■ 008 / 「紛紜」



 ――2005年10月19日

 【     /      /     / Fourth /     】



 /1

 お茶のおぼんを持って自室に戻って来ると、志朗お兄ちゃんが僕のベッドの上で煙草をぷかぷか吹かしていた。
 この前、ちゃんと「僕の部屋、禁煙にしたんだよ!」って言ったのに覚えていてくれなかったらしい。僕の健康のためにも、部屋を臭くしないためにも、長く居る自室で煙草は吸わないことにしたっていうのに、お兄ちゃんは煙草を吸っている。灰皿も全部部屋から出したっていうのに、持ち歩き簡易灰皿まで出して吸っちゃってる。
 まったく。『教会』の宿舎は僕の部屋なのに、我が物顔に使いすぎだ。

「志朗お兄ちゃん、なに不機嫌になってるのさ」
「俺は不機嫌になってない」
「なら鏡を見てごらんよ。すっごい不機嫌の顔だよ。ぶっさいく」
「新座こそ鏡に近いんだから見ろ。可愛くない顔をしやがって」
「僕は不機嫌だから仕方ないよ。あと不機嫌でも可愛いからいいんだよ」
「不機嫌が部屋の中に一人いたら周りもそうなるんだ。まずは新座が機嫌を直せ」
「むぐ、なにそれ。……ここ僕の部屋なんだから嫌なら出て行けばいいじゃん」

 そんな感じなことを言い続けて既に六十分。
 いいかげん馬鹿馬鹿しくなったからさっきお茶を淹れてこようと部屋を出た。それなのに、戻って来てもこんな会話しかしないだなんて。馬鹿は延々と続く。
 今日は一年に一回ぐらい発生する貴重な兄弟喧嘩の日だった。本来そんな予定は一切無かったけど、そういう日になってしまった。まったくまったく。

「……霞とは、一緒に食事をしただけだったんだぞ」

 もう一度、いやもう何十度とも言える言い訳を、お兄ちゃんは口にする。
 あーもう、カスミちゃんの名前を聞くだけで僕は不機嫌になるっていうのに、どうしてお兄ちゃんはそれを判ってくれないんだろう。
 一昨日に色恋に狂った女の怨霊退治を無事終えて、事件後に原因不明の嘔吐に襲われて、丸一日かけてやっと回復したというのに。実弟のか弱く繊細な心をどうして判ってくれないんだ。

「新座。お前は俺に親戚同士の交流もさせないつもりか」
「別にそこまでは言わないよ。……でも、カスミちゃんだけは別! お兄ちゃんはカスミちゃんにめちゃくちゃ優しいじゃん! 他の人よりもずっと! ときどき僕よりカスミちゃんの方が優しくしてるときだってあるよっ」
「実の弟より他人の弟の方が可愛く思える日もある」
「むーぐー! それが嫌なのー! カスミちゃんはお兄ちゃんのこと大好きなんだから、僕のこと上回っちゃうかもしれないじゃん! あーあー嫌なのー!」
「……上回っちゃう、ね」

 既にお兄ちゃんの顔は不機嫌というか、呆れの表情を作りつつあった。
 それにまた腹が立って、余計に言葉が汚くなっていく。

 ――カスミちゃんは志朗お兄ちゃんのことが好きだ。それは、何十年も前から見ている人間達にとっては周知の事実だった。
 ――志朗お兄ちゃんは時間を共にする全ての人を大切にする。なんでもしてくれるし頼らせてくれる世話焼きなお兄ちゃんは、みんなの人気者だ。

 近寄っていこうとする人と、近寄れば親しくする人がいっしょになったら、すっごく仲良くなるのは当然のこと。……お兄ちゃんとすっごく仲の良い僕としては、僕以外の一位が登場しそうなのは、怖かった。
 誰とも会うななんて、僕だって言いたくない。お兄ちゃんはみんなの人気者であってほしいと思う。
 でもカスミちゃんだけは、僕から一位を奪っていきそうなぐらいお兄ちゃんのことが好きだから。お兄ちゃんもカスミちゃんは一位を変えてしまうぐらい親しい弟分だから。……ああ、ああ、とにかくとにかく嫌なんだ!
 怒りで興奮してきた。熱い。腕に付けた心拍数やら何やらを測る機械を外したかった。ああもう全部カスミちゃんのせいにしてやる。
 一番悪いのはお兄ちゃんだけど!

「はあ。……どうすれば信じてくれるんだろな?」
「信じるって、何がさ」
「俺の一位は、新座以外ありえないってこと」
「むぐー。そんなの簡単に証明できる訳ないよ。そうだな、行動で示すしかないよね?」
「……行動で?」

 はて、と暫くお兄ちゃんは固まって考える。
 その後、煙草を自分用の灰皿に押し付け消して、とりあえずと言うかのような体の重さのまま、僕に口付けた。
 ……お兄ちゃんらしい行動だった。でもありきたりで面白くない。すぐにぷんっと顔を背けてやる。ぷんっ。

「おお、笑った。なるほど、行動に出せば許してくれるんだな」
「む、むぐっ、笑ってないよ! ぷんってしてるんだよ、ぷんって! 僕は怒ってるんだからね!」
「けど今、キスしたら笑ってくれた」
「むぐー! 笑ってないー! 『ありきたりで面白くない』ってナレーションしたばっかなんだからそう簡単に許してたまるかー!」
「俺はな、なんとしてもお前とラブラブにならないといけないんだ」
「んなっ、なにその志朗お兄ちゃんにあるまじき描写!?」

 声を荒げてぷんすか怒るけど、『キスだけで効果がある』と知ってしまったお兄ちゃんは、僕の顔に、体に、次々と唇を落としていった。
 くすぐったい。そのうち、お兄ちゃんは反省するどころか僕の反応が面白くなって笑い出していた。
 余計に僕は不機嫌になっていく。実際はキスだけじゃなくくすぐられて笑いまくっていたけど。

「ぅむ、ぐ……! 体力勝負に持ち越すだなんて……お兄ちゃん、卑怯だ、汚い……!」
「それほど俺は体力キャラじゃないぞ、知力派だからな。……でも、新座に好きになってもらうためならなんだってする。こうやって苦手な体力勝負にだって持っていく」
「……むぐぅ」

 ベッドの上で格闘し合っていると、それだけで三十分、六十分と時間が過ぎていった。『本部』から体調管理のために渡された計測機なんてほっぽり出して。
 長い時間、大の大人が何をやっているんだと思われるかもしれないけど、何気無いおしゃべりだけで一つの部屋を楽しませてきた僕達には普通のことだった。
 昔からインドア派でなかなか部屋から出てこなかったから、何も無い所、口だけで時間を潰す方法はいくらでもあった。

「あ、そうそう。新座。……芽衣(めい)って判るか?」
「むぐ? えっと、男衾くんの弟さんだよね。髪の長い男の子。……確か、男衾くんと同じ、処刑人の子だ」
「ああ、大山さんの息子連中は全員処刑人で同じだけどな。その芽衣からプレゼントを貰ったんだった」
「……むぐ……お兄ちゃんって本当に誰にでもコネクション持ってるよね。やーい、八方美人ー、むかー」

 力が無い分、人脈で立場を補うしかないんだよ……お兄ちゃんが小声でそう言ったのを、聞き逃さなかった。でも特にツッコミを入れることなく、お兄ちゃんの言葉の続きを待ってみる。
 お兄ちゃんは芽衣くんの名前を出した後、自分の荷物の中から……とある布の塊を取り出した。
 それはおむすびを厳重に保管しているように、小さな丸い形をぐるぐると布で覆っている物体だ。布を取るのに若干時間が掛かってしまうぐらい、立派な包装だった。
 なんなの、と尋ねながら布から出てくる何かを見る。
 赤くて、ゴルフボールほどの大きさの……何かだ。妙な光沢をしている。
 姿を現したそれの第一印象は、『赤いスライム』だ。
 お兄ちゃんに手渡されて感触を確かめると、やっぱりスライム……というかグミ状のものだった。
 ふにふにと弾力があるけど、力を思いっきり入れてもゴルフボール以下の大きさにはならない。やわらかく、肌に馴染んで気持ち良い。色は赤いというか赤褐色で、封を開けたばかりのゼリーみたいにてかてか光っている。布を被っていたというのに、その光は衰える様子はない。……何だこれ。

「これは芽衣が、一部の研究者と一緒に開発したものらしい」
「へえ。何これ? 何に使うもの?」
「夜に使うもの」

 そう言ってお兄ちゃんはその赤いスライムボールをまた自分の手に戻すと、おもむろに口に運び、ぺろりと舐めた。
 色や大きさ、生々しい光沢からして、ちょっと風変わりなプラムを食べているかのように見えた。
 するとプラムが動き出す。ぶん、と、小刻みに揺れているように見えた。

「水分に反応して動くらしい」

 小刻みに動くボールを手にしながら、お兄ちゃんは僕の体を抱く。
 そして片手で、ごそごそと僕の体を弄り始めた。

「…………なんだそれ」
「電池いらずの淫具らしいんだ。水分がある限り永遠に動くし、使用者の意志に合わせて動く仕様になっている」
「あー、下がぐっしょり濡れた女性だったらいつまで経っても震え続ける魔のローターってかー」
「しかも事前に契約しておけば自由自在強さをコントロールできる。機械じゃないから痛くない、生き物のような触感でな」
「ちょっと魔術をかじっている人なら大ヒット間違いなし! ……むぐー、そんなん作るうちの研究員達、どうかしてるよ」
「ああ、気が狂ってるとしか言いようがない」

 笑いながらお兄ちゃんはそれをまたぺろりと舐めた。更に振動が激しくなる。卑猥だ。

 ――僕らの実家では、魔術の研究をしている人が何十人も寝泊まりして、色んなことを学んでいる。
 その中にはこういう物を大真面目に作っている人もいる。
 ……ほら、魔力が尽きたときってどうしてもアレ、セックス、するし。体液交換が魔力交換だから、するし。だから淫具って結構豊富に色んな人が持ってたりする。
 魔力なんてそういうことをしなくても血を飲んだり薬を使ったりすればすぐに戻ってくる筈なんだけど、交わったりした方が一番手っ取り早いし、うちの血にあっているやり方ってことで……我が家では、性事情が非常に明るかった。
 明るい結果、とってもお盛んだった。
 男しかいない空間で性に明るくてもアレだけど。うん、アレだけど。

「それにしたっておかしな魔道具を開発したもんだね。研究チームも何やってんだか……このこと、狭山さんは知ってるのかな。こんなのわざわざ作っちゃったなんて怒られないかな?」
「知ってるだろ。あの人の場合、秘密にする方が怖いだろ。寧ろこういう物はどんどん作って『魔力の回復量を上げる方法を探せ』とか言いそうな気もするぞ」
「あー……狭山さんって沸点が微妙だから怒りそうなときに怒らないことがあるよね。ホントに面倒。……大真面目な研究成果といっしょにニヤニヤしながら芽衣くんがこれを発表している風景が、案外容易に想像できるよ。あの子、不真面目なの大好きだったから」

 芽衣くんとは一時期だけど昔、同じところで一緒に魔術を学んでいたことがある。
 その頃から彼は大型安売り店で見かけるようなジョークグッズが大好きだった気がする。ジョークグッズを買い揃えるだけじゃなく、ついには作る側になってしまったか。しかも魔術師の研究チームを率いて。凄いとしか言えないなぁ。

「という訳で今日は、これが本当に効果を発揮するのか新座を使って試してみたいと思う」
「えーっ!? これって女性用だと思うんだけどー!?」
「いや、うちに女はいないだろ。うちで使うのにどうして女性用を作るんだ」
「男は濡れませーん!」
「なんのためにお前のベッドの下に潤滑液があるんだ」
「……むぐー」
「気持ち良いって噂だし、悪くないらしいぞ」
「気持ち良いってもうテスト済みなんじゃんっ! …………あー! ヤだーっ!」

 いくら暴れてもお兄ちゃんは僕を捕らえて笑う。
 何発か僕なりに本気のパンチをお兄ちゃんの顔にしてみたけど、怯むことはなかった。
 振動音がしない生き物のようなそれを、剥かれた場所に寄せていく。何も隠すものが無くなった僕の肌に、ぴたりとくっ付けた。

「っ、……っ!」
「ん。効果はそれなりにあるな?」

 抱き寄せながら上から見下ろすお兄ちゃんの顔は、まだ笑い続けている。
 その不適な笑みは僕の中に複雑な感情しか湧かせてくれない。

「まさか新座、怖いか?」
「……怖くて、何が悪いんだよー。それに」
「それに?」
「……『行動で示せ』って言ったのに、道具で、するって……。僕は、お兄ちゃんのが欲しいのにー……。むぐ、判ってないなぁ」
「ん」

 そう言うと、お兄ちゃんは口付けてきた。
 何度も何度も。弁解しているかのように。さっきよりもずっと官能的に。
 じっくりと口付けられて、敏感なところに震える玩具を這わせられたら、自然と体が赤く染まっていく。びくびく動いていたらすぐに息が上がって、後はお兄ちゃんの好きに翻弄されてしまった。
 いっぱいのキスの後に沢山のマッサージ。出口のとこにボトルいっぱいだったものを流され、ぐちゃぐちゃにされる。絶好調に震える研究成果を押し込まれた。ちょっと恐怖を感じたけど、生き物のように柔らかくあったかく、自然に動くそれを僕はあっという間に受け入れてしまった。
 いっぱい撫でられてからの中の刺激は、声が嗄れるぐらい叫んでしまうほど気持ち良いものだった。機械の性具と違ってうるさいモーター音はしないし、使用者の意志で自由に動くからワンパターンに感じない。だからすぐにあっち側に連れていかれてしまう。
 一方、使用者は自分の体力を使うことなく、使用され側を眺めて楽しむことができる。
 ああ、もう、なんてものを開発してしまったんだ、あの子達は。
 準備をよこさないでお兄ちゃんは激しく調節したり止めたりして、僕の体で遊んだ。
 でも優しいから、壊れちゃいそうと思ったときには、いつものように抱きしめてくれて、『普段』に戻っていた。

「むぅ……ん……」

 乱れた呼吸を少しずつ直しながら、大好きなお兄ちゃんを呼び掛ける。
 お兄ちゃんは僕の体から魔の道具を抜き出して眺めていた。つい、ムカってなって、強引に抱き寄せて襲い掛かった。

「お兄ちゃん……。いくら試してみたいからってカスミちゃんでこんなこと、しないよね?」
「しない。お前だからする」

 女々しいと思いつつも尋ねた。もちろんお兄ちゃんの口から帰って来る答えは判ってる。
 でもそれだけ心配しちゃうほど、お兄ちゃんのことが好きなんだから仕方ないじゃないか。
 思いながらキスを何度も求めた。



 ――2005年10月18日

 【     /      /     / Fourth /     】



 /2

「――――そんなものの為に俺は呼ばれたのか」
「そんなことぐらいしか志朗様には出来ないでしょぅ? あなた無能なんだからぁ」

 山の奥にある彼らの城。俺の生まれ育った場所。山の奥の奥。更に森の中にある研究施設に、俺は居た。
 居たくもないのに呼び出されていた。
 そこは妙な匂いが立ちこめている不気味な館。空気は色で言うなら紫色。どんよりとしているのは空気だけじゃなく、そこで研究する『世を捨てた』術師達も同じだった。
 術者達は自分達の姿を見ずにひたすら研究に没頭している。俺一人スーツなのがおかしいって思わせてくるぐらい妙な格好をして、あちこちに変な物は落ちている場所で何かを呟いている。
 みすぼらしい。ずばり言ってしまおう、なんて気持ち悪い場所なんだ。この世界、そこに住んでいる者達、全てが気持ち悪かった。
 一刻も早く立ち去りたかったが、『上』の命令でここを訪れていた俺は、息を止めて突っ立っていた。

「あいっ、登録完了。これで使用者は志朗様決定です」

 ――俺は一族の証である『刻印』を持たずに生まれてきた。
 異能力の才能はからっきしない。学ぼうにも感覚で判るものがない。才能が無いのだから、立派な能力者になれる訳がない。
 だから幽霊退治や魂の回収は出来ない。やりたくても力がロクに使えないから、一族の使命とやらを果たすことができない人間だった。
 それなのに、『本部』の命令は一族である以上聞かなければならない。たとえ出来損ないでも、この血を引いている限りは従わなくてはならない掟というものがある。
 掟は絶対だ。この強制力から逃れることはできない。従わなければ罰が待っている。弱者にはどうしようもなかった。

「にひ、カンタンでしょ? この道具で、新座様を気持ち良くさせてあげるだけだし。新座様に愛されている志朗様にしか出来ないことですから、名誉ある使命と言えるんじゃないっすかぁー」

 この館に居る研究者の中で、正式な仏田の血を引いた男が、親戚相手に研究成果をべらべら語る。
 髪を伸ばして妙な化粧をした男・芽衣は、ニヤニヤしながらそれを俺に手渡した。
 彼はとても楽しげに淫猥な道具について語っていく。馬鹿にしたような喋り方が癇に障ったが、何も言わずそれを聞く。とっとと話を済ませてここから出たいというのが一番だったからだ。

「説明書に詳しい取り扱い方を書いておきましたから、判んなくなったら読むといいですよ。でもその説明、書いたの依織なんでワケ不明な日本語かもしれないけどさ。依織の奴、今ドラクエにハマってるんで四文字ぐらいの横文字が入ってる一文があったら全部読み飛ばしちゃっていいですよ。ベギラマの項目とかホント関係無いんで」
「…………」
「あとそうだ。判っていると思いますけど、出来る限り、和やかでラブラブーなムードで実験してくださいねー。緊張状態でデータ取ってもちゃんとした数値が出るか判らないんで。ちゃーんと感じてもらわないと『魔力供給』の出目がブレますから。まあ、そこはぁー……志朗様のぉ、あまーい言葉で頼みますよぉ?」
「息を吹きかけるな」

 気持ち悪い話が終わったのをしっかりと確認して、二十分ほどの会話に決着を着けた。
 嫌な空間だ。この部屋から出たら着ていたスーツを焼き払いたいほど、嫌な空間だった。
 芽衣はニヤニヤ笑って話すような酒臭い奴で、だからこそ余計に不愉快度を増させていた。いや、芽衣に限らず……新座を研究材料に思っている連中は、全員不愉快だった。
 同じ血を引いていると思いたくないほど。

「志朗様。んな顔しないで。そちら様にはこれぐらいしか一族の為になることないんですから、精々頑張って搾ってきてくださいな」

 不愉快だった。不愉快しかなかった。

「…………志朗兄さん」

 館を出たところで、外で待っていた霞に声を掛けられる。
 三十分という結構長い時間だったが、霞は嫌な顔をせずに館の入口で待っていてくれたようだった。

「その、志朗兄さん。……どういう用件だったんですか?」
「滅多に呼ばれないのに、いきなり呼び出されたからなんだと思ったら……とんでもない仕事を押し付けられた。これから新座に愛を囁いてくる。仕事としてな」
「………………」
「霞、一緒に来てくれてありがとう」
「……いえ」

 こんなことで霞を呼んだのが申し訳なくなるほど、どうでもいい内容だった。
 ――『本部』が呼んだのは俺だけであって、霞は呼び出されてなどいない。けど俺が誘ってここまで来てもらっていた。
 情けないと思われようが、全く力が無くて無関係者扱いされることもある俺は一人でここを訪れたくない。
 年下で分家の生まれでも、そこそこ『仕事』をこなしている霞が居てくれることは心強い。だから俺が頼んで本家の館まで付き添いをしてもらっていた。
 本当に情けない話だ。
 情けなくて、苦しくてたまらない。

「ありがとう。本当に」
「いえ。久々に志朗兄さんと話せる機会が作れて嬉しいですよ。昔は毎日のように会ってましたけど、近頃は……」
「俺もお前も外界に出たからな。……出て正解だ。ずっとここで息なんかしてられるか」

 霞は口にはしなかったが、俺と同感だというように頷いてくれる。もちろん二人で他の人間が居ないかどうか確認してからだ。
 そんなことにも気を遣わなければいけない場所だった。
 息苦しい。息苦しくて息が出来ないほどだ。

「でも霞、お礼をさせてくれ」
「志朗兄さんと話が出来ただけでも俺には充分ご褒美ですよ」
「そんなので俺が許せるか。メシでも奢ってやる。行こう」
「んじゃ、お言葉に甘えて。新座に嫉妬されない程度に楽しませてください」

 ニカッと霞が笑う。こいつは新座のことが嫌いなくせに気が回る。だから好きだ。新座の次ぐらいに。
 まあ、新座に嫉妬されたとしても後で挽回するからいい話。
 一族に大事にされている新座の様子を見るなんて俺にしか出来ない仕事だ。他の連中には出来ない仕事で、させない仕事。仲をこじらせないように明日は気を使わないとな。
 まあ仕事の後で、ちゃんと愛し直してやるからいいんだ。使命で愛した後にまた愛してやる。それで全部上書きする。
 今日の気持ち悪さを全部無くすぐらい、それでいい。それでいいんだ。



 ――2003年6月6日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /3

 ――なんでもない日常に憧れて外を飛び出して、数年が経つ――。

 地下の牢屋はそれほど広くない。いちいち外界に下りて通わされていた小学校の体育館ぐらいの広さだ。それほど広くはない。
 一キロも無いそこは、俺が本気でダッシュしなくても隅から隅まですぐに走り終えてしまうことができる。戦闘フィールドと考えればとても狭かった。
 ところで。俺の記憶に在る小学校の体育館は、人間が何人収容できたんだっけ?
 千人ぐらいは入るかな。流石にそんなに人が入ったらギュウギュウ詰めで動けなくなるかな。全校集会や入学式はそれぐらい人間が入ったと思うけど。
 じゃあ、五百人ぐらいは余裕で動き回ることは出来るってことか。
 なら、この牢屋の中で余裕で暴れまくっている『血人(ちびと)』は大体五百体ぐらいいるのか。
 なんてこった。

 アニキ……悟司(さとし)は、俺が施設に到着するなり『実験』の内容を説明し始めた。
 当主である光緑様の作った『血の彫像』を、製作した本人ではない人間が操れるかの実験だという。
 人形はいくら自分で動ける意思を持っていても、動かすスイッチを入れることができるのは人形を作った主のみ。そう記憶していたが、今回の実験はそれよりずっとレベルが高い方らしい。
 らしい、としか言えない。アニキは、

「詳しく説明してもお前の眠気を誘うだけだ。霞が理解できないことぐらいみんな判ってくれるさ。なら言われたことをすれば良い。言われたことは出来る子だろう?」

 と言ってくれた。
 なんて俺のことを判っているアニキなんだ。むかつく。
 以前にも人形の稼働試験なら何度か付き合ったことがあった。ホムンクルスだかゴーレムだかそういうものは、いくら俺が魔術に興味が無くても子供の頃から知識の一つとして教え込まれている。周囲に魔術師が山ほど居たから、嫌でも教え込まれていた。
 アニキの目線は全て書類に向けられ、決して俺を見ることはない。時々俺が見当外れな質問をして、蔑みの意味を眼鏡の下の視線に込めて眺めてくることはあった。度々むかつく。
 あまりにむかついたから、返ってくる言葉が予想できたのに、口を開いてしまった。

「俺に拒否権は無いワケ?」
「権利を主張できるほどお前は偉かったかな。ああ、人権ぐらいは認めてやってもいいがな。霞に人間らしいことを出来るなら」

 鼻で笑いながら、さらさら流れるように『ドS台詞(笑)』が言えるアニキ。
 そういう人って戦争映画かポルノ小説の登場人物が言うもんだと思った。純粋に尊敬する。身近に居るもんだなぁ、しかも血の繋がったアニキか。なんか悲しい。

「人形の相手かよ。また退屈だぜ」

 そう、過去に魔力で動く人形の稼働試験はやったことがあった。
 不器用に動くヒトではないヒトガタと戦った。ぎこちない動きだったがひとりでに動くそれと拮抗した。良い勝負だった。でも、所詮人形だ。人の動きには人形は勝てないし、俺が『人が動かしていなければ駄目なもん』なんかに、負ける筈なかった。あのときは、逆に人形を完全破壊にならない程度に痛めつけなければならなくて大変だった。
 今回の実験もそれと同じもんだ。アニキは「今回は一味違うぞ。なんせ当主監修だからな」と脅しをかけてきたが、「楽勝だ」と言われるよりは良いかなと軽く流していた。

 そうして連れて来られたのが、地下牢。
 この山で数百年も使われている特大の牢屋に入れられて、一キロは無いけど俺の自室と比べ物にならない場所で、待つこと5分。
 地獄は始まった。
 『血人』とやらは、人形より全然人間っぽくない。頭、手、足と人の形をしてはいるものの、シルエットがそのまま動いているようなもの。
 顔が何一つ無く、服も着ていない。曲線がなんとなく人間ぽさを演出してくるから動きが読めるが、どっちに顔がついているか判らなければどこが目なのかも判らない。制止していると前後がサッパリ判らない。
 二本の足っぽいもので歩き、二本の腕っぽい物を前に出して近寄って来る。だから、敵として認知できる。それさえも無かったら、只の塊だった。
 でも、動きがやたら滑らかだ。うっかりしていると捕まりそうになる。ぶよぶよしてそうな真っ赤な身体に捕まってしまいそうになった。
 言ってしまえば血人は、赤いスライム人間。人の形をしたぶよぶよの血の塊。当主の血によって作られたそれは、まるで生きているように暖かく生々しかった。
 そんな奴に捕まる前に、俺は一体撃退した。俺が攻撃すると、それは赤い水になって崩れ落ちる。
 次に二体目が襲い掛かってきたので、反撃し、赤い水にする。すると零れた一体目の水と二体目の水が重なって、三体目を作り出した。
 そうして三体目、五体目、十体目、五十体目……。

 中途半端な試験段階の相手だから、俺はなんとか五十体目を撃破できた。
 これが術の作成者本人でなく、核の無い他人が操作しているというのだから……血人のマスターが本気になって襲い掛かってきたら、俺ですらやられてしまうかもしれない。
 正直、四十体目に殴られて、俺の左腕はぷらーんと垂れている。
 右手だけで身体のバランスを保ちながら、反撃のナイフのみで相手を負かしている。俺からの能動行動はさっぱりしていない。そんなの出来るほど余裕は無かった。

「霞。ナイフは卑怯じゃないか」

 必死に戦っていると、何処からともなく声がする。アニキの声だ。
 姿は見えないが、近くに居るのは感じる。血人の対象にならないよう不可視になっている。アニキが居る場所を暴いて、奴らを受ける盾にしてやりたい気分だった。

「血人は拳だけで戦ってくれている。ならお前も刃物はしまって格闘術だけで応戦しないか。これでは対等な記録が取れんと俺以外の術師達も不満がっているぞ」
「一対多数の時点で卑怯じゃねーかよ! それぐらい判らねーのか、おめーらはッ! どこの口が言った!? 見せろよ! でもって盾にさせろ、こんのバカアニキめ!」

 アニキの口ぶりからして、研究にのめり込んでいる数人がこの戦闘を眺めているのは判った。
 他にドSなコトを考えてクスクス笑うような連中が十数人は居る。そういった連中が実家に居ることぐらい知っていたけど……でも、改めてそのことを考えてしまったら、途端に寒気を感じた。
 少しでも余裕ぶろうとはしているけど、今の俺は血まみれだ。血人の返り血を浴びているのも勿論ある。けど、五十体以上の攻撃を全て避けきるほど素早くはない。

「刃物を捨てろ」

 もう一度、アニキ得意の『迫力を増した声』を繰り出された。
 渋々、俺は……息を切らせながら、刃物を虚空へ消した。
 すると血人がそれを待ってましたと言わんばかりに大量に襲い掛かって来る。それも全部追い払う。実は俺は、ナイフを使うより体術の方が得意だ。体力の消耗を少ないものにしたかったから敢えてナイフ戦に持ち込んでいただけだ。
 みるみるうちに上がっていた息が更に上がる。
 五十体が八十体になり、百体になったところで、アニキの声により実験は終わった。
 そう、百体で済んだのは、「切りの良い数字だったから終わらせてくれた」に過ぎない。
 そうでもなかったら、たとえ俺が地に伏せたとしても、実験終了を言ってくれなかっただろう。倒れる俺に血人は攻撃を仕掛けていたかもしれない。恐ろしい光景が次々に思い浮かんだ。

 実験が終わるなり、牢屋に数人の術師が入って来て俺の傷を癒やす。
 と言っても、魔法で一瞬で治るような展開は無い。自分の血で前が見えない状況を初めて味わった。
 放置していた左腕の感覚が無くなっている。「治療してやる」と乱暴に連れて行く心の無い連中に、本気で殺意が湧いた。

 とにかく、嫌な一日だった。
 布団にやっと寝かされたとき、手身近に居た奴に「もう実験に付き合わねぇ」と怒鳴った。
 いくら父親やアニキからの命令だとしても、当主の許可を得た正当な実験内容だとしても、あの眼鏡にニヤニヤ笑われ殺されるのは嫌だ。
 だけど、俺の必死の主張は虚しく、聞き入れられない。
 三日後、歩けるようになってからまた「実験を手伝え」電話でと声が掛かった。
 俺は首をぶんぶん振って拒否した。だってそのとき、手術した左腕は、まだ感覚が戻っていなかった。そんな状況で戦闘なんか出来る訳ないと涙ながらに訴える。
 アニキは「仕方ない、別を探す」と散々俺に怒声(ちっとも声は荒げてなかったけど)を浴びせながら電話を置いた。

 ――翌日、自分の口座を確かめて、この四日だけでマンションが買えるぐらいの金が振り込まれていることを知った。

 呑気に外の暮らしを送っていた俺の価値観がブチ壊れうる程のゼロの数。暫く話をしたくないと思っていたアニキに直接電話してしまうぐらい、動揺する。アニキは、

「お前が俺の話を聞き流しているときにちゃんと説明したぞ」

 と溜息を吐かれた。
 そういえば報酬の話、してたなぁ。電話を切って、改めて銀行口座を見つめた。暫く心が何も考えられなくなってしまった。
 襲ってきたのは虚無感だ。

 ――俺は、狂ってる。

 己の力を伸ばす為だぁ、修行の為だぁ言って、俺を殺しかけたりする家なんて、何年かかっても理解することなんて出来ない。
 俺を殺しかけるだけならまだいい。俺はそこそこズル賢い方だから、危険があったら回避している。一族の中でも血は薄い方だしそんなに口うるさく言われることもないし、しなきゃいけない規則がある訳でもない。時々モルモットを探し回っている連中に、声が掛かるだけ。
 俺以上に悲惨な目に遭っている奴は、いくらでも居る。それが腹立たしい。

 そんな例を見て育ってきたからこそ、「あの家は狂っている」と思っている。
 志朗兄さんなんて、俺と比べ物にならないぐらい酷い扱いを受けていた。ガキの頃から志朗兄さんを見てきたから、我が家の悪質な様子はよく知っている。
 俺よりもずっと高貴な生まれな志朗兄さんは、いつも誰かに虐められていた。「当主の息子なのに何も力が無いなんて」この「脳無し」と大勢から言われ我慢しているあの人を、俺はずっとずっと見ていた。
 子供相手に集中砲火をして、何が楽しい。狂っている……何度も思った。
 大人になったらあんな家、出てやる。そう考えるのは容易かった。

 山から降りて外の世界で生活し始め、『ごく普通の仕事』で働いて毎日を生きてきた。
 外の世界は意味の無い中傷は殆ど無かったし、血の繋がった似た顔の連中ばかりと違うから、どんな出会いも楽しかった。
 本当になんでもないことを俺は楽しんだ。自分の稼いだ金があればどんな所でも遊べたし、好きな土地に住めたし、決められたものを食べなくて済んだ。
 ただ、自分の稼いだ金が無ければ、何も出来なかった。
 当然だ。金が無いのに金が必要な行為なんて出来ない。幸い、俺は金に固執する性格ではない。金欠だと知ったら「働いてなんとかしよう」という気持ちになれた。借金をしてとか危ない橋を渡ることはする気にはなれない。
 元から嫌な世界から飛び出してきたから、新たに嫌な世界に飛び込むつもりは毛頭無い。真っ当な意識で現代を生きていける。そんな俺を作ってくれたことだけはあの家に感謝していた。



 ――2003年6月15日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /4

 暫く傷を治しながら「次のバイト、どうしよっかなー」と考えていると、突然電話が来た。知らない電話番号だ。
 電話に出てみると、相手は親戚だった。名は、依織(いおり)。次期当主陣営と言われてる優秀な坊主。それほど親しい訳じゃなかったが、名前だけは知っていた。

「なんで俺のケータイの電話番号知ってるんだよ?」
『十一桁なんて一度見たら覚えるっつの。一瞬覗き込んだとき覚えたんだよ。つーかなんで他の連中覚えられねーんだよ。おかしくね?』

 いや、そう言われても同意できない。
 依織という名前を覚えていたのも、「一族の中でやたら記憶力が良い奴が居て、知識の検索エンジンとして役立ってくれる」と誰かが噂していたのを聞いたからだ。俺と依織が話したのは、多分これが初めてだった。

『どうせカスミン、暇なんだろ? 電話ぐらい付き合え。話ぐらいさせろ』
「なんだ、カスミンって。……暇なことは暇だけど、今は仕事も何もできねーぞ。心霊手術してもらったっていうのにまだ左腕が変なんだよ。実家のお手伝いも受けないからな」
『そこをなんとか』
「って、なんだ、ホントに仕事の依頼かよ。ヤメてくれ、マジで一週間前のクソ実験で死にかけたんだ。一年ぐらい休ませてくれって『本部』に言っておいてくれよ……」
『本部の連中は、カスミンは仕事してないから頼みやすいってみーんな言ってるぜ。困ったときのカスミン頼み。ヒュウ、頼りにされてるねぇ。憎いねぇこのぉ。色男め。イケメン憎い滅べ!』
「えっ!? いきなりナニ目覚めたの、オメーも親戚なんだから似たような顔だろ!?」

 特定の仕事に就いてないっていうのは声掛かりやすい理由だよなぁ。
 でも今の生活がラクっていうか。楽しいんだ。当分フリーターをやめる気は無い。

「……俺は実家に戻るつもりは無い」
『イケメン滅べ!』
「なんだよ、オメー何かイケメンにトラウマでもあるのかっ!?」
『つーかさ、外で成功させてるんじゃねーよ。中の奴が羨ましがるじゃねーか』
「…………」
『オメーみたいに山から出て外で輝いちゃうと、優秀な人材まで外界に出ちまうんだよ。それ、だいぶ、恐れてるんだよ。本部は』
「……羨ましがるようなことをしているのが、悪いんじゃねーか。あんなところに居たくないって思わせてるのが一番の原因だろ。恐怖政治を続けてきた代償だ。ざまーみろ。……俺は育ててもらった恩があるから仕方なく面倒見てやってるだけだ。そうでなかったら、もうあんな家、縁切ってる」
『はん。そんなカンタンに縁なんか切れないもんだぜ。本部は今も、使える駒は手放さないよう、縁を鎖で結ぼうとしているんだから』

 滅多に話したことない依織が、ハッキリとした声で呪詛を放つ。
 依織って奴はこんなに自信満々に話す奴なのか。あんまり会ったことのない親戚のせいか、どんな顔で言っているのか想像すら出来なかった。
 知らない顔だというのにこんなに話をする。他人なら話すら出来ないというのに。
 やっぱりこの家はおかしいんじゃないかと感じながら、仕方なく、縁を無理矢理切らずに電話を続ける。

『なあ、本部が用意したカスミンへの鎖があるんだ』
「へえ?」
『それはそのうちカスミンに直接巻かれる。でも、なんと俺様はその先行情報を得てしまったのでここでバラしちまおうと思う。事前に話しておくことで顔も知らぬ親戚の心を助けてやろうという戦法だ。感謝しろ、そしてヒレ伏せ! 礼はガンプラで許してやろう!』
「オメーさ、それは外の人間に頼まないで妥当にアマゾンに頼んだ方が早く手に入るんじゃないか……。オモチャ欲しさに何やってんの」
『フリーダムに生きてるんだよ。カスミンと同じだ。俺は山のど真ん中で生きてるけどね、それでもフリーな人間なんだよ。フリーにerを足してフリーターさ』
「……いや、tが足りない」
『滅べ!』
「自分の失敗は認めろ!」

 長話になりそうな携帯電話に充電器を差し込んで、熱くなった胴体を冷ましながら依織の声を追う。
 腕が疲れて、左手に持つ。その熱さに気付く。
 話している間にも、やっと負傷した左手は回復してくれたらしい。一週間もして腕が治らなければ訴えるつもりだったから助かった。

『いまいま、あるところに青年がいました』
「……。いまいまっていうのは、昔話の冒頭のむかしむかし、と同じようなもんか?」
『滅べ!』
「もうそのセリフ言いたいだけだろ!?」
『その青年は、平和に過ごしていました。青年に悩みは無く、毎日楽しく過ごしていました。青年は現状に満足していました。幸せに生きていました。愛ある家族に恵まれ、麗しい友人らに囲まれ、好きなものを手に入れ、夢があり、夢を叶える道を進み、恋人を作ったりデートしたり、いやもうそらハッピーライフでしたとさ』
「そのまま、めでたしめでたしって繋がりそうなぐらいハッピーに装飾したな」
『さてさてシーンチェンジ。……ある日、青年は父親から電話を受けました』
「ん」
『お前も一族の端くれなら役に立て。当主様の作成したものの実験台に選ばれるなんて名誉あることだぞ。嫌なんて言わないよな? それにお小遣い貰えるぞ。お友達ともっと遊びに行きたいだろ。バイク欲しいとか言ってなかったか。行きたい場所があったんだろ。好きな子にプレゼント買ってあげたらいいんじゃないか』
「…………」
『そうして、頭まで平和だった青年は死にましたとさ』
「し、死んだッ!?」

 隣のアパートの住人に怒られるんじゃないかってぐらい、大声で叫んでしまった。
 だがその大声は依織には何のダメージにはならず、『そうだよ、死んだよ』と淡々と返すだけだった。
 その程度ぐらいではダメージにならないと言うかのように。

『青年は実験台になり、ボロボロにされて、死んだ。その後に生き返らせられたよ。そうして生き返った青年は更に実験台になり、また殺された。また生き返ったけどよ。もうこれで三度目。四度目もあるかもしれねー』
「……お、おい、なんで、死んでるぐらいのことをやってるのに、やめねーんだよ」
『ちなみにその青年の名前、玉淀(たまよど)っていうんだけど。覚えは無い?』
「えっ……。名前だけは聞いたことはあるけど、年が離れてたと思うから話したことは……」
『あっそ、知らない間柄か。俺はタマと同い年だからメッチャ話すんだよね。アイツの頭の平和っぷりは話してて面白いからメッチャ話す。うん、メッチャ話す間柄なの』
「……親友って言いたいのか」
『照れるなよ』
「お前がな」
『アイツの頭、平和なんだよ。すっげえ弱いの。論破なんて出来ないし、難しいこと話されたらうんうん頷いちゃうタイプ。契約書を読まずにサインする。しかもハッキリ言って、タマってあんま強くないよ。多分カスミンの方が上じゃないかな、能力は。よう、よくよく考えろよ。カスミンがあの実験を蹴ったから代役がタマにまわってきたんだぜ。カスミンが蹴らなきゃタマはこんな役しなくて済んだと思わないか?』
「…………。んだよ、その暴論は」
『すげえ責任転嫁だよな。……俺だって判ってるよ。思い出も無い、記憶にも乏しいカスミンを責めるなんて間違いってことぐらい。でもな、一瞬でも俺は考えちゃったんだよ。そういう頭の弱い理由づけ。どうしてこうなったって悩んだとき、カスミンに辿り着いちゃったんだよ。ああ、滅べ。言わせろ。お前が大人しく死んでりゃあんな良い奴は被害に遭わなかったんだ。タマは何度も死なずに済んだんだよ』

 凄い怒声を電話先から吐かれた。
 だが、その声は淡々としていて迫力を一切感じさせなかった。ただただそんな言葉を述べたいだけの、気持ちがちっとも伝わってこない音の羅列だった。
 言いたいのは本当なんだろう。誰かを傷付けてスッキリしたいのも本気なんだろう。
 でも、心を込めて言いたくないのも、本音なんだろう。
 依織という親戚がどんな顔をしているのかは知らないが、どんな表情で言っているのか、なんとなく頭に浮かんだ。

「それが俺への鎖か? けど、仲の良い奴ならともかく……顔も知らない男が傷付いてるって言われても、俺は何にも感じないぞ」
『俺もそう思う。ただ、カスミンは近日中に一度実家に戻れって言われるんじゃないかな。そん時に、真実に直面すると思うよ』
「なんだそりゃ」
『確実にカスミンの鎖が用意されてるってことに気付くんだ』

 それから依織は意味不明なことを散々喚いてから電話を切った。
 充電しながらの長電話、持っていられないぐらい携帯は滅茶苦茶熱くなっていた。左手はその熱を感じている。
 完治を知らせてくれる熱だった。



 ――2003年6月21日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /5

 俺があの実験で殺されかけてから二週間ぐらい経って、依織から電話がかかって一週間ぐらいが経った頃に、俺はまた実家の山を登る羽目になった。
 その二週間、良い物を食べてすくすく育った。治療のプロから処方された薬は全部飲んだし、栄養素の高く値段も高い物を大量に食べて、治療に専念した。
 忌々しい傷を早く治したかったのもある。あの大金を使って無くしたいという気持ちもあった。
 と言っても、一週間良いメシを食ったぐらいじゃあんな大金は消えない。振り込み自体が間違っていたんじゃないかってぐらいの金だ。
 その額を見ているうちに、だんだんと「怪我はともかく、金はいくらあっても困らないか」と悟るようになり、豪遊を止めることにした。
 今後は堅実に生きていく。いつも通り節約して、普通のスーパーで飯を食う生活に戻った。

 戻ったところで、実家に戻ることになったのは……「実家に居た頃の私物をまとめに来い。持って行かないと捨てるぞ」という内容の電話を貰ったからだった。
 確かに住まなくなった部屋を放置しているのが馬鹿馬鹿しいという気持ちは判る。いらない荷物なんてどうにかしたいものだ。
 放置しておきながら捨てられては困る思い出の品もあるので、渋々実家に戻ることにした。
 今回は『仕事』や『命令』とかじゃない。私物を捨てられたくなかったら来いという、心優しい『忠告』だ。
 すぐさま元私室に向かう。まだ捨てるには勿体ない服や適当に置いていた漫画を回収して、早々退散することにしよう。

 数年放置した部屋を開けると、そこには人が居た。

 いや、正確に言えば、そいつは座っているだけだった。
 壁を背に隅っこに腰掛けているだけ。
 一瞬俺が部屋を間違えたかと思ったが、ここは間違い無く自分がアニキ達と一緒に子供の頃、過ごした部屋だった。
 「なら今の住人か」と納得しながら、部屋に入る。

 そいつは……染めた金髪で耳にピアスをしていてシャツにズボンを着た、和服でない若者だった。
 その情報だけで、「この家とは一線置いている」ということが判る。どいつもこいつも黒髪黒目の着物姿ばかりの奴らの中に居たら目立ってしまうその風貌。
 かく言う俺も髪を茶色に染めてるし洋服を着ているから普通じゃない。……外では普通になっていても、この山の中では異端だ。
 外見はそんな感じだが、それにプラスする情報がある。
 包帯だ。血の滲んだ包帯が頭や腕に巻かれている。
 ……数秒かからず、『彼が誰なのか』、名前も訊かずに察することができた。

「…………」

 ぼーっとしていた目が、俺が入って来たことでゆらりと動く。ゆっくりと目が合う。
 動きが遅いのは、傷を癒す薬が効いているのか元からなのか判らない。ゆったりと視線が交差すると、彼はふわりと笑う。
 依織が言っていた「頭が平和そう」という言葉が、物凄く納得できた。

「……おい。部屋を掃除するから埃立つかもしれない。嫌なら出て行ってくれ」

 一言そう声を掛けて部屋を片付け始める。
 部屋は雑多としているが、人が住んでいたらしく汚らしさは無かった。

「うー、出なくていい?」

 包帯だらけのぼうっとした声が、後ろからかかる。

「出たくないならそこに居ろ。俺は勝手にゴチャゴチャするだけだからな」
「なんでここを片付けるの?」
「片付けなきゃ捨てられるから。そう言われたんだよ。それに、いいかげんここも整理してやらないととは思ってたんだ。松山様に忠告してもらわなきゃずっとやらなかったけど」
「うー……? ここにあるの、キミのだったんだぁ」
「オメー、今の住人か?」
「うー、違うよ。おれ、外に住んでるんだもん。でもお山にお泊りするときに時々この部屋使わせてもらってるの。今ここに居るのは……違うけど」
「そうか」
「ねえ、野球好きなの?」
「なんで」
「だってバットとグローブとボールがあるから。ほら、そこ」
「あん? あー、確かにあるけど。ガキの頃、志朗兄さ……親戚達とやってたから残ってるだけだよ。昔は好きだったけど、もうそれ、捨てるつもりだから」
「もう野球やんない?」
「やんない」
「ふうん、そうなんだ。じゃあ、今は何が好き?」
「訊いてどうするんだよ」
「え。うー……別に何もしないかな。おれ、今、おしゃべりしたいだけだし。えへ」

 ふんわり笑う。それでいて、困ったようにも笑っている。
 別に話し掛けられることがうざかった訳じゃない。初めて話す彼の性格を知らないから、焦っているだけだ。
 誰かと話していないと落ち着かない性格なのか。でも、それとも違う気がした。

「おしゃべり、したいな」
「…………」
「久々にしたいんだ。ねえ、邪魔はしないからさ……付き合ってよ」
「……おい、久々って。もしかして『数日間、誰とも話してない』とかじゃないよな?」
「あれ、なんでバレたんだろ」

 もしやと思って尋ねて、まさかの確信。
 今まで依織から聞いていた情報。それと、自分が体験した実験。一週間以上連続した日程。大量の傷。地下牢。嫌な単語が頭を駆け抜けていく。
 やんわりと優しい声で「久々に人と喋りたい」。これほど攻撃力のある言葉は無かった。

「えっと、おれさ、久々に外に出してもらえたんだ。あっ、別に監禁されていたって訳じゃないよ! ずっと地下に篭っているのがお仕事だったっていうか……。うー、色々あって、『今日は外に出ようか』って言ってもらえたんだ。でもってここで待機してろって言われて……何があるんだろと思って待ってたら、キミが来たから、ああ、とりあえず何か喋らなきゃかなって思ったんだけど」
「……そっか」
「あ、久々にしゃべるって、別に今まで一言も誰とも話してないってことはないよ。処刑人の人達はキズの手当てしに来てくれるしさ、クスリだってくれるし。でもこうやってなんでもないこと話をするのは、久しぶりかなぁ……って。あっ、やっぱ作業のジャマだよね、ゴメン。うー」
「……別に構わねえよ」
「手伝おっか?」
「いかにも怪我人って感じの奴に手伝わせられるかよ、寝てろ」
「う……うー、たまには違うことしてリラックスしたいんだよぅ、ホントに久々に誰かとおしゃべり出来たんだからー……」

 彼はよたよたと起き上がり、隣にやって来る。よたよたした動きしか出来ない奴を手伝わせることなんてしたくなかった。
 そのとき、ふわっと甘い匂いがする。彼が隣にやって来て香る。それほど嗅いだことはないものだったが、知識にある匂いだった。
 ……これは確か、本家が儀式のときに使う香の匂いだ。
 精神を高ぶらせるために使う、整髪料のような匂いの、興奮剤の香りだった。
 薬を処方されているそうだから、だから匂ったのか? いや、どっちかっていうと、彼自身から発しているようにも思える。
 もっと言ってしまえば……彼の身体に染みついているような。

「……っ……」

 ――そこまで考えて、ある考えに思い当たった。
 途端に眩暈がした。
 横を見て、彼に巻かれた包帯を見る。若干血が滲んでいる。
 戦闘で負った傷? いや、それだったらもっと無作為な筈。規則的な場所、その滲み方は……。

「……お前さ」
「あ、そうだ。おれの名前、玉淀だよ」
「よく一週間も、実験……付き合ってられたな」
「……んぅ? あ、やっぱり……実験のこと、知ってる人なんだ?」
「俺もやった。一日だけだけど。一日だけで根を上げた。百人もやったら殺されかけた」
「ひゃ、百人も!? そんなに相手にしたの!?」
「ああ。正直よく頑張ったと思う」
「……カラダ、大丈夫なの?」
「いや、壊れた」
「だ、だよね、すごい……。おれはね、多くても、五人が限界だよ。だって、そんなに相手できないもん」
「……お前、そんなに弱いのか。いくらなんでもあんな木偶、一発で」
「つ、強くなくていいもん! あんなもの、強くならない方がいいよ。だって、本当なら『あんなこと』……好きな人だけとやるべきだし、おれが『する』ときはもっと優しくするよ! 『あんな痛いこと』しない!」

 彼は包帯を撫でながら言った。
 ……眩暈と吐き気が止まらなかった。
 やっぱり、『俺のやった実験』と違う。それが判ってしまって、以後、何も言えなくなった。
 血人の表情を思い浮かべる。顔なんてないけど、あの血人達が群がる姿を思い出して、想像して、吐き気を堪える。
 血で出来た、半分生きた人形。熱が通う木偶。
 そんな奴らとなら。繋がれるのか。いや、ああ。

 ――こいつは一体、何体、何十体に嬲られて、死を迎えてしまったんだ……?

 早々に部屋の整理を終え、玉淀と別れを告げた。
 「部屋に待機していることを命令されているから」と玉淀は壁際に戻った。誰かに指図されるまで、彼はそこで待っていなければならないんだろう。
 俺が部屋を出て廊下を少し歩くと、運が悪いことに親父・狭山が居た。
 偶然出くわしてしまったのではないらしい。俺が来るのを待ち構えていたようだ。

「体調はどうだ」

 そんな、実の父親らしい気遣いの言葉を口にする。
 傷付けた側の人間だと言うのに、顔色一つ変えずに奴は言う。

「完治したよ。戦闘で負った傷なら処刑人様方のお慈悲もあれば一週間もすりゃ治るわ」
「そうか。なら、次の話もしやすい」
「話って何だよ」
「お前は何の為に生まれた?」
「……あ?」

 数年前に学校でやった道徳のようなことを、父親は真顔で言う。
 そんなの真正面から返答できる人間など……居ない、と思ったけど、この親父ならある返答をするんだろうな。

「一族が栄える為に生まれた……とでも言わせたいのか?」

 そんなに人をコキ使いたいのか、この人は。
 鼻で笑ってやろうと思ったとき、俺は動けなくなった。指一つ動かせなくなっていた。
 そして、親父の拳が飛んできた。
 一瞬のことで回避が出来ない。いや、受け流すことも出来ない。
 いやいや、これは……なんかの術で動きを封じられたんだ! 殴られた後も一歩も後ずさることが出来ないんだから、きっとそうだ!
 動きを止められての一撃に鼻血が流れ、口に入った。

「お前は何故生まれたって、一族の繁栄の為に、我らが夢を成就させるために、俺が生み落としてやったんだぞ」

 ああ、忘れていた。
 俺の父親は、こういう台詞を真顔で言う人だった。

「それが何だ? お前は何をしている。今まで死ぬ気で我らに尽くしたか? 身体だけは大きくなっていつまで経っても中身は成長しないで、我儘を言ってるだけ。それどころか周囲に反逆を唆しているらしいな」
「……は、何だ、それ」
「己の罪深さも理解出来てないか。……恥を知れ!」

 もう一度、一撃が襲い来る。
 頭にゲンコツというなら微笑ましい親子喧嘩の鉄拳制裁。そんな生易しいこと言ってられない。
 一撃が二撃になり、三撃になる。
 動けない。
 頭を、顔を、正面から殴られて、それでも後ろに倒れることもできない。
 攻撃はやまない。
 体を捻ることもできず、襲う痛みが中和されずにただただ苦しさだけが募って行く。
 それが目的なんだ。……思わず、死を覚悟した。

「殺す、気、か」
「ああ。ここでお前を処刑してもいい」

 拳を振り上げながら奴は言う。

「ここでお前は処刑されてもいい! それほどにお前は罪深い。生まれた理由も果たさずただ生きているだけの男など価値は無い。今すぐ死ぬべきだ! いや、死などで逃げるのは罰にならん。死より重いものを与えてやるぞ。お前の居た記録など一切残さず処理してやろうか。跡形も無く存在さえも消してやろうか。全ての記録も人々の記憶も改竄してやるぞ。それは外の世界に固執していたお前には辛いことではないか」
「……は。よく、そんなことを考える……」
「外に出るなとは言わん。だが、逆らうな! 血に逆らうな! 使命を果たせ! 魂を与えられた理由に従え! 存在意義も果たせない奴は、この世に居る資格など無い!」

 気違いな台詞が耳に入る。
 気持ち悪い。とにかく、気持ち悪い。
 こんな言葉で縛ろうとして、実際に多くの人間を縛っているのだから……ああ、ここは気持ち悪い!
 でも今は何も言い返せず、ぼろぼろと鼻血を流してその声を聞くことしかできなかった。
 血の味以外にしょっぱいものも口に入って来る。苦く、辛かった。辛かった。

 その後、悟司アニキが廊下を通り、頭に血が登りきった父を宥めてこの場の処刑は終わってくれた。
 かと言って、アニキは俺に何かの言葉を掛けたということはしない。アニキはアニキの考えで一族に従っているから、一族自体に敵対している俺よりは父の肩を持ちたいだろう。
 ……父と兄が信頼し合っているかと言ったら微妙だけど。

「玉淀くんに会ったか?」

 親父が居なくなった廊下で、金縛りから解放された俺に、アニキはそんなことを言う。

「会ったよ。それが何だ?」
「心は何か感じないか」
「……あ? アイツが怪我を負ってるのは俺のせいだってことにしたいのか? どう考えたって、傷を負わせるまで実験を進めているアニキ達が悪いだろ?」

 アニキはふっと鼻で笑う。その余裕ぶった眼鏡、へし折りたい。

「日当、一万」
「…………あぁん?」
「いやあ、前に実験していたお前についつい払い過ぎたせいでね、玉淀くんにはその値段で頑張ってもらってるんだ。それでも喜んで受けているんだから、彼は実に素直で従順な良い子だ。お前も見習うべきだ。何も心に感じるものが無いというなら、その純粋さを見習っておけ」
「おい、俺にあの大金を払っておいて、金が無ぇとはどういうことだ」
「お前に支払うべきものを渡しただけだと『本部』は言う。途中でギブアップしたとしても、霞は一日でも実験に協力してくれたのだから渡すべきだと。……しかしこの決定は俺も不公平じゃないかと思っている。だって、玉淀くんは、お前より七倍も働いているよ。お前より七倍も苦しんでいる」
「……オメー……!」
「七倍も苦しめた霞は酷い奴だなと思うよ。『命無き人形を使って供給が出来るかの実験』なんて、よく彼は頑張ってくれてると思う。俺なら『あんな人形の』なんてしゃぶれないし、興奮もしないな。愛撫もしてくれない人形に突っ込まれて何時間も回され続けているというのに、よく頑張ってくれているっていうのに、『本部』は玉淀くんにその額しか渡さないと決めた。これは覆ることはない。覆す必要が無いからかな。玉淀くん本人が現状に満足しているそうだから。でも、やはり俺には不公平に感じるな。とにかく霞は酷い奴だなと思うんだ、ああ、酷い奴だな、お前は」
「い、いいかげんにしないとぉ……!」
「お前が断らなければ彼が包帯を巻くことはなかった。それは事実。お前一人の声が誰かを傷付けるってことを自覚するんだな。それは、この家では他よりももっと大きな問題なんだよ」

 ――何が言いたいか判るか?
 そう兄は繰り返し、俺に忠告し、命令した。
 こちらが何を言っても、彼は、彼らは、自らの主張から逸れることは無く、ただただ力を振りかざしていた。



 ――2003年6月24日

 【 First / Second / Third / Fourth / Fifth 】




 /6

「やるよ」

 札束の入った封筒を玉淀に渡す。
 喫茶店内で変な声を上げる奴を落ち着くように言った後、俺はドリンクバーの安い紅茶を飲んだ。
 目の前の席でおずおずと封筒を覗き込んで、変な声を上げる。それを三回ほど繰り返して、やっと玉淀は人間語を話すようになった。

「えっと、これって……」
「……親父からの配給。この前の実験のバイトの報酬だろ」
「でも、バイト代はちゃんと貰ったよ。日当で一万円で、七万円分……」

 学生が出来るバイトにしちゃ良い方かもしれない。
 でも、依織が言うには四度は死にかけたという。それなのにその値段。
 アニキがニヤニヤしながら言っていた言葉を思い出し、腹わたが煮えくり上がってきそうな感覚に襲われる。
 喉に紅茶を押し込めることでなんとか落ち付きを取り戻していた。

「きっとそれ、ボーナスだろ。お前に支払われるべき金なんだ。受け取っておけ」
「あ、うん……イヤじゃないから貰っておくね。ありがと」
「俺はそれを渡しに来ただけだ。礼を言われる筋合いはねーよ。……でも、暫くは俺経由に金渡すからな。文句言わず受け取れよ。頼む」
「うー、なんで? どうして振り込みじゃなくて手渡しなの?」
「……あっちもあっちで色んな意図があるんだよ。弱い頭で理由を考えるな。言われた通り俺から金を貰え」
「うー……?」

 玉淀は、札束の入った封筒を丁寧に鞄に入れた。
 気になるところはあるんだろうが、俺に言われた通り考えない方を玉淀は選んだらしい。鞄にしまうなり喫茶店のメニューを見て、置いて、口を開いた。

「えっとさ、カスミン。もっと高い物、食べに行こうか!」
「……いらね」
「う……そう? 奢ってあげようかなーって思ったんだけど。だっていっぱいバイト代が入ったんだし」
「お前のバイト代なんだから、お前の為に使えよ。欲しい物があるんだろ。買えよ。……俺は、配給係に任命されただけだから貰えねーよ」
「うー! 人の好意は黙って受け取るもんだぞぅー! だっておれの金なんだろー!? どう使おうがおれの勝手じゃーん!」
「……ああ、そうだよ」
「あっ、そうだ。カスミンにおれの好きな人、見せてあげる!」
「はあ?」
「見て見て、この写メ! このこ! すっごくいいこなの。大好きなのー。あ、いいこだからってカスミン取っちゃダメだよ。おれの大好きな人なんだから流石に怒るよー」
「会わせて怒られる可能性がある対象になんてご対面したくねーんだけど」
「えっとね、このこ、いっぱい幸せくれるよ」
「意味が判らん」
「それじゃあ、美味しいもの食べに行こうよ。それともカラオケ行く?」
「どうしてそうなる」
「幸せになれるじゃん」
「だからっ」
「おれ、お礼がしたいんだよ」
「あのさ、お礼されるほど俺の仕事は大したコトをしてねーんだよ。金の受け渡しなんて簡単すぎる仕事……」
「違うの。カスミンはおれにお仕事くれたでしょ? そのお礼がちゃんとしたいの」

 ……思わず、紅茶のカップを音を立てて置いてしまった。
 目線だけで理由を追い詰める。
 玉淀は、表情を崩さず笑顔のままだった。

「カスミンにはちゃんとお礼しなきゃって思ってたんだ! だって、カスミンがお仕事をやめたからおれがお仕事できるようになったんだよ。お金が欲しかったのもあるけど、あの仕事を受けたおかげで狭山様達に褒めてもらえるようになったんだ。ありがとう」
「……おい、それは……」
「おれ、知ってると思うけど、弱っちい方だし頭も良くないんだ。だから今まで見向きもされてなかったんだ。居たけど、居ない扱いされてたんだよ。しょうがないよね。そんなおれが声掛かるとは思わなかった。それは、カスミンがお仕事譲ってくれたからだって聞いたよ。カスミンはいっぱいお仕事出来るのにわざわざおれの入る枠を開けてくれたからって」
「おい」
「そう聞いているよ。……悟司さんから」

 思わずカップを叩き割りたくなった。
 しない。絶対しない。店のモンだから常識的に考えてしない。
 でも、なんだ、それは。そんな理由あるか。
 そんなことでコイツは騙されるのか? 騙されちまうもんなのか。って、この言葉でコイツ、一族に鎖を掛けられて、おい。やりたくないことやらされて。人間以外に犯されて、それを使命とかされて。それでいいとかって。
 これが依織の言っていた鎖か? 一人ずつ律儀に別の鎖を用意したっていう、あの鎖か?
 俺には罪の意識なんてものを引っ掛けようとして、まんまと俺は今、引っ掛かろうとしてるし、おい、おそらくあいつら、別の誰かにも、縛りつけて、あいつらは、あいつらは――!

「でね、今度おれねー、幽霊退治しに行くんだっ。うー、おれあんまりそういうのってしたことなかったからドキドキしてるよー。頑張ってくるよ。それに、暫くお寺には戻りたくないかなー……お尻痛いのヤだもん。でもって幽霊退治の方がずっと今より稼げるっていうし。うー。お金溜まったらね、また好きな人にプレゼント買うんだ。えへ、いっぱいプレゼントして喜んでもらうんだー。プレゼントは獲得チェックの基本だっていつも言ってる! よし、おれ頑張る!」

 清々しく笑う玉淀の顔を直視できなかった。
 でも、何気なく奴が顔を覗き込んで、

「どうしたの、何かあったの?」

 能天気な顔で尋ねてくる。
 俺が思っていること全てをこいつにぶつけて、奴らが駒を増やしていることを話してしまいたかった。
 そう考えるたびに「反逆者め」の呪いの声が思い返される。処罰の話が思い返される。
 同時にあのときの鼻血の味も。

 外の生活が恋しい俺は、口を噤んだ。

「なんでもねーよ」

 この一言の重かった。
 なんでもないことに近付くことなど、俺には当分出来そうになかった。



 ――2005年12月31日

 【    /    /Third/    /    】




 /7

 プレゼントを持って走る。クリスマスに会えなかったから、この日を心待ちにしていた。
 合鍵を使って部屋に入る。すぐさまこれを手渡したかった。焦る気持ちが顔に出ないか、そればかり心配していた。
 プレゼントのチョイスには自信があった。きっと喜んでもらえるに違いないと思っている。プレゼントと同時に渡す言葉もいくつも用意してきた。夜遅くなってしまったから三番目のあのパターンを言うことにしようと考えていた。
 これを買ったときは恥ずかしいことに、プレゼントを渡したときどんな顔をして嬉しがってくれるか想像して眠ってしまったぐらい、この時間を楽しみにしていた。他人から見たら白い目で見られるかもしれなかった。けれどそんな目にはへこたれるものかと吹っ切れている。
 必死に愛の言葉を考えて今日に臨んでいるんだ。多少の追い風などどうってことなかった。
 こんなにも自分は頑張っているんだから、必死になって結果を出そうとしているんだから、報われてほしかった。
 たとえ良い結果が出せなくても、この努力は無にならないと思いたかった。
 好きな人に好かれるために頑張っていることは、気恥ずかしいが、悪いことじゃないって信じたかった。
 部屋に入って、名前を呼んで、自分の名前が呼ばれるのを待つ。一刻も早く会いたい。でも声はいくら経っても返ってこなかった。

 ――イエスでもノーでも、どんな結果になったとしても、受け入れるつもりだった――。

 愛してもらおうと必死になっている自分。どんなに愛してもらおうと躍起になっていても結果を出すのは相手だってことは判っている。
 相手がどう答えてくれるか不安だったが楽しみでもある。いかなる結末でも自分は認める気でいた。
 それでも、どうしても認められない結末はある。
 愛されないとか嫌われるとかの問題よりも以前のこと。
 例えば、真っ赤に染まったバスルームなど認められない。



 ――2005年4月24日

 【      / Second /     /      /     】




 /8

 僕は洋館まで懸命に走った。約束の時間に間に合うために走った。
 走りながらメロスの一文を思い返してしまうぐらいに走ることに集中した。必死に、我が家専用山道を走り続けていた。

 ――もうっ、これだから『本部』は!

 僕の脳内は本部の悪口をメロスと混ぜながら再生していた。後に『本部』への悪口が過半数をこえていった。
 ああ、『本部』は無茶ぶりするって知っていたさ。そんなのいつものことだとも思っていたさ。当日になって仕事を押し付けて「今日中に解決してこい」って言われることは今までだって少なくなかったさ。けどそれにしたって今回の仕事は難易度が高すぎだ!
 三日以内に関西まで飛んで巷で有名になっている連続殺人鬼(の幽霊)を退治してこいってなんだ!? 無茶ぶりすぎる! 召されろ!
 付き添いをしてくれた圭吾さんも「あれはないわーと思った。ないわー」と引っ切り無しに言っていたぐらいの無茶ぶりだった。付き添いが笑顔の圭吾さんじゃなかったら許せなかった。圭吾さんが隣に居てくれるから二割冷静でいられた。……八割興奮状態で終わったってことさ! 圭吾さんはそんな僕を子供と思っただろうね! シット!
 出来ることなら『本部』は修正されるべきだ。色々方針を改め直すべき。うん、お願いだから考え直して。ちょっとでいいんだからさ。お願い!

 で、なんでこんなに急いでいるかっていうと、今日は二回目の茶会があるからだった。
 折角のお茶会を企画者本人が遅刻というあるまじき行為はしたくなかった。そんな失態、僕のプライド的に許せなかった! だから必死に走っていた。

 ――先週。洋館で行われたお茶会は、大成功に終わった。
 大成功と言ってもただ紅茶を飲み、お菓子を食べ、お話をするだけだ。イベントとしては在り来たりで面白みも無いように思われるかもしれない。でも僕にとっては最高の一日だった。好きな場所で好きな調度品に囲まれて過ごす、娯楽の無い仏田寺に住む僕には天国のような時間だった。
 付き合ってくれた人がとてもおしゃべりな男性だったから、余計に楽しかった。彼は博識で話し上手な人で、話が尽きることはなかった。
 まるで女の子みたいに次から次へと話題を作ってくれるし、一休みのときさえも疲れない話題をしてくれた。喋ることが好きな僕には最高の仕掛け人になってくれた。
 一日だけに限らず次回も企画してくれた彼のことを想うと、彼にお金でも支払った方が良いかと思ってしまう。ブリッドさんには感謝してもしきれない。それぐらい楽しかったし、これからもお茶会の企画を練って行こうと思っ……。
 ああ、ああ、まったく『本部』は! 約束は最低二十四時間前に取り付けなさいってあれほど言ったのにね! 狭山おとうさんがそう簡単に改めるような人じゃないって知ってるけどさぁ!

「ねえトキリン、キスしていい?」
「ゴートゥーヘル!」

 洋館に入る前に息切れを抑える僕に突如、変質者が抱きついてきた。
 あまりに息が切れてたから舌がまわらなくて妙な発音になってしまった。福広さんに聞き取れたかな。ちゃんと伝わっていればいいな。うん、地獄に落ちろ!

「あはぁ、そこで俺に『死ね』って言わないトキリンって優しいよねぇ。同じムカつく系ならゴートゥーヘルじゃなくてファックユーアスホールにしなよぉ。あっははははぁそんなん大歓迎だけどねぇ!」
「ゴーアウェイ! ケツの穴なんて興味ありません! なんで福広さんがこんな所に居るんですか! 貴方、洋館に用なんて無いでしょう! こんな所を掃除しろだなんて命令されることもないでしょう!?」
「いやぁ、そこは俺ぇ清掃員だもん、洋館掃除は年に数回はあるよぉ」
「今日がその数回だと言うならせめて箒か掃除機を用意してから言いなさい!」
「ワオ、なんという洞察力。さっすが知力特化のトキリン、惚れるねぇ! 俺と付き合いなよぉ」

 気の狂ったことを口走りながら福広さんは、僕にぎゅーっと抱きついてきた。
 嫌がっているというのを言葉、表情、全身使って表現しているというのに、オール無視してこの悪行を繰り返していた。天に召されないのが不思議だ。
 清掃員を自称する(事実、お寺のお掃除係ではある)福広さんは、その肩書きに似合わず、相変わらずのお洒落さんな格好をしていた。寺に居る僧侶達と並んだら浮いてしまうほど、洋服を着こなしているし髪も綺麗な明るい色に染めている。山の中では目立つように外見を着飾っている趣味は、僕も高く評価していた。
 でも評価できるのは外身だけだ。僕をからかって抱きついたりキスしたりズボン脱がしたりところは評価できなかった。……評価できる筈などなかった!

「あああ! 離してください! 僕にはこれから重要な予定が待っているんです! 福広さんと遊んでいる暇などないんです! 離しなさいーッ!」
「えぇー、洋館の前でぜーはーぜーはー休んでいるだけだったじゃんー。あれは俺に抱きついてほしいっていうココロの表れでしょうぅ?」
「あれは洋館にみすぼらしく入らないためのカッコつけ下準備というものです! 休んでいた時間だって一分もいなかったでしょ! どんだけグッドなタイミングを狙って貴方は襲いかかってきたんですか!」
「ちゅー」
「やめなさい死ねえええぇ!」

 思わず、虚空――ウズマキから出せる最大火力(と言っても愛用のハンドガン)を召喚して、背中に張り付く異物に対して乱射した。連続射撃できて三発だけど撃ちまくる。
 超至近距離で放ったが、僕より一枚も三枚も上手な福広さんはあっという間に距離を取って全て回避していく。良い動きしやがって、このクソ野郎!

「トキリーン、俺を殺す気ぃー? あぁ、殺したときはちゃんと責任もって俺の魂を回収してよねぇ。リサイクルしてくれなきゃ地球が泣いちゃうよぉ」
「このサイコ! 今ばかりは今ん日のエコ教育に反したくなりましたよ!」
「でも知ってるぅ、トキリンは優しい心を持った男の子だから俺を大事に思うキモチが邪魔して凶行に踏み切れる筈がないってぇ」
「嗚呼、殺意で人が殺せたらッ!」

 暫し洋館の前で撃ち合いになった。
 と言っても銃を一方的に放っているのは僕だけだ。
 福広さんはひょうひょうとした性格の通り、回避することだけに徹していた。銃弾を回避するなんて人間業じゃなかったが、そもそも何も無い空間から銃を出している僕と同じ血を引いた男なんだから、さほど大きな問題ではない訳で。銃弾を弾く盾を次々と作り出すことぐらい福広さんにはお茶の子さいさいだった。

「ねぇトキリン、五分もやって殺せない相手なんだからそろそろ諦めたらぁ?」
「うぬぬっ! 僕にはまだ修行が足りないと言いたいのですね! 僕に未熟さを思い知らせる、それが貴方の目的ですか!」
「フフフぅ、よくぞ気付いたなぁ、ときわ少年んぅ。弱者は大人しく強者のモノになるがいいさってうわあああぁ!? 今、眉間狙ってたでしょぉ!? 本気で殺す目だったぁ!」
「狭山おとうさんに『修行は本気でやらなければ意味が無い』と常日頃言われ続けていますからね!」
「やだぁ、殺意を深い情熱と勘違いして俺ってば恋に落ちそうぅ! もうとっくの昔にトキリンにムチューだったけどねぇ!」
「さっさと用件を言いなさい、用件を! 貴方の本当の目的を! ただ単に『目に入ったからなんとなく抱き付いた』だけだったら鉄拳制裁しますよ! 銃殺です!」
「ぷぇー、忠告しに来ただけなのにぃ」

 福広さんは召喚した魔法の盾を全て解除し、普通の男性の姿に戻る。
 僕とは三メートル離れた場所に立って、「はあ、やれやれと」大袈裟に溜息をついた。
 ばさりと髪を掻き上げる仕草がセクシーだ。お洒落さんでちゃんと整えている男性だから、そういった身振りはとっても絵になる。絵になるだけに、中身が大変残念なのがもったいない。

「忠告って、何ですか」
「近頃ぉ、トキリンって洋館を堂々と利用してるでしょぉ」
「はい」
「『外の人と関わるのやめなさーい、血が汚れちゃうでしょうー』……って注意しようとしている人達が大勢いるのぉ、気付いてないぃ?」
「ああ、そのことですか。気付いているも何も、今朝だって三人ぐらいに注意されましたよ」
「注意されてそのご返答はぁ?」
「『照行様のお客様である外の方々に失礼な態度ですね』と言って、その先を続けてくる人達はおりませんでした。残念です、僕はその次の言葉が聞きたかったのに」
「おややぁ」

 僕の返答を聞いて、福広さんは元から緩んだ口を更にニヤニヤ歪ませた。
 締まりの無い顔だ。だらしなく思う。

「まったく何を言っているんでしょうね。僕がお坊ちゃんであることは認めますが、『完全温室育ち』ではありません。高校までちゃんと外に通っていたぐらいなんですから。自分達以外の人間に触れるななんて、社会に生きている以上無理だって判っていないんでしょうか」
「判っていないんでしょぅ。だって自分達だけで社会を形成した結果ぁ、山の中でこもって仲良く子作りしていくことを選んだんだからぁ。それが理想だと思っているしぃ、お坊ちゃんにもその精神に則ってもらわないとぉ」
「クールになってほしいものです。自分達以外の人がお金を流してくれるから僕達は成り立てるというのに、傲慢にも我が家だけで生きていこうと思っているなんて馬鹿げてます。……いくら血が繋がっていなくても彼は正式な来賓者です。その彼に敬意を払わないなんて最低ですね」
「そこは同意しておこうかなぁ」
「おっと」
「俺は外も中も仲良くすべきだって思っているからねぇ。穏健派なのよぉ。自分達が繁栄するためにも外の人は利用すべきだって思うしぃ」
「…………」
「ああ、そういやさっきぃ、その外人さんに挨拶したらクッキーを貰ったよぉ! 手作りだからってさぁ、ばりばり頂いたよぉ。いやぁ水分無くて窒息するかと思ったぁ。トキリン、クッキーで喉詰まらせたら俺を呼んでね。キッスで起こしてあげるぅ」
「福広さん、言いたいことはそれだけで?」
「愛してるよぉ」
「嘘じゃなかったら喜ばしいことです!」
「ごめんねぇ、トキリンを喜ばせてあげられなくてぇ」

 もう一発、福広さんの眉間目掛けて銃弾を撃ち込んだ。
 残念ながら命中することはない。彼が魔術で避けたからではなく、普通に僕が命中を外してしまったからだ。
 魔法で消えるでもなく、福広さんは「じゃあねぇ〜」と呑気に手を振り、歩いて去って行った。
 僕を妨害しに遊びまくって、伝えることだけ伝えて、嘘を散々吐いた後、僕らが寝泊まりする屋敷の方へと歩いて行く。
 なんと騒々しい寄り道だった。時間泥棒にも程がある。
 やっと好きになれない相手がいなくなって、清々した。深呼吸をして色んなことを考える。
 積極的な態度だけなら好意的なのに。率直な愛情表現ならいつでも受け入れてあげられるのに、嘘で固めてくる彼など、好きになれる筈がない。
 福広さんとの悪ふざけが終わって、息切れをちゃんと整え直してから洋館の食堂へ入ることにした。



 ――2005年4月24日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /9

 茶会の舞台となる食堂には既に、超目立つ赤毛の男が座っていた。

「すみませんアクセンさん! 遅れました!」
「ん? 何を言ってるんだ、ときわ殿。遅れたって、まだ二分前じゃないか。そんなに真っ赤になってどうしたんだ」
「十四時集合なら十三時四十五分に到着してなければ立派な遅刻ですよ」
「君は真面目だな」
「ちゃんと着席している貴方も充分真面目です」

 息は食堂に入る前にちゃんと整えてきた。僕は席に着く。
 見ると、アクセンさんの席の前にはいくつかの本とノートが重なっていた。
 それは、先週に貸し合おうと約束した本と、お互いに調べてこようと宿題にした結果のノートの数々だった。
 うわぁと予想以上の真面目さに驚いてしまう。何気なく「良かったら持ってきてくださいね」とお願いしただけなのに、宿題を全てやって持ってくるなんて。誠実に生きようとしている僕と良い相性だ。
 そんな本とノートの次に、僕の目に入ってきたのはクッキーの乗った皿だった。市販の物とは思えない、様々な形の、どう見ても手作りっぽい……悪く言えば不出来なクッキーがある。でも美味しそうだ。

「オウ。まさかそれは、アクセンさんの手作りクッキーですか」
「いかにもその通り。厨房を借りることが出来たのでな」
「アンビリバボー。よく銀之助さんが調理を許してくれましたね」

 頭の中にぱっと、外の人間の調理を渋々了解する銀之助さんの顔が思い描かれた。
 キッチンは一族以外の立ち入り禁止どころか、銀之助さんの身内以外の立ち入り禁止なのに。どんな話術を使ってキッチンをレンタルしたんだ。

「いや、私は銀之助殿という人とは話していない」
「え? ならどこで作ったんです」
「駅前のビルに貸し厨房がある。そこで作って来た」

 駅前……って、こんな山奥の寺に一番近い駅は、山を下りて町に出てから三十分はかかるぞ。
 バスだって一番近い停留所に歩いて行くまでに三十分、バスに乗って町に行くまで三十分はかかるんだから……。ズバリ言うと、凄く遠い。

「わざわざそんな所で? キッチンを借りて作ってきたと言うんですか?」
「ああ。先週ときわ殿の話を聞いた限り、この寺の厨房に入れないのは予想できていたからな。レンタル料を払えば貸してくれる場所の方が確実に用意できる。予想以上に良い施設だ。今度一緒に行かないか」
「そんな面倒なことをしてまで作ってきてくれたんですか」
「ときわ殿が食べてみたいと言ってくれたから作ってきた。私は約束は守る男だからな」

 ふふんと得意げにアクセンさんは笑った。
 笑顔が幼い。僕よりいくつも年上なのに、とても若く見えるのは第一印象のときから変わらない。
 なんでクッキーをわざわざ作ってきてくれたかというと、以前のお茶会のときに、アクセンさんが「料理は一通りできる」と言ったからだった。「僕の趣味は料理です」と言ったら彼もお菓子作りはもちろん洋食和食中華、簡単な物なら作れると胸を張って言っていた。
 そのときは「なんだこのチート」と思いつつ、好きな話で大いに盛り上がった。
 よく話が転換したか覚えてないけど、「良かったら何かを作ってこよう」って話になったのかな。色んな話をし過ぎて全部把握できてない。

「いただきます」

 アクセンさんから自作のクッキーを貰う。がりがり。
 手作りらしい少し固めの食感だけど、ちゃんと甘みが口の中に広がっていく。美味しい。年下の火刃里くんや寛太(かんた)くんとお菓子作りをしたとき食べた、苦いクッキーとは大違いだった。

「ブラボー。良い腕です」

 ちゃんと腕のある人が作ればこんなに違うんだよと、幼い二人に教えてほしくなるぐらい美味しかった。
 個人の好みはあるが、出会って数日の僕の好みなんて彼は知る筈が無いのにここまで気に入ってしまうなんて。いくらでもペロリといけてしまいそうになった。

「良かった。今度は、ときわ殿の作った物を食べたい」

 手作り料理の話をしていれば、当然そういう流れになる。
 作ってもらえたんだから今度は自分の番というのは自然な流れだった。僕は頷く。

「こんなに美味しくできるか自信がありませんが、これでも料理は人に自慢できる特技なんです。今から美味しいって言う準備をしていてくれて構わないですよ」
「君の作る物は美味しいに決まっている」

 言いながらアクセンさんは紅茶のカップに口を付ける。
 美味しいに決まっている、と断言するなんて。相変わらずこの人は不思議な喋り方すると思った。
 出会ったときも古臭い喋り方だなと感じたし、一回目の茶会でも多くのことを知っているなと思ったり、アクセンさんに対する認識はシーンによって大きく変わる。色んな顔を持っている彼と話すのは、とても楽しいことだった。

「ええ、どうぞお楽しみに。銀之助さんからキッチン使用の許可を頂き次第、アクセンさんにご馳走しますね」
「頑張って噂の鬼神様と戦ってきたまえ。そうだ。……ときわ殿、先程な」
「なんでしょう」
「ときわ殿の恋人を名乗る男性と出会ったよ」
「忘れてください」

 すぐさま一秒で終わる記憶削除の魔術をかけてあげたかった。
 いや、記憶削除なんて当主様や、次期当主の燈雅様ぐらいしか出来る人なんていないけど! その記憶、消して!

「そう照れるな。恋人の話をされるというのが気恥ずかしいものだとしてもな」
「違います。アクセンさん、それは間違いなんです。すぐさまその人の記憶を抹消してください」
「君が男性と付き合っていたとしても、君の考えを改めるつもりはない」
「同性愛に寛容なお家で嬉しい限りですが消してください。お願いします」

 簡易的な記憶削除法として斜め四十五度で殴れば良かったんだっけ?
 そんな古典的ボケを実行しそうになるが、クールを心掛ける僕はなんとか自分を制した。記憶削除なんて高等な術、当主様ぐらいしか出来ないって確認したばかりじゃないか。それぐらい消したいという心の現れだとしても!
 そういやさっき、福広さんが「手作りクッキーを食べさせてもらった」って言ってたっけ。オウ、あの人の台詞だから『忘れるものフォルダ』に入れっぱなしにして、引き出すのに時間がかかった。
 話の腰を折らずアクセンさんの言葉を待つ。

「ときわ殿のことを大変大事に想っているのが全身を使って表現してくれた。過激な愛情表現だったぞ。愛されているんだな、君は」
「ところでブリッドさんがいませんね」

 やっぱり話の腰を折ることにした。っていうか『全身を使った表現』って何ですか。きもちわるいな。
 「そういえば」と呟き返すアクセンさんと一緒に時計を確認する。
 もう既に集合時間から十分……十五分も経ってしまっている。けれど食堂に、ブリッドさんは姿を現していなかった。
 先週のブリッドさんのことを思い出す。彼はアクセンさんの「茶会に出席してくれ」という約束を守るため、食堂に現れた。
 その姿は僕とは大違い、茶会を楽しみにしているという気配は微塵も無く……「出席しろ」と言われたから来た、という、嫌々加減が出ているものだった。
 正直、楽しみにしている僕からするとあまり良い印象は抱けない。話をしようとしないし、顔は背けてるし、出しているお菓子も全然食べてくれないし。……居るだけならいらないと冷たく思ってしまうぐらいだった。

「ブリッドは……今日は、来てくれないのか?」

 僕のブリッドさんに対する評価は、ハッキリ言って低い。好感度がとても低い。たった二日しか出会ってないけどさ。
 でも、変な話だがアクセンさんとブリッドさんの語らいは、とても面白くていつまでも見てられるものだった。
 先週の二人は……黙る、突っ込む、慌てる、笑う。その一連の流れが完成していた。
 巧く表現できないが、なんというか、そう、二人の掛け合いは面白い。たった数週間のコンビとは思えない。
 彼らを見ていると、バラエティ番組でお笑い二人組を見ているような感覚に陥る。テレビという箱の中で彼らを見ているだけなら好きと言えるけど、実際仲良くなれるかっていったら……。
 っと、悲観しすぎた。単に話し下手の人に対して好感度が低いのは当然のことだ。
 ブリッドさんのことは嫌いじゃなくて、まだ好きになる要素が無いだけの話。アクセンさんと話している姿は追い掛けていたいぐらい興味深かった。

「仕事が忙しいんですかね。来ないなら来ないの一言ぐらい掛けてくれればいいのに。気が回りませんね」
「何か重要な用事が入ったのかもしれない」
「そうだとしても、重要な用事が入る可能性を読んで事前に連絡を入れるぐらいしてほしいです。連絡手段なんていくらでもあるでしょう。それぐらい出来ないんですかね」
「手厳しいな、ときわ殿。君だって遅刻しそうだったのに」
「む」

 自分で言いながら、アクセンさんに言われて……ちょっと大人げないなと思ってしまった。
 いつもなら寛容な心を(福広さん以外には)心掛けられるのに、何故か急に心がざらつく。
 ……ざらざらする。自分でブリッドさんの話題を振ったのに、何故か急に気分が悪くなった。
 ああ、そうだ。『機嫌が悪くなった』のではなく、『気分が悪くなった』。むむ、まさか運動後すぐに食事をしたからお腹がおっつかなくなったのかな……?

「ブリッドを連れて来る」

 テーブルの下で隠れてお腹を擦っていると、アクセンさんが立ち上がる。
 集合時間より十五分以上経った今、連絡を一つも寄越さなければ来ない可能性もある。いくら約束で「出席してくれ」と言っても、契約書を書いて絶対に来るように命じたものではない。そんなわざわざ呼びに行かなくてもいいんじゃないか。
 それでもアクセンさんは食堂から出て行ってしまう。……僕はお腹の調子をみた。気分の悪さは、ほんの一瞬だ。三十秒撫でたらもう治まっているぐらい、些細な事だ。食堂を見張っているのも考えたが、僕も「付き合いましょう」と席から立ち上がる。
 椅子で大人しくしているのも手だったが、僕は彼らの掛け合いが好きだ。それが見られるならと立ち上がる。
 食堂から数分もかからない廊下の一室の前にやって来る。以前ピアノを移動させたときに訪れて以来の部屋。人が殆ど住んでいない洋館は、当然誰ともすれ違うことなく歩くことができた。ちょっと寂しい。
 アクセンさんが扉をノックした。僕に対しての英語とちょっと調子を変えて扉の中に呼び掛ける。彼は「私だ。いるのか?」という内容を暫く言い続けならノックをする。
 迷惑なぐらいノックをし続けていると、やっとガチャリと扉が開いた。
 ほんの数センチだけ。中から何かがこちらを伺っている。彼だった。

「………………」

 おっと、さっきの腹下しが戻って来てしまったようだ。咄嗟に口を抑える。む、運が悪いな。
 ブリッドさんとの掛け合いは少し離れた場所で見ることにしよう。……と思っていると、掛け合いの前にアクセンさんはガガッと扉を無理矢理開けてブリッドさんの部屋に入って行った。強硬突破だった。
 そうか、『アクセンさんは彼の部屋に入るのが初めてじゃない』んだな、きっと。

「……っ!? な、何を…………!」
「なんだやっぱり閉め切って寝てたのか。昼間だというのに真っ暗な部屋だな。ブリッド、おはよう。まずはカーテンを開けよう。空気を入れ替えよう。話はそれからだ」
「あ……、や…………」
「なんだ、無理な話ではなかろう? 開けっぴろげにしてしまえ、さあ解放するんだ。その方が気持ち良くなるぞ」
「ゆ、許して……!」

 ぶはっ。口を抑える対象が吐き気から爆笑に変わってしまった。なにその悪代官と街娘っぽい並び。
 そうだ、先週の茶会もこんな感じだった。今日はやたらと卑猥な香りがするが、二人の掛け合いは間違った方向に完成されていて、傍から聞いている人間を笑い殺しにかかってくる。
 僕はブリッドさんの部屋に入らず、ただひたすらアクセンさんの攻めに耐える彼のか弱い悲鳴を聞いていた。

「茶会の時間だぞ。眠ってないで来てくれ」

 かなり無理矢理な誘い方だと思う。
 で、アクセンさんは面白いことに……いや、意地悪いことに、笑いながら、ブリッドさんを引き出そうとしていた。ブリッドさんが困っているのを自覚していないのか、判った上で笑顔で苛めているのか、僕にも判断出来ないぐらいの強硬姿勢だった。
 この人、もしかしてSなのか。単にブリッドさんが超受け身だからどんどん押していかないと話が転換しないだけかもしれないけど。

 ともあれ、数分後にブリッドさんは部屋から引き摺り出され食堂に強制連行された。
 あまりの無理矢理っぷりに可哀想にも思えてしまったけど、特に大きく拒否しないで従ってしまうブリッドさんに肩を持つべきか否か、迷ってしまう。
 だって本当に連れて行かれるのが嫌だったらハッキリとそう言えばいい話だし。なんだかんだで滅茶苦茶にでも連いて来てしまっているんだから良いってことなんだ。

 こうして改めて僕らは食堂で席に着く。
 相変わらずブリッドさんは俯いて黙っているだけだったが、アクセンさんは何事も無く話を再開し、僕も用意してくれたノートを捲る楽しいお茶会になっていた。
 アクセンさんの積極的な態度は嫌いじゃない。が、この……ちょっと他人のことを考えない無理矢理っぽさは、なんだか福広さんを思い出して、心から好きにはなれなかった。
 くそ、アクセンさんはちっとも悪くないのにあの人のせいで好きになれないってなんたることだ! 福広さんの残した罪は大きいぞ! ファック! 結構ですけど!



 ――2005年4月24日

 【      / Second /     /      /     】




 /10

 今朝のうちには空港から新幹線で移動し終え、寺の敷地内には到着していた。
 そう、僕は朝のうちには寺に居た。いくら敷地内が広くて館が点々と建っていると言ったって、本家屋敷と洋館までの移動距離は十分で済む。十二時集合なんて余裕の筈だった。
 なのに、お役所仕事と言うのは時間通り動かないもんで……それはどの世界も共通なもので。
 自分の刻印に閉じ込めた魂を解放するまで、待ちに待たされて二百四十分。十三時過ぎになって僕は解放された。
 病院だって四時間待ちはない! 定刻通り事を進める方針を義務付けるべきである!
 一体何にそんなに時間を掛けていたのか、十三時になる前あたりに、苛々して近くに居た松山さん(この寺の住職さん。表の顔のため『仕事』にはあまりか関わっていない人物。比較的フレンドリーに話し掛けても怒らないでいてくれる人)に尋ねてみた。

「処刑しているから忙しいんだとよ」

 松山さんはいつも通りのフレンドリーさを忘れず、笑いながらもなんか困った雰囲気を纏わせて、僕に教えてくれた。

「……処刑、って何がどうしたんです」
「一昨日、下水爆発事件あっただろ? え、覚えてない? ああ、その頃ときわ様は大忙しだったんだったか? あっはっは、知っているわけなかったなぁスマンスマン!」

 冷や汗をかきながらも豪快に笑うという松山さんのキャラの徹し方に感動。……いや、そんなことはおいといて。

「二日前になぁ、下水が爆発する事件があったんだよ」
「読んで字の如くの事件ですね」
「あーね。男衾くんが調査しに行ったんだが、どうやらその爆発……『鼠同士の争い』で起きたものらしくってなぁ。その鼠が、うちの僧だったっていうからさ。生かして事情を聞いたらベラベラ外に内情話してたらしくって。上はカンカンっていうか……はっはっは、困ったなぁ」

 松山さんは大体のことしか話してくれなかったので、判りやすく僕の中で砕くとしよう。

 ――AとBという男性2人がいた。AとBは下水道の中で、とある取引をしていた。
 Aが手に入れたというとある組織の機密情報を、Bという組織に売るという裏取引だった。
 Aはスパイで情報をBに売り、大金を回し合うという、秘密結社をやっているとよく聞く話を行なっていた。
 しかし、AとBの中に亀裂が生じた。何をどうなって喧嘩になったかは、AとBの人間性を探らなきゃいけないのでスルーしよう。そのAとBは単なる口喧嘩に留まらず、異能力を伴うドンパチを始めてしまった。
 Bの放った魔法で下水道は爆発。偶然にも近くを歩いていた一般人を傷付つけてしまい、教会に『一般人を害した異端犯罪者駆除』の仕事が生じた。その仕事を片付けに行ったのは、我が一族の一人、男衾という男だった。
 男衾はすぐに『下水道でAとBという男達が取引をしていた』という事実に辿り着いた。
 ……そして、Aというのが仏田の一員で、Aが流していた機密情報というのが、我が家の研究成果というのだから……。

 男衾さんの仕事は、Bを捕らえて教会で罰を受けさせることだった。
 だけどBなんてどうでもよくなるぐらい、我が家にはAの存在は恐ろしいものだった。すぐさま仕事の内容を変え、Aを捕獲した。
 捕獲して、連れてきた。それが今日の早朝のことだったらしい。僕と圭吾さんが仲良く寺に戻って来る数時間前のことだとか。
 自分の中で松山さんの話をまとめていると、とある僧が松山さんの元に駆け寄る。「ふむ」とおじさんらしい頷きを見せ、僧を帰した。そして僕に向き直って改めて口を開く。

「十二時三十六分、心臓発作で死亡。だとさ」

 誰が、とは言わなかった。
 さっきからAの話をしてたんだからA以外の人物の話をするとしたら、必ず主語を入れてくれる筈。入れないってことはAの話からズレてないってこと。……そういうことなんだろう。
 突然の病に見舞われ、それに気付いた人々のお心遣いで、本家屋敷の中央のお部屋で、大勢の人達に看取られて、病死した。そんな幸福な人が今さっきまでいたという。
 外に出してはいけない情報を出そうとしたんだ。天罰が下ったんだ。仕方ない、仕方ない。

「ああ、葬式の準備しなきゃな。……あいつ、ご家族は居たっけな……?」

 松山さんは、んーっと大きく伸びをした。その表情は、さっきまであっはっはと笑う人ではなくなっていた。
 もう火葬場に連絡し始めてもらってるし。そうか、他の人に見せられない体になってるってか。見せない方がもっと幸福な死だと思われるってか。でも多くの人に看取られたならさぞ幸福な死だっただろう。
 って、処刑するのって一人居りゃ足りるよねって言っちゃいけない話なのかな? 僕の用事の方が早く予約入れていた筈なんだけど。……なに本部総出で一人をボコ殴りにしてるんだよ! 4時間待たされている僕のことを少しは気遣ってくれよ。こっちはブリッドさん達が待ってるっていうのに。ああ、もう時間が無い――!

「………………」
「ん。どうしました、松山さん?」
「ときわ様も、すっかり『あっち側』に染まってるんだな」
「は?」

 その後、ゆっくりと歩いてやって来た大山さんの手で僕の集めた魂は回収された。
 時間にして約十分……も経っていない。このやろう。殺してないでこっちを気遣えや。



 ――2005年4月24日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /11

「なるほど。ときわ殿は圭吾という人が好きなんだな」

 ……この赤毛野郎は何を言っているんだ。
 思わず紅茶をばっしゃんと彼にかけてさしあげたいぐらいだった。そんなことしても僕が掃除することになるだけだからしなかった。
 だって、僕はただ……圭吾さんの出てくる話を十回ぐらいしただけなんだから。たった十回なのに。

「『君の好きな人』は別の人だったんだな、私は福広殿と勘違いしていたよ。そうか、先程は悪いことをしたな。申し訳無い。このとおりだ」
「何故アクセンさんが頭を下げるのですか」
「間違っていたことを詫びたい」
「いえだから、それをしなくていいと」
「ときわ殿が好くぐらいの人なんだから、圭吾というのはさぞ素晴らしい女性なんだろうな」
「……圭吾さんは、男性です」
「ん。そうか。ああ、私はときわ殿が同性愛者だからといって」
「いいです、さっきそれは聞きましたから。圭吾さんは……兄というか三人目の両親みたいなものですよ。それに、親なんて三人も四人もいらないでしょう? 大変な存在ですよ」

 何気なく僕の昔話を聞かせたら、こうなるとは。
 僕の話になるとつい圭吾さんが出て来てしまう。僕の趣味を構築したのは、いつも傍でお兄さんの顔をしていてくれた圭吾さんだから、彼の話が付き纏ってしまうのは仕方ない話だ。
 それぐらい僕の生涯に大きく関わっている人だから……好きとか、一言で片付けるのも、憚られた。

「生まれたときから一緒だった人がいるとは羨ましい。両親のように絶対的な絆を持っている人以外でいるなんて。自分のことをなんでも知っていてくれる人がいるとなれば心強い」
「そう思うかもしれませんが、自分の知らないところまで何でも知っているのも嫌なものです」
「長い時間を共に過ごしている人なら愛が深くなるものなのだろう? なら、良いじゃないか」
「違いはありませんよ。……その人、オシメを変えてくれたこともあって、僕の知らないホクロだって知っているかもしれないんです。恥ずかしいものも全部見られているし、未熟だったときも全部知っているからいくら大きくなっても子供扱いされるし。親が子を見て子供扱いするのは当然だからいいですけど、いくら経っても子供扱いを改めない他人って……ねえ。長くいるから良いっていう問題じゃないって。ああ、支離滅裂になってますけど、僕の言いたいこと判るでしょう?」
「ん。理解は出来る」
「僕がハイハイしか出来ない頃から知っていると、ちゃんと直立二足歩行をしていても印象はずっと赤ん坊から変わらないものらしいんです。本人から聞いたから確実な筋です。心苦しい話です。……ふう、年下の宿命だから仕方ないと言えばそれで終わる話ですが」
「ほう。ブリッドにはそういう人はいないのか?」

 アクセンさんは自然にブリッドさんへ話を流す。
 ティーカップを手にしたまま、じっと黙っているだけだったブリッドさんは、話し掛けられて、少しハッとした顔になった。眠っていた訳ではないだろうが、心ここに在らずって感じだった。そんな彼にも話を振る。

「ブリッドにはそういう人はいないのか?」

 もう一度、アクセンさんが問いかける。

「…………そういう人……?」
「生まれたときから一緒だった人。両親以外に深い愛情を注いでくれる人だ」

 表現の仕方が壮大。
 さっきまで話していた身でも『深い愛情を注いでくれる』という言葉の装飾に体が、むず痒く感じてしまうものだった。

「…………。愛情、は、ともかく……」
「うん」
「生まれたときからずっと一緒……というだけなら。……オレには、兄がいます……双子の」
「へえ、ブリッドさんは双子?」

 双子。なんと双子? ブリッドさんには双子のお兄さんがいるのか。
 一卵性か二卵性か知らないけど、この顔と同じ人がいるのかと思うと、不思議な感情が湧き上がる。いや、変な意味では無く。

「僕の弟達も双子でしたよ。二卵性なのでちっとも顔は似てないんですけど」
「ほう。ときわ殿の家にも双子がいるのか」
「あさかとみずほっていう男の子の双子がね。顔はそんなに似てるとは思わないんですけど、二人とも息ぴったりなときがあって、そういうのを見ると双子なんだなーって思いましたね。時々言葉がハモって驚きました」
「ブリッドもそういうことがあるのか?」
「……はい。そうかも、しれません……」
「そうか。そうなのか。…………」
「アクセンさん?」

 アクセンさんは相槌を打って、暫し黙った。
 何か考え事をしているかのような、思い出そうと必死こいて唸っているような顔で押し黙ってしまう。

「どうしました、アクセンさん?」
「……ブリッドも……兄と言葉が重なることが、あるんだな……」

 僕が聞き取れたのはそんな文章。その言葉のどこにどんな意味が込められているのかさっぱり判らない一言だった。
 呟いて、また黙る。
 本当に、どういうことなのか判らない。

「で、ブリッドに深い愛情を注いでくれる人はいるのか」

 そうして構わずアクセンさんは話を戻す。
 さっき「そんな人はいない」ようなことをブリッドさんはさりげなく匂わせたのに、またぶり返すなんて酷な事をするなぁ。

「……その、いません」
「本当かっ?」
「…………え、は、……はい。いない……です」
「そうなのか」

 変なところに拘って聞き返したりするし。
 ……なんなんだ? 何にそんなに引っかかっているんだ。茶化しついでに本気で思ったことを尋ねてみた。

「もしかしてアクセンさん。ブリッドさんに『そういう人』がいると困るとか思っているんじゃないでしょうね」
「ああ」

 アクセンさんは真剣な顔で頷いた。
 …………。

「……はい? ……えっと、アクセンさん?」

 傍から聞いてる僕でも赤面してしまいそうな台詞を、この人は言う。
 え、なに、この二人ってそういう関係……だったの? それっぽいことを匂わせていましたけど……。だとしたらごめんなさい。って、出会って数週間目の僕が察せる訳がないんですけど。
 言った本人は真剣な顔で頷いて、その後はごく普通に紅茶を飲み始めてしまった。
 言われてしまった本人は……どう反応して良いものか判らず、固まっていた。というか何を言われたか理解出来ていないような顔をしていた。
 でも、数秒遅れで理解が到達したらしく、……どんどんとブリッドさんの顔が赤くなっていくのが、目に見えて判った。

「………………ッ。し」
「し?」
「し…………し…………失礼……しま……した……」

 ブリッドさんは風が吹いたら聞き取れないぐらいの音量で呟いて、席から立ち上がる。

「ブリッド、何処へ行く」
「…………し、失礼しま……」
「それでは答えになっていない。私は『何処へ行く』と訊いているんだが」
「そ、……あ、……の…………。オレ、用事を、思い出して、しまったので…………」

 そんな無理矢理作ったような言い訳でも、なんとアクセンさんは「用事なら仕方ない」と頷いた。
 おい、なんでそこで納得しちゃうんですか。どう考えても嘘でしょう。照れ隠しでここから立ち去りたくて言った台詞に決まっているでしょう。なのにそこでスルーするって……。

「次の茶会も出てくれよ、ブリッド」
「…………っ。…………ッ……」
「約束だからな」

 ……いや、スルーなどさせなかった。
 まるで鎖を巻き付けるように、アクセンさんは言葉で彼を縛る。
 その返答にブリッドさんはまた数秒固まった後、逃げるように食堂から去って行った。実に不憫な後ろ姿だった。可哀想にも程がある。

「……アクセンさん。今のは、その」
「なんだ?」
「ねーわ」
「え?」
「いえ、すみません。俗な言い方でしたね」

 僕も紅茶を飲んで落ち着くことにする。って、なんで僕が落ち着かなきゃいけない状況に陥っているんだ。
 暫く経ってからアクセンさんの顔を見てみると、ブリッドさんがいなくなったことに「残念だ」と言いながらもノートに手を掛け、違う話題を繰り出そうと準備をしているところだった。
 ……この人……あの人のことが、好きなんだろうか。
 でも確か「出会ってまだ数週間しか経っていない」とか言っていた。数週間どころか日数にすると三日かそこらだと言っていたじゃないか。そんな人に対して、あんなこと言えるものか?
 時間の長さが愛情の深さと比例するとは言い切れない。けれど、一般的には長ければ長いほど愛は深くなる……そういうものだろう……そう話をしたじゃないか……?

「そうだ、ときわ殿。前に話していたあの件だが」

 その後もアクセンさんと僕は沢山話をした。
 色んなジャンルの話をしていると、彼が会話の端々にブリッドさんを気遣うようなことを挟んでいるのに気が付いた。
 ああ、やっぱり彼は、彼に興味があるんだ。やっぱりそうなんだ。……そんな優しい考えで留めておくことにした。
 僕は彼らの出会いを知らない。その出会いが少ない時間を補うほどの深さの情を生んだのか、予想も出来なかった。

「次の茶会、楽しみだな」

 僕と同じことを言う彼の裏側には、僕には無い別の感情がある。彼だけの特有な感情がある。
 そう気付いてから二人の掛け合いを見る目が変わった気がした。



 ――2005年12月31日

 【     /      /     / Fourth /     】




 /12

 赤い水の中、愛するモノを抱いた。
 血濡れた体を抱いて、泣き散らした。
 絶対に許さない。




END

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