■ 009 / 「幼年」

元は頂いたショートストーリーを、長編連載用に改変させていただいた小説です。パロディ小説、2.5次創作でございます。 参考元:雷



 ――1982年3月1日

 【 First /     /     /      /     】




 /1

 ここがいかに異常であっても、子供達は気付かない。
 当然のように昼を過ごし、眠りにつき、朝を迎える子供達には周囲のなど関係無かった。

 小学校に通うようになって数年。クラスメイトが話す家族像が自分のものと違って見える。これが最初の違和感だ。
 他の家はちょっと違う。「うちはどうしてこうなんだろう?」と悩みつつ、仕方ないと納得するしかない。

 お寺の石段を下って数十分、通学時間六十分ほどの場所に小学校がある。朝はそこで学んで、昼間に遊んできて、夜帰って遊んで眠る。
 他の子となんら変わらない日々。でもクラスメイトは魔術や武術を学ばないと言う。
 そこでやっと僕の家がちょっとおかしいんだって気が付いた。

 でもお医者さんの娘さんのお家が忙しかったり、商店をやっている息子が店番をしているのもよくあること。
 生まれたところは選べない。仕方ない話。
 一時間近くかけて長い道のりを歩くのも、山奥のお家で生まれてしまったのだから仕方ない話。
 『家族』以外に伯父や祖父の兄弟やハトコ兄弟達や大変なお勉強をしている坊主さんやお手伝いのおばさんがお家に居るもの、そういう家なんだから仕方ない話で。
 家に帰っても帰らなくても『声』が聴こえるのも、仕方ない話。

 小学生の僕には納得できないことが沢山あった。
 でもそれも我慢しなきゃいけないことだと周囲から圧され、悩み、流され続けなければならなかった。
 仕方ないのだから、仕方ない。

 ――チリリン。

 どこかで、何かの音がする。
 鈴の音のように聴こえた。誰かが鳴らしているのか?

「むぐ……?」

 キョロキョロと見渡してみる。
 周囲に居るのは、一緒に小学校に通う兄とイトコ兄弟達。一つ年上の志朗お兄ちゃん、同い年のカスミちゃん、カスミちゃんの兄である悟司さんと圭吾さん。そして自分。
 ここには五人しか居なかった。

「おい新座、どした? なんだよ、あっちこっち見やがって」
「む、むー……。むぐっ」

 カスミちゃんが怪訝そうな顔をする。
 カスミちゃんだけじゃなく全員の黒いランドセルを見てみたけど、鈴のアクセサリーは見当たらなかった。直接手に持っているのもありえない。
 ……じゃあ、あのチリリという音はどこから来た?

「な、なんだよ。お前にパンなんかやんねーよ!」
「給食の残りなんていらないよ……。家に帰ればお夕食が待ってるじゃん」
「ばっか、七時まで待てるかっつーんだ」
「……むぐ……もう、そうじゃなくて……」
「新座くん、どうした」

 最近眼鏡を掛けたばっかりの悟司さんが、僕の頭をぽんぽんさせながら尋ねる。
 あまりにキョロキョロし過ぎていたから気にしてくれたんだ。

「むぐ……音が、聴こえる……」
「何も聞こえないぞ。気のせいだろ」
「むっ、そんなことないもんー……」

 志朗お兄ちゃんは耳を澄ませてみてはくれたものの、僕の求めた言葉は一切口にしてくれなかった。

「現に聞こえないんだから無いんだろ。なあ、霞」
「そっすよねー、志朗兄さん。新座のヤツ、何言ってんだか」
「む、むぐー……」
「新座、気にするな。ここには何も怖いモノなんて居ないんだから、心配すんなよ?」

 優しい言葉を掛けてくれる。
 少しあたたかいけど、ほんの少し冷たい言葉。
 いつだって元気なカスミちゃんと、あまり細かいことを気にしない志朗お兄ちゃんは、ぽんぽんと軽い足取りで石段を登って行ってしまう。夏だろうが冬だろうが、今のような春だって二人の元気さは変わらなかった。二人はあっという間に登ってしまう。
 僕はいつも石段を登るときにぜーはーと息切れしてしまうのに。
 でも置いて行かれた訳じゃない。五人の中で上級生の悟司さんが監督してくれるし、誰にでも優しい圭吾さんは手を繋いでくれるから、一人取り残された感は無かった。
 気落ちした僕を、心配そうな顔をして圭吾さんは手を差し出してくれる。

「ほら、新座くん。ゆっくり帰ろうか。志朗くんの言う通り、あまり気にしちゃダメだぞ。きっと猫でも居たんだよ」
「……ねこー。時々見かけるけど、さ……」

 志朗お兄ちゃんはとても僕に優しく、甘い性格だと思うけど、気遣いが巧いのとは違った。
 それに比べて、来年度六年生に進級する圭吾さんは年下にとても優しい性格だ。悲しい気分になってもすぐにこうやって手を差し伸べてくれる。
 そしてもう一人、僕のために残ってくれた悟司さんも、圭吾さんと同じように力を貸してくれた。
 悟司さんの場合、子供にしてはひどく落ち着いていると思うぐらいだ。4月から中学生だからかもしれないけど。

 一番年下の僕は優しい二人に連れられながら、奇妙な感覚に心を震わせていた。
 それに、指まで振動させてしまっていたからか。僕を握る圭吾さんの手が、力強く握り返してくれる。優しい圭吾さんの手をまたぎゅうっと握って震えを抑えた。

「……新座くん。『また』、君は変なものでも聴いたのか」

 上の方へ駆けて行ってしまった志朗お兄ちゃんとカスミちゃんを仰ぎ見ながら、悟司さんが言う。

「悟司さんも聴こえたの?」
「いいや。圭吾はどうだ?」
「……ごめん、俺も聴こえなかった」
「新座くんには聴こえたが、俺達が聴こえなかっただけかもしれん」
「うう……。でも、もしかしたら僕、嘘ついちゃったのかも」
「それはない。君が嘘をつく必要なんて無かろう」

 悟司さんの自信のある、安心させる口ぶり。まだ小学六年生とは思えない、立派な喋り方をする眼鏡の少年は言う。
 あと一ヶ月で中学入学だからとか、その程度の大人びたではなかった。

 ――五人の中では最年長の悟司さんは、既に『家』からいっぱい教育を受けている人だった。
 『その年齢になったのだから』、『才能があるから』、そんな様々なことを言われ、学校以外でも勉強をするようになっている人だった。
 今も物知りなのは、いっぱい勉強しているからだ。そしてその性格の理由として、元から真面目ぶるところがあって物知りだからというのもあるからかもしれない。
 その自信のある古臭い喋り方は……『寺』に居る『誰か』に似せているような気も、僕にはした。
 誰かは判らないけど、そういう人はどこかしらに居る。普通はしない堅苦しい喋りを、悟司さんはする。それは悟司さんの雰囲気に合った喋り方だから、誰も追及はしないけれど。
 子供心に、妙な感覚はする。
 彼は口が巧いから、大きくなったらきっと家の為にその話術を大いに生かしてくれる。将来有望ってやつなのかも。

「兄貴は、新座くんが何か……霊的なものを受信したって思ってるんじゃないか?」
「む、むぐ? 霊……幽霊?」
「そっ。あ、ごめん、新座くんを怖がらせるために言ったんじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「この石段にはね、猫がいっぱいやって来るように……『大変なモノ』が沢山居るって言われてるんだ。それじゃないかなって」
「……『大変なモノ』?」
「人間以外のモノのことだよ。幽霊も含まれるし、違うモノかもしれない。ここは結界の境目……境界だからね。そういう人達が集まりやすいところらしいんだ」

 怖い話でも、圭吾さんは優しい声で、僕を怖がらせないように言ってくれる。
 そして注釈を入れるように悟司さんが口を開く。

「幽霊は一概に全部悪ではないぞ。生きている者を守ってくれる良い幽霊だっている。守護霊とかいるだろう、あれは祓ってはいけないものだ。つい夏のホラー特集で組まれる幽霊が悪趣味なことを仕出かしているが、あれは悪い例を集めているからだぞ。幽霊イコール怨霊とは思うな、幽霊に対して失礼だ。それに霊は『我ら一族の糧』。我らを導いてくれる知恵そのものになるんだぞ」
「……むぐ? 悟司さん、もっと判りやすく言ってほしいな」
「あー、だめだめ。そういうのはもっと判りやすく教えてくれる大人のところに訊きに行かなきゃ。悟司兄貴は自分勝手に理論を進めるから、頼りにならんって」

 ぽかり。あっ。
 一瞬をついて圭吾さんの頭にゲンコツが飛ぶ。

「あたっ。……案外、兄貴は手も出してくるからな」
「むぐっ。でも、悟司さんはカスミちゃんが殴るよりずっと痛くないからいいよ」
「それは……霞は殴るとき、本気で殴ってくるからな。アイツ、加減覚えないから」
「霞は加減が出来るほど脳が発達した生き物ではないからな。食べたものもバカな言動で口から放出するしか機能しない、単純な生態をしているから無理もない」

 はあ、とカスミちゃんの実の兄二人が揃って溜息をつく。
 その隣でもう一度、耳を澄ました。

 ――チリリ、チリリ。
 …………やっぱり聴こえた。
 でも悟司さんが話を続ける。あの音がちっとも聴こえていないようだ。

「ここは我が家と下界を繋ぐ境目だ。境目は決まって曖昧なもの。曖昧な場所には曖昧なモノが住みつくのがセオリーだ」
「悟司兄貴、セオリーって……その言い方は無いだろ。何のなんだか」
「この山はすぐ側に川も流れているからな。あっちとこっちを分断する川が流れている。……少々気味の悪いワードが多い場所だ。だから霊地で、我が領土になったのかもしれないが……。まあ、判らん」

 判らんて! 圭吾さんが、大声で僕の心境を代弁してくれる。
 僕達より物知りでも悟司さんだってまだ子供。判らないことは沢山ある。それは仕方ない話だけど。

「……えっと、新座くん。昔、大山伯父さんが『歪みが発生しやすい』とか言ってたんだ」
「むぐ、ゆがみ……?」
「あのときはフーンて軽く聞き流しちゃったけど、それから察するに『何かが出てきやすい』ってことじゃないかな。……人以外のもの、が」
「出やすいのは出やすいらしいが、我らの敷地内には入ってこないだろう。結界が念入りに張られているからな」
「そーなの?」
「修行者の中でも熟練度の高い者達が、何重にも結界を張っている。だから無理矢理こじ開けるような連中が集団で、ありえない力を用いて破ってこない限り、入口を破られることはない。そんな恐ろしい連中が入ってこようとするなら……入って来る前に、外で大人達が退治するだろ」
「ねえ……圭吾さん、ゆがみって、何?」
「そうだな……新座くんが知ってそうな言葉で説明すると。……『紙がよれて歪んでいる』って言うよね、あれ、ぐにゃぐにゃ〜って感じだろ? どれが線だか、どこまでがどこまでなのかハッキリしない状態のこと。それが『歪み』だよ」
「う、うん。『ゆがみ』の意味、判った。……それで?」

 圭吾さんが一段先に石段を登る。
 そして、手を繋がれ先を進もうとする僕の足を止めた。

「はい、こっから先の段は俺の。新座くんは入って来ちゃダメ」
「えーっ!?」
「これは、『一段』。線がハッキリしていて判りやすいね。こうやって『この一段は俺の陣地だ』って決めた。すると許可なく新座くんは入れない。決まりで、入って来れなくさせられちゃったんだ。ここは階段だから確実な一段が目に見えて判るけど……もしこれが段の無いところ……何にもない平地のような場所で、『こっから先が俺の!』って言ったとする。でも、線が見えない。進んでいいのか悪いのか、新座くんは戸惑うと思うんだ。……これが、境目の曖昧」
「……むぐ。ここは、この石段は……全体的に、曖昧な場所? だから、どこから僕達の陣地……お寺の陣地か判らなくなっている。判らないから、人間以外の人が入って来るのも多く……なっちゃう?」
「そう。ここから先は我々の城なのに。人間以外が住むのは許されない……入った途端に『罰せられる』ところなのに。曖昧故に、気付かず進んでしまうモノも多い」
「もし間違えて入って来ちゃった子がいたら、どうするの?」
「罰せられるな。人間だったら、忠告をしてお帰りになってもらう。いざとなったら警察を呼ぶとかな」

 話しながらだからすっごくゆっくり石段を歩いている。
 僕の会話ペースと足取りに合わせて、二人は少しずつ足を進めてくれていた。

「むぐー……判ったような気がする。二人が言いたいのは、その……『僕が聴いた音は、そうやって迷って来ちゃったヒトかもしれない』ってこと?」
「うん。目に見えないヒトがうちに入ろうとしちゃったんじゃないかなって思ったんだ。でも……。こうやって新座くんや俺達に悪さをしてきた訳じゃない、何も危険が無いんだから、悪い人じゃないようだよ」
「…………迷子さんなのかな?」

 僕が怖がって圭吾さんの手をぎゅっと握ると、圭吾さんは笑い返して慰めてくれる。
 悟司さんも力強く、言葉で慰めてくれた。

「おそらくそうだな。……かと言って、我々にはどうにも出来ん。自分の間違いに自分で気付いてもらい、自ら帰ってもらおう」

 僕はもう一度、耳を澄ませる。
 ――チリリ、チリリ。
 まだ、鳴り響いていた。

「犬だー!!!!」
 
 そのとき。上から、カスミちゃんの大絶叫が聞こえた。
 大絶叫の内容は、実に判りやすいもの。何が居て、何に反応したかが一発で判明するぐらい簡潔な絶叫だった。

「犬だよ犬! 犬がそっち逃げたぞー!!」

 カスミちゃんの大声が上から降って来る。
 それとほぼ同時に……小さな子犬が石段を駆け降りてきた。

「わわっ!? わ……わあ! わんこだ……わんこだー! かわいいー! 圭吾さん、捕まえて捕まえてー!」
「ええっ? 俺が……? 俺が捕まえなくても、霞か志朗くんが捕まえてくれるんじゃ……」
「カスミちゃんが先に捕まえたらもふもふさせてくれないよー! 先に捕まえて、圭吾さーん!」
「じ、自分で捕まえる気は無いんだな?」
「新座くんは『体力が無い自信』があって言ってるんだろ」

 ……そうして。
 もう、不思議な音に耳を澄ましていたことさえも忘れて、霊や神秘の話ではなく、子供達は、子供達の楽しい話へ移り変わっていく。
 自然な流れで、楽しい方向へ。



 ――1982年3月1日

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 /2

「――えっへへー、ふっかふかだー」
「おい、新座ー。俺にも触らせろよー」
「カスミちゃんに渡したら二度と返ってこないだろー」
「マジ五秒で返すから」
「むぐー……。わかった、はいっ」
「よーし! 散歩行くか犬ー!」
「むぐー!? 五分でも帰って来ないつもりだろー!!」

 五人の中では年上の三人が三十分間の格闘の末、捕まえた犬を霞があっさりと放してしまった。
 手を離した瞬間、犬は駆け出す。これから新座と霞の手懐け次第で、年長者三人の苦労が報われるか確定することだろう。

 とりあえず今、子犬は霞から逃げまくっているだけだ。犬は全力で逃げている……いや、きゃんきゃんと遊んでいるから、犬も追いかけっこで楽しんでいるだけかもしれない。
 境内で追いかけっこ。たとえこの家で生まれ育ったとしても、勝てるかどうか判らないほど特殊なフィールドだった。
 俺は、無邪気に犬を追いかける弟の新座を眺め見ていた。

「あらぁ、志朗お坊ちゃんじゃないの」
「え……?」

 俺は声を掛けられた方を向く。
 ついでに、悟司さんと圭吾さんもそちらを向いた。そっちには、黒を基調とした上品な着物に身を纏った女性と、俺達と同じぐらい(やや年下)の少年がいた。
 二人は母子のようで、幼い少年は女性の足元にべったりとくっ付いている。それも構わず、母親らしき女性は身を屈めて俺に挨拶をしてくる。

「えっと……。その、鶴瀬の伯母さん、ですか」
「おや、覚えておいてくれたのねえ、嬉しいわあ。前に会ったのは志朗お坊ちゃんが小学校に上がる前だから、丁度二年ぶりかしらねえ」
「……俺、今、三年生です。来月から四年生だから、小学校に入ったのは三年前です」

 あらあらぁ、そんなにぃ?
 お淑やかに頬に手なんて当てちゃって、「いかにも自分は上品です」っと言わんばかりのポーズで近付いてくる。

「なら尚更よく覚えているわねえ。流石はこのお家の頭領さんの息子さんだこと。その年でお客さんのこと覚えて応対も出来るなんて、凄いわねえ。そちらの子らも仏田のお坊ちゃん達かしら、それともお友達かしらぁ?」
「初めまして。現当主守護狭山の長男・悟司と申します」
「あ……。お、おはつにおめにかかります……狭山の、次男の、圭吾です」

 悟司さんのスマートな物言いに、圭吾さんが慌てて頭を下げる。
 上品で化粧が厚めの女性は、子供に対してにっこりと笑った。

「そちら。眼鏡のお兄さんの方は、位は幾つかしら?」
「…………。現三位です。まだ藤春様と柳翠様は、御結婚なされていないので」
「あら、そうだったわね。そうそうまだあのヤンチャな藤春君にも浮いた話が無いんだからね。まったくどうしたものやら。もう後継ぎを十分作れる年になれたのに。遊んでいるのだから困った子ねぇ。貴方達のお父さん方もあのぐらいの年齢のときにはね。全然お家のことを考えていないんだから困るわ。当主様が一人で頑張ってらっしゃるのに。色々言われているのは貴方達の耳にも入るでしょう?」
「い、いえ、あまり……」
「我々は、まだ子供ですから」

 慌てる圭吾さんとは別に、しれっと悟司さんがさっぱり話を切るように言う。
 元から大人には淡々として聞き分けの良いような子供を演じる悟司さんも、今は更に冷淡に切り裂いた。

「そう。あららごめんなさいね、変な話をしてしまって、やあね私ったら。でもそのうち貴方達にも素敵な女性がやって来るでしょうね。きっと狭山様、お父様なら、最高の女性を用意してくれるだろうから」
「そうですね」
「狭山様のご長男がしっかりした子で良かったあ。きっと色男になるわね、悟司くん」
「俺なんてそんな。学校では、志朗くんの方がずっと人気がありますよ」
「そんな子に子供が出来ても誰も喜ばないでしょ」

 いくつかの定例句のような褒め言葉を置いて、着物の女性は去って行った。
 体臭ではない香りを漂わせつつ。

「……あの人……。なんか、イヤなカンジだったな」

 全部の影が居なくなった後に、圭吾さんが素直な感想をこぼした。

「いきなり位を聞いてくるとはな。……志朗くんの前で。嫌な女だ」

 二人は、俺に聞こえないように声を漏らす。
 少し離れた位置で霞と新座が犬を追いかけぎゃんぎゃん鳴いているからこそ、できる会話だった。



 ――1982年3月1日

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 /3

 夕飯前の厨房。食事を控えた時間に僕達五人は、『魔王』と対峙していた。
 料理長という、子供にとって最も身近な『神』であり、『魔王』の男と。

銀之助「……どうしました、おちびさん達。集団でおいでになって。こんな時間にリクエストをしてもデザートは増やしませんよ」

霞「いやいや、何も言ってねーのに話進めんなよ、オジサン」
新座「あのねあのね、銀之助さん。実はもう一つ……もう一人分、ごはん欲しいの。急なんだけど、ごはん用意してほし……」

 ギロリと、銀之助さん独特の細い眼が睨んだ……気がする。
 銀之助さんの目は細くて、眼を開けているのか開けていないのか判りずらい目だから、睨んでいる『雰囲気』しか本当は感じられない。
 予定外の行動を取られることをとにかく嫌う規律の人だからそうやって睨んでくるんだ。……犬のごはんを用意するのも、命がけだ。

霞「この、新座の胸のモコモコ具合でわかんねーのかよ」

 お洋服の下に入れた膨らみを、カスミちゃんが指差す。

銀之助「…………。ふう。いくら女が産まれないからってついに『本部』は可愛い息子を女体化させるに至ったか。魔術の世界は理解できませんね」

圭吾「……オジサン、そう簡単に女体化って出来るもんなの?」
新座「むぐー! 違うのー、違うよー! このここに居るのは……この子!」

 ぽこり。僕の服の中から、もこもこの毛玉が顔を出す。子犬だ。
 途端、銀之助さんの目が光る。その目は、光っただけでは済まなかった。
 光が飛ぶ。破壊音が響く。煙が舞う。飛んでいった光の正体は……光を纏った箸だった。
 誰にも見えない速さで箸が身をかすめていったのだ。箸が床に突き刺さり、大きなクレーターを作っていた!

圭吾「なんでっ!?」
志朗「銀之助さんご乱心っ!?」
新座「むぐっ!? なんでなんで攻撃するのっ!?」

銀之助「厨房に犬を連れてくる阿呆が居りますか。泥が飛んだら、変な菌を連れて来ていたら、暴れて食器をひっくり返したらどうするのです」
悟司「絶対に銀之助さんがそう言うと思ったので、そのようにないよう新座くんが服でくるんでいるんですが」
銀之助「連れてくること自体が不衛生、非常識です。百人の料理を作っているのですよ、ここでは百人食事をする者がいる――百人が百人常時健康体と思われるか。一人でも不健康がいて、妙な菌を持っている獣が入り込んでいたらその人はどうなされるかな。その責任はどこにやってくるか」

志朗「いきなり万が一の最悪のケースだとしても大袈裟な……」
圭吾「えっと、犬のためにわざわざ食事を用意しなくてもいいんです。残飯をくれるだけでいいんですよ、残飯で! ドッグフードを今すぐ調達してくださいって言うんじゃないんですから!」
銀之助「霞のように人の残したものを食い漁るハイエナが居る前で言いますか。第一、残飯処理を犬に任せたら霞の食べる物が減りますよ」

志朗「霞、自重」
圭吾「霞、自重しろ」
悟司「霞、自重しとけ」
霞「おいぃっ!? いつも残すともったいないから食ってくれって言ってるくせになんで合体攻撃してくんだよ! つーか全部俺のせいか、オジサン!?」

 カスミちゃん、空気読んでね。

圭吾「え、えーと……銀之助さん。不衛生かどうかは、これから俺達がこの犬を綺麗にしていけばなんとかなると思いますよ? 野良犬だから不潔そうに見えますけど、これから身体を洗ってあげて、ごはんを食べさせてあげて、可能なら身体を診てもらって……不潔じゃないカワイイ犬にしますから」
銀之助「…………まだその犬、水洗いもさせていないのですか」
圭吾「だって今、拾って遊んで来たところだし」

銀之助「出て行きなさい」

 ぽいっと。
 五人一斉に外に出された。……どうやったのかツッコまない方針で。
 うう……。もしかしたら僕達までごはん、貰えないかもー……。

圭吾「ま、まあ……銀之助さんならどうにでもしてくれると思うよ。この家の残飯処理を全て霞だけじゃ賄いきれないんだから、きっとこの子、活躍してくれるんじゃないかな」
悟司「うちは無駄に人数が居て、毎日毎食きっちり一汁三菜食べさせられるからな。小食な奴は残す奴も多いし……。霞で処理できなかった生ゴミ行きが解消されるだろ」
霞「……俺、残飯処理をしていたのは事実だけど、なんかゴミ箱扱いされてるっぽくてヤなんだけど」
新座「くいしんぼキャラってそうなる運命なんだよ」
霞「キャラってなんだよ、キャラって!?」

志朗「まあ、とにかくすることは銀之助さんの機嫌をとるためにも、こいつの汚れを洗い流してやろうぜ。こいつのためにも綺麗にしてやるか。子犬だから元気だが、清潔にしてやらんと弱るぞ」
新座「はーい、お風呂に入れよー」
悟司「いや、風呂はいかん。毛が浮く。それこそ銀之助さんの怒りがデザート抜きでは済まなくなる。晩飯抜きの特別刑に格上げされてしまうぞ」
新座「むぐっ。それってどっちかって言うと、格下げだよ」
志朗「仕方ないから、井戸のところで洗うか……。それじゃ、タオル貰ってくるわ。あとは桶かな……それと、今朝の朝食の残飯……。厨房裏から漁ってくるか」
霞「じゃあ俺、志朗兄さんについて行くー!」
新座「……むぐー。カスミちゃん、あんまり志朗お兄ちゃんにべったりすんなー」
霞「お前は兄貴達とお手々繋いでりゃいいだろ。俺は志朗兄さんといっぱいいっぱい遊んでるからなー!」
新座「……むーぐー……」



 ――1982年3月1日

 【    / Second /     /      /     】




 /4

 ――チリリ。チリリ、チリリ。
 気を緩めると、またあの音が聴こえた。

 井戸場でばしゃばしゃ水洗いされている子犬から目を離して、音の発信源を探する。
 キョロキョロと、見渡してみる。けれど、目に見えないモノはなかなか目には映ってくれない。
 音は意識しなければ聴こえなかったほど小さいものだ。時間が経つうちにその音はハッキリ聴こえてくるようになっている。
 僕は気付いているのに……悲しく鳴り響いている音なのに、みんなは気付かない。どうして他の人には聴こえないのか。

 圭吾さん達の言っていた『迷子』が近くまで来たのかな?
 いや、今は結界の中である家屋に居る。だから『目に視えない迷子』が近くに居る筈が無い。危害を加えなければ入って来ても大丈夫になっているとか?
 悪い幽霊でなければ結界の中に入ってもオーケーとか? 詳しいことは判らない。でも……音が気になって気になって仕方なかった。見まわして、見まわしていて……。

 ――チリリ、チリリ……。
 と、やっぱり聴こえる。更に辺りを見渡す。
 視界に入ってくるのは、子犬と、悟司さんと、圭吾さんと……男の子だった。

「こんにちはー」

 僕は彼に近づいて声を掛ける。
 僕より小さい男の子が、縁側にちょこんと立っていた。キラキラしているお着物を着ている子。お出かけをするときのおめかしをしているみたいだった。
 屋敷内では見ない顔。でも僕は知っている顔。
 ……彼が、僕の唯一『年下の肉親』だから覚えていた。

「えっとえっと、もしかして……。鶴瀬、正一(つるせ・しょういち)くん、だよね?」

 名前を呼ぶと、男の子は、はわっとした顔をする。
 まさか自分の名前を覚えているとはという、驚き混じりの嬉しそうな顔で。

「お、おぼえてくれてたんだ……。にいざ……さま」
「新座でいいよ。君こそ、そんなところいないですぐに話しかけてくれれば良かったのに!」
「はわ……。その……にいざ、さま」
「新座って呼び捨てでいいって! 僕達、イトコ同士なんだから普通に話そうよ。イトコじゃなくたって僕は学校のお友達と呼び捨てだよ」

 ちっちゃな男の子は「えっと」や「はわ」ともじもじしながらも、首をコクコクしながら近寄ってくる。
 手を引いて恥ずかしがり屋の男の子を井戸まで引っ張った。圭吾さんと悟司さんにも紹介したかったからだ。

「あのね、『様』って付けていいのはホントーに偉い人だけだよ。僕は、まだ偉くないからいいのー」
「……でも。『まだ』なだけなんだから、そのうち、えらくなる……」
「それでもいいのっ。でで、鶴瀬くんっていつから来てたの? 今日遊びに来たの? だよね、昨日居なかったからねっ」
「新座くーん。犬をカンタンに洗えたから石鹸をー……。って、あれ。なんかヒトが増えてる」

 僕よりちっちゃい手を引っ張って井戸まで連れてくると、既にびしょ濡れになってる圭吾さんが驚いた顔をした。
 この敷地内で見ない顔を見たからビックリしたんだろう。さっきの結界の話じゃないけど、僕ん家は一応知らない人は立ち入っちゃいけない場所だから。

「うん! 鶴瀬くんあのね今ね、犬を洗ってるんだー。あの子だよー、さっき拾ったばっかなの、ちょっと泥んこだったから洗ってあげてるんだよー、圭吾さん達がー!」
「……あ、だから……にいざくん、ちょっとふくにドロついてるんだ。はわ……ふくのなかまでドロだらけだし」
「あ、これはちょっとね……。銀之助さんに隠すために……むぐ…」
「はわ、おきもの……よごしたらキタナイっていわれるんじゃ……? おかあさんやおばさんたちに、おこられない……?」
「もう銀之助さんに怒られてるから全然怖くなんかないよ! むぐ、銀之助さんっていうのは、このお寺の中で、いっちばんおっかない人でー……。あ、でも狭山さんの方が怒ると怖いかな。でもでも、銀之助さんが怒るとごはん抜きになっちゃうしー……あと一本松さんもむすーってしていて怖いよねー」
「新座くん。洗わなくていいし話していてもいいから、石鹸だけこっちにくれないか」
「あ、ごめんなさい悟司さん」

 悟司さん達に軽く怒られちゃったので、すぐに石鹸を手渡す。
 悟司さん達がスポンジみたいな犬と石鹸を仲良くさせる。するとみるみるうちにもっこりした毛を纏った犬が白い泡に覆われていく。
 子犬は突然現れた異様な光景にきゃんきゃん楽しく鳴いている。もくもく雲がいきなり出現したようで、みんなで笑った。

「わわっ、暴れるんじゃない! ……で、ちょっとだけ紹介してもらったけど。新座くん、その子は誰なんだい?」
「えっとえっと、イトコの男の子なんだよ。そうだ、どうせだから自分から自己紹介どーぞー!」
「つるせ、しょういちです。5さいです。おれのおかあさんのいもうとが、にいざさ……くんの、おかあさんです。…………うん、ちゃんといえた」

 きりっと小さな男の子が得意げな顔をする。
 圭吾さんが「五歳なのにしっかりしてんなー」と感心していた。そう思うよ、カスミちゃんよりずっと大人に見えるもん。

「さっき、おばさんと居た子だよね。ああ……新座くんの、お母さんの方の、イトコさんなのか。……どおりで君も、君のお母さんも、あまり寺では見たことなかったと思った」
「はい。ここまでくるのに、くるまでとってもかかりました。このてらにくるのも、3ねんぶりだっておかあさん、いってました」
「三年……。って前に君が来たのって、二歳のときか。それじゃあ、お久しぶりも言えないだろ」
「あ……。ずっとおかあさんが、おばさんのおはなしをするから、にいざくんのはなしは、きいてました。ずっとしゃしんもみせられてましたし。……ちゃんとしつれいのないようにって、かおをおぼえてきました。えっへん」
「顔をって、新座くん達の?」
「はわ……いいえ、みなさんのも。さきほどもおかあさんがうかがいましたけど、おふたりはさとしさんとけいごさんですよね? さやまさまのおこさまで、だいごじゅーさんだいめじんえいになるかたがたですねっ。……はいっ、ちゃんとおぼえてました!」
「……ああ、その通りだとも」

 ――顔を息子に覚えさせているか、それでも尋ねてくるってことは、試したのか。それとも、わざとあの話を言わせるためか? 悪趣味だな――。
 ふう、と悟司さんが溜息をつく。……犬が暴れて取り押さえられないから、とても疲れたのでもあるけれど。

「その家の教育方針なんだから文句言わない方がいいよ、兄貴」
「……まあ、我が家も似たようなものか」
「そうそう! 僕んちと鶴瀬くんちって殆どいっしょなんだってー! ねーっ?」
「はわ……は、はいっ」
「僕はちゃーんと鶴瀬くんのこと、覚えてるよ。お家に来てくれたのは久々だけど、お正月に鶴瀬くんちにご挨拶に行ったから! それにね、それにね……鶴瀬くんのお家って日本全国にお仕事をやっているところでねー!」
「きょうかい、ですっ」
「そうそうー! すっごいキラキラしてかっこいいお家に住んでるんだよね! 十字架とか! オルガンとかあって! かっこいいお家なんだ」
「……はわ……えへ……なんか、うれしいなー……」

 小さな男の子は、本当ににこにこしている。
 圭吾さんが「きょうかい?」とお兄さんである物知りな悟司さんに尋ねると、「『教会』。全国有数の退魔組織の名前だ。光緑様の奥方はそこの創始者一族の次女なんだ」とスラスラと僕のお母さんの話をする。
 鶴瀬くんも「それ、おかあさんのいもうとさまです!」と必死に教えてくれた。恥ずかしがり屋さんだけど、家族のお話ができてとっても嬉しそうだった。

「僕んちと鶴瀬くんちのお母さん達が姉妹なんだよねー。仲良しさんなんだよ!」
「えっ、おかあさんたちって……なか、いいんだ……?」
「だって姉妹だよ? 仲良いよ」
「……あのな、新座くん。家族が仲が良いって言えるのはとても幸福なことで希少なんだよ。鶴瀬くん、よしよし」
「はわわー……」
「むぐ、そうなの?」

 圭吾さんは手を空で乾かした後、鶴瀬くんの頭をよしよし撫でている。
 誰にでも優しい良い人だ。

「……鶴瀬くん、と言ったか。やはり君も、何か修業をしているのか?」
「あ、はいっ、かんのーりき、つよいいえ、なんですっ」
「……感応力が強い家?」
「そうですっ。いろんなオーラにきづきやすいらしくって……いたん、から、ひとをまもるいえとして、鶴瀬家は……おまわりさんをやったりしてます。でもでも、にいざくんちよりは、500ねんはとししただから……」
「僕んちは千歳だもんねー! エッヘン!」
「だからおいつけるよう、ぶじゅつ、ならっています。にいざくんたちのおちからになれるよう、おおきくなったらここでがんばるようにって、おかあさんが……にいざくんのおうちはおおきいからうらやましいって、よくおかあさんがいってて、だからなかよくしないとっていつも……」
「武術とな。武道に秀でたお家なのか?」
「は、はいっ。にいざくんたちにはぜんぜんあしもとにはおよびません、けど、ならいごとでぶじゅつをやっていますっ」
「むぐっ、僕で良かったらなんでも教えてあげるよー! 僕、鶴瀬くんよりお兄さんだもん! だからさ……」

 一番近い親戚の弟である可愛い彼の手を取ろうとしたとき。
 ――チリリ。チリリ、チリリ。
 音がした。

「………………」

 ああ、また聴こえた。今度は、話をしている最中にさえ聞こえるような音だ。
 ……音が、どんどん大きくなっている? いや、音自体は変わらない。でも、耳にはハッキリと聴こえるようになっていた。
 そんな中でも悟司さんと圭吾さんは、鶴瀬くんと普通に話し合っている。泡だらけの子犬を水で流そうとして、泡で遊びだした子犬がまた土にまみれて汚れていくところだった。
 音が大きくなった訳ではないのだから、逆に……僕の耳が良くなってしまったのか。それとも。

「はわ、なんか……きこえてきますね」
「えっ!?」
「ああ、なんか聴こえてるな」
「ええっ! 圭吾さん、聴こえてるんじゃん!」
「いや、俺にも聴こえていたが……」
「えええっ、もうみんな聴こえてるんじゃんー!」
「はわぁ……だれがひいてるんですか?」
「……うーん。いや、俺には検討がつかないかな」
「同じく。そんな趣味がある人がこんな所に居たのかと思っているぐらいだ」
「…………むぐ?」
 
 三人の話していることが判らなくて、改めて耳を澄ました。
 今度は無意識に聴こえてくる鈴の音ではなく、聴こえていない何かに耳を凝らした。
 すると、確かに聴こえてきた。
 ピアノの音が。

 ……ピアノ?
 小学校の音楽室で、先生が弾いてくれるあの音。
 寧ろそこでしか聴かないような音が、どこからか響いていた。……屋敷のどこかから。

 音色が風に乗って聴こえてくる。
 心地良い音色がゆっくりと……ここに居る全員のもとに、鈴の音のように孤立させることなく、穏やかに訪れていた。

「むぐ……。うちに、ピアノなんてあったの?」
「あるぞ。数年前に買われてから、あまり弾く人が居ないピアノがな」
「うん、研究員の人が買ったはいいけどあまり弾く人が居ないって言われてて……。なあ、兄貴。今、こうやってピアノの音色がするってことは、物凄い少数人数の誰かが演奏してるってことだよな?」
「弾く人が完全に居なかったらとっとと捨てられるさ。こうやって生きてるってことは……ピアノも生きていけるんだろう。無駄な物は多いが、本当に必要としなかったら我が家はさっさと切り捨てていく。誰もかれも、そういう性格だからな」
「まあ、言えてるけど」

 二人が話している間も絶え間なく音色が聴こえる。
 ピアノの音は大きいのに、耳に邪魔にはならなかった。
 聴きたくもないのに入って来るようではなく、耳を澄ませばいくらでも心地良く、あたたかい気持ちにしてくれる。そんな、音色だった。

「……鶴瀬くん、聴きに行ってみる?」
「あ、うん。……ううん、やめておきます。もともと、おかあさんをまっているつもりで、ここにいましたから」
「でも、お屋敷の外から出ないよ。少しだけの時間だよ?」
「それでも……そのばしょが、どこかわからないし……。そのばしょにいくっていってないし……おこられないようにしなきゃ、いけないし」

 肩を竦めて小さな男の子は言う。お母さんの言いつけを守る、いい子だった。
 そんなようにも見えたけど、誘われて嬉しそうな顔をしたのに、一瞬で曇らせるところを見てしまって……少しだけ心苦しく思った。
 けど強制するほど、僕には勇気は無い。誰かに叱られるのは僕も嫌なことだと知っている。お仕置きでどんな罰を受けるのか、家ごとに違うことだから。強く言って彼に迷惑かける気にはなれなかった。
 圭吾さんは「志朗くん達が来るのを待っていなきゃいけない。犬を連れてお屋敷に入れない」と断り、同じように悟司さんも「ピアノの音色を聴く分にはここだって十分に聴ける」と断った。
 一人で行ってくるがいい、と大人びた口調で付け加えながら。

「……うん、僕……行ってみるね」

 確かに悟司さんの言う通り、井戸のある所だってピアノを聴くことは出来る。それでも、なんだか近くに行きたくなってしまった。
 僕はピアノの音色が好きだった。……のかもしれない。
 自覚は無かった。初めて今、意識したぐらいだった。ピアノの音色だけが好きだったんじゃないとは思う。何の楽器でもキレイな音色は、心を落ち着けてくれるだと思っているから、気になって……。

 ――チリリ、チリリ。

 そう、今も鳴っているあの音色だって、とても綺麗で涼しい鈴の音じゃないか。
 不思議だとは思うけど、怖いものとは思えないから僕は嫌いじゃなかった。

 ピアノの誘われるようなやわらかい音に混じって、あの鈴の音が聴こえる。まるでそういう曲だというかのように。二つの音が混ざり合っていた。
 でも違う。二つは、まったく違う音だ。
 鈴の音は悲しく、ピアノの音は……切ない。
 どうしてそんな音色なんだろう。どちらも……鳴らしている人の想いが違うからなのか? ……判らない。

 到着した場所は、物置のような場所だった。
 まさかこんな所にピアノがあるなんてと思うぐらい、雑多な物ばかりが置いてある。この家ではあまりピアノの地位が高くないようなことを先程の会話で聞いていた。
 だから『どうでもいい』と見なされるここに隔離されていたのだろう。でも、ここにピアノがある。
 ピアノを弾いている男性がいる。
 物置のような部屋でピアノを弾いている男性は、導かれるようにやってきた観客をものともせず、音色を奏でている。
 年は……大人だ。僕の感覚では、いくつとも言えなかった。お父さんぐらいの年齢にも思えたが、とても若そうにも見えたし、けどなんとなくおじいちゃんにも似たような荘厳さも感じる。
 ……よく判らない。それが彼への感想。
 ああ、判らない。よく判らない人だ。何故ここに居るのかも判らない。ただ、眼を奪われる一番のポイントは……。
 赤かった。



 ――1982年3月2日

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 /5

 暗い森には何かが居そうな夜。光の無くなった夜の境内では、誰かが恨み言を呟きそうなぐらい薄気味悪い。
 だけど、結界内でそんなことは起こりえないとみんなが言っていた。ここはここに住む者だけの城だから、奇妙な影がいるなんてありえない。
 ……ぺろぺろ。

「ん……?」
 
 何か生暖かい感覚がして、僕は目を開けた。

「わ、もしかして……君が鼻を……舐めたの?」

 子犬が、僕の胸の上に乗っていた。
 はっははっはと犬独特の息の切らし方で顔を覗き込んでいる。

「むぐぅ……縁の下に居ろって言ったろうぅ。どっから入って来たのさー。見つかったらおじさん達に怒られちゃうよー」

 と言いつつも、僕は子犬を布団の中に押し込める。幸い、夜だからかきゃんきゃん激しく動き回ることはしない。隣で眠っている志朗お兄ちゃんも気付かず寝息を立てている。
 胸の上にやって来てくれた、洗いたての、ちっちゃなわんこ。もこもこしていて、気持ち良かった。そのままもう一度寝ようと眼を閉じた。
 今度は、鼻を摘まれた。

「………ぴぷはっ!?」

 ぜいぜいと息を切らす。
 子犬がそんな器用な睡眠妨害をしてくるなんて。
 ……じゃなかった。子犬では、なかった。

『起きろ――頼みがある、新座』

 二度目の、夜遅いおはよう。
 相手は、トラ柄模様の猫だった。

 ――夜中の広い境内。
 廊下をぎしぎしと歩く音。目を擦りながらも、猫の後を追う。

 三度目の布団に篭ろうとしたが止められた。
 寝かせてやるために「手伝え」と言うので、子犬を連れて(居ないところで兄に目覚められると困るので)僕は後を追う。
 猫の後ろを、ついて行く。
 夢でもなんでも、眠る方を優先するために動く。それに、猫が喋ってお願いをしてくる夢なんて……言うことを聞かなかったら罰が当たりそうな気がした。凛々しい立ち振る舞いの、品のある老猫にぺちぺち追いかける。

「……むぐー……」

 猫は、何か教えたいことがあるようだった。それが今夜、一番大切なコトだと思った。

「ねえ、トラ猫さん……どうしたの? 何があったの?」
『霊が出た。一緒に祓ってくれ』
「……お父さんじゃ、だめなの?」
『…………だめだ』
「燈雅お兄ちゃんでも、だめなの?」
『……もっとだめだな』
「僕じゃないと、だめなの?」
『……そうだ。お前じゃないと、駄目なんだ』
「……わかった」
 
 答えは簡潔なものだ。なのにその時点で虎柄模様の猫は、微笑を浮かべていた。
 間違って我が家に入ろうとしている者。やはりそれは、幽霊だった。
 暗くなった夜だからよく視える。その幽霊は、ぶくぶくと醜く膨れ上がり、目は空洞となり、唸り声に近い声を張り上げていた。結界に入れないからか、うろうろと歩き回り、うぉうぉと声を上げる。
 それを視ていた猫は溜息を吐いた。
 醜い霊は、ぶくぶくとまだ肥え太っている。頭はもう首と区別がつかず、醜い醜い肉の塊のようだった。僕は顔を顰める。

「……これ、何?」
『子供の霊だ』
「こんなに酷い……」
『この子供の霊は鈴を持っていた。それは幼き頃、母親から貰ったらしい。しかし昔、祭りにて親とはぐれ、彼女はここで寒い一夜を過ごし母に会えぬままなくなった。彼女は母がここに来てくれることを待ちわびて、そこで鈴を持って佇んでいた。それまでは無害だった。だが、最近……その鈴をこちらの結界側に落としてしまったらしい。彼女は『怨霊』と見なされ、結界内には入れなかった。彼女はその鈴に執着している。だからこそあんな醜い姿になってしまったのだ。哀れ、哀れな人の子よ』

 ――ちりり、ちりり。
 子供にとっては遥か昔。彼にとっては少し前の音が聞こえるんだろう。

『彼女の執着の鈴を探し、彼女を成仏させてやりたい。手伝え』

 彼が鼻先で地面を探り始めると、僕も草を掻き分け探し出した。
 子犬も僕から離れ、きょろきょろ辺りを見渡し始める。
 まだ寒空だが、草むらを掻き分け鈴を探す。
 石段の美景のために周辺の草むらも、単なる林に見えて綺麗に整っていた。だから、怖いものはない。

 ――チリリ、チリリ。
 鳴いている音がする。
 それは母の愛か。彼女の執着か。それともただの風の所為か。

 ――チリチリチリ。
 鳴く音。まだ響くその音。

「……見付からない……」
 
 冷たく風が吹く。3月といっても、昨日まで冬の2月だったんだ。
 でも這いながらも辺りを探した。月明かりが綺麗だから唯一の救いだった。
 寒い寒い空の下でまだ探す。……でも、不快な気分にはならなかった。
 美しい、鈴の音のおかげだ。音は聞こえるのに、姿は見えなかった。大切なものなのに、まだ……。
 くぅーんと犬が切なそうな声をする。

「ん? 寒くないかって? 大丈夫だよ。お前も探してくれてありがとね」
 
 子犬もその声に応えるかのように周りをきょろきょろ見ている。
 今まで恩返しなのか、遊んでくれたことのお礼か、本気になって子犬も探してくれるようだった。

『彼女が壊れる前に……見つけ出したい。なんとしても』
「…………うん」

 ――チリチリチリ。
 ……まだ、音がする。

 ――チリチリチリチリ。
 ――チリチリチリ。
 ――チリリ、チリリ。

 ――きゃいんっ!

「え…………。あ…………あった!」

 嬉しくて声を張り上げた。子犬の口には金色の鈴がある。赤い糸の付いた鈴だ。
 それを受け取ると、彼女の方に放り投げた。
 彼女の太ったその腕は、鈴を確かに包みこむ。その肉は、ぶちぶちと飛び始めた。

「わ……わわっ!」
『…………』

 間に合わなかったのか。
 一瞬考えてしまう…………が。

「むぐっ……?」
 
 肉の中から、可愛らしい少女の姿が出てきた。
 ――おかっぱの黒髪が顔を出す。優しそうな彼女は、にっこりと微笑む。
 するとふわりと空へ身体が浮かび、彼女は飛んでいく……この満点の月と星の元へ。

「…………成仏、したの?」
『ああ、したんだ』

 彼女は鈴を手にして笑っていた。
 とても幸せそうに。……空へと、飛んでいく。

「成仏、したんだ……」

 嬉しくて笑うと、鼻の頭がかゆくなって小さくくしゃみをしてしまった。
 子犬がすりすりと身を寄せてくる。

「ありがとう、探してくれてね」

 子犬も僕と同じく、嬉しそうな表情を見せた。
 もうそろそろ夜が明けそうだった。うっすら奥の方に赤い光が見える。太陽が生まれようとしていた。

『お前には痛みが判るか』
「……え?」
『痛みが判る人間になってくれたのならば、嬉しい。こうやって人というのは滅ぼさずとも、無理矢理に成仏させずとも、満足すれば上がっていってくれるものだ。……まあ、それを言ってしまうと川越の一族は廃れそうだがな』

 猫は笑う。子犬と僕と同じように、嬉しそうに笑う。
 老猫は、まるで人間みたいに表情豊かに笑う。
 ……僕は不思議な気分になった。

『この世とはかくも美しい。……そう思ってほしい。先を行くお前に、このことを伝えたかった。忘れるなよ――』

 猫はそう言って消える。
 ――――残ったのは、すり寄って来る子犬と僕だけだった――。



 ――1982年3月2日

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 /6

「……おお」

 志朗お兄ちゃんが感心した声を上げる。
 縁の下に刺身に使われるような大皿が捨てられているのを見て驚いたっぽかった。

 一人前の食事としては絶対使われないような巨大な食器に、こんもり食材が積み重なれているのは誰もが異様と思う。
 しかもその中身が、とてもレパートリーがあり……これまた異様で。
 ぶっちゃけ言うと、料理に使われなかった食材の成れの果てだから、「うわぁ」と驚いてしまうのも無理はない。
 なにより、一点に毛玉があるのがまた。……しっぽがふりふり、食事にむしゃぶり付いているんだから、ビックリするさ。

「なんだと思ったら……このデカ皿、犬用に降格されたんだな。よしよし、お前専用の皿が出来て良かったなぁ」
「むぐー、良かったねー! 毎日こんだけいっぱい食べればすぐに大きくなっちゃうよー!」

 僕達が傍から笑い合っているというのに、子犬はただひたすらに皿の中に頭を突っ込んでいた。
 しっぽが他の食材といっしょに盛られているようで、つまりはそれだけご飯が大量に盛られていて、カオスな光景になっていた。

「霞があんだけ残飯処理してても、こんだけメシが余ってたんだよな……。それを解消する役になったのか、犬っころ。お前、すっごい役に立つ犬になるぞ? もっと銀之助さんに使われるよう、修行しなきゃかもな」
「えー。この子、元から仕事の出来る子だから心配いらないよー」

 志朗お兄ちゃんは子犬をよしよしと撫でようとして……しっぽがどんどん皿の中に入って行くので手を止めた。
 皿に盛られた山のような残飯に、かまくらを作るかのように子犬は頭を突っ込んでいく。笑わずにはいられない状況だった。

「そういやお兄ちゃん。このお寺に住んでいる猫のことって知ってる?」
「猫ならいっぱい居るだろ」
「む、むぐ。猫はいっぱいよく見かけるけど……。僕が言いたいのは、虎柄模様の猫のこと。その猫だけ、他の子と違うオーラを感じるっていうか……。おじいちゃん猫っぽいから放つものが違うような猫。……いるよね?」
「ああ、『トラ猫さま』ってやつか」
「そんな名前があるの?」
「霞が言ってた。あいつのオリジナルかもしれんが、それで通じる人が多いからここでは共通語になってるのかもな。松山さんもその名前で呼んでたぐらいだから、実は長い歴史あるんだろ」

 二人でしゃがんで子犬の食事風景を見ながら、猫のことを話す。
 昨晩のことはお兄ちゃんには言わず、ただ情報を引き出すことにした。夜にお外に出たって聞いたら、お兄ちゃんが怒り始めるかもしれないし。……ゲンコツを貰っちゃうかもしれないし。

「トラ猫サマは、昔から……ずっとこの寺に住んでいる猫らしい。ここに居座る猫の長老みたいなもんなんだってさ。犬が住みつくのはこいつが初めてだけど、猫は頻繁に迷い込んでくるからな」
「長老かぁ……。長老猫なら、偉そうに何か命令してきても仕方ないね」
「ん? ああ、そうだな。……年をくったから偉いっていう考えも、違うと思うぞ」

 大人になれば、必然的に下を従えていくもの。そうとは限らないけど、大半はそう。
 下を先導してやることが勤め。それが先に生まれてきた人の役割。それぞれ上に優しくしてもらったんだから、下に同じようにしてあげないとという奉仕の考え。……大人と子供の、当然の役目。
 そうあるべきだと思ったけど、志朗お兄ちゃんはちょっと違う考えだったらしい。なんだか複雑な話になりそうだったから、「ふうん」の一言でその流れを終わらせた。めんどくさいのは嫌だったからだ。

『この世とはかくも美しい。そう思ってほしい。先を行くお前に』

 ――昨晩のトラ猫さまの御言葉を思い出す。
 夢の台詞かもしれないけど、思い出そうとした。

「お兄ちゃんは僕に色んなことをしてくれるよね。それはお兄ちゃんが僕のお兄ちゃんだからでしょ」
「まあな」
「僕も大きくなったら小さい子を面倒みるためにいっぱい何かをしてあげるよ。いつかは自分も誰かを引っ張ってあげる人になってあげるんだー」

 今から心構えをしておかなきゃいけないな。
 猫の訓えを頭に浮かべつつ、子犬のかまくらを見守りつつ。
 異変があるまで僕は笑って考え耽っていた――。



 ――1982年3月2日

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 /7

 母親の言いつけを守らず離れたのは、このときが初めてだったかもしれない。

 ――これ、何をしているのですか!
 母親が叫び声を上げる。叱られる。めっちゃくちゃに叱られる。三時間ぐらい正座をさせられて、外に追い出されて……。そんな子供なりの地獄が思い浮かぶ。
 お母さんに怒られるのは怖い。怖い、怖い、怖かった。
 けど、その場へ駆け出さなきゃいけないと思った。

「っ……! ……っ、こ。……ここ……?」

 ある倉庫の前で、俺は立ち止まった。
 後ろから怖いお母さんが駆けつけてくる。きっと耳たぶを持ち上げられて、大声を上げられる。ああ、自分は悪い子だからきっと、きっと、きっと……。
 ビクビクしながらも、その倉庫の前に立った。肩を震わせながらも。……自分の体に伝わる、代々授かった刻印を抑えながら。自身の力の源を、信じながら。

「どうした、鶴瀬くん」
「……っ!!?」

 突然声を掛けられ、俺はその場で飛び跳ねた。
 ただでさえ母親に怒られそうで、ビクビクして涙が出そうだったのに。いきなり男の人の声を掛けられて、震えは一段と大きくなる。

「こ、これは……光緑様!? 当主様、お目覚めになっていらっしゃいましたか……!?」
「……。ああ、貴女は……邑妃(ゆうひ)の姉君ではないですか。昨晩は挨拶もせず、失礼」
「い、いえいえ、こちらこそ当主様のご都合を考えず勝手に申し訳御座いません……! わたくしの妹が粗相を為さってなければ……。ほれ、正一! 早く当主様にご挨拶なさい! 挨拶が出来ない子に育てた覚えはありませんよッ!」

 お母さんも、異変に気付いているみたいに……怯えている。
 けど仏田家の当主様の前だからか、平然を装って俺を教育する女の姿を演じていた。
 …………。

「どうした、鶴瀬くん」

 母の平手打ちが、いつもより痛くない。
 やっぱり、あれに気付いてそっちにばかり気がいって……力が入っていないんだ。
 演技はまだ続けているけれど、時間の問題だ。
 …………。

「鶴瀬くん。君は今、ここまで走って来ていたね。お母さんの申しつけを破ったらいけないぞ。君の為を想って、お母さんは君に厳しく言ってくれているんだ。その気持ちを無碍にしてはいけない」
「……。にいざ、くん、の……おとうさん……?」
「そうだよ。私は、新座の父だ」
「……にいざ、くん、の……おとうさん……。おとうさん……とうしゅ、さま。いちばん、ちからの……ある……ひと…………?」
「これっ、新座『様』でしょうっ!? まったくこの子は……本当に申し訳ございません! いつもみたいにしゃんとしなさいっ……!」

 ピシピシ。教育熱心な女が、子である俺の頬をはたく。
 光緑様はそれを見ている。母親が厳しく子供を制す姿を、じっと見る。
 ――後から聞いた話。普段、光緑様自身は『教育』というものを全くしていなかったそうだ。全て周囲の者達に自分の息子達を任せていたという。
 だから……光緑様は教育とはこういうものだと思い、何度も何度も叩かれ、頬が真っ赤になる子供を見ていた。何も言わず、それを見続けていた。
 このときはたかれていた俺も、はたかれながらも、ある場所を見る。何も言わず、震えながら……。

「何が言いたいんだね、鶴瀬くん」
「…………。ああ、みつのり、さま…………」

 目の前の倉庫を見ていた。
 どうみてもおかしなものがいるそこを。

「――――わからないのですか、とうしゅさま。このさきでおきていることが」
「……っ!?」

 当主様は俺の言葉にハッとする。
 自らの手で倉庫の扉に触れ、思い切り引いた。

 ――――そして彼は見る。
 母は叫ぶ。
 俺は立ったままだった。

「………………」

 俺は――中の惨殺死体と血塗れの男を一度見て、吐き気を抑えながらも、自分の刻印を触り続けた。
 きっと異端が現れたんだろう。そして力無き僧が操られ、破壊を求めるがまま体を乗っ取られて周囲の者を殺しまくったんだ。
 俺の感応力はそうであると体の奥から過去を投げ掛けてきた。

 当主様はすぐさま虚空から武器の――大きな槍を取り出す。
 それから先は早かった。怨霊に乗り移られた男が、真っ赤な目で睨みつけてくるよりも先に……神業のような素早さで当主様は男の首を落とす。
 首がポーンと跳ねていった。

 少しだけ意識が遠くなる。
 怯えて、泣いて、震えて、たくさんのモノが身体の中に、一度に押し寄せたからだ。

 今頃……自分よりもっと強い感応力を持った当主の息子、新座くんは酷いビジョンを受けているかもしれない。
 風に乗って酷い現実が彼に届いてしまっていただろうから。それが少しだけ心配になった。
 心優しい、自分のイトコのことが、もっと苦しんでいるのではないかと思うと……ちょっと心が苦しくなっていた。

 興味本位で、一度見た『惨劇』を見る。
 なんでこんなことになったんだって。
 だって……この仏田寺に異端が入り込めるとは思えない。
 人を乗っ取って殺してしまうほど恐ろしい怨霊が、あの長い石段の結界を破ってこられるものか?
 絶対に大丈夫だって思えていたのに。
 それに、どうして当主様は、いや当主様だけでなくこの一族の人達は……部外者の俺が気付ける異変を今の今まで気付かなかったんだ?
 焦った様子で当主様が、駆けつけた僧侶達に的確な指示を飛ばしている姿を見ると、意図的に無視していたとは思えない。
 どうして。
 この惨劇は、一体……。

 と、唐突に。
 世界が白くなっていくのを感じた。

 ――あれ、もしかして……。
 ――俺、あまりのショッキングな光景を見て、気絶しちゃう……とか……?

「……はわぁ……」

 そう思っている頃には、全部が真っ白く、とけていた。
 ここがいかに異常であっても、ここに住む子供達は……たとえ大人になっても、気付いていないようだった。




END

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