■ さわれぬ神 憂う世界 「仏田光緑の空蝕夢葬」 ・ 番外編3ページ目
【番外編:光緑】
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シャンデリアの光。紫煙が漂う天井。ベルベットのソファに深く腰掛けた客たち。琥珀のグラス。金縁の灰皿。夜の香水とウイスキーの甘苦い芳香が交じり合う地下そのものが、酔いの中に沈んでいる。
昭和の繁華街にある異界にて。その中央、円卓の一隅に仏田 光緑は座っていた。
漆黒のスーツに細身のネクタイに、襟元まできちんと締められた白いシャツ。後ろに束ねた黒髪の少年の面差しは、仏田の血の気高さを滲ませていた。どの照明の下でも曇ることなく冴え渡る美貌。端正すぎて、息を呑ませるものだった。
隣には嵐山組の現組長、叔父・照行が座している。正面に座るのは、皺の刻まれた顔に金の指輪を光らせた初老の男。葉巻の先をふっとくゆらせ、肘をついたまま光緑を値踏しながら眺めていた。
「あの和光さんの息子、って話は聞いとったが……随分と上品なボンボンやな。キャバなんざ来る顔じゃねぇ」
声は馴れ馴れしいが、侮蔑はない。ただ、器を叩いて音を聞くような品定めの響きが混じっていた。
「叔父のご厚意で現場を学ばせていただいております。未熟者ではございますが、どうぞご指導のほどよろしくお願いします」
光緑はそう言って、まるで茶会の主人のように静かに頭を下げた。所作には一分の隙もない。
「しっかりしとるな、たまげたたまげた。なあ、酒は飲めんのか?」
中年のヤクザが笑いながらブランデーを傾ける。光緑は手元を見つめ、そっと嬢にグラスを差し出させた。
「お手数をおかけします。注いでいただけますか?」
滑らかな白磁の頬。伏し目がちの瞳には仄かに艶が宿り、結われた黒髪が肩に落ちるさままでもが、一枚の日本画のよう。
席の女たちは光緑の所作に、微笑みながら応えた。芝居じみた賑やかさを纏うホステスたちでさえ、光緑の前では声を潜めていた。
やがて、相手を主だっていた照行が用事で席を立ち、円卓には光緑ひとりが残される。中年男が、ふぅと煙を吐いた。
「いやはや、若いとは聞いとったが、ここまでのべっぴんさんとは思わんかったわ。どこの姫さんか思うたぞ。照行兄さんがこんなとこ連れて来るんは、教育ちゅうより見せびらかしやろ」
からかいのつもりなのだろう。光緑は姿勢を崩さぬまま、にこりと微笑んだ。
「お褒めに預かり、光栄に存じます」
「そういや、聞いたことあるぞ。和光さんの嫁は、名のあるとこの姫さんを娶ったってな。霊力や血筋がどうとか、えらい上物だったらしいな」
酒と煙に紛れながらも、はっきりとした意図がある言葉だった。血統の価値。器の重さ。神輿となりうる存在かどうか。そうした品評が、今まさに為されている。
「……はい。母は、御家筋は公にはできませんが、霊性・資質ともに申し分ない方でした。ただ、私といたしましては父母の名を借りるには未熟の身」
口調には、謙虚さと、絶対に踏み入らせない一線とが共存している。
「少々おこがましいお願いですが……もし今後もこうしてお目通りを叶えていただけるのであれば、どうか私という人間を直接ご覧くださいませ。未熟ゆえの拙さをご覧になり、ご教示賜れましたら何よりの糧と存じます」
一語一句が音楽のように奏でられていく。完璧すぎて、どこか人ならざる存在のような声。それに呼応するかのように、氷がグラスの中で乾いた音を立てた。
「……なあ、坊っちゃん。そんなに綺麗な顔で見つめられると、触って確かめたくなるやないか」
伸びる指先。無遠慮な男の手が光緑の肩に触れようとした――その刹那。
空気が、ずしりと沈んだ。
その場にいる誰もが気づく前に、背後に大男が立っていた。
「申し訳ありません。お遊びの席に水を差すつもりはございません。ただ、主人には少々肌が弱うございまして」
黒のスーツ。熊のような肩幅。怒声でも威嚇でもない。ただ静かに、彼は相手の手元だけを見据えていた。
男の手が空中で止まる。触れてもいないのに斬られたかのような鋭さに、彼は思わず笑い出した。
「こりゃ驚いた。大した護衛をつけてるじゃないか」
光緑は、目を細めて微笑む。
「犬伏です。私と共に、学ばせていただいております」
「犬伏? 坊っちゃんの犬か。なるほど、立派なもん連れてるなァ!」
犬伏――頼道は、一言も発さぬまま背に控え続けていた。番犬のように。その沈黙こそが、光緑を護る力になっていた。
店で学ぶ日は、照行の運転手が帰りを送るような夜もあれば、敢えて自分たちで帰れと指示が出る日もある。今日は後者だった。
光緑たちのために用意された高級マンションに滑り込む。ドアを閉めきった瞬間、二人の肩が同時に緩んだ。
「……ただいま、頼道」
「おかえり。ふぅ、やっと終わったな。光緑、お疲れさん」
声はあたたかく、二人だけの帰還に相応しい静けさを帯びていた。
光緑は堅く締めたネクタイをようやく緩める。頼道は大きな体をほぐすようにバサリと上着を脱ぎ、ソファの背に掛けた。香水と煙草が混じり合った夜の香りが、衣服に微かに残っている。
「……頼道、今日もありがとう。僕、何度も頼道に助けられてたね。触れられそうになったときも、すぐに……」
「ああ。お前を守るのが、俺の仕事だからな」
頼道は、肩を竦めながら笑った。
本当はあの場面は堪えるのに必死だった、拳が出かかっていたんだ……。そう頼道は笑い話にする。
「頼道、先に汗を流しておいで。お疲れだろう?」
「お前は主役で大変だったんだから、先に休めよ」
「ううん、僕は座って飲んでるだけだったから。まだ元気。……頼道がいてくれたから、僕はいくらでも頑張れるよ」
頼道は目尻を下げ、何も言わず頷いた。
光緑の言葉には、時おり芯の熱が宿る。礼儀を崩さずに真っ直ぐ想いを伝えることができるその人柄を、頼道は誇らしく思っていた。
頼道がバスルームに消えた後、光緑はリビングの窓際に立つ。真夜中の街が、まるで星々のように地上に降っていた。車のヘッドライト、看板の残光、人々の営みの尾が遠く滲んで見える。光緑は息をついて、そっとブラインドを下ろした。
山奥の仏田寺では見られなかった光景。けれど煌びやかなこの夜も、孤独を隠せるわけではない。
この部屋に流れる空気だけが、安らぎだった。
脳裏に浮かぶのは、まだ幼かったあの日々。十代の始め、小さな村で貧しい生活をしていた。薄い布団を肩寄せ合って眠り、ひもじくても幼い弟たち――藤春と柳翠、そして子供ながらに立派だった頼道と暮らしていた。
煌びやかな都会と極貧の村。まったく違う生活。だが、頼道と肩を寄せ合って眠るのは同じ。夜だけは、僅かでも毎日が幸せだったあの頃に戻れる時間だった。
眠りにつけるのは、せいぜい3〜4時間。帰宅は午前0時、起床は午前5時。次期当主、次期住職としての鍛練の只中だから仕方ない。
それでも――夜だけは、大切にしたかった。
照明を落とし、並んで横たわる。すぐに眠らなければ翌日がもたない。けれど、言葉が漏れた。
「……頼道。僕って、やっぱり……威厳、無いよね。いつも女性みたいって言われる。頼道みたいな大きな体にまた助けてもらって……」
「生まれつきの体に文句言ってもしゃあねぇよ。お前もちゃんと格好ついてた。あんなスマートな切り返し、俺には真似できねえ。俺が言葉に詰まったら、光緑が助けてくれよ」
「ふふ……うん。絶対、助ける」
それが今夜最後の会話だった。
すぐに頼道の寝息が始まる。気を張って疲れはてた眠りだった。
光緑は目を閉じることができずにいる。
日々『仏田の光緑』として振る舞っていた。威厳、品位、そして血統の重みを背負って。
けれど、夜になれば……彼の隣にいる「ただの光緑」になれる。
闇に目が慣れた光緑は、隣で眠る頼道の腕に触れた。熊のように大きな背中、無骨な肩の線、呼吸に合わせて緩やかに上下する広い胸。肌の温もりに、頬を寄せる。
(いつも僕の傍にいてくれて、ありがとう。……大好きだよ、頼道)
頼道は、いつだって傍にいてくれた。
同じ年に生まれ、共に育ち、共に戦ってきた唯一の存在。同志であり、親友であり、家族のような男。
けれど今の自分は、そのどの言葉にも当てはまらない感情を抱えていた。
もっと触れたい。唇に、頬に。この距離を越えて、触れられたい。
彼は親友で、護衛で、信頼する唯一無二の相手だ。けれど心は、言うことをきいてくれない。頼道が笑うたび、呼んでくれるたび、守ってくれるたび、胸が軋む。
(本当は、抱きしめてほしい。唇に、触れてほしい。きっと、こういうの……女々しいって言われるな)
決して、口に出せない願い。
だから今夜も、寄り添うだけで満たされたふりをする。頼道の寝息を聴きながら、誰にも言えない恋を胸の中で育て続けていた。
/2
足元に転がる肉塊は、もはや人ではない。関節のバラバラに捻じれ、骨が皮膚を突き破り、顔面の一部は潰れて消失している。血はまだ温かく、じわりじわりとアスファルトに滲み、夜の闇を静かに塗り替えていた。
魔術を用いれば、対象を穢すことなく、静かに絶命させることもできる。しかし今夜のこれは、明らかに異なる目的――見せしめの意味を帯びたものだった。
血の中心に、仏田 光緑は立っていた。
白い指先で、頬に跳ねた血痕をひと撫でする。その仕草は、どこまでも美しく繊細だ。既にいくつもの命を魔術で絶命させてきたから生じる美貌があった。
「処理班、連絡済みです。記憶の霧も展開しておきました」
淡々と報告する。声に心が無い。あるのは、訓練された人形の無機質な精密さだけ。
――抵抗させずに殺す。派手に殺して恐怖を植えつける。血統を誇る異能の家系であれば、その力の中身を暴いて殺すことで、さらに辱めを加える。
仏田の血を継ぐ光緑は、それをひとりでやり遂げることができた。
もう、殺しは初めてではなかった。魔術を学び、感情を削ぎ、嵐山組の礎として動く。それが与えられた役割であり、訓えられてきた生き方。記憶に刻まれた幾夜の修行の成果として、光緑は与えられた任務――敵対組織の粛清という名の殺戮――を、完璧に果たしていた。
「おう。よくやったな、光緑。……和光兄貴みたいだったぞ。さすが親子だな。いい礎になる」
背後から嵐山組組長・照行の激励が飛ぶ。
いい礎。その響きが、光緑の胸の奥をさらに冷たくした。
(そうだ、僕は……仏田家の土壌になるために生まれた)
父・和光の子として、血と力を継ぐ器として。仏田家という、千年に渡る連鎖の中に組み込まれた命。
その力が褒められたのだから、本来ならば喜ぶべきことだった。それでも、これが「好き」なわけではなかった。
(早く、頼道のもとに戻りたい……)
闇の中で、心の奥底に滲み出る名前。口に出さなくても胸に抱くだけで、呼吸が少しだけ楽になる。
(藤春と柳翠は……元気にしているかな)
幼い弟たちの笑顔も、今この場所で想うたび、胸の奥で小さな灯が瞬く。
光緑は息を吸い込み、背筋を伸ばす。跳ねた血を拭い、感情を封じて仏田の面を被った。
森田 胡蝶は、感激のあまり呼吸を忘れた。
――なんて、完璧。
端整な面立ち、滑らかに動く手首の所作も言葉を紡ぐ舌の使い方も、何もかもが絵画のよう。仏田 光緑――その名を冠するまだ20にも満たぬ少年は、毒を孕む花のようにこの世に咲きこぼれている。
その姿を胡蝶は嵐山組のアドバイザーとして、異能研究機関の監督官として、そして仏田家の非公式な秘書としてあらゆる角度から観察してきた。
(これほどまでの器に出会ったのは、瑠璃以来。300年ぶり)
顔立ちが美しいだけではない。あの少年の掌には、既に多くの血が沁みている。
躊躇いもなく命を屠り、魔術で魂を喰らい、それらを己のものとして受け入れている。誰かに教えられたわけではないのに、仏田の秘儀――聯合を、独力で再現しているのだ。
血の記憶を読む異能。それは正統の器にのみ許された才であり、千年前の彼女――憲子が生み出した祝福の力である。
(わたしの力をひとりで再現した? あの子は、千年の中でも傑作に近い。いや、おそらく……)
脳裏に浮かぶ名がある。彼女の長い記憶において最も強く、優秀だった男――月彦。
そして、彼と自分の間に生まれた奇跡の器――瑠璃。
(光緑は、あれらを越える完成形になりうる)
しかもまだ、あの器は満ちていない。既に大河のような魔力を湛えながらも、光緑の内部にはさらに注がれる余地があった。
(磨けば、もっと光る。もっと歪む。もっと咲く)
完璧な粛清を終えた光緑の姿を見つめながら、うっすらと唇の端を上げた。
その背に魔を注ぐ想像をした瞬間、喉が震える。
(そう、あの優しさも、懐かしい)
意識の奥に、色が立ちのぼる。
赤、青、紫。深い異なる光が溶け合い、濁らずに瞬いているあの目。見る者を射抜くような静かな虹彩。
それは、かつて見た――母なる神・魔鏡の眼差しと同じだった。
千年前、この地に降りた神々の手足。魔鏡は世界を映し、見抜き、惑わせた。その瞳は、あらゆる魔の核だった。
そして、さらに思い出す。その女神を、ただひとり本気で愛した愚直で美しい男――仏田家の始祖のことを。
(術の手つきが似ている……髪の癖まで似ているなんて、笑っちゃう)
間違いない。この少年は、あの二人の再来。神と人。愛と災厄。どちらもその器に受け継いでいる。
(あの子の中に、もっと相応しいものを注いであげたい)
汚してみたい。堕としてみたい。そうすればきっと――わたしが最も愛する姿が再来する。
欲望にも似た執着が、熱を孕んで腹の奥を焦がす。瞳は魔性の色を孕みながら、ただ一人の器――仏田 光緑を、飢えた獣のように恋い焦がれていた。
嵐山組の事務所に戻る頃には、夜はすっかり更けていた。
「矢倉組の異能者5名を確認。術式により完全排除済み。記憶改変と空間処理も完了。情報の漏洩はありません」
平坦な口調。どこにも乱れはなかった。照行は頷き、「解散でいい」と任務終了の合図がなされた。
廊下を抜けた先から、帳簿を抱えた頼道が出てくる。深夜の作業に追われた顔には、会計の指導を受けていたのだろう、疲れの色が見える。
だが目が光緑を捉えた瞬間、明確に変わった。
「光緑。無事か?」
声の奥底に宿るのは焦り。光緑は、小さく微笑んで頷く。
「今日は危なかったから……頼道は出なくて正解だったね」
本心だった。どんなに骨が軋む任務であっても、頼道が無事でいてくれる。それだけで、心から救われた。
もし殺気が交錯する現場に頼道がいたら。考えるだけで、胸がひやりと凍る。
けれど、頼道は眉を寄せた。手を伸ばし、光緑の細く冷たい指を、そっと包むように握る。
分厚くあたたかい、大きな掌だった。
「夏なのに、こんなに冷たくなって。震えてたんだろ、怖かったのか。……もう大丈夫、一緒に帰ろう」
静かで優しい声。その言葉の一つ一つが、ちりちりと胸に沁みてくる。
――怖くなかった訳じゃない。怖くないふりをしていた。でも怖くない。今、怖くなくなった。
見透かされたことが嬉しくて、光緑は微笑み小さく頷く。言葉にしたら、泣いてしまう気がした。
今日も二人は、寝床へと戻る。わずか数時間の休息。苛烈な鍛錬が続き、灯りを落とせば数分もしないうちに二人の呼吸は溶けてゆく。
若い体でも、疲労は刻一刻と牙を立てる。だから、眠ることすら急がなければならない。
今日もまた、先に眠ったのは頼道だった。
昼間から指導に追われ、頭を悩ませていた。疲れの色が残る寝息が、光緑の隣から規則正しく聞こえてくる。
瞼を閉じれば、その裏側に死の断片ばかりが浮かんだ。魔術で絶命させた男たちの顔。
見せしめのために痛めつけ、殺す。残虐に仕立てあげた死体を、意味あるものとして並べる。それが仕事として、当たり前のように存在している。
こんな役目を……藤春には、あの穏やかな弟にはさせられない。柳翠のような繊細な子も、こんな場所に引きずり込んではいけない。
胸の中で、同じ言葉を繰り返す。
(僕が、全部引き受ければいい)
必死に自分に言い聞かせた。そう唱えなければ、自我が崩れてしまう。
(頼道……)
心の中で名を呼び、ゆっくりと体を横向きにした。隣で頼道の太い腕へと、そっと額を寄せる。
頼道の皮膚。頼道の呼吸。頼道の匂い。その体温だけで、震えていた内側が少しずつ静まっていった。
(頼道がいるだけで、僕は……)
誰かに抱きしめてほしいのではない。頼道にだけ、包まれていたい。そう思った。
額を彼の腕に擦り寄せ、無意識に指先でその手を探る。すると眠っていた筈の声が、ふと落ちてきた。
「……光緑、呼んだか?」
暗闇の中、光緑はびくりと肩を揺らした。
「……起こしてしまったの?」
視線は交わらずとも、気配が互いの向き合いを知らせていた。
「いや。今、起きた……なんとなくな。眠れなくなったか?」
胸の奥を静かに貫く言葉。何も言わずとも、全てを察してしまうような声だった。
「……頼道。もし良かったら……僕に、触れてほしい」
「ん。……いくらでも」
少しだけ照れたような声音。けれど、大きな掌がそっと光緑の頬に触れる。
なぞるように優しく触れる掌。頬から耳の後ろへ、首筋を撫で、肩口を包む。どこまでも冷えていた心が、少しずつじんわりと溶けていく。
「……女々しいと思われるかもしれないけど、僕、頼道にこうされると……凄く、救われるんだ」
男であることも、当主であることも、人を殺したことも、全てが今だけは遠ざかる。ただ「頼道に触れられている」という事実だけが、自分を確かに生かしていた。
「だから……頼道、ありがとう。こんなことさせちゃって、ごめん」
「お前は、俺の大事な人だ。なんでも言ってくれよ」
それだけで十分。そう思おうとした。けれど、その胸の奥で疼くものがあった。
もっと近づきたい。もっと深く、彼と重なりたい。
自分がそこまで渇いていたことに気づいて、光緑自身が息を呑んだ。唇を噛み、頼道の手から離れる。
「……大丈夫。明日も僕、頑張るから」
せめて今だけは、夢の中だけでも彼に愛されたい。
願いながら、光緑はようやく目を閉じる。
眠りの淵に落ちていくたびに、隣から聞こえる穏やかな寝息の音だけが、つらい現実を少しずつ遠ざけてくれた。
/3
床几に座す男の輪郭を、燭の炎が揺らめきながら縁取っている。深い闇に沈む背中からは、この世ならぬ魔の気が立ちのぼる。
仏田家本家の最奥。御簾の奥にり鎮座する男こそが、仏田 和光である。
燭台の影は鈍く金を帯び、並べられた酒器には高雅な細工が施されていた。どれほどの贅を尽くしても、この座敷を飾り立てるものは、和光ただ一人。彼が盃を持てば空気が沈む、彼が怒れば街一つが消える、それは比喩ではなく現実だった。圧そのものの男は、幾十年と膝を揃えてきた古参さえ背筋を正させていた。
――明治の光に晒され、神秘の時代は本格的に薄れ、一度は風前の灯と化した魔術結社・仏田家。仏田 和光は、第二次大戦終戦と共にそれを甦らせた。
人の心も法も、信仰さえも圧して従え、裏社会を手に取り、仏田を再び絶対の名とした。
経済、政治、儀式、流通、殺戮、全てがこの男の掌にある。警察は睨まれれば引き、国会議員は名を伏せて跪く。
――この完璧な策謀・実行力・人心掌握術に、胡蝶は見覚えがあった。
支配者たる男の横に、胡蝶は沈香の香を纏ってぬるりと横に入り、盃に酒を注ぐ。
「酌の手つきが冴えてきたじゃねえか、胡蝶」
低く喉奥から湧くような声には、威圧を超えた支配の気が滲む。褒め言葉さえ、人を試すように重い。
胡蝶は臆さず、穏やかに微笑む。
「和光様のお側で学ばせていただいておりますゆえ。今宵もお酒がようおいしゅうございますこと」
和光が鼻で笑い、唇の端を吊り上げた。胡蝶は礼を守りながら、ただ酌を進める。
そのとき、若い声が空気を裂いた。
「父上。お願いがございます」
誰もが和光天皇に逆らえない中、その息子・光緑が膝を折り、額を畳にすりつけるように深く下げていた。
「お取り込み中、失礼致します。仏田家の一門として、今どうしても申し上げねばならぬことがございます」
帝王・和光は、胡蝶の注いだ酒に口をつける。まるで何事も無かったように。それが和光という男だった。
光緑が告げたのは、弟の処遇に関する直訴だ。
冷たく張り詰めた空気の中、父子の言葉が交差する。
若き声と暴君の声が、まるで刃を交わすように響いていく。
その攻防のさなか、胡蝶は酒器を拭きながら視線を上げた。
(久しぶりに見たけど、育ったわね……)
光緑が繰り出す整った作法、しなやかな姿勢、そして溢れ出る魔力。鍛えられた儀礼、吸収された魂、独学で会得された『聯合』の成果。既に彼は、器として異常なまでに完成していた。
(霊力の流れ、魂の宿り方……どれも文句なし。凡庸な人間の比ではない)
だが、やや脆い。
胡蝶は冷静に測る。過剰な戦闘と、誰よりも家を背負おうとする過剰な責任感のせいか、その身は夜通し灯された蝋燭の芯のようだった。
美しい炎ほど、消えるのも早い。10代にして、既に寿命は削れ始めている。このままでは持って20年。いや、もっと早いかもしれない。
(なら、次を作らせるべきね)
良い胎盤と月彦を組み合わせることで、神への贄に相応しい奇跡のような赤子が産まれた。それと同じことをすれば。これほど完璧な光緑と良い胎を組み合わせれば……。
(寿命が見える光緑自身に期待するより、産ませる方が合理的。瑠璃のときもそうだったわ、一から調整できて素晴らしい器が作れた。……ああ、瑠璃で降神儀式ができなかったのが、今更になって悔しい)
後悔とともに、より光緑が欲しくなった胡蝶の唇が、歪む。
御簾の向こうで、父と子が言葉を交わし続けていた。和光の冷徹な現実主義と支配の論理。光緑の理想と、子どもたちを守ろうとする必死な誠意。交わらぬ声は、やがて怒声へと変わり始める。
(あの目……あの髪……)
胡蝶はただ、観察を続ける。
血脈。運命。美。災厄。全てを内包した一人の器。
(やはり似ている……あの二人に、どちらにも)
魔鏡と、川越。母と、父。愛した女と、愛した男。邪な神と、清らかすぎた人。
(でも光緑は、わたしの求めるそのものではない。じゃあ……『中身もわたし好みだったら』、最高じゃない?)
光緑の必死な声も、和光の怒声も、胡蝶にとっては自分の高揚を盛り立てる上質な音楽にすぎなかった。
「――くどいな」
低く冷ややかな声が、その場の空気を引き裂く。
「――知らん」
和光が立ち上がる。帝王のように座していた男が、黒の着流しを揺らし、下らない虫でも払うかのようにしてその場を去ろうとした。
「父上、待ってください!」
光緑が動く。取り巻きの男たちが止めようとするが、間に合わない。足は、御簾を越えていた。禁忌の一線を、踏み越えていく。
その先にいたのは、和光の顔を持った別の何かだった。
「……誰だ……?」
耳を澄ませねば届かぬほど光緑の声音が、張り詰めていた。
「貴方は……父上、ですよね……?」
思わず胡蝶の喉が震える。情けない声を上げかけて、すんでのところで堪えた。
(あら、いけない子。……気づくのね)
母たる魔鏡を思わせるその眼が、真実を見ている。
光緑は、見抜きつつあった。『和光の器』に潜む異物を。その魂が『本来の和光』ではないことを。代々の当主の魂が混在し、『ある思惑の為の傀儡でしかない』ことを。
(本当に……本当に、素晴らしい子!)
その洞察に胡蝶は痺れるような陶酔と、同時にひりつくような焦りを覚えた。
(従わせなければ。でなければ……完璧に近いこの子に、逆転される!)
既に光緑は武装した暴力団を瞬殺できる魔術師だ。無防備な女ひとり、一秒で潰してしまえるだろう。
そしてそれは、目の前の父親相手にだってありうる話。もし光緑が、父親を歯向かう決意をしたら。仏田家を壊滅させると心に決めたなら。千年の積み重ねが、一瞬で終わる。
(この子を、絶対に従わせなければ)
胡蝶が思考が巡る前に、それは起きた。雷鳴のような怒声。そして黒炎。和光の袖口から走った閃光が、光緑の体を弾き飛ばしていた。
炎が奔り、赤い飛沫が燭の明かりに舞う。人形のように細い体が宙に浮き、光緑は部屋の端に叩きつけられた。
「光緑!」
場が凍り付く中、それでも駆け寄ったのは一人、犬伏 頼道だった。
熊のように大きな体で、彼は即座に光緑の倒れた体をその腕に抱きとめる。
光緑は、まだ目を閉じていなかった。血の味を噛みしめながら歯を食いしばり、視線だけは決して逸らさず謎の父を焼きつけている。
(折れない……まだ、折れていないのね。なら……)
和光の器に宿る者の狂気を前に、なお屈しない光緑の目。
胡蝶は見やる。――少年を護るように抱く、力強い男の姿を。
囁きを和光に投げた。和光が、重々しく振り返る。目には父の情などない。帝王でもなければ、人ですらない。ただ支配と罰の意志だけを宿した、絶対者の目をしていた。
そして手を振る。黒衣の男たちが、御簾の外からぞろりと歩み出た。光緑の周囲を、音もなく囲む。
頼道は、咄嗟に光緑の前へ出た。抱きとめていた腕を離し、自ら盾となるように立ちはだかる。
「お待ちください! お願いです、和光様!」
土下座すら忘れたまま、頼道は縋るように叫んだ。
「犬伏 頼道です。仏田寺の住職見習いとして、光緑様と共にこの場に参りました!」
懐に手をやる黒衣の男がいた。だが頼道は臆さない。むしろ一歩踏み出す。
「過ぎた願いと知りつつ、どうか……どうかお聞き届けください! 藤春様の件……あの子はまだ幼いのです! 今の教育は……ご再考を! 仏田家を憂い、弟を想っての光緑様の言葉です。どうか、どうかお許しを!」
何度も何度も頭を下げながら、声の限りを尽くして訴えた。声が掠れるまで、叫び続ける。
しかし和光の目は、鋼のように冷たいまま。命など知ったことではない。そういう男の、当たり前の返事だった。
仏田家の奥の間――かつては神職の寝所であったという一室。大広間の熱気とは対照的に、ここは粛然と冷え切っている。
灯りは低く、厚手の襖に隔てられた空間には焚かれた香が漂う。香の香りが濃いのは血と痛みの痕を覆い隠すためだと、正座させられている光緑は知っていた。
罪人のように縄で縛られ、足を崩すことすら許されない。背筋を伸ばすしかないその姿は、何かの供物に似ていた。
襖が開かれ、和光が怒りを沈めた面持ちで足を踏み入れる。
その後ろに、胡蝶が続いた。光緑は目を見開く。当主の私的な空間にまで、他家の女である胡蝶がいる。それは明確に『側女』としての立場を意味していた。
「嫌か? 寝所に他人が入るのが気に食わんか?」
「……母上が亡くなって、もう何年も経ちます。後妻を取るのも、仕方ありません」
震えた声で、光緑は返す。和光はふっと鼻を鳴らし、畳に胡坐をかいた。胡蝶も静かに傍らに膝をつく。
「『母上』……ああ、あの女。思い出した。お前の母は顔立ちは綺麗だったが、つまらん女だった。強く抱けん女で、退屈だったよ。だが霊力の腹は上等だった。三兄弟とも見事に当たった。おかげで金策には事欠かん」
あまりに無情な物言いだ。実母を、ただの繁殖器官としか見なしていない。そして自分たち子どもは利用され、仕えるものでしかないという。光緑は言葉を失くす。
「で、胡蝶。『あんなものども』を使って、愚息の躾になるのか?」
その問いに、胡蝶は微笑みを絶やさず、首を少し傾けて応じた。
「ええ。今では非効率、非人道と切り捨てられ、すっかり廃れてしまった手法ではございますが、光緑様に限っては非常に相性が良いと見ております。魂の強度、魔力の圧縮率、そして……忠誠心。仏田の血を継ぐ者として必要な資質を、短期で鍛えるには、やはり古式が最適かと」
和光の目が、細められる。
それは笑みではない。獣が咀嚼する前に、肉の筋を噛みしめているような目だった。
「古式か。『あのやり方』を、今の時代にやるのか」
「それこそ、和光様のお好みかと。理屈より実利。優しさより結果。たった一度で口答えをやめるという、即効性を重視するならば、むしろ積極的に仏田家で採用すべきかと存じます」
縄は、よく締まっていた。微かな動きすら許されず、冷たい畳の感触が骨を伝ってくる。
光緑は座敷の中央に、衣を剥がされて据えられた。数人の男たちが光緑を囲う。
「いいのかい、森田さん。こんなこと、坊ちゃん相手に」
誰かが言った。誰かが笑った。そして、胡蝶が答えた。
「ええ、どうぞ。『たくさん精を放ってあげてください。上でも下でも』。これは光緑様に必要な儀式ですので思う存分、抱いてやってくださいませ」
声は柔らかく、まるで茶菓子でも勧めるよう。
光緑が息を飲む。視線を上げる。胡蝶は笑っていた。上品で、狂気に満ちた笑みだった。
「そ、そんなことをして、何の意味が……あるというのです」
縛られた体から、震える声が零れる。答えは即座に返ってきた。
「光緑様が無意識にやっておられた『聯合』――あれは、魂と魂の同化の術式。これはその応用です。言葉にすれば学術的な行為でございます。……嫌なら、『和光様に弟君のことをご相談いたしますね』? それとも、『住職のご子息についての相談がよろしいでしょうか』?」
彼らの名を出された瞬間、光緑の心が凍った。
なぜ自分がここにいるのか。なぜ晒されているのか。無謀かもしれなくても、自らが父に声を上げた理由は……。
(……彼らのためなら、僕は……)
どんな目に遭ったとしても守りたい。それだけだった。
決意の沈黙を貫いていると、誰かの手が光緑の肌に触れた。次々と指先が、熱を探すように這っていく。そして笑い声も弾ける。何人もの視線が、肌を這っていく。
「綺麗だなぁ。こんなに震えて、お可愛らしい」
言葉が刺さる。魂がすり減っていくのが分かる。座敷のあちこちで哄笑が起きて、ついには涙が零れ落ちた。
光緑は初めて男に抱かれ、周囲に見つめられながら、気をやった。
自分の中に男の精を放たれたとき、中身が書き換えられる異端な感覚が生じた。『聯合』、仏田の秘伝である、魂の情報を我が身にする異能。性的快楽による痺れに震えながら、男の情報を全身で味わい、反芻する。
「レイプされて、初めてでイクなんて。大した子だね」
だからといって、尊びながら耐えられる儀式ではない。
「光緑様は男の当主より、卑しい女の子になる才能がお有りのようだ」
そうして、二人目の男が光緑を犯し始めた。縛られて動けない体は、二人目を受け入れるしかなかった。
同じように精を浴び、震えて魂を味わい、自分のものにする。そして、三人目が始まる。
ただ終わるのを待っていた。だが、三人目の男が気まぐれに唇を重ねたとき、光緑は首を振るった。
(そこは、頼道にしてもらいたかったところ……)
初めての強い抵抗。感情が乗った涙が溢れて、流れる。その美しさに、男たちは悦んだ。手加減が、終わった。
二日目。違う男たちが呼ばれ、高等な理由など説明されず、ただ「厭らしい穴を使え」と胡蝶から聞いた者たちが、光緑の躾を手伝った。
休息や食事はもちろん与えられたが、それが終われば、お勤めと言わんばかりに躾が再開される。多くの視線が這い、多くの指が光緑の肌を撫で、下も上も精が放たれた。
三日目になると、もう隠せないぐらいの悲鳴を上げていた。
愛するものたちの未来を守る、兄としての誇りを胸に必死に耐える。この三日を越えた先に、彼らの笑顔があるならば。
「なあ坊ちゃん。そこまで盛大に喘いでおいて、まだ気高い次期当主様でいられる思ってるんか? そろそろ厭らしい女になってるって自覚しな」
長男として。次期当主として。そう自分を律していた光緑には、羞恥の極みだった。
/4
太い腕が細い体を持ち上げる。懐かしいぬくもりが、羞恥と痛みを一度に洗い流していく。
「……頼道……」
愛していた男が、自分を抱き上げていた。浴室に運ばれている。その事実に、光緑はこの地獄がようやく終わったことを知った。
壊れ物を抱くように走る頼道の胸板に、そっと顔を寄せる。
「光緑……迎えが遅くなってごめん」
頼道の胸の鼓動、手の温もり。彼が掛ける湯で清められた後の、静かな時間。羞恥も恐怖も無い、安らかな夜。やっと二人きりで並んで眠るあの時間に戻ってこられたのだ。
湯浴み着を着せられ、頼道の部屋まで運ばれる。彼の鼓動を頼りに、光緑は幸福を感じながら目を閉じた。
迎えた朝の光は、優しかった。
差し込む陽に、光緑は怯えながら目を覚ます。頼道の姿を探したが、シーツにぬくもりが残るだけで、見当たらなかった。
頼道は僧侶見習いだ。犬伏の跡取りとしての朝の活動があり、それを放棄するのは決してあってはいけない。
心細いが、大丈夫。眠る前、藤春と柳翠が大人たちに連れ去られたことを知らされていた……けれど、それも大丈夫。もう少しだけ耐えれば。自分が身を捧げたのだから、きっと……。
「失礼致します。ご案内に上がりました」
そんな願いと安堵は、無数の足音によって壊される。
僧服の男、紋付の若衆、下働きの者まで混じって、ぞろぞろと寝室に入り込んできた。言葉は皆、丁寧だった。けれど踏み入れてきた足は容赦ない。
「……な、なにか?」
布団の中から掠れた声を絞り出すと、最前に立つ男が口角を歪めた。
「昨日の続きをしていただきます。ご当主様のご意向です」
続きという音に、鼓動が引きつる。
「おや。三日で終わると、誰が言いました?」
軽薄な笑いと、皮肉めいた丁寧さ。暴力の予感がないまぜになって、空気を歪める。
光緑は布団を胸まで引き上げたまま、頭を振った。
「父上に……お伝えください。僕は……昨日も一昨日も、もう十分に……」
「仰る通り、十分に『使えそう』だという結論に至ったようです」
「ですので、次は『さらに深く』躾けるというご意向になりました。……坊っちゃん、続きができて嬉しいでしょう? あれだけ悦んでいたのですから」
血の気が引いていく。縄の感触、嘲笑、異物感。目が回る。呼吸が浅くなる。吐き気と眩暈が重なる。
誰かが布団の端に手をかけた。光緑は咄嗟に拒絶した。男たちは、ほくそ笑む。
「ほう……反抗の意思はまだ残ってるようですね。結構、結構」
「逆らってくれた方が、調教のしがいがある」
「しかし、まだ時間があることですし……ここで、少し楽しんでいきましょうか」
男たちが、わざとらしく言った。布団を乱暴に取り払い、浴衣を剥ぎ、晒された光緑の体に視線を注ぐ。
昨夜までの羞恥を超えて、なお感じるこの侵入感。
目の前の現実は、ただの暴力ではない。ここは――頼道と過ごした、最後の安らぎだった。
この空間に満ちていた頼道の香り。安息の証。それが台無しにされていく。
「やめて……ここでだけは、やめてください……お願いです……」
光緑が人間として保たれる、二人きりの寝室。その記憶を他者の手で穢されることだけは、耐えがたかった。
複数の手が、彼の体を囲む。
「ほら、早くしろよ。もう何人も相手にしてるんだから今更だろ」
この部屋は、聖域だった。頼道が休息の場として開放してくれた場所。藤春と柳翠も集まり、大人たちの目から逃れて、四人で笑い合った場所。彼の優しさが詰まっている場所。
「すっかり、この穴は男を誘うものになりましたね」
けれど今、男たちが踏み込んでいく。着物を剥がれ、複数の手で押さえつけられ、恥ずかしい格好を強いられて、上げたくない声を上げさせられて。
「腰の動かし方、様になってきたじゃないですか」
「声を上げてくれていいんだよ。当主様公認の教育なんだから、誰に見られてもいいじゃないか」
頼道と過ごしたここだけは、心の拠り所として守りたかった。
その願いは、もう届かない。
和光は、自分の息子が「諦めない」と知っていた。愛する人をを守ろうとする心。尊きものだとされるそれが、和光には腹立たしかった。だから、諦めるまで壊す。それが当主の決定だった。
光緑が謝罪して諦めない限り、やめない。「藤春と柳翠なんてどうでもいい。自分だけ助けてください」、そう言えば。
できるわけがなかった。
光緑は、何日も男たちに囲まれていた。また見世物にされた。またどこか知らない場所に連れていかれて、また恥辱的な行為を強いられて、また物のように扱われた。
もう逆らいません、弟たちのことは諦めます。言えばいい。そうすれば名前も知らない誰かに抱かれることも、恥ずかしくて死にたくなるような行為もしなくて済む。
でも、言えない。
――藤春と柳翠もまた血を流すような厳しい躾をされていると知ったのは、夜通し抱かれ続けた後だった。
弟たちに平穏を与えるため、光緑は身を捧げていた。足をもつれさせながら廊下を駆け、女秘書・胡蝶の前に立ちはだかる。
彼女は何も驚かず、ただ書類をめくる手を止めずにいた。艶やかな唇に、冷笑が浮かんでいる。
「おや、光緑様。お出ましですか。ごきげんよう」
「どうして弟たちに……。鍛練をやめさせてくださいと言ったではないですか……!」
喉が裂けるような声。目の前の女の冷たさに、理性が追いつけなかった。胡蝶が、うっすらと眉を上げて言う。
「決定事項がそのとおり行われただけですよ。貴方が何かを望んだところで、それは変わりません」
冷たく、そこに人間の情は一切ない。
「藤春様も柳翠様も、よく頑張っておられます。先日なんて、柳翠様は血まみれで泣きながらでも無事に生還したそうで」
「……お願い、もう……やめて……」
消え入りそうな声で呟いたとき、胡蝶はにっこりと笑う。
「弟様たちも頑張っているのですから、長男様も頑張らないと。ねえ、光緑様? あなたは今、仏田家の稼ぎ頭。うちの『共有花嫁』として大変評判が良いんです。もうすっかり人気者じゃありませんか」
その言葉に、目の前が真っ白になった。
人気者。稼ぎ頭。花嫁。それが、自分。
弟たちを守るためにどれほど誇りを捨てても、どれほど体を差し出しても、結局のところ父は「役に立つ駒」としてしか見ていない。
「だから、引き続き奉仕をお願い致しますね。とても美しいそのお体、使ってもらえて嬉しいでしょう?」
笑う胡蝶の声が、焼けつくように耳の奥に響いた。
視界がぐにゃりと歪んで見える。
何のために、ここまで耐えてきたのか。
(僕は、何を守ったの……?)
誰かのために身を捧げていると信じていた。
でもその誰かは、もう、自分の手の届かないところにいる。
そして、これからまた男たちが待つ部屋に戻される。
(僕は……どうすればいい……)
「犬伏さん、仏田寺を出るんだってな。本山行きだとよ。僧階のためらしいよ」
躾を受ける日々の中、誰かの噂話がふいに耳に飛び込んできた。
最初は、意味が分からなかった。言葉の断片が脳に沈んでいき、ゆっくりと濁っていく。何を意味するのか、すぐには受け入れられなかった。
――頼道が、いなくなる?
理解した瞬間、光緑はもう何も考えられなくなった。正しさも、正義も、全てが靄の向こうに霞んでいた。
頼道が、寺からいなくなる。期間は、7年。7年も、頼道に会えない。
「……嫌だ」
7年も、声を聞けない。大きな掌に触れられない。抱きしめてもらえない。大丈夫だと囁かれることも、もう。
「……いやだ、いやだ、やだ……やだ、やだ、やだっ……」
消えていく。頼道との思い出の場所も踏みにじられ、歩く音や息遣いさえも全て、消されてしまう。
「……行かないで……行かないで、頼道……」
誰に届くわけでもない言葉が、口から溢れた。
頼道がいたから、生きてこられた。つらい修行も、理不尽な躾も、あの気配があったから乗り越えてこられた。心を守る盾であり、最後の砦だった。
「7年なんて……待てるわけがない……7年後の僕なんて、もう、僕じゃない……」
心が擦り切れていく。
行かないで。傍にいて。名前を呼んで。――僕をひとりにしないで。
壊れかけた体は、魂までも崩れ始めていった。
/5
頼道が寺を去ってから、5日。
光緑は、その間にいくつもの顔を見た。何人に穢されたのか、もう数えられない。誰も彼もが人間ではなかった。少なくとも、光緑にはそう思えた。
誰かが触れる。誰かが撫でる。肌に指が這い、敏感な場所を刺激する。無数の笑い声が、無遠慮に落ちる。
「光緑様にご奉仕してもらえるなんて、光栄の極みでございますよ」
「淫らな躾はよく効いているようで」
「誰でも悦んで受け入れてくれるなんて。いやらしい性奴め」
そんな言葉が、笑い声とともに空気を穢していく。
光緑は、その全てを聞いていた。
聞こえていたが、もはや意味を持たなかった。
そして、ある日。仏田家の上層部が白い封筒を持って現れた。笑みを浮かべて、告げる。
「婚約が決まりましたよ、光緑様」
相手は旧華族筋のご令嬢。名家の出で、血統も申し分なし。
見合いすらしていない。写真も見せられていない。けれど「良家の令嬢」であり、「相応しい血筋」であり、「後継者を産むのに相応しい胎である」から最適だと、事務的に伝えられた。
「立場ある男であるならば、嫁を連れていくのが筋です」
――婚約。自分が? こんな体で、今更?
仏田家の格式、血統、権力の保全。全てを背負う器として、女を迎え、子をなさねばならない。それが、家の命令。だというのに。
(男として後継ぎを求められ、夜が来れば女として笑い者にされる)
その矛盾は、光緑の内側を蝕んでいく。
言われるがままの婚姻。拒否権も無ければ、それを拒否する時間すら与えられなかった。いつの間にか伴侶が決まり、当主の座へ押し込められていた。
この体はもう、自分のものではない。仏田家という永劫の檻に囚われた商品にすぎない。男でも女でもなく、仏田の道具でなければならない。
自分を兄と呼ぶ弟たちは憔悴し、口を閉ざした。自分を愛して名を呼び掛けてくれた男も、遠くの世界へ消えていった。
(僕は、何も助けられなかった)
自分を明け渡してまで守ろうとした人々は、もう自分の傍にはいない。誰一人として、手を伸ばしてはくれなかった。だから。
(もう、耐えられない)
当主継承は無事、行なわれた。
和光の体に数十年のあいだ巣くい、かろうじて世に繋がれていたそれは、今や完全なる器を得た。
新しき当主、光緑。
『和光の器』から『歴代当主の魂』を『光緑の器』に移したその夜、光緑は『己の意志』を手放した。可愛い弟たちを守るという鋼の意思は、愛する男との別れによって、たった数日で心折れることになった。
長きに渡り、『和光の器』に魂を宿していた存在――数多の魂の中で、最も支配を渇望した魂・月彦は、ついに望んだ唯一無二を手に入れる。
「……なんだこいつは。瑠璃と同じ匂いがしやがる」
脱け殻となり、廃人と化した和光の肉体を放置して、『新たな光緑』は一日を過ごした。
金襖に囲まれ香の煙が揺れる当主の間で、『光緑が』『光緑の顔を』撫でる。
一日を過ごして実感した。この光緑という器は、完成されている。霊核の配列は完璧。魔力の濃度も申し分なく、あまりにも繊細で濁りない肉体だ。ある女が敢えて汚して堕とさなければ、歪みである月彦の入る隙すら生まれなかっただろう。
その女のおかげで完璧な器を手に入れた。新しい光緑は、ほくそ笑む。
「この体なら……有栖、お前の願いも叶う。お前が見たかった世界の終わり。オレがまた、用意してやるよ」
指先が自らの胸元を撫でる。
光緑の器に、少年の面影は無い。絶望の中で崩れた一輪の花は、誰にも見られることなく眠り続けている。
彼はもう、目覚めを拒んでいた。
仏田寺、封じの間。普段は使われぬ一室に、男たちが集められていた。
呼ばれたのは、かつて一人の少年を囲んだ十余名の男たち。彼らは皆、知っていた。自分たちが何をしたかを。けれどそれは権威と沈黙の中で葬られ、やがて日常となった。その日常が今、終わろうとしている。
「お集まりいただき、ありがとうございます」
襖が滑るように開き、入ってきたのはあの美しい若君。
縛られ、涙を流し、命令に従い続けた哀しき共有花嫁。だが今、その顔には涙が無い。優しげな微笑の奥に、氷より冷たい静けさが宿っていた。
「皆様の教育のおかげで、光緑はこうして一人前になりました」
声音は澄んでいた。
まるで神前の巫女が口上を述べるような、あるいは、最期の晩餐を招く天使のような。
「貴方がたのおかげで心を壊し、器として完成しました。ですから感謝の気持ちを込めてお礼に参りました」
一礼。流れるような所作。男たちは呆けたように見つめる。
誰も逃げなかった。理解が、追いつかなかったのだ。そして。
「――お前たちが光緑を殺してくれたおかげで、オレは最高の器を得られた。ありがとう」
言葉の意味が理解される前に、四方の空間が捻じれた。
空気の粒子が逆流し、叫び声が上がるより早く男たちの肉体がサイコロほどの大きさに圧縮される。十余人の男たちが悲鳴の中、小さな塊となって床に転がった。
光緑は、指先を軽く振った。塊が宙に舞い、小鳥のようにくるくると回転しながら彼の口元へと寄ってくる。それらを一つずつ、口に含んだ。舌の上で味わい、喉へと流し込む。
「粛清、浄化。好きに呼べばいい。これはオレの整理整頓だ。……なあ、光緑。眠っているお前には聞こえないか? お前を嬲った連中の叫びが」
応える声は無い。それでいい。
「これが、真の聯合だよ」
光緑という名の少年は、もういない。可愛い弟たちも愛する男も消えたのだから、彼もいなくなりたかったのだろう。
今ここにいるのは、邪神を求める女を愛した異端そのものだ。
廃人と化した和光を「療養部屋」という名の牢獄へ押し込め、上層部が用意した女を抱き、光緑を弄んでいた連中を平らげた月彦は、ついに『新当主としての役目』をひとしきり終えた。
働いた月彦は、たらふくになった腹を撫でる。そこには、静かに波打つ魔力の核――仏田の血脈、幾百の儀式によって培われた異能、そして今しがた取り込んだ無数の命が、熱く蠢いていた。
どれだけ飲み込んでも飢えを覚えぬ肉体。悲鳴一つ上げず、なおも「喰らえ」と囁くような器。完成された肉体に、何度もくぐもった笑いを漏らした。
「良い器だ。静かで、居心地が良い……。光緑はもう目覚めたくないと、自分で扉を閉じてしまったしな」
返事は無い。本来の肉体の主は、完全に目覚めを拒んでいた。
月彦がいかに動こうと、光緑は夢の奥底に沈んだまま『愛する者たちと過ごした村』という仮初の楽園に、身を委ね続けている。
美しく精緻な器を完全に手中に収め、第62代仏田家当主として君臨した月彦が最初に行なったのは、たった一つの探索だった。
――有栖。仏田の裏史に名もなく潜み、幾百年に渡って仏田家を彷徨い続ける、異端の女。
転生するたび変わるのは、名と貌。魂の匂いは、決して変わらない。この時代にも、彼女は必ず存在している。月彦はそれを疑わなかった。
実のところ、見当はついていた。
仏田 和光の傍に仕えていた機関の魔術師、森田 胡蝶。凡庸な顔立ちに、かつての有栖の妖艶さは影もない。だが、光緑の仕上げに用いられた古の術式を見たとき、確信は訪れた。
あれは有栖のやり口だ。精確無比で、容赦のない残酷さ。彼女にしか為しえない手つきだと思える。
だが、すぐには手を伸ばせなかった。何故ならそのとき、月彦は和光という生きた器の中に囚われていた。
和光――凶悪なまでに自己を主張していた、頑強無比の器。魂を滑り込ませる隙間すらなく、月彦はただ、長い歳月を影として生きねばならなかった。
思考を操り、僅かな時間だけ肉体を制したこともあったが、せいぜい数刻が限界だった。肉体を操れなくても意識だけ乗っ取るにも、20年という歳月を要した。
だが、それは敗北ではなかった。
学んだのだ――完璧な器を得るには、完璧な仕掛けが要る。胡蝶、かつての有栖は、その役割を過不足なく果たしてくれた。光緑という至高の器を、計画通り、いやそれ以上の出来で育てあげた。
問題は、胡蝶をどう呼び寄せるかだった。
彼女は和光の寵を受けつつも、あくまで外部組織である機関の魔術師。容易には手が届かぬ場所にいた。
だからこそ月彦は慎重に、ひたすら慎ましく布石を打った。いかなる策略よりも確かな、魂が魂を引き寄せる瞬間を、ただ待った。
そしてその夜は、ついに訪れた。
月彦、いや光緑という器の中に入った月彦は、胡蝶、いや有栖の首筋にそっと口づけ、囁く。
「探していた。どれほどの夜を、お前の声一つ思い出して、耐え抜いたか……」
女体を組み敷き、絡み合う指先に熱が伝う。夢と現がとろりと混ざり合う。
「お前を手に入れるために、何度和光を殺そうとしたか……。けれど出来なかった。和光もまた、20年前にお前が当主として用意してくれた器だったからな。お前の努力を、無駄にはできなかったんだ」
肌と肌の間に沈むように、狂気と愛執と懐旧が滲んでいく。
憎しみと、恋しさ。敬意と、欲望。それら全てが熱を帯びて溶け合い、名を呼び、吐精する。
「有栖。……やはり、お前はお前だった。オレの、唯一の同類。オレの……たったひとりの、女だ」
胡蝶は短く吐息をこぼし、光緑を正面から抱き締めた。
そして耳元で、あの頃と変わらぬ声で、微笑むように囁く。
「あーあ、子供ができてしまうわ。いいのですか、光緑様。こんな下賤の女と密通なさって」
胡蝶はくすりと笑い、からかうように唇を寄せた。吐息が触れる距離、艶めいた挑発。すると。
「……オレとするの、嫌か……?」
傲慢なる当主の仮面が剥がれ落ちる。
愛する女にだけ見せる、仔犬のように縋る目。あまりに幼く、無垢。支配の頂点に立つ男の、ただ一人の女に対する哀願の声だった。
「……あなた、本当にわたしのことが好きなのね。まったく、甘えん坊な男」
呆れたように笑みを漏らしながら、胡蝶はその頭を撫でるように抱き締めた。光緑はくすぐったそうに、そして安堵するように目を細める。
「有栖のおかげで命を得たのだから、愛おしいと思うのは当然だろう。……お前を惨殺した人間どもを、オレは許せない。皆、殺してやる」
「ふふ。もうそれは300年も前の話よ。みんな死んでるわ」
「その末裔は生きている。罪は絶えない。だから殺してやる。……そもそも、お前は『あの神』に会いたいのだろう? この世界を無に還す、あの神に」
だからいずれ皆殺しだ。光緑は囁きながら、年上の女の首筋へ唇を落とした。肌をなぞるような口づけ。狂気が甘美に沈殿してゆく。
「……お前が用意した光緑は、申し分のない器だった。魔力の量も、魔力を吸収する暴力性も、理想的だ」
「ええ、そうでしょう」
「これほどの器があるのなら……今のうちに、ここ仏田寺を儀式の庭として仕立てよう。神が降り立つ『魔の地』として整えるのだ。力を尽くす」
その宣言には、凍てつくほどの決意と快楽の匂いがある。
殺すと口にしながら、声に宿っているのは殺意だけではない。欲望。飢え。悦び。血肉と魂を求める、底のない快楽。それは破壊者の情熱だった。
「……月彦、いえ、光緑様。前宿主である和光様の処遇について、いかがなさいますか?」
かつてこの家を支配し、月彦の器として生きながら、長きに渡り抵抗と洗脳を繰り返されていた男・和光。
光緑の唇が、どこか甘やかに歪む。
「和光か。オレが中にいる間、随分楽しませてもらったよ。暴れ、叫び、足掻き、泣き喚く……なかなか見応えのあるショーを、20年も楽しめた」
目尻が下がり、とても楽しそうに父親を語る。
「四六時中、オレの相手をして憔悴して……最後の5年は酒と暴力に溺れ、常に錯乱してた。さっさと主導権を明け渡せば、もう少し楽だったものを。……ふふ、遅すぎますよ、父上」
「現在のご様子は、殆ど反応がありません。息はあり。肉体に異常なし。世話役によれば、用途さえあればまだ資源としての価値はある程度です」
話を聞きながら光緑は、胡蝶の髪を弄ぶように指先で撫でた。
「なら、生かしておけ。だが徘徊でもされて『前当主の狂乱』なんて噂が立ったら厄介だ。部屋からは出すな。療養中ということで構わない……私の大切な父上ですからね」
最後の一言には、嘲りが潜む。
光緑は、静かに立ち上がった。薄衣の裾が、仏田寺の床を柔らかくなぞる。優美で、どこまでも禍々しい所作だった。
「――オレは再び始めるぞ。有栖」
声音に甘さと残酷が混ざり合う。
「この寺を再び『神が舞い降りる地』にする。地上に神を迎えるために必要なら、また血肉を集めよう」
「では光緑様、機関をお使いください。あそこはもう『魔力の高い血肉』を集める効率的な手段を確立しました。異種族の捕獲も、人工的な魔術資質の育成も進んでいます」
胡蝶は乱れた衣をそのままに光緑へ寄り添い、柔らかな笑みを浮かべる。
「わたしたちがかつて為したことは、決して無駄じゃなかった。仏田寺には300年前の血の残響が、地の底まで沁みている。始祖が千年前に神と過ごしたこの地は、最初から成功が約束されていたの。……邪魔者さえいなければ」
光緑の瞳が細くなった。赤と青の双眸の奥では、今なお、万の屍を焼き尽くす炎が揺れている。終末を美しく迎えるための聖なる火が。
「なら、今度は確実にこなそう。供物は多ければ多いほどいいだろ、機関の力とやらを最大限使わせてもらうさ。……そこに一摘まみ、仏田の血を為す子が混じっていれば、なお良い」
「けれど、いいのですか? ようやく蘇ったというのに、早速当主として働くなんて。そんなに……わたしの願いを叶えたいものかしら?」
月彦は笑った。凍てつくほど静謐に。
「叶えたいさ。神が世界を喰らうその瞬間を見てみたい。空が裂け、地が溶け、人々が己の心臓を差し出し、狂喜して踊る様……かつて二度、惨殺されたオレは思う。それらがオレたちが『生きた証』になると。当主の肉体をその象徴にしてやる。そしてそのとき……お前は、世界が滅ぶ最期まで微笑んでいてくれ」
瞳に浮かぶ未来は、狂気そのもの。その狂気を、女は拒まなかった。
光緑の容貌は、彼女にとって母と父のどちらもを強く思わせる。かつて――憲子が夢見た景色に、限りなく近い姿。そしてその中身は、今も可愛らしいと思える男。愛おしいものに違いなかった。
「……では光緑様、まずは下ごしらえを始めましょう。多くを狩り、多くを捧げ、次代の成功に向けて、再び」
――仏田寺の外では、夜が明けようとしていた。同時に、古き魔の寺に新たな悪夢が胎動を始めている。
正妻に産ませた子を中心に据え、封じられた戸を開く鍵を求め、大量の血肉を捧げるため奮闘するために。
「ああ、美しい光景になるといいな」
儀式のための地ならしが、始まろうとしていた。
仏田家 第62代目当主――仏田 光緑。
彼はその名をもって、魔術結社の歴史に永遠の楔を打ち込んだ。
旧来の戒律を棄て、異能の兵を育て、人外の血を狩り、神の降臨のための礎を誰にも知られぬまま築き上げた。
機関は日本有数どころか世界に名高い企業になり、仏田の血が再び天下を握った。そう巷では囁かれた。
超人類能力開発研究所機関は、異能と暴力を供物として収集し、稀な血を持つ者は粛清された。異種族は『安定を脅かすもの』として狩られ、加工され、儀式の素材へと堕ちていった。
抵抗はあった。悲鳴も涙もあった。
それらは冷ややかに処理され、連行され、名前を奪われ、ただの『贄』として組み込まれていく。
たった10年、20年。その短さで裏世界を変える人物として、彼は名を馳せる。
人々は讃えた。62代目こそ、偉大なる統治者――地と血と法を統べる者、と。
だが実際には、覇道に立つ者など存在しなかった。
彼は、夢を見ていた。
四季の移ろう霜月村。幼い弟たちと笑い合い、愛する人が傍にいる。
悲しみも嘘も、死も無い。優しくて、あたたかい世界。彼は守られるだけの存在として、そこで眠っていた。
苛烈な魔術の修行はなく、見せしめに人を殺す必要もない。大勢の男たちに体を暴かれることもない。
光緑は……大きくあたたかな腕に身を寄せ、口づけた。
この世界では愛する人に口づけることを、隠す必要などなかったから。
「……大好きだよ、ずっと傍にいてね……」
悪魔に酷使された器は、仏田寺を血と悲鳴の祭壇へと変えていく。
だが心は眠り続ける。誰よりも優しく、誰よりも無力に。
愛する者たちに囲まれた、仮初の夢の中で。
END
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