■ さわれぬ神 憂う世界 「仏田志朗の沈思黙考」 ・ 1ページ目
【1章】
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車内は異様なまでに静まり返っていた。
外界で響く喧噪は高級車の扉を透過することなく、志朗(しろう)の耳に届かない。
焼けた葉と焦げた樹皮の匂いだけが冷房の隙間から忍び込み、この場が現実であることを知らせている。車は森の入口にひっそりと身を潜めていた。
黒い針葉樹の森が、今まさに燃えていた。
毛足の長いビロードが張られた後部座席に座っていても、少年の背筋に這い寄る震えを癒すことはなかった。備え付けの魔術モニターを凝視する志朗の指先は汗をかいているにも関わらず、冷たく凍えている。
「おい、志朗。ちゃんと見てるか? これが俺たちの稼業ってやつだぞ」
向かいの席から叔祖父である嵐山 照行が、笑い混じりの声を投げかけた。
志朗は咄嗟に返せず、喉を干上がらせた末に「……見ています」と呟くように答えた。
森の奥で火が跳ねていた。人影が走っていた。人ではない。あれがエルフだ。森に隠れ棲む上質な魔力資源。生け捕りにすれば一体で数千万円。血統次第では億にもなる。壊れぬ限り依代として、あるいは永遠の実験体として利用できる金蔓だ。
モニターに映るその村は幻想的だった。御伽噺の挿絵のような木造の家々。宙に張られた蔦の橋。月光を照り返す銀髪の一族。美しく、どこかこの世のものではない。
そこに魔術弾が落ちた。橋が燃え、家が爆ぜ、悲鳴が響く。
志朗は無意識に目を背けそうになる。だが、首を戻した。視線を逸らすことが何かを裏切るような気がしたからだ。
「見栄張ったんだろ。勉強したいって言ったじゃねえか。なら最後まで見ろ」
その言葉は、志朗自身が内心に言い聞かせたものと寸分違わない。
13歳の見栄だった。魔術の才に恵まれなかった自分が家に存在価値を持つには、血で築かれる現場を知るしかない。さらに自分をそう言い聞かせていると、モニターが揺れた。
画面の奥、木々の向こうで光が炸裂する。朱指――照行の部隊が誇る魔術兵装を、何者かが打ち消していた。
中心に一人のエルフが立っていた。腕には呪術が刻印された長身で銀髪の男。掲げた手は森そのものの魔力を束ね、光を孕んでいる。
「朱指に抗えるなんざ、なかなかのもんだ」
モニターを覗く照行が煙草をくゆらせ、愉快そうに笑う。
「けど、通じると思うか?」
刹那、男が咆哮した。聞き慣れぬ言語が大地に響く。
地を打った掌から蔦が爆発的に生え出し、捕縛兵を絡め取る。そこに黒ずくめの部隊が現れた。兵が式砲を構え、引き金を引く。
空間が内側から抉れるように裂けた。
エルフの男は胸を撃ち抜かれ、それでも一瞬は立っていた。やがて膝を折り、崩れ落ちた。
女が叫ぶ。幾度も。
おそらく男の妻だ。倒れ伏した男に縋り、泣き崩れる。だが兵士たちに取り押さえられる。
同じく倒れ伏す男に縋ろうとする者がいた。男の息子だろう。白銀の髪で、雪のように透き通る肌。男の筈だが、あまりに美しい。震える耳や絶望に濡れた瞳が、倒れた男に向けて何かを叫んでいた。
兵士たちは声すら奪うように家族を鎖に繋ぐ。両手を縛り、引きずっていく。
「おいおい、あんまり商品を乱暴に扱うんじゃねえよ。生きていれば価値はある。どんな命だって、そうだろう?」
志朗の心臓が、映像越しにも抉られた。
「これが現場だ」
照行の声は、なおも笑っている。
「守るだの誇りだの言う奴ほど呆気なく死ぬ。家族だ仲間だ言ってる奴ほど目の前で引き裂かれる。早く逃げりゃいいのにな。まあ、俺たちにはありがてぇ話だ。父親が無様に抗ってくれたおかげで女と子供は楽に捕れた」
映像の中で暴れ叫ぶ青年の顔を見る。
気のせいかもしれない。その目が一瞬だけ、自分と交差した気がした。
「これは志朗が見たいって言ったから始めてやった作戦だ。――お前が、この村を殺した。忘れんなよ」
感想など、口にできなかった。
首を横に振れば逃避。目を逸らせば敗北。唇を噛むしか志朗にはできない。
兵士たちは容赦なく枷を嵌め、美しさと魔術測定値を元に振り分ける。そして彼らは――仏田家の糧となっていった。
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仏田 志朗には異能の才が無い。
霊脈は細く、どこまでも一般人と変わらぬ体質。それでも志朗は、仏田家の次男だった。
長兄・燈雅は生まれながらにして父・光緑の術式を模し、その再現者と呼ばれた。白い指先で式を結び言葉少なに式神を操る姿は夜に咲く花のように幽かで、異様に美しかった。
弟・新座は笑いながら術を覚えた。人好きのする顔立ちと天性の明るさ。出会った誰もが彼を褒めた。無邪気な顔の奥に非凡な閃きを宿す、天才だった。
二人の顔立ちはよく似ていた。白磁のような肌、整った唇、透けるような眼差し。
志朗だけが、似ていなかった。
黒々とした髪、強すぎる目の色、骨ばった手の形。そのどれもが異質で、それだけで志朗は悟った。自分には仏田の名を継ぐ何かが決定的に欠けているのだと。
名門小学校の卒業式を終え、桜の花びらが舞う参道を戻った午後のこと。屋敷の奥にある書院で、志朗は母に問いかけた。
「貴方は、俺の、本当の母ですか」
仏田 邑子。品の良い物腰、涼やかな目元、柔らかく理知的な言葉遣い。誰もが認める完璧な大和撫子。静かに穢れ一つない声を放つ。
「志朗様は私が生んだ子ではありません。けれど私は、貴方を光緑様の御子として育ててまいりました。それは何一つ嘘ではありません」
目は確かに優しかった。言葉は一切の欺きを含まず美しかった。不思議と、泣けなかった。
――仏田家の屋敷には、常に湿った嫌味がこびりついていた。
上座に並ぶのは、白髪と脂に鈍く光る皮膚をした長命の老人たち。術式と系譜だけにしか興味のない彼らは、志朗を見るたび、眼ではなく鼻で測るように言った。
「この子だけは、光緑様の血を濁した」
「母親の顔が見たいものだ」
「邑子様との御子だけを残していただきたかったねえ」
障子の隙間からも、背中越しにも届いた。
女たちも同じだった。社交の場では燈雅を囲み、「まぁ、お美しい」「まさしく光緑様の」と繰り返した。
新座はただ歩くだけで人だかりができた。あどけなさと神童性を併せ持つ奇跡のような弟。女中も教師も、皆が彼の頭を撫でた。
志朗には、何も無かった。
仏田の屋敷で、志朗だけが濁りだった。追い出されるほどでもない。だが決して本流ではない。名前だけの次男として、形だけ家に置かれていた。
だからこそ志朗は、勉強した。
名門中学校に進むと全科目で常に首席。運動も怠らず、友人や教師たちからも「仏田 志朗は立派な生徒だ」と認められた。けれど家に帰っても誰一人その成果を讃えない。
燈雅が術を再現すれば拍手が湧いた。新座が符を弄んで笑えば皆が顔を綻ばせた。志朗がどれほど積み上げようと、居場所は無かった。
――13のとき。志朗は、別の価値観に触れた。
叔祖父・嵐山 照行。仏田家の傘下にある嵐山組の頭であり、超人類能力開発研究所の第三部署『朱指』の長。彼は言った。
「殴られたくなきゃ先にぶっ飛ばせばいい。俺たちはな、血統じゃねぇ。跡で生きるんだ」
その言葉が、志朗の胸に降り積もった。
誇りは叩き上げるもの。誰にも似ていない自分が、自分のままで存在できる場所。そこには初めて空気があった。
やがて志朗は裏通りに立つようになった。
最初は「坊ちゃんの暇潰しか」と嘲った照行も、次第に志朗に仕事を与え始める。
ならず者への制裁。仏田に仇なした者への見せしめ。照行の「やってみろ」という一言に、志朗は黙って鉄棒を受け取った。
相手が命乞いをしようと、志朗は黙って振り下ろす。痛みに快楽も悲しみも無い。ただ何かを通過していくような静かな感覚がある。
血の匂いを帯びた上着のまま戻った志朗に、照行は笑いながら言った。
「光緑の子の中じゃ、一番やるじゃねえか」
志朗にとって生まれて初めての承認だった。
「俺の兄貴、和光……つまりお前のじいさんは『綺麗事だけじゃ家は守れねぇ、汚れる手がなきゃ力は続かねぇ』っていう、俺たち寄りの考えだった。汚い仕事もやったさ。結果、偉大な人になった。裏社会のトップってやつにな。光緑も良い仕事はするが、裏の仕事までは手が回らず俺を頼っている。……その俺が褒めてやってるんだ、喜べよ?」
家では与えられなかった言葉だ。なのにこの場では、志朗の行為が価値として認められた。血の滲む袖すら勲章のように誇らしく思えた。
息が初めて楽に吸えた。志朗はこのとき、生き方を決めた。
昼は優等生の仮面を被り、学年主席の座を守る。同級生の多くは彼に憧れ、教師は「非の打ちどころがない」と讃えた。
放課後は裏通りへ。照行のもとで荷を運び、出入りの記録を取り、時に尾行や交渉にも立ち会う。術ではなく拳と数で動く世界。
志朗には仏田の家を継ぐ資格はない。だが、仏田の家を支えることはできる。和光に照行がいたように、燈雅に志朗がいる未来を描けるかもしれない。
誰にも愛されなくていい。必要とされなくてもいい。
ただ「ここにいてもいい」と自分で自分に言える時間が、何よりも楽だった。
照行の仕事から戻った夕暮れ、志朗は仏田家の長い廊下を歩いていた。
制服のシャツは微かに汗ばんでおり、肩には昼間の熱がまだ残っていたが、上着を脱ぐには至らない。
そんな折、不意に甘ったるい声が廊下に跳ねた。
「志朗お兄ちゃーん!」
声の主は、末弟・新座だった。
まだ小学校6年生。制服ではなくラフな格好で、手には菓子袋を握っている。どこかで摘み食いをしてきたのだろう。素足で音も立てず駆け寄り、まるで仔犬のように勢いよく抱きついてくる。
「ねえねえ、お兄ちゃん。照行おじいちゃんとこでバイト始めたんだしょ? 聞いたよ〜! 可愛い弟にケーキとか奢ってよ〜」
声は甘く、口調は奔放。志朗はその勢いに軽くバランスを崩しながらも、慣れた手つきで新座の頭を押さえた。
「お前な……その菓子、誰かに貰ったばかりだろ」
「志朗お兄ちゃんからは貰ってないもん。可愛い弟が甘えてるんだから、いいじゃない」
無垢を装うのが昔から上手い。小さな頃から変わらない仕草だ。
志朗は、そのあざとさを嫌いではなかった。
兄・燈雅は、志朗を正面から見ようとしなかった。母・邑子は、常に理想の母として完璧な涼しさで接していた。
その中で新座だけはいつだって「志朗お兄ちゃん」と呼び、躊躇いなく隣に座ってくれる存在だ。不思議なほど、心を開かされる。
「どんなお仕事手伝ったの? 僕も行っていい?」
「お前にはまだ教えらんねえよ」
「むぐー、つまんないの」
新座は頬をぷうっと膨らませ、上目遣いで微笑む。どこまでも無垢で、無邪気だった。
「でも、楽しいんだよね。お兄ちゃん、最近凄く楽しそう」
「分かるか」
「うん。いいことしてるんだなって伝わるよ。照行おじいちゃんといるの、楽しいんでしょ?」
「まあ、そういうことだな」
言葉にはしないが、照行の世界は温度がある。
仏田家では決して感じられなかった生の熱。血の匂いと煙草の煙、息遣いと静寂の隙間にある決断の重さ、そういったもの全てが息苦しさと同時に自分を存在させてくれた。
「おじいちゃん、今度海外に行くんだって! 凄いよね、色んな国で仕事してるって。僕もいつか海外旅行したいなぁ」
「旅行じゃねぇよ。取引とか、そういうのだ」
「取引って何してるか分かんないけど、飛行機に乗って世界を飛び回るの、カッコいいじゃん。お兄ちゃんもそういう仕事したいの?」
無邪気な声だった。ただの子供の好奇心。それだけなのに、なぜか胸の奥が軋んだ。志朗はほんの一瞬だけ目を細め、息を吐く。
照行のいる場所、そこには生きるという実感があった。
命が取引され、誇りが血で測られる世界。仏田の屋敷では与えられなかった承認がそこにはある。もっと深く知りたい。もっとその奥へ。そう思えば思うほど、13歳の胸の内に灯る炎は憧れへと姿を変えていく。
「……そうかもな。新座、よく見てんな」
山奥の屋敷では決して知ることのない、非人道の現場。
その冷たさこそが本物の世界、そう信じるように志朗の背中は、弟の何気ない言葉によって静かに押されたのだった。
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初めて飛行機に乗り、舌を噛みそうな名の国で、志朗は初めて『人外狩り』に立ち会った。
あの日を境に、世界の色が変わった。
暴力が支配する世界は息がしやすくて憧れていた。13歳の少年が夢想していたのは、非情さに浸れる自由だった。
けれど実際に命を奪われる者たちの目を見たとき、そして、自らが奪う側に立つ覚悟を知ったとき。幻想は音もなく剥がれ落ちた。
あれは、志朗が志朗であるために通らなければならなかった通過儀礼だった。
照行とその率いる部隊と共に帰国した志朗は、以降、実戦の場数を重ねていく。
喧嘩もした。刃物も抜いた。深夜の港で敵の腕を折り、血で濡れた手のまま煙草を吹かした夜もある。組の中では「志朗に手を出すな」という暗黙の合意が生まれ、誰もが一目を置いた。
もちろん高校に進学した。昼間は制服を着て教室に通い、生徒会長を務め、全国模試でも上位に名を連ねる。地域の教育関係者は口を揃えて「若き紳士の鑑」と讃えた。
異国の森で命の価値を学んだ少年が18歳を迎える頃、表でも裏でも恐れられる男になっていた。
組の金の流れを正確に把握し、地元の顔役たちと懐柔と警戒を交えた関係を築き始める。
警察との非公式な取引にも立ち会い、沈黙と握手で幾つかの帳尻を合わせた。それが力のある者の生き方だった。
結果、仏田家の空気も次第に変わり始めた。
かつては「似ても似つかぬ」「術も使えぬ」と蔑んでいた老魔術師たちが、近頃では「志朗様のお考えを伺ってはどうか」と上層部に進言し始めていた。
「新しい波を起こせるのは、志朗様かもしれぬ」
「血統の純粋さより、実行力の時代だろう」
「表と裏、どちらも歩める男はあの方しかいない」
そんな声を噂として耳にするたび、志朗の胸には静かな誇らしさが芽吹いた。
同時にひどく冷めた感情もある。支持されることは愛されることではない。その違いを志朗は誰よりも知っている。
けれどそれでもいいのだと、自らに言い聞かせる。
たとえ愛されずとも、いまや仏田 志朗は確かに必要とされているのだから。
志朗は繁華街の外れにある一角へと足を運んでいた。
まるで劇場のような空間に通される。表向きは接待の場。その実は、鑑賞と所有、欲望のために作られた会員制の秘密クラブを訪れた。
「ようこそいらっしゃいました、志朗様。我らが機関『天足』の威信を賭けた場でございます」
出迎えたのは中年の男。器守 大山と名乗るその男は、誇らしさと卑屈を綯い交ぜた笑みを張りつけていた。
「仏田様あっての我々です。支援への恩返しとして、せめてこのような場を」
「ああ、勉強させてもらいますね。よろしくお願いします」
志朗は声を低く抑えて答える。
こうした視察は、今や彼にとって珍しくはない。機関の内情は仏田家の資金援助のもと、『頭垓』での異能力の研究、『朱指』での武器製造と試験、そして『天足』では生産物の供給を行う。
このクラブは、機関の副産物だった。つまり仏田家が生んだ立派な産業である。
「どうぞお楽しみください。彼らは全て調教済みでして……言葉は要らず、反抗は致しません。痛覚、感情、発声、全てお好みに合わせて調整可能でございます」
大山が指をひと振りすると、硝子の奥から数人の展示が現れた。
青白い照明の下に、男女が並ぶ。
均整の取れた身体。鋭く尖った耳。銀の髪。まるで美術品のように整った顔立ちは、どこか現実味を欠いていた。
着衣はある。だが、あくまで与えられただけのもの。白すぎる肌の上には、拘束具と足枷。商品であることを隠そうともしない演出がされている。
志朗はその光景を見つめ、目を細めた。まるで13歳のあの日。燃え上がる村の続きを、硝子越しに眺めているようだ。
「志朗様のような若くてお盛んな御曹司には、やはり若くて可愛らしい娘がよろしいですかね」
大山は笑いながら、もう一度指を鳴らす。
着飾った少女たちが滑るように志朗の前へと現れた。どの顔もよく整い、志朗の前に跪いて、衣の裾を引く。
「お気に召すまでお遊びください。肌の質感も香りも調整済みですので、どうか遠慮なく」
「初めての訪問ですから、接待そのものよりも業務の流れや管理体制を拝見したいですね」
志朗の口調はあくまで礼儀正しく、冷静だった。
大山の目が一瞬だけ揺れる。だがすぐに営業用の笑顔に戻った。
「さすが志朗様、慧眼でいらっしゃる。では少しだけ裏もお見せいたしましょう」
案内される廊下は、絨毯の上に魔術的な遮音結界が重ねられていた。照明は鈍く、湿り気のある空気に目を細めながら進む。
「人外種族はよく売れます。用途は多岐に渡ります。愛玩、儀式、観賞……需要は尽きません」
廊下を曲がり、奥まった一室に入った。
薄暗い空間。壁際に並ぶ強化ガラスの檻。そこには、いくつかの影が座っている。
無表情な者。俯いている者。眠ったふりをしている者。動物園の深夜のようだった。
「あるだけ金になるんですね」
「ええ。だからこそ、仏田家様への感謝は尽きません」
「仏田にも相応の利益は入っている。次に繋げてください。今後もさらなる……」
志朗が続きを言いかけた、そのときだった。
ふと、足を止める。
視線の先。一つの檻の中に、青年が鎖に繋がれていた。
銀の髪が長く伸び、顔の半分以上を隠している。首には呪符付きの拘束具。白すぎる肌には、赤黒い痣がいくつも残っていた。静止していた筈のその空間で、ただ一つ、志朗を見つめ返す視線。
目が、合った。
静かだった。叫ばず責めず、憎まず怯えもせず真っ直ぐに、志朗を見ていた。記憶の奥に沈んでいた青い光が、音もなく蘇る。
――13のあの日。村が焼け、父が殺され、母が泣き叫んだあの夜。志朗が見守るなか拘束され、運ばれていたエルフの青年。
18歳になった今でも、彼の姿は何一つ変わっていなかった。
志朗は無言で、一歩前に出た。
青年は何も言わない。ただ、見ていた。眼差しは、あの夜のままだ。志朗の胸に、冷たい水が一滴落ちたような感覚が走った。
「……個人的に、この店の商品を買うことはできますか?」
背中越しに問うた声は、どこか掠れていた。
大山が小さく、芝居がかった笑みを浮かべる。
「基本的にはお断りしておりますが、志朗様でしたら特別に。何か、お気に召されたものでも?」
志朗は答えず、ただもう一度、檻の中の青年を見つめた。
「……あれを」
指差した声は、低く、震える。
「かしこまりました。後ほど、正式な手続きを――」
大山の声が、遠くで水に沈んだように聞こえる。そんなものは構わず、青年の視線の重みだけが志朗に圧し掛かっていた。
檻は翌日の夕暮れ色の仏田寺に届いた。
まるで大型家具でも運び込むかのように数人の男たちが無言で敷居を越え、志朗の自室へと搬入していく。
直方体の鉄檻は、分厚い麻布でぐるぐると包まれていた。
誰一人中身に触れようとはせず、ただ言われたとおり、部屋の中心に慎重に据え置いていく。
「……ありがとうございました」
志朗が小さく頭を下げると、業者たちは礼儀正しく一礼し、音も立てずに退出していった。
襖が閉まり、ようやく部屋に静寂が戻る。志朗は畳に腰を下ろし、麻布の塊をじっと見つめた。
額に手を当てる。熱があるわけではないのに、体の奥が微かに揺れていた。
自分が何をしたのか、理解しているつもりで、どこか現実味がない。
高かった。どんな車や宝石よりも金の重みを感じた。その額を、躊躇いなく一括で支払った。ポケットマネーで。
(俺は、衝動でヒトを買ったのか)
誰に見られているわけでもないのに、背中にじっとりと汗が滲む。
だが後悔するには遅い。目の前にある檻の重みが確かな現実だ。
志朗はゆっくりと立ち上がり、麻布に指を掛けて慎重に剥いでいく。ざりと布が滑り落ち、檻の中身が露わになった。
そこにあのエルフの青年が居た。
姿勢を崩すことなく、檻の中に座している。まるで長くそこに居たかのように、整いすぎた姿勢だった。
銀の髪が肩に沿ってなめらかに流れ落ちる。肌は白磁を思わせ、喉元には鈍く光る首輪が巻かれていた。
生きているとは思えぬほど静かで、しかし間違いなく存在しているという気配だけが濃密に満ちている。
帰り際、大山が言っていたことが脳裏を過ぎった。
「反抗は致しません。あの首輪がある限り、こちらの呪文を唱えれば苦痛・命令の強制なども可能です」
志朗のポケットには呪文が記された紙が入っている。まだ、開いてもいない。
「これは特に大変貴重なエルフでして、護衛のようにも役立ちます。いざというときは、封印を一時解除してピンチの場所にワープもできます。調教済みですから、基本命令がなくとも主を守るために勝手に動くように設計されています」
優秀な商品。そう何度も説明された。だがそんなことは、どうでも良かった。
檻の扉に手をかけ、鍵を外す。微かな金属音が、畳の空気を震わせた。
「……出ろ」
低く、しかし強制を帯びぬ声。青年はゆるやかに応じる。
無駄な動きは一つもなく、しなやかに檻の外へと歩み出る。足音は殆どしない。志朗の前で止まった。
言葉は無い。礼も、反抗も、哀願も。ただ沈黙。
青い目はどこまでも深く、空のように冷たい。氷の下、光の届かぬ水底に何かを沈めたまま、それでもなお透き通っているよう。
志朗はその眼を前に、何も言えなくなる。
この青年は、何もしていない。ただそこに居るだけなのに、檻よりも重たい何かが、部屋に広がっていくようだった。
エルフは確かに飼うのに向いている。数日前に大山が言った言葉が、脳裏にじわりと浮かび上がってきた。
「空気中の魔力さえあれば、食事は不要です。たまに陽を浴びれば、それで生命維持に支障はない。排泄も殆どしない。つまりケージの手入れもいらない。何より、美しい。壊れにくい。数日放っておいても死なない。素晴らしいでしょう?」
そのときは曖昧に頷いた志朗だったが、今は、深く実感していた。
彼はまるで彫像だった。肌には汗も油も浮かばない。爪は薄く透け、頬は滑らかで白磁のようだ。彫像よりも精密で生々しく、より美しかった。
(これは……誰だって、欲しくなる)
知らず知らずのうちに息を呑んでいた。目の前のエルフの青年へ、そっと手を伸ばす。指先が細い首筋に触れた。温かい。
肩へ、胸元へとゆっくり滑らせる。しなやかに張った筋肉の感触。生きている。頬に触れる。唇に指を寄せてみる。されるがまま。目は逸らさず、声も上げない。
(本当に、噛みつかないんだな)
恐れも拒絶も、媚びもない。あるのはただ生きているという事実だけ。それが志朗の指先に淡く返ってくる。
やがて思いつきのように、志朗は口を開いた。
「……お前、名前は?」
青年の唇が、僅かに動いた。
空気の膜を震わせるような柔らかさで、声が発せられた。
「Silkior Fein」
舌の奥で転がるような北欧訛りの響き。繊細で異質な音が志朗の耳に、冷たい余韻を残す。
「し……シル? なんだそれ、シ……キ?」
舌が追いつかず、志朗は眉を寄せて呻いた。
青年は言い直さなかった。ただ静かに、志朗の目を見つめ返している。
「長いのは覚えらんねえ。……シキ。シキでいいか?」
少年のような諦めと、どこか照れたような命名をする。
志朗は数度、短く繰り返す。呼びかけるように。青年は否定もしなかった。名前を縮められても、その呼び声を聞いていた。
日常が淡々と積み重なっていった。
高校3年生になり、大学受験が近づく。不安は無かった。だが決して天才ではない志朗にとって、勉強は積み重ねだ。予習も復習も怠らず、地道に学びを続ける。
その合間に稼業の帳簿に目を通し、出入りの店に顔を出し、時には人を動かす。日々は息つく間もなく流れていった。
それでも不思議なことに、風邪一つ引かず、怪我もなく過ごせていた。背筋に走る緊張感が、肉体そのものを律していたのかもしれない。
誰もが一目を置き、将来を約束された仏田の御曹司。表の世界でも裏の世界でも器用に泳ぎ切る少年。そんな志朗の生活に一つの存在が加わった。
一匹のペット――名前はシキ。
それは志朗自身も気づかぬほど自然に、癒しとなっていた。
帰宅すれば自室にはいつものように彼がいる。畳の上に静かに座り、窓の方を向いていることが多かった。喋らない。命令も必要としない。食事も排泄も不要。
けれど志朗が帰ると、必ず顔を上げる。ただそれだけの仕草なのに、「ああ、帰ってきたんだ」と思える。
まるで生きた風景の一部のようだった。
「来い」
ソファに腰を下ろした志朗は、彼の細い肩が撫でた。銀の髪に指を滑らせれば、睫毛が僅かに揺れる。その柔らかな反応が、何より心地良い。
言葉が無いのが楽だった。何も求められず、何も傷つけない。ただそこに居る。それだけ。生きているが、主張しない。水もいらず陽もいらず、世話もいらない。志朗にとってそれは贅沢で、救いに近い空白だった。
(観葉植物でも買ったと思えば、上等か)
シキという存在は、静かに志朗の生活に根を張っていた。土と陽光がいらなくても、言葉のない空気こそが、水のように志朗を生かしていく。
志朗は無言の存在に、気づかぬうちに依存し始めていた。
ある夜、志朗は妙に落ち着かなかった。
勉強に集中できず、帳簿をめくっても文字が頭に入らない。風呂を終え、髪を乾かして戻った自室は、どこか湿り気を帯びていた。
健康な男子として当然の、生理的な苛立ちだ。処理の方法も慣れている。
だが、すぐそばに……シキが座っていた。彼がいるという事実が、思いのほか強い躊躇を生んだ。
(見られて困ることじゃない……筈だ)
そう言い聞かせようとする。けれど、どうしても目を意識してしまう。
大山の売り文句が、今になって頭を掠めた。
「完全調教済みでございます」
志朗はゆっくりと、口を開いた。
「こっち来い」
シキは素直に従う。志朗の前に跪き、何の抵抗も示さない。
肩に手を置いても、肌を撫でても、従順。無抵抗。
けれど、その体を性の捌け口として使い始めた瞬間。
「……ん、あ……っ」
今さらのように「刺激されて喘ぐ」という、その当たり前を突きつけられた。
あまりに自然な、生き物としての反応。ずっと黙っていたから、忘れていた。彼は命を持っている。感覚を持ち、痛みも、快楽もある。人の声で、喘ぐ。命を、買った。
紛れもない現実を、思い知らされた。
――その日を境に、微細な変化が志朗の中に現れ始めた。
意思も言葉も交わさず、同じ部屋にいて触れる。それだけの関係が、喧噪と責務の合間にある、唯一の呼吸になっていた。
「今日さ、試験返ってきた。トップだった。まあ、当然だけどな」
志朗は、自然にシキへ語りかけていた。
以前はただの物だった存在に、今は迷いなく言葉を投げている。
「組の連中もさ、俺の顔見ると挨拶が一段階低くなった。いい兆候だ」
それは、じわじわと染みる優しい侵食だった。
「また新座が家出だってさ」
志朗はソファに腰を下ろし、テーブルの紙袋を開いた。
中には焼き菓子が三つ。簡素な包装にリボンの跡が残っている。新座が朝、スーツケースを抱えて出ていく前に「お兄ちゃんに」と言って置いていったものだった。
「『僕もう耐えられない!』とか言ってた。いつものやつだよ。多分、数日で帰ってくる」
一つを取り出して、シキの前に差し出す。
「食えよ。新座のお気に入りだ。……いや、食えるのか、お前は」
シキがそれを一瞥する。志朗は笑って、包装を解き、小さな欠片をちぎって口元へ運んだ。ゆっくりと控えめな咀嚼を始める。
「魔力で生きてるくせに、菓子は食うんだな。まあ、たまにゃいいか」
そのやりとりに、ぎこちなさはもう無い。
窓の外には、年の瀬を告げる風が吹いていた。季節の流れも、時間の感触も、穏やかだった。
「新座はな……ああ見えて、気を遣ってる。完全に逃げたいくせによ。けど、誰かに『帰ってこい』って言ってほしいんだ。だからわざと家出って言ってから出ていく」
志朗は焼き菓子の欠片を指でいじりながら、ふと目を細める。
「家族ってさ、近すぎると鬱陶しいし、遠すぎると寂しいし、ほんとどうしようもねぇ」
ぽつりとこぼした独白に、返事は無い。
けれど、それで良かった。
志朗は気づいていた。こうして話しかけることが、自然になっていることに。
シキの存在がもはや特別ではなく、暮らしの当然になっていることに。
静けさの中に根づいたものがあった。まだ名称できない感情だが、温もりを持って息づいていた。
【2章】
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本堂には僧たちの読経が低く、波のように響いている。
志朗は喪服の裾を膝の上で握り締めたまま、ただ壇上を見つめていた。
飾られた遺影は、若い。父・仏田 光緑。まだ四十ばかりの筈だった。
白髪一つない端整な顔立ち。遺影だというのに、その眼差しには今なお気迫が宿っていた。
笑ってもいない。柔らかくも厳しくもない。完璧な肖像だ。その顔が、志朗の胸を痛く突き刺す。
どこまでも雲の上の存在だった。
努力では埋まらない差があり、血を分けても埋まらない距離があった。父と子、たったそれだけの関係だった。最後に会ったのはいつだったか。病に倒れたと聞いたのは数年前。療養に入った父には、それ以降、誰も面会できなかった。
正確に言えば、会わせてもらえなかった。
兄の燈雅と母だけが例外だった。燈雅は後継者として最後まで父に付き添い、全てを託された。志朗は遠巻きに見るだけだった。
父に抱く感情は、憧憬。尊敬。そして執着。喉の奥でそれらを噛み殺し、志朗は頭を垂れる。
葬儀の後、本邸の離れに三兄弟が揃った。
かつて光緑が長らく療養していた建物に、志朗は喪服のまま畳に座した。既に座っていた燈雅に続き、最後に新座が、少し遅れて膝を折る。
燈雅は葬儀の間、終始崩れることなく喪主を務めた。黒の正装に身を包んだ彼はとても理知的で、もはや光緑そのものだった。まだ20代半ばというのに、もう別の世代の男の顔をしている。
一方、新座は袖で目元を拭っていた。真っ赤に腫れた目を隠そうともしない。
19歳になったばかりの弟は背も伸び、顔つきにも大人の影が混じり始めている。けれど、今は誰よりも子供だった。素直に泣き、素直に父の死を悼んでいた。
志朗にはそれが少し嬉しかった。あの父に対して涙を流せる子供でいてくれる。それだけで、救いに近い何かを覚えた。
やがて、燈雅が口を開く。
「父上は、病の間も一日として家を憂うことを忘れなかった。新たな秩序と流れを整え、その上で旅立たれた」
声には、硬質な意志があった。まるで光緑が憑依しているかのように聞こえる。
かつての兄は、もっと柔らかい声をしていた筈だ。どこか新座に似た、朗らかで大らかな声だった気がする。けれど今、目の前の燈雅はもう遥か遠くにいる。
「父上より既に全ての業務を引き継いでいる。だが、オレは未熟だ。叔父上や上門所長の力を借りて当面の運営にあたっていく」
もはや兄弟間の会話ではなく方針発表だった。
淡々と進む業務報告。その中で、ふいに話の刃が志朗へと向けられる。
「そして、組の件だが。照行さんの引退に伴い、当面は代理を立てる。いずれその後任を、志朗、お前に任せたい」
志朗の呼吸が、止まった。
口から出たのは、間の抜けた返しだった。
「俺はまだ、大学二年の若造だが?」
「それでもお前が相応しい。実績、評価、積み重ねた努力、全ての観点から見て、最適と判断した。皆も同意している」
瞬間、志朗の胸に熱が走った。
――勝った。
叫びたい衝動が喉元までこみ上げた。全身の血が跳ねる。それでも志朗は顔を伏せ、唇を噛みしめた。
ここに至るまでの年月を思う。
組の下っ端から這い上がり、表でも裏でも結果を出し、父に会えなくとも名に恥じない生き方を貫いた。
その全てが今、報われたのだ。
唇の端が上がるのをどうしても止められない。俯いたまま誰にも見せないように、喉の奥で小さく勝利を刻んだ。
「……そして、新座だが」
燈雅の声が僅かに調子を変えた。柔らかいが、明確な意図を含んだ口調。
次に語られるのは、家の未来における末弟の役割について。だがその先を言わせなかったのは、肝心の本人だった。
「燈雅お兄ちゃん。僕はパスだから」
目の腫れも隠さぬまま、新座はあどけない笑顔で、話を切り刻んだ。
「申し訳ないけど仏田の何に就くとか、ほんと無理。そもそもさ、お兄ちゃんたちと席を争うとかそういうのが嫌で家出したんだよ?」
言葉は軽やかだったが、拒絶の意思は強い。
「それにさ、お父さん……『本当に』僕のこと、何か言ってた? 役職でも遺言でも。何にも無かったでしょ?」
新座は涙の筋を頬に残したまま、無邪気に笑う。
「じゃあさ。用意しなくていいよ、席なんて。僕は好きにやる。勝手にさ」
志朗の胸の奥で、何かが軋んだ。
かつて膝に頭を預けて眠った弟。誰よりも甘えてきた、唯一の存在。愛していた。今も、心の底から愛している。
――なのに。なんなんだ、こいつは。
愛され、守られ、好きなように生きることを許された末弟。期待されず、けれど嫌われることもない、その絶妙な立場。それでいて、今この場で「パス」と一言。
志朗の中に冷たい怒りが満ちる。だが、飲み込んだ。
この弟には毒がある。可愛げの皮を被って、核心を抉る才がある。何を言ってもその数倍で返してくるだろう。
拒絶の前に、燈雅は一瞬だけ黙した。けれど、それは迷いの間ではない。
「なら、新座。好きにしなさい」
寛容でも、諦めでもなく、ただ無関心の色を帯びた言葉。
新座は気にする様子もなく、ふいに笑った。
「そうやって二人が格好つけてるの、昔から変わらないよね」
無垢で天真爛漫で、そしてどうしようもなく、狡い。
「志朗お兄ちゃんはすぐ顔に出るし、燈雅お兄ちゃんは下手な演技をするし。まあまあ、僕がどかないと一生兄弟喧嘩しそうだったからさ。いいじゃん、好きにやってよ」
志朗は、もう怒らなかった。その言葉に怒っても仕方がない。
愛と嫉妬、誇りと怒り。全てを飲み込んで、志朗は背筋を伸ばした。
(いいさ。お前たちがどこにいようと、俺は……俺の場所を、俺の力で手に入れる)
誰にも期待されず、誰にも必要とされなかった時間を越えて、今ようやく手にした頂の一角。
頂きに立つために志朗は、兄でも弟でもなく、ただ一人の男として心に火を灯した。
それからの日々、志朗は確実に歩を進めていった。
父・仏田 光緑の死は、世間の表裏を問わず新たな波紋を呼び起こした。
若き当主・燈雅の就任とともに異能研究機関の支配体制は再編され、国と世界を繋ぐ黒い網目はより綿密に、より周到に張り巡らされていく。仏田家の名は、恐れと憧れを纏って囁かれるようになった。
志朗もまた誰に明言されるでもなく、それでいて抗えぬ力をもって「次期組長」の座に近づいていく。
大学では法学部に籍を置き、社会起業、地域再編、国際的な留学プログラムへの参加など、目覚ましい成果を重ねていた。仏田の名を使わずとも、志朗の名は確かに学内外に広がっていった。
夜ともなればスマートなスーツに身を包み、都内の老舗料亭や超高層ビルの応接室へと赴く。
財界、裏社会、政界――あらゆる勢力の影と水面下で接触しながら、情報と金、信頼と恐怖を握る技術を学ぶ。
若さゆえに侮られ、値踏みされることもあった。だが、睨まれれば睨み返し、軽んじられれば笑って毒を返す。そのたびに志朗の名は深く、地中へと根を下ろしていく。
何より、彼は決して取りこぼさなかった。
大学の単位一つ、交わす挨拶一つ、組の末端から上がる報告一つに至るまで、曖昧にせず、置き去りにしない。綿密に、怠らず、決して妥協しない。それが志朗のやり方だった。
父・光緑のように天性の才を持たず、兄・燈雅のように神秘性を纏った絶対者でもない。だからこそ志朗は、全てを努力と執念で埋めようとした。
夜通し資料を読んだ。敵対勢力の動きを先読みして潰した。古参の幹部たちに一人一人頭を下げて根回しを行なった。癒着としがらみに塗れた組織の解剖し、矛盾の縫い目を見抜き、修正し続けた。
気づけば、彼の周囲には力が集まり始めていた。
大学を卒業する頃には、「将来の頭」という評価に疑問を呈する者は殆どいない。兄・燈雅が天の道を行くなら、弟・新座が風のように自由を選ぶなら、志朗は地を這い、拳を血に染め、泥濘の中に王座を築く道を選んだのだった。
/2
月の届かぬ、廃ビル地下の空洞。
湿気を帯びたコンクリートの腐臭と、染みついた血の鉄の匂いが淀む空間に、志朗の足音だけが乾いた靴音を刻んでいた。
漆黒のスーツは皺一つなく、結び直されたネクタイは寸分の乱れもない。夜の闇をも映すかのような冷ややかな双眸が、濁りのないまなざしで闇を貫いていた。
志朗の眼前には、一人の男。口には猿轡、見開いた目は恐怖に引き攣れ、汗と涙で顔は既に形を失っている。それでも志朗の眼差しは、終始静かだった。
「長らくの沈黙、ご苦労だったな」
声音に笑みはない。ただ粛々と、終焉の報せを語るように。
「口を割らなかったのは立派だが……残念だったな。うちの式がもう全部読み取ってる。誰と通じて、何を企て、金がどこへ流れたか。隠し口座の番号まで、洗い出してある」
淡々と列挙される敗北の証。声に激情はなく、だからこそ言葉は重く、深く刺さる。
「次に土下座すんのは、お前たちだ。仏田の名がどういう意味を持つか、骨の髄まで教えてやる。事故死の扱いにはしてやるが、生まれ変わっても、二度と牙を剥くな」
ひと閃。
空気が震え、濃密な血の気配が辺りを染める。志朗の背後の者たちが無言で血飛沫を拭い、段取りの通りに電話を繋いだ。それを受け取った志朗が、唇だけで応じる。
「……ああ、例の処理、頼めるか。書類と検視は手配済み。警察の方は所長に話を通してある。地検も……ああ、俺の名前で」
通話の向こうで誰かが愉快そうに笑う。志朗は短く鼻を鳴らし、無言で通信を切った。
この地の権力構造は、既に仏田の網に絡め取られている。地方の役人は大学時代の恩師、地裁の係官は家の常客。新聞社もテレビ局も、仏田が触れれば首を垂れる。
人一人殺しても、証拠は霧と消える。目撃者は証言を覆すか、永遠に黙する。異能がある。それを隠し、活かすのもまた、仏田家の術。
現場の記憶を丸ごと塗り替える呪法。血液型すら変える秘薬。死体を「存在しなかったもの」として世界から削除する封結界。そうした全てが、志朗の掌中にあった。
彼自身に異能はない。だが、力を操る術を知っていた。自らが天才でなくとも、天才を従わせれば良い。だからこそ、彼の傍には常に数人の術者が控えている。
警察幹部は仏田の顧問弁護士と繋がり、司法取引、企業献金、封印された事件……それら全てを編み合わせ、仏田の触手は一省庁を越え、複数の組織を内側から蝕んでいた。
この国で、いや、この世界で、仏田に逆らうことは神に背くのと同義だ。志朗は歪んだ秩序の中心に立つ者として夜を支配する。
その様子を見届けていた一人の老人が、ひと仕事を終えた志朗に声を掛けた。
「……あんたの父上たちは敵としては見事だった。だが、あんたは異能を持たぬ者。最初は話にならんと思っていたよ」
護衛に囲まれたその男は、西日本を基盤とする古豪異能組織の当主。警戒を滲ませながらも、敗北を悟った者の声色で言葉を継ぐ。
「うちの若いのが随分と、あんたに心酔してる。怖いくらいにな」
「力を振るうことで信を得るのが術者。私は地図を描くことで、道を示します。敵が味方になれば、血は流れずに済む。合理的だと思いませんか?」
志朗の声音は、抑制の効いた丁寧さの中に、静かな威圧を孕んでいた。
「合理的、ね……」
老当主の目が細くなる。
彼が見てきたのは、力と血と欲望だけで領土を奪い合ってきた世界。目の前の青年は、まるで異質な戦い方で組織を吸収している。背筋をなぞるような不気味さと合理性に、老当主は感心した。
「人の心は才能ではなく、仕組みで掌握するものです。福利、治安、役割の明示。仏田に来た者は、明日を計算できる。だから忠義もまた、育つ」
「……入れば名を失う。系譜も誇りも、断ち切ることになるぞ」
「名は帳に残らずとも、魂は風に残ります。記録にも、法にも、記憶にも。我々は、貴方方の在り方を歴史として継ぎます。それが――仏田式の吸収統治です」
尊厳は奪わず、だが支配は譲らせる。無血の併合。それが志朗のやり方だ。
しばしの沈黙。老当主は深く溜息をついて、静かに頷いた。
「……我らは、仏田の旗下に入ろう」
その一言が、後に続く異能組織連鎖吸収の嚆矢となった。
味方となった老当主を自らの手で丁重に送り届けた後も、志朗の足は止まらなかった。
水面下で蠢く声が、次から次へと彼の名を呼んでいた。
傍らに控える男・上門 霞(かすみ)が、既に通話の繋がった携帯電話を恭しく差し出す。
「志朗兄さん。頭垓の主任からです」
「随分と急だな?」
異能研究機関――その第二部署である頭垓は、仏田が二番目に出資する重点部門。その代表者からの直談判。志朗は一拍おいてから、受話器を耳に当てた。
聞こえてきたのは、まるで医者のような穏やかさを湛えた声。しかしその実、言葉の端々には氷のように冷えた真意が覗いていた。
「どうも志朗様。先日お送りしましたレポート、目を通していただけましたかね。いくつかの試験体で有望な成果が出ております。現在のストック数は合わせて40ほど。彼らは知性を備え、躯体も美麗。しかも繁殖力が非常に高い。将来的な生産ラインとしても申し分ありません。ただまだ母数が足りませんねぇ」
志朗は短く息を吐き、低く応じる。
「夜須庭先生。貴方と俺の仲だ。単刀直入に伺おう。欲しいのは何だ?」
通話の向こうで微笑を含んだ息遣いが立ち上がる。
「前回同様、素材一体につき三千万の出資。もちろん、技術還元として御家には優先的な遺伝子治療技術、異能適性解析データもお渡しします。正直、一体あたりの原価が高騰してましてね。コストダウンのためにも……できれば、新しいエルフを20体ほど、回していただけないかと」
「……20体のエルフ、承知した。俺から朱指へ連絡を入れよう。来週にはそちらへ届くよう手配する」
「生きたままでお願いしますね。五体満足じゃなくても構わないから」
通信の向こうで、乾いた笑い声が小さく弾けた。人の温度をまるで持たない、研究者という名の殺戮者の声だった。
すぐさま次の連絡へと繋げる。行き先は、異能狩猟部隊・朱指。かつて照行が率いていた部隊は、今や志朗の意のままに動く指先として異種の者たちを狩り、黙らせ、売る。
「……投資だ。成果が出れば、十倍になって返ってくる。主任は『五体満足でなくてもいい』と言っていたが……売り物だ。出来る限りイキのいいエルフを狩れ」
たった数分の会話で、何億という金が動き、何体という命が売買された。契約と殺意が等価で結ばれるこの世界で、志朗の影は静かに、だが確実に濃く、広がっていく。
瞳にもはや善悪の揺らぎは無い。正義も悪も、理想も苦悩も、もはや遠い記憶だ。残されたのはただ勝ち残るという意志のみ。
魔術と資本が交差する市場が堕ちていく。その中心で、志朗という男が支配者の椅子に座している。仏田の名のもとに、全ては冷たく完璧に遂行されていった。
/3
あまりにも静かな朝だった。
森の泉で水を汲んでいた。光を弾く透明な水面、鳥の囀り、葉擦れの音。人の領域に近いとはいえ、まだここには神々の恩寵のような静謐が残されていた。
その朝が二人のエルフにとって最後のものになるとは――誰も、知らなかった。
風の音が変わる。その刹那、本能が警鐘を鳴らした。だが遅い。足元に貼られた一枚の黒い札。空気が歪み、重力が反転する。
異界封じの結界。逃げ場のない檻が、世界を閉ざした。
振り向くよりも早く、身体は地に叩きつけられていた。肩が裂ける。焼けるような熱。魔術か毒か。それ以上に冷たかったのは、無言で彼の頭を踏みつけた人間たちの眼だった。
「生存確認。連行可能。身体能力高し。純血種の可能性あり」
機械じみた声が響く。黒衣の者たちは、まるで材木でも扱うように彼の腕を掴み、地を引きずった。
叫びは魔術封じの首輪に飲み込まれた。意識は黒く沈み、ただ空の青だけが、遠く遠くに逃げていった。
エルフの男が目を覚ましたとき、そこは檻の中だった。
金属の床。消毒液の刺すような匂い。窓はなく、天井からは白い照明が絶え間なく照りつけている。
拘束はされていなかったが、動けなかった。麻痺の呪紋が神経に絡みついている。
外側――厚いガラス越しに、人間たちが並んでいた。
白衣。記録帳。魔術師の符牒。研究者たちは、彼の苦痛を楽しむように語り合っていた。
「反応は低刺激。恐怖反応、鈍い。再教育は後日。まずは従順化を」
「オスの個体、保存価値あり。性質を見て適合次第、交配群へ」
「表情分析、開始。人間に対する嫌悪の有無を確認して」
隣の檻には、角の折れた小鬼。毛皮の剥がれた獣人。彼らの目は、もう何も映していなかった。
「あの目、いいな。使える」
誰かの笑い声。
ガラスの上から赤いスタンプが押される。「納品済」。その札が、檻の前に吊り下げられた。
名前は消された。故郷も仲間も言葉も喪われた。残されたのは番号とタグ、そして誰かの帳簿に記された投資回収品という名目だけ。
今日もまた、隣の檻に新しい命が入ってくる。泣き叫ぶ声が、閉じた扉の向こうで切断された。
――もう一人の彼女は、さらに深く、地下へと運ばれていた。
人外たちの地獄は、沈黙と研究と金銭の名のもとに、無言のまま進行していた。
地下最下層、処理室。そこは温度も音も、もはや人間のための空間ではない。壁は冷たい鋼鉄、床には拭いきれない黒い染みが焼き付いている。
天井からは点滴管、監視装置、神経制御用の術式コードが無数に吊り下がり、中央の手術台に少女は四肢を縛られて横たえられていた。
「感情反応、ほぼ消失。実験への適合は薄い」
「記録は取る。今期の統合術式の反応を測定する」
人間たちは表情を動かさない。まるで壊れた機械を前にしているかのように、無機的に指示を重ねていく。
「施術開始。対象、J-014」
激痛が走る。脳髄に差し込まれた管から、高濃度の異能素が流し込まれる。
本来、異能素は魔術耐性のある血統にしか適合しない。だがここでは、適合の可否などどうでもよかった。
使えなければ、壊してでも使え。それが機関の倫理だった。
彼女の身体が痙攣する。長い耳が震え、喉から掠れた音が漏れた。舌を噛み切れぬよう縫い止められた口から血が滲んだ。
「異能反応、無し。神経の異常拡張を確認」
「痛覚野が暴走している。通常の十倍。興味深い」
術者が手を翳す。青白い火花が皮膚を焼き、胸骨を砕いた。
「次は右眼。視覚中枢に直接干渉。幻視誘導を開始」
白目を剥いたまま、黒い液体が彼女の眼窩に注ぎ込まれる。それは異能を模した人工液。不適合者には猛毒。だが、死ねないよう調整されている。
何度も失神しかけ、何度も目を開かされる。呼吸器に繋がれ、脳波は乱れ、心拍は臨界点を往復した。
担当者の一人が笑った。
「死にかけてるな。じゃあ最後に……魂の暴露術式、いってみようか」
「魂が耐えられるかの実験だ。どうせ、もう壊れてるし」
人格も記憶も、砕かれる。
高位の異能者ですら発狂死するその術は、彼女のような価値を喪ったものにのみ許された実験だった。
術式が発動する。身体がのけぞり、口から、鼻から、瞳から、白濁した魔素が噴き出した。
「記録終了。次、処分準備。廃棄区画へ」
術者たちは、後片付けでもするように拘束を外し、シートに包んで運び出した。
彼女はまだ、息をしていた。けれど、もはや自分の名前も、言葉も、何を失ったのかすら分からなかった。
リストに載らない命は廃棄物と記され、冷たい箱へと運ばれる。今日もまた、利益と効率を軸に、研究は淡々と、粛々と、続いてゆく。
/4
夜の帳が都心の高層ビル群を包み込んでいた。
その一角。表向きは会員制レストランと称された建物の奥に、仏田家が密かに出資する、選ばれし者のみが足を踏み入れる秘密のクラブが息づいていた。
重厚な防音扉の向こう、琥珀色の照明が空間を染め、深紅の革張りのソファには古き権力者たちの影が沈む。濃密な香水と酒精が匂う最高級の個室に、志朗は腰を下ろしていた。
足元には、金糸の髪をしたエルフの少女が跪いていた。
年は十五ほど。白磁のような肌、宝石のように編まれた髪。煌びやかなドレスに包まれながら、首に巻かれた金属の首輪がその全てを否定している。首輪から伸びた鎖は、冷たい床に音もなく絡みついていた。
「いやあ、志朗様、お久しぶりでございます、ようこそお越しくださいました!」
朗らかに声を張るのは、オーナー・器守 大山。機関の天足と裏で繋がる、老獪な中年の実業家である。
今日もまた絹のスーツに包まれた体をくの字に折り、媚びと忠誠を込めた笑みを浮かべる。
「本日も格別のお引き立て、誠にありがとうございます。ええ、こちらはほんの手土産でございます」
懐から差し出された封筒は、厚みのある紙ではなく、数種の名義変換を経た通貨コード。志朗は迷いなくそれを受け取り、内ポケットへと収めた。
「手が早いな。いつも期待してますよ、大山さん」
「ありがとうございます。実は先日、特にお目に叶いそうな子が届いたばかりでして」
合図とともに現れたスタッフが、革製のファイルを差し出した。新たに仕入れた少女たちの写真と詳細。年齢、種族、身体的特徴、処女歴までも網羅された一覧が整然と並んでいる。
「未調教の子も揃っております。今なら、どなたも手をつけておりません」
志朗は書類を一瞥し、足元の少女を見下ろした。そして、ふと微笑む。
「……いや、今日はいい」
大山が驚き、顔を上げる。志朗は唇の端だけを僅かに持ち上げた。
「いい子が揃ってるなら、供給不足の穴埋めにでも回しましょう。商売は回転が命でしょう?」
一拍の静寂。大山は破顔し、深々と頭を下げた。
「さすが志朗様。お目が高い」
そのやり取りの間、少女は一言も発しなかった。金の鎖が微かに震え、志朗はその揺れを眺めながら、再び酒を口にした。
「ところで……友達が教えてくれたことだけど、『犬のおまわりさんがワンワン吠えたがってる』ってさ。まったく、鳴いてばかりで困っちゃうよな。セッティング、頼むよ」
「かしこまりました、志朗様」
今夜の仕事は『公安の動きを伝えた』その一言で、ほぼ終わった。
会話には血も暴力も一切無い。それでも優雅な語らいのうちに、幾百という命が沈んでいく。その深淵を、志朗は一滴の酔いもなく、静かに見下ろしていた。
仏田家の帳簿はかつてないほど膨張していた。
暴力団排除条例が強化され、企業活動が次第に萎縮する中、多くの組織が資金難に喘ぎ、破綻し、消えていった。その裏で、志朗は冷徹に仏田の構造を改変していた。無駄を切り捨て、裏の取引網を再編し、代わって導入したのは人外種族の調達・転売・実験供給を軸とする新たな黒市場だ。
薬物も風俗も、もはや過去の遺物だった。バブルが崩壊した今でも、純血エルフは調整次第で五千万円スタート。調教済の個体は一億にも届く。その金額が、倫理を消し去るのに十分だった。
もちろん、それは違法だった。だが違法であることと、罰せられることは別の話だ。司法も政治も機関と結託し、金と技術で塗り固めることで罪には見えない加工をする。
かつての和光や照行が象徴した昭和の極道が威を誇った時代は終わった。父・光緑も天才だったが、志朗はそれ以上を目指す。嘘を真実に変える構造を構築し、人を商品にする。
かつての名門が沈む中、仏田だけが揺るがずにいる。吸収、統合を繰り返して。
旧来の勢力は丁重な引退か静かな失踪で粛清され、残された者たちは研修という名の情報統制と異能教育に組み込まれていく。
統計操作、予算調整、議会工作。些末な不祥事は報告書ごと消され、暴力事件は自殺と記された。そこに事実など必要無い。記録されなければ、存在しない。それが志朗の合言葉だった。
――静謐な支配の構造に、一雫の反逆が投じられようとしていた。
要 渚(かなめ・なぎさ)。中堅紙の記者。都市の片隅で、かろうじて灯る弱者の声に耳を傾け、正義という名の影に、懸命に手を伸ばし続ける者。
数年前、彼女は出会ってしまった。異能研究所から逃げ出した、獣の耳を持つ一人の少年と。人ではないと蔑まれ、追われ、傷だらけで震えていた命。渚はその夜、濡れた路地に傘を差し出した。そして彼の口から、一つの名を聞いた。
――仏田。
その瞬間から、彼女の人生はゆっくりと、けれど確実に軌道を外れ始めた。
まず彼女は徹底的に取材をした。被害者の証言、急増する失踪記録、企業買収の裏に滲む不審な資金の流れ。寄せ集めた断片の一つ一つが、やがて仏田 志朗という男の背中へと繋がっていく。
だが、それでも届かなかった。
証人はある日、ふいに消える。社内のデータはアクセス不能となり、丹念に残してきた取材メモは「自宅の火事」で燃えたとされた。上司は渚を別部署へ異動させ、編集部は「公共の安寧に関わる」として記事の掲載を拒んだ。
そしてある夜。渚のもとに、封筒が届いた。中に入っていたのは、あの少年が履いていた靴。そこにはたった一言だけ添えられていた。
――調べるほど、失うよ。
言葉が冷気となって渚の喉を締めつける。彼女は、ただ立ち尽くした。
信じていた正義は、紙のように脆い。祈りのような言葉も、現実の前では乾いた音を立てて砕ける。
それでも、彼女は止まらなかった。
古びた公立図書館の窓際。黄ばみかけた行政資料の山を前に、彼女は黙々とページを捲る。紙の匂い。湿った空気。ほの暗い光の下で、彼女の指先と、眼鏡の奥の瞳だけが、確かな生を宿していた。
世話になっていた会社から圧力が掛かっても、渚は出来る限りの情報収集を続ける。街の図書館や、歴史ある家への訪問。異能組織に足を運んだり、またはゲームセンターにいるような人間から噂話を聴いたり……。
地道に渚は努力だけで調べていく。登記記録。統計報告。失踪届。被差別種族に関する実態調査。渚の鉛筆だけが、沈黙に丁寧な注釈を刻んでいく。
長時間に渡る疲労が彼女を蝕んでも、決して折れることはない。
彼女の胸には、あの夜の少年の顔があった。言葉も曖昧で、人の世界に怯えていたあの子が、ふと見せた安心の微笑。あの一瞬が、彼女の世界を変えたのだった。
――この声は、誰かが聞かなくちゃいけない。
――そしてこの声を、受け入れてくれる同志は必ず現れる。
正義というにはあまりに脆い彼女の希望。机の端には、古びた大きなリュックと年季の入ったテープレコーダー。幾十人もの証言が詰まっている。家族が消えた人。友人が帰らなかった人。隣人が異能の闇に巻き込まれた人。誰も報じなかった言葉が、今も彼女の胸の中で息をしている。
誰に信じられなくてもいい。どれほど潰されても、どんなに無視されても。
「私は、諦めないから」
声は揺れていなかった。小
正義とは、正しさではない。拾われなかった命の傍に座り続けること。消えかけた声を、最後まで聞こうとすること。その姿勢だけが、彼女の強さだった。
たとえ力も地位も持たぬ者の掌でも、それでもその手には確かに未来が宿っている。
そうして誰も踏み込まぬ闇へとたった一人で進んでいく。頼れるものは、心に灯した小さな光だけ。
その光は誰よりも眩く、確かだった。
/5
都心の夜を睥睨するように、漆黒のタワーマンションが聳えている。
最上階は静かに明滅し、志朗を迎え入れた。政財界の誰もが羨望しながらも足を踏み入れられぬ、完璧に閉ざされた要塞、密やかなる王の棲処だった。
エレベーターの扉が滑るように開き、無音の玄関へと足を踏み入れる。空調は一糸乱れず整えられ、香の微かな残り香が空間の隅々にまで漂っていた。その空気を割って奥から銀髪の青年、シキが現れた。
志朗は無言のまま上着を脱ぎ、シキへと差し出す。受け取るその手は柔らかく、淀みのない動きでハンガーへと滑っていく。視線を交わすこともなく、それでも寸分の誤差もない。
まるで、二人の間に言葉など必要無いと言うかのように。
志朗が室内を進めば、シキは影のように数歩後ろをついてくる。照明は志朗の動きに合わせて静かに明度を落とし、低く柔らかなジャズのBGMが流れ始めた。
バスルームへと足を向ければ、既にシャワーの温度は整えられていた。ガウンもタオルも、いつもの位置に。食卓には、志朗の体調を加味した軽めの和食が湯気を立てている。志朗専用に設計された献立だった。
彼の帰宅に伴って整えられる全ては、シキの手によるものだ。無言の奉仕。それは忠誠でも、習慣でもなく、ただ沈黙という美の表現だった。
やがて夕食を終えた志朗はソファへと戻り、グラス片手に夜景を眺める。掌に収まるような光の海を前に、志朗はふと呟いた。
「荷物が届いていただろう」
シキは僅かに頷いた。
「中身は俺が確認した。あれを着て、ここに来い」
シキは静かに部屋を去り、数分後に戻ってきた。
纏っていたのは、淡いアイスグレーのシャツに、深みのあるスモーキーブルーのパンツ。洗練された布地が細い肢体に沿い、整えられた銀髪が肩を滑る。
街を歩けば誰もが振り返るだろう、そう思わせる人ならざる美しさ。志朗は口元を吊り上げた。
「似合ってるじゃないか」
軽く笑いながら、冗談めかして続ける。
「大山さんからの賄賂さ。経済も回さなきゃ意味無いしな。仕入れ先の品質、確かめておこうと思って」
シキは反応を見せない。命じられた姿のまま、そこに存在している。
美しい無表情。それがいつも志朗の心をざわつかせた。
「着せ替え人形みたいだろ。遊びたかっただけさ」
照れ隠しにも似た言葉を紡ぎながら、志朗はグラスを口に運び、視線を逸らす。
ふと心に過ぎった想いが、喉の奥に引っかかった。
――いつか、外に出してやるのも悪くない。
その考えを追い払うように、志朗は再び口を開く。
「こっちに来い」
命じれば、シキは迷わず従った。沈黙のまま音を立てず歩み寄り、その手を志朗に取られるまま、膝の上へと身を預けた。
シャツの袖がずり落ち、露わになる細い肩と鎖骨。その美しさに、志朗の目が吸い寄せられる。
顎に指を添え、ゆっくりと唇を重ねた。
熱い。シキは声を漏らさぬよう堪えるが、僅かに震える吐息が志朗の耳に届く。
「……ん……ぅ……」
無言の彼が押し殺すように漏らす音が、甘い痺れとして志朗の中に広がっていった。
(この声が、たまらない)
「んぁ……う、ん……」
「良い声、出すじゃねえか」
志朗はもう一度、深くキスを交わす。長く、呼吸を絡めるように。唇を、首筋を、耳元を、なぞるように。
「今日見た女のエルフより、お前の方が……よっぽど良い声を出す。まったく、どうかしてるな」
皮肉とも本音ともつかぬ言葉を吐きながら、志朗はシキの首輪に触れた。
金属の冷たさと温かな肌の狭間にある、曖昧な温度。それは支配と献身の象徴でありながら、なぜか、人恋しさすら滲んでいた。
「着せたばっかで悪いが、シャツ、脱げ」
低く命じると、シキは迷いもなくボタンを外しはじめた。
一つ、また一つ。艶を帯びた布が滑り落ちるごとに、陶器のような白い肌が露わになっていく。
滑らかな鎖骨、肋骨の浮き。繊細な肢体の陰影。志朗は腰を抱え、シキの身体をソファに押し倒した。
重なる体。宿る熱を、互いの皮膚がゆっくりと覚え合っていく。唇が顎をなぞり、首筋を伝い、鎖骨に到達する。そこに、甘噛みのような音が立った。
「……んっ……」
押し殺されたシキの声が、志朗の胸を痺れさせる。
その小さな反応が、たまらなく愛しい。同時に獣のような衝動が、腹の底から疼く。
志朗は自らのシャツのボタンも外し始めた。露出する肌と肌が、ようやく同じ空気の中で絡まり合う。
「そんな声を出して、俺に抱かれるのが……お前には、似合ってる」
腰に回した腕に力を込めると、シキの背が僅かに弓なりに反る。
無垢なその姿を見つめながら、志朗はシキのズボンのベルトに指をかけた。
「触るぞ」
応えは無い。だが、拒絶の気配も無かった。
布の摩擦音、指先の軌跡、呼吸が徐々に乱れていくさま。志朗の手が下腹を撫で、指が敏感な部分へと触れたとき、シキの身体がぴくりと跳ねた。
「……ん、っ……ぁ……」
声に、志朗は思わず笑みを零す。
「やっぱり、お前は……最高だ」
夜景の中で、二人だけの世界が密やかに燃えていく。志朗は求める。愛の言葉も何一つ交わされないまま、熱と熱だけが確かに触れ合い、混じり合っていった。
深夜二時。琥珀色の間接照明だけが灯るリビングのソファで、志朗はシキを抱いていた。
静かに眠る彼の寝息が、微かな振動として腕に伝わる。
志朗は指先で銀髪を撫でながら、もう一方の手で煙草をくゆらせた。喉奥へと沈む煙の熱に苛立ちが紛れるかと思ったが、胸のざわめきは治まらなかった。
傍に横たわるのは、人ならぬ存在。かつて山深い人外の集落から攫われ、志朗の私有物となったエルフの青年。
シキは命じれば従い、呼べば寄り添い、求めれば与える。その構図は、5年前から一度も変わっていない。
そう、志朗が18のときにシキを買ってから、5年が経過した。
5年で志朗は変わった。一国の王になれた。だがシキの姿は変わらない。志朗が13歳の頃から、彼の姿は20代半ばの青年のまま。そして志朗が18になっても、23になっても、彼は変わらず美しくあり続ける。
(服装で何か変わるかと思ったが、シキはシキか。……普通の服なんて、着せるんじゃなかった)
ごく普通の人間らしい服装をさせた。首輪が嵌められていること以外、ただの人間の青年と変わらぬ風貌になっただけだ。
きっと外に出せば、彼が人外の奴隷だなんて誰も気づかない。
(……本当に、やってみるか?)
彼に自由を与えてみるのは、どうだろう。
一緒に街を歩き、帰宅し、共に飯を食い、口付けを交わす。そんな光景が志朗の脳裏に浮かんだ瞬間、苦々しく舌打ちが漏れた。
(まるで恋人みたいな想像をしている)
違う、と志朗は呟いた。違わなければならないと強く思った。
けれど、生活の一部として存在してくれている。もう5年もだ。
さらに贈り物をして、口付けをした。抱いた。こうして、身を寄せて眠ってくれている。その一連の流れが、まるで「誰かを愛されているかのような錯覚」を与えてくるのだ。
(……俺が、そんなものに喜ぶなんて……)
愛されたこともないくせに、愛したふりをして悦に入る――そんな滑稽な真似をして、恥ずかしくないのか。
自分を厳しく叱咤しても、いつの間にか志朗の手は煙草を置き、無意識にシキの背を撫でていた。
全て思考放棄してもう一度シキの寝顔に口付けようとした瞬間、電話のベルが鳴った。志朗は低く鼻を鳴らし、身体を起こして受話器を取る。
「なんだ。こんな時間に」
相手は、上門 霞。唯一無二の腹心だった。
『うぃーっす。起きてました? いや、志朗兄さんなら起きてるか。キャバクラ帰りですから一応遠慮してたんですか』
「あのな。大山のとこに行ったのは仕事だ、仕事」
眠るシキの額に指を這わせる。
瞼は微動だにしない。静寂の奥に横たわる高めの体温が、いつもに増して可愛らしかった。
『分かってますって。ま、それはさておき、報告を二つ。良くない話と、もっと良くない話。どっちが先がいいっすか?』
「どっちでも悪いならまとめて話せ」
『了解。じゃあ一つ目……あのジャーナリスト。要って女、まだ動いてますよ。機関の旧記録、漁ってます。あれだけ圧力かけたのに、しぶといっすね』
「執念深ぇな」
志朗の指先が、汗ばんだ額の髪をすくう。
寝顔の無垢さに、ふと救われたような気がした。
『で、二つ目。……例の朱指から納品された20体、全部ハズレでした。異能ゼロ、魔力希薄、再生も不可。完全なガラクタっす』
その言葉に、志朗の手がぴたりと止まった。
『試験結果も出ました。機関の担当、笑ってましたけど目が全然笑ってませんでした』
志朗は黙って煙を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「要するに、燃やすしかないということだな」
『そーいうことっす。廃棄費用、また仏田名義で通します?』
「通せ。ただし、その分は西大家の取引先に帳簿を回せ。食導の方が、あの手の残骸は使い道がある」
『了解っす。裏金ルートで振替しておきます。……で、対策会議の予定、今週末で?』
「もう寝かせろ」
『兄さん』
「明日、朝一で来い。……俺だって、たまには眠っていいだろ」
受話器を戻す。
静寂が戻った部屋で、天井を仰いだまま、志朗はソファにもたれた。
寄り添う体に視線を落とす。シキの寝息が、穏やかに揺れていた。世界の全てを吸い込む、静かで温かな風のようだ。
志朗はその頬に指を添える。白い肌。眠りに沈む睫毛。触れれば壊れてしまいそうな、精緻な美。
ぽつりと、誰にともなく呟く。
「……ガラクタじゃないな、お前は。……特別だ」
酒のせいか煙のせいか。思いもしない言葉が出てくる。
けれどその夜、志朗の指はいつもよりも丁寧に、壊れ物を愛おしむようにシキの髪を撫で続けていた。
/6
朝の都心は、なお夜の余韻を纏っていた。
高層ビルの谷間を縫う風は刺すように冷たく、ガラスの壁面に映る太陽はまだ水平線を離れたばかりの低さで光を投げている。
エントランスの前に、一人の男が立っていた。漆黒のスーツにロングコートを羽織った大柄な男。上門 霞。仏田 志朗の側近にして、機関と組、そして仏田家を結ぶ調律者である。
片手にバインダーを抱え、もう一方の手でスマートキーを翳す。額には深い皺が寄り、表情は張り詰めた弦のように緊張していた。
(志朗兄さん、昨夜の声……やけに疲れてたな。資料の確認も連絡も滞ってる。まいったな、今日の報告は地味にヤバいんだが……簡潔に済ませるか)
そんな思考の最中。足を踏み入れようとした彼の背に、明るい声が跳ね返ってきた。
「ヤッホー、カスミちゃん」
軽やかで無邪気な声音。朝の陽光を跳ね返すような響きに、霞の背筋が自然と緊張する。
振り返らずとも分かる、そして振り返ればやはりそこにいた。
白のパーカーにゆるいデニム。片肩に鞄を掛け、片手をひらひらと振る男。
仏田 新座――志朗の実弟。霞と同い年の筈だが、どこか掴みどころのない、奔放な災厄のような存在がいた。
「……お前、なんでここにいんだよ」
鋭い声で霞が問う。だが新座はどこ吹く風で、にこにこと指先をエントランスのガラスに遊ばせている。
「昨夜ちょっと思ってさ、『志朗兄ちゃんとこ、泊まってみよっかなー』って。でも入れなかったんだよね。で、ちょうど入れそうな顔してる人がいたから合流したってわけ」
「軽すぎんだろ、お前……」
「むぐ? カスミちゃんの顔、なんか深刻そう。まあいいや、志朗兄ちゃんは上にいるんでしょ? 会わせてよ」
「こっちは仕事て来てるんだよ。火消しに経理に調整にって俺はいま火山の火口に立ってんだぞ、アホ」
「わー、秘書みたい。もう嫁じゃん」
「殺すぞ」
霞の声が一段、低くなる。だが新座は悪びれた様子もなく、ガラスに指で落書きを続けている。
仏田家に生まれながら、家にも組にも、機関にすら縛られず、気ままに生きる男。だが不思議と誰にも舐められず、組の幹部連中でさえ一目置く存在。
(志朗兄さんが唯一、まともに言いくるめられねえ相手……)
それを前にして、溜息が霞の口から漏れた。
バインダーを小脇に抱え直し、霞は無言でスマートキーを翳す。控えめな電子音がロックの解除を告げた。新座は笑みを浮かべ、素早くエントランスの中へ滑り込む。
「朝から機嫌悪くなってなきゃいいけどね、志朗兄ちゃん」
「最悪だったらお前が全部受けろ」
「やだよ。僕、愛される側でいたいし。そこはカスミちゃん、お願いね」
無遠慮な笑い声が、静謐なエントランスに波紋のように広がっていく。
霞は肩を竦め、舌打ちを交えてその背を追った。
最上階のドアが開くと、まだ寝起きの気配を纏った志朗が姿を見せた。
白いシャツの前は開かれたルーズな格好。室内に踏み込んだ霞と新座を見て、志朗はゆっくりと片眉を上げた。
「……なんで新座がいる」
声は低い。報告を受けるときの冷静さでも、敵を睨む時の峻烈さでもない。思いがけぬ訪問者に対する素の警戒が滲んでいた。
新座は、その揺らぎを逃さない。
「大好きなお兄ちゃんに会いたくなったから……って、ダメ?」
無邪気に笑うその声音は、冗談の仮面を持たない。言葉通りの純粋な響きをしていた。
志朗の唇が、動きかけて止まる。
軽口でいなせばいい。威圧して黙らせればいい。それだけのことだ。これまで誰に対してもそうしてきた。だが新座に対しては、それができない。
可愛い弟だから。そう言ってしまえば簡単だ。だがもっと深いところで、得体の知れぬ本能が囁いていた。
(こいつを調子づかせたら、俺は勝てなくなる)
新座という存在は、志朗にとって常に予測不能の爆弾だった。
「ったく、朝からふざけるな。来るなら連絡くらい寄越せ」
志朗は表情を整えて、ようやくそれだけを返す。だが新座は、にこりと笑いながら一歩近づいた。
「ねえ、志朗お兄ちゃん。最近お仕事、凄く忙しそうだよね」
「それがどうした」
「実業家って、もはや有名人みたいなもんじゃん? ちょっとした噂にもなるくらいさ」
志朗の目が、すうっと細まる。
「……どんな噂だ」
一拍の沈黙。
その先に放たれた新座の言葉は、無垢な響きのまま、鋭利な刃を隠していた。
「ブラックで逮捕されちゃうって噂」
その場の空気が一瞬で凍りつく。霞が険しい顔で一歩前に出た。
「おい、新座。兄さんにそんな無礼なこと……」
だが新座は、怯むどころか愉快そうに笑う。
「だって本当のことかもしれないじゃん。カスミちゃんだって仏田の裏帳簿、何度も精査してるんでしょ?」
「……てめえ」
「しかもさ、最近また週刊誌で騒がれてるよ? 要 渚って記者、まだ諦めてないみたい」
霞の口が開きかけたが、反論の言葉が見つからず、そのまま沈黙する。
新座はそれを見て、にっこり微笑んだ。
「黙っちゃった。かわいい」
霞の頬が僅かに引きつる。悔しさが喉元にこみ上げるが、即座の言葉が出てこない。
志朗は黙って二人を見つめる。新座の言葉には確信があった。確たる証拠を持っているとは限らない。だが、あたかも全てを見透かしているような語り口が核心に触れてくる。それが新座の恐ろしさだった。
志朗は一歩新座へと歩み寄り、その肩に手を置く。
「……新座。そういう冗談は、あまり大きな声で言うもんじゃない」
「うん。でもここならいいでしょ? 企業トップの自宅って防音ばっちりだもんね。したくない話も、ちゃんとできる空間な筈でしょ」
目を細めた笑顔。どこまでも無邪気に見えるその弟は、部屋の温度を一段、冷やしていた。
「ちなみに僕、本当に、なーんにも知らないからね」
そう言って肩を竦め、天井を仰ぐ。
「ただ知り合いの女の子が噂してたのを、たまたま耳にしただけ。都市伝説の延長みたいなやつ」
霞は口を引き結び、睨むように立ち尽くす。
「……偶然で済むかよ。何を掴んでやがる、てめえ」
低く唸る声。新座は一切怯まない。霞の緊張を撫でるように、穏やかに続ける。
「いや、本当に知らないって。でもさ、思い出したんだ。お父さんの葬式のとき、燈雅お兄ちゃんに言ったんだよね。『僕を巻き込まないで』って」
新座の微笑みは言葉とは裏腹に、どこか淋しさを帯びていた。
「それ以来、僕のところには実家の話……一切来なくなっちゃった。法事の案内も来ないし市役所からの書類も届かない。家系図から名前が消えたのかもね。お兄ちゃんたちが僕を守ってくれてるんだろうなって思うよ。嬉しいんだけどさ。でもこれじゃあ、僕からお兄ちゃんたちを守ったり、忠告したりもできないじゃん」
そのまま、ふと視線を志朗に向ける。目は笑っていたが、奥に沈むものは読めなかった。
志朗の手が、無言のまま煙草の火を灰皿に落とす。パチリと音を立てて火が弾ける。静寂の中で、それはやけに鮮明だった。
「ねえ、志朗お兄ちゃん。……ブラックで逮捕されそうなこと、やってないよね?」
その声はまるで、祈りのようだ。霞が息を詰める。
志朗はじっと新座を見つめ返し、そして、微笑んだ。
「ああ。逮捕されることはない」
穏やかに、確信をもって応える。
――警察も検察も、証拠も情報も、全ては掌の内にある。だからこそ声は微塵も揺らがなかった。
「心配するな。俺たちはもうその次元にはいない」
新座はその言葉をじっと見つめ、やがて、ふわりと微笑んだ。
「……そっか。それなら良かった」
霞は笑みに込められた意味を測りかね、黙り込む。
志朗は視線を逸らしながら、再び煙草を咥えた。胸の内に、微かなざらつきを感じ取りながら。
「じゃ、朝ご飯いただいたら帰りまーす」
調子外れの明るさで新座が言うと、スキップでも踏みそうな軽やかさでキッチンへと向かう。
深く息を吐いた志朗に、霞は不安げに声を零した。
「志朗兄さん……あいつ、何か掴んでるんじゃ」
「さあな。掴んでても掴んでなくても、あいつはいつもあんなだ」
志朗がそう返した、まさにそのときだった。
「わっ!? なに!? え!? なんかいるんだけど!」
新座の驚愕の声がキッチンから響く。
「……なんかって、何だ」
訝しみつつ、志朗が重い足取りでキッチンへ向かう。霞もその後を追った。
そこに広がっていたのは……黙々と調理を続ける銀髪の青年・シキと、口をぽかんと開けて凝視する新座の様子。
エプロン姿で朝食を支度する謎の人物に、弟が指を差している構図だった。
「……やべ……」
志朗が呟く。シキは言葉を発さず、それでいて完璧な動きで、志朗の朝食を準備していた。
「なにこの子、綺麗! よ、妖精さんだよね!?」
シキは一瞬、視線を志朗に向けたが、何も言わずただ手元に戻った。
志朗が数秒黙った後、ゆっくりと、シキの隣に立つ。
「……こいつに、身の回りの世話をしてもらってる」
淡々と事実だけを口にする志朗。
「お兄ちゃん、まさか……奴隷として飼ってるわけじゃ……ないよね?」
その一言に、志朗の目が僅かに揺れた。だが新座は気づかず、まったく別の方向へ思考を走らせ、笑った。
「そっかあ……お兄ちゃんの恋人かあ!」
あまりに無邪気に、祝福するように放たれる言葉。志朗は、返す言葉を失う。
否定すれば、何かが壊れる気がした。
肯定すれば、何かが始まってしまう気がした。
けれどその瞬間、志朗は――無意識のうちに、頷いていた。
「……ああ」
たった一言。
そのときシキの手がふと止まり、視線が僅かに伏せられたのを、志朗は確かに見た。
「え、マジで!? 朝ご飯作りに来るとか、愛じゃん!」
新座は朗らかに笑う。霞は呆然とし、志朗は喉の奥に引っかかる何かを黙って味わう。
明確な嘘だった。だが、否定したくなかった。そんな自分自身に――志朗は、誰よりも驚いていた。
キッチンに、朝の淡い光が差し込み始める。
磨かれたテーブルの上には、シキの手作りモーニング。焼き魚。味噌汁。ほうれん草のお浸し。どれも手間がかかる献立であり、いずれも志朗の好物だった。
その整然とした空間に色を差すように、新座の声が舞い込む。どこか小鳥の囀りにも似た、無邪気で無防備な声音だった。
「志朗お兄ちゃんって有名人なのにずっと恋人の噂が無かったからさ、心配してたんだよ? そっかー、いたんだねー!」
新座は当たり前のような顔でシキの隣に座っていた。
無遠慮さには悪意の欠片も無い。ただひたすらに「兄に愛する人がいた」という事実が嬉しくてたまらない様子だった。
「公表できない理由も納得だよ。そりゃそうだよね。立場もあるし、イメージってのもあるし……ねえ、お名前は?」
矢継ぎ早に問いを重ねる弟に、志朗が口を開きかける。
「おい、新座。そいつは無口なんだ。喋るのが苦手で……」
その言葉を遮るように、柔らかな声が重なった。
「シキです」
視線が、一斉に彼へ向けられた。
志朗の指が、止まる。
「……あっ、声、男!? 女の子かと思ってたー!」
新座が目を見開き、手を叩いて笑う。明るさに満ちたその反応は、戸惑いよりも肯定に近かった。
「むぐ、これはさらに公表しにくい……いや、多様性いいと思うよ、僕は。応援しますっ」
軽口にも似た調子だったが、その眼差しには一切の嘲りもない。むしろ真剣だった。すぐに、また次の問いが飛ぶ。
「ねえ。志朗お兄ちゃんとは、どこで出会ったの?」
シキは止まることなく、はっきりと応じた。
「仕事をしている彼に、スカウトされまして」
「マジメー! でも志朗お兄ちゃんならそういうことするよね、シキお兄ちゃん! ねねね……」
無垢な追撃。志朗はそのペースに翻弄されながらも、ふと冷静になって思う。
(……いや、待て)
会話になっている。ごく自然に、当たり前のように。
新座は笑いながら、さらに問いを重ねていく。
「シキお兄ちゃん。志朗お兄ちゃんのこと……好き?」
幼子のいたずらのような問いだった。瞬間、室内の空気が一変する。
シキは静かに、けれど確かに頷いた。
「はい」
その声は、真っ直ぐだった。
余計な飾りも、曖昧さもない。ただそれが真実であるかのように告げられる。
志朗は、息を呑んだ。
これまで一度として、そんな言葉を聞いたことがなかった。いや、正しくは……聞こうともしなかった。命令だけを与え、期待する動きだけを求めてきたからだ。
言葉を交わすことがなかったわけではない。だが『会話』という営みに向き合おうとしたことが、一度でもあっただろうか。
胸の奥で何かが沈み、揺れた。朝食を取るという日常すら送れず、志朗はただ、シキの横顔を見つめる。
新座は変わらず、にこやかに語り続けていた。
「へぇ、シキお兄ちゃんってフルーツが好きなんだ?」
「はい。甘酸っぱいものが特に」
「おおー、志朗お兄ちゃんとは真逆だ! うちの兄ちゃん、あまり柑橘系とかベリー系って好きじゃないんだよね〜。どっちかっていうと桃とか昔から好きで〜」
新座は心から楽しげだ。作り笑いではない、純粋な出会えた喜びに満ちている。
対してシキは表情に乏しいままだったが、全ての質問に丁寧に答えていた。軽率な言葉は一つもなく、特に志朗に言及する際はどこか言葉を選ぶ気配がある。
志朗は黙ってそのやり取りを眺めていた。
箸を持つ手が、ぎこちない。口に運んだ白米の味が、ひどく遠く感じられた。
(……どうして)
――なぜ新座は、あんなにも自然にシキと会話ができるのか。
――なぜシキは、自分の前では口を閉ざすのに、新座に対してはこんなにも言葉を重ねられるのか。
新座は何も知らない男の筈だ。仏田家の呪いも、裏社会の澱も、人外の歴史も。全てを避け、ただ愛されて育っただけの人間だ。
――なのに、あいつは俺の知らぬ距離に平然と入り込んでくる。
それは才能なのか。それとも愛されるという、天賦の才なのか。
志朗は、唇を噛んだ。何かを押し殺すように、ただ噛んだ。
食後、新座は湯呑を口に運びながら、さらりと別れを告げた。
「そろそろ帰るよ。またね」
その一言に志朗は不意を突かれたように、返答の言葉を探した。数秒遅れて、ようやく絞り出す。
「……分かってると思うが、新座。俺は今日も仕事がある」
「うん、知ってるよ」
「朝はこうして少し時間が取れるが……数日、お前に構う余裕はない」
「ふふ、やっぱり優しいね、志朗お兄ちゃん。冷たく突き放すなら『帰れ』って言えばいいのに。言わないあたり、お兄ちゃんらしいや」
言って新座は立ち上がり、鞄から小さな箱を取り出す。薄紙に包まれたそれを、そっとテーブルの上に置いた。
「お土産。シキお兄ちゃんと仲良く食べてね」
「……ああ」
志朗はそれ以上、何も言えなかった。
新座は軽やかな足取りで玄関へ向かい、やがて扉が閉まる。
食器を片付け始めたシキの手つきに、乱れはない。けれど志朗の内側では、軋むような何かが動いていた。
「……シキ」
名を呼ぶ声は、掠れていた。
「なんで今まで……俺には、あんな態度を取らなかった?」
真正面から問う声。ようやく目を見て、言葉を投げかけた。
シキは視線を逸らさず、真っ直ぐに応じる。その瞳は氷のように澄んでいて、どこまでも静かだった。
「弟様は、私の目を見て、明確な意図を持って問いかけてこられました。だから私は、それに応じたまでです」
その言葉が志朗の胸に、冷たい波紋のように広がった。
――つまり、志朗自身が、ずっとその資格を放棄していたということだ。
問いを投げず、目を見ず、返答を求めもしなかった。命令だけを伝え、意思の対話を一度として望まなかった。
それが、志朗の選択だった。
視界が滲んだような気がした。志朗は椅子に腰を沈め、額に手を当てる。悔しさと、羞恥と、後悔。全てが混ざり合って胸の奥に沈殿する。
「すみません、志朗兄さん。新座のせいで少し時間が押してます。そろそろ出発しないと先方との会議に――」
言葉を呑み込んでいた霞が、ようやく声を絞り出した。
「……ああ」
志朗はそれだけを返し、何も感じていない顔を取り戻した。
シキが無言で玄関へ向かい、志朗のコートを差し出す。受け取った志朗は、霞と共に外へ出る。扉が閉まり、室内には再び静寂が戻った。
そして、エレベーターの中で志朗はぽつりと呟く。
「……あいつ、あんな声で喋るんだな」
霞は、静かに頷いた。言葉は無かった。
【3章】
/1
灰色の空が、冬の海のようにどこまでも低く垂れ込めていた。
雲の底は厚く、光を押し潰したまま、重苦しい気配だけを地上へ投げかけている。
その下を志朗は黙然と歩いていた。目的地は、超人類能力開発研究所機関の本館。風を切るように急ぎながらも、靴音は極めて静かだった。
会議室の扉を開けたのは、予定時刻の僅か二分前。スーツの襟に手を添える暇もなく、志朗は言葉一つ発することなく部屋に入る。
既に着席していたのは二人の男。どちらも、この国の「倫理の外側」を担う人間たちだった。
一人は仏田 柳翠――志朗の叔父であり、父・光緑の実弟。
細身の身体に神経質な指先、眼鏡越しに覗くその視線は、常に冷えていた。気配りではなく監視を。慈しみではなく制御を欲する男だった。
もう一人は、機関第二部署頭垓の主任研究員・夜須庭 航。
白衣を身に纏い、ゆったりと椅子にもたれているその姿は、一見すれば牧歌的ですらある。淡く微笑みながら茶を啜るその様は、まるで穏やかな日常の延長にいるかのようだった。
だがその口から語られる事実だけが、この場における唯一の現実だ。
「はぁ……お忙しいところ、ありがとうございます、志朗様。ギリギリ、セーフですね」
夜須庭は柔らかく言った。
「おかげさまで、僕の茶も飲み終わりましたよ」
声音には温厚の仮面が貼り付けられていたが、続く言葉には容赦がなかった。
「さて。昨日のうちに、柳翠様ともご相談しておりました件ですが」
彼がノートパソコンを操作すると、壁面に設置されたボードに、20体分のデータが無機質に映し出された。
肉体損傷、異能適性ゼロ、精神反応フラット。いずれも、商業的価値なしと判断された個体群だ。
「この損失は実に惜しいものでして。昨日までは焼却処分を提案しておりましたが……やはり、無駄にするには忍びない。例えば、質が芳しくないのなら格安での提供も視野に入れようかと。市場には安価でも人外を求める層が存在しますからね。あるいは加工品として、霊薬や香料、嗜好品への再利用を……」
怒涛の勢いで話始める夜須庭に、柳翠が切り込む。
「霊薬への調合に使う案については、不純物混入のリスクは避けられん。しかし『それも味だ』と謳い、薬効とは別の価値を売る手もある。不景気な今だからこそ、安く多くという路線も一考に値する。……ただし」
柳翠の声が、一段だけ低く鋭くなった。
「質の高さこそが我が仏田家の看板であるということは、志朗、お前も理解しているな」
志朗は応じず、ただ映し出された情報へと視線を滑らせた。
どの個体も商材としては確かに規格外。だが投入された資金と時間を思えば、切り捨てはすなわち損失だ。
「……味。ふざけた言葉だが、案としては悪くない。ただし下手に動いてブランドに傷がつくようなら、実行前に全て止める」
「もちろん。我々は常に、仏田家のご意向を第一と考えておりますよ」
夜須庭は、飄々と微笑んだ。
笑みの裏にあるものは計算、利潤。そして何より、素材としての人を弄ぶ研究者の興味が確かにあった。
「ただ、志朗様。ご理解いただきたいのは、我々研究者にとって失敗作とは、素材としての出発点に過ぎないということです。生きている限り、必ずどこかに使い道がある。たとえば骨でも皮でも臓器でも」
「夜須庭」
柳翠の声が、鋭くその言葉を断ち切る。
「今ここにいるのは経営者と取引相手だ。語るなら、価値のある商品として語れ。部位ではなくな」
「……失礼を」
夜須庭は一瞬だけ目を細め、再び薄ら笑みを貼り付けた。
柳翠が軽く咳払いし、話を本筋へ戻す。
「どの案を採用するにしても、今後の仕入れ方針は改定せねばならん。朱指への選別精度の再教育、並びに術式の更新。それをまず全て確認していきたいのだが……」
議論は続く。
この部屋において命はただの数値であり、個は商品価値という物差しで測られる対象だった。
尊厳などという言葉は、最初から議題になかった。
彼らには感情が無い。権利もなければ自由も無い。あるのは、価値があるか否か。再利用できるか否か。それだけだ。
そしてその場に、志朗もまた黙然と座していた。
――朝、自宅で見送ったシキの横顔が、ふと脳裏をよぎる。
白く静かな顔。声を掛ければ、僅かに眉が動くその反応。
しかし、志朗はその記憶を寸分の迷いもなく切り離す。ここは、情を差し挟む場所ではない。志朗は冷徹な経済人の顔を装った。それがこの世界で生き残るための、唯一の仮面だった。
「……以上が、先日の20体分の損失に関するカバー案となります」
夜須庭の口調が落ち着きを取り戻し、会議室に一旦の静寂が訪れた。
だが、それは終わりではなかった。終える気など彼には最初から無い。
「志朗様。本日はこれとは別に、新たなご提案をさせていただきたく思っております」
声に熱が宿る。普段は温厚な仮面を纏う夜須庭が、研究者としての本性を覗かせる瞬間だった。
志朗は僅かに背筋を伸ばす。隣席の柳翠が目だけで夜須庭を見やり、微かに頷く。それがこの場における了承の合図であることを、志朗は即座に悟った。
「人外種族以外も、欲しいのです」
一拍置かれた言葉。室内の空気が微かに揺れた。
志朗の指先が、意識せずして動く。
「……人外種族、以外?」
頭に浮かぶのは、これまで取り扱ってきた標本たち。エルフ、獣人、ドワーフ、精霊混血。いずれも異能素の流動が濃く、実験素材として高値で流通していた。
それらに代わる以外とは、志朗にとって異質というより異様だった。
「はい。人間が、欲しいのです」
夜須庭は穏やかに笑う。花の名でも挙げるかのような声音で、無垢な少年のように。
志朗は次の言葉を失った。部屋の温度は変わらぬ筈なのに、一つだけ、空気が重たく沈んだように思えた。
「……人間、を」
「ええ」
夜須庭の返答は明瞭だ。
目に宿るものは、誠実さではない。あるのは対象への好奇心と、操作可能な物体への憧憬だけ。
「この5年、仏田家と機関は志朗様のお力添えによって飛躍的な成果を得てまいりました。エルフの再生機能の分離、霊素変換の安定化、繁殖適性の評価、精神改変の臨界点の解析などなど……」
長く続きそうな言葉を断ち切るように、柳翠が低く言った。
「志朗。お前が築き上げた供給網と流通の制度設計は、仏田家にとって確かに力をもたらした。だが」
視線が、正面から志朗を捉える。
「我らは、さらに高みを望める。いま必要なのは、人間だ。最もプレーンで、最も加工しやすい素材」
夜須庭が続ける。声音には嬉々とした抑揚があった。
「試したいことは山ほどあります。魔術下での精神崩壊の臨界、異能接種後の応答時間、血統別霊素反応の分岐……人外も面白いんですが、最終的に影響を与えるべきは人間社会なんですから、対象はやはり人間であるべきなんです」
学会の壇上で夢を語る研究者の口調。けれどその夢の中身は、あまりにグロテスクな色をしている。
志朗の脳裏を、さまざまな光景がよぎる。
駅前を歩く親子。商談の場に現れる名も知らぬ顧客たち。通行人。隣人。その中の誰かが、明日には素材として扱われる可能性。
そしてその扉を開く鍵が、今この手の中にあるという現実。
一線を越えるか。
法も倫理も、情すらも踏み越えてきた。だが今回ばかりは、自らが人間であるという最後の輪郭すら、溶けてゆくような錯覚がある。
志朗は、言葉を失う。夜須庭はその沈黙すら肯定と受け取り、なお穏やかに続けた。
「もちろん、急ぎません。ご判断はじっくりと。ただ……今動けば、先行者利益は、圧倒的ですよ」
微笑の奥に、透き通るような冷酷さが覗いていた。
指を組み、視線を落とす。沈黙の重みに耐えかねるように。心の奥底では、自らの口で壊すことへの一抹の陶酔が芽吹いていた。
そして……志朗は、静かに頷いた。
「……いいだろう」
頷く志朗に、夜須庭の目が喜びに細められた。柳翠も無言で頷く。
そして、すぐさま問いが飛ぶ。
「志朗。頷くからには、案があるのか?」
叔父の声は冷たい。肯定の後には、常に戦略が要る。志朗もそれを心得ていた。
視線を前に向け、志朗が口を開く。
「……思いつきですが、言います」
夜須庭が身を乗り出した。
「ぜひ。志朗様のアイデアはいつも刺激的ですから」
志朗は目を細め、静かな声で告げた。
「――生を、望まれない者がいる」
空気がぴたりと張り詰めた。
「人間の中にも、不要とされる命がある。我々がその命を、再利用するのは、自然なことではないか。……例えば、犯罪者。死刑囚。社会から見放され死を待つ者たちを、我々が引き取る」
言葉の重みが、会議室に沈殿する。
誰も笑わなかった。それは冗談ではなかった。あまりに現実的で、あまりに容易だった。
「……死刑囚を、か」
柳翠が呟く。
「はい」
志朗の声音は穏やかだった。抱く筈の苦痛はどこにもない。何かを脱ぎ捨てた者の静けさがあった。
「国とのパイプはある。警察組織への接触も可能だ。必要なのは名目と書類。人体再生研究、終末期医療への協力、洗脳治療の臨床。看板など、いくらでも付け替えられる」
夜須庭が感嘆のように手を打った。
「素晴らしい。処刑ではなく、奉仕という衣を纏わせれば、倫理委員会の一部は贖罪と受け取るでしょう。浄化された命、という建前も立ちます」
柳翠は口元に手を当てていた。目に光はなかった。ただ思考と計算だけが、静かに動いていた。
志朗は、自分の声がどこか遠くから聞こえているような気がした。
――また一線を越えた。けれど胸は、驚くほど静かだった。
これはきっと最初から予定されていた地獄だったのだと、自分に言い聞かせる。
戻る道は、もう無い。ならばせめて、秩序ある地獄に。
誰にも見えぬ笑みが、志朗の口端に微かに浮かぶ。それは理性という名の檻が、音もなく外れる音だった。
こうして機関は、人間を新たな資源として取り扱うことを、静かに決定した。沈黙のうちに、ただ合理と効率の名のもとに。
夜須庭がふと顔を上げ、無垢な笑みを浮かべた。
「志朗様が望まれない生と仰ったとき……僕はてっきり、一から命を作るという意味かと。つまり、実験専用に設計された製造ラインの構築をするのかと想いましたよ」
それは冗談のように聞こえたが、目は笑っていなかった。本気でそういった未来を想定している者の目だ。
志朗は応えず、指を組み直し、深く椅子に凭れかかる。柳翠がすかさず予算案を読み上げるように、口を開いた。
「それもいずれは必要になるだろう。ただしコストが掛かる。母胎の管理、胎盤維持、異能素の浸透率の調整、初期教育。実用までには、10年以上かかる見通しだ」
命ではない。ただの時間と金と設備の問題だと、冷徹に口にする。
「まずは、志朗。お前の提案を実行に移そう。交渉、通達、法的建前の確立……現実性を見せてみろ」
否定は無かった。反論も、怒りも、悲哀すらなかった。
そこにあったのは、ただ静かに了承された悪意だけ。
志朗は、深く息を吸い込んだ。何も感じぬように、自らを作り直すように。
それから、彼は動き始めた。
会議の翌日には、既に志朗の一日は分刻みで埋められていた。
刑務所長との接触。政界に根を張る旧い後援筋との交渉。司法関係者への丁寧な根回し。倫理委員会の黙認工作。
用いられるのは、いずれも正しさの衣を纏った言葉ばかり。
人道的救済。再社会化不能な個体の再利用。国家予算の節減。それらの名のもとに、数多の魂が静かに帳簿に転写されていく。
提出される書類は清潔な白を基調に、美しく整えられ、規則正しくホチキスで留められていた。
その裏では志朗の手により、次々と食材が確保されていた。
顔のない人間たち。誰にも惜しまれず、誰にも呼ばれず、ただ社会の余白に滲み出た名もなき命たち。志朗は彼らを、躊躇いなく数値へと変換した。
(犯罪者には人権は無い。死刑囚には、我々の餌になってもらう)
そう思考することに、もはや抵抗は無かった。
忙しい日々が、再び始まった。
仕立ての良いスーツに袖を通し、政財界の中心を寡黙に歩む。裏では機密書類とともに人間の名簿を手に、候補者の選別を進めていく。
そして夜。無言で帰宅した志朗を待っていたのは、シキの淹れた静かな一杯の茶だった。
何一つ変わらぬ顔で。何一つ、誰にも悟らせることなく。
理性の名を借りた暴走は静かに、しかし確実に、この国の命の値段を変えつつあった。
それは戦争よりも静かに、革命よりも正確に、人間という概念の枠を塗り替えていく作業だった。
/2
志朗には、月に一度は何もない日が訪れることがある。
連日の会議、接待、裏交渉、監視と監査、調印と調整。隙間なく埋め尽くされた予定表に、ごく稀に、まるで手違いのようにぽつりと空白が生まれる日がある。それが彼にとっての、唯一の休日だった。
この十年、風邪一つひかず、骨の一つも折らなかった。その強靭さは生存戦略であり、休暇の全ては自らのために費やすことができる。
だが志朗には、趣味というものが存在しない。
幼少の頃は成績が全てだった。周囲の子どもたちが遊ぶ時間も、彼にとっては生き残るための補習の延長でしかなかった。
裏社会に身を投じてからは暴力が唯一の解放だったが、それすら仏田志朗という器を築き上げる過程にすぎなかった。
快楽も欲望も、全ては道具だった。
だからこそ観葉植物のように美しく、世話を要さず、ただそこに静かに存在するもの――それこそが志朗にとって唯一の癒しだった。
休日のたび、志朗はただその存在を眺めて過ごした。
陽の射す窓辺に座らせ、言葉一つ交わすことなく、黙然とその姿を見つめ続ける。
時に手を伸ばし、服の襟元に指を掛ける。ボタンを一つ一つ、音を立てぬように外していく。生地の下から露わになる、白磁のような肌。そこにある美を確かめるように、じっと目を注ぐ。
必要とあれば、性欲処理の奉仕を命じた。
シキは一言も発さず、命令に従う。
感情の無い儀式。欲望を処理し、日々に堆積した穢れを機械的に洗い流す。
事が済めば志朗はタオルを投げ、ソファに沈む。シキは無言のまま洗面へと向かい、後始末を淡々と済ませる。
何も生まれず、何も残らず、誰にも知られないまま流れていく一日。それが志朗にとっての安らぎだった。
(俺はヒトを食い物にしている。シキをこうして、喰らって生きている。批難されるのは当然だ。……けど、シキは、何もしない)
シキは何も言わず、全てを受け入れていた。
――休日の午後。灰色の空が、高層ビル群のガラスに鈍く映えていた。
性欲処理を終えた志朗は、膝に開かぬままの資料を置き、ソファに沈みこんでいた。
タワーマンションの最上階。完璧に整えられ、完璧に守られた空間。その静寂はやがて空虚へと転じ、耳の奥に響くのは自身の呼吸音だけとなる。
ふと脳裏に浮かんだのは、弟・新座の無邪気な問いだった。
「シキお兄ちゃん。志朗お兄ちゃんのこと……好き?」
「はい」
あの日、笑いながら問いかけた弟と、迷いなく応じたシキ。あの一瞬を、志朗は未だにどう受け取ればいいか分からないままでいた。
(……あれは、俺を見ていたのか。それとも、新座への模範解答だったのか)
見ぬふりをしてきたものが、今日はやけに胸を突く。
この空白の日は、まるで己の孤独を炙り出すために用意された罠のようだった。
「……シキ」
呼びかけに、シキは静かに振り向く。
志朗は、少しの間を置いて言った。
「……着替えろ。外に出る」
それは、シキを搬入したとき、あるいは転居の際を除けば、初めての外出命令。衝動に近い思いつきだった。
黒塗りの車が夜の首都高を滑るように進む。
高層ビルの灯りが次々と流れ、信号も渋滞もない高架の道は、まるで都市が忘れた夢の回廊のようにどこまでも無音だった。
助手席のシキは、静かに窓の外を眺めていた。志朗が選ばせた服がよく似合っている。夜の灯りに淡く照らされる銀髪は、リビングで見慣れたそれとは違う、どこか生々しい光を帯びていた。
会話は無い。音楽も流れていない。けれどその沈黙は、決して苦ではなかった。
誰かと隣にいて、何かを共に見ている。そのこと自体が、志朗にとっては未知の安堵だった。
首都高を走り切り、志朗は車をインターチェンジ近くの展望駐車スペースへと滑り込ませる。エンジンを切って、フロントガラスの先に広がる光の海を眺めた。
摩天楼の灯。車の尾灯。川沿いのネオン。無数の人間の営みが放つ明かりが、眼下に瞬いていている。
隣に座るシキは黙ったまま、その景色を見つめていた。
「……見えるか」
志朗の声が、夜の静寂にぽつりと落ちる。
「この街に、俺がどれだけ手を入れてるか。知ってるか」
応答は無い。志朗は続けた。
「ビル群の一つ一つに、うちの金が流れてる。あの川の護岸整備にも、うちの土木が絡んでる。表に出てないだけで、この景色の半分は裏のものだ」
事実の列挙する、淡々とした声。
「全部が俺の手柄じゃない。親父の代、じいさんの代……もっと前から積み上げてきたもんだ。でも、今動かしてるのは、俺だ」
しばしの間を置き、志朗は微かに笑った。
自嘲でも諦めでもない。ただの所感の笑みだった。
「……悪くないよ。けど、思ったほど、面白くもない」
夜景の美しさは変わらず、しかし志朗の胸には届かない。
「昔さ、こういう場所で女と酒を飲んでる連中を見て、冷めた目してたんだ。夜景なんてどこで見たって同じだろう、って」
シキは何も言わない。その沈黙すら、今はどこか穏やかだった。
「でもな。今は……少しだけ、分かる気がする。誰かと見てるってことが、大事なんだな。風景そのものよりも、隣にいる奴が、ただ黙って見てるってことが。それだけで、意味が変わる」
沈黙が降りた。けれどそれは、心を塞ぐものではなかった。
車内の空調が微かに唸り、都市の喧騒は遥か下。ここには、志朗とシキの呼吸だけが残されていた。
志朗は再び視線を夜景へ戻す。
この時間は、誰にも知られない……ただ二人きりの不完全なデートのようなものだった。
(……いつからだ。こんなに気になるようになったのは)
かつては命令すれば何でも従う便利な道具にすぎない存在。
今では、何を見ているのか、何を思っているのか、知りたいと思ってしまう瞬間が増えていた。
「……なあ。お前は……誰かを好きになったこと、あるか?」
唐突に疑問がこぼれる。
自分でも理由は分からなかった。ただ、言わずにはいられなかった。
問われたシキは、僅かに首を傾げる。
「好き、とは。どういう意味でのことでしょうか」
返された問いに、志朗は一瞬、息を止めた。
それから、小さく笑った。照れ隠しに近い笑みだった。無意識の執着が初めて応えられたような気がして、どこかむず痒かった。
「わかんねえよ。ただ一緒にいたいとか、触れたいとか、他の奴には見せたくねえとか。勝手なもんだ」
窓の外では、夜の海が鈍く光り、揺れていた。
遠い波音は届かない。それでも、胸の内には確かな波紋が広がっていた。
「……もし、お前が、俺のことを好きだって言うなら」
一拍、間を置いて。
「……キスしてみろ」
馬鹿げてる、と自分でも思った。命令のようでいて、試すようで、逃げ口上のようでもある。
だが、シキは迷いなく顔を寄せてきた。無音のまま、静かに志朗の唇に、そっと触れた。
志朗は目を見開いたまま、身体を固める。
(……マジかよ)
喉の奥で呟いたその声は、音にはならなかった。心の中は、その言葉で満たされていた。
シキは何も言わず、すぐに身を離した。銀の睫毛が夜の光を受けて揺れ、その横顔には、羞恥も得意げな色もない。ただ命令に従ったという事実だけが、そこにあった。
それだけなのに――志朗の胸は、静かに、けれど確かに熱を帯びていった。
(好きだっていうなら。俺は、そう言った。じゃあ……これは、そうなのか)
「……嬉しいな」
本当に嬉しかった。否応なく、胸がそれを認めてしまっていた。
キスされたことより、それを求めていた自分の心に、志朗は初めて気づく。
「……ありがとう。嬉しい」
素直に言葉がぽろぽろと出てくる。それでもシキは、表情を崩さない。
もう、手放せない。命令でも、所有でもない。もっと厄介で、もっと渇いた欲望。それが、心の奥で、確かに芽吹いていた。
/3
都心の裏通りから一歩外れた、廃倉庫ビル群の一画。
住所すら地図に載らぬその建物は、かつて電気設備会社の拠点だったという名残をかろうじて留めていた。
黒く塗り潰された窓ガラス、意図的に剥落させられた外壁の塗装。廃墟を装う外観とは裏腹に、防犯用電子錠の整然たる電子音だけが、この場所が未だ現役であることを告げていた。
重たく鋳鉄めいた扉が、ゆっくりと開く。
志朗は静かに足を踏み入れた。闇に溶け込む黒のスーツ。ひと筋の乱れもない髪。だが目元にはいつになく鋭い光が宿っている。
無言のまま、コンクリートの階段を地下へと降りてゆく。硬質な靴音が、冷たい壁に反響しながら、すぐに沈んだ。
階下。ランプの淡い光が燈る密会室の扉が、既に開かれていた。
室内にいたのは――仏田組の古参幹部、中垣。
白髪交じりの髪、装飾一つないスーツ。齢60を越えてなお衰えぬ冷淡な眼差しと、皮肉に歪んだ口元が印象的だった。
その背後には、一人の若い男が控えている。無言で佇み、どこまでも静かな整った顔立ち。眼に揺れがない。均整の取れた体躯と沈黙の質が物語っていた。
一見すれば秘書。しかし志朗は即座に理解する。――護衛。いや、それ以上の存在だと。
志朗は警戒を表に出さぬまま、ソファに腰を下ろした。
「ご無沙汰しております、中垣さん」
落ち着いた声に、中垣は笑みを浮かべながらグラスを差し出す。
「おお、志朗坊ちゃん。随分立派になったじゃねえか」
口調には、馴れ馴れしさと侮りが等量に混じっていた。
「最近じゃあ、裏も表もあんたの掌の上って噂だ。大したもんだよ」
「遊び半分で広げた土じゃありませんので」
志朗はグラスを受け取るが、一滴も口にしない。中垣の酒には、昔から混ざりものがあった。
「で、中垣さん。今日のご用件は?」
言葉を区切るように、わざと淡白に切り込む。
中垣は細めた目で志朗を見やり、軽く手を振って背後の青年を一歩下がらせた。
芝居がかった仕草の裏には、明らかな含意がある。
「例の件だよ。機関との新ライン。あんたと上門所長が立ち上げたやつ。……あれをな、組として正式に監査したいって声が上がっててな」
「監査ですか」
その語に反応して、志朗の声色がほんの僅か冷たくなる。
「人間を使うって話がな、現場じゃちょっと……度を越してるんじゃねえかってさ。まあ、俺個人としては応援してんだよ。若いもんが時代を動かすのは結構なことだ」
中垣は笑った。だがその瞬間、志朗は確信する。
(この席は交渉じゃねえ。合意を装った、試金石。俺を試すか潰すか、そのどちらかだ)
視線を背後の青年へ。
目が合う。だが、そこには感情の一滴も無かった。波紋すら生まれない、無表情の湖面を見る。
(あれは調教済みの強化兵だ)
志朗の指先が、無意識にテーブル下で手首の内側へ触れる。
そこに仕込まれたナイフホルダーが、ひやりとした金属の感触を返した。平然と志朗は言葉を継ぐ。
「……つまり、監査とは。俺が上に立つ資格があるかどうかの、最終確認ってわけですか」
「気が早いなあ。まあ、そういうとこが気に入られてんだろうけどな、坊ちゃん」
その瞬間だった。
バンッ――。乾いた破裂音が、密室の空気を裂いた。
銃声。右肩に熱く焼けるような衝撃。弾丸が革のジャケットを貫き、肉を抉った。鈍い痛みとともに志朗の身体が僅かに傾ぐ。
だが倒れない。
視線を上げる。テーブル越しに、中垣が嘲るように笑っていた。
銃を撃ったのは、背後に控えていた青年。瞳にはやはり何の感情も無かった。
「さあ、仏田 志朗」
中垣が言う。
「お前が今まで踏みつけてきた商品たちに、今度はお前が踏み潰される番だ」
肩から血が滴り落ちた。スーツの袖が黒く濡れる。
だが志朗の目は細く鋭く、なお冷静に相手を見据えていた。
(こんなもんじゃ、死なねえよ)
血の香りが濃くなっていく密室で、志朗は内心、一つだけ決めていた。
ここで沈むわけにはいかない。仏田 志朗の名は、まだ終わらせていないからだ。
「――撃てッ!」
号令が密室に響いた一拍後。重く閉ざされた扉が蹴り破られ、黒衣の影が次々と流れ込んだ。
霞を先頭に現れたのは、仏田志朗直属の戦闘部隊。ただの極道ではない。肉体改造と魔術強化を施された、異能の近衛兵。黒装束に身を包み、精緻な結界を纏った彼らは、都市の裏側を守護する影だった。
駆けながら霞が呪符を放つ。符が宙に舞い、空気に焼きつく赤い閃光。爆ぜるような光が狭い室内を灼き、視界を白に染めた。
「志朗兄さん、伏せてくださいッ!」
しかしその閃光にすら、敵の兵は一歩も退かない。
前衛の一体が、無言で仮面を外した。露わになった顔は人間離れしていた。肌は硬質化し、両腕は血晶に変質し、骨ごと研ぎ澄まされた刃のような凶器と化している。
次の瞬間、男が霞の側近へと突進。風を裂くような一撃。赤い弧を描いて突き出された腕が、防御を貫き、腹部を抉った。
兵士の喉から濁った音が漏れ、血飛沫と共に崩れ落ちる。
続けざまにもう一人が霊力弾を放った。だが敵はただ一歩身を傾けただけでそれをかわし、疾風のように間合いを詰める。
魔術障壁を展開する間すらなく、頭蓋を掴まれた兵士が壁へ叩きつけられる。骨が砕け、鮮血が床を濡らした。魔術も防具も、何の意味も無かった。
「な、なんで……こんな化け物が、何体もっ!?」
霞は呪文を詠じながら後方へと下がる。
志朗の前に立ちはだかり、目だけで戦況を読み取る。
「志朗兄さん、こいつら全員人外です! しかも魔術封じの処理が施されてる!」
敵の兵士たちは終始無言だった。笑わず叫ばず、感情の一滴も見せずに殺戮だけを遂行している。まるで肉体に埋め込まれた命令に従って動く機械のようだ。
中垣が壁際から冷笑を落とす。
「機関の教育ってのはな、坊主の趣味とはレベルが違うんだよ。お前の部下みたいな小手先の異能じゃ止まらねぇんだよ――死ね」
霞が血の滲む拳を握りしめ、護符を掴み直す。
「うるせえよクソ爺、てめぇが先に死ね!」
怒声と共に、霞の身体が弾けた。
空気を灼いて符が燃え上がり、瞬転――短距離跳躍の術式が発動。疾風のような加速。霞の拳が仮面の男の側頭部を撃ち抜き、仮面が金属音を立てて砕け散る。
脳を揺らした筈の強化兵は、それでも一歩も引かずに立っていた。
「っ……な、なんで……倒れねぇ!?」
その刹那、霞の足元に歪む重力の渦。体勢を崩した彼の背後から、別の兵士が光刃の魔術を突き出す。
霞の目が見開かれた。だが、次に起きたのは――志朗だった。
その場から跳ねるように霞へ蹴りを放ち、身体ごと弾き飛ばす。刹那、光の刃が志朗の左脇腹を貫いた。
「ぐ、あああっ!」
熱と痛みに志朗の身体が大きく揺れ、膝を床につく。コートの下から溢れる血が、じわりと床を赤く染めていった。
霞が叫びながら駆け寄る。
「兄さんッ!」
叫びが、血飛沫と硝煙のなかに溶けた。
「ふざけんなァてめぇらァ!!」
霞の声が怒りに揺れていた。仲間は既に三人、四人と沈んでいる。なおも迫りくる無表情の兵士たちを前に、霞は志朗の肩を抱きかかえながら、なお退かない。
「志朗兄さん、俺が……俺が絶対に、生きて返すからなッ!」
一体、また一体と、音もなく接近してくる影たち。中垣が嗤う。
「殺れ。あの男を、機関の新しい素材にしてやれ」
霞が震える手で護符を握り潰す。鮮血が飛び、灯りを染めた。その絶叫は、決して屈服の声ではなかった。
階下で、鉄の軋むような不吉な音が響く。壁面に張り巡らされた術式が飽和し、魔力の気配が空気を震わせる。それは殺すためだけに構築された結界だった。
中垣の配下が展開していたのは、廃ビルそのものを呪具として転用する爆裂型結界封印。指定された区画を魔術的に固定し、その中心を文字通り吹き飛ばす。
中心にいるのは、既に片膝をついた志朗。彼を支える霞の背中には、返り血と埃が降り積もっていた。
「逃げ切れねえか」
霞が低く唸るように呟く。
「兄さん、結界が閉じきったら、ここ全部ごと焼却される……」
そのときだった。霞が、僅かに首を巡らせた。扉の外、薄闇の奥に微かな気配、人の気配を察する。
それは一般人だった。いや、ジャーナリスト――要 渚。
彼女は仏田志朗が関与していると噂される人外売買の実態を探るため、この密談の場を追っていた。小型カメラと録音マイクを手に、何時間も息を潜めていた。そして死の渦中に足を踏み入れたのだ。
(まさか……こんな地獄を撮ることになるなんて……)
その瞬間、志朗の視線が彼女を捉えた。
血に濡れた顔。冷えた瞳。目が獲物を見るように細められる。
「おい。使えるな、あの女」
掠れた声が、鋭く突き刺さる。
「……な、に……?」
恐怖ではない。理解不能という衝撃が、渚の思考を凍らせた。
志朗が顎だけで彼女を示す。
「霞、あの女を引っ張れ。一般人を巻き込めば、攻撃は一時止まる。外部に証拠が流れるリスクを、あの連中は嫌う筈だ。……人殺しの記録なんて、誰だって残したくはないからな」
「兄さん、それは」
霞の声に、志朗が被せる。
「命令だ」
血で濡れた唇から吐き出されるその言葉に、慈悲は無かった。
「俺もお前も、このままあそこで燃やされて終わるか。あの女を盾にしてでも生き延びるか――選べ」
沈黙が落ちた。そして霞が動いた。奥歯を軋ませながら走り出し、渚の腕を乱暴に引いた。
「きゃっ……やめ、離して!」
「黙れッ、動くんじゃねぇ!」
叫び声とほぼ同時、上階の柱から呪文刻印が灼ける音が響く。
結界発動まで、残り十秒。
志朗は渚の背後に身を滑り込ませ、彼女が手にしていた小型カメラを奪った。瞬時に壁へ投影されていた術式陣を映し出し、撮影する。
「おい、中垣ィ!」
怒声が、魔術の核心へと突き刺さる。
「この映像、お前の爆殺の証拠として世間にばら撒くぞ。殺すなら殺せ! だがお前のケツも燃えるぜえ!」
「馬鹿がッ! そんなもん、全部まとめて燃やしてやるよ!」
「馬鹿は、お前だ」
売り言葉に買い言葉。その一瞬の苛立ちが、術式に雑音を混ぜた。
構築された詠唱に誤差が走る。完璧だった筈の結界が、僅かに歪んだ。
瞬間、霞が動いた。結界の裂け目を見抜き、拳を滑り込ませて詠唱を走らせる。
――パキン。
ガラスの割れるような音。空間を満たしていた殺意が、僅かに怯んだ。致命の術式が停止する。
「はーあ、助かったぜ」
志朗の声は、まるで他人事のように乾いていた。
生き延びた実感も安堵もない。ただ戦場に残された者の口が動いたに過ぎなかった。
渚の目には血に濡れ、崩れかけたスーツを纏う男の姿が映っていた。その姿は命を繋ぐために他人を踏み台にすることを一切厭わぬ怪物だった。
醜く、ひどく美しい。渚は震える息を吸い込む。今この瞬間、仏田志朗という存在が、何を糧に生きているのかを理解した。
そして彼が彼女に向けた最後の言葉は、こうだった。
「もう撮れたか? じゃあ消えろ。二度と俺の前に現れるな。……次は、本当に証拠隠滅されるぞ」
渚は何も返せなかった。
ただ震える指でカメラを握りしめ、血と硝煙の満ちた密室を這うようにして去っていった。
渚の足音が、冷え切ったアスファルトを乾いた音で叩いていた。
カメラを胸に抱え、リュックを前にして、廃ビルの通用口から闇の中へと無我夢中で飛び出していた。
脚は震え、視界は波打ち、焼けつくような痛みが肺を苛む。何度も足を取られ、転びそうになる。そのたび彼女は必死に地を掴み、立ち上がった。
(ここまで来た。……あと少し。あと少しで……)
夜の空気は刃のように冷たく、肌に突き刺さる。
街灯の光は遠く、影の支配する夜だった。それでも渚の胸には、確かなものがあった。
あの映像。魔術、殺戮、仏田家と機関の地獄の全てが記録された、唯一の光。それを抱えて、逃げおおせさえすれば、世界は変わるかもしれなかった。
そのときだった。
「――勇ましい顔だね」
風に紛れて落ちたその声に、渚は立ち止まった。
反射的に振り返る。背後の闇に、男が立っていた。
黒い和装。その布は光を呑むように沈み、漆黒の髪は艶やかで静かな弧を描いている。
顔立ちは若い。二十代の終わりか、それより幾分か下にも見える。
その目だけがおかしかった。笑っていないのに愉しげな底がない。何か古くて、取り返しのつかない魔が宿っている。
「な……誰……?」
掠れた声が渚の喉から零れた。自分が言葉を発したことすら、彼女には信じられなかった。
「志朗は、君を逃がすことで空気を乱したつもりだったみたいだけどね」
男の声は柔らかい。耳に心地良いほどに、穏やかだった。
「そもそも、自分で空気を壊せば済む話。君を生かして帰す必要なんて、最初から無かったんだよ」
その一言で、渚の膝から力が抜けた。
男が手を一つ上げた。その掌には何の武器も無い。 ただ指先に、一つの光が灯る。それは術式。存在を切り取る、殺すためだけに最適化された静かな殺戮。
本能で渚はそれを理解した。恐怖よりも早く。
「だ、だめっ……やめて、お願い……っ!」
リュックを抱えるようにして、不器用に走り出す。その背に向かって、男の指が空を軽く撫でた。
刹那、音もなく渚の身体が崩れた。
苦しみも叫びも、断末魔すら無かった。
命が切り取られた。ただ一つの存在が、この世界から唐突に消された。
仏田 燈雅の前から何の痕跡も残さずに。
血と煙が渦巻く、破壊された密会室の一隅。崩れた壁の断面から夜の風が吹き込み、火薬と焦げた肉の匂いを引きずっていた。
志朗は霞の肩に身を預けるようにして座り込んでいた。身体は既に限界を超えていた。鼓動は乱れ、血は止まらず、意識は薄く滲む。
霞もまた、数の小傷と魔力枯渇の影響で、息を荒げていた。
霞が不意に顔を上げた。視線が虚空を射抜く。
「……兄さん、さっき逃げた女。殺されましたよ」
志朗は薄く笑みを歪めた。
「はっ、そうかい。短い逃亡生活だったな。死ぬ前に、多少はこの空間に乱れを作ってくれたか?」
「まあ。多少は、ですが」
霞の表情が曇る。それは死ではなかった。ただの削除。痕跡すら残らない消去。霞は思わず血の気を引かせ、呟いた。
「……あの、型……いや、まさか……」
その予感は現実となった。
次の瞬間。部屋の向こう、濃密な魔力をまといながら何の前触れもなくそれは現れた。
重い空気がねじれ、中垣の背後に立っていた強化兵士の首が、何の予兆もなく宙を舞う。後から噴き出す血飛沫が、静寂に逆巻いた。
誰もその瞬間を見てはいなかった。ただ結果だけが、そこにあった。
「な、なに、を……」
中垣が震える声で振り返る。
そこに立っていたのは、黒装束の無表情な暗殺者だった。剣には血の一滴も付いていない。
無言で一礼し、すぐに後ろへ下がる。主人の背後へ、忠実な影のように。
まるで最初からそこにいたかのような、滑らかすぎる登場。和装の襟元には一切の乱れがなく、指先一つ動かすたびに、空気を静かに従えている。仏田家 第六十三代当主――仏田 燈雅が、静かに姿を現した。
「お久しぶりですね、中垣さん。どうか私の家の者に、勝手なことをさせないでいただきたいのですが」
声は穏やかだ。抑揚も滑らか。しかし氷点下の空気のように、その場を凍てつかせる核を孕んでいる。
中垣は、その存在の格を全身で悟っていた。
(なぜ、ここに!?)
燈雅がこの場に姿を現すなど、常識ではありえない。この泥に足を運ぶ理由などない筈だ。
それでも彼は今ここにいる。それだけで中垣の勝算は、一瞬で消し飛んだ。
燈雅はにこりと笑う。
「志朗の周りでどうにも騒がしいと聞きまして。念のため様子を見に来ました。いやはや来てみれば、随分と派手なことで」
中垣は言葉を失った。反撃という選択肢が、脳内から消去されていた。
背後で無言を保つ黒装束の男。それが、何を意味するかを知っているからだ。
(あれが……俺たちが、商品として扱ってきたものの、到達点……)
志朗が思案している中、燈雅が優しく問う。
「さて、中垣さん。弟の身体に穴を開けた責任、どう取っていただけますか?」
その言葉に怒気は無い。静かに事実を述べているだけだった。
中垣の膝が折れた。冷や汗が滝のように流れる。声にならない呻き。口は動くが、命乞いの言葉すら形にならない。
「志朗は、私の弟です。そして大切なビジネスパートナーですよ」
燈雅は微笑んだまま続ける。
「それを……銃撃に、爆殺。ああ、ねえ、中垣さん、笑えないでしょう?」
右手がふわりと上がる。空気がひずみ、紅と黒の術式が宙に浮かぶ。それは破壊ではなく、捕縛の構造。
「でも……まあ。貴方の器には、まだ少しだけ利用価値がありますから」
囁くような声。まるで愛を語るような、柔らかさだった。
「『私の中にお入りください』。苦痛については、そうですね、程度によりますが。死ぬよりは、ずっと長く価値を保てる筈です」
中垣の口から、ようやく呻きのような声が漏れる。
「や、やめ……ろ……たす、け……」
術式は既に彼の四肢を捉え、ねじり上げていた。骨が軋み、悲鳴が肉の奥から漏れ出す。
――そのまま彼の身体は、どこか遠くへ吸い込まれていった。
彼の顔だけがゆっくりと歪んでいく。声はもう届かない。意志も、命も、外に向けては意味を持たない。
「貴方のような、無駄のない器は……とても重宝されるんですよ」
燈雅は結晶を静かに収めた。そして微笑を崩さぬまま場に立ち尽くす。
その光景を、志朗は霞んだ視界の中で見つめていた。緊張が緩み、痛みが遅れて襲ってくる。額を伝う血が目の端を染め、世界の輪郭が滲み始めた。
(……なんだよ……こんなことで……)
霞が、崩れかけた志朗の身体を支える。
「兄さん!? 志朗兄さん! 志朗兄さん!」
志朗には、その声が酷くうるさく思えた。
霞の声は遠のく。頭が重い。意識が、泥の底へと沈み込む。
「燈雅様っ! どうか、どうか志朗兄さんを……志朗様を、お助けくださいッ!」
(黙れよ……そんな声、聞きたくねぇ……)
霞の叫びは止まらない。
燈雅は、静かに頷いた。そして、虚空を見上げた。遠い記憶を思い出すように、穏やかに口を開いた。
「大丈夫。志朗がピンチになったら、助けが来るように最初から設定してあるって話だからね。ほら……もう、来るよ」
燈雅が視線を向けた先で、空間が震えた。
音ではない。気配でもない。それは到来だった。空が夜の帳を裂き始めていた。
/4
白い天井が静かに視界に広がっていた。
仄暗い蛍光灯の明滅。その下で空調の吐息だけが静かに耳を撫でる。消毒薬の匂いが鼻腔に差し込み、志朗はそこでようやく、自分が目覚めたことを知った。
夜。銃弾が肉を裂き、刃が臓腑を貫いた。血潮を撒き散らし、霞に支えられながら意識は深い闇へ落ちていった筈だ。
(俺は……まだ、生きているのか)
喉が焼けつくほど乾いていた。手を上げようとし、眉を寄せる。
(……痛くない)
あれほどの損傷を受けた筈の肉体に、まるで違和感がなかった。長く眠った後のように清々しくさえあった。
ゆっくりと上体を起こし、布団をはだける。病衣越しに見下ろす腹部も肩も脚も、どこにも傷の痕跡はなかった。包帯すら巻かれていない。
おかしい。喉の奥で冷たい塊が膨らみ、志朗は無言でベッドを降りる。素足のまま、床を踏みしめた。
無機質で整然とした白い廊下。消毒液の匂いが濃く、ここが病院ではないことを即座に思い出す。
超人類能力開発研究所機関。志朗が自らの金と命令で多くの人間を送り込んできた、生体処置と加工の聖域。その中枢施設だった。
廊下に出たとき、ふと右手から声がする。
「おや、志朗。おはよう。目覚めが早くて安心したよ」
柔らかく滑るような声だった。
黒装束の護衛を従え、白衣の医師たちと何事かを話し終えたところに、仏田 燈雅がいた。和やかな笑みを浮かべ、志朗を労うように言葉を続ける。
「無理は禁物だ。今日ぐらい仕事は休んでゆっくりするといい。機関の施術は優秀だから、安心していて構わないよ」
微笑に込められた温度は、ただ冷たかった。
「何をした」
志朗の声は低く、氷のように冷え切っていた。
「何を……って、志朗の身体のことかな?」
燈雅は首を傾げた。だがその目には、兄としての慈愛も、仲間としての共感も宿していない。あるのはただ、全てを既に知っている者の、残酷な余裕だ。
「志朗。お前の傍に、ひときわ貴重な存在がいたじゃないか。お前に尽くしていたあの子。とても綺麗で、よく仕込まれていた子だ」
空気が凍った。
心臓が跳ねる。凍えるような直感が、全身を走った。
「……シキ、のことか」
名を口にした瞬間、燈雅の目が細められる。獲物の正体を明かすように、嬉々として彼は言った。
「ああ、シキくんというのか。……大山さんから聞いたが、彼には『痛みを引き受ける』という特異な能力があってね」
一言一言を慈しむように選びながら、燈雅は語る。
「例えば、志朗が右肩を撃たれたら、まずはその傷が完治して、代わりに彼の右肩に穴が開く。腹を裂かれたら、志朗は無傷となり、彼がその痛みと裂傷を受け持つ。そうやって、志朗の苦痛を、全て自分に移していた」
沈黙が、長く落ちた。
志朗は何も言えなかった。目を見開き、何かが壊れていく音を、胸の奥で聞いていた。
「気づかなかったんだね」
燈雅は微笑んだ。まるで、秘密を知る兄が弟をからかうように。
「いや、彼が気づかせないよう振る舞っていたんだろう。凄い忠誠心だ。……いつだって志朗に、命を差し出していたんだよ。黙って、静かに。従者としては、これ以上ない優秀さだ」
喉が動く。しかし、言葉にならない。
「安心して。彼は生きてる。……ただ、かなり酷い状態だったよ。あの身体で君を助けに来て、動けなくなって、それでもずっと、志朗の手を握っていた」
「……俺は……」
ようやく漏れた声に、燈雅は被せるように言った。
「休むといい。今日ぐらいは、ゆっくりと」
そのまま彼は背を向けた。黒装束の護衛が、影のように後を追う。
志朗はただその場に立ち尽くしていた。拳を握ったまま、力がどこにも入らない。
ようやく、心が痛み始めていた。それは肉体の傷ではない。もっと深く、癒えることのない裂傷だった。
(……痛みを、引き受ける……?)
燈雅が告げたその言葉が、頭の中を何度も巡った。
まさか、と思いたかった。だが、思い返すほどに確信だけが膨らんでいく。
ここ数年、病気らしい病気もなかった。どれほど無理を重ねても、自分だけは万全だった。その理由を、志朗はただの運だと片付けていた。
そして、あの夜を思い出す。エルフの青年が差し出された、あのクラブの席。
「大変貴重なエルフでして、護衛のようにも役立ちます。いざというときは、封印を一時解除してピンチの場所にワープもできます。調教済みですから、命令がなくとも、主を守るために勝手に動くように設計されています」
あのときのセールストークを、志朗は聞き流していた。聞いていたのに、聞かなかったふりをした。
だが――実は燈雅がその報告を、当日のうちに大山から受け取っていたらしい。
新座にシキの言葉を先を越され、燈雅にシキの能力を先に知られた。どちらも志朗が積極的に理解しようとしなかった結果の、敗北だった。
悔しさとも痛みともつかない感情が、喉の奥からせり上がってきた。
志朗は、誰よりも彼に近くいながら――何も、見ていない。
胸が焼けるように痛んだ。悔しさとも怒りともつかぬ熱が喉元に迫ってくる。
「志朗兄さん!」
廊下の奥から、足音が響いた。霞が駆けてくる。いつものように無防備な笑顔で、腕を大きく振りながら。
「無事で何よりです! ほんっと死ななくて良かったっすねえ!」
「……シキは。……どこにいる……」
声が震えていた。霞の前で虚勢を張る余裕などなかった。
取り返しのつかない真実を知った人間は、こうも簡単に崩れるのか。志朗は、その場で膝をつく。
沈黙が鈍く廊下を包む。冷たい床に手をついた志朗の背に、言葉の代わりにただ後悔だけが降り積もっていた。
霞の先導で辿り着いたのは、機関の地下深くにある、関係者以外の立ち入りが厳重に制限された重症処置区画だった。
静かに扉が開かれ、白く硬質な光が、廊下の闇を押し返すように漏れ出してくる。
無機質な処置室。その中心に一つの細い命が、眠るように横たわっていた。
銀の髪が枕の上に滑り落ちていた。透き通るような白い肌は、光を吸い込みながらも青ざめ、微かに上下する胸元が、その命がまだ消えていないことを示している。
(……シキ……)
身体中に張り巡らされた、細かな固定式。魔術による拘束と補助装置が、彼のかすかな生存を支えていた。
無数の点滴。刻まれた魔術陣。補助呪文。そこに至るまでの、ありとあらゆる努力が彼の命を繋ぎ止めていた。
けれど志朗の目にまず映ったのは、シキの身体に残された痛みの痕跡だった。
打撲痕、腫れあがった皮膚、焼け跡のように裂けた傷口。どれも見覚えのあるものだった。志朗が、あの夜に負った筈の傷。それらは全て、シキの身体に刻み込まれていた。
隣で、霞が明るい声を上げる。
「いやあ、やっぱ志朗兄さん、凄いっすよ。こういう保険、ちゃんと用意してたおかげで死なずに済んだんですから」
心からの賞賛だった。霞の中に、軽蔑も嘲りもない。ただ純粋な忠誠と信頼だけがある。
その声音には知らず序列の響きがあった。
命の重さを天秤にかけるならば、志朗のそれは圧倒的だ。仏田家の次男。裏社会と政財界を繋ぐ男。何百という命を動かす男の価値は、比類なきものとして霞の中で揺るぎない。
対して、ベッドに横たわる青年――否、人外の存在は、志朗が衝動的に買い取った所有物だ。ペットであり、従者であり、命の保険。
霞にとって、それは当然の関係性だった。志朗もまた、理解していた。それゆえ怒鳴ることも叱責することもなかった。
「……ああ、そうだな。運が良かった。こんな……便利な買い物をしてたんだから」
代わりにこぼれたのは、乾いた、喉の奥に引っかかるような声だった。
ベッドへと近寄り、視線を落とす。
眠るシキの顔には、霞には見えない表情が浮かんでいた。苦しみによじれる眉。歪む唇。志朗には、確かに痛みが見える。
(こんな顔……してたか)
いつも伏せられていた視線。命令には即座に従い、黙々と家事をこなすその姿。
――その裏でこいつは俺の痛みを……全部、背負っていたというのか。
それは、単なるその夜の傷だけではなかった筈だ。
思い返す。ここ数年、自分はどれだけの無理をしてきただろう。睡眠不足、不規則な生活、暴力沙汰。だが一度として、倒れたことはなかった。
常識ある人間なら、一度は感じる筈の限界の兆候が、なぜか自分だけにはなかった。
――もしかして。良識が失われるあの会議での心の痛みすら、こいつが引き受けていたのではないか?
夜須庭や柳翠との会議にて、やけに淡々としている自分が、己のことながら疑問だった。
つまり自分にすら気づかれぬように、沈黙のまま……。
「……バカじゃねえの……お前……俺も……」
誰にも届かぬように、微かに呟く。
その言葉に霞は気づかない。医師たちも誰も振り返らない。ただベッドの上の青年だけが無言のまま、志朗の痛みと罪を、その身に受けとめ続ける。
志朗はそっとシキの手を取った。微か動くシキの指を掴み、唇を寄せる。
いつしか涙まで零してしまうほど、大事な存在。そう気付けた。あまりにも遅すぎた。
【4章】
/1
年季の入った料亭の一室。障子越しに揺れる灯が、湯気と笑い声に淡く滲んでいた。
志朗は頭を垂れながらその座敷へと滑り込んだ。既にそこには恩師と呼ぶに相応しい男が座しており、顔を上げては豪快に笑って出迎える。
「おうおう、入院したって聞いたがピンピンしてるじゃねーか! 志朗も立派な面構えになったなあ!」
寂だった店の空間が、彼の一声で波打つように緩む。
声は朗らかだったが、どこか人を呑むような深みを持っている男。羽織の隙間から覗く分厚い肩。年老いてなお濁らぬ眼光。その佇まいには威圧ではなく、ただ在るだけで場を満たす包容力と貫禄の持ち主。
――嵐山 照行。志朗がこの世で、唯一「親父」と呼びたいと願った数少ない存在だった。
志朗は彼の前に腰を下ろすと、まずは礼を述べた。照行はそれを手振りで遮り、箸を取りながら笑い飛ばす。
「固いことすんな。いいから食え食え。ここは高ぇぞ、なあ? 俺の奢りだ」
「ありがとうございます。こういうの、久しぶりなんで。遠慮なくいただきます」
土鍋の中では鯛の兜煮が白く湯気を立て、小鉢には季節の和え物が並ぶ。脂の乗った刺身が、静かな灯に薄紅の光を返していた。
杯を合わせ、乾杯の音が澄んで響く。
グラス越しに喉を潤したとき、志朗はようやく胸の緊張がほどけてゆくのを感じた。
「中垣の馬鹿が突っ込んできたって聞いたが……にしては、元気そうじゃねえか」
「運が良かったんですよ。照行さんに叩き込まれた教えが身体に染みついてて……今日はそのお礼も兼ねてます」
「だったら俺が奢るの、道理に合わねえな!」
湯気の向こうに、懐かしい笑顔が灯る。その笑顔には、かつての少年を見守ってきた父の温もりが滲んでいた。
志朗は忘れていた感覚を思い出す。家族に甘えるということ。無防備に笑い、守られていたあの頃のことが次々と脳裏に過ぎった。
「……で、最近はどうだ。聞けば、かなりやり手だって噂じゃねえか」
焼き魚の皮をぱりりと箸で裂きながら、照行が目を上げる。視線は酔いに揺らぎつつも、深く志朗を見つめていた。
「前の世代がちゃんと土台を築いてくれていたからです。俺はそれを運良く引き継いだだけですよ」
その言葉に、照行は目を細めた。
「随分と謙虚になったな。昔のお前じゃ、そんなこと言わなかった気がするが」
「本心です。照行さんや和光じいさんたちが、無数の顔を立てて道を繋いでくれた。そのおかげで俺は草を抜く程度で済んでる」
志朗は杯を持ち上げた。手入れの行き届いた指先と、揺るがぬ静かな所作。器を通して、その姿が照行の目に淡く映る。
照行はふいに膝を叩き、豪快に笑った。
「謙虚すぎるぞ。そんな調子じゃ、いずれ若ぇのにナメられる。でもまあ、そういうとこが志朗らしいんだよな。地に足をつけてる。昔からそうだった。悪ガキのくせに、どこか冷静だった。根っこが真面目だったんだろうな」
「照行さんが怖すぎたんですよ。生きた心地しなかったですから」
「バカ野郎。怖いんじゃねえ。教育熱心って言うんだ、そういうのは!」
二人の笑い声が、静かな座敷にふわりと広がっていく。料理の香りと湯気に混じりながら、どこか懐かしい温もりが確かにそこにあった。
志朗は杯を置き、静かに照行の方へ身体を向ける。
「本当に……ありがとうございました。あの頃のこと、俺は一度だって忘れたことありません」
照行は少し照れたように、酒をあおって口元を拭った。そして、照れ隠しのように言う。
「恩を忘れねえやつが一番立派なんだ。……志朗、お前はもう、どこに出しても恥ずかしくねえ男になった。そう思ってるよ」
少しだけ間をおいて、低く続けた。
「血が繋がっててもな、親子ってのは難しい。俺にも息子がいたが、うまくはいかんかった。……でもお前は、俺の誇りの一つだ」
その言葉に志朗はただ静かに、深く頭を下げた。
血ではなく、情で結ばれた絆。20歳で失った実の父に果たせなかった親子という関係が、今ようやく、ここに形を得ていた。
「……志朗」
名を呼ぶ声に、顔を上げる。
卓の向こう、照行は片肘をついていた。かつてのような豪快な笑みも、洒落もない。ただ低く、深く落ち着いた声音だけが静かに部屋を満たしている。
「俺にはな、子供が三人いたんだ。よく笑う、いい女房もいた。……小せぇが、家族ってやつだった」
語り口に、いつもの陽気さは微塵もなかった。言葉はまるで、静かに己の内側を掘り返す手術のようだ。鋭さはないが、確実に胸の奥を削っていく。
「だがな……ある馬鹿が、俺を潰すために、一番手っ取り早い手段を選びやがった」
その先を語らずとも、志朗には察しがついた。
照行の指が、空になった酒杯をそっと弄ぶ。目を伏せたその横顔に、憎悪も激情も無い。ただ、削がれた哀しみと静かな諦念だけが漂っている。
「報復はした。地獄をそのままくれてやったよ。俺はそういう人間だ。だがな――地獄ってのは、先にこっちに来るんだ」
言葉に、力は無かった。だが、力など不要だった。
滲み出るのは、語るに値しないほど深く沈んだ現実。地獄とは、報いる先ではなく、自らが先に喰われる場所だということ。
「さらに言えばな……甥も一人いた。利発で、気が利いて、可愛い奴だった。……だが、そいつも事件に巻き込まれて、あっさり消えた。……俺の周りには、誰もいなくなったよ」
志朗は、言葉を飲み込んだ。
その寂しさに、安い慰めも感情も持ち込むべきではない。直感で悟る。
照行は深く息を吐いた。そして卓の向こうから、まっすぐ志朗を見た。
「志朗。お前は気をつけろ。注意深くあれ。注意したところで、悪意は牙を剥く。理屈じゃねえんだ。人は、順番なんて気にしねえ。いきなり、お前の背中を撃ってくる」
志朗の胸がざわりと疼いた。
銃撃事件の記憶が蘇る。乾いた銃声、焼ける痛み。中垣の顔。それは、ほんの序章に過ぎなかったのではないか――そんな予感が、照行の言葉に重なる。
「やられたらやり返せ。……それでいい。俺らはそういう場所で生きてる。でもな、それでも……」
照行は言葉を切った。少しの間を置いて、酒の気配とともに呟くように続けた。
「……つらいもんは、つらいんだよ」
その声音は、怒号を浴びせていた昔の彼のものとはまるで違っていた。
父性というにはあまりに遅く、だが間違いなく、真摯に息子を案じる者の声だった。
「志朗。お前が誰かを守る立場になるなら、覚悟しろ。中垣の件だけじゃ終わらねえ。これからが本番だ。地獄には、続きを見る義務がある」
「……はい」
志朗は、静かに頷いた。
父としての顔を一度も見ぬままに失った光緑。
そして、生涯を通して傍から己を見守ってきた照行――血ではないが、それでも父と呼ぶに足る男の言葉は、魂に刻み込まれるように深く、重かった。
「それでいい。……志朗、せめてお前は、奪われすぎるな。奪い続ける側になれ」
志朗は深く、深く頭を下げた。
揺るぎなき敬意と、静かな決意を込めて応える。
「照行さんは、俺の親父です。親父の忠告は、骨に刻みます」
真っ直ぐな声が、しんとした座敷に落ちる。
情の通う言葉が灯となり、冷えた空気の中に、ゆっくりと温もりを広げていった。
その瞬間、照行の動きがぴたりと止まった。まるで空気そのものが、言葉の意味を一拍遅れて咀嚼したかのように場が凍りついた。
「……前々から思ってた疑問なんだがな。志朗、お前……父親のこと、嫌いか?」
ぽつりと落とされたその問いは、意外すぎて、志朗の胸に小さな鈍痛となって刺さった。
声には挑発や怒りは無い。長年沈殿していた澱のようなものが、ゆっくりと浮上しただけだった。志朗は僅かに眉を寄せる。
「そうですね。照行さんに比べると、どうしても」
語るうちに、志朗は胸の奥に長く封じ込めていたものを、一つずつ言葉にしていった。
「親父には、ろくな記憶がありません。……俺がまだ小さい頃から、いつも家にはいなかった。女遊びばかりして、母さん以外の女にも、平然と手を出していた」
その告白は、誰にも語ることのできなかった忌まわしい記憶のひとかけらだ。
仏田 光緑。誰もが畏れ、敬意を抱く名。その名に刻まれた男が、息子にとってだけは、悪夢に近い存在だった。
「暴力を振るわれたことは一度もありません。でも……いつか怒鳴られて殴られるんじゃないかって、ずっと怯えていた。子供の頃から……触れられるのが怖かったんです」
吐き出すように言ってから、志朗は小さく笑った。苦笑とも、吐き捨てともつかない曖昧な音だった。
「仏田 光緑が家を盛り立てた立役者であることは認めてます。手腕も器も、尊敬に値する。ただ……俺にとっては、あんな悪魔みたいな男、他に見たことがありません」
言葉の最後を絞り出すようにして、卓に視線を落とす。
沈黙が、空間に落ちた。
言葉にしたことへの安堵と、それによって生まれた空虚。志朗は、そのふたつが胸の中で重く交錯するのを感じた。
だが照行はただ、じっと黙していた。驚くほどの無音。まるで時間そのものが止まったかのように、身じろぎすらしない。
志朗が不審に思い、ゆっくりと顔を上げかけたとき、低く唸るような声が照行の喉から洩れた。
「……それ、本当に、光緑か?」
杯を持つ手が僅かに震え、瞼の奥に潜む何かを探るように、照行は志朗を見た。真剣な表情に、志朗は思わず瞬きをする。
「え……?」
今まで一度も見たことのない、照行の表情だった。
背筋に粟立つような違和の気配。まるで言葉の奥に、この世の理がひっくり返るような何かが潜んでいるかのようだ。
「それ、本当に……お前の父親だった男が、光緑だったのか?」
声音は、明らかに別の可能性を前提としていた。世界が、ほんの僅かに軋む。
「え、ええ。俺の父親は……仏田 光緑です。間違いありません」
志朗は反射的に答えたが、その声は僅かに引きつっていた。
「母がそう言ってましたし……戸籍も。……気分にムラがあるようなところはありましたけど、それは気質の問題で……」
声が、掠れていく。胸の奥がざわざわと波立ち、目の前の風景が微かに揺らぐ。
照行は黙って志朗を見つめる。目は何かを探り、測るようだった。
「……ああ、確かに人は変わる。子供が生まれて当主の座に就けば尚更だ。だがな」
照行はグラスを置いた。その音は静かに畳に沈み、空気を鈍く震わせた。
「俺の知ってる仏田 光緑は、違うんだよ。あまりにも違いすぎる」
言葉の端に、確信と疑念が交錯していた。
「……志朗。お前と同じように、昔、あいつも俺の組にいた。ほんの1年か2年だったが……うちで帳簿のつけ方や、礼儀作法、口の利き方を仕込んだ」
「そうなんですか。その頃というと、照行さんが上野に事務所を持ってた時代ですか?」
「ああ、あの頃だ。……うちのもんが揉め事でやられて、事務所を移す直前だったな。あの頃の光緑は……女みてえにお淑やかだったよ」
「……は?」
志朗が、思わず声を漏らす。
「いつも護衛を引き連れて歩いてた。口数も少ねぇ。肝も座ってなかった。怒鳴ることもなけりゃ、女遊びなんてもってのほか。……むしろ、何かを恐れているような、そんな目をしてた。人に向かって声を荒げたことなんて一度も見たことねえし、護衛の奴にずっと付きっきりで離れねえ奴で……」
照行の眉が寄る。その視線は、過去を抉るように真っ直ぐだ。
「……お前の知ってる光緑とは、まるで別人だ」
志朗の中で、何かが静かに崩れた。
自分の知っている父は、冷酷だった。常に無関心のようで、時に不気味なほど笑いながら、他人の感情を弄ぶような振る舞いを見せる男。
恐れていた可能性。見たくなかった境界線。彼が知っていた父と、照行の語る光緑は、どこかで決定的に乖離している。
「それ、本当に……俺の父なんですか?」
静まり返る室内で、志朗の問いが宙に漂った。
照行は空の徳利を手に取りかけ、思い直したように、指を止めた。そして、記憶の底をさらうように、呟く。
「……実を言うと、俺の兄貴も、そうだった」
兄貴――志朗の祖父にあたる、仏田 和光。
終戦の混乱の最中、焼け跡に闇市を築き、物資と金を流通させ、裏の人脈を押さえつつ表の警察にも太いパイプを築いた男。
仏田家千年の歴史の中でも一度潰れかけた血脈を蘇らせた、まさに戦後の再興者とされる伝説の人物だ。
「兄貴は、まあ……一言で言えばヤンチャだったよ。バイクは盗むわ、喧嘩は買うわ、博打はやるわ。俺の方が落ち着いてるって言われるくらいだった」
「照行さんの方が、って……それ、相当ですよ。あんたも大概なのに」
「うるせーやい」
照行は懐かしげに笑い、肩を竦める。言い返しつつも、照行の声にはどこか温かさがあった。
しかし次の言葉は、明らかに色が変わる。
「でもな……当主を継いでから、兄貴は別人みてえになっちまった。掟、粛清、責任。そんな言葉ばっかり吐くようになって……目が変わった。まるで、何かに呑まれたように。いや、何かと入れ替わったみてえに、な」
照行は言葉をゆっくり噛みしめ、ぽつりと続けた。
「こんなところまで、親子って似るんだな」
「それを言ったら……燈雅も、そうですね」
志朗の呟きに、照行が僅かに眉を寄せ、視線を向けた。だが志朗はそれに応えることなく、どこか遠く、形のない過去を見つめるように続ける。
「兄も、当主になったあの日から、別人みたいに変わったんです。急に所作が洗練されて、話し方まで芝居じみて……。あれが本来の兄だったとは、どうしても思えない。でも家を背負う立場に立てば、人が変わるのも当然だと思ってました。敵に威圧を、身内に威厳を。それが当主という役目だと」
照行は頷いた。だがその動きは、肯定よりも共感に近かった。
「最初は俺もそう思った。和光兄貴が継いだときも似たようなもんだった。……だがな」
照行は僅かに顔を背け、手の甲で口元を拭った。
「光緑は……ちょっと、異常だな。まさかあいつが女に溺れるとは思わなかった」
その一言が、志朗の胸の奥を不意に脈打たせた。照行は吐き捨てるように掠れたで続ける。
「酒に逃げた和光兄貴と、同じように見えて、まるで違う。兄貴は、どこまでも孤独だった。誰にも触れられず、誰も近づけず、独りで飲んで、独りで老いて……そのまま何年も、ただ静かに、自分という闇に沈んでいった」
志朗は、思い切って訊ねた。
「そういえば……俺、和光じいさんのこと、あまり覚えてないんです。最期ってどうだったんですか? あの人も変わったままで……?」
照行の目から、ふいに感情が消えた。
静まり返った部屋に、低く、重い声が降りる。
「……わからねぇよ」
志朗は一瞬、耳を疑った。
「どっかの馬鹿に、殺されたらしい」
その声音には、怒りとも悲しみともつかぬ、底知れぬ空虚さが滲んでいた。まるで己がいまだ信じられずにいる事実を、反芻するように。
照行は膝の上で拳を握りしめる。節の白さが、押し殺した激情を物語っていた。
「光緑が死んで間もない頃だった。新当主になったばかりの燈雅の判断で、あっという間に処理された。俺には何の相談もねえ。弟であり、組長でもある俺にだぞ? 調べようとしても、もう済んだことだの一点張りで押し切られた」
言葉が詰まる。息の詰まるような沈黙の中、志朗はただ、照行の表情を見ていた。
――これまで見たことのない顔だった。
怒りではない。憎しみでもない。ただ、冷たく、深く、底の見えない憤懣が頬の筋肉を歪ませている。
未解決の死。語られぬ真実。家の中で消されてゆく命と記憶の重さが、志朗の胸に沈殿していく。
仏田家の血を引くということが、どういうことなのか。
その一端が、ようやく朧げに形をとり始めていた。
/2
夜の都心を、黒塗りの車が静かに滑る。喧騒を断ち切った車内に、低く響くエンジン音だけが鼓膜を撫でていく。
運転席では霞が無言のままハンドルを握っていた。横顔には迷いがない。任務に徹する者の、それだけを生きる者の沈黙。その沈黙に甘えながら、後部座席の志朗は背を深く沈め、目を閉じていた。
志朗の思考は、先ほど交わした言葉の一節に囚われていた。
――光緑は、女に走るような男じゃなかった。
その一言が、胸の奥に黒い澱のように沈み込んでいる。真実が塗り替えられた感覚。記憶の像が、ぐにゃりと歪む。
ゆっくりと呼吸を整えながら、志朗は自らの記憶の扉を開いた。
まだ自分が小学生だった頃のこと。寺の奥にある白木造りの一室。畳の上には、高価な絨毯が敷かれ、空気には重たく甘い香が漂っていた。障子の向こうから、くぐもった笑い声と濡れた吐息が聞こえてくる。
「あなた、ほんとに悪い方……」
艶のある、男を知る女の声音。その後に続いたのは、聞き慣れた父の声だった。
「悪くなんかないさ。お前が、可愛いだけだよ」
障子の隙間から見えたその姿は、紛れもなく――仏田 光緑。
だがその腕に抱かれていたのは、志朗の母ではなかった。秘書か、召し使いか、それともただの遊び相手か。男と女が肌を重ねるその光景は、幼い心に突き刺さるにはあまりに鮮明で、抗えない現実の重みを持っていた。
唇が重なり、胸元が探られ、濡れた音が畳にまで染み込む。
見てはいけない。分かっていた。けれど、目を逸らすことができなかった。まるで、身体がその場に縫いとめられてしまったかのようだった。
そして光緑がこちらに気づいた。その瞬間からの記憶が、どうしても曖昧になる。
何を言われたのか。何をされたのか。思い出せない。ただ一つ、あまりにも酷すぎたという感覚だけが、今もなお体の奥に焼きついている。
冷え切った声。意味の通らぬ呪いのような言葉。首筋に爪を立てられるような、理不尽で暴力的な気配。空気ごとこちらを圧し潰すような、逃げ場のない威圧。
このまま殺されるかもしれない。子どもながらに、そう思った。それほどの恐怖だった。光緑という存在が父親ではなく、人間の形をした災厄に見えた。
そしてそれは一度きりではない。同じような記憶が、幾度も断片となって胸に残っている。記録も言葉も持たぬ、けれど確かに刻まれた父の横顔。
それなのに、照行は言ったのだ。
――光緑は、女のようにお淑やかな、世間知らずの箱入りだった、と。
(……あれは、幻だったのか)
志朗は目を開いた。車窓の外に流れる街並みが、馴染み深くも、どこか遠い風景に見えた。
霞がルームミラー越しにちらりと視線を寄越した。志朗は短く、「ただの疲れだ」と呟き、背を深く座席に預け直す。まぶたを閉じても、心は静まらない。
(俺は、誰の子なんだ)
仏田 光緑。あの偉大な魔術師の家系、その男の子として、志朗は育てられた。
だが実母の名は知らない。育ての母・邑子は、自分を産んではいないと明言していた。
それでも邑子は、誇り高く清廉な女性だった。凛として、強く、どこまでも優しい。慈しみに満ちたその背は、血の繋がりなど問題にすらならぬほど、志朗にとってそのものだった。けれど――。
(そんな女を捨てて、他所で子を成し、それをまた他人に育てさせるだなんて)
志朗は唇を噛む。
(鬼畜だよ。光緑は。……本当にあの男が、仏田 光緑だったのか?)
答えのない問いだけが、胸にじっとりと残り続けていた。
志朗はふと、前方の運転席に視線を投げた。静かにハンドルを操る霞の背中。無駄のないその所作に、信頼と距離が同居しているのがわかる。志朗は短く声をかけた。
「霞。……お前の母親って、どんな人だった?」
ルームミラーの奥で、霞の目が僅かに揺れた。反射的な警戒心か、それとも記憶の靄か。けれど、次の瞬間には淡々とした声が返ってくる。
「普通、ですかね。ただ、俺も機関の子なんで」
霞の声音には、温度のない静けさがあった。
「二世代前までは設計精度が低かったけど、俺の代からは性能が安定してきたんです。設計された遺伝子、選ばれた母体。俺は生まれる前から良品として仕上がるように、細部まで調整されたデザインベビーです。耐久性、反応速度、精神負荷への耐性も含めて……」
街灯が車内を掠め、霞の顔を斜めに照らす。綺麗に整った横顔に、光が刃のような陰影を刻んだ。
「だから母親って言っても、ただ提供って感覚が近いです。自分の身体をあえて使わせたって意味では、ある意味、勇敢というか……ちょっと変わった人だったんでしょうね」
その語り口に、情はなかった。あるのは観察者の視点、己すらも他人のように語る、冷ややかな距離感を感じる。
血の重みではなく、機能で選ばれる存在。霞の話を聞きながら、志朗はどこかで自分も同じだったのではないかという予感を覚えていた。
(俺は、誰に何を託されて、生まれた? 何を受け継がされた?)
「……志朗兄さん」
霞がルームミラー越しに目を合わせる。声には微かな躊躇が滲んでいた。
「酔ってないなら、このタイミングで悪い話を聞いてもらってもいいですか?」
志朗は肩で息をしながら、軽く笑った。
「良い話の一つも添えろよ」
「無いですね」
即答だった。吐き捨てるように潔い声音に、僅かな皮肉が滲む。
「例の、中垣の現場に紛れ込んでたジャーナリスト。燈雅様が削除した女……要って女です。……死ぬ前に、どうやら映像の一部をネットに流したらしくて」
「……は?」
志朗の声が低く唸る。
「そんな時間、あの廃ビルで取れるわけがない。通信回線も、電話も無かった筈だ」
「ですが、持ってたんですよ。彼女、ノートパソコンと携帯電話を常に持ち歩いてたそうです。リュックに詰めて。かなりの重量だった筈ですけど、ああいう人ってそういうものみたいで」
「……あれか、外でもパソ通ができるってやつ。あれこそ公衆電話が必要なんじゃねえのかよ……くそ」
「ええ。でも、彼女は僅か十秒。ほんの十秒間、何かを飛ばすだけの隙間を作った。その十秒の中に、中垣の顔と、志朗兄さんの声が、しっかり入ってたらしいです。映像の位置情報、時間帯、背景……照合すれば、あの事件そのものと一致します」
志朗は唇の端を歪めた。
「でも、アリバイは取ってある。俺はその時間、別の場所にいたことになっている筈だ」
「ええ。記録も、目撃者も、行政も。警察からも裏から証言を回収してます。報告書類も改竄済み。完璧です」
「なら、何が問題なんだ」
霞は、ハンドルを握ったまま、低い声で応じた。
「……正義を名乗る連中です」
その声には、微かな嫌悪と嘲笑が交じっていた。
「警察じゃない。行政でもない。けれど声を持っている奴ら……匿名の告発者、報道の外縁に蠢く活動家たち。興奮と正義を履き違えた手合いです。真相を暴いたという快楽に酔って、誰彼構わず突き上げる。そういう連中が、間違いなく志朗兄さんに照準を合わせてきます」
車内に、重い沈黙が落ちた。
志朗は窓の外に視線を移す。都内のビル群が、虚飾のように並び立つ。整然とした灯り。その下にある不均衡と欺瞞を、志朗は何度も見てきた。
「……たった十秒か。十秒で、それかよ」
「それだけ志朗兄さんが目立つ立場になったってことです。もう裏の人間でいられる時代じゃない」
志朗はふっと鼻で笑い、目を伏せた。
「で、どうする」
「潰します。徹底的に。ネットワーク側に金をばらまき、運営と警察にも圧をかける。『悪意ある捏造』『合成動画』として処理させます。仏田の名が出る前に」
「……間に合うのか」
「間に合わせます。だから予算を回してください。志朗兄さんには立っててもらわないと困りますから。しばらくは質素な暮らし、覚悟してくださいね」
淡々と、だが力強く語るその声音に、志朗はゆっくりと目を閉じた。
潰せばいい。抹消しろ。あの十秒も、映像も、記憶も、言葉も。この世から、全て。
「……その十秒の中身、丸ごと消せ。証拠も、発信も、覚えてる奴ごと」
志朗の声は低く、凍てついていた。車は闇の中を、ただ静かに進んでいく。
/3
高層階の自動ドアが、静かに音を立てて開いた。密閉された真空の空間に僅かな風が流れ込む瞬間のようだった。
煌びやかに整えられたタワーマンションの一室。無音の世界に、志朗はゆっくりと足を踏み入れた。
「……ただいま」
誰に向けるでもない小さな呟き。
玄関脇でコートを脱ぎながら、ふと視線を上げると、そこにはシキがいた。
変わらぬ佇まい。冷ややかなほど整った輪郭、翳りのない瞳。
人間離れした美貌に、しかし確かに血の気が戻っている。異常なほどの再生能力で、彼は再び志朗のもとへ帰ってきたのだった。
志朗は無言で上着を差し出す。そのとき、指先が微かに触れ合った。ほんの一瞬の接触、だがその僅かな熱に、何か確かなものが伝わったような気がして、志朗はすぐに手を引いた。
(まるで……本当に何もなかったみたいに、戻ってきてくれた)
全てを終えた後、志朗は寝室へは向かわず、リビングのソファへと腰を下ろした。
シャワーの余韻がまだ肌に残り、ウィスキーのグラスが指に冷たく馴染む。
窓の外では、東京の夜景が静かに瞬いている。高層の孤独を灯す光の粒たちを、志朗はただ無言で数えていた。
ほどなくして足音一つ立てず、シキが傍らに膝をつく。以前と同じように奉仕の時間だと悟っていた。
だが志朗は目を伏せ、グラスを置いた。
「……いい」
シキの手が止まる。
問いはない。沈黙のまま、彼はその場にとどまる。
志朗は深く重く、息を吐いた。そしてそのまま彼の傍に座らせ、細い肩にそっと手を伸ばす。
撫でる。触れる。静かに丁寧に、傷ついた体の輪郭をなぞるように。肩を、腕を、指先を、喉を、頬を。
そこには、何度も痛みを呑み込みながらも、まだ壊れずにある命があった。
返事は無い。その沈黙の向こうに何があるのか、志朗は問うことをしなかった。
「……可愛いな、お前は。ほんと……都合がいい」
掠れた笑いとともに吐き出された言葉は、冗談のふりをした懺悔だった。
震える声。自嘲。感情の名を呼ばないまま、崩れそうなものを抱きしめている。
志朗はゆっくりとシキの髪に顔をうずめた。温度を確かめるように、その香りに呼吸を沈めていく。
ただ、生きてここにいる。それだけで、もう充分だった。
夜は既に更けていた。
都心の喧騒もこの高層階までは届かず、リビングを照らすのは柔らかな間接照明の灯りだけ。
ベッドの上、志朗は無言のまま隣にいるシキの髪を撫でていた。
指先がすべるたび、肩、喉、頬、そこに宿る温もりが確かに生きているという事実を志朗に突きつけてくる。それが、あまりにも嬉しかった。
何度も繰り返してきた動作。沈黙のなかで、ただ命じられるままに捧げられる身体。奉仕でも、服従でも、何かの儀式でもない。ただの夜の、いつも通りの繰り返し。
だとしても、また唇が、シキの長い耳に触れられる。たまらない。
耳に触れられたシキが、微かな震えとともに、吐息を零した。
「……ぅ、んっ……」
「シキ。……もっと声、出してもいいぞ」
触れるたび、キスを落とすたびに、喉奥から艶めいた音が滲み出す。
小さな喘ぎ。志朗の耳を打ち、胸の奥のどこかをかき乱していく。
(俺が、自由に使える命。何をしても応える、俺だけの所有物……。何やってんだ、俺は)
自嘲が胸を掠める。
(なぜ、こんなにも惹かれている)
見た目か。肌の温かさか。従順な性か。異能か。あるいは、命を差し出したというあの瞬間の記憶か。
「ありがとう」と言うには遅すぎて、「愛してる」と口にするには自分には似合わない。だから志朗はただ、何度もキスを重ねることしかできなかった。
唇を合わせるたび、シキの身体は僅かに応える。喘ぎ、揺れ、肩を震わせて堪える姿に、志朗の内にどうしようもなく「愛しさに近い何か」が芽を出す。
(俺は……誰かにキスをされたことなんてない。したことも、ない。だから……キスできてしまうこいつを、特別視してしまう)
手は止まらない。キスをやめられない。もっと触れたい。もっと、その声を聞きたい。
(抱きしめられるこいつを見て、優越感に浸ってる……。十年も一緒にいれば、そりゃあ、愛着も持つ。だから)
心が言葉に追いつけないまま、志朗はまた、そっとキスを落とす。
そのとき、肩に刻まれた小さな痕に唇が触れた。
(俺の命を……こいつは背負っていた。傷も、痛みも、全て。――つまり、こいつはもう、俺自身だ)
「……なぁ」
ぽつりと志朗が声を漏らす。シキが顔を上げる。その視線は志朗を見ているのか、命令を待っているのか――まだ、その違いははっきりしない。
それでも、志朗は言葉を繋げた。
「……お前が、生きててくれて、良かった」
それは小さな、小さな一言だった。
「お前が……戻ってきてくれて、良かった」
けれど、それは彼にとって初めての、誠実で剥き出しの感情だった。
シキは目を瞬いた。何も言わず、ただその目が、確かに志朗の言葉に反応していた。
数秒の静寂の後――シキが、ごく微かに、口を開いた。
「……はい。私も……シロウ様が、生きていて……良かったです」
瞬間、志朗の内で、何かが弾けた。
喉が焼けつくような衝動。胸を満たす熱。
喜びであり、照れであり、戸惑いであり、そして――幸福だった。
「……っ、お前な……」
志朗は言葉を無くしたまま、シキの顔に手を添え、そっと額を重ねた。
「なんで……そんな、言い方するんだよ……。惚れるだろ……バカか……」
それは怒りでも皮肉でもない。ただの、どうしようもない混乱と、ひどく人間らしい照れ隠し。
それでも指はシキの頬をなぞり、髪を撫で、喉元を柔らかくくすぐるように滑っていく。
「……好きに、なっちまうだろ……」
そう言って、唇を重ねた先ほどまでの浅い接吻ではない、深く、熱を孕んだ口づけだった。
シキの身体が小さく震え、喉の奥から吐息が洩れた。志朗は、笑う。
「……なぁ、シキ」
「はい」
「今夜は、お前が……俺を、好きにしていいぞ」
冗談に似せた言葉だったかもしれない。
この夜、志朗は初めて、自分の中に芽生えた独占したいという感情に、真正面から飲み込まれていた。
もう誰にも渡せない。誰にも触れさせたくない。傷一つ、痛み一つ、これ以上背負わせたくない。そう思いながら、素直に笑う。
「……シキ」
「はい」
「……愛してる…………なんてな」
彼の所有から執着への、堕ちる第一歩。
(お前が生きていてくれること。傍にいてくれること。それだけで、俺はもう、どうしようもなく満たされるんだ)
愛を知らずに生きてきた男が、ようやく心で触れ合った、夜の片隅だった。
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