■ さわれぬ神 憂う世界 「高梨藤春の逃心残影」 ・ 番外編2ページ目


【番外編:藤春】

 /1 

 遠くで汽笛が一つ、細く鳴る。
 人気のない小さな駅舎にある冷えきったベンチに、藤春は一人で座っていた。
 風呂敷に包まれた荷の中身は、僅かな着替えと濡れたスケッチブックだけ。剥き出しの現金を掴んで仏田の屋敷から逃げ出したのは、ほんの数時間前のことだった。
 泥にまみれた足元を見下ろす。かじかんだ手が、小さく震えている。
「……逃げたんだな、俺……」
 漏れた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
 胸の奥が軋む。鋭い棘を呑み込んだような痛みが残る。畳に染みついた血と焦げの匂い。怒号と叫び。あの屋敷、あの地獄。次々に苦痛の記憶がが少年を襲う。
 もちろん優しい記憶はあった。兄・光緑の微笑み。弟・柳翠のあどけない笑顔。
 けれど母のように笑い、自分の絵を褒めてくれた兄は、別人のように変貌した。そして……甘えて「にいに、だっこ」と縋ってきた小さな弟を、あの地獄に置き去りにし、自分だけが逃げた。
「……柳翠……」
 名を呼んだ瞬間、喉が塞がり、呼吸が止まる。
 あの子の泣き声。握ってくれた指の温もり。全部、置いてきてしまった。
「……ごめん……」
 唇を噛む。堪えていたものが決壊し、涙が頬を濡らす。声に出すまいと奥歯を噛み締めても、嗚咽は喉の奥から漏れ出した。
 顔を膝に埋め、肩を震わせて泣く。
「ごめん、ごめんな……情けない兄でっ……ごめん……俺は……俺のために、逃げたんだ……」
 自分の耳にすら耐えがたいほど惨めに響く声。
 誰に責められたわけでもない。それでも耳の奥で誰かが「お前はなんてことをしたんだ」と苛み、傷んだ。

 光緑は逃げなかった。誰よりも優しく美しかった兄は、弟たちの命のために自ら地獄に身を投じた。
 柳翠はまだ幼い。甘えることしか知らず、「にいに、だっこ」と腕を伸ばすだけの子だった。あの子は今も泣いているだろうか。誰にも助けを求められず、小さな手を握ってくれる人もいないまま、傍にいる筈の藤春を求めて泣き叫んでいるのではないか。
 怖い。血の匂い。怒声。殴られた全身の痛み。俯いた光緑の姿。破れたスケッチブック。泣き続ける柳翠の声。全部、耳に残っている。吐き気がするほど鮮明に。
「ごめん……光緑兄ぃ……柳翠……俺は……怖くて、あそこにいたくなくて……逃げたんだ……」
 凍てつく指先。だが藤春の身体は立ち上がれなかった。
 足が動かない。仏田寺の方角を向こうとすれば、心臓が暴れ、息が乱れる。
「……俺は……最低だ……」
 兄が待っていても、弟が泣いていても、自分の足は一歩も戻すことができなかった。

 逃げて数日も経たぬ朝。寂れた民宿。冷たい畳の上、藤春は眠ったふりをしていた。
 寝つけぬまま過ごす夜の後、戸を打つ鈍い音が響く。ドンドンドンと重い足音。
 戸を開けたのは、黒い背広の男たちだった。誰一人、怒声を上げない。無表情に部屋へと踏み込み、畳にうずくまる藤春の肩に無遠慮な手を掛ける。
「ご子息。迎えに上がりました」
 敬意のない声色。事務的でどこか見下した響き。
 藤春は抵抗しなかった。できなかった。脚が震え声も出ないまま、黒塗りの車に押し込められる。そうして山へ、仏田家へ――これは帰還という名の処刑だと、本能が告げていた。
 門の前で、年かさの男が口を開いた。
「逃げた罰ってのは償ってもらわんといけません。たとえそれが組長の坊っちゃんでも」
「その指、大事にしてたんですよね。絵を描くのが好きなんだって?」
 心臓が跳ねた。――指を壊すつもりだ。
 紙の手触り。鉛筆の音。「にいに、かいて」と笑った柳翠。「上手だね」と微笑んでくれた光緑。全部、指が覚えている。
「……やめて……やだ……」
 涙声が洩れた。惨めだった。でも止まらなかった。
「描けなくなったら、俺……生きてる意味が……!」
 男たちは、嘲るように見下ろすだけ。汚れた犬を見るような目だった。
「どう生きるかは、お偉いさんが決めることです」
「坊ちゃん。逃げたらケジメは必要なんだよ」
 暴力は無い。罵声も無い。ただ言葉と沈黙が藤春の心をねじ伏せていく。
 そのとき微かな足音が響いた。足音を耳が覚えていた。頼道だ。光緑兄が笑うとき、柳翠が甘えるとき、いつも背後にいた大きな影。熊のように大きくて温かくて、藤春を抱きしめてくれた味方が現れる。
「頼道殿。ご覧の通りです。坊ちゃんの躾の手順について……」
 誰かが言いかけた、そのとき。低く凛とした声を放ちながら頼道は進み、場の空気を鋭く断ち切った。
「藤春が結界を破って外へ出た件、全て私の教唆によるものです」
 場が凍りつく。
「私が仏田家の掟を破り、次男坊に外の世界を見せようと唆しました。自分の意思で、です。藤春には責任は無い。全て私の責任です」
「……現当主の弟に対して、そのような指図を?」
「はい。どのような処罰も甘んじて受けます」
 頼道は頭を垂れる。
 その背中に悔いの影は無い。嘘をついて、藤春を庇った。
(やめて……やめてよ……頼道兄さん、やめてくれ!)
 言わなきゃいけなかった。「違う」と。本当ならそんなのいけないと言い張るべきだ。
 でも恐怖にすくんだ口は、動かない。縮み込んだ藤春の口は、まったく動かなかった。
(俺のせいだ……弱い俺が逃げただけ……あんたじゃない、頼道兄さんは悪くない、何も悪くないっ!)
 言うべき真実が、言えない。ならお前が罰を受けろと言われるのが怖くて、何もできない。
 何も言えないまま――指を折られることはなかった。
 その後、地下の暗室に三日三晩閉じ込められ、罵倒を浴びせられた。けれど指だけは守られた。
 その意味を知ったのは、もう少し経ってから。壊されたのは、頼道の指だった。
 頼道の右手の指が歪み、関節はずれ、深い縫い痕のもと不自然にしか動かないようになっている。
「よお、藤春。元気そうで良かったぜ」
 そんな姿になったにも関わらず頼道は、変わらぬ笑顔を浮かべていた。藤春の視線に気づけば、わざと指をひらひらと揺らしてみせる。
「……頼道兄さん」
「不便なもんだな。絵描きにはなれねぇが、坊主にはなれる。これくらいで丁度いいだろ?」
 その冗談が、胸に刺さる。
 藤春は、何も返せなかった。膝から崩れ、頼道の前に倒れこんだ。
「なんで……なんでそこまでして……俺なんかのために……」
 頼道は静かに答えた。
 さらりと、当然のように。
「光緑に頼まれてるからな。弟たちを頼むって。……あいつは今、動けないから」
 その笑みは、昔と変わらぬ、柔らかであたたかい。
 彼だって光緑が深く傷ついているか知っている。藤春以上に全てを引き受け、苦しんでいる。にも関わらず、従者以上に――光緑を愛しているからこそ、不在を抱えて代わりに立ち続けていた。
「ごめんなさい、頼道兄さん……俺は、そんな強くなれない……」
 藤春は唇を噛み、声を詰まらせた。
 頼道は、壊れた指でぽんと頭を撫でる。その手は大きくてあたたかい。本当に昔と変わらない。
「俺が藤春を守るのは、俺の意地だ。勝手にやらせてくれよ。……お前は、そのうちでいい。小さい子を助けられる人間になってくれ。でも、うん、まだいいんだ。……お前はまだ、子どもなんだから」
 その優しさが痛かった。
 藤春は泣いた。守られてばかりの自分が悔しくて情けない。それでも頼道や光緑のようにならなければと、心の奥で願いながら泣いた。


 /2

 柳翠に会わせてほしい。藤春が戻されて以来、幾度となく口にした。
 逃げたことが罪ならば罰は受ける。それでもせめて弟に直接謝りたかった。
「どうか……柳翠に、会わせてください」
 しかし返ってくるのは、冷ややかな視線だけ。
 ――お前には、その資格がない。
 ――仏田の血を引く者として、当主筋の弟に近づくには、あまりにも汚れすぎた存在。
 外に逃げた者。裏切り者。それが今の藤春であり、彼に与えられた立ち位置だった。
「柳翠様は当主の御子息です。罪人と引き合わせる理由はありません」
 畳の上に額を擦りつけるように頭を垂れ、喉の奥に引っかかる声をどうにか言葉に変える。けれど、誰も応じなかった。
 柳翠は既に隔離されていた。泣き虫で甘えん坊で、兄たちの袖を握ってばかりいたあの弟は、今ひとりきりで教育を受けさせられている。
 誰の手も届かない部屋で、泣いても誰も来ない部屋で。小さな手を伸ばしても誰も抱いてはくれない場所で、鍛錬を受けさせられている。想像しただけで、肺の奥が痛んだ。
 ――にいに、だっこ。
 あの声が耳の奥に蘇る。小さな掌。眠るときにひっついてきた柔らかい体温。思い出しても、もう触れることはできない。
 弟の姿を見ることも声を聞くことも許されず、謝ることも抱きしめることも何一つできない。「これからは絶対に守る」、そう誓った言葉は、呆気なく砕かされた。
 兄との約束を破った後悔。頼道を犠牲にした悔恨。弟を守れなかった自責。これからやり直そうと思った矢先に、この絶望。
 守れない約束というものが、これほど苦しいものだとは。知らなかった。

「藤春様。お迎えにあがりました」
 淡々とした声が静寂を裂く。機械が発する通知のように決定事項が告げられた。
 仏田家付きの事務官と、名も知らぬ機関の男たちが、無表情のまま淡々と書類を読み上げていく。
『仏田 藤春、当家より超人類能力開発研究所機関へ贈与する』
 最初から全ては決まっていた。機関に渡すべき素材が反抗も許されぬまま予定された檻に収まる、それをただ待っていただけ。
 光緑はそれを誰よりも拒んでいた。弟が「売られる」ことだけは何としても止めたくて足掻いていた。だからあれほどに傷ついてまで必死に自分たちを守ろうとした。
 けれど、その兄は今、いない。藤春は仏田家にとって都合の良い贈答品として、研究所へ引き渡される。
 白衣を着た男たちが、藤春の体を待っていた。これから身体を開き、測り、試し、壊すために。
 彼らの目には、藤春はただのモルモットにしか映っていない。

 機関では誰も怒鳴らない。手も上げない。罵りも嘲りもない。あるのは感情をそぎ落とした敬語と、表情を持たない笑顔だけ。
「藤春様、こちらへお座りください」
「本日は簡単な反応試験を行います。ご協力ありがとうございます」
 協力。提供。報告。その全てが丁寧すぎるほどに丁寧だ。実態は、檻の中の生きた観察体に他ならない。
 白で塗り尽くされた個室。壁も床も天井も汚れ一つ許されないほど清潔で、窓はなく、唯一の光源は天井に埋め込まれた監視カメラだけ。備えつけのベッドと机。全く同じデザインの白い衣服。毎朝同じ時刻に点灯され、同じように試験が行われ、日が終わる。
「ご安心ください。苦痛は最小限に抑えられます」
「抵抗は記録に影響を及ぼしますのでお控えください」
「藤春様、お疲れでしょう。鎮静処置を致します」
 名前を呼ばれる。敬語で話しかけられる。けれど、そこに自分の意思は存在しない。
 共鳴反応と呼ばれる試験では、異能を持つ他の被験者と強制的に接触させられた。皮膚に焼きつけられる魔術刻印を刻まれることもある。血液と骨髄は定期的に抜かれた。
 何があるかを調べられるために、身体は常に開かれた状態にされた。
 彼らにとって藤春は、仏田の血を受け継ぐ希少な素体。遺伝情報。脳波。神経応答速度。魔力伝導率。全てが数値となり、図表となり、価値として並べられる。
 人格も感情も、名前ですらここでは余分なノイズだった。

 痛みに声を上げたことがあった。そのとき職員の一人が微笑んで言った。
「大丈夫ですよ、藤春様。貴方は貴重なお体ですから」
「そう簡単に壊したりは致しません」
 精密機器の取扱説明書のように自分が語られる。丁寧な敬語の底にある非人間性に、藤春は凍えるような恐怖を覚えた。
「ご協力、ありがとうございます」
「やはり仏田家の素体は、反応が非常に良好です」
「次は神経伝達強化の試験に移行します」

 機関に来てから、夜が来た実感は無かった。
 窓が無い世界に時間は存在しない。光が落ち、食事のカートが差し入れられる日々。与えられる無味乾燥なスープ。温度だけが保たれた肉片。決まりきったパン。咀嚼するたび、生きることが「実験継続のため」と条件づけられていることを身体の奥に刻まれていく。
 叫び出したい夜もあった。けれど声を上げれば「精神不安定の兆候」として薬が増やされた。
 壁の向こうにもきっと似たような少年たちがいた。だが互いの声は届かない。顔も見えない。番号だけが壁に記されていた。
 人間ではない。けれど、名だけは丁寧に呼ばれる。その矛盾が、何より心を削った。
 眠っている間に身体を切られていても、気づかない朝があった。
 逆に、痛みがあることで「まだ自分だ」と感じられる夜もあった。
 ここでは人格が削られ、分解され、解析される。それでもなお、「藤春様のご協力に深く感謝いたします」と笑顔で告げられた。

 ときどき、思い出すことがある。
 頼道の温かな手。光緑の撫でるような声。柳翠が「にいに」と甘え、みんなで過ごした優しい時間。今では、夢の中の記憶になってしまった。
 自分は仏田家からの贈答品。特別な血を持つ次男。手術台に乗せられる素材。幾度も注射を打たれ、開かれても、なお生かされる献体。本当は違うのに。光緑の弟で柳翠の兄の筈なのに。
 許される日が来るまで、あの日々に戻れない。この日々は終わらない。
 けれど、藤春は逆らえなかった。逃げることは、選べなかった。
 自分が反抗すれば、次は柳翠が来る。
 一言もそう言われたことはない。けれど、次男が使えなければ、三男を。兄が壊れたならば、弟を。その未来を、藤春は悟っていた。
 だからこそ堪えた。あの子だけは、絶対に守る。今度こそ。それが藤春にとって最後の理性だった。


 /3

 16歳になった柳翠は、白衣を纏っていた。
 まだ小柄で頬にはあどけなさの余白が残っていたが、佇まいはどこか背筋が伸び、少年というより研究者のそれになっていた。
 ガラス越しの面会室は、いつも静寂に包まれている。
 藤春と柳翠は、向かい合って座った。
 二人の間に嵌め込まれた防弾ガラスは、音声を通すための穴を持つだけで、触れ合う術はどこにもない。
 けれど、こうして再び顔を合わせる日が訪れるとは、夢にも思わなかった。
「柳翠。……研究は、順調か?」
 声を掛ける藤春の口調は、できるだけ穏やかで、傷つけないようにと願うように柔らかい。
 だが柳翠は視線を伏せたまま、兄の目を見ようとはしない。
「兄上……今日は、時間……10分だけ。……無駄なこと、しゃべるだけ無駄」
 変声期を過ぎたばかりの低めの声。言葉はどこか投げやりで、突き放すような口調だった。
 不器用な拒絶の裏に、微かに揺らぎを藤春は感じ取っていた。
(こんな風に話す子じゃ、なかったのに)
 小さな手で袖を掴み、「にいに」と笑いながら懐いてきた幼子の面影が、藤春の胸の奥から滲み上がる。
 目を合わせない。声に棘をつける。近づこうとすれば一歩身を引く。その全てが、この子が生き延びるために獲得したすべなのだと思えば、胸が締めつけられた。
「今、どんな研究をしてるんだ?」
 なんでもないように日常の話題を振る。そうするしかなかった。
 柳翠は一拍の間を置いて、簡潔に答える。
「身体強化と再生の応用。生体術。結界の反応率……くらい」
 事務的に並べられる言葉。それでも語尾に応じようとする気配が滲んでいる。たったそれだけのことで、藤春の胸は熱くなった。
 喜びの次には、必ず現実が顔を出す。
 柳翠が魔術研究という過酷な道を歩めていること。それは他の選択肢を与えられなかったという事実の裏返しだ。
 泣かなくなった。怒らなくなった。何も求めなくなった。それを成長と称される。その立派さが、何より哀しい。
 思わず藤春はガラスに手を添える。名を呼ぼうと唇を開いた、そのとき。
「……そんなとこ、ベタベタ触らないほうがいい。汚い」
 目も合わせないまま、柳翠が吐き捨てるように言った。
「柳翠……ごめん」
 それしか、言えなかった。
 足りないと分かっていても、何を言えばいいのか分からない。
 触れられない距離。それが過去の全てを語っていた。

 そして20歳を迎えた藤春は、告げられた。
「研究所での任務はこれにて一段落となります。藤春様には、これまでの貢献を心より感謝申し上げます」
 白衣の職員は最後まで敬語を崩さず、微笑んでいた。まるで本当に、任務を全うした賢者を労うように。
 だがそれは終わりではなかった。ただの切り替えに過ぎない。
 仏田の人間に自由など、与えられるはずもない。たとえ外の空気を吸えたとしても、呼ばれればいつでも身体を差し出す。それが契約だった。
『仏田 藤春は、召喚に応じ身体提供その他の試験協力を拒むことができない』
『拒否の場合、代替素体として仏田 柳翠が招集される』
 それは、逃げ場のない枷だった。
「これからは、高梨 藤春という名でお暮らしください」
 新たに与えられた姓は、高梨。研究所で長らく藤春を担当していた女研究者の名から取られたという。
「一番、貴方に親しみを持っていた職員の名です。違和感は少ないでしょう」
 書類係はそう述べた。笑顔でも皮肉でもなく、ただの事務的な配慮として。それが藤春の人間としての名。まるで愛玩動物に飼い主の名を与えるようだった。
 退所時、口座には十分な生活資金が振り込まれ、都内近郊のワンルームマンションが用意された。住民票、身元保証、健康診断書も全て整えられている。
 自由のようでいて、それは配置だ。仏田の名を奪われ、しかし仏田の支配からは逃れられない。
 夜中に呼び出されるかもしれない。明日、血を抜かれるかもしれない。記憶を取り出され、人格を上書きされる日が来るかもしれない。それでも高梨 藤春は、沈黙のまま応じなければならない。
 つまり――追放されながらも、なお飼われ続ける存在になったのだ。
 そうして藤春は新たな生活を始めた。朝、コーヒーの湯気を眺め、自分で服を選び、好きな時間に街へ出て、働く。決められていない食事をして、夜遅くに眠る――自由な人間になれた。
 所詮、自由な人間のふりに過ぎなくても。

 次に仏田寺の山門を訪れたとき、記憶の中よりもそこは遥かに大きく見えた。無言で立ちはだかる門は、藤春を拒んでいるようにも思える。
 かつては名前一つで通れた門。今は、来客として取り次ぎと許可と訪問理由を求められた。
「高梨様。どうぞこちらへ」
 案内人は名を呼ばない。ただ、機械的に「様」をつけて動作だけを示す。通されたのは、書院造りの控えの間だった。
 自分はもう、この家の人間ではない。ありとあらゆる事象がそれを突きつける。
 柳翠が現れたのは、それから十分後だった。
 すっかり背が伸びていた。整った横顔は光緑に似て、仏田の血の美をそのまま受け継いでいる。その顔には、どこか深い疲れが滲んでいた。
「……兄上。何か用か」
 その第一声が、胸に刺さった。柔らかさのない言葉。それでも「兄上」と呼ぶ。その一語だけで、胸が熱くなる。
「久しぶりにお前の顔が見たくて。それだけだ。……急に来てごめんな」
 藤春がそう告げると、柳翠は少しだけ目を伏せ、そして視線を逸らした。
「研究が押してる。……今週だけで五件タスクが振られてる」
 声に抑揚はなく、目も合わせない。感情を見せれば、踏みにじられるから。優しさを見せれば、弱者にされるから。生き延びるために、不器用な防具を身に纏っているように見えた。
「柳翠。もう俺は迷惑かけない。ただ……なんかあったら、なんでも言ってくれ」
 期待も責任も、押しつけたくなかった。藤春はただそれだけを伝える。
 柳翠はしばらく黙っていた。やがて、ほんの少し顎を引いた。
「……勝手に来て、勝手に帰ればいい」
 それは、彼にしては精一杯の肯定だった。
 それで十分だった。兄として手を握れなくても、背を撫でられなくても――この場所に「来ていい」と言ってくれた。それだけで赦された気がした。
「……ありがとう」
 そう言って藤春は立ち上がる。
 廊下の先で、柳翠がふいに声を掛けた
「……処方された霊薬は、ちゃんと飲め。……外には、心霊医師なんていないんだから」
 藤春は、笑った。
 声には出さなかった。けれどその胸の奥に、確かに温かな火が灯っていた。


 /4

 定期的に藤春は仏田寺を訪れるようになった。
 機関からの召集を終えた帰りには必ず隣接する仏田寺に立ち寄り、柳翠がいる研究棟へと足を運ぶ。それが習慣になっていた。
 柳翠は「来なくていい」とぶっきらぼうに言う。けれどその言葉の裏に微かに滲む、消しきれぬ甘えと不器用な期待を藤春は知っていた。
 そして、出会う者には必ず頭を下げた。用件がなくても、季節の挨拶を添えて言葉を交わす。古株の僧にも、若い助手にも、変わらぬ礼を尽くした。
 仏田家の血を引くからではない。その名を捨てたからこそ、藤春は誰より丁寧であろうとした。
 少しずつ顔を覚えられるようになった。世話役のひとりが余った漬物を手渡してくれた。研究所の若手が「あ、今日はお兄さん来てるんですね」と気さくに笑ってくれた。静かな信頼が、藤春の周囲に少しずつ積み重なっていった。
 柳翠は相変わらず目を合わせず暴言ばかりでも、「帰れ」とは言わなかった。
 黙々と研究を続ける弟の背中を、そっと見守る時間。それが藤春に許された、兄としての贅沢だった。

 藤春も、仕事を始めた。
 学歴は無い。中学も高校も通っていない。けれど機関で与えられた膨大な教本と訓練は、世に出ても通用する基礎知識として根を張っていた。
 働かなくても生きていけるだけの資産は与えられていた。だが藤春は自らの足で立とうとした。アルバイトを見つけ、少しずつ実績を積み、発展可能な職をいくつか得た。
 日中は働き、夜はマンションで静かに過ごす。月に一度、機関から連絡が入れば出頭し、黙って検査を受けた。
 そのたびに仏田寺を訪れ、柳翠に変わらぬ挨拶をした。
 生活は穏やかだった。幸福とは呼べない。けれどかつての藤春が望むことすら諦めていた、普通の暮らしを手に入れつつあった。

 その女性に初めて会ったのは、そんなある午後のこと。
 いつものように研究棟を訪れた廊下の奥から、軽やかな笑い声が聞こえてきた。
 仏田家の魔術、機関の血筋、千年の因習――そのような重苦しい空気に満ちた世界で、人の笑い声はあまりにも異質だった。
 名は、錠宮 陽奈多。白衣の裾を軽やかに揺らし、明るい栗色の髪を風に撫でさせるように揺らす女性。快活な口調、屈託のない笑顔。まるでこの場所に春の陽差しが射し込んだような、不思議な存在だった。
 彼女は、異能解明のために機関から派遣された若き研究者だった。柳翠と同い年。それなのに新鋭の技術にも、古典魔術にも柔軟な興味を示していた。
 本来、柳翠とは相性が最悪だ。けれど藤春の目は見逃さなかった。日に日に柳翠が、陽奈多の姿を目で追っているのを。
 ぶっきらぼうな言葉の奥に、慣れない焦燥。言葉を選び、姿勢を正し、僅かな期待と警戒を、無意識に織り交ぜる。
 誰かを信じることが怖い柳翠。優しさに触れることが、どれほどの危険か、身体に叩き込まれてきた少年。その彼が、人の名前を呼び、会話を続けていた。
 それは、奇跡に近い変化だった。
 陽奈多はあまりにも素直で、明るくあたたかい。彼女の存在は、柳翠の冷たい殻をゆっくりと溶かしていく。
 誰かに心を許す。それがどれほど尊く、どれほど救いであるかを――藤春は痛いほど理解していた。

「兄上。陽奈多の絵を描いてほしい」
 その一言に、藤春はすぐに言葉を返せなかった。
 これまで柳翠は、陽奈多について一切触れまいとしていた。それだけにその願いの重みは計り知れない。
 絵を、描いてほしい。それは、心の奥を誰かに託すということだ。
 藤春がゆっくりと聞き返すと、柳翠は目を逸らし、気まずげに呟いた。
「……変な意味じゃない。……記録に、残しておきたくて。顔の」
 机の縁を指先で撫でるようにしながら、言葉を並べていくその様が、何より雄弁だった。
 ――ああ、この子は、本当に陽奈多を愛しているのだ。
 嬉しかった。柳翠が誰かとの繋がりを残したいと願ってくれたこと。そしてその願いを、自分に託してくれたことが。
 数日後。描かれた肖像画は、静かに額装されて研究室の奥に置かれた。あの地獄のような幼少期を思えば、それはまさに奇跡だった。

 柳翠が外に出ることは、まずない。
 その彼が、ある日、街に現れた。マンションの扉の前に、じっと立っていた。
「……柳翠?」
 気づいて駆け寄ると、柳翠の顔は蒼白だった。
 隈の浮いた目元。肩は落ち、今にも崩れ落ちそうなほど頼りない足取り。
 藤春に支えられるようにして、部屋の中へと入っていった。
「……子どもが、できた」
 第一声が、それだった。
 藤春は、意味を理解するまで何度も瞬きを繰り返した。
「陽奈多さんの……?」
 柳翠は、小さく頷く。
「……兄上……これは、本当は、喜ばなきゃいけないことなのか……?」
 その問いかけは、掠れた声だった。泣き虫だった幼いあの顔が、ふいに蘇る。
「陽奈多を愛してる。手を繋いで、隣にいるだけで……それで、十分だったんだよ。奇跡だった。……僕には、それ以上、望んじゃいけなかったんだ」
 藤春は黙って耳を傾けていた。
 柳翠がこんなにも率直に心情を語るのは、何年ぶりのことだったろう。
「僕は子どもなんて……作っちゃいけない。仏田なんて……呪われた血は、僕の代で終わらせなきゃいけなかったのに」
 叫ぶように紡がれる言葉。
 その隙間から、染みついた自己否定が顔を覗かせる。涙が頬を伝った。
「それなのに、陽奈多が……あんなこと……僕は、駄目だって言ったのに……でも、陽奈多が……気づいたら、抗えなくて」
 藤春の思考が止まる。
 柳翠は、嘘をつけない人間だ。震える肩を抱え、うずくまる弟の姿に、幼いあの頃の影が重なる。
「僕が、悪いんだ。陽奈多は悪くない。僕がちゃんと拒めば、逃げれば……守れたのに、怖くて、動けなくて、何もできなくて……!」
「やめろ……柳翠、それ以上は言うな……!」
 その言葉が、藤春の胸を撃ち抜いた。
 ――逃げれば。守れたのに。怖くて。何もできなくて。
 ――俺は逃げた。俺は守れなかった。俺は怖かった。俺は何もできなかった。
 まったく異なる状況のはずなのに、それら言葉は、かつての藤春自身を焼くように次々と突き刺さる。
「頼む……やめてくれ……それを、しゃべるな……!」
 慟哭を続けようとする柳翠に、いつしか藤春は怒鳴っていた。
 それが、柳翠にとっては拒絶に思えただろう。彼はそれ以上何も言わず、口を閉ざす。
 慰めも対処も、何もできない。藤春はあらためて自らの無力さを知った。

 産室の前に立つ藤春の耳に、産声は届かなかった。
 白衣の者がひとり、扉を開けて言う。
「母親は、助かりませんでした」
 ――陽奈多は、死んだ。
 柳翠が愛し、拒み、それでも守りたかったその女性は、出産の末に命を落とした。赤子は無事に生まれたという。だがそれが何の救いになるのか、藤春には言葉にできなかった。
 棺の前で、柳翠は泣き続けている。呟きは、凍ったナイフのように藤春の胸を刺していく。
「止めたのに……いらないって言ったのに……どうして……どうして僕が……」
 やがて、女たちが布にくるまれた赤子を連れてきた。
 柳翠は、決して受け取らなかった。代わりに、藤春がその命を両腕で受けとめた。
 ――温かかった。信じられないほど軽く、それでいて、胸の奥にずしりと沈む重みがあった。
 この子は、生きている。生きているのに、柳翠は一切子供を見なかった。

 陽奈多の同僚が言うには、彼女は昔から死期を悟っていたのだという。明るく無邪気そうでありながら、真には天涯孤独の身で、家族を作ることに強い執着をしていた節があったらしい。
 だからたとえ確率が低くても、自分の夢ならばと……賭けてみたかったのだと話していたという。
「冗談じゃない……!」
 柳翠が、それを話した同僚に向かって手近な本を投げつけた。子どもじみた暴挙だった。けれど、誰も咎めなかった。
「なぜ僕なんだ。なぜ、僕を選んだ! 僕は、陽奈多自身を……あの人自身を選んだ! 心から愛してたのに! 僕は、陽奈多の分身なんていらなかったのに……!」
 愛した女の身勝手な主張に、壊れたように叫ぶ男。あまりにも子供じみた泣き方。それでも、誰も止められなかった。それほどに、柳翠の叫びは――幼く痛ましいもので、誰もが目を背けたくなるものだった。
 彼はただ、彼女と生きたかったのだ。ただそれだけだったのに。
「僕は! ……やっと、ひなに選ばれて幸せだった僕は……ただの馬鹿だっていうのか……」
 物を投げつけ、その場にあったものを破壊する。成人した男らしからぬ行動をしても、止める者はいない。
 それほど柳翠が哀れだと、あの幼い男が憐憫を誘って皆が目を伏せるほど――彼女への叫びが悲痛なものだったということだ。


 /5

 5年が経った。
 父になっても泣きじゃくっていた弟の姿は今もなお、藤春の瞼の裏に焼き付いて離れない。泣き叫び、怒りをぶつけ、やがて声も涙も尽きて――ただ、背を向けた柳翠。あのときの彼に、藤春は手を差し伸べることができなかった。
 そして、外の人間に過ぎない藤春は、以後、仏田の敷居を跨ぐことが叶わなかった。
 時間だけが、無情に過ぎていった。
 短い手紙を幾度も送った。他愛もない言葉ばかり。けれど、返事は一通として来なかった。
 機関から召集があれば出向いた。だが、柳翠のいる研究棟の門が開かれることはなかった。
 藤春の名が記された入所証は、ついに発行されなかった。柳翠が、首を縦に振らなかったのだろう。

 藤春は、働いた。何でも良かった。どこかに、自分を繋ぎとめてくれる糸があるのなら、それに縋りついてでも生きたかった。
 いくつもの職を転々としながら、ある日、ふと一枚の水彩画を古い友人が見つけた。
 それが縁で、小さな出版社を紹介された。最初は学習参考書の挿絵だった。次に、パンフレットの一隅を飾る小さなカット。やがて、文芸誌の装丁画。
 どれも、ささやかな依頼だった。それでも絵を描くたびに、藤春の手は確かに何かを伝えようとしていた。
 例えば、誰かの孤独をそっと包むような色を。言葉にならない祈りを。静かに、切実に、誰かの呼吸に触れたいと願うように。

 アトリエとなったマンションの一室で、白い画用紙を前にしたとき、不意に浮かぶのは幼い背中だ。
 曇った瞳。震える肩。小さな、けれど確かなぬくもり。
 自分で金を稼ぐこともできるようになった。知り合いも多くなった。少しは、大人になった。今なら、あの子を守れるだろうか。
 どれだけ描けるようになっても、答えは返ってこない。
 求めた答えは手に入らない。けれど、それでも筆を止めることはない。絵とは、届かぬものへと伸ばす手そのもの。届かぬと知りながら、それでも手を伸ばさずにはいられない。それは藤春という人間の、哀しい習性のようなものだった。

 ある晩のこと。子ども向け地方紙に載せる挿絵を描き終え、それを乾かしていたとき。不意に、胸に温もりを感じた。
 思い出したのは、陽奈多のことだ。
 彼女は「家族が欲しい」と言っていたという。その願いを柳翠は「分からない」と言ったが、藤春には少しだけ理解できる。
 研究所の白い個室で、淡々と痛みに耐えていた日々。その最中にずっと思い浮かべていたのは、家族の顔だった。
 幼い柳翠。母のように微笑む光緑。頼もしく寄り添ってくれた大きな背中の頼道。短くても確かにあった、あの村での「家族ごっこ」の日々。あれは演技ではなかった。本物だった。愛おしかった。
 あの温もりは、毒にも似た媚薬だった。甘く、優しく、それゆえに……命さえ賭けたくなる。
 もし苦しみの果てに手に入るものだとしても、たとえ誰かを傷つけてしまうかもしれなくても、今の自分は家族という幻想に手を伸ばさずにはいられないのかもしれない。
(……『小さな子供を抱き上げる父親の絵』。上手く描けたとは思う。でも……『本当に描けているのか』。俺には、分からない)
 乾きかけた絵を前にして、藤春は涙し、震えていた。
 かつて頼道が言ってくれた。……そのうちでいい。小さい子を助けられる人間になってくれ。でも、まだいいんだ、と。
 いつか、分かりたい。いつか、家族と共に過ごして、あのときの愛おしさをもう一度手にして、本当に自分は家族を描けるのか、その実感を。

 絵を完成させた数日後、藤春はひとつの奇跡と出会うことになる。
 頼道の計らいによって、久方ぶりに発行された入所許可証。藤春の名が、再び仏田の記録に刻まれた。
 5年ぶりに越える仏田寺の門。その先に、藤春を待っていたのは――柳翠の面影を宿した、ひとりの少年だった。
 失われたものの代替ではない。求めていた家族の一部分が、藤春の足元に近づいていた。




 END

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