■ 010 / 「愛着」

カードワース・シナリオ名『夏風邪は馬鹿が引く』/制作者:月香るな様
元はカードワースのリプレイ小説です。著作権はカードワース本体はGroupASK様、シナリオはその作者さんにあります。あくまで参考に、元にしたというものなので、シナリオ原文のままのところなどもあります。作者様方の著作権を侵害するような意図はありません。




 ――2005年9月19日

 【     /     /     / Fourth /     】




 /1

 9月19日、祝日。17日の土曜日から三連休の最終日。全寮制の高校に転校したばかりの俺としては、気力を回復できるとても貴重な休日が消えていく。
 最終日の今日、俺は実家の『仕事』を手伝わされていた。
 いや、手伝わされる筈だった。
 夏休みが終わってから三週間が経つ。だけどまだまだ真夏日が多い残暑の9月。クーラーや扇風機が無きゃ寝られないぐらい暑い日が続いていた。

「ウマ、平気?」

 ファーストフード店の席にだらんと座っていると、寄居がぼんやりとした声で話し掛けてくる。
 十日ぶりの寄居だ。学校ではなく、今日の仕事先近くの駅前。そこで待ち合わせをしていた。

「おい、ウマ……マジで声が出なくなってきちゃった?」

 コクリと頷いて意思表示をする。
 昨晩から今朝にかけての間に、風邪を引いてしまったらしい。
 連休が始まる頃から筋肉痛のような体の節々が痛む感覚はあった。でも熱は出ていないし、鼻水も垂れていなかった。だが咳ばかりしていた。熱が無いし頭も痛くならなかったから平気だと思っていた……のに、今朝から声が出なくなっていた。
 そうして19日正午過ぎ、ついに声は出なくなる。季節の変わり目に転校やらでばたばたしていたせいか。案の定と言えばそうだが。

『でも、咳以外は不調じゃないんだよ』

 携帯電話のメール画面で寄居に訴える。ぽちぽち打つ時間が掛かるぐらいで、コミュニケーションに影響は無かった。

「そっか。……さっすがに風邪っぴきに『仕事』はやらせられないだろーねー」

 寄居が「どうしたもんかな」と、のほほん言う。
 別に頭も痛くないし平気だと言おうとする。でも声が出ない。やっぱり駄目だ。
 自分は大丈夫なつもりでも、命を掛けての『仕事』をコミュニケーションを取らずにできるか? 無理だ。助け合いのために今日は三人で頑張るのに、助けてくれも言えないなんてやっていけるものではない。
 仕方なく栄養が比較的ありそうな野菜たっぷりのハンバーガーと、喉に良さそうなお茶を口にした。喉にお茶がザラつく。美味いの他に、心地良かった。

「福広さんが来てからちゃんと話そう。それまでゆっくりご飯でもお食べ」

 携帯電話を手にして『すまん』と打とうとした。でもたった三文字、口にすれば一秒も掛からず済む意志表現が面倒で、結局首を頷くだけで済ませてしまった。
 これは面倒臭い。面倒臭すぎる。こんなこといちいちやってられない。これから複雑な『異端退治という仕事』をしなきゃいけないのにやっていけるのか……無理だ。軽く絶望してしまった。

 今日の『仕事』は、とある街で生じた化物を倒して来いというものだ。
 俺のような学生がメンバーに居るのに三連休の最終日に予定されていたから、そんな難しくないし大きな任務でも無いんだろう。
 詳しい『仕事』の話が載せられているメールの本文を見る。参加メンバーの欄には、『福広、緋馬、寄居』と三人分の名前があった。
 俺と寄居は先に集合している。そしてこのファーストフード店で福広さんと合流する予定だ。一日で済むと判断された簡単な『仕事』の内容だけど、一人減って二人で済むほど簡単な異端退治なのかは判らない。そこら辺は実家の寺に住み込みで働いている福広さんの方が俺達より話を聞いているだろう。この中でも一番年上でもある訳だし、彼に全て判断を委ねることにする。
 先に席に着いていた俺はもぐもぐとレタスの多いハンバーガーを食べていた。遅れて寄居が、この店で一番大きいサイズのハンバーガーとLサイズのポテトを持ってくる。トレイにはみ出しそうな量だった。
 ――さっすが前に出て戦うだけあるね。そんなに食えんの?
 言おうとして、声が出ない。メール画面で伝えようとするが、それほど重要な事じゃないしいいや。

「…………」
「…………」

 いつもなら出来る筈の会話が減っていく。それどころか雑談が「必要無い」と見なされ省略されていくから、ちっとも会話にならない。
 寄居は特別おしゃべりな人間じゃなかったから、体調の悪い俺に喋らせようともしない。
 だから、テーブルは無言だった。ただただもくもくと大きなハンバーガーを食べる寄居を見ているしかなかった。

「…………その、ウマ。あさかは最近……」
「おっはぁー! ウマ、ヨリーくーん! お兄さんの参上だよぉー」

 どうしたもんかなと考えていると、案外早く福広さんが合流した。
 既に手にはトレイ(コーヒーと新発売のバーガーとデザートメニューだった)を持っていて、もう食事をする気満々で登場する。寄居はばぐっと大口で頬張ってから「おはようございます」と頭を下げた。俺は、頷くしか出来なかった。

「んんぅ? 今日のウマはクールでアンニュイキャラだけじゃなく無口でミステリアス要素も入れるつもりなのぉ? 特化するって良いことだよねぇ」

 意味の判らないことを福広さんは言う。
 言いながら俺の隣、寄居の向かいにどかっと腰を下ろした。

「えっと、福広さん。ウマは今ですね、喋れなくなってます」
「ふぇ? 魔法で新しい足でも貰ったぁ?」

 何だそれ。……って、ああ、『人魚姫』ネタか。パッと頭に浮かぶようなネタじゃないな。

「風邪だそうです。朝からガラガラ声だったんだけど、今じゃすっかり声が出なくって」
「マジでぇ? ……どうすんのぉ、今日ぉ?」
「それを年長者の福広さんに判断してもらおうと思って」

 コクリと頷く。アンタの判断に全て任せますと伝えるために。

「ふぅん。……じゃぁ、安静にしていてくれよぉ。俺達がちょっくら下水道に突入してネズミの化けモン倒してくるからぁ。この店で三時間ばっかし待っていてくれりゃいいって」

 想像していたよりも優しい言葉を聞いて、安心した。

「俺達に感染ったら困るから早く治してもらわないとぉ」

 ……いや、一瞬でも期待をかけたのが間違いだったか。いやいや、福広さんは最初からこういう人だったか。
 俺は「宜しくお願いします」の意味を込めた頷きを何度もこくこくとしてみる。……首を動かすたびに眩暈がした。これは、本格的に風邪だ。

「いいっていいって大丈夫だってぇ。ヨリーくんが居るから問題なぁい!」
「……え。俺が居るから大丈夫なんすか?」
「優秀なヨリーくんの噂は本家でかねがねお聞きしておりますからねぇ。お兄さんは後ろで隠れてるよぉ。ヨリーくん一人で頑張ってくれたまえぇ」
「ええっ……三人作業を一人でやるのはちょっとなぁ……。まあ、良かったなウマ。ちゃんと土産も持って来るから待っててくれ」

 これからお前らが行くのって下水道だろ。そこの土産って何だよ。きったねぇな。
 茶化そうとしたのに声が出ないので無言。メールを打とうか……いいや、こんな冗談をわざわざ打つほど元気でもない。ただただ俺は苦い顔をしてお茶を啜るしかなかった。ずずっ。
 自己表現ってこんなに難しいもんだったんだな。

 店内から空を見てみた。賑やかな様子を外からでも見られるように造られているこの店は、当然中からも外が見やすい。今日は憎たらしいほどによく晴れていた。
 今日は三連休の最終日。絶好のお出掛け日和とも言えるのに、外を出歩く気になれない。
 そもそも俺達は……いや、寄居と福広さんの二人は、約束されたマンホールから下水道に潜って行かなければならないのだから皮肉な快晴だ。
 『仕事』メールの内容は、下水道に異端が住みついて上の世界の人間達に被害を出しているという。その異端を狩るのが今日の本題だ。住みついた異端は資料によると鼠っぽい形をしているらしい。下水道に住まう鼠の化物退治。一日で、二人がやれば済む程度のものだと思いたい。

「しっかし、まだ夏なのに風邪なんてねぇ。『夏風邪は馬鹿が引く』っていう言葉があるけど。ウマ、馬鹿認定されちゃうねぇ」

 福広さんが悪気無く笑う。「あっそ」と曖昧に笑うだけにした。
 ……いくらお茶を飲んでも喉が渇く。きもちわるい。いっそドリンクバーのあるレストランで二人が終わるのを待っていようかと思うぐらい、喉が水分を欲していた。
 喉以外の調子は悪くないつもりだったけど、やっぱり今、生きるのがとても億劫だ。
 青空も綺麗だと思っても清々しさが伝わらなかった。

「福広さん。そういう慣用句はありますけど、ちょっと使い方が違いますよ」

 寄居がポテトを一口に本ずつ入れながら、口を挟む。
 雑談に参加出来ず、二人の言葉を目で追うしか出来なかった。

「使い方ぁ?」
「『夏風邪は馬鹿が引く』っていうのは、『馬鹿は風邪を引かない』があっての言葉です。『馬鹿は風邪を引かない』は、愚鈍な者は風邪を引いたことに気が付かないって意味です。馬鹿はそれだけ鈍感であるということを差す言葉です。それに続いて、馬鹿は冬に風邪を引いて夏に気が付くっていう……鈍さを表わした表現なんです」
「んぅ? 夏風邪を引くような奴は馬鹿っていうそのままの意味じゃないんだねぇ」

 そんな酷い慣用句あってたまるか。冗談好きな日本人ならその程度のことわざとかあるかもしれないけど。

「まぁ、そんなこたぁおいといてぇ。風邪っぴきのウマは休んでいればいい……と思ってるけど、ホントにヨリーくんだけで平気かねぇ?」
「……ホントに俺だけに『仕事』をやらせるつもりですか?」
「だってぇ。もう一人が俺だよぉ? すっげえ強い助っ人とかならともかく、俺だよぉ? 俺って弱っちいよぉ。多分三人の中で一番弱いよぉ」

 福広さんは自分で自分を指差しながら、にまにました笑みを浮かべている。申し訳無さは感じなかったが、謙遜で言っている冗談にも見えなかった。
 一番の年上が自分のことを「弱い弱い」と連呼している。……事実、俺が知る限りでも福広さんは優秀な能力者という部類ではない。でもそれは『優秀な』に限った話であって、退治しろと命令されたものは退治するし、狩ってこいと命じられたら確実に狩ってくる、中の中以上の実力は持っている筈だ。
 そういやこの人は子供の頃からろくな修行をしていた訳でもないって言われているし。それでいて成果を上げているんだから凄い人だと思うんだが。

「福広さんって、駄目なんすか」

 そんなバッググラウンドを知らない寄居は、「自分は弱い」を連呼する福広に対して、不審の目を持ち始めるようになった。
 寄居だってもちろん年配者の謙遜と冗談だって判っているが。

「あぁ。だって二年か三年前に修行をし始めてぇ、ここ一年でやっと『仕事』が任せられ始めたぐらいだからぁ。この年でそれはダメダメでしょぉ?」

 へらへら笑いながらコーヒーを飲んでいる福広さんは、本当に『いつも通り』だ。
 そんな彼をいつも見ているから何とも思わない。けど、寄居は「本当に今日は自分一人で頑張らなきゃいけないのか」と煩わしそうな顔をする。
 いくら淡白な寄居だって自分の命は惜しい。福広さんは笑わせるつもりでそれを言ったようだが、寄居の余計な心配が増えるだけの逆効果だったようだ。

「その年で修行を始めて『仕事』を任せられるようになるって、大変だったでしょ」

 寄居はポテトを大量にはむはむしながら、十歳近く年上の彼に尋ねていく。

「まぁねぇ。こんなボケた顔してる俺だけどぉ、血ヘド吐いて頑張ってたんだよぉ〜」
「ふうん」
「でもヨリーくんの方が頑張ってるかなぁ? だって俺はそれなりに格好がつく程度でやってるだけだしぃ。不純な動機だしぃ」
「……不純な動機?」

 寄居が「何すか」と問う。
 一方俺は、店外の青空を見ていた。光が燦々と差し込んでくる。どっかに行ってしまいたくなるような天気だった。風邪と仕事が憎い。

「トキリンにモテたくってねぇ」

 にやぁと福広さんが笑いながらコーヒーを啜った。寄居は、俺の予想通り怪訝そうな顔をする。

「トキ……って。本家の、ときわ様のこと……ですか」
「そぅそぅトキリン。彼ね、弱い男は嫌いみたいなのよぉ。だから好かれるためには強くなるしかないじゃん? 仕事がデキる人間が好きっていうならやらなきゃねぇ!」

 相手に合わせてやる甲斐甲斐しい男でしょ、俺?
 福広さんはそのような言葉を変えて三回も四回も語っていく。色恋沙汰だったが、決して語る顔が赤くなったりはしなかった。
 他人事のように、「その方がいいっしょ」と普段変わらぬテンションで話している。

「うちの『仕事』って……命を投げ出す危険性があるもんですよね。死ぬ可能性があるのに、それを……人に好かれたいがためだけにやるんですか?」

 寄居が、ちょっと真面目度がアップした声で呟く。
 マイペースな口調は崩れない。でも、次の言葉は「信じられない」と続きそうな調子だった。

「へへぇ。それってカッコイイっしょぉ?」

 どんなに寄居が真剣に問い掛けても、福広さんは柔らかくスライムみたいな笑い方をするだけ。
 その心掛けは、客観的に見るととても凛々しくカッコイイものに見えた。……最初は俺もそう思った。聞いた寄居も思ったことだろう。

「それほど……命を投げ出しても好かれたいぐらい、いい人なんですか。ときわ様って」

 当然そんなことを訊きたくなる。
 俺も一年前、福広さんが一端に裏稼業で働き始めた頃に同じことを尋ねた。
 一年前……ふわふわしてて不真面目代表ぽかった現代風の若者が、怪我を負う覚悟で能力を伸ばし始めたのだから……俺は心配し、「何があったんだ」と尋ね、「それほどなのか」と再度問い質した。
 福広さんはハンバーガーを頬張り、笑う。そして、一年前とさほど変わらぬ返答を繰り出した。

「それほどじゃないんだけどねぇ」

 …………。
 返答が変化してないことに「ああ、やっぱり」と心の中で呟き、動きを止めた寄居を注視することにした。
 命を懸けてでも好きになってほしい人がいる、だから頑張っている、えへらえへら笑っていても真面目で情に熱い青年なんだ……そこまで思わせておいて、その返答。
 寄居は一年前の俺と全く同じ動きをしている。

「別に俺、トキリンのこと好きかっていったら微妙なんだよねぇ。でも嫌いじゃないよぉ。面白いもん」
「……それなのに?」
「恋人にするためにはまず好感度上げなきゃじゃん? 好感度上げる行動っていったらぁ、好かれる行動をしなきゃっしょ? トキリンの好感度を上げるためにはぁ、ちょっとばっかり真面目でツヨーイ男にならないといけないんだよねぇ」
「…………。ん……?」

 寄居が怪訝で、不審で、分からなくて困っている顔をしている。
 隣で注釈を入れようと思ったが、あまりに複雑で面倒な説明をメールでいちいち打つのはだるくて、お茶を飲むしかなかった。

「……えっと。好きじゃないのに、恋人になりたいんですか……?」
「その通りぃ」
「どうして?」
「そういうゲームをしているからさぁ」

 後から来たというのに、福広さんの方が先に食べ終わった。寄居はビッグサイズだったから逆転されても仕方ない話だが。

「あるべっぴんさんとねぇ、ゲームを約束したのぉ。……トキリンがあまりに可哀想で俺があんまりにもやる事ないから、『今年の12月31日までにトキリンを恋人にできるか!?』っていうゲームをしよって」
「…………。そんなことして、何の得があるんですか?」
「えぇ、得ばっかじゃないぃ? 一人身で可哀想なトキリンに心休まる恋人ができてぇ、暇でしょーもなかった俺が充実に過ごしているぅ。いつまで経ってもクリアー出来なかったらつまんなくなるからぁ、ゲームを提案してくれた人が年末までって制限付けてくれたのぁ。正解だねぇ。俄然ヤル気が出たよぉ」
「…………」
「時間制限があるから次から次へとデートに誘う気になるしぃ、時間内にクリアーするために自分磨きもいっぱいするしぃ、毎日輝いて頑張ってるんだよぉ。得ばっかに思えないぃ?」

 ……俺は一年前に、この話を二人きりの場所で聞いた。
 福広さんは、だらんと笑う気だるそうな人だ。閉鎖空間の筈の寺の中ではとても目立った人間だった。髪は明るい色に染め、洋服を着て、特別何か研究に燃えているという訳じゃない、『思いっきり表向きの世界の人』だった。
 でもそれは、寺の中では普通じゃない人ではあったけど、一般的な目を向けるととても普通の人だった。普通過ぎるとも言えた。
 彼は決められたことをして褒められ、失敗もし、休憩して、お酒や買い物で楽しんで、寝る毎日を送っていた。たったそれだけの人だったと自分でも語っていた。
 『寺では異端扱い』だったけど、それ以外では普通。ちゃんと仕事をして健康的に趣味を楽しんでいるんだから、ずっと真面目な人間。
 そんな彼が今や毎日毎日輝いて物事に取り組んでいる。一つのことに取り組んでいる。あちこち自由奔放だったのが、たった一つに夢中になって。……どう考えても、良い方向に進んでいるように見える。これは喜ばしい変化なんだと思えた。
 相変わらずだらんと笑う人なのは変わっていないけど。

「年末までにときわ様を……その、攻略出来なかったら?」

 寄居は、ゲームの話を続けていく。

「その場合はゲームオーバー。ゲームを終わらせるだけさぁ。トキリンは本当に俺と付き合いたくなかったってことで諦めるよぉ。ゲームはポイするぅ」
「ポイ……。年末までに、ときわ様を……攻略出来た場合は?」
「それもゲームオーバー。こっちは恋人ゲットしたエンディングが見られてゲームを終わらせるだけぇ」
「……」
「単純明快じゃないぃ?」
「……好きでもない人を恋人にしてゲームを終えたら、『好きでもない恋人を所持した状態でニューゲーム』なんじゃないんですか?」

 それでもいいんですか? と寄居は言う。
 いや……それでいいんですか、と言っているようにも思えた。
 俺は何も口出ししない。というか喉のせいで出来ない。……たとえ口が効けたとしても、俺が一年間福広さんに抱いているモヤモヤを寄居が代弁してくれている、この情景に何か言うことはしなかった。

「……あはぁ。恋人が心の隙間を埋めてくれるモノだといいねぇ」

 福広さんは、寄居の質問に答えてないような言葉を述べていく。思いっきり独り言のように。

「恋人を手に入れた後のエンディングは良いことしか起きないぃ。そう思いたいねぇ」
「……どうなんでしょうか」
「ふっふふぅ。ヨリーくん、良い問題提起だねぇ! そうだ。君、コンピューターゲームの『恋愛ジャンルゲー』ってやったことある? ギャルゲとかいうの」
「いえ」
「読書家なら一度はやってみるといいよぉ。ノベルゲームっていうのもあるからじっくり楽しめるシステムもあるからねぇ。……恋愛ゲーはね、大抵、付き合ってHしたら終わりなのぉ。それでエンディング、終わりなんだぁ」
「はあ」
「それでおしまいなのぉ。付き合うまでを楽しむゲームなのぉ。付き合ったら終わりなのぉ。その先は好き勝手想像で楽しむモン。ゲームプレイヤーはぁ、どうにかして主人公を対象の好みに合わせて作り替えて攻略するのぉ。相手が映画が好きだったら自分も映画を見て映画館デートに誘うぅ。DVDを借りて一緒に見るような状況を作るぅ。一緒に居れば好感度が上がるぅ。上がれば恋人になるしHができるぅ。それでおしまいぃ。おしまいになるまでに楽しめたらこのゲームはOKなのぉ」
「……ほう」
「俺が今やってるのはそれぇ。コンピューターじゃなくてリアルでそれをやってるのぉ。好きとかは問題ないんだぁ。ただ俺はトキリンと恋人になれるまでの過程を楽しむのぉ。トキリンは結構難易度の高いキャラだからねぇ。やり甲斐があるよぉ。おかげで俺ぇ、時間制限までにクリアー出来るか焦ってるもん。だから毎日が必死でやること多くて輝いてるぅ。楽しいよぉ」

 にやにやにまにまにこにこ。福広さんは満面の笑みのまま。
 俺が知ってる限りこの人は、いつも笑っている男性だ。でもここまで楽しそうに笑うようになったのは、『そのゲーム』を始めてからだった。

「福広さん」
「はぁーい?」
「…………ウマが、変な顔をしてますよ」

 唐突に、寄居が俺の方へ話をシフトさせてきた。
 あまりの突然ぷりにビックリしてしまう。俺はただ二人の話を聞いていただけなのに、どうしていきなり中心にされる。寄居の意図が全く読めなかった。

「あれぇ。ウマ。もしや、イヤだったぁ?」

 なにがですか。一言が言えなくて詰まる。苦しい。

「こういう話されるの嫌だったぁ? ウマは恋愛とか繊細な話に敏感だからねぇ」

 なんでですか。苦しい。言えない。

「このゲームの楽しみの見出し方をもうちっと話そうかぁ? ただ一緒に居ても、好感度って上がらないんだよぉ。渋いゲームだねぇ」

 …………。
 もう黙ることにした。本当に嫌なことを言われない限り、メール機能は閉じることにしよう。

「もちろん一緒に居れば相手のことがよく判るから居ないよりも好きになるぅ。でもこうやって俺とヨリーくんが一緒に食事してるけど、それだけで俺のこと好きになれたぁ?」
「いえ、寧ろ本性ゲスいなぁと思って好感度ダウン中です」
「はっははぁ。素直で良い子は好きだなぁ。今度図書券二千円分ぐらいプレゼントしてあげよぉ」
「あ。今、好感度上がりました」
「ハイそれ」

 言って、福広さんはコーヒーを啜る。重要だと言わんばかりに呼吸を整えている。

「次々に話をしていけば自然と好感度が上がるぅ。『コレを貴方の為に差し上げます』っとプレゼントをすると卑怯なぐらいグッと上がるぅ。でも流石に会う度に二千円を渡してられないぃ。時にはそうして攻略する人もいるんだろうけどさぁ、普通のご家庭には無理だよねぇ。プレゼントっていう誰でも使えるけど数少ない武器を出さないでぇ、いかに好感度を上げる言動が出来るかぁ。考え始めたら結構面白くないぃ?」

 ふわふわした顔で、何てことを語ってるんだ……この人。

「無難に好感度を上げる方法ぉ、『ありがとう』を言葉の端々にくっ付けたりすることかなぁ。『一緒にお茶しよう』『食事に行こう』も普通に入れるべきだよねぇ。『お前に会えて良かった』『お前だけだ』と相手限定の無いようにすると効果的ぃ、だけど対象の性格によるぅ。あとは相手の趣味に合わせて動いてやったり笑わせてやったりぃ、真面目に付き合ってるだけじゃなく時に不真面目にからかったりするとぉ……」
『福広さんの場合、不真面目分が多すぎると思います』

 速攻で文字を打ち込み、メール画面を見せつけた。
 なのに「そっかなー」だなんて頭を掻いて誤魔化すな。……そりゃ。昔のぼんやりした彼を見ていると真面目に攻略している彼は大変真面目だけどさ。

「あとはアレだよぉ……このゲームの一番の魅力ぅ」
「なんですか?」
「やり直しがきかないぃ」

 当然のことを、彼は得意げに口にする。

「人生にはリセットボタンが無いぃ。選択肢をミスってもやり直しが出来ないぃ。『時間を戻すことなんて誰にも出来ない』もんねぇ。嫌われることをしちゃったらぁ、嫌われた状態から次をスタートしなきゃいけないぃ。死にたくなるようなことをしても立ち直らなきゃいけないしぃ、相手が先のゲームオーバーを選んだら自分もゲームオーバーしなきゃいけないぃ。セーブしたところからリトライなんて出来ないぃ……この緊張感がたまんないねぇ」
『福広さん、そろそろリセットボタン押さなきゃいけないぐらい詰んでませんか?』

 光の速度でメールを打つ。
 めげずに「そんなことないよぉー」と福広さんは笑った。寄居は俺のメールで更に福広さんの好感度を下げたような顔をしている。現に、彼から席を少しずつ離していた。目に見える下がりっぷりだった

「俯瞰で恋愛を楽しむ達観した神様よりさぁ、こんなに楽しいゲームを毎日している悩める俺って幸せ者よぉ。こういうときぐらいしか人間らしい黒目や黒髪に生まれてきて良かったって思えるねぇ」
「…………」
「オーソドックスが一番ぅ。金髪はともかく、緑髪とか紫髪は無いと思うわぁ。そーだそーだぁ、ヨリーくんもウマもするべきよぉ。恋は青春、人生を薔薇色に染めるは恋、ってかぁ」

 ――そんな恥ずかしい言葉、よくつらつら並べられるなぁ。
 打とうとして、それは特に主張することじゃないなと思い、メール機能を閉じた。
 でもすぐに開く。だかだかと文字を打ち込む。

『攻略に失敗して、もし人生にリセットボタンがあったら、自在に時を戻せたとしたら』
「うんぅ?」
『もう一度同じ人を攻略したいと思いますか?』

 福広さんに向けて打ったメッセージだが、寄居が「なにお前もポエムっちゃってるの」という顔をした。おい、ゲロ吐いたような顔すんな。
 構わず言葉を続けて打ちこむ。

『昔の福広さんを知っているけど、それにしたってそこまでやるような熱意を感じません。努力をしているように見えますが、それほどじゃない。俺は、何度でも攻略したいって思える人に会えない限り、そんな努力したくありません』
「ぷふぅっ」

 打って、見せて、笑われる。今度は二人一斉に。
 口にして言うよりも、文字にした方が一度自分の脳と目、指を通っているだけ、余計に恥ずかしく思えた。でも……真剣に考えていることだったから、笑われても嫌ではなかった。寄居が馬鹿にするのだけは気に食わなかったが。
 ボタンを押し続けていると、福広さんが俺の頭をぐしゃぐしゃに撫でてきた。子供扱いされることはいいが、指が油でベトベトになっていないか。それが気がかりだった。

「何度失敗しても落としにいきたいぐらい魅力的な攻略キャラだったらいいねぇ。やるねぇ」
『で。現に、どうなんですか?』
「うぅーん。二度ぐらいだったら再挑戦しちゃおっかなぁ。でも三度やって失敗したらもう諦めちゃうなぁ。三度やっても自分のモンに出来なかったら、相性が悪いんだよ。元から付き合わない方が良いって思った方が良いさぁ」
「何度も何度もやったら……しつこいですかね」
「『やり直し』だから相手はしつこいって思ってくれるのかねぇ? 覚えてないんじゃないの? って、三度もリセットボタンなんか押せるもんなの?」
「……ま、ウマの言ってるのはもしもの話でしょ。深い設定なんてウマも考えてませんよ、きっと」
「だよねぇ。っていうか、何度もリセットボタン押せるような安い人生だったら、一日一日を輝くよう楽しむなんてことしないよねぇ……」

 ――ボタンを押したことないから判らないけど。
 そんな当然なことを思いながら、寄居のビッグメニューを食べ終わるのを待った。




 ――200年9月19日

 【     /     /     / Fourth /     】




 /2

 寄居が食べ終わると、福広さんと一緒に店を出て行った。ハリキって下水道に潜ってくると手を振って。
 俺は店の席で待つことにした。もう一杯お茶と、じっくり食べるためにLサイズのポテトを注文して、携帯電話を開く。
 でも携帯電話を対話のために使っていたせいか、電池が半分以上使い切っていた。このままだと連絡が取れなくなる。暫く携帯電話に触らないようにした。
 それだとどうしてればいいのか。まだ外は夏だからなるべく外には出たくない。インターネットカフェでも行くべきなのか。でもこの辺りは来たことがない土地だから何処に何があるか判らない。あと数時間どうしたものかと考えていると、誰かがこっちにやって来た。

「やあ」

 見たことある顔。
 黒髪に黒い服。大きめな十字架のネックレスを首から掛けた、ちょっと大柄な男性。
 俺の従兄弟、新座さんだった。両手にシェイクを持っている。二つとも飲むんだろうか、この甘党は。

「緋馬くん。こんなところで会えるとは思わなかった。初めてだね」

 ……。ん?
 って、ああ、寺に関係無い場所……外で会うのは初めてってことか?  なんか妙な言い方をする人だな。
 彼は仕事の関係でこの辺りに来て偶然会ってしまったのか。俺は聞けず、挨拶代わりに頭を下げ、喉を指差した。
 そして嗄れた声で「風邪で喋れないんです」と言ってみる。ノイズの入った音声だ。新座さんは頷く。

「さっきの話、ちょっとだけ聞いてた。大丈夫、今日のお仕事は二人でもすぐに片付く。ここで待ってていいと思うよ」

 ……既に店に居て俺達の話を盗み聞き(聞こえてしまっただけかもしれないが)していたってことか。
 声が出ないことが判ってるとなったら話し掛けないでくださいと言いやすい。「携帯電話の電池は大切だから使いたくないんです」とぱぱっと伝えた。すると新座さんは持っていた鞄から手帳とボールペンを出した。流石大人。その程度の物は持ち歩くってか。
 かと言ってそれほど会わない親戚と何かを話すつもりは無いんだが。

「人生は一度きり」
『?』

 新座さんが呟いたので、俺はパッとクエスチョンマークを書く。新座さんは苦笑いしながら言葉を続ける。

「普通は一度きり。やり直しなんて出来ない。ねえ。もし……緋馬くんに好きな人がいたとして」
『?』
「失敗しちゃって、嫌われちゃって、ゲームオーバーしたら……リセットボタンを押してでもやり直したいって思う? 『普通は一度きり』っていう前提を忘れないでね」

 新座さんは、既に俺が一度質問し、俺達の中で完結した話をぶり返すように尋ねてきた。
 って、単に盗み聞きしているだけだったから俺のメール文章を見てないんだ。だから俺の発言は新座さんには届いてない。俺が福広さんにした質問も、それに対する俺の感情も、新座さんは知らない。だから同じような質問をしてきたんだ。
 俺はペンを走らせる。

『好きな人のレベルがどれほどのものか判りませんが』
「うん」
『俺の好きな人は、すっごく好きな人のことを差します。そのすっごく好きなひとにきらわれたら、おれはしにます』
「え……ええっ!? 死んじゃうの!?」

 長い文章になってしまった。
 途中から漢字を書くのも億劫だ。雑な字で書き進める。

『しにます。でも、やりなおすなら、しなない』
「…………」
『やりなおせるならいくらでもやりなおす。すきになってもらうまで、きらいになることがなくなるまでやりとおすどりょくができます』

 福広さんの努力は、福広さん的にとても大きなものだった。
 でも俺の信条からすると凄く生温いものにしか思えない。色恋のその程度で努力と言っている彼には、正直落胆していた。
 俺は独占欲が強い。好きなものは一生好きでいたい。だから、恋人になってゲームとしてエンディングを迎えても、一生のエンディングまで努力をし続けていきたい。
 ……すっげえしつこい男だな。執念深くて、怖くて、キモイって言われる。
 判ってる。でも、それぐらいの気持ちでいた。それは、好きな人ができた日から変わらない。

『バカですね、おれ』

 書いて、馬鹿だと再確認する。
 夏風邪とか関係なく、春でも秋でも冬でも、俺はここまで考えてしまっているんだから……馬鹿だろう。

「馬鹿じゃないけど……むぐ。ちょっと、危険……かな」

 ――危険?
 しつこくて執念深く、怖いぐらいでキモイ。そう自覚していたから、『危険』という形容詞はあっさりと受け入れることができた。

「それだけ……緋馬くんの大きな愛を、相手も返してくれるといいね。……情の比率が合わない現象は、悲劇が起きやすいから」

 …………。
 新座さんは、どうしてそんな顔をして言うんだ。寄居じゃないけど、変な顔です、と指摘するまで気付かない表情の固まりっぷりだ。
 って、俺もこんな顔してたのかもしれない。失態失態。

「でも、緋馬くんのそういう真っ直ぐな性格、僕は好き」
『どうも』
「そんなに愛されたら相手も幸せだろうね」
『どうも』

 同じ文章の上を、ボールペンでぐりっと丸を書く。

「……で、話は戻るけど」
『はい』
「リセットボタンがあるのは『もし』の話だからね。人生は一度きりなんだから失敗しただけで死んだら駄目だよ!」
『…………。失敗しただけでって……』
「あ……べ、別に軽視してる訳じゃないよ! 死んじゃったら、きっと愛された人も悲しくなっちゃう。先に逝かれたらどんな人だって悲しいもんだよ。それに、愛された人も『どうしてそんなことしたの』って苦しんで、悲しみに囚われちゃう。もしかしたらもっと君を嫌いになっちゃうかもしれない。たとえ君の世界は死を選んで終わったとしても、嫌われ続けるのは嫌だろう?」

 ――そう、ですね。
 詩的な言い方だったが、その通りだと思えた。

「だから……自分から命を絶つことは絶対にしちゃいけないんだよ……絶対に……残された人が、悲しい目に遭うだけじゃなく……何も解決しないままゲームオーバーになっちゃうんだもん……」
『新座さん、テンション上がり過ぎ』
「むぐっ」

 いつの間にか涙ぐんで話されてる。
 そんなに重要な話をしたつもりはなかったのに、なんだか引いてしまった。ドン引きだ。

 新座さんは近くを通りかかって軽食を取りに店に入ったという。ただそれだけ。俺達の『仕事』とは全く関係が無く、通りすがりの偶然だという。後から聞いたことだが彼も彼で今日は別の『仕事』があったらしく、ということは空き時間にふらついていた……のかも。
 涙を飲みながら俺を(まるで自殺志願者のように仕立て上げて)説得して、彼はコーヒーといつの間にか空になったシェイク持って去って行ってしまった。
 去り際に「話したいことは話した、行こうか」と言っていた。独り言だった。俺に向けてではなく、誰も居ない方を向きながら喋っていたから、自分に言い聞かせていた。
 新座さんから手帳の一ページを切ってもらい、ボールペンも貰う。これで対話に携帯電話を使うことはなくなった。そこは素直に感謝しよう。

 ――もし、伯父さんに嫌われたら。
 俺の中にいる、一番大切な人の顔を思い浮かべる。
 ――駄目だ。何度考えても、考え直しても、俺には『死』しか選べない。
 伯父さんが俺を嫌うなんてことは約十七年の月日の中で有り得なかった現象だ。有り得ないことは恐怖。考えられないし、考えたくない。もしその恐怖がこの身に降りかかったら……何度思い直しても……俺は。
 死を選ぶ。
 ――キモイ。女々しいとか情けないというより、キモイな、俺。
 馬鹿みたいなことを延々と考えながら二人を待つ時間は、長かった。
 小さく溜息を吐く。やっぱり風邪気味だからか。妙に弱気になっている気がした。
 ガラスの外は青空が広がっていたとしても清々しい気分になれない。大量のポテトを口に突っ込んでも急に体力が回復して元気になる訳でもない。変な形で励まされてもちっとも持ち直せない。
 早く……早く寄居と福広さんに戻って来てほしいとばかり考えていた。

 夕陽の橙色が目に眩しくなるまでの間、何度馬鹿馬鹿しいと思ったことか。
 数時間後。下水道掃除を終えた二人が店内に入ってきて、すぐさま俺の前で寛ぎ始める。助かった想いでいっぱいになった。

「ウマ。きちんと安静にしてた? 具合はどう。少しは良くなった?」

 寄居に矢継ぎ早に質問されて、小さく頷いた。

「あぁ〜、そりゃ良かったぁ〜。折角だからお土産持ってきたんだよ。あ、下水道からのお土産は無いよぉ。ちゃんとコンビニで買ってきたお土産だからぁ」

 ぽい、とかつて大量のポテトが置かれていたトレイに何かを投げられる。
 エロ本だった。

「おおぉっ、無言の圧力ぅ。怖いねぇ。さっきより顔色が良いなぁ。こりゃ薬飲んでご飯食べて一発抜いて一晩ゆっくり寝れば明日学校行けるってぇ」
「せめて明日ぐらい休ませてあげましょうよ、福広さん」
「寺で俺が風邪引いてもぉ、親父に『明日には気合いで治せ』って言われたもんだよぉ」
「……銀之助さんって、案外荒治療なんですね」

 あっはぁと笑う。いつも通り、何も変わらず。
 でもなんだか寄居の福広さんに対する好感度が上がっているような気がした。やっぱり……一緒に居た時間が多くなったからか。
 二人は『仕事』の内容を俺に話そうとしなかった。言いたくないのではなく、言っても面白くないからだというのが表情から伝わってきた。多分、風邪を引いてそこそこ気落ちしているから気遣ってくれたんだ。俺は思わず苦笑する。

「ウマ、下水道なんて正直行かなくて正解だったよ。臭いし足元は滑るし、挙げ句にやたら凶暴なネズミに襲われるし」
「うんうんぅ。いきなりネズミの大群に遭遇して大騒ぎだったよぉ! あんなとこウマに見せられないわぁ。いたら絶対お前、写メってた!」
「ウマが居てくれれば冷静に指示出してくれたけど。……ううん、やっぱ連れて行くべきだったか」
『いやだ』

 ボールペンをノートに走らせる。
 二人は、新しい伝達手段に顔を見合わせた。
 席に座ろうとする二人に、先にボールペンであらかじめ書いておいた『ちゃんとした物を食わせて栄養摂らせろ、レストランに行こう』という字を指差した。
 二人が「了解」と頷いた後、書き忘れた『お疲れさん』をページに付け足し、立ち上がる。
 馬鹿みたいな考えは、とりあえず今は忘れることにした。



 ――2005年5月23日

 【     /      / Third /      /     】




 /3

「はあ……この辺でその話は打ち止めしましょうか。そういえば、僕がブリッドさんと一緒に『仕事』へ出るのは初めてですかね?」
「…………。はい、そうですね……」

 ブリッドさんと共に長い長い石段を下る。
 仏田寺と外の世界を繋ぐ石段を。

 先程、『本部』――主に大山さんに指令を下されて、石段下の駐車場に向かうよう言い渡された。
 そこで送迎の任についている圭吾さんが待っていると言われている。僕にとっては久々の『仕事』で、久しぶりに会う圭吾さんだ。
 今朝、いきなり大山さんに呼ばれたと思ったら、案の定「ちょっと遠めの『仕事』に出かけろ」とのこと。しかもブリッドさんと、初めての二人任務だ。
 今日の『仕事』は手が必要な『オバケ退治』なのか。詳しいことは、まだ知らない。「詳細は車の中で書類を見てくれ」と、大山さんはニコニコ笑って言っていた。その方が判りやすいよと語るように。本心は次の仕事を言い渡す誰かの為に、時間を短縮したかっただけかもしれないけど。
 大山さんも多忙な人だからなぁ。狭山おとうさんに比べたら、あの人の方が少しは息の抜き方も上手なんだけど。

 義父こと狭山という『本部』の中心人物は、ガッチガチの仕事人間で、息子である自分の目からも要領の良くない官僚だ。
 仕事に真面目で悪い人間ではないのだが……兄の大山さんに常にフォローを入れてもらえないと、悪い人間に早変わりしてしまう。あの人は『真面目な人の欠点』が丸見えなんだ。
 ともあれ二人分の書類を胸に抱いて、長い石段を下る。
 ここまで来る間も話を切ることなく、口を開き続けながら。

「僕は今朝『仕事』が入ると聞いたんですけど、ブリッドさんはいつ頃呼び出されたんですか?」
「…………。ときわ様と同じです。今朝……話を伺いました」
「そっか。『仕事』で呼び出すなら前日までには連絡してってお願いしてたのに、なかなか叶わないなぁ。僕達の事なんてお構いなしだからね、おとうさんは」
 
 『本部』の中心で働いている義父は、個人の事に目が向かない頑固な人だ。
 そのおかげで一族の輪が保たれているのだけど、非常に堅苦しいと文句も吐きたくもなる。
 義父は義父なりに効率的に『任務』を進めるべく頑張っているけど、もう少し人の為を思った仕事が出来ないものか。当日になって出て行けというのは、慣れない。
 我が父なのに、いや、我が父だからこそあの人の不平不満はいくらでも思い浮かぶ。

「時期的に僕にも『仕事』が来るんじゃないかと思っていたけど、やっぱり急ですよね。ところで、ブリッドさん」
「…………はい……?」
「以前にも言いましたが、その呼び方はやめてもらえませんか」

 足を止めて提案する。ゆっくりとブリッドさんが首を傾げた。
 もう暖かい時期だというのに真っ黒いコートで身を隠し、長い前髪で、さらにサングラスまでかけて視線を隠している……重苦しいにも程がある彼が、ゆったりとこちらを向く。

「……その呼び方、ですか?」
「そう、『ときわ様』なんて仰々しい呼称のことです。これから外でオバケ退治の仕事をしに行くんですよ。その土地で生きている人間に会います。その人達に『サマを付けて喋っている男が来た……サマを付けられている男が居た……』だなんて、警戒されたら嫌でしょう? 僕が嫌です」
「…………。ですが、『上の者』に敬称を付けるのは当然だと思いまして……」

 確かに、僕は『上の者』にあたるけど、必要無い場合だってある。必要無いと本人が言っている場合だ。
 ブリッドさんはせっかくペラペラの日本語が喋れるんだから(茶会でアクセンさんに教えてもらったが、ブリッドさんはハーフらしい)、もうちょっと日本の形式をちゃんと覚えた方がいい。サマを付ける人間はごく少数だということを知っておいてほしい。

「僕はそれほど偉くなんかないです。そのうち偉い人になる予定ですが、まだ全然偉くないんです。そのときが来るまでサマを付けずに呼んでください」

 なんて、偉そうな言い分。
 自覚の無い嫌味な金持ちに出会ったときってこういうシーンなんだろうな、と比較的金持ちな自分が思う。
 数年経てば、燈雅様の代がやってくるときには自分で言っている通り『サマ』付けの生活に慣れる。そういう世界で生きているのだから仕方ない話。
 でも変に庶民派を気取ってる僕には、今『サマ』を付けられて話されると、むず痒くて堪らない。我儘を言ってでも呼び方を変えてもらうしかなかった。
 直系中の直系、当主様の息子である新座さんはいかなる人に『新座様』と呼ばれていてもケロッとしていたっけ。あれは正真正銘『庶民じゃない』から出来ることか。今はどうだか知らないけど。
 新座さんが家出して、もう長い年月が経つから、彼も人が変わったかもしれない。
 いや、そんなに長くはないか。鶴瀬さんが光緑様の秘書見習いになったのが今年の4月なんだから、えっと……。

「……そうですか……。なら、『ときわさん』……で、宜しいですか?」

 ブリッドさんはお願いすれば大抵のことは従ってくれる……いや、聞いてくれる優しい人だった。
 我儘を自然に通しても問題無く、安心してお願いが出来る。思った通り、さほど渋ることなく呼称を訂正してくれた。

「グッド。それで良いんです。ありがとうございます」
「…………。もしかして、オレ……今まで……貴方に嫌な気分をさせていましたか」
「そこまで真剣に考えなくていいですよ。ブリッドさんも正しいと思ってしていたんでしょう。間違いじゃないんですから気にしないで下さい。逆に僕が気にしすぎただけです。こんな子供の我儘に付き合ってくれて感謝していますよ。呼称って日本語独特の文化ですからね。全く、難しい」
「……そうなんですか……」
「そうでしょう。あんまり外の国では無いと聞きますけど。それにしても前々から思っていたんですがブリッドさんって、日本語うまいですよね。博識だし難しい言葉もよく調べてるし、なにより発音が完璧日本人と同じです」
「………………」
「勉強、なさったでしょう?」
「…………それほどしてません」
「そうなんですか? もしかして、ずっと日本に居たとか? 日本で生まれて日本で育った……とかだったりするんですか」
「日本に来たのは……確か、十五歳ぐらいでしたから。それまではずっと……」

 ゆったりとした口が、よりゆったりとしたものになる。
 ……あまり話したくないという気持ちが、ひしひしと伝わってきた。

「へえ、そうなんですか。ああ、昔から『洋館にずっと滞在している人が居る』って聞いてましたが、それってブリッドさんだったんですよね。ご家族は確かお兄さんが居ましたよね。ご両親は?」
「……十年以上前に死にました。そう……聞いています……」
「…………そうですか、失礼しました。お父さんが仏田の男性……だったんですよね?」
「……はい」
「ですよね、一族に女性がいる訳ないし。愚問でした。……お父さんから日本語を教わった……んですか? ……いや……そっか、大変だったんですね、あ、ああ、もうこの話はやめましょう」

 僕の失言は続く。ついにはブリッドさんの口は鍵が掛かってしまい、本当に単純な返答と相槌しか見せてくれなくなってしまった。
 なんというバッドコミュニケーション。失態、と思っていると石段は下り終え、駐車場に続く長い平地に辿り着く。
 そしてあちらから人影がやって来るのが見えた。
 赤い髪。それだけで誰か一発で判る。アクセンさんだった。

「ん。ときわ殿に、ブリッド? どこかに外出か」
「あっ、アクセンさん。こんにちは、お久しぶり。って、二日前にお茶会で会いましたね」
「外出か?」

 先日にも会ったばかりのアクセンさんが、市の図書館の布袋を手にこちらに近寄って来た。
 山を下りて暫くバスで走った所にある図書館に行って来たのか。お年を召した方ばかりが住む町、放置された工事現場と廃れた商店街のある場所で、図書館のような公共施設ぐらいが外から来た人の潤いだ。
 一日数本だけバスが稼働してるからそれを利用してたのか。腕時計の時間から彼の行動を察せた。

「はい、そうですよ。お家のお手伝いに付き合わなきゃいけなくなりましてね。初めてブリッドさんと二人でお出かけに行ってきます」
「初めてなのか。よく二人でどこかに行っていると思っていたよ。『家の手伝いがなんだ』と頻繁に聞いていたからな」
「僕もブリッドさんもよく家のお手伝いはしているんですよ。でも二人でお手伝いというのは今回が初めてなんです。ちょっとドキドキしますね」
「ふむ。ブリッドも、ドキドキしているか?」

 アクセンさんの視線が、僕の後ろの方に向く。
 でも、その視線が交差することはなかった。視線が交わることをしない人との会話だからだ。

「ブリッドもそうか。……で、何に緊張しているんだ? ただ『手伝い』をしに行くんだろう。それほど危険な場所に行くのか? 二人だけで?」
「いや、何と言いますか。二人でお仕事は、二人がかりじゃないと終わらないお仕事と言いますか。危険じゃないと言えば嘘になるし。何をやるのか知らないアクセンさんには判らない話でしたね。失礼しました」
「何をするんだ?」
「えー、と」

 ――オウ、シット。やばい、と思ったときには後の祭り。
 この人は、真っ直ぐに疑問に思ったことを率直に口に出して訊いてくる人だった。「どうして空は青いの」と真顔で尋ねてくる子供みたいな、真っ直ぐな人だ。そんな人を相手にしていたのに、思わせぶりなことを言ってしまうなんて。失態。
 華麗にスルーしたかったのに、もう出来なくなっている。あれこれ回りくどい言い方で他人の興味を誘ってしまうのは、僕の悪い癖だった。でもって思わせぶりな言い方に悉くツッコまずにはいられない彼の癖とは、相性が悪そうで、非常に良かった。

「秘密です。お家のお手伝いは秘密にしなければならないプロミスなので」
「隠さなければならないことを、二人でするのか?」
「はい。なんせお家のお仕事ですからね、秘守義務があります。と言ってもそれほどオオゴトじゃないですから安心してくださいよ。多分。ソーリーですよ、秘密にしちゃって。でも今日、面白いことがありましたら次にお茶会で話しますよ。楽しみにしていてください」
「私も一緒に行ってはいけないだろうか」

 …………。
 ああ、そう言ってくるんじゃないかと思いましたけどね、五割ぐらいの確率で。

「えっと、駄目です。お家の人から、『秘密のお仕事』だと言われてるので」
「邪魔はしない」
「そういう問題ではありません。駄目なものは駄目ですから」
「邪魔しないぞ?」
「念を押しても、駄目なんです。お家のことは隠さなきゃいけないことが多いんですよ」
「そもそも君達はいつも『仕事がある』と言うが、一体何をしているんだ? まず私はそこから知らない。教えてくれ」

 …………。
 ホント、この人は子供みたいにあれこれ訊いてくるよな。なんでもかんでも真っ直ぐに。
 僕はなんでも口に出しちゃう性格だからなんとか早めに会話を済まそうとした結果がこれか。まったく。

「その、アクセンさん。これは外の人には言えないことなんで、許してください」
「外の人? ……そうか、私はまだ認められていないんだな」
「あっ、ちょっ!? そんな本気で落ち込んだような顔をしないでくださいっ! 別に僕は貴方に悪意があって言った訳じゃ。『そういうルール』なんで諦めてくださいってだけで!」
「ときわ殿のような少年や、ブリッドは家族として認められているのに。私はまだまだなのか。やはり私には信頼が無いから、かな。それに私は不真面目だからまだ仲間に入れないということか?」
「貴方を不真面目と言ったら我が家の男は九割ちゃらんぽらんになりますからやめてください。僕ももれなく含まれちゃうじゃないですか。ほら、いくら仲良しでも家計簿を見せるのは引けるのと同じというか。それぐらいデリケートな問題なので、ね?」
「ブリッドも教えてくれないのか?」
「ちょっ、比較的味方を引き込もうとしないでください! ずるいっ!」
「…………アクセン様、諦めてください」

 ――――あれ、意外。
 ブリッドさんはアクセンさんの味方をするかと思ったら、案外ドライに切り返してくれた。そして、

「……あの、アクセンさん。そんな、あからさまな絶望した顔、やめてもらえます?」

 味方してくれると思った人に拒否られたのが本気でショックだったのか。
 この世の終わりを迎えてしまったような顔をなされた。
 この人、露骨な拒否が入ると目に見える落胆を見せる。嘘とか吐けない人なのかな。思ったことが顔に出てしまう性格なのは僕は好意が持てるけど……。ああ、今も立ち直ろうと必死になって……。
 すぐ口にしちゃう僕の癖と、貴方の顔に出る癖、ホント相性良いと思う。
 そうしながら今度のお茶会でおしゃべりできること楽しみにしてますと、別れを切り出そうとする。だけどなかなか終わらない。暫し、僕らは見つめ合う。というか、睨み合う。長い間、睨めっこで遊んでいて。最終的に観念して口を開いたのは、僕の方だった。

「……ねえ、ブリッドさん。アクセンさんも一緒に行っても、平気だと思えませんか? 他の人ならともかく、アクセンさんなら何もしないと思うんですけど」

 ブリッドさんに呆れた顔をされても仕方ないほど、僕は甘いことを言う。
 でもブリッドさんはそんな顔をしない。暫し僕らと同じように黙って、表情を変えることなく、妙な方向に口を開く。

「……ときわ……さんが、良いと思うなら、許してもらえるのではないですか」
「『許してもらえる』?」
「…………だって……。貴方はずっと……大山様や狭山様より、『上のお方』だ……。当主に近い生まれで、彼らよりずっと血の濃い尊い存在です。今は、彼らが先に生まれた者の役目として、貴方を導こうと……『命じるように見えている』だけで……本当の貴方なら、彼らを命令することもできるのです、よ……」

 言われて、今度の僕はブリッドさんと見つめ合って、いや、睨み合ってしまった。
 一方的に僕の方からだけだったけど。

「それは、ブリッドさん、権力のある立場を行使しろってことですか」
「……無関係な人間を退魔の任に連れて行くなど……場違いな考え……です。けれど、当主に近い血である立場ある貴方が……『それが良い』と判断されたなら……きっと、許してくれます。……というより……従わなければならないでしょう。大山様も狭山様も……オレも」
「…………」
「……あと……オレも、正直『このままじゃアクセン様は諦めないな』と思えてきましたから……それで気が済むなら……いいんじゃないかと思います」
「そうですね。でも……」

 と、何かを言おうとする前に突然ブリッドさんは少し僕との距離を近づけて声を小さくし、囁くように言う。

「……もしものことがあれば、消せばいいだけです……」
「そんな、消すって」
「…………記憶を」

 …………。ああ。ああ、記憶を……か。
 ほっとする。あまりに低い声で、冗談を言わない目で言うから、思いっきり不穏な方向に捉えてしまうところだった。
 まあ、そんな『不穏なこと』をブリッドさんが言いだすことなんて、有り得ない。ブリッドさんが、彼に対してどんな風に付き合っているかを知っているから、有り得ないことは判っている。
 でも『記憶削除』の術はとても高度なものなので、僕達のような下っ端が扱えるものじゃない。当主様にやってもらわなければならないし、当主様の手を煩わせる前に『本部』の許可を取るため、書類提出などの手続きも必要になる。出来ればそんなことはしない方が良いと、判っていた。

「良いのか、私がついて行っても?」
「……はい、仕方ないですね! 一緒に来てもいいことにします! ですが、アクセンさんだから信頼して一緒に行くんですよ! 僕達は『お仕事で』行くんですから邪魔しないでください!」
「ありがたい、感謝する。で、君達は一体何をしに行くんだ? 私にも手伝えることはあるのか?」

 もしこれで、アクセンさんの苦手分野を言えば「やっぱやめた」って下がってくれるのか。
 いや、その場合『一度、私が頼んだことだから最後まで付き合おう』と間違ったジャパニーズ武士道根性を見せつけてくる。
 まったく。とても真面目で、悪い意味で良い人だ。
 これぐらい真面目な人が、一族の仕事を手伝う人材として居ればいいのに。やや不真面目な人が多い今としては、強く強く思う。
 僕ら同じ方向を向いてアクセンさんは歩き出した。
 ハードカバーの本が入った図書館の袋はそれほど重そうになかったから、このままついて来てくれるみたいだった。

「こうして外に出るのは初めてだな。以前からブリッドを誘ってはいるんだが、いつも断られてしまうんだ。私は嫌われているのかな?」
「それは、いや、そんなことはないでしょ」

 本人の目の前で「嫌われてるか?」だなんて言われたら。
 ほら、言われた本人が困った顔をしている。物凄く、困惑しているじゃないか。
 俯いて物凄く困った風にしているブリッドさんの顔を、アクセンさんは覗き込もうとしていた。
 余計にブリッドさんは慌てて距離を置こうとする。むっとして追いかけるアクセンさんを、本当に意地悪な人だなぁと思った。
 そのとき、あることを思い出してしまう。つい言わずにはいられないものがふっと頭をよぎってくれた。

「アクセンさん、彼を苛めないでやってください。ああそうだ。ブリッドさんはその誘い、『絶対に』受けてくださいね」
「…………絶対に……?」
「そう。『絶対に』です。アクセンさんにも教えておきたいことがあったんだ。ブリッドさんはですね、本当に忙しい人なんですよ。貴方の誘いを断り続けなきゃいけないくらいね。病気のせいで」

 僕が重大そうに言ったら、アクセンさんは「病気だと?」と物凄い食いつき方をしてくれた。と言っても病気というのは比喩。治さなきゃいけないものには変わりないけれど。
 少しぐらい大袈裟に言った方がこの人の為になると思ったが、効果は抜群だ。
 『この人達の為に』なら、これぐらいしてもいい筈。

「これでも僕からブリッドさんにその病気を治すように言い聞かせて、現在は治療中なんです。だから安心なさってください」
「……治療?」

 ――僕がブリッドさんとコンタクトを取ったのは、『洋館にピアノを移動したとき』が初めてだった。それまで会ったことがなかった。
 住んでいる屋敷自体が違っていたから、同じ敷地内でも会えないこともあったんだなと最初は安易にそう思ってた。
 でも僕は、生まれてからずっとあの寺に居た。ブリッドさんは十年近くあの敷地内に住んでいるっていうのに、それでも一度も会わないってことあるのかと疑問を抱いた。

「確かにあの敷地は広いことは広いが。ときわ殿だって、大切に育てられたとはいえ、部屋から一歩の出なかったということはないんだろう?」
「ええ、それはもちろん。普通の子供に比べたら窮屈な生活かもしれませんけど。それに、僕は趣味でよく洋館に行っていたんです。ただ単にあそこが好きだっただけですから、誰かに会う為とかじゃなかったんですけど。それでもブリッドさんには会うことはなかった」

 それから、何度か一緒にお茶を(アクセンさん繋がりで)飲むような仲になって。
 僕もブリッドさんと二人だけで話をするようになって。ブリッドさんも、『本部』から『仕事』を受けていることが判って。
 そのうち一緒にお仕事を手伝わされるかもしれないって、何気なく言ったこともあった。
 またまた何気なく、大山さんに「ブリッドさんはどんなことが得意なのか」尋ねてみたところ、膨大な量の書類を見せられ、話を聞かされた。
 膨大な量の。
 眩暈がするぐらいの量の。
 「有り得ない」と思わず一言呟いてしまうほどの。
 売れているアイドルが「365日休みがありません」っていうコメントを、ふっと思い出すぐらい。衝撃的で、その場で大山さんに『訴えた』のをよく覚えてる。

「それで、ブリッドさんに僕が強く言ったら、少しは『仕事』の数、減らしてくれるようになりました。ね?」

 彼は無言のまま、頷くことも首を振ることもしない。

「ほんの少しでしたけど。数が五百件が三百件に減るまでに僕、何度も言ったでしょうねぇ」
「ん? 私には、その『仕事』とやらが何をしているか知らないから判らないんだが。その数は、多いのか?」
「一ヶ月に三件あれば多いところを、一年間で五百件やってるってどう思いますか」
「……それは、大山殿とやらが、間違った数を教えてしまったんじゃないのか」
「ええ、僕も最初思いましたよ。桁が違うし、違い過ぎるし、大山さんがボケたんだろうと思いましたよ。普通の人なら一年で十件のところを、その数だなんて。絶対に見る箇所間違っていると思いますよね。『休み』って言葉を知らずに今まで過ごしてきたのか。って僕、出会ってまだ数ヶ月しか経ってないブリッドさんに怒りました」

 でもって、そんなことをやらせていた『本部』にも激怒した。
 だってあそこの人達も何食わぬ顔で、ブリッドさんにあの量の仕事を押し付けていたんだから。批難されて当然だ。
 延々と『オバケ退治』を、ほぼ一人で、一時も休まず。どこかに足を運んでは、死者を狩っては魂を体中に集めて持ってくるだけの生活。笑ってしまうぐらいに、酷い話だろう。

「ブリッド、お前」
「正直に言っちゃっていいですよ、馬鹿だって。申し訳ないけど、やっと七十%減らしてくれたって、まだ僕はブリッドさんを庇えませんから」
「私はお前が何をしているか全く知らないが、ときわ殿が呆れていることは理解できたぞ」
「…………データに間違いはありませんが、ときわ様、貴方は一部勘違いしている。それに、言い訳をさせてください……」

 まさかのブリッドさんが向き直って口を開いた。
 僕には反抗しないと思っていた彼が、まさかの、だ。

「……オレは、あの家に『居させてもらっている身』なんです。訳あって、家族を亡くして……子供の頃から……居候をさせてもらっている身なんです……」
「はあ」
「……親がいなくて、まだ何も判らない子供だったから……外で暮らすことも出来なかった。兄もいたけど、お互い幼かったし何か出来る訳でもなく、出来ることといえば……『言われたことに従う』ぐらいで……。そんなオレを助けてくれた家に尽くすのは……いけないことではないでしょう……?」
「ええ、とっても良い話だと思いますよ。それでも、僕は貴方を馬鹿と罵りたかった。今も馬鹿ですかと言い続けます」
「…………」

 僕も、自分を支えてくれる家族の為に『お手伝い』をして親孝行しようとか思う。
 赤の他人だったら、余計に使命感に駆られる。
 だからブリッドさんが、「家の為に恩返しをしたい」気持ちはとっても良い話に聞こえる。その真面目な性格を見習ってほしい子が沢山居るぐらいだ。

「でもね。どう考えてもいき過ぎてますよ、数が物語っているでしょう? 僕達の言う手伝いは皿洗いとかじゃないんですよ。命を削ってやるようなことばかりじゃないですか。死にかけるのだって世間では特殊なのに、貴方は一年に五百回も死にかけていて。自分で認めながらも続けてるって、馬鹿としか言えないですよ!」

 そう何度も言った甲斐があって三百件まで減ったのは評価するけど、それにしたって多すぎる。
 やっぱりこの人、判っていない。

「…………。だから、その『見方』が……間違っているんであって……。いえ、けど……オレは……それほど、辛いと感じませんし……」
「辛くないって、それ感覚が鈍ってるだけです! っていうかまたそれを言いますか! アクセンさんの前だから直接的なことは言えないけど、敢えて今日は口出ししますよ! 自分の体を大切にしてないなんて! 貴方、馬鹿ですか! この会話したの、何度目でしょうね!?」
「…………はい……今日だけで、何度言われたでしょうか……」
「ああっ、もう、貴方の一日を監視したいですよ。一体どんな生活してるんですか、ホントにっ!」

 そりゃ僕がいくら洋館に遊びに行っても見ない訳だ。
 ずっと外に出て働いてるんだから! 会える訳がないじゃないか!

「ときわ殿。落ち着いてくれ」
「あっ。はい」
「ブリッド。お前、その、な」
「………………」
「さっき『死にかける』と、ときわ殿が言ってたな?」

 あ、やばい。また口滑らせちゃってる。

「聞き捨てならないことを言ってくれたな。それほどブリッドは、危険なことをしているのか?」
「……あまり……内容については訊かないでください……」
「む、そうだな、そうだったな。ときわ殿の怒りをブリッドは受けとめているのか?」
「はい……何度も言われていますから……」
「それならなんで今日も、その、『仕事』とやらに出かける?」
「……頼まれたこと……ですから……」
「二日前の茶会のときは、休みを取ってたんだな?」
「……二日前は……早朝に終わらせて……昼間に顔を出して……その後、出掛けましたから……。それも、休みになりますよね……?」

 入りません。仕事が入っている一日ということでカウントされます。

「そんなに動いてるのに茶会に出たら、逆に疲れるんじゃないか?」
「いえ……合間合間で仮眠はしていますし。それに近頃、お茶をするようになったおかげで……糖分をよく摂るようになりましたから……以前よりは……比較的、健康にはなっているかと……」
「本当にときわ殿が言う通り、お前は病気だな。お前の言い分も判らなくはないが、そんなに自分を追い詰めなくても、私と違ってブリッドは、必要とされているだろう?」

 ……必要?
 オウム返しにブリッドさんは、静かに訊き返す。

「どうでしょうか……オレは、ただ……『上』から来る命令を言われた通りにこなしているだけ、ですから……」
「ブリッド、自分を軽視し過ぎじゃないか。せめて茶会の日だけは、一日休みを取ってゆっくり過ごしたら」
「それだけじゃダメですよ、アクセンさん! あと二百日ぐらいは休日を増やしてもらわないと、いつか過労死しますよ! 寧ろ今、倒れない方がおかしいぐらいなんです。体を鍛えてるんだろうけど、それだっていつか限界が来ますよ。絶対にね」
「言われているぞ、ブリッド。ときわ殿、今から休ませることはできないのか?」
「圭吾さんと相談してみましょうか!」

 ぽんと思いついた考えをそのまま僕が吐き出すと、ブリッドさんがはっとした顔をする。
 さっきよりもずっと生きた表情になっていた。

「あ、いえ、そんなっ……! 一度命じられたものです……途中で手放すことは……その……」
「アクセンさん、まずは一緒に今日の仕事先に行きましょう。僕が仕事を圭吾さんと二人でやりますので、アクセンさんはブリッドさんと遊んでいるといい、仕事先で遊ばせてください」
「……あ……そんな……それはっ……」
「ときわ殿、良いアイディアだ。しかしそれでは君達の負担が増えないか?」
「いえ、だから『圭吾さんと二人で』ですよ。圭吾さんは普段は只の運転手ですけど、そういった仕事のために用意されてる運転手ですから無力じゃないんで」
「よく判らないが、平気だということか?」
「はい。それに僕は優等生ですからね、如何なる状況になったって手を抜くなんて決してしませんよ。ご心配なさらず、ドントウォーリーです。心配するなら、存分に彼にしてあげてください」
「うむ、そうか。何処に行くか判らんが、ブリッド、気を張るなよ。息を抜け、精一杯遊ぶんだぞ」

 ブリッドさんは何も言わなくなる。止めようとしているような手だけが浮いていた。
 でもそんなの無視した。だって無視されて当然だもの。



 ――2005年5月23日

 【     /      / Third /      /     】




 /4

「はあ、それで急にホテルの部屋を二つ取ったのか。二つ返事でお金を下ろしてきちゃったけど、そういう理由だったんだな」

 海の匂いがする道を圭吾さんと歩きながら、慌ただしくなってしまった状況説明を行なった。

「はい、ご協力感謝します。圭吾さん、申し訳ありません。許可も取らず貴方に負担を増やすことになってしまって」
「俺なら平気だ。普段はみんなが仕事場に行くまでの運転手をしてるけど、まあ、俺も一族の一人だからな。幽霊と戦えるだけの力は持っているつもりだよ」
「圭吾さんが居るなら、僕も心強いです」
「言うなよ、ときわは俺より血の濃い直系一族さんなんだから。もう少し威張ってもいいぐらいなんだぞ?」

 ……相変わらず、この人は優しい。優しすぎる言葉をぽんぽんと口にする。それが彼らしいとも言える。
 さて、話を戻すとしよう。
 本題にいいかげん入らないと、ここに居ない狭山おとうさんに怒られてしまう。

「僕、水難事故を受け持ったのは初めてなんです。水場の幽霊ってどう調べたらいいですかね」
「無難に事故が多発している現場で魂を捕まえるのがいい。生者を海の中へ引きずり込む悪質な霊だから、俺達が生きてる限りすぐ見つかるよ。けど『本部』が二人がかりで行かせる『仕事』ってことは、それなりに手間がかかる相手ってことだろ。多くの魂が彷徨っているのかな?」
「ちなみに、圭吾さんは泳げます?」
「体力には自信がある方だ。問題無い。ときわも平気だよな?」
「どうでしょうか、泳げないとは思ってませんが判りません。僕、あんまり海に来たことありませんし。山国の出身なんで」
「ははは、それを言ったら俺も同じ寺の生まれだぞ。海が初めてって訳じゃないんだよな?」
「一回ぐらいは来たことありますよ。東京湾なら、通り道で見かけたこともありますしね」
「…………。あまりうちの親父は、お前を一人で外に出さなかったしな」
「そうですね、寺に戻ってからはずっと寺籠りでした。あちこち移動してた時期もあまり遊びに行くこともしませんでしたし。海に遊びに連れて行くなんてことも狭山おとうさんはしなかったです」

 ですよね、と僕の幼少期を知っている圭吾さんに確認を取る。
 そうだな、と幼い頃を一緒に過ごした大人の圭吾さんは、切なそうに頷いた。

「海もロクに行ったことないのに、海での仕事か。親父、考えていそうで全然判ってないんだな」
「これでも僕、色んな修行をしてますよ? 泳げなくても、あちらのテリトリーに入らずこっちのペースに相手を巻き込めばいいだけのこと。おとうさんは『僕でも任せられる仕事』と判断したんでしょう。海にわざわざ入ろうとしない性格の僕を見切ってのことじゃないですか」
「あの頭の固い親父がそこまで考えているといいんだが。まあ、何かあったら俺が守る。心配するなよ、ときわ」

 …………。
 圭吾さんって、得な性格してるよね。




 ――2005年5月23日

 【     /      / Third /      /     】




 /5

「観光用のパンフレットを貰ってきた。二人で見よう」
「…………」

 深く考えず適当な海沿いのレストランに入り、主食を注文せずに二人で座る。
 向かいの席に座ったブリッドは、店内に入ったというのに外出用のサングラスを外さない。メニューを見ることもなく、開いたパンフレットを見ることもなく、ただただ鎮座しているだけだった。

「実は、私は海というものにあまり縁が無い。生まれ育ったところは祖国でも森が深い場所で、一人で外に出歩ける年齢になってから海を見た。航空機の中からな」
「……はあ……」

 時折、申し訳程度に相槌をうつだけだったが、指でパンフレットの文を辿り急かすようにすると、ゆっくりではあるが話題に乗ってくれるようになった。
 サングラスも何度も注意することでやっと外してくれた。それも給仕が二、三度、氷水を汲みに来てくれるようになってからのことだった。

「ブリッド。海に思い出は?」
「……特に……」
「無いのか。近場に海がなかったのか?」
「……興味が……ありませんでした」
「そう言われると、うむ、そうか。嫌いな食べ物はあるか? 魚介が食べられないという人はいるだろう、食事に注意しなければならないことは?」
「…………。あまり気にしたことないです。食べたことがない物が多いだけですが……」
「そうか。なら新鮮に感じるものが多いな。楽しみじゃないか。私は甘い物を好む」
「それは……存じています」
「ん、以前話したかな?」
「……いえ、そうではなく……。お茶会で……甘い物をよく食しているな……と、思ってましたから……そうだと……勝手に……」
「そうか。見れば判ったな。あそこで並ぶのは、ときわ殿の手作りの菓子だからつい手が進んでしまうんだ。ときわ殿は料理が得意らしい、羨ましい話だ。私には料理の才能が全然無いからな。というより、一度も料理をしたこともない。何かと人に頼って作ってもらわなければならない。うむ、そのうち料理を学んだ方がいいな、次の時間があるときやってみるとしよう」
「…………」
「そうだ、今度ブリッドも料理をしてみないか。お前が作った物も食べてみたい」
「……はあ……」
「で、何処か行きたいところはあるか?」
「…………この辺りは、よく知りませんので……」
「だから、こうやって地図を見ている」
「……そう、でしたね…………」

 ぶつぶつと会話を途切れさせようとしているが、着実に話してくれるようになっていた。
 と、話していたらあることが気になってしまった。読んでいるパンフレットより意識がそちらに向いてしまったので、思い切って尋ねてみる。

「ブリッド、提案がある」
「…………はい」
「前髪を切らないか」

 ずっと無表情のまま俯き、時々パンフレットの絵を追っていたブリッドが、ほんの少しだが目の色を変えた。
 私の一言で驚きという新たな感情が生じてくれたらしい。彼の表情が変わることは、大変好ましかった。

「…………どうして、ですか……?」
「お前の前髪は長すぎる。髪の毛が目に入って視力が落ちる。邪魔だと思わないのか?」
「……そう言われたのは初めてです。あんまり気にしたことは……無かったですね。これぐらいの長さが、慣れていますから……」
「そんなに長いとお前の目を見られないじゃないか。只でさえお前は人の顔を見て話さない。ブリッドの悪いところだ。だから髪を切るべきだぞ」
「……けど。これはこれで……気に入っている髪型なので……」
「そうか。気に入っているのか。そう言われると、何も言えなくなる。もし外見を気にしてないなら、この場で店の者にハサミを借りて切るところだったが、そういうファッションなら仕方ない」
「…………すみません」
「いや、気にするな。ふぅ、とりあえず海辺でも歩くか。食事の話はそれからにしよう」

 何も決まらないのなら、違うことをして気分を変えれば新しい案に辿り着くかもしれない。
 そう思い、勘定を済ませてレストランを出た。
 空は青空。海風を感じる空気。
 潮の香りがする。爽快感を感じずにはいられなかった。
 私はそれだけで自然と笑顔になるのに、ブリッドは変わらず、外したサングラスをまた掛け直して、黙って後ろをついて来るだけだった。

「ブリッドは、何処か旅行に行ったことがあるか」

 尋ねてみるが、「いえ、特に」と予想できた返答をするのみだった。

「そうか、そうだよな。休みが無い生活をしていたんだから、行くにも行けないか。子供の頃、両親と何処かに行った記憶は無いのか?」
「…………。そんなの……」

 何かを繋げるような言葉を言った。そのまま、ブリッドは止まる。

「…………。ブリッド?」

 言うか言わぬか。とても長い時間考えた後、ブリッドは口を開いてくれる。

「母は、早くに病死して……。父も……事故で、亡くなりました。仏田家に引き取られて……兄もオレも、大変な目に遭って……」
「ん」
「……兄と共に……不必要な子供にならないよう努力をしてきた……つもりなんですが。…………あんな風に『馬鹿』と言われると……堪えます」
「ときわ殿は、お前を傷付けるために言ったのではないぞ」
「…………でしょうね。何度も謝って頂けますから……」
「謝って、それでも言わなければならないと思って、心を鬼にしながらお前を叱ったんだ。お前がときわ殿の家に尽くす理由は判るが、それでも」
「…………オレは……子供心に、捨てられないように必死だったんですよ……」

 絞り出すようにブリッドは語る。
 ああ、そうなんだろう。けれど必死になり過ぎているのが、事情をよく知らない私にも判ってしまうぐらいだ。
 ときわ殿も嫌がっている訳ではない。もっと休んで、自分の体を大事にしてほしい。そうすれば終わる悩みだ。あまりに断りすぎるとブリッドを心配してくれるときわ殿に失礼になる。
 それにお前の兄だってそんなお前を見たら……と言おうとしたとき、ブリッドは本当に辛そうな顔で俯いていた。

「………………気に障ったなら、すみません。もう……オレ……話しませんから…………」

 人は話し合って時間を共に過ごした方が良いという。
 笑い合えればさらに良い。出来れば楽しい会話で笑ってほしいと思うもの、だろう?
 だというのにブリッドは顔を俯かせたまま、サングラスで目を隠したまま、逃げるように私から背を背けた。何度も謝罪の言葉を繰り返しながら、接触に怯えるかのように。



 ――2005年5月23日

 【     /      / Third /      /     】




 /6

 ワオ。ヤだな、ここ。バリバリ、敵意向けられまくりじゃないか!

「ときわ、震えてるぞ。寒いなら上着、羽織るか?」
「王道なボケをしないでくださいよ、圭吾さん。でも参りました。お相手は結構強い霊力を持った異端かもしれませんね。ちょっと後ろずさりそうになりました」
「俺も微かにだけど、感じるぞ。でも俺に見える限りだが、大きな相手は四匹ぐらいじゃないか? 中で引き寄せようとしているのは一匹のように見えるし」
「ええ、僕もそれを言おうと思ってました」

 特別大きなボスっぽいのが一匹居るぐらいで、あとはウジャウジャ虫みたいに集まっているだけ。気持ち悪いだけで済むレベルだった。
 そうか、数で勝負の相手なのか。だから数、仕事をこなすブリッドさんが選ばれたのか。
 その考えはナイス、だが。ったく、おとうさん、選考基準も書類に載せるべきだよ。
 虚空から手に馴染んだ銃を召喚した。海の中に武器を持って駆け出す気にはなれなかった。遠くからじわじわと狙いをつけ片付けるしか、理性が考えてくれない。
 理性。そう、理性。片付けなきゃいけないという使命感が無かったら、こんな怖い所、一目散に逃げ出している。
 普通の人間だったらそういうもんだ。恐怖が塊で襲いかかろうとしているのを見たら、普通は身を案じて逃げるもの。やんなきゃいけないという感情が逃げたい想いを押し留める。
 けど他の無駄な考えが邪魔して動けない。それを制して、ここに居る。

「ときわ、いいな?」
「ええ、先程ミーティングした通りにいきましょう。一撃食らわせれば、きっと僕の方に目を向けます。あとは撃つべし撃つべしです。あちらに本気を出される前に、僕らが事を終わらせればいいだけです」
「そうか、時間が勝負だな。折角な綺麗な景色なのに、みんな判ってるのか、誰もこの辺には近付かない。悲しいことだな」
「あの大勢御一行が人々を寄せ付けないようしていますからね。この辺りに店を構える人達には、営業妨害以外の何物でもありません」
「ああ。全部綺麗になったら、写真を撮って帰ろう。きっと良い景色が写ってくれる」
「やめた方がいいと思いますよ。多分、残り香が写ります。心霊写真でお金を稼ぎたいなら止めませんが」
「そんなつもりはない。けど、折角だからお前みたいに山奥に住んでいる奴に、『海に来たんだ』って教えてあげたいんだ。寺に籠って出てこられない奴を、俺はあと一人知っている。俺は自由に外を歩けるんだから、『こんな綺麗な景色があるんだぞ』って、そいつに教えてあげなきゃいけないんだよ」

 …………。

「ん、どうした? 怖いのか? 大丈夫、いざとなったら俺がときわを守るよ」
「……あー、そうやって惑わすようなことを自然に言うのやめてくださいよ! 気が散る! 良い意味でっ!」



 ――2005年5月23日

 【     /      / Third /      /     】




 /7

 ――ブリッドは、ひどく大人しい性格だ。

 中庭で初めて出会ったときからそんな性格だと判っているつもりだったが、今日のときわ殿の話と、彼から途切れがちに聞く話で理解した。
 彼の二十年以上の人生の中、そのような性格にならざる得ない生活をしていたことは未熟な脳でも想像できる。
 自身の成長を支えてくれる両親を早く亡くし、兄がいるとはいえど自分と変わらぬ少年。支え合うにもお互いが不安定のまま、二人ともどうしたらいいか判らなかったんだろう。そんな状態で引き取られた家で、必死に『仕事』とやらについて行こうとする子供。その辛さが、判らなくはない。
 引き取られるまでにどんな想いがあったのか、知ることはできない。尋ねても話してくれない。
 だけれども、今の彼を構成する大きな要因があった筈だ。
 己の事にも気を向けず、ただひたすら働き続けるのは、到底自分には真似できない。
 真面目だなと思う。なんだか彼のことが好きになりそうだ。
 今、以上に。

 目の前には広がる青。上も青く、下も青い。
 近付こうと砂浜に立てば、じわりと足を取られる。すぐに足踏みをして、ここが海という特殊な場所であることを感じ取った。
 普段とは違う異世界。滅多に味わえない感覚。それを私は大いに楽しんだ。

 波が来る寸前の所に立つ。
 海が「こちらにおいで」と手招きしているように見えたが、ブリッドと話しているのでそれ以上は進まなかった。

「ブリッドは、『まだ倒れていないから平気だ』と言っていたな。だが、倒れてからではいけない。もう少し自分の体を大切に扱え」
「…………オレが倒れてしまうときは、潔くこの世を去る時でしょう。……そうだと決めています。それが、オレにとって……一つのゴールだと思っていますから……」

 その言葉に振り向く。
 彼は、こちらを見ず遠くに語りかけるように言っていた。

「どうして。そういうことを言うんだ、お前は」
「…………まだ判ってはくれませんか……?」
「判るって、何がだ」

 波打ち際から離れ、ブリッドに近付く。
 彼は私が一歩近付くごとに、一歩後ろに退いた。

「……今まで、オレは、誰にも迷惑をかけないように……力を尽くしてきました。それが叶わなくなったら……オレがいる必要も無くなります。だから、体がもたなくなったときが……最期。潔く断つ方が……他の方々の為にも、きっと……」
「お前ほど皆に信頼されている人間がいなくなったら、皆も困るだろ。自分を軽視するなとときわ殿も言っていたじゃないか」
「……ですから、オレは信頼されてません。どうでもいいから、どんな仕事でも割り当てられるんです。精々役に立って、為になってから、死ね……そういう意味でしょう。もう十年以上あの家に居るんですから……判ってます」

 声が先程より力強く、大きいものになっていた。
 心からそう思っていると言わんばかりに。

「ときわさん……いえ、ときわ様のような考えの方が、あの家では特殊です。いくらオレの頭が足りなくったって、十年いれば判ります……」
「お前は今まで運良く大きな病にもかからずいられるから、自覚してないだけだ。誰だって身近な人がいなくなれば悲しむ。病気や事故で親を亡くしたお前なら判るものだろう?」
「……その話はやめてください、癇に障ります」

 ……繊細な話題だった。「すまない」とすぐさま頭を下げる。
 するとブリッドまで頭も下げる。家族の話題が苦手なんだと、小さく付け加えながら。

「……アクセン様、今からホテルに帰ってください……」

 背中を見せながら、ブリッドは言う。

「どうして?」
「……オレは、ときわ様との『仕事』に戻ります。その為に……ここに来たんですから……遊んでいるだけなんて、できません」
「ときわ殿はしなくていいと言っていたじゃないか」
「何事も途中で手放せというのは、屈辱的と思いませんか……?」
「…………」
「……その任務に、自信を持っていればいるほど……。オレがどんな気持ちでここにいるか、判っていただけませんか……」
「お前はその仕事とやらを、生き甲斐だと思っているのか?」

 ……生き甲斐?
 ブリッドの肩がピクリと動く。その発想は考えてなかったと言うかのように。

「……ああ、言われてみればそうなのかもしれません……。それしか、悪い頭が思い浮かんでくれなかったといいますか。……『仕事』が出来ない今、不安感が生じてきていますから、そうなんでしょうね……気付きませんでした……」
「お前の生き甲斐、か」
「そうです。だから……今のオレは、生きている理由を奪われたようなものですよ。…………アクセン様がどうしてこの国にいるかは知りませんでしたが……オレがここにいる理由は、『アレ』だったんです……」
「それは、酷いことをしてしまったな」
「…………ですから、アクセン様は一人でホテルへ」
「断る。ホテルに帰れと言うならお前も来るんだ」

 がしりと、ブリッドの腕を掴んだ。
 彼の身体が強張るのが腕から伝わる。振りほどこうとする素振りを見せたが、構わず掴み続けた。

「…………オレの今までの話……聞いていなかったんですか……?」
「聞いていた。一字一句残さずこの耳で聞いていた。では逆に尋ねよう。お前は、私やときわ殿の言葉を聞き逃したのか?」
「………………」
「私達はお前の身を案じて休暇を提案した。無茶し過ぎていることを知って、必死に止めようとした。お前が倒れる姿など絶対に見たくないからな。そう何度も、ときわ殿は言っていた。あの利発な少年が、声を荒げてお前を止めていたんだぞ。今の私だってそうだ。だというのに、どうしてお前は聞いてくれない」
「…………」
「お前は生き甲斐だというが、死んでしまってはどうしようもない。生き甲斐は、生きてこそ生じるものだ。使えない体になってからじゃ何にも残らない、誰もがそう言うものだろう?」

 掴んだ腕を一度離す。
 でもすぐに今度は、――手を握った。掌を。

「頼むから、一人で背負いこむようなことをしないでほしい。それに私は、苦しんでいる友を見捨てる真似はしたくない」
「…………。友……ですか……?」
「友だ。茶会に何度も同席した友だ。違ったのか? ときわ殿だってそうだろう?」
「あの方は……未来の、主ですよ。あの家を担っていく、一つの柱ですから……」
「今の台詞をときわ殿の前で言ってみろ。グーで殴られてから訂正を要求されるぞ。そうでなくても、私はお前を大切な友だと思っている。自覚が無かったのなら、ここでハッキリと宣言しておこう。ブリッドは、私の友人だ。その友人から心からの願いだ」
「………………」

 ブリッドは何も答えず、長い前髪の下から、更にサングラスの下から……私を見ていた。
 長く長く沈黙が続く。波の音以外何も聞こえないぐらいの沈黙が続いた。

「返事はしてくれないのか」
「…………はい……」
「その『はい』は、どこに係る。『返事をしない』ことにか?」
「……いえ、……その……」
「どっちなんだ、ハッキリしろ」

 私の声に波の音さえも押し潰される。
 それからまた長い沈黙が訪れた。

「………………。はい……。貴方の……言うことを、聞く……の、はい……です……」

 けれど今後の沈黙は、ブリッドの方から掻き消してくれた。



 ――2005年5月23日

 【     /      / Third /      /     】




 /8

「グアフタヌン。ただいま帰りました。二人とも、お元気ですか」
「ああ、ときわ殿。ご機嫌だな。仕事とやらは終わったのかな」
「イェスイェス。ちょっと手が掛かりましたが、なんとか無事終わらせることができました。予定した時間通りに戻って来られましたよ」
「ふむ、それはなにより。しかし、ずっと気になっていたんだ。仕事とは何をしてたんだ。危険なことというのは一体?」

 アクセンさんが伝統芸である質問攻めをしてくる。
 と、どかりとソファに座った圭吾さんがすかさず回答をしてくれた。

「清掃活動だよ。崖の下に山ほどゴミが溜まっていてね。二人で地球を綺麗にしに励んできたよ。この辺りは毎年心無い海浜客が大量のゴミを海に流しては、漂着したゴミが折角の美しい景観を汚すんだ。だからそれを綺麗にね」

 なーんて、美しい回答を。
 ……圭吾さん。その言い訳は、ちょっと。

「人々の心を穢すゴミが美しい景色に潜んでいる。それを払う。ピッタリな言い訳になるじゃないか。こう言うと、如何に俺達家族が人々の為になっていると思えてくるだろう? この上ない素晴らしい言い分だ」
「ですけど……物凄く、うちがボランティア団体っぽくなりますね」

 崩れて人を害してしまう廃棄物を回収、エコロジーに自分達用に改造、リサイクル。
 ああ、本当に素晴らしい言い分だ。圭吾さん、エクセレントすぎますよ。

「なんと、そのようなことを。ときわ殿。さぞ肉体労働だったろう?」
「え、ええ。あまりにゴミが多かったので、明日は筋肉痛ですね。こんなこと一ヶ月三回もやってたら体を確実に壊しますよ。しかも慣れない海での作業でしたから、余計な労力を使う羽目になりましたし。でもとっても遣り甲斐のあるお仕事でした」
「ブリッドはそんなことを毎日やっていたのか。しかもまだ日が昇らない頃から……そんな状態で茶に付き合っていてくれたのか」

 それを聞いて、ついつい笑ってしまう。
 なんか、それだけだとブリッドさんが物凄く好青年に思えてきたな。ボランティア清掃に励んでいるだなんて……。良い勘違いだから訂正はしないけど。

「…………アクセン様……」
「なんだ、ブリッド」
「……ときわ様……いえ、ときわさんが戻って来たことですし、食事に行くのはいかがでしょうか。結局お二人が帰って来るまで何も口にしなかったですし……」
「うむ、それでいいか」
「あれ、アクセンさん。食事をしなかったとしたら、僕達が外にお仕事に行っている間、何をしていたんですか」
「ん、話をしていたぞ」
「何の観光地にも行かないで?」
「ああ。ブリッドが、何も注文してくれなかったからな」
「僕じゃないんだからあの性格のブリッドさんが我儘を言う訳ないでしょ。アクセンさんから誘ってあげなきゃダメじゃないですか」
「しかし気が乗らない人間は無理強いをしてはいけないと言うだろう?」
「少し強引なぐらいが人間嬉しいんですよ。強引に仕事を休ませたんですから、その調子でいってください。という訳で、食事も二人で行ってきてくださいね」
「ふむ。少し強引なぐらいがいい。覚えておこう。ときわ殿はどうするんだ?」
「僕は圭吾さんとどっかに行きます。圭吾さんもいいでしょう、それで!」

 肉体労働後、ソファで寛ぎ始めている三十路突入に視線を、強めの圧力をかけて向ける。
 そんな圧力、物ともしない圭吾さんだって知っているけど。

「俺は構わないが。でもさ、ときわ。俺とだけじゃなくてご友人さんとみんな一緒に食事をした方が楽しくないか?」
「いいんですっ! 圭吾さんは嫌なんですか、僕と一緒に食事をするのが!?」
「いや、決してそうじゃないよ。でもみんなで騒いだ方がいいと思ったんだが」
「私からも頼む、二人きりにさせてくれ。ブリッドともう少し二人で話をしたい」

 オヤ、積極的なお言葉。
 僕の為に言った台詞だったけど、そういう反応になるのはなんだか好ましい。

「そうしてください。彼、奥手なんですからリードしてあげなきゃダメですよ」

 寛ごうとしている圭吾さんを外に出そうと僕は急かす。
 って、なに圭吾さん、もう靴下脱いでるんだ。プライベートに入ったときのおとうさんみたいなことやめてよ――。

「ブリッド。何処に行こうか決めてくれたか?」
「…………ホテルのレストランでいいと思っていたんですが……」
「なんだ、あれだけ時間をかけて調べていたから違う場所に行くと思ったぞ。またあそこでいいのか? いつも仕事とやらをするときも、ホテル内で済ませるのか」
「……普段、一人なので……ルームサービスを使いますから」
「一人で仕事をやっていたのなら、それも仕方ないな。もしかして人混みは嫌いか?」
「……得意ではありません。……一人の方が気楽です」
「けど、お前は茶会に付き合ってくれる」
「…………それは……貴方が…………」
「まあいい、レストランに行こう。そこで沢山話をして、お前のことをもっと詳しく知ろう。ブリッドも私のことをもっと知ってくれ」
「…………。今も、アクセン様の話を……聞いて、いますが……」
「もっとだ。友人のことをもっと知りたいと思うのは当然だろう? 私とお前は、出会ってたった数ヶ月しか経っていない。もっと私のことを知って、私と仲良くしてやってくれ。代わりに私はお前のことを気遣うから」
「………………」
「休みたくなったら休め。私のことが嫌になったならそれでいい、無理はするなよ。無理強いはしない。だが、知ってほしい。きっと私とお前は仲良くなれる」

 ――おっと? ちょっと横から覗いただけだけど、

「…………はい。ありがとうございます……もっと、貴方のことを……勉強、します……ね」

 ブリッドさんってあんなやわらかい表情も出来るんだ。意外だ。



 ――1990年7月16日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /9

「これこれ。髪を濡らしたままではいけませんよ。風邪を引いてしまいます」

 女中の一人が、僕に話しかける。
 お風呂から出た後。兄達ではなく、『僕だけ』に声を掛ける僧は多かった。僕の名は祖母を通して寺中の人に伝えられていたから、僕自身が知らなくても相手が知っていることは度々あった。

「だって、乾くのなんか待っていたらテレビ番組が終わっちゃう」
「濡れたままでは折角の御髪を傷めてしまいますからな。お母様譲りのこの美しい髪、大事にしなくてはなりませんよ。判りましたか、慧(けい)坊ちゃん」
「…………はあい」

 渋々と僕は、女中らに身を任す。
 母親の髪など考えたことのない僕には理解できない言葉だったが、「濡れたまま布団に入れば翌日爆発する」ことぐらいは経験で知っているので、従うことにした。
 僕は女の子に間違えられるような顔立ちをしている。僕には兄が二人――瑞貴(みずたか)と陽平(ようへい)という――いたけれど、彼らとはあまり似ていなくて、僕だけが女の子のようにぱっとした顔立ちをしていたらしい。殆ど同じ時間に生まれた兄弟なのに、一番下の僕だけが母親に似てしまったらしく、外に出ても女の子と間違えられた。
 本物の女の子だったら「お母さんそっくりの綺麗な髪」と言われても喜べる。でも僕は、男だ。大股で歩く瑞貴や陽平と同じ、男なんだ。
 それにまだ思春期すら迎えていない僕には腹が立つこともない。喜びもしないし、カチンとくることもない。女の子扱いされても、「なんでそんなことするのかな」としか思えなかった。

「僕の母さんって、どんな髪だったんですか?」

 自分の外見や髪質なんておいといて。話題に上がった母のことの方がよっぽど気になる。
 濡れた黒髪を梳かしてくれる女中の一人に尋ねてみる。
 今、髪を梳かしている女中のようなお手伝いさんはいる。でも、特定の屋敷内には女性は立ち入ることはできなかった。浴場のあるこの屋敷ではお手伝いさんは入れるけど、隣の屋敷には入れない。そういう仕来たりがあるのが仏田寺という所だった。
 ちなみに……女性を立ち入ることができない屋敷、というのは語弊がある。正確には、「仏田一族しか立ち入れない屋敷がある」。僕の知っている限り、一族の中で女子はいない。男しかいない。外から来たお手伝いさんが入れないから、極論女性はいないってだけだ。
 僕の母も仏田一族に嫁いでおきながら一族を名乗ることはできずにいた。彼女は今、遠く離れた所で過ごしている。……子供が使わない難しい言葉でいうと、離婚した、らしい。
 父の子供を無事三人産めたから、役目を果たしたから。
 母のことを言われても思い出せないほど、遠い昔の話だ。

「そりゃあもう美しい御髪でしたよ」
「……人の母に向かって散々な事は言えないでしょう。そうでなく、具体的に言ってはくれませんか」
「いえ、世辞でもなんでもなく。慧お坊ちゃんのお母様……武里(たけさと)様は、とても美しい方でしたから。流石、高名な巫女だけはあります。その全てを引き継いだお坊ちゃんは、大きくなったらお母様を越える能力者になるでしょう」

 このとき、この僧はとても難しい言葉を言った。よく覚えていないが、「母がとても素晴らしい存在だ」ということを口にしていたと思う。
 けれど、滅多に会わない人のことを聞いても「へえ、そうなんだ」としか思えなかった。自分の髪の毛を触ってみても、三つ子の兄達とどう違うのかよく判らない。
 ただ一連の流れをよく見渡して思うことは、僕が……とても大切にされているということ。兄達には決してそんなことを言わず、僕だけを大事に髪を梳かす女中達が何人もいたから、贔屓されているというのが薄々感づいてはいた。

 ――乾かした髪で目覚める朝は、清々しい。
 その日は小学生も高学年になって、遠足の前日。
 何気なく暑い庭を散歩していると、何かの叫んでいるのが見えた。

 聞いたことも見たこともない何かに、僕は好奇心で動き始め、何者かも判らない方角へと導かれていく。
 こっちだと進んでいく。僕の周囲には兄弟や年の近い者達(梓丸さんや芽衣が幼馴染にあたる)がいたが、彼らは何にも感じなかったという。
 でも僕には何かがあることに気付けた。気になるんだと主張し、それがある方向へ歩いて行った。

 その方向とは、寺の裏側にある山だ。
 かつて採掘で賑わった所で、工事の看板だけが立ち並んで今は何も無い。不法投棄の山でもあるので子供だけでそちらには行ってはならないと常々言われていた。僕は大人の言うことをよく聞く子供だったので、その先には行かずにいた。幸い、僕が求めていたものは森の手前にいてくれたから、怒られずに済んだ。
 何かの正体は、一匹の小さな子犬だった。
 子犬はとても小さく、ボロボロの毛皮を纏っている。今にも事切れそうだった。いかにも死にかけの生物。僕についてきた周囲の誰もが息を呑む。
 けれどそんな中、僕だけは冷静にその子犬を見つめることができた。
 だってその子犬は高いところで遊んでいたし、そこから馬鹿なことに落ちてしまって大怪我をしたのだから、自業自得だと思った。
 誰かに落とされたとか自分の不注意だったなら、僕も同情しただろう。でも子犬は自分を過信して、自ら高いところを選び、飛び降りた。その結果が大怪我だ。弁解の余地は無く、どう考えても子犬が悪い結果だった。

 そのときの僕は、子供ながら『何か』が欠落してたのかもしれない。
 ううん、逆に道理を理解し過ぎて冷徹になっていたのか。
 自業自得の子犬を自分で発見しておきながら、自分の中で納得した途端、子犬に興味が無くなった。
 踵を返し、子犬から離れた。僕を呼んでいた声の主がどのようなものか判った途端、声の主がどのような状態で苦しんでいるのかなど、気にならなかった。
 ……正直に言うと、他者を助けることに興味など持てなかった。心優しい正当な子供であれば苦しがっている動物を見かけたら救ってやるものだけど、冷たい子供だったからそのときは何とも感じなかった。

「それはどうせ、助からない命なんだから」

 一言、言い放つ。
 流石に「それはおかしい」とついてきた兄の陽平が子犬を抱いて、大人の元に駆けて行く。……まあ、すっぱりと話してしまえば、その子犬は一日ももたなかったのだけれども。
 どこまでも冷静で冷徹だった僕は、子犬の生涯が見えていた。
 なんとなくでも、自業自得に命を削った子犬の最期を見たときに知っていた。
 何も知らぬ子供なら助けようと四苦八苦してたかもしれないけど、僕は結末を知っていたから何もしない。

「どうせ助からない命なら、わざわざ自分の手を使わずとも」

 ――さてその夜。僕は父親にとある部屋に来るよう呼び出された。
 明日は小学校の遠足がある。だから興奮して、夜更かしをしていた。夜遅くに呼び出されても眠くはなかったと確かに記憶している。
 呼び出された広い和室には父の一本松以外に、叔父の銀之助や親戚の男達、重役である祖父母まで居た。
 物々しい雰囲気で包まれている。意識が覚醒していたからいいものの、真夜中に小学生の子供を取り囲むとは何事だ。中央に正座して大人達の発するであろう言葉を待った。
 すると、祖母の清子(きよこ)様――おそらくこの家で一番偉い女性――が、一匹の鼠を檻から取り出した。
 小さくか細い鼠だ。祖母の掌の中で、僕と同じように大人しく鎮座する鼠。それを僕に見せつけながら、祖母は言う。

「この者の、貴方の知ることを全て話しなさい」

 一字一句間違いなくそう言ったのを、よく記憶している。
 何か試されてるなと思った僕は、笑われるのを嫌がり、自信を抱きながら言い放つ。

「三日前から食事ができないなんて、もう死ぬしかないなと絶望しています。殺すならいっそ殺してあげた方が」
「……何故、そう思うのです?」
「え? だって、ただ……僕は『知ることをすべて話した』だけですよ?」

 自信を持って答えたことを「何故」と訊かれて、首を傾げた。
 だって祖母は、掌の鼠を持って『こいつの知っていることを全部言え』と言ったじゃないか。僕は知っている限りのことを話しただけ。なのに、「何故」とはどういうことか。
 答えろという質問に応じられなかったのか。そうでないだろう? 僕の方が何故だと尋ねたいと、大人達をむっとした目で睨みつけてしまう。
 やはり僕は、子供のときの僕は、気付いてなかった。自分の中で当然の器官が、他人には無いものだったなんて。

 一度も見たこともない鼠のことを、どうして知っている。三日も食事をしていないことを、どうして知っている。どうして、一切疑問を持たない。
 ――鼠を見た途端、鼠の生涯がパアッと僕の中で弾けたんだ。三日間、何も口に出来ず苦しんでいる鼠を、僕は僕の中で見ていた。
 鼠は嘆いている。死ぬしかない。もう食事にはありつけないんだ。
 どうしてそんなことが判るのか訊かれても、僕自身判らなかった。
 自分の中にある当然が世界の当然とは違うと気付いたのは、祖母に敢えて指摘されてから。祖母が、僕の頭を撫でながら言う。

「…………川越様のことを話してごらん」
「はい」

 ――知っている限りのことを話した。
 はて、どうして『会ったことのない誰か』のことを話せたか。やっぱり改めて考えてみても判らなかった。

 それ以後、色んなことを色んな人から質問されるようになった。
 質問されて答えられることは極力答えたし、答えられないと思ったら判りませんと正直に話した。
 判らない質問の方が多かった。でも、判ることも確かにあった。本当に彼らはそんなこと知りたいのかと疑問に思うほど馬鹿げた質問が多いけど、大半には答えることができた。
 質問の意図は「知りたい」からじゃなく、僕を試すため。僕がどこまで『この世のことを』知っていて、どこまで知らないのかを調べるため、長い時間が費やされた。
 会ったことのない鈴木さんの寿命を言えと言われたら答えることができたが、会ったことのない佐藤さんの寿命を言えと言われても知らないから答えることができなかった。
 この違いは答えている僕にも判らなかったが、『知らない筈の知っていること』と『知らないままのもの』が僕の中にはあった。

 ――僕には、過去を視る力と、未来を視る力の両方が授けられていた。
 この力は素晴らしいと皆に拍手された。大勢に取り囲まれて拍手されるなんて思ってもみなかった。
 そうして皆は言い始める。「お前はその力を皆に使うために生まれてきたんだよ」と。

 そんなの、口からでまかせだ。
 祖母達は、この一族の求める『全知全能の神』が僕なのか試していた。
 多くの事を人より知っていたけれど、彼らの求める『全知』ではないのは、答えられなかったことが多かったから明らかだ。それでも僕はそれに近い者として、彼らに試され続けた。『全知』でなければ一体何なのか調べるために、大人達は僕を取り囲んで、様々なことを試してきた。
 質問の内容は広く、大人達の数が増えていくたびに僕は答えられなくなり、時間を幾時間も費やした。
 五日間続いた。五日間丸ごと、ずっと続いた。
 彼らはあらゆることを尋ね、僕は答えられる限り話した。遠足なんて誰も覚えていないぐらいに、質問は夜から夜まで続いた。
 日が明けて朝が来て、僕がずっと遠足のことを気にしていても、僕の中身を確かめるために質問は続けられた。
 五日間その部屋で暮らし、僕の中を隅々まで調べ尽くされた。

 この忌まわしい記憶をここまで鮮明に覚えているのは、『みんなで行くのを楽しみにしていた遠足』に行けなかったからだ。
 それが恨み溜まって一生忘れないまでのトラウマになってしまっている。
 五日間はとても単調で、訊いてくることをただ答えるだけ。あまり苦痛に思えないが、お腹が空いた子供を放っておいて、我儘な質問をぶつけてくる大人の図は恐ろしかった。
 すっかり委縮している子供を、ああではないこうではないと大声で取り囲む。その中には僕を否定する言葉が沢山あった。「こんなことをしても無駄」という声だってあった。少なくない人間に無駄と言われながら、その無駄に付き合わなければなかった。
 寝る間も、食事をする間も惜しんで、五日間。たった五日間の、一見平凡にも見える――拷問。僕の中にある『当然』を、何故だどうしてだと問い詰める者達。
 それを不気味に思いながらも滑稽だ、馬鹿馬鹿しいと思い始めていった。

 ――貴方達の求める神でもなんでもないって判っているのに、どうして解放してくれないんだ。

 やがて、全ての質問に正しく答える意味なんて無いんじゃないかと思い始めてきた。五日間続いたと言ったが、最初の五日間がぶっ続けだっただけで、それからも休みをおいて質問は続いていく。
 六日目に、久々に太陽を見て、すぐ拷問の部屋に戻された。
 七日目に、久々に体を清めて、すぐ拷問の部屋に戻された。
 言いヶ月目に、久々に兄らに会った。
 三ヶ月目に、久々に学校に行った……。
 こんなことをされて僕の中の当然が異常であると気付かないほうがおかしい。こんな物々しい扱いを受けて、当然が疎ましくなっていった。

「慧の髪は、とてもお綺麗だねえ」

 数ヶ月目のある日のこと。
 祖母の皺の多い手がゆっくりと僕を撫で、言った。

「なんでも、いつかの姫はとても美しい髪をしていたそうだよ。お前の髪はそれを受け継いだのかもしれんねぇ」

 祖母もまた、いつかの女中達と同じように「僕の髪は綺麗だ」と言ってくれた。
 でも、祖母がそう言った瞬間、皆は『母が美しい』ではなく『父の先祖が素晴らしい』と口揃えて言葉を変えていった。
 会わない母でも、否定されると子としては辛い。
 ご先祖様を非難するつもりは無い。けど、実母の扱いがぞんざいにされているような気がして、その褒め言葉を巧く受け止められなかった。
 ――会ったことのないご先祖様のことより、身近な母の方が褒められて嬉しいものさ。
 僕の中身を調べられることは続く。ちょっとだけ外に出させてもらうこともあったけど、一定時間が過ぎればまた拷問部屋でチェックが始まる。
 ――どうしてこんな生活になったんだ? 数ヶ月前までは、兄と一緒に学校に行っていたのに。……遠足の前日に、子犬の運命が判るって皆にバラしてしまったから?
 そうか、あのときか。僕は深く悔やんだ。
 あんなことを口にしなければこんな目に遭わなかったのか。思ったことを口にしただけでこれほどの地獄が待ち構えていたのか。
 言わなきゃ良かった。話さなきゃ良かった。……誰にも話さなきゃ良かった。誰とも口をきかなければ良かった!
 僕自身を晒してしまったばっかりに、苦痛を味わっている。

 毎日、僕は何者かと言われ続ける日々。
 拷問部屋で暮らす日々が人生の大半になった頃。質問責めの時間が終わって、僕が鏡の前に立ったときのこと。
 小学生の時よりずっと成長した僕は、とても髪が長くなっていた。
 兄弟達のような男の子ぽさは無く、髪を切る時間さえも拷問に費やされ、いつの間にか本当に女の子みたいになっていた。
 自分は紛れもなく男だが、女の子のように扱われるのはそれほど嫌じゃなかった。でもそういえば、『全知全能の神は女であるべき』と常々言われていたような気がする。
 まさか。……まさか。…………まさか?
 いや、僕は何を考えているのか。そんな理由で、僕の顔が? 『神』に近いから、他の兄弟と違って……? いやいや、まさか! 顔なんて、男子は母親に似るものだっていつか見たテレビ番組で言っていたさ! だから、なんで……そんなことを考えてしまったんだ!
 肝心な疑問は判らないという、実に僕らしい話。こんな中途半端な知恵を持った者が『全知』な訳がない。程遠い!
 だけど、一族にとっては放っておくことなどできない貴重な存在になってしまった。
 ――限り無く成功例に近い失敗例――それが、僕。
 鏡の前で僕は、女の子のような僕は、僕に問いかける。

「僕は、結局、どこまで知っているんだ?」

 それを調べたくて大人達は、僕ごときの相手で必死になっている。数年も僕なんぞにかかりきりになって、もっとやることがあるだろうに、僕を取り囲んでいる。
 最初はどうでもいいと思っていたけど、僕も、知りたくなった。
 その答えが見つかれば僕も、彼らも自由になると思ったからだ。
 問いかけて、答えは、出てこなかった。
 僕の中途半端な知識の一つだったようで、『判らない』という感情だけが浮き上がる。その割には、――今日もどこかで誰が死ぬとか、あっちの彼が恨みを持っているとか――どうでもいいことばかりが僕の中で生まれていく。
 皆が知りたい肝心なところが抜けていて、僕は、そろそろ絶望しかけてきた。

 鏡の中を覗く。すっかり子供の顔つきではなくなった僕が映っている。
 母親似だからこういう顔なんだよな。成功例に近いからこんな顔じゃないんだよな。……判らない。
 硝子を見ればどこにだって僕の姿は映る。僕は何だ。僕は何者だ。判らない。でも隣に居る人は明日死ぬ。ほら、明日になったら死んだ。判った。目の前の獣は明日死ぬ。そら、明日になったら死んだ。これは判る。
 あの化け物はどこにいる。あそこにいる。判った。正解だ。じゃああのお化けはどこにいる。判らない。失敗だ。あの男はどこにいる。判った。成功だ。あの男はどうやれば殺せる。判った。成功だ。あの男はどうすれば。
 判った。成功だ。判った。成功だ。判った。失敗だ。判った。成功だ。
 鏡の中を覗く。あの質問を繰り出す。僕はどこまでを知っているんだ?
 判らない。失敗だ。
 自分が何者なのかと考えるなんて年をとればいずれ来ること。判らない。失敗だ。そうだ、まだそのときじゃないんだ。いつか来る答えを求めて僕は待つ。判った? いいやまだ。失敗だ?
 手段は無く、唐突に舞い降りるであろう天啓を待ち続ける。無謀で、無駄で、無意味にも思える行為。誰もが求めていそうで、正直僕なんぞには興味無い行為。思春期と相まって、僕はどこまでを見ればいいのか判らなくなる。
 自分で自分を質問するたびに苦悩して、破裂しそうになる。
 堂々巡りが胸を襲う。僕が問いかける何気ない質問が、僕を抉る。
 僕は僕の事を知りたいと思いながら、知ろうとすると苦痛が蓄積する。苦痛を受けないようにするために僕のことを無視する、僕。僕は僕に対し無頓着になり、無表情の無感情になり、自分を顧みなくなり、僕は苦痛を溜めていく。この苦悩は何だ。考えるたびに苦しさを覚えるなんて、生きることに苦痛を味わうかのような生活。これが普通の人間の生活なら仕方ないが、僕の周りでも日常的に起きていることなのか? 自分が何者か判らずに自滅することは、それほど日常茶飯事なのか?
 苦悩し自分に負けてしまう子供はいる。僕一人が苦しんでいる訳じゃない。同い年の者達がぶつかる苦悩だと『知っていながら』、結局この苦しさは自分にしか『判らず』、僕は『答えの出ない』、苦痛の日々を送る。
 僕は知っている。理由も判らず、物事を知っている。いや、理由はある。神に近い者だからだ。でも、僕は知らないことがある。では神ではないということだな。理由も判らず知ってしまうのは何故だ?
 お前は結局どっちなんだ、もっと知っていることを話せ。話す、話す、話す。そして過ぎていく時間。時間を幾ら失おうとこれは質していかねばならない。お前は何者なのかと。僕は知らない。理由も判らず、僕は知らない。問い掛け、問い続けてもずっと判らない。潰されていく時間。無限ではない僕を見通す時間を全て費やして、それでも。僕は何なのかを考えて。考え続けて、結局、何も判らないまま。判らなくて悩んでぐるぐる。ずっと判らないままぐるぐる。意味が判らなくてぐるぐるぐる。何も判らないまま、ぐるぐるぐるぐる。ぐる、ぐる、ぐる。同じところに、いつも、戻ってくる。何も考えられなくて。あれおかしい。考えて探しているのに何も考えずにあれ、あれ。僕は知っているのに、答えられない僕がいる。ただでさえ落胆されることが多いのに。周囲は何でも知る僕を求め、期待の目で問い続けてくるのに。判らない答えなど、考えない方がラクだ。でも判らない答えを正してあげなくては、皆が。自分が。考えないのがラクなのに、考える。考えてもちっとも考えられない。考えた結果が何も見出せない。判らない答えなど、考えない方がラク。でも判らない答えを正してあげなくては。考えないのがラクなのに考える。考えてもちっとも考えられない。考えた結果が何も見出せない。何かを出すためなのに。何も出てこないあれ。あれ、あれ。何も考えない方が。だって皆は言う。「お前はその力を皆に使うために生まれてきたんだよ」と。そうだろ、だから何かを考えないと、あれ。あれ、あれ。



 ――1994年7月31日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /10

「僕に出来ることなんて無い。そうだ、死んでしまおう。」

 僕は空へ走った。



 ――1994年8月1日

 【     /      / Third / Fourth / Fifth 】




 /11

「……おかしい……のは、判ってるんですよ」
「判ってる、のかい?」
「ええ……ごめんなさい、おかしくなったから、あんなことをしちゃったのも、理由は判ります。ほら、僕……今、十四歳じゃないですか。そういう病気ってあるでしょう……あの、格好悪いやつ。あーゆーのに罹ってるんだって判ってるのに……その病気から抜け出せないだなんて……馬鹿だなぁ。ごめんなさい、あれ……そうですよ、あれだ……やっぱり僕、おかしいんだ……」
「君は知識だけはあるみたいだね。第二次性長期になると言葉に表せないイライラを気にした子は多くなる。君達の体を作っている物質が体内で戦争を起こしているからなんだ。でもね、それだけでは説明できない心の問題がある。それは、一くくりに思春期だからって言い表せない。一人一人に応対した個人の問題があるんだ。……『多くの子が罹る病気』なんて、自分で間違った納得をしない方がいい」

 病室のベッドの上。
 崖から飛び降りたのに、目覚めたら病院の中。
 寝転がりながら喋る僕の隣で、椅子にどっかりと座って話す彼は……そんな話をしてくれた。

「でも……事実、そういう病気なんじゃないですか、僕って。ごめんなさい、あるでしょう、自分がよく判らなくなって、自分がどうでもよくなる病気。……こういうのって、時間が解決してくれるやつなんでしょう? それぐらい知ってますよ、僕……。時間が解決してくれるなら……解決してくれるまで、何もしない方がいいのかなぁ。だって、何か考えてるとつい悪いことしちゃうんだもん。……あ、それって……もしやひきこもりってやつで、そうか、あれか……参ったな、全然格好良くない」
「慧。君は世間の目を気にしすぎだよ」

 椅子の上で僕を心配する白衣の彼は、僕を励ますべく口を開いてくれている。
 彼は医者だから、病人を元気づけるのが仕事だから。僕に話さなきゃいけない人なんだ。それぐらい、知っている。

「ごめんなさい、でも、気にしますよ。世間には、いっぱい人がいるじゃないですか……。特にうちには、うちの中なのに、世間があるんです。いっぱい僕を見たがる人達がいる。僕自身を評価する人もいれば、僕を漏斗に親を評価する奴らもいっぱいいる。お母さんは、凄い人なんです。みんなそう言ってます。なのに、息子が、自殺未遂でひきこもりだなんて、ああ、考えただけで申し訳ない。もし僕が親だったとして、そんな息子、考えたくもない……」
「はあ。君は、君がした事を『過ち』と思うのかい?」

 言われて、飛び出した崖の光景を思い出す。

「…………はい。間違いです。でも……飛び降りて終わってしまえば、この堂々巡りが……ラクになれると思ったんです。自殺が悪いことだと判っているのに」
「それは違うと思うなぁ。はあ、慧。自殺も、周囲から離れることも、一体何が悪いんだい?」
「……何が? 何って……悪いことだらけじゃないですか」
「何がだい。君の口から言ってくれなきゃ、先生は判らないよ」
「……先生は、お医者さんだ。その答えを、知っているのに?」
「知らないよ、君の答えなんて。先生が知っているのは、あくまで今まで『蓄積させた知識』に過ぎないからね。君の中にあることは『君の言葉』で通してからじゃないと、知るよしもないじゃないか」
「…………。長時間、社会の活動に参加しないことは、この国の労働の義務に反するからいけないことだと思います。自殺も……生まれたからには死ぬまで生きろと言うじゃないですか、だから……」
「ふう。それは君の考えかい?」
「…………。昔の……法律と道理を考えた人が作った言葉です。とても……良い言い訳だと思います」
「そうだね、じゃあ、先生が聞きたがっている答えを言ってもらおうか。……先生はね、『君の考える自殺の良し悪し』を尋ねているんだよ。難しいなら質問を少し遠回りしようか。君は『空を飛ぼうとした』けど、どうしてそうしたのかな?」
「……高いところから旅立てば、死ねると思ったからです。あの崖から落下すれば、ラクになると信じてました」
「はあ。どうしてそうしようと思ったの?」
「…………もう、何も、考えたくなかったんです。何の寿命はいつまでだとか、あれは何処にいるとか、あの娘の恨みはどれほどだとか、どうすれば殺せるだとか、何をしなければ死なないとか、そんなのばっかり! 誰かに訊かれるたびに、僕はそのことを考えなきゃいけなかった。その人の生涯の重さとか。その人の恨みの辛さとか。全然興味ないのに……僕が考えなきゃいけない。それ……他の人には判らないけど……結構辛いことなんですよ」
「うん」
「だって……僕一人の辛さだって苦しくて堪らないぐらい辛いのに、一日に何人も、何回も考えさせられるんだ。考えれば考えるほど重みは増して……辛くなってきて……それなのに僕自身のことなんて考えたら……余計に体が重くなって……もう、何も考えたくなくなった。考えられなくなるためにはどうしたらいいかまた考えて……苦しくなって……やっと辿り着いた答えは、安直な考えでも確実なものでした」
「それが、自殺?」
「安直で愚鈍な考えだって知ってますよ、判ってますよ……。生んでくれた親に申し訳無いし、自分で解決する中で一番周囲に迷惑のかかる終わり方だってぐらい、過去の事例を調べるだけで馬鹿げた行為だってことは判ってる。でも……変に考えたくない、思考を働かせたくない僕には、それ以外……高等な答えが見当たらなかった。それが……最も良い結末だと思った……死にたい……息をしながら死んでいく方法が見当たらない……なら息を止める方法を……単純だ……そうだ、ここは山なんだから、駆け出して、あそこまで届けば……。そう僕は思った……おかしいでしょう?」
「ううん。苦痛から逃れるために自分を傷付ける手段は、なんらおかしくない。実に自然なこと。だから先生は、決して君の行なったことを否定しないよ。考えるたびに苦しくなって逃げ出したくなる……それは誰だって当然じゃないか。人間は水の中で息が続かないなと思ったら、陸に上がって来るだろう? それは、水中が居場所じゃないからね。場所を選んで、人は生きやすい方向へ逃げてくるんだ」

 ……居場所……?

「考えることをやめれば苦しくなくなると、君は言う。だから考える手段を断つために、身体を殺すことに決めた。これになんら罪は無い。だって、君は君に優しくなるために必死になって、考えた先にあったものが、それだったんじゃないか。それは君が選んだ、君を想っての優しさだ。何者でもない君の為の行動を、どうして『悪』と称せるか。……君が取った君自身を守る行為を、否定する必要は無いんだよ。……先生は立場上、自殺を推奨することは許してはならない。けれど君が懸命に守ろうとして頑張った経緯は、いけないことだとは思いたくないな。出来れば、一生懸命守ろうとするものが命ある形で守られたらもっと嬉しいと思うんだが」

 椅子に座っていた白衣の彼は立ち上がる。
 近寄るなりベッドの上で投げ出していた僕の手を、握った。

「さあ、これからが問題だ。君が一人で考えてきた。今度は、先生達といっしょに考えていこうか」

 …………。

「君は君の為に頑張った。一人で答えを出すように頑張ってきた。じゃあ今度は、先生と君、二人で頑張ってみよう。今までの選択も悪くないけど、もっと皆に睨まれない選択を見つけ出せる筈だよ」

 ………………。

 僕は、判っている。判っている……この人が言っている台詞は、マニュアル通りの、患者に向けて話す言葉だってことを。
 情緒不安定な子供に話す決まり文句だと、知っている。僕の中で弾けた過去たちがそうだと教えてくれているから、僕一人に向けてくれた言葉でないと、判っている。

 ――それでも。不特定多数に向けられた言葉だとしても、今、僕だけに話しかけてくれている事実に……騙されそうになってしまった。
 いや、騙されてもいいかなと、感じていた。
 もう既に何人もの不安定な子供達がこの言葉に救われてきているなら、僕もその一人になっていいのかと思った。
 それとも、僕一人は……そんな言葉は本に書かれた薄っぺらなものだと言うべきか。
 事実を判っているだけに、苦悩した。意地汚く苦悩をしてみせた。
 面倒くさい子供だと思われたとしても、苦悩してしまった。

「君は、何でも知っているんだったね?」
「……いえ、何でもという訳ではないんです」
「へえ。学校のテストも楽勝だったか?」
「…………はい。特に数学は、考える暇もなく答えが出てくるようなものでしたから」
「はぁ。式を見た途端、答えが浮かんでくるものとか?」
「はい……巧く説明できないんですけど。僕の知っていることって、『事情』と言うより『事実』なんですよ」

 『1+1=』は『2』ってパッと思い浮かぶ。でもそれは、一つのものがもう一つあるから二なんだ、ということじゃなくて、二だから二だ、と頭の中に描かれる。式を見て、答えは二なんだ……ってカンジだ。
 陽平……二番目の兄が一日悩んで解けなかったなぞなぞを、僕は二秒で解いちゃったことがある。あれは……質問の意味を理解して答えたんじゃない。質問の答えを知っていたから答えられた……そう言える。

「うーん、なかなか難しいなぁ。国語のテストだとどうだった?」
「……あれもよく判りません。答えは書けます。『この場面、この人物の感情を書け』っていう設問には、何にも思いつきませんでした」
「ははぁ、それは先生も同じだったよ。大体あれは設問の書き方が悪いよな。人の心なんて、その人の気分と思想で大幅に変わっちゃうだろうに」
「……僕は、人の心を読み取ることはできません。できるのは……どうしてそんな心になってしまったのか、過程で、事実を『視る』ことなんです」
「悲しがっている人がどうして悲しいのか。悲しいという気持ちの前に、悲しいまでの事情が見えてくると?」
「……はい」
「じゃあ、先生の事とか判っちゃうのかな?」
「……はい」
「そうなのか。早速だけど、何が判るのかな?」
「……そういえば、祖父母達以外にこの力を見せることはしなかったな……」
「こういった不可思議な力は他人に理解されないからね」
「……祖母に強く止められてましたから」
「あまり能力者は公になってはいけないものだからね。先生も照行様や浅黄(あさぎ)様の元で魔術を学んだが、所詮何の力も無い一般人が齧った程度のものしか得られなかった。人前で見せられるものではない。でも、そういうことじゃないんだよ。大きな力だから見せちゃいけないとか、偉大だから見せていいってこともない」
「……はい。重々頭に入れておきます。……外に出して何になって思ってましたけどね……。身内以外とはこんな話したことないです」
「そうか。じゃあ、君が話したくなったらでいいよ。ふぅ、寧ろ不愉快に思ったならこの会話は無かったことにしよう」
「……いえ」

 僕は話す。
 身内だよ、先生は。先生と僕とは薄い血縁者らしいし、いやそうじゃなくて。僕を面倒見てくれる人だから、話すんだ。僕を知ってもらうためにも……。

 ――先生の本名は、……。
 ――先生の血液型は、……。
 ――先生の家族構成は、……。
 ――先生の専門分野は、……。
 ――先生が僕と出会った経緯は、……。
 ――先生の昔の思い出は、…………。

 思い描ける全てのことを話してみせた。
 先生自身がその名前をどう思っているかは知らない。けど、先生の名前を知ることはできる。先生自身が自分の血液型をどう考えているか知らない。けど、血液型の事実を述べることはできる。家族構成も、思い出も、どういう経緯で知り合ったかも判るけど、それから先は僕自身の予想でしかない。
 ……先生は、驚いた顔をして僕を見た。彼を驚かせたのだから、そのような顔をされて当然だ。
 名前や血液型ぐらいなら公式書類を探れば、誰だって知る事ができるもんだ。けれど、家族のこととか、既に別れたかつての恋人のことまで全て言い当てたのだから……さぞ気持ち悪いことになっただろう。
 他者へ、初めて力を行使した瞬間、嫌悪感に襲われた。
 他人の全てを我が手で曝け出すことの違和感は、とても恐ろしいものだと……話していながら知ってしまった。

「なんと。君の力は、本当に素晴らしい」
「…………」
「君は、どこまで…………………………あいつと近い存在なんだ」

 ……『あいつ』?

「慧。先生の辛いことまで、君は見えてしまったんだね」
「……先生って、顔に似合わず壮大な恋愛してたんですね。別れて三日三晩泣くなんて、凄く幸せな記憶です。……そんだけ、好きな人だったんですね」
「うっ」
「今いる奥さんは……その人と同じ『好き』ともちょっと違う……お子さんを生めて……違う感情に包まれてる……」
「はあ、君は会ったことないのにそんなことまで判るのか。それは……とても辛いな。先生の一番辛い記憶を、一年間通して味わった辛さを、同じ量だけ君は秒で知ったんだ。それは……とても、辛い」
「……いえ。この程度……それほど辛くはないですよ。先生、とても幸せだったんですね。僕は表面的なものでしか先生の想い出を語れないけど、どうしようもない終わり方じゃなかった。とても愛のある、別れ方だった……んですよね。そして、今……充実した生き方を送っている」
「……そうだね。失恋は失恋でも、先生のは甘っちょろいやつだったかもな」
「僕はもっと苦しいやつを見たこともありますよ。恋に駆られて首を落とした女とか、失意の果てに女を磔にした男の恋とか……それに比べれば、先生の想い出は、とても優しい。僕……結構好きなタイプです」
「ふう、自分がした恋を好きだって言われてもな。感想に困るよ」
「でしょうね。…………へえ、先生ってあんなキスの仕方をするんだ」

 言うと、先生は乙女のように顔を真っ赤にして恥ずかしがった。
 その顔が面白くて、久々に、……僕は笑った。



 ――1994年9月9日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /12

 空が近い。気持ち良い。
 先生に問いかける。……みんな、年を取るとどこかに拠り所を作るんですね、と。
 子供の頃は『何でも一人で出来る』と驕りがある。親達にサポートしてもらっているのに、そう思ってしまう。ある一定の年齢を過ぎると、一人ではどうしようもなくなるときがある。そのために、誰かパートナーを見つけたがる。自分を守り、相手も守られる相互関係。それは、一定の期間だけのパートナーでも構わない。
 そんなことを語りながら僕が空の下を歩いている。彼は僕が落ちないよう、手を繋いでくれた。

「先生のパートナーって、どういう基準で選んだんです?」
「はあ……。単に話が弾むか否かだな。永遠の伴侶を求めていた訳じゃなかったし、とりあえず、自分を認めてくれる誰かなら良かった。運良く、先生の周りには優しい子が多くてね。苦悩の日々を共に過ごしてくれる子がいてくれた。……何回は、君も見てるんだろう?」
「ええ、見させていただきました。……そのときの先生、とても良い笑顔でしたよ」

 影が伸びる。ここは病院の屋上。太陽が近く、影が濃く地面に生えていた。

「あれ、『今の先生はあまり良くない笑顔』って言われているようだなぁ」
「いいえ、そんなことはないのですけど。僕は先生の顔、結構好みです」
「……君は意外と、恥ずかしい台詞を軽く言えちゃうんだな」
「自分もそういう性格だって知ったの、初めてです。正直に感想を述べただけなのに、恥ずかしいと言われちゃうなんて思いませんでした」
「充分だよ、ホントにね」

 夕焼け。病院の高い所。
 すっきりとした風。言葉が弾む。

「……ねえ、先生。僕も、パートナーってやつは、とりあえず、自分を認めてくれる誰かならいいかなって思ってます。苦悩の日々を共に過ごしてくれる人で、話が弾む人で……。もちろん、その人は仕事で僕に付き合ってくれてるってこと、判っているんですけど。……別に永遠のパートナーじゃなくてもいいなら。そういう関係もありだって割り切ってくれるなら。……その……」

 ――告白。

「……えーと。先生はこうするのが好きなんでしたっけ?」
「……っ」
「あ、あの顔をしてくれた。…………嬉しい。その顔、好きです」
「はあ。あのなぁ、君はそうやって人を困らせて」
「……うん、変な匂いする。ごめんなさい、判っていたけど、なんか……変だ」
「慧、その、そんなことまで」
「気にしないで。やりたくてやってるんです。あ、もちろん……先生がイヤなら無理強いはしませんけど。イヤでした……?」
「いや……。とっても、イイよ」
「良かった。……イイんだ、コレ。実際に、コレがイイって頭じゃ判っちゃいたけど、ドコがどうイイんだか判らなかったんですよね……。でも、どうやらホントみたいだった。……え? わあっ。そ、あ。あの、先生……。ッあ、」
「…………」
「ぁ、い、いた、ぁ……っ。ごめ、んなさ……調子のっ、あ」
「……っ」
「ん…………」

 ――みんながパートナーを作りたがる理由、判った気がする。
 なんとなく、この行為が好きになるっていうのも判った。
 衝動の大半がこれだって知っておきながら僕は……全くこれの価値、判っていなかった。
 実体験して、凄く……良かった。

「あー。はあ、その……だな。慧……」
「小さなときから、セックスってよく判ってなかったんですよ。頭の中にこの映像が流れてるとき……大人がオトナっぽいことしてるんだなって……その程度にしか思えなかったんです」
「君は、子供のときからそんなものを見てたのか」
「だって『こういう事情』のときって沢山ありますから。……どんな意味があるのかいまいち理解が乏しかったですけどね。やっと……判りました。ずっと見せつけられてたんですけど……。時々、吐いちゃうぐらいイヤだったんですけど……今日から好きになります。……嬉しいな、今日、僕、誕生日だから……最高のプレゼントです」
「……あー、その」
「先生、もしかしてメガネを探してるんですか? さっきからキョロキョロして……ここにありますよ」
「ああ、ありがとう。でも、それだけじゃなくってだな」

 先生。……先生の事を考えているときは全然……苦痛にならない。
 これってとても良いこと、なんだろうか。先生が最初に言ってくれた『別の方法』を見つけられたってこと、であっているのか。
 死んで終わらせるなんて、今は考えたくない。今は先生と一緒にいられることが楽しい。嬉しい。良かった……とっても、幸せだ。ずっと続けていたいと思える。

「……僕は先生の『永遠のパートナー』でしょうか。違いますか。判りません。けど、僕が落ち着いて病気じゃなくなるまで……ずっとこの仲でいてくれませんか。……先生のことだけで満たされていれば、全然僕、苦しくもなんともないんですよ。……これ、本当なんです」
「…………」
「……先生? その、ダメですか……? やっぱり……奥さんと別れたばっかですし、まだあの人のこと、気になります……?」
「キスもしてこうやって抱いてもいるのに、ダメな訳がない」
「っ! 先生……ッ」
「……ううん。教え子に手を出すってなんだかなあ……。息子も娘も大きくなったとはいえ、妻も奔放だったとはいえ……これは……」
「背徳感がありますか? でも結構、『先生と生徒』がくっ付くケースって少なくないですから安心してください」
「そうは言われても、だね」

 先生が……仕事で頼まれて、迷った生徒を救うために僕に声を掛けてくれたってことぐらい、判っている。そんなの最初から。
 それでも、僕にとってはかけがえの無い大切な言葉だった。もう戻りたくないぐらい。戻れないぐらいの。
 先生にとっては薄っぺらなものだったかもしれないけど、僕がこの世に留まっていられる言葉なんだから……僕は忘れられない。

「……慧。確かに先生はありがちな言葉で君を救ったかもしれないけど、君を救いたいと思ったことは事実だよ。それは理解してほしいな」
「はいっ。…………もう判っていることですから!」



 ――2005年12月24日

 【     /      /     /      / Fifth 】




 /13

 あたたかい。人に触れることが幸せだと、決まり文句のように言う。
 全くもってその通りだ。自分もまた、人に触れることによって心癒された人間の一人なのだから。
 唇と唇が触れ合うだけで幸福を感じる。その二つが重なるだけで愛しい意味を成すだなんて最初に考えた人は天才だ。
 手と手を繋ぎあう微笑ましさ。指と指を絡ませあう気恥ずかしさ。体と体が繋がることで訪れる幸せ。触れているだけで幸せだ。ずっとその気持ちで満たされていたい。他のものはいらないと極端なことを言ってしまいたいぐらい、良かった。その人がそこにいてくれるだけで、構わなかった。
 だから、その重なりを引き離そうとする電話の音が嫌いだ。
 強く抱きついて、その音を遠ざける。大人な彼は、そんな僕の度の過ぎた幸せを認めたりはしないから、きっと「電話に出ろ」と言う。
 この人と触れ合っているだけで良かった。他の人なんてどうでもいいと思うし、他の事情なんて本当にどうでもいいと声高らかに言うことだってできる。
 僕の世界は彼だけだ。彼と触れ合わせないものなら、服でもなんでも気に入らなかった。……正直、皮膚さえも邪魔だと思えるぐらい!

「電話に出なさい」
「…………嫌です」
「出ないと困るのは慧だ。あれはメールじゃないな、電話先の人は君と話したくて掛けてくれているんだよ」
「……でも、そんなの」
「出なさい」

 先生は教え子を見守る厳しい口調になった。恋人同士の声ではなかった。
 それはそれで大好きだけど、への字になりながら、携帯電話を取りにベッドから下りた。

「…………もしもし」
『――忙しいところに電話してしまったか?』
「…………別に。そっちも話す必要があるから電話をかけたんでしょ。メールで済む用だったら怒鳴るけど」
『ふう、単に不機嫌なだけだな。慧。明日の帰省について聞いていないから電話したんだが、そのときに別の者の』
「手伝い? ……そんなの、僕以外の人に」
『慧。あの札の量を知っているだろう? お前が適任だと当主様から指名されたんだ、それぐらい判っているのに断るとはどういう』
「…………ああ、ああっ、ああ! 判ったよ、急用なんですねっ、判りましたよ、行きますよっ、明日の十時でいいですか! 行かなきゃですね、了解しました、こっちの私用潰して大事な大事な手伝いとやらをやりますから詳細はメールの方に送ってくださいッ!」

 父親からの通話時間は一分もかからなかった。
 単にいつ帰ってくるんだなんて、電話で掛けなくてもいいのに。もう息子を何歳だと思っているんだ。
 家業の手伝いに人手が必要なのは知ってる。何年、あの家の息子をやってるかなんてあっちも知ってる筈だ。私的な時間もロクに貰えず『家業』を手伝わされたのに、クリスマスになってもまだ拘束するか!
 ムカついて堪らなかった。つまらない父親との世間話など全然楽しくないし、何よりも、この場の雰囲気を崩されたのが腹立たしい。電話をソファに捨てるように投げつけて、ベッドに戻った。
 寒い。12月は、室内でも寒い。服なんて元から着ていなかった。電話なんて直ぐ切るつもりもなかったから上着も被らずにいた。直ぐに暖めてもらいたくてベッドに戻った。重苦しい親と家の話なんて早くどっかに飛んでいってしまえと、何度も頭をシーツに押し付ける。
 ふるふる暴れていたところを、そっと掌が僕を撫でた。
 触れた掌が、あたたかい。僕が頭を上げると、ベッドの主が困ったような笑みを浮かべていた。先生が頭を撫でてくれている。
 じわりと目が潤む。感情的になってしまい、不意に泣きたくなった。堪らず攀じ登って、彼に抱きついた。
 さっきまでベッドが自分の居場所で暖かさがあったのに、数分の電話でそれが消えてしまっている。やっぱり電話なんてとらなきゃ良かった。無視していれば本家が「出ないなら仕方ない」とでも判断して自分以外の代理を立てたかもしれない。そうすれば明日の予定を潰されることもなかったのに。
 本当なら着信先が判った時点で電話を取りたくなかった。けたたましく唸りを上げるそれを折ってしまいたくなったぐらいだ!

「先生、先生。……ごめんなさい、その、明日は」
「はあ、聞いていたよ……って、ああ、こちらこそ謝らなきゃいけないな。勝手に盗み聞きしてすまなかった。それに……寺に呼ばれるのはとても栄誉あることだぞ。だから」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」

 素肌に抱きつきながら何度も同じ言葉を繰り返す。繰り返しているうちに、涙がボロボロ流れた。
 せっかく時間を作ってくれた彼に、申し訳が無かった。
 抱きつかれる先生は、涙をすくいながら慣れた仕草で目尻に口付ける。動きも慣れたようで自然なものだった。
 再度、幾度も繰り返した恋人達の行為を数重ねる。瞼に口付けられたところで反発したように、唇を重ねる。思う存分口付けを繰り返してから、またぎゅっと強く抱きついた。怒りが自然に動きを強いものにしてしまう。
 二人きりの時間を潰された。それが腹立たしく、悲しく、やっぱり腹立たしいことで堪らない! 折角の明日を、約束の日を! 考えれば考えるだけ、動きは激しいものになっていく。
 ソファの電話が青く光っている。ぶるぶる震える音。メールが入ったようだが、無視して抱きついた。

「見た方がいい。ご実家から重要な話だろう?」
「朝のことですよ、今見る必要なんてない。それより……」
「見なさい、ご親戚との集合時間や交通の所要時間を確かめておかなければならん。寝過ごしたらどうするんだ、それで先生のせいにするのか?」
「…………。でも、嫌です。今は、僕達はここに二人きりなんですよ。明日の時間が丸々潰されたんだから、今夜が終わるまでは先生の事だけを考えたいんです」
「いつも二人きりじゃないか、何言ってるんだ。それより、お仕事を手伝うと約束して破る方がいけないことだ。もしかしたら早くにここを去らないと間に合わない場所で集合、かもしれないだろ?」
「先生は悲しくないですか。二人だけの時間を潰されたんですよ。折角の時間を……とても悲しくて遣り切れないのに……先生は、そう思ってくれないんですか!?」
「……そう思うか。なら、君の力で先生を覗いて、確かめてごらん」

 ベッドから彼が離れていく。ソファの上に捨てられた携帯電話を拾って、ベッドに埋もれる隣へ置く。
 そしてまた、ベッドの上で影が重なる。……抱きしめたのは、今度は彼からだった。

「先生だって悲しいと思っているぐらい、君なら直ぐ読めることだ」
「……はい」
「なのに、そんな言い訳をするんじゃない。君のお父さんだって、君を悲しませるために電話をしてきたんじゃない。君を心配して、一本松君は電話をしたんだ。それぐらい、君なら判ることだろう? ……で、『先生の中身』は判ったか?」

 手を背にまわして、抱きしめる。
 途端、広がる感情に、笑顔が灯った。

「……はい。今、先生はとても、嬉しいことを、思ってくれてました」
「君は人より巧く生きることができる手段を持っているんだから、もっと有効活用しなさい」
「……はい。あの、出来れば、今……先生の中にあるもの、声に出してほしいです」
「既に君には聞こえたんだからいいじゃないか」
「……口に出してもらわないと、本物の声じゃありませんから」
「二重に聞きたいだなんて我儘だな」

 一息入れて、耳元で囁いてくれる。
 暗がりのベッドの上で実際に聞く声は、僕をとても幸せなものにしてくれる。音声という方法を使わず届くものよりも、ずっと幸福にさせてくれた。触れているだけで幸せだと言ったが、やはり直接語り合うことも幸せの一つだった。
 先生に諭されて携帯電話を見る。父親から送られてきたメールは、事務的な内容だった。朝のうちに出なければ予定時刻には着かない場所だということを見て、幸せになった気分がまた泣きたくなってしまう。でも、携帯を見て震えるたびに、肩を抱いてくれたから我慢した。
 愛の語らいは、普通だと口から出るものでないと恋人達は出来ない。けれど僕は、『血が成す力』として別の方法を持っていた。

 我が一族で少数だが存在する能力。『全知全能』。大昔に魔術師が寄り集まって創ろうとした力で、今でも尚、もっと大きな力を持つものを創り出そうとしている。血だけで構成されるその実験結果の成功例のひとつが、僕だった。
 他にも直系に近い人達にも成功例が出ているが、分家で出たのは非常に珍しいと言われている。だが言われているだけで、優遇されることはなかった。
 自分が持っているのは中途半端な能力であって、総てを理解しどんなことでも知りうる手段を持ったものではない。ほんの少しだけ知りたいと思った瞬間に謎の引き出しが開けられるもので、自在に開け閉めできるもののほんの小さなことしか知ることはできない。
 例えば、彼に対して『自分について何を考えてるか』と思ったら、『愛してる』という小さな言葉しか届かない。彼に関してはそれだけで聞ければ充分だけど、多くの者達が求める『全知全能』には到底届かない。言えば、火力が全然足りない。自分には吹雪の中のマッチぐらいの強さしかなく、一族が求めるのはスイッチ一つで自在に燃やし尽くす、激しく荒々しい火炎放射器だ。効果の大きさは全然比べ物にならない。ただ得なのは、自分で発火をコントロール出来るマッチだったことぐらいだ。
 優遇はされていないが、特別視されることはあった。
 本家の、まず人が入らない神殿に立ち寄らせてもらったことがある。祖父で師匠でもある浅黄様に連れられてやって来たあそこは、異様な空間だった。敢えて言うならば……『千年間の人間を一室に詰めた』らあんな風になるのか。
 兄弟子に訊いても、そんな部屋は見たことないと言う。つまりコレは、自分はそんな重要なところに連れて行かれるぐらい不思議なものを持って生まれたという事実を表したエピソードだ。
 これは決して自慢話にはならない。この特質があるせいで、自分は何かと本殿に呼ばれることが多かった。『成功例』であるからそれだけ重宝できるのだろう、そのたびにプライベートの時間が潰されるのが、嫌で嫌で堪らなかった。
 自分は、たった一人、大切な人さえいれば構わない。
 本気で、あの人さえいれば世界なんて壊れても良いと思っている。だから家業なんてどうでも良かった。
 もっと強い力を生みたいと言ってる研究者達が一族に集まっているけど、好き勝手やったらいい。僕のいないところでしてくれるなら良かった。でも奴らは、それを望まない。僕のいないところで好き勝手やればいいのに、僕を巻き込む。
 今だって先生との暖かい時間を奪った! 家の手伝いをしろだなんてどうでもいいことで! おかげで僕の体は冷たくなってしまったさ、どうしてくれる! それに明日いっしょにいることも……全部消そうとしたんだ、あの家は!
 僕に必要なのはあの人の体と声と、僕を愛してくれる心。あの人がいれば、街も消えても花が消えても音が消えても構わない。だから、

「滅んでしまえばいいのに、こんな家」

 本気でそう思った。



 ――2005年12月31日

 【    /      /     / Fourth /     】




 /14

 草たちが足を取る。
 目の前には、何度も転びながらも走る無数の影。木にぶつかりながら、泥を食べながら、ずっとずっと走り続けている。生きたい道を無我夢中で走り続けているからか、何度も何度も転んでいった。
 けれど彼らも倒れている暇は無い。何人もの影は、起き上がってまた足を動かす。
 走る。走り続ける。
 ここ数日、この道は雨が降っていたから地面がグチャグチャだ。この上なく走りにくく、走らなければならないのにそれを妨害するかのよう。わざわざ用意した工作のように追いかける側の味方をしてくれる道。それでも彼らは走り続けた。
 ただただ走り続ける。どこへ行けば逃げられるか、生き延びることができるかだけを考えながら。
 そして追いかける。逃げようと、生きようとする体を追いかける。

 ――無数の手をもって。

 走りながら、草と泥との森に格闘しながら、考え続けた。
 左肩を狙う。
 盛大に一人が転がった。狙ってきた牙は、ほんの少し体に入り込んできただけだったけど、走る力を奪っていった。
 転がった後は、容赦無く足を喰らいつく。右足。左足。次々に四発。
 本当に容赦無い。手際の良いやり方を、何度も自分は学んだ。より効率的なやり方を。ただ暴力を振るっているだけの間抜けではないから。
 何度も走り続ける誰かがいるように、自分も何度も追っかけているうちにより良いやり方を覚えたんだ。
 そりゃそうだ、もう何回も同じことをしていたら学ぶ。たとえ手順が微調整されたって、順応していく。
 両足を切り刻まれ、走ることがかなわなくなった身は、草と泥の道に横たわった。
 仰向け倒れた体は、大きく息を吸う。肩を大きく斬られたからかロクな呼吸もしない。それでも、少しでもラクになろうとしているのか、上を向いた。
 つまらなげな顔が、目に映る。
 死に絶える男の目には、恐怖がはりついていた。

「ゆるさない」

 恐怖する男に対してでも、血まみれの口はその言葉しかもう呟けない。
 半身を食らわれた体は、機能を果たすことを放棄していた。足は使い物にならなくなっては、逃げることだけでなく生きていくことだって出来なくなった。

「まだ、足りない。でも」

 追いかけっこは、もう終わり。
 鬼ごっこも、もう終わり。目を閉じて、彼らは終息する。

「……つまらない……」

 この森の息吹が全て消え去ったとき、自分もまた目を瞑ることができる筈。
 ――あの海、あの暖かさ、あの笑顔を、想いつつ。
 自分の最期を、求めた。




END

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