■ さわれぬ神 憂う世界 「犬伏頼道の奉心裂身」 ・ 3ページ目


【5章】

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 薄曇りの空の下、仏田寺の本堂では朝の勤行が終わり、頼道は山門前の砂利道を掃き清めていた。
 昔と違い、今では手伝いの若い僧が数人いる。それでもこうした日常の作務には、30後半になり住職として板についてきた頼道でも自ら欠かさないでいる。
 何者かスーツ姿の男がすっと頼道に近づく。長年光緑に仕えてきた秘書官として働く初老の男だった。深く礼をしてから、静かな声でこう切り出した。
「当主様には、しばらくのご静養が必要と判断されました」
 頼道は竹箒を握ったまま、足を止めた。
「……療養? 光緑が?」
 風がひと吹き、境内の松葉をさらっていった。
「近頃、発言に一貫性がなく、記憶の断絶が見られるようになっております。昨日の会議でも予定されていた議題を読み違え、数年前に亡くなられた人物の名を口にされました。声を荒らげられたかと思えば、次の瞬間には無言で立ち尽くされ……」
 男の言葉は淡々としていたが、内容は重い。
「ご家族も了承されております。当主代行職は長男の燈雅様が継がれ、全ての対外的業務は秘書部が引き継ぎます」
 頼道はただ黙って聞いていた。
 目の奥がじんと痛むような感覚。言葉を失わなかったのは、長年この世界で聞くことしか許されない側の人間として在り続けてきたからだ。
「……分かりました」
 ようやく絞り出した返事は短い。男は深く頭を下げると、黒い車に戻っていった。
 静けさが戻る。頼道は箒を持つ手をふと見下ろした。固く握りしめた指が、無意識に震えていた。
 仏田 光緑という経営者は仏田家を、そして機関を日本有数、いや世界有数の組織にまで押し上げた。
 凄まじい手腕だった。激情を内に封じ、常に冷静で、膨大の智慧を駆使し、冷たくさえ見えるほどの采配を振るってきた男。いつから病の兆しがあったのだろうか。
 彼の中で何かが確かに蝕んでいたのか。誰も止められず、誰も看破できずに。
 頼道はようやく箒を立てかけた。視線の先には仏田寺の屋根。その奥には、今日も稼働する研究棟の白い建物が覗いていた。

 午後の日差しが、仄かな温もりを帯びて室内に落ちていた。
 仏田家本邸の奥、当主様の療養室と呼ばれる和室の前に立ち、頼道は一度深く息を整えた。
 静かに引き戸をすべらせると、香の澄んだ匂いがふわりと鼻をくすぐった。手入れの行き届いた畳の上、白木の床柱、床の間に掛けられた墨の淡い風景画。開かれた障子の向こうには紅葉が風に撓み、色をこぼしていた。
 その中心に、介護用の寝具が置かれていた。
 かつて威厳を纏っていた重厚な礼服は影を潜め、薄手の寝間着が痩せた肩を包んでいる。
 光緑――仏田の当主が、静かに眠っていた。正確には目を閉じていた。
 頼道が足を踏み入れた気配に、彼はゆっくりと瞼を持ち上げた。かつて鋭さを湛えていた瞳は、疲労の翳を帯びた静けさの中にある。
「頼道です。当主様のお見舞いに上がりました」
 律儀に頭を下げる頼道に、光緑は緩やかに身体を起こし、枕元の背もたれに凭れかかる。
 細くなった肩、青白い顔色。けれどその姿は、むしろ若くさえ見える。少年だった頃の柔らかな光を纏っていた。
「研究所との調整も円滑に進んでいます。祭事の執行にも滞りはありません。ですので、どうかご心配なくゆっくり静養なさってください」
 そう言ったものの、頼道の目は思わず細くなった。
 あまりに痩せた光緑の頬を見て、堪えきれずに零れるように言葉が落ちた。
「……こんなに痩せちまって。20年もずっと馬車馬みたいに働いてさ。無理しすぎだ、お前は」
 投げやりな声音だったが、押し殺した焦りと、どうしようもない憐れみが滲んでしまった。
 聞いた光緑の口元が、緩む。30後半の男が大きく若返り、まるで10代の少年へ戻ったかのように。
「…………頼道……なのか……」
「頼道だが? もしかして分かってなかったのか? ……大丈夫か?」
 言いながら頼道は目の前の男に、どこか戸惑いの色を含めた眼差しを注いだ。
「……ようやく、目が覚めたんだ。長い間、夢を見ていた気がする……」
 頼道の胸をひやりとしたものが撫でていった。
 言葉の調子も、目の奥の光も、首を傾ける仕草さえも、あまりにも昔の光緑に似すぎていた。
 目の前にいるのは、30代も半ばを越えた男だ。20年もの間、仏田家の屋台骨を支え、無数の儀式を執り行い、命と記録の重みをその背に刻みつけてきた。家のために己を削り、感情すら棄ててきた冷徹な当主。かつて、そうあらねばならなかった筈の男。
 けれど今、寝台の上で身を起こし、頼道を見上げるこの男の顔には、かつての威厳の影がない。
 瞳は、どこか怯えを湛えていた。言葉を慎重に選び、喉の奥で転がしながらも、懸命に平静を装おうとする仕草。どう見ても、長い年月を経て鍛え上げられた男のそれではなかった。
 まるで20年前のあの日の続きからふいに現れた、ただの少年のようだった。
(そんなはずが、あるものか)
 頼道は心のうちで呟いた。
 過ぎた年月が戻ることなど、ありえない。目の前にいるのは、あの父と機関と腐敗の制度の中で、苦しみ抜き、鋼のように冷たく研ぎ澄まされて生き延びた当主・仏田 光緑であるはずだった。
「……頼道」
 けれど呼びかけてくる声は、確かに低く落ち着いているのに、不思議と昔の響きをそのまま持っている。
「夢の中で……頼道と、何も考えずに座ってた。藤春の笑い声もあった。柳翠の拗ねた声も……何度も、何度も、聞いた」
「……そうか」
「起きたくなかった。でも……お前の帰りを、待ちたかった。……頼道、寺に帰ってきていたんだな。おかえり」
 いつ、誰がこの言葉を言うべきだったのか。
 遅すぎる。いったい何年越しの挨拶だ。
 怒ってもよかった。あの日の約束を破られた。もっと早く戻るべきだったと責めてもよかった。
 けれど、光緑の瞳があまりに無垢すぎる。長い苦しみを越え、ようやくこの世界に戻ってきた少年がいた。
 頼道は枕元の椅子に腰を下ろす。言葉はうまく出てこなかったが、掛けるべき一言だけは胸の奥にしっかりと灯っていた。
「……光緑も、おかえり。よく、目覚めてくれたな」
 光緑は微かに瞼を伏せた。
 長い暗闇から、やっと戻ってきた者に相応しい静けさだった。
「……頼道。また……触ってくれないか」
 頼道は躊躇いなく手を差し出した。
 光緑の手は驚くほど細く、僅かに震えている。病のせいか、それとも心の深い場所に残る怯えのせいか。
「すまんな。……お前が眠ってる間に、俺の指はちょっと不器用になっちまった。あまり上手くは動かせない。触れるだけで、いいか?」
 光緑は頷く。
「……ありがとう」
「……また、いっしょにいような」
 光緑の目がゆっくりと潤む。頼道の心がじんと痛んだ。
 二人の間に静けさが落ちた。懐かしさに満ちた、もう一度やり直すための優しい沈黙だった。

 仏田家当主の療養室――そう名づけられて久しいその一室の壁は、冷たく沈黙を保っていた。
 封印術に特化した機関製の特殊素材。防音と対魔の結界を同時に備え、天井には淡い青光を放つ術式が脈打つように息づいている。
 部屋の中央には、過剰なまでに補強された医療用の寝台がひとつ。その上に、光緑がいた。
 白の寝衣を纏い、両腕と両脚を絶対に解けぬ拘束具で静かに縛られ、身体の輪郭すら、無機質な機構に呑まれている。
 かつて当主様と呼ばれ、あらゆる命運を握ってきた男とは思えぬその姿は、あまりに痛々しかった。
 入室に付き添った機関所属の心霊医師が、頼道に軽く会釈をし、「五分程度でお願いします」とだけ言い残して足音もなく部屋を去る。
 残されたのは二人だけ。頼道は、一歩踏み出せずに立ち尽くした。声が出なかった。息を呑む音がやけに大きく、胸の奥に突き刺さるように響く。
「……頼道か」
 掠れた声。響きだけは昔のままだった。
 頼道はようやく硬直を解き、足を動かす。そして一言、胸から零れるように問う。
「……どうして、こんなことになった」
 声にはもう、優しさを装う余裕すらなかった。
 光緑は首を僅かに傾け、小さく笑った。皮肉と疲労が滲む笑みだった。
「聞いたよ。……復帰してすぐ倒れて、会議室で暴れたって」
「……ああ」
 光緑は枕元の天井を見上げる。幾重にも重ねられた封印札が貼られていた。
「覚えていないんだ。会議室に入ったところまでは記憶にある……だが、気づけば、ここだった」
 術核の暴走。記憶の混濁。情緒の崩壊。それら全てを封じるための、拘束と封印。仏田家の最も深部に触れ続けた男が、ようやく崩れた結果だった。
「……晩年の父上も、おかしかったな。酒なんて飲まなかったのに……最後はそれに縋るようになって。怒鳴って、物を投げて……あれも、継承か」
 光緑の瞳に、天井の封印光が淡く反射する。
 頼道は言葉を失ったまま、ただその顔をじっと見つめていた。
「ついさっき、妻と……息子が来ていた」
 光緑は、まるで遠い記憶を手繰るように言葉を継いだ。
「今後のことを話しにな。けど、内容が……少し今の僕には難しくてな」
 少し笑ったが、自嘲のようにも見える。
「素直にそう告げたら、二人とも、分かってくれたよ。……もう僕の前では話を控えると言ってくれた」
 頼道は眉を曇らせた。
「光緑、それは……」
「申し訳ないとは、思ってる」
 遮るように、光緑がゆっくりと言った。
「愛情が無いとは……言い切れない。だが……彼女たちと会話をしていた『自分』が、もう取り戻せない」
 声は淡々としていたが、言葉の奥には微かに揺らぐ影があった。
「別の『僕じゃない当主』が、彼女たちを担当していたみたいなんだ。……僕自身は、うまく……彼女たちと話せなかった。仕事の記憶も、同じで。……『仕事を担当していた当主』が別にいて、僕は……」
 頼道はゆっくりと息を吐き出した。
「……光緑、それは、ただ……疲れているだけだよ」
 低く、掠れた声だった。
「うまく頭が回らなかった。それだけのことだ。お前は……誰よりも、仏田を背負ってきた」
 言葉の合間に、感情がじわりと滲んでくる。
「弟たちのことも、自分の感情も……全てを押し殺して、前に進み続けた。だから疲れが出たんだ。それは……人間なら、当然のことだ」
 しばし、静かな沈黙が落ちた。
 頼道は椅子を引き寄せ、そっと腰を下ろした。拘束された腕には触れなかった。そのすぐそばに手を置いた、それだけで十分だった。
「休め、光緑。昔、お前が疲れたときは俺の部屋に来て……何もしなかっただろう」
 何も考えず、ただ黙ってそこにいる時間。
 それが、光緑らしかった。
「うん……そうだった、かもしれない。……頼道の部屋にいられた時間は、幸せだった。ほんの少しでも、ああいう時間があったから……」
 その声音には、どこか幼い響きが混ざっていた。
「ようやくそういうお前が、戻ってきた気がする」
「ふふ……やっと戻ってこられたんだな、僕たち……」
 頼道の言葉に、光緑が静かに笑った。皮肉ではなく嘲りでもなく、痛みの中に浮かぶ、心からの微笑だ。
 問い詰めることも責めることもせず、ただ頼道は傍らに座り続けた。
 静かに光緑が眠りにつくまで。もう一度彼を人間に戻すための、ささやかな時間だった。

 見舞いに行くのは、いつしか頼道の習慣になっていた。
 湯呑と菓子折りを手に、静かに扉の前に立つ。いつも通り、担当医師にひと言挨拶を交わすはずだった。だがその日は、様子が違っていた。
 医師の顔は強張り、無言のまま目を伏せる。
 部屋の前には仏田家の警備を担う武装術師が二人、硬直したように立ち尽くしていた。
「……今日は、難しいかもしれません」
 低く抑えた声で、医師は告げた。
 頼道は答えなかった。静かに、扉に手をかけた。
 軋む音とともに開いた療養室の中には――地獄のような光景があった。
 光緑はベッドに縛られていた。いや、縛られながら暴れていた。
 拘束具がギリギリと軋み、今にも折れそうな音を立てる。骨と金属がぶつかり合うような異様な音。まるで体の内側から、何か異質な存在が蠢いているようだった。
「やめろ……! 戻れ……まだだ、お前たちは……中に、戻れ……!」
 叫ぶ声は、もはや彼のものではなかった。
 声が、交錯する。老いた男の嘶き、女の悲鳴、少年の笑い声。言葉にならぬ何かが、次々と彼の口から漏れ出してくる。
「違う、俺じゃない……私は……僕はっ……!」
 頼道は、その場に凍りついた。
 目の前のその姿は、紛れもなくかつての親友だった。けれどその身は、その精神は、もはや彼ひとりのものではない。
 光緑の目は虚ろで、焦点を持たない。魂が一つではなく、無数の人格、無数の声。男でも女でもない何者かの呻き、怒声、泣き声が、幾重にも彼の中で混じり合い、吠えていた。
「……より……みち……」
 その声だけが、確かに本物だった。微かな声。頼道は反射的に一歩踏み出した。
「まっ……て……いかな……い……で……」
 だが、白衣の医師たちが彼を押し留める。
 術師たちがなだれ込んだ。床に術具を広げ、空中に浮かぶ封印文字列が発動する。空気が、ぐわりと歪む。重力すら変わったかのような空間の圧。そこに一本の注射器が持ち込まれ、迷いなく光緑の腕に突き立てられた。
 彼の身体がびくりと跳ね、拘束具がまた軋む。次の瞬間、音が消えた。
 呻きも罵倒も哀願も嘲笑も、幾多の魂の声が一斉に断ち切られたかのように沈黙し、薬液が点滴される音だけが無機質に響いていた。
 頼道は、ベッドの傍に膝をつく。意識を失った光緑の頬は白く、そして痩せ細っていた。
 ――仏田家の当主とは、一つの器である。ただの人間ではない。過去全てを記録し、歴代の魂と記憶を内包する器なのだ。
 その強さは、彼自身のものではなかった。その狂気もまた、彼自身のものではなかった。ただそう在るために、彼は自分を削り続けてきた。
 頼道はそっと名を呼んだ。
 ここにいる。帰ってきている。ただいまって言った。俺は傍にいる。ずっといっしょだ。
 何度言葉を投げかけても、返事は無い。うつろな目を開けて眠る彼は、深い湖底に沈んだままだった。

 仏田家本邸。和洋折衷の意匠が整えられた客間にて、頼道は出された茶に手も触れず、黙したまま、対面の女を見つめていた。
 仏田光緑の妻――由緒ある家の出で、完璧な所作と選び抜かれた言葉を身にまとった女、邑子は微笑すら浮かべず静かに告げた。
「主人はもう、お話になられませんの」
 声音に冷たさはなかった。だが、そこに夫を恋う気配もなかった。
 口調は穏やかで、節度もある。しかしまるで遠縁の親族の病状を語るかのように、乾いていた。
 頼道は言葉を返せなかった。何度も見舞いに通い、病床にほんの僅かでも現れる光緑らしさに触れてきた。
 確かにそこにはかつての彼がいた。けれどそれが現れる時間は回を重ねるごとに短くなり、希薄になっていたのも事実だった。
 邑子は、語る。まるで自らの苦労を他人の話のように差し出しながら、それでも同情を誘わぬように細心の配慮を施して。その奥ゆかしさが、かえって頼道の胸を締めつけた。
 やがて襖が静かに開く。
 現れたのは、青年――光緑の長男、仏田 燈雅だった。
 まだ18歳。けれど、既にその佇まいは完成されていた。父譲りの眼差しに、凛とした面差し。かつて父が当主を継いだ年になっていた彼は、幼さの残滓すら感じさせなかった。
 頼道が立ち上がり礼をすると、燈雅はそれをやんわりと手で制した。
「ご無沙汰しております、頼道さん。父のことでは、いつもお心を寄せていただきありがとうございます」
 声音や仕草も、非の打ち所がない。裏表両方を意識して育てられた者だけが持つ、堂に入った言葉運びだった。
「……当主殿のご様子は?」
 頼道が言葉を選びながら尋ねる。
 一瞬目を伏せた燈雅は、躊躇いのない調子で言った。
「もう戻らないと思っています」
 あまりにも静かで、感情の欠片も滲まない声。頼道の胸に、何かが音もなく沈む。
「既に父が誰かであることを維持するのは、困難です。研究所側でもそう結論が出ています。幸い、結界と拘束で外部への危険は封じられていますから仏田の安寧は守られています。ただ、父という存在は、寿命なのだと」
「寿命……?」
 思わず反復するように頼道が問う。まだ30代の男に使っていい言葉ではない。
 燈雅は頷いた。眼差しには、一片の迷いもない。
「肉体のことではありません。仏田 光緑という人格の寿命です。正確に言えば、当主という器が、限界に達したということです。……仏田は次に進むべきです。父も、本来ならそれを望んだはずです」
 その言葉の間中、母親はただ静かに頷いていた。
 まるで既に何度も繰り返された台詞を聞いているように、感情の揺れはなかった。
 二人は、終わりを受け入れている。
 何の涙もなく祈りもなく、まるで物語の幕引きを淡々と見届ける観客のように。
 燈雅はふと柔らかく微笑み、茶を勧めてきた。
「頼道さん。どうか、これからも仏田を見守ってください。……我々は、父の意志を継いで、前へ進む。『聯合』の準備を致します」
 言葉に、ただ頷くしかなかった。重く、深く、何かが胸の底へと沈んでいくのを感じながら。

 結界は張られていた。
 もうそこに、人の気配はなかった。医師も看護も形ばかり。伴侶や血縁者すら滅多に現れなくなった。誰も彼を「当主」とは呼ばない。役目を終えた器に、かつての名を呼ぶ者はいなかった。
 頼道が僧衣の裾を揺らして、静かに見舞いへ訪れる。
 窓は閉ざされ空気は澱んでいた。換気すら忘れ去られたかのような無音の空間。
 その中央に、光緑はいた。過剰に補強された医療用の寝台の上、四肢を拘束されたまま仰向けに横たわっている。うつろな眼差しだけが、天井を見上げていた。けれどその瞳に、何も映ってはいなかった。
 首筋には幾度目か分からぬ注射痕。腕には、今日も点滴の管が通っている。
 打たれ続ける鎮静薬は、術核の沈黙を守るためのもの。叫びを止め、暴走を封じる。
 人間らしくあるために薬が打たれた。けれど同時に、彼から人間性という最も繊細な領域を削ぎ落としていく。
 頼道は、静かに歩を進める。誰にも知られず、誰にも呼ばれず、それでも訪れ続けた面会だった。
「……来たよ、光緑」
 返答は、無い。
 椅子を引き寄せ、ゆっくりと腰を下ろす。
 枕元の水差しから布巾を濡らし、唇を静かに湿らせる。
「喉……乾いてないか?」
 問いは、願いのようなものだった。
 返事が欲しいのではない。ただ、もしほんの僅かでも彼の奥に光緑が残っているのなら、この声が届いてほしかった。
 不器用になった手で、縛られた手首にそっと触れる。
 魔術を刻んだはずの指は今では力を失い、冷たく沈黙している。
 かつて弟たちを守り、当主として仏田を導いてきた手だった。どれだけ血を流しても、迷いなく選び取ってきた手だった。
「……今日の本堂はな、午前中に三組の檀家さん。午後には修繕の相談が一件。……それと、燈雅くんがまた動いてる。研究所の拡張計画だとさ。……大したもんだ」
 沈黙は続く。
 瞬きが、僅かにあった。その一瞬だけ、頼道の胸に、まだ彼がここにいるという希望が、一滴だけ注がれる。
「本当は……お前がしていたことなんだよな。三十路。働き盛りで、弟たちにも部下にも頼られ、背中を見せてるべき男だった」
 頼道は自嘲するように笑った。
「……もうお前が働かなくていいならさ、俺、お前を連れて行きたい場所があるんだ。……桜を見るたびに思い出す。お前と、初めて東京で花見をした春を」
 障子の向こう、庭の桜はまだ蕾を閉じている。
「今年もそろそろ咲くぞ。……お前の目に、また桜が映る日が来るなら……俺は多分、それだけで報われると思う」
 光緑は答えなかった。それでも、頼道は手を離さない。
 しばしの間、何も言わず隣にいた。世界から忘れ去られた男の傍に一人、彼の名を忘れぬ者として。

 老木の枝先には、淡い紅の花がそっと開いていた。風が吹けばひとひら、またひとひらと音もなく零れ落ちてゆく。
 今年の桜は、ことさら見事だった。
 頼道は静かに光緑の支度を整えていた。
 処方されたのは、鎮静作用を抑えた比較的軽い薬。心霊医師の許可のもと、今日だけ拘束具が外される。
 光緑の伸びた髪を整え、布巾で丁寧に顔を拭った。指先で爪を切り、痩せた手足を揉んで血を通わせる。
 淡い色の外出着に袖を通させた彼を、車椅子にそっと座らせた。整えてやれば光緑はいくつになってもやはり美しいと思える。
 幾千の命を見下ろしてきた眼差し。数々の決断をその手に握ってきた男が、いまはただ静かに、春を見るためだけにここにいる。
 参道を進む距離は、わずか数十メートル。
 研究施設の増築で多くの木が伐られたとはいえ、境内の奥にはまだ数本の桜が残されていた。
 老木は幹に深い皺を寄せていたが、枝の先には鮮やかな花が揺れている。
 その下で、頼道は車椅子のブレーキを引いた。薄手の羽織を光緑の肩にかけ、正面にしゃがみこむ。
 風が吹いた。少し冷たく、初春の空気が頬を撫でる。
 そのせいだろうか。光緑の指が、小さく震えていた。
「見えるか、光緑」
 頼道は、彼の頬を包むようにしてそっと囁いた。
「咲いてる。……去年より、ずっと綺麗だ。お前が昔、見ていた桜に、よく似てる」
 返事は無い。
 だが、頼道は言葉をやめなかった。
「覚えてるか? お前が寝てたら、代わりに俺が感想を言うって……そう決めてたんだ。分担作業だって」
 頼道は、ゆっくりと笑った。
「凄く綺麗だよ。……藤春と柳翠も、きっと呼びたがる。……お前も、そう思うだろ? ……もし、もし少しでも思ったなら、聞かせてくれよ。お前の、感想を」
 沈黙。
 彼の瞳は空のまま。視線はどこにも定まらないまま。続きの言葉は無い。感情の色は見えない。誰が表に出ているかも分からない器は、うつろな目のままそこに居るだけ。
 その場には、誰も居なかった。桜の時期だというのに、誰も居なかった。もうここにはそんな風情を楽しむ者はいない。誰も見舞いににも付き添いにも来ない。二人きりだ。
 いつか、また、二人で。
 その言葉を思い出し、正面からしゃがみ込んでいた頼道は、二人きりだから、約束した夜の続きをする。
 忘れていなかった。二人で交わした、たった一夜の約束。
 そっと顔を寄せ、静かに口づけた。
 瞬間、微かに――ほんの、掠れた息のように。
 声が、あった。
「――――」
 音になったかどうかすら曖昧な、それでも確かに意味を宿していた、ひと筋の言葉。
 頼道は目を見開いた。喉から息が漏れ、咄嗟に光緑の顔を覗き込む。
「……光緑、光緑……!」
 返答は無い。だがその名を頼道は何度も、何度も呼び続けた。
 指を強く握ったまま、桜の下で、二度と戻らぬかもしれない魂の手を必死に引き留めるように。
 花がひとひら、二人の間に舞い落ちる。
 まるで遠い春の記憶が再び降り積もるような、静かな奇跡だった。


 /2

 境内に咲いた桜は、既に葉を混じえていた。花の盛りは過ぎ、風に揺られたひとひらが、黒い喪服の肩に舞い落ちては、また地に帰っていく。
 香の煙がゆらりと立ちのぼり、春の空へ溶けるように消えていった。
 光緑の葬儀は仏田家の伝統に則り、淡々と、粛々と、進行していた。
 荘厳な本堂の中、祭壇の前に立つのは頼道。僧衣の裾を揺らし、袈裟の下に手を重ねながら一つ一つの所作をまるで数珠を繋ぐように丁寧に執り行っていく。揺らぎはない。
 祭壇に飾られた遺影の光緑は、どこまでも静かで凛としていて、冷ややかなほど整った顔だ。その面差しを見たとき、頼道は思わず口の中で呟いてしまい、苦く笑った。
 ――最後に彼に触れたのは、あの春の日。
 しかし頼道は、光緑の最期を看取っていない。
 葬儀の数日前、燈雅が丁重に報せてきた。「父は、『私が看取りました』。薬が効いていたため、苦しみはなかったとのことです。長期療養の末の静かな逝去として、手続きを進めております」
 その口調には、悲嘆も誇張もなかった。
 つい先日まで少年だった筈のその男は、今や仏田家の新たな当主として確かな風格を纏っていた。言葉も姿勢も隙がない。数日前に見たときよりもさらに、ひと回り大きな『器』になっていた。
 参列者の列。その中に静かな青年の姿があった。藤春だ。
 黒の喪服を纏い、兄の遺影をただ見つめている。
 小さな男児を腕に抱いている藤春は、もう少年には見えない。まるで父親のような佇まいに、かつて守られていた面影は無い。それでも頼道には見えた。眼差しの奥に残る、消しきれぬ何かの影が。
 もう一人の弟、柳翠の姿は、そこには無かった。
「柳翠さんは、研究の都合でご欠席とのことです」
 そう秘書が言ったとき、頼道はただ頷くだけだった。
 問い質すことも、軽々しく声をかけることも、もう自分の役目ではないと思った。
 葬儀は滞りなく進む。頼道は胸の奥に波ひとつ立たぬ表情で読経を続けていた。
 香の煙がたゆたう。数珠が鳴る音が、空間を静かに浄めていく。そして、弔辞。進行表に目を落としながら、頼道は粛々と式をこなしていく。
 今日は、式として過ごすための一日。過去に囚われず、未来に滲ませすぎず、ただ今の務めだけを果たすために。
 光緑という名を胸に抱えながら、心はただ、正しく静かに流れていた。
 仏田 和光という父が築いた巨大な礎。その上に立ち、光緑は機関の躍進とともに仏田家の名を揺るぎないものにした。数々の業績を残し、幾つもの決断を下しながら、彼は家を支え続けた。
 けれど葬儀は、功績とは裏腹にあまりにも静かだ。
 まるで彼自身の内側に最後まで潜み続けた本質だけが、密やかに葬られていくかのようだった。

 本堂は夜の闇に沈み、静寂が支配していた。
 祭壇に灯された蝋燭の火が微かに揺れている。読経の声も、焼香の煙も、香典のざわめきも、全てが過去となり、今や頼道一人だけが残されていた。
 遺影はまだ、そこにあった。
 当主として人前に立っていた凛々しくも冷酷で一族を躍進させてきた立派な男の写真だった。彼のおかげで、仏田家は随分発展した。隣を歩む機関も大きく羽ばたいた。過去に所長自ら言い切った通り、世界に通用する巨大組織へと成長を遂げた。それには彼の『圧倒的な智慧と殲滅力』が大きく関わっていた。
 誰もが彼を素晴らしい男だと言う。けれどその最期は、とても静かで……孤独で置いてけぼりのような春だった。
「……燈雅くんが看取ってくれたらしいな。それが、仏田家の伝統だからって。良かったな、立派な継承式ができたそうじゃないか。……俺は、お前の最期に傍にいられなかったこと、ちょっと後悔してる」
 一人、呟く。
 声は誰に届くでもなく、ただ虚空に消えていった。
「仕方ないよな。俺はそういう役目じゃないから。でもな、やっぱり……悔しいし、切ないよ。……悲しいよ」
 頼道は目を伏せる。
 畳の上に影が伸び、春の光が優しく彼の輪郭を撫でていた。
「……お前は、救われたのか?」
 答えは、ない。
「……あんなにつらい人生で、お前は……良かったのか……?」
 答えなんて、あるわけがない。
 それでも問い掛けずにはいられなかった。全てが全てつらかった訳ではないと信じたい。でも、頼道は見てしまった。『20年ぶりに目覚めて、どうしたらいいか分からなくて不安がっていた少年の目』。あれは、彼の人生が他人にまるっきり奪われていた証明じゃないか。
 そして、取り戻せたのはほんの一瞬。彼は一時的に自分を取り戻せただけ。酷使された力によって器に限界が来ていたから、すぐにまた自分を失ってしまった。自由を奪われて、自我を奪われて、そして最期は命も奪われて。
「我慢ばかりの人生で……奪われるばかりの人生で……お前は、良かったのか……」
 大粒の涙が、ぼたぼたと零れ落ちた。
 こんな悲しい魂があっていい筈がない。報われないなんて、おかしい。あんなに頑張っていたのに、あれほど他人の為、自分を殺して頑張っていた彼の帰還が……たった一瞬で終わってしまうなんて。
 たとえこれからでも、あの魂は救われなければならない。
 祭壇の前で蹲る。頭を抱えて涙を流す。唸り声のように嗚咽する。
 もしあの魂を救えるなら何だってする。あの魂は、救われなきゃいけない。救われないまま消えていくなんて、そんなの理不尽だ。彼が頑張っていたのは隣に居た自分が一番知っている。救われないまま消えていくなんて、そんなの、認められない。認めたくない。認めてはならない。
 彼の魂は生きている。
 声が頼道の頭に響いた。本堂には、誰も居ない。だからそれは天啓だった。
 彼の魂は消えていない。
 優しく囁くような、優しい天啓。どこか艶やかであたたかく、頼道を慰めてくれる美しい天啓。
 彼の魂は、まだあそこにある。肉体が失われても、全てが終わるわけじゃない。だって、そこに彼の継承者がいる。新しい当主がいる。そうして受け継いできたのが彼らなの。守らなければならないの。あの器に眠るものたちを。あの命を、私たちは、この血は、そして貴方は。
 慰める声が、ずっと頼道の脳内に響く。頼道は涙を拭い、顔を上げた。遺影があるだけ。周囲に誰もいない。いないのなら、この声は、まさしく救いのための導きの声なのだろう。
 会いたい?
 頼道は、頷く。
 貴方、好きだったんでしょう?
 声音には、恐怖も脅威も無い。
 愛する人に、会いたい?
 胸の奥から衝動が走る。当然のように虚空に向かって、頼道は返した。
「……会いたい……」
 ただそれだけ。拭っても流れる涙が確かな想いを補強する。
「会いたいよ……また、あいつの声を聞きたい。……うつろな目も、あいつらしい? そうだよ、可愛いさ。でも、俺は……笑ってる顔が、一番好きだったんだ。俺の傍にいると、安心して笑うあいつに……会いたい……」
 声は、頼道の側に立っていてくれた。後悔も涙も全て許してくれるあたたかさがあった。
「……もっと、傍にいたかった。今も……今だって、傍に。……会いたい。好きだ……光緑。今でも、ずっと、好きなんだ。会いたい。ずっといっしょに、いつまでもずっといっしょに……」
 それなら、貴方は彼の魂を守らないと。
 彼のために、残されたものを守って。彼の魂が穢されぬように、誰よりも強く、誠実に。
 この場所を守って。
 貴方は変えようとしていた。子供たちを苦しめていた家を。封建と暴力と狂気に染まった血の流れを。止めようとしていた。でもね、もうそんなこと、しなくていいのよ。苦しい戦いは、もうやめて。『たった一つのことだけでいい』。彼は、終わってなんかいないわ。光緑の魂は、保管されているの。燈雅の中に。仏田家の血の器の中で、巡っている。流れている。息づいているの。やがてその魂は神の器になる。もう一度、形を得る。『貴方の手で、掴んで』。そして、生まれるのよ。生きるの。かつての光緑を伴った、新しい存在として。

 神の器。巡る魂。生きる彼。光緑のために、守れ。踏み出せ、あの場所に。命令。義務。ただ――会いたい。願う。

 香の名残が漂い、祭壇の蝋燭がひとりでに揺れている。
 立ち上がることもできない頼道は茫然と、消えた空間を見つめていた。

『この寺は、幾代にも渡り悪意より宝を護りし聖域。清きものが穢れに沈まぬよう、我らは結界を巡らせ、罠を敷き、見えぬ鎖で時を封じてきた。それが始祖の願いでもある』

 真夜中の仏田寺は、あたかも深く息を潜めたかのように静まり返っていた。
 読経の声は既に絶え、檀家の影も消え、祈りの残響さえ凍りつくほどの深更。月明かりさえ届かぬ闇の中、頼道は一人、灯を掲げて鐘楼に吊るされた梵鐘近く――本堂裏の納戸へと足を運んでいた。
(仏田家は千年の間、仏田寺と共に在った。寺の顔は仏田の当主。犬伏家は、その背を支える住職の家。ならば何故、分かたれたのか)
 僧として幾十年、誠実に務めてきた彼がこの扉に触れたことは一度としてなかった。
 黴の匂いを孕んだ木。錆びつき、鳴き声すら忘れた鉄の蝶番。まるでこの世から忘れ去られ、封印された記憶のようだった。
 その夜、初めて扉は開かれた。
 光緑を喪ったあの日以来、頼道の夜には悪夢が巣食った。泣き声、呼ぶ声、笑い声、その全てが胸を鋭く裂いていく。何度も何度も目を覚まし、ある晩、ついに一つの確信に至る。
(理由があったのだ。分かたれていても、支え合うための役目があった。犬伏にしか果たせぬ義が、仏田を支えていたのだ)
 寺の書庫を、古文書の山を、宝物殿の奥を、埃と沈黙の中でかき分けた。何夜もかけて探り続けた果てに、頼道はそれを見つけた。
 重たく黒ずんだ石の箱。人が一人がようやく抱えられるほどの大きさ。その表面には、言語にすら還元できぬ呪的な文様が刻まれていた。うねるような曲線。生き物の背骨を思わせる、禍々しくも古代的な造形。
 封印の札が一枚、口を閉ざすように貼られていた。

 ――是、人の身を賜へる者にあらざれば、決して啓くこと能はず。魍魎邪神、之に触るべからず。

 人のみに許された開扉。悪魔も異端の手も届かぬ、逆説的な聖域。だが人である限り、開けることはできてしまう。
 頼道は、迷わなかった。
 封を剥がし、箱を啓く。
 ぬるり、とした質感が掌を這う。風など無いはずの地下に、黒い吐息のような気配が立ちのぼり、蝋燭の火が僅かに揺れた。
 箱の中にあったのは、一冊の古書だった。
 革で綴じられた表紙。血に染めたような鈍い褐色。数葉は焦げ、溶け、時間の焔に焼かれていた。
 その背に、焼きごてのように刻まれた一行。
『死を供なす永劫の呪縛』
 名を読んだ瞬間、頼道の背にぞわりと異様な震えが走った。魂の奥が、冷たい指で撫でられるようだった。
 だが、彼は立ち止まらなかった。
 これが何なのか頼道には分からない。そんな異次元の知識は無い。でも、分からないのなら、分かる者を頼ればいい。本を抱き、歩き出す。
 向かうは、寺に隣接する異能研究施設――仏田の当主たちが、神をも越える智慧を求めて築いた知の巣窟。
 これが光緑と再び生きるための書だと、貴方にしか見つけ出せなかった、光緑が蘇るための道なのと、彼のどこかが確かに囁いていた。
 地の奥から、ごう、と低く鳴るような音がした気がした。石の箱が、まだ何かを孕んでいるかのように。
 もう、戻れない。




 第三部 END

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