■ 037 / 「暴露」



 ――2005年12月29日

 【 First /      /     /     /     】




 /1

 『氷の安置場』と呼ばれる地下室は、実際に氷漬けになっていることはない。
 大昔から表に出せない死体を一時的に保管しておく場所。病死した浅黄の遺体を安置しているようにまだ燃やせないそれらを保存しておくため、氷を操る異能遣いの力を使って腐食を防いでいた。
 現在は大山が連れてきた異能遣いの少年が遺体の管理をしている。一人だけではない。同じように遺体の時を止めることができる能力者を何人か、繋いでいた。総じて氷の遣い手であることから、自然と『氷の安置場』と言われるようになっている。
 部屋全体が氷漬けではないのだが、その力を使役され続けているせいか他の部屋よりも気温が低い。だから空気がこもる野外と変わらぬ、それよりもずっと寒々しい一室になっていた。

 定期的に安置場へ訪れる人物が居た。一本松だ。
 任務だけでなく趣味でも死体を作る彼だから、何かとここに世話になる。常連とも言える人物だ。今は実父の浅黄が眠っているからか、敬意を払って父に挨拶をしにくる。
 だが毎日父に会いにくるだけの律儀な性格ではない。もう動かなくなって冷凍保存された父やその兄達三人相手は、二の次。
 一本松が気にしているのは、安置場の先。最奥の牢獄に用があった。

 光が届かない闇を創る一室で、赤毛の男が繋がれている。
 そこは壁際に手枷足枷を吊るされた男のために用意されたと言っても過言ではない、厳重な封印が施されている。氷の牢屋の中で彼だけが生きているのだから、それだけ彼が特別な存在だと物語っていた。
 男は身に纏う物は何一つ与えられず、両腕を開かせて拘束されている。人を操る魔眼を所持していた銀色の両目は既に潰してあり、声帯も無く、口にはきつく猿轡を嵌めていた。食事はこの牢獄に移されたときから与えていないのだから、もう十ヶ月は何も摂取させていなかった。
 彼は人と同じ形をしていても人間ではない。魔力を糧にする魔族だ。だから三十年近く仏田に囚われているにも関わらず、定期的に魔力を与えていれば死ぬことはなかった。
 いっそ人と同じであれば早々に体力が尽きて死ねたというのに、魔力さえあれば延々と生存できる魔族であるせいで今日まで飼われ続けていた。

 壁際に鎖で吊るされる男は、炎を操る異端だ。その燃えるような赤い髪に相応しい炎でかつて大勢を苦しめた。だから相性の悪い氷で縛りつけ、抵抗させないようにしている。
 三十年以上氷漬けにしていたが、未だにこの異端は拘束を解こうとする。殺さないために魔力を与えた翌日、何重にも掛けた封印の一つが破れてしまうことがあるぐらいだ。
 なので日々監視をしている。氷の遣い手達はもちろん、強力な魔族の王であった彼を研究したい者達も。それと三十年前……彼を狩ったあの日に居た一本松も、この一室に移送された日から毎日のようにここを訪れている一人だった。

 他の者は決して異端の男に触れようとしない。
 しかし怖いもの知らずの一本松は、封印の鎖できつく拘束され十字架に掛けられている男の赤髪に触れる。
 視力を失っている男は一本松の指に触れられて、ようやく身を捩った。敵視する人間に、身勝手に触れられて不快感を露わにする。……心霊医師の航が開発した『薬』を投与されたあの日から、この魔族の男は目に見えて『人間らしい苦痛』を訴えるようになった。
 心無き化け物に、感情を与えた航。航によって心を持った彼は顔を歪ませている。為されるが儘、人形のように無表情ではなく……苦痛を訴え懇願する人間に見えてくる。
 航の成果が出ていることを確認し、一本松が男の轡を外した。上げられる声は無い。無言のまま唸る化け物。そして一本松は自分の左手を、開かれた男の口元に運んでいった。
 今日は、最期の餌を与える日だった。

 数ヶ月ぶりの食事を求め、男が一本松の指に舌を這わす。
 そして牙を立てた。食事がしたいだけでなく、自分を捕らえる憎い人間である一本松を傷付けたい一心でしたことだろう。だが一本松は顔色一つ変えない。決められた時間、男に血を与え……腕時計がきっちり三分経過を告げた後に手を離した。
 牙を突き立てられて一本松の左手はボロボロだ。赤く血で染まっている。だが満足そうだった。
 無様だ。
 一言呟き、再び魔族の男に轡を噛ませる。
 これが男の最期の食事。もう二度と血は口にできないというのに、必死に噛みつくだけで終わるなんて。
 必死に指を食い千切ろうとする男は、再び壁に貼り付けられたオブジェになった。
 三十年前に、深い森の古城で優雅に剣を振るっていた魔族の王とは思えないほど、無様な姿。言葉にならないものがあったのか一本松は、ほうっと楽しげな溜息を吐いた。

「貴方が笑うなんて珍しい」

 ぽたぽたと赤い雫を落とす一本松に、つい声を掛けてしまう。
 利き手ではないとはいえ深く牙で抉られた左手は、血を見慣れていない者なら悲鳴を上げたくなるぐらい真っ赤になっていた。連日化け物を狩り続けていた彼には日常的な色なので、慌てもしないが。
 いいや、連日というのは、もう無い。少年だった一本松が魔族の王が住まう城に出てから既に三十年が経過した。既に一本松は最前線を退き、多くの配下達を見守る生活を送っている。
 いかに優秀な戦士であっても、半世紀も生きてしまえば体は自然と衰えてくるもの。それでも若者達に劣らぬ力が彼にはあったが、最盛期に比べれば随分と大人しくなった。
 大人しくなってしまったと言うべきか。不服にも。
 少なからず、そのことを本人が一番感じているようだった。だから何かあると顔を顰めることが多い。そんな彼が、こんな風に自然な笑みを浮かべているのは珍しかった。
 あの頃はまだ青二才だったとはいえ、翻弄されるしかなかった相手。それが無様な姿を晒している。感慨深いものだ。
 再び厳重な封印を施された男を置いて、最奥の扉が閉じられる。
 何人かの配下が一本松の責務を労い、左手の治療を申し出てきた。そんな会話もあったが私は構わず話し掛け続けた。

「輝と航が討ち取った魔王を、最盛期の貴方なら狩ることができたでしょう。貴方が経験を積み、まだ若くて力をつけた黄金時代に彼と戦ってみたかった?」
「可能であれば」

 周囲の研究者達には聞こえない、私だけに聞こえるような声で小さく応じる。

「今はもう、随分と年を取ったから無理でしょうけど」
「…………」
「もう貴方は衰える一方。だってもう五十年生きたのだから、人間である貴方には仕方ないこと。どんなに化け物を殺したいと武器を取っても、次第に体が追いつかなくなってきた。今はまだ若い連中についていけるけど、あと数年もすれば……。航だって随分老いたわ。もう下の代に任せてもいいぐらい。それなのに未だに研究を手放せずに頑張っている」
「手放したくないんだろう。……あの日とは、研究しか居場所が無いから」
「一本松様? 何かおっしゃいましたか?」

 左手の治療に当たる研究者が、虚空に向かって口を開く一本松に対して首を傾げた。
 一本松は「何でもない」と目を閉じる。その声は、三十年前に比べると随分とくたびれたものになっていた。
 周囲に居る者達が二十から三十、若いと十代の白衣達。その中でも一人、彼だけが老いているのは明白な事実。
 それが焦りを生んでいることも私は知っている。

「仏田の悲願まで、あともう少し。全部用意できた。必要な魂も、女神も、贄も、魔力も」
「…………」
「全てが終わる。終わらせる。貴方達が。貴方の見たいもの、すぐ近くまできている。私達の願いは手の届くところにある。……もう少しだから、頑張ってね。今更嫌だなんて言わないでね……」

 包帯を巻かれるまでの数分間、一本松は瞑想する。そんなふりをして、私の声を聞いていた。
 頷くでもなく、首を振るでもなく。ただ受け入れる。
 そうやって訪れる時を待っているんだ。あと数日、ほんの数時間後の夢の舞台が訪れるのを。



 ――2005年12月17日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /2

 魔術を仕掛けた書類を手に取ったアクセンさんは、するすると言葉を繰り出していく。
 普段ティータイム中は英語で語り合っている僕達だけど、紙面を音読するにあたって高低の無い彼の日本語が食堂に響いた。

「[玉ねぎは薄切り、にんにくはみじん切りにする。フライパンにサラダ油を加熱し、にんにくと肉と玉ねぎを炒める]……」
「オーケーオーケー、完璧な[日本語]です。もうアクセンさんには完全に読めちゃうんですね、その暗号」

 例として作成した『カレーレシピ(一般人には読めない魔術加工済み)』は、アクセンさん相手には何の効果も無かった。
 魔術で文章をゴチャゴチャにして読ませまいとしたのにあっさり解読されてしまった。複雑な暗号のつもりだ。けど、十五分ぐらい紙を凝視したアクセンさんはすらすらと読み解いてしまう。

「簡単には読めないような本文にしたつもりなんですけどね。一見何の文なのか判らないぐらいカモフラージュしているんですよ」

 以前『赤紙』を解読されかけたことがあって大慌てになった。それを対策するために暗号化を試してみたんだが……勘が良い人はそれでも読み解いてしまうらしい。
 能力者でもない、我が血族でもないのに大事な『仕事』の書類を見られては困る。早急に打つ手を練らなければ。……いや、まず『赤紙』を彼の目が届く場所に置かないようにするのが一番の手か?

「ときわ殿、確かにそれは日本語で記されたものではない。古語でもない。中国語、ハングル、日本周辺の言語でも思い当たるものはなかった。しかしな、見たことがあったのだよ」
「ほう?」
「私も学んだことはないし読んだことはない。しかしどこかで目にしている気がした。本で読んだというより、目に入ったことがあるものだな。……あるシャーマンにスポットを当てたドキュメント映画で、ジャーナリストが神子達の資料を漁るときの映像にこのような文字があった気がする」
「……ワオ。凄い洞察力ですね」
「もう一つ、エクソシストを題材にしたアクション映画にも似たようなものがなかったか。となるとこの文字はオカルトの世界ではよく知られたものかもしれない。そう思ったから……少しズルをさせてもらった」

 言ってアクセンさんが取り出したのは、携帯電話。
 空から来る電波で情報を引き出す、誰でも使える魔法の道具。
 パカリと二つ折りの電話を開いて見せてきたディスプレイには、ちょっとした単語の解説程度しか掲載されていないオカルトトリビア記事があった。
 魔術を本格的に学んだことがある人なら、小学一年生が4月に習う算数レベルしか載っていない。足し算や引き算を習う前の、数字ってどう書くんだろうレベルの知識しか書かれていないものだったが……それでも一つか二つのヒントがあった。
 人によってはこれだけで充分だ。

「この四文字が『炎』を意味する。そしてこの五文字が『燃やす』だ。ときわ殿は日本語の文を改良したに過ぎないと言っていた。文法は変わっていないのだから、つまり……」

 そうしてスラスラと流暢な答え合わせが始まった。
 魔法で見えなくしていた架空の書類。だというのに十五分で解読されてしまう。それなりに筋のあった方法を使われて。
 純粋に、たまげてしまう。
 要所要所でミスはあった。けどそんなのたった十五分の偉業を考えたらあってないようなもの。慎重に解読をお願いしたら一字一句間違いの無い翻訳を渡されることになっただろう。
 この人の前に絶対『赤紙』を置いたら駄目だ。どんなに読めないようにしたって無駄だ。さすが何十ヶ国語近く話せると豪語するだけはあった。
 確か母国語のルーマニア語以外に、英語、ギリシャ語、アラビア語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、ヒンディー語、日本語、広東語、韓国語も……できるんだっけ? 最近はエジプト語とトルコ語に勤しんでいるらしいし。
 しかもさっきの話を聞く限り、オカルト関係にも目を通していたな。使える使えないはともかく、実は読めそうな気もしてくる。

「アクセンさんって、十ヶ国以上も読めたんですね……そういや初めて会ったときから言ってましたか。僕の負けです」
「ん、私達は勝負をしていたのかね?」

 言いながらも彼の書類を読む目は止まらない。その目は、何もかも見通してしまうような透き通った色をしていた。
 対面で話すときはにこやかに口角を上げてくる人だけど、元々彫刻のような顔の人だ、何もしていないときの表情は整った『無』そのもの。
 考え事をするときの顔は、暗殺者がスコープで標的を狙うように眼光が鋭くなる。
 出来れば楽しい茶会であってほしいので、僕はそっとアクセンさんの前にスコーンのバスケットを押し出した。
 ついでに今度一緒に遊びに行きたい美術館のチケットを……。

「その美術館なら、既に行ったぞ」
「……えっ?」
「『幻想生物の彫刻展』だろう? 私は以前そこへ行ったことがある」
「え、あ、そう、なんですか……。開催時期が短いのに……もう行ったことありますか。残念です。クリスマスの時期にどこかへ遊びに行きたかったんですが……」
「それならば、クリスマスのコンサートに行くのはどうだ? オーケストラの公演が12月25日にあるぞ」

 また携帯電話の画面を僕に見せつけてくる。
 小さな画面に『クリスマス公演のお報せ』というウェブページが映し出されていた。
 ここから少し遠い会場で行なわれるようで、世界的にもとても有名な指揮者と楽団が演奏をするらしい。

「せっかくならコンサートの後にディナーを楽しみに行くのはどうだろう。私と君とブリッドの三人で、夜まで語り明かすのも悪くなかろう。この時期はどこもイベントばかりだからな。どうせ行くのなら一つや二つまとめて楽しみたいものだろう? この寺から場所が遠いことを危惧しているのなら、近くのホテルで泊まってしまえば……」
「…………アクセンさん。貴方はエクセレントな人だ」
「ん、そうなのかね?」
「それ、僕がいつかしてみたかったハイソでゴージャスでセレブなクリスマスライフです! ……ええ、去年まで高校生だった僕には無理だっただけなんですが! 二十歳になる前に夢のような夜を過ごせるなんて! 貴方とベストフレンドになって良かった! 僕はこれ以上無いハッピーに包まれております!」
「急に笑顔になった。ふむ。喜ばしいことだ」

 僕の喜びを半分以上判っていなさそうな顔で、彼は電話を掛け始める。
 英語ではない言葉だ。意味は把握できない。微かに電話口から聞こえてくる声は、お年を召したおじいさんの声。……親しげに話す姿を見ると、もしかして以前アクセンさんが言っていた「じいや」さんじゃなかろうか?
 行動の早い彼を見入っているとあっという間に予約が取れて、僕の気分は最高潮に達した。

 ――数分後、遅刻のブリッドさんがいつも通りの様子で食堂にやって来る。

 甘いお菓子を差し出しつつ、椅子に座らせる。
 クリスマスの予定にはもちろんブリッドさんもいっしょだ。それはアクセンさんもその気で、ブリッドさんなら絶対来てくれると信じている。
 事後承諾になってしまいましたがと一応頭を下げつつ、「12月25日は外に遊びに行きますよ! 休みを確保しておいてくださいね!」と高らかに宣言した。

 ……しかし、ブリッドさんは決して気安く頷かない。
 キョトンとして言葉を失った後、困ったように首を振る。

「まさかブリッドさん、その日『お仕事』だって言うんですか!?」

 一週間先の予定まで埋まっているのかと心配顔をしてしまうと、肯定するでもなく彼は俯いてしまう。
 差し出されたスコーンに一つも手をつけず、ずっと表情を曇らせていた。

「……その……。外泊、なんて……許してもらえるかどうか……」
「許してもらう、ですか?」
「はい……。お、オレ……ここに住まわせてもらっている身、なので、仕事……でもないのに、外に出る……なんて……」

 神妙な声で切り出す彼に、とりあえずはお菓子をどうぞと運ばせる。
 僕が半ば強引に口へと運ぶと、慌てながらもスコーンを食べ始めてくれた。
 少しだけ苦しそうだが、その代償に「おいしい……」と微笑んでくれる。
 ……ここまで心を許すようになってくれた人だ。4月に出会った頃に比べると色んな話が出来るようになったし、楽しく茶会を盛り上げる仲にもなれた。そんな人と更に時間を共にしたいと思うのは、難しいことではない筈だ。

「あのですね、アクセンさんがせっかく誘ってくれたんです。行くべきですよ」
「…………」
「それとも何か? 別の理由でもあるのです? 貴方の面倒を見てる人は誰ですか。このときわが直談判に行きますので!」
「ぇ……ぁ、そ、それはいいです! 結構ですから……! 兄さんに頼んで……その日、空けてきます。……だから、許してください……」

 ブリッドさんを指導したり守ったりする人の名を聞こうとした。が、僕の横暴(もちろん僕なりのジョークのつもりだ)に怯えて教えてはくれない。
 それどころか、おそるおそる懇願するように頭を下げてくる。
 嫌がる彼を連れて行きたくて頼んでいるのではない。三人一緒に楽しいクリスマスを過ごしたくての提案なのに……。
 スコーンを食べながらクドクドと弁解するが、ブリッドさんは顔を上げてはくれなかった。ずっと不安そうな顔のまま俯いてしまう。

「ブリッド」

 ずっと顔を下に向けていたからか。アクセンさんはブリッドさんの座る席に近づき、そっと頬を撫でる。
 そのまま顎をクイッと上へと向けた。必然的にブリッドさんの目線が上がる。
 いきなりの行為だ。ブリッドさんは声を呑みながらもビックリ仰天、突然顔を触れられて身を固くされていた。

「私は、お前を楽しませたい。ときわ殿は一緒に行こうと言ったら笑顔になってくれたぞ。お前はどうして笑ってくれないのかね?」
「…………ぇ……あ、あの……」
「嬉しいとは思ってくれないのか?」
「そ、そんなことは……。とても……嬉しいです……」
「まだ笑ってくれない。何か原因があるのか? 表情筋を柔らかくしてみよう。ほら、口を開けてみろ」
「ぁ……こ、こう……ですか……? その、痛いことは……やめ……て……」
「アクセンさんっ! それ以上はやめてあげてください! やめないと怒りますよ! 僕がっ!」



 ――2005年11月23日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /3

 週の半ばの水曜日でも本日は勤労感謝の日だから、世の中はお休み。
 けど仏田寺にカレンダーごとの休みなんてものは無く、特に最近はドタバタと忙しい毎日を送っていた。

 藤春叔父さんの元奥さんがお亡くなりになったことが、一番の理由か。
 あまり交流があった訳ではない僕ですら悲しい。藤春叔父さんやみずほくん、緋馬くんを襲った悲痛はこんなものじゃないんだろう。

 人が亡くなったら仕事をするのが僕の家だ。僧侶の松山さんを始め、悲しんでいる藤春叔父さん達のために周囲が一丸となって彼らを支えていた。
 みんながあの一家を守っている。慣れた手つきで、決して誰も文句を言わず、サポートし続けていた。
 それでお金を稼いできたから当然かもしれないけど、悲しんでいる暇なくみんなが動いていて、圧倒されてしまうぐらい……。
 ようやく寺を出て日常に戻ろうとする一家を、他人である僕は横目で眺めていた。

「はわ? なんで新座くん、書庫で本なんで読んでいるんだ?」
「むぐ? 書庫なんだから本読んでいてもいいでしょ?」

 我が家にいくつもある書物置き場の扉を開いていたら、半ば大声とも言える音量で鶴瀬くんが声を掛けてくる。
 相変わらずきっちりと着込んだスーツ姿で、埃臭い書庫なんかに入ってきちゃいけない格好。でも僕が居ると判ったら、構わずずんずんとやって来てしまった。

 鶴瀬くんが僕の一家に入門して早半年。そしてほんの三日前についに正式な一族として血の契約を行なった彼だが……そのかっちり着こなすスーツ姿が、つい最近まで外の人間だったんだなぁって思わせる。
 我が家はちょっと時代遅れというか古臭い格好をする人ばっかりだから、パリッとしたシャツとネクタイをちゃんと結んでいる人なんて全くいない。
 それこそ外で、人と話す仕事を受け持つ悟司さんのような人じゃないと見たことがないぐらいだ。

「はわぁ……魔術のお勉強かな? だったらせめて廊下でした方が良いんじゃないかな。ランプの灯りだけだと目を悪くするよ」
「大丈夫。僕って暗いところで三時間ぐらい読書しても目が痛くなるだけで悪くなったことないし」
「痛くなるんじゃないか……。誰だって三時間も集中して何かをすれば体が痛くなるもんだよ」

 休憩は取らないと、と心配して立たせようと腕を持ってくる鶴瀬くんの体を、クンッと嗅いでみる。
 体が密着したから犬みたいに鼻を動かしてみた。
 それが露骨だったせいか思いっきり怪訝な顔をされる。

「ねぇ鶴瀬くん。僕んちと同じ血になったんだって?」
「う、うん。正式に仏田一門になったよ。これで正式に新座くんの家族だね」

 半年間仏田寺に住み込みで働いていた。『仕事』だって人より倍やっていた。なのにそれまでそうじゃなかったっていうんだから、上の人も意地悪だ。
 もっと早く家族にしてあげても良かったのに。鶴瀬くんは半年以上前から、それこそ小っちゃな子供の頃から何度も仏田寺へ修行に来ていた。それなのにやっと研修バッチを取ってもいいことになったって……。
 思いながら、もう一度鶴瀬くんの体をクンクン嗅ぐ。……何にも変わっていない。

「むぐー……『血を我が家と同じにした』んだよね? うちと契約する儀式って……体は何にも変わらないんだ?」
「はわ、そう簡単に体臭は変わらないよ」
「手術すると体質が変わるってよく言うじゃん! でも顔も変わらないし、言われてもサッパリ気付かれないよね」
「皆さんの対応は変わったよ。閲覧できなかったものができるようになった。知らされない連絡を知ることができるようになった。これだけで身内なんだって認められたと実感してるよ」

 書庫にだってすぐ入ってくるような鶴瀬くんだけど、聞けば半数以上の本は手をつけてはいけないことになっていたらしい。
 入ってすぐ手に取ることができる本はオーケーでも、奥に大事に保管されている物は見ちゃいけなかったとか。

「へえ、企業秘密やお宝にも触れるようになったんだ? じゃあとびっきりの本を見せてよ!」
「いいよ」

 茶化した。つもりだった。
 だというのに彼は、するすると奥の奥へと入って行く。

 我が家は書庫とか倉庫と呼ばれる場所が至る所にある。そしてそれら以外に……秘密の保管庫と呼ばれるような場所があったとしても、全然驚きはしない。
 とある本棚の太い本を取り出した鶴瀬くんは、パカリとそれを開く。
 その書と思っていたものは、中が空洞の箱だった。
 中にはポチリと押せる典型的なスイッチがあり、ちょっとした機械の音と共にゴゴゴと床が動く音がする。

「……ねえ、鶴瀬くん。それって僕になんか見せてもいいものなの?」
「はわ? なんでそんなに驚くんだい? 生まれたときから仏田一族である新座くんなら知っていても良いし、知る権利があるし、無いなんて言わせないぞ」

 さも当然の顔。ここで「なんで直系のくせに知らないの? バカなの?」と言わないだけ、鶴瀬くんは出来の良い男の子だ。
 僕も誰かに「ここの隠し部屋を教えてください」と尋ねれば教えてもらえたか。残念ながら隠し部屋がある発想が無かったし、言えば教えてくれるという案にも至らなかったけど。

 そうして出現した秘密の地下倉庫は、二畳ほどの本当に狭い空間。
 隠し部屋というより半地下、もしくは床下収納と言った方がしっくりするような、外に出したくない数冊だけを保存しておく小部屋だった。

「ここにある十冊はとびっきりの本って言えるんじゃないかな」
「持ち出されるとダメな理由があるの?」
「一冊、数億円だから。もし仏田の経営が危うくなったらここにある本に手を出せ、って悟司様が言っていた。銀行の信用が回復するぐらいの額にはなるからって」
「むぐぅ……生々しくどれくらいの金額か察することができたよ」

 汚されると普通にお宝としての価値が無くなるやつだ。貴重だというレベルも判りやすい、シンプルな理由だった。
 しかもいざというときは売っても問題無いクラスのお宝。門外不出という訳でもなく……確かに知っていても大丈夫なお宝だ。
 早急にお金が必要なことは今の段階ではないし、未来のために覚えておくことにしよう。
 という訳で保管されているものを手に取る。すると鶴瀬くんがポケットからシュッと白い手袋を渡してきた。……ここは「さすが」と言うべきなんだろうか?

 ――開かれたページの中で『祈念の勾玉』という項目に目を奪われたのは、不可思議な図形が貼りつけてあったからだろう。

 大抵『勾玉』っていう物は「曲がっている玉」を意味する通り、丸から尻尾が出たような形をしている。祭祀に用いられたと言われ、古代の異能力者達が魔力ストックとして使っていた魔道具だ。
 紀元前一万年以上前から膨大な魔力を溜め込むマジックアイテムが開発されていたなんて驚きだが(近代だって勾玉ほど高い魔力を込められる宝石はなかなか造られないとのこと。それが古代に量産されていたんだから変な話)、手に取った書(手記と言うべきものだ)には、その勾玉を数十個使わなければ発動されない大魔術がいくつも記されていた。

 拘束の魔術。啓発の鎖。
 単純な殺傷力や爆発力ではない、ただ相手の身を封じるための、動きを止めるための秘術。
 なかなか平和主義な魔術だなとペラペラ捲った。だが、そこにべらぼうな数字が書かれていて思わず呻き声を上げてしまう。
 あまりに僕が変な顔をしたせいか、鶴瀬くんも覗き込んで、記されていた手段に苦笑いをした。

「むぐー、書いた人の主観が入ってるのは仕方ないけどさ。筆者はこの魔法を使うときは最低でもこれぐらいの魔力を込めないと発動しないって思ったんだよね。……こんな魔法を使える人、実在するのかな」
「なになに? そんなに無茶な注文だったのかい?」

 ちなみに記されていた数値というのが、一万。その魔法を使うには一万の魔力が必要という表記だ。
 そして人間一人が本気を出して注ぎ込むことができる魔力量の限界なんて……百だ。
 一万も水を必要としているけど、人は百しか注ぐことができない。普通そんなの不可能、ってことだ。

「はわー、だから外付け魔力装置の勾玉が必要なんだよー。たとえ術者が百しか注げない一人でも、百の勾玉が百個あれば一万分ぐらいの魔力が用意できるし」
「勾玉一つ用意するのにどれぐらいお金が掛かるんだっけ。……あ、今考えたくない金額が算出されたよ。出来なくはないけど、ちょっと普通の魔術師が行なう手段としては非現実的だな」

 古代から伝わる貴重な魔道具を百個揃えるなんて、それこそここに保管されている本をいくつか売らないと不可能だ。
 そんな無理難題がいくつも掲載されているのかなと再び視線を戻す。けど、「実際にはそれほど魔力を注ぎ込まなくても発動した」という文章を見つけた。
 なんだ、それぐらい予備にと言うだけで必要無いのか。

 『死を供なす永劫の呪縛』。
 ――――「私は五十人の肉体で代用した」と綴られている。

「……は……?」

 ――私には、魔物を拘束する鎖を操るほどの魔力は無い。
 ――私は、一族の者に命じた。その肉体を、魂を全て捧げよ、と。
 ――そう、一時的にだが、私は奴を支配下に置くことには成功した。しかし五十人は流石にやり過ぎた。外部にはどう片付けさせるべきか。警察に知らせる際にはその五分の一にしろと命じる。うち四十人の遺体は、魂の宿らぬ粕ではあるが魔物の養分として保管するように……。

 ……手記は、参考書とは違う。書いた人の事実を淡々と遺すものだ。
 日記の中に、とある大魔術のやり方が書いてあっただけ。……とある強い化け物を拘束するために、五十人を犠牲にしたことがきっちり書かれていた。
 その文章の最初を読み直す。日付は、1901年。今から百年も前の話だ。
 掠れて読みにくかった字にも納得がいくほど、古い一冊だった。

「鶴瀬くん。1901年って、何があった年?」

 はわ、二十世紀最初の年でおめでたいね? なんて鶴瀬くんは言いながら、首を傾げる。

「まだ伊藤博文が政治の場で活躍していたぐらい昔だよね。長い桂内閣が始まったとか覚えた気がするけど」
「むぐぐ、普通に歴史を返答されても反応に困るね。全然いつ頃か実感がわかないや」
「仏田に限ったことを言えば……この頃に本殿で火事が起きた」
「……火事!?」
「知らないのかい。九人が亡くなる火事があったんだよ」
「五十人じゃなくて?」
「……十人以下だって記録を見たことがあるよ。本殿で火事があって、一部焼失しちゃったから建て直しをしたんだ。そのおかげで今の本殿周辺はたった八十年しか経ってないから他より綺麗な建物だろ? 本殿だけじゃなく他の住居も工事業者が入るついでに改装したから」

 確かに。うちって千年前からあるって誰からも言われているのに、老朽化を嘆かれたことはない。
 既に八十年は経っているとはいえ、千年続くものと比べ物にならないほど新しいからなんだ。

「ほら、洋館だってその頃に建てられたんだ」
「洋館?」
「新座くんは行かないか。年に数回お客人が使うだけのお屋敷だもの。使ったって数日間滞在するだけだし」
「……うん、行ったことはないかな。存在はもちろん知っているけど」
「あそこの洋館、ただのゲストハウスにしても気合が入った造りなのは、大正時代に入ってすぐ……当時の流行りを取り入れたとか、何とか」

 僕はあんまりあそこ行かないからよく知らないけど、一昔前のホテルっぽさは醸し出しているのは外観からも見て取れる。
 きっと詳しい人が見たら大層な造りをされているんだろう。

「この隠し部屋だって、地下通路だって、そのときの工事に造られたものだよ」
「……地下通路なんてものもあるんだ」
「あ、そっか。使わないと知らないよね。……仏田寺って山の頂上にあるだろ? 車を置ける場所は石段下の駐車場しかない」
「うん、そうだね」
「ご年配の和光様が外出の際に使われるときの車や、もしものときの救急車はその通路を通る。下から本家屋敷まで直通の道を造ってあるんだ。と言っても舗装されていない、少し大きい車一台が通れるぐらいの歩幅しかないけど。……銀之助様達厨房係も、年末年始の大がかりな仕入れをしなきゃいけないときだけ使うらしい」
「……そうだよね、無いと困るものだ。でもって、普通に外へ出るだけなら必要無いから教えてもらえないか」

 中学生のときまで、どんなに疲れていようが長い長い石段を登り下りして登下校をしなくちゃいけなかった。子供時代はともかく、犬の散歩をするときも日々あの長い階段を登らなきゃならなかった。
 いつだって体力作りとして頑張ってはいたけど、体が衰えたおじいちゃん相手にはそうも言っていられない。直通道路は、いつかどこかのタイミングで用意されなくてはならないものだった。

「はわぁ……その工事が始まったキッカケが、1901年に起きた火事だった気がするよ。でもそれが何か?」

 何でもない、ありがとうと言いながら……今度は書に記されたサインを探す。

 ――魔物を封じた。多くの魔力を……命を使って。

 手記の後半は人が変わったように字が雑になっている。本の半分以上は白紙で終わっていた。
 日記を付けるのをやめてしまった? 違う日誌に書くようになったから? それとも、お年で死んじゃったとか……?
 何があったんだろう、どんな人だろう……凄惨な事実をペン先に込めて伝えてくれている、かつてこの手記を書いた人は。
 この仏田寺で過ごしていた、百年前の魔術師。お宝として眠らされているほど大事に保管されているぐらいだから、きっと高名な人に違いないと名前を探し当てると、そこには筆者の名らしき『光大』と記されていた。
 これは、確か……僕の曽お祖父ちゃんの名前?
 そうだ。和光お祖父ちゃんのお父さんの名前……第六十代仏田家当主の手記だったんだと感づいた。

 ――所変わって。和光おじいちゃんの私室は、本家屋敷の一番奥にある。

 燈雅お兄ちゃんの私室である離れの館のように小屋になっていて、大きなお屋敷とは一本の廊下で繋がれている別館だ。
 その一角だけで活動ができるように、トイレや浴室など全部隣接していて、おじいちゃんは別館から一歩も離れず生活ができる。
 食事も使用人に運ばせているし、体力的にももう『赤紙』で仕事が入ることがないから、気まぐれに外出をしようとしない限り、ずっと隠居生活を送っていた。

 和光おじいちゃんはインドア派だ。活発的に外へ出ることはない。
 趣味と言えばお酒を飲むことと弟の照行おじいちゃんや浅黄おじいちゃんとゲーム(将棋と囲碁が好きらしい)をすることぐらい。数ヶ月別館から出ないこともあったという。
 彼に「運動不足はいけないよ」と口を出せる人はいないので、和光おじいちゃんが外を歩くと言ったら何か問題があったときと言われていた。
 親族会議や会合の際は本殿へ顔を出すことはあっても、最近は年のせいなのか出席率は低い。もう完全に子供の代へ世代交代したと言えば仕方なかった。

 そんなヒキコモリな和光おじいちゃんは難しい性格で、簡単に言えば『気紛れで我儘なお人』だ。
 それでいてお酒が大好きで、お酒に強くないというのだから、マイペースで自由勝手な気性はより悪くなる。事前連絡も無しに客人が訪ねてきたら、相当調子が良いときじゃなきゃ酒瓶を投げつけられるだろう。
 幸い、僕は和光おじいちゃんに気に入られていた。多少の不作法も許してもらえるのは孫の特権。別館へと続く廊下で出会う使用人に「突然の来訪は……」と心配顔をされても、「僕だから平気だよ」と強がって私室へ向かえた。
 もう12月が近い。連日雨続きだった。
 だというのに縁側を開放し、涼しい格好のまま……和光おじいちゃんと照行おじいちゃんはチェスをしている。
 胡坐をかいて座布団の上で台を凝視し合う二人。なのに遊んでいるのは将棋か囲碁じゃない。奪い取った相手の色の駒を、掌の中で握りしめて遊んでいる和光おじいちゃんを見ると……どうやら今は、照行おじいちゃんのターンらしい。

「おじいちゃん達がチェスだなんて、珍しいものをしているね?」

 そっとおじいちゃん達の遊戯に近づき、膝をつく。
 アポなんて取ってなかったけど、『廊下を歩く足音だけで何者かが来るか判っていた』和光おじいちゃんは、自然に僕を受け入れてくれた。
 どうやら機嫌は悪くない日だ。

「珍しくはないぞ。照行とは、遊んでやることも少なくない」

 そういや照行おじいちゃんは新しい物好きで、外の物が好きな人だったっけ。
 和光おじいちゃんに比べて外出が好きだし、お土産を人に振る舞うこともある社交的な人だ。その照行おじいちゃんの趣味の一つにチェスがあってもおかしくないし、ボードゲームが好きな和光おじいちゃんが弟の趣味に付き合うのも変な話じゃない。
 僕はチェスの知識はあまり無いが、おじいちゃんが黒、照行おじいちゃんが白なのを見ると、色だけで言うなら黒が多かった。全体的に黒の和光おじいちゃんは前のめりで、全軍が波のように敵へと押し寄せているような陣形だ。自由奔放で我が強い和光おじいちゃんらしいと言えなくもない。
 一方、そんな兄を持った弟の照行おじいちゃんは慎重だ。駒の数は負けてはいるが、主力は全て残っている。和光おじいちゃんがトリッキーな動きさえ見せなければ勝者は……と思わせるぐらいの用心深さが伺えた。
 尚且つ、台を挟んで座る二人の表情も、とてもらしいものだった。

 にまにまと楽しげに駒を弄っている和光おじいちゃんと、無骨そうに睨みつけている(決して不機嫌という訳ではない。現状を楽しんでいるのは雰囲気で伝わる)照行おじいちゃんは、いつも通りの二人とも言える。
 年子の兄弟で、喧嘩もするけどお互いを誰よりも理解し合っていそうな仲良しのおじいちゃん二人。縁側を閉めることも忘れて戦いに没頭していた。

「なんじゃ、今日はジジイの肩を叩きにきてくれたのか」
「むぐ、肩叩きしてほしいんだったらするよ。……教えてほしい魔術のことがあったから大先輩である和光おじいちゃんに訊こうかなって思ったんだ」

 言いながら、和光おじいちゃんの背後にまわってポンポンとマッサージをし始める。
 今は照行おじいちゃんが考えているターンなので、和光おじいちゃんは悠々と待っていた。孫とのスキンシップをしていても何の問題は無いと、喜んで僕に為されるが儘になった。
 気持ち良さそうに首を傾げたり、項垂れたり、背伸びをしたり。
 良かった、今日は本当に機嫌が良い日らしい。

「時折下男に体を揉ませるのだがな、やはり新座にやらせるのが一番だ」
「これはこれは、もったいなきお言葉ですねぇー。僕で良ければいつだってポンポンするよ!」
「おうおう、可愛いことを言ってくれるな。そのくせ貴様、寺を出たではないか。いつ呼んでもすぐ来られんだろう?」
「……むぐ。その通りでした。でも、頻繁にこうして帰省しているんだし、その都度マッサージに来たっていいんだよ」

 少しだけ力を込めて両手でトントンッと語を強調させる。あっはっはって大きくおじいちゃんが笑った。

「頻繁に帰っておるのか、それは嬉しい限りだ。じゃあ何故外に出た? 出る必要があった? 元々新座はこの寺に居るべき大切な儂の孫だというのに。そう頻繁に戻っているというなら、ここでずっと出なければ良かろう」

 まったくもってその通りなことを、おじいちゃんは言っている。
 よく帰ってきているのなら、もうここで延々と生きていればいい。そうあるべきだし、それを皆が認める場所なんだから。
 現に……外に出たんだからと意地でも(狭山さんに強くお叱りを受けない限り)帰らないと決めた『世界』もあった。僕にとって『第一の世界』では、数える程度しか仏田寺に戻らなかった。
 初めて外で暮らし始めたときは怖かったけど、それ以上の喜びや楽しみがたくさんあったから。
 でも、『前回』や『今回の世界』は違う。
 いっぱい仏田寺に帰ってきて、色んなことを調べている。『教会』という外で生活していることは変わらなくても、以前の僕よりはずっと実家で過ごしていた。

 ……いっそここで寝泊まりして全てを探った方が効率的なのでは? そう思ったこともある。
 二十年以上僕は仏田寺で過ごしていたんだから、それを再開させたっていいんじゃ……?
 思うけど、それでも一番最初の気持ちも忘れられなくて、ズルズルと今に至る。
 ずっと内側に篭りきっていた方がラクでも、それでも外に行こうと思ってしまうのは……僕が外の生活を気に入っているからに他ならなかった。

 曖昧に笑って、和光おじいちゃんの言葉を避ける。
 肩ポンポンの速度を上げれば、おじいちゃんは気持ち良い声を出して会話を区切った。
 すると照行おじいちゃんがススッと白のビショップを滑らかに動かして、突き進んでいた黒ポーンを取る。

「新座くんは兄者と違って儂寄りなんだ。まだ若いんだから爺様の体といっしょにされては困るだろう。なぁ?」

 何か考えがあって総攻撃のように進んでいたポーンが邪魔だったらしい、排除してさて和光おじいちゃんのターン……と思った瞬間、和光おじいちゃんは違う黒ポーンを一歩前進させた。
 その間、五秒。
 そうして照行おじいちゃんの長いターンが始まる。
 僕にはチェスの奥深さが判らないし、戦況がどうなのかも説明できない。
 でも即決でどんどんと駒を進める和光おじいちゃんと、慎重に駒と未来を読もうとしている照行おじいちゃんらしい進め方なんだろうと、素人目に眺めてしまった。

「で。新座は何を知りたい?」

 ポンポンと肩を叩く動きから、指で揉みしだくものへと変える。
 照行おじいちゃんのターンが終わるのはきっと時間が掛かる。それまでの暇潰しだというかのように、上機嫌な声だった。

「……すっごく強い敵の、動きを止める魔術が教わりたいんだ」

 ふむ、と頷くおじいちゃん。その一言の中には「何故そんなものを学びたい?」と言いたそうな心が見え隠れしていた。
 あまりに具体的な注文だからだっただろう、もし僕も同じことを他人から言われたら少しだけ驚くかもしれない。

「新座よ。眠らせるもの、体を石にさせるもの、縛りつけるもの、大いにあろう。その程度の術、いくらでも教えてもらえたのではないか」
「むぐ、知ってる。教えてくれる人もいっぱいいる。でもね、『すっごく強い敵を』縛りつける魔術が知りたいんだ」

 そんな大それた必殺技は、とっても強い大魔術師であるおじいちゃんじゃなきゃ無理でしょう?
 まるで悪代官が手揉みをするようにそっと囁く。実際、肩を手で揉みながらなので字面としては間違っていなかった。

「でね、これでも僕なりに一生懸命調べてみたんだよ。そういうすごーい魔法が載っている魔導書がないかなって」
「勉強熱心だな、良いことだ」
「お友達のおかげで見つかったよ。でもそれ、ちょっと僕には難しくって。本で読んでそう思っちゃったから今度は知っていそうなおじいちゃんに教えてもらえないかなーって……。だって難しいの、嫌だし」
「新座は、程良く卑怯者だの」

 効率良くお勉強をしたいだけだ。一から独学で時間を掛けてやるよりも効果的に思えるじゃないか。
 言いかけて、みすぼらしい言い訳だなと思い直し、ここでも曖昧に笑っておく。

「なら、せっかく見つけたという魔術を教えてやろう。教材があった方がお前も復習しやすかろう?」
「わあ、おじいちゃんありがとう! 大好き! で、これなんだけど……」

 言って、先ほど鶴瀬くんが見せてくれた書物の一つを取り出す。
 ブックマーカーを挟んでいたそのページは、例の百年前の実例の記録だ。魔導書とか書物だなんて体裁が整った本のように言ったけど、実際は百年ほど前の人が綴った日記のようなもの。
 僕に背中からハイッと渡された手記を受け取った和光おじいちゃんは、栞が挟まれたページに目を通していく。

 瞬間、目の前に座る照行おじいちゃんの顔つきが変わった。

 チェス盤を睨みつける顔ではなくなる。書物に視線を向ける和光おじいちゃんを……目を見開いて見つめている。
 驚いている? 和光おじいちゃんに? いや、その突然の反応からして驚愕の対象は……どう考えても手記にだ。
 そりゃあ、隠されていた書物を持ってきたんだ。「どうして新座が持っている?」と思われても仕方ない。驚いて戸惑いの表情を浮かべる照行おじいちゃんに、咄嗟に「ちゃんと後で返しておくから!」と言葉を続けた。

 途端、和光おじいちゃんが立ち上がる。

 俊敏な動きなんて数年前に捨ててしまった体だ。だというのにいきなり立ち上がって、眩暈でも起こすんじゃないかと心配しちゃうぐらい、ガタタッと素早い動き。
 肩を揉んでいた僕も軽くバランスを崩して目をパチクリさせてしまう。どうしたの、と声を掛ける前に、持っていた手記をチェス盤に投げつけた。

「不愉快だ。酒を飲む」

 当然チェスの上に居た駒達はガシャンと散り散りになる。
 複雑な配置をされていたそれを完全に記憶していることなんてできないので、滅茶苦茶にされた台の上は復旧不可能。今日のゲームは強制終了になった。
 ズカズカと部屋を出て行く和光おじいちゃんを慌てて追いかけようとする。が、照行おじいちゃんは「行くな」と静かな声で僕を止めた。

 廊下近くに配置された使用人の待機部屋に向かった和光おじいちゃん。いつでもおじいちゃんの要望に応えるべく二人ほどの使用人が居るそこに行けば、たとえ飲み過ぎでも二日酔いでも酒を用意してもらえるという。
 和光おじいちゃんの命令はこの寺では絶対なのですぐにお酒が用意される。いきなりの不機嫌モードだ、一分以内に飲ませられなかったらきっと今夜は雷雨になる。すぐにご要望通りの物を用意できる使用人さんが待機していると良いけど……。

「新座、今からでも覚えておけ。兄者は父上のことが大嫌いなのだ」
「え……?」

 台の下へ転がったチェスの駒を拾いながら、照行おじいちゃんがハッキリと言う。
 丁寧に駒を一つ一つあるべき場所へと収納していくのを、思わず呆然と見つめてしまった。その声にハッとして、慌てて片付けを手伝う。

「『光大』って、おじいちゃん達のお父さんなんだよね? そんなに自分のお父さんのこと……嫌いだったの?」
「ああ。……新座、その日誌は目につかぬようにしていた物ではないか」
「むぐ。そうだけど」
「単なる日記が隠されている理由は何か、考えなかったか」

 ……『とっても凄い魔術が記されているから』、だけではないのか。

「普通はそう思うか。まあ、保管されている理由はそれだな。……単に兄者の目に届かぬようにしたかっただけだよ。儂がな」
「むぐ? 照行おじいちゃんがこれを隠したってこと?」

 ああ、と頷きながらチェスを片付け終える。
 大量生産の玩具ではなさそうなご立派な彫刻の箱に入った、ご立派なチェス盤だ。骨董品として価値がありそうな、海外のインテリア好きな照行おじいちゃんが好きそうな物に見える。
 その骨董品を粗末に扱われて、照行おじいちゃんは怒りを口にしないまでもちょっとだけ、への字な口になっていた。

「えっと。和光おじいちゃんはひいおじいちゃんのこと、そんなに嫌いだったの?」
「ああ。名前を聞きたくないぐらい、見たくもないぐらいに」
「それほど?」
「自分で殺してしまうぐらいにな」

 仏田家の当主は、一族全員に力を行使できる。頂点なのだから、下の者に指図を出来るのは当たり前な話。
 それは親子関係でも変わらなくて、かつて仏田家の頂点だったひいおじいちゃんでも、和光おじいちゃんがトップになってしまえば従わなければならなくなる。
 ……死ねと言えば殺すことだってできる。だから追放とか、ちょっと黙らせるとか……その程度のことをしたんだと思いたい。

「言葉通りの意味だ。当時当主だった兄者は、下僕だった父を殺した。不要だったからな。新座、それほど驚くことか?」
「……本当に……自分のお父さんを殺したの? ……そういうことが出来るぐらい当主が偉いって知っているけど、実際していたなんて思いたくないよ。その、たとえ今と時代が違っていたとしても」
「昔も今も変わらんだろう。表に出ていないだけで」
「……光緑お父さんは、していないよ」
「そりゃあ、光緑はな。あいつが目覚めて動いている方が珍しかろう。近頃は病床の浅黄のように寝込んでいるじゃあないか。その代わりに、うちの狭山が頑張っておる」

 現当主は、光緑お父さんだ。
 でも一年の大半をお布団の上で過ごすお父さんに代わって、表の住職の顔は松山さんが、裏の仏田を担う責任者は狭山さん達数人が分担して行なっている。
 ……ということは、お父さんのことじゃないから僕の耳に届かないだけで、今でも殺すとか殺させるとかやっているってこと……?

「父殺しはな、兄者の当主としての初仕事だったんだ」
「……え、えっと? どういうこと? ひいおじいちゃんは怨霊にでも取り憑かれていたの? それを狩ったとか?」
「そうであったと思いたい」

 疲れを押し出すような息遣い。照行おじいちゃんにも息苦しい話題らしく、溜息が長く尾を引いていた。

「噛み砕いて言ってしまえば、光大は鬼畜でな」
「……はあ」
「人間の悪を集約したような男だった。兄者も我儘三昧だと皆の頭を抱えさせているだろうが、あんなもの比べ物にもならない。兄者は内に篭っている以上、他人に迷惑を掛けない。たとえ酒を浴びるように飲んでお前を心配させても、それだけだ。新座を酒漬けにはせんだろ」

 うん、お酒を勧められることはいっぱいあった。でも口に無理矢理瓶を突っ込まれることはない。
 そしてその話ぶりだと、ひいおじいちゃんはそういうことをする人のようだ。

「その程度は生易しいもんだがな。逆さ吊り、水責め、石抱き、塩責め、鞭打ち。ありがちな仕置きに思えるか? それを日常的に楽しんでいる男だった。……兄者が将棋なり何なりに毎日浸かっているように、あの男は拷問を好いていた。人間の悲鳴を愛するという……異端のような男だった」
「……う……」
「充分息子の我らの恨みを買う理由にはなる。兄者が殺していなければ、儂がやっておったよ。せっかくできた友人を数人、嬲り殺されたこともあるからな。……未だに恨みは晴れん。死んで清々した今でも、思い出しては腸が煮え繰り返りそうになる」

 直球な負の感情を、全身で受け取る。
 照行おじいちゃんは厳格で怖い人だ。武術の師として色んな子達を教育してきた彼は怖い先生として過ごしているので、その厳しいイメージが先行してしまう。
 でも今感じる「怖い」は、別物。
 一メートルしか離れていない僕に、剥き出しの悪意をぶつけてくる。速球を投げつけているつもりはないだろうが、思わず悪口が止まらなくなるほど……照行おじいちゃんにとってひいおじいちゃんの存在は、忌々しいものだと物語っていた。

「おじいちゃん達は、ひいおじいちゃんに……苛められたの?」
「ああ」

 即答。
 気味が悪くなって、話題を逸らしたい。このまま悪意を受け取り過ぎたら僕の身も危うくなりそうだったからだ。
 魔術のことはおいといてと前置きをする。けれど、

「儂は跡継ぎでもなんでもない次男だからな、直接的な被害は少ない。せいぜい気紛れに爪を剥がされた程度だ。だが兄者は、教育だ何だという名目で散々弄ばれた」

 恨み節は止まらずエスカレートしていく。
 ストップと声を掛けても抑えきれないぐらい、照行おじいちゃんの中で大きく消えない爆弾だったようだ。

「そうだ、兄者は何度も何度も殺されかけていた。周囲に『次期当主を大事にしろ』と叱られてもな、それならと他の者共が見えない場所で甚振るんだ。内臓すべてを引き抜かれたこともあったそうだぞ、首を切られかけたこともあったそうだ。一晩かけて体中にナイフを刺され、卑猥な言葉を刻みこまれたこともあったし、穴という穴に棒を詰められたこともあった。……たとえ傷付けたとしても、『後で癒すから構うな』と言い放ちながら」

 夢に出てきそうなぐらい不気味な告白に、照行おじいちゃんを直視できなくなっていく。
 事実をわざと僕に聞かせて、鬱憤を晴らしたいんだろう。言葉は止まらない。

「中でも兄者が一番堪えたのは、自分に親しくしてくれていた女中に手を出されそうになったときだ。あのときの兄者は……もう、見ていられなかった。あそこまで激昂した兄者を見たのは初めてだったし、あれ以後一度も見たことがない」
「手を出された、って……」
「手を出されそうになった、だな。実際は出されていない。兄者も男だ、気に入った女ぐらいはいたんだよ。……兄者の姉だった」

 女がいない仏田で、姉? 違和感のある物言いについ小首を傾げてしまう。

「姉のような存在、だった。……清子がいるだろう、あいつと同じハトコでな。五十六代目仏田家当主の次男坊の曾孫が清子、三男坊の家に生まれたのがその女中だった」

 ……ちなみに、光緑お父さんが六十一代目当主。和光おじいちゃんが六十代目、ひいおじいちゃんは五十九代目になる。
 清子おばあちゃんは仏田家唯一の女子と言われてはいるけど、こう考えてみると……五代も前の縁の人の分家って、今の中心が光緑お父さんだって考えたら相当遠い血に思えてくる。当時当主だった和光おじいちゃんからしても、清子おばあちゃんは六親等……七親等ぐらい離れているのか? 一旦、家系図でまとめてみないと混乱しそうだ。

「血は薄くても仏田の血を引く者の娘。清子同様、一門に歓迎された女だった。儂らと年も近くてな、兄者より二つ上だったか。活発な人で、幼い頃は兄者と遊んでいた」
「照行おじいちゃんとも?」
「……ああ、儂ともよく遊んでくれた。儂は『姉さん』って慕っていたよ。仏田寺で女中として働いてはいたが、薄くても同じ血が流れていると思うと親近感が湧くもんだ。それに明るくて優しい人だったからな、我らは誰よりも懐いていた」
「へえ、すっごく良い人だったんだ」
「そんな大事な人にすら、父は平気で手を出そうとした」
「…………」
「我々が姉として慕っていると知っていながら、たとえ縁が遠くても貴重な仏田の血を引く女だと判っていながら。兄者を甚振る恰好の的として姉さんを使おうとした。……毒牙の餌食になる前に、兄者は彼女を救ったよ。一族に仕える契約を何が何でも切らせて、金を握らせて出て行かせた。どれだけ一族に従ずる契約が面倒か新座だって知っているだろう? それを断ち切らせることだって七面倒だ。……そんなこと言っている場合じゃなかった。子供の頃……物心ついたときから世話をしてくれていた存在を、父のふざけた娯楽に使われたくなかったからな!」

 鶴瀬くんが、先日仏田家に忠誠を誓う『血の契約』を結んだ。
 彼もあまり表には出していないが、血の滲むような努力があったらしい。
 あくまで僕は鶴瀬くんの茶化した苦労話を聞いただけなので、実感は無い。だが本契約が行なわれるまでに半年が掛かるんだ。契約を切るのが一瞬だとは思えない。
 それに、結社である以上、外に口外してはならないものはたくさんある筈だ。持って行ってはならないもの、失わなきゃならないもの、忘れなきゃいけないもの……いっぱい確認しなきゃいけない、と思う。
 ……女性を一人、寺から追い出すのは一苦労だったんじゃないか。照行おじいちゃんの憎々し気な語り口から、重々感じ取れた。

 それからも恨み節は長く続いた。
 五分続いて、十分続いて、照行おじいちゃんの喉が涸れ始めて……ようやく落ち着いた。
 あんまり悪口を言うような人じゃないと思っていたけど、ひいおじいちゃんに関しては例外らしい。それ以上穿るようなことは僕も言わなかった。
 そして十五分が経っても和光おじいちゃんは戻ってこない。……きっと違う部屋で、一人で飲み始めてしまったんだ。
 暫く地雷原を持ち出してきた僕とも顔を合わせてくれないだろう。一度機嫌を損ねると可愛がってもらっている孫ですら口をきいてくれない人だから。

「……兄者が自由に生きているのは、間違いなく父上のせいだろうな」

 話を続けたくはないだろうに、それでもまだ照行おじいちゃんはポツリとひいおじいちゃんの話を続ける。

「……どうして?」
「兄者は父上のせいで何も出来なかった。させてもらえなかった。何から何まで縛りつけるような人だったからな。……今も遊び呆けているのは、その反動だ。儂も同じものだが」
「むぐ? 同じなの?」

 ハッと鼻で笑って、ご立派なチェス箱を胸に抱いてみせる。笑ってはいても不機嫌さは拭い切れてなかった。

「閉じ込めるのがお好きな人だったからな、反動なのか自分でも判らんが外に出たくてたまらんかったよ。清子は『あまり外の物を持ってくるな』と言うが、趣味なのだから勘弁してもらいたいものだ」
「むぐっ、やっぱり照行おじいちゃんの趣味ってそれなんだ!」

 昔、銀之助さんから聞いた。『洋館の家具を仕入れたのは全部照行おじいちゃん』なんだって。
 年に数人訪れるかのゲストハウスを建てたのは百年前の人達でも、その部屋に置かれている調度品を選んだのは彼。
 そういえば照行おじいちゃんの背後に積み重ねられた物に目をやると、海外メーカーの家具や外車、時計のカタログだ。座っている席の位置からして和光おじいちゃんの暇潰しではなく、照行おじいちゃんのものだと思っていい。
 ……ときわくんは確か洋館が好きでよく行くって言ってたっけ。使われていない豪華絢爛な家具や食器が好きでよく眺めていると話していたけど、あれって照行おじいちゃんの趣味なんだよって教えたらどんな反応をするかな?

「照行おじいちゃん。今度機会があったら、ときわくんとお話をしてやるといいよ」
「藤春くんの長男と? どうしてまた」

 そう言うってことは、一度もこの手の話をしたことはないのか。
 ならこれから話が合うだろう。もし今の洋館があるのは照行おじいちゃんのおかげなんだよって教えたら、驚いて感謝しまくるに違いない。

「照行おじいちゃんが集めた食器を使うのが大好きな男の子なんだよ。『誰も使っていないのにどうしてこんなに揃ってるんだ』って不思議そうにしていたからね、教えてあげた方がいいんじゃないかな?」
「今は長く人を住まわせている奴がおる。食器はそいつのために用意させたもんだが……藤春の子が使っておったのか。別に構わんが、不思議なこともあるもんだの」

 ほう、と感心して微笑むおじいちゃん。
 この一言で二人が同志として語り合って楽しい時間を過ごせるのなら、僕はもしやキューピットになったのでは……。

 ――――って、長く人を住まわせている?

 洋館は、ゲストハウス。鶴瀬くんも言っていた。『年に数回お客人が使うだけのお屋敷だもの。使ったって数日間滞在するだけだし』と。

「……長く住んでいる人がいるの?」
「儂が贔屓にしている外国の家具屋があってな。あまりに贔屓にしていたら、そこの社長の息子を預かることになった。能力者でもなんでもないんだが、『語学留学として下宿先を探している。一年だけでいいので住まわせてくれ』と頭を下げられた。どうせ部屋は余っているんだ。断る理由も無かろう?」

 そう言われれば確かに。
 お外にいっぱい出たかった照行おじいちゃんが作り上げた友人関係に、何も文句を言う必要は……。

「なによそれ、今までそんなの……!?」
「っ!?」

 突如。ずっと僕の隣で話を聞いていた『小さな彼女』が声を荒げた。

 女の子特有の甲高い声。
 僕に届いただけで、彼女を知覚することができない照行おじいちゃんは無反応。だから僕一人がドッキリ跳び上がってしまう。
 照行おじいちゃんに不審に思われないように、彼女に振り向いて……何があったか目で訴える。
 彼女は、理解に苦しむような顔をしていた。何か不都合なことがあったのか、異常事態にぶち当たったのか、それすら僕には判らないけど……。今までに無かったことに慌てて、頭の中を整理しているような表情だった。

「え、えっと。むぐっ、そうだ! 照行おじいちゃんはこの大魔術のこと教えてくれる!?」
「儂は魔術が苦手だ。別をあたれ」
「そ、そっか! じゃあ別の人に突撃してくる! じゃあね!」

 書物を忘れず手に取って、ついでに彼女の手もこっそり繋ぎおじいちゃん達の部屋を出る。
 ……廊下を渡る前に、おじいちゃんが一人でお酒を煽っている姿を確認。やっぱりなんとも言えない顔で、一人ぼっちで飲んでいた。
 声を掛けるのも怖い雰囲気に後ずさりしながら、別館を抜けていく。

「……聖剣、どうしたの!? 何か大変なことでもあった?」

 誰も居ない廊下でようやく彼女に声を掛けた。先程の慌てっぷりは消失していたけど、複雑そうな表情からは脱していない。

「えっとぉ……僕には話せないこと?」

 百センチぐらいしかない小さな体に目線を合わせるため、屈む。

「話したら不都合が生じること? それとも、僕を助けてくれるヒントになりうる?」

 話しにくいことなら訊かない方が良い。でもあんな反応をされたら気にならないものでも気になってしまうもの。
 向かい合って設問したら怖がらせているようで気分は乗らない。けど、何より彼女の顔色が心配だ。ついつい言葉を引き出させるように見つめ合ってしまう。

「……世界は、どうでもいいことなら簡単に変わってしまうものなの」

 静かに、慎重に小さな唇が動き始める。

「うん、君がいつも教えてくれている言葉だね」
「細やかな積み重ねが大きな変化を生み出す。何らおかしなことではないわ」
「うん、うん。それが何?」
「……新座。貴方は三兄弟?」
「むぐ? そうだよ、僕と志朗お兄ちゃんと燈雅お兄ちゃんで三兄弟だよ」
「もし四兄弟なのよってまさに今言われたら信じられる?」
「はあ? 無理かな。だって実感が湧かないし」

 とは言っても、緋馬くんみたいに突然火刃里くんと尋夢くんという弟がいきなりできたケースもある。
 緋馬くんの場合、『三兄弟が当然な中で一人っ子だった』からの『実は三兄弟でした』だったので許容はできた。けど、全員が成人しきった僕ら三兄弟に実は四人目が……は、流石に驚いちゃうだろう。

「そういう驚きが、今の私にはあったのよ」
「えっ。……な、なにそれ。凄く気になることだよ!? 家族がいきなり一人増えたって重大事件じゃん!?」
「重大よ、重大事件でしょう。……『血の契約』に数ヶ月も掛かるこの仏田家に、そう簡単に一緒に暮らせる家族が増やせる訳がないじゃない! 何を言っているの、あの照行って男は!」



 ――2005年12月27日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /4

 片付けられた筈の離れの私室で、燈雅様はお目覚めになった。
 雑多な物など何一つも無い彼の自室は、仏田家の次期当主でありながら小ぢんまりとして地味な和室だ。
 私物という私物は無い。昨日までは辛うじて読みかけの魔導書が何冊か机の上にあったが、それも片付けられてしまった。
 当主継承の儀式の準備にあたって、燈雅様は暫くこの小さな和室に戻ってこない。継承の儀を終えた彼はそのまま当主として君臨するため、光緑様ら歴代の心臓達と同じように本殿で過ごすようになる。……その予定だった。

 しかし今日も燈雅様は自室で布団を敷いて眠っておられた。
 継承の儀には膨大な魔力と、それを踏み越えるための体力が必要だ。
 それが足りなかった。
 ……継承の儀が行なわれる前に、燈雅様が熱を出されて延期することになったという。

「……男衾、何か飲み物をくれるか」
「こちらにご用意がございます」

 魔術に疎い俺は、儀式というものがどのように行なわれるのか知らないため、全部梓丸から聞いたに過ぎない。
 燈雅様は身を浄め終わり、衣装も着替え、準備が出来ていた。継承の際に必要な呪文も、儀式に臨む心も万全だった。
 だが、体が追いつかなかった。
 他は全て整っていたというが、涼しい本殿の廊下で倒れてしまった燈雅様の顔は赤く、苦しげに体を抑えて辛抱していたらしく、

「そんな軟弱な体に当主が務まるものか。明日までに整えておくように」

 見かねた狭山の落胆が告げられ、儀式の延期が決定された。
 本殿の一室に預けられる筈だったが、梓丸の「落ち着いたお部屋での療養が一番」という提案で、彼は再び離れの私室へ帰ってきた。
 片付けられて何も無くなる予定だった部屋が、未だに飾り気のない燈雅様の部屋のまま生きている。
 何もかも掃き出さなくて良かったと思うべきか。戻ってくるべきではなかったのにと思うべきか。

 俺の正直な心を吐き出せば、再び燈雅様に会えて嬉しい。
 燈雅様が燈雅様であるうちの再会。仏田を担う当主になる前の、心臓の破片になる前にもう一度こうして……使用人の姿ができるなんて、ほっとしていた。
 そんな心とは裏腹に、燈雅様は辛そうに体を起こして湯呑を受け取る。
 俺が上体を支えて飲ませてあげなければいけないほど怠そうに、沈痛な面持ち。嬉しがっているなんて不謹慎で無礼にも程がある。それほど彼は思い詰めた表情だった。

 そんな彼を俺が凝視してしまっていたからだろう。俺の視線に気付いた燈雅様は、咄嗟に唇を歪ませる。
 歪つでも俺を気遣うように笑ってみせた。

「燈雅様、今すぐ食事をご用意させますのでお待ちを」
「……そうだな。いや、行くな。男衾は行かなくていい。……来てくれるから」
「えっ」
「誰か、離れにやって来る足音が聞こえる。男衾が呼びに行くまでもない」

 たとえ熱で浮かされていても変わらない鋭い聴覚。俺も人より五感が優れているが、燈雅様の耳ほどではない。
 そうしていると、何者か複数の足がこの離れの屋敷に近づくにつれ砂利を踏みしめる音が聞こえてくる。常人には聞こえないレベルだった。

「燈雅様は、本当に耳が良いのですね」
「ああ、男衾よりも良いなんて相当だろ? 仏田の直系は、みんな耳が良いそうだ」
「そうなのですか」
「親父やお祖父様もそうだし、柳翠様も良かった。新座もそうだった。色んな声や音を聞いてしまうんだ」
「……それは、耳が良いのではなく……」

 ――無い声を聞く。心の声を聞く。魂の声を聞く。星の声を聞く。神の声を聞く……。
 仏田が求めている、全知全能の力のことではないか。

「どうやらオレも聞こえる一人らしい。とは言っても、オレは新座や柳翠様と違って心の声なんて聞こえないし、植物や石の声なんて知らない。せいぜい遠くの音が聞こえたり、音を聞き分ける能力に長けているだけだ。人によっては絶対音感があるらしいぞ」
「絶対音感、ですか」
「あっ、何なのかよく判ってない顔だな男衾……ごほ」

 とぼけた俺の顔を笑おうとした燈雅様が、咳込む。
 体を支え、薄い背中を撫でた。
 熱を出して倒れたからここへ運ばれてきたというのに、体は汗をかいていてもひんやりと冷たくなっていた。

「汗で冷えてしまったのかもしれませんね。燈雅様、体を一度拭きましょう」
「……食事が終わってからでもいいかな? 先に栄養を摂りたい。じゃなきゃ体も動かせない」
「そうですね、そうしましょう。燈雅様、食欲はありますか?」

 着物は脱がせないまでも、せめて肌を晒しているところだけでもと俺は濡れた手拭いで燈雅様の首をなぞる。
 先程までシーツの上で乱れていた長い黒髪が、しっとりと肌に貼りついていた。
 見た限り熱は下がっているし、汗をかいている。少し調子が戻ってきたのではないか……医者でも何でもない俺でも安堵した。

「固形物は入るか判らないが、何かを飲みたいな」

 一晩のうちに体調を整えて、明日には再度継承の儀に臨まなければならない。時間は無い。なにせ、現当主の光緑様の様態が悪化しているから儀式が早まったのだ。光緑様がご存命のうちに継承の儀を終えなければ。
 その逸る気持ちは周囲に、また、燈雅様にも重く圧し掛かっている筈だ。
 こんなところで笑い合っている場合じゃない。
 食欲があるか、汗を拭くか、なんて……何気ない会話。毎日彼と交わした、使用人と主としての語らい。今度こそ彼が彼として生きる最期の時間かもしれない。でも昨日や一昨日と変わらぬこの会話が、とても嬉しかった。

「はぁ。お邪魔させていただきますよ、燈雅様」
「航先生?」

 てっきり食事を持ってきたのは梓丸で、もう一人の足音は燈雅様の主治医シンリンだと思っていた。
 しかしその姿はシンリンと似通ってはいるが、一段と年老いたもの。
 薄汚れた白衣のままの航先生は、どう見ても給仕ではないし料理を持ってきてもいない。

 その代わりに……一人の青年を連れてきていた。
 餌の青年を。
 確かに食事には丁度良い。体力も魔力も足りない燈雅様にとって都合の良い餌である。理解できる。今までも何回もこの経験はあった。
 だが燈雅様と揃って苦い顔をしてしまった。

「……航先生がわざわざこちらにいらっしゃるとは思いませんでしたよ。どうも、先ほどはご迷惑をお掛けしました」
「ふぅ、燈雅様の様態を見るのなら儀を施行させてもらう私が一番だと狭山様に言われまして。まったくその通りだと参上しました。……ほぅ。ほら、ブリジット。服を脱ぎなさい」

 航先生の背後に控えていた青年は、名を呼ばれるなり静かに羽織っていた上着を剥ぎ始める。
 一枚掛けていただけの上着の下には何も身につけていない。剥き出しの白い肌が晒された。

「『吸血』が一番手っ取り早く生命力を満たす方法ですからね。新座様にお声が掛けられたら良かったのですが、単純に体力を回復するだけならこの餌の血が好ましい」
「……そうでしょうか、血を吸うのは……それ事態に体力がいるのですよ。歯を肉に突き立てなければいけませんしね、暫く飲まないとコツを忘れるほどですし」
「ほぅ? たびたび新座様の血を飲んでいらっしゃられたのでは? 梓丸から聞いておりますよ。それに、ふぅ……前にもこの子の血を飲んだことはありましたよね?」
「……ええ、まあ」
「なら説明する必要など無いでしょう。この子と彼の弟の体液に宿る魔力濃度は、常人より優れています。それこそ、新座様と同等、それ以上かと。しかも新座様と同じように燈雅様との相性が良いことが実証済みです」
「……そうですね、そうでした」
「だから、目一杯どうぞ」

 体液を交換する魔力供給とは違う、一方的に奪い取るだけの行為があれば確かに燈雅様の体調は改善するだろう。
 お互いの熱で満たし合い、相互連結のスイッチを入れる今まで通りの『供給』は、その最中に意識を保たなければならない。だが奪い取る『吸生』や『吸血』は、問答無用で相手の熱を自分のものとする。
 耐えきれなくなった際に燈雅様は新座様や光緑様の血を舐めていた。時折見かける行為ではある。
 だが、その……人とは思えぬ暴力的な醜行を、好む者は少ない。
 血を吸い、肉を食らうなんて異端のような化け物がしていることじゃないか。
 とは思っても、元々仏田家は『他者を肉体に取り込むこと』が得意な血族だった。聯合した者達の肉を食らって俺も力を得ている。分家筋で血の薄い俺ですらそうなのだから、直系の燈雅様はより良く血肉を己のもとへと変換させることができるんじゃないか……。

 しかしそれでも、気は乗らないもの。
 人を文字通り食らう汚行に燈雅様は暫し黙りこくっていたが、けれどもこの現状を打開しなければならないと理解していた。
 拒絶できるほど、今の燈雅様は強くなかった。

 高い魔力を把持した青年が、燈雅様の前で肌を晒す。
 躊躇いながらも意を決していた燈雅様は、何度か青年の首筋に舌を這わせた後……プツリと歯で皮膚を食い破った。
 新座様としたときのような、指先を切ってなどではない。血が通う首元に穴を空けて、どくどくと流れ落ちていくものを喉へと運ぶ。
 青年が痛みで顔を歪める。だが唇を噛み締めて、吸われていく感覚に耐えていた。
 始めは躊躇していた燈雅様だったが、口にしてしまえば後は体内へと流し込むだけ。
 そういえば、何か飲みたいとさっき言っていた。本当に欲しかったのは水なんかじゃなくて、自分の体を保つ体液そのものだったのか。

「は……はぁっ……んぅ……」

 青年の首筋から一旦口を離すが、夢中でご馳走を頬張るかのようにすぐに唇を寄せた。
 プツリ、グチリとまた破ける音がする。青年の顔が激痛によって歪んでいく。それでも悲鳴一つ上げない。ぐっと拳を握って堪えていた。
 ……そんな顔を見せるものだから、一心不乱に血を飲み干していた燈雅様の動きが止まる。
 人間の沙汰では思えない、生きたまま人を喰らう悪行……罪悪感に苛まれて彼は動けなくなってしまう。

「はぁ。燈雅様、貴方それでよろしいのですか」

 苦しませているという罪の意識が、血を飲めなくしている。
それを承知だろうに、航先生はすかさずけしかけるように言葉を吐く。

「これは以前貴方も納得されていた、効率の良い方法です。燈雅様には一刻も早く回復してもらわなければなりません。でなければ、光緑様のご容態が……」
「……判って、ます。航先生、失礼しました……。今は深呼吸、していたところですよ」
「はぁ、それでしたら良いのです。それに、彼は元より餌として仏田に連れてこられた者です。食べるために調理しておいたものなんですから、食している貴方が罪を抱く必要など無い。食用として飼っていた家畜に今更何を……」

 事実だ。だが心無い言葉だ。
 燈雅様は航先生の言葉に曖昧な笑みを浮かべながら、再び青年の肌へ口付けを始める。
 長い食事だった。航先生の言葉を振りきるように燈雅様は、青年がピクリとも動かなくなるほど懸命に血を飲み干していく。
 その青年には航先生の手によって治療魔術がかけられる。止血と、とりあえず意識を取り戻させて部屋を出て行かせるぐらいの処置を終えた。
 その頃には燈雅様の血色は良くなってはいた。顔色が良くなったのが目に見えて判る。このまま一休みすれば望まれたコンディションに……。

「ふぅ……そのですね、実は燈雅様」

 なれるのでは、と思ったとき。
 青年を先に部屋から出させた航先生は、診断を終えて彼もまた去っていく前に、足を止める。

「はぁ、本当は……『燈雅様への供給はいらない』というのが、私の考えなんですよ」
「……は?」

 そう声を大に聞き返してしまったのは、燈雅様ではなく俺の方だった。

「それは、どういう意味でしょうか?」

 口元を拭き、少しだけ汚れてしまった着物を着換えようとしていた燈雅様が、真相を確かめる。
 だが航先生は真相まで口にしない。ははは、と涼やかな笑い声を聞かせた後に、

「これから圭吾くんが来ます。今回もまた良い最期を」

 ……なんて、よく判らない一言を置いて、出て行った。
 呆然としてしまいつつも、不敬な言動をしたという怒りがじわりと胸の奥に沸き立つ。
 思わず立ち上がり航先生に強く忠告しようとしたが、それよりも先に彼は行ってしまった。

 燈雅様の……回復がいらない?
 航先生が、そう考えた?
 理由は……圭吾様が来るから?
 意味が判らない。呆けた返答をする人ではあったが、だからといって何でも言っていい訳でもないのに。

「圭吾が、来るのか?」

 漠然とした鬱屈に悶々としていると、燈雅様が細やか。
 その声が明るく弾んだものに聞こえたのは……血を吸った彼の体調が良くなったからだろう。



 ――2005年12月17日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /5

 自室として割り当てられた洋館の一室は、他の部屋と何ら変わらない。
 ベッドが一つ、チェストが一つ、テーブルと椅子が一つずつ。小さなバスルームの前に段ボールが置かれているだけの部屋は、男二人が共同で過ごしているにしては生活感が無い。
 それでも最近は少しだけ華やかになった。チェストの引き出しの中に、ほんの少しだけ光が隠してあるほどに。
 ……一度も身に着けたことのない装飾品。光に当てると美しく輝く小さなインテリア。誕生日、十年ぶりに贈物として貰った懐中時計。嵌めたことのないダークブラウンの手袋。
 ブリッドにとっては牢獄でしかなかったこの一室にとって、引き出しの中は愛しい物しかない楽園だった。
 その中でも手袋が特にお気に入りらしい。
 自分には不釣合いすぎると判っていながら、嬉しさに負け、受け取ってしまったプレゼント。今日も硬いベッドの上で手袋を胸に抱いて夢想していた。
 愛しい人からの贈物を抱き、穏やかな心で過ごしていると、ブリジットが帰ってくる。
 ちょうど日付が変わる頃。外は真っ暗闇。テーブルの上にある薄明るいライトしか点けていないのは、まだ帰ってこない兄を気遣ってのことだった。

「兄さん、おかえり……」

 すかさずベッドから起き上がり、兄に駆け寄ろうとする。話があるからだ。
 だがブリジットは頷くなりすぐバスルームへと足を運んだ。仕事を終えてきたのだから理解できる行動だ。

「に、兄さん……お願いがあるんだ」

 その動きは我々にとっていつも通りのこと。バスルームへと向かう兄の背中にブリッドは言葉を続ける。

「……アクセン様達に、クリスマス、一緒に過ごさないかって、誘われて。オレも、一緒に……」

 ブリジットが帰ってくるまで、ベッドの上でずっと練習していた言葉を繰り出す。
 気恥ずかしいからか照れ笑いを浮かべながら、茶会に誘う彼らとの約束を果たすために懸命に懇願する。

 だが、その言葉は最後まで続かなかった。
 言い切る前にブリッドはバスルームに飛び込み、『力尽きて倒れたブリジットの看病』をし始めたからだ。

 ぐったりと崩れたブリジットの体。抱き起こすブリッドが、慣れた手つきで兄の衣服を剥いでいく。
 どんくさい口調に反して機敏なブリッドの動きに、ワタシも思わずバスルームへ向かおうとしてしまう。だが、実体化すると二メートルもある巨体のワタシは邪魔者だ。外から兄弟を観察するしかない。
 繊細なワタシの嗅覚は、ブリジットの体に染みついた生臭さを敏感に感じさせてくれた。
 兄の手首や腕に赤黒く滲んだ鬱血痕がある。縄できつく締め付けられていたのだろう。今日相手をした連中は相当暴力的な集団だったのか、腹も青く変色していた。
 首元にもいくつも穴が空いている。ろくな治療もされずに放置され、自力で部屋まで帰ってきたらしい。
 ワタシを呼べばせめて自室の前まで運んでやったというのに、それすら考え付かないほど朦朧とした意識で体を引き摺って帰ってきた。
 酷い状態だ。だが二人にとっては日常的なものだ。
 ブリッドは、意識はあるが体力が尽きていた兄の体を温かいシャワーで浄めていく。ブリジットの体内に残った他者の精液を掻き出したり、痺れる痛みを感じる体を柔らかな湯で清めていった。
 弟も餌として誰かの相手をしたとき、疲れた体を兄に介抱してもらう。今日は自分の番だというだけ。十年間この一族に性奴として従事してきた二人は、まず明日に響かない体を整えることを学んでいた。
 一族の男達に求められたら体を受け渡さなければならない、体液も血肉も骨も全て仏田に捧げるもの。一族に奉仕する、それこそ自分達の役目であり、生かしてもらっている価値。そう身に染み込ませていたから出来ることだった。

「……行けばいいだろ」

 浄められた体を一つしかないベッドに横たわらせるブリジットは、ようやく人間らしい言葉を吐く。

「直系の坊ちゃんに誘われるなんて、大したもんじゃねーか。大層な気に入られっぷりだな。せいぜい媚び売ってこいよ」

 体が綺麗になっても足腰にはまだ力が入らず、弟に寄りかかっている。
 口調は一端に偉そう。だけど普段通りの兄が戻ってきてくれたことに、ブリッドは静かに安堵していた。

「……ううん。兄さん、さっきの話は……忘れてくれ……」
「なんで」

 応えず、無言で首を振る。
 ベッドにはまだ贈物が置きっ放しになっていた。その存在に気付いたブリッドは、手袋を掴むと引き出しに入れてしまう。
 ぴしゃん、と強い音で天国は閉じられた。
 そして何も答えない。辛そうに目を伏せ、沈黙のまま兄が横たわるベッドに入り込む。身を縮めてそのまま朝を迎えようとしていた。

「なんでだよ。行けばいいだろ。それで坊ちゃん達の機嫌を損ねてどうする、怒りのとばっちりが来るのはオレだぜ。行けよ」

 兄が言うが、もうブリッドは自分の立場を自覚していた。
 近頃ブリジットが重傷のまま帰ってくることが多い。部屋に戻ってきた兄が何も出来ずに倒れていることも珍しくなく、指先一つ動かせない激しい抱かれ方をされているのだと弟も察していた。
 理由も、勘づいていた。
 この一年……自分は使命を減らされ、遊び呆けるようになっている。餌として使われなくなった訳ではない。飼い主の前で職務を全うすることも数日前にあった。
 けれど、ときわの忠言のおかげか数は大幅に減らされている。今日だって、洋館の清掃や整理、庭いじり以外に何をした? 直系の子供と客人と共に談笑させてもらった。
 その皺寄せが……間違いなく兄に向けられていることを、嗅ぎ取ってしまった。

「……兄さん……いいんだ。誘いは断るから……。オレ、暫く休ませてもらったし……仕事に復帰しなきゃって言えば、ときわ様達も判ってくれる……」

 同じシーツに入りつつも、成人した男二人が使うには小さすぎる寝台だ。兄に大半を譲ろうと身を丸くして、黙り込む。

「バカ。オレは何て言ったか聞いてないのか。『直系の坊ちゃんの怒りを勝ったらオレにとばっちりが来る』んだよ。叱られるのはオマエじゃなくてオレなんだ。ふざけんな。オマエの不始末をオレに押し付けんなよ」
「……でも、それ、兄さん……兄さんだけに、『仕事』を押しつけるなんて……」
「今更オマエが来たところで何になるんだよ? オレの負担が減る? ああ、減るだろうな。ただ戻るだけだ。で、オマエはまた庇われて助けられてオレの負担が増えるんだ。変わんねーんだよ」
「で、でも、兄さんのつらいこと……増えないなら、いいじゃないか……」
「うるせーなバカ。行けってオレが言ってるんだから行けよ、グズ。クリスマスでもなんでも誘われたんだから行け。オマエは地獄から脱出できたんだからそのまま帰ってくるな。邪魔なんだよ」

 乱暴な言葉で弟に背を向けて、目を閉じる。
 いくら言い返そうとしても、バカだのグズだの死ねだの頭の悪い応対しかしない。鼻を啜る弟は、眠ろうとする兄の背中に縋り付く。

「……兄さんだって……ここが『地獄』だと、思ってるじゃないかっ……」

 その一言を聞いたブリジットは、本当に何も言わなくなった。

 ――ワタシが初めて彼らと出会ったとき。まだ子供だった二人は、檻の中で小さな毛布一つを分け合っていた。

 押し込められた冷たい牢の中。来ない助けを叫びながら身を寄せていた。あの頃に比べれば一室を与えられ、眠るべき物を使っている今は極楽だろう。
 少し人間としての生活を手にし過ぎたブリッドは、己の立場を見つめ直した。いくら優しい人々に誘われ、共に話し、笑い合う時間を与えられたとしても……「恋人だ」と言ってくれる人がいたとしても、自分には相応しくない世界だった、と。

 顔を一切合わせないまま、夜を過ごす。すすり泣く声だけが聞こえる夜を。
 心身ともに疲れ果てていたブリジットはあっという間に夢の世界に落ちていく。ブリッドだけがずっと頭を抱えていて、「またか」と見かねたワタシが一度顔を洗うように言う。泣き疲れて脱水症状の弟をバスルームに連れ出した。
 そうして水を飲んで一呼吸置いたブリッドの足元に擦り寄った。今にも壊れかけな様子でワタシの体をぎゅっと抱く。
 首元に擦り寄ってやった。夏場はこの山も多少は気温が上がるので嫌がられるが、冬場だとワタシの体毛は好かれる。暖房器具の何かと勘違いして兄がワタシを抱いて寝ることもあるぐらいだ。自分のフカフカの毛皮を盛大に生かして、元気づけてやる。

『……ブリッド。ワタシはね』

 ずっと彼の泣き声を聞いていたからだろうか、実はワタシ自身も相当ナーバスになっていた。
 出てくる心は重く沈んだもの、元気づけるつもりが暗い話をしてしまう。

『魂の研究というものは、生前興味があって。いや、ワタシにはかなり大切なものだった。だから同じ研究を続けてきた仏田の魔術師達に召喚されるのは、悪くないと思っていたんだよ。少しでも為になるならってね』
「……ブリュッケが、仏田に召喚された理由……?」

 掠れた声でブリッドが尋ねてくる。曖昧に頷いた。

『ワタシの生きた時代は今ほど研究が発展してなかったから、ワタシごときの知恵でも欲しがって発達できるのなら手を貸してやろうと思った。幸い仏田一族の魔力はこの体にとてもあったものだし、美味しいご馳走を毎日出される好待遇だったんだよ。使い魔として召喚されるとなったら、仕えてやるかわりに貰うものを貰わないといけないでしょう? ……未来を目指す仏田に喚び出されるのは悪くない。そう思って、魔術師達の声に乗った』

 ――この世ではない場所から、知恵を引き出す。
 時空の狭間に腕を突っ込んで、従者になるような化身を引っ張り出す。
 神霊や英雄の魂を抜き取ろうとする儀式はどこの世界の魔術師もやるもんで、ワタシもその神霊という分類にいる以上、報酬次第で言うことを聞いてやろうと思った。
 だからここに現界した。
 それがワタシの始まりだ。

『ここの研究機関はよくやったわ。ワタシの魂を引っ掴んで、良い体へと移し替えた。この一族が生み出すものは悪くない。特に人形の技術は破格だ』

 仏田が創り出した傑作に、ありとあらゆる知恵を入れた『器』に神霊の魂を入れるものがある。
 魂を召喚してそのまま行使するのではなく、この世に巧く留まるように最高の入れ物を用意して、まるで新たな生命体を産み出すかのようにワタシを創った。魂だけ召喚するのではなく、定着先を用意していたというのは……ワタシは何もしなくて良かったという、超VIP対応だったってことだ。

『招待されたとはいえ、現界する魔力は自費で旅行を楽しむのが普通。それなのに仏田一族は招待してくれるだけでなく実体化する魔力も何もかも至れり尽くせり。……ただ決定的に駄目なところがあった』
「……何?」
『タダで食べさせてくれるご飯が、致命的に不味かった』
「…………」
『なんでこんな物を食べさせるんだってぐらい、怒りすら通り越して悲しみを覚えるほど不味かった。酷いものだった。未来の仏田はこんなものになっていたのかって絶望して思わず昇華される勢いだった』
「昇華って、死ぬってことだろ……そんなに?」
『うん。光緑も燈雅も、信じられないぐらいの味だった』
「……そうなんだ」
『薬臭く、鉄臭く、尚且つ最悪の食感で、自然界にあってはならない合成品の味がした。思い出したくないほどだったわ。思わず消えてしまおうって本気で思うぐらいに。……でもそんな中で、貴方達に出会った』

 あまりの血の不味さに意識が朦朧とするという稀有な体験をしていたとき。
 大勢の人間達が渦巻く境内で、とても惹かれる存在がいることに気付いた。
 それがこの双子だ。
 興味が湧いたワタシは彼らを探ることにした。

 ……妖しい結社の生まれではない二人。誘拐されてきたのか人として扱われない、家畜以下の生活を送らされていた。
 他にも拉致されて道具のように使役されていた囚人は何人も居た。しかし二人の扱いは異常だ。繰り返される陵辱の日々。身に刻まれる呪詛。連日受ける暴力の中で、死ねずに飼われ続けている地下牢の少年二人……。
 どちらも死んだ目をしていた。特に兄の方は相当重症で、今にも誰かが声を掛けてやらないと後戻りできないほどの虚ろ。
 泣き疲れた弟の体を抱えていた彼の魔力は……絶品だった。

 接触して気付いた。彼こそが本当に――の――なんだと。

『だから、ワタシは貴方達と家族になった。契約の話を持ち出されたとき、きっと理解されないと思ったけど……兄さんは救われたくて必死だったから。少しでもあの地獄から抜け出したかったから、ワタシと契約した』

 ブリッドは俯きながらも、ワタシの語る過去に耳を傾けている。
 本来当主とくっつけるつもりだった魔術師達は慌てただろう。まさか当主様が、自分達が毎晩弄んでいる玩具風情に負けた……などと思いたくない。
 魔術師らはワタシの奇行を「人外にありがちな、気まぐれな性格のせいだ。機嫌を損なわれる前に適当にあしらおう」と無理矢理納得したようだった。

 それから二人の生活は少しだけ改善した。
 当主の前に立てるほどの立場になれたし、一端の一族として扱われることが増えた。
 それでも下の下の扱いではあるが、物品のように扱われるのではなく奴隷と同等に格が上がったのだから……。

『ワタシはね、兄さん達を選んで良かったと思いたいんだよ』
「……そう、なのか?」
『もちろん最初は、自分が良い魔力を貰いたかったからだ。せっかくの現世だし、美味しいご飯が食べたかっただけに過ぎない。……それでも兄さん達と一緒に過ごしてきたんだ』

 こうして「兄さん」って呼ぶような、家族みたいなことをさせてもらってもう何年目か。
 それだけ愛着がわいたということだ。

『地下で消耗品のように使われていた貴方達に声を掛けたのは、自分の為。でも今は愛があるから、救えて良かったって思えている。同時に、これからももっと救ってやれるものならやりたい』
「…………」

 だからワタシは、兄さんの後押しをしたい。
 ときわやアクセンと居るブリッドは苦しむと思ったから、彼らから離れさせようとした。
 現に……彼のことを想っている貴方はいつも苦しんでいる顔だった。でも、今は彼らと居ると楽しいと言うのなら。

「……オレは……いいのかな……」

 ぼんやりと答えるブリッドの顔に生気というものはない。
 ワタシは強いることはしない。
 ワタシなりに元気づけたかっただけだ。あくまで自己中心的な考えで、最終的にブリッドがどうするかはブリッドが決めるべきだ。
 ベッドに近づく。ベッドの足元で丸くなった。もしブリッドが兄の寝返りで押し出されてもクッション材になれる位置に行く。
 思い詰めた顔をしていたが、くしゃりとワタシの頭を撫でる。そして彼は一つのベッドへと戻って行った。



 ――2005年12月29日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /6

 地下に下る足音が聞こえる。のそのそゆったりとした歩みだ。一体誰が下りてきたのかすぐ判った。
 そもそも一番最下層まで下りてくるのは一族でも数人しかいない。その数人の中でも一番遅い足取りは彼しかいない。航だ。元老である和光様ですらもっと足腰がしっかりした歩法だというのにあの人の歩みは判りやすい。
 姿を確認すると、よれよれの白衣姿の男は欠伸をしながらやって来た。
 いつ見ても研究疲れの体らしく、この『最奥の砦』に下り立つのも一苦労に見える。

「はあ。お疲れ、悟司」

 優しい声だが、自分よりよっぽど疲れているような雰囲気を纏わせて、彼は言う。
 『機関』の準管理人、形式的には上司にあたる人物の登場に、席を立ち頭を下げる。航はいつものように「そんなことしなくてもいいよ」と微笑み、着席するように促してくる。
 俺は機械の前に再び腰を下ろした。つい最近新しいコンピュータに新調した席へと。

「ふぅ。搬入はどうなっているかな?」

 いくつもあるディスプレイの一つに、ある場所の映像を映し出した。
 山の頂上付近にある仏田寺と下界を繋ぐ長い石段の下にある駐車場。中腹にある墓地を訪れる檀家の為に用意した、車が十台ほど置ける砂利の広場が鮮明に映る。
 起動した監視カメラの映像は、今まさに駐車場に大型のトラックが入り込んだ瞬間だった。
 普段から仏田寺へ食材を運ぶトラックがその駐車場を利用している。それと同じように巨大な塊が中へと入ってくるが、ある一定の所に頭を突っ込んだ瞬間……車は消失した。
 トラックは三台。三台とも、駐車場に駐車されることなく、跡形も無く消え去る。

「無事、中に入ったようです」
「はぁ。良かった。最近は異端刑務所を怪しんでいる人も多くてさ、何もしてなくてもジロジロ見てくる監視員が多くて嫌だったけど……追手も何もいないね?」
「もし誰かが追跡してきていたとしたら、先に結界を管理している一本松様が勘づくでしょう。あそこの駐車場は、既に仏田の敷地ですから」
「だよねぇ」

 良かった良かった、と航先生は何度も胸を撫で下ろしている。
 それだけ搬入が送れること、搬入に失敗することを恐れていたようだ。
 当然だ。トラックの中身が『我々の今後』を大きく左右する。あれはなくてはならないものなのだから、作戦主任である航先生は敏感になっていた。
 ご安心くださいと声を掛けて、とりあえず席に座るように促した。ほっとしているが本番はこれから。今は少しでも浮足立った航先生には休んでもらいたかった。

「でも、一本松くんもちょっと気が立っていてね。不安だよ」
「一本松様がですか。何か問題が?」
「大問題だよ。とっても怒っている。はあ、『前回』同様、あの双子は面倒事ばかり起こすんだから……」
「前回? ……双子? ブリッド達のことですか?」
「ふぅ、さすがの先生も声が掛けられないぐらい一本松くんは怒っているよ。どうしてくれよう」
「それは、相当ですね。先生が止められないとなると、銀之助様にお願いするべきかと」

 とはいえ、厨房から魔王を引き摺り出すのも一苦労なので、なるべく食事関係以外で銀之助様にお声は掛けたくない。
 年末というデリケートな時期で、航先生や父・狭山も作戦遂行に躍起になっている。それでいて一本松様の機嫌も悪いとなったら、出来る計画も失敗してしまうのではないかと悩ましい。

「あ、悟司。魔物の方はどうかな」
「……霞の体が馴染んできたのか、平静を保っています」
「おや、霞くんが案外好みだったのか。はぁ……あまり良い魔力の子とは思わなかったけど、魔物にも好き嫌いがあるのかな?」
「映像、出しましょう」

 カメラを切り替える。機械の先に、壁一面の硝子が映る。
 強化魔術が掛けられた硝子は如何なる衝撃にも耐えうる造りになっており、硝子の先の物を機械側……人間達の元へと通さないよう、厳重に結界札が貼られていた。
 暗闇の先は魔。深すぎる魔の領域。
 ここ最近は硝子の先も暴れ狂うことがない。実際暴れても硝子の結界が起動するから安全ではあるが。……暴れないならそれでいい話。

「ほぅ。霞を与えるのと……玉淀と慧だったら、どっちの方が効果的だい?」
「それは断然、玉淀と慧でしょうね。この数値をご覧ください。圧倒的に彼らの方が安定しています」
「ふぅん。そうだね、うーむ、ブリジットと違って卵も産まないかぁ。……しかし慧は十時間を過ぎると極端に体力が無くなる」
「その認識はもう古いのでは? 近頃、慧を魔物に食わせてないでしょう。その当時より体力が落ちている可能性があります」
「ああ……そういや最近、慧を呼び出すこともなかったね。ついつい他の子に手を掛けていると、慧にまで手が回らなくなってしまう。あ、霞のデータをもうちょっと見ていいかな?」

 新しいデータに責任者である先生は、「ふむふむ」と興味深げにいくつも並んだ表示を眺め始める。
 数値に顔を近付けていく。眼鏡を掛けてはいても視力はそこまで悪くないだろうに、間近で数値を凝視していた。何か考えることがあるのか、唇を優しく歪めて顎の下に指で擦っている。
 気になることでも? 尋ねようとしてやめた。

 口元を曲げながらも研究材を見つめる眼鏡の下の目は、とても冷たい。
 いつものことだが、この目に声を掛けても唸るだけ。返事が無いことが大半だ。彼の思案が終わるまで、自分の作業を続けた方が良い。その方が時間の無駄にならないからだ。

 それから数分、俺は書き物をしていると……唐突に俺の両肩に手を置かれた。
 右肩に右手、左肩に左手。何の変哲も無い構図。
 いかがなさいましたと尋ねると、腕が首に巻かれた。
 座る俺を後ろから抱きしめるように、ぎゅっと包み込まれる。

「……俺は慧ではございませんよ、先生」

 煙草の匂いと薬品の匂いが混じった体臭が襲い掛かってきた。
 俺も似たような匂いだが、『機関』という研究所で大半を過ごしている彼は、芯まで染み付いていた。

「ふう。……昔ね、慧が魔物の中から出ていたときに言っていた話を思い出した。なんでも、魔物に食われているときは……最初は痛いけどそのうち……誰かに抱きしめられているような不思議な感覚になるんだと」
「確かに、そのようなことを報告していましたね」
「真っ先に抱いた感想がそれだなんて、興味深いねえ。ところで、『抱きしめられている感覚』とはどんなものだい? 何か感ずるものはあるかい?」

 つまりは今の状況なんだけど、と彼は尋ねる。

 ……熱と熱が触れ合って体温が上がる。肌と肌がぶつかって落ち着く。脈打つ血の音が不愉快である。
 以上が、一般論か。
 様々な状況を説明してやると、航は「ふうん」と判ったか判らないような頷きをした。

「魔物の捕食は『供給』そのもの。供給とは体液の混じり合いで生じる現象。それと同じか。……ほう、慧は頭の悪い子だとは知っていたけど、もっと巧い表現方法をしてもらわないと困っちゃうな。報告書が報告の意味を成してなかったら参っちゃうよ」
「そうですね。先生、そろそろ離れていただけますか」
「悟司、君なら的確な報告をしてくれそうだ。君、一度魔物に食われてみる気はないかな?」
「実際に感覚を理解されたいのなら、研究者である先生が魔物の中に入られた方が良いのでは?」
「ははあ、意地悪なことを言うなあ、悟司は」

 笑われ、顔を寄せられた右の耳にチュッと口付けられる。
 これぐらいのことは日常茶飯事な人なので今更不快に思えない。俺が『機関』で世話になるたびに軽く何かをしてくる人だ、今日はこの程度かと思って右耳を拭う。

「……先生。人肌が恋しいなら慧を使ってやってください。すぐに来いと言えばあいつは飛んできますから。じゃないとあいつ、大晦日までに帰ってきませんので」
「はぁ。クリスマスは先生と一緒に過ごしてあげたけどなぁ。でも今は『赤紙』でちょっと遠出してるんだし、邪魔しちゃ悪いよ。それに先生の立場でも命じられた『お仕事』には文句を言えないし」

 仏田一族では異端という怨霊やら化け物を倒して人々を救うため、定期的に徴兵される。それは少なくとも年に一回、二回は義務づけられていた。いくら『本部』を担う上層部であっても航先生ですら異端を討伐してこいという『赤紙』には逆らえない。
 判りきっていることだと先生はひらひらと手を振るう。慧に執着などしていない彼は、それきり彼の話を持ち出さなくなった。
 それよりもと次々と大晦日に予定されているものの話を続ける。……カメラを今度は、地下空洞へと映す。トラックの積み荷が降ろされている映像を。

 大量の囚人達が、仏田寺へと降ろされる。その真っ最中だった。

「ほぅ。トラック三台だけだと思ったけど、あんな車でも百人は連れてこられるんだねぇ」
「鮨詰めにするれば、それぐらいは可能なのでしょう。百人で足りますか?」
「既にもう用意している生贄がいるからね。追加で百人入るとなったら上出来だよ。……はぁ。人口密度が一気に高くなるねぇ。換気だけは怠らないでくれよ、酸素不足で先に死なれたら困る」

 結界や監視はともかく、さすがに空調の整備までは俺の範疇ではない。
 そう文句を言いたいところだが……空調機器点検整備はもう一度見てもらうことにしよう。人が多くなったことで暫くは結界も不安定になりかねない。ここで機械的な問題まで起こされたら頭が痛くなる。
 ……あと二日なんだ。全員には盛大に働いてもらわなければ。



 ――2005年12月28日

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 /7

 深夜にも関わらず、燈雅様の私室はまだ灯りを点けていた。
 血を吸って血色を戻した燈雅様は、シーツの中でぼんやりと天井の照明を見つめている。お眠りにはまだなられない。
 灯りを消すかと尋ねても、「圭吾が来るまでこのままで」と言って聞かなかった。日付が変わった頃だ。いくら血肉を啜ったとはいえ、病弱な彼の体が完治した訳ではない。
 栄養を補給しただけで弱った体が治ることもないのだからすぐに眠ってもらいたかった。
 出来ればもう来訪者など無く、このまま諦めて眠って……。

 俺の願いは虚しく棄却される。
 微かな風の動きを察した燈雅様は起き上がろうとした。
 耳の良い彼が砂利を踏みしめる足音に気付いたのだ。
 その動きで俺も動き出す。
 燈雅様を支えるために? いや、そうではない……来訪者を出迎えるために、俺は先に離れの玄関へと向かった。

 雨が続いた連日の12月は、すっかり冷え込んでいる。
 外に出れば息が白い。そんな真夜中の小屋へと、一人の男がやって来ていた。
 航先生の言う通り、そして燈雅様の察しの通り、圭吾様が再び離れへと現れる。

「男衾? ……燈雅は、もう眠っているのか?」

 まさか玄関前でまた出迎えられるとは思ってなかっただろう。暗闇の中に突如現れた俺の姿を発見して、小さく驚きながら微笑みかけてくる。
 そのやり取りは、以前と全く同じだった。
 燈雅様に会いに来た圭吾様を出迎え、何も知らずに彼を見たいと言ってくる圭吾様を……追い返す。以前と全く変わらぬ一幕だ。

「圭吾様。お帰りください。もう燈雅様はお眠りになられております」
「あっ。そうか、すまない。来るのが遅すぎたよな?」
「…………おい。それはないだろ、男衾。オレは圭吾を待っていたんだぞ」

 閉じた筈の玄関口が開く。
 上着も羽織らず、病衣のままで下駄を履いた燈雅様が微笑んで立っていた。
 急激な体温差は体を壊されるというのに寝床からそのまま出てきたのか。大人しく待っていてくれればいいものを。
 思わず主君を睨みつけてしまうが、それも構わず燈雅様は「二人とも、入れ。寒いだろ」と小屋の中へと誘なった。
 その動きもよろめいているというのに、この人は。思わず怒りを込めて肩を抱き、すぐさま寝室へと連れて行く。

「今日の男衾は、怖いな。もう眠いなら勤めを終えてもいいんだぞ」
「……燈雅様、俺は貴方を叱りたくはありません。叱るのは梓丸とシンリンの役目だからです。ですが自分のお体を大事になされないのでしたら、俺も慣れないことだってしてみせます」
「やっぱり怖いよ、男衾。……ありがとな」

 叱責しているつもりでも、燈雅様は未だに笑い続ける。
 俺の言葉が届いていない訳ではない。小さな声で礼を何度も言っていた。
 ……それは俺が欲しい言葉ではない。行動で示してほしかった。だが無理をしてでも彼がしてしまいたいことが、すぐ側に近寄っていた。だから燈雅様は押し切ろうとしている。

「圭吾、少し話をしよう。せっかく来てくれたんだから」
「いや、俺は……その。男衾にも悪いし……」
「誕生日、おめでとう。プレゼントを貰いに来たんだろ? 自分の誕生日を忘れないで来るんだから、お前はがめつい奴だよな」
「と、燈雅が絶対来いって言ってたからだぞ! なのに26日はお前が居なかったから、今日時間を何とか作って……!」

 その約束は、果たされることもなく終わる予定だった。
 無事当主継承の儀が行なわれていれば、二度と迎えることのなかったものなのに。
 ……約束を果たせる、幸福な事だ。
 会えないと思っていたのにまたこうして話が出来るのだから、無理をしてでも燈雅様が圭吾様と時間を取ろうとするのも理解できる。
 仕方ない、仕方ないことなんだ……と一連の会話を聞きながら、一人頷く。

「なあ男衾。すまない、机の上に置いておいたもの……どこにやった?」
「……申し訳ございません、燈雅様。梓丸が今朝全て片付けてしまいました」

 元からこの部屋はカラにするつもりだったから。そこに布団だけを持ってきたのだから……元次期当主様の部屋には、もう何も無かった。

「参ったな。圭吾、せっかく誕生日のプレゼントを貰いに来たっていうのに、梓丸に捨てられちゃったみたいだぞ。お前、運が無いな」
「捨てられたって……何を用意してたんだ? そう簡単に捨てられる物なのか?」
「キーケース。小さな箱だったし、どっかに投げ入れられたらどこに行ったか判らないだろうな」
「……燈雅様。いくら梓丸でも、お荷物を勝手に捨てはしません。おそらくどこかに保管していると思います。確認させましょうか」

 布団へと彼を寝かせて、すぐさま内線の電話へと向かう。
 だが燈雅様は制止してきた。「こんな真夜中に叩き起こすのも良くない」と、使用人相手に何を言っているのかとぼやきたくなるようなことを言いながら。

「明日梓丸に会ったら……圭吾に渡してやってくれと伝えろ」
「……明日で、よろしいのですか?」
「出来れば28日中に頼む。圭吾の誕生日が12月28日なんだ。その日中じゃないと拗ねるからな、忘れないでやってくれ」
「そ、そんなことはないぞっ。別に俺は物をせびっている訳じゃ……男衾、本気に取らないでくれ!」

 慌てる圭吾様に、燈雅様はクスクスと笑う。
 二人の距離は、近い。物理的な立ち位置ではなく、笑顔で語り合う二人の姿は……俺とは比べ物にならないほど、近しい間柄だと伺えた。

「……俺は、使用人部屋で待機しております。何かありましたら声を掛けてください」

 燈雅様の眠る寝室の廊下を挟んで目の前、一人が寝転がる程度の仮眠室に向かう。
 二人に一礼し、障子を閉め、数歩の別室へ……足を動かそうとしたが、何故か扉の奥へと進めなかった。
 照明を点けない木の廊下にて、立ち尽くしてしまう。
 たった一枚の障子の向こうの会話は全て聞こえる。静かな笑い声も、翻弄されて戸惑う声も、全て。
 ……こうして外で待機していることは、今まで何度もあった。
 待機する部屋があっても、普段から障子の前で腰を下ろしていることが日課だ。いつものことだから……この日もいつもと同じように、使用人らしく、障子を背に膝を着いた。
 ……最期の次期当主様へのお遣いなのだから、当然だろう。

「圭吾」
「うん? どうした?」
「…………オレ、明日、当主になるんだ」

 溜息のような囁きで、燈雅様は告白する。
 息をハッと呑む相槌が聞こえた。その後に続く言葉が思いつかないほど、長い圭吾様の呼吸だった。

「おめでとう、とは言ってくれないんだな」
「……あ。お、おめでとう。急な話で驚いた」
「急じゃない、やっとだ。年を考えてみれば遅すぎるぐらいだ。父は十七歳のときに当主になったというのに、俺はその二倍も掛かってしまった。それだけ俺に引き継がせたくなかったってことだな」
「……そんなことは……」
「ああ、安心しているよ。ついにこの日が来てくれたんだって。さっさと終わってしまえって何度も思って……延期されて、延期されて、また延期してしまって。まったく、生まれ変わるならもっと健康な体になりたいもんだ」

 くつくつと笑い声が響いていた。
 圭吾様は何も言い返せない。何を言っても燈雅様を貶めることになり、ありきたりな慰めしか吐き出すことが出来ない。
 一人笑う燈雅様の声を、受け留める。それしかしてやれることなどない。それは、俺や梓丸も同じだった。

「……燈雅、お前が当主になったとしても」
「ああ」
「俺は、今まで通りお前を支えていく。……男衾達みたいにお世話をすることはできないだろうけど、俺なりに仏田家に仕えていくから。何も変わらないから、今まで通りこうやって。だから不安がらなくても……」
「その点に関しては問題無い。オレはずっとお前達といっしょだ。これからお前達といっしょになる。ずっといっしょだ、どこにも行ったりしない」
「そう、だな。言うまでもなかった……すまん」
「ああ、ずっといっしょになるんだ。手筈は整っている。……オレ達は同じ物になるらしい。一心同体に、もう離れ離れになることもなく……同じものになるんだ」
「……燈雅?」

 理想を天高く掲げるかのような高等な口弁、のように聞こえた。
 だがその言葉に何かが引っかかる。同じことを圭吾様も気になったのか、鋭利な雄弁に疑問を投げ掛けようとしていた。

「圭吾。せっかくの誕生日だっていうのに何もあげられないんじゃ癪だ。良いことを教えてやろう」
「良いこと?」
「話させてくれよ。……バラしたいんだ」

 不思議な声だった。
 燈雅様は笑っている。姿が見えない今、声だけで彼の愉快な心が伝わっていた。だというのに……その声から連想される表情は、無だった。
 愛する人と語れる嬉しそうな優しい笑みを、ちっとも思い浮かべることができなかった。

「当主継承の儀で、何をするか。圭吾は知っているか?」
「……いや、俺は下っ端だ。悟司兄貴ならともかく、何にも教えられちゃいない」
「悟司さんなら……知っているか。今も心の準備だって出来ているだろう。……当主の体には、過去六十人分の魂が受け継がれている。千年前に仏田家を興した始祖様の魂も存在しているんだ。当主継承の儀は、その魂を受け継ぐ『器』になること。今は先代当主の体の中にいる始祖様始め六十人の魂を、オレの体の中へ移す作業を行なう」
「…………」
「というのは、六十代目までの儀式だった」
「……え?」
「百年前ぐらいから、儀式が変わったんだよ。……人間の体は、一体につき一つの魂を収容するもの。それが普通で、二つや三つぐらいなら刻印を通して魂を集めている通り可能なんだが……限界は、どうやら五十体らしい。六十人もの当主様を一つの体に集めておくのは、難しい」
「そ、そうなのか。俺にはどんな感覚なのかさっぱり判らないんだが」
「うん、難しいんだよ」

 淡々と燈雅様の声が紡がれていく。
 最期の会話ならもっと楽しい話をすればいいのに、どうして儀式のことなんて……知識の無い彼に?

「でも、百年前……六十人近い魂を収容できる別の『器』が誕生した。六十人どころじゃない、数百億分も保存できる馬鹿でかい器が生まれた。だから当時の当主・光大様はそこへ移し替えた」
「随分便利な物を作ったんだな? ……それで燈雅の体に無理をしないようになったのなら、良かった」
「うん。『魔物』は、六十人どころか数百億の魂をも取り込む」
「……マモノ?」
「ふふ、仏田が産んだ凄いモノのこと、だよ」

 子供に言い聞かせるように判りやすく説明し、それになるほどと頷く声。
 初めて聞いた話だが、そんな生易しく片付けられるものなのか。
 ……少しだけ身の毛がよだつ。表情が見えないからのこの寒さは、一体。

「光大様は六十体の当主様の魂を、魔物に移した。和光様はその魔物を世話はしたものの、魂を受け継がなかった。……そして親父は、魔物から六十体の魂を受け継いでみることにした。魔物なんて使わず、本来の言い伝え通りに自分の体だけで仏田家の当主としての役目を果たそうとしたから。……その結果、盛大に『バグった』。慌てて魔物に全部魂を戻したそうだよ。戻しても、親父は回復しなかったけどな」
「……どういうことだ?」
「出来ないことを無理矢理しようとして、体が受け付けなくなって、壊れたんだ。元々自身の体に自分のもの以外の魂は定着しない。拒否反応が起きて死亡する。……その拒否反応を無くしたのがオレ達の血族なんだが、その血を受け継いでいながらも六十体は無理だった。だから親父は生きていながら死んでいるような形になった。オレ以上に重病患者なのは、その儀式失敗が原因だ。もう三十年以上前の出来事だっていうのに、未だに他人の魂に器を乗っ取られかけて、ありえない症状が発生して医者を騒がせている」
「…………。なあ、六十体全部引き継がなきゃいけない理由があるのか? 始祖様や、歴代当主の魂を受け継がなきゃいけない理由は……」
「ある。あったけど……オレの代は、もうどうでも良くなった」
「……どうでも?」
「虚弱なオレは六十人なんて受け入れるだけの力は無い。それは誰が見ても判りきっている。だから、始祖様の魂だけ引き抜くことになった。一体だけなら、刻印を通して魂を回収していた要領と同じに出来る。……お局様は妥協してくださったらしい。本来の儀式が出来なくて誠に遺憾だと狭山様は仰られているがな」
「……うちの親父がか」

 実父の名を出された圭吾様は、何とも言えない呻き声を出す。
 その表情を見たらしい燈雅様も、決まり悪げに苦笑いをされた。

「……当主継承をした後は、仏田の長年の夢を叶える。女神様との再会を果たす儀式を続けて行なう。……女神様を生み出す準備は既に整っているんだ。あとは始祖様をオレの器に入れるだけで、始祖様がオレの体でお目覚めになったら後は最後の仕上げをするだけ。……圭吾達が知らないうちに、仏田の悲願は達成されるところだったんだよ。明日か明後日にはな」
「そ、そうだったのか。まあ一族全員参加のイベントじゃないみたいだし、後々報告されることになるんだろうな」
「報告。そんなものはない。女神様の復活は、同時にオレ達の最期になるんだから」
「……え?」

 燈雅様の語調は変わらない。笑ってはいるが、楽しくない声で続けていく。
 けどあまりの言葉に、圭吾様は……そして俺は、耳を疑う。

「圭吾は、仏田が求めている女神様ってどんな方だと思う?」
「……女神っていうんだから、美人なんじゃないか。始祖様がこの陵珊山で出会って恋をしたっていう……美しい女性なんだろう?」

 だよなぁ、普通はそう思うよなぁ……と燈雅様は少しだけ声を和らげ、圭吾様の言葉を受け入れる。
 だがそんな言い方は、「全く違うんだよ」という言葉を続けるための前口上にしか聞こえない。

「神様がどうして人間の形をしているって、物語の都合に過ぎない。話をしやすくするために二メートル以下の形に収まっているだけなんだ。最も判りやすい、話が通じるように最多数の形を模しているだけ」

 ……では、実際は違うと?

「カミは人類とは程遠い姿をしている。理解できない仮象で、名状しがたい形貌をしている。始祖様が愛した女神と一番近い物を言うなら……それこそ『魔物』」
「マモノって、俺は見たことないんだが……?」
「何十メートルもある黒くて、赤くて、手足のいっぱいある、億の目玉を持った化け物。おびただしい数の長い触肢、醜悪極まりない邪悪な風体。……それが、産まれるんだ。赤ん坊がオギャーって。儀式が成功するとな、誕生するんだよ」
「……は……?」
「産まれたばかりの健康的な赤ん坊は、泣くだろうな。そして泣いたら腹が減る。腹が減ったら食べる。……近しい者のお乳を、体液を、血肉を求める」
「……と、燈雅。それって……」
「バカでかい化け物が産まれて、暴れて、オレ達を全部喰らうってことだ。それが始祖様が仏田家に求めたことなんだよ。なんとしてでも叶えてみせろって、千年間血族に強いてきた使命だ」

 穏やかな口調の中だが、冗談に聞こえさせない強い声色で燈雅様は語り続けている。
 でも、動揺せずにはいられない。
 ……俺達を全部喰らう? 生まれてきた赤子の餌として? ……それが千年間の悲願だと?
 そもそも、巨大な化け物を生み出すこと自体が?

「な……なんだよ、それ。燈雅、それってつまり……」
「つまり?」
「…………一族全員に、無理心中しろっていうのか」

 そうではないよな、と打ち消しの言葉を待つかのような期待に満ちた声。
 だがこの話の流れで、実は……という優しさなど訪れやしない。

「そもそも仏田一族は、『悲願の為に身も心も全て捧げよ』という家訓だっただろ。身も、心も。今更その体を神に捧げよと言われたって何もおかしな話じゃないさ」
「……お、おかしな話だろ。その、何度もマモノとか、バケモノとか言ってるが……バケモノだと判っている時点で産み出していることがおかしいじゃないか? なんで、神を産み出すっていうのに……どうして『異端を産み出すようなこと』を?」
「何を言ってるんだ。異端にも神がいる。そして『俺達の先祖は、異端の神』だ。『欺く神』に他ならない。…………知らなかったか。我らが尊ぶ始祖様は、『この一帯に毒を撒いた邪神に恋した男』なんだよ」

 ……神のような技を人々へ授けた男だと伝えられている。
 神から得た秘術を使って、苦しむ多くの民を救った医者だというのが、伝説の一人だ。だがその男は生涯の中で越えられない死に悩み、それ故に……一族へ呪いを残した。彼女を蘇らせろという。
 それが一族であれば皆知っている仏田の始まり。魂を収集する理由。
 偉大な神の力があれば、大勢を救えた始祖様のように大勢の幸福へと繋がるという訓え。
 だがその真実は……男が愛したのは大きな闇であったと?
 実は、人ではないものに触れたと?
 実は、人間の道理を改変させる異端の力を得たと?
 実は、本人の生涯の中で『死者を蘇らせよう』なんて常人らしからぬ狂気に陥った……と?

「……燈雅……神は、その魔物は……俺達を喰らった後、どうなる?」
「圭吾は腹が満たされたとしても、数時間後にまた腹が減るよな。一日三食、食べたくなるもんだ。じゃあ、二度目の食事をしたいと思うだろう」
「俺達一族の肉だけで、足りるのか」
「足りないよ。一回目の食事ですら百人程度じゃ足りない。……足りなかったらもっと食べるしかない。……山を下りて違う人間を食べ始めるんじゃないか」
「燈雅! …………こんな話を続けていいのか!?」

 圭吾様の声が次第にヒステリックに上ずっていく。声の抑制すらできなくなってしまうぐらい、淡々とした告白に動揺していた。
 かくゆう自分も、ざわついた焦りが背筋に走っていた。

 困惑の声の後、会話は止まった。
 揺らぐ圭吾様の叫びに反応は無い。二人は見つめ合っているのか、障子に背を向け鎮座している自分には判らないが、言い知れぬ緊迫感だけは伝わってくる。
 訪れた沈黙の中で唯一聞こえてくるのは圭吾様のぐらつく息遣いのみ。返答の無い様子を見て、圭吾様はじりじりと追撃していく……。

「なあ……仏田が求めていた神っていうのは、悪いモノだったのか? 一族中に魂を回収させていたのは、バケモノを生み出すためだったと? 違うか?」
「違わない。オレは確かにそう話をした」
「……なんで、そんな冷静に話をしているんだ。今、燈雅は百人程度の食事じゃ飽き足らず、山の下に降りて人々を喰らい始めるかもしれないって……言ったじゃないか。それを知ってもなお、こんな話を平然と続けていられるのか?」
「圭吾。オレにこの事実を教えてくれた人達がいる」

 俺達より上の世代だ。
 彼らも事を進めていた。押し進めていた。それで構わないと、そうあるべきだと、そうしなければ千年の使命が達成できないとして。

「……大勢が守ってきた伝説が、これなんだ。神を生み出すことが我らの正義だと、在るべき姿だと信じて誓って」
「……燈雅……そんなの、おかしいだろ……。それとも何か、俺の認識が誤っているだけで……『大勢を喰らうというのは実は良いこと』で、『山の下に降りて人々を食べるっていうのも本当は善行』で、『異端の神は良いことしかしない』のか。……違うだろ、言葉通りの意味なんだろ。『大勢が死んで、殺されて、災厄がバラ撒かれるもの』なんだろ。なのになんで、それをお前も親父達も受け入れているんだ……?」

 ぼんやりと呟くような慟哭。よろめきながらも懸命に燈雅様へ抗議する圭吾様は徐々に声が小さくなっていく。
 間違っていない筈なのに、自分の方が誤りなのではないかと怖れてしまっていた。燈雅様が動揺する彼へと強く「お前は間違っているよ」と訂正したなら、次期当主の意思として大きな支えを持つことができただろう。無理にでも納得する力になれたかもしれない。
 だというのに、全てを話し終えた燈雅様自身が、

「そう言うと思った」

 なんて、優しい声で承服してしまったら……。

「圭吾は、女神様が再誕なさる儀式には反対だよな。…………男衾はどうだ? 廊下でも話はちゃんと聞こえてただろ?」

 寝室からの声に、返すべきか悩みながらも……応える。

「…………俺の意見など……」
「男衾にも反応してもらいたかったんだ。……儀式にはどうしても始祖様の魂は立ち会わなきゃいけないらしい。元々の目的は、始祖様と女神様の再会なんだから。……なら女神様が生まれる準備が出来ていたとして、始祖様がその場に現れることができないとしたら? 魔物の中で保存されたままだったとしたら? ……必要な物が足りないのなら、儀式をする理由が無い。儀式は行なわれない」
「は、い」
「……儀式なんて行なわない方がいいと思わないか? それとも、男衾は一族に課せられた千年の使命を果たすべきという『本部』寄りの考えかな」
「…………」
「狭山様寄りの意思なら、止められちまうかな。……『始祖様の器が無くなれば』儀式が止められる。大勢が食われずに済む。そう考えてはくれないか?」
「……いけません。燈雅様。それ以上は考えさせないでください」

 馬鹿なことを、言わないでほしい。
 器が無くなれば、なんてことを。儀式を阻止させるなどと……その方法の中に、『あってはならない選択肢』が含まれている気がして、胸騒ぎがした。

 俺は、次期当主である燈雅様をお守りするために産み落とされた。
 燈雅様には長く繁栄していただきたい。彼を守る者として、彼を大切に想う一人として、だから。

「燈雅様。俺は貴方に次期当主になるという夢を叶えてもらいたい。それまでお仕えすると決めております。それ以上の願いなどありません」
「…………馬鹿な奴だな。『それ以上の願い』なんて、どう足掻いても叶わないと教えてあげたのに。……お前なら理解してくれるよな、圭吾?」

 憂いを隠さぬ溜息を吐く彼。
 そうして燈雅様の声の焦点が、廊下に居る俺から室内の圭吾様へとズレていく。
 燈雅様は皆に優しくあろうと心掛けている方だが、他者との交流は比較的乾いている。見限られたかと思うようなあっさりとした切り替えも多々あるのは承知だった。
 が、思い知らされるとやはり胸が苦しくなるものだ。

「と……燈雅はっ……器が無くなれば儀式をしなくて済むと考えているんだよな? じゃあ、燈雅……どうするつもりなんだ?」

 圭吾様からの いきなりの問いかけ。
 胸の中から最後の空気を吐き出すように。主語が付いてなくても彼に意味は通じた。
 圭吾様が、ある一言を呟く。

「燈雅……逃げるか?」

 ――瞬間、この場が凍り付いた気がした。

 燈雅様の身を案じる圭吾様なら、有り得た一つの言葉だった。
 逃げようという強制ではない。そこは穏やかな圭吾様なりの優しさだった。それでもどうか燈雅様を逃がしたいという心が現れ、一瞬でも頷けばおそらく手を引いてこの場から走り出すような強さがあった。
 だから燈雅様もその決意の声に驚いてしまったのか。……心臓を止めたかのように息を飲んで、停止。
 不自然なほどの驚嘆が、呼吸だけで感じ取れた。

 不意に、鋭い魔力が室内を貫いた。
 すぐさま障子を切り裂くように打ち開く。
 『突然、宙に出現した剣』を弾き飛ばそうと、虚空から取り出した武器を叩きつけた。

「燈雅様ッ……!」

 燈雅様が横たわっていた布団の上から、氷柱のように鋭い細剣がいくつも落下する。
 避けなければ喉を、胸を、腹を貫かれていたかもしれない。そんな凶荒に及ぶ敵など、この場には居ない。いくら本殿から離れの小屋とはいえ賊の侵入など許さぬ結界は張られているし、その敵からお守りするためボディガードの自分が配置されている。
 しかし、急だった。何の異変も察知できなかったし、ほぼ無能力と噂される圭吾様はともかく……燈雅様ですら逃げようとしなかった。それどころか、

「男衾、止まれ」
「ッ!?」

 ………………ザクリと乾いた音がする。

 隣で話をしていた筈の圭吾様は、未だ何が起きたか判らないというような目をしていた。
 降ってきた刃は俺の一撃で二つほど打ち払い、どちらも壁に刺さっている。
 けれど間に合わなかった。シーツの上で横たわる燈雅様は……腹部を槍で打ち抜かれて、赤く染めていた。
 死に追い込まれたという現状だと言うのに、無言でその槍を受け入れていた顔をしていた。

 燈雅様の眠る布団から抱き起こそうと傍に寄る。だが燈雅様は横たわったまま静かに手をひらひらと振った。
 来なくていいと断るように。心配するなと言うかのように。
 でも、しかし、だが……心臓のある真下を貫く一本の槍は深々と燈雅様の細い身体に食いこんでいる。じわじわと赤を染め上げていった。

「燈雅様っ!?」
「男衾。勤めを終えていいんだぞってオレは言ったぞ。……ずっと廊下に居てくれれば良かったのに。やっぱり男衾は怖いな、強敵だ」
「燈雅様! すぐにシンリンをお呼びします、傷の修復を……!」
「…………自分で刺したものだ。治すもんか」

 驚くほど落ち着いた自殺宣言に、先ほど以上に背筋が凍る。
 賊など居ない。無能力の圭吾様がご乱心した訳でもない。何者かが天から刃の雨を降らせ、眠る燈雅様を殺そうとしたのではない。
 燈雅様自らが、ご自身の体を傷つけた。
 身を貫く鋭利な雨を落としたのだと……二人同時に、両眼で把握してしまった。三つの刃で自分を抉って殺すことを選んだのだと、ここを見張っていた俺には明白だった。

 ふらふらとさせていた右手の動きが変わる。
 細い指が宙で何かを描き、次の瞬間には先ほどの悪寒と同じものが這い上がってくる。
 天井を見ると、一度弾いて壁に突き刺さった筈の刃が、また生まれている。
 異常事態にさすがの圭吾様も状況を呑み込んだのか、「燈雅、一体何をしてるんだ……!?」と更に声を上げる。
 何もかもが遅かった。
 命じられた通り、その場から一歩も動かずに燈雅様を見る。
 未だシーツに眠りながらも薄く笑う彼は、指を動かしていた。今にも天から下がる刃を落とさんというばかりに。

「驚くことはないさ。……理由は充分だろう? 次期当主が居なくなれば、女神様復活に必要な立会人が用意できなくなるんだから……儀式延期にはなる。中止は、難しいかもしれないけど……それでも……」
「だとしても、燈雅が死ぬ必要など無いっ!」

 そうだ、燈雅様を殺させることを認めてたまるものか。
 ……でもそれも、今死ぬか明日死ぬかの話? だとしても……今ここでその選択を受容できるほど、俺は大らかな心など持っていない。
 制止させられた体を動かして電話へと駆け寄る。
 深夜でもシンリンは出てくれる。梓丸だって駆けつけてくれる。可能なら自分の腕を引き千切って血肉を食べさせ、無理矢理に生かしたっていい。それでもまずは生かす知恵の持っている人物を呼ぶことが先決だ。傷を診る医者を呼ぶことが先決なんだ……!

「これもオレなりに考えた結果だ。誰かの目の前でやっておかないと、犯人当てに躍起になるだろう。誰かに告白しておかないと、謎の死で終わっちまうから」
「え」
「男衾、ごめんな」

 ――生かしたいという昂奮が、冷静さを欠かせた。

 電話へと駆け寄る足と、燈雅様をお守りする腕は同時には動かせない。
 既に燈雅様は第二撃の準備をなさっていた。だというのに、平然に俺達と話す燈雅様の様子に安心してしまっていたせいなのか……俺は、救助を呼ぶ方に動いた。
 自分を殺す気でいる彼を止めるということを、一切考えず。
 自分から傷を作った彼を目撃しておきながら、彼がまた自分へ追い打ちをかけることを頭から切り離していた。
 だから一瞬目を離したときを見計らって、燈雅様は再び雨を降らせる。

「圭吾、ごめん」

 ――既に心臓の下を射ち抜いている段階で、致命傷だ。
 その状態でまた同じように体を貫けば、再生は難しい。
 体の左側だけでなく、左側も穴が空いてしまう。……血が流れる。突然臓器が抉られ混乱した内部が悲鳴を上げ、逆流。吐血。
 白いシーツが至るところから赤くなっていった。

「は……?」

 消失感が全身を襲う。

 混乱していた。冷静な判断が出来なかった。たった二秒。一瞬。目を離した瞬間に燈雅様は自分の体を死に追いやる。
 守護する俺の目をかわして、ご友人の見ている目の前で、堂々と命を絶たれようとした。
 なんだと。
 騙された? 失敗した。守れなかった。……殺してしまった。守れなかった? 守ることすら許されなかった!
 巡る後悔が全身に圧し掛かり、足を雁字搦めに縛り上げて身動きが一切取れなくなってしまう。
 喪失感で何も出来なくなってしまった。

「燈雅! 燈雅、燈雅っ……!」

 串刺しになった燈雅様のもとに駆ける圭吾様が居る。
 失った悲しさに何も出来ずにその場で固まる俺とは違い、圭吾様はすぐさま駆けつけて名を叫ぶ。
 深々と体を貫く二本の凶器は、燈雅様が魔力で構築した幻の武器だった。だから役割を負えた得物は光になって消失する。
 その光と共に開いた穴や流れる赤い血までも無かったことにしてくれれば良かったのに。
 残されたのは虚ろな目を天に向けた燈雅様の体だけだった。
 貫く槍が消えたことで、抱き上げることも揺さぶることも出来た。だが激しく彼を動かすことはできない。
 元から羽のように軽い人だった。その全身を毟られたような今は……名を呼ぶぐらいしか、彼を呼び戻すことなど何も手段が無かった。

 でも、何も出来なくても……近くに寄ることはできた。
 白い顔の唇からは赤い血を垂れ流している。少し揺するだけでたらりと燈雅様を形成する雫が零れ落ちて、生命を枯らしていく。
 一度目の貫通で命の半分は失われていた。そもそも体力なんて戻っていなかった今日だというのに、多くの言葉を紡ぎ終えて疲れていただろうに……自分の創り上げた魔法の刃で、命は潰えていく。
 動かしてはならない。でも、呼びかけなければ。そう思ったのか圭吾様は掌で、静かに横たわる頬を撫でた。

 燈雅様が、うっすらと瞼を開ける。
 天井を仰ぐ燈雅様の目には、必死に呼びかける圭吾様の顔が映った。気も狂わんばかり切実な声を上げている彼の顔が。
 体を揺さぶって鼓舞させることが出来ない以上、夢中になって懸命に名を呼ぶことしかできない圭吾様を……じっと見つめた。
 必死で燈雅様を止めている。
 彼がうるさく思って、暴言でも吐けばいいと思うぐらいに……名前を叫んで呼び止めている。
 何度も何度も同じように、「しっかりしろ」や「逝くな」など、同じ言葉を繰り返す。嫌になるぐらい、燈雅様が死ぬのをやめるのを期待しているんじゃないかというぐらい、ずっと。
 子供のように無茶な理由を付けて、訪れる死を止めようとしていた。
 泣き喚いて困らせて止めようとしていたのかもしれない。
 けど、貫かれた身体は少しずつ動かなくなっていく。
 何も出来ない圭吾様は、唯一許された叫びだけを繰り返していた。
 繰り返す、何度も繰り返す、叫びを。

「じゃあな、おやすみ―――圭吾」
「いやだ、……っ、このバカ! ……と、う……」
「…………オレが教えてあげたんだから、お前らは、逃、げ」

 ――動けなくなってしまった俺は、誰か救助を呼ぶことよりも……最期の燈雅様の顔を見つめ続けることを優先させてしまった。

 声すら出ない。何も掛ける言葉も無く、消える彼を見つめていた。

 同時に、「これは夢だ」と確信を持てるようになった。
 こんなことはある訳が無い。あっていい訳が無い。そうだ、疲れたから珍しく早めに休んでしまって夢を見ているだけなんだ。
 燈雅様は気高い人だ。紫莉様に会うために外出した際に、あれほど力強く語っていたではないか。

 ――オレは当主として生まれ落ちた。当主となるべく産み落とされた。一族を守るために、一族の期待に応えられるように生きているんだと。

 その言葉を支えに彼は生きてきた。
 辛くても逃げずに、遠くへ走って逃げて行くことだって出来たかもしれないのに、しなかった。
 そんな彼が、次期当主としての道を後悔する筈がない。次期当主に選ばれたとなったら心から喜ぶ。一族の為に継承に身を委ねるものだ。
 尊く高尚な夢を抱いて、一心不乱に生きてきた彼の願いが……何かの妄言で潰される訳が無いんだ。

 そうだ、そうだ……これほど崇高な人の末路が惨めなものか。
 こんな散々な仕打ち。人生の全てを一族に捧げた彼の求めてきたものが悪だったなんて結末、あっていい筈が無い。
 ついに得られた栄光が、どう足掻いても死しかない運命だったなんて……ありえない。あってはならない!

 燈雅様の言葉を思い出す。
 ――男衾にしかオレの守護は務まらない。お前は死ぬまで当主守護だ。そのために生まれたんだから、お前はずっとオレの傍に居ろ。居てくれなきゃ……困る。
 しかしこの燈雅様は死んでしまった。ここでは俺の役目はおしまいだ。……早く悪夢から覚めて本来の役目に戻らなければならない。こんなに深い夢を見たのは初めてなのだから、きっと現実世界では自分は寝坊していることだろう。
 朝から「男衾が寝過ごすなんて珍しいな」と彼に笑われる。そうなってしまう前に、早く、目覚めなければ。早く、戻らなければ。
 本来の彼の元へ。

 そう思っているのに、一向に目が覚めてはくれなかった。

「……おい、男衾? お前、何を……!」

 声はまだ出ない。それでも早く悪夢から目覚めたいという想いが強かったせいなのか、体はどうにか動かすことができた。
 虚空から自分の得物を取り出すことぐらいはできる。
 多くの異端を、怨霊を、魔族を……罪無き者達までも命令で刈り取ってきた剣を握る。
 どのようにすればその剣が命を奪えるのか、日々振るってきたものだから理解している。それが自分の体にどう滑り込めれば簡単に終われるのかも。

 ――俺は、早く燈雅様のもとにいかないといけないから――。
 そのために生まれてきたのだから。「いないと困る」とまで、言ってくれたあの人の元に……逝かないと。

 圭吾様に伝えようにも、震えて声が出なくなってしまった喉は何も音を告げることができなかった。
 だから視線だけで――貴方も早く燈雅様のもとにいってあげるといい――と告げ知らせて、左胸に刃を刺し込んだ。
 圭吾様が俺を見て、目を見開く。
 だが燈雅様のときのような叫びまでにはならない。俺の動きを理解して、納得したような顔をしていた。
 ……圭吾様もまた、覚悟を決めた顔だった。
 おそらく俺と同じように、悪夢から目覚めるために彼もまた……。

 夢だというのに左胸を貫いた痛みを感じる。
 悪夢というものは苦痛を伴うものなんだろう。
 しかし剣を刺し込む痛みよりも、夢とはいえ燈雅様を失ったことの苦しみの方が何倍も酷い。
 そうだ。今は……俺の勝手な妄想で、燈雅様を殺めてしまったことを悔いなければ。
 彼を逃がしてあげたいと思った俺が、死という手段しか考えられない拙い俺の脳が、『燈雅様を自殺させる』なんて安直な世界を思い描いただけなんだから……。
 儀式の意味なんて知らないから、変な理由付けをしてしまったんだ。ああ、ごめんなさい。……燈雅様を辱めたのは、何者でもなく俺だったのか……。

 目を閉ざし、悪夢を終わらせる。
 梓丸にからかわれる前に早く目覚めて、燈雅様のもとへ駆けつけよう。そう何度も考えながら。



 ――2005年12月28日

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 /8

 過去千年に三回行なわれ、二回は失敗に終わった大魔術に挑まなければならない。
 誰だってそんな大きなものに挑むのは初めてだ。『機関』の中でも年長者の魔術師である、貫禄がある航先生ですら古書を引っ切り無しに読み続けている。どんなに熟練者であっても緊張はするものだった。
 しかし儀式が近いとはいえ、もう遅い。手順の最終確認は明日にしようか。
 そう思い始めるぐらいの深夜、内線の黒電話がけたたましい悲鳴を上げた。

「はぁ、悟司。私が出ても構わないよね?」

 俺が電話に出るものだが、ちょうどそのとき俺は自室に戻って寝ようと片付けをし始めていたところだった。
 書類をあるべき場所に戻すため、電話から少し離れていた。読書に没頭するためデスクに向っていた航先生の方が近かったため、必然的に彼が電話を受けることになる。
 俺専用の携帯電話に掛けられたものではない。この研究部屋に向けられた連絡なのだから、俺が取らなくてもいい筈だ。応対は上司に任せて、俺は片付けを……。

 している最中、航先生が鋭い怒声を電話口に浴びせた。

 眠気も全て吹っ飛んでしまいそうな、衝撃。
 普段穏やかで、溜息ばかりつき、間延びした口調の男だったというのに、そんな声も出せるのか。
 顔色を見てみれば、悲痛さが伝わるほどに動揺していた。これほど電話の先へ……いや他者に声を荒げている先生は初めて見た。
 生まれてから三十五年、仏田寺で育ち、『機関』で働き、産まれる前から知っているような人の新しい顔を拝見するなどと思わなかった。

 受話器を持った彼は、あまりの焦りからか真冬だというのに冷や汗をかき始める。
 そして次第に語が怪しくなっていく。元から整っていない髪を掻き乱し、あーだこーだ喚き始めた。

「なんてことをしてくれたんだ!? それじゃあ、どうしろって言うんだ! 決行は12月31日だぞ! その日に全てを行なうように進めている! なのに……どうして!? 他にどんな手段がある!? 思いつけ! もし延期するとしたら次に妥当なのは……!?」

 彼は一人で何か議論をし始めてしまった。人が変わったように慌てふためく航先生から受話器を奪う。
 一体どうしましたと彼に訊くよりも、もう一度電話の先の人物に事情を教えてもらった方がどうも手っ取り早い。元々航先生は(頭は良くても)口は上手くない人だ。こんな状況で要点をまとめて話してもらうことは不可能だろう。

「俺だ、悟司だ。何があった? 一大事でもあったのか?」
『…………兄貴か……』

 声の主は圭吾だった。
 珍しい、圭吾がここに掛けてくるなんて。ああ、心霊医師のシンリン宛になら電話を掛けてくることもあるか。シンリンはこの研究室に比較的居るし、立場上一族の誰にでも声を掛けられる。
 そのシンリンならもう自室に戻って寝ているのだが。
 電話先の圭吾の声は、力が無い。男らしい覇気など一切捨てて、まるで子供のようにか細くなっていた。
 温和な弟らしくない声色と、航先生の慌てる様、どちらを考えても良いニュースが聞けるとは思わなかった。

『………………燈雅が、死んだ』
「……。何を、言っている」
『死なれたんだ、誰かこっちに来て……どうにかしてやってくれるか……』
「馬鹿な。……次期当主様が死んだ? 当主守護の男衾はどうした? あいつは何をしていたんだ。男衾がいながら燈雅様が殺される訳がなかろう?」
『すまん、兄貴……あ……そうだ……兄貴に訊いておきたいことがあったんだ……』
「待て、圭吾。お前の言うこっちとは何処だ? 本殿か? それとも離れか?」
『…………兄貴は、これから行なう儀式が何なのか……知っているのか?』
「答えろ。……離れだな? 離れに居るんだな? 一番近い屋敷に居る者に駆けつけさせる。何者かが侵入して燈雅様を殺したというなら、まだそいつは仕留めていないな? お前が仕留められる訳が無いから……圭吾、出来るだけ身を隠せ。死なれたら証言が取れなくなるから面倒になる。自分の身を守ることを優先しろ」
『兄貴……すまないが、答えてくれないか……俺も混乱していて、動けないんだ……でも、それが真っ先に知りたい……教えてくれ……』

 次期当主様が死んだ。理由は判らないが、おそらく圭吾の声色からして……燈雅様が亡くなった瞬間を見たか、死んだ直後を目撃している。
 圭吾と燈雅様は親しい仲だった。『仕事』を終えて寺に戻るたびに燈雅様へ報告しに行き、食事を共にするほどの仲になっていたぐらいだ。次期当主様を失ったというより、親しい友人を失ったショックで茫然自失になっているんだろう。
 その正気ではない状態で、ほぼ一般人と変わらない圭吾が何者かに襲われでもしたら……何も聞き出すことが出来ない。
 実の弟として圭吾は大事だ。だがそれ以上にこの場を保たなければならないという義務が、俺には生じている。

 航先生が慌てているように、次期当主様の死は非常に厄介な問題だ。
 何故って、当主様を継ぐ人物が居なくなったんだ。これ以上の大事件は無い。……出来れば九死に一生を得てもらわなければ。すぐさま駆けつけて本当に死んでいるのか確認しなければ、本当に大問題になる!

『兄貴……兄貴……どうなんだよ、知っているのか……?』
「圭吾、落ち着け。正気に戻れ。電話は一旦切るぞ、別の部署に連絡して今すぐ誰かに向かってもらうから」
『兄貴っ!』
「…………ああ、知っている。知っているとも! 女神様の復活がどうした! 『蠱毒色の魔鏡』を現世に再臨させることこそ一族の悲願だろう! 仏田の千年があと数日で『終わる』ところだったのに、燈雅様が死んだとなったらそれも……!」

 ――――終わる、のか。

 圭吾が呟く。
 ボソリとボヤいたような不明瞭さに少しだけ寒気を抱く。
 そしてブツリと電話は切られた。

 まるで圭吾の息の根が止められたかのような不吉な切断。
 何者かが圭吾を襲ったのか。それとも正気ではないあいつが、受話器を乱暴に置いたからなのか。

「ああ……ああ、どうしよう……どうしよう、どうしよう輝! 器が無きゃ、完遂できない……このままじゃあ……失敗だよ、何も得られないまま、全部失敗して……何も出来ないまま、終わっちゃうよ……ああ、けど……確かに、魔王があれば、それだけで贄として、しかし、復活できても全部揃わなきゃ意味が無い……!」

 確かめるには、まず彼らが居るだろう離れへ人を寄越さなければ。
 航先生のように動揺している場合ではない。駆けつけられそうな者達へ、すぐさまダイヤルを回した。




END

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