキが売られ、沈黙のまま従っていた世界でもある。
 ショーは続く。幕が再び降りるその時まで。全ては商品と観客のために。
 誰の涙も記録には残らない。沈黙と微笑と痛みだけが、その夜を飾る。

 観客席の片隅。舞台の熱気から遠く、カーテンの影にひっそりと据えられた重厚な革張りの椅子に、志朗は身じろぎもせず腰を下ろしていた。濃密な光と音の海の向こう、舞台を見つめている。
 調教師の軽い合図が飛ぶ。鎖が引かれ、鞭が鳴り、空気が引き裂かれる。
 その一つ一つに演者の呼吸と呻きが重なる。押し殺された声が、沈黙の衣を纏い、耳に届く。
 それらは全て金に換算される演出であり、価値だった。
 志朗は、このショーが好きだ。
 嗜好ではない。情趣など最初から混ざっていない。むしろ嫌悪に近い感情を、幾度も喉の奥に押し込んできた。
 だが、ここが最も金が動く場所だ。歓声が湧く。称賛が集まる。取引先の目が光を宿し、数字は跳ね上がる。情報が流れ、人が動き、物資が流通し、書類の山が回転し、微かに世界が傾く。この舞台は、志朗にとって成果そのものだった。
 だから見届ける。嫌悪の感情と共に静かに、確かに。
 ステージ上の演者たちは必死だ。足を引きずりながらも役目を果たそうとし、痛みに震えながらも観客の欲望を裏切るまいと涙を飲んで立ち続ける。
 泣き叫ぶこともできず、肉体を売られ、価値を測られ、名を与えられ、飼い慣らされていく世界。
 あまりの苦痛と悔しさと不条理。耐えきれぬ者は、泣く。逃げられぬ者は、心を殺す。どれほど調整されても本能の声は、完全には消せはしない。
 ――シキも最初は、こうだったのではなかったか。
 12年。何も拒まず何も求めず、ただ黙って傍にいた。命じれば従い、触れれば受け入れた。それがもし我慢していただけだったのだとしたら。
 ただ従わせ、飼い慣らした。そうして自分は、満たされていたのではないか。
(シキが戻ってきたら……首輪を外してやろう。……もっといい物を着けてやる。それがいい)
 舞台ではまた一人、新たな演者が登場し、拍手が沸き上がる。
 グラスが打ち鳴らされ、観客は笑う。金が流れ、欲望の重みに、夜が深まっていく。
 志朗の中にはもう、賞賛も快楽も響かなかった。
 残るのは消えぬ罪悪感。そして、それすら遅すぎると嘲笑うかのような焦燥。
 笑いの波が寄せては返す中、彼の胸の奥に満ちていたのは、たった一つ。自分は、取り違えていたのではないかという、確かな疑念だった。

 夜の海を渡る豪華客船は全ての宴を終え、深い暗闇の上をゆっくりと漂っていた。
 興奮は遠ざかり、札束は手を離れ、照明は穏やかに落とされている。スタッフたちの間には、安堵とも疲労ともつかぬ息が流れていた。
 志朗は控室にいた。
 脱ぎ捨てたジャケットをソファに放り投げ、第一ボタンを緩めた首元に、微かな冷気が入り込む。手には、氷が溶けかけたグラス。
 終わった。そう思えた。背中に張りつくのは、濃密な夜を走り抜けた者だけが知る、湿った疲労の感触。
 順調だった。金が動き、客は笑い、数字は跳ねた。歓声と吐息、獣の鳴き声が入り混じる、完璧な闇の一夜。志朗が作り上げ、守り続けた理想の興行だった。
 だが、扉が乱暴に開かれ、空気が一変する。
 霞が駆け込んできた。まだ何も言っていないが、顔に焦燥が滲んでいるのが容易に見てとれる。
「志朗兄さん、悪いニュースです!」
「……だから、良い知らせも一緒に持ってこいと言ってるだろ」
 だが霞の目は、冗談を受け流す余裕すらなく、真剣そのものだった。
「本日23時、機関の搬送車が襲撃されました」
 志朗の瞳から、光が引く。
「荷物を奪われました。護送ルートは極秘で、漏洩の形跡もありませんでした……が」
「魔道具か。兵器か」
 志朗の問いに、霞は言葉を探すように一度息を呑み、やがて告げた。
「素体です。調整を受け、明日のオークションに出す予定だった異能力者6体。それと、その……志朗兄さんのもとに、早めに戻そうとしていた……エルフの……」
 志朗は立ち上がる。遮るように言った。
「……シキか」
 答えは、沈黙だった。
 6体の異能者。商品として痛めつけられ、整えられ、舞台に並べられる運命にあった者たち。
 そして、シキ。志朗の傍に戻される筈だったあの存在。
 強奪ではない。誘拐でもない。救出――そう言われても仕方のない状況だった。
 いずれにせよ、志朗の手の届かぬところへ彼は連れ去られた。
 志朗は机の端にあったグラスを掴み、無言のまま壁へと叩きつけた。
 氷と金属が砕ける甲高い音が、沈黙を裂く。床に散った破片を見下ろしながら、志朗は低く呟いた。
「……誰が俺の所有に触れた?」
 声には怒りと共に、己の影を引きずるような深い孤独があった。

 船を降りた志朗はそのまま指揮室に現れると、まだ夜明けにはほど遠い時間にも関わらず、部下たちはその気配に一斉に身を起こした。
 志朗の足取りは静かだったが、誰もがその静寂の意味を理解している。
 無言で端末に向かい、操作する。監視ログ、移動経路、搬送記録。次々と情報が呼び出され、光の粒となって志朗の瞳に映る。
 やがて、短く息を吐いた。
「霞」
「はい」
「本当に、誰一人として犯人の手がかりを掴めていないのか」
「搬送ルートは、襲撃地点で通信が遮断。その数分後には全ての記録が完全に消去されました。内部でも極めて厳重に情報を管理していた筈で、外部漏洩の形跡は……」
「なら、漏らしたのは内部だな」
 乾いた音が、志朗の指から机に跳ねた。そのまま立ち上がり、全体に告げる。
「調査範囲を全域に拡大。R号の潜伏先を洗い直せ。過去に少しでも関与のあった者は、全員マーク対象としろ。逃走経路を封じろ。協力者、資金源、仲介屋、弁護士まで、全てだ。引きずり出せ」
 命令は鋼のように冷たく、容赦がない。
 部下たちが一斉に動き出す。緊張が、凍りついた水のように指令室を満たしていく。
 志朗の眼差しには、怒りだけではないものがあった。
 失った者の、心臓の奥底を貫く激情。支配者の冷酷さの裏に、どうしようもなく零れ落ちてしまった愛着の姿を滲ませてしまう。
「見つけ次第、殺して構わん。荷物は取り戻せ。六体は破損していても構わない。使い道はある。……どこにいようが、取り戻せ」
 命令だった。かつて何も持たず、何も与えられなかった彼が、ようやく得た一つを奪い返すための命令。
 喉の奥で焼けつくように疼く本音の一滴を、志朗は最後にもう一度、繰り出す。
「俺から奪えると思うな。……誰にも」
 志朗の中で正しさは沈み、取り戻すという単語だけが脈打つ。その執念が、どれだけの血を呼ぶかも知らずに。



【7章】

 /1

 一つ目。小さなバーが、炎に呑まれた。
 深夜二時。営業を終えた静寂のなか、裏手の非常口を蹴破って現れた暗殺部隊は、一切の逡巡なく標的を処理した。銃声、三発。悲鳴、わずか一秒。生存者、皆無。
 二つ目。次に崩されたのは、雑居ビルの一室にある探偵事務所だった。表向きは失踪人調査。だが実態は、仏田家から逃れた異能者たちを匿う、レジスタンスの隠れ家であった。
 暗殺者たちは漆黒の装束に身を包み、真昼の喧騒に紛れて突入した。術式による攻撃に、声を上げる暇すら与えられず、若者たちは内臓を焼かれ、もがくこともなく床に崩れ落ちた。
 机上には、写真があった。奴隷として売られる予定だった異能者たちの、拘束前の記録。いずれも志朗の命により、「荷」として取り扱われた者たちだ。彼らの現在の所在は不明。
 その中に、長い白髪と長耳を持つ青年がいた。静かな眼差し。名は、シキ。
 志朗は歯を噛みしめた。冷たく、短く、次の指示を吐き捨てる。
「全拠点を洗え。R号と繋がりがある、それだけで十分だ。街の連中が何を言おうと関係ない。正義を気取る奴が一番たちが悪い。片っ端から潰せ」
 都市も、地方も関係なかった。次々に血が流され、痕跡が消されていった。
 だがそれでも、シキは見つからなかった。
 証言すら得られず、どの拠点にも彼の足跡はなかった。まるで最初から存在しなかったかのように、エルフの痕跡だけが完璧に消されていた。
 部隊の兵たちの間に焦燥が走る。報復と制圧の痕ばかりが増えていく中で、肝心の「最も欲しいもの」はどこにもいない。
 志朗は夜ごと部下を集め、苛立ちを露わにした。机を拳で叩き、声を荒らげ、怒りがじわじわと沈殿していく。彼の眼差しには冷静さはない。焦燥とも喪失ともつかぬ、ひび割れた執着が、黒い水のように滲んでいた。
 三つ目。誰にも気づかれぬまま、また一人の命が断たれた。舞台は、学習塾を装った小さな部屋。そこは逃亡者を一時的に保護する中継地だった。そのオーナーは、背中から一刺し。音もなく崩れ落ちた。翌朝、部屋に残された血は、清掃業者によって「漏水処理」として綺麗に磨き落とされていた。
 四つ目。繁華街の裏通りで、人が忽然と姿を消した。元教員であり、異能の子供を匿っていた人物だった。防犯カメラの映像は削除され、警察の記録には「駆け落ちの可能性」とだけ雑に記されていた。
 五つ目。老舗の印刷所の地下にあったR号の連絡拠点が、爆破された。死者、五名。新聞は沈黙を守り、ローカル紙の隅に「老朽化によるガス漏れ火災」の五行記事が載ったのみだった。それを読んで真実に気づく市民はいない。いや、気づいたとしても、誰も口には出さない。
 都市の静寂は、仏田家によって買われていた。
 大手メディアの幹部には、料亭で封筒が渡される。警察上層部には、名もなき団体から季節の贈答品が届き、黙してそれを受け取る。行政機関には、助言者の肩書きを持つ仏田家の人間が潜り込み、あらゆる動向に睨みを効かせていた。
 夜のニュース。キャスターは、柔らかな笑みで締めくくる。
「本日も、特に大きな事件はありませんでした」
 報じられなかった死者たちは、名前も顔も、社会から抹消される。それこそが、志朗の操る仏田家の「力」だった。
 闇の奥で、志朗は報告を受ける。彼にとってそれは、もはや日常でしかない。
「次は?」
 一言問えば、部下は即座に新たなリストを差し出す。ターゲットの顔、住所、交友関係、そして処理後の隠蔽計画まで――全てが、最初から整っていた。
 そして、志朗は命じる。
「消せ」
 波紋一つ生まぬまま、表の世界は平穏を装い続ける。その裏で、一つ、また一つ、レジスタンスの灯火が、確実に、冷酷に、闇へと呑み込まれていく。

 レジスタンスの一員は、その半年を超える激闘を、終わりの見えぬ沈黙の中で過ごしていた。
 六件目――古書店、全焼。
 七件目――シェアアトリエにて失踪者、二名。
 八件目――雑居ビルの階段からの転落死。事故として処理。監視カメラは、なぜか全て故障していた。
 いずれも、かつての仲間だった。
 その名を、誰も口に出せなくなっていた。
 名前を呼べば、世界から消えてしまう。そんな予感が確信へと変わっていくほどに、死は日常へと近づいていたからだ。
 彼らは、居場所を転々と変えた。通信は暗号化し、顔を覆い、通りを足早にすり抜ける。
 だが、殺し屋たちは誤らなかった。姿を隠すことはできても、逃げ切ることはできなかった。
 敵は都市そのものに根を張っていた。名も、姿も持たぬまま、街の機構そのものを喰らい、血を流すたびに音すら立てなかった。
 九件目――レジスタンスの内部に、裏切り者がいた。
 彼は捕らえられたのち、ただ一言だけを遺した。「家族を人質に取られていた」と。そしてその夜、拳銃自殺。
 雨の日も、風の日も、失われていくのは、記録されぬ人々ばかりだった。
 ニュースにはならず、新聞にも載らず、葬式もない。都市の騒音に紛れて、名もなき死者たちは吸い込まれていく。
「……また、一人、消えたな」
 吸血鬼の男が、独り言のように呟いた。
「これで何件目だ。なんでおかしいと思わないのか。人間が、燃えて、転がって、殺されてるのに、誰も騒がない。……黙って見てるだけかよ」
 その言葉に、誰も返さなかった。
 沈黙は部屋を満たし、喉を締めつける。正義は語られることを許されず、もはや祈ることしか残されていなかった。
 彼らは、ある作戦会議室にいた。テーブルの上には広げられた地図。赤いピンが各地を穿ち、それは全て、かつて仲間たちが潜んでいた拠点だった。今はもう、どこにもいない。
 集まった者たちの眼差しに、激情はなかった。怒りは鈍り、悲しみは風化していた。
 残るはただ、音もなく降り積もる、静かな覚悟だけだった。
「……また一人、やられたんだね」
 青年がゆっくりと黒の帽子を取り、黙礼した。
「まさか、あの避難先まで狙われるとは思わなかったよ。現場には血の跡しかなかった。連れて行かれたのか、それとも……」
 狭い室内に、再び沈黙が降りた。
 窓は無い。換気扇の低い唸りと、書類が擦れるかすかな音だけが、虚空を切り裂いていた。
「どうする?」
 別の男が言った。痩せ細った頬に影を宿し、その眼差しは鋭く、同じ部屋にいる『唯一の人間』を見据えていた。
「このままだと俺たちもそのうち、飼い慣らされる日が来るぞ」
「……そうだねえ。そうなりたい?」
「まさか。そうなる前に、死んでまたやり直すしかないだろ……。それより、『あいつ』の居場所は大丈夫か。もし情報が漏れたら、終わりだぞ」
「……だねえ。少し移ってもらうしかないかな。せっかく自由にしてあげたのに、外に出せないのは可哀想だけど……仕方ない。あの子が、今一番狙われている」
 だが、その前に。まず、生き延びること。それだけは決して手放してはならぬ原則だ。
 己を殺すことすらも作戦の一部と化した世界で、彼らはなおも抗い続ける。名もなき正義の断片として、都市の闇の中を、なおも生きようとしていた。


 /2

 志朗は数日間、自宅である高層マンションに戻らなかった。シキがいないのなら、戻る理由が無かった。
 広すぎるリビングには、誰の気配もない。丁寧に磨かれたガラス窓に映るのは、歪んだ自身の影のみ。
 無人の空間に背を預けても、返ってくるのは冷たい静寂だけだった。惨めになるだけの場所に、帰る意味はなかった。志朗はオフィスに籠り、終わりのない作業に身を沈めた。
 それでも、どうしても帰宅せざるを得ない事情ができたある夜。志朗は一人で自室のドアを開けた。
 当然のように、シキの姿は無い。欠けているのは家具の一つや私物ではない。この部屋の空気から、温度が、意味が、まるごと剥ぎ取られていた。
 志朗は窓辺に立ち、夜の街を見下ろす。遠ざかる車列、点滅する信号、街灯に浮かぶ人影。その全ての中に、無意識に彼の面影を探している。
(どこにいる)
 何度も部下を動かした。情報を買い、施設を襲い、誰かを沈めもした。どれほどの血が流れたか、もはや正確には思い出せない。
 それでも、彼はどこにもいなかった。
 怒りが焦燥を蝕み、焦燥が孤独を増幅させる。この感情に名前を与えたとして、受け止めてくれる者などいない。
 命令に従い、忠誠を誓う者たちは無数にいるが、そのさらに奥にある剥き出しの痛みには、誰ひとり触れてこなかった。
(会いたい。そう思うのは、愚か者のすることかもしれない。それでも)
 胸の奥から、呟くような声が、どうしようもなく溢れてくる。
(早く、会いたい。会いたくてたまらないんだ)
 窓に映る自分の顔が、ゆらりと揺れた。
(……せめて……生きていてくれ……)
 表情はあまりに弱く、あまりに惨め。それでも志朗は、誰にも見せることのない祈りを都市の夜に落としていた。

 重厚な障子が、音もなく閉じられた。
 座敷の中央。漆塗りの黒い座卓を挟み、志朗と燈雅が向かい合っていた。
 息を潜めたような静寂の中、燈雅の隣に控える護衛が、盃に淡く酒を注ぐ。
 手際に迷いはない。受け取った燈雅は盃に口を寄せ、吐息とともに淡く揺れる香を含んだあと、あくまで穏やかに、言葉を継いだ。
「……随分、派手にやってるらしいじゃないか。オレは慎重に動けと言った筈だよ。今年は火種を撒くな。控えろとね。覚えてるか?」
 志朗はすぐには答えなかった。
 一拍の沈黙。背筋を正し、硬質な声音で応じる。
「R号はうちの資産を次々に奪っている。調整済みの異能個体、魔種との交配体。何年もかけて育ててきた計画が、奴らの手で崩されつつある。被害は、億単位じゃ済まない。……見過ごせる段階はもう過ぎてる。だから制裁が必要だ。徹底的に叩き潰さなければ」
 言葉は抑揚なく、それでいて熱を孕んだ弾丸のようだった。
 用意された論理。だが混ざる感情の気配を燈雅は逃さない。口元を歪め、小さく苦笑にも似た吐息を漏らす。
「私情を挟むなよ、志朗」
 声は静かだった。静けさは重みを孕み、空気を震わせる。
「お前の執着は分かってる。分かってるから、これまでは黙ってきた。けれど焦りに任せて暴れれば、取り返しのつかないことになる。……それはただの愚か者のすることだ」
 志朗の眉が僅かに動いた。反論の言葉は浮かばない。
 現当主の目は冷たい。深海の底に沈む石のように、どこまでも届かぬ視線をしている。
 あの目を向けられた者が戻ってきたことはない。志朗自身、それを知っている。
「朱指を動かしすぎだ。あの忠犬・剣菱でさえ、ついにオレに進言してきた。あの律儀な男が、だぞ。……制裁は必要だ。だが、こちらの消耗も看過できない。仏田家は無限ではない。お前に任せていたとはいえ、これは消耗戦だ。持たない」
 盃を口に運ぶ燈雅の所作は、先ほどと変わらない。
 味わうこともせず淡々と卓へと戻し、一息、淡く応える。
「とはいえ、鬼になってくれたお前には感謝している。R号以外の連中は一斉に尻尾を巻いた。外部への威嚇として十分だった。今後も、対外の調整はお前に任せる。勇み足だけは直すべきだ。抑えの利かない獣は、美しくない。不格好は、仏田家に似合わない」
 声音に怒気は無い。柔らかな、どこまでも冷静な口調。
 だがその言葉は、じわじわと志朗の胸の奥へと爪を立てていく。
「……分かってる。もう少し、やり方を考えるよ」
 低く絞った声。抑えられた音だった。底に渦巻く熱までは隠しきれなくても。
 激情の火種は、まだ胸奥で燻り続けていた。
 燈雅は眉を上げると、笑いさえ浮かべぬまま淡々と言う。
「ペットが盗まれて癪に障るのも分かるよ。10年以上も愛着を込めて可愛がってきたものを奪われたら、オレだって腹が立つ」
 志朗の瞳が揺れた。その揺らぎを、燈雅は逃さない。
「そうだ。新しい子を宛てがおうか。最近、大山から推薦されたエルフがいてね。まだ若い。耳は少し短いが、従順で可愛い。お前の好みにも合いそうだったよ」
 言葉の隙間に、うっすらと笑みが滲む。
 志朗は顔を上げ、即座にそれを吹き飛ばすように言い放つ。
「――いらねえ」
「そうか」
「欲しいのはエルフでも、奴隷でもない。代わりのきくものじゃないんだ。……もう俺には、奴隷は必要ない」
 私情を挟むな。そう叱責された直後に、剥き出しの私情で返す。
 どこまでも未熟で、どこまでも誠実。燈雅は肩を竦め、呆れたような吐息を漏らしながら微笑んだ。

 自分が何に縋っているのか。志朗自身、もう分かっていた。
 シキはただの所有物だった。そういう風に扱ってきた。名前を与え、檻に閉じ込め、飼い慣らし、それを愛と呼んでいた。
 けれど違った。あいつが従っていたのは愛でも信頼でもない。ただ、抗っても無駄だと知っていたからだ。
 そうだ。シキの父を殺し、母を奪い、そして、彼自身を汚した。そんな関係に絆も信頼もある筈がない。
 間違えたまま、戻れない。それでも――会いたい。
 償いもできず、癒しも与えられず、それでも傍にいてほしいと願ってしまう。
 どれほど醜く身勝手な祈りかは、百も承知だ。
「……欲しいものが代替できないと言うのは、贅沢な苦しみだね」
 燈雅は誰に向けるともなく呟いた。
「……あいつが戻ってきたら、自由にしてやるつもりだった」
「ほう」
「ああ、元から首輪を外してやるつもりだったんだ。……そろそろ、自由にしてもいいと、思っていたところなんだ」
「そうだったのか」
「けど……あいつが俺のものであることには変わりない。俺が、あいつを自由にする。首輪を外すのは俺だ。……誰かに勝手に解放されるなんて、許さねえ」
 口にした瞬間、その矛盾に自分でも気づいているそれでも言葉にせずにはいられなかった。
「好きな子に振り回されると、苦労するな」
 燈雅の声はからかいとも激励ともつかない。それに志朗は、目を細めた。
「兄貴は、そういうの……無いのかよ」
 怒りでも嫉妬でもなく。ただ人としての共鳴を求めた、淡い問い。燈雅は短く黙し、笑う。
「……いないよ。そういう相手なんて。最初から作らないのが一番だ。誰かを持てば、弱くなる」
 言葉は軽く、笑みもたやすかった。
 その奥に志朗ですら感づくほどの、微かな痛みが滲んでいる。
 押し殺した何かを抱えながらなお笑ってみせる姿。志朗は言葉を返さなかった。そのまま席を立つ。
「次の仕事がある。戻る」
 背を向けたまま、部屋を出て行った。
 障子の向こうへと弟の背中が消えたのち、燈雅はぽつりと呟く。
「お前は、もっと冷たく育つと思っていたんだがね」
 声音には、感情が無い。どこか深く乾いた余韻だけが残されていた。

 高層ビルの谷間を縫い、黒塗りの車が滑っていく。志朗を乗せたそれは、無言のまま郊外へと向かっていた。
 窓を閉めきった車内には、重たい熱気と沈黙だけが満ちていた。
 行き先は、郊外の拘置所。名目上は「更生施設」。その実態は遠い昔に役割を終えていた。施設の中枢は仏田家の管理下にあり、法務省の一部、刑務官、判事に至るまで金と血で繋ぎ止められていた。
 到着を告げるように鉄の門が開く。事前通達は済んでいる。
 曖昧な言葉が低く告げられる。
「死刑囚、移送」
 耳に馴染む言い回しだが、意味ははっきりしている。国家が処分すべきとした存在を、闇の側が「利用価値あり」と判断した。償いも悔恨ももはや不要。人としての終わりは、ただ「素材への変換」という名の工程へと差し替えられる。
「どうぞ、こちらへ」
 出迎えたのは、拘置所内に潜り込んでいる仏田家の職員だった。
 志朗は応じず、顎を動かすだけで通り過ぎる。
 案内された先の小部屋には、目隠しと猿轡、そして手枷足枷で拘束された男が一人、椅子に縛りつけられていた。
 全身が小刻みに震えていた。声も出せず何が起きているのかも分からない。本能的な恐怖だけが彼を支配していた。
 志朗は顔を一瞥する。知らない顔だった。どこかで罪を犯し、どこかで見捨てられ、今ここにいる。その人生の全てが、志朗にとっては他人事だった。
「生きていれば価値はある。そんなことを教えてくれたのは、誰だったか」
 皮肉まじりの独白が落ちる。
 死刑囚は何の抵抗もなく担ぎ上げられ、再び別の車へと運ばれていく。
 行き先は、超人類能力開発研究機関。あらゆる倫理と法が薄められ、魔術的実験と人体操作が黙認された中枢の地。そこでは名前も過去も捨て去られた者たちが、素材として管理されていく。
 器にされ、胎動にされ、兵器の核に変えられていく。魂がどれほど壊れようと、誰も咎めはしない。人間ではなく、魔術の構成要素として再定義されるだけだった。
 志朗は、その一連の移送と処理の流れを無言で見届ける。その胸に、かすかな麻痺が広がっていた。
(俺は、仕事をしている。ちゃんと、家のために)
 命を喰らわせることで金が生まれ、家が潤う。
 白衣の研究者たちは、数日かけてこの新しい素材を観察し、壊し、組み替えるだろう。
 やがてそれが、売れる成果になる。確かな利益になる。
(寄り道してようが、俺は役目を果たしてる。誰がどう思おうと、これが俺だ)
 この手で何人を犠牲にしても。何人の人生を塗り潰しても。志朗の手帳に書かれるのは、数字と達成率だけだった。


 /2

 磨き抜かれた床板に、艶やかな漆の箪笥。金糸を織り込んだ座布団が端正に並び、香の煙がたゆたう広縁。漂う空気は、古き良きという言葉では到底言い表せぬ、確かな格式を備えていた。
 正室としての完成。伝統と美と威厳とが、一切の無駄を許さず折り重なった空間。
 その中心に、彼女はいた。仏田 邑子。かつての当主・光緑の正妻にして、志朗を育てた母。
 時を経てなお黒髪には艶があり、白磁のような肌にごく薄く化粧を重ねていた。目元に微笑をたたえながらも、決して揺るがぬ芯を感じさせる。その優雅さは、意志の上に成り立つものだった。
 志朗が長く彼女の前に姿を現さなかったのは、自分がその隣に立つにはあまりにも不似合いだと、どこかで思っていたからだった。
 修羅をくぐってきた男に相応しい、黒のスーツに鋭利な眼差し。血と命の匂いを纏い、秩序の隙間で命を計算してきた存在。そうした自分は、この女性が住まう静謐にはあまりに異質だった。
 そしてそれは光緑も燈雅も、あるいは邑子自身も同じように感じていたのではないか。そう思わせるほどに彼女の佇まいは、堂々と完成されていた。
「お久しぶりです。お母さん」
 志朗の低い声が、静かな空気を揺らす。
 邑子は微笑を崩さず、丁寧に頭を下げた。
「志朗様。まあ、なんと立派になられて。お声だけで光緑様を思い出してしまいます。よくお戻りになりましたね」
 声音には、柔らかな懐かしさが滲んでいる。
 けれど志朗の眼差しは揺れなかった。否、揺らしてはならなかった。
 ――この女が仏田家の何を知り、何を守り、何を手放そうとしているのか。その答えを今まさに掴もうとしていたのだから。
「霞を通じて、うちの人間から報告がありました。仏田内部から、R号に情報を流している者がいると」
 邑子は何のことかとでも言うように、首を傾けた。その所作さえ、どこか絵画のように整っている。
 幼い頃、彼女の膝に抱かれ、読み聞かせられた記憶が、不意に胸の奥で疼く。
「内通者と思しき人物が、特定されました」
 志朗は淡々と告げる。
 一歩、母の正面へ進み出て、背筋を伸ばしたまま名を言った。
「仏田 邑子。貴女が、R号に情報を売った者ではないかと疑われています」
 瞬間、室内に漂っていた香の煙がふわりと流れを変えた。
 音はない。けれど確かに何かが軋んだ気配がある。
 邑子は目を伏せると、手にしていた扇をすっと閉じ、膝の上に置く。
 そしてまるで天気の話でも始めるような柔らかさで、言葉を紡ぐ。
「そうでございますか。では、お茶を淹れ直してもよろしいでしょうか? お話をするにも、志朗様には一服が必要でしょう」
 優雅。その裏に、剃刀のような静けさが隠されている。
「結構です」
 志朗は母の所作をじっと見つめていた。その姿の奥に確かにある筈ずの秘密。愛と忠誠、裏切りと信仰――その全ての綾が、一つの身体に封じ込められていた。
 立ったまま志朗は懐から一通の封筒を取り出す。畳の上に据えられた文机へとそれを滑らせた。
 邑子は座したまま、目線だけでそれを見やる。
「何かのご資料かしら?」
 柔らかく響く声に、志朗は表情を動かさず応じた。
「仏田家の内部からR号へ流されたとされる、通信記録と伝達ルートの写しです」
 淡々とした口調。どこにも感情の起伏は無い。
「貴女の旧姓、鶴瀬の名義で開設された口座を通じて、定期的な送金が行われていました。受取人は、甥の鶴瀬 正一。どう見ても、ただのお小遣いとは言い難い金額です。立派な甥御が、叔母から資金援助を受けているとは。実に情けない話ですね」
 一呼吸、言葉を落とす。
「なお、我々は鶴瀬 正一をR号の関係者と断定しています」
 邑子の表情は、少しも変わらなかった。
 指先を伸ばし、封筒を丁寧に開く。中から数枚の書類を取り出し、指先で一枚ずつなぞるように目を通していく。
 その所作には焦燥や狼狽がない。ただの儀礼のように、静謐だった。
「このままでは『仏田の正室が反組織に金を流している』ように見えても、致し方ないですね。金に困った甥に情けをかける慈悲深い叔母、というだけならまだしも」
 志朗は低く続けた。
「にしては、書簡の数が多すぎる。何をそんなに打ち合わせていたんでしょう?」
 問いに、怒気も嘲りもなかった。ただ真実に触れようとする一片の意志だけが乗っていた。
「貴女は、いつから俺たちを裏切っていた?」
 母という存在への最後の敬意として、語尾は敬語だった。
 邑子は一枚の書類に視線を落とす。そして昔話でも語るように口を開いた。
「裏切り……ですか。仏田の男たちは、その言葉を好みますのね」
「答えてください」
「……ええ。正直に申し上げましょう。私がR号に情報を渡し始めたのは、今年の1月です。今は11月……ですから、まもなく1年になりますわね」
 志朗は瞬きもせずに、その言葉を受けとめた。
「……安心しました。5年も10年も前からではないのなら」
 邑子は一度、扇を撫でるようにしてから、ゆっくりと続ける。
「けれど……仏田の構造が、今のような人身売買の体系を築き始めたのは10年以上前のこと。異能を捕らえ、調整し、売る。その流れが密やかに形を取りはじめた頃……志朗様も、その担い手でいらっしゃいましたわね」
「――それが何だ」
「守りたかったのです、誰か一人でも。無力な者が、どこかで生き延びられるように。……人として、それは自然な祈りではございませんか?」
 声に、悲しみや憐憫の色が無い。
 澄みきった水のように揺るがぬ決意が宿っている。
「貴方がこの家に迎え入れられた日、私は祈りました。外から来た子供ならば、どうかこの血に呑まれぬようにと。けれど、もう手遅れでした」
 志朗の拳が、震えた。怒りか哀しみか。あるいは言葉にならぬ何か。抑え込まれた感情の嵐が、肺の奥で鈍く唸った。
「……なら、なぜもっと早く言わなかった」
「言って、どうなさるおつもりでしたか?」
 邑子は、扇をそっと畳む。その微笑は、あまりに優雅で、あまりに冷ややかだった。
「貴方は成人を迎えるよりも早く暴力に手を染め、人を、物のように扱うことを覚えた。……まさか、あれほど早く染まるとは思いませんでした。さすがは、裏切りの常習だった光緑様の血を引いていらっしゃる」
 容赦ない一言が、真っ直ぐに志朗の胸の奥を貫いた。
 罪悪、羞恥、喪失。もはや、どの感情かさえ分からなかった。
 そのとき。志朗の背後で音もなく襖が開き、燈雅が入り込んでいた。
「では、母上。志朗の大切なものを同志に盗ませたのも、哀れな彼を救うためならば致し方ない、というご判断だったのですね。宝を奪われ、彼が傷つくことを想像しなかったと?」
 燈雅の背後には護衛の男が控え、あまりに唐突な登場であるにも関わらず誰も咎めない。この家では、彼に逆らう者はもういない。
 邑子は一言も返さなかった。その沈黙が、志朗の胸に棘のように深く沈む。
 しかし、やがてふっと微笑を浮かべ、言葉を落とす。
「……もし志朗が、そう感じられるようになったのなら。母として、それだけは、ほんの少し救いでございますわ」
 まるで肯定するように響く、シキの誘拐という行為。志朗の中で、確かな裂け目を生んだ。
「おや。志朗が傷つくことが母としての救いとは。酷いことをおっしゃる。裏切り者になる女には、人の心など残っていないのでしょうね」
 燈雅の声は、どこまでも涼やかだ。
「人の心があるからこそ、物に落とされた人々を、救おうと思ったのです」
 邑子は静かに言う。最初から、その言葉を準備していたかのように。
「私は、仏田家に良き血を与えるために嫁ぎました。ですが、外道の妻になるつもりはございませんでした。ましてや、外道たちの母になるつもりも」
 燈雅の眉が僅かに動く。だが笑みは崩れない。
「ならば、まずはこの事業を推し進めた父上を止めるべきだったのでは?」
「止めようと、しました。何度も話し合いを求め、貴方たちにも愛と教育を注ぎました。……けれど私は学んだのです。この家において、女の声は、風のように通り過ぎるものだということを」
「つまりは、無力だった」
「ええ。私の罪です。志朗も燈雅も。貴方たちを、正しく育てることができなかった。それが私の、敗北です」
 声には微塵の揺れもなかった。
 涙も震えもなく、毅然と、凛とした女の声であった。
「私は貴方たちに、誰かを思いやれる人間になってほしかった。強く、賢く、けれど、他人の痛みに気づける人であってほしかった」
 その理想は、あまりにも高く、美しかった。
「立派な理想ですね。だが、それではこの家は守れません。……母上は女として、随分と勝手なお考えをお持ちだったようで」
 燈雅の言葉には皮肉と優美が混ざっていた。
 邑子の瞳が僅かに揺れる。
「男に従い、子を産み、家を支え、黙って微笑んでいればよかった。誰も咎めず、器として誇りを持てばよかった」
「……その考えこそが、この家を腐らせたのです。貴方たちが何を売っているのか、何を踏みにじっているのか、私は知っています。生きたまま人を呪い、縛り、名前を奪い、身体を壊し、魂を売る、そんなものを私は力とは呼びません」
 言葉は澄んでいた。穏やかで、しかし決して曲がらない。
「美しい御言葉ですね。母上は、聖母にでもなったおつもりで?」
「いいえ、私はただの罪人です。……けれど、せめて最後に、罪を語る者でありたいのです」
 燈雅は、口元に笑みを浮かべた。
 だがその双眸には、冷たい炎が揺れていた。
「罪、ね。なら、罰も必要ですね。……志朗、どうする?」
 その問いが、志朗の喉を灼いた。何かを失った痛みのように、鋭く。
 邑子の声が、そっと降りてくる。
「志朗。貴方が、私の行いで傷ついたというのなら、それは、奪われる者の気持ちを知ったということ。痛みを知った貴方なら、きっと戻れる。まだ魂を捨てきっていないのなら……選びなさい。誰のために生きるのかを」
 言葉が、冷たい破片のように心を貫いた。
 志朗は喉を鳴らし、真っ直ぐに母を見つめ返す。
「……俺は、戻れません」
 静かな声だった。
 けれど、胸の奥を裂いて滲み出た、血のような言葉だった。
「戻るとすれば、もっとずっと前からやり直さなければならない」
 視線を畳の縁に落とし、低く続ける。
「13のとき、初めて照行さんの世界に触れた。裏の匂いが、妙に落ち着いた。息ができると思った。あの世界なら、俺は……呼吸ができると思ってしまった」
 邑子はただ聞いていた。表情は崩れなかった。穏やかに、見守るように。
「奪う側でいれば、自分らしくいられると、そう信じた。……多分その時点でもう、貴女の望んだ息子ではなくなっていたんです」
 声は震えていない。だがその内側には、剥き出しの苦しみがあった。
「だから。生まれたときからやり直さなければ、俺は変われない。……もう、戻れないんです」
 赦しを乞う言葉ではなかった。裁きを待つ声でもない。ただ自らが選びきった道を冷たく告白しただけだった。
 邑子は、ゆっくりと首を縦に振る。
「……そうですか」
 短い一言が、深く、優しく響いた。
 取り乱すこともなく、声を荒げることもなく。彼女は最後まで、母として、息子の姿を見つめていた。
「志朗様は、よく……お話しくださいましたね。ありがとう」
 その言葉に、志朗の胸が軋んだ。
 ――ありがとうだなんて。そんな資格は、どこにもないのに。
 志朗の横に立っていた燈雅が、手を軽く上げた。まるで風を払うかのように。
「では――罰を」
 まるで花を摘むように。呼吸のように。命じるというより、既に決まっていたことを確認する所作のよう。
 瞬間、燈雅の背後に控えていた長身の男が、影のようにすべり出る。
 音もなく、息さえも乱さず。仏田家でもとりわけ無音の処理に長けた、燈雅直属の刃。合図もなく、言葉もなく、ただ剣が抜かれた。
 銀の軌跡が空気を裂く。遅れて、血の匂いが部屋を満たす。
 邑子の身体が傾いた。
 志朗が反射的に一歩を踏み出すよりも早く、終わる。
 音は無い。悲鳴も呻きも拒絶も、何一つ。
 邑子は言葉を残すことなく倒れた。薄絹が畳の上へ落ちるように。着物の胸元から血が滲み出し、花弁のように広がった。
 志朗の足は動かなかった。口も開かなかった。その場に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「男衾、よくやった。……母上が苦しまずに済んだ。最大の親孝行になったな」
 燈雅の片腕である男衾は、血を纏った刃を黙々と拭い、そのまま死体の処理に取りかかる。
 仏田家において死はただの手続きだった。感情は混ざらない。儀礼として、粛々と進む。
 男衾が一礼し、邑子の亡骸を巻くように抱き上げる。丁寧に畳を拭い、空気を入れ替え、全てを元の静けさへ戻していく。志朗は、黙ってそれを見ていた。
 母の命が断たれたというのに、感情はまだ、どこにも定まらなかった。
「さて……世間様には、どう報告しようかな」
 燈雅は視線を宙に泳がせながら言う。
 血の香りさえ嗅ぎ慣れた者の、余裕ある声色だ。
「母上そっくりの人形でも作って、お部屋に座らせておけばいいか。父上が亡くなってから殆ど外に出なかった。優雅に誰とも交わらず過ごしていた。誰も気づかないさ」
 残酷だった。けれど、声には悪意の欠片すらない。冗談のように、それでいて本気のように。
「新座だけは勘が鋭いかもしれないけど……あの子ももう30。外の生活が楽しくて、滅多に帰ってこない。年に一度の帰省なら、十分騙せる」
 皮肉にも似た独白が宙に消える。その背に、志朗はようやく声を発した。
「……兄貴。今の気持ちは?」
 ゆるやかに視線が交錯する。燈雅は、支配者の笑みを崩さずに言った。
「ふふ。意地悪だね、志朗は」
 背を向けたまま、音もなく去っていく。
 何も無かったかのように。一つの命が失われた部屋を、ただの掃除済みの空間として残して。
 その場に残されたのは、母の香の名残と、鉄の匂いと、名状しがたい喪失だけだった。


 /3

 仏田寺・離れの一室。障子の向こうに残る陽光が、まだこの世界に太陽があることを示していた。
 11月、日暮れは早い。そんな明るさの中で、仏田 邑子は命を終えた。血も涙も闇に染まる前、光の残るうちに。仏田家に血を与え、燈雅と新座を産んだ女の末路は、完璧に消去された。
「処理が完了しました。邑子様の人形の件も、天足に手配済みです」
 頭を下げたまま、男衾が低く告げる。報告は続く。日々の家事でも伝えるような、乾いた声音。段取り通りに死者は人形へとすげ替えられ、やがて庭を歩く姿が再現される。
 仏田邑子は変わらず「元気にお過ごし」であり続け、誰も気づかぬまま、記憶は書き換えられていく。
 燈雅は、畳に膝をついた男衾を見下ろした。
「ありがとう」
 ただ労の定型としての感謝がある。
「二十時より、上門所長との会議がございます。……いかがなさいますか」
 男衾の声が僅かに和らいだ。
 それはいつもの確認ではなく、母を喪ったばかりの主人を案じた、控えめな気遣いだった。
「行くよ。お役目だからね」
 即答。迷いも揺れもない。
 男衾は一礼して下がる。約束の一時間前になれば再び現れるだろう。残された時間を、燈雅は一人で使うことにした。
 ひとときの余白に燈雅は部屋を出て、仏田寺の奥庭を歩いた。
 石灯籠の影が夕暮れの光のなかで長く伸びている。秋の終わりを告げる風が庭木の葉を撫で、枝葉を微かに震わせる。
 縁側に腰を下ろし、目を閉じた。
 耳を澄ませば枝が擦れ合う音がかすかに響いてくる。静けさの仲で、志朗の言葉が思い起こされた。
「兄貴は、そういう経験は無いのかよ」
 ――圭吾。
 その名を胸の奥で呼んだ瞬間、あの日の顔が脳裏に浮かんだ。
 志朗に「好きな人がいるか」と問われたとき、真っ先に浮かんだのは、なぜか彼だった。
 数えきれぬ名と顔の中、ただ一つ、記憶の濁流でも沈まずに残っている。
 澄んだ眼差し。真っ直ぐな声。あの縁側で並んで過ごした子供の日々。
 けれど、圭吾は消えた。事情があったのだ。生活が変わっただけ。燈雅の最後の「私的な色彩」が消えてなくなった。
 志朗のように敵に攫われたわけではない。だがそれでも燈雅にとっては、仏田家に「奪われた」も同然だった。
(……オレがあいつのように「新しい子をあげる」と言われたら、どう思うだろう)
 想像した瞬間、背筋に冷たいものが走る。
(殺してやる、と。志朗がそう言い出さなかったのが、不思議なくらいだ)
 燈雅は、志朗をほんの少し尊敬した。
 自分なら怒りに任せて手を上げてしまったかもしれない。男衾に命じて、発言者を処理していたかもしれない。
(……まあ、その「新しい子」として配備されたのが、男衾なんだけど)
 皮肉に思わず口元が緩む。
 圭吾が勝手な真似をした結果、当主守護用に調整されたのが、今となっては彼。男衾自身もそれを分かっている。誰かに詰られても、彼は困惑するだけだろう。
 志朗に対しても、母に対しても、自分はなんと無神経だったのか。そう思い、燈雅は頭を抱えた。
(……オレが思い描く当主像は、あまりに冷たすぎる。自我が消えてしまいそうだ)
 そんな風に悩むことすら、自我が残っている証拠だった。
 ここ数年、何も悩まなかった。なぜ、今になってこんなに心が波立つのか。
 ――圭吾を思い出してしまったからだ。
 彼のことを想えば想うほど、冷たく鍛えた心がほぐれていく。
 あいつがいたら、ここまで冷酷にならずに済んだ。どこか遠くであの笑顔と過ごしていたら、母を殺し、それを命令として処理するような男にはならなかった。
 そこまで思って、燈雅は笑った。自嘲の滲む、微かな笑みだった。
(こんなにオレが強く想っているなんて……圭吾は、知らないだろうな)
 会いたい。ただそれだけの想いが、胸を喰い破るように疼く。
 志朗が語った、異種の青年への情愛。その激しさに、どこかで嫉妬すら感じていた。
 あれほど強く想われて、あれほど強く求められるなんて。自分だって、あいつを傍に置きたいと願ったことはあった。
 けれど、言葉にしたことはない。もう、言ってはいけない。住む世界が違うのだから。当主として。
 縁側の陽だまりで笑い合ったあの日。その記憶が蘇った途端、無数の声がそれを圧し潰していった。
 完全にかき消されたところで、燈雅は背筋を伸ばす。
 狂った家の心なき王として、立ち上がるために。


 /4

 午後七時。空は灰と墨の境界を彷徨いながら、薄雲に滲んだ夜をじわじわと広げていた。都市はまるで、あらかじめ死を含んだ静寂を整えているかのようだった。
 志朗は黒のロングコートを翻し、古びたビルの前に立っていた。
 高さはない。だが鉄骨はむき出しのまま、時代の流れを意に介さぬように無骨で、重い。外壁のタイルは黒ずみ、ネオンサインは幾度も修理を繰り返した痕で歪んでいた。
 三階の外壁には、色褪せた看板がぶら下がっている――“AMUSEMENT ARCADE”。掠れたカタカナと英字が、過去の時間に取り残されたように揺れていた。
 仏田 邑子が生前、水面下で接触していた人物の痕跡が、この場末の場所へと繋がっていた。
「何が出てきてもおかしくはないな」
 志朗は低く呟き、足音を殺してエントランスを抜ける。
 押し開けた扉の向こうには、色彩と暗闇が交錯する、音と光の迷宮が広がっていた。
 機械音と電子音。煙草とカップ麺の混ざったような空気。並ぶ筐体はどれも古く、点滅する電飾が壊れかけの眼球のように明滅を繰り返している。
 壁には破れかけたポスター。奥のカウンターには、目元を隠すように帽子を深くかぶった男たち。
 モニターの青白い光に照らされた顔は、異様に若いか、あるいは老いすぎていた。その全てが、“均質な異物”の匂いを纏っていた。
 志朗は歩を進める。この中に、シキを知る者がいるかもしれない。あの白い肌を、この光の下で見た者が。
(いたなら、連れ戻す。それだけだ)
 格闘ゲーム筐体の前でたむろする若者たちを無視し、志朗はゆっくりと店内を進んでいく。
 カウンターの奥、肌の浅黒い男が近づいてきた。
 無精髭。帽子を深く被り、何かを隠すような風体。どう見てもサービス業には向いていない。だが、律儀に口を開く。
「遊びに来たにしては、随分場違いな恰好ですね」
 その影が志朗の影と重なった瞬間、志朗の声が低く落ちた。
「ここに、長耳の奴はいるか」
「さあ……知らないですね。どこの店の子です?」
「長耳だけで通じるか。普通の人間なら聞き返すもんだ」
 瞬間、志朗は発砲していた。
 誰もが「まだ撃たない」と思った刹那、躊躇いなく銃が抜かれ、火を噴いた。予兆すら与えぬ早業だ。
 しかし、男は撃たれていなかった。弾丸の直前で、高速詠唱によって生成された防御障壁がガキンと音を立てて浮かび上がる。男の眼前に現れた透明な壁が、弾丸を逸らしていた。
「へえ、能力者か。やっぱりな。じゃあ、お前はうちの金になる」
「問答無用かよ!? 気でも狂ってんのかお前!」
 男が叫びながら身構えたと同時に、ビルの外階段から足音が響く。
 乾いた音。鋭く、規則的に。
 先頭を切って現れたのは霞。後ろには、組から選りすぐられた精鋭部隊。
「いいぞ霞! ここにいる人外、全員連行対象だぁ!」
「ぜ、全員、応戦っ!」
 店内にいた少年たちが、一斉に椅子を蹴り上げて立ち上がる。
 中には小柄な少女、義手の青年、刺青を刻んだ巨漢まで。彼らはただの客ではなかった。誰もが銃器、刃、魔術具としか思えぬ道具を構え、志朗たちに向き直る。
 だが志朗が「やれ」と低く命じた瞬間、破裂音が店内を切り裂いた。火花が弾け、煙が渦巻き、筐体のガラスが爆ぜるように砕けた。
 爆風の中、ゲームのBGMだけが、警告音のように無限ループで流れ続ける。
 混沌の中心で、霞が素早く前に出る。拳を一閃するたび、三人が吹き飛ぶ。その背後で、銃声と叫び声が交錯する。床には破片、血の飛沫、破れた衣服。かつてここは人々が娯楽に身を委ねた場所だった。今は血と怒声にまみれた阿鼻叫喚の巣窟と化していた。
 志朗の目は、煙の向こうを見つめている。
 白い肌、長い耳。その片鱗を捉えたなら、たとえ何を壊しても構わなかった。それが、彼の愛の形だから。
 志朗は無言で青年を睨みつけた。眼差しは氷の刃にも似て、怒りを内に秘めたまま微動だにしない。
「今すぐ言え。エルフは、ここにいたのか」
 問いは低く、しかし突き刺すような鋭さを孕んでいた。
 だが青年は揶揄するような笑みを浮かべ、軽く肩を竦める。
「さあな。ただ一つ、教えてやるよ。……あんたのせいで、あの子はずっと苦しんでた。救われて自由になる権利が、あの子にはある」
 その言葉が、志朗の表情を変える。
「あいつを自由にするのは、俺だ」
 冷たい、凪のような怒り。
 拳が閃光のように走った。乾いた音が響き、青年の顔面が殴り飛ばされる。
 悲鳴と共に、青年のもとへ女が駆け寄る。
「よくも……!」
 それはもはや人の動きではなかった。獣めいた疾走。即座に、女に向けて銃弾が炸裂する。乾いた破裂音が一発、続けて二発、三発と空気を裂く。古びたメタルスラッグの筐体が砕け、火花を散らしながら床に倒れる。そして志朗の命令が飛ぶ。
「一般人ごと構わん。障害は、全て殺せ」
 声を合図に、霞が怒声を上げた。
「全員展開! 掃討開始!」
 組の兵士たちが一斉に動いた。
 散弾銃を構えた男がカウンター内を薙ぎ払い、機関銃を担いだ別の兵が景品棚ごと客を蜂の巣にする。
 もはや抵抗ではなかった。ただの制圧。虐殺。
 志朗の身体には一発の銃弾も届かない。事前に霞が施していた、術師による防護の術式。だからこそ、彼は戦場の中央で冷静に命を刈り取ることができた。
「きゃあああああっ!」
「助けて、やめてぇ……!」
 血が弾け、液晶が割れ、硬貨が床を転がって跳ね返る。
 ゲームセンターは、もう娯楽の場ではない。準備されていた虐殺の舞台だ。
「おい、やめろ! ここには一般人もいるんだ、無関係な人間まで……!」
 若い男の叫びが、銃声にかき消される。
 彼の肩が銃弾で吹き飛び、悲鳴が反響した。
 逃げ惑う人々。一人の少女が立ち塞がる。震えながらも、彼女は声を張り上げた。
「避けて! 防御壁展開ッ!」
 光の術式が疾走し、爆発を光膜が押し留める。彼女は震える親子を庇い、必死に後方を指差す。
「非常階段がある! 子どもを連れて、逃げて!」
 その顔には恐怖ではなく、決意があった。もはやただの少女ではない。守る者として、立派に戦場に立っていた。つまり……。
「ああ、そういう顔をするってことは。革命ごっこ遊びのメンバーか。……R号は徹底的に潰せ!」
 志朗が囁き、霞が頷く。その手が懐から小さな符を取り出し、指で裂いた瞬間、空気が歪む。
 黒い稲妻のような魔力が床を走り、フロア全体に結界が展開された。
 出口を目指していた若者が、見えない壁に激突し、弾き返される。喚き声が上がる。
「閉じ込められた!? 結界か!? 外に出られねぇ!」
「結界完了。対象は非戦闘員を含め、全員内部に閉じ込めました。いつでも排除可能です」
「おう。……人質は揃った。さあ、喋れ。お前さんが知っていることを吐け」
 志朗が再び浅黒い青年に問いを投げる。
 その間にも銃声が響く。拳が唸り、魔術が飛ぶ。ゲームセンターという狭く閉ざされた空間は、確実に地獄へと変貌していた。
「ふざけてるッ!」
 カウンターの上からレジスタンスの少年が怒声を上げる。
 魔術の衝撃波が炸裂し、古いプリクラ機が吹き飛び、兵士の一人を床に叩きつけた。
「関係ない人たちまで……殺す気かよ! お前ら正気かよ!」
 志朗の声が、冷ややかに返す。
「正気なわけがない。俺たちは、地獄から来たんだ」
 少年の胸元に銃弾が貫通した。魔術の残光が宙に舞い、やがて散った。
 スクリーンは凍結し、光は止まっている。ただ一つ「Continue?」という言葉だけが、どこか滑稽に明滅を繰り返していた。
 レジスタンスの若者が怒声とともに飛び出す。
 拳を握りしめ、志朗に殴りかかる。だがその刹那、霞の掌が先に男の胸を捉えた。
 閃光。雷撃の魔術が男の腹を貫く。短い悲鳴。焦げた肉の臭いが、血と煙の濁流に紛れて立ち上る。
 瓦礫と死体と散乱するゲーム機の残骸の中。その中心に捕らえられた浅黒い男がいた。志朗は無言で近づき、銃口を額に押し当てる。
 帽子が銃口の衝撃で跳ね飛ばされる。現れたのは、不釣り合いなほど柔らかな猫の耳だった。
「……おっさん面のくせに、随分可愛いもんつけてるじゃねえか」
 志朗は冷えた声で嘲る。
「さあ、教えてくれないか。お前らが盗んだものは、どこに隠してる」
 男は笑わなかった。絞るような声を漏らす。
「教えれば……助かるのか?」
「さあな。俺の気分次第だ。悪いが、今はあまり機嫌がいいとは言えない」
 後方では断末魔が断続的に響いていた。
 銃撃、火炎、悲鳴。志朗の背後で兵たちは次々と処理を続けている。
「殺すしか知らないのかよ、お前らは!」
 レジスタンスの少女が涙で濡れた顔を上げ、両手を掲げて術式を展開する。
 残された仲間を護るための、最後の防壁だった。
 しかし結界の内側に救いはなかった。ここは襲撃ではない。圧殺だ。希望など、最初から一つもない。
 煙と血の匂いが入り混じり、機械の火花が飛び交う。既にゲームセンターの電子音は消え失せ、代わりに響くのは、生者の悲鳴と死者の沈黙だけだった。
「た、助けて……誰か……!」
 プリクラ機の陰から、少女が瓦礫の隙間を這うようにして出てきた。銃声が走った。肩口から、腕が吹き飛ぶ。
 少女は絶叫した。けれど、その叫びは誰にも届かない。この空間は結界で封じられている。世界から切り離され、沈黙の底にある。
 志朗は無造作に煙草を咥えた。火をつけるのは、黙って控えていた霞だ。炎が揺れ、灰がゆっくりと落ちる。
 礼もそこそこに、志朗は足元の男の顔面を無言で踏みつけた。
 靴底に圧されて、鼻梁が砕ける。呻きながら転げる男の両膝は撃ち抜かれていた。まともに声も出ない。
 だが、それでも志朗は問う。
「言えよ。シキは、どこだ?」
 男は血を吐き、歯を噛みしめたまま、黙り込んでいた。
 志朗は薄く笑う。怒りも焦りもない。ただ冷たい愉悦の色だけがある。
「霞。次は、眼球だ」
 霞は頷き、懐から銀色の細工道具を取り出した。男の目前で構える。
「や、やめてくれっ……! 俺は……ただ、知り合いに連絡を頼まれただけでっ……ぐあっ、あああっ……!」
 金属が眼球を抉る、湿った音が響いた。生々しい悲鳴が、煙と熱の中に溶けていく。
 その様子を物陰で見ていた親子がいた。互いにしがみつき、ただ震えていた。祈るように、怯えるように。
「……お願い、もう、やめてくれ……これ以上は……!」
 懇願の声に、志朗は一瞥すらせず呟いた。
「あそこ……うるさいな」
 迷いなく引き金を引いた。
 母親の頭部が、破裂する。柔らかい肉片が飛び、子供の頬を赤く染めた。
 子供は何も言えなかった。声すら恐怖に凍りついた。志朗は煙草を咥え直しながら、ゆっくりと銃口を下げる。
「これで、お前の声が聴きやすくなった」
「……貴様、人間じゃない……反吐が出る、悪魔め!」
 呻くように吐き出された言葉に、志朗は唇の端を僅かに持ち上げた。
「猫耳つけたオッサンが人語を喋ってる方が、俺には気持ち悪いがな」
 言って、燃え尽きかけた煙草の火を、男の頬に押し当てる。
 皮膚が焦げ、血と汗と硝煙が混じりあう。
「お前のせいで、ここにいる奴らは全員死ぬ。言いたくなったら言え。何人死のうが知ったことじゃない」
 誰かが助けを叫ぶ。けれど全て結界の内に吸い込まれ、消えていく。
 警察もマスコミもここには来ない。仏田家に楯突いた者たちの末路は誰の記録にも残らぬまま、音もなく闇に沈む。
 そのときだった。
 遮断されていた高層階の窓、分厚い強化ガラスが、雷鳴のような銃声とともに内側から炸裂した。
 硝子片が閃光となって空間を貫き、音よりも速く飛来した一発の弾丸が、志朗の喉元を正確に狙う。
 咄嗟に飛び込んだ部下が盾となって銃弾を受け、鮮血を撒き散らしながら倒れ込んだ。
 志朗は身を引く。
 肌に焼けつくような気配が走る。それはただの鉛ではなかった。呪的な殺意。魔を纏った意志が確かにある。
 直後。砕けた窓枠の隙間から、風のような気配が駆け抜ける。一筋の銀光。誰かが息を呑む間もなく、鋭い軌跡が宙を断った。
 剣だった。
 細く、長く、月光をそのまま鋼に封じ込めたような美しい細剣。その刃を振るう者、しなやかな肢体が床を滑るように着地する。
 跳ねるエメラルドの髪。闇の中で冷たい光を帯びた瞳と、あまりに人間離れした輪郭。尖った耳が月光に照らされた瞬間、場の空気が一変した。
 ――エルフ。
 誰かがそう呟いた。あるいは、恐れと共にそれを理解しただけだった。
 異形の剣士は舞うように動いた。足取りには音がなく、斬撃には迷いがない。
 志朗の兵が次々に倒れていく。胴を断たれ、肩口を裂かれ、背後から喉を貫かれる。刃の触れる音だけが生者と死者を分けていた。
「なんだこいつ!」
 叫んだ兵の声は、断ち切られた腹部とともに失われた。血を吐きながら崩れ落ちる肉体。もはやこの空間に対処という言葉は存在しなかった。
 再び、低く重い銃声が響く。ズドンと。音は遠くから届いた。その威力は結界をも貫き、室内の壁を抉る。
 狙撃。だが狙いは外れていた。警告だった。あるいは宣言だ。
「狙撃手がいる」
 霞が低く呟く。その眼差しは、結界の彼方に立つもう一つの異形を捉えていた。
 白銀の月を背に、風の中に佇む黒い影。長く翻る黒衣。闇に溶けるようなシルエットの中、漆黒の銃を携えた青年がいた。
 白磁のような肌。月光を宿したような蒼い瞳。その身から漂うのは、不死なるものの静けさ。――吸血鬼だ。
 存在が弾丸に魔を宿らせる。眼が風と距離を斬り裂く。意志が遠くからでもこの戦場を射抜いてくる。
 エルフの剣士。吸血鬼の狙撃手。どちらも、人の枠を越えた者たち。だが今この時、彼らは人のためにここへ現れた。――人間たちの手から、仲間を奪還するために。
 それはただの奇襲ではない。レジスタンスの反撃が今、始まった。

 ズドン。再び、轟く銃声。
 破砕されたゲームセンターの瓦礫に轟音が反響し、濛々と立ちこめる煙を割って、一際異質な声が割り込んだ。
「はーい、みんなこっちこっち! 逃げるよー、走ってー!」
 場違いなほど軽やかだった。けれどあまりに明るい声音が、かえって地獄の叫びよりも耳を打つ。
 悲鳴の中で浮き立つ声は、狂気の渦に風穴を開けるようだ。
 破れた筐体の陰から、煙と炎を従えて現れた男の影。背丈は二メートルもあり、抱えた鉄板はまるで一枚の盾。その威容は、あまりにも堂々としていた。人間ではない。むしろ、その確信だけが見る者の理解を拒んでいた。
 巨躯はまさしく壁だった。破滅の只中を平然と歩み、少女の腕を抱え、一人また一人と瓦礫の中から生還者を拾い上げていく。
 背後ではエルフの剣士が光のような軌跡を描き、志朗の部下を翻弄する。
 上空からは吸血鬼の狙撃が容赦なく降り注ぎ、逃げ場を塞いでいた。
「くそっ……あの巨体、民間人を攫ってるぞ! 止めろ!」
「えっ、俺!? 攫ってないってば〜! 救ってるの!」
 滑稽にも聞こえる軽口に、怒声が重なる。
 霞が警告を叫ぶよりも速く、志朗の配下の一人が突進した、が、その進路に銀の閃光が割り込む。
「邪魔はさせない」
 澄んだ声が、空気を裂いた。
 エルフの剣が弧を描き、兵の手首ごと武器を斬り捨てる。
 斬撃は寸分の迷いもなく、断末魔は赤い花のように血煙をあげて舞った。
 その隙に再び少女が巨人の腕に抱き上げられ、光のほうへと逃されていく。
 遠方からまた銃声。遮蔽物に隠れていた仏田の兵たちが、吸血鬼の銃弾に次々と沈められていく。精確さは、もはや殺しというより無力化の技術だった。命を削ることが目的ではなく、戦意を折ること。射抜くたび、戦場に沈黙が広がっていった。
「あの巨人、邪魔すぎる。落とせ!」
 志朗が舌打ちと共に叫ぶ。
「無理です、奴には……吸血鬼が必ず援護についてきます!」
 この戦場は、既に一枚の絵画のように構成されていた。
 斬撃。銃撃。そして巨壁のような救出者。三者が織りなす連携は、戦場の力場を明確に転覆させていた。
 志朗側の兵たちは足場を奪われ、視界を裂かれ、攻撃の糸口さえ掴めない。
 床は砕け、焦げ、硝子と血とが混ざり合い、世界を切り裂いていく。
 返り血と煤にまみれた志朗のスーツが、黒から赤に染まりつつある。
 肩が震えていた。怒り。屈辱。だがなによりも胸に焼き付いていたのは、シキを守ろうとする声。この手から奪い返そうとする、意志の声だった。
「……クソがッ……!」
 志朗は、血まみれで蹲る男の髪を掴み、引きずり上げる。
 睨みつける瞳が、血と憎悪に濁っていた。
「シキはどこだ……あいつに会わせろ。知ってるんだろ、お前!」
「し、知らねえ!」
「ああ、そうかい。お前みたいな雑魚が俺の邪魔をした。連れて帰る。喉が裂けるまで、吐かせてやるよ」
 引きずられる男が悲鳴を上げかけた、そのときだった。
「やめなよ、お兄ちゃん」
 それは、音ではなく空気を変える声だった。

 静かに、しかし鋭く。冷たい刃のように空間に落とされた言葉。志朗の動きが止まる。霞も振り返る。
 ――そこに立っていたのは、白いコートの青年。志朗と似た顔立ちの中に、別種の冷たさを宿す輪郭。
 瞳は虚無。微笑には感情がない。氷の仮面のように、無関心のまま世界を見下ろしていた。
「新座」
 志朗の唇が歪む。
 仏田家の末子にして、天才。読めない男。味方か敵かすら掴めず、いつも傍観者であり続けてきた弟が、ついに、舞台へと歩み出てきた。
 新座は歩み寄り、志朗の手に掴まれた男へと一瞥を送る。
 目には、哀れみも怒りもなかった。冷えた水面のように澄んでいた。
「その人を拉致してどうするの? シキお兄ちゃんの居場所を吐くまで嬲るつもり? ……でも、知らないって言ってるじゃないか。知らない人を叩いたって出ないものは出ないよ」
 声音は、空気を切り裂く針のようだった。無感情さが胸の奥を鋭く刺す。
「お前……何をしに来た」
 志朗が唸るように問う。
 少しだけ首を傾けて新座は答えた。
「志朗お兄ちゃんの暴走を止めに来た。これ以上やったら……シキお兄ちゃんに、嫌われるよ」
 その一言は、志朗の心臓を貫いた。
「……なぜお前が、ここにいる」
「騒ぎがあったから。駆けつけただけだよ」
 瓦礫のビルの中、血と硝煙の残り香がまだ立ち込める空気の中で、志朗の問いが響く。
 足元には砕けたガラスと死体の山。焦げた機械の残骸が火花を散らし、淡い光が無感動な弟の輪郭を照らしていた。
「……普通は逃げるもんだろ。騒ぎがあったら」
 新座は小さく肩をすくめ、微笑を返す。
「確かに、そうだね」
 だが笑みはすぐに消えた。そして、淡々と続ける。
「でも、駆けつけるよ。仲間が殺されそうで、無関係な人まで巻き込まれそうで……それを止めるためなら」
 瞳に宿る光が変わった。燃える炎ではない。氷のように冷たい、だが確かな意志を帯びた光。吐き捨てるような口調で、言葉を放つ。
「悪意が暴れていたら、止めたいと思うのが正義の味方ってもんでしょ?」
 目は、もはや兄を見ていなかった。
 過去に慕った存在ではなく、今ここにいる敵を見据えていた。
 志朗は沈黙のまま、真正面から受け止める。次いで、低く乾いた笑いを漏らした。
「……正義の味方、だとよ」
 足元の瓦礫を踏み砕く音が、ゆっくりと空間を満たす。
 靴の先には誰のものとも知れぬ血が滲んでいた。口元に笑みを浮かべたまま、志朗は問う。
「じゃあ、何だ? 俺が悪だってわけか?」
 笑っている。目だけは、ひたすらに冷えていた。
「違うの? ここで何人死んだ。誰の命令で。どれだけの無辜の人間が」
 新座の声は変わらない。静かで、鋭い。静けさが志朗の内部にある何かを容赦なく穿つ。
「黙れ」
 唸るような低音が落ちる。
 志朗の肩が震えた。怒りか羞恥か。あるいは、もっと名のつかない感情か。
「正義の味方なんて口にするな……お前も、あの家で育った。俺がどう生き延びてきたか知らない筈がないだろうが!」
「知らないよ」
 新座の返答はあまりにあっさりしていた。
 だがその淡白さが、志朗をなおさら深く切り裂く。
「四六時中、志朗お兄ちゃんを見張ってたわけじゃない。知らないって言ったよね。でもさ……」
 声は鋼だ。音量を上げずとも、強く響く芯がある。
「知らないからって、同じ家にいたからって……それで今、目の前にある悪を見逃していい理由にはならない」
 志朗の目が見開かれる。その奥で怒りの仮面の下に蠢く名もない叫びが膨れ上がっていく。
 突如として動いた。
 志朗は新座の胸ぐらを掴み、壁へと叩きつけた。破れた壁紙が舞い、鈍い蛍光灯の光が、二人の影を不穏に揺らした。
「新座……お前、R号なのか」
「違うよ。レジスタンスだ」
 答えは即答だった。
 淡々と、しかし揺るぎなく続ける。
「人外種族を捕まえて、弄んで、捨てる。そんな奴らに抗うために作られた組織……僕が、作った」
 志朗の瞳が揺れる。
 怒りが臨界に達し、拳が振り上がる。
「なら、俺の敵だな。……お前らが、あいつを奪った。俺のものを! 正義の一言で……俺の全てを!」
「……哀れだね、志朗お兄ちゃん」
 新座の声が、氷のように澄み切っていた。
「順序が逆なんだよ。頭、冷やしたら? ――燃やすけど」
 刹那、新座の掌に閃いた炎が志朗とその距離を裂いた。
 霞が即座に反応し、志朗を引き戻す。
「志朗兄さん! 銃弾除けしか張ってないんですよ、退いてください!」
 叫びとともに、霞が間合いを詰める。
 右腕に纏わせたのは、重力魔術と剛力の魔法。地面が軋むほどの力が、拳に集約されていた。空気が一瞬止まり、そして砕ける。
 霞の拳が振るわれた刹那、淡紅の魔力が新座を包み、魔術結界が瞬時に発動する。
 地を揺らす一撃が空を裂くが、新座は僅かな間隙を見切り、身を捻って回避した。
「カスミちゃん、一撃一撃が重すぎるよ」
 軽口を叩く声音とは裏腹に、その眼差しは決して崩れない。
 霞が眉を僅かに動かし、即座に二撃目の構えを取る。
 戦場に新たな気配が満ちていく。兄弟の確執はもはや言葉だけでは終わらない。信念と信念が交差する、烈火のような夜が、始まりを告げていた。
 号令が冷たい刃のように戦場に響く。
「やれ!」
 志朗の一言と同時に、黒衣の戦闘部隊が闇から躍り出る。異能で強化された影の兵たちが、死角を突いて新座へ殺到した。
「スウィフト、挑発しすぎるな!」
 風とともに銀の刃が闇を裂いた。暗殺者の喉が開き、赤が散る。
 飛び込んできたのは、長いエメラルドの髪を揺らすエルフの剣士だった。しなやかに鋭く、風そのもののような身のこなしで斬撃を繰り出し、敵を翻弄する。剣先が振るうたび空気が断たれ、血飛沫が弧を描いた。
 新座の掌には炎が灯る。紅蓮の火球が空気を焼き、炸裂するように術者たちを退ける。
 志朗の怒声が、混濁した空間を切り裂いた。
「崩せ!」
 黒装束の兵が壁を蹴り、床を滑り、煙と熱気の中を駆ける。魔術で強化された装備が火光を反射しながら閃く。
 ゲームセンターは炎の咆哮と金属の響きに包まれた。瓦礫が舞い上がり、赤い光が天井を染める。焦げた電子筐体が、歪んだ断末魔を吐き出す。
「前衛、斜線を切れ! 霞、回り込め!」
 志朗の声は鋭く、戦術は苛烈。だが、新座はそれ以上だった。
 術式が彼の掌で収束し、空間を切り裂いて巨大な炎柱が噴き上がる。焼き尽くされる悲鳴。灰となって崩れる身体。
 霞が脇を抜け、黒雷を拳に纏って接近する。
「今度こそ、貫く!」
「させない」
 風が唸る。エルフの剣が霞の拳を弾き、閃光が火花を散らす。霞は無表情のまま跳躍して間合いを取る。
 瞬間、外から銃声が届いた。高所から放たれた、魔力を帯びた青白い弾丸が、空間を貫く。
 狙撃手は吸血鬼。夜を視る目を持ち、無駄撃ちをしない指先で、的確に仏田の防壁を崩していく。結界が穿たれ、兵が倒れる。志朗の部下の一人が呻く。
「このままでは持ちません……」
 志朗の眉間に深い皺が刻まれた。戦場は既に、新座たちの手に落ちつつあった。
 それでも志朗は唇を噛み締め、吐き捨てるように命じた。
「霞、全戦力を解放しろ。外の待機班も総動員だ……時間をかけてでも、奴らを潰す!」
 霞は無表情のまま頷き、すぐさま指示を飛ばす。残された仏田の兵たちが再び装備を整え、炎の海に身を投じる。
 新座の瞳が、ゆっくりと志朗に向けられた。
「……まだやるの? 志朗お兄ちゃん」
 声音は、静かで、痛烈だ。
 彼の掌に再び、炎の魔法陣が浮かぶ。熱が空気を歪める。
「やめなよ。これ以上は、死人が増えるだけだ」
「もう出てる」
 志朗の声は冷ややかに澱んでいた。
「お前たちのせいで、俺の商品がどれだけ潰されたか……戻らねぇんだよ。だから、全部取り戻すしかない」
「商品……? それで怒ってるの?」
 新座の眉が微かに動く。
「違うでしょ、お兄ちゃん」
 その一言には、明確な拒絶があった。
「金のためなんかじゃない。怒ってるのは、ただの意地だ」
「……うるせぇッ!」
 志朗の怒声と共に、結界班が一斉に術式を構築し始める。全フロアを包む大規模魔術。焼き尽くすための陣が息を吸い始めていた。
 瞳は狂気と執念に染まっていた。だが新座は怯まず、攻めた。両掌に浮かぶ火球を融合させ、巨大な炎弾へと昇華する。怒りと哀しみと、決して届かなかった兄への愛が、灼熱となって志朗に迫る。
「燃えてッ!」
「間に合わない! 新座、お前から焼かれろ!」
 破壊と怒号、爆裂する火球、衝突する結界と鋼。
 暗殺者とレジスタンス、兄と弟の思念と執念が、燃え尽きるような夜の戦場で激突した。

 だが、そのときだった。
「……な、に……?」
 志朗の傍にいた霞が、音もなく崩れ落ちた。
 命の糸が断たれたことに、身体すら気づいていないような、異様なまでに静かな倒れ方。血も、呻きも、抵抗すらない。重力に従うただの物のように、霞は地面へと沈んでいく。
 異変を察知し、志朗が振り向いた。
 そこにいたのは――霞の背後に立つ、一人の男。
 無地の黒いスーツ。派手さの欠片もないネクタイ。片手に下ろされた一振りの日本刀。その佇まいは、雑居ビルの焦げたゲームセンターという場にはまるでそぐわなかった。だが、そぐわないのは彼の衣服ではない。存在そのものだった。
 名を知らぬ者には、ただのビジネスマンに見えるかもしれない。だが度でもその名を耳にした者ならば、本能が告げる。絶対に、敵に回してはならないと。
 ――鶴瀬 正一。レジスタンスの首魁にして、後に異端討伐史上最多の戦果を記録することになる、最強と呼ばれた男。それが、そこにいた。
「か、霞……!? おい、霞っ!」
 志朗の声が裏返る。理性と怒りのあいだで、言葉が千切れる。
 だがその声すらも、血と骨の音にかき消された。
 シュ、と空を裂く風音。続いて何かが地面に崩れる鈍い音。悲鳴はない。気づく間すら与えられないまま、仏田の暗殺者たちは、ひとり、またひとりと命を断たれていった。
 鶴瀬の刀は、音よりも速かった。
 音が響くよりも先に、命が絶たれる。時間そのものを制圧しているかのような殺意の流れのなか、彼は一歩も足を止めない。刀は血を吸い、なおも輝きを失わず、空気の抵抗すら拒むように正確に振るわれる。
 新座が、小さく肩を竦めながら呟いた。
「むぐ……さすがは鶴瀬くん。来たと思ったら、もう終わっちゃった……おかしすぎだろ、ほんと」
 その言葉は、もはや冗談にもならない現実だった。
 鶴瀬がこの場に姿を現してから、まだ十秒と経っていない。
 だがその短き瞬間で、志朗を除く仏田家の戦闘員たちは、一人残らず地に伏していた。
 誰も鶴瀬の動きを正確には見ていなかった。誰も彼を止められなかった。
 そして今、彼は刀を鞘に納める音すら立てず、呼吸すら乱さず、まるで在ることすら不自然な静けさで、志朗の正面に立った。
 志朗は一歩も動けなかった。
 戦闘すら起きていない。起こる前に、全てが終わっていた。理解よりも速く、恐怖が脊髄を駆け上がっていた。
 背中を冷たい戦慄が這い上がる。あのとき霞が最期まで何も言わなかったのは、鶴瀬の刀には言葉も痛みも、死の自覚すら許されないからだった。

 血の匂いがまだ乾かぬ、焦げた鉄と硝煙の残滓が漂うゲームセンターの残骸。燃え落ちたネオンの下、その中央にただ一人、志朗は膝をついていた。
 瓦礫に汚れたスーツのまま、両腕を背後で縛られている。
 拘束したのは鶴瀬だった。手際には無駄がなく、音すら立てなかった。生きた人間を扱っているという実感すら、初めから持ち合わせていないような静謐さだった。
 霞は動かない。他の部下も同じだ。血の海の中に息をする者はもはやいない。剣も魔術も持たぬ志朗に残された武器は、言葉一つしかなかった。
「……俺が捕まったって、どうせすぐ釈放される。警察も検察も裁判所も全部、うちと繋がってる」
 言葉を絞るように吐き出す志朗に、鶴瀬は何も答えない。
 無言の眼差しが、あまりに冷たかった。氷のような視線。斬られるよりも痛い、沈黙の刃。
「俺ひとり潰したところで、意味なんてねえよ。明日にはまた、同じことを始める。それだけだ」
 それがどうした、と鶴瀬の目が語っていた。
 正論も皮肉も、彼には届かない。既に、勝敗は終わっている。これはただの残響にすぎない。
 沈黙のなか、新座がゆっくりと歩み寄ってきた。
 彼は膝を折り、志朗と視線を同じ高さに合わせる。その瞳には、怒りも、憎しみもない。静かな確信が宿っていた。
「悪いことをした人は、ちゃんと罰を受ける。……それが、正しいことだよ」
 穏やかな声だった。けれど、それゆえに残酷だった。
 志朗の胸奥で、何かが凍りついた。敗北の実感。もう何を言っても、届かないという絶望。
 新座の声がもう一度、はっきりと告げる。
「志朗お兄ちゃん……もう終わりだよ」
 その一言が、最後の引き金だった。志朗の肩から音もなく力が抜けた。
 かつてその身に纏っていた威圧、怒り、誇りすらも全て、崩れた瓦礫の下に埋もれていった。


 /5

 志朗は魔術結界で補強された特別車両へと無言で押し込まれた。
 外観は一般の車両と変わらぬよう偽装され、車体の継ぎ目には微細な封印が刻まれている。仏田の支配下にある行政の目を欺くための、幾重にも張り巡らされた細工だった。
 後部座席に深く沈みこんだ志朗は、虚空を見つめていた。瞳には焦点がなく、霞のことも、血を流した部下たちのことも、一言も口にしない。
 窓の外を、街の明滅が意味を失った光の粒として流れていく。あまりに静かな移送だった。
 やがて辿り着いたのは、冷たい無音の部屋だった。窓はなく、壁は厚く、空気の揺らぎすら遮断されている。
 レジスタンスの手によって地下に築かれた、独自の拘禁施設。仏田の影が決して届かぬ、純粋な隔絶の空間である。
 金も、血筋も、権威も、ここではただの記号だ。志朗がそれまでの人生で積み上げてきた全ての価値は、この場所では通貨にもならない。彼の背に纏っていた名も、地位も、ここではただの皮膜にすぎなかった。
 中央に据えられた金属製の椅子に、志朗は腰を下ろす。
 両手首と足首には、物理的拘束と魔術封印を兼ねた鎖が絡んでいる。背もたれのない椅子に、彼は姿勢を崩すことなく、裁きを待つ像のように座していた。
 天井から滲む光は、白ではなかった。青白く、地下水のように冷えた色調で空間を満たしていた。蛍光灯の音もない。温度も匂いも、時間の気配さえ遮断された部屋。外の朝も夜も、この部屋には届かない。
 志朗は目を閉じた。呼吸は浅く、静かだった。脳裏に過ぎるのは、かつての記憶。
 13の頃。照行に出会い、その背に従うようになった。暴力が正義であり、金が命を定める世界。そこには冷酷だが明確な秩序があった。志朗は初めて「生きていていい」と思えた。
 間違っていなかった。そう思いたかった。
 だが声がする。己の内奥から、誰より冷たく他人めいた声が囁く。
 ――全部、お前が選んだ道だろう?
 霞が倒れた。無敵だった部下が、何も言わず崩れ落ちた。信じてついてきた者たちが、みな消えた。
 母が死んだ。兄の手にかかったが、それを止められなかった自分が殺したも同然だった。
 そしてシキとは、もう一年近く会っていない。彼の声、温度、長い髪、その柔らかさすら薄れてきてしまった。指先に残った触感が、もう遠い。
 これは、果たして間違いではなかったと言い切れるのか。
 志朗は椅子に縛られたまま目を閉じる。罪と共に生きてきた日々が、音もなく自らの中で沈んでいく。崩壊ではない。静かなる失効。その先に、何が待つのかも分からぬまま。
 鉄の扉が軋んだ音を残し、開かれた。
 沈黙を割るのは二つの足音。一つは柔らかな革靴の音。もう一つは、まるで床を滑るように殆ど音を持たない気配だった。
 視線を上げるまでもなく誰が来たのか、志朗には分かっている。
「……志朗お兄ちゃん」
 呼びかけは記憶に残る少年の声のまま、澄んでいた。
 姿はもう幼くない。新座は少年から大人になり、面差しにはあどけなさを残しながらも、瞳だけは真っ直ぐに研がれていた。
 隣に立つ男は、沈黙の刃を佩く者。鶴瀬 正一。無言のまま空気を支配するその存在は、最強の執行者と呼ばれるに相応しい威容をまとっていた。
「僕らは……お兄ちゃんに裁きを下させるよ」
 新座の声に残酷さではなく、どこか救済の響きを孕んでいる。
「正しい裁きを。正しい手順でね」
 乾いた喉がくぐもった笑いをこぼす。唇を歪め、息を整えながら、皮肉を滲ませる。
「なぁ、新座。お前いくつになった? 正しさで腐った世界をどうにかできると、本気で思ってんのかよ」
 新座は答えない。逸らすことなく兄を見つめていた。鶴瀬もまた沈黙を保っている。
「お前は自由を選んだ。善人ぶって、空に手ぇ伸ばしてるつもりなんだろ。……でもな、新座。俺は地べたを這いずり、裏側を腐らせて生きてきたんだ」
 志朗の唇が吊り上がる。
「殺せるもんなら殺してみろよ。法だの裁きだの、正義だの……俺には全部似合わねぇんだよ」
「……昔、燈雅お兄ちゃんにも似たようなこと言ったけど……」
 新座は静かに言った。目元には痛むような色がある。
「お兄ちゃんたちのそういう演技、かっこいいけど……似合わないね」
 その言葉に、志朗は目を細めた。
 響かない言葉が僅かに胸を打つ。新座の本質。人を憎めない優しさ、与えることを恐れない善性。それに救われたことのある自分が、それを知らぬ筈もなかった。
 13歳のあの日まで、息もできず沈んでいた志朗に、手を差し伸べてくれたのは新座だった。
 彼の優しさがなければ志朗はとうに死んでいたかもしれない。だからこそ、彼はこの少年と――いや、今や青年と――向き合わねばならない。
 鶴瀬 正一が前へと歩を進めた。
 黒のスーツに身を包み、背筋は一本の刃のように凛としている。裁判官のような威厳を漂わせながら、手にあるのは法服ではない。腰に佩いた一振りの日本刀と、膨大な資料を封じた厚い封筒だけだった。
「仏田 志朗さん。お久しぶりです」
「……知らねぇよ、お前なんざ。霞が報告に写真つけてたな。あの目立たねぇ顔、忘れようもなかったよ」
「それでも、お久しぶりです」
 鶴瀬は、声を荒げることなく応えた。
「従兄弟ですから。年始の挨拶でお会いしたことがあります。と言っても年の近い新座くんとばかり遊んでいましたから、貴方とはろくに話せませんでした。……こうして改めて言葉を交わせることを、嬉しく思っています」
 声音は凪いだ海のようだった。静かで冷たいわけではなく、どこか満ち足りたような響きがある。
 志朗はその感情の正体を測りかねたまま、黙って天井を見上げる。
「本日より、貴方に対する第一次尋問および証拠提示の手続きに入ります。以降の全ての発言は記録され、適切な法的過程を経て、最終的な裁定へと移行されます」
 その宣言に、志朗は眉一つ動かさず、黙って耳を傾けていた。
 皮肉も嘲笑もなかった。あるのは、ただ受け止める者の沈黙だった。
 鶴瀬が分厚い書類束を開く。精密に綴られた文書には、刑法、組織犯罪処罰法、武器等製造法違反、監禁罪、殺人未遂、公務執行妨害――列挙された罪状は無数。条文に照らされ、血で書かれたような文字がそこに在った。
「貴方が関与したとされる行為には、証言者がいます。映像記録、音声データ、通信履歴、被害者の供述、第三者の通報記録、そして機関から流出した内部文書の写しが含まれています」
 志朗の頬が引き攣る。
 気づいた者はいなかった。いや、気づいても、あえて口にしなかっただけかもしれない。
「我々は警察機関ではありません。ですが、これは私刑でもない。我々レジスタンスは、貴方を法に基づく裁きへと引き渡す。記録と証拠を全て整えた上で、国家による正当な告発を可能にし、秘密裏の裏社会から、貴方を白日のもとへ引きずり出す。それが我々にとっての正義です」
 沈黙の中で、志朗がふっと鼻を鳴らす。吐き捨てるような嗤いだった。
「……正義ねぇ。そんなもんで俺が壊したもん全部、帳消しにできるとでも?」
「できません」
 即答だった。
 鶴瀬の声は寸分の揺らぎもなく、冷たい刀の切っ先のように明瞭だった。
「帳消しにはならない。戻らぬ命がある。消えた記憶も、壊れた家族もある。……だがそれでも、正義とは、過去を消すためのものではない。これ以上、未来を奪わせないためにあるのです」
 室内に静謐な緊張が走った。怒声でも銃声でもなく、ただ鶴瀬の言葉が残した、静かな裁きの気配だった。
「貴方には黙秘権があります。供述を拒否することも、沈黙を貫くこともできる。ただし、その選択が今後の裁定にどう影響するかは、全て記録された上で判断されます」
 鶴瀬の目は、一切の情を排していた。
 正義を語る男の眼差しは、私怨でもなく憐憫でもなく、ただ峻厳だった。
「公判資料は後日、特別な保護措置のもとで正式に法廷に提出されます。我々は既に、貴方の罪を法の名の下に照らす準備を整えている」
「……随分、丁寧な地獄だな」
「貴方を殺すことなど、容易いことです。それを望む声も、我々には届いている。ですがそれでは、正義にはならない」
 鶴瀬の声は、深く、厳粛だった。
「新座くんも、正しく貴方が裁かれることを、望んでいます」
 その名が呼ばれた瞬間、志朗の視線が横へと動く。
 黙って兄を見つめる新座の姿があった。
 眼差しには、一滴の純粋さが残っている。怒りでも裁きでもない。……まだ、何かを信じようとする光がそこにあった。
 胸の奥が灼けるように痛んだ。屈辱でも、怒りでもない。愛を、喪った痛みだった。




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