■ さわれぬ神 憂う世界 「高梨緋馬の因縁継鎖」 ・ 2ページ目


【5章】

 /1

 仏田寺の空は、いつも灰色だった。
 山奥にひっそりと建つ結界の中、外界から隔絶されたその世界には季節も時代も無かった。
 柳翠は仏田寺の当主の三男として生まれた。兄たちは早くから後継者としての教育を受け、柳翠も例外ではなかった。
 だが三男だった。最初から頂点には届かないことが決まっていた。
 それでも魔術の才は求められた。血筋の誇りとして汚点を残さぬために毎朝夜明け前に起こされ、骨にひびが入るまで身体を叩き鍛えられた。
 詠唱の一つを間違えば指を折られた。どんなに傷ついても治療魔術で蘇生され、また傷つけられた。術式を完成できなければ食事を抜かれた。寒い冬でも放り出された。倒れれば罰だった。泣けば、笑われた。
 三男にしてはよくやった、三男だから当然だ、三男にしては上出来だ、たまに掛けられるその言葉は救いではなかった。
 何度も血を流し、術式の暴走で火傷を負い、毒に侵され、刃を交わした。
 なのに誰もそれを哀れまなかった。倒れたとしても、誰一人として手を伸ばしてはくれなかった。
 大勢の手で姦わされて、屋敷に居たくなくて小さな灯籠の下でひとり膝を抱えた夜が幾度あったか。それでも涙は流さなかった。流しても、誰も見向きもしなかったからだ。
 仏田寺の人間たちは弱さを恥じるように育てられていた。柳翠もその流れに飲まれるしかなかった。
(ここに生まれたことは、祝福ではない)
 いつしか心は静かに冷たく閉じていく。
 感情を持つことは愚かさだ。愛を求めることは敗北だ。それを守るため誰にも頼らず、誰も信じず、ただ己だけを信じる魔術師となった。それが生き残る唯一の術だった。

 兄の藤春は、仏田寺の中ではイレギュラーだった。
 次男として生まれ、後継者争いにも深く関わらず、どこか人間らしい優しさを手放さなかった。他者に痛みを与えることを厭い、柳翠にもよく微笑みかけた。つらいかと言葉を何度も掛けられた覚えがある。
 だが、救いにはならなかった。
 優しさは血と痛みに塗れた仏田寺の中では、何の効力も持たなかった。どれだけ手を差し伸べられても柳翠のいる泥沼は、その手ではすくい上げられなかった。
 無能だった藤春は用済みと見なされ、仏田寺の外を見るようになった。社交的な彼は自由な空、広い街、穏やかな暮らしを目指し、手に入れるだけの強さがあった。けれど柳翠は、魔術しか手に入れられなかった哀れな操り人形は、ここから出ることなど考えられなかった。
(僕はここでしか生きられない)
 そう早くに諦めていた。
 そして、時代はさらに変わる。
 仏田寺が強く支援する機関は、表向きこそ異能研究所を装っていたが、裏では異種族の狩りを始めた。
 森に住み強い魔力を持つエルフ。山を守る半獣たち。魔力を帯びた存在を見つけては捕え、連れ去った。
 目的は純血の人間では到達できない異能の解明。異なる血と魂を持つ者を、実験の素材として扱うこと。魔力の扱いに精通していた柳翠は、そこで完璧な役割を与えられた。
 最初は拒絶もした。命を切り刻むことに僅かな恐れも覚えた。
 けれど手を下さなければ自分が切り捨てられると知ったとき、恐怖よりも先に冷たく澱んだ絶望が胸を支配した。
 どうせ自分はこの世界でしか生きられない。もがいても、誰も救ってなどくれない。ならば。
「効率的な手法を用いるべきだ」
 柳翠は次第に感情を削ぎ落とし、術式を解体し、生命を数式に置き換え、魂を素材に変えた。
 抵抗する異種族の叫び声も、血も、破壊されていく肉体も全て記録の一部に過ぎなかった。
 仏田寺の奥で誰よりも冷徹に、誰よりも正確に、異能の解明に心身を捧げる存在になっていく。
 誰も彼を止めることはなかった。止めようとした者は最初からいなかった。
 ただ、微かな記憶の底であの日少しだけ笑ってくれた藤春の顔が白い実験室の壁の向こうで、滲むことがあった。
 その幻影を柳翠は手で払いのけることもしなかった。
 もう心に触れることを、自分に許していなかった。

 陽奈多は全てが異質だった。
 機関の研究棟に外部から招かれた若い研究者。魔術師としての素養を持ちながら、どこか人間離れした澱みを持たない、透き通るような存在だった。
 誰もが重苦しい沈黙を纏うこの結社の中で、陽奈多だけが笑った。
 誰にでも挨拶をし、目を合わせ、血と痛みを日常とする研究者たちにも臆せずに接した。
 日々一族のために生きるべきと教え込まれてきた柳翠には最初、忠言を鬱陶しいと感じた。連日の研究に彼女の常識的な声は邪魔で、空気を読まない無神経さが嫌悪すべき弱さに見えた。
 だが、気づけば目で追っていた。
 陽奈多の笑顔は誰にも向けられているようで、けれど時折こちらを見て、確かに特別に微笑んでくれることがあった。
 柳翠の胸に長い間眠っていた何かが揺れた。恋、だった。
 こんな感情は知らなかった。熱を持ち、苦しく、触れたくてたまらなくなるものだと知り、陽奈多に惹かれていった。魔術も血筋も何も関係ない世界で、ただ一人の女性として見てしまった。
 陽奈多と手を繋ぎたい。抱きしめたい。彼女の笑い声を独占したい。恋人になりたい。夫になれたならどんなに良いだろうと夢想をするまでになり、柳翠は日々止めることのなかった研究を中断してでも、彼女との時間を過ごすようになった。
 だが――子どもを持ちたいとは、思わなかった。
 父親になる。そんな未来を柳翠はどうしても想像できなかった。自分が育った世界を、血の呪縛を、次に渡すことなど考えられなかった。
 柳翠は壊れた世界に属している。呪われた血を引き、痛みと絶望で成り立つ家系に生まれ落ちた。その血を誰かに継がせるなど――冒涜だと思っていた。
(僕には、父親になる資格など無い)
 それが心の奥底に静かに沈んでいた答えだった。
 だからこそ陽奈多を抱きたいと願ったとき、同時に得体の知れない恐怖が胸を蝕んだ。
 彼女を汚してしまう。彼女を、自分と同じ呪われた世界に引きずり込んでしまう。そんな罪悪感が、触れたいと思った指先を震わせた。
 けれど、柳翠は気づかぬふりをした。
 心が壊れた男には、恋などあってはならないと知っていたから。それでも惹かれてしまったから。壊れた魂の底で、柳翠は初めて――たったひとりの光を手に入れたのだった。

 ある夜、柳翠は陽奈多を抱いた。
 柳翠にはそんな気はなかった。だけど、陽奈多から触れてきた。魔術の鍛錬を毎日できるなんて凄いと、研究所で常に成果を出す姿が凛々しいと、そんな柳翠自身が美しいと――そんなこと彼女からしか言われたことがなくて。陽奈多が自ら肌を晒したとき、もう後戻りできなかった。
 震えるような吐息も、縋るような温もりも、全て自分のものにした。
 幸福だった。
 愛されたかった。拒んで、嫌われたくなかった。壊れた世界で誰にも求められたことのなかった自分が、ただひとり、彼女にだけは求められたいと心底から願った。
 だが、幸福はすぐに歪んだ。
 陽奈多が身籠ったと知ったとき、柳翠は最初に恐怖を覚えた。
 血が巡る。呪われた血が次代へと渡る。自分がどれほど穢れた存在かを誰よりも知っていた。自分の血を引く子供など、幸福になれるはずがない。
「やめろ」
 柳翠は懇願した。命令というより、懇願だった。
「君を失いたくない」
 陽奈多は微笑んだ。彼女は柔らかく、決然とした目で言った。
「貴方を愛している」

 出産のとき、陽奈多から血が溢れた。そして――陽奈多は赤子を抱きもせず、息を引き取った。
 医師たちが血に濡れた小さな命を柳翠に差し出した。柳翠は、手を伸ばさなかった。目の前にいるのは、愛する陽奈多を奪った存在に違いなかったからだ。
 心の奥で、冷たいものが芽吹いた。
 陽奈多の温もりや命、全てを奪い去った小さな生き物。生まれた瞬間から父親の全てを破壊した存在。
 腕を伸ばすことも、名を呼ぶこともなかった。ただ壊れた心が無表情に、子を拒絶していただけだった。
 心のどこかで、もう二度と誰かを愛することなどないと、静かに決めていた。

 緋馬の泣き声を、柳翠は聞かなかった。
 生まれてきた存在を抱くこともなく、名を呼ぶこともなく、ただ仏田寺の片隅に追いやった。
 食事は与えた。生き延びるためだけの最低限のものを。だが愛情も、言葉もぬくもりも、一度たりとも与えはしなかった。
(こいつは、奪ったんだ)
 愛する者を。唯一、温もりを知ったあの日々を。自分が人間であった最後の希望を。そんな憎しみだけが胸の奥に澱んでいた。
 幼い緋馬に与えられたのは、冷酷だった。
 寒い部屋。擦り切れた布団。泣き疲れても誰も来ない夜。飢えれば、冷たい残飯が投げられた。震えれば、叱責の代わりに無言で扉を閉められた。
 時に衝動的な怒りの手が伸びた。魔術の訓練と称して与えられた術式は、幼い体に耐えられるものではなかった。失敗すれば怒声もなく、ただ冷たく突き放された。
 緋馬は次第に声を出さなくなった。泣いても呼んでも、誰も来ない。誰も自分を見ようとしない。そう知ってしまった子供は、ただ黙るしかなかった。
 ――まるでかつての、柳翠自身のように。
 幼い柳翠が味わった絶望を、今度は自らの手で赤子に刻みつけていた。
(同じだ)
 柳翠は、気づいていた。かつて自分が憎んだ仏田寺の冷酷な教育と、何も変わらないことに。
 それでも、止められなかった。自分を壊したこの場所でしか生きられないように、緋馬もまた、壊れていくしかないと思った。

 季節は何度も巡った。雪が降り、春が訪れ、また冬が来た。
 緋馬は5歳になった。言葉を覚えるべき年齢で、殆ど何も話さなかった。怯え、縮こまり、目を開けながら死んでいた。
 藤春が久しぶりに仏田寺を訪れたのは、そんな冬の日だった。
 寝室に縛られた小さな影。薄汚れた布団に押し込まれ、骨が浮き上がるほど痩せ細った小さな子供。
 その光景を見た瞬間、藤春が父親になると決意した。そして柳翠は――何の感情も無い目で、ただ一言だけ告げた。
「……好きにしろ」
 それが柳翠が息子を捨てた本当の瞬間だった。

 緋馬を手放したとき、柳翠の胸に去来した感情は、何も無い。
 陽奈多の命を繋いだはずの存在。自分の血を引いた唯一の証。けれどそれすらも、目の前から消え去れただ静かな空洞が残るだけ。
 藤春もまた、去った。育児放棄の事実を、藤春のあの優しい目に映されたとき、柳翠は何も弁明しなかった。
 背を向けられたとき、かつて微かに信じていた家族という言葉も、完全に失われた。
 柳翠は心の最後の灯を捨てた。その後は早かった。
 仏田寺の深奥――禁忌とされる実験棟。闇に沈むその場所で、柳翠はかつてないほどの冷徹さで魔術の探求に没頭していった。
 対象は生きた異種族。森から狩られ、檻に押し込められたエルフたち。羽をもがれ、声を奪われた天使たち。柳翠は、一切の躊躇もなく、解剖台に彼らを寝かせた。
 どうしてと泣きながら訴える異形の少女に、答えることは無い。反応を記録し、器官を摘出し、魂の耐久性を測る術式を次々と組む。命を一つ失うごとに心が痛む感覚は、最初から存在しなかった。
 もはや柳翠にとって生き物とは素材だ。肉は構成要素。魂は魔術の燃料。叫び声は、術式の精度を測るためのノイズでしかなかった。


 /2

 あるとき、能力者の女性を生きたまま体内操作し、分解した。
 痛みや恐怖を観察し、記録し、次の術式に活かす。それが柳翠の仕事だ。救いも情けも無い。ただ冷たく正確に、異能の解明のために無数の命を潰していった。
 暗い研究棟の片隅、血塗れた石床の上で、柳翠は時折、幻のように陽奈多の姿を見た。
 柔らかく微笑んでいる彼女の幻影。
「違う」
 柳翠は呟き、手にしたメスを握り直す。もう愛も憎しみも、とうの昔に手放していた。残ったのはただ一つ、絶対的な孤独だけだった。
 血に濡れた石床の上、解剖したばかりの女の血肉を、無感動に秤へ載せた。女は優秀な力を持っていて、あらゆる数値が保管に相応しい高水準を記録していた。ならばと当主の食事『聯合』として献上が決まった。
 柳翠のもう一人の兄、仏田家の長男である光緑が口にする大事な食材となった心臓を見て、柳翠は後悔を回想した。
 ――実兄に、陽奈多の遺体を食べられたことは、何度も夢に見るほど後悔していた。
 仏田家には『聯合』という異端の秘術が伝わっている。食した血肉に篭る情報を、智慧を、能力を全て自分のものにするという一族の秘術だ。それによって当主は一人の人間にはありえない膨大な智慧を手に入れ、この世の栄華を極めている。仏田家が栄え、その支援を受けている機関が力を付けたのも聯合のおかげと言える。
 そして陽奈多は、その機関に魂を捧げた女魔術師だった。太陽のような眩しい性格でありながら、歪んだ世界を駆け抜けていた女傑だった。そんな優秀な能力者である肉体を、仏田家は求めないわけがない。
 当主だった光緑は、『多くの粋な計らい』によって陽奈多の血肉を食べた。仏田家の当主であれば当然のこととして。
 光緑が弟の妻を食したことを知ったのも、柳翠が妻を兄が食したことを知ったのも、後の祭りだった。
(陽奈多を、こんな歪んだ家の一部にしてしまった。普通の墓に入れてやることもできず。……でも、当主の中で陽奈多が生きているとも言える。陽奈多の情報は保管されているのだから)
 目の前の命に意味は無くても、食材となった女を見るたびに柳翠の心は落ちる。
 会いたい。生きているというのならもう一度会いたい。会えないのなら、当主の中で生きているというのは嘘になる。どうにか彼女と会うことはできないのか。
「ずいぶん熱心ね」
 ある女が落ちた心の柳翠に声を掛けた。研究室という名の拷問室に居るのだから、血のように赤い唇の女は処刑人の一人で違いなかった。
 甘く、まるで永遠を知っているかのような乾いた艶を孕んでいる女。若い風貌だったが、熟成した眼をしている。姿は見たことなくても、何年も前から知っているようなどこか懐かしさを抱かせた。
「……誰だ」
「名乗ってもいいけど、たぶん貴方にはどうでもいいでしょう?」
 女は笑った。僅かに唇を持ち上げ、冗談のような仕草で。
 白い指先が床に落ちた血だまりを撫でる。指に絡む血液を見つめながら、女は続けた。
「わたしたちは似ている。わたしもなの。何年も何年も前に、たったひとりの、大事な人を失った」
 愉しそうに唇を歪ませているが、声には情念のような熱が宿っている。血の池を踏み越えながら、躊躇いなく囁いた。
「だから求めているの。大好きなヒトを取り戻す方法を。知ってる? ――大勢の血を流せば、できるのよ。大勢の血肉を作ってきた貴方なら簡単な話」
「……何の術だ」
「『死を供なす永劫の呪縛』。聞いたことぐらいあるでしょう、仏田家直系の貴方なら。当主の聯合について熟知している貴方なら。本物の、生きたままのあの人を取り戻す術。方法は、貴方ならすぐ出来る。保管した大量の魂。大量の新しい血肉。正しい術式。そして何より必要なのは――」
 ――あのヒトが大好きな、絶望のステージ。
 沈黙。冷たい空気が、地下の研究棟を這った。
 女は血塗れの手を差し伸べた。その指先は酷く白く冷たく光っていた。
 柳翠は手を伸ばさなかった。だが心の奥では、鮮烈な衝動が叫び出している。
(……ひなに、会いたい)
 結局はそれしかない。愛しいあの女を。腐った世界でも、もう一度あの優しい指先に触れてもらえるなら。
 ――ずっといっしょに。
 ――これからも僕はずっと君といっしょに。
 1000年前の悪魔の女の意思を継いでやる。


 /3

 仏田家には金があった。千年以上に渡り蓄えられた財産。時代が移り変わろうとも支配し続けた土地。表向きは名家、裏では違法な貿易と結社による裏金操作。そして柳翠にはそれら全てを自由に動かす権限があった。
 当主であった兄の光緑の寿命が訪れた。仏田家当主は保管した膨大な魂を一つの器にこめているが、その結果、気狂いになってしまうケースが過去にも見受けられていた。
 光緑はまさしくその一人で、最初のうちは療養程度に済ませていた症状が、次第に寝台に拘束しなければ済まなくなった。知的な魔術結社の頂点の見る影もなく、慎重な重役会議の結果、新たな後継者は光緑の長男である燈雅へと引き継がれた。
 その燈雅はまだ20代の若者だった。そして光緑の弟である藤春は、外の世界に飛び出してしまっている。摂政としての役割が柳翠にまわってきたのだった。
(大抵のことは上門や夜須庭、大山にまわしておけば済む)
 資金力と研究所機関が持つ膨大な技術力。それらを組み合わせれば、世界の隙間など容易に突くことができた。
 ヒトを消すことなど容易だった。
 社会の網目から零れ落ちた者たち。誰にも探されない子供たち。取引の失敗で処分された情報屋たち。失踪したと記録されるだけの市井の人々。秘密裏に誘拐された彼らは、表向きは「異能解明」のための実験体として研究所に運び込まれた。
 真実は違った。彼らの血肉はあの女が囁いた儀式のために用意される。
 解剖は標準作業。生きたまま術式の耐久テストに使われ、骨と臓器は分類され、血液と魂の断片は特殊な魔術保存槽に沈められる。
 冷たい硝子の向こうに赤黒い液体に沈む数百の魂片。積み重なった死の果てに形作られる巨大な供物。赤黒く染まった魔術陣。魂を縫い合わせ、再構築するための、歪んだ生体素材。柳翠は躊躇わない。これが必要だとあの女が言った。これが無ければ陽奈多には会えないというなら、何百、何千もの無垢な死を求めた。

 解体室から漏れ聞こえる肉を断つ刃の音。血液を濾過するポンプ音が振動し、保管庫を循環する冷却魔術陣が鈍く光る。
 表向きは異能研究機関とされていたが、実態は、『死を供なす永劫の呪縛』を合法的に隠蔽するための施設だった。
 柳翠は、その中心にいた。白衣に包まれた長身を椅子に預け、無言で資料に目を通す。淡々と数字だけを見て、ヒトの数を数えていた。
 その前に立つ男がいた。
 夜須庭 航。この機関の主任研究者。30年近く機関で多くの実績を積んだ優秀な異能研究者であり、外部から来た能力者ではあるが仏田家の柳翠に劣らない才能の持ち主だった。冷酷というより、最初から情というものを理解していない存在としても同類であった。
「柳翠様、儀式素材収集は進んでいます。現在捕獲個体総数324。解体・精製済みが298体。残りは順次処理中です」
 柳翠はページを捲りその数字に目を走らせた。
「儀式式盤の構築も第六段階まで進行中。今週中に供物の輪郭を確定させる予定ですね。問題は、それでもまだ供物の質が全体的に不安定なこと」
 航は声色を変えずに続ける。
「素材の年齢が偏っています。できれば十五歳前後の純血個体が理想ですが、供給量が不足しているのかな」
「確保は?」
 短い柳翠の問いに、航は事務的に頷く。
「天足の方で補充ルートを手配しました。今週末には別口から20体が到着予定です。……副作用として、都市部で行方不明者が多少増えますが」
 それも、ここではどうでもいい事柄だった。
「また、儀式の外枠構築用により高位の異能保持者を使用する案もありましてね。現在対象者リストを選別中。生贄用に改造を施してから投入する方向で検討しています」
「復活のために必要な血量の計算は?」
「現時点で予測供物量の78%に到達。ただし失敗リスクを考慮し、最低でもあと120分は必要です。外部の隠蔽部隊に手配をかけています。それと……」
 まるで天気の報告でもするように、航は続ける。
「供物の中に稀に魂の抵抗力が異常に高い個体が混じるじゃないですか。失敗リスクを抑えるため、次回の収穫では『絶望状態にまで精神を破壊した後での解体』を推奨します」
 魂を、絶望させる。破壊してから、供物にする。そうすることで不思議と血肉は本体に馴染みやすくなる。目指すものが、異端の神の眷属だからだろうか。
「問題ない。そのように進めよう」
 命も血も魂も、全ては、結果に至るための礎に過ぎない。何千、何万を殺しても、それであの光が取り戻せるのなら。
 柳翠は変わらず命じた。工場のように冷たく静かに、仏田家と機関は今も命を喰らい続ける。

 仏田寺の地下深く。新たな召喚の胎盤へと変貌した儀式場には、幾重にも折り重なった魔術陣が描かれていた。
 血のインク、魂をすり潰した液体で、幾千の命の断末魔を、幾万の絶望を、層として積み重ねた、巨大な魔法構造体。
 冷たい石床の上に保存されていた供物たちが並べられていた。心臓、骨髄、脳、魂片。それら全てが、一滴残らず儀式に組み込まれる。
 白衣を纏った航が柳翠の前に歩み出た。禁書を片手に報告する。
「最終段階の儀式設計が完了。はぁ、なんとかクライアントの要望通り……儀式の発動日は、12月31日で」
 大晦日の深夜は古より魂の還る夜とされていた。世界そのものが無意識に過去を振り返る夜。死者を呼び戻すにはこれ以上ない条件だった。
 儀式陣の再点検。供物の配列調整。魂波長の最終同期。異能封印装置の起動。研究員たちが無言で動き出ししていく。
 もはや誰も、躊躇しなかった。ただ確実に、完璧に。各々が祈りをこめる。
 供物の魂波長の同期作業が進む中、静かに柳翠のもとへ一人の男が近寄った。越生 匠太郎、柳翠に忠実に従う執行部員だった。
「……柳さん、予想通り例の連中が動いています。儀式を中止させるために妨害工作を仕掛けてきました。一兄さんからの報告もきてますので聞いてあげてください」
 柳翠は手元の術式書から目を上げなかった。代わりに、隣に立つ夜須庭が「やっぱりあいつらかぁ〜。朱指はいつになったら始末してくれるの〜」と大袈裟に溜息を吐く。
「近場で活動しているエージェントを確認。名前は、高梨 あずま。ここ一年、何度も陵珊の結界内に侵入をしています。警戒すべき存在かと」
 名前に、柳翠の指先が僅かに止まった。
 高梨。兄・藤春が魔術結社である仏田の名を隠すため、外で使用している名前である。遠い記憶を乾いた指でなぞるが、容赦は無い。儀式の成就を阻害する要因を前に、柳翠の意識は冷たく研ぎ澄まされていた。
 航が「ふぅ」と気の抜けた呼吸の後、
「殺すしかないよね」
 事務的に零した。そして柳翠もまた、
「剣菱にはR号の本体を叩いてもらう。高梨とやらは匠太郎に任せる――やれ」
 命令はまるで呼吸のように自然だ。匠太郎の口元に、にやりと笑みが浮かぶ。
「了解しましたよ、柳さん」
 地を這うように深く頭を下げ、匠太郎は静かに立ち上がった。暗闇へ消えていくその背を、柳翠も航も無関心に見送った。

 儀式場を離れ、裏手に設けられた小さな休憩室に二人はいた。
 柳翠は無言のまま、簡素な椅子に腰掛けていた。そして航は対面の椅子にひょいと腰を下ろす。手にしたマグカップをくるくる回しながら、静かに口を開いた。
「はぁ、大詰めって感じですね。やり甲斐を感じられて楽しいところですが……ところでどうして柳翠様はこの儀式を完遂させたいんですか?」
 それは唐突で、世間会話らしい柔らかな声音だった。
 夜須庭 航という男は、超人類能力開発研究所機関の主任を任せられるほどの異能のエキスパートであり、柳翠と同じ才能、似た感性を持った世捨て人である。しかしその姿は、至って普通。少し疲れた顔に大きな眼鏡を掛けて、ヨレた白衣を身に纏い、穏やかな口調で会話を弾ませる、見た目は一般的な男だった。
 柳翠は無機質な瞳で、雑談を始める航を見る。航はふわりと笑った。
「自分ですか? はぁ、単純ですよ。知的好奇心。自分ならやれるって思ってるから。それに……凄いことしたら、褒めてもらえるから」
 少しだけ悪戯めいた表情で、航はマグカップを片手に肩を竦めた。冗談のような軽さがあったが、嘘の色は無く、純粋に異能研究というものを楽しんでいる様子だった。
 純粋に自分の知能と腕前を誇りたくて、そのためならいくらでも命を踏みにじれる狂気の純粋さ。
「で、柳翠様は?」
 問いに、柳翠はしばらく沈黙する。
「……1000年前の悪魔と同じだよ」
 欲しかっただけだ。世界を、命を、他人の痛みも絶望も、何もかも……使ってでも、手に入れたいものがあった。だから、僕も。
 闇に似た空気が二人の間を流れる。己の欲望に忠実に、静かに終焉へと歩んでいる。居心地の悪さは無かった。



【6章】

 /1

 朝の9時。始業を知らせる鐘の音が、研究所の一部で鳴った。今朝の空は穏やかに晴れ渡り、冬の冷たさのなかにも微かな温もりを孕んだ陽光が降り注いでいる。
 緋馬は研究所の中庭に面した小さなベンチに腰を下ろしていた。視線は無造作に落としているが、耳は鋭敏にあたりの気配を拾っていた。
 目覚めて藤春と語り合った後、緋馬は仏田寺に隣接した機関研究所を訪れた。以前の世界でトイレを借りた施設である。警備員をしている者達は緋馬を顔パスで迎え入れてくれた。緋馬は寺の方で起きているあずまの葬儀から離れ、白衣をまとった研究者の行き交いを見ていた。
 12月31日の大晦日だというのに関係なく人々は施設内を歩いていた。もしかしたら普段の平日に比べて人は少ないのかもしれない。年末年始以外の機関の様子を知らない緋馬は、手にファイルや資料を持ち、時に足を止め、にこやかに談笑し、あるいは真剣な顔で資料を突き合わせている彼らを眺めていた。
 彼らの動きに不審な点はなかった。
 重苦しい儀式の影など微塵もなく、ここにはただ、穏やかな昼の営みだけがあった。
(多分、儀式を知っている人と知らない人がいる。じゃなきゃ化け物に殺される大勢の人の表情が説明できない。……大半は、儀式なんて知らない。普通にここに居るだけの人だと思う……)
 夜、地下で聞いた狂気の囁き。
 女神を復活させるため、負の感情を集めるため、触媒を熟成させるため。あのときの匠太郎の話は、夢でも妄想でもなかったはずだ。
 だというのに、今ここにはそんな影も形も見えない。平和で日常的、規則正しい時間だけが確かに流れている。
 緋馬は掌をぎゅっと握り込んだ。
 ひとたび心を許してしまえば、この平和な光景に呑まれてしまいそうだ。心身ともに疲れている。何も無かったと思いたい、弱い自分が顔を出す。けれど絶対に誤魔化してはいけない。そして解決策が近寄ってきてくれることを忘れてはならない。ひたすら、そのときを待つ。
 ベンチに座ったまま緋馬は白衣たちの行き交う様子を眺める。行き交う研究者たちは、ちらちらと緋馬の様子を気にしているようだったが、直接声を掛ける者はいなかった。
 だが、完全にいないわけでもなかった。車輪の軋む音がベンチに近づいてきた。
 白衣を着たまま車椅子に乗った、眼鏡の中年男性だった。
 年の頃は四十前後。若そうに見えるが、雰囲気はかなり老成している。静かな物腰ではあったが、けれど鋭い知性の光を瞳に宿していて緋馬は日和そうになる。
「君。さっきからそこで何をしているのかな」
 車椅子の男は静かに尋ねた。責めるでも詮索するでもない。あたかも道に迷った子どもに話し掛けるような静かな声音だった。
「……別に何もしてないです。施設内に入る許可ならちゃんと警備の人達から貰ってますんで」
「皆、君のことを心配している。こんな時期に外でじっとしていたら誰だって気になるよ。特に今日は……大晦日だろう、寒くないか?」
 緋馬を怪しんでの探りにも見える。が、眼鏡の奥から向けられる視線はじっとしていて、どこか憂いを含んでいた。
「ここでじっとしていたら身体を壊してしまう。誰かを待っているなら……直前まで、温かい部屋に待機しているのはどうだろう。案内しようか」
 作り物の同情ではなかった。少なくとも緋馬にはそう見えた。
 ……この人、凄く怖い顔をしているだけで、めちゃくちゃ優しい人だ……。話して数分で分かってしまうぐらい、疑いのベンチがあたたかい空気に包まれていた。

 上門悟司と名乗った男は、巧みに車椅子を操りながら、緋馬を建物の奥へと案内した。辿り着いたのは、質素な休憩室だった。
 古びたソファと無骨なテーブル。隅には年季の入ったコーヒーマシンが置かれ、壁際には数冊の雑誌が無造作に積まれている。窓の外には、冬の光にかすむ中庭がぼんやりと広がっていた。喧騒から一歩引いた、呼吸を整えるにはちょうどよい静けさだった。
 言われるままに緋馬はぎこちなく腰を下ろした。悟司はコーヒーマシンの前に向かいながら振り返り、穏やかな声で訊く。
「緋馬様、サイズはいかがなさいます?」
「……Sで、お願いします」
 外部の人間に丁寧すぎるその口調が気になって、緋馬はつい訝しげな視線を向けた。
「ここでは皆、承知していますよ。あなたが仏田柳翠様のご子息であることを。──覚えさせられますから」
「……どうしてですか」
「大切なお方ですから。我々は仏田に敬意を抱いているのです」
 ソファの布地が冷たく背中に貼りつき、じわじわと身体の芯に居心地の悪さが滲んでいく。それを感じ取ったのか、悟司はSサイズの紙コップをそっとテーブルに置き、穏やかに微笑んだ。
「言葉通りの意味ですよ。ご安心を。少なくとも、私は。……エクレアは、お好きですか?」
 緋馬は目を瞬かせた。
「……エクレア?」
 悟司は器用に車椅子で旋回し、共用の冷蔵庫へ向かう。ビニール越しに見えるそれは、甘く濃厚な香りを漂わせる、どこか場違いな洋菓子だった。
「良ければ召し上がってください。弟が差し入れてくれたものなんです。たくさん貰ってね。午後には賞味期限が切れてしまうもので……一人では食べきれませんから、手伝っていただけると嬉しい」
 緋馬は一瞬ためらったが、差し出されたエクレアを受け取った。悟司に打算も圧力もないことは、手渡された菓子の温度で理解できた。
 包装を破ると、山の冷えた空気とは異なる、外の世界の匂いがふっと鼻を掠めた。家族、差し入れ、甘いお菓子。どれも日常に属するはずの、今は遠くなった記憶のかけらが胸を掠める。
「弟さん……いらっしゃるんですね」
 コーヒーを両手で包みながら、悟司は窓の外へと目をやった。
「ああ。……今では、敵側についているようですがね」
「……敵、側……?」
「比喩ですよ。言うなれば『ライバル会社に所属している』ようなものです。彼の信じたいものと、我々の立場が違ってしまった。それだけの話。でも、彼にとってここは実家ですから。遠くにいても、つい寄ってしまうこともあるようで」
 語り口は淡々としていたが、声の端にほんの微かな寂しさが滲んでいた。それに気づいた緋馬は、無言のまま菓子を見つめる。
「弟はね、中に籠るより外が好きな子でした。あのベンチに腰かけて、よくカメラを弄っていた。春は花壇の花を、夏は虫を追い、秋冬の景色にも飽きなかったらしい。寒い日も構わず外に居て……俺には真似できませんでしたよ」
「……はい」
「だから毎日こう言うのが習慣だったんです。『もういい加減に中に入れ』ってね。──緋馬様にも、今日その『日課』の延長に付き合ってもらってしまったようで。すみません」
「……いいお話、だと思います」
 喉の奥で、エクレアの甘さがやけに詰まった。
 この人もきっと『被害者』なのだ。繰り返される終末の中で、足の不自由な彼が逃れられたことはおそらく一度もなかった。
 緋馬は何も言わずに、そっとエクレアにかじりついた。
「その……上門さんは」
「はい」
「今すぐ、東京に行かなくちゃいけないってなったら、どうやって行きますか?」
 唐突で奇妙な質問だという自覚はあった。だが、山から逃れる術を探るには、誰かに訊ねるしかなかった。
 悟司は少し目を丸くしたが、すぐに顎に手を添え、真剣な顔つきで思案を始める。
「……そうですね。この寺は山の頂にありますから、まずは長い石段を下らなければなりません。あれがまた、上りも下りも骨が折れる……駐車場は山の中腹。そこから車で曲がりくねった山道を街へと下りるのも、本当に時間がかかりますしね。途中、休憩できる場所もほとんど無い」
「で、ですよね……」
「山の麓に昔ながらの商店がありますよ。今で言えば、コンビニのような店です。おばあさんが切り盛りしていて、何でも揃います。そこで一息つくのもいいでしょう」
 そう言いながら、彼はふと笑みを深めた。
「それと、地下トンネルがあります」
「えっ、地下トンネル!?」
「ええ。この施設の北東から、ちょうどその商店の近くまで繋がっています。通れれば十分もかからず山を下りられます。石段も山道も必要ありません」
「……そんな便利な道が……」
「ありますとも。ここでは住み込みの職員も多いですからね。業者のトラックだって頻繁に来ます。私有地ですが、物流を確保するためには不可欠なんです。……まあ、うちの事情で、運ばなければならない『特殊な物』も多いですしね」
 ここに来て、ようやく少しだけ呼吸が楽になった。
 逃げ道は、ある。まだ望みは残されている──そう思えたことが、何よりの救いだった。
 そのときだった。廊下の向こうから、小さな足音が駆けてくる。すぐに大人たちの焦った声が響いた。
「待ちなさい!」「そっちへ行くな!」
 悟司はちらりと視線を上げたが、さほど驚いた様子もなく、再びカップに目を落とす。この場所では、そう珍しくないことのように。
 だが緋馬には、違っていた。
 軽快で必死な足音。小学生ほどの小さな少女が、廊下を全力で駆け抜けていく気配。誰かが追いかけ、引き留めようとしている。
 一見すれば、ただのいたずらかもしれない。
 ──けれど、緋馬には分かっていた。これは『その時』だ。
 立ち上がる。
 エクレアを手に、緋馬は「ありがとうございました」と感謝を告げ、頭を下げた後に駆け出した。

 角を曲がった先、空気が凍りついていた。
 壁際で、少女が押さえつけられている。白衣を着た二人の研究員が、その細い腕を掴み、動かぬように押さえ込んでいた。
 少女は声を上げていなかった。ただ、ぽろぽろと、涙だけが頬を伝っていた。
 助けを求めるでもなく、暴れるでもない。ただ、静かに。すべてを諦めたように。
 その沈黙が、かえって緋馬の胸を締めつけた。叫びよりも、痛かった。
 気づけば、足が勝手に動いていた。
「……その子を、放してあげて」
 低く息を吐きながら声を発した瞬間、研究員たちが顔を上げた。息を乱し駆け寄ってきた少年を訝しげに睨みつけ──次の刹那、認識が走る。
 その顔は「覚えるべきもの」として叩き込まれていたのだろう。見る間に彼らの表情が引き攣り、色を失う。
 少女が、緋馬を見上げた。
 泣き腫らした瞳で。その細すぎる肩が、微かに震えていた。
「……俺は、仏田柳翠の……息子だ。ここの、偉い人の」
 震える声で、しかし確かに告げる。
 言葉は脆く頼りないが、その名には否応なく響く重さがあった。緋馬自身には到底測りきれない地位という名の異物が、今は盾のように彼の前に立っていた。
「つまり……俺は、その偉さに、ちょっと意見できる立場……かも、しれない」
 曖昧な言い回しは、緋馬らしい誠実さの表れでもあった。
 研究員たちは互いに目配せを交わし、僅かな逡巡の後、手を離した。
「……承知しました。ただし、この子を建物の外へ出すことは許されません。緋馬様の方から『お部屋に戻るよう』に説得していただけますか」
 冷たくも従順なその声を最後に、彼らは少女に幾つかの言葉を投げつけながら、足早に去っていった。
 残された静けさの中、緋馬はそっと手を差し伸べた。
 少女はまだ怖れていた。恐怖は言葉より長く残る。
 だがしばらくの沈黙ののち、細い指がそっと緋馬の手を取った。
 その瞬間、少女は気づいた。
 ──この手は、固い。
 柔らかなはずの少年の掌に、何かが忍ばせてある。
 自分が『もうひとつの世界』で落としてきた、あの石が──今、そこにある。


 /2

 紫莉と名乗った少女に案内された場所は、追いかけていた彼らが「戻れ」と言っていた彼女の自室――正確には彼女に割り当てられた牢屋――。まるで高級ホテルのスイートルームのような一室だった。
 暖かな空調。西洋調の美しいインテリア。テーブルにはウェルカムスイーツのように甘味が並べられていて、少女の心を縛るための装飾が施されている。
 てっきり牢屋に監禁されて逃げてきた可哀想な少女だと思っていた緋馬は、あまりの好待遇に「なんだこいつ!?」と混乱した。
 何故彼らから逃げていたかというと、逃げたかったかららしい。
 じゃあ何故逃げたかったこの部屋に戻ってきたかというと……「お兄ちゃんと話したいから」と答えた。
「お兄さん、お名前は?」
 問いかける声は無邪気で、声の調子が良かった。
「緋馬。……君は、紫莉ちゃん、でいいんだよね」
「なの! 紫莉、6年生!」
 屈託ない笑顔。しかしそれは、どこか仮面のように張りついたものに見えた。
「緋馬お兄ちゃん。お兄ちゃんのお膝、乗っていい?」
「えっ」
「乗るの! 紫莉、寂しい。だからお兄ちゃんに乗って遊ぶの。……ぎゅーっ!」
 可愛らしさの演出。けれど、密着した瞬間、彼女の声が変わった。緋馬にしか聞こえない声で、紫莉は囁く。
「……貴方はループしてる、ずっと、殺されてる。どれくらい……?」
 息を呑む。
「……五度。君は……?」
「十回」
 即答だった。
「十回も、あれ、見てる。……怖いのー! わーん!」
 急に泣き出し、しがみつく。その芝居じみた振る舞いに、遠くにいる監視の目は油断したように見える。
 けれど紫莉の恐怖は、演技ではなかった。
「今夜、怖い目に遭う。……たすけて」
 その囁きは、本物だった。
 膝の上に乗って抱き着く紫莉は、年上をからかうような顔のまま、悲しげに溜息を吐く。6年生が吐いてはいけないような、絶望が滲むとても苦しく重々しい吐息だった。
「どうして君は仏田寺にいるんだ? ……この寺と君、何か関係があるの?」
 紫莉は、うん、と頷いた。
「おばあちゃんが、昔ここで過ごしてたんだって。紫莉のお父さんのお父さんが、仏田家の偉い人だったんだって。あんまり言っちゃいけないことだって、おばあちゃんは詳しく教えてくれなかったけど」
「偉い人……」
「前の前の一番偉い人だって、燈雅さんは言ってた。……お父さんはもういなくて、お母さんも何も聞いてなくて、何も分かんないけど」
 燈雅。現在の仏田家の当主。
 その前の前。燈雅の父の、前。燈雅の父は、藤春の兄、緋馬の実父の兄でもある。つまりその父なのだから……緋馬の祖父にあたる人物でもある。
 祖父の、隠し子。
(ということは、この紫莉っていう子は……俺にとっての、はとこ? 隠し子の娘。とんでもないな……)
「と、当主の燈雅さん……とは、会ったことあるんだ?」
「うん。ある日ね、燈雅さんがうちに来て『紫莉は仏田家のお姫様なんだよー』って教えてくれたの。『仏田家のお姫様なんだから、ちゃんとここに来て、過ごさなきゃいけないよー』って。……ここでやることがあるから来てねって言われたの」
 やること。隠し子の娘にやらせたいこと。何だ。
 仏田寺という魔術の一族に、何かしらの血と鍵を握る立場として、選ばれて連れてこられているとか。恐ろしい妄想しかできない。
「お姫様って、なんなんだろうね」
 紫莉はぽつりと呟いた。
「お姫様ならもっと幸せじゃなきゃ、おかしいのにね」
 緋馬は、その言葉に返す言葉を持たなかった。
「君は12月31日の今日、ずっとここに居ろって言われてたの?」
 紫莉が頷く。大きくもなく小さくもなく、ただ事実を肯定するような静かな頷きだった。
「うん。……朝からずっと。『ここで待ってなさい』って。夜まで動くなって」
「待ってるだけ?」
「そう。……でもね」
 小さく息を吐いた。まるで自分の記憶を押し出すように、ゆっくりと重たい。
「待ってたら、連れていかれるの。それで……凄く怖いことをされる」
「……地下室で、凄く……痛いこと、とか?」
「うん。いつも。夜になると。……でもね、無いときもあるの。ひとつ前の世界では無かったかな?」
 緋馬の脳裏に浮かぶのは、前回の記憶。神の儀式には負の感情が必要だからと、絶望をわざと与えて痛めつける。もしかしてそれを、毎回受けていたのはこの少女で……前回は自分が選ばれていたからこの少女は被害を受けなかった、とか?
「地下室に連れていかれないときは、この部屋でじっとしてるの。すると、地震がするの。床が揺れて、壁が鳴って……そしたら、化け物が出てくるの。下が割れて、触手が出て、火が燃えて……」
 語る言葉に熱は無い。何度も繰り返された地獄が、記憶の一部として冷たく定着してしまったようだった。
「怖くて……逃げるの。泣きながら。どこかに、誰かに助けてって思って、でも」
 抱き着かれて間近にある筈の目が、緋馬の方を見ずに遠くを見つめる。
「結局、殺される」
 緋馬は、拳をぎゅっと握りしめた。
 自分だけじゃなかった。この子も、あの化け物に殺されている。それでも、また朝に戻ってきて、同じことを繰り返している。
「殺されるのは、変わらない。……けど、お兄ちゃんは、守ろうとしてくれた、なって」
「……だから俺を信頼してくれたんだ。それで、君は逃げ出したくて逃げたと。さっきみたいに……」
 うん、そう頷く彼女の言葉には、呆れるような、そして悔しさの滲む響きがあった。
「『お姫様なんだからここに居なさい』って言われるの。『貴方は大切な存在なんだから。ここで綺麗なままいなさい』って。でもね、守られてるって、どこに連れていかれて何をされるのかも知らされずに、一人で怖い場所に置かれることなの?」
 吐き捨てるような声音だ。
 その一言がどれだけの恐怖の上に重ねられたものか、緋馬には分かってしまう。
「だから逃げたの。怖くて、嫌で、走って、寺の外まで行こうとした。でも……捕まって、またここに戻されるだけだった」
 寒さではない震えが、彼女の肩を細かく揺らしていた。その小さな体は、守られているどころか、どこにも逃げられない檻の中にいる。
 同じ夜を迎えた。化け物に襲われ、藤春を失い、死を喉元で味わったあの夜。それが終わって、また朝に戻る。その感覚は一人ではなく、この少女・紫莉も同じ時間の檻の中にいる。仲間がいるという安心感と共に、訪れたのは、疑問だった。
「……どうして、俺たちは記憶を継続してるんだろうな」
 言いながら、緋馬は紫莉の意識を変えた石を再び見せる。紫色に濁った勾玉で、光に翳すと、深い水底を覗き込むような冷たい色を放つ。紫莉は目を細めた。
「それ、おばあちゃんの形見なの。同じもの、紫莉、まだ持ってる。粉みたいになってるやつだけど」
「……この石って」
「ずっとずっと前におばあちゃんに貰ったんだけど……。『持ち主が死にかけたとき、意識だけが数時間前に跳躍して、ついて来てくれる石』なんだって」
「……正確には、『記憶を持ったまま数時間前の自分に戻る。身体じゃない。魂だけが、時間を遡る。この石だけはワープしてきたように傍にある』、そうだよね」
 繰り出す緋馬の言葉に、言い知れない疲弊が滲む。
 何度も何度も死を経験し、そのたびにたった一人、過去へと戻された。だから自分はまだこうして、生きている。
「おばあちゃんがどうしてこれを持っていたかは、このお家が、紫の勾玉をいくつも所有していて……そのうちの捨てちゃってもいいやつを貰えたからだって」
「こ、これが『捨てちゃってもいいやつ』……?」
「本当の勾玉は、何日も時間を飛ぶことができるんだって。そう言ってたの。だからいっぱい魔法使いが研究してたんだって。でもこれは、ちょっぴりしか飛べない。しかも確実じゃない。コントロールも効かない。ちっちゃくって不格好なのにも理由にあるんだね」
 勾玉が指先で微かに光を弾く。小さな力しか使えなくても、灯りの下で輝く紫色の勾玉は、確実に持ち主だった紫莉の意識や持ち主になってしまっていた緋馬に見せつけるように脈動した。
「……死に直面したとき、時間を飛べる。コントロールは効かない」
 緋馬は同じことを繰り返し、声に出す。そういえば、目覚める時間はまちまちだった。早朝のときもあれば、ちょうど目覚ましの時間のときもあり、意識がいきなり『参列している野外で』現れたこともあった。
 化け物に殺されるのは、夜。喰いちぎられ、焼かれ、貫かれてから12時間戻ることもあれば、6時間ぐらいしか戻らなかったこともある。それなら、24時間、もっと長い時間を戻ることだってあるかもしれない。
(どうやってコントロールする? コントロールできないから捨てられたやつだぞ? ……死んで試してみるしかないのか……?)
 何度も死んだ。でも、何度もやり直すことができる。しかし現状のままではいけない。既に詰んでいる状況では、何も変えられない。
 どうすればいい。この絶望の循環から抜け出すためには、どうすればいい。
 目の前の少女を助けてやりたい。できれば、優しくしてくれた悟司も見捨てたくはない。縁が深い寄居や福広だって失いたくない。おじさんは、言うまでもなく。
 守りたくても時間が足りない。その時間の作り方の、確実性が無い。
 こう悩んでいる間も化け物が来る夜は容赦なく迫り、選択肢を奪い去っていく。今この瞬間にも、運命は確実に追い詰めている。
 脳裏に、ひとつの考えが浮かび上がった。
 ぞっとするほど残酷で、恐ろしいアイディアだった。だが、理屈の上では成立してしまう可能性に到達してしまう。
 ――自ら、死ねばいい。化け物に殺される前に。
 まだ手遅れになる前の時点へ自ら命を絶つことで、飛び戻るのだ。
 思い至った瞬間、緋馬の指先が震えた。
 悟られまいと必死で表情を保つ。目の前の紫莉はただ不安げに緋馬を見上げていた。
(俺が、自分を、殺す)
 そうすればもっと早く、まだ間に合う時間へ戻れるかもしれない。紫莉のような被害者を、悟司のような通りすがりの人も、寄居や福広といった知り合いを……大事な藤春を、救えるかもしれない。
 その可能性の重さに、胸が押し潰される。恐怖、痛み、躊躇い、あらゆるものが喉を塞ぐ。
 だがそれでも怖がってる暇なんか無かった。
「紫莉ちゃん。俺は……やれることをしてみる」
「なの……?」
「なの。……俺は、君を確実の助け出すヒーローじゃない。助ける約束はできない。でも……見捨てたくない。守るよ、って約束はしたい。紫莉ちゃんも助かる方法を、見つけだしてみせるよ。だから……」
 諦めないで。
 そこまで力強い言葉を言うことは、力の無い緋馬には出来ない。口を途中で閉ざしてしまう。
 けれど、紫莉は満足そうに笑った。そう言ってくれただけで救いになる。そう言うかのような、大人びた子供の笑みだった。


 /3

 寝室として使っていた和室は、正午を越した頃から冷えた空気が漂う。誰もいない。ただ張り詰めた沈黙だけが、緋馬を包んでいた。
 昼を過ぎた。紫莉と別れたとき納骨が終わった頃だったろう。あずまとの直接の別れを、今回の世界も無視してしまった。緋馬は膝を折って畳に座り込む。
「緋馬お兄ちゃん、あたし……怖い」
「……つらいのなら、ずっとお布団にこもっていて。お布団を被って、とりあえず寝よう」
「……それでいいの?」
「紫莉ちゃんをどこかに連れていったらまた追いかけに来る人が現れる。だから今すぐ俺が君を連れ出すことはできない。とりあえず準備として、いつでも休んですぐ逃げられるよう体力を温存しておくことが大事……だと思う。不安なのも元気があれば吹き飛ばせるからね」
「寝てれば、元気出る。吹き飛ばせる。体力温存。……分かったの!」
 そんな会話を紫莉としたが、その内容が正解とは言い難い。緋馬は口から出まかせで、目の前の少女が少しでも笑うような話題を提供しただけに過ぎなかった。
 そう、解決策など何も分からない。
 緋馬が得た選択肢も正解なのかなんて、誰にも分からない。
 そんな緋馬の手には、厨房から借りてきた一本のナイフが握られている。「貰った洋菓子を切りたいから」と、刃渡り20センチほどの料理用ナイフを頂戴した。本来なら食材を切るための道具だ。今この手の中では、明らかに異なる意味を持っている。
(今の俺が……出来ること……出来る選択)
 そっとナイフの鞘を外した。剥き出しの銀色の刃が昼の光を受けて冷たく光る。細く鋭い刃先。指先に伝わる金属の重みが、現実味を帯びて胸を締めつけた。
 これを、自分の身体に突き立てる。そうすれば、死ねる。死ねば、時間は巻き戻る。巻き戻れば、まだ間に合うかもしれない。
 唇が乾いて、痛む。喉がからからに渇き、呼吸が浅くなる。
 ナイフの刃を、じっと見つめた。その向こうに、鏡のように自分の顔がぼんやり映っている。
 酷い顔だった。恐怖に引き攣り、汗に濡れ、震えている。良いアイディアだと思ったはずなのに、すぐに実行に移せるほど、緋馬は潔くはなかった。
(やだ……)
 喉の奥で、小さな声が漏れた。
 怖い。死ぬのが怖い。自分で自分を殺すなんて、そんなこと本当はできるわけがない。
(死にたくない……)
 心が悲鳴を上げている。脳裏に、何人ものヒトの顔が浮かぶ。守りたい人たちの顔が次々に思い出される。けれど。けれど――。
 畳の上にぽたぽたと汗が落ちるほど息が苦しかった。そして時間は容赦なく流れていく。何もしなければまた惨劇が始まる。知っている。知っているのに――。
「怖い……怖いよ……」
 この勾玉は不器用で小さすぎて、コントロールができないという話だった。もしコントロールが効かなくて、自殺しても時間跳躍ができなかったら。自殺では時間跳躍のスイッチにならなかったら。そう思うと、孤独な嗚咽を繰り返すしかなかった。
 ナイフの刃を、喉元すれすれまで運ぶ。
 脈打つ鼓動が、刃先にまで伝わっている。
 怖い。けれど、行かなきゃ。
 ここで終わらせなきゃ――そう、歯を食いしばった瞬間だった。ガラリと戸が開かれ、数秒あいた後、部屋に人が飛び込んできた。
「緋馬ッ!」
 声がしたと思った途端、がっしりとした腕が緋馬の手首を掴み、ナイフを奪い取る。
 乾いた音を立てて、ナイフが畳の上に転がった。刃が畳に食い込み、ザクリと、その殺傷力を知らしめた。
 緋馬は呆然とする。腕を掴んだまま、自分を見つめる伯父、藤春を見ながら。
 何が起きていたか、藤春には一切分からない。だがあってはいけないことが起きていた。だから見た途端、問答無用で緋馬を掴み、息を切らしながら睨みつける。
 目には怒りが宿っていた。怒りの奥に、激しい動揺と悲しみと、何よりどうしようもない恐怖が滲んでいた。
「……何をしていた、緋馬」
 怒鳴るでもなく、叱りつけるでもなく、ただ苦しげに、絞り出すように藤春は問う。
 緋馬は、何も言えなかった。何か言わなきゃいけない。けれど、声が出なかった。
 藤春は緋馬の両肩を掴み、ぐっと引き寄せた。
 そのまま力任せに、緋馬の額を自分の胸に押しつける。ぬくもりと震える鼓動が、肌越しに伝わった。
「緋馬は、朝から様子がおかしかった。それは分かってた。怖い夢を見たんだよな。不安で、だから……あずまとの別れにも立ち会わなかったんだよな」
「……」
「分かるよ、俺だってお墓なんて見たくなかった。見たくないなら、見なくていい。だからもう終わったって言いに来たんだ」
 緋馬の頭をゆっくり撫でる右手。緋馬の肩が震える。まだ動く伯父の掌は、優しく、しかし決して逃がさないような力がこめられていた。
「おじさんを置いて、勝手にどこかに行くな」
 言葉の端が震えている。
 怒っていた。だけどそれ以上に、怖がっている。
 大切なものを失いかけた恐怖に、藤春自身が打ちのめされていると伝わった。
 緋馬は堪えきれず、今度は自分から藤春の胸元に顔を埋めた。泣いた。声を上げて泣いた。
 どんなに必死に守ろうとしても、どんなに頑張っても、どんなに手を伸ばそうとあがいても大切な人にこんな悲しい顔をさせてしまう。悔しくて泣く。泣きじゃくる。
 藤春の手が優しく緋馬を撫で続けた。
「……ひとりに、しないでくれ」
 藤春も堪えきれずに嗚咽を漏らす。情けないほどに声を震わせながら、必死に訴えた。
「……お前がいなくなったら、俺は……俺は、本当に、ひとりになっちまうんだ……だか、ら」
 言葉の端が、涙に滲んで途切れた。
 強くあろうとする男の崩れた姿。家族を守ろうとしてきた人間の、どうしようもない脆さ。
 妻を失ったばかりの藤春はまだ立ち直れないでいる。それでも「緋馬がいたから、辛うじて今日まで立ってこられた」のだと言わんばかりの涙に、それなのに「今度は緋馬まで、自分の目の前から消えてしまおうとしていたこと」に気付いた涙に、藤春まで泣きじゃくった。
「俺を、ひとりにしないでくれ……お願いだ、緋馬……」
 緋馬は歯を食いしばり、震えながら、藤春の背中に両腕を回した。
 必死な声が胸に突き刺さる。この温もりを、自分は失わせてはならない。絶対に。心の奥で血を吐くような誓いが静かに、しかし確かに刻まれた。

 誰にも邪魔されることなく、緋馬と藤春は静かに抱き合っていた。
 昼の光が次第に落ちていく、薄暗い和室。
 冬の夜気がじわじわと染み込んでくる中で、二人は敷きっぱなしの布団の上で寄り添っていた。
「……帰りたい」
 喉の奥から絞り出すような掠れた緋馬の声。顔を上げ、潤んだ瞳で藤春を見た。
「おじさん……家に帰りたい。おじさんの家に……マンションに。……お願い、帰ろう……」
 それはただの我儘ではない。ここに居てはいけないという懇願だ。
 この寺に夜まで留まれば惨劇に巻き込まれる。緋馬は知っている。この地に迫り来る破滅を誰よりも知っているから、訴えた。
 緋馬の必死な願いを聞きながら、藤春は深く苦しげに息を吐いた。震える手で、緋馬の背中を撫でる。
 迷っていた。
 今すぐこの子を連れていきたい。無理やりにでも山を出てしまいたい。けれど、
「俺は……今日、この寺で、最後の務めを果たさなきゃいけない」
 妻・あずまの葬式。最後が今日だった。あずまに最後の別れを言うための儀式を蔑ろにしてはならない。あずまを置いて、自分だけが逃げ出すわけにはいかない。そんなこと、できる筈がなかった。
 緋馬も、それを知っていた。知っていたけれど、それでもなお。
「……お願いだよ。ここにいたら……また、おじさんが……死んじゃう……」
 このまま夜を迎えれば、またおじさんを失う。緋馬は潰れた声で懇願した。泣きながら子どものように縋る。
 藤春の瞳が微かに揺れた。
 脳裏に浮かぶのは、残酷な自分の末路を見せつけられ、ケージの中で泣き叫ぶ悲痛な姿。あのときの涙と同じものを流している気がして、藤春はもう一度強く震える緋馬を抱きしめる。
 あずまのためにここに来た。最後まできちんと見送ってやるつもりだった。なのに、目の前で必死に泣くこの子を、大切なこの子を置き去りにできるだろうか。
 答えは、分かりきっていた。
 そっと緋馬の肩を離す。赤く泣き腫らした緋馬の目を、真っ直ぐに見つめる。迷いは無かった。たとえ誰に何を言われても。
「……この後の予定を中止にできないか、住職に掛け合ってみる」
 緋馬は信じられないものを見るように、藤春を見つめた。震えた唇が微かに開いたが、言葉が出なかった。
 あの藤春が、責任を放り出すことなどしない真面目な伯父が、ありえない決断をする。
 けれど藤春は、苦い笑みを浮かべてはいるが、言い聞かせるようにどこまでも優しく力強い声で言い放つ。
「……緋馬、お前が生きてる。それが俺にとっては何より大事なことだ」
 どんな言葉を重ねても、どんな儀式を果たしても、生きている者を守ることに勝る務めはない。そう藤春は選んでくれた。

 藤春は、すぐに立ち上がった。
 犬伏住職のもとへ向かい、低く頭を下げ、静かに、だが確かな意思で口を開く。
 住職は驚き、眉を顰め、しかし藤春の真剣な説得に暫く黙り込んだ。やがて重たく頷き、次なる戦場、寺の控え室へ二人は向かった。
 親族たちが集まるなか、藤春は落ち着いた声で挨拶を述べる。
 体調不良を理由に、本日の会食への不参加を詫びる。大晦日にわざわざ集まってくれたことを詫び、少なからず年末の宴会を楽しみにしていた人達にも頭を下げ、伝統や行事を軽視することに何度も謝罪した。
 しかし誰も強く咎める者はいなかった。喪服を着た彼らは、驚きながらも受け入れた。藤春の口調の硬さも、疲労と喪失のせいだと受け取った。
 人々が鞄をまとめ、忘れ物を確認する。門前で靴を履いていく。白い吐息を洩らしながら、寺の敷地を一歩ずつ離れていく。
 その景色を、緋馬はただ、呆然と見つめていた。
 ありえない。あの律儀な藤春が……儀式を中断し、親族への挨拶を切り上げ、まだ日が落ち切らないうちに退散させていく。
 自分のために。たった一人の、泣きじゃくる少年のために。
「あずまも、分かってくれる。あいつだってお前のこと大好きだったんだから」
 冷たい冬の光の中、客人に頭を下げながら藤春は呟いた。

 全ての客人を帰した後、藤春はもう一度住職に謝罪に訪れた。本来ならば守らなければならない伝統がある。それに、大勢の食事のキャンセルは無視できる問題ではない。
 それでも許されたのは、藤春が確実に大勢から信頼を得ていたからだろう。人の中心になって動くタイプではなかったが、それをできるだけの人物ではあった。幼少期からの厳しい教育が、生真面目に行動で見せることを教えてくれたのかもしれない。それを慕う者たちが、声を荒げることはなかった。
 見上げれば、葉を落とした木々の間から、淡い冬の陽光がこぼれている。
 まだ空が明るい。冬の空は早くに暗くなってしまうというのに。そんな時間に、寺を出られる。本当に――生きてここを離れられるのだ。
 それだけで緋馬の胸の奥が震えて、泣きたくなるような安堵が広がった。
 まだ夜にもなっていない。触手の化け物も現れていない。誰も死んでいない。血の匂いもしない。当たり前のことなのに、それがどれほど奇跡のように思えるか。
(あとはどうにかして……ここに寝泊まりしている人達を、出来るだけ外に行かせるようにできれば。紫莉ちゃんとか、悟司さんとか。全員は無理でも、手が届く人だけでも……そうだ、住職も、寄居も。なんとか今夜だけでも外に出るように言えれば……)
「緋馬。帰る前に、ちょっとだけ寄り道していいか」
 数分でいいから時間をくれないか、そう藤春に提案しようとしたとき。帰宅の支度を本格的に終えてあとは帰るだけになった藤春が、ぽつりと言った。
 藤春は軽く肩をすくめ、少し照れくさそうに続ける。
「弟にな。顔を出して、挨拶だけしていこうと思う。……お前も来てほしい。『お父さん』に会ってほしいから」
 その言葉に、緋馬の血の気が引いた。身体が石のように強張った。

 最初の世界で、仮にも義妹にあたる女性の葬式に何も興味を持たず仕事場に居たことを知っている。
 一つ前の世界で、無感情に息子を見下ろしていたのを見てきている。それどころか、息子や……実兄の惨殺を容認した残酷な顔を、緋馬は目撃している。
 この惨劇を引き起こし、裏で暗躍している存在。黒幕と言える人物。
 最も会いたくない人物に、何故。

 冷たい風がざわと山道を撫でている音が聞こえる。外は寒くなってきた。夜が近寄っている証拠だった。
「……やめよう」
 震える声で緋馬は呼び止めた。
 藤春の目が細められる。
「挨拶なんて、いいんだ。……そんなの、必要ない。俺、早く、マンションに帰りたい……」
 緋馬には、藤春が求めていない言葉を吐いている自覚があった。だが、口にしなければならなかった。あの男が何をしで微か分からない。怖かった。そんな怖いものに近寄りたくはなかった。
 怯えた声に藤春はしばらく黙って緋馬を見つめた後、優しい眼差しを送る。怒りも苛立ちもない。深い思いやりだけが滲んでいた。
「……緋馬。お前も、いつか……ちゃんと、父親と会うべきなんだよ」
「会って、どうなるの」
「今まで色々あったのは分かっている。俺だって弟がお前にしたことを、許したことはない。でも、少しでも会っておかないと。……父親はあいつなんだから。血の繋がった親子なんだから。おじさんは、完全にお前たちを他人にはしたくない」
 藤春は、今の柳翠の姿を見ていないのか。知らないから、そんなことが言えるんだ。
 あの男が、どれだけ残酷な存在か。
「あ……あの人が……俺を……おじさんを、殺す、としたら?」
 涙ながら訴えた「死んでほしくない」を、藤春は受け入れてくれた。世迷言のような言葉を信じてくれた藤春なら、さらなる世迷言も聞き入ってくれるか。緋馬は震える声で絞り出した。だが。
「ふざけたことを言うな」
 その一言に込められた感情は重く、強かった。温厚な藤春が心から不服と思ったとき特有の、抑えた険しさ。怒りがあった。
「……あいつは、確かに緋馬に酷いことをした。でも、お前を殺さずにいてくれた。だから緋馬は俺の家に来られたんだ。ちゃんと話し合いの場を設けるのは大事だよ」
 露骨に見せてしまった表情から一転、藤春は少し慌てながらもかぶりを振る。
 痛々しいほど真っ直ぐな人だ。緋馬は胸を刺されるような痛みに耐えながら藤春の背を眺め、唇を噛んだ。


 /4

 寺から繋がる廊下から、仏田寺に寄り添うように建てられた白い壁の無機質な施設へ渡る。
 古びた寺院とは対照的な冷たく整った人工物。藤春は受付のインターホンを押す。緋馬に身勝手な世間話をした中年たちが応対し、柳翠と面会がしたい、中に入れてほしいと伝えると暫く待つように言われた。
 そして藤春には入館許可が必要だと言う。既に登録済みの緋馬とは違い、藤春は部外者として認識されているようだった。
(なんで俺は顔パスOKで突破できるのに、元々仏田寺にいたおじさんがダメなんだ……?)
 内部で何かやり取りが行われているらしく、返答までに時間がかかった。じりじりと焦燥に駆られつつも、緋馬は断られてほしいと思った。このまま会えずに済むならどれほど救いだったか。けれど、
「柳翠様がお会いするそうです。どうぞ」
 その言葉に、緋馬の胸がずしりと重く沈んだ。反して藤春は小さく微笑む。「大丈夫だ」と言うように。笑顔を見ても足は重い。今にも崩れ落ちそうな恐怖を歯を食いしばって押し殺しながら、藤春の後を追った。
 無機質な白い廊下を案内された後、広くも狭くもない簡素な会議室に通される。窓は無い。壁も天井も真っ白で、逃げ場を奪うような閉塞感が漂っていた。
 部屋の最奥、テーブルの向こう側に柳翠は座っていた。
 白衣にシンプルな黒服、やや痩せた体格に無造作な長髪。整った顔立ちだが、どこか血の通わない冷たさ。来訪者がやって来ても顔色一つ変えない虚無さに、緋馬は呼吸を忘れかけてしまう。
 胸の奥では警鐘が鳴り響いている。そんな心配も知らずの藤春は、警戒することなく歩み寄った。場の空気を少しでも和らげようと、笑みをたたえて口を開く。
「……実はな。体調のこともあって今日の葬儀は早めに切り上げることにしたんだ。会食も中止にして、これから緋馬と帰宅する」
 柳翠は無表情で聞いていた。頷くことも、眉一つ動かすこともなかった。
 それでも藤春が言葉を続ける。弟を気遣うように、あるいは遠慮がちに。
「年末だというのに頻繁に連絡を入れてすまなかった、忙しかったよな。年始なら、少し落ち着くか。またゆっくりできる頃でいい、お前と……緋馬の会う機会を作ってくれたら、って……思ってる」
 言い終えた瞬間、短い沈黙が落ちた。凍てつくような、痛々しい静寂だった。
 柳翠は緋馬に一瞥を向ける。冷たく機械的な、感情の欠片もない視線だ。無慈悲な目のまま、まるで下らないものを視界から排除するように視線を逸らした。
 冷たく淡々と答える。
「興味が無い」
 声音には、迷いも躊躇も無い。
「その息子ですら、僕に興味もないだろう」
 静かな声の冷たさはナイフより鋭かった。
 柳翠の視線から、声から、全てから消え失せたいと緋馬は拳を握る。だが藤春の存在だけがどうにか立たせていた。
 柳翠の言葉を受けた藤春は、怒るでも責めるでもない。少し寂しそうに、目を伏せた。ゆっくりと言葉を選びながら口を開く。
「……無理強いは、しないさ」
 弟に余計な負担をかけたくないというような気遣い。優しすぎる。あまりにも、無防備すぎる。緋馬は藤春の服の裾を掴んだ。帰るつもりで踵を返そうとする。
「せいぜい道中気をつけて。運が悪いとあの山道は落下事故を起こしてしまう。交通事故には遭いたくないだろう?」
 残酷な冗談だった。その言葉の裏に潜む冷たい悪意を鋭く感じ取ってしまう。
 出口へ向かおうとする藤春の足が、ふと止まる。振り返り、最後にあたたかな目を弟に向けた。静かに穏やかに、自然な気遣いの流れで言葉が紡がれた。
「柳翠……仕事に専念しすぎるなよ。体が心配だ。たまにはちゃんと休め」
 柳翠の表情に、微かに影が走った。
 藤春は気づかない。むしろ、さらに優しく続けた。
「少しは緋馬のことを考えてみてくれ。実の親子なんだから、切っても切れない関係だ。……陽奈多の子を、大切に思ってあげてほしい」
 ささやかな変化が現れる。
 それでも藤春は止まらない。その優しさは、柳翠の心を救おうと心から思っているからだった。
「お前が無理してやっていると、陽奈多もきっと喜ばない。お前にはちゃんと幸せになってほしいと思う筈だから」
 柔らかい声だった。誰もが救われるべきだと信じて疑わない、真っすぐな光のような言葉だった。

 柳翠にとって、それはただの光ではなかった。
 光が差し、どす黒く溜まっていた心が露になっていく。ぬるく粘り気を持っていた心が、底知れぬ怒りへと変質していく。
(……仕事?)
 誰が望んだ。誰が、こんなものをやりたがった。家族の繁栄だの使命だの穢れた責務を押し付けられ、ただ従わされた日々。自由など一度も無かった。
(……息子?)
 緋馬が生まれたせいで、陽奈多は死んだ。あの小さな命が、陽奈多を奪った。ただそれだけの存在。愛する理由など、どこにも無い。
(……陽奈多?)
 死んだ。失った。取り戻さなければならない。どんなに醜い手を汚しても、どんなに多くを踏みにじっても、陽奈多を、この手に。
 柳翠の指先が静かに震えていた。
 寒さではない。深く静かな殺意が、彼の血管を熱く脈打たせていた
「……兄上」
 低く押し出された声と同時に、椅子が軋みを上げた。柳翠が立ち上がった瞬間、白い会議室の空気がぱたりと凍りつく。
 藤春が目を見張り、緋馬は息を詰めたまま動けなくなる。
 柳翠の表情から、いつもの冷淡な仮面が剥がれ落ちていた。むき出しの憎しみと怒りが、その顔に刻まれている。口元が引き攣り、歪む。抑え込んできた激情が、言葉として、牙を剥く。
「僕が機関で、望みもしない研究を強いられたのは……無能だった兄上のせいだろう」
 藤春の瞳が揺れる。反論の言葉は喉で凍りつき、声にならなかった。
 柳翠はその沈黙すら容赦しない。叫ぶように言葉を叩きつける。
「兄弟の中で、無能なお前が何一つ役に立たなかったから。血筋に期待もされず、役割すら与えられず、のうのうと外で好き勝手に生きて、使命から逃げたから。──その尻拭いを全部僕に背負わせたんだ!」
 声が震え、壁に反響する。
 激しい憎悪が形を成して、室内を灼くように満たしていく。
「生まれたときから決まっていた! 優れた子供は全ての責任を押し付けられ、できない子供は見逃されのうのうと走り回って好き勝手に生きた! そんな身勝手な兄上に……お前なんかに……ひなを、語るな」
 兄に向けるにはあまりにも深い、黒い怒り。長年積もりに積もった憎悪。弟の心の底から溢れ出した、どうしようもない絶望の叫び。怒りは鋭い刃となって藤春の胸を刺す。
 押し込められ、腐り、鋼鉄のように重く凝縮された黒い感情が、いま一気に噴き出していた。
「兄上さえ力を持っていれば。選ばれていれば。僕の人生は……こんな形にはならなかった。親の目も、家の重みも、全部……」
「柳翠……」
 藤春の名を呼ぶ声に、返るのは、もはや泣き声にも似た叫びだった。理性の切れたその声音に、緋馬は思わず身を竦ませた。
 だが柳翠は、不意に黙った。唇を閉じ、静かに藤春の前へと歩み寄る。
 目は氷のように冷たく、何の感情も浮かべていなかった。
「こんなに兄上を嫌悪するとは、思わなかった」
 声は乾いていた。
 愛情も哀しみも、一片も含まれていない。
「儀式の味付けに使いたいほどだ。……やれ」
 呟くように、天気の話でもするかのように。
 だがその指示は、紛れもない死の命令だった。
 直後、緋馬の背後に冷たい気配が忍び寄る。
 気づいたときにはもう遅かった。影が無音で背後を取り、首筋に何かが触れた。
 金属の冷たさ――それは、ただの道具ではなかった。人の命を刈るために鍛えられた、硬く鋭利なハサミの刃。
 呼吸ひとつで切り裂かれる。そう錯覚するほどの緊張が、緋馬の身体を凍りつかせた。
 藤春の顔にも、理解が遅れて浮かんだ恐怖の色が滲む。
 緋馬の背にぴたりと寄り添うその影は、匠太郎だった。彼は愉悦の微笑を浮かべ、まるで儀式の進行を楽しんでいるようだった。
 緋馬の耳元で、吐息まじりに囁く。
「緋馬くん、動かないでね? オレすぐ殺したがっちゃうから」
 同時に、刃が喉元にぐっと押し込まれる。
 小さく、肌を裂く感覚があった。血の気が引いていく。
 匠太郎はくすくすと喉を鳴らしながら、まるでおもちゃを弄ぶ子どものように続ける。
 この男は、本当にやる。笑いながら命を奪うだろう。
「やめろ!」
 藤春の怒声が室内に響いた。けれど声は宙を彷徨うだけだった。
 迂闊に動けば緋馬が一瞬で殺される。助けたくても助けられない。藤春は、ただ声を張ることしかできなかった。
「……絶望に染まった魂こそ、儀式に相応しい。兄上も、緋馬も。絶望してくれ」
 柳翠の宣言に、匠太郎は満足そうに刃先を揺らした。
 触れただけで命を奪うことのできる刃。その恐怖の先で、緋馬は『あの赤い絶望』を思い出していた。地獄の色が、脳裏に滲んでいく。
 唯一彼を支えているのは、藤春の存在だった。
「離せ!」
 藤春が切実に叫ぶ。怒り、焦り、そして何より守りたいという祈りが滲む声に一歩踏み出した。
「柳翠……頼む。緋馬は、関係ない。悪いのが俺なら、俺を狙え!」
 瞳に宿る光は、既に平静ではなかった。
 憎しみ。罪悪感。そして自分を責める心。藤春は自分の手で弟を救いたいと心の底から願っていた。
「やり直せる。お前だって、やり直せるんだ……だから」
「黙れッ!!」
 怒号が爆ぜた。
 壁が震えるほどの絶叫。柳翠の叫びはもはや声というより、魂の悲鳴だった。
「やり直せる……? 何を知ってる!! 兄上が、何を知ってる! 僕の苦しみも、傷も、地獄も、全部見てたのに! 助けてはくれなかったじゃないか!」
 怒りは収まるどころか、激流となって吹き荒れる。
「自分だけ普通の人間になろうとした! 自分だけ普通の人間になろうとしたくせに、安全な場所に逃げて……家族面するなッ!」
 藤春は凍りついたように立ち尽くす。
 緋馬もまた刃を突きつけられたまま、恐怖に全身を支配されていた。
 柳翠の怒りはもはや鬼のようで、形を変えた憎悪が言葉に宿る。
「何百人も捌いた僕が、普通の人間になれるとでも!? 何百人も殺して穢れたこの手で誰かの親になれるとでも!? ──ならこの殺した力で救うしかないんだよ! 陽奈多を、僕が!!」
「柳翠、何を言って……?」
「だからっ……! そんなに弟を愛しているなら協力してくれ、兄上」
 柳翠は、何の前触れもなく指先を弾いた。
 僅かな動作だった。次の瞬間、空気が爆ぜ、藤春の身体に炎が噴き上がった。
 轟音と共に、真紅の火柱が藤春を呑み込む。油を掛けたかのように激しく、容赦なく燃え広がる。
 藤春は、声を上げなかった。喉が焼け、叫ぶことすら許されなかった。
 肌が一瞬で爛れ、裂けた。髪が燃え、白い煙を上げる。喪服の黒があっという間に崩れ、皮膚と共に焦げ落ちていく。
 鼻腔を満たすのは焦げた肉の匂い。鉄の錆びた匂いと脂の甘ったるい匂いが、室内に充満していった。
 そしてその黒い塊は、その場に崩れ落ちた。炎はなおも容赦なく身体を舐め回し、貪っていく。骨が露出し、赤黒く炭化していく。先は黒く縮れ、腕はただの炭の柱のように変わっていった。
 動かない。藤春は、もう動かなかった。
 それでも炎は燃え続けた。まるで、生きた証すら許さないかのように。
 無感動に眺めている柳翠がいる。炎に照らされた眼を、冷たい光だけが静かに煌めかせている弟が。
 生きたまま、燃やす。それが柳翠の選んだ兄への、藤春への答えだった。
「……おじさん……?」
 緋馬は、目の前の光景に立ち尽くした。
 声を出すこともできなかった。ただ瞳に映るのは、愛する人が焼き尽くされていく、ほんの一瞬の無残な光景だけだった。
 目の前で最も大切だった人が、救いたかった人が、焼き尽くされていく。
 視界が滲む。喉が、悲鳴を上げるように軋んだ。
 それでも首筋にはまだ匠太郎の冷たい刃先が押し当てられていた。少しでも動けば、すぐに命を絶たれる。だから緋馬はその場に凍りついたまま、それでも耐えきれなかった。
 涙が頬を伝い落ちた。熱い涙が、震える唇から零れた。そして絞り出すように叫ぶ。
「おじさん!!」
 振り絞った声は、虚空に吸い込まれた。焼け焦げた匂いの中、返ってくるものは何もなかった。
 藤春はもう、どこにもいなかった。

 絶望。そんな言葉では到底足りない。緋馬の心は、音を立てて崩れた。
 煩い緋馬を、柳翠は冷たく見下ろす。そして無情に口を開く。踏み躙るように言葉を重ねた。
「大切な家族を奪われる気持ちが分かったか」
 声音には何の慈悲も無かった。緋馬を押し潰すためだけに選ばれた言葉だった。
 勝者のように立つ柳翠。復讐を遂げた者の冷酷な支配者に、緋馬は震えた。
 耐えられなかった。息をすることすら許してはいけなかった。胸を掻き毟りたかった。この場から逃げ出したかった。
 首に刃を突き立てられたまま、微動だにしなかった。
 微動だにしなければ、今すぐ命を奪われることはない。
 匠太郎もまた、そんな駆け引きを楽しんでいるつもりだった。
 だが――緋馬は、違った。
 焼け焦げた伯父の骸。全てを奪われた現実。目の前の柳翠の、冷徹な笑み。この絶望の中で、生き延びる意味はなかった。
 だが、死ねば? 死ねば、まだ間に合うかもしれない。愛した人を救うために、絶望をやり直すために。
 緋馬はそっと息を吸った。震えた身体を無理やり静める。そして、自ら動いた。
 刃先に、喉を押し当てる。
 匠太郎が、驚きに目を見開いた。「あっ」と短く息を呑むその一瞬、緋馬は、さらに首を押し込んだ。
 刃が肉を割く感触。喉の奥に鋭い冷たさが滑り込んでくる。
 激痛。
 視界が真っ赤に染まる。口の中に鉄の味が広がる。立っていられないほどの衝撃が全身を駆け巡った。
 匠太郎が反射的に手を引いたが、緋馬は既に自分で引き返せないところまで踏み込んでいた。
 血が溢れ、気道を塞ぐ。息ができない。視界がぐにゃりと歪む。
 けれど緋馬は、微かに笑った。
(おじさん。今、追いかけるから。……待ってて……)
 崩れ落ちる身体。凍る意識。そして――紫色の勾玉が緋馬の胸元で、静かに光を放ち始めた。
 死とともに時を超える跳躍の力が、静かに、けれど確実に発動した。


 /5

 静まり返った本堂に、低く響く読経の声だけが満ちていた。
 冬の冷たい空気が肌に触れるたび、現実の重みを嫌というほど思い出させる。
 祭壇の中央には、白い花に囲まれた遺影。穏やかに微笑むあずまの写真がある。
 住職は目を伏せ、お経をゆったりと唱え続けている。その後ろには黒い喪服を纏った参列者たちが静かに手を合わせて座っていた。
 啜り泣く声ひとつない、沈黙と祈りの空間だった。
 その列の最前列、喪主の隣に、緋馬も座っていた。膝の上に手を置き背筋を正して座る姿は、一見整然としていた。
 だが、緋馬の肩が小さく震え始める。目を伏せ、唇を強く噛み、必死に声を堪えている。
 ひとしずく、涙が畳の上に落ちた。もうひとしずく、続いて落ちた。
 首筋に違和感があった。緋馬は、そっと喉元に手を当てた。
 首の皮膚は裂かれていない。血も流れていない。けれど、確かに覚えている。
 匠太郎の刃が肉を割き、喉を貫いたあの感触。血が噴き出し、呼吸ができなくなったあの激痛。死の恐怖と、絶望の痛みを。
 傷は無い。けれど苦しい。喉の奥から、抑えきれない呻き声が漏れた。
「……っ、う、ぐ……」
 周囲の人々が目を向けた。驚きはなかった。喪主の甥であり、義母を失った少年が、悲しみに耐えきれず崩れたのだと誰もが思った。
 無理もない、と。まだ若いのだから、と。
 けれど緋馬の中では違う。自分が流している涙は、義母を失った悲しみだけではない。愛する伯父を自分の目の前で奪われた、どうしようもない絶望と悔しさの涙だということを。
 そして……自分がこの絶望を繰り返さないために、今この瞬間に戻ってきたのだということを。
 震える指先を、必死で握り締める。喉の奥を焼くような痛みに耐えながら緋馬は目を開けて、座る住職の近くにある置時計を見た。
『13:10』
 住職の読経が終わり、ゆっくりと鐘の音が余韻を引いた。白い線香の煙が、寒い空気の中で細く立ち上っていく。僧侶が下がると同時に、葬式は一区切りを迎えた。
 参列者たちが次々に立ち上がり、喪主へと進む。藤春は深々と頭を下げながら、一人ひとりの言葉に応じていた。その隣には、喪服に身を包んだ緋馬も控えている。
「ご愁傷様です」
「突然のことで……」
「これから大変でしょうけれど、頑張ってください」
 交わされる声は、どれも掠れた優しい声だ。殆どは藤春に向けられていたが、ときどき緋馬にも微笑みかける者がいた。子供に対する労わりの言葉。そのたびに緋馬は形ばかりの礼をして、無表情を装った。
 本当は、そんな余裕はどこにもなかった。
 頭の中では、さっきまでの死と絶望が焼き付いたまま離れない。
 13時。大勢がいる。真っ只中。これは……12月31日ではない。
 12月30日。通夜の最中ではないか。大晦日の朝ではなく、その前の昼間で時間が戻っていた。
(死んだのがまだ日が落ちる前だったから? だから……昼間に戻ってきたって!?)
 大晦日ではない事実をすぐに確認したい。だが今は、人々の言葉を受け流すだけで精一杯だ。

 一人の男が、列の中から緋馬たちの前に進み出た。
 背が高く若い、煙草くさい男だった。
 無地の黒い喪服、よく磨かれた革靴。顔は藤春や緋馬と似ていることから親戚なのだろうと分かる。大勢の中の一人に過ぎない。だが、その男に釘付けになった。
 男は穏やかな微笑みを浮かべ、頭を下げる。
「このたびは……ご愁傷様です」
 口調も振る舞いも、普通だった。
 ただ一つだけ異様なものといえば、男の手に握られていたもの、それは紫色に鈍く濁る勾玉だった。
 緋馬にはそれがただの装飾品ではないことが直感で分かった。
 男はそれをわざと見せつけるように緩やかに手元を掲げている。まるで緋馬に「気づけ」とでも言うかのように。
 緋馬の心臓が大きく脈打った。この男は、ただの参列者ではない。にこやかなまま一礼し、列を乱すことなく何事も無かったかのように去っていった。

 読経の余韻と線香の香りがまだ漂う本堂を、緋馬は駆け出した。
 参列者たちの視線など意に介さず、必死に。喪服の裾が乱れ、靴が石畳を打つ音が寺に響いた。
 山門へ向かう石段の先、一人、男の姿が見えた。黒い喪服の背中。ひと気のない境内に男だけが静かに歩いている。緋馬は息を切らしながら声を上げた。
「ま、待って……!」
 男がちらりと後ろを振り返った。ふっと口元に笑みを浮かべる。どこか少年めいた軽やかな笑みだ。
 紫の勾玉を指先でくるくると弄びながら、若い声で言う。
「むぐ、やっぱり。君いきなり様子がおかしくなったから吹っ掛けてみたけど、ちゃんと分かってくれたね」
 軽い調子だったが、その目は冴えていた。
 遊んでいるふりをしながら全てを見透かしているような、鋭い光を湛えている。
 緋馬は必死に呼吸を整えながら、男を見据えた。
 どこかで見たことがある気がする――そう思った瞬間、記憶の底から名前が浮かび上がった。
 仏田 新座。
 仏田家直系三男坊。
 後継者争いで敗北し、家を出たと噂されていた男。家出同然にこの寺を去り、藤春以上に仏田に帰ってこないから死んだのではと噂されるほどになっていた人物。
 新座は紫の勾玉をひょいと指先で掲げて見せた。それは緋馬の持つものとよく似た、けれど異なる形をしている。明らかに大きく整っていて、色が神々しく輝いている。一目で力の差を感じるほどに美しい造形だった。
「さて、勾玉に反応した緋馬くんには話したいことがたくさんある。僕と一緒にドライブでもしに行かないかい? ……君の方から聞きたいことがあるのなら、条件次第で答えてやってもいいけど?」
 冬の冷たい風が二人の間を吹き抜けた。
 寺の喧騒から切り離された山門の前、世界に二人きりで立つその空気は、張り詰めた弦のように緊張していた。




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