■ 004 / 「諦念」



 ――2005年10月2日

 【    / Second /     /      /     】




 /1

 日曜日。生きていれば何回でも訪れる、心に優しい休息の二十四時間。それを奪われると、この上ない不幸に見舞われた気持ちになる。
 単なる学生が休息の日を憂うなんておこがましいかもしれないけど、高校二年生の貴重な一日を潰されるのはあまり良い気分ではなかった。
 渡された手紙を、道端で開いた。
 手紙は数日前、俺の寮室の専用ポストに投函されていたものだ。差出人は、見覚えのある親戚のおじさんの名前、大山。前に廊下掃除を叱ろうとした気の弱そうな親戚だ。
 大山は一族の『本部』では相当上の地位にいる人だが、一見そうとは見えない風貌している。実に普通っぽい男だ。どうせその人の手紙だ、『本部』からでもいらない心配を振りまく手紙に違いない。
 まったく、メールじゃなくわざわざ手紙で送ってくるなんて。また『お手伝い』をしろって言うんだろうか。

 そう思って三日ばかり放置して、土曜日になってやっと開いてみた。
 そこには、翌日、日曜日の出撃命令が書かれていた。おっと危ない。
 そうしてとある教会の前にやって来た。封筒の中に入れられた新幹線のチケットを使って、県を二つばかり挟んでやっと辿り着く。
 ジャケットのポケットに入れたMDが二周してしまうぐらいの旅だ。快適だが、あまり楽しい旅ではない。

「……かったるい」

 誰も居ない道の上で、あらためて自分の気持ちを声に出してみる。天気は良いのに誰も居なかった。
 やって来たのは教会で、実家が寺である自分にとって教会とはあまり馴染みの無い場所だった。
 荘厳な造りをしている教会内には自分以外の客は居ない。
 中には、黒い服を着た比較的大柄な男性がオルガンを弾いているのが見えた。
 俗に言う『神父服』ってやつを着た男が、圧倒する音色を奏でている。でもヤケに明るい曲調。美しい教会に流れるオルガンにしては明るすぎる音色は、演奏している男の性格をよく表していた。

 彼の名は、新座。俺の父の、兄の、息子。だから俺にとってはイトコにあたる。
 年は俺より十歳は上。童顔で年齢不詳。数年前まで実家に居たらしいが、今はこの教会で働いている。理由はよく聞いていないが、確か実家から家出したらしい。自分が訊いたのではなく、噂好きなみずほがそう教えてくれた。
 家出したのに一族の『仕事』を手伝っている人。不思議な経歴の持ち主だった。

「あ、緋馬くん! 来てくれたなら声を掛けてくれれば良かったのに!」

 オルガンをあんな気持ち良さそうに弾かれたら、止めるにも気が引ける。
 それに決して悪い音楽ではなかった。日曜日なんだしぼんやりと椅子に腰掛けるのだって悪くない。不安定な机で眠るのは、高校生だから慣れていた。
 体に纏ってしまった眠気を解き放つために、椅子の上で伸びをする。

「……そもそもオルガンなんて怠いもんを弾いているから悪いんですよ」
「むぐっ!? おじさんって何か悪いコトしちゃったの!?」
「しました。俺を眠気に誘うという悪行を」
「じじじ、自覚が無かったんだから仕方ないじゃん! 責められるとおじさん、真剣に泣いちゃうよ!」
「……自覚の無い行為がどれだけ他人を傷つけると思っているんですか? その年でそんなこと言うんじゃ『今の若い子は』なんて定型文を言う権利を剥奪されますよ」
「どんな風に他人に形容詞を付けるなんて、言論の自由じゃないか!」
「自由だ権利だなんて言うから世の中おかしなことになるんです。区別と差別は常識内での明確な区分けがされているんですから、自分一人の観念のみで物を仰らないでください」
「む、むぐぅ。さすが緋馬くん。おじさん、何言ってるかさっぱり判らないよ。頭良い高校に入ってるだけはあるね」
「惚れないでください、火傷しますんで」
「きっ、気を付けるよ!」
「…………。馬鹿なことをやってないでそろそろ本題に入りませんか」

 バカなことの自覚があるっぽい顔だから、そのまんまなことを言う。

「そうだね、もう駅へ出ちゃう? それともお昼寝後のお茶を飲んでからにする?」
「……今日は電車で行くもんなんですか。神奈川まで来てかったるいんで、出かけるなら水筒にお茶でも詰めて適当に行きましょうよ」
「そう? それだと風情が無い味になっちゃうよ」
「お茶に上品さを求めませんよ、俺は。喉が乾いたらコンビニでペットボトルを買いますし、なんなら水道水だっていいです」
「お都会の水は美味しくないからオススメしないんだけどなー。遠出になるんだし、ちょっとだけ時間をくれたらおじさんがお弁当を作っちゃうよ!」
「……新座さんが安上がりで仕上げたいなら、待ちましょう。どうせ俺は藤春伯父さんからの小遣いしか持ってないんで」
「と言っても僕はいつも出るとき、送ってくれる役の圭吾さんから美味しいお店を教えてもらうから。あんまり自分でお弁当作らないんだけどね。今日はいつもの電車に乗るんだから、普通に行ったらつまらないし。三十分ぐらいで軽く夕飯用のお弁当を……」
「……すみません。弁当を作るか作らないはおいといて。俺、まだ重要なことを聞いてないような気がするんですけど」
「重要なこと? 大変なお話をするならお茶にする?」
「だから、そのお話がかったるいから移動しようって言ってるんじゃないですか」
「そうだよね。でもって、移動する間にご飯とお茶をするためにお弁当を……」
「……もういいです。お弁当、作り始めてください。けど、一言でいいんで俺の質問に答えてください」

 なんだい、と新座さんは首を傾げる。

「これから俺は、新座さんと何処に行くんですか」
「どこって。おじさんは、『緋馬くんといっしょに仏田寺に戻れ』って聞いているけど」

 …………。思わず無言になった。
 先程もちょっとだけ零したが、ここは神奈川。曖昧に言うと南の方。そして、通っている全寮制の男子高校は……栃木。最後に、俺達の実家であり、『本部』のある仏田寺は……群馬。
 今朝。新幹線に乗って、真っ直ぐ新座さんの住む教会に到着した。昼寝がどれくらいの時間を使ったか、時計で確認してなかったので確認できない。だが、数時間も眠っていない。
 でもって今。特にここで食事をすることもなく、真っ直ぐ電車で実家に帰ろうとしている。
 封筒の中を確かめた。ビリビリと封筒を破り千切りながら確かめてみる。入っているのは、一通の便箋だけだ。見落としている物も、紛失してしまった物も無い。
 一通の便箋には、『新座の住所に向かい、合流しろ』の指令しか書かれていない。その他は簡単な地図と、迷子のときのための電話番号(おそらく新座さんのもの。『本部』のものではない)が書かれているだけ。
 指先をパチンと鳴らして、発火させた。
 手紙の下に炎を掲げる。もしかしたら炙り出しかもしれないと思ったが、もちろん何も出てくることもなく。
 便箋の裏側を見てみたり、物凄く薄い紙が二重になっていないかも確認する。思い当たる限りの全てを尽くしてみても、一文以外は何も発見できず。
 そんなことをしていたら新座さんは、奥の家屋に続く扉へと消えていた。迷走しているイトコ少年を置いて弁当を作るために。時間を無駄にしないように、颯爽と行動を移して。
 意味が、判らない。訳も、ちっとも判らない。
 考えられると言ったら、「どっかの馬鹿が下界に出ている二人を実家に一時連れ戻すために連絡する」ことを考えて、そのどっかの馬鹿が馬鹿をして「二人一緒に戻って来い」という手紙を書いた。
 栃木と神奈川の、距離を置いた二人に。
 それなら、中間地点で待ち合わせでもすればいいだろ。
 金も振込で間接的に渡しておいて、そのまま向かわせればいいだろ。
 なんでわざわざ合流させて、しかも新幹線の指定席チケットまで取らせている……。
 馬鹿だ。しかも、金の無駄すぎる。お役所仕事はこれだから困る。一層、自分の家が嫌いになる瞬間だった。



 ――2005年10月2日

 【    / Second /     /      /     】




 /2

 俺が知っている『仏田一族』の情報は、少ない。
 魔術のことを教える者もいた。武術を教える者もいる。でもそれは全部志願制。自ら尋ねなければ、絶対に教えてくれない。
 その世界を疑問に思わなければ異常を全てスルーしてしまうような、その家に生まれた者なら一度は陥る悪環境があった。
 幸い俺には優しく手解きしてくれる常識人が傍にいた。訳あって自分を育ててくれている、父親代わりの伯父のおかげで疑うことができた。

 俺達は、自分の中に流れる『血』のおかげで特殊な力を駆使することができる。
 俺も物心ついたときには火を操ることができた。炎を出して遊ぶこともしたし、いらなくなったゴミは燃やすこともした。
 それが一般的な生き物にとって『異常』であると、自分から尋ねるまで知らなかったのだから恐ろしい。
 自分にはすぐさま教えてくれる伯父がいたからいいが、最悪なケースはいくつでも思い付く。きっと自分以外の一族で、無知から大変なことをしてしまった子供はいるんじゃなかろうか。いくら異能者の家系が秘密主義だからって、改めるところは改めるべきだと思う。
 でも……俺がそう思っても、他の者が思わなければ意味が無い話。

「緋馬くん、味付けどうだったかなぁ?」

 最後の駅を降りて、新座さんは会話に尽きること無く次から次へと質問を繰り出してくる。
 俺が『話を持ち出さなければ口を開けない性格』だってことを判って、新座さんは話し掛けてくれていた。
 それをうざいと感じない。義務であるかのように答える。
 苦痛とも感じず、そういう遊びであるかのように新座さんは問い続ける。

「……何がですか」
「さっきの話の流れからしておじさん特製のお弁当の味だよ。美味しいならどこが美味しかったか、いまいちだったら改善すべきところを教えてほしいな!」
「料理評論なんてできませんよ」
「純粋に君の感覚が知りたいだけだよ。今日はこうやってお喋りしながらお家に帰るだけだけど、今度は一緒に『お仕事』するかもしれないだろ?」

 そのときのためだ、と新座さんは笑って尋ねる。
 にこにこと、十歳以上も年上とは思えぬ子供っぽい明るい笑顔を向けてきた。

「……不味くはなかったですよ」
「へえ、それで?」
「超個人的な意見ばかりになりますけど……俺の好物が無かったんで、それが残念です。あ、でも春巻きなんてまず寮の食堂には出ないんで、久々に食べて美味いと思いました」
「むぐ、好き嫌いが当たるかは運だし仕方ないな。ちなみに、緋馬くんの好きな食べ物って何なんだい?」
「ココアとハチミツとマーマレード」
「……お弁当にするには、サンドイッチにでもしないと活用できない組み合わせだなあ。じゃあ君の誕生日は楽しみにしててね!」

 駅を出た後は、ひたすら歩きで山まで向かわなければならない。
 タクシーで向かったとしても、途中から車が使えない道になってしまう。
 だから、タクシーを捕まえても捕まえなくてもいっしょ。特に荷物も多くない今では、歩き続けてなんら問題は無い。
 二人で、山道を目指した。
 山の上にある、傲慢な寺へ向かって。

「そういや、ついつい訊くの忘れちゃったけど。訊いていいかな」
「ん……?」
「緋馬くん、新しい高校に入って一ヶ月経ったんだろ? 新生活はどうだい?」

 転入してから、初めての実家帰省。おそらく、そう訊ねてくる親戚は山ほどいるんじゃないかって考えたことはあった。
 記念すべき第一号は、既に三時間喋り続けた後に唐突にやって来た。
 用意していた言葉を、そのまま返す。

「面倒なところですよ、嫌いじゃないけど」
「仲の良い友達は出来た?」
「ぼちぼちです。『実家は寺やってます』って言ったら行ってみたいって言ってる馬鹿が数匹いるぐらいです」
「そういうお友達が出来たなんて、羨ましいね」
「……別に。かったるいもんですし。でも、宿題見せてもらえる人材ができたのは助かったし、ラクできて嬉しいです」
「そんなこと言わないの。お友達は大切にしなきゃダメだよ。優しくしてあげなきゃ」
「……あんなの、うるさいだけですよ。居ると便利とは思うけど」
「こら、そういうこと言っちゃダメだろ。新しい環境に慣れるだけでも大変だから強く言えないけど、慣れさせてくれる要因が『親しい人』なんだから優しく、大切にしなきゃいけないよ。それに、そうやって外の世界に出て、お友達を作って帰ってこられるなんて幸せじゃないか」
「……そうですかね」

 そうだよ、幸せだ。
 彼は、ハッキリと本気の声で語る。

「俺は、友達作りなんて巧く出来ないから、なかなかそう思えないんですよ。新座さんは友達作ったりするの巧そうだから、幸せにすぐなれそうですけど」
「はは、そう思う? …………そうでも無かったよ。友達になっても、優しくできなかったからさ」

 ――俺が知っている『仏田一族について』は、以下のことぐらいだ。

 一つ。仏田一族は『退魔業』をしている。
 これは『裏の顔』であって、表の顔はごく普通のお寺。正月に札を撒き、人が死んだらお経を唱える坊主の家。
 本業は幽霊退治、悪魔祓い、異端殲滅、怪奇事件の解決。オールジャンルどんな依頼でも引き受けて、『なんでもいいから大勢の魂を狩る』ことを目的としている。だから『死体荒し』的な表現で話をされたら、それは自分の家を差していると思え……と誰かに言われた。
 異端を倒して、金というおいしいところも貰って、一つ残らず喰らっていくんだから、どんな酷い比喩でも文句は言えない。

 二つ。魂を必死になって集め、集めたら『本部』に献上する。
 『本部』には偉い人が居て、その人が一族中が集めた『魂』を管理している。その役割の人を『当主』と言う。
 当主はとにかく偉いらしい。よく知らない。当主を守る役割を『当主守護』と言ったり、何かの役職を『処刑人』とか細かく分かれていたりするらしいが。あまり詳しくない。

 三つ。魂を集める理由は、『いつか来る神』のため。
 大昔、我が家はこんなことを言われた。
 仏田の血で女が生まれたとき、その女は『神』だという。
 女は膨大な量の知識を食う。その女に献上するために魂を集めよ。
 女神のために一族は魂を集め続ける。退魔の仕事をこなし、魂を集めている。ついでにお金も貰って、一族中で儲けている。

 ――退魔の一族である仏田家は、悪霊や異端退治で金を稼ぎながらも魂を回収し、集めた大量の魂を生まれた女に与え、神を創ろうとしている。

 女を産まなきゃいけない。魂を集めなきゃいけない。
 もし女が産まれ、大量の魂があったなら、我が一族の中から神が誕生するから。
 それが研究を続ける秘密結社が目指すべきもの……らしい。
 女を産むために仏田一族はどんなこともしてきたという。科学的なものや魔術的なものも色々やってきた。嫁いできた女に産ませまくったという逸話もある。
 けど仏田一族で最後に女が生まれたのは、江戸時代。それ以後、女が生まれたという話は無いという。
 だから今の一族は男ばっかだ。女が生まれるまで産み続けているけど最近の我が家は『男は三人まで生かす』ことになったらしい。三人以上子供を作っても女でなければ無駄だから……。

 俺は仏田一族についてはそれぐらいしか知らない。
 なんで魂で神が作れるのか、なんで女じゃなきゃいけないのか、神を作ってどうするのかまで、訊いたことはない。
 尋ねなければ我が家は口を開かない。
 尋ねれば、教えてくれるもんなんだろうか?

「新座さん」
「むぐ? なんだいー?」

 むぐむぐとスイーツな話を盛り上がっている新座さんを両断する。
 足は進めながらも、話すのは前からの疑問点。

「新座さんって、今……魂を集めてますか」
「え、うん、そりゃあね。お父さんから『お仕事を手伝ってくれー』って赤いお手紙来るよ」
「当主様自らお願いに来るんですか?」
「いや、お父さん名義で……『本部』を動かしている大山さんとか、あとお父さんの秘書をやっている鶴瀬君とかから……時々直接、圭吾さんが言いに来てくれることもあるけど」
「集めてどうしてますか」
「回収してるよ。……『ここ』、にね」

 そう言って、新座さんは『自分の首元』を指差す。
 何事も無い、単なる喉を差していた。そこに何があるか察する。

「……新座さんの『刻印』箇所って、喉?」
「うん、『ここにみんなを、しまってる』よ。緋馬くんだってそうだろ、君の刻印があるところは……」
「頭です」
「あ、そうだったね。結構珍しいところだったから覚えてるよ」
「今、俺が言ったから思い出したんでしょ」
「ちっ、違うよぅ。言われる前から覚えてたもん」
「どうだか。……でさ、新座さん。なんでここに、魂を収納できるんだと思う?」

 『刻印』ってのは、俺んちに生まれた子供に出てくる変な痣。継承権が委ねられる証のことだ。
 そこに不思議な力が宿ってるとかいう体の器官で、現にそこからパワーを貸して貰ってる感覚もある。俺達一族には体面にあるものだ。

「『刻印っていう変な痣が生まれつきある』のは、俺達の家じゃ当然じゃん」
「当然……。だけど無い人もいるよ。刻印を持って産まれるのは半々ぐらいじゃないかな。時々刻印を持たない、能力を使えない人だって産まれる」
「それは一部じゃないですか」

 俺達一族は、大半遺伝で『刻印』と呼ばれる痣が表れる。だけど刻印を持たず生まれてくる奴もいる。
 俺の周りでも、あさかとみずほは持ってなかった。でもってアイツらは普通の生活をしてる。
 そうだ、アイツらは……俺とは違って、変に『仕事』を任されることもなく……刻印を持たなかったから、正式な血を継承してないとかで……。けど、あさかとみずほの父親――藤春伯父さんにはある。寧ろ、一族では刻印はある人の方が多い。
 ……なんで、無い人とある人が出るんだろ。

「む、むぐ。他のお家だって、髪の毛が薄いお父さんがいたって、おじいちゃんはフッサフサだったって言うじゃん。遺伝の仕組みはよく判らないけど、そういうんじゃ……」
「……そうっすね。話を変えましょう。じゃあ……なんで収納できるのかな、魂」
「できるものは仕方ないよ」

 笑って新座さんは、『ごく普通に』、そう言った。

「緋馬くん、あんまり気にしない方がいいよ。『そういう風に神様が決めてる』んだから、そうなんだよ」
「…………」
「地球では、上から下に物が落ちるように。牛肉を焼けば、旨味が出るように。『僕達の家の刻印は、魂を回収する器』なんだよ。思春期に入ると一度は考えるよね。そういう『世界の理屈のおかしさ』ってさ。うんうん、おじさんも直面したから判るよー」

 この人は、俺が青いってことを言いたいんだろうか。中二病とか高二病とか言いたいのか。

「僕も昔、そういうことを考えたことがあったんだ。でも、今はあんまり考えなくなったんだよ。この現象、僕以外の人達にもあったんだって。僕より年上の悟司さんや……匠太郎さんや大山さん、照行おじいちゃんにもあったって。女中さんに訊いたら、みーんな判ってくれたよー」
「…………」
「あ、えっとね。緋馬くんの疑問、ハッキリ言っておじさんも、判らない。おじさん達にも一度は考えたけど判らなかったんだ。でも判らないままじゃ苦しいから、自分達で『一番苦しくない言い訳』を考えたんだよ。それが今の。『そういうもんだから仕方ない』ってヤツ」

 諦め。それだ。
 新座さんは俺に諦めを強制しているように思えた。強制と言うと言葉が悪いかもしれないが、そう納得しろと、自分が通って来た道を俺に押し付けようとしている。
 無意識に。そういう回答しかできないんだと言わんばかりに。
 ……その言い方、昔、藤春伯父さんが違う話題でも使っていた。逃げだとは思ってるけど、便利な言葉だから使っちゃったのかな。

「もし本当に、緋馬くんが『答え』が欲しかったら申し訳ないけどおじさんには判らないから……自分で探してくれないかな。力になれなくてゴメン。でもって、もし答えが見つかったならおじさんに教えてね。おじさんだけじゃなく、みんなにも教えてあげてね」
「……なんかそうプレッシャーかけられたら、ヤル気を無くしました」
「ええっ!? もう少し悩んでみようよー、早いよー!」

 すぐに吹っ飛ぶ程度の悩みだったんだ、俺にとっては。
 『俺達はそういう風に作られてるんだから疑問を持つな』、か。
 そっか、神様がそう決めたことなんだから仕方ないよな。疑ったら、そう作った神様に申し訳ない。
 どうして疑問に持たない?

「……え?」
「ん、どうしたんすか、新座さん。いきなり立ち止まって」
「い、いや、なんでもないよ」
「まあ……確かにこの石段登るの、嫌ですよね」

 目の前に続く、長い長い石段を見た。
 実家の寺に続く路……ここを通らなければ、実家には帰れない。そして、ここを通れば実家に帰ってしまう場所だ。
 石段を見る。エスカレーターがあったらと誰もが思う家への門だ。
 ここを抜ければ誰かがいる。手紙で帰省日程が決定されているのだから、誰かしら出迎えてくれるだろう。けど。

「……ああ、かったるい」

 一歩、石段を登っただけで、その言葉が出てきた。それ以外、考えられなかった。
 なんでこんなに長いよ、この階段。

「新座さんは実家に居たとき、学校通学に毎日これ上り下りしてたんですよね……ありえねー」
「あはは、あの頃はおじさんも若かったからねえ。昔から運動は苦手だったけど」
「ここはコンビニにも遠いし、時々ケータイが圏外になるし。……だから実家、帰りたくなかったんだよ」
「そうなの? 噂じゃ『緋馬くんは家に帰りたがってる』って聞いたけど」
「それ、ここじゃない家です」
「あああああぁーっ!! 兄ちゃんーっ!!!」

 と、突如騒がしい叫び声がした。隣の新座さんとは違う声だ。
 その声は、だんだんと近寄り……駆け下りてくる。
 石段を見上げると、物凄いスピードで走り寄って来る影がある。そんなに急いで石段を下りたらすっ転ぶぞ。

「……寧ろ、今つまらんから転んでしまえ……」
「緋馬くん、それはひどいよ」

 思いながら、目を細めた。
 見知った顔が、元気に上から転げ落ちて来た。

「兄ちゃん兄ちゃん兄ちゃんーっ!!」
「……うっさい、火刃里」

 石段五歩上がったところで、感動的な兄弟の再会である。



 ――2005年10月2日

 【    / Second /     /      /     】




 /3

「火刃里、今からどっか出掛けるんじゃなかったのか」

 階段を下りてきて、またも隣で段を上がっていく不可思議な行動に問う。
 黒髪を豪快ざっくばらんに切った髪。そろそろ冬も近くなってきたというのに、まだ半袖姿。階段を一段飛ばしで笑顔のまま登る小さな坊主は、俺のことを「兄ちゃん」と呼ぶ。
 俺の弟・火刃里は、兄の空いた方の手を引いて階段を登っていた。

「出迎えだよっ! 『結界が鳴ったから誰か入ってきたぞ』って一本松様が言ってたからっ。今日来るお客様って言ったら、兄ちゃん達のことだって知ってたしっ!」
「出迎えなら門の前で良かったのに。辛いだろ、またこの石段を登るの……」
「べっつにっ。おれ運動は好きだしっ! それに一人きりでこれ登るんだったら苦痛かもしれないけど、誰かといっしょだったらそれほど感じないと思うけどっ? 山登りの鉄則だってっ!」
「……別に登山しに来たんじゃないんだけど」
「お山を登って家に帰るんだからどっちだって同じじゃんっ! おれ修行として毎朝上り下りしてるよっ! そーいやにーざおじちゃんだいじょうぶーっ?」
「あはは、おじさんはゆっくり歩けば平気だよ」

 息切れと仲良く、上を向く。
 山の上の屋敷に住む今年十五歳の少年は、まだまだいけると言うかのような、楽しそうで余裕の笑みを浮かべていた。体力が無いっていうのは絶対嘘だ。元気が有り余ってるじゃねーか。
 そろそろ、空が暗くなってきた。登り終わる頃には一気に冷たくなっていってしまう。

「あっ、そうだっ!」
「……ん?」
「おかえり兄ちゃんっ!」
「ん」

 そんなどうでもいい会話をかわしながら、歩く。
 ――そうして、やっと実家に帰ってきた実感がした。「おかえり」の一言を言われて、やっと。単純にも。

「兄ちゃん、帰るのメンドそうだねっ!」
「既にこの階段を上がる時点で嫌になってる」
「じゃあさっ、ジャンケンでもしようかっ!」
「なんで」
「ジャンケンで勝った方が出したもので上がっていくのっ。負けた方はその段で留まってるっ! またジャンケンして、勝ち負けで差をつけていって、先に頂上に行った方が勝ちっていうゲームするのっ!」
「…………」
「するのーっ!」
「…………」
「すーるーのーっ!!」
「……じゃーんけーん」

 ポン。
 俺:パー。火刃里:チョキ。

「おれ勝った! んじゃ兄ちゃんはその段から動かないでねっ! ……ち・よ・こ・れ・い・と!」

 ぴょんぴょんぴょん、と六段上がっていく元気な足。見ているだけで暑苦しい。

「続けて、またまたじゃーんけーんっ!」

 ポン。
 俺:グー。火刃里:チョキ。

「はいっ、兄ちゃんっ、上がってきてっ!」
「あいよ。……ぐ・り・ん・ぴ・い・す……」
「……って何だよそれっ!? フツーはそこで『グリコ』だろっ!? なんで六段も上がってんのさっ!」
「グリコだなんてメーカー名出すな、怒られるだろ。ほら、早く……じゃーんけーん、ぽんっ」

 俺:グー。火刃里:またチョキ。

「お先に失礼。……ぐ・ぁ・ば・め・ん・と・お・ぶ・ぴ・い・ぽ・う」
「何だそりゃーっ! 普通にガバメントって言えーっ!」
「英語はちゃんと耳で聞いた音で言うべきだって、それは中学でも習っただろ? ほい、じゃーんけーん、ポンッ」

 俺:グー。火刃里:パー。

「一気に追い越すからねっ! ぱ・あ・ま・ん・と・ゆ・か・い・な・こ・ろ・す・け・た・ち!!」
「……ズルイな、次元を越えた友達を連れてくるな。それに文になってるじゃないか」
「クロスオーバーって好きだよっ! っていうか、兄ちゃんの『人民のための政治』の時点でもう文章になってるよっ!」
「うぬ、イタイところをつかれたからこのまま継続する。じゃーんけーん……」

 ぱ・ん・な・こ・っ・た・と・よ・う・き・な・お・れ。
 ぐ・ず・ぐ・ず・言・っ・て・る・と・お・く・歯・ガ・タ・ガ・タ・い・わ・せ・ん・ぞ!
 ち・く・わ・か・ま・ぼ・こ・カ・マ・ン・ベ・エ・ル・チ・イ・ズ・あ・じ。
 ぱ・き・す・た・ん・で・あ・の・す・ば・ら・し・い・あ・い・を・も・う・い・ち・ど!
 ぐ・り・む・ど・う・わ・と・く・べ・つ・へ・ん・ド・ラ・え・も・ん・の・び・太・と・シ・ン・リ・ン・お・じ・さ・ん。

「くそぉ、人名を三つも入れるのは反則だよっ。必然的に段が増やせるじゃないかーっ!」
「……そんなことやってたらもう山門に着いたな。早ぇ」
「あ、ホントだっ。……ねっ、持つ心次第で辛いことも一変するだろっ?」

 こんな終わり方で教訓つけられてもなぁ……。

「――――おかえりなさいませ、新座様、緋馬様」

 火刃里の愉快な連行の末に、開き口にて使いの者らしき女に声を掛けられる。
 話しかけてきたのは彼女。だが、出迎えるのは一人だけでない。十人ばかりが後ろにズラリと並んでいた。
 バテ気味の年配者・新座が長い石段を登りきって顔を上げたときには、出迎えの者達が全員頭を下げていた。
 ふっと俺の頭の中を「VIPがやって来たときの旅館の映像」が駆け抜けていく。ここは旅館でもなんでもなく、単なる俺の家の筈なんだが。

「や、豊島園(としまえん)さん、お仕事ご苦労様です。皆さんも、お迎えありがとうございます」
「到着予定時刻から四十分もごゆっくりなさられていたので、心配しておりました。何事も無く、新座様のお顔を見られて嬉しゅうございます。大山様、狭山様がお待ちしております。至急……」

 新座さんの「ありがとう」の言葉を打ち切るかのように、先頭に立つ女が口を開き続ける。ゴタクはいい、と言っているかのように。
 女中は笑みを浮かべていたが、あくまで営業スマイルのように思えた。あれは、相手との関係を円滑にするため『だけ』のものだというのがすぐ判る。それが表に出る人間には重要なことだと判るけれど。
 決して気持ち良いものではない。

「兄ちゃんっ、行っちゃうのっ?」

 真の笑顔しか浮かべることのできない弟が、服の裾をくいくい引っ張りながら尋ねてきた。
 周りにはズラリと頭を下げた使用人達がいるせいか、火刃里の仕草がさっきより子供っぽい。畏まるところが判っている様子だ。

「あー……どうかな。俺も……なのかな?」
「勿論、緋馬様もおいでになってください。今日は陣営の方々がお二人のためにお待ちになっているのですから、寄り道せずお屋敷に向かい下さい」

 間髪入れずの返事。さも当然であろうと言わんばかりの返し方。
 ……やっぱり、あまり心地の良い言い方ではなかった。我慢しながら言われた場所に向かう。

「――――二人とも、やっと来たか」

 屋敷に入り次第、出来ることなら会いたくない人種に会ってしまった。
 眉間に皺を寄せて、愛想笑顔なんて言葉を知らないような鬼の顔。きちっと結んだ着物姿で腕組みをして、どう見たって「自分厳しいですから」と主張してくる男。
 その男・狭山の声は、重い。見るからに怖そうな怖い人が、会ってしまったというより待ち構えていた。
 この地にやって来てからただでさえ下がっているテンションが勢いよく下がっていく。それもこれも狭山にはあまり良い思い出が無いからだった。

「遅刻だぞ。何をしていた」
「むぐ……狭山さん、遅くなってごめんなさい。少々、道が混んでいたもので」

 電車を利用して来たのだから時間に遅れることはない。
 昼寝をしていたからとか、本当は弁当を作ってたとかが一番の原因だったが、新座さんは無難にそれを回避した。

「魂の管理はどうしている」
「むぐ、もちろん抜かりはないですよ。大切に大切に保管していますから」
「そうでないと困る。当然のことを訊いてしまったな。緋馬様の方は?」
「あ……はい。初めてでしたけど……勝手は判ってます」

 答えていると、奥の院の方から別の男性がそそそと走り寄って来た。途端、一新。空気が少し和やかなものになる。
 現れた男は数日前に手紙を出した本人、大山だった。彼が優しい笑みを浮かべてやって来てくれる。
 地味な色の着物姿で「やあやあ」と笑顔で駆け寄ってきてくれる。二対一で狭山と向き合ったときは一気に険悪なムードが漂っていた。でも大山が加わり2対2になることで、ここの空気が次第に暖かいものになっていく。狭山が居るだけで凍る空気が、たった一人の力で中和されていった。
 それだけ大山の穏やかさは偉大だ。

「新座くんも緋馬くんも予定の時刻より遅くなっちゃったのは残念だが、無事ウチに帰って来られたのだから良かった良かった! どちらも事故も無く帰って来てくれるのが何よりだよ。遅刻は良くないけど、無事に元気に帰って来てくれればみんな喜ぶからねぇ」
「……それで許されると思っているのか」
「特に緋馬くん! 現地で長期に渡っての任務だったんだよね、お疲れさま。判らないことや大変なことになったらいつでも連絡してね」

 頭に血が上りそうな一人を抑えつけるように、大山がべらべらと優しい笑顔で話しかけてくる。
 その意図は、新座さんにも俺にも見て取れた。

「柳翠様の御子息だ。一人で解決出来ないなんて情けないことは、なかろう」

 後ろの方で、ピシャリと狭山が言い放つ。
 その一言で説教が終わってくれた。大山の登場の効果は、バツグンのようだった。

「そんなこと言ったって、緋馬くんは初めてで、しかも一人の長期任務なんだぞ? まずは無事帰ってきたことを褒めてあげないとだな」
「だから前も言っただろう。その年になってまで任務を任されなかった方がおかしかったんだ。藤春様は何を甘やかせていたのか。育ての親としての役割を放棄した藤春様に、何の注意がいかないのもおかしくはないか? 彼は怠慢を犯している。緋馬様は素晴らしい才能を持っているというのにいつまでも子供扱いされてさぞ迷惑しているだろう」
「……むぐ、あの、狭山おじさん。僕は、気遣いや優しさと……甘やかしは、違うと思いますよ」

 俺が口を挟まないように我慢しているところに、新座さんが割って出た。
 しかし、言い訳を悪く思ったのか、また狭山は怪訝そうな顔をした。
 露骨に不快感が出ている表情だ。言葉で怒鳴るまではまだしないが、今にも爆発しそうな勢いがある。
 折角大山のおかげで回避できそうだった怒りが、またぶり返してしまうかもしれなかった。狭山はぐっと何かを堪え、新座さんを睨み、口を開く。

「ところで『清め』をしてきたのか?」
「えっ? お清め……ですか? 今さっき帰って来たところなんで何もしてないですけど」
「となると未熟な緋馬様もか。そのような格好で祭壇に上がろうとしていたのか?」
「あ……すみません。魂を献上しに行くんだから……汚い格好じゃダメですよね。ごめんなさい……」
「下界の空気に触れている自覚を持て。異教徒の気にまみれているくせにそれを本殿に持ち込むなどおぞましいことを」

 狭山は「汚い」と言ったが、新座さんの服装に不潔感など一切無い。
 寧ろ、今日は移動しただけの服だ。外に行くための比較的煌びやかで、清潔感漂う服装だ。
 それなのに、この人は、外……『寺を出てから全て』は、みんな汚いと思っているのか。
 新座さんの居た教会がどんなに綺麗な建物だったとしても、『自分達以外の空気』に触れているから汚れていると言うのか。
 ……理解できない世界に、頭痛がした。

「あの……すみません。今すぐやって来ますから……」
「ただでさえ予定の時間から遅れているのに。お前達は迷惑をかける為に此処へ戻って来たのか」

 頑固親父の声がどんどん大きくなっていく。
 隠れて大山が溜息を吐いたのが見えた。でもそんなの狭山には一切気付かれないようにして、苦笑いの表情で新座さんの前に出る。

「その辺でおしゃべりは終えておけ、サヤ。新座くん、今日は『ここ』で渡してもらおう。それでいいよ」

 時間が押しているのもあるしね、と付け足す。本当に申し訳無さそうに言うから、遅刻した俺達が悪いのにこの人の方が悪かったように思えてしまう。立場のわりに損してしまいそうな人だ。……真に反省すべきかもしれない。

「本来なら、緋馬くんが初めて魂を献上しに来たんだから、本殿に招き『全て』を見て覚えてもらいたかったが。今から体を清めてたら時間がかかる。お目覚めになった光緑(みつのり)様も暇じゃないんでね。少し予定を変更しよう」

 光緑様。この寺で最も偉い人の名前。仏田一族の、現在の当主様のお名前だ。
 その名を聞いて一番反応したのは、新座さんだった。

「……お父さんも、忙しいですか?」
「ああ、息子の新座くんも知っている通りね。だから今度から遅刻は気を付けてほしい。……特に、御子息の新座くんには判ってほしいな」

 そうだ……新座さんは、この寺の全てを管理するという当主の実の息子だ。それでもこうやって怒られているんだから、教育はそれほど徹底されてないらしい。
 でも。言い訳がましいが、「遅刻厳禁ぐらい言ってくれ」「そんなの手紙には書いてなかったぞ」と思わずにいられなかった。

「サヤと私が君達が回収してきた魂を引き受けよう。そのまま当主様に差し出してくる。本当は橋渡しは邪道なんだが今日は仕方ない。それにサヤの徹底っぷりがあれば、頂いた魂を取りこぼすこともしないからな。サヤ、絶対にそんなことしないよな?」
「当たり前なことを言うな」

 当然と自信を持って、いや、当然過ぎて何も感慨も無しに、狭山は言いきった。

「と、言う訳で貰おうか。二人とも、解放を頼む」
「はい」
「……はい」

 ――俺は、自分の頭に手を乗せる。
 目を瞑って、自分専用の呪文を唱える。
 ――そして、スイッチを入れた。

 涙をわざと流すように難しく、唾を吐き捨てるより簡単な行為。
 ――この現象は、とても説明しにくい。
 身体を『どうにかすれば』魂を取り込むことができて、身体を『どうにかしないと』魂を外に出すことができない。
 俺は手を使わずに『耳を動かすこと』はできない。けど学校の知り合いにヤケにそのことを自慢してくる奴が一人はいた。それと似ているのかもしれない。
 身体の器官を動かすことは、その人自身が『動かせることを知覚し』、『動かすためのスイッチの居場所』に気付かなければ出来ない。
 一族で刻印を持つ者は、そのことに気付ける……という。
 生まれたときからこのスイッチと共に生きてきたから理解できる。生まれたときに無い人の気持ちなど、絶対に理解できない。それは本当に、俺にとっては唾を吐き捨てるより簡単なことだった。
 己の身体の中に溜めておいた『他人の命』、知恵を、表に出す。

「……確かに受け取った」

 青く光りながらこの現象は行なわれた。
 魂の譲渡の色は青だ。決まってこの世の、実体化した霊的な存在は青いからそのように光るらしい。神秘的なものは殆どが青い色をしているから、今このときの光も青。
 新座さんも、同じように自分の体内から『他人』を引きずり出し、青く光る宝を大山と狭山に授けた。

「出し惜しみはしていないな?」
「むぐ……そんなことして何になるというのです?」
「愚問だった。今回はこれで許すが今後献上をするときは必ず身体を清めるように。二度も過ちを繰り返すなよ」
「判りました、申し訳ございません」
「……失礼しました」

 俺と新座さん、二人揃って頭を深く深く下げる。
 大山は頭を下げる俺達を見ると、すぐに優しく声を掛け、頭を上げるよう促した。

「二人とも、今後は気を付けるんだよ。我々は祭壇に行くから、君らは休みなさい」

 まだグチグチ小言を言いたそうなうるさい狭山を連れて、優しい大山は寺の中に消えて行く。
 完全に彼らの背中が消えるまで、俺達は廊下に立って頭を下げていた。
 途中退場するようなことがあったら、うっかり振り返った狭山の小言が再開するかもしれないからだ。

「むぐ。あのさ……緋馬くん、ごめんね?」
「……何がですか」
「怒られちゃった理由って、遅刻したからだし。早くウチを出れば怒られなかったかもしれないのに。初めての『お仕事』なのに嫌な記憶作っちゃったね」
「新座さんも遅刻厳守って知らなかったんだから、仕方ないじゃないですか。新座さんも、初めてだったんでしょう?」
「正直初めてだった。お父さんが忙しくっていつも大変で、狭山さんがキリキリしているのも知ってた筈なんだけどな」
「……初めてが二人もいるのに、一切フォローをしてこなかった人の方が悪いんですよ」

 確かに俺達に至らぬところはあった。遅刻は学校でもバイトでも叱られるもんだ。威張れたもんじゃないのは判ってはいる。
 でも時間の管理が出来てなかったり、何をするか伝えてなければ勝手だってさっぱり判ってないんだぞ、俺達は。
 全部自分達の考えで人を動かそうとしたあっちの落ち度だ。

「もちろん、反省すべきところは反省しましょう。提示された約束の時間にオーバーしたのは、悪かったに決まってますから」

 ……しっかし、そんな『家に帰る時間』にウダウダ言うなんて考えもしなかった。
 子供だけど女じゃないんだし、門限なんて気にしたことがなかった。しかも隣の男は、とっくの昔に成人したというのに。

「やっぱり、実家は……たるいなぁ」

 反省することは沢山ある。でも、一番の教訓はそれ。間違いなかった。



 ――2005年10月2日

 【    / Second /     /      /     】




 /4

「兄ちゃん、おっかえりーっ! お仕事終わったんだよね、ゴハン食べるっ? お風呂にするっ? それとも……」
「『お前』」
「やっほい! 深淵ウノしようぜ、ウノーっ! あっれー、深淵カードどこやったかなーっ? 兄ちゃんとウノやりたいのに無いーっ! ま、いっか! トランプ使おうっ!」
「トランプ使ったらウノじゃねえだろ」
「いいって! ウノをやろうとする意思が大切なんだよっ! 何事もやろうとする気持ちが大事っ! だからトランプでオッケーっ!」

 とりあえず『清め』という名のただの風呂を終わらせて、寝泊まりする場所にやっと来ることができた。
 朝起きて、新幹線に乗って、教会まで歩いて、昼寝して。また電車に乗って、歩いて、怒られて。移動と休憩の繰り返しの一日だ。
 とても時間の無駄をした一日だと思ってたまらない。折角の日曜日なのにつまらない。滅多に遊ばない弟と楽しもうという気が起きるのも、少しでも気を晴らさなければ退屈で死んでしまいそうだった。

「……火刃里は今日、何してたんだ?」
「おれっ?」

 俺の弟・火刃里は、この寺で暮らしている。3月に中学校を卒業してから高校に進学せず、この寺で『手伝い』やら『見習い』などの肩書で過ごしている。といってもヤンチャな子供の出来ることしか仕事なんて与えられていないだろうが。
 ちなみに火刃里の刻印箇所は臀部、ケツだ。例に紛れずこの一族の力を受け継ぐ能力者であり、『仕事』を任せられる一員……だと聞いている。
 やっぱりこれも、詳しくは知らない。弟とはいえ火刃里個人の話だし。訊けば教えるが詮索する気力が無いので、今まで状況判断で弟と付き合っている。

「朝起きて掃除して皿洗いしてっ、剣の修行してっ、兄ちゃん迎えに行っただけだよーっ!」
「……へえ。そりゃお疲れさま」

 皿洗いまでは、午前八時で終わりそうなメニューだ。
 そして、『兄ちゃんの迎え』は日が落ちそうな時間まで後の話……。
 それまでずっと、『剣の修行』なんて平成の社会に似つかないことをしていたのか。

「聞いてくれよ兄ちゃんーっ! おれ、また木刀を折っちゃってさーっ! 折りすぎだって怒られちゃってさー! 暫く剣の修業は卓球ラケットでやれって言われちゃったよーっ!」
「木刀から卓球ラケットにチェンジって、リーチが違いすぎるじゃないか。何のイジメだ」
「射撃武器を習えってことなのかねっ? 卓球だったら中学のときにやったことあるから知ってるしっ! がんばるっ!」
「『卓球=射撃』の方程式をパパッと組める火刃里は凄いと思う」
「え、すごいっ? やった! で、ウノだけど花札カードがあったからそれでウノやろうよ、兄ちゃんっ!」
「ウノなのかトランプなのか花札なのかハッキリしやがれ」
「花札だよっ! …………っ?」

 突然、火刃里が黙ったと思ったら同時に、俺の目の前が暗くなった。
 だけど微かに、真後ろで息遣いが聞こえる。それに二つの目を覆うのは、柔らかい……誰かの手の感触だった。

「えへへ〜、だーれだぁ〜?」

 火刃里ではない、舌ったらずな子供の声が後ろから聞こえてくる。
 俺の目を両手で隠している誰かが言ってるに違いない。
 もうこの時点で誰がこんなことをしているのか判ったが、一発で当てると寂しい顔をされそうなので、暫く付き合ってやることにした。

「ヒントは?」
「おにいちゃんの後ろに立ってる人だよ〜」

 それぐらい判るわ。

「ゲームのルールを説明してほしかったんじゃねえよ。お前が誰だっていうヒントをよこせ」
「えっとね〜。ここ最近のお笑い芸人は嫌いだよ〜」

 知るか。
 二ヶ月ぶりに久々に帰って来た相手に最近の話をしてヒントになるか。頻繁に連絡取り合うでもないのに。

「もう一つでも、大きなヒントをくれ」
「えっとね〜……。当主様じゃないよ〜」
「当主様が甘ったれた声で『だーれだ?』してくる訳ないだろ! してきたら本当にごめんなさいだけど! 先に謝っておきますそうだったらごめんなさい!」
「違うよ〜」
「…………。もう少し、狭まったヒントをくれるか? 尋夢」
「えっとね〜。最初の文字が『ヒ』で真ん中が『ロ』で最後が『ム』だよ〜」
「もう出す気も無いぐらい投げやりなヒントだな。言っちゃってる俺も俺だけど。……なあ、尋夢」
「せいかい〜。でももしかしたらそのヒントだと『ヒリロリムさん』かもしれないよ〜?」
「すごく南の国の人っぽい名前だな」
「ちなみにぐーぐる先生でヒリロリムさんを検索してみると『一致する情報は見つかりませんでした』になるよ〜」
「ぐーぐる先生にしては珍しいケースだな! 何かしら一つはヒットしてくれるのに!」

 両手を振り払い面と向かって顔を見る。
 間違いなく、記憶通りの幼い少年がそこに居た。
 名前は、尋夢。火刃里の弟で、火刃里以外にももう一人兄がいる奴だった。もちろん俺のことだ。

「なに尋夢っ? お前も兄ちゃんといっしょに『深淵ウノ花札』やるっ!?」
「する〜する〜。でもね火刃里おにいちゃん〜、せっかく帰って来たんだから緋馬おにいちゃんのおはなしも聞くんだよ〜」

 にっぱりと笑って俺の腕に巻きついてくる尋夢の腕。
 10月になったとはいえギューっと抱きしめられるのはまだ暑苦しい。それでも構わず子供らしい子供はじゃれついてくる。尋夢は火刃里よりずっと幼い弟だった。

「緋馬おにいちゃん、新しいガッコに行ったんだよね〜?」
「……ああ」
「いたいけな子を部屋に連れ込んでいじめてない〜? 辛い目に遭ってない〜?」
「……幼い弟に心配されるほどの兄貴だと判って辛いよ」
「わぁたいへんだ〜、おにいちゃん悲劇〜」
「兄ちゃんは素直になった方がいいよっ! 辛いときは辛いって言いなよ、いじめられるカワイイ子が居なくて困ってるんだろっ?」
「……どうして俺の弟二人は二人とも俺をいじめっこ認定するんだ……。俺はジャイアニズムに誇りなんて持ってないぞ」
「だって兄ちゃんほどパンクでクールでヒートだったら、下級生の一人ぐらい虐めなきゃキャラ立ちしないよっ!」
「……キャラ立ちの為に虐められた生徒は最悪だな。じゃあここで弟虐めをすればキャラ立ちするかな?」
「おおっ、尋夢っ! 早く逃げるんだっ! いじめられるよっ! おれはここで花札してるからっ!」
「火刃里おにいちゃん〜、逃げなきゃ殺されるよ〜、でもってこの部屋がぼくだけのものになったね〜、やった〜」

 ……お前ら、たくましいなぁ。さすが俺の弟だけある。
 火刃里は、今年十五歳になる弟。尋夢は十三歳になった弟だ。どちらも斬新なキャラ分けをしている。
 そして二人は、俺も含めて三人はどいつもこいつも似てない。
 思考経路は多少他人よりは近寄っているのかもしれないが、顔はちっとも似ていない。
 知らない人が三兄弟を見たら「親戚同士か」程度に思う筈。それでも兄弟なんだから不思議な関係だ。
 そうやって俺達が兄弟と言える仲が出来たのもここ数年の話だから、やっぱり俺達は普通の家庭とはまた違うと言われるだろう。
 まあ、異母兄弟なんてそんなもんか。

「じゃあさ〜、おにいちゃんはガッコでいじめられてないんだ〜? なら何やってるの〜?」
「……お前は、いじめ以外に俺に趣味が無いような発言をするんだな。お兄ちゃん、悲しいぞ」
「木彫りの熊作りでもしてた〜?」
「凝った趣味だな、工作は得意だからそのうち採用しよう。……最近は忙しくて、好きだったカメラもまだ本調子出てないからな、見せられる趣味はねえわ」
「ええっ!? 兄ちゃん、転校してもうだいぶ経つじゃんっ! 写真まだ撮ってないのっ?」
「……ああ。まだ気分が盛り上がらないんだ」

 弟が知っている通り、俺にとって『カメラ』が唯一履歴書に書ける趣味の一つだった。あとは音楽鑑賞や寝ることという、面接で撥ね退けられそうなものしかない。
 決してイジメが趣味なんてことはない。髪の毛をオレンジ色にしているのと色彩豊かな服装のせいでハイカラなコトもやってそうに見られるが、単に好きなだけで洗脳されている訳でもない。

「ああ……でも、ケータイにいくつか写真はあるかな」
「兄ちゃんってケータイよくいじってるからねっ!」
「……現代人の嗜みだ。電車でケータイをいじらない人種の方が社会では稀だよ」
「おれいじらないよっ!?」
「……お前は電車にも乗らないだろ。滅多に寺から出ないんだし。山から駅も遠いし」
「だってあんまり『外には出るな』って言うんだもんーっ。『外はばっちぃ』とか言ってさーっ。べっつに外で遊んで来たっていいよねーっ!」
「…………。ただでさえお前は十年ここの空気を吸わずに過ごしてたんだから、充分に吸って慣れろってことなんだろ」
「わかってるよーっ、そのために『修行』してるんだもんっ!」
「わかってるよ〜、そのためにひっきーしてるんだもん〜」

 二人揃って、弟達が同じことを言う。
 あまり気にしない方がいいんだろう。お互いに。

「おにいちゃあん。ケータイの写真、見せて〜」
「……あー、かったるい……」
「だめ〜?」
「ダメじゃないけど……。それほど面白い写真なんて無いぞ?」
「いいのそれでも〜。だってお外の写真だよ〜、楽しいに決まってるじゃん〜」
「そうそうっ。他人の子供達が大勢霊地に集まって勉学に勤しんでる場所なんて、絶対心霊写真ありそうじゃんっ! それに兄ちゃんの生活も気になるしっ。どんな世界があるのかスッゴイ気になるしっ!」

 はしゃぐ弟達を見て、ついつい溜息が出てしまう。
 でも先程まで吐いていた溜息より、ずっとずっと軽くて楽しいものだった。

「判ったよ、見せるよ。とりあえず火刃里、花札は置け」

 それにしても。ケータイみたいな持ち歩き便利でどこでも撮れるカメラで心霊写真なんて、安い時代になったもんだ。



 ――2005年10月2日

 【    / Second /     /      /     】




 /5

 光を放つ。緋馬くんと新座さんが外で集めたという魂は、何事も無く『当主の器』の中に入っていった。
 ドクンと血が騒ぐ。無音にざわめきを感じる。
 周囲に居るのは、儀式の祭司達。ぶつぶつぶつと聞こえてくるのは呪文。脳を痺れさせる刺激臭が空間を満たしていた。
 男の表情は見えない。暗い儀式の間に、数本だけの蝋燭の空間に、男の色を確かめる光は届かなかった。

「……ときわ」

 ――『当主様のパフォーマンス』が全て終わって、『普通の空気』が吸えるまでに遠ざかったとき。儀式を見届けた僕の元へ、義父の狭山が声を掛けてきた。
 当主様の儀式を目の当たりにした僕は少なからず興奮していた。余韻に浸っていたときに暗闇の廊下で声を掛けられ、少し肩が飛び跳ねてしまう。

「なんでしょうか、狭山おとうさん?」
「頭は大丈夫か」
「……気持ち悪くなってないか、という意味でしょうか?」
「儀式の際に焚く香は慣れていないと倒れる者がいる。トランス状態にさせるためとはいえ非常に濃度を高いものを使用しているからな、部屋の端に居ても辛いだろう」

 そうですね、確かにキツイ匂いでした。そう僕は頷く。義父であるこの男・狭山が、自分を気遣ってくれていることが嬉しかった。
 この人は非常に誤解されやすい言動をする。しかしほぼ全ての行動が善意で行なっているという、不器用な人でもあった。僕は少年ながら彼の生真面目さは理解しているつもりでいる。言葉が少なくても無碍にせず、深く頭を下げた。

「確かにスタート時は驚きましたが、じきに慣れました。僕はそれほどスメルを気にするタイプではないようです。心配してくれてありがとうございます、おとうさん」
「そうか。それなら良い。今後お前は当主を支える者になる。あれぐらいで倒れられては困る。……体に合わないようなら言え。すぐに医者を呼ぶ」
「承知しております。何かあったら声を掛けやすそうな鶴瀬さんに助けを求めますよ。でも元々ニオイ系に得意不得意も無いのでご安心を」
「それだけが気になった。以上だ」
「いえ。おとうさんもお勤め、お疲れ様です」

 もう一度、僕は頭を下げる。
 最敬礼は何度もすると失礼に値しマナー違反になるが、義父の機嫌を持ち直すためには多少しつこいぐらいが丁度いい。

「まったく、新座も緋馬もどちらも不参加になるとは。まさかお前だけとは。やはり外に出した者は弛むようになるんだな」
「……ですね」

 さっきから僕が義父の機嫌を気遣っている理由はそれだ。新座さんと緋馬くんのことがあったからだ。
 今回儀式に参加すると聞いていた『お偉い人の息子二人』が、悉く欠席した。
 当主様の儀式の一幕を見せてもらえるという、我が家の家業の入門編としては丁度良いイベントがあったというのに……居るべき立場の人間が二人もいないなんて、信じられなかった。

 一人は、当主の三男坊・新座さん。
 『次期当主』は長男・燈雅様に決定しているとはいえ、『弟王』が不参加なんてあっていいものか。
 ……新座さんの他にも当主にはもう一人息子がいるが、彼には『元から継承権など無い』ので頭の端にも存在を置いてない。
 それに当主のもう一人の弟・柳翠の長男・緋馬くんが不在というのも驚きだ。本妻の息子で、自分に次いでの権力者である少年なのに。二人揃って久々に目覚めた当主の前に現れないとは。
 これは頭の固い義父・狭山でなくても「たるんでいる」と思われて仕方ない。
 口に出すのは狭山だけだが、周りの僧達も思っているだろう。
 それでも批難しないのは、たとえなってなくても緋馬くんは敬意を払うべき対象だからだ。立場的にも文句が言える狭山が怒鳴っているのは、自ら嫌われ役を堂々としているからだった。……義父ながら可哀想な人だ。
 さらに言うなら本来ならここには当主の弟・藤春も居るべきだった。だが彼は寺の外で暮らしているため、相当強制力の強い事情でも無い限り、この寺に現れることはない。藤春の息子達は刻印を持って生まれなかったため、これもまたイベントに上がるほどの条件を揃えていない。
 他に直系の血筋といえば、寺に住んでいる火刃里と尋夢という二人の少年がいる。だが彼らは幼すぎるし、『寺の空気に馴染んでいない』という理由で参加を除外されている。

 ということで、出られる人が極端に少なく、出るべき人が二人も出ない。今日はそんな最悪な日。
 怒りのゲージが常時募っている義父を宥め終えた後、僕は本殿の外に出た。
 せめて自分より年上で、上位にあたる人には一言何かを言わなければ、と……新座さんの元へ向かう。

「エクスキューズミー。新座さん、失礼します」

 新座さんは……縁側で何かと遊んでいた。
 彼に声を掛けると、何か小さい物が「たぬっ!?」と声を上げる。小さい物がサッと新座さんの膝から離れ、草むらの方に走って行くのが見えた。
 小動物? あまりに素早く走り慣れた音に、犬猫の類じゃないことが判る。縁側に来るってことは……タヌキか?

「むぐっ、ときわくんじゃないか。久しぶり、元気にしてた?」
「オウ、お久しぶりです。こうしてお話するのは……新座さんが下界で過ごすようになってからは、滅多にありませんね」
「そうかもね。僕が教会でお世話になってもう1年半ぐらい経つから、それ以来か」
「イエスイエス、それ以来です」
「確かあのとき、まだときわくんは学生だったから……。もう十六歳ぐらいになるのかな?」
「今年で十九になりました」
「そっか、身長がちまっこいから小さく見えるなー」
「……どうせ僕は160センチしかありませんよ。身長のことは言わないでください、体格が全然大きくならないのはこれでもコンプレックスなんですから」
「ははは、そう口に出してコンプレックスって言えるぐらいだったら軽傷でいいね」
「のんきに笑わないでください。僕はこれでも、貴方を叱りに来たんですから」

 新座さんは、タヌキか何かが逃げていった林の方を見つめていた。
 だが、真面目な声を作って面と向かって振りかえる。

「僕を、叱りに?」
「そうです。おとうさ……狭山様に言われませんでしたか」
「あ、う、むぐ。確かに、狭山さんには怒られたけど」
「怒られたなら今後善処してください。例えば今も、『申し訳なかったです』の一言を言っても態度で示すとかしないんですか」
「ああー……そんなにしなきゃいけないことかな」
「何を言っているんですか。貴方は、『この国』の、第二位なんですよ。今後、この一族を率いていく……『偽りの王ではない』正統な血ではないですか。それともアレですか、バカ、いえ、記憶喪失ですか」
「……ときわくん。ここは、日本だよ」
「知っています。ですが、日本の『仏田』という国です」
「……そんな仰々しいこと、言わなくていいんじゃないかな」
「佐藤さんには佐藤家長という王がいます。鈴木会社には鈴木社長という王がいます。それと同じでしょう。貴方は生まれつき刻印を持って当主・光緑様の息子として生まれてきた。それだけの力を持っていて、教育も受けてきて、みんなに認められている。王子として生まれてきたなら、王子として振舞ってもらわないと、困ります。周囲が、困るんです」
「むぐ……。そういう言い方は、『自分が特別だ』『自分凄い』って言っているようでイヤだよ」
「イヤだろうが、そういう風に生まれてきたんだからそうなってください。今更天の定めで決められたことを変えていくなんて、不可能なんですよ」



 ――2005年10月2日

 【    / Second /     /      /     】




 /6

 オレもなかなかそのことに気付けなかった。でも、それがおかしいことだって気付いたから……!



 ――2005年10月2日

 【     /      /     /      / Fifth 】



 /7

 ………………さん。
 ……ざ、…………さん…………。

「新座さん、聞いているんですか?」

 ときわくんの怒った顔と叱りつける声で、ハッとした。
 僕は頷く。話はちゃんと聞いていたので嘘じゃないからだ。

「まるで聞いてないような返事の仕方をしないでください。聞いてないなら、もう一度お話するだけです」
「むぐ!? き、聞いていたってば! 本当に……緋馬くんと一緒に反省してたんだよ、それはホントなんだって! …………ときわくんには聞こえなかったよね?」
「はい? なにがですか」
「いや、いやいや、なんでもないんだ」
「僕の話を置いといて、違うことを考えてたって認めるんですね。まったく、不真面目な大人だ」

 ときわくんが、ぶつぶつと小言を言っていた。
 ときわくんの育ての親は狭山さんだったが、血は直接繋がっていないのに、二人ともとても似ている。
 多分、ときわくん自身は気付いていないけど、ちゃんと怒りに来るところとか、怒り終わってもぶつぶつ何かを言うところとか狭山さんとそっくりだ。
 一応注釈を入れておくと、ときわくんの本当の父は狭山さんではない。狭山さんは育ての父親なだけ。何故、本当の父が違っているのかは、それもまた『この国』のややこしい事情によるものだ。
 まだ太陽が出ていたときに緋馬くんが言った言葉を思い出す。緋馬くんが、というより自分が言ったことだが。

『そう決まっているんだから、仕方ない』

 諦めの言葉。
 緋馬くんにも抱かれた、諦めという感情。
 ときわくんに言われたこととまったく同じことを自分は言っていた。「仕方ない」って、なんて便利な言葉だ。納得するしかないのに、あのときの緋馬くんのように、胸の中でちょっとしたモヤモヤ感が生じていた。
 生じて、消えずにいた。

「あのさ、ときわくん。まだこのお屋敷、ピアノ……あったっけ?」
「ピアノって……昔、新座さんが弾いていたピアノですか? アレなら、僕が洋館の方に移しましたよ。ただでさえ和室にピアノがあるって不自然でしたから、僕の意思で移動させてもらいました。文句なら書面でどうぞ」
「そうだったね、以前聞いたかもしれない。洋館にあるんだね、ありがとう」
「……新座さんがこの家を出て行った後、捨てるっていう案もあったぐらいなんですよ? 僕が反対したから残っているんです」
「僕のピアノ、ときわくんが残してくれたんだ?」
「……洋館にある分には、違和感無くていいじゃないですか。それに、僕はピアノ嫌いじゃないです。全部和式が良いとは思えないんですよ。洋風には洋風なりの良さがありますし。捨てられても文句は言えない状況だったんですよ。ここの寺の居る古い人達は、洋風の物を見ただけで『外に感化されおって!』とか言い出して捨てようとしたぐらいです。それに、新座さんしか弾いてなかったものですし……」
「うんうん、ありがとう。本当はあと一人、ピアノを弾ける人って居たんだよ」
「そうなんですか、初耳です」
「うん、仕方ないよ。……もう二十年前に亡くなった人のことだし」

 仕方ないこと、とまた言ってしまった。
 今のは不自然じゃない使い方だった。でも、意識すると結構目立ってしまう。
 普通の言葉なのに、僕は苦笑いした。基本、誰かが傍に居てくれるときは普通の笑顔でいようと心掛けていたが、気を紛らわせるために、逃げるようにかつての相棒の元へ向かった。

「ちょ……新座さん、どこに行くんですか! まだ僕の説教は終わってないんですよ!」

 向かうしか、怒られ続けの一日に立ち直ることができなそうだったからだ。



 ――1995年9月30日

 【     /     /Third/     /     】



 /8

 ワタシが当主と出会ったのは、ワタシの兄弟がまだ幼かった頃のことだ。

 その場所の印象は、良いものとは言えない。
 神殿はとても奇怪で、室内だというのに木と風の匂いしかしない場所。古びた木材に宿る魔力の匂い。それでいて濃密な霊力の波。矛盾しそうな術式の数々だと思いきや、何重にも仕組まれた魔術結界。解析しようとすれば、そこら辺に居るようなバケモノでも頭が壊れてしまいそうになる。
 ワタシはその場で大人しくしていることを選んだ。
 ひとつひとつが強い魔によって抑えられている本殿には、ワタシと兄弟、対峙する当主以外にも生き物が多数居る。
 人間は山ほどいるが、どれもまともな人間ではない。人間の出来損ないが山ほど取り巻いている。その中でも特別であったワタシを、彼らは物珍しげに見ていた。

 神殿の中、仏田寺の当主を目の前にした二人の兄弟とワタシ。
 周囲には大勢がワタシ達を取り囲むように見ている。厳格な空気の中、ワタシはただ考えていた。
 早くこの時間が終わらないかな、と。うざったくて堪らなかった。
 大層な術式が編まれた結界の中で、兄はワタシを召喚した。「結界の中に獣が現れる訳がない!」と思われていた空間で、ワタシを召喚してしまった。呼ばれたから現れたというのに、取り巻きは非常に驚いている。
 兄としてみれば「出来る訳がない!」と言われていた中でワタシを呼び寄せたのだから、さぞ悦になっている。
 現に兄は「へへん、オレ達はこんなことができるんだぜ、驚いただろ!」と言わんばかりの顔をしている。子供臭く格好悪い。つまらない兄の見栄の為に現れた自分が、本当につまらなく感じた。
 だから急にやる気がなくなって、その場で着地してしまう。本当の犬のように。
 狼であるワタシは、鎮座した。兄の隣でお座りをする。だって目の前に偉い人が居るんだ。一応敬意を示しておかなければ、兄と弟の立場が危うくなる。
 ワタシにとっては現人神などどうでもよいことだが、人間達にとって上下関係は大事だ。大人しく俯いている弟のことが気になったけど、ここは兄と当主の機嫌を損なわずにいなければならなかった。

 ――大昔。千年ほど前に、大きな血を生んだ者がいた。

 その者はある夢を抱いた。『神を自らの手で作りたい』という野望を。
 野望のために研究が続けられた。しかしその夢は、人間一人では成し得ることはできないもの。一人で成すには知恵が足りなかった。
 神を創る研究は、人のたった五十年分の知恵では到底辿り着けない領域だった。

 それでもどうにか神を創る知恵を集めていきたい。
 魔術師は考えに考えた結果、一人の脳では収めきれない知識を『血に蓄える』ことで問題を解決した。
 一人の知恵では限界がある。だから二人目に自分の知恵を譲り、引き継いでいく。
 Aの脳にある知恵を子であるBに移植し、Aの知恵を持ったBをその子であるCに移植する。
 これを繰り返していくことで、一人の人間だけでは到底辿り着けぬ『膨大な量の知恵を手にした人間』を創っていく。
 AからBへ、BからCへと引き継いでいった人物、それが『当主』だ。その『知恵の移植先』となる人物のことを指している。
 最も知恵を多く受け継ぐ者なので、当主は一族で『神に最も近い者』として考えられていた。寧ろ、その存在こそ『神そのもの』と考えている人間もいる。

 では次に、皆に驚かれている『ワタシ』とは一体何という話をしよう。
 ワタシは人間ではない。白い体毛で覆われ、四本足で歩く獣だ。
 一応、外見は『雪のような白い毛並みを持った狼』がという形をしているので、縮めて『雪狼(せつろう)』と称されている。
 実際はそういう生き物なのかと言えば、答えられず首を傾げてしまう。そりゃそうだ、「自分って何?」という質問は困るものじゃないか。
 敢えて答えるならば、『神に到達する最中に生まれた、血の産物』とでも言おう。
 他の生き物と違って『世界の産物』ではない。人間達のように『世界を操る神の産物』ではない。『この一族の産物』だ。世界が産み出す狼やら犬やらの部類には入らない。
 神が生み出す生き物とは違い、人ではありえない知恵を持った当主という神が生み出した……仏田一族が生み出した命。
 一族が知恵を集めて出来た物体、それがワタシ。
 ワタシは仏田に創られたのだから、現人神である当主に仕えるべきものなんだろう。当主ほどの力の持ち主でなければ使役することもできない。だがワタシは、訳あって現当主・光緑ではなく隣の少年をマスターとして『契約』を交わした。
 理由は……まあ、どうでもいいこと。ワタシは気まぐれだったのだ。だから機械的で面白くない光緑より、大勢の魔術師達に囲まれて怯える少年の味方をしたくなった。そういうことにしておこう。
 ワタシがウトウトし始めた頃、ようやく当主は自分を認めてほしいと捲し立てようとする兄の言葉を止め、喋り出す。

「――その力、認めよう。しかし今一度問うが、己こそが神であるとは考えておらぬな?」
「無論。オレ達は仏田に仕える者です。当主様の手足となり、この血に尽くすと誓いましょう」
「宜しい。ならば我に仕え。魂の代行人よ。英知供饌の大役、其方に託そう、ブリジット」

 ――現当主・光緑様に認められた兄・ブリジットは、感謝の言葉を述べる。
 隣にいる彼の双子の弟は、表情を沈んだものにしたまま、黙っているだけだ。何かを考えている顔をしているが、何も言わないのが弟らしい。

 彼らは知恵を集める。知恵というのは『魂』のこと。身体という殻に最低一つは入っている『命の情報』、それが魂だ。
 知恵を求める一族は、魂を求めるということになる。
 救済されない魂が彷徨っていたとしたら。救済したときに、魂を無事回収できたなら。救済した者が手に入れる『報酬』になる。
 彷徨える魂を助けたお礼に貰えるのが、魂ということだ。お礼だなんて我々の身勝手な考え方かもしれないが、彷徨える魂を救うということは一つ分の知恵を頂けるということに等しい。

 先程述べたことを返すならば、この一族は知恵を求めている。魂を集めれば自分らの目的が手っ取り早くこなせるのだ。
 仏田一族は表の顔では、退魔師として魂の救済を受け持ってきた。救済するついでに魂を、知恵を頂いている。困っている人を助けたことで社会的な報酬が手に入り、懐も暖かくなる。尚且つ、本来の目的である知恵集めも達成する。
 人を助けることは己の道を突き進むこと。そうやって千年間、この一族は栄えてきたのだ。よくもまぁ、続いたものだ。
 永遠に彷徨う魂が消えることはない世界だから、この構図は続いている。
 終点があると信じて、この一族は求め続ける。――神の座を。
 この家が滅亡するそのときまで。

 ……滅亡。そうなってしまうのはワタシとしては頂けない。
 如何なる事でも破滅は悲しいものだ。
 求め続けるその姿勢が、美しい。一生終わらないマラソンを走ることが、この家の幸福。
 なんて、そんなことを絶対口にしてはならない。
 と言ってもワタシは所詮、犬の形。口にすることなどない。獣の姿をしているワタシと意思が疎通できる人間は限られているからだ。



 ――2005年4月2日

 【     /     /Third/     /     】




 /9

「見てみろよ、ブリュッケ。あそこに漂っているカレシ、スッゴイいい青色してるじゃないか。神様的にはどうよ、あの霊力?」
『……知りませんよ、問いかける意義が判らない。それより狩るの狩らないの、兄さん』
「狩るさ、狩るに決まってんだろ。言ってみただけさ、ノリが悪いなぁ! あそこの奴らを引っ捕らえてくるのが今日のお仕事なんだからさ!」

 大きなワタシの体に寄りかかりながら、ブリジットはけらけらと笑う。
 ワタシの毛並みと同じ、白い装束に身を包んだ彼は『あの頃』に比べて随分と背丈が大きくなった。けれど年をとってもどうしようもならないことはあるらしい。それは、この人の性格自体だ。
 数年前、子供だから許された自意識過剰な発言。それは不器用だから出てしまった失礼な言葉じゃない。本当に、この人は失礼なだけなんだ。なんでもアッパー思考で、お気楽にしか物事を考えない性格なのが……。
 現に、雪狼の上に乗っかって煎餅を食すとはどういうことか? 白い毛に粉が落ちるだろう? ワタシの上に座るのは兄だけなのに、そこを汚してどうする? なんて文句を言っても聞かないのが、この人の特徴だから仕方ない。
 ブリジットはひょいっと(散らかしたままの)背中から飛び降りると、ワタシの隣に立っていた一人に促した。

「じゃあ、宜しく」

 彼は、彼と全く同じ顔の後ろにまわる。
 顔付き、体付きともに彼とは全く同じ形をしているもう一人の彼は……ブリジットの双子の弟だ。
 双子の弟は、一見すると兄と非常に似ている。違うと言えば、身につけている衣装が黒いということだけ。ふわふわした白い衣を好むのが兄なら、片割れである弟は黒くて固い素材を好んでいる。二人にはそれぐらいの差異しかなかった。
 その弟が前に足を踏み出し、剣を召喚した。服装に似て黒く、紅い剣。どこからともなく現れた凶々しい武器の波動を察し、青い影がこちらを向いた。
 瞬間に駆け出す。青が駆け出したときには、剣を一降り。光の速さで青影は一刀両断されていた。
 二つに裂かれた青を更に斬りつける。霊体に感触は無いが、裂かれていく模様が映し出される。
 斬りつけている最中、彼の周りから青い炎がいくつも現れた。まるで仲間を一匹殺されたことに戸惑い、大人数で襲いかかってくるような。それにも屈せず、黒剣を持った黒騎士は剣を振るった。

「いやあ、爽快だな」

 そう言うブリジットは、何もせず、単にワタシの後ろに立っているだけだった。
 兄は弟と共に彷徨える魂と闘ったりなどしない。彼が何をしたかというと、剣を持つ弟に対して「宜しく」と一言、掛けただけだ。
 本当にそれだけである。この人は、それぐらいのことしかしない人だ。
 心底楽しんで魂の青が殲滅されていくところを見届け、微かにワタシに寄りかかる。それだけで時間を潰す。
 その間にも黒騎士は剣の形を変えつつ、もはや敵ではない多くの青色を潰していった。
 潰していく間の光をいくつ弟は纏ったか。その光には目も向けず、彼は敵視したもののみを追い掛ける。
 弟は戦うための剣を振るっていた。その姿が……ワタシには「彼らしい」と改めて思った。

 ふと逃げ出そうとした青い光があった。
 亡霊は物事をよく考えないものだが、あの光は意思があるものだったか。黒い剣に恐怖を抱いた青は、逃げ出そうと光を薄める。
 青の炎が見えなくなる瞬間、先に黒い剣は紅く燃え、包み込むように青を隠し切り裂かれた。
 霊は見窄らしく断末魔の叫びを挙げる。時間はたった数分。その間に乱れた空気は直り、青は見えなくなった。聞こえぬ叫び声も、聞こえなくなった。
 全てがいなくなったときには、弟の剣は消えていた。変幻自在な武器を時空の彼方――ウズマキにしまい込み、戻ってくる。

 全てが終わり、弟は魂を回収し終えていた。
 一族のどの者も、仕事が終わった後は忘れず狩った魂を回収することが義務付けられている。というより、それを行うことが一族の仕事だった。人様に迷惑をかける異端を狩ることが仕事ではない。自分達の餌である魂を狩ることが『仕事』なのだ。
 この世の在らぬ侵入者が消え去った後、ブリジットが弟に向けて声を掛けようとしたそのとき。拍手が聞こえた。
 その拍手は兄のものではない。もちろんワタシの肉球のついた手では拍手などできない。
 突如現れた『もう一人』別の人物が、弟を賞賛していた。
 もう異端はいなくなったと判断して、ブリジットは拍手の主を探す。ブリジットが振り向けば、案外簡単にその人を見つけた。
 金髪に、礼装を身に纏った男が。
 姿を視認して、ブリジットの目は一瞬感情が無くなる。だが、直ぐに元に戻る。
 彼は敵ではない、仲間だ。仏田一族の一員だ。けど、ブリジットにとっては嫌な奴だった。

「ルージィル」

 忌々しげに彼の名前を吐く。

「いやはや、お見事。何度見ても凄まじい剣さばきですね。弟の放つその剣劇は相変わらず美しいものです」
「…………ありがとうございます」

 優男は称賛を贈る。その言葉に弟は、無難に頭を下げる。でも弟は褒められても嬉しがることはしなかった。かと言って兄のように露骨に嫌な顔をすることもない。
 弟自身は現れた金髪の男に対しては何も感情を抱いていなかった。単に彼が同類で血縁者ということだけを認知している。無下に扱うのは気が引けるので、当たり障りの無く返事をしているだけ。すぐに弟は下げた頭を戻す。
 そんな弟と金髪の男の間にブリジットが入り込んで、大袈裟に手を振りながら会話を中断させる。

「おう、如何なした、ルージィルさん? 同じ場所に留まっているとはまさか、オレ達の獲物を横取にでも来たとか?」
「いえまさか。私のお仕事場所もここから近かったものですから、せっかくですし貴方達兄弟のお仕事ぶりを拝見していこうと思っただけです。私の任務もここからほんの十キロの所で仕事をしていたのですよ。きっと貴方達二人だけでは手に負えないから私も呼ばれたんでしょうね」
「ほう、十キロ先、そりゃそりゃ大層ご近所さんだ。……で、見たご感想は?」
「ご忠告しましょう」

 物腰柔らかな声で、ルージィルは指を一本立てた。
 指差したのは、先程まで剣を持っていた手、つまりは弟に対してである。
 そのときには、もうルージィルの姿は着々と薄れていた。たった数秒の再会、そして別れである。

「弟。其の剣は、少々異端の力が強すぎる。……優秀すぎる故に」
「…………」
「ただでさえ貴方達兄弟は異端種を従えているのです。貴方の強すぎる魔力は美味しすぎて、周りに在らぬモノが近寄ってきてしまうのですよ。どうか強襲されぬよう、お気を付けを」
「んなこと知ってるやい。こちらと何年この体と付き合ってると思うんだ、オマエと同じぐらいはお世話になってんだよ」
「判っているなら制御した方がいいと、弟様にも忠告してやって下さいませ、お兄様。彼は、自覚していなかったようですよ?」

 ほんの数秒の忠告を言い終わる前に、ルージィルはもうそこから離れていた。
 微かに残るルージィルの気配を、ブリジットはひらひらと手で追い払う。ハッキリ言って、兄はあの者を毛嫌いしているようだった。以前「アイツの声は聞いていて痒くなる」と言っていたのを聞いた気がする。
 それはともかく、ワタシは話題にされていた弟の方を向いた。忠告されていたのが自分だというのだ、どんな表情をしているだろう……と見てみた彼の顔は、予想以上のものだった。
 弟は、驚いていた。そんなことがあったのか、と今知った新事実というぐらいのものだ。
 高い霊力の周りに霊力が集まってくるのは、よくある話。だというのに。てっきりそのことを知ってると思ったら、どうやら弟は今まで知らなかったらしい。そんなことも判らなかったのか。私の意見は、ブリジットも同じようだった。

「オマエさ、バカデカイ技を使えばみんな寄って来るってことぐらい判ってただろ? その体と何年いっしょにやってるんだよ?」
「……兄さんと、同じぐらいは」
「ぐらいじゃないだろ。オレとまるっきり同じだ、双子なんだから当たり前だろ、バカ。……ホントに、何でもイチイチ説明してやらないと頭に入らないんだな。頭弱すぎるだろ。それぐらいさっさと判れよ。自分の特徴を判っていれば、それだけ作戦練りやすいじゃんか」

 それでも任せっきりで何もしないのはどうなんだ、とワタシは兄に向かって呟いた。小さくもない声で。
 そんなワタシの圧力にもおどけて笑うのみ。本当に兄は良い性格をしている。
 一方、頼りない兄に忠告された同じ顔は、口を噤んでいた。
 彼にも彼なりのスタイルがあり、自尊心はある。通りすがりの親戚と、兄から同時に責められた。でも弟はそれぐらいで反抗するような人間ではなかった。
 弟は、忠告されるたびに伸びるタイプだ。いや、忠告されない限り伸びないタイプと言える。
 だから兄は弟を叱る。心無い言葉で。

「ったく、このグズ。いいかげん成長しやがれ」
「…………」

 影から堂々と彼らを見ているワタシは、そう認識している。
 だから、兄に注意される弟を庇ってやれる気にはなれなかった。

 ――さっきのルージィルという男の説明だが。彼も仏田一族の一員として魂の回収を命じられた人物だった。ブリジット達の同僚と言える。も
 しかし、ブリジット自身はお互いが似ていることを認めようとはしていない。本家でなくても仏田の使命を果たし、日本人離れした顔をしていることから……自分に似ていることに居心地の悪さを感じているようだった。同属嫌悪というものだ。
 ワタシに言わせてもらえば、魔力の濃さも種類も二人は全然違うから別物にしか見えないが、色々被るところが気にくわないらしい。そんなことを考えているのは兄だけだ。彼が一人で勝手にコンプレックスを抱き、敵視しているだけだった。

 さて。先程の青い光の霊を滅し魂を回収し終えた兄弟は、仏田寺に戻ってきた。
 日本のとある山奥に建てられた神殿に兄弟は帰ってくる。各地で収集してきたものを『お供え』するためだった。
 これは兄弟だけがしているものではない。あのルージィルもしているし、一族の能力者であれば殆どの人間が行なっている。
 霊を、魂を集めて寺へ持ち帰る。持ち帰ったものを一箇所に溜め、大きな魂を創り上げる。いつか来る大事なそのときのために。
 少し肌寒い季節、寺を訪れた兄はいつもより膨れた頬のまま神殿に上がり込もうとした。
 しかし、その前に現れた大男に止められた。土足は勘弁してくれと笑って兄を止めたのは、住職補佐の松山(まつやま)だった。
 彼はその役職名の通り、『住職を補佐する者』である。住職ということで、この寺の顔ともいえる人物だ。
 というのも……裏稼業だけでは現代では暮らしていけない。ごく普通の寺としての社会的役割を担う表の顔を、この男・松山が受け持っている。
 ワタシは皆がブーツを整え終えるまで待ち、彼と共に本殿に向かおうとした。

「あっ、ブリッドは来ないでいい」

 そう、兄に言われるまでは、揃って本殿に向かおうとしていた。
 振り返るなり言った、脱ぎっぱなしの男。さらりと言い放った言葉に、弟は少し固まった。

「…………理由は?」
「オレが当主に会ってくればいいだけの話。別に全員揃って魂を渡しに行かなくてもいいんだしさ。オレだけがちょちょいと行ってくるから、オマエらどっかに行ってればいいんじゃない? ちょっと当主様と話してくるだけださし。それでもオマエ、来る?」

 別に全員揃って魂を渡しに行ってもいいんじゃないか、と思うのだが。
 自己中心的なところが、兄がどんなに日本語を巧くなってもカバーできない性格だった。その態度に思わず、ワタシは鳴きたくなった。文句の一つぐらい言い放っても構わないだろう? なのに……。

「……そうか。じゃあ、兄さんだけ……行ってきて……」

 弟はあっさりそれを承諾し、別の廊下を歩き出したのだった。
 淡々としているというか、諦めが早いというか。少々無機質な印象があった。
 反対側が濃厚であるからちょうどいいのかもしれない。この双子はバランスが保たれている。一見顔は同じだが中身は正反対にできていた。

 兄は白いひらひらした装束を翻して、奥へと歩き出す。
 木の廊下を足音を立てて歩く兄を見て、別方向に静かに去っていく弟を見て……結局ワタシは、白い方についていくことにした。
 特に意味はない。敢えて言うなら、弟の方を一人にした方が良いと思ったからだ。
 ルージィルに叱咤され、兄に文句を吐かれた。もしかしたら一人で落ち込みたいのかもしれない。そして逆を言えば、兄を一人にしない方が良い。
 さて。兄がやって来たのは本殿の中央地、当主がいる場所。かと思いきや、住職補佐の松山が「そちらではない」と兄を呼ぶ。「今日は仏像の前にはいないぞ」と松山は言うと、本殿の中でも生活味のある方向へと進み出した。
 仏田寺の本殿は広い。像の前で祈る場所もあれば、普段我らが仕事を受ける場所もある。そして人が休めるスペースも。
 ある場所まで歩くと、兄は物凄く嫌な顔をした。松山が向かう先に先客がいたのだ。
 金髪で、長身、細い目の美しい者が。
 兄は今にも唾吐きそうだったが静かに留めていた。

「どうせなら二人いっぺんに接待した方がいいってことでなぁ。ルージィルくんに待っていてもらったんだ」

 丁寧に松山は説明する。待っててもらってすまんなぁ、という大男に、かまいませんよ、と優男は柔らかく返した。
 兄の機嫌の悪さは、ワタシによく伝わっていた。
 ワタシと兄弟は、『一部』が繋がっている。一族の神の産物である雪狼とブリジットは『契約』を結んでいるからだ。意思の疎通も言語を挟まずとも出来るし、兄弟が嬉しいときはワタシも大抵嬉しい。
 だから、兄が彼……金髪の男・ルージィルを見て嫌な感情を持ったのが、ワタシにも伝わってきた。別にワタシはこの人が嫌いな訳でもないんだが。
 何か二人が言い争う……前に、松山は大声を上げる。

「という訳だ、…………なあ!」

 誰に? 障子の先に対してだ。なかなか豪快な呼びかけである。

「お客人が二人いるぞ、入っていいかー! 光緑ー!」

 他の女中や陣営であれば膝をついて入室の許可を得るだろうに。しかも入っていいかと言った時には、彼は障子を開けていた。

 ――途端、妙な香の匂いが鼻についた。

 ワタシは思わず下品な声を上げる。ワタシの鼻は、兄や人間達に比べて過敏に反応する。だから、ぎゃんっ、と低い唸り声を上げてしまった。
 開けた本人の松山も、ブリジットとルージィルもその匂いには反応を示さない。勿論特殊な匂いだというのは知覚しているだろうが、ワタシほど嫌がりはしなかった。
 一方でワタシの毛が、勝手に重力に逆らい出す。どう受け取ったって、心地良くはならなかった。
 真っ先に感じたのは匂いだが、部屋自体もおかしいと言える。騒々しく開けた松山が、予想せず、息を呑んだ。

 そこは、昼間なのに薄暗い室内。障子を閉めきって、なるべく光が入らないようにしているかのような部屋。
 中に居たのは数人。そして、当主が居た。あまり見られない格好の当主がいる。

 ――ああ、確かにあまり見られない当主がいた。
 普段は拘束具のように固そうな和服を着込み、厳格な目つきと背筋を伸ばした姿勢を保っている。一族を束ねるに相応しいとも言える男性だ。
 初めて、無理矢理兄に会わされたあの神殿から、そう印象を持っていた。
 だというのに、今の当主はその形も無い。

 ワタシは、思わず目を背けた。
 逆に、兄は注視している。その室内でのことを。

 室内には目当ての当主の他に数人、薬師らしい人間がいた。
 その中の一人、女性が立ち上がり、松山が勝手に開けた障子の方にやって来た。白髪の長い髪を結んだ老女だ。身につけている衣装から、非常に位が高いことが判る。

「松山殿、少々お手が荒いですね。いくら其方と光緑様の仲といえどここは神殿、心得るべき立場があるのでは?」
「も、申し訳ございません、清子(きよこ)様。まさか、このお時間に貴方がここに居らっしゃられるとは思わなかったので……」

 松山は、頭三つ分は小さい老女に頭を下げる。しかし、『奥』の方が気になって、直ぐに頭を上げていた。
 狭く暗い室内に、一人の男性が壁に寄りかかり、だらしなく座っている。
 少し乱れた着衣に、半開きの口と目。意識がここにないのは、すぐに判った。

 ――それが、兄が昔、神と崇めた当主の姿だった。

 当主は、開かれた先にいた者達に気付かない。目を開いているのに、目覚めてはいないようだった。
 それでも、兄とルージィルは姿勢を正した。畏まらなければならぬ相手は目の前に居るこの女性だと、初めて出会った者でも察せたからだ。

「わたくしがいなければ良いということではないでしょう? 寺を管理する者が規律の乱れを起こすなど。身を弁えなさい、うつけよ」

 住職は老女の低い声に叱られ、再度、大の大人である松山は頭を下げた。
 老女は住職補佐の後ろの兄らを見ると、細い目になる。なんだかキッとこちらを睨まれたような気もした。いや、実際睨んでいる。

 ……ああ、そうだった。当主は、国外の血も寛容的に認めてくれている。だが、上の代になると外人嫌いが多い。目の敵にしてくる者もいるんだ。
 この老女は、まさにその一人だった。きっと彼女は「外の穢れた血を引いているから嫌う」という人間なのだ。
 現在の神の現当主は我らを許しているのだから怯む必要はない。それでも一応、ワタシは体を伏せていた。

「おうや、異人の皆様が来てくれたのですね。わざわざ魂を持ってきてくれたとは、有り難く頂きましょうか」
「はっ、こちらです」

 慎みながらルージィルは右腕を差し出すと、そこから光を解放した。
 ルージィルの腕に刻印があり、そこが収容スペースになっているらしい。老女の目がまだ友好的であるうちにと兄も魂を解放する。
 青いものは渦巻き、一つの欠片となった。

「ほうら、お坊ちゃん、また来たよ。今日は何度も頂けるだなんて、お腹が一杯になるねえ」

 光を操る老女の手が、ふわりと当主の前に舞い降りた。
 彼女はまるで握手をするかのように、当主の前へと手を差し出す。差し出された本人は、何も反応しない。
 と思いきや、目が機械のようにギョロリと向いて、彼女の皺付きの手に顔を寄せる。
 ギョロリ――本当に、擬音がギョロリ、だ。人間の眼とは思えない動き方をする。

 老女は指で、光のやわい小石の大きさの魂をつつく。すると、当主の力無い体に吸い込まれていった。こうして脳へ届いていくのだと、ワタシには『当主という器』に『魂が移動していく』光景がハッキリと感じ取れた。きっと我らが来る前も同じようなことをしていたのだなと……なんとなく察する。
 ここはいるべきでないと思い、兄に出ていくよう伝えようと、彼を見てみる。すると、ブリジットは、なんとも言えない顔をしていた。
 キラキラと、目を輝かせていたのだ。
 ……思わず溜息が出てしまう。

「何をぼうっとしているのです。用が済んだのであれば、さっさと早う出て行きなさい。松山殿もなんですか。貴方は住職としての仕事があるでしょう。こんな時間にぶらついている余裕がありますか」

 当主に向けていた優しげな声とは一転、女声は鋭い声を放つ。
 ルージィルとブリジットは頭を下げ、廊下を離れていく。
 邪険にされているのが丸判りだ。ワタシも二人に大人しくついて行った。此処に留まる理由が、狼には無かった。

 ……ただ一人。
 住職だけは、老女にどんなに声を荒げられても、その場に留まっていた。
 先程の訴えかけを見ると、住職も「出て行け」と言われた人間の中に含まれているように聞こえたのだが、それでも彼は部屋の中を眺めている。
 目で追っているのは、叱る清瀬の顔か、移植の儀式か。それとも。
 そこまで彼の思惑を読む必要は無かったから、ワタシも廊下を歩き出した。
 暫く行った所で、兄は「ああ」と感嘆の声を上げる。たった一言でも、感動に満ち溢れていることがワタシの中に伝わってきた。
 隣のルージィルは何も言わない。でも、おそらく兄と同じことをしている。満悦している。だって、ルージィルの頬は見るからに赤い。
 ブリジットが感激の声を上げる。

「初めて見た。あれが、無限への可能性」

 兄は胸に手を当て、何度も噛み締めるように声を繰り出す。ひょっとしなくても、先程の薄暗い部屋の光景を何度も再生している。
 兄や隣の彼が集めた魂を、霊魂を、生きていた知恵を体に送り込み、移植し、我が物とする。他者の知恵を自らの器に入れる儀式。それを何千年も繰り返してきた。さぞ当主の体には、今までの当主が集めた多くの知恵が詰まっている。
 それは、『無限大』に到達するために、幾度と重ねてきた儀式。
 全ては万能な全知全能を生み出すために。
 人間浸りの力では到底辿り着けない領域に達するために。
 当主は『あれ』を行い続けてきた。
 それを手助けするのが、一族の血の者。当主の周囲にいる者達。神を創造するために――。

 神の創造のワンシーン。はっきりと見てしまった魔力の流れ。当主の体そのものが魂を収容する器だと知っていても、あの凄まじい霊力は……。
 人間の到達出来ない領域を一族は創っている。……改めて自分達がしている偉業を兄は実感したらしく、とっても嬉しそうにしていた。先程までの嫌な感情はすっかり抜けている。
 ワタシは、居たたまれなくて神殿から消えた。
 兄には隣に同類がいる。あの後も一緒に居たとしても、二人はきっと同じことしか言わない。それでは、ついていてもつまらない。
 二人が喜んでいるのは探求者だからだ。
 何度も言うが、この一族は神への道を研究している。それは人間には到達できないことと言われ、何万何億人もの魔術師が諦めてきたものだった。
 空間や時間を超えた理解など、一人の人間が到達するなんて無理だと言われていた。しかし、魔術を学び、体内を改修することで今、可能にしようとこの一族は意気込んでいる。
 それが我らの使命だと必死に信じ込んで。
 己の手で人間が達することができない領域を創造できると確信し、それが誇りだと何よりも思っている。
 だから兄は数年前、神殿であれだけ張り切っていたのだ。彼には神を求めなければならない理由があった。信念もあり、それなりの過去もあった。神の創造こそが己の役割だと信じることで生きる意味を得た。きっとこれからも信じ、この家に仕えていく。
 この家にいる者達は、半分はそうなのかもしれない。己の血の宿命に誇りを持ち、信じ生き続けていくのかもしれない。
 その生き方を否定する権利など、ワタシには無い。
 けれど、同意する気にはなれなかった。

 先程の『神の姿』が、頭から離れない。
 魂の光を埋め込められていた『彼』。皆の為に在る『彼』の目には……光が無かった。

 ワタシにはあれは神聖な儀式というより、見窄らしいものに見えて仕方なかった。
 住職の松山も、そう思ったのではないか。あの大男も魔術にあーだこーだ言うような男ではなかった。魔力のマの字も理解していなさそうな男だ。だから倒れている当主の姿が、表情なく虚ろな目を泳がせ狂ってしまった異常者にしか見えなくて、悲しい目で部屋の中を見つめていたのでは。
 狂ってしまっているのは術者の方だと思う。
 いや、思うだけだ。だからなんだという訳ではない。
 ワタシはその術者に仕えている。白い兄に仕え、彼によってワタシがある。ワタシが魔術師と神聖な領域へのロマンを語って何になる。虫を嫌う人間もいれば、虫を好く人間もいる。それと同じことだ。
 人間として見なされず器代わりになっている人間が一人ぐらいはいるもんだ、と割り切ればいい。

 ああ、気分が悪くなってきた。ワタシは頭を振るって神殿を離れ、ある庭へと降り立った。
 整えられた石の庭だ。海を模したものだ。神を模したものを創造するだけの家だ、海までも創ってしまえという魂胆か。いいや、流石にそれは考えすぎかもしれない。
 じゃり。ワタシはその海へ降り立った。
 石は綺麗に波を作っている。あまりに綺麗に津波を作っているので、思わずワタシはそこに降り立ってしまった。
 じゃり。波は綺麗に壊れた。
 本物でないから、直ぐに壊れた。壊れたまま、再度押し寄せてくる波のようにはいかない。
 波を見つつも、ワタシはまだあのことについて考えていた。

 ――神に到達出来ぬ人間。神に憧れる兄。神に憧れる集団。神を生む儀式。
 当主は脳に直接魂を叩き込んで知恵を蓄えていく。しかし、人間の器ではどれほどの知恵が入るのだろう?
 無限大ではないことは確かだ。けれど、神は無限大だ。そこに近付けるために、多くの知恵を入れ込んでいく。
 もはや、『自分のデータなど保存しておくだけの容量もないのでは』。そんなものに憧れて兄は何を、――と。

 ざらり。

 考えていると、海に別の波が起きた。ワタシは突如押し寄せた波に驚き、ぎくりとする。
 石の波だからずっと動かないままだと思っていた。ワタシが動かない限り、もう止まった世界だと思っていた。
 波の音がする方へと顔を向ける。
 そこには、赤毛の男が立っていた。

『…………』

 男は、ワタシに見つめられて動きを止める。
 それ以後、波が立つことはなくなった。ワタシに見つめられて波が止んだなら、と逆方向を向いてみる。
 ざらり。波が立った。

 ……ああ。あれだ、『だるまさんがころんだ』。
 ワタシがもう一度彼の方を向くと、男は動きを止める。じっと見ると、じっと動かなくなる。まさにあれだ。彼の顔だけでなく違う場所も見つめてみた。
 固まった表情に、燃えるような赤毛、前に出された手は何かを掴もうとしている。
 何を? ……ワタシの毛、を。
 ワタシに触ろうとして近寄ったが気付かれて、これからどうしようと考えているのだろう。表情を固めたまま、動かない。

 ふと、その表情にデジャブが起きた。
 無表情で必死に何かを考えようとしているこの姿は……体格も良く、東洋人でない顔つきも……真っ赤の髪も太い眉も、外見的にはまったく似てないのに、何故かワタシは『弟に似ている』と感じてしまった。
 いや、弟に似ている人物なら他にいる。双子の兄が。なのに、それよりも先に出てくるだなんて。

「触ってもいいかな」

 ワタシが数分見つめていると固まった男は、語りかけてきた。言語は英語だった。
 それにしても何に対して言ってる? 一体誰に? それは、他ならぬワタシに言ってる言葉なのか。
 おかしな男だ。ワタシに向かって話し掛けて、一体何を期待している? 狼のワタシは、彼に対し「イエス」とも「ノー」とも言えないのに。
 仕方なく、ワタシは「触ってもいいぞ」という感情を込めて、鳴いた。
 わんと一鳴きすると、男の腕がおそるおそるだが伸びてくる。手が軽く毛を撫でると、何往復かさすり始めた。
 暫く胴体をさっさと撫で、感触を楽しむ。
 今度はワタシの顔を見て、撫で始めた。いつの間にか必死に撫で始めた。
 ワタシは鳴く。すると彼は笑う。

「お前、何て名前だ?」

 ……そのとき、正直にこう思った。
 ああ、このひと、本当に頭が悪いんだ、と。
 蔑むつもりはなかった。けれど、あまりに馬鹿らしくて笑う気にもなれなかった。

 廊下の一件と同じだ。あの時も感動するブリジットとルージィルの二人を見て、あまりに馬鹿らしくて笑う気にもなれないのと同じ。
 人間と神は同じ直線の上で交わらないもの同士だというのに、一緒くたにするなんて人間というものは……。
 それと同じレベルで、犬を必死に撫でて笑うなんて阿呆のやることに、ワタシは言葉を失った。
 ……この人に対して、妙な感情を抱く。
 ワタシは人の名前は覚えないが、この人のことだったら覚えておいてもいいかもしれないと思った。と言っても、ワタシの口から彼の名を求めることはできないのだが。

「……あの……。ブリュッケ……?」

 さて、タイミング良く聞き覚えのある声がワタシを呼んだ。
 ワタシは撫でまくる手を放り出し、声のした方へ歩き出す。同時に、撫でていた彼も立ち上がった。
 名前を呼ばれた声には、二人ほど心当たりがあった。どっちだろうと思いながら寄っていくと、黒い服を着ていたので弟であることが判った。

『何故、こんな所に……一人で……?』

 そう、問いかけてくる目が無意識内で判る。

『兄さんがあんまりだったからだよ』

 ワタシは答えると、ブリッドは瞬時に理解したような目をした。双子の兄のことなど彼は手に取るように判るのだろう。

「君の犬か?」
「……えっ? ……あ、はい。……犬じゃないんですけど……」

 先程ワタシを撫でていた赤毛の男が、弟に話し掛けてきた。
 傍から見たら弟は、動物と見つめ合って何かを納得した変な人である。
 声を掛けられて、あまり話上手でない弟の声がどもる。弟は……人見知りの物凄く激しい性格だった。

『小さな声で弁解するな。ワタシが犬じゃないのは事実なんだから、ハッキリ違うと述べてくれ』
「あ……ああ……」
「昔から私は犬を飼いたがっていた」
「…………え? は、い……?」
「動物を飼いたいと妹が話していてな。馬を嗜みとして覚えたから今でも付き合っている。仲の良い奴だぞ。しかし、屋敷の中で飼えるようなペットは許してくれなくてな」
「…………はあ」
「病弱な妹の体調を考えると、室内で動物を飼うのは無理だと言われた。だから犬を飼おうと約束をした」
「………………はぁ」
「やはり良いな、犬は。ふわふわしていて、良い」

 怒涛の勢いで話しまくる男。
 なんとも幸せそうに、赤毛の男はこちらを見た。先程の感触を噛み締めるなんて、気持ち悪いことをしながら。
 まあ、兄もさっき廊下で変な感情を高めていたし、それに比べたら可愛いものだけど。
 しかしなんでこの男、そんなに幸せそうに話すんだ。それは弟も思ったらしく、不思議そうな顔をして男の窺ってみる。

「ん? 何か私の顔に付いているか?」
「あ、いえ……。そういうことでは、ないのですが……。そんなに動物が好きなら、もっと撫でてあげてください……」

 その言葉に、思わず反論の雄叫びぐらい上げたかった。
 けれど相手は、「ありがたく」と堅苦しく頭を撫でてくるも敵意の無い人間だ。仕方なく許すことにした。
 でも……この人は不器用な撫で方ではあるが下手じゃない。撫でられて不快ではない。常にがしゃがしゃしてくるブリジットに比べたら全然だ。……心地良いと思える。

「確か犬は『顎の下を撫でるのが良い』のだろう? 今まで実践する機会が無かったが、本を読んでいたときにそのような記述があった」
「……はあ……」
「耳の下を撫でるのも良かったか? そういえばこの子は首輪が無いが……放し飼いか。繋いでいなくても大人しくしているなんて教育が行き届いている」
「……そう、なんですか……」
「それにしても大きな犬だな。大型犬は大らかで大人しいとこれもまた本に書かれていた」
「………………」
「目も優しいし、私のような無礼者にも声を上げない。大人だな。この子の名はなんと? 教えてはくれないか?」
「は、はい。ブリュッケです……すみません」
「すみません? 何か違ったことを言ったか、君の犬ではないとでも?」
「あ、いや、違います。……オレといっしょにはいますが、厳密に言うと兄さんのというか……」
「ん、君には兄がいるのか。しかし『兄が飼っている』ということは、弟の君もこの子を飼っているとは言わないのか? ペットとは一家で飼うものなのではないのか?」
「あ……。そうとも……言いますよね、すみません……。よく判らないんですがこの子、ホントはペットとも違うし……」
「ペットでない? そうだ、先程も犬ではないとも言ったな? 狼と……ん? 狼は飼育できるのか? 確かに犬科ではあるが、そもそもこんな……。二メートルも大きな狼なんて見たことがないのだが」
「に、二メートルでも……狼は狼なんです……多分。すみません、言葉が足りなくて……その、普段……喋るのは……オレの仕事じゃないので、その……」
『多分じゃない、ワタシは狼だ』
「あ……ごめん…………じゃなくて、すみません」

 ワタシは有り得ない狼の形ではあるけど、もうずっと一緒に暮らしているのだから、自信持って説明するぐらいしてほしい。
 それにしても。いつも座っている弟の目が、あわわわわと焦っている。
 ……なんだか面白かった。

「仕事? どういう意味だ。喋る仕事は接客業など多々あるが、先程言ったのはそういう意味ではないだろう?」
「え? ……あ、ごめんなさい。……兄が……いつもは喋りますから……だから、その言葉通りの意味です……」
「詳しく説明してもらえるか?」
「………………」

 ……今し方。『この人は弟に似ている』と、思った。
 前言撤回。兄とも違った意味でそっくりだ。
 自己中心的で話し囃す。そして、理解が遅い。兄とも似ていて、弟とも似ているなんて……最悪だ。
 双子の悪い面を残して合体させたら、きっとこの男が出来上がる。……最悪の合体だ。

「その……。オレには……どうやってお話したらいいか……判らないってことです」
「それを仕事と言うのか?」
「…………話せないのは確かで……オレは、剣を握る者ですから……」

 赤毛の男は、ワタシを撫でる手を止めていた。
 今の興味の対象は毛皮を纏ったワタシではなく、妙に話辛い弟の方に向いている。
 身を振るった。毛をわしゃわしゃ掻き乱されて、さっきから痒かったのだ。行儀良く着地をして、滅多に話そうとしない弟の言葉を待ってみる。

「……オレは、魔力が高くて……。兄さんも同じ才能が無くはないけど……兄さんは口の方が達者なんで……そっちばかり、磨いてました……」
「ふむ」
「兄さんは……人と話すだけでなく、多くのモノと話し、手懐け、我がモノとする……口が優れてるってことなんですけど……」
「うむ」
「だ……だから、どんな時でも兄さんが、オレの口の代理をしてもらっていたんです……。オレより巧いから、より良い方が……相手も喜ばれますし……それで、普段……喋るのはオレの仕事じゃない……って、言ったんです……」
「よく判らんが相判った。かといって、今はビジネスではない」

 びしりと切り捨てられた。

「…………そう、ですね」

 弟は相槌を打つのも必死だ。
 普段の弟を知らぬ人には判らぬが、弟にしてはよく喋った方だと思う。
 弟の足元に擦り寄った。弟は俯いて、ワタシの頭をぽんぽんと叩き撫でる。そわそわしているのを緩和してやろうと、耳を擦り付けた。

「おかしいとは思わないか? 私と君は喋っている。私は君と話している。それに代理人など必要無い。その説明は意味が無い。兄がいないからというのは、変ではないのか」
「…………」
「言葉は自分の代理だ。より良い話なら相手も喜ばれると君は言ったが、だからといって兄を出してどうなる。そんなことをしていたら、君の言葉を聞けないではないか」
「……それは、そうですね。貴方は、とてもお喋りが……好きそうだから、きっとそう言う……」
「ああ。というより、私は話してないとならん」
「…………え?」
「ずばり、死んでしまうな」

 ――うわ、何言ってんのこの人? 『寂しいと死んでしまう』発言したよ。
 うっかりワタシは耳を逆立ててしまった。尻尾にも元気が無くなっていく。この男に全て吸われてしまったかのようだ。
 あまりのぶっ飛んだ発言に、弟も唖然としている。唖然として、じっと男を眺めてしまっている。

「どうした、そんなに見て。私の顔に何か付いているのか?」
「……い……いえ……」

 わざわざ訊いてくるなんて、どれだけ自分がおかしな人間なのか判っていないようだった。
 けど、それは兄弟にも言える。というより、この一族全てに言えるのかもしれない。自分達がおかしいかどうかなんて。
 ――ふと改めて考えてみると、日本の山奥の寺にいる外国人っていったら何者か、限られるじゃないか。
 そうか、この人も我らと同類だったか。どおりで変人だと思った。思わず弟の後ろに隠れてしまっていたが、もう一度、ワタシも彼を見てみる。
 しっかりとした目だった。どこか、遠いところを追い求めているロマンは……無さそうだった。
 それがとても安心した……が、それよりも「あれはどうだこれはどうだ」と問いかけてくる方に問題はないか? ワタシは重ね重ね、考えた。

「そうだ。まだあの話が終わってなかったな」
「…………はい?」
「狼は、飼えるのか?」
「…………さあ。どうでしょうね、調べてみないと……判りません……」

 ――金髪の探求者と、老女を思い出す。
 理想を追い求めるが故に欠如した者達に比べれば、単なる頭のネジが欠如した者の方がまだ、可愛らしいのかもしれない。
 普段なら、話を拒む弟を助けるところだ。噛み付いて痛がっている間に弟を連れて抜け出すのだが。ワタシは、まだ座ったままだった。
 珍しくどっかに逃げる気にはならなかった。「この後、ブリッドはどうするのだろう」と考えてばかりだ。

「そうだ、自己紹介がまだだったな。私はアクセンと言う。君の名を聞きたい、良いか?」
「…………はあ、名前を聞いても……そんなに面白いものではないですよ……」
「名前に面白さを追求するのか。君は不思議な男だな」
「……申し訳御座いません……ブリッドです。……長々と話した後でご容赦下さるよう、お願い申し上げます……」

 先に、頭を下げる弟・ブリッドについて慮る。
 弟がうまく躓かずいられるのか。兄以外とあんなに喋っている彼を久々に見たから、新鮮で、気になって。ワタシには、つい『二人を追う』しか、選択肢が思い浮かばなかった。
 その方が、神など下らないものを考えるよりもよっぽどいい。




END

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