■ 005 / 「憑依」



 ――2005年8月10日

 【   / Second /     /     /    】




 /1

 かつては毎日訪れた場所でも、一年ぶりになれば行き方も曖昧になる。
 オセロの升目のような規則正しい並びの道を一つ一つ数を数えて、先行く場所を確認した。

 暑い。墓場はとにかく暑い。真夏の暑い日に墓地の石だらけの道を歩くことは、現代人には苦痛だ。
 しかも今日は特に照りが厳しい。一歩、歩く毎に出てくる溜息に全てが嫌になる。
 これからの予定に仕事があるせいで仕事着のままで来た。それが特に悪かったらしい。上着を脱いでも、衣服を全て投げ払っても我慢ならない。
 どうやって子供の頃、こんな暑い中を駆け回っていた。自分のことながら可笑しくて仕方なかった。

 夏休みのとき、遊びの時間は必ずここにいた。駆け回って、悪さをして、多くの人と話し合って。そんな夏を毎年過ごしていた筈だ。
 子供の頃はどんなに暑くても、暑い暑いと唸っていても外にいた。あの我慢強さは一体どこから来たものなんだ。
 今でこそインドアな仕事をしているが、これでも幼い頃は野球選手にでもなりたかった気がする。健全なスポーツ少年だった筈なのに、いつの間にか健全精神は消し去られてしまった。
 それはともかく、今年も何人か増えたらしい。『新人さん』が挨拶してきた。
 いつもなら、仕事場や同僚がいた場所では一切しないことだが、ここは実家だし……幽霊相手に会釈ぐらいしておく。

 広大な私有地。かつての俺の庭。ここは大霊園。升目ごとに並ぶ死者の家から自分の先祖の家を探す。
 当然、幼い頃はこんな広すぎる空間は遊び場にしか見えなかった。ここでバットを振って、人様の墓石を傷つけたことを思い出すと、今でも夜が眠れなくなる。その日の夜、家を傷つけられた住人がやって来たのだから。「とばっちりを受けた」と翌朝、涙目になった弟の新座が、良い思い出だ。
 新人は、若いばーさんだった。
 「これからお世話になります」と深々とお辞儀をしてきて、こちらも「いえいえ」と返したくなる。
 その姿を仕事場の後輩が見たら怪しい目で見られる。一人で実家だからできることだ。家族にも見られたくないところだが。
 俺は上着を左手に、適当に見繕ってきた花を抱えて目的に向かう。
 墓石の前には先客がいた。あさかだった。



 ――2005年8月10日

 【   / Second /     /     /    】




 /2

「ふあぁ、あっつー」

 だらだらと健康的な汗をかいていた。
 木製の手桶に水に手を入れ、ついでに顔を洗う。上半身にまとったシャツの袖で顔を拭く。既に誰かが綺麗にしていた祖母の墓だったが、つい自分なりに掃除をしてしまった。
 広大な墓地、自分の生まれ育った遊び庭の一番端。所有者、仏田家の墓。
 柄杓から水を落とす。空中に出来た流れが墓石に注ぎ、ある部分は粒になって跳ね、ある部分は膜となって石の表面を滑り落ちる。水の粒が、幾つか僕の顔に当たった。

「……おばあちゃん」

 墓石に呼び掛けてみた。
 彼女の為に、多くの人が集まってくる。これから、沢山の人が。
 今はまだ数人の身内しか訪れていないけど、これから血も繋がらない人、それこそ親交が本当にあるのか判らないような人までがここに訪れ、彼女と話すことだろう。
 どれだけその人達がここに眠る彼女と会話できるか判らないが、綺麗にしておかなければいけない。
 そうでなくても僕、あさかの記憶にある祖母の姿は良いものばかりだった。

 彼女の為に綺麗にしてあげたいとは心から思っている。
 「おばあちゃん」と皆からも呼ばれている彼女だが、僕にとっては本当の祖母ではない。僕の本当の祖母は自分が生まれるずっとずっと昔に亡くなったという。この墓に眠る彼女とは僕の祖父、和光の弟・照行(てるゆき)の嫁。僕とは血の繋がりは無いが、それでも優しく美しく上品だった女性と多くの者が記憶している。
 この家にとって外から来た女性は皆、期待され訪れるけど、後には絶望し卑下される運命になる。彼女も一族の願いを背負って名を仏田にしたが、結局願いは達成されなかった一人だ。
 僕には女性の気持ちなんて分からない。だけど、多くの人に冷視されたことぐらい知っているし、それが辛いってことも判る。
 それでも多くの人に愛されもした。
 そんな記憶に新しい祖母が亡くなったのは、もう数年も前の話。明日がその命日だ。今日墓参りに来る人はきっと身内ぐらいだ。

「あれ、志朗おじさん?」
「よう。今年の掃除役はあさかか」

 人の気配がした方向へ視線を向けると、花を持っている男性がいた。
 彼の名前は、志朗おじさん。僕にとって年が離れているが従兄にあたる。
 志朗おじさんは既に墓の花挿しにはいくつか飾られていたが、構わず自分の持ってきた花を突き刺した。
 僕が持っていた線香を何本か引き出すと、吸っていた煙草で火をつけ供えた。手を合わせる。ついでというのも難だが、僕も共に手を合わせた。

「今日は早いんですね、みんな午後に来ると思ったのに」
「俺はこれから仕事でな、少し挨拶したら九州入りだ。2時間かけて車で来て、戻って今度は空港。本気で勘弁してほしいぜ」

 しかもこの墓地は山奥の実家に近い大霊園だから、ここまで来る途中で車が使えなくなる。炎天下の下、歩いてここまで来て、歩いて車まで戻るしかない。
 汗をよくかく身としては、水浴びでもして汗を流したいのに。志朗おじさんは笑ってぼやいた。

 この人、志朗おじさんは『いつも怖い顔をしている人』という印象がある。勿論怒っている訳でもなく、そういう顔の作りだと長い生活から知っている。
 いつも眉間に皺を寄せて、尚かつ連日仕事で夜が遅いのか隈もひどい。そんな志朗おじさんが手を合わせて黙祷した後にしたことは、僕と同じように手桶で顔を洗うことだった。

「それじゃあ、今日は宴会に出ないんですか」
「残念だが今年は。でも大晦日の宴には帰ってくる。というか大晦日まで仕事したくない、絶対しない」

 するもんか。そこまで言って、志朗おじさんは目を擦った。
 自分の顔を叩く。ついでに頬を捻った。
 そして僕の頬まで抓る。

「いだだだっ! 何すんですか、おじさんっ!?」
「いや、これは夢じゃないって確認したくて」
「よく判らないけど自分の頬を抓って痛かったらその時点で夢じゃないでしょう! 僕まで捻る必要なんて無いじゃないですかぁ!」

 正論だ、返してもう一度。
 志朗おじさんは、もう一度水に手をつける。
 どんなに日の下に置いてあっても水は冷たい。その印象は変わらない。夢では味わえない触覚。

「……夢じゃないってことは、寝不足で見る幻覚か。これから高速に乗るっつーのに……あぁ、居眠り運転が合法化されないかな」
「合法化されても事故は免れないと思うけど」

 そもそも事故が起きるから違反されてる訳で。
 先程の会話から志朗おじさんが『現実では視られないものを視ているらしい』ことは、僕にも判った。そもそも今居る場所は、霊園だ。いくらでも『視えないもの』が見られる。
 と言いつつ僕には霊感は無い。一般人に比べてみれば『視える』方だから霊感が全く無いとは言えないけど。
 仏田という『魔』の一族にしてみると僕は非常に薄い血しか引いていない。親戚のウマちゃんや寄居ちゃん、火刃里ちゃん達に比べれば全然弱い血だ。

「志朗おじさん、どうしたんです」

 仏田の寺で生まれた男子は、おそらく全員小さい頃からここで夏を過ごす。その時も、双子の弟には『イる』と言うのに、自分には『イない』ヒト……。何度もそんな日があった。
 僕の双子の弟は感受性が強い。そんなことを思い知らされている時は、取り残される感があって非常につまらないと思う……のも、結構前の話。
 僕も志朗おじさんと同じく、昔からこの霊園を遊び場として使っていた子供だ。志朗おじさんも一族の中では霊感の無い方でも、視えるものは視えるときは視えるようだ。
 そして面白いのが今、同じ霊感を微量ながら持っている一族だというのに『おじさんには視えて』いて、『僕には視えない』ヤツがいる。
 二人で揃って視えていたならばそのままスルーできたものの、志朗おじさんは取り乱しながらも僕に普通の会話をするから違和感が生じた。
 志朗おじさんが視線を向けている方向に、僕も向いてみる。

「志朗おじさん、ここはお墓ですよ? 幽霊がいても全然おかしくないじゃないですか」

 一般人だとそれだけで震え上がるだろう。
 でも視えることが当然で、視えない方が異端視されている家では、霊園だと幽霊を視るぐらいごく普通の出来事だ。
 それなのに志朗おじさんの行動は少しおかしい。『そっち』を見ては、唸っている。見ていけないものを見てしまったかのような、焦りの表情さえ伺える。何度もあの方向を見て、やっぱりおかしいと呟く。
 僕にとってはそこはただの森にしか見えない。何があるのか尋ねてみた。

「……ばあさんがいる」

 小さく、気難しく呟く。
 そりゃ霊園だもの、老人なんて沢山いる。大体霊は死んだ時の格好のまま写し出されるもので、老人が多いのは老衰で死んだ人物が多い証だ。中には子供や若い人もいるが、それは不運にも事故や病気、事件で亡くなった人達だ。
 若い霊が視えてしまったときは、彼らの人生を悲しんで、つい目を背けてしまうもの。魔力がある幽霊なら、死んだときの姿に限らず自由に姿を変えることが出来るというが、そんなのごく一部の話。

「だから、あのばあさん。……俺の、俺達の、ばあさんだよ。……明日、死んだ……」

 それを聞いて、自分の顔がパァッと明るくなったのを感じた。自分の顔が凄く笑顔になったのが判った。
 あっちにおばあさんがいて、自分が掃除していたところをずっと視ていたかと思うと、まるで優しい祖母がお礼を言う為に現世に降りて来てくれたようで、祖母のことが好きだっただけに嬉しさが止まらない。
 しかし志朗おじさんは暗い顔を止めない。
 志朗おじさんにとっても、あの祖母は優しかった筈だ。志朗おじさんはあまり一族の者と仲が良くないと噂を聞いてしまうが、それでもちゃんと墓参りに来ているし、花も供えているし……。
 なのに何故。

「包丁」
「え」
「あのばあさん、包丁持ってこっち見てる。着物は真っ赤。……ありゃ自分の血じゃねぇな、返り血か」
「……え」
「なぁ、あさか。確か幽霊っていうのは、『死んだ時の姿』をそのまま写し出しているものじゃなかったか?」



 ――2005年8月10日

 【   / Second /     /     /    】




 /3

 墓地に水桶と妙な感覚を残したまま、志朗おじさんと僕は実家に戻ってくる。
 家は大本山寺の別格にある。一応言い方として『離れ』と言っている場所だが、それなりに大した造りをしている。古い家なのでそこで生まれた男子には無駄廃屋にしか見えないが、他人から言わせれば大層な屋敷らしい。
 いくつも屋敷はあるが、そこが今年の舞台となる。

「やぁ、おかえり、あさかくん。……それと、おかえり、志朗」

 到着するなり、風情豊かに玄関にて、ホース片手で立っている人物・燈雅おじさんと目が合った。
 微笑を浮かべている燈雅おじさんに、さっきの話の後、無理に笑って応える僕と、余計不機嫌になる志朗おじさん。
 二人で不自然な顔になってしまったせいか。燈雅おじさんも、表情を変えた。

「どうした、何か良くない事でもあったのかい」
「……別に。特に無ぇよ」
「そうか。てっきり後ろの女性に脅かされたのかと思ったんだが」
「って、ついて来てるのかよッ!?」

 泣き顔で後ろを振り返る。志朗おじさんも勢いよく振り返り、心臓に悪い姿に息を呑んだ。
 振り向いても何も見えないが、志朗おじさんの驚き方を見れば……相当、祖母が酷い姿をしている事は予想できる。
 つい泣きそうになってしまった。

「そこのお方……もしかして、時雨(しぐれ)御祖母様か。ちゃんとご挨拶はしたのか、志朗」
「してない、出来る訳がない。というか、なんでお前はそんなに冷静なんだよ」
「事故死や殺された霊はそういう姿で出るものだろう」

 僕も、多分志朗おじさんもだが、霊感が無い方の人間はそんなショッキングな霊を視ることなんてまず無い。二人が血が薄いことは『本部』も知っているため、僕達には『仕事』がまわってくることも無いからだ。
 だけど、じきに当主になり、魔のことを幼い頃から修行してきた直系の、正統な仏田の字の跡継ぎにはどうってことない。燈雅おじさんは涼しい顔をしたまま、志朗おじさんと僕の後ろを眺める。涼しい顔をしているけど、目が真剣なものになっていた。
 だが、直ぐに次の行動にうつる。……『お手上げ』というジェスチャーに。

「お手上げって何だ。兄貴、退魔師なんだろ、ちゃんと霊媒しろ、成仏させろ、駆除しろ!」
「駆除だなんて。お前だっておむつを取り替えて貰った恩人だ。もっと言葉を慎みなさい」
「……あんなの、ばあさんじゃない。どこの怨霊だ。なんで悪霊がついて来てるんだよ」
「お前も判っているだろ。あの方はれっきとした我々の身内。それこそ明日は彼女の日だ。死んだ場所に来ても何もおかしい事は無い」
「そりゃおかしい事は無い……が!」
「お盆には、現世にいる家族が可愛くって降りてくるヒトは多いんだよ。霊媒師でないお前だって知っているだろう」
「包丁を持って血も浴びてあんな眼で睨んで……それが孫達が可愛いと想う姿、だと?」
「……思えないねぇ」
「じゃあ、何なんだよ!」

 燈雅おじさんはふぅと溜息をつき、もう一度『霊』を視る。
 そして次の行動は、やっぱり『お手上げ』のジェスチャーだった。

「おい、お前、話せないのか。『次期ご当主様』のくせに?」
「話せないものは話せない。というか霊と平和的解決ができるケースの方が少ないよ。彼女が話したくないのとオレが判らないって状態だから……。それに人には向き不向きというものがあってね。そんな日本語も知らないのか、志朗は」
「……それでも、お前は一応は霊能のプロだろ.」
「自分はエクソシストというよりエクスキューターだから」

 志朗おじさんは「そんな屁理屈ッ」と手を上げそうだったけど、グッと堪えた。
 視界に入ってしまう禍々しい姿に、やる気が殺がれたらしい。

「うーん。その姿のままこの辺を彷徨かれると心臓に悪いな。」
「だろ!」
「特に御祖父様が見たらヤバイだろうし。でもオレがやったら成仏でも回収でもなく、消滅させちゃうしな。それでも良いと思うかい?」

 物腰は柔らかい燈雅おじさんは、実は能力自体は非常に暴力的だと聞いたことがある。暴力的というか、完璧に怨霊させることに特化しているというか、木端微塵にしてしまうというか。
 もし息をする生物を手に掛けるとしたら、跡形もなく消してしまう力を発揮してしまうとか聞いた。魔を備えた者としては優秀だが、万能さが求められる当主としてはその力は優れていない。そう誰かから聞いた覚えがある。誰だったっけな。火刃里ちゃんだったっけ……。
 おばあちゃんを、木端微塵にはしたくない。軽そうな表情の奥には、丁寧に供養してやりたいという心がある。だから燈雅おじさんは拒んだ。
 けどそんなことも言っていられない。
 燈雅おじさんが、手を掲げた。
 その後は一瞬で終わる。破壊者と名高い者が手を下せば、弱った霊など一瞬だ。
 肉体や媒体を持たない『一度封じられた』霊であれば、指で突けば瞬時に終わらせられる。迷いがあるからこそ今は留まっているが、他人だからと無視すれば勝てる者はいない。
 けれど。

 ――そこで霊が逃げてしまったのは、やはり燈雅おじさんが甘かったということか。

「なっ……?」
「あっ……?」

 おじさん二人は同時に声を上げた。
 燈雅おじさんが手を下そうとした瞬間、志朗おじさんが手を下すと思った瞬間、老婆は移動していた。
 それを見落とした。何処に行ったか判らない。その場から姿を消し、――後ろにまわったのが判った。

 入った。中に入った。
 ……屋敷の中に。

 気配しか判らない。志朗おじさんと僕の後ろにいた霊が、気付けば逆向きに存在している。
 その場とは――離れの屋敷だ。
 燈雅おじさんに消滅させられると感づいたのか、消滅されたくないから逃げ出したのか? 兎も角、霊の気配は外には無く、家屋の中へと移動したのは二人には判ったようだった。

「馬鹿。あんな殺伐とした霊、逃がすんじゃねーよ! とっととあの夜に送ってやれよ! あんなのばあさんじゃないだろ!?」
「……そうだな。いくら仏田の嫁とはいえ、あの動きはもう御祖母様じゃないと思っていいか。今、離れにはロクに視える僧もいないし御祖父様も親父もいない。参った。本気でオレが成仏させなきゃいけないのかな、志朗?」
「跡取りでない俺に力が無いのは知ってるだろ」
「ああ、知ってるよ。……あれで『また』誰かに憑依でもしなきゃいいけど」

 とにかく、閉められた玄関を開けた。
 実家の筈なのに、初めて入るホーンテッドマンションと同じ雰囲気を感じた。

「ここじゃ我が家じゃなきゃ、このまま火でもつけてとっとと終わらせるんだけどねえ」
「……放火魔。霊はいくらでも消していいが、家と人間は消すなよ」
「努力しよう」

 そこで「消さない」と宣言しない辺りが、不安要素だった。
 屋敷の中では手伝いに来ている女性が、僧が、何事も無く暮らしている。数人は仮にもお坊さんだろうに誰も視える力が無いのか、空気が多少なりとも変化している事に気付いていないようだった。
 気温が少し下がっていても、事情を知らなければ暑い日差しの太陽が雲に隠れた程度にしか思わないのか。
 燈雅おじさんが、「そこのお手伝いさん」と女性に声を掛ける。
 久々に帰ってきた僕や志朗おじさんには、見た事の無い顔の人だった。新しい研究員さんか。

「ちょっとね、これから暴れるかもしれないから箒とちりとりの準備していた方がいいよ、先に言っておいたからね、何シテンデスカー聞イテマセンヨーの類は一切聞かないから」

 次期当主のいきなりの破壊宣言に、女性は惚けた顔をする。
 内容を知っている僕ら二人も、突然そんな事を言われたら驚くんじゃないかな。意味の無い保険が、燈雅おじさんの性格をよく表しているような気がした。

「ところで。オレの親戚でここに居るのは一体誰かな、誰が居るのかな。今さっき志朗が帰ってきたんだけど」
 
 探偵のように燈雅おじさんは探る。
 優しい丁寧な言い方でも眼は真面目のせいか、女性も正直に伝えてくれた。

「親父と御祖父様はお寺の方に。藤春叔父さんとみずほくんはお使いに? 後はまだ来てない……残ってるのはオレと、あさかくんと…………新座っ?」

 聞いて、二人は舌打ちした。そして、確信する。
 意味も判らず恐ろしい顔をされ、女性と……僕は怯む。
 燈雅おじさんが女性に礼を言うと、二人は走り出した。

「あの馬鹿……。なんでこんなナイスなタイミングに帰ってきてるんだよ!」
「全くだ、あの阿呆。霊が除霊師から逃げる方法っていったら、実体を持つことじゃないか。多少なりとも魔を持った人間に乗り移りたいと思うのは、霊の本心――ッ」

 ぶつぶつと二人で文句を言いながら走り出す男達の背中を、僕は追う。
 僕には……話が見えない。そもそも霊がどんな形相かも視えないし、血まみれのおばあちゃんの霊が家に入り込んだことさえも気付かなかった。
 いつかの夏休みを思い出す。双子の弟達に『置いてけぼり』にされた、あの時と同じ感覚が蘇った。
 居場所が無い。ついて行っても何も出来ないが、文句を友達にし、従兄を捜す男二人を追いかけた。
 僕だって霊が攻撃してきたら、包帯で治療することは出来るんだ。あえて居場所を作るとしたら、それくらいしか出来ないけど。
 でもその『攻撃してきたら』というのは……霊が実体を持ったということ。この場で実体をもたれるということは……。
 新座さんの体を……。

「…………」
 
 先が見えていること。何も考えないことにした。
 無駄に広く、老朽化の激しい離れがギシギシ揺れる。それこそ燈雅おじさんのように、火をつければ数秒で全てを崩す事ができるような屋敷だ。普段なら慎重に渡る廊下でも、今ばかりは構わず走っていく。

「おい、馬鹿兄。何処に行ったとか、気配とか読めないのか」
「……。ふふ、参ったね、愚弟。もう幽霊の気配を一切感じなくなったよ。『一切』だ。いつもこの離れに居座っちゃっている微々たる霊達も、全部が消えた。こりゃ喰われたかな……新座に」

 軽い調子だが、二人の内容は重い。
 僕も霊能力を持ってなければ、何事も無く平和に暮らしていけた。だが多少なりとも持ってしまった人間には、今のこの離れは寒い。冬よりも寒い。
 雪が降っている日を思い出す。足下から来る冷気。刺すような風。本来の家なら感じる事のない違和感。それを全て感じてしまっているのだから、確実に。
 悪霊に取り憑かれた人間がどうなるか。こんな化物だらけの寺に生まれてはいるが、取り憑かれた経験は無い。ただ、霊媒師の人から聞いた記憶だけが頼りだ。

『霊に自由を奪われ、未練を果たす』。

 少し考えれば判ることだ。
 死んでいるものが、生きている間に成し得なかったことを、生きている存在で成す。時には友好的、狡賢い幽霊もいて、生者に「目的に協力するから身体を貸せ」という者もいるらしい。今の場合は、前者だろう。
 もし乗り移られたら、もう大人二人の口振りからして乗り移られているようだが、どんな未練を果たすのか。
 ……そもそも『彼女』とは誰だ?

「……どうして、おばあちゃんなんですか?」

 当然の疑問を投げかける。五分経っても探せない広い屋敷で、息を切らしながら問う。
 その質問に、志朗おじさんも、「何故祖母があんな姿をしていたのか」とハッとなる。……それまで新座おじさんのことで忘れていたが如く。

「どうして、あの時雨おばあちゃんが包丁を持って……血まみれで? 時雨おばあちゃんは、山下の病院で亡くなったんですよね?」

 そのとき僕は違う病院にいましたけど。付け加えて言った。

 数年前、祖母の死を知ったのは入院していた時期だった。見舞いに来た双子の弟との何気ない会話に祖母の話が上がり、既に亡くなったという事実を知ったぐらいだ。
 僕が退院した後、父に連れられ実家に帰って、多くの先祖達の眠る墓に案内された。
 死因は聞かなかった。癌か何かと父は言った。それなりの年齢だったので癌になるのは自然なことだと、天命を全うしたと言ってもおかしくないと思っていた。
 それはきっと志朗おじさんも同じ。以前何気なく話したときに、志朗おじさんは『大山さんから電話で、少し遅れて祖母の死を知った』と言っていた。正月と盆程度しか帰らなかった(当時、警察のお仕事で忙しかった)志朗おじさんには、そこそこ年のいった老人の様態など知らず、そのまま死を受け入れたんだ。
 ただ、女好きでもちゃんと妻を愛していた照行おじいちゃんが悲しむなと……それくらいにしか思っていないとも言っていた。ちなみに墓参りは毎年欠かさないが、葬式には出ていないとか。

「そりゃ、包丁を持って他人の血を浴びながら死んだからだよ」

 何の躊躇いも無く、燈雅おじさんは言った。

「……何?」
「……何だと?」

 足を止めて、燈雅おじさんの言葉を待つ。
 早くに走っていた足が自然にブレーキを踏む。気温の下がった廊下、更に二人の体温が下がった。
 言ってから、燈雅おじさんも足を止め、頭を掻く。何度も推敲し、良い言葉を選び、発した。

「癌で死んだっていうの、あれは嘘。……あの年で結構弱っていたから、癌になってたかもしれないけどさ」
「嘘……の発表?」
「そう、死因は違う。この事実を知っているのは……和光御祖父様と親父と、オレくらいじゃないかな」

 『彼女』の夫である、旦那の名は含まれていなかった。しかもその知っている人間は、全て『直系』。当主のみが知る、一族の秘密というべきか。
 もう一度燈雅おじさんは黙り、適切な言葉を選ぶ。デリケートな話題だ、直感で話す燈雅おじさんはひとつひとつ台詞を考え出し、真実を伝えようとする。
 その表情は苦い。出来る事なら話したくないという感情が滲み出ていた。
 それでも、どうしても燈雅おじさんの口から聞きたい。そんな志朗おじさんの眼が、燈雅おじさんを急がせた。

「アレね、御祖母様も高名な能力者だったのさ。嫁、だったけど立場が高かったのはそういう意味……なんとなく予想はできるよね?」
「まあ……我が家、ですから」
「魔力の高い父親と、魔力の高い母親との間には魔力の高い子が産まれるんじゃないか。そんな予想で結婚と出産に至ったワケ。結果はお二人とも知っている通り、残念なことに」
「ああ……。でも兄貴、あの二人は単なる政略結婚の仲じゃなかった」
「二人とも愛ある結婚だったらしいね。分類的には政略結婚ぽかったって言うだけだよ。んで、御祖母様は俗に言う『潮来』さ」
「……いたこ?」
「降霊術を基本とする女霊媒師。力もそれなりにあった、仏田にも貢献していた。だからそれなりに威張っていられた。……強すぎる能力者は、怨霊に狙われる。強すぎる怨霊の意志は、強い体を手に入れたがるものだからね。そういう奴こそちゃんと成仏……否、消滅させてやんないといけないんだが。……今日のやつを見ると、出来てなかったんだな」

 それが燈雅おじさんのような……退魔師の仕事だ。
 中身だけを倒す方法は、と尋ねる。怨霊に乗り移られた人の体を傷付けずに霊魂だけを打ち破る方法があるって聞いたことがある。
 だが燈雅おじさんは首を振る。――肉体は一切傷がつかずに中身の腫瘍だけを打ち滅ぼすなんて便利な武器、そうそう持てるもんじゃないんだよ。だから彼女も救えなかったんだ――。寂しそうに、呟くように彼は教えてくれた。

「……おばあちゃんは、幽霊さんに乗り移られたんですか?」

 問い掛けに、燈雅おじさんは「これ以上は話さなくても判ってほしいんだけどなぁ」とボヤく。
 でもここはちゃんと聞いておかなきゃいけない。何にも知らない僕達が誤解しないためにも。

「あぁ、乗り移られた。明日の御盆の日に。未練のある凶悪で強烈な野郎に乗り移られた。……あ、怨霊っていうのは女の方が乗り移りたいもんなのは判っているね? 実際ウチの家も『女が強い』って詠われているけど、そうでなくても同じレベルの霊能力者で男と女なら女の方が強い。どういう訳だか人間はそういう風に創られている。……やはり『人を産む力』があるせいかな。女子はどの世界でも求められているんだ」

 知識に乏しい僕は、「そうなんですか」としか相槌が打てなかった。
 こんなことは多いのか。咄嗟に言い返すと、悪いモノが入ってこないように結界を張ったり、住んでいる人々に悪いモノが無いか定期検査をするぐらいしか対策が練られないそうだ。それだって、内部から発生する問題には対処できないという。何十年も前に『火事騒ぎ』があってから注意を払っているとも言ったが、それにも限界があるらしい。

「そして、彼女は殺した。誰を……誰だっけな。そこら辺にいた僧侶だったと思う。二人ばっかしザックリと。ろくでもない僧侶だったから、霊はそいつらに恨みのある魂だったんだろう。あの霊園で殺した。そこで霊が満足して離れていったらもう彼女の人生は現代人的にアウトだが、怨霊はもっと飢えていたようなんだ」
「…………」
「御祖母様の身体で、殺戮という手段で魂を満たしたかったらしい。そんな奴、放っておける訳がないだろう? だから、親父が手を下した。御祖父様が全てを処理した。いきなり病院で病死ですと言われてそれはおかしいと言っていた……あの人を……照行様を、オレが洗脳した」

 消滅を特技とする燈雅おじさんには、多少の記憶の削除も簡単に出来るんだろう。
 ……幼い頃にいつも遊んでいたあの場所は、殺人現場だった。血の繋がった兄が、父が、祖父が、隠蔽工作を行った……という。

「あの怨霊は御祖母様の顔はしているだろ。彼女は死んだ時、まだ身体に『ヤツ』がいた。乗り移られたまま親父に殺されたんだから……。御祖母様だけど御祖母様でない。……アレは、本当の怨霊。人を害する異端。それなのにオレは、手加減しちゃった訳だ」

 取っ付けて、もう話す事は無いと燈雅おじさんは足を速める。さっきよりも重く。
 そうして辿り着いた場所は、普段なら客人が来た時のみ開放される和室。しかし、かつては『誰か』の部屋だった。
 そこに立つ人間。一見では何も変わらない只の人間。僕には普通に立っている従兄、新座おじさんの姿にしか見えなかった。
 だが、警戒する二人の姿を見る限り、――間違いないらしい。

「……お前、この部屋は特に畳臭いから嫌いだって言ってたよな。この馬鹿」
「……西洋の霊媒師を被っているのだから自分の身ぐらい自分で守れ。阿呆め」

 二人は同時に暴言を吐く。その声に振り返る――新座おじさんの顔。
 何も変わりは無かった。僕にとっては、時々帰ってきて変な話を聞かせてくれる優しい従兄にしか見えない。若干眼が座ってはいるが、口元には微笑みを浮かべている。その印象が燈雅おじさんに似ているが、顔自体はどちらかといえば志朗おじさんに似ている。
 でも血の繋がった兄弟にとっては、違いを見分けることも簡単なんだろう。和室に立つこの男は、『別人』だと判っているらしい。
 しかし……数年前、『彼女』を助けることが出来ないまま殺してしまったんだ。倒すことが出来ない敵が、再度この場にいる。
 しかもここに居るのは……消すことしかできない男と、霊体に触れることが出来ない男と、一族中最低の霊能力の持ち主の僕のみ。

「とりあえず平和的に解決する手段を取ろうか。……弟の身体を返してくれないかな。このまま新座の体から出ていってくれれば、処刑人が帰ってきた後にでも、丁寧に供養してあげる。だがこのままでは一切消滅だ。地獄にも行かせない、転生もさせない。どうだ?」

 新座おじさんの身体を借りた、祖母の姿の怨霊に持ちかける。どちらも死は免れない。生に固執しているなら、どちらも納得できない。だから……その通りの答えだった。
 次の瞬間、新座おじさんの腕が光る。光に眼を瞬きした後には、大剣を両手に握った姿があった。
 魔の薄い僕の眼にも写る、魔法の剣。何も身を守る物も無い身は、引くしかなかった。
 先手を取ったのは、新座おじさん。やはり強力な魔力が体から滲み出ているらしい燈雅おじさんを先に仕留めようと襲いかかる。
 燈雅おじさんも負けじと一瞬で異次元から剣を取り出した。新座おじさんの物とは一味違う、片手剣だ。
 和服を翻しても大剣を受けるのは危険だ。重心を取って降り懸かってきた剣を避けた。
 畳の草が舞う。ざっくりと口を開けた剣を持ち上げるのに時間がかかる。そこに目をつけ、燈雅おじさんは斬りつけ……。

「って、なに攻撃しようとしてるんだよ、馬鹿兄っ!」

 ようとしたところで、志朗おじさんの声に目を覚ました。
 間一髪の所で剣は止まる。だら、と燈雅おじさんに冷や汗が滲んだ。
 忘れかけていたみたいだ。ただ敵が突進してきたから、……敵だから排除しようと性格が訴えてしまった。そしてその訴えに乗るところだった。
 志朗おじさんによる制止の声が無ければ……新座おじさんが、数年前の祖母と同じ羽目になっていた。
 そんな冷や汗をかく時間が、敵に次の行動を考える隙になる。新座おじさんが大剣を持ち上げ、切り上げようとする。
 新座おじさんの創る剣はいつも重いせいか、避けることは簡単だった。
 でも避けることしか許されないようだ。

「オレに攻撃するなと、そう言いたいんだよな。志朗」
「今の姿からして、お前はたとえ新座でも余裕で殺すことが出来るんだな。最低な兄貴だ、お前は。プロの霊能力なら、まず霊から人を助けることを考えやがれ」
「そう考えて行動しただけだよ。あのときだってそうだ。あのまま放置すれば、一番最初の被害は力無き僧。でもってオレも親父もあの霊を引っ張り出す力が無かった。結果、人を助ける為に一番の方法が『アレ』だった」
「……祖母にした『アレ』を今さっき、お前はしようとした。実の弟に」
「……そうだ」

 燈雅おじさんは肯定する。三度目の大打撃を避けながら。

「それでも。……お前は、俺の声で殺せたその手を止めた」
「ッ……」

 その呑んだ唾も、肯定を意味していた。
 志朗おじさんの言葉に動揺させてしまったのか、燈雅おじさんの動きが弱まる。
 それを読んだ新座おじさんは、燈雅おじさんの元へ突貫した。

「っ……!」
「だからって、攻撃を受けんじゃねぇぞ!」

 畳が傷ついていく。草が舞う。
 乗り移った側も力の扱い方が判っていたのか、動きがスムーズになった。無意味に奮っていた剣が、的を得てくる。
 ぶぅんと唸る風。あんなに大きな剣の風を切る音。喰らったらひとたまりもない。喰らわずに終わらせる方法は……何らかの形で、一撃で仕留めるしかない。
 僕の元に、新座おじさんが、大剣を振りかぶる。

「右に避けろ!」

 志朗おじさんが叫んだ声に合わせ、僕は避けた。
 聞いたのは新座おじさんも同じ、次に狙うは右の範囲。そこを狙った。

「すまん……ッ!」

 右の獲物を狩ろうと右によれた新座おじさんの体。
 その標的しか見ていない背中を、――僕へ振り落とす前に、志朗おじさんが思い切り蹴り飛ばした。

「ッッッッ……!」

 蹌踉ける。まだそれだけだ、標的は蹴った志朗おじさんになる。
 志朗おじさんは、拙い格闘技の構えを取った。

「……来たきゃ来い。いつでも蹴るぞ」
「ッ!」

 微かに剣が歪む。蹴られた拍子で魔力の束が弱くなったのか、少しサイズが変わった気がした。
 所詮動かしているのは悪魔でも、魔を扱う体は新座おじさんのもの。新座おじさんの身体はさっき乗り移った霊よりも、実兄である志朗おじさんの方が断然どんなものか知っている筈だ。
 ――新座さんが柄でもなく剣をよく使うこと。野球少年だった志朗おじさんに比べ、あまり運動が得意でないこと。自分が無理に身体を使うようなことをさせると本気で嫌がり、実際力仕事が何も出来ないこと。そして昔の身体が今そのままあの身体になっていること――。
 何故か霊は新座おじさんに体術をとらせようとする。生前に得意分野だったんだ。それが唯一の汚点、弱点、決定的な勝点だ。
 今度は志朗おじさんが突貫した。
 新座おじさんが怯む。
 剣を振るうが一発かわせば大した問題でない。
 志朗おじさんが新座おじさんの左腕をとった。捻り上げ、後手にする。

 痛みに訴えるが、弟のものだとは聞かない。これは別人、これは悪魔。志朗おじさんはそう何が何でも思い込んで、新座おじさんの身体に一本入れる。
 重すぎる大剣は片手では持てない。片手が使えなければ剣を振るうこともできない。剣が使えなければ只の一般人だ。
 ……と思っていたのは、志朗おじさんだけだった。
 志朗おじさんには体力はあるが、魔法の知識は無い。新座おじさんは、その逆だった。
 はっと志朗おじさんが上を見る。
 ――ナイフの形をした幻が、彼の頭上に、いくつもあった。

「………………」

 途端、志朗おじさんが止まる。
 魔法の浮く小刀が自分の頭上に見えて、覚悟した。

 ――そうだ、この馬鹿弟は自分の力が無い代わりに別のものに代用させる能力が長けていた――!

 思い出して、志朗おじさんは目を閉じた。
 こんな近戦では燈雅おじさんは何も出来ない。燈雅おじさんも新座おじさんと同じ、体力は無く力でねじ伏せる考えが出来ない人間だった。それと、咄嗟に考えが浮かばない人間。
 …………絶句。

「ああああああああああああああああああああああああっ!」

 後ろ手を掴まれる新座おじさんの元へ駆け寄る絶叫。
 駆け寄り、突貫、突撃。――めりこませる!
 新座おじさんの腹を、思い切り僕の拳が抉り込む!

「ッッッッッッッッッッ!」
「ぐぅっ!」

 背中をまわる志朗おじさんにも、僕のパンチの衝撃が伝わったらしい。
 一人の身体を盾にしているというのに、その衝動。これほどの衝撃なら……中心に喰らった新座おじさんには相当のダメージの筈!
 その通りのダメージを喰らったのか、新座さんは咳き込み胃液が飛び出る。
 それでも倒れそうな所も、志朗おじさんに片腕が掴まれているまで完全に地につかない。
 僕を睨み付けるその眼に、集中力は切れる。
 魔力は全て失われたのか、いつの間にか大剣は消えていた。志朗おじさんは新座さんの体を両手を掴み、羽交締めにした。

「あさか。……新座を……殺さない程度に、殴り殺せ!」
「…………はい!」

 もう一度、同じところに僕の拳を入れる。
 苦痛で歪む表情。涙さえ滲む顔に、今度は強烈なパンチをお見舞いした。
 完全に大人しくなるまで、僕の拳が何度体にめり込んだか。……客観視している燈雅おじさんは、あまりにも弟が不憫で途中から数えていないようだった。
 後ろで志朗おじさんに捕まり、前で僕が殴打。いくら相手が人外とはいえ、絵柄ではただのリンチ。しかも燈雅おじさんにとっては、実の弟。割り切るにも割り切れない図柄だった。



 ――2005年8月10日

 【   / Second /     /     /    】




 /4

 新座の、ボロボロになっても俺に掴まれ倒れることも出来ない図に、やっと止めに入る。
 俺の拘束を逃れ、ガクリと新座が傷ついた畳に倒れ込む。唸り声を上げるものの、襲いかかろうとも逃げようともしなかった。
 新座の身体を支えていた俺も……ずっと殴り続けていたあさかの身体も、崩れる。

「……あの。霊って、殴るだけで勘弁してくれるんでしょうか?」
「それだけど、あさかくん、とりあえず新座を縛っておいてね。中身はまだ出てきてないみたいなんだ」
「ちっ、しつこいヤツだな。まだ出ていかねぇのか、こいつ……!」

 解放され、身体を丸める新座を後ろ手に、俺の上着の袖で縛る。
 あさかに喰らったダメージが相当大きいのか、新座の中身は抵抗する色を見せなかった。俯せに、必死に呼吸をしようとしている。多分霊がでなく、新座本人の意思が空気を得ようと必死がっているようだった。

「親父か大山様に連絡を入れてくる。確かお手伝いさんは親父が寺にいるって言った。冷静な今なら……何とか中にいる霊を追い払う方法が見付かるかもしれない。それまで見張っていてくれ」
「……もうこの調子なら動かないだろ」
「そうとも限らない。直ぐ戻る。それまで抑えつけておけ」
「あ、じゃあ僕も……。その、救急セットを持ってきます。傷の手当てするにも、何も無いとできないし……」
「おぅよ、行ってこい。馬鹿は俺がちゃんと見張ってる」

 頼んだ、一言残して兄貴が出ていく。あさかも、息を切らしながら廊下を駆けていった。
 急激に減った気温。それでも急激な運動のせいで、暑くて仕方ない。
 外では平和に虫が鳴いていた。まだ数分も経っていない、そんな一瞬の事件だ。
 事件とも言えない、まだ未遂の状態で終わった事件。誰もこんな騒ぎがあったことなんて気付かない。

「……新座」

 倒れる新座の髪を撫でた。息は苦しそうだが、ちゃんと新座に見える。
 すまん、と小さく謝り、俺は仰向けに倒れた。
 頭にごわっとした感覚。剣で抉った畳の痕だった。もう老朽化していたから変えるべきだったと誰かが訴えていたが、やっと新しい畳の匂いを嗅ぐ日が来るようだ。そんな希望と、心配が同時に襲いかかる。
 救急箱を探しに行ったあさかも心配している。何とか今回は誰も殺さず、霊だけを払う方法が見付かりそうだった。だから考えるのは解決した先のことの方が多い。
 あさかにとって『楽しい新座おじさん』が、「あさかくんに嫌われてもうお話してくれなかったらどうしよう……!」とそんな平和なことに悩むのではないか。想像して、やっと笑顔が出てくる。
 疲れた。時間に直すと、祖母の墓地から帰ってきて数分しか経っていないのに。また新座の顔を見る。
 ……いない事に気付いた。

「――――――」

 下がる。
 ……体温が。
 急激に。
 …………下がる。

「――――――――――――」

 何故、居ない。
 今さっきここに、と……魔法の知識が足りない俺は、数分経ってようやく気が付く。

 ――――瞬間移動の魔術?



 ――2005年8月10日

 【   / Second /     /     /    】




 /5

 何度も咳き込んダ。
 暴レ、苦しミ、涎を垂らしながら呪文を唱えル。空に浮かぶナイフの形。魔法のナイフは皮膚を掠メ、ベルトを切り刻んダ。
 きつく縛られた布がボロボロになル。紅い血が滲んだが気にしなイ。
 ようやク、これで解放されたのダ。
 痛みは走るガ、外面的な傷は無イ。血は先程のナイフで多少腕を切ったぐらいダ。

「………………」

 離れから遠ざかリ、山の森へ逃げ込ム。
 視界も数メートルしか見えないこの場なラ、エクスキューターから姿を把握されることは無いだろウ。
 幸い強烈な魔は近くから感じなイ。強烈な魔を持つ者が訪れるまデ、まだ時間があル。
 まだ解放の時間は長イ。解放は、これからダ。

「………………」

 ニヤけル。
 今度こそいなイ。邪魔する奴がいなくなっタ。
 時間の概念は無いがかの昔、一度手にした女の身体……あの身体で一つ遊んでやろうと思ったガ、あっという間に殺されてしまっタ。あの女の能力は高かったガ、婆さんだったのがダメだったらしイ。
 しかし今度は成功ダ。エクスキューターの男よりは劣るガ、人間としてそこそこの魔を持った男。
 十分人間に紛れ込むことが出来ル。騙すことが出来ル。殺すことがデキル。殺しまくることがこの体を使っテ……。

「…………」

 ニヤけル。
 今度こそ成就すル。満たされたいと魂が訴え続けてきたあの願いガ。
 さテ、どうしよウ。次に殺すは誰にしよウ?
 解放の時間はやってきタ。自由の時間がやってきタ。
 さぁ、動き出そウ。
 この寺を血で染めてやろウ。
 第一の犠牲者は華やかにキメたイ。前回よりモ、もっと華麗ニ。壮大ニ――――。

 ――――なのに。

 ――なぜ。

 うごかない。

「…………ッ」

 焦る。
 ニヤけていた顔も、そんな小さな器官さえも動かなくなっていた。
 何故か体が言うことをきかない。
 まさか、抵抗しているというのか。この男の意志が?
 それは無い。男の意識は、呑気にずっと眠っている。
 なのに、何故。
 なのに、何が。
 判らず、その場で停止する。

「貴方、誰」

 ……声がした。

 寒気がする。顔を上げると、誰かがいる。
 更に寒気がした。死と寒気が、隣り合わせだった。
 どんな寒さなど、地獄を味わってきた霊にしてみればどうってことはない。
 冬の極寒も、邪神の瞬きも耐えてみせる、筈だったのに。

 ……現世にいるのに、こんなにも寒い。
 否、怖い。
 感じているのは恐怖だった。
 恐怖。恐怖。この上無い恐怖。
 恐怖が冷気という形をとり、襲いかかり、自分の動きを封じている。

「…………ッ!」

 逃げる。逃げようと呪文を唱える。
 だが、足が口に入り込み、口が塞がれた。足を動かして逃げることもできない。
 全ての身体の主導権はこの恐怖が握っている。
 全ては、――『此奴』に縛られている。

「貴方は……そこにいてはいけないヒト」

 手を顔の前に翳す。
 冷たさが、指から身体に伝わった。

「……貴方は…………私達の家族じゃないわね」

 凍る。凍る。
 果てしない恐怖によって凍る。
 二度も地獄を味わった身が、この現世で、現実世界で恐怖する日が来るなんて! 信じられない恐怖に恐怖する。

「でていきなさい」

 声を発す。
 音を発す。
 魔を発す。
 死を発される。

「出て逝きなさい」

sonokoehaakumanojibunnimoakumanokoenikikoe,
konnanimoosoroshimonogaattanokatokidukasare,
doushiyoumonakuhurueteirunoninanimodekinaijib
unganasakenakutenannotamenikonootokoninoriut
suttanokawakaranakunatteaasoreyorimonandejib
unhashiwomotometeitanokasaemowasureteshima
ttakotonikiduita.ittaikonosyoujohananimononanod
arouka,konokinnokamitomidoriironohitomihatadat
adaosoroshiku................................................///////////
/////////////////////////////////////////
/////////////////////////////////////////
//////////////////////////////

「……■■、■」

 ―――――――――……、消滅。



 ――2005年8月10日

 【   / Second /     /     /    】




 /6

 微かな気配を読みとって外に出た。
 只でさえ霊感の無い身体なのに、こんなにも神経を尖らせて人捜しをするだなんて。
 これで捜し物が本当に見付かったら、警察から転職して雑誌なんぞ作っている身だが、今度は探偵にでも転職してやろうか。本気で考える。
 ……おそらくこっちだ。
 何の根拠も無いが、ただの勘で屋敷を出て、裏山に向かっていく。どことなく「こっちこっち」という小さな女の子の声が聞こえたような気がした。それもこの大本山、大霊園のある仏田寺だからの現象か。どんな霊が俺を味方してくれるか知らないし判りたくもないが、世の中には良い霊だっているんだと割りきって声に導かれていく。
 ばあさんの霊がいても仕方ない。幼女だか一端の女だか判らないがそのような声が語り掛けてくるのも仕方ない。だってここはそういう場所だ。天に近い山奥なんだ。こういう超常現象を呆気なく受け入れてしまうところが、自分が一般人になりきれていない汚点なのかもしれない。

「…………あ」

 探偵にでも転職。……本気で、考えよう。
 少し離れから遠ざかり、山森の中に入る。森に入って数分もしないうちに、見知った影を発見した。
 おそるおそる近寄る。数メートルずつ距離を近付けていく。
 眼を凝らし確認し、……木にもたれ掛かって眠っている姿へ手が届く位置まで歩いていく。

 拘束の解かれた手の、新座がそこに眠っていた。

「……この馬鹿弟がぁっ!」
 
 眠っている身を更に弱らせようと、あさかに負けない程の拳が炸裂した。

「いたあああああああああ!?」

 眠っている者に攻撃。
 もちろん目が覚めた。奇声を上げて新座は飛び起きた。

「…………」
「いた、痛……ッ、なななにすんだよぉお兄ちゃん……っ!」

 軽い声のトーン。俺は実家に半年しか帰らないが、この声だけは電話でよく聴く。殴られて、普通に涙する姿。
 今まであさかがどんなに殴っても、こんな反応はしなかった。
 驚き飛び起きた新座だが、本当に驚いたのは、殴った側の俺の方だ。
 今度は、黙って新座の頬を抓った。

「ひはいひはい! ぼ、ぼくが何をしたー!」

 無実を訴える姿。頬の手を振り払うと、新座は腹部を抑える。

「…………」
「……むぐぅうぅ……なんか体中が痛い……」

 疑う眼と怯える眼で、顔を見合わす。
 どこにも悪気は無い。調子が崩れる程の明るいテンション。
 間違いなく、新座がそこにいた。

「……新座、俺の名前は」
「志朗お兄ちゃん?」
「今日は何月何日」
「8月10日……かな」
「この指、何本に見える」
「三本……」
「将軍家光の次男綱重と天樹院の乳母松坂の侍女おはらとの間に生まれ幼名虎松という徳川歴代将軍の中で家康に次いで高齢の四十八歳で将軍職に就いた人物は」
「……すっごい自信は無いけど、家宣だった気がする」
「俺のことをどう思う」
「えぇっ! ……例えるなら、黒い服着たサンタクロース?」

 本物だ。この反応は他にする人間はいない。

「……はぁ……」

 気が抜け、森の地に腰を下ろす。
 間違いない、コイツは、心の奥まで、新座という俺の弟だ。
 抱きしめ想った。




END

 /