■ さわれぬ神 憂う世界 「犬伏頼道の奉心裂身」 ・ 1ページ目
【1章】
/1
霜が音を立てて降るかのような静寂の中、茅葺きの屋根から白い煙が真っ直ぐ天へと立ち昇っていた。霜月村にはまだ雪の便りは届かずとも山気は冷たく、吐く息は白い靄となって宙に溶ける。
朝に頼道(よりみち)は庭先で薪を割っていた。年寄りには骨の折れる斧も、彼にとっては小刀のようなものだった。まだ15にも満たないが、肩幅は広く、背は高い。厚手の半纏の下に隠れきらぬ逞しい体つきは、村の子どもたちから「熊の兄さん」と親しまれ、頼りにされていた。
「頼道、釜の湯を見ておくれ。煙が出てないよ」
台所を任されたおばばのひとりが声を掛けると、「はいよ」と快く返事をし、頼道は斧を下ろす。彼が声を発するだけで安心が生まれた。年寄りたちは無言でうなずき合い、それぞれの手へと作業が戻っていく。
仏田寺の住職の息子である頼道は、今この村に預けられていた。由緒ある寺は千年の歴史に軋みを覚え、大改築の最中にあった。戻る場所はあっても、今は誰も住めない。だが事情を一切気にかける素振りもなく、いつも明るく、よく働いた。親の不在を嘆くこともない。代わりに村には、子どもたちと、彼らを見守る穏やかな手があった。頼道は日々の中に、確かに根を張っていた。
その頼道の隣には、いつも一人の少年がいた。光緑(みつのり)という、美しい名の少年である。
透き通るような肌に、指先まで品の宿る佇まい。まだ幼さを残す顔立ちには、柔らかな知性が差していた。頼道とは対照的なようでいて、不思議と傍にいるのが自然だった。光緑は誰にでも分け隔てなく優しく、村の誰もが彼を好いた。
「頼道。薪、ありがとう。次は、水汲みを手伝おうか?」
「いや、いい。光緑は豆を炊いてやってくれ。チビどもが腹を空かせてる」
「うん。じゃあ、井戸のところで待ってるね」
そんな二人のやりとりが、村の朝には欠かせぬものとして定着していた。誰に言われるでもなく、彼らは自分の役割を知っていた。雪が降り出す前に、貯えを増やさねばならない。けれど村には笑い声が絶えない。親の姿はなくとも、子どもたちは風の中をしっかりと生きていた。
光緑は、何をさせても見事にこなした。言葉遣いはいつも丁寧で、子どもの前では決して声を荒げない。火の扱いに長け、炊いた豆は一粒も焦がさず、粥の柔らかさも幼子の口にちょうど良かった。寒い朝でも、下の子どもたちの衣を繕う姿を、頼道は何度か目にしていた。
自分が薪を割り、水を運び、重いものを担いでいるあいだに、光緑は小さな世界を整えていく。まるで巣を編む鳥のように、丁寧に、静かに。
村の子どもたちはみな光緑を慕っていた。女たちは彼の周りでよく笑っていた。寒い朝でも「光緑さんに見られるから」と髪を結い、泥のつかない服を選んで来たりと、微笑ましいほど浮き足立っていた。
「頼道兄ぃ、俺、山堀りに行きたいんだけど、いい?」
元気な声で跳ねてくるのは、光緑の弟・藤春だった。7歳にしては小柄ながら、どこにいても存在感があり、目が合えば笑い、背中に飛びついてくるような子犬のような少年だ。
「冬の山は冷えるし、陽もすぐ落ちるぞ。迷子になるからやめとけ」
「ならないーっ! もう一人で行けるって!」
「迷子になって泣いたことあっただろ」
「泣いてない! 泣いたことなんてない!」
べろりと舌を出した藤春の頭を、頼道は笑ってくしゃくしゃに撫でた。少し先では、光緑が末の弟・柳翠を抱き上げていた。まだ3歳。兄の首にしがみつき、眠たげな目で瞬きをしている。
「柳翠。もうちょっとで豆が煮えるよ。温かいの食べたら、お昼寝しようか」
「……うん……にいに、食べる……」
「ふふ、にいには食べられないよ。ちゃんと起きて、大きくなろうな」
小さな指が、兄の黒髪を摘まんで離さない。光緑は弟を胸に抱きながら、冬の陽のような優しさを湛えて微笑んでいた。
「頼道。藤春は外に行きたいんだよ。あとで裏山の薪置き場、教えてあげようか」
「おう。いよいよ藤春も俺の手伝いができるか。ついでに木の実でも拾ってきてもらおうかな」
「柳翠も連れて行ったらいい。僕たちだけじゃ泣いて大変だろうし」
「甘すぎるぞ」
「冒険は、みんなでするものだもの」
陽が傾くにつれ、霜月村の空気は一層冷え込んだ。冬の夜は暗くなるのが早く、子どもたちは早々に家の中へと押し込まれる。
囲炉裏を囲む夕餉の支度が進む中、鍋の中では芋と干し野菜が静かに煮えていた。湯気の向こうでは年寄りたちが和やかに話を交わし、傍らを光緑が茶を注いで回っていた。
「熱くないようにしました。どうぞ」
「おお、気が利くこと。ありがとよぅ、光緑様」
「様はやめてください。僕は、まだ子どもですから」
「いやいや、お前さんはただの子じゃない。仏の子だ」
誰かが口にすると、囲炉裏のあちこちで、しみじみと頷く気配が広がった。光緑は昔から、何をしても整っていた。所作、言葉遣い、仕草の一つ一つに育ちの良さが滲んでいた。
「頼道兄。光緑兄を連れて行っちゃだめー」
まだ6歳の少女だ。炭籠の側で頬を膨らませていた。
「なんでだ、用があるなら早く言えよ。光緑が動けねえだろ」
「となりにいてほしいの……だって……その……」
声が尻すぼみになり、顔が真っ赤になる。
「おっきくなったら、光緑兄のおよめさんになるの」
「ほう、それは大ごとだな」
頼道は唇の端を上げ、真顔で言った。
「でもその頃には、光緑はもうおじいさんかもな」
「ええっ、やだー!」
「なら、早く大きくなるしかないな。いっぱい食べろよ」
囲炉裏の火がぱちりと鳴った。芋が煮崩れ、湯気の中で笑い声が溶けてゆく。親はいない。けれどこの夜の温もりは、決して一人きりのものではなかった。
霜月村には語るべき由緒が無い。元々地図にも名を持たぬ谷あいの集落に、帰る町を失った疎開の子どもたちと、彼らを見守る老いた人々が、いつしか肩を寄せ合い暮らすようになっただけだった。戦争で孤児となった者、伴侶を失った女たち、名もなき喪失の影が、静かに根を下ろしていた。
終戦から20年。国は高度経済成長の真っ只中にあり、「もう戦後ではない」と誰もが口にするようになった。
テレビと洗濯機と冷蔵庫、三種の神器と呼ばれた文明の利器が都会では各家庭に行き渡り始めていた。だが繁栄の風はこの山あいの村には届かない。頼道が身を寄せる霜月村にあったのは唯一、冷蔵庫だけ。とはいえ、冬になれば外気の方が冷たく、食物は戸外に吊るす方が理に適っていた。
暮らしは質素を通り越し、貧しいと呼ぶほかなかった。けれど頼道は恥とは思っていなかった。修行だったからだ。
使えぬ事情を抱えた実家の寺から離れ、村に出され、「世話になった分だけ、誰かの役に立て」と言い渡された。生きることそのものが鍛錬であり、他者を支えることこそが自らを磨く道。そう教えられ、信じていた。
だから頼道は寒さに歯を鳴らさず、重い薪も黙々と割った。誰かの手が届かぬ場所に、真っ先にその背を差し出した。力とは誇示するためではなく寄り添うためにあるのだと、父である住職教えから学んでいた。
夜が更けるにつれて囲炉裏の火は次第に弱まり、村の家々も静けさに包まれていった。子どもたちは布団に潜りこみ、小さな寝息を立てている。
頼道は、囲炉裏に残る最後の薪をそっとくべると、音を立てぬよう立ち上がった。家の裏手の土間を抜けて外に出る。冷たい夜気が頬を撫でた。
月明かりに照らされた小川の畔に、ひとり腰かける光緑の姿があった。肩に羽織を掛け、膝には柳の枝で編んだ小さな籠。手元には干し草と、いくつかの木の実が星のように並んでいる。
「こんな夜にまで働くなんて、感心だな」
頼道が声をかけると、光緑はそっと顔を上げた。頬が月光に淡く照らされている。
「今日のうちに少し魔術の復習をと思って。でも……本当は、眠れなかっただけ」
彼の笑みに宿るのは、夜の静けさに似た淡い翳りだった。
頼道は無言で隣に腰を下ろす。石の冷たさが尻に染み、僅かに眉を顰める。ちらりと隣を見ると光緑の横顔が白く冴え、まるでこの世のものとは思えぬほど美しかった。月明かりが、彼の肌に密やかな輪郭を描いている。
「3年か……。こんな山奥にいるには勿体ない坊ちゃんだってのに、長居しすぎたな」
頼道がぼそりと言うと、光緑は目を伏せ、苦笑するように肩を揺らした。
「もう、そんなに経ったんだね」
「桜が咲けば4年目だ。仏田寺の本堂が直ったら戻れるって話だったが、一向に音沙汰もない。あの改築、いつになったら終わるんだか」
光緑は黙っていた。川のせせらぎが、二人の間をやさしく流れてゆく。
「頼道は、ここでの生活に……飽きたりしないの?」
不意の問いかけだった。頼道は少し目を細め、前方の暗がりに視線を投げた。
「飽きるもんか。むしろ、楽しいくらいだ。……お前の後ろに立つのが俺の役目だって、ずっと思ってる。どこへでも、ついていくさ。でもな」
言葉を止め、頼道は手のひらで石の縁を撫でた。
「俺は今が一番楽しい。正直、もっと続けばいいと思ってる」
頼道にとって当たり前のような言葉だった。教えられたものではなく、生まれつき刻まれたような使命感。それが、今は確かな喜びに変わっている。
この冬が来年も来たらいい。再来年もそう願いたくなるほどに。
光緑は、そっと笑った。掌にあった木の実を一つ、籠へと落とす。
「僕ももう少しだけ、ここにいたいと思っている。寺に戻ったら僕はきっと『ただの光緑』ではいられなくなる。父も皆も、相応しい姿を求めてくる。……もう、それが重たくて」
声は微かに震えていた。頼道は何も言わず、ただその肩に手を添えた。
大きな手である。山の土と薪の香りを含んだ、暑苦しい掌。光緑はその手の重みを拒まなかった。むしろ、そこにだけ在る救いのように、目を閉じて受け入れた。
「大丈夫だ。お前がどこに戻ろうが、誰になろうが、俺は支える。ずっとだ」
「頼道」
「仏田光緑が、負けるわけがないだろ。優しい兄貴で、何でもできるお前が。誰より働いて、豆一粒焦がさない男が、負けるもんか」
光緑が吹き出したように笑う。声を立てて、胸を震わせて。
笑い声は冬の夜をゆるやかに裂き、空の深みへ溶けていった。
やがて来る時間の重さ、背負わねばならぬ名、戻るべき場所の厳しさ。それらがひたひたと二人に迫っていることを、この時だけは、風の音が全て隠してくれていた。
村のあらゆる灯りは消えた。外の気配は遠のき、静まり返った土間を抜け、頼道と光緑は肩を並べて寝間へと戻った。二人だけの夜の静けさだった。
寝間といっても粗末な板張りに敷かれた布団が二つ。冬用の厚手の掛け布団が一組ずつ。けれどこの寒さの中、自然と肩は触れ合いそうなほど近づく。身を寄せねば冷気が染みる、そんな夜だった。
片方の布団に光緑が静かに身を沈める。所作は粗末な場でもどこか品があり、頼道の目には妙に美しく映った。
頼道も隣の布団に身を投じる。けれど心の奥は波立ったままだ。横たわっても胸の奥のざわめきは収まらず、心臓の鼓動だけが夜気にひっそりと響いているようだった。
この距離。吐息の交わるほどの近さに、光緑がいる。
ただの友ならば、どれほど楽だっただろう。
けれど、そうではない。頼道はもう知ってしまっていた。この少年が好きなのだと。恋と呼ぶには余りに重く、切実で、痛みを孕んだ感情だった。
光緑は、自分が守ると決めた存在だった。
千年続く仏田家の嫡子、いつか家を率いる者。表の仏の顔として人々を導き、裏では誰にも知られず世界の頂に立つ器。その傍に控えることが、自分に課された役目だった。そう育てられてきた。
同じ年齢のはずなのに、どこか届かない。
光緑が微笑めば自然と人々は集う。手を差し伸べられなくとも、誰かが彼を助ける。頼道が懸命に積み上げてきたものを、光緑は涼しい顔で越えていく。
この気持ちに気づいたあの日から、光緑の隣で眠るたびに、頼道は自らに言い聞かせてきた。
(守ると誓った。……自分のものにならなくても、それでいい)
ただ傍にいられれば、それでいい。そう思って、夜を幾度も越えてきた。
「頼道」
布団の中から、不意に柔らかな声がした。心臓がどくんと跳ねた。
「……さっきは、ありがとう。頼道がいると……不思議と、怖くなくなるんだ」
そっと頼道の胸に光緑の言葉が降りてくる。
嬉しいはずだった。けれどあまりに優しすぎて、かえって胸が締めつけられる。その言葉は毒のように沁みて、熱を帯びながら沈んでいった。
頼道は何も答えなかった。ごつごつとした指先を、布団の中でそっと握りしめる。光緑には見えないように。知られないように。
仏田家のために。護衛として。決して口にしてはならない感情を、奥底に押し込める。
眠ったふりをして、そっと瞼を閉じる。けれど光緑の声はまだ胸の奥で揺れていた。
/2
谷間に咲く山桜が、薄紅の花びらをひとひら、またひとひらと風に乗せて舞わせていた。遠くで鶯が一声鳴く。いつもより静かな朝だった。
霜月村に、春が訪れていた。
長く厳しかった冬の気配がようやく遠のき、柔らかな陽の光が山里を満たし始めた季節、頼道と、光緑、藤春、柳翠の四人に、一通の文が届いた。
仏田寺の改築が完了し、帰還の時が来た。終わりと始まりを告げる報せだった。
「あっという間だったな」
土間に腰を下ろし荷をまとめながら、頼道がぽつりと呟いた。
本当にと光緑が頷き、手を止めて外の桜を見上げる。うっすらとした微笑と、僅かな寂しさが滲んでいる。
持ってゆく荷は、驚くほど少なかった。この村での暮らしに多くの物は必要なかった。ただ積み重ねた日々の記憶――焚火の匂い、冷えた水の感触、夜ごとのささやき声と、肩を寄せ合った温もりだけが、確かに胸に残っていた。
旅立ちの朝、村の広場には老いも若きも集まっていた。
「光緑兄、元気でね!」
「熊兄、また手伝ってね!」
「藤春、夜ふかししちゃだめだよ!」
「柳翠、泣かないで。また絶対会えるから!」
小さな手が次々と差し出される。透き通るような声が風に乗って飛んでくる。子どもたちの言葉に、四人の顔もそれぞれに揺れていた。
藤春は照れ笑いを浮かべ、子どもらしく手を振り返す。柳翠は光緑の背にぴたりとしがみつき、肩に顔を埋めていた。
人目を憚らず泣いていた少女が、光緑の袖をぎゅっと掴んだ。光緑は小さな頭に手を置き、優しく撫でる。淡い記憶が、春の陽射しに溶けてゆく。あの日、赤らんだ頬。頼道はその光景を静かに見つめていた。
行こうかと頼道が声をかけると、光緑が頷き、隣に並んだ。
車に乗り込む。エンジンが低く唸り、車が軋んだ音を立てる。見送りに集った村人たちは手を振り、笑顔と涙を織り交ぜながら「またね」「元気で」と声をかけ続けた。
山桜の花びらが、くるりと宙を舞う。風に乗って、別れの言葉も、嗚咽も、全てをやさしく包み込んでいく。
ふいに、光緑が頼道の袖をほんの一瞬だけ、そっと摘まんだ。
それが何を意味するか、尋ねることはなかった。けれど頼道は静かに頷いた。それだけで十分だった。
車はゆっくりと走り出す。道の先に伸びる春風のなかを、四人の背中は確かに進んでいた。
霜月村が小さくなっていく。
やがて見えなくなっても、桜の花びらの匂いだけは、ずっと胸の奥に残り続けていた。
霜月村を離れてもなお、道の脇には桜が満開を迎えていた。淡い花びらが春の風に乗って舞い上がり、陽射しは柔らかく、地を照らす光にはどこか人肌のようなぬくもりがあった。だがその美しさの中で、頼道の胸には晴れきらぬ翳が微かに残っていた。
仏田寺。その名が思い起こさせるのは、古びた屋根の軋み、打ち捨てられたような廊下の冷たさ、雨が漏れる天井の薄暗さだ。住職である父がどれほど手をかけても、寺は老いを止められなかった。傷みゆく寺の姿は頼道の心の中で、家族のように静かに、そしてどこか寂しげに形を変えていった。
車が寺の門前に到着したとき、頼道は思わず目を細めた。
そこにあったのは、記憶に残る仏田寺ではなかった。
新しく生まれ変わった境内は、かつての印象をまったく感じさせない。
門の前には、白い桜が惜しげもなく咲き誇り、その下を踏みしめる足音さえも静けさをたたえて響いた。
「おかえりなさいませ、光緑様、藤春様、柳翠様。……そして頼道。よく戻ってきたな」
門の傍らで、住職である父が立っていた。
頼道の胸にふいに熱いものが込み上げる。長い年月の刻まれた皺が顔に深く刻まれている。けれどそれ以上に、父は微笑んでいた。あたたかな笑みだった。
「無事に帰ってきてくれて、何よりだ」
頼道は少し照れくさそうに頭を下げた。続いて車を降りた光緑が一歩前に出て、深々と頭を下げる。
「長い間お世話になりました。……無事に戻って参りました」
声音はかつてよりも一層落ち着いていて、頼道の目にはどこか大人びて映った。
住職はしばし見つめ、静かに頷く。
「もうすぐお前たちも新たな道を歩むことになるだろう。だがその前に、この寺の姿を見てやってほしい。ずっとお前たちの帰りを待っていたんだ」
そう言って住職は寺の奥へと歩み始める。頼道たちはその後を静かに続いた。
仏田寺はまるで別の寺のようだった。
新しく葺き替えられた瓦屋根は陽を反射し、整えられた木々は清浄な空気を湛えていた。壁は丁寧に修復され、長年染みついていた湿り気はすっかり払われている。磨かれた廊下は木の香を放ち、歩を進めるたび不思議な感覚が足の裏をくすぐった。
頼道は、思わず小さく息を呑んだ。
「こんなにも立派になったんだな……」
感嘆の声が漏れた。
「心を込めて修復した。お前たちが戻ってくる日を、ずっと待ちわびていたからな」
住職の声には、静かな情熱があった。
境内に踏み入ると足元の土はまだ柔らかく、昨夜の雨を僅かに含んでいた。舞い散る桜の花びらが土にそっと落ちて、春の静けさをさらに深めていた。
「これが仏田寺の本当の姿だ。……頼道、いずれお前にも全てを見せる。それまでお前は犬伏の者として仏田を見守る技を磨きなさい」
父の言葉が厳かに響く。頼道の胸の奥に、何かが深く、静かに震えた。
住職はゆっくりと頼道の方へ向き直り、語りかけた。
「この寺はただの建物ではない。悪しき煩悩から宝を守るため代々受け継がれてきた、祈りの場、結界の地だ。人の心に巣食う貪りや怒り、妄執――それらに触れさせぬよう、先人たちは静かに、慎ましく、さまざまな手立てを巡らせてきた」
見上げれば鐘楼に吊るされた梵鐘が、空の下にひっそりと影を落としている。
重みある姿に、頼道の胸がじんわりと打たれた。
「僧として、住職として、そしてひとりの人として――己が身をもって、ここを護り、照らす灯であってほしい。世は新しき風に吹かれている。仏田の子と肩を並べ、共に歩めば、その風もまた、修行の道を照らすものとなる」
「……父さん」
「二人が揃い、心を一つにすれば、やがて正しき道は自然と開けてゆく。陰りある世であっても、仏の灯は決して絶えぬ。……どうか頼む。この新しき家を共に守り、生かしていけ」
「話、長い」
お約束のような拳骨が降りかかる。4年ぶりだった。
4年ぶりの親子の馴染みのやり取りに、昔を知っている光緑が笑う。笑いながら、父から送られた確かな想いを胸の奥で受け止めていた。
どれほど見違えるように美しくなっても、廊下には何故か冷たさが残っていた。
改修され艶を取り戻した檜の床。新たに磨き上げられた柱、新調された障子。どれも整えられ、隙がない。馴染みのない漂う空気の匂いが、どこかよそよそしく感じられた。
一行が広間へと通されると、そこにいた大人たちの視線が音もなく彼らを包み込んだ。
僧衣を纏った男たち。年嵩の女たち。どの顔にも厳格さが刻まれていた。眼差しに柔らかさはなく、子どもを見るものではなく、品を選ぶ目に似ていた。そこには一切の情が無かった。
子どもの足音すら憚られるような静けさ。張り詰めた空気が肌に刺さり、呼吸のたびに喉の奥に土埃が沈んでいくようだ。
「……こわい」
柳翠が光緑の袴の裾に縋りつき、掠れた声で漏らした。小さな手が震えながら布を強く握りしめる。腕には年齢に見合わぬ必死さがこもっていた。
光緑は静かにしゃがみ込み、小さな肩にそっと手を添える。
「大丈夫。怖くなんかないよ。みんな、柳翠のことをちゃんと見てくれてるんだ」
「やだ……かえる。ばあば、どこ……?」
柳翠は怯えた目を上げ、首を激しく横に振った。
「おばあさんとはさよならしただろ? ここが僕たちの家なんだ。本当のね」
「……いや……」
柳翠は、さらに強く兄の袖に顔を埋めた。小さな背中は丸まり、肩が震えていた。その姿は、子犬のようにか細く、痛々しかった。誰が見ても、胸の奥を締めつけられるようだった。
そのとき、頼道がそっと歩み寄る。大きな体を静かに屈め、光緑の背後から腕を伸ばして、器用に柳翠を抱き上げた。
「おいおい、そんなにくっついてたら光緑が歩けなくなっちまうぞ。光緑に嫌われてもいいのかぁ?」
「やだ……!」
目を潤ませた柳翠は、頼道を睨み上げる。頼道はわざと大げさに目を丸くしてみせた。
「でもなぁ、仏田家の坊ちゃまは気分屋だからなぁ。ワガママな柳翠なんてもうヤダーって言われるかもしれんぞ?」
「やだ、にいに、なんないっ!」
ぷくりと頬を膨らませる柳翠に、光緑が苦笑しながら頷いた。
「僕は柳翠のこと、嫌いになったりしないよ。ずっと大好きだよ」
「やだ……よりみち、やだ」
柳翠が小さく呟くと、頼道は肩をすくめて笑った。
「おっと、俺の方が嫌われちまったか。そりゃ悲しいな」
そう話しているうちに、柳翠の様子はほんの少し落ち着いていく。ぐずりながらも小さな体は、頼道の腕の中でようやく静けさを取り戻していた。
子どもたちを包んでいたのは、歓待ではなかった。あったのは畏れと静けさ。肌を刺すような張り詰めた空気だけだった。
ここは村とは違う。生きるには知恵が要り、声の高さひとつ、足音ひとつさえも、己の身を守る術として選ばねばならぬ場所。静謐の仮面をかぶった、目に見えぬ戦場だった。
それでも彼らは戻ってきた。ここは光緑の居場所であり、頼道の生まれ育った家であり――そして藤春と柳翠の、これからの運命が始まる場所だった。
「……では本日より鍛錬を再開いたします。次期当主としての、お覚悟はお有りか」
中央の畳に、ただひとり。光緑が静かに座していた。
周囲には、仏田家の古老たちが円を描くように腰を下ろしている。
灰色の法衣、沈み込んだ眼差し、百年を生き延びた家の顔。彼らの口元には笑み一つなく、視線は冷ややかに、淡々と光緑を穿っていた。子を迎える優しさも、血を分けた者としての温もりも、そこには無い。
光緑は深く頭を垂れていた。背筋は一分の隙もなく伸びていたが、肩にかかる重みだけが痛々しく浮き彫りだった。
「3年も村でお遊びとは、ご気楽なことだ」
「泥まみれで里の子どもと戯れるばかり。魔術結社の当主としての自覚など、まるで育っておらぬようだな」
「光緑様が仏田家の血を継ぐ以上、役目を果たす義務があります。今から修行を始めたとして、果たして間に合うかどうか……まこと心許ない」
嘲るような声が石を落とすように、次々と広間に響く。誰一人として、あたたかい言葉を向ける者はいなかった。
光緑は顔を伏せたまま、その全てを黙して受ける。
本堂への同席は許されぬ立場ゆえ頼道は障子の外で正座をする。『光緑を守る者』として傍に控えることだけは許されていた。それがかえって胸を抉った。
(光緑は……決して遊んでなんかなかった)
頼道は、知っている。
早朝のまだ霜の残る刻、薪割りの前にひとり座し、呼吸を整えていた姿を。
子どもたちの喧騒の合間に、指先でそっと呪符をなぞる光緑の横顔を。
弟たちを寝かしつけた深夜、土間の灰を指でなぞり、式の痕跡を繰り返し練習していた背中を。
あの村で光緑は、自らの責務を決して忘れなかった。食事を作り、洗濯をし、弟の髪をすきながら、雨の中でも風の中でも、学ぶことを怠らず自分の場所を忘れなかった。
誰も見ていなくても、誰にも褒められずとも――兄として、当主の器として、心を積み上げていた。
彼を囲む者たちは、それを知ろうともしない。
「本日より正式な修行を開始する。肉を裂く術、骨を操る術、瞳で心を焼き尽くす術。……そうした血の技を修める場において、村の『ごっこ遊び』などは無用です。全て忘れなさい。これからは血の上に立つのです」
その言葉を受けた瞬間、光緑の指先が膝の上で震える。
頼道の胸に鈍く重いものが込み上げた。喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
(ふざけるな。何も知らねぇくせに。何も、見てこなかったくせに)
叫びたかった。言葉にして、吐き出したかった。
――光緑はお前たらの想像なんかより、ずっと立派だ。
けれどその思いは、胸の奥に押し込めるしかなかった。
自分の立場はあくまで護衛であって、口を持つ者ではない。言葉を持つことは、許されない越権だった。
だから静かに頭を垂れた。その胸の奥で、怒りと悔しさが無言のまま静かに燃え続けていた。
仏田寺の空気が一言で凍る瞬間がある。それは、ある名が出たときだ。
名を発した者は口を閉ざす。ほんの数秒の沈黙、けれどその間がなにより雄弁だった。
仏田 光緑の父、仏田 和光。
かつて極道の男として名を馳せ、いや、かつてと言うには尚早すぎる。今なお生きたまま神棚に祀られたような威圧を放ち続け、姿なきまま空気を支配していた。
ヤクザの世界に身を投じ、一代で組を起こし、数多の組織を取り込みながら、やがて『裏社会に仏田あり』とまで言われるようになった男。
金で口を塞ぎ、理で正当化し、暴で従わせた。そのどれもが精密で、圧倒的だった。国家権力すらいずれ消えると高を括っていたが、和光は決して消えなかった。
仏田家の古老たちでさえ、彼の名を出すときは、声をひとつ低くする。伝統も格式も儀式も、和光にとっては全て使える道具でしかなかった。
「……和光様が近々お戻りになるそうだ」
その一言が誰かの口から漏れたとき、本堂の隅で控えていた頼道の背を冷たい汗が一筋伝った。
姿はまだ見えない。足音すらしない。けれど名が出ただけで、仏田寺の柱が僅かに軋んだように思えた。
血の繋がりを持たぬ頼道ですら、その名を思い浮かべるだけで胃の奥がひやりとする。
実際に会ったのは幼い頃の数回のみ。だが村にいた頃から、光緑の背後には常にあの男の影があった。
「君のお父様のことだ。我らが手取り足取り、指導など……必要あるまいな」
先ほどまで光緑を責めていた老僧の一人が、急に声色を変えて言う。
滲み出るのは畏怖よりも、下手に関わらぬための距離という底知れぬ保身の色だ。
光緑は何も言わない。ただ静かに背を伸ばし、その全てを受け流す。もはやその沈黙は、幼さの延長ではない。
頼道は思う。この友は、生まれながらに『仏田 和光の息子』という檻の中で生きている。逃げ場も、外の空気も与えられぬその場所で、微笑みを『覚えてしまった』のだと。
この寺の者たちは皆、光緑を「次期当主」として扱う。
だがその敬意の影には、光緑個人への期待よりも、彼の背にある『名前』への畏れが濃く根を張っていた。
仏田 和光は姿を現さずとも、あらゆるものを揺るがせる。存在するだけで仏田寺の空気を根こそぎ支配する男だった。
数日後――その仏田 和光が帰ってきた。
寺の空気は一変し、口うるさかった年寄りたちが声を潜め、足音を忍ばせるようになった。まるでどこかに見えぬ神が座しており、その気配に触れぬよう息を潜めているかのように。
裏社会を束ね、表の顔など不要とばかりに生きてきた支配者が帰ってから、光緑は目に見えて忙しくなった。
長引く鍛練、突然の呼び出し、儀式の準備。頼道と声を交わす時間も殆どなくなった。藤春と柳翠の面倒を見る時間すら無くなっていった。それが、父の帰還の意味だった。
一方で、頼道自身もまた住職の後継としての正式な鍛練が始まっていた。
父の前に座り、経を唱え、規律を学び、声を張る。
その合間に時折、母と囲炉裏を囲む静かな時間があった。
「和光さんが戻ったんだってね」
母は薪をくべながら、少しだけ笑った。
「若い頃は、本当に好青年だったのよ。礼儀正しくて、よく笑っててね。かわいらしい人だったわ」
「……見たことあるの?」
「あるよ。今でこそ『恐ろしい人』に見えるかもしれないけど、根は優しいの。ちゃんと、信頼できる人だよ」
「でも……あの人、組を持ってたんでしょ? ヤクザで……」
母は火箸を静かに置いて、灰の舞う火の奥を見つめた。
「ええ。でも、ただの極道じゃなかった。全部を背負ってた人。金も人もこの寺も。そういう人って怖く見えるものよ。でもね、お母さんは心から頼っている。信じてる。お父さんもきっとそうよ」
その言葉に、頼道は何も返せなかった。そしてぽつりと希望を漏らす。
「心から頼られて信じられて……。俺も光緑のそういう存在に、なれたらいいな」
すると、じっと頼道を見つめた母は、言った。
「なりなさい。きっとなれる。だって貴方、ずっと光緑くんの隣にいたじゃない」
3年も。いや、ずっとずっと前から。
その言葉が、頼道の背中を押した。
夜の帳が寺をすっかり包み込む頃、頼道は躊躇いがちに襖へ手を掛けた。
その先には、まだ明かりが灯っていた。明日の修練の準備をしているのだろう。光緑は寝巻き姿で起き上がっていた。
「光緑、起きてるか?」
「頼道?」
「入ってもいいか」
「うん」
控えめに声を掛けると、やや眠たげで、けれどどこか安堵が混じった声で頼道に向き直る。
頼道は静かに膝を折り、正座した。
何か伝えたかった。けれど言葉は整わず、胸の中で転がったままだった。
「……お前の親父さんの話。今日初めてちゃんと聞いた」
「そう」
「……怖い人だと思ってた。でも、信じられてる人だと、昔から色んなもんを背負ってきたんだと聞かされた。でさ……俺も思ったんだ。光緑のことも、そうやって……支えられる人間でいたいって」
その言葉に、光緑の目がふっと細くなる。
「お前がこれからどんな風に変わっていっても、どんな場所に立つことになっても、俺は……ずっと、お前の傍にいる。……だから、負けんなよ」
それだけを言い残し、頼道は静かに立ち上がった。言い過ぎたかもしれない、と思った。けれど、もう言わずにはいられなかった。
襖に手をかけ、そっと引こうとした。
「頼道」
背後から呼び止める声が落ちた。
夜の静けさを縫うような、小さな、けれど確かな声。
「……ありがとう」
短く静かに、それでいて胸の奥に真っ直ぐ沁みてくる。春の夜風のようなその一言に、頼道の背筋がすっと伸びた。
――お前の隣にずっといる。ずっといっしょに。傍にいて、支えるんだ。
胸の中で、繰り返し呟いた。大した言葉にならない誓いが、夜の静寂にひっそりと灯っていた。
/3
仏田寺にも初夏の気配が訪れ始めていた。風には若葉の匂いが混じり、蝉にはまだ早いというのに陽射しは既に強く、じりじりと肌を焼くほどだ。
その光の眩しさとは裏腹に寺の内に満ちる空気はどこか重たく、湿った影を孕んでいた。
頼道と光緑が顔を合わせる時間は、減っていた。
頼道は仏前にて読経に明け暮れ、礼法と教義の習得に追われる。光緑はさらに深く、儀式と密儀、時には結社の者すら顔を伏せるような秘術に呼ばれていた。
ひと息つくことさえ、贅沢だった。
ある日、頼道は廊下の陰で、偶然光緑の姿を見かけた。
相手は仏田家の古老の一人。光緑は深く頭を垂れ、丁寧に応じていた。白い頬は心なしか痩せ、唇の色は薄く、目の奥には拭えぬ疲れが宿っている。
毅然としていた。けれど、それは絹のように――触れれば裂けそうなほどに――張りつめた静けさだった。
それから、頼道は光緑を自室に招くようになった。
勉強会と称して誰にも気づかれぬよう廊下をすり抜け、障子を閉めきった小さな部屋へ導く。
筆も巻物も広げられていたが、二人は何も話さなかった。
光緑は、ただ黙って頼道の布団の上に座る。あるときは静かに横たわり、瞬きもせず、天井を見つめ続けた。
うつろな目。そこに思考の色は無い。
けれど、それで良かった。ここで彼がただ呼吸している。それだけでこの空間には意味があった。
「……ここ、落ち着く」
ある夜、ぽつりと光緑が呟いた。
「誰も、追い立てない」
頼道は、小さく頷く。
「追い立てないよ。俺は」
光緑は微かに笑った。その笑みもひどく儚く、すぐにまた沈黙の帳に沈んでいった。
胸の奥で祈る。どうかこの時間だけでも、光緑の痛みがほどけてくれますように。言葉にすれば零れ落ちてしまいそうな祈りを、ただ黙って抱いていた。
光緑はいつだって静かな人間だ。怒りを声にせず、咎めるときでさえ、柔らかい口調を崩さない。
けれど今、目の前にいる彼は、そんな静けさを演じる者ではなかった。
疲れ果てた一人の少年。伸びすぎた睫毛。首にかかる黒髪。乾いた唇。その脆さが、ひどく美しい。
触れたいと思った。けれど、触れた瞬間に全てが壊れてしまいそうだった。だから触れられない。
――そして、愛おしい。
「……見すぎだよ」
突然囁くような声に襲われて、頼道は息を呑む。けれど、それでも目を逸らさなかった。
「……見とれてた」
素直に、そう言った。
光緑がふっと笑う。確かにそこに、一瞬の柔らかさが灯ったように思えた。
その日の午後も、仏田寺は静まり返っていた。
頼道の部屋は障子を閉ざされ、光緑はいつものように敷かれた布団の上に横たわり、開かれた瞳で何も見ないまま天井を見つめていた。
そのとき、障子の向こうに小さな音が忍び込んできた。急いだ気配。そして控えめな、ひと打ちのノック。頼道が立ち上がるより先に、障子がすっと開かれた。
藤春と柳翠。
二人は息を弾ませて立っていた。藤春は顔を上気させ、柳翠の手をしっかりと握っている。
光緑の姿を見た瞬間、柳翠は「にい……」と小さく呟いて、迷いなく兄の胸に飛び込んだ。光緑の瞳が、はっと現実に戻るように瞬く。小さな弟を腕の中に抱きとめた。
「どうした、二人とも」
穏やかに語り掛ける声の横で、頼道には分かってしまった。色の無い瞳。抱き着く柳翠が震えていることに。
「何も。来ちゃダメだった?」
藤春の声にも、不安が滲んでいる。光緑はかぶりを振って、微笑を浮かべる。
「ダメなはず、ないじゃないか」
安心したように、藤春は頼道の方へ近づいてくる。
「……俺、頼道兄ぃと遊びたかったんだ。勉強ばっかでさ、頭がとけそうで……」
頼道は笑って、その肩を軽く叩いた。
「じゃあここで羽伸ばしていけ」
「うんっ!」
そのやりとりに、光緑の口元もふわりと緩んだ。
柳翠はぴたりと兄の膝から離れようとしなかった。袖をぎゅっと握りしめて、小さく呟く。
「ここ……こわくない」
「そうだね。ここは、みんなの避難場所だよ」
その言葉に頼道は目を伏せ、深く頷いた。
こうして、子供たちだけの部屋が生まれた。
障子の外には厳しい掟や目が満ちている。けれどこの空間だけは、やわらかい笑いとぬくもりが守られていた。
経典はただの飾りでしかなかった。筆記用具も広げられているだけだった。
藤春が頼道に肩に乗りたいとせがみ、柳翠が光緑の袂に顔を埋める。頼道は笑い、光緑は黙って弟の髪を撫でる。
寺の外では時間が進んでいる。光緑には当主としての道が、頼道には僧としての務めが。藤春にも柳翠にも、求められるのは幼さよりも強さだった。
それでもこの部屋だけは。せめてこのひとときを、自分の手で守り抜きたい。頼道は思った。
「……見てて。いくよ」
柳翠が掌を上に向けた。
指先にふっと灯る赤い光。熱を持たない小さな炎のように、もう一方の手へとひらりと飛び移る。
ぽん、ぽん、と掌の上を跳ねる火の粒は、精緻な術式で編まれた魔術の魔手玉だった。
「柳翠、凄いよ。よくできたね」
光緑が優しく褒めたたえた。その一言で、柳翠の顔がぱっと花開いたように明るくなる。
「ほんとに? にいに、ほんとに?」
「うん。とても上手だった」
誇らしげな瞳で振り返る柳翠に、藤春が笑いかける。
「俺、炎術苦手なんだよなあ」
「じゃあ、おしえてあげる!」
はしゃぐ弟の声に光緑が髪を撫で、藤春が無邪気に応えた。
頼道はその全てを、ひとつ残らず胸に焼きつけるように見つめていた。
「……このまま楽しい時間が、終わらなければいいのに」
呟く藤春に頼道は何も答えず、優しく弟たちを抱きしめる光緑を眺めていた。
もちろん穏やかなことばかりは続かない。ある日、用事の合間に光緑はふと女中頭の老女に問いを投げかけた。
「そういえば……母は、どちらにいらっしゃいますか?」
彼にとっては深意のない、ただの問いかけだった。
記憶に無いのではなく、意識の外に押しやられてきた問い。あまりに日常に母の影が無さすぎて、その不在を不思議に思うことすらないからの問い掛けは、あまりにもあっさり解決した。
「柳翠様をお産みになった直後、お亡くなりになったではありませんか」
場の空気が、静かに冷えた。
老女は、まるで今夜の味噌汁の塩加減でも話すような口ぶりで言う。無造作な言葉の投下に、周囲にいた他の女たちが一斉に手を止めた。
そして気づいた。――誰ひとり、その事実を村に疎開させていた子供たちに知らせていなかったことに。
その夜。頼道の自室で、藤春と柳翠がいつものように光緑にじゃれつき無邪気に笑っていた。
話すか話さないか数時間悩んだ光緑は、視線を落としたまま、ぽつりと話始める。
「藤春……少し、話があるんだ」
声は柔らかく、けれど確かに、震えていた。
頼道はそっと手を伸ばし、光緑の袖に触れた。
「……俺が話すよ」
光緑が顔を上げた。驚きと、救われたような安堵が同居していた。
柳翠には母の記憶がない。抱かれた記憶も声もぬくもりも、何一つ知らないまま村に預けられて育った。
だが藤春は、時折誰にも見せぬ顔をする。母が恋しいという合図をする。当然のことだ。藤春はまだ8歳。大人びているように見えても、まだ手を引かれたい年頃なのだから。
頼道は、藤春の前にゆっくりと座り直した。
「藤春……ずっと、気になってたことがあっただろ」
「……うん」
小さく頷いた藤春に、頼道は真っ直ぐに言葉を投げる。
「お前の母さん……みんなの母さんはな。お前がまだ小さい頃に、亡くなったんだ」
藤春が瞬きをしなくなる。頼道はそっと不安げに震える肩に手を置き、続ける。
「……悲しいよな。当たり前だよ。でもな、藤春。お前はもう、柳翠の兄さんだろ? あいつまだちっちゃいし、母さんのこと何も知らない。だから、お前が母さんの代わりにしっかりしてやらなきゃな」
藤春の喉が、ごくん、と鳴る。
「柳翠の兄さんとして、悲しんでいられない。……藤春、頑張ろう」
「俺が、お母さんの代わりに……柳翠を守る。俺が……」
拳を膝の上でぎゅっと握る藤春が、小さな決意を宣言しながら、頼道にはっきりと頷く。
よくやったと頼道は頷き終えた藤春の体をひょいっと膝上に抱き上げ、無造作に髪を撫でる。
「……ありがとう、頼道」
頼道の背に、光緑のやわらかい声がかかる。
彼もまた、藤春と同じ顔をしているだろう。
失われたものを取り戻すことはできない。けれど守ると誓う兄たちの姿は、あたたかな火のように在り続けた。
頼道は、可能な限り自分の部屋を開放した。次期当主の息子とその弟たちは立派な自室が与えられていたが、彼らも時間を作って頼道の自室に足を運んだ。
昼間、小さな弟たちが遊びにやって来るのが日課になった。おかげで、勉強会と称して光緑を匿っていた休憩ができなくなった。それだけが頼道の気がかりだったが、仲が良い弟たちと過ごす光緑は、満ち足りた表情を浮かべていた。
ならば、これで良いと頼道は安堵する。そうして何気ない夜を過ごしていると、真夜中に、光緑が何も言わずに部屋に入ってきた。
いつでも来ていい、開放しているからと言ってはいたものの、真夜中の来訪には驚き、思わず「どうして?」と問い質してしまった。
現れた光緑は、綺麗だった。
けれど、それは花のような美しさではない。
色を奪われ、沈黙の中で咲いた硝子のような脆い静けさ。肌の色は薄く、瞼の奥には深い翳り。その目は、どこも見ていない。
光緑は頼道の布団に、音も立てずに腰を下ろした。
布団の端に頼道も腰を下ろすと、そっと光緑の髪に指を滑らせる。細く柔らかい髪は、少し汗の匂いがして、疲れの熱を含んでいた。
「……頼道に触れられるのだったら、全然嫌じゃないな」
胸の奥に生まれたのは、言葉にできない疑問だった。
(誰が、触れていた?)
嫌じゃないと言えるということは、つまり、嫌だった誰かがいたということなのか。
誰かが光緑に触れていたのか。それは訓練という名の中で、正当化される何かだったのか。それとももっと……?
「……頼道」
ぽつりと名を呼ばれる。その声音には、頼道の胸を叩くような柔らかさがあった。
「優しく……触れてほしい」
言葉の意味を、すぐに理解できた訳ではない。
ただ光緑の声があまりに穏やかで、あまりに祈るようで、頼道は逆らうという選択肢を持てなかった。
頼道はそっと光緑を布団へ寝かせると、撫でた。肩から、腕へ。腕から、背へ。布越しの細い背骨が、息づいていた。
不器用な動きしかできない。優しさを形にすることなど、頼道はこれまで教わったことがない。
それでも、光緑は嬉しそうに微笑んでいた。
目を細め、まるで夢の中にいるように安心しきった顔。光緑は身じろぎ一つせず、安らいだ寝息を立て始める。
――鍛錬が続いていた。何度も呼び出され、式神を動かす術を何時間も繰り返させられ、膝をついてなお続けさせられ、教育の皮をかぶった暴力が何日も続いていた。
出来なければ、鋭く叩かれた。貴方を期待しているのです、当主としての器を育てているのですと冷たい言葉ばかりが体を刺していた。それから逃れるために、優しい頼道に身を委ね……いつしか安心しきった光緑は眠ってしまった。
沈黙に身を預ける光緑に反して、頼道の心臓はどくりどくりと跳ねていた。温もりに紛れる、密やかな恋情。その全てが今、苛烈に胸を占めている。
優しさを求めてきてくれる光緑への衝動を抑え込むため、内心、必死に経を読み続けた。
【2章】
/1
春を迎えた山々は柔らかな緑に霞む。谷を渡る風には、土と若葉の匂いがほのかに混じっていた。
北関東の奥深くにある仏田寺を発ち、東京へ向かう。それは光緑と頼道にとって、生まれて初めての旅だった。
寺を見送る僧たちの視線は重く、粘ついていた。それを背に振り払うようにして、二人は小さな汽車に乗り込む。
いくつもの駅を乗り継ぎ、列車が平野を走り抜けた。やがて高架線に乗り換えた車窓の向こうに「上野」の二文字が浮かび上がったとき、頼道は思わず息を呑んだ。
都会だった。
眩しく、けれどどこか仄暗い光に満ちた街。人々の波が歩道を埋め尽くし、男たちは細身のネクタイ、女たちは短いスカートに大ぶりの鞄を揺らしながら歩いていた。看板は競うように光を放ち、建物はどこまでも高かった。
見慣れぬ光景に目を見張るのは光緑も同じだ。今日だけのために整えられた洋服を身に纏い、ネオンの下で白い横顔が煌めく。まるで映画の登場人物のようだった。
「これから叔父上に会いに行くんだろ」
頼道が言うと、光緑は目を細めて頷いた。
「組の本部、上野の南口だって」
その言葉に、頼道は背筋を正した。極道の血を引く親族、仏田家の裏の顔がそこにある。
けれど今はまだ緊張は遠く、汽車に揺られ、心が弾むのも隠しきれない。待ち合わせの時刻にはまだ余裕があり、光緑の「歩かないか」という申し出に、頼道は自然に笑みを浮かべた。
上野の公園には桜が咲き誇り、白に近い淡紅色の花弁が風に舞っていた。
「思ったより自然が多いんだな。東京ってもっと冷たいのかと思ってた」
「でも人の多さは見たことないくらいだよ」
「だな。お、見ろよ。すげえな」
頼道が顎で示した先には、枝垂れるように咲く桜並木。花の下を行き交う人々の肩に、髪に、はらはらと花びらが降り積もる。
「まるで、空が花に染まってるみたいだ」
二人は並んで歩き、ひときわ大きな桜の木の下で足を止めた。
花々の隙間から光が降り、まるで天から落ちてくるように花びらが舞っている。
光緑の肩に一枚、花がひらりと落ちた。頼道はそれを払おうとするが、そっと光緑が止める。
頼道が目を向けると、彼は遠くを見るような表情を浮かべていた。
「……思ったんだ」
「何を?」
「桜を見て、綺麗だと思うより先に……このままただ立っていたいって思った。何もしないで。……村にいたときは、花の下で握り飯をみんなで食べるの、あんなに楽しみにしてたのに」
「…………」
「最近、おかしいんだ。起きているのに眠っているみたいで……」
「俺が隣にいる。光緑が寝たら抱えてやる。怪我する心配もねえ」
光緑がゆっくりと頼道を見る。その瞳には、何かの迷いが揺れていた。
「お前の代わりに花見もしてやるよ。で、もし光緑が寝ていても、俺が花見の感想、全部言えるようにしておいてやる」
「……分担作業?」
「それだ」
光緑は、小さく笑った。
頼道はやっと彼が彼の顔に戻ったのを見て、安心したように息を吐く。
「あとは、藤春を連れてこよう。あいつがいれば寝てる場合じゃなくなる。どうせ『桜の絵を描く』とか言い出して、綺麗な木を探して歩かされるぞ」
「ふふ、目に浮かぶな。……柳翠は?」
「もちろん連れてくる。お前が抱っこしてないと、道端の鳩としゃべり始めるぞ」
「はは……なんだそれ」
「だから抱き上げて、目線を花と同じ高さにしてやらないと。……今度また、来ような」
笑い出した光緑が、再び桜を見上げた。今度こそ、花の美しさを受けとめるために。その横顔を頼道は見つめる。
綺麗だった。桜も、光緑も。
きっと春が来るたびに今日を思い出す。それほどにこの一日は美しく、鮮やかだった。
駅の喧騒から路地をいくつか抜けた先に、ビルの中に隠されるように構える嵐山の文字。金文字で書かれた木札の看板と、無駄に広い玄関。表向きは不動産業だが、その筋では名の通った組の本拠地だった。
案内された応接間の戸を開ければ、一人の大男がどっかと座っている。
派手な生地のスーツに身を包み、金色の時計や指輪を輝かせた手で髭を弄ぶ様子はどこか芝居がかっていながら、場の空気を支配する威圧感を放っていた。
嵐山 照行。光緑の父の弟にして、嵐山組の現組長。仏田家の裏を支える外郭の顔であり、光緑の叔父にあたる人物だった。
「おう。よく来たな、光緑!」
朗々たる声が響く。声音は豪快で、部屋の空気が一気に膨張するようだった。
「叔父上。光緑、遅れ馳せながら参上いたしました」
光緑は寸分違わぬ礼を取る。背筋を伸ばし、完璧な所作で頭を下げた。
ふんと鼻を鳴らした照行が、それを好ましげに見下ろす。
「随分と立派になったもんだ。背も伸びたし、顔立ちも兄貴そっくりになってきやがったな」
「過分なお言葉、恐縮です」
頼道は、光緑の背後に控えていた。立場は護衛であり、正式な親族ではない。口を挟むことなど許されない立場だ。だが照行の圧に、思わず拳を強く握る。
自然と滲み出る圧力があるが男はあっけらかんとした笑顔を浮かべ、湯呑みを光緑の前に置いた。
「お前さんにはな、これからちょいと仕事を手伝ってもらう。良い経験になる。社会を知っとくに越したことはねぇからな」
「はい。叔父上のご指導、ありがたく頂戴いたします」
「堅ぇこと言いやがって」
照行は豪快に笑った。泥と血の気配が滲んでいるものの、それを感じさせぬ明るさが逆に恐ろしい。
ふいに頼道に目を向けた。鋭い目が全身を射抜く。
「おい、そっちの若造は?」
「光緑様の護衛役、犬伏 頼道と申します」
深く頭を下げた。声が揺れていなかったのが、唯一の誇りだった。
「えらいガタイしてんな。腕の一本や二本、引き千切れそうだ。見た目も骨格も上等。こいつぁいい盾だ。寺の坊主にしとくには惜しいぐらいだよ。くれぐれも坊ちゃんをよろしく頼んだぜ」
「はっ」
光緑は、横顔を少しだけ緩め、頼道に目をやる。静かな目で、何も語らない。だがそこに確かな信頼を感じる。
その視線だけを頼りに、頼道は背筋を少し伸ばした。
「光緑。ちょっと顔、こっちに寄せてみろ」
照行の低い声に呼ばれた光緑が、姿勢を正したまま叔父の正面を向く。隠すでもなく、抗うでもなく、ただ応えるように。
細めた目でじっと照行が光緑の顔を見つめた。視線は笑ってはいるが、まるで何かを深く測ろうとするような老獪な鋭さを帯びていた。やがて、ゆっくりと呟く。
「……恐ろしいぐらい、似てやがるな……」
誰に、とは言わなかった。
それが、父・和光を指していることは、誰の耳にも明らかだった。しかし声には単なる懐古でも感嘆でもない、微かな怖れが滲んでいる。
そのまま一拍置いた照行は表情を和らげた。その後は愉快な話を始めた。怖さはあるものの、どこか朗らかで親父の風情がある男だった。
光緑に厳しく接する様子はない。仕事を通して何かを学ばせようとする姿勢は、血筋以上に人としての躾に近いものに見える。
仏田寺では得られない感覚に頼道は安堵していた。
東京での数日間は、頼道と光緑にとって異界の出来事のようだった。
照行の屋敷には組の幹部たちが絶え間なく出入りし、廊下には鳴り止まぬ電話の音が反響している。そのざわめきの合間を縫うようにして、大人たちは彼らに社会を教え込んだ。
最初の教えは、意外にも礼儀だった。世に出る者は、まず礼を尽くせ。どれほど小さな場面でも自分たちは仏田家の名を背負っていることを忘れるな。そう教えられた言葉を、二人は何度も胸の内で噛みしめた。
次に学んだのは、日々の立ち居振る舞いだった。タクシーの乗り降り、歩くときの位置、名刺の差し出し方。どれも些末に思える動作が、相手に与える印象を決定づけると知らされた。
「舐められるな。肩に手を置くときの力加減ひとつで、相手の態度は変わるんだ」
寺での生活では考えたこともなかったような規範が、ここでは明確な力として作用していた。
やがて夜が訪れ、教えの場は裏通りへと移った。
酒と煙草の匂いが満ちる酒場。薄暗い倉庫。そして「夜の花を知れ」と言われて通された艶やかな歓楽の店。そこで語られる声は低く、研ぎ澄まされていた。
「裏社会ってのはな、隙間に滑り込む世界だ。どれだけ仕事ができても信を失えば地の底まで落ちる。覚えておけ」
微笑の奥に、いつも剥き出しにならない闇が潜んでいる。
昼は数字を読む訓練、資金の流れを学ぶ講義。夜はその裏にある現実。光緑は幹部たちとの酒席に出るなど、年齢には不相応な世界にその身を晒していく。
最初はただ怯え、戸惑うばかりだった。街の喧騒、視線の流し方、言葉の重み、仕草に含まれる意味。人の波に揉まれながら、彼らはこの世界に足の置き所を見つけていく。
寺で育った子どもたちは、この街の速さと濁流の中で、少しずつ確実に変わり始めていた。
頼道は、その体躯だけで場を制する男だった。
熊のごとく分厚い肩、丸太のような腕、地の底を這うような低い声。黙って立っているだけで周囲の空気が一段、沈む。
照行は笑いながら、それを理想の護衛と呼んだ。
「光緑の背中にお前が立っとるだけで、格が三つは上がる」
そんな冗談に、幹部たちも笑って頷いてくれた。頼道が動くまでもなく、場が収まり、空気が引き締まる。その沈黙と存在感こそが武器になると褒めてくれた。
寺で育った頼道は、礼法や距離の取り方といった基本を徹底的に叩き込まれていた。戦わずして戦わせない、そうした抑止の型が既に頼道の呼吸の一部になっている。身体が意味を知っていた。
だが、その大きな手で人を殴ったことはない。
殺気というものは知っていた。殺す気で睨まれることも、こちらが殺されるかもしれないという場面も幾度かあった。
それでも、実際に拳を振るい、誰かを打ち倒したことは一度としてない。
だからこそ、頼道はいつも怯えていた。
知られてはいけない、と。見抜かれてはならない、と。
ゆえに彼は眼差しを鋭く研ぎ澄ませ、背筋を正し、手を背に組み、沈黙を崩さずにいた。そうして作り上げた風格は、幸いにも身内の組員、さらには照行にすら通じた。
誰もが「頼道という男は既に幾度もの修羅場をくぐってきたのだ」と勝手に想像し、敬意すら抱いてくれる。「ただ一度も拳を振るう機会がなかった」というだけのことなのだが。
そのことに頼道自身が、誰より深く気づいていた。
そして、そんな彼とは対照的に――本当に手を血に濡らしていたのは、光緑だった。
東京湾岸、灰色の空が低く垂れ込めた倉庫街。無言の黒塗りの車列が、人気のない路地に列をなし、濡れたアスファルトに重々しい影を落としていた。
無機質な佇まいに、ただならぬ気配が滲み出る。言葉にされぬ緊張が空気をゆっくりと締め上げていく。
「目ェ、逸らすなよ」
命じる声だけが届いた。理由の説明は無い。錆びた鉄扉がきぃと軋みを上げて開かれる。倉庫の奥、ひんやりとしたコンクリートの上に、一人の男が座らされていた。
縄で雁字搦めにされ、顔は腫れ上がり、唇から血を伝わせたまま荒く喉を鳴らしている。ひゅうひゅうと漏れる呼吸が、細く命を繋ぐ音のように響いていた。
照行は無言のままコートを脱ぎ、脇の椅子に無造作に投げかけた。
歩を進めるたび彼の背に宿る威圧が、まるで空間の温度を数度下げていくかのようだった。
「こいつぁな……組を裏切ったうえに、仏田の名を騙り、呪符をばら撒いた阿呆だ」
低く響いた声は鉄のように冷たい。感情は削ぎ落とされ、語尾の一つ一つが鉛のように重く場に落ちる。
「その呪符で死人が出た。向こうの世界でもこっちの世界でも、報いは等しく与えねえとな。筋を通すってのはそういうこった」
笑いも赦しも存在しなかった。
静かすぎる沈黙が満ちていた。呼吸一つ乱せば自らもその場に巻き込まれてしまう、そんな張り詰めた空気。
照行が手を僅かに動かすと、背後から一人の部下が無言で鉄パイプを差し出した。その僅かな動きだけで、男は嗚咽を漏らし、喉を掻きむしるようにしながら、地に額をこすりつけて土下座を繰り返す。
「叔父上」
静かに落とされた声が、空気の流れを一瞬変えた。
光緑だった。声音はあくまで穏やかで、けれども深淵のような底を孕んでいる。
「ここは、自分の教育の場でしょう。でしたら、初めから……自分が」
言葉に怒りも焦りもない。ただ凪いだ湖面のような決意があった。
彼は手袋を静かにはめ、足元に落ちていた札を拾い上げる。封呪の符だ。その札が、男の胸元に押し当てられた瞬間。空間がきいんと張り詰め、男の身体が痙攣し、喉を引き裂かれたような悲鳴が上がった。
皮膚の下を黒い文様が這い巡る。まるで蛇が血管を這うように。そして白目を剥いた眼球が、内側から赤く染まっていく。
光緑の手元にはいささかの揺らぎもない。声も目も、底なしに静かだった。
照行が煙草に火を点ける。紫煙がゆらりと宙に溶けた。その向こうで、満足げに唇を開いた。
「よく馴染んでるな。その手も……その仮面もよ」
――こうして男のそう記されるに違いない。死因は謎になった。鉄パイプによる外傷なんてありきたりなものではない。あらゆる医学的見地を拒む原因不明、正体不明。
それこそが目的だった。人知を超えた恐怖をただ一度の死で刻みつける。それが魔術結社・仏田のやり口だった。
千年を超える歴史を誇るその一族は裏社会において異端でありながら、常に頂点に君臨してきた。力の論理が支配する世界で、彼らはその論理さえ凌駕する異質があった。
力あるヤクザがもはや人間ではないとされる世界において、それ以上の存在として能力者が君臨したら? 世間が、敵うはずもなかった。
「おう、良くやった。とどめも完璧、死因のカバーも完璧。あとは処理の仕方だな。……お相手に見せつけるためにも、転移術でお家まで運んでやろうかね?」
帰りの車内、頼道は終始無言だった。
隣には光緑が座っていた。整った横顔が、東京の明滅に淡く照らされていた。
美しい。冷ややかで、凛とした輪郭。何かを拒むようで、何かを抱いている横顔。何を見ているのか。何を想っているのか。
あの札を胸元に押し当てた瞬間、彼の手にあったのは裁きだったのか、それとも罰だったのか。
――自分が守ると決めていたのに、その手は、血に染まるしかなかったのか。
代わってやれなかった。止めてやる力も、術も、勇気すらなかった。その現実が、胸を裂くように痛かった。
思案しながら、屋敷の寝室に戻った。都市の喧騒が別世界に思えるほどしっかりした造りの屋敷の一室に、頼道と光緑は同じ部屋で日々を過ごしていた。
戻ってきた寝室には、言葉に出来ない沈黙が横たわっていた。掛け布団が僅かに擦れる音さえ、気まずく思えるほどに。
――光緑の手が、人ひとりの命を奪った。
組としての報復であり、仏田家の名に刻まれた責務として正当化された行為だった。
人の温もりを持ちながら、人を葬った手。その手を今後、どんな目で見ればいいだろう。迷走している頼道の名を、光緑は躊躇いがちに呼んだ。
「頼道が……良かったらで、いいんだけど」
隣に居ながらも、小さな声。言い淀む声は、言葉を探しながら歩くようだった。
「……また……触って、くれないかな」
ゆっくりと、頼道は顔を向ける。
命じればいいのに、遠慮がちに懇願する表情は、やはりうつろ。以前、触れてほしいと真夜中に懇願してきたときと同じ、孤独の色が濃い彼が立っている。
頼道は言葉を持たぬまま、光緑を引き寄せると、静かに頬を撫でた。
力を込めることなく、あたたかさを伝えるように。細い肩を包み込むように、何度も、何度も。
光緑の身体が、少しずつほどけていくのが分かった。張り詰めていたものが、静かにほどけてゆく。長い息が、彼の胸の奥から洩れた。
ようやく仮面の奥に隠していた感情が、息づくことを赦されたように。
「頼道……今夜は、このまま……ずっと」
この手を力で振るう機会はまだ訪れない。でも、護衛としてこの手を彼の為に使うと決めた。
冷たくなっていた光緑の体温が、再び戻ってくるまで、ずっと。
/2
会議室の壁一面に貼りつけられた地図が、冷ややかな蛍光灯の光を受けて鈍く反射していた。
赤いラインが複雑に絡むのは、北関東の山深き一帯。仏田寺とその周辺、未開発の原生林と封印域。
中心に記された文字列には、ただならぬ熱量と密度があった。
『超人類能力開発研究所機関』――人知を超えた力を制御し、産業と軍事、学術の名のもとに結実させる、国家規模の極秘計画。
部屋には十数名が着席していた。官僚、政財界の重鎮、異能研究機関の責任者、そして現代に生きる古の魔術師たち。一人一人の存在が、世界の隅々に影響を及ぼす決定権を握っていた。
誰もが卓上の資料ではなく、一人の女の言葉に集中した。彼女の動作一つ、視線の流れ一つに、言葉以上の意味がある。
「問題は土地に残留する呪的浸蝕の度合いですが、仏田寺本院の術士によって無害化処理は既に進行中です」
女の声は、澄んでいた。冷徹でありながら、どこか神託のような響きを持っていた。
「仮に想定外の事象が発生したとしても、仏田 和光様の術式により、局所制御は可能と判断しています」
会議室の空気が揺れた。誰も言葉を差し挟まない。沈黙は否定ではなく肯定の証としてそこにあった。
女は真っ直ぐ前を見据える。その先には、男がいた。責任者となる男だ。男は続けるように言葉を紡いでいく。
「仏田家は、もはや魔術という閉鎖系の中で生き永らえるつもりはありません。科学と呪術、理性と超常、論理と直感、その全てを交差点とし新たな知の地平を切り拓く。それが私たちの意志です」
声音は明確な宣言。現代という時代を超えてなお、千年の血脈を継ぐ者としての責任と覚悟がそこにある。
古きものと新しきものとが結び合う瞬間。男たちは頷いた。誰かが感嘆の吐息を漏らす。背筋を伸ばす者、手を握り締める者もいた。
「超人類能力開発研究所機関。我々はここに、世界へ通用する異能の中枢を創り上げます」
その一言が、錠前を解く音のように響く。
黎明は近い。計画は、今、動き出した。
山奥の仏田寺で聞いたことのない、乾いた都市の音。電話、喧騒、ラジオ、怒号。孤立と機能美が混じり合う、無機質な静けさが屋敷の隅々にまで染みわたっていた。
頼道は廊下の影に身を潜めながら、ガラス戸の奥の一室をそっと見つめる。
分厚いカーテンに覆われた書斎の中。そこには光緑と、彼に何事かを指導する女の姿があった。
長身の女だった。漆黒の髪をぴたりと結い上げ、白磁のような横顔には細い顎と紅の唇が浮かんでいる。スーツに包まれた肢体は直線的な冷たさと、どこか艶やかな曲線美を同時に孕んでいた。僅かに笑みを湛えた瞳の奥には、研ぎ澄まされた刃物のような何かが潜む。彼女の名は、森田 胡蝶(もりた・こちょう)。仏田の裏家業において実務の中枢を担う一人という。声は常に穏やかで微笑すら絶やさない。けれど語尾には否応のない命令の冷気が宿る女だった。
「今の貴方の語調では相手は『見下された』と感じるわ。……もう一度、言ってみなさい」
光緑は静かに頷いた。
その唇に笑みを作りながら、言葉を紡ぐ。
「――『それは誤解ですね。私どもとしては、誠実な関係を継続したいだけです』」
「悪くないわ。けれど、次は考えて。その誠実さをどう揺さぶり、どう壊すかを」
胡蝶の動きは、まるで舞を教えるようだった。
その所作ひとつひとつに、目的と洗練された支配が宿っていた。
あの仄かな儚さを抱えていた少年が、夜の世界に染まりつつある。冷たく、美しく、必要な仮面を纏おうとしている。
光緑が学んでいるのは、もはや書類の読み書きなどではない。夜の裏側を生きるための手業、毒のように静かで確実な、女の術だった。
その日も、光緑は朝から書斎に籠もっていた。
能力者でもある胡蝶は、魔術師としての研鑽と、極道としての務めを同時に光緑に施していた。どちらも求められたものであり、光緑はどちらも完璧にこなさなければならなかった。
頼道は、その背を見ていた。女から与えられる大量の知識。それを全て物にしなければならないという圧。無言の集中に張りつめた空気。背筋は伸び、指先の所作には迷いがない。けれど疲労は滲んでいた。どこか刃物のような緊張が皮膚の奥に沈殿していた。
(……甘いもんでも食わせてやりてぇ)
照行の屋敷を抜け出し、頼道は上野の商店街へと足を運ぶ。飴にしようか、羊羹か、あるいは団子か。思い返すのは、幼い光緑が隠れて甘味を齧っていた頃の面影。
そのときだった。視界の端に、見知った背中が映った。
白いシャツに黒いスラックス。歩き方。肩の傾き。呼吸のリズム。間違える筈がない。あれは光緑だ。
菓子袋を握ったまま頼道は駆け出していた。屋敷を出る許可は無かった。そもそも光緑が一人で街中に出てくることなどありえない。胡蝶のもとで鍛練の最中の筈なのに。角を曲がり、裏路地に差しかかる。
「光緑ッ!」
手が、肩を掴む。思わず力が入った。
だが次の瞬間、強く弾き返される。
「……あ?」
睨み返したのは、若い男だった。
その顔――目元も、鼻筋も、唇の形さえ――光緑に似ていた。だがそこに光緑の気配は無かった。
表情の奥にあるものが違う。目付きは荒く、声はぶっきらぼうで低い。歩き方も空気の纏い方も、どこか獣めいていた。
「なんだお前。人にいきなり触ってんじゃねぇよ」
頼道は、言葉を失う。
ただの見間違いだった。けれど、どこかに釘を刺すような違和感が残る。
「あ、すまん……勘違い、した」
男は鼻で笑い、興味を失ったように踵を返し、雑踏へと溶けていく。
背中を見送りながら、頼道は買ったばかりの苺大福を潰してしまったことに気付いた。だがそれを気にする余裕もなかった。
その夜。大福を頬張る照行に必要な報告を終えた頼道は、少し躊躇いながらも昼の出来事を口にした。
「今日、町で……光緑様によく似た男を見ました」
照行の手が止まった。
一拍の沈黙。頼道には分かった。重たく安定していた空気が、音もなく崩れかけていたことを。
「……どこで」
声は低く、絞るよう。
「商店街の裏通りです。屋台が出ている辺りで、偶然……最初は本当に、光緑様かと思って」
照行は宙を睨むように視線を逸らした。
いつもなら軽口のひとつでも返していた。そいつは面白えなと笑い、煙草に手を伸ばしていたはずだった。だが、今夜は違う。
「……会ったのか、あいつに」
呟きのような声。
頼道は戸惑う。余裕と胆力に満ちた男が、たった一人の少年の影に動揺していた。
「……そいつは……………俺の、血縁だ」
ようやく吐き出された言葉には、重く絡まった迷いがある。言うべきか、言わざるべきか。逡巡が透けて見えるほど、あからさまだった。
血縁。その響きに、頼道は一瞬だけ納得しかける。
光緑の叔父である照行ならば、似た顔の親戚がいても不思議ではない。だが胸の奥にこびりつくような違和感は晴れない。
「光緑には……似てる奴がいたことは、言うなよ」
声に、明確な圧があった。
怒鳴るでもなく、睨むでもなく。ただ触れてはならない禁忌に近づいたことを告げる静かな威圧だ。その一言に、仏田家の底が滲んでいる。思わず頼道は背筋を正した。
「……分かりました。口外はしません」
「そうしてくれ」
それきり照行は口を閉ざした。
だというのに、帳簿と睨み合っていた照行の前にその少年は現れた。扉が軽くノックされ、場違いなほど明るい声の少年が我が物顔でヤクザの事務所に入ってきたのだ。
「よっ、おじさーん」
光緑――そう錯覚するには十分な面差し。よく似た顔立ちを持ちながら、無遠慮な笑みを浮かべる別人の少年がいた。
照行は、椅子を軋ませて立ち上がった。驚き、焦り、苛立ち。それらが綯い交ぜになった声が漏れる。
「ヒカル……! なに勝手に来やがった!」
「ん? 『いつでも遊びに来い』って言ったのはおじさんだろ。忘れた?」
ヒカルと呼ばれた少年は全く悪びれる様子もなく、肩で風を切り、ヤクザの事務所すら自分の部屋のように歩く。無邪気というより傲然だった。
「しばらくは顔出すなっつったろ。……この前、飯食わせたばっかじゃねぇかよ」
叱責の言葉に荒さはあるが、音の奥にはどこか甘さが滲んでいた。照行の親しみがこもった語気に、頼道は胸の内で困惑を抱く。
その視線に気づいたのか、照行は咳払いをした。
「……ああ、こいつはヒカル。昨日話しただろ。姉貴の息子さ」
さらりと告げられた説明。だが目は、笑っていない。それ以上の問いは許さないという無言の圧が、室内の温度を僅かに下げた。
頼道は一礼し「初めまして」とだけ口を開く。ヒカルはその言葉に、ふんと鼻を鳴らすように笑みを浮かべた。
「へえ、おじさんのとこの寺坊主って、あんただったんだ。なるほどね。ガタイは良いけど、目が優しい」
挑発めいた言い方。だが敵意は無い。
代わりにあったのは、探るような、試すような間。冗談に見せかけた一種の測定だ。
照行はその間に煙草を取り出し、大袈裟に火を点ける。吸い込んだ煙を大きく吐き出しながら、言葉を落とした。
「ヒカル、外の空気でも吸ってこい。話は後だ」
「今来たばっかなんだけど」
返事と同時にヒカルは事務所のソファに座り込み、足を組んだ。
緩んだシャツの襟元からは、若さの無防備さと、妙にこなれた余裕が同居していた。
「なあ、おじさん」
天気の話でも始めるかのような軽い口調。だが次の言葉は、空気を確かに変えた。
「こいつがいるってことはさ、あの『坊っちゃん』もこの近くにいるんだろ? 預かってるってことだよな? 凄いな、こんなとこまで来てんのか。どんな奴? オレ見てみたいな」
照行の手元で、火の点いた煙草が僅かに揺れる。肩の動きでそれが分かるほどに、反応は微細だった。
「やめとけやめとけ。見て面白ぇもんじゃねぇよ」
軽く笑いながら言う。だが声音には張り詰めた細い糸が混じっていた。
「いいじゃん別に。どんな顔してるんだ? オレに似てたりする?」
「ヒカル。……マジでやめとけ。おめーが笑って済ませられる話じゃねぇ」
吐き出した煙の向こうで、照行は低く唸った。
声音はいつもの軽口ではない。抑制され、慎重で、それでいてどこかに懇願の響きを帯びている。
ヒカルはその空気の変化を感じ取ったのだろう。少しだけ目を細め、けれどすぐに、頼道の方へと視線を滑らせた。
「……じゃあさ、『お前でいいや』。いっしょに来たんだろ、その坊っちゃんと」
言葉が、刃物のように向けられる。
頼道は言葉を失った。
「会わせてくれ。オレ興味ある」
冗談のような笑み。だが、その奥にある瞳は冗談ではない。
光緑に酷似した容貌が、まるで鏡の中に現れた影法師のように、頼道の胸に冷たく張りつく。
照行は煙草を灰皿に押しつけた。小さな音。だが、それはまるで鋼鉄の蓋を閉めるようだった。
「ダメだ」
それだけだった。
短く冷たく、決して覆らぬ断言。その場の空気には、笑いの余白すら残されなかった。
商店街を抜けた裏通り。頼道は茶封筒を脇に抱え、照行の使いで指定された事務所へと向かっていた。
夕暮れの陽射しは街の壁を鈍く染め、赤味を帯びた静けさが、緩やかにあたりを包んでいた。
舗装の甘いアスファルトに靴音を落としながら、頼道は肩を揺らし、足早に歩を進めていた。
「よぉ」
背後から、唐突に声が落ちてきた。
同時に、肩にずしりと腕がのしかかる。親しげな、あまりにも気安い重み。まるで旧友にでも再会したかのようなことをするのは、振り返るまでもない、あの少年だった。
「……ヒカルだっけ」
案の定、薄く笑みを浮かべた光緑に酷似した面差しがあった。笑顔の輪郭に隠しきれない無遠慮さと、自信に満ちた軽さを見せている。
「どこ行くんだよ、そんな肩いからせて。使いか?」
まだ頼道の肩に手を置いたまま、ヒカルは気安く笑った。
まるで何年も付き合いのある弟分のように、節度と距離感を軽々と越えてくる。
「ああ。ちょっと届けもんに」
「ふーん。じゃあさ、用事が終わったらどっか飯でも行かね? おじさんとだと飲み屋ばっかでさ、たまには若いの同士でってな」
調子の良さに、頼道は思わず口元を緩めかけた。
照行にあれだけ気安く接する人間はそう多くない。背丈は自分よりも低いのに、立ち方にも声にも、妙に場馴れした余裕がある。
「ヒカルって呼んでいいか?」
「ああ。寺の坊主……あんたは何だっけ」
「犬伏だ。……先に言っておくが、居場所は教えねえ。仏田の坊ちゃんのことは、組長から会わせるなと命じられてる。分かってくれ」
「そりゃ、仕方ねぇな」
声には笑みが混じっている。光緑と同じ顔をしているのに、人懐こさの質がまるで違う。
光緑の親しみには繊細な間があるが、ヒカルのそれは直線的で、他人の懐に飛び込むことをなんとも思っていない。
「仕方ねぇから、オレと飯でも一緒に食うしかないなぁ」
その言い方すら自然で、あっけらかんとしている。
頼道は知らぬ間に、彼の歩調に合わせ始めていた。
「……そうだな。ちょうど腹減ってたとこだ」
「やっぱり。坊主って礼儀ばっかりで、腹の虫も鳴かねぇのかと思ってた」
「今は坊主じゃねぇよ。もう、別もんになってる」
「でもさ、見た目真面目そうだし、やたら姿勢いいじゃん。寺の修行の名残ってやつ?」
「まあ、そんなとこだな」
歩きながらの会話に、不思議なほど間がなかった。
ヒカルの歩幅は僅かに短いのに、いつの間にか頼道の足取りと綺麗に重なっていた。
初対面のはずなのに、旧知のような呼吸。それが頼道にはどこか奇妙だった。心地良さの裏に、説明できないざらつきがある。
光緑とよく似た顔が別の道を歩いてくる。その背中が本当はどこへ向かっているのか、頼道にはまだ見えていなかった。
夕暮れの上野には、熱を残した舗道と、鈍く染まりゆく赤空がゆっくりと溶け合っていた。
交差点では自転車を押す親子の影が長く伸び、路地裏のラジオからは野球中継が微かに響く。
酒と炊きたての飯、煙草と汗、油の匂い。雑多で混沌とした人の暮らしが、この時間帯だけは妙にあたたかく胸に染み入るようだった。
「ここ、知ってる? 安いけど結構旨いぜ」
ヒカルが指差したのは、煤けた暖簾を揺らす小さな料理屋。赤い提灯が風に揺れている、何の変哲もない店だった。
「いいとこ知ってんな」
「おじさんと飯食う時は大抵こういうとこなんだよ。気取った店じゃどうにも落ち着かないらしくてさ」
笑いながら言うヒカルの顔に、照行の面影が一瞬浮かんだ。
姉の息子というにはただの血縁以上の空気を纏っている。きっと長い時間、あの男の傍にいたのだろう。
店の中には年季の入った木椅子と、ベタついたテーブル。年配の店主が黙って水を置き、ヒカルは迷いもなく「ラーメンと餃子」と注文する。頼道も倣って頷いた。
やがて湯気を立てて運ばれる丼と焼き立ての餃子の皿が運ばれる。
「旨いぞ。オレでも作れる味だけど、こういうのが最高なんだ」
ヒカルは箸を軽やかに動かしながら言う。
口ぶりに嫌味はなく、無遠慮でありながら人を不快にさせることがない。
「ヒカルは、組長のとこで育ったのか?」
「うん。親父がいなかったから、おじさんが代わりみたいなもんだった。母さんにべったりだった人だから、ずっとオレらのこと気にかけてくれてさ。あの人、ああ見えて結構甘いんだよ。居心地悪くなかった」
「そっか。分かるよ、あれはそういう人だ」
「でさ、俺はずっとおじさんと一緒だった。頼道は? 誰と一緒に生きてきた?」
突然の問いに、頼道は箸を止めた。
ヒカルの声音には軽さがあるが、その瞳は静かに観察していた。
「……生まれたときから、守ってる奴がいる」
「へぇ」
餃子を頬張りながら、ヒカルがぽつりと零す。
「いいな。そういうの、ちょっと羨ましいかも」
言葉の奥に、頼道は微かに滲む寂しさを感じ取った。理由も背景も分からない。ただ、何かが足りない人間の声だった。
外では空が群青に染まり始め、街にはネオンの灯りが滲み始める頃。時間に合わせたように、ヒカルが声を落とす。
「なあ、頼道。……仏田の坊っちゃんって、どんな奴?」
もう会わせろとは言わない、と前置きしながら、妥協案のように問いを差し出す。
そのくらいならと頼道は迷いながらも、素直に答えた。
「綺麗な男だ。中身も、見た目も。真面目で、勉強熱心で、弟思いで……いつも努力してる奴だよ。……少し、無理しすぎるくらいにな」
自分の言葉に胸が熱を帯びる。あの姿を思い浮かべるだけで、心のどこかが柔らかく溶けていくのを感じた。
ヒカルは黙ってそれを聞き、しばらく箸を動かしていた。そして笑う。
「金持ちだもんな」
その一言には、鋭くもどこか投げやりな響きがあった。
「勉強なんて金持ちのやることだ。しかもいいもん食って、いい服着て、周りに守られて、親に愛されて。……坊っちゃんは、何不自由なく暮らしてるんだろ? 羨ましいよ、そういうの」
「……違う」
頼道の声は、低く静かだった。
「あいつは、親に愛されて育ったわけじゃない。だからこそ、自分の足で立とうとしてる。誰よりも、必死に」
「……へえ」
ヒカルの笑みが僅かに薄れ、目元に陰が差した。
それは羨望か、過去への怒りか。頼道には測れない。
「頼道はさ。坊っちゃんのこと、愛してるんだな」
投げられた言葉。追及でもからかいでもなく真実を拾い上げたような、静かな音だった。頼道は唇を結んだ。
頼道が屋敷へ戻る頃には、街のざわめきも完全に夜の影に呑まれていた。
灯りの落ちた廊下を、足音を忍ばせながら歩く。
静かに襖を開けると、薄明かりのもとに二組の布団が敷かれていた。その一つに、光緑がもう腰を下ろしていた。
「おかえり」
声は、柔らかかった。
頼道は無言で頷き、隣に静かに腰を下ろす。
「今夜は……照行さんと?」
問えば、光緑はうっすらと目を細めて頷く。
「同業者との顔合わせだった。キャバクラって場所は、何度行っても驚かされるよ」
「あの人、キャバクラ好きすぎだろ。いったい何回行かせんだ……。酒、飲まされたのか?」
「少しだけね。断るのも角が立つから。でも、一緒についた嬢が優しくて。大人の酒に付き合わなくていいって、そっと引いてくれた」
「運が良かったな」
笑い合う声の裏で、頼道は言えないことを一つ抱えていた。
昼間に出会った、光緑によく似た少年――ヒカルのことは、話せない。
だから言葉の表層をなぞるように、他愛ない話だけを並べて、頼道は隣に体を横たえた。二人の布団はぴたりと寄り添っている。寝息の気配が微かな温度として肌に伝わるほどに。
しばらくして、光緑がぽつりと呟いた。
「……なんだか、こうしてると。あの村の3年間みたいだ」
頼道の胸が、ふっと温もりを帯びた。
あの冬。静かな山の麓で過ごした、子供たちばかりの小さな共同生活。薪を割り、湯を沸かし、肩を寄せ合って眠った夜々。
「俺も、思ってた。……布団並べて、誰かが鼻啜って、朝が待ち遠しくてさ。あの頃、毎日が楽しかったよな」
そっと光緑に手を伸ばす。
「……大好きだったよ」
光緑は、伏し目がちにそう言った。伸ばした頼道の手に、光緑の指がそっと触れる。
指と指が、静かに重なった。たったそれだけで、頼道の胸の奥に淡くも確かな鼓動が広がっていく。
「でも……いつまでもそう言ってたら、甘えたままだ。仏田家を継ぐためにも、誰かの期待を裏切らないためにも……ちゃんと変わらなきゃいけない」
まるで自らの喉を締めつけるようなことを言う。
誰も責めていないのに。それでも光緑は自分に罰を課すように、未来のための決意を言葉にしていた。
頼道は、光緑の手を引くとそっと自分の胸元に引き寄せる。
掌の下にある鼓動を聞かせるように。あの村の夜のように。寒さを分け合った、優しい時間のように。
冬はもう遠いけれどぬくもりは今もここにあると思い知らせるために。
/3
真夜中。荒れた港の倉庫街に、氷のような風が吹き込んでいた。
錆びついたコンテナの間からひゅうひゅうと潮の匂いが唸り声のように抜けていく。砂埃と古い血の匂いが混じるコンクリートの地に、何人もの男たちの呻きが散らばっていた。
関東外郭の組織。照行に敵対するその末端の一団に対し、今夜処罰が下されていた。
執行者は、光緑だ。
「静かに。順番に、罰を与えるだけですから」
その声はまるで人の感情が抜き取られたような乾いたものだった。闇に溶けるほどに冷たい声の主――光緑は、黒の長衣に身を包み、武器を持たずに立っている。
男たちは数十名。鉄パイプを構え、拳銃を抜いた者もいた。だがその全てが意味を為さなかった。
光緑が、ひとつ札を切る。空気がねじれた。歪んで、裂けた。刹那、男たちの膝がばきりと折れた。関節が逆に曲がり、靭帯が千切れた音が空気の中で湿った破裂音となって弾けた。
崩れ落ちる者たちは、まるで操り人形の糸が断たれたように、無様に、雑音のように地に叩きつけられていく。
術は骨の内側に干渉していた。血管の裏側、神経の鞘をこじ開け、四肢の動きを奪う。意識はそのまま。目を見開いたまま、自分の体が動かなくなる恐怖を、彼らは飲み込まされた。
そのまま光緑は次の術式へと手を伸ばす。
指先を空に向けて、ひと撫で。倉庫の天井がぎくりと軋み、鉄骨に刻まれていた無数の符が、一斉に紅蓮の炎を噴き上げた。
火柱が降りる。断続的に、容赦なく。
さらに符に触れた者たちは、己の記憶の奥底から、最も痛みの強かった場面へと引きずり込まれる。
骨を折られた瞬間。親に見捨てられた幼い日。水の底で息が絶えかけた感覚。無限に、それを繰り返される。
「やめろ……! やめてくれえぇえええッ!!」
男の一人が喉を裂くように叫ぶ。目は見開かれ、瞳孔はぶわりと拡がる。泡を噴き、歯を噛み砕き、舌を血まみれにしながら、のたうち回る。
光緑は歩みを止めなかった。誰一人として哀れに思わず、痛みに顔を曇らせることもなく。
ただ静かに、次の符を取り出す。その動きに、情など欠片もなかった。
倉庫の中には、もう悲鳴すら残っていなかった。崩れ落ちた男たちは全身の自由を奪われ、瞳を見開いたまま。人間の出せる音域を超えた呻きが、低く、時折、喉の奥でひくつくように漏れるだけだった。
光緑は、淡々と歩く。
冷たい床の上に、倒れた男の一人の顔があった。瞳孔は開ききり、唇が小刻みに震えている。
体は動かない。だが意識ははっきりとある。恐怖に泣き叫びたいのに、声が上手く出ない。その情けない男に、光緑は囁くように言った。
「これは然るべき報復です。我らに楯突いたことを後悔するといい」
その言葉には、慰めも予告もなかった。ただ事実だけが、刃のように告げられり。
右手を軽く振るう。床に刻まれた陣が、鈍く光った。
男の手が自分の顔を掻き毟り始めた。爪が皮膚を裂き、頬に赤い筋が走る。指の節が鼻梁を折り、歯が砕け、唇の端が裂ける。男は止めようとするが止まらない。自分の意志が自分の体に届かない。
次に別の男が発火した。炎は皮膚の下から起きた。骨の芯を焦がしながら、皮膚の内側を舐め上げるように拡がっていく。皮膚が水膨れのように泡立ち、爪が弾けて飛ぶ。
男は叫ばない。喉を潰す術式が先に施されていたからだ。無音のまま、彼の口は何かを叫び続けていた。その声は誰にも届かない。
光緑は一人、また一人と順番に近づき、同じ動作を繰り返す。
手を翳し、符を滑らせ、印を切り、視線を合わせる。それだけで、男たちは壊れていく。
頭部の中で幻視を見せる術。瞼の裏に愛する者の断末魔を映す術。骨がゆっくりと内側から螺旋状にねじれる術。どれも致命傷ではない。即死ではなく、意識のまま死に続けることを目的とした呪術群だった。
闇の中、彼の目が一際冷たく輝いていた。まるでそこにいるのが人ではなく、人間を処理するためだけに造られた、ひとつの機構であるかのように。
夜の海は潮を引ききっておらず、腐臭と塩気が風に乗って漂っていた。
赤黒く濡れた地面の奥、火柱の名残が薄明かりのように残る中、照行は煙草に火をつけた。
笑っていた。が、それは唇の動きだけで、目の奥には静かな戦慄が潜んでいた。
「……参ったななぁ。あいつ、もう完全に出来上がっちまってるじゃねぇか」
煙草を咥え、肺の奥へと紫煙を吸い込む。震えが、喉の奥でこそりと音を立てた。
「当主になる前から、当主になった兄貴と同じ顔になりやがった。まあ、『兄貴のアレ』は例外だろうけど。……圧倒的になるのは悪いことじゃねえよな。敵がいなくなるのは良いことだし、うん」
手の中の煙草が笑い始める。
照行のような男でさえ、今の光緑の背を見て、己が死ぬ場面を想像してしまった。
そういう完成を、今まさに目の前にしているのだった。
「やっぱ、血だなぁ。腐ってるのに、甘い毒みてぇで、綺麗な形に育ちやがる」
言いながらも、誇りはあった。育てた功績に対して。
だがその裏で、確かに、己の掌からこぼれ落ちそうな制御を実感していた。
そして照行の煙の輪の向こうで、森田 胡蝶がくすりと喉を鳴らした。
「怖がることなんてないのに」
黒い衣装が夜風にふわりと揺れ、髪を結い上げた首筋に月光のない明かりが宿っている。
女は妖艶な笑みを浮かべたまま、火柱の名残の赤に照らされる光緑の背を、うっとりと見つめていた。
「器としてなら、もう十分だった。術も記憶も規律も、全て完璧。でも……『負の感情の上に立つもの』になってくれたのは、嬉しい誤算だったわ」
女の声には、熱があった。
だがそれは愛情ではない。血と火と死に濡れた狂信の熱。
「だってその方が……『あの人』の復活の舞台に、相応しいから」
指先が、空に描く。円と十字。古式の召喚陣をなぞるように。女の口元に、陶酔の色が宿る。
「千年続いた器では足りないの。血と骨と、悪意と絶望。そういうものの上に立つ舞台が必要なのよ、あそこには。それを創り出してくれるかもしれない子なのね、光緑くんは。綺麗に、よく仕上がったわ」
囁きは甘く、だが耳の奥を針のように刺してくる。
「あの人が帰ってくるまで、もう少しだけ血が要るわね。あと一段階。それが済んだら、舞台の下地は完成する。……そのときは、誇ってあげて」
照行は深く、静かに煙を吐いた。
内心に巣食う恐怖を、夜風に紛れさせるように。
誇りと怯えが同居する苦味が、煙草の奥でくすぶっていた。
――遠くでサイレンの音が、まるで夜に呑まれるように小さく消えていった。
風が吹いた。海の匂いを運びながら、潮と錆と、焼け焦げた呪符の残り香を混ぜ合わせて頼道の鼻腔を掠める。
暗い倉庫の裏手、崩れた鉄扉の影に、頼道はただ立ち尽くしていた。
声も出なかった。息を潜め、胸を締めつけられるような沈黙の中で、彼はそれを見ていた。
光緑の背中が、残光に照らされていた。
黒衣の裾が風に流れ、血の滴る地面に音もなく足を進めてゆく。まるで死者の魂を誘う導師。あるいは、祈りも許さぬ処刑台の神。血も、魔術も、叫びも、涙すらも――全てを越えて、ただ「敵」と判断された存在に対し、粛々と罰を与えてゆく、その姿。
感情を削ぎ落とし、必要な命令を実行するだけの、『それ』。
その姿はあまりにも静かで、美しくて恐ろしくて、頼道の胸に焼きついて離れない。
(俺は……何をしている?)
隣にいると約束した相手が、恐ろしくて、見ていられなくて……目を背けて、吐き気を堪えているなんて。
(光緑の隣にいると決めた筈だ。守ると決めた筈だ。……なのに、俺は、怯えている。でかい図体をこんなに震わせて、なんて情けない)
あの日、雪の中で薪を運んでいた背中。夜更けに布団を並べて、冷えた手を擦り合わせた日々。自分の隣で、確かに笑っていた少年は……敵を蹂躙する恐怖の装置になっていた。
あれが『裏社会の頂点に君臨する男の後継者』に相応しいかと問われれば、きっと誰もが頷くのだろう。多額の金を奪い取り合う世界では、暴力が規模が大きければ大きいほど有利になる。そして光緑に求められているものとは、圧倒的な異次元の殲滅力を持ったカリスマだ。それに近づくために彼は今、鍛錬を積んでいる。
その結果が、これ。
頼道の胸に、感情が押し寄せた。怒りでもない。悲しみでもない。ただ圧倒的な喪失感と、どうしようもない無力感だった。
「凄いな。あれが、仏田の坊っちゃんか」
不意に背後から声が降った。聞き覚えのある声音に、頼道は振り返る。
倉庫の壁に寄りかかるようにして、ヒカルが立っていた。
火の届かぬ影の中、それでもその瞳は静かに鈍く光を帯びている。軽く笑う口元とは裏腹に、その眼差しは真っ直ぐに頼道を射抜いていた。
「……ヒカル、見てたのか」
「ああ。全部な」
ヒカルは手をポケットに突っ込んだまま、照れくさそうに肩をすくめた。
堂々としており、もし彼があの場に立っていたなら――光緑以上にその場を制していたかもしれない。得体の知れない確信が襲うほど、ヒカルは平然としていた。
「隠れてるつもりだったんだけどさ。あまりの凄さに動揺しすぎて、気配の消し方も忘れちまったよ」
「どの口が言うんだ。そんな、平気そうな顔して」
緊張から解放された頼道は肩で息をし、小さく苦笑する。
何も言わずにヒカルの隣へ立つ。二人の間に沈黙が落ちる。遠くで、火の残滓がぱちりと音を立てていた。
「……どうだった? あれが、ヒカルの見たかった奴だぞ」
問いかけは、喉の奥に棘のように刺さっていた言葉だった。
ヒカルはすぐには答えない。遠くの闇を見つめたまま、唇を僅かに歪めた。
「……鍛練、すげえ頑張らないとあんなの出来ないだろ。頑張ったんだな。あれはもう、努力とか根性とか、そういう次元じゃない。……あいつ、なんでもやれるぐらい頑張ってたな」
その言葉に頼道の喉がひくりと鳴った。
語りたいことは山ほどある。けれど、どれもが胸につかえて言葉にならなかった。
だが、押し出すように言う。
「そうだよ。……凄く努力してた。朝から晩まで、魔術の式を解いて、弟の世話して、笑って……我慢して。我慢して、我慢して、ずっと」
声が震えた。自分は本当に『傍にいた』と言えるのか。どれほど彼を『楽にしてやれた』のか。悔しさと誇り、そして取り返しのつかないものへの後悔が入り混じる。
ヒカルは黙って聞いていた。そしてぽつりと、目を逸らして呟いた。
「でもさ。あんなに苦しそうでいいのか?」
頼道の口が、一瞬だけ開いたまま止まる。
「合ってないんじゃないか。あの役割。……目が、さ。あれ、もう誰も見てなかった。誰を殺してるのかも分かってなかった。まるで……死んだ人間だったよ」
頼道は拳を握った。その言葉に反論したかった。否定したかった。けれど、できなかった。
あの目を、思い出してしまったからだ。感情の抜け落ちた、ただ命令に従って動いているだけの、からっぽの目。
「……だから、だよ」
頼道は、絞るように言った。
「だから……俺が、傍にいる。あいつがどこまでも仏田家に呑まれそうになっても、俺がいる。誰も愛してくれなくても、誰も止められなくても、俺だけは、あいつを見て……あいつを、『死んだ人間』には、させない」
その言葉は、祈りにも似ていた。自身に言い聞かせるような、必死の誓いだった。
ヒカルは驚いたように目を見開く。それから、ゆっくりと口角を上げる。だがその笑みには、どこか寂しさが滲んでいた。
「羨ましいよ」
「何が」
「そう言えるやつって、すげぇよ。オレもいつかそうなれたらって思う。……『親友がどんなに堕ちていっても、どこまでもついてってやれる男』に、さ」
ヒカルの笑みの奥に、何かがあった。押し殺された何か。叫びのような沈黙。
気づいた頼道は横顔を見る。夜はまだ深く、言葉にしていいものと、してはいけないものが、月の裏に隠れていた。
「なあ、頼道」
いつもの軽さを装いながらも、どこか戸惑いを含んだ呼びかけ。
躊躇いがちに言葉を探すような口調で、ヒカルは呟いた。
「……お前に話しちまおうかな」
頼道は訝しむように目を向ける。
その視線を受け流すようにヒカルは逸らし、照行の吸っているものと同じ銘柄の煙草を咥えた。火を点けずに、ただ口に咥えたまま、ふっと笑った。
「オレさ、『仏田の子』なんだ」
頼道は返事をしなかった。
胸のどこかでやっぱりと頷いた。あまりにも似た顔立ち。照行のあの中途半端な優しさ。『親戚の子』では説明しきれない何かを、ずっと感じていた。
言葉を探している間に、ヒカルは静かに続ける。
「本当の父親は、『和光』っていうらしい。……一番偉いやつ。そう聞いた」
頼道の背筋がぞわりと粟立った。
仏田 和光――この世の裏側を仕切る魔術結社の当主にして、表では極道の頂点。光緑の、父。
「……嘘、だろ……」
頼道の返しは、掠れてしまった。
「本当さ」
ヒカルは煙を吐くような仕草をして笑った。
その笑みは、やけに他人事めいている。
「和光がまだ当主になる前、オレの母さんと付き合ってたんだと。けど後継者に選ばれた途端、家の決めた女と結婚することになったらしい。で、オレと母さんは切り捨てられた」
頼道は言葉を失う。
ヒカルの語り口は淡々としていたが、語られる内容は重かった。
「捨てられた母さんを泣かせた親父が、ちゃんとした家の女と作った子。それが、光緑だってさ。……照行おじさんはその事情を知ってるから、オレにちょっと甘い。そういう話、あの人弱そうだろ?」
光緑よりも先に生まれた子――つまり、ヒカルは仏田家の『第一子』ということになる。
「……実の兄、じゃないか」
頼道が呟くと、ヒカルは鼻を鳴らした。
「まあな。兄なんて名乗る気ねえけどな。……会ったこともないし、兄弟ごっこなんて気持ち悪い」
その笑みは、どこかで自嘲と防衛を重ねたような仮面めいたものだった。
「ただ、面白いとは思ったよ。順番だけでいえばオレが坊っちゃんだったかもしれねえ。金も家も親の名前も背負って、人に守られて、愛されて、あっち側の人間として生きてたかもしれない。……おじさんに小遣いもらいに来てるようなオレを見てみろよ。所詮現実はこれだ」
それがもし順番一つで覆るものだったなら。
頼道はその問いを、喉の奥に押し込めた。ヒカルは壁に背を預け、口を開いた。
「頼道、お前さ……『なんでオレが光緑に会いたかったか』って、考えたことある?」
頼道は黙って頷いた。
ずっと気になっていた。顔が似てる。それだけじゃない、もっと深い動機があると感じていた。
ヒカルは煙草の煙を弄びながら、ふっと笑う。
「実の弟に、会ってみたくなるもんだろ? オレと母さんを捨ててまで、生まれてきた正統な子供が、どんな顔してるのか。……それが、ただ気になっただけさ」
言葉は軽やかに投げられたが、心に刺さる鋭さがあった。
乾いた怒り。哀しみ。そしてそのどれもが、光緑を恨んでいないという残酷な優しさと共にあった。
「正直なとこ言えばさ、和光の野郎をぶん殴りに行きたいよ。……あいつが、どれだけ大きな顔して生きてようが、オレにとっちゃ、ただ『母さんを泣かせた男』だ。オレには一度も会いに来たこともない。金でも置いていってくれたんなら話は違ったが、それすらねえ」
ヒカルは唇の端を引きつらせて笑った。
その笑みは無力で、苦く、まるで哀れな子どもが真夜中に吐いた溜息のよう。
「それどころか、和光のやつ――遊んでやがるって噂がある」
「えっ……?」
「裏で金をばら撒いてさ。あちこちで動いてるらしい。派手に遊んで、敵も増やすし、その敵はブチのめすし、変な建物を建てたり、宗教みたいなこと始めたり……んで、自分は出てこない。あんな風に光緑を前に出して、舞台に立たせて……自分は遊んでばっかで。何がしたいんだよ。意味わかんねえよ」
夜空は沈み、どこまでも深く黒かった。
頼道はその言葉に、何も返せなかった。上に立つ者の意志など、考えたところで分からない。
だが、分かってしまうことがひとつある。
「……ヒカル」
地を這うような擦れた声だった。頼道は胸の奥から絞り出すように、その名を呼んだ。
「頼む。……光緑に、会わないでやってくれ」
ヒカルの目が細められる。けれど返答はなかった。
「あいつは、ここまで……本当に、頑張ってきた。弟たちのために。仏田を背負うって、あいつ自身の意思で、引き受けて……」
頼道は喉元に手を当て、言葉を整えようとしたが、息が詰まって続きが出ない。
ようやくの呼吸の後、崩れかけた声音で続けた。
「村にいた頃からだ。藤春をあやして、柳翠を抱いて、式を写してた。長男として、後継者として……誰にも甘えず、笑って、生きてた。誰にも褒められずに、それでも、ずっと……」
静寂が落ちた。ヒカルは目を伏せ、何も言わないまま、海の風が吹きすぎた。舗道を転がる乾いた葉の音だけが、空虚に響いていく。
「……だからもし、お前みたいな逞しい奴が現れて、『自分は兄貴だ』なんてことになったら……」
頼道は顔を上げた。その目は赤く滲んでいたが、揺らがぬ光を宿していた。
「……あいつは、壊れる。『自分は必要なかった』って思うだろう。全部が、無駄だったって。……あいつは、強いように見えて本当は、すごく脆いんだ。誰にも言わねえだけで……」
長い沈黙ののち、ヒカルは目を閉じるようにして、一つ息を吐いた。
「……そうか」
それは低く静かな、凪のような声音だった。
「お前、ほんとにあいつのこと、守ってんだな」
頼道は何も言わず、ただ頷く。
顔を上げたヒカルの口元に薄く、どこか光緑と似た苦笑が浮かび上がる。
「最初はさ……ただ顔が似てるってだけで気になったんだよ。どんな奴かって。毎日、どんな面して偉そうに生きてんのかって。でもさ……お前の話、聞いたら、もうそれで充分だって思えた」
言葉には皮肉も嘲りもなかった。ただ滲むような哀しみと、それを越えようとする決意がある。
「……会わないよ」
静かに、けれど揺るぎない声だった。
「オレは、影でいいや。あっちが光なら、オレは影で十分。血が繋がってたって、別に兄貴面する気もねぇしな。……弟だし、助けてやらなきゃ」
頼道は深く頭を垂れた。礼の言葉は無かった。ただ、風が再び間をすり抜けていく。
名を知らぬ街角で二人の少年がそれぞれの誇りを胸に抱いたまま、肩をすれ違わせてゆくように静かに立っていた。
← / →