■ さわれぬ神 憂う世界 「ある稀人の無響静眼」 ・ 番外編4ページ目
【番外編:シキ】
/1
森は燃えた。
深き翠の樹々は崩れ落ち、赤々と炎を立ち昇らせていた。魔素が閃光とともに炸裂し、火の雨を散らしてゆく。
シルキオル・フェインは火薬に追われた。銀の髪と青い瞳を持つ若きエルフは、森の長の嫡子として生まれ、歌を嗜み、未来を謡う宴の中にいた筈なのに。
長い月日を生きるエルフにとって、死は遠いものの筈だった。死に怯えたことなど一度もない穏やか日常は、人間たちの手で終わりを告げられる。
村は焼かれた。神木は黒焦げとなり、根元には父の骸がある。父を踏み越えた人間たちに捕らえられ、縛られ、獣のように貨物として運ばれる。
始めのうちは暴れた。叫んで逃げようとした。けれど薬で眠らされ、目覚めれば知らぬ鉄の檻の中。辿り着いた先は、見世物小屋だった。
鉄格子に囲まれた檻の中。鎖で腕を吊られ、脚を縛られ、展示される。声を上げれば、躾と称して客の前で辱めを受けた。
観客は笑った。指を差して写真を撮った。
「本当に動いてるよ」
「作り物かと思った」
「耳が長い。エルフってマジでいるんだ。あれ、欲しい」
数百数千の眼差しが、全身を舐めるようになぞる。
羞恥も怒りもあった。最初の1ヶ月は叫び続けた。なぜ自分は囚われているのか。なぜ家族が殺されたのか。なぜ笑われ、触れられ、穢されるのか。その問いに答える者はなく、時間だけが過ぎていった。
「調教は済んでるのか?」
「いい声してるじゃねーか」
「喘げ。媚びろ。人間様のために」
やがて黙った。口を閉ざしたのではない。心が、喋ることをやめた。
3年目ともなれば、見世物小屋での暮らしは単調なものとなった。5年目に入る頃には、観客にも飽きられた。着飾られた観賞用ではなく、消耗品として新たな用途を与えられた。
檻の鍵が外れる音。男の手が冷たく鎖を引く。引きずられる身体。もはや逃げようとは思わない。
「見せもんなんだからよ、喘げ。お前は艶やかで良い声だって評判なんだ。ちゃんとお客さんを喜ばせなきゃな」
そう言われ、弄ばれる日々。
殴られる音よりも自らの喘ぎ声の方がずっと耳に残る。だから余計に口を閉ざした。
仏田 志朗という人間は、普通の子供とは異なる密度で18年を生きてきたのだろう。
事実として、エルフ一体を一括で買い取れる18歳など、世界に何人いるだろう。裏社会に名を轟かせる極道組織・嵐山組の若頭。そして魔術結社・仏田家の血を継ぐ子息。高級車一台ほどの値の商品を、見世物小屋で偶然に見かけたから買い取れる、そんな特別な存在だった。
買ったことを大っぴらに触れ回りはしなかった。だが噂は裏の世界にいち早く広まり、「仏田の若頭が異種を買った」という話は、むしろ彼の名声を高めることになった。
彼は、そのエルフに名を与えた。
「長いのは覚えらんねえ。……シキ。シキでいいか?」
何の感慨もなく口にしたことで、その日からシルキオルという名は抹消された。種族としての誇りも、家族の記憶も、文化も言葉も全て焼却された。
それでも何も言わなかった。声を極力出したくはなかった。反抗も抗議も、感謝すらない。そして志朗はその反応を「心地良い」と感じた。
自身の邪魔をせず、黙って従う存在。気まぐれに愛でることも、飽きたら放置することもできる。多忙で野心家、心を深くは繋がない志朗にとって、まさにそれは理想的なペットだった。
ある夜のこと。志朗は一日を終え、高校の制服を雑に放り投げ、重たい身体をソファに崩すように預けた。
足元を見下ろせば、膝をつくそれの姿がある。
長い銀の髪の先を、志朗の手が撫でる。目が合ってもそれは微笑まない。眉一つ動かさず、志朗が名を呼ぼうとも返るのはいつだって無音の行動だけ。
「おい、シキ。ここを片付けろ」
一言命じれば音もなく立ち上がり、室内を整え始める。食事の用意も着替えも、命令通りに淡々とこなす。羞恥もなければ反発もない。まるで生き物であることを放棄したかのように。
志朗はふと思い立ち、独り言のように口を開いた。
「なあ、シキ。例えば今、俺が『死ね』って言ったらお前は死ぬのか?」
シキは頷かない。しかし、否定もしなかった。
鼻で笑った志朗は、再びソファに深く沈み込む。志朗が金で買ったのは、命令でのみ機能する静物。命令しなければシキは動かない。それが当然だと、ずっと彼は思い込んでいた。
「こちらが仏田の若の新居でございます。組長からの細やか贈り物で」
「大学ご進学、おめでとうございます。志朗様の学びがより捗りますように」
都心の超高層レジデンスに志朗はいた。部屋の鍵を手渡されながら、小さく笑う。
「さすが照行さん。抜かりがねぇ」
夜景を見下ろす高台にそびえ立つ、三重のオートロックと専属の警備員を備えたタワーマンション。都市の喧騒を足元に沈めるこの塔は、ただの住居ではない。選ばれた者だけに許される、安全と隔絶の象徴である。
一階には専任のコンシェルジュ。防弾仕様のエレベーター。三メートルを超える天井高。ガラス張りのリビングには、東京の夜が切り取られ、額装された絵画のように広がっている。
志朗が大学に通うために用意された仮の隠れ家は、表では優秀な大学生を演じ、裏では組の麻薬ルートを取り仕切る若頭候補として動く、その両面を生きるための舞台装置として用意された。
それでも志朗にとってここは「誰も演じずに済むただ一つの私的な空間」になる。引っ越し当日、広々としたリビングルームへ、荷物とともに運び込まれたシキを導いた。
「ここが、お前の新しい檻だ」
首輪にリードをつけられたペットが、無表情のまま立ち尽くす。
志朗は真新しいソファに腰を下ろし、脚を投げ出した。手の中にあるのはリードの端。飼い主は無邪気に微笑む。
「この部屋は内側からも暗証番号を入れないと絶対に開かねぇ。首輪なんて要らないんだが、一応着けておいてやる。まあ……この一年、お前は逃げようともしなかったけどな」
志朗がリードを軽く引くと、シキの身体が寄る。
「俺が大学に行ってる間も、組の仕事で消えてる間も……お前はここで、俺の帰りを待っていろ。それがお前の勤めだ。この部屋で俺を癒す。ちゃんと勤めを果たせよ。……ほら、早速キスしてみろ」
既に1年、志朗に従い生きてきた。場所が変わっても何も変わらない。
シキは投げ出された志朗の足先に、唇を寄せた。ペットとして、奴隷として、所有物として。目立った抵抗もなく淡々と、役目を果たし続けるしかなかった。
/2
仏田 志朗の名は、次第に大きくなっていった。
裏社会において畏怖とともに語られる名になり、一群の極道たちが平伏する象徴へと大成していく。
志朗は魔術結社・仏田家の血を引く者でありながら、愛人の腹に生まれた子だ。異能の才も受け継がれず、己の意志と暴力だけを拠り所に這い上がった。不遇な生まれではあっても己の力で地位を築き、多くのものを手に入れた。
だが、どうしても手に入れられなかったものがある。愛されること。あまりに単純で、けれど彼にとってそれはひどく遠いものである。
そして、あの夜が来た。
仕組まれた会合。身内の裏切り。準備された奇襲。警護を潜り抜け、一瞬のうちに志朗の体が血に染まる。
肉を抉って臓器を裂く、命を奪うはずの銃弾を受け、志朗は暗転を経験する。
だが目覚めた先で志朗は無傷で蘇った。代わりに――体に穴が空いたシキがいた。
異能力による事象の変換。志朗が受けた死のダメージを、無傷のシキの器へ移し替える奇跡。そのおかげで志朗は無傷で復活し、代償として、シキは志朗の痛みを全身に受けることなった。
そして志朗は知ってしまう。
本当の志朗は日々苦痛を抱いていた。その苦痛で倒れることがなかったのは、全てシキが苦痛を受け持っていたから。
些細な掠り傷も、風邪の症状も、心の痛みすら隣に居たシキが全て引き抜き、だからこそ志朗は健全に責務をこなしていたという。
シキがいなければ志朗は生還せず、そもそも、シキの異能がなければ志朗は今の椅子に座らなかったのかもしれない。
ようやくそのことを理解した志朗は、病室にて、ベッドに横たわるシキの隣で彼を見つめ続けた。
銀髪と青い眼を持つエルフの青年を。見世物小屋で衝動的に買い取り、名を与え、可愛がっていた存在を。無言で命令に従い、感情も示さず、ただ傍らにいた静物を。
命を懸けて自分を守った人物を。
「……バカじゃねえの……お前……俺も……」
その場に座る志朗には何もできない。治癒の魔術や肉体復元の異能なんて、一般人と変わらない志朗は持っていない。
だから、ただ隣に居続ける。
無意味な時間だとしても。傍に居たいと思える感情が、志朗の中に芽生えていた。
そうしてシキは、生き残った。
研究所機関の最新鋭医療によって、深く傷つけられた肉体は奇跡的に癒えた。医師の許可のもと、退院の運びとなった。
二人は、かつての日常へと帰ってゆく。志朗はマンションの最上階へ到着すると、先に扉を開け、何も言わず足を踏み入れる。後ろから続く、重さを引きずるような足音のシキに対して、
「……寒くねぇか」
志朗から珍しく気遣いの言葉が現れた。
その問いに、シキは多くを応えない。首を小さく振るうのみ。
志朗は舌打ちとも吐息ともつかぬ音を洩らすと、廊下を歩き出した。リビングに広がる美しい夜景を見下ろすことなく、シキに「こっち来い」と短く命じる。目立った外傷も包帯も残されてないシキは、数秒の間を置き、静かに近づく。
傷を庇うような慎重な動きを志朗は無言で睨みつけながら、傍らに立つシキへ、自分の膝を軽く叩いた。
「ここ、座れ」
シキは従う。志朗の膝の上に、シキの身体が沈んだ。
銀の髪が肩先で揺れ、指先に触れる。志朗は何も言わず、その髪に指を通す。ゆっくりと何かを確認するように。
「お前がいない間……ベッドの横、死ぬほど静かだった」
ぽつりと、呟く。
指が細い肩に添えられ、志朗は鼻で笑う。
そしてそれに続くように、低く一言。
「……死ぬなよ」
そっと志朗の膝に身を預け、首を傾ける。それだけで、志朗は彼を腕に抱き締めた。
強くもなく、弱くもなく。まるで、ずっとそこにいてくれと願うように。
その夜、二人はいつものように同じベッドに入った。だが志朗はシキを抱かなかった。代わりに、額や頬、首筋に唇を寄せ。触れるだけの接吻を落としていく。不器用な男の、拙い贖罪だった。
「……昨日まではな、お前がいなくなってたらって思ったら、ちょっとだけ、寒気したんだ。ああ、くだらねぇよな」
返事は無い。けれど沈黙の中に確かな温度がある。
無言の拒絶ではなく、やわらかな余白。静かに寄り添う余地を感じさせるものだった。
「なあ、シキ……しばらくは命令、少なめにしてやっから。ゆっくり……休んどけ」
それが、志朗にできる精一杯。
すまなかったとは言えない。ただ少しだけ支配の手を緩めることで、自分の感情をどうにか包み隠そうとしていた。
シキにとって、必要以上に志朗と交わす言葉は無いとしている。会話は命令にのみ応じるものであり、それ以上の関係を築く意義など最初からなかった。
なにより、シキは知っている。この仏田 志朗という男が、自分の村を焼いた火の一部であることを。
故郷の村は焼かれ、友人や家族は殺され、または壊された。なぜなのか。誰が命じ、誰が引き金を引き、誰がその焔で富を得たのか。……囚われて間もなく知れた。見世物小屋の商人たちが、笑いながら言葉を交わしていたから。
「例の急な人外狩り、仏田の坊ちゃんが動いたかららしいぜ。組長におねだりしたからだそうだ」
仏田。若。そして5年後。店にVIP待遇で現れた18歳の少年。志朗。
――この男だ。
たとえ直接火を放たなかったとしても、命じたのが他者だったとしても、志朗の欲があの夜の引き金を引いたことは間違いない。
彼は、仇だ。奪った者で、焼いた者、全てを破壊した男だ。
「シキ。キスするぞ。……うん、良い声出すじゃねーか」
そんな男の、気の抜けた日常の声。安心しきった顔。愛おしそうに覗き込む、やわらかい色の目。
全てがどうしようもなく滑稽だった。
シキは、あの炎の発端を憎んでいた。
村を灰にした者の笑顔など虫唾が走る。両親を殺した者の無防備な寝顔など、見るに堪えない。全てを過去に閉じ込めた原因など、跡形もなく消してしまいたい。
なのに、殺せない。
マンションには刃物がある。眠っている隙を狙えば容易い。志朗は無防備だ。支配ゆえの慢心があるから、いつでも殺すことができる。
けれど、殺したところで何になる? 自分も処分されるだけだ。それに何より、志朗に暴言を浴びせても無意味だ。この男は罵倒の中で育った。暴力で抗っても無駄だ。暴力で成り上がった者は、痛みなど慣れ切っているから。
もし復讐するのなら、それはもっと別の形でなければならない。
「シキ。なあ。……返事しろよ」
ベッドに共に横たわる志朗が、シキの首輪を指先で撫でる。甘えるような声音だった。
「ん……やっぱ、お前、可愛い声してるな。……もっと、悦んでいいんだぞ」
無表情の奥で、内心は冷ややかに笑っていた。
可愛い? 何を見ている、何を抱いている。言葉を発さず、感情も見せず、ただ命令に従うだけの道具に「愛おしい」などという感情を抱けるのなら、この男の感性は狂っている。
そう、志朗は勘違いしていた。命を投げ出すように尽くしたペットは、自分を「命より大切な人だ」と思っているに違いない、と。
だから触れてくる手が甘くなった。キスの回数や優しさも増えた。キスを一つ重ねるたびに「愛されている」と確かめている。
「シキ……」
愛したいのではない、愛し合っている現実を求めているのでもない。「愛されているという幻想」に包まれていたいのだ。
それは大人の愛撫ではない。孤独な子供がぬくもりを求めてすり寄るような、未成熟な渇きだった。耳元で心地好いですと囁いてやる。たった一言で志朗は驚いたように見つめ、嬉しそうに顔で笑う。喜びを隠しきれず、「……ありがとう」と呟き、もう一度きつく抱きしめてくる。
その腕の中で、シキは目を閉じた。
なんて単純。たった数音を並べただけで、この男は満たされる。この程度の音の並びに、心からの愛が宿ると信じている。
――お前たちの言語に、私の魂が乗るわけがない。
滑稽だった。シキは志朗に見えぬよう、口の内側でほんの微かに笑った。
志朗にとって「命令でしか動かなかった存在」が「知らずうちに命を救った」という事実は、想像を越えた衝撃だった。
心を持たぬと思っていた植物が愛らしく反応したことで、志朗は錯覚する。そしてシキを真に欲するようになった。
「シキ、お前はこうされるのが好きか? どうなんだ」
欲しいのは身体ではなく、感情。言葉。証明。触れるだけでは足りない。想いが伝わっているという証拠を欲しがった。
さらにハイブランドの服を与え、豪奢な首輪で飾り立て、顎を持ち上げて唇を啄む。「もっと」「俺を」「お前から」と、貪るように言葉を乞う。
「俺のこと、どうでもいいから、黙ってんのか?」
その問いに、シキはただ首を横に振る。それだけで、志朗は笑ってまた抱きしめる。
陶酔していた。「自分だけが得ている」という特権に。言葉一つで酔い、幻想を見て嘘に縋って自己を慰める。
そんなに、愛されたいのか。
あまりにもおかしい可哀想さに、シキは気まぐれに囁く。気持ち良いです、志朗様、と。すると少年のように顔を綻ばせ、志朗はシキを抱きしめる。
志朗の愛は、日に日に過剰になっていった。気高く理知的に、暴力的で獣のような猛々しさで頂点に立った男が――より哀れな人間へとなっていく。
それこそがシキの復讐とは知らずに。
/3
朝。シキはいつも通り志朗の傍にいた。
窓辺に差し込む光の推移を無言で追いながら、彼に髪を撫でられている。
志朗はもう30歳になっていた。裏の世界での地位は確固たるものとなり、声一つで国家の背骨が軋む存在になっている。
それでも、シキの前ではどこか少年の面影を残していた。
「兄貴が言い出したことだが……以前、入院してからだいぶ経つしな。健康診断をしておいて損はない。……二日だけだ、終わったら、早く戻ってこいよ」
志朗の言う兄貴とは、仏田 燈雅。仏田家 第63代目当主で魔術結社の王であり、志朗の兄である。
その燈雅が告げたのだ。「数年も飼っておいて健康診断もさせていないのは感心しない」と。こうして仏田家直属の異能研究機関へ、シキは専用車で運ばれることになった。
出発の間際、志朗は最後まで離れたがらなかった。
「必要ないことに答えるな。明らかに痛いことされたら、俺の名前を出して帰ってこい」
その顔はまるで、自分の子供を送り出す親のよう。瞳の奥にあったのは、不釣り合いな不安と空虚な恐れ。
――そんなに私と離れるのが怖いのか。
車がゆっくりと動き出す。志朗の姿が後方の窓に小さくなっていく。
視界の端から、やがて完全に消える。志朗の不在。支配から外れる、12年ぶりの時間。それがこれほど無音で、これほど広々としたものだとは、シキは思いもしなかった。
研究機関の建物は白く、過剰なほどに清潔だ。感情を排した建築で、志朗の暮らす高層マンションとはまるで違う。
研究員たちはシキを拘束することもなく、言葉を掛けることも少ない。手つきは一貫して丁寧で無駄がなく、乱暴ではないが情も無かった。
「魔力定着率、測定開始。身体構成データ、過去データと比較。大きな逸脱なし」
「精霊反応、変調なし。外部干渉の痕跡、ゼロ」
冷たく読み上げられる声。体温、脈拍、骨格スキャン。魔素反応、神経伝達の微細な反応。どれも無機質な器具の中で進められ、触れるときは手袋越しにゆっくりと。
「……ここまで慎重に扱う個体ですか?」
若い研究員の漏らした疑問に、年長の者が静かに応じる。
「仏田 志朗様の私有物だ。ただのエルフじゃない。噛みつけば、戦争になる」
この世界では、価値とは誰の名を背負っているかで決まる。人間であれ人外であれ、それが全てだ。
かつて自分は「ただの見世物」だった。今は「仏田 志朗の私有物」だ。違いはそれだけ。それだけで、扱いはここまで変わる。
黙って魔力測定に従う。機械が内側をなぞる。体液の組成、魔力の分布、筋繊維の再生率、神経伝達の応答。志朗が知らないシキの性能が読み取られていく。
「問題なし。……大切にされているんだな」
誰かが小さく漏らした言葉が、白い空間の奥で反響した。
研究所の白い出口を出ると、眼前に黒い大型車両が横づけされた。
装甲付きの搬送車は軍用への転用も可能な特注車両のようで、仏田家直属の異能輸送用の車であった。係員は何も言わずドアを開ける。促されるまま、シキはステップを上がった。
車内に広がるのは、革張りのシートと無音の冷房。そして、人ならざる者たち。
車両の片側に付けられた金属フレームに、数名の個体が繋がれている。首輪型の魔力封鎖具を取り付けられ、口元には分厚い猿轡が、手足にはいくつもの拘束ベルトが……売買され、実験のために保管されている者たちを縛り付けている。
彼らに着けられた拘束具はどれも、かつてシキの身体に着けられていたもの。研究所での調整を終え、これから別の施設へと移送される途中の一団だった。
――私も、あちら側だった。
志朗の目に留まらなければ……あのときたまたま志朗に買われなければ、自分も口を塞がれ、手足を縛られ、沈黙していた。
車両の中でただ一人、シキだけが拘束をされず、革のソファに座らされる。
「さすがに志朗様のものは、分けて乗せるべきだったな……?」
運転席から漏れる、研究員の小声。
「まあでも、反応はしないんだろう?」
「ええ。訓練済みです。問題はありません」
その言葉にも、シキは眉一つ動かさない。顔を伏せることもなく、一人一人の拘束者を見た。
やがて一つの視線が、シキに向けられた。
首輪で魔力を完全に封じられ、口を塞がれた、まだ若い個体。色素の薄い肌。長い耳。シキと同じ、エルフ族。
拘束具の上からでも見て取れる、深く刻まれた抵抗の痕。暴れ、引きちぎられた皮膚。それでも彼の瞳は、まだ濁っていなかった。
問いかけていた。怯えとも、羨望とも、怒りともつかぬ視線。
――なぜお前はそこにいる? なぜ自由でいられる?
縛られた同族から向けられる眼差し。痛み。怒り。嫉妬。無言の問いに、シキは答えない。
――私は救われたのではない。所有者がついただけだ。
焼かれた森で捕らえられ、見世物として晒され、偶然店に訪れた子供に気まぐれに拾われた。その一点だけで、今ここにいる。
たとえこの車の中で自由にされていたとしても、そんなものは本当の自由ではない。見えない別の檻に移されただけ。
反論をすることもなく、静かに揺れていた。
エンジンの振動が、革のシート越しに脚へ伝わる。車の揺れで眼差しを遠ざける。志朗のもとへ向かい、もうじき到着する。そのときだった。衝撃音に襲われ急停車する。
魔術封印と軍用装甲で守られた搬送車両が、初めてざわめき始めた。
「状況確認! 魔力反応、急上昇!」
通信兵の怒号が響く。魔術陣が車内外に瞬時に展開され、武装兵たちが車外へと飛び出す。
だが、遅すぎた。
ズドンという重い着弾音。車両の片面が爆ぜ飛び、装甲が紙のようにめくれ上がる。
耳を劈く悲鳴。銃声。詠唱の響き。閃光と爆音の中、戦闘が始まった。
「くそっ、R号の連中か! 来やがった!」
誰かの怒声をかき消すように、影が舞い上がる。封印術すら嘲るかのように、異能者たちが装甲を突破してくる。
金属扉が吹き飛んだ。先頭に立つのは、重装備の青年。目に真っ直ぐな光を宿し、声を張り上げる。
「君たちを解放しに来た!」
その言葉に、空気が一変した。
機関の兵たちは、反機関組織――レジスタンスの圧倒的な力の前に次々と倒れていく。戦いはわずか数分で終わり、搬送車両は制圧された。
「封印具を解く! まずは猿轡を外せ! 急げ!」
邪悪なものを払い、捕らわれた人外種族を救うべく活動をしてきた隊員たちは、慣れた手つきで拘束を解除していく。
手足を震わせる者。泣き崩れる者。まだ呆然と立ち尽くす者。ある者は初めて自由に吸う空気に、嗚咽のような息を漏らした。
「もう大丈夫。君たちの自由は、今ここからだ」
「急げ! 逃げるぞ! 奴らに捕まる前に!」
そして、最後に……正義の瞳がシキを見た。
「君も、来てくれ」
シキは、拘束されていなかった。だから解放する必要はない。
だがその青年は他の被害者たちと同じように、手を差し伸べてくる。
「君もあいつらに所有されたんだろ? 俺たちが必ずその鎖を断ち切る」
その声は、真っ直ぐだった。色を持っていた。正しさの色。信念の音。誰もが惹かれる、自由の主だ。
――志朗が、待っている。
志朗のために設計された部屋。志朗の唇。志朗の手。志朗の「愛してる」。
それが日常だった。12年、変わらなかった世界。それでも。
「行こう。君は自由だ」
その言葉に、シキは頷いた。
降ろされたのは、静かな山間の集落だった。地図には載っていない朽ちかけた土地。そこに居場所を奪われた命たちが集められていた。
深い山に囲まれたその土地の名は、霜月村。舗装されぬ道、電線すらまばらな空。夜になれば人工の明かりは消え、空一面に星が溢れ出す。まるで時の流れから忘れられたような、そんな場所だった。
電波塔は立っておらず、21世紀を過ぎても携帯電話は圏外ばかり。レジスタンスの隊員たちは通信機器の調整に手こずりながら「ここ、日本じゃねえな」と笑う。その苦笑とは裏腹に、シキを含む人間でない者たちにとってその不便さこそが、安息だった。
「大丈夫。もう怖いことは何もないよ」
レジスタンスの青年がやわらかな笑みを浮かべて、車のドアを開く。
木々が風に揺れる。鳥が鳴く。志朗の高層マンションでは決して届かなかった音ばかりがここでは息づく。日本ではあるが、どこか懐かしい。
だからレジスタンスはこの土地を選んだのだろう。隊員の声音にも、広がる空気にも、疑いようのない善意があった。
シキに宛がわれたのは、古びた木造のアパートだった。
昭和中期に建てられた共同住宅で、避難所として改装されている。廊下は軋み、建て付けは悪い。けれど、日当たりはやわらかい。家具は最低限のものしかなく、志朗の住んでいた高層マンションとはあまりにも異なる空間だ。
シキは何も拒まなかった。色褪せた畳の上に腰を下ろし、しばらくの間、窓辺に座っていた。
「ここでは君の時間を、君のままで過ごせばいい」
霜月村は居場所や尊厳を奪われた者たちの、仮の安息の地になっていた。
レジスタンスは物資を運び込み、医療を施し、教育の準備も進めている。村にいる者は皆それぞれの痛みを抱え、ひっそりと生きていた。
ある一室には、ひとりのエルフの青年がいた。白い髪が腰まで垂れ下がり、目は虚ろ。体には無数の焼き印が幾重にも残っていた。
「あの人、もう何年も声を出してないんだって。喋ったら殴られるって、刷り込まれてるから……」
誰かがそっと囁く。シキはその姿に目を逸らすことができなかった。まるで過去の自分がそこに映っているようだったから。
また別の部屋。毛布の隙間から、獣人の子供が睨みつけていた。親を目の前で殺され、売られ、猟奇的な施設に収容されていたという。警戒心に満ちた瞳。腕は、小さなぬいぐるみにしがみついている。
「いつか君の故郷に帰れるようにする」
レジスタンスの者がそう子供に語り掛けていた。
階下からは、子どもたちの笑い声。泣き声。叫び声。言葉よりも先に、吠えることを覚えた者たち。
隣の部屋からは、時折呻くような声。機関で実験体にされ、心身を壊された能力者の声。
様々なこの世の苦痛が溢れている。それでも、皆が自由だった。自由に質素な暮らしを送っていた。
霜月村に来て三日目の朝。
古びたアパートに住み始めたシキのもとに訪ねてきたのは、レジスタンスの隊員たちだった。
人間の青年が三人。どの顔にも疲労が滲んでいたが、その目には曇りのない誠実さがある。
「機関の動きが活発です。そして、貴方に……お話したいことがあります」
一人が静かに口を開いた。その言葉には、感情を押し殺した重さがある。
シキは彼らの目を見た。言葉を交わすことは好きではない。ただ気分になれないだけだ。
それでも目の前の人々の誠実さを無下にするほど無感ではいられない。シキは慎重に対応する。
その中で、久々に発した声に隊員たちが息を呑んだ。隊員の一人が顔を赤らめ、もう一人は目を見開いている。そういえば故郷にいたときも、見世物小屋にいたときも、志朗と共に過ごしていたときも、声について指摘されることが多かった。
「あ、ありがとうございます……すみません、聞き惚れてしまって」
「で、では用件を。少し、辛い話になるかもしれません」
広げられた資料の束。
その全貌は明かされなかったが、書類を繰る彼らの目が既に全てを物語っていた。
「……我々の同志が何人も殺されています。機関の武装部隊が活発に動いているからです」
一人の隊員が深く息を吐き、目を伏せてから続けた。
「ある情報が入ってきました。彼らが探しているのは……銀の髪のエルフの男。彼らはその存在を、こう呼んでいました。仏田 志朗の私物、所有物……ペット」
語られた言葉の選び方は、慎重だ。けれどどんなに言い繕っても、その語は避けられない。
――仏田 志朗のエルフ。それは、今や戦場の火種となる存在となっている。
「彼らはおそらく、貴方を取り戻すつもりです。そのために我々の同志が次々と狙われているのかもしれません」
だが、と隊員は顔を上げた。
「だからといって、私たちは貴方を差し出すような真似は絶対にしません。貴方を、守らせてください。あの者たちの欲望のために貴方を犠牲にすることなど……断じて、あってはならないことです」
その言葉を、シキは静かに受けとめた。
目を伏せる。瞼の奥で、過去の夜の記憶が揺れる。
志朗の腕に抱かれていた夜。首輪を引かれ、唇を塞がれ、髪を撫でられ、「可愛いな」と囁かれた。まさしくそれは、身勝手な欲望だった。
隊員の言葉には同意するしかない。
――仏田 志朗に飼われていたのは事実。でも今の私は、誰のものでもない。
言い切った声は、どこまでも静か。隊員たちは、それ以上を求めなかった。
誰ひとり「戦ってほしい」とは言わない。一人の隊員が、微笑みを添えて口にする。
「ここで静かに生きていてください。貴方の時間は貴方のものです。……それは、どんな存在にも平等に与えられるべきものなんです」
話し終えた後、別の隊員が、ふと気づいたように目を細めた。
シキの首には、まだ首輪が巻かれている。金細工の美しい首輪だ。魔力反応もなく、GPS機能も搭載されていないただの装身具である。霜月村に到着した際にも隊員たちに指摘されたが、シキ自身が「他を優先してほしい」と断り、今まで外されていなかった。
「それはもう、外しましょう」
隊員が精密工具を取り出し、慎重に留め金を外す。カチリと乾いた音を立てて、首輪が外れた。
金属が畳に落ち、控えめに音を立てる。隊員はそれを拾い、袋に封じた。処分されるという。
それ自体に未練はない。けれど、何も感じないわけではない。
――志朗の指先。新品の首輪を嵌めた日。上機嫌にシキの髪を撫でていた、あの表情。
「綺麗だな。誰にも見せたくないくらい綺麗だ。……お前は俺だけのものだからな」
笑っていた。あまりにも自然で、無防備で、幼かった。
彼がこの首輪が外されたと知ったら、どんな顔をするのだろう。怒るだろうか。取り返しに来るだろうか。それとも、虚無になるのだろうか。
答えは出せない。ただひとつ確かなのは、その問いが胸の奥に鈍く残っているということ。
隊員のひとりが、改めて頭を下げた。
「貴方の安全は私たちが保証します。絶対に、誰にも渡しません」
その言葉に、シキはそっと頷いた。
レジスタンスの善意に応える術はまだ知らない。だから頷くことしかできなかった。
/4
霜月村のアパートで、数ヶ月を静かに暮らした。
この村には人生を弄ばれた者たちが集まっている。人生を機関に焼かれた者。気まぐれに義足にされた者。薬で瞳の光を濁された者。シキはその誰とも目を合わせなかった。それでもすれ違えば会釈を交わすようになった。
角と黒ずんだ肌を持つ鬼の青年は、元戦闘用の実験体だったらしい。食事時、そっと野菜を差し出してくれるようになった。
「口が使えねえんだってな。でもまあ、食うだろ?」
下の階に暮らしていた獣人の幼子は、狼のような耳を持っていた。細い体毛に包まれた少女は、シキの姿を見ると、決まって毛布を抱えてきた。
「寒くない? これ、あったかいよ」
ふわりとしたぬくもりを膝上に置いていく。シキは何も言わず受け取った。
レジスタンスの青年たちは変わらず一定の距離を保ちながら、見守ってくれている。定期的に安否を確認し、食糧や薬の補充をし、衣類を置いていく。過干渉はしない。だが忘れもしない。そんな居心地の良さが広がる村だった。
季節は巡る。寒々しい冬から春が訪れ、やがて花を散らして新緑が芽吹く。
長命種であるエルフにとって日本の四季は僅かな通過点にすぎない。人間の時間の重みを理解するには、あまりにも温度差がある。だからこそ些細な年月しか生きられない人間に、家族や日常、愛を奪われるということが、どれほどの憎しみを生むか、奪われなければ分からなかった。
何かを生み出すには時が要る。人間が焦がれるには十分な時間でも、エルフにとっては芽吹き程度にすぎないこともある。
霜月村で風の音を聞きながら季節を見ていても、他の者たちと違い、シキには季節の実感を得ることが難しい。感動できず、ただじっと無感情に佇むことしかできない。それがシキだった。
梅雨の湿った空気を裂き、レジスタンスの古びた軽トラックが山路を唸らせてやって来た。
荷台には幾つかの影。妖精の子供、酷使の果てに力の制御を失った男、そして、エルフの女。
その女は、到着の瞬間から空気を濁らせていた。
かつては美しかっただろう金髪は、ところどころ焦げ落ちている。肌には鞭の痕、火傷、裂傷、過去の全てが皮膚の上に刻まれていた。
それでも、瞳は一つも濁っていない。むしろあまりに鮮明で、怒りと呪詛と絶望の焔を孕み、見返す者の心を焦がすほどだ。
彼女は、シキの住むアパートの一室に宛がわれた。
ある午後のこと。汲み置きの水を捨てに外へ出たシキは、彼女の姿を見つけた。
ベランダの手すりに腰掛け、煙草を吸っている。誰に貰ったのか知れぬ一本を、過去を燻らせるようにくゆらせていた。シキに気づき、女は目を上げる。
「あんた、偉い奴に随分可愛がられたって聞いたよ」
掠れた声は低く、舌に苦味を宿していた。
女の瞳には怒りが灯っている。憎悪を噛みしめて生き延びた者の目の彼女は、独り言のように呟く。
「男のペットになってたんだって? ……私は違う。ただ使われた。魔力が出るまで何度も。出なくても何度も。娯楽にも実験にもされた。生きていたくなかったのに殺してもらえなかった」
その言葉は刃のように、シキの無表情に突き刺そうとする。
「なんで私が。許せない。……分かってるよ、あんたに怒りをぶつけても何も変わらないってことは」
用事を終えたシキは、くるりと背を向けて歩き出す。女はその背を睨んだまま、くぐもった舌打ちを一つ。煙草を欄干に押し付け、火を潰した。
それから暫くしたある日。レジスタンスのジープが訪れた。米、缶詰、毛布、薬、そして少しの玩具など、物資を旧い舗装路の端に降ろしているとき。あのエルフの女が歩み出た。
火傷の痕がまだ癒えぬ肌のまま、唇には怒りの色を乗せて、彼女は青年隊員のもとへ歩み寄る。
「……私も、戦いたい」
運搬の手が止まる。
「レジスタンスに入れてほしい。私は剣も魔力も使える。……なにより、赦せない」
青年が言葉を探すより先に、女は言葉を継いだ。
「私は見たのよ。檻の中で死んでいった子どもたちを。飢えて凍えて、何番と呼ばれて殺された幼子たちを。……私は、殺したいの。私たちを物のように扱ってきたあの人間たちを。もう二度と誰も同じ目に遭わないように、戦いたいの」
しばし、沈黙が降りた。
やがて、一人の青年が立ち上がった。右手を失った能力者だった。
「俺も、戦いたい。……まだ力は残ってる。あいつらに見せなきゃならねぇ。何を失ったかってことを」
次いで、実験体として使われていた鬼の青年が立つ。
「あのとき、叫びを聞いた。俺も同じように殺されたかった……。でも生き残ったからには、やるしかない」
さらに、足を引きずった異形の女が名乗りを上げる。
「足は悪い。でも、搬送の手伝いならできる。……私も手伝わせてほしい」
立ち上がる者が、一人、また一人。女の叫びが波紋のように霜月村に広がってゆく。無力だった過去に、静かに抗うように。逃げるしかなかった日々に、終止符を打つように。
人々の想いが集まり、一つの火となって燃え上がる。正義と復讐、願いと怒りが混じった炎が大きくなっていく。
その輪の外に、シキはいた。木の根に腰掛け、群れの中心で燃え始める熱を黙って見ていた。
「……貴方は、行かないの?」
そっと声を掛けてきたのは、かつて毛布を差し出した少女だ。まだ幼く、問いも責めではなく純粋な疑問を投げつけるだけだった。
シキにも、かつては復讐心があった。あの滑稽な支配者を嘲笑ってやりたいという野心が胸にあった。
けれど今、彼は背を向ける。戦火ではなく、沈黙に身を置いていた。
一人で山の奥へと歩き始めた。
細く続く山道を踏みしめ、草に埋もれた獣道を分け入る。蜘蛛の巣を見やりながら、鳥の囀りを聞き、湿った土や苔の香りを嗅ぎながら歩く。
シキが帰りたい場所に近い香りがする。だから求めて歩いた。
志朗の匂いは、そこには無い。それを思うと、自分が志朗に未練など持っていないように思える。
故郷に近いものを探し求め、シキは霜月を歩く。そうして進んだ山の奥に、ひっそりと朽ちかけた木造の廃屋を見つけた。
斜面に寄りかかるように建った建物は、トタン屋根が錆びて歪んでいた。壁の一部は苔に浸食されているが、風雨に耐えてなおもそこに在る。
既に人の住まう場所ではなかったが、縁側だけは違っていた。
木目の浮き出た床板は長年の使用にすり減ってはいるものの、誰かの体温を残しているような温もりを持っている。
午後の光が木々の隙間から照らしていた。シキはその縁側に腰を下ろす。やわらかな光の下、何の気なしに床を撫でた。
――そこだけ残るあたたかさに、強い意思、不可思議な感触を覚える。
シキは目を閉じ、心を少しだけ緩めた。感応力によってその縁側に残る記憶を浮かび上がらせていく。
「にいに、ひっぱらないでー!」
「りゅうすい、また一人でどっか行ったろ! すごく心配したんだからな……よりみちにぃに怒られろ!」
――それは、縁側に残された幻。どこかの家族の記憶。
かつて自分も暮らしていたような、自然に囲まれた家々の景色が広がっていた。跳ねる足音。笑い声。無邪気な呼びかけ。追いかける手。
その端に、ある少年がいた。
幼くはしゃぐ弟たちを見守る目。瞳の奥に、幼くして背負わされた責任が見え隠れしている。まだ若いのに背筋を伸ばして、己を律しようとする眼差し。
その姿が――志朗に、似ていた。
志朗が自らを律しようとするとき、時折浮かべたあの表情。目の前の少年もまた、自分を刻み込むような佇まいをしている。
胸の奥に小さな波紋が広がる。途端、シキは彼に――触れたくなった。
どうして? 自ら動くことなど、これまで殆ど無かったのに。
ただ志朗に似ていたというだけで、いや、切ない顔をした志朗を思い出した瞬間に「触れなければ」と思ってしまった。
よく「触れろ」と言われていたから? ……なら、とんだ反射だ。
幻想の中の彼は、自分が触れなくても幻想の弟たちが飛びついていた。飛びつかれた少年は驚き目を見開き、そして優しく微笑む。
「まったく、一人でどっか行っちゃ駄目だよ。みんなで探したんだから」
「にいに、ごめんね。……おこる?」
「怒らない。帰ってきてくれたから。それで充分だよ。……おかえり」
小さな弟を抱きしめる兄の腕。その笑顔の向こうに、志朗の面影が重なる。
彼も、言うのだろうか。
いなくなった者に向かって。……おかえり。お前が無事なら、それでいい、と。
(まさか。……と言いたいが、あの子供っぽい子なら言うかもしれないな)
目を開ける。縁側は未だあたたかく、静寂を纏っていた。木の板が陽を受け、葉の影が淡く揺れている。
なぜここに来たのか。故郷と似た匂いがしたから。
なぜ過去を視たのか。彼と似たものを感じたから。
なぜ彼と似たものを感じたから、動いたのか。……自分は、自由になった。首輪は捨てた。監視も無い。誰の所有物でもない。あれほど支配的だった男、解放されてせいせいする筈だった。それなのに、それなのに……あの男の顔が、ふとした瞬間に浮かぶから。
わずか数年を共に過ごしただけなのに、あの面影が奥の奥にまで染み込んでいた。
日が傾き始めた頃、シキはアパートへ戻る。
そのアパートの前に、見慣れぬ……けれどどこかで見たことのある、よく目立つ顔立ちの青年が座り込んでいた。
「こんばんは、シキお兄ちゃん」
屈託のない声。縁側の幻にいた少年に似た、いや、それ以上に志朗を思わせる顔立ち。
記憶が蘇る。数年前、志朗のマンションに騒々しく現れた男だった。
「……志朗様の弟」
「むぐ、新座だよ。覚えててくれて嬉しいな」
新座はそう言って軽やかに手を振る。
志朗の実の弟。その登場に、シキは周囲の人外たちの気配を探った。
「慌てなくていいよ。僕もレジスタンスやってるんだ、敵じゃないよ。意外? ……ていうか、レジスタンスは僕が立てたんだ。鶴瀬くんの行動力があってこそだけど、設計は僕」
「……志朗様の弟なのに?」
その問いに皮肉は無い。事実としての純粋な疑問だった。
新座の唇がゆるりと揺れる。
「へえ、志朗お兄ちゃんってば恋人のシキお兄ちゃんに様付けさせてたんだ。そういう人なんだねぇ。僕なら付き合ってる人にそんな呼ばせないけどな」
声は明るい。けれど、その奥に潜むものは読めなかった。
「僕レジスタンスだしここに来ることぐらいあるよ。で、ここにシキお兄ちゃんがいるって知って、見ておきたかったから来たんだ」
やがて新座は立ち上がり、まるで自分の家へ向かうようにシキの部屋へと入っていった。シキの無言を気にも留めず、ちゃぶ台の脇に胡坐をかいて座る。
「志朗お兄ちゃんは元気そうだよ。今は人材突っ込んでめちゃくちゃ働いてる。……かなり困ってるみたい。大事な人がいなくなっちゃったから」
シキは動かなかった。
「いなくなって怒ってるっていうより……拗ねてる? ううん、泣いてるかな。あの人、涙は見せないけど。……でさあ、ちょっとイヤな話していい? うん、するね」
台本を読み込んだ役者のように滑らかな口調で、新座は語り出す。
「最近レジスタンスの仲間がどんどん殺されてるんだ。凄い勢いで。……志朗お兄ちゃんがそれを主導してるって噂。弟としてはまだ信じたくないけど、現場ではそう聞いてる。……『銀の髪、青い目のエルフの男はどこだ』って。どの生き残りも同じことを言われたって」
シキは、目を伏せた。何も言わない。
それでも新座は続ける。シキがもし止めたとしても止めない問答無用な声音で。
「志朗お兄ちゃんはね、シキお兄ちゃんがいなくなってからおかしくなったよ。いや、元々そうだったのかも。『誰が奪った?』って顔で敵味方の区別もなく牙を剥いてる」
ちゃぶ台に肘をつき、新座は身を乗り出す。
「僕らレジスタンスってさ、正義の味方ごっこしてるけど、実際やってることは泥まみれだよ。逃げて、隠れて、毎日ビクビクして……ときには誰かを見捨てることもある」
指で茶色く傷んだ畳の目をなぞり、抉り、弄んで、
「でもね、僕らは君みたいな人を救いたいと思って立ち上がった。このままじゃいけないってね。だから……シキお兄ちゃんが救われたいって言うなら、僕たちは絶対に君を守るよ。最初に抱いた希望を裏切りたくないから」
無表情のシキを見つめて、新座は僅かに笑った。
「でね。もしシキお兄ちゃんが志朗お兄ちゃんのところに戻りたいって言うなら……僕は、それもまた救いとして受けとめたい」
言葉としてはあまりに穏やか。
だが、レジスタンスの者が聞けば激昂するような内容だった。
「志朗お兄ちゃんは敵だよ。絶対に許してはならない存在。でも……そんな彼が大切にしていた人のことは、僕も大切にしたいと思ってる」
それでいいのか、とシキは思った。
それが正義と言えるのかは分からない。けれど、確かに自由の匂いはあった。
「別に協力しろなんて言わない。戻れとも言わない。……どっちでもいいよ。そういうのも自由ってやつじゃない?」
新座は懐から煙草を取り出すと、魔術で火を点けて一服する。
それは、志朗と同じ銘柄だった。
兄と弟の間にある柔らかな親しさが、煙とともに部屋に滲んでいた。
新座が去った後も、煙草の香りだけが部屋に残る。まるで彼がまだそこにいるかのように。あるいは……志朗の幻が、そっと腰を下ろしたかのように。
毎夜、髪を梳かれ、抱き寄せられた。荒々しく、支配的で、幼くて、そして優しかった。
その矛盾に、なぜ今まで言葉を与えられなかったのか。
それは――同情だったのだと、ようやくシキは気づく。
冷たい家で誰にも本当の顔を見せず、表では完璧を演じ、裏では泥にまみれ、それでも帰れば自分の首に顔をうずめて「お前だけが傍にいてくれる」と甘える男。あまりに不器用で、どこまでも渇いていて、それでも……必死に、愛されたいと願っていた男。
その姿が、ただ哀れだった。
シキは、志朗に恋をしたのではない。崇拝したのでも、心酔したのでもない。ただ彼の哀れさが、自分の過去と重なって、響き合ってしまった。
それもまた、確かに情だった。名もつけられぬ愛の形。味方でありたいと願ってしまう、それだけの重さを持った情だった。
/5
アパートのベランダに腰掛けていたシキの長耳に、風に乗って木々のざわめきと、遠くから戻ってきた隊員たちの足音が交じって届いた。
「嵐山組の組長が捕まったそうだ」
噂ではなく確かな報せだった。暴走する志朗が率いた部隊を迎え撃ったレジスタンスが勝利した。仏田 志朗はレジスタンスの保護下にあるという。
隠れ家のひとつに拘束され、厳重に監視されているらしい。これから裁判が開かれ、法の名の下に告発し有罪にする。正義として過去を清算するために。そういった知らせが、律儀にシキのもとにも届けられた。
――志朗が捕まった。その一言に、シキは確かに安堵を覚える。
窮屈な日々が真の意味で終わったのだ。首輪も檻も、夜ごとに囁かれた甘く冷たい言葉も……触れられることも、おそらくもう無い。そう思うと胸の奥に鈍い痛みが灯る。喜びなのか悲しみなのかも、ぼんやりしていた。
夜の気配が濃くなり始めた頃。
いつもは風の音しか通らない古びたアパートの一室から、微かな熱が漏れていた。
「……あいつが捕まったらしいな」
「憎き敵が、あんなぬるいやり方で処されるのか……裁判? 牢? 冗談だろ」
「殺してやる。今すぐにでも、あの喉を裂くべきだ」
燃え滾る憎しみが、隠されてすらいなかった。
聞こうとせずとも耳に届くそれらの会話は、聞かせるようにわざとらしく鋭い声で語られていた。その場を離れようとしたシキの前に、焼け落ちた髪と火傷の痕を持つ金髪のエルフの女が立ち塞がる。
「あんたは、止めるのか?」
低く、沈んだ声で問われた。その背後にいた女たちも、同じ視線を投げかけてくる。
シキは黙ったまま、視線を真正面から受けとめた。沈黙を答えとして。だがその無関心こそが、彼女たちの怒りをかえって煽る。敵意は、別の方向へと向けられていた。
「拒絶しないのなら、来い」
女は激しい感情を込めて言い放ち、シキの動かない腕を強く掴んだ。
選択をしたわけではなかった。けれど拒むこともなかった。引かれるままに、足が土を踏み出す。歩みは夜の奥へと滲んでいく。
――鬱蒼と木々が生い茂る山中。レジスタンスの支部から外れた、獣道のような細い林道を抜けた先。人の気配も届かぬ深い森の中に、小さな炎が揺れていた。
炎を、数人のエルフたちが静かに囲んでいる。その中心にある炎とは、志朗だった。
かつては高級スーツに身を包み、仏田家の名を背負って裏社会を牛耳った若き組長。暴力と支配を象徴する男は今、見る影もない。四肢は拘束され、無数の暴力がその身に降り注いでいる。今はゴミのように地に転がされ、嗤われ、裂かれている。
「人間に同胞を殺されたなら。ここで返す。それだけのこと」
金髪のエルフの女が、志朗に刃を突き立てる。
「こいつの血で、やっと私は眠れる!」
叫びは、夜を裂いた。志朗の身体は傷にまみれる。
だが、終わらない。延命魔術が命を繋ぎとめ、彼に死ぬ自由すら与えない。拷問の果て、彼の目の焦点は既に定まらず、言葉も出せない。
それでも、唇が微かに動いた。
「……シ……」
命乞いではなかった。死ぬ間際に、ただひとり……会いたい者の名を、あるいは、幻の中に浮かんだ誰かに最後の愛を囁いているようだった。
「あんたの番だよ」
ひとりのエルフが、シキへ視線を送る。眼差しは刃物より鋭く、熱を孕んでいた。
けれど、シキは動かない。武器を持たない。手を伸ばさない。動かず、声も出さず、その場に立ち尽くすのみ。
誰かが舌打ちをする。
焼かれた村、蹂躙された同胞、奴隷として生かされ命を弄ばれた日々。それを思えば、これが報いだと誰もが言うだろう。――救いたいと一瞬でも思える者など、どこにも居ないのだ。
シキが長く目を閉じた。そして再び開いたときには、辺り一面が死の風景に塗り替えられていた。
先ほどまで怒りに燃えていたエルフたちの姿は無い。正義の名を叫び刃を振るっていた者たちが、今は血にまみれて横たわっている。
森林に鉄の匂いが満ちていくのも一瞬だった。土と葉に混じる生ぬるい血の香りが辺りを覆う。
「やあ、こんばんは」
穏やかな声音がした。森の裂け目に黒衣の男が立っている。
中性的で涼やかな顔立ち。どこか艶めいた気配を纏い、場違いなほどやわらかな微笑を浮かべている――志朗の兄。
彼の隣には、血飛沫ひとつ纏わぬ剣士がいた。一片の躊躇もなく、燈雅の命を受けて、今この場にいた多くの命を奪ったのだ。
「幸せ者だね、志朗」
地に転がる志朗のもとに、笑顔の彼が近づく。
殴られ、焼かれ、裂かれ、もはや誰なのかも判別できないほどに傷ついた弟を見て、彼は口を開く。
「ずっと探していた子が会いに来てくれたじゃないか」
その言葉に反応するように、志朗の身体が微かに痙攣した。
呻くように震えが唇に宿る。
「……シキ……?」
それは残された魂の最後の欠片が、祈るように発した名だった。
命乞いでも、赦しを乞うでもない。ただ求める声。そんなシキの背に――仏田 燈雅の視線が静かに降りてくる。あたたかいのに、氷のようなその目は、沈黙するシキを観察するように見つめた。
「ねえ、君。もし君が、まだ志朗の奴隷だったのなら。命令させてもらおう」
シキの長い睫毛が微かに震える。
燈雅の声音は冷たく優美で、逃れがたい毒のように染み込んでくるものだった。
「志朗のこの無様な傷を……君の身体に移してやってくれ。この子には、何の力もない。癒しの術も、命を願う術もない。だが君ならできるだろう? あの夜のように、全てを己に引き受けて彼を救うことが」
冷ややかな流れが、シキの首筋を静かに掠めていく。
「けれど、君はもう自由だ。志朗が本当は望んでいた、自由を手にした君……首輪は無い。命令も無い。……ようやく与えられた自由の中にいる君」
森の端から柔らかな月が顔を出し、燈雅の輪郭を照らす。
「そんな君には、違うお願いをしたい。――このまま、志朗を見殺しにしてくれないか」
虫の音が遠ざかり、森そのものが息を潜める。
深い沈黙が、血管の中にまで染み込み、脈を鈍らせてゆく。
「奴隷なら、助けてやれ。自由なら、見捨ててくれ。どちらにしても、これは君の選択だ」
「……彼は、本当に……私の自由を、望んでいたのですか」
夜の冷気を吸い込んだ唇が、ようやく動く。
押し殺された感情の澱が、深く静かに沈んでいた。
「うん。志朗は、君の自由を考えていたよ。首輪を外すこと。誰にでもなく、自分の意志で君を自由にすると。あの子は……心から願っていた」
燈雅の肯定は、やわらかい。嘘をつく気配も誤魔化す含みもない。
「自由に息を吸いたかったんだろうね。いつだって。……君と」
足元には血を流して横たわる男。呼吸は微かで、意識は既に向こう側。すぐに処置をしなければ命が尽きるだろう。
己の奥底に眠る感応の力を呼び起こせばいい。相手の痛みをそのまま己の身に引き受ける術。志朗の破壊された肉体を、自らの肉を代償に癒すことができる。
命と、引き換えに。
シキは目を閉じる。目を開けても志朗がいたが、目を閉じてもやはり志朗はいる。夜ごとに抱きしめて愛を囁く傲慢な男。志朗なりの愛に報いるなら、命を差し出すべきなのかもしれない。
けれど、それは……してはならない。志朗が望んだのは、自分の自由だというなら。
かつて、命を賭して志朗を庇った自分。あのときと同じように今も力を使えば、志朗を救うことはできる。
そして、自分は、死ぬ。
それは、できる。簡単なことだった。選びやすくさえ、あった。
――けれど、それに何の意味がある?
たとえ救っても、志朗が目にするのは、自分の代わりに死んだ骸だ。血まみれで拷問の果てに倒れた、自らの身代わり。志朗はそれを抱いて泣くだろう。
きっと、叫ぶ。壊れる。それは果たして救いなのか。
たったひとりを失っただけで、志朗は既に狂いかけていた。もし自分が彼の目の前で死んでいたら。
しかも彼を救うために、自ら全てを引き受けて。
志朗の命は助かっても、心は、きっと焼けてしまう。
彼の救済の可能性すら、永遠に――失われてしまう。
(そして、私は……彼の破滅を望まない)
ならば、死んではいけない。
彼を本心から愛していたわけではない。けれど、憎みきることも、できなかった。
(なんだ、私も……この人間のことが)
シキは目を閉じ、ひとつ息を吐いた。
拷問台に横たわる志朗を、静かに背にして――ゆっくりと、歩き出す。
彼の死を置いて。
彼の願い通りに、本当の自由を手にするために。
――そうして志朗が死んで、数日が経つ。やがて「仏田寺が焼けた」「大勢の死者が出た」という報せも霜月村に届いた。
山の奥、かつて支配と暴力と血と祈りが渦巻いていた地。志朗が仕え、そしてシキを所有したあの家。それが跡形もなく消えた。その焼失こそ「彼がいた世界の終わり」を意味していた。
憎むべき悪の巣が滅んだことを喜ぶ者がいた。同時に、多くの犠牲を悼む者たちもいた。村を包む喧噪と鎮魂。その中で、シキはひとり、山へ入った。
向かう先は霜月村の森林の奥にひっそりと眠る、かつての廃屋。愛した故郷にも似たそこに、シキは腰を下ろす。
築年も数えられない木造の平屋。蔦に覆われ、軒は崩れかけている。それでも縁側だけは、多くの愛情に溢れているせいなのか健やかに残っていた。
瞼を閉じる。感応の力が静かに目覚め、微かな残響が心を揺らす。
笑い声。走る足音。小さな兄弟たちが縁側に集まり、誰かの膝に頬を寄せている情景。
その中にあの静かな少年がいた。縁側の端に、物言わぬ影のように鎮座する少年。年齢に不似合いな気高さ。張りつめた背筋。幼さの中に大人の影を帯びた佇まいは……やはり志朗に似ている。
定期的にこの記憶に触れに来るうちに、シキは自分の中にある感情の正体をうすうす勘づいていた。
――恋しいのだ。本当のところ。
殺したのだから忘れればいい。そう思ったのに、彼に似た影を、また見に来てしまう。
――それだけ、自分の心はまだ志朗を追い続けている。
かつて志朗の腕に抱かれていた頃、魂は重たかった。首輪を付けられていた頃、身体が重たかった。苦しかった。
そして今……何も無くなった今、ようやく心は軽くなった。これが本当の自由なのだと思った。……はずだった。
結局のところ、所有も渇望も暴力も愛も、それら全てが失われた今、シキの指先は震えている。悲しみに傷ついている。
――悲しいか。彼がない世界が。
仏田 志朗は死んだ。遺体も残らず、彼が権力を誇示した寺も焼け落ちた。彼の名を呼ぶ者はもういない。そう、彼が本当にいなくなった世界の風が、これほど寂しいものだとは知らなかった。
エルフにとって十数年など、ほんの一瞬。だからこそ沈黙と無関心でやり過ごし、「哀れだ」と嘲って何もなかったことにしようとしたけれど……シキにとって彼は、大切だったのだろう。
――大声で泣いてしまうほど。
「いいかい、二人とも。何かあったらすぐ言うんだよ」
過去を生きた着物の少年が、幼い弟たちに語り掛けていた。まだ三つか四つほどの子を膝に乗せて、もう一人は隣に座って兄である少年にぴったりと抱きついている。
「何かあったらって、なんでもいいの?」
「いいよ。たとえ誰にも届かなくても、声にすれば、自分に届く。……お寺に戻ったらそうも言ってられなくなるかもしれない。我慢を強いられるかもしれない。けど、ここは自由だから。この村で自由でいるうちは、何でもいっぱい言ってくれていい」
この村は自由だ。自然はどこまでも広がっていて、縛るものもない風が吹き抜けていく。清々しくあたたかな縁側で、彼は「今だけは」と二人に説く。
「……怒っても、いい?」
「うん」
「大好きって、言ってもいい?」
「言ってくれたら嬉しいな」
「……泣いちゃってもいい?」
「うん。ここならいい。誰も止めない。二人にも、自由を味わってほしいんだ。できればずっと。難しいかもしれないけれど。……ここにいるときぐらいは、自由に。だから」
――なんでも自由に、言って。喋って。声を聞かせて。
シキの視界に、風が通り抜ける。感応力が見せた過去の幻は消えた。日が傾き、縁側の木目が金色に染まり始める。
だがその声は、清廉なその場に残り続けていた。
ゆっくりとシキは唇を開いていた。何年ぶりかも分からぬ、求められたから返す声ではなく、自分のための発声の動作。
胸の奥に眠っていた氷が、じわじわと溶けていくような感覚。音にならぬほど微かなもの。けれど、確かにその庭園へ広がっていく。
「……貴方が私を選んだように、私も今、貴方を選ぶ。……可愛いばか。……もっと、撫でてやっても良かったかな……」
ずっと胸にあった想いを形にした途端、気付いた。
ああ、私は、そんなこと考えて生きていたんだって。
どこからか、子供たちの声が響いてきた。
記憶に根ざした幻聴ではない。自由になったばかりの、獣人の子供たちが遊びに来ていた。
楽しげな、屈託のない笑い声。ここはシキだけの場所ではないただの廃墟、ずっと昔に忘れ去られた場所だ。誰が訪れたとしても、不思議ではない。
シキは耳をそっと伏せたまま、縁側に座ってその声の主たちの登場を待った。
「わあ、すっごく広いお家があるよー!」
「ねえねえ、ここ誰のお家だったのかな? えらい人のお家かな?」
「しーっ、誰かいるよ。あ、あの人、上の階のエルフさん?」
シキは視線をそちらに向けた。
いつもの仮面は作れない。つい先ほどまで声を上げていたのだから、無理もなかった。
「えっと、エルフさん。お邪魔しますっ。……ここで遊んでもいい?」
「…………ここは、きっと、みんなの場所だよ。君たちが遊んでいい場所に違いない」
初めてシキの声を聞いた少女が、目を丸くする。
「エルフさんも、誰かと、遊びたい?」
「……かもね」
「じゃあ、私たちと遊んでくれる? ……エルフさん、いつも悲しそうだから、いっしょに遊べたら楽しくなれるかなって」
「……それもいいかもしれない。少し気分転換したかったから、仲間に入れてくれるかい?」
「うんっ! えっと、お名前は? なんて呼べばいい?」
志朗のことを想う。今でも、想い続けてしまう。
たった数年のことだったけど、悠久を生きるエルフから見ればほんの一瞬の焼き印。そんな自分が、彼に縛られて生きていかなければならない。
彼のために命を捨てない。そう選択したのは自分の自由意思。
彼のためであり、自分のためでもある。自分だけの生き方が、この先も広がっていく。
「長いのは覚えきれないだろう。シキでいいか」
END
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