■ 025 / 「刻印」

カードワース・シナリオ名『B.U.Gallery』/制作者:ヒロタ様
元々はカードワースのリプレイ小説でした。著作権はカードワース本体はGroupASK様、シナリオはその作者さんにあります。あくまで参考に、元にしたというものなので、シナリオ原文のままのところなどもあります。作者様方の著作権を侵害するような意図はありません。




 ――2005年12月17日

 【     /      / Third /      /     】




 /1

「アクセンさん。この紙、読めますか」
「……ん? 一体どこの言葉だ? いや、そもそもコレは……言葉なのか?」
「日本語の書類ですよ」

 食堂のテーブルに置かれたものを見ていたアクセンさんに、僕は『一般人に読めないように加工した魔法の書類』を差し出した。
 唸りながらハテナを飛ばしている姿を見て、安心する。彼が読めないってことは、どうやら魔法の加工は成功していた。でも術者の僕の目にはごく普通の日本語の事務書類として見ることができる。業界ではそれほど珍しいものではない下級魔術だ。この紙には霊力を意識できる能力者ならば理解でき、そうでないものには全く別の書類に見えるという仕掛けが施してある。
 なんでこんな悪戯な物を用意したかというと、キッカケは数ヶ月前。福広さんという阿呆が一般人の目につく場所に重要書類である『赤紙』を置きっぱなしにした。案の定、一般人であるアクセンさんの目に触れてしまった。大事にはならなかったけど色々と苦労した。はあ、あのときのメモリーだけでなくあの人すらも滅したい過去だ。
 けどこの仕掛けさえしてしまえば、僕の目にはちゃんとした文書、仕掛けの判らぬ人には暗号化されたただただ変なマークの羅列にしか見えなくなる。書類を放置してしまったとしても内容に辿り着くことができない。うんうん、昔の人は良い魔術を作ったもんだ。ていうか『赤紙』は今後全てこの魔術を掛けるべきだ。自信がつき、茶会が終わり次第『本部』に報告する気になった。

「ああ、三角のマークは『2』という意味だな」

 ……アクセンさんが、そんなことを言うまでは。

「……アァン?」
「この三角は『2』だ。それと、このガンマは二つ並んでいるから『0』だな」

 確かに、アクセンさんが指差している記号の意味は数字の『2』で、ガンマは『0』という意味だった。

「ちょっ、なんで判っちゃうんですか」
「何かの書文なんだろう? 触った限り、紙が新しい。つい最近印刷されたものだ。右上にあるものといえば日付。左から二つ目と三つ目が同じマークなんだから……『00』。最近に作られたものならこれは『200X年』と書かれていると判る」
「あ。……あー、そっか。そうですね。『日本語の書類です』って僕が最初に言ったんだった」
「それが当たっているなら、左から5番目のマーク、この五角形は『年』になる。なら今後文章内に五角形があればそれを『年』と読めばいい。同じように『月』『日』『前略』や『様』のような一般的に使われる単語を当てはめていけば、クロスワードパズルのように解けていけるぞ」

 そういえば昔、犯罪者が警察に送った怪文書を解読した夫婦がいた。
 その夫婦曰く、『犯罪者は「DEATH」の言葉を多用するものだから、一番多いマークに5文字のスペルを当てはめてみたら後はどんどん解けていった』そうだ。出来の悪い穴埋めクイズ感覚で楽しめたらしい。
 アクセンさんはこういうゲームが好きだったのか。なんせ言語を学びにわざわざ日本に来ているだけのことはある。今は日本語をメインに勉強しているから判ったと言うが、きっと英語でも伊語でも仏語だったとしても、ひらめきと辞書片手に解読を頑張って解いてしまう。
 またじっくりと書類に目を通し始めた。口の前に手を当てて、じぃっと暗号文を見ている。
 視線が怖い。感情が無い。集中する前にその書類を取り上げた。……だから、これは一般人に見られちゃ困る書類なんだってば。すかさず僕は甘いスコーンを出して機嫌を取った。
 生クリーム付きのスコーンを口に運んだアクセンさんは、微笑む。甘い物が大好きで堪らないというかのような、幸せそうな笑みを浮かべていた。

「……美味しいですか」
「ああ。これはテレビでも紹介されるぐらい絶品だと有名なお菓子なのだろう?」
「…………アクセンさんっ! 貴方が、美味しいと、思ってますか!?」
「ん」

 笑顔を作っていた彼の顔が固まる。
 唇に付いた生クリームをナプキンで拭って……まじまじとスコーンを見つめた後、再び口を付けた。
 ゆっくりと口に含んでいく。さくさくと味わっていく動きは、とても遅い。口にした途端微笑んで「美味しい」と言い放つ彼は、居なくなっていた。

「甘いぞ」

 そして……僕がわざわざイエスかノーで答えられる質問をしたというのに、的外れな感想を零す。
 美味しいかという問いかけに対して「甘い」という回答はおかしい。日常会話としては落第点。
 だけど、それで良かった。この返答の方が、よっぽど良かった。
 『巷で美味しいと有名なお菓子だから美味しいと答えた』のではなく、『自分で味わった結果、甘いと感じた』方が、アクセンさんの心が伝わってきて良いからだ。
 彼は一言感想を漏らした後、ひたすらさくさくと差し出されたスコーンを口に運んでいた。僕が次の話題を出さない限り、ずっと食べ続けている。
 そう、これが本来の彼の形らしい。

 先日知った話だが、アクセンさんは『自分の感情を表わす』というものがよく判らない人だという。
 楽しいというものを楽しいと素早く認識できない。だから「楽しい」と口に出来ない。「これは楽しいものだ」と知識で知っているから楽しそうに振る舞うことができる……そういう病気なのだと説明してくれた。
 奇病とは思わなかった。いつかテレビで見たドキュメンタリー番組でそのようなケースは見たことあったし、半年間少しずつ抱いていた違和感の正体が判ってスッキリしたというのもある。そういえばお医者さんのシンリンさんとアクセンさんはよく話していた。茶会の合間に薬を飲んでいることだってあった。
 僕が知らないだけで、アクセンさんは元から自分と戦っている人だった。
 そして、苦しみながら戦っていると知った上で、彼と付き合う。その時間は決して嫌なものではなく、寧ろお互いの仲がステップアップしたものだと思うようになった。

 無口で顔を伏せてばかりだったブリッドさんよりも、強敵な時間が始まった。
 ブリッドさんは引っ込み思案ではあったが、ただ感情を押し殺しているだけだった。後ろに下がっていることが美徳だと信じていたタイプだ。驚けば声を上げるし、嬉しいことがあれば隠れながらも微笑んでくれる。
 一方でアクセンさんは表面では微笑みながら内心ちっとも笑っていないこともあるんだから……こっちの方が難易度が高い。
 だからと言って『彼とは理解し合えない』と線引きするのは早計だ。
 問い掛ければ焦点を外していても答えてくれる。人の意見を採用しなければ、「このスコーンは甘い」と自分の心を述べられることができる人だ。引き出しの中身が無い人ではなく、引き出しを引くのに時間が掛かる人なだけ。そう考えれば対処の仕方も、彼の癖も、真の嗜好も自ずと見えてきた。

 書類を全て僕の鞄に押し込んで、代わりに……数分前に話題に上げていた『美術館のチケット』を取り出してテーブルの上に置く。
 以前の茶会で何度も「どこかに遊びに行きたいですね」と話をしていた。この際だからと話をするより先にチケットを取った。それをパンフレットと共に見せつける。

「美術館のチケットです。一緒に行ってくれますか?」
「ああ。行こう」

 彼が断る訳ないと思っていたけど、こんなにすんなり受けてくれると……どこまで考えているのか不安になってくる。

「嫌ならキャンセルしてください。興味が無いなら興味のある所に予定チェンジします」
「私は美術館というものに興味が無い。だから何があるのか判らん。一体ここは何なのか知りたい。これだけでは行きたいという理由にならないかね?」
「グッ、興味が無いから行きたいと!? 良いですね、そういう返し方は僕大好きです!」
「君の『好き』の幅は難しいな」

 彼はじっと、無表情でパンフレットの文字を追いかけ始める。
 よく笑う人だが、実は人と話すとき以外の人相は悪い。少し冷たすぎる目つきが、本来の彼の姿だった。対面で話をするときは常に人の顔を見て、穏やかに笑みを浮かべて頷きながら話す人だから、そのギャップを発見したとき背筋が凍るほど驚いた。
 だって何かを発言するときは語尾ごとに視線を合わせ、背筋を伸ばして三メートル先まで聞こえるハッキリとした低い声で喋る人だったから。……後々知ったことだが、これは接客業のマニュアルに書かれていることだ。人を相手にする模範例をそのまま実践していたのだから嫌な気分にならない訳だ。
 同時に、嫌われる人にはとことん嫌われる。……常に理想通りの対話なんて、教科書と話していると同じだし。

「……ときわ殿。ブリッドも一緒に行けないか?」
「ドントウォーリーですよ。既に僕はブリッドさんの分のチケットを用意しております」

 鞄からチラつかせる三枚目のチケットに「流石だな、ときわ殿」……という言葉が続けられるのを僕は待つ。
 だが、いつまで経っても想像した台詞は出てこない。そのかわりアクセンさんは意外にも、

「嬉しいぞ」

 ふわっと笑って、少しだけ頬を赤くさせていた。
 笑みが零れている。ダダ漏れだ。渡した一枚のチケットを手に取り、じっくりと日本語の単調な文字列に目を通し始める。……何を考えたのか、唇を歪めながら。

 ……アクセンさんのことを『自分の感情を表わすのが判らない』が言ったが、あくまで『苦手』なだけで、完全に感情を無くしたロボットのような人ではない。
 現に彼は一つ一つ問い掛けていけば自分の心を打ち明けるし、今も……『ブリッドさんと一緒だ』と判ったら穏やかな表情を浮かべている。
 少し感情表現が堅苦しいのは、ブリッドさんとなんら変わらない。……敢えて言うなら、僕だって変わらない。自分の好きな物を口にしないで隠して一生分の損をする、そんな失態をしかけた4月の僕も似たようなものだった。
 まあ、文字を追っているときぐらい表情を作らなくていい。
 本日のスコーンに口を付け、自分で淹れた紅茶を啜る。パンフレットを端から端まで目を通す彼に、そっと声を掛ける。

「僕、前々から思っていたことがあるんですよ」

 話し掛けられて、目尻を下げながらアクセンさんが頷く。
 即座に表情を作るのは、彼が人を害さないように努力している証拠だと知ったのはここ数日のこと。そのことに気付いてからまた数日かけて、判ってしまったことがもう一つある。

「何かな」
「ブリッドさんのどこが好きなんですか」
「…………。んんっ?」

 数秒間の沈黙の後、アクセンさんは上ずった変な声を漏らした。
 彼は『人を見ていないときに凄く怖い顔をする』以外に、もう一つ表情をがらっと変えるときがある。
 なんてことはない。ブリッドさんが関わる瞬間だ。



 ――2005年9月6日

 【     / Second /     /      /     】




 /2

 彼女は僕が埃を払った本の上で、ずっと僕らの話を興味深げに聞いていた。
 悟司さんは可愛い女の子を自室に招いたことなんて気付いていない。彼女が悟司さんに隠れて、悟司さんの眼鏡を掛けて遊んでいたことも知らないだろう。彼女の姿を知覚することが出来なくて残念だ。あまりに可愛かったから写真に撮りたいぐらいだった。
 って笑ったら足を蹴られた。むぐ、痛い。ちょっと恥ずかしがってる。ごめんごめん。怒らせちゃったみたいだから、羊羹を半分あげるよ。でも半分は僕の為に残しておいてね。



 ――2005年12月17日

 【     /      / Third /      /     】




 /3

 最初、僕の言ったことが理解できなかったのか。スコーンを飲み込みながらもう一度尋ねる。敢えて目を見て問い質すようなことはしなかった。
 改めて顔を見たって、アクセンさんが赤くなっていることには違いない。「答えたくなきゃ答えなくていいですよ。どうせ雑談なんですし」と思わせる軽さで質問することにした。
 時間が暫く経った後に、平らげた皿からアクセンさんの顔へと視線を切り替える。僕の顔を見つめ、何かを訴えようとしていた。でも僕は一度も頷かない。「表情で察してくれ」という彼の願いも無視して、ちゃんと言葉となって出てくる想いを待ち続けた。

「笑顔、かな」

 待ち続けた結果、ありきたりだが恥ずかしい一言が食堂内に漂う。

「案外、普通の返答ですね」
「普通とは何だ。これでも私なりに考えた答えだぞ」
「今の声、食堂にはいらないぐらいの大声でしたよ」
「ん。顔が熱い。どうしたものだろう」

 珍しく下品にも、赤い髪を掻いていた。無意識に照れ隠しをしているのか、僕よりでかい図体のくせに仕草は小さな男の子みたいだった。

「ブリッドは普段、サングラスで顔を隠しているだろう。初めて彼の笑顔を見たとき、な。夜で、外に居たからハッキリ見えなかったんだが、照れていて、頬も赤くなっていて、良かった。私はそれに恋をしてしまった」
「…………。アクセンさん、また貴方、恥ずかしいことを口にして……」
「私はもしや、言ってはいけないことを言ったのだろうか」
「時と場合によります。僕の前ではメチャクチャ話してくださってオーケーです。ただブリッドさんの前では言わない方がいい。きっとあの人は聞いた途端逃げ出します」
「それは困る。私はもっと彼の笑顔が見たい」
「さっきから貴方、食堂にはいらないぐらいの大声なんですが」

 自重できないぐらい盛り上がっている証拠か。……今のアクセンさんの顔、写真に撮っておきたいぐらい面白い。そのまま写真をブリッドさんに見せたら笑ってくれるかな。
 いや、その前に……まずブリッドさんに笑顔を見せてもらうためには滅多に外さないサングラスを取ってもらわなければならない。「人の目を見て話せない」や「あまり太陽の光が得意ではない」とか理由を付けて外していなかったが……何度か見た彼の眼は……。
 苛々した。
 思い出しただけで気分が悪くなる。
 すぐにでも目の前から消えてほしかった。

「ときわ殿? スコーンが喉に詰まったかね」

 …………いけない。
 やめよう。悪口はやめよう。こんなこと考えたって自分の質を下げるし、ここに居ない彼にも失礼だ。
 しかし、何故だ。『どうしていきなり大量の悪意が噴き出した』。判らない。なんだか、負の感情が湧き上がらせるスイッチが働いてるみたいで、気分が悪く…………怖かった。
 口元を抑え、吐き気を我慢しながら首を振るう。スコーンの塊に苦しんでいると思ったのか、アクセンさんはティーカップに紅茶を注いでくれた。ぐびぐびと飲みたいものではなかったが、急に体内を裏返しにして洗ってしまいたいほど苦しくなっていく。味わうことなど忘れて体の中にお湯というお湯を流し込んでいった。

「……心配しなくても、ブリッドさんはアクセンさんのこと好きですよ」
「ああ」
「お。愛されてる自覚があるんですか」
「私のことを嫌いなら、まず会いもしないだろう? だがブリッドは私と話をする。なら私のことが好きだということだろう?」

 なんだ、その傲慢な結論。
 その法則なら僕もアクセンさんのこと大好きじゃなきゃ困るんじゃないかな。いや、好きだけど。苦手だったら毎週会ったりしないし。

「ああもう、早く薬指に合うリングでもプレゼントしたらいいんじゃないですかねぇ。ほら、クリスマスが近いですし!」
「そうだ、ときわ殿。ブリッドには以前からピアスや手袋をプレゼントしているのだが、一度も着けてもらったことがないんだ。今度はそのリングとやらを渡せば喜んでくれるだろうか?」
「ちょっ、いつの間にそんなプレゼント攻撃なんてしてるんですか!?」
「好意を抱いている相手には贈り物をするものなのだろう? 君にだってこうやって茶菓子を毎週贈っているじゃないか。何かおかしいかね」
「茶菓子……僕は食べ物で釣れる子供だって思ってたんですね!? ありがとうございます、その通りですよ! 洋菓子大好きです! もうプレゼントはデートとかいかがですか!? それできっと大正解ですよ、そうしちゃってくださいっ!」
「……今日のときわ殿は大声を出したい気分なのか? なら私とお揃いだな。一緒に歌でも唄おうか」

 あ、クリスマスが近いってことはそろそろ圭吾さんの誕生日だな。今年は何を贈ろう。ってそんな話は別の機会にするとして。
 そんなどうでもいいことを怒鳴ったり笑い合って居たりすると、丁度良く食堂にブリッドさんがやって来た。
 いつも通りの遅刻。長く伸びた前髪に、その下にサングラスという姿は変わらない。黒一色の地味な服装、いつも通りのブリッドさんだ。
 「甘いお菓子がありますからどうぞ」と声を掛けて椅子に座らせる。ゆっくりと頷く彼に紅茶を勧め、呼吸を整えさせる。頃合いを見計らったところでアクセンさんがチケットを手に声を掛けた。
 意識してるのか無意識なのかアクセンさんは少し照れながら、背筋をピンとして凛々しく口を開いた。「デートをしないか」なんて。そして、

「……すみません、その日は仕事があるので……」

 彼よりもビジネスを優先するブリッドさんに、驚く。



 ――????年??月??日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /4

 冬の山を登る。天まで届くような道を登って行く。あまりの過酷さに覚悟していた足だというのにすっかり冷たくなっていた。
 草で編んだ物では充分に寒さから足を守ることが出来ず、雪が指の隙間に雪がじんじんと入り込む。
 最初は冷たいと怖がっていたが、今では寒さに全てをやられてしまい、もう何も感じなくなっていた。寒さを通り越して痛さになり、痛みも熱さになり、その熱さもまったく感じなくなっていく。ぎゅうぎゅうと雪が足を虐げていたが痛みは既にどこかに消え去っていったまま、帰ってこない。それももう、何時間も前の話。
 雪山を登り続ける限り続くこの時間。取り囲むのは雪を踏む音。あと耳に入るものと言ったら、自分と吐息。はあはあと白い息が唯一の音。無音の雪の山にはそんなものしか無い。
 さて無痛になった足、このままいくと今度は何になるのか。寒さが痛みになり、痛みは熱さになり、熱さは無痛になり、無痛は。

 ――この世には答えられないものが沢山ある。その一つが、この先にあるという。無数の謎の一つが空の向こうにあると聞いた。
 今まで悩み続けてきた。だが答えられないからといって謎を終わらせてはいけない。知ることができるそのときまで諦めてはいけない。
 判らないままにしてはいけない。考え、悩み、想う。結論を得て、悦び、新たな感情を得る。それは出来るのは生き物の特権だ。世界に反し生み出された異端や、心を持たぬ畜生どもには無い感情だ。その権利を放棄してしまったらいけない。この苦痛を糧に求め続けなければならない。答えが先にあるというなら、苦悩を続けながら先を行かなければ人ではない。
 理解が訪れるそのときまで歩き続けなければならない。

 彷徨い、呆然と空間の冷たさを感じているしかなかった。
 さっきまで鼓動を刻んでいた心臓は冬の猛威に動きを蝕まれ、大人しくなっていく。
 ここは冷たい空の上。一年中、こんな冷気に塗れた場所なのか。
 一年中? ここは時間の流れも下と同じなのか?
 酸素もろくに吸えず、充分な体温も確保できない人間はついに頭も回らなくなった。

 ――元から時なんて気にしない生活をしていた。
 目覚めて、可憐な歌を聴き、踊り回るだけの生活だった。人より人らしくない生活、動物より動物らしい日常。いつ原始的な生活を始めたか。忘れた。
 今が異常じゃないとは言わない。今していることは、普通の人間がすることではないと思っている。
 金にものを言わせて、絶品を貪り、ありとあらゆる悦に浸る貴族の日常もまた自分を構成した過去。否定はしない。
 倒れ行く人々を救う。救う。救う。救うだけの現在。昔より異常になっているのか。否定はまだできない。
 あの頃の自分と今の自分のどちらかが、本来自分があるべき姿だと……血に刷り込まれた宿命なのか、まだ自分は知ることもできない。

 静かに、自分の負い目を抱き、今ここで息を引き取るのだけはしたくないなと考えた。
 少し、死ぬことに抗ってみようか。どうやったら生きられるのか考えてみた。
 生きる方法を『知ろう』とした。

 答えは、案外近くにあった。
 目の前に、あった。
 冷たくもなく、暖かくもないもの。それによって自分は拾われる。手にした途端、生きる手段が溢れていることを知った。
 どうすれば生きられるのか、無限の知識がそこにあった。

 まずは立ち上がること。そのことを知った自分は、再び歩み始める。
 生きる手段がいくつもあるだなんて、一人で歩んでいる雪の中では知る由もなかった。こんな簡単なことも判らないで生を終えようとしていたなんて。笑ってしまうぐらいに簡単なことだった。
 知識を得ることは自分だけでは出来ないことだ。誰かに教えてもらったりしなければなかなか知識は増えていかない。自分も知ろうと思って動き出して、目の前に話し掛けたからあの手段を得ることができた。当然のことだけど誰も教えてくれなかったことを、広めていかなければならない。
 ここまでこの信念を熱く語ると盲信者と言われるか。だがそれで生き延びてきた自分がいるのだから熱く語ってしまうもの。

 すべてが判ることこそ素晴らしいことはない。
 大昔に悩んで蝶よ花よの日々を捨て、泥に塗れた地獄へ突き進み出した人生は、間違いではないと思う。
 そう、この過程は、決して間違いではない。自分はそれを伝える声の一つになろう。
 オレは決めた。

 ここは時も無く、彷徨うしかない場所。
 上も下も右も左も何も無い、渦巻いた空間。
 それは答えに一番近い、山の先、天に近い処にあった。



 ――2005年12月18日

 【     /      / Third /      /     】




 /5

 美術館は静かで心地良い。
 元々、美術館や博物館巡りは好きだ。「教養を得ることは良い」と狭山おとうさんが口癖のように言っていたし、美しいものを見ていると心が洗われる気になる。
 僕の兄弟と言っていい三兄弟はあまり騒ぐ場所は好きでなかったから、ちょっと遊びに行くとしたらこういう所が多かった。
 あ、でも三男坊の霞さんだけは例外で、あの人はバッティングセンターやボーリング場みたいなスポーツ施設に連れて行ってくれたっけ。と言いつつも博物館みたいに静かにしてなきゃいけない場所が嫌いだったのではない。高校生のときは博物館でバイトをしてたらしく、頻繁に割引券を持ってきてくれた。
 自分から行こうと言い出す圭吾さんや、「とりあえず子供の教育なら博物館だろ」なんて安直な考えを持つ悟司さんとは別で、霞さんの「安いから行く」という考えは共感が持てた。……最近会ってないけど、どうしてるだろ。

 そんな僕の昔話は置いといて。
 不思議な形の動物達の彫刻を眺め、芸術家の目に感心しながら、僕は二人を見た。僕より数メートル後ろを歩いているだけの二人をだ。
 美術館だからおしゃべりはしない。だけど小声で会話をすることぐらいなら許される。アクセンさんは、静かに相手に話し掛けていた。彫刻自体にはあまり興味無さそうにしているブリッドさんに。

 ――最初は心配だった。ブリッドさんが「仕事があるから行かない」と言い出し、「どこで仕事があるんです!?」と問い質したらこの美術館の近くだと判明。「ほぼ同じ場所じゃないか」とアクセンさんが言い出したら、「じゃあオレも行きます」と言ってきた。
 その「行きます」は、僕の心を深海より深く暗いものに陥れる力があった。一緒に美術館に行けることになったにも関わらず、表情は一向に晴れなかった。
 そりゃそうだ、「誘われて嬉しいからついて来てくれた」のではなく、「仕事があるついでに行く」と言われては嬉しさなんて生じる訳が無い。
 けど……アクセンさんは、ごく普通の笑顔を見せていた。
 彼はその微妙な違いを察することができず、「一緒に来ることができた」ことを喜んでいる。
 偽物の同意だというのに。
 ……でも流石に、このことに関して僕は訂正できなかった。「彼はデートとして来てるんじゃなく、仕事として来てるんですよ」……そう伝えたら喜んでいる顔がきっと曇る。アクセンさんが唯一垣根無しに生きた表情を見せる機会を、易々と潰したくなかったからだ。
 展示が小休止される中廊下までやって来て、僕とアクセンさんは用意されたベンチに腰掛けた。ブリッドさんは「ドリンクを買ってきます……」だなんて、誰も頼んでもいないのに離れて行ってしまう。

「ときわ殿は満足しているのか」

 僕が尋ねようとしていたことを、アクセンさんが先に口走る。

「とても面白いです。『空想の生き物の展示』なんてまず無いジャンルですから。空想上の生き物を描ける人ってどういう頭なんでしょうね。もう何百年も前の人なんだって会って見てみたいもんです。……『アレ』みたいな、その人の心にしか生きていないものを現実に創り出しちゃうのは、純粋に凄いことだと感心してます」

 『アレ』と、ベンチに腰掛けた位置から見えるハーピーの像を指差した。
 展示されている彫刻の作者さんは、『幻想生物専門の彫刻家』だという。入口で渡されたパンフレットを読んでみると……代表作は変装動物のメジャーどころ、ドラゴンの彫刻を彫っていたそうだ。
 けどそのドラゴンだって、殆どの人が思い浮かべる恐竜像とは一味違うものを創り出している。
 この展示会は『人とはこんなものまで想像できるのか』という限界を味わい、感動するものらしい。
 パンフレットに書かれているプロフィールを詳しく読んでみる。
 作者さんは、他の芸術家達のように例に漏れず短命だった。病気で亡くなったと書かれているが、短い時間の間に最期の瞬間まで多くの幻想生物を生み出したらしい。
 死が近かった生涯の中で、多くの人が思い浮かべど形にしてこなかったものを生み出して……彼は畏怖の眼で見られなかったのか。いや、月日は経ってこうやって美術館に展示されるぐらいになったぐらい評価された偉大な人だけど。

「アクセンさんも満足ですか。……あ、僕と他のお客さんの意見をそのままコピーするのは禁止します」
「最近のときわ殿は、手厳しくないか」
「事前に注意しないと貴方は人の意見を採用しちゃうからですよ! 琴線に触れる作品はありませんか?」
「…………大きいな」

 翼を生やしたライオンの彫刻に視線を向きながら、そんなことを口にする。
 美術館をひとしきり歩いて、温和な笑みを浮かべながら小学生の日記以下の感想。って、それって見たことをそのまま言っただけじゃん。
 だけど彫刻を見つめるその目は……ベンチにどっしり腰を下ろして休んでいるにも関わらず、まるで親の仇を見つけて睨みつけるかのように鋭いものになった。
 また、この目だ。
 きっとアクセンさんがあんまり視力が良くないからだと思うが、人と話すとき以外……何かを思考する彼は無表情になる。癖というよりその顔がデフォルトなんだろうけど、おかげで話し声を立ててはならず作品を鑑賞するだけの今日、彼はずっと気難しそうな顔をしていた。

「ブリッドは、楽しんでいるのか」
「きっと楽しんでくれていますよ。『久々に仕事以外でお出かけだ』って言ってましたし」

 じっと翼で飛び立とうとしているライオンを睨んでいる彼が呟く。
 僕はせっかくの外出時にマイナスを口にしたくないから、嘘を吐く。

「良かった。君達二人が楽しんでいる。なら楽しいところなんだろう、美術館というのは」

 そこで初めてアクセンさんは、崩れそうで崩れないバランスのハーピーの彫刻を『心底楽しそうな顔で』見つめた。

 ……芸術に触れ合えば心が豊かになると思った。
 様々な物を見て触れ合う瞬間さえ作れば心が光り出すものだと、キッカケが必要だと思ってチケットを利用した。
 その考えは失敗だったなんて思いたくない。まだその結論を出すのは早い。けど、ついつい寂しく溜息を吐いてしまった。
 真の感情とは、どうすれば引き出せるのか。
 正の感情を得るためには何が必要だ。どれを見せればいいんだ。
 人それぞれで答えの無いものにぶつかってしまい、自分の表情が乾いていくのを感じた。

 彫刻を見つめるアクセンさんの笑顔は、どこか空虚に見える。
 でもそれを真のものとして受け入れて、彼は理解できたときの喜びを得ようとしている。暫く押し黙ってその顔を眺めてしまう。
 もし「こんなのつまらない」「興味の無い所に来たくなかった」などという露骨な負の感情を押し付けられたとしたら、僕もすぐに嫌な気分になれた。けど彼は決して負を押し付けない。今の今まで難なく平和な交流ができた。そして考えてしまう。負でもないが正でもない言葉を繰り出すだけの彼は、これからどうやって成長していく、と。
 感情を得て人は成長するという話を聞いたことがあった。異端が負の感情を求めて人を害すように、人もまた正の感情を得ながら生きていくんだって。
 じゃあ、感情に乏しいアクセンさんは……成長しないとでも?
 ……いいや、その困難に苦しんでいるから、彼は何でも尋ねて頑張っているんだ。

「ドリンク、遅いですね!」

 次第に脱線していく悩みを、話題を変えることで振るい落とす。
 僕は立ち上がった。……ここは本当に、いいかげん戻ってこないドリンク屋を追うために。
 アクセンさんにベンチで待っているよう強く言い放ち、ブリッドさんが消えて行った方へ向かう。それに自分の中の空気を入れ替えた方がいい。確かブリッドさんは中廊下を渡ったところ……美術館の『入り口に繋がる輪っかの接合部』に向かった筈だ。そちらに歩いて行った。

 美術館や博物館などの建物は、ゆったりと展示物を見てもらうために一直線なコースになっている。
 そう儲かる施設でもないので、入口と出口を別にして従業員を増やす仕組みをまずしない。大抵は一直線に見せかけて、入場した元へ戻るような造りになっている。
 同じ道でも違うものに見せるように工夫を施されているのは普通だ。一度来た道でも、自動販売機を目的に歩いたら全然違った世界を歩くような錯覚に陥るような仕掛けがあってもおかしくない。どれだけお客を惑わせるかが建築家の腕の見せ所になるんだが……。
 はて。僕は自動販売機を求める未知の世界を歩いていて、違和感に気付いた。
 幻想動物の彫刻を見回る旅とはまったく違う館になっている。一本道をひたすら歩いても、新たな仕掛けにあたって心が弾んでいく。
 そうして数分間、ブリッドさんが向かった道を追いかけ歩いた。
 『数分間もだ』。
 僕は歩き続けている。見たことのないドラゴンの彫像が姿を出し、飽きがこない造りに感動しつつ……。

 凝った演出をする人もいるんだなと思いつつ、また僕は『数分間』歩き出す。『そう、数分間も』。
 美術館なんて大した広さなんてないんだから、五分も歩いていれば隅から隅まで渡ってしまうのに。
 僕は二度も三度も見た道を歩く。
 そして、一度も見たことのないハーピーの彫像を見た。

 すう、と大きく息を吸う。
 ここは美術館だから大声でのおしゃべりは控えましょう。そんなこたぁ関係無い。

「ブリッドさん!!」

 周囲の客が振り返るぐらいの大声で名前を呼んだ。でも、『何故か周囲の人達は誰も僕に視線を向けなかった』。全員が全部、彫刻のようにその場にセットされているだけだった。
 人達は、工夫の一つだ。彫像と同じように決められた場所で彫刻を見続けているだけの、客に違和感を抱かせないようにされた仕掛けだ。
 つまり偽物、この館には僕達以外に人間の姿は無い。なんて巧妙な作り。気付いてしまった途端、悪寒が走る。
 唯一動くものとして、僕が歩いて行く道の先からブリッドさんがこちらに走り寄って来た。違和感に気付かなかったらずっと『永遠に続く一本道』を歩き続けてしまっていただろう。彼も、僕も。

「嘘でしょう、まったく!」
「…………ときわ、さん。これって……?」
「ブリッドさん。貴方の仕事先が近いとは聞いていましたが……ここが本場だとは聞いてませんよ!」

 美術館の中を、少しずつ変わっていくコースの上、一つずつ差異のある幻想動物を見続けていた。全く同じ道で、全く同じ彫刻がある場所を延々とループしていたなら、すぐにおかしさに気付けた。
 だけど微妙に景色を変えつつ展示物が変わっていくもんだから、「随分大きな会場だな」と錯覚しかけた。
 錯覚が錯覚を呼んで、違和感を押し潰していって、ついには大きな間違いされも些細なことだと飲み込んでいくような……幻想。
 考えてみればバカバカしい時間、僕達は歩き続けてしまった。そう、数分どころじゃない時間、僕達は『異空間を歩いていたらしい』。
 このまま歩いていたらどこに辿り着いていたのか。辿り着くことなんてできたのか? 「少しずつ景色が変わるなら景色の終わりがあったかもしれない」、そう考え続けていたら僕らは一生歩き続けたって? ……終わりの無い世界をずっと? 自分達も気付くことなく永遠に? ループに次ぐループの中を、ずっとずっとずっと……?
 異端の空間に囚われたことに気付いてなかったら、僕達は何時間どころか何日、何十年歩き続ける羽目になったのか。考えたらダメだ。今は、たった数十分で仕掛けに気付いたことに喜ぶべきだ。

「……ときわ様。『赤紙』で向かえとされていた現場近くであることは、確かです。ここからほんの二キロ先の林道が……目標地でしたから……。そこで、妄執の塊を発見したという『赤紙』を頂きました」
「林を餌場にしていた異端が移動して、今度はこの美術館の次元を歪めて穴場にした。そういうことでしょう」
「…………はい」
「異端だって脳があります、引っ越しを考える可能性は捨て切れませんね。くっ、やっぱビジネスよりラブを優先させるとロクなことありませんね! 先に美術館に行こうと勧めた僕が悪かったです! さっさと異端はハントしておくべきでした」
「…………いえ。先に良い気分になりたいと思って、お言葉に甘えてしまったのは……オレです……」

 おや、その一言。僕達と美術館に来たことが良い思い出になると考えてくれたってことか。嬉しいな。
 って今はどっちが悪いなんて言ってる場合じゃない。ブリッドさんは即座に手を虚空――ウズマキへ突っ込むと、凶々しい武器を引き抜いた。赤と黒が混ざり合う不思議な色の剣を召喚し、緊急事態に備える。幸いここは異空間でも武器が取り出せないことはないらしい。僕も異空間から銃を取り出した。
 剣を持った彼が美術館の壁に武器を振り下ろした。構えを充分に取った後に踏み込んで突撃をする。……だというのに、美術館の壁は傷一つ出来なかった。
 僕も危険覚悟で発砲してみる。
 弾が跳弾して当たるなんてことはなかったが、銃弾は壁に傷一つ作ることなくめり込んで、消滅した。

「さ、最近の建造物は火事でも焼け落ちず耐震性にも優れてる……って問題じゃないですよね!」

 すかさず僕は携帯電話を取り出した。当然のようにディスプレイには『圏外』と映し出されている。こういった不思議空間に現代の最新機器は追い付いてくれないのがお約束とはいえ、思わずへし折りたい衝動に駆られた。中にあるデータの為にもやらないけど!
 ブリッドさんの方に振り返ってみると、彼は武器を構えたまま、とある彫刻へと近付いていた。
 奇妙な鳥の彫刻だ。無限に続く細工を歪めてみたら何か変化が起きるんじゃないか。そういった意図で彼は剣を持つ腕に力を入れ、物凄い速度で叩き付けた。腕に力を込めたところまでは僕の目で確認出来たけど、叩き付ける瞬間は光の速度と言っていいぐらいの衝撃だった。
 石で出来た彫刻など粉砕、の、筈、が。
 ――ケケケケケッ!

「んなっ!?」

 彫刻のくせに鳥は飛び回り、僕達を嘲笑うような奇妙な声で鳴き続けた。
 これで異端が関係無かったら、僕の中で芸術家という生き物を理解できない存在に認定することにしよう。



 ――2005年12月18日

 【     /       /      /      / Fifth 】




 /6

 駅前のいかにも高そうな嫌味なマンションにパスワードを入力、入場。
 バカでかいというのに一つの階に一、二軒しかないという豪勢なマンションは、家の中だというのに警備員が立っていたりと休めた造りじゃない。その警備員も信頼してないような、部屋の入口の前で、更にパスワードを入力、指紋を認証、カードキーを差し込み、最後にインターフォンで住人と確認をする。ブリジットは中に入れてもらうように懇願した。

「あー、オレオレ。さっさと入れてくれよ。『仕事』で疲れてるんだからさぁー」

 暫しの沈黙の後に、厳重にロックをされた重いドアが開いた。単なる住宅だというのにこの厳重さ。時間が掛かるのが本当にめんどくさい。
 そしてマンションの部屋に入ると今度は魔術的な仕掛けが施してある。これはマンションの管理人も知らない、ここの住人が勝手に施したロックだ。中に入るにも魔法の鍵が必要で、外に出るにも魔法で対抗しないといけない。
 現代科学、最新鋭の魔術研究によってこの部屋は世界と隔離されていた。
 見ているだけのワタシ以上に、ブリジットがめんどくさそうにその魔法の扉を解除していく。疲れているというのに解除にまた魔力を使うのは辛そうだ。ちゃんと両手を使い印を結び、呪文を詠唱しなければならないという厳重な仕組みに、いつもブリジットは苦労している。ワタシの頭の上に買ってきたファーストフードの袋を置き、長い呪文を唱え始めた。
 それでやっと終わりだ。あまりに面倒な事に疲れきったブリジットは、ワタシの頭の上に置いた袋も手に取らず、中にだるだる入って行く。待てコラ、犬科のワタシになんという芸をさせるんだ。袋を落とさないようにゆっくり後を追った。
 リビングにもダイビングにも人は居ない。でもインターフォンの先に声がしたんだから中には居る筈。ブリジットはすぐに一番奥の寝室に向かった。リビングに居ないとしたらここの住人が居る場所は寝室、それは経験で判っていることだったからだ。
 予想通り、住人はベッドの上に居た。

「んぁ、あっ、は、あん……ぁん……!」
「おかえり」
「あいよ」

 どっかから連れてきた女との供給の真っ最中。マスターは、『供給の餌』と繋がっているところだった。
 妖艶な香りを放ち、その匂いだけで人を堕落させるような女。サキュバスという種族か。彼が餌として取り寄せた女は豊満な体をベッドの上で揺らしている。
 ブリジットがやって来たというのに、男は餌を貪り、ちっともブリジットの顔を見ようとはしない。構わずブリジットは寝室に入って行く。

「お盛んなのはイイけど、オレもさぁ、ここ三日間働きっぱなしなんだよねぇ。そろそろ魔力を貰わないと倒れそうなんだけどさー。『供給』してくれね?」
「んっ……。そうか、ならもう暫く待っていてくれ。今、終わる」

 餌の女が激しく揺さぶられ、高い声を上げた。責め立てている本人は、無表情のまま……女の首筋に牙を突き立てる。

「ぎゃっ!」

 女の悲鳴がやむ。首筋から抜かれていく女の生気。びくんびくんと裸体が跳ねている間、齧り付いた男はゴクンと喉を潤した。
 12月の冬の時期だというのに、ベッドには汗の匂いが充満している。とても暑苦しかった。

「あ。別にその女相手にする気はねーよ。オレが用あるのはアンタ」

 精を叩きつけられ、興奮した血を吸われ、餌になっている女が今まで以上に激しく反応をする。長く責められていたところをやっと解放してもらったのか、蠱惑色の瞳は快楽に染まりきって悦びの涙を流し震えていた。
 男が首筋から牙を離す。絶頂を迎えた相手を解放すると、次第に女の姿は虚空へと消えていく。おそらく元の世界に戻ったんだ。餌として召喚された女は消失し、男だけがベッドに残った。
 そんな彼へブリジットは擦り寄る。汗ばんだ体に顔を寄せて、じっとり舐めた。

「どうせセックスするならさぁ、契約したマスターの方が良いに決まってんじゃん」



 ――2005年12月18日

 【     /      / Third /      /     】




 /7

 会場内のベンチに座って暫く、数多の苦悩に憂苦する。
 近頃のときわ殿は難しい注文をしてくるようになった。尋ねて聞いたことをそのまま繰り返してはいけないという制約を設けてきた。
 人の考えを拝借して過ごしてきた私には、苦痛の連続が始まった。
 どれが正解なのか判らないから他人の意見を借りていたというのに。どれが美しく、どれが醜く、どれが尊いか、私には理解できなかったから尋ねてきたというのに。「それではいけない」と彼は言うようになった。
 判らないままではいけないから人を真似てきたというのに、それすらいけないと言われてしまった。

「なあ、ルージィル」

 いつの間にか立っている人物の名を呼んでいた。
 周囲の客は『彫刻を立って見ているだけで動かない』から私の元に来てはくれない。話し掛けようか迷った結果、私はまず知っている人間の名前を呼んでいた。
 金髪碧眼の彼が背後に立っているのだから、話しかけない手は無い。

「…………」
「どうした、ルージィル。返事をしてくれないのか?」
「貴方という人は、今の状況が判っていませんか。弟が困っているから駆けつけたものの、ここは異端によって世界から隔離した結界内になって……」
「今の状況? 私はときわ殿にここに居ろと言われている。だが一人で待つのもつまらない、話し相手になってはくれないか」
「能天気は可愛いものですが、度が過ぎると困ったものですね。さて」

 ルージィルにベンチに座るように促したが、彼は首を振って私の背後から離れなかった。なんでも他人と一定以上の距離を保っていないと落ち着かないらしい。
 せっかくだからルージィルは美術館についてどう思っているか尋ねようとすると、彼はとある彫刻に近づいて行った。先ほど私が見ていたハーピーの像の元へ向かう。
 彫刻の足元を指差す。何かを見つけたのかと私も近寄ると、そこには『記号の集まり』が記されていた。
 アルファベットのようなものもあれば違うマークも並んでいる。彫刻の解説とは思えない。怪文書というものか。

「例えば、私達はこの美術館から出られないとします。さて、美術館に閉じ込められたアクセン様はどうしますか」
「どうするとは、どういうことかな。出られないと言われているなら、出られないものなんだろう? どうしようもないだろう?」
「貴方の場合、こう言った方がいいかもしれませんね。主人公達がとある怪しい屋敷に閉じ込められてしまう映画があります。それは鍵を使って出るような単純な仕掛けではなく、特定の方法が無ければ脱出することができません」
「ん」
「彼らは何をし始めるケースが多いですか」
「脱出する方法の手掛かりを探すな。大抵そういった映画では謎解きをして宝を見つけ出すか、門番をしているモンスターを退治するものが多い」
「そうですね。そうでしょう。ところでアクセン様、私は今このような文章を見つけてしまったんですが、『これは何だ』と思います?」

 指差された先の怪文書の隣には、誰にでも判るような言語で『これは何だ』と書かれている。
 『ΝΙΨΟΝΑΝΟΜΗΜΑΤΑΜΗΜΟΝΑΝΟΨΙΝ』
 日本語で訳すなら、『顔のみならず、罪をも洗い清めよ』。意味は文字を読める者なら理解できる。ただそれは、音を述べただけに過ぎない。本来の意味を見出していないものだ。

「近頃はクイズが流行っているのか?」
「私は単に、貴方がこれを解けるのかと尋ねただけですよ」
「ルージィル。今、『これが何か』と言ったな?」
「ええ」
「なら、これはだな」

 私は答えを言った。
 途端、私がさっきまで座っていたベンチがズシンと沈んだ。いきなりの衝撃に何だと見てみると、どこかで見た映画のように、隠し通路が現れただけだった。

「ははは。ゲームが得意とは聞いておりましたが、まさかこんなに早く解くとは。頭の緩さと利口さは因果関係があるのでしょうか」

 解いてくれてありがとう、入場料を払わずにここから出られそうだと感心するルージィルの顔は、驚きの色に彩られている。
 一転、普段の涼しげな笑みに表情を戻した。ベンチのあった場所に出来た通路をスタスタと下りて行ってしまう。
 もうここに居る必要も無いと言わんばかりに。

「座っていろと言われたベンチが無くなってしまったぞ」
「はい。どうなさいますか? ときわ様の言葉を守りたければそこでカカシのように突っ立っていればいいのでは。意外とお似合いですよ」
「君は態度が丁寧なだけで言うことがブリジットと変わらないな」
「下品になりたくないから敬語を使っているだけですよ。まあ、敢えて私から一つ言っておくなら、貴方はそこで待っているべきです。ここなら安全ですし」
「待っているべき、なのか?」
「ええ。ここから先は貴方には危険ですから」
「危険? なら何故君は行こうとする?」
「呼ばれたからにはお話をしますが、それでも帰りたいですからね。いつまでも結界の中で永遠に回り続ける趣味はありません。大丈夫ですよ、私は危険を回避するだけの力がありますから」
「危険には変わりないのに何故向かう? ここが安全だというなら君もいるべきではないか。好奇心だけでわざわざ恐ろしい場所へ進むなと言うだろう?」

 穴の空いた先に降りて行こうとする身体を掴もうとして、スルリと抜けられてしまう。彼を掴むことが出来なくて、もう一度手を伸ばそうとするが、「彼を掴んではいけない」ということを思い出して言葉無く唸った。
 彼に避けてもらわなければ以前のように気絶していたかもしれない。……しかし避けられた後も、ルージィルを掴んで止めようと思う気持ちは変わらなかった。

「ルージィル。危険だと判っているなら、行くな」
「何度も言いますが、私は危険を回避するだけの力が」
「行くな。一体何が危険なのか私には判らないが、危ない場所に向かおうとする友人を止めない訳にもいかん。お前のことが心配だ。お前に何かあったら私は……」

 と、私が『いつもの台詞』を最後まで言い切る前にルージィルは笑った。
 鼻で笑らわれた。その笑い方が、人を馬鹿にするときに使われるものだということを経験で知っている。

「大して親しくもない私にそんな暖かい言葉を投げかけないでください」
「そんなことを言ってくれるな、悲しまなければならん」
「ああ、やっぱり貴方は成長していませんか。弟はあれほど変われたのに、貴方はまだ誰にでも優しい言葉を掛けるのですね」
「何の話だ?」
「――僕はですね、僕の愛しい人が僕以外の誰かに愛を囁いているなんて考えたくもないです」

 涼やかな一言。だが子供っぽい印象を抱いてしまうような、何者かに対する全力の独占欲。内心で、彼に対する評価を再認しながらも、背筋が凍るほど低い声を呑み込んで受け留める。
 穏やかに微笑んでいる表情は変わらない。元々造形の美しいルージィルだ、周囲の者達がたちまち恋に落ちてしまうほど優雅な笑みを浮かべてはいる。だが鼻を鳴らし視線を外すその仕草は、容認したがいものがあった。
 ルージィルは構わず突き進もうとする。一瞬消えた優しい声も、「失礼」と笑顔を取り繕って先に進んでいく。そんな彼の前に、立った。

「誰にでも優しい言葉を掛けることの、何が不満か?」
「一人も愛することもできない人が、全員を愛することができるとでも?」
「今の私には出来ないだろうな。私は未熟だから。だが、出来ないからといってしないということは選べん。そうだ。それに。私は全員を見るようにしてきたから、ときわ殿達にで出会えた。もし全員に声を掛けないままなら、誰とも会えず、再会もできず、笑顔を見る機会も無く、何もかもを知らず過ごしていたかもしれない。今の私を否定されたくない。だから私は」
「主義を違えるつもりはない、と」

 彼との会話はほんの数秒で終わった。
 お互い言葉の選択でタイムラグが発生することがない。まるでテニスの打ち合いでもするかのようなスムーズな問答によって、対立と和解は一分もかからなかった。
 しかし、ルージィルが言葉の流れを切る。すう、と深呼吸をしてベンチのあった穴を見入る。謎解きがあることも知っていたルージィルは、突如空いた奥の空間に何があるか知っているような顔つきだ。知っていて眉を顰めているということは、先ほどの言葉通り危険が待ち構えて警戒しているということかもしれない。
 思わず「君は全てを知っているのかね?」と尋ねてみると、「大体は」と即答が返ってくる。その割には謎解きを人に任せるのだから、どこまでが冗談なのか判らない。賛辞を呈しようとすると失笑され、

「とは言っても、判っていることは知っていることのみです。判らないものは判らない。アクセン様と同じですよ。貴方よりは臨機応変に対応できるだけの経験がございますが」

 と皮肉なのかなんなのか、知っていることを知っているという当たり前で涼やかな一言が口にされていた。

「私と君は、同じか」

 ルージィルは歩き始める。穴へと続いていく地下階段を下っていく。蛍光灯の明かりは届かず暗い道が続いていても構わず歩みを進めていく。だが古い洞窟のように所々にランプが掲げられていた。中は完全に闇ということではない……それすら知っているような、まるで全知の振る舞いに感嘆した。
 古臭い土の匂いを嗅ぎながら、颯爽と進んでいく彼の後を追いかけていく。何か話がしたい、どんなことを話そうと迷走していると、先に小さな沈黙を破ったのはありがたいことにルージィルだった。

「アクセン様は誰の真似をしているのです?」

 だがその問いは、簡単に返すことのできないものだった。
 素っ気なく頷いてもいい。ルージィルの表情はさほど面白げもなく、気まぐれに尋ねた程度に過ぎないと察する。答えなくても構わないし、強く知りたい訳でもないと歩みの速度が変わらぬことから読み取れる。

「貴方は周囲の言葉をそのままなぞっている人です」
「ん」
「『危ない場所に向かおうとする友人を止めない訳にもいかない』『心配だ』『何かあったら私は』。そうアクセン様は先ほど言いました。とても長い言葉を流暢に。……違うでしょう? その台詞、貴方のものではないでしょう? そこまでして虚構に拘る理由は何です?」

 あまりにもあっさりと自らの主張を覆される。狼狽は、しない。
 どうしてルージィルがそのことに気付いたのか、ときわ殿のように長い時間を一緒に過ごした訳でもないルージィルが。やはり彼は全知なのかと驚嘆しながらも、問い掛けられたからには「その通りだよ」と答えるしかなかった。
 それどころかルージィルは「私を救う気など無いでしょう?」とまで言い放ってきた。何故そこまで言い切れるのか、不思議でならない。「どうしてそこまで判ってしまうんだ?」と純粋に浮かび上がった言葉を口にすると、ルージィルはようやく愉快そうに笑った。

「なあに、貴方は理屈が通ってなければ理解しようともしない人です。理由が無ければ動きもしない人だ。なのに、ときわ様でもなく私のことを友人なんて、思ってもいないことを言うなんて。貴方の意見でないのが判りましたから」

 だから誰かの真似をしていたんだと、友人と言い張って守ろうとするような聖人のような誰かを真似ているんだと思ったんだと笑い飛ばす。
 ふむ、と私は口元を拭った。先ほどの自分の発言は正しいと思って口にしたつもりだったが、ルージィルにとって笑いに変えてしまうほど効力の薄いものだったらしい。もう少し私は演技というものを学ばなければならない、まだ学ぶことが多いな、と思いながら……元々の質問に応じる。

「こうなりたいと思っている人物は、いる」
「いるんですね」
「いる、が」

 ………………彼の名前は、知らない。……どんな顔かも判らない。どんな言葉を話していたのかも覚えていない。声しか、心に残っているものはない。
 だけど、優しい人だった。目も口も不自由だった私を献身的に看病してくれた。困っている人がいたなら助けに行くような、友人なら身を挺してでも助けに駆けつけるような、いつも笑っているような、話を笑って聞いているような、甘い物が好きで、香りの良い水が好きだった、そんな人だった。
 空っぽの胸に影しか判らぬ人物が染み込んでいて、『その人が素晴らしい』ということだけが理解できていて、『自分もそうなれたらいい』と……理由も判らず、だけど確かになりたいという絶対の心があった。
 記憶の端々にその人が話していた声がある。その声は、意味のある言葉を綴っていた。
 覚えている音があったのにどの国の単語なのか判らず、音だけを頼りに知識を詰め込んだ。
 ついにその音が意味のあるものであると、『極東の島国の言語である』と判明したとき、どうにかしてその人に会うために海を越えてきてしまった。
 語学留学だなんて形で世界を回ったのは、その人が使っていた言葉を探すためだった。

「彼が私に言ってくれた……[にんげん][あいして]という……あの頃は意味も判らず聞いていた言葉がある。その音だけは覚えていた」
「人間。愛して。……大層な言葉を覚えていたんですね」
「あの頃は母国語ぐらいしか話せなかった。身動きができず耳しか生きてなかった私に何を告げていたのかは判らない。だが、その人は私に[人間を愛す]と言っていた。それは素晴らしいことだと、私は理解できるようになった。……そうして日本語を学んでいくうちに、微かに覚えていたその人の綴っていた音が、優しい心であることが次第に判っていった」
「ふむ」
「他にも[だいじょうぶ]という、苦しんでいる私にそう告げていた音は、私を心配する心だったと判明したとき……思わず涙を流してしまった。流したこともない感動の涙というものをな」
「…………」
「嬉しかったよ。以来、苦しんでいる人間を見つけたら声を掛けるようにしている。全ての人に声を掛けられたら素晴らしいものだろう? 全世界の人間を助けに行けたとしたら、素晴らしいことだろう?」

 泣くほど心が揺らいだことだから、おそらくは人にして悪いものではない。
 食堂で苦しんでいたときわ殿に声を掛けたのも、あの感動があったからだ。ときわ殿だけではない。目に見える苦痛を描いた人々がいたならば、声を掛けてやりたい。その音だけで救われた者が現にここに一人、いるのだから。
 救いたいという意思は、あくまで模倣したもの。だが救うという行為が尊ばれるものであり、憧れに近づきたいという心は、確かに自分の中にある真実。……虚像だと言いきることはできない。

「……そのような尊い心があるなら、アクセン様が守りたいものだけ守ればいいではないですか」
「ああ、そのつもりでいるよ」
「どこかです。『全ての人に』と貴方は言ったばかりですよ」
「ん? そこまで君が言うなんて、やはりこれはいけないことなのか?」
「いけないこと、というより、『不可能』ではないですか。全人類に語り掛けることも、助けることも。目標は目前に設定しておかなければ結果を出せない」
「それは、私が未熟なだけで」
「ではいつになったら成熟するのです」

 諭している筈なのに、唇を噛んでいるのは叱責されている自分ではなく彼であった。
 視線をこちらに向けることなくカツカツと靴音を鳴らして階段を下りていく。立ちはだかるものはなく、軽快な足音のままルージィルは先に進んでいく。煽り立てる訳でもなく言葉を繋いでいく彼。憚りない物言いは、何十年も前に老成した姿のようにも思えた。

「一生のうちに成熟できるとでもお思いで? 夢を追いかけることは素晴らしいことですとも。けれど、未熟なりの理想を追いかけた方がいい。今のままでは貴方は、何も出来ないまま終わる。そんなにも崇高な大志を抱いているにも関わらず」

 そうして簡潔に、「勿体ない」と、「その誓いの立て方では何にも成就しない」と。ルージィルはいつも以上に厳しい言葉尻で吐き捨てた。

「君は、誰かだけを守りたいと思ったことでもあるのか?」

 図々しい問いかけだとは思う。だがこの話の延長上には、彼がどうしてそこまで言えるのかを問い質したくなってしまう展開があった。
 見返りの無い人生でも歩んできたのかと、それともただただ人生論を綴った本を読んで学んできたのかと、どちらにしろ博学そうな彼に尋ねてみる。

「ええ」

 そして即答。
 あまり穏やかでない響きではあったが、ならばここまで熱が入る納得がいく。

「ん。いるのか」
「ですが、残念ながらその人はもういません」
「いない……? そうか、嫌なことを聞いてしまった」
「そのときの私は未熟でした。想いを成就させるにも、何もかも中途半端でした。今思えばどんな手段を尽くしてもあの人を手に入れてしまえば、あの人がいなくなることなんてなかったのかもしれません」
「…………」
「私は理解が足りませんでした。躊躇して失敗しました。力量を見誤っていました。だから、縛ろうが何だろうが欲しいものは手に入れるべき。一つでも譲れないものがあるなら他を構うなとアドバイスします。後悔、してますから」
「君がそんなに情熱的だったとは。知らなかったよ」

 彼の言葉は過激だ。そう思っているとルージィルは道の端に寄る。
 階段が終わった。地下の空間が広まっている。途端、寒気がした。ひやりと背筋が凍っていく。
 もう冬の季節だからというのもあったが、それにしても涼しい。単なる冷気と一言で片付けるには難しいものを感じる。
 地下通路のような場所を抜けると、更に涼しい空間に出た。そこでは、腐臭がした。思わず鼻を摘む。ルージィルの顔もまた少しだけ強張っていた。

「強烈な死霊の瘴気。幻覚だというのに嫌な匂いですね」

 腐臭の正体が鼠の死体なのかナマモノの処理し忘れなのか見当もつかなかったが、不快な表情を浮かべながらも焦らないルージィルの姿を見ている限り、それほど慌てるものではないのだろう。そう自分を納得することにする。
 鼻を抑えながら先を見ると、誰かが居る気配がした。人影だ。
 誰か、居るのか。思わず声を掛けた。見るからに人影は重量感のある男性の後ろ姿で、ゆっくりとその影はこちらを向く。
 室内の照明が暗いからか、とても顔色の悪い男性に思える。
 手には彫刻刀。もう片方の手には、石。そしてよくよく彼の周りを見てみれば、様々な形をしたナイフと未完成の彫像が散乱している。
 その姿が何をしているのは誰にでも判る。男が、石を彫っているということぐらいは。
 それでも同時に生じる違和感。こんな異質な匂いのする空間で、薄暗く気味の悪い地下で、ガリガリと石を削っている顔色の悪い男。まるで、ホラー映画のワンシーンを目の当たりにしているようだ。

「おやおや、どの作品に貴方の魂が入っていたんでしょうねぇ。……通りすがりの妄執の異端と融合して、施設丸ごと一つを異空間にしましたか。芸術家の世界創造力は大変、大変恐ろしい。生半可な世界遣いには敵わない力ですね」

 ルージィルは小さく笑いながら、転がる石像の一つに近付き、拾い上げた。妖精の少女を彫像だ。
 小さな女の子に虫の羽が生えていることからそれが『妖精』と呼ばれるものだということは理解できる。だがその顔は、到底可愛らしいとは言い難い。
 醜い。どの目で何を見れば、少女の愛くるしい顔に恐ろしい表情を打ちつける事が出来るのか。あちこちの彫像は、全て似たような醜さを植え付けられている。
 振り向いた男性は作業に戻っていた。石をただひたすらに彫り続けている。未完成の石は、腰みのを纏い大きな斧を持っている男のように見えた。戦士の姿か。だけど腕は腰の大きさに反してありえない大きさをしていて、まるで人間の形をしていない。その不気味さは見るものに正体不明の恐れを生じさせる。

「芸術家様、どうか作業の邪魔にならない程度にお答えください。どうしてこのような物を作るのですか? 貴方は何か、成し得たいものがあるのでしょうか」
『理想郷を創りたい』

 ルージィルの問いに、声が返って来た。
 男は声を掛けたルージィルに背を向けているから、本当に男が発した声なのか確信は無かった。だがこの空間には三人しか居ないのだから、きっとあの顔色の悪い男の声なんだろう。

『理想郷の住人を創り出す。それが使命』

 聞いたことのある音だ。イタリア語か?
 一瞬そう思ったが、どうも聞きづらい。音の端々に余計な物が聞こえない。現代の言語特有の、不必要なまでの装飾が一切無い。一言で言ってしまえば古臭い発音だった。

「理想郷の住人。こんな醜い生き物達が?」
『醜さは死を連想させる。忌避するための自衛本能。例えば死に瀕する土気色の顔。また或いは干乾びた骨の形を思わせる削げた頬。それら醜きものに、死に、真理に、人は興奮し、崇め平伏す。何故、死を恐れる必要がある? 若く美しい者は次第に醜く老いぼれ、元より醜い者は健全な道筋を辿り堅実にそれを迎え入れる準備をする。死は醜く、醜いものは死を連想させる。しかし誰にも公平に訪れ、誰しもを同列に並べるという点で死には何にも勝る価値がある。死を得た者は皆同じ、進まぬ時の中に身を投じ、その先で醜さというスタンダードに準じる。生命の核は死。全てのものに等しく約束された地。それは死、理想郷は死の世界』
「醜いものを多く作り上げて貴方の理想郷、死の世界に近くしたいと。なるほど。そして本当に死を司る異端に魅入られ、死の世界もどきを作り出すことに成功した。永遠に続く醜いもの達の道。死への道。それがあの無現回廊ですか」

 次々と男が発する声を、ルージィルは全て理解したように頷く。到底追いつけない速度だ。
 私が黙っている間も男性は何かを呟き続け、ルージィルはふむと首肯く。途中からついていけない会話になりどうしたものかと考えていると、いきなり銃声がした。
 ガァンという、小さくても爆発音だった。今度は一体何だと思っていると、彫刻刀を持って作業をしていた男の頭から血が噴き出す。
 彼がバタンと倒れた。自分の背後からの銃弾により男性が頭を撃ち抜かれたようだ。血を流して、死んでいく。
 だけど頭を撃ち抜かれた筈の男性がピクピクと動き出し、不自然な動きで立ち上がった。
 手をついてよいしょと起き上がるならまだいい。一切の事前運動も無しに、テープを巻き戻したかのように男性は立ち上がった。ギョロリと飛び出た目をこちらに向けながら、怪音を発しながら……。
 数歩後ずさったとき、別のものが男に走り寄った。今度は見たことのある影。それは剣のような物を手にしたブリッドだった。

「ブリッド……?」
「――」

 私の呟きにも何も反応せず、彼は猫のように横を走り、飛び上がり、男性を斬り刻もうとする。しかしその刃は顔色の悪い男性には届かない。男性を庇うかのように妙な鳥が前に現れたからだ。
 ブリッドは剣を振るい、鳥を薙ぎ払う。それは実に数秒のことだった。そしてその数秒の不思議な光景が次から次へと生じていく。
 鳥はどこからか現れ、大群を成し、ブリッドの前に躍り出る。だが彼は驚愕の色を一切見せず、顔色も変えずに腕を振るい、全てを消し去った。相手は刃を振るわれるたびに石の硬い音が響かせる。石を一つ一つ叩き割るようにしてブリッドは鳥達を粉砕していく。
 次々に鳥が舞ったと思ったら、次は骸骨の群れが現れた。たった数本の骨で構成されたそれは、通常の力学では説明できない重さの大剣を振り回してブリッドに突撃してくる。走りこまれて彼は一瞬動きを止めたが、壁を蹴って飛び上がり背後を取り骸骨を転ばせた。不器用な形の骸骨は足をもたれふらつき、次の態勢に戻る前に一撃を食らう。
 それが何秒も続いた。何秒も何秒も続いた。
 時折、ガァン、ガァンと小さな破裂音がする。何者かが銃弾を不気味な彫像達に撃ち込んでいるようだったが、私はブリッドの動き一つ一つを追うのがやっとで、銃の主に気付くことは出来なかった。

『ああ、なんと』

 男性が呻く。
 カクカクと不気味に首を振るわせて、まるでブリッドに話しかけるような仕草を見せた。

『貴方をモデルに是非一度、創作をしたいものだ。貴方はとても良い顔をしている。ひどく醜い。貴方の顔は死神を思わせる。美しさとは対極に位置する、人々への真理の伝承者……』
「――――」
『その歪められた表情にも、魅せるところがある』

 男は慈愛に満ちた眼差しを見せた。
 その目は、とても恐ろしいものだ。元から焦点がどこにあるのか判らない不気味な目。彼が彫ったという彫刻達と同じような醜い顔。ぎょろりと飛び出たその目に見つめられると、動きを止めずにはいられなくなるような、恐ろしいもの。
 男に見つめられて、ブリッドは武器を握る手に力を込めた。足首を捻り、重心を計り、一瞬に込める一撃を繰り出そうとしていた。ブリッドの目も中央の男に引き寄せられている。
 そう感じたとき、ブリッドの背後に何かが動いたのが見えた。
 大斧だった。
 私の身体は何も考えず動いていた。



 ――????年??月??日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /8

 そこはとてもとても平和な場所だった。
 人々を襲う化け物は、力ある者達に退治されていく。戦いが何度起こっても、いつか終わらせる方法を皆が知り始める。
 時折やってくる病魔の対処手段だって手に入れた。この不浄の地を清めていこう。そうすれば恐れることなんてないと知った者達は、全てのものに怯える必要が無いのだと悟った。
 化け物と戦う知恵。健康でいることの知恵。人と人とが争わないための知恵。少しずつ彼らは、ある者達は、人間達は学ぶことを覚えていき、とても平和な場所を手に入れることができた。
 そこまで到達するのに、たった数年。
 でも逆を言えば数年も経ってしまった。
 その時間の経過を嘆く者もいれば、賞賛する者もいた。
 どちらが正しいとは言えない。世間的にはこの経過は、良いものとして歴史に刻まれていったとしても。

 空を見上げ、自分は嘆くべきか賞賛するべきか考える。
 どちらか正しいとも言えず、ただただ討論が続き、彼は思い悩む。
 ふと、違うことに気が付いた。
 ああ、自分はこんなにも空に近い場所に立ったことがあっただろうか。
 足は、ちゃんと地面に着いている。それでも空の中にいるかのようだ。
 今まで幾多の魔術を学んできたというのに、数々の知恵を頭に詰め込んできたというのに、ひどく驚いた。
 こんなに簡単に空に辿り着くとは思わなかった、と。

 ――人間の分際で、ここまで来るとは思ってもみなかった?

 彼女が呟いた。
 その日はとても良い天気。これほど晴天、外に出なければ勿体無いと誰もが思うほどの良い快晴。
 実は朝、彼女に一声掛けていた。彼女はその呼びかけに応じ、もしくは青空に釣られてか、顔を出していた。
 彼女は陶磁のように白い肌をし、円らな瞳と可憐な唇。それらすべて、まさしく尊き方と呼ぶに相応しい顔立ち。
 ついどきどきしてしまって、自分の見たものを受け入れるのに手間を取ってしまう。
 自分が知っている姫といえば、少々お転婆な女の子しかいなかったから。相応しい教養、立ち居振る舞い、華やかさ、光り輝く――人とは思えぬその力。
 彼女だからこそ、その言葉を口にすることが出来たと言える。

 ――そんなに空を恋しまなくても、人間はいつか空を自在に飛べるようになる。今は貴方ぐらいしかできないとしても。

 ――なんと。じゃあ今代でここまで来たオレは生意気だって、空から落とされるかな。

 彼は彼女に問い掛けた。彼女が放った言葉が、一体どこに掛かったものなのかを探るために。一度着物を正し深く頭を下げた。
 女性の凛と澄んだ瞳に、人間の姿が映る。

 ――ここまで辿り着いた努力を無碍にするほど、私は出来ていない女じゃない。

 ごく普通の少女と変わらぬ、茶化した一言。
 高貴なものではない、そこらの村娘と変わらぬ物言いでも、とてもとても美しく思える。
 小さい頭に手を乗せ軽く撫でてみた。彼女に急に触れてみたくなったからだ。
 目指してきた者として、また人間の男として、如何なる女性を見てきましたが、これほどのものには出会ったことはない。
 触れてしまった後も、女性は驚かなかった。

 ――何故、驚かないのかな。

 尋ねても、彼女は物怖じもしない。

 ――そうなると判っていたから。

 彼女は、無礼にも手が伸びるということを知っていた。

 ――ああ、貴女が人々から忌み嫌われるのもよく判る。人気の無い社殿はそれ故か。余計に貴女のことが愛しく思えてしまった。

 術師として彼女を外へと案内しながら幾度も問い掛ける。
 知らないことを。何度も何度も。何度も。
 彼には知りたい事は山ほどあった。知らない事が山ほどあった。自分だけでは解けぬものばかり。だけど、彼女はなら知らぬものなど無い。
 自分が持っている苦悩は、彼女には無い。総てを知る者に、心惹かれない訳がなかった。

 ――貴女のような人はどうやって生まれるのでしょう。

 憧れた矢先に先立てると言える者。
 全知全能、それは神。貴きもの。無知は恐ろしいから。自分は知りたい。何であろうとも。
 あれば助かる命があった。それは力。
 あれば助かる命があった。それは戦。
 あれば助かる命があった。それは病。
 或る事件が有る、被害を知らなかった、加害を知らなかった、力の先と後にあるものを知らなかった。
 世には、知らないことだらけ。故に悲しむものだらけ。全であれば悲しむ必要もない、知らずと苦しむ必要も無い筈だ。

 語り終えると彼女は笑う。決して人を馬鹿にするようなものではなく、もちろん切ない微笑でもなく、とても人間らしく、けれど人ではない彼女は仮面の笑みでオレを受け入れた。

 ――人間は弱いのだから、仲間の力を借りなさい。一人の知恵ではまだ彼方は飛べることに気付かない。けれど三人ならば飛ぶ方法に気付くかもしれない。六人ならば、十二人ならば。きっと私に辿り着くかもしれないから。

 しれないなんて、他人事。全てを知っている女性はくすくす笑う。
 しかし、その言葉は尤もなもの。術師といえど、彼が知らない術を狸が知っていることがある。ならば、その狸を我が物にすればその術は彼の物になる。
 なんて単純、なんて明快。頷き、そして頭を下げた。

 ――そうしてみよう。これから血を此処で繋いでいく。先ずは空を飛ぶことを目指してみよう。そのために、一番飛びやすいここを社にしてみようか。

 全知全能の神曰く、いつか人は空を飛ぶ。
 背中に羽が生えることも無く。一体どんな風に飛ぶのだと問いただせば、なんでも、硬い石の中に人間が入って、熱を送れば飛ぶと言う。
 熱とはなんだ。私達に流れる無数の血のことか。それで人が飛ぶというのだろうか。
 ああ、凄い、恐ろしい、けど、素晴らしい。
 自分だけではこの問いは判らない。だから求めることにした。
 無数の輪を。
 我が物にすれば、いつか彼女と同じものに辿り着く。
 それだけでいいのかい尋ねれば、ただそれだけのことなのだと彼女は言う。
 なら、本当にそれだけのことなんだろう。
 苦しんでいた半生は何だったのだろう。

 悩むのはやめだ。
 悩んでいた自分がとても馬鹿馬鹿しく思えたから。
 女と共に笑うことでその苦しみから解放された。
 けれども、彼女と笑う中でも刻は進んでいく。空の雲は右へ動き、太陽は沈んでいく。
 その間にも、命は削れていく。
 人間の時間は限られている。全部を手に入れて完成させる前に、人は終わってしまう。
 人でない彼女だから完成できたけれど、人間に拘る男に無理な話。
 彼女との絶対的な隔たりは、どうすれば拭い去ることができる。

 彼女を創り出すには、どうしたらいいんだ。
 共に生きるためには、どうしたらいいんだ。



 ――2005年12月18日

 【     /      / Third /      /     】




 /9

 援護射撃に専念し過ぎて、出遅れた。
 なんでかアクセンさんが居たベンチが無くなっていて、そこにはいかにも怪しい地下に続く通路。入ってみたら、変な空間に探していたアクセンさんとルージィルさんがボスっぽい人と話していた。
 僕の銃がボスを一撃で仕留めようとしたけど、そんな安々と倒れてくれない。不気味も通り越してスーパー不気味にボスは起き上がり、次々と幻想彫刻を動かし始める。でもそんなザコ、ブリッドさんには紙切れのようなものだった。
 僕が援護射撃をしなくてもブリッドさん一人で全部を蹴散らせるんじゃないか。それぐらいの怒涛の戦闘を見せつけていた。
 でもこの空間内には何にも力を持たない一般人アクセンさんが居る。彼に襲い掛かろうとしているものがいたら僕は撃つ。そのついでに援護射撃もする。そんなことをしていたら、つい忙しくなってしまって……。

 ――ブリッドさんの背後に、大斧を持った彫刻が現れるのも、気付かずに。
 ――それを見ていたアクセンさんが走り出すのも、気付かずに。

 僕は何も出来ないまま、アクセンさんがブリッドさんの前に飛び出していくのを見ているしかなかった。

「…………あ…………」

 アクセンさんよりずっと大きな石の巨体。その巨体が持つにも不釣り合いなぐらい大きな武器。先に居る相手を粉砕すべく振り下ろされた凶悪な剛腕。
 もしブリッドさんに向けられた攻撃なら、あの素早さをもって芸術家に気を取られていたとしても寸前のところで回避した。ブリッドさんだったら冷静に避けるに違いない。あの人の戦闘センスの高さは報告でいくらでも聞いている。こんな所のこんな相手で傷を作る人じゃないってことぐらい、我が家では周知の事実だ。
 だというのに、あの人は。
 何の力も無いのに、受け留めるすべなど持っていないのに。背を押せば庇えると思ったのか、注意を引きつければ助けられると思ったのか、単に自殺志願だったのか。
 無力なくせに飛び出して、斧の下敷きになった。

「!!!」

 ――その後の展開は早かった。

 斧を持った巨体は三秒後には粉々になっていた。五秒後にはその巨体を生んだ創造主も後を追っていた。
 この空間にある石という石を粉々に、砂になるまでブリッドさんの武器は打ち払い、全てを終わらせてしまった。
 さっきまでが本気じゃなかったというのは嘘になるが、真の姿をブリッドさんは全然出していなかったらしい。たった数秒の出来事でも、修羅の如く踊り狂い、あらゆるものを粉砕する姿は……理解のある僕でも恐怖を感じるほどだった。
 異空間の主が倒されたことで、周囲を覆っていた腐臭は消えていく。代わりに、大量の血の匂いが充満していった。

「アクセンさんっ!」

 大声で、『彼だったモノ』へ呼びかける。
 彼は、二つに分かれていた。
 左腕は大斧衝撃で、形を崩しながら遠くに吹き飛んでしまっている。あんな遠くに腕が飛んで行ってしまっていた。血は流れていたが、あまりの衝撃の強さ故か綺麗に人体が切断されてしまって傷が広がっていかない。おかげで、真っ二つにされたというのに……意識が残っていた。
 残酷だった。即死ならいいのに(いや、死ぬなんて絶対良くないことだけど!)真っ二つになった状態で、まだ生きているなんて。
 でも少しずつ生命の息吹が消えていくのが判る。こんなにも無残な姿になったのになかなか死ねずにいるなんて、なんて、なんて酷い。

 床に転がったアクセンさんも自分の身に何が起こったのかちっとも理解出来ず、状況を確認しようと目を必死に動かしていた。
 けれど首の根元から左側が無いせいか、頭が動かず、どう必死になろうがいつになっても何も判らずにいるようだった。
 ああ、どうせなら判らないままの方がいい。自分に生じた超体験など判らないまま、普通の世界で死んでいった方が幸せかもしれない。そう思わずにいられない、悲惨な光景だった。
 死ぬことを判っているのか、その表情だけでは読み取れない。必死になって現状を読み取ろうとしている無駄な動きが苦しかった。いっそ「貴方は死ぬんです、無理をしないで」と言ってあげた方がいいのか。そうすれば無理なく、落ち着いて死ねて、彼の為になるのか。
 いや、いやいや、いやいやいや落ち着いて死ねるってなんだ!? 僕は混乱していた。どうなってしまったのか判らない彼の表情を見ていたら、僕までどうするべきか判らなくなってしまったんだ。
 どもって何も言えずにいると、何故かここに居るルージィルさんがスタスタとやって来て、

「貴方は死ぬんです、無理をしないで」

 と言ってくれた。
 僕が言おうか言うまいか、死ぬほど悩んだ言葉をあっさりと。

「…………あ……」

 その言葉を聞いて、アクセンさんは一瞬、止まった。
 死ぬ。その響きを理解したのか出来ないのか。でも途端に表情が次から次へと変わっていく。
 恐怖に慄く色や、苦痛。苦悩、死への恐怖、徐々に広がる焼けるような痛み。様々な苦しい表情に変わって、涙を浮かべ始める。
 こんなにも彼は表情を変えることができるのかと、初めてこのとき知る。
 ぼろぼろと涙を流していく。泣きながらまた目を必死に動かして、今度は別のものを探そうと必死になっていた。
 そして探しているものが見付かって、彼は笑う。

「……あ……リ、ッド………………良か、った……」

 必死に目で探して、力の限り顔を歪ませ笑って、絞り出した声の先に居たのは、ブリッドさんだった。
 ブリッドさんは傷一つついていない。元気な姿だ。ブリッドさん程の人間が、あの程度の異端にやられる筈がない。それなのにアクセンさんは『自分が救えた』と勘違いしているのか、安堵の笑みを浮かべる。
 ぼろぼろと涙を零しながらブリッドさんの無事を確認して、くっ付いている方の腕で彼を引き寄せようとする。敵わない力としても。少しずつ力を無くしていく身体で、最期の力を込めて、引き寄せようと手を伸ばした。

「……………………ぉ、ま、…………の、事…………。す……………………。………………」

 無理をするなとルージィルさんが言ってくれたのに、人を引き寄せるだなんて体力のいることをして。

 ――彼は絶命した。

 目を閉じたアクセンさんを見て、僕は戦慄した。

 異端に殺された魂を何度も見てきた。
 救済だからと義父に教わった通り、魂を狩り、自らの中に押し込んで、我が家まで案内をし続けた。それはもう何年もやってきたことだ。

 けれど、このとき初めて、僕は『異端に殺される人間』を見た。
 僕が今まで見てきたのは『殺された人間達』だった。本来の幸福な死の運命を歪曲され、悲劇に作り替えられた人間達しか見てきてなかった。
 今はまだアクセンさんはあったかい。さっきまで何事も無くあたたかく生きてきた、普通の人間だった。異端とか全然知らない、判らない、判らなくてもいい存在だった。
 でもそんな人が、死ななくてもいい人が地下の空気も相まってだんだんと冷たくなっていく。そしてそのうち腐っていく。ここに充満していた負の匂いと同じものになっていく。あたたかい元気な香りから、誰もが忌み嫌う冷たく恐ろしい匂いに。
 そんなものアクセンさんには似合わない。
 アクセンさんがアクセンさんでなくなっていく。
 彼が消えていく、僕の友人が、僕らの仲間が、その第一歩を僕は……見ている。

 言葉が途切れる最後の最後までアクセンさんらしかった彼は、この瞬間から別のものになっていく。
 目の前で人が死ぬ。その衝撃。これが本当の、異端の罪。悲劇。救済しなければならないこと……!
 今すぐにアクセンさんの魂を僕の体内に収容したら、彼と内部で話せるんだろうか? 彼に身体を貸してあげることは可能なんだろうか? 身体を貸してあげて……中途半端になってしまったデートの続きをしてあげられるんだろうか!?
 いや、プロの霊媒師のそんな芸をしてはいけない。
 でも、僕なら、僕らに備わったシステムなら、出来るんじゃ!
 考えていると、ブリッドさんは自分の手首を切っていた。

「っ!?」

 さっきまで石を粉砕していた凶々しい武器で、利き腕を傷付けていた。
 ブリッドさんの腕からは当然、赤い血が噴き出す。こんなところで今度は何を、と叫ぼうとしたとき……ブリッドさんはボタボタと滝のように滴る血を掌いっぱいに拭い、アクセンさんの両断された傷口に押し当てた。
 唇は高速で何かの呪文を口ずさんでいる。その詠唱は治療魔術ではなかった。血の流れを止める魔術など死に逝く人には効かないことぐらい彼だって知っている筈だ。
 それなのにブリッドさんは何かの呪文を早口で唱えていく。

 長い、とても難しい詠唱の末、魔術は発動した。

 あたたかい光が舞った。涼しすぎた空間をあたためていく光だった。
 一定の呪文を唱え終えたブリッドさんは、流れていく自分の腕の血を舌で拭うと、そのまま眠る彼の唇に運んでいった。
 吸い取った自分の血を、彼の体内に送り込む。ついにはブリッドさんは自分の舌まで噛み千切って、口内に赤黒い血を溜めながら、アクセンさんの口へ押し流していった。

 ……芸術家の作り出していた腐臭は無い。けど、鉄の異臭が周囲を覆い始めていた。
 思わず酔ってしまいそうなぐらい濃厚な空間。
 ああ、この匂いは……儀式と同じだった。
 儀式を集中させるため、トランス状態にさせるために、神経を麻痺させる作用のある香を焚いたりする。それと似たもの。
 これは儀式だった。
 彼を、異端に殺された悲劇で終わらせないようにするための。

「ときわ様。今、電話で連絡したところ、どうやら男衾様らが迎えに来てくれるそうです。なんとシンリンとお出掛け中だったらしく、この近くに居るそうです。五分でここにやって来るとのことですよ。良かったですね」
「え。……えっ?」

 ルージィルさんが僕の横で、携帯電話を片手に優雅に笑っている。
 いつの間に外に連絡したのか。平然にルージィルさんが笑っている姿を見て、「そう笑うってことは、助かるって確信があるんだよね?」と安心することにした。
 そうでないのに笑っていたとしたら、僕はこの人を殴らなければならない。
 きっと大丈夫だ。殴らなくて済むんだ。僕は信じた。



 ――2005年12月21日

 【     /      / Third /      /     】




 /10

 ――僕がアクセンさんと再会したのは、それから三日目のことだった。

 一族が常にお世話になっている山下の病院にアクセンさんは収容され、暫く入院することになった。
 意識を取り戻した彼は、『美術館の展示物落下事故の被害に遭った』と記憶を改竄されていた。ちゃんと彫刻を固定してなくて起きた不幸な事故に遭ったんだということで、彼は頷いている。

 実際の美術館スタッフには丁重なサポートをしているのでお互いに損が無いようになっている。退魔組織の情報操作の緻密さを侮ってはならない。いかに何事も無かったように出来るかは、『本部』の腕の見せ所なのだ。
 アクセンさんは左腕に大怪我を負ったものの、『変な黒い痣ができてしまったぐらいで』障害を残すことなく退院できるという。今は大事を看て入院してもらっているが、一日目の記憶改竄の際に怪我の治療はこの上ないぐらいサポートしてもらったから、何も後遺症は残っていないとのことだ。
 彼は今まで通り彼のまま、生きていける。
 点滴を打ってもらったり、流動食を食べてもらったりと患者っぽいことをさせているが、すぐにでも病院を出て行ってもらうことも可能なぐらい、彼はごく普通に復活していた。
 適切な処理と、猛スピードの回収が幸福を導いてくれたらしい。

「僕、入院している人にリンゴを剥いてあげるのがちょっとドリームだったんですよ」
「実は私もリンゴを食べさせてもらうのは、ちょっとした夢だったんだ」

 ロマンを叶えさせてください、と僕は軽口を言いながらウサギさん風にリンゴを剥いて彼に差し出した。
 傑作を見て彼は、普段通り笑う。三日ぶりの彼は、何も変わっていなかった。

「へえ。アクセンさんって昔、闘病生活をしていたって言ってませんでしたっけ?」
「ああ。昔な」
「そのときに食べなかったんですか、リンゴ。妹さんが剥いてくれそうな気がするんですけど」
「いや、メルティーナは……料理ができない子でな。花嫁修業が足りない娘なんだ。しかも包丁を持たせたら事件が起きる。そういう妹なんだ」

 どういう妹だ。
 おや、何を思い出したんだかアクセンさんの持っているウサギさんが震えてる。可哀想に、そんなに震えて。事故の後遺症でしょうかね。
 冗談のつもりで言おうとして、少し後悔した。
 今後はギャグでも『事故の後遺症』なんて繊細なワードは口にしないことにしよう。もし後遺症が残っていたら、申し訳なくてこちらが死ねる。

 ……美術館が異端に取り込まれていたのが今回の事件だが、さっさと僕らがあの周囲に居た異端を狩っておけば一般人が被害に遭わずに済んだかもしれないんだ。
 イフなんて考えだしたらキリが無いけど、今回ばかりは充分に救えた彼の傷の為にも、今後の自分達の為にも、強く深く反省することにする。

「アクセンさん。左腕、見せてくれませんか」
「ん?」

 リンゴを頬張りながら、彼は入院着を捲った。
 根元は傷一つ無く修復され、一旦ブチ切れてしまった事実を完全に隠滅している。痺れも無ければ違和感も一切感じないらしい。この上ないぐらい治療は成功している。
 けど、事件前には無かったものがちゃんと左腕から左胸にかけて、半身に刻まれている。
 それは、刻印だ。

「………………」

 見る者が見たら判ってしまう、『契約』の刻印。
 勘が良い人なら「刺青を入れているのか」と怪しむかもしれない。もしかしたら頭の冴えるアクセンさんも、いつかこの痣の法則性に気付いてしまうかも。でもその模様を消すことはあってはならない。これは、アクセンさんの命を繋いでいる証なのだから。

 ――ブリッドさんは、アクセンさんと『契約』を無理矢理結んだ。

 彼を『従者』として……自分の手で動かせる奴隷として従わせることで、芸術家が操っていた彫像達にように自由に動かすことにした。
 彼を絶対服従にさせて、『生きろ』という命令を発し、強い力を生じさせ命を繋いでいる。
 『契約』自体はこの世界ではそんなに珍しいことではない。ただ、一方的に『契約』を結び奴隷化させることは……タブーとされている。そんなことがこの世で許されたら、いくらでも人を操る暴君が生まれてしまうからだ。
 ブリッドさんがやっていることは、異端。そう、『狩られてしまう側』のやり方だ。
 教会のような治安を守る警察組織に知られたら罰を受けても仕方ないやり方だ。
 だが、僕はもちろん目を瞑るつもりでいる。
 彼のすること成すことを応援しようと思ったのは、今に始まったことじゃないから。

「……体の不調は無いですか」
「ああ。今すぐにでも退院できると思うし、そう医師も言っていたぞ」

 おそらくブリッドさんの身体のどこかにも、『契約』の刻印が刻まれているんだろう。
 ブリッドさんが霊脈を通して力をアクセンさんに送ることで、彼の体力を飛躍的に回復させることが出来るようになった。結果、ブリッドさんが健康ならばアクセンさんは不健康にならないという繋がりが出来た。
 そう考えると見るからに不健康なブリッドさんを何とかしないとこの健康男児がどうにかなってしまうのかもしれない。急に危機感が生じた。よし、ブリッドさんにはちゃんと食べる生活をしてもらわないと!

「それは良かった。貴方が居なかったら誰が僕の愚痴を聞いてくれるんですか。お茶会クリスマスバージョンも企画してるんです。僕の知り合いを呼んで、貴方の友人もみんな呼ぶような茶会をしたいんです。早く元気になってもらわないと」
「ん、それはすまなかった。三日間も企画会議が出来なかったのは、時間を無駄にしたくない君には辛かっただろう?」
「ええ、とても」

 いつものように笑い合う。
 全く悪いとこなんて無いかのように、変わらぬ笑みを浮かべる彼。浮かべる微笑みは……いつも通り。いや、今まで以上に朗らかなもの。
 よくドキュメンタリー番組で「大きな手術をする前とした後では、体質が変化するだけでなく嗜好や人格すら変わることもある」って言うけど……まさかな。でも穏やかに微笑んでいるその姿は、彼に相応しい。痛みに苦しんでいるものではないのだから、安心できた。

「日程はいつにする?」
「23日から27日がいいかと。23日にした場合、もう二日しかないので呼べる人は限られますけどね。あと28日は圭吾さんの誕生日なんでダメです。29日以降は寺が年末勝負モードになりますから」
「…………その、クリスマス当日も駄目だ。したいことがある」

 お遊び会をクリスマス当日にするつもりは僕も無かった。呼ばれた人達にもそれぞれ予定があるし、それに今年2005年は24、25日と土日なんだ。こんなに良い機会はみんな好きな予定を入れたいもんだ。
 そしてその考えはアクセンさんもそうらしい。自分でクリスマスは駄目だと言っておきながら、早速顔を赤くしている。
 ――きっとその日は、一人だけを誘って予定を立てたいんだろう。
 自分の意思でそれを考えたなら、全力で応援したい。

「んん、やりたいことが沢山出てきた。あまりにありすぎて絞り込まないといけないな。楽しいことをしようと考えたらいくらでもアイディアが出てくるぞ」
「いいんじゃないですか、全部やっても。主催者である僕達が楽しまないと意味が無いですから。まあ、参加してくれる人は絶対に楽しくさせるのが僕のポリシーですけど」
「ときわ殿の主義は清々しくて良いな」

 褒められて僕は純粋に喜んだ。このポリシーは決して捨てないと心に決めていたので、後押しされて嬉しくなった。
 楽しいことが幾らでも出てくるというアクセンさんのアイディアは、クリスマス会にできないならクリスマス当日にまわしてもらおう。あんまり楽しもうとしない『アクセンさんの大切な人』を笑わせる材料として使ったらいい。

「……あの、ブリッドさん。入りたかったら入ればいいんじゃないですか?」



 ――2005年12月21日

 【     /      / Third /      /     】




 /11

 ときわ殿がいきなり溜息を吐くからなんだと思ったら、唐突に彼の名を呼んだ。
 病室の前から進まずにいた彼に声を掛けたらしい。ときわ殿が声を掛けてくれたおかげで、私もその存在に気付く。
 声を掛けられて、彼は……ブリッドは、やっと病室に入って来た。相変わらずサングラスを深く掛けて目を合わせようとせず、ぎこちない動きのままだった。

「ブリッドさん。とりあえず椅子に座りましょうよ。そうだ、リンゴを食べてください。高級品だから身体に良いですよ」
「……いえ」
「そう言わずに。ほら、話したいことあるでしょう。座って」
「…………その、立ってるだけで、いいです……」

 淡々と。いつにも増して躍動の無い声を彼は繰り出す。
 普段と変わらぬ長い前髪、その下にサングラスで厳重に目を隠している。消え去りそうなほど小さく低い声。防音完備の個室でなかったら、ちょっとした騒ぎ声で聞こえなくなってしまうような、か弱い音だった。
 一向に入口近くから入って来てくれない。そんな姿を見てか、スッキリハッキリしないと苛々するというときわ殿は席から立ち上がり、入口に向かう。
 そして吹き飛ばすようにブリッドの体を強く押した。私の居るベッドの方へ。

「ああもう、いいかげんにしろこのバカップル。再会のアレでもソレでもなんだってしろっ」

 なんでか怒っている。近頃のときわ殿は声をよく張り上げるようになったなと思わずにいられない。
 ブリッドが押されてこちらに近寄るたびに、なんだか左腕が痛んだ。少しだけ鼓動が早くなる。……緊張したせいで傷が開き掛けてしまったとか? そんなまさか。緊張は確かにしているけど、大したことじゃない。
 ときわ殿はぷんすか怒りながら個室を出て行ってしまった。多分病室の前の椅子に座りに行っただけだと思うが、それでも部屋に二人だけにされる。ブリッドは顔を伏せたまま、こちらを見ようとはしない。私もなかなかブリッドの顔を見ることが出来ずにいた。
 先日のときわ殿の言葉を思い出す。

 ――貴方が思っていることを口にしないと駄目なんです。

 事故の前に話した、ルージィルの言葉も思い出す。

 ――縛ろうが何だろうが欲しいものは手に入れるべき。一つでも譲れないものがあるなら他を構うな。

 様々なアドバイスをしてくれる友人が居て、私は幸せ者だった。
 数日ずっと悩みながら生活してきたが、彼らのおかげでなんだか気持ちが楽になった気がする。
 ここ三日間、かつての入院生活のようにベッドの上で考え込んで過ごしていた。でもあの頃よりもずっと生きていた。時間の経過が楽しみだったぐらいだ。何百年も続いた苦悩の日々とは比べ物にならないぐらい、この苦悩は充実していた。
 手招きでブリッドを呼ぶ。手で誘ってもなかなかブリッドは私の元に来ようとはしなかった。遠目でも判る。二人きりになって、真っ赤になって照れてしまっていた。

「ブリッド。お願いだ。近くに来てくれ」

 私も似たような顔をしているだろうが、これからのことが話したくて堪らなかったから、近くに来るように頼んだ。
 おそるおそる、ゆっくりとした動きでブリッドがベッドの傍に来てくれる。顔は一向にこちらを見ようとしない。手が届くぐらい近くに来たら、伸ばして彼の腕を掴んだ。なんだか左腕が心臓のようにばくばくと緊張の走りを飛ばしていた。私の興奮があちらに伝わって嫌な想いにならなければいい。そんな風に彼を気遣う。
 ベッドに座らせて、頭を撫でる。彼はずっと大人しく、何も言おうとしない。言う言葉が無いんじゃなくて、本当に恥ずかしそうに口を閉ざしている。先程ときわ殿の声の張り上げからこんな感じだ。……再会のアレとかソレとかがよく判らないが、まあとりあえず、キスでもすればいいのか?
 言葉が出てこないならそんな行為も悪くない。まずは自分から押せと言われたから、自分の思うがままに愛情を表現しよう。
 髪を撫で、両頬に手を添え、抱き寄せる。愛おしくて顔が熱かったが今は我慢して茶化さない。サングラスを外して、一番好きなものを見ようとする。するとブリッドは目をぎゅっと瞑ってしまって、なんだか寸止めにされた気分だった。
 何度も何度も髪や頬、額を撫でて名前を呼んだ。あたたかすぎてむず痒かった。くすぐったかったのか、それとも私のことを愛おしく思ってくれたのか、彼の口元が緩む。
 微笑んでくれた。嬉しかった。微笑みながら見る私の大好きな紫の目は突如割れ怪物となり私を飲み込み赤く染まり地獄は再会し全てが禍々しく崩れ爛れ愛し骨だけとなり焼かれた体は胎児のように不安定なバランスで地を這い砂を食べ星を飲み狂おしく愛し胎児のために内臓を虐待し神は人間を轢き殺し腸が飛び出て口付けを続け夜に焼かれ哀れみ憐れみ愛し連呼し狂気に興奮し指すらも『恐怖』となり全て青く白骨化してその身を貫かれ暴発し劣悪な環境で腐り続け絶望の故に天国で爆発し異常に立ち止まり懺悔し死体は驚喜した先に時の最果てでは悪魔の雫が死体を作り目は五つに解体され膨張して騙され続け胎盤を引き摺り出し腸で首を絞めて中の別人は激しく堕ち左手だけの存在を禍々しく剥いで駄目だ駄目だ天国でビニールの臓物を食べ逃げ私の心は乗っ取られて逃げ拳銃で目玉を叱咤し斑模様の黄金色の脳が剥き出しになっている天使に串刺しにされて胎動の故に隔離病棟で腐敗は進み焼かれた神の創造物を剥ぎ嬉しくなって穢れきった大脳皮質がイカれ大量破壊兵器を示唆しそして熟成した排泄物のように臭い天使に示唆され媚薬は妄想に極楽浄土では所詮妄想にどう考えても臓物は臓物で胃袋に詰め始めもし臓物が小さい牢獄なら全ての牢獄は妄想であろう全ては妄想だとキラキラ感じる私もつまり媚薬ではなくて妄想だから息苦しく戦争に巻き込まれ四肢は糞のように粉砕し神を解放することしか出来ず苦々しく吼え打ち砕き木っ端微塵に生きて彼も機雷によって圧殺し徐々にこの世界の犠牲者となり嫉妬し生きてネジが緩んだ器械のように奪い取り絶望してしまうまで首を絞め――――。



 ――2005年12月21日

 【     /      / Third /      /     】




 /12

 叫び声を上げ、アクセンさんが自らの首を掻き毟る。

「早く! 誰か! お願いです、早く来てくださいっ……!」

 意味不明な絶叫を聞き病室に戻った僕は、ただただ体を取り押さえることしか出来ない。それぐらいしか出来ることなって無かった。
 さっきまで優しく笑い掛けていたあの人はどこに行ってしまったのか。帰って来た病室には、大声で訳の判らぬことを叫び続ける何者かしか居なかった。
 目を見開いて自分の体を傷付けながら絶叫し続ける姿は、同じ人には見えないが間違いなくアクセンさんだった。
 だというのに、こんな、奇声を上げて暴れまくるなんて、彼じゃ……。
 絶叫。悲鳴。咆哮。無我夢中に暴れ、周りにあるものを壊そうと狂い、ついには自分の体まで崩し始めようとする。僕は体を取り押さえるだけでなく、近くにあった果物ナイフを蹴飛ばした。そんなもの手に取ってしまったら悲劇しか起きないに決まってる……!
 蹴飛ばした果物ナイフは、壁際まで転がっていった。その壁には、ブリッドさんが背を付いて座っていた。
 信じられないものを見るような顔で。目を見開いて、狂気に囚われ変わり果てた彼を見ていた。
 呆然としているブリッドさんに助けを求めようとする。だがブリッドさんは腰を床に下ろしたまま、震えて自分の左眼を抑えている。ガタガタと全身を震わせて、左眼を強く強く抑えているようだった。抑えていない右目からはぼろぼろと涙が零れている。

「……オレ……そんな……ッ!」

 途端に気分が悪くなった。アクセンさんを取り押さえる元気がみるみるうちに無くなっていく。ついには自分も膝をつき、胃の中にあるものを吐き出していた。
 そんなことをして一分経ったらやっとお医者さん達が到着。霊媒医師が暴れるアクセンさんを魔術で拘束、大人しくさせてくれた。異能事情にも精通している僕の家御用達の病院だからきっと大事にしてくれる。全てを吐き出してぐったりしながらも、ここが病室で良かったとほっとした。

 ――僕がほっとしている頃には、蹲っていたブリッドさんは姿を消していた。



 ――2005年12月25日

 【     /      / Third /      /     】




 /13

 体のだるさは留まることを知らない。心霊医師から薬を山ほど処方されたが、いくら飲んでも体調は改善しない。
 いっそのこと効果がある薬を片っ端から全部飲み干してしまいたい衝動に駆られた。そんなことやったって体に毒だ。用法容量を読み正しくご利用しなくちゃ薬の意味を成さないことぐらい知っている。全力で飲み干してしまいたい欲を殺した。
 まだ僕はこのだるさと長く付き合っているから良い方だ。4月から妙な辛さと付き合うようになっていたから、苦しくても苦しいなりに対処の仕方を覚えた。どんなに体調不良でも気分転換と栄養のある料理を食べればまだ生きていくことができる。
 でも解消の仕方を知らないアクセンさんは、まるで生きながらにして地獄を味わっているようだった。

 21日での一件があったアクセンさんは、見るに堪えなかった。
 今では回復してくれたから意味不明な言動は無くなったけど、原因不明の症状と未だ戦い続けている。ベッドからなかなか起き上がることも出来ず、食べた物を戻してばっかりだった。あまりに吐き過ぎて喉が傷付き、嘔吐物に血の混じって騒ぎにもなった。
 そんな騒ぎを十時間に一回は起こしていた。たった数日だというのに体は痩せていく。一時期の僕みたいな痩せ方を味わっていた。
 ようやく落ち着きを取り戻して、辛そうだがお話を出来るようにはなった。自分の都合で寝返りを打つことができ(つまりはそれすらも無理だったってことだが)、見舞いに来た僕を気遣う言葉が吐けるまでになった。
 看病の御役目が病院のお医者さんからシンリンさんになった頃。僕はシンリンさんにお願いして、本国に居るご家族に連絡を取ってもらった。アクセンさんには悪いが今は体を休める方が良い。許可を取る前にご家族とお話をしてもらった。
 元々アクセンさんの事情を知っていたシンリンさんのおかげで、彼が帰省することが本人の知らないところで決まった。「妹さんとコンタクトを取った」と話すと、本人は悲しい顔をしながらも、帰省することを承諾してくれた。
 年内には帰国するという話も出たが、多くの医者がそれを反対したため年を越してからの帰省になった。アクセンさんの体調不良は単なる病気ではない。僕は詳しく説明されずじまいだったが、異能によるものだ。幸い症状が出たのが心霊治療に名高い病院だったため対処と回復が早かったが、「わざわざ危険な状態で移動はさせられない」と判断された。
 比較的安定はしても、まだ本調子ではない。今まで通りに戻るまで大人しく回復を待てということだった。

 アクセンさんも僕も、一週間も体調を崩した。クリスマスなんて浮かれているものをやっている場合ではなかった。
 クリスマス会をやると話をしていたけどいつ開催するなど詳細は決めてなかったし、そもそも誰も誘っていないから、中止になっても悲しむ人は一人もいなかった。アクセンさんは体調不良で気にしてる様子も無かったし、僕一人が悲しくなったぐらいで済んだ話だ。
 彼が退院し、洋館の自室で療養に入るようになった12月27日。僕に支えられて車椅子に乗ったアクセンさんは、苦しそうにも僕を気遣う言葉を沢山並べた。
 すまなかったという謝罪。二回も見舞いに来てくれてありがとうという感謝の言葉。また迷惑を掛けるかもしれないが助けてやってくれという親密な甘え。それは病人とは思えないぐらいの台詞量だったから、どんなに病気になってもこの人のおしゃべりな性格は変わらないようだった。

 ――ちなみに24日から25日、彼が入院中だったときに僕は何をしていたかというと、『仕事』をしていた。
 こんな日ぐらい遊びに行きたいと思うという考えは甘い。外国の偉人の誕生祝いなんて知らない『本部』は、まだ年末年始じゃないんだから働けと僕に『赤紙』を押し付けた。
 一緒に僕と『仕事』に行ったのは、年若い専業退魔師の火刃里くん。年下相手にあーだこーだと『本部』のやり方の文句を言うのは気が引けるから、ぱっぱと任務を終わらせることにする。
 そうして任務は無事終了。困っている人を助け、魂を回収して満足した後。寺に戻る前に、僕は火刃里くんにファミリーレストランでクリスマスメニューをご馳走してあげた。

「うめーっ! こんな高くてうまいケーキ初めてーっ!」

 火刃里くんが仏田寺にやって来て一年。許可が無ければ外にも行かず、毎日銀之助さんによる純和食しか食していない火刃里くんは、クリスマスに彩られたレストランにとても感激していた。
 『仕事』帰りで疲れた精神には甘い物が一番だ。火刃里くんは退魔業中に負傷してしまった腕を気にせず、丁寧にスプーンやフォークを使って美味しいケーキや洋食を楽しんでいた。
 一口食べるために「うめーっ!」と叫び、口いっぱいに物を頬張る子供を僕は大人の気分で見ていた。

「火刃里くんってパスタ、好き?」
「うんっ! うめーから好きーっ! スパゲッティ大好きーっ!」

 フォークにくるくる麺を絡ませるのすら楽しそうに、火刃里くんは食し続けていく。

「寺じゃ出ないから最近好きな食べ物ランキングから下がってたんだっ! でも急上昇っ! 今から流行語塗り替えるのも夢じゃないっ! 今年はスパゲッティで大逆転波乱の予感っ!?」
「流行語大賞は12月1日に決まるから、来年に持ちこさないとね」
「うわ、なげーっ。一年もスパゲッティブームもつかなっ!?」
「あとトークの際は口の中にある物を全部飲み干してから喋ろうね。食べるときも口を開けて噛んじゃダメだよ」

 そこで「えーっ?」と文句を言わず、すぐ実践は出来なくても「はーいっ!」と元気に返事をする火刃里くんは、突っ込みし甲斐がある子だった。
 上品に食事をしたことのないらしい火刃里くんに突っ込み続けるネタは尽きない。
 今まであんまり火刃里くんと話したことはなかったが、彼が寺の中で人気者なことぐらいは知っている。
 元気過ぎる言動と、素直に受け応えができる子。まるで嫌われる要素が無い。時には子供らしい失敗や反発もあるけど、それは経験不足がさせるミスに過ぎない。どんなことをしても優しく見守っていることができる可愛い男の子だった。

「おれねっ、まだお寺に来る前はねっ、クリスマス会の実行委員長やったことあんだよっ」

 どうしても展開は、周囲を彩っているクリスマスの話題になる。
 一年前に寺に住むようになった火刃里くんは、うちの子になる前の話を元気にしてくれた。
 学級会のクリスマスに、学校以外の子供会のクリスマス、仲の良い友人同士のクリスマス、更には近所の老人ホームのクリスマス会にすら実行委員として顔を出していたと意気揚々と語る。
 ド派手に話をしたがる癖があるので彼の言うことがどこまで真実かは判らない。でも、ここ数日の明るい彼を見ているだけで全てが本当なんだと思えた。それだけ活発で、社交性に長けた男の子だった。
 クリスマス会のゲームを企画したこともあったし、当日の招待状を作ったり、会場の飾り付けや料理を用意したこともあるという。火刃里くんのお母さんは多忙で夜遅くでないと帰ってこなかったせいか、一人で自宅で過ごしているより複数のコミュニティに顔を出しては思いっきり楽しんでいたらしい。
 だから彼は、僕も経験したことのない楽しいクリスマスの風景をニコニコと語る。
 僕からこのクリスマスムード一色の店を頼んだにも関わらず、語れる話は火刃里くんの方が圧倒的に上だった。

 別に『寺でクリスマス会をしちゃいけない』っていう決まりは無い。
 人によっちゃ、ちょっと高価なお酒を飲んだり外からケーキを買ってきちゃう人がいる。銀之助さんも心なしかクリスマスだけはいつもと違うメニューを出すし、出してはならないという規則は無い。
 だから僕は洋館を使って前例を作りたかった。パーティー会場としてあそこを活用し、火刃里くんのような子達を呼んで楽しもうと思っていたけど、結局今年もすることが出来なかった。
 しょんぼりしながらレストランで出されるティーバッグの紅茶を啜る。
 ああ、出来れば、賛同者のアクセンさんが日本に居るうちに一度パーティーをしたかった。
 悔しかった。今後は茶会も無くなるんだ。毎週のように開いていたあの時間が無くなる。何度も考えていたことをまた思い出して、「仕方ないじゃないか、全て僕が損をすれば良いだけなんだ」と自分の欲を呑み込む。けど、悲しさは消えることがない。ただただ寂しさだけが募っていった。

「僕、自分の夢の一つに『楽しいパーティーを開く』があったんだ」

 火刃里くんの話を聞いていたら、ついつい自分の夢も話したくなってしまう。
 そう。かつての火刃里くんのように、色んな企画をしたり準備をする自分に憧れていた。だから過去の火刃里くんを尊敬してしまう。自分より年下の男の子に羨望の眼差しで見つめてしまうぐらいに。
 そんな彼は、ハンバーグを口いっぱいに詰めながら提案する。

「じゃあ年越しの宴会で、ハリキっちゃえばいいじゃんっ!」

 それは火刃里くんなりの気遣いなのか、名案なのか。「宴会部長になりなよっ!」と清々しく応援してくれた。
 ――宴会。寺では年末にかけて宴会をするのが定番行事だ。みんなで同じような座布団に座って酒を交わし合うという、毎年やっている行事だ。とても楽しいイベントに間違いないのだが、僕は「そうじゃなくて」と首を振った。

「おれ、去年の大晦日にね、あの宴会に参加させてもらってね、それでみんなのことすっごく好きになったんだっ。だってあの宴会、みんな楽しんでたんだもんっ!」

 宴会なんだから楽しむのが当然だ。でも火刃里くんはそんな当然のことにすら笑って喜んだ。
 火刃里くんがいきなり大人数の名前を挙げ始める。大山さんや松山さん。指扇さんなどの僧侶の皆さんの名や、豊島園さんのような女中の方々。僕が知らない研究員の人達の名前まで大量に挙げていく。いつも仲良く遊んでいるらしい月彦くんや芽衣さんももちろん、師匠だという一本松さんや男衾さんを……。
 兄の緋馬くんなど近しい存在の名は挙げない。お寺に住んでいる、堅苦しい人達ばかりを大勢挙げていった。

「みんながみんな、楽しんでいたんだよっ。一年の最後だからって騒ぐんだよっ。だったらクリスマス会なんていらないよ、大晦日の宴会で年に一回超盛り上がっちゃった方がすげー良いってっ!」

 クリスマス会を否定する流れは悲しい。でも火刃里くんの言っていることは尤もだった。
 ――確かに年に一回の宴会は、毎年本当に盛り上がる。普段は楽しまないような人すら参加するぐらいのイベントは、決して失くしてはいけない大事な時間だ。
 盛り上がるって言ったって、酒を飲んで暴れたり宴会芸を披露して大笑いしたりするような宴会ではない。中にはそういうことをする愉快な人もいるけど(実父の藤春は酒乱で有名だ。誇れた話ではない)、ただ静かに食事をするだけでも『皆で同じ物を囲んで』という時間は価値のあるものだった。
 寺は縦社会だが、あの場だけは何をしても多少は許されるという風習があるぐらい。あくまで多少は、だが、それでも。
 一族、家族みんなが集まれる貴重な空間……それらを考えると、それを乱す『外的要因』は、確かにいらないんじゃないかって思えてくる。
 だから、『クリスマス会だなんてあの世界にはいらないんだ』と自分の主張を押し殺していく。
 全体を見ると、僕の夢を我慢するのが一番ベストな選択なんだと気が付いてしまった。

「おれねおれねーっ。宴会でねーっ、一本松様よりも食べてやるんだーっ! ふっふふー、一本松様よりお皿いっぱいいっぱい並べてやるーっ!」
「大食いのあの人に勝とうとしない方がいいんじゃ……それに一本松さん、大食いしたくて食べてるんじゃなくて単純に食事量が多いだけだし……」

 ――淡々とした顔で、ひたすら箸と口を動かしている姿を、決して凝視してはいけない。あの姿は最初は微笑ましく見ていられるが、そのうち恐怖すら覚えてくる光景だから。
 数年前の宴会の話だが、みんなが笑い合って酒を飲んでいる中、一本松さんは黙々と運ばれてくる料理を食べ続けていたことがある。何十、何百皿と数字で表わすのも憚れるような量のご馳走を平らげてしまった。
 そしてひたすら作り続けてきた厨房長の銀之助さんがついに宴会場に現れ、一本松さんを引っぱたくことでその惨劇を終わらせた。
 その場で銀之助さんは、隣に居たのに一向に一本松さんを止めなかった大山さんと狭山おとうさんの二人まで殴り倒し、スタスタと会場を後にした。……翌日のおせち料理を作るため、厨房へ向かう銀之助さんの背中を見て、誰もが『真の魔王は彼に違いない』と心の中で思ったとかなんとか。

 楽しい光景まで生じる宴会を今年は楽しんでみるかと、食後の薬を飲みながら思った。
 連日飲んでいた薬の効果が効き始めてきたのか、やっと喉の調子が良くなってくれた。
 洋館の自室に療養しているアクセンさんも同じだという。
 年を越して三が日には本国に戻るというアクセンさんの面倒を看ながら、健康を噛み締め、年末の慌ただしさの中に身を投じていった。



 ――2005年12月31日

 【    /     /     / Fourth /     】




 /14

 そうしてついに、もう少し寝るとお正月。31日になった。
 流石にこの日ばかりは『仕事』に出ている者は誰一人としていない。『本部』は外に出ている家族全員に『31日の十八時までには寺に帰るように』と命令を下していたから、大晦日には百人近い一族がこの寺に集まっていることになる。ここ三日間で、寺の人口密度は凄まじいものになった。
 どんな意図があったとしても上からの命令に逆らえない一族達は、人によっては渋々、平和な人ならニコニコと再会を楽しむため帰省してくる。帰省ラッシュは30日で終わり、今年最後の日である31日は、どんなに忙しくても必死に帰ってくる人達で溢れた。

 年末の大掃除を手伝っていると、急に現れた火刃里くん達にお菓子を渡された。
 火刃里くんは嬉しそうな満面の笑みを浮かべて「みずぴーのお土産だよっ!」を投げ寄越してくる。
 まずは手を洗い、うがい、大掃除の格好から着替える。きっちり身を清めてから火刃里くんと尋夢くんの自室でおやつにした。本日帰省したというみずほが選んで買ってきたという、東京名物のお菓子はとてもとても不思議な味だった。

「これは……デリシャス」
「でしょーっ!? バナナとゴマのコラボレーションとかありえないって思ったけどおいしいよねーっ!」

 お茶のお供にお菓子、というより、まるで我がことのようにニコニコ+大声で笑う火刃里くんの笑顔が一番美味しく思える秘訣だった。
 そうでなくてもみずほが買ってきたというお土産のお菓子は、バナナクリームの甘い香りに、ゴマの香ばしさが相まって、何を伝えたい味なのかよく判らないけど最終的なゴールは『美味』。甘ったるい声が出てしまうほど、好印象を抱ける逸品だった。

「みずぴーっ! お兄さんにも好評じゃんっ! やっぱこのお土産良かったんだよーっ!」
「にゃ……なんでそんなに火刃里が絶賛するのかよく判んなかったけど、もしかしてボクが思っているよりこのお菓子って人気?」
「さっすが東京だよねっ! 人気者っ! いよっ、シティーボーイっ!」

 二人は、火刃里くんが先導してみずほの帰省土産をお寺の人達に渡して回っている真っ最中だという。今もみずほは火刃里くんの隣で照れ臭そうに笑っている。
 隣とは言うが、若干、僕から離れた場所で正座をしていた。
 僕のことが嫌いという訳ではなく、ただ、僕と面と向かって話すのが苦手であることを語るような位置だった。他の人相手だったら変な猫語でぎゃーすか騒ぎながらバカ騒ぎを繰り広げているだろうけど、僕に対しては少し背を正して、緊張した面立ちを向けてくる。
 仮にも僕が彼の実の兄だからってことだろう。あんまり兄らしいことは、したことがなかったけど。

「……みずほ」
「う、うん!? にゃに、お兄さん?」
「もう一個貰っていい?」

 いくつも重ねて持っている箱の中から、もう一個だけ貰う。再度味わって小さなスポンジを口の中で楽しむ。
 ふむ、この不安定で不確定……どんなに曖昧な味でも結果良ければ全て良しと言っていいのか。甘い要素、それを中和する属性。香りも訴えてきて、忙しく、てんでバラバラの味覚だけど、ちゃんと組み合わさっていて……うん、これは僕が好きなタイプのお菓子だった。寧ろ好物になりうるレベルだ。暫く茶会で食べ続けていたいぐらいの。

「あっ、二個目も食べていいのっ!? じゃあ全部おれが貰っちゃっていいっ!?」
「ぶにゃっ、全部はダメに決まってるだろー! でも……うん、こっからここまでだったらいいんじゃない?」
「やったあっ! おれもこれすっごい好きーっ! みずぴー買ってきてくれてマジ感謝っ!」

 オーバーアクション気味に、畳の上でぴょんぴょん跳ねる火刃里くん。「まさか他の人達の分は残さないつもり?」と僕はからかってみる。

「そんなコトしないよっ、だってもうちゃーんと分けてあるもんねっ。コレが男衾さんの分、コレが一本松様の分で、コレが松山おじさんの分と尋夢の分、あと寛太とつっきーの分がコレなっ! 一人で全部食べたらみんな喜んでくれないじゃーんーっ!」

 すらすらと人様の気遣いをする姿に、思わず声が出るほど驚いた。
 僕の頭にあったのはあくまで「友人の分を取ってあるの?」だけで、まさか……ここに居ない尋夢くんや親戚の人達の分まで考慮してるなんて。クリスマスの『仕事』のときもそうだったけど、こんなにいじらしい子だとは。
 今のでまた火刃里くんの好感度がグッとアップしたぞ。さりげなーくあんなことを言えたら、女性人気だって独り占めできる。……見てくれる女性なんて、仏田寺には居ないけど。

「にゃー、みんなおやつ食べてくれるのかな。……甘党さんいっぱいいるから食べてくれるよね? 新座さんとかすっごく甘いの大好きって言ってたし」
「みずぴーってさーっ、にーざおじさん好きなのーっ?」
「うん、好きだよ。新座さんが作ってくれるお菓子おいしいもん」
「じゃあ朗報っ! にーざおじさんが帰って来てねーっ、おせち料理のお手伝いで栗きんとんを作ってたんだよーっ!」
「にゃ!? ってコトは……あの砂糖ジャリジャリが再来する!?」
「そうっ! あの砂糖ジャリジャリがっ! にーざおじさんじゃないと作れないっていうあのジャリジャリがっ!」
「砂を食べてるみたいにジャリジャリしてるけど決して不快にならない甘みが口に広まる栗きんとんが!? 鉄球みたいに重くって美味いあれが!?」

 ……聞いてる限りでは、不愉快な料理だな。
 そもそも鉄球って、食べ物に使っていいワードなのか。砂やら鉄球やら到底美味いとも思えない表現をされてちっとも魅力に感じないんだけど、本当に美味しいのかな。

「このお菓子、今度はおじさん達に持って行くねーっ!」
「にゃ……火刃里、今から行くのー? 日持ちするヤツなんだし、今すぐ持って行ってあげなくてもいいと思うけどぉ」
「だって外に住んでるみずぴーが買ってきたオヤツだぜっ。おじさん達もすぐ食べたいって思うよっ! 今日は大晦日だから外のお客さんは一人もいないしいつでも休めるし、お疲れのところに甘い物はいいんでしょっ? なら忙しいおじさん達に早く届けてあげなきゃーっ!」

 子供っぽいくせにこういう気遣いだけは本物。何の下心もなく動いている火刃里くんが『悪ガキ』と称されそうなぐらいでも、寺で愛されてる理由はこれだ。
 僕と同じことをみずほも感じたのか。火刃里くんに対して尊敬の眼差しと、『それ以外の何らかの感情を』含んだ表情を浮かべる。……みずほは、僕より余計にそれが露骨だった。おそらくは火刃里くんと同い年だからかもしれない。
 火刃里くんの行動を止めるようなことはしない。「早く行っておいで」と笑顔で送り出すのみ。送り出された火刃里くんも素直に元気に返事をして、パタパタと廊下を走って行く。
 騒がしい代表が一人消えて、一気に部屋の温度が下がった。

「……火刃里って。『お仕事』、お手伝いしてるんだよね?」

 そして急にみずほが尋ねてくる。
 現に数日前、火刃里くんと一緒に任務をこなした僕は、「そうだよ」と答えてあげた。

「『オバケ退治』をやってるんだよね。……ウマちゃんも」

 次は緋馬くんの名前。彼が何の為に転校したのか、わざわざ前の学校をやめさせられた理由も一度説明されただろうに、確認するかのように尋ねてきた。
 肯定を聞いていくみずほの顔は、どこか難しいものに変貌していく。何かを言おうか言わないか迷っているような、でも口に出す言葉がまとまっていないような、むにーっと口を噤んでいる顔だ。
 さっきまでテンション高く自分の好きなものを語っていたくせに、浮き沈みの激しい子なのは……僕とそっくりだった。
 テンションの下がり具合なんて、滅多にみずほのことを見ない僕よりも、もう一人の弟・あさかの方が判る筈。だけどこの場にあさかの姿は無い。『あさかはもういない』。気落ちしていく弟を気遣ってやれる兄は、この場にいる僕しかいなかった。

「……火刃里って、もう『大人になったら何になるか』決めてるのかなって思ったの」
「将来のこと? そんなの、本人に直接訊いてみればいいのに」
「だよね。別に言いたくないって拒否られた訳じゃないんだから言っちゃえばいいんだけど。でも、自主的にお寺で頑張ってるってことはさ、『もう、この世界で過ごしていきます』って宣言してるみたいでさ、なんか……こう……にぅ……」

 言葉がまとまらないまま。ポツポツと、『オバケ退治』を快く思っていないみずほらしく、何を悩んでいるのだか語尾を濁らせていた。

「その……学校で言われたことなんだけど、ボクはもう将来の決断をしなきゃいけない頃らしくってさ」
「うん」
「ときわお兄さんはさ……どうしてお寺の『お仕事』、手伝うの?」
「手伝うことが使命だから?」

 特に深いことも考えず、僕の義父の言葉をそのまま述べる。みずほは黙ってしまう。……デリケートな弟に対してちょっと酷い言い方だったかもしれない。
 黙り込んでしまったけど、かと言って、自分の回答を変更する気は無い。
 仏田家が大事だし、一族には発展していってほしい。恩があるから批難したくない。本心である。
 でもみずほは「そんなことでいいのか」や「もっと考えて言ってほしかった」という顔をしている。黙ったままで。
 沈黙にチクリと胸が痛む。連日の体調の悪さは、頭の回転の悪さにも繋がってしまったのか。ちょっとだけ憂鬱になる。
 でも……横暴で不器用ながらも、弟が可愛い。なんだかんだ言って僕のことを「お兄さん」と呼んでくれていることも、母の葬式でもあまり話さなかったというのに、こっそりこの時間を嬉しく思っていた。
 廊下を出た頃にはもう太陽は大分落ちかけていて、冬の夜だからきっとあと数分もすれば居住区以外が黒く染まっている。外は寒い。だからみずほは、僕の指をぎゅっと掴んできた。
 お化けが怖いと常々言っていたからなんだろう。心細いらしい弟の顔色を、暗くなりつつある空の下でひっそり覗き込んでみる。
 ……みずほは火刃里くんのことを尊敬している。けど、少しだけ妬んでもいる。同い年で、明るい性格の二人。普段はとても仲良く笑い合っているようだけど、一方的にみずほは火刃里くんのことを「眩しい」と思っているように見えた。
 先を行く火刃里くんを褒め上げているストレートな気持ちと、先を選んでしまっている火刃里くんへのジェラシー。みずほは高校一年生でまだまだこれからな気もするけど、明日に向かってダッシュしている火刃里くんを見て焦りを感じる想いも理解できた。
 かく言う僕も大学進学と家業を継ぐのを時間を掛けて選んだクチだった。狭山おとうさんや悟司さん、ひいては光緑様にスッパリと「家業を継ぐ」と宣言した身だが、あれは僕なりの苦悩の末に辿り着いた決断だった。
 大学生になって、アクセンさんの同級生になっているのも良い未来だったかもしれない。そう『もしもの世界』を考えてしまうぐらいには、自分と戦った覚えがあった。
 みずほには、僕にとっての圭吾さんのような、支えてくれる人がいるんだろうか。

「んにゃっ!?」

 にゃ? 子供っぽい口癖を大声で発しちゃって、いきなりどうした。
 尋ねる前にみずほは突然走り出していく。さっきまで無理矢理元気そうな顔を作っていたのに今度は全力疾走。まるで獲物を素早く見つける猛獣の如く、素早い足で駆け抜ける。
 って、みずほがこんなに御熱心になるといったらあれしかない。
 ――ぐわしっ。

「ニャンコー!!!」

 ……そう、猫しかない。

「お兄さああああん! ニャンコがいるよおおおおおぉ!!」
「……うん。確かにいるね。みずほのの手の中に」

 さっきまで好きなものの話をして笑ってて、将来のコトを考えたら鬱になって。で、また好きなもの(猫)を見付けたら、テンションが上がって。
 なんとまぁ、忙しく、単純な子だ。

「あの白いニャンコだよおー! すっごいモフモフのニャンコだよおー! 耳ぴんぴんのモフモフだよおー!?」

 縁側の廊下に乗り上げてゆったり歩いていたところを運悪く、猫マニアにゲットされてしまった、悲しき猫がぶにゃぶにゃ鳴いている。
 ああ、猫は嬲られていく。猫好きとは思えないぐらい、無造作な扱いで、ぐわしとぞんざいな手つきで。
 悲痛な声を上げる猫。なんと悲劇的な光景だった。

「ネコミミだよスゴーイ!! 中はピンク色なんだよおおおー!? 見えるーネコミミだよネッコミミぃー!! ふかふかもこもこふさふさもにゃもにゃニャンコだよおおおぉー!! お兄さんもネコミミだってばーネコミミぐにぐにぐにぐにしてみなよおおおおぉー!!? ニャンコが暴れてる暴れてるううううー! 毛が長いからふるふるしてるよふるふるしちゃってるよおおおおー! かあーわあーいいいいーいー!! うふふふふふそんなに暴れても逃げられないよおおおー! もふもふもふのニャンコでもふもふもふもふもふもふもふもふもふもおー!!!」

 ――以上、みずほと猫の地獄絵図を一部抜粋。
 散々悲鳴を聞く前に、ひょいっと猫を引き抜いた。みずほに捕まってもふもふぐるぐるびんびんげっそりした猫は、僕が攫うなりスルリと滑らかな体をくねらせて縁側から庭へと走って行った。
 みずほが物凄く不満そうに頬っぺたを膨らませる。でもあれ以上の暴挙を放置したら、猫毛から火が点いてもおかしくなかった。

「ときわお兄さんなんでー!?」
「なんで、じゃないよ。亀さんをいじめてはならないのといっしょ」
「んにゅー。お兄さんずるいよー! お寺には猫いっぱいいるんだから毎日触りたい放題じゃんー。でもボクはマンションで飼えないんだから触れ合う時間をだなーっ!」

 みずほが住むマンションは飼えないんじゃなくて、「みずほがこんな状況だから飼えないように伝えているだけ」……って、あさかが話していた気がする。もう三年以上も前の話だ。
 それに、お寺に猫がいっぱいいると言っても飼い猫はいない。大霊園のお供え物を狙って野良猫が何匹も住みついちゃっているだけで、毎日撫でさせてくれるほど人に慣れた猫もいなかった。
 たまに本殿や居住区から離れた……それこそ洋館の裏庭に度々現れることがあるけど、猫を追いかける趣味なんてお散歩をする尋夢くんか、暇を持て余した福広さんぐらいしかいないんじゃないかな。洋館に来る物好きといったらネジがイカれたその辺りの人達しか思いつかない。

「今は冬で毛をふっくらさせてるんだから、それを削いだら猫達にとって死活問題だろ。だからなでなではダメ」
「にゃーっ! やだー! なでなでするー! せっかくお寺に来たんだからニャンコ突撃させろー!」
「みずほはお寺を何だと思ってるんだ……」
「ニャンコがいっぱい住んでるとこ!」

 即答だと。いっそ清々しくて良い気がしてきた。
 そういう自分の好きな物に一直線なところ、嫌いではない。

「だからさ、お兄さん! いつでも猫の写真が撮れたらボクに送ってきていいんだよ! ついでに焼き回しして! 5000000000枚ぐらいっ! もっといっぱいネコ撮るべきだよ! 人として!」

 一生に撮れるか判らないぐらいの数を言われてしまった。
 しかもなんでこんなことに人間性を問われなきゃいけないんだ。

「そんなに撮ってほしいなら、カメラが趣味って言ってた福広さんに頼みなさい。あの人は、なんでもカメラを向ける人だから」
「えーっ。福広さんってノロマだから猫が逃げ出しちゃうよ。しかもシャッターチャンスを笑って逃しちゃうんだよ! ありえなくない!?」

 既に頼んだ後だった。笑ってチャンス逃がすとか、実にあの人らしい話だ。
 みずほの必死の主張を耳から耳へと流しながら聞きながら廊下を歩くと、僕らが衣食住をしていたりみずほ達が泊まっている館とは一味違う、人が住む造りをしていないな豪勢な屋敷が見えてきた。
 本殿と言われているそこは夜も深くなると灯りが無くなり真っ暗になる。そろそろ宴会に向かう人も多くなるほどの夜の暗闇。あると言えば本殿の入口に掛けられた小さな燈籠ぐらいだった。
 それでも何者かの影はあった。
 僕らが近付くと、ふっと揺れる小さな影が。



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /15

「…………」
「お兄さん?」
「……みずほ。黙った方がいい」

 小さな影は、足音をさせずに歩いていた。
 廊下の上じゃないから音がしないのではない。砂利道だって土だって、人の足音は十分してしまう。
 なのに、その小さな影は音もせずゆったりと歩いていた。歩いているというより石の海を泳いでいるような、空を自由に飛んでいるような優雅な動きで。
 影は、真っ暗闇から……本殿入口に付けられた提灯の下にやって来る。

「っっっっ!?」

 その影を視認して、みずほが叫び声を上げ……ようとして、自らの手で口を塞いだ。歓喜の声を必死に殺していく。
 なんとか大声を殺したみずほが、興奮した眼差しを『それ』に向ける。
 おそろしく綺麗な猫に。
 ――悠々と歩く影、それは、美しい虎柄模様の猫に。

「あ、あ……あれ……トラ猫サマ、だ」
「とらねこさま?」
「お兄さん知らないの!? このお寺に、昔から住んでいるという天下のトラ猫サマだよ! 一番偉くっていつも堂々としているニャンコ界の王様! キリっとした顔で猫というより百獣の王っぽいの!」

 ……なんでみずほ、そんなに猫界事情に精通してんだ。
 でも確かに、遠目に見る限り他の猫よりずっと凛々しい顔つきをしている。
 可愛いというより、雄々しい顔立ち。さっき縁側を歩いていたフサフサの毛並みの猫とは違い、短くて長年使い続けていそうな利発な毛並みに横顔、猫なのにオーラのある風格。美しいが高齢なのか、のったりとした動きをしている。柄のせいもあるが、みずほの言う通り猫というよりもっと大きな生き物を思わせる風情があった。
 って、たかだか猫ごときに『サマ』はどうなんだ……?

「トラ猫サマはお寺のどこかに住んでるって言われているのに、姿を現すのは滅多に無いんだよっ! いるって言われているのに全然会えないのは他の猫達が守っているからって!」
「はあ……」
「も、もしかして、トラ猫サマ、ヨソ者のボクに出血サービスしてくれたのかな……? ボクらってものすごーいラッキーだね!?」

 声で気付かれたら逃げられるのに、興奮しすぎじゃないか、この子。
 弟が何と戦っているのかお兄さん知らなかったけど、スッゴイものといつも争ってることだけは把握した。弟の趣味を理解できる兄になろうと広い心で、高揚した彼の鼻息を見守る。
 猫が歩いていく姿を目で追いかけると……猫は提灯の下で軽く顔を洗う。先日も雨だったから今年の年末は天候が悪いようだ。それはともかく、猫は吹き抜けの廊下を上がり、本殿の玄関の開けて堂々と消えて行った。
 関係者以外入っちゃいけないって言われているくせに、鍵は、掛かっていなかった。
 みずほは施錠がされていないことに驚愕の声を上げている。でも田舎にはよくあることで、僕も扉の鍵をかけるなんてことは車以外でしたことがない。我が家ではレストルームですら鍵は付いてなかったからだ。
 ああ、なるほど。流石『天下のトラ猫サマ』とやらは判ってらっしゃる。
 一族でも一部の者しか入らない本殿の、これまた人気の無い所に住処を作っているんだ。見つかれば追い出されるが、みずほが言うには注意深い猫のそうだから、隠れて住んでいるんだ。この敷地内でどう平和に暮らせばいいか熟知していらっしゃるようだ。

「本殿……本殿に、入ったぁ……!」
「みずほ、正気の目に戻って」
「トラ猫サマに会えただけで幸福もんだよ! ラッキーなんだよ! お兄さんも自覚しなよ!」

 口惜しげにみずほは猫が入って行った館を見つめている。
 関係者以外立ち入り禁止の領域。聖域。どれくらいの神聖っぷりかは、寺に住み込んでいないみずほでも知っているようだ。
 それに僕ですら数えるぐらいしか入れてもらったことのない空間だ。『本部』の上層部達の会議によく使われているからたまに顔を出す機会はあっても、そのような会議が行なわれているぐらいだから中には貴重な物が置いてある筈。……子供がかくれんぼをしていいような、昼寝に使っていいような、よその人を招くような場所ではないのはみずほにも判ってもらいたい。

「……ボク、まだ小学生だったとき、みんなで本殿に忍びこんだことあるんだ」
「えっ。……あ、その話、聞いたことあるかも」

 いつ誰に聞いたかはハッキリ覚えてないけど、「お前の弟が大変なことをした」と言われたのでうっすら記憶している事件があった。
 まだみずほが小学生時代の頃。みずほ、あさか、緋馬くん、それと寄居くんという、彼らにとって『いつものメンバー』で本殿の中にこっそり、許可無く入ろうとしたという。理由は、『冒険がしたかったから』。

「二分で忍び込んだの、バレたよ。普段ならその時間、ご飯を食べてる筈の狭山おじさんが忘れ物を取りに来たらしくって……不運としか言えなかったにゃ」
「いや、どう考えても入っちゃいけないところに入ったみずほ達が悪いじゃん」
「あの人、真剣まで握って怒ってくるんだよ! ボクにとって『死の恐怖』は、アレが初めてだったかも!」
「……他に死の恐怖なんて体験したことないでしょ?」
「あ、あるもん」

 たった二分で見つかったとなると、入れた距離は玄関からたった数十メートル。そしてそのたった二分で、狭山おとうさんの『殺されるかと思うぐらいの怒涛の説教タイム』を味わったらしい。
 十歳ぐらいの男の子四人に何してるんだ、あの人は。義父の変な性格に心配になる。みずほの記憶では二時間も正座しながらの説教をされたというが……。
 こう考えるべきか、『そこまで叱ってでも部外者を近付けたくない場所である』と。
 神聖な所だから? 宝でもあるから隠しておきたいのか? 

「お兄さん、一生のお願い」
「ダメだよ」
「まだ何も言ってないじゃん! 弟の頼みぐらい聞いてあげなよ!」
「僕、そういうがめつい態度は大好きだけどさ。一応、兄として言わせてもらうよ。あそこは入っちゃいけない場所なんだ」

 上の人間にそう教わってきたなら、従わなければならない。
 みずほは子供で、しかも年末に帰ってくるだけの部外者。我が家の中心である場所に、大勢から駄目だと言われているところに入るなんて愚行は許してはならない。口を酸っぱくして言い放つ。

「今度バレたら狭山おとうさんに……殺されはしないだろうけど、一生ものの傷は作られるよ。一週間ぐらい監禁なら余裕で有り得るから」
「にゃうっ!? 監禁ってどこに監禁すんのさ!?」

 こんなでっかい家なんだからどっかに地下室や牢獄があっても驚かない。僕は見たことないけどきっとあるに違いないと踏んでいる。
 ……ああ、もう日が落ちたてすっかり真っ暗だ。
 僕は急に、そんなことを言いたくなった。いきなりの話題展開にみずほが不思議そうな顔をする。

「んにゃ……? 冬だから、夜が早いよね。日が落ちる前に、トラ猫サマを見られて良かったよ」
「電気無しには周囲を見渡すことすら出来ないね」
「冬だからね」
「そうだな。…………真っ暗な時間帯に、中に忍びこむぐらい、大層なことじゃないと思うよ」

 沈黙が世界を包んだ。
 みずほの顔ですら、遠くに見える提灯の灯りでやっと確認できるぐらいの夜だ。携帯電話をパチリと開いて時間を確認してみると、もう色んなものが始まっている時間でもある。
 ……僕は本殿に数回しか入ったことがない。誰かしら先を案内する人が居て、目的の部屋に通されただけの経験しかない。
 そのときも、そしてみずほの記憶の中でも、『常駐している人』は居なかった。みずほが狭山おとうさんに見付かったのも『不運にも忘れ物を取りに戻ったから見付かった』だけで、狭山おとうさんがうっかりさえしてなければちびっこの冒険は成功していたかもしれないんだ。

「本殿、きっと入っても誰も居ないよ。だって大晦日だもの。居るのは、きっと猫だけだ」
「……お兄さん?」
「みずほ。……僕は年上として一応叱ったよ。ダメだって。きっと怒られるって。それでも入りたいと思えるなら入りなよ。……もう将来の決断をしなきゃいけない頃なんだろ。それぐらい自分の好きに選びな」

 規則を守るタイプなのに、クレイジーなことを言ってる自覚はある。
 小学生時代のみずほ達を叱っている義父を実際に見た訳ではないけど、子供相手にその態度を取っていた義父に反発心を抱いてしまったのも、嘘ではない。
 お目当ての物が確実にあるのに飛び込めないなんて、悲しい。その気持ちも判る。
 ダメなものはダメ。でもそれが本当にダメか、何がダメなのか自分で確かめたい。そんな邪悪な心もある。
 僕は本殿に近付き、入口に手を掛けた。
 無遠慮にニャンコニャンコとみずほが声を上げていても、誰も出てこない。本殿には誰も居ないと確信を持った。……猫が入ったからそれを回収しに来た、そう言えば理由にはなる。

「みずほが行くなら僕も入るよ」
「……お兄さん、いいの?」
「良くないよ。僕を守るために入らないって選択肢にはならない?」
「みゅう……」
「……僕に一緒に怒られてほしいっていう顔だね?」
「みゃー……そんなんじゃないもんー」
「兄として弟は守るけど、ゲンコツぐらいは覚悟しておくんだよ。わざわざ怒られる未来に突き進もうとしているんだし」
「それぐらいの覚悟がなきゃトラ猫サマに会えないってことだよね! お兄さん! ありがと! 大好き!」

 現金な子だ。
 正直なことを言うなら、嬉しかった。みずほがこんなにも僕を頼ってくることは……十九年間生きてきた中で、初めてだったからだ。
 僕にはこのように弟がいたけど、弟らしい弟は一人もいなかった。長男ではあるけれど、狭山おとうさんの元で過ごしてきた僕にとっているのは兄である圭吾さんや、悟司さんや霞さんであって、たまに挨拶をする程度のみずほを弟らしく扱うことなんて無かった。
 お互い良い年齢になったから礼儀をもって会話をすることができる。でも、その程度だ。滞りなくおしゃべりができても、仲良く共に時間を過ごすなんてことはしたことがない。
 だから、「お兄さん」と呼ばれて少なからず調子に乗っているのもあった。
 単純なことに。

 まあ、誰かに見付かり叱られたとしても、言い返せるだけの自信がある。
 そう、嫌な考えだと思われるが『僕らは偉い』。そんな武器を隠し持っている。あんまり使いたくない秘密兵器だったが、いざとなったら武器を振りかざすことができる。
 別に本殿に金色に輝く神々しい宝があったとしても盗む気は一切無い。元々それは僕の家の物なんだから、僕らが盗んでも意味が無い。そうだ、イタズラをするつもりもない。ただ猫を追うだけだ。よし、叱られたときの言い訳バリエーションを五つほど準備できたところで、僕らは歩み始めた。
 「もうトラ猫さまに会えただけでハッピー」なんだから、これからアンラッキーがきても今日の収穫プラマイゼロだ。なんて、みずほみたいなことを考えてみる。

 ――遅かった反抗期が、こんなところで来るなんて。自分でもアンビリバボーだった。



 ――2005年12月31日

 【     /      / Third /      /     】




 /16

 ――愛しい人の首を絞めていた。

 この腕で、この指で。体を床に押し付け、もがき苦しむ彼の息の根を止めるべく、持てるだけの力を繊細な喉へ押し込む。
 絡みつく私の指を外そうと彼は必死に指を解こうと暴れる。だが馬乗りになった私には敵わない。
 青くなっていく顔を見つめながら、死地へ旅立つ彼を正面から眺めながら、私は微笑み、目を覚ました。

 ――目を覚ました先に待ち構えたのは、怒りに狂った彼だった。

 夢の中で彼を殺したから、その報復として彼は私を殺しにかかってくる。恐ろしい刃を手にし、私を斬り刻もうとしていた。
 あれは違う、私がやったんじゃないんだ、夢の話じゃないか、あんなことしたかったんじゃないと情けない叫びを彼にぶつけた。それでも彼は私の頭を割ろうと凶器を振り翳す。
 その一瞬を狙って、彼の懐に飛び込んだ。彼の体がバランスを崩す。凶器はとても重い物だったらしく、私に飛び掛かられた彼はあっという間に転がった。
 すかさず私は彼の体に馬乗りになる。絶対に不覚を取らない。形勢を逆転させないように彼の体を抑え込み、この腕で、この指で、体を床に押し付け、もがき苦しむ彼の息の根を止めるべく、持てるだけの力を繊細な喉へ押し込み、絡みつく私の指を外そうと彼は必死に指を解こうと暴れ、だが馬乗りになった私には敵わず、青くなっていく顔を見つめながら、死地へ旅立つ彼を正面から眺めながら、私は微笑み、目を覚ました。

 ――目覚めた私を待っていたのは、隣で泣いている彼だった。

 悲しみの言葉を、苦しそうな嗚咽と何度も吐き続け、私の心を害していく。
 子供のように泣きじゃくり、私が幾度声を掛けても泣きやむことはない。丸める体を後ろから抱きしめると、少しだけ気を落ち着かせ、それでも涙を流し続けた。
 彼は苦しみを語る。私の心が悲しみで満たされるまで語り続ける。
 その結果、私の心は拭い切れぬほどの不幸になった。
 声を聞けば聞くほど気分が悪くなり、機嫌が悪くなり、気持ちが悪くなっていく。もう彼の泣き言なんて聞きたくない。そんなもの耳にしていたら精神が保てなくなっていった。
 やめろと叫ぶ。もう喋るなと叫ぶ。だというのに彼は延々と悲劇を語り、私の中身を傷付けていく。
 いいかげんにしろと彼の口を塞いだ。口を塞いだというのに涙は未だ流れ続け、苦しげな言葉も続けていく。
 耳に延々と流れ込んでくる恐ろしい小節を止めるために、私を苦しめる恐怖を食いとめるために、彼の体に機能停止してもらうしかなかった。
 私は私の為に、彼の苦しみを止めるために、この腕で、この指で、体を床に押し付け、もがき苦しむ彼の息の根を止めるべく、持てるだけの力を繊細な喉へ押し込み、絡みつく私の指を外そうと彼は必死に指を解こうと暴れるが馬乗りになった私には敵わず、彼の青くなっていく顔を見つめながら、死地へ旅立つ彼を正面から眺めながら、私は微笑み……。

 ――あんなに愛しかった表情がもう二度と見たくないぐらいに、心が病んだ状態で目を覚ます。

 違う、違う。こんなことしたくない。何度も自分に訴えた。
 私が勝手に不気味な夢を見続けているだけだ。彼には何の罪も無い。夢の中の彼が私を殺しにきたって、現実の彼は変わらぬ優しい彼に決まってるじゃないか。幻想と真実の見分けがつかない愚かな自分が悪い。
 何てことをしているんだ。こんなことで彼を嫌いになるなんて!

 ――体の中を滅茶苦茶にされて、再構築した体は、『新たな感情』を生み出した。
 ――私の中に蘇るものがある。それは、彼を視る『眼』だ。

 過ちを自覚し、言い聞かせ、再び彼の顔を思い出して……吐き気を催した。
 だがいくら喉を突き上げても何も出てこなかった。出てくることができる物は、もう既に吐き終えてしまった後だった。ベッドの傍に置かれた汚物入れが見苦しかったが、それを処理する気力も無かった。
 何も出てこない喉を今もなお、酷使し続け、ぐったりとベッドに倒れ込む。
 何もしないで眠れば体力は回復すると言われているが、眠ればまたあの夢を見そうだ。目を瞑りたくなかった。瞬きさえもしたくないほど、睡眠が怖かった。
 眠りたくなければ眠らなければいい。そんな単純な考えに至り、辛うじて動く体を起こした。
 数日前から続く雨が止んでいたが、肌寒い気温が肌を刺す。でも汗で濡れた体は暑苦しくて、衣服を身に纏っていたくないとすら考えさせる。脱いだって体を壊すだけだ。それでもどうにもしていられなくて、だらしない格好でベッドに座った。
 ぼうっと眩暈のする視界の中、棚の引き出しに手を掛ける。そこからサテン生地の小さな袋を取り出し、更に小さな小石を玩んだ。

 現実の彼と、もう長らく会ってなかった。十日も会っていなかった。
 昔は半年も会えなかったときもあったけど、今ではもう考えられない。長く会えない時間が続き、心が苦痛を訴えていた。
 ベッドに腰掛けてずっと彼のことを考える。

 ――こんなにも強く心が動いたのは、『彼以来』初めてだ。
 きっと私は、心から彼のことが好きになったんだ。彼のことを考えるたびに胸が苦しくなるんだから、私は目覚めてしまったんだ。……感情というものに。

 彼に会って言いたい言葉があった。何を言っても彼は恥ずかしがって素直に聞いてくれないが、それでも伝えたい言葉があった。彼にしたいことが沢山あった。
 そうだ、渡したいものもあった。掌の上で転がしている小石の入っていた引き出しに、用意していた物がある。
 多くの苦痛に流され、彼を喜ばせることが叶わなかった。共に時間を過ごし、贈り物をして、喜んでくれる表情が見たかったのに。
 思い浮かぶ表情は、最後に会ったあのときの……片目を抑え泣きじゃくる痛々しい姿。
 一刻も早く彼の笑顔が見たいがために、これを使おうかと考えた。本当にこれで喜んでくれるかは判らない。でも今すぐ自分を安心させたい。笑みが見たい。自己中心的な欲求が止められなくなって、ロクに包装もされていないそれを掴んで、彼に会いに行くことにした。
 夢の中の恐ろしい彼なんて関係無い。彼は彼だ。私に会ったとき、ほんの一瞬だけ微笑んでくれる優しい彼なんだ。そんな彼を私が殺すなんて有り得ないし、逆も無い。連日の悪夢は……そう、またあの悪魔が見せているに違いない! 聖者に倒されたくせにまた私の元にやって来たというのか! 私はまた何百年も苦痛を強いられなければならないのか!? せっかく平穏な日々を手に入れられたというのに!? ……ああ、なんて憂鬱なんだ、今はそんなこと考えるのはよそう。

 足は動く。気を張って、私はブリッドの部屋まで向かった。



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /17

「にゃ……流石に暗いなぁ」

 みずほの言う通り、本殿の中は暗い。
 誰も人が居ないというのを証明する証拠のように、灯りが全く点いてなかった。12月31日の宴会日和だからってライトアップもしないらしい。
 それどころか、廊下には電球さえも取り付けられていない。人が居るときでも灯りが点かないようになっている、人が住むような館じゃないという事実をまざまざと見せつけられる廊下だ。
 仕方なく懐中電灯代わりに携帯電話を開くことで小さな光を作り出し、それを頼りに進むことにした。もちろんサイレントモードにはしてある。自分達の動き以外で音が生じる要素を一切排除していく。慎重に慎重を重ねた。

「幽霊でも出そ……いや、それはないか」

 お化け屋敷のようだと思ったが、自分が言っていたことを思い出してセルフ却下した。
 百人近い一族が集まっている今日、この敷地内に生じる幽霊なんて自殺行為(もう死んでるけど)にも程がある。
 それにここは神聖な場所すぎて、恐れ多くてお化けが出られるレベルじゃない。もし出られるお化けがいるとしたら、それはきっとこの寺ゆかりのものだけだろう。

「ってお兄さん!? オバケのコト考えないようにしてたのに考えちゃったよ! アレって意識すると出てくるんだよ、何てことすんの!? ボクを陥れようとしたでしょ!?」
「してないよ。イマジネーションが豊かすぎるよ、みずほは。黙ってないとお化けより怖いものが来るよ……狭山おとうさんとか」
「……ヤだ」
「ならもうちょい我慢しようね。……猫を回収して本殿を出てから、いくらでも騒ごう」
「……うんっ」

 弟を大人しくさせながら、廊下を進んで行く。誰にも見つからないように黙って先を進む。
 黙り、黙って、黙る。物音を少しでも立てないように、忍者のようにおそるおそる。だというのに、「お兄さん。黙ると、怖いよ」と腕を引っ張るみずほは、絶対潜入捜査に向いてない。
 みずほが今から『本部』から『仕事』を受けられる立場になったとしても、どこかに忍びこんで任務を達成するようなものは受けさせてはならない。しなくていい。大山さんがもし無茶ぶりをしたとしたら、全力でストップさせなきゃいけない。

「怖いの我慢できないのに、よくこの企画に乗ったね」
「だ、だって……お兄さんがオッケーしてくれたし! トラ猫サマをまた見たいし……ほ、ほら、もっかい見たら絶対来年、2006年も平和になるよ!」
「その前に2006年が無事やって来るといいね」
「なんでやって来ないっていう展開があるの!?」
「有り得るよ……狭山おとうさんのお仕置きで外に出してもらえないとか考えられることだもの」

 ハハハまさかまさかハハハ、なんて気の抜けた作り笑顔をするみずほは、まあまあの確率で有り得るというのは判っているようだ。
 どこまでが噂でどこからが真実か知らないけど、聞いた話では義父は真剣を手に説教をするそうだ。十歳のみずほ達に説教したときは子供だからという甘さがあったとしても、もう十五歳となったら斬りつけてきてもおかしくない。いや、「大人になったら斬られてもオーケー」なんて法律は、お酒じゃないんだからどこ行ったって無いんだけど。

 とにかく自分達を罰への恐怖で戒めながらも先に進み、僕達はある空間に辿り着いた。
 廊下を抜けて奥の部屋を開いていると、長い廊下は廊下でも、左右双方に仏像がズラリと並んでいる回廊へと訪れた。
 あまりの神々しさに「おおっ」と感嘆し、みずほは非日常感に「ひっ」と息を呑み恐怖する。あまり寺文化を理解していない都会っ子にはキツイかもしれない光景ではあった。
 仏像はただただ廊下を見つめて並んでいるだけ。携帯電話の小さな光のおかげで、薄く笑う顔が照らされ探索はより肝試しぽくなってはいるけど、彼らの微笑みは希望を与えるものであって恐怖心を煽るアイテムではないと思えばなんてことはない。
 どれも二メートルの仏像が双方何体も並んでいる。迫力ある男達の像はじっと僕らがあるく姿を見つめていて、責めてくるような錯覚に陥りそうになる。
 半目の表情が、僕らを責める。かと言って今からニッコリ笑ってくれたとしたら、それはそれで嫌だ。
 震えるみずほの手を掴んでやって、僕は前に進む。……弟と手を繋いで歩くなんてこれも十九年間で初めてのことだった。

 ――昔は、兄代わりの圭吾さんとよくしたことだ。
 ――みずほは、あさかや緋馬くんとこんな風に縋り合っていたんだろうか。

 圭吾さんと手を繋いで歩くなんて、小学生の頃の話。
 良い思い出だったと感傷に浸りきる前に、正気に戻ってくる。威圧感が押し寄せる空間で微笑んでいたら、みずほが怪訝そうな顔をしてきたからだ。

「この仏像とか水晶玉とかって、みんなすっごく高いんだよね? 鑑定団に審査してもらったら、何百万円っていう価値が付くようなものなんでしょ?」

 この家の頂点の親戚だというのに、みずほは一般人のような発言をする。値段を判断する頭は無いけど、億単位のお宝ぐらい普通に混ざっていそうだ。
 間違ってもここは人が眠る場所ではない。お宝を眠らせておくに相応しい、大きな倉庫だった。人が畏まって暴れたりしないような場所だから、賢い猫様はここを住処にしているのか。
 さあ、その猫は何処へ……と目を光らせていると、奥の方で小さな物音がした。大人の足音ではない、小さな何かが動いた音だ。安心して身を乗り出すことができる。

 ――でも、猫とも思えない『何か』を感じた。

「え、なに、お兄さん。ニャンコみっけ?」

 小さな『何か』は、小さな音を立てる。大人しい音から少しずつヴォリュームを上げていき、『ハッキリとした音へと姿を変えていく』。
 『それ』を視認してしまった途端、背筋が凍った。
 声を言葉で表わすならその音は――しくしく、しくしく――だった。

 ……まだ、『見張りに来た誰か大人』の方が良かったかもしれない。

 しくしくという音を立てている『何か』は、ちゃんと肉眼で確認できるものだ。
 手にしている携帯電話の微かな光で見える、小さな姿。小さな頭は、猫ではなく人間の頭。――小さな子供の頭だった。
 頭だけの生首という訳ではない。小さな頭に相応しい小柄な体つきも確認できる。
 僕の目には、『その何か』は小さな女の子のように見えた。
 そう、どう見ても小さな女の子が、一人で泣いていた。

 見れば見るほどその姿は女の子に間違いない。
 身長はチビなみずほよりもずっと小さく、小学生か、もしかしたらそれ以下の年かもしれない。
 白い着物を着た小さな女の子であると可憐さをアピールしておきながら、闇に溶けて涙を流している姿が僕らを圧倒してくる。
 ただでさえ暗い所に誰かが居るってだけで驚くというのに、それが滅多に見ない『女の子である』ということが心臓を不自然に高鳴らせた。

「お、お兄さん……あの子、見たことある?」
「いや……全然。初めて見た。みずほは……?」
「ぼ、ボクも初めて……。どこの子、だろ」
「お客さんのお連れ……かな?」
「12月31日にお仕事なんてしない……よね? 今日は身内以外は寺に入ってない筈だよ……火刃里がそう言ってたじゃないか。言ってたよ。火刃里が妄言を吐いてない限り、お客さんは、居ない筈」

 じゃあ、あの子は身内か? いや、そんな訳がない。『この家には女の子は一人もいない筈なんだから』。
 そんな色んな感情が交錯しながら、闇に立つ彼女に釘付けになる。
 ここが外の人を招く洋館であれば理屈が判らなくてもまだ救いがあるのに、本殿と夜と女の子という組み合わせが恐ろしいものにしか考えられない。
 それに、あの女の子は……とても、心惹かれる可憐な声をしていた。僕はそっと手を伸ばす。

「何してんの!?」

 お化け嫌いなみずほじゃなくてもブーイングが来そうなことをしてしまった。

「なんで声を掛けるって選択肢になるの!? ホラーものの主人公なの、お兄さんはっ!?」

 ああ、いっつもホラー映画やサスペンスゲームの主人公って危険しかない選択肢しか選ばないよな……選ばなきゃゲームが進まないからだけど。
 別に主人公を気取るつもりはない。ただ、恐ろしい情報しか目に入って来ない中で……『あの泣き声』だけは、とても悲痛のものに思えた。聞いているだけで、涙が出てくるほどの声だ。
 怖いという感情ももちろんある。だがそれよりもあの子があまりに悲痛の声を上げていたから、心配になってしまった。
 素直にそう言ってみたけど、みずほはもちろん反対しかしない。

「アレはダメゼッタイダメだよ……! だって、女の子が夜中、一人で泣いてるんだよ……? お寺の中で! おかしいでしょ!?」
「……みずほ。君って目が良いんだね」
「ヤバイことだって! まずなんで女の子が一人でこんなところにいるの!? なんで泣いてるの!? なんであんな格好なの!? もうアレはどう見ても……!」
「……幽霊にしか見えないって?」
「言うにゃーっ! うあああぁんっ、怖いからやめてえーっ!」
「でもさ、泣いているのが普通の女の子だったら放っておくのも悪いし。それに、幽霊ならそのままにしておくのもどうかと思う」
「どうかと思う!? 話し掛けたら『見ぃ〜たぁ〜なぁ〜』て笑いながら追いかけてくるが夏場の怪談の定番じゃん! ボク、そんなお約束なシーンには鉢合いたくないよっ!?」
「大丈夫だよ、12月だし。第一、霊感のあんまり無いみずほに視えてるんだから幽霊じゃない可能性もあるよ」
「霊感の無いボクが見えるほど強い幽霊だったらどうするのさーっ!? 一体の幽霊がいる可能性と女の子がお寺で一人泣いている可能性、どっちが高いと思ってるのーっ!? どっちもありえないよーっ! ありえない現象に近寄らない方がいいんだってば!」

 どっちも可能性が低いってことだけは確かだ。
 ……でも、幽霊ならば泣いてる悲しい原因を取り除いてあげれば成仏する。それはいつも『仕事』でやっていることではないか。幽霊でなければ泣きやんだついでに迷子としてここから連れて出さないといけない。そんな今後の動き方を考えてはいるがが、第一あの子は……『人を騙す気』で泣いてるようには思えなかった。
 本気で悲しくて泣いている。そうと思える感情の流出を感じる。
 みずほが騒いでいる最中に、少しずつ近寄る。お祓いの為の道具なんて物は一つも用意していない。最低限の警戒だけで女の子に近付いて行く。
 そしたらみずほも一人にされたくはないのか、泣く泣く僕の後をついて来た。背中にひっ付いてくるかのように後ろに居た。

「ねえ、君。どうして泣いてるんだい?」

 そうしてやっと女の子に声を掛ける。声を掛けられた彼女は、僕に話し掛けられてもまだしくしくと泣き続けた。
 ……両手を顔に当てて表情を見せない白い着物の女の子。仕草は怪談に出てくる女の幽霊そのものだ。けれど、その先の動作はまるで人間だ。

「わかってくれないの」

 みずほの予想した『見ーたーなー』の怪談にはならず、彼女との接触も交流も成功。ホラーものにありがちな、言葉が通じずいきなり襲い掛かって来るモンスターではなかったようだ。

「何が? 誰かが、どうかしたの?」
「…………」
「僕は君の話を聞きたいんだ。気にしないで喋ってくれていいよ。君が不快に思うことを僕らは絶対にしない」

 もし彼女がこちらを不愉快にさせるようなコトをし始めるようならいつでも迎撃する。すぐに能力を使えるように警戒は怠らなかった。
 人が立ち寄らぬ暗闇の中、情景に相応しくない女の子が一人で涙を流すなんて、既に何度か『本物のホラー』とご対面したことがある自分だから油断なんてしない。
 けれど決まって恐ろしい霊は敵意をぶつけてくるものだ。『ワタシを狩るな』とか『オマエごときにワタシがヤられると?』とか、自分勝手にしたいから、浄化されたくないと敵意を全面に押し出し成仏を拒む。
 この女の子にはそれが無い。ただただ天国に逝けなくて泣いている悲しい存在と同じように、悲しいという感情だけを放出していた。
 それほど僕は霊感が鋭くないのかもしれないけど、落ち着いて話をしてられる理由がそれだった。

「…………私は」
「うん」
「私は、一生懸命判ってもらおうと頑張ってるのに。相手は私のこと、なんにも考えてくれないの」

 小さな女の子の声は、闇と恐怖に溶け消えそうになりながらもちゃんと僕の耳に届いてくる。
 体に似合わずとても落ち着いた女性のようにも聞こえる声だ。身長は百センチぐらいしかない女の子なのに声だけ聞くとずっと年上のお姉さんのようにも感じる。それが不気味とか思ったけど絶対に口にしちゃいけない。

「そっか。君は必死なんだね」
「ええ。……私、本当は喧嘩なんかしたくないわ」
「その心掛けは良いことだよ」
「喧嘩なんかしたくないから……ずっと判ってもらおうと、ちゃんと訳を話してる。どうして私が怒っているのか、なんで喧嘩になっちゃったのか、理由も全部説明したわ。解決策もいくつも譲歩した。……それなのに、私の声を一向に聞いてくれない。相手は私を無視さえする。なんで、こんなに頑張っているのに聞いてくれないの」

 うわんっ、と声を荒げる女の子。
 それはとても悲痛な声。狸が化かす演技には見えない。子供らしいどうしようもない理由で泣いているのにも思えなかった。
 なるべく大人しい声色を使って「僕らに判るように説明してくれるかな?」と女の子を口説く。決して演技が巧いとは言えないが、それなりに説得力ある声色には調整出来た。なんとか警戒心を持たれないように、静かな声で尋ねた。

「君は、とある子と喧嘩をしている。そうだね?」
「…………うん」
「どんな内容で? 大雑把でいいから話してくれないかな」
「…………。みんながやってきた掃除を、あの子一人がやらないの」
「へえ?」
「あの子がやってくれれば終わるのに、絶対やらないって言い張ってやってくれないの」

 なんだそりゃ。
 それ、どう考えても……その、相手の子が悪いじゃないか。

「その子、掃除がやりたくない理由があるんじゃない? だって……じゃなきゃ、ただの我儘だ」
「ただの我儘よっ……! みんな頑張ってやってきた事をあの子は自分勝手に蹴っている! マトモな理由は無いわ。ただ『やりたくないから』やらないって言うのよ。……ねえ、これって怒って当然でしょ!? みんなの為のことをやらないなんて……私、間違ってないわよね!?」
「うんうん、間違ってないよ、クールになろう。みんなでやるべきことを一人だけやらないっておかしいよ。君は悪くない、悪くないよ」

 女の子の頭をぽんぽん撫でてやった。
 ……撫でることができた。ちゃんと撫でているということは、実体があるということだと思っていい筈だ。この子は霊体じゃない。やっと安心できた。
 まだ掌で顔を隠しているから多少の不安感はあるけれど。

「よしよし、そんなエキサイトしないで。その子の我儘を我慢してる君は偉いよ。そのことは、みんな褒めてくれてるよね?」
「……っ。うん……」
「認めてくれる人はちゃーんと君を見ていてくれるから。……一人だけ心無い子がいても、そんなに苦しまないで。君がしようとしていることは間違ってないからさ」
「…………。私、間違ってないよね?」
「ああ、どこも間違ってなんかない。みんなで一生懸命やってることを完遂させたくて頑張ってるんだもの、どこがミスだっていうんだ。……なあ、みずほ?」

 突然僕に意見を求められて、真後ろにくっついていたみずほが「んにゃっ!?」と悲鳴を上げた。
 でもおそるおそる女の子の様子を伺いながらも、「今の話を聞いてる限りは何も問題が無いと思う」としっかりと意見してくれる。
 女の子は、お友達との喧嘩にとても傷ついた。泣きべそな状態だが、それでも彼女が重点を置く場所が『みんな』だ時点で共感してしまう。『みんながやっていることをその子はやってない、だから私は怒ったんだ』。その言葉から、なんら悪意も欠点も見出せない。
 僕は打算無しに心から彼女を応援する。みずほにも更に意見を求めた。

「……にゃ、ボクもキミは悪くないと思うよ。キミのクラスにどんな子がいるのか知らないけど、キミはみんなの為に頑張ろうとしてるんだから……間違ってはいないんじゃない、かにゃ」
「私、間違ってないよね」
「うん。みずほの言う通り。寧ろ君はグッドなことをしてる。エクセレントだよ」
「間違っているのは、あの子。私は、間違ってない」

 ひゃくりあげる声も無くなったところを見ると、どうやら泣きやんだようだ。
 顔はまだ隠しているがそれは多分、泣き続けた顔を見られたくないためか。それぐらいこの子は凄い勢いで泣いていた。
 ……些細なもののように思えるけど、それほどこの子にとっては苦しんでいたってことなんだ。

「泣きやんでくれた? 元気出してね。ほら、泣いてたらみんなが心配する」
「…………。うん、元気が出たわ。わざわざ慰めてくれてありがとう」

 そりゃあ、泣いている女の子を放っておく訳にはいかないから。
 みずほもみずほの方で「頑張って!」やら「泣かないで!」など元気な言葉を投げ掛けて女の子を励まそうとしている。女の子は僕達の言葉に気分を良くしたのか、顔をぐしぐしと拭った後、

「私、まだ、あの子と戦うわ。諦めない。あの子がどんなに、拒否しようが頑張って、説得してみせるから」

 と、力強く、彼女の声にあった決意を聞かせてくれた。
 彼女の事情は省略し過ぎているが故になかなか見えてこない。でも本気で傷付いて本気で悩んで、そんな重荷を乗り越えられるキッカケになったなら、まあ良いことをしたと満足できる。
 人間、ちゃんと話し合えば解決できないことなんて無い。それにこの子みたいに可愛い女の子なら、きっとクラスの男子も味方してくれるだろう。

「頑張って。応援するよ。ほら、みずほ、もっと言ってあげて」
「ウンッ! あのさ、こんな所に一人で居るから怖くて泣いちゃうんだよ……悲しいことがあったら誰か身近な人に相談しなきゃダメだよ! 泣いたっていいんだから、女の子の武器は有効に大人に対しても、男の子に対しても使うべきだよ! だからねえ、キミってドコから……来た……の…………」

 みずほのテンションがやっと普通に戻ってきて、ペラペラと陽気な台詞が出てきた、と思ったときには。
 顔を上げた金髪の女の子は、言葉を投げ掛けている最中に、居なくなっていた。



 ――2005年12月22日

 【 First / Second / Third / Fourth /     】




 /18

 年末に入る前に、僕は毎年のように具合を悪くする。それはもう恒例とも言えた。

 冬になるたびに体調を崩す僕のお見舞いをしてくれるのも毎年のイベントのようなもの。気分を悪くして僕が自室で布団にくるまっていると、誰かが見舞いに来てくれた人が居る。圭吾さんだった。
 能力が使えず退魔業をしていない圭吾さんは、一族の送迎係として雑用を任せられていて……そのおかげで細々とした仕事が多く、外に出かけたり寺に戻ってきたりと忙しない人だ。だから12月のこの時期は彼にとってもゆっくりしていられないというのり、それでも僕のお見舞いには欠かさず来てくれていた。
 今年も僕が倒れたという話を聞いて、わざわざ自室まで来てくれた。手にはリンゴと梨が入ったお見舞い用バスケット。「食べたくなったら剥いてもらえ」と彼は枕元に置いていく。
 そんな彼を優しいなぁ、良い人だなぁと毎年のように思う。通年通りとも言えるので、実は布団に横になりながら「来てくれたらいいのに」と思っていた。それでも実際に来てくれると涙が出るほど嬉しい。毎年のように体調を崩したとしても、体が弱っているということは心も弱っているということでもある。だから慰めにきてくれる圭吾さんの存在は、とても大きかった。
 たとえ部屋に居てくれる時間が十五分に満たなかったとしても。気落ちした僕を回復させる一番の薬が彼だった。

「ときわ」

 沈んだ僕を楽しませてくれる会話の後。今後も酷くならないようになとお母さんのような忠告をいっぱいされる。
 そしていつになく真剣で切なそうな顔で、圭吾さんは僕の名を呼ぶ。

「俺の相談、乗ってくれるか?」

 そう言う圭吾さんは、僕の応対を聞く前に一人でフッと小さく笑った。
 口にした途端自分の言葉が恥ずかしくなってしまったらしく、「俺は何を言ってるんだろうな」と続けて呟いていく。
 その顔はとても切なくって、苦しそうで、見ていられないものだった。

 見てられないほどのもの。優しくて気遣いの上手な圭吾さんに憧れの心を持っている僕としては、ありえないほど。
 尊敬の対象である彼が、見ていられないぐらい傷付いている顔をしているなんて。彼に何があったか考えるだけで、悩みの中心でない僕の胸が締め付けられる。
 そして僕は咄嗟に「嫌です」と言ってしまった。
 反応に圭吾さんは少しだけ驚き、目を見開いた後に、

「うん。自分で言って目が覚めたから、いい」

 と微笑んで、話を終わらせた。枕元に膝を付いて、僕の髪を撫でて、見舞いは終わった。

 弱っている人が「相談に乗ってくれ」とお願いしてきたのに、僕は……幻滅してしまったから断ってしまった。
 いくら体調が宜しくなかったとはいえ、大人気無さ過ぎることをしてしまった。
 だから圭吾さんが襖を閉めて行った後、ぼろぼろ泣いてしまった。

 少しでも大人になったつもりで悩みを聞いてあげれば良かったのか。
 でも、あの圭吾さんが悩んで苦しむことって早々無い。あると言ったら、それはきっと……『彼が何十年も想い続けていること』に決まっているじゃないか。
 誰よりも大人で何だってしてくれる気遣い上手な彼が、唯一どうにもならなくってもがき続けてること。
 それは、きっと……アレじゃないか。
 そんな大変な悩み、我儘を通してばっかの甘いお坊ちゃんである僕に解決できる訳がない。圭吾さんの優しさに包まれていた甘ったるいお子様としては、『彼が少年の頃から抱き続けていること』と直面なんて出来やしない。

 泣き疲れてから僕は消えて無くなりたい衝動に駆られた。途端に、いつも通り優しい……いや、生易しい圭吾さんに会いたいと思った。
 でもきっと会えない。会っても良い顔をする自信が無くなっていた。12月28日、圭吾さんの誕生日も、12月31日の宴会も、それ以後だってもう……親愛なる彼へ会っても幸せになれない気がした。
 体の調子が悪いときって涙腺が緩むと聞いたけど、この日は特別だった。美味しそうなつるつるのリンゴもザラザラな梨も、喉に通りそうになかった。体調が戻ってもきっと『今日の圭吾さんがもって来てくれた物』は食せる筈が無い。仕方ないので、頼んでもいないのに二日ぐらい一緒に居てくれた福広さんに全部あげることにした。

 ――見ず知らずの女の子の相談に乗ることは出来ても、本当に愛しい人の話なんて聞けないという僕の話。



 ――2005年12月31日

 【 First /      /     /      /     】




 /19

「うあああああああぁんお兄さああああんぅぅぅゥー!? やっぱりあの女の子、幽霊だったんだよおおおおおおぉ!?」
「え、えー……。僕、さっきポンポンって頭撫でたんだけど……?」
「幽霊って実体化するやつもいるんだってばぁああああぁー! うあああああああああっ!? ボク、幽霊と半径二メートル以内でおしゃべりしちゃったああああああぁぁぁーっ! うわあああああああん今日眠れないよ、どうしてくれるうううぅぅー!」
「そのまま『行く年来る年』でも見てればいいじゃないか。テレビ番組なんて正月中ずっとやってるんだし」
「そういう問題じゃなあいいぃぃぃっ! やっぱり女の子が一人で寺を歩いている確率と幽霊に遭遇する確率だったら後者の方が高いんだよーっ! そんなの判っていたコトじゃんーっ!! うわああああああんお兄さんのバカバカばかああああっ!!!!」
「……っ!? みずほ、黙って……!」

 咄嗟に携帯を閉じて、みずほを伏せさせる。
 息を殺す。今度こそ殺す。今度はヤバかった、確実に誰かの足並みが近くにやって来たからだ。
 今度は小さな物音じゃない。よく聞く、人間の足音だった。

 僕の真剣さがみずほにも伝わったのか、兄弟揃って数秒口を抑える。
 黙ろうとしたのに心臓はバクバクと物凄い音を立てていた。みずほに至ってはさっきの騒ぎもあったせいで緊張のあまりもう泣いてしまっている。僕も涙が出るかもしれないってぐらい興奮したが、次々現れる違和感にそれどころではなくなっていた。

 だって、ツン、と刺激臭が襲い掛かったりと忙しかったりするから、ここを泣いて済ます状況にならなかった。
 なんだこれは。鼻を動かす。線香? いや、こんなキツイ匂いの線香を使っての葬式なんて出席したくない。
 思わず鼻を摘む。臭いとは思わない。気持ち悪くもなる訳でもない。けど自然じゃない匂いは頭を馬鹿にさせるから、正常な判断が出来なければいけないこの場では、恐怖そのものだった。

「……コレ……あのニオイみたいで……イヤだ……」

 同じく鼻を摘んでいるみずほが、低く小さな声で苦く言う。

「あのニオイって何?」
「……病院……を、思い出す。ボク、病院は好きじゃないから……にゅん……」

 病院? アルコール臭ってことか? あまり外の病院に行ったことないので判らなかった。唯一記憶にあると言えば『あさかが亡くなったとき』病院に行ったけど、独特な匂いがするとは思ったけど、こんな匂いではなかったような……。
 好きじゃないからとみずほは気分を悪くしているが、病院なんて好き好む奴は居ないよとフォローしてあげた。……あそこは自然と『死が集まる場所』なんだ、嫌いでもなんらおかしいことではない。
 一段と怖がるみずほを元気づけて、怖くないと自分にも言い聞かせ、なるべく音を立てないように移動をする。
 話すときは今よりずっと小さな声でを気に掛けて、少しずつ先を向かい、音を立てないように足を進める。
 その奥にあったのは、魔法陣だった。

 ここは宗教施設の本拠地だし、魔術結社の神殿だ。その手のものが待ち構えている展開は、ある程度予想している。
 一段と強い結界が張ってあったりして、世界各国名高い魔道具が置いてあったりして、魔術の研究所に相応しい研究をしている場所ならばそれぐらいの仰々しさは普通だと思っていた。
 だが予想していたことが目の前に広がっていたとしても、実際目の当たりにしてしまうと驚きを隠せない。

 薄暗い室内。灯りは廊下と違って、蝋燭が数本灯されている板の間だ。それでも全体が黒で染められていないのは、辺りの金銀の装飾品が反射し合って暗闇を作り出さないようにしているからだった。
 その配置があっちこっちでおかしい。何かの意図があってあんな置き方しなきゃ絶対に置けない工夫がされている。至る所に札が貼ってあって何かを封じてるのか、それとも呼び起こしているのか、自然では生じない力を招いているのは確かだった。
 板の間には、大きな魔法陣が描かれていた。
 更に魔法陣の上には、鎖。無数の鎖がぐちゃぐちゃに並んでいるが、ちぐはぐな構図に思える中にも実は計算されているかのような鎖の結び方。
 そして不思議な香り。金銀。札。魔法陣。鎖。
 中央にあるものは、鎖に繋がれる人間。

 磔になっている人間は、人間とは思えない形で鎮座されていた。

 見れば見るほどあの顔に見覚えがあった。あれは間違いなく、当主様ご本人だった。
 これは、まさか、当主の行なう儀式の最中なのか? 本殿で儀式を行なう姿なら一、二回だけだけど拝見したことがある。そのときと同じような儀式か?
 違う、あのときはこんな拘束なんてしてなかった。あんなに痛々しい姿で眠ってなどいなかった。じゃあこれは何をしているんだ。何も意味も無くこんな所で縛られて寝ている訳が無い。
 現当主は生活の大半を眠って過ごしていると聞いていたが、確かちゃんと自室の布団の上で眠る生活をしている筈だ。そこは間違った情報でないと信じたい。
 だからこれは彼の日常などではなく、何らかの重要な、特別な儀式であって……。

 これが一体何のシーンなのか、理解出来なかった。
 これが、仏田を繁栄させてきた儀式の一つか? ……理解は到底、追いつかない。
 僕はこれでも多くの『仕事』を受け持ってきた。生死が関わる任務の中で、多少グロテスクな光景も目にしてきた。
 それでも今の光景は言葉が出なかった。動くことすら出来なくなっていた。
 みずほなんて『仕事』さえも受けたことがない、超常現象に耐性の無い子供だ。一連の流れにびくびくと怯えてしまっている。怯え震え過ぎてしまって……、

「誰か居るのか?」
「にゃっ!!?」

 冷静な判断なんて出来る訳が無く、まず答える必要の無い問い掛けにも馬鹿正直に応えてしまった。
 みずほが声を上げてしまう。みずほしか上げない、特殊な鳴き方で。

「その声は、みずほか」
「あ……っ!」

 暗闇の中。僕は床に転ばされ、押し付けられた。

「っ……!?」

 僕は顔から床に着地し、板の間とキスしてしまう。次の瞬間、立っていたみずほは、蝋燭の光が当てられてしまった。
 しかし向けられたのは、みずほのみ。みずほに床に押し付けられた僕はその光を受けることはなかった。
 みずほが一歩前に出る。歩き出した左足が、軽く僕を蹴った。まるでゴミを蹴り飛ばすような軽さ、「あっちに行ってしまえ」と追い払うような動きで。

「っ……!」

 ――『声を出してしまってバレたのは自分だけだから』と言わんばかりの行動。
 恥ずかしいことに僕はその好意を真正面から受けてしまった。みずほが声を出してない僕を気遣って一人出た好意を素直に受けてしまう。断ることも出来たのに、断れなかった。
 頼りになる兄ならば「僕も居るんです! みずほに罪は……!」と言える筈なのに、予想以上の衝撃に言葉を失い、身動きが取れず、咄嗟に立ち上がることが出来なかった。
 みずほは自分以外にも人が居ることを察されないように、転がる僕に一切目を向けない。
 隠してくれていた。その優しさに感謝したが、僕の方が年上なのに情けなくて涙が出そうになった。そんな悔しさを噛み締めながらも、僕は怯えて何一つ動けなかった。

「み、みずほです……すいません!」

 暗闇の中、みずほの顔や誰かを下から探る。灯りを向けてきたのは、例の一本松さんや義父ではない。松山さんだった。
 大柄で、いつも優しいけど怒ると熊のように迫力がある男性で、寄居くん達の父親だ。何かと怒られる子供達を庇ってくれる優しい人だった。
 ……いつもは優しいけどこれは絶対怒られる光景だと判っている。それでも普段から子供達に優しくしてくれる松山さんに、甘い情けを掛けてもらえることを期待した。

「そ、その……っ! あのっ、ボクは……っ!」
「みずほ。正直に言いなさい。何故、こんな所に一人で居る」
「……えっと……」
「答えなさい」
「あの……猫! 猫を、追っかけてきました!」
「……猫?」
「ね、猫です……っ」
「それ、本当か?」
「ハイッ、本当です!」

 嘘は言ってないし誤魔化しもしてない。金銀財宝を盗みに来たのでも、破壊工作をしに来たのでもない。
 『今日ここであったこと』を見に来たスパイでもなんでもないんだ。みずほは上ずりながらも必死に真実を語る。

「その猫はどこに?」
「猫……ッ。さ、探してるんです……今ッ!」
「…………もしかして、あの猫のことか?」
「えっ……」

 あの猫、と言われそっちの方に向くと、その先に、居た。
 ――トラ猫サマが。
 思わず指差した先に、トラ猫サマが『まるで助け舟を出してくれたかのように』板の間に着席し、自由気ままに顔を洗っていた。
 明日は雪だって聞いたけどこのままだと雨になるのかも。そういう昨日一昨日って雨だったし、と焦った頭は全く関係の無い呑気な話題を検索してしまう。それどころじゃないのに。

「猫が……入り込んだのか」
「はいっ、それを追っかけて来たんです!」
「どこから入ったんだ?」
「玄関からです!」
「…………。みずほさぁ、ここには許可無く入って来ちゃいけないって知っているだろー?」
「は、はいっ!」
「ならなんで入った?」
「し、知ってたけど……トラ猫サマが入るからっ、入っちゃったから……追いかけたくなっちゃって!」

 嘘は、一つも言っていない。本当にみずほは、真実のことしか言ってない。
 僕が用意していた五つの言い訳をみずほに教えておけば良かったと後悔した。今から立ち上がって僕が言えばいい話だが、それは……情けないことに、出来そうになかった。

「あの、ごめんなさい……入っちゃダメだって今、思い出したから……」
「みずほ。判っていると思うが、お前はここには入っちゃいけないんだ。ここは大事な物が沢山あって大切なことを行なう場所。何にも知らない人は絶対に入ったら怒られるんだぞ」
「……うん……」
「決まりごとは必ず守らなきゃいけない。ルールは必ず従って国は、世界は成り立つんだ。判るな?」
「……う、うん」
「おじさんはもう少し規則を緩めるべきだと思っているけど、それでも守らなきゃいけないものは守るんだ。約束を破ったらいけないことだって判ってるよな? 約束事がある以上、守ってもらわなければ罰則が与えられる。出来るならおじさんは悪意の無いお前を守ってあげたいが、過半数の人間がお前を庇ってはくれない」
「判って、ます……ごめんなさ」
「だからお前には罰を与える」

 パァンと銃声。
 ビシャリと血しぶき。
 バタンとみずほが、倒れた。

 ――え?

 僕の鼻に何かが当たる。倒れた先に伏せていた僕の鼻に、びしゃりと血が触れた。
 鼻の先に血。みずほの、血。嗅覚が危険信号を鳴らす。一瞬で察知したその匂いは、不安感を一層深まらせた。
 今、あの人、松山さん……何を、した?
 銃で撃った? 左手に蝋燭を持って、右手にはいつの間にか銃を召喚していて? みずほの、頭を、躊躇いなく、謝っていたみずほの頭を、何の特殊な力も持たない、みずほを……?

 ――いくらなんでも、それは、ないだろ……?

 なんで撃ったんだ、この人。
 たとえみずほが一族の出だからって、殆ど能力を操れない一般人と同じような存在なのに。僕のように能力を操り退魔業をしていたって、頭を撃ち抜かれたら死ぬんだぞ。
 瞬発的に銃弾がやって来るのを察知し、コンマ数秒でガードが出来る人なんて、僕の周りでも居ない。
 なのに、みずほのコト、知っている人なのに、なんで……?

 みずほは、ちっとも動かなくなった。
 僕も、ちっとも動けなかった。もしこれで僕が動いたら、僕も撃たれるんじゃないかと思ってしまい、余計に動けなかった。
 『まさか撃つ訳がない』と思いつつも、そのような期待は数秒前に裏切られているから。
 真の直系だから偉い、敬われる、撃たれないという考えはハズレだった。たとえ直系一族でも罪を犯せば罰は与えられる。それは変わらない事実だった。その結果、今も尚、みずほの血が床の上に広がっていく。
 広がる血を止める手段など僕には無かった。出来るのは、ただひたすら息を止めているだけだった。

「誰を殺ったのです?」

 奥に居た銀之助さんが銃を向けている松山さんに尋ねる。まだ僕は見付かっていないようだった。

「みずほ、だ。困った迷い猫だな。すまん、せっかくの儀式の間を汚してしまって」
「みずほ様。藤春様の三男でしたか。確か刻印無しでしたね。それでは贄にする価値もありませんか」
「ごめんなー、光緑。お前の部屋、こんなんで汚しちゃって。藤春くん、怒るかなぁ。大事な息子さんをこんなんにしたら怒られるかなぁ」

 銀之助さんは相変わらずの無表情。普段厨房で作業しているあの顔そのままだった。
 あの人の恐ろしさはもはやどうでもいい。それよりも……普段は優しく大柄に笑う松山さんまで、『相変わらずの笑顔』だったことに、僕はより恐怖を感じた。
 自然に身近な実父の名前を出されたとき、ここは身内同士の集まりだと感じ、恐ろしい現実は隣接してるんだと自覚。震えは止まらないものになっていた。

「でも仕方ないよな。入っちゃいけない所に入ったんだもんなぁ。いけない子は罰せないとダメだよなぁ。そういう風に決められてるんだから、従わないとダメだよなぁ。で、アレはどうする。光緑。もう危険じゃなくなったけど、コレは邪魔か? 死体と一緒に眠りたくないか?」
「松山様。光緑様はまだ、お目覚めになられてませんよ」
「はは、ははは、ははは」

 不気味な会話に背筋が凍る。
 ――あの人、眠っている人に話しかけていた? アレとかコレとか死体とか、まだ暖かいみずほのことを言いながら。これならまだ、二時間怒っただけで済ます狭山おとうさんの方がマシじゃないか!
 でもまさか狭山おとうさんも同じコトをするのかと不安になる。
 判らない。しないと信じたい。けど厳しいことで有名な人なら、少し大人になった相手に厳重な処罰するかもしれない。
 松山さんのように、この人達のように……?

「息が聞こえますね、まだ誰か居るのですか」
「……っ!?」

 ここで発見されて『撃たれない』、そんなことあるか。
 もう既に一度みずほを死体扱いしている。殺した気でいるこの人が、当主の弟の息子『如き』を気遣うか。いいや、きっと殺される。
 まずい、とにかくまずい。誰かにこのことを知らせようかと思ったが、誰に知らせたらいいか頭が働かなかった。
 真っ先に思いついたのは圭吾さんだったが、先日の『会いたくない』という想いが一気に生じた。
 そんなこと言ってられないと判っていながら、身勝手に想いは圭吾さんを候補から外してしまう。あとは、実父の藤春に頼る? 無難な判断だと思うけどどこに行けば会えるんだ? それと、緋馬くんに言う? いや、自分の提案でみずほを殺したというのに……どうやって言えるものか。言えない。そんなこと、追い詰められたって言えるかどうかも判らない。
 なら火刃里くん? あの子も駄目だ。寺に感化されているからきっと僕の方が悪いと責められる。……いや、本当に僕が……悪いんだけど。

 ――規則を破ったから、罰を受ける。それって、当然じゃないか。

 考えれば考えるほど、自分の罪を自覚した。
 なんら可笑しくない。松山さんも『罪には罰を』と当然のことをしただけなのに、何をこんな、自分が被害者だというようなことを考えているんだろう?
 そうだ、悪いのは自分だった。『入ったらいけない所に入った』自分が悪いんだった。どう考えても僕が悪いのに、みずほだけが罰を受けて、自分だけが誰かに助けてもらおうと考えるなんて、いけないことだ。みんな連帯責任、規則があって、罰があって、システムがあるから輪が保てるんじゃないか。

「嫌なの?」

 そこには小さな女の子が立っている。
 金髪の長い髪を靡かせた童女。今度は泣いていない。しっかりと地に足をついてこちらを向いて立っている。僕の心を読むかのように彼女は僕に問いかけた。
 撃たれるのは、嫌だ。その顔で、彼女を見つめる。

「でもそれは貴方の我儘よ。我儘なのにどうして嫌がるの? みんなで決めたことを、貴方は犯しておきながら、どうして自分勝手に嫌がるの?」

 ……そうだよ、僕は悪いけど……僕が悪いけど。でも、だって……だって、あんな死に方は、したくなかった。

「我儘。貴方は悪いことしたって誰もが認めるわ。貴方は罰を受けるべきなのに、死にたくない? そんなの我儘にも程がある。嫌なものは嫌だから? 貴方もあの子と一緒ね。自分のことしか考えてない。みんなで決めたことを守らないなんて最低よ。大人しく罰せられなさい」

 そう言って童女は消える。
 ――やっぱり、彼女は幽霊なのか。散々と精神を貶めるようなことを言われて、頭が強打されたようにぐらぐらした。

「……ごめんなさい、松山さん……僕は……ちゃんと、罰を受けますから……!」
「ときわ? どうしてここへ?」

 立ち上がり声を掛けると松山さんがくるりと振り向いてくれる。本当に今まで僕の存在に気付かなかったようだった。

「僕もみずほと一緒だったんです! すみませんでした! ……ちゃんと説明しますから……だから……」

 だというのに次の瞬間、僕の体に熱が沸き上がった。
 松山さんの手には、握りっぱなしの銃がある。
 熱い。銃弾が体にめり込んでいる。そう思ったときには、ガクリと体が崩れ落ちていた。
 途端に襲いかかる、胸の熱さ。寸前まで近付く、自分の炎。一瞬にして様々な感情が走って行く。

「おじさん、言ったよな? 入って来たらダメだって。ここは、入って来たらいけない部屋だぞ」

 松山さんは僕を見て、薄く笑い、すぐに顔を……眠る当主へ戻す。
 なんて顔をしているんだ、と切なく思うも、どんどんと心は熱に押され消えていき、最終的には自分の生じた赤に包まれ、僕は何もかもを失くしてしまった。




END

 /