■ さわれぬ神 憂う世界 「高坂圭吾の生存報告」 ・ 2ページ目
【4章】
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冷たい風が吹き抜ける。
高台の小屋の軒先で、男は静かに手を合わせていた。
冷たくなった幼子の亡骸に、夜通し付き添っていた母が青紫の唇や小さな手をしきりに撫でている。空ろに座り込み、涙も流さなくなっていたとしても。
橘 川越は、都の北東、山間の里に小さな施薬院を構え、人々の病を診る医者である。だがそれは医者と呼ぶにはあまりに脆く、頼りなく、そして報われない生だった。
高熱を伴う発疹、激しい咳と脱力――都や地方で猛威を奮う痘瘡に、彼は幾度も氷水で額を冷やし、煎じ薬を与え、火鉢で部屋を暖め、祈祷すら乞うた。だが、効かなかった。
死は、常に早かった。
まだ医療というものが無い時代だった。時代背景は平安。闇が日常と隣り合い、神と鬼の境が曖昧だった頃。病の進行の方が、薬草の知識よりも、祈りの声よりも、速く、強く、残酷な時代だった。
医師として、苦しむ者の手を何人も握った。
泣き叫ぶ母の腕から取り上げられた赤子の口に、温湯を流し込んだ。戦で片腕を落とした兵士の傷口に焼き鉄を押し当て、悲鳴と共に血を止めた。歯が浮き、膿が溢れ、顔を腫らす農夫に、無理矢理刃を差し込み抜歯を試みた。
時に人々は言った――「先生、貴方が来てくれたおかげで、あの子は少し笑ったよ」「薬草をありがとう。楽になった」「もう、十分です。もう苦しまなくて済むよう、あの子を楽にしてやってください」。
そして最期には皆、逝っていった。
救えた者よりも、救えなかった者のほうが多かった。
人々はこうも言った――「橘先生が何をしても、神の怒りには敵わぬ」「死人の気を吸う医者など、不吉だ」「人の体など、神仏でなければ触れてはならぬ」
それでも川越は、手を止めなかった。
血を吐き、熱で唸る子の額に水を含ませ、ひび割れた手で紙を漉き、薬草を干した。自らの命を削るようにして、ただ人を救いたいと願い続けた。
ある夜、ふと、月を見上げて彼は自問する。
この手は、何を救えているのだろう。もし千年の知恵があれば、この子を救えただろうか。もし神の術を我が身に取り込めたなら、死を越えられるのだろうか。
人は死ぬ。だが、ただ死ぬだけではなかった。
その姿を見て、残された者が痛みを覚える。川越は、その痛みの一端を引き受けようとしたのだ。己を焼き尽くしてでも。
だが夜は深まるばかりだった。救いを望むほど、死の重さが肩にのしかかる。
――人の命に終わりがある限り、私はこの苦しみから逃れられぬ。それならば……いっそ、人ではない方法を。
微かに闇が差した。その始まりは、小さな決意だった。「人を救う」という純粋な信念。それは、時を越えて、やがて人を超える術を求める探究へと変質してゆく。それが魔の系譜の発端となるなど、当時の彼には知る由もなかった。
雪が降る夜の山は、普段通り静かだ。それでも不自然なほどにと言うほど静かだった。
橘 川越は煎じ薬の鍋に蓋を被せ、ふと、襖の向こうの気配に気づいた。誰かがそこに居た。
「どちら様かな」
声を掛けると、まるで風が舞うように襖がすうっと開いた。
現れたのは、夜の帳から抜け出したような女だった。黒く艶やかな髪は腰まで流れ、朱を薄くさした唇は微かに笑っている。袖の長い衣を揺らしながら、彼女はまるで舞うように一歩、川越の前へと近づいてきた。
「医師殿……貴方が、橘 川越様でしょう?」
声は鈴の音のように涼やかで、どこか甘い香がした。川越は身構えることなく、ただ静かに彼女を見つめる。その目には世を憂う者に共通する深い疲れと、それでも消えぬ光が宿っていた。
「貴方様のお名前、遠く都の陰にも聞こえております。死人さえ穏やかにする施薬師。生を見つめ、死に手を伸ばすお方だと」
「名が独り歩きしているだけだ。私はただ……救える命を、救いたいだけ」
女はくす、と微笑んだ。
「では救えぬ命には、興味が無い?」
川越の眉が僅かに動く。女はその反応を楽しむように、畳に膝をつき、彼の前に座った。
「私は幾度となく、死に逝く者の声を聞いてまいりました。飢えた子が母を呼ぶ声。毒に冒された娘が父を恨む言葉。焼けた里で赤子を抱いて灰になった女の瞳。貴方は、そうした終わった命にも手を伸ばしたいとは思わないのですか?」
川越は静かに答える。
「思うとも。何度も、何度も。だがそれは、叶わぬことだ。人の力では」
「人の力では、ね」
女は再び微笑んだが、今度のそれは、何かを見透かすような深みを帯びていた。
「ならば、人ならぬ力では? 貴方は誰よりも死に近い。ならば、人ならぬ力を手にすることも容易い筈」
沈黙が落ちる。
「貴様、何者だ」
川越の声に初めて緊張の色が宿る。女はゆるやかに、背後に夜風を孕んだ障子の前で踊った。月が顔を覗かせ、女の影を異様に長く伸ばす。
「私は望みを叶える者。貴方のような優しすぎる人間が堕ちる音を、いつも傍で聞いてきた。橘 川越、貴方には素質があるわ。神仏には見放されても、こちら側なら、手を差し伸べてくれる」
「名は」
川越が問うと、女はゆっくりと答えた。
「魔鏡と申します。どうぞ、先生。力を求める貴方は私に相応しい。ですから……私はずっと貴方といっしょに」
魔鏡に手に伸ばさず、ただ見続ける。瞳には、消せぬ迷いと燃えるような願いが混ざっていた。
日々の診療と、日々の囁き。淡々と、しかしじわじわと人間の価値観を蝕むような、魔の誘惑。
ある日の朝、空気は澄んで山の香りが漂っていた。施薬院の囲炉裏では薬湯の鍋がごぼごぼと音を立てていた。
「西の里の娘が熱を出したという。薬草を摘みに行ってくる」
橘川越は、包みを布にくるみながら言った。その背中に、ひらりと女の袖が絡む。
「そんなに毎日毎日病人のもとばかりに通って、飽きないの?」
振り返らなくても、誰の声かは分かる。淡く香を纏った女、魔鏡。人の姿をしてはいるが、その本質は川越も知っている。彼女は人ではない。
「飽きるも飽きぬもない。あの者たちが苦しんでいる限り、私は医者として在るのみだ」
魔鏡はふうんと息を零しながらニコリと笑う。美しいが、そこに暖かみは一切無かった。
「だったらどうしてそんなに、毎夜悪夢を見るの?」
川越の手が止まる。
「昨夜も唸っていたわ。間に合わなんだ、死なせてしまったって……ねえ、そんなに自分を責めて楽しいの?」
「人の命を預かるとは、そういうことだ。私が望んで歩んだ道だ」
魔鏡は床に膝をつき、彼の裾を優しく指でなぞる。
「それが間違った道だったとしたら? 人を救うなんて、そもそも思い上がりだったとしたら? 貴方はいくら治しても、人はまた病み、死ぬのよ。永遠になんて生きられない」
「だからこそ、私は……少しでも、その死を先送りにする手を探している」
「なら、もっと貴方に手を増やす方法、教えてあげましょうか? 私流の智慧の蓄え方、教えてさしあげますよ」
女は囁くように、唇を彼の耳に寄せた。瞬間、川越の心臓が僅かに脈を乱す。見逃さぬように魔鏡は微笑んだ。冗談よと言って立ち上がる女の指先があった。
「今日も夕餉は用意しておくわ。煎じ薬に混ぜておいた例の粉、あれも飲んでね? 最近、よく眠れてないみたいだもの。ねえ信じて。私は、貴方を壊したいわけじゃない。むしろ……救ってあげたいの」
だって私も救ってもらいたいから。
謎めいた言葉に、川越は返事をしなかった。足音も立てずに施薬院を出てゆく。戸が閉まり、室内が再び静寂に包まれる。女は薬湯を見つめながら小さく笑った。
ある日、まるで捨てられた野良猫のような娘を魔鏡は拾ってきた。
雪国では生きていけない軽装で、長い髪をぼさぼさにして血の滲む足で立ち尽くしていた娘に、「拾ってきたわ。可哀想だから」と魔鏡はまるでお気に入りの花でも見つけたかのように楽しげに言った。
「寺の裏の谷に立っていたの。身寄りも無いらしい。名前はね、憲子って言うの」
憲子。小さく、か細い声でそう名乗った娘は、始めは川越の顔を見ようとしなかった。自分を拾ってくれた女の方にしか心を開かず、魔鏡の手が彼女に触れるたび、息を吹き返したように身を揺らした。
「ねえ、憲子。今日からここに住んでいいのよ。大丈夫、川越はいいと言うから。誰ももう貴女をいらないとは言わないわ」
悪魔の言葉に毒も炎も無かった。ただ驚くほどに優しかった。
戸惑う川越の目の前で、魔鏡は布を取り出して憲子の足を拭ってやる。傷口を舐めるように撫でながら、優しく囁く。
「貴女はきっと私に会いにここに来たの。そう思って、強く生きるといいわ」
夜、囲炉裏を囲んで川越と憲子は食事を取った。
魔鏡は異端であり、主食は人間だ。だが川越の目の色が黒いうちは決して人間を食べさせることはない。常に警戒し、忠告し続けるせいか、川越が見ているところで人間を餌として食らうことはしない。
だから食卓には川越と憲子の食事しかない。川越はいつものように苦味のある薬膳を作り、それに魔鏡が花弁の飾りを添えた。憲子はまだ笑わなかったが、口元に一瞬、小さな陰りのような笑みが浮かべる。
それを見たとき、川越はふと気づいた。
女――魔鏡の手が、どこまでも人と同じ形をしていることに。
「まるで、本当に母のようだな」
呟く言葉に、魔鏡は少し首を傾げて、艶やかに笑った。
「母親の真似くらい悪魔にだってできるわよ? 貴方が喜ぶなら、いくらでもね。どんなことをすればいい?」
「……オレが喜ぶこと? なんだろうな……?」
「あら。……貴方、自分自身のことはオレなんて呼ぶのね? 意外」
二人はふと、自分たちの言葉に立ち止まった。そして微笑む。
以後、川越の住まいには三人で過ごすようになった。どこか家族と呼ぶにはあまりにも歪で、不安定で、しかし心のどこかが安らぐ不思議な形となっていった。
そうして数日、数年が経過する。仄暗い灯のもと、憲子は膝上で湯たんぽを抱えてなら小さな寝息を立てられるほど穏やかになれた。魔鏡は娘の頭を撫で、まるで何百年も人を育ててきたような仕草で、川越に目を向ける。
「案外、悪くないわね」
異端なのにそう呟く。川越は否定できなかった。
娘として迎えられた女を異端を母のように慕い、人を誑かす悪魔である女に、川越までもが一人の家族として愛を抱き始める。
しかしある命が静かに、着実に消えかけていた。
人を喰らわなければ生きられない異端。穏やかで歪な家族は、いずれ終わる。
魔鏡の手は、日に日に冷たくなっていった。
いつも川越や憲子の前では涼しげに笑っていたが、その指は細く、透けるように白くなっていった。
「手が冷たいよ」
憲子がそう言ったとき、魔鏡はすっと唇を曲げて笑った。
「また冬が来たから。悪魔にも、寒さは沁みるのよ」
その言葉に川越は言い返せなかった。彼は知っていた。魔鏡の身体が衰えている理由を。……数年、人の命を喰らっていないからだった。
囲炉裏の前で、彼はぽつりと呟く。
「……すまない。……君に死んでほしくはない。でも、それでも……やはり、人の命を犠牲にすることは、私は……」
魔鏡は首を振った。
「いいのよ、川越。貴方に会えたから……私、初めて、喰らわずに生きてみたい、と思ったの」
「しかしお前は、『弱った自分を救うために私を利用する』、そのために私に近づいたのだろう?」
「いいのよ」
憲子がそっと魔鏡の膝に、頭を乗せる。
「よくないよ。やだよ……死なないで。わたし、いっしょのごはんも、いっしょのお布団も、髪を梳いてくれる手も、全部、大好きなのに……」
かつて、雪原に置いていかれた女は、悪魔に出会い、生まれて初めて誰かに愛されたと感じた。
「私も、貴女を愛しているわ。憲子」
魔鏡は指を伸ばし、憲子の髪をゆっくりと梳いた。かつては艶やかだったその爪も、いまは欠け、痛々しいほどに薄かった。
「川越……私、知っているのよ。貴方、もう気づいているでしょう?」
魔鏡はゆっくりと川越の方へ視線を向ける。
「このまま私が死ねば、貴方は後悔する。だけど……それでも、喰わせないのでしょう? 貴方は自分はそういう人だって、自分で気づいてる」
川越は、声を出せなかった。
目の前の女は異端であり、母であり、愛しい女だった。
医者として、彼女に死を看取らせることは正しい。だが男として、それを望むことなどできる筈がなかった。
魔鏡は笑った。穏やかに。どこまでも母のように。
呼吸は、次第に浅くなっていった。
寝台に横たわる身体はまるで蝋のようで、燃え尽きる寸前の蝋燭の芯のように、命の灯火を微かに灯している。
川越は傍に座り込んでいた。ずっと何日も、何十時間も。答えの出ない問いを、胸の内で繰り返していた。
人を喰らう彼女に餌を与え、生かすべきか。それとも自分の信じてきた『人を救う』道を貫くべきか。
目の前の魔鏡は、もはや悪魔などではなかった。病に倒れた人間のように、ただ静かに死を待つばかりの女だ。救いたい。心の底から思った。
だが人の命を糧に生きるという本質だけは、どうしても赦せない。
魔鏡が薄く目を開き、川越を見た。目には恨みも、嘆きもなかった。ただ愛しげな微笑だけだ。
その静寂を、憲子の叫びが裂いた。
川越が振り向く。あまりにも冷たく、低い唸りだった。女らしいか細い身体の中に異質な熱が満ちている。
「どうして見殺しにするの? 生きて、貴方と一緒にいたいって言ってるのに」
川越は言葉を失った。
「だったら……わたしが喰ってやる。全部。わたしの中で生きてもらうの。わたしのものになって、わたしといっしょに、ずっと、わたしと生きて!」
憧れ、愛、救済、歪んだ渇望。
川越が立ち上がるより早く憲子は魔鏡の腕を取り、肌に歯を立てた。血が滲む。魔鏡の肌が音を立てて裂ける。
「ん……ふふ……あったかい……おいしい、あなたの味……」
涙を流しながら、微笑みながら、彼女は魔鏡を喰らい始めた。
魔鏡は、抵抗しなかった。細い指が、最後に憲子の髪を撫でる。
「憲子、愛しているわ。たとえ私がいなくなっても貴女が生きていくなら」
私はずっと貴方といっしょに。
静かに息を吐いて、彼女は終わる。
川越は絶叫した。駆け寄ったときには、魔鏡の胸はもう二度と上下しなかった。
娘の唇は血で染まっていた。その目が川越を真っ直ぐに見つめる。川越の心は、悲鳴と共に軋んだ。愛していた悪魔は娘の口の中で消え、娘は母を喰らうことで生きようとしている。
「わたしは全てを継いだの。悪魔として。そして、貴方もそうあるべき」
倫理と愛、医師としての誓いと家族としての情、どれもが地獄のように交錯する。愛しき家族が壊れてなお、地獄は続く。
「貴方だって愛してるでしょう!? 彼女のことも、わたしのことも! だったら……一緒に、食べてよ……」
憲子の声は歪んでいたが、泣いていた。血に濡れた口元。涙で濡れた頬。目の奥にはどうしようもない愛だけが宿っている。
川越は膝をつく。歪んだ涙に手足が震える。胃がひっくり返るような吐き気が襲う。だが、それ以上に胸が痛んだ。
魔鏡の亡骸は、美しい。
死してなお、凛としたその姿はまるで深い眠りについているかのよう。
彼女の頬に手を伸ばす。冷たかった。だが、手が離れなかった。
――私は、医者だ。人の命を守ると誓った。
口の中で言葉が崩れる。もう、それすら意味を成さなかった。
――でも、オレは、君たちを愛してしまったんだ。
目の前で憲子が差し出した指先には、魔鏡の一片、愛した女の肉が乗っていた。「食べて」 罪悪感と絶望と愛情の果てで、川越は指先を取り、口へ運んだ。
鉄のような血の味と、温かい涙のような甘さが混ざった、不思議な感覚だけが舌を満たした。咀嚼するたびに、愛しい声が胸の中に響いた気がした。
「愛しているわ」
声が中から響く。記憶の中の声か、それとも憲子を通じた囁きか、判然としない。
だが確かに、肉体の奥で、魔鏡が生きている。
憲子が川越の首に腕を回す。外では春の雪が静かに舞う。その白は、彼らの背徳を静かに包んでいた。
/2
仏田寺は、いつしか病と祈りの場となっていた。
僧衣に白衣を纏い、人々の命に寄り添い続ける男――橘 川越は、四季の移ろいと共に年を重ね、髪は雪のように白く染まっていた。
彼の手は、今も変わらず温かい。病に苦しむ者の額にそっと触れ、熱を計り、痛みを受けとめる。その姿はまさに「救い人」そのものであり、民の間では『仏の医師』とまで呼ばれていた。
だがその胸の奥には、消えぬ炎がある。
罪と愛。幾千の命を救おうとも、二人が喰らった罪だけは、彼自身が赦すことを許さなかった。
そんなある日。山奥にそびえる寺の門前に、ひとりの女が現れた。
若く瑞々しく、春の果実のような香りを纏った女。全てを知っているような微笑を浮かべ、川越を見つめている。
「お久しぶりですね」
その声に、川越の心臓が軋んだ。見覚えのない女だが、その目は、声は、気配は、決して忘れられるものではない。
「……その顔は、憲子、ではないな」
「ええ。人を三人ほど戴きましたので、ちょっと若返ったんです。似合いますか?」
女は艶やかに微笑む。瞳は深い闇の奥に紅い火を灯していた。川越は動けなかった。
「あのヒトを喰ったあの日から、あのヒトの力が使えるようになった。元々、異端でしたの、わたし。だから孤独だった。その傷を癒してくれたあのヒトと同じ力が使えるようになって、わたしはとても幸せ」
「顔は憲子でなくても、君は憲子なんだな」
「その憲子を、貴方は探そうともしなかった。いなくなっても山の上のお寺で他人を見てばっかり。わたしのことを、赦していなかったのですね」
「……赦せるはずがない。だが、それでも……忘れられるはずもなかった」
女――憲子は、静かに川越へ歩み寄る。
動作の一つ一つが、どこか昔の幼さを思わせた。
「わたしね、ずっと探してたの。あの愛した声を、貴方の優しさを、あの夜の味も。ねえ、貴方もでしょう? だから」
「だから?」
「あのヒトを蘇らせましょう! あのヒトが貴方に教えようとしてた秘術を、二人で……いえ、『みんなで、大勢で』探せば絶対に成就できる筈! わたし、また三人でいたい! 何年経っても、何人代わっても忘れられなかった。それだけ愛しているの! 三人の時間を! ……あのヒトを、再び、絶対に呼び寄せましょう!?」
川越の眼差しに、深い痛みが宿った。
姿を消し、姿を変えた彼女は、もはや娘でも、かつての家族でもなかった。だが愛してしまった罪もまた、確かに胸の内にある。
山の寺に風が吹き、娘の願いが反響する。林がざわめき、どこか遠くで鈴の音が……娘を肯定するかのように鳴り始める。
彼は、目を閉じた。同時に心も。
そうして開いた口の先に、姿を変えた憲子は、瞳を細めて微笑む。その微笑はどこか母に似ていて、また女らしく、男の体へすり寄った。
仏田寺の堂宇は年を経るごとに石のような重厚さを増し、静謐の中に狂気を孕み始めていた。
そこはもはや単なる病と祈りの場ではなかった。血と契約、呪と法具、禁断の知識が脈打つ魔術結社の心臓へと変貌を遂げていた。
中心に立つのは、憲子。かつて魔鏡と呼ばれた悪魔の血肉を継ぎ、今やその再来たるべく暗躍する女となった。
「この国の支えるのは優しさや癒しではではないの。圧倒的な強さ、大量の智慧よ。忘れられた神を蘇らせるためには、千年を超える力が要る」
彼女は川越の人脈を使った。医師として各地を救い、感謝と尊敬を一身に集めてきた男の名声。その名のもとに弟子と称した者たちを集め、結社は姿を変えて肥大していった。
「魔術師として生きた者の血脈は、とても都合が良いの。愛された人々は盲目的に私を信じる……貴方が愛されたのだから、当然でしょう?」
憲子はよく笑う。孤独で閉じこもっていた娘だったが、魔鏡のおかげで愛嬌の良い美女となった。あの昔、母に抱きついていた面影を宿しながら、何人もの供物を手にすることができるようになっていた。
川越と憲子は間に子をもうけた。その血は人間と異端の狭間にあり、魔鏡を受胎する器として幾度も試され、失われていった命も少なくなかった。
川越は人を救いながらも、ただ見ているしかなかった。
愛してしまった。過ちと知りながら、止める術をとうに手放していた。
これは贖罪なのか。あるいは罰か。己の子が次々に命を落としていく様に、彼は祈るしかできなかった。医学も法も、娘の悪魔的な意思の前には無力だった。
「貴方は人間。このままだとあのヒトに会う前に寿命で肉体が死んでしまう。だから……わたしと同じように、肉体を食らって他の人間になるといい。聯合のやり方、教えてあげる。まずはわたしの血を啜って……」
「いいや、そこまでは赦さない。私は、橘川越として死ぬよ」
「啜って。そして貴方も生き延びて。でないと、三人での生活が送れない」
「……人間は百年も生きられない。千年先も無理だ。私はもう会えないんだよ、彼女に」
「禁書によれば千年先なら可能性があるというのに!? たった千年我慢すれば彼女に会えるのよ!? わたしは、会いたい! そのためになら何だってするわ! 貴方だってそうでしょう!? ……わたしだけにしないでッ!!」
小さな子供のような絶叫に、川越は否定できなくなった。
自分は、やりたくない。人を救いたい、人の道を外れたくない。でも、彼女も止めたくない。彼女の望みは美しい、そして激励してしまう。そんな曖昧な想いのまま、年老いていく川越は目を瞑った。
自分が天寿を全うした後……千年の誓いは罪と愛を超えて、呪いへと変わっていくだろう。そして仏田寺は、呪いを胎内に孕んだ巣窟になってしまうだろう。
心残りで、最期の最後に、頷いてしまった。
川越が亡くなったのは、静かな冬の朝だった。
最期まで誰かを診ていた。最期まで悪魔に口づけをされながらも、人として逝った。
「貴方の死は終わりじゃないの。あのヒトを還すための始まりなのよ」
結社の始祖となる偉大な男の死を悼む者たちを、憲子は抱きしめて慰めた。その手は温かく、その笑みは美しく、その声は涙を誘った。
そうして彼女は若い女の肉を喰らった。少しずつ。誰にも気づかれぬよう、まるで修行僧の断食のように。
数十年ごとに「孫娘」として姿を変えて寺に現れた。時に、本堂に篭る修行僧の娘。時に、隣町から来た奉仕の若女。何代もの住職たちを「おじいさま」と呼び、信頼を積み上げた。
川越と憲子の子――その血を引く者たちは、代々仏田寺を継いだ。
そしてその裏で憲子は常に『母』として暗躍し、彼らを導き、時に操り、時に潰した。
「仏の顔で生贄を喰らう。どれほど滑稽な喜劇かしら。……でも、きっとあのヒトは喜ぶ。だってあのヒトも人を喰らう異端だったのだから。人間の皮の中で、異端は笑うものよ」
彼女は魔術結社を完成させていく。
病に苦しむ人々に癒しを与え、死にゆく者の力を奪い、絶望する者には新たな種を囁いた。
やがて仏田寺は隠された本殿に『心臓』を祀り始める。それは娘として持ち去った、母の遺骸の一部。そこに多くの血と器を注ぎ込めば、再び異端は形を得ると信じて。
「あと少し。たった千年だけの我慢。もう少しだけ、ここに血肉を注げば――わたしの愛する魔鏡が蘇る」
戦争も疫病も飢餓も見届けた。いつの時代も人は弱く、悪魔を呼び込む穴だらけで、絶望した最高の味付けの血肉はいくらでも手に入った。
西暦も二〇〇〇年が近い頃。
仏田寺の地下には、千年分の血肉を吸いこむ胎蔵が完成していた。
憲子は「仏田寺の表の姿」として大企業となった機関の所員として、再び地上に顔を出す。愛され、祝福され、信じられながら、その目だけが千年前とまったく同じ闇を宿していた。
/3
人が人を喰らい、血を継ぐことで異端の系譜を守り続けてきた一族の業の儀式。
千年を経て、六十三代目となる男が先代である父の肉を喰らい、血と名を受け継ぐ。最も暗く、静かな戴冠。その夜、寺には鐘が鳴らなかった。
仏田家の奥座敷にて。人目を避けた襖の向こうで、ただ焚かれた香が濃く、血と肉の香りを隠す。
燈雅は静かに座していた。
正面には、まだ温かい死体。
いや「死体」と言っていいのか。まだ体温がある。瞼も、ゆっくりと痙攣していた。それは、仏田家六十二代目の当主。燈雅の、父。その肉体へ、彼はまるで茶を啜るように口を付けた。
「いただきます」
儀式の始まりに剣も経文も必要ない。必要なのは咀嚼だけだ。
刃物など使わない。口で喰らうのが千年前からの掟だった。
皮膚を裂くために、まずは歯を立てる。肉が口に入った瞬間、燈雅は一瞬だけ眉を顰めた。父の味。温かい血と、死にかけの脂。脈打つ舌の奥に、未だ生きる意思が伝わる。
「父上。おやすみなさい」
噛むたびに、関係が変わる。父から、肉へ。尊敬から、摂取へ。
燈雅は淡々と、吐かず、涙も流さず、ただ咀嚼した。喉を通り、腹に落ちていくたびに何かが体内で蠢く。
血筋だ。
仏田家では、当主は前代を喰らって内に取り込み、始祖の魂を維持する。彼らの系譜は遺伝子ではない。血の記憶を胃袋に溶かし、魂で継ぐのだ。
肉を三口、骨を一片。最後に心臓に歯を立てる。刃物ではなく、血族の歯で命を断ち切ること、それが『承継の印』として伝わっていた。
「この味は、きっと一生、忘れません」
淡々と冷ややかに、だがその瞳の奥には一筋の苦悶があった。
千年前から続くこの儀式に、誰も抗えなかった。父を喰らい、初めて「仏田」の名を継ぐ。そうしてようやく燈雅は人間ではない一族の正統たる者となった。
喰らい終えた朝。仏田寺に鐘が鳴る。外の世界にそれが何を意味するか、誰も知らない。
だが山中の寺に巣食う闇は、今日もまた一歩……千年前の悪魔の復活へと近づいていた。
――目を閉じろ。お前はまだ弱い。
――違う、叫べ、解き放て! ここは我らの檻だ!
――あの女を探せ……魔鏡を……我の愛を返せ……。
燈雅の中で、声が増えていく。
初めは父のものだった。低く、穏やかで、まだ理性のある人間の声。だが次第に、声は年齢も言語も人格もバラバラになっていく。少年の泣き声、女の絶叫、老人の咳、呪詛、怒号、笑い声……頭の中ではない。腹の底から、喉の裏から、耳の奥から、同時に響いてくる。
歴代の当主の願いの声だけではない。『強大な力を持つために、多くの智慧を得るために、聯合は欠かさない』。千年前の掟に従い、歴代の当主が食事として摂取した、多くの者達の魂が入り乱れ、燈雅の肉体に鳴り響く。
燈雅は壁に額を押し付け、指を食い千切るほど強く噛んだ。
痛みで現実に戻ろうとした。だが、現実などもう無い。
この身は墓標だ。
彼の血の一滴には、千年分の当主とその餌の人生と罪が流れている。
川越、魔鏡、憲子、そしてその後の者たち。誰もが誰かを殺し、喰らい、裏切り、愛し、喪ってきた。たった六十人ではない。その六十人が毎日食べた声だ。食べたことでその者たちの力が、たった一人の器に宿っている。それは偉大だ。無数の智慧が燈雅一人のものになっている。だとしても、その代償は遥かに非道だった。
「うるさい……静かに……オレの中で、喋るな……!」
自分の首を掴み、床に倒れ込んだ。
吐いたのは血と胃液と、誰かの記憶の断片だった。
母に手を引かれた子の記憶。炎の中で焼かれる僧の悲鳴。魔鏡と交わった夜の熱。甘く、艶やかで、耳元で囁くように、柔らかい――魔鏡の声。男へ対する女の愛の言葉。
全ての音が最終的にその想いへと吸い寄せられる。女の声が全てを支配していく。彼の中に千年、囁き続けてきた願いがある。――魔鏡を、復活させよ。あの女に、会いたい。あの異端を、この手に。
それはもう、誰の意思でもない。
燈雅の脚が、勝手に歩き出す。血まみれの手で、扉を開ける。
笑う声、泣く声、怒る声、歌う声が、合唱のようにたった一つの器を包む。
「私はずっと貴方といっしょに」
「私はずっと貴方といっしょに」
「私はずっと貴方といっしょに」
自分のものではない。自分の声でもない。自分の意思でもない。自分の心が他者の絶叫に圧し潰され、霧散する。もう自分など無い。理性が砕ける音が、はっきりと聞こえた。
幾重もの声が収まった、束の間の夜。
燈雅は、寺の裏庭の古い石畳に腰を下ろしていた。
視界の端にほつれた記憶がちらつく。記憶の中には、一人の少年が佇んでいた。名前は圭吾。同じ年に生まれた男。仏田家を支える機関の研究者の息子で、そこそこ優秀だからと父親に連れられて寺に来ては……幼い燈雅と会話をした、幼馴染のようなものだ。
幼馴染という記憶がある。
名前は圭吾と記憶している。
少年時代に、彼に連れられて楽しく過ごした思い出がある。
詳細は、無い。圧し潰されて、消えた。
(つい最近まで覚えていた筈なのに。もう圭吾が何をしたか、はっきりと思い出せない)
近くにいる護衛の男衾の姿を見れば、彼がそこに居る理由として『誘拐事件』という強烈な事件の記録が呼び起される。だがそれは、燈雅自身の思い出ではない。あくまで想像だ。
圭吾が自分を誘拐するほど想ってくれていたことを、燈雅は上手く認識できずにいる。そうなってしまった。……今はまだ圭吾と過ごした最期の夜も、この家のことが好きか嫌いかの問答だって覚えているけど、そのうち……好きになったことも、好きという感情も、家を継ぐ宿命の中でどんどんと消えていくだろう。
いつしか男衾という事実を目撃したとしても、何も思い出せなくなる。名前を見ただけでは思い出せなくなって、顔を見ても思い出せなくなって、その手に掴まれた感触も、何を話したかも、どうして好意を抱いたかも全て。
燈雅は自分の頭を殴るようにして押さえ込んだ。
内なる声たちは容赦なく、自分を食い荒らす。抵抗は虚しく……愛しい顔は、魔鏡という会ったこともない千年前の顔にすり替わっていく。
子供の頃の少年の笑顔が、妖艶な女の笑みに歪んでいく。似ても似つかぬ他人の男が、甘く囁く女声へと変貌していく。
(父親も祖父も、これを味わったのか。嫌だっただろうな……オレは、今でも嫌だよ。……でも、仏田家に産まれてきたんだから仕方ない。産まれたからには家を継ぐ。千年前から、そういうものなんだから……仕方ない……本当に?)
目から何度目とも分からない涙が静かに落ちる。失われた記憶にすら手が届かない男の、魂の空洞からこぼれ落ちた雫だった。
ふと、胸の奥に最後の声が囁く。
「俺も、燈雅のことが、好きなんだから」
確かに圭吾の声だった。記憶の深層に焼きついていた、自分だけの幻。その声さえも、やがて闇に溶けるだろう。
当主に就任してから、記憶が断片的になることが多くなった。
心霊医師に相談しても「器に複数の魂を同居させている以上、仕方ない」という内容しか返ってくることはない。仕方ないことだと処方された霊薬で痛みや眩暈を抑えながらも、燈雅は日々を過ごす。
(今は、会議中)
寺の裏庭で過去を思い返していたと思ったら、何か重要そうな会議に出席していたなんてことはざらだ。
燈雅は天井の煌びやかなシャンデリアを見て、今が「寺の隣にある研究所の一室での時間」と察した。
テーブルは黒檀。室内の灯りは薄暗く、壁一面に配された魔術の印章が淡く紫の光を放っている。魔術結社の中枢の会議室で、機関の重役たちと語らう。よくある光景だが、燈雅は椅子に深く腰掛けながら、動揺を隠れて抑え込むので必死だった。
髪は整えられ、スーツに仏田家の章をあしらったタイピンが輝いている。
ふと見た鏡の先には、千年分の記憶と魂――それらを完全に統御する冷酷な男が映っている。演技は、完璧だった。
「……つまり、仏田寺と機関、双方に捜査の可能性が出てきたと?」
会議卓の向かいに座る壮年の男が頷く。財務部門を司る重鎮の一人だった。
「はい。最近、失踪事件や薬物ルートの追跡線上に我々の影が見え始めているようです。公安の一部が動いています。寺の寄進記録や研究資材の輸送経路に不自然な点が多すぎる、と」
「メディアも少し嗅ぎついてるようです」
別の役員が言葉を継ぐ。焦りの色が隠しきれてなかった。
「地元紙に、仏田寺と研究所の『不可解な関係』についての匿名投稿がありました。削除は間に合いましたが……時間の問題かと」
燈雅は短く息を吐き、卓上のコップに口をつけた。
ただの冷えた水だ。全ての思考を静かに研ぎ澄ませる。
「公安のルートは誰が管轄していた?」
「私です、燈雅様。だが……彼らの一部は結界術の影響を受けづらい気質のようで。人間とは、時に厄介なものです」
その場の頂点であった燈雅は、もう一人の頂点――機関の現最高責任者である上門 狭山所長へ視線を移す。
視線の動きを察知した上門所長は、声色一つ変えずに即答した。
「対人用の加護術式を再構築させろ。抵抗値の高い個体への特化を急げ。それから寺の運営に関しては、表向きの宗教法人監査対応を先手で仕掛けろ。寄付金の使途説明会を開いて、外向けに透明性を演出する。上層は庶民の味方を好む。演技でも構わん、印象が全てだ」
沈黙が落ちる。
その場の者達が静かに頷き、己の仕事を確認し始める。厳格な壮年の男に続き、まだ若者らしい柔らかい声で燈雅は続けた。
「研究所には引き続き作業を進めるように。現場にはあまりプレッシャーを掛けないでやってくれ。夜須庭先生はそんなこと気にしないだろうけどね。それと、以前報告を受けていた暴走因子を調整できるかな。あれは良い火種になる。マスコミや公安の視線をそちらに逸らせ。我々が守るべきは、核であり、血だ。末端が焼け落ちようと、幹が生きていれば問題はない」
燈雅の瞳が、一瞬だけ何かを思い出すように細められた。
だがすぐにまた冷徹な光が戻る。
「千年の意志に遅れは許されない。12月31日までもうすぐ、楽しみにしているよ」
重く閉ざされた会議室の扉が、沈んだ音を立てて閉まった。
仏田 燈雅は、誰よりも先に席を立っていた。会議は形式上の終幕を迎えたが、燈雅の中では、まだ何かが蠢いていた。
しかし廊下を出る前に、彼は確かに見た。
研究所側の中枢、上門所長――老練で冷徹な男の背後に、一人の女が秘書として現れたのを。
黒いスーツにタイトなスカート。きっちりまとめられてはいる金髪。光る青い瞳。派手な風貌は日本人離れしている。昔ながらの秘書ではない。仕草も立ち姿も、笑みすらもこの場では初対面……の筈、だが。
あれは、憲子だった。
姿が違おうとも、年齢が違おうとも、燈雅の体内を這う幾千の記憶と魂がそう騒ぎ始めた。
「……また人を喰らったのか、異端」
先日、研究所で別人の女の姿で相手したというのに。
囁くような声の独り言だったが、秘書の女は振り返っていた。そして、ニコリと派手な化粧の笑みを遠くの燈雅に見せた。
廊下の角。誰も居ない、重役用通路の薄明かりの下で女が一歩、燈雅のもとへと歩み出す。
「たった一日で代替わりがバレるなんて。わたしも演技が下手になってきたかしら?」
その声は甘く、喉の奥で笑うような響きだ。そして千年を越えて生き続けた悪魔の目が光る。
「変わらないな、君は」
燈雅はまるで長い付き合いがあるかのように応える。
もちろん仏田家当主と所長秘書の女に接点など無かった。だけど燈雅は、当然のようにその会話が出来る。半分が……千年前に女と語らった『始祖』の魂と同化しているからだった。
(完全に千年前の始祖様に成り代わられた訳じゃない。でも……オレは、ほぼ始祖様の感情に同調できている。『この女はヤバイ存在で、愛おしいもの』。そう思わずにいられない。……オレの好みとは別に。厄介だな)
「研究所の魔術師役をするのは飽きたのかい。金髪碧眼の美人秘書だなんて、随分と派手な娘になったね」
「本来の『大舘憲子』に近くしたのよ。……貴方にも分からないことでしょうけどね」
千年分の知恵を一つの器に宿していても、分からないことは存在する。憲子に言われた通り、分からずじまいの言動に、燈雅は首を傾げながらも微笑んだ。
女は、憲子は笑う。腕を組み、長い金髪を流しながら、どこか懐かしい……確実に危険な色を帯びた瞳で燈雅を見つめた。
「今の所長はよく頑張っているわ。研究主任も予想以上に優秀。今年の12月31日に『死を供なす永劫の呪縛』を間に合わせてくれようと頑張っているみたい。わたしが夢見て何度も子守歌にして聞かせた約束を、今の子たちは使命だと信じ込んで頑張ってくれている」
「一応上門所長の方は、来年か再来年に持ち越すのも考えているようだよ。12月31日は一度きりじゃないからね。彼は確実な神の降臨を求めている平和の狂信者だから」
「来年? 嫌よ。……もう千年経つのよ。そろそろ会いたいから、人間には本気で頑張ってもらわないと! わたしは魔鏡に会いたいの。もう一度。好きな人に会いたいのは誰だってあることでしょ。笑わないで」
言葉は甘やかで優しい。
けれどその実、千年をかけて積み上げた悪魔の本懐。とても純粋で、分かってしまうような……はた迷惑な妄執だった。
「燈雅様。貴方も12月31日を楽しみにしていてね。貴方にはその日、真の川越様になってもらうんだから。優秀で優しいあの男になってもらうためにいるんだから。わたしたちの感激の再会のために、病弱だからって風邪引いちゃイヤよ」
機関の研究チームである頭垓が、ある文献を解読した。かつて始祖に教えようとしていた魔鏡の中にあった智慧をまとめたもの、別箇所から調達した、仏田が欲していた一番の智慧……『死を供なす永劫の呪縛』。
12月31日。年の終わり。命と時間の境目が最も薄くなる夜。死者と生者の垣根が崩れるその瞬間を狙うことで成し得る大儀式。
この世界の理を異端の血で塗り替え、膨大な血肉を異端の器へと還元し、大量の供物を必要とし、詠唱のためにも大量の智慧と魂も必要とする。代償は、世界の歪みと均衡の崩壊。
解読されたという文章を研究チームから見せられた燈雅は、声を出せず、喉の奥で何かが熱く疼くのを感じていた。
魂が嫌悪している。始祖の魂はやめろと叫んでいる。
同時に、千年分の血が――仏田の血が、そのために我々は生き続けてきたのだと、先を望んでいた。
たった一人の男の抵抗。異端の女に縛られた千年分の血族の叫び。無数の声の正体。自分一人では、逃げられない。いざ逃げようと思っても、いつの間にか意識が消え、場所が変わって当主の職務をしている。一人では勝てない強制力。呪いだと思えた。……当主だからと言ってやめろと命じられれば、どれだけ楽だったか。
研究所での被験者たち。供物として生かされた人外種族や異能力者たち。そして……それを誰よりも冷静に指揮していた自分自身。憲子に似た声がどこかで囁く。
数千の命が積み上がった祭壇の上に、燈雅の足は既に乗っていることを。
貴方の中の千年の魂がようやく報われるのよ、とも。
(報われる……? オレ自身は千年どころか数年にも満たない魂まで小さくされちまったのに?)
助けを呼んでも無意味というのは、千年の声の重みで思い知らされいた。燈雅は憲子が消えた視界の瞼を閉じる。
脳裏には、幾人もの命が消える瞬間がフラッシュバックのように甦った。
/4
12月28日にしては、冬空が透き通るように高かった。
雪は降っていなかったが、冷え込んだ山奥の空気が静かに離れの館を包んでいた。
燈雅は私室に圭吾を招いた。従者や訳ありの重役以外、人は入れない。餌は一時的に入れることはあっても、友人を招くなんてこともなかった。けれど今日は初めて、部屋に圭吾がいる。それだけで嬉しいと思えた。
「変わってないな、圭吾は」
「そっちこそ。ちょっと老け……いや、違うな、落ち着きすぎたか」
燈雅は肩をすくめた。その仕草が圭吾には可愛く思える。そして心のどこかで、そんな軽口を言い合えることが信じられずにいた。
和室にどかりと圭吾があぐらをかく。その間に燈雅が室内の子機で「何か軽食を」と命じた。遠く離れた厨房から使用人が何かしら摘まむものを持ってきてくれるだろう。「出来れば軽食以外にも、甘くて特別な物を」と付け足して受話器を置き、燈雅は圭吾に向き直った。
「久しぶりに、こんな『普通』な時間だよ。圭吾と話すの、何年ぶりだろう」
「電話しようと思えばいくらでも出来たけど、なんだか、随分離れちゃったな」
「色々と忙しかったから。圭吾ももう昔のことなんて覚えてないだろ」
「そんなことない! ……神社のことだって、ちゃんと覚えているよ」
むきになって言い張る圭吾に、思わず笑う。
そのときの表情が、少年に戻っていた。
燈雅は同じ表情が出来ずにいる。心の奥にある声が、そっと微笑を壊しに来ていたからだった。そして、何より……あと数日で、自分はこの男も許さないようなことをする。そう思うと、普通の顔など出来なかった。
「圭吾。今、お前に会えて良かった」
「ど、どうした? どうしてそんなこと」
「誕生日おめでとう。当日言えるのはまた味が違う」
「あっ……。うん、そうだな。当日祝ってもらえるの、嬉しいよ。兄貴や世話になった人達に今日顔を見せに行ったんだけど、みんな祝ってくれたんだ。凄く嬉しかった」
「みんな祝ってくれた?」
「ああ。俺が産まれたのは第二研究所だから、そこの人達にさ。あそこが俺の故郷だから。俺が住んでいた頃の研究員たち、まだまだ現役でほっとしたよ」
「ふふ、あそこは結構エリートの集まりなんだぞ。待遇も居心地も良さそうだし、まず機関以外に行かないさ。……おっと、食事が届いたみたいだ」
使用人がトレイに載せてきたのは、今まさに出来立てほかほかのおにぎりと、リボンのような包装紙に包まれたチョコレートだった。
握り飯とチョコレートという組み合わせに、「確かに注文した通りだけど……」と燈雅は唖然とし、圭吾は吹き出す。持ってきた使用人も申し訳なさそうな顔をしながらも、笑っていた。
「すまない圭吾、これが我が家からの誕生日プレゼントだ。受け取ってくれ」
「はは、ありがとな。……なんなら後で改めて俺のプレゼントを用意してくれてもいいんだぞ?」
「なんだそれ、もっと欲しいのか? 欲張りな奴め」
「欲しいよ。燈雅が俺の為に用意してくれるものが何なのか、楽しみたい。今は年末で忙しいだろうけど……年が明けたらとか、どうかな?」
俺の為に時間をくれないか。考えてはくれないか。来年に、そんな予定をくれないか。
祈りを込めて、圭吾は燈雅を見つめる。燈雅の息が詰まっていたとしても。
それ以上は続かず、会話が終わった。
あぐらをかいて握り飯を頬張る圭吾の横で、燈雅は湯呑を傾けていた。
会話はなかなか続かなかった。続けようと思えばいくらでも話せただろう。でも、圭吾には後ろめたさもあった。楽しい思い出話をしたくても、どこかで燈雅の動向を探ってしまう。気づいていないふりをして、心の奥で神経を張り詰めてしまっていた。
(仏田寺の不穏な動き、地下施設の情報、そして12月31日……。でも、もし燈雅がそれを知らないだけだったら。いや、そんな筈……)
「圭吾。体の調子はどうだ?」
「至って健康だよ。今年の健康診断も問題無かった。……燈雅は? 最近寒いけど、風邪とか引いてないか?」
「近頃忙しいから、引くかもしれない。特にここ数日は寒くなるって天気予報だしな」
「そ、そうなのか。じゃあ暖かくしないとな。その、意外と燈雅……薄着だし、もう少し着込んだ方がいいぞ」
「室内はそう寒くはならないだろ。上着を脱いだっていいぐらいだ。この部屋は改築したばかりで快適でな、裸でも、暮らせるよ」
言いながら、燈雅が羽織っていた上着を落とす。
圭吾が目を丸くして、慌てて畳に落とされた上着を拾い、掛け直した。その仕草があまりに初心な少年のようで、燈雅は声を出して笑わずにいられなかった。
「ああ、思い出した。昔……圭吾は、オレを抱きたいと思っていたんだっけ。そんな会話をした覚えがあるな」
上着を掛け直してくる圭吾の正面で、燈雅が笑う。
室内には二人だけ。薄着の燈雅が圭吾を呼びかけ、しな垂れかかった。
「なっ」
「もうかなり昔の話だが。今もオレを抱きたいとは思わない?」
その言葉が、ゆっくりと確実に空気を震わす。言葉の意味を理解しながらも、心がそれを受け止め切れず、圭吾の鼓動が一気に高鳴った。乾いた笑いが喉の奥で潰れる。
「時間はある。どうだ」
「冗談、だろ?」
「冗談にしてもいい。でも……そんな風にオレを見てただろ。昔はさ」
燈雅の声は、決して咎めるものではなかった。淡々とけれどどこか寂しげに、圭吾の胸の奥を撫でる。
「あのときは、圭吾の状況が大変でオレのことなんて考えられなかっただろうけど……お互い大人になった今なら、どうかな。きっとあのとき以上に愉しめると思う」
一歩、圭吾に近づく。
「オレもあのとき以上に経験を積んだことだし、さ」
圭吾が息を呑む。心が乱れる。探りたいことが脇に追いやられていく。目の前の燈雅は、動向を探るための目標には見えない。……ただ昔からずっと想い続けてきた、大切な存在に戻りつつある。
けれど。
しな垂れかかる体を、圭吾は力を込めて押し返した。
――少年時代の彼が『痛いことで、嫌なこと』を語っていたのを覚えているからだ。
「……十数年ぶりに会って、お互い遠くなりすぎただろ。もう燈雅とは、そういう関係じゃない、かもしれないから……『それ』、無理に、したくない」
押し返したと言うほど、力を込めて拒絶した訳ではない。
誠実な言葉も吐いた。それでも圭吾は胸の奥が焼けるような思いをした。
抱きたいというのは図星だった。頷きたくはあった。燈雅のその体温も、声も揺れる瞳も、自分にとってどれだけ罪深い存在か、数年間何度も自覚してはそのたびに必死で理性を手繰ってきた。
それでも絞り出すように伝えて視線を逸らす。押し返された燈雅はそのまま、無邪気な問いかけを繰り返す。
「今更、綺麗事は抜きだ。今のオレは痛みも別に嫌じゃない」
妖艶な誘惑。だが震える手で燈雅の肩を掴み、そしてぐっと押し返した。
「燈雅を傷つけることなんて俺はしたくない」
瞬間、燈雅の笑顔が揺らいだ。ほんの一瞬だったが、笑みの奥に潜んでいた脆さが露になる。押し返された肩に触れたまま、燈雅はふっと目を伏せた。
短く吐き出すように言った声は、苦笑混じりだった。けれどそれは作り物の軽さだ。燈雅の余裕ぶった態度の裏に微かな傷が走る。
「本当に圭吾は真面目だな。こういうとこで止めてくれるのは偉いと思うぞ。そして、いつも中途半端で曖昧だ」
言葉に笑みを乗せてはいたが、瞳はどこか遠くを見ていた。圭吾が黙ったまま見つめ返すと、燈雅は片手を上げて、何でもない風に背を向けた。
「変なこと言った。オレを抱く抱かないの話はこれで終わり」
「燈雅……」
「ああ、中途半端ついでにこんなのも思い出した。圭吾は、この家が嫌いか? 好きか? あのとき訊いたよな」
「えっ? ……よく『そんなこと』も覚えてるな。ええと、別に俺はどちらでもない。いつまで経っても変わらなくてごめん」
そんなことと圭吾が言ったとき、燈雅の中で小さな火が消えた。
圧し潰されていく記憶の中で覚えていた景色といえば、二人で過ごした夜の一幕だ。
それ以外のことは、覚えていない。全部他者の声で塗り潰されている。今も本当は、声がうるさくてかなわないぐらいだ。
けれど手放さずにいた。少年に手を引かれて神社まで走ったこと。少年に抱きたいのかと問い掛けたこと。夜空の下、二人きりの夜。幼馴染として長年過ごしたにも関わらず、今ではその程度のことしか記憶に残っていない。
本当に小さな火になっていた。でも、どんな闇の中にあったとしても、冷たい世界の隅で凍えながらそれだけを握りしめて立ってきた。
嫌なことも多かったけど、何も特別じゃない、平凡な人間と平凡なやり取りをして、笑ってからかって、肩を並べて走って歩いて、奪い合った、あの日の光景と圭吾の表情。そのときの会話。大事な質問。その後すら決めさせた駆け引き。
それがそんなことだと。
(そりゃそうだろう。圭吾は、外で生き始めた一般人だ。もう仏田寺や機関とは関係ない部外者だった。過去の人で、オレだけが数年前の思い出に縋りついていただけ。……あーあ、恥ずかしい)
恥ずかしい。恥ずかしい。取るに足らない記憶で、どうということのない些末なひととき。それなのに、自分は。あれを必死に握りしめて、生きてきたのに。
腐った床板が音も無く抜けていくように、思い出が抜け落ちていくのを止められなかったのを、燈雅なりに足掻いてはみた。でもそれは恥ずべきことだったのだと、燈雅は思い知る。
……胸の奥で何かがずるずると音を立てて沈んでいく。今、どれだけ笑っていても、どれだけ言葉を交わしていても、自分にとっての大事な質問であるあれにすら意味を見出してもらえない現実がある。
ならばと、燈雅は灯した火を自ら吹き消した。
【5章】
/1
都内某所、レジスタンス地下会議室。分厚い鋼鉄製の扉が閉じられる音が、一際重く響いた。
壁には地図と無数の資料が貼られ、室内には国家公安委員会、警察、特殊退魔対策班、科学犯罪対策班、人外同盟など、各部門から選りすぐりの人員が顔を揃えていた。
空気は重く、机に並べられた資料の束がそのままこの件の深刻さを物語っている。
会議の冒頭、レジスタンスのリーダー・鶴瀬 正一が席を立ち、重々しい口調で発言する。
「本日を以て、魔術結社『仏田寺』および、超人類能力開発研究所機関に対する一斉突入作戦を承認する。いかなる妨害があっても、これを排除し、証拠の確保と関係者の拘束を最優先とする」
沈黙が支配する中、スライドに切り替わった資料には、仏田寺が所在する陵珊山の施設構造、機関研究所の位置、関連人物の顔写真が次々と映し出される。中には既に死亡していると報告された者の名もあったが、複数の情報源がその存命を示唆しており、真偽は依然不明だと続いた。
「仏田家は長年に渡り魔術を悪用した密売・誘拐・儀式殺人・公的組織の洗脳などを繰り返してきた。公には非科学的とされるその行為の数々だが、我々の捜査と情報収集により十分な根拠が得られた。もはや見えない敵ではない」
異能犯罪対策班の主任が立ち上がり、プロジェクターを切り替える。
「第零実験室と高碕異端刑務所は、政府の一部組織と秘密裏に結びついていたことが判明。人体実験、倫理を欠いた精神操作、違法な超感覚能力誘導など明確な人権侵害が確認されています。我々の調査では対象者の多くが人外種族であり、既に複数の死亡・行方不明報告と一致しています」
会場の空気がさらに引き締まった。その場にいた者たちの顔が、次第に硬くなる。
その中で、会議の参加を認められたスパイ役の圭吾もまた、一言も発さずに資料へ目を落としていた。
顔に浮かぶのは、緊張感による汗と悲しさに似た苛烈な静寂。
この案件には私情を絡めてはいけないと圭吾にも分かっていた。だが――仏田寺の関係者の中に、親しみを覚えた人物の名や、父親の名前、兄の名前を発見してしまい、圭吾は知っていたのに激しく動揺する。
「圭吾さん」
呼びかけられて、圭吾はすぐに顔を上げた。レジスタンスに誘った張本人である新座がいる。
「仏田寺内への潜入経験者として、現場の抵抗予測について所見をいただけます?」
「あ、ああ……。俺の話せることなら、拙い言葉になるけど、全部話すよ」
新座に連れられて、緊迫した会議の中で発言をする。
実の兄は研究室の一員であること。その兄と、自分と親しくしていた家族ぐるみの研究者たちが……大勢を犠牲にする儀式を今年中に行なうことを認知していること。そのことに躊躇はなく、当然の行事のように受け入れたこと。それらを言葉を選びながら告げる。
「圭吾さん、ありがとうございました。以上の話でお分かりの通り、仏田寺の信者は全員がある種の信仰と狂気を持ち合わせています。話し合いの余地はありません。殉教を選ぶ者も少なくない。内部に配置された術師の中には、常人離れした身体能力を有する者も確認されています。いかなる武器の使用も容認されるべきかと」
的確で冷徹な新座の主張に、周囲の能力者たちは静かに頷いた。
中央に立つレジスタンスのリーダー・新座の従兄弟である鶴瀬もまた、力強くその言葉に続く。
「本件は我々の判断が遅れていたことは否めない。だがこれ以上、犠牲者を出すわけにはいかない。仏田寺も、機関も、今度こそ終わらせる。大きな儀式をやらせる前に中心人物を捕らえるぞ」
会議は最終段階へと移っていく。
各部隊の突入ルート、時間、通信手順、緊急時の対処、想定される魔術的障壁への備え。想像を超える異常事態への備えが、現実味を帯びて読み上げられていく。
やがて閉会を告げる短い鐘の音が鳴り、会議は終わった。
圭吾は席を立ち、扉の前で一瞬立ち止まる。会議室を後にする彼の背中には、スパイとしての覚悟と、身内を想う人間としての痛みが同時に圧し掛かる。
悪逆非道は終わらせなければならない。けれどその先に、燈雅や家族が処罰の対象としている現実が重く残っていた。
会議室の扉が閉まる音が、心臓に響く。
圭吾は体内の空気を換えるため、とにかく歩いた。レジスタンス本部廊下の壁に凭れかかり、深く息を吐く。冷たい空気が肺に入り、喉の奥をひりつかせる。けれど重苦しい感覚は消えない。むしろ、心臓の辺りに鉛のように沈み込んでいった。
――仏田寺、生まれ育った実験機関。燈雅、親父。
目を閉じれば、美しい思い出が浮かび上がってくる。生贄だ何だと囚われた被害者たちにとって悪の巣窟でも、圭吾にとっては良くしてくれた実家だった。少なくとも圭吾には、あの寺に悪い思い出は無い。平気に子供を死刑にする制度があったとしても、あそこで産まれた圭吾にはそれが当然だったからだ。
それを「善し」としてはならないことぐらい分かっている。同じように生まれ育った新座やときわのようになるべきということだって。だが……。
「圭吾さん、相当参ってるね」
声に、はっとして顔を上げた。
先ほど意見を求めてきたときと同じ顔の新座が、煙草を吸いながら近寄ってきた。その後ろからは、この作戦のリーダーである鶴瀬も歩いてくる。
鶴瀬は新座よりも二つ年下で、その若さで異能事件の現場を数多く経験してきた一流の能力者だ。レジスタンスのリーダーを担うだけあって、その眼差しには一切の情が無い。
「ごめん。俺、こういうのは初めてなんだ」
「上門圭吾さんでしたか。機関の最高責任者・上門 狭山の息子さんと聞いています。……会議のときから思っていましたが、圭吾さん、少し甘いかと」
唐突な鶴瀬の言葉にと鋭い視線が、圭吾に降りかかる。
新座も無言ではあったが、同意だと言わんばかりの目をしていた。
「新座くんが『話し合いの余地はない』と言ったとき、上門さんには迷いが見えました。まだ『なんとかなる』と思っているように見えました」
鶴瀬の言葉は、容赦ない。
「上門さん。実の父親相手というのはこちらも重々承知です。ですが、知っておいてほしい。昔どうだったとか、彼らと何を語ったとか、そんなものは今となっては関係ない。貴方が知っているあたたかい家族はもうこの世にはありません。あそこは、ただの地獄です。それを見てきた人も、体験してきた人も、大勢います」
冷徹な言葉を重ねていく。
「同情も躊躇いも、重荷になります。彼らを生かしておけば、また誰かが死ぬ。……その事実から目を逸らさないでください」
「はは……そこまで言っちゃうんだ?」
圭吾は何かを言い返そうとしても、うまく言葉が出てこない。そこまでするようなことをしたのか、という反論には、間違いなく「はい」としか返ってこない。だから圭吾も、こう言うしかない。
「分かっているよ。……俺は酷い人達を許すつもりはないから」
言った自分の声が、圭吾自身どこか空々しく聞こえた。
そんな圭吾をじっと鶴瀬が見つめる。厳しく、そして静かに告げた。
「上門ときわさんの提案で、貴方には現場……陵珊山について来てほしいのです。理由は、貴方ほど第二研究室を我が家のように行き来している人はいないから。いくら資料を用意しても、つい二日前に実際そこへ入り込んでいる貴方の目は頼りになります」
「建物の構造なら、さっき配布されたプリントの通りだったけど……」
「貴方を最前線待機チームに配属させてください。感応力師のメンバーによって貴方の記憶を読み取り、データとして他のメンバーの脳内に随時頒布します。そうすることで初見の突入組にも『実際に現場に行ったことがあるような記憶』を植えつけます。突入をよりスムーズにするためです」
「……ち、超能力者ってそんなことも出来るんだ? 凄いんだね……」
「記憶の読み取り、記憶の頒布には射程距離が限られています。つまり上門さんにも陵珊山寸前の場所で待機してもらいたい。……ですが、貴方がもし迷いによって余計なことをしでかすようなことがあれば。我々の仲間の死に繋がります」
「つまり圭吾さん、『本物のスパイにならないでね』?」
情に流されて裏切るな。端的な二人の主張と警告に、沈黙が覆う。
誰も声を発さないまま、新座と鶴瀬はやがて背を向けた。廊下を歩き去る彼らの足音が、遠ざかるごとに圭吾の鼓膜に響いた。
残された圭吾は、壁に拳を打ちつけることもなく、ただ立ち尽くす。
(記憶を抜くとか、みんなに入れるとか。超能力者って凄いことするな。……燈雅もそういうこと出来るのかな)
考えてしまうのは、身内への心配。
会議後の重たい空気は入れ替えられた。それでも年下の勇敢な戦士たちの厳しい言葉のせいで、息苦しさは解消されなかった。
/2
12月31日午前、作戦は始まった。
異端刑務所での汚職の現行犯逮捕、裁判所の書状を手への突撃が開始される。薄曇りの冬空の下、沈黙を裂くような無線の声が仮設テントに響いた。
第一波は、刑務所での汚職現場への踏み込み。内部の協力者として情報を流していた警務官数名の一斉拘束が行われる。汚職の中心人物が拘束されたのと同時に、暗号通信のログと内部監視映像が押収され、いくつもの繋がりが証明された。
同時刻、司法機関では裁判所から発行された正規の捜索・押収令状を手に、仏田寺と研究所機関に関連する研究施設や信徒居住区への突撃作戦が開始された。
本部となった臨時指揮テントは、陵珊山の麓に設置された。数キロも無い距離の本部である。電子マップが投影されたモニターの上に次々と部隊の位置がマークされていく。指揮官や作戦統括が短く命令を飛ばし、状況が更新されるたびに緊迫した空気が広がった。
その一角に用意された折り畳み椅子に圭吾は座り、ヘッドセット越しの報告に耳を澄ませていた。目の前のディスプレイには、映像記録班が送ってくる生の映像――突入部隊が暗い回廊を進み、扉を破壊し、内部に突入していく様子が流れている。
「第六班、仏田寺・南施設に侵入完了。抵抗なし。内部、儀式の痕跡多数。生体反応……異常値の反応あり。確認を急ぎます」
「第三班、交戦開始。敵側、術式による迎撃。現在、2名負傷――いずれも軽傷」
「上門さん、失礼します。第三班が突入した第三棟の様子を頂戴しますので、どうか肩の力を抜いてください」
「はい」
言われても、圭吾は拳を固く握ってしまう。
装置を着けた感応力師が圭吾の頭部に触れる。医者の触診のような、優しくも何かを探るような動きだ。痛みは無いが、自分の中を探られていると思うとゾワゾワと嫌悪感が走る。それでも圭吾は黙って超能力者の手を受け入れた。
「上門さんの記憶から、第三棟から第五棟へ繋ぐ道を発見しました。パスワードは0415。3日前12月28日の記憶ですが、どうぞ」
あの日、清掃員をしていた福弘に教わった近道の秘密ですら簡単に情報として流されていく。ときわの提案は間違いなくレジスタンスの力になっていた。
これは望んだことだ、冷静でいなければならないと、自分に言い聞かせた。だが、画面の中で炸裂する閃光、吹き飛ぶ瓦礫、響き渡る怒号は、心の奥底にある感情を容赦なく揺さぶった。
「仏田寺本堂、突入成功。複数の術者拘束。中心祭壇付近、結界の痕跡を確認。解呪班が対応中」
無線から流れるその言葉に、場にいた能力者たちの一部が小さく息を飲んだ。
「中心人物、夜須庭 航の姿は、未確認。スウィフトさんら第一班待ちです。現在、鶴瀬リーダーと上門ときわさんが上門狭山と接触していますので報告は追って……」
父親の名が上がり、圭吾の胸がぎりと痛む。
機関が家宅捜索をされて、その最高責任者が逃げる訳が無い。いったいどんな問答をするのか。余裕なく考えていると、
「上門さん。研究所・第二実験室側、施設への侵入に成功しました。抵抗は激しく、部隊の進行に遅れが出ています。中枢区画は、相当数のトラップと封印構造がある模様。死者は……まだ出ていませんが、こちらの重傷者が2名」
「あちらの重傷者は!?」
「……多数。話を戻して質問です、この区間からもし所員が逃亡するとしたら通路はどちらに向かうと思いますか?」
感応力師が聞きたがっている質問を遮ってまで機関側の様子を伺ってしまったのは、失敗だっただろうか。
圭吾は受け取った質問を噛み締め、誠実に応える。研究所は自分の庭だった。子供の頃は、成功品だった自分の体は人一倍軽く、あちこち走り回って遊んでいた。だから通路という通路も、屋根裏に抜ける隠し部屋も、排気口の在処だって把握している。
何故そこまで覚えているかって、仲良くしていた研究者たちがそれを容認してくれていたからだ。
成功例である無邪気な子供を走り回らせてくれるぐらいの自由があった。だから彼らがもし逃げるならのルートも、簡単に想像できる。
だけど、想像できない報告が次から次へと舞い込んでくる。
冷酷な記録が並んでいった。――誘拐してきた特異能力者を使った人体実験の痕跡。冷却保存された優秀な幼児の遺体。感情を持たぬまま機械的に発声する改造被験者の証言。
これが、全部、身内がやったこと。
悟司や自分のバースデイを祝ってくれた彼ら彼女らの朗らかな表情が、今もすぐ思い出せる。そんな表情を浮かべていた一同が、『戻れない悪行』まで手を染めていたということか。
「仏田寺・北棟より通信傍受成功。ギガース搭乗員名簿を確保。洗脳・育成対象リストと一致――作戦継続」
また一つ、証拠が押さえられる。何人が血を流し、何人が心を失ったのか。圭吾はもう一度、拳を握った。モニターの中、銃声が鳴る。断末魔の叫びが響く。どこか遠くの世界のようで、それでも確かに現実だった。
そして心のどこかで、圭吾はあることを願ってしまっていた。
「上門さん、休憩をしてください。少し体を動かした後、お休みしていただきます」
「えっ……まだ作戦は継続中なんじゃ」
「一時間も上門さんの脳を掻き混ぜている状態でしたので、これ以上は無理をさせられません。上門さんの記憶を消してしまう恐れがあります」
施術をしていた能力者が非常に申し訳なさそうに、恐ろしい例えを言う。
「記憶を消すと……やっぱヤバイですか?」
「記憶と能力は繋がっていますから、長時間の接触は上門さんの感覚を奪ってしまう可能性がありまして」
触診程度だと思っていたら、麻酔ありの大手術だったらしい。
ふと、かつて燈雅が自分の頭によく触れていたことを思い出す。そういえばあの日から、あった筈の異能の才が消失していって……?
「ただし、今後何かあったときにまたご協力をお願いするかもしれません。万が一のために中断します」
そういうことならと圭吾は立ち上がり、一度テントを出た。12月の空気を吸いながら、山肌を見る。どんなに山を見上げても遠くにポツンと寺院と病院らしき建物が小さく見えるだけで、そこで戦闘が繰り広げられているなど見えやしない。
圭吾が深呼吸をしている最中も、本部テントは無数の通信音と打鍵音が交錯する。そしてあるとき、空気が凍りついたように止まった。
複数の視線が報告を終えた技術班の主任へと集まる。主任は唇を引き結び、震える手で報告書を机に置いた。
「仏田寺・山頂部、地下監禁区画のセキュリティについて判明しました」
映像端末に投影された設計図には、祠のような構造物と、その下層に広がる環状の廊下、そして最深部の隔離エリアが映し出されている。
その先に、複数の囚われた子供たちの存在が確認された。
「しかし……このエリアの扉には、特殊な多重認証が施されている」
作戦主任の指が、図面上の一点を指し示す。
「網膜・声帯・指紋……いずれも、仏田寺内で正式な儀式を受け、認証された者でなければ開けない構造です。仏田寺に属した人間であることが、生体情報に深く刻み込まれているため、解析・偽装は不可能です」
ざわめきが走る。誰もが黙り込む中、司令官が声を張る。
「つまり……中に入る手段が無いということか?」
「……はい。現場の突入部隊にも該当者はおりません。正規の信者で、かつ認証済の者でなければ」
そのとき、誰かの視線が一人の男に注がれた。
圭吾だった。
本部テントの一隅、無言で報告を聞いていた圭吾は、硬く拳を握りしめていた。
どこかで予感があった。まさか、とは思いながらも、心のどこかで避け続けてきた想いが再び顔を出す。
「……俺は、仏田寺の出身者です。あの地下区画を開ける認証を持っていると思います。……行けます」
圭吾は口走っていた。率先的に作戦に参加します、とは言えなかった。
けれど、被害者が多く出ているという現実は何時間も圭吾の体を突き刺していた。そこから逃げることは、もう出来そうにない。
「俺はあの場所で育てられた。俺もあそこにいた子供の一人だった。今更俺が行ってちゃんと出来るのかは判らない。子供たちの部屋を解除できるかどうか確信は無い……ですが」
圭吾の声は静かで、乾いていた。その場にいた誰の目も見ずに、ただ宙を見つめながら呟く。
「行かせてください。俺しか助けられない可能性があるなら、俺が行くしかない」
そうして話は凄まじい速度で進む。突入部隊第三班と合流、以降は単独での移動も許可。装備は支給され、初めてピストルという物を持たされる。
胸の中で、古い記憶を思い出していった。……夜の冷たさ、蝋燭の匂い。子供の自分が囲まれたあの閉鎖的な空間。暗い笑い声。見知らぬ経文。不気味だけど、しっかりと覚えている道筋。
深く息をついてから、山頂に向かうヘリに乗り込む。その頃には、ただ前を見据えていた。
/3
仏田寺・山頂の地下。そこは地上とは別の理が支配する異空間だった。
咽せかえるような硫黄と香の匂い。刻まれた術式と機械回路が交差する壁面。管を這う呪血のような液体が、光を帯びて脈打っている。
レジスタンスや警察の突入部隊は既に激しい抵抗に遭っていた。呪文で強化された鋼鉄の肉体を持つギガースたちが槍のような腕を伸ばし、銃弾をものともせず突進してくる。ギガース以外にも魔術や薬物で身体強化された戦士たちが、霊力を帯びた武具と戦術魔術が炸裂する中で猛威を奮う。
「上門さん、こちらへ!」
レジスタンスの味方の叫びを背に、圭吾は奥へ進む。自動小銃を背負い、壁をなぞるように走った。
発見されたという扉を開けるために。研究所の最深部、仏田寺と接続する区画に囚われている実験体となった者達を救い出すこと。それが自分にしかできない使命だと信じて。
やがて圭吾は巨大な金属扉の前に立った。
見上げるほどの円形の扉には、術式の文字と認証用の魔術的装置が一体化して埋め込まれている。血脈、声、網膜――あらゆる『その人間しか持ちえない』本質を、魔術と科学の双方で認識して開く仕組みになっていた。
圭吾を護衛する数人の能力者たちが、その造りの精密さに動揺する。こんな高度な魔術の細工を、一般人と大差ない男が解除できるのか……と。
同じく、圭吾も数秒間、動けなかった。圭吾には普通のドアに過ぎない。こんなものよくあるドアで、これを開けた先にある廊下を走る方がよっぽど面倒だぞ……と逆の動揺を隠しきれず、指を認証パネルに置いた。
金属が体温を読み取り、光が指先に走る。
『第一認証・完了。指紋認証、一致』
次に、扉の中央部が僅かに開き、音声入力を求める。
圭吾は記憶の奥底から絞り出すように、呼びかけの言葉を唱えた。
それはかつてこの研究室の子に与えられた、意味を持たない音。誰にも理解されぬ音色だ。瞬間、装置が振動し、術式の文様が淡く発光を始める。
『第二認証・完了。音声認証、一致』
最後の認証。扉の脇に現れた細長いレンズが、圭吾の瞳を覗き込む。
「目を開けて」
誰の声でもない。かつての記憶か幻か、それとも昔良くしてくれた家族の誰かの囁きか。もしかしたら、ここに連れてきて遊ばせてくれた……研究者だった頃の父親の声か。
圭吾はゆっくりと瞳を見開いた。瞳孔が読み取られ、レンズが引っ込む。
『第三認証・完了。網膜認証、一致』
無音の中、扉が開いた。まるで生き物が吐息を漏らすような音を立てて、重々しく円形の扉が左右に割れていく。
冷たい風が流れ出る。空気が違った。そこだけ、時間が止まったような感覚。目の前に現れたのは廊下と、ずっと先に見える円形の牢獄。
ガラスのカプセルに幽閉された、意識を閉ざされたまま拘束されている少年少女たち。年齢はまちまち。誰もが裸足で、管に繋がれ、静かに俯いている。その光景に、呼吸が止まる思いをした。
後ろから機械兵の唸りが迫る。圭吾は中へ踏み込もうとした。
冷たい空気。微かに漂う血と薬品の臭い。囚われた子供たちのカプセルが、霧のような薄明かりに照らされて静かに佇んでいるその場から、彼らを救助するべく全身に力を込める、そのときだった。
ドン。
突如、地の底から突き上げるような震動が空間全体を揺らす。
重力の方向が狂ったかのように壁が傾き、天井から砂と破片が降り注ぐ。警告灯が赤く明滅し始め、低く唸るような警報が耳をつんざいた。
第二の衝撃が来る前に、圭吾は床に膝をついて身を庇う。
崩れる天井。折れる鉄骨。煙と土砂が視界を奪う。
(地震……じゃない!?)
直感が叫ぶ。これはただの自然現象ではない。あまりに深く、広く、そして生々しい震動――まるで巨大な何かが這い上がってくるかのような悪寒。
そしてそれは、現れた。
壁の向こう、空間の外側から、何かが這い寄ってくる。音ではない。色でもない。理解不能な感覚が、圭吾の全身を刺すように走る。
次の瞬間、天井の一角が裂けた。金属が紙のように捲れ、ぶちまけられた空間の穴から、それが伸びてくる。
――巨大な、巨大すぎる、異形の手。
触手のように思えた。その質感は生物とも無機物ともつかない。表面には目のような紋様がいくつも浮かび、時折それが瞬きをする。幾千もの鼓動が同時に響くような、狂った生命のリズムが耳の奥に流れ込んでくる。
なんだこれ。そう圭吾は声を震わせた。
巨大なそれは、もはや部屋の大きさなど無視していた。
空間が歪み、広がり、存在しない次元に引き伸ばされたかのように異界の法則がこの部屋を侵蝕している。
触手がシュンと空を切った。たったそれだけで通路ごとねじれ、潰れ、無音のまま消滅した。……圭吾を守るべく存在していた仲間の痕跡すら残らない。
「やめろッ!」
圭吾は咄嗟に銃を構え、引き金を引く。銃声が響く、が、触手は何の反応も見せなかった。弾丸は触れることなく、空間そのものに吸い込まれるようにして消える。
効かない。まるで世界そのものが狂い始めているように、強大なすぎるそれ。
禍々しい空間に絶望の色が満ちていく。このまま恐怖に足を取られていたら、どうなってしまう? 再び立ち上がろうとすると、同じように自分と共にここまで駆けてきた一員が、触手の移動によって轢き殺され、掻き消えた。
空間が、泣いていた。
悲鳴でもなく、音でもない。この世に存在するあらゆる法則が、軋みを上げながら崩れていく感覚。地面が軋み、空気が歪み、天井が血のように濁る。
「――■■■ ■、■――アァ……■■■!!」
異形の声が響いた瞬間、振動が天地を貫いた。
巨大な触手が狂ったように天井を貫き、壁を破砕し、支柱をへし折る。その一撃で数十人規模の部隊が、人間という形すら残さず吹き飛ばされた。
骨も、血も、叫びすら、どこにも存在しなかった。ただ消えた。存在という概念ごとそこから抜き取られたように。
「成功だわ」
その光景を見上げながら、女が笑う。金の髪を流し、赤いルージュが艶やかに引かれた口元を歪める。瞳は美しく青々と光り、異界の炎を宿していた。
「さすがね、所長も主任も。貴方たちの頑張りに感謝するわ」
とある研究室にて、機関の主任研究員が呪文を紡いだ。その詠唱は人間の耳には意味をなさない。だがそれが、ある悪魔を最悪な形で呼び起こすものであることは明らかだった。
「ありがとう、再会させてくれて。――ああ、会いたかったわ。会いたかったわ! 会いたかったの! わたしの大好きな……!!」
憲子は笑う。美しく汚れていて、冷酷に。
その声に呼応するかのように巨大な触手が柱を破壊しながら蠢く。
天井から吊り下げられた儀式用の水晶が砕け、吹き飛び、術者たちの頭を撃ち抜く。術者の一人が叫ぶ間もなく頭から捕食され、頭蓋と脳が一瞬で吸い取られて骨だけになった。
誰かが逃げようとした。逃げた先に、何もない空間が口を開いていた。触れた途端、身体が断裂する。左右に、上下に、ねじれて、肉の塊と化す。意味もなく笑いながら死んでいく戦士もいた。邪神が放つ呪気が脳を焼き、感情を歪ませていた。
「ありがとう、わたしの大好きな、彼女に会わせてくれて。ねえ、貴方も嬉しいでしょう!? 三人で、また……」
断末魔、破壊、消滅、狂気。人間の皮を被っていたものが今、剥き出しにされ、無様に崩れていく。
彼女のルージュを引いた唇が、口角を吊り上げ、頬が引きつるほどに笑い崩れる。身体を震わせ、恍惚のうちに両手を掲げた。まるでその身を捧げる巫女のように。
ズドン、と音が響く。
いや、音ですらなかった。ただ、空間が歪んだ。次の刹那、憲子の身体は存在しなかった。
何の予兆もなかった。何の警告もなかった。ただ、巨大な触手が彼女のいた場所を撫でただけだった。
肉の音も、血の飛沫も、苦鳴もない。そこにいたはずの女は、一瞬で、塵すら残さず消えていた。
誰も、叫びも、悲しみも、口にしなかった。ただひとつ、神の触手がゆっくりと蠢きながら、再び獲物を探していた。
「逃げろ……逃げろッ!」
誰かの叫びが響いた。
それはレジスタンスの隊員か、研究所の職員か、それすらも判らない。指示も秩序もなく、ただ本能だけが人間たちを走らせていた。
走る。転ぶ。叫ぶ。誰かの腕を掴む。誰かを突き飛ばす。生きたいと思った者たちが駆け出す。
だが、神は慈悲を持たなかった。
天井を突き破り現れた一本の触手が、まるで気まぐれな風のように横一線を薙ぐ。その瞬間、十数名の人間が、胴体から真っ二つに引き裂かれた。
肉が破け、臓腑が飛び散り、骨が白く突き出す。何が起きたのかも判らぬまま彼らは絶命した。あまりに一瞬すぎて、血の匂いすら遅れて届くほどだった。
別の触手が床から這い上がる。今度は逃げ遅れた三人を握り潰すように締め上げた。関節が砕け、甲高い悲鳴が上がる。一人はは銃を構えようとするが、それすら許されなかった。頭だけが残され、胴体が潰れて爆ぜた。
若い研究員が涙と鼻水を垂らしながら、壁に背を預けてしゃがみ込む。その横を、別の職員が足を引きずりながら逃げていく。逃げた先、天井から落ちてきた細い触手が、まるで蛇のように彼の口に滑り込んだ。
喉が膨れ、目が飛び出し、内側から裂ける。しゃがみ込んでいた者は、口を開けて何かを叫ぼうとした。だがその瞬間、天井から落ちてきた血塗れの瓦礫が彼の顔面を叩き潰した。
周囲の音が、消えていく。
泣き声も、悲鳴も、銃声も、やがて赤黒い肉片の中へと呑まれていく。
縦横無尽に巨大なそれが暴れ狂えば、建物に炎が上がった。
ドゥオン、と空気が爆ぜる。一本の触手が、施設中央にある配電炉を貫いたからだった。
高圧電流が奔り、管が破裂し、白い火花が四方へと散る。それが化学薬品の保管棚へと触れ、凄まじい爆発音とともに火柱が上がった。
誰かが悲鳴を上げる。だがそれすらも轟音に呑まれて消えた。
火は瞬く間に天井へと這い上がり、鋼鉄の梁を紅蓮に染める。
圧縮された蒸気が破裂し、通路の一部が崩れ落ちる。炎の舌が、まるで意思を持った蛇のように、壁を這い、床を這い、人間を舐めていく。
どこかで誰かが燃えていた。人間が火の中をもがきながら転がり、やがて黒い塊になって動かなくなる。
火は容赦など知らない。科学も魔術も、人の理も、この災厄の前にはあまりにも無力だった。
熱い、助けて……。
いたる所から絶叫が上がる。触手によって圧搾された壁が爆発し、赤い火が雪崩のように吹き出す。逃げ場など無かった。酸素が燃え、熱が皮膚を突き破り、人間の顔が、声が、溶けていく。
誰かがスプリンクラーの起動を叫ぶが、天井設備はすでに崩れ落ちていた。
水は無い。ただ燃える。ただ赤い――いや、黒く燃える死の色だけが、この空間を支配していく。
空気が焼け、視界が揺らぎ、酸素が奪われる。息を吸えば肺が焼け、目を開ければ瞼が張り付く。もはや生き物の住む世界ではない。
それでも、炎は燃え続けた。
それでも、触手は踊り狂っていた。
この世界を完全に破壊するまで、それは止まらないように。
/4
何かが焼ける匂いで目を覚ました。その匂いとは皮膚か薬品か鉄か、それとも人の肉か。
圭吾はぼんやりとした意識の中でその臭気を吸い込む。肺が焼けるように痛み、吐き出した息は血の味がした。
瞼が重い。頭の奥で鈍い痛みが鳴り、全身が鉛のように沈む。それでも、ようやく目を開ける。
地獄だった。
圭吾にとって故郷だった研究所の天井は崩れ、火が吹き出している。赤い光が黒い影を壁に揺らしていた。その影は人の形をしているようで、けれども動いていた。蠢いていた。
触手は太く、長く、異常に滑らかで、皮膚には目のような器官が無数に浮かんでいる。それが一つ、また一つと、焦点もなく瞬きをしている。まるで圭吾を見ているようで、見ていないようでもある。
「……っ……」
声が出なかった。喉が焼けつくように乾いていた。腕を動かそうとしたが、指先一つ動かなかった。
そのとき、触手の一本が遠くで人影を薙いだ。人影は一瞬にして消し飛んだ。抵抗も叫びもなく、ただ、存在が消えた。
また一人、火に巻かれた人間が転がりながら逃げようとし、炎に包まれて動かなくなった。
視界の先に、子供たちが囚われているカプセルの牢獄が見える。中には、微かに身を震わせる命があった。
(助けられなかった)
仲間も、子供たちも、誰も、何も。
圭吾はその事実を理解したとき、まるで魂が剥がれ落ちるような感覚に襲われた。
何もかも中途半端だった自分は決意して、ここまで来た。過去を背負い、罪を抱え、鍵を開け、辿り着いた。
けれど何もできなかった。
助けられないのなら、来た意味はあったのか?
この手で守れないのなら、自分は誰だったのか?
そんな問い掛けに答える人は誰もいない。火が唸る。触手が悲鳴の無い殺戮を続ける。血に伏せる床が熱に軋み、崩れかけていた。それでも、圭吾は動けなかった。
ただ燃えゆく世界の中に伏し、瞳を開いたまま、絶望の中で沈んでいた。
「圭吾」
自分の名前が、耳に届いた。
誰かの悲鳴でも炎のうねりでもない。静かで低く、耳元で囁くような声に確かに聞き覚えがあった。
圭吾はゆっくりと顔を上げる。焼けた床に片手をついて体を起こす。見上げた先に、仏田燈雅はいた。
かつての幼馴染。笑い合い、並んで神社の境内で座った懐かしい記憶……の存在とは、まるで別人だった。
黒い法衣のような衣が風も無いのに揺れている。肌は異様なほど白く、血管が浮かび上がり、薄く光を帯びていた。そして紫色の瞳だけが、あの頃のまま、ただ真っ直ぐと圭吾を見下ろす。
視線には、人間の感情の温度が無い。
邪神の触手が、まるで臣下のように彼の傍らを這い、通り過ぎていく。燈雅に一切触れようとしない。それどころか愛おしそうに細い身体を撫でていった。
燈雅を愛するように、いや、燈雅の中身を愛するように。
「起きられるか、圭吾。まだ死ぬには早いだろう? お前はこれに撫でられたわけでも焼かれたわけでもなく、ショックで気を手放しただけなんだから」
声はいつかと同じ音色だ。けれどその中には深い哀れみと嘲りが混じっているように聞こえる。
圭吾は立ち上がれないまま、焦げた床の上から問いかけた。声は掠れ、喉の奥で血が絡んでも、彼と話がしたかった。
「仏田寺と……機関は……こんな、こんなことをしたくて、動いていたのか……?」
炎の熱が肌を刺し、崩れた天井から瓦礫が時折落ちる。邪神の触手が遠くで建物の構造を蹂躙しながら蠢いている。そんな中でも、燈雅は静かに笑う。
「うん。そうだよ、圭吾」
声には一片の躊躇いは無い。優しげで、穏やか。それゆえに底知れない異様さがあった。
「千年前から、オレたちはずっとこの時を目指して動いてきた」
燈雅は瓦礫の中、伏せる圭吾の前に膝をつく。
「ある異端を復活させるためにね。……ただの異端の女だった。ただ、邪神の装具……異端の親玉の近しい配下だったんだ。彼女の親玉は時空の狭間で起きた大きな戦に負けてしまって、敗退した彼女も小さくて弱い異端になった。彼女は、本来の力を取り戻すべく食事をするため強そうな人間を狙った。……けれど彼女は食事ができずに死んでしまって」
触手が天井を貫き、新たな火花を散らす。美しい燈雅の顔をキラキラと彩った。
「代わりに、娘となった異端が死体の彼女の口にたくさん食事を詰め込んだ。千年分の血肉を口に、たくさん。そのおかげでようやっと本来の姿に戻った。本当の邪神ほどじゃないけど、親玉に近いぐらい強くなったね。……主任研究員である夜須庭先生は元気になった彼女を歌声で目覚めさせたようなものだよ」
その結果が、これ。
語る目には、狂気も嘲笑もない。ただ真実を語る者の静かな語りだけが響く。
「愛する母親を蘇らせるべく、娘は千年間、餌を集め続けた。元気になってもらうために、生き物の血肉が必要だった。数えきれない命が必要だった。蘇ったら、元気に生きてほしい。その一心で。……愛した男とその姿が見たい。娘はそう願って、さっき、叶えて、逝ったよ」
「娘って……その男って」
「娘の名前を言っても圭吾は判らないだろ。でも、男っていうのはオレのこと。正確には、オレが代々引き継いできた始祖のことだけど」
復活した悪魔は満腹で真の姿になって、元気な様子ではしゃいで生きている。
愛した男の魂を発見して、手を伸ばして……こうして撫でている。
さっき愛した娘を撫でようとして、力加減を間違えて潰してしまったけど。でもそんなお茶目なところも娘はきっと大好きで、満足したまま逝ったに違いない。
そう語る姿に、圭吾は言葉を失った。
「圭吾や新座がいた……レジスタンスだっけ。そいつらが追っていた犯罪は、ただの副産物だったんだ。オレたちの本当の目的は、ただ愛する人を蘇らせたかっただけ。仏田寺も機関も、全てはそのために存在していた」
「……人外種族や特異能力者を攫っていたのは」
「我が家の金を稼ぐ為でもあったけど、一番は、彼女が元気にする栄養素の高い餌になってもらう為、だよ。上門 狭山と夜須庭 航は、そのどっちも頑張ってくれた。餌の確保と集金、千年間の集大成を完成させてくれてありがたかったよ」
炎がさらに広がり、崩れた床の向こうで何かが破裂する音が聞こえた。
光と熱と狂気が、この空間全てを包んでいく。
「一番の功労賞は夜須庭先生だろうけど、オレは、上門所長に深く感謝している。あの人は個人的な願望で神の顕現を望んで、ここまでやってくれたし……お前を造ってくれた。ちゃんとお礼を言うべきだったかな」
「……燈雅は、それで良いって思ったんだ? 千年前に復活を願った連中に従って、復活させて、こんな地獄を作って。……満足か?」
「ここに生まれて何も疑問を持たずに暮らしていた圭吾がそれを言うか?」
吐息のような声が、熱で揺れる空気を伝って届く。
崩れた天井から火の粉が舞い、遠くでは悲鳴がまだ消え残っていた。
瓦礫の山、焦げた鉄骨、赤く染まる空間。その中で倒れ伏す圭吾の前に膝をつき、黒衣の裾を汚すことも気にせず、まるで兄が弟をあやすかのように髪へと手を伸ばす。
優しく、異形の力に祝福された身体とは思えないほどに柔らかい仕草で、いつかの行動をなぞる。
「なあ、圭吾。……覚えてるか? オレは、何度もお前に尋ねたよな。この家のことが好きか嫌いかって」
圭吾の瞼が動く。瞳の奥に、遠い過去の影が揺れた。
「あのとき、お前が『嫌い』って言ったらさ……オレ、お前の為にこの家ぶっ潰したかもしれない」
小さく笑う。とても呆気なく、本当に楽しげな笑みで。
もしもその問い掛けの瞬間、「嫌い」と言っていたら、この地獄はもっと早くに訪れていたかもしれない。
燈雅の手が、優しく圭吾の髪を梳く。触れるたびに静電気のような魔力が走る。その異質な現象はもう人のものではない。けれど動作はあまりにも人間的だった。
「でも……お前、『好き』ですらなく、『わからない』だったんだよな。好きならオレだって本気で責務をこなしたよ。迷わず、無心で没頭した。けどお前は、中途半端な態度を取って……オレをどっちか確定させないで、嘲笑うように曖昧な答え方をして」
自然と燈雅の声音が早くなる。
そして圭吾の頭に添えられた指に、少しだけ力を込める。
「ううん、誰のせいでもない。圭吾のせいでこうなった、って言おうと思ったけど……止めなかったのは、結局オレ。計画を今年しちゃおうって所長や主任を後押ししたのもオレ。ふふ。圭吾は、なんも、悪くないな……」
「……そんなふうに言わないでくれ」
圭吾は触れられた指を払うように、微かにかぶりを振った。その声は、焼けた喉を裂くように震えている。同じように震える手を、しゃがみこもうとしている燈雅へ伸ばした。
赤い炎の中。掠れた声でも、それでも絞り出すように叫ぶ。
「俺が悪くない? じゃあお前が自分の意思でやったって言うなら……俺は、お前を止めなきゃいけなかった。……燈雅、やめよう。止めよう。こんな笑い方、やめろよ……!」
崩れ落ちた身体を無理やり支え、伸ばした腕で、燈雅の頭を抱え込む。憎しみも怒りもなく、ただ、どうしようもない痛みだけが宿った体で燈雅を抱きしめた。
熱が視界を揺らす。煙が呼吸を奪う。それでも、圭吾は言い放った。
「そんなふうに、諦めて笑わないでくれよ……大好きなお前のそんな顔、見たくない。そんな顔、させたくない。大好きなのに、させてしまって、俺は……俺は……」
「俺は、何だよ?」
「……昔、言ったじゃないか。なんで、忘れるんだよ」
「何」
「俺、必死に言ってみせたのに。俺になんでも言ってくれって言ったのに。燈雅に嫌なことをしてくる奴がいたなら俺がそいつらをぶっ飛ばしてやるって言ったのに。……俺は、燈雅のことが、好きなんだから、できるって、言ったのに、なんで、言ってぶっ飛ばさせてくれなかったんだよ!」
支離滅裂な言葉が、炎に溶けて消えていく。
燈雅は暫く慟哭を聞いていた。ただじっと圭吾の腕に抱かれたまま、体温よりも迫る炎の熱さを感じていた。
やがて、燈雅の肩が僅かに震える。
「なんで! ……助けてって、俺に、言ってくれなかったんだよ……。俺は、俺なら、したのに、お前を助けたのに、何をしたって、お前のことを、絶対……」
「本当に格好つかない奴だな、圭吾は」
ぽつりと呟いたその声は、かつて聞いた少年の声と変わらない。
「その場その場で優しいことを言ってみせて、綺麗なことを言ってみせて、それで全力で生きていて……。ああ、お前に助けを求めたら何か変わったかもしれないな。優しくしてくれるお前と一緒に、あのとき逃げれば、違っていたかもしれないな」
「そうだよ、そうなんだよ」
「でも、もう、どうしようもないことなんだ。時間が戻ることなんて、無いんだから」
言い切る前に、燈雅が圭吾の顔にそっと手を添える。
汚れない指先が圭吾の頬をなぞる。焦げ跡、血が滲む皮膚、涙で濡れた睫毛、一つ一つを確かめるように、愛おしむようになぞっていき、ゆっくりと顔を近づけた。
「こんな化け物を目にしたときでも、オレのこと好きだって言う圭吾。忘れていたけど、変な奴だったよな。……面白くって、やっぱりオレ、好き。愛してた」
唇と唇が触れた。
圭吾の目が大きく開かれる。
そんな言葉で会話を終わらせようとしないでほしい。そう伝えるべく、抗おうとした腕を動かす。だが力が入らない。振り払おうとしても何故か動かない。
何の契約でもなく、誓いでもない。熱と血の匂いにまみえた空間で、破滅の只中で交わされたキスを最後に……彼の唇が何かを告げようと動いた、その次の瞬間、突如燈雅の肉体が霧散した。
/5
一瞬の出来事だ。燈雅の唇が離れ、優しげに微笑んだ、その刹那。抱きしめて口づけてくれた体がどうして消えたのか、圭吾には理解できなかった。
音もなく、風もなく。目の前にあったはずの燈雅の姿が消えている。
最初から何も無かったかのように虚空へと溶けえいて、呆然と五秒ほど固まる圭吾は、遠くで何者かがゴホゴホと激しく咳き込んでいるのに気付いてそちらに顔を向けた。
火の粉が飛び、煙が漂い、壊れた壁の向こうで触手が今も人々を狩っている。怯えながら見渡す視界の隅、崩れた鋼材の下……血の滲んだ破片の隙間に、人影があった。
圭吾は本能で駆け寄った。瓦礫を掻き分け、熱で焼けた鉄を押し退ける。崩れた支柱の下に横たわっていたのは、兄だった。
既に瀕死に近かった。
車椅子生活が長く、元から使われていなかった脚は鋼材に押し潰され、血で濡れた上着の下では肋骨が幾つも折れていることが一目で判る。
割れた眼鏡が顔の皮膚を裂き、無残に血で汚している。それでも、彼の顔は笑っていた。そして指先には、魔法陣の残滓がまだ微かに光っている。
「兄貴っ!」
圭吾の叫びに悟司は僅かに目を開け、口元に苦しげな笑みを浮かべる。
「……無事……だったか……」
「燈雅は!? どこにやった!? なんで……!?」
問い詰めるように叫ぶと、悟司は僅かに肩を揺らした。咳とも笑いともつかない、命を削る動きだった。
「……言っただろ『何かあったら、飛ばしてやる』って……」
「あれ、俺じゃなくて……燈雅に使ったのか!」
触手がいま近寄ってこないのは、遠くに飛ばした燈雅を追いかけているから。そのことに気付くよりも、圭吾は、悟司の命が魔法の代償として削り尽くされようとしている現実に目を奪われる。
「バカかよ、そういうのは、自分に使えばいいじゃないか……!」
「……圭吾の声が聞こえたから、瓦礫の下で詠唱を頑張っていたんじゃないか。兄なんだから、弟ぐらい、助けさせろ。それに、お前をすぐ飛ばしたら……お前がここに来た理由、果たせない、だろ」
悟司の視線が、煙の向こうの壁へと動く。
「……今なら、助けられるかもしれない……。邪魔がいない、今なら……圭吾、なら」
圭吾の胸に、何かが突き刺さった。
触手はいない。燈雅もいない。今が、最後の好機。
気づいた圭吾は立ち上がった。ざっと走り出す。
扉を開けたまま放置された中へと、厳重な牢獄ゆえに多少の衝撃では崩れていない監禁部屋へと滑り込む。
圭吾が役目を果たすため、無我夢中に走る。その後ろ姿を見送った兄は、自らの使命を果たしきって、静かに眠り始めた。
その先だけは、奇跡のように静かだった。
建物全体が崩れ、触手に貫かれ、紅蓮の炎があらゆるものを焼き尽くす仏田寺の最奥、地下監禁区画の一室。厳重な結界に包まれた牢獄は、未だに外の混沌から守られていた。
閉じ込められた少年少女たちは、まるで眠っているかのようだった。
いや、正確には眠らされていた。意識を封じられ、言葉も思考も感情さえも奪われて、ただ囚われ続けていた。
そんな彼らの前に、一人の男が現れた。
全身を煤で汚し、息も絶え絶えに、膝をつきながら崩れた扉を押し開けて……無様な姿で辿り着く。
戸を開けるのは簡単でも、そこから一人一人の救出は儘ならない。本来なら大勢と共に彼らを安心させながら救出する筈だった。それが敵わなくなった今、圭吾は一人で、声を張る。
「助けに……きたから……!」
手を伸ばし、解除装置に指を添える。
ぱしんと圧力が抜ける音と共に、透明な蓋が開いた。
ある少年は、虚ろな目で天井を見つめていた。反応は無い。でも微かに、呼吸はあった。生きていた。
「大丈夫だ……もう大丈夫だから! ここから、出よう……!」
少年の目に、小さな光が宿る。それはほんの微かな意志だった。
圭吾は次々に拘束を解除していく。少女が一人、肩を震わせながら睫毛を動かした。唇から、薄く「……たすけて……」という声が漏れる。
その声を聞いた瞬間、圭吾の頬を涙が一筋伝った。
「ああ、助ける……助けるとも……! 助けてと言ってくれたなら、俺は絶対に助ける。助けてあげるからな、だから、言ってくれ……絶対に聞き逃さないから……」
抱きしめた腕の中の少女が、小さくしゃくり上げた。
泣くことができる、生きた少女だった。
炎の轟音、崩れ落ちる天井。それを回避するべく、圭吾は幼き頃に過ごしていた研究所の記憶を引き出す。
(絶対に仲間が近くにいる筈なんだ……全部やられている訳が無い。だって近道通路を、俺が教えておいたから! 逃げている筈なんだ……そこまで行けば俺も彼らもみんな助かる!)
兄貴が時間をくれたのだから、諦めるわけにはいかない。
圭吾は、今できる全ての力で子供たちの手を引き、背負い、腕に抱え、叫んだ。
「生きるんだ! ここから、生きて出るんだ!」
瓦礫の中、火の粉が舞うその場所で、命を奪う者が支配していたこの空間で、命を救う者が声を張る。
ある少女が、怯えながら立ち止まった。生きたくてもその力が乏しい、か弱すぎる少女は炎を見れば歩むことを諦めてしまう。
それでも圭吾は彼女の手を掴んで、走るように激励した。
「逃げよう。外に出よう。少し走れば……綺麗な景色の神社があるから、それを見るためだと思って、さあ走ろう!」
応援の声に、俯いていた少女は自然と頷いていた。
/6
下っ端研究員の不意打ち魔法で飛ばされた燈雅は、ぼんやりと炎に包まれる境内を眺める。
辺り一面が、燃えていた。
軋む音がする。建物が崩れる音か、それとも骨の砕ける音か。悲鳴と歓声が混ざり合い、何かが爆ぜるような爆音にかき消されながら、世界が地獄と化していく。
そんな光景を、絵画や写真を鑑賞するかのように燈雅は眺める。
満腹で元気になった異端は本能のまま暴れ、始祖の魂を含んだ当主の器を殺そうとはしない。だから燈雅だけが別の時の流れに取り残されたかのように、燃え盛る世界をただ眺めることができた。
赤黒い炎が跳ね、血と肉が地を塗る。頭を掻きむしりながら叫ぶ女。その頬に刃を突き立てる男。目の前で誰かが命乞いをしている。だがそれらの声は誰にも届かず、無数の異形が人々を引き裂いていく。
四肢の定まらぬその存在は、もはや生物というより、歪んだ塊だった。見た者を狂わせ、祈る者を焼き尽くし、愛する者同士さえ殺し合わせる。人間と相容れない生き物。世界を歪ませる存在。異端なんて、そんなもの。
だというのに……そんな異端を愛する人間も、いた。
(始祖様って人は、とんだ変人だ。圭吾と同じぐらい変な奴だよ、きっと。……化け物を好きになっちまうところとか、そっくり)
自分の先祖ではあるが、圭吾と始祖は似ているなと燈雅は薄く思う。
人を無駄に助けたがるところとか。半端に優しいところとか、なのに半端に厳しくあたろうとするところとか。でもやっぱり優しくて、なんでも頷くところとか。……そういうところ、両者とも嫌いじゃないな、なんて考えたり。
「……綺麗だな。オレが嫌だったもの、全部綺麗に燃やしてくれて。ありがとう」
邪神に感謝を告げる。誰にも聞こえない声が、焦げた空に溶けていく。
焼け落ちる山。地を這う亡者。骨にまで焼きつくような業火。その全てが、燈雅にとってはただの祝福でしかなかった。
けれど、どうして触手は圭吾を気絶させる程度で食べようとしなかったのだろう。あんな鈍間な一般人、いつでも口に入れられる状態だったのに。
(オレの最後の火を尊重してくれた? なんてね)
逃げ惑う人の一人、あれは機関の研究者なのかレジスタンスの兵士なのか、誰かも分からない誰かが燈雅を見て、言葉を詰まらせる。助けを求めることさえできないまま、今まさに右胸を触手に貫かれ、地に伏した。
しかし左胸ではないから即死ではなかった。貫かれたその誰かが、燈雅を見上げる。そして助けを求めない。
なぜ助けを求めないのか。
ここに綺麗な四肢のまま立ち尽くす男がいるのに。
なぜオレは助けを求めなかったのか。
綺麗な心のまま助けてやるって意気込んでいた圭吾がいたのに。
(……お家騒動に巻き込みたくなかったに決まってるだろ。圭吾の力をあの日消したのだって、その一貫なんだから……)
家のことを改めて思い返して、圭吾にも兄がいたことを思い出す。兄弟? そうだ、オレにも弟がいた。弟もきっとここで戦っている。実の弟にはいい顔したいな、守ってやりたいなって思った日もあった気がする。無かったかもしれない。どっちにしろ、ひどいことして、ごめんな。
ぼんやりと立ち尽くして、燈雅は次々と思案する。狂気の異端が踊り狂っている間にも、人々が地に伏せ、赤い炎が舞い上がる中でも。
焼けた空の下。焦げつく匂い。泣き叫ぶ声。焼け落ちる骨の音、潰れた臓腑を啜る音。全てが耳をつんざくはずなのに、奇妙な静寂が、彼の内側にはある。
この世界の終わりにも似た混沌の中で、やはりただ一つ彼の意識を占めるのは、圭吾――あの、何も知らずに、何も出来ずにいたのに笑う男のことだった。
逃げるか?
あの日、手を掴んで連れ出してくれた少年の姿。汚れて擦り傷だらけで、なのに真っ直ぐで、どこまでも人間らしかった。照れて格好がつかない声でも、あのときの圭吾は輝いて見えた。
オレが欲しかったものを一番に言い出してくれた。
本当は、自分も言いたかったに決まっている。
うん、逃げたいって。
けれど、言えなかった。言えなかったから、今ここにいる。焼ける寺院、喚く魂、血に染まる夜空。自分が選んだ正しさの果てに、圭吾のその手を握り返せなかった。
炎が近づいてくる。肉が焦げ、骨が露わになるその光景さえ、もはや心を動かさない。だが圭吾の声だけは、焼け付くように胸に残る。
逃げるか?
逃げたかったよ。
胸の奥で、もう圧し潰されていなくなった自分が呻く。そう言ってしまえば、何かが崩れていたかもしれない。でも、それでも、きっと幸せだったはずなのに。
逃げたいと言えなかった自分の罪を、炎も血も、狂気の神ですら裁かない。誰もそれを罰してはくれない。
だからこそ、この地獄に立ち尽くすしかないのかもしれなかった。
もう一度、圭吾が現れてくれたら――そのときは、あの言葉を言えるだろうか。
「助けて」
吐息のような声。初めての言葉。
叶わぬ幻想を抱きながら、燈雅はただひとり、届かぬ主張を呟いた。
誰に向けたわけでもない。焼け落ちる生家と狂騒の神、人が死に絶えた空に向けて、燈雅の口はその音を零しただけ。そんな言葉が自分の口から漏れたこと自体、燈雅自身が驚いていた。
濡れたような音と共に、何かが燈雅の背から胸へと、鈍く冷たく突き抜けた。
呼吸が止まる。肺が咳をする前に血で満たされていく。視界が赤黒く染まりながら、燈雅はゆっくりと、自分の胸元を見下ろした。
突き出されていたのは、銀の装飾が施された長剣。確かな鍛造と無骨な実用美。そして――剣の持ち主は、静かに彼の背後に立っていた。
当主守護のためだけに創造され、あらゆる敵を倒すために作られた、忠誠の化身のような男。その戦士が、ただ静かに、燈雅の背中へと剣を刺し込んでいた。
「……男衾、か……」
燈雅の声が、血に濡れて掠れる。
男衾は答えない。ただ忠義の者として、それが正しき行為であるというかの剣を突き立てていた。
何故。その問いすら終わることなく、男衾は口を開く。
「貴方は『助けて』と仰いました。ならば、お助け致します、我が主。貴方を、この地獄から」
炎と血に染まった中、男衾の剣は微動だにせず、静かに主人の心臓を貫く。
見事な忠誠だ。あまりの見事さに、これを生んだ機関という研究所はとても良い仕事をしていたのだと初めて体感する。嗚呼、そうか。これがオレの、望んだ助けか。
痛みよりも先に、そんな理解が燈雅の脳裏をよぎる。
助けてと言えば、助かった。そうだよな、圭吾。そうするべきだったんだよ。
頬を伝った一筋の涙だけが、最後に彼が人間だった証として焼けた大地に落ちていく。
彼の魂を愛する女が一段と踊り狂った。強大なそれを抑え込もうと戦う者達がいる。そんな彼らの活躍を見ることなく、仏田家当主は目を閉じた。
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