■ 038 / 「献身」



 ――2005年12月25日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /1

 僕は貧相な人生を送っている。
 仏田家の分家とはいえ長男、裕福な生まれだ。しかし複雑な事情で日本各地をあちこち移動し、十五歳でようやく仏田寺に腰を据えることができて……希薄な人間関係しか体験したことがなかった。
 ズバリ、僕に友達というものはない。得られないまま大きくなってしまったんだ。

 親しくしてくれたクラスメイトはいた。しかし名前は挙げられない。挙げるほど親しくなれなかったのが大半で、その努力を今まで怠ってきたのもある。
 もうすぐ成人するという年になって、どれほど自分が幼稚か思い知らされてきた。『仕事』をし始めて実感する、人と一から交流をすることの難しさ。身内の家業を手伝う今ですら難しいのだから、真に外へ出されたら叩きのまされたことだろう。
 義務で縁を作っていた学生時代では気付けなかった。生まれのせいにしているけど、単に僕自身が「友人を作ろう」という努力をしてこなかっただけの話。
 圭吾さんがいるから大丈夫? 何を言っている、圭吾さんは義兄だ。兄が弟に優しくしてくれるのは当たり前じゃないか。更に言うなら圭吾さんや霞さん、悟司さん達兄弟は……僕を守るボディガード。たとえ親しくしてくれても、それは違う絆だった。

 そんな他人と交流をしたことのない僕は、十九歳にして『人と付き合う楽しみ』を知った。
 今の生活は、未知との遭遇ばかり。新鮮で楽しい日々が続いている。
 家族のように毎日一緒に居られる安心感は無く、次の縁を作らなければならないという緊張感。途切れないよう駆け引きをし、それが叶って、また楽しい時間を送る充足感。
 血の繋がりの無い他人と親密に語り合えることは尊いのだと実感した僕は、毎日感動しながら生きていた。

「僕、こうやって誰かと遊び通すことが夢だったのかもしれません」

 クリスマスのコンサートが終わり、レストランでシャンメリーを煽りながら……心地良く過ごしている現状を、心から感謝する。
 真っ赤なテーブルクロスの円卓を囲むクリスマスディナー。隣の円卓には男女のカップルが、逆隣にはファミリーが賑やかだ。世の中のあるべきクリスマスの夜を過ごすことができている。
 運ばれてくるコース料理はどれも煌びやかで、僕好みだ。あっちの席の女の子は特製クリスマスケーキのあまりの可愛さに、携帯電話で写真を撮りまくっている。行儀悪いと思ったけど、楽しい瞬間を逃がしたくないという気持ちは充分理解できた。
 銀之助さんの作るものとは一味違う料理を食べて、退魔の仕事のことなんて一言も話さない会話を興じる。
 楽しいだけの時間を、楽しい会話をしてくれる人と楽しむ。笑顔が消えることがなかった。

「ときわ殿、これは夢ではないぞ。寧ろ夢だった方が良いかね?」
「どうしてです?」
「楽しい夢から目覚めた後に、同じ現実を過ごす。楽しい時間が二度も楽しめるではないか」
「ワオ、それは確かにお得ですね。グッドなミュージックもデリシャスなディナーも二回楽しめるとなったら幸せしかありません。さあ、アクセンさんもどうぞもっとお飲みください」
「ん」

 ディナーということで、アクセンさんはいつものお茶会で飲んでいる紅茶ではなくワインを口にしていた。目立つ赤毛のアクセンさんは洒落たスーツを着こなし、それが普段のティーカップよりワイングラスの方が数倍似合っている。
 僕が勧めると、言われた通りアクセンさんは赤いワインを口に運んでいく。その表情はやわらかく、口に赤い液体を含むたびに微笑んでいた。

「そのワイン、美味しいですか?」

 未成年の僕にはお酒の味が判らないので、思いっきり尋ねてみる。

「他の客達も笑っている。つまりこのワインは絶品なのだろう?」

 だけど、なんともアクセンさんらしい返しをされてしまった。
 ……そうだ、彼はこういう人だった。美味しいものを堪能する心も、笑顔がどうして湧き出るものなのかも、理解できずにいる人だった。

「アクセンさん。美味しい物だから、みんな思わず笑っちゃうんですよ」
「知っている。だから美味とされるワインを飲んで、私も笑っているのではないか。そういうものなのだろう?」
「……違います。ほら、見てくださいよブリッドさんの顔を。この超スマイルを!」
「………………え?」

 丸いテーブル席にて、僕とアクセンさんと隣り合ってデザートを召し上がっていたブリッドさんが……唐突に話し掛けられて目を丸くする。
 普段着と変わらぬ黒づくめの格好の彼は、ずっと身を小さくしながら食事をしていた。コンサートが終わった後、「……場違いなので帰ります。フレンチなんて食べたことないですし……」なんて言い出した彼を必死に押し留め席に座らせて、ようやく落ち着いてきた頃。
 今はお腹が満たされて落ち着いたのか、いつもの茶会と同じテンションになってくれていた。

「えっ……そ、その、ケーキが綺麗で美味しくて……つい」
「ふむ。ブリッドも美味い料理で満腹状態だから笑っている、そういうことだろう?」
「だから、ちょっと違います。人の評価はこの際良いんです。今の僕が愉快で笑いが止まらないのは、この時間が充実していて素晴らしいと心から感じているからです。ブリッドさんも同じでしょう。僕は精神的に癒され、ブリッドさんも視覚的にも味覚的にも満たされて、幸福感を得ました」
「幸福感?」
「決して『クリスマスのイベントが笑うべきものだから笑っている』のではないんですよ。アクセンさん自身が幸せだと思ったなら、笑ってください」

 言い切る頃には、アクセンさんの表情は彫刻のように固まっていた。
 またあの無表情。銀色の瞳は何も映さず、何の演技もせず……再度ワインを口に含む。
 今度は周囲の様子を見ながらではなく、一人で口の中で転がして……思案した。
 感想は、出てこない。美味しいとも不味いとも、何と言っていいか判らない……困惑の表情がじわじわと滲み出てきた。

「アクセンさん、隠し事は無しですよ! 思ったことを口にしてごらんなさい」
「……ときわ殿。君は意地悪な顔をしている。私の狼狽は君にとって愉悦を感じるものなのかね?」
「かもしれません。頑張っている人を見るとつい後押ししたくなるというか。揺れ動いている人を応援したくなるというか。困っている人を見守りたい、あまり良い性格じゃないのかもしれませんね」

 まるで自分は、感情の揺れ動きを食べる異端のよう……。なんて思ってしまったけど、口にはしない。
 これって多分、他者より優位に立っている自分に酔っている証拠だ。なるほど、それが僕の本性だというなら長年友達が出来なかったことと、働き始めて下っ端生活に苦しむ現状は……大変納得である。
 これは注意しないとせっかくできた友人を失くしてしまう悪癖だ。この機会に自覚できて良かったと思おう。

「アクセンさんはこんな僕をお嫌いですか?」
「週に一度話をするのだから、私は君のことを好いているということだろう?」

 また感情を挟まない理論づいた返答。でも「嫌いだよ」って言われなかったので純粋に嬉しかった。

「では、ブリッドさんは? 僕のことは好いてくれてます?」
「…………はい。とても大切な、友達です」
「うっ」

 望んでいた言葉をそのまま口にされて、思わず口を噤んでしまう。
 ほっとして、すっごくほっとして……って、どうして僕はすぐ「ありがとう」を言えないんだ。優しい言葉を言ってくれたというのに! 思わず黙り込んでしまってタイミングを逃してしまったではないか!

「ああっ、もう! 嫌ですねぇ!」
「え……? も、申し訳……ありません。その、オレ、出過ぎた真似を……」
「ときわ殿。何が嫌なんだ?」

 そうじゃない、そうじゃないとムキになって否定した。
 多分、隣の席ではしゃいでいる小学生っぽい子供達と同じぐらい声を上げていた。

 ――アクセンさんが予約してくれたレストランは、敷居が高すぎない場所だった。

 理由は僕が「なるべく気を遣わないような場所が良い」とお願いしたから。タワー最上階にあるような高級レストランではなく、一般的なファミリーがご馳走を食べにくるぐらいの庶民の店がいいとリクエストした。
 という訳で、滅多に行かない遠出とお泊まりに僕は羽目を外している。アクセンさんの世話をしているという「じいやさん」(本日初めて会ったおじいさんで、絵に描いたようなご年配の執事さんだった)にコンサート会場やレストランへ車を運転してもらった。
 やっぱりアクセンさんって普通の留学生じゃなかったんだなぁと再確認しながら今日が終わっていく。
 一日中遊び、お腹も膨れて夜が更けていく。コンサート会場が仏田寺から遠いので、本日はホテルに宿泊予定だ。
 ホテルへ向かう車が来るのを待つ間、レストランのソファーで思わずアクビをしてしまった。つい隣に座るブリッドさんに寄りかかってしまう。

「本当に今日は、夢みたいに幸せな日です」

 ブリッドさんは嫌な顔一つせず、僕の体を受け留めてくれた。
 何も言わず、静かに……頷きながら。

「嘘じゃないんです。それぐらい今の僕、満たされています。……ブリッドさんはどうです?」
「…………素敵な一日でした。こんな風に……何もしないで、ゆったり外で過ごせるなんて、十年ぶりです」
「十年。そんなにですか」
「…………はい。仏田に来て……それ以来です。十年……ですね」
「ブリッドさんは働きすぎなんですからもっと遊びに出かけるべきですよ! また僕らと一緒に!」
「…………」
「嫌ですか?」
「……いいえ。ありがとうございます。……是非」
「もっと言ってくれてもいいんですよ? 僕は聞いて安心したいんです。お二人とも、嘘とか隠し事をしないでくださいね?」

 訪れる眠気が、甘えた言葉を無意識に引き出していく。
 僕の体を支えるブリッドさんが少しだけ切なそうに笑った。隠し事はしないでと言った矢先、その寂しそうな笑みを隠そうとしている。
 そして……向かい合うソファ―で僕らを見ていたアクセンさんは、

「私は人間ではない」

 いきなりとんでもないことを、口走った。

 …………僕らは、二人して素っ頓狂な声を上げる。

「……………………はいぃ?」
「隠し事はいけないのだろう? なら話さなくてはならない。じいやにはなるべく口にしないよう言われていたが、酒を飲んだ夜というものはときわ殿のように素直に何でも喋るものなのだろう?」
「…………。つ、続けてください」
「ん。私は吸血鬼と呼ばれる異端だ。人間と共存する同盟に賛同している。異端ではあるが、魔族の私は最低限の食事があれば人を喰らう必要が無い。だから人間社会に溶け込んでいる」

 おや、お車の準備ができたから来た運転手のじいやさんが……思いっきりハラハラしている顔をしたまま立っているではないか。
 主の邪魔をせず家具に成りきる執事の鑑のような方だったのに、今はその影も無いぐらい慌てているぞ。

「す、凄まじいカミングアウトですね……。あの、吸血鬼ということは、やっぱりアクセンさんも血は吸うんですか?」
「吸う必要は無い。私は食事を必要としない『真祖』と呼ばれる種族だ。普段は魔力で体を支えている。魔力で補えない場合は拝借する。だがここ数年は吸っていないよ。無闇やたらに人を吸うと、退魔組織が黙っていないからな」

 はい、確かに黙っちゃいられませんね、僕らのような退魔を生業にしている人間が。

「人間社会に溶け込む以上、暫く何も口にしないと決めている。しかし流石に千日何も口にしないと空腹にはなる。ときわ殿と初めて会ったとき、私は腹を空かせていただろう? あれは何も食わずにいたからだ」
「は、はあ!? 確かにあのときお腹の音を聞きましたけど……なんで何も食べないなんて馬鹿なことを!?」
「いつか日本に来たいとは考えていた。だが人間に食事をしていることを感付かれてはならん。しかも……親の縁とはいえ、退魔組織の家に居候するとなったら余計に気付かれる訳にはいかない。だから絶食を心掛けていたのだが」

 初めて会ったときのやたら大きかった腹の音って、千日……つまり三年近く何も口にしなかったから!?
 度合いが人間と違いすぎるとはいえ、そりゃ腹も減るって!

「その甲斐あって血生臭さというものは一切無くなったと思うが?」
「ふ、普通の人間だと思えるぐらいには怪しんでいませんでしたけど……。そ、その、アクセンさんは、能力者じゃないとばかり……」
「君ら『異能力者』と私のような『人外種族』は違うだろう? 私は生まれつきそのような種であるというだけなのだから」
「というか、よく退魔業の仏田に居候する気になりましたね!? もっと居心地の良い潜伏先があったでしょう!?」
「極東の島国だ、何も知らない場所よりは親戚筋を頼るもの。それに『親の縁』というのは嘘ではない」
「……えっ?」
「照行殿が私の父が経営する会社の商品を気に入ってくれている……その繋がりで『洗脳』させてもらったのはあるが」

 おい。今、聞き捨てならないワードが混じったぞ。

「君ら仏田一族と、私の一族は、元を正せば『同じ血』なのだよ」
「……僕らが、吸血鬼と同等、だと?」
「仏田は体液を啜り、血肉を得ることを『供給』とする血族である。違うかね?」

 ……僕は、その趣味は無い。
 だが、残念ながら……直系一族の燈雅様や光緑様はそのような『供給』をしていると、狭山おとうさんのもとで働いている僕も耳にする。
 一般的に単なる接触で済むとされている『供給』と呼ばれる儀式ですら、自分達は好んで性行為で行なっている。何故そんなことを勧めているかって、食事のような一体化の方が自分達の体質に合っているからだ。
 そう……普通の能力者なら『魔力供給』は握手やハグ程度の接触で済む。けど僕ら仏田一族は「相性がいいから」性行為による体液交換、食事と吸血という略奪で魔力を得ていた。
 普通の人間でないことを、日常的にしている。……間違いない事実だ。

「簡単に言えば、私と君は先祖が同じなのだ。同じ『吸血を行なう女神』を祖とする親戚同士なのだよ。……先ほども言ったが、私は前々から日本に来たかった。日本語を学びたかったからな。となったら、縁もゆかりもある同じ血族に世話になろうと思った訳だ」
「…………」
「私の隠し事は以上だ」

 話しきったアクセンさんは、いつも通り。対人の際の優しい微笑みのまま、衝撃的事実を終える。
 思わず、ブリッドさんと二人で無言になってしまった。
 だが……無言でアクセンさんと見つめ合っているうちに、僕は笑い始めてしまう。

「……告白、サンキューですよ。ご自身の大変な出自をお話してくれるほど深い仲になれたと好意的に解釈しましょう」
「ときわ殿はそう言ってくれるか」
「あの、一つだけ確認してもいいですか」
「何か?」
「…………失礼を承知でお訊きします。アクセンさんは人間じゃない……異端ですけど、人間を襲わないのですか? その、目の前の僕やブリッドさんを襲おうとか思わないんですか?」

 本当に失礼だけど、当然の疑問をぶつけてしまう。
 退魔の一族に生まれ、数日前も異端という『人の仇敵』を狩って生活している身としては、「襲わない」という確信を持ちたい。疑いたくないけど、それでもどうしても恐怖を抱いてしまう心を解き放ちたかった。
 だって、それでもし「襲うさ」と言われたら……せっかくできた友達を狩るような展開が待っているってことじゃないか。そんなドラマチックな展開、僕は絶対望まない。

「先ほども話したつもりだが? 下級の異端は、人の苦痛を餌とする。餌を得なければ消えてしまうから人間を殺める。しかし上級魔族は魔力さえあれば生きていける。魔力が満たされていれば人間を襲う必要が無い」
「……そうですね」
「だから襲わない。例外として、危害を加える人間がいるのなら排除するが」
「…………凄く納得する理由ですね、エクセレントな回答です」

 普段通りの論法。○○だから、○○。機械的で僕は好きなフレーズではなかったけど、こういうときは判りやすくてありがたかった。
 うん、危害を加えるなら強硬手段に出る。これは納得だ。正当防衛はどの種族にだってあるべきだし。でも……「魔力が満たされてなければ襲う」とハッキリ明言されて、少しだけ身が震えた。
 僕の言葉に、「喜んでくれたなら何よりだ」なんてアクセンさんは平然。
 しかし、ほんの少しだけ……目が泳いでいるような気がした。

「…………ブリッドは、どう思った?」

 アクセンさんは穏やかな笑みを浮かべている……ふりをしていても、何か複雑な心情を抱いているのが丸判りな問いかけを、ブリッドさんにぶつけていた。
 ブリッドさんは俯いている。やはり「人間ではなかった」はショックだったのか。
 でも、すぐに顔を上げた。
 僕が考えるよりもずっとずっと早く、彼からすると即答に近いぐらいのニュアンスで。

「……アクセン様が、大らかな心の持ち主だった……その理由が、判った気がします。貴方は……普通の人ではなかったから……」
「ブリッド、私は」
「…………そんな貴方だから、オレのこと……何も気にせず、相手をしてくれていたんですね。……お話をして下さって、ありがとうございます」

 糾弾などしない。
 ブリッドさんは怯えもせず、寛容に在りのままのアクセンさんを受け入れる。
 即座に「また失礼なことを言ってすみません……」と付け足したけど、僕のように隠れて震えたり怖がっている素振りは見せない。
 言われたアクセンさん自身は、ほっと安堵していた。
 一目で判る。自分を受け入れてもらえて、拒絶しないでもらえて胸を撫で下ろしていた。

「どういたしまして」

 ……感情が無いなんて嘘。自己表現が不器用なだけ。
 好きな人に認めてもらえて嬉しがるアクセンさんの姿は、僕と同じ。生きたもの。
 おそらく彼はもし魔力が切れたとしても人を、僕やブリッドさんを襲うことは無いんじゃないか。僕達だけじゃなく他の人を殺すこともないんじゃないか。
 だって親しくしてくれた心がある。
 彼は化け物ではない。「もし」や「例外」など考えない。そうなったとしてもきっと大丈夫。4月から友達をしている僕がそう思うのだから、大丈夫なんだ。



 ――2005年12月28日

 【 First /      /     /      /     】




 /2

 陰陽師。朝廷や高い身分の者達の為に占いをしたり、悪しきものを祓う役人。僧侶や修験者と言った能力者とはまた違い、やんごとなき部署から学問を学び、資格を得て貴族に仕える。
 その一人である彼は、学を身に着けられる高貴な身分に生まれた。時には可憐な歌を聴き、踊り回る生活もしていたそうだがあらゆる才能をいかんなく発揮し、妖怪退治も幾度となくこなしてきた。
 彼が一番力を入れたのは医術。一時は有名な人物の直属の医師として知識と異能を捧げてきたらしい。実力と人並みならぬ努力は高く評価され、お偉い人達から「日々苦しむ人々を大勢救うよう」頼まれたぐらいだった。時の帝に力を認められるほど、栄光を極めるまでに至る。

 彼の持つ異能は――『自身の血液が、相手の命となる』もの。
 恵まれた魔力を内包した血は、他者に与えることで活力を倍加させる。血を飲ませれば失った力を癒し、特効薬にもなり、血を分け与えた人形は独りでに動き出すほど。
 彼の血は重宝された。いくらでも利用できた。資本があれば殷富はついてくる。金にものを言わせて絶品を貪り、あらゆる悦に浸る貴族の日常だって可能だ。
けど彼はしなかった。
 一族が繋ぐ血で、集約した知恵で、誠意で、大勢の命を救わなければ。
 それがこの恵まれた血に宿る運命だと信じ、救った。救い続けた。

 恵まれた異能だったが、その時代も……異能自体なかなか世に認められずにいた。
 誰でも持つではない力は、羨ましがられるときもあったが深い妬みも抱かれる。平等ではないから時に憎悪の対象にもなってしまう。ついには「手を翳しただけで傷を治すなんて化け物だ」と難癖をつけられるようになった。手を翳せば傷を治せるだけの人間なんて許せない、許してはならないという理由で殺されることもあったらしい。
 いつしか異能力者達は力を隠すようになる。異能を持つだけで殺されるなら隠さなければ。都では法条が密かに纏められ、皆が従うようになった。
 だから……彼は、思うように人を救えなくなった。
 なら諦めるのか? 違う。どうにか異能ではない形で傷を癒せないか? 特異な能力を持つ者だけでなく、一般人でも知識で救えるような……平等な形で救う手段を確立できないか?
 呼びかけに賛同した者達は多く、すぐに実現することができた。

 当時、街医者と呼ばれる存在はまだ無い。あっても「おばあちゃんの知恵袋」みたいな民間療法しか無く、医療の制度なんてものは近代でようやく整理されるぐらいだった。
 そんな時代に偉い人の支援を受けて医療機関を建てることを許された……。

 ――つまりこの人は……心霊医師だったけど、異能に頼らず医学を発展させたってこと?

 決して彼一人の力とは言わない。その時代の凄い人達が(それこそ教科書に載っているような有名人も記憶の中で見かけた)大勢集まって、少しずつ環境を良くしていったに違いないけど……間違いなくこの人物の後ろ盾もあった。
 そんな風に僕らのご先祖様のことを知れば知るほど、宿望への異常さが(ここは偉大さと言っておくべきだが)ひしひしと伝わってくる。
 航先生達が普段している研究の基盤を……それどころか日本という小さな国の医療を少なからず支えた人なんだ。しかも、成功した人なんだ。

 陰陽師として魔を退き、役人として大層な身分の方々を診て回り、庶民の世話をする。その中で更に人々を救うために学を身につける。時には流行り物も取り入れた。人々を癒すのは医術だけではなく、娯楽も必要だからと流行の人形劇を見たり。時には退魔の業績から妖怪の手を組み、異形の知恵すら手にすることだってあった。
 そのような生活を何年も続ければ過労死しちゃう、と思いきや……彼はとても清々しく生きていた。
 苦しい日々はある。それでも患者が微笑んでくれる、それだけで彼は信じられないぐらい満たされていた。
 貴族でも平民でも変わらない。金を渡されるのも一輪の花を貰うのも変わらない。
 自分に笑顔を向けてくれる、それに生き甲斐を感じていた彼は……もっと大勢を救うために、無理難題に赴いていった。

 川越様。仏田一門の開祖。始祖様と呼ばれる千年前の男。
 富も名誉もある名家の生まれ。生まれてから扱えた異能。糾弾という辛い時期も難なく乗り越え、跳ね返るように大成功を納めた。何もかも順調……。
 男は、成功してしまった。
 だからこそ、これから起こる大きな挫折に心が折れてしまう。

 ――辿り着いた先は、あの地獄だ。

 煌びやかな生活とは一変。穢れた地。死臭が充満する世界。何も出来ずに衰弱し死んでいく人々。
 過去に栄光を手にした人ですら、救えないものは救えない。
 悪い妖怪を倒して人を救い、傷を癒して人を救ってきても、未知の病は倒せずにいた。
 支援してくれる心優しい部下や上司も居た。「私なら救える」というそれまでのプライドもあっただろう。
 だけど、限界がある。
 家柄にも能力にも人脈にも恵まれていた男は、誰もが通るべき挫折を……地獄に来るまで味わったことがなかったんだ。

 ――今日は、一人を救えた。
 でもその横で、三人が死んだ。
 ――翌日は、一人が笑ってくれた。
 でも見えないところで、五人が泣いていた。
 ――心ある人々は笑って励ます。「貴方が居てくれたから、救われたんです」と。
 けれど男は認められなかった。「どうして自分は、全員を救えないのだろう」と。
 ――心ない人々は泣いて蔑む。「どうして救ってくれなかったんだ」と。
 そして男は自惚れにも苦悩する。「どうして私の目の前で死んでいくんだ」と。

 彼は、今日も大勢の人の声を聞く。
 一人一人の手を握り、時には手放され、たった一人の為に尽くすこともあれば、大勢に囲まれることもあり……。

 ――僕が次に目を開いた瞬間、彼は未開の森を歩いていた。

 冬の山を登っている。天まで届くような道なき道を登って行く。あまりの過酷さに彼は足を引き摺っていた。
 しっかりとした長靴ならともかく、草で編んだ履き物で登山なんてして……知識の無い僕にだって足を駄目にしてしまうことぐらい判る。
 それでも彼は山を登り続けていた。はぁはぁと吐く息は白く、病的な香りすらしてくる。
 このままだと医師の彼が病人になってしまうんじゃないか。こんな人を見たら誰もがそう思う。
 でも、誰も見ない。
 彼は誰も御付を連れず、一人で天を目指していたからだ。

 雪山を登り続ける限り続くこの時間。
 取り囲むのは雪を踏む音。あと耳に入るものと言ったら、彼と吐息。息を切らす白い靄だけが唯一の音。無音の雪の山にはそんなものしか無い。

 ――この世には答えられないものが沢山ある。その一つが、この先にあるという。無数の謎の一つが空の向こうにあると聞いた。

 今まで彼は悩み続けてきた。だが答えられないからといって謎を終わらせてはいけない。
 知ることができるそのときまで諦めてはいけない。判らないままにしてはいけない。
 彼は考え、悩み、想う。結論を得て、悦び、新たな感情を得ることこそ生き物の特権なのだから。
 世界に反し生み出された異端や、心を持たぬ畜生どもには無い感情なのだから……その権利を放棄してしまったらいけない。
 この苦痛を糧に求め続けなければ。答えが先にあるというなら、苦悩を続けながら先を行かなければ人ではない。
 理解が訪れるそのときまで歩き続けなければ。

 決して諦めず突き進んだ彼は、辿り着いた。
 無限の知識が眠る、天に。

 時も無く、彷徨うしかない場所。
 上も下も右も左も何も無い、渦巻いた空間。
 答えに一番近い山の先。天に近い処。
 そして直面する――――――――赤い暗闇。

「…………っ!?」

 真冬に滝のような汗をかいて目覚めた。
 間違いなくここは自室。妙な空間でもなければ、千年前の地獄でもない。仏田寺の本家屋敷、僕の部屋に間違いなかった。
 自室として一族の男達に割り当てられている和室四点五畳。千年続く仏田寺ではあるが、百年ばかり前の大改装で建てられた大屋敷はしっかりしていて(たまに雨漏りのある廊下を見かけるが)個室としては有能だ。研究者の事を思って造られた建物なので壁は厚く、悲鳴を上げて目覚めても隣人に迷惑が掛からなかった。
 大勢が暮らす寺に形成できる、自分の城。
 その城には、今……僕だけしかいない。
 どんなに手を伸ばしても、敷かれた布団の中に誰も居ない。航先生も、居てくれなかった。

 ……そうだ、そうだった。居ないよ、だってもうすぐ12月31日だもの。
 年末は例年忙しい。航先生は『機関』でも偉い人だから、この時期は書類仕事が立て込んでいる。立場のある人だから正月は年賀状のお返しもしなきゃいけないって言っていた。そんなお忙しい人だから……ここ数日は構ってくれないんだ。
 怖い夢を見てすぐ先生に抱きつきたかったけど、今は一人で汗を拭うしかない。
 我慢、しなきゃ。
 年末は一緒に居られないけど、その代わりクリスマスはずっと隣に居てくれた。公私の区別をつけて、甘えん坊の僕に譲歩してくれる優しい先生には感謝している。
 うん、感謝はしている。頭では。
 ……でも、大量の汗をかくほどの悪夢を見た後に恋人が居ないのは、やっぱり胸が張り裂けそうになるほど苦しかった。
 けどそれは……先生のせいじゃないし。夢を見たのは僕の勝手。胸が張り裂けるのも僕の勝手。我慢して呑み込んで着替えるとしよう……。

 ――仏田の始祖・川越様の記憶を見たのは、久々だった。

 初めて川越様の過去を見たのは、清子様に命じられた……九つのとき。
 まだ自分の異能を意識せずに使っていた頃に、テスト感覚で千年前の彼を見せられた。さっき見た夢のことを、子供ながら不器用に祖母達に話した記憶がある。
 今思えば僕が始祖様について話しても、百も生きていない祖母達に答え合わせなんて出来ないじゃないか。あれは言わせることが試験だったのかなと、うっすらと思う。

 その試験がもう、十五年以上前のこと。
 以後も時々、始祖様の記憶は夢の中で体感する。始祖様は村々を救う偉業を果たした後、現在で言う大学病院のような施設をこの山に建設した。それが仏田寺・異能結社の始まりだ。
 つまりは千年前の境内に始祖様が住まわれていたということ。……空間記憶というものを読み取る可能性もあると納得している。
 いきなり夢を見てビックリしてはいたが、初めてではないのですぐに深呼吸して落ち着いた。
 そう、いつものこと。いつものこと。だからいつもと同じく構わず寝間着を脱ごう。気分を改めよう……。

 たとえ寝室でも肌を露出すればこの季節は涼しい。すぐに着替えないと風邪を引いてしまう……思っていると、入口をノックされた。
 脱ごうとしていた寝間着を再び羽織り、返事をする。
 返事と共に誰かが私室に入ってきた。身勝手な仕打ちは誰だとしても許せない……けど、一人だけは別だ。
 愛しい先生なら、無造作に入室しても何にも思わない。

「航先生……?」

 入って来た彼に呼びかける。
 まるで自分の部屋に入ってくるかのように身勝手だ。
 航先生は大人で、常にスマートな態度を取る。それは親しくしてくれる僕相手にも変わらず平等で、それだけいつも優雅な人だった。
 だというのにいきなり僕の部屋に入って来た先生は、普段見せる微笑みも無く、俯いて近寄ってくる。仕事着の白衣も着たまま。顔を作る余裕すら見せずに。
 あまりの出来事に呆気にとられた。それだけ……今の先生は、『自分を作れない』ほどの何かがあったってことだ。

「先生……先生? ごめんなさい、どうしたんですか、先生?」
「………………」
「……先生?」

 近寄る彼は、力無く僕に寄りかかってくる。
 そんな彼を抱き締める。疲れた体にぎゅっと手を回す。打算的に動くよりも、まず先にふらついて普段通り振る舞うことすら放棄している航先生を支えてあげたかった。

「あ、あの、先生。今の僕、ちょっと汗くさいですけど……その……すみません……」
「は、はは。はぁ。…………先生ね、失敗、しちゃうんだ」
「……え……?」

 掛けた眼鏡も何ともなしに彼は、頬を涙で濡らしている。
 一度身を放して、眼鏡を外す。若い頃から暗い所で勉強ばっかしていたと話していた先生は、眼鏡が無かったら何も見えない。寝るとき以外は眼鏡を外さないし、外そうとしない。
 でも今は……僕を止めなかった。為されるが儘、僕に抱きついてくる。

「はぁ……失敗……失敗だ。……参ったな、どうしよう。……ああ、困ったな、はははぁ……動揺しているんだ。だから……落ち着かないといけないと思って。……はあ……」
「せ、先生? ……落ち着きに来たのですね、僕の所に。あ、ありがとうございます。じゃあ……落ち着きましょう。ね?」

 理性的な男性だった先生が泣き崩れている。
 胸の中へと崩れてくる先生は、実に弱々しい。背中に腕を通しても涙は止まらず、しゃくり上げる。あやすかのように泣き崩れる男を抱擁した。
 初めて見た姿に僕は、気がかりよりも先に……本性を曝け出してくれたことに嬉しさを感じていた。
 隠すことができずに惜しみなく涙を流している彼。哀れなその悲嘆ぶりは、同情よりも先に愛おしさを抱いてしまう。事情など知らなくても抱き締め、体中にキスをして慰めなければと先走った。
 目を閉じ、先生を抱きいれて、額に浮かぶうっすらと血管に口付ける。
 興奮して滲み出ている汗。涙。体温。深い溜息と深呼吸を繰り返す彼の体を啜って、直接的に情報を抜き取った。
 そのまま、彼の中を知る。
 中身を、知る。
 知ることができるから、知ってみせる。
 先生の体液から、僕自身が体験したかのように記憶を譲り受ける。ほんの一瞬の接触で記憶の搾取が可能――それが、僕が『本部』に重宝された理由だ。

 …………………………燈雅様が、死んだ。

「え……」

 死んでいる。
 実際に僕は事実を視た訳じゃない。
 しかし、知る。
 実感は無い。けれど、視える。
 過程までは判らない。だがハッキリと事実が突きつけられる。動揺する航先生の根底には『次期当主の死』があることが斟酌できた。
 事実を咀嚼しながら事の重大さに気付く。だって……次期当主様の存在はこの一族にとってかけがえのないものじゃないか。

「……死? ……し、死んだ……?」

 多くの事実を知ることができる感応力ではあるが、残念ながら万能ではないこの力は事実しか得られない。
 思惑や真意、人の心までを吸い取ることができないため、今は燈雅様が亡くなったという正真しか僕にはなかった。それを受けての先生の困惑、狼狽の正体までは受け取れない。

「ああ、燈雅様がお亡くなりになられた。さっき。確認してきたよ。燈雅様も、男衾も、圭吾が言うには自ら……」

 何に嘆き苦しんでいるのか察することすらできないから、恐る恐る尋ねるしかない。

「……自ら……え? どうして? 燈雅様が亡く……えっ?」
「判らないのかい? それが先生も知りたかったから来たのに」
「あっ……ご、ごめんなさい!」

 思考が巡る。心を置いてけぼりに、事実だけが浮かび上がる。
 魂を引き継ぐべき直系長男の死。
 自殺。
 燈雅様には後継者はいない。
 光緑様の現状は、瀕死。
 誰が仏田の魂を継ぐ。
 誰が?
 千年間魂を継いで繋げてきたことに意義を見出してきた一族の、後を継ぐ人物がいなくなったとなったら……大問題じゃないか!
 何故。そこまでは、知らない。
 心は判らない。何も見えない。この力では判らない。
 ……使えないだなんて思われたくない。でも、僕には無理だった。

「はぁ。なあ、どうしてこんな肝心な時期に亡くなられるかな。……はぁ。31日が儀式だったんだよ。始祖様をお迎えして、ようやく辿り着けたゴールだったっていうのに」
「せ、先生……」
「女神様も既にいらっしゃったんだよ。魂も足りているんだ。充分に、準備ができている。なのに、当主様だけ用意できないなんて……はぁ、はぁ……!」
「先生、先生。落ち着いて、どうか、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか」

 寄り起こしても先生は崩れたまま、顔を上げてはくれなかった。
 慌てて言葉を合わせようとするが、涙を流して震える彼を抱き締める他に手段が無い。
 苦しげに嗚咽を呑み殺そうとする先生の背中を撫でる。
 ぐしゃぐしゃに胸を汚されて、それでも抱き締め続ける。
 それ以外に、先生の抱く真相を得ることができない。……中途半端な万能が悔しかった。

「落ち着いて、いられるか。はあ、これを逃がしたら、今度はいつするっていうんだ。魂が集まっているっていうのに、もう百年近く『大太刀様』を待たせているんだぞ……」
「先生。駄目です……。儀式を中心になって取り仕切るのは、先生じゃないですか。さ、狭山様や大山様のような素晴らしい方々が実行なさるのですから、きっと成功します。中心人物の航先生が取り乱したら……成功するものも駄目になってしまいます!」

 これから行なう祭祀を知りたくて、物知りな航先生を愛撫する。
 すると頭に浮かんだ。神が生まれる儀式。二百年前、または五百年前、七百年前に行なわれていた祭儀の全貌が。

「古文書に書かれていた通り、『大太刀様』のお話の通り、そして慧が語ってくれた通り……儀式に必要な物は用意できていた。君の協力もあって、全部用意できたんだよ」
「あ、ありがとうございます……」
「でも、始祖様の座る椅子が足りなくなった。……成功、させなきゃいけない儀式だ。なのに……こんなに大事な物が足りないなんて」

 ――大勢の魂が必要だ。
 ――始祖様が座る椅子が必要だ。女神を降ろす器も必要だ。
 ――そして何より、魂と器を繋げるための接着剤……多くの魔力が必要だ。
 でも人間一人が宿せる魔力なんてたかが知れている。悟司さんが操る機械で言えば、数字にすると百。万どころか億、兆以上の力が無ければ神降ろし儀式なんて成功しない。
 一回目の儀式は多くの勾玉を使った。だが足りなかった。
 二回目の儀式はそれ以上の勾玉と、始祖様の協力と、大勢の協力者と、鍛錬を積んで人並み以上の魔力を保有した器で挑んだ。それでも失敗した。
 三回目は、それら全てと……女神に最も近い女子の器で成功させた。
 じゃあ、四回目は。三回目までの全要素とそれ以上の力を合わせなければ、決して成功などしないから……。

 ――僕が知ることができるのは、『心』以外は全て。
 この世に神が存在し、どのように死に、どのように生まれていくのか真実実体を知っている。魂の数量だって、儀式に必要な逕路だって、誰が何処に居るってことだって。頑張れば、知ることができた。
 パーツが足りない。必要な物が欠けている。それを補うとしたら……。対処する手段は、既に考えられていたのではないか?
 だから僕は考える。解決の糸口を探すために。頭を抱える先生を救うために。

「…………あ……新座様……なら……」

 ――そうだ、新座様だ。
 たとえ燈雅様や光緑様が『使い物』にならなくなったとしても、新座様がいらっしゃる。
 何の為の兄弟だ。現に燈雅様が長く即位なさらなかった理由は不適切だという声が幾つも挙がっていたからだ。
 もっと適任がいると、次期当主には優秀な能力をお持ちである新座様が相応しいという話になっていた。長兄が死んだとなったら否定的だった新座様も後を継ぐことを頷くだろう……?

「え、新座様? あっ……そうか。慧。新座様なら、新座様だったら当主の座には相応しいと言えるかな?」

 すると僕が先に言う前に、先生の方からその案が出る。
 考えることは同じだった。というより、考え着く先はそうなるものだった。
 光緑様の実子は三人。だが次兄の志朗様は一般人と変わらぬ平凡なお方。
 新座様は和光様から「当主にしろ」というお達しが一度あったほど優秀な能力の持ち主。燈雅様のように長年の鍛錬も当主としての心が前も何一つ無い人だが、血統的には申し分無い。
 欠けていたパーツは案外早く補充できる。そう思えば、あと百時間も無い儀式の日まで何てことはない騒動だった。
 航先生の動揺は一瞬、一安心した彼は呼吸を取り戻し、少しずつ表情を元の先生へと戻していく。
 『本部』としては、没千年目となる区切りの良い12月31日になんとしてでも儀式を行ないたかったから日にちはずらせない。
 一回目も二回目も三回目も、全て女神様が亡くなったとされる冬の日に儀式が行われた。今までのジンクスを守って確実な成功を納めたい後世達としては、一日どころか一分たりとも成功の日から外れることを恐れていた。
 だから……決行の日は変わらない。たとえ組み立てる部品の色が少し違ったとしても、構築する塔自体は何も変わらないのだから。

「そうか。そうだよ、その手があった。はぁ。慧、変な顔を見せてごめんよ」
「い、いえ……その、先生が僕の部屋で色々吐き出したことで元気になってくれたなら、僕、嬉しいです」

 大きく息をつく航先生の肩を持つ。
 平静を取り戻していく先生は深く深呼吸をして、目を拭った。そして僕に向けてはにかむ。
 こちらの動揺も収め、震えていた肩から手を放した。
 ぐしゃぐしゃになっていた先生の髪を正す。更に衣服を整えようと、シャツの襟元に手を掛けた。
 夜中だから誰にも見られない。規律正しい狭山様に咎められることもない。それでも乱れた着衣のままにはしておけなかった。
 先生の身の周りの世話ができる。僕の幸福の一つをいつも通りこなして、ようやく僕自身も安心できた。

「恥ずかしいな。冷静に考えれば新座様に継承の儀をさせるって考え付いたよね。なのにこんなに混乱するなんて。……四十年も仏田に居ながら、簡単なことに気付けず泣き喚くなんて、何をやっていたんだろ。はぁ。これでも先生、ミスというミスはしたことなかったんだよ」
「し、仕方ないですよ……それにミスって言ったって先生が起こしたミスじゃないですし、混乱しちゃったのも無理はないと思います」
「無理はないか」
「ご、ごめんなさい……。けど、燈雅様が死んだのは、先生の予定には無かったことじゃないですか。だから」

 燈雅様が死んだ。
 その事実を、僕は知っている。
 だけど口に出して、改めて実感というものを抱けない。

 僕が知ることは、事実。
 あったこと。それだけ。
 それに至る経緯、過程、そこで生じた感情まで察知することはできない。
 どんな悲劇であったとしても僕の心に届くまでが、とても遅い。
 直面しても自分の中に響くには時間が掛かる。逆を言えば、時間を掛ければ実感ができるもの。

 ……先生と話をして、安心した今。じわじわと僕の中に『燈雅という優しい男性がこの世を去った』ことが響いてきた。

「………………」

 親しかった訳じゃない。だけど、嫌悪していた訳でもない。
 この寺に居れば長くお過ごしになられているあの人と話をする機会ぐらいあった。それに僕は『本部』に気に入られてあちこち連れて行かれたから。
 事務的な会合での何気ない会話。ちょっとした会食に付き合わされた時間。体調の良い彼が庭に出て落ち葉を掃く真似事をしていた彼にされた挨拶。僕は、彼との時間を実体験している。
 途端、吐き気がした。
 不愉快極まりない感覚に襲われた。
 ……たとえ親しくなくても、何度も会っている知人が亡くなった。だから胸が苦しくなってしまったんだ。
 この程度で僕は気分を害する。元々僕は心が弱い人間だから……嫌なものをすぐ受け取って、鳥肌を立ったり吐き気を催したり気色悪さに頭を抱えたりするんだ。
 燈雅様一人が亡くなられた程度で、僕はこんなにも胸を抑えている。

 じゃあ、儀式当日になったら僕はどうなるんだろう。
 あと数時間後、神が蘇ったら僕はどうなるんだろう。
 神が蘇って、全世界の人間が死ぬとなったら僕はどうなるんだろう。

 ――知っていると、理解しているは、違う。

 僕は知っている。
 儀式のことを。女神が蘇ることを。女神が蘇ったらどうなるかの事実を。
 だけど、理解していない。
 女神が蘇った後の世界を。女神が蘇った後の世界の人々の末路を。

 そしてようやく、今の今まで知っていると言いながら……燈雅様の死を受け入れるまで理解できずにいた結末を、噛み砕いた。



 ――2005年12月25日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /3

 人間は自分がこの星の所有権を握っていると信じる愚かな種族。虚弱で無知で無能なくせに、繁殖力だけは高く他者を破滅させる才能だけは一級品。
 誰もかもが人間を馬鹿にしていたが、その愚者達に二つの種を滅ぼされかけた。エルフとドワーフと呼ばれる二つの妖精族の数が激変。これには他の種も頭を抱え、『人間を粛清する機』を切望する流れとなっていた。
 長老と呼ばれる種の長達がどれほど謹直にこの問題に取り組んだのか。ただの若造だった頃の私は知る由もない。
 狼の王は「人なんぞ全て喰らってしまおう」と言ってきかなかった。巨人族の王は日なた主義だった。大地を司る精霊達は人間よりも派閥争いに躍起だった。
 そして我が父は長老達に会合に交じる立場であったが、当時から人間社会に溶け込み、人間相手に商売をしていた。だから殲滅まで考えなかった。自分の富を伸ばすことで頭がいっぱいだったからだ。

 長老達の会議から城に戻った父は、その日のうちに『長い眠りについていた私』を目覚めさせ、情勢を話した。
 古城の一室で眠り続けて五百年。じいやは「まだお目覚めには早い」と止めたそうだが、父としては息子の私に話し相手になってもらいたかったらしい。商才など一切無い私に仕事の相談などされてもと断ったが、彼の話は止まらなかった。
 現状をあるがまま聞かされて……「嗚呼、世界というものは面倒だ」と、思うが儘口にする。

「『面倒』? ……じいや、やはり目覚めさせるべきだったではないか。我が子に魂が宿っているという父上の遺言は正解だった。余は嬉しいぞ」

 まだ覚醒しきれていない私の言葉に父が笑う。笑い転げる。
 父の父上……私にとって祖父が何か特別な言葉を遺して逝ったらしい。そして先ほどの私の一言が、祖父の遺言と相まって嬉しいようだった。

「我が子よ。魂があることに自覚しているか?」

 長い眠りから覚め、数百年ぶりに歩く城の中。父と肩を並べながら、朝食の準備ができている食堂へ向かう。

「魂は『正の命』に宿るもの。『正なる神』らが生み出す創造物にのみ宿る核だ。我らを生み落とす『欺く神』の眷属には不要な物だが、ごく稀に我ら異端にも魂が、心が宿る。元より不要な物だ、無くても問題ないが、あるとどうなると思う?」

 我ら一族に仕える従者達は、久方ぶりの私の目覚めにとご馳走を用意してくれていた。盛大にだ。
 長いテーブルの上には臭みの無い少年少女が、新鮮で瑞々しい状態で並べられていた。私は眠り続けて魔力は切れていないが、万全ではない私のために用意された人間達だった。

「判らぬか? 心があると、感情を真から理解できる。人間の苦しみが判れば、我らにとって最も美味い味を判別できる。人間の喜びが判れば、奴らの好き好むものを知って誘き寄せることもできる」
「お父様。それは、どのように得に繋がるのでしょう?」
「余は愉楽も苦悩も実感できん。餌となる『負の感情』は察知できるが、それだけだ。しかしアクセン、お前のように『魂を得た異端』は人間の感情が知れる。人間の好みが判るようになる」
「つまり?」
「つまり、我が社の景気が良くできるということではないか」

 ……重ねて言うが、我が父は人間社会に溶け込み、人間相手に商売をしている。自分の富を伸ばすことで頭がいっぱいの、物好きな吸血鬼だった。
 声高らかに「人間を滅ぼそう」と宣言している他の異端の王達とは反した態度を示していた。
 なにより、吸血鬼と呼ばれる我らの主食は血液。ここ千年は人間から血を吸うことが通例化しているため、餌としている人間の死滅には反対するしかない(人間よりも効率的に摂取できる、味も良く数も多い種族がいれば絶滅しても構わない。現状、そのような種族は発見できていないが)。
 人間には適度に発展してもらい、適度に我らに貢献してもらいたい。それが父の、血族の願いだった。
 かつて亡き祖父は遺言として「孫には、魂が宿っている」と言い放った。
 それを思い出した父は、不安定な情勢の中……「息子の私を使って自分の事業を好調にさせたい」と考えたようだ。真に力を発揮する年齢まで城の地下で眠り続けることが一族の掟。だというのにまだ早い、未成熟な私を目覚めさせた理由はそれだった。

「お父様は、何故私に魂が宿っているか知っていますか?」

 数百年ぶりに少女の血を啜る私の隣で、世界の模様を語る父に問う。
 しかし父は首を振った。あくまで祖父が言っていたことを思い出したから、魂を持つ私を目覚めさせたに過ぎないという。父にとって貴重なものを持つ私は商売道具の価値しかなく、それ以上を求めてこない。興味も無いらしく、問い質してくることもなかった。
 「珍しいこともあるのだな」と父は笑う。私は黙って贄の少女から血を吸う。そして考える。
 一般的な異端は、魂など宿らない。真祖という珍奇な種だから、という理由でも授かるものではない(そうだとしたら、実父にも無ければおかしい)。では何故か。

 なに、簡単なことだ。
 私はかつて、『ここではない世界』で『人間に心を植えつけられた』だけなのだから。

 さて、父は人間相手に物を売る商売をしている。駆け引きや遊戯の駒として人間を使い、自分のもてなしによって彼らがどう金を出すか、いかに多くの金を搾り上げるかに愉悦を見出していた。
 しかし人の心が判らぬ無感情な父は、人間の好みが判らない。だから魂がある私に意見を求めてきた。
 どうすれば人間達から金を巻き上げられるか、思いつくままアドバイスをする。
 魂があると言っても所詮私も人ではない。人の心など理解を越えている。それでも、一切無い父や他の一族からすると私の意見は人間的らしく、みるみるうちに事業は右肩上がりになった。
 父に提案をするため世界を学ぼうとした。数年かけていくうちに……次第に、長老達が懸念していた問題も私の目で見えるようになってきた。
 だから父に忠言する。「人間の対策をすべきだ、いずれ人間達は自分らに牙を向く……なら力を見せつけて、抑圧するべきだ」と。
 過激派のように粛清しろとは言わない。ただ「生きる世界が違うのだ」と、「我らは力を出せばいくらでも皆殺しにできるところを譲歩してやっている」ことを明言しておくべきだと、告げる。
 父も人間とは巧く付き合いたくても、どこまで重要か関知する心が無かった。そして「息子のアクセンが言うなら、やってみよう」と……親馬鹿と称される一言で、動かし始めた。

 『人間と吸血種族との不干渉条約』なんてものが制定されたのは、これがキッカケだ。
 結んだ同盟の名は、リリルラケシス。
 夜の悪霊と、測定者・維持者の神を合わせたこの名は良いものかは判らない。
 しかし私が考えた以上の成果を出す存在へと化していく。
 この同盟は人間達の団体『政府』とある条約を制定した。
 無益な殺生をするな。手を出したら、人間も覚悟しろ。たったそれだけなのだが、そのおかげかここ数十年は何の事件も起きていない。
 無闇やたらな人外狩りは、この抑止力で抑えられた。実感はしている。何故なら、『何も行動に出なかった世界では、抑えられなかったのだから』。

 ――私がレストランで長話をしたからか、じいやの車でホテルに向かう時間は大幅に遅れてしまった。

 自分の正体を話すべきだった、と思いたい。
 じいやだけでなく父にも「人間に明かすな」と止められていたが、ときわ殿の「隠し事をしないで」という言葉につい口が勝手に動いてしまった。
 私は考え無しの愚盲だ。常に注意しているつもりだが、口を覆う癖をつけてもまだ治らない。口元を隠すのは人には無い牙を見せたくないだけではなく、話してはならない言葉を止めるため。抱いてはいけない感情を殺すための手段だ。

 感情。魂。心。
 今日のことを思い返し、だから目覚めたときのことを思い起こしていた。

 ときわ殿が叱りつけてきた言葉をもう一度噛み締める。「決して『クリスマスのイベントが笑うべきものだから笑っている』のではないんですよ。アクセンさん自身が幸せだと思ったなら、笑ってください」……難しい議題を叩きつけられた気がする。
 コンサート会場でも、レストランでも、大勢が笑っていた。クリスマスの催しを見て、聞いて、口にして笑顔になった。だがときわ殿が言うには「クリスマスだから笑う」ではないという。
 何度も説明された。ときわ殿なりに例をいくつも出して解説もしてくれた。だが、まだしっくりとするものが生じずにいた。

 異端と呼ばれる私達の種には、本来感情など無い。
 だが私は……『感情のスイッチを入れられてしまっている』。我々の脳に不必要だとされていたものを、ある科学者の手によって植えつけられてしまった。この世界の話ではないのに、魂に刻みつけられてしまった感情の記憶は別の次元でも私を蝕むようになった。全て記憶など無ければここまで苦しむ必要は無かった筈だ。
 だが私は、『大事な彼』の記憶を忘れたくはない。
 だから不必要なものも全て背負い、理解できないものと争っている。結果、大勢に馬鹿だの愚直などと罵られる目に遭っているのだが……。

 ――私が黙って思案していたからか。じいやが運転する車が静か過ぎるからか。音の無い車内で、ときわ殿はあっという間に眠ってしまった。
 レストランのときからブリッドに寄りかかっていたぐらいだ。静かな揺れに我慢できなくなってしまった彼は、諦めて寝息を立ててしまう。
 向かい合う座席に座る私は、一日中笑い続けた少年を眺めた。ときわ殿だけをではない。隣に座るブリッドの姿も見やる。

 スヤスヤと眠るときわ殿に優しい瞳で見守るブリッド。仏田寺を出立する前は俯いて不安げにしていたが、オーケストラの演奏に聞き入る彼はいつも以上に楽しんでいた。
 だが、ときわ殿のように満面の笑みを浮かべることは無い。
 クリスマスのコンサート。ディナー。大勢が笑い合う空間。その中央に自分も居るというのに、ブリッドは……切ない顔で虚空を眺めることがある。
 我々と目が合うと優しく微笑みかけてきた。けど、悲しそうな目はどこまでも付き纏う。
 それは、今もだった。彼はまた物悲しい目を流れる車外へ向けている。
 何故そんなに苦しそうな顔をしているのか。
 尋ねようと私は口を開こうとした。その瞬間、

「……ぁっ……停めて……!」

 ほんの少しだけ、ブリッドが声を荒げた。
 ときわ殿が目覚めないぐらい小さな声だ。だけど普段のブリッドからすると必死に声を上げていた。
 じいやに車を停めさせる。するとブリッドは……シートベルトを外して一目散に外を飛び出していった。眠るときわ殿は運転手に任せてブリッドを追いかける。

 ――夜間……と言ってもまだ二十一時。まだ町の中を行き交う人々がすれ違う、明るい闇夜。

 コンサート会場は、仏田寺から遠い場所だ。駅前や栄えた街中にあるのではない、ごく普通のレストランを用意させた。だからそこは……何の変哲もない、街の一角に過ぎない。
 そこが何だったのか、判らない。
 私には、ただの空き地にしか見えなかった。
 『売地』と書かれた看板が立てられている、それだけの空白。そこへブリッドが引き寄せられて行く。
 途中、ブリッドは空き地を通りすぎる老婆と男子学生(どうやら、すぐそこにある道場に通う生徒のようだった。おそらく装束からして剣道と呼ばれるスポーツだろう)の二人組に声を掛けた。

「……あ、あの……。ここ……お店、昔、ありませんでしたか……?」

 震える声で……日本語で。

「ええ、ありましたよ」
「あ……ありました、よね……でも、今……?」
「ありましたけど、もう十年ぐらい前に火事で無くなっちゃいましたねぇ。確かここに住んでおられたご家族が行方不明になったとか、一時期騒いでまして……。誰も帰ってこない店が暫く残されてたんですけど、悪戯でしょうか、お店も火事で全部燃えちゃってねぇ」
「………………」

 遠い過去を思い出しながら話す老婆。隣の孫が「ここにお店があったら便利なのに。部活前に寄れるから」とボヤく。
 その会話が、何だと言うのだろう。
 話を聞いたブリッドは押し黙り、二人に別れを告げ……空き地の中へと入って行く。
 かつて何かの店舗があったという、誰も居ない土地。燃えた煤すら十年前の物が残っている訳もなく、本当に何も無い一角。

「…………ぅ、く……う、うあ……あ、ああああぁ」

 そこに膝を着いて泣き始めてしまった。

 私には、判らない。
 今の会話から彼が涙を流す理由が判らない。
 今日が賑やかに笑顔に過ごすクリスマスだというのに、先ほどまで食事で笑顔を浮かべていたというのに、どうして泣いてしまうのか判らない。
 人は何も無い空間を見たら空虚感で涙を流したくなるのか。それとも……この空き地を見て、泣かなければならない理由があるのか。判らない。

 膝を折り、手をついてブリッドは泣いていた。
 服が、手に嵌めた手袋が汚れることも気にせず土の上で泣き崩れている。
 大声は出さず、苦しそうに嗚咽を噛み締めている彼の姿は……私にはよく判らないものではあったが、咄嗟に「あってはいけない」と感じた。
 そう、その理由も判らない。理屈ではない。でもブリッドをここに居させてはならない。ここを見たからブリッドは悲しんだ。ここは彼を苛む場所なのだ。
 無理矢理に立たせ、車に連れ込んだ。
 じいやにすぐホテルに向かうように仕向けた。
 車が空き地から遠ざかる。……だというのに、彼は車内でも私に肩を抱かれながらもずっと涙を呑んでいた。

 ――ときわ殿を起こさないようにベッドへ運ぶ。コンサート会場に着くまでの間、「昨晩はなかなか寝付けませんでした!」と朝から言っていたときわ殿は、暫く目を覚ましそうにない。
 ホテルの部屋は、大きな一室がリビングとベッドルームで分かれているもの。小さな体をベッドルームへ運び終えた私は、リビングで俯いたまま喋らなくなっているブリッドのもとへ向かった。

 夜景の見えるホテルというものは人の心を躍らせ、愉快にしてくれるという。
 しかしブリッドはソファーに座って俯くだけ。
 素晴らしい演奏、素晴らしい食事、そして素晴らしい夜景。この三つが揃ったというのに、まだ涙を堪えていた。
 空き地のことを思い出しているのだろうか。私はグラスにワインを注ぎ、飲むように言った。グラスを受け取ってはくれるものの、それだけだった。

 隣でソファーに浅く座るブリッドから、完全に笑顔は消えている。
 今にも涙が零れ落ちそうな表情。何も知らない……何も判らない私は、その表情を変化させることが出来ずにいる。
 ときわ殿は今日一日、笑っていた。幸せだと、満たされていると言ってくれた。
 しかし同じことをしているのに、どうしてブリッドは笑ってくれない。晩餐のときは穏やかだったのに。
 俯いて、震えて、顔を曇らせたまま耐えている。
 夏のあの日から、共に夜を過ごした日も、今日の約束をした茶会でも、そして晩餐のときだって。

「ブリッドは、幸せではないのか?」
「…………」

 まるで寒さに凍えているかのよう。なら暖めれば表情が変わってくれるか。
 そう思って頬に触れるが、それだけでは沈んだ表情は蘇らなかった。

「私はブリッドの笑顔が見たい。心からの笑顔を。そう……以前から何度も言っているではないか。お前を『また』笑顔にするために日本に来たというのに、何故お前は……」
「…………ごめんなさい」
「違う。謝ってほしいのではない」

 それならと、また涙を流しかねない頬に口付ける。
 無意識のうちに、彼の体を抱き寄せていた。
 いくつもの映画の中で泣いている恋人を抱き締めて慰める人間のシーンを見たことがあった。それを真似ていた。
 人の肌は重なり合えば落ち着くように造られている。『供給』と呼ばれる行為だ。それを行なうと、安心感を得られると聞いた。
 安心させたい。だから抱き締める。……おそらく、自分自身も安心したくて、抱き締めていた。

「謝らなければいけないものなのか? 私は知りたいだけだ。どうすればお前は幸せになれる?」
「…………それは……」

 肩で息をする彼を落ち着かせたくて、胸の中にブリッドを押し込んだ。
 なのにまだ笑ってくれない。抱擁は安心感を得られる行為ではなかったのか。
 何故そんなに悲しい顔をしているのか。
 何故小さな声で謝罪を繰り返しているのか。
 お前が泣く理由が、泣かずに済む方法が知りたいだけなのに。

「…………あそこは、昔……オレの家があった場所……でした」
「そうなのか」
「……仏田に連れて来られる日まで、兄さんと……父さん達と、一緒に住んでいたんです。……誘拐されたあの日まで、あそこで……」

 力無かったブリッドがバッと私の腕にしがみつき、またぼろぼろと大粒の涙を流す。
 心情の吐露に震えながらも私に話をしてくれた。

「火事で……きっと祖母も、妹も……死んで……。全部、燃やされた……消された……!」
「泣かないでくれ」
「……どこかで、父さんが生きていて……みんなで暮らしているって……心のどこかで……信じていた。けど……父さんは……とっくの昔に、死んで……もう、オレ達を……助けに来てくれる人なんて、いないんだって……」
「ブリッド」
「もう、もうオレには……兄さんしか家族がいないんだって……思い知らされて……ようやく理解して、泣いてしまったんです。……その兄さんだって、今、オレの代わりに殴られて……犯されて……苦しんでいる。なのに、オレは……今日一日遊んで……!」
「…………」
「……オレは、兄さんが幸せになってくれれば……幸せになれます……。オレだけ呑気に笑うなんて……できません」

 肌に爪を食いこませていた。
 ぐしゃぐしゃの顔を上げられずに伏せて、ぽたぽたと熱い涙を流している。
 しかし、ようやく理解した。
 訊きたかったものを、知りたかったものをやっとブリッドはたどたどしくも口にしてくれた。

「お前の兄が幸せになれば、ブリッドは笑ってくれるのだな」

 謎は解決した。
 疑問が解消され、私の胸の中は晴れやかになっていく。
 懇願し尋ねて良かった。『それをすれば彼は救われる』のだと記憶できたのだから。
 ブリッドは泣きながらも私に話をしてくれた。辛いことを相談する、これは信頼する相手にしかできないことだと映画や小説で何度も見かけたことだ。
 つまり、私に信頼を寄せてくれているということ。
 私を好いてくれていることだと考えていい筈だ。

「ふむ、打開策は得られた。とはいえそれだとすぐお前は笑ってくれないのか。……私は、今この瞬間に愛するお前を笑顔にしたいのに。叶わないのは残念だ」
「……アクセン様……」

 濡れた顔をゆっくりと上げて、私を見つめる。
 その姿は痛ましい。胸がぎゅうっと掴まれたかのように痛い。肌が青く冷めていく感覚がする。これは不快というものだ。生活する上で好ましいものではない。
 胸の高まり、頬の紅潮、笑いこそが望ましい現象だという。そうありたい、あるべきだと考え、顔を上げたブリッドにすかさず抱擁した。
 それぐらいしか……彼を暖め、安心感を得させ、少しでも笑ってもらう手段を知らなかった。

「…………アクセン様の、その一言だけで……今のオレは、充分です」
「何が充分だ。このままではちっともお前は幸せでないのだろう?」
「……いいえ。こんなに気にかけてもらえて、オレには勿体ないぐらい……。この幸せを……兄さんにも分けてあげたい」

 少し身を捩ったブリッドは、私の唇に自分の唇を重ねてきた。
 彼からの口付けだ。
 ……胸がぎゅうっと押し潰されていくのを感じる。鼓動が早くなり、顔面が紅潮する。
 私の表情の変化を見届けたブリッドは、少しだけ微笑んだ。涙を目に溜めたままだが、幸福感を口にしていたときわ殿と同じにも思える。

「……愛してくれて、ありがとうございます……」

 巡り合えたその表情。
 愛おしいものにようやく再会できた。……嬉しいと思えた。

「……ブリッド、約束しよう。お前を幸せにするために、願いを叶えてやる」

 痛みを感じているというのに負の感情は湧き上がらない。
 この体の痙攣は好ましいものとされている。その痛みが欲しい。ブリッドの体に腕を回す。首元に顔を埋ずめ、唇を強く吸い寄せた。痕を付けるほど欲しがると彼は小さく照れ臭そうに笑う。
 その顔が良い。欲深な心はさらに強く求め、衣服を剥がし始めていた。



 ――2005年12月28日

 【 First /      /     /      /     】




 /4

 立ち上がり、僕の部屋から出て行こうとする航先生の体に抱きつく。

 体力など連日の準備で微塵も残っていない先生は、涙を流すという大仕事をしてしまったせいで力が無い。残りの日数を気力だけで過ごすつもりでいたぐらいだ。だから若い僕の体を振り払う余力など残っていなかった。
 先生としてみれば、早く新座様のところへ向かいたいだろう。すぐ新座様に燈雅様が死んだことを告げて、光緑様の後を継いでもらう支度をしてもらわないとって考えていた。

「慧? はぁ。甘えん坊なのは知っているが、いつまでしがみ付いている気だい。先生にはこれからやらなきゃいけないことが」

 だから、僕は止める。
 震える声で、先生がこれからすることを……止める。

「ごめんなさい。先生は、儀式をする……んですよね」
「はあ。今更何を言っているのかな」

 今更……今更だ。
 重ね重ね繰り返すが、僕は知っていても理解までしていないことが多い。
 言葉をそのまま頭に入れていても、入れたものがどういう意味で何を生じさせるものなのか把握ができないという体だった。
 言葉を口にすることがあっても脳を通さない。知っていても気付けないことはたくさんある。……そう、今更。

「ど、どうして先生は、儀式をするんですか」
「慧、どうしたんだい。先生、君の顔色が心配になってきたよ。でも今は新座様にすぐ……」
「あ、あの! ごめんなさい……これ、とっても重要なこと、なんです。ごめんなさい」
「……何か重要なことが判ったのかな?」
「そ、そうです、また何か見えてしまって……。だから、教えてください」

 先生の言葉を引き出させるために、嘘を吐く。
 でも、改めて確認を取って、僕自身に意味を浸透させなきゃいけなかった。じゃなければ僕は判断できない。僕らがしようとしていることの、本来の意味するものが何なのかということを。
 本当に今更。何を言っているんだと怒鳴られたり蔑まれるかもしれないぐらい。口にしたらあまりの馬鹿馬鹿しさに、何を言っても信じてもらえないかもしれない。
 ――『儀式をしたら大勢の人が死ぬ』。それを事実として知っていて、今の今まで危機感を抱かなかったなんて……そんな馬鹿なこと!

「どうしてか? 狭山様が何度も言っていた言葉、忘れちゃったのかな?」

 目を見張る僕の前で、普段の落ち着いた呼吸を取り戻しつつある航先生は体に力を込めながら立ち上がろうとした。その裾を、ガッチリと掴んで離さない。
 そんな僕を宥めようと、理性的で優しげな声を掛けてくれた。いつも通りの先生が戻り始めていた。

「神の血を引く選ばれし者達は世界を導く使命がある。我らが神を今世に降臨させ、全人類を救済する。困窮した世を救うのは、我が神の力無しにはありえない。全知全能を持つ神であれば倒懸まみれの世を浄化することだってできる。……それを叶えてあげられるのは、千年の力を受け継いできた仏田一族に他ならない」

 狭山様が何かあるごとに繰り返している聖句。
 慎ましやかに苦笑いしながら航先生は、裾を離さず身動きを取れないようにしている僕の長い黒髪を梳く。自分で乱してしまった僕の寝間着も直そうともしてくれた。

「先生達が協力してやっている『魂の収集』だって、蔓延る異端を討伐だって、悲しき怨霊の救済だって、全ては大勢の人達を救うため。我々は大勢を、救ってやらねばならない。……狭山様がよく言っているだろう? これが仏田一族の始祖様の悲願なんだって」
「はい、その通りです……」
「慧は誰よりもその言葉を聞いてきたんじゃないかな。実際に始祖様の声を身に染みているのは慧だと思うよ。先生や狭山様は伝承でしか知らないけど、君は……川越様のお姿だって覚えがあるんだろう?」
「はい、そう、です。……だから、先生はするんですか? そのために、儀式を? ………………『大勢が食われる儀式を』?」

 震える声で尋ねる。

「そうだよ。慧は、何か不満なのかい? みんなやる気になっているのにどうしたんだ?」

 その目に、疑いは無かった。

 髪を梳き、涙に乱れた僕の衣服を整えた先生は、最後に僕の頬を撫でた。
 怯えも狼狽も無い。虚勢も嘘も無い。先程まで真剣に思い悩んでいた真面目な先生は、こんなときに冗談なんて吐かない。
 だから本気で先生は言っている。
 『神を召喚する儀式は、人々を救うため』だと。
 『その儀式で大勢が死ぬこと』を知っていながら、『人々を救うため』に実行すると。
 言葉をぼやかしていたつもりも無く、大勢を騙して事を実行する気も先生には無い。
 同じくこの寺の中心人物である狭山様も、おそらくは大山様や僕の父達にも謀る気は無いだろう。
 全員が全員、人類救済の悲願のため、人の死を望んでいた。
 でも……それを、一族全員が知っていたか?
 大勢が生まれ落ちた使命という言葉で片付けられてきた、化け物退治。彷徨える魂の救済。神を生むための手伝い。怨霊や異端を退治して人を救い、成仏できない悲しい魂を救い、全知全能を分け与えることで大勢を救う。どれも否の無い美々しい善行。だから大勢が従い、外の者も賛同して一族に加わった。
 その実態が……『大勢の死を必要とするもの』だと知っていたら。心は変わったんじゃないのか?

「どうして、ですか……」
「どうしてって、慧? なんでそんな顔をしているんだ。今までこんなことなかったのに、先生は君のことが心配になってきたよ」
「どうして先生は、救済をしようと?」
「どうして先生はって。先生がする理由が訊きたいのかな?」
「……はい。僕は、先生の言葉が聞きたいです。一族のとか……狭山様の述べるものじゃなくて。先生は……どうして儀式に臨むんですか?」

 動揺を収め、緊張しつつも問い掛ける。
 先生の手が少しずつ力を込めて裾を掴む僕の指を剥がそうとしているのに気付いたが、そのことに感づいてない素振りを見せながら尋ねた。

「…………………………認めてもらいたいんだ」

 暖かく僕に語り掛ける口調から、淡々と紡ぐ語調。

「……先生はね、偉業を成し遂げたいんだよ。こう言うと狭山様に『俗物だ』とか叱られちゃうんだろうけど。先生は立派なことを言えないからね」
「いえ、先生はとても……」
「ありがとう。慧がいつもそう言ってくれることは知っている。でも本音を言うと、そうなんだ。先生は慧のようにこの仏田寺で産まれた人間じゃない。若い頃に寺にやって来て、契約を果たして入門した。一から全部学んだ。失敗続きで下の下な成績だったけど、神様のことを研究していたら、少しずつ成功を手にするようになってきた」
「…………」
「もっと成功したい。評価されたい。大きな成果を作りたい。実を言うと、それだけなんだよ」

 子供のような願いを語る。
 一気にまくし立てた先生は、暫しの間沈黙した。普段先生が「はぁ」や「ふぅ」など溜息を吐くのは、思案する時間を稼ぐためだと話していたことを思い出す。軽率なことを口にしないようワンテンポを置いて思考するために、わざと深呼吸をしているという。
 それが先ほどの言葉には無かった。熟考しないまま吐き出した、航先生のあるがままの心ということかもしれない。

「もっと欲張って言ってしまえばね……『僕』は、大好きな人に褒められたいんだ」

 あるがままの心。『先生』と気取らず演技をすることもなく、自身を曝け出しながら安らかな微笑みを湛える。

「何をしても全てが輝いていた、大好きな人。僕を褒めてくれるあの人にもっと褒められたい。人類救済なんて大きな仕事じゃなくてもいいけど、神様に関する研究を手伝ってくれたあの人に、出来るだけ凄くて誰にも真似できないぐらいの成果を見せつけたい。『すげーな』って言ってもらいたい。…………はぁ、なんてね」

 先生が一呼吸を置いて、裾を掴む僕の指を払った。
 それは冷たいものではない。立ち上がるための、仕方ない行為。けど見ようによってはとても冷たい一撃にも思えた。
 懐かしい思い出を想起していた航先生は、前に進むため、元通りの姿で動き出そうとしている。全ては先ほど語った本心のため。一族の悲願ではなく、彼自身の悲願のため。そのためには……裾を掴んで身動きを取れなくさせている指など簡単に追放してしまうんだ。
 本人は僕を傷付ける意思なんて無い。そうしなければ先に進めないからするだけ。
 そう、彼は……彼を含めて仏田一族の『本部』は、人を傷つける意思なんて全く持っていない。悲願を叶えることこそが、何よりの救いになるから……。

 その純粋な優しさに、僕は惹かれたんだと思う。
 大好きな先生のことが大好きな理由は、自殺しようとした僕を、たとえ仕事だからとはいえ救ってくれたことだったから。
 そんな愛する人のために、どうにか力になってあげたいと思うのは……当然の理だ。

「…………先生。新座様ではなく、ぼ、僕を使ってください」
「慧を? 何故だい?」
「た、確かに血としては適任ではないと思います。でも……僕は、やり方を『知っています』。どの時代の儀式も、『知っている』んです。……先生だってさっきおっしゃったでしょう? 伝承を伝え聞いている人は大勢いますが、実際に見て聞いているなんて人、僕ぐらいです……」
「…………」
「そ、それに、感応力の強さなら新座様にも負けません。元々僕ら、似たような能力を持ってますし……。燈雅様には届かないかもしれませんが、新座様よりずっと儀式の知識もある。当主の椅子は……ぼ、僕にするといいと思います」

 名乗り出た一番の理由は……『僕が先生の為になりたい』という自己中心的なものだったけど。
 けれど、僕なりに真っ当なことを言ったつもりだった。言葉通り、直系の血ではないこと以外には新座様に劣らない。知識がある、力も悪くない。何より……先生の為ならすぐに何でもできるという心持がある。
 今から新座様に儀式の全容を話したらどうなる? ……きっと驚く。驚いて、反抗するかもしれない。元から新座様は当主になることを嫌がって寺を飛び出したぐらいだから。それに実兄の死を告げるのも大きな足枷になってしまう。
 それなら……心の準備ができている僕が、なんとかしないと。

「慧」
「はい……」
「今すぐ慧に読んでもらわなきゃいけないものがある。儀式の際にやってもらわなきゃいけないことだ。はぁ。時間はとても少ないよ。でも慧なら全部目を通してくれるね?」
「はい。全部目を通します。……新座様よりも確実に」
「よく言った。ふぅ、まずは狭山様の所に行こう。あちらも対策を練っているけど先生達の案を早く聞かせてあげないと。まぁ、『本部』も慧の力は知っているからね。慧は良い子だから心配する必要なんかない」
「はい」
「協力はするけど、覚悟をしておくんだ。でも大丈夫。補填用の魔力として異端刑務所から人員を分けてもらっているし、儀式の贄としては最高級の素体も用意している。何の為に三十年前に魔王狩りをしたかっていったらこの日の為に……。はぁ、そんなの話している場合じゃないね。うん、何より先生が全面サポートするから……安心していいよ」
「はいっ」

 ――数刻前、大勢の死に怖がった僕はどこへ行った?
 ああ、そんなもの消えてしまった。僕は現金なもので、『大勢が喰らわれるという事実』を知っていながらも……それ以上に、『儀式に臨む先生を好いてしまっているという現実』を優先したくなってしまった。
 僕の髪や頬を撫でる先生が好きだ。先生が先生と言わず、夢を語る姿が大好きだ。……眩しくて、何よりも優先してしまいたいと思ってしまった。一瞬でもそう思ったから、駄目だ。
 もしここで先生に反論して儀式の中止を訴えたら、先生は本気の嫌悪を見せて僕を振り払う。
 さっき指を払ったものとは段違いの冷たさで。
 そんなの、耐えきれない。
 ……一瞬でもそう思ってしまったから、僕は全部に目を閉じた。
 大勢が死ぬということを知っていても、知っているだけ。先生達と同じ……知っていながら尊いもののためにそのまま突き進んでしまうんだ。
 どっちを進もうとしても、自分に後悔はしたくなかった。



 ――1004年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /5

 陰陽師の男が辿り着いた山嶺は、お山の天辺なんてものはなかった。
 空に一番近い場所だと思われていた頂上には暗黒しかなかった。時間を忘れて夜になったと思った。もしくは妖しの力で異空へ飛ばされてしまったかとも思った。
 けれどどちらも違う。
 山の頂には、文字通りの暗黒が存在していた。

 巨大な暗黒。
 黒のような、赤のような、紫のような大きなそれ。一番判りやすく言うなら『剥き出しの肉塊』は訪れた男の手足を奪う。
 自分の体より十倍も大きい肉に四肢を奪われ、醜い肉の中に溺れていく。
 元から三日間、山を遭難しかけていたぐらいだ。たとえ助かる知恵はあっても、体力が追いつかなかった。

 男の体をその身に引き摺り込んでいく暗黒。
 底なし沼に落ちていくように男は肉の中に埋もれていく。呼吸などできない。待つのは死のみ。
 理由は、おそらく無い。
 暗黒は人を害することが本能で、苦しめて殺す衝動の意味など考えたこともないもの。人間である男は暗黒の餌に過ぎず、ぎらつく欲望に呑みこまれていくだけ。
 その圧倒的な存在感と、凶悪さと、情動。
 力強さ。殺気。威圧感。神々しさ。呑みこまれながら、知恵を求めて歩き続けた男は、当然の疑問を吐き出した。

「どうして、死ぬしかないのか?」

 ――――男が、一度閉じた瞼を開ける。
 土の上で横たわる男の枕元に、一人の女が立っていることに気付いたからだった。

「どうして、そなたは恐怖しない?」

 ……枕元に立つ女は、見たことのない衣装を身に纏っていた。
 男には一目で彼女が異形だと察する。きっと恐ろしい異形に違いない。だって赤い髪と紫色の眼など見たことがなかった。
 だが眼は紫色にギラギラと輝きながらも二つある。足と腕もそれぞれ二つずつあり、体格は普段見かける女より幾分か大きかったが……何より、人の言葉を話した。鬼でも何でも異形だとしても、言葉を通わせられるのだから怖くはなかった。
 先ほどの暗黒のような、一言も心を通わせることができない未知の存在とは違う。それだけで恐怖心は払拭できた。

 男は事のあらましを話し始める。
 村人に、年も取らず密かに山奥で暮らす山姥が居ると聞いた。年を取らずに暮らすということは、健康的に生きているということ。この一帯は病が蔓延しているというのに健康に過ごしている噂がある。ならその山姥に話を聞けば、手段を教えてもらえたら、皆を救える。そう思ってここまで。

「それは、妾の問いの答えになってないぞ」

 天は相変わらず暗い。いつの間にか夜になっていたのは間違いではないようだ。
 土を背に空を扇ぐ男。その枕元に立つ女。

「妾は、何故恐怖せぬのかと尋ねた。死がそなたを覆っていた。今まさにそなたの身を取り込むことができる。己の命を疑わないのか? 殺されることすら気付けなかったとでも? ……その答えを訊きたかったのだが?」

 異端らしい無感情な顔で、立つ女は倒れる男を見下ろす。
 だが律儀に言葉を繋いでいく。
 男も、同じように言葉を返していく。
 自分が死ぬことなど怖くない、と。怖がっていたら死の病に苦しむ患者など触れていられない、と。
 一端に死の恐怖を感じるようなら、毒が蔓延るこの地に自ら来ようとも思わなかった……と。

「ほう、そなたは人間らしくない人間だな。恐怖し揺らぐ感情を主食にしている我ら異端には、つまらん存在だ。久々の生肉を食べられると喜んだのに、こんなに不味い餌なんて残念でならん」

 嘲笑する女……の形をした、暗黒。
 男は「ならば殺さないでくれ」と横たわりながら願う。

「それで命乞いのつもりか? 心が篭ってないぞ。そんな言葉では響くものも響かん」

 身を倒したままの男は、そのまま笑う。
 見下ろす異形の女が『自分と話をするために人間を模した』のだと察した陰陽師は、自身が皿の上に盛りつけられている肉だと自覚しながらも……声高く愉快そうに笑った。

「……ハハハ、異端に心を訪われるとはな。化け物には感情は無いと教わっていたが、あれは嘘か? 餌相手に話し掛けるなんて、人間を本能的に食すだけの存在と言われていたのは間違いだったのか?」
「妾は『欺く神』の眷属。主の装具を名乗った高位の妖族。下等とは違う」
「下級魔族と同じにするなと言うのか。……餌を求めて繁殖することしかできない連中とは違うか。気紛れな鬼に振り回されたことも何度もある。それと同じか」
「そなたはこれから死ぬ」

 女は人の形をしていたが、だがそれはほんの一部だった。
 女の足元は黒い。暗黒に伸びている。黒い肉をほんの少し取り出して、人間と同じ形を創り出したに過ぎない。
 土だと思っていたものは闇に変わりなかった。男が寝そべっている場所は、土の上でも皿の上でもない。
 ここは異形の唇の上だった。

「口の上に居ることに気付いていなかった訳ではなかろう。そなたは、理解している筈だ。すぐに妾の胃袋の中へ落ちるということに。一秒後には死ぬということに。その一秒を長らえさせてもらっている今、そなたは何故恐怖しない?」
「……もう一度、同じことを喋ろうか。私は……オレの死に恐怖している余裕など無い。多くの死を救うために、死に近い場所で生きてきた。オレが恐怖していては誰も救えないからな」
「ほう」
「だから命乞いはする。殺さないでくれ。オレにはまだやらねばならぬことがある」

 横たわっていた男は、漸く上体を上げる。
 下手な動きを見せて食われる可能性もあった。それよりも男は、言葉を通わせることができる『女の形をした触角』に向き合う。
 人ではないものなどという次元に興味は無い。
 元より男は、三日三晩未開の地を彷徨い不可思議な存在を探す気概でこの場に居た。相手がどんなものでも立ち向かう心持だった。
 それが死そのものでも。

「邪神の眷属、大いに結構。この地に生きる者の声が聞きたかったのだ。……お前は生きている、この毒の地に。それは何故か教えてくれ。鬼でも妖しでも怪異の知恵でも何でも構わん。オレは知りたい。どうして皆が死ぬしかないのか。どうして救えない命があるのか。神だというなら、異端の神だとしても教えてくれ。……神というものは全知全能なのだろう?」

 男は真向かう。言葉を交じらせるために、この世界に蔓延る種の一つを模しただけの化け物と差し向かった。
 かつてから妖しの力を借りることだってあって。利用できるものなら何でも利用してみせる。聖人らしからぬ気質だった。

 次に笑ったのは女――暗黒の渦だ。
 男と言葉を通わすために模した女は、闇に溶ける。そして闇色の肉が笑う。
 男が死に恐怖していない訳ではない。男は誰かの死を恐れて、救うためにこの地を訪れた。それが絶対であり、邪魔する自己保身の心は捨て去っていた。
 他者を愛する心が強すぎて、自身への感情を欠いている。愛に溢れた人間らしい。
 しかしその欲求から来る手段の無さと、心の欠落……なんとも異端らしい人間。

「良し。久々の生肉を食せるとなったら、妾も機嫌が良い。そなたに見せてやろう――妾の残り僅かな全知全能をな」

 人間の心を味わう異端は、歪んだ人間を大層気に入った。
 大笑いして男を囃し立てたが、彼を呑みこむ唇は一向に開かずにいた。




END

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