■ さわれぬ神 憂う世界 「高梨緋馬の因縁継鎖」 ・ 1ページ目



【1章】

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 除夜の鐘は鳴らず、代わりに響いたのは耳を裂くような異音だ。
 重低音のようであり、風のうねりのようであり、胎内から響く悲鳴のようでもある。仏田寺に居た人々は、音の正体を確認するより先に、恐怖に打ちのめされた。
 地面が揺れる。木造の本堂が軋み、燭台が倒れ、炎が畳に燃え移る。だがそれすら序章に過ぎない。
 闇よりも黒い、粘つくような触手が現れた。一本だけでヒト一人を容易に持ち上げられる太さ。無数にうねり、生き物のように蠢く。
 誰かが叫ぶ。その口に一本の触手が滑り込む。悲鳴はごぼごぼと泡に変わり、血を吐きながら、喉の奥から肉が引き千切られていく。男女、年齢、区別はない。触手は獲物を選ばず、ただ喰らい、殺し、引き裂く。
 絶叫が夜空に響いた。ある男は逃げようとしたが、次の瞬間、後ろから突き出た触手が背骨ごと胴を貫いた。赤黒い臓物が飛び散り、頭が、腕が、地面を転がっていく。叫んだある女の目は虚ろに濁り、ただ笑いながら泣いた。
 あれは何だ。人智の外にある悪意か。
 呻きながら這い寄る触手は肉を這い、骨を断ち、精神を侵していく。
 頭を抱えて地に蹲る者たちは、いつしか笑い出し、泣き、そしてそのまま地に伏して動かなくなる。
 眼球を喰われた研究者が片目で空を見上げ、赤黒い月に祈っていた。
 ――なんだこれは。見上げた先で何が起きているか、理解できない。
 大事な手を掴んでいた。震える手だった。絶対に離すまいと力を込めた。だが、目の前で――藤春の胸を一本の触手が貫いた。
「……ひ……う、ま……」
 名前を呼ばれる。本来は嬉しい筈の摩擦音が、腹の底から吐き気を込み上げさせた。
 けれど吐いている余裕も無かった。
 どうすれば、こんな現実に耐えられるのだろうか。


 /1

 絵を描くことが好きだった。それが生きる意味だと、心から信じていた。だが父の手によってその絵が無惨に破られたとき、裂かれたのは紙ではなく、自分自身だった。
 才能は無かった。もしあったなら、誰かに認められていたはずだ。父も、あの絵を破ることはなかったろう。世話役たちが止めに入ることもなかった。それがなかったという事実が、全てを物語っていた。ただの下手の横好き。罵倒の果てに、父は言った――「本来の役目を果たせ。生まれた意味を思い出せ。無心で魔術を学べ」。その言葉と共に、魔導書が押し付けられた。
 山奥の古い寺には娯楽など存在しなかった。乳母たちはそれを当然とし、「仏田家の藤春様は千年の歴史を持つ魔術の一族。ここは賢者たちが知恵を求めて集う場所。恵まれた御身は、魔術一筋で生きねばならないのです」と、日々言い聞かせてきた。
 けれど、洗脳は甘かった。もし一族が外界と接触せず、内に閉じ籠っていたなら、心を染めることもなかっただろう。だが中途半端に外の者たち――研究者や協力者たち――を招き入れたことで、彼らの語る「自由」の概念に心を侵された。結果として仏田家は世界有数の異能研究施設へと変貌を遂げたが、後継者の育成には失敗した。
 絵を描くというささやかな背徳の時間。大人の目を盗み、夢中で筆を動かしていた。だが父の怒りは凄まじく、幼い背徳に容赦はなかった。
 左胸に刻まれた刺青。それは魔術刻印と呼ばれ、魔力の増強と行使の補助をもたらすと謳われていた。実際は、上位者の命令に背けば心臓が締め付けられる呪術の枷だった。拷問に等しかった。
 外部の研究者が口にした「学校」という言葉に、子供心は騒いだ。一族の者は言った。「藤春様のような子は、行かなくていいのです」と。その言葉が残酷だった。知らなければ、悩まず魔術に邁進できた。知ってしまった。
 普通の世界。行けない場所。触れられない日常。それらは絵として空想の中に姿を成した。その絵が、またしても怒声と共に踏み潰された。好奇心も夢も自由も、全て否定された。努力すら無意味と嘲笑されたあの日、魔術に懸ける情熱すら消えかけた。
 幸か不幸か、次第に誰も藤春に期待しなくなった。
 兄――光緑(みつのり)は仏田家の当主に選ばれ、弟――柳翠(りゅうすい)はわずか3歳で才能を示した天才児として大切にされた。意欲も才能も凡庸な藤春が注目されなくなるのは、自然の流れだった。
 それでも兄弟を嫌いにはなれなかった。兄も弟も、どこかで藤春を気遣ってくれた。特に弟の柳翠は、笑顔の愛らしい子だった。実の兄に懐き、炎の魔術でお手玉をして見せるほどの無邪気さだった。
 寺に閉じ込められた自分にとって、唯一の娯楽は「弟と過ごす時間」となっていた。弟もまた拷問のような刻印を抱えており、兄と笑い合う時間だけが安らぎだった。
「兄上。陽奈多(ひなた)の絵を描いてほしい」
 成人した柳翠が、最近仕えるようになった研究者の絵を頼んできた。
 もう誰も絵を咎めなかった。破られることもない。感謝の気持ちを胸に、筆を走らせた。
 完成した絵に、柳翠は頬を染め、ただ眺めていた。まるで恋をした少年のように。実際、そうだった。
 仏田家が開いた異能研究結社『機関』は、外の者にも門戸を開いていた。住職の肩書を与えられた外部の人間――犬伏和尚が表向きの顔を演じていたが、裏では能力者の住み込み奉仕を募っていた。
 陽奈多もその一人。柳翠と同い年の女は、天真爛漫にして太陽のような存在だった。常識を知らぬ柳翠の心を解き、受け止め、照らしてくれた。無垢な想いは、やがて恋に変わった。
 二人は微笑ましく境内を歩いた。だが陽奈多は、命を繋ぐには脆すぎた。
 子を宿したとき、医師は告げた。「出産に耐えられない体です」と。
 柳翠は、子を諦めた。陽奈多は諦めなかった。そしてある晩、産声が上がった。
 直系の子として、当主・光緑の手で取り上げられた男児。そのとき柳翠は、赤子に目も向けず、ただ弱っていく陽奈多だけを見つめていた。
 藤春は、子を抱いた。柳翠の子であり、陽奈多の忘れ形見。その小さな命は泣きもせず、ただ静かに眠っていた。
 冬の雨の中、陽奈多の葬儀が行われた。
 未婚でありながら仏田家の墓に納められた陽奈多。そしてその子は藤春の腕に抱かれたまま、今もいる。
 陽奈多が灰になる前に、柳翠に子を抱かせたかった。その想いだけを胸に弟の部屋を訪ねた。
 そこには当主の胸で声を上げて泣き続ける柳翠の姿があった。
 泣きながら、なお大人の顔をしていた。光緑が目で「来るな」と告げている。
 藤春は何も言わず、部屋を去った。
 この子を柳翠に見せたら、どうなるのか。
 考えるだけで、足が震えた。あの嗚咽を、この子に聞かせてはいけない。遠ざける。まるで逃げるように、抱いたまま走った。
 どこへ行けばよいのか。どこまで逃げればよいのか。いつまでこの子を抱いていればよいのか。
 答えを知る者は、どこにもいなかった。


 /2

 母を演じてくれた女性が、不慮の事故でこの世を去った。
 訃報が届いたのは、図書室だった。冬休みの宿題を片付ける手を止め、緋馬はMDプレイヤーのイヤホンを外した。半泣きの教師が近寄ってくる。「今すぐ帰りなさい」と慌てた様子で言うものだから、最初は誰か他人の話かと思った。
 死という現実に、緋馬の感情は追いつかなかった。焼け焦げた棺に収められたものを見ても、それが彼女だという実感は湧かなかった。ハンドル操作を見誤っての単独事故。電柱にぶつかって炎上。ひと気の少ない道だったため、誰も救えなかった。助けを呼ぶ声も届かないまま、彼女は燃え尽きてしまった。
 葬儀の場は北関東の山奥、仏田家の本家である仏田寺。人の往来も少ないこの地に集まったのは、ほとんどが一族の者ばかりだった。
 伯父――藤春は、喪主として葬儀に奔走していた。東京都内に暮らす彼が、山奥の寺に戻るのは年末年始と盆のわずかな機会だけだ。なのに、どうしてこの地で通夜を? 緋馬はそう思ったが、口にはしなかった。伯父は妻の死に顔を見つめる間もなく、立ち回っていた。そんな男に疑問や文句を投げつけられるほど、緋馬は子供ではなかった。
 読経の声が本堂に響く。チンと乾いた音が鳴るたび、空気が震えるようだった。仏田寺の清掃員である福広が、ふと緋馬の肩を叩いてきた。
「やぁ、ウマぁ」
 緩い声色に、緋馬は少しだけ笑みを浮かべた。福広は昔から変わらない。のんびりしていて、どこか抜けているが、憎めない男だった。
「元気ぃ? ちゃんと食べてるぅ?」
「学食のフライに慣れてきたところです。おばさんの料理とはだいぶ違いますけど」
「あずまさん、野菜ばっかだったもんなぁ」
「懐かしいですね。もう、食べられないんだなって、改めて思います」
「……そっか。いい人だったよ」
 彼女は母ではなかった。血の繋がりもなかった。けれど間違いなく数年もの間、母であり続けてくれた。「母さん」と呼べなかったが、精いっぱいの愛を注いでくれた人だった。
 夜が更け、雨が降り始める。冷たい音が瓦を叩く中、藤春は棺のそばを離れようとしなかった。
「棺守りは喪主の役目だからな。俺が、やる」
 線香の匂いが立ちこめる中、棺桶の横に座る伯父は笑う。交代する身内なら沢山いるのに「これが喪主の務めだから」と譲らなかった。
 背中は、酷く寂しげだった。
「緋馬は眠いだろ? 子供は寝ていいんだぞ」
「俺、夜更かしは慣れてるんだ。隣でケータイいじってるぐらい、いいでしょ?」
「その年で規則正しい生活しないと、背が伸びなくなるぞ」
「おじさんが『おばさんと二人きりにさせてくれ』ってロマンチックなこと言うなら、寝る」
 それぐらい夫なら言ってもいい。やり取りの中で、ふと藤春が言う。
「おばさんと二人きりにしてくれって言えば、寝てくれるか?」
「……言ってくれれば、すぐにでも」
「いや……三人で居よう。お前も、大切な家族だからな」
 緋馬の胸は静かに揺れた。二人は線香の香りの中、棺を見つめながら夜を過ごした。
 しばしの沈黙ののち、緋馬がぽつりと訊く。
「訊いていい?」
「なんだ」
「……おじさんは、どうしておばさんと結婚したの」
 一拍の間を置いて、藤春は呟く。
「俺に、興味がない女だったからだ」
 奇妙な答えに眉をひそめた緋馬だったが、藤春は静かに話し始める。
「緋馬は小学校と中学校に通ったな」
「まあ、義務教育だからね」
「義務教育がいつから始まったか、知っているか?」
 即答できない。手にしていた携帯電話をカチカチと操作する。
 山奥の寺で立つ電波は一本。外との繋がりは薄い。三本立つことは、そうそう無かった。
「ざっと調べてみたけど『1947年に学校教育法公布』だから……60年前ぐらいにスタートかな? でも『日本は100年ぐらい前から通学率は90パーセント以上』なんだって」
「おじさんは、10パーセントだった」
「…………」
「20歳ぐらいまで外へ出させてもらえなかった。寺の外に出さない理由は『穢れた空気を吸わないため』とか『下手に女と交わって外に血を出さないため』とか聞いたな。……寺の方が汚れていると思うよ。そういう考えが普通に蔓延っているここが、俺は嫌だ」
「……そっか」
「今さっき、緋馬は携帯電話で外にアクセスして、情報を引っ張り出した。そんなこと昔はできなかった。外からの情報は、誰かが気まぐれに教えてくれてやっと手に入れられるものだった。気まぐれが無ければ何一つ貰えなかった。学校を知らない俺達は、親が決めた修行スケジュールに沿って、言われた通りの鍛錬に励むしかなかった。身内同士で苛め合って、繋がり合って、爛れた中で……子供でも結果を出すように必死にされて、必死に振り回されたよ」
「……必死って『必ず死ぬ』って書かれていて不吉だよね」
 緋馬は面白いことを言うな、と藤春は感心して笑う。
 その笑顔に、そんな枯れた声をしていてもまだ笑えると、ひどく安心した。
「おじさんは、知っての通り、ちょっと偉い生まれだった。千年続く一族の当主の次男。出会う女は、みんな俺の血に興味があった。おかしいだろ、俺じゃなくて、俺の血に興味があるって。……最初は気づけなかったけどな」
「……うん」
「けど、彼女だけは違った。俺という人間を見て、付き合ってくれた。……そういうのが、嬉しかった」
 語りながら、藤春の手がわずかに震えるのを、緋馬は見逃さなかった。
「俺の話を聞いてくれた。俺の絵を、綺麗だと言ってくれた。いつも一歩引いて、俺に歩幅を合わせてくれる人だった。……あんな女、他にいなかった」
 雨音が強まる。夜の静けさに、遠雷がひとつ、低く響く。
「……俺もおじさんの絵、好きだよ」
「ありがとな」
 緋馬は無言で手を伸ばし、藤春の手を握った。冷たさと温もりが入り混じるその掌に、血が通っていることが不思議に思えた。
「……あいつとは好きな食べ物も同じだった。よく食事に行こうって誘われて、仲良くなった。好きになった一番の理由は、やっぱり、サッパリした性格だったからかな。物分かりが良かったし、諦めの良いところもあった。衝突しなかったと言えば嘘になるけど、俺の家を、理解してくれた。あれだけ嫌がらせをされたのに、俺に合わせて、俺の隣にいてくれた。『好きだ』って言ってくれた。ああ、俺は俺を『好きだ』って言ってくれる人を好きになったのかもしれない。申し訳無いな。申し訳無い。こんな俺より良い人が幸せにしてくれたかもしれない、そんな良い女だったのに。…………ん?」
 突然手を握る緋馬に、藤春は不思議そうな視線を向ける。
 外の雨で気温が下がり、手先は冷たくなっていた。だからですと、そんな言い訳を用意していた。けれど視線を向けるだけで伯父は、いきなりの接触でも何も問い質そうとはしなかった。
「おじさん……おばさんのこと、否定しないで」
「…………」
「一緒に生きた時間まで否定されたら、きっと悲しみ切れない。……おばさんだけじゃない、きっとおじさん自身も」
「……すまん」
 藤春の声は掠れていた。強がるその姿に、緋馬は言葉を重ねる。
「俺、おじさんのこと、好きだよ。いつものおじさんが。これからのおじさんも、きっと」
 藤春は、少しだけ顔を背けるようにして笑った。
「……そうか」
「『そうか』で済ませないで。俺、何度でも言うよ。『好きだ』って」
 冗談めかして撫でる手が、やがて真面目な想いを込めてゆっくりと藤春の髪を梳く。撫でられるうちに、彼の体がふっと傾ぎ、緋馬の胸に凭れかかった。
「……ごめんな、緋馬。ごめん」
「……ううん、好きだよ」
 囁きは亡き妻には届かない。けれど今この夜、確かにひとつの心を抱きしめた。
 亡き者を超えることなどできない。だけど生きている者が差し出す言葉と温もりが、ほんの少しでも未来を照らすなら。
 緋馬はそれを信じた。この夜をきっと忘れないと思いながら。
(分かっている。男女の仲を、何年も共にした伴侶を、死者を越えられる訳がない)
 けれど独り占めして傷心した人に愛の言葉を囁けば、多少でもその地位に居座れる。そんな確信もあった。
(死んでくれてありがとうなんて、絶対、言わない。言うもんか。……ようやく実感がわいた。やっぱり俺も、悲しい。……こんなに悲しいんだ。言える訳が無い)
 でもこのシチュエーションと、舞い降りた奇跡を、純粋に嬉しく思う。
 ずっと言いたかったことを言えた。たとえ可愛い息子だと思われているだけだとしても、最も近くにいた「両親ではない優しい人」に好意を持つことの、何がおかしいか。
 最低だ。自分が死んだ方が良いぐらい。最低だった。


 /3

 翌朝の告別式は身内の段取りの良さと協力に支えられ、滞りなく進行した。
 火葬場は年末までしか稼働せず、三が日は閉まる。だからこそ12月31日の早朝に式を組み込む必要があったのだと、犬伏和尚の息子が低く落ち着いた声で教えてくれた。
 人は年末でも死ぬ。なら葬式も年末にやらなきゃならない。年始に持ち越すと事務的にはもっと面倒になる、と。
 義母の遺体は前夜のうちに荼毘に付された。今日行なわれたのは、形式としての火葬と納骨。形式ばかりが進み、心の準備は追いつかない。だがその強引さがかえって救いだった。別れが淡々と終わるのはまだ傷口が開ききっていないうちに縫われるようで、悪くなかった。
 それでも体は正直だった。
 12月30日に用意された和室で目が覚めると、喉が焼けついていた。ひどく嗄れていて声が出ない。熱は無いが、まるで心が身体を巻き込んで黙り込んでいるかのようだった。
「ウマ、おはよー……。声、出ないのか?」
 幼馴染の寄居が気遣うように近寄ってくる。口を動かそうとしたが、声帯が拒む。緋馬はガラケーを取り出し、メモ帳に「せき いがい ふちょー じゃない へいき」と打って見せた。
 寄居はそれを読み「了解」と肩を竦めた。
「弁当食べながら喋らない会話でもしよう。福広さん、持ってきてくれるって言ってたし」
 そのとき、勢いよく扉が開いた。
「おっはぁー! ウマ、ヨリーくーん! お兄さんの参上だよぉー」
 大きな弁当箱を抱えて現れたのは、いつもの福広だった。昨日と同じく、場違いなほど陽気な声音。それがかえって空気を和らげる。
「んんー? 今日はさらに寡黙キャラに進化? ウマ、どこ目指してんのさぁ」
「えっと、福広さん。ウマは今ですね、喋れなくなってます」
「ふぇ? 魔法で新しい足でも貰ったぁ?」
「なんすかそれ。風邪だそうです。今朝から声がガラガラだそうで」
 無意味な軽口。だけど、それが嬉しい。
 寄居が状況を説明すると、福広は「あー」と声を上げ、真顔になった。
「そっか。泣きすぎて声枯れちゃったか。……優しい子だなぁ、ほんとに」
 茶化すような口調の奥に、真摯な思いが滲んでいた。こんな風にどこか温かい人たちが傍にいてくれるから、緋馬はここを完全に嫌いにはなれない。
 弁当を広げて三人で黙々と食べる。会話が無くても時間は流れる。寄居と福広が交わすとりとめもない話が、妙に心地良かった。
(……おばさんの死。俺が思ってたより、きつかったんだな)
 ふと周囲のざわめきが近づいてくる。見知らぬ顔がぽつぽつと緋馬の前に現れ始めた。
「このたびは、ご愁傷様で……」
「以前、柳翠様にはお世話になりまして……」
 名乗る人、名乗らぬ人。遠慮がちに、けれど確実に視線を送ってくる彼らに、緋馬は小さく頭を下げるしかなかった。
 挨拶は「ご愁傷様」が中心だが、要領を得ない自己紹介も多い。「伯父ではなくどうして俺なんか」にと思う。三人目を過ぎたところで、寄居と福広が解りやすく説明をした。
 寄居が、苦笑混じりに言う。
「仏田家の直系、柳翠様のご長男。それだけで顔を覚えておきたいって思う人、たくさんいるんだよ。社会勉強だと思って今日は頑張れ」
 そして福広も緋馬の耳元で囁く。
「貴族の子ってのはね、嬉しくない役得もあるのさ。社交界のお約束に『偉い人のお坊ちゃんとコネクションを作っておく』っていうのがあってねぇ。一応ウマは『あの柳翠様』の長男だからねぇ、みんな顔を見せておきたいのさぁ」
 これも良いとこのお家に生まれた子の運命だ、諦めろ。福広は意地悪く、それでも優しい声で茶化してくれた。

 仏田柳翠という男のことを、緋馬は殆ど知らない。実の父親であるというのに、これまで一度として会話を交わした記憶が無い。
 伯父である藤春は、たびたび柳翠に会わせようとしてくれた。節目の誕生日や入学式、卒業式といった人生の要所で、どうにか親子を引き合わせようと尽力した。それはきっと「血の繋がりは奇跡だ」という彼なりの願いからだろう。
 けれど柳翠はその全てを曖昧な理由で退けた。「仕事が忙しい」と言っては会う約束を取り消し、「急用が入った」と言っては姿を見せなかった。藤春が何度真摯に説得しても、結局のところ柳翠は一度も、ただの一度も息子の前に現れなかった。
 そんな男の話を、緋馬は耳にたこができるほど聞かされてきた。
 それで愛着が湧くほど、子供の心は単純ではない。約束を破る大人にどうして好意など抱けようか。
 緋馬の中で、柳翠の姿はどこまでも薄暗い影のままだった。
 父という肩書を持ちながら、伯父を困らせる存在。
 藤春が困り顔で頭を抱えるたび、緋馬は静かに怒りを募らせた。伯父を悲しませるというだけで、柳翠に対する感情は冷めた憎しみに近づいていく。
 親子という絆はただ血で繋がっているだけでは意味が無い。関わろうとしない者に家族を名乗る資格は無い。それが緋馬の正直な思いだった。
 けれど緋馬の心に巣食うのは、ただの憎しみだけではなかった。
 知らない男に対する苛立ちと同時に、どうしようもなく生まれてしまう空白があった。
 たとえ一度でも会っていたなら、怒ることも、傷つくことも、きっともっとはっきりできたのかもしれない。
 だが柳翠はいないという形でしか緋馬の世界に現れなかった。
 だからこそ感情は何年経っても宙ぶらりんのままだった。握り潰すことも差し出すこともできずに、ただそこにある。
 ──父親って、なんなんだろう。
 藤春がいてくれた。ずっと一緒にいて、笑って、叱って、食卓を囲んでくれた。
 彼の手の温かさは覚えている。膝の上で眠ったときの柔らかい胸の感触も、今でも思い出せる。
 けれど藤春は、決して「父」とは呼ばせてくれなかった。実の父が生きている以上、自分はあくまで「伯父」でしかないのだと。緋馬にとって、もっとも父に近い存在だったのに、彼自身がその立場を否定した。
 誰も「父」になってくれなかった。誰も胸を張ってくれなかった。誰かの本当の子供として名前を呼ばれることは、結局一度も無かった。
 喉の奥に詰まった声がある。言葉にして叫んでしまいたい、どうしようもない気持ちがある。けれどそんなものを音にしたって何も変わらない。だからひどく静かなまま沈黙している。
 喋れないのが今は、ちょうどいいかもしれなかった。

 そんな思考の最中、ぬるりとその男は現れた。
「初めまして、緋馬くん。柳翠さんの代理で参りました、越生といいます。いやあ……このたびは、誠にご愁傷様。突然のことで大変だったろうけど、うん、何か手伝えることがあれば、なんでも言ってね?」
 快活な声音、爽やかな笑顔。だがどこか磨かれすぎた笑顔の裏に、油膜のような鈍い光がちらつく。
 緋馬のもとへ、福広と寄居という盾をあっさりと掻き分けて迫ってくる男がいた。
 柳翠に関する話など、今は聞きたくもない。そう思いながらも緋馬は声が出せない。眉間に深く皺を寄せ、仕方なく会釈を返した。
「匠太郎さん、すみません、ウマは今ちょっと体調がギブアップで、お話できないんですぅ」
 越生 匠太郎、そういう名らしい。服装は立派なビジネスマン風で、若々しさが残る男性だ。
「それより、柳翠様は……やっぱりお仕事で?」
 福広が軽く笑いながら場を繋ぎ、緋馬から意識をそらそうとする。
「うん。『機関』の年末進行は鬼のようだからね。柳翠さんも、そりゃあ忙しいのさ」
「今日で12月もおしまいなのに、まだ忙しいなんて……ブラックすぎて殺されますよぉ。匠太郎さんは柳翠さんの秘書なんでしょ? 片腕なんですからちゃんと本体を休ませてあげてくださいよぉ」
「ははは、オレは秘書っていうよりツッコミ担当だからね。柳翠さんがオレの言うこと聞くような人間なら、苦労しないよ」
「でもこうして代理で告別式に出るくらいには、距離感近いんでしょぉ?」
「まあね。藤春さんの奥さんだから、柳翠さんの立場的にも挨拶しないとダメだろ? 来られないなら代理を立てる、当然の話さ」
 会話の中で、寄居が自然な流れで口を挟む。
「ウマ。めっちゃ弁当食べたじゃん。クソしてくれば?」
 突拍子のない提案だったが、不思議と場に馴染んでいた。 匠太郎があまりにも居座りそうな空気を纏っていたからこそ、強引な退場のきっかけが必要だった。
 緋馬は頷き、席を立つ。
「緋馬くん!」
 背を向けかけたそのとき、匠太郎が福広との会話を切ってまで声を掛けてきた。
「あずまさんは……本当に若かったよね。このたびは残念だった。心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りします。『ずっと緋馬くんを育ててくれた女性だからね、ありがとう。そして、どうか安らかに』。これは柳翠さんからの言葉なんだ。君にしっかり届けておきたくて」
 生真面目なのか、ただ空気が読めないのか。あるいは敢えて読み外しているのか。匠太郎はわざわざ本人の前で言わなくてもいい言葉を、正面から叩きつけてくる。
 表情に嫌味はなかった。陽気さと礼儀正しさを纏った、ある種の完璧さ。けれど、その完璧さこそが、緋馬にとってはどうしようもなく不快だった。
 優しさの皮を被った、何か別のもの。媚びでもなく、悪意でもなく、ただどこか薄ら寒いを感じる。
「はぁー、匠太郎さん、真面目っすねぇ。それわざわざ言いに?」
「うん。オレからも礼を言いたかったし。今日来られない人も多いし、こういうときくらいしっかりしなきゃってね」
「山奥で大晦日ってだけで、来るの億劫になりますもんねぇ」
「昨日だけ出たって人もいたしね。……ああ、新座様なんてのも。昨日だけ来て、今日はいなかったな」
「あー、当主の弟のぉ? あのひと家出した聞きましたけどそんなでも葬式には来てくれるんですねぇ。……ウマぁ、トイレ行かないと漏れるよぉ。お兄さんはオムツ替えませんよぉ?」
 無茶な一言に、今度こそ緋馬は場を離れた。その背中で匠太郎の台詞が、脳裏に反響する。
 本当に柳翠があの言葉を、あの男に託したのか。
 そんな筈がない。柳翠がどれほど冷淡で常識の通じない人間か、緋馬は知っている。伯父との約束をすっぽかし、祝いの言葉すら寄越さない父親が、葬儀の哀悼を口にするなどあまりに嘘くさい。
 もしそれが本当なら、それはそれで、意地の悪い芝居だった。口先だけの優しさで、息子の心を抉るような真似をするなど、父親のやることではない。
 匠太郎に罪は無い。たとえ吐き気がするほど嫌気が差しても、それはこの男のせいじゃない。
 それでも緋馬は会釈をした。唇は、ただ結ばれたままだった。

 藤春の実家、仏田寺は、山深くにひっそりと佇む古刹である。
 陵珊(りょうさん)と呼ばれる小高い山にあり、山麓の町までは車でおよそ十分。中腹には小さな駐車場があり、そこから続く石段を数百歩登った先に重厚な門が構えている。
 山門をくぐらずには内部へ入れず、境内は高い柵に囲われている。名目は「野生動物避け」だが、本当の理由は別にある。
 この寺は仏田家という千年続く能力者一族の拠点であり、魔術研究機関としての顔を隠し持つ場所だった。
 福広や匠太郎が語っていた『機関』とは、その仏田家が運営する魔術研究施設の通称である。
 恐ろしい場所だと、伯父・藤春は口を固くしながらもそう言った。
 緋馬は『機関』について殆ど知らなかった。自分の実家が経営する会社のようなもので、実父が勤めている場所。大勢の社員がいて、山の中で何かを研究している団体、その程度の認識しかない。
 伯父は過去に何度か忠告のような語りをしたが、詳細は語らず、憎悪と諦念が入り混じる表情だけが印象に残っている。
 仏田寺の建築は古い。床暖房など望むべくもなく、吹き曝しの廊下からは冬の冷気が容赦なく流れ込む。境内に広がる庭も「整えられた」というより「手がつけられていない」印象が強く、洗練された美しさはない。
 一般客が訪れる寺の講堂から、二つの廊下が延びている。
 一つは木造の古い棟。仏田寺の僧侶や本家の者が暮らす場所で、伯父が生まれ育った住居でもある。もう一つは打って変わって近代的な建築、鉄筋コンクリート製の施設棟――仏田家の魔術研究所、『機関』と呼ばれる区画である。
 しかし近代的といっても、緋馬にとっては都会の学校や市役所の延長線にしか見えなかった。2000年代によくあった無機質な建物。重厚さや威圧感はなく、寿命が削られるような異様さも無い。むしろ拍子抜けするほど、普通だった。
 施設の入口脇には控室らしき一角があり、そこには警備員とは名ばかりの、作務衣と半纏を着た気の良さそうな男性が座っていた。
「坊や、お葬式に来た子かい? お手洗い探してるのかな?」
 柔らかく声を掛けられた瞬間、緋馬は僅かに身構えた。だが敵意の無い笑顔に警戒心はやや緩む。その直後。
「馬鹿あんた! その御方は緋馬様じゃないかい! 当主様のご家族だよ! この前、写真で『顔を覚えておきなさい』って言われた子でしょうが!」
 割烹着姿の中年女性が笑顔で駆け寄ってきた。
「ごめんなさいね、緋馬様。ちゃんと上からお達し来てるのよ。失礼のないようにって」
 あまりに朗らかで親しみのある態度に、緋馬は動揺する。
 女性は「この機械に、顔を近づけてごらん」と言った。まるでタイムレコーダーのような機材の前に立たされると、突然ピーッと音が鳴った。目を開いてその場に立っただけで入館許可が下りたらしい。
「緋馬様は今、高校生だよね? 卒業したら仏田に来るんだろう?」
 入館するのに数秒も掛からなかった。その間も、明るそうな彼らは次々と緋馬に声を掛ける。気兼ねさせぬよう明るく振舞うその声に、緋馬は逆に背筋が凍っていた。
「優秀な柳翠様のご子息だもの。将来有望な魔術師が来てくれるって、みんな楽しみにしてるのよ。頭もいいし、若いし、そりゃあ期待しちゃうわよ。ここの施設だっていずれ緋馬様のモノになるんだしね〜」
「そりゃあ凄い! さっすがぁ! どうぞどうぞ今からどこへでも行ってくださいねぇ。いいお勉強になるでしょうし……って都会の学校行ってるならもちろん良い大学行くんでしょう? 許嫁もいるわけだし男は外で揉まれてなんぼってね」
 ――大学進学は未定。恋人などいない。許嫁? そんな話は初耳だった。
 『機関』についても詳細は知らない。魔術は多少齧ったが、研究者になるつもりなど毛頭ない。
 なのに彼らは当然のように「決められた将来」を語る。悪意ではない。むしろ好意的ですらある。だからこそ、ぞっとした。
『すみません トイレ 探していて』
 メール画面に打ち込んだ一文を見せると、女性は笑って頷いた。
「ごめんなさいねぇ、おばちゃんたちの長話に付き合わせちゃって! こっちよ、案内するから!」
 顔パスで通された研究棟。入退室の手続きすらない。軽く尋ねても「柳翠様のご子息だから大丈夫」と笑顔で片付けられる。
 伯父が伏魔殿と呼んだ場所。それにしては、あまりにも明るい。人も、建物も、物理的にも。
 清潔な廊下には自販機が並び、ジュースやパンまでそろっていた。コイン投入口は無く、全て飲み放題らしい。
 仏田寺の重苦しい本殿とはまるで違う。明るく、整い、静かで、不気味なほどに快適だった。
 ベンチに腰を下ろし、Sサイズのホットココアを飲みながら、緋馬は辺りを眺める。
(理科室みたいな部屋が並んでる。あっちは図書室? 上の階もあるし、地下もある……社宅? 住み込みの人も多いんだっけ)
 寺の敷地がこれほどまでに広大だとは知らなかった。広さも整備も施設の数も、全てが想像を超えている。
 子供の未来を「決めつける」言葉に反発はある。けれど、この場所にどっぷりと浸かっていく人間の気持ちも、分からなくはなかった。
(柳翠って人は……この場所から一歩も出たくなかったんだな)
 そんな予感が胸をよぎる。
 柳翠の話を聞きたくなくて、あの大広間を抜け出した。なのに今、自分の思考は彼のことでいっぱいになっている。
 そう思い至った瞬間、視線の先に、先ほど見た顔があった。匠太郎だった。ココアの湯気の向こうで、彼は相変わらず柔らかく笑みを浮かべていた。
 ほんの数十分前に見かけた、あの印象的な男の顔を、そう簡単に忘れられるはずがなかった。大広間での挨拶を終え、職場である研究棟に戻ってきたのだろう。白い壁に音を吸われながら、清潔な廊下を、スタスタと軽やかな足取りで歩いている。
 緋馬はベンチに腰掛けたまま、無言で彼の背中を目で追っていた。能天気な福広とも親しげにしていたが、やはりあの男は只者ではない、冴えた頭と社交性を兼ね備えているのだろう。だってこんな研究施設を、我が物顔で歩いているのだから。
 その匠太郎が、廊下の向こうで白衣を着た男性に向かって大きな声で呼びかけた。
「柳さん!」
 よく通る声が廊下に反響する。その一言だけで、ある白衣の背に向けられた言葉だと判る。緋馬の中に、反射的な拒絶が走った。
 ――その人とは、会いたくない。
 理屈ではない。身体の芯が、咄嗟に警鐘を鳴らす。
 気づけばホットココアの紙カップを飲み干し、立ち上がっていた。足が、勝手に出口へ向かっていた。廊下を走っても、教師に怒られることはない。そう思っていたのに、
「走るな!」
 予想外に飛んできた怒声。それは、大人の制止ではなかった。
 次の瞬間、身体に鋭い衝撃。勢いよく角を曲がった先で、誰かと正面から衝突してしまったのだ。
 倒れ込んだ相手の上に、自分が乗っていた。

 赤毛の、少女だった。
 細くて軽い身体。自分よりもずっと小さく、薄い。
 衝撃で尻もちをついた彼女は、仰向けのまましばらく動かなかった。ぽたぽたと涙が頬を伝い、小さく呻く声が漏れる。大人たちの靴音が駆け寄ってくる。
「だから言ったろ、廊下は走るなって……」
 呆れと諦めが混ざった声。数人の男たちが駆け寄り、彼女を抱き起こした。
 緋馬は焦っていた。彼女に覆いかぶさった形になっていたこと、まるで漫画のような出会いを演じてしまったこと。そして何よりも、自分が声を失っていること。謝りたくても、喉が乾いた井戸のように言葉を出さない。声が、出せない。
 少女の瞳がこちらを睨んでいる。睨むほどの力はなく、ただ涙と混ざった視線が、真っ直ぐに自分を捉えていた。
「たすけて」
 その言葉だけが、掠れた唇から漏れた。
 悲鳴でも罵りでもなく、ただ助けを求める、まるで水面から手を伸ばすような必死の声。周囲の大人たちには届かない、小さな、小さな声。
 彼女は抱え上げられ、涙をこぼしたまま連れ去られていった。
 その背中を見送りながら、緋馬は拾い集めた紙カップと携帯を握りしめ、無言で立ち上がった。今度は走らない。歩幅を速め、足音だけが廊下に残る。
 本堂へ続く廊下に戻ったとき、何かが手に残っていることに気づいた。
 掌には、小さな天然石のようなもの。少女が持っていたものだろう。透明な石は、掌のなかでひんやりと冷たかった。
 そして、ふと漏れたひと言に、緋馬自身が驚いた。
「なんだ……これ……」
 ――声が、出ている。
 少女とぶつかった瞬間から、喉に絡まっていた何かが解けたようだった。
 透明な石を見つめる緋馬の胸に、はっきりとした違和感と、ほんの僅かな予感が芽生えていた。


 /4

 墓石への納骨は静かに、呆気なく終わった。
 今日が大晦日であること、昼間から気温が急激に下がり雪の気配すら漂っていたこともあり、藤春は早めの進行を和尚に頼んだ。寒さに震える参列者たちを慮っての配慮だ。年末の忙しない空気を読み、せめて暖かいうちに寺へ戻そうとする、その気遣いは藤春らしかった。
 それでも12月31日の山奥では、日が落ちるのはあっという間だ。儀式の一つ一つに丁寧に時間をかけるうち、空は鈍く暮れていた。
 我が家として使えと言われた和室へ戻り、畳の上に胡坐をかく。どこか所在なく、けれど安心する香りが漂っている。
 さっきまで和尚と何やら重苦しい話をしていた伯父も、ようやく眉間の皺をほどき、いつもの穏やかな顔へと戻っていた。その顔を見るだけで、張り詰めていたものがふっと緩んでいく。
「おじさん。さっきの話、無理に切り上げちゃったみたいだったけど良かったの?」
「いいんだよ。長引かせたって、何かが変わるわけじゃないからな」
 藤春はぽん、と軽く緋馬の頭に手を置いた。整えていた髪がぐしゃぐしゃにされる。その乱暴さが、何よりの安心だった。他人にやられたら不快極まりない仕草でも、この人にされると、むしろ心地良かった。
「体調、朝よりは良さそうだな」
「うん。あったかいもの飲んだし、寄居に薬とか喉飴とか貰ってたし」
「なら寄居くん礼を言わないとな。よし、年越し蕎麦もできてる頃だし大広間に行こうか」
「……もう?」
「腹、減ってないか?」
「……ううん。もう少しここに居たいかも。大広間、人が多くて、落ち着かない」
 ――本音は「おじさんと、ふたりきりでいたい」。でも、それは言えない。
 寄居や福広のことは嫌いではない。むしろ、気を使ってくれる優しい人たちだと思う。けれど、どこまでも他人だ。彼らの善意が時に負担になる。それがどうしようもなく自分の性質だった。
「この部屋って、おじさんが昔住んでた部屋なんでしょ? おじさんにとっての家なら……俺もここに居たい。他の場所、疲れる」
 伯父はしばらく黙っていた。やがて深く微笑み、また緋馬の頭に大きな手を乗せて撫でた。朝に洗っておいて良かったと思えるくらい、彼は何度もその髪に触れた。
「緋馬。ここは、おじさんの家だけじゃない。お前の家でもあるんだ」
「……そう、思えないよ」
「お前にとって家は、あのマンションかもしれない。でもな、本当の家はここなんだ。ここに家族がいて、ここで生まれて、ここで名前をもらったんだから」
「……そうなんだ」
「そうだよ、忘れるな。もちろんあのマンションを帰る場所と思ってくれているなら、それはそれで嬉しい。でもな……」
「おじさんが嬉しいなら、俺はあそこを実家だって思うよ」
 そう言えば伯父が困った顔をすることぐらい、判っている。けれど、今日は少しだけ我儘でいたかった。思いついた言葉を、子供のようにそのまま口にしていた。
(思ったより怖い場所じゃなかった。けど、人が多すぎる。話しかけられすぎる。ぶつかりもする……やっぱり、ここは俺の家じゃない)
 そんな気持ちを押し隠すように、緋馬はぽつりと言った。
「……煙草、一本ちょうだい」
 伯父は少し目を細めて、それから喪服の内ポケットから箱を取り出した。
「俺のでいいなら、やるよ」
「それでいい。……俺、おじさんのしか知らないし」
 慣れた手つきで火を点ける伯父を真似し、煙を吸う。苦い匂いが鼻腔を満たした。
 この部屋の空気を、煙で染めていく。おじさんの家だった場所を、自分の家だと無理やり思い込むように、煙で塗り替えていく。
(煙草の良さなんて分からない。本当に良いものなのかどうか、判断なんてできない)
 ただひとつ確かなのは、その匂いがおじさんの匂いだということ。
 そして、自分がその匂いを「好きだ」と思っていることだった。
(おじさんは、俺の父親じゃない。そう言ってた。俺も、ちゃんと分かってる。……じゃあ、俺がこの人に抱いてる感情は)
 恋慕だった。
 甘えていた幼い頃には、何の違和感もなく「お父さん」と呼んだ。けれど彼はそれを許さなかった。「俺は父親じゃない」と、何度も言われた。
 その日を境に見方が変わった。家族になれないなら他の何かになれないかと、そんな感情が芽を出した。
「……おじさん」
 隣に座る藤春に、そっと身を寄せた。
 肩に体重を預けると、彼は少し驚いた顔をしたが、すぐに緩やかに笑った。その優しさに誘われるように、緋馬はさらに顔を近づけた。
「藤春さん」
 名前を呼び、拒絶される前に、唇を寄せた。
 熱が交わる。
 柔らかい、と聞いていた筈の唇は、苦味と煙の匂いに満ちていた。
 伯父の目が見開かれる。予想通りの反応に、どこか興ざめしながらも、緋馬は唇でその唇を軽く噛んでみた。吸いつくように触れると、藤春はただひとつ、静かに息を吐いた。
 次の瞬間、彼は自分の手の甲で唇を拭った。あまりに自然な仕草だった。
「……緋馬」
 それが、唯一返ってきた言葉だった。
 拭った理由も、感覚も理解はできる。それでも――それでも、その仕草は心の奥をじわりと冷やした。
「緋馬、お前。なんで、こんなことをする?」
「なんでって。……したいからするじゃいけないかな?」
「本当にしたいと思うのか、こんなこと?」
 こんなことと言われて、やっぱりショックを受けている自分がいた。
 精一杯の好意のつもりだったが、それを一蹴りされるのは辛い。受け入れてほしい相手だったら、余計にだ。
 緋馬はもう一度、唇を重ねようと身を寄せた、が、肩をガッと掴まれ拒まれてしまう。
「緋馬。こういうのは酔った勢いでやるもんじゃない」
「俺、酔っぱらっているように見える? ……見えないでしょう? 俺、おじさんと違って酔って愉快になるタイプじゃないし。ちゃんと俺なりに考えていることだから」
 そう言いつつ、もう一度唇を重ねに向かった。
 今度は叶った。伯父が苦しそうに呻く。
 構わず舌で藤春の唇を舐め上げてみた。それには飛び跳ねるように驚き、緋馬を見張る。
 ペロリと舐めたって良い味なんてしない。さっきから同じ味を二人で反芻し合っているだけ。
 無意味なことだとしても、緋馬は進めた。
「待て! 緋馬、お前、意味も解ってないのにこんなことをするなっ!」
「解ってないとでも? ……やだ」
 片手で煙草を持っているせいか、緋馬を制するための腕が自由に使えていない。だから早々に煙草を携帯灰皿へ手放していた緋馬を止められず、不安定な姿勢で為されるが儘にされる。
 戸惑う伯父に覆い被さり、畳の上に倒した。転倒した上から唇を舐めて、何度も模索する。
 拒否の言葉が次々耳に届いた。そんな伯父から煙草を奪い、小さな灰皿へ押し込む。
 自由になった手を取り、指を絡ませた。
「やだ。やめない。やめたくない」
 キスというより、猫がミルクを舐める小さな舌遣いのように。少しの可愛らしさといじらしさを見せなければ、容赦なく蹴飛ばされてしまうだろう。
 藤春は敵には容赦ない人間だ。なら少しでも、か弱く甘えておかなければ。そう読み切り、脱力を狙った。
「……あ、ぐ、ぅん……っ!」
「おじさん? 大丈夫?」
「……ば、か」
 伯父の手が、緋馬の頭に向かう。そのまま頭を寄せられる。今度は伯父の導きで唇が寄せられ、ない。唇を奪われる前に、顔を押し退けられる。藤春は、冷淡に緋馬を引き離した。
「いいかげんにしろ、緋馬」
 低い声。叱られるときの声そのものだった。
「いいかげん、って何。俺は俺なりに真剣におじさんのことを考えてキスしたよ。……いいかげんっていうのは、おじさんの方じゃない?」
「……馬鹿を言うな。お前が、俺にこんなことをする理由、あるか?」
 否定の言葉は、ある程度想像していた。けどその問い掛けには対応できずに、止まる。
「俺とお前は親子だ。血は直接繋がっていなくても、親子だ。なのに、どうしてこんなことをする? 普通はしないだろ」
「……違わないよ。好きだから、キスした」
「だからどうして『その好き』になる? お前を育てた愛は、こんな形じゃないだろ」
「……はあ? なにそれ」
「家族愛とこれを一緒くたにされては困る。お前はここ数日、動転してる。落ち着けば……」
「……好きになった理由、いくらでもあるよ。おじさんは、優しい。何度も抱きしめてくれたし慰めてくれた。今日だって撫でてくれた。それだけ触れ合えば、好きになるもんだろ……?」
「それは、親子だから」
「親子じゃなくておじさんと俺は他人だろ! 俺が親だと思ったらそうじゃないって言った、だから俺はそう思わないようにしたのに、どうして親だって言うの!」
 やはり喉は不調だったようで、声の調節が普段通りできない。
 だから今の声は絶叫だった。酸素を奪われて思考力が低下した伯父の頭にもキッチリと届くような、叫びだった。
「全然呼ばせてくれなかったのに、どこが親子なんだよ。まるっきり他人じゃないか、俺とおじさんは! 他人でこんなに触れ合ったんだから、他人以上に好きになるのは当然じゃん……!」
 親じゃないと言って、他人なのにいっぱい触れて、いっぱい好きになって……好きになって、何が悪い。
「……誤解するな。俺は……お前を育ててきた身として、子供としか見てない」
「子供じゃ、無理? 赤ん坊の頃から見てるから、好きになるのは無理?」
「好きだよ、お前のことは」
「これから大人になるから好きになってというのも、無理?」
「そういう意味じゃない。俺は、お前の保護者なんだから」
 藤春の目が細められた。言葉は、もはや刃物だった。
「けど……さっき、キスに応じてくれた」
「………………」
「真面目に俺が訴えていても、聞く耳を持たない?」
「……間違っていることをした子を正すのは、当然のことだろ。馬鹿も休み休み言え。……今日は、さっさと寝ろ。頭を冷やせ。明日から意識を入れ替えて、新年を迎えてくれよ」
 罵られた。今夜の俺を、完全否定されてしまった。
 緋馬の中で、何かが砕けた音がした。
 ――頭を冷やせって、頭を冷やせって……。今日はさっさと寝ろ、明日から、意識を入れ替えろって、新年に備えろって……。
「冷やせば、無くなるものだと思ってるの?」
 気持ちは、そんなに簡単じゃない。熱を持って、形になって言葉にした感情がそんな一晩で変わるわけがない。
 明日になって笑顔で挨拶を交わせるほど、器用な人間じゃない。きっと藤春も、そんな風にはできない。なら、どうなる?
 想像が、恐怖に変わる。
 変わってしまうかもしれない。何かが。
 緋馬は、急に耐えられなくなった。
 視界が歪んだ。喉が熱を持った。呼吸が苦しくなった。身体が先に反応し、不格好な足音を畳に響かせながら、部屋を飛び出した。まるで逃げるように。
 こみ上げる恐怖から逃げるのに必死だった。

(史上最低の日だ)
 人生の何たるかを語るには、まだあまりに若い。けれどこの夜の絶望はこれまでのどんな痛みよりも深く、緋馬の胸を締めつけていた。
 山奥の冬は厳しく、吐いた息が白く凍りつく。涙ひとしずく落とせば、たちまち氷柱となり頬を裂きそうな寒さ。それでも伯父の部屋にはいられなかった。重すぎる沈黙と拒絶の余韻が、畳の空気を凍らせていた。
 本殿には他人の気配が多すぎた。温もりではなく、干渉と沈黙ばかりが支配するその空間へ向かう気にもなれず、足は無意識のまま外れた縁側に運ばれていた。
(何やってるんだ、俺……。逃げ場なんて、どこにもないくせに。こんな日に、あんなこと……)
 好きになってしまった人が、傍にいてくれた人だった。優しくされて、触れてくれたから好きになった。そして自分の想いを試すように言葉にし、行動にした。
 結果は、惨敗だった。
(……やっぱり俺は、子供なんだよ。馬鹿だ)
 伯父が妻を失って悲しんでいる最中に、何故あんなことをしたのか。
 今でなければ、いつなら良かった? 一年後か、十年後か。それで想いは叶っただろうか。
 答えの無い問いを繰り返すたび、緋馬の瞳はさらに潤み、声なき嗚咽が喉を震わせた。
(寝て、気分を入れ替えろって? こんな気持ちのまま布団に入ったら、新年どころか、悪夢しか見ない)
 考えがぐるぐると巡り、逃げ場を失った脳がひどく疲弊していく。娯楽もなく笑いもなく、ただ時間だけが冷たく進んでいくこの寺の中で、緋馬は唯一の外界――携帯電話に縋った。
 それでも頼りの電波は一本。途切れそうな通信の中で、高校の友人たちの名前を表示させ、誰かに縋りつこうとした。たったひと言でも、何かが返ってくれば救われる気がした。
 しかし、圏外。
 祈るように開いた画面は、無慈悲に繋がりを絶った。
「……は、はあ……」
 情けない吐息がこぼれ、ポケットの中で携帯が震えることもなく、世界がますます孤立していく。
 ゴウン。
 突如、地響きがした。
「ウマ」
 そして、名を呼ばれた。
 揺れる体を抑えつけている最中に、幼馴染である寄居の声がした。すぐには振り返れなかった。彼にだけは、この顔を見られたくなかった。
 もう一度、呼ばれた。
「ウマ」
 どこか無機質で、けれど馴染み深い声。その単調さにいつもの彼だと安心し、緋馬は涙を拭う時間をもう少しだけ稼ごうと、沈黙を続けた。
 三度目の呼びかけはなかった。
 その代わりに足音が近づいてくる気配もなく、風の音も止んだような一瞬の静寂の後、何かに貫かれていた寄居の体が崩れ落ちた。
 血の匂いが風に混じる。
 赤い、あまりにも鮮やかなものが、夜の闇の中で広がっていた。

 目の前で、寄居の腹部が内側からぐちゃりと膨らむ。
 肉が破れ肋骨が軋み、内臓が裂ける音がした。寄居の胸から一本の触手がねっとりと突き出ている。彼の身体は前へ倒れることなく、その場でくしゃりと崩れた。中から、赤黒い液体が溢れ出す。
「……は……?」
 ただそこに立ち尽くしていた。
 息をすることも目を逸らすこともできず、声すら出ない。見ているのに、理解が追いつかない。たった今、目の前で、友人が死んだ。理由もなく。言葉もなく。緋馬は、一歩も動けなかった。
 腹部からは肉が裂けたような音と共に血が噴き出している。彼の体はまるで中から破裂したように折れ曲がって倒れていた。血と肉の匂いが冷えた空気を押し破るように漂ってくる。そのとき、凄まじい轟音と共に、境内の奥、本堂の方角が爆ぜた。
 まるで建物ごと火薬で吹き飛ばしたような衝撃。地面が揺れ、空に舞う火の粉が舞い散る。目を見開いたまま、思考が停止した。
 本堂が、燃えている。
 あれほど静かだった寺が真っ赤な炎に包まれ、夜空に煙が立ち昇っていた。
「だ、誰か! 火事だッ、逃げろ、うわあああああッ!!」
 叫び声と同時に、建物の壁が突如として破れた。
 中から飛び出してきたのは、黒い何か。一本の、異様に長い、うねる腕のようなもの。触手という言葉が瞬間的に頭に浮かんだ。
 それは逃げようとした人の胴を絡め取り、まるで玩具のように振り回すと、地面に叩きつけた。骨が砕ける音が、火の音に混じって響く。
 動けなかった。寄居の死で止まったままだった足が、そこから一歩も進まない。
(な、何が、起きて……?)
 火の粉が舞う中で人が燃え、叫び、逃げ惑っている。
 誰も助けられない。誰も戦えない。何が敵なのか、どうしてこんなことが起きているのか何も判らない。ただ一つ確かだったのは、ここはもう地獄だった。
 駆け出した。友の死体を背に。恐ろしくて、居ても立ってもいられなかった。
 その途中、目を疑った。仏田寺には到底いる筈のない見知らぬ人々が何十人もいた。老若男女。緋馬が知らない顔ばかりだ。夜まで働く研究者たちや用務員たちもいるが、寺に居ても不自然な精悍な若者たちが多いようにも見える。
 それでも彼らは同じように、化け物に襲われていた。
 一本の触手が、逃げる女の背後から飛び出す。女の背中が裂け、内臓が飛び散る。地面に落ちた赤黒い臓物を別の触手がぐしゃりと踏み潰した。その隣では仲間らしき存在を抱えた男が必死に走っていたが、触手が二人まとめて絡め取り、ぐしゃりと潰した。骨の砕ける音。血が破裂音のように飛び散る。
 息が詰まり、胸が痛くなる。なんだよ、誰だよこいつら。顔も知らない、名も知らない人たちが目の前で殺されていく。助けを求める声が血に濡れて掠れていく。
「誰か、助けて! お願い、やめてッ!」
「ひいっ、いやだ、いやだ、殺されたくないっ!」
「もういや、死にたくないぃぃ!」
 叫び声が、どれも現実のものとは思えない。そして触手は容赦しない。人を切り裂き、貫き、焼け落ちる屋根の下へと叩き込んでいく。
 人の肉が焼ける匂いが、冬の風に混じって鼻に突き刺さる。
「っ……ぉ、おじさん……藤春おじさん! どこ……ッ!」
 目を逸らすように走った。逃げるのではなく、藤春を探すために。まさかこの叫び声の地獄の中であの部屋に居残っている訳がない。ならば逃げ迷っている筈だ。訳が判らぬ地獄の中でもただ一人、あの人だけでも、生きていてほしい。
 そう思いながら聞いてしまう鋭い悲鳴。緋馬は反射的に足を止め、声がする方を見る。
 瓦礫の向こう、倒れた石灯籠の陰に、少女が蹲っていた。
 年の頃は十歳前後。真っ赤に泣き腫らした目で、緋馬を見た。その顔に微かに見覚えがある。少女が何故ここにいるのかは判らない。理解不能に混乱したが、恐怖に引き裂かれそうなその姿に、躊躇いは一切なかった。
「おい、こっち来……!」
 言い終えるより早く、少女の背後で空気がうねった。触手は一本ではなかった。巨大な幹のような主触手と、それを枝分かれするようにうねる無数の副枝。まるで森のように生い茂ったそれらが、少女を覆い尽くそうとする。
「……クソが!」
 緋馬は思わず、手を突き出した。
 咄嗟の行動だった。意識せず、ただ叫ぶように。
「燃えろっ!!」
 空気が焼ける音がした。
 緋馬の掌から小さな火球が放たれる。炎は本来なら灯火にもならない未熟な魔術だったが、『本来の血』が反応した。
 火球は少女に迫る触手に命中し、爆ぜる。炎が一気に広がり、触手の一部が焼き焦げてのたうち回る。空中で火の粉が雨のように舞い、少女の身体に届く直前で散った。
 息を切らしながら、少女に駆け寄る。震える手を取って引っ張った。少女の小さな体は驚くほど軽かった。
「いいか、絶対に俺の手を離すな!」
 背後では焼けた触手が再生を始めていた。逃げる時間は僅か。それでも少女は生きていた。
 緋馬の胸の奥で、何かが熱く脈打っていた。魔術を使った反動ではない。「命を救えた」という確かな実感だ。
 燃え落ちる寺の中、瓦礫を避け、血まみれの道を駆ける。焼ける煙が肺に突き刺さる。けれど、彼女は生き残った。この手に確かな命がある。誰かを救ったのだ。自分の手で、命を……。
「緋馬ッ!」
 声が雷のように脳を貫いた。前方から煙の中を駆けてくる人影が見えた。
「おじさん……!」
 藤春だった。服はやや焦げ、肩から血を流していたが、瞳は真っ直ぐ緋馬を捉えている。「無事だったか、良かった……!」という声に、緋馬の胸が熱くなった。命がある。あの人が、生きている。とにかくそれだけで救われる。だが次の瞬間、藤春の背後から何かが飛び出した。
 叫ぶより先に、それは終わっていた。
 ぶちりと何かが千切れる音。藤春の身体が宙に浮いた。太い触手が彼の腹部を貫き、背中から飛び出していた。
 息を吸うように、藤春が震えた。目が緋馬を見たまま、震え、そして崩れる。たった数秒で彼の人生は終わった。
 緋馬には声が出せなかった。ただそこに立ち尽くしていた。助けようとすればできたかもしれない。先ほどできた魔術を何か一つでも叫べば。
 けれど何もできなかった。身体が凍りついたように動かない。藤春の身体は触手に巻かれ、ねじれ、引き裂かれ、投げ捨てられた。まるで重みのない人形のように。
 愛した人は、もう、そこにはいなかった。
「……あ……あ……あああああッ!!」
 叫びが夜空に裂ける。膝が砕けるように地面に崩れ落ちた。少女が泣いている。どちらの涙かも分からない。この手で命を救った直後に、もっとも大切な命を失った。ほんの数秒で。
「……やだ……」
 それは希望の直後に突き落とされた、悪意にも似た運命だった。
「なんなの、もう、もうこれ以上、やだ。たすけて」
 彼女は意味の判らぬ地獄の中で呟く。
 絶望に満ちた紫色の眼で。



【2章】

 /1

 傘を差しても濡れるほどの横殴りの風が吹く台風の日。朝はまだ普通の雨模様だったのに、天気が急変。午後はあっという間に嵐になり、急遽小学校は閉校を決定した。
 早めの下校を言い渡され、帰れる子たちは早々に下校していく。少し遠い家の子たちは家族が迎えに来る。また一人、また一人と保護者が学校にやって来て、さようなら、さようならと強くなる雨風の中を駆けて行く家族たち。
 小学校に入ってもう暫く経つ緋馬は、周りの子供たちが手を振りながら帰っていくのを見つめていた。
 ランドセルは大きすぎて、背負うというより背負われていると言えるほど小さかった頃。誰も居ない下駄箱の前でじっと立ち尽くしていた緋馬の前に、ようやっと誰かが駆け寄ってきた。
 仕事場から直に来たらしいスーツ姿の伯父だ。
「……おじさん」
「遅くなった。ったく、台風も予定の数倍早く上陸とかどうなってんだ。とっとと帰るぞ」
 藤春の伸ばす手は、いつも暖かい。冷えた手をそっと握り込まれて、緋馬は小さな声で「……ごめんなさい」と呟く。理由は緋馬自身にも分からない。ただそう言いたくなったのだった。
「何がごめんなんだ」
「おじさんのお仕事、邪魔したから」
「そんなこと子供は考えなくていいんだよ。ああ、こんな所に立ってなくて良かったのに。濡れてるじゃないか。寒いだろ、早く帰ろう」
 藤春は緋馬のフードを軽くかぶせた。
 乗り込んだ車の中は静かで、ラジオも音楽も流れていなかったけれど、エンジンの低い音と雨の音が窓を叩くリズムが妙に心地良かった。
 家に帰ると、温かいタオルとミルクが出てきた。きちんと畳まれた服、優しく撫でてくれる手、話を聞いてくれる声。緋馬には思い出せる親の顔など無いが、けれど伯父が笑ってくれると、どこか自分が世界のどこかに居場所を持っている気がした。
 夜、風呂から上がって藤春と並んでテレビを見るとき。読み聞かせのように宿題を一緒にやってくれるとき。おかずの最後の一切れを「緋馬に」と譲ってくれるとき。あたたかい、優しい。そんな気持ちに満たされる。この人だけは、自分を叱っても、見捨てたりはしなかった。
 布団の中で、幼い緋馬は小さな声で呟いた。
「……おじさん、好き」
 それは言ってしまったら壊れてしまいそうな気がして、藤春が起きていないことを願いながら、一人きりで言った言葉だった。
 しかし翌朝、朝食の湯気の中で藤春は何も言わずに、緋馬の頭をひと撫でして笑った。その瞬間、幼い緋馬の中に何かが決まってしまった。
 この人を好きでいよう。ずっとこの人の隣で生きていよう。たとえ息子ではなくても。

 高校制服の採寸が済み、中学の卒業式を控えた頃。どこかそわそわとした空気が街中に満ちている季節、藤春はいつも通りキッチンで夕食の支度をしていた。
 彼のエプロン姿は見慣れていたが、その背中がやけに落ち着かなく見えたのは、緋馬の気のせいではなかった。
 味噌汁の火を止め、ゆっくりと振り返った藤春が、珍しく少し照れたような笑顔を浮かべていた。
「なあ、緋馬。ちょっと話があるんだ」
 いつも通りのことをしながら、いつも通りの穏やかな声で、けれどどこか違う響きを備えた藤春が口を開く。
「おじさん、好きな人ができたんだ。緋馬も以前会ったことある女性なんだが……その人と一緒になろうと思ってる」
 空気の密度が変わる。部屋の中は何も変わっていないのに、緋馬の耳の奥だけが無音になった。
 そのときの藤春の目は、言葉以上に多くを語っていた。優しく暖かく、真剣で、本当にその女性のことを好きなのだということが、痛いほどに伝わる声音だった。
「その人は、お前のお母さんにもなるって言ってくれてる。これからちゃんと話して、一緒に暮らせるようにしようって思ってるんだ」
 柔らかく祝福を求めるような声音だ。少し緊張しているのも伝わる。それでもどこまでも真剣で、未来を信じている大人の顔だった。
「そう、なんだ」
 やっと、声を出せた。
 喉が焼けるように痛かった。息をするのも、つらかった。『おじさんが誰かを好きになる』、その可能性にこれまで一度も思いを巡らせなかった訳ではない。ずっと一緒にいられると思っていた。息子でなくても、甥でも、ただの居候でも、この人の隣で毎日を過ごせるならそれでいいと思っていた。
 けれど、心が軋む。
 語る藤春は、幸せそうだった。だからそれを否定する資格は、緋馬には無い。
 緋馬はゆっくりと笑う。唇が引き攣っていたが、それでも笑顔を形にした。
「……良かったね、おじさん」
 その声は、自分でも驚くほど、遠かった。
「きっと、優しい人なんだね。……おめでとう。幸せになってね」
 藤春は心から嬉しそうに受けとめた。「ありがとう、緋馬」と微笑んだその顔を、緋馬は一生、忘れないと思った。
(言えるわけない。こんな気持ち。俺は、ずっと前からおじさんが……好きだったって)

 あずまという女性は、良い人だった。
 血の繋がっていない少年を自分の子供として優しく受け入れてくれた。籍を入れた藤春の連れ子ならともかく、愛した男の子供ですらない他人を自分の家族として認めてくれるなんて、早々できることではない。
 特別に相性が良い訳ではなかった。決して仲が悪いということもなく、ただ互いに、適度に心地良い距離を計れる性格だった。
 過干渉はせず、かといって冷徹でもなく。緋馬の学力には大人として口出しはするけど、趣味や交友関係には何も言わない、どこかドライな女性だった。
 怒鳴ったりしない。家のことを丁寧にこなしてくれる。無理にお母さんになろうとせず、少し距離を取ってくれるあたりもありがたい
 いっそ悪い人なら緋馬は拒絶できた。しかし藤春がそんな悪い女を連れてくる訳がなかった。欠点が無い女性に、緋馬は二人の結婚生活を心から祝福しなければならなくなった。
 例えば自室で勉強をしていると、台所から藤春とあずまの話し声が聞こえてくる。何気ない、穏やかな会話だ。それでも、胸が締めつけられた。
 自分はそこに混ざれない。混ざってはいけない気がする。家族としてならいけるけど、あの仲睦まじい男女の中には入ってはならない。
 でも、今まで藤春の日常会話の相手は、自分だったではないか。
 どうしようもなく居場所を奪われたような気持ちになる。そんな自分が醜くて、嫌になっていった。
 ――だから最低なことに、おばさんが事故死したという報せを聞いたとき。痛みを感じる前に、言葉にならない衝動が喉の奥をせり上がってしまった。
 自分自身に激しい嫌悪が走った。何を考えているんだ。この期に及んで、どうしてそんなことを思うんだ。死んだんだぞ。事故で、家族が、悲しむべきじゃないのか。
 吐き気が込み上げてきて、何度もえずいた。涙は出なかった。代わりに、何度も何度も心が崩れた。
 あずまがいない世界で『おじさんを独り占めできる』と一瞬でも考えてしまった事実が、何よりも怖かった。


 /2

 畳の匂いがした。
 湿気を帯びた古い藺草の香りが、鼻腔の奥へじわじわと染み込んでくる。懐かしさとは異なる、どこか他人の記憶を吸いこんだような、微かに澱んだ空気だった。
 緋馬はゆっくりと目を開けた。視界に映るのは、煤けた木の梁と、節目の浮いた天井板。見覚えはある。だがそこに、温もりや安心はなかった。
 ここは仏田寺。伯父のかつての寝室。昨夜、いや、ついさきほどまで炎に呑まれていたはずの場所だ。
 反射的に身を起こした瞬間、胸に強い圧迫感が走り、呼吸が詰まる。目の奥がずきずきと脈を打ち、視界がちらついた。
(……あれは、夢?)
 脳裏に黒い触手と血の匂いが渦を巻く。
 燃え崩れる寺。潰された人間の肉塊。絶叫。嗚咽。噛み潰された喉。千切れた四肢。そして最も鮮明に焼きついているのは、藤春の死。
 触手に貫かれ、血を吐いて崩れ落ちた姿。名前を呼ぶ暇すら与えられず、ただ目の前で命が終わった。
 夢だったのか。ただの、悪い夢。
 震える指で、傍らの携帯電話を手に取る。画面が光を放ち、そこに表示された日付は、
『12月31日 7:23』
 心臓が跳ね上がった。
 時間が戻った? 昨日も、確かに12月31日だった。そして、あの地獄は、その夜に起こった。ならば、今は二度目の、12月31日?
「……嘘、だろ……」
 漏れた声がはっきりと音になる。喉は枯れていない。きちんと発音できる。つまり、昨日とは違う。
 だが夢にしては鮮明すぎた。感触、匂い、痛み、どれもが現実の皮膚を這った。
 死んだはずの身体に、死の感覚がこびりついている。骨が砕けた衝撃。喉が潰れた音。血を吐いた絶望。全てが今なお体内の奥で冷たく沈んでいた。
 心が、空気よりも先に凍りついた。夢であれば良かったのに、と願うには、あまりにも知りすぎていた。
 携帯の冷たい質感が、まるで異物のように手の中で浮いていた。年の瀬の朝だというのに、全身が汗に濡れている。掛け布団の端はじっとりと湿り、重みを帯びていた。
 障子を開け放つと、冬の朝の空気が頬を撫でていく。
 仏田寺の廊下は、まだ夜の余韻を残すようにひんやりと静まり返っていた。年末の乾いた空気が音を吸いこんでいる。
 障子越しに差し込む薄明かりが木目の節々を静かに照らす。緋馬は足音を忍ばせるようにそろそろと歩き出した。心臓はゆるやかに、けれど確実に早鐘を打っていた。
「おはよう、緋馬。よく眠れたか?」
 声のする方を見れば、藤春がいた。
 昨日と同じ喪服。穏やかな目元。優しい声音。何ひとつ、変わっていない。
 ――生きている。昨日、目の前で死んだはずの人が。
 緋馬の足が竦んだ。頭の中が、真っ白に染まっていく。藤春は、小さく首を傾げて言った。
「体調、悪いのか? 寒かったら上に一枚羽織ってこい。朝は冷えるからな」
 その口調も表情もいつも通りだった。親しみを込めた何の緊張もない日常の伯父の声。緋馬は唇を震わせながら、言葉を搾り出した。
「……おじさん。昨日、葬式、やったよね?」
 藤春の眉が静かに下がり、軽く頷いた。
「ああ。……ようやく少し落ち着いたかな。でも、まだ終わりじゃないよ」
 そう言って表情を引き締める。
「午後には山の霊園に行く予定だ。住職と、時間の確認をしておかないと」
 まるで何もかもが予定通り、当然の流れであるかのように話している。
 ――覚えていない。
 あの夜、何が起きたのか。火の中で触手の怪物に襲われ、血が飛び交い、悲鳴と絶望が渦巻いたあの地獄をこの人は何ひとつ知らない。
 そうだ。これはまだ、12月31日の朝。
 緋馬は無理に笑みを作った。喉の奥に溜まった恐怖を、全力で呑み込んで。

 納骨の最中、和尚の声が淡々と響いていた。
 最後の説法は儀式にしては端的なものだった。寒さに配慮し、伯父の提案で簡略化されたと聞いている。けれど緋馬はその言い回しを、どこかで確かに聞いたことがあるような気がしていた。
 指の間に包み込むように収めた天然石を、緋馬はそっと握り締める。
 ひやりと張り付く冷たさ。だがそれ以上にじわじわと体の奥へ染み入ってくる言い知れぬ不穏さがあった。石を通して広がるように、澱んだ違和感が身体の芯を覆っていく。
 寄居にどこか似た面影をもつ和尚の顔をぼんやりと見つめながら、緋馬は脳裏を離れない夢の記憶を反芻していた。
 ――夢の中で、誰かが死んだ。そしてそのすぐ後、自分もまた殺されかけた。
 夢にしてはあまりにも鮮烈だった。痛み、冷たさ、血の匂い。まるで現実の感覚のように、今もなお体が覚えている。思い出すたび、手足の先がかすかに震え、指先から熱が抜けていった。
「それでは、緋馬くんの目が寒さで辛抱ならんと訴えておりますので。これにて」
 和尚の軽口に、場が柔らかく笑いに包まれる。その声音に既視感はない。だが、それでもこの光景を、以前どこかで見たことがある気がしてならなかった。
 デジャヴ。
 さっきから続いている微細な不協和音。空気の継ぎ目にふと混ざる異物のようなそれを、気のせいだと自分に言い聞かせる。けれど心の奥底では既に分かっていた。これは錯覚などではない。何かが確かに、狂っている。
 本堂から戻る道すがら、伯父が何気ない調子で言った。
「年越し蕎麦の準備ができているだろうし、大広間に行くか」
 その言葉が、腹の奥に冷たい塊となって沈み込んだ。
 ただの一言なのに、背筋を這い上がるような恐怖が、じわじわと胃を蝕んでいく。
 これ以上、何かを聞いてしまったら。何かを思い出してしまったら。戻れない。そんな予感に、体が本能的に怯えていた。
 藤春は、緋馬の異変にすぐ気づいたようだった。何も言わず、自身の上着をそっと脱ぎ、緋馬の肩へふわりと掛ける。そして、その肩に自然な仕草で腕を回す。
 ただそれだけのことなのに、胸の奥で温もりが堰を切ったように広がる。
 けれど同時に、そのぬくもりさえ幻なのではないかと疑ってしまう。
 藤春は何も言わず、緋馬を伴って静かに部屋を後にした。
 冷え切った室内には古びた暖房があったが、温まるには時間がかかる。きっと伯父はそう判断し、人の集まる大広間へ向かおうとしているのだろう。湯気の立つ年越し蕎麦とともに冷えた身体をほぐすために。
 いつもの伯父らしい、細やかな気遣い。
 それなのに。今夜だけは、その優しさがどこか異質に、そして哀しく思えて仕方がなかった。
(……俺は、このまま、何かに呑まれていく気がする)
 緋馬は掌の中で冷たい石を強く握りしめる。爪が石の表面に食い込む。
 それでも、温かさは戻ってこなかった。

 仏田寺の大広間には、冬の冷えが染み込んだような沈黙が漂っていた。
 広々とした畳の上に円卓や長机が整然と並び、親族や檀家、あるいは古くからの客人たちが肩を並べて座していた。誰もが故人を想うように箸を進めている。
 湯気の立つ精進料理。丁寧に燗をされた酒の香がほんのりと漂うが、それは祝祭の華やかさとは無縁の、慎ましく張りつめた空気の中にあった。
「お、ウマ。今日は天ぷら、いくつでも乗せていいってさ。好きなだけ取ってきなよ」
 大広間に足を踏み入れた瞬間、寄居が明るく手を振ってそう呼びかけた。
 声色には意図的な陽気さがあった。震える緋馬を気遣ってのものだとすぐに分かる。そして寄居は、隣にいた伯父にも丁寧に挨拶を向けた。年長者への礼節をしっかりと忘れない。
「寄居くん。一日、緋馬と一緒にいてくれてありがとな」
「いえ、俺、なんもしてないですよ。ウマ、すぐどっか行っちゃうし。なんか機関の施設の方まで散歩してたって話だし」
「……緋馬が? 機関の方へ?」
「おじさん、俺、別に変なことしてない。ただの散歩。仕事してる人の邪魔もしてないし」
 大広間は、まるで旅館のようだった。長い机に料理が並び、大勢の人々が食事をしている。
 どこまでが同じ血を引く者で、どこからが他人なのか分からない。けれどそんな見知らぬ顔ぶれの中に紛れながら、誰もが平然と湯気の立つ料理に箸を運んでいる。
 嫌だと感じていたはずのその光景に、今は何故か救われた気がした。
 温かい蕎麦を口に含めば、体の内側から震えが和らいでいく。単に寒さで苛立っていただけなのだ。そう伯父に伝えようと、ふと視線を向ける。
 その伯父はいつの間にか福広にビールを勧められ、しかもグラスではなく瓶のまま豪快に飲むよう促されていた。
「やめてよ福広さん。おじさん、酒乱の傾向あるんだから」
「へえぇ、それはいいこと聞いちゃったなぁ。じゃあ今日は楽しませてもらおうかねぇ?」
 普段の伯父なら、きっと断っていた。車の運転を理由に。子どもに悪影響だからと。
 だがここは彼の実家。周囲には身内しかいない。しかも今日は喪主という役目を終えたばかり。年末年始の空気に背中を押されるように、伯父は遠慮なく酒を口にした。
 全て分かっていたから、もう止めることなどできなかった。
「ウマって煙草吸ってた不良なんだよねぇ? 酒は飲むのぉ?」
 福広は相手が未成年であることも気にかけず、にやにやと悪びれもなく訊いてくる。
「煙草はおじさんからもらって吸ったことあるけど、お酒はまだ」
「おじさんが喫煙OKなら、酒もダメってわけじゃないでしょぉ? 初酒デビューしちゃおうよぉ」
「普通なら誰か止めに入るんじゃないですか」
「うっへっへ、ここは普通じゃない人たちの集まりだから大丈夫ぅ。取り締まるお巡りさんだって入れない場所だしぃ。寄居ちゃんだってワインいける口だよねぇ?」
 初耳だった。寄居の方へ視線を向けると、彼は平然とした顔でビールを口にしていた。
 高校での常識や、都会の居酒屋でのルールなんて、この場では意味を成さない。
 禁忌があっさりと破られ、何の咎めもなく笑いに溶けていく。罪悪感よりも先に、湧き上がるのは妙な浮遊感だった。まるで重力の緩んだ場所に立っているような。
「身内しか見てないからさぁ、問題ないってぇ」
 差し出された泡立つ黄金色のグラスに、緋馬はそっと鼻を寄せた。
 煙草の時と同じ。なぜ大人は、こんなにも苦いものを好むのだろう。そう思わせる匂いだった。
 みんながいいなら、俺も。そんな思考に流されるように、グラスを口に運ぶ。
 舌に広がるのは、想像通りの苦味。そして、すぐに鈍い痛みが頭の奥を打った。

 ――義母が伯父と晩酌をしている姿を、羨ましいと思っていた。
 義母のことは、確かに好きだった。それは間違いない。ただし女としてではなかった。
 そう断言できるのは、彼女に向けて苛烈な情念を抱いたことが一度もないからだ。尊敬と感謝、そして穏やかな愛着。それだけだった。
 けれど、伯父は違った。
 率直に言えば――下世話な話として切り捨てられるほど軽いものではなく、もっと根深く、もっと厄介に、伯父に触れたいと思った。直接、指先で、肌で、彼の体温に触れたいと願ったことがあった。
 夢の中でキスをしたのは、その願望の表れだった。
 隣に腰を下ろし、酒を酌み交わす伯父の横顔を見ながら、ふと「いいな」と思った。
 何がどう「いい」のか、うまく言葉にはできなかった。
 ただ、ずっとその顔を見ていたいと思った。願わくば、その楽しそうな表情を、自分にだけ向けてほしい――そう願ってしまうほどに、伯父を想っていた。
(……だから告白したのに。夢の中では、拒まれた)
 所詮、夢の話だ。けれど拒絶の瞬間の痛みは鮮明だった。
 現実ではどう返されるのか。それは分からない。
 けれど、今なら。長年連れ添った妻を亡くし、深い孤独の中にある今の伯父ならば――この爛れた感情の影を、理解してくれるのではないか。酒が気分を高揚させた後なら。二人きりで部屋に戻った後なら……。
 そんな都合の良い幻想に縋りかけて、夢の中で拒絶された光景が蘇る。
 ――ダメだ。ダメだ。
 自分に言い聞かせるように、苦い酒を喉に流し込んだ。
 治りかけていた喉が焼けるように痛み、咳き込む。胸が詰まり、思わず涙が滲んだ。
「馬鹿な飲み方するなよ」
 伯父が、笑って頭を小突いてきた。
 その何気ない接触が思わず嬉しいと思ってしまうほど、伯父の存在は緋馬にとって特別だった。
(あずまおばさんには感じない。でも、藤春おじさんには……感じる。……おばさん、ごめん。俺、やっぱり、おじさんのことが好きだ。間違いない)
 彼女が自分を我が子のように包んでくれた、その優しさには心から感謝している。
 彼女を差し置いて伯父に想いを向けることに、罪悪感がない訳ではない。
 彼女が亡くなって、まだ数日。にも関わらず、こんなにも伯父のことで頭がいっぱいになっている自分が、嫌になる。
 天国から「なんてひどい子」と思われても仕方がない。本当に、そう思っている。
 けれど、夢の中で二人きりになったとき。そのときの衝動を、どうしても止められなかった。たぶん今、この現実でも。
(きっと俺は……おばさんが生きていても……)
 そこまで考えて、また「ダメだ」と自分を押さえつけるように、もう一口、酒を煽った。
 案の定、喉に引っかかって咳き込み、顔を歪めた。

 黙りこめば、ヒソヒソと交わされる会話だって耳に届いてくる。
「本当に、あずまさんには世話になったよ」
「まだあんな若かったのに、可哀想にねぇ」
「藤春さん、しっかりしてたね。あの人らしいよ」
 会話は遠く、音は鈍く。胸がざわめき、まるで夢の中にいるような感覚になる。
 悲しい筈だ。もっと涙が出ていい筈だった。
 けれど心の底を覗いてみると、ある筈の悲しみよりも先に浮かび上がってきたのは、喪服に身を包み、遠くの親戚となるべく明るく挨拶を交わしている藤春の姿だった。
 喪主として、誰よりも落ち着いて振る舞うその背中。目尻の皺が普段よりも深く見えるのに、言葉は常に丁寧で穏やかで、動作には一切の無駄がない。どれほどの悲しみを抱えているのだろうと想像してみても、それすらも霞んでいく。緋馬の視線は、彼から離れられなくなっていく。
 ――なんて素敵な人だ、と思った。
 そんな感想は、今この場で抱いていい感情ではないと分かっていた。けれど心の奥底でずっと募らせてきた想いが、義母の死という喪失によって、皮肉にも形を持ち始めていた。
 箸を置く。味噌の香りが湯気と共に鼻を掠めるが、食欲はとうに霧散していた。
 ふと、藤春が目の前を横切る。親族の年長者に深く頭を下げ、何かを穏やかに応じていたが、視線が合った。その目が緋馬の方を向き、ほんの少しだけ――微笑んだように見えた。
 喉が詰まり、呼吸が止まりそうになる。胸が痛くなるほどの鼓動が、喪服の内側で暴れた。視線を逸らそうとしても逸らせなかった。
 手を伸ばしたいと思った。抱きしめられたいと思った。誰もいない場所で、名前を呼んでほしいと思った。
 でもそんなことを考えている自分が、心の底から気持ち悪くて、怖くなる。
 場にそぐわない熱が胸に滾り、それが罪悪感と共に喉までこみ上げた。緋馬は静かに立ち上がり、周囲に気づかれないよう一礼すると、大広間を出ていく。冷たい廊下の風が頬を撫でるが、それでも熱は消えなかった。


 /3

 寺の廊下に出ると、夜の空気はひときわ冷たかった。
 外の庭に面した障子は全て閉じられていたが、隙間風がどこからか忍び込み、蝋燭の火をわずかに揺らしている。
 廊下の先に並ぶ欄干と柱が、寒々しい影を畳の上に伸ばしていた。静寂、耳鳴りのような沈黙が、仏田寺の奥深くまで染み渡っていた。
 緋馬は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
 12月31日。背筋が凍えるほど寒いのに、内側には火が灯ったように熱がこもる。どこにも行き場のない感情が、血の中で沸き立っている。藤春の優しい笑みが頭から離れなかった。
 涙は出ない。けれど苦しい。今朝見た「おじさんにフラれる」という悪夢も蘇り、喉の奥がぎゅっと詰まって呼吸すら浅くなる。
 足を進めると、廊下が少し軋んだ。白木の床がかすかに鳴き、寺全体が今にも崩れ落ちそうなほど古びていることを思い出させた。そういえばこの廊下も、昔はよく手を引かれて歩いた。育ててくれた義父は、何かと緋馬をこの寺に連れてきては本当の家族を会わせたがっていたから。
 ――そんな優しさこそが、心から愛するキッカケになってしまっていたのに。
 そう思ったとき、背後から優しい声がかかった。
「ウマぁ、こんなトコにいたのぉ?」
 振り返ると、福広がいた。
 すっかり寒いからか羽織を纏い、やや伸びた髪をゴムで撫でつけている。相変わらず緩くて穏やかな表情と物腰で、緋馬にとっては気を許せる兄のような顔をしていた。
「急にいなくなるから、藤春さんが探してたぞ〜」
「……そうなんだ」
「寒いなここぉ。少し歩こ?」
 福広の声は、緋馬の内側を優しく撫でる。
 歩調を合わせ、二人で廊下をゆっくり進んでいった。壁の掛け軸、すすけた柱、そして時折聞こえてくる本堂の読経の残響の中で福広は、寄居以上の気遣いを見せた。
「ウマ、今までで一番つらそうな顔してる。今朝までは大丈夫そうだったのに。実感わいてきちゃったとかかなぁ。なんだあ、つらいときは我慢とかそういうのしなくていいんだぞぉ?」
 福広の呟きに、緋馬は無言で通す。
 我慢してると言われて、何を返せばいいのか分からない。辛いのは、藤春を失ったことではなく、藤春への「好き」が露骨に気付いてしまったことなのだから。
「多分……俺、福広さんが思っているよりもずっと酷い人間ですよ。……おばさんのこと、蔑ろにしそうで」
「そうなのぉ?」
「……正直分かんないです。悲しいのは確かだし、もっと生きてほしかったというのも本心だし。でもなんか、その……それよりも、俺は」
「何か複雑な事情がお有りなのかなぁ?」
「……多分、今後も、絶対お話できないような事情があります。ごめんなさい。話せない、話したくない……」
 言葉に詰まりかけたとき、福広がそっと緋馬の肩に手を置いた。兄のような優しい仕草。どこか懐かしくて、安心できるぬくもり。
 そのときだった。ドスンと地響きがした。
 何かが割れるような音が廊下の奥から聞こえる。背後の影が、ぐにゃりと動いたように見えた。
 福広が眉を顰め、振り向いた瞬間、異音とともに黒い何かが空間を裂いて現れた。
 闇そのものが触手の形を取ったかのように、禍々しくぬめったそれが福広の胸元を貫いた。
 突き刺さる音は、濡れた肉を裂くような鈍く重い音だ。
 緋馬の目の前で、福広の体が、くの字に折れる。胸から背にかけて鮮血が飛び散る。その顔には理解が追いつかないまま、苦痛と驚愕が混ざって凍りついていた。
「ふ……く、ひろ……さん?」
 福広の体が倒れると同時に廊下の天井が軋み、影が波のように蠢き始める。
 ――それは、始まってしまった。
 緋馬の中で、あの予感が、はっきりと目覚めていった。

 福広の倒れた先に、空間そのものが割れていた。
 音も無く天井の梁が軋み、柱が呻き、古びた木造建築の全てが小さく震えている。大地そのものが忌まわしい存在を拒絶し、震えているかのようだった。
 緋馬の目の前で、闇が揺れる。
 廊下の奥から、巨大なそれが這い出してきた。
 まず現れたのは、眼だった。何十、いや、何百もの瞳が密集している。全て異なる大きさ、異なる色彩。人間のものとはかけ離れた、爬虫類のような縦長の瞳孔、血のように濁った赤、白濁した死者のような灰色。その全てが、緋馬ひとりを見ていた。
 眼球の塊の中から、うねりながら伸びる触手が這い出してくる。
 ぬらりと音を立てて床を這い、ひと振りするだけで廊下の柱がへし折れた。緋馬は叫ぶこともできなかった。ただ膝が抜けるように座り込み、血溜まりの中で震えた。
 福広の血が、既に床を染めていた。
「う、うわぁあああああっ!」
 別の廊下から、誰かの悲鳴が上がる。僧侶のひとりが廊下の奥に化け物の姿を見たのだろう。次の瞬間、触手がその男の胸を貫いた。
 刹那、血と肉片が噴き上がる。
 天井に届くほどの勢いで、男の上半身が爆ぜる。下半身だけが残り、ガクリと倒れ、あとは無数の腸と骨が飛び散っていた。
「な、なにが……!?」
「逃げろ! 逃げ……」
 続けて、別の方向から人々が逃げ出してくる。法衣を着た僧侶、精進落としに来ていた親族、厨房の者、他人。だが、逃げ場はなかった。触手が壁を破り、天井を貫き、床を崩しながら襲ってくる。
 一本の触手が大広間の障子を突き破り、座していた年配の親族をひと呑みにした。肩ごと頭が裂け、顎が千切れ、舌が引き千切られて宙を舞った。髪に血がべっとりと絡み、肉が引き裂かれる悲鳴が仏田寺に反響する。
「やだやだやだやだやだやだッ!」
 何者かの泣き声が響いた。だがその声も、天井から降ってきた触手の雨によって断ち切られる。叫びを助けようと駆け寄った人間ごと串刺しにされた。
 緋馬は凍りついたまま見ていた。
 燃え始めていた。触手が引き裂いた障子や、投げ飛ばされた蝋燭の火があちこちに移り、古い木造の建物は音を立てて燃え上がっていく。
 火が柱を伝い、天井を這い、いくつもの部屋が崩れ落ちる音が響く。
 煙が喉に入り、緋馬は咳き込んだ。
「け、けほっ、うあ……っ!」
 立ち上がろうとする足が、福広の血で滑る。熱い血の中で手をついた。その指先に、まだ温かい肉の感触があった。指が、何かの臓器に触れた。
「ぅぅ、あああああっ!!」
 緋馬は叫びながら、やっとの思いで立ち上がった。がむしゃらに走り出す。燃える廊下、崩れる梁。背後からは、追いかけてくる音がした。這いずる肉、擦れる骨、唸る無数の目の視線。
 それはまるで、世界の終わりだった。
 否、終わりではなかった。始まってしまったのだ。12月31日、復活してしまったのだ。

 悲鳴は、もはや上がらなかった。
 喉が裂けるほど叫んだ後で、緋馬はただ息を飲むことしかできなかった。
 身体は既に触手に絡め取られていた。足首から、腿、腰、腕、肉に食い込むほどの力で締めつけられ、血が皮膚の下に浮かび上がっている。骨が軋み、関節が逆方向に引かれ、全身が強制的に引き伸ばされていく。
「ぐっ、ぅああ……あ、あああ!」
 吐息が漏れるたび、咽喉から血が上がる。舌の奥が苦い鉄の味に染まり、痛覚が乱暴に目を覚まさせる。
 炎が背後に迫っていた。寺の廊下は既に崩れ、燃え落ち、黒煙が天井を這っている。焼けた木の香と、焦げた肉の臭いが、世界を現実から乖離させる。
 声が遠くから届いた。
「緋馬ッ!!」
 藤春だった。
 火の向こうから走ってきた男。喪服の上に灰をかぶり、肩を焼かれながら、今にも崩れそうな梁を乗り越え、緋馬の元へと駆けてくる。
「緋馬! いま、助け……!」
 同時にブチュッと何かが裂けた。
 空間から飛び出した黒い触手が、藤春の腹を一突きにした。
 緋馬の目の前で、藤春の体が止まる。
 目が大きく見開かれ、口元が何か言おうとして開閉する。血が喉奥から泡立ち、喉仏が震えた。言葉にならないまま、震えた唇が微かに動いた。
「――にげ、ひ……ぅ、ま……」
 それが何の音だったのか分からない。
 触手はゆっくりと、藤春の身体を持ち上げた。
 肋骨が砕け、背骨がきしみ、足が空を蹴る。スーツの黒が赤に染まり、炭のように焼け焦げた皮膚から、煙が立ち上がった。数秒後、別の触手が飛来し、藤春の頭部を叩き潰した。
 ぐしゃ、という鈍い音。眼球が潰れ、髪が千切れ、血と脳漿が散った。一瞬の出来事だった。
「あ……ああ、あああああ!!」
 緋馬の絶叫が、炎と共に爆ぜる。
 全身を締めつける触手が動き出した。内臓を押し潰すような圧力がかかり、骨が一つ、また一つと粉砕されていく。
 肋骨が折れ、肺が破れ、食道に血が逆流する。指が千切れ、右足が膝から折れた。
「う、あ、っ、ぐぅ……ッ、藤……ぉ……ん……ッ……」
 焼ける寺。死にゆく人々の断末魔。悲鳴もどこかで聞こえていた。けれどもう届かない。
 目の前で、愛した人が、守ってくれた人が、惨たらしく殺された。
 自分は、生きることさえできなかった。何一つ、抵抗すら。
 崩れ落ちる天井が、視界の端を塞いでいく。炎の中で、崩れた藤春の死体の赤が、ちらついて見えた。
 ほんの数秒前までは生きていたのに。救えない。緋馬は、血まみれの顔を天に向ける。
「おじ……さん」
 涙でも叫びでもなく、それは命の終わりを告げるただの呟きだった。
 焼けた空気が肺に入り、全身が焼け焦げる感覚が迫っていった。

 再び地獄の宴が始まった。
 大勢が殺し始める。大勢が殺され始める。一度見た光景をもう一度。かと言って慣れることのない鮮明な殺戮。皆の苦痛。痛かった。足に穴を明けられたときも絶叫したが、とても痛かった。痛みにぎゅうと目を瞑り、痛がる。痛い。痛い。つらい。苦しい。怖い。とにかく痛い。痛い。痛い。痛い。つらい。苦しい。怖い。怖い。つらい。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。続く激痛。無限の苦しみ。終わらない終わり。いつまで。いつまでもか。なんで。こんな痛みをいつまで過ごしていなきゃいけないのか。怖い。全身が、全体が、恐怖で満ち充ちていく。
(なんなんだよ、もう、もうこれ以上、やだ。たすけて)
 絶望に満ちた眼で、叫んだ。皆が皆、同じように叫んでいた。



【3章】

 /1

 静かな朝だった。藤春はいつも通りの時間に目覚め、コーヒーを淹れ、窓から差し込む光を浴びながらスケッチブックを開いた。朝に少しだけ筆を走らせるのは、藤春にとって日課の精神統一だった。
 デザイン会社に勤めて5年。企画と図面の間で忙しく働きつつも、満員電車も社会の無言の圧力も、それすらも軽やかに受け流してきた。
 仏田寺という重苦しく古臭い血と呪いの世界から抜け出して、やっと自分の輪郭を持てたような気がしていた。
 東京の空気は乾いていて、息を吸っても土の匂いがしない。それが心地良かった。
 そんな静かで快適な朝だったが、それでも久々の帰省は少しだけ気が重い。けれど年始を控えての仏田家の招集には、昔から逆らいにくい空気がある。数年前までは同じ屋根の下にいた弟、柳翠のことも気になっていた。
 たまには顔を見せるのも悪くない。そんな軽い気持ちだった。

 仏田寺。変わらない木の匂いが、冷えた廊下に沈んでいた。静まり返った畳の軋みが、足音のたびに小さく応える。
 異能研究に使われていた区画には近づかず、藤春は本堂を回り込むようにして、柳翠の棲む離れへと向かっていた。
 引き戸を軽く叩く。だが返事は無かった。しかし中には灯りが点いている。
「柳翠ー、いるのか?」
 呼びかけには、やはり応答がない。研究所に出ているのかもしれない。だが、灯りがある。ならばいるのか。自然な流れで手を伸ばし、戸を開けた。
 その瞬間、空気が変わった。
 埃と鉄、湿気が抜けきらぬ畳の奥から染み出すように仄かに鼻を突く生臭さ。
 居間には誰の姿も無い。ただ、奥の部屋――かつて柳翠の自室だった部屋の襖が開いていた。
 藤春は、言葉を捨てて歩を進める。そして、見た。
 5歳ほどの男児が、布団の上に正座させられていた。
 痩せた腕。首まわりには赤く擦れた痕が浮かび、両手首は古びた帯で背中に縛りつけられている。伏せた顔はよく見えなかった。
 部屋の隅に置かれたヒーターが唸るような音を立てていたが、空気はまるで凍っていた。
「……おい。君、大丈夫か?」
 声を掛けると、子どもはゆっくりと顔を上げた。
 見覚えはなかった。けれど、あまりに――柳翠に似ていた。
「……緋馬……」
 その名を呟いたのは、戸惑いと衝撃のあまりだった。
 柳翠の子。かつて自分が腕に抱いた赤ん坊。小さな命。それが今、自分の目の前にいる。
 けれど、その瞳には何も映っていなかった。
 震える肩。かすれた唇。喋るでも、泣くでもない。ただ誰かの許可を待つように、沈黙の中に身を置いていた。
「……なにを……してるんだ、柳翠……」
 藤春は呆然としながら、そっと子どもに手を伸ばした。
 帯を解き、拘束から解き放つ。手を取ると指先は氷のように冷たく、肌は薄紙のように柔らかく、骨ばかりが目立っていた。
 ――いったい、何日ここにいたのか。
 これは育児ではない。この部屋に、あの研究所に、この子を置いておける筈がなかった。
 言葉より先に、決意が降りていた。
 かつてこの家に生まれ、この家を捨てた自分が、今度は――この家に置き去られた命を、連れ出す番だった。

 マンションの住人が二人になっても、朝の静けさは変わらなかった。
 仏田寺の底冷えとは異なる、乾いた冷気がアスファルトを這う。
 東京の部屋は、仏田寺とは対照的だった。
 白い壁。木目の床。機械的な暖房の音。風情など一片もない。山の頂に建てられた由緒ある寺とは比べようもなく、狭く、無機質な空間。
 それでも二人で生きるには、十分だった。
 何気ない休日の朝を、その日から幾度となく二人で重ねていく。
 裸足で放り出されていた緋馬の足に、柔らかな靴下を履かせ、自由に歩かせる。それが、いつもの朝の風景として静かに日々へ溶けていった。
 平穏な繰り返しのように見えて、藤春にとっては毎日が手探りで必死だった。
 ある朝のこと。毛布にくるまった緋馬が、一冊の絵本を開いていた。それは、縁あって藤春自身が執筆に関わった絵本だった。
 来たばかりの頃の緋馬は、絵本にすら目を向けなかった。好奇心という感情を表に出すことさえ忘れてしまっていた。けれど静かな日々を繰り返すうちに、ページをめくる小さな指先が、少しずつ――ほんの少しずつ、楽しそうに動くようになっていた。
 最初の緋馬は、魂が抜け落ちた殻のようだった。声も出さず、目も合わせず、存在を極限まで薄め、空気のように部屋の隅で息を潜めていた。
 それでも、歯を磨けるようになった。朝食にパンのおかわりを、身ぶりで伝えるようになった。外出のあと、マンションの玄関で「ただいま」と小さく呟けるようになった。
 そしてある夜。布団の中で隠れるようにして、育ての親に「好き」と伝えてくれた。
 静かに、確かに、緋馬は年相応の子どもに近づいていた。
 それでも他の子どもたちに比べれば、まだとてもおとなしい。引っ込み思案で、すぐに視線を逸らす。誰かの気配に過敏に反応してしまう。
 でもこの子は生きようとしている。ここで、生きる場所を得ようとしている。
 そのことが藤春には手に取るように伝わっていた。静かな歩みを進めるその小さな足を、決して見捨てたりはしない。
 コーヒーを啜りながら、藤春はまた今日も、そう心に刻む。
 たとえこの先、何が起きようともこの子が大きくなって、どこかへ歩き出していく日が来ても、自分自身にも新たな人生の転機や、出会いや、未来が待っていたとしても、緋馬を支えていくと決めた。
 血の繋がりではない。ただこの命の隣にいる大人として、これからも緋馬を愛していく。


 /2

 秒針の律儀な音だけが、寝室の静寂に虚しく響いていた。
 仏田寺の冬の朝。白く霞んだ障子を透かして、淡い光がぼんやりと差し込んでいる。緋馬は目を開けたまま、身じろぎ一つしなかった。
 冷えた布団にくるまれた身体で、ただ心臓だけが規則正しく鼓動を刻む。額には冷や汗がじっとりと滲んでいた。
 見上げた先には、見慣れたはずの古びた天井板。けれど決して親しめない景色。
 ここは藤春の昔の寝室。12月30日から泊まり込んでいる、仏田寺の一室だった。
 喉が焼けるように乾いている。手探りで携帯電話を掴み、画面を点ける。
 ──『12月31日 8:29』
 時間が、戻っていた。
 ──『12月31日 8:30』
 その瞬間、目覚ましアラームが鳴り始めた。画面はけたたましく振動しながら、『12月の31日だ、寝てないで起きろ』と訴えかけてくる。
 時間が、確実に戻っていた。
 掠れた声が漏れた。緋馬は咄嗟に自分の口を押さえる。夢だと、思いたかった。
 一度目は偶然だと信じ込もうとした。死んで、目覚めた朝。現実味が強すぎる、悪質な夢だったのだと。
 だが、二度、三度と同じ死を繰り返し、同じ朝を迎えた今となっては、もう。
(違う。これは……夢なんかじゃない)
 繰り返していると思うしかない。逃れられないまま、何度も、何度も。あの12月31日の地獄が、再演されている。
 緋馬は、かじかんだ指先で胸元の布を掴んだ。昨日と寸分違わぬ空気。同じ朝の光。同じ気配。全てが惨劇へと向かって静かに軌道を描き始めている。
(また、殺される)
 藤春も、親戚たちも、名前も知らぬ誰かも、あの夜に巻き込まれる。血に染まり、肉が裂ける。自分も、巨大な化け物に貫かれる。
 足が震えた。歯が鳴る。寒さと恐怖とが、内側から身体を蝕んでいく。逃げたい。けれど、どうやって?
 痺れるような指先で携帯を布団の脇へ置こうとしたそのとき、視界の端に、紫がかった光が掠めた。
 ――天然石。艶を持たぬ、ざらついた質感。勾玉のようにいびつな曲線を描く、小さな石。
 見覚えがあった。本来なら、まだ出会っていないはずのもの。仏田寺に隣接する研究施設。あの少女とぶつかったとき、足元に転がっていたものを拾った。
(……なのに、なんで。まだ何も始まっていないのに、ここに……)
 ぐらりと、頭が揺れた。時間が歪む。現実が軋み、ずれる感覚。震えながら、そっと手を伸ばす。
 指先に伝わる、ひんやりと湿った感触。その冷たさの奥に、身体の芯を締めつけるような異質さが潜んでいた。
 石の中心には、微細な亀裂があった。覗き込んではいけない――本能が警鐘を鳴らす。覗いたが最後、何かに引きずり込まれる。慌てて顔を背けた。
 心臓が、打ち鳴らす。痛いほどに。
(これは……普通じゃない)
 偶然ではない。夢でもない。時間は過去も未来も軋ませながら、今、確実に壊れ始めている。
 震える手で石をポケットにしまい込み、緋馬は静かに立ち上がった。
 襖を開ける。仏田寺の廊下へ出ると、冬の空気が容赦なく肌を刺してきた。ただの冷気ではなかった。世界の亀裂から吹き込む、何か異様な気配が、その風には混じっていた。

 台所から漂う香りさえ、昨日と寸分違わなかった。正確には昨日ではない。数度目の同じ朝だ。
 膳に並ぶ料理も、湯気も箸の配置も、茶碗の微かな欠けまでも機械仕掛けのように同じだ。
 食卓に集まる親戚たちの顔ぶれも、もちろんひとり残らず。
 話す内容も、笑い方も。声音も、語尾の跳ね方。あまりにも完璧に反復される日常に、緋馬は背筋が軋むような寒気を覚えた。
(本当に……繰り返しているんだ)
 一人りだけ世界から取り残されたような感覚。空虚に漂う視線の先で、藤春が動いているのが見えた。
 喪服に身を包み、今日の納骨式に向けて忙しく立ち働いている。僧侶と打ち合わせをし、親族代表としての挨拶を確認しながら、誰にでも柔らかな笑顔を向けていた。
(おじさんも何も知らないまま……あの時間に向かっている)
 考えれば考えるほど、頭の奥がじんじんと痛む。緋馬は唇を噛み締め、ふらりと席を立った。その瞬間を待っていたかのように、寄居が声を掛けてくる。
「おはよう、緋馬……。大丈夫か? 顔色、悪いぞ」
 心底案じるように眉を顰める寄居の声に、胸が僅かに揺れた。
 この世界に、ほんのわずかでも自分を見つめてくれる人がいる。それだけで泣きたくなるほどだ。けれど緋馬は静かに首を横に振る。
「ちょっと気分悪くて。少し、外の空気、吸ってくる」
 寄居は何か言いかけ、けれど飲み込むように黙って頷いた。物分かりのいい幼馴染に小さく会釈を返し、緋馬は食卓を離れた。
 広間を抜け、長い石畳の廊下へ。仏田寺の庭へ出た瞬間、冬の空気が容赦なく頬を刺した。
 吐き出した息が、白く曇って、すぐに消えていく。昨日も、そうだった。

 足を引きずるように、庭の砂利道を歩く。
 凍りついた池。手入れの行き届いた松の枝。砂紋の美しい枯山水。全てが昨日と同じだ。だが自分の中だけが違っていた。
 白く濁った吐息が、庭の空へ溶けるように消えていく。その様子をぼんやりと眺めながら、緋馬は庭の隅に腰を下ろした。
 何もする気になれなかった。立つことも、声を発することも。時間がやけに早く過ぎていく気がした。
 どこか遠くで小さな鐘の音が響く。寺の中では準備が進んでいるのだろう。それでも自分の意識はここに取り残されている。
(行かなきゃ……分かってる)
 義母の納骨式。きちんと見届けるべきだと、頭では理解していた。
 だが心はもう限界だった。既に何度も経験してきた別れを、また繰り返さなければならないなんて。
(……もう、無理だ)
 何度も別れ、何度も死に、何度も壊れた。それでもまた今日を迎えてしまった。どれだけ苦しまなければ、終わるのだろう。
 そんな思考に沈みかけたとき、廊下の向こうから寄居の声が届いた。
「そろそろ始まるぞ。……大丈夫か? 行ける?」
 わざわざ住職の息子が呼びに来てくれた。感謝を覚えながら、緋馬はゆっくりと首を振る。
「……ごめん。サボる」
 寄居は一瞬驚いたように瞬きをした。けれどすぐに緋馬の心を察したように、小さく頷く。
 無理に引き留めもしなかった。叱ることも咎めることもせず、ただ寂しげに笑う。
 また後で。先ほどと同じ優しい気遣いだけを残して、寄居は静かに去っていった。
(……きっと、怒られるだろうな)
 親戚たちは眉を顰めるだろう。喪主である藤春も、きっと困った顔をするだろう。
 それでも、緋馬は震える体を引きずるようにして再び庭を歩き出した。
 探すものは、一つ。化け物が現れる兆し。
 ひび割れた地面。禍々しい空気の歪み。異様な魔力の渦。なんでもいい。何か、前兆を。
 けれど庭のどこを探しても、枯山水の隅々まで見ても、竹林の影を覗き込んでも。何も見つかりはしない。
 ただ冬の乾いた風が石畳を撫でていくだけだった。

 空は鈍く曇り、灰色の膜が山の上に垂れ込めていた。
 冷たい風が山肌を這うように吹き抜け、仏田寺の境内をすり抜けていく。緋馬は、山門へと続く小道にひとり立ち尽くしていた。
 脳裏を何度もよぎっていた考えがある。
 ――この寺にいるから、悪夢が繰り返されるのではないか。
 この呪われた地に囚われているからこそ、あの触手の化け物に追い詰められ、無惨に命を奪われるのではないか、と。
(……山を下りれば、助かるんじゃないか)
 石段の上から、霧に霞む山門を見下ろす。
 その先に続くのは、麓へと続く石畳の道。昨日、上がってきたばかりの場所。今は誰の姿も見えず、どこまでも静かだった。
 大晦日とはいえ、葬儀に関連した限られた来訪者以外、参拝客の姿はない。年が明ければこの景色も変わるのかもしれないが、今はただ気温の低さも手伝って、一層寒々しく感じられた。
 緋馬は身を縮めるように腕を抱き、唇を噛みしめる。
 もし下りれば、生きられるかもしれない。あの化け物は、どこまでの範囲を喰らう存在なのか。ここに留まり、また惨殺されるよりは――。
 そんな思いが、焦燥となって胸を突き上げる。
「どこ行くんだぁ?」
 背後から声がかかった。
 緩やかで、けれどどこか心配そうな響き。振り返ると、福広が立っていた。両手をポケットに突っ込み、肩をすくめたように笑っている。いつもの調子のようでいて、その瞳の奥に宿る真剣な気配は空気を少しだけ引き締めていた。
「寄居がさぁ、『ウマがサボるって言ってたけど、めっちゃフラフラしててヤバそうだった』って言っててさぁ。お兄さん心配になっちゃって来たわけぇ」
「……寄居もだけどさ、福広さんって、本当に良い人だよね」
「えっへへぇ。どーいたしましてぇ」
 気を抜かせるような笑い方だった。だが、緋馬の心には重く響いた。
「なぁに? そんなに帰りたいのは、ここじゃ映らない年末番組でも見たいとかぁ?」
「……違う。ただ……夜をここで越したくない。怖いから。それだけ」
 言葉にできない不安と焦りが喉の奥でぐちゃぐちゃに絡まり、ようやく出た言葉は、それだけだった。
 福広は「ふうん」と小さく呟いて、そっと歩み寄る。無理に引き戻すでもなく、ただ緋馬の肩に手を添える。その体温が、ただそこに「在る」ことだけを伝えてきた。
「もしかしてぇ……高校の友達と年末年始の夜遊び行きたかったとかぁ? まあ、行きたいよねぇ。仏田寺って年始のイベントとかしないしつまんないもんなぁ」
「……イベント、しないんですか?」
「ここはどうだったか厳密には知らないけどさぁ、修験道系の寺って外に向けたイベントはあんまりやらないとこもあるよぉ。除夜の鐘すらつかない宗派もあるしぃ」
「じゃあ、ここも……年始は静かなんだ」
「うん、そうだねぇ。ウマみたいに遊びたい子にはちょっと居心地悪いかもぉ。……でもまあ、大人として言っとくけど逃亡は止めるよぉ」
 柔らかい語調のまま、福広は続けた。
「どうしても出たくなったら大人を頼りなよ。事情次第じゃ、車ぐらい出してくれるかもしれないしぃ」
「……福広さんは、今夜、俺のために出してくれますか?」
「やだぁ。だって年越し蕎麦も天ぷらも楽しみなんだもん。大晦日ぐらいお酒も飲みたいしさぁ。運転はちょっとねぇ」
 福広はそう言いながら、冗談のように目を細めた。
「ウマもさぁ、ちょっと飲んじゃいなよ。怖いのってさ、誰かと一緒にいれば少しは軽くなるでしょ〜」
 その言葉は、押しつけがましくもなく、無責任でもなかった。ただ緋馬をここに留めておこうとする、あたたかさだ。
 曖昧に「……そうですね」と緋馬は頷いた。
 途端、石段の下から寒風が吹き上がる。霧に沈む石畳の道。どこまでも静かで、どこへも繋がっていないような世界。
 緋馬は山門の前で立ちすくんだまま、ただその冷たい灰色の下界を見つめていた。

 空はすっかり群青に染まり、夕闇が静かに寺の屋根を舐めていた。
 木々の影は長く引き伸ばされ、昼の陽差しは過去となり、吐息に白さを孕んだ冷気がじわじわと地を這うように戻ってくる。
 納骨は、もう済んでいる頃だった。
 義母を静かに眠らせるその時間を、緋馬はただ外を歩くことで潰してしまった。胸の奥にその事実が鉛のように沈んでいる。
 二度も棺に手を合わせ、別れの言葉をかけた。けれどそれだけで「別れた」とはとても言えなかった。
 悔い。詫びたいという思い。
 義母の最期に何かを置き去りにしてしまったという負債感が、胸の奥で錆びついた鈴のように鈍く静かに鳴り続けていた。
(おじさんは、もう戻っているだろうか)
 そう思いながら、寺の奥、宿泊した和室へと足を運ぶ。
 灯りの落ちた部屋は、まるで時間が止まってしまったかのように沈黙していた。
 藤春がかつて自室として使っていたというその部屋。障子の奥、畳の冷気が足裏からじわじわと沁みてくる。
 棚には昨晩と変わらぬまま、美術書と幾冊かの教本が無造作に並び、壁際には二人分の荷が所在なげに置き去りにされていた。
(おじさん……こんな時間になっても、戻ってないの?)
 陽は落ちかけ、外気は頬を刺すほどに冷え込んでいた。
 不安が音もなく胸の奥に積もり始める。緋馬はポケットに手を沈め、再び墓地への道を辿った。
(同じことを繰り返すだけじゃ、変わらないかもしれない。それでも……)
 既視感ではない。確信に近いものがあった。
 伯父は、陽が傾く前に「早く終わらせよう」と言った。それは一度だけの言葉ではない。何度も、繰り返し耳にした。
 けれど今ならわかる。ただの口癖ではなかった。あの言葉の奥に隠れていた、彼の本当の想いを――知りたかった。
 石畳に落ちた木々の影が、歩みに合わせて揺れている。
 本堂の灯は遠く、墓地への道には人の気配もない。雪は降っていなかったが、空気は凍った水のように張りつめていた。
 そうして三度目の墓前へと、緋馬は辿り着いた。
 義母の名が刻まれた墓石の前に、藤春は独りで立っていた。
 背を丸めることもなく、ただまっすぐに、その名を見つめていた。
 その姿に滲むのは、言葉にならない静かな寂しさだった。
 夕闇と墓前の沈黙。全ての音が遠ざかり、緋馬の呼吸だけがかろうじて世界の輪郭をなぞっていた。
 風が一筋、杉の梢を擦り抜ける。その音すら、遠くに感じられた。
 空はすでに夜の色に染まりきっていた。沈みゆく光が石碑の輪郭をかすかになぞり、山裾の冷気が肌を刺す。
 その前に、伯父は立っていた。孤独に。
 喪服に黒のコートを重ね、まるで風の一部となったように微動だにせず、刻まれた名前に視線を注ぎ続けている。
「…………。緋馬。どこに行ってやがった」
 誰に向けるでもない呟きが空気に染み入り、音もなく消えていった。
 喪主としての務めは終わった。けれど伯父は日常へ戻ることができずにいた。戻るために必要な鍵が傍にいなかったからだ。
 冷たい風が頬を撫で、指先が痺れる。それでも藤春は動かない。ただ黙って、墓前に立ち尽くしている。
 緋馬はそっと近づいた。大きかったはずの背中が、妙に小さく、脆く見えた。
「……ごめん。おばさんに、お別れの挨拶、ちゃんとしなくて」
 ぽつりと落とした言葉に、伯父は返事をしなかった。
 けれどその肩がわずかに震える。緋馬はそっと手を伸ばし、藤春の背に触れた。
 微かに残る線香の香が、冬の空気に混じっていた。
「したくなかったから、来なかったのか? ……したくないよな。おじさんだって……したくなかった」
 それは慰めでも、責めでもない。同じ痛みを知る者だけが交わせる、静かな肯定だった。
 きっと緋馬がいなかったからこそ、伯父は誰にも見られずに泣けたのだ。
 そして今、隣に緋馬が立ってしまったからこそ――もう、堪えきれなくなった。
 嗚咽が風に紛れて洩れる。
「すまん……すまない、すまないな……」
 藤春は繰り返し、そう呟いた。
 ただただ、肩を震わせながら、深く頭を垂れていた。
(おばさんのこと、心の底から……大事にしてたんだ)
 言葉にせずとも全てが伝わってきた。伯父の悲しみだけが、骨の髄まで沁み込んでいく。
 背中から抱きしめた。壊れそうな体温を、確かめるように、ぎゅっと抱きしめた。
 それは慰めでも、安易な愛情でもない。
 ――伯父が義母を愛したように、自分も、伯父を愛していた。
 触れるだけで溢れ出しそうな想いを、喉の奥で必死に押し殺した。
(言いたい。でも言ったら、きっと全部壊れてしまう)
 だから今回は、言わないと決めていた。その正しすぎる沈黙が、胸を締めつけてならなかった。
 伯父の呼吸が乱れ、肩が細かく震えている。
 緋馬は正面から抱きしめ直した。涙が尽きるまで傍にいるつもりだった。
 山の空気は容赦なく冷たかったが、二人の間には確かに温もりがあった。
 どれほどの時が過ぎたのか。ようやく藤春が、低く静かな声を発した。
「緋馬。……もうすぐ夜だな。冬の夜は早い。寒くないか?」
「うん。大丈夫」
 そのやりとりの裏側に、緋馬の中にどうしようもない焦りが湧き上がってくる。
 伯父は知らない。この夜に何が起こるのかを。
 もう、あんな目に遭わせたくない。
 もう、藤春が死ぬのは見たくない。
「……おじさん。今夜さ、ここに泊まるの、やめない?」
 藤春の眉がわずかに動く。
「どうした、急に」
「嫌な予感がするんだ。このまま夜を迎えたら、きっと取り返しのつかないことが起こる」
 喉が詰まる。それでも、言わなければならなかった。
「お願い。二人でマンションに帰ろう。精進落としも、挨拶も……全部いい。今すぐ、ここを出よう」
 風が吹いた。杉の葉が揺れ、枯れ葉が音を立てて舞った。
 藤春は、緋馬をじっと見つめた。
「気持ちは、ありがたいよ」
 声は穏やかだった。けれど、その裏には動かぬ意思があった。
「でも、それはできない」
「……どうして」
「今夜は大事な夜なんだ。あずまの納骨が終わって、会食がある。集まってくれた人たちにちゃんと礼を言わなきゃいけない。……緋馬がいてくれても、俺ひとりの勝手では動けないんだよ」
 正論だった。当たり前のことを、当たり前に語っていた。
 だからこそ――耐えがたかった。
「じゃあ……また死んでもいいの?」
 その切迫した声に、藤春は驚いたように目を見開いた。
「緋馬?」
「俺……昨日、ここで、死んだんだ。あの夜、あんな化け物が出て、人が何人も殺されて、寄居も、福広さんも、子供も、みんな……おじさんもっ。だから、帰ろう? 死にたくないから、おじさんに死んでほしくないから……帰ろう……」
 藤春の目が細くなり、やがて静かに首を横に振った。
「緋馬、お前は……疲れてるんだよ。無理もない。あずまが亡くなって、心が不安定になってる。だけど大丈夫。今日は俺が傍にいるから」
「違う」
 声が、風に割れた。
「もう、俺、おじさんが殺されるの、見たくない。触手に腹貫かれて、頭潰されて、ぐちゃぐちゃになって……俺、目の前で見たんだよ」
 吐きそうになるほどに、胸が痛んだ。
 涙が滲んだ。見せたくなかった。けど止まらなかった。
「お願いだから、信じて……。信じてくれないと、おじさん、また、死ぬんだよ……」
 藤春は、ほんの少しだけ目を伏せ、黙った。
 けれどその表情は、やはり大人のそれだった。
 それが答えだった。
 常識と理性を持つ大人は、ありえない話を信じない。
 そしてありえない現実を知っているのは、この場では緋馬ぐらいだった。
 風が止む。空に曇天が広がっていく。再び来る夜が確実に近づいていた。


 /3

 仏田寺の大広間には、冬の夜を照らす無数の蝋燭の灯が揺らめいていた。
 高い板張りの天井には煤が積もり、黒々とした梁が喪を湛えている。
 湯気を立てる精進料理、控えめな笑い声、繰り返される会釈のやりとり。年の瀬とは思えない、どこか永遠に凍りついたような空気がそこにあった。
 中央の長卓には、煮物、湯葉、胡麻豆腐、天ぷら、香の物といった料理が彩りよく並べられている。
 味は確かに繊細で香りも豊かだったのだろう。けれど緋馬には何ひとつ届いてこなかった。
 手をつけた白飯は冷たく、汁椀の湯気もとっくに消えている。
 席は部屋の隅、柱の陰に近い場所だった。周囲には幾人かの若者や親族が座していたが、誰もがただ礼儀正しく、型通りの言葉を交わしているだけだった。
 心が、次第に浮いていく。
「ウマ、食べられないの? まだ体調、悪い?」
 声を掛けてきたのは、寄居だった。
 同じ歳とは思えないほど落ち着いた少年。仏田寺の住職の息子である彼は、黒い法衣のまま、僧侶の見習いのように静かに席をまわっていた。
 やがて緋馬の傍に膝をつき、声を潜める。その気遣いに心が揺れる。
「ちょっと……疲れてるだけ」
 言葉にしてみると、声は驚くほど乾いていた。
 寄居は、真剣な眼差しで緋馬を見つめていた。眼差しがあまりにも真っ直ぐで、どこか痛かった。
「精進落とし、抜けてもいいよ。俺、住職に言っとく。今夜は冷えるし部屋で休んだ方がいい」
「……違うんだ、寄居」
 ぽつりと漏れたその一言が、自分でも驚くほど深く重かった。
 寄居が目を見開いた。けれど緋馬は、それ以上何も言わなかった。
 遠くから、笑い声が聞こえた。その方向に目をやると、藤春が親族たちに囲まれ、盃を手にしていた。
 穏やかな表情で、丁寧に言葉を交わしている。喪主としての役目をきちんと果たしていた。無理をしているのかもしれない。それでも、笑っていた。
 その姿が、なぜかひどく遠く感じられた。
「……おじさん」
 たった今、あの人が殺される光景を目にしたばかりだ。
 あの忌まわしい夜を皮膚の下に刻まれるように味わったばかりだというのに藤春は、何も知らない顔で笑っていた。
 それが、緋馬をとてもひとりにした。
「おうおうウマぁ〜、食えてるかぁ〜?」
 福広がやって来て、隣にどかりと腰を下ろした。
 肩の力が抜けたような笑み。大人びた兄のような、余裕のある振る舞いをする。
「寒くてブルブル縮こまってるなら、お兄さんの上着貸してあげよっか〜?」
「ううん、平気。……ありがと」
 何でもないふりで答える。すると福広が、軽く背中を叩いた。その手つきはとても優しかった。
 その優しさはこの後に起こることを、何ひとつ知らない者の動きだ。
 誰も、彼の見た地獄を知らない。
 箸は進まなかった。会話の輪にも入れず、誰かが皿を回してくれても、手は震えて動かない。ただ遠くで、藤春の声だけが響いていた。
「ええ、ありがとうございます。……妻も、きっと感謝していると思います」
 その言葉を聞いた瞬間、緋馬はそっと箸を置いた。
 もう何も、口にする気になれなかった。

 心の奥底に淀んでいた言葉が、ついに堰を切る。
 話さなければならなかった。たとえ誰にも信じてもらえなくても、この場の誰かが微かにでも異常を感じているのなら。動けば、今度こそ、誰かを救えるかもしれない。
「なあ、寄居……福広さん。話したいことがあるんだ」
 声は震えていた。けれどその震えには、確かな意志が宿っていた。
 福広が穏やかな声で、「どうしたぁ?」と尋ねる。
 寄居も心配そうに顔を覗き込んでくる。
 緋馬は二人と正面から向き合うように身を返した。喉の奥が焼けるようで緊張が骨の内側から軋んでいる。けれど、もう逃げるわけにはいかなかった。
「……この後、夜になると、化け物が現れる」
 その言葉に、二人の瞳が揺れた。
「触手の、目がいっぱいある、でかい化け物だ。信じてくれ。あれが来ると、人が殺される。燃えて、血が流れて……子どもも、大人も、みんな死ぬんだ」
 言葉にするだけで、喉が灼ける。
 記憶の炎が逆流して、呼吸が浅くなる。手が震える。
「寄居も、福広さんも……二人とも、殺されるんだ。あの触手に、胸を貫かれて」
 緋馬は目を逸らさず、二人を真っ直ぐに見つめた。魂ごと縋るような、懇願の眼差しだった。
 寄居が、息を呑んだ。
 福広は腕を組み、顔を曇らせる。
 沈黙。それは、短いようで永遠のような静寂だった。
 やがて、寄居が静かに口を開いた。
「……それ、夢じゃないの?」
「違う。夢じゃない。本当に、昨日……いや、今日、俺はそれを見た。殺された。おじさんも、死んだ」
「でも、ウマ……それ、多分……」
 寄居は慎重に言葉を選びながら続けた。
「『あずまさんが亡くなったショック』とか、『葬式での疲れ』とか……そういうの、あるって聞いたことある。現実が受け止めきれなくて、幻覚を見るって……」
 その言葉は、誠実な思いやりだった。否定ではない。受け止めようとする優しさだった。
 けれど緋馬には、それがひどく遠くに感じられた。
 福広が、ゆるやかに言葉を継ぐ。
「ウマ、お前が本気で言ってるのは分かるよぉ。ふざけてるわけじゃないってことも、ちゃんと伝わってる」
「……じゃあ、信じて……」
 訴えかけたその声に、福広は目を伏せ、頭を掻いた。
「でも、さすがに……それは、ねぇ?」
 言い淀む声音に、申し訳なさが滲む。
 そこにあるのは「否定」ではなく「理解できない」という、ごく普通の大人の応答だった。
「信じるには……少しだけ、現実が遠すぎるっていうかあ?」
 理屈としては正しかった。むしろ、それが自然な反応だった。けれど、緋馬にはあまりに残酷だった。
「……俺、本気なんだよ」
 声が、震える。
「冗談で言ってるわけじゃない。ふざけてるわけでもない。俺が……死んで……おじさんが殺されて、何十人も……二人だって……!」
「……ウマ」
「でも……止めなきゃいけないんだ。止めたいんだよ!」
 涙が視界の縁を濡らす。こぼれ落ちる直前で、それでも堪えようと歯を食いしばる。
 だが二人の表情は、変わらなかった。福広が肩をすくめて柔らかく笑う。
「……分かった分かった。じゃあ少しだけ会食抜けよっかぁ。部屋で少し休もう。お兄さんたちが傍にいてあげるから、ねぇ?」
 その声は、優しかった。狂った子どもに寄り添う時の、あまりにも現実的で、あまりにも穏やかな優しさだった。
 信じてもらえなかった。伝わらなかった。
 この夜が再び地獄と化すことも、誰かが無惨に叫びながら死んでいくことも、愛する人がもう一度目の前で潰されてしまうことも、誰にも信じてもらえなかった。
 緋馬は唇をきつく噛みしめ、視線を落とした。
 また、ひとりきりだった。

 薄暗い廊下に、三つの影が重なっていた。
 遠く、大広間から扉の開閉音が漏れ聞こえる。会食はまだ続いており、人々の笑い声や食器の触れ合う音がまるで夢の残響のように響いていた。
 けれど、ここだけは静まり返っている。柱の隙間を縫う冷気が、頬を撫でて過ぎていく。あまりに静かで、息すらひそめたくなるような空間だった。
 緋馬は唇をきつく結んだまま、沈黙の底にいた。
 あれほど切実に語った言葉は届かず、今はただ、言いようのない虚無が胸に広がっている。
 そんな彼に寄居が困ったように眉を下げ、沈黙に耐えかねたように少し茶化すような口調で話し始めた。
「でもさ……もし、本当に化け物がいるとしてさ」
 緋馬はゆっくりと顔を上げた。
 寄居は壁に背を預け、腕を組んで考え込むような仕草をしている。
「そいつ、なんで現れるんだろうな。いきなりドカーンと登場して、人を殺しまくる化け物。どうして出てくるんだろ」
 冗談めいた口ぶりだったが、声音の奥には、ほんの少しだけ本気の色が混じっていた。
 緋馬は、答えることができなかった。
「もしかして操ってるやつとかいたりして。黒いローブ着たヤバい魔術師が、『我らが神よ、いまこそ地上に顕現せよ』とか唱えてさ、指パッチン一発でドン、って」
 寄居は両手を広げて、おどけてみせた。
 緊迫しすぎた空気を和ませようと、軽く笑いを取るつもりだったのだろう。
 けれど、緋馬には笑えなかった。むしろその冗談めいた想像が、冗談ではない何かを予感させた。
 あの化け物の出現には、何か確かな意図がある。その確信が、胸の奥で冷たく光っていた。
 だが、何も知らない。真実も、仕組みも、原因さえ。自分は知らされていない。
「……でもまあぁ」
 福広がぼそりと呟くように口を開いた。
 柱の節を指先でなぞりながら、どこか遠い目をしていた。
「仏田寺が魔術結社で、お隣が異能研究所だって考えると……そんな魔術師がいても、おかしくない……かもなぁ」
 空気が、ぴたりと止まった。
 福広は自分の言葉に気づいたように、ふっと口角を上げて笑った。
「ん? ああ……いやいやぁ。お寺の隣にあんな近代施設があるんだぜぇ? 俺は清掃だけだから中身なんて知らないけどぉ。元々仏田寺って魔術師の一族だって言うしさぁ、異能研究所に協力もしてるって聞いたしぃ。何かしら儀式の伝承とかありそうじゃん? まあまあ、話半分で聞いてよぉ。眉唾さ眉唾ぁ」
 冗談交じりの語り口。
 その軽さの奥に、何かを避けるような、微かな警戒を緋馬は感じ取った。
 寄居はそれを深追いすることなく、笑って応じた。
「確かに仲良くやってるよね、寺と研究所でさ。けど機関は、どっちかっていうと『化け物の対処』とか『封じ方』を研究してるところでしょ? 住職の息子的には変な儀式とか言われるのはちょっと困るんだけどな」
「はは〜。ごめんごめん〜」
 二人の軽いやりとりを聞きながら、緋馬は動けずにいた。
 魔術結社。召喚儀式。異能研究所。言葉の断片が、脳裏に澱のように沈んでいく。
 自分が立っているこの寺そのものが、全ての答えを内包しているかのようだった。
 寒風が隙間から吹き込み、障子が揺れる。灰色の空がゆっくりと翳り始め、裏山には鳥の声も消えていた。空気が、不自然なほどに澱んでいた。
「ねえ。今日は、寺に来客があった?」
 緋馬は寄居に問いかけた。声は穏やかだったが、内側には今夜の引き金を探るような、焦りが込められていた。
 寄居は少し首を傾げ、しばらく考えてから答えた。
「来客って……どういう意味?」
「ほら、遠い親戚とか仏教関係者とか住職の知り合いとか。儀式に関わるような人が、招かれてたりしないのかなって」
 寄居はしばし黙考し、やがてあっさり首を振った。
「いや、来客って言ったら……緋馬の家のことだろ」
「え……?」
「おじさんの奥さんが亡くなったのって年末だよね? 正月は仏事できないから、ギリギリの31日に納骨と精進落としを詰め込んでるわけだし。だから今日ここに集まってるのは殆どが葬儀関係者だよ。あとは檀家の一部と僧侶の知り合いくらい」
 緋馬は小さく息を吐いた。
 ひとまず、外からの異物が混ざっていないことに、安堵する。けれど――。
「……あ、でも」
 寄居がふと思い出したように、ぽつりと続けた。
「昼間、裏にある施設に大勢の人が駆け込んでいくの見かけたよ」
 緋馬の呼吸が、一瞬止まった。
「なんかバタバタしてた。車もいっぱい停まってたし、中から叫び声っぽいのも聞こえた気がする。でも、上の人たちは『関係ないから仏事に集中しろ』って……」
 緋馬の拳が、いつの間にか強く握りしめられていた。
「……『関係ない』って?」
「うん。父さんの口癖なんだ。『外で何があっても、仏事は仏事だ』って。まあ、研究所でなにかトラブったんじゃないの? 年末だし、田舎道だしさ」
 寄居は軽く笑ってみせた。
 だが緋馬の胸には、不穏なざわめきが広がっていく。
 昼間から起きていた異変。叫び。車列。そして『見てはいけない』というような遮断。
 それはまるで何かを封じ込めるための、組織的な沈黙のように感じられた。
 緋馬は掌の汗を袖で拭い、そっと福広の方を見た。
「……福広さん。研究所でも働いてたよね?」
「ああ、うん。清掃の仕事だけどなぁ」
 福広は肩をすくめて笑う。相変わらず、緋馬との温度差は大きかった。
「じゃあ……さっき寄居が言ってた騒ぎ、知ってる? 施設に人が駆け込んでたって話」
 その問いに、福広の笑みが一瞬だけ和らいだ。
 口元は笑っていたが、目元には淡い翳りが差していた。
「確かに昼前だったかなぁ。所長の息子さんたちが何人も来て入口に人が集まってたのは見たよぉ。ちょっと気になったけどぉ……」
 彼は言い淀み、視線を逸らす。
「でも今日は俺、休みだったしぃ。年末のシフトはバラバラでさぁ。大ごとなら連絡あるかもだけど、俺はただの下っ端清掃員だからねぇ〜。ウマと違って自由に出入りできるわけじゃないのよぉ?」
 肩を竦めて見せたその態度は、あくまで何も知らないことを装っていた。
 緋馬の中に残ったのは、しんとした、言いようのない空白。
「……あんなに、簡単に入れるのに?」
「ふぇ?」
「あんな、何も手続きもなく、ただ立ってるだけで『はい、どうぞ』って。俺、何度も通されたよ。どこにも行けたし、なんでも貰えた。どこで何やってもいいような雰囲気で」
「そりゃウマだからじゃん。ウマは特別。王子様待遇だもん〜」
「……どうして」
「だってウマは『あそこでなんでもしていい子』じゃん? 『誰も拒むことなんてできない』んだよぉ。今までだってそうだったでしょう?」
 福広はそう言って、いつもの調子で笑った。笑顔が、かえって不穏だった。


 /4

 空は墨を垂らしたように濁り、境内には冬の冷気が石畳を這うように満ちていた。仏田寺は夜の訪れに身を沈め、まるで生き物のように息を潜めている。
 二人と別れた緋馬は焦燥を胸に、急ぎ足で通路を渡る。
 ――もうすぐだ。
 寄居の言葉が脳裏をかすめる。
 ――昼間、研究所に大勢が駆け込んでいた。叫び声がした。所長の息子が来たという話も。あそこに、何かがある。
 ――誰も信じてくれないのなら、俺が見つけに行くしかない。怪しいものを、怪しい場所で。
 奥歯を噛み締め、寺の敷地を抜けて細道を辿る。冷たい空気が頬を刺す。やがて辿り着いたのは、灰色の無機質な建物だった。
 緋馬は拳を握りしめたまま、自動ドアの前に立った。
 ピーッという解錠音とともに、建物は何の抵抗もなく彼を迎え入れる。
 (……こんな所、本来なら顔パスで入れるはずがない。ここは、鍵がかけられた伏魔殿。けれど俺は、部外者じゃなかった。……『俺は、どの扉でも通り抜けられる』……?)
 冷えた床の上を、足音だけが響く。奥に広がるものは、日常とは遠く隔たっていた。

 少女と出会った裏手の研究棟――そこには、昼間とは異なる異質な空気が満ちていた。
 白く冴えた蛍光灯の光が、鋭利な刃のように床を裂く。空調の音は耳の奥で鈍く反響し、すべての気配が均一に抑制されている。
 静かだ。しかし耳を澄ませば届いてくる。
 重く軋む扉の音。硬質な靴音。怒号ではない、命令のように鋭く研がれた声。
 廊下の突き当たり、ガラス越しの研究ブロック。その向こうでは――まるで映画のワンシーンのような異様な光景が広がっていた。
(なに……この人たち……)
 白衣の男たちが壁際に押しやられ、黒のスーツに身を包んだ集団が冷ややかな視線を研究機器に走らせている。ヘッドセット、手袋、腰に下げた未知の装置――それは医師でも警官でもない。その統率された動きは、明確な秩序を孕んでいた。
(なにしてるんだ、この人たち……)
 静かでありながら暴力的。抑制されているのに破壊的。
 まるで反社会的研究所に突入した秘密機関のような緊張感があった。
 解体される機材。押収されるデータ。誰もが何かを叫んでいるが、声よりもその場の空気こそが、恐怖の源だった。
 廊下の影から息を潜める緋馬。目の前の現実は、もはや「実家」と呼べるものではなかった。整然とした狂気。理性によって研ぎ澄まされた破壊だった。
(……ニュースやドラマで見るような、『家宅捜索』みたいな……)
 奥へ進むにつれ、空気がじわじわと重さを帯びていく。
 曲がり角の先には、さらに異質な空間が広がっていた。
 畳敷きの床、木の柱、掛け軸、神棚――病院には場違いな和室の造り。だがその空間には、用途不明の機器が混在し、すべてが冷たく、静かに侵食されていた。
 黒と灰のスーツを纏った捜索員たちが整然とした所作で動いている。畳をめくり、壁板を外し、帳簿らしき束を丁寧にファイルへ収める。
 粗暴さはない。怒りでもない。それは宗教儀礼のような粛々たる侵入だった。
 思想の殲滅。空間ごと、信念すら滅菌しようとする動き――それは単なる家宅捜索ではなかった。
 そのとき、空間に何かが現れる。
 空気の重力が一段階変わった。まるで、世界の構造がその人物を中心に再配置されたように。
 そこに現れたのは、一人の男だった。五十代。背が高く、完璧に仕立てられた黒のスーツを纏う。無表情の顔に切り裂くような細い目を持ち、ただそこに立つだけで、全ての動きを止めてしまう存在。
 黒服の捜索員も、白衣の研究者も、誰一人言葉を発せず、その登場をただ受け入れるしかなかった。
 それは威圧ではない。怒号でもない。支配の権化のような男は中央へ歩み出て、静かに言葉を発する。
「自己紹介しよう。私がこの超人類開発研究機関を預かる、上門 狭山である」
 抑制された声音。その一言だけで空間すべてが沈黙に包まれた。
「警察の皆様が、これほどまでに整然と御用にいらした以上、何らかの深い誤解があったものと理解している」
 右手を軽く掲げるその所作は、威圧でも拒絶でもない。
 一国の元首が外交官に礼を示すような、丁寧で静かな力だった。
「無用な混乱を避けるため、質疑応答の場をご用意しよう」
 声には、情も怒りも憐憫もなかった。予定された構文を読み上げるような冷ややかさがある。
 誰も彼の言葉を遮らない。いや、遮れなかった。
 それでもその沈黙を破る声がある。
「お父さん!」
 その場に似つかわしくない、若く張りつめた声。白衣と黒服の間を割るようにして真っ直ぐに進み出てきたのは、一人の青年だ。
 短く整えられた黒髪、やや華奢な体つき。だが背筋は伸び、目には鋼の意志が宿っている。簡素なスーツを羽織った彼は、確かに若い。けれど、その声には臆することのない力があった。
「もう、機関の悪事は暴かれているんです!」
 黒服の数人が顔をしかめ、白衣の研究者たちは目を伏せた。
 青年は叫ぶように、しかし一言一言をはっきりと放った。
「それを糾弾しに来たんです……! 狭山お父さんを裁くために!」
 一部の黒服が互いに目を合わせ、指先を無意識に拳銃のホルスターへと伸ばしかける。
 だが中心に立つ狭山は、まったく動じなかった。目すら細めず、表情も変えずに、その若者を見据えていた。
「もう黙ってはいられません……! 捕らえられている人たちを、今すぐ解放してください! 別動隊が裏で見ています! 全てが記録されているんです!」
「ときわ」
「悪行は、裁かれるべきです! お父さん、貴方は――人の命を、研究という名の下に弄んだ! 僕たちはそのことを全部知ってるんです! 罪を認めてください! 今ここで! みんなを、助けてください! もう僕達は、何も引かないんです……正義は、きっと、負けない!」
 最後の言葉は、少年のような叫びだった。
 涙にも似た熱を込めて、心を全て曝け出すように。それでも、どこか真っ直ぐで清らかに。
 だが上門狭山の沈黙は、なお続いていた。無表情のまま、ときわを見下ろすように一歩、前へ出る。その動作だけで周囲に緊張が走った。
 所長とその息子。巨大な支配と、微かな反抗。その対峙は夜と朝のせめぎ合いのように、静かで、それゆえに苛烈だった。
 周囲が凍りつくように息を止める。瞬間、誰もが理解していた。
 ――この父と息子の会話は、既に言葉では解決できないところまで来ている。
 聖堂の奥から鳴る鐘のような、低く重々しい声が響く。
「……ときわ。お前は、我らが何を目指していたか……何一つ理解していなかったのだな」
 言葉を受けた瞬間、子の身体が僅かに揺れた。
 父の声には、怒りも悲しみも優しさすら感じさせない。あるのはただ、絶対の信念だけ。
「我ら仏田一族は神に選ばれた。選ばれし者として、爛れたこの世界を再創造する義務がある」
 白衣の研究者たちは誰も眉を動かさなかった。まるでそれが当然の理念であるかのように、背筋を伸ばし、無言でうなずく者すらいた。
「人は自らを制御できぬ。文明は退廃し、秩序は崩壊した。地球は病み、人類は獣のように欲望に塗れている。ならば、神を――真なる異神を、この地に降ろすしかない」
 語る声は静かだった。
 だがその静けさは、焔が無音で燃え上がるような恐ろしさを孕む。
「異能の解明、超人類の創出、精神構造の書き換え……全ては神の召喚のため。その力で、世界を正す。真の救済を齎すためだ」
 再び狭山は視線を落とし、息子を真っ直ぐに見据えた。その目には、血の色も涙の跡も無い。
「その召喚のためには、器が必要だ」
 緋馬の背筋に、冷たいものが這い登る。
「お前が解放しろと言った者たちは、その器である。人類の幸福を担い、神の魂を迎えるために捧げられる存在だ。彼らは選ばれた。血統、精神構造、波長全てを調律され、神の依り代としてこの世界に生まれた。彼ら自身もそれを誇りとして、その命を、喜んで差し出してくれている」
 その言葉は、酷薄な断罪ではない。救済者としての慈悲ですらあった。だが、そこにあるのは、生命を生命と見なしていない者の論理でもある。
「『死を供なす永劫の呪縛』は既に夜須庭が解読済み。『女神の儀式』は完遂した。我らは、神の代行者となる」
 言葉を交わす二人を中心に、空気は重く張り詰めていた。
 その均衡は、突如として破られる。
 ゴゥゥゥン。
 低い、地の奥底から響くような唸り声。それは建物全体を震わせる地響きへと変わった。
 天井の蛍光灯がぐらりと揺れる。棚の上の器具が落ち、ガラスが割れ、鋭い音が研究所内に跳ね返る。
「……地震?」
 誰かが呟く間もなく、床が裂けた。
 鈍く深い音を伴って、研究所の中心部に亀裂が走る。地面が隆起し、床材が捻じれ、構造物が破壊されていく。
 ひび割れた亀裂の隙間から、ぬるりと滑り出てきたそれは、太く、長く、異様に脈打つものが現れる。肌は鱗のようであり、同時に粘膜のようでもあり、異様な濡れた光沢を放っている。
 一本、また一本。――触手はまるで地面を食い破る蔓草のように、四方八方から這い出し始める。
「っ!」
 隊員のひとりが、腰のホルスターから拳銃を抜いた。狙いを定める間もなく、触手がその腹を一突きにした。
 ぐしゃ、と内臓が潰れる音。男の身体が持ち上がり、天井に叩きつけられる。
 悲鳴が上がる。もう一人の隊員が機関銃を構え、引き金を引く。炸裂音と共に弾丸が触手に当たるが、効果はない。弾はぬるりと滑り、触手の皮膚に吸収されるように沈んでいく。
 別の男が走って逃げようとする。だが触手はその背後から飛びつき、首をひとひねりでねじ切った。
 床に転がる首。血飛沫。焼けるような匂い。
 あっという間だった。わずか数秒で、室内の秩序が崩壊した。
「神が目覚めたのだ」


 /5

 緋馬は遠くの廊下の陰から、その惨劇を見ていた。
 目の前で命が軽々と奪われていく。
 銃火器は無力。防護服も意味を成さない。叫び声が響くたび、触手はより獰猛に、より狂気に満ちて獲物を屠っていく。
 研究者の一人が逃げ惑い、背中から串刺しにされた。骨が砕け、肋骨が前へ突き出し、血の花が散る。
 黒服の男たちが交差するように走り、仲間を引きずりながら退避を試みる。が、触手は執拗に追い、床に叩きつけ、壁に潰し、次々と命を粉砕していった。
 これは、目覚めなのだ。あの男が言う……神?
(あれが、あれのせいで。つまり、あいつらのせいで、俺たちは……!?)
 緋馬の手が震える。喉が乾き、心臓が暴れる。
 目の前で倒れる人々。なすすべもなく、潰れていく正義。笑い声などない。叫びも、すぐに止む。ただ冷たく、生々しい死だけが、この空間に蔓延していく。
 化け物の咆哮が世界を引き裂いた。振り返らずただただ走った。
 あの邪神に勝てるはずがない。銃も通じない、命を弄ぶだけの神に、自分一人で何ができるというのか。
 いつかの少女だってどこにいるかも分からない。研究所の地下に囚われているのか、あるいは。
(助けられなかった? 何もできないまま見殺しにしてしまったのか?)
 だが、まだ、藤春がいる。助けなければ。緋馬の足は、千切れそうなほどに動いていた。
 寒さも痛みも、何も感じない。ただ炎のように心臓が軋み続ける。寺へと戻る参道を駆け上がったそのとき、目に飛び込んできたのは火柱だった。
 寺が、燃えていた。瓦が崩れ、屋根が赤く染まり、梁が音を立てて落ちている。
 燃え広がった火は境内の杉木立にまで波及し、夜の空を炎色に染めていた。
 焦燥が、喉を絞めつける。彼は生きている。そう信じなければ、自分はもう立っていられない。緋馬は叫びながら、燃える回廊を走り抜けた。
 崩れた柱、黒煙、赤く染まった壁。だが藤春の姿は、どこにも無い。部屋を一つ、また一つと駆け巡る。
 嫌な音が、焼けた扉の向こうから聞こえた。躊躇いながらも扉を押し開ける。そこにあったのは、福広の死体だった。
 頭部が無かった。正確には頭部だった筈の場所が、爆ぜた肉塊と化していた。
 目も鼻も口も無い。首から上は潰され、炭のように焼け焦げ、血と脳漿がこびりついている。胴体はぐったりと畳に横たわり、片腕だけが無惨に折れ曲がっていた。
 兄のように暖かい手で背中を叩いてくれた人であるものが、もう、無い。
 それだけでは終わらない。斜め奥。もう一つの倒れた影。間違いなく寄居だ。少年の細い体は、朱に染まっていた。胸元に鋭く深くえぐられた穴。心臓ごと掴み取られたような傷。腕が千切れかけ、目は見開かれたまま、口は言葉にならない悲鳴の形で凍っていた。
 ついさっきまで心配そうに見つめてくれていた目には光はもう、どこにも無かった。
 涙が溢れた。
 火の音が耳を焼く。柱が倒れる鈍い衝撃音、炎に爆ぜる畳の裂け目。それでも緋馬は、頭の中に浮かび上がってきたある思考に身を裂かれるような感覚を抱えていた。
 おじさんは生きている。生きていると信じる。信じたい気持ちが、胸の奥を掻き毟る。
(もし……おじさんが生きていたら、きっと誰かを探してる)
 この混乱の中でも、あの人なら絶対に逃げたりしない。誰かを見捨てたりしない。そういう人だ。あたたかくて、優しくて、責任感があって、誰よりも正しくあろうとする人だ。
(じゃあ、おじさんは誰を探してる? ……俺、だろうか)
 そう思って胸が少しだけ熱くなった。自分がいなくなったら探してくれる。現に今までがそうだった。危険な場所でも炎の中でも、名前を呼びながら――でも。
(……俺がここにいなかったら?)
 ふと、呼吸が止まった。
 おじさんが探すのは、自分だけじゃない。この家は、おじさんの実家だ。家族がいる。親戚がいる。そして、弟がいる。
 緋馬の身体に、冷たいものが走った。
(……柳翠)
 名前を思い出すだけで、胃の奥が捻じれる。
 これまで藤春を追って走っていた。助けたいと思っていたのは、ただ一人、おじさんだけだった。
 化け物が現れ、福広や寄居が殺されても、緋馬の視線の先にいたのはたったひとりの愛する大人だった。
 だが、藤春には家族がいる。実の弟――緋馬にとっての実の父、柳翠が、この寺にはいた。それなのに、自分は。
(……考えもしなかった……おじさんが、俺以外を考えることなんて、いくらでもある)
 火の熱、死の匂い、煙にまみれ、自分の思考だけが急速に沈んでいく。
(そこまで嫌だったんだ……あの人のことを想うのが)
 育児放棄。憎しみ。拒絶。父親としての柳翠は、自分の人生にとって存在しない方がマシな存在だったのだろうか。だから思い出さなかったのか。今までのループでも、今この瞬間まで思考から切り離していたのか。
 でも、おじさんは――藤春は違う。たとえどんな状況だとしても家族を見捨てる人じゃない。炎の中、死が溢れていても、きっとどこかで家族を探している。
(……だから、いないんだ)
 自分のところに来ない。自分が探し続けていても、姿を見つけられない。あの人は――別の誰かを、助けに行ってしまったから。
 立ち尽くしたまま、拳を握った。痛いほどの自己嫌悪。焼け焦げた空間の中、誰よりも愛していたつもりだった自分の、視野の狭さ。藤春が抱える家族の意味すら、まともに向き合えていなかった自分の愚かさ。ただ、肺が空になったようだった。
(おじさんの……近くにいれば、良かっ……)
 仏田寺の天井は崩れ、柱が倒れ、炎が畳を舐めている。そして、ぐちゅ、と柔らかな音がすぐ背後で鳴った。
 緋馬は振り向く暇もなかった。触手が背中から突き刺さった。異様に硬質な先端が背骨の間を正確に割り、肉を裂き、内臓を貫いた。
「ッ、あっ」
 息が漏れた。声にはならなかった。口から血が溢れた。
 視界が歪む。喉が詰まり、肺が収縮する。足が力を失って崩れ落ちた。
 触手は一度抜けてから今度は前へ回り込み、緋馬の腹部を切り裂く。
 皮膚が裂け、腸が飛び出す。焼け焦げた床に温かい血と臓腑が落ちて、ぬるりと音を立てた。
 それでも緋馬は歯を食いしばっていた。喉からは濁った呼吸音しか出なかったが、心の奥ではまだ叫んでいた。
(おじさん……おじさん……!)
 どこにいるの? 来てくれないの? また、会えないの?
 炎の中、藤春の姿はなかった。
 触手が首に巻きつき、ぎゅうと締めあげる。頚椎が軋み、喉仏が潰れ、目から涙が滲む。酸素が奪われ、脳が酸欠に染まっていく中でも、緋馬の意識はまだ消えていなかった。
 痛い。苦しい。助けて。
 でも、来ない。誰も来ない。
 今、いいや、ずっと、おじさんに、名前を呼んでほしかった。手を伸ばして救ってほしかった。
 触手が口の中に入り込んだ。
 舌を押し潰し、喉の奥をずるりとこじ開け、気管と食道の間を掻き回す。口から血泡が溢れ、目の前が一色に染まる。目の奥が裂けるように熱い。痛い。痛い、痛い、痛い。
 藤春――さん――。
 心の中で叫んだまま、緋馬の首がもげた。頸椎が外れ、頭部がくるりと回転して、血の川に沈んだ。残った身体は、ただの肉塊として、焼けた畳の上に転がる。触手は満足げにそれを放り捨て、ぬらりとまた地面へと溶け込んでいった。
 炎はなおも揺れていた。寺が崩れゆく中、緋馬の身体は静かに燃えていく。
 救いはない。祈りは届かず、想いも伝えられず、それでも彼の心は死の間際まで叫んでいた。愛していた人の名前を。



【4章】

 /1

 仏田寺の地下最奥。研究室の中心では、既に供物の並びが完成していた。
 解体された肉体、削ぎ落とされた魂片、血液と骨灰で描かれた重層魔法陣。全ては静かに、地獄の胎動を孕んでいる。
 タイムリミットは、すぐそこまで迫っていた。
 超人類能力開発研究所機関の主任研究員・夜須庭 航は慌てなかった。
 機関の主任である彼はクライアントからの危機が迫る日取りであろうと、分厚い羊皮紙の文献を一枚一枚捲りながら、まるでコーヒーでも啜るような悠然とした態度で儀式呪文の最終解読を進めていた。
「はぁ。ここの記述、やっぱり接続句を入れた方がいいなぁ」
 自分にだけ聞こえるような声で、航は独り言を呟く。時折ペンを走らせ、手元のメモに修正を加えた。世界の終わりを前にした者とは思えない、落ち着きだった。
 その様子を、ある男は無言で見下ろす。
 航と同じく白衣姿で、長い髪を纏めず無造作に流した『世を捨てた者』のような魔術師。その瞳は、もう人間らしい感情を映していない。
「夜須庭。供物が足りないとは思わないか」
 男が冷淡に口にする。
 航はしばし首を傾げると、ここに至るまでに潰した数百の命を勘定し始めた。千年前の存在を呼び戻すためには血が、魂が、命が必要だというのは周知の事実である。
「まあ、確実に『死を供なす永劫の呪縛』を成功させるなら、血肉は大いに越したことはないですねえ。でも時間はどうかなぁ」
「余計なことは考えなくていい。夜須庭は持てる知識を全て儀式に費やしてくれれば結構」
「とてもありがたいですねえ。あ、レジスタンスとかいう連中がうちに近づいてるって話はどうなりましたぁ?」
「そこも考えなくて結構。それは上門所長の仕事だ」
 主任研究員である航は、計算を終えると、自分より立場が上である男性へ振り返って頷く。
「さて、どれぐらい増やすべきだと思う?」
 問い掛けに、航は指で『5』を示した。
「ふぅ……できれば、女児がいいですねぇ。依頼主の要望で女神様を形成したいので、女性の器の方が近くて都合が良いかと。もちろん無理なら男性でも構わないんですが」
「匠太郎。今の会話が聞こえていたなら、用意を」
「かしこまりましたー!」

 軽快な了解の数刻後。地下に怯えた子供の能力者が数人集められた。どれも年端もいかない幼い子供たちだが、魔力は人並み以上の器たちだった。彼女たちは震える足取りで命じられるまま、暗い祭壇へと連れて来られる。
 誰も泣かなかった。泣けば何が起こるかを機関で既に教え込まれていた。
 軽快な声音の男が子供たちを雑に押し出し、祭壇の前に跪かせる。小さな手が恐怖に震え、小さな肩がみるみる冷たく強張っていく。
 航は淡々と羊皮紙に視線を落としながら、呟いた。
「うーん。魂波長が少し荒いけど、まあ許容範囲だねぇ。じゃあ、とりあえず頭は要らないから捌いてどうぞ」
 航の一言で、刃物が子供達の首へと滑り込んでいった。処刑人が嬉々とした表情で刃を走らせていったからだ。
 叫び声も涙も、全て術式の燃料となる。その光景を、男は冷たく燃え上がるような視線で見守っていた。
(もうすぐだ)
 音もなく、男の唇が歪む。
(もうすぐ会える。いっしょになろう。ずっといっしょに。そのためなら、どんな地獄も何度でも踏み越えてみせる)


 /2

 吐く。そう思った瞬間には胃の中のものが喉を逆流していた。
 仏田寺の寒い石畳の上に、まだ消化しきれなかった朝食がぶちまけられる。静かに始まった葬送の日に、場違いな音が響いた。
 緋馬は唇を手で覆ったまま、肩を震わせていた。酸と胆汁の混じった鋭い臭いが鼻に突き刺さる。何度かえずいた後、どうにか意識を戻したものの視界は揺れていた。
 周囲の空気がざわめく。喪服に身を包んだ親族の誰かが声を潜め、背後から声を掛ける。
「大丈夫かい? 顔色、真っ青じゃないか」
「緋馬くん、寒さでやられたんじゃないか?」
 誰もが体調不良という言葉に落とし込もうとしていた。緋馬もただ、何も返さなかった。体調が悪いだけに見えればそれでいい。だけど本当は、昨日……いや、前の世界で全てを見てきたことを思い出してしまっただけのこと。
 喰い破られた肉、砕けた骨、血に塗れた寺、藤春の死、人々の叫び。全てが脳裏に焼き付いて全身を恐怖させた。
 その続きが今日再び始まると分かっているという事実がどれほど恐ろしいものか、誰も知る筈がない。
 背後で靴音が止まる。気配に気づくよりも先に、肩に手が置かれた。あたたかく包み込むような掌。それだけで誰の手かすぐに分かる。藤春だった。
「緋馬、無理しないでいい」
 声は優しくも、どこか心配を押し殺した響きがあった。
 緋馬は顔を上げられなかった。手の甲に嘔吐物の飛沫が付いていた。情けなくて惨めで、そして心から逃げ出したかった。
 それでも藤春は決して咎めない。背中に手を添え、何も言わずに付き添ってくれる。
「今日は……納骨なんだ。まだ大事な日なんだぞ」
 そんなことは、分かっている。
 今日は12月31日。「年内のうちに全てを終わらせたいから」と急ピッチに進められた義母あずまの納骨式が執り行われる。
 喪主としての責任を抱えた藤春にとって、今日という日は最後の区切りになる。大事な日である。
 やっとの思いで緋馬は顔を上げた。藤春の顔は相変わらずあたたかい。そこにはあの夜の記憶など、微塵も残っていない。
 優しい伯父は、また繰り返す。妻との別れと、子との死に別れを。
「寝室で少し休め。顔色が悪すぎる」
 無理をするなという言葉の裏に、葬儀の混乱を避けたい大人の配慮が透けて見えた。
 それも当然だ。今の緋馬は『喪主の甥』として振る舞わなければならない。緋馬は頷き、歩きながら涙を拭った。悔しさと恐怖から滲む涙だった。

 寝室として宛がわれた仏間の一室に、緋馬は重力に負けるように布団へと身を投げた。
 床の間には掛け軸がかかり、年季の入った木の箪笥が静かに佇む。障子越しの光は淡く、冷たい冬の陽を部屋に落としていた。ここはかつて、藤春が暮らしていた部屋。十数年をこの寺で過ごし、眠り、息をつき、背を伸ばしていた空間だ。
 残り香のように彼の気配がまだ部屋に残っている。だから緋馬は自然とここにいない彼を思ってしまう。
 藤春は、いつも死ぬ。
 何度繰り返しても、変わらず命を奪われる。叫んでも届かず、救おうとしても間に合わず、触れたと思った次の瞬間には壊れている。
 優しい手も、笑みも、血と絶叫のなかで潰されてしまう。瞬きする間もなく唐突に。そしてそのたび、緋馬もまた。
「……やだ」
 声にならないほどの声が、唇からこぼれた。
 死にたくない。またあの苦しみの中に堕ちたくない。焼かれ、裂かれ、叫びながら喉を潰していく感覚を、もう二度と味わいたくない。生き延びたい。そして、おじさんを救いたい。
(俺はあの人に告白して、拒まれた。あの人は、俺を守りきったことなんて一度もない。それでも)
 幻滅はしなかった。失望もできなかった。今もなお、胸の奥はただ、まっすぐに藤春を想っていた。
 食卓を囲んだ日々。四季が移ろうたびに見た、横顔。名前を呼ばれたときの柔らかさ、撫でられた髪の重み、叱られたときに胸に芽生えた、安心に似た寂しさ。
 それらは拒絶された日にも消えなかった。何度死なれても、愛しさだけが残り続けていた。
 仰向けに倒れたまま、顔を布団にうずめていると、静かな足音が障子の向こうから近づいてきた。
 気配がある。気配だけで分かる。この歩き方、この呼吸の間――藤春だ。
 ノックの代わりの短い間を置いて、引き戸がそっと開いた。
「……起きてるか?」
 布団の中で微かに身じろぎ、緋馬は顔を覗かせる。
 藤春は「納骨、終わったよ」と静かに言いながら部屋に入り、緋馬の傍らへと腰を下ろした。
 喪服のまま、ネクタイだけを少し緩めた姿。手には白いハンカチが握られており、目元を何度も拭ったのだろう、角がくしゃりと折れていた。
「今日は冷えるな。……東京よりずっと寒い、この山寺の冬は。緋馬の体にはきついかもしれない」
 窓の外に視線を移しながらそう言う声は、どこか遠くを見ていた。
 空はどんよりと曇り、カラスの声だけが遠くで響いている。
 その横顔を、緋馬は何も言わずに見つめた。
 堅くこわばった頬。押し殺された呼吸。丁寧に保たれた姿勢の奥に、破れそうな静けさがある。
 誰よりも寂しいくせに、誰よりも「平気なふり」をしてここに来てくれたのだと、緋馬には分かった。
「緋馬の顔を見たら、また皆に挨拶に行くよ」
「……おじさんこそ、無理しないで。……俺なんかのために、こんな時間を取らせて、ごめん」
 短く、重たい沈黙が落ちた。
 藤春はふと窓から目を離し、緋馬の顔を見て、わずかに微笑んだ。
 その笑みは、どこか無理にでも元気づけようとするような、ぎこちない優しさだった。
「『俺なんか』なんて言うな。これからもおじさんは、お前の傍にいるよ。安心して、ちゃんと休んでくれ」
 そう言って立ち上がろうとするその手を、緋馬は咄嗟に掴んだ。
 横たわったまま必死に伸ばした指先は、彼の上着の裾を微かに引き止める。
「……おじさん……」
 か細い囁き。声というより、堪えきれずこぼれた想いの雫だった。
「……触って……いい……?」
 顔を伏せたまま、震えるように問う。
 その問いに、藤春の眉が動いた。緋馬の想いを、彼はすぐに汲み取る。
 触れたい。許してほしい。拒絶されるのが怖い。――ただ、それだけだった。
 藤春は静かに緋馬の手に触れ、その身体をそっと引き起こすと、言葉もなく穏やかに両腕を広げて彼を抱きしめた。
 力強すぎず、けれど確かにその背中を優しく引き寄せる。
 緋馬の身体がびくりと震えた。そして張り詰めていた何かが崩れ落ちるように、肩の力が抜けた。
 拒絶を恐れていたのに、この腕の中には安堵しかなかった。
(……好きだ。……たとえ、それが哀れな錯覚だとしても)
 小さな手が、藤春の服をぎゅっと掴んだ。その仕草は言葉よりも痛切に、彼の心の叫びを物語っていた。
 藤春は何も言わず、ただ背を撫でる。呼吸のリズム、掌のぬくもり。その全てが「ここに居てくれて良かった」と語っていた。
 緋馬は目を閉じる。
 夜が来る。炎が満ち、死が訪れ、すべてを呑み込む夜が。
 けれど今だけは、生きている。あの人の胸の中に、自分はいる。
 張り詰めた心の糸が、ふいに緩んだ。
 ぽたぽたと頬を伝って零れ落ちる雫。言葉にならなかった感情が、ようやく涙になって溢れたものだった。

 涙の後の和室は一層静かになった。
 冬の光が障子越しに淡く差し込み、布団の縁を白く照らしていた。
 泣き疲れた緋馬の体は、藤春の胸元に身を預けたまま殆ど動かない。時間だけが何も語らずに過ぎていく。そして緋馬は不意に、小さな声で呟く。
「……おじさん。二人で、マンションに帰ろう」
 藤春が少し驚いたように緋馬の顔を覗き込む。緋馬は視線を合わせなかった。言葉を選びながら、それでも必死に続ける。
「ここにいたら、きっとまた、何かが起きる。嫌なことが起きて、取り返しがつかなくなる。だから、ここにいちゃ、いけないんだ」
 藤春は目を細めた。決して茶化さず、緋馬の言葉に耳を傾けていた。
「信じて。お願い……信じてほしい」
 今度こそ、そう言えると思った。前の世界では、笑われた。緋馬は夢でも見てるんだと冗談めかして撫でられた頭のあたたかさが、あのときはただ残酷だった。
 でも今回は違う。藤春は笑わなかった。まるで何かを考えるように唇を噛み、ほんの少し目を伏せた。そして。
「……分かった」
 小さく、頷く。緋馬の肩も僅かに震える。
「緋馬。俺までいなくなるんじゃないかって怖くなっちゃったんだな。……大丈夫。おじさんはまだ生きている。お前の傍に絶対いるから」
 その言葉に縋るような気持ちが湧いた。変わってくれるのかもしれない、今回は。けれど、その次の言葉が全てを打ち消す。
「新年、明けたら帰ろうな」
 にこやかに優しく、何も責めることなく口にした。
「寺の人たちにもきちんと礼を通さないと。……今日は休もう。もう無理はさせない。な?」
 常識的な言葉が、緋馬の胸に鈍く響く。頭を撫でる右手が、あたたかくて、痛い。
 言葉は届いた。信じてもらえた。でも、それでも動けない。
 優しさが枷になる。愛情が現実を変えない。
 緋馬は目を伏せて、声を出さなかった。それ以上何を言っても、藤春が『こっちの世界』には来られないことが分かってしまった。
 優しい人だからこそ、日常を壊すことができない。まだ何も起きていないこの時間を正常として守ろうとしている。
「……うん」
 唇を微かに動かして、緋馬は頷いた。無理矢理笑ってみせた。無理矢理な笑顔しか作れなかった。


 /3

 皆に顔を見せてくると言って藤春は再びネクタイを着け直し、廊下の向こうへと消えていった。
 時間では会食――精進落としの準備が始まっている頃だった。緋馬はそちらへ向かえない。わざわざ行かなくていいと藤春は緋馬の体を撫でてくれた。だからしばらく布団の中でじっとする。
 藤春には居なくなってほしくない。ずっと傍にいたい。離れず近くに居ればもしあのときがやって来てもすぐに守れるかもしれない。けれど、忙しなく動く藤春はすぐに姿を消してしまう。
 居なくなった途端、頭に夜の記憶が何度もリフレインする。
 触手。炎。血の臭い。悲鳴。鈍い肉の音。藤春の断末魔。
(どうしてあの化け物が出るって、ここにいる悪い人が『神』だかなんか怖い奴を敬っていたから……それで呼び寄せた? それで創った? 化け物は、いつも地響きの後に現れる。……下から来る? 地下から現れるのか?)
 ――例えば、地下で呼び寄せている『儀式』があって……それを滅茶苦茶に出来たら、化け物は滅茶苦茶をしないんじゃないか。
 ――庭をいくら探しても怪しい形跡は無かった。半日ずっと探しても無かったのだから……庭じゃなくて、中。
 探せるか? 山奥に広がるこの一帯すべてが、仏田家の私有地であるこの広大な寺を、研究所を。
 古びた本堂。裏山へ続く参道。隣接する研究所機関の巨大な建物群。
 (こんな広さ、ピンポイントで探し当てるなんて、無理だ)
 通っている高校の校舎よりも何倍も広い敷地で、地下だって何階まで続いているか分からない空間だ。そんなの半日で探しきるなんて不可能。一人なら特に。探すだけで夜が近づいてくる。あの惨劇が、また繰り返される。
 ――やはり最初は機関の施設に入り込むべきか。あそこなら顔パスで、ただ入口に立つだけで全ての扉が開くようになっていたし。
 そのときだった。カチ、と思考のどこかで音がした。
(俺は……身内。よそ者じゃない。直系。……どこにだって行ける)
 どういう仕組みなのか理屈で説明できないが、研究所施設に数秒で入室できた。理科室のような部屋にも、図書室のような場所にも、普通なら厳重なセキュリティが組まれてそうな場所を簡単に散歩することができた。
 ――それって、限られた人しか入れないような超重要機密の場所でも、俺が踏み入れたら鍵が開いちゃうってことなんじゃ。
(まさかそんな、俺の体自体がマスターキーになってるとかいう都合の良いこと……。ありえたんだよな、夜の施設にこっそり忍び込めたぐらいだし)
 他の誰でもない直系の息子だからこそ――自分が触れたときだけ開く扉があるんじゃないか?
 そしてそれはきっと最高機密。この仏田家の心臓部。もっとも、誰にも知られたくない場所。
 つまり自分が無理矢理開けた場所こそ、儀式の本拠地である可能性が高い。
 緋馬は、ポケットの中で握りしめた。紫色の勾玉の冷たい感触が心臓の鼓動を強くする。
(探すんじゃない。開けるんだ)
 この体ごと鍵にして、至る所に触れてみよう。緋馬は歯を食いしばり、歩みを進めた。

 冷たい床が足の裏に貼りつく。仏田寺の廊下はどこも同じように静かで、同じように古かった。
 あらゆるところに視線を向け、神経を研ぎ澄まし、怪しいものを探すという重労働ではない。ただ、歩く。寺の中をひたすら歩く。たまに壁に手を付き、柱に触れ、特に意識せずに数秒で立ち去る。それだけ。
 葬式で訪れた本堂。本堂から外れた渡り廊下。客間棟。廊下。仏像や位牌が並ぶ一室。庫裡。廊下。鐘楼への道。法事や会合で使われる客殿。倉庫。住職が説法や読経を行う仏間。浴室。廊下。誰かの部屋。廊下。廊下……。
 手前の回廊を折れたところで、ふとある廊下が目についた。
 納骨堂へ続く長い廊下だった。
 寺の奥まった一角に納骨堂はひっそりと存在している。白木の扉をくぐると、外の世界とは断たれたかのような静寂が満ちていた。
 分厚い石造りの壁。湿った土の匂い。沈んだ空気は微かに冷たく、肌を撫でるたびに、生者が踏み込んではならない領域に来たのだと知らされる。
 棚のように組まれた石の間には、小さな骨壷が一つずつ納められていた。どれも手のひらほどの大きさで、名もなき者も、名を刻まれた者も、同じように並べられている。
 壺たちは黙して、ただそこにある。祈りも嘆きも全て時間に溶かし、長い眠りについていた。
 天井近くに設えられた小窓から、細い光が一筋だけ差し込んでいる。光は塵を照らし、静かに渦を巻いていた。その僅かな明るさが、ここがただの死の空間ではないことを告げていた。
 埃が、変な動きをしている。妙な空気の循環をしている。緋馬は歩みを止めた。その塵が珍妙な動きをしている区間へ足を伸ばす。
 ピーッ。
 あの音がした。
 息を呑み、目を凝らす。
 先ほどまで無かった階段が現れていた。一段一段に魔術の紋様が張り巡らされて、そこが異界へ下るエスカレーターのようなものだと気付く。
 普通の納骨堂に隠された地下階段。誰にも見られないよう、誰にも知られないよう、閉ざされた場所。こんなところ、一介の僧侶や研究者が訪れるようなもんじゃない。
 喉の奥で深呼吸をし、薄暗いその穴へと一歩足を踏み入れた。

 階段を終えた先は、何の変哲もなさそうな廊下が続いていた。扉がついた部屋がいくつもあるが、ひと気は無い。ゆっくり中を覗き込んでいても、機関の研究施設と似たような無機質な一室が続いている。
 少しずつ奥へと入っていく。階段側の手前の部屋は普通の研究室だったが、奥に進むうちに、和室が多くなっていった。
 ついには奇妙な部屋に辿り着く。木戸の隙間から覗くと、畳の中央に何かの印が刻まれていた不気味な一室を見つけた。
 墨で描かれたかのような不規則で歪な幾何学模様。周囲には香炉や灰皿、何枚もの和紙の札が乱雑に置かれ、一つ一つに何かの古文字が書かれている。まるで儀式の痕跡だ。
(これが……女神の儀式? いや、スケールが小さく思える。これはあくまで練習とか……?)
 中をよく見てみたい、そう思っているとさらに奥の廊下の一室から、誰かの話し声がした。
 聞いたことのない低い声。だが何故か知っているような懐かしさがある。
「……一本松がR号の潜入を許してしまったそうだ。夜須庭もあと少しで儀式ができるというのに変な連中に絡まれるなんて、大変だな」
 緋馬は息を飲んだ。
 足元がじわじわと冷えていく。誰かが話している――それはつまり、部屋に複数の人間がいるということ。見つかれば、言い逃れはできない。頭が、咄嗟に逃げ道を探す。けれど足は動かず、声の気配に圧されていた。
 部屋の奥で人影が動いた。
 緋馬は急いで異様な和室の影に身を滑り込ませる。息を整えながら畳の間にじっと沈む。声がまた微かに聞こえた。
(……今の声って)
 聞き覚えがあるような、けれど確かな記憶では結びつかない。
 なのに、背筋をなぞるような既視感がある。皮膚の内側がざわつき、血が何かに反応する。理解はしていないはずなのに、確信だけが形を持つ。
(仏田、柳翠)
 名前は知っていた。実母が死んだ後、自分を置き去りにした父の名。伯父から聞かされた、愛情を向けられることのなかった男の名。それ以上を知ろうとは思わなかったし、知りたいとも思えなかった。
 なのに、今――儀式。神。触手。地獄を引き裂くような記憶の断片が、血と熱と焼け焦げた肉の匂いと共に蘇る。あれが、あの化け物が、もし彼の手によるものだったとしたら――。
 思わず喉が鳴った。足元の畳に目を落とすと、そこには墨で描かれた奇妙な文字列。織り柄ではない。魔術の陣式。結界か、封印か、儀式の回路か。意味は読めなくとも、本能だけが警鐘を鳴らしていた。
(もし柳翠という魔術師が儀式をして、神とかいう奴を出していたとしたら。……おじさんを殺したのは柳翠ってことになる)
 疑念は想像へ、想像は怒りへ変わっていく。けれど、確かめるにはどうすればいい。あの背中に向かって、十数年も言葉を交わしたことのない実の父親に何を問いかければいい?
 視線をわずかに動かす。
 白衣を纏った、背の高い男。長い黒髪は無造作に流れ、佇まいはまるで人間の皮を被った異物のようだった。
 真正面から顔を見たことはない。それでも分かってしまう。あの背中を、自分は知っている。いつだってそうだった。振り向かず、子に言葉も掛けず、仕事に没頭していたあの背中。
「柳さん。ただいま第一研究所で待機中の航先生から、最終チェックオッケーってわざわざ電話が来ましたよ」
 耳を刺すような軽い声音。だがその奥にある冷ややかさが、肌に貼りついた。
 越生 匠太郎。柳翠の側近が声を弾ませている。
「一兄さんの方も潜入してきた連中は皆殺しにしたから問題無いとのことで。結構、朱指の方でも被害が出ちゃってるみたいですけどねぇ。……柳さん。本当に今夜、やれちゃうんですか?」
 少し笑っているような響き。その軽薄さの奥にあるのは期待と興奮のように聞こえた。
「条件も満たされている。必要な魂は揃った。もう迷うことはない。……12月31日、今日が決行日だ」
 柳翠の声は、血の温度を凍らせるほどに静かだった。
 紙を捲る音、札を並べ直す音。その動きすら、異様な儀式の一部に見えた。
「燈雅はどうしている?」
「燈雅様はお部屋で神の降臨をお待ちしているかと。あの御方の職務はあとはただ待っているだけですしねえ」
「僕も早くそちら側にいきたい。夜須庭がR号の奴らから禁書を奪還できることを期待する」
「でもまあ、禁書自体が無くてももう材料は整っているわけだし? R号から原本を奪えなくても儀式の成功率が少し下げるだけで、オレ達なら成功できるっしょ」
 聞こえてくるのは、石壁に反響する男たちの低い声。誰の目にも触れない、密やかな密談。
「そのためにあれだけ材料を集めたのだから、そうでなくては困る。……成功率を上げるためには、さらに舞台を熟成させなくてはならない」
「この一帯に女神様が好む『負の感情』を満たさなきゃ、でしたっけ」
 くぐもった笑い声が、儀式の間の奥から漏れてきた。
 それは単なる談笑ではない。どこか――祭壇に捧げる供物を選びながら、嬉々として舌なめずりする獣のような、卑しい熱を孕んでいた。
 緋馬は指先が冷たくなっていくのを感じた。
 女神様。触媒。負の感情。断片的な単語だけでも彼らが何を目論んでいるのか、想像するには十分だった。
「苦痛は女神の好物だからな。この寺に苦しみが蔓延すれば、それだけ喜ばれる」
 それは誰か一人を犠牲にする程度のものではない。もっと広く、もっと深く、この土地全体を、血と悲嘆と狂気で満たすつもりなのだろうか。
 例えば――手っ取り早く、意味も分からず抵抗もできず逃げ場も無く虐殺されるとか?
 考えた途端、頭がカアッと熱くなり、思わず拳を強く握りしめる。
「……17年間、待ったんだ」
 ふいに男たちの声が沈んだ。一人が、まるで何かを噛み殺すように低く呟く。
 奇妙な静寂。先ほどまでの軽薄な熱気が霧散し、代わりに湿った重たい執着の気配が漂う。
「今でも会いたいんですか? 陽奈多さんに」
 匠太郎の声が慎重に問いかける。
 沈黙。即答できないための沈黙ではなかった。むしろ長い年月を抱え続けた者だけが持つ、確信に満ちた間だった。
 陽奈多。その名前を、知っている。名前を呼んだことはないけど、たった一人の――。
 男は誰に語るでもなく、ただ己の中に渦巻く想いを吐き出すように、静かに続ける。
「陽奈多は死んで終わってはいけない女だった。あれほどの女が無に帰るなど、神の設計に反している」
「でも、柳さん。仮に陽奈多さんを蘇らせたとして」
 匠太郎がやや躊躇うように続ける。
「うちの神様って、『色んな魂の集合』体なんでしょ? 『千年分の血肉で作った肉団子みたいなもん』ですよ? その中の一つが陽奈多さんってだけで、陽奈多さんの形になってくれる訳じゃないですし」
「構わない。どんな形でもいい。人でなかろうと、声が無くても、そこに陽奈多の魂が在って、生きていて動いていてくれるなら、それは陽奈多だ」
 声音は、凍てつく夜の底で独り呟かれる祈りにも似ていた。
 同時にそこに滲んでいたのは、純粋な愛情だけではなかった。
 もっと歪な、もっと濁った――失われたものを取り戻すためには何を犠牲にしても構わないという、危うい狂信だった。
 部屋の空気がぐっと冷える。緋馬は震える。
 ――これが、父なのか。
 母を愛している男。その再会のために、何か危うい手を遣おうとしている。そして、今にもそれが――あの触手の化け物として、現れようとしているのかもしれない。
 畳の縁を指先でなぞるように、緋馬は静かに後ずさった。足音を殺し、気配も閉ざし、振り返らずに通り抜ける。足音一つ立てずその場を離れた。速く、けれど音を立てぬよう、足を滑らせるように階段へと戻る。
 追われる気配は無い。けれど――柳翠の声が、冷気のように肌に残っていた。
(間違いない……父だ)
 あの背中を覚えている。十数年経つというのに。あの人は何をしている。息子にも会わないで。全部……母のため? そんなこといきなり言われても。頼む、何もしないでくれ。
 そう祈った瞬間だった。廊下の奥、紙灯籠の影からにゅっと細い影が伸びた。
 ひらりと影が揺れる。瞬きをした瞬間、軽い調子でそれは立ちはだかった。
 匠太郎だった。
「どこ行くの子猫ちゃん」
 緋馬は一歩身を引く。次の瞬間バチンと空気が爆ぜた。
 何かが足首に巻きつく。見えない鎖のようなものが地面から這い上がってくる。
「なっ……!」
 逃げようとした瞬間、全身が縛りつけられた。膝から崩れ落ちる。力が入らない。足が動かない。息すら、まともに吸えない。
「大丈夫。殺しはしないよ」
 匠太郎が、笑った。
「今は、ね」
 緋馬はもがきながら床を這おうとするが、まるで夢の中のように身体が重い。喉が焼けつく。視界が揺れる。じわりと冷たい汗が額を伝った。そして、
「どうした、匠太郎。いきなり消えて……何の騒ぎだ?」
 足音が真っ直ぐに近づいてくる。冷えた革靴の音が、廊下に不自然なほど響いた。
 匠太郎が一歩引いて、影に退く。緋馬は力なく伏したまま、片目だけでその姿を見上げる。
 白衣の男。高い背。男のくせに長く流しただけの黒髪。無駄のない動き。視線は冷たく、光が無い。その目が、緋馬を見下ろした。
 仏田柳翠。間違いなく、父だった。
 その彼がほんの一秒、緋馬の顔を見て、口を開く。
「……こいつ、何だ?」
 緋馬の胸が、凍りついた。
 こいつ。
 父は、自分の顔を――息子の顔を、覚えていなかった。

 目の前の男は、まるで他人を見るような目でこちらを見ていた。
 侵入者。異物。不要なもの。
 仏田柳翠は、自分の息子がそこにいるという現実すら、ただの事務的な問題として捉えていた。
「誰の子供だ? どこから入った?」
 声音には一片の感情もなかった。警備網に引っかかった書類不備の通行証にでも向けるような、冷たい確認。
 傍らの匠太郎が肩を竦めて言う。
「緋馬くんですよ。柳さんのお子さん。貴方のお子さんだから、ここのセキュリティをすり抜けられたんです。同じ血ですからね。そりゃ、仕方ない仕様ってやつです」
 室内に、浅くも重たい沈黙が落ちる。
 柳翠は眉を顰めた。思考の底に沈んでいた記憶を掘り起こすように、顎をほんの一瞬だけ動かす。そして、低く短く、声を漏らした。
「……ああ」
 まるで『思い出したふり』をするかのような、その返事だった。
 驚きも、喜びも、怒りも無い。ましてや懐かしさや父としての情愛など、一滴もなかった。
 柳翠の視線はただ冷たく、乾いていた。まるで顕微鏡の奥で蠢く細胞を眺めるかのように、無関心に対象を確認する。
「せっかく一匹、捕まった。……こいつで儀式の成功率を上げよう」
 まるで廃棄寸前の資材を試験に使い切るような口ぶりだ。それだけ言うと、柳翠はさして興味もなさげに踵を返し背を向けた。
 緋馬は、ただ顔を伏せていた。
 動けなかった。
 分かっていた。『父に存在を忘れられていた』ことくらい予想できていた。驚くことじゃない。愛された記憶など一度もない。捨てられたことを、ずっと昔に受け入れたはずだった。
 でも、それでも、触手の化け物に追い詰められるよりも、焼け落ちる寺の中で死にゆくよりも、この一言が――この冷たい背中が、胸の奥を静かに切り裂いていく。
 涙が零れた。
 無理やり飲み込んでも、瞼の裏から溢れてしまうものがある。
 恐怖より絶望より、痛みよりも速く、心の一番深いところから滲み出てきた。

 それは――名前を呼ばれることすら、望めなかった子供の、泣き声だった。


 /4

 冷たい空気が肺に突き刺さる。石畳の床は湿っていた。
 手足を魔術式の縄で縛られ、鉄製の椅子に固定されていた緋馬は、逃げる手段を完全に失っていた。咄嗟のときに魔術は使える筈だった。だがもちろん抵抗の対策は取られてしまっている。地下であるここは窓も無ければ外の音も届かない。ただ体を震わすことしかできなかった。
 目の前には、男――匠太郎がいる。
 葬式の際の挨拶と同じ、人懐こいようで人間味のない笑みを浮かべている。その手には、細い金属製のピンセットと先端が黒ずんだ火挟があった。
「さて。儀式の成功率を上げるためにもあの娘じゃなくて緋馬くんに頑張ってもらうことになったけど。オレ退屈したくないし、遊びながらやろっか」
 匠太郎はまるで雑談でも始めるような口調で進める。
 緋馬は声を震わせながら言葉を絞り出した。
「……なんで……俺を……」
「なんでって、どれについて?」
 笑う。
「君がここにいる理由? それとも……お父さんが君を覚えてなかった件でも聞きたい?」
 言葉の端に、わざとらしい哀れみを含ませていた。
 歯を食いしばる緋馬は、心の底では震えながらも、咄嗟に意地だけで睨みつける。匠太郎はひょいと椅子に腰かけ、頬杖をついた。
「柳さん関係の質問だったら教えてあげるよ。ほら、オレって柳さんの片腕、相棒、パートナーだし? それにオレ優しいから」
「だから、なんで俺を……」
「仏田家は1000年前からある女性を復活させようとしている。その女性がいたから仏田家は繁栄した、今の栄華がある。というより、仏田寺はその女性を復活させるために生まれたと言っても過言ではない。だから女性を復活させるのは、一族の使命。柳さんたちの命題なんだ。絶対に叶えなければならない掟ってやつ」
「それが、何……」
「その女性ね、『異端』なの。人間大好きでモグモグ食べちゃう悪魔」
 常に匠太郎は笑う。彼の指が隣に置かれた銀色の器具に伸びる。ピンセット、針、錐……手入れの行き届いたそれらが、鈍く光を帯びた。
「異端は、嫌だ、苦しい、助けてっていう『負の感情』が大好きっていうのは定説でしょ。その感情が大好きだった女性のために、その感情で満たしてあげてからお呼びするの。せっかく主賓で招かれるならパーティー会場をあっためておいてあげないとダメだろ?」
 カチャリ。冷たい金属が机に触れた音が、緋馬の背骨を這い上がる。
 匠太郎はぽんと膝を叩いて立ち上がった。火挟の先を、淡く赤くなるまで熱し始める。そして何の前触れもなく、熱された金属を緋馬の鎖骨のすぐ上に押し当てた。
 声が喉の奥で焼けた。火花が弾けたような痛みが全神経に叩き込まれる。
「いい反応。いい子だね、ほんと」
 匠太郎は無邪気な笑みのまま、再び火挟を熱し始める。
「ねえ、質問にはどんどん答えるからさ。もっと聞いてよ。ね? 絶望して、震えて、それでも立ち上がろうとする目ってさ……きっと女神様は大好きだと思うんだ」
 緋馬は必死に呼吸を整えながら、絞り出すように言った。
「……あいつが……母さんを蘇らせようとしてる……。それと、異端と、何の関係が……?」
 ふふっと匠太郎が笑う。
「仏田家は、1000年もの間、血肉を集めてきたんだ。智慧も力も魂も欲しいからいっぱい積み上げてきた。それを材料に女神様は復活する。『その死体の山に君のお母さんがいる』ってだけの話。『死体の山が復活』するんだから、つまりは君のお母さんも復活って理屈みたいだよ。……柳さんって考え方が可愛いよね!」

 鉄の椅子が軋むたび、金属音が鈍く地下に響いた。
 緋馬の身体は既に限界だった。両手首には炎の痕。足は痙攣し、唇は乾き切ってひび割れていた。
 匠太郎は飽きもせず、再び銀色の細い器具を熱しながら口笛を吹いていた。その旋律はやけに明るく、場の残酷さを際立たせていた。
「ボロボロに泣いちゃって可愛い。……やっぱ柳さんの息子だなぁ。泣き顔がそっくりだね。柳さんも、大泣きしたときそういう顔をするんだ」
 涙に顔を濡らす緋馬は、俯いたまま返事が出来ない。
 声を出せば、喉が切れる。体を少しでも動かすと激痛が走る。筋肉が勝手に痙攣し、視界が白く弾けた。動きたくないのに、号泣してしまって体が自然と揺れた。地獄だった。
「痛い痛いヤダ助けてって、まさしく求めていた言葉を言ってくれてありがとう。……あ、そうだ」
 焼けた鉄の先端を再び緋馬の胸元に近づけようとして、彼は道具を脇に置く。
 代わりに椅子を引き寄せ、緋馬のすぐ前に座る。その顔には変わらぬ笑み。だが目の奥には、氷のような何かが潜んでいた。
「求めていた反応をしてくれている緋馬くんに、面白い話をしようか。サービスだよ」
 呼吸を浅くした緋馬が視線だけで問いかける。
 匠太郎はわざと耳打ちするように囁いた。
「あずまさんのこと、聞きたい?」
 死んだ瞳が微かに揺れる。その反応を見た匠太郎は嬉しそうに言葉を継ぐ。
「可愛い女性だったよね。クールで、少し気が強くて……。でも、どこまで演技だったのかな? 本当はさ、君のおじさんを騙すために近づいた女だったんだよ」
 緋馬には言葉の意味をすぐには理解できなかった。聞き返す吐息に怒気が滲む。
「つまりね……あずまさんは、『外部のエージェント』だったの。監視者ってやつ。身分は偽装。目的は、うちの儀式を暴いて止めること」
 血の気が引く。何を言っているか信じられない。
「あれ、ちゃんと事故に見えるように頑張ったんだよ。焼き加減とか体の損壊具合とかさ。ちょっとオレやりすぎちゃったから、凄く綺麗に燃やしたんだよ」
「あれは……事故、じゃ……」
「彼女ね、藤春さんが仏田家を離れてるって言っても直系次男坊だから近づいたんだよ。少しでも内部の情報を探るために。でもさすがに探りすぎたなぁ。何かと君を実家に帰すためのって名目で仏田家に何度もやって来てさぁ。ただの奥さんの領分を越えてたよ。こうやって拷問したら全部吐いてくれた。君よりは長く我慢してくれたけどね?」
 匠太郎は目を細めて言った。
「藤春さん、知らないんだよね? 『最愛の妻が、殺されていた』なんて可哀想にね。愛してたのにね」
 緋馬の身体が震る。
 怒りか。悲しみか。それら全てが渦を巻き、限界まで冷たくなった血が逆流するようだった。
「お前が……」
 鉄椅子に縛られたまま掠れた声が、地を這う。憎悪が、痛みの上から這い上がってくる。
「お前が……殺したのか……」
 匠太郎は立ち上がり、首を傾けて、軽く頷いた。
「うん。オレだよ。……ところで、そんなあずまさんが『君たちのことを想っていた』なんて、嘘だと思うんだよね」
 その声は明るく柔らかく、けれど内容は氷のように冷たくて鋭く突き刺してくる。
「彼女、君のことを道具だと思ってたよ。観察対象。仏田家に近づく為のさ。君も感じてたでしょ? なんとなく目が母親的じゃなかったって。なんとなく冷たかったって。藤春さんは気づいてたのかなー。愛してたんじゃなくて必要だったから近づかれたんだって。だって女スパイだもん、人の心に入り込むのが仕事でしょ?」
 どういう色仕掛けで落としたんだろうね。そんな言葉が、刃となって胸を抉る。
「可哀想だよね、藤春さん。奥さんに裏切られて、死なれて、でもその死の理由も知らされないまま、今も『妻を喪った男』として、周りの慰めに黙って頷いてる。そんなのって、滑稽じゃない?」
 目の奥にあるのは、哀れみではなく愉悦。緋馬の中で何かが軋む。叫びたい。信じたい。でも言葉が重い。
「藤春さん、あの人って本当に優しいよね。実の子でもない君にも優しくしてくれる。でも君が死んだら、あっという間にまた哀しみの男になって、周りの同情を集めて、新しい誰かに縋って生きていくんじゃない?」
 何かを否定しようと唇を動かす。だけど呼吸が精一杯で、もう声にはならなかった。
 残されたのは震える息と、緩く沈んだ絶望だけ。
 暗闇の中で、緋馬の心はゆっくりと静かに削られていった。
「もう壊れてもいいよ。でも――あと一押し、いるかな」

 湿った地下室の空気が、じっとりと皮膚に貼りつく。石壁には誰のものかも分からない古い血の跡が黒く染みついていた。
 緋馬は俯いたまま、殆ど動けずにいた。手足は魔術で縛られ、身体は火傷と内出血に蝕まれている。だがそれ以上に、言葉の暴力で心を裂かれていた。
「ねえ。さっきの話、面白かったでしょ? あずまさん嘘つきスパイだった説。信じたくなかった? でも、ほら、真実ってそういうもんだからさぁ」
 緋馬は応えない。顔を上げようともしない。それでも拳だけは震えていた。
 その様子に匠太郎は満足げに笑みを浮かべ、鉄椅子のすぐそばにしゃがみ込んだ。
「ところで……オレ、好きな人がいるんだ」
 緋馬の耳元で、囁く。
「……柳さん」
 名が出した途端、匠太郎の目の色が変わる。艶を帯びた瞳が熱を孕み、歪んだ崇拝と執着をその奥に称え始めた。
「柳さんは凄い人だよ。美しいし聡明だし、何より誰にも理解されない高みにいる。オレ、柳さんのためなら、なんでもするって決めてる」
 声音には、狂信に似た熱があった。
「でも、そんな柳さんに関してどうしてもオレ嫌なことあるんだ」
 ポケットからハサミを取り出した。何のためでもなく、それをただ指先で回す。
「……藤春さんの存在」
 緋馬の体が、びくりと反応した。
「柳さんね、あの人のこと『兄』だからって妙に拘っているとこあるんだよ。誰に対しても冷たいのに藤春さんには妙に態度を崩したり、昔の話をしたり……。その執着がさ、凄く、気に食わないんだよねぇ」
 刃先が、カンと壁に当たって跳ねた。
 瞳の奥に潜むものがねっとりとした執着から、はっきりとした憎しみに変貌する。
「……負の感情は今夜どうしても必要。緋馬くんが来なくても、適当に攫ってきた子供を何人かバラして成功率を上げるつもりだった。でもさ、それだったらさ、今日は……」
 緋馬の目がようやく上がる。傷だらけのその顔に、血の気が引いていくのが分かった。
 匠太郎は、まるで良いアイデアを思いついた子供のように口走る。地下の空気を凍らせた。
「藤春さんを拷問にかけて殺してもいいよね! どうせ死ぬのが早いか遅いかってだけだし!」
「……やだ……」
「おっ」
「……やめて……おじさんは……やめて……」
「それそれ。君がそれを見て絶望する顔……。女神様は大好物だと思うし、オレも絶対に見たい」
 嗜虐の笑みが顔を裂く。
「家族だもんね? 君にとって、唯一の味方。君が生きたいって思える理由で、守りたい人でもあるんじゃない? その人が目の前で爪を剥がされて、関節を砕かれて、喉を裂かれて死んだら……どうなると思う? じゃ、ちょっと準備してくるね。次に会うときは、家族揃ってってことで」
 軽快な声のまま、地下室の扉を開けて出ていく。
 がちゃんと鍵が掛かる音だけが、後に残された。
 緋馬は涙を零し、叫んだ。声が出ない状況にまで追い込まれていたが、叫ばずにはいられない。
 哀しみでも怒りでもなく、守れない自分自身への痛みが絶叫になって響き渡った。


 /5

 日は既に山の端に沈み、仏田寺は冬の闇に包まれていた。
 精進落としの広間では、遺族たちの酒の匂いと雑談が緩やかに続いていた。しかし藤春はもう長くその輪に加わってはいない。
 皿の下げられた座卓の隅に腰を下ろしたまま、手元の湯呑みには殆ど口をつけず、心に引っかかるものを思案する。
(……緋馬。どこ行ったんだ)
 日中あれほど弱っていた緋馬が、夕刻になっても姿を見せない。
 納骨が終わった後は「寝室で休め」と言い残していたのに、先ほど様子を見に戻ったときには布団が冷え切っていて、掛け布も整えられていた。
 寺の敷地は広い。どこに行ったか置手紙が無ければ分からない。緋馬は年頃の男子らしくガラケーを常に手にしていたが、山奥の陵珊山では圏外になることも多い。ひとまず藤春もEメールを送ってみたが、送信すら一苦労だった。
 喪服の上着を羽織り直し、藤春はゆっくりと広間を出る。
 廊下に出た瞬間、空気が違っていた。
 寒さではない。何かが欠けているような静けさに襲われる。音が吸われているような、奇妙な夜の気配が漂っていた。
「藤春さん?」
 背後から、気さくで柔らかな声が掛けられた。
 振り向くと、広間の陰から匠太郎が現れた。昨日の葬式のときも姿を見せていたが、本日は特に目立つ存在ではなかった。
「藤春さん、どうされました? 顔色悪いですよ」
 にこりと笑って近づいてくるその顔に、藤春は小さな違和感を覚える。
(……こいつは、弟に付きっきりだと思ったんだが。いつも俺が柳翠に会いに行くとベッタリしていたし。さすがに年末年始ぐらいは仕事は別か)
「甥が、部屋にいなくてね。てっきり寝てるかと思ったけど」
「緋馬くん、ですか?」
 匠太郎はすぐに返した。しばし首を傾げた後、アッととぼけた声を上げる。
「さっき納骨堂の方に行ってましたよ。少し散歩がしたいって。体調が良くなってきたんじゃないですか?」
「……あの子が、わざわざそっちに?」
「はい。気分転換だって。……でも確かに少し長いですね。心配でしたら、一緒に探しましょうか?」
 匠太郎の声は終始穏やかだった。
 藤春は一拍だけ言葉を失い、その後「そうか」と短く頷く。
 緋馬の姿を通路の奥、庭の方で見たという。長めの上着を翻し、先を歩く匠太郎は親切な笑みを浮かべていた。仏田寺の裏手、僧房と倉庫を繋ぐ、普段はあまり人が通らない細道。藤春は後ろを、足早に追う。
 あの子は、弱っていた。今日一日ろくに食事も取らず、涙を流し、誰にも触れさせまいと布団に包まっていた。
 緋馬が強がりで、頑なで、けれど本当は誰よりも繊細で傷つきやすい心を持っている。慰めてあげたいが、今日はそれどころではなかった。それが申し訳なかった。
(また何かを一人で抱え込んでる……そうだろ、緋馬)
 何が原因か、までは分からない。
 けれど緋馬が今日、何かに怯えていたことだけは確かだった。
(無理をしてる。……言葉にならない悲鳴を、きっと誰にも届かせられずにいる)
 だからこそ、早く会って声を掛けてあげなければと思った。手を取って、「明日すぐ帰ろう」と言ってやらなければと心に決めている。
「この先、納骨堂なんですけど、ちょっと薄暗いですが散歩するには庭が良い景色で、ね」
 瞬間、藤春の背後で何かが弾けた。
 足元が崩れ落ちる感覚。空気に裂けるような音と共に、視界がねじれ、背中から地面に叩きつけられる。
 立ち上がろうとした手首と足首に見えない鎖が絡みつく。魔術の印が床に刻まれ、身体は四方から封じられていた。
「ごめんなさいね藤春さん。…………お前が変なことしたらガキは即死だからな?」
 匠太郎がゆっくりとしゃがみ込んだ。その顔はどこまでも楽しげだった。
 その上で何かを話している。楽しそうに。冷たそうに。視界がぐらつく中、藤春はそれよりも早く早くと急いていた。
 早く緋馬に会わなければ。あの子の小さい声。滅多に見せないが、顔を伏せながらも不器用に笑う顔。初めて手を引いたあの日の、震える小さな手のぬくもり。それを早く取り戻してあげたい。
 決意しながら、意識を黒に染めた。

 大型犬用のケージは高さも奥行きも僅かしかなく、入れられた緋馬の身体は縮こまるしかなかった。
 錆びた格子の隙間から腕を伸ばしても、指先は部屋の中心に横たえられた台には届かない。その台の上に拘束された藤春がいても、決して届かない。
 両手首、足首、胸元までを革製の拘束具で押さえつけられ、動けないまま目を覚ましていた。血の気の引いた顔。状況が呑み込めずに周囲を見渡す様子に、構わず緋馬は喉を震わせて叫んだ。
「おじ、さん……!」
 藤春が緩慢に首を動かし、金属格子の中で震える緋馬の姿を認めた。
「……緋馬」
 声が、痛みと驚愕に引き裂かれる。そして二人の間に立つのは、狂人。
「感動の再会だね。やっと家族揃ったよ。ほら、ね?」
 匠太郎はにこにこと笑いながら、手に持った医療用のピンセットをカチリと鳴らした。藤春が縛られたまま、声を絞り出す。
「緋馬に……何をした」
「たくさんしてあげたよ。可愛がって。痛めつけて。真実を教えて。……でも、ね」
 そして振り返らぬまま、匠太郎は手にした器具を藤春の胸元へ押しつけた。
「貴方にも、同じようにしてあげる」
 焦げる匂いと共に、藤春の身体が痙攣する。
 緋馬は金属の格子を叩いた。血が滲むほど拳をぶつけた。
「やめろ! やめろおおおっ!!」
「無理。オレ今すごく楽しいから」
 笑いながら次の器具、指の関節を砕くための小型ハンマーを手に取った。
「藤春さんの指、綺麗だよね。優しい手だもん。だからまずはそこから。優しさって壊れると音が良いんだ」
「やめてくれ……おじさんを、助けてあげて……!」
 緋馬の声が割れる。涙が止まらなかった。だが格子は開かない。
 届かない。触れられない。目の前で大切な人が壊されていくのを、見ることしかできない。
 匠太郎が藤春の左手を掴み、手の甲の関節にハンマーを構える。
「やめてぇぇぇぇぇッ!!」
 叫びが地下の空間を震わせる。だが返ってくるのは、鈍く骨の砕ける音。そして痛みの中でも藤春は、叫んだ。
「緋馬……見なくていい……!」
 その声に緋馬はただ、泣くことしかできなかった。
「やめてッ……やめてぇ……!!」
 ケージの中で声を枯らして叫び続ける。
 細い腕を格子から必死に伸ばしても、届かない。指先は空を掴むしかなく、喉は叫ぶたびにひび割れていく。
 拷問台の上、藤春は息を荒げていた。
「少しでも抵抗したら緋馬くん殺すよとは言ったけど、本当に抵抗しないとか、大した人だなあ」
 痛みに耐えていた。しかし、決して叫ばなかった。悲鳴も罵倒も、呻き声すら出さなかった。ただ、檻の中で泣き崩れる緋馬の身を案じていた。
「……緋馬……心配するな……」
 声は掠れ、血を含んでいた。それでも、あたたかかった。壊されていく身体の中で、藤春の目だけがまだ生きている。
 匠太郎が、右手に目をつけた。
「この手……綺麗だね。節の目立たない、優しい線だ」
 その手は、絵を描くために使われてきた。
 休日の午後、静かな部屋でスケッチブックを広げ、無邪気に「ちょっと見せろ」と覗き込んできた緋馬をモデルにしたこともあった。
 料理も仕事も、全てこの手でしてきた。何より、緋馬の頭を撫でていた手だった。
「やめて……っ! それだけは、やめてっ!!」
 緋馬が頭を振って泣き叫ぶ。匠太郎はにやりと笑う。
「これが壊れたら、君の『お父さん』はもう君の頭も撫でられないねぇ」
 その言葉に藤春の目がふっと細くなった。泣き崩れる緋馬に向けて、静かに首を振る。抵抗はしない。抵抗をしたら、を考えて、一切無抵抗のまま受け入れる。
「いいんだ、緋馬……」
「だめだ、だめだよ、やめてよ……ッ!」
「嫌だろ、嫌だろうから、耳を塞いでくれ。頼む……」
 ごぎっ。
 右手の中指が根元から砕かれた。
 瞬間、肩が跳ねる。骨と筋を断ち切る鈍い音。衣服の袖に飛ぶ赤。拘束台にこびりつく血の匂い。
(今まで何度もおじさんが死ぬのを見てきたけど、でも、こんなの嫌だ! 死んでほしくない! 何もできないなんて、殺されるの見てるのだけなんて、嫌だ……!)
「……ッ……は……」
 喉の奥から、抑えきれない呻きが漏れた。
 しかし藤春は声を上げなかった。変なことはしない。無駄な抵抗を見せない。何より、緋馬を怖がらせたくなかった。
 今まで藤春の死を何度も見てきた。けれどそれは一瞬のことで、まばたきする間もなく藤春の命が刈り取られていた。今はその苦痛が、ずっと続いている。見たくないものがずっとずっと止まらない。止めてもらえない。
「おじさん! おじさんっ! おじさん……!!」
 緋馬は全身で格子に体当たりした。涙も声も、もうどうにも止まらなかった。
 処刑人は熱の無い目で笑いながら、藤春の腕に熱した鉄線を押し付ける。
「君、泣き虫なんだね。優しいおじさんが壊れていくの、そんなにイヤ?」
「やめろッ……ッ! お願い……お願いだから……やめてぇ!」
 叫びは、届かなかった。誰も止めてくれなかった。
 目の前で一番優しかった人が一番愛してくれた人が、もう二度と絵筆を持てない身体にされていく。
 何度も呼んだ。届かなくても呼び続けた。そんな緋馬の声だけを、藤春は聞いていた。右の指は全て曲がらぬ形に歪み、左は肩から外され、台の脇にぶら下がったとしても。口元には血の筋が伝い、呼吸は浅く、目の焦点は遠くなり始めていたとしても。
 意識だけは、檻の中で泣き崩れる緋馬を、最後まで追っていた。
「おじさん……やだ……やだよ、やだやだっ……!」
 緋馬は自分の腕を血が滲むほど叩いていた。
 格子の間に指を挟み、抜けぬようになっても、それでも伸ばそうとしていた。
(手が届かない。触れられない。どうして、どうして……!)
「……ひ、ぅ……」
「死なないで!! 死ぬなッ!! おじさん!」
 掠れた声が、空気を震わせた。藤春の唇が、微かに動く。
 歯の間から血が溢れていても、何かを呟き、微笑んだ。声は殆ど風に紛れていた。
 その言葉がはっきりと届くことなく、藤春の頭は――ぐらりと傾く。そのまま動かなかった。
 緋馬の世界が、音も無く崩れる。
「……おじ、さん……?」
 返事はない。呼吸もない。緋馬の中で何かが静かに、しかし確実に折れた。
 壊れた檻の中で目を開いたまま、まばたきすらせず、緋馬は呆然と台の上の藤春を見続けていた。
 声にならない息がただ漏れる。感情の名前も言葉もない。喉の奥から漏れたその音は、悲しみですらなかった。ただ何もかもを失った者の呻き――命の形をした絶望だった。
「うん。完璧に壊れたね。……きっと神様に捧げる良い餌になれたよ」
 匠太郎はその様子を遠巻きに見ながら呟く。笑い声も出さない。既に観察に徹する者の、冷たい満足だけがそこにあった。

 扉が重く軋んでいく。
 足音は静かに響いた。冷たい石の床を滑るように、一人の男が拷問室へと現れる。
 白衣に長い黒髪、虚ろな目をした長身の男が、異質で底の知れない無感情のまま立っていた。
「柳さん……!」
 拷問台の傍に立っていた匠太郎の声が、僅かに上ずる。
 その手にはまだ、藤春の血が残っていた。笑っていた唇が、今は火照る。
 言い訳を繋げようとする匠太郎の言葉を、柳翠は遮らなかった。ただ無言のまま、視線だけで兄である藤春の亡骸を見下ろした。
 砕かれた手。折れた足。呼吸のない胸。血に濡れた顎と喉元。全てを見て、彼はただ、静かに瞬きした。
「……兄上も、この世界を染め上げるために必要だったのだ」
 淡々と口にする。
 柳翠の声は低く、まるで自分に言い聞かせるようだった。
「いずれ皆一つになる。陽奈多も、兄上も。お前も、僕も、緋馬も。全ての血肉は一つに捧げられる。……皆同じ場所に至る」
 まるで救済だ。
 匠太郎は安堵にも似た笑みを浮かべ、頷く。
「さすが柳さん……オレ間違ってなかったですね。藤春さんも、これで正しく素材に……」
「黙れ」
 柳翠の声が、氷のように静かに走った。
 匠太郎の口元がぴたりと止まり、身体がこわばる。
「お前の衝動で殺したことに変わりはない。許しを得たと思うな。だが……もう、取り返す必要もない」
「……はい……」
 返す声は小さく、消え入りそうだった。
 柳翠は、緩やかに視線を横に向けた。そこに檻の中で一人項垂れたまま、指先だけを伸ばしている少年がいる。
 手はまだ藤春へと伸びていた。死を受け入れることができず、言葉もなく、ただ届かぬ存在へ指を伸ばしている。
「おじ……さん……」
 掠れた声が、口の端から漏れた。
 動かない。泣き疲れ、叫び疲れ、声も涙ももう出ないはずなのに、それでも緋馬の身体はまだ求めていた。
「……お前にもいずれ分かる」
 柳翠が、誰に言うでもなく呟いた。
 拷問室の空気はさらに重く、冷たく沈みこむ。そのとき、ゴウン、と地下の底から這い上がるような轟音が響いた。
 最初は地鳴り。次に壁を震わせ、天井の灯が揺れた。空気が重くなり、地下室の全てが鈍く軋み始める。
「……来た、か」
 静かに柳翠が呟く。目は冷たく輝き、まるで神の降臨を歓迎する信徒のように微笑んでいた。
 匠太郎はその背で怯えたように笑う。
「柳さん、これって……成功したんですよねっ?」
 その言葉に答えるように壁の向こうから、何か巨大なものが這いずってくる音が響いた。
 瞬間、天井が砕けた。触手のような何かが無数に落ちる。ヌルリとした音と共に重力も理も無視して空間を這い回る。
「なっ、がっ……!」
 匠太郎の身体に、一本の触手が突き刺さった。
 口から血を噴き、身体は真っ二つに引き裂かれた。悲鳴を上げる暇すらなかった。あっけなく無惨に、笑顔のまま消えた。
「……ようやく……会えたな、ひな……」
 柳翠の声も、すぐに掻き消えた。
 全身を包み込むように巨大な触手が巻き付き、圧壊音とともに潰された。頭蓋も、骨も、何もかもが肉の塊と化した。
 拷問室は地獄と変貌する。
 天井が崩れ、石の壁に穴が空き、魔術陣も結界も意味をなさず、ただそれは、無差別に生者を喰っていった。
 檻の中で、緋馬は動かなかった。
 恐怖も怒りも悲しみも全て感じ切った先にあった虚無。それが心を支配していた。
 がしゃんと音を立ててケージの一部が砕けた。触手の一撃が鉄の格子を薙ぎ払い、崩落させた。
 拘束されていたはずの空間が今や壊れ、床に散らばる。緋馬はゆっくりと重い体を引きずりながら這い出た。
 向かう先はたった一つ。藤春の、冷えた身体。
 壊された手。砕かれた腕。動かない胸と、血の乾いた喉元。
「……おじ、さん……」
 声は掠れていた。触れる手が震えていた。その手で、藤春の頬に触れた。
 もう何の温度も無かった。けれど、それでも緋馬は、その胸に縋りついた。
「……ごめんね……今回も何もできなくて……」
 震える声。誰に許しを乞うでもなく、ただ独り言のように。
 咆哮が響く。この世のものとは思えぬ悲鳴のような音が、地下を包み込む。
 だが緋馬にはもう関係ない。壊れた世界の中で、壊れた心で、ただ愛する人の亡骸に縋りつく。
 ――みんな、いっしょに。
 柳翠がそう言った。仏田家の教えがそうだと言う。
 けれどそれは救いではない。ただの終わりだ。

 天井は崩れ、瓦礫が降り注ぎ、血と硝煙と鉄の匂いが混ざり合う地獄の中。緋馬は壊れた拷問台の上で動かない藤春に、そっと顔を寄せていた。
 血まみれの顔を両手で抱きしめ、頬を擦り寄せる。
 返事はない。目を閉じたまま、藤春の顔にはもうぬくもりも力も無かった。
 それでも緋馬は――藤春の唇に、そっとキスをする。
 震えるその唇をまるで祈るように重ねる。涙が、藤春の頬を濡らした。
「……ごめん。俺、おじさんとキスしたいぐらい、好きだったんだ」
 生きていたときには言えなかった言葉。壊れる前に触れたかった想い。
「……おじさんはあのとき、嫌がったけどね」
 藤春はもう、何も言わない。だけどその唇は、拒むことも、拭い去ることもしなかった。
 そのままただ静かに、緋馬のキスを受けとめてくれる。
「ありがとう……」
 緋馬は藤春の胸に顔を埋めた。もうこの世界に希望がなくても、このぬくもりだけが全てだった。
 ズガンと音がして、触手が背後から緋馬を貫く。
 空気を裂き、鋼より硬いそれが少年の腹を穿ち、背中を引き裂く。
 意識が一瞬で白に染まる。でも不思議と痛くはなかった。藤春に触れていた手のぬくもりだけが、最後まで消えなかった。


 /6

 見慣れた天井。薄い木の香り。凍てついた冬の空気。
 仏田寺の寝室にて、緋馬は息を吸い込み、思わず声を震わせた。
 喉の奥で嗚咽がこみ上げる。こみ上げて、抑えきれなくなった涙がぽたぽたと頬を濡らしていった。
 枕元の携帯電話を手に取り、画面を点ける。表示された日付は、『12月31日 8:22』。
 時計の音がコチコチと律儀に時を刻む中、緋馬はひとり布団の中で泣き続けた。
「おじさん……」
 たった一日。そのたった一日をやり直すために、どれだけの絶望を越えなければならないのか。
 それでも、もう一度会える。もう一度、あの優しい彼に――触れたい。
 そう願って緋馬は涙を噛み締めたまま、朝の光に顔を背けた。

 廊下の冷たさが素足を刺すように伝ってくる。それでも構わなかった。
 会いたい。その思いだけが重たい体を押し動かしている。
 記憶の全てがあった。目の前で何が起きて、どんなふうに壊れたのかを知っている。だからこそ今ここに『まだ生きている藤春』が何よりも欲しかった。
 緋馬の足は本堂や寺の外ではなく、真っ直ぐに藤春の寝室へと向かっていた。
 襖の前で息を整える。掛ける言葉が浮かんでこない。けれど躊躇っていると時間は流れてしまう。だからそっと、襖を開けた。
 藤春は背中を向けて、まだ着替え途中のまま座っていた。喪服の下にシャツを通している最中で、髪は少しくしゃくしゃだった。
「……緋馬?」
 今生きている、生きた声が、緋馬の胸を締めつけた。
「おはよう。……って、お前、どうした?」
 藤春は立ち上がろうとしたが、その前に緋馬は駆け寄っていた。躊躇もなく、勢いのまま藤春の胸に顔を埋めた。
 藤春の身体が揺れる。けれど驚きの後には、いつもの大きな腕がそっと緋馬の背を包み込む。
「……ごめん、おじさん。会いたくて……」
 声は震えていた。抑えきれない涙が、藤春の喪服にぽつりと落ちる。
「……怖い夢を見たのか?」
 緋馬は答えなかった。答えられなかった。
 夢じゃない。でも、夢だと思いたい。もう一度この胸の中に戻ってこれただけで、心が壊れそうだった。
「……いや、なんでもいい。お前がここに居てくれるだけで、おじさんは嬉しいよ」
 まだこの人は生きている。あたたかい。触れられる。匂いもする。声もする。言葉もくれる。
(好きだ。……守りたい)
 その想いだけで、胸がいっぱいだった。


 /7

 やけに静かな朝だった。窓の外はまだ薄曇りで、冷えた空気が畳をゆるやかに撫でていた。
 藤春は寝具の上でひとり、身じろぎもせずに天井を見つめていた。
 心臓が変な鼓動を打っている。何かを思い出しそうで、けれどそれが口に出せるようなものではなく、まるで深く沈んだ泥の中に手を差し入れて、何か得体の知れないものを掴んだまま引き上げられずにいるような。
(夢だった……よな)
 声に出せば、崩れそうだった。だから心の中で繰り返した。
 夢だ。あんな地獄、現実のはずがない。あんなにも痛くて、あんなにも絶望して、それで……死んだ。
 自分の指が、骨が、肉が、壊れていく感触。男の笑い声。そして――緋馬の、泣き叫ぶ声。
「……緋馬……」
 思わず名を呼んでいた。
(あの子は……あの子を、俺は、守れた……? あの夢は、俺が緋馬を守れた、ってことだよな……?)
 自分が無抵抗を貫いたのだから、緋馬は殺されずに済んだ。あんなに泣かせてしまったけど、ちゃんと自分はあの子を守れたに違いない。
 触れられなくて伸ばしていた手や、伝えきれなかった想いを記憶にはっきりと刻まれているが……それを現実と受け入れたら、もう自分が立っていられなくなりそうだった。
 だから藤春は口を閉ざした。感情を押し殺し、朝の支度に専念する。
 そこへ、襖が開いた。ゆっくりとこちらに歩み寄る気配。見なくても分かった。緋馬だった。
「……おじさん」
 声を聞いた瞬間、胸の奥が軋む。懐かしさではない。安心でもない。
 恐怖と安堵の入り混じった、言いようのない生々しさ。
(そんな顔……死ぬ前の、あの最期の顔と……まるで、同じ)
 まさか。まさか、お前も――悪夢の記憶を持っているのか?
 そう問いかけそうになった。でもその問いを口にすれば、あの地獄が現実になってしまう。だから、藤春は笑う。ぎこちなく苦しく、それでも優しく。
「……おはよう」
 夢だと思いたかった。そうでなければ、耐えられなかった。
 目の前にいる緋馬はまだ生きていて、笑っている。それで十分じゃないかと、自分に言い聞かせるしかない。
 緋馬は何も言わず、緋馬は駆け寄っていた。躊躇もなく、勢いのまま藤春の胸に顔を埋めた。まるで頼りなく不安げに。唇を噛んで涙を耐える緋馬を抱きしめる。
 胸が痛い。でも同時に、たまらなく愛しかった。
(この子は……なんでこんなにも、脆くて、泣き虫で、綺麗なんだろう)
 拾ったあの日のあの小さな手のぬくもりなら、今もはっきりと指先に残っている。
 最初は甥だった。そのうち息子のように思うようになった。けれど今はもう。
「……おいで」
 藤春は敷きっぱなしにしていた布団の上に腰を下ろすと、そっと布団の端を叩いた。
 さっきまで抱き着いていた緋馬は迷うことなく身を寄せ、体重を預けてきた。震えている肩を、再び藤春は抱きしめ返す。
 腕の中でこうして温もりを感じられるだけで、もう他に何もいらないと思える。
 藤春はもう知ってしまっていた。地獄を一つ見てきた今、自分がどれほどこの子を愛していたのかを。
 この子に触れるたびに、心が静かに焼かれていくようだった。




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