■ 026 / 「血宴」



 ――2005年12月18日

 【     / Second /     /      /     】




 /1

「え? ……なに。福広さん、『神様が近くに居る』ってどういうこと?」

 学校の無い休日。前の日に化け物に殺されかけた俺は、血で汚された寮の部屋の掃除をじっと見ているだけの日曜日を過ごしていた。
 掃除をしてくれるのは実家から派遣された福広さん。何にも知らなそうでも案外物知りな彼が妙な事を言い出すもんだから、ついつい前のめりになって質問してしまう。

「どういうことってぇ、ウマはどこまで知ってるのぉ?」

 血を全て消し終えた福広さんは、持参の昼食(銀之助さん作と思われる美しすぎる造形のサンドイッチ。機械が作ったより機械らしく綺麗な三角形とバランスの良い色合いと具の豊富さから、そこだけ世界が違うように輝いて見える。謎だ)を取り出し、足を伸ばす。
 アホみたいな顔をしているくせに、なんでこんなトンデモナイ話をし始めるんだ、この人。

「どこまで、って……えっ? ていうか何ですか、神って、なんの神……」
「神は神だよぉ」
「何の冗談……」
「あれぇ? 何にも知らない顔だねぇ? まぁ、仕方ないよねぇ。俺だって知ったのつい最近だしぃ。しかも偶然知っちゃったんだしぃ。ひっひっひぃ」
「……福広さん。この学校に幽霊が出やすいのも、ちゃんと理由があったんですか……?」

 マジな顔して俺が問い質してくるもんだから、福広さんは何から説明すべきか、うーんうーんと悩み始めてしまった。
 この人は要領が悪いってことは知っている。出来れば難しい話を彼から聞き出すことはしたくないが、言葉を待つしかなかった。
 悩むこと数分。彼は昼食を半分以上食べ終え、話の整理をつけて、真剣な声色を繰り出した。

「最初に確認しておこーぅ。俺の言う神様っていうのはぁ、俺達の神様で間違いないよぉ」
「はあ」

 神様。俺達の神様。……つまり、仏田の神様。
 それは、何百年も追い求めているっていう『ある存在』のことか。

「でもってぇ、神様に限らずスゴーイ力を持った能力者の周りにはぁ、必ず悪いザコ達が生じちゃうっていうのは定番だって覚えておいてねぇ。ほらぁ、主人公力ってヤツだよぉ。主人公は話の中心だからねぇ、厄介事を持ってきちゃうもんでぇ……」
「福広さん。あんた、話の構成力も人を納得させる説得力も欠けてるんだから、冗談は一つまでにしてください」
「ぷぇー。いつでもポリシーはクラゲのように生きる俺に難しい注文だねぇ。今のは何の冗談でもないんだけどなぁ」

 えっとえっとぉー、と何度も福広さんは言葉を訂正し始める。
 けど俺は「もういいです」とは言ってやらない。ずっと彼の繰り出す言葉を待ち続けた。

「ごめぇん、他の言葉が思い浮かばなかったぁ。だからそのまま話すぅ。……強い能力者の周りにはぁ、その血や肉を求めてくる異端が生じちゃうもんなんだよぉ。異端って人間モグモグしちゃうことでレベルアップできるじゃぁん? ただモグモグさせるだけじゃなくて感動から恐怖まで様々な感情の変化で味付けしつつぅ……」
「はい、はい」
「あぁ、今いーかげんに聞いたねぇ? ……普通の強ーい能力者でさえ異端が群がっちゃうんだよぉ? 強ーい強ーい神様がいたら周りは異端だらけになっちゃうよねぇ。みんな美味しいの食べたくて噂に聞いて我先にって集まっちゃうもんだよぉ」
「……あの。今の話の流れで……ちゃんと語られていないところをまとめますと」

 判っていることと判っていることの二つを並べられても、まだ判らないことには繋げられていない。
 敢えて口に出していない答えを、声に出してみる。

「仏田の神……女が、この学校に居て、その女を求めて幽霊が大量発生した、と?」

 前提を話した後、神に群がる異端の話をしたってことは、そういうことか。

「ビンゴぉ! でもぉ、満点じゃなぁーい! 俺は『神様が近くに居る』って言ったよねぇ? だーかーらぁ、この学校に居るんじゃなくてぇ、この学校のお近くにお住まいだったのさぁ! 具体的に言うと学校から百メートル離れたトコの剣道部御用達の道場屋さんにお住まいでしたぁー!」

 なんだ、完全正解じゃなかったのか。残念。
 …………。いや、いや。だからって、正解に辿り着いたからって話題を切ることは出来ない。
 かと言って荒ぶって福広さんを問いただすのは格好悪い。クールダウンを自分に言い聞かせ続けた。案外、必死に。

「福広さん。その……仏田の女が、この高校の近くに居たってどういうことっすか。なんでここに居たんですか。……そもそも誰の子ですか」
「ははぁ、それがぁ、結構立て込んだ話でぇ」

 昼食を終えた福広さんは、清掃用具の入った大鞄からノートとペンを取り出す。何でも持ってるな、この人。立て込んだ話ということで判りやすく図解で説明してくれるようだった。
 ふわふわにやにや笑いながら、紙にガリガリと模様を書き始める。何かの魔法陣と思いきや、書いたのは単なる家系図だった。

「現在の仏田家当主様は光緑様ぁ。次期当主は光緑様のご長男・燈雅様ぁ。燈雅様の従兄弟にウマがいるぅ」
「はい」

 俺の周囲の人間達の名前がざっと書かれる。
 十人ぐらいの名前が羅列された。比較的年の近くて知っている名前もあれば、あんまり交流が無くて顔と名前が一致しない親戚もいた。

「光緑様のお父様は和光様ぁ。前当主様のことだねぇ。和光様の奥方様のお名前は泉美(いずみ)様ぁ」
「……そんな名前なんだ」
「ウマは知らなくても無理ないよぉ。ウマのお父さんが生まれてすぐ死んだ女性だしぃ」
「…………」
「和光様は当時の仏田にしては珍しく一人の女性に三人のお子様を授からせたぁ。これって仏田的にはスッゴイ稀なケースよぉ? まぁこれにも色んな理由があるんだけどねぇ。清子様が一生懸命泉美様を……」
「話、脱線しないように気を付けてくださいね」
「おっとぉ、ご指摘さんきゅぅ。……仏田は三人まで後継者作りをするよねぇ。出来れば女の子が欲しいけど男の子を三人までキープさせておくでしょぉ? その規則通り和光様は泉美様を使って光緑様と藤春様と柳翠様を作ったぁ。ここまでおっけぃ?」

 生んだ、から、作ったに表現が変わっている。その方が説明しやすいから使っているんだろうけど、自分の親達の人間性を蔑ろにされているようで、あんまり良い気分では無かった。
 俺ってそんなに感情的なタイプだったかな。

「もぅズバッと言っちゃおう! ……簡単な話さぁ、実はぁ、『和光様のお子様は三人じゃなかった』んだよぉ」

 突然、福広さんはノートに書き込んだ『和光』という名前から、矢印を引き、その先に新しく『♀』のマークを描いた。

「ぶっちゃけ仏田の男はみんな三人以上子を作ってるよねぇ。でも三人以外はぁ、みーんな潰して殺しちゃってるぅ。いらない無能な赤子は名前も与えられる前にすり潰して食べ……ってごめんごめん、今のは忘れてぇ」
「今のミスは、わざとですか。福広さん」
「へっへへぇ、清く正しく生きる直系のウマは知らなくても良い世界さぁ。お忘れ給えぇ」

 にやぁり。嫌な笑みをわざとらしく浮かべるところが、この人の性格の悪さを物語っていた。
 それでも真実を、何気ない形で無知な俺に教えようとしてくれる辺り、感謝しなきゃいけないんだけど。

「原則ぅ、『後継者に選ぶ男子は三人まで』ぇ。……でもねぇ、和光様は何をトチ狂ったかぁ、四人目の男子を生き残らせたのぉ!」
「……四人目の男子。隠し子ですか……」
「いやぁ、それがまた複雑でぇ! ……その子ぉ、ホントは一人目なのぉ」
「え?」

 ノートに書かれた光緑様の名前の隣に、ある数字を書き込み始める。
 『S28.1.31.』。一瞬何の記号かと思ったが、そう不思議な言語ではない。『光緑様が昭和28年1月31日生まれ』という意味だった。
 そして、和光様から派生した『♀』の下にも線を引く。光緑様の名前と平行して同じライン、隣に、『♂』と描かれた。その記号の隣に同じように数字を……『S27.10.4.』と書く。
 昭和27年10月4日。
 でもって光緑様は、昭和28年生まれ。

「これは……」

 ……確かにこれは、『一人目の男子』だった。

「知ってると思うけどぉ、多くの魔術師の家系では一子相伝の刻印継承を行っているよねぇ。大抵偉いお家は一番上の子供にしか家の力は継承されないものだよねぇ。我が家は三人までに継承とか言ってるけどぉ、実際のところ長男が一番強い期待をされてるよねぇ? 和光様の長男である光緑様が継ぎぃ、次期当主だってぇ……いくら新座様の方が才能があったとしても燈雅様の名が退くことはなぁい」
「あ、うん」
「それぐらい早く生まれるってコトは重要なのさぁ。……ねぇ、この『一人目の男子』さぁ、隠されていなかったら今頃、当主様になっていただろうねぇ」
「うん。でも、その……言い方は悪いと思うけど、なんで『記念すべき第一子』が隠し子なんだ? 後に生まれた方を正当とした理由って何だ……?」
「それは和光様に訊いてみなきゃ判らないなぁ。でもねぇ……」

 福広さんはペンで、和光様から派生した『♀』のマークをつついた。

「正妻の泉美様はぁ、実は無名の能力者の出だったのよぉ。確かに優秀だから后に選ばれたんだろうけどぉ、正妻に選ばれた本当の理由は『清子様が改造しやすい子宮だったから』らしいよぉ」
「は……? 改造しやすい、シキュウ……?」
「ふふふぅ、衝撃的事実が並びすぎるとウマがヒートエンドしちゃいそうだねぇ! でもそういうことなんだよねぇ。とっても優秀な光緑様と藤春様と柳翠様を作るために清子様は、母親として選ぶ条件に『血』よりも『母胎の改造しやすさ』を選んだのさぁ。清子様は冷酷なぐらい才能豊かな研究者だったから人体の改造なんてお手のものだったのさぁ!」

 じゃじゃーん、と効果音が付くような喋りをする。
 どこまでが福広さんのオーバーな物言いなのか、判断がつかなくなってきた。あれ、これは本当に、福広さんが大袈裟に言っているだけなんだろうか?

「一方こちらの『♀』。……実を言いますとぉ、かつて仏田寺にいらっしゃった女中さんなんだよぉ。血を分けた正統な仏田一族の女の人ぉ、しかもねぇ……血を入れ替えて我が家に染まったってだけじゃなくぅ、和光様のご親戚に当たる人だってさぁ」
「えっ。近親者ってこと……?」
「と言っても遠いだろうねぇ。実はこの『♀』はぁ、清子様の従姉妹でもあったぁ。遠縁でも仏田の女が優秀なのは清子様で実証済みだろぉ? この女中は仏田寺に住み込みで働いていたけど、寺を離れたのは昭和27年の春。第一子と光緑様が生まれる前ぇ。訳あって寺を離れたのさぁ」
「訳……?」
「ご家庭の事情だってさぁ。『遠方に住む年老いた父が余命宣告を受けたから』っていう全うな理由での退職ぅ。機密保持の契約さえすれば寺を出たってお咎めないからねぇ。さてぇ……『無名の女性が生んだ公の三人』と、『高名な女性が生んだ第一子の隠し子』、一体どっちの方が偉いんだろうねぇ?」
「……え……」

 たとえ無名は無名でも、泉美様は仏田の名のもとに三人の子を生んだ。
 その一人は現当主として寺の歴史に名を残している。存在を隠され、名前も知られていない男子よりずっと光緑様の方が偉いとされるだろう。
 ……何が基準で偉いなのかは、必死に考えている俺でも判断つかないが。

「じゃぁ、極めつけのラストねぇ」

 福広さんは、『S27.10.4.』と書いた『♂』の上にペンを乗せる。
 そこから矢印を、次期当主である燈雅様と平行ラインにまで伸ばした。そうして……大きく、『♀』を書き込む。

「高名な女中が生んだ隠し子の第一子は、女児を生んだぁ。おぎゃぁ」
「…………」

 福広さんは何度も『♀』の字を書いた。
 二重、三重に、滲むインクでその意味を強調させるために。

「隠し子がぁ、女の子を生んだぁ。なんで今の今まで大山さん達、しっかり者の『本部』が気付かなかったのかぁ。……その隠し子の存在はぁ、和光様も把握してなかったからだねぇ」
「……なのにどうして女の子がいるって判ったの? わざわざ和光様の隠し子がいるかどうか捜査したの?」
「うんにゃー」

 ふらふら福広さんは首を振る。
 なんだかサンドイッチの後の長話は口の中の水分を持っていかれて苦しそうにも見えた。多分気のせい。無視をする。

「和光様は最終的に清子様と共同作業で泉美様を使ってぇ、三人の男子を作ったぁ。けどぉ、それ以前から女性関係は幾つかあったらしいんだよねぇ。準備体操っていうかぶっつけ本番もアレだしぃ、他の女性でセックスの練習してたんじゃないかなぁ?」
「…………」
「真実は判らないけどぉ。……でぇ、その練習のお相手がこの女中さんだったんじゃないかなぁ。寺に住み込みで働いていた女中さんは『親の不幸』という正当な理由で寺を何の後腐れも無く丁寧に去ったぁ。一切怪しいところもなくぅ、機密は守るだ今後も応援するだの契約をしっかり守ってぇ、晴れて寺から去っていったぁ。しっかりと模範生をやったから後ろめたいものを隠して逃げたようにも思えなかったんだろうなぁ」
「……実際は当主様の子を身篭っていたのに、誰もそのことに気付かないで寺から出て行った……?」
「ほらぁ、今ならインプラントで何処に誰がとか判るけどさぁ、当時は『機関』なんて無いから完全に子供の事を把握なんてできないしぃ。そもそも『機関』を作った狭山様もまだ赤ちゃんの頃だしぃ……」
「なんすか、テンプラとかキンカンとかって」
「おおっとぉ!」

 またまたわざとらしく笑いながら口を閉じる。
 この人……俺にツッコんでほしくて怪しげなワードを言っているのかな。

「話を戻そうかぁ。……隠し子の男子は仏田の『本部』に知られることなく生まれ育ったぁ。そうして十数年後、その男子は恋をして女児を産むぅ。これも『本部』の知らない間にねぇ。遠くの町の病院で子供が産まれたっておめでたいって新聞に載るだけでそれだけだからねぇ。自分の家のことしか考えていない仏田にとって他人のおめでたはどうでもいいことだしぃ」
「はあ」
「ところがどっこいぃ。女児は紛れもなく神だったぁ。ウマも何度も聞いてると思うけど『仏田の血は女であれば継ぐだけで異彩を放つ』ものぉ。生まれつき高い魔を持った強烈な血は成長するたびに濃くなりぃ……」

 ――ついには、周囲の異端を大量に呼び寄せる迄の存在になった。
 とある町の一角。そこにごく普通に産まれた女児は、異端達好みの香りを無意識に放ち、それに引き寄せられた悪者達が群がり……周囲にあった元気な子供達の楽園にも顔を出すようになった……?

「いくらここが風水や歴史的に悪い場所だからってぇ、ウマが半年以上毎日のように退治しているのに沸いてくるのはおかしいって『本部』では話題になったんだよぉ。ウマは頑張っているけど一向にこの学校・この町の平和にならないぃ。何かしら別の理由がある筈だぁ。……そうして『本部』が調査に動き出したぁ」
「そしたら……発見しちゃったんですか、女の子を」
「うんうん、相当頑張って調べたらしいよぉ。学校内で怪しいものがないか何度も調査してぇ。学校が無かったらこの町中の怪しいものを探してぇ」
「…………」
「そうして能力者の女の子を見付けたぁ。でもさぁ、その子を取り押さえる訳にもいかないだろぉ? だってその子は何も悪さをしてない訳なんだからぁ」
「……確かに。勝手に霊達に纏わりつかれてる被害者ですもんね」
「でもその子を追って異端が暴れてるんだからぁ、その子をなんとかしない限り大量発生を止められないぃ。だからぁ、次にその子自身が何なのか調べてみたぁ。すーるーとぉー……」

 ――その子の祖母が、仏田出身ということが発覚。
 発見してしまった。

「これも度重なる調査と、調査という名目の尋問のぉ……おっとっとぉ、失礼ぃ」
「尋問って言葉自体は隠すほどじゃないでしょ」
「そおぉ? どこまでが危険ボーダーラインなのか判んないやぁ。あっははぁ。……まぁ、ちょっと頑張って鶴瀬さんがその子の親に口を割らせたみたいだよぉ。鶴瀬っていうのは『本部』のルーキーなんだけどねぇ。ウマは会ったことないかなぁ?」

 ええ……と頷こうとして、昨日というか今朝まで会っていた人じゃないかと気付く。
 あの人、そこまで深い調査をしていたんじゃこの辺りのことなんて手に取るように判るんじゃないか。……すぐに俺を助けに来たのもそれか? いや、それは流石に結びすぎか。

「なんか話、長くなっちゃったねぇ。ウマがこの山奥で頑張っていた理由、判ったぁ?」

 ほんわかと、それでも重すぎる話を聞かされてしまった。大人しく頷くしかない。

「ウマが必死になって毎日幽霊を回収してくれなきゃ、ここの異常には気付かなかったんだよぉ。でもってぇ、実は仏田にも女の子が産まれてたって事実さえ隠されたままになっていたぁ。これってつまりぃ、ウマのおかげで仏田に女児誕生! というか参上! よくやったねぇー」

 よしよしぃ、とおもむろに頭を撫でようとする手を避けた。
 綺麗なサンドイッチとはいえ、飯を食った手そのままで髪の毛に触れてほしくなかったからだ。

「……よくやったね、って。……参上って……」
「んうぅ?」

 福広さんが書いたノートを見る。
 話に出た名前は光緑様や和光様、それと第一子と女児ぐらい。だから俺や新座さん、あさかにみずほ、ときわさんや俺の弟達の名前まで書かなくても良かった筈だ。
 同じ平行ラインに、でっかく強調された『♀』がいる。隣にある燈雅様の名も霞むほど、強烈な印象を与える『♀』のマーク。
 ぽっと出の『♀』。
 神と同意語の女子。

「…………どうなるんですか、この子」
「どうなるってぇ?」
「……この子がこの町に居たから、この町に霊が溢れてたんでしょ? 俺がいくつか倒してもわんさか沸いて……この子をどうにかしなきゃ大量発生は止まらないって言ったじゃないですか」
「言ったねぇ」
「この子をどうすれば、その異常現象は止まるんですか」
「この町から居なくなればいいんじゃないかなぁ?」

 あっけらかん。いつもの福広さんのアホな声色のまま、そう言っちゃった。
 俺でも思いつく解決法を。

「居なくなりゃぁ、ここの異常現象は収まるよねぇ。この子が悪さをして異端を呼び寄せたんじゃなくぅ、この子に流れる美味しい血を求めて異端がやって来たんだものぉ。血を全部抜き取る以外解決法は無いよぉ。力の暴走で引き起こしたケースなら能力の扱い方を教えてあげたりできるけどぉ、彼女の身体自体が引き起こす運命的事象だしぃ……」
「それって……あんまりじゃ」
「そこは安心してぇ、ウマぁ」

 にんまぁり。福広さんは笑う。
 さっきからこの人が笑うときは、どうしようもない不条理だから不気味で堪らない。

「仏田の神様なんだからぁ、仏田の地に居るべきなんだよぉ! あの山に居ればいくら異端が群がったって結界に入って来られないしぃ、周囲に悪いのが来てくれたら俺達が美味しく回収できるぅ。……町の被害も無くなるぅ、彼女も居るべき場所に戻るぅ、やって来た異端は俺達の中ぁ。ほらぁ、最高じゃないぃ?」
「……あ……」
「それに心配する必要は無いよぉ。もう既に彼女とは説得済みらしいからぁ。近々仏田寺にいらっしゃるそうだよぉ」

 ついに寺に女の神が訪れる。幽霊ばかりの学校のいる町も問題が消える。餌が俺達の元にやって来る。
 ……ああ、なるほど。確かに問題無い最高のプランだ。

「ウマももう暫くこの学校で後処理を頑張ってもらうだろうけどぉ、年明けたら暇になると思うよぉ。元凶となっていた女の子が居なくなりゃぁ、異端の数も減っていくだろうしねぇ。そしたらごく普通のスクールライフに戻るさぁ」
「……そっか」
「この学校が気に入ったなら卒業までここで頑張るのもいいしぃ、嫌なら元居た高校に戻るよう『本部』に掛け合ってみるのもいいんじゃないかなぁ? 多分これ以上酷くなることはないだろうからぁ、今までよりは戻りやすいだろうよぉ」

 年が明けてから話してみるといい。そう俺に、今後の生活について明るく過ごすよう勧めてくれる福広さん。
 今まで戻りたくても動かすことができなかった『本部』の動きも柔くなるだろう。それは喜ばしい話でもあった。

 ……でも。
 『元凶を消したから解決』。その終わらせ方を聞いた途端、俺の胸に変な痼りができた。
 ノートに大きく書かれた『♀』を、じっと見てしまう。
 この子は、何を、どんな風に言われたんだろうか。

 ――貴女の父親は隠し子です。……もしかしたらこれは既に知ってることか?
 ――貴女が原因で町中に怨霊が集まっています。退治しても退治しても沸いてくるんです。貴女が居るからなんです。こればっかりはどうしようもありません。
 ――貴女が悪いんです。貴女が凄い人だから。改善しようがありません。貴女がいるからこの町は平和にならないんです。
 ――貴女が居なくなってもらうしか、この町を平和にする方法はないんです。
 ――貴女は、山奥のお寺に隔離されるべきなんです。

 『本部』がどう言って彼女に事実を知らせ、ここから離れるようにさせたのか。そんなの判らない。もっと優しい言い方だったか、単刀直入だったのか、事実を伏せられたのかどうなのか。
 でも、何を言われたって……住んでいた所から引き離されるって、悲しいことだ。
 俺も伯父さんの家で過ごしていたのに、『血の役割を果たせ』とかで転校させられた。
 仕方ないと諦めて従った。でも悲しかった。切なかった。我慢できたけど、正直つらかった。
 彼女は、『自分の血がこんなんじゃ仕方ない』と諦めて従えたのか。
 山の奥の研究所なんて変な所に住んでいない彼女が、諦めて従えるものなのか。

「……ああ、従えちゃうか。『貴女がこの町に居る限り平和が訪れないんです』なんて言われちゃったら……」

 福広さんの描く『♀』がどんな人なのか知らない。
 名前も書かれていない。年だって判らない。燈雅様と同じだったら三十路過ぎ、尋夢と同じだったら中学生か。
 大人なのか子供なのかも判らないけど、その子のことが『可哀想』だと、声に出して呟いちゃうぐらい思ってしまった。



 ――2005年12月18日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /2

 車に揺られて数時間。心地良い座席の揺れのせいで、意識を簡単に手放してしまった。
 車内で寝ることがこんなに気持ち良いだなんて知らなかった。乗ったことがある車なんて一般家庭が買える小さなものだし、あんまり旅行に連れて行かない自営業な親を持ったせいで車で遠方に向かうことも無かった。
 リムジンのソファに座って山を一つ越える。こんな経験、十何年の人生の中で初めてだった。

「目が覚めたかい」

 落ち着いた声の男声が、意識をより鮮明なものにしてくる。
 目を擦り、姿勢を正した。目の前の端整な着物に身を包む男性は、出会ったときと同じ格好のまま、こちらを見て微笑んでいた。
 車の中だというのに電車のボックス席のように向かい合って座っている。高級車は席が前を向いているという常識を覆すものらしい。あ、向かい合って座ってたってことは、うたた寝の表情も全部見られていたってことじゃないか。恥ずかしい。

「長旅だもの、寝てしまっても仕方ない。かく言う俺も眠気を堪えるのに必死だった」

 ふふっと静かに笑う燈雅さんの表情、仕草、綺麗なお着物を真正面から見て……住んでいる世界が違う人だなと思った。
 凄く綺麗な男の人だ。人を表現する言葉は沢山あるけど、綺麗という言葉が一番あっている。
 白い肌とか柔らかい動きとか……男性でこんなに綺麗って言葉が似合うんだから、もし女性だったら。ううん、男性に使っちゃいけない言葉でもなんでもないけど。

「君は綺麗な目をしているね」

 突然言われ、ドキッとした。
 心の中で彼のことをキレイキレイと連呼していただけに、自分が綺麗と言われて「心を読まれた」と思ってしまった。
 そんなことなんてありえない。この人はナチュラルに口説きにきただけだ。「口説く」なんて俗語を知らなそうな顔で。

「両目とも、綺麗な色だ。宝石みたいにきらきらして見える。学校でも人気者だっただろう? 綺麗な目で羨ましいって言われてたんじゃないかな」

 いくら思い返しても、言われた覚えはない。
 何かの本で「お互いの外見を褒め合う習慣を覚えるのは思春期から」と読んだ。自分とその周りは思春期を迎えていないので、首を振るしかない。
 まるで謙遜したかのように、お淑やかなお嬢様のように、少しでもそう見えるように。

「もう少し休んでいるといい。寺に着いたら難しい話をいっぱい聞かせることになる。休憩は挟ませるけど、大勢の人に沢山話し掛けられるだろう。今のうちにいっぱい休んでおくんだ」

 すんなりと爽やかな気遣い。「本物のお淑やかとはこういうことを言うのだ」と、わざわざ見せつけてきたかのようだった。
 そんな気なんて燈雅さんは無いだろうけど、ついついそう考えてしまう。少し曲がった見方をしてしまうのは、こちらの悪い癖だった。

「……眠れないなら。一つ、お話をしてあげようか」

 ちなみに、車内には静かなBGMがかかっている。ちょっとお高いレストランでかかっていそうな、耳触りじゃないクラシックだった。
 静かな音量の中に、深い声が漂う。心地良い声にまた眠ってしまいそうになるけど、気遣いを無碍には出来ない。すかさず頷いた。

「……昔々。怪我を治したり病気で苦しむ人々を助けるお医者さんがいた」

 昔話? それは楽しくて語る話なのか、笑い話なのか。
 しっとりとした声でスタートする物語は、どちらにも受け取れた。

「お医者さんは、代々お医者さんのお家だった。父親が持っていた知識を引き継ぎ、お医者さんをしていた。昔はどんな人でもお父さんの仕事を繋ぐものだったからね。医者の家だったお医者さんは、生まれたときからとても裕福だった。『裕福な自分には意味がある。人一倍恵まれているんだから、恵まれない人に尽くして生きるべきだ。自分の幸福を他者に分け与えよう』と考え、苦しむ人々を助け続けてきた」

 どうやら立派な聖人の話を聞かせたいらしい。お金持ちのお家の誰かのことについて語っていく。

「1000年以上前からお医者さんや薬屋さんはいたけど、命に関わる特殊な力を持つ者は、なかなか下の人間と触れ合うことはなかった。現代のように誰でもお医者さんから恩恵を受けることが出来なかった。今よりもずっと苦しかった世界。物だって楽に調達出来ない世で、『自分は恵まれているんだから誰だって治してあげよう』なんて考える人が……異端だってことは想像に容易いね」

 無償で治療してあげても成り立っていけるだけの財力があったってことか。
 人として立派とかいうのよりも、お家が立派過ぎたんだってことに脳が向いてしまう。そこにコメントはしないけど。

「お医者さんは、人を救うことが自分の運命だと信じ、多くの人を救ってきた。優しく何でも治してくれるお医者さんはみんなに好かれ、尊敬された。めでたしめでたし……とはいかない」

 そこで終わったら「素晴らしい人がいたんだよ」という一言だけで収まる。昔話として語るまでもない。
 話をし始めたんだから、起から承転結に持っていってもらわないと。言葉を待つ。

「みんなに好かれ、尊敬され、頼られていたお医者さんは、ある場所に呼ばれることになった。そこは原因不明の病により人が人として生きられず、飢饉に喘ぎ、貧困で潰れかけた……お役所の手に届きすらしない見捨てられた地獄。誰もが心から救いを求める地方だった」

 リムジンがガタンといきなり揺れる。
 揺れるといっても高級で乗り心地の良い車にとっては、些細なダメージだった。外をふっと見てみると、斜面になっていた。どうやら山に近くなってきたらしい。

「お医者さんは今までの功績から、『貴方ならここの人々を救えるでしょう』と期待されて呼ばれたんだ。……確かにお医者さんは素晴らしい偉業を持っていた。でもそれは、救えるから救えたに過ぎない。そして地獄は、お医者さんの力を持ってしても救えないものだった。ああ、救える訳無い状況だった」

 残念なことに、と。まるで見てきたのような口ぶりで言う。
 話し方からして数百年前、江戸時代とかその辺りを想像していたんだけど、いつの話だろう。

「お医者さんの持っている知識では、地獄で苦しむ人々の病を治せなかった。その時代では、まだ治療方法が確立されてない病だったんだ。発症したら死ぬしかないし、どうしたら治せるどころか防ぐ方法も判らなかった。そのお医者さんだけじゃなく、その時代の医学に精通した人でも、きっと誰にも救えなかっただろう。皆に期待されたお医者さんでも、知らない世界だったんだ」

 悲しそうに話しているので、自然と自分も悲しい気分になってくる。
 燈雅さんは話し家に向いているのかもしれない。いや、単に着物を着ているからテレビで見た落語家のように見えるのもあるか。

「子は父に、その父も父から受け継いできた膨大の量な知恵を持っていたお医者さんが、初めて抱いた絶望だった。知ってることが少ない人だったら、『知らないんだから救えなくても仕方ない』って思えただろう。でも……そのお医者さんはあまりに優秀で、なんでも解決できちゃってたから、初めて直面した地獄に大きなショックを受けた。いつか受けるだろうショックを、悪い形で見てしまったんだ。『貴方なら救えます』とみんなに期待されて、『自分なら救える』と自信を持って行ったのに、その地獄に住む人間を誰一人救えず……お医者さんは無知に苦しんだ」

 あまりに大袈裟に言ってるけど……それって、どんな形であれ生きていればいつかは到達した問題じゃないか。
 何もかも全て知っている人間なんて、居ないんだから。

「お医者さんはショックを受けたけど、その後も頑張った。救われない地方を救おうと、必死に勉強して努力して技術を身に付け、後々自分の子供に引き継ぐためにも必死で知恵を身に付けようとした。良い話だろう。…………そんなある日お医者さんは、ある噂話を聞く」

 おっと、悲しい話から一気に場面転換。転結に向かっているのかもしれない。

「『とある山、森奥深くに、老いることのない女性が住んでいる』という話だった。村の老人達が子供に語るような話だったが、大抵そういった話には伝わる元になった逸話があるもの。お医者さんは考えた。『きっと人里離れた山に、里に馴染めなかった女がいるんだろう。母になり娘がまた育ち代替わりしても、女の事情を知らぬ人間には化け物に見えてしまうんだろう』……と」

 村や里というちょっと古風な単語の羅列に、やっぱり舞台は江戸時代とか何百年も前の話なのかなと考え直す。

「そしてお医者さんは山を目指す。何故なら……その山というのが、お医者さんの見た地獄の近くにあったんだ。里から離れても無事に暮らしていて、代替わりするぐらい長くそこに居続けられるってことは、その家族は病にかかってないってことじゃないか? 地獄に有って彼女達に無いものが何か調べるために、お医者さんは山奥に入っていった。……お医者さんは数日歩き続け、山の頂上近く、ある女性と出会う。その女性は、神様だった」

 …………。そこでいきなり、超越的存在の登場?
 おっと、露骨に変な顔をしてしまった。一気にお伽噺っぽくなったもんだから。
 そうだ、最初から暇潰しに聞かせる用のシナリオだった。絵本の読み聞かせのように「ふーん」と聞くのが正しいスタンスだったっけ。

「女神様はお医者さんに、『神様の世界から下りてきた。人の暮らしをし始めまだそれほど経っていない』と語った。それでも数十年という月日、老いることなく美しい姿で暮らしていたという。『人を避けることをしてなかったから見付かってもおかしくない』と、お医者さんにフレンドリーに話し掛けてくれた」

 村人の話は何の変貌してない、そのままの事実を語っていたらしい。
 ノンフィクションかと思ったけど、なんか流れ的に変なテンションになってきた。

「意を決して、お医者さんは尋ねた」

 ――神様と言うなら、神様っぽいことが出来るんですか?

「そして神様は答えた」

 ――神様だから何でも出来るし、何でも知っている。何でも決めることが出来る。

「……試しにお医者さんは、お医者さん自身のことを尋ねてみた。自分の名前は何か、自分は如何なる人間か、どうしてここに来たか答えられるかと。すると神様は旧知の仲のように、お医者さんの名前を、お医者さんであることを、お医者さんの使命を言い当てた」

 でも、それだけじゃお医者さんは満足しないだろう。展開的に。

「『何でも知っていて何でも出来るなら、あの地獄の救助方法を教えてください』。お医者さんは無理と承知で神様に尋ねてみた。すると神様は……サイコロを取り出した。占いに使われるサイコロを。神様は六つ、順番に植物の名前を列挙する。神様はサイコロを転がした。出た目の植物の名を挙げた。次に分量を、またサイコロを転がして決めた。それらを調合して薬にしろとお医者さんに告げた」

 そして。

「神様に言われた通りに薬を作ると、お医者さんは……地獄を救うことができた」

 …………。

「占い師ってものは、心を学んだ医者。知っている知識を隠しつつ、相手を惑わし癒す者達。占い師はお医者さんと同じお医者さんだから、薬学に長けていてもおかしくない。そう考え、お医者さんは『彼女が決めた薬によって地獄が救われた』なんて信じなかった。『彼女は地獄を救う薬の調合の仕方を知っていたんだ』としか思わなかった。……だが彼女と長く付き合うにつれて、その意識を変えることになる」

 ………………。

「お医者さんの私物が盗まれたとき、神様に犯人は判らないか尋ねてみた。神様は呆気無く犯人を言い当てた。犯人は神様と一度も会ったことないのに。どうして判ったんだと訊くと、判るものは判る、様々な事象を取り決めている『世界の裏側』を見ることが許されている者が『神』だから、と答えられた」

 ……………………。

「そのようなことが十度、百度と重なっていった。お医者さんはその女性を、神様だと認めるしかなかった。…………男衾、喉が渇いたよ」

 いきなり別の人の名前が入ってきた。
 燈雅さんは運転席に声を掛ける。すると、男衾と呼ばれた男性が端的に水の在処を口にした。燈雅さんが動かなくて済む、本当にすぐ傍にお茶があった。

「ああ、気付かなかった。無いと思っていたのにこんなすぐ傍に。……言われなきゃこんな近くにあることすら気付けない。知覚するって案外難しいことだね」

 なんて話とリンクさせた雑談を入れつつ、お茶を喉へ流した。

「えっと、それから……。お医者さんは、多くの人を救った。救えなかった人々を、今度は『救うすべを全て知ってる神様』が隣に居てくれたから、全員救えるようになった。救えない人間はいなかった。お医者さんはいつしか、多くの人達から『神様』って呼ばれるぐらい、凄い人になっていた。誰でも救いたいという博愛の心があって、救い続けようと向上する意思があって、知る手段を手にしたお医者さんは……自分の運命を全うするかのように、人々を救い続けた」

 そろそろハッピーエンドに向かっている、そんなような話しぶりだった。
 だが。

「お医者さんが自分が満足するだけ運命を全うし、地位も名誉も信頼も人々からの愛も全て手に入れたとき。全てを与えてくれた頼もしい神様は、倒れた」

 また、話は悲しく傾いていく。

「……なんと神様は、何かをお医者さんに教えるたびに自分の命を削っていたんだ。病を救う植物を決めるのに一年、その分量を決めるのに一年と、自分の寿命を減らしていったという。彼女は『命を減らすことで世界を弄る』という、魔法を操れる人だったんだ。……実はね、何気なく我々が使っている『神』って言葉、色んな由来があるけど、その中の一つが……『カミ』という種族からきている」

 ……カミ?
 思わず、オウム返しで尋ねてしまう。

「知らなくても仕方ない。今の日本語では『神』という言葉だけが生き残ってしまったからね。……『カミ』。命を自在に減らすことで自然や道理を動かす、人ではない種族。個数はとても少なく、尋常ではない魔力を持って生まれた『世界遣い』達のことを指す言葉。そこから神様って言葉が生まれたんじゃないかっていう説があるぐらいなんだ」

 知らなかった。山奥に住んでいた神様は、力を行使すればなんでも世界を変えることが出来てしまう『カミ様』だった。
 まさかのお話。

「その女性は、老いるという現象すら自分の力で捻じ曲げていた。だからずっと美しいままでいたという。山奥でひっそり住んでいたのは、自分のようなカミは人間と共存できないという……悲しい実体験に基づいた結果だった。きっと迫害されて逃げてきたとかなんだろうね。でも道理を弄れるカミは、迫害の事実も迫害する人の心さえ変えることができる。……彼女は人の心を変えることは悪とみなし、隠れて過ごすことを選び、山の奥で暮らしていた」

 迫害された者特有の、切ないお話。

「人間と関わらぬ時間は何年だったか。けど、何百年と言ってる時点で察することは出来るね。……そんな長い時の中、彼女は久々に出会った人間のお医者さんに、気紛れに力を行使した。特効薬の『存在』を作ってあげると……お医者さんは彼女の下に戻って来て、何度も礼を言った」

 ――何度も頭を下げて、ありがとうの感謝の言葉を並べて、笑顔で。
 ――これで何人もの人々を救える! ……笑って、泣いて、やっぱり笑って喜んだという。

「お医者さんのその晴れやかな笑顔に……。ふふっ。彼女は、惹かれてしまったらしく。お医者さんのために色んなことを決めたり、教えたりした」

 ここでラブロマンス。
 お医者さんは男で、神様は女だった。長い時間の中、男女が居るお話なんだから……恋が生じることは、何もおかしなものではない。
 惹かれる相手のために尽くす。自分の寿命を削って、色んな力をお医者さんに与え続ける。
 そして彼女は力を使い果たし、倒れた。カミという者達もこの世界に生きる種族だから、死も当然訪れるものだった。
 
「これが最期だと悟った彼女は、神様の種明かしをした。自分は知っていたから教えたのではない。知ることができて、尚且つ、決めることもできたから教えたんだ。自分は貴方とは違う存在なんだと告白し、全てを打ち明けてスッキリして彼女は天に昇ろうとした。……だけど、お医者さんはそれを許さなかった」

 一人でスッキリして終わらせるなんて、身勝手だ。
 そう思ったのは自分だけじゃなかった。良かった、お医者さんも同意見だった。

「彼女と同じように、お医者さんも彼女に惹かれていた。綺麗で、何でも知っていて、自分に尽くしてくれる女性だったんだ。嫌う理由なんて無かった。好きになるしかなかった。お医者さんは、自分の持つ全ての知恵を動員し、死に逝く彼女を救おうとした。でも……病でも怪我でもない、寿命で倒れゆく彼女を救うことは出来なかった。そして彼は問う」

 ――君が死なない方法を教えてくれ。

「死期間近の彼女は、そんな馬鹿げた質問に」

 ――そんなものはない。自分は生きているんだからいつか死ぬ、それは人間である貴方と同じだ。……たとえ今までが人間と違っていても、それだけは嬉しいことに、お揃いなんだ。
 そう、ハッキリと答えた。

「死が二人の男女を分かつ。悲しい話だね。……でもお医者さんは、すっかり神様に心を奪われて虜になっている。神様を手放したくなかった。悩みに悩んで、でもどうしようもなくて。もう無い彼女の寿命を更に減らす問いを繰り出してしまう」

 ――また君に会いたい。どうすればまた……生まれてきてくれる?

「このとき、彼女は意地悪をした。彼女の決定は世界の決定。どんなことでも彼女は決められる。だから簡単な転生の仕方にすれば、すぐにお医者さんと再会できた。でも、彼女はわざと難しい方法にした。何故かは語られてないからあくまで俺の想像だけど……彼女は、生まれ代わりたくなかったんじゃないかな? だって自分の生の辛さを実体験済みなんだから。でもあまりにお医者さんが教えろと言ってくるから……決めちゃったんだろうね。彼が達成しないような答えを、最期の力で、言っちゃったんだろうね……」



 ――2005年12月18日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /3

 眠気がどっか行ってしまったのか。目の前の彼女はわくわくした目でこちらを見ている。
 最初は眠たそうだった目を覚ましてあげようと思ったが、まさかこんなに昔話に夢中になるだなんて。十歳ぐらいの女の子と話がこんなので良いかな、と不安だったけど問題無かった。彼女は俺に比較的好意を抱いてくれるみたいだし、心配する必要は無かったみたいだ。

「イジワルって……なーに? なんなの?」

 俺が先を少しでも出し渋ると、彼女は続きを早く言えと急かしてくる。その反応が可愛らしくて、ついつい言わないようにしてしまう。ホントの意地悪は俺かもしれない。
 この反応……小さい頃の新座みたいだ。いや、新座は今でもこんな感じだけどさ。ああ、十歳前後の女の子と同列の新座か。いくらなんでも問題かもしれないな。

「神様は、サイコロを振って……メチャクチャな数を決めたんだ。その数、四十六億」
「よんじゅー、ろくおく……の?」
「魂。何事にも復活の儀には贄が必要だ。『神様を蘇らせるには四十六億の魂を捧げよ』、そういうルールを創って、彼女は死んだ。お医者さんが人間を救いたくて仕方ない性格だって知ってそう決めたんだよ。意地悪な神様だね」

 大勢の人を救うために頑張っていたお医者さんが、四十六億もの人を犠牲にしてまで贄の儀式を行なう訳が無い。
 もしその儀式を行えば、神様はお医者さんのことを絶対に嫌いになる。好きな人から嫌われることなんて率先的にする人なんていない。そう思ってメチャクチャな内容にした。
 生き返りたくない。でも慕ってくれるお医者さんの熱望に答えてやりたい。そんな彼女が決定したことが、べら棒な数字と絶対できないことを併せた手段だった。

 ――来世を考えてくれるぐらい、私を愛してくれて、ありがとう――。

 そう最期に言い残し、神様はこの世を去る彼女だったが。

「ところがお医者さんは……神様の意思に反し、その儀式をしてしまうんだよ」
「ひどいの!」
「酷くないよ。お医者さんは四十六億の人間を犠牲になんてしなかった。彼は生涯最期まで、誰からにでも尊敬される聖人だった。……神様が死ぬ間際に決めた贄の儀式、死ぬ瞬間に咄嗟に作ったもんだから、詳細が決められてなかったんだよ」
「あっ」
「『四十六億の魂を捧げよ』ってだけで、『人間の魂を』ではない。そもそも神様は人間ですらない。人間に限る必要なんて無い。だからお医者さんは、彼が生涯持てただけの人脈を駆使して……大勢の狩人、法師、霊媒師に『魂集め』を頼んだ。彼らを使うだけじゃなく、自分の下に知恵を吸収し尽くして、独自の魔術を編み出し始めた」

 ただでさえ財力があった彼は、既に多くの知恵も名誉も信頼も得ている。
 その彼が大勢の人間に声を掛け、集団を作る。人も金も知恵も、多くのものが動き始め……ついには、ある結社が誕生した。

「彼女と出会った山を本拠地に、従者と共に、多くの人の力を借りて、多くの人の知恵を自らのものにして……彼は、とある一団の長となった」

 その頃。
 自分達を乗せた車が、だんだんと急な山道に入って行く。

「だけど、魂を集め続けて数十年……残念ながら四十六億の半分にも満たないうちに、お医者さんは寿命を迎えてしまう。人間だからね。お医者さんは悲しんだよ。愛しい神に会えずに動かなくなってしまうその身を。そこでお医者さんは考えた。……子は親の知恵を引き継いでいくもの。いつか自分の子達が神を蘇らせてくれるだろう。偉大なお医者さんは全ての想いを子に託し、永久の眠りについた」
「……あれ、死んじゃったの? 生まれ変わった神様に会えないまま死んじゃったのー」

 なんでそこで終わっちゃうの、と彼女は不可思議そうな顔をする。
 主人公が死んで終わり。大抵のシナリオはそうだろうが、血族のシナリオはそう簡単に終焉を迎えない。

「お医者さんは、人間としての生涯に幕を下ろした。だが世に魂を残し、存在し続けることにした」
「……えーと?」
「成仏しないで幽霊のまま、子供達が神様を生むまでみんなの後ろで待ってるって感じかな」
「ユーレイ!? こわいの。うらめしやー」
「うらめしやー、とかしないよ。……そのお医者さんは、今も、これから俺達が向かう山に居るんだ。彼は……1000年以上前から、『俺のお父さんの中に居る』」

 びくり。彼女が目を見開く。
 そんなに衝撃的だったか。あ、俺の言い方が悪かっただけか。これだと『俺のお父さんは1000年前から生きている』ように聞こえてしまうじゃないか。

「えーと、なんて説明すれば一番良いかな。お医者さんの息子は、自分の身体にお医者さんの魂を預かることにしたんだ。そしてその息子は、自分の息子にお医者さんの魂と自分の魂を預ける。そうして代々、一族の魂を身体に預けていく。言わば当主の体は始祖の魂が座る『椅子』のようなもの……」
「……? よくわかんないの」
「難しい話になってすまない。でも聞いておくれ。……お医者さんは自分の子の身体に、自分の魂……全ての情報を入れた。一つの身体に二人分の魂、これで子供は優秀だったお医者さんの知恵も、これから入る子供の知恵も持つ。とっても頭の良い一人の人間になれるんだ」
「んー……」
「『当主』と呼ばれる者達は、始祖の魂と、当主代々の魂をその身に宿していく。後に刻印による同化と譲渡の技術が確立され、直系の血族以外からも魂を身に宿すことが出来るようになった。当主の身は始祖が座る『椅子』になって、その『椅子』は始祖がより快適に座れるように、多くの魂で強化されていくようになった」

 だんだんと彼女が混乱した顔になってきた。独自の用語も一つ一つ説明を入れているつもりだったが、やはり一回では判ってもらえないか。
 我が一族の中でも、『魂を集めれば神が生まれる』と勘違いしている者もいる。そうではない。
 確かに、魂を一定の数集めれば全知全能になれる。知らないことを知っている魂で補っていけば、いつか全知全能に辿り着ける。そういうものだが……。

「四十六億の魂は、始祖の子孫の身に宿して保管することにした。……で、集めることが儀式じゃなかったよね?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。『四十六億の魂を捧げよ』。捧げる先が無いと、神様は蘇らない。儀式は完遂しない」

 四十六億の魂を使って儀式を行ない、初めて『念願の彼女』は蘇る。
 当主の身体は、魂を保管する器というだけ。始祖がそのときを待つための『椅子』なだけ。
 儀式は、無数の魂と見届ける始祖、そしてもう一つが必要不可欠。
 それは――神の生まれかわりとなる、『彼女』となるべき身体。

「君は綺麗な目だね」

 突如、話の腰を折る。
 目の前の子はキョトンとした目をした。まんまるで可愛らしい、まだ知らないことが多すぎる……無知な子供の目だった。

「そして綺麗な髪だ。ちょっとくすんでいるのは、染めたからかい?」
「ん、そーなの。だっておかしな色なんだもん。真っ黒い方がいいの。みんなと同じ真っ黒がいいの。……うまく真っ黒く染まらないけど」
「そうだね。今は残念な色になっちゃってる。ちょっとオレンジぽくなって、それはそれで綺麗だけど。元の赤い髪の方が良いな」
「でも赤色は……めんどくさいの」

 ぷう、と少しだけ不機嫌そうな顔をする。
 最近は巷でも自分の髪を染める人が多いと聞いているが、この日本という島国で黒以外の髪色は生き難いのかもしれない。その苦労を彼女は十年経験してきているんだろう。

「……俺の祖父も、真っ赤な髪で綺麗だった。でも大変そうだった。だから自分の髪があんまり好きじゃなかったらしい。今では真っ白に脱色してる。強い薬を使って無理矢理にね」
「え」
「俺の祖父、先代の当主・和光も赤い髪だったんだよ。赤い髪で赤い着物を羽織ってさ……『紅蓮』とかいう二つ名で渡り歩いてたって逸話もある。それに……目も綺麗な色だった」

 真正面。彼女の大きな瞳を見る。
 何度見ても美しい。
 祖父と同じ色だった。いや、祖父以上に……。

「紫莉ちゃんは本当に綺麗な目をしている。菫色の、綺麗な色だね」

 紫に輝く、彼女の光。両眼に灯る高貴な色。
 そして炎を操る一族に相応しい、赤い髪。
 ――彼女こそ、伝承に残る女神となるのに相応しい存在だった。



 ――2005年12月31日

 【     / Second /     /     /     】




 /4

 洋館なんて入ったことあったっけ。一度も無いとは言わないけど、わざわざ入ろうと思って来る場所じゃなかった。だから記憶は無い。
 だって洋館って寺に来たお客さんを入れる所だ。あずまおばさんと一緒に寺に泊まりに来ると、藤春伯父さんやあさかやみずほはいっしょの屋敷に寝られるのに、おばさんだけが洋館に行くように言われたのを思い出す。
 おばさんだけ除け者にするのが嫌で、あさかとみずほは母親と離れるのが寂しいので何度か洋館に泊まったことがある。
 古い和室しかない本家屋敷よりも、ホテルみたいに綺麗に整えられた洋室しかない洋館の方がいいなって話したのを思い出した。だってベッドもテーブルもアンティーク品って感じだし、部屋にはちゃんとトイレもバスルームもあるんだ。便所まで寒い廊下を歩かなきゃいけない和風の屋敷よりずっといい……。
 そんな微かな記憶しかない俺に比べたら、寺で過ごしている弟達の方が洋館に馴染みがあるだろうか。弟達は満更でもないらしく、堂々と洋館の煌びやかな廊下を駆けて行った。

「えっとえっと〜、ここをこうして〜、こうして〜、こうじゃ〜」
「おおっ!? あった! マジであったよ、兄ちゃんっ! カステラっ! いっぱい! カステラだーっ!」

 しかし……だからと言って洋館ってそう簡単に入って、食堂をあさって、飯を漁っていいところか?
 寒いから室内に入ろうという理屈は判る。だって真冬だから。12月31日だもの。でも自分の部屋に戻るんじゃなくて近場に綺麗な所があるからに入ろうというのは、単純過ぎないか。明るいから行ってみた? お前ら虫か? それに従う俺も俺だけど。
 一番に食堂へ突入した火刃里が、豪華絢爛食堂の戸棚から高級そうなカステラ、皿やナイフを次々と発見していく。お前は何回かここに来たことがあるのかと怪むぐらいにはすんなり見付かった。

「ほらほらいっぱいフォークもあるーっ! みんなで食べるよーっ! おれがバッシャー切ってやるーっ! トォーッ!」

 バッシャーって何の音だよ。
 音を立てて食器を人数分配膳していく気前の良い火刃里。がしゃんがしゃんと音を立てて皿がテーブルに並んでいく。
 その光景を(火刃里と尋夢に比べたら大人しすぎる性格の)寛太が、「いいのかなぁ、本当にいいのかなぁ……!」と心配そうに見ていた。わりと焦って忙しない。
 気持ちが判らないでもない。ホームグラウンドではないここで食事をしていいのか、そもそも戸棚にあったお菓子を勝手に食べていいものなのか。心配する気持ちは大いに判る。
 けれど火刃里と尋夢はそんな人並みの心配も構わない。カットをし始めてしまった。

「いっちばんおっきいのはおれのねーっ! 寛太はどうするっ?」
「あのあの、ええっとええっと、コレって食べていいヤツなのですかぁ?」
「まだそんなこと言ってるーっ。食べないのっ? じゃあ寛太の切らなーいっ! おれ達だけ食べてよーっ!」
「えええええ食べます! 食べますー! 一人だけ食べないのイヤですーっ!」
「兄ちゃんも食べるよねっ!? 尋夢のはこんぐらいでいいよねっ! ……えっとぉっ……」

 大きくて高級そうなカステラを雑に、ボロボロと破片を零しながら格闘する火刃里は……律儀に手を止めて、彼女と向き合った。
 みずほ達の土産のときといい、火刃里の気遣いは帰省してから感心しっぱなし。それはこの場でも変わらず、やはりなかなかの紳士っぷりを見せつける。

「紫莉(ゆかり)ちゃんはどんぐらい食べるっ!? あっ、自分で切りたいっ? その方がいいかなっ? 女の子ってどれぐらい食べんのかおれ判んないっ!」

 火刃里は自分の分のカステラを切る。俺の分を、尋夢の分を、ついでに寛太の分もきっちりと切り終える。
 大雑把に男子の分を終えた火刃里は、「はいっ」と彼女にナイフを渡した。
 言われた彼女は、未だ食堂の入口に突っ立っている。……尋夢と手を繋いだまま。

「どうぞっ!」

 食堂の明るいライトの下で改めて見る小柄な影。
 見間違うことなくハッキリと……女の子の姿をしていた。

「そうだよ〜。ほら中に入ろう〜。どうぞなんだよ〜」

 尋夢が食堂の中へと彼女を連れてくる。
 手を繋いだままだとナイフは持てない。だから尋夢から彼女の手を離す。すると少女は名残惜しそうな顔をした。
 ずっと尋夢と手を繋いでいたいようで不満そうに頬を膨らませている。もうそれほど仲良くなっているのか。弟達がいつから彼女と仲良くなったのか知らないけど、そんなに時間は経っていないだろう。人一番丁寧に周囲を気遣う寛太が、まだ少女に対して警戒をしていたからだ(単に寛太は異性に対してだけシャイなのかもしれないけど)。
 火刃里から元気良くナイフを投げ渡され(って危ねーな)、彼女は固まる。尋夢の優しい顔を、火刃里の元気な顔を次々交互に見比べた。

「あたしも、食べていいの?」
「ええっ!? 寧ろなんで食べちゃダメなのっ!?」
「ごはん。もう食べたの。五時ぐらいに食べたの」
「あっ、そっか! じゃあお腹いっぱいだったりするっ? もしやカステラ嫌いっ!?」
「ううん。カステラ好きなの。食べていいなら食べるの。食べるの」
「遠慮せずに食べていいっていいってーっ! 今日はいっぱい食べたって怒られない日なんだよーっ!」
「そうなの?」
「そうそうっ! 今日はねっ、宴会だからねっ、魔王がポカッてしに来るまでずううぅっと食べていて良い日なんだよーっ!」
「なら食べるの」

 言って、彼女はナイフをポイした(って、こいつも危ねーな)。
 ナイフを捨てて何をするかと思ったら、一本丸々あったカステラを、丸ごと自分に出された皿に置く。
 豪快に、一本そのものを食べるという意思表示だった。

「えええっ!? そんなに食べるっ!? 食べすぎじゃねっ!? 太るよっ!」
「太らないのー。太ったら痩せればいいのー。怒られないならぜーんぶ食べるのー」
「わぁなのです……そのその、お皿からカステラはみ出してるですよ……せめて切って二段にするとかした方が良いと思うなのですよ、切った方が良いのですよ」
「寛太くん」
「はいです」
「ころしてでもうばいとる派なの? あたしに食べさせない気なの? ひどい奴なの」
「寛太ヒデーッ! ドロボーはウソツキの始まりなんだぜーっ!」
「ななな何故そうあれそれを歪曲するのかサッパリ判らないのです!」
「あったあった〜。生クリームもあったよ〜。カステラにちゅうちゅうするの〜。ケーキつくるよ〜。生クリームとチョコシロップと練りワサビがあったの〜」
「あたし、生クリームなの」
「チョコシロップはおれっ!」
「ぼくは〜、いつも火刃里お兄ちゃんとおそろい〜。だからチョコなんだよ〜」
「つまり寛太は練りワサビってことだよねっ!? ちゃれんじゃーっ!」
「いいいいいいやですー! もおおー! 僕もチョコがいいのですー!」

 全員で使い回せばいいだろ。なんで寛太いじめになってるんだ……。
 いじめと言っても寛太もけらけら笑っているし、全然嫌がっていないから大丈夫なのか。本気で悲しんでるなら年上として注意するべきなんだろうけど、その心配はしなくていいようで。
 寛太が嫌がってないって判っているから全員いじってるだけだよな。と、一応いじられまくっている寛太の顔色を定期的に伺う。……問題は無さそうだった。

「はい、緋馬おにいちゃん〜。練りワサビをどうぞ〜」
「どうも」
「おっ、兄ちゃん! ワサビを受け取るたぁちゃれんじゃーだねっ!?」

 兄用の皿に出されたカステラ(スーパーで安売りされているただのカステラじゃない。老舗の高級さを思わせる立派な色だった)の隣に、練りワサビで「ひ・ろ・む」と書いてやる。
 善意としてカステラの上にではなく、カステラを置いた皿に書き込んでやった。

「おや、どこをどう見てもこの皿は名前が書いてあるし尋夢のものなんじゃないか? 尋夢、そっちの皿と交換しよう」
「おおおっ!? 兄ちゃん策士っ! 自分でやっておきながら堂々と俺のじゃない宣言で通そうとしているっ! えげつない大人げないっ! そこに痺れる憧れるっ!」
「ひえ〜、おにいちゃんは強敵なんだよ〜。いただきます〜」

 尋夢はワサビの皿を律儀に受け取る。
 そんな物、無視してチョコやクリームで食べてしまえばいいのに、素直に出された物に手を出した。
 倒れた。
 ばったんと。ワサビのカステラを口にして。目をバッテンにしながら。

「あああ尋夢が死んだーっ! …………『やったか』!?」
「それはね〜、生存フラグなんだよ〜。むくり〜」
「よーし尋夢復活したーっ! よくぞ帰ってきたぞぉーっ!」
「わわわ、尋夢くん!? お水お水なのです! だいじょぶなのですかー!」
「口の中がマグマでカラカラ〜。でもカステラはおいしい〜。おいしいよ〜。ぷは〜」

 寛太から貰ったグラスの水をくぴくぴ飲んで、一息。
 尋夢はそのときの満面の笑みを……彼女に見せる。
 全員にではなく、彼女に。ここはこんな風に笑っていいところなんだと言っているかのように、堂々と。
 おいしいよにっこり笑って、同じようにカステラを食べるように進めた。
 くすくすと彼女は笑っている。笑ってなかなかカステラに手が進まないようだった。でも馬鹿騒ぎしている野郎共の激しい攻防を一頻り楽しんだ後、丸ごとのカステラに齧り付く。

「おいしいの」

 おやつを食べる。たったそれだけのことなのに、ここに居るガキ達はどいつもこいつも楽しそうだった。

「でしょ〜」

 皿いっぱいに生クリームを出したり、その上をチョコレートシロップで埋め尽くしたり。どちらも皿から飛び出してテーブルを汚してしまい大慌てしたり。それでも構わず指で拭って口に入れたり。
 カステラだけでガキ共はパーティーを盛り上げていった。
 俺は何もデコらなかった(付けなくても高級品だ。しっかりと味が付いている。充分食べられた)カステラを食べる。馬鹿騒ぎに直接混ざることはなく、ガキども四人の騒ぎを見ているだけに徹した。
 火刃里は何をするにも声が大きく、次から次へと騒ぎを起こしている。その兄である火刃里に便乗して事件を大きくしているのが、喋りだけはのんびりしている尋夢。そんな兄弟二人に挟まれいじられ、あうあうなのです泣きながらも心の底から楽しんでいる寛太。男三人を見てくすくす笑う少女。
 少女。
 名を、紫莉と言う。
 いくら脳に検索をかけても出てこない名前。今まで会ったこともなければ、聞いたこともない名だった。

「…………」

 ――今日は12月31日。大晦日だ。
 この日ばかりは実家に戻って引きこもり、外の者は追い出し、身内だけで過ごすもの。部外者など居る筈の無い日。身内以外の人間は訪れる筈がない寺。
 なのにこの場に居る、『少女』という有り得ない存在。

 そんな人物、いる筈もない。全然知らない人物だが、今年だけは思い当たるものがあった。
 今から十日ほど前に……弛んだ大人から『あること』を知らされていたからだ。

 福広さんがノートに書いた『♀』のマークがずっと脳裏に浮かぶ。
 仏田の神様なんだからぁ仏田の地に居るべきだ、もう既に説得済みで近々仏田寺にいらっしゃると言っていたあの話が呼び起こされる。
 緩い声の説明を思い出す。ふざけて真実を捻じ曲げることを厭わない福広さんが盛大な大嘘を吐いてなければ、彼女は間違いなく……『例の彼女』だ。
 ここに居ることを求められた、誰もが心待ちにしていた存在しかいない。

 洋館にいる女性だとしたら、それは誰かの母親か、誰かの奥さんだ。この年の少女がそうだとは思えない。
 中学生。いや小学生ぐらいの幼さ。
 お洒落をまだ知らない子供っぽい彩りの服装。
 消火する前の焚き火の光の中で見た赤髪は、今も変わっていない。活発そうなショートカットはライトの下でもぎらぎらと光っている。
 黒ではなく、赤く。
 笑い疲れて潤んでいる目の色も黒ではなく、青に近く……それでも赤かった。

「熱視線を感じるの」

 髪の色。目の色。ともに普通の日本人とは違う……いや人間では滅多に持たない色の彼女に見入っていた。
 そしたら唐突にこちらを向かれた。そりゃ話に加わらずずっと見つめられちゃ気になって仕方ないだろう。
 だから覚悟はしていたが、思いのほか少女の喋りは淡々。ドキリとしてしまう。
 じいっと俺の顔を見てきた。丸く大きな両眼は赤とも言えぬ、青とも言えぬ……不思議な渦の色をしていた。

「じっと見られてるの。気になるの。キャーなの」
「うわっ、紫莉ちゃんが兄ちゃんに狙われてるよっ!? 狙い撃つぜっ! ヒューッ! 決まったぁっ!」

 狙わねーよ。かつ撃たねーよ。よって決まりもしねーよ。

「ねえねえ兄ちゃんっ、お腹すいてないっ? だって宴会にいなかったじゃんっ! 晩ゴハン食べてないでしょっ? もっと食べたいっ!? いっぱい食べたいっ!?」
「……おめーら、宴会に行ってたんかよ」
「ゴハン食べたいじゃーんっ! でも藤春伯父さんの乾杯のお話も長かったからテキトーに食べたら出てきちゃったーっ!」
「……あのあの、緋馬様、良ければ僕の練りワサビどうぞなのですー」
「寛太。お前ちっさいからな、いっぱい食べなきゃ大きくなれんぞ。ワサビいっぱいかけてやるから頑張って食べろよ」
「あうあうあう……」

 少女は半分も食べきれてない皿(そりゃそうだ、カステラ一本丸ごとと向き合っていたんだから。食べきってたら目を疑う)を、俺の居る席へと寄越す。

「お兄さんはカステラ食べたい人なの? ハイなの。どうぞなの」
「……ありがと」

 俺は三センチほどカステラを切り分けてもらい、再度少女の席へ皿を返した。

「お兄さんはいっぱい食べないの? 小食なの?」
「俺は『いっぱい食べる』って言ってた女の子を気遣っているんだ」
「お兄さん、大人なの?」
「お前達よりは大人だ。それとももうお腹いっぱいで食べられないか? なら俺が貰うけど。うめーしもったいないから」
「……お兄さんは、気遣いのできるなかなか良い大人なの」
「どうも」

 やっと対話らしい対話。出会って一時間経ち、漸くのことだった。
 かったるくって話し掛けるのを拒んでいた。話に加わろうとしなかったのが大きな原因だが、彼女も見知らぬ俺に慣れてきたらしい。じいっと目を見ながら話してくるようになった。

「ただし、自分で『気遣う』とか『大人なんだ』って言っちゃうところが減点なの。お兄さんもチビ助さんだから食べておっきくなった方が良いの。せめて170を越してから大人って言えなの。じゃないとカッコ悪いの」
「…………。言うねえ」

 しかもズバズバ言ってくるなんて、慣れた証拠。それでなかったら……いや、そうでなくても失礼な子だ。
 まあ、俺の身長は半月前に寄居と話したきり変わる筈なく165センチ。そう簡単に変わるもんか。
 ちなみに少女の背というと、俺より頭一個近く小さい。自分もチビ助なのにどこの口が言うか。まさか言われるとは思わなかった言葉に驚いたが、ガキの言う露骨な嫌味。いちいちムカついてなどいられない。逆に「そういうことを真正面から言える性格なのか」と感心してしまう。

「となると、俺は一生大人になれないことになるな」
「ええっ!? 兄ちゃんってばミスターチルドレン宣言っ!? なんでなんでっ!?」

 身長の話は寄居と散々した。藤春伯父さんともした。結構福広さんともしている。ニボシを食えだの睡眠時間を増やせだの言われたが、絶望視していると各自に言いまわったこともある。
 っていうか背で強弱や立場を決めるなんて馬鹿馬鹿しい。だけど子供の足りない脳では「体格的に大きくなれば大人になれるもの」と考えているんだろう。
 確かに自分にも「いつか誰もが成長する」と考えていた時期が無かった訳じゃない。高校に入ればどんどん伸びていくに違いないって……思っていた時期も俺にも……って、再燃してしまった。

「がんばっておにいちゃん〜。今からだってびゅんびゅん大きくなれるよ〜。きっとトトロぐらい大きくなれるよ〜」
「でけー志だな。そんなにあったら頭ガンガンぶつけそうだ」
「松山おじさんみたいにっ! ガンガンぶつけるねっ! あの人すっげーデカイからメッチャ頭ぶつけるんだって! ププーッ! でも同じぐらい大きい一本松おじさんはぶつけないんだよ、なんでっ!?」
「身長は足りていても、色んな物が足りてない人ってことじゃないか」
「……なの? 松山おじさんって人は、バカなの?」
「でも強いよっ!」

 妙な「でも」でフォローすんな。
 ほら、何が強いんだか判らなくって「どういうことなの?」って首傾げちゃったじゃないか。

「あっ、けど一本松おじさんの方が強いんだよっ! 何でも弾き飛ばすし効かないしデッケーのぶんぶん振り回すんだぜ、カッケーっ!」
「……何をなの? でもって松山おじさんはまたその人に負けたの。バカで弱いの?」
「あのあのあの、松山おじさんはとってもすごい人なのですよ、おバカさんじゃないのです、誤解しないでほしいなのです」
「それよりさーっ! ねーねーっ! カルタ! しようぜーっ! おれ遊ぶーっ!」

 大変失礼な談義を挟んで、小規模台風は次から次へと話題を吹っかけては掻き乱す。あと一日経った後の方が風情が出る遊戯を、わざわざ今やろうと火刃里は言い出した。
 カステラとクリームが散らばるテーブルにバラ撒かれる札。どこからともなく取り出したそれらに少女がぎょっとする。俺もついていけなくて同じ顔をしてしまった。

「……火刃里。なんでカルタを常備してる?」
「だって、もーいーくつねーるーとおしょーがつーだもんっ!」

 理由になってねぇ。論理的な解説を奴に求める方が間違いだって判っちゃいるが。
 火刃里は一つの話をじっと聞くのが苦手で五分に一度は話題を変えるが、ゲームをすれば三十分は集中してくれる。きっと火刃里の近くに居る誰か「火刃里の扱いに困ったらゲームでもやらせておけ」と悟ったんだろう。それで常に何かしら持たされるようになったか。多分、芽衣さんあたりの提案だ。
 三十分も楽しくゲームをしてれば良い時間潰しになる。単純にこの場に居る全員が楽しめる道具の登場に、異議を唱える者は居なかった。
 だが。

「……百人一首なの?」
「違うよっ! カルタだよっ!」
「百人一首じゃないの?」
「カルタだよっ!」
「……違うの?」
「何言ってるの!? カルタはカルタだよっ! ええっ、鶴舞う形のカルタ知らないのっ!? 物凄いヒッキー!? 世間知らず!? 箱入り娘っ!?」

 少女は困惑した顔のまま、意味が判らないと言わんばかりに火刃里の持っていた札を受け取る。受け取って、何枚も絵を確認し……「本当に意味が判らない」と言いたそうに全員の顔を見渡した。
 見渡された全員、俺も含めて、その表情が何を物語っているのか判らなかった。少女は自分一人がアウトローだと気付き、本気で焦った顔になっていく。でも「なんで見たことないだけなのにそんなに驚かれるのか」判らず、更に冷や汗を流し始めた。
 そんなにカルタって知名度が低かったっけ。必ず手に取るものだよな。最初のうちはしたくなくてもやらされるものじゃ……。
 そこまで考えて、やっと彼女の事情を察した。

「……火刃里。『上毛カルタ』はダメだ。違うのにしよう。今日はトランプで遊ぼう」
「ええーっ!? トランプ持ってないよーっ!?」
「カルタは年明けてすればいいだろ。ていうか、県民じゃないと判らないものを押しつけるのは良くない。トランプ持って来い」
「ちぇーっ。まっ、いっかーっ!」

 愚痴を言うのも早いが、諦めるのも早ければ納得するのも早い。
 遊べないとなったら違う遊びを見付けるだけだという火刃里は、カルタを五秒で片付けると十秒後には食堂を出ようとしていた。

「部屋ダッシュ戻って取って来るーっ!」

 叫びながら、洋館の廊下を駆けて行く。
 あいつ、年末で人が多くなっているからってテンション上がりすぎなんじゃないか。
 いつもテンション高くて俺を見付けるなり飛びかかるなり激突するなり吹っ飛ばしてくる(それは尋夢も同じであり、今日俺に突撃したのも兄・火刃里の真似らしい。今も足の指が痛い)けど、今日は激しすぎる気がした。

「火刃里くんは元気な子なの」

 誰もが見れば判ることを、ウンと頷きながら彼女は口にする。

「明るくて素直で真っ直ぐな男の子なの。正直過ぎるところが面倒だけど悪い気がしないの。きっと強くてカッコイイの」

 最後のは理解できないが、火刃里の長所は判りやすく誰からも好感をもたれるもの。素直に褒められて、悪くない気分になる。何故か俺の方が。

「遊ぶなら……あさかとみずほも呼んだ方が良いよな。今から呼ぶか」

 ケータイを開いてあさかに電話をしようとする。だが、画面には堂々と『圏外』と表示されていた。
 ここは俺の部屋として割り当てられた本家屋敷から離れている建物だ。山の上、本殿と本家屋敷を中心に点々と小屋が置かれた仏田の敷地内の中で最も判りにくくて遠い場所がここ、洋館。
 日常的な生活には不必要な施設(ゲストハウス的な役割の筈だ。それ以外に使われているのか俺には判らない)だから電波なんて気にされないのか。本家屋敷でも一本立つか立たないかの瀬戸際、素直に連絡は諦めるしかなかった。
 勘の良い火刃里が俺の気持ちを察して(というか自分が楽しむために)遊び相手を連れて来ることを期待しよう。
 別に居たら楽しい、居なくても構わないというレベルだが。

「多分〜、みんな来ないよ〜」

 電波が一本立たないかなとケータイを(無意味だと判っていても)振っていると、尋夢がお腹を大きくしながらカステラを食べながら口を開く。

「……なんで?」
「寄居ちゃんはお風邪で鼻ず〜ず〜、それを懸命に看病する健気な少年がいるのです〜」
「……あさかが寄居の看病をしてるってことか?」
「みずぴ〜は〜、きっと冒険してるのです〜」

 そっか。頷き、それ以上は聞かない。尋夢語の解読は体力を消耗する。かったるい。
 暫く電波が来ないか格闘してみたが、それも腕に乳酸が溜まっただけの無駄な足掻きに終わった。

 人一倍うるさかった火刃里が居なくなった食堂は、一気に空気が変わった。
 県民しか知らないカルタじゃなくて誰もが知っているトランプやウノを探しに行った弟に手を振る俺達。無言の空間になった訳ではないが、火刃里が居なくなっただけでこの場は変化した。
 寛太はいじられなければ大人しくしてるタイプだし、尋夢も大声を出す性格ではない。
 少女も無口じゃないけど淡々と喋りたがるし、俺は元から無駄な話はしたくない性格。火刃里が居なくなった食堂は別物になってしまった。
 冬の、誰も居ないような洋館の一室。元々の静けさを取り戻しただけだった。

「……あのあのあの。紫莉ちゃんは、遠くから来たのですか? 遠い所からはるばるなのですか?」

 静かになった食堂に、寛太の無難な質問がこだまする。
 さっきのカルタの続きを話すように「県外から来たのですよね?」と少女に尋ねた。

「なの」

 肯定を意味する鳴き声。
 少女は水のグラスを両手に持ち、くるくる飲みながら頷く。

「そうなのですか。遠いところからはるばるようこそようこそなのです」
「どういたしましてなの。車でどんぶらこ、長かったの」
「長旅だったのですねー、お疲れ様なのですよですよー。……お家は何をしていましたのですか?」
「何ってなんなの?」
「僕のお家はお寺さんなのですよ。遠くから来た紫莉ちゃんのお家は何屋さんなのですか?」
「商店なの。あとね、おばあちゃんのお兄さんが道場屋さんをやってるの」
「道場! なのですか!」
「剣道場やってるの。すぐ側に男子高があるの。そこからいっぱい人来るの。お父さんがいっぱい教えるの」
「凄いなのです! 紫莉ちゃんも剣道できるのですか?」
「できるの」

 そう言うと、彼女はポイしていたナイフを両手で握った。さほど長くないナイフなので身構えても不格好に見えるが、手つきは竹刀を持つものに見える。
 椅子からスッと立ち上がり、その場で竹刀に見せたナイフを自身の腹前に運ぶ。誰にナイフを向けるでもない。ライトの光がキラリと反射した後、くるりと自分側……逆に向け腰に掛けるように左に置いた。少しだけ足を開いて着席する。試合を終えるときの合図のようだった。
 それしか俺には判らなかった。剣道なんて選択したことない体育だったからなんとなくしか判らない。
 ここに火刃里が居たら何かコメントしたかもしれない。彼女の立ち振る舞いが正解なのか、間違いなのか言ってくれたか。
 けど形状も長さも何もかも違うナイフ一つで、この場を凛とした空気で満たした。十秒も無い一瞬だったけど、彼女は嘘を吐いていないことが伝わってくる。
 嘘を吐かれたって何の支障も無いけど。

「すごいのですカッコイイなのです! 僕はスポーツ全然だめだめなのです。負けちゃいそうなのです!」
「ふふんなの。あたし強いの。寛太くん負けるの」
「ま、負けます負けますです……」
「でも大人には勝てないの。あたし弱いの。尋夢くんどうなの? できる子なの?」
「だめだめなんだよ〜。ぼく、よわよわなの〜」
「……尋夢くん、だめだめでよわよわなの?」
「なんだよ〜。でもね〜、火刃里おにいちゃんはつよつよなんだよ〜。いっぱい剣の修行してるの〜。だからスッゴイつよつよなんだよ〜」
「ふうん。……でも、火刃里くんは子供なの」
「うん〜。火刃里おにいちゃんは子供なんだよ〜」
「……それだと大人には勝てないの。気遣いができるお兄さんは、つよつよなの?」

 寛太、尋夢と来て、「じゃあ俺は強いか?」という話になるのは当然の流れ。
 剣なんて持ったことない。だけど「俺は魔法で応戦するんだよ」なんて言える訳が無い。背も足りてなくて頼りなさそうな俺が彼女に自慢できることは何も無い。だから「よわよわだよ」と素直に告白する。

「……残念なの……」

 見間違えじゃないかというぐらい、彼女は落ち込んだ顔をした。

「……お前、思った以上に失礼な奴だな」

 見間違い。そう思いたくなるほど、彼女は俺達の言葉に対し『落胆』の色を見せた。
 何を思ってその表情を浮かべたのか。どうしてそんなことを訊き、返したのか。彼女の素性を詳しく知らない今、何も気付けず暗い顔を見ていることに留める。
 暗い顔になって水を啜る彼女は、何かと不気味だった。
 元々、異様な存在だ。笑っていてくれないと正体不明が際立って恐怖すら滲み出てきてしまう。小さな女の子に対して怯えるなんてしたくないが、かったるいことに彼女はそうなってしまう対象に違いなかった。
 この日。この時間。
 この髪。この眼。
 この表情。この意味深な発言。
 この寺にとって、異端そのもの。
 これで「実は無関係なただの女の子でした」なんて言われたら、俺は誰を殴って気を治めればいいんだ。

「紫莉ちゃんは〜、つよい子がお好き〜?」

 尋夢が落胆する少女の椅子をぐるりと回し、わざわざ自分と向き合うように座らせた。
 急にそんなことをされたら彼女だって驚く。だけど尋夢は「何するの」と言わせるよりも早く彼女の頭を両手で持ち上げた。真正面で見つめられるように。
 尋夢は両掌で、彼女の両頬を抑えていた。
 そのままキスしてもおかしくない程近い距離に顔を近付ける。間近で見つめ合う態勢で、二人は視線を交える。
 突然のことに彼女はすぐに対応できず、数秒経ってから自体を把握し、顔を真っ赤にした。口付けてしまっても不思議じゃないほどの距離だ。マセた少女ならドキドキするのは無理はない。
 尋夢がやましいことを一切考えていなくても目の前の少女は必然的に考えてしまうし、やましいことを考えたらしい寛太が「はれんちはダメです〜!」と喚くほど、大胆な行動だった。
 この弟は、もう一人の弟以上に台風の素質を持っていた。

「お好き〜?」

 ワタワタと騒ぎ始める寛太など構わず、尋夢は至近距離での質問を繰り返す。
 あまりのニコニコ笑顔に間近で見ている彼女は「その気が無い子供である」ことを察し、徐々に冷静な顔になっていく。
 そしてその質問に答えるように、頷いた。

「強くなきゃ、守ってくれないの。そうでしょなの」

 ……この子は、自分を守る騎士に恋でもしてるんだろうか?
 強い子が好き、そう言いたくなる理由は何だろう。強いとカッコイイから? それだけ? そんな単純な好意の理論を述べているだけなのか。
 火刃里の食べかけの皿からカステラと生クリームを貰いつつ、子供二人の真剣な会話に耳を澄ます。

「じゃあさ〜、よわよわな人は〜、紫莉ちゃんを守っちゃダメ〜?」
「……よわよわな人がどうやって守ろうというの?」
「よわよわは、よわよわなりにがんばるよ〜。紫莉ちゃんは〜、守ってくれる人が好きなんだね〜?」
「…………。なの」
「ぼくも好きだよ〜。おにいちゃん達だいすき〜。守ってくれるから〜」

 突然の告白。なんでそこで俺に話が向くのか唐突過ぎてちょっとよく判らない。

「でもおにいちゃんは弱いの〜。よわよわなの〜。よわよわ〜」

 しかも弱いと断言された。……まあ、尋夢の周囲の大人達に比べれば、どう考えても強い方ではない。

「でも守ってくれるんだ〜。えへへ〜。弱い人ががんばれば〜、すっごく強い人になることもあるんだよ〜。だから安心〜」
「…………。なの」
「羨ましい〜? 仲間に入れてあげようか〜? お兄ちゃんよわよわだけど仲間にな〜る〜? つよつよの人探すよりお兄ちゃんといっしょは安心するよ〜」

 尋夢は笑顔で彼女に迫る。
 ついには鼻と鼻とがぶつかり合うぐらい近くに顔を寄せた。流石にその距離はヤバイと彼女の方から尋夢を押し退ける。
 でも、嫌そうな顔はしてなかった。

「なるの」

 彼女の笑みは、まだ戻ってこない。
 けど、尋夢の言葉のおかげか暗い顔はどこかに行ってしまっていた。

「えへへ〜、仲間だ〜。お兄ちゃんがんばれ〜」

 尋夢は喜ぶ。よく判らない仲間ゲットにバンザイをしていた。
 普段から尋夢と火刃里の会話は「何故そうなる」と「どうしてそこで俺が登場する」が多い。兄への無茶振りが尋常じゃない。もしや弟達は兄からのツッコミを待っているんだろうか。俺がツッコミでないといつ気付くんだ。……知っていてやっているとしたら、どっちを殴って路線変更させればいいんだ。どっちもか。
 ニコニコと笑って両手で彼女の手を握る尋夢を見て、「こいつは大人になったらタラシになるんだろう」と本気で不安になる。
 それと今のうちに彼女は「170を越えなきゃ大人じゃない宣言」は撤回してほしい。俺は大人になった尋夢が見てみたい。尋夢は全然大きくならないけど。いつ成長期を迎えるやらってぐらい背が伸びないから。
 そうしている間にも寛太は相変わらず「はれんちなのですー!」と喚いていた。「二人とも近寄りすぎなのですー!」と騒いでいる。
 殆どシルエットが一緒になってる彼女と尋夢を引きはがそうとするためか、寛太は駆け寄り、テーブルに置かれたナイフを尋夢の背中にブッ刺した。

 ――えっ……?

 尋夢の背中にナイフが刺さる。
 少年と少女の不思議な光景。そこに駆け寄ろうとする寛太。全てを一望できる席に居たから、全部が見えた。
 寛太は少女が剣道の真似をしてテーブルに置いていたナイフを掴むなり、尋夢の背中――左横っ腹に刃を沈めていた。尋夢のいつもの間延びした声が、

「ぎゅっ」

 と、弾んだものになる。
 そんな声、尋夢はいつもなら出さない。今まで尋夢と会話していた少女でも判ることだ。けど蛙が潰れたような音を出したぐらいで尋夢がおかしいなんて、少女は気付けなかっただろう。
 一部始終を見ていたが、それが何を意味した行動なのかちっとも判らなかった。
 俺だって寛太が尋夢を刺したんだなぁと思ったぐらいだ。

 寛太が、尋夢を、刺した。
 刺した?
 刺したって、何を? 尋夢を? 誰が? 寛太が? …………何故!?
 俺が席を立って寛太のナイフを奪おうとしたときには、寛太は尋夢を三回刺していた。
 一回刺して、抜いて、二回目刺して、抜いて、三回目。
 その間、ずっと俺は席に座っていた。思いもしなかったことに頭が回らず、瞬時に最善の行動を取ることなんて出来なかった。

「何してんだッ!?」

 寛太の体は小さい。165センチしかない俺より20センチも小さい。
 中学に上がったとは言っていたが、未だランドセルを背負えば小学生に間違えられるぐらい、幼くか弱い子供だ。いくら俺が大人じゃなくったって小さな子供を取り押さえることなど他愛も無いこと。
 だと思ったが、予想以上の力で振り払われ、俺は左の掌を切った。

 さっくり掌に口ができる。
 弧を描く刃。血が舞う。食堂のテーブルにピシャッと俺の血が滴った。
 その頃には尋夢は崩れ落ちていた。彼女の目の前で。

 彼女もまた、俺と同じく今の現状を把握できず、ぽかんと固まって何も出来ないうちの一人だった。
 笑顔だった少年は背中を刺され倒れ、足下で蹲っている。床には少年を中心に赤いものが広がっていく。さっきまで彼にいじられ笑っていた小さな男の子が、彼を刺し、次は彼の兄である俺を斬りつけている。
 冗談ではなく刃を向け、一人を倒し、もう一人を倒そうとしていた。
 この異常を正確に把握できる少女じゃない。
 寛太は俺の方を向くと、両手にナイフを握って突貫してきた。小柄だからと侮っていたが距離は既に一メートルも無い。
 いくら力が無くても、スピードが無くても、そんな至近距離で来れば間違いなく狙い通りの場所を打ち抜ける。少しよろければ刃が刺せるもんだ。そんな好条件を、殺意に満ちた目が見逃す訳が無かった。
 かと言って思う通りにされてはならない。
 許してしまえば俺が、死ぬ。

 ――部屋の襖を開けた途端、刺されたこともあるんだ。
 今は卑怯な不意打ちじゃない。目の前に殺意がある今、対処はできる!

「燃えろ!」

 寛太の手を目掛けて、高速詠唱を行なう。
 途端に寛太の両手に火が点く。マッチ棒程度の火ではない。ゴオッと、少年の腕を丸ごと焼き尽くすぐらい大きな炎を起こした。
 一メートルも無い間合いで大きな炎を起こしたら、俺の前髪だって燃える。そんなの気にしない。
 突然現れた炎に無表情に動揺した寛太の足が縺れる。
 その不安定な腰を蹴り上げた。蹴ったことで自分の出した炎に触れてしまい熱かった。でもそんなの気にしない!
 あまり俺の足は長くないけど寛太の腰には届いてくれた。後ろに飛ばされ、仰向けに倒れる寛太。腕は魔法の炎で燃えている。すぐに消してやろう……と思ったが、本当に炎を消していいものか、瞬時に思考が働かなかった。

 なあ……なんで、なんでこいつは刺した? なんで尋夢を刺したんだ? なんで刺そうと思った? なんで刺さなければならなかったんだ?
 さっきまでそこで笑ってただろ? 憎いことなんてなかっただろ? お前ら仲良しだっただろ? ……殺したいと思う理由なんてどこにも無かっただろ!?
 理由なんて無いだろ。
 理由が無い。じゃあ、それって……?

 問い質す暇を与えず、寛太は立ち上がりまた俺へと近寄って来た。
 今度は何をする? また刺すのか? 今度は魔法でも使ってくるのか? それとも「ごめんなさいなのです」っていう謝罪か? 俺はまた寛太を燃やしていいのか……?
 考えているうちにまた寛太は動き始める。
 駆け出し、焦げ爛れた手で掴んだナイフを俺に向けていた。
 なんで刺した? なんで刺そうとする? なんで!?

 ――混乱して飛び掛かろうとする凶器の腕を斬ったのは、『今まで食堂に居ない人』だった。

「……ごめん……」

 小さな男声の呟き。
 寛太が俺に詰め寄ろうとナイフを握った腕をぴんと伸ばしたとき……突然、『横から』赤黒い剣の切先が現れ、狩り取っていった。

 子供の両腕がストンと落ちる。
 断面図からビシャアと血飛沫が立つ。小さな寛太の体は、前のめりに倒れていった。
 頭から寛太は転ぶ。血が次第に床へと滲み出ていく。転んだ寛太の頭を、赤黒い剣が襲う。
 突如現れた剣を持った男性は、うつ伏せの首に、剣を刺し込んでいた。
 突如現れた剣を持った男性が、寛太の首に、トドメを刺していた。

「……ごめん……」

 もう一度、風が吹いたら消え去りそうなほど弱々しい男声の呟き。
 寛太を斬り、殺した剣士は……苦しげに悲痛な声を零す。

 その声はきっと寛太には聞こえていない。
 寛太は「ごめん」の声を聞かずに絶命する。だって首をザクリと刺されて生きてる人間などいないから。
 男性の鮮やかな殺人を見て、再び俺は固まってしまった。
 今度は男性が俺を斬りつけにくる? 寛太と同じく襲い掛かってくるんじゃ? 考えられる可能性はいくつもあるのに、血にまみれた寛太と尋夢を見て、少女と俺はお揃いに石になってしまった。

 さっきまで笑っていた尋夢。
 血でまみれている。
 さっきまで慌てていた寛太。
 血でまみれている。
 さっきまでどこにもいなかった男。
 彼も……血でまみれている。

「……う、く……ゆかり……」

 石のように固まってしまった俺の体が動くようになったのは、寛太を斬り殺した男が痛みに呻いたから。
 男は次に俺達を襲ってくるなんてことはしない。ピクリとも動かなくなった赤い寛太のすぐ側に、膝をつく。
 凶器を手にしたままだがそれを俺達に向けてくることもない。じゃあこの人は、俺達を襲おうとした寛太から助けてくれた人だって、安心していい? 気付かなかっただけでこの人も重症じゃないか。頭から血を流してるし、服の左側が真っ赤じゃないか。
 激しい戦闘の後のようにも思えるけど、こんな場所で戦闘なんて……。
 ……起こったから、その格好なんだろうけど。

「……お兄ちゃん……お兄ちゃん……?」

 俺と同じように石化から解除された少女の声が、震えながらも男に尋ねる。
 発した言葉に意味は無い。意味を持たせることができなくなるぐらい、動転して何を言ってるんだか判んなくなっていた。
 でも彼女が声を発したことで、俺は少しだけ冷静になれた。尋夢を殺した寛太を殺した真っ赤の男性に、おそるおそる声を掛ける。

「そ、その、だ、大丈夫、ですか」
「……君達こそ、平気……?」

 平気じゃない。そんなの見て判るだろ。何が起きたか判らなくて錯乱しそうなぐらいだ。
 でもとりあえず頷く。少しだけ焼けたオレンジ色の前髪をいじりながら。寛太を蹴ったときにズボンに火が燃え移ってないか確認して……一応、「平気」と思おう。
 少女はどうしてる。見てみると……さっきまでぼんやりとした声を出していた彼女は、呆然とした表情は変わらないままだふぁ、うつ伏せに倒れた尋夢の身体を擦っていた。

「……ねえ、尋夢くん……? 起きて、なの」

 ゆさゆさと少女が尋夢の身体を動かすが、尋夢が変な鳴き声を出すことはなかった。
 何度も何度も揺さぶるが、動かない。
 揺さぶって、揺さぶって、ついに少女は何もしなくなる。……彼女は、その場で俯せに倒れ込んでしまった。

「お、おい!? ……紫莉ちゃんっ!」

 目を瞑ったと思ったら意識を手放そうとしてやがる。気絶したいのか。そんな簡単に人って倒れられないよと今すぐ倒れたい自分が思ってみる。
 構わず彼女は血に濡れた床に寝そべる。急いで抱き上げようと彼女の元に駆け寄った。
 ――それが幸運だった。
 さっきまで俺の居た場所が吹き飛ばされた。

「……は……?」

 その場所が無くなる。滅茶苦茶になる。
 どうやら俺はラッキーなことに……彼女を抱き上げるために身を低く移動したから、そんな悲劇に見舞われることはなくて済んだみたいだ。
 その代わり、息切れを落ち着かせようと休んでいた男性が吹っ飛んだ。
 剣を持った男性は、壁まで吹っ飛んでいく。
 びゅんと。がしゃんと。どさりと。

「……ちょっ……」

 ――思考が、追いつかない。
 寝そべっていた彼女と身を屈めた俺は何事も無くその場にいて、普通に休んでいた彼は大きな衝撃によって……壁まで吹き飛ばされている。
 飛んで行った先では、壁が抉れていた。
 壁に叩きつけられた男性。妙な態勢のまま床に落ちる。受け身を取ることができず、落ちたときにごきゃっという嫌な音が食堂に響いた。
 彼が握っていた赤黒い武器も突風によって吹っ飛んで、虚空の中に消えていく。そして彼が落ちた場所に新しい血溜まりが作られていった。
 床に落ちた男性は、苦しそうに目を閉じて、動かなくなる。
 あのままだと寛太と尋夢と、同じようになってしまう。

「……意味が、判らないんですけど……?」

 男性が吹き飛ばされた理由って何だ?
 吹き飛ばした力があったからだ。
 それは何か?
 ……新たに武器を振るう脅威が現れたからだ。
 『大きな斧という凶器を持った脅威そのもの』が現れたから、彼は動かなくなったんだ。

 ――その脅威は、堂々と入口から現れた。

 入口に立つのは人間だ。化け物じゃない。でも化け物に見えなくもない。
 角や翼、尖った耳などの目立った異形の特徴は無いけど、血に濡れた斧を持っている時点で化け物って認識しても間違いじゃない。
 足下には子供二人の遺体が転がっている。
 壁際には飛ばされた男性が新しい血の海を作っている。
 こんな光景を見てしまえば、

「い。……イヤ……」

 少女が恐怖する。

「いやあああああああああああ!?」

 叫び声を上げたって、誰も咎めない。
 咎めない。咎めはしないけど。……間近で彼女を抱き上げている俺の耳には、痛い攻撃だ。

「黙ってろ!」

 絢爛豪華な食堂の窓目掛けて炎の玉を放った。
 バキンと硝子が砕ける。
 食堂が一階で良かった。それと彼女が小さな女の子で良かった。
 彼女の身体はとても軽い。お互い血でびちょびちょになっているからちょっとだけ重くなっているけど許容範囲だ。俺は錯乱しそうになりながら、彼女を抱いて、転がるように飛び出した。
 ここで狂ってはいけない。今はとにかく、悪魔のような笑みを浮かべて斧を振り回そうとしている一本松さんから離れたかった。


 女の子一人抱えて走るなんて他愛もない……なんて口が裂けても言えない。
 さっきから彼女に(彼女だけじゃなく大勢に)言われていたことだが、俺は背が高くない。体格だって良いなんて言えない。スーパーで米の袋を買っておじさんの車に運ぶだけで息を切らすぐらいのインドア派だ、意識を失いかけた女の子を抱き上げて走るなんてできっこないんだ。
 それでもなんとか走ることができたのは、火事場の馬鹿力ってやつだ。
 目の前で血を見た。
 目の前で死を見た。
 目の前で殺されかけた。
 それだけで、俺の眠っていた力ってやつが解き放たれたらしい。信じられないぐらいの力で彼女を背負って、新記録を樹立できるんじゃないかってほどの速度で駆け抜けていた。
 だけどそれも五分も持たない。洋館の窓を突き破って外に出て、走った先は道なき道。わざと境内の歩道として整備された道ではなく緑が生い茂った木々に突っ込むことで、追っ手をまこうとしていた。だから消耗する体力は倍だ。
 枝が顔を引っ掻きいくつも血が滲んだ。傷を自覚するたび、余計に体力は減っていく。
 それに上着は食堂の椅子にかけたままだった。12月の山奥で上着無しは死を覚悟しなきゃいけない。切らした息は白く、ついには何にも無い土の上でへたりこんでしまった。

 頭上を見上げる。星が見えないぐらい木々が生い茂った林の中だ。
 微かに月が見えたが、うっすらと雲に隠れていて灯りがわりにはなってくれない。天気の悪い証拠だ。雨か雪が降るかもしれないとニュースで言ってたっけ。俺の知っている外とは記憶がてんで違う。すぐにでも暖を取るべきだと思っても、どうするのが最善かさっぱり判らなかった。
 だって、今の状況は何だ?
 尋夢を寛太が刺した。
 寛太が突然現れた男に殺された。
 その男も、吹き飛ばされて倒された。
 このままだと俺達も死ぬと思った、だから逃げてきた。……なんで!?
 どうしてだよと問い掛けて答えてくれる人もいない。背負われている彼女だってこの意味の判らぬ状況に答えてほしい側の人間だ。現に……彼女は、俺の背中に顔を埋めてひっくひっくとしゃくり上げていた。

「……お父さん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」

 家族のことを呼んでいるぐらい、心が弱っている。
 無理もない。俺だってすぐに家族に助けを呼びたいぐらいなんだから。

「……ごめん、ちょっと下ろすよ」

 一声掛けて、半ば無理矢理に背負っていた彼女を下ろした。すぐさまズボンのポケットに入れていた携帯電話を取り出そうとする。
 食堂に置いてきた上着に入れていたら詰んでいたが、幸いケツポケットに入れていた。自分の幸運に感謝しつつ、藤春おじさんへ何て説明したらいいんだと必死に頭を働かせながら電話をパチリと開く。

 ――『圏外』なら、まだ許せた。
 ――暗闇の中で光り輝くディスプレイは、血の赤で爛々と染まったまま動かなかった。

 思わず使い慣れた電話を放り投げてしまうぐらいには、心臓が凍る。
 何が何だか判らなかった。尋夢や寛太の血が携帯電話に付いてしまった? 違う。画面が赤く光り輝いてたんだ。
 おそるおそる電話を拾い上げ、もう一度開いたディスプレイの中を確認する。
 赤い。
 真っ赤だ。画面一面真っ赤を表示したまま、時計もショートカットキーも何もかも出てこない。
 いくらボタンをカチカチと押したとしても、赤の折り紙を貼りつけたように純粋な色に染まったまま変化は無く。外とを繋ぐ武器はただの置き物になっていた。
 意味が、判らない。
 こんな仕掛け、どうやったらできるんだ。一体いつから? 誰が? こんなことを?
 まだ山奥だから圏外でどこにも電話できない方が良かった。誰かに助けを求めるってことができなくても、いつものように携帯電話を見るという日常に戻れたというのに。

「……どうしたの?」

 ぼろぼろと泣いていた彼女が、俺の挙動を気にして声を掛けてくる。
 電話を……見せることなんてできない。俺は「電池が切れてた」と言ってすぐにしまいこむ。

「なんなの。使えないやつなの」

 あんまりな一言だと腹を立てることもできた。でも本気で俺を罵っている訳ではなく、心底落胆してしまって隠しようもなかったっていう方が強いだろう。
 っていうか、俺ももし同じ状況なら「電話できない電話とかバカじゃねーの」って言ってたし。気が動転してたなら尚更だ。
 俺より幼い言動をしてくれる子がいたからこそ、冷静になれたとも思う。乱暴な言い回しでも感謝してしまった。

「そのな……電話が使えないから、歩いて誰かに助けを呼びに行くぞ」

 無我夢中で林を駆けてきたが、食堂の窓の方角的に……本家屋敷は近い筈。
 そこに行けば大人達が居る。大量に。それは間違いないから、とりあえずそちらに向かえばなんとかなると思った。

「歩けるか。歩けないなら、おぶってやる」
「……重いからいいの」
「あ? 重くねーよ。さっきまでおぶってやってたんだから。遠慮するな」
「やーなの。……スカートだからおんぶされたら見えるの。それ、やなの」

 膝までの丈の、明るい色のスカート。中は素足。土の上でしゃがみ込んでいる彼女の足は、既に泥まみれになっている。それでも女の子の肌だ。
 見えるって、俺以外誰が見るんだよ。しかもその俺は背負ったら後ろなんて見えねーよ。
 羞恥心と人に見られることを自覚するぐらい意識が戻って来たってことだけど、なんてかったるい思考になっちまったんだ。
 俺が相当「めんどくせーな、こいつ」みたいな顔をしたせいか、彼女は顔を思いっきり顰めて……右手を「ハイなの」と差し出してきた。
 結べ、ということらしい。
 背負わず一緒に歩くというなら手を繋いで行けというのか。……無言でその手を掴む。俺の手と同じぐらい冷たかった。

 寺の敷地内とはいえ、緑に囲まれた林の中。雲が夜空を覆い隠すほどの悪天候。
 お互い上着は洋館の食堂に置いてきた。手袋もマフラーも無い。分け与えるだけの衣服もどちらも無い。だからこうやって熱を共有するぐらいしか身を守る手段は無い。
 手を繋いで改めて今の状況が絶望的だと実感してしまった。
 左手で彼女引き、右手で顔に刺さる枝を払いのけながら前に進む。

「寒いの」
「寒いな」
「なの」

 人が通るために整備された道にはあまり出たくなかった。もしかしたら殺しにくる大きな影が堂々と歩いているかもしれない。なるべく隠むためにもわざと生い茂る緑の中を突き進む。
 手の中に炎を出して少しでも暖を取ることを考えた。けど上手く調節しなければ木々に燃え移って山火事を引き起こしてしまうかもしれない。堂々とした放火などしたくないし、山に逃げている中でそんなことをしてしまったら笑うに笑えない。ほんの少しだけでも自分の周りを暖められないか。そう思いながら白い息をわざと立てた。
 投げ捨てかけた携帯電話の表示はまだ真っ赤のまま動かない。携帯電話を時計代わりに使っていたので時間を確認することもできない。今が何時なのかも判らず、凍える前に足を進めるしかなかった。
 そう、凍える前に。たった数分歩いただけでその可能性が生じてきた。
 それは俺よりも露出の高い彼女の方が深刻な問題だった。
 常に後ろを確認しながら先を行く。
 左手にがっちりと指を絡めている彼女は、早くもガチガチと歯を鳴らしていた。少しでも体温を維持しようと元から小さな体を縮こまらせてはいるものの、限界がある。そのうちぷっくりと膨れた唇も青くなってしまうんだ。かじかんだ指は棒のように硬くなってしまうだろう。そうなる前になんとかしないとと焦り始める。
 顔色を確認すべく何度も後ろを振り返った。
 そうしてこんなときでも彼女の髪の色に慣れず、そのたびに驚いてしまう。
 判っている筈なのに見るたびに普通じゃない色にドキッとした。木々の中に灯る赤い髪は暖かそうだなと一瞬思うんだが、それでも俺達となんら変わらないものだから気のせいだと頭を払う。

「……紫莉、ちゃん」

 彼女は、噂の彼女だと思う。
 福広さんが言っていた、俺達の神様。
 異端を群れを呼び寄せた原因……そんな凄い人物だっていうならこの状況を打破してくれと言いたかった。
 でも、何もしない、何もできないまま震えて手を繋いでいる女の子には力など無い。その事実が肌で感じ取れる。
 てっきり掛け声一つで何の化け物でも倒せるぐらいの超人的な能力者の女が現れると思いきや。

「君はどうしてこの寺に居たんだ?」

 歩きながら尋ねる声はとても小さくなってしまった。
 一瞬俺の声が聞き取れなかったのか、彼女はすぐ答えない。というより、喉まで冷えこんでしまって音を出す器官すら機能停止しかけたというところだった。
 俺は考える。……もしかして、この子は神様だって思い込んでいるのは俺なだけかも。
 彼女はその神様の連れ子とか、妹さんとか、そういうご家族の一人で別人なんじゃ……。冷えていく体に反して頭の中は迷走がヒートアップしていく。

「……招待、されたの」
「招待って……何の」
「あたしはね、お家じゃなくてこのお寺に居るべきだって言われたの。冬のうちだけでもお寺に来なさいって言われたの。じゃないと、みんなが住んでいるところが大変なことになるから。おっかない奴らが夜中暴れるからなんとかしないといけないって。でもね、お正月を過ぎればどうにかできるから、その間だけでも暫くここで一緒に住もうねって、ここをあたしの家だと思って住んでねって言われたの。……燈雅さんに」

 ――嗚呼、確信。
 ――どう考えても、この子が神様だ。

 福広さんが説明していた事情が克明に蘇っていく。
 長年俺が担当させられていたあの区域での異端の大量発生。夜中に倒しても倒しても徹夜して討伐しまくっても、いくらだって出てくる怨霊の群れ。
 調べてみたらそれは一人の少女が『ただそこに居たから』が原因で、彼女がそこから居なくなれば問題が無くなる……。福広さんのいい加減な説明そのままのことを、彼女は口にしていた。
 『お正月を過ぎれば』というところだけが判らない。でも年末の間に対策を練ればあの地域の危険性を薄められるのかも。きっと、多分。
 とりあえず彼女をあの区域から仏田寺に引き離すために『とりあえず』騙しただけ……じゃないと思いたい。

 俺が9月から幽霊退治をしていた原因の彼女。
 異端を引き寄せて騒ぎを人知れず起こしていた導因。
 渦中の真相。全ての発端。
 じゃあ、何だ。もしや、今の異常事態も彼女が無意識に起こしているのでは……?

 やめよう。俺は首を振る。
 確信が無いことで繋いだ手を振り解くことはしたくなかった。

「ねえ。燈雅さんの、所に行けば……なんとかなるんじゃないの?」
「……燈雅さんって、えっと……次期当主の人、だよな」
「燈雅さん、何かあったらすぐに俺を呼んでいいって言ってくれたの。不自由はさせないからって言ってくれてたの。あの人、大人で凄い人だからなんとかしてくれるの。……どこに居るの?」
「偉い人の居るとこなんて知らねーよ」
「……のっ!」

 繋いでいない彼女の左手が、ポカッと俺の左肘あたりを襲った。ちっとも痛くなかったその一撃は何だ。またこいつ、俺のことを「使えねーな」って思ったのか。それとも「思い出して!」って檄を飛ばしたのか。
 思い出すも何も、本当に偉い人がどこに居るもんなのかなんて知らない。
 この日なんだから広間に居るんじゃねーのとしか思えなかった。

「……藤春伯父さんなら広間に居るって確信できる。そこに行くのが一番だ」
「なの?」
「そう。一番なの」

 一向に指と指を結んでも体温は回復してはくれなかったけど、結んでないよりはずっと良い……と信じたくて、そのまま彼女の手を引いていく。
 本当に、どうしてこんなことに。
 思いながら木々を掻き分けると、見覚えるのある道に辿り着いた。山門だ。夜のうちは大きな木の扉で閉じられているが、この先を通れば長い石段を下って行ける。
 広間じゃなくて外に行く。うん、それも悪くない選択の筈。新座さんだってどんな意図か知らないけど「何かあったらすぐに外へ逃げるんだよ」って言ってくれたんだし。
 緑の中から一度歩道に出て、山門に近づこうとした。
 ダメダ。
 オレタチはドウジにアシをトめた。

「……っ……」

 二人揃って顔を見合わす。
 無言のまま俺は首を振り、彼女はこくんと頷いた。

 何か理由があったと問われても答えられない。ただ山門には近づいてはならない。首筋を駆け抜けていく風が、ぞくぞくとそう告げている。それだけだった。
 虫の知らせ、嫌な予感によって足を止めたってだけ。たったそれだけの理由で出口に向かわないのはおかしいかもしれないけど、二人同時に同じことを想ってしまったのだから、確信に近かった。
 あのサキにイってはいけない。
 あのミチをツカってはいけない。
 ここをデてはいけない。
 ここからニげてはいけない。
 次々と誰とも知れぬ声が俺達の体を支配していった。

 道へと踏み出せないまま、息を呑んで数分考え込んでしまう。
 あそこは行ってはいけないんだから、元の考え通りに本家屋敷の方へ……と思考が巡りに巡っていると、

「兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃんーっ!」

 という突如大声が、頭の中の深い霧が晴らしていった。
 火刃里が、山門から真っ直ぐ進んだ先にある本家屋敷の方から突っ走ってくる。あんまり綺麗とは言えないフォームでどたどたと走ってくる顔は、いつもと変わらぬ元気いっぱい満面の笑みだった。

「火刃里……」
「なんだよ兄ちゃん紫莉ちゃーんっ! 俺置いて行って二人で逃避行ーっ!? そんなの許さないよ愛が二人を分かつまでっていうかお外寒いよ早く戻ろうよぉーっ!」
「火刃里……?」

 思いっきり全速力で走ってくる火刃里はブレーキなんてものを知らず俺へと突っ込んでくる。
 いつも通りの火刃里の笑顔の猛ダッシュ。正面きっての大暴走なんていつもならひょいっと避けてみせるのに、脚が棒きれになりつつなる俺は……繋いでいた彼女の手を離し、少しだけ押し退けるようにして遠くへ飛ばす。
 彼女が「きゃっ」とよろけたのとほぼ同時、火刃里は俺の体に突貫してきた。
 腹に激突する弾丸のような弟のせいで、頭から土にめり込む。普通に痛ぇ。

「いくら紫莉ちゃんが可愛くて兄ちゃんも女に飢えてるからって二人きりで夜のデートに出かけてパーティー抜け出そうぜコースなんてひどいよーっ! トランプとウノと花札を探しまくっていたおれのことを考えよぉよぉーっ!」
「うっせーよ! どこをどう見たらそういうシチュエーションに思えるんだよ馬鹿野郎!」
「女の子とっ! 手を繋いでっ! 二人で走り去って行くっ! そのシチュエーションはどこをどう見てもそういうもんでしょーっ! この薄情兄ちゃーんっ!」

 嘘泣きしながらげらげら笑ってんじゃねーよ、真の馬鹿野郎。兄ちゃんは今もお前が爆笑している最中に脳震盪で死にかけてるんだからな。
 何をどう勘違いして女の子を攫って逃げる紳士のような状況を作り出してるんだ。俺の顔に付いた傷やあの子の足を気遣ってやれよ、と指を差そうとする。
 俺に吹き飛ばされた彼女は、よろよろとしていたが……とある影によって支えられていた。
 ふわっとした毛布が小さな彼女に掛けられる。駆けつけた大人……穏やかに大山さんが、彼女の肩に暖かい毛布を掛けてくれていた。俺も同じことを望んだんだが、腹の上に馬乗りで座る弟はそんな気遣いをしてくれなかった。

 土と小石を枕にしながら、彼女に「大丈夫かい?」と声を掛けている大山さんを見る。
 大山さんの他にもおつきの男性達が数人いた。手には提灯ランプ。暗がりが一気に橙色で染まっていく。
 そうだよ、夜中だから灯りぐらい持たないと。でもみんな、夜だというのに外着を羽織っていないな。……中でお酒を楽しんでいたような普段通りの格好のままだ。上着も用意せずに俺達の元に来てくれたのか。
 俺達のいる山門まで来てくれたのか。
 来たのか。
 どうして?

 ――土の上で寝そべったまま。何人もの足しか見えないその視界の中に、見覚えのあるブーツが見える。
 火刃里が師と仰ぐその男の靴が動くたび、小石が赤く染まった気がした。

「……なあ、火刃里。どうして俺達がここに居るって気付いたんだ……?」

 未だに俺の上に乗っかったままニコニコ笑って退かない弟に、そっと尋ねる。

「だってさぁっ、食堂に戻ったらさっ、『尋夢と寛太が死んでるだけ』だったじゃんっ! 一本松様に尋ねたら兄ちゃんは紫莉ちゃんを連れてどっか逃げたって言うし、蝿もどっかに逃げちゃったって言うよっ。そしたらどこ行ったか探すしかないよねっ! ……一本松様、結界屋さんだもんっ! 誰が山門に来たかなんてすぐ判っちゃうんだからっ!」

 未だ馬乗りの態勢は変わらず。俺より小さいと言っても十を越した年の弟だ、全体重を腹の上に掛けられたら身動きはできない。
 だから火刃里は、「結界の傍に来てくれたおかげだよっ」なんて、頭上でニコニコと笑ったまま。
 結界の効果を思い出す。監視カメラ。侵入者のセンサー。それだけじゃなく、小さな感情の操作も……。
 考えているうちに、俺が横たわる周囲に無数の足が立つ音を聞いた。



 ――2005年12月31日

 【     / Second /     /     /     】




 /5

 そのまま眠っていたかったが、あまりの冷気が凶器となって素肌を刺してくる。意識を失ったまま朝を迎えたくても、薄着のまま転がされて雪が降るほどの気温には耐えられなかった。

 滅多に入らない工房に連れて行かれたと思ったらそのまま地下に連れていかれた。魔術結社の研究施設というのは寺に住む弟・火刃里から聞いてはいたものの、地下というものが奥深くまで繋がっているとは思わなかった。
 あんな壁に扉があることすら知らなかったし、ゴウンと動く箱は数分間動き続けていた。
 数秒じゃない。数分だ。最新鋭のエレベーターではないだろうけど、何分もかけて下へと動くそれは一体どれほど山を抉っていたのか。
 彼女には肩から毛布が掛けられたというのに、俺には何一つ無い。相変わらず食堂でいたときの上着無しの格好のまま、十数人もの群れと共に暗闇の中へと誘なわれた。

 冷たい冷気が人を拒むように漂っているそこは、少なくても冬に人間が住める場所ではないということだけは知らせてくれる。
 地下空洞。そのような言葉が思いつく。
 洞窟よりもしっかりとした場所だけど、部屋というのには野暮ったい。
 土と水の匂いが立ち込める陰気な地下。それだけでもホラーを感じるのに、何より恐ろしいのが魔法陣という魔法陣が壁や天井矢床、上から下までびっしりと赤く張り巡らされていた。

 連れてこられた先でそこまで見てしまって、ついに俺も気を遠くしてしまった。
 招待された場所が信じられないぐらい悪しき気に満たされている。常人なら触れてしまうだけで気絶してしまうほどだ。
 禍々しい魔術を見慣れてはいないが見覚えがある俺でもふっと気絶してしまうほどのそこは、どんだけの魔力を込めた儀式場だったのだろう。

 そうして溢れんばかりの魔力が詰まった洞穴を直視してしまい、気絶してしまってどれくらい経ったか。あまりの寒さに自分のクシャミで目を覚ました。
 自分が横たわっているのは間違いなく魔法陣というものの一つの上。火を点けたら大爆発間違いなしってぐらいの火薬が詰められているほどの魔力が込められた一画だった。心地良いかは置いておいて、ここまで魔力を込めるのには数ヶ月かかるものだろう。
 それが、俺が横たわっている一画。
 隣で――赤い髪の彼女が横たわっている下にも、もう一つ。
 あっちにも一つ。こっちにも一つ。大爆発が起きそうな起爆剤が、部屋の至る所に仕掛けられていた。
 ……なんだよ、これ。いけないもんだろ。
 いくら火を点けるものが見つからないとはいえ、ダイナマイトどころか都市が吹っ飛んで毒を撒き散らす核爆弾が剥き出しで置いてあるようなもの。
 もし間違って煙草を放ったら? スイッチを押してしまったら? 簡単な妄想だけで最悪の結末が思いつく。
 ……でも、なんで?
 ここが危険なことは重々思い知らされているけど、やっぱりなんで?
 どうしてここに魔法の核爆弾が十個も二十個も置かれているのか判らないし、その上で寝っ転がらされているのも判らない。

 更に言うならいつの間にか両手は後ろに結ばれ、両脚も足首のところで括られていた。
 彼女はただ眠らされているだけだったけど、俺はきっちりと身動きが取れないように結ばれていた。
 爆弾の上で不格好のまま放置されて、寒気が走る以外に何が出来るか。

「怖いかな、緋馬くん」

 ふと声がした方に首だけを向ける。悠々とごく普通に立っている大山さんが見えた。
 穏やかな笑顔。ゆったりとした動き。少し高い所にある祭壇に何かを筆で書いている姿が確認できる。
 床に寝転がらされている俺には何を執筆中なのか見ることはできない。大山さんの横には何かの器を持った男性が立っている。そしてその隣には火刃里が「気を付け」の姿勢で立っていた。「気を付け」を命じられたからピシリと背筋を伸ばしている。でもゆらゆら左右に揺れているあたり、そろそろ立っていることに飽きているのが伺えた。

「慧さんーっ。それって何ーっ? おいしいのーっ?」
「……美味しくは、ないかな。ただの血だもの。『貴重な生き物の血』だから他の人と味が違うかもしれないけど」

 血が入っているという器を持つ、慧と呼ばれた男性。
 書き物をしている大山さんが、一息ついて筆を器に突っ込む。習字の墨を付けるように、ひたひたと赤い液体(中はジャム状になっているらしい)を付けて、再び執筆していく。

「……ひ、火刃里……? お、大山さん、その……」
「怖いかな、緋馬くん」

 繰り返す質問。「そりゃあ、はい」って肯定しかできなかった。
 両手両足を結ばれている俺には頷くこともろくに出来ない。何度も察せられる通り、危険すぎる場所に居る。そう簡単にスイッチは入らないと信じたいが、何が起爆剤かも判らない今……こんな恐ろしい場所で変な動きをしないが一番だ。
 大山さんが墨をじっくり付けつつ、筆を進めていく。火刃里が祭壇の上の習字をじいっと見つめようと大山さん寄りに傾いていった。「何て書いてるんだろーっ?」って好奇心で覗き込んでいく。
 しかし唐突に「火刃里よ」という狭山の声がして火刃里は飛び跳ねるように「気を付け」の位置に戻った。
 ここの冷気と同じぐらいの冷たさの声だ。
 誰よりも恐ろしい狭山の声には、火刃里の悪ふざけも通用しない。

 ここには、大山さんがいる、火刃里がいる、狭山さんがいる。
 他には……俺を連れて来た僧侶が十数人……部屋の周りに控えている?
 部屋の壁沿いに、人。一メートル間隔に、人。手を繋げる距離に人が、僧が、寺の人達がズラリと並んでいる。
 この人達って……みんな、大広間でお酒を飲んでいた人達じゃないのか?
 知っている顔もあれば、こんな人も一族なのかっていう大勢がズラリと立っていた。静かに、何かを待っているように?
 いいや……彼らは『目を開けて』『眠るように』『立っている』。
 異様な光景に冷や汗が首筋を駆け抜けていく。人形のような顔で立ち尽くす大勢の人々。みんなでこんな異空間に集結して窒息しないのか。酸素よりも魔力の方が充満したこの空間で。

「そうか、怖いか。それなら良かったよ、緋馬くん」
「……あの、大山さん、その……」
「怖くないとね、駄目なんだよ。儀式には負の感情が不可欠だ。どんな魔術の儀式にも材料は必要だろう。トカゲの尻尾だったり、キノコだったり樹液だったり」
「は、はあ」
「だけど神様は、感情を好む。人の感情の揺れ動きを何よりも尊いと考えている。そして我々の神様は、恐怖の感情を好む。苦痛の感情を大変好む。嫌忌の感情を何よりも好む。神の儀式には捧げ物が必要だ。最低限の歌と、血肉と、捧げ物。全部必要不可欠なんだ」

 大山さんが、筆を置いた。
 出来上がった習字を見せつけることは、しない。何かを書き終えたのは判ったけど、それは何なのか。とりあえず『合図』の一つであることは察せた。

「航くんの言う通りに呪文は書けたよ。でも私がやっていいのかな、サヤ」
「光緑様も燈雅様もお亡くなりになられた今、我々が果たさねばならん。ここで歩みを止めてはならぬ。千年の血を、願いを、野望を、途絶えさせる訳にはいかないのだから」

 『合図』だ。だって、それによって周囲が動き始めたのだから。
 くるりと振り返る大山さんが狭山と視線で会話を交わす。言葉は無い。だけど二人はコクンと頷く。

「お目覚めください、我が神よ」

 狭山は……祭壇の一番近い魔法陣の上で毛布に包まれ眠る彼女を、優しく揺すり起こす。
 あっという間に目覚めた。「寒いの……」と何気なく呟きながら目をごしごしと擦る。視界が薄暗い魔境に慣れてくると、ただならぬ空気に目を丸くした。
 そうして目覚めてきょろきょろする彼女を無視し、狭山は虚空に手を突っ込み、一本の刀を取り出した。
 そのまま何を斬るかというと、長い刀身の先にすっと自分の人さし指を伝わせる。
 斬れていく肉。先から赤が伝う。
 見ているだけで痛々しいけど美しい動きに見入ってしまう。

「捧げよ、血を」

 その一言。刹那、この場に居た十数人が虚空から刃を取り出し、隣に居た人間を刺し始めた。
 隣に居た人間が、隣に居た人間を刺す。
 隣に居た人間が、隣に居た人間を刺す。
 隣に居た人間が、隣に居た人間を刺す。
 次々に、次々に、次々に。それが当然のことだと言うかのように。上位者に命じられたから従ったまでと言うかのように。何の迷いも無く、表情も変えず。
 刺しただけならまだいい。だけどそれで止まらない。
 人々はまた刺す。人々は抉る。人々は貫く。
 より血が流れるように、より肉が食み出るように、より赤へと染まるように、刃が肉を切り裂き、抜き取り、千切れ舞っていく。
 人形のように虚ろな目をした人は、隣の人の心臓目掛けて刃を突き刺す。ざっくりと胸の辺りが、蓋が開いたようにでろんと捲れる。赤い内部を見つけて刃は蠢く中央を切り刻んでいく。飛び出る人間の機能がぼろぼろと外へと零れ落ちていく。
 また、人形のように虚ろな目をした人は、細い小刀で隣の人の指を切る。掴んでは切って、掴んでは切って、掴んでは切って、それを十本繰り返す。
 また、ある虚ろな目をした人は、錐のようなもので隣の人の指を突す。爪の間に桐をぐるりぐるり捩じこんでいった。捻じ込んで、捻じ込んで、捻じ込んで、それを十本繰り返す。
 また、ある人は、槍で目を貫いた。右目を終えたら左目を貫いた。ぐちりという音を立てて眼球が潰れて、頭の先から刃が飛び出た。左目を貫き終えたら、一度潰した右の穴にもう一度槍を刺し込んだ。二度潰し終えた槍はまた左の穴へと移動した。丁寧に左目を赤く粉砕してから、三度目の右目へと破壊は続いていった。
 また、ある人は、噛みついた。シンプルに首へと歯という刃で刺した。噛みついて、そのまま皮膚を力づくで引き千切る。皮膚を吐き捨てたら今度は肉。肉の次は骨。骨まで噛みつき、噛みつく場所が無くなるまで噛みついた。
 次々と近くに居る人間を、近くに居る人間が赤く染め上げていく。
 淡々と、声も上げずに体を互いに壊し続けていく人々。

 なんだこれは。見上げた先で何が起きているか把握できない。

 あの人は心臓目掛けて剣を刺し込んでいる。あの人は目玉目掛けて槍を突き刺している。あの人は長い腸を引きずり出して丁寧に切り刻んでいる。
 それが淡々と行なわれている。
 心臓が無くなれば周囲の器官は大破する。血のシャワーが降りかかる。目が無くなれば穴から涙のように血が垂れ流される。お腹の中身が無くなれば頭と足を繋ぐものがないってことだから立っていることすらできなくなる。
 人が、これ以上無いほどに赤へと染め上げられていく。隣の人が、隣の人へ、同時に、死にかけながら死にかけを作っていく。半分無くなった人間が、半分無くなった人間へと変えていく。
 それは弟もまた例外ではない。
 火刃里もまた、虚空から出した大きな剣を隣に居た女性の腰を打ち貫いていた。
 女性の腹から刃が出てくる。貫通した、と思った瞬間勢い良く火刃里が剣を引き抜いた。おかげで女性は腹から、口から、どぷっと大量の赤を吐き出す。
 それで止まる火刃里ではない。そういや「剣をうまく扱ってみせるっ!」と宣言していた弟は、素早い動きでよろめく女性の背中を二度斬った。バッテン印を付けるように、
 皮膚の上を軽く滑らせただけでも血は滲む。揺らぐ女性も女性で隣の男性を殺そうと両手にナイフを持って襲い掛かっていた。隣の男性にざくざくりとナイフでめった刺しにしていく女性。その女性の背中をバッテン、バッテン、バッテンと何度も何度も何度も大きく切り刻んでいく火刃里。
 その顔は虚無。
 げらげら笑ってぎゃんぎゃん喚く弟とは思えぬ、静かな凶行。

「……あ……ひば……り……?」

 ああ、こんなの、火刃里じゃない。火刃里じゃない別人だから、別人なら、そんな表情でも仕方ねえな……そう思えたのは、仮にも俺が火刃里の兄だからだ。

「や……やだ……なの……」

 けど、彼女は違う。火刃里が大人の一声で女性を殺せる人間だと思ったのか、一部始終を見ていた彼女は、ガタガタと信じられないほど震えていた。
 って、俺が震えていないなんて嘘だ。俺だって動揺している。尋常じゃないぐらい。でも周囲で怒っている殺人、破壊、暴虐の限りが静かに行なわれ過ぎていて、飛び散る肉片が顔に当たったとしても実感が湧かなかった。

「なんだい、緋馬くん、怖くないって顔だね?」

 そんな俺の中を読み取ったのか、顔についた誰かの血痕を拭き取りながらも大山さんが微笑む。
 筆を持った大山さんと、血の器を持った男性、そして全員に死を命じた狭山は……いつも通り何事もなく、その光景をただ眺めているだけ。
 狭山はというと、今度は日本刀で逆の……左手の指を斬りつけていた。新しい鮮血が、刃に滲んでいくのが見える。

「何が何だか判らないから怖くないってところかな? うーん、観客席ってそういうものなっちゃうのかな。私達としては君にも震えてもらわないと困るんだけど」
「……な、なん……で……?」
「さーて、呪文の歌が書けて、血肉も用意できた。これで必要な二つは用意できたから。サヤ」

 残す一つは。
 大山さんは、刀を持って冷酷に佇む男の名を呼ぶ。

「――捧げよ、恐怖を」

 中央に居た彼が、血を掲げながらも再び全員に告ぐ。
 一言彼が命じただけで、人々に感情というものが灯っていく。
 だけど、まだ人形のままの方がいいと思ったとしても止まらず。

「あっ、ああっ、あああああああああああああああぁぁぁぁっ!?」「ひぎいいいいいぃいぃいいいいいぃっ!」「ぎゃああャッ、があぁあああぁっがああ、うぎゃあああが、がぁぎゃあ!!!!」「がひゃじあ、じぬ、じんじゃああああう」「千あ、ちぎれ、切れっ、千切れちゃうっ、ああああぁぁああああああぁっ!?「ひゃああぁぁしぃああ!!!?」「痛い! 痛いっ、中がああ、ぁぁ、でちゃ、あああああぁあええお!」「やめえあああぁぁっ! 無いぃああっ痛やめええあぁ」「ぁあうぎゃあああああああああぁぁぁっ!「ぎゃあッ!? たす、し、たすけ、いやあああぁぁ!」「うぎゃあぁぇ! ぎあああぁぁああ! ぎゅぎゃああああああっ!」「ひぎゃああぃぃぃぃ、死ぬぅ、やめ、いぐああああああぁぁ!」「ぎっ、ぎいいいいぃぃっ!」「ゆびぃ、ああああ、いたいいたいいたいやめただああああぁぁ!」「びびゃひぎゃぁっ、ぎゅうあああがっ、おれの、から、ぎゃ、うぎゃああああああああああああぁぁっ!!」「ぎゃああっ、ごごぐ、ぁぎゃう、がああああぁっ、ぐうぎゃああ、いいいぃああああああああぁぁっ!」「ごぶっ、ぎぎぃ、ぐあががああぁぁうああご……!!」「兄ちゃ、いた、やだああ、ぁぁ、いて、いたいよあおおお母さんいたいやあやだぁぁぁたすけておかあさんんんん」「ぎゃぐぶっ! があぁっ、助けて助けやだなんでわたしこんなやりたくいたいいいいやめてやめちゃめていぇめやめてげほっやめてええぇああ!?」「ぎゃうっ!? たすけぐ、あぁびああああぁぁっ!」「きゃああぁいあああああやだああぁぁっ! ぎゃああさや、まああさま、ぐぁぎゃっ、いたいぃいぃやだゆるしああああああああああぁぁっ!!」「ぎゃああぅ、うぎゃああ、いやぁぁ! ひいいいぃぃあっ、とまれなんでとまらないああああぁぁぎゅあぐあがやややぁぁぁががぎぁあぎゃあうううッ!」「死にた、あああ、なんで死なな、ななな、早く、早く死んで、あああいやい痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいぃぃいいぃっ早くうぅぅあぎゃぐあががが」「おなか、無いぁ、あっ、ぎゃああぐぐっ、ぎぐあっ、あああう、うああああぁっ……!?」

 ――夢から醒めた人々は、自分達の行なっていた凶行に驚愕する。
 自身の体に生じている現況。
 みな理解できず、理解して、震え上がっていった。

「彼らはただ、目の前にいる『怖いもの』を排除するべく武器を取った。自衛のため、化け物を殺した。力の限り殺した。だけどその化け物の正体が知り合いだと知ったら? 自分の犯した過ちを悔やむだろう。恐怖だよね。尚且つ自分の死が直前まで迫ってきていたとしたら。恐怖だよね」

 目を見開いて刃の咲いた胸を見る者。内臓を引き摺り出された事実に驚嘆する者。血を吐き出している状況が理解できずに途方に暮れる者。裂いた相手の体を目撃して恐怖し、裂かれた自分の体を自覚して恐怖する者。大勢が理解できない自身の行ないに平静を失う。
 お互いの傷を、自身の血を視認した瞬間、痛みを理解していく。
 心臓から凶器が飛び出していることを理解して、死を覚悟する。腸が切り刻まれていることを理解して、崩れ落ちる。足が切断されたことを理解して、歩みを止める。制止の言葉も敵わないと知りながら、やめてころさないでと叫ばずにいられずにいる。
 殺戮という殺戮がこの場には満ちている。
 恐怖だ。恐怖の空間が完成している。ただ、更なる恐怖はこれからだ。
 殺戮の果てだというのに、『誰も死んでいなかった』。
 身を裂かれる痛がる人がいる。足を失くして転げる人もいる。頭を撃ち抜かれて飛び出た脳を集める人もいる。だっていうのに、誰も死に辿り着けずにもがいている。
 死ぬほど痛い。目を粉々にされた痛みのまま苦しむ人がいる。どばどばと口から蕩けた赤いものを吐き出しているのにも関わらず「痛いよ」と嘆く人がいる。全てが溶けて崩れているっていうのに「助けて」って叫びを上げているだけの人がいる。
 砕けて割れている頭から悲鳴を上げている音。人の形を失くして這いながら逃げようとしている赤い物体。血まみれのまま、死に逝くと自分も他人も判っていながら「殺して」と叫ぶ、その先は訪れないまま転げまわる人々。
 絶え間ない痛みに啜り泣いているのは女性だけじゃない。男性も、年若い者も年老いた者も、赤を垂れ流す人々は全て直前の死に恐怖して絶叫していた。
 痛い痛いと、死ぬ死ぬと、でも死ねない死ねないと。
 死にたくないと叫ぶ人もいれば早く殺してと懇願する人もいる。言葉は違えど、どいつもこいつも死に咆哮していた。
 それなのに生命活動は停止しない。魔法陣中に治癒再生魔術でも掛けられているのか。それとも魂の束縛でもされているのか。一秒さきの死が一切訪れてくれない。
 ここの魔法陣が殺さないようにしているなら、どうして痛みを麻痺させるように、苦痛を制御させてやらない。
 理解はできない。でもここがあってはならない空間だっていうことは判る。血臭たちこめる魔力の渦が数段色濃くうねるのを感じた。爆弾の火力が一段と増したのが、肌に突き刺さるように感じ取れた。
 これはいけない。こんなの駄目だ。こんなことあっていいものか。
 開いた口から喉の裏側のひたひたを見せつける人がいて、目玉のあったところから大量の脳汁を垂れ流す人がいて、片手だけ残った人が刀を持って歌を謳う狭山へと手を伸ばしていて、それでも全員救われなくて苦しみもがく。
 言われた通りに血肉を刺し出し、言われた通りに自分達に恐怖する。その結果が「助けて」という大合唱。
 みんながみんな、たすけてたすけてと同じことを口を揃え始めている。
 第一の恐怖は殺戮、第二の恐怖は驚愕。第三の恐怖は懇願だ。あれほどまとまりの無かった地獄が、一つの個体になりつつあった。

「これで材料は全て揃った。救済を求める強い意志こそが何より必要なものだからね。儀式を行なうという熱心な想いが無くちゃあ、できるものもできない」

 綺麗な格好のまま変わらない祭壇の元へ、大山さんと狭山へと手を伸ばしていく赤い人々。手が無い人は這いずってでも救いを求めて縋っていく。
 その中に、弟の姿があった。あの大絶叫の中に確かに弟の声を見つけた。なんて叫んでいたか。聞きたくなかったけど、一際目立つ甲高い弟の声は両手を拘束されて耳を塞げなかった俺の元にちゃんと届いていた。
 ――兄ちゃんという声と、お母さんという声が。

「ひ……ひば……ひばり……」

 合間合間に入った痛いという悲鳴。助けてという懇願。弟に似つかわしくないあの泣き声。
 それでもそこに居て叫び声を上げているのは、弟に間違いなかった。

「……さて兄貴。『真祖』は確保できなかったが、これほどの血肉と喚呼があれば」
「うん、サヤ。せっかく男衾が取り戻してくれたのに逃がしたのはイタかったけど、これぐらいで良いと思うんだ。純正な贄を用意できなくても、ちゃんと器は用意できたんだし」

 そのとき、彼女が暴れたせいか少し高いテーブルである祭壇から転げ落ちた。一メートルもない高さだったけど、ごろんと転がって段差から這い出ようとする。
 けどそれ以上は進まない。彼女は腰を抜かしてしまい、ここから走って逃げることができなかった。

「……あ……火刃里くん……」

 しかも運が悪く、転がった先に居たのが……先ほどまで一緒におやつを食べた男の子の、血まみれの姿だ。
 何も出来ずに座り込んでしまう。

「火刃里くん……ひばりくん……?」
「こらこら、またどこに行くつもりですか、神様」

 祭壇からゆったりと着物の男が降りてくる。血が滴り広がり、床中に記されていた魔法陣を覆い隠すほどの真っ赤な中に、そっと草履が踏み入れてきた。
 飛び散った破片をぺちゃ、ぺちゃと踏み潰しながら、さっき筆で書いていた御符を片手に大山さんが近くに寄ってくる。拘束をされていないけどその場から動けず一部始終を診ていた彼女の元へ。
 彼女はぺたんとへたり込んだまま、大山さんの方は見ずずっと……さっきまで一緒に遊んでくれていた火刃里を凝視していた。見ていた、というより釘づけにされたまま目を閉じることも出来ずにいた。微かに開かれた口からは拒絶の言葉すら忘れてしまったようで、「……ア……」と吐息が寒い空間に白く漂うだけ。
 拘束もされていないのに腰を抜かして立てない彼女の肩、大山さんはポンッと押した。
 彼女の体がごろんと転がる。魔法陣の上で仰向けにされて、そのとき頭をコンッとぶつけたのか、その衝撃で彼女の意識が一瞬蘇る。
 いっそ呆然とされるがままの方が幸せだったのに、覚醒してしまった彼女は無限の苦しむにもがく火刃里ではなく、自分を押し退けた大山さんへと視線を向ける。
 おそらく父親よりも倍の年の男に覆い被さられて、何が何だか判らないような顔をしていた。出てくる言葉といえば引き攣らせてなんなのということぐらい。仰向けの彼女のもとに馬乗りになる彼。天を見れば大山さんの顔しか見えなくなる。
 大山さんは札の掴んでいない手に魔法のナイフを召喚すると、彼女の衣服を引き裂いた。
 元々薄着だったから紙で引き裂くようにあっさりと。
 素肌の胸が露わにされる。幼い彼女は大人に何をされるか想像もできなくて、出た悲鳴は寒いという色気の無いものだった。
 大山がほうっと甘い息を吐いて微笑む。

「小ぶりで可愛い。綺麗な色だ」

 囁いて、左胸を鷲掴んだ。
 掴めるほどない小さな胸に大人の掌が襲い掛かる。ひぃっと彼女の口から漏れる金切り声には程遠い。

「こんなに可愛い神様と出会えるなんて、始祖様も満足していただけるだろう」

 左胸を掴まれ、ぐいぐいと動かされている。やだ、やめて、痛いのと喘ぐ声はとても小さい。
 わざと彼女に悲鳴を上げさせたいのか大山さんの動きは激しくなる。ぐいぐいと引っ張るような動きから、ぐりぐりと押し込むような刺激へ。彼女はぎゅううっと目を瞑って痛みに耐える。けど、周囲の叫びに比べればそんなの些細なものすぎて、大勢の「たすけて!」「ころして!」の懇願の大合唱に掻き消されていった。
 身を捩りもがく子供の上で大山さんは笑っている。「あんまり怖くないのかな? もっとキャーキャーって叫んでいいんだよ? その方が、私も楽しい」なんて優しく語り掛けている。
 涙は滲ませているけど、もう何が何だか判らないって方が強いらしい彼女はいやいやと頭を振るうだけだった。それほど様子は変わらなかった。

「恐怖に慣れてしまったか」

 そんな彼女と大山に釘づけになってしまったせいか。刀を手に祭壇から降り立っていたもう一人の男の存在に気付けなかった。
 狭山は俺の枕元に立ち、刀を床に突き付けている。
 少し俺の方へと傾ければ、頸動脈ってところに刃が入り込むという絶妙な位置に。

「なんだ、そんな白痴のような顔をして。観客席に居るというのに理解できていないようだな。緋馬は何故あの饗宴に参加できなかったか、理由をご説明して差し上げようか?」

 唐突に狭山が口調を改める。年は俺の倍とはいえ、一応俺に敬意を払うという規律正しさをこんなときに見せつけてきた。
 驚きすぎて声の出し方を忘れかけている。震えて歯がガチガチ噛み合う。
 まず饗宴というのは何だと訊きたいが、狭山の言葉を止めることができなかった。

「お前の体は我らの管理下におかれていない。我々の令呪の恩恵を受けずにいる唯一の存在と言える。実際には、ときわとみずほも言えることなのだがな。……理由か。お前らの親が我々に従わなかったからだ。奴らは勝手に子を成し、我々の言葉も聞かず、血に課せられた使命も全うしようともしなかった。だからお前らには自分の意思で儀式に参加してもらわなければならないのだ。『機関』の手に掛かっていないお前達三人は、一族の中でも例外だから」
「……は……。自分の、意思で、儀式って……参加って……?」
「お前に知識はあるか? 儀式に相応しい呪文の知識が。無いだろう? ろくに学びもせず怠惰にただ生きてきただけだからな。……だが馬鹿はお前達だけではない。残念なことに、全ての契約者が儀式の手段を心得ている訳ではない。残念なことにな」
「…………」
「この血に生きる者は必ず神を生む使命を授かっている。いつか神を生まなければならない。それは絶対だ。逃れることの無い宿命。……それゆえ、我らが教えてやっているのだ。知識の足りない連中もこの使命を果たせるように、血を通して、魂を通して」

 一言、我々が命じた通りに事を運べばそれでいい。
 それで完成させるように、してやっているんだ。

 ここにいる全員に命令を下した男は、足元の俺へと告げる。
 ――儀式に必要なものは、血と恐怖。
 ――捧げなければならない血と恐怖。
 狭山の命令一つで、最も大事な血と恐怖を差し出せる。
 たった一言。「目の前に居る敵を傷付けろ」と命じられた者達は、言われた通り目の前に居た人間を殺した。
 全力で。
 意識も無く。
 言われた通りに。
 そうして血を捧げた後にもう一言。「目を覚ませ」と命じられた者達は全てを理解し、恐怖した。その結果、儀式に必用な血と恐怖は全て捧げられたことになる。
 それはあくまでここに居る者達が、授かった血の使命を全うするための手段。
 そしてその手段では捧げられない連中がいる。それが俺達。だから俺達は命令されても動かず、ただ洗脳された彼らを見ているしかなかった。

「難しい話じゃないよ、緋馬くん。柳翠様と女中のごく普通のまぐわいで生まれた君の体に、我々の核を埋め込む暇が無かった。君は生まれてすぐ藤春様が連れて行っちゃったからね。隙さえあれば契約したかったんだけど、藤春様はなんだかんだでガードが固かった。気付いたら君はもう一端に動けるほど大きくなっていて、普通の契約じゃない我々のギアスを授けてやることができなかったんだ」

 女の子の体を掌一つで弄びながら、大山さんも俺へと優しい言葉を投げ掛ける。

「それは君だけでなく、ときわくんも同じ。彼は藤春様が隠れて作ったお子様だからね。サヤが赤ん坊の頃から幾度も『再調整』しようと『機関』に連れて来てくれたんだけど、運が悪いことにあの子は一本松と同じく生まれつき対魔力の異能が凄まじくて。胎児の頃から調整できなかったのが悔やまれる。……みずほができなかったのも悔しいな。あさかは貰った先で弄ることができたからいいけど、みずほはノータッチ。本当に、藤春様は、憎たらしい」

 一際甲高い女の子の悲鳴が上がった。大山さんの下でもがいている彼女の絶叫だった。
 いつの間にか彼女の胸には血が滲んでいた。大山さんが爪を立てて、彼女の素肌を傷付けたらしい。まだ汚れのない美しかった白い肌に赤い血が滴り落ちる。

「んん、どうしてもっと鳴いてくれないんだい? 怖くないのかな、君。ガリって爪を立てられて、殺されちゃうかもしれないんだよ? もしくは犯されちゃうかもしれないんだよ? それなのに……」

 皺の多い大きな掌が、ずりずりと彼女の腹を撫でる。艶めかしい動きで。
 彼女はぎゅっと目を瞑り、歯を食いしばり、じいっと耐えていた。目には涙を溜めている。怖くない訳が無い。怖くて堪らないのは見て判る。でも彼女は我慢ができる子なのか、元来強がりな性格なのか、今からされることを想像しないように目を閉じて外からの情報を遮断していた。
 彼女の耳元に大山が唇を寄せる。自分に起きるかもしれないことを、克明に伝えていく。
 君はいくつかな? まだ小学校に通っているのかな? ナイフで心臓を取り出されたことはあるかな。ないよね。でもさっきここでみんなを見ていた筈だ。してみたらどうなると思う? 死ぬと思う? ううん死なないよ。殺してあげないようにできるんだ。でも痛いだろうね。やってみるかい?
 穏やかな微笑みを浮かべながらも囁く声。彼女は頭を振るう。大の大人に馬乗りになられて両手をばたつかせて。どこにも逃れることができないまま。それでも抵抗を試みていた。

「ああ、まだ実感が湧かない? 結構さっきの時間は長かったしね、見ていたら慣れちゃうものなのかな。……ううん、脅すのはダメかあ」

 吐息を頬で感じるほどの近くで囁いていた大山さんが、頭を上げる。
 どうしたもんかな、と困ったように首を傾げた。「せっかく産まれてくれた君を殺すのはもってのほか。犯すのもダメだって重々言われてるもんだから」と種明かしまでしちゃっていた。それでも彼女の上から退きやしない。
 じゃあ、違う手段を。そう考えるのは当然だ。

「さっき君は火刃里に執着しようとした。つまり、知り合いが死ぬ方が、怖いってことだよね」

 大山さんが狭山に視線を向ける。俺の枕元に立っていた狭山が頷く。次の目論見を、何かをし始めた。
 そんな悪寒に襲われて、身構える。

「藤春様。おいで」

 ――サアっと血の気の引いた。
 両手を後ろに結ばれた俺は、起き上がろうと身を揺らす。じたばたと暴れて、近寄ってくる何かをこの目で確かめようと体を起こした。

「早く。藤春様。おいで」
「こちらです。藤春様。緋馬様はこちらに」

 二人は揃って、聞き間違いではない名を呼ぶ。
 その声に導かれて、とある影がこちらに近寄ってくる。
 言われた通りにこちらへ、ずりずりと。這いずってくる大きな何か。二人が「こっち」と言うたびに魂への縛りが強くなったのか、強制的に体が動かされたのか、大きなそれはずりずりずりとスピードを上げて這いずってくる。
 その名を呼ばれて、やって来たってことは、それはその名だということ。
 やって来た物体が、その名だということは、それは間違いなく彼だということ。
 認めたくはなくても藤春様と呼ばれたそれ――左半分を失くした人のようなそれは、血まみれの右腕と捻くれた右脚だけで俺の傍までやって来ていた。

「…………」

 半分は伯父さんだ。その明るい色の髪色の男性なんて、お寺には伯父さんぐらいしかいない。現にここに倒れている人達は黒髪ばかりで(今は血で赤く染まっているが)、金髪でシャツ姿を見てしまえば……どうしても伯父さんだって思ってしまう。
 でも、半分無いから伯父さんだって言いきれない。
 顔の半分は、斬り落とされていた。殆ど赤黒い肉にしか見えないけど、頭蓋骨が見えて、目玉はぶらんとぶら下がっていて、顎の形がはっきりと見えて、右腕のだって切断さえて肉が飛び出てて、内臓を置きっ放しにして、足が片方しかないからずりずりと匍匐前進するしかない。
 そんな無残な姿のどこが藤春伯父さんか。だというのに、

「……ひ……う、ま……」

 顎の骨だってはっきり目にできるぐらい口の形状が無くなっているというのに、声帯が無事だからなのか伯父さんの声が、『それ』から、発せられた。
 俺の名前。それを呼ぶ以外は苦しげな呻きを上げるだけ。
 呻き声なんてものじゃない、単なる摩擦音。背骨を軋ませながらも片腕の力だけで体を前進させている『それ』。
 腹の底から吐き気が込み上げてきた。でも吐いている余裕も無かった。

 ――なんで、なんで伯父さんまで、そんなことを。

 例外は俺と、ときわさんと、みずほだけ。例外は三人。それ以外の人は、この血の宿命を全うしなければ? 同じ血を引く藤春伯父さんも違いなく?

 どうすれば、その現実に耐えられるものか。



 ――2005年12月31日

 【     / Second /     /     /     】




 /6

 多くの者が自殺を図った。

 おそらく仏田の中央を動かしている人物が令呪で皆の死を願ったからだろう。皆が血を捧げることで、最低最悪の儀式を完成させるためだ。
 とても単純な儀式だ。多くの血を流させるだけ。出来れば負の感情にまみれた状態で。
 意味の判らぬ恐怖に襲われ、自分の命を他人に翻弄されて自分の死を認められないまま、死ぬのみの儀式。それが『欺く神』を召喚する何よりの材料だ。だから大勢が唐突に死んでいく。訳も判らず死んでいく。無意味に死んでいく。

 ……その死を、楽しんでいる男がいる。
 生きている人間が居なくなったと見た彼は、斧に付いた血を振り払いつつ、自分で殺せる標的を求めて彷徨い歩いていった。彼の喜びを生きて耐える者は居ないのだから、殺した後は次なる獲物を求めて廊下に出て行くのが道理だ。

「……う……」

 彼の大斧に左半身を斬られた。頭も寸前のところでかわしたが軽く斬られてしまい、一面に血を撒いてしまった。
 ……それでもオレは生きているのだから、生まれ持った『自己再生の異能』は恐ろしい。

「うっ……く……」

 腹から出る大量の赤。切れた頭から血が流れ、耳の穴に入ってくるのが気持ち悪い。普通なら死んでしまうんだろう大量の血液を、ゆらゆらした意識の中、じっと見る。
 じっと見続けること五分。ようやく異能は発動し、傷口は閉じないけど出血が止まった。
 微かに動く指で出ていった血液を掻き集める。腹に戻して、あまり得意でない蘇生の呪文を唱える。
 こういうときばかりは自分が普通じゃなくて良かった。小さな傷なら一時間後には癒えて消える。もういない兄さんのように治癒魔術はうまくないけど、自己再生の異能のおかげで多少の無茶ができた。そのせいで無茶をしすぎてしまったのもあるが。
 体が切断しかけても特殊能力のおかげであと五分すれば痛みも消えてくれる。でもあと五分も待つことなんて出来なかった。
 今は一分一秒でも惜しい。たとえ鬼がこの場を去ったとしても、行かなければならない場所があった。

 ――薄暗い電球しかない地下道。
 その中で、彼はオレに言われた通り……大人しく膝を抱えて待っていてくれた。

「……う……」

 溜まった血の海に唇を寄せる。出て行ってしまった血を、少しでも元の身体に戻って来いと命じるように舐める。そんなことをしても効果は無いに等しいがしないよりはずっと良い。自分の味を舌に覚えさせ、うろ覚えの呪文を唱えた。
 巧く口が回らない。それでも辛うじて治療魔術は成功し、なんとか立ち上がって彼へ近づくことができた。よろよろと壁伝いに歩き出す。

「待たせたね……寒くないかい? ……ごめん……紫莉を、救えなかった……父さん達と、約束したのに……ごめん、君を待たせるだけにしちゃったね……ごめんよ……」

 誰も使っていない地下道。相変わらず暗く狭い道。天には等間隔に豆電球がポツポツとあるだけ。座らせていた彼が、オレの声に感づいて顔を上げる。
 声のした方へ手を伸ばした。オレを求めてぶんぶんと腕を振っている。
 掌で傷口を抑えつけながら、壁沿いに歩いて彼の手を取った。
 走ることなんて体力を失った肉体には至難な行為だ。歩いたことで塞がったと思った傷がめりめり開いていくのを感じる。

「……独りぼっちにさせて、ごめん……」

 彼の眼を見たところで、安心して……力尽きてしまい地面に転がってしまった。
 本格的に傷が開いてしまう。まだ血が出て行くのを感じる。じっとその場に蹲って、再度呪文を唱える。時間があれば再生できるんだ。最低限の血液さえ失わなければ傷は癒える。肉は戻る。だから少し大人しくしていれば……。
 そのとき、丸くしていた身体を強い力が襲った。
 蹲っていたところをぐいっと腕を引っ張られ、仰向けにされてしまう。驚きながら転がって、天を見た。
 狭い地下道は、微かなライトが点々と付けられていて……ちょうどオレが寝転んだ上に豆電球があったおかげで、オレの顔を覗き込む彼の表情がハッキリと見えた。
 彼は、笑っている。
 オレに再会できたことを嬉しがってくれているのか、場違いなぐらい笑っている。
 そしてオレの顔を舐めた。頬を滴っていた、頭の傷へとキスをしていた。
 ――さっきまで拘束されて監禁されていた彼は、随分お腹を空かせていたらしい。血を流すオレの頭に唇を寄せて食事を楽しんでいた。

「……美味しいかい……?」

 傷口に寄せるだけだった唇は、次第に舌全体で傷口を慰めるようになる。
 頭の傷を舐めとると、次は……更なる血を求めて、頭より大きな傷のある腹へと顔を寄せていた。
 オレは、傷が開いている腹に唇を付けている彼の……赤い髪を撫でる。
 戻ってくるなり瀕死のオレに彼はどう思っただろう。何を考えて傷口に舌を這わせているのだろう。
 尋ねたかったがかなわない。言葉は未だ、一度も交わしたことがない。いつもこちらから話しかけることしかできなかった。
 いつか会話が出来ればと思い続けて、もうすぐ一年が経とうとしている。
 だから今も、一方的にオレが言葉を投げ掛ける。

「……ごめん……もう少し、こうしていてくれるかな……アクセンくん……ごめん……」

 尋常じゃない治癒力で話せるようになれたのは、あまりしたくなかった『供給』を甘んじて受け入れたから。
 濡れた指で髪を撫でたら嫌がられるかもしれないと思ったけど、彼は構わず、オレの掌を許し続けた。



 ――2005年12月31日

 【     / Second /     /     /     】




 /7

 這いずる右手が俺へ伸びる。
 あと一メートル進めば拘束されて寝かされている俺の元へと届く。助けを請うように伸ばされる手。いいや、あれは……俺を助けるために伸ばす手に見えた。
 たとえ半身を剥かれたとしても。
 半分の口から捻りだされる言葉は「ひうま」という俺の名を表わすものだったから。
 周りの大勢が大合唱をしている「助けて」とか「殺して」とかではなかったから。
 半分失くしてしまっても、あれは……藤春伯父さんだった。

「……伯父さん……」

 剥き出しの肉。床へと置いてきた臓器。体半分を失くしてもなお呼吸をして、貯める器官が無くなっちゃったから奇妙な掠れた音しか聞こえなくなった体。右手と右脚だけの、他は削がれて放出されるしかない物体。
 それでも彼は俺の保護者として、酷い目に遭いかけている俺の元へと手を伸ばしている。
 自分の方が何倍も、何億倍も酷いことになっているのにも関わらず。
 あともう少しで俺の頬に血にまみれた指が付く、といったところで、狭山が何かを振り下ろした。
 呪文に使っていた刀ではない。何の変哲の無い棍棒だった。ここで振るわれたどんな凶器よりも殺傷力の低そうな、それでいて粗暴な恐ろしさを醸し出す武器。
 振り下ろされた先は、両手が括られている俺の背中だった。

「ぐがあっ!?」

 肉が潰れる音がする。骨が砕ける音がする。
 高い悲鳴を上げる前に全身が一撃でバラバラになるほどの激痛が走る。
 走った後では叫び声を上げても痛みが和らぐことはない。あまりの衝撃に視界がばちばちと光る中、二発目の棍棒が降り下ろされた。
 今度は括られた手首の部分だ。叩き潰されたのが全身に響くバキリという乾いた音で判る。棍棒を持ち上げたときに水気がしたので、血が飛び散ったことも察せた。

「あ、ああっ、あああ」

 俺の悲鳴が途切れる前に、三発目の棍棒が振り下ろされる。
 今度は尻と足の付け根のところだった。メキと嫌な音がする。
 次は足。しかも二度。的確に同じところに振り下ろされて、脚が砕かれたのを感じた。
 気を許していると再度括られた拳に棍棒が襲い来る。グシャリ。血が滴ると同時に、肉ではない固い所に当たったのを感じた。骨が飛び出したのかもしれなかった。

「あああ、ああ」

 痙攣する。数度叩かれ、骨が見える拳。折られた足。血が足りないと心臓に働きかける激痛。
 激痛をもとにして衝撃のあった場所へ血を送る体の器官。だからなのか、血がどぴゅどぴゅって俺の外へ離れていっているような気がした。
 俯せで縛られているせいで背中がどれだけ酷いことになっているのか、自分の目で確かめることはできない。でも、

「や、め」

 すぐそばまで手を伸ばした、半分削がれてしまった男が絶望の顔をしているのと、

「……やめ……やめてなのぉ……」

 俺が叩かれているところを見せつけられている、涙いっぱいの彼女の顔を見てしまえば、凄惨なものであることぐらいは伝わった。
 それでも構わず狭山は俺へと棍棒を振り下ろす。

「あああああっ!?」

 背中という背中の痛みに体中が不自然に跳ねた。
 砕かれていく。括られた手だけでなく、腕の骨も背骨だって全部重力で押し潰されていく。
 皮膚の中で骨が粉々になっているのが判る。破れた肉から血が飛び出してることだって判る。
 どんどんと俺の周りが赤く染まっていくのだって判る。痛くて、自分が思っている以上に弄ばれて殺されるんだってことも判る。
 けど、致命傷に至らないのはなんでだ。……棍棒だから? もし刃物でめった刺しならもっと早く失血死できた?
 棍棒がまた振り下ろされる。

「あああああああああああ!? ああああああああああああ!!?」

 意識を手放すほど痛くてもなかなか眠りに落ちることができず、遠くなった意識も振り下ろされた衝撃で目覚めさせられる。そんなループに俺は絶叫を上げ、のたうち回るしかない。
 打ち砕かれたくない。
 でもいっそのこと早く打ち砕ききってほしい。
 振り下ろされる一撃のたびにビチャビチャと滴る赤い雨を感じた。

「あああああああああああああああああああ」
「うーん、緋馬。君も知性のある人間なんだからもっと理知的な声で鳴こうか。サヤに許してほしかったら……そうだ、『ごめんなさい』、これなら六文字で言いやすい。助けてほしいという意思表示にもなるし、叫ぶならそれにするといい」
「あああああああああああ」
「はい、スタート。……サヤが優しい人だったら、助けてくれるかもしれないよ。『隣にいる藤春様といっしょに』」

 ついには床とキスしていた口から大量の赤が溢れ出した。
 血が逆流している。涎だけじゃなくて大量の血が俺の中から出て行く。
 背中だけじゃなくて足も腕も全部打ち砕かれていって、行き場を失くした血が俺の口から、外へ。

「あああ、ごめんな、ごめんなさい、あああああ、ごめ、ああああああ、ごめんなさ、ああああやめてああああああ」

 そんなに出て行ったらダメだ。それほど血がどっかに行っちゃったら、動けなくなってしまう。
 必死に吐き出した血を吸おうとしたが、出て行くばかりで血を飲み込むことはできない。半分の男が伸ばしていた血に濡れた右腕が、ゆったりとした動きで血を掻き集め始める。俺に血を吸わせようと動いてくれていた。彼は俺を救おうとするために必死に。

「ああごめんなさいあああごめああああごめんなああさああいああごあああああごめんんあああさああめんなさあああごめんなさいごめんなさいごめんなさいいああああああああ」

 そんなの意味が無い。
 今も尚、棍棒を振り下ろされて粉々にされていく俺を生かす道にならない。
 止まらない。殴打は続けられていく。
 四肢を打ち砕かれる。全部を砕かれるまで、もしくは許してくれるまで棍棒は止まらない。
 決定的に頭に振り下ろすなど、息の根を止めることのないように手加減していた。
 血臭が舞う。声がようやく周囲の歌をも塗り潰すほどになっていく。魔法陣を更なる赤に染めていく俺の血。

「ごあああめんああなさいああごめんああああなさああいごめああんあなさああああいごあああめんなああさいあああごめんなさいごめああんなさいごめああああんなさいごめんなさいごめんなさああいああごめああんなさああいごめああんなさいごめんなさいあああああああああ」

 ばらばらにされる。殴られて全部ぐちゃぐちゃにされていく。てんで滅茶苦茶にされているのに、終わりが来ない。
 全体重が掛けられるような一撃も、内臓もぺしゃんこになっていくような殴打も、この部屋には呪術的なもので死を拒まれている仕掛けでもあるのか、一向に最後がやってこない。
 続く激痛。無限の苦しみ。終わらない終わり。
 そんなものいつまで耐えていかなければならない。
 いつまでもか?
 ずっとこんな痛みを過ごしていなきゃいけないのか?

「やだ」

 怖い。
 全身が、全体が、恐怖で満ち充ちていく。

「なんなの、もう、やだ」

 彼女は、意味の判らぬ地獄の中でボソリと呟く。
 絶望に満ちた紫色の眼で。

「……これで、おしまいですよね。……大山様、狭山様。すみません、僕も……お先に失礼します……」

 一人、器を抱えていた男性が、小さく囁いて目を瞑った。



 ――2005年12月31日

 【     / Second /     /     /     】




 /8

 少女の胸に、札が沈む。
 真祖の血肉で描かれた呪詛が、少女の中へと沈んでいく。
 肌の上に置かれた御符は表面に溶け出し、内部を浸蝕し、心臓を掴み上げる。呪文に支配されていく少女の中央。
 空間を恐怖で満たし、全身を恐怖で満たされた少女は一際激しく叫び声を上げた。
 「なんなの、もう、やだ」と幼い叫びを。

 刹那、慧の体は破裂した。

 恐怖に打ち震える少女の眼前。細い慧の体は真っ二つに爆ぜて割れた。
 その中から噴き出してきたのは、緋馬のような肉や血飛沫ではない。
 黒、赤、紫。おびただしい数の腕。うねり、踊る、触手の群れ。少女や慧の腕の太さ以上の艶めかしく瑞々しい腕が何本も男の体から誕生し、瞬時に凍える少女のもとへ伸びていった。
 しゅるりと伸びたうねる腕は少女の体をいとも簡単に掬い上げ、慧の体の中にできた『口』へと運んでいく。
 まるで大きな軟体動物に捕獲され、食べられるみたいだ。いくつもの腕に攫われた少女はそう思っただろう。少女の小さな体は肉の中へと押し込められていく。
 少女を掴んだ手ではない他の手達は、信者達の体も掴んだ。
 皆、助けを求めて腕を伸ばしていた。その手を拾い、絡め取り締め上げ、少女の次に口へ放り込んでいく。
 次々に次々に、半端な人間を口に含み、肉色の腕は膨れていく。
 慧の体から生まれた魔物は……いや、正確には『慧の体の中に押し込められていた魔物』は、『元の姿へと戻り』、更なる成長を続けるためにいくつもの餌を口に入れていく。

「一番最初に食べたのが神ですよ。とっても美味しかったでしょう? だというのに他の者も食べますか。いやはや、神も欲張りですねえ。なあ、サヤ、凄いよ、これが私達が夢見た――」

 大山がその光景を見ながら微笑んだ。
 その瞬間に彼も太い肉に全身を掴まれ、あっという間に引き摺られ、何人もの人を取り込んで膨れ上がる肉の中へと巻き込まれていく。
 肉の中へと吸い込まれる瞬間、頭から突っ込む形になった彼はバキリと音を立てた。不自然な形で肉に収納されたからだった。
 あれは即死だ。
 その事実を見た者達が、欠けた狂信者達が、早く助かりたいと我こそはと手を伸ばす。
 早く自分も救ってくれ、その触手で掬い上げてくれ、そうすれば早く死ねる――そう願いを込めて、早く食べてくれ早く殺してくれ早く連れて行ってくれと手を掲げた。
 肉は次々と腕を伸ばし、彼らを拾っていく。口に運んでいく。吸収していく。膨張していく。部屋中を満たすほどに巨大化していく。

 ――愉快に笑って食われていく兄の姿を、狭山は黙って見つめていた。
 血の涙を流して死を求める者達の声を、狭山は黙って聞いていた。
 広かった洞穴は、肉に満たされていく。それを望んで彼は今まで生きてきた。
 ここは既に達成した夢の世界だというのに、狭山は神という物体を睨んだまま静かに佇んでいるだけだった。

「……ハッ。判っていた。判っていたとも。神が誕生したとしても救済の瞬間を目にできない。私も彼女が蘇るための贄なのだから。……救われた後の世界を見られないのは、残念だな……」

 もう呪術に使用した刀や、恐怖を生やすための棍棒は消えている。いつでも食われてもいいように手を広げていた。
 他の者と違って血に穢れていない中央の男は、未だ苦痛を噛み潰したような不機嫌な顔でそのときを待っている。
 そうして触手が彼に差し掛かって、ようやく彼は笑えた。

 ――自分を押し潰す者がいなくなった今、緋馬は床に広がる自分の血を舐め続けていた。
 神が伸ばす触手は、手を伸ばす者達を先に口に入れていく。早く助かりたいと縋る者達が身を乗り出していた。
 だが緋馬の手は結ばれている。立ち上がる足だって開けずにいた。地に伏すしかない緋馬にとって、頭上で行なわれている食事など別世界の出来事だった。
 流れる血を飲もうにも、飲み干す喉の力さえ砕け散ってしまった。舌を這わせた場所はからっと乾ききってしまって、一歩前進しなければ飲み込むものもなくなってしまった。緋馬はただ何も無い床に舌を付けるだけの存在になっていた。
 それが無意味だと判るのは、度重なる激痛でろくな知性も残っていない緋馬には長い時間が掛かった。
 自分も早く死ぬためにはどうしたらいいかと考えても、両手足を結ばれた緋馬は逃げることも食われに行くこともできない。
 全身を滅多打ちにされていても、骨や肉をぺしゃんこにされていても、致命傷に至る一撃を加えられなかった緋馬は地にだらんと倒れるだけ。
 生きることも死ぬこともできずに、その場で……大山の戯言である「ごめんなさい」を繰り返すだけだった。

 もう一人、緋馬と同じく助けを求めて死ぬことも、ここから逃げ出すこともできずにいる人物がいた。
 大広間から意識を奪われ連れて来られた藤春だったものだ。
 左半身がこそげて無い体でも、この結界の中では何十倍も引き伸ばされた生命力によってまだ行かされていた彼は……藤春へ、未だに手を伸ばしていた。緋馬に与える血も掻き集めることができなくなった今、今度こそ緋馬を掴もうと残った片腕を伸ばしていた。
 他の連中と同じように神へと手を伸ばせばいいのに、一人だけ逆方向、緋馬へと手を伸ばしている。
 そんなことをしていたら、ついに謝罪を繰り返していた緋馬もイレギュラーな腕に気付いたのか……連呼していた悲鳴を止めら。
 緋馬は潰れた芋虫のまま身動き一つできなかったので、目玉だけで伸ばされた指を受け入れた。
 右腕右脚だけの物体になった藤春を見つめている。
 伯父の指は最後まで緋馬の顔へ伸ばしていたが、次第に力を失くしてそこで動かなくなった。
 それでも死んだ訳ではない。前進しなくなった指が、伸ばされたまま、あと数センチのところで止まり続けているだけ。

 泥色の目になっている緋馬は、ふるふると震えながら自分へと伸ばされる指を見ていた。
 顔が半分無くなっても、その動きはまさしく緋馬の知っている伯父だった。
 ごめんなさいだけを繰り返していた緋馬の喉が、久々に違う音を発する。

「……おじさん……」

 いつもと変わらぬ。
 彼の鳴き声のような一つの音。
 聞いた指はピクリと止まる。その音を聞いたからではない。床を這っていた彼までも触手に巻き取られ、口の中へと吸い込まれていったからだ。

 ……緋馬は、目を閉じる。
 ごふっと一度咳き込むと、舐め取った血がまた外へと放出されていった。
 もう床に舌を這わせることもしない。目を閉じて、自分もまた伯父が吸い込まれた口の中へ運ばれるのを待っているようだった。
 ――不憫だった。
 ――憐れだった。
 ――無惨で、気の毒で、可哀想だった。
 彼が何をしたという。ただ二人の男女の愛のもとで生まれ落ちて、大勢に翻弄され、その血を疎まれ儀式の一部にされてしまった少年。
 愛する人に何もすることもできず、愛する人からの願いも何一つ叶えてやれずに血を吐き出すだけの存在。
 そんな悲しい命を認めていいのか。
 世界は、そんな悲しすぎる運命を無視して歩みを進めていいのか。
 いいや。いくらなんでも理不尽すぎる。
 誰かが振り向いてやらなければ。そんなの――ワタシは悲しくて黙っていられない。
 世界は彼の死を認めない。
 そうだろう?
 この死に立ち止まってあげる。
 そうだろう?

 だから。
 私の手が彼を掬う前に、ワタシの手が先に彼を救い上げた。



 ――2005年12月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /9

 ばけものはこのせかいをみたしている。
 すでにここはばけもののはらのなか。
 あかいにくはみるみるうちにおおきくなっていく。かのじょをとりこんだから。いっぱいのちからをてにいれたから。まっかなえさをたべきったから。

 此処はそういう世界。

 この連鎖を断ち切る。

 スイッチを切って。おしまい。



 ――2005年11月1日

 【     /      / Third /     /     】




 /10

「…………あ?」

 MDウォークマンのスイッチを切って、耳から脳へ直接流れ込む歌を止めた。
 引っ切り無しに俺の中へと流れ込んできた歌は、世界平和を歌ったロックだった。パンクな曲調にも関わらず言っている歌詞は青臭くって、「オレ達が世界を創る」だの「変えてみせる」などを叫んでいる。未来に羽ばたく若者にエールを与えるための歌だと、作詞家のインタビューを読んだのを思い出した。
 真っ暗夜の寮の自室で、スタンドライトだけの灯りを頼りに勉強をしている。二人部屋のところを一人で使わせてもらっている俺の部屋。
 音量全開でテスト勉強を夜中までしていたら寮長に叱られちまう。電気を十二時過ぎまで付けていたら「早く寝ろ」と言われる。
 だから夜中に、電気を消した自室で、イヤホンをしながらテスト勉強。いつの間にか仲良くなったクラスメイトに借りた英語のノートを写している……なんら変わらぬ、俺の日常だった。
 秋学期に転向してから早二ヶ月の11月。そろそろ勉強が追いつかないとは言っていられない。それなりの成績をキープしてないと藤春伯父さんに怒鳴られるから、今回のテストは上位を目指さないと……。

 11月。
 俺は二つ折りの携帯電話を開く。電源は切られていたから画面は真っ暗。電源を落としておかないとつい開いて勉強もせず脱線しちまうから、自戒のために暗くしてたんだ。
 急いで電源ボタンを長押しする。
 数分もせずにカラーの液晶が、今日の日付と時間を知らせてくれた。

 『2005.11.1(Tuesday) 00:15』

 どっと汗が噴き出した。
 思わず背中に手をまわす。背骨はあった。
 手首を見ても、削げた肉は見えない。骨が剥き出しになっていない。椅子から立ち上がる。結ばれていない足は、勉強で疲労困憊だが足らしく立つことに徹してくれた。
 痛みは無い。
 記憶はあっても、俺の身に不自然なものは無い。
 ごく普通の動きが許される。縛られていない体は、好きに動いて、自由なことを考えることができる。

「……はあ……? なんなんだよ、これ……?」

 たとえ、自分の中に12月31日の記憶があったとしても。
 あの地獄の光景と、半分削がれた藤春伯父さんの姿を思い出したとしても。
 思い出し過ぎて、その場で嘔吐するぐらい明確な記憶が所持していたとしても。

 11月1日を生きる俺がいた。




END

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