■ さわれぬ神 憂う世界 「犬伏頼道の奉心裂身」 ・ 2ページ目
【3章】
/1
夏の始まりに、仏田寺が軋んだ。
谷間を越えて唸るクレーンの音が、古の静寂を裂く。吊り上げられた鉄板を支えるワイヤーが空を裂くような悲鳴を上げる。
僧坊に残る者たちは手にした竹箒を止め、黙って空を仰いだ。かつてこの山には無かった匂いがする。鉄と油と、焦げた電線の熱。異質な音と気配が寺の呼吸を乱していた。
結界の外だった山の一角。今では白いフェンスで囲まれ、金属の看板が立ち、難解な専門語が列挙されている。
入り口には警備員が立ち、重機が何台も唸り、トラックがセメントや配線資材を次々と運び込んでいた。
地盤の整地、送電系統の設計、地下掘削、未来の構築がまるで既に許されたことであるかのように踏み込んでくる。見慣れた桜の木々がいくつも切り倒され、代わりに鉄骨の骨組みが空へ向かって伸びていく。かつて鹿や狐が駆け抜けた細道は工事車両のための仮設道路となり、禊を行っていた岩清水の前には、無機質なコンクリートの基礎が打ち込まれた。
寺では知った顔の僧侶――仏田家に仕えてきた術士たちが、無言のまま工事現場へと歩みを進めていく。
これから建設される施設には、仏田家の術式がその構造体に刻まれる。設計の段階から彼らは科学者と肩を並べていた。
上門 狭山という名の研究者と、補佐官である森田 胡蝶。
彼らの指導のもと、数十人の科学者と建築技師の前で、空間のあらゆる層に術式が折り重ねられていった。
「仏田寺は千年を超える。けれど隣に建つのは、これからの千年を支配する場所なのです」
未来と過去。祈りと理性。呪と実験。今やたった一枚のフェンスを挟み、互いに背を向けたまま隣り合っている。
風に揺れる木々のざわめき。川のせせらぎ。遠くで鳴く鳥の声。それらの自然の音色は、今ではクレーンの軋みと発電機の唸りに掻き消されていた。
――そして数ヶ月後。仏田寺の裏手、神域の背骨に食い込むようにして、超人類能力開発研究所機関の本丸が、ついに完成した。
白く光を弾く巨大な構造体が、山の斜面に沿って段状に連なり、上空から見れば、まるで未来の艦船のような鋭い輪郭を描いていた。
ガラス張りのエントランス、金属光沢を帯びた曲線の塔。内部には、魔術師と科学者を同時に収容できる棟、無菌の術式実験室、精神感応系能力者のための防音隔離区画。地下深くには、秘匿観測室と呼ばれる結界封鎖領域が静かに息を潜めている。
周囲には結界術と防侵法式が三重に張り巡らされ、表向きには国家の認可を受けた特異研究所という体裁を整えている。魔術と科学、古代と現代、信仰と技術。かつて決して混じり合うことのなかった要素がここに融合し、共存を始める。
仏田寺が築いてきた人の道の末裔たちが、自ら神の座に近づこうとするための祭壇が完成した。
東京からの帰省の途上。谷を越えて響いてくる工事の騒音が蝉の声をかき消していた。
ワイヤーの軋む音が空を裂き、鉄の塊が山肌に食い込んでいく。かつて静謐の象徴であった寺域に、今や油と騒音と未来の気配が堂々と踏み込んでいた。
光緑と頼道は喧噪の真っ只中、寺へと戻ってきた。
黒衣に身を包んだ光緑の姿は、少年のものというにはあまりに静かで厳かだ。かつて隣で泥だらけになりながら過ごした村での暮らしが、もう随分と遠くに感じられるほどに成長していた。
「父上と、上席衆にご挨拶してくるよ」
横顔のまま光緑が言う。
声は澄んでいて、冷たく美しい。まるで山水をそのまま凍らせたような響きに、頼道は頷いた。
「行ってこい。もうお前は当主の器だよ。胸を張れ」
光緑は眉を和らげた。だがすぐに表情を凪へと戻し、本堂の奥へと消えていく。
その背を見送りながら、頼道は周囲を見回す。かつての顔ぶれが笑い声と共に駆け寄ってきた。
「頼道くん、よう戻ったのう」
「すっかり立派になって。洋服も似合ってるわ、熊もびっくりじゃ」
「東京はどうだった?」
懐かしい声、皺だらけの手、厨房から漂ってくる出汁の香り。変わらぬ人々の優しさが、心の奥をじわりと染めていく。
けれどそんな穏やかさの中に、ぽつんと一つだけ沈んだ影があった。
藤春だった。
まだ10歳にも満たない少年。かつては子犬のように無邪気な笑顔で後をついて回っていたあの子が、今は背を丸め、静かに立っていた。
会釈はした。だが、瞳には笑みが無い。
「おーい、藤春」
頼道が声を掛けると、少年は小さく頷く。
「……おかえりなさい、頼道兄」
掠れたような声だった。あの快活な響きは、どこにも無い。
その姿は異様だった。目の下には影。肌は青白く、どこか触れたら崩れてしまいそうな脆さがある。端正に整えられた袴、過剰に正された姿勢。まるで幼い修行僧のようにきちんと仕上げられていて、そのこと自体が不自然に映った。
(……この数ヶ月で、何があった?)
「ああ、ただいま。なんだよ藤春、敬語なんて使って」
「……もう、そう言うように教わりました」
「誰に?」
少年は答えず、僅かに瞼を伏せるだけ。
頼道の目が、ふと藤春の胸元に落ちた。薄く残る赤い痕がある。鋭い何かを押し当てられたかのような、明らかな痕跡。
呼吸が止まりそうになった。
「……藤春。何か、されたのか」
「ううん」
「じゃあ、その痕は?」
「躾です。間違えたときに、ただ……」
微笑みながら問いかけても、少年の目は頼道と合っているようで、明らかに何か別のものを見ている。
頼道はそっと藤春の肩に手を置いた。その瞬間、少年の体がびくりと震えた。
(こんなに……細かったか)
日焼けしているはずの肌は、不自然なほど青白い。首筋には小さな火傷のような跡。言葉遣いも姿勢も整いすぎた全てが、自分の意志ではなく、恐怖によって矯正されたものにしか見えなかった。
「なあ、藤春。……俺たちがいない間に、何があった?」
「……兄上も、頑張ってるから」
「それとこれは別の話だ」
少年は、ゆっくりと口を開く。
「……俺、少し悪い子だったから。だから、ちゃんとされただけ……」
これは教育ではない。これは、魔術の名を借りた矯正と、抑圧と、傷そのものだ。
頼道ははっきりと悟る。奥歯を噛みしめ、問いを絞り出した。
「……誰が、お前をそうしたんだ」
藤春は答えなかった。沈黙こそが、何より雄弁な証言だった。
「大丈夫だ。もう、俺がここにいる」
だが藤春は顔を伏せたまま、黙っていた。
安心していいという言葉すら、もはや信じられないように。
/2
兄たちが東京へ発ったあの日、藤春は境内の裏にひっそりと佇んでいた。小さな柳翠の手を握りしめながら、遠ざかる背を黙って見送った。光緑も頼道も振り返らなかった。残された者には、寒さだけが沁みた。
数日後、空気が変わった。
「藤春、いつまでに覚えるんだ」
「柳翠はまた逃げたのか。あの子は本当に使えんな」
「甘やかすからだ。ちゃんと叩いて覚えさせなきゃ、血統に泥がつくぞ」
仏田寺の奥、弟子部屋に近い薄暗い畳の間。大人たちは穏やかな口調のまま、手にした扇子や木の札で藤春の頭や手の甲を叩いた。罰ではなく教育という名の手入れだった。山門の外へは出られないよう、足袋も草履も取り上げられた。柳翠が泣いても誰も抱き上げてはくれなかった。
――兄たちがいたなら、ここで助けてくれた。
藤春は何度もそう思った。村に光緑たちと暮らしていた頃、自分たちが泣くとすぐに膝の上に乗せ、髪を撫でてくれた。寺に戻って来てからも、叱られそうになると間に入って頭を下げてくれた。
今、それをしてくれる人はいない。
ある夜。藤春は寝床でうずくまる柳翠の背中を抱きしめながら、唇を噛みしめていた。
5歳になったばかりの弟は、鼻水をすすりながら泣いて体の痛みを訴えた。昼間、逆らった罰で何も食べさせてもらえなかった。水だけが与えられ、火の前で正座を強いられた。火の熱で頬を赤くしても、手を下げればまた叩かれた。
藤春は気づいていた。寺の者たちは、もはや子供だからとは思っていなかった。
光緑の次に生まれた血筋の確認と選別。藤春や柳翠の存在は、仏田家の素材として測られていた。
――頑張らなきゃ。自分が逃げたら、柳翠が壊れる。
藤春は何も言わなかった。黙って、命じられた呪式を繰り返した。丸一日、式の誦文を間違えるたびに床に額を擦りつけた。声が出なくなっても、口だけは動かした。
朝の読経が終わると同時に、声が飛んだ。
「藤春。昨日の式、第三段の詠み方が間違っていたな」
「柳翠も同じ間違いをしていた。誰が教えた?」
「ぼ、ぼくが、まちがえて……」
柳翠が震えながら名乗り出ようとした瞬間、藤春はその手を握って遮った。柳翠には、自分が教えました。その言葉と同時に、後方から扇子が藤春の背に打ち下ろされた。
「これで何度目だ。お前は兄の器ではないのか」
「藤春。仏田の血を継ぐ者が、こんなにも愚かでいいと思っているのか」
幾つもの声が一つの場所に重なって降ってくる。叱責ではない。否定だけがある。
それでも藤春は黙っていた。弟を庇ってやらなきゃ。兄の光緑がいない今、自分が盾にならなきゃ。守ってあげろと兄貴分の頼道も言っていた。そうでなきゃ、柳翠が壊れる。
日が変わっても、日課は同じだった。
間違えれば罰。黙っていれば咎められ、話せば粗が探される。喉が詰まって息ができなかった。掌が震えて止まらなかった。唇を噛んでも、嗚咽が喉の奥から勝手に溢れてきた。耐えると決めたはずなのに、どうしても抑えきれなかった。
凍てつくように冷たい修行部屋で、裸足のまま、土間に額をつける。両の掌は石の感触で痺れ、指先には感覚が無くなっていく。
「何度言ったら覚える。弟に甘すぎるのだ」
「光緑様がいかにあったか思い出せ」
「お前も仏田の子ならば、それなりに振る舞え。期待しているのだよ、我々は」
期待の下で、どれだけ踏みつけられてきたか。
乾いた音が背に響く。二度、三度。何度打ちのめされても、痛みはもう感じなかった。代わりに、何かが崩れる音がした。
弟の手を握ったまま動かなくなった。
翌朝、柳翠の泣き声が寺の朝を引き裂く。
「にいにが……にいにが、起きないの……!」
駆けつけた者たちが見たのは、昏倒した藤春の蒼白な顔だった。
高熱、衰弱、栄養失調。診断書には「極度の精神的疲弊」と記され、全ては「過失」として片づけられた。
知らせを受け、血相を変えて戻ってきた頼道が目にしたのは、泣きじゃくる幼すぎる柳翠と、意識を失った藤春の小さな体。頼道は細い肩をそっと抱きしめ、喉の奥からこみ上げる叫びを、噛み殺すしかなかった。
夕陽が仏田寺の廊下を朱に染めていた。風が抜け、障子を微かに鳴らす音がどこか遠く聞こえた。
藤春が眠る部屋は、静謐というにはあまりに痛ましい沈黙に満ちていた。熱に浮かされた少年の頬は赤く、荒く途切れる呼吸が、布団の上で絶え間なく揺れている。
枕元に、光緑がいた。
黙って座っていた。何も語らず、手ぬぐいを絞り、汗を拭い、濡れた指先で藤春の頬をそっと撫でる。言葉にならない怒りと、深く沈んだ哀しみが、静かに滲み出していた。頼道には、痛いほど伝わっていた。
襖が僅かに開き、幼い影が部屋に飛び込んでくる。
「にいにっ……!」
柳翠だった。目元は涙で赤く腫れ、嗚咽の残滓が喉を震わせている。布団に横たわる藤春を見つけるや否や、胸を押さえて、光緑に縋るように駆け寄った。
「にいにが……壊れちゃった……!」
震える声が、部屋の空気を断ち切る。
光緑は何も言わずに柳翠を抱きしめた。小さな肩を包みこみ、髪に額を寄せ、静かに目を閉じた。
「光緑様、そろそろお席にお戻りください。会議のお時間です」
障子の外から控えめな呼び声がした。続くように、さらに数名の気配が立ち並ぶ。
「子供の看病などは女中に任せて……当主としてのお勤めを」
「お気持ちは分かりますが、兄弟愛と公務は別です」
「光緑様が甘いと見なされれば、仏田家の威信にも関わりますぞ」
言葉こそ丁寧だった。だが潜む圧力はあまりに冷たい。
光緑は静かに立ち上がった。目には揺らぎが無かった。
「この子たちは誰のために、何のために存在しているのですか。傷つけ、追い詰め、壊して……それで家が続くと、本気でお思いですか」
声は澄んでいたが、芯に鋼を孕んでいた。
その一言で廊下の空気が張り詰めた。誰も返す言葉を持たなかった。
――光緑の言葉が寺内に波紋のように広がっていったのは、僅か三日後のことだった。
陰口はささやきから密談へ。視線は遠巻きからあからさまな監視へと変わった。若い僧たちは目を逸らし、中堅の術士は沈黙を守り、年配の者たちは会釈をしなくなった。
「光緑様は、やはり甘い」
「子供に情を移すなど、器の資格にあらず」
「どこかで軌道修正が必要だな……」
聞こえぬ筈の声が、風に乗って頼道の耳に届いてくる。
仏田家のために生まれ、育てられ、全てを犠牲にしてきた男。その器に情や涙があってはならない。それが、この家の正しさだった。
けれど光緑は、毎日弟たちのもとに戻った。
柳翠は、視線を恐れていた。兄の背に隠れ、怯え、泣いた。しばらく押し込めていたものがついに堰を切ったように溢れ出し、声を上げて泣きじゃくる。光緑は何も言わずに腕を伸ばし、小さな体を抱きしめた。肩に腕を回し、震える背をゆっくり撫でる。
「……大丈夫」
囁きのように静かな言葉だ。けれど声には、はっきりとした意志が宿っている。
「お前たちを守る。僕が、守るから」
その声を誰も信じなくともいい。けれど、あの小さな手がもう一度温もりを取り戻す日まで、仏田光緑は肩に全てを背負い、立ち続けるつもりだった。
その夜。仏田寺の奥座敷は、まるで現世から切り離された別天地と化していた。
香の煙が濃く立ちのぼり、部屋の空気をねっとりと覆っている。硝子の盃に満たされた琥珀色の酒が、燭の灯に煌めきを返し、まるで闇夜の水底に沈む宝石のように静かに揺れていた。夜風さえもここでは酩酊しているかのように緩やかで、香の香気と共に、空間そのものが朦朧としていた。
和紙張りの天井の下、低い座卓を囲むようにして、男たちが静かに盃を交わしている。
顔には等しく笑みが浮かんでいた。鋭利な刃のように研がれた笑みと、沈殿するような鈍重な沈黙。混ざり合っていたのは、酒の香りと、権力の匂いだ。
座の中央、一際分厚い背を見せて座していたのは、この国の裏を支配する男――仏田家の当主、仏田 和光。
薄い御簾の奥では、名代として姿を見せない品原も、豪快に酒を呷る声だけが響いている。
声に笑いが混じるたび、室内の温度が一つ、静かに下がる。
その場に、光緑が足を踏み入れた。一礼ののち、頼道とともに奥座へと進む。
仄白く整った顔に表情は無い。感情を纏えば、いずれかをこの場で削ぎ落とされると光緑は知っている。そう何度も学ばされてきたのだ。
座卓の奥にいる仏田和光は背筋は殆ど動かず、厚い胸板の向こう側からただ在ると圧だけが波紋のように広げていた。
光緑は膝をつく。丁寧に、額を畳につけた。白磁のような指が畳を押さえ、低く、静かに声を漏らした。
「父上。お願いがございます」
たったそれだけの一言で、座中の空気がひりつく。
御簾の奥から緩やかに衣擦れの音がした。和光はまだ、何も言わない。
「弟たち――藤春、柳翠への魔術鍛錬を、やめていただけないでしょうか」
言葉は静かだった。
だが抑えた熱があった。声の裏に宿るのは、懇願ではない。決意だった。
「当主の座は、長子であるこの私が継ぐべき立場にございます。弟たちは、そのために命を削る必要はない筈です。幼すぎます。過酷すぎます。彼らに後継者としての試練を課す意味は、もうありません」
畳に触れる額の下で、僅かに唇が震えた。
だが、決して逸らさない声がある。それは光緑の中にある最後の矜持だった。
和光がようやく盃を畳の上に置いた。
ゆっくりと、まるでその仕草すら他者に試練を課す儀式の一部であるかのように。空気が重く沈んだまま、異様に長い沈黙が流れる。そしてその沈黙を切るように、低い声が、床の奥底から這い上がってくるように響いた。
「光緑」
名を呼ばれるだけで、空気の温度が変わる。
男の声には威厳ではなく、支配の毒が混ざっていた。
「お前、もう当主を継ぐ準備はできてんのか?」
光緑は静かに頷いた。その姿勢に、一片の揺らぎもない。
「未熟ではございますが、日々励んでおります。父上のお言葉一つで、いつでも」
和光は口元を歪めた。それは笑みの形をしていたが、どこにも喜びの温度はなかった。
「早いとこ一人前になって、全部継いでくれや。オレを楽にしてくれよ」
不意に声がくだける。
ゆるんだ口調。どこまでも無責任で、どこまでも本音に近かった。
「なあ……お前が全部背負ってくれたら、オレは女と酒と博打で余生を満喫できるんだよ。早く遊んで暮らしたいんだ。もう面倒なもんに関わってたくねぇのよ。ほんと、疲れた。ああいうのはお前にやればいい」
喉を鳴らすように、和光は笑い出す。
侮蔑とも退屈ともつかぬ音で――この家、この血、この国に流れる王の笑いとしては、あまりにも空虚だった。
頼道は同じように頭を垂れたまま、耐えていた。
だが胸中に、名状しがたい感情が湧き上がっていた。
――この男が、仏田家の頂点? 一代で家に莫大な財をもたらし、魔術結社以外にも大きな人脈を作り、研究機関という新たな境地にも踏み出したという偉大な人物? そしてこの男が、自分の両親すら畏れ敬った、あの信頼される当主?
かつて語り聞いた兄貴分の照行の兄。そして……光緑の、父。
それが、笑っている。国を、家を、子を、命を担うべき存在が。何もかもを重荷と切り捨てて、目の前で笑っている。
頼道の内に、静かな動揺が波紋のように広がっていた。ヒカルがかつて放っていた言葉が、喉元にざらりと蘇る。
――あいつの言動は、支離滅裂だよ。上に立つ器なんかじゃない。
今ならあの動揺が分かる。この男は、法でも信念でもなく、気分で人を壊すのではないかという恐怖が滲み出ていた。
もしかしたら光緑の願いがたった一息の笑いで踏みにじられるんじゃないか。冗談めかした嘲りの中で、命が命として扱われることのない場所になるんじゃないか。そんな予感がひしひしとした。
和光はもうひと口、盃の酒を流し込んだ。咽喉を通る音が、やけに生々しく座に響く。
「ガキどもの教育なぁ……」
言いながら、肩を揺らして笑う。
声には酔いが含まれていたが、酒の酩酊ではなく、力を持つ者だけが許された退屈からくる傲慢のようだった。
「全部あいつらに任せてんだよ。新しく建てた、寺の隣の研究所の連中にな」
頼道の背に、冷たい汗が走った。
あいつら――超人類能力開発研究所機関。仏田寺に隣接して建設された、異能研究と魔術兵器開発のための巨大施設。ここ数年、仏田に関わるようになってきた組織である。
「あいつら異能のプロフェッショナルってやつだろ。うちの金を何パーセント出してやってると思う? だったらな、オレも自分の手札は強くしときてぇわけよ。支援してやるんだから特別価格でうちのをシゴいてくれって話になったんだ」
和光の目は細められ、まるで打ち上げられた魚を見るような目つきで盃を弄んだ。
子を思う父の眼差しは一片も無い。
「ちゃんとした駒に仕立ててくれって、オレが依頼したんだ。高くついたが、価値はある。あいつら、壊し方も直し方も心得てるらしいからな」
頼道の肺の奥に冷たいものが落ちた。
藤春と柳翠のことを、和光は最初から駒としか見ていない。人格も、意思も、命さえも、彼にとっては将棋の駒以下の存在のように語るのだ。
「もう少ししたらな、藤春をあそこに渡すつもりなんだ。記念すべき新設の実験第一号としてな。機関にも箔が必要だろ。最初から仏田の子を使った事業を始めりゃあ、あそこの名も立つだろ」
笑っていた。あまりに自然に。あまりに軽やかに。まるで習い事に通わせるとでも言うかのように。
言葉が出ない。理解が追いつかない。頼道の手が強く握られる。吐き出しかけた言葉が、喉の奥で凍りつく。
――自分たちが守ってきた幼く優しい弟たちを、奇妙な施設に送るというのか。壊して直してなどという、化け物に仕立てあげるような場所へ。
「やるにも基礎が出来てないと申し訳ないからなぁ。土台を作るためにも良い術師を家庭教師として呼んだんだ。いい女だったぞ。光緑、お前だって世話になったんじゃないか、あの女に。それにな。子供に情を移すようなことはするなよ、光緑」
香の煙が僅かに揺れた。座の中央にある低い卓に、琥珀の酒が歪んだ光を落としている。
歪んだ価値観が広がる空間であっても、光緑は、和光の正面から逃げずに膝に手を置き、深く礼をする。懇願のそれでありながら、どこか毅然としている。低頭はしていても、媚びはなかった。
「……父上」
静かな呼びかける。
喉奥に刃を忍ばせたような、慎重で緊張に満ちた重みを帯びていた。
「父上のなさってきた数々の仕事。心より敬意を抱いております」
香の煙が、薄く尾を引いて立ちのぼる。
その中で光緑の声音は寸分も乱れず、言葉を紡ぎ続けた。
「父上の金策がなければ、先の大戦の混乱で仏田家はとっくに傾いていたでしょう。破綻しかけていた財政も、父上の采配で立て直され、今や数多の事業が軌道に乗っております。国家にも企業にも確かな足場を築き、多方面の繋がりを得られたこと、当主継承を控える身として、深く感謝しております」
和光は何も返さなかった。
盃を持ったまま、香の陰から光緑の頭を見下ろしている。
「けれど、父上」
光緑はゆっくりと顔を上げた。研ぎ澄まされた硝子のように、冷たく、そして澄んでいた。
「それらの成果がどれほどあろうと……道理に反してはなりません」
盃の中の酒が微かに揺れた。
「魔術結社としての仏田家にとって、異能の追求は使命です。そしてその重責は、長子であり当主継承者である私が、全てを背負う覚悟をしております」
言い切った後、一瞬だけ呼吸を整えるように言葉を途切らせ、再び深く頭を垂れた。
「藤春と柳翠は、まだあまりにも幼すぎます」
微かな痛みが混じった。隠しきれない兄としての慟哭が、言葉の縁を濡らしていた。
「彼らには、私ほどの才能はございません。仏田の術式の核を担わせるには、あまりに力が足りず、また……彼らにその器を求めること自体が酷です」
障子の向こうで、夜風が枝を揺らした。
「どうか……研究所への転送は、お止めいただけませんか。あの子たちの命を、器や戦力としてではなく……家族として残していただけませんか」
低く、深く、額が畳につく音がした。
「私が全てを担います。異能の追求も、術式の構築も、血の犠牲も、全て。どうか……あの子たちだけは……」
静寂が落ちた。言葉を発した後の一瞬の静けさではなく、刃を飲み下した後にしか訪れない、息の詰まるような緊張だった。
当主は動かない。香の煙が彼の輪郭をぼかしている。光緑は決して顔を上げなかった。低く伏せた姿に、頼道は拳を握ったまま言葉を失っていた。
長い沈黙が続く。盃を弄んでいた和光が、ふと愉しげに首を傾けた。
「……どう思う? 胡蝶」
その名が出たとき、頼道は僅かに息を詰める。唐突な女の名。何故この場に女の名が呼ばれるのか、誰も理解できなかった。
御簾の奥で布擦れの音がした。やがて陰から甘く、湿った女の声が漏れる。
「困りましたわ」
舞台の袖から出てくる役者のように、よく通る声だった。
女の声は笑っていた。絹のように薄く、刃のように鋭い笑い声だった。
「せっかく和光様と交わしたお約束、無碍にされては困ります。素晴らしい霊地に城を築いてもらえただけではなく、千年の血筋を持つ能力者の子供を実験に使えるなんて。研究者一同、皆、興奮しておりましたのに」
言葉の全てが、毒を塗った蜜のよう。
言っている内容は明らかに非道だったが、響きはあまりに滑らかで、日常の商談のような、既に終わった話のような重さだった。
「ですから、藤春様はぜひとも頂きたいですわ」
頼道のこめかみが震えた。
様という敬称が、あまりにも嘲るように響いたからだ。
「だよなあ」
和光が、酒を片手に再び笑う。
その笑みは何もかもを奪っておいてなお退屈そうに口角を上げる、悪趣味な神のようだった。
「あんだけ金渡してんだ。向こうさんも準備してんだよ。今更キャンセルなんてしたら……いやあ、違約金もバカになんねぇよなぁ?」
言葉は、もう誰にも届いていなかった。
彼らにとって、この会話は対話ではない。命と血と心を、金と契約と数字に置き換えるだけの儀式のようだ。目の前で交わされているのは、まるで家畜かサンプルの話。まだ声変わりもしていない藤春の体を、研究者たちは能力者第一号として解体する準備をしている。あの子の涙も、痛みも、血さえも、既にこの者たちの中では、契約済みの素材に過ぎない。
「ほんとはもっと向こうさんに貢いでやりたいんだ。それぐらい投資する価値があるとオレは見てる。犬伏の宝だって提供してやりたいぐらいには向こうを信頼してるんだぜ? さすがにそれは睨まれたが。だったらうちで出せる最上級の宝を差し出すのが信頼だよなぁ。……子供は宝だもんな!」
「ええ、まったく。犬伏様にも是非席を設けたいところですが」
怒りより先に頼道は吐き気を覚える。思わず顔を上げ、御簾の先を睨んだ。
奥から微かに現れた女の輪郭は、まるで夜の中に浮かぶ絹蛇。
黒い髪を高く結い上げ、長い睫毛の影に艶やかな紅の笑みが浮かんでいる。目元には妖しく光る何かがある。眼差しは、獲物を楽しむ猛禽のものだった。
悪魔だ。頼道は、直感した。この女はただの魔術師や科学者や補佐官ではない。人を壊すことに何の呵責も持たぬ者だ。
そしてこの男も、悪魔になってしまったただの畜生だ。
光緑はゆっくりと顔を上げた。眼差しが真っ直ぐに御簾の奥を見据える。
「……父上」
香の煙がふっと揺らぎ、空気が張りつめる。再び息を正し、声を発した。
「もう一度……お考え直しください」
御簾の向こうにある父の姿は見えない。不在こそが逆に、座の中心に絶対の意志として横たわっている。
「私は、仏田家を継ぐ覚悟を持っております。けれど当主とは孤独に立つ者ではなく、支え合う者を抱き、導く者だと、私は信じております」
言葉を選びながら、しかし一歩も引かずに光緑は続けた。
私情ではない。一介の子の叫びではなく、仏田家の未来を語る者の、責任ある進言だ。
「今はまだ幼い藤春ですが、彼はやがて、私の右腕となり得る存在です。ですから、今だけでも……あのような虐待のような鍛錬は、どうかおやめください」
「――くどいな」
空気が、変質した。
声は低く。底冷えするほどに冷たい。
和光は盃をゆっくりと卓に戻した。その音が、異様に静かに、座の隅々まで響いた。
「……照行が報告してきたぜ。『人殺しの才能だけは育ってる』ってな。オレに似たんだろうって、失礼な報告だ」
御簾の奥で、仄暗い笑みが膨らむ。
食い散らかした後の骨を見下ろすような、吐き捨てるような声音だった。
「けどな、光緑。お前にオレが期待してんのは、黙って命令に従う人形としての才能だ」
凍りつくような重さを帯びた言葉が、座の空気を鋭く断ち割った。
「偉くなったつもりか? その口の利き方は何様だ? まだまだ教育が足りねえみたいだな」
御簾の奥で唇が歪んだ気配が生まれる。
「なあ、胡蝶。……こいつ、そっちでもう一度躾し直してくれるか?」
「承知しましたわ」
女の声が柔らかく、けれどぞっとするほど艶やかに応じる。
春先の風のように滑らかでありながら、冷たい氷雨のような声。明らかに、喜びを含んでいた。
「人形は何度でも焼き直せますもの。柔らかいうちに叩けばより強く、美しく、父君の理想通りに仕上げられるでしょう」
頼道の背が粟立つ。それはもう、人の会話になっていない。
血と肉を持つ息子の未来を、まるで陶磁器の改修計画のように語る者たち。言葉の温度が、もはや生きた者たちのものではない。
周囲にいた数名の者達も、僅かにざわめいた。一人は静かに掌を合わせ、もう一人は視線を交わし合いながら、小さく首を振る。
「和光様……光緑様は、未来の……」
一人が、勇気を振り絞るように声を上げかけた。
だがその言葉は、凍りついたような空気に飲み込まれた。御簾の奥から放たれた黙殺の気配に、誰もが口を噤むしかない。
和光は盃を卓に叩きつけるように戻すと、重々しく身を起こした。御簾の奥から布ずれの音が一つ。支えもなく、巨躯が音を吸い込むように立ち上がった。
「――知らん」
たったそれだけの一言。祈りも血縁も、何もかもを斬り捨てるような、絶対者の退場宣言だった。
会話も懇願も背に届くことはない。和光は一切の理非を踏みにじって、夜の座から立ち去ろうとする。重臣たちの膝が、僅かに崩れる。敢えて目を伏せる者、呼吸を忘れる者。誰も暴君を止めようとはしなかった。
「父上、待ってください!」
静寂を破ったのは、光緑だった。
正装が舞う。静かに、だが一分の躊躇いもなく彼は立ち上がる。その姿には激情も、衝動もない。あったのは踏みとどまれぬ使命の光だけ。
誰もが息を飲んだ。仏田の若き器が、今まさに暴君の背に手を伸ばそうとしている。誰もが忌避し、踏み入ることすら許されぬ――御簾の向こうに踏み込んでいく。
慌てて声を掛けようとする者もいた。だが誰一人止めることはできなかった。和光に触れることは死を意味する。禁忌を破る者はいない。唯一、ひとりを除いては。
頼道も動いた。大きな背中を震わせると、迷いもなく後に続く。
御簾の先へ抜ける。まるで封印された瘴気を吸い込むように異界に足を踏み入れた。
中の空気は異様だった。ぬめりを帯びた生温さ。鉄と土が混ざったような匂い。どこか、墓の底に似ていた。
光緑の呼びかけが、沈んだ部屋に吸い込まれる。
御簾の奥。影を見たとき、足が止まった。
「…………誰だ……?」
頼道にしか届かない、吐息のような声がする。
驚愕ではない。確信に裏打ちされた拒絶。まるで、そこにあるものが、自分の父であってはならない何かだと――身体の奥で知ってしまったかのような囁き。
頼道は見る。そこに立つのは――仏田 和光の姿。確かに、記録にある。写真にも、儀礼にも、神輿の上にもあった男。だというのなら、どうして光緑は、
「……貴方は……父上、ですよね……?」
などと、不安な声を口にしているのだろう。
次の瞬間、ふいに宙を払った。爆ぜる。畳が爆風に裂け、光緑の身体が宙を舞う。音もなく壁に叩きつけられ、転がった。正装の袖が裂け、額が擦れて赤く色がつく。
「光緑!」
頼道が叫び、踏み出す。だが突如ぬかるむような感覚に膝が落ち、床を割るほどの重圧に押し潰される。
呻きながら、それでも頼道は、畳の上に転がる光緑を見下ろしていた。
「……機関に躾てもらう前に、オレの手で躾が必要だな」
低く、獣の喉を鳴らすような声。
まるで他人の口から借りて発された、人ではない何かの声。言葉がこだますると同時に、部屋の空気がひどく冷たくなる。何かが――本当に始まる気配があった。
/3
藁葺きの屋根の上を、杉の香りを含んだ山風が撫でてゆく。
白い息を吐きながら走る弟たちの声。石垣の影に干された大根。雪の名残。畑の土の温もり。
光緑は小さな縁側に座っていた。足元に転がっているのは、柳翠が投げた布の毬。それを拾い上げた藤春が、こちらを見てはにかむように笑った。
駆け出す幼い弟たち。後ろから洗濯籠を抱えた中年女たちが「こらこら!」と追いかけてくる。
くぐもった笑い声。干し柿の匂い。それは確かに、あの村の冬だった。
縁側の横に座った頼道が、静かに湯呑みを差し出す。
「光緑。また弟たちの世話で昼飯抜いてただろ」
そう言って豪快に笑う顔は、日差しに照らされて眩しかった。
優しい光景が胸の奥に滲んでいく。優しい。苦しいほどに、優しい。
「兄上。山堀りしてたらね、見てこれ。きれいな石、いっぱい拾ったんだよ」
光緑がぼんやりと過ごしていると、藤春はズタ袋からいくつかの紫色の石を取り出し、掌に広げて差し出した。頼道が一つを受け取り、太陽に翳す。
「おお、こりゃ本当に綺麗だな。なんだかお前らの目みたいじゃねぇか。光緑たちの目だ。紫色で同じだよ」
頼道の言葉に、藤春の紫の瞳がまたきらきらと輝いた。
「あのね、ばあばが言ってたよ。紫の石はね、大変なとき持っているといいことが起きるんだって。……兄上にあげる。ぜんぶあげる!」
満面の笑みを浮かべる弟。
光緑はしばらく言葉を失ったあと、目を細めた。
「ありがとう。凄く綺麗だね。みんなの宝物にしようか」
笑い声が、家の中に満ちていた。
拾ってきた石は光緑がしっかりと洗って、木箱にしまった。
たくさんの思い出が詰まった木箱だった。その木箱は、世話になった老人たちや少女たちに分け与えた。自分を優しくしてくれた人々。彼女たちにはいいことが起きてほしい。美しい宝石が起こす幸福は、みんなで分かち合うべきものだから。
心からそう思っていたから、寺に戻る前に置いてきてしまった。
――もし持ってきていたら、兄弟は幸福になれていただろうか。つまり自分たちは、あの村に幸福を全て置いてきたということだろうか。
光緑は現実から目を背けながら、楽しかった過去に浸る。
よく晴れた日に縁側に腰をかけて、藤春の昼寝に付き合った。圧し潰される痛みに悲鳴を上げかける。柳翠が拾ってきた綺麗な石を両手で抱え、夢中になってはしゃいでいた。手足を拘束をされた。庭先から頼道の声が飛んできて、一緒に栗拾いに行こうと誘われた。首輪を着けられ、体を捻じ曲げられ、呻き声が上がる。頼道と一緒に腰にかごを提げ、集まってきた村の小さな子供達の後を追いかけた。いやらしい大勢の目に見つめられた。山道は柔らかく、地面は落ち葉でふかふかだった。着物を引き裂かれ、秘部を晒された。栗を拾うたびに子供たちは「みてみてー!」と叫んで呼んだ。無遠慮に突き刺さられ、苦痛に喘いだ。「光緑も混ざれよ」と、笑う頼道が手を引いてくれた。大勢にかわるがわる次々と次々と抉られ、絶頂する様子を観察され、下品に嘲笑された。こんな日が、いつまでも続けばいい。早く終われ。何もしなくていい、決められなくていい、守らなくてもいい、ただ笑っていてられるだけで幸せな時間だった。体を引き裂かれて、得体のしれない衝動に襲われて、いつまでこんな気持ち悪いことをしなきゃいけないんだ。こんな1日があってもいい。あと何日縛られてこの屈辱を続ければいい?
「……頼道」「ん?」「ありがとう。今日、すごく幸せだよ」 豊作のかごを抱いた頼道は、照れたように鼻を鳴らした。「俺は何もしてないけどな。けど……俺もそう思ってる。いつも光緑は頑張っているんだから、今日ぐらい羽目を外したっていいじゃないか」
その場にいたのは地方の資産家、政治家の縁者、裏の実力者たち。一部の信仰者と呼ばれる仏田の術に縋る者たちもいた。「いやぁ、こんなの拝ませてもらっていいんですかね」「表情がねえ。さすがだよ。美しい。良い乱れっぷりだ」「素晴らしい器に育ててさしあげましょう」 笑い声が重なる。身動きできない頭上を、酒と煙と侮辱が流れていく。
いつも近くにいた彼と二人で古い家に帰る。逞しい頼道の腕に引かれて。
「光緑! 光緑、光緑ッ……!」
どこか遠くから駆けつけた頼道の怒声のおかげで、心を壊すためだけの宴が終わってくれた。
/4
湯殿の脇に灯した仄かな明かりで、頼道は手を浸し、丁寧に白布を絞った。
光緑は何も言わず、されるがままに身を任せていた。
顔を、首筋を、手を、汚れは見えなくても頼道は一心に拭った。清めるように。この世の穢れを祓うように。
全てを清め終えた後、頼道は光緑を抱え寝室に戻り、布団の上へ横たえた。
躾という名の調教は、数日続いた。光緑の反抗的な心を折る日々が、何日も続いた。尊厳を折るための舞台を用意され、目を背けたくなる仕打ちを受けた。頼道にはどうすることもできず、声を荒げる以外、無かった。
寝室に帰還を許されたのは、和光が新たな酒を手に入れたとかで上機嫌になったからだった。それまで機嫌を損ねさせた原因である光緑は、自分の部屋へ戻ることを許されなかった。ずっと和光が決めた場所で、躾を受けなければならなかった。
魔術の鍛錬でも社会勉強でもなんでもない、ただ苦痛と恥辱を与えられるだけの場に置かれた。支配者に服従するよう、ひたすら心を壊すための時間を強いられていた。
光緑を助け出す人間はいなかった。たとえ尊い命でも、誰もが命が惜しかったからだ。彼を助け出す手段は、命令を下した人物の機嫌が直る他なかった。どんなに頼道が訴えても意味はなく、ほんの数万円の酒のおかげで、光緑は人間性を取り戻せた。
そして何も変わらなかった。弟の教育は、まだ続いている。撤回などできていない。藤春と柳翠は、頼道の防衛もむなしく大人たちに連れていかれたのだから。
心を鬼にして頼道は詳細を話した。すると光緑は重い身体を起き上がらせて、弟たちのもとに行こうとした。頼道は、片手で体を押しとどめた。頼道の太い腕とはいえ、腕一本を押しのける力すら光緑にはなかった。
その腕にしがみつきながら、崩れ落ちる。
「僕、どうして、何もできない、守るって約束したのに」
声は荒げない。でも、心からの絶叫だった。
真冬の名残がまだ空気に漂う、ある夕暮れのことだった。
仏田寺の本堂裏。普段は使われない客間に、頼道は呼び出された。夕陽の射さない座敷の中央に、父――住職・犬伏 依貞が座っていた。
かつて快活で冗談を交わしてくれた父の面影は今や消えている。横顔は厳格の一語に尽くされ、いつになく無表情だ。硬い声が、静かに響いた。
「来月から、本山の宗教学校へ入れ。手続きは既に済ませてある」
父の口調には温度が無かった。頼道は言葉を失う。
「いずれ僧侶になるって話は……前から聞いてた。でも、なんでこの時期に? こんな急に」
問いに、父は目を伏せたまま何も答えなかった。代わりに脇に置かれていた書類の束を、無言で差し出してきた。
「受け入れは確定している。光緑様の御政道が進む中、お前の進路も明確に定めねばならん」
光緑様。その言葉が胸の奥に突き刺さる。頼道は、はっきりと悟った。
これは教育ではない。追放だ。
子どもたちを庇ったこと。あの場で上層部の非を正面から咎めたこと。それら全てが「仏田家の方針に逆らった者」として帳簿に記されたのだ。
心の内側で何かがじくじくと滲みはじめていた。怒りではなかった。憤りでもない。深く、暗い空虚だった。
「……もう、決まってるんだな」
「そうだ」
父の声はまるで石を置くようだった。揺らぎも迷いも、そこには無い。
「本山には既に推薦状を送ってある。そちらで学び、いずれこの寺に戻る日もあるだろう……だが、今ではない」
今ではない。その一言が、何よりもはっきりとした拒絶だった。この寺に、今このとき、頼道の居場所はないということだ。
頼道は書類に手を伸ばした。その指は、紙に触れる寸前で拳になって握りしめていた。
(俺は、ただ……守りたかっただけなのに)
藤春が怯えていた。柳翠が泣いていた。それを見て、傍に立った。ただ、それだけだったのに。
「……分かった。立派に修行してくるよ、父さん」
言葉を口にするまでに、十秒以上かかった。声が震えなかったことだけが、せめてもの誇りだった。
「お前には、守ってもらわなければならない物がある」
「……それは、伝統?」
「それもある。この家は、新しい風に揺れている。揺らしてはならない物を我らは守っている。頼道、お前は、聡明でなければならない。気を強く持つため、鍛錬に励みなさい」
父なりの慰めだと思えた。突き刺さる優しさに、深く頭を下げる。
だが頭を下げながらも、胸の奥のどこかで非難したくて、誰かの泣き声が空耳として聞こえた。
それが藤春のものだったのか、柳翠のものだったのか。あるいは自分自身のものだったのか。もう、分からなかった。
冬の大雨が、静かに屋根を叩いていた。湿った風が軒を抜け、遠い林の匂いを含んだ空気が、寺の廊下を這うように流れてゆく。
頼道の部屋には、既に大きな荷包みが置かれていた。身の回りの品は少ない。けれど、一枚の紙だけはどうしても持っていかねばならなかった。
かつて子どもたちと囲んで描いた落書き。
藤春の、濃淡を意識した真剣な線。柳翠の、兄の筆を真似た拙く幼い線。頼道はしばらくその絵を眺めたのち、何も言わず、紙を懐にそっと仕舞った。
そのとき、戸が音もなく開いた。振り返らずとも分かった。気配だけで十分だった。
光緑だった。
黒衣に身を包み、髪はきちんと結われている。だが、眼差しには焦点がなかった。魂の不在、そんなものが人の目に宿るのだとすれば、まさに今の彼がそれだった。
頼道は、光緑に背を向ける。自分が寺を立つところを、彼から離れるところを見せるべきではないと思えたからだ。
別れの言葉を紡ぐ。
「7年ほど、勉学に励んでくる。霜月でも上野でも、時はあっという間だった。終わって戻る頃には、光緑も一人前だ。……当主にだってなれるさ。だから大人しく、父さんの指示にでも従って……」
言葉の途中で、背に重みがのしかかった。
無言のまま、光緑が頼道の背にしがみついていた。
細い腕が必死に伸ばされ、額が肩甲骨に触れる。熱と震えとが、頼道の背に滲みこんできた。
「……お前がいなくなったら……」
掠れた声が、背中で震えた。
「誰が……藤春と柳翠を庇ってくれるんだ……。誰が、僕を慰めてくれる……?」
声はやがて啜り泣きへと崩れた。
肩が小さく震え、息は乱れ、感情の瓦礫が崩れ落ちていく音が、頼道の胸の奥まで響いた。
頼道はゆっくりと背後に腕を伸ばし、光緑の手を握る。あたたかくも冷たくもない。ただ確かに、生きているひと握りだった。
「……叔父上の屋敷にいたとき。東京で、毎日あの女に詰められていたとき……お前がいてくれたから、どうにか、どうにかやってこれたんだ……!」
叫びにも似た声が、ひとつひとつ胸を刺した。
「弟たちが、目の前で苦しんでいても……僕は何もできなかった。駆けつけることすら、できなかった……!」
言葉が絞られるたび、頼道の背が震えた。
光緑の涙の重みが、じわじわと染みてくる。
「でも、お前だけが……あの子たちの前に立ってくれた。僕の情けなさも、弟たちの痛みも……全部、お前が引き受けてくれた……。散々……汚されて、嬲られて……それでも、夢の中でお前が笑ってくれてたから……僕は耐えられたんだ……」
言葉が詰まり、嗚咽がそれにとって代わる。
「頼道……お願いだ……いなくならないで……お前だけは……」
必死の願いに、頼道はとうとう振り返った。
目の前には、これまで見たことのない光緑の顔がある。
泣き腫らし、歪んだ表情。美しさの欠片もなかったが、それが藤春や柳翠の涙にあまりに似ていて、頼道の心は一気に突き動かされた。
迷いなく、光緑を抱きしめる。兄が幼い弟をあやすように、震える背中に手をまわし、髪を優しく撫でた。
「……俺たちは、今は何もできなかった。だけど」
「…………」
「7年経てば……何かが変わるかもしれない。和光様は、お前を当主にしないとは言っていない。俺も、勘当されたわけじゃない。……帰って来いって言われたんだ。だったら……変われる。絶対に……」
光緑は返さなかった。顔を頼道の肩に埋め、ひたすら声を殺して泣いていた。
頼道は微笑みながら、その体を支える。
「……いなくなるなんて言うなよ。ただの修行だ。戻ってきたら……機関の連中をどう追い出すか、一緒に考えよう」
それでも光緑は黙ったまま、ただ頼道だけを見つめていた。
月明かりが障子の隙から差し込み、彼の濡れた頬を優しく縁取る。焦点を持たぬその瞳が、確かに頼道だけを追っていた。
「……僕は、そこまで考えられない。僕は弱いから」
「俺が支える。言っただろ、俺が傍で見守ってやるから、お前は心配しなくていい。……帰ってきたらさ、機関を追い出して、ついでに、寺も全部吹き飛ばすぐらいのこと、やってやろうぜ」
「…………ごめん、弱くて。強がることすら、できなくて」
頼道はゆっくりと首を振った。
「強がるほうが、よっぽど見苦しいよ。今のお前は……ちゃんと生きてる。……好きだ」
光緑の喉がかすかに震えた。
そして刹那。頼道の胸元をそっと掴み、迷いなく顔を寄せた。
唇と唇が静かに、触れ合う。
重なりではなく、衝突でもない。祈りだった。言葉にできない、訴えのような告白だった。
唇が、そっと離れた。
光緑の瞳は、なお潤みをたたえたまま、頼道の顔を見つめていた。羞じらいはなかった。後悔もなかった。長い年月をかけて心の奥に堆積していた孤独と、愛しさと、誰にも打ち明けられなかった想い、それら全てが今、唇という形を借りて零れ落ちたのだった。
「……光緑。お前が、今こうして俺に縋ってくれたこと。それだけで……俺は、もう十分に報われる」
頼道の声は低く、穏やかに響いた。
体格だけが良いだけで、暴力も権力も何一つ力を振るうことができない自分が、どれほど光緑の為になれたか。何も持たず、何も為せなかった筈の自分が、ただその傍にいたというだけで、誰かの支えになれた。その事実が、胸を満たしていた。
頼道は静かに身を屈め、光緑の額にそっと唇を寄せる。
祝福のように、祈りのように。あたたかく、優しく。
「……頼道。いつか、また……二人で……」
光緑がぽつりと呟く。声音はどこか夢のように頼りなく、それでも確かだった。
頼道は緩やかに目を細める。
「……二人で、どうしたい?」
問いかけは軽やかだったが、耳を澄ませるような静けさを湛えていた。
光緑は一拍だけ黙し、そして小さく首を振った。
「……ううん。なんでもない。……ただの僕のわがままだから」
「言えよ。当主様の命令なら、俺はなんでも聞くって」
ようやく光緑は少しだけ笑みを浮かべた。ほんのりと頬を染め、目を伏せる。
「……だから言わないんだ。命令じゃなくて……僕の、願いでいたいから」
言葉の余韻を断ち切るように、光緑はもう一度、そっと唇を重ねた。
今度は何も言葉を交わさなかった。交わされた温もりの中に、全ての感情が宿る。最初で最後かもしれない。けれど確かにそれは愛だった。沈黙の中に浮かび上がる、秘やかな誰にも語られぬ愛の形だった。
【4章】
/1
秋の風が強く、禅堂の屋根瓦を鳴らしていた。
宗教学校の書院に設けられた電話室。僧侶見習いたちは週に一度の外部との通話に、重たさを噛み締めるように耳を傾ける。
頼道は電話室をあまり使わない。だがその日は、受話器を取った。袈裟の裾を丁寧に正し、名を名乗って懐かしい声を聞く。
「ああ、頼道くん? 仏田寺の庶務の者です。元気にしているかね?」
声に覚えはあった。幼い頃から仏田寺の帳面を支えていた男だった。何故彼からという違和感が胸を掠めた。
「ええ、日々修行に励んでおります」
答えた瞬間、電話口の声が僅かに間を置いた。
「今日はお知らせがありましてな。光緑様が来月、正式にご結婚されます。相手は鶴瀬家のご息女、邑子様。名家とのご縁組ということで……」
その先の言葉は耳に届いていたのに、意味を成さなかった。
受話器の奥で、祝辞や段取り、婚礼の儀に関する話が続いていた。まるでよく整った法話のようだった。だが頼道の中には、一つの音も響いてこなかった。
光緑が、政略結婚をする。
もちろん、いつかはそうなるだろうと思っていた。仏田家の後継。家を継ぐ者として、血と名前の安定を求められるのは当然だった。
でも、今なのか。なぜ自分ががまだこの地で修行に縛られている時なのか。
口づけを交わして抱きしめたあの夜が、遠い過去の幻のように遠ざかっていく。
「……分かりました。ご結婚、おめでとうございます。お伝えください」
言葉だけは、穏やかに出た。
受話器の中に返ってくる声はどこかぎこちなく、妙に早口になってしまう。
カチ、と受話器を戻す音が、書院の静けさに異様なほど響いた。
光緑の環境は変わっていく。楽しかった3年はあっという間だったのに、7年はあまりにも長すぎた。
弟たちの兄貴としての役目も、光緑の味方としての位置も、全てあの夜から徐々に削がれていき、完全に消えかけていた。
宗教学校の朝は、毎日同じ鐘の音で始まった。
夜明け前の冷たい空気を割るように響くその音に、頼道は律儀に起き、袈裟を整え、托鉢や写経、講義に身を投じる日々を過ごしていた。
清貧と修行。人に仕え、人を導く者になるべく、真面目に、愚直なまでに学び続けた7年。修行としては短く、彼と会えない日々を想うと長かった。
実家に帰るまでに、いくつかの知らせが届いた。
仏田家の次期当主・光緑が正式に婚姻したこと。相手は名門の令嬢で、そして翌年、まだ十九にもならぬうちに、男児をもうけたこと。
檀家から届いた手紙の文末に、小さく書き添えられていたのが最初だった。
「おめでたいことですね。仏田家は安泰です」
その一文は刃のように鋭く、冷たかった。
それでも頼道は、祝意を口にした。書簡で返事を書き、声に出して祝辞を唱えた。僧侶とはそういうものだと自らに言い聞かせた。
年末年始が来ても、寺の門をくぐることはなかった。
夏の休暇が訪れても、仏田寺の敷居は彼に開かれなかった。
帰ってこいとも言われなければ、帰ってくるなとも言われなかった。
ただ「仏田寺には戻らなくてよい」という一言だけが、修行の始めの年に届き、以来、誰からも更新されることのない命令のように効力を持ち続けていた。
言葉の奥にあるものは明白だった。あそこには、お前の居場所はない。そう言われているのだと、頼道は気づいていた。
教室の片隅、写経に向かう静かな午後。一節に筆を止めた頼道は、ふと目を伏せ、胸の奥に残るあの感触を思い出していた。
光緑からの便りはなく、あの日、自室で交わした口づけ以降――彼の名前を、直接言えずにいる。
藤春や柳翠の様子も、誰も触れなかった。あの子たちがどう成長しているのか、自分の代わりに誰が傍にいるのか、何も分からなかった。
心のどこかで願っていた。彼らがどうか無事で笑っていてくれるように。
いつか再び自分が仏田寺に帰れる日が来るなら、その時は迷わず守ると。
だがそのいつかは手に届くことなく、遠ざかるばかりだった。
山門の石段を昇る風は、あの頃よりも少し冷たく感じられた。
かつて無邪気に駆け上がった道を頼道は今、僧衣の裾を払って静かに踏みしめている。
仏田寺。かつての家であり、祈りの場であった実家に、7年ぶりに戻ってきた。
檀家衆や古参の僧たちが迎えに現れ、口々に労いの言葉を掛けてくれる。頼道は一人一人に丁寧に頭を下げ、僧侶らしい清潔な笑顔で応えた。
境内の奥。仏間の前。そこに父である依貞が居た。
「ご苦労だったな。立派に修めてきたようだ」
灰混じりの髭を撫でながら言う父の顔には、どこか誇らしげな影があった。頼道は深く礼をする。
「はい。多くを学ばせていただきました。ありがとうございます」
私語は無かった。形式だけの言葉のやり取り以外はいらない。
そして、父の背後にもう一人の男の姿が現れた。
――光緑。仏田家 第六十二代目当主。
齢僅か二十二にして、三児の父となった男。
墨染めの装束に身を包み、姿勢は変わらず端正で、動作一つにも無駄が無い。顔つきは引き締まり、頬の肉は落ち、眼差しは誰よりも強く。どこにも――かつての光緑は見当たらなかった。
彼は一歩進み出て、静かに言った。
「頼道。よく戻ってきてくれた。仏田として心より歓迎する」
「こちらこそ……お変わりないようで、何よりです」
頼道は微笑んだ。心の奥の何かが、そっと沈んだ。
周りには僧たち、親族、檀家の者たち、若い修行僧たちが目を光らせている。再会の言葉も視線の温もりも、全てが仮面の内側に押し込まれていく。
沈黙。二人の間にあった時間の全ては、今やなかったこととして厳かに封じられていた。
「では、案内を」
光緑が軽く手を振ると、数人の若い僧が現れ、頼道の荷物を預かり、部屋へ案内しようとした。
この寺に自分の帰る場所があるのか。まだそれは分からない。けれど一つ確かなことがあった。「ただいま」と言うには、遅すぎたのだ。
修行部屋から続く回廊を一人歩いていた。
数日前に戻ったばかりの仏田寺。かつての静けさは今やどこか仮初めに感じられ、見知った筈の風景もよそよそしく遠ざかって見えた。
前方の石畳の道に、真っ直ぐに歩いてくる二つの人影が現れる。
一人は、浅緋色の作務衣を凛と着こなした少年。痩せすぎもせず逞しすぎもせず、どこか整いすぎた均整があった。
もう一人は、そのすぐ背後を小さな歩幅で追うようにして歩く少年。兄と弟らしき二人は立ち止まり、深く礼を取った。
「ご無沙汰しております、頼道兄さん」
声に、頼道の胸が強く締めつけられた。
「……藤春……」
信じられぬように名を呼んだ。
面影はあった。けれど、まるで古びた写真に映る一瞬の記憶のようだった。目の前に立つ藤春は、もう無垢ではなかった。
肩は頼道の胸元に届くほどに伸び、顔立ちはすっきりと整い、大人びていた。佇まいにはかつて光緑が持っていた影すら宿している。
「お帰りなさい」
藤春は、穏やかに微笑んだ。だがすぐに頼道は気づく。完全に礼儀として整えられた微笑であることに。
はしゃぐでも拗ねるでもない。かつてのあの子の声色が、そこには一片も残っていなかった。
「……大きくなったな」
それが、ようやく絞り出せた言葉だった。
藤春はやや首を傾げ、軽やかに答える。
「はい。兄さんのこと、ずっと覚えてました。俺の憧れだったんです。あのとき守ってくれたことも、全部」
優しい声だった。けれどその中にあった「守ってくれた」の過去形が、心に鈍く突き刺さる。
頼道はふと目を落とした。藤春の袖口、その下。布の陰に隠された肌に、幾重にも重なる小さな傷痕。術式によるものか。訓練の焼印か。あるいはもっと別のもの。
(まだ、終わっていない)
胸の奥に、怒りとも悔いともつかぬ黒いものがじくじくと滲んだ。
「……無理すんなよ、藤春」
その言葉に、少年の瞬きが一瞬止まった。
だがすぐに藤春は目を伏せ、作られた笑みを再び口元に浮かべた。
「無理しなきゃ、やっていられませんよ」
頼道は、何も返せなかった。
背後に立っていたのは、まだ幼さの残る少年、柳翠。淡い茶の作務衣を纏った10歳ほどの子どもだ。
「柳翠……俺のこと、覚えてるか?」
問いかけに、少年は俯いたまま小さく頷いた。
頼道は膝を折り、視線を合わせようとした。だがその瞬間、小さな肩がびくりと跳ね、一つ後ずさった。目は頼道の体の大きさを、まるで何か過去の痛みと重ねるように見ている。それは、ただの人見知りではない。
(人に、怯えてる)
明らかに大人に傷つけられた子どもだけが持つ、反射的な恐怖の眼差しだった。
藤春は、そっと弟の手を取った。その作り笑いは、どこか凍るような柔らかさだった。
「失礼します。お役目がありますので」
二人は静かに踵を返して去っていく。
光緑が父となり、家が整えられ、仏田寺が表向きに栄えている今もなお、おそらく機関への移送は終わっていない。小さな命を踏み石にして、なお続いている。
頼道はゆっくりと立ち上がり、自分の掌を見つめた。
かつてあの子たちを抱きしめた手。微熱のある額を撫でた指。ふいに後ろから飛びつかれた、小さな重み。それらの全てが今は遠い幻のようだ。
記憶の中でしか存在できない日々が、指の隙間から静かに零れてゆく。まるで、一度も本当に手にしたことのない幸福だったかのように。
仏田家の応接間には、静けさが張りつめていた。
真新しい襖には、春草が淡く描かれ、硝子越しに見える庭の刈り込みは隙なく整っている。
季節は芽吹きの兆しを見せながらも、この部屋だけは時間が一つ止まったような、澄んだ静寂を湛えていた。
やがて女性が現れた。白練の着物に薄紅の帯を締め、黒髪は清楚に結い上げられている。所作は慎ましく、足音一つすら研ぎ澄まされていた。
光緑の妻――旧姓、鶴瀬 邑子。
気取りも冷たさもなかった。柔らかな笑顔と澄んだ声で人と向き合うことのできる、稀有な女性だった。
「頼道様ですね。夫より、いつもお名前を伺っております」
邑子は静かに膝を折り、礼を取った。
深すぎず浅すぎず、完璧な所作だった。
「私のような者が仏田家に嫁ぎまして、至らぬ点も多いかと存じますが、これからもどうかよろしくお願い致します」
言葉の選びも、声の抑揚も、破綻がなかった。
礼儀作法はもちろんのこと、感情の温度までが緻密に保たれている、そんな印象を受けた。
「いえ、こちらこそ。……立派な方にお越しいただいて、本当に、安心しました。光緑のこと、どうぞよろしく……お願い致します」
頼道は、自分の口から出た言葉が嘘ではないことに気づいていた。
同時に胸の奥に沈んでいた感情の影にも、気づいてしまっていた。
――初めて彼女を見たとき、自分は何を思った?
欠点はないか。笑顔は作りものではないか。光緑に本当に相応しい人間なのか。この人は、本当に彼の隣にいてよい人間なのか。
違う。
本当はただ、自分より劣っていてほしかった。親友を、恋を、家族を奪われたような、喪失と焦燥。あの夜のぬくもりの記憶が、自分一人のものではなくなっていくという醜い嫉妬。それを、認めたくなかった。
心のざわめきをよそに、邑子は穏やかに言葉を重ねる。
「夫は……不器用な人です。父の背を追って、生き急いでいるところもございます。ですが、傍に頼道様のような方がいてくださると聞き、私も心から安堵しております」
完璧だった。あまりに、完璧だった。
頼道は、ゆっくりと姿勢を正した。
「……ありがとうございます。光緑は、誇れる男です。貴女のような方と共におられるなら……本当に、安心できます」
紛れもなく本心だった。
邑子は微笑む。笑みには年齢を超えた気品と、穏やかな聡明さが滲んでいる。
頼道は膝の上で両手をそっと握りしめる。こんなにも真っ直ぐな女性を前にして嫉妬し、値踏みしようとしていた自分が恥ずかしい。
光緑が人生を共に歩むのは、きっとこの人なのだ。そのことを、ようやく――痛みとともに、受け入れようとしていた。
奥の間から赤ん坊の泣き声が届いた。
邑子は一礼し、すっと立ち上がって襖の向こうへと姿を消す。頼道も許しを得て、後を追った。
白梅の香がほのかに漂う室内。そこには、小さな命を抱く母の姿があった。
まだ首も据わらぬほどの赤子。邑子は額に静かに唇を触れさせ、慎重に肌着の襟を整えていた。全てがあまりに静謐で、あまりに美しかった。
「生まれたばかりのお子さんですか。お名前は?」
「新座と申します。三男でございます」
邑子の言葉はどこまでもやわらかく、赤子を見つめる目には完成された慈愛があった。
赤ん坊の眉のかたち、薄い唇、ぎゅっと握った拳。それらが、確かに光緑に似ていた。
(光緑の……子どもだ)
当たり前の事実が、胸の奥を鈍く締めつけた。
邑子は、そっと赤子を揺らしながら言った。
「夫は、三人目になっても……最初のときと同じように緊張していて。抱き方も、まだぎこちなくて。ふふ、可愛らしいですよ」
その様子が、頼道の脳裏に浮かんだ。
家事の合間に幼い弟を抱き上げていた少年の姿。それが、いま父親としてぎこちなく赤子を抱く光景へと重なる。
「いつも忙しい中で、子供との時間を少しでも取ろうとしてくださいます。……とても、優しい人です」
多分、そうなのだ。彼は、悲しませたくないのだ。子供を。妻を。誰一人として。それは光緑が選んだ生き方なのだと、頼道にも分かった。
「……光緑には、貴女のような方がいてくださって、本当に……ありがたい」
祈りに近い言葉だった。邑子は何も言わず微笑んだ。
視線は赤子の頬に注がれたまま、表情には完成された優しさ。完璧だった。夫を支え、子を慈しみ、家を護る妻として、これ以上を望む余地などない。
「……お子さまに、仏のご加護がありますよう」
「ありがとうございます」
眩くて、羨ましくて、そして悔しかった。
頼道は胸の奥に渦巻く全てを、静かに押し殺した。
/2
「……胡蝶さん、ですか?」
頼道の問いに応じたのは、寺の書記を務める年配の僧だった。
ちょうど回廊の影で箒を持ち、黙々と掃き清めていた男は動作を止め、特に驚くでもなく首を傾けた。
「ああ……あの女の先生か。もう何年も前にいなくなったよ。光緑様が正式に当主になられた頃だったかな。ふっと、煙のように姿を消した」
「それは……ご自分の意思で?」
「さあな。詳しいことは聞いとらん。上の方で何か決まったんじゃろ。……ただ、誰も止めなかったのは確かだな。光緑様が筆頭になってから寺の空気が少し変わったのは、わしでも分かった」
それだけ言うと、僧はまた何事もなかったかのように箒を動かし始めた。
足元に集められていた小さな落葉が、風に攫われて音もなく散っていく。
――いなくなった。あの女はもう、この場所にはいない。
柳翠を躾けと称して泣かせ、藤春を売ろうとしていた張本人は、光緑が自らの意志で切り捨てたられたのだ。頼道の胸に、僅かな安堵を灯した。
その火はすぐに掻き消される。
では、なぜ藤春はあんなに無理をして笑う? 柳翠は大人の手が近づいただけで怯える? なぜあの小さな弟たちは、かつての村で見せていた笑顔を今も見せられない?
答えは瞬時に浮かんだ。いや、ずっと知っていた。
胡蝶だけが悪ではなかった。
彼女は確かに外部から来た執行者だった。だがそれは仏田家という家が孕む、教育の名を借りた暴力の代弁者に過ぎない。
力を選び、血統を重んじ、幼子さえも儀式のために鍛える。この寺には、人を人として扱わない思想が根づいていた。
胡蝶はその形式に則っただけだった。あの女は異物ではなかった。たとえ彼女が去ったとしても、胡蝶と同じ意志がこの家に、柱に、空気にまで染みついている。一人を切り捨てれば終わるような単純な話ではなかった。
彼女が行なったことは間違いとして葬られない。むしろ教義として静かに保存され、語られることなく、正しさとして機能し続ける。
声なき支配者たち――名もなき僧、帳面の裏にいる老人、どこにも姿を見せぬ長たち。伝統の名を借りた暴力が仏田家を内側からゆっくりと食み続けている。
それがこの家の空気だ。まだ終わっていない。むしろ、今も息づいていた。
7年ぶりの仏田寺は、あまりにも整いすぎていた。
庭の石の一つ、植え込みの枝の剪定までが、まるで命令書の通りに配置されたかのように整然としている。
本堂奥の間――当主の席。その場に足を踏み入れた頼道は、一歩ごとに過去と現在の断絶を感じていた。
高座の正面、仏田家の象徴たる漆黒の唐座敷に、光緑がいた。
仏田 光緑。20も半ばになった年若い当主。少年の面影は、どこにもない。
黒衣の裾は乱れなく、帯の結びは水面のごとく静かで、背筋は直線のように伸びていた。
彫りが深くなった容貌には冷ややかな美が宿っていたが、眼差しには生気が無い。
目は開いていたが、どこも見ていない。それはもはや、かつての光緑ではなく、人形に似ていた。感情という綻びを欠いた、美しい人形だった。
「ご当主様」
頼道は一礼し、頭を下げる。
「お話ししたく、参上いたしました」
「許す。話せ」
応じた声は、冬の水のように冷たく乾いていた。かつて、弟たちに向けた優しい声音を持っていた者と、同じ人物とは思えない。
ほんの少しの間を置いて、頼道は切り出した。
「仏田家の伝統を侵害する機関の存在について、当主様は、いかがお考えでしょうか?」
その一言が、空気を変えた。無風に見えた室内に、微かに張り詰める音が走る。
光緑は瞬きもせず、少しだけ首を傾ける。視線は揺れない。まるでそこに情緒という機能が存在しないかのように。
「彼らは我ら仏田家を、多く救ってくれた」
頼道は言葉に奥歯を噛み締める。
「救った?」
「そうだ。彼らがいたからこそ我々は試練を超えられた。仏田家は崩壊寸前だった。だが父の代で得られた彼らの技術と制度、支援と保護が、我らの血脈を未来へ繋ぐ道を示してくれた」
言葉は流麗で、論理的だった。
それは心の無い機械が読み上げる教義のようだった。
「……その代償に、どれだけの命が?」
頼道が問うと、光緑は肩を僅かに揺らした。
「痛みはついてくるものだ。伝統とは誰かの犠牲の上に成り立つ。今の我らの繁栄はかつての我らが夢見た未来だ」
「藤春や柳翠も、夢のための礎ですか?」
光緑の目が、ほんの僅かに細められた。
それは怒りではなかった。痛みでもなかった。余計な感情を排しようとする理性の光だった。
「彼らは仏田家の子だ。家のために生き、家のために使われる。それがこの家の原則であり、矜持だ」
「……昔のお前なら、弟たちを守ったはずだ。……機関を追い出すって話は、どこにいったんだよ……」
頼道が低く言うと、光緑はようやく、彼に視線を真っ直ぐ向けた。
黒い瞳は深く、何も映さない湖のようだ。
「『なんだそれは』? 今の私は、家を守るものである」
沈黙がひとしきり場を支配していた。畳を撫でる微かな風の音さえ、今は誰のものでもない時間を告げているようだった。
頼道はひと息だけ深く吸い込み、一歩、静かに言葉を前へ出した。そして声を置くように問いを発した。
「……和光様は。当主を退かれた後、いったい何をなさっているのですか?」
口調は穏やかだ。だが背後には、慎重に隠した激情が潜んでいる。
光緑はすぐには答えなかった。唐座の上で両の指を組み、ひと呼吸、目を伏せる。
「父上は……私を支えてくださっている」
声は、石のように淡々としていた。
「既に役目を終えた者として、相応しい休みを過ごしておられる。今は裏に立たず、私を見守り、労り……そして、父として躾けてくださっている」
労り、躾け。その言葉に滲む音の響きが、頼道の胸を締め上げた。
休み。それはおそらく、堕落を意味している。
だがそれ以上に恐ろしいのは――それを光緑が、当然のように受け入れていることだ。
(……お前はこの7年で、どれだけ心を殺されたんだ。どれだけ、あいつに心を犯されたんだ。どれだけの感情を、正義という名の下に殺して――あの男の言葉を、己の内に根付かせてしまったんだ)
胸の奥が、焼け爛れるようだった。
あの夜。頼道の背に縋り、弟たちの名を震える声で呼んだ少年。何も守れなかったと嗚咽の中で自らを責めた、あの光緑の姿――それは確かに、生きた心の響きだった。
だが今、目の前に座すのはその名を持ちながら、あの父が丁寧に作り上げた意志を奪われた人形に等しい。
「頼道」
呼ばれた名に、頼道の肩が僅かに動いた。
光緑の声音にはもはや柔らかさも怒りもない。凪いだ水面のように、真っ直ぐだった。
「お前には――表の仏田寺を任せる」
唐突に響いた言葉に、頼道は眉を微かに動かした。
そして、光緑は淡々と告げ続ける。視線を逸らすことなく。
「我ら魔術結社・仏田家は、機関とともに歩む。始祖様の崇高なる意志を追い、学び、高めていく。それが、私の道だ」
声音には、かつて確かに彼の中に宿っていた誇りの影があった。
だが頼道にはもう分かっていた。それは光緑自身の灯ではない。誇りは、外から与えられ、制度の中で選ばされた者の語るものに過ぎない。
「……そして」
光緑の声が、僅かに和らぐ。
「人々を正しく導く僧侶としての務め。寺を守り、子らに慈しみを授け、祈りを継ぐ役目は――お前に託したい」
優しさに似た口調だった。
表と裏――人を癒す顔と、裏で搾取する顔。それを切り離し、共存を当然と語るこの家の在り様こそが、既に末期の病だった。
けれど今の自分には、まだ抗う術も資格もない。それでも、答えねばならなかった。
「……御意」
芯のある声で放たれた。奥には、誰にも見えぬ決意が息づいている。
光緑はそれに何も返さなかった。まるで、それで全ての会話は済んだとでも言うように。
頼道は深く一礼し、音を立てぬように、唐座から離れた。
あの夜、泣いていた少年の名を、胸の中で何度も呼びながら。
/3
藤春の背はすらりと伸び、顔立ちも凛々しさを増していた。
微笑めば「光緑様の若い頃を思わせる」と賞賛し、けれど眼差しはまるで肉質を見定める商人のようだった。
光緑がある女を家から追い出しても、教師と称される者達が代わる代わる現れた。彼らの教えは適応力と忠誠心と耐性を試すためのものだった。
そして教育が終わると、真新しい研究所施設に連れて行かれ、手術台に乗せられる。
苦痛が伴った。あまりに苦しかった。もちろん拒絶した。あまりに苦しすぎたから、気を紛らわせるために、好きだった絵を描いた。空いたほんの僅かな時間に、兄がよく褒めてくれた風景画を、何の変哲もない山の絵を描いて、昔を思い出して自分を慰めた。
数時間後、スケッチブックの残骸があった。
破られた紙片はぐしゃぐしゃに握り潰され、所々に足跡がついていた。その全てに、鉛筆の線が刻まれていた。描いた風景は、滅茶苦茶にされていた。
絵なんて俗物のすることだ。そんなものに時間を割く余裕があるなら呪式の復唱をしろ。兄の顔に泥を塗るな、弟の邪魔をするな。多くの罵倒を浴びせられる。それをただ見ている男がいた。
兄だった。
彼は何も動かなかった。
昔とは違う。父となり、家長となり、裏の事業と研究所と名士たちとの会合に時間を吸い取られた光緑は、かつて兄として弟を庇っていた彼とは別人になっていた。
理解してしまった。ああ、もう自分は、捨てられたのだと。無数の失敗の烙印が押されている弟を救うほど、自分は暇じゃないんだと。誰も助けてくれないなら、自分が自分を助けてやるしかなかった。
「――藤春様が、寺におられないようです」
襖の向こうから響いた若い僧侶の声に、頼道は筆を止めた。
硯に滲む墨が、微かに波立つ。
胸の奥に小さな鈍い衝撃が落ちた。動揺を悟らせぬように頼道は静かに硯の蓋を閉じ、座を離れて立ち上がる。
「……どこを探しても見つからないのか?」
「はい。今朝の勤行にも姿を見せず、部屋には身支度を整えた痕跡だけが残されていました。……結界を破り、魔術を用いて外へ出たようです」
行き先も意図もまるで霧の中。藤春は誰にも何も告げぬまま、仏田寺から音もなく姿を消していた。
けれど瞬間、頼道の心を最初に満たしたのは――ほっとしたような、安堵だった。
(……ようやく、逃げ出したか)
その感情に、僧としての自分が顔を歪める。
見送るべき存在ではない。追うべき立場にあるのだ。だが、胸の内に生まれた仕方ないという安堵は、あまりにも静かで、否応なく本音だった。
近頃の藤春は、無能なりの使い道を見出される日々に囚われていた。
祝福されるべきはずの年齢が、この家では「家の役に立つ道具」へと定義される境目だった。
18歳で政略結婚を命じられ、当主となった光緑の背を、彼もまた追わされようとしていた。未成年でも何かしらの献上や、配置の企画が進められていても、おかしくはない。
そしてそれを知り、耐えかねて逃げ出したのだとしたら、それは藤春が正しく恐れた結果だった。
悔しかった。何度も訴えてきた。抗い続けてきた。それでも、何一つ変えられなかった。
優しく、病で、それでも笑おうとしていた少年が――最期に選んだのが、「誰にも告げず、ただ消えること」だった。それが何より、哀しかった。
報せは、あまりにも早く、あまりにも淡々と戻ってきた。
「……藤春様は確保され、先ほど寺の北門から戻られました」
数日も経たぬうちに、彼は連れ戻された。
魔術で足取りを隠し、潜伏していたようだが、仏田家が有する極道の捜索網と術式探知の前に、逃げ場などなかった。
頼道が外廊下から庭へ出たとき――ちょうど、藤春が引きずられるように連行されていく場面だった。
白い飛び石の上、泥にまみれた少年の姿。腕を後ろ手にねじ上げられ、髪は乱れ、顔には幾筋もの擦り傷。
それでも最も痛々しかったのは、藤春の目が、うつろだったことだ。
うつろな目をした光緑を思い出す。勉強会と称して自室に呼んで、弟たちだけの時間でなんとか消したあの目を思い出す。
家を捨てた罪は、重い。殺しはしないだろう。藤春は直系の次男であり、まだ使い道がある。だからこそ生きたまま与えられる罰は、死以上に深く、暗い。
仏田家の地下。誰にも見えないところで行われる、伝統的矯正という名の拷問が少年に下される。
「……待て!」
居ても立っても居られず、頼道は喉の奥から声を絞り出した。
静まり返る庭に、彼の声だけが強く残響した。
「待ってくれ! ……話を聞いてくれ!」
誰かが振り向いた。だが誰も足を止めなかった。
藤春の視線が一瞬だけ頼道の方に向いた気がした。感情の色は無い。あまりにその目が悲しくて、頼道は迷わず嘘をついた。
「全て、私が仕向けました」
藤春が結界を破って寺を脱したのは、頼道の教唆によるもの。そう頼道は語った。
まだ子供が年長者の甘言に唆された、ただの過ちだと。
藤春は何も言わなかった。俯いたまま唇を真一文字に結び、否定せず肯定もせず。黙して従うことで、自らを守ろうとしていた。
当主・仏田光緑のもとに報告が上げられた。
光緑はすぐには言葉を発さなかった。帳面を捲るような手つきで視線を頼道に向け、僅かに瞼を伏せて、「分かった」とだけ告げた。
それで全ての裁きが決まった。
藤春の罪は、軽減された。
数日に渡る肉体的拘束と、精神の矯正の名を借りた再教育が課された。指は詰められず、骨も折られずに済んだ。それでも14歳には十分すぎる罰だった。
一方で頼道に下されたのは、より重い審判だった。
表を預かる僧侶として裏の掟を破った背信。その罪は決して許されるものではない。
頼道の右手は、その儀式で歪んだ。目立つ外傷こそ残らなかったが、関節は噛み合わず、筋は裂け、うまく物が握れなくなってしまった。
(一度も人を殴らないまま、拳が使えなくなっちまうなんて。こんな不格好じゃ、もう護衛は名乗れねえな)
自嘲しながらも、生活には差し支えないことに安堵した。
治療を終えて自室に戻ると、まず第一に、父がなんとも言えない顔で迎えた。親不孝を続けていると、深く頭を下げる。
「お前は立派な後継者だ。『犬伏が守る封印の全て』を話を託す。心から精進するように」
騒ぎばかり起こす後継者で申し訳ない。だが、だからといって見て見ぬふりもできなかった。それが分からない両親でもない。ただただ、頭を下げるしかなかった。
寺にまつわる全ての話を終えた父は、机の上に小さな一枚の紙が置いて、去っていく。
藤春の筆跡だった。僅かな言葉。震えた筆先。乱れた墨の濃淡。「ありがとう」の文字が不器用に並んでいた。
頼道は何も返事を書かなかった。だが、その紙を火にくべることもしない。大事に取ってある昔の落書きと一緒に、そっとしまい込む。
今度こそ、弟分を守れた。遅すぎたかもしれない。でも、あのときとは違う。自分はあの夜に泣いた光緑の代わりに、確かに誰かの盾になれた。
頼道は灯明の淡い光の下で、少しだけ自分を褒めることにした。それが唯一許された慰めだった。
/4
「――貴方の兄上は、仏田を捨てました」
その言葉が柳翠の耳に届いたのは、朝の鍛練の最中だった。
背を打たれ、腕を引き上げられ、地に転がされる寸前。鈍く痺れる痛みの合間に、その声だけが異様に澄んで響いた。
「藤春様は己の未熟を恥じ、逃げ出したのです。弟を残し、責任を放棄して。……お前を見捨てたのですよ、柳翠様」
柳翠は声を出さなかった。静かに、頬を地に押しつけながら目を閉じた。嘘だと、頭の奥でだけ思った。
自分が泣いたときに藤春が手を握ってくれた。鍛練の終わり、黙って果物を分けてくれた。悪夢で目が覚めた夜、黙って肩を貸してくれた。あのぬくもりが、嘘だった筈がない。
「兄上は己の役割を放棄したのです。外の世界に逃げ、仏田家という名の重みに耐える勇気を失った」
記憶と現実が、音を立ててぶつかり合った。
柳翠の周囲にいた大人たちは、一様に沈黙を守っていた。誰一人、兄を庇おうとはしなかった。
「今後は、お前が務めを引き継ぐことになります」
それを境に、柳翠に対する鍛練の質はあからさまに変わった。
兄の代わりに、式の詠唱では一音の揺らぎも許されなかった。兄の代わりに、呪紋の筆写は夜を越えて続けられた。兄の代わりに、棒で背を叩かれた。兄の代わりに、冷水を浴びせられ、「それでも兄よりはマシだ」と笑われた。
「お前は、失敗作の穴を埋めるために生まれたのだ」
その言葉は、いつか柳翠の耳を素通りするようになった。
藤春は庇いに来なかった。光緑も抱きしめに来なかった。兄たちはいなくなったのだ――そう考えれば、何を言われても、心を動かさずに済んだ。
笑わなくなった。眠っても、目覚めても、寒さと痛みしか感じなかった。「尊敬していた兄に裏切られた」という記憶を、何度も繰り返し植え付けられた。期待と責務という名の重りを背負わされ、誰にも頼らず、誰にも縋らずに生きるよう訓練された。
心が割れる音は、誰にも聞こえなかった。
けれど、柳翠の中では――静かに確かに、ひびが入っていた。
木造の天井に、灯りのゆらぎが揺れていた。
机の上には一枚の設計図も、命令書もない。茶を啜る音と、咳払いと、うわべだけの笑い声が、小さく交錯していた。
それぞれの口元は笑っていたが、眼だけが笑っていなかった。仏田家の研究機関に名を連ねる、名もなき管理者たち。手に血をつけることなく、誰よりも多くを壊してきた者たち。
「……柳翠様は、扱いにくい」
一人が誰にともなく口にする。それは判断ではなく、既成の真実のように部屋に沈殿していた。
「癇癪を起こすと、誰の声も届かない。自分を傷つけ、周囲を焼く。先月など、実験棟が丸ごと煤けて、書類が十数年分吹き飛んだ」
「困ったものだ」
もう一人が言う。声に感情はなかった。
「暴れると手がつけられん。あれは火だよ。火そのものだ」
「だが、火は使い道がある」
別の一人が呟くように言った。
「惜しいのは、制御できないということだ。使えぬ火は害でしかない。ならば、使えるようにすればよい」
「使う、とは?」
「橋渡しをすればいいのだ。あの方と現場の間に、緩衝材を挟む」
誰かが低く呟いた。それが冗談か否か、部屋の誰も判別しようとしなかった。
「そういう都合のいい強化人間を、作れないだろうか。柳翠様の精神と術式に適応し、命令を忠実に通訳し、暴走を抑えるような。礼儀正しく、従順で、時に盾になり、時に御する者。怒りを鎮め、力を方向付け、願うとおりに火を導く者」
沈黙があった。沈黙を、誰も忌避しなかった。それは、全員の同意の色だった。
「柳翠様の才は、あまりに優秀だ。暴れん坊のごく潰しにするには、もったいない。御す手段がなければ――造ればいい」
「支えの名の下に、枷を」
「保護の名の下に、操作を」
「忠誠の名の下に、服従を」
机に手を置いたまま、誰も目を合わせなかった。
そこにいた者たちは、全員が企図を共有していた。
計画は書かれない。記録もされない。けれど確かに今このとき、一つの悪意が生まれ落ちた。
命を救うふりをしながら、命を縛るもの。心に寄り添うふりをしながら、心を蝕むもの。やがてそれは柳翠という火に寄り添うためだけに設計された器となる。
名もなき悪意が、名もなき光を求めて。
/5
仏田寺の地下、灯りの届かぬ石の間。壁は呼吸をしない。床は温度を持たない。ここには時間という概念すらなかった。
何日目か、もう分からない。
手足を縛られた光緑は、天井のない暗闇を見つめながら、息を数えていた。
それすらたまに忘れるほどの鈍い痛みが、全身に染み込んでいた。
頼道が7年の旅に出て、たった2日目のことだった。
最初は、意味のある拷問が始まった。父の命令に逆らったという理由で。上層部への言葉に疑いが滲んだという理由で。感情を露呈させたという理由で、悪とされ、矯正として苦痛を与えられた。
3日を過ぎ、5日を越えたころには、理由など必要なくなった。たとえ正しく振る舞っても、顔が柔らかいと叱責された。目が揺れただけで、情が残っていると吊るされた。
頼道の顔が浮かんだ。
温かな掌。いつか手渡された干し柿の甘さ。7年経てば、変わる。その言葉はきっと本当だ。けれど。
(1年すら、もたない)
この数日間、いったい何人に犯され、心を壊されかけたか。
頼道と別れを告げた翌々日に捕らえられ、毎日のように虐げられている。来る日も来る日も、心を壊すような日々。反抗的だからとただ毎日弄ばれる日々。
夜、何度も電話を掛けようとした。自室に戻されたふりをした隙を狙い、忍ばせてある番号を思い出して、たった数桁を回せば、修行の学び舎にいる彼と話せるはずだから。けれどその数字を押すだけの勇気が、光緑には無かった。
(僕が動けば……あの子たちが痛めつけられる)
既に藤春が実験棟に送られた。次は柳翠が教育という名のもとに、人格を切り刻まれる。
もしかしたら二人も自分と同じ目に遭うかもしれない。光緑は、頭を抱えた。涙を流した。頼道の前では一回しか流さなかった涙を、何度も、何度も。
毎日、心が一枚ずつ剥がれていくようだった。信じる力。疑う心。怒り。悲しみ。全てが強制の中で剥がされ、無感情という皮膚の下に押し込められていく。
(会いたい)
頼道に。
今まで、頼道がいたから我慢できた。彼がいないだけで、たった数日で心が挫けている。隣に居て守ってくれていた彼。傍にいないだけで、ずっと耐えてきた苦痛に、もう諦めてしまいそう。
(会いたい。触れてほしい。頼道。僕には、お前が必要なのに)
挫けそうになるたび、触れて、自分を守ってくれた彼に、会いたい。
7年待てと言ったが、7年の間に自分がが死ねば待つことすらできない。死ななくても、自分はもう、自分じゃなくなる。
(会いたい。会いたい。ずっと傍にいてほしい。僕の傍に。ずっと、いっしょに)
光緑は、石の床にこすれた肩の痛みを感じながら、僅かに唇を震わせた。
胸の奥で、声にならぬ祈りがあった。
暴力で言葉を削られ、恥辱で感情を研がれ、それでも生かされた。当主としての形を残すために。
光緑はうつ伏せに倒れ、汗と土と、よく分からない何かが肌を濡らしていた。度重なる陵辱で、手も足も、意志に従ってくれなかった。だからできることと言えば、心の奥で、たった一つの大事な名を呼ぶだけ。
そこへ、足音が落ちてきた。
石の上に踏み下ろされる革靴の音。それを聞いただけで、光緑の背中が僅かに震えた。現れたのは、父だった。
仏田 和光。仏田家の絶対者。何もかもを掌に乗せていた男。光緑を、藤春を、柳翠を。家そのものを。
彼は『まるで異端のように』堕落し、快楽を愛し、苦痛を人に求めて笑う。『人間ではなく悪魔そのもの』、誰もがそう思うだろう。
和光は何も言わず、石畳に横たわる息子を見下ろしていた。眼差しに、憐れみも怒りもない。あるのは、底なしの空洞。
光緑は息を止めた。今から、何をされるのか分からなかった。痛みなのか、辱めなのか、それとも。
だが、そのとき。和光が唐突に呟いた。
「……会いたい」
声は、光緑ではなく、誰か見えない相手に向けられていた。
「あの女と。いっしょに」
光緑は、戸惑いを覚えた。目の前の男は、明らかに自分を見ていなかった。
「違う……違うんだ……!」
和光の声が震える。
「オレは……あいつとは、終わった。あいつとは……もう縁を切った……」
言葉と同時に、和光の身体が僅かに傾ぐ。
顔を歪め、肩を抱き、何か見えないものと戦うように、震えていた。
「もう、あいつの傍にはいられない……。オレは……手を汚しすぎた……会えない。……会えないんだよ……!」
光緑は男の変貌を見つめていた。
声が泣いているようだった。だがそれは、人間の涙ではなかった。
「違う、それは……オレの声じゃない……」
和光は自らの頭を抱え、蹲った。
「うるさい、黙れ! もう……もう、オレの中で喋るな!! これはオレの体だぞ!? お前らのものじゃねえ!」
叫びながら、拳で自分の頭を何度も打ちつける。まるでそこに誰かがいるとでもいうように。
その姿は威厳でも恐怖でもなかった。ただ狂気だ。
恐ろしい父を前にしても、光緑は起き上がれなかった。ひと晩、いや、それ以上殴られ、犯され、言葉という刃で内側を切り裂かれ続けた身体は、もはや重力に反発する意志すら持っていなかった。
光緑の前に、和光が立つ。異様に長く伸びた影が、石畳を這う蛇のように迫る。
される。今日もきっと、また何かを奪われる。でも、今は違った。
「……会いたい。あの女と、いっしょに……」
和光の目は彼を見ていない。闇の中の誰かに、脳裏に巣食う何かに、喋りかけていた。
「あいつは……もうオレと会っちゃいけないんだよ……! 会いたい……! もう、あいつの傍にはいられない……! 違うっ!! それはオレの声じゃない!! うるさい!! 黙れ!! もう……オレの中で喋るなああああっ!!」
唇が泡立ち、声が次第に軋む。
和光は虚空から短い刃――儀式用の短刀を抜き放ち、自らの左腕をざくりと裂いた。
肉が割れ、血が噴いた。光緑は反射的に体を引こうとしたが、力は残っていない。
和光は血を滴らせた腕を振りかざし、狂ったように叫んだ。
「継承だ、光緑……! お前に、当主をやる! 空っぽになったお前の器なら、『こいつら』はきっと馴染む……! 全部受け取れッ!!」
噴き出す血の中から、切り裂かれた筋肉を指で掴む。彼はそれを千切った。赤黒く脈打つ肉を光緑の口へと押し込めた。
「これで……オレは、自由だ!!」
拒む力など、もう残っていない。
うつろな目で光緑は、父の肉を噛み、嚥下した。熱と血と皮脂が舌に絡まり、喉を焦がす。嗚咽も抵抗も、生理的な嫌悪すら、どこか遠くにあった。
会いたい。
耳ではない。胸の内でもない。脳の芯に、声が流れ込んできた。
無数の声。低く、熱く、叫びのように、嗚咽のように。
――会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい。
全身の毛穴から溶け出すように、声が体を侵す。指先が痺れ、視界が白濁する。食べたのは肉ではなかった。魂だった。彼の狂気ごと、和光という男の全てが流れ込んできた。
混乱の中で、ただ一つ、浮かび上がった。
頼道。
会いたい。あの夜、あの時、あの腕の温もり。何度も何度も、呼びかけたくなる名前。
心身ともに衰弱し、空っぽとなりつつあった心にある声がひたひたと満たされていく。光緑は、呟いた。
「……僕も、同じだよ……君達と……同じ……」
大好きな人に会いたい。
呟きは静かに、深く、自らの意志で狂気の海に身を沈める音だった。
石畳の上、血潮の生ぬるさが肌を焼くように広がっていく中、光緑はすっと立ち上がった。
足取りに揺らぎはない。崩れかけていた膝は、不思議なほど確かに地を捉えていた。白衣の裾を風が翻し、血で染まった前裾が静かに揺れる。
目に、もはや涙はなかった。怯えも痛みも叫びも、そこには無い。あるのは氷のように磨かれた、無表情な光。
呆然と廃人のように立ち尽くす和光を、光緑は見上げた。もはや父を父とも思わぬ眼差しで、まるで異物を見るように。
「……今代の当主は、よく出来た術師のようだ」
声は、間違いなく光緑の声だった。喉を通して響く音は同じでも、奥に宿るものが違っている。
「父上。お勤めご苦労様でした」
淡々と告げる声音に、情は一欠片も無い。氷に銀を埋めたような声。
「本日をもって、私が仏田家の当主を継承いたします。魂は、既にこの身に受け取りました。貴方が俗世で生かしていた智慧も、肉も、血も……全て、私の中で処理され、再構成されました」
和光は何かを言おうとしたが、声にはならなかった。口元からは涎が垂れ、眼球だけが微かに震えていた。人であることを捨てた者が、人であったものを見るときの目をしている。
「どうぞ安らかにお休みください。貴方が用意してくれた機関は、さらに発展させます。今まで通り仏田家は守ります。いや、成長させます。我々は、ついに千年を迎えます。始祖様の遺した意志を遂げ、世界を見届ける者となる」
空に、微かな鳥の影が過る。
光緑は顔を上げなかった。彼の眼差しは地に、あるいは内なる闇に根を下ろしていた。
「……私が、全ての当主の意志を継ぎますとも」
そう語ったとき、光緑の顔には微かな笑みすら浮かんでいた。
だがそれは、感情のある人間が浮かべるものではなかった。
百の魂を飲み込んだ器が、自己の境界を失ったときにだけ刻む、恐るべき肯定の表情。
仏田家の中にあった光緑という個人は、完全に死んだ。
そこに立っていたのは仏田家の意志そのもの――血を継ぎ、肉を呑み、千年を歩くためだけの器だった。
呆然とする和光を置いて、光緑……と呼ばれていた存在が、地下を歩きながらうっすらと微笑む。
顔には過去の面影が微かに宿っていたが、それはもはや誰かを想うための器ではなかった。
彼は、ぽつりと呟く。
「しかし、この器……優秀ではあるが、もって十何年というところ」
声は穏やかだった。柔らかく、心を撫でるような響きを持っていた。
言葉が孕む意味は、あまりにも冷たい。
「せっかく千年まで、あともう少しというのに……惜しいね」
細い指が、美しい輪郭をなぞる。
手の動きはまるで、鏡の中の自分を愛おしげに撫でる少女のよう。
「なら、早く後継者を作ろう。優秀ではあるから、きっと良い子を継げるはず」
眼差しが空のどこか、誰にも届かぬ場所を見つめる。
まるで既に未来を、いや、次の器を見据えているかのように。
「とっとと子作りさせて、次にいかせるか。それがいい。……ふふ、効率的」
眼差しがほんの僅か潤む。けれどそれは感情の残滓ではない。湿度を帯びた声は、異様なまでに艶やかで、どこか、甘やかな色香すら孕んでいた。
「外堀は……有栖がうまく作ってくれるかな? あの女なら、やってくれる。信じてるよ。昔から、お利口だったしなあ」
今回も近くでよくやってくれたしね、と愛おしげに娘の名前を呟く。
緩やかに唇が綻び、吐息に乗せるように囁いた。
「……早く会いたい」
声の先に、誰もいない。
誰にも向けられていないのに、そこには確かに誰かを待つ熱があった。
「早く会いたいな」
涙を零し、名を叫んだ光緑はもういない。今ここにいるのは、無数の声を抱き、欲望と宿命を昇華しきった一つの器。
笑みは、悪魔のように残酷で――少女のように純粋無垢だった。
/6
仏田家のある山間の地に、ガラス張りの最新鋭の複合研究施設がそびえたつのも、普通の景色になってきた。
超人類能力開発研究所機関。表向きは新薬・新素材・生体医療の研究開発拠点。内実は、異能技術と魔術理論の融合を掲げた超科学研究機関。
上門所長の手腕もあり国際特区の指定を受け、政府の肝入りで動き、外国企業とも資本提携し、名は既に世界に知られていった。
光緑は、その顔となった。
裏家業を担う叔父や、企業運営の辣腕を振るう後継たち、政財界との太いパイプ。誰もが成功を讃え、彼の目覚ましい手腕に頭を垂れた。
頼道も、また忙しくなっていた。
寺の僧として法務を行いながら、実質的には研究所と寺の緩衝帯――仏田家の良心としての顔を務め、訪れる賓客の接待や儀式の司宰、境内の整備と管理、地元との折衝。やるべきことは山のようにあった。
頼道の立場は「表の顔」として、地元住民や外部信仰関係者との交渉を円滑に進めるための要。仏田家という魔術結社の正統性を担保する公的象徴でもあった。
気がつけば、日々は濁流のように過ぎていた。
藤春は静かな青年になっていた。感情の起伏を見せず、決められた仕事を黙々とこなす。
自らの意思を語ることは少ないが、問題を起こすこともなく、「次男としては上出来」と周囲に評価されていた。
柳翠も成人し、整った顔立ちの男へと育っていた。
才能は、一族でも指折りのものだった。仏田一族が継いできた『ある秘術』を受け継いだ彼は、数々の偉業をこなしている。応用実験棟の副主任という地位に就いていた。
光緑の子どもたちは順調に成長していた。長男は体の弱さで周囲を騒がしたが幼くしていくつもの魔術を使役し、次男は全ての学業で主席で卒業、末の子も無類の才能を見せつけているという。整然と、計画的に、何もかもが仕組まれていた。
頼道もまた、結婚していた。
仏田家の勧めによる縁談――地元名家の娘とのお見合いだった。
柔和で聡明な人だった。心の不器用さを口にしても、否定せずに嫁ぐことができる女性だった。すぐに男児が生まれ、寺の縁側を小さく走り回るほどに育っていった。
静かで、穏やかな日々。多忙ではあったが、恵まれていた。誰もが誇らしいと言ってくれた。
けれど。一人で本堂を掃除しているとき、頼道の胸にふと過る。あの頃――土の匂いと冷たい風の中で、叫ぶこともできず、震えていた二人の少年のことを。
繁栄とは、何を犠牲にして成り立っていたのか。
人は、記憶と共に成長するのではなく、記憶を失って成熟していくのではないか。
そんな考えが、ふと胸の奥でくすぶる。
けれど、忙しさは全てを押し流す。
頼道は、黙ってまた一歩、掃き進める。朝が来れば、また別の来客がやってくるのだ。
鐘の音が谷に響くと、白衣をまとった僧たちが一斉に動き出す。
縁側の拭き掃除、香の準備、来客への応対、境内の管理――全てを統括するのが、今や住職となった犬伏頼道であった。
頼道と光緑は、公式な席でたびたび顔を合わせる。研究所の記念式典、寺での供養儀式、名士との折衝の場。必要な連携は、必要な分だけ機能していた。
互いに視線を交わす。微笑みを浮かべる。形式的な挨拶を交わし、業務に戻る。過去に交わした秘密や感情は、もはや語られることはなかった。
頼道は仏田寺を守る。光緑は一族を束ね、世界と繋ぐ。藤春は結社を外と結び、柳翠は未来の技術を作る。
何もかもが機能していた。傷ついた歯車であっても、仕組まれた通りに、正確に回り続けていた。
仏田家という組織は、静かに、絶え間なく繁栄していた。
繁栄の下に、かつて交わされた祈りや涙がひっそりと埋もれていることを――誰も、口にはしなかった。
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