■ 027 / 「転生」



 ――2005年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /1

 ばけものはこのせかいをみたしている。
 すでにここはばけもののはらのなか。
 じんわりじんわりとしょうかえきでえさをとかしておなかいっぱいになっておしまい。

 此処はそういう世界。

 明日が来なければいいと願った一人がいた。



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /2

 人前で大きなあくびをしてしまった。
 気付けばもう二十三時を過ぎていて、僕の周りには数本のお酒が転がっている状態。志朗お兄ちゃんに体重を預けるのもすっかり嫌じゃなくなって、ずっと抱きついてしまっている。
 もうお酒なんて飲めない。そう言っているのに目の前に座っている僧侶さんが笑顔で何杯もビールを注いでくるから、ついつい口を進めてしまう。
 これで最後にしようと思っていたら、ついに志朗お兄ちゃんが僕のグラスを奪い取った。

「そろそろ新座を寝かせてきます」

 それが最後の一杯のつもりだったのに、お兄ちゃんは一杯早く最後を迎えてしまった。文句を言おうとしたけどさっさと僕を抱き上げて宴会場から出てしまう。
 そんな感じで宴会に出席しているみんなに挨拶をして、お兄ちゃんと一緒に廊下に出た。廊下は外の空気がびゅーっと吹いてくる。障子を一つ挟んだだけだというのに師走の寒さを目の当たりにして、身震いしてしまう程、別世界だった。
 あまりの寒さにぎゅーっとお兄ちゃんに抱きつく。いっぱい飲み過ぎちゃって一人で立てないのもあったけど、思いっきり甘えたいだけでもあった。

「むぐうぅ。さーむーいー。もっと飲むぅ」
「はいはい、明日また飲もうな」
「むぐぐうぅ」

 絵に描いたような酔っぱらいのようなことを呟いている自覚があった。ちゃんとシャッキリした方が良いけど、気分の良い飲み方をしていたし今夜は酔ったまま過ごすことに決めた。
 この時間が楽しかった。すっごく気分が良い。
 自分も手伝った美味しい料理を食べて、美味しいお酒を思う存分飲んで、しかも偉い人に注いでもらったりして、楽しいおしゃべりを沢山して、大好きなお兄ちゃんに抱かれて寝床に運ばれるなんて。
 まるでこの世の幸せを全て集めきったみたいじゃないか。
 味わったことのないぐらいの良いことづくしの今に、『明日なんか来てほしくない』と思ってしまうぐらいだった。

 外界から実家に帰省した僕達に割り当てられた部屋は、八畳の和室が隣同士、襖で繋いでいる計十六畳の大部屋だ。
 ここでも宴会が開けるってぐらいの大広間に、既にお布団が敷かれている。八畳に一人分、十六畳に二人分。贅沢な寝床だ。
 僕がすかさず「お布団、くっ付けちゃおう!」と提案すると、すぐさまお兄ちゃんはそれを実行する。少し広くなった布団、広すぎる和室、二人きりで僕は寝転がった。
 真夜中だから電気は点けない。暗い中、更に視界はふらふら、でも気持ち良い。寝転がった横にお兄ちゃんが腰を下ろし、上着を脱いだ。人が居なくて寒い筈の部屋でも、お酒を飲んだ後の二人でくっ付いていれば暖かかった。

「えへへ。僕、今が一番幸せかも」
「そうか」

 気分の良い脳は勝手に今年を振り返っていく。
 家出をしてすぐの頃は、帰って来るのが億劫だった。直接的に批難はされなかったが、多くの人達が「何故帰って来た」「帰ってきたなら何故また出ていこうとする」と視線で訴えてきたぐらいだ。
 でも二回目以降は「おかえりなさい」と言ってくれる人が多くなっていて(まだ否定的な視線を向けてくる人は大勢居るけど)、心の負担が減っていた。
 昨日は心地良く「ただいま」を言うことが出来た。
 普段の仕事は上々。体調もいつも良い訳じゃないけど悪くない。家族も今の自分をそこそこ認めてくれているし、美味しくご飯やお酒が飲める。好きな人は近くに居るし、親戚達とも仲良くお話が出来る。
 残念ながら12月31日だというのに帰省してなくて挨拶できない人がいるけど(具体的に言うとカスミちゃんとか)、それはまた後で話せば良いだけのこと。
 絶好調すぎて怖いぐらいだ。でも怖いからと言って震えたりもしない。
 今一番の瞬間を、のびのびと寝転がって楽しんでいた。

「お兄ちゃんはー?」

 ごろごろ布団の上で転がって、腰を下ろしているお兄ちゃんの足にコツンと激突。
 間近に居る僕の頭をくしゃくしゃ撫でながら、微笑んで見下ろしてくる。暫し僕を撫で終えた後、おでこにキスをしてくれた。

「新座と同じだよ」
「むぐぐー」

 仰向けの状態のまま手を伸ばしてお兄ちゃんの首に抱きつく。ちゅーっとちゅーをする。
 笑いながら夜を過ごす。他の要素にマイナスがあっても、これさえあれば幸せだ。
 僕はいっぱい満たされすぎてる。誰よりも満たされている。多分この世界で一番と威張っちゃってもいいぐらい、これ以上無い幸せ者だった。

 ――頭がふわふわしている。今の意識が浮いている。
 だからなのか、ついつい忘れかけた昔の話が思い浮かんでしまう――。

 初めて繰り出される濃厚な口付け。眩暈を感じながらの連続した快楽の渦。時にはしてくれた軽いキスとは比べ物にならないくらいの数。
 額や手の甲にしてくれたものとは違うむず痒さに、頬の筋肉が緩んでいく。
 心臓が耳元にあった。こんなに距離が近かったことはない。ずっと隣に居てくれて、寝るときですら手を繋げる場所にいたのに、ここまで体も心も近距離で居たことは無かった。
 だからこそ何もかもが判ってしまう。近過ぎるが故に感じてしまう、本音。

『僕のこと、好きなの?』
『好きだよ』

 端的で一番嬉しい言葉が、嘘だということに気付かされてしまった。

 思念というものは、常に世界中を渡り歩いているという。周りは気付かないだけで、心は空を飛んでいる。
 誰かが甘い物を食べたいなぁと思って、心は空に飛ぶ。だけど飛んだ心は自分のもとに帰ってくるしかない。自分の心を受信できるのは自分しかいないからだ。その人は自分によって発信された心を自分で受信し、最後には甘い物を食べようという行動を起こす。それが脳にある電子信号の在り方。
 だけど空を飛んでいる心を、他人が受信できたら。
 それは発信者が違うだけのこと。発信していないのに甘い物を食べに行くようになるだろう。
 甘い物だなんて可愛い考えを受け取るならまだいい。それがもっと凶々しい、執念や怨念だったら?
 誰かがあの人を嫌う。キライダ、イナクナレ、シネという気持ちが空に舞う。受け取ってしまう側はあの人を嫌いでもないのにキライダ、イナクナレ、シネと感じる。自分の心でないのに自分の心にそれが残る。それが何度も続けば、パンクしそうになる。他人の意思に自分が押し潰されてしまいそうになってしまうんだ。
 だからあまり考えないように、受信してしまったとしても無視するように務めるしかない。けど、あまりに酷い心を受けてしまったとき、悲しくてその人の為に泣いてしまうことがあった。
 どうしてこんなにあの人を嫌うんだ。
 どうしてこんなにあの人を傷付けようとしているんだ。
 もっとあの人を好きになってあげられることはできないの。
 あの人に抱く酷い心を目の当たりにして……誰の為でもなく、泣く。

 そのたびに、迷惑をかけていた。
 だって、いきなり泣き出すんだもの。何の前触れもなく、もし目の前の人が面白おかしいことをしてくれていたとしても、楽しいことをやっていたとしても。酷い心を受けてしまったが故に、自分が抑えきれなくなってしまうが故に、目の前の人を多少なりとも傷付けてしまっていた。
 だからこそ冷静に務めようと頑張ったことがある。自分は強いって言い聞かせて、耐えて我慢して。
 それこそ『無感情』を心懸けたことがあった。目の前に人がいる間は常に笑っていようと、誓約していたぐらいに。

 とある記憶の話をしよう。
 僕の前に「自分を楽しませようとしていた子」がいた。
 その子の目の前で、全然違う意思を受けてしまった。恐ろしく直球な矢を受けてしまって崩れ落ちてしまって、その子を傷付けた。
 目の前にいた自分を楽しませようとした子。その子とは関係無い意思を受け取って泣き崩れる自分。事情の判らない子は、ただ慌てるだけ。
 そして傷付く。その子だけじゃなく、傷付けてしまった僕もまた。
 誰が悪いというものではない。感情を放出することはごく自然なことで、誰もが空に心を飛ばしている。どんなに酷く醜い心を飛ばしていたとしても、完全に何も考えていない無心者よりは人間的で優しい行為だった。
 だから怨念を込めた人間も恨めない。恨むなら、それは本当に「こんな力を持ってしまった自分自身」を恨むべきなんだと思った。
 もしくはこんな力を与えてくれた憎き神を恨もうと。小さく一人で決意した。

 周囲から見れば、話を聞いている最中に突然発作が起きた病人という印象にしか見えない。
 結局心というのはその本人しか理解することができず、外部が見ても何も感じないように創られている。幼い頃からずっとそう思っていた。

 しあわせに包まれていたい。
 愛されている僕はそう思っていた。周りは特異な目で見てくることが多い。僕の能力は一族の中でも上位らしく、何故か皆羨ましがる。だけど、この力を特別良かったということは無かった。だって僕が利用したいと思ったときには使えない。自在に使えたならあってもいい。相手の顔色を伺いたいときに使うことができたなら世の中上手に渡り歩ける。
 楽しんでいた時に辛いことを聞かせるだなんて酷だ。結局取り乱すのは誰でもなく僕であって、人に心配ばかりかけるんだから。
 でも皆、許してくれる。そのことに、本当にしあわせて、愛されていると思い直した。
 僕がいくら泣いても受け止めてくれる人がいる。泣くなと涙を止めてくれて、強い言葉で慰めてくれて、時には抱きしめてくれたりキスをくれたり、最後までされると照れてしまって泣いている場合ではなくなる。そこまでしてくれる人が面白くて嬉しくて、仮面で被った笑顔なんて比にもならないくらいの笑顔を点してしまう。

 いつもお兄ちゃんは「もっとその笑顔が欲しいんだ」と言ってくれて、僕もその言葉に応えようとした。
 どうすれば欲しいと言った人の期待を与えることができるのか、どうやったらいいのか判らなくて言葉で訊いた。
 すると更にキスをしてくれる。いつもの軽い、頬や額、指にしてくれるものではない。初めて繰り出される濃厚な口付け。眩暈を感じながらの連続した快楽の渦。時にしてくれた軽いキスとは比べ物にならないくらいの数をしてくれて、普段と違うむず痒さに頬の筋肉が緩んでいく。首もとにまで口付けをしてくれたとき、ひどく感じてしまった。
 そこにあるのは生まれつきの不思議な器官。何故あるのか、どうしてあってしまったのか分からない部分だが、彼の唇はそこを集中的に苛め出した。変に感じてしまっておかしな声ばかり出していたからだ。特にそこに執着があったなどと知るよしもなかった。
 抱き合って、抱きしめてくれて。最後にずっと愛し続けてくれた人の心臓が、僕の耳元にあった。
 そこまで近かった距離は無い。ずっと隣にいてくれて、寝るときも手を繋げる場所にいたのにここまで、体も心も近距離でいたことは無かった。
 こんなに近くにいたんだ。空なんて飛んでいなくても心は判ってしまう。
 心は受信先を間違えて、目の前の兄ではなく僕に辿り着いた。

『僕のこと、好きなの?』
『好きだよ』

 端的で一番嬉しい言葉。
 でもその時、押し寄せた。
 目の前の人の心によって――優しい嘘だということに気付かされてしまった。

 僕は、嘘が嫌いだ。
 嘘を嘘と見破れるから。
 言葉と同時に本音さえも聞こえてしまうから、内容よりも嘘を吐かれること自体を嫌っている。「好きだ」って言ってる姿を見ていても、本当は『気持ち悪い』って思われていたって知ることができる。

 ねえ、志朗お兄ちゃん。自分自身に力がなくても知識ぐらいはあったんじゃなかったの。自分以外の別のモノを受け取る力があるんだって知っていたんじゃなかったの。
 昔にちゃんと大人達からお話を聞かされていたし、僕が他人の心を受け取ってしまったところを見たことだってあるでしょう。じゃあそれで、なんで考えなかったのか。……『自分の心が覗かれてるってことぐらい』。

 いや、考えてみたはいいが実感が湧かないから理解できなかったのか。心の奥では『怖い』という先入観のまま、『気持ち悪い』と思い続けていたのか。
 今は、違っていても、かつては。
 志朗お兄ちゃんが僕をどう想っていたか。言葉でカバーしてきたみたいだけど、無駄だったんだよ。優しくしてあげていたことは認めるけど、抱くのまではやりすぎだったのかもしれないな。あんな直接的な交流、『中を覗いてくれ』と言わんばかりじゃないか。
 なのにいつもの調子で、薄っぺらい『好き』を言ってくれたんだ。
 気付くのだって遅くない。

 ……前に僕が怨霊に乗っ取られて、お父さんに襲いかかったとき。あの瞬間に志朗お兄ちゃんは多少の罪悪感が生まれた。あれから『少しは』僕を本気で想ってくれるようになって、良くなった。それまでずっと無条件で懐いてくる弟を騙せているって……しめしめと笑っていたみたいだけど。
 僕は僕で、お兄ちゃんを利用していたから、おあいこだ。

 ずっと志朗お兄ちゃんを頼ってきた。志朗お兄ちゃんが「頼ってもいい」と僕を受け入れていたからだ。その声に乗って、志朗お兄ちゃんにいつもへばり付いていた。
 彼が好きだったから? ……ううん、最初は僕もお兄ちゃんを利用しているに過ぎない。だから、兄との表面上の関係を貫いていた。
 血族的な立場が弱いからと志朗お兄ちゃんは弟の僕を使って自分の地位を確立したように。僕もまた志朗お兄ちゃんを使って『弱々しい子供の自分』をアピールしていた。しかもそれは僕の意思とは違う、無意識に。
 泣いているだけでは絵にならないという理由は二人も同じ。ただ僕にとっては、『まだ兄に頼らなければならない自分』というものを周りに見せつけることによって得るものがあった。
 志朗お兄ちゃんが周りからの優等生の称号を得ることと同じみたいに。僕はひどく弱々しい姿を周囲に見せることによって同情を得ていた。
 羨望の目で見続けられていたか弱いお坊ちゃん。その感情を違う方向へ持っていかせたい。
 周りの愛を、皆に愛されるよう振りまくことを……作為的に『弱さ』を作り、広めていた。

 たとえその餌となる志朗お兄ちゃんが自分のことを嫌っていると判っていたとしても。
 とっくの昔に利用してやるという心を受信していた僕は、逆にそのかりそめの行為を利用して、それで今まで過ごしてきた。

 歪んだ思惑。歪んでいたのは兄だけじゃなく、それを二重に利用しようとしてきた僕も狸さんだ。
 僕達は考え過ぎだ。自分の考えがゴチャゴチャしたまま、ずっとずっと走り出して。それが実になると思い込んで。……燈雅お兄ちゃんのように、無心になる方を選ばなかった。

 ――大晦日は久々に実家の布団で眠ることになる。
 もう僕らが使っていた自室は撤去されていて、ごく普通の物置部屋になっていた。だから客室とも言える大部屋に、二人分敷かれた布団の上でごろんと転がっていた。
 僕が仰向け。お兄ちゃんがうつ伏せ。二人揃って布団に寝っ転がって、ただただ呼吸をしあう夜。
 もうすぐ日付が変わりそうな真っ暗闇の外は、雪でも降るんじゃないかってぐらいひんやりしていた。でも体も心もあったかだったからシーツの上で微睡む僕らに寒さは関係無い。
 お酒が入った頭はさっきまで熱くって何も考えられなかった。その筈なのに、こんな近くで寄り添い合っていたからか、お兄ちゃんの心を直接受け取ってしまった。
 頭がシーンと静かになっていく。少しずつ涼しい風が脳裏を過ぎていく。
 そんな僕の些細な変化、普通で一般人もどきなお兄ちゃんには判る筈も無い。

「ねえ、お兄ちゃん」

 ビールでお腹がいっぱいになっているお兄ちゃんに声を掛ける。まだ眠っていないから、すぐにこっちを見てくれた。
 お風呂は二人とも宴会が始まる前に入ってある。気持ち良くご飯を食べて、みんなと話して、お酒を飲んで、少しだけ二人きりで絡み合って就寝。そんな幸福な時間に、ちょっとだけ刃を立てよう。
 今夜も、明日から始まる2006年も僕らは揃ってしあわせでいられるか知りたいから。
 しあわせすぎる時間にチクリとした毒も悪くないと思ったから。
 無事明日が来て良かったなと言える確信が欲しいから。

「僕のこと、好きなの?」
「好きだよ」

 お兄ちゃんはさも当然のことを言うかのように、さらりと短く愛を語る。
 言葉ではそう。口から出る音はそう。でも実際は? 僕はどう受け取ってしまうか? 真のお兄ちゃんの心は? 今は……?
 わざわざ試すようなことをしてお兄ちゃんを陥れようとしている、最低な僕。自分でも嫌気がさすけどやめられない我儘な性格。でも今は、この瞬間の愉悦のためにお兄ちゃんを試して……。

 みようとしたとき、『真っ赤な意志』が僕の中に飛び込んできた。



 ――2005年12月31日

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 /3

 赤。黒。紫。肉色。艶色。美色。熱。他人の肌。臓物。動物の体毛。微かな酸の匂い。
 広がる肉と肉と肉。挟まる鎖の銀色。天井から伸びた拘束は肉に押し潰されてはいるが千切れることなく四肢を拘束する。何度も銀色の枷を溶かそうと肉が躍るが、啓発の鎖は欲望に呑まれていくことはない。
 両手は頭の上で鎖によって括られ、全身を支えていた。どちらの腕も抜け落ちそうに激痛を走らせている。簡単には死ぬことのない体はどんな鈍痛を受けようが崩れることなく、鎖に繋がれたままだ。足は無理矢理こじ開けられ、鎖を飲み込むことのできない肉達がまだ可能性があると踏んでか体の中へ侵入しようとした。
 人の手のように動く肉は、無数。はしたなく広げる股間にいくつもの腕が襲い掛かった。
 ずくっと侵入する一本の細い腕。二本、三本と腕は増えていく。既に衣服を剥かれて数年経つというのに、肌の上を踊る腕の動きは未だに予想できない。胸の突起を吸い上げ、そり立ったものを丸呑みし、幾度も突かれた穴を予想だにしない動きで刺激していく。

 嫌悪の声は上げない。上げられない。声を上げる器官を削がれてしまったからだ。
 それでもヒュウヒュウと空を切るような呼吸の音が、唯一許された抵抗、悲鳴だった。

 いくら悲鳴を上げようが、許しを乞おうが止まらず快感は生み出される。何度イったとしても目的の瞬間まで食事は続く。
 首筋を、脇を、脇腹を、足の裏を、無数の赤い腕が撫でていく。腹を押され咳き込みそうになって体を折る。両手両足を拘束されてろくに動けはしないが、臀部を突き出せば辛うじて腹を痛みから庇うことができた。
 すると何本も入り込んだ腕が更なる責めを始める。力を入れて体を捩れば腕が力づくでこじ開けようとして、力を抜けば無数の奥への侵入を許してしまう。
 声も出すことができなくなった口にも赤黒い性器を叩きつけられ、無遠慮に喉の奥へと放出された。
 ドロリと毒が体内に染みる。無理矢理毒を流し込まれ、また受け入れる準備を整えられる。
 もう麻痺して何も感じることなどできないと思っていた体が、みるみるうちに蘇生していく。そして今まさに処女を奪われるかのような新鮮な痛みを、また味わう羽目になった。

 再生した体をまた壊す。
 壊しては治し、治しては壊し、死ぬ前に蘇らせる。
 そう永久的に、肉は、この身を弄ぶ。

 再生を果たした体は小刻みに震え出す。早く挿れてほしいと、まだ一度も挿れてもらったことのないと錯覚した体が、無意識に腰を動かしていた。
 鎖は解かれることはない。腕は動かせず、足は広げられたまま。
 ただ喘ぐだけの機械にされてしまった体は、魔物が満足するまで放置される。
 丸ごと肉に呑まれた私は、魔物の腹の中で消化されるまで弄ばれていく。その消化ですら何度も何度も何度も始めからを繰り返させられる。

 下半身に侵入しごつごつと奥を突いていた三本が漸く引き抜かれた。
 引き抜く腕の表面はゴツゴツと膨れ上がる醜い突起があり、引き抜くたびに中の壁を刺激する。
 三本同時に引き抜かれたことで強く感じただとしても、いくら絶頂を迎えたとしても許さぬ肉達は、四本目、五本目を体内に収めようとしてきた。
 腰を振って抵抗しても鎖や違う腕がそれを許さず、パックリと開いた後孔にぐちゅぐちゅとまた侵入してきた。
 今度は乱暴な抜き差しだ。先程以上の凶器を激しく前後させられる。一度目に放出した毒の液体が滑りよく踊っていた。そのおかげで、二度目、三度目の挿入は滑らかに陵辱を再開していく。

 暴力的な快楽。後ろの孔だけでなく、前の性器も先端から、側面も、袋まで順繰りに刺激していく。
 口を突き立てるものも放出をやめない。へその穴も、耳も、ありとあらゆる穴を犯しつくす肉は、私を徹底的に快楽の底へと落とすつもりでいるようだった。
 何時間、何日、何年にも及ぶ暴行。死をも望むほどの辱め。
 だが生きていなければ味わえない絶対の快感。容赦なく突きさされ、目の前は真っ白に染まっていく。

 光がちかちかと舞った。絶頂に次ぐ絶頂。
 その瞬間に溢れた膨大な魔力を、魔物は――いいや、彼らは決して逃がしはしなかった。



 ――2005年12月31日

 【     /      / Third /      /     】




 /4

 ――プレゼントを持って彼の部屋に向かう。到着し、いつものようにノックをしてみるが返事は無い。
 すぐさまこれを手渡したかった。焦る気持ちが顔に出ないか、そればかり心配していた。
 本当にこれを彼が貰っても受け取ってくれるか私は知らない。本人に『クリスマスプレゼントは何が欲しい?』と訊いたが、彼は答えてくれなかった。だがそのおかげでより彼のことを考えることが出来た。今ではこの時間をとても楽しみにしていた。他必死に愛の言葉を考えて今日に臨むんだ。多少の追い風などどうってことなかった。
 こんなにも自分は頑張っているんだから、必死になって結果を出そうとしているんだから、報われてほしかった。たとえ良い結果が出せなくても、この努力は無にならないと思いたかった。好きな人に好かれるために頑張っていることは気恥ずかしいものだが、悪いことじゃないって信じたかった。
 部屋に入って、名前を呼んで、自分の名前が呼ばれるのを待った。一刻も早く会いたかった。でも声はいくら経っても返ってこなかった。
 愛してもらおうと必死になっている自分。どんなに愛してもらおうと躍起になっていても結果を出すのは相手だってことは判っていた。相手がどう答えてくれるか不安だったが楽しみでもある。いかなる結末でも自分は認める気でいた。

 鍵は、開いていた。
 部屋に入ってまずベッドに向かう。夜だったから『仕事』に疲れ果てて眠っていることが多かったからだ。暗い部屋は灯りが点いていない。それもいつものことだ。あまり明るい所が好きではないらしく、私が部屋に訪れるときは決まって電気を消している。「点けるぞ」と私は大きめな声で断りを入れて、電灯のスイッチを押した。
 そこには、頭から血を流している誰かが居た。
 ベッドの上。普段ならシーツを被っている所に誰かが倒れている。シーツを被るでもなく、ベッドの上に仰向けに倒れていた。白のシーツは赤く染まっている。頭から血を流しているため、シーツが赤を吸いこんでいた。仰向けで倒れている。
 貧弱そうな痩せきった体型の男。拒食症の患者のような痩せすぎた肌を、冬だというのに衣服で隠すことなく肌蹴させている。涼しそうな白の服装は、滴る血によって不気味に染まっていた。
 頭から血を流していると言ったが、そこには穴が空いていた。仰向けになっている彼を横から見れば判る。まるで銃口を頭に突き付け、発したような、小さくも熱い穴が空き、そこから血が噴き出していたようだった。既に男は事切れており、血も出きった後。私は暫し呆然とそれを眺めていた。

 あまりの光景に身動きが出来なかったのが一番の理由。けれど違う所で物音が生じ、振り返る為に私は息を吹き返した。
 振り返った先には獣が私を見つめていた。白い大きな獣。いつも彼らの傍に居る巨大な獣が座っていた。
 そうだ、ここはこの犬の飼い主の部屋だった。何者か判らぬ誰かが倒れているのを発見してしまったせいで意識がどこかへ飛んでいってしまった。ここは間違いなく彼の部屋で、私は彼に会いに来たというのに……。
 獣は私を確認すると、部屋の奥に入って行く。奥にあるのは洗面所だ。まるでこっちに来いと言うかのように長い尻尾を振る。私は犬に言われるがまま、そちらに向かった。
 この部屋は頭から血を流した男のせいで鉄の匂いで充満している。嗅覚が人間の何十倍もあるという犬の鼻にはとても辛いことだろう。獣の表情は心なしか険しいものに思えた。
 険しい顔立ちが無言で私を呼んで部屋の奥へと連れてくる。ただでさえ体調の悪い私は、何が何だか判らぬ状態を目の当たりにし、意識を取り戻しながらもふらふらと後を追う。
 獣はバスルームの前に腰を下ろした。私は導かれるようにバスルームに手を掛け、真っ赤になったそこを目撃。
 服を着たままバスルームに倒れ、血を流している彼を確認した。

「……………………」

 ぐるぐると意識がまた飛びそうになる。
 眩暈が止まらない。持っていたものを落として、ガキンと、固い金属音が響いた。全身から力が抜けてその場で倒れそうになってしまった。
 知らない人間がベッドに倒れているのにも驚いて叫び喚きそうにもなる。でも所詮知らない人間だからすぐに自分を取り戻すことが出来た。
 でも、これは駄目だ。知っている人が血を流して倒れていて、しかもそれが愛しい人で、真っ赤に染まって動かずに居るなんて、つい取り乱してしまう。
 体に力が入らないが、力を入れて倒れている傍まで近寄る。血に濡れた体はピクリとも動かず、閉じられた目は名を呼んでも開かず、でも血さえ無ければ……普段と同じように、辛そうな顔をしているブリッドに、間違いなかった。

 揺さぶっても起きない。声を掛けても、何度名前を呼んでも目を覚まさない。
 ベッドの上の男性のように頭を撃ち抜かれたのか。だが彼の頭は傷一つ無い。傷があるのは左手首と、首。絶対に傷付けてはいけないところが割れて、大量の血をその場に撒き散らしていた。
 応急処置すら考えられない。医者を呼んで蘇生させることすら思いつかない。
 ただ目の前にあるのは、死。もうこの世から去った後の体。死体。
 それでも愛しい人だった。私は何度も名を叫び、声を荒げた。

「悪魔め」

 でも泣いて名を呼び続けていたら、すぐに『これは夢だ』と気付けた。



 ――2005年12月31日

 【     /      / Third /      /     】




 /5

 狂ったように声を荒げる赤毛の男を遠目に見ている分には良かった。
 しかし、途中から赤毛の男の様子が変わった。突然クスクスと笑い出したのだ。まさかの変化にワタシは驚き、興奮した。
 笑っていると言っても目からは涙を流し、ずっとブリッドの亡骸を抱いている。ショックのあまり正気を失って笑い始めてしまったか。それにしても、

「ああ、またお前か。お前なのか。悪魔め」

 ワタシの知らない『何か』と話し出したから、ついつい興味本位で耳を傾けてしまう。

「そんなに、そんなに私の苦悩は、美味いのか。まだ、私を、食べる気なのか。どうせまた! お前は! 倒されるんだぞ! 聖者に! なのに、どうして! こんな悪夢を! 悪夢ばかりを――!」

 ふむ、一体何のことやら。
 化け物はこの敷地に大量に居るが、悪魔なんてジャンルの異端はいたか? 気配を探っていてもそんなものはいない。ならばあの男の言う敵は何なのか。……夢見がちな男が作った抽象的な何かか? 充分に有り得る。推理する必要も無いか、とワタシは考えを諦めることにした。

 さて、ワタシはこれからどうするか本格的に考えるべきだ。赤毛の男の叫びをBGMにじっくり考えるとしよう。
 ……ブリッドは自殺した。自殺場所にバスルームを選んだのは「掃除をする手間を省くため」と言っていた。ベッドでもどこでも良かったのに、水場にすれば血を簡単に流せると考えたらしい。
 最初は首吊りも考えたそうだが、汚物の処理を考えるとやはり水場で決行するのが良くて、バスルームだと首を引っ掛ける場所が無かった。飛び降りも候補に挙がっていたそうだが、輝のことがチラつきその案は却下された。
 そうして自分で召喚した剣で手首を切り、喉を裂き、自己再生の異能が発動する前に体を斬り刻み、この世から去った。

 自殺の理由は至極簡単。もう生きていたくなかったから。
 そもそもブリッドの人生は何年も前に終わっていた。父が裏切り者になって、兄が大事件の被害者になったときから、死んでいたようなものだった。
 父が作った罪を押し付けられて兄弟で返さなければならず、それでも兄は歩けない喋れないの状態、一人で『仕事』を受け持たなければならなかったブリッドは、自分を殺し続け、十年を生きてきた。自分が『仕事』という名の陵辱を受けなければ兄も救えなかった。兄が人間らしい生活を受けられるようになった後も、唯一の家族を生かすために必死に働いていた。それだけが人生の支えだった。
 その支えが、兄から他人になった。
 面倒なお節介焼きに遭遇してしまい、優しくされて惹かれ、離れようとしたが追いかけられ、ついには虜になってしまい、人生の支えを『兄の面倒』から『他人と時間を過ごすこと』へシフトしていった。
 苦しみながらも束の間の幸福に身を委ね、幸せそうにここ数ヶ月を過ごしていた。
 でもそれも呆気無く終わる。
 左目に埋め込まれていた魔眼で大好きな他人を狂わせてしまったことで、もうその人と会えなくなった。愛する人を魔眼で殺した罪に苛まれ、人生の支えを失ったことに傷付き、もうどうしようもなくなっていた。
 それどころか任されていた魔眼もブリッドは失ってしまったという。一体どこにやったかって、ブリッドには判る訳もない。ここ数日間のブリッドは『本部』から叱責を受けていた。ワタシも共感をシャットダウンしたくなるぐらい、凄惨な叱責を……。

 ――自分の価値は、失われた。
 ――自分を見てくれていたあの人も、狂わせてしまった。
 ――あの人の為に生きようと思ったのに、もうあの人とは会えない。
 ――目的となる人がいない今、生きている理由が無い。
 ――どうせ、自分はそのうちあの食鬼に食われるだけなんだから。

 簡単な理由の死だった。どんなに苦しんでも生き続けてきたくせに、「もう傍には居られない」と決別した瞬間に彼は人生の幕を下ろすことを決めた。
 遺書でも書いたらどうだとワタシは勧めたが、ブリッドは首を振って事を進めていった。「自分は消える存在だから、記録に残してはいけない。自分のことは忘れてほしい」と何度も何度も言っていた。
 しかしその忘れてほしい相手が第一発見者になってしまった訳だが。ブリッドは本当に運の無い男だ。
 ……運があったらこんなみすぼらしい人生なんて送っていないか。ワタシは自分の考えたことに笑ってしまった。

 ふう。溜息を吐いて今までのことを考え、これからのことも考える。
 ついでにベッドの方の死体も見た。まさかこうも簡単に後追いするとは。彼も銃を召喚して頭を自分で撃ち抜いた自殺者だった。そんなに弟のことが好きだったか。それとも、弟が死ねば自分に『仕事』という名の陵辱が待っているからあの世へ逃げたか。……いや、ここは美しく『弟のことが大切で後についていった』としてやろう。
 意味の無い人生。
 ここまで価値の無い世界があったか。
 ワタシはその場で丸くなる。男の慟哭を聞きながら。まったく、

『ワタシだけを置いていくなんて。身勝手な兄弟』

 悲しんでいるのが、苦しんでいるのが自分達だけだと思いやがって。



 ――2005年12月31日

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 /6

 用意された客室が厠に近くて助かった。廊下で戻してしまいそうになったが、寸前のところで洗面台に辿り着く。
 美味しかった宴会料理は全て排水溝へと消えていった。それどころか胃液という胃液を全て吐き出し、ついには内臓まで口から出てくるんじゃないかってぐらい嘔吐してしまう。
 喉をひっくり返して洗いたい。僕の体を構成する器官を全て水洗いしたかったし、石鹸で綺麗にもしたい。心臓ですら一度新しいものと取り換えてしまいたいほどだ。あまりにゲホゲホと激しく咳き込んでいたので、志朗お兄ちゃんがいつから後ろで僕の背中を撫でていてくれたか判らなかった。

 お兄ちゃんも見失う勢いでお手洗いまでやってきたけど、僕がこんなことになっていて彼が何もしない訳が無かった。
 放置してぐーすか寝るなんてことはしない。たとえ通りすがりの酔っ払いだってお兄ちゃんなら面倒を見てくれる筈。
 ……それが実弟で、『今は心から僕を好いてくれていると伝わって来た直後』なんだから、尚更のこと。

「新座! 今すぐシンリンを連れてくる! 待っていられるか!?」
「……う、ううん。いいよ、お兄ちゃん……もう、平気……だから」
「どこが平気だ。血まで吐いておきながら」

 喉を傷付けてしまったせいか、血を吐いてしまったらしい。綺麗な水道が赤くなっていた。本格的に体内から綺麗にしたいと思ってしまう。
 でも本当にもう大丈夫だ。体の中身が半分無くなったようで力が入らず膝から崩れ落ちてしまうけど、なんとか落ち着いてきた。
 僕の悪いところは体ではなく、心。悪意や負の感情、強烈な記憶を受け取って耐えることのできない心が問題だから。いくら体を見たって解決は出来ない。
 と言ったら志朗お兄ちゃんは「心の治療をするのも心霊医師の仕事だ。シンリンを呼んでくる」と言い放った。心配そうに僕の体を摩りながら、親切心を断る僕に腹を立てているようだった。
 ううん、決して自分のために怒るんではなく、僕のことを想って叱ってくれたって判っている。
 けど、シンリンくんの元へ去って行こうとするお兄ちゃんの腕を引き留めた。
 引き寄せて、そのままお兄ちゃんの胸の中に飛び込む。
 口元はちゃんと水で濡らした手で拭ってある。お兄ちゃんの衣服に嘔吐物がかかることはない。そこぐらいはちゃんとしてる。

「むぐ。……お兄ちゃん。僕、動けない。だっこして」

 ちっちゃい男の子のように甘えて、微笑んでみせた。力無い笑みではなく、さっきまで宴会で騒いでいたかのように笑ってみせる。
 ほら、もうこんなに元気なんだよ。そう伝えるように。
 咄嗟の演技で志朗お兄ちゃんが騙せっこはない。でも振り払われないように、しっかりとお兄ちゃんの服を掴んで抱きついた。

「……だっこしてやる」
「わーい」
「部屋まで連れていく。だけど、その後にシンリンを呼びに行く。俺はお前の内部までは判らないんだ。調子が悪いんだから、素直に医者に見てもらうんだ」
「えー。そんなのいらないよー。お兄ちゃんがお医者さんとして僕を治療してくれればそれで元気になるって。ねっ?」

 顔をお兄ちゃんの首元へとすりすりって埋ずめる。頭を振るったことで視界がパチパチと跳ねて眩暈が生じたけど、それは我慢。
 こうして甘えておけばお兄ちゃんは折れてくれる。僕に甘っちょろい人だから。「気持ち悪い」とか昔は思われていたのを知っているけど、今は僕の事を大好きだって思っていることも知ってるから。だから甘えて……。

「ダメだ。俺の言うことをきけ。馬鹿」

 だというのに、お兄ちゃんは許してくれなかった。
 真剣な顔。笑ってもくれない。思い通りにいかなくてついつい口先が尖ってしまう。でもお兄ちゃんはひょいっと僕の体を(そんなに軽い方じゃないのに)、さっきの大部屋まで担いでくれた。

 ――さっきの『心』は、凶悪だった。

 よく判らない真っ赤な世界。鶏肉のようなぶよぶよ肉の塊の中。赤と黒と紫と、それと、あそこで蠢くモノは……何だった?
 それも判らない。僕の知識の中にあんなモノは存在しないし、この世のどこにもあのような空間は無い。じゃあ僕が見たものは幻想か。抽象的な異次元か。それとも僕が知らないだけで世の中にはあんなにグロテスクで理解不可能な出来事が喚き散らしている現実があるっていうのか。
 明確に思い出して、再度吐き気に襲われた。宴会で食べた美味しいご飯も全て吐いた筈なのに、まだ異物を出そうと僕の中が活発だ。いいかげんにしてほしい。そのまま全部吐いちゃったら僕の内臓も思い出も魂さえも全部吹き飛んでしまいそうだった。いっそそうした方がすっからかんになって楽になれるのかもしれないけれど。
 お兄ちゃんに全体重を預けながら、夢想する。

 やめよう。
 何度も言っている、誰もが言っている。
 判らないなら考えなければいい。苦しいなら何も考えなければいい。答えが出ないならそのまま「仕方ない」と諦めてしまえばいい。
 ……そうしよう。全ての臓器を放り出してしまいたくなるほど重症だ。死を選んでしまうほど苦しい目に遭っているんだ。そんなにも大変な状況に陥っているのだから、救われるためなら何もかもが許される筈。

 考えるな。何も思うんじゃない。諦めろ。仕方ないことだから。

 人間性を放棄することで、ぐつぐつと煮立っていた僕の中がやっとクールになってくれた。
 何もかも諦めたって大丈夫。今はこうやってお兄ちゃんに寄りかかっていられるから。お兄ちゃんが抱っこしていてくれるので、僕が全てを投げ捨てても歩いていける。
 甘えんぼで投げやりな僕は一層お兄ちゃんに縋りついた。
 ああ、やっぱり……それで良しとお兄ちゃんの横顔は笑っているではないか。
 そして一瞬の出来事が起きる。何が起きたか把握はできなかったが、とんでもない出来事が起きたのは判った。何って僕が目を瞑ってお兄ちゃんにキスしようと顔を近づけた途端、背後の部屋が大爆発して炎が上がったのだから。



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /7

 明日が来なければいいと願った一人がいた。
 また一人、明日が来なければいいと願った。
 そのまた一人も、また違う一人も。

 皆がそれほど来ないでほしいと思っている明日って、そんなにも価値が無いものなのか。

 自ら命を絶つ者がいる。何人もいる。
 自ら生きていくことが出来ない人もいるのに。彼らは自分の身体に刃を突き立てる。
 儀式の時間に合わせたかのようにみんな命を絶っていく。

 明日を心待ちにしている人なんて、私はたった一人しか知らない。



 ――2005年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /8

 ばけものはこのせかいをみたしている。
 すでにここはばけもののはらのなか。
 あかいにくはみるみるうちにおおきくなっていく。かれをとりこんだから。いっぱいのちからをてにいれたから。まっかなえさをたべきったから。

 此処はそういう世界。



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /9

 悪魔が、また、出た。
 悪夢が、また、訪れた。
 悪意が、また、全身を満たしていく。

 一番の、悪は、私に違いないんだけれども。



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /10

 そこは人が生み出した地獄だった。
 美しく催された庭や建物には火をつけられ燃やされ、一晩もせずに築き上げられたものは灰に化す。
 道という道に人の体。真っ赤に染め上げられた人間が転がる。至る所に人の身体。道を血が埋め尽くすという大惨事。千年近く積み上げられてきた一族の最期が、炎という判りやすい形で終焉を迎えようとしていた。
 女達は穴という穴から血を垂れ流し倒れている。対抗した男達も中から爆破され絶命している。死体になった人間達は放置され、部屋、廊下、庭、処構わず無残な姿のまま転がっている。
 毎度。毎度、同じように。真っ赤な真っ赤な記憶だけが、更新されていく。

 溜息をついた。暫く走り続けていたけど、呼吸を整え直す。
 もう逃げるのをやめることにした。これ以上は無駄だと判ったから。
 ――追いかけっこをしていた。『家族』とかいうのと、追いかけっこをしていたんだ。
 捕まったら死ぬ。死ぬまで続く、追いかけっこ。
 舞台は、寺の敷地内。寺から出ることは許されない。一度出てみたけど、追いかけっこがやり直しになるだけだった。決められたルールの中、追いかけっこをしている。降参は、アリだ。アリだけど、したって一時的なものにしかならない。一旦ストップして、再スタートするだけで、追いかけっこが終わったことにはならない。
 ずっとずっと追いかけっこは続く。でも今回は、ここで降参することにした。今回のプレイは、勝ち目が見出せなかったからだ。

 目の前に居るのは、誰だ。良い年頃のイキイキとした笑顔の青年。鬼役だ。
 青年の左手にあるのは、誰かの首。誰だろう。お父さんのものだろうか。ちゃんと胴体とくっ付いていたら似てるか似てないか判別できるだろうに。そんな父子のツーショットじゃ、感想が言えない。
 お洋服を血でお化粧して、べったりと他人の血だらけの格好になっていた。
 そんなにその人のことが嫌いだった?
 嫌いだからって他人を排除する考えになってしまうなんて、安直過ぎる。
 でも有言実行力は素晴らしい。嫌な感情により「排除したい」と思ったからって、それを実践できる人間は少ないもんだ。
 例えば、ピーマンが嫌いな青年がいる。ピーマンが嫌いで嫌いでたまらない人は、普通だったら「食べない」選択肢を選ぶだろう。「見向きもしない」とか、「今後ピーマンの出てくる料理を選ばない」とか、「その場を避ける」とか……大がかりに言えば、人生の選択を各々行う。
 けれど、この人の場合……ピーマンが嫌いだから、「この世からピーマンを無くそう」という動きをしたようなもの。まず第一に、ピーマンの種を殲滅。それと、ピーマン農家の人々を虐殺。ついでに、農家に今後なりそうな可能性のある人々も殺して、徹底した、「ピーマンの無い世界」を創り出した。
 彼は、そういうことをした。『自分の血』が嫌と言っていた彼は、血を今後も生み出す可能性を、一つ一つ潰していく。
 兄弟を殺して、血縁者をみんな殺して、近くに居た関係者を殺して、血に賛同する狂信者達も殺して、そして、自分も。きっと、彼自身も全てが終わったとき、自分を殺すんだろう。
 自分の流れている血が、気持ち悪くてたまらなかったという人だから、そういう暴走だってありうる。
 彼が一体どこまでの人間を殺し続けるか、興味はあった。石段下に住んでいる人に会う一族も多かったから、あの人も関係者か。外で暮らす人は下界の人と関わっていたし。どこからどこまでが『家族』の線引きに入るのか、よく判らなかった。
 他人と、家族の境界線ってなんだろう。
 白い衣裳で真っ赤な返り血をアクセサリーに付けた青年を目の前にしながら、想う。

「……瑞貴くん……」

 目の前に立って殺そうとしている彼に声を掛ける。
 こちらは無防備な敗者だ。逃げることをやめた単なる敗者だ。
 問いかけても青年は何も言わない。ただ、眼の前の人間へ、薄気味悪い笑みを見せるだけ。
 暴走。反転。異端堕ち。色々な可能性が考えられた。彼一人が寺を燃やした? 暴走となればそれも可能か。でも一人ぐらいなら皆で取り押さえることもできただろうにどうして誰も助けに来てくれない? みんな次々と死体に変えられている? そんなに彼は強かったか? そんなに仏田一族は弱かったか?
 判らない。
 ちょっと半年か一年ばかりお寺を離れていたら、その程度のことも判らなくなっていた。
 あ、そうだ。判らないなら考えなければいい。苦しいなら何も考えなければいい。答えが出ないならそのまま「仕方ない」と諦めてしまえばいい。
 そうしよう。さっきの気持ち悪い夢と喋らなくなった瑞貴くんとの追いかけっこのせいで全ての臓器を放り出してしまいたくなるほど重症だ。死を選んでしまうほど苦しい目に遭っているんだ。そんなにも大変な状況に陥っているのだから、救われるためなら何もかもが許される筈。

 考えるな。何も思うんじゃない。諦めろ。仕方ないことだから。

 そうして無心になって誰かが救ってくれるまでぼんやりしていても、何も改善はしなかった。
 答えてはくれなかった。答える代わりに、彼は、僕の額に手を乗せ、爆発させる――。

 ――だけどその前に突如激しい力が加えられて、僕は真横に吹き飛んだ。

 単純に、必死の形相の志朗お兄ちゃんが横から走り込んできて僕を吹き飛ばしたに過ぎない。
 突然の爆発、爆風によってみっともなく吹き飛ばされたお兄ちゃん。そのまま死亡した。運良く擦り傷程度で生き残った僕を追いかけてきた瑞貴くん。それから数分間の追いかけっこがあったというのに、どうやって志朗お兄ちゃんはここまで走ってきたんだろう?
 考えるまでもない。
 吹き飛んだ足でも鞭を打って、僕のもとまで追いかけてきたんだ。
 僕がどこに走り逃げたのか判らなくても、あちこち境内を走り回って探してきたんだ。
 どうやって凶行を止めるのか準備が無くても、他の能力者から見たら才能無しって言われて弱い体だとしても、ぼんやりと走り疲れて座り込んでいる僕を……救出したくて押したんだ。
 それだけだった。考えるのをやめずに考えた結果、馬鹿でも判る単純な結果が展開されていることに気付いた。
 横に飛ばされた僕はとどめの一撃を食らわなくて済んだ。だからごろんごろんと地面に転がる。その上に志朗お兄ちゃんが覆い被さった。
 そんな、ぎゅうっとされたんじゃ逃げられないよ。ぎゅうしたいなら二人きりでベッドの中にしなよ……。
 ついつい軽口を叩きたくなった途端、抱き締められた先に見える光景が真っ赤になった。

 ――僕達は、炎の海の中にいた――。

 志朗お兄ちゃんは僕を抱き締める。
 だから赤い津波が押し寄せてきても、僕には届かない。火の子が肌に刺さって痛かったけど、それだけだ。僕自身は炎の餌食にならなかった。
 だけどお兄ちゃんはどうだろう。炎に焼かれない普通の顔の僕とは違い、お兄ちゃんは苦痛に喘いでいる。僕の鼻に肉の焼けた匂いがした。それは間違いなく、考えるまでもなく、お兄ちゃんが焼けている香りだった。
 庇った。
 一度吹き飛んで気絶したぐらいの弱者が、追いかけてきて僕を押し飛ばして、覆い被さって、庇った。
 焼けていく。
 僕を焼かないように全身で守りながら、炎の苦しみに悶えながら、無力な僕を守って無力な彼は――――動かなくなっていく。
 そうして、死んだ。

 心臓が耳元にあった。こんなに距離が近かったことはない。
 ずっと隣に居てくれて、寝る時も手を繋げる場所にいたのに、ここまで体も心も近距離で居たことは無かった。
 だからこそ何もかもが判ってしまう。近過ぎるが故に感じてしまう、本音。

 ――彼が本当に何の考えも無いまま、ただ「僕に生きていてほしいから」という一つの心だけで、庇ったということを――。

 嘘を見抜く僕が、心を読む僕が、本当のことを知ることができる僕が、ただその一つだけを受け取ってしまった。



 ――2005年12月31日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /11

 一瞬の隙をついた餌は、悟司の首を吹き飛ばしていた。

「……ッッッ!?」

 生首がポンと宙を描く。ドサリと落ちた悟司の顔は、目玉がぐるりと回転し、そこでやっと絶命した。斬られた瞬間には息は止まらず、胴体と首が外れて数秒後、やっと悟司は死ねた。
 その光景を見た芽衣が悲鳴を上げた。どんな戦場を潜り抜けて行った処刑人でも、知り合いの生首は恐怖の対象だった。だけど芽衣は悲鳴を上げたら最後、その体が炎上した。
 体に炎が付き、燃え広がる。
 芽衣だけではなく、その隣も、そのまた隣も、次々と炎が付いていった。全員が炎上していく。炎上していないのは……私と一本松ぐらいだった。

「――逃げますよッ!」

 私は異常事態を鎮圧するよりも回避する決断に辿り着き、そのことを兄に伝えるが、その兄は動かず『紫の化け物』を見つめていた。
 その顔と言ったら、なんという馬鹿げた表情だろう。
 とろんとした目で美味しそうなご馳走でも見るかのような恍惚とした不細工な顔など、実の兄のものとは思いたくなかった。
 虚空――ウズマキから私の武器を召喚する。咄嗟にそれを上に構える。
 予想通り、紫の化け物は長い触手を上空から降り下ろしてきた。なんとか一撃を回避するが、その後の二撃目、三撃目は止められなかった。
 腹を二度強打されて咳き込んでしまう。その間にも周囲は首を落とされ、もしくは燃やされていく。燃やされた体が屋敷に燃え広がっていく。『ついには仲間達が相打ちをし始めてしまった』。統率の取れていた者達が崩壊していく。
 ああ、これまでだ。
 私は覚悟をした。自分の最期を覚悟したのではない。
 この一族の最期を、こんな醜い姿で終えてしまうことを知って絶望してしまった。
 ――覚悟とは、潔く自分の腹に刃を突き付けること。
 私は幸せそうな兄を見ながら、あの世へと逃げ出した。

「そうだ、お前らが悪魔だ。私を苦しめる、悪魔だ……!」

 その間も紫の化け物を操るあの男は狂ったように泣き、喚き、叫び続けていた。
 叫びながら、きっと奴は一族を壊して回る。全ては、壊れてしまった恋人の為に。



 ――2005年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /12

 明日が来なければいいと願った一人がいた。
 また一人、明日が来なければいいと願った。
 そのまた一人も、また違う一人も。

 皆がそれほど来ないでほしいと思っている明日って、そんなにも価値は無いものなのか。

 自ら命を絶つ者がいる。何人もいる。
 自ら生きていくことが出来ない人もいるのに。彼らは自分の身体に刃を突き立てる。
 儀式の時間に合わせたかのようにみんな命を絶っていく。

 明日を心待ちにしている人なんて、私はたった一人しか知らない。



 ――2006年1月1日

 【 First / Second / Third / Fourth /     】




 /13

 紫の体内の中であたしは叫んだ。
 たすけて。くるしい。いたい。しにたくない。あたしはこんなのかんけいない。どうしてあたしがこんなめにあわなきゃいけないの。
 ありきたりな言葉をただただ叫び続けていた。
 神様ならばこの願いを聞き入れてくれる筈だと信じて。あたしの声を無視する意地悪な神様などいないことを祈って。



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /14

 力を合わせて繋ぎ合わせていく。
 絆の力をもってすればなんだって乗り越えられる。
 みんなでいければこわくない。

 そう。みんなは一人じゃない。一人だけど。一人だとしても。



 ――2005年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /15

 この連鎖を断ち切る。



 ――2005年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /16

 それには、貴方が、必要。



 ――2005年12月31日

 【    /     /     /     / Fifth 】




 /17

 お前だけがいてくれればいい。



 ――2005年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth /     】




 /18

 スイッチを切って。おしまい。



 ――2006年1月4日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /19

 スイッチを切って、音楽を止めた。
 目的地まで着いてしまったからイヤホンを荷物にしまう。長い時間歩き続けるお供には音楽は必須だった。流していたのは洒落たつもりで鎮魂歌。気を落ちつけ、これからのモチベーションを上げるには最良の音だった。
 仏田一族唯一の生き残りとなってしまった剣菱慧に依頼を受けて、既に数時間。もう一人の生き残りである青年と面会出来なかった私は、事前に電話予約しておいた会場へ向かうことにした。
 慧とお茶をした喫茶店から歩いて数十分、近すぎもせず遠すぎもせずの教会へ、雪が降りそうな天気でも歩く。
 そうして辿り着いた教会は、豪勢な印象を全く抱かせない場所だった。
 街中に馴染んだ形で自然にそびえ立っている教会の門を開けると、礼拝堂に一人のエージェントが居た。三が日も終わってばかりじゃ浮かれていてもおかしくないっていうのに、きっちりと正装に身を包んでいる。そして私の来場を察知するや、姿勢を正し、ダンスをするかのように可憐なお辞儀をする。
 一応誰か居ないか見回しておこう。ぐるりと見てみても、この礼拝堂には私と一人しか居ない。静かで涼しい空気が漂う中、私達は約束の話をするために集まった。早速話をしよう……としたが、その前に一応社交辞令の挨拶ぐらいはしておく。

「あけましておめでとう。うふ、今年実際に会うのは初めてね」
「ええ、電話でご挨拶はしましたが確かに。あけましておめでとうございます、切咲さん。今年も宜しくお願いします。お元気そうで何よりです」
「うふふ、お正月は休むものだもの、元気そのものよ。でも教会のエージェントはそれどころではないようね。あの女総支配人も疲れた顔をしていることでしょう」

 私がクスクス笑いながら茶化して言うと、エージェントの一人は「鶴瀬総支配人は、気丈です」と言い返してきた。
 何気なく言ったことでも上司をからかわれたんだ、少しはムッとくるものだったらしい。人に弱みを見せるのが好きではない人か、からかうのは一分でやめよう。という訳で六十秒きっちりからかいきった私は、綺麗な椅子に腰掛け報告を待った。

 『教会』という退魔組織のエージェントはいつもは勉学に励んでいる。
 能力を用いて人々を守っている彼ら教会は、裏社会の情報を探る生活を送っている働き者だ。お正月だからといって情報検索能力が甘いことはなく、正装のまま如何なる真実に立ち向かう姿は、人々を守るに相応しい賢者であることを表わしていた。
 教会がいかに尊いかの説明はこの辺りにしておいて、私は「例のものを」と急かしてみる。すると席に着いた私に紙束を手渡してきた。
 お願いしていた『2005年12月31日の件』を調べたレポートに間違いない。
 ワープロ字の書類。ぱっと見ただけで大変内容の濃いもののよう。でも短時間で仕上げたせいか、尚且つ完成形には程遠い。赤ペンで訂正書きがいくつもされているし、誤字脱字も簡単に発見できる。それでもたった二十時間でここまで形にしているんだから日本トップクラスの組織の収集力は凄まじかった。
 素晴らしいと言葉を送りつつ、未完成の報告書に目を通していく。
 文書の半数は、死者のことを語っていた。

 ――本日。剣菱慧に『仏田が滅んだ理由を探ってほしい』と依頼された。
 だが実は彼にお声を掛けてもらう前からこのことについては調べていた。教会はもちろん、私個人で動いていることだった。
 教会が捜査している理由はもちろん、大企業であった仏田一族が一晩にして消えた訳を知りたいから。
 仏田一族は退魔組織・教会の財布役だった。異端が暴れるこの世で能力者を派遣し困った人々を助けることが目的のボランティア団体である教会が、能力者に支払う報酬を出してくれているのが仏田だったんだ。
 仏田は多くの異端の魂を貰う代わりに金を出していた。教会は仏田から支払われるものの過半数を資金源として活用していた。その一族が消えたのだから、これから教会のエージェント達の給料が無くなったも同然。『スポンサーがいなくなったので給料は無しです』だなんて、エージェント達は言われて納得する訳が無い。
 教会の上層部は居なくなった理由を説明しなければいけなくなった。そうでなくても、約100人の人間が亡くなった事件なんて大きな異端を生む前兆になるに違いない。今も給料ゼロのエージェント達が数人駆り出され、現在調査中のことだろう。
 ついでにだが私が個人で調べている理由を語っておこう。なんてことはない、純粋にこの事件に興味を持ってしまったからだ。
 約100人の能力者の一団が亡くなった話なんて面白いじゃないか。……私の知り合いが死んでいる事件だから、ショックを受けなかった訳ではない。慧のように激情に敵討ちをすることはできないが、全く関係ない人よりは心が動いたのは確かだった。

 夜須庭 航(やすにわ・こう)。
 私の知り合いは、死ぬには早すぎる人だった。
 これから活躍するだろう魔術の研究者だったのに、志半ばで炎に散ってしまった。親友という程ではなかったが、悔しいという想いは嘘ではない。なんとかしてやりたいと私は密かに熱意を持っていた。
 そうして目を通すのは、約100人の死が羅列されている文章。その中に、知り合いである彼の名前があって、笑っていられなくなった。でも真剣な顔をすると目の前のエージェントに心配をさせてしまうので、いつものように「うふふ」と笑って事を進める。

「改めて訊いておこうかしら。あの火事は自然発生だったの?」
「まさか」
「そうよね。違うわね。犯人を捕まえられた?」
「いえ、まだ」
「では、犯人の見当はついた?」
「大体は」

 そう。私は一日で進展した情報を深く脳に刻み込む。エージェントも私に近い席に座り、真剣な声色で問い掛けに応じてくれた。
 12月31日に事件が起きて、既に七十時間以上が経過している。その中で優秀な教会のエージェント達はそれなりの仕事をしていたようだ。
 犯人は捕まえられていなくても約100人を殺した者の何かを掴むことができたらしい。これで明日会う約束の慧くんに良い顔が出来そうだ。ふむふむ、良い方向に進んでいるらしい言葉の続きを待つことにしよう。

「まず、普通の火事ではないという話の裏付けからいきましょうか」
「ええ。うふふ、普通の火事では起きないことが生じていたからでしょう? 何があったの。焼死体以外が発見された?」
「まさしくその通り。……そうだ、始めに寺の全体図をご説明しましょう」

 そう言ってエージェントは私に渡した書類の開始数枚を抜き取り、礼拝堂の長椅子に並べた。図形があるマップではなかったので判りにくいが、口頭だけで位置の把握を努める。
 石段が下界と寺を繋ぐ唯一の道。と言っても高い塀で囲まれている訳ではないから、森を伝えば敷地内に何処からでも入ることができる、そんな山奥の寺。
 石段を登りきった先には山門があり、門を抜ければ『@本堂』が広がる。ここで葬式など表の顔を行い、多くの一般人が訪れていた。
 本殿の裏側に、一族が居住する『A本家屋敷』。
 僧堂や女中らのための『B使用人屋敷』。
 清めを行なっていたという『C泉』。
 魔術の研究棟になっていたという『D工房』。
 武術を磨いていたらしい『E道場』。
 人が住めば必要な物も自然と増えてため物を置く場所として使われていた『F倉や書物庫』、。
 室などに使われていたらしい『G離れ小屋』。
 本家の集まりがあったという神聖な場『H本殿』。
 客人が招かれる来賓専用の屋敷『I洋館』。
 ――大まかに10の区分に分かれているという。広大な敷地内に10個の区分という、大変判りやすい説明だった。

「寺としての役割を果たしているのは、本堂。居住区が、本家屋敷と使用人屋敷。研究棟として工房、道場が使われていた。そして何よりも大切にされていたのが、本殿。本殿は厳重な結界によって守られている、言わばこの一族の心臓部分でした」
「ふうん。うふ、やっぱり広いお城ね。ありがとう、なんとなくでも把握できたわ」
「ですが、ここからいきなり難しくなります。……まず、洋館の地下には『機関』と呼ばれる研究所がございました。ここでどうやら、能力者を生み出す研究をされていたそうです」

 …………。おっと、思わず言葉を失う展開になってしまった。
 私が隠れて驚いているのも構わず、詳しい説明は始まる。と言っても、教会もまだ調べきってはいなくて曖昧なところが多かった。伝聞の伝聞を私に伝えている。
 『どうやら、生み出していた、らしい』というあやふやな情報を。それでもその程度の情報が耳の奥をジンジンと刺激した。

「それと、本堂の下には『牢獄』がありました」
「牢獄」
「地下に降りたら、全て牢屋になっていました。石の牢屋に木の牢屋、座敷牢や、いかにもな拷問器具が置かれたサドでマゾな行為を行なうような部屋もあれば、何人も収容できる牢もあって、立って閉じ込められるような特殊なものもございました。決まって扉は魔道具で細工してあり、普通の人間ではまず脱獄できないようにしている厳重な造りでした」
「……うふ、研究所ではよくあることだから特別驚かないけど……随分な造りね。でも最新鋭の研究所ならそれぐらいのことはするかしら。実験動物を繋いでおくにはまず檻を造らないといけないでしょうから」
「そうですね。ここで一つ重要な情報を。本堂、牢獄、機関、洋館、そして本殿……この五つは、地下で行き来ができるようになっていました」
「……地下で行き来? 繋がっていたってこと?」
「ええ。仏田の境内の凄いところは広大な敷地だけではありません。広大な土地を網羅する、地下通路。地下の道が敷地内の至るところにございまして、上から見ますと遠く離れている牢獄と洋館にも、直線距離で行くことが出来るような複雑な造りになっておりました。おそらく私達が発見できてないだけで、別の場所にも行き来ができるものと思われます」

 記録によるとこの土地は千年間、一族のものだった。
 多くの建物を建てては、月日によって崩れ、また造り上げていったんだ。それぐらいの細工ぐらいあって普通だ。
 さあ、仏田のマップについては判った。さてそろそろ本題の火事のこと、それとその被害者についてに入るが……。

「12月31日、約100人を襲った大火事。大半の遺体は寝食をともにする本家屋敷でしたが、そことは別に奇妙な団体があります。牢獄に、数十人の集まりがありました。地下牢に、数十人の遺体があったのです」
「地下に数十人……牢獄に囚われていた人達だったってこと……?」
「そう考えるのが妥当でしょうか。牢屋の中に何十人も居たんですからね。ですが牢屋に居たのは、一族の出の者であったり、訓えに従い修行を行なっていた僧達ばかりです。牢屋に閉じ込められている理由は何でしょうか? これは余談ですけどね」
「……うふ。余談は放置しましょ。本題を続けて」
「敷地内、主に本家屋敷にあった多くの遺体は、焼死体です。炎に焼けた人間達ばかりが多くです。ですが、牢屋に居た上門悟司(かみかど・さとし)という男は、首が飛ばされていました」

 飛ばされていた。
 いや違う……と苦い顔をしてもう一度、言葉を整える。

「悟司という男は、首を切られていたんです。胴体と頭部が分かれていました」

 チョップのような手の形で、自分の首を切るような仕草をする。可愛い動作だが、立派な首切りのアクションだった。
 それが、単なる火事で済まない理由。
 火事で死んだだけなら首が落ちる訳が無い。何者か悟司の首を切り落としたか、火事以外の何らかの自然現象で首が切られたかのどちらかか。そんな自然現象はあってはならないけれど。

「他にも変死体は多く発見されています。例えば、本殿には上門悟司の弟・上門霞という一族が腹部を失くして死んでいました」
「腹部を失くして……?」
「腹を抉り取られてと言いますか……その、無かったんですよ、お腹の中身が。穴が空いて、その中身は人の物をしていなかったという話です。兄の変死体と何か理由があるんでしょうか?」
「ふうむ」
「あと、火事の被害が酷かった本家屋敷にも凶行があったそうです。数人の子供の死体には、斬り傷がありました。本家屋敷は燃え広がっていました。誰かを判別するのも難しいぐらい燃えている者も居ました。確認できたのは、小柄だったから子供というだけです。子供なら……おそらく書類の、そう、この辺の名前だと思います。また、離れには次期当主と言われていた男性の死体もありました。彼は……自殺だったと思われます」
「自殺?」
「燃えていなかったんですよ、離れは。ですが刺殺された状態で発見されました。硬直していた手の位置と刺した胸の位置からして、自殺と見て間違いないんですが……死に方が他の遺体と違うのは気になるところですね。あ、そうだ、牢屋では…………その」
「なに?」
「…………暴行を受けた男性の死体も発見されています。これも焼死体ではなく……」
「暴行を受けた? 暴行を受けて死んだのではなく? そもそも暴行というのは?」
「焼かれてなかったため死体を観察したんですが、男性の体内には、ですね、その…………殿方の精液が大量に、ですね」
「……ああ……」
「全裸で、痛々しい格好だったとも聞いています。暴行が凄まじかったらしく体の至るところが変形していたそうです。でも直接的な死因は頭を撃ち抜いているところを見ると……」

 口が滑らかに動かなくなってきた。女子の前で言うには辛い現場もあったらしい。情報を喋ってほしいが故につつき過ぎたか。
 別に構わなかったが気遣ってごめんなさいと私は素直に謝った。

「うふ……焼死体だけでなく、多くの変死体が発見されている。首が切られたり、お腹が無かったり、性的暴行を受けたり。流石に前者のような猟奇的な自殺は無いでしょうから、何者かがやったってことでしょうねぇ? うふふ」

 笑うと、コホンとわざとらしき咳払いをされた。
 気を取り直してパラパラとページを捲る。私の知っている名前を探し、彼がどんな死に方をしたのか確かめた。
 夜須庭航――慧くんが『先生』と言って慕う男性は、『本家屋敷で焼死した』と書いてあった。……慧くんが仏田寺に到着する前に屋敷で年末を過ごしていた彼は、炎に焼かれ死んだという。
 これが正確な情報か。このことを正直に慧くんに伝えてやろう。伝えた途端暴れ出しそうな展開は見えたけど、真実を知りたくて慧くんは動き始めたんだ。その意思を否定してはいけない。文章内の詳しい状況を頭に叩き込んだ。

「死人に口無し。やりたい放題ね」

 引き続き調査をお願いと頼む。
 もちろん、一大事ですから、と双方力強く頷いた。



 ――2005年12月31日

 【 First /     /     /     /    】




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 みんな燃えた。
 いきなり燃えた。
 僕も、例外じゃなかった。

 みんなと違うのは、僕一人だけ熱いと感じなかったことだった。

 漂う。
 沈む。
 溺れる。
 浮かぶ。
 流れる。
 揺れる。
 さまよう。
 さすらう。
 おちる。

 赤くなった視界から一点、真っ白になった世界は、突如真っ黒く染まり、ついにはよく判らない色になってしまった。
 上も下も右も左も判らない状況が僕を混乱させる。感覚を失くした僕はぐらぐら漂い、ずぶずぶ沈み、ぐらぐら溺れて、ふわふわ浮かぶ。空を飛んだり地に落ち続けたり、あっちこっち迷走する重力に翻弄されながら、理解できない空間を廻る。

「みんな死んだ」

 はっと目を覚ますと、ある場所に蹲っていた。泥色の世界に座っていてぼうっとしていたらしい。

「みんな殺された」

 自分を保たなきゃと言い聞かせて立ち上がる。宙を浮いていた。いや、地に伏していたのかもしれない。いやいや、ぐるぐる同じところを歩いていた? それとも。

「それでいい?」

 どうなってしまったのかどうなってしまうのか判らない世界に混乱。困惑。不安に苛まれ、叫びを呼ぶ。
 でも誰も居ない泥色の世界には僕の声だけが響き、虚しく、一人だけの空間を走るしかなかった。

「こんな死に方、貴方は認められる?」

 いつから僕はここにいて漂っている。どこまで沈んでいく。いつまで溺れなければならない。浮かんで終わるのはいつだ。
 疑問がどんどん僕の体を満たしていき、恐怖と戦い続けること数億回。
 おちるところまでおちた僕は、ある場所へ辿り着いた。

「その死を、神は、世界は、許さない」

 そうして…………女の子が僕を見ている空間まで、僕はスタート地点に辿り着くことができたんだ。

 リプレイ。
 リトライ。
 リスタート。

 二度目が、初まる。



 ――2005年9月1日

 【    / Second /     /     /    】




 /0

 ――汗をすっごく掻いた状態で目を覚ました。ものすっごい息苦しかった。

 寺の自室。僕の部屋。布団の上。泥色の世界じゃない。
 目に入るありとあらゆる情報を引きつけて、「ああ、あれは夢だったんだ」と安心する。深呼吸を何度もした。
 ああ、新年早々恐ろしい夢を見てしまったことを後悔した。今日が初夢じゃないことを祈る。あんなものを正夢にしたくはなかった。

「新座」

 もう一回夢を見直そうかなぁなんて考えていたけど、名前を呼ばれて重たい体を起こした。
 真冬だというのに健康的な初夏のような汗のかきっぷりだ。すぐに着物を剥ぐ。胸を出して少しでも風を取り入れようとした。

「あら、レディの前で大胆ね」

 けど、女の子の前でするべきではなかった。すぐに着物を着直す。
 でも熱い体をなんとかしたい。着替えようともしたが、金髪碧眼の女の子は僕をじっと見ているからそれもできない。……わあ、案外ずっと見られているのって難しいことなんだなと今更ながら思ってしまった。

「おはよう、新座。ねえ、なんとか言わないの?」
「おはよう。…………むぐぅ、これが新しい人生ってやつなの?」
「そうよ。おはよう新座。ここが新座の、新しい世界。貴方はこの日からやり直すのよ。――炎に燃えて無くなる家族の結末なんて、もう見たくはないでしょう?」

 うん、僕は頷く。
 すると6歳ぐらいの小さな金髪の女の子が僕の座る横にちょこんと腰掛けた。
 というか腰を下ろして、僕のいないあっちの方を向く。「別方向を向いてやっているから早く着替えろ」と言っているみたいだった。
 あれ、なんか安心しちゃった。結構優しい子じゃん。何気ない態度で気遣いが出来る子で良かった。これなら四六時中一緒でもこの子とやっていけるかもしれないな。「ありがとう、聖剣」と彼女に感謝の意を表して、僕は新しい朝をスタートした。

「ねえ、まず僕はどうするの? 『みんなを幸せにする方法』って何をすればいいのさ」




END

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