■ さわれぬ神 憂う世界 「高梨緋馬の因縁継鎖」 ・ 3ページ目


【7章】

 /1

 超人類能力開発研究所機関。その名は日本における異能研究の歴史において、常に影の主役として刻まれてきた。規模、知名度、そして裏の顔。全てにおいて群を抜き、異能という未知を制御・支配せんとする巨大な装置であった。
 表向きには、異能の科学的解明を掲げた研究組織。魔道具の開発と流通、能力者の育成と派遣を担う『公的』機関であると装っていた。しかしその真の源流は、現代科学などでは到底掬いきれぬ深い闇に根ざしている。
 その血脈は西暦1000年、平安の夜陰に芽吹いた古の魔術結社・仏田寺に遡る。
 仏田家は一千年に渡り山奥の孤高なる寺院を拠点とし、人智を凌駕する叡智の探究に没頭してきた。陰陽五行の理を超え、死と命の境を侵犯する呪術体系。儀式を理論に昇華し、呪文を数式と化し、そしてついには、魂と魂を強制的に結合させる秘術『聯合』へと至る。
 時に朝廷に取り入り、時に追われながらも、彼らは滅びることなく、千年の時を越えて存続した。
 やがて明治維新の近代化の波が仏田家の秘術に科学という光を当てた。
 その光は浄化ではなく、むしろ暗黒を研ぎ澄ます刃となった。国家中枢に食い込んだ仏田の影は、敗戦後の混迷に乗じ、独自の魔術理論と世界各国の魔法化学を融合し、ついに超人類能力開発研究所機関を創設するに至る。
 仏田の名のもとに築かれたその研究機関の裏側には、決して表に出ることのない夥しい犠牲の山が横たわっていた。
 能力という異常性に魅入られた彼らは、「智慧の探求」と称して、多くの能力者や人外種族を生きたまま解剖してきた。
 肉を裂き、どこに人間との差異があるのかを暴き、内臓を掘り返し、魔力を生成する臓器を探った。
 解剖の後には、脳に呪符を刻み、血に異物を流し込み、骨に鉛を埋め、心臓に式を繋ぎ込んだ。
 それらを「改良」と呼び、価値ある『製品』へと錬成し、金に換えた。
 何十、何百、何千という生命が、その狂気に呑まれた。
 滅んだ一族、根絶やしにされた種族は数知れない。
 それでも、彼らは言い続けた──「これは智慧のためだ」と。
 だがそんな巨大な悪の機構にも、抗おうとする者たちが現れる。
 レジスタンス――それは、機関に命を奪われた者たちの遺志。あるいは、奪われかけた者たちの怒りと記憶が集まり生まれた、亡霊のような戦士たちである。
 機関が極秘裏に進めていた人外種族の大量誘拐。その地獄から奇跡的に逃れた生存者たちが、沈黙を破って告発した。
 かつては機関に属しながらも、その非道に疑問を抱き、粛清を逃れて亡命した者たちもいた。
 仏田家を後ろ盾に、国家すら味方につけていた研究機関。
 だが正義を信じる者たちは、数に頼らずともやがて自然と群れを成す。彼らは集い、反旗を翻した。それがレジスタンスである。
 目的はとてもシンプル。機関の破壊と、全ての囚われ人の解放。それは正義の名を借りた復讐か、あるいは希望の最後の灯火か。いずれにせよ、命を懸けて戦う彼らの背にあるものは、怒りでも誇りでもない。
 それは『もう見過ごせない』という、痛みの記憶だった。

 エンジンが微かに唸りをあげながら、車は仏田寺を離れて舗装路を滑るように下っていく。
 曲がりくねった山の斜面をなぞる細道は闇に沈み、フロントガラスの先には、切り裂かれた夜を縫うようにヘッドライトの帯だけが伸びていた。
 助手席に座る緋馬は、無意識のうちに運転席の男を見つめていた。
 仏田新座――仏田家の人間にして、今はその闇と戦う者。彼が語った仏田寺と機関の悪行、そして自らが属するレジスタンスの話。その余韻が、まだ緋馬の胸の内で重く鳴っていた。
「……僕が仏田家を家出したのは、17歳のときだ。ちょうど緋馬くんくらいだったかな」
 新座は低い声で呟く。どこか過去を俯瞰するような、熱を抑えた語り口だった。
「昔から、次期当主への教育は尋常じゃなかった。兄の燈雅が病弱だったせいで、健康だった僕に白羽の矢が立ってね。血反吐を吐くような毎日だった。知識も礼儀も呪術も……全部が選ばれし者の器に見合うようにって。まるで罰のようだったよ」
 そこに冗談の影はなかった。ただ静かな怨のように言葉が流れた。
「けれど、燈雅お兄ちゃんは優しかった。自分が手術で強くなるから、教育は全部自分に集中させてほしいって言い出してね。機関の身体強化手術を受けて、丈夫になって……それからは修行も積んで、誰もが認める当主様になった。……僕はそんな兄を持てて幸運だった。でも、恐ろしくもあった。自暴自棄な兄を肯定するこの家の在り方が怖くて、逃げ出したんだ」
 その言葉に、緋馬は自然と藤春を思った。
 兄が当主に決まった瞬間、藤春もまた仏田家を離れた。
 血反吐を当然とする世界から、あの人も逃げたのだ。
「お兄ちゃんは僕に甘いからね、家出も許してくれたみたいで見逃された。一昔前なら駄目でもラッキーな時代だったよ。……それから10年、自由に生きた。だけどね、外に出てからの方が仏田や機関の恐ろしさを実感したよ。能力を持つ子どもを『素材』って呼んで、人外種族を『標本』扱いして、金に換えてしまう。……それが正義の仮面を被ってまかり通ってる。見ていられなかった。止めなきゃって思ったんだ」
「そして今は……」
「機関と、戦っている」
 それは正義の名で括れるような戦いではない。
 もっと濁っていて痛くてどうしようもなく人間的な、そんな闘争だった。
「……今日、おばさんの通夜に来ていたのは?」
「僕も緋馬くんと同じで、藤春さんの甥だからね。世話になった叔父の奥さんの葬式には出たかった。それに……あずまさんは、僕たちの仲間だった。レジスタンスの一員で、僕よりずっと経験豊富な先輩エージェントだったよ」
 それは、以前匠太郎の口からも聞かされていたことだった。
 けれど一つだけ腑に落ちていないことがある。
「どうしておばさん……あずまさんは藤春おじさんと結婚したんですか? 藤春おじさんは、仏田の男でしょう? まさかスパイとして……」
 緋馬が疑念を口にすると、新座は鼻先で笑った。
「そういう陰謀論、信じちゃうタイプなんだ?」
 あざけり混じりの声音に、緋馬は一瞬カッとした。
 だがすぐに、その反応こそが自分の浅はかさを示していることに気づき、俯いて小さく頭を下げた。
 知っているはずの人を、信じてあげられなかった。それが悔しかった。
「確かに、あずまさんはレジスタンスの仲間だった。勇敢で優しくて、機関のせいで不遇な目に遭った人たちのためにいつも動いていた。目立つ人だった。だから狙われたのかもしれないね」
「おばさんを殺したのは……機関、仏田家……」
 新座は深く頷いた。そして少しだけ言いにくそうに続ける。
「そのおばさんが、仏田家で葬儀をされるって知ったとき、僕は警戒した。何か仕掛けがあるんじゃないかって。でも参加してみたら……ただの、静かで、穏やかな通夜だったよ。機関が表に出てくることもなかったし、親戚たちも藤春さんの様子を気にかけてた。……あの家の中じゃ珍しいくらい、善意に包まれた葬式だった」
 ハンドルを握る新座の横顔に、微かな安堵の色が差す。
 仏田家は狂っていたかもしれないが、藤春の周囲にはまだ『人』が残っていた──そう言いたげに。
「……藤春さんみたいなタイプはさ。好かれるか、極端に嫌われるか。二択なんだろうね」
 苦笑する新座に、緋馬は何も返さなかった。好かれるか、極端に嫌われるか。二択。その言葉に、ただそっと目を伏せた。

 新座の話を聞きたくて車に乗り込んで、一時間が経過した。
 曲がりくねった山道を抜け、ようやく麓が見えてくる。暗い山影が後方に遠ざかる頃、緋馬は小さく深呼吸をし、胸元に抱いていた問いを口にした。
「新座さんは……これ、知ってるんですか?」
 そう言って差し出したのは、小さな勾玉。掌の中に馴染む不思議な感触を持つ、石の欠片だった。
 ハンドルを握る新座はちらりと視線を落とし、次の瞬間には小さく笑って前を向いた。
「知ってるさ。同じものを持ってる。だからさっき見せつけたのさ」
 そう言って胸ポケットから取り出したのは、緋馬のものより僅かに大きく、より艶やかな光を湛えた勾玉だった。
 二つの勾玉が、車内の淡い照明のもとで共鳴するように僅かに揺らめいた。
「僕も時間を越えたことがある」
 緋馬の喉が、ごくりと鳴った。目の前にいるこの男は、思っていた以上に、遠くの時間を、深く歩いてきたのかもしれない。
 いや、もしかしたら自分よりもずっと前から、この運命を生きてきたのかもしれない。
「緋馬くん、顔色が悪いね。代償が体に出てるんだ。……僕も最初はそうだった。最初に1年跳んだときなんて、無気力すぎて数日は動けなかったよ」
「……1年? 新座さんは1年も時間跳躍できるんですか?」
「できるとも。君は?」
「……よくて12時間。でも今回は……24時間。今の俺は、明日から来ました」
 どうして24時間も戻れたのか。『何か自分の力を倍増させる原因に触れてしまったのか』、考えても緋馬には分からない。
 そのまま車内に静寂が落ちた。車は滑るように舗装路を進み、市街地の灯が近づいてくる。
 街灯がフロントガラスを斜めに切り裂き、緋馬の頬に細い影を落としていた。助手席で両手の中にある勾玉を強く握りしめたまま、視線を伏せる。その姿を横目に新座が柔らかく、けれど鋭く訊ねた。
「で? 時間跳躍者の緋馬くんは、何を見て……何を知って、時間を越えてきた?」
 その声には、笑みが混じっていた。だがそれは表情の装いにすぎない。
 時間跳躍の重みを知る者にしか出せない声音だった。軽口の皮を被りながらも、真意は深く鋭く、緋馬の心の核心を狙っていた。
 緋馬は、すぐには答えなかった。
 喉の奥で何かが引っかかるように息が詰まり、ただ俯いたまま、唇を微かに震わせていた。
 小刻みに揺れる肩。やがて、か細い声が絞り出される。
「……明日、12月31日。仏田寺に……化け物が来て、みんな、殺される」
 それは幻想ではない。妄想でもない。
 血の匂いを知る者の声。何度も死を体験した者だけが持つ重み。
「寺にいた人たち……俺も、おじさんも……全員。俺、何度も殺された。何度も、何度も……っ」
 拳が膝の上で小さく震え、爪が皮膚に食い込む音が微かに響く。
 新座はその痛ましい声を否定も肯定もせず、ただ静かに受け止めていた。
 彼自身が、かつて似たような『死に戻り』の地獄に立った者であることが、その沈黙に滲んでいた。
 緋馬の表情には涙こそなかったが、恐怖の刻印がくっきりと刻まれていた。
 何度も殺され、何度も失った者の顔だった。
「……でも、誰も信じてくれない。俺しか、覚えてないから……」
 それは、深い夜に向けて投げられた、ひとりきりの独白だった。
 しばらく沈黙が続いた後、新座が静かに尋ねた。
「その化け物……見当はついてる? 暴走した異端? 怨霊? それとも……」
「違う。自然に現れたんじゃない。あれは、呼び出されたんだ。……寺の、地下の……納骨堂の奥で、儀式が行われてて……」
 伏せられた視線のまま、緋馬は言葉を続ける。震えながらも、確かな声で。
「……呼び出したのは……俺の、父親」
 瞬間、車内の空気が沈黙とともに凍りついた。
 車が赤信号でゆっくりと止まる。市街地の光が車窓を染め、仄かな温度が山の闇を切り替えていく。
「仏田柳翠……か」
 名前を口にした新座の声には、長年積み重ねてきた疲れと諦念が滲んでいた。
 緋馬は頷く。顔を上げないまま、ただ肯う。
「てっきり燈雅お兄ちゃんが主犯かと思ってたよ。……まあ、協力関係だろうけどね」
 口調は静かだったが、怒りよりもむしろ、失望と慣れの色が強かった。長い年月、闇と向き合ってきた者の声だった。
「……新座さんは、父のこと、何か知ってますか」
「知らないはずがないよ。柳翠の名を仏田で知らぬ者はいない。機関の上門狭山に次ぐ第二位、そして仏田の影の首脳。表に立つ燈雅を支え、操る……仏田と機関、両方を繋ぐ核みたいな人間さ」
 新座が語るその姿は、緋馬の知る『冷たく、残酷で、幼稚な父親』とはまるで別人のようだった。
「さて。僕はレジスタンスの人間だ。時間跳躍者の君を味方にできるなら……喜んで手を貸すけど?」
 ちらりと横目で見てくるその目は、茶化すようでいて真剣だった。
 緋馬は少し迷った後、静かに言った。
「……助けてください」
 新座はふっと笑って、意地悪そうに言った。
「じゃあ、何度も死んだ経験を踏まえてさ。なんか役に立ちそうな情報ない? 秘密の抜け道とか、裏口とか、爆弾倉庫とか」
 緋馬は少し考え込んでから、首を横に振った。
「俺の知ってることなんて、大したことないです。強いて言えば……地下トンネルがあって、そっからならすぐ下山できるってくらいで」
「……なにそれ?」
 新座の動きが止まった。
 唐突に声の調子が変わった。緋馬が戸惑って顔を上げる。
「え、いや。寺の隣の施設から繋がってる通路だそうです。関係者しか使わないみたいだけど、掃除の業者っぽい人も通ってるって言ってたし、搬入もそこだって……」
 ちょっと待ってと新座が鋭く手を上げた。「それ、どこにあるの?」と咄嗟に新座は虚空から上空地図らしきをものを引っ張り出し、指差すように指示する。
「どこ?」
「えっと、こっち側の建物の裏手……この辺り。そこからトラックが入って、山の下まで十分快速に下れるって、上門さんが言ってて……」
 話の途中、新座は舌打ちした。そして、口元を吊り上げて笑った。
「……僕、あそこで17年暮らしてたけど、そんなトンネル知らなかったよ。ときわくんや圭吾さんも言ってなかった。……いつの間にそんなもん造ったのさ」
 その笑みは皮肉で、そして満足げだった。
「君さ……地味に今、一番の切り札を出したって自覚ある?」

 コンビニエンスストアの駐車場に車を停めた新座は、迷うことなく電話をかけ始めた。
 今しがた得た重要な情報を、レジスタンスの仲間へ伝えるためだった。
 12月30日の夜。外気は張りつめた冷たさを孕んでいた。
 車内の暖房は心地よく効いており、そのぬくもりが却って、外の世界との温度差を際立たせていた。
 緋馬は一人、窓の外に目をやっていた。もう小さくしか見えない遠くの山、闇に沈むその稜線を、まるで忘れられない夢の残像のように、じっと見つめていた。
「緋馬くん。君をこのままレジスタンスの本部に匿うこともできるよ」
 運転席から響く新座の声は軽やかだったが、そこには確かな重みがあった。
 それは単なる選択肢ではなく、一つの救いとして提示された言葉だった。
「正式な保護対象として扱えば、化け物や儀式に巻き込まれずに済む。……もう怖い場所に戻らなくていいんだ。おじさんのことが心配ってのは分かるよ。でも、生き延びて、何かを託す道だってある」
 緋馬は何も返せなかった。
 夜の闇を縫う市街地の光。そのまぶしさを無言で見つめながら、拳をぎゅっと握る。爪が掌に食い込むほどに。
 ほんの少しの痛みが、ようやく今ここにいるという感覚を与えてくれる。
(逃げてしまえば、楽だ。……勾玉もある。俺が動かなくても、誰かが何とかしてくれるかもしれない)
 それでも──脳裏に焼きついた伯父の姿が、痛みと共に蘇る。
 喪服に身を包み、静かに背筋を伸ばしていたあの姿。
 誰よりも傷ついているのに、それを誰にも悟らせず、ただ人々の前に立ち続けた背中。
 義母の遺影を抱きながら、それでも他者を気遣い、守ろうとしていた優しさ。
(俺だけ、安全な場所に逃げて……それで、いいわけがない)
 思い出すのは、何度も繰り返された血塗れの夜。
 巨大な触手に貫かれ、人の悪意に晒され、命を絶たれる藤春の姿。
 助けられなかった自分。叫びも届かず、ただ絶望だけが塗り重ねられていく。
 その記憶が、胸の奥を灼くように疼く。
(怖い。怖いに決まってる。……でも)
 答えを出せぬまま、ポケットの中でガラケーが震えた。
 光る画面に映し出された名前。「藤春」。一瞬、指先が躊躇った。
「僕、ちょっと飲み物買ってくる。ごゆっくり」
 新座は緋馬の返事を待たず、車外へ出た。開いたドアから吹き込んだ夜風が、頬をかすめる。冷たく、それでいてどこか背中を押すような風だった。
 緋馬は通話ボタンを押す。
「……緋馬」
 低く張りつめた声が、耳元から流れ込んだ。
 怒り、優しさ、そして何より深い心配が滲む大人の声だった。
「……もしもし」
「どこにいるんだ。お前、どうして……いなくなったんだ。葬式の途中で、何の言葉もなく。誰だって心配するって、分かってたはずだろ。……俺は、本気で……」
 緋馬は、声を返せなかった。
 心臓が速く打ち、喉が渇いていく。言葉にならない感情が、胸の内でぐらぐらと煮え立っていた。
「……ごめんなさい」
 ようやく絞り出したその一言は、ひどく小さく、かすれていた。
「……何があった。何があったとしても、お前が生きていてくれれば、それでいい。……でも今度は、ちゃんと話してくれ。頼むから……心配させるなよ」
 藤春の声は、崩れそうな感情を押し留めながらも、滲み出す愛情に満ちていた。
 緋馬の胸の奥が熱くなる。目の奥が、じんわりと痛む。
 今すぐにでも、「逃げて」と言いたかった。
 けれど、そんな言葉を信じてくれる保証はなかった。
 あの日、「一緒に帰ろう」と言ってくれたのは、緋馬が死の淵に立ち、偶然の奇跡が生まれたからにすぎない。二度目は、ない。
 緋馬は、ただ耳元から聞こえる伯父の声にすがり、震える唇を動かした。
「……今、高校の友達といる。……仲良い子。偶然会えたんだ。だから、安心して」
 嘘だった。でも、これしか言えなかった。
「……信じるぞ」
 優しい声が返ってくる。その言葉に、息が詰まりそうになる。
「おじさん……」
 何かを言いたかった。でも、どう言えば届くのか分からなかった。
 ただ一つ、どうしても伝えたかった言葉が、胸の奥で疼いていた。
 ──生きていてほしい。
 何度も、何度も、目の前でその命が奪われた。血に濡れた体。白く濁った瞳。叫んでも間に合わなかった。気がつけばまた朝が来て、また地獄が繰り返される。
 せめて、今度こそ。
「……おじさん……明日……」
 言葉にした途端、胸が軋み、涙が喉元までこみ上げた。
「……明日、死なないで……」
 嗚咽を堪えた声だった。それ以上は何も言えない。言葉にすれば、全てが崩れてしまいそうだった。
 電話の向こうでしばし沈黙が流れた。そして藤春の声が静かに落ちてくる。
「……緋馬。あずまのことを、そうまで思ってくれてたんだな」
 喉奥で、言葉にならない声が転がった。
「明日は、納骨の日だからな。辛いのは無理もない。別れたくないって、どこかへ行きたくなる気持ちも……俺は分かる。……本当は、俺もそうだから」
 声音には、深い哀しみと、優しさがにじんでいた。
 まるで緋馬の苦しみを理解していると信じているような、あたたかな大人の声だった。
「大丈夫だよ、緋馬。俺は、明日もちゃんと傍にいる。……お前を置いて逝ったりはしない」
 ──違う。そうじゃない。
 けれど否定できなかった。
 その誤解が、あまりにも優しくて、あまりにも残酷で、緋馬はただ唇を引き結び、嗚咽を堪えた。
 藤春は穏やかに続けた。
「明日、お前が戻ってくるのを待ってる。……ちゃんと、俺も向き合うから。お前の悲しみも、俺の悲しみも、もう逃げない。だから、帰ってこい」
「……うん……」
 しがみつくように震える声で、それだけを返す。
 世界が、少しだけ傾いた気がした。
 込み上げてくる嗚咽を必死に抑えながら緋馬は通話を切ると、咄嗟に携帯を胸に押し当てて、泣いた。


 /2

 通話が途切れた。耳元から音が消える。その静けさは潮が引いたあとの浜辺のように空っぽで、ただ取り残された感覚だけが胸の奥に打ち寄せてくる。
 藤春は暫く携帯電話を耳に当てたまま動かなかった。誰の声も返ってこない受話口を、名残を惜しむように、まるで手放したくない何かを抱きしめるように。
 自分の声が届いたかどうか、それは分からない。けれど確かに聞こえた。震える声。声の奥に沈んだ、言葉にできない静けさ。あれほど雄弁な沈黙は、他にない。
 泣きたくても泣けず、叫びたくても声にできないものを、懸命に飲み込もうとしていた。そんな声だった。
 あの子は、泣いていた。姿は見えずとも分かる。あれは緋馬が感情を噛み殺しているときの声だ。喉を締め、唇を噛み、涙さえ押し留めようとするあの子が、出す声だ。
(今朝……悪夢を見た。緋馬が自殺しようとしてた夢。間一髪、夢の中の俺が止めて……。その後もずっと、緋馬につらい想いをさせるだけの夢)
 あの夢を見たせいか、今日はずっと緋馬のことばかり考えていた。だけどするべきことが多く、緋馬に向き合う時間も設けられず、そして彼は寺を飛び出してしまった。
 胸に棘が刺さったままの藤春はそっと携帯を伏せ、喪服の胸元に押し当てる。
 通夜は終わった。参列者たちはそれぞれ、重たい空気を纏いながらも、少しずつ日常へと歩を戻しつつある。けれど、藤春だけはその場に取り残されたまま。緋馬もまた、いなくなった。
 ──なぜ、もっと早く「大事だ」と伝えられなかったのか。
 ──なぜ、もっと早くあの子を抱きしめてやれなかったのか。
 どれほどの痛みと重さをあの歳であの子が背負っているのか、それは分かっていたはずだった。
 目を見れば分かった。声を聞けば分かる。あれはもう、子どもの泣き声ではない。死という別れをいくつも見送ってきた者の、それでも生きなければならない者の声だった。
 ──「明日、死なないで」
 その最後の言葉だけが、耳の奥に焼き付き、離れなかった。
(緋馬……)
 名をそっと呟いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
 どうしようもなく、愛しかった。守りたくてたまらなかった。けれど、その愛しさの全てが、今は届かない場所に置かれている。
 あの子は独りで、何かと戦っている。何かに怯え、何かを必死に食い止めようとしている。
 今すぐにでも駆け出して抱きしめたい。全てを受け止めてやりたいとも思う。だがそれが許される関係ではないことを、藤春は誰よりもよく知っていた。
 自分は大人で、あの子は甥であり、血の繋がった家族だった。越えてはいけないその線が、今はあまりにも苦しかった。
(どうか無事でいてくれ)
 仏田寺の庭に、一枚の葉が舞い落ちる。夜気は冷たく、喪服の裾を静かに揺らす。藤春は目を閉じ、息を吐いた。
 あずまを弔う時間は、もう終わっていた。いま自分の胸を占めているのは、別の命のことだ。
(あの子が嘘をついてでも隠そうとする恐怖から、どうか救ってやってくれ)
 この手であの子の絶望を拭ってやりたい。その一心で祈りながら、藤春は夜空を仰いだ。
 記憶の底から、波紋のように一つの情景が浮かび上がってくる。夜風が、記憶の扉を静かに開けたかのようだった。

 ――人気のない和室に、ぽつんと敷かれた布団。
 その上に縛られたまま横たわっていたのは、僅か5歳の小さな小さな身体。
 口元には何も塞がれてはいなかった。それでも少年は、一言も発しなかった。泣くこともせず、叫びもせず、ただじっと虚空を見つめていた。
 声を知らず、言葉を持たず、世界から切り離されたまま──ひとり。
 藤春は、迷うことなくその子を抱き上げた。
 細い手足ごと布団にくるみ、さらに毛布で包み込んだ。微かに温もりが戻りはじめたその身体を、暖房の効いた車内へと運び入れる。
 緋馬との暮らしは、すぐには始まらなかった。仏田家にまつわる一切を調べ、無数の書類に目を通し、説明不能な経緯に役所との折衝を繰り返す日々。
 けれど、藤春は決して諦めなかった。自ら保護者となる決意をし、法のもとで彼を引き受けることを選んだ。
 二度と、あの子を独りで泣かせたくなかった。
 そうして始まった二人の生活は静かだった。
 笑わない。泣かない。表情ひとつ動かさない。食事を出しても、うまく口にできない。絵本を読み聞かせても、ページをめくる音にさえ反応せず、ただ目だけを、沈んだ水のように動かす。風呂に入れて体を拭こうとすると、タオルの気配に怯えるそぶりすらあった。
 それでも焦らなかった。無理に笑わせようとも、何かを教え込もうとも、愛情を押しつけようともしなかった。
 藤春はただ、「共にいる」ということを続けた。食卓を共にし、言葉を交わし、時に沈黙のまま寄り添う日々。
 やがてほんの僅かな変化が訪れる。
 緋馬はまだ、唇を固く閉ざしていた。けれどある日、ふと目元を細めた。微かに、ほんの微かに笑った。それは小さな灯だった。けれど確かに、胸の奥を照らしてくれた。
「……おじさん、好き」
 囁くような声が、空間に落ちる。
 瞬間、藤春は声を失った。それがどれほど重い言葉なのか。どれほどの想いをこめて放たれたものか。痛いほどに、分かっていた。
 愛おしい。胸の奥から音もなく、静かに感情が溢れ出す。抱きしめたくなる。泣きたくなるほど、ただ愛おしい。
 今どこかで震える声で「明日、死なないで」と告げた緋馬。
 あの子の中には、まだ傷が残っている。癒えぬまま、深く刻まれたままで。
 それでも生きている。誰かを想い、誰かを愛する力を失わずに。
 だからこそ守らねばならない。何があっても。どれほど代償を払うことになっても。あの子がまた、灯を抱えて笑えるように。

 仏田寺の堂内は、深夜の静寂に沈んでいた。
 蝋燭の炎が揺れる。橙の光が祭壇に据えられた一枚の遺影を柔らかく、しかしどこか夢のように照らしていた。
 藤春は、あずまの写真の前に静かに座っていた。
 眠気はとうに過ぎ去り、残るのは体を鈍く蝕む疲労だけ。それでも目を閉じる気にはなれなかった。
 写真の中のあずまが笑っていた。生前、写真を嫌っていた女だった。選べる一枚は数えるほどしかなかったが、それでもこの一枚だけは彼が記憶するあずまの笑みに最も近いものだった。
「……お前のことは、大切だった。今でも、大切だ」
 ぽつりと落ちた言葉が、堂内の板張りに沁み込んでゆく。
 まるで返事を待つかのように、一拍の間を置き、藤春はまた呟いた。
「緋馬も、大事なんだ。……お前なら分かってくれるよな」
 僅かに笑んで、続ける。
「あの子の母親をしてくれるかなんて……ほんと、色気のないプロポーズだった。すまなかった。……でも、そんな俺を好きだって言ってくれたお前が、好きだったよ」
 唇の端を静かに緩める。優しく遺影を見つめながら、藤春はその想いを静かに手渡した。
 そのとき障子の向こうから、微かな足音が忍び寄った。
 寺の奥はすでに寝静まっている。こんな時間に訪れる者など、あるはずもない。
 やがて障子が、そっと開く。
「交代の時間です」
 穏やかに告げられた声に、藤春は眉をひそめた。
 交代など誰にも頼んだ覚えはない。住職が気を利かせたのか、そんな考えが脳裏をよぎる。
 振り返った先に、男が立っていた。
 黒い喪服に身を包み、にこやかに笑っている。その笑みは、この場に似つかわしくないほど陽気だ。背筋を正し、ゆったりと歩み寄ってくる姿は、まるでここが舞台で自分こそ主役であるかのよう。
 藤春の目が細く鋭くなる。
 ――越生 匠太郎。柳翠の腹心にして、忠実な使い走り。命令を預かっては、それを飄々と遂行する男。
 その匠太郎が、夜の仏間に湿った気配を引き連れて侵入してきた。
「礼儀としてお顔を拝みに参りました。──あずまさん、御愁傷様です」
 仏壇の前で、彼は形ばかりの合掌をした。その動作には一片の祈りもない。ただの芝居で沈痛さの欠片もない。
「今日はお一人で? 寝ずの番、ご立派ですね」
「……ああ。彼女の傍にいたかっただけだよ。だから、交代はいい。俺が最後まで見ていたい」
 親族でもなければ、彼女と親しかったわけでもない。匠太郎にここへ来る資格などない。
 そう思いながら、藤春はやんわりと断ろうとした。
 だが、男はすでに聞く耳を持っていなかった。
「いえいえ、これにて寝ずの番は終了です。藤春さんには、ほら……『ご用』がありますので」
 匠太郎の声色は変わらない。相変わらず柔らかく、どこか楽しげに。その響きに、藤春の背中がひやりと冷える。
「柳さんがね、明日は一日、藤春さんと『ご一緒したい』と仰ってまして。朝から晩までたっぷりと……だから、今夜のうちに準備を、と思いまして」
「明日……? 明日は納骨式がある。来客も」
「全部中止しましたよ」
 匠太郎の言葉は、まるで軽やかな音楽のように流れていく。
「お客さんにはお引き取り願いました。式の進行も挨拶も面倒なことは全部、俺に任せてください。藤春さんは弟様との時間をのんびり過ごしていただければ」
「……な、なんで……そんな勝手な」
 言葉が詰まった。
 次の瞬間。胸元に冷たい金属の感触。バチ、と音がした。
 火花のような閃光が視界の隅で弾ける。電流が一気に体内を走り、筋肉が痙攣する。喉から音が漏れたかも分からぬまま、膝が抜け、全身の力が奪われていった。
 ──スタンガンだった。
「なんでって……柳さんが『ご一緒したい』って言ったじゃないですか。耳が遠いんです? 困りますよ、大人なのに空気が読めないって」
 匠太郎の声は、なおも穏やかだ。まるで優しい教師が、生意気な児童を諭すような口調のままだった。
 崩れるように藤春が畳に倒れる。痙攣の余韻が指先を震わせていた。唇は何かを言おうと動くが、声にはならない。
 匠太郎はゆっくりと腰を落とし、丁寧に合掌した。灯明がふっと揺れ、遺影の上にまた一筋、陰が落ちた。
「おやすみなさい、奥様。──大切な旦那様は、少しの間、お借りしますね」
 仏前で昏倒した成人男性の身体を、匠太郎は軽々と肩に担ぎ上げる。
 その姿はまるで忠実な死神だった。


 /3

 12月31日。
 夜の名残が僅かに空に残る早朝、冷気に包まれた一角。レジスタンスの本部はすでに騒然としていた。
 作戦室には戦闘班と戦術支援担当者が次々と席に着き、仏田寺の見取り図を囲むように配置されたディスプレイの前で、計画の概要が無機質に告げられていく。
 空気は重く張り詰めていた。誰もが口を閉ざし、私語ひとつ交わされることはない。
 緊張。覚悟。そして、今日という日が「全てを変える」と信じる、確信に近い感情。それらが、戦場の静けさにも似た静寂のなかで膨らんでいた。
 部屋の片隅で丸椅子に身を小さくして座らされた緋馬は、居心地の悪さを隠すように背を丸めていた。
(……まじで俺、ここにいていいのか?)
 何度問いかけても、答える者はいない。
 代わりにあの時の新座の淡々とした声が、脳裏で何度も反響する。
「今日の君は証人であり関係者であり当事者だ。出席してね」
 重く、動かしがたい言葉だった。
 それに頷いてしまった自分が、今では遠い他人のように思える。
 作戦はすでに最終段階に入っていた。
 レジスタンスの幹部たちは、陵珊山にある超人類能力開発研究所──通称「機関」への突入を決定し、逮捕状を取得したこと、仏田寺の本堂と研究区画を含めた同時進行作戦を、今日まさに実行することを告げていた。
 それは衝動でも、場当たり的な決断でもなかった。むしろ、彼らが長きにわたって待ち望んだ「その時」だったのだ。
「来たな」「ようやく……」「これでやっと動ける」
 ささやかれる声の温度は高く、希望と怒りがないまぜになった熱を帯びていた。
「対象施設は、異常の発現地点であり、予測不能な危険を含む。しかしこれは、我々にとって千載一遇の機会だ。今日を逃せば、また多くの命が、弄ばれることになる」
 レジスタンスのリーダー・鶴瀬と呼ばれる男が、低く力強く言い放つ。その言葉に、隊員たちは静かに頷いた。
 一方で緋馬の呼吸は浅く震えていた。場違いなのではないかという不安が指の先まで広がっていく。
 淡々と作戦の経緯が説明されていく。
 語るのは新座。鶴瀬の従兄弟にして、緋馬をこの場に導いた男だった。
「そちらにいる高梨緋馬くんの証言により、仏田寺本堂と山麓を繋ぐ地下トンネルの存在が確認されました」
 数人が、一瞬だけ顔を上げた。
 仏田寺は千年の歴史を持つ由緒ある古刹だ。その地下に現代的な搬入トンネルが存在するなど、これまで誰も確信を持ち得なかった。
「地元業者への聞き取り、および寺の外周構造との照合の結果、緋馬くんが目撃した搬入経路と一致する導線が、この旧管理道の突き当たり……石材業者の倉庫裏に位置すると推測されます」
 新座の指先が地図の一角を指し示す。そこに赤いマーキングが灯る。
「また、我々に情報を提供していた高梨あずまさんの生命反応が最後に途絶えたのも、この地点に近い場所でした」
 部屋の空気が変わった。
 誰もがその言葉を逃すまいと耳を澄ませる中、視線の幾つかが、ちらと緋馬の方へ流れた。
 義母、あずまの死。スパイ、あるいはエージェントとして動いていた彼女の喪失が、今は「情報」として活用されている。
 頭では理解できている。戦いにおいては、死もまた戦果の一つになることを。だが胸は、ただ痛んでいた。
「それらの情報をもとに、主力部隊は地下トンネルからの突入を行います。同時に本堂および研究区画への展開も開始します。本堂は僕──スウィフトが。研究区画は、上門ときわくんが担当です」
 新座の声に迷いはない。静かで冷ややかだが、それは司令官としての理想的な態度だった。
 仲間の死を悼む余白など、この場にはない。
 新座にとって、あずまは戦友だった。
 だからこそ、その死を感情ではなく「戦略」として冷徹に扱うことで、弔いの代わりとしたのだ。
 ──偶然、仏田寺で出会った一人の少年の証言が、突破口となった。
 ──偶然、命を落とした一人の女性の消失地点が、戦術の鍵となった。
 死と生が交差し重なり合う。誰かが死に、誰かが生き残った。その確かな事実がようやく形を持ち、ひとつの刃となって仏田寺へと向かおうとしていた

 作戦会議が終わり、張りつめた空気をそのまま引きずって人々が動き出す中、緋馬は机の端に置いていた古いガラケーにふと手を伸ばした。
 不意に震え出した機械的なバイブ音が、強張っていた神経の隙間を撫でていく。
 画面に浮かんだのは、見慣れた寄居の名前があった。胸の奥にざわりと冷たい風が吹き込み、メール本文を開いた瞬間、呼吸が止まりかけた。
「なんでウマ、勝手に帰ったの?」
 その問いが来ることは、どこかで予感していた。けれどそれは全てが終わった後……命の確認と、儀式の後始末を終えてからの話だと思っていた。
 次いで、追撃のように新たな文が届く。
「まさか全部中止とか何か大事件でも起きたわけ? うちだって食事とか酒とか花の手配、年末までやってたんだからキャンセルは困るんだけど。まぁ親父は仕方ないよ〜って言ってるけどさ」
 軽い。その軽さが、鋭く耳を叩いた。
 まるで冗談のような現実が、緋馬の心臓に直接拳を打ち込む。
 ──全部、中止?
 思考が空転し、脳が現実を理解するのに時間がかかった。
(……そんなこと、今までの世界では一度もなかった。俺が、どれだけ足掻いても……)
 何度繰り返してきた12月31日。
 どれほど抗っても納骨式は必ず執り行われ、儀式は始まり、あの化け物が現れる。大筋は決して変わらなかった。なのに今、式が行われない?
 寄居のメールはただの愚痴だった。何も知らない平凡な年末の不満。しかしその「普通」こそが、緋馬にとっては最も恐ろしい異常だ。
 以前、会食が中止になったことはある。あれは緋馬が自殺未遂を起こし、それを偶然藤春に見られたからという奇跡が重なっての出来事だ。その奇跡と同等のものが起きているとしたら。
 震える呼吸を押さえ込みながら、緋馬はガラケーのボタンを素早く押す。
「泊まってた人はもう帰ったの? 今日来る人は来ない?」
 メッセージを送信する。
 脳裏をよぎるのは、幾度も見た死の光景。列席者たちが逃げ場もなく喰われ、引き裂かれ、絶叫が散っていく地獄。
 その未来が今度こそ回避されたのなら。着信の震えに肩を跳ねさせながら、緋馬は急いで画面を開いた。
「全部今日の予定キャンセルになったんだから無いって」
 たった一行。
 胸の奥がふわりとほどけ、込み上げてくる何かに顔が歪んだ。恐怖でも緊張でもない。安堵と歓喜だ。
(助けられた……みんな、死なずに済むかもしれない)
 震える指で、再びメッセージを打ち込む。
「寄居や住職さんも暇になったならさ。今日の大晦日、どっか出かけたら? 寺あけて。人いないなら気分転換にもなるし」
 さりげない提案に見せかけて、その文は必死の祈りだった。
 まだ寺に残っているかもしれない人たち……寄居も住職も誰ひとりとして災厄の餌になりませんように。どうか少しでも遠ざかっていてほしい。
 返信は、ほどなく届いた。
「前向きに考える〜。なんかもう気抜けちゃったし。どこ行こうかな」
 緋馬はゆっくりと息を吐いた。肩の力が抜け、身体の芯から力が抜けていく。
 これは希望だ。確かな一歩だ。
(……良かった。ほんとに……良かった)
 今まで何度も何度も繰り返されてきた『変わらなかった一日』が動いた。
 たった一通のメール。それだけの細やかなやりとり。緋馬にとっては未来という名の扉が、ようやくほんの少しだけ開かれたのだと胸を撫で下ろした。
 寄居からの返事は、どれも肩の力が抜けたような内容ばかりになる。
 無邪気な文面に緋馬の心も晴れた頃、次の通知が鳴った。
「藤春さん体調不良で中止なの仕方ないけど、四十九日とかは問題なくできるといいね。ウマもお大事に」
 返ってきたのは何の悪意もない、柔らかな文面だった。
 緋馬の背筋が凍りつく。
「どういうこと?」
「昨夜藤春さん隣の施設に運ばれたんだって。弟さんが『自分が看病します』って。あそこ医療施設だから安心しなよ。ちゃんとした設備あるし、一般人は入れないけど。匠太郎さんが教えてくれたから確かな情報だよ」
 ぬるりと背中に冷たい汗が伝い落ちる。
 弟さん。匠太郎。藤春を「隣の施設」に運んだという二人の名。
 悪寒とは違うもっと重い確信が、胃の底を引っ掻くように疼いた。

 足音のざわめきが激しくなる。レジスタンス本部の会議室は、既に出撃準備の緊迫に包まれていた。
 戦闘服のエージェントたちが無言で装備を点検し合い、確認のための電子端末を素早く操作している。
 仏田寺への家宅捜索、今日という決戦がついに始まる。決して後戻りのできない戦いの開始が近づいていた。
 あまりの物々しさに思考が焦りに押し流される中、通路の向こうを駆けていく背中に緋馬は手を伸ばす。
「に、新座さん……!」
 部隊を率いる立場らしいその男の姿を見つけた瞬間、声を張り上げる。
「おっ、おじさんが……!」
 叫びながら駆け寄る。喉が擦れても、声は止まらなかった。
「機関の研究所に、捕まってるかもしれないんです! 昨日の夜に運ばれて……! おじさんの弟が看病するって言って……でも、絶対あいつら、そんなわけないから!」
 必死に伝えなくてはと言葉を急かした。新座なら、動いてくれるはずだと信じた。
 新座は立ち止まり、短く息を吐く。装備の最終確認を手早く終え、緋馬に視線を向ける。その眼差しは冷静というよりも、冷酷に近い温度だった。
「……助けるつもりではいるよ。でも君の思いどおりにはならないかもしれない。それだけは覚悟しといて」
「……え?」
 新座の目は一切の冗談も慰めも拒んでいた。
 それは現場を何度も見てきた者の目だった。残酷な現実を、数えきれないほど飲み込んできた者の目だ。
 さっきまで確かに灯っていた緋馬の希望の火が、急に風に吹かれて揺らぎ、消えそうになる。
「や、やめてくださいよ……絶対に助けてください。助けなきゃ、だめなんだよ……!」
 新座は一瞬だけ目を伏せ、肩越しに戦友たちに合図を送った。出撃時間が迫っている様子だった。
「僕たちは全力で戦う。でも奇跡を前提にはしない。覚えておいて」
 そう言い残して、列の中へと戻っていこうとする。
 死の宣告にも似た響きに、緋馬はただ立ち尽くしてしまう。冷たい床の上に、膝が抜けそうになる。
 ──どうしたら、助けられる?
 ──どうすれば、おじさんをあの場所から取り戻せる?
 考えろ、考えろと心が叫ぶ。
 浮かぶのは過去の惨劇ばかり。助けられてばかりで自分には何もできず、ただ死んで終わる。また同じ朝へいく、数々の世界の記憶。
(……何もできない)
 視界が揺らいだ。足元から崩れていくような、深い絶望が押し寄せてくる。
 けれど不意に脳裏をよぎる。何度も繰り返した世界の中で、自分にだけの特性がある。それを有効活用できれば、自分に価値を見出してくれる。そうすれば言い分を聞いてくれるかも。
「……俺の体は、俺は、マスターキーみたいなもんです」
 新座が、足を止めた。
「俺は、あそこのあらゆる場所に通れます。パスコードも、生体認証も、俺だけが通れる扉がいくつもありました……。鍵なんです、俺、使えるんですよ」
 これが本当に価値があるのか。場違いすぎることを言っていないか。喉の奥が震え、声が掠れる。
「だから……使ってください、俺を。機関の中には、隠してるもの、たくさんあるはずです。普通じゃ開かない場所も、俺なら開けるかもしれない……」
 新座の目は依然として冷たい。けれどその奥にある判断を求めている気配があった。
「そのかわり……お願いします。俺の希望も、聞いてください。どうか……おじさんを、助けてください」
 全身の力を振り絞り、頭を下げる。
 理屈でも取引でもないただの懇願。命の全てを捧げてもいいという覚悟だけをそこに込める。
「来て」
 短いひと言は、氷のようだった新座の声から発せられた。乾いた響きだったが確かに許可だった。
 それから数分後。武装車両の後部座席、緋馬は黒いベルトで身体を固定されるようにして座っていた。既に周囲の空気は戦闘前の緊張に満ち、車体の振動が硬く、静かに足元から伝わってくる。
 前方の助手席に座る新座は、外の景色を見ながら、淡々と口を開いた。
「仏田寺……というより機関の内部には、とんでもない宝が眠ってるって言われてる。例えば、機関が作り出した高位の魔道具。戦場で一国の行方を変えるような呪具や兵装。あるいはそれを売り捌いて得た金塊……だけじゃない」
 声は軽口のようでいて、僅かに熱を帯びている。
「誘拐された種族の記録には解放されていない者たちも含まれている。どこかに囚われたまま、まだ生きているかもしれない個体がいる」
 車内に、重苦しい沈黙が落ちる。
「そして、囚われた人々が元々持っていた財産。身に着けていた装飾品や契約書、技術情報……全部、保管されてる可能性がある。機関は研究だけじゃない。略奪したもの全てを一つの牙城に溜め込んでいる。そしてそういうものって、大抵は鍵のかかった場所にあるのね?」
 問いかけられているのが分かった。
 緋馬は、息を整え、ゆっくりと頷いた。
「君が開ける扉の先に、希望があることを祈ろう。地獄そのものが待っているかもしれないけどね」
 車窓の向こう、朝靄のなかに聳える梁山の影が、次第に近づいてきた。


 /4

 錠宮 陽奈多は、稀有な才を持つ研究者だった。頭脳明晰で、血で異能を継続していく一族の生まれとして仏田家に見初められ機関に入所した。彼女は『鍵の番人』と呼ばれる能力を持った一族だった。
 ──錠宮。鍵の概念そのものに触れる、異能の血を引く家系。開けることも、閉じることもできる者たち。世界の通路を、門を、記憶を、心を、全てのを『開閉』する術を生まれながらに持つ者。
 その力は時に錠前を介さずとも扉を開け、時に誰にも開けられぬ封印を施す。陽奈多は、その中でも特に『開く』ことに秀でていた。まるで世界が彼女の掌の中にあるようだった。
 陽奈多はその名のとおり、陽のような女だった。
 彼女と話せば誰もが自然と笑っていた初対面でも言葉が下手でも、過去に痛みを抱えていても、何故か気づいたときには心の奥まで見透かされていた。心の鍵を開ける行為であっても、それでも不思議と嫌な気がさせなかった。
 柳翠でさえ、そうだった。
 人と関わることを苦痛に感じる男だった。幼い頃から言葉少なで、人混みでは肩をすぼめ、よく黙って壁を向いていた。誰にも自分を見せようとしない、冷たい殻の中に引きこもる男であった柳翠が、陽奈多には心を許した。
 初めて彼女と機関の研究室で会った柳翠は、ぶっきらぼうでただの駒が増えただけとしか思っていなかった。
 しかし数日後には、柳翠の口から好意が溢れるほど、彼女の魔法の虜になっていた。
 まだ携帯電話もインスタントカメラも無かった時代の話。
 藤春が暇潰しとしてスケッチブックに向かっていたある日、柳翠が「兄上。陽奈多の絵を描いてほしい」と声を掛けてきた。
 描き上げたスケッチブックを差し出すとき、顔を赤くして、感謝を述べた弟の声を、藤春は今も思い出として大切に心に留めている。
 この二人はお似合いだなと。二人でいるときはとても優しい炎を灯しているなと。だからこそ恋を応援してやりたいと思うほどだった。
 けれど、その彼女は息子を産んで、逝った。
 あの明るくて誰の心も開けてしまう彼女が、緋馬をこの世に遺してたった一人で閉じてしまった。
 柳翠はひどく悲しんだ。弟の哀しみとしては、あまりに重たすぎるものだった。全てに目を背け、研究に没頭するようになったその背中が何より雄弁だった。
 藤春は何度か緋馬と柳翠を会わせようとした。藤春も陽奈多を友人として好いており、親しかった彼女の息子を健やかに育ててやりたいと思っていた。
 だから何度も柳翠に接触を試みた。研究棟に押しかけることもあった。しかし一向に家族の時間は叶わず、今日こそ会わせられると思って連れてきた緋馬と結局柳翠不在で途方に暮れるという日々をいくつも過ごした。
 ある夜。夜間の研究棟のソファーに藤春は腰かけ、小さな体を胸に抱えていた。
 8歳になった緋馬は、ようやく人並みの小学生になれた。育児放棄をされて放置された5歳の体はかなり衰弱していたが、少しずつ普通の子供として過ごせるほどになってきた。
 すっかり藤春に懐き、眠るときはいつもくっついてきて、腕の中で息を整えるまで離れようとしない。
 ついこの間まで、誰に抱かれても虚ろな目で空を見ていた子だ。名前を呼んでも返事をせず、言葉をかけても怯えたように沈黙を守っていた。それが今では腕の中で、安心しきった寝息を立てている。
 ああ、この子はもう大丈夫だ。今度は守ってあげながら父親との時間を、と思っても。そのときは訪れない。
「……『なぜ柳翠が緋馬を殺さなかったか』、ですか?」
 夜間の研究棟で、緋馬を抱く藤春は研究者に問いかけられた。
 脇に立った中年の研究員が冷たい報告を告げたとき、藤春の背筋に鈍い悪寒が走った。
「柳翠様がなぜ緋馬様を廃棄せずにいたか。もちろん陽奈多様の子だからという感情的な面もあるでしょう。けれど、もう一つ大きな理由がありますよ」
 眼鏡の研究員の口調は淡々としていた。それはただのデータを読むような声音だった。
「『鍵の番人』。錠宮の血筋にだけ宿る特異な能力因子。開ける・閉じる、その概念そのものに作用する超能力。この子にはそれが濃く出ている可能性が高い。失うには惜しい。……だから殺さず時折、研究所へ連れてきていた」
 胸の中の緋馬が、小さく寝返りを打つ。
 ぬくもりは確かにある。命の気配が、そこにある。それをモノのように、素材のように扱う声が、静かにこの部屋の空気を濁していく。
「たまにですけどね、柳翠様は緋馬様を実験室に連れてきては、観察だけして戻していました。何もされずに帰されるだけの日もあれば、血液を採られたり脳波を測られたり……。感情変化の記録も何度か取られていたようです」
 藤春は何も言わなかった。ただ緋馬を抱く腕に知らず力がこもる。
「そして、この研究所に生まれたデザインベビーの成功体にその異能を授ける実験もされています。一部成功しているそうですよ。完全に陽奈多様の異能を複製はできていませんが、上門所長は成功例を見ているとお話されておりました。今も柳翠様は完全解明を目指していらっしゃるに違いない」
 陽奈多の子が、生きている。
 陽奈多の力が、息づいている。
 けれどその血を守りたいと願ったのではなく、それを『惜しいから』と繋ぎとめていた弟の心が、たまらなく冷たく感じた。
 この子は陽奈多の遺した光なのに。その光を弟は、冷暗所のような研究室に閉じ込め、見下ろしていたのか。
「……くだらない理屈を……」
 思わず出た言葉は、怒りではない。吐き出すことすら苦しいほどの、深い絶望だった。
 緋馬の額にそっと手をあてる。あたたかい。
 誰かの道具として生きるために、この子は生まれてきたんじゃない。誰かの遺物として扱われるために、この子は陽奈多に託されたんじゃない。そう思える、あたたかさがあった。
「これは、もしかしたら、なのですけど」
 その前置きに、藤春は僅かに眉をひそめる。研究員は言葉を選ぶようにしながら、続けた。
「私も、緋馬様のことが……可愛いと思うのです」
「……え?」
「子供は可愛いものだ、そう言う方もいますが……いいえ、違います。私は、人でなしの自覚がある研究者ですよ。目の前で人が泣こうと叫ぼうと、データとしてしか見てこなかった。そうやって今まで生きてきた人間です」
 彼の視線が、そっと緋馬に向けられる。
 眠る幼子の額には柔らかな前髪がかかり、胸元には小さく拳を握った手。安らぎのなかにあるその寝顔は、誰が見ても確かに愛おしい。
「それでも、です。……こんな私ですら、この子の寝顔は胸が締めつけられるほど愛おしいと思うんです。まるで、見えない鍵で心の中まで開かれてしまったような。これって陽奈多様の血だと思いませんか?」
「まさかッ!」
 藤春は咄嗟に声を荒げた。胸の奥に、鋭い棘のような感覚が走った。
 そんなはずはない。この腕の中に眠る温もりは、作られたものじゃない。確かな命の重みだ。そう信じてきた。
(けれど。もし俺が……この子を抱いているのも、微笑んでしまうのも……全部、『鍵の能力』のせいだとしたら?)
 陽奈多が人の心を『開ける』力を持っていたように。この子も無意識のうちに、その力で誰かの心をこじ開けているのだとしたら。
 ──俺は愛しているつもりで、ただ『開けられて』いるだけなのか?
 自分の感情が自分のものではないのかとざわめく。
「じゃあ……もし『心の鍵開け』が本当だとしたら、『どうして柳翠には効かない』? この子を愛おしく思ってくれない?」
「……異能の存在を分かっているからじゃないでしょうか。『この子にはそのような力がある。だから、生じる感情は嘘に決まっている』と」
「そんな」
 ――陽奈多を心から愛したことがある彼なら、そんなの関係ないと言い切れる筈なのに。
 藤春は緋馬を抱く腕に、改めてそっと力を込めた。
 ――そうだ、愛おしいと思うのは、そんな力のせいじゃないじゃないんだ。
 あの日、薄暗い和室で縛られていた5歳の緋馬を見つけた瞬間の、あの胸の痛み。言葉もなく、ただ震えていた小さな体を、そっと抱き上げたときの感情。あれが偽りなはずがない。
 言葉を失う藤春に、研究員はうっすらとした微笑みだけを残して静かにその場を去った。
 腕の中の温もりが、僅かに動いた。
 小さな指が藤春のシャツの胸元をそっと掴む。その仕草があまりにも頼りなくて、藤春は自然と呼吸を整えた。
「……おじさん……?」
 まだ眠気の残る声だった。夜の灯りに照らされたその瞳は、まだ眠そうに潤んでいて、けれどしっかりと藤春を見つめていた。
 藤春は、言葉もなくその頭を優しく撫でる。
 ほんの一瞬だけ躊躇うような気配を見せた緋馬だったが、細い両腕を伸ばして、そっと藤春の胸に抱きついた。
「……おじさん……好き……」
 それは控えめで、けれど迷いのない言葉だ。
 藤春の胸の奥に、あたたかい灯が灯るような感覚が広がる。誰かの力で操られた感情ではない、藤春の心は既に決まっていた。
「……俺もだよ、緋馬」


 /5

 ――目を覚ませば、いつもおじさんは俺を抱き締めてくれていた。
 まだ幼かった頃。泣いて眠れなかった夜も、熱にうなされた夜も、夢の中で人間の熱を探し続けた夜も、手を伸ばせばそのぬくもりがあった。
「大丈夫だ、ここにいる」
 低く穏やかな声が、まるで世界の全てを許容してくれるようだった。
 好きだと言ってくれた。他人でも、そう言ってくれた。だから、守らなければならない。

 仏田寺の山門が、霧の帳の向こうにゆっくりと姿を現した。
 冬の山間――空はまだ夜の残滓を引きずり、谷間には濃密な靄が垂れこめている。あらゆる音が吸い込まれたように静まり返り、まるでこの地そのものが、何かを隠しながら息を殺しているかのようだった。

 陵珊山の斜面に沈むようにしてレジスタンスの装備車両が数台、ひっそりと待機している。
 車内では新座をはじめとするエージェントたちが無言のまま、ただ時を測っていた。
 突入の第一手は、あくまで「家宅捜索」。建前は法の名を借りた穏当な介入だった。だがその実、誰もが理解していた――この先にあるのは理の及ばぬ異界の断面であるということを。
 山の麓、靄が濃く溜まる一角。仏田寺から離れた雑木林の奥深く。誰も寄りつかぬ崖沿いの茂みに、新座が一つ指を伸ばした。
「むぐ、ここだ。よく見ると地形が微かに窪んでいるのが分かるかな。大型車の通行が定期的にあった痕跡があるんだ」
 促されるままに、緋馬は枯れ枝を払い、茂みをかき分ける。獣の道とも異なる、人の手によって踏みならされた細道があった。
 トラック一台がかろうじて通れるほどの隘路。行き着いた先には、風化したコンクリートと錆びた鉄材が積まれた、見捨てられた採掘所が口を開けていた。
 一見して何の変哲もない廃墟。緋馬はそこに立ち、深く息を整えた。胸の内で心音が速さを増していた。
(俺は、鍵だ)
 その認識が訪れた瞬間、空間の裂け目のように、廃墟の地面がひとりでに揺らぎ、目に見える形を取ってゆく。
 それは魔術的な隠蔽に覆われていた隠し扉。仏田家の血を引く者のみが知覚し得る、異界への通路だった。
 本来ならば正規の解除手順――符号、呪文、儀式の手順を踏まなければ開かないはずの封印。だが、緋馬はただ在ることでそれを通した。
 存在そのものが、門を開く鍵となったのだ。
 トンネルの内側は、打って変わって現代的だった。コンクリートで成型された壁面には、魔術的な符と電子制御が折り重なり、異能と科学の結晶とも言うべきセキュリティ機構が張り巡らされていた。
 そのすべてから漂うのは、鉄のように重く、閉ざされた意志の気配。
「……開いちゃった。最高」
 新座が感嘆とも皮肉ともつかぬ声で呟いた。
 次の瞬間、背後で待機していたエージェントたちが、いっせいに動き出す。靴音だけが、霧の奥に散っていく。
「僕の班はこのトンネルを使って侵入するけど、緋馬くんは鶴瀬くんとときわくんと一緒に、正面から派手に行ってね。敷地に入ったら、好きにやっていいよ」
 曖昧な指示とも、信頼の裏返しとも取れる言葉を投げると、新座はちらりと振り返り、仲間たちとともに霧の深部――異界の胎内へと姿を消した。

 まだ昼の光が差し込む研究所の正面。木々に囲まれた入り口は、いつもよりもひっそりとした空気に包まれていた。
 だがその一瞬に訪れた不安を、誰もが感じていたわけではない。
 緋馬は、遠くからその光景を見つめていた。
 目の前には無機質な建物が立ち、真新しい警備員の制服を着た人間たちが整列している。
 レジスタンスの面々はその警戒をものともせず、堂々と歩いていた。
 まるで彼らの存在そのものがこの場所にあらかじめ定められていたかのように、何の不安も見せることなく。
 警備員たちは彼らの到着を見て、微かな警戒を見せているが、決して声を荒げることはなかった。
 彼らの手続きが、完全に通過した証だった。レジスタンスたちは、表面的には警察機関に認められた者たちとして、堂々と研究所の内部へ足を踏み入れ始める。
 緋馬の視線の先に立つのは、重厚な足取りの一行。そしてその後ろ、研究員たちがどこかぎこちなく立ちすくんでいるのが見える。
 警備員が一歩退き、無言で彼らを見守る中、この場の不安定な空気をさらに強めていった。
 レジスタンスと機関の研究者たちが、正面玄関の応接フロアで向き合って複雑なやり取りを始めた。警戒心と政治的な建前の交差する、重たい沈黙。その空気のすき間を縫うように、緋馬は密かに身を翻した。
(……もっと遅い時間に、似たような衝突の瞬間を見たことがある。あの夜に比べて時間はだいぶ早いけど、殆ど同じだ。……あのときもレジスタンスは機関と戦っていたんだ)
 ほんの数秒の意識の隙に、緋馬は人影に隠れて廊下の曲がり角へと身を滑らせた。
 止められるセキュリティは無い。そして、止める人もいなかった。
「あれぇ、緋馬様? どうしたのですかお急ぎで……ああっ、あちらには行かない方がいいですよ! なんか悪い人たちが突然押しかけてきて大パニックですからねぇ!」
「あのおばさん、もっと大パニックで大変なことになる前に、すぐ退勤してください! ……お気遣いありがとうございます!」
 一応は警備員をしている例の中年女性も、緋馬の突然の登場と疾走を咎める。だが、それ以上はしない。
 悟司と対話した休憩室を抜ける。
 外に面した冬の光が滲む静かな庭を抜ける。
 そして、あの少女が必死に逃げようとした長い廊下を抜けていく。
(紫莉ちゃんを助ける)
 まるで童話の塔に囚われた姫君のように紫莉は、研究所の最奥――豪奢なスイートルームのような隔離区画に閉じ込められていた。だからこそ今このタイミングで彼女を救い出さなければならなかった。誰かが彼女に手を差し伸べなければ。
 その扉も緋馬が指先を添えただけで、音もなく錠が外れた。
 重々しい金属の扉が、静かに自らを開く。中から立ちのぼるのはひんやりとした空気と、それに混じる花の香り。
 閉ざされた部屋の奥で蹲っていた少女がはっと顔を上げるなり、まるで夢から目覚めたかのように立ち上がり駆け寄ってきた。
「緋馬お兄ちゃん!」
 小さな身体が、勢いのまま緋馬の胸に飛び込む。
 細い腕が必死にしがみついてくるのを、緋馬は思わず反射的に抱きとめた。
「来てくれるって信じてた……信じてたよ!」
 少女は小さな声で、何度も、何度もそう繰り返す。
 その言葉に込められた孤独と祈りが、緋馬の胸の奥を痛みのように貫いた。
「紫莉ちゃん、何もされてなかったかい?」
 声を和らげながらも、祈るような問いかけをする。
 紫莉はぱちぱちとまばたきをし、そしてふわりと笑った。
「昨日今日は何も! 誰も何も言いに来なかったの。不思議だよね。いつもは何かしら怖い人が言いに来るのに」
「……いつもの世界では、何を言われてたの?」
「『紫莉は舞台を飾る生け贄なんだから、おとなしくしてなさい。もうすぐだから』って。そんな風に言われてたの。でも、今日はそれが無かったから……なんだか安心してたの」
 無邪気にも思える声。だがその裏にあった恐怖の深さを思えば、あまりに残酷だった。
 それでも彼女は微笑んでいた。安堵を滲ませるように。怯え、泣き叫んでも誰も止めてくれなかった世界で、ようやく誰かに抱きしめられた子どものように。
 けれど、なぜ今日は何も言われなかったのか。
 緋馬の胸裏に、一つの嫌な予感が生まれる。彼女がもう必要ではなくなったから。そう考えると、辻褄が合ってしまう。
 誰かが代わりに選ばれたのではないか。紫莉が救われた分、別の誰かが、その身を投げ出すことになるのでは。
 少女の無邪気な笑みに、心のどこかが鈍く冷え始める。
(そんな訳ない、違う、違う……違ってくれ)
 けれどここは、そういう場所だ。人の心など、初めから勘定に入れない者たちが支配する場所だった。
(間に合わなきゃ。今すぐ探さなきゃ。今度こそ、俺が……なんとかできるところまで来たんだから)
「緋馬様! こちらにおられましたか!」
 鋭い足音が廊下に響き、角から重装備のエージェントが姿を現した。
 魔導具と通信機器を身につけた異能者に緋馬は一瞬たじろぐが、すぐに気持ちを切り替える。
「警備との間に混乱が生じましたが、再び緋馬様のご助力をいただければと」
「分かっています。……俺が同行すると言った以上、やるべきことはやります」
 緋馬は紫莉をそっと抱きから解き、しゃがんで彼女と目線を合わせる。
 少女の手を握ると、小さな掌はまだ微かに震えていた。
「この子をお願いしたいんです。ここに囚われていた子です。……俺はよく知らないんですけど、おそらく凄い力の持った子です。俺より濃く仏田家直系の血を引く女の子なので。絶対に、悪い人には渡さないでください」
 その言葉に、エージェントの表情が引き締まる。
「了解しました。速やかに退避ルートを確保し、安全圏まで搬送いたします」
 紫莉が、緋馬の袖をぎゅっと握った。
「緋馬お兄ちゃん……また、どこか行っちゃうの?」
 その声に、胸がきしむ。
 けれど、緋馬は静かに頷いた。
「紫莉ちゃんを助けに来たんだよ。だから今度は、紫莉ちゃんみたいに囚われた人たちを助けに行く。……君が救われたんだから、きっと他の人も救える。応援してくれる?」
 紫莉はしばらく迷うように唇を噛みしめ、それから小さく頷いた。
 完全に不安が消えたわけではない。けれどその頷きには、幼いなりに誰かを信じるという清らかな勇気が込められていた。
「……緋馬お兄ちゃんも、助かってほしいの」
「……それは、もちろん」
「じゃあ、約束だからね」
「約束、しよう。……紫莉ちゃんが色んなことを教えてくれたから、俺、ここまで来られたんだ。だから、できるよ。多分」
「約束……しよ……」
「…………。そうだ、これ」
 そう言いながら、緋馬は胸元から控えめなサイズの勾玉を取り出す。
「元々、紫莉ちゃんの物だから。返すね」
「え……」
「おばあちゃんに貰った大切な物、そう言ってたよね。大事なおばあちゃんといっしょなら、怖くない。もう独りぼっちじゃないから。……この人達について行ける?」
 緋馬は少女の手を取り、そっと勾玉を握らせる。白く冷たかった掌が、じんわりと体温を取り戻していく。
 この勾玉があったから、自分は何度も時間を越え、幾度となく死と絶望を乗り越えてきた。
 だが、世界は変わりはじめている。紫莉は生き延び、ここから逃げ出せる未来へと歩み始めた。そのためなら、これは手放す価値がある。
 紫莉は涙ぐみ、言葉を失ったまま頷いた。
「……お兄ちゃん……」
「うん」
「油断、しないでほしいの」
「出来る限り、油断しない」
「……もう一回、ぎゅっとしてほしいの」
「……ぎゅっ」
「油断しないの、ぎゅっ。約束のぎゅっ。……生き延びての、ぎゅ」
 エージェントが紫莉を抱き上げ、歩き出す。
 少女は何度も何度も振り返った。そのたび緋馬は微笑み、小さく手を振る。やがて彼女の姿は角の向こうへと消えていった。
 緋馬はその場に立ち尽くし、息を吸い込んだ。
(これで、良かったのか……?)
 胸の奥が、じわりと冷えていく。
(本当に、あれを渡して良かったのか……?)
 自分を何度も救ってくれた唯一の手段。それを今、手放した。
 だが、紫莉には必要だった。独りきりの世界にいた彼女が、それを手に世界を歩いていけるなら。
(でも……もし俺が死んだら? もう、戻れない)
 喉の奥が締まる。指先が冷え、足の感覚が鈍くなっていく。今になって、死の重みがずしりと肩にのしかかってきた。
(……大丈夫だ。新座さんがいる。あの人も勾玉を持っている。俺よりもっと強い人が)
 けれど、その甘えを許す声が内側から否定する。
(いや、違う。俺がやらなきゃ)
 緋馬は、拳を固く握りしめる。
 もはや鍵はない。だが扉の前で立ちすくんではいられない。進むしかない。進んで、解き放つしかない。無言で歩き出した。エージェントたちの後ろを行くのではなく、時にはその先頭に立ち、ひとつ、またひとつ、閉ざされた扉を開いていった。

 第一の封鎖区画──生体認証と魔術式の二重結界。
 指を翳すだけで、パネルが青白く光り、魔術文様が静かに消える。自動音声が響くたび、背後の誰かが小さく息を呑むのが分かった。
 第二区画。鉄扉の向こうには、捕らわれていた獣人の子どもたち。緋馬が静かに手をかざすと、拘束結界が解け、彼らの鎖が宙に落ちた。涙を流して解放される姿に、誰もが一瞬だけ言葉を失った。
 第三区画。機関の魔道具保管室。過去に奪われ、実験に用いられた無数の異能道具が沈黙して眠っていた。
 緋馬の血に反応するように、中央の円環鍵が静かに回転し、金庫が開いた。それは長く閉ざされていた証拠の山だった。
 この扉は開かないと諦めていたと誰かが呟いた。緋馬はそれに何も返さなかった。ただ小さく頷くだけだった。
 けれど自分は今、確かに役に立っている。
 これまで何度も死に晒され、何一つ守れずにきた無力な子どもだった自分が。今は誰かのために、扉を開け、道を拓いている。ただそれだけのことが、たまらなく救いだった。
 緋馬は歩みを止めない。開いた扉の向こうで世界が僅かに変わるたび、自分もまた、少しずつ何かを変えていた。
「……? 開かない……?」
 ある地点で緋馬は立ち止まった。指をかざしても魔術式は沈黙を守る。
 センサーも、錠も、磁場も、魔力の反応すら無い。まるで最初からそこに扉など存在しないかのように。
 訝しげに眉を寄せ、緋馬は一歩下がって壁を見つめる。装飾の整ったパネル、精緻なフレーム。だがそれは扉ではなかった。
「……これ、偽物だ」
 ただのフェイクだった。見かけ倒しの化粧板。奥行きも、蝶番も無い。開閉の機構すら備えていない、完璧な視覚の罠。侵入者を惑わせ、時間を奪うためだけに設計された偽装だった。
「……こういうのも、あるのか」
 軽く息をついたそのときだった。気が抜けたわけではない。ただ、ほんの一瞬、視線を下げた刹那――背後の空気が、凍った。
 異変に気づくまでに時間は掛からなかった。
 先ほどまで傍らにいたはずの護衛たちの気配が、忽然と消えていた。
 緋馬は、ゆっくりと振り返った。
 そこには、もう人はいなかった。ただ命を奪われた三体の遺骸が、静かに床に伏していた。
 武器を抜く暇さえ与えられなかったのだろう。どの体も崩れ落ちた姿のまま、眠っているかのように整然としていた。
 血の匂いも殆ど感じられない。死があまりに完璧で、あまりに無音で、まるで現実の感触を失っていた。
 喉が詰まり、声が出なかった。
 闇のような気配の中から、ひとつの影が滲むように浮かび上がる。
 それは、匠太郎だった。
 黒のスーツに身を包み、微塵の乱れもないその姿。指先に覗く小さな刃の煌き。そして、整った笑み。あたかも人を三人殺した直後とは思えぬほど静かで、余裕に満ちた顔。まるでこれもまた、彼にとっては日常の一部なのだとでも言うようだった。
「やあ、緋馬くん」
 軽やかな挨拶と共に、匠太郎はゆったりと歩み寄る。
 その足取りには、まるで死神のような静謐さがあった。
 緋馬は一歩、二歩と無意識に後退した。逃げ場など無いと知りながら。
「まさかすぐ死ぬとは思わなかった? 気づく前に終わってた? そりゃそうだよね。オレ、こういうの得意なんだよ。気配を殺すのも、速く終わらせるのも。まあ……一兄さんほどじゃないけどね!」
 ようやく鼻に届いた血の匂いが、遅れて現実を告げる。それは喉の奥を焼くような現実だった。
「……どうして、ここに……」
 声が震えた。
 震えを隠せるほど緋馬は大人ではなかったし、匠太郎もまたそれを隠すことなど望んでいない。
「お仕事だよ」
 匠太郎は朗らかに答えた。
「柳さんに言われたんだ。『緋馬くんがここまで来たら、好きにしていいよ』って。やっと許可が出たからね、ずっと待ってたんだ」
「……俺を殺すために?」
 問うた緋馬に、匠太郎は優雅に肩をすくめ、幼子をなだめるかのような笑みを浮かべた。
「嫌だなあ。どうしてそんな怖いこと言うの?」
 口元に人差し指を添え、首をかしげる。
 その仕草には滑稽さすらあった。だが、だからこそ恐ろしかった。
「やっぱり、君は『お母さん』にそっくりだね。あずまさんも、オレにそんなふうに言ってたっけ。……痛がって泣き出す前にさ。結構オレたち仲良くなれると思うんだよね」
 その言葉に、胸の奥に火がつくような怒りが走る。
「……仲良くなんて、なれるか!」
 緋馬が叫ぶと、匠太郎は目を細め、猫のように口元だけで笑った。
「ところで、ひとつ質問してもいい?」
 匠太郎は親しげな調子のまま、喉を鳴らすように言った。
「どうして君は、こんな研究所の奥深くまでやって来たの? あの日、新座様の車で逃げ出したって報告を受けたとき、てっきり『レジスタンスに駆け込んだんだな〜』って思ってたのに。まさか、そのまま火事場泥棒みたいな真似して戻ってくるとはね。どれだけ落ちぶれたの?」
「落ちぶれたんじゃない」
 緋馬は即座に返した。言葉に一片の迷いもなかった。
「俺は、おじさんを助けるために来たんだ」
 真っ直ぐな声音に、匠太郎は一拍置いて愉快そうにくすくすと笑い出した。
 軽蔑でもなく、怒りでもない。ただ、人が抱く純粋な思いに対して心底退屈そうな嗤いだった。
「そっちの方こそおかしいじゃないか。人を殺しておいて、盗みを働いて、少女を誘拐して……先にやり出したのは、そっちだろう? なのに正義面して、何がそんなに楽しいの? 人を傷つけて、泣かせて、追いつめてさ……」
 そう吐き捨てながらも、匠太郎の瞳はひたすらに煌めいていた。
「あれ? 分からない? 誰かが苦しんで、泣き叫んで、絶望に染まるのを見ると……胸の奥がふっと、温かくならない? 気持ちいいなあって感じない? オレはね、あれがたまらない。たとえば、人の命が、ただの選択で消えるという感覚。君には分からないかもしれないけど……神様だって、ああいうのが好きなんだよ。だからこの場所は、負の感情を糧にして動いてるんだ」
 緋馬は何も言えなかった。言葉にすれば、言葉ごと引きずり込まれる。
 この男の狂気は、会話すら毒に変える。
 匠太郎の指先が、静かにポケットの中でハサミの柄をなぞった。
「そうだ。ねえ、緋馬くんが一番怖がるもの、見せてあげようか」
 懐から取り出されたのは、血で汚れた布の断片だった。
 それは見覚えのある喪服の切れ端、肩口のあたり。見た瞬間、緋馬の表情が凍りついた。
「大丈夫、大丈夫。まだ死んではいないよ」
 匠太郎は優しく慰めるように囁いた。
「でもね、『生きたまま、どこまで壊れるか』って、ちょっと見てみたくなって。君のおじさん、優しい人だからね。何をされても最初は耐えようとする。だけど、指を一本ずつ折っていったらね……さすがに、顔が変わったよ。泣きそうだった。あれ、君に見せたらどんな顔するかなって……ちょっと想像しちゃった」
 緋馬の呼吸が浅くなる。視界が滲み、喉が焼ける。
 足元がぐらりと揺らぐような錯覚。血の気が引き、思考が途切れそうになる。
「やめろ……」
 絞り出すように、そう言った。
「ねえ、緋馬くん。そうやって怒ると……オレね、すっごく気持ちよくなるんだよ」
 その瞬間、匠太郎の姿が消えた。
 本当に消えた。視界のどこにも映らない。空間から、音も気配も蒸発したように。
 緋馬は条件反射で身をかがめた。次の瞬間、後頭部をかすめる風。刃が髪の数本を断ち、空を裂く音が頭上を通り過ぎる。
 パリン、と天井のライトに突き刺さったナイフが破裂し、明かりが落ちた。
 走る足音。明滅する通路。光と闇の断片の中に、匠太郎の影が走る。
 ハサミの先が、緋馬の首元をかすめる。
 本気であれば、一撃で殺せたはずだった。だが、そうしなかった。
 匠太郎は、あえて外す。的確に、ぎりぎりを狙って追い込む。恐怖を植え付け、走らせ、追いつめる。それがこの男の遊びだった。
 殺すのではなく、遊ぶのだ――獲物の息が上がり、焦燥し、絶望するまで。悪趣味な時間が、幕を開けた。

「ねえ、知ってた? オレ、柳さんのためなら何だってやってきたんだよ」
 その声が背中に迫るたび、緋馬はただ逃げた。
 走らなければ、斬られる。匠太郎が本気を出せば、命など幾度でも摘み取られる。だが敢えて彼は逃げ道を用意し、緋馬を走らせていた。それこそが彼にとっての愉しみなのだ。
「暗殺も、拷問も、人体改造も、裏切り者の処理も、情報操作だって。全部やった。……あの人が望むなら、どんな汚れ仕事も、オレは笑ってやれる」
 ぱちん、と刃が空を噛む音。
 匠太郎の手の中で、ハサミが生き物のように弾ける。
「それが――愛ってやつでしょ? 柳さんが一度でも笑ってくれるなら、オレは地獄の底で一緒に腐っても構わない」
「……そんなのっ、別に、聞きたくない!」
 緋馬の息は荒く、足取りは焦りに滑る。
 匠太郎の攻撃は、殺すためのものではなかった。殺せるのに、殺さない。生かしたまま追い詰め、じわじわと壊していく。それが彼の愛し方だった。
「愛する人のために、全てを捧げられるって……素晴らしいことじゃない? しかもね、それがオレの好きな味付けだったら、もっと最高なんだ」
 匠太郎は笑う。目は虚空を見ながら、夢を見る人のようだった。
「柳さんのために緋馬くんを殺す。……ねえ、こんなにも甘美な時間って、他にあると思う?」
 言葉と共に、彼の足が滑り出す。舞うように、風のように、静かに。
 その姿に見惚れてはいけない。緋馬は走る。必死に走る。ただ、生き延びるために。
「泣いてよ、緋馬くん。君の泣き顔、最高なんだよ。……柳さんが歯を食いしばって泣きじゃくってたときも、オレ、あれ、本当に好きだったな。やっぱり親子だね。似てるんだよ、すっごく」
 匠太郎が踏み込む。その動きは、まるで空気の一部が裂けるように滑らかで、静謐だった。
 そして次の瞬間、それは殺気に変わる。紙一重で退き、緋馬は額から流れる冷や汗を感じた。
 走る。殺気が喉元に触れる前に、地を蹴る。
 だが、猶予は終わった。
 匠太郎の笑みが薄れる。その瞳の奥に宿る、凍ったような静けさ。振り上げられたハサミは、もはや遊戯ではなかった。
 それは殺意の結晶だった。ひと閃、稲妻よりも速く、刃が眼前に迫る。音すら追いつかない速度。
 恐怖が思考を塗りつぶす刹那、緋馬は叫んだ。
「燃えてッ!!」
 世界が、爆ぜた。
 足元の空気が震え、空間そのものが点火されるように魔力が弾けた。
 命の深奥から迸るものが、形となって溢れ出す。その中心で、緋馬の全身が炎を纏う。未熟で、粗削りで、けれど純粋な――火の魔術。
 真紅の奔流が、刃を、匠太郎の身体ごと呑み込んだ。
「ッ……!」
 崩れた。絶対の勝利を信じていた者の表情が、初めて崩れた。
 匠太郎の刃は熱に晒され、金属のような音を立てて融け始めた。
 火は止まらない。緋馬の周囲を渦巻き、踊るように燃え上がる。
 視界が赤に塗り潰される。皮膚に、骨に、確かに宿った力が世界を変えようとしていた。
(出た……。そうだ。あの夜も、紫莉ちゃんを救ったあの時も。俺は……『出来ないことが、出来た』)
 匠太郎が後退する。スーツの袖は焦げ、頬には焼き跡が走る。だが彼の表情には苦痛ではなく、快楽が滲んでいた。
「……いいよ、緋馬くん。君、かっこいいよ。生き延びるために牙を剥く姿、最高だ。ほんとに……柳さんに似てる」
 その声は、皮肉でも、怒りでもなかった。歪んだ愛情に満ちていた。底知れぬ、狂おしいまでの愛執の声だった。
 だがその余裕すら、今の緋馬は許さなかった。
 指先に、ふたたび火が宿る。
 立ち上がった力は、もう偶然ではない。明確に意志を持ち、この世界で目を覚ましたのだ。
 命を削るような衝動と共に、緋馬の魔術がようやく彼自身の力として、火の形を取っていた。

 紫莉という少女との邂逅は、確実に緋馬の力となっていた。
 ただ出会い、勾玉を手にし、時間を越える術を得た、それだけではない。
 紫莉は、単に高い魔力を持つ少女ではなかった。当主の隠し子という出自以上に、彼女はその血にふさわしい、異質の核を抱えていた。
 彼女の中には、『目覚めさせる力』があった。
 能力者を、能力者として開花させる存在。自覚もないまま、彼女は周囲の命をゆっくりと開かせていく。花のように。けれど、それは決して優しいだけの力ではなかった。
(……あのとき、彼女を助けた夜、俺は初めて火を使えた。話すたび、触れるたびに、力が膨らんでいった。そして今も──紫莉に再び触れた瞬間から、俺の力ははっきりと、倍に跳ね上がっている)
 最初は、守るための炎だった。
 だが今は違う。自らの意思で、命を燃やすための火だ。
 匠太郎を止める。傷つけられた者たちを、これ以上増やさないために。そのためにこそ、火は武器として緋馬の手に宿った。たとえ、その手が焼け焦げようとも。
 向かい合う男は、なおも笑っていた。
 スーツの袖は焼け、肌には火傷の腫れが浮かぶ。それでも匠太郎は軽口をやめなかった。
「すごいなあ、緋馬くん。東京の家で、隠れて鍛錬してたの? それとも無能なおじさんが教えてくれたのかな、火炎術式。やっぱりさ、柳さんの血は……ろくでもないや」
 手にしたハサミの片刃は、すでに熱で歪み、まともに斬れる状態ではない。
 それでも、匠太郎はそれを構えた。もう一度だけ、と懇願するように。
「踊らせてよ」
 彼の身体が、地を滑るように動いた。音すら立てず、影のように接近する。
 緋馬は即座に炎を灯した。掌が熱を持ち、火が応える。
 ――紫莉が「助けに来てくれたんだね」と笑った、あの祝福。彼女の願いが、今も手の中で燃えているようだった。
「燃えろッ!!」
 放たれた火炎が、旋回する匠太郎の軌跡にぶつかる。
 衝撃。爆裂。熱波が走り、壁を焼く。
 匠太郎の身体が宙を舞い、やがて膝をついた。余裕の仮面が剥がれ落ち、荒く息を吐いている。けれど、その瞳の奥に諦めはなかった。
 緋馬もまた、負けじと息を吸い込む。炎はまだ消えていない。手の中で、脈打つように燃えている。
 再び撃つ。火の弾丸が、鋭く、真っ直ぐに空を裂く。
 匠太郎は滑るように身体を逸らす。だが遅れた。炎が彼の足元を掠める。
 膝が崩れる。
 緋馬は、走った。もう逃げる必要はない。今度はこちらが届く側だった。
 炎を、真正面から叩き込むために。
 火球が直線に伸び、匠太郎の胸元を狙う。
 対して、匠太郎も最後の一撃を放った。鋼の刃、歪んだ片刃のハサミが投擲される。
 緋馬は反射的に身を捻る。だが間に合わなかった。刃は、腹部に突き刺さる。
 その瞬間、火球は匠太郎の胸を、貫いた。
 紅蓮の爆炎が、男を呑み込んだ。凄まじい熱量が、空間ごと焼き尽くす。未熟な緋馬には手加減などできなかった。だから、炎は全てを呑んだ。
 狂気と忠誠に染まった男は、恍惚とした微笑を浮かべたまま、火の中に崩れ落ちた。
 ごうと音を立てて、火柱が上がる。やがて燃焼が終わり、静寂が戻ってくる。
 緋馬の肩が、小さく上下する。呼吸が乱れ、手のひらはまだ余熱に痺れていた。だが、その手には――誰かを救う力が、確かに宿っていた。
 この命は、ただ繰り返される死のためではない。
 この火は、守るために燃えている。


 /6

 胸の奥が、まだ焼けつくように熱かった。緋馬は、衝動に耐えるように胸元を押さえた。
 目の前には、焼け焦げた肉の塊が横たわっている。自分が燃やした、自分の手で命を奪った男の亡骸だった。
 思考が、明滅する。脳がその事実を受け入れきれず、点滅する意識の狭間で緋馬は息を詰めた。
(やだ、なんだこれ……気持ち悪い。気持ち悪い。こんなの、見たくない)
 心の奥から、純粋な拒絶がこみあげてくる。
 自分の手が引き起こした惨状であるにもかかわらず、その結果を視界に入れることすら、本能が拒んだ。
 そこにあるのは、もはや人ではない。ただ焼け焦げた肉塊。匠太郎の姿をしていたはずの何か。
 どうして。どうして、あんなものを、あんなふうに喜んで作り上げられるのか。匠太郎は。化け物たちは。そして柳翠までもが。
(……みんな、おかしい。狂ってる。狂ってしまったから……?)
 匠太郎の語っていた快感が理解できる気はしなかった。命を壊すことで得られる悦び。もし、柳翠もそれと同じものを抱えているのだとしたら。もし、自分も同じ血を引いているのだとしたら。分かってしまうのではないか。自分のどこかにも、それがあるのではないか。
 そう思った瞬間、緋馬は強く頭を振った。
 思考の泥沼から抜け出すように、通路を駆け出す。焼けた壁の匂い。焼けた肉の残り香。けれど、今はそれどころではなかった。
(まだ間に合う……!)
 鼓動が、鼓膜を叩くように響く。
 匠太郎の口ぶり。語尾の妙な残し方。あれは、誰かをどこかに“残してきた”人間の言葉だった。
(どこかにいる。閉じ込められて、苦しめられて……それでも、まだ生きてる)
 そう信じていた。
 ――藤春の姿が、思い浮かぶ。
 匠太郎の異常性が分からなくてもいい。殺しに悦びを感じる心は理解できなくてもいい。けれど愛する人のために、すべてを捧げたい。何がなんでも守りたい。その感情だけは、痛いほど分かる。
 廊下を蹴る足に力がこもる。残る煙の匂いの中を、緋馬は走る。
 いつか失われた世界のその地下へ取り戻すべき命のいる場所へと、ひたすらに潜っていった。

 階段を下りるたびに、空気が冷え、重さを増していく。
 先ほどまでの戦闘で燃え上がっていた熱は、皮膚から遠ざかり、代わりに骨の奥にまで染み込むような沈黙が訪れる。
 地下の空間には、血と薬剤、焼け焦げた魔術の臭いがしみついていた。皮膚が拒み、肺がこわばるような、深い忌避感。それでも緋馬は歩を止めなかった。
(……ここだ)
 見覚えがあった。幾度も、記憶の奥底で、痛みとともに再生された場所。過去の世界で、自分が何度も拷問された。
 泣くことも許されず、声も奪われた地下の部屋。拷問台。解剖台。死にきれずに残された命の名残だけが沈殿する、無音の牢獄。
 そして――その奥に、いた。
 薄暗い光に浮かび上がる人影。緋馬の喉から、擦れた声が漏れた。
「……おじさん……?」
 その姿に、膝が崩れそうになる。
 固い壁を背に、鎖で吊るされた男。
 衣服は既に布切れとなり、皮膚は裂け、骨が露出している。幾重もの傷。脈絡のない切開痕。生きたまま、解剖実験の素材として扱われたような形跡が、全身に刻まれていた。
「……ひ……ぅ……?」
 声がした。確かに、それは藤春のものだった。
 緋馬は駆け寄る。信じがたい。あれほどの損傷で、生きているはずがない。
 けれど、その目は、緋馬を見ていた。ぼんやりと、それでも確かに、息子のような存在を見つめていた。
「……緋……馬……?」
 声は震え、喉は潰れ、吐く息すら血に濡れていた。
 それでも、名を呼んだ。緋馬の名だけは、忘れていなかった。
「おじさん……おじさん、生きてる……! 大丈夫だ、今、助け……」
 言いかけて、緋馬の動きが止まる。
 その身体は、生きていると呼べる状態ではなかった。
 脇腹は深く裂かれ、内臓の一部が露出している。
 かろうじて残る肌には術式の焼き印が刻まれ、右手は肩から切断されかけたまま、干からびたようにぶら下がっていた。
 心臓の位置にも何かを刺し込まれた痕がある。生きているほうが異常だった。
(どうして……生きてる?)
 答えは、すぐに思い当たった。
 匠太郎。彼の拷問はただの痛めつけではない。苦痛と絶命のぎりぎりを見極めて快楽のように延々と与える技術。
 そして柳翠。彼が成した人外解剖と魔術による生命維持術。人間を素材として扱うにあたり、肉体の死と魂の断絶を分離する研究をしていた。
 この身体は、最悪の合作でできている。緋馬の内心が、音を立てて凍る。藤春は殺されなかったのではない。殺させてもらえなかったのだ、と。
「おじさん……ごめん、俺、遅くて……!」
 駆け寄り、身体を支えようとする。
 けれど触れるのが怖かった。指先ひとつで壊してしまいそうで、震える手が宙に浮いたまま凍りつく。
「緋……馬……無事……で……良かった……」
 血の匂いに塗れながら、藤春の唇が微かに歪む。その笑顔は、痛みを超えたところにある。どんな激痛にも勝る、優しさの結晶だった。
 彼の足元には、冷たい石の床に刻まれた魔法陣。幾重にも交差する環状の文様、延命の術式。癒すためのものではない。死なせないための、終わらせないための、拷問のための延命だ。
「……こんな……っ、ひどすぎる……」
 緋馬は震える手でポケットのガラケーを取り出す。だが、電波はない。山奥の、さらにその地下。通じるはずがなかった。
 護衛もいない。匠太郎がすべて殺した。
「ま、待ってて、おじさん! すぐ誰か、外から助けを呼んで……治療魔術の使い手を……!」
 緋馬はその場を離れる決心をする。だが、
「……緋馬」
 か細くも、張り詰めたような声。どこまでも優しい響きを含んでいた。
 藤春は、首を横に振っていた。
「だめだ……それは……しなくていい……」
「なに……言って、おじさん!」
「……今、俺は……生かされてるだけだ……この陣が、終わらせてくれないだけで……」
「それでも、助けるよ……! きっと解呪できる人を連れてくれば……っ」
「逃げていい……緋馬。外に出てくれ。戻ってこなくていい……お前の顔を見られて……安心したから……おじさんのことは……」
「……いやだ……」
 吐息のような声で、緋馬は拒絶する。
 子どもが拒むような、弱々しい拒絶だった。
「嫌に決まってるじゃないか……おじさん! 俺、おじさんに会うために来たんだよっ……!」
 恐怖に耐えながら。人を、殺してまで来たんだ。
 その言葉に、藤春は目を閉じた。静かに深くそして浅く命をまだ繋ぎ止めていた。けれど時間は、確実に失われていた。
「お願い、おじさん……死なないでって、俺、言ったじゃんっ。だから……待っててよ!」
 震える足が、藤春の前に膝をつく。
「お願いだよ……おじさん……死なないでって、俺、言ったじゃん……」
 血に濡れた床に手をついて、縋るように叫ぶ。
「俺……新座さんに頼む。時間を戻してもらう。やり直して、また助ける。だから……だからっ……!」
 叫びにも似たその願いが、冷たい空気に散ったそのときだった。
 音がした。硬質な、踏みしめるような足音。凍えるような冷気が、扉の向こうから忍び寄る。
 緋馬は振り返る。そこに立っていたのは、黒衣のような長い白衣をまとった男。
「……柳翠……」
 整った輪郭。感情の宿らない瞳。張りついた冷笑だけが、彼の人間性の名残を思わせた。
 緋馬が名を絞り出すと、柳翠は静かに口角を上げた。その微笑みに、温もりも後悔も、何ひとつなかった。
「ようこそ、緋馬。久しぶりに家族が揃ったな」
 その声には、優雅とすら言える柔らかさがあった。
 だがその柔らかさは、凍てついた水面のように致命的に冷たい。兄弟と、父と子。そう呼ばれるべき絆が、今やただの儀式の構図と化している。
 柳翠の視線が、鎖に吊るされた藤春へと滑る。
 そこに憐れみはなかった。羞恥も、逡巡もなかった。無垢な残酷さだけがその瞳にあった。
 靴音を刻みながら柳翠が近づくたび、緋馬の手が震える。涙に濡れた眼差しで、その男を睨み据えた。
「どうして……おじさんに、こんなことを……」
 血の通わぬ藤春の姿。
 その無残を求めたのは、いったい何だったのか。
 緋馬は問いを放った。それは怒りであり、祈りだった。どうしようもない、理解の糸口すら見出せない苦しみの叫びだった。
 柳翠は、静かに微笑んだ。それは歪んだ冷笑。凍てついた理性の表情。
「『どうして』?」
 言葉を反芻するように呟き、やがて講義を始める教師のように淡々と語り出す。
「魂と器の操作。聯合。仏田家が千年をかけて追い求めてきた命の秘儀だよ。死を超え、生をつなぎ、魂を新たな器へと移す。神業の領域にまで到達せんとする、代々の直系が命を捧げてきた伝承。生神の系譜。選ばれし血。受け継がれた呪いと、責務。……お前に、その重さが分かるか?」
 緋馬は何も返せなかった。
 それは言葉ではなく呪文だった。理解を超えた熱を孕んだ詠唱。
 柳翠の声が、次第に熱を帯びてゆく。
「兄上――藤春は、僕の兄だった。直系の男。なのに、無能だった。知識も技も捨て、ただ普通の人間として逃げたんだ。脳無し。欠陥。役立たず。……そして、すべてを僕に押しつけた」
 静かだった語りに、震えが宿る。
「聯合を継いだのは僕だ。神の技術を、この身に刻み、苦しみによって覚えた。兄上の代わりに選ばれ、素材を集め、実験を続けた。それでも僕は、逃げなかった」
 柳翠の視線が、釘のように緋馬に打ち込まれる。
「だから、見せてやったんだよ。兄上に。『僕は立派にやっています』って。……兄上が捨てた世界を、僕が背負ってる。兄上が捨てた技術を、僕が受け継いでる。それを、刻みつけてやらなきゃ、分からないだろう?」
 その瞳は、あまりに澄んでいた。
 狂気ではない。怨嗟ですらない。
 それゆえに、緋馬は恐ろしかった。この男の信じているものが、あまりにも純粋すぎて。
「兄上を壊したのは、憎しみなんかじゃない。使命だよ。僕を見捨てて、普通の家族ごっこをしていた兄上に神業の重さを、責任の痛みを、教えてあげたかっただけさ。術式の構築には、祈りが込められている。僕の誇りと執念を、全部注いだ贈り物だ」
「そんなの……っ!」
 緋馬の拳が、怒りに震える。
 胸の奥が灼け、叫びそうになる声を噛み殺す。
「……昨日、夢を見たよ。衝動のままに兄上を殺してしまう夢だった。目が覚めた僕は、夢の中の自分を叱った。『そんな簡単に終わらせてどうする? もっと思い知らせなきゃ駄目じゃないか』って。そう思ったら、匠太郎に言ってしまっていたよ。『12月31日は兄上だけで楽しもう』って」
 緋馬の思考が揺らぐ。
 柳翠は、記憶を持っている。時間を繰り返している。では、勾玉の力に触れたことで、この世界そのものが変質したのか?
 緋馬の内側で、答えなき問いが蠢く。その間も柳翠は静かに、しかし祝詞を詠むように語り続ける。
「負の感情に満ちた魂は、我らの神の降臨に最もふさわしい生贄となる。憎しみ、絶望、後悔、痛み。それらが幾重にも刻まれた魂は、神を引き寄せる火床となる。兄上はそのすべてを備えていた。裏切り者であり、逃亡者であり、なおも家族を愛し、失い、自責に苛まれている。ああ、そんなに甘く、苦しく、美しい魂を、神が見逃すはずもないだろう?」
 柳翠が一歩を踏み出す。
 藤春の真下に敷かれた延命の魔方陣が、鼓動のように脈打つ。
 ゆっくりと、僅かに速まるリズム。命が、儀式のために活性化してゆく。
「苦しみに満たされた兄上は、神の良き餌になる。すべてを捨てた代償として――それは、光栄な扱いだろう?」
「……柳……翠……」
 その声が地下室の空気を微かに震わせた。
 錆びた鎖が軋む。その音に重なるように、低くかすれた声が柳翠の背を止めた。
 それはもはや、声と呼ぶにも頼りない。肺と喉を通って血とともにこぼれ落ちる、命の最後の音に近い声だった。
 柳翠はただ石像のように無表情なまま、吊るされた男を見下ろしていた。
「……お前の……こと、兄として……救えなかった……のは……間違いなく……俺の、罪だ」
 藤春の唇が動くたび、血が混じる。声に合わせて身体が痙攣し、悲鳴をあげる筋肉を、それでも彼は制しようとする。
 言葉を紡ぐために。ただそれだけのために。
「……俺は……」
 もはや人の形を保つのが奇跡のような肉体。しかし、その目だけは確かに、生の光を帯びていた。
 怒りではなく、恨みでもなかった。ただ、後悔と、祈り――そして、願い。
「……俺は……どんな……報いを受けても……かまわない……」
 自嘲のような笑みが、血と一緒に崩れていく。
 過去の罪を赦されようなどとは、最初から思っていなかった。彼は、ずっと自分を責めていたのだ。
「……あのとき……逃げた俺は……もう……赦されなくていい……。お前が……俺を憎むのも……当然だ……」
 それでも。それでもなお、伝えなければならない想いがあった。
「……でも……緋馬は……違う……。何も……していない……緋馬は……お前と、陽奈多の子で……ずっと……大切な……俺の……」
 声が、震える。
 その震えは恐れではない。命が尽きかけてなお、放たれた言葉だった。
「……どうか……この子だけは……この子の命だけは……頼む……っ」
 その懇願は、祈りだった。
 罪の底から絞り出された――兄として、父のように育てた男としての、最後の願い。
 その言葉は、地下の冷たい空気に溶けていく。蝋燭の火が吹き消されるように、静かに、痛ましく。
 だが、柳翠の表情は微動だにしない。彫像のように整った顔に、情動の痕跡は一つもない。
「駄目だよ、兄上」
 声音は、静かだった。
 けれど、その静けさの奥に潜む残酷さは、容赦のない断罪そのものだった。
「言っただろう。兄上には『負の感情にまみれた魂』になってもらうって」
 柳翠は、一歩、また一歩と近づいていく。
「まだ足りない。兄上の中には、ほんの少しだけ温もりが残っている。緋馬という希望が、灯ってる。それを、僕は消さなきゃいけない」
 そう言って、柳翠は手を掲げた。
 掌の上に、音もなく火が現れる。それは炎の形をしていながら、火ではなかった。
 現実を侵す力。魂を焼き、存在そのものを灼く魔の焔。空気が軋む。冷たく、熱く、祈りとは真逆のものが、この場に降りてくる。
「愛した子を、目の前で奪われる。それを見届けたとき、兄上は完成する。神の器にふさわしい、純度の高い魂になる。僕を、喜ばせてくれよ」
 藤春が口を開こうとした瞬間、炎が放たれた。
 柳翠の魔炎が、真一文字に緋馬を射抜こうと飛翔する。
 時が凍りついたかのような一瞬。緋馬は息を呑み、反射的に腕を上げた。
 そのとき、胸の奥で何かが応えた。
 紫莉の抱擁。「油断しないで」と告げたあの手の感触。
 それは彼女の内奥にあった異能、命を灯す力の残響。
 無意識のうちに、緋馬へ受け渡された小さな魔の火。
 その火が、彼の掌に灯る。
「消えろ!!」
 緋馬の放った火が、柳翠の魔炎と空中で衝突する。
 爆ぜる音。地の底を揺るがすような魔力の激突。
 吹き荒れる狂風の中、二つの炎が空中で唸りをあげて食い合った。
 一方は、魂を焼き尽くすための黒き火。
 一方は、命を守るための紅き炎。
 拮抗する力が地下空間を震わせ、ついに緋馬の炎が勝る。
 魔炎が空間の裂け目のように裂けて消し飛んだ。
「……お前……!」
 柳翠が初めて、驚愕に瞳を見開いた。
 緋馬は恐怖に震える膝を押さえ込みながら、一歩一歩、前に出る。
 その掌に灯る炎は、もはや偶然ではない。意志の火。戦うために、自ら燃やす火。
 柳翠の口元が僅かに歪む。笑っている。だがその笑みは、もはや余裕ではなかった。
「いつの間に、そこまで成長した? あんな無能に育てられた子供が、魔術の鍛錬などできるものか」
(繰り返すうちに……知ってしまったんだ……望まなくても、知りたくなくても……!)
「ならば見せてやる。兄上……貴方の魂を頂こう。魂こそ異能の源。魔力の核。それを餌に使わせてもらうよ」
 藤春の下、延命の魔方陣が脈打つ。そのたび、魂が引かれていくように彼の全身が震えた。
「おじさん……!?」
 緋馬が叫ぶ。柳翠は頷く。
「兄上は仮にも始祖様の血を引く価値ある器なのだから、僕の貴重なリソースになってくれる。僕の武器になるといい。緋馬を殺すための武器に」
 再び柳翠の炎が揺れる。灼熱の風が、地下室を満たしていく。柳翠の指先から迸った炎は、生き物のようにうねり、咆哮をあげて緋馬に襲いかかる。
 緋馬もまた、掌から火を放った。直線ではない。防壁のように広がり、襲い来る魔炎とぶつかり合う。
 轟音。地下空間が震えた。空気が焼かれ、石壁が爆ぜる。
(俺の火は、あいつのほど強くない……)
 それでも、対抗できないほど小さな炎ではない。
「燃えて!」
 緋馬の叫びに応じ、炎がうねりを増す。
 防御から攻勢へ。紫莉の力に触れたその火は、彼の意志に順応していく。
 柳翠は沈黙のまま手を上げる。空中に円環の構式が展開され、鋭利な魔炎の槍が五本、宙に浮かぶ。
「貫け」
 命令とともに、槍が火の雨となって撃ち込まれる。
 緋馬は火を打ち出し、相殺を試みる。だが一本が肩を掠め、皮膚を裂いた。
 痛みを飲み込みながら、緋馬は突き進む。
 柳翠は無言のまま手を振り下ろす。足元から、柱のような炎が噴き上がる。逃げ場はない。
 緋馬は両手に魔力を集中させ、そのまま下方に解き放った。
 爆風の跳躍。炎を足場にした突進。身体が灼熱を裂いて宙を翔け、そのまま柳翠の眼前に肉薄する。
 拳に炎を纏わせ、振り下ろす。柳翠は眉ひとつ動かさず、腕で受け止めた。衝突の中心で、閃光が炸裂した。
「その程度で何ができる」
 柳翠が指を鳴らす。空間に浮かぶ魔方陣が歪み、次の火柱が具現化する。
 それはもはや火ではない。獣のように這い寄る、執念の塊だった。
 緋馬は唸り声と共に、意志を込めて火を放った。
 そのとき――炎の流路が途中で、切れた。
「……ッ!」
 柳翠の目が細まる。
 宙に浮かぶ熱の流路が、緋馬の意志によって閉鎖された。炎が空中で途切れ、流れが塞がれる。まるで炉の蓋が閉じられたように火が吸い込まれ、無に帰した。
「……やめろ」
 柳翠が低く吐く。
 声は怒りというより、かつての自分を汚されるような悲鳴だった。
「その技を、お前が使うんじゃない」
 足元に構築されていた術式が完成する。上下左右から火の結界が迫る。緋馬は目を閉じた。──見えない鍵穴を、心の感覚で探る。
 息を吸い、掌をかざす。
 空間に、ぱきん、と亀裂が入った。炎の檻に、見えない抜け道が開いた。
 結界が割れる。柳翠の火は緋馬に届かず、壁を穿った。
「概念の操作ッ……陽奈多の力を使うなッ!」
 叫ぶ柳翠。緋馬の掌が再び火を灯す。だがそれは、単なる火ではない。
「知らない! これは、俺の力だよッ!」
 術式の構造に、緋馬は開閉の情報を上書きした。
 魔力の流れが歪み、柳翠の防壁の耐熱構造が瞬時に解除される。
 火はまるで、鍵穴を見つけたかのように内部へ侵入し――爆ぜた。
 焼けた床に靴音を響かせながら、柳翠が片手を掲げる。指先から血が滲み、空間へと流れ込んでいく。まるで供物のように。
 足元の術式が光を増す。それは藤春の延命術式とは桁違いの、多層構造を持つ神業。
 次の瞬間、空間がねじれる。音も匂いも奪う異物が、割れた空間の隙間から這い出そうとする。
(……おじさんの魔力を吸い取って、異形を喚ぼうとしている)
 緋馬は悟る。
 殺すための、悪夢のような凶器を呼ぼうとしている。
「させない!」
 緋馬が両掌を突き出す。
 天井から現れかけた裂け目が凍結する。
「おじさんはあんたたちを喜ばせるためのものじゃない! 普通の人間だ! ましてやあんたの道具でもないッ!」
 すかさず柳翠が次なる術式を発動しようと指を振り上げる。制止のため緋馬は掌に炎を纏わせた。柳翠は構わず魔法陣から藤春の生命力を引き上げようとする、が、
「…………柳、翠っ……!」
「!?」
 鎖に吊られた血塗れの藤春が、燃えた。
 体中を割られ、内臓すら飛び出し、喉すら裂かれ、骨も砕かれている人間が動き出せるわけがない。それでも藤春はかつての鍛錬を思い出し、血の味を飲み干しながら自らの炎で鎖を焼き切る。
 そして、自ら陣から離れた。
 結果、供給が絶たれる。
 緋馬は、点火した。外付けの魔力供給を失くした柳翠を、防御壁を突破された柳翠を、反撃すら許されず燃やされるしかなかった柳翠を……ただひたすらに緋馬は燃やし続ける。
 命を守るための火が命を弄んだ男を紅蓮に呑みこんでいき、ついに妄執の男は崩れ落ちた。


 /7

 柳翠が、地に伏した。
 全身を紅蓮に焼かれ、抵抗は霧のように崩れ去った。戦いは、終わった――はずだった。
 しかし次の瞬間。ゴウン、と地の底が呻いた。
 地下のさらに下層を這うような重低音。耳鳴りのような圧が空気に満ち、石壁が軋み、天井の奥深くから、何かが唸るように響いてきた。
 緋馬の血の気が引いた。
 その音を、彼は知っている。幾度も、命を奪われる直前に耳にした、あの兆候。化け物の出現の合図だった。
(そんな、嘘だろ……!? レジスタンスが、化け物の召喚を取り押さえてくれるんじゃ!? 新座さん……!?)
 ゴゴゴゴ、と足元が揺れる。
 振動の源は真上ではない。別の空間が歪み、沈み、そこに何かが姿を現そうとしていた。
 緋馬は藤春の傍へ駆け寄る。そして、その背後で――
「僕の勝ちだよ、緋馬」
 声が、届いた。
 途切れたはずの、柳翠の声。
 緋馬が振り返ると、地に伏していた柳翠が、血まみれの手を石床に這わせていた。その目は、執念と怨念の炎を灯したまま、緋馬を射抜くように睨んでいた。
「僕が殺さずとも……お前たちは死ぬ。苦痛にまみれ、絶望する。それが最良の贄になる。神を呼ぶには、最高の火床だよ」
(始まってる……もう、あの召喚は! この人、あの音が聞こえてないのか!?)
 全神経をこめた柳翠の掌の下、魔法陣が幽かな燐光を放つ。
 バシュッという低く鋭い音と共に、石壁と天井、そして出入り口までもが、目に見えぬ結界に覆われた。
「外には出させない。逃げられないよ。兄上はここで死ぬ。お前もだ。……すべて、終わりだよ」
「そんなの、俺が……! 俺が開けてやる……!」
 緋馬は掌を結界に当てる。
 鍵の番人として、魔力を流し込む。けれど、反応はない。
 びくとも動かない封鎖。手応えすらない。
 背後から、柳翠の嗤う声が響いた。
「陽奈多の血が研究されていないとでも思ったか?」
 その言葉には、静かな残酷さが滲んでいた。
「彼女が機関に身を寄せた理由は、開けすぎる力を抑えるためだった。だからこそ、彼女自身の力は徹底的に解剖され、研究され尽くした。その成果が、今のこれさ――開けないことを選び取った結界。『閉じきった封鎖陣』。刃も通さず、お前の開くも通さない。……絶対に破れないよ」
 柳翠は血を滴らせながらも、口元に薄く笑みを刻んでいた。
 かすれた息遣い。だが、その目はまだ勝者の光を失っていなかった。
 ――閉じ込められた。外に知らせる術もない。逃げる道もない。
 背後では、藤春が呻いた。延命の術式から切り離され、限界を超えた身体が、静かに震えている。
 そして、再び地が唸った。
 重く、深く、黒い音。空間の底から、何かが這い寄るように。
 何か、方法は。叫びたい心を飲み込み、頭を回す。何か、何か手は。柳翠が言った。開閉の力でも開かない。だったらここで終わりなのか?
 また、大切な人と――死ぬのか? 繰り返された地獄の夜のように。
 出口はない。見えない檻に閉ざされたまま。緋馬もまた、崩れ落ちた。

 ――ゴウン。
 再び、大地が呻いた。
 地下深くを揺さぶる重低音。それは、胎児が眠りから目覚めるような律動。世界の奥底を、内側から叩くような鼓動だった。
 結界の維持にすべてを費やしていた柳翠が、その震えにようやく耳を貸した。
 朦朧とした意識の底で、ふと微かな、けれど懐かしい気配に触れたような錯覚が過った。
 胸の奥が、僅かに震えた。
 あのぬくもり。あの声の色。目の前にはいない。けれど、確かにその奥に、彼女がいるような気がした。
(……ひな……)
 呼びかけは、もはや空気を揺らさなかった。
 ただ心だけが、誰にも届かぬ叫びを繰り返していた。
(会いたい……会いたい……)
 それだけが、彼を生かしていた。
 正義を捨て、命を弄び、幾千もの痛みを見過ごしてきた。地獄へ至る道すら、もはや躊躇わなかった。ただ――もう一度、触れたかった。その声を聞きたかった。
 地の底で、災厄がうねる。それは陽奈多ではない。ただの怪物。ただの終末。
 それでも柳翠は、その奥に彼女を探し続けていた。
(……緋馬には……いたのに……)
 血の中に。術の反響に。
 陽奈多は確かに、あの子と共に在った。
(なのに、なぜ……なぜ僕には……)
 戦いの果て、すべてを結界に注ぎ込んだ柳翠の生命は、枯れ果てていた。
 渇きが、胸の内側から裂けるように走る。骨が軋み、瞼の裏が焼けつく。目が熱く滲んだ。
 会いたい。ほんの少しでいい、触れていたい。愛していた――誰よりも、誰よりも深く。
 もしも肉と魂を積み上げることで、彼女をこの世に呼び戻せるというのなら。どんな禁術でもどんな犠牲でも、どれほどの罪を積もうとも。柳翠はすべてを差し出した。そのために、生きてきた。そのために、ここまで来た。
 なのに、手を伸ばせば届くはずのその人は、どこにもいない。
 ただ遠く、鼓動のような胎動だけを残して、なお応えなかった。
(……早く……僕に会いに来てくれ……ひな……僕に……触れてくれ……その手で、その肌で……)
 声にならぬ声が、空虚な空気に溶けた。
 名を呼ぶ、その半ばで――呼吸が、止まった。
 仏田柳翠は、泣いていた。苦しみと喪失と、底知れぬ愛情を抱えながら。
 会いたい。会いたい。あの女に。愛しい女に会いたい。千年前の悪魔と同じように。許されることのない罪の果てに、ただ一人、決して届かぬ幻を追い――その手に何も掴めぬまま、音もなく、光のない死の世界へと消えていった。

「……逃げ道なんて、ないんだな……」
 その一言は、呟きというよりも、降り積もった雪のように静かだった。
 地鳴りは止まぬまま、結界は微動だにせず。
 緋馬の掌から放たれる魔力は何度試みてもはじかれ、脱出の希望は霧のように漂い、やがて消えた。
 だが、心の底にただ一つの願いが、残っていた。
 ──せめて、この人を最後まで抱きしめていたい。
 膝を擦るようにして、崩れた藤春のもとへ歩み寄る。
 拘束を燃やし、命を繋いでいた魔法陣の外へと身を投じた男。
 その代償は大きく、藤春の身体はすでに限界を超えていた。
 骨は砕け、内臓は破れ、生命線はすでに彼自身の手で断ち切られていた。
 緋馬は知っている。藤春の犠牲がなければ、自分は柳翠に勝てなかった。
 それでも、喜びには至れなかった。あまりにも、その結末は穏やかで、悲しすぎた。
「……おじさん……ありがとう……」
 その言葉をこぼした途端、涙が溢れた。
 崩れた胸元に頬を寄せ、血と塵にまみれた体を、壊さぬよう丁寧に、けれど確かに抱きしめた。
 その身体は、あまりにも軽かった。
 壊れた人形のように脆く、手の中から崩れ落ちてしまいそうだった。
「……俺……もう何もできない。だけど、ここで……おじさんと一緒にいる。壊れないように、ちゃんと、抱いてるから……」
 冷たい地下の空気の中で、微かに感じる体温。
 まるで残り少ない電池のように、命の灯が、ちらちらと揺れていた。
 緋馬の震える手が、そっと藤春の髪を撫でる。
 血と鉄の匂いが、空気に沈殿していた。
 その中で、藤春の唇が僅かに動いた。掠れた声が、微かな呼吸の隙間を縫って、零れ落ちる。
「……おじさんはな……柳翠の言った通り、逃げたんだよ……」
 緋馬は顔を上げ、過去を語るその目を見つめた。
「つらくて、仏田家を、逃げるように出た……弟を置いて……なのに……結局、俺は逃げきれなかった。……すぐ捕まってな。引き戻されて、折檻を受けて……あまりにつらくて、怖くて、反抗をやめて……戻るしかなかったんだ」
 言葉の端々に、苦悶と悔いが滲んでいた。
 柳翠の話ぶりでは、藤春は寺を抜けて外の人間になれたようだった。そのまま自分を捨てて戻ってこなかったと言うかのように。
 けれど、実際は違う。完全に仏田家から縁を切れたのなら、何度も寺に住まう柳翠のもとに訪れるわけがない。機関の施設を訪れることも、妻の葬式に実家を利用することも儘ならないはずだ。
 藤春は何度も柳翠に会おうとしていた。会う機会がいくらでも作れた。それほど近しい存在のままでいられたのだ。
「柳翠は……俺を部外者って言ったけどな……そんなもの、俺は、なれなかった。外の世界で生きていけたけど……結局は言いなりで……家の鎖に、繋がれたままだった……」
 藤春は自嘲気味に微笑み、ゆっくりと瞼を伏せた。
 緋馬は、否定の言葉を発する前に、彼の声が再び響いた。
「……でもな、緋馬」
 今度の声は、微かに力を帯びていた。
「お前と暮らすようになって……俺の息苦しかった世界が……少しずつ変わっていったんだよ」
 緋馬の目が、見開かれる。
「……お前が傍にいてくれたことで……人を、愛おしいって……心から、思えるようになった。俺にも……普通の生活を送れるかもしれないって……初めて、思えた」
 傷ついた手が、緋馬の頬を探るように伸びる。
 骨の折れた、不格好な指先が、そっと頬に触れた。
「……お前と笑った日々の中で……俺は、人間になれた。仏田家から出たからじゃない……お前と一緒にいたから、だよ」
 血に濡れ、朽ち果てかけた唇が、それでも確かに微笑んだ。
「そう思えることが……今、本当に……嬉しいんだ……ありがとう、緋馬」
 言葉にならない嗚咽が、喉を震わせる。
 緋馬は壊れものを扱うように、けれど強く、その身体を抱き締めた。
「……ねえ、おじさん……」
 震える声が、耳元でささやかれる。
「……最後に、お願いがあるの。聞いてくれる……?」
 返事は無い。けれど、耳元に微かな呼吸が触れている。それだけで、藤春がまだこの世にいることが分かる。
「俺……一度でいいから……おじさんから……キスが欲しかった……」
 顔を上げた緋馬の頬は涙で濡れ、唇は小さく震えていた。
 その願いはあまりにも切実で、あまりにも遅すぎた。
 藤春の身体には、もう力は残っていない。腕を伸ばすことも、撫でることすらできない。叶わぬまま、終わると思った――その瞬間だった。
 ゴウン。
 地下が大きく揺れた。天井、壁、床が軋みを上げる。化け物が、ついに目を覚ました。
 緋馬の身体が傾き、藤春の顔へと寄った。そのとき、唇に――ぬくもりが触れた。
 首の力などもう残っていないはずの藤春が、揺れに乗せるようにほんの僅かに顔を傾けていた。
 それは奇跡のような一瞬だった。
 ただ願いのために。その想いだけで。意志が身体を動かした、最後の一秒。
「……藤春、さん……」
 震える声と共に、涙がまたこぼれた。
 藤春は、それきり動かなかった。
 けれど緋馬には分かった。その唇に宿ったものが、まぎれもなく愛だったことを。
 涙が頬を伝う。けれどその顔には、不思議な、微かな微笑みが浮かんでいた。
 二人はもう、どこにも逃げなかった。どこにも隠れなかった。
 この暗闇の中で、ただ隣り合っていた。
「一緒に……眠ろう。昔みたいに、ねえ」
 囁くように言いながら、緋馬は藤春の瞼をそっと閉じる。
 そして緋馬の目も、ゆっくりと閉じられた。
 暗闇が降りてくる。熱も痛みも恐怖もそこにはない。寄り添うぬくもりだけが、確かに残っていた。



【8章】

 /1

 やわらかな陽射しが、冬枯れの街に斜めに差し込んでいた。
 高台の小学校から、ランドセルを揺らしながら下校する少女の背に、光は静かに降り注ぐ。
 紫莉は歩くたびに小さく弾み、制服のリボンは少し曲がっていた。スカートの裾には朝方に跳ねた泥の痕が、乾いたまま白く残っている。
 それでも日常というものは、何事もなかったかのように続いていく。
「紫莉ちゃん、おかえりー」
「ただいまなのー」
 通学路の角を曲がったところで、近所の奥さんに声をかけられ、紫莉はいつものように笑って手を振った。
 そうした普通が、ようやく戻ってきていた。
 正月が過ぎ、新しい学期が始まっていた。
 つい数週間前までの仏田寺での出来事は、まるで誰かが見た悪い夢のようだ。けれど、忘れることなどできるはずもなかった。
 家へ駆け上がり、玄関の戸を開ける。すぐに味噌汁の匂いが鼻をくすぐった。
「紫莉、おかえり。今日は肉じゃがよ」
「ありがとうなの、おばあちゃん」
「ちゃんとご飯食べたら、例の人たちとお話するのよ。もう来てるからね」
 台所の奥では、見慣れたスーツ姿の大人たちが椅子に腰かけていた。
 レジスタンス――かつてあの場から紫莉を救い出してくれた人たち。今も定期的に彼女の様子を見に来てくれることになっている。
 紫莉は、その大人たちを見上げ、まっすぐに口を開いた。
「緋馬お兄ちゃんのこと、何か新しいこと、分かりましたか?」
 彼らは一瞬だけ視線を交わし、やがて静かに首を振った。
 資料を開いたまま、伏せられた目が動かない。
「申し訳ありません。現時点では、彼の行方に関する確定的な情報はまだ得られておりません」
「でも、あの地下室にいるかもしれないって、前にも言ったの、あたし。知ってるんです。あの部屋……あたしが拷問されてた場所なの。緋馬お兄ちゃん、そこに向かっていて、あたしを助けてくれたから……」
 声は、震えなかった。
 泣いてはいけないと、何度も言い聞かせていた。
 それでも、胸の奥が焼けるように熱くなって、うまく言葉が続かなかった。
「お願い……お願いだから、探して。緋馬お兄ちゃんは……あの場所にいるの。きっと、まだ」
 しかしその言葉を遮るように、静かな声が返ってきた。
「紫莉さん。陵珊山一帯は現在、高度封印結界の対象区域に指定されています。時間の流れも、空間の秩序も不安定です。許可なく立ち入れば、命に関わります。地下室も含め、仏田寺への出入りは現在、物理的に不可能です」
 紫莉は拳を強く握りしめた。
 小さな手の中で爪が食い込み、下唇が、真っ白になるほど噛み締められた。
 それでもなお、彼女は訴えることをやめなかった。
 室内に、誰も声を返さなかった。誰も、否定も肯定もできなかった。
 ただひとりの少女の言葉が、薄曇りの午後に降る雪のように、静かに、けれど確かに室内の空気を締めつけていた。

 夕暮れの茜色が、街の輪郭をゆるやかに溶かしていく頃。
 紫莉はエージェントたちと別れを告げると、宿題を放り出して近くの公園へと足を向けた。
 遊具の影が長く伸びる中、人気のないブランコに腰を下ろし、揺らすこともなく、ただ小さな手のひらに目を落とす。
 その掌にあるのは、紫色の勾玉。光にかざすと、内側で僅かに揺らめく。不思議な、けれどもうただのアクセサリーになったそれ。
 かつては、自分という存在のルーツを神秘的に飾っていた。
 けれど今は違う。今となっては、「緋馬お兄ちゃんから返された宝物」、その意味がすべてだった。
「ねえ、これが緋馬お兄ちゃんにずっとあったら、もっと……力になれたのかな」
 誰に向けるでもない、独り言。答えは風の中にもなかった。
 緋馬の手にあったとき、この勾玉は確かに、幾度も時間を超えた。あの夜、燃えるような世界のなかで、自分を抱き上げ、化け物を払い、涙を拭ってくれた彼の掌に――あった。
「今から、あたしが助けに行こうか……」
 口をついて出たその言葉は、妄想とも願望ともつかないものだった。
 けれどすぐに、自分で首を振る。
 無理だということは、分かっている。子どもの自分では、時間を超えたって、きっと何もできずにすぐ死んでしまう。それに、死ぬようなことが起きなければ、この勾玉はただの石だ。
 あたしには、できない。緋馬お兄ちゃんのようには、なれない。
 どうやって彼が世界を動かし、自分を救ってくれたのか――紫莉には、想像すらできなかった。
 ただひとつ分かっているのは、彼は凄い人だということ。絶望の中からでも光を運び、誰よりも優しく、そして強かった。
 きっと大丈夫。そう信じたかった。信じなければ、壊れてしまいそうだった。
 唇を噛みしめて俯いた指の隙間から、勾玉の淡い光がこぼれている。まるで何かを囁くように。
 ――「助けに行きたい?」
 不意に届いた声。朗らかで、どこか茶化すような、それでいて不思議と温かい声だった。
 紫莉の肩がびくりと跳ねた。顔を上げると、そこには見知らぬ男性が立っていた。陽の落ちかけた空を背に、くしゃりと笑っていた。
 咄嗟に防犯ブザーへ手が伸びる。男性は両手をぶんぶんと振り、慌てたように笑った。
「ちょ、ちょっと待ってぇ! 怪しい者じゃないからぁ!」
 日だまりの縁に溶け込むような、ゆるい雰囲気。昼下がりの公園に似合うような、どこかのんびりした空気を纏っていた。
 紫莉は警戒を解かぬまま、それでも問いかける。
「……誰、なの?」
 男はにっこりと、今度は優しく笑った。
「お兄さんはね、西大家 福広って言います。……緋馬って男の子の『お兄さん』をやってた人ってところかなぁ。血は繋がってないんだけどねぇ」
 福広は、紫莉の隣のブランコにそっと腰を下ろした。
 軋む音が夕暮れの空気に溶けて、しばし沈黙が流れる。
「ウマお兄ちゃんはねぇ、ちょっと変わってる子だったんだよぉ」
 そう言って、福広は遠くを眺めながら目を細める。
 声はどこか懐かしむようで、同時に胸の奥をそっと撫でるような響きを帯びていた。
「静かで大人しくて、別に目立つ子じゃなかったけど……なぜか放っておけない。そういう子いるでしょ? あの子はね、隙間にぽつんと咲いた花みたいでさ……気がついたら目が離せなくなってた」
 紫莉には、彼のことを知らなくても分かるものがあった。
 福広の横顔には、確かに愛情と呼べる光が宿っていた。
 それは血縁でも義務でもない、ただ誰かを想う眼差しだった。
「最初はさ、ただ『こいつ放っておけないな〜』ってくらいだったんだよぉ。なのに気がつくと……なんだろうなぁ。あの子がちょっとでも笑ってくれるだけでさ、こっちの世界が少しだけマシなものになる気がして……そんな笑顔を見せる子だったんだよぉ」
「……緋馬お兄ちゃんは、すごく、いいひとだったんだね」
 紫莉の問いかけに、福広は目尻を下げて頷いた。
「うんうん、そうそう。あの無愛想でムーッとしてる子がさ、たまーにニコッと笑うと……もうギャップでやられちゃうんだよねぇ。まさにそれの化身? 学校でもそんな感じだったみたい。物静かだと思えば突然大胆なことしてみたり、クールかと思ったらふいに可愛くなったりしてぇ……なんだかんだで友達も多かったんだよ、あの子」
 そこで福広は、ふと声を落とす。
「寄居もね、そう言ってた」
 寄居。紫莉には聞き慣れない名前だった。
 福広は「同い年の友達だよ」と笑って補足する。
「寄居も、ずっと心配してたんだ。『顔色悪くない? 大丈夫? 休んだ方がいいんじゃない?』 そんな風に、ずっと気にしてた。放っておけない空気を持ってたからさ、あの子。寄居も、今でも言うんだよぉ。もう一度、会いたいってぇ。……お兄さんも、そう思ってる」
 その言葉に、紫莉もそっと呟く。
「……あたしも、なの」
「だよなぁ」
「会いたい……あたし、緋馬お兄ちゃんのこと、あんまり知らないけど。でも……ぶつかって、お願いした。それだけだったけど……助けてくれたから。……もっと、話したかった。もっと、知りたかったの」
「ああ。だからこそ俺はもう一度、あいつに会いたい」
 福広の言葉には、迷いがなかった。
 それは願いではなく、決意だった。
 兄でも父でもない。けれど、あの子の近くにいた者として。
 何度もその存在を見てきた者としての、確かな祈りだった。
 彼は膝の上から広げた資料を、紫莉の前に差し出す。陵珊山の地形図。仏田寺の境内図。研究施設の簡易構造。そして衛星写真のコピー。
「……ねぇ、紫莉ちゃん」
 地図の端を押さえたまま、福広は柔らかく笑った。
「お兄さんに、『地下室』の話を聞かせてくれない?」
 唐突に思えたその申し出は、しかし不思議と拒絶しがたい温もりを含んでいた。
 紫莉が目を見開くと、福広は地図の一点を指でなぞりながら続けた。
「場所とか行き方とか、どういう造りだったかとか……お兄さん、昔あの施設の清掃員として働いてたんだけどねぇ。紫莉ちゃんが見たっていう場所は知らなかった。全然知らなかったんだよぉ」
 肩をすくめ、少し困ったように笑う。
「レジスタンスの人たちはさ、守秘義務とかで教えてくれないでしょ? だからお兄さんは紫莉ちゃんに直接聞きに来たんだ」
 冗談めいた口ぶりの中に、はっきりとした意志があった。
 紫莉は小さく息を飲み、じっと彼の瞳を見つめ返す。
「……聞いて、どうするつもり?」
 幼さの残る声に、確かな力が宿る。問いは真正面から投げられた。
 福広は、笑った。どこまでも自然に、何の躊躇もなく。
「行って、確かめるに決まってるだろぉ?」
 その言葉は静かだった。けれど揺るぎがなかった。
 紫莉の胸が、きゅっと縮まる。
 そこにあったのは、無謀でも、自己犠牲でもない。ただひとつ、「あの子を助けに行く」という真っ直ぐな意志。
「緋馬お兄ちゃんを、助けに行くんですか?」
 小さく、けれど震える声で問うと、福広は静かに真っ直ぐに頷いた。
「もちろん。だって俺、あいつのお兄さんみたいなもんだからさぁ!」


 /2

 陵珊山は死んでいた。
 遠目からでも、その異様さは明らかだった。
 枯れ木のように沈黙した山肌。風さえ拒むような結界の静寂。炎で焼かれ、祈りも灯も消え果てた仏田寺の跡には、もはや神仏の気配すらない。
 あの夜から、ここは呪われた地となった。
 邪神が現れ、封じられた山。近づけば不幸が降る寺。戻ることのできない、死者の結界。それが、今の陵珊山と仏田寺に貼られた烙印だった。
 獣道のような裏山の小径。かつて人が通ったその入口に、福広は静かに立っていた。
 隣には、紫莉の姿。
 レインコートのフードを深く被り、小さな手の中に勾玉を握りしめている。
 その横顔にはまだ幼さが残っていたが、瞳の奥の決意は、微塵も揺れていなかった。
 福広は、黙って頷く。
 結界は外からは見えない。けれど、踏み込んだ瞬間に皮膚がざわめく。
 山を包む空気そのものが、異界の膜に変わっていた。まるでこの山全体が、世界の拒絶を叫んでいるかのようだった。
「これ以上先は、自己責任だねぇ。入ったら、呪われちゃうかもよぉ」
「……でも行かなきゃ。緋馬お兄ちゃんが、いるかもしれないの」
 紫莉のほうが、先に一歩を踏み出した。
 福広は苦笑しながら、その背に従う。
 そこには、焼け焦げた地面が広がっていた。黒く炭化した山門の石は崩れ、灰になった階段が歪んでいる。
 二人の影が、夕闇に飲まれていく。封印された地獄の扉を押し開くようにして。

 斜面を登るうち、足元の土は炭のように黒く焦げていた。
 かつて苔むしていた石段は熱で砕け、崩れ落ちた灯籠が進路を塞いでいる。
 仏田寺は、跡形もなかった。屋根も柱も焼き尽くされ、ただ瓦礫と灰が積もるばかり。かつてここに人の営みがあったなど、もはや誰も信じられまい。
「……全部、焼けたんだ……」
 紫莉が呟く。声は震えていなかった。だが、灰を見つめる瞳の奥には、無数の思いが沈んでいた。
 福広は黙って頷く。
 手にしているのは、寄居から借りた手描きの古い地図。火に飲まれる前の仏田寺の構造が、かすれた筆跡で記されている。
 それは住職の息子だった寄居が、かつて独自に考察した仮説だった。
 もし地下室があるとしたら、どこにあるか。人目を避けつつ、重要な場所に近く、そして誰にも気づかれない位置。そんなメモが走り書きのように残されていた。
 二人はその仮説を信じ、寺の裏手へと足を向ける。
「もしウマを発見できたら……ちゃんとしたお墓に入れてあげたいんだよねぇ」
 福広の声は軽いが、その背には覚悟が宿っていた。
 紫莉は、緋馬の死を信じていない。彼は生きている。魔法の力で、きっと。そう信じている。
 けれど福広は、大人だった。もう戻らないかもしれない命を見届けるという決意が彼にはあった。
「あいつ、家が好きな子だったからさぁ。野宿なんて似合わない。ちゃんとした『おうち』に入れてあげたいじゃん」
「……あたしも。ちゃんとしたおうちに……帰ってきてほしいの」
 紫莉は小さく頷き、勾玉をぎゅっと握りしめた。
 灰を踏みしめ、崩れた壁の隙間を縫って進む。
 焼けた木材の香りに、焦げた布と、遠い血の匂いが混じっていた。

 北東の廊下は、まるで地獄のようだった。天井の半分は崩れ、梁が斜めに突き刺さるように落ちている。階段口も土砂で埋まり、ただの崖のような姿になっていた。
「……やっぱ、こっちから行くのは無理だなぁ」
 福広がぼそりと呟き、地図をたたむ。
 寄居の言っていた使者用の搬入通路。寺の裏手に残された小道へ向けて引き返す。
 そこには、かろうじて残された一枚の鉄扉があった。焼け爛れ、歪みきっていたが、福広が体重をかけると、軋む音とともに僅かに開いた。
 その先に続くのは、闇に沈む石の階段。熱で亀裂の走った石壁が、ぽたぽたと水滴を落としている。
「……ここだ」
「ここ、魔法の気配がする。きっと……本当なら隠されてる扉だったの」
「へぇ? 紫莉ちゃんって魔法使いだったのぉ? 魔法少女ユカリン、すっごいじゃーん」
 福広が茶化しながらも、先に足を踏み入れる。これ以上は、少女を先に立たせられる場所ではなかった。
 紫莉は勾玉を握ったまま、その背に続いた。
 地下室の空気は重たく、澱んでいた。焦げた壁、崩れた床、封じられた時間の中でも消えなかった、生々しい苦痛と絶望の残り香が、そこに、まだ生きていた。

 福広が、ふと足を止めた。その視線の先。崩れた瓦礫の向こう――それは、確かに在った。
 紫莉もまた、息を呑む。
 灰と血と煤に覆われたこの地獄の只中に、ただ一ヶ所だけ、ぽつりと泡のように存在するもの。淡く、けれど確かに、あらゆる侵入を拒絶するかのように、楕円形の光がそこに置かれていた。
 それは、目に見える結界だった。
 人がふたり、身を寄せ合ってようやく収まるほどの大きさ。内部には仄かな光が宿り、ときおり、内側から微かに脈打つような魔力の波動が伝わってくる。
 まるで外界そのものを拒み、時間の流れすら歪めて封じた、密閉された小宇宙。それは棺というにはあまりに温かく、牢というにはあまりに愛おしいものだった。
「……生き物みたい、だな。なんだこれ……」
 福広がぽつりと呟く。
 山を覆っていた強大な封印も、降り注いだ火の嵐も、この一点には触れることすらできなかった。
 まるで誰にも触れられぬために、この空間だけが切り取られたかのように。
「……緋馬お兄ちゃん……」
 紫莉の声が震える。
 中の様子は見えない。結界の術は視覚までも遮断し、光そのものが歪められている。
 それでも、分かる。ここにいる。きっとここにいる。紫莉は、確信していた。
(……お兄ちゃん、言ってた。つらいときは、布団かぶって寝てろって……。だから、これなんだ)

 ──緋馬は、選んだのだ。
 父が張った結界を破るのではなく、閉じることを。
 侵入も破壊も許さぬ鍵として、あらゆる死と絶望からただ一人の大切な人を守るために。
 空間を完全に閉じ、世界の終焉から切り離された、ただひとつの避難所として――。
 時間は限界まで鈍化し、外気は遮断された。緋馬は藤春とともに燃焼する命そのものを封じ、代謝を極限まで落とした仮死状態へと自身を変えた。
 呼吸の代わりに炎が細胞を温め、鼓動は百時間に一度だけ命を刻む。
 藤春の身体にかけられていた死の呪術を逆手に取り、魔力の僅かな供給源としながら──死でもなく、生でもない、限りなく「待つ」ためだけの空間を築いたのだ。
 それは、脱出不可能な奇跡。唯一の望みは、『誰かがここに辿り着き、見つけてくれる』という他力にすべてを委ねた、賭けだった。

「もしもしぃ!? 誰か、聞こえてる!? 緊急だよ、緊急! すぐに……結界術の専門家を寄越して!」
 焼け焦げた瓦礫の上に立ち、福広が通信端末を握りしめて叫ぶ。圏外寸前の山奥から、山を震わせるような声で、必死に呼びかけた。
「立ち入り禁止区域に、なぜ貴方が……?」
 困惑する声が応答する。だが、福広は間髪入れず怒鳴った。
「救助中だからに決まってんだろ!」
 その声には、単なる熱意ではない何かが宿っていた。
 大切なあの子が、この場所にいる。
 理屈も、規則も、それだけの前には塵に過ぎなかった。
 紫莉は、結界の前に膝をついた。小さな手をそっと伸ばし、震える指先で結界の表面をなぞる。
「……あのとき、言い忘れたことがあるの」
 声は小さく、けれど確かだった。
 空気を震わせるように、膜の向こうに届くように。
「……助けてくれて、ありがとう……緋馬お兄ちゃん」
 あの絶望の中で、自分を生かすためにすべてを託してくれた手。温かくて、強くて、優しかった。
「言いたいの。ちゃんと、言わせて。……緋馬お兄ちゃん。会いたい。絶対、会うから」
 こぼれる涙を拭おうともしないまま、紫莉は微笑んだ。
 小さな祈りと、大きな決意をその笑みに込めて。
 再会は、まだ訪れていない。けれど、もう遠くはなかった。
 そのときだった。静かに燃えていた結界の中心の炎が、ほんの一瞬、強く、優しく――心臓のように、脈打った気がした。




 END

 /