■ 028 / 「変貌」



 ――2005年9月6日

 【     / Second /     /      /     】




 /1

 玉淀くんは連れて行かれてしまった。彼を引き摺っていくのは悟司さんではなく、僧……研究者達だった。
 彼らに部屋や連れて行かれる前に、玉淀くんは溢れんばかりの笑顔を見せてくれた。今から楽しく遊びに行くような、これからの陵辱劇なんて一切思わせないような、何も考えていないような笑顔だった。
 その笑顔に、何を言えば良かったんだろうか。「頑張って生きて帰ってきてね」? 僕は冗談でもそんなこと言われたくない。ただ曖昧な表情で、手を振ることしか出来なかった。
 ……やっぱりおしゃべりするってこと自体、難易度が高かったんだよ。
 研究員達に言われた通りの場所へ向かう。一段と暗い廊下を歩き、障子の前で挨拶をして、声がしてからそこを開く。軋んだ障子が開きにくかった。
 その畳部屋には、絨毯の上に大量のパソコンとテレビが置かれていた。機械を置くように造られていない和室なのに、近代の研究施設を設置されたために建築的にも、色んな意味でも歪んでしまっている。
 ジージーと奇妙な音色を立てている機械と機械の中で、古い座椅子に座った悟司さんを見つけた。ディスプレイの光が眼鏡に反射している。光って、目が見えなくて、入ってきた僕を見ているように思えない。

「おかえり。慧、元気か」

 どんな答えを聞いても「そうか」としか返さないような男の、どうでもいい問いかけ。
 だから僕はいいかげんな挨拶をする。悟司さんも本題の前にワンクッションおきたいだけだから、僕のやや反抗的態度に何も言わない。
 更にどうでもいい問いかけをいくつもされた後、悟司さんは隣の座椅子に座るように命じた。渋々、彼の隣に着く。鎮座してみると、大量のテレビ画面を全て目を通すことができた。一番良い席だった。
 さてと悟司さんは僕の膝の上に書類を置く。難しい字がいくつも羅列されている書類だったが、僕の名前がメインになっているのを見て、面倒くさがらず目を通した。

「最近のお前は悪い結果を出しすぎている」

 要点だけを抜き出すと、その一言に落ち着く内容。
 僕の『供給率の低さ』について、多くの数字が記していた。

「……そうですか。ごめんなさい」

 魔物が居る間には監視カメラと機材が設置されていて、そこから被検者の様子がチェックされている。
 更に僕の体には(僕だけじゃなく、『機関』生まれの子供には)専用のインプラントが埋め込まれているので、それを通じて肉体に生じている様々な変化を記録している。体調が悪いときはチップからのデータで把握してくれるし、チップを通じて良い体調も悪くすることも出来る(出来るだけでする必要は無いけど)。
 体調の良し悪しは露骨に数値に出る。ゲームのような言い方をするならHP(ヒットポイント。生命力と言うべきか)があるか無いかも機械を通じて把握できていた。
 で、悟司さんが提示した書類には、僕の悪い結果が記されていた。
 どうやらこの時間は、お叱りのターンらしい。
 悟司さんは直接悪いところを言ったりしない。ネチネチと間接的に結果の悪さをいじってきた。
 「こんなんじゃ魔物を悦ばせられない」やら「期待して金や時間を掛けているのだから結果を出してもらわなきゃいけないんだ」やら。短気な人なら反抗的態度を取ってしまうぐらい、いやらしいお叱りだった。

「こちらは慧の要望は殆ど叶えてやっている。なのにこちらの要望を聞いてくれないのは、どうしてかな」
「すみません……」

 別に悟司さんや『本部』に嫌がらせをするために、悪い結果を出したつもりはない。
 今回は、ただただ良い結果を出せなかっただけだ。「そんなつもりはなかったんです」と言いたかったけど、言ったところでお叱りの時間が長くなるだけ。懸命に口を噤んだ。開きそうになる唇を必死に閉じることだけに神経を費やし続ける。
 口を閉ざし続けることにも飽きて、視線を何気なく書類に向けた。そこには、感情を数値に表したものがあった。
 ――6。普通の数字。以前の僕は9もあったのに、たったの6。
 でも普通は3。低すぎない普通の数字だから、お叱りを受けた翌日には変わってるかもしれない。厄介な結果だった。

「いつもの慧なら二桁に近くてもいい筈だろう? その前も確か9どまりだったかな。一体どうしたんだ。こうなったら仕方ない、薬を増やすことになるぞ。現に増やせと言っている人間は居る」
「……薬……」
「慧は投薬して伸びるタイプだったかな? 大抵の人間なら好調なんだが、つい最近そうも言えない事態になってきてね。あまり使いたくないんだが、結果を出せないのならば考えなければならない」
「……そうなんですか」
「ああ。玉淀の場合は絶好調だった。投薬して飛躍的に数値を伸ばしたからな。……いや、薬が無ければ全然伸びなくなってしまったと言うべきなんだが」

 ――それって、『依存症になるまで投薬し続けちゃった』ってことなんじゃ……。
 思いながら、あるカメラを見た。
 そこには、今の玉淀くんの姿があった。

「……ッ……」

 映像の中に笑顔は無い。……気持ち悪い『腕達』に、口にしたくないようなことをされている玉淀くんの姿が見える。僕はすぐに目を背けた。
 そういや僕が部屋を去るとき、僧達は注射器を出してたっけ。笑って「注射はイヤー」って言ってたのに。
 画面の先は、僕の知っている笑顔なんて無い……ボロ雑巾のような人間になっていた。

「……悟司さん。その言い方だと、実験で失敗したように聞こえますね。誰が失敗だったんですか?」
「気になるのか」
「……いえ。別に。すみません」
「多分聞いても慧が知らない名前だ。つい最近仏田に入った男だった。有望な人材だから期待してたんだが、残念ながら一回きりで駄目になってしまった」
「その人は今……」
「美味かったよ」

 食べられちゃったんだ。そうですか、と適当に話を終わらせる。
 すると悟司さんは再度、僕のお叱りを再開させた。文句を言う訳にもいかず、僕は別のことを考えながら色んなカメラを見ることにした。
 流れていく景色をただただ、追う。
 畳の部屋でいかにも研究をしている人達がいて、僕の知っている顔が魔術を勉強をしていて、習字をしている人がいて、エッチなことをしている人達がいて、食事をしている人がいて、空の下で談笑している人もいて、何者かと戦わされて剣を持って血を流している人がいて、魔物に嬲られて泣き叫んでいる子がいて、トイレに括り付けられている人がいて、本を読んでいるだけの子がいて、包帯だらけでベッドに寝転がっている人がいて、怪しい研究所で煙がもくもく出ている。
 ……全部、我が家で行われている光景だった。

「あっ」

 そんな中。大勢の一族の中に僕の一番好きな姿が見えて、ついつい声を上げて喜んでしまう。
 途端に悟司さんが怪訝な顔をする。自分が話をしているのに無視して夢中に映像に飛びついちゃったんだ、嫌な顔をしない訳がない。
 僕が見た映像を確かめて、悟司さんは、

「お帰りになられていたか」

 僕の大好きな先生を確かめて、そう言った。

「きっと慧の『仕事』終わりを待っていてくれたんだな」
「ええっ!? そ、そっかぁ。……先生ってば……」

 僕が今日解放されるのを知っていて……僕を出迎える為に屋敷に居るなんて! なんて優しい人なんだろう!
 カメラ越しに見える先生は、いつも通り優しい顔をしていた。当然だ、先生はいつだって優しい。誰にでも優しい先生は、今も笑顔で誰かと話をしている。カメラからだと姿が小さくて判らないけど、僕には眼鏡の下の穏やかな目を見ることができた。
 優しい笑顔がこんなにも早く見られるなんて、嬉しくてついつい前のめりになってしまう。悟司さんが咳払いをしても気にしない。

「悟司さん、お話が終わったならもう退散してもいいですかっ?」
「…………」
「もう退散してもいいですかっ?」
「……お前は多重人格だな。さっきまで大人しかったのに。感情をさらけ出さないように努めることもできたのに」
「そんなのどうでもいいでしょう。同じ話を何度もしている人は嫌いです。ねえ、退散していいですかっ?」

 ついつい力が入って手元にあった本を掴んでしまう。いけないいけない。お願いしているのに熱くなりすぎだ。
 悟司さんはまだ何か言いたそうだったけど、「そんなのどうでもいいでしょう」と僕が声を荒げると、複雑な顔をしながら退室を許可してくれた。
 一応彼の顔を立てるために頭を下げて、廊下を出る。
 カメラに写っていた先生は、洋館に居た。先生は洋館が好きだから。好きな人のことだからそれぐらい知ってる。僕を待っている間、好きな所で時間を潰していたんだろう。
 すぐにそこに駆けつけて先生を驚かそう! 後ろから飛びついたら驚いちゃうかな。「なんでここに居るって判ったんだ?」って言うかも。そしたら「愛の力です!」って言っちゃおうかな。もちろん最終的には「カメラで見てました」って言うけど。だって先生を困らせたらいけないし。
 先生が移動しないうちに、僕はダッシュでその場を去った。誰かに怒られそうだったけど気にしない。
 だって僕は今まで仕事で頑張ってたんだ。少しぐらいハメを外したっていいじゃないか。そんな反論を装備しつつ、僕は走った。早く先生に会いたかった。先生。恋しかった。先生!
 走り続けた。



 ――2005年9月6日

 【     / Second /     /      /     】




 /2

「そんなのどうでもいいでしょう!!!」

 怒鳴った後、走り去っていった慧をカメラで追う。
 中性的でお淑やか。物静かで自己主張せず、物判りも良く、分家の出でも能力は随一。優秀な感応力の使い手。
 『魔物』との相性も良く、幾度あの部屋に送り込んでも精神崩壊せずに戻ってくる青年……。

「……最高には違いないんだが」

 『魔物』の相手をした連中は大抵、阿呆になって戻ってくる。巨大な触手に頭から爪先まで喰われきって、全身を犯されて、そのまま墓場行きだってありえるっていうのに。
 例外として当主様は戻ってくることができる。それは「流石は当主様」と言えるんだが、神がくれた小さな才能か、慧と、強化に成功した玉淀は、ボロボロになりつつも意識を保っていることができた。
 しかしどうして、あの身体でよく走れるもんだ。カメラの中の慧は、愛しの人めがけて走り続けていた。その姿に呆れて物も言えない。いや、感心して何と言っていいやら。
 違うカメラに目を向けた。先日まで慧と同じことをしている玉淀が、喰われていた。
 今、彼は、赤と黒と紫色の肉に押し潰されている。

「ううむ」

 いつ死んでもおかしくないような行為。だというのに『魔物』は高い知能があるのか「痛めつけても決して殺さないよう」適当な呼吸を玉淀に与えている。
 あの行為をつい昨日まで慧も受けていたというのに、どうして元気に走り回ることができるんだ。
 あの行為が、それほど大変じゃない作業だというのか。
 あの行為がどうでもよくなる程、愛しの人に会うのは大事なのか。
 自分は愛に溺れたことがないせいか、理解できない世界だった。

「ういーっす。サトシっち、元気ー?」

 暫く理解できないものについて考量し続けていると、挨拶もロクにしない芽衣が入って来た。
 着流しの上に廃れた白衣を着込み、ふらふらと隣に座ってくる。

「あんれ、元気じゃない顔してるわ。どーしたんでい」
「不可解な物への理解を深めていた」
「はあ。眉間にものごっつ皺寄ってるからビックリしたぜ。また目悪くなったんじゃないかぁ? 見えてる? ついに目もオダブツかぁ?」

 映像を睨んで思惑を巡らせていれば不調だと捉えられても仕方なかった。
 問題無い、と眼鏡を外して皺を揉みしだく。

「ふぃー。てっきり慧お叱りタイムかと思ったのに、案外解放するの早かったんだなぁ」
「逃げられたからな」
「おんや、逃がしてあげたんか。珍しい。優しいね。慧のことは好きかい?」
「いや、苦手だ。生命の危機を感じるほどに、苦手だ」

 ――お淑やかで大人しく物静かな性格。だが被っている仮面を外せば、ギラギラした倫理感の欠けた目が現れる。管理する側として、懲罰を恐れない性格は恐ろしかった。
 もしさっき「退散してはいけない」と言い放ったら、慧は手にしていた本で殴りかかってきただろう。もしくはテレビを持ち上げて攻撃したかもしれない。慧の目はそうしてもおかしくなかった。……ルールを敷く側としては見逃せない問題だ。
 『規則に従わない者は粛正する』。それが父・狭山のやり方で自分もそれに賛同するが、慧の才能を見ると粛正は惜しい。一族でも物珍しい力を持つ男を処刑する訳にはいかない。
 かといって反抗的態度を野放しにしておけない。腐った蜜柑は周囲の蜜柑まで腐らせてしまう。どっかで使われたフレーズだが正しくその通り。……自分が襲われる前になんとか手を打っておく必要があった。

「芽衣。予定通り慧の投薬準備をするよう、要請しておけ」
「おっ。結局やるんだ?」
「ああ、あいつは情緒不安定すぎる。昔から大人しいと思わせて何かと小さな問題を起こすタイプだったが、いいかげん手を打たないと安心して夜も寝られない」
「にひっ、いつ夜這いで殺人事件化してもおかしくない程のテンションだからねぇ!」

 感情的に暴走するならともかく、いつかの寄居のように本格的に自我を失って暴れ出したら損害は大きなものになる。
 貴重な才能だからこそ、潰さないように保存するのに一苦労をしていた。

「ひっひっひ。心配しなくてもすぐにやれるよ。もう準備済みさ。……人格改造なんてなんだか久々だなー。最後にやったのは確か月彦の事件以来だってね」
「ん、よく覚えてるな?」
「さっきそのことを話したばっかだからねぇ、先生と」

 ――ついさっきまでさぁ。
 言いながら、芽衣はとある映像を指差した。それは……慧が凝視し、今も彼が走り続ける先の光景でもあった。

「先生も喜ぶと思うぜ。慧の人格改造を言い出したの、あの人だし。『本部』が促してくれるなら、あの人も嬉々として動き始めるさ」
「芽衣」
「あ?」

 映像の中には、柔らかい笑みをたたえる眼鏡の男がいる。
 彼はふわふわした微笑みを顔に貼り付け、研究員の僧侶達と話をしていた。

「俺には判らないんだが」
「何がよ」
「人間が人間を好きになるにあたって、どこが一番重要なんだ?」
「あー? なにその宇宙外生命体みたいな質問」
「ある程度答えは出ているんだが、本当にこれで正解なのか自信が無い」
「んー……。顔とか特定部位を挙げる奴もいるだろーけど、『人柄』って答えるのが常識的じゃね? 優しい性格がどうだとか、明るい面が好きだとか、一般的にそれらをピックアップするだろうさ」

 予想通り。芽衣が放つごく普通の回答に、自分も頷く。

「では……。好きな人間の人柄を弄くること、この事に『彼』は何の抵抗も無いんだろうか」
「『彼』? それって、先生のことかい?」

 ついつい、慧の肩を持つようなことを口走ってしまう。
 まるで慧を優しく気遣っているようにも見えるが、純粋に疑問でもあった。

「あんれ、サトシっちさんたらお優しい。顔に似合わないことをするねえ。どうしちゃったの」

 らしくないと付け足しながら、何故か嬉しそうに芽衣が感想を漏らす。

「簡単に考えればいいさぁ。……『別に先生は、慧のことなんてそれほど大事じゃない』んだよ。どう考えたってそうだろ。それぐらいあんたなら容易に思いつくと思ったけど?」

 呆気なく芽衣は言う。ああ、やはりそうなのか。
 そもそも慧の悪いデータを見て投薬処置を薦めてきたのは、まぎれもなく彼――航さんだった。慧が「先生」と慕う、主治医で保護者の彼が、慧を内部から改造しようと言い始めたんだ。
 映像に再びを向けると、ちょうど航さんが慧に後ろから飛びつかれ、驚いて、笑っているところだった。慧も大人しい顔とは思えぬぐらい幸福感に満ち溢れた笑みを浮かべている。
 完全に信頼しきった表情、自分に向けられる親切を愛と疑わない実験体は、恋人の顔をした研究者に抱きついていた。
 柄でもなく、「可哀想だ」と呟いてしまった。



 ――2005年4月2日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /3

 後ろ姿を見て一瞬、父さんかと思った。
 まさか、そんなことはない。父は十年以上前にこの世を去った。生きていたら五十歳を過ぎている。あんな若々しい姿な訳が無かった。
 だから彼を父と思ったのは……単に髪の色が同じだからだ。
 父も綺麗な赤い髪をしていた。日本人だったけど生まれつき赤毛だった。そんな髪色だったから昔は苦労したと度々言っていたのを思い出す。……もう父の声を思い出すのも難しいほど、昔の話だ。

 でも彼の後ろ姿を見てはっと「父さん」と呟いてしまいそうになったのは、それぐらい自分の中で父が大きなものだったってこと。だからつい調子に乗ってしまって、自分から声を掛けてしまったんだ。
 振り返った男性は、父に全然似てなかった。全くの別人だ。当然だと判っていながら、少しだけ落胆する自分がいた。
 しかもその人は話しぶりからするに、仏田とは全く関係の無い部外者らしい。だって……仏田寺に居る大抵の男性なら、オレの姿を見れば逃げるように去っていく。もしくはオレに「あっちに行け」と怒鳴ってくる。間違って声を掛けてしまってもすぐに接触は終わる筈なのに、何も知らない部外者と接触してしまったオレは、離れるタイミングを失って…………いつの間にか、書庫に居た。

「確か、この辺りに動物辞典があってな」
「…………」
「うん、ブリッド、こっちだ」
「…………」
「ほら、あった。この本だ。おっ、一発で狼のページが開けたぞ! 凄くないか?」

 一度同じ本を読んだことあるのか。書庫で狼について調べてみようと言った彼は、あっさりと目的の本を探し出した。
 さっさと会話を終わらせて自室に戻りたい。全身からそう訴えてみたが、彼はいくら待ってもそれを察してくれない。直接声で伝えなければこの男性には届かないらしく、そのまま時間だけが過ぎ、ずっと書庫で彼の話を聞くことになってしまった。
 それでも、『狼は飼育できるか』について調べ終われば帰れると思っていた。
 なのに、いつの間にか話は最新の映画の話になっていた。
 それから好きなケーキ屋の話になっていった。
 そのうち彼の妹の話になって、しかも妹の恋人の話にもなって、オレは……どうしたらいいか判らなくなっていた。

「妹には教養ある男と付き合ってほしいと常々言ってたんだ。まさかピッタリな男を連れてくるとは思わなくて……いやはや、まさか私の言ったことをそのまま再現した男がいるとも思わなかった。更に言うなら……そう、妹は正直者が過ぎる子でな、『あたしと付き合うなら楽器の一つぐらい演奏しなさい!』と交際者に強請るなんてことするとは思わなかったんだ……私は冗談のつもりで言ったんだぞ。なのに本気にするなんて。選んだ男性を従わせても私に紹介させるとは……勝ち気なのは良いが、あれではお相手が可哀想な気もするな。まあ、あれで長く付き合っていられるんだからきっとお似合いなんだと思うが」

 ……一体、いつまで話が続くんだろう。
 ぼんやりと彼の妹の話を聞き続ける。「この人はとても妹様のことが好きなんだな」と思いながら、話が途切れるのをひたすらに待った。
 ブリュッケの姿から始まった狼談義はとっくの昔に事切れたんだ。そのうち家族の話も飽きると考え、とにかく待ち続ける。

「ところでブリッド。お前は楽器に興味はあるか? 何かできるか?」

 ……そう簡単にはいかず。
 書庫から出て、明るい陽の下に出て、赤い髪の彼は陽気な笑みで問いかけてきた。太陽のように眩しい。自分からこの人を断ち切らない限り、この無限地獄からは抜け出せないらしい。

「……はい」
「そうか。ピアノができるんだろう?」
「…………。はい……」
「おお。やっぱりピアノが弾けるのか、そうじゃないかと思ったんだ」
「…………はい…………」
「私も昔、父から『何か一つぐらい自慢できる趣味を身につけておけ』と言われてな、ヴァイオリンと乗馬を嗜んだんだ。ヴァイオリンは暫く触っていないが……ふむ、話していたら触りたくなってきたな。音楽は良いものだしな。うんうん。で、ピアノはどれくらい習っていたんだ?」
「……あ…………え、っと……その……」
「ブリッド? …………まさか、相槌を打っていただけか?」

 違う。ちゃんと話は聞いていた。でもなかなか言葉が出てこなくて躓いてしまっていただけだ。
 オレはこの人のようにぽんぽん話題を展開することなんて出来ない。正直、この人の話は早すぎて半分ついていけないところもあった。それでもなんとかして追いつこうと、必死に言葉を探す。
 ……他人の話をこんなに聞くのも、自分で考えて声を出すのも久々だった。もしかしたら十年ぶり……それ以上かもしれない。いつも、命令された言葉に従って頭を下げていたから……。

「ピアノを触っていたのは、もう……十年以上も前で……でも、弾けると思います……」
「十年も触っていないのに? 私は一年も触れてなければ勘を忘れてしまうぞ」
「……ピアノは押せば音が出ますから。既存の音の通りに、同じ音が鳴ったところを押せばいいだけ……だから、弾けます。弦楽器は……押さえるところが多くて、覚えるの大変だったから難しかったですけど……もう一度覚え直せば、弾けるかと……」

 言葉を選んで一番的確で、なるべく短い台詞になるように努める。
 ついつい要領を得ない喋りになってしまうのはオレの癖だった。それでいてオレは自己完結してしまう節がある。いつもそれで一本松様や航様を不機嫌にさせてしまうから、出来るだけ判りやすく少なくを心得て、口にした。
 なのに彼は黙り込んでしまう。あのマシンガントークが止まってしまった。
 ……まさか、失敗したのか。理解できないようなことを言ってしまったのか。
 ついブリュッケの方を見て助けを求めるが、ブリュッケは知らんぷりしていた。本物の犬のようにひなたぼっこなんてし始めている。なんでそんなに上機嫌なんだろう。

「ブリッド。お前……絶対音感の持ち主か」
「…………え……?」
「『同じ音が鳴ったところを押せばいいだけ』なんて、そう簡単に言えることではないぞ。ブリッドは何の楽器でも弾けるのか?」
「……そんな、弾き方の判らない楽器は弾けませんから、ヴァイオリンなんて触ったこともないですし、きっと無理です……。オレはただ、昔から……耳が良いだけで……」
「そうか。……ブリッド」

 彼は書庫のドアをコンッと叩く。
 オレの名前を呼んで、ただ叩いた、それだけの動作をして向き直る。

「この音は何だ?」
「レ。…………あの、オレ、変なこと言いましたか……?」

 口を開けて呆然とオレを見た後、よく判らない拍手をした。拍手の意味が理解できず、オレは混乱してしまう。
 話をしながらうっすらと、「こんなような会話を十年前に父としたかもしれない」と思い出していた。そのときも父はオレのこの音楽の勘に驚いて、後に面白がってオレにピアノの弾き方を教えてくれたんだった。
 そうだ。父はピアノの音が好きだった。「プロになる程じゃない」と言いながら、弾き終えたときの顔は満更でもなかったのを覚えている。少し自信過剰なところは、兄さんへと立派に遺伝していた。
 そういや兄さんは音楽の才能はイマイチだった。兄さんは一つのことに集中するのが苦手だから、ピアノに向かって座っていられなかったんだ。代わりにオレが父の自己満足に付き合わされたんだっけ。でも兄さんは歌が得意で……。
 どんどんと昔のことが思い出されていく。
 この男性の髪の色から始まって、家族の話をされて、久々に音楽の話なんてしたから、忘れていた父や、まだ明るく元気だった頃の兄のことを思い出していった。
 つらい。
 こんなこと忘れていた方がラクだったのに、話をして、わざわざ思い返して、胸が苦しくなってしまった。……やっぱり人と話すのは、苦手だった。

「…………そろそろ、オレ、行きます」

 赤毛の男性が次の話を始める前になんとか去らなければ。オレの特殊能力(?)に言葉を失っている間に、別れの言葉を口にする。なんとか出来た。
 なんだか疲れてしまった。色んなことを思い返してしまったからだ。
 こんな状態で『魔物』に食われたら、きっと旨い旨いと酷い目に遭わされるに違いない。
 『魔物』が求めているのは供給。供給とは感情の揺れ動き。感情の激しい揺さぶりを好むのは『魔物』も異端も人間も同じ。
 今のオレは昔のことを思い返してナイーブになっているから、きっと痛めつけ甲斐があるだろう。
 少ない餌の中で『魔物』も旨い飯が食いたいだろうから。
 『魔物の餌』が出来るのは、『次期当主とオレを含めて四人しかいないんだから』。
 ……今夜はきっと念入りに虐められる。殺されかけるかもしれない。なるべく無感情になって、苦しくないようにしていたのに。オレは彼へ早々に別れを告げ、その場を去る。

「待ってくれ! もう少し話を……!」

 だというのに、この男性は大声を出し、オレの腕を掴んでまで引き留めてきた。
 いきなりのことで思わず力強く振り払ってしまう。あっという間に振り払われる彼の手。彼はビックリしてオレを見る。『その顔はとても必死だ』。なんなんだとオレもつい、彼を睨んでしまう。
 しまった。
 ……目が逢って、そう思ったが、彼は驚いた顔を向けたままだった。良かった、何も起こらない。何事も無かったことに安心し、改めて彼に別れを告げ、その場を去った。
 この人と居ると心がざわつく。話すのも大変だし、部外者だから事情も話せない。一番苦手なタイプだ。……もう二度と、会いたくなかった。



 ――2005年9月4日

 【     / Second /     /      /     】




 /4

 煌びやかなステンドクラス。絨毯の道を挟んで長椅子がいくつも並んでいる。
 空間の端には特別高価という訳ではないが、良い音が出そうな古いオルガン。中央に立つ、十字架のネックレスを首から掛けた法衣の男。
 僕の知っている限り、教会という姿の全てがそこにあった。

「むぐっ。ときわくんー! よく来てくれたねー! 時間通りに来るなんて偉いな。しっかり者でえらいえらいーっ!」

 従兄弟の新座さんは数ヶ月前に家出した不届き者だというのに、平然としていた。
 神父さんのコスプレなんかして、教会の下で普通のエージェントのように振る舞っている。寺で和服姿のお手伝いさんをしていたときと全く変わらぬテンションで。
 どんなに外見を派手にしても、生まれと違う風に変えたとしても中身は早々変わることなんて無い。彼が洋風に生まれ変わってまだ数ヶ月も経ってないんだ。
 だというのにもうすっかり和解したかのような態度。家出をしておきながら何て能天気。当主継承の大騒動があったというのに。

 新座さんへの挨拶をそこそこに、『仕事』の話をすることにした。新座さんの住処に興味は無い。洋な生活はいかがなものか訊きたかったが、超個人的な話題は二の次だ。
 自分は仏田の使者として、退魔組織の支部『教会』に来たんだ。
 新座さんは『教会』のエージェントとして、仏田寺に協力を要請したんだ。
 全てが終わってから訊けば良い。僕個人の趣味は押し潰すことにした。

「オーライ、以上で報告はおしまいです。了解しました。今すぐ大山さんに伝えましょう。彼は外で待機しています」
「あ、大山さんを呼びに行くかい?」
「教会内は電話禁止ですか? ダメなら出て行きますが」
「ううん。みんなしちゃってるから平気だよー。電話しちゃえしちゃえ」
「……自分で電話していいですかと尋ねておいて言うのもなんですが、大抵こういう荘厳な場所での通話はご遠慮するものではないんですかね」

 新座さんは「オッケーだよー」と脳天気に、何も考えてなさそうな顔で言う。が、礼拝堂での電話はマナーに反すると僕の中の僕が叫ぶ。だから一度、礼拝堂の外に出て、携帯電話を取り出した。
 僕は面倒臭い性格である。自分で言うんだ、間違い無く面倒臭い男だ。

「異端犯罪者の搬送は、いつでも可能とのことです」

 ――世に「退魔業」で成り立っている組織は、一般人の予想以上に多い。
 アンダーグラウンドな商売なので知名度は低いが、電話帳に載せたら一地域につき一ページは団体名で埋まるんじゃないかってぐらい、結構な数がある。
 異能が関わる事件や異端絡みの超上現象は、一般人は基本的に知らないこととされている。でも知ってる人は知っているし、知らない人は一生知らない。この世界の不可解現象の認知度はその程度だ。

 ――「何でも解決してくれる便利な魔法使いがいるんだって」「マジで? 嘘だー」「マジだって、実際会ったことあるもの。だって私が魔法使いだもの」
 そんな会話が今日も世界のどっかでされている。きっと。
 一般ではない能力を知覚したり噂に聞く人間がいて、それらの存在を否定する人間もいて、実際体験し自分でも操ることができる人間達が共存する……そんな世界。
 この国には何億人も生きているんだ。商売が成り立つし、商売をする団体がいくつも生まれるし、その団体をまとめる団体も生じてくる。
 現在、日本でそこそこ名が知られ、信頼され利用者も多い、異端対処に特化した団体といったら退魔組織『教会』だ。

 退魔集団『教会』は異端が絡んだ事件が生じれば、情報処理能力に長けた『聖職者』と、異端討伐能力に優れた『処刑人』というエージェント達を派遣し、事件解決を計る。
 エージェントは能力を持った者達を使っていて、ちゃんと彼らに給料を支払ってはいるが事件の依頼人から金を取らないという善良なボランティア団体だ。『教会』は異端に苦悩する一般市民を救うためにある組織であり、金儲けのためではない、だから依頼料は一切取らないという方針を取っている。
 金を巻き上げないのに、どうやってエージェント達の給料を支払っているのか。『教会』内には金が生じる仕組みなんて無いのに、どこから金が生まれているのか。
 答えは、「仏田家から」。
 『教会』の経費は現在、殆どが仏田からの援助によって運営されている。その昔はボランティア団体らしく、創立一族と心ある寄付により成り立っていた小さな退魔組織だった。だが三十年ほど前から『本部』同士が手を組み、今の全国手広く無償で一般人を守る組織へと変貌した。

 仏田一族現当主・光緑様の奥方・邑妃様が、その関係を繋いでいる。
 邑妃様は『教会』創立一族の生まれであり、『教会』現統領の次女だ。光緑様の元へ嫁ぎ、三人の子を成した女性である。

「……新座さん」
「むぐ? ……ときわくん、ずっと怒った顔をしてるね」
「そうですね」

 言っちゃ悪いが正直、邑妃様の三人の息子のうち、三人は出来が悪い。
 燈雅さんは今は優秀だが昔は無能だったし、志朗さんも刻印無しの無能と言われ続けている。新座さんはこんな人だ。仏田の女として良く思われていない要素がいくつもある女性だが、それでも当主様の正妻で居続けられるのは、この立場あってのことだった。
 柄にでもなく、汚い真実を思い浮かべてしまった。ソーリー、ブラザー達。お二人のことは心から尊敬している。

「新座さんは、家出したことには謝りもしないんですか」

 仏田一族は自分達の研究のため、発展のため、魂を集めている。
 死んでしまった無念な魂や、強力な力を秘めた異端の魂は、良質であればあるほど喉から手がいくらでも出てくるぐらい必要なものだ。
 だから仏田は善良なボランティア団体を利用した。
 小さいと言っても名の知れた退魔組織『教会』は、無償故に評判を良くしていた団体だった。大抵困っている人はお金も無いもの。苦しい想いをしている人達には神様のような存在だ。ただ、契約以前の『教会』はその性質故、組織としての金も無い。
 仏田は葬祭を扱う表の顔をしていたから、金はそこそこあった。土地も持っていたし、羽振りも良かった。
 人気の高い『教会』を援助し、その見返りに成仏させるべき魂を頂く作業を追加してもらう契約をするなんて、大した手間でも無かった。

「謝らないよ。僕は家出するべきだったと考えているからね。むぐ」
「……そうですか。ソーリー、ちょっと席を外します。外にいる大山さんに一言声を掛けに行ってきます」
「いってらっしゃい」

 今日もまた、困った人々が無一文で『教会』の扉を叩く。
 仏田の金で働く『教会』の者達が、困った人達を助けるために悪を叩く。
 叩いた悪を仏田がどうしようが、一般人と『教会』本部は何も言わなかった。

「ときわくんが戻ってくるまでにお茶を煎れておくねー」
「何から何までサンキューですね。……しかし……」

 煌びやかな礼拝堂だというのに、新座さんは湯呑みを用意する。
 礼拝堂の長椅子に座って、立派な湯呑みで緑茶を啜る。洋風舞台に合わない日本男児の姿が並ぶことになってしまった。

「しかし、って言いながらちゃんとときわくんはお茶飲んでくれるんだね。嬉しい嬉しい」
「わざわざ僕の為に用意してくれたティーを無駄になんかしません。気遣われた人間は好意を受け取るべきですから。新座さんも気遣われるべきなんですし、座ったらどうですか」
「むぐ?」
「異端犯罪者討伐、夜中まで大変だったでしょう。新米エージェントさんとして頑張っているそうじゃないですか。昨日の今日なんだから休んでください」

 昨晩のことを口にすると、新座さんは「そんな大したことはしてないよー」と謙遜し始めた。
 ――彼は仏田寺を家出してから、『教会』で住み込みで働いている。
 エージェントの聖職者という立場で人々を苦しめる異端を退治している。仏田から家を出たというのに、結局は魂集めをやっているんだから……最後は同じ、どうせ同じ仕事をしてるんだから諦めて実家に戻ってくればいいのに……。
 それは口に入れば食べ物なんてどれも同じだけど、洋食についこだわってしまう僕も同じこと。人のことを強く言えない。

「そんなに心配しなくていいよー。幸い、大きな事件になる前に終わったことだしね。むぐっ」

 謙遜しながらも疲れた顔をする新座さん。
 こんな人に「早く実家に戻れ」なんて辛いことを投げ掛けたくなかった。

「そうなんですか?」
「うん。誰も死なずに終えた。ちょっと困ったことが起きちゃっただけで、結局は誰も傷付かずに事件を終えることができたんだ。良かったよ。死傷者も出なかったし、記憶操作も最小限で済んだし、犯人も捕まって反省しているようだしー」

 今回は運が良かったよー、と新座さんは笑う。
 疲れた顔をしていたが、本当に嬉しいことがあったような安心の笑みを浮かべていた。

「……実被害も心の傷も最小限でしたか。それはグッドですね」

 何も無かったと言うが、何か事件があったから新座さんのような『教会』のエージェントが動いていたんだ。
 被害は少なく済んだと言っても、何も無かった訳ではない。生じた事件には必ず黒幕がいて、新座さん達エージェントはなんとか事件を一件落着させ、『教会』に犯人を連行したんだ。
 やはり新座さんは気遣われるべきだ。被害の無い事件で終える努力をしたんだから。

「お疲れ様です」
「むぐー、だーかーらー、そんなマジな顔して心配しなくってもいいんだってー。今は平和! だからいいの!」

 異端は滅ばさなければ禍根を残す恐ろしい存在だが、意思を持って罪を犯した人間(俗に『異端犯罪者』と呼ばれる者達のことだ)は退魔組織に連行され、然るべき処罰を受ける。大半は警察組織に突き出され、法の力を持って更正させることになる。
 で、『教会』は捕らえた悪い異端犯罪者をどうするかというと……仏田と手を組んでいるから、『仏田が経営している』異端刑務所に任せるという方針を三十年前から行っていた。
 そして今日、僕と大山さんが『教会』にやって来た理由は、今回の事件の犯人である犯罪者を我が刑務所に搬送するためだった。

「……犯人は、反省しているんですか?」

 実際に犯人と対峙したであろう新座さんに尋ねる。
 彼は力強く、頷いた。

「心から反省しているようだよ。たとえ異能を持っていても、これから一般人と同じく罪を償いたいと訴えていた。あの目は嘘じゃないと思う。きっと嘘じゃないよ!」
「優れた新座さんの千里眼が嘘じゃないと言うなら、本音なんでしょう」
「そうだね。僕が言うんだから間違いないよ」

 フフンと自慢げにする顔は、「もちろんそんなこと冗談に決まっている」とも語っていた。
 僕も僕で冗談と判った上で、そのようなことを口にした。

 ――異端や怨霊は、人の負を得ることを美徳とする化け物だ。
 だが、道を誤っただけの能力者は、異端と同じような驚異ではあっても、所詮は人。誤った道を正してあげればいくらでも救える。
 その考えを心から信じている新座さんは、僕との雑談の最後に、「どうか彼をよろしく」と頭を下げてきた。
 仮にも悪いことをした犯人に感情移入しすぎじゃないかと思ったが、その優しさがあるから人を救えるんだ。彼は『教会』の聖職者というエージェントがお似合いなのかもしれない。
 真っ直ぐで、羨ましい。
 新座さんの超が付くほど実直な性格は評価に値する。こんなに良い人なんだから早く実家に戻って、みんなの幸せのために働いてほしいと切に思う。
 「どうか彼を宜しく」。その答えに……僕が犯人を更正し直す訳ではないのに、「任せてください」なんて言ってしまった。



 ――2005年9月4日

 【     / Second /     /      /     】




 /5

「大山サマ。どうしてときわサマにウソなんて吐いちゃってるんです?」
「え?」

 地上と地下室の真ん中、厨房にやって来た大山サマにズバリ問い質す。
 お腹を空かせた大山サマは、ボクの質問の意図が全く理解出来ずに、頭上にハテナマークを飛ばしていた。お腹をおさえながら首を傾げるだなんて、ウソを吐いてる自覚なんて全然無かったみたいだ。

「何のことだね、学人」
「異端刑務所なんて、三十年前に閉鎖されちゃったじゃないですか。ときわサマったら、まだそんなモンがあるって思ってるような話し方でしたヨ」

 ――本日、屋敷の前で『仕事』を終えたときわサマと話をした。
 「今日は一体どんなコトを?」と世間話をしたら、的外れな返答。なんだか話の流れが不可解。話すうちに混乱が広がっていったが、「大山サマの認識が間違っている」って気付いたら全てが合致した。テキトーなトコロで話の流れを打ち切り、喋りまくって上機嫌な彼に別れを告げ……ボクは今の時間に至る。
 で、なんで大山サマがこんなトコロ(立チ入リ禁ズの厨房)に来てるかというと、特に用件も無く、煮込み料理を覗きに来たらしい。摘み食いがしたくてやって来たようだった。

「そのことか。異端刑務所はちゃんと日本にもあるよ。公安が取り仕切ってる刑務所が全国六十ヶ所ある中、うち十ヶ所は異端刑務所で……」
「でも」
「うん、学人の言いたいことは判る。判っているよ。『教会』が管理していた刑務所は全て『我らが』取り壊したな。もう必要が無いものだったから」

 世界中に異端刑務所はあるし、今後も必要だとされているけど我が家ならそんなモノ必要無い。
 そう判断を下したのは、もう三十年も前のコト。

「なのに何で、ときわサマには真実を教えないんです?」
「その、ね。ときわくんは、とても心が清い子なんだ」
「ハア」
「サヤが育てたとは思えないぐらい潔癖な子でね。いや、サヤが消毒液まみれで常識を植えつけたからあんな子になったのかな。とにかく、ときわくんは、ダメなんだ」
「ナニがです」
「……真実を知ったらね、持てる全ての力を使って色んなことをし始めるだろ?」

 大山サマ独特の、曖昧で優柔不断でふにゃふにゃした話。狭山サマが聞いていたら「ハッキリしろ!」と怒鳴られそうな説明だ。
 そんな的を得ない話をしていると、いつの間にか大山サマの手には小皿がある。摘み食いどころか、ボクに堂々とゴハンを強請るつもりだ。銀之助サマがいたらおタマで撲殺されるのに。いや、銀之助サマがいないこの機会だからお強請りしてきたのか、このヒト。

「今言わなくても、いつか言わなきゃいけなくなるし、ナニかしらのタイミングで知られちゃうと思いますケド?」
「うん。そう思うよ」
「それでも、言わないんですネ。ときわサマは優秀なお方ですから、そのうち自分から知っちゃうんじゃないんですか?」
「うん。そのときはどうにかなるよ。どうにかなるもんだよ。今までどうにかしてきたしね」

 脳天気なコトを言いながら、大山サマはあんまり出汁が出ていないスープを口にした。
 まだ半日も煮込んでないスープだ、そんなに味はしみてない。銀之助サマだったら「未完成の物を出せるか」と激怒するものでも、大山サマはあったかいスープというだけで美味しそうにふわりと笑う。

「どうにかしなきゃなのは、ときわくんだけじゃないな。新座くんもきっとショックを受けるだろうから」
「アレ、新座サマもご存知ありませんか」
「うん。多分知らない。知ってたら『あんな会話』しないよ」
「どんな会話かボクは知りませんけど、どうなるんでしょうネェ」
「みんな判ってくれるよ。うちはこうやって発展してきたんだから、これからもそうやっていくんだって納得する。納得してくれなきゃ困るんだ」

 この方は相変わらずハッキリと物を言わないヒトだなぁ。なんて思っていると、大山サマはあろうことか一番オイシイ目玉を口にしていた。
 たった二つしかないモノを!? 味を出すための作業中に摘み食いしちゃいけないモノを!

「もうっ、出てってクダサーイ! 味を変えただろって銀之助サマに怒られるのボクなんですよー! 摘み食いだったらそこの余った髪の毛にしてクダサイよー!」
「ごめんごめん。でも髪の毛は子供の頃からどうしても好きになれないんだ」
「だからってメインを食べちゃうなんてイケナイことだと思いますー!」
「つい……搬送してるときから美味しそうな目の子だなぁと思ってて。我慢できなかったんだよ」
「もうーっ!」

 ボクは下っ端なので上の方である大山サマに強いコトなんて言えない。
 けど、これはみんなの料理に関わる問題だ! 銀之助サマに優しく告げ口しよう! そうしよう! 絶対しよう!
 でも大山サマがお鍋に入れられない程度に告げ口しなきゃだな。うう、それって結構難しいコトだよな……。ううう、お鍋に目玉が一つしかない。突然変異で単眼の魔族だったってコトにならないかな。
 いっそもう一体、地下牢から誰か連れてくるか。味の良さそうな能力者って居たっけ……って、それだとお鍋に目玉が三つになっちゃう!? 隠れてボクが一つ食べておけばオーケーかな!? どうしよう!



 ――2005年9月4日

 【     / Second /     /      /     】




 /6

 ときわくんと大山さんが来るというのを聞いて、朝早くからケーキを焼いた。
 甘い物が大好きな彼はとても喜んでくれたが、大山さんは複雑そうな顔をしていた。きっと僕が料理をしていることに、変な感情を抱いたんだろう。

 料理は昔からやりたかったことだった。でもやらせてもらえなかった。
 仏田寺の厨房は魔王のもので他の人は立入禁止だったし、そうでなかったとしても直系の坊やだった僕は入れてもらえなかった。
 料理に限らず、掃除や花の手入れですら、「新座様とあろう方がそんなことしないでください」という言葉が付きまとったもんだ。
 そんな生活を寺に居るときはずっと送っていた。
 それでも、掃除ぐらいはしていた。僕の立場上、しなくても良かったけど「僕に掃除をさせろ」と命令することが出来たから。
 雑用としてお母さん(お父さんのお手伝いをしている)の周りに居られたのは、お母さんにすら「僕に手伝いをさせろ」と命令したからだった。

「むぐ……キッチン、片付けてない。怒られちゃう」

 ――僕は偉い人の息子として生まれた。

 仏田家第六十二代目当主の三男。三男だけど地位は第二位。
 志朗お兄ちゃんが継承権の刻印を持たず生まれてきたから、繰り越しで僕の方が偉い。だから第二位。
 更に言うなら「燈雅お兄ちゃんじゃなくて僕が当主になってもおかしくなかった」ことから、まるで第一位みたいな扱いですっごく大切に育てられた。
 大切にされっぷりは度が過ぎていて、料理や掃除の雑用をやらせてもらえない他、「使用人の仕事を減らしてはならない」という理由であらゆる事を制限された。

 小さい頃の話。食事中、僕が醤油をこぼした。
 でも僕はこぼした醤油を拭いてはいけなかった。拭くべき悟司さんや圭吾さん、鶴瀬くんの仕事を奪ってはいけなかったからだ。
 そんな生活を二十年続けて、いざ外を出てみると大変なことばかりに気付いた。今は『教会』に居候させてもらっているけど、醤油瓶を倒したまま食事を続けてしまい……シスターに怒られたどころか、「何故その状態で食事を続けるの」と心配されてしまった。
 ああ、そうだ、ここには幼馴染が……いや、自分を世話してくれる使用人が居ないんだった。当然のことなのに、指摘されるまで僕は気付けなかった。
 醤油瓶の一件を指摘されてから、僕は積極的に「自分がしたことない行為」を探すようになった。
 他人の仕事を奪う勢いで、今までやったことのない行為を試していく。
 その中でも一番好きな未知の世界が、料理だった。

「ときわくんは味にうるさいからなー。あの子も舌が相当肥えてるから。美味しいって言ってくれると嬉しいなーっ。……あ」

 幼い頃、辛うじて通うことが出来た小学校で食べたケーキが好きだった。それからずっとあの味に恋して、自由に料理が出来るようになった今、ケーキばかり焼くようになった。
 僕がお世話になっている『教会』は、本物の教会を本部にしていて集落センターの役割もしている。一般の子供達やそのお母さん達が集まるから、彼らのケーキを焼くのはすっかり日課だ。
 最近はお料理教室の真似事みたいなのもやった。元から僕は器用だったのか、下手でも回数を重ねるごとに巧くなれたのか、銀之助さんには負けるけど、誰にでも喜ばれる味を作れるようになったと思う。
 それに、美味しいお菓子を作るというより……誰かに振舞いたくて仕方なかった。

「ねえ、食べる?」

 隣に居た小さな子供に、スポンジの欠片と残り物のフルーツで作ったパフェを渡した。
 もみじのような掌がコップを一生懸命包んだ。大人が使う分には大きくないコップに作ったパフェは、彼女の小さな手にはビックサイズだった。
 残り物とはいえ誰にでも喜ばれる味のケーキに、洗ったばかりの果物がいくつも入ったトライフル。
 とても満足した顔で頬張ってるくせに、

「悪くない味だわ」

 なんて言っちゃってる。

「むぐ。君はなかなか美味しいって言ってくれないんだね」
「ううん、充分良い味。立派なものだわ」
「付け足しのように言われても嬉しくないなー。どう見たってお世辞じゃないか。口にした瞬間『おいしーっ!』って叫んでいる君が見たいよー」
「そういう反応は火刃里のような子供に求めるべきよ」

 確かに。彼女の言う通り、火刃里くんは何を与えても大袈裟すぎるぐらい喜んでくれる。与える側の機嫌が良くなるような最高の『子供像』だ。
 素直で笑顔、元気で可愛い。それらが子供に求められること。だからそうじゃない子供を見ると残念な気分になる。……お約束のように、「君は子供らしくないねー」と、口走ってしまうぐらいに。

「さーて、一息ついたから言われてもらうよ!」
「きゃっ」

 僕はパフェを平らげた彼女を見守ってから、立ち上がる。
 そして……テーブルの上に腰掛けていた小さな女の子を抱き上げた。

「テーブルの上に座って食事するのは、ダーメ! ここは椅子が無いから許してあげたけど、キッチンデスクの上に乗っちゃダメだって! 前も注意しただろ!」
「乗っても、どちらも汚れることなんてないわ」
「それでも! 君は人間じゃなくても人型なんだから、人のルールは守った方がいい!」

 小さな彼女を担いだまま、教会のキッチンを後にした。彼女がパフェを頬張っている間に片付けは全て終えている。
 料理どころか片付けも、誰の力も出来るぐらい僕は大人になっていた。えっへん。人より遅いからあまり威張れないことだけど。
 それどころか一度『年齢を遡ったことがあるから』ズルい大人のなり方だけど。

 ――さて。
 話は変わるけど、僕はタイムスリップした経験がある。

 タイムスリップは適切な言葉じゃないと、僕がだっこしている彼女は言っていた。
 でも『元の時間から逆行して、過去の世界を過ごしている』んだから……タイムスリップっていう言葉を使ったっていいだろう。

 彼女を抱き上げて、僕の部屋に連れてくる。
 昨日のうちに用意した子供用の洋服カタログを彼女に渡した。みんなには姿が見えないけど、背丈100センチぐらいしかない小さな子供。金色の髪に、碧くて大きな目をした可愛い女の子。それが彼女。
 名を尋ねたら、「聖剣」と名乗った。
 僕がタイムスリップしたことを教えてくれた、みんなには姿が見えない小さく可愛い不思議な女の子。小さな女の子とは思えないぐらい大人びた(僕よりも大人っぽい)喋り方をすることから、普通の人間でないのが判る。
 そんな彼女と僕が出会ったのは、2005年4月1日。いや、正確には2005年12月31日。そんな今日は2005年5月15日なのだから、説明が面倒臭いことこの上無い。

「新座。貴方、良い趣味をしているわね」
「そう? 君に一番似合いそうなジャンルの本を買ってきただけだよ」

 ――僕は昔、2005年の12月31日まで生きていた。

 というのも、2005年12月31日に実家のお寺で宴会に参加していた記憶がハッキリとある。あの宴会の思い出は去年、一昨年のものではない。確実に、2005年の記憶があった。
 宴会は毎年のように酒盛りをするから、お酒で頭がこんがらがっちゃうことはある。けど、絶対に記憶違いなんかじゃない。
 三月の終わりに家出をした日の記憶があって、家出から一週間で「おかえり」を言うようになった人が増えて、一ヶ月目には鶴瀬くんや志朗お兄ちゃんのおかげで心地良く「ただいま」を言えるようになった。
 それが幸せだと、僕は確かに語った。……志朗お兄ちゃんに語ったんだ。
 そのときの志朗お兄ちゃんの表情も、言葉も、ちゃんと覚えてる。思い出せる。夢ではないと言い切れる。
 だって、あんなに痛かったんだから、夢なんかじゃない。
 ぎゅうって締め付けられて、全身を守られたあのときの痛みは、忘れられない。

「こーら、またテーブルの上に乗ってる。ダメだって!」

 どうも彼女は高い所が好きらしく、目を放すとテーブルに腰掛けようとする。
 うんしょっと彼女を抱き上げてお隣の椅子へセット。移したところで「高い方がいいのー!」って文句を言わないんだから、無意識のうちに高所を選びたがるだけのようだ。

「椅子に座って、テーブルに本を置けば読みやすいだろ? 君はちっちゃいんだから尚更だ」

 ――2005年12月31日。僕は夜中まで、お酒を飲んでいた。

 二十四時なんて普通の大人には大したことない時間かもしれないけど、朝の早い仏田寺で二十四時までみんなが起きているなんて、大晦日じゃないと有り得ない。
 特別な日だったから僕も起きていようとはしゃいでいた。けど、志朗お兄ちゃんは僕の体を想って制止してくれた。夜に活動するなんてこの年では普通なのに、過保護すぎる志朗お兄ちゃんは僕を部屋に連れ帰った。
 お兄ちゃんの本音を考えると……ただ僕と二人きりになりたかっただけかもしれない。お兄ちゃんは夢見がちなロマンチストだから、みんなでワイワイ騒ぐより僕と年を越したかったんだろう。
 それも悪くないから暫く、部屋で大人しくしていた。二人で楽しい時間を過ごしていた。悪酔いせず、気持ち良く酔いがまわって、一番気持ち良かった瞬間。
 家中に炎がまわった。

「…………」

 頭を抑える。……頭痛を我慢する。
 炎を見たとき、色んな可能性を考えた。
 寝煙草、厨房でのミス、研究室で実験失敗からの爆発。色々考えられた。
 けどそうじゃない。事故で起きた火ならすぐにでも消せた筈。でも炎はどんどん増えていった。
 そう、炎は消せなかった。だって『みんなが家中を燃やしていったんだから』。『みんな』を消さない限り、炎は止められなかった。自然の火が襖や畳を燃やしていくんじゃなくて、操られた炎が、意図的に建物や人々を焼いていったんだから。
 このときのことを思い出そうとすると、頭が痛む。胸も痛む。しかも眠くなってしまう。だから『炎を操っていたみんな』が誰のことなのかとか、どういう経緯で『炎を操るみんな』が現れたのか、一切思い出せない。全然判らない。
 けど記憶にあるのは、複数人が、何らかの目的を持って、意図的に仏田寺を焼いたこと。
 その場に居る人々を焼いていったということ。
 あと……間違いなく、志朗お兄ちゃんは被害者であるということ。

 ――炎を繰り出したとき、僕を抱きしめ背中で炎から庇ってくれた。
 ――だから、志朗お兄ちゃんが敵である訳がない。

 頭が痛くなったり眠くなるのは嫌なことを思い出そうとするからだろうけど、胸が痛いのはお兄ちゃんのせいだ。
 庇ったお兄ちゃんの表情を、僕はハッキリ見てしまっている。
 一瞬のことで動けなかった僕。何にも力が無いくせに、俊敏に動くことは出来るお兄ちゃん。
 僕を抱きしめ呻く唇。炎を浴びて、動かなくなる身体。肉の焼けるジュッという音。苦しそうな顔。
 でも、僕を見て安心したような目をしたこと。
 倒れゆく瞬間まで、僕は見た。……罪悪感で胸が痛い。

 ――『刻印無し』とか『能力者の才能は無い』とか言われているくせに、一瞬の判断に間違いの無いお兄ちゃんは僕なんかよりよっぽど優秀な人間だ。

 あんなものを見てしまって、惚れ直さない訳が無い。
 前からお兄ちゃんのことは好きだったけど、今は大好きだ。……なんとかしなきゃって使命感に燃えるぐらいに。

 まあ、そんな感じで。僕はとんでもない2005年の12月31日を経験した。
 その後、気を失って起きたら2005年の9月1日。隣には、みんなには見えない不思議な女の子がいる状態。
 今ではさらっと思い出せるし語ることだって出来るけど、目覚めて一週間ぐらいはナーバスな日々を送った。それでも僕は僕らしく過ごしたけど、これでも努力した方である。

「むぐ? さっきから同じページ見てるね。その衣装、気に入った?」
「……ええ、この服装が一番好きだわ。貴方が最初に言ったことは間違いではなかったみたい」
「そうだね。ヒラヒラフリフリが君には似合ってるよ。その服、買ってこようか?」
「いいえ」

 他のページを捲っていたが、彼女がいきなり「あっち向いて」と僕にお願いしてきた。
 何をするんだろうと思いながら僕が壁を向くと、数秒して「もう見てもいいわよ」という声がした。
 振り返る。するとそこには、『ゴシックロリータの女の子』がいた。
 先程までの、『衿合わせが左前の白装束の女の子』ではなく。

「……うわっ……」
「なによ、その反応」

 彼女の背はたった100センチぐらいしかない。
 僕の身長の半分しかない大きさの、お人形さんみたいな可愛い女の子が……まさにお人形さんみたいな可愛いお洋服を着ている。
 白くて清潔感のあるフリルのブラウス。これまた複雑で凄い装飾がされているふわっとした黒スカート。所々に金銀細工。凝った釦にきらきらてかてかまんまるの靴。靴下だって単なる白ソックスじゃない、細部に渡って刺繍が施されて……さすが、雑誌モデルの姿をそのままコピーしただけのことはある!
 これ全部、ちゃんと買って揃えたら何個ケーキが食べられるだろうってぐらいのパーフェクト!

「かーわーいーいーっ! すっごいかわいいよー! やーっぱり僕の目は間違ってなかったー! 聖剣、君はずっとその格好でいるべきだよーっ!」

 左前の死に装束よりも、ずっとずっと女の子っぽくて可愛い格好だ。そもそも可愛いとかそういうレベルの格好じゃないよね、死に装束って!
 せっかく綺麗な顔をしているんだ、女の子なんだしもっと着飾るべきだって言って提案して良かった。しかも最初にロリータ衣装を推しておいて良かった!
 絶対似合うとは思ったけど、こんなに似合うとは! なんで僕はもっと早く言わなかったんだ!
 ……理由は、「幽霊って死んだときの姿そのままで現れるから」白装束のまま変えることは出来ないと思っていたから。
 けど先日、そのことを聖剣に話したら「勝手に思い込まないで」と言われてしまった。今の今まで誤解していたが僕にしか姿を知覚できない彼女は力無き幽霊ではなかったらしい。そんなの言われなきゃ判らないままだった。

「聖剣! カメラカメラ! 今から写真撮影しよう!」
「私、映らないわよ……」
「頑張って!」

 彼女とは、タイムスリップしてからの付き合いだ。
 2005年に起きた事件が現実だと教えてくれたのが、聖剣。彼女は人には視えぬ不思議な存在で、すっごく強いらしい。何が強いんだか知らないけど、初めて会ったとき「私は強くて凄いから新座を助けてあげる」と言ってきた。本人が自信満々に言うんだ、きっと強いんだろう。
 2005年。きっと僕は志朗お兄ちゃんに庇われた後、気を失った。そして僕の前に現れた彼女は大体のことを説明してくれた。

 ――貴方は2005年から2000年の世界へやって来た。
 ――このままでいくと、2005年の12月31日にまた同じことが訪れるわ。
 ――これから起きる未来を知っているんだから、貴方が変えて。

 最後に、私はなるべく協力してあげる、と力強く言ってくれた。
 死んだ後に時間を越えて数年前に目が覚めた。隣には、僕にしか見えない女の子を引き連れて。未来に起こったことを記憶し、二度目の2005年を送っている。
 2005年の世界は僕の知っている世界通りに時が進んでいく。春の噴火や、有名な政治家の悲しい最期も報じられた。でも違った面も僕の身近で起きてきた。

 例えば……些細なことだが、僕が料理をするようになった今、実は9月4日は圭吾さんが甘い物を奢ってもらう日だった。なのに自宅である宿舎には僕しかいない。
 理由は簡単。僕がケーキを作ったから。仕事で運送役の圭吾さんにお世話になったし、ケーキをプレゼントだってした。
 でもその結果、残念ながら圭吾さんとお出かけする時間は減った。これを続ければ疎遠になっていくことだろう。もちろん先日の誕生日にはメールをくれたし、『仕事』の関係で話もする、仲が険悪になった訳でもない。
 前の2005年では生じていたことが変更されている。本来だった今日圭吾さんと出掛けた際に買う筈だった秋物のジャケットが、部屋に掛かっていない。きっと今回の2005年ではお目見えすることもできない。

 これはほんの些細なことで、数え出したらキリが無いほど変更点は多い。
 圭吾さんとの微妙な疎遠は修復しようとすればすぐに直せるけど、そうじゃないケースだって大量にある。
 他にも僕がジャケットを買わなかったことで、ジャケットを売っていた店の売上が落ち、潰れてしまったとか。
 潰れて職を無くしたショップ店員がネット販売をし始め、それが成功して、服を売って生活しているところは変わってないけど基本ヒキコモリ生活になってしまってる、とか。
 僕の周りじゃないところでも変化は見て取れる。テレビを賑わせている芸能人の離婚のワイドショー。僕が知っているあの女優は11月に離婚騒動を起こしたのに、半年も早いゴールデンウィークに繰り上げになっていた。

 些細なことで未来が変わる。
 未来を知っているんだから、変えようと思えば変えられる。
 強力な味方が隣に居る。だから……。

 2005年12月31日の炎は、止められるんだと。

 志朗お兄ちゃんが僕を庇って死ぬなんて世界は、変えられるんだと。
 彼女は何度も説明してくれた。

「ああっ、髪はロングよりこうした方がいいよ! こう……こう! そう、ツインテール! ああっ、いい! 女の子っぽくて可愛い! か、髪飾りはこっちの写真がいい! いや、その前に巻こう! 結ぶ位置はもうちょっと高めがいい!」
「新座。女児のファッションで鼻息荒くするなんて、人によっては嫌われるからやめなさい」
「僕、娘が出来たらどんなに生活が苦しくったってお洋服だけはちゃんと買ってあげるお父さんになる! 中学は可愛い制服の学校に通わせる! 女子高生になったらお化粧も許可する! 女子大生になったらー……!」
「その不純な夢はともかく、叶えるためにもちゃんと娘を産みなさい。それが仏田一族の願いなんだから」
「むぐー」

 注文した意見がいくつも却下される。
 それでも辛うじて一件だけ採用され、聖剣はお花の髪飾りを付けた二つ結びの女の子になった。
 みんなに見せられないのが残念なぐらい可愛らしい格好だ。写真に撮っても誰にも見せられないのが残念でならない。残念で残念で、残念でならない……!

「むぐっ。聖剣さ……もしかして、『こういう姿になりたい』って思えばどんな姿にでも変身できるの?」
「ええ。あくまで変えられるのは服装ぐらいで、基本パーツを残した状態じゃないといけないけど。髪型は変えられても髪の色は変更できないし、実際に私が知覚した形じゃなきゃ再現できない。情報は多くないと細部までコピーできない欠点もあるわ。平面の情報よりも実際見たものの方が再現度は高いわね」
「それってどんな服でも着放題ってことじゃんー!? すごーい! 写真に撮りたいよ! いっぱい可愛いカッコ撮りたいよ! みんな惚れるよ! ネットアイドルになれるよーっ!」
「……私、貴方の娘になるために隣に居るんじゃないんだけど」
「判ってるよ! 僕の家を救うために居てくれるんだよね! ありがとう! 僕、頑張るよ! 甘ロリって好き!? さっきから見てたのがゴスロリ記事ばっかだけど、聖剣だったら明るい色も似合うと思うんだよね――!?」


 ――2005年11月30日

 【     / Second /     /      /     】




 /7

 魔力切れを起こしている次期当主・燈雅の面倒は下の者達に任せた。世話なら手慣れた連中にやらせた方が良い結果を出す。笑う元気もあった次期当主を使用人の男衾や梓丸に任せるとして、それよりも自分は儀式の件の資料に目を通さなければならない。
 他の誰かにやらせるのではない、早急にこの狭山がしなければ。自分の役目を果たすため、『機関』へと向かう。
 洋館地下にある本部まで足を運べば、あれもこれもと目を通さなければならない資料は増えていく。
 本来の目的である儀式の資料。それとは違う、現在続けられているという研究。魔物の件。新たな魔道具の開発の件。霊薬の開発の件。従来よりも強固な結界の件。本家屋敷の雨漏りの件。『仕事』の資料。収支報告。年明けてから出される『赤紙』。各自の成績の件。研究の成果。今月分の教会からのあれやこれ。実験に必要な素材の……。
 膨大な量に目を通さなければならず、一端に仕事が出来るようになった息子・悟司を呼ぼうかと考える。だが悟司は数時間前に「圭吾が来た」だの「霞の処刑が」なんだと喚いていた。これ以上奴に雑用を任せることは不可能だと判断する。
 ならばと油を売っていた大山の息子の芽衣や依織はどうだ。奴らに二割だけでも仕事を任せば明日の二十二時には全て終わるか。
 他に優秀な研究者達はいないか。師走に入るこの時期に暇をしている者達はいないか。
 そのように簡潔に事を進めていく。そうして今日は声を張る必要無く、問題も生じず、何事もないまま全てが終わった。
 日付が変わる寸前ではあるが未だ研究所で篭る者は多い。しかし翌日の任務や鍛錬のために寝室に向かう者達も多くなっていった。自分もまた明日の為に身を休めるためだと席を立つと、研究者の一人である指扇が、

「菫組の間に大山様がいらっしゃいます」

 と、無駄な報告をしてきた。
 つい「だから何だ」と言い返してしまう。だが指扇は律儀に頭を下げただけだった。
 別に奴は失敗などしていない。自分も奴の頭を下げさせたくて言った訳ではない。それなのに。
 早々に業務が終わった後だというのに妙な気分に襲われ、どうにも機嫌が直らず、仕方ないから気紛れにと兄が居るという場所に足を運んでみた。

 『菫組の間』とは華やかな名前が付けられている(浅黄様が名付けた。他にも桜や菊の間があり、赤城や妙義の間などもある)が、牢屋兼物置のことだ。
 『機関』で行なわれる実験や、『供給』に使用したことがない者を保管しておく檻で、手付かずの餌達を保存しておくための座敷牢である。数ある牢の中で最も衛生面に気を遣っている。他の牢と違い、糞尿を垂れ流しておくことなどしない清潔な物置と言えた。
 数日前までは十人ばかり中に入れていたが、今は手付かずの餌なんて居ただろうか。殆どは使用済みになって違う場所に移されたと思っていたが。
 行っても何がある訳でもない無人の牢屋に兄・大山が居る理由は何だ。考えながらそこへ訪れてみると、指扇の言った通り、比較的綺麗な畳が敷かれている座敷牢の中に兄・大山が座っていた。
 座敷牢の中に、だ。木の格子の中に入り込んでいた。
 仏田家『本部』の中心人物が捕らえられている? そんな馬鹿なことがある訳が無い。現に牢の鍵は開けられている。彼が好んで中に入ったに違いない。冗談好きにも程がある。下の者にも馬鹿にされるような弛んだことばかり口にする彼でも、守ってもらわなければならない誇りがある。自ら牢屋に入るなど何事か……。
 喉を通りぬけそうな怒号を辛うじて耐え、まずは座敷牢の中を覗きこんだ。

 座る兄から手が伸ばせる距離に、少女が一人、大皿を手にスープを啜っていた。兄は正座のまま、目の前にいるそんな少女をずっと見つめている。
 少女の風貌は銀色の髪に褐色の肌、顔立ちは十代前半に見えるが成人女性のような豊満な体つきをしていた。誰もが妖艶と気を惑わせてしまうほど美しい造形を布一枚が辛うじて隠している。よく見ると耳が長く、異形の形をしている化け物だ。
 嫌悪感が滲み出てくる。そんなモノを自由に食事なんてさせて何をしているんだ。いや、自由ではないか。正座をして少女と向かい合う大山の手には鎖があり、それは少女の首に着けられた拘束(魔力行使を抑制する首輪。餌には全員着けてある物)に繋がっている。
 少女は少女が持つには辛い大きすぎる皿を抱え、中身を零さないようにふるふる腕を震わせながら大皿に直接唇を付けて飲みほしていた。
 涙を流しながらスープを飲みほす少女を、鎖で繋いだ兄はじっと……笑顔で眺めている。
 その表情ときたら。
 ……そういえば「長年飼っているペットの中で最も好きなのがダークエルフなんだという話をしていたのを覚えている。どうやらこの少女は、大山に大層気に入られている一匹のようだった。

「珍しいね、サヤ。こんな所に来るなんて。サヤはここが嫌いだと思っていた」
「ふん」

 大山は中身を飲みほした少女の美しい銀髪を撫でながら、格子の外で立つこちらに声を掛けてきた。

「その認識はあっている。こんな場所など用が無ければ来るものか。今日はただの気紛れだ」
「なんだって? 気紛れか、怖いことを言うなぁ。サヤがなんとなくで動き始めるなんて悪いモノに憑依されたんじゃないかって一族中が慌てるよ」
「ではここに来た真の理由を話そう。指扇に言われたからだ」
「指扇に? 何て?」
「大山が何やら怪しいことをしていると報告があった」

 『機関』で話す重要な報告ばかりの中、わざわざ時間を割いて報告するほどのことだ。重要性が他のものより欠けていても無意味ではない。でなければ指扇の気が触れたと疑わなければ。
 言い放つと、大山は何故かくすくすと笑った。元から少女を見つめているときから微笑んではいたし、特に何も無くたって微笑もうとする男ではあったが。

「サヤは世間話の練習をするべきだ」
「世間話だと?」
「余った時間で喋ることさ。意味を見出さなくてもいいような、どうでもいい話。その方が人生をより楽しめる。仕事はきっかりやってもらわなきゃいけないけど、たまに雑談を交えることぐらい認めてあげないか」
「俺だって生産性の無い話ぐらいする。だが何故それを高潔な研究所でしなければならん。ふざけた考えだ」
「こら。大声を出すな。この子が怯える。よしよし」

 温和、温厚。周囲の者からは仏と言われている男に相応しく、大山は優しく少女に笑いかけていた。
 少女に大皿を置かせる。右手で美しい銀髪に触れ、左手を少女が羽織っている布の中へ滑らせていく。肩で彼女を抱きながら、左手は少女の水で膨れた腹部を撫でまわし始めた。
 右手は頭をぽんぽんと、左手はヘソの辺りをゆっくりと愛おしげに撫でていく。彼女を繋ぐ首の鎖は大山の腕に巻きついたまま。指から鎖を離してはいるが、拘束は未だ続いているのを見せつけているかのようだった。

「兄貴。ここは倉庫だぞ」
「知っている。ここで彼女を可愛がるつもりはない」
「では何をしている」
「ああ、安心してくれ。彼女はまだ一度も穢れてはいない。ここに入る資格はまだある。まだね」

 まだ。告げられて、「まだ処女なのか」とじれったく感じた。

「ふん……。そのダークエルフを捕らえてもう四年も経ったというのに、手を出さないなんて一体何をしている?」
「と言ってもだね、この子はずっと穢れないままが良い。四年経っても色褪せないこの子の魅力が悪いんだよ。……ん? サヤ、よく覚えてるね。この子が四年目の子だって」

 兄が「私だって欲しい物があったら我儘ぐらい言うんだよ」と珍しく懇願してきたのが四年前の話だ。その記憶が強く残ってしまっているせいで、しっかりと四年だと覚えてしまっている。
 ――それに、今から四年前。大規模な異端の里狩りを行なったから余計に覚えていた。
 気味の悪い人外狩り自体は数年に一度はしている。だが四年前の異端討伐は大規模だった。異国の深い森の中にある古城、そこに住む吸血鬼を討伐しに行ったのだから。
 人外狩りは他の組織に力を見せつけるための儀式のようなもので、「それほど大規模な狩りが行なえる」「これほど力を所持している」とアピールすることで新しい顧客を作るイベントをするんだ……と当時の大山は言っていた。

 『真祖の吸血鬼狩り』なんて大きな闘いになると踏んで多人数で臨んだ。
 そのときの作戦は案外呆気なく成功してしまい、皆拍子抜けで帰国することになってしまった。急遽「せめて多くの異端を狩ろう」と方向転換し、出来るだけ多くの里を狩り取って帰国した。
 おかげで多くの魂、多くの餌、多くの技術を寺に持ち帰ることができた。
 この少女は、そのとき訪れたエルフの里に居た姉妹の片割れだ。
 真祖の吸血鬼を始め大勢の妖精は、実験に餌に、大いに重宝した。彼女の母親も父親もとても質の良い肉だった。
 そうしていざ姉妹を下ろそうと銀之助が『菫組の間』から取り出そうとしたとき、事件が起こった。
 大山が止めに入るという事件が。
 彼はダークエルフの姉妹をとても気に入り、「子供だし食べるところが少ないだろ?」「もうダークエルフは食べ飽きたから違うのを用意してくれ。だから」と必死に交渉をし始めた。
 「だが」「しかし」「なら」と次々言い訳を述べる大山と銀之助の闘いは、俺にとっては事件の一つだった。だから覚えている。
 こういったことは一度だけではないのが、それにしたって四年前はまったく面倒で面倒で……。

「……その少女、確か片割れが居た筈だが?」
「本当によく覚えているね、サヤ」

 大山は生温い優しさを持っている。
 この場に居るのはダークエルフの少女一人だが、大山の私室には半人半獣や、風変わりな超能力を持った少年少女を大勢ケージに入れていた。
 大抵は里狩りで連れてきた人外だが、訳あって競売などにかけられていた能力者の子供達を自分の貯金で集めてくる癖もあった。
 気に入った者はたとえ人間でなくても化け物だろうと、自分の手元に置いて育てようとする趣味。安易に異端だからと殺すだ食うだなど言わない。「だってまだ若いのに可哀想じゃないか」「みんな、まだ生きているんだから」と大山はよく嘆く。
 せめて大きくなるまで生かしておいてあげたい、生の喜びを知らずに子供のまま殺すなんて可哀想だ、大きくなった後の方が食べるところも多くなる、彼らも我らも良いこと尽くめで一石二鳥じゃないか……。
 そんな優しさのせいで、皆が大山を「仏のような男」と呼んだ。ただの物好きだというのに。

「妹はどうした。姉だけ連れてきて何をしていた?」

 四年前のルーマニアでの大規模な里狩り。その際に連れてきた異端達。その中の生き残り。というより、食い残し。
 少女の妹は彼女ととてもよく似ていた。だから兄はいつも二人を並べて遊んでいた。その光景を見た学人が「姉よりも肉つきが悪くない。味が良さそうだ」と何度も口にしていたのを覚えている。
 兄は……こちらの問いかけに対し、大皿を指差した。それから数秒後、今度は少女の腹を指差す。

「その、残念なことに……私の手違いで、死んでしまってね。可哀想なことをしてしまった」

 大山が言うと、ずっと泣いていた少女が更に「わあっ」と声を上げた。
 現実を突き付けられて、枯れかけの涙が再び溢れ出してきたらしい。大山は止め処なく流れる涙を拭いながら微笑み、「ごめん、ごめん」と少女を慰め続けた。
 笑いながらも兄は何度も頭を……おそらく最愛の妹がいるであろう、少女の腹を撫でた。

「手違い? 何があった」
「少しおてんばだっただろう、あの子は」
「兄貴のペットのことなど知らん」
「そ、そうだな、すまない。あの子はおてんばだったんだよ。よく噛みつく子だった。言っても聞かない子だった。あまりにも目に余ることをするから昨日、お仕置きとして首を吊らせていたんだが……本当に首を吊ってしまった」
「…………」
「ちゃんと確認しなかった私が悪いのは判っている。縄の長さが足りなかったんだ。そのまま半日放置してしまった。初歩的なミスだった」
「…………」
「も、物凄く軽蔑した目だ! やめて! そこは『なに馬鹿をしている!』って激昂するのがサヤなんじゃないか!? あ、もしやサヤ、実はもう相当眠いんじゃないかい!?」
「いや……言おうにも何も、そればかりは弁解のしようも無く兄貴のミスじゃないか」
「い、いつもならこんなミスしないんだ! 普段はギリギリ立っていられるぐらいで調節してる! 無駄に殺したりなんてしない! 本当だって!」
「知っている。兄貴がそんな些細なミスをするなんて、少し驚いている」

 笑ってはいるが兄の目は相当反省しているのか少しだけ赤い。少女の事故を悲しんでいるのは事実だった。
 それで……急遽できてしまったダークエルフの死体を使って料理をさせたと。
 料理を自分で楽しむのではなく、どこよりも綺麗なこの場所で、申し訳無いと弔いながら姉に食べさせていたと。
 銀之助は予定の無い料理をさせられて激昂したことだろう。自分のスケジュールが崩されるのが大嫌いな銀之助なら、おそらく。明日の朝食のメニューが散々なものになるような事件が発生してもおかしくない。
 大事件に発展しかねない姿を指扇に見られた。しかも、大山は指扇にわざわざこの菫組の間を使うと言いに来た。異端の娘を供養するためだけにどこか清浄な場を使わせてくれと頼みこむために……。
 どれも私的な事情だが指扇の目に余ることをした大山。
 指扇が俺へ「さほど重要ではないが」話したくなる気持ちも判りつつあった。

「すまないね、申し訳ないね、本当にごめんよ」

 大山はずっと少女に語りかけ続けている。
 それでも少女の涙は止まらない。どんなに大山が優しく慰め続けても、少女にとって家族が失われた悲しみは止まらない。
 その時間は長かった。長く続いた。同じように微笑み慰め続ける兄と、止まらない悲しみを嘆く少女。もしや永遠に続くんじゃないかと思える光景に、思わず言葉を出さずにはいられなかった。

「……兄貴、疲れているのか?」

 座敷牢の外でずっとその光景を見ている義理など無かった。さっさと自分も寝室に戻ればいいのに、兄の馬鹿馬鹿しい行動につい口走ってしまう。
 それを聞いて大山は固まる。きょとんとした阿呆面をこちらに見せてきた。その表情と見つめ合うこと、五秒ほど。

「サヤ。お前も疲れているのか? そんな気遣いしてくるなんてどうしてしまったんだい?」
「……俺の質問には答えないのか」
「あっ、すまない! 質問を質問で返してしまった! わ、私が疲れて……? ああ、疲れているのかもしれないな」
「そうか」
「もう12月、年末だもの。それに『あの日』は近付いている。神が見付かってからあれこれ準備で慌ただしい。特に儀式のことがある。この子達と遊ぶ時間も少なくて寂しいな……」

 ――突然降ってきた「神は生まれていた」という報告。
 あの直後のことは思い出したくない。そのときの『本部』は、戦争であり地獄だった。
 ありとあらゆる怒号が飛び交った。そんなもの慣れていると思っていたが、こんな自分でも気が滅入ってしまう程には『本部』は荒れていた。
 この自分ですら地獄だと感じているぐらいだ。兄も相当参っているのは知っている。現に些細なミスで可愛がっていたペットを殺してしまうぐらいには、兄も連日のストレスを溜め続けてきたということだ。

「兄貴」
「なんだい」
「『儀式の日』は近い。一族が百年近く待っていた時が訪れようとしている」
「ああ。それを乗り切れば、我々の役目は終わる」
「そうだ。魂は集まった。椅子も健在だ。器も得る。必要な物は全て揃った。今こそ神が生まれる。儀式まで数日と無い。そんな重要な儀式を任される『本部』の人間が、些細な過ちをして良いと思うか」
「ぐっ」
「思うのか」
「お、思わない。思いません」
「……その通りだ。なら休め。化け物と遊んでないで休んでいろ。明日は何もするな。英気を養え。兄貴の業務は俺が何とかする」

 兄の「ええっ!?」という声が聞こえたが、そのときには背を向けて菫組の間を去ろうとしていた。
 理由など説明する必要も無い。

 ――12月31日、絶対に失敗してはいけない儀式を行なう。それを行なう者が下らないミスをされては笑い話では済まされない。
 百年前から、いや、千年前から待望の日。裏切ることなど許されない。そんなこと判らない程馬鹿な男ではない。
 幸い寺に居る者達は優秀な人材ばかりだ。指導者が一日欠けただけで連携が乱れる者達ではない。自分も兄が言うように顔に過労が出ているかもしれないので普段より早いが床に着くとしよう。

 自室に戻ろうとすると、「サヤ、待て」と兄に留められた。
 振り向くと、少女を連れながらも背の低い出入り口を潜り、座敷牢から這い出てくる情けない姿があった。

「サヤも、明日は休め」
「……馬鹿か。兄貴が休むのに俺まで動かなければ、困るのは……」
「じゃあ、半日。半日だけでいい。休め。お前も英気を養え。命令だ。『本部』で一番偉いのは誰だったかな?」
「当主様だ。知らんとは言わせんぞ」
「ぐぐ、そうです。でも私も偉いんです。サヤより年上だから。そうだ、一緒に酒を飲もう。兄弟水入らず。水はいるけど」

 ふざけるなと怒鳴っているうちに大山は自分の隣を(少女を鎖で連れて)歩き出す。
 ついには腕を掴んで、地下通路を通って本家屋敷にある大山の部屋まで連れて来られてしまった。
 すぐ側の寝室まで行ってしまえば良かったが、あまりに兄がしつこく部屋に来るようにと強請るから仕方ない。翌日以降の業務に支障を来さない程度に(仮にも)上司の願いを叶えてやることにする。
 しかし、兄の寝室は用事が無ければ行きたくない場所だった。
 生き物の匂いが多すぎて、休める場所とは思えないからだ。

「ただいま」

 大山が自室の障子を開けるなり、従順な少女と少年が笑顔で這ってやって来る。そんな部屋に招待されて癒されるものか。
 兄に近寄って来る少年少女は、一見十歳ほどの人間の姿をしている。だがいずれも犬のような耳と尾が付いていた。明らかに異形だ。
 首に繋がれた鎖があるので部屋から出られないようにはなっている。とはいえ、自室の中で化け物を自由にさせている光景を見て、良い気分にはなれない。

 大山は出迎えの挨拶にきた二匹を可愛がった後、部屋の奥にある大きめのケージの中に居る異形達にも挨拶をしに行った。檻の中には耳が長い少年もいれば、角の生えた少女もいる。
 その隣には、彼が体を横たえる布団が敷かれていた(毎日、使用人が敷きにくる)。手を伸ばせばケージの中の子供達に触れられる、そんな距離に枕が置かれていた。

「サヤ。顔が怖いって、みんなが怯えている」
「知るか」

 不機嫌が顔に出ていたせいか、挨拶しにきた畜生もケージに入れられた連中も皆こっちを見て怯えた顔をする。
 そんな彼らを大山は笑い、ケージの中から二人の女児と一人の男児の名を呼び、外へ出した。
 彼女らは皆、黒髪黒目。体に何も怪しい物が無い、ごく普通の日本人の人間に見える。だが全員首に能力抑制の首輪が着けられ、何かしらの能力者の子であるのは見てとれた。
 大山は、先程までスープを飲ませていたダークエルフの姉の鎖を引く。少女は未だ涙の乾かぬ目のまま、黒髪の幼子達の前に座らされた。

「みんなでお姉さんを慰めてあげなさい。もちろんいつも通り、どんなに欲しがっても挿れたらいけないよ」

 優しく穏やかな声で幼子達に命ずると、彼女らは元気に返事をする。
 顔を引き攣らせたのは、ダークエルフの少女だけだった。

 一人の女児が少女の薄い着物を剥ぎ、男児が少女の身体を押さえつけ両脚を開かせる。もう一人の女児が少女の足の付け根に頭を突っ込んだ。
 ダークエルフの少女も負けない。元気の良かった妹と同じように力がある彼女は一人で三人の子供を引き剥がそうとする。だが、大山が獣人の二匹にも「手伝ってあげなさい」と命じると、二人がかりで少女を取り押さえ始めた。
 何人もの力が暴れる少女を押しつける。嫌がる少女を抑えつけて、両脚を大きく開かせ、性器を剥き出しにさせる。取り押さえる役が出来なかった一番力の無さそうな女児が、恐怖で震える剥き出しの性器に唇を寄せた。
 色気の無い音を立てて、女児は少女を唇で、舌で、口全体で少女の陰核を慰めていく。
 舌をつけられた少女はやけに高く鳴いた。取り押さえていた子供達も、少女のありとあらゆる敏感なところに口付けていく。

「サヤはビールでいいよな?」

 いつの間にやら兄は酒の缶を用意していた。部屋に小型の冷蔵庫を常設していたとは知っていたが、そんな物も常備していたのか。
 彼女達が遊んでいる正面にあった座椅子に俺を座らせて、部屋の主はというと何も無い畳へ腰を下ろしている。
 意味の無い缶同士の乾杯。少女の嬌声と兄の喉の音を聞く。その顔は普段通り微笑んでいるのではなく、普段以上に楽しみ満足した笑みだった。

「ははは、サヤと二人で飲むなんて久々だ」

 兄の趣味は知っていた。
 捕らえた者は『機関』の実験に使うか魔力を得る餌として使う前提のあるこの寺では、大山の趣味はあまり良いものではない。
 わざわざ使える身体を遊ばせている上に、半数は人間ではないモノばかりを自由にさせている。化け物を容認するような異様な趣味に、良い顔などできない。
 それに、少ない確率だが人間に似た身体の生き物故に交配できる。異形を狩るのは良いが、更なる異形を産むことだけは見過ごせなかった。

「安心してくれ。私は彼女らと子を作るつもりはない。男衾達も今更新しい兄弟は望んでないだろう。しかしだな、私は彼らをどうしても可愛いと思ってしまう」
「異形を愛すというのか」
「サヤ。神の恩恵が欲しくて私達は生まれ落ちた。これから私達は、カミという人外を生むじゃないか。今までその異形を生むため我々は血の涙を流してきた訳だが……何が違うんだ?」

 何年経っても、この反論は変わらなかった。

「異形の繁栄は俺達に何をもたらす? 同種が増える分には良いが異種族の数が増えてみろ。侵略されるぞ。脅威でしかない。同種以外の繁栄は何としても阻止しなければならん。そのために先駆者達は異端狩りを始めたんじゃないのか」
「うーん。そうだったかな。まあ、人間以上の知的生物に狩られたり飼われたりするのは嫌だから私達は異種族を討伐している、そうだったねえ」
「だから子供のうちに始末しておいた方が良い。下手に力を付けられ噛まれたら元も子もないぞ。何故それが判らん」
「判っちゃいるんだが。うん、安心してくれ、大きくなったらちゃんと銀之助や学人に料理してもらうさ。大きくなるまで可愛がるだけだから、今は勘弁してくれよ」
「本当だな?」
「ホントホント。清子様にも何度も早く処分しろって言われている」
「言われて当然だ」
「けど、まだその気になれなくて。はは、味方が誰一人居ないのは辛いな。ああ、それで……」

 それで、と兄が言ったときだった。
 性器だけでなく胸や腋や足の裏など、敏感な部分を大勢から舐め続けられていた少女が特に甲高く鳴いた。どうやら耐えきれなくなって達してしまったらしい。性感帯を愛撫され続けて絶頂を迎えた体がガタガタと揺れている。
 中央を愛撫していた女児が大山の方に振り返った。これ以上の指示を待つ顔だった。
 大山は「続けなさい」と彼女に命じると、彼女らは再びダークエルフの少女の裸体で遊び始めた。

「航が、良い素体がいるなら『機関』に頂戴とよく言ってくるんだ。最近それが頻繁で。どうやら試薬実験に使いたいらしくて……素体集めの為に里狩りするのは面倒だから、何匹か譲ってくれとお願いされた」
「そうか。ならやれ。航の実験なら悪いように使わん」
「だけど同時に一本松にも、余っているなら自分にくれって言われているんだよ」
「一本松は……ただ遊び道具が欲しいだけだろう。あいつは玩具をすぐ壊すから」
「今、良い遊び相手も居ないみたいだしね」
「ふん……簡単な話だ。航に渡して実験で使い切ってから、一本松に流して処分させるのが一番だろう」
「……だから、私はね、処分とかしたくないんだって。もっと可愛がりたいんだから! 私は、まだ若くて生気に溢れた子達をだね……!」

 誰も理解者が居なくて辛い、と大山は嘆く。笑いながら、自分の趣味の理解者が欲しいと大いに嘆いていた。
 俺はその趣味を理解する気など無いので力説に同意しない。
 ついに大山が酒を一気に飲み干し始めた。二本目の缶をあけ、口を付けるペースは先程よりずっと早い。更に半分近く勢い良く飲み干し、下品な声を上げる。その途中、どろどろに溶けていく少女を眺める。
 惚けた顔をした。
 兄の顔は、うっとりと恍惚のものへと変貌していった。

「ああ、こんなに可愛らしいのに。何故みんな判ってくれないのかな」

 というのも、少女がずっと叫んでいたからだ。
 彼女はずっと叫んでいる。「助けてください、大山様」と。
 『この瞬間』に興奮している顔だった。

「……本当に判っていないのは、兄貴だろう」

 ――若い生を憂いて愛す。それが兄の真の姿ではない。
 大山は、『あの瞬間』を何よりも愛している。『子供の愛苦しい仕草に』ではない。
 「助けて、許して」と縋ってくる子供の悲痛の声を耳にしたとき、彼はとても満たされた表情を浮かべていた。兄が愛しているのはか弱い子供ではなく、逃げ場が無くて打ち震えるしかない無力さ自体だった。
 従順になってしまった子供達が向ける笑顔よりも、噛みつく妹や怯える姉を可愛がっているときの方が満面の笑みなのも、それが理由だ。
 彼女らから発せられる悲痛な感情が美味で堪らない……酒を煽る手が止まらなくなっているのは、そういう理由だった。

「はい、みんな。そろそろやめてあげようか。頑張ったね」

 それでも大山は苦痛を強いることを好まない。「お仕置き」と銘打ったようなことでなければ凶器を向けることはしなかった。
 少女を無限の快楽で溺れさせようとするのも(人によっては地獄かもしれないが)、限界に近い声で訴えれば救ってくれるのも、彼が「優しい男だ」と言われる原因だった。
 それから先も、大山はダークエルフの少女を助けながらも溺れさせ続けた。

「そうだ。今日一日彼女がどうしてお外に出ていたのか。みんなに聞いてもらおうか。さあ、お話しなさい」

 一休みにと少女に『今日あったこと』を話させた。
 どうして自分は一人離れてご馳走を食べていたのか、事細やかに自らの口で説明させる。
 妹が死んだこと、妹が料理されたこと、妹を食べたこと。それを少女は一つ一つ告白していく。
 ぼろぼろと大量の涙を流しながら、どろどろにされた体を打ち震わせながら。たった一分間の告白は、休憩ではない。更なる拷問に他ならなかった。

「よくできました。それじゃあ、しーしーしようか」

 今度は少女を皆の前で桶に跨がせ、大量に飲ませた妹入りのスープを、放出させた。
 少女の涙は枯れることなく、止め処なく流れ続けていた。でもそれも限界のようで、四年目にして少女は気が触れたように力無く笑い始めた。
 外に出された陵辱役の子供達は無残な少女の姿を見つめていた。
 一方、ケージの中に取り残されていた子供達(まだこの酒池肉林に慣れていないらしい者達)は放尿の音など聞きたくないのか耳を塞いでいる。狂った笑い声を聞かないように頭を抱えている者も居た。

「サヤ」

 忠実な犬の子供達が少女の排泄物の処理をし始める。大山が号令を掛ければ、少女を始め子供達が自らケージの中に帰って行く。
 その間、大山は三つ目の缶を置き、こちらの肩に体重を寄せてきた。

「酔った」
「ああ」
「サヤの言う通り、明日は何もしないでゆっくり過ごすことにする」
「そうか。そのように他の者には伝えておく」
「頼む。……いいや」
「いいや?」

 半身をこちらに寄せてきた大山だったが、ついに耐えきれなくなったのか、目の前……畳の上に転がった。
 胡坐をかいたすぐ傍に、兄が腕組みをしたまま倒れる。

「サヤも休むんだった。お前に連絡させたらサヤが休めない。……うむ、頭が回ってないな」
「酔っているな」
「ははは。酔った。……なあサヤ、久々に私と……」
「断る。供給なら、奴らと存分にしろ」

 こんな臭い所で寝られるか。空になった缶を置き、言い放って立ち上がろうとする。
 だが足をがっしり掴まれてしまい、動くことが出来なかった。

「サヤ」
「お気に入りはいくらでもいるだろう。獣と交わるのが趣味なら人様に混ざるな」
「サヤ。甘えてはいけないかい」
「さっきから物欲しげに強請っているガキが何人も居るだろ! そいつらを使え! 但し、噛み千切られないようにしろ」
「あと一ヶ月しかないんだ。こうしてお前と酒を飲むのもこれが最期かもしれない。それなのに甘えてもいけないのかい」

 ごつ。姿勢を崩していた兄の頭に拳を下ろした。
 上に立つ人間の気弱な言葉など聞きたくなかった。

「いつまでもなよなよと。そんな顔を見せるな。他の者の居る場では絶対にするな。士気が下がる」

 と、もう一度拳を下ろしながら言う。
 ごつ。二度殴られた箇所を大山が擦る。

「殴らなくても良いのに、酷いぞ……。肉親の前ぐらい不安がったっていいじゃないか。殴るなよ……」

 拳に力など一切入れていない。だが大山は、形式上の悲鳴を上げた。

「本当に殴らなくても良いのか。殴られて反省しろ。強く決意しろ。今度こそ失敗など許されん。今年こそ完成させるんだ。神を。願いを。我らの悲願を」
「ああ。決意はとっくの昔にしている。だけど、それでも」
「まだ言うか!」
「皆が一つになるのは喜ばしい。だから我々は突き進むが、今は個人がいなくなることを憂いたってよくないか」

 視界が暗転した。大山が掴んでいた足を強く引き、転がせ、上から圧し掛かったからだった。
 覆い被さられた。だがそれ以上のことは起こらなかった。目の前に兄の身体が現れただけ……身体に両腕を廻されただけで、兄が不愉快な行為には及ぶことはなかった。

「死ねば皆一つになると判っている。けど、彼女らを可愛がることもできない。それに死んだらサヤと二人で酒を飲めん。もうこうすることだって出来ない」

 死ぬのではない。皆が永遠に生きるために一つになるだけだ。
 そう何度も言っているのに、何故「今だけは、この寂しがり屋を悲しませてくれよ」などと女々しいことを言うのだろうか。
 子供ばかりに囲まれて生活しているうちに思考まで幼稚になったか。……抱かれながら、憎々しく檻を睨んだ。



 ――2005年9月1日

 【     /     /     /      / Fifth 】




 /8
  
 世界の時間は巻き戻ることがある。時は一方通行に流れていくだけではない。巻き戻り、一度流れた時間をもう一度なぞることがある。
 8月31日の24時が過ぎれば9月1日の0時になる、それは当たり前なこととされているが、時には9月1日にならず二度と戻らない筈の8月31日の0時をもう一度繰り返す。
 過ぎていく時間。逆行し、再度繰り返される時間。
 過ぎていかない時間。巻き戻る時間。一度きりと言われていても何度も繰り返す時間。
 同じ時間を何度も何度も重ねていく時間。

 ループ。
 そのような現象がこの世界にはある。

 フィクション作家でない多くの著者がその経験を記していた。
 不可思議な現象があるのだと、夢物語ではないのだと、自分が寝惚けているのではないのだと、力強く記していた。
 一冊一冊を全てフィクションと言ってしまえば早い。そんなおかしなことが起きる筈が無いと切り捨ててしまえばいい。
 しかし多くの人間が、様々な国の人間が、全く違う時代の者達が、私達に事実を伝えようと記録を残していた。

 『世界の時間は巻き戻ることがある』。
 『我々が思っている常識はいとも容易く崩れてしまうものだ』。

 世界は前に進まない、と。



 ――2003年12月26日

 【 First /      /     /      /     】




 /9

 壁に架けられた男が唸り声を上げる。
 むありと沸き立つ臭気。猿轡から漏れる呼吸。目隠しをされてはいるが、その瞳には何を映しているのか。

 地下室に眠らされていた怪獣は、壁に釘で貼り付けにされて身悶えしていた。だがその動きも機械的で、単調。大の字にされて全身の至るところを釘で打ち貫かれているとならば、大抵の人間ならば痛みのあまりもがき苦しむ。だというのにゆらゆらと体を揺らしているだけというのは、相手が『痛覚の無い異形』であるというのを思い知らしていた。
 微かに体を揺らしてはいる。自在に身を動かせない不都合さからだ。空けられた穴からだらだらと赤い体液が流れていても、悲鳴を上げることなく、泣きじゃくりもしていない。
 人間的ではないと思う。普通の人間や羞恥を知る社会的な生物であったなら、捕獲され、裸にされ、人の目に晒されれば憎しみや恐怖を覚えもする。
 でも彼にそれらの反応は一切無い。ただただ標本になっただけの化け物は、身動きが出来ない今、目的も無く身を揺するのみだ。

 私は兄・一本松と、上司である航様の見守る中、貼り付けの化け物に近寄っていった。
 剥き出しの肌を撫で、人と同じように走る血管を指で確かめる。くっきりと血が通っていた。たとえこの化け物が人間ではなくても、血が通う生き物には違いない。
 何度も量を確かめて、ピクピクと動く膨れた管へと針を差し込んでいった。

 ……話が変わるが、隣に居る一本松という男は、ろくでもない事を愛していた。
 節分になれば豆を年の数だけ食べ、春になれば桜の下で酒を飲みたがる。クリスマスだからという理由で肉が、ケーキが、ご馳走が食べたいという。我が兄は子供のまま成長が止まっているのではないかと疑いたくなるほど、能天気な提案を気まぐれに押し付けてくることがあった。
 こんなに図体もでかい上に髭も濃く、可愛くない声で笑う子供がいてたまるものか。クリスマスだからご馳走をなんて強請ってくるなんて馬鹿馬鹿しいと毎年言っているのだが、兄も負けじと毎年「ご馳走が食べたい」と言ってくる。意地汚い大人だ。
 そのような兄といつまでも言い争う趣味は無いので、ついにはこちらからご馳走を用意してやるようになった。

 そういえば、新座や霞が子供の頃は「クリスマスだからケーキが食べたい」という、よく判らない理論を押し付けてくることがあった。
 私が子供の頃には無かった感覚に最初は聞き耳を持たなかったが、断ると二人ともあまりに悲しそうな顔をするので、12月24日に、正月に出すつもりだった栗きんとんをパンの上に置いただけの物を出してやった。それだけで子供達は満足した。
 ……次第に、兄まで催促してくるようになった。
 12月24日なんだからご馳走を出せ、と。

 作るとしたら、どうせなら良い物がいい。そして出来れば、喜んでもらえるものがいい。
 年々、クリスマスの夜に出すデザートに気合が入っていくようになった。馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、突き詰めるなら上を目指したいと思ってしまったからだ。
 なので去年は、涙と鼻水と愛液でベトベトになるほど喚いた少女を使ったデザートを作った。兄の好みを私なりに全力で理解したつもりの自信作だった。
 材料の調達は弟の匠太郎に任せた結果、『旧家のお嬢様』というありきたりな肩書きだが兄の舌を満足させる逸品を用意させた。
 古の魔術を継承する旧家とあって、内蔵する魔力量は一般的な魔術師とは桁違いな食材だ。魔力で体を構成した妖精族のような人外の臭みも無く、一流の魔力を持つ『正真正銘の人間』であった少女はこれ以上無い最高級の食材と言える。
 弟がせっかく用意してくれた絶品をより良く味付けするために、下ごしらえには三ヶ月も要した。
 色狂いの少女達を使って、三ヶ月の絶頂寸止めを施した。陰核を舐め回すためだけに改造された少女(単に、女性器の色艶が悪いので商売に出せないと言って廃棄処分にされている奴隷だが)を使い、一日十八時間を快感に溺れさせた。
 何度も絶頂に昇りかけても寸でのところで止め、「イキたい」と喚いても決して自身ではイかせず、一度も処女を奪わずに、どんなに絶頂を求めたとしても決して穢さず、純潔のまま性に狂わせ味付けを終えた。

 かなりの自信作は、見事兄の舌を唸らせた。意を決して出した作品を美味しいと言ってくれるのは、料理人明利に尽きるもの。私も良い年ではあるが子供のように笑ってしまった。
 ……とまあ、昨年度は最高級の素材に、施せる最高の調理法で、最高だと高い点数を出される逸品を出してしまった訳だ。
 最高を記録してしまった。おかげで今年はそれを越えるものを出さなければならなくなった。
 私も年甲斐も無く張りきりすぎたのがいけない。自分の為せる力を最大限引き出した瞬間は良かったが、それ以降はただただ地に落ちていくしかない。
 あの決定的な逸品を出せる気がしない、と諦めたくはないが半ば諦めかけてしまった。

 そのまま半年が過ぎ、さて今年のクリスマスのご馳走は何をすればいいのか結論が出せないままでいると、料理のリの字も判らぬ単なる学者の航様からのリクエストがあった。
 「私の実験に付き合ってほしい」という。

 ――首の血管から入り込んだ特製の液体が、ほんの一滴、怪物の体に入っていく。
 細い針を通じるだけという単純な味付け。去年の少女に施した三ヶ月間の下ごしらえに比べると、非常に呆気ないものだ。
 そもそも今回の食材は私好みのものではない。魔力の量は去年の少女に比べると段違いだが、それもその筈、今回の食材は魔族だ。人間であるというのに膨大な魔力を帯びていた少女とは比べてはいけない。
 人ではないものであるせいか、人間的な反応も無い。注射針を刺されても暴れることもなければ、私達の言葉に一切反応も見せない。まるで人形のように大人しい彼を暫く憮然と見つめてしまった。

「はあ。銀之助くんの指は、キレイだねぇ」

 突如、注射器を扱う指を見て、航様は気の抜けた声を漏らした。
 のんびりとした彼の声に何と返せばいいのか判らず、「そうですか」とよくある受け答えをする。
 何の変哲も無いただの男の指だ。綺麗などと言われたこともないし、言われても嬉しくもないし、自分で綺麗と思ったこともなければ汚いとも思わないものに感想を零されてもどんな顔をすればいいのか。

「だってさ、銀之助くんは毎日毎日休まずお仕事をしている。でもそんなのキレイな指を保っていられるなんて、ふう、凄いよねぇ」

 ゆったりとした口調の航様は私に、そして壁を背に腕組みをしている兄に向けて言っているようだった。
 二人してその言葉を曖昧に受け取っていたせいか、航様一人で喋らせるようになってしまう。

「ふう……水仕事だってしてるだろ? 冬はハンドクリームが欠かせないよねぇ。そういや銀之助くんが料理をしている姿って見たことないんだよなぁ」

 彼は一応、上司だ。人を道具として扱うような人だとしても、このままではおざなりにするのは良くない。気まぐれでマイペースな兄に代わり、私が相手をすることにした。

「人前で料理をするのは緊張しますので見せないことにしているんです」
「……はあ。銀之助くんでも緊張という言葉を使うんだ?」
「使いますとも。私だって人の子です。失敗もしますし、失敗する姿を見せたくないプライドもあります。厨房にはなるべく関係者以外は立ち入らせたくないですよ。……他の連中は不潔という理由もありますが」

 内容の乏しく下らない雑談を五分間は挟んだ。
 その頃には投薬された怪物の様子が変わっていった。航様が作られた新薬の効果が浸透してきたようだった。
 壁に大の字に打ち付けられている体は先ほどまで大人しかったが、次第にビクビクと不可思議な動きをしていく。あれは感度を高める薬だったのか。
 とはいえ、「これが普通」とも言えた。普通の人間なら壁に貼り付けられた時点で痛みに悶えるし、痙攣だってする。悲鳴も上げる。
 先程までその症状が無かったこの怪物の方がおかしいと言えた。
 何故反応が無いかと言っても、怪物だから、という理由に尽きるものなのだけど。

「ふう。銀之助くん。おしゃべりをしよう。上司命令ってことで付き合ってくれないかな」
「……あまり食材に唾が飛ぶようなことはしたくありませんが、命令とならば仕方ありません。どうぞ。本日の議題は何でしょうか」
「うーん、そういう機械的な反応はみんなに怖がられて損すると思うよ。わざと素っ気なくしているとしてもちょっとは考えるべき。はあ、いいか。人間性をクールな言動で覆い隠すのも君らしいと言える。そのうち君はツンデレと言われる人種になるだろう」

 まだ薬で煮込みたいのか、航様は次の段階に進まずそのまま雑談を続ける。

「さて、銀之助くんは……野菜、果物、肉、どれを料理するのが好きかな」

 今は航様に先導してもらいながら料理を続けるしかないので、問いかけに応えるしかない。
 相変わらず兄・一本松は静かに私達の掛け合いを聞いているだけ。壁に繋がれた被験者を眺めているだけの時間だった。

「特にこれといって何がということは」
「ないのかい? へえ、あんだけいっぱいどれも捌いておきながら?」
「料理は仕事であって、趣味ではありません。食べ物の好き嫌いはあっても、私自身の好き好みで献立を考えることもないです」

 真面目だねぇ、と航様はゆったりと笑う。
 言う通り、食材で料理を選ぶことはない。なにせ自分は役目を果たしているだけに過ぎない。狭山様の好む言葉で言うなら「それが己の血に流れる使命であるだけ」であり、好きか嫌いかで仕事を選べる立場でも無かった。
 自分には一族の食事を出すという道があり、その道をそつなく歩ける靴を履けただけのこと。
 ……その通りの言葉で返すと、「そうかい」と相変わらずのんびりした声が頷いて、彼が前へ歩み出た。

「では、この場は銀之助くんの意思を問おう。敢えて言うなら? 何が好き?」

 壁に縛られたまま頭を振るって悶え始めた化け物の頭を撫でた航様は、終わったと思った言葉を再度投げ掛ける。
 反応が薄かった化け物が、薬を投与されてから見るからに敏感になっていく。
 目隠しをされているので航様が近づくことも気付かないのだが、足音に怯えてみせたり、突然頭を触られて狼狽をし始めた。何も身に着けていない肌には汗までもが滲み出ている。先程までぼうっと体を揺すっているものとは違う。一切表に出さなかった焦りが現れていた。

「……去年の少女……あれは、良いものでした」
「ん?」
「兄が大層気に入った少女がいまして。去年の話です」
「一本松くんの話?」
「ええ。航様は、覚えていますかね。去年のクリスマス。匠太郎が獲ってきた餌のこと」
「んー……? あ? ああ、あの可愛い女の子か。覚えているよ、『彼女を狩るために里一つを燃やしたのはちょっとやりすぎだ』って大山様が嘆いていた。あれ、かなり根に持っているみたいだよ」

 それは初耳だ。一年経って初めて知る事実なんだが。
 匠太郎め、親愛なる兄へのクリスマスプレゼントに頑張って仕事をしてしまったとでもいうのか。いじらしい奴だ。

「あの子の一族が所有していた魔術は面白かった。夜通し解読しちゃったぐらいだよ。……それで、その子が?」
「別に私は人間が好きな訳でも、少女が好きな訳でも、人間の少女を使った料理が好きな訳でもなかったんですが、あれはとても楽しいものでした。……最高を創り上げることができたからでしょうか」

 ……弟が持ってきた最高級の食材を初めて見たとき。ぶっきらぼうに言ってしまうと、ひどく興奮した。
 檻の中、裸にされ訳も判らず傷付けられて、それでも抗おうとする少女の態度。混乱したまま檻の外の自分を睨みつける二つの瞳。おそらくは匠太郎率いる食材調達部隊に家族を皆殺しにされたのだろう、憎しみと恐怖を込めた鋭い視線。小さな体から溢れ出る魔力の波動。乳や性器を手で隠し、涙を流して震える年相応の態度。
 美しかった。あんなに美しい材料があったか。皿の上にどうよそうのがいいかと考えに耽り、思わず言葉を失くしてしまうほどに。
 荷台を見にきた学人に体を揺すられるまで、配送された食材の彼女をじっと見つめるほどだ。あれほど熱中してしまうのだから、真っ当に「好きなもの」と言えるものだと思われる。

「不埒な話をしてもよろしいでしょうか」
「いいよ。今は雑談タイムだもの」

 彼が化け物の反応を堪能している横で提案する。すると眼鏡の奥の穏やかな瞳がゆらり優しく揺れた。

「野菜は出来るだけ瑞々しい物が良い。張りがあって芯が固いキャベツを切るのは、好きです」
「うんうん。私もトンカツに添える葉っぱはシャキシャキしてこそだと思うよ」
「魚もできるだけ新鮮な物が良い。膓を取るときの、一線、あれが……」
「はあ。判るよ。だって気持ちいいものだよね。お腹に先を突き立てる瞬間、ツンっとしててさ、いいよねぇ」
「……どうやら私は、『反応の良いもの』が好きなのかもしれません。包丁を入れたときに手ごたえがあるもの。そこに身があると実感させてくれるもの。突けば跳ね返る感覚。……だから私は去年の少女は好きでしたし、目の前にいるこれには興味をいだけませんでした」

 とは言いつつも、薬を投与されてから目の前の化け物(体格は男だ。男性器もぶら下がっているし、骨格もどこから見ても男と言える)の様態は目まぐるしく変貌している。
 猿轡の奥で唸り声は大きくなり始め、首もぶんぶんと振りたくるようになってきた。航様が体を撫でるたびに、嫌がる素振りを見せている。次第に料理し甲斐のあるものへと変わっているので、ざっくりと興味が無いと言ってしまえない。
 すると突然、後ろに居た兄の声がした。

「簡単な話。銀之助は、私と同じ性癖だ」

 一体、何を言うやら。
 怪訝な顔をしてしまうと、その最中に航様が渦の中に手を入れ、小さなナイフを取り出した。
 ナイフの刃が化け物の腹を斬る。ほんの数センチ、中身が出ない程度に一筋の血が流れた。
 途端、囚われの男が猿轡の奥で「ぐんん!」と悲鳴を上げた。薬のせいで痛覚が何倍も跳ね上がっているのか、数分前では見られなかった生き生きとした反応だった。
 ゾクリとする。
 背筋が歓喜で震えてしまう。
 ……半ば認めたくはなかったが、サディストな兄の言葉を肯定するしかなかった。

「はあ。その通りだね。一本松くんが言う通り、銀之助くんは魔性のいじめっこと言える。苦しまない者はつまらない。もがき苦しむ姿こそが美しい。優位に立ってこそ自分は楽しい。一本松くんとおんなじだ」
「…………」
「でも、それは私も同じさ。大山様だって同じ、みんないっしょだよ。……さて、銀之助くん。この男はどうだい? 君好みの食材になってきたかい?」

 いきなり人格を貶されたと思えば、今度は航様が刻んだ傷口に指を近付けていく。
 化け物と言えど、手が二つ、足が二つある人型の生き物だ。ナイフで肌を傷付けられたら、真っ赤な血が流れるもの。
 流れ出る血の口に、つぷっと指を入れこんでいく。繋がれた男は身動きができないまま傷を抉られ、グググと低く唸って抵抗しようとしていた。
 傷口に彼の指が二センチほど入り込んだところで、私は彼の手を掴む。「それ以上は味が変わってしまいます」と、あくまで食材を大事にする料理人としての意見を盾に。

「はあ。そろそろ種明かしをしたいな。銀之助くん、この薬はね、脳のとあるスイッチだと考えておくれ」
「スイッチですか」
「そう。感情のスイッチ」
「止まった心も動き出すようにするスイッチ、といったところですか」
「ううん。ちょっと違うんだ。これはね、スイッチそのもの」
「そのもの?」
「はあ、説明が難しいんだけど……実はね、これは大山様から直々のご命令で作ったもんなんだ。『化け物は心が無い』って話を聞いたことはある?」
「詳しくはありませんが、食卓に並べるものとして一応」
「物知りだねえ。大山様いわく、人間はおいしいけど化け物はイマイチらしいんだ。まずは心の話をしたいんだけど、いいかな」
「どうぞ」
「長年飼っていた子の味が落ちることってあるらしい」

 大山様は能力者の飼育を趣味としているのは有名な話だ。寺では重要な収入源とも言える彼の趣味は、自分も理解しているつもりだった。
 自分も稀に大山様に呼び出され、「この子を使った料理を作ってくれ」と直接依頼があるぐらいだ。こういった相談は他の人にもしているのだろう。

「人の心は野菜や果物と同じ、鮮度がある。獲れたての頃は瑞々しくて何に使っても美味しいらしいけど、日にちが経つことに味は落ちていく」
「航様も古い食材よりは新しいものの方がお好きでしょう? それと同じです」
「いや、私は『肉は腐りかけが美味い』派だから。完全に目に光を失っていて呆然としてる子とのセックスの方が圧倒的好み」

 ……自分は食材と生殖行為をする趣味は無いので、その言葉には頷きがたい。

「感度を良くする物は昔から開発はしていたんだけど、あくまであれは元からあった感情を再度奮い立たせるものに過ぎなかったんだ。そうなると、『元から不干渉の子』はなかなか感じてくれない。だがこの薬は、心を蘇らせるものではなく、『新たに心を植えつけるスイッチ』なんだ」
「それはつまり」
「閉じている脳のチャンネルを開くんだよ。……化け物には人の考えが無い。当然だよ。人じゃないんだから。でも、人と同じ体の造りをしている化け物もいる。頭蓋骨の中に脳味噌という、人間の器官と同じ構造をした化け物もいるんだ。そういった連中は、ちょっと仕様が違うだけで人間と殆ど同じ仕組みだと思わないかい?」
「思います」
「思うよね。現に殆ど同じなんだ、こういった化け物の脳と人間の脳は。……だから、人間の頭を弄るときの応用で、こいつらも改造することができる」
「…………」
「手っ取り早く言うと、化け物にも人間的な感情を植えつけられないかなっていう実験がこれ。化け物達が使っていない脳味噌を刺激させてみた。そしたら人間のような反応が見られるかなと思って」

 止めた腕を軽く振り払って、彼は……壁に架けられた男の赤い髪を、引き攣る頬を撫でた。
 赤毛の男は嫌悪感に全身を震わせ、喉の奥から激しく吠えたてた。やめろ、いやだと騒いでいるように喉が動いている。
 成功しているように見えた。
 先ほどは無反応だったにも関わらず、まるで人のように暴れている。心の無かった異端ですら、我々が反応を楽しめるようになっていた。
 血色は良い肌。どこもかしかもぶるぶると揺らしていた。両脚も双方に締めあげているので動くことはないが、拘束がなければ暴れまくっていただろう。
 これは、大成功と言えるんじゃないか。
 まるで去年の少女のような拒否反応。人間の子だからこそ味わえたあの絶品の味が、養殖ではあるが完成しつつあった。

「ところで、何故銀之助くんに手伝ってもらったか、理由は判るかな」

 航様は壁際に佇んでいた兄を手招きする。呼ばれた彼はゆらりとこちらに近づき、誘われるがまま暴れ始める男に触れた。
 男は震えるばかり。目隠しをされているが、今の目はどのような色に染め上げられているか。虚無ではなく、絶望と恐怖に彩られているかもしれない。……現に、兄の目が『感情の計測器』ではないかというぐらい、判りやすく興奮で光っている。
 兄の目が光れば成功。だがそれは、兄だけの話ではなかった。

「君達の心が弾んでいる。つまりこの実験は成功。私はね、そう、目に見えて判断できる手段が欲しかったんだ」

 ――誰だろうが道具として扱う、航様らしい一言。
 ここに鏡があれば、私の表情が歪んでいることが確かめることができただろう。悔しいが自覚があるほど、今の私の胸は高鳴っていた。



 ――2005年12月7日

 【     /      /     /      / Fifth 】




 /10

 あの世界は化け物が溢れている。
 結界の中に閉じ込められた数億を超える魂。結集して生まれた一つの魔物。それだけじゃない。
 人を喰らう異端どもが溢れている。
 人と同じ形をしておきながら、歪んだ正義を盾に、人間を貪る者達が溢れている。
 世に放ってはいけない恐ろしい、誰も倒せないような魔物を生み出してしまったのも奴らの欲のせいだ。それに魔物を滅する手段を持っているにも関わらず、己の繁栄だけを考えている連中は危険な神を飼い続けている。
 人間に害を成すだけの連中が、人間に不幸を与えるだけの神を従えて、生きている。許されることではない。

「そんな危険な者達を生かしておく訳にはいかない。判るだろう?」
「確かに外の奴から見たらあの一族は悪にしか見えないでしょうねぇ。で、アンタはあの世界を滅することが自分の使命とでも言うの?」

 ――オレも、その一族の一人なんだけど?
 言いながら、私の居るベッドから男はするりと出ていく。全身何も身に纏わないまま、傍らに使い魔の狼を召喚し、長い体毛の上に腰を下ろした。
 照明を点けない部屋の中でうっすらと見える表情は、彼には珍しく笑みを浮かべていない。それだけ真剣にこちらの話に耳を傾けているということだろう。自分の身にも関わることなのだから当然か。

 私は、思い出す。
 自分が課した使命。遠い世界。かつての記憶。笑顔。叶えなければならない約束。
 思い出すたびにひどく胸が苦しくなったとしても。
 果たしてみせると誓ったのだから。

「違う。私はただ、彼を救って……。…………。彼に、笑ってほしいだけなんだ」



END

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