■ 039 / 「落涙」



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /1

 殺戮の炎を見た。
 みんな燃えた。いきなり燃えた。僕も、例外じゃなかった。

 極寒の境内。燃え盛る赤。灼熱の渦。真っ赤な波が全てを攫って真っ黒へと変えていく。
 家屋が焼かれていった。庭園も山奥の森も全て焼き尽くす。倒れ伏した人間達を悉く覆っていく灼炎。皆を灰にして跡形もなく食らうまで暴走は続く。
 延々と続けられる炎の海波の中、僕は目を開けていた。
 僕の体を守るように覆い被さる志朗お兄ちゃんが、全部盾になってくれたから。

 まだ燃えていない廊下の上で、志朗お兄ちゃんが覆い被さっているだけ。
 炎は迫ってくる。いずれ世界は燃える。上に乗っかっているお兄ちゃんを退かして逃げない限り、僕もいずれ死ぬだろう。
 そんなの僕を炎から庇ったお兄ちゃんだって馬鹿じゃないから判っている筈だ。でもお兄ちゃんは、切り込む炎の波から僕を救おうと身を挺して守った。
 だから一っ時だけ生きた。お兄ちゃんはその場で死に、僕は目を開けて呆然と抱き締めていられるぐらいには、生き残ってしまったんだ。

 周囲が赤に染められていく光景を思い出す。
 まだ僕が生きていることを嗅ぎ分けたように炎が迫ってくる感覚も覚えていた。
 早く僕に乗っかる死体を追い払って、自分だけ安全な所に逃亡しなきゃいけないなってことも判っている。
 そうでもしなきゃ他人を庇って自分を殺した志朗お兄ちゃんに申し訳が立たないってことぐらい、すぐに理解できていた。

 それでも、格好つけな彼の背中が燃える匂いを嗅いでしまったら。
 目の前で死んだ人の顔を直視してしまったら。自分が守られて他人が死んだんだと意識してしまった。正気など、失くす。
 大声も上げられない。泣き喚きもできない。覆い被さって動かない体を全身で抱き締めながら、呆然と空を紅蓮に染めていく炎を眺めることぐらいしかできなかった。

 ――唐突に、意識は真っ白に途切れる。
 科学的な理由はよく判らないけど、吸える酸素が無くなったから気を失ったとかそういうことなんだろう。逃げる前に意識を手放した僕は、次に目を開けたとき、不思議な空間に蹲っていた。

 上も下も右も左も判らぬ、真っ暗闇の中。
 呆然と立っていて、腕の中には何も無い。伏せた志朗お兄ちゃんの体も無ければ、周囲を取り囲む火も見当たらない。
 何にもない真っ黒の中に僕一人だけが取り残された変な世界。スポットライトが当たっていないのに両手の皺を数えられる。
 夢の中か。もしくは死後の世界か。空が渦を巻いて歪んで見えたから異世界だと納得することにした。

 そんな中で、出会った。
 同じ暗闇の中で、目の前に立つのは小さな少女。
 僕の半分ぐらいしかない体躯。黄金に輝く髪。少女だというのに大人びた緑色の瞳。可憐な姿と滲み出る聡明さ。
 思いついた言葉をそのまま口にするなら、天使だった。

「私は、『龍の聖剣』の名を許された者」

 その容貌に相応しいと言える、鈴のような声色。死に装束を纏った少女は右手を僕へと向けてくる。

「仏田 新座。このままだと大勢の人達が死ぬわ。人々が死ぬ原因が貴方の近くにあるから。みんな死ぬ」

 握手を求めるように。自分が僕を導く存在であると言うかのように。

「その死を、神は、世界は、許さない」

 彼女は続ける。泥色の世界にぼうっと漂う僕へ声を届けてくる。
 みんな死んだ、みんな殺された、それでいいかと次々と。

「こんな死に方、貴方は認められる?」

 鼓舞する言葉を呑み込んで、「はい、そのままでいいです」なんて出来るほど僕は白状じゃなかった。
 女の子が僕をスタート地点に連れてきてくれたというのなら、あとは用意されたチャンスを掴むだけ。

 リプレイ。
 リトライ。
 リスタート。

 二度目が、初まる。



 ――2005年12月23日

 【     /      / Third /      /     】




 /2

 住ませてもらっている教会は主要駅に近くあって、活気のある商店街があることからいつ訪れても賑やかだった。
 今の季節はクリスマス一色。どこもかしかもサンタクロースやプレゼントボックスが目につく。子供の頃はなかなかありつけなかったケーキも、今ではすぐに買いに行けるぐらい近場に広がっていた。
 それどころか今の僕はケーキを作って他人に振る舞っている。夕方過ぎまで宿舎のキッチンに入り浸り、明日のクリスマス会で子供達へ配るためのお菓子を作り置きをしていた。
 一仕事終え、約束をしていた鶴瀬くんと合流。お互いすることがあるから十八時に会おうと約束したのに、気が早くて僕らは十七時半にはカフェで会合を始めた。

「これ、鶴瀬くんの分のケーキ。手作りだから早めに食べてね」
「はわ、嬉しいなぁ! 新座くんが作ったの? お菓子作り上手いんだね! 大変だった?」

 クリスマスツリーの形をしたカップケーキを作るのも……これで三回目だ。
 なにせ僕は、2005年のクリスマスを迎えるのは三回目だったから。

「むぐー、お料理よりラッピングする方が時間が掛かったよ」
「はわー、すごい。今すぐ食べちゃいたいぐらいだ」
「お店の人に怒られちゃうよ! ダーメ!」
「はわぁ……冗談だよ」

 僕の方が年上でお兄さんだから鶴瀬くんは弟として振る舞ってくれているのか、実はカップケーキが大好きなのか。優しい男の子は幼く目を細めて微笑む。
 二歳も年下なのでついつい可愛がってしまうが、先ほど駅前で僕を待っていた鶴瀬くんを発見したとき、あまりにも大人びていてビックリしたもんだ。
 がっちりと引き締まった闘士の体躯。皺の無いシャツとスーツと黒のロングコート。待ち合わせ場所で佇む姿はなんだかモデルさんみたいで格好良くて、人々の目を引き寄せていた。
 初めてネクタイを締めて寺にやって来た日も思ったけど、僕が思っているよりも鶴瀬くんは外では雄々しく清楚に振る舞っている。お世辞でなく、小さくて泣き虫な鶴瀬くんは「凛々しい」「凛とした」という形容詞が似合う男性に成長していた。

「むぐ、今日も朝から忙しかったんでしょ? よく寺から抜け出してきたなー。……藤春さんちの一件で慌ただしかったよね」

 子供の頃、僕の後ろについて来る雛のような印象が強かった彼を駅前で探そうとしたとき……遠くから彼を見たら、街行く他の男性達とは違った精悍さを感じずにはいられなかった。
 僕にとっては唯一「弟」と呼べる存在だから可愛がってしまうが、見た目を考えるとこんな子供じたクリスマスプレゼントは失礼だったかもしれない。

「最近は特に休みなしだよ。今日だって無理を言って新座くんに会いにきたぐらいだし」
「そんなに? それだけ寺で鶴瀬くんが頼りにされているってことだね」
「入社一年目どころか仏田に入門してまだ三ヶ月経ってないから、今が頑張りどきだよ。……美味しいプレゼントをありがとう。ごめん、俺、何も用意してなくて」
「いいってー、こんなので良ければいくらでも作るしー。鶴瀬くんが良かったら毎日作って食べさせちゃってもいいんだよー」

 言いながら、『実際、鶴瀬くんにケーキを作ってあげるのは初めてだな』と思いを巡らせる。
 家出後、彼と一緒にケーキを食べに行ったことはあった。鶴瀬くんが買ってきてくれたケーキを食べさせてもらったこともある。でも……2005年を三度繰り返した訳だが、このケースは初だった気がした。

 いつかの世界で悟司さんに言われたことを思い出す。
 ――君はヘタクソすぎる、という一言。
 ケーキ作りが、じゃない。未来を変えるために時間を跳躍する力を得ていながら、万能を授かりながらも何も出来ていないことに対して吐かれた言葉だ。
 三回目のクリスマスならもう手あたり次第の可能性を潰せたかもしれない。でも僕は『鶴瀬くんを使う』という手段を今日まで成し得なかった。
 本日、鶴瀬くんと会う約束をしたのは他でもない。
 これからのために鶴瀬くんの力を利用するからだった。

 オーダーした僕のキャラメルドリンクと彼のコーヒーが到着してから、本題に入る。
 ちなみに、この席は四人掛けのテーブルだ。僕の隣には小さな少女が座り、僕が頼んだパウンドケーキを食べている(鶴瀬くんには見えない存在なので、どんどんと減っていくケーキは僕がいつの間にか食べているように見えるだろう)。
 暫し世間話と温かい飲み物を堪能し、頃合いを見計らって「そろそろ鶴瀬くんに調べてもらったこと、訊いてもいい?」と切り出した。

「新座くんが視た『未来視』の話だよね」

 鶴瀬くんにはそう告白しておいた。今年の12月31日に、仏田寺に居るみんなが死んじゃう夢を見た……と。
 「すっごく怖い夢だったから万が一を考えて、仏田寺で働いている鶴瀬くんに変なモノがいないか調べてもらいたい」って頼んだ。「未来を読む『未来視』の異能があることは知っているし、強い感応力師の新座くんがその能力の目覚めて苦しんでいるのも、理解できる」と頷いてくれた。とっても真剣に話を聞いてくれて、仏田内を調べてくれるとも言ってくれた。

「で、俺なりに危険な人物が狙っていないか調査しようと思ったんだけど」
「うん! 何か判ったの!?」
「新座くん。俺はね、もう仏田一族なんだよ。つい先日やっと君の家族になれたんだ」
「う、うん?」
「俺はこの立場を気に入っている。この地位に立つために半年間研修を耐えてきたからね。だから自分を危うくする橋は渡れない」

 ずずっと砂糖もミルクも入っていない真っ黒なコーヒーを飲んでいる。
 はわはわした柔らかい笑みではない、大人な顔で。

「…………。調査して何か判って、言えないの?」」
「ううん。調査しようとしたけど『明らかに突いてはいけない藪』だと判ったから、何もしなかった」
「……何それ」

 それは、何の意地悪?
 尋ねたかったけど、意地悪なんかじゃなくて寧ろ鶴瀬くんは優しい対応だった。
 何かに気付いて、僕に話してはいけないことだったら、嘘をついて秘密にする。「何にも無かったよ、何も心配することはないよ」って言えばいい。
 だというのに、わざわざ『みんなが死んじゃう何か』が危ういものだと自覚があって、敢えて調べないという行為を明らかにしている。
 胸は気持ち悪くて堪らないが、在り方は憎めなかった。

「むぐ……理由は、言える? 言えないものかな?」
「君は大切な従兄弟だ。大事な君が自分の家族を愛し、救いたいという気持ちは尊重する」
「い、いきなり上げてきたね?」
「だが『俺は知り得た情報をもとに今の立場を維持することを優先する。君の心を蔑ろにしようとも。』それが自分にとって最良だと判断した」
「…………」
「この話は終わりにしよう」

 ……僕は仏田一族に大切にされている人間だ。
 家出をしたくせに手厚く扱われているし、勘当もされずに年末は実家に帰ってこいって言われるぐらい甘やかされている。
 だが仏田一族に仕える鶴瀬くんは、真の血縁でもないから職務を脅かすものは徹底的に排除したがる。
 僕を守りながら危機を越える。それは、立場ある者なら当然のこと。
 みんなが死んじゃう夢を見たと話した僕。仏田一族に危機が訪れると知った彼。だがその危機は、鶴瀬くんにとっても危機であり……見向きもしないことが最善だと判断されてしまった、ってところだろうか?

「……鶴瀬くんが何とかしてくれる。そう信じていいの?」
「この話は終わりにしよう」
「鶴瀬くん。僕は、安心したいんだよ。……怖い夢なんて信用してもらえる筈が無い。でも数日前の君は真剣に心配してくれたよね。あのとき、ほっとしたよ。だから今まで普通に暮らせていた。出来ればもっとほっとさせてほしい」
「だから新座くん、この話は」
「そ、その前に言わなきゃいけないことがあったね! 調べてくれてありがとう! 忙しいお仕事の中で色々探ってくれたんだろ!? ごめんね、ありがとう! 鶴瀬くんが何とかしてくれたなら僕も『今回は』安心して帰省できるよ」

 彼は、何も言わない。
 「俺が何とかしたよ」とか、「君はもう心配しなくていい」とか、僕を安堵させるもう一押しの言葉を言ってくれない。
 さっきちょっと怖い声色で早口に伝えたあの言葉が全てだったというのか。
 でもあれだけじゃ、「何かをした」のか「何もしていない」のか、判断がつかない。
 更に追及したかった。けど迎えの席の鶴瀬くんは、ふにゃりと笑う小さな弟ではなく……駅前で見かけた凛々しく精悍な青年だ。表情は冷徹のまま崩れず僕の目の前に座っていた。

「むぐ……えっと、仏田寺って広いけど防犯がきちんとされているじゃん。お宝がいっぱいあるし、人もいっぱい住んでいるからさ。そんなところで何かが襲ってくるとか、ありえないよね!」

 もしそんなことあるようだったら鶴瀬くんみたいな働き者のみんながすぐ察知するだろう。だからもう何てこと無い……。

「確かに、何かが外から襲い掛かってくるなんてことは無いだろうな。あそこの結界は完璧だ」
「だよねー! 三十年近くあそこで暮らしていたから知ってるよー!」
「山門からしか人の出入りが出来ない。四方は壁で区切っているし、頭上だって強力な結界が施されている。外から何者かが攻めてくるなんて」
「い、一度も無いよね! うんうん、だから対策がバッチリしちゃえばみんな安全なんだって判ってるよー」
「一度だけはあるよ」

 鶴瀬くんの表情が変わった。
 冷徹な鉄仮面のようだった彼が、間違ったことを言った僕に対して正しいことを教える……厳しくも優しい先生のような暖かい声へと変貌した。

「1994年に一度だけあるよ。1994年の8月だ」
「……前から思っていたけど鶴瀬くんって歴史好き? 年号を覚えるの得意だったでしょ?」
「は、はわぁ……。社会の教科書が楽しくて一日中読んでいられる子供だったよ」

 1994年って、11年前だ。わりと最近じゃないか。そんな事件があったのか。

「火事があったんだけど、新座くんは知らないのかい?」

 ……火事。
 先月は100年前にあった大事件の話をしてくれた。それに引き続いて……また火事?
 いや、蝋燭や煙草が原因で火事なんて1年に何度あってもおかしくない事件ではある。でも……外から攻められて火事って、おおごとじゃ?

「本殿が放火されたんだ。外からやって来た人によってね」
「……それ、初耳だ」

 11年前だと僕は……十八か十九歳ぐらいで、ずっと仏田寺にいた。
 中学を卒業した後は犬の散歩ぐらいしかお外に出なかったのに、そんなの全然知らない話だった。

「新座くんが知らなくても無理もないと思うよ。きっとみんなが新座くんに知らせたくなかったんだ。自分の家が『悪意で燃やされそうになった』なんて考えたくもないだろ?」
「そりゃあ、そうだけど……」

 あの頃は精神的に落ち着いていたとはいえ、それでも僕はみんなから優しくあやされていた。
 「変な悪意を受け取って発狂されたら困る」と思われて、敢えて知らせないことにした……そう言われても何も言えない。

「むぐぅ。その人はどうしてうちに火を点けたの?」
「元々裏切りの兆候のある危険視されていた協力者だったらしい。退魔業で協力した外部の能力者なんだけど、仏田家と金銭トラブルがあってね」
「お金の問題かぁ」
「心の弱みにつけ込んだ異端に体を乗っ取られて暴走した……と記録にはある。そうだ、新座くんは直系本家だから知らされているかな? 照行様の奥方である『時雨様の事件』は知っている?」
「…………。うん。志朗お兄ちゃんとあさかくんに殴られて痛かったよ」
「は? ……あさかって、藤春様の、お亡くなりになった次男?」

 鶴瀬くんに言っても、きっと判らない。
 僕が話しているのは『二番目の世界』の出来事。……8月。お盆時期。帰省した志朗お兄ちゃんと僕、それと『帰省できたあさかくん』の出来事だ。
 時雨おばあちゃんを殺した悪霊が、僕の器に乗り移ったという……僕には記憶はてんで無いけど、全身筋肉痛に襲われ、腹部の大きな青痣が数ヶ月残るという大事件があった。

「俺の言ってる時雨様の事件というのは……今年の夏にあったやつだよ。『新座くんが主導して、燈雅様と一緒に時雨様の姿をした怨霊を狩った』やつ。君が悪霊が出現するって未来予知してくれたやつさ。あさかという子は関係無いと思うよ」

 思い返しながら、チラリと隣を見る。
 鶴瀬くんからすると僕がただ視線を外したように見える、その行為。目線を向けた先には……鶴瀬くんには見えない小さな女の子が座っている。
 『龍の聖剣』と名乗る金髪の女の子は、無言でコクリと頷いた。

 ――僕にとって『この世界』は、『三回目』だ。
 『前の世界』で、僕は生きているあさかくんに出会った。……『一回目』では死んでしまったあさかくんに再会できていたんだ。
 と言っても僕が『再スタートした世界』は2005年の10月からなので、2005年の8月にあった全身筋肉痛事件は『僕の器に宿っていた記録』に過ぎない。『別の世界から飛んできた魂』が、『この世界の僕という器』に入って、『その器に刻んできた記憶』を読み取って得た知識。
 それでも確実に『この世界の僕』が体験したことで、『今の僕の確かな記憶』だった。

「む、ぐ。そう、だね……。あさかくんは関係無いや」

 思い返したのは、『二回目の世界』。
 そして今、鶴瀬くんと話しているこの世界は……『三回目』。僕のお腹に青痣は無い。
 器に宿る魂から引き出せるのは、『前の世界で酷い目に遭った僕が、燈雅お兄ちゃんを誘って事前に時雨おばあちゃんを成仏させた』記憶だ。

 ――ちなみに、『前の世界の僕の魂』が『この世界の僕の器』を乗り移ったというなら、『本来、器にいるべき僕の魂』はどうなるかというと。
 同じ自分の魂なので全ては融合し、三つ存在するところが一つにまとまってくれている……らしい。
 別の魂に押し潰されて消滅したのではなく、合体したってことだ。僕らが他者の魂を得て刻印から体へ収納するのとは違って、今の僕の体には複数の僕の魂があるのではなく、一つしかないことになっている。
 魂はいくらでも大きくできるし記憶も引き継ぐことができ、蓄積されていく。この世界の僕が死んだのではなく、ちゃんと一番目の僕と二番目の僕と三番目の僕が共存し、一人になってくれた……とかなんとか。
 全て聖剣の受け入りだが、って、そういう話じゃなかった。
 ただ記憶を彼女に確認したかっただけだったのに、脱線しすぎだ。

 さて、鶴瀬くんは鞄から報告書を取り出した。以前、志朗お兄ちゃんと行った冬の遊園地で読んでいたような書類の束だ。
 無作為に過去の報告をまとめたものだ。紙面には気が遠くなりそうな細かく薄いワープロ字の嵐が広がっていた。

「その男は怨霊に体を乗っ取られて、仏田の宝が多く眠っている本殿に火を放った。宝って、金銀財宝じゃないよ。まあ男本人は『金目当ての裏切りだ』って発言したみたいだけど。異端としては……当主様である光緑様を殺そうとしたんだ」
「む、むぐっ。どうしてそんなこと?」
「直系第一位光緑様の血肉と魂はに宿る特異能力は……異端にとって宝だ。新座くんにも言えることだけど、仏田家の直系は一般人とは比べ物じゃないぐらいの魔力を宿している。犯人は仏田一族と同じ『同化』と『略奪』の能力の持ち主だったと言われている。とても魅力的な能力の持ち主だったけど、怨霊に憑りつかれているとなったら予兆があり次第抹殺するのは当然。……すぐさま処刑したらしい」
「……えっと。犯人の言い分は『お父さんを食べてしまえばいっぱいレベルアップできるから襲った』ってところなの?」
「うん。犯人は処理を担当した一本松様にその場で処刑された。だから事情聴取なんてできなかったけど、一本松様やその場にいた処理班の人達はそう話している」

 事情聴取は、出来なかったんだ……。

「けど騒ぎが大きくなる前に何とかできたのは、犯人が放火の瞬間をすぐに一本松様達が発見できたからだって。彼だけじゃなく航様とか上層部の人間が近くにいたから的確な行動ができたんだってさ。いつまでも下っ端達が騒いでいるだけだったらきっと大事件に発展していたね」

 そっか。すぐに犯人を取り押さえられたから騒ぎにならずに済んだのか。
 犯人にとっては運が無いが、偶然にも『本部』メンバーが発見したからこそなんだ。お父さんは無事だったと思うと思いがけない巡り合わせに感謝しなければ……。

「怨霊に乗っ取られた男って……協力者の人って、どんな人だったの?」
「協力者として何年も前から仏田の敷地内に出入りしていた人だった。寺で住んでいるんじゃなくて、数ヶ月に一度やって来る人だったから……定期検査なんて受けてない。外から悪いモノを引き連れてくることも充分に考えられる」
「うん……」
「『いくら結界を張ったりしても限界がある。じゃあこれからどうする?』ってこの事件は大きな議題で盛り上がったそうだよ。外部の人間が運んでくる悪種をどうするべきかって。……いっそ仏田一族以外は境内へ一切立ち入りを禁ずるべきって声もあった」

 そんなぁ。一切の立ち入りを禁じたら、僕らはどうやって生きていけばいい。
 食糧だって業者に届けてもらっているし、一生閉じこもる山中の魔術師達に生活力があるとでも?

「はわ、よく考えなくたって現実的じゃないよな。……長年協力者として心を許していた能力者ですら、怨霊は利用して貴重な血を狙おうとしてくる。事件を担当することになった一本松様と航様は以前にも増して警戒度を高めた。現に、犯人はその場で息の根を止められても放火されて被害も出ていた。厳しくする理由は大いにある」
「厳しくしたとしても、10年後の今年に時雨おばあちゃんの事件が起きてるけどね」
「注意しなきゃだよな。現にみんなしている。8月にあった直後だしね。……だから、新座くんの未来予知は大事にする。絶対に被害が出ないように努めてみせるから安心して」

 真剣な眼差しと、本気の声色。
 直接的な回答と解決策は得られないけど、その心意気。
 ひたむきな視線を笑い飛ばすようなことはできない。熱心に現状を考えてくれている鶴瀬くんは、信頼できる目をしていた。
 たとえ危ういものを教えてくれないとしても。
 仕方ない。僕だけ仲間外れにされたとか、蔑ろにされたとは思わないことにする。そうでなければ失礼だ。
 それにこの熱誠が演技だとか信じたくはなかった。

 いっそ全て、彼に任せたい。
 僕が警告したことで警戒ムードになってくれた鶴瀬くんがいれば、今月末に起きる惨劇を回避できるんじゃないか?
 そうだ、僕の行動は正解じゃないか?

 ……そう甘くないって判っている。微かな安堵感に騙されてはいけない。
 頭を振るった。今の自分は諦めの感情が大半を占めている。そんなんじゃ、『三回目の世界』も結末が変わらなくなってしまうだろう。
 意識を変えよう。鶴瀬くんが持ってきた書類をパラリと捲った。……嫌になるぐらいどれも細かすぎる文字だらけだった。

 ――朱指本部第一捜査部隊の報告。容疑者は機関所員の到着後、事件現場の本殿屋敷口にて放火を図ったのちに大館丘へ逃亡し自殺を図った模様。所員の捜索により犯人を発見。死亡を確認。火災と追跡による被害者は無し。容疑者の氏名は藤岡 輝(四十)。

「えっ。……なっ!?」

 目についた名前。もう一度、指でなぞる。

 ――藤岡 輝。退魔組織『教会』に所属していたエージェント。年は、当時四十歳。

 僕は彼の年齢を知っている。2005年の今、輝さんは五十三歳だ。『僕のお父さんより一歳年上のおじさんだ』って覚えていたから、ハッキリと答えられる。
 だってそう覚えてしまうほど、僕と輝さんは関係があった。
 泣いている僕を暴言交じりに慰めてくれる人だって記憶していたからだ。

 なにより『前の世界』で、会っている。
 12月31日に。2005年の12月31日に、突如お寺にやって来て僕の前で……悟司さんに撃たれたのを、見ている。
 『前の世界の僕』は、魂にその記憶を刻み込んでいる!
 なのに、なんで……享年四十歳って、なんで!?

「お、おかしいよ……おかしいよ、これ!」
「新座くん? おかしいって?」
「なんで輝さんが死んでるのさ!? ……な、なんで、輝さんが、ほ、放火なんて!?」
「落ち着いて。……新座くんの知っている人だったんだね?」
「知ってる人も何も! この人は……!」

 この人は、生きて。
 生きて……2005年の12月31日に、僕と出会っていて……。

「その人物は研究棟から金品を盗むというトラブルを起こしていた。『何もしない』という契約のもとで境内に立ち入りを許されていたのに、裏切ってね。そんな中、異端に乗り移られて凶行を強いられたんだ。時雨様と同じく除霊することができなくて……暴走した容疑者は、そのまま高台から飛び降りた」
「なんで!?」
「乗り移っていた異端の方が観念したのかな? 異端を止めようと御本人が自ら飛び降りたのかも……」
「だからなんで、輝さんが死んでるの!?」
「はわっ。……だ、だから、その裏切り者の体に怨霊が乗り移って……」

 僕は2005年12月31日に、輝さんに会っている。
 お父さんより年上である彼は、年相応の顔をしていた。半世紀生きた人に相応しい皺の数、服装、逞しさ。あまり愛想の良くない仏頂面。彼らしいと言える暴言。僕の体感としては……たった二ヶ月か三ヶ月前に会った人だ。
 だというのに、この紙には11年前に死んでいることになっている。
 四十歳のときに死んでいることになっている……?

 死んでいると思ったあさかくんが、生きていた世界があったように。
 生きていた世界があった輝さんが、死んでいる世界がある。

 聖剣がいる方をばっと向いた。
 明らかに視線を向けたことで、鶴瀬くんが「そっちに何かあるのか」と僕と同じ方向を見た。でも彼には聖剣の姿は見えない。だから不審な目を僕に向けるしかしなかった。
 そして僕に見られた聖剣は、席についたまま目を閉じたままだ。さっきから様子は変わらない。
 僕に視線をぶつけられて、深呼吸。そしてゆっくりと口を開いた。

「この世界では、高梨 あさかは死亡しているわ。……貴方も『この世界の貴方』から記憶を引き出してみなさい。あさかのお葬式に出たって記憶が出てくるから」

 ――あさかくんは死んでいる。
 それは判ってる! 今さっき、器から引き出した!
 『二回目の世界』では生きていたのに! 今回『三回目の世界』の僕はあさかくんのお葬式に出席している記憶が蘇っている!

「ねえ、聖剣……これも、些細な変化なの? どうでもいいことなの? あさかくんが死んだり、生きてたり……輝さんが事件を起こして自殺したりすることが、世界にとってどうでもいいことなの!?」
「新座。貴方は『どうでもいい』を大きく誤解しているわ。世界は選択肢次第で変わっていくもの。私が言いたかったのは『些細な変化で運命が変わる』ことよ。その中に『どうでもいい選択』も含まれるってだけ。人の死がどうでもいいだなんて言ってないわ」
「に、新座くん、大丈夫かい? えっと、何て言ったのかな? 今、聞き取れなくて……」

 捲し立てた小声に鶴瀬くんが戸惑う。元々彼に聞かせるつもりのない会話だから聞き取れなくて当然だし、言い直してやるつもりもない。
 ……輝さんとは、長い付き合いだった。仲が良かったとは言わないけど、親しくしてくれたとは思う。
 僕の生き方を変える言葉を言ってくれた人だ。道を指し示してくれた大人だ。いっぱい悪口を吐かれて嫌な思い出もあるけど、それだって輝さんの持ち味だし……。
 どんなものであれ思い出は思い出。一緒の時間を過ごした人だってことには変わらない。
 輝さんだけじゃない。従兄弟であるあさかくんだってそう。
 年が離れているから仲良しだったといえば首を傾げる。でも、血の繋がった従兄弟だった。

 知り合いが死んでいる。一人、二人といなくなっている。この世界では、死んでいる。
 ……そして僕は、何の為に『ループ』したんだっけ……?

「……僕は、みんなに死んでほしくないから……『やり直してみない?』って差し伸ばしてくれた……聖剣の手を掴んだんだよ」
「そうね」
「やり直せば、時間を戻して、世界を変えれば……みんな生きていけるからって」
「そうね」
「…………でも、輝さんは死んでいる。もう既に、この世界では……」

 救えない。

 大勢を救おうと思って鶴瀬くんに助けを求めて、その鶴瀬くんが頑張ってみせると意気込んでくれた矢先。
 二ヶ月前に再会した輝さんは、救えないことを知ってしまう。

 実感した瞬間、涙がぼろっと零れた。
 泣いている僕を見て最初は慌てる鶴瀬くんだったが、十秒もすると……「知り合いが死んだショックで傷つき取り乱している」と納得し、沈痛な面持ちで無言になった。
 取り繕うとはせず、僕が泣きやむのをじっと待つ選択を選んだんだ。

 お店だったので僕は大声で泣かなかった。極力声を殺して涙を流した。
 何人か店員やお客さんが僕を見ていたが、指を差したり声を掛けてくる人はいない。大の大人が泣いていて、連れの男性もそれを受けとめている表情。だからかみんな見ないふりをしてくれていた。
 無言で泣き、無言で僕が泣くのを見る鶴瀬くんの構図が五分ほど続いた頃。……カフェテーブルの上に置いていた僕の携帯電話が、無言で振動した。
 紙ナプキンで顔を拭いて、携帯電話を手に取る。
 見ると、志朗お兄ちゃんからのメールが受信されていた。

「……新座くん、電話が来たのかな?」
「む、ぐぅ……ん、メールが来ただけ。志朗お兄ちゃんからだから、すぐ見なくても、大丈夫」
「いいよ、見て。俺、トイレに行ってくるから」
「…………ごめん、鶴瀬くん。もうちょっとしたら落ち着くよ。すぐ普段通りになるから。泣いてごめん……」
「ううん。待ってるから気にしないで。新座くんに無理に笑ってほしくない。泣いていていいよ」
「ダメだよ……だって、僕が泣いてると、鶴瀬くんがつられ泣きするでしょ」
「そ、それは無い! もう無い! 今年で俺、二十八なんだからっ!」

 僕が泣くよりも、鶴瀬くんの絶叫の方がよっぽど視線を集めた。

 ……小さい頃。僕が大泣きしてたら鶴瀬くんはどうしたらいいか判らなくて混乱して、一緒に泣くことがあった。
 発作がある僕はよく泣く子供だった。一方で鶴瀬くんは、普通の男の子だ。感応力で癇癪を起こす僕と違って、感受性の高い鶴瀬くんは感化されて泣いてしまう子供だったっけ。
 僕が嫌なものを視てしまって怖くて泣くと、鶴瀬くんも不安で泣く。僕とカスミちゃんがどうしようもない喧嘩をしていると、混乱して泣く。言いにくいことを追及されると、戸惑って泣く。僕らが悪ふざけをすると、怒って泣く。
 子供っぽい子供だった僕に隠れがちだけど、鶴瀬くんは正真正銘の泣き虫な男の子だ。今の落ち着いて生真面目そうな男性の姿とは想像できないぐらいに。

 そんなやり取りを思い出していたら、自然と笑みがこぼれる。涙も絶えずこぼれているが、頭の中を満たしていた悲しみは少しずつ薄れてきてくれた。
 席を離れる鶴瀬くんを見送り、(聖剣に半分以上食べられている)パウンドケーキを口に放り込みながら……二つ折りの携帯電話を開く。
 なんてことはない。志朗お兄ちゃんからの、ただの甘えたメールだった。

 特出することもない。重要そうなものも、緊急性も感じられない。
 ただ時間が余ったから僕に声を掛けただけの、ありふれた文章に過ぎなかった。

『パチンコで当てた。チョコが溢れている。今夜空いてるか?』

 今年になって職を変え、人が変わったようにギャンブルにも手を出した志朗お兄ちゃん。
 とはいえ計算高く怠惰を嫌う、根っからの窮屈な性格。ギャンブルが好きというよりは、『ギャンブルで勝つプレイをすることが好きな人』だ。
 勝てない勝負はしない。諦めも早い。必勝法には目を通し、律儀に遂行させて結果を出す。面白みの無いギャンブラーになりつつあった。

『空いてるよ。会いたいな』

 そんな人だから一発当てたら全部チョコレートになって僕のもとにやって来る。それは『どの世界』でも変わらない。
 今日作ったお菓子の材料ならまだ残っていた。もしお兄ちゃんが今夜遊びに来てくれたなら、手作りのお菓子をご馳走してあげたい。お兄ちゃんが持ってきたお菓子を添えて、ちょっと豪勢なクリスマスケーキを作ってみるのもいいかもしれない。チョコビスケットなら砕いて生地にしたり、板チョコやポッキーだったらお菓子の家を作ってもいいかも……。

 送信して夢想していると、瞬時にディスプレイが通話の画面になった。志朗お兄ちゃんが電話を掛けてきたからだった。
 すぐに返信したから話ができると思ったのか?
 店内なので電話は難しい。通話が切れたらすぐにメールで断りを入れよう……と思案しながら、考える。

 お兄ちゃんの声を聞いたら、安心できる。
 同時に、安心しきって……また泣いちゃうだろうな。
 お兄ちゃんも僕を恋しいと思って連絡してきてくれたんだ。その幸せでボロボロ泣いてしまいそうだ。
 きっと今夜もお兄ちゃんの顔を見たら、生きていることにほっとして……泣いてしまうんだ。
 ――あさかくんや輝さんと違って、まだ生きている人だから。

「……お兄ちゃんは、まだ生きている……」

 そもそも僕は志朗お兄ちゃんを……殺したくなくて、『始めた』。
 この生活を。彼女との時間跳躍を。
 みんなを死なせたくないから慣れないことをやってみたり、鶴瀬くんに助けを求めたけど、そもそもは……僕を炎から庇ってくれた志朗お兄ちゃんを守りたくてしたことだった。
 じゃあ、志朗お兄ちゃんとずっと一緒にいればいいんじゃ?
 志朗お兄ちゃんと一緒に……年末帰省せずに、ハワイへ行ったり、それこそワンルームアパートで二人っきりで過ごしていれば?
 そうすれば、いいんじゃ……?

「志朗さんから何だって?」

 手洗いから帰って来た鶴瀬くんが、朗らかに語り掛けてくる。
 なんでもないことのように「夕飯のお誘いだよー」って返した。あまりに普通な返答。鶴瀬くんは僕が落ち着いたものだと安心して笑った。

 確かに、志朗お兄ちゃんに死んでほしくないから頑張ってきた。志朗お兄ちゃんが死ななければ、僕はきっと喜ぶだろう。
 だからといって、僕を慕ってくれる鶴瀬くん……カスミちゃんや圭吾さんや悟司さん、寺にずっと住んでいる燈雅お兄ちゃんやお父さんやお母さんを見捨てていいという問題じゃない。

 「志朗お兄ちゃんだけ救えれば」なんて、動転して思いついてしまった気の迷いに過ぎない。
 意識をしっかり持たないと。そのためには嫌なことは吹き飛ばさなきゃ。涙をぎゅっと拭って、店員さんを呼び留める。ケーキを三つほど注文した。
 鶴瀬くんにとっては既に一つ平らげているように見えるけど、半分以上彼女が食べたものだ。だから今度は僕が食べる番。……だとしても三つは、言い過ぎたかもしれない。注文を目にした鶴瀬くんが苦笑いを隠しきれていなかった。



 ――1992年2月2日

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 /3

 夜須庭 航は賢い男だった。
 幼少期から魔術を習った訳でもなければ、天に愛された異能の才能も無い。仏田の血は微かに引いてはいたものの、生まれて母親と共に外へ追い出されるほど極小な期待外れだった。しかし不遇を上回る勤勉さで多くの同志を圧倒していく。
 神の模型――P−27の成功例から著しい成長を遂げた。あのホムンクルス研究の報告書は例を見ない傑作だと語り継がれるほどだ。
 以後も航は魔道具開発、新薬開発だけでなく、超越的存在に迫る禁書解読でも大いに活躍した。
 寝る間も惜しんでの猛勉強。討究。仏田という研究機関では成果が見出せない者は除外される。たとえ直系の一族であっても無能であれば処刑される。賢く運が良く勤勉家だった航は当然のように生き残った。彼が研究所の頂点に君臨するのは、必然とも言える。
 血の薄さで度外視されていたとは思えないほど『本部』へと昇格し、いつしか中央に立つ存在へと化していた。

 うるさくてなかなか会話が聞こえないぐらいの居酒屋の中、航は親友と二人きりでビールグラスを重ね合う。
 乾杯した後はお互いを称賛しあった。一年の大半を研究所で過ごす航の姿に生気は無い。だが親友の前では別だ。
 愛に満ちたりた笑みを浮かべる航など、この時間しか見られないだろう。

「……目のクマ。また酷くなったな」
「ふぇ? はぁ、そうかなぁ? 自分の顔なんて見えないから判らないもんだねぇ」
「……オマエが寝ないのはいつものことだけどよ」
「でしょう?」
「けど……二十代の頃みたいな無理な生活はやめろよ。死ぬぞ」
「いやぁ、また発掘したての古文書ってやつを見つけてもらってさぁ、ワクワクして解読してたらさぁ、すぐ三日ぐらい寝るの忘れちゃってさぁ」
「……バカ。ホントに死ぬぞ。ビールなんてカッ食らっていいのか」
「輝と一緒に飲める日なのに飲まないなんてバカしないよ」

 始めは母の為の研究だった。不遇な母を助けてやるためには偉くなればいい。そんな親孝行から研究に身を投じた。
 母が死んでからは、友人が拠り所になった。結局は自身の為なのだが、「友の為の研究」と思った方が、自主性の無い航には心地良かった。

 絶望の淵にいた自分を励ましてくれたのは、偶然出会った同い年の少年。その名の通り自分に光を照らしてくれた、眩しいほど真っ直ぐな男。
 彼が運よく現れなければ母の死に悲観し、自殺に走った。提案をしてくれなければ最初の成功例だって辿り着けなかった。『異端の王を狩る』という大作戦も完遂できずに戦死した可能性もあっただろう。
 煮詰まったら輝に相談した。不安なことがあったらすぐに打ち明ける。どうでもいいような悩みも、愚痴も、笑い話も親友に話す。時折会って自分の研究の成果を話すことは、航にとって欠かせない生活の一部だった。
 今の自分があるのは彼のおかげ。ついには直系一族でもないのに仏田の中心人物になれたのだから……航の人生には、母親と同じぐらい重要な存在として親友がいた。

「ああ、そうだ。輝に報告しておきたいことがあったんだ」
「……なんだよ?」
「魔王の目玉を刳り出すことに成功したよ」

 人が多い店で研究の話はするべきではない。数年前からそう窘められていたが、二人は構わず酒を汲みながら、お互いの内情を交わし合う。
 頭の固い航には親友の指摘はありがたい。だから最重要機密以外は何でも輝に話す癖があった。

「……前に言っていた『真祖の魔眼』、か?」
「うん。見た者を自在に操る紫色の、魅了の魔眼。僕達が苦しめられたアレ。あの正体……眼球の形をしていても、以前話した通り……『一つの生き物』だったよ。魂があって、意思がある生き物。手足が無いから動かないし口が無いから意思疎通はできないけど、アレは正真正銘『目の形をした化け物』だった」
「……目が、生き物……」
「目に変身した別の魂というか、はぁ、つまりね。魔王という男の形をした器には、『魔王自身の魂』と、『眼窩に填った魔眼の魂』の二つが共存していたんだ。奴も魂を溜め込める器だったんだよ」
「……へぇ。普通、器には魂は一つしか入らないだろ。……何から何まで、仏田に似ていやがる……」
「本当にね。ふぅ。これは憶測だけど、おそらく……仏田の始祖様が食べたという女神様と、魔王の先祖は同系統か、それこそ同一存在なんじゃないかな。ふぅ、だってさ、あまりにも似すぎているんだ。血の香りも、炎を操る力も……赤い髪も瞳も、複数の魂を収納できる器さえも」
「…………」

 ――仏田家の当主が持つとされる、赤と紫。
 それらを持つということは、魔王がどのような存在か把握できる。異端の王と恐れられていたアレは、住まう国は違えど我らが尊き神の末裔だということだ。
 そして同じように……『輝がどのような存在か』も、航には理解できていた。

 輝がビールグラスを置いた手で、自分の黒髪を弄る。
 他者からは暗示で黒色に見せている髪の毛だが、実際の輝の髪は炎のように明るい赤色だ。
 彼らが戦った魔王と呼ばれる異端の王と、同じ色。直系一族が持って産まれる炎の髪。そして瞳の色は……紫。
 航はその色を愛していた。
 「僕の前では本来の姿を見せてもいい」と言っている。真の姿を見せろとしつこく強請る航がいる。だが、ここは大勢がいる居酒屋だ。おいそれと輝が暗示の術を解くことはない。

「ふぅ、それでさ。刳り抜いた『真祖の眼』は、今……一本松くんの左目に入ってるんだ」
「……はぁ? なんであのガキが?」
「あのさ、輝。一本松くんのこと何歳だと思ってるの。僕らが四十なんだから、彼だって三十を過ぎてるんだよ。ガキって言うのはどうなのかな」
「オレの中ではいつまで経ってもアイツはガキなんだよ……」

 確かに、輝が一本松と喧嘩別れをしたとき……まだ一本松は十代の若造だった。
 以後も何度か会ってはいたが、印象強い対立をしたこともあって輝の中ではまだまだ青い少年のまま固定されてしまっているらしい。
 そうして航は語り始める。一本松には『対魔力体』という特異能力があること。他の能力者よりも魔眼を制御できるということ。寧ろ……一本松以外に植えつけようものなら『真祖の眼』に意思を乗っ取られてもおかしくないことを、つらつらと述べていく。
 実際には『機関』の子として優秀な調整を受けた悟司や圭吾という少年が生まれている。普通の人間として母胎から生まれるのではなく、魔薬で煮て術式の編んだ試験管の中で誕生した子供達なら制御できるように仕組むこともできた。だから航は機関の実験体第一号である悟司あたりに魔眼を埋め込むつもりだったという。
 一本松からの申し出が無ければ。

「……一本松から魔眼を欲したと?」
「うん。まあ、止める理由は無かったかな。一本松くんは魔王の恐ろしさを実際戦って知っている。現に魔眼を制御できるだけの力は証明できていた。この二つがあれば、自分から名乗り出ると思うよ。興味とか好奇心じゃなくて、使命感や義務感みたいなもので」
「…………」
「彼、真面目だから。苦行こそが美徳だって思っている節があるし。本人の自覚は無いけど、嫌なことでも我慢して成功させちゃうから……自分を騙せない生真面目さって短所でもあるけど、僕は長所だと思う」
「……ああ……」
「ふぅ、輝。えっとだね。実は話したいことがあるって言っていたよね。そのことなんだけど。そろそろ一本松くんを許してあげてくれないか?」
「許すって……オレは、別に今はアイツのことなんて……」
「あ、そうなんだ? 僕が勝手に君達の仲が悪いって思い込んでいただけか。そっかそっか、もう何年も前の話だもんね。はぁ、ごめんよ」
「…………」
「はぁ。ならさ、今度は一本松くんも呼んで酒宴を開こうよ。君の好きなお茶会でもいいんだよ。一本松くんはああ見えて甘い物が大好きだから、輝が好きなケーキのお店だって知ってるかも」

 やはり航は、賢い男だった。
 天に愛された才能は無くても、苦労次第で自在に周囲を動かせる努力家だ。
 今もまさに、輝を操っていた。恵まれた才能や目立った特徴が映える輝のような存在にはなれなくても、その輝を自由に操作できる。
 ついでに言えば、航は似たような会話を一本松ともしている。あの手この手を尽くし、成功していた。
 更に言うならば、輝や一本松に限らず大勢に対してこの努力を惜しまない。相手をリサーチし、機嫌を取り、自分の思うが儘に仕向ける。
 これが発芽した航の、まぎれもない異能だった。

「一本松くんが制御できている『真祖の眼』だけどさ、僕はね……。本当は、輝に持ってもらいたいと思っている」
「……なんで?」
「君なら制御できるから。君は、仏田家第六十一代目当主・和光様の第一子。本来であれば直系第一位。赤い髪と紫の眼を持って産まれた、仏田一族当主に相応しい人物」
「おい、バカ。……なんでこんな所で喋ってるんだ……」

 大勢が談話し飲みかわす、何の変哲もない酒場。なのに隠された出自を敢えて口にする。
 忌々しい話だ。輝の機嫌は当然損ねるもの。けれど航は続けた。

「輝。僕はね、君には正当な評価を受けてほしいんだ」
「……やめろよ。違う話をしろ。じゃないと帰るぞ」

 しかし航は続ける。誰に聞かれているかも判らない場所での会話に、輝が苛立ちを隠せなくても。

「だって輝。君はあの日、実のお父さんに会うために仏田寺に来た。照行様に挨拶をしたり、光緑様に一目会って終わりのつもりじゃなくて、自分が仏田家の子であることを自覚したくて来た」
「おい」
「だというのに、君はまだ何も目的を達成してないじゃないか。僕はここまで来られたよ。君がいたからね。でも君は何でも出来ていたのに、本来の目的を達成できてない」

 航自身は、輝の本来の姿を愛していた。だからこそ真の姿で表に出ることを、本人に代わって夢見ていた。
 航にとって輝は自分を生んだ母親と同等なぐらい神聖化した存在。大切な親友でもあり、自分の道を指し示した光だ。

「僕は、今からでも輝が仏田家の当主になるべきだと思っている」

 自分が評価されるようになったのも彼のおかげ。だから今度は彼を評価してあげたい。心の底から思い始めていた。

「……航。酔っぱらうには早すぎるだろ」
「どうして次期当主とされている燈雅様が適齢期である二十を迎えたにも関わらず、継承の儀をされないか。輝は判ってる? P−27のメンテで寺に来たとき、姿だけなら偶然見えただろ。あの貧弱なお坊ちゃんが、次期当主なんだよ」
「…………。あのデブ新座のアニキのクセに、体も魔力もガリガリで、今にも倒れそうな奴……」
「ち、直球すぎる悪口は変わらないねぇ。はぁ、燈雅様はね、当主としての器には相応しくないほど虚弱なんだ。次男の志朗様なんて刻印すら起動できないほど異能の才が無い。光緑様だって、名ばかりの当主だ」

 父王の赤髪も紫の瞳も受け継がなかった子供達。調整し、最高の力を手に入れたと思いきや……年に数回動くだけの器は人間としては遠い存在と化している。

「僕はね。狭山様が異能開発に熱心で『機関』を立ち上げた理由は、直系の現状を見る限り仏田一族が散々な成果しか出せてないことに危機感を募らせていたから、だと思っている。直系が結果を示せないなら、それ以外で大成させないといけないからね。ふぅ、だから分家筋を強化したり、外からの知識や血を取り込んだりと勢力拡大に尽力して……」
「なら、その狭山様とやらの頑張りを認めてやれよ。出来なかった結果を、出来ないなりに努力して成果を伸ばそうとしているんだろ。……オレは、一族じゃない。オマエらの跡継ぎ問題には関係無い」
「どこからどう見ても君は一族だ。その髪と、神の眼と、恵まれた能力。誰もが君を見たら、光緑様や燈雅様よりも、君こそが仏田の頂点に君臨するに相応しい存在だって言うだろう!」
「……隠し子に、私生児にそんな権利、無いだろ」
「あるよ。だからさっき、話したんだ。狭山様は直系が駄目ならと外の力を取り込み、我がものとして、成功した。現に僕だって血の濃さなんてあってないようなものだ。それでも中に踏み込むことができた。そして君はどうだ! 血も力もどちらも……! 認めてもらえるよ!」
「違う。違うんだよ、航」

 航はヘタクソに声を上げて親友に訴えかける。
 だが輝は声を、荒げない。目を覆い、興奮する航を冷淡に制そうとする。賑やかな居酒屋では二人が少し議論に白熱しているぐらいにしか思われない。とても静かな激闘だった。

「…………オレはあの日、父さんに認知してもらいたくて仏田寺に行ったんじゃない。話がしたかった訳でもない。……母さんが好きだった男を一目だけでもいいから見たかった。それだけなんだよ……」
「輝が真の後継者だと名乗りを上げれば、和光様は君のお母さんのことを思い出す。思い直してくれる。君は報われるじゃないか」
「航にこのことは言ってなかったな。…………初めてお前と出会ったあの日。オレな、光緑が道場で修行してる姿を見たんだ……」
「あ、うん。弟を、光緑様を発見したって言っていたような」
「……光緑が自分の弟だって、一目で判った。鏡で見た自分の顔に似ているから。オレより小さくて、オレより弱そうで、それでいて似ていたら、コイツが弟なんだって察しがついた。……実際に、弱かった」

 3月の終わり。航が休暇を取ったある春の日。
 境内にある道場で、十六になったばかりの少年が真剣を手に師と死闘に励んでいた。
 大勢が、少年の友人もが見守る中で、光緑は戦わされていた。
 床を血で汚し、敗北を認めるしかない滅茶苦茶な修行風景。歴戦の覇者である師を打ち負かすことができず涙する少年。未熟な能力者の子供であれば初々しい姿もあったと笑うことだってできた。だが。

「……あの頃からオレは『教会』に籍を置いていた。異端と戦って、家計の足しにするぐらいには腕には自信があった。だから光緑を見て、『コイツはオレより弱い』って一目で判った」
「それは、君こそが選ばれし神の子だから」
「アイツ、泣きながら武器を手放さずに戦っていたんだよ。努力していた。それ以上立ち向かっても勝てないのに、『どうして自分は弱いんだ』って悔しがりながら必死に立ち上がろうとしてた。多分……『どうすれば本当の当主になれるのか』、求められるものになれるのか、思い悩んでいる顔だった」
「だからそれは」
「そんなアイツの前にオレが現れたらどうなる?」
「どうなる、って」
「…………光緑の一生分の努力を台無しにする。『私生児のオレの方が相応しい。だから約束された当主の座から下りろ』、そんなこと言われたら? アイツは、どうなる。悔し涙を流すだけで済むか? ……燈雅だって同じだろ……」

 ……輝という男は、情に厚い。一本松はこの直情さと生易しさをひどく嫌っていたが、航はこのお安い慈悲深さに救われた一人だった。

「相手の未来のために、自分は、犠牲になるのかい?」
「…………その方が、アニキらしくてカッコイイだろ。……なんてな」

 眼前の戯曲を笑い飛ばせない。
 どんな人間であれど、たとえそれが異端の王であれど、安直にも愛を抱いてしまう。
 人情に厚いというべきか。
 現に航は慈愛に満ちた輝の言葉で、絶望を乗り越えた。同じように悔し涙を浮かべて努力して成果が出せなかった実弟・光緑を……同じように慰めようとして、何がおかしいか。
 実際に輝が光緑に声を掛けたことはない。『光緑の前に姿を出さない』ということ自体が彼を激励する意思だった。
 自分は名乗り出てはいけない。もし名乗り出たら、腹違いの弟の人生を奪うことになる。だから遠くで弟の存在を発見できた、それで「良かった」と言えた……のだという。

 航には、納得できない。
 だが『彼の直球の真心に、救われた自分』と同じように、『光緑の心を救おうとした』という話は納得できてしまう。
 一本松がルーマニアの狩りで抱いた怒りを理解してしまって、航は言葉を失った。
 ……賢い男ではある航なら、すぐに次の理論をぶつけて輝を言い負かすこともできた。
 けれど、愛に溢れた輝を尊重したかった。そんな輝を愛してしまっている。航は、それ以上強く言うことができなかった。

「……オレは仏田一族のやり方が、気に食わない。先祖が大事だからって、子供を束縛しているあの世界が異常だと思っている。だけど、愛している。母さんがいた場所だし、愛した人がいる場所だから。オマエだってオマエなりに仏田を愛しているから、仕えているんだろ?」
「僕は……」
「仏田は、今のままで歩んでくれればいい。そこにオレは、いらない」
「……。君は、いらない……?」
「いらないだろ。……オレが今までいなくたって、オマエらは成果を出してきた。……オイ、オマエらのしたいことって何だ?」
「神を蘇らせることだよ。始祖様は全人類の平穏を願っている。尊い人だ。始祖様の願いを叶えるために、神を……」
「神様を蘇らせれば人類皆平和なのかよ? ……いつ聞いても良い話だな。最高じゃねーか。オマエ達がやりたいことをやっていればいい。……オレはこれからも航を、一本松を、光緑を支持する。……オマエ達なりに頑張れよ……」

 だからオレを巻き込むな、と。
 偽物の黒い目を伏せながら、声援と、懇願をした。



 ――2005年12月24日

 【     /      / Third /      /     】




 /4

「むぐ……お兄ちゃん、放してぇ……」
「放さない」
「むーぐー……苦しいよぉ。僕は枕じゃないー……」

 実は僕の体格は良い。甘えん坊の末弟だから大勢に子供扱いをされているが、小学校の頃からクラスでは背が高い方に分類され、席も黒板から遠くに配置されている程だった。
 食べることは好きだし、実際体も人並み以上に大きい。だから輝さんはそんな僕を意地悪でデブだの何だの言ったんだ。……よく食べ、かつ運動は好きじゃないと言いふらしていたから、その評価も判らなくはなかった。

 教会の宿舎で使わせてもらっているワンルームに、大きめなベッドを発注した。
 長年畳の上で過ごしてきた人間特有の憧れで、「家出したならベッドで眠る生活にしたい」と夢があったからだ。どうせ注文するなら大きい方がいい、だって僕は体が大きいし、とワクワクしたのを思い出す。
 数ヶ月前の話なのに、もう何年も前の話に思えた。
 それは『世界をいくつか跨いだから』だろうか。

 夢を叶えるのも大事だったが、大きめなベッドにしたことは正解だった。
 志朗お兄ちゃんが僕の部屋に泊まりに来るとなったら、一緒に眠る場所は一つしかないベッドの上。人並み以上に大きなベッド。たとえワイドでもシングルにしなくて良かった。
 大の大人が二人重なって眠れる大きさのおかげで、今夜も暖かな時間を過ごすことができる。そのせいで部屋の家具が減っている(具体的には、このワンルームにはテーブルが無い。「買いに行くか」と志朗お兄ちゃんに言われたこともあったが、『別の世界』の話だ)が、ベッドの上で食事をすることに二人して慣れてしまったので問題無かった。
 甘い物はさほど得意ではないと言いつつ、僕の作った物は食べきる志朗お兄ちゃん。明日教会(このときの教会は退魔組織ではなく、街に住むみんなの教会だ)で行なわれるイベント用に焼いたカップケーキを、チョコやクリームやジャムで味を変えながら美味しいと食べてくれた。
 僕もお兄ちゃんの買ってきてくれたビール缶とケーキを交互に口にしていたら良い気分になって、いつの間にかあれよあれよと二人で交ざり合っていた。

 気付いたら時刻は零時をまわり、24日になってしまっている。
 来週から気温が低くなるとはニュースで聞いていたが、今夜はやけに冷え込んでいた。裸でシーツの中で転がっているから寒くて当然だけど、かと言ってすぐ服を着るかという話にはならなかった。
 ぼんやりと目を空けて、ベッドの下にカラのビール缶が転がっているのを眺める。カップケーキの袋もゴミ箱に入らず散乱していた。
 お手伝いさん達のいない独り暮らしの部屋では、当然自分で綺麗にするしかない。ここは自分の城なのだから自分がやらなければ。
 左手を伸ばす。
 動かない。
 ……ああ、馬鹿みたいだ。動かないのに。

 つい癖で空いていた左手を動かそうとしてしまったが、今の僕は片手の不自由な青年だった。
 全身で動かないと何も出来ない。身を起こそうとしたが、背中には志朗お兄ちゃんががっつりとくっ付いて離れなかった。裸の彼が僕を抱き枕にしているのだから、掃除なんて高等な真似はできない。

「むぐー。お兄ちゃん、寒いよー」
「俺は寒くない」
「……可愛い弟が風邪を引いてもいいって言うのー?」

 動く気が無いなら、せめて外気に晒された素肌を隠させてくれとモゾモゾ動く。仕方ない奴だと文句を言われながら(なんでその程度のことで怒られなきゃいけないのか判らないが)、志朗お兄ちゃんはシーツを被せてくれた。
 ついでに、正面から僕を抱き締める。
 ぎゅうっと包み込んでやれば寒いなんて言わないだろうという、大層な判断だった。
 抱き合う。ベッドの中で。僕達にとってはよくある姿だ。
 だけど何故か、唐突にお酒の熱が覚めてしまった僕には『嫌な想像』が駆け巡ってしまった。

 ……真正面から抱きしめられて倒れるのは、怖い。
 重いお兄ちゃんの体が僕に圧し掛かっていて、なすすべもなく僕は宙を見るだけの構図は、苦しい。
 思わず力いっぱい退けてしまおうと表面を強張らせる。……けど、堪えた。
 記憶はあっても堪えられるほど、実感の無い現象だったからだ。

 僕の些細な変化ごとき、目を閉じる志朗お兄ちゃんには気付かなかった。
 そもそも僕は発作的にいきなり泣き出したり過呼吸になったりする病気だから、もし唐突に怯えたとしても普通に対処してしまうだろう。「いつものことだ、普段通りだ」と思いこまれる。
 たとえそれが未来に起きた出来事という異常事態だなんて、信じてくれる訳が無い。

 現に、素直に話した悟司さんは信じてくれなかった。「説得力が足りない」と叱ってくる始末だった。
 鶴瀬くんは警戒してくれたけど、じゃあ何をしてくれるかって、「現状を変えたくない」と拒否された。シニカルな態度というほど冷たくはないが、優しいだけの子じゃなかった。
 ……だけど、志朗お兄ちゃんならどうか。得意でない甘味と大量のアルコールに酔って、セックスに酔いしれて、普段から僕が意味の分からぬことを呟いているという状況。対策など練ってくれるのだろうか。

「ねえ、お兄ちゃん。年末にハワイに行く芸能人ってよくテレビで見るよね」
「ああ」
「僕も行きたいな」
「……ああ?」
「年末に出掛けて、ハワイで新年を迎えるの。今年は外に出て色んな夢がいっぱい叶った年だったから、叶えられそうになかった大きな夢も可能かなって思った」
「新座、ハワイなんかに行きたかったのか。知らなかった。……パスポートは?」
「えっ。ぱ、パスポート?」
「持ってないよな、必要無かったし。パスポート取得には休日を含めないでおよそ一週間ぐらい掛かる」
「あー……大晦日には、えっと、ギリギリ無理なのかな。じゃあ、海外は駄目だ。北海道か沖縄に行くのはどうかな。旅行だよ。遠出っていつかしてみたかったことだから」
「遠出か。したことなかったな。お前は中学の修学旅行も行かなかったし。でも……本当に行きたいのか?」

 中学校自体、登校した記憶も少ない。半分ぐらい休んでいたような気もする。学校で旅行に行くなんてものがあるなんて今思い出したぐらいだった。
 大勢の意志がぶつかり合う学舎は、不安定な僕には地獄だ。同じぐらい不安定な子供達が寄っているのだから、事故が起きない訳が無い。
 楽しかった記憶はもちろんある。でも辛い記憶が全てを押し流してしまうぐらい苦しかったのも同時に思い出す。
 毒着。悪意。醜悪な怨念。無い世界なんて、無い。外へ出たらリスクが高くなる。そんなの何処へ行っても変わらない。行く先で人の意思とぶつかって嘔吐するに決まっている。
 ……そう考えると、行きたいと口にしながらも「嫌だ」という感情の方が勝さってきた。

「それに新座、年末に帰っておかないと辛いだろ。……せっかく鶴瀬が『本部』と仲を取り繕ってくれた。じいさんも笑って許してくれているのに、顔を出さなかったらまた険悪になるぞ」
「……和光おじいちゃん、帰らなかったら怒るかな」
「怒るだろ。お年玉をあげる孫が現れなかったら。……いや、いいかげんお年玉は断れよ、その年なんだから」
「僕だって断ってるよー。でもくれるんだから仕方なく貰ってるだけだよー、むぐー」

 当主の継承を蹴って、家出をした春。
 鶴瀬くんが説得を難しくも徹底してくれた夏。
 あまり大きな顔はできないけど、魂を集める家業さえ手伝うのだったら帰省してもいいと『本部』が認めてくれた秋。そして、初めての冬。
 僕にとっては『三度目の冬』だが、仏田家にとってはまだ緊張感の走る最初の冬だ。

 以前寺に帰ったとき、何人もの人から「大晦日には必ず帰ってくるように」「当主三男なのだから」「宴会の席にいてもらわないと」と言われた。物凄いプレッシャーは、何度だって受けていた。
 けど、帰った先に何があるかを知っている。
 だから遠くへ行きたいという気持ちは掻き消えない。
 たとえそれが遠くでなくても……あの山でなければ……。

「じゃあさ。ずっとここでお兄ちゃんと二人っきりでさ、こうやってイチャイチャしているのはどうだろう?」
「……最高だな」
「12月31日に、お酒を飲んでケーキを食べて、誰にも邪魔されずにずっとここで寝てるの。あ、おせちなら僕が作るよ。銀之助さんには敵わないけど美味しいおせちを作る。一段丸々栗きんとんと伊達巻を入れるよ」
「新座も、仏田家が嫌いになったか」
「…………。嫌いじゃあ、ないよ」
「そうなのか。てっきり俺とお揃いになったのかと思った」
「……」
「あんな家に戻りたくないから家出をしたのかと思ったのに、帰省を許してもらえて喜んでいる。と思えば大晦日には戻りたくない。つい最近だって、じいさんに会いに行ったと話したのに。で、嫌じゃないんだ。嫌いだった訳でもないんだ。…………新座は、何がしたいんだよ?」

 ぐりり、と僕のお腹と喉に何かがぶつかってきた。
 不信感という負の感情で出来た打撃だ。
 志朗お兄ちゃんにしたら、ただの疑問を投げかけてきたに過ぎない。単なる問いかけ。でもそれが僕の体に効いた。

「……僕ね、未来を視たの」
「ほう」
「お兄ちゃんは知っているかな。未来視って能力があるの。その名の通り、未来が視えるだけ。これから起きることが判る予知夢を見ちゃうんだよ」
「……驚かない。さすがは新座だな」
「でしょう? でね、12月31日……今からちょうど一週間後、みんな死んじゃう未来が視えたんだ。お寺にいる人がね、焼け死んじゃうの。もちろん志朗お兄ちゃんも」
「へえ」
「だから怖くて、怖くて。だってお兄ちゃん、苦しんで死ぬんだもの。そんなの嫌だよ」

 真正面から僕を抱きしめて覆う兄。今まさにその構図。
 天を見上げる僕は、迫りくる赤い炎を見る。兄の肩に首を乗せているから、なかなかお兄ちゃんの表情は目に入らない。
 でも断末魔と言える最期の呻き声は耳元で聴いたから、想像ができた。
 嗅覚も生きていた。人の体が焼ける匂いを嗅いだ。兄の背中が、じゅわっと焼かれた香り。全部揃ってしまえば、『兄が苦しんで最期を迎えた未来を視た』と言っても過言ではない。

「そのわりには今の新座は、笑ってやがる」
「えへへ、強がりに決まってるじゃんー。だって僕だよー? 思わず涙も出ないぐらい怖かったんだよ」

 言った後に、思わず「あっ」と声が漏れる。
 確かに、涙も出ないぐらい怖かった。涙が出なかった。
 でも悲しかったのに、泣いていなかった。
 泣き虫の自分が泣き喚くよりも、呆然と立ち尽くして……すぐに彼女の手がやって来て……やり直そうと決意した。
 ……悲しさよりも、悔しさや無念さの方が強かったんだ。

「僕は大切なお兄ちゃんに死んでほしくないの。だからさ、仏田寺に帰らないで……今年はここで、二人きりで過ごそうよ。僕は志朗お兄ちゃんが大好きだから。生きていてほしいから」

 抱き枕のようにぎゅっと僕を抱くお兄ちゃんに倣って、僕もお兄ちゃんの体を正面から抱き締める。
 こんなに正直な気持ちを話すなんて珍しい。素直で可愛らしい性格だって自認するし、いつだって身内や幼馴染達に甘えきっている。けど、ここまで寄りかかるのは滅多に無い。
 彼は全力の好意をぶつけられて嫌な顔をする人じゃない。僕を愛して抱きしめてくれる人なら尚更断ることは絶対にしないだろう。

「……ああ、それはいいな。そうしよう。俺だって新座が一番大事だ。大事な弟だし、大事な人間なんだ。お前を苦しませたくない」

 予想した通り、志朗お兄ちゃんは僕を受け入れた。
 そんなに俺のことを好いてくれていたんだ、俺は幸せ者だよ……いくつも嬉しいという言葉を並べていく。本当に嬉しそうで、裏表の無い優しい声だった。
 ご機嫌だ。そこまで理想的な愛の言葉で返されるとは思わなかった。思わずこちらも満面の笑みを浮かべて、「大好きだよ」って力を込めてしまう。
 その言葉は、決して嘘ではなかった。

「新座は俺を助けるために二人きりになってくれるんだな。ああ、『他の奴らが死んだとしても』」

 ――嘘、では、なかった。
 急激に幸福感という熱が下がる。

 うん。嘘じゃない。
 志朗お兄ちゃんは心から喜んでくれている。二人きりでいようと約束してくれていた。実家に帰省すると見せかけて僕らだけで過ごす算段をすぐにでも計画してくれるだろう。
 僕だって嘘はない。志朗お兄ちゃんが大好きだ。昔から好きだった。僕を庇って死ぬぐらいの色男っぷりを見せつけられて、大好きにならない訳がない。今も全力で僕を受け入れてくれている。そんなお兄ちゃんに全身で甘えたい。
 今が幸せに決まっている。二人の意思は同じだ。このまま突き進めば僕らは難なく一週間後を過ごす。幸せな時間を迎えられるだろう。

「むーぐー。お兄ちゃんって良い男だなー! 大好き! ぎゅうー! …………そろそろ放してくれる?」
「おい、このままもう一戦ヤる流れだろ、どう考えても」
「おトイレ行く。漏らしてもいいの?」
「いいぞ」
「良くないよ! 僕の部屋だぞ、そういうプレイがオッケーなホテルじゃないんだよ! さっきビール何杯飲んだと思ってるんだ! 行かせて!」

 トイレが備わったバスルームに逃げてきて、顔を洗う。
 さっきまでずっとお兄ちゃんの腕で暖められていたせいか、何も身に付けずバスルームに来て凍えそうだ。
 にも関わらず、僕は何かを羽織ることもせず一直線で逃げてきた。
 12月だからお湯で洗えばいいのに冷水で顔を浄める。頭から被る勢いで、こみ上げてくる涙を水で隠そうとした。
 隠すことはできた。
 でも、溢れ出るものを留める力は無かった。

 大声で喚きはしない。やはり僕は、人が死ぬことには涙を流さないらしい。
 そういや「苦しい」や「辛い」の負の感情を引き受けて泣くことはある。相手の過去を見て昂って自然と涙が出てしまうのは昔からだ。
 ……けれど、そういえば。
 救えない無念さに泣いていた……。
 何も出来ない自分の不甲斐なさに泣いていた……。
 お化け退治をしているときも、お兄ちゃんが庇って死んだときも、輝さんが頭を撃たれて死んだときも。

 ――僕はどうやら、人の命の重さ自体には興味が無いらしい。

 今だってそうだ。今このとき泣いている理由は……『志朗お兄ちゃんなら救える』けど、『志朗お兄ちゃんしか救えない』と判ってしまったことによる、悔恨から。
 志朗お兄ちゃんを救えた尊さに感謝せず、志朗お兄ちゃんしか救えない自分への怒りを抱いている。
 愛情自体は嘘ではない。でも僕は、それだけでは満足しない人間だったんだ。

「ただいまー、ベッドに入れてー、寒い寒いー。……まあ、あれだよ、お兄ちゃん。大晦日はお山に帰るとして、バレンタインあたりで二人で旅行するのは考えようよ」
「は? なんだ、結局大晦日は帰るのか?」
「お兄ちゃんだってカスミちゃんや圭吾さん達を置いてそのままって嫌でしょう? それに、未来視って言っても未来が必ず決まっているとは言い切れないからねー。あんまり心配しなくていいよ、僕はお兄ちゃんの甘い台詞が聞きたくて話しただけだし」
「お前なぁ……。まあ、年末は帰るべきだ。今年は特にな。ほとぼりが冷める来年は、二人きりで過ごそう」
「うん、それがいい」

 笑顔で頷く。
 自分で言う通り、カスミちゃん達をそのまま見殺しなんて嫌だ。志朗お兄ちゃんは大事だけど、同じぐらい大事な人達が寺にはいた。
 幼馴染も、お父さんもおじいちゃんも、お手伝いさんも名前の知らない人達だって見殺しなんて嫌だ。一人を救うだけなんて嫌だ。出来るだけ多くの人が救いたい。それは、我儘なんてもんじゃないだろう?
 誰もが抱く当然の心だと思いたい。
 救えるものなら、多くを救う。特別な感情なんかじゃない。きっと大昔の人も、未来の人だって考える普通の心だ。

 理想だけで僕に何が変えられるという問題は、置いておくとして。



 ――2005年12月31日

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 /5

 懇願された航は、私がゲンナリするほど素直に輝の言葉を受け入れた。
 問答があっても相変わらず親友を続けていた。二人の関係は変わらない。
 ただあの会話の一年後。輝は職場で出会った女との間に、三人目の子供を産んだ。
 赤い髪の女児だった。

 電話でその一報を告げられたとき、航はありえないほどの早口で輝を叱った。
 そして『直系の女子』が生まれたことを知っていたにも関わらず、黙認した。「仏田家当主の第一子が長女を生んだ」という事実を誰にも喋らなかった。輝にも、親しくしていた叔父の照行にも話すなと強く命じた。共通の知り合いだった一本松にも、仏田の『本部』である狭山にも、現当主の光緑にもだ。

 しかしいつかはバレてしまうもの。
 今まで通り海外での生活が長く一ヵ所に定住しない生活をしていた輝だったが、それでも年老いた実母は生まれ育った日本を捨てることはできず、日本に娘を住まわせる期間は少なからず生じる。
 イギリスに五年、アメリカに数年、イタリアやインドやブラジルやと各国へと子供を連れて行った輝の計画としては、日本に長く滞在させるつもりはなかったかもしれない。
 だが、運が悪かった。
 とても生真面目で熱意があって仕事が出来る新人従者(鶴瀬という)が、『異常な魔性を持った少女』の存在を暴いてしまったのだから。

 航が、輝の長女が生まれたことを隠したのは……口約束があったからだ。
 『どうか自分を巻き込まないでほしい』。情に訴えた輝の声を真正面から受け取った航は、馬鹿正直に頷いていた。
 だから航から長女の存在は明かさなかった。律儀にも、十二年間その約束を守り続けてしまう。
 鶴瀬によって明かされてしまったのは不可抗力。航のせいではない。そして航は仏田に仕える一員。『本部』が輝の長女を引き抜こうとする動きには、太刀打ちできなかった。

 ――12月を迎えてから、怒涛の日々だった。
 9月に入ってから高梨 緋馬の高校派遣。
 10月からの本格実態調査。
 11月に隠し子発覚。
 12月には次期当主・燈雅が直々に藤岡家に出向いて少女が招いている異常事態を説得し、『本部』は影で数百年ぶりの儀式のために動き回る。
 四度目の失敗があってはならないと万全を期す必要があった。必要な魂の数は揃っている。必要な贄の数も、魔力の量も準備できた。
 輝の長女――藤岡 紫莉という神子の少女も、通う小学校の終業式が終わってから仏田寺に滞在している。
 『元の街に滞在していると、年を越す前に怨霊達が溢れて死都と化してしまうかもしれない』。卑怯な説得で輝と輝の母を納得させ、少女自身を連れてこさせた。
 全ては街を救うため……のように聞かせて。
 本来の目的は、言うまでもない。ただただ、仏田の神子を手元に置きたかっただけの話だ。

「ふぅ。もしもし、輝。風邪は引いてないかな?」
『……相変わらず開口一番死にそうな溜息を吐きやがって。大晦日まで電話してくるのかよ』
「えぇ? 毎日電話するのが彼女を預ける条件だって言い出したのは輝だったよね? ……ああ、その彼女だけど、もう寝てるから今日は電話無しだよ」
『あ? …………アイツ、もう寝やがったのかよ。良いお年をぐらい言わせろ』
「毎年言ってたんだし今年ぐらいいいじゃないか、ねぇ?」

 電話口からは、12月31日の日本らしい音が聞こえた。
 テレビの音がする。歌番組だ。大晦日の夜に相応しい、明るく愉快で前向きな歌が流れている。航の自室にはテレビが無いので確認はできないが、輝は間違いなく国営放送を流しながら自宅で年越し蕎麦でも食べていたのだろう。神子の兄である双子の息子達と一緒に家族揃って。

『リラは元気か?』

 一家団欒なのに娘が足りないことに不満を抱いている父親は、寝ていると告げた矢先だというのに心配性な一言をぶつけてくる。
 戸籍に記した名前ではなく亡くなった奥さんが付けたかったと言っていた愛称で呼ぶのは彼独自文化だ。一瞬誰のことか判らなくて首を傾げかけたが、息子達も本名以外の愛称で呼び合っていたのを思い出し、難なく頷く。

「はぁ、元気だよ。年の近い男の子とお友達になれたみたいだから、ついさっきまで遊んでいた。夜まで追いかけっこをしていてさ、捕まえるのが大変だった。まぁ、すぐ一本松くんが結界を通じて見つけてくれたけどね」
『……何やってんだアイツら』
「はははぁ、可哀想だけど寺には娯楽が無いからねぇ。かくれんぼとか鬼ごっこで遊ぶしかなかったのさ。……でね、輝。聞いてほしいんだけど」
『あ? 長話になるか? ……蕎麦が伸びる……』
「はぁ、そりゃ一大事だ。やめておくよ。ふぅ、じゃあ一言だけ。…………僕、これから一世一代の大仕事をこなさなきゃいけない。応援してほしいな」

 なんだそりゃ、と電話先の輝が噴き出した。
 照れ笑いを隠すこともなく航は「子供みたいで甘えて申し訳無い」と謝罪する。そして輝の言葉を待つ。決して「応援してくれ」は撤回しなかった。

『後で何があったか全部聞いてやるから、負けるなよ』

 ……受話器を置く。通話は穏やかに終わった。

 航が仏田家の戸を叩いたキッカケは、住む場所を無くしたからだった。母は刑務所に送られ、父が生きている山を頼っただけ。愛が薄い父は不慮の事故で亡くなり、まるで後を追うかのように狂気に囚われた母もこの世を去った。
 決して仏田を愛していたのではない。蘇る神に救いに求め妄信している訳でもなかった。だが仏田の研究者として歩みを止めることはない。
 全ては、自分に出来ることがあったから。心地良かったから。達成していく自分を見てくれる人がいたから。
 手段の一つとして仏田の方針を利用していたに過ぎない。
 自分を認めてくれる人がいる限り、歩み続けることにしていた。

「…………あの、すみません、先生」
「慧。準備ができたのかい」
「は、はい。すみません、できました」

 鉄格子の扉を越えた先の地下空洞は、呆れるほどに広い。
 神を生む儀式を行なうために用意された本殿の地下は、既に限度無き魔力で満たされている。術式は完成していた。いつ本番を迎えてもいいように数日前から準備は万全だ。
 あと必要なのは、儀式を行なう執行者。
 本来であれば仏田家当主が執行すべきなのだが、光緑様が目を覚まさず、燈雅様が亡くなった今……儀式を行うに相応しい人物は限られている。
 代理人として立候補した慧が適切だとは言い切れないが、彼以上の人材はいないのだから目を瞑るしかなかった。
 12月31日が儀式に最も理想的な日取りとされている。三番目の儀式執行がその日だったという記録があるからだが……。
 慧は自分が似つかわしくない立場である自覚があるらしく、礼装を身に纏った後も小さく震えていた。少しでも緊張を解いて儀式の成功率を上げてやろうと考えた教育者は、声を掛ける慧へと振り返る。

「慧。…………」
「え? え、あの、先生、どうしました?」

 航が珍しい顔になった。
 惚けたという言葉が似つかわしい表情の変化に、慧は思わず慌ててしまう。儀式の執行者として白銀の正装に着替えた慧がキョロキョロと周囲を見渡した。だが慧には何も発見できなかった。

「綺麗だよ」
「え。……えっ……?」
「はぁ、男の子にこんなことを言うのはおかしいかな。でも白くて清楚な衣装だから、とても綺麗で、素敵な格好だと思う。美しさに言葉を失うとはこういうことを言うんだね」
「……え……? ええ……?」

 直系でない男子が儀式を行なうと航が陳情して、数時間。相当のプレッシャーを浴びせられっぱなしだった慧にとって、そんな台詞が送られるなんて思いもしなかったらしい。
 ほんの数分前まで『本部』の狭山や大山達からも数々厳しすぎる言葉をぶつけられて、涙目になっていた最中だ。期待と不安を一身に浴びて緊張しきったところに、その言葉。
 強張り蒼褪めていた顔がみるみるうちに紅潮していく。
 普段の航は優秀な慧という素体を利用していたが、ここまで率直な煽て方は初めてだった。
 緊張した慧の気持ちを解す為に言った台詞なのか、ただの考え無しか。航自身も緊張していたのでいくら賢い男でもどっちか見当もつかない。

 ただ、航の性格を想えば。
 ……その白銀の衣に相応の人間は他にいた、愛する親友こそがその姿であってほしかったと、考えているのではないか。
 慧には決して教えられないが。

「はぁ、慧。心の準備は出来ているね。光緑様の器自体も、儀式の贄として使わせてもらうことになったよ。まだ光緑様には息があったからね。死して魂が抜かれるまで器には彼の高い魔力が残るもんだし」
「……力は薄弱になりつつあるとはいえ、当主様の器。大切に使わせていただきます」
「うん。じゃあ行こうか。本番を始めよう」
「はい!」

 地上の神殿中央では、当主として最期の務めを果たすために現当主・光緑を鎮座してある。
 儀の魔法陣も魔道具である鎖や宝珠も全て、仏田家に遺る家宝は全て神殿に供えた。
 これから一族の夢が成就するのだ。その糧の一つとして自身が使われるとなったら光緑も喜ぶだろう。

「先生……あの」
「はぁ。何かな、慧?」
「松山さんが、神殿に向かわれるのを先ほど見ました。……よろしいのですか?」

 これから地下回廊で儀式本番を迎えるというのに、重役の一人である松山は儀式の間ではなく、贄を鎮座している神殿へと向かっている。
 なのに進めていいのかと慧は躊躇していた。

「いいんだよ。松山様は、最期のときまで光緑様のお傍で仕えたいと言っていた。銀之助くんが心配して見に行ったみたいだけど、松山様が何かするとは思えないしそのうち戻ってくるだろう」

 『蘇る神を見られる特等席よりも、光緑の方が大事だ』。松山らしい言葉でもあった。
 数十年前……仏田家当主として継承の儀を行なったが、力不足ゆえに半生を寝台の上で過ごすことになった光緑。
 当主として、仏田寺の住職として振る舞うことができないならその半分を自分が引き受けると言って親友を支えてきた松山。
 その努力と友情を批難する者はいない。航だけでなく重鎮達も(狭山だけは半ば呆れ顔だったが)神殿へ向かう松山を止めなかった。

「……松山さんは凄い人ですね。当主様は殆ど目を覚まさない、もう人としての器を保てていないのに……それでも大事に見守り続けている。……本当に羨ましい、心から守ってもらえている当主様が……」
「先生は人から聞いただけだけど、あの二人は生まれたときから一緒だったらしい。だから、死ぬときも一緒だって決めているんだと」
「……死ぬときも……一緒……」
「お互い約束した訳じゃないだろうけど、松山様は心に決めているみたいだったな。……はは、死ぬなんて言っちゃ不敬かな。これからみんな一緒になるのにさ。僕も君も」

 航はスッと慧の細い手を取る。儀式を行なう奥の間へエスコートをする王子のように、気取った動きで慧を引いた。
 本来なら当主が身に纏う白銀の装束は、細い体付きの慧にとってぶかぶかの布を引き摺っているようなものだった。見る人が見れば格好に合わずみすぼらしいと言うかもしれない。だが夢想家が見れば、花嫁衣装の新妻。航はそんな花嫁を先導するいじらしい男にも見える。
 航にとってはそんな気は無くても、彼を意識する慧は興奮せずにはいられなかった。赤い顔をして、うっすらと嬉し涙を浮かべてまで喜んでいる。

「松山さんにとって当主様がそんな人であるように……僕にとっては、航先生は、死ぬときまで一緒にいたい大事な人です」

 手を取ってまで奥へ奥へと導いてくれる相手に対し、慧はたどたどしくも純粋な愛を口にする。聞いてもらいたい一心で。

「はぁ。知ってる」

 一方で言葉を受け取る航は、淡泊。
 慧が自分に深い情愛を抱いていることは、事実として知っていた。だからこそ航にとっては都合が良かった。その純真な性格が動かしやすかったからだ。
 そこに愛は、ある。だが残念ながら慧という存在は、航という人間を構成する大きな一部分にはなっていない。
 彼を語るなら母親と親友の存在が大部分を占める。それらに比べれば慧という存在は無くてはならない一部ではあるが、小さいものだった。

 ――土と水の匂いが立ち込める地下空洞。
 魔法陣という魔法陣が壁や天井矢床、上から下までびっしりと赤く張り巡らされている。
 溢れんばかりの魔力が詰まった洞穴の中に、数人の手によって最後の贄が掲げられた。
 仏田の血と同種と判明した、魔王の器だ。
 氷漬けの拘束のまま十字架に掛けられ、身動きは取れずにいる。
 地上の神殿に鎮座された光緑とは違い、赤い髪を微かに揺らしていた。両目を刳り抜かれ、猿轡をきつく噛まされ、全身を釘や鎖で厳重に固定されているにも関わらず異端は生きている。数日前に一本松の血を飲んだおかげか赤い男はまだ抵抗を続けていた。
 それどころか雁字搦めの拘束を断ち切る余裕もあるように見える。魂が剥がれかけた現当主よりも強大な贄に違いなかった。

 その周囲には、この日のために捕らえてきた贄という贄を掲げられている。
 名もなき生贄の山だ。数百という人型の肉塊が積み重ねられ、彼らから奪った赤い液体で空間の魔力を高めていた。

 更に室内の壁沿いに、人。一メートル間隔に、人。手を繋げる距離に僧が、寺にいた大勢の人間達がズラリと並んでいる。
 彼らは来たるときのために、目を開けて眠るように立っている。
 人形のような顔で立ち尽くす大勢の人々。そこへ儀式を行なう者達が突き進む。
 愛する人の為に突き進む慧。
 この日のために生きてきた者達も何人もやって来る。狭山や大山を始めとする重鎮達が入場し、そして。

 赤い少女が、祭壇へ、置かれた。

 その隣には、何も知らない顔をした緋馬が両手両足を縛られて転がされていた。
 誰かに説明を求めたい顔だったが、異常な空気に怯えきっていて誰も頼ることができず。歯を噛んで震えているしかできない哀れな子供の姿を見せていた。

「……あの、大山さん、その……」
「緋馬くん。怖くないとね、駄目なんだよ。儀式には負の感情が不可欠だ。どんな魔術の儀式にも材料は必要だろう。トカゲの尻尾だったり、キノコだったり樹液だったり」
「は、はあ」
「だけど神様は、感情を好む。人の感情の揺れ動きを何よりも尊いと考えている。そして我々の神様は、恐怖の感情を好む。苦痛の感情を大変好む。嫌忌の感情を何よりも好む。神の儀式には捧げ物が必要だ。最低限の歌と、血肉と、捧げ物。全部必要不可欠なんだ」

 一流の魔術師である大山が、筆を走らせ、置く。
 それが最終的な仕上げだった。ここに仕組まれた大がかりな術式の最後の一筆だ。
 付け加えることでようやく完成する。これまでに事故は無い。執行者である燈雅が死んだり、その従者である男衾が後を追うなど贄の数を減らすという想定外はあっても、大山が術式を加える程度で済む問題だった。

「航くんの言う通りに呪文は書けたよ。でも私がやっていいのかな、サヤ」
「光緑様も燈雅様もお亡くなりになられた今、我々が果たさねばならん。ここで歩みを止めてはならぬ。千年の血を、願いを、野望を、途絶えさせる訳にはいかないのだから」

 小声で航が「まだ当主様はお亡くなりになってないよ……」と笑ったが、狭山の耳には届かなかった。
 当主の命ですら、狭山達にとっては『術式に少し手を加えれば対処できる問題』に過ぎない。
 作業を終えくるりと振り返る大山が、狭山と視線で会話を交わす。言葉は無い。だけど二人はコクンと頷く。

「お目覚めください、我が神よ」

 狭山は……祭壇の一番近い魔法陣の上で毛布に包まれ眠る彼女を、優しく揺すり起こす。
 彼女があっという間に目覚めた。「寒いの……」と何気なく呟きながら目をごしごしと擦る。視界が薄暗い魔境に慣れてくると、ただならぬ空気に目を丸くした。
 そうして目覚めてきょろきょろする彼女を無視し、狭山は虚空に手を突っ込み、一本の刀を取り出した。
 そのまま何を斬るかというと、長い刀身の先にすっと自分の人さし指を伝わせる。
 斬れていく肉。先から赤が伝う。
 洗練された美しい動きに皆が見入った。

「捧げよ、血を。――捧げよ、恐怖を」

 その声。刹那、この場に居た十数人が虚空から刃を取り出し、隣に居た人間を刺し始め、狂い猛った。

 ――それから先は、圧巻だった。
 無感情に洗脳され、殺し合う人間達。
 感情を戻され、死を理解して恐怖し合う人間達。
 恐怖を好む邪神を蘇らせる贄には必要なものだった。

 多量の魔力が必要だった。――高貴なる当主の器と魔王の器で代用した。
 大勢の血肉が必要だった。――至る所から集めた肉塊で事なきを得た。
 数多の恐怖が必要だった。――死を直面した数十人の混乱で充分だった。

 仏田と契約した者は親に絶対服従の縛令呪を刻まれる。頂点である狭山が命ずれば、どんな苦痛であれど従うしかない。殺戮を拒否することなどできなかった。
 もし従わない者がいるのなら、直々に死に追いやればいいだけのこと。
 ここに居ない、境内に残った者達の半数も殺し合わせる。意味も判らず意識を奪い、狂わせ、襲わせた。全員がどうして自分が狂気に陥ったか理解できずに死を味わっただろう。それが狙いだ。

 目の前にいる者を斬る、刺す、突く。
 炎で燃やす、生きて燃やす、灰にする。
 意味も判らず全てが死ぬ。死に絶える。
 絶対の負の感情。それが神の好物だ。
 ――儀式に必要なものは、血と恐怖。
 ――捧げなければならない血と恐怖。
 ――全力で意識も無く言われた通りに続く血と恐怖。
 全ては、蘇る神に喜んでもらうためだった。

 血宴の中央。少女の前で、慧は意識を集中させて祈り続けていた。
 何事か判らず恐怖するだけの少女の顔は、悲惨なものになっている。一方で執行者の慧は、

「慧」
「……はい。ありがとうございます、先生」

 ほっと息を吐きながら、目を瞑る。
 最後の最後に航の声で動きを決められた。耳の中に残るものが航の声であることに、喜びを感じながらも最後の一小節を呟く。

「これで、おしまいですよね。……大山様、狭山様。すみません、僕も……お先に失礼します……」

 少女の胸に、大山が用意した術の札が沈む。
 真祖の血で描かれた呪詛が、少女の中へと沈んでいく。
 肌の上に置かれた御符は表面に溶け出し、内部を浸蝕し、心臓を掴み上げる。呪文に支配されていく少女の中央。
 空間を恐怖で満たし、全身を恐怖で満たされた少女は一際激しく叫び声を上げた。
 「なんなの、もう、やだ」と幼い叫びを。

 刹那、慧の体は破裂した。

 恐怖に打ち震える少女の眼前。細い慧の体は真っ二つに爆ぜて割れた。
 その中から噴き出してきたのは、傷めつけられていた緋馬のような肉や血飛沫ではない。
 黒、赤、紫。おびただしい数の腕。うねり、踊る、触手の群れ。
 少女や慧の腕の太さ以上の艶めかしく瑞々しい腕が何本も男の体から誕生し、瞬時に凍える少女のもとへ伸びていった。
 しゅるりと伸びたうねる腕は少女の体をいとも簡単に掬い上げ、慧の体の中にできた『口』へと運んでいく。
 まるで大きな軟体動物に捕獲され、食べられるみたいだ。いくつもの腕に攫われた少女はそう思っただろう。少女の小さな体は肉の中へと押し込められていく。
 少女を掴んだ手ではない他の手達は、信者達の体も掴んだ。
 皆、現行の苦しみから助けを求めて腕を伸ばしていた。その手を拾い、絡め取り締め上げ、少女の次に口へ放り込んでいく。
 次々に次々に、半端な人間を口に含み、肉色の腕は膨れていく。
 慧の体から生まれた魔物は……いや、正確には『ほんの一時間前、執行者になると決めた慧の体の中に押し込められていた魔物』は、『元の魂である姿へと戻り』、更なる成長を続けるためにいくつもの餌を口に入れていった。

 ――地下奥深くに眠らされていた、いくつもの魂の群れ。『魔物』と呼ばれ保管された知恵の塊。
 光緑が保管に失敗した、歴代当主達の魂は全て魔物の中にあった。
 その中には、始祖もいた。この儀式のもう一人の、いや、真の主役でもある始祖の魂が。
 彼の一族が集め続けた魂の群れの中。意識など無くした亡霊の群れに一際蒼く輝く魂の光。
 この世と一族の下に従わせるため、大勢を餌として繋ぎとめていた『魂の魔物』。それを一時的にだが当主代理である慧の器に収納してきた。
 複数の魂を保有できる仏田の者であっても、数億、数十億、数百億の魂となれば光緑のように人間を保てなくなる。
 だがたった一時間だけでも慧は可能とした。知識と熱い愛の力でこなし、女神の器に魂を与えるという古の誓約を果たすことができたのだ。
 ……ようやく叶った!
 神の器に相応しい女児に、数十億の魂を与える。
 食餌も香りも全て揃った最高の空間で。
 ……これであの御方が喜んでくれない訳が無い!

 太い肉に餌達は全身を掴まれ、あっという間に引き摺られ、何人もの人を取り込んで膨れ上がる肉の中へと巻き込まれていく。
 肉の中へと吸い込まれる瞬間、頭から突っ込む形になった彼はバキリと音を立てた。不自然な形で女神の中に収納されたからだ。
 あれは即死だ。
 その事実を見た苦しむ者達が、体の欠けた狂信者達が、早く助かりたいと我こそはと手を伸ばす。
 早く自分も救ってくれ、その触手で掬い上げてくれ、そうすれば早く死ねる――そう願いを込めて、早く食べてくれ早く殺してくれ早く連れて行ってくれと手を掲げた。
 肉は次々と腕を伸ばし、彼らを拾っていく。口に運んでいく。吸収していく。膨張していく。部屋中を満たすほどに巨大化していく……。

 膨れ上がる赤黒い肉は、いずれ地下空洞を覆い尽くす。
 そして地上へと上がる。
 赤子が生まれたら泣く。盛大に喚く。体が数十キロもある大きさになればその声を聞いた人達の耳はどうなるだろうか。泣き声を聞いただけで弾き飛んで死んでしまうかもしれない。
 蘇ったとなれば生き物。最初は用意された餌を食べて腹は満たされるが、そのうち空腹になって次の餌を求める。
 顔を出した女神は、次なる餌を求めて山を下りる。そして食らう。多くの餌を。
 大勢の人間を。
 これが、救済を目指した男が愛した女の姿だった。

 ――千年前、人々を愛して救おうとしていた神がいたのは事実だ。
 名は川越という。下らないぐらい善人だった。一生を費やしてでも人々を救いたいと願い、戦い、ついには達成した偉人だった。
 川越は苦悩しながらも地獄で死闘を繰り返した人間だ。病から人々を助けるために戦い続けた普通の男。のちに神と崇められるほどの功績を作り出した。
 その歴史の影には、とある女性がいたという。彼に力を貸したという気紛れな女神。
 そして、女神と始祖の愛の物語は別の話。
 川越が神と言われた物語と、川越が人々の救済を心から願っていた物語と、『女神が悪であり、あってはならないものである』物語は、まったく別の話……。



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /6

「……はぁ。輝。僕ね、達成したよ……」

 運が良いのか悪いのか、膨れ上がる女神の肉に最後の最後まで捕らえられることなく、一部始終を眺めていた。
 きっと一分もしないうちに自分の番が来る。だけど恐怖は無い。どちらかと言えば幸福で堪らない。
 おそらく、好ましい餌ではないから女神は自分を食べることを後回しにしているのだろう。
 眼鏡を外して涙を拭い、最後の瞬間を心に刻みたくてまた眼鏡を掛ける。
 口はどんなに遅くても、自分へと迫っていた。

 仏田の願いは、成就した。
 三度の失敗があったが、度重なる研究と準備のおかげか今度こそ完遂だ。
 千年経ってしまったがこれで仏田一族は終わりだ。
 その言葉通り、一族は終わる。
 それは一族だけではないのだけど。

 千年間の偉業を、自分の代で達成できた。
 これほどの功績ならば父も喜ぶだろう。愛情が薄い人だったが人並みには褒めてくれる筈だ。
 母だってよくやったと抱きしめてくれるに違いない。本来彼女は、学校の試験で僕が一位を取るたびに「自慢の息子だ」と讃えてくれた優しい人だった。
 それに……自分がしていた研究を、判らなくても応援してくれた親友なら、これほどの手柄に驚かない訳が無い。すぐに話がしたかった。

『後で何があったか全部聞いてやるから、負けるなよ』

 改めて自分は、ただ褒めてもらいたかっただけの人生だったんだと思い知る。
 同時に、輝に褒めてもらう前に食べられるのは残念だとも思った。
 だがそんなうっかりも気にしない。だって輝もそのうち肥大化した彼女の餌の一つになる。
 親友だけじゃない、この国の人間、生き物全てを餌になるだろう。
 そうすれば、一緒だ。
 ずっとずっと、みんな一緒だ。
 冗談めかして言うならば、すぐ再会できる。体内で一つになることで。
 今頃自宅で暖かく一家団欒をしている彼は、いずれ襲い来る肉の塊が僕の努力の成果だと判ってくれるだろうか。
 彼なら、間違いなく……。
 浮かれた頭は押し潰されながら優しい想像ばかり生んだ。



 ――2005年12月31日

 【     /      / Third /      /     】




 /7

「やっぱり新座。あのことを気にしていたのか。『みんなが死んじまう未来』ってやつ」

 厚手のコート、手袋にマフラー。ばっちり防寒対策をしている志朗お兄ちゃんは、酔った足取りで僕について来てはいない。
 酒は飲んだけど一杯ぐらいじゃ僕らは酔わない。夜から始まる大晦日の酒宴には参加したけど、多くを飲む前に僕らは会場を抜け出してきた。
 そうしてやって来た場所は、外の山門だ。

 仏田寺は、陵珊山という山の頂上付近にある。
 山と言っても標高はそれほど無い。息を吐けば真っ白くなるぐらいには寒いお山だが、そんなのこの季節ならどこへ行っても変わらなかった。

「むぐー、そりゃそうだよー。ついつい外に出て自分の目で結界を確かめちゃうぐらいには怖いさー」

 大部分が仏田の敷地で、境内の周りは鬱蒼とした森で囲まれている。道という道は、駐車場やバス停のある下方までは一本の長い石段だけ。中腹部に霊園があるので人は訪れることが多いが、用が無ければ仏田の中へ来客は現れない。周囲に家屋や施設が無いからだ。
 自然豊かな場所だから、野生動物だって出る。危険な野生動物を侵入させないという名目で、石段の先にある大きな門以外はそこそこ高い塀で敷地を囲っていた。
 塀の上には、結界を。異端達が侵入できないように強力な魔術結界が張られている。……数日前に綻びを発見したけど、今は修復されていた。

「で、どうなんだその結界は? 異常なのか?」
「ううん、正常だよ。何者かが結界の中を破ってやって来る恐れは無いみたい」

 屋敷から山門へ向かう舗装された石道を歩く。
 山門までは遠い。僕らが居た宴会場のある屋敷から五分は歩かないと敷地の外へと出ることはできないぐらいだ。
 雪が降りそうなぐらい寒々しい大晦日、「ちょっとした散歩」で外出するには苦痛だ。しっかりとした防寒をしないと凍死してしまうかもしれないぐらいだ。

「外から誰かが襲い掛かってくることはないのか」
「結界がバッチリ張られているからね。うちの結界がしっかり者なのは、お兄ちゃんだって知ってるでしょ?」
「……正直、信用していない」
「むぐっ、なんで?」
「ガキの頃、柳翠様が境内で大々的に異能を使って結界を破いたことがあった。出来た穴から怨霊が侵入してきて、流血騒ぎになったことがある」
「し、知らなかった。大丈夫だったのお兄ちゃん!?」
「俺はな。……俺は、な」

 お兄ちゃんと二人きりで手を繋いで歩くこと自体は嫌ではないので、寒さの苦痛なんてものはへっちゃら。
 それは志朗お兄ちゃんも思ってくれているようだ。実家帰省となったらどこを見ても身内ばかり。二人きりで過ごす時間を送れて、夜道でも嬉しそうな表情が伺えた。

「全然知らなかったよ……お兄ちゃんのことなのに」
「俺のことだったら何でも知ってるつもりだったか? 嬉しい心意気だが、難しいな」
「怖がりで慎重な僕は色々調べているつもりだよ。でも結界が破れた事件なんて……そんな危険性があるんだって知らなかった」
「あったこと全部を把握するなんて無理だろ。隠しているなら尚更だ。多分あの事件は隠されたもんだしな」
「そうなの?」
「柳翠様が起こした事件だぞ。親父の弟が。当主の、弟が。しかも動機が知的好奇心だとよ。……そんな反社会的な大問題を公にできねーよ。一応ここは人気商売をしているからな。組織の暗部なんて隠そうと思えば、どんな事実だって隠し通せる。運が良くなきゃ全部なんて見通せねーだろ」

 ……暗部なんて隠そうと思えば、どんな事実でも隠せる。
 ……運が良くなければ、全部見通せない。
 たとえ時間が戻っても、過去の記憶を継承していても、充分な対策が無ければ何の結果も得られない。何の成果も得られずに、何も出来ずに終わる。
 言われて、実感した。今の自分は間違いなく何も出来ていない自信がある。些細な違いを発見して喚いて、それ以上は何がしたか。
 進展というものは発見できなかった。
 重要そうな魔術は見つけられた。過去に事件がいくつも生じていたことも知ることができた。
 そして、その後は?
 肝心の、どうすればいいのかは……?

「お兄ちゃんには、前に話したよね」
「……今日起きることか?」
「うん。……今日起きたこと。僕が視た未来はね、瑞貴くんがお寺に火を点けていたってこと、話したよね」
「俺は瑞貴を踏ん縛っておけってアドバイスした」
「うん。……でも次に見た未来では、悟司さんが……ある人を撃って殺していたって話もした」
「悟司さんも踏ん縛っておけってアドバイスしたぞ」
「うんうん。でね、今その二人なんだけど……普通に暮らしている。二人とも怨霊に憑りつかれていない。昨日から確認済みだよ。今だって変なモノと接触した兆しはまったく無し」

 ビーズのような発信機は今回も付けている。
 瑞貴くんは相変わらず宴会の真ん中でお酒を飲んでいる。そして今回は悟司さんには、直接お願いをした。
 『今度、教会の任務で魔道具を使うんだ。そのテストをさせてほしい』。
 危険な物ではないと悟司さん自身に触らせて、運用試験だと堂々と言い放つことで監視カメラの設置の許可を貰った。
 大晦日の間だけでいい。記録も残さない。使用者が酒に酔っても効力が発揮できるのか試したい……。もっともらしい台詞を並べたら、渋々だが悟司さんは頷いてくれた。僕が鍛錬をすること自体は先輩として喜ばしいらしく、労いの言葉をくれるぐらいだった。
 甲斐あって結果は、何事も無い。

「問題が無いのは良いこと。良かったな、新座」
「うん……」

 異常事態は見当たらなかった。普通に宴会が進んでいる。みんな、お蕎麦を食べたりお酒を注いだりしていた。
 二十一時になっても問題は無い。あるとしたら、この後なのだろうか。
 悟司さんと話をした『前回の世界』は、何時の出来事か記憶が無い。書庫で気分が悪くなって気絶し、そのまま自室に運ばれた後に輝さんが現れた。
 『前々回の世界』は、酔っぱらって志朗お兄ちゃんに引き摺られて自室に戻った。
 ああ、そうだ、どちらも時刻を確認してなかった……どうしよう、いつから事件が起きるんだ……?
 そのとき。いきなり、耳の中に暖かい空気が押し寄せた。

「ひゃん」

 異常事態でも何でもない、志朗お兄ちゃんが僕の耳に息を吹きかけただけだった。
 あまりに僕が陰鬱な表情で山門へ歩いていたからだろう。ブツブツ言いながら。せっかく話し掛けてやっているのに構わないとは何事か、と笑いながらの悪ふざけだ。

「あのねー! 今の僕は繊細なんだよー! ビックリしすぎて死んじゃったらどうするのさー!?」
「人工呼吸とやらを実践してやるよ」
「死んじゃったら人工呼吸してるヒマも無いだろー! ……むぐっ」

 今度は息を吹きかけてきたどころか、耳たぶを唇で挟まれた。
 ひんやりと凍りきった耳に直接的な大熱。寒気のせいではないのにブルリと震撼。思わず自分からも噛みついてやろうかと思って睨みつけてしまう。
 仏田の玄関口に当たる山門から本殿屋敷までの直接通路の間には、古くに建てられた石灯篭が等間隔に並んでいる。
 灯篭の中はすっかり現代的になっており、屋敷の中にあるスイッチ一つで点灯する電球が微かな明かりを灯す。とは言っても町中の街灯と違い、ほんの少しの小さな光。足元の段差を察せる程度の光源は、間近にいる人しか見えない。
 でも、身近で笑う顔は伺える。
 誰も居ない暗がり。二人だけの空間だ。ひと時の悪戯のように顔を寄せ合う。

「どうしたの? 唐突にキスを強請ってくるなんて」
「今日はまだしてかかったから。宴会の席では出来なかったしな」
「会ったらキスしなきゃいけない規則なんて無いでしょう。もしかしてお兄ちゃん、一杯だけで酔っちゃった?」
「酔いたかったのに止められてくそ寒い外に連れてこられた。怒りが収まらないからもっとさせろ」

 更に唇を重ねてくる。
 でも舌までは入れさせなかった。受け入れても良かったけど、さすがにそこまでの気分になれない。「僕は怖がっているのに」と軽く文句を言い放つと、それっきりで留まってくれる。
 無理強いをすることは絶対に無い、妙なところで紳士的な人だった。

 本当は、この行為は惜しいとさえ思っている。
 皆が楽しんでいる宴会の席。老若問わず今夜ばかりは無礼講で楽しむ場所。だというのに僕は来るかも判らない危機を恐れて気を張っている。楽しい筈の兄ちゃんの時間を奪っていること自体も申し訳無かった。
 このまま唇を絡めて雪崩れ込むようにして夜を終えてしまいたい。終えてしまえたら。終えてしまおうか。
 考えて、どうしようか結論が出ないまま今度は自分から唇を重ねようと近づいていく。
 ……だけど、止まった。
 冷たすぎた風が吹いたから。

 いや…………二人揃って顔を見合わしてしまったからだ。
 無言のまま僕は首を振り、彼はこくんと頷いた。

 何か理由があったと問われても答えられない。
 『ただ山門には近づいてはならない』。
 首筋を駆け抜けていく風が、ぞくぞくとそう告げている。それだけだった。
 虫の知らせ、嫌な予感によって足を止めたってだけ。たったそれだけの理由で出口に向かわないのはおかしいかもしれないけど、二人同時に同じことを想ってしまったのだから、確信に近かった。
 あのサキにイってはいけない。
 あのミチをツカってはいけない。
 ここをデてはいけない。
 ここからニげてはいけない。
 次々と誰とも知れぬ声が僕達の体を支配していった。

 …………そんな訳が無い。

「お兄ちゃん!」

 後ずさりする志朗お兄ちゃんの腕を、ガッと掴む。
 今にも逃げ出しそうなお兄ちゃんの姿。僕だって似たようなへっぴり腰になっている。
 でもそれはおかしい。『いきなりそんなものを感じるなんておかしい。何であれ、理由があるから山門に近づけないんだ』。
 そう、山門に近づこうとしたら急に負の感情が湧き上がった。だから離れようと、屋敷に戻ろうとしてしまった!
 ……覚えている。結界の知識を初めて得たのは、小学生の時だ。
 僧による勉強会でのことではない。圭吾さんと悟司さんから直接教わったことだから、印象深くてしっかりと記憶している!

 ――『歪み』だよ。
 ――こっから先の段は俺の。新座くんは入って来ちゃダメ。
 ――進んでいいのか悪いのか、新座くんは戸惑うと思うんだ。

 寺の境に結界が張ってあるから、外部の者が、入れないように。
 寺の境に結界が張ってあるから、内部の者も、出られない。
 これこそが異常事態。……『決して山門に近寄らせないようにしている仕掛けが働いている』!

「お兄ちゃん、何でもいいから話をして!」
「あ……いや、新座、屋敷に戻らないか……宴会場が嫌なら、俺らの部屋に……」
「嫌な予感がするのは気のせいだよ。お兄ちゃん、気を逸らすために話をして。出来れば頭を使う話がいい」

 この結界はあくまで精神的な壁だ。物理的に異端達をシャットダウンしているものではない。
 何も考えなければ感情の波に流され、どこか遠くへ送られてしまう。自然な流れで、無意識に。でも気を強く持てば突破できる程度の効力だ。異常事態を探して気を張っている僕なら問題無い筈だ……。

「…………新座は、外から何者かがやって来ることを危惧しているよな」
「うん。先日結界が脆くなっていた。それが原因で悪いモノが入ってきて、みんなが変になっちゃうんじゃないかって……。そういう事件が現に数年前にも二度ほど起きている。だから今も直接確認しに行きたいんだ」
「でも新座はさっきも異常は無いって言ったぞ。『何者かが結界の中を破ってやって来る恐れは無い』って確かに」
「けどさ、さっきの不信感……あれは結界のせいだよ。そんな変な現象が起こると思う? やっぱり何かがおかしいよ。みんなのもとに何かあったらじゃ遅いからちゃんと確認しなきゃ」
「ああ、おかしいとは思う。さっきの変な感情が結界がおかしくなったせい、そうも思える。でもな新座。お前、いくらなんでも人が良すぎないか?」

 近寄りたくないけど山門に近付く。とっても多き木の壁のような、威厳のある扉。
 観音開きの出入り口はしっかりと閉じられているのが遠目でも判る。見るからに判る異常は見当たらなかった。

「鶴瀬に忠告したんだろ。そしたら『明らかに突いてはいけない藪』って言われたんだろ。……じゃあ、そういうことだろ」
「……なあに、そういうことって?」
「外からは誰も入れない。数日間怪しい奴が中にいた形跡もない。今、中から出られない。これから事件が起きる。というか怨霊が一日も、それどころか半日も仏田内に潜んでいられると思うか? 予兆があり次第抹殺されるだろ、退魔師だらけの寺なんだしさ。だからさ」
「だから、なあに?」
「……なんで新座、そこまで言われて納得しないんだよ? ああ、そうだな、お前は面倒だけどお人好しだからみんな喜んで甘やかしたんだって今なら理解できるよ。けど新座、いくらなんでも優しすぎるだろ……。俺とは違う高位な能力者様達が発見できないほど、瑞貴や悟司さんに憑依する怨霊は、凄い異端なのかよ?」

 はーあ、と溜息。何に呆れたのか。
 僕の頭を志朗お兄ちゃんはぐしゃぐしゃ撫でた。

「『悪い奴は中にいる。大勢が容認している』。そうは至らないのか?」

 セットした髪が滅茶苦茶だ。首にぐるぐると巻いたマフラーに顔が埋もれてしまう。
 息苦しくて思わずお兄ちゃんを睨む。夜道に見えるお兄ちゃんの顔は、溜息混じりでも優しい顔だった。
 けど、僕は見合う優しい表情だろうか。自分ではそう感じない。目を丸くして、信じられないものを見るようなみすぼらしいものだと思われる。

「なんで……そう、考えるの、お兄ちゃん?」
「なんでって」
「え? そんなにおかしい? ……おかしい? 違っ……おかしいのかな、えっと、僕がおかしいんじゃなくて、お兄ちゃんがおかしいんじゃ……」
「新座がおかしい」
「……判んない。え、ええ……僕がおかしいの……判んないよ。だって、お兄ちゃん、今『悪い奴は中にいる。大勢が容認している』って言ったんだよ……?」
「俺が言ったことそのまんまじゃねーか」
「……だ、だって……どうして!? 僕らの中に悪い奴がいて、得があるの!? 悪い奴がいることを認めて、何か良いことがあるの!? だから、みんなの中に悪い奴がいてそれをみんなが知っていてって……おかしいでしょ……」
「知らねーよ、理由なんて見当もつかない。だからって、答えを見えないふりはやめるべきなんじゃないか。……ああ、新座の場合、ふりじゃなくて本気でその考えに行きつかなかったんだよな」

 判らないことが多い。
 でも、動機が見当たらなくたって犯人は捕まえられる。真相は辿り着ける。
 だから、身内を疑えと。
 お兄ちゃんはそう言いたいのか。

「その顔は、考えもしなかったんだな。……無理も無いか。新座は、いつも誰かに襲われていた。突然、外から何者かが乗り込んでくる恐怖と戦っていた。だから『憑依されるとか日常的』だった。外は敵が来るもので、中にいれば安全。そう信じていた」
「…………」
「俺は一族の中に頭の狂った奴がいても何にも感じない。『だろうな』って思うぐらいだ。だからすぐに辿り着ける。『誰かが悪いんだ』って。……新座。長く長く悩んでいたわりには、そこにすら辿り着いてなかったのか?」
「…………」
「俺達の誰かが、みんなを殺すんだよ。怨霊のせいじゃない」

 ……頭が、ぼうっとする。
 真っ白く染まってしまって元の色に戻せない。思考能力が戻るのには随分長い時間が掛かりそうだ。
 ショックを引き摺って全身が無気力を感じている。放心状態とはまさにこのことを言うのだろう。お兄ちゃんは「新座らしい優しさだ」なんて言って慰めているが、うまく聞き取れなかった。
 このままではいけない。痴呆のまま徘徊して何になる。新しい情報を手に入れたのなら、もし身内が敵だとしたら、どっかの異端のせいじゃないとしたら、忍び込んだ悪のせいじゃないとしたら、名前の知っている誰かの悪さだとすれば、どうすれば、どうすれば……?

「……むぐ。……ねえ、龍の聖剣」
「…………」

 小さな声で名を呼んでも、彼女は志朗お兄ちゃんの横で僕を見上げているだけ。

「このぐらいのヒントは……くれても良かったんじゃないかな……? 左手っていう代償を払ったんだしさ……」
「……いいえ、直接的なヒントは言えない規則なの。全部新座が気付くべきだった」
「そっか。……やきもきしただろうね、君は。僕が全然お家の人達を調べようとしないんだもの。……魔術や過去の事件を調べてもさ……犯人自身にいきついてなきゃ、惨劇を止めるどころじゃないよね……」
「…………」

 ぶつけても碌な返事は得られない。いくら考えても元に戻れない。
 金髪碧眼の少女は、複雑な表情で僕を見つめる。可愛い女の子なのにとっても不細工な顔だった。せっかく僕がオススメしたゴスロリ衣装の彼女は、いつだって可憐だ。そんな女の子がしちゃいけない表情をしている。僕にしか見えないとはいえ……。
 そんな顔をさせているのは自分。だけど目に見えての悪が現れてくれなければ、意思ある僕自身の復元は不可能だ。
 ふらふらはしてないけど生気の無い僕の体を、志朗お兄ちゃんは強く支える。
 「困った奴だ」と笑いながら肩を抱き、散歩をやめて屋敷に戻ろうとする。異常が無いとは言っても二十一時段階のこと、これから異変が起きるというのに、向かう先は屋敷。無意識に外へ出ることを嫌がっているからだろう。
 でも極寒の野外で茫然自失を放置することもできない志朗お兄ちゃんは、とりあえず何も起きない今を大事にするため、「少しでも暖を取ろう」と提案してくる。
 無理矢理にでも僕の足を進ませようとした、そんなとき、お兄ちゃんは『山門から』やって来る男性の名を呼んだ。

「…………一本松さん? お疲れ様です」

 お兄ちゃんも僕も親しい訳ではないので一言挨拶しかできない。
 でもこの寺に長く住まってる重役の一人だ、頭ぐらいは下げないと。僕も揺らめく意識の中、通り過ぎる彼へ会釈をする。
 すると金髪碧眼の少女の姿が見えた。
 僕が着させたロリータ衣装ではない、金髪碧眼の少女が見えた。

 脳裏に線香花火ほどの光がちらつく。
 目を擦る。いない。
 白い着物の少女などいない。
 金髪碧眼の、かつての聖剣のような少女はどこにも。

 ここにいる女の子は、僕の目にしか映らない彼女だけだ。
 もう一度目を擦る。ごしごしと両目を擦って、ハッキリしない頭を振るう。そのせいで視界も意識も塞がれた。
 だからか。闇夜の中、山門に幾つか掲げられている灯りの中では……一本松さんの腕に巨大な斧が握られていたことも、大きく振りかぶったことも、それに気付いた志朗お兄ちゃんが前に躍り出たことも気付けなかった。

 真空のように、世界が冷たく凍りつく。

「……俺は一撃で新座様を殺すつもりだった」
「…………」
「なのに、殺せなかった。……我ながら意外だ。俺としたことが」

 『今度の世界』は、劇的な別れなど無かった。

 襲い来る炎の波。その渦に僕が呑み込まれる瞬間、身を挺して兄が庇う感動的な姿。正面から抱きしめられて呆然と僕が宙を見ていた世界があったのは、あまりにその構図が美しくドラマチックだったからもあるだろう。
 同じような光景だったのに、今度はひどく呆気なかった。目をごしごしと擦っている間、すれ違い様に斧で首から胸に掛けて両断されただけ。
 山門の前にある灯篭の光の中。両断、されただけ。
 あまりに一瞬。数秒間も隙も見せず、兄の命は途切れた。

 けれど、まだ生きている耳には血が砂利の上へ振りかかるビシャリという綺麗な音が届いた。
 一瞬のうちの光景だったのに、「流血の音は鮮やかだ」なんて思う暇だけはあった。
 『前の世界』で何が何だか判らない悟司さんが目を抑え、輝さんが現れたように。僕には理由も判らぬ不可解な行動が進んでいく。今も、また。

「……弟を庇った? 庇えただと? 志朗様は、俺の動きを先読みできる異能でも持っていたのか?」

 理解できない不可解なことは、どうやら斧を振り回した一本松さんにもあったらしい。石畳の上へ悲鳴もなく倒れ伏した志朗お兄ちゃんを、本当に判らないという不思議そうな目で見下ろしていた。
 体格の良い僕よりもっと体格の良い彼。ただでかいだけの僕と違って、あらゆる戦場を駆けてきた戦士と名高い男性。大きな斧を握り、多くの異端を勝ってきたと聞く。そんな一本松さんが、お兄ちゃんの反射神経を絶賛している。
 だから何だというのだろう。そんなものどうだというんだ。

「■■■――ッ!!」

 その場で詠唱。ほんの二メートルも離れていない距離に立つ一本松という『目に見える敵』へと、魔法の刃を投げつけた。
 氷のつららのように鋭い矛先が突如空間から現れて、全速力で彼の顔面目掛けて飛んでいく。三本も同時にだ。
 詠唱から突撃まで一秒も掛からなかった。
 だけど彼は退魔組織である我が一族『本部』の一員。変な講釈を垂れ流すよりも端的に言うなら、強い。超越した戦果の保持者だ。魔法への対策を若い能力者に教えるぐらいのベテランでもある。僕の攻撃なんて一回の薙ぎで全て打ち払ってしまった。
 構わず二度目、三度目の発射。十本近くは魔法の剣や矢や槍を彼目掛けて撃ち込んだだろうか。
 悉く、彼には届かなかったけど。
 そして呆気なく僕の詠唱は塞がれる。

「痛ぁっ……!?」

 たった二メートルしか離れていない間合いだった。素早く瞬間移動の魔術でも唱えることができたら遠くの屋敷へ逃げ延びることができたが、彼を攻撃することに精一杯だった僕には不可能。
 彼が一歩だけ歩みを進めただけで、僕は前髪を掴まれ、思いっきり引っ張られた。前のめりに転びかけた後、その顔面に一本松さんの膝が入る。
 鼻の骨が折れる音が聞こえなかっただけ、幸運だったのかもしれない。
 ……いや、鼻が折れるほどの膝蹴りってことは一本松さんの膝だって痛い筈だ。もし数センチずれて歯に当たっていたら? 人体の固い物ランキング上位の歯は肉を抉る。だからきっと、この微妙な痛みは……僕の眼球だけを痛めつけるだけの目的の攻撃が成功したってところなんだろう。
 充分、僕から戦意を削ぐことに成功する一撃だ。

「む、ぐぅ……!」

 でも、殺意は削ぐことはできない。
 額も両目も膝蹴りされてとにかく痛いが、攻撃はやめたくなかった。
 何にもできずに砂利の上へ顔を覆って蹲るが、だからといって降参はしない。頭を上げ次第、また凶器を投げつけてやる。詠唱を続けるんだ。たとえ数センチ先に一本松さんが立ち、蹲る僕に切先を向けていたとしても。

「ぐぐうッ……!」

 蹲って地面に伏せた視界に見えるのは、一本松さんのブーツ。
 体重を込めて僕に繰り出す一撃のため、自然な形で開かれた両脚。お化けじゃなくてきっちりと足が二つ見えた。
 幽霊じゃない。化物でもない。ごく普通の人間の足だった。

「……わ……判ったよ……。志朗お兄ちゃんが、一本松さんの、攻撃から、僕を、庇えた、理由……」
「…………なんだと?」

 先ほど一本松さんが首を傾げていた疑問について呟く。思わず力強い声で。
 数秒も無いシンキングタイムだったけど、一本松さんはまだ答えに到達できなかったらしい。僕の回答を聞きたくて、動きを止める。
 生かしてやるため取引の停止ではない。ただ自分が答えを聞きたいがための身勝手な停止だった。

「理由とは、何だ」
「簡単だよ……。お兄ちゃんは、僕のことが大事、だからね。僕のことになると、馬鹿みたいに、頑張っちゃう、から。僕のこと、ずっと見てるから……かな……」
「…………」
「ずっと見てなきゃ、死んじゃう、かも、しれないからね……僕、弱いし。愛してる、なら、それぐらいのこと、するの、当然なんでしょ……」

 ……お兄ちゃんにとっては。

 自分で話しておきながら、そんな理由があるか、と叱りたくなってしまう。だがもし志朗お兄ちゃんに理由を問い質したとして、当然のようにそう返ってきそうだから怖い。
 尊敬するよりも先に怖いよ、何やってるんだよ、お兄ちゃん。
 喉の奥でそう呑み込んで、詠唱を再開するため息を吸い込む。あと数秒すれば、詠唱が出来ないほどの痛みが引く。
 ゆっくりと、どうでもいい話を、終える……。

「見てないと死ぬ。愛しているならそれぐらい当然。か」

 しかしそのどうでもいい話は一本松さんには何か心に引っかかるものがあったのか、僕の言葉をそのままなぞるようなことまでしてみせた。
 一文一文、なぞって、確かめるように。
 奇妙な声ではない。いつも通りの年相応な低音。何かに憑りつかれてケタケタと不気味に笑ったりもしない。
 ……出来れば怨霊に憑りつかれたからの凶行であってほしかったが、あまりに自然な声に望みは絶たれた。
 残念だ。心外だ。悪態をつきたくなるほどに、不満だらけだ。

「出来れば『あいつ』は、今度こそこの手で殺してやりたかったというのに。勝手に死なれたのは、俺が見張っていなかったからか。俺の落ち度なのか。……くく、愛しているなら見張ってないといけない、そうだな、そうだった、現に航もそうしてたじゃないか、俺もペットにそうしてやるべきだった……!」

 ここまでしっかりと人間語を話せる家族が、狂っていると信じたくなくて……あれだけショックを受けていたというのに。
 数分前の僕は、ショックを受け損だ。
 こんなに残念でならないと前言撤回できるなんて、逆にショックで仕方ない!

 詠唱を再開するために、僕は大きく息を吸い込む。一人で虚空に向かって話している一本松さんへ、凶器をぶつけるために。
 ほぼ同時に彼が武器に込める力が強くなる。ぶんっと空気が斬られる感覚がした。
 音の先にあるものはおそらく、僕が斬られるという事実。
 相討ちでもいい! 放て! 僕が斬られて死んでもお兄ちゃんの仇討ちになるというのなら――!

「だめよ」



 ――2005年12月1日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /8

 飛び起きる。

「あ、あ、あっ……!?」

 ガタガタと体が震えている。髪の毛から指先まで震えきって力が入らない。
 身じろぎもできない。心臓が痛い。寒いのに暑くて、傷一つ無いのに全身痛すぎて、絶望の端から端まで走り抜けて来た感覚が全てを混乱させる。

「やだ、いた、やめ、こわい、たす、け、おじ、ふじはる、おじさん……っ……!?」

 前後の繋がらない叫び。動転。混乱。大パニック。風呂でガタガタと震えている原因。冬だというのに水なんて被ったからだ。全裸で頭から水を被った。運が悪けりゃ心臓だって止まる。死ぬかもしれない。だから妙なことを言いながら絶叫しても仕方ない。
 ――ということになった。

 俺が通う男子校の寮は、基本的には共同風呂だ。
 基本的には部屋ナンバーごとに入浴時間が決まっている。数部屋が、同室の子達とまとまって入る。相手に譲りながら使えという教育方針だ。
 だが俺は仏田『本部』が用意した特例の一人部屋に住む。だから殆ど一人で広い風呂を使っていた。
 そのことを羨む生徒がいたかは知らない。どちらかというとクラスメイトからは「うまちゃんは何でも独りぼっちでやらなきゃいけなくて可哀想」という印象を抱かれていた。一人が気楽な性格としては余計なお世話だ。
 ……でも、風呂でも何でも問題があったら一人で解決しなきゃいけない。このときばかりは、可哀想だと思って俺を気遣ってくれていたクラスメイト達がいて良かったと思った。

「……うっぜぇ……」

 赤っ恥をかいて、ちゃんとホカホカと体を暖めた後に……独房もどきの寮部屋に戻る。
 悠々自適に一人で使う部屋は、相変わらず寒い。誰かが使えば体温が籠もるが、この部屋は俺が戻らない限り熱を帯びない。当然の話だった。
 タオルで頭をぐしゃぐしゃと拭きながら、俺は……生きていることを確認する。
 ぎゃあぎゃあ言いながらも、震えていた俺の心臓は止まっていなかった。
 止まっていないから騒いだ。まだ喋れるから声を荒げた。
 生きていたことを実感したくて、無我夢中に叫んでしまったんだ。
 理由は、死んだから。……殺されたから。
 冬に冷水を被って死にかけたからじゃない。福広さんに銃で撃たれて、殺されたからだ。

「冬。……冬!?」

 ばっと携帯電話を探す。いつもならベッドに放り投げている筈だとベッドへ走る。
 急いで携帯電話を開いた。

 『2005.12.1(Thursday) 20:15』

 ディスプレイに浮かぶ数字を見かけて、吐き気を堪える。
 俺は12月1日を過ごしたことがあった。何度もだ。12月31日まで生きたこともある。もう、何度もだ。
 そして、12月31日に……俺は、福広さんに撃たれて、撃たれて、撃たれて、死んだ。
 いや……12月31日は、『本部』のオヤジ達に殴られて、殴られて、殴られて、死んだ……どっちだ?
 どっちもだ。
 でも、生きている。今だって左胸を掌で抑えてみえばドクンドクンと脈打つ音が伝わってくる。俺の目は自在に動くし、まだ濡れた髪でベッドの上をごろんと転がって嫌な気分になることだって可能だ。
 けど終わった筈の12月1日をまた生きている。
 間違いなく、時間が巻き戻っているということだった。

「は……はは……『越境の魔術』が、成功した? あれ、成功したのかよ……!」

 依織さんが教えてくれたタイムスリップ、いやタイムリープの方法を記した魔術書。滅茶苦茶長い詠唱を一小節で唱えなきゃいけないという超高難易度の秘術。
 あれに成功した? あんな無茶と思えた代物に? それよりもあれは、本物だった!? そんな恐ろしいもんを順番関係無しの棚に放置しておいていいのかよ!?
 いいや、そんな問題じゃない。
 もし前の苦痛がただの悪夢じゃないとしたら。本当に時間が巻き戻って……精神が過去へ跳躍したことが妄想じゃないとしたら?
 俺は、『福広さんに殺されたという事実』を受けとめなくては……?

「あ……あ、あああっ……!?」

 またこの感覚だ。
 ガタガタと体が震えている。髪の毛から指先まで震えきって力が入らない。
 冷水を被っていないのにこの衝動。身じろぎもできない。心臓が痛い。寒いのに暑くて、傷一つ無いのに全身痛すぎて、絶望の端から端まで走り抜ける――恐怖との戦い。
 死が待っている苦痛を全身に浴びたときと同じ感覚が、何の変哲もない時間を過ごす今にインストールされていく。
 自覚してしまったが最後。福広さんに殺されただけじゃない、大晦日にあった出来事全部が脳味噌をひっちゃかめっちゃかに掻き混ぜて暴れ狂っていった。

 ……落ち着くまで、三時間ほど有した。
 三時間で落ち着いてくれたのだから良かった方だ。……あさかの死を自覚したときも酷かった。あのときは寺の中、唐突に現れた白くて大きな犬が介抱(?)してくれたけど、今は寮の部屋で独りだけ。

「……う……」

 三時間後に「独りは怖い」と思い至った。誰かに助けを呼びたくて、当然のように頭の中に浮かんだ人目掛けて飛びつこうと考えてしまう。
 誰にって、藤春伯父さんに。
 携帯電話の受信履歴を開く。
 ……そして気付く。
 今日は12月2日。冬だ。たとえ記憶が蘇らなくても、ベッドの上でガタガタと震えてしまう季節。
 ……あずまおばさんが死んで、十日以上が経っていた。

「…………おじ、さ……ん……」

 まだ震える指先で、受信したメールの画面を呼び開いていく。
 友達からのメールが多い。次にみずほだ。みずほは雑談をしたがるから。
 今では恐怖の対象になっている福広さんとのメールも多い。寄居とは親しい仲だが、あいつは文明の利器を使わないので仕事のやり取りしか見つからない。
 ……藤春伯父さんが送ったメールは、最初は少なかった。
 でも12月1日に近づくがつれ、数がどんどん多くなっていく。事務的な連絡メールだけじゃない。
 日付が新しくなるにつれ、会話が圧倒的に増えていくことが目に見えて判った。

『調子は良いか』
『ちゃんと食べているか』
『試験はいつだ。対策はできているか』
『今度いつ休みだ。みずほが来いと言っている』
『出掛けよう』
『いつにしよう』
『家族で行こう』
『この日でいいよな』
『決定だ』
『待ち遠しい』
『会いたい』
『早くその日になればいいのに』

『早く緋馬に会いたい』

 カチカチとボタンを押してメールを流していく。一つ一つ読んでいく。
 読んでいるのは、俺からの送信画面じゃない。
 甘ったれた俺が伯父さんに送ったものなんかじゃない。
 これは伯父さんから、緋馬に送られたメールの全部だ。

「……あ、ああ……伯父さん……伯父さん伯父さん……!」

 ぼたりと涙が零れる。
 震えて泣き叫んで三時間が経ってしまったが、今日泣くのは……このときが初めてだった。
 感情が昂って頭の中がまた滅茶苦茶になって泣いてしまう。ぼたぼたと拭うこともできず膝の上に涙が溜まっていく。
 そうだ、今日は12月。もう2日。時間が戻ってやって来た、俺にとっては何度目かの12月2日。
 過去に遡ってきたけど、もう俺には足掻くことのできない12月なんだ。……おばさんを救おうとした11月ではない。救えない、全部終わって嘆き悲しんだ伯父さんを抱き締めた後の12月だった。

 ああ……そうだ。またあの呪文を……時を飛べるあの魔法を唱えてみればいいんじゃないか。そうすれば11月に時間跳躍できて、おばさんがまだ生きている日に行けるんじゃ……?
 息を整えて、呪文を思い出す。
 詠唱を始めよう。大きく呼吸を繰り返して、最初の言葉を振り絞る。

「…………がっ」

 途端、涙が溢れてきた。
 おばさんのことばかり考えていたから、葬式のことを思い出してしまった。思考は……雨が降っていた最後の別れのシーンに切り替わっていく。
 開かれた墓石。
 小さな骨壺の中に納められたおばさん。
 双子の兄のあさかもいなくて、泣き叫ぶみずほ。
 呆然と霧雨の下でしゃがみ込む伯父さん。
 皆の前では堪えていたけど、一人になって……みずほ達を否定するようなことを言ってしまう、壊れかけの男性。
 ああ、思い出してしまう。その時間より前に行きたいという強い想いが、その光景を蘇らせてしまって、無心に唱える呪文を区切ってしまう。
 そもそもクソ長い詠唱を呼吸無しに言わなきゃいけないっていうふざけた方法だ。何故福広さんの前でできたかって、死にもの狂いの火事場の馬鹿力によるもの。
 生の実感があり、どこまでもナイーブになっている俺には……不可能な神業だった。

「あっ……ひっく……えぐ、ごめ……。ごめんなさい、おばさん……おじ……さ……」

 その後も挑戦した。何度も何度も挑戦した。
 けど強い想いは全部意識を奪い去っていく。叶えたいと思う意思が何よりも成功を邪魔させる。
 いっそあの過去への興味を無くしてしまえば無心に呪文を唱えて成功できたかもしれないが、興味が無くなった時点で時間を巻き戻す意味が消失するのだから本末転倒だ。
 俺が強く過去に戻りたいと思えば思うほど、口は回らず、集中しなければならないものも集中できず……魔力だけが失われていく。
 失敗が続く。
 何も起こらない。何も起こせない。
 顔も目も真っ赤にしながら一晩中泣く。……俺は独りぼっちの男子に相応しい夜を過ごしてしまうしかなかった。



 ――2005年12月31日

 【     /      / Third /      /     】




 /9

 漂う。
 沈む。
 溺れる。
 浮かぶ。
 流れる。
 揺れる。
 さまよう。
 さすらう。
 おちる。

「…………何をしたの、聖剣」

 一人の男の足元を見つめるだけの視界から反転。真っ白になった世界は、突如真っ黒く染まり、ついにはよく判らない色になってしまった。
 上も下も右も左も判らない状況が僕を混乱させる。感覚を失くした僕はぐらぐら漂い、ずぶずぶ沈み、ぐらぐら溺れて、ふわふわ浮かぶ。空を飛んだり地に落ち続けたり、あっちこっち迷走する重力に翻弄されながら、理解できない空間を廻る。

「新座が死にそうだったから……それよりも前に、時間を巻き戻したわ」

 はっと目を覚ますと、ある場所に蹲っていた。泥色の世界に座っていてぼうっとしていた。
 ……また、だった。

「ふぅん、便利だね。……おっと、怖い声を出しちゃった。ごめんよ。君なりに僕を助けてくれたんだ?」
「…………」
「どうしたの、胸なんて抑えて。君も苦しくなるのかい?」
「……ええ。新座だって力を使うとき体を痛めるでしょう。私も同じよ」
「そうなんだ。便利だけど大変なんだね。仕方ないか。そういうもんだもんね」

 自分を保たなきゃと言い聞かせて立ち上がる。
 宙を浮いていた。いや、地に伏していたのかもしれない。いやいや、ぐるぐる同じところを歩いていた? それとも。
 まあ、いい。確かにあのまま感情に任せて誰かを殺そうとしても勝てたとは思えないし、殺したところで志朗お兄ちゃんは救えない。倒すよりも先に時間を巻き戻って救うことに専念した方が得策だ。
 時間を巻き戻すなんてチートな能力を操れるのなら、尚更。クールになって使い方を改めるべき。
 ありがとうぐらい言っておくべきかもしれない。

 けど言うよりも先に、僕は彼女の手をガシリと掴んだ。
 それだけで彼女は意思表示と受け取ったのか、視界が更に反転する。おちるところまでおちた僕は、いくつか体験したあのときのようにある場所へ辿り着いた。
 ありがとうを伝える時間を放り出してしまうほど、単調に。

 リプレイ。
 リトライ。
 リスタート。

 初まる。




END

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