■ 23章 if カイン/1



 /1

 中庭を歩き出す。そこに行ったって何もないのは判っている。八年前、ここで殺された誰かの死体があるわけでもなく、血痕が残っているわけでもない。だけど、あの出来事をを思い出してみた。

 ―――確か夏。
 私は確かに、ここで血まみれの身体で呆然と突っ立っていた記憶がある。断片的な夢を継ぎ合わせれば判る。夢は、―――遠野の屋敷から帰ってきて見ていた夢はずっと、繋がっていたんだ。
 バラバラになって、パズル状になって、―――全て、曖昧な記憶として私の頭に残っていた。ただ、私はそれを組み立てる勇気が無かっただけ。夢は夢でしかない。そう思いこんでいた。

 本当の所、何処までが本当の記憶で、何処までが自分が創り出した幻想なのかは判らない。
でも、今までこの屋敷で見てきた夢は、全て現実的。そう信じれば、周りで起きている不可思議な現象……現実が全て受け止められる。

 一つ、受け止められないと言えば―――やっぱり、それに全て『一人で』納得出来ないということか。

「……言ってる事、滅茶苦茶じゃない自分……」

 ……秋葉の言う様によると、私が養子の殺したみたい、だった。そして夢の中に、血まみれの自分と血まみれの男の子の姿があった。
 ―――でも、どうやって? その事は今みたいに刃物を持ち歩く趣味もなかったし、何より『線』も見えてなかった。
 森。屋敷の中庭。広場。ここに子供達を真っ赤にさせる凶器があったのだろうか。

「―――お嬢様」

 静かな森の中、風に乗って翡翠の声が耳に届いた。振り向く。そのまま翡翠は、……私の目の前にまでやってきた。

「…………翡翠は、何も知らないの?」
「―――」

 もう一度後押ししておく。
 黙ったまま、頷きもしないしかぶりも振らない。ずっと苦そうな顔をしたまま。

「翡翠―――本当の事、教えてくれない?」

 翡翠の顔を覗き込む。翡翠の身体は何一つ動いていない―――わけではなかった。目だけが、蠢いている。
 ―――それは、涙。必死に我慢していた……。

「………………し、…………き…………」

 翡翠はずっと前から、今も堪えていたんだろう。堪えて、今まで―――。

「―――俺は、お嬢様が殺されるのを、此処で見ていました」
「―――っ」

 唐突に。……何も、答えることができなかった。
 翡翠に言われて、また新たな事実と夢の現実味が出た。何だか此処、見たことあるなと思ったら―――あの夢の舞台だ。死体も血痕もないけど、木も草も全て変わってしまったけど、雰囲気が、此処だと教えてくれた。
 そして、翡翠も真実を私に教えてくれる―――。

「夏の、暑い日の事―――。俺がまたお嬢様を誘って、あの離れからここに連れてきた時。秋葉様を庇って、―――お嬢様は、此処で、シキに殺されました」

 重そうな口を、一生懸命動かした。言い切った時には、もう息をするのも辛い程、苦しそうだった。

「……私が、私に…………?」
「―――いいえ、違います。秋葉様を殺そうとしたのは、志貴お嬢様を殺したのは―――四季でした」

 シキ。
 同じ音。
 その同じ名を声にすると、微かに翡翠の声が、震える。それは恐怖ではなく、怒りのように見える。

「…………ちょっと待って。ここで殺されたのは養子の方なんでしょ? なら、殺されたのはその人じゃ……」
「いえ。殺されたのは、お嬢様、貴女です」
「でも、それって………………」

 それじゃ、そういうことになる。

「―――」

 ―――そういうことなのか。
 ずっと殺されたのは養子の方だと思っていた、そしてそれは本当の事で。
 ただ、生きていたのは男の子の方だったんだ。

「…………そっか。私の方が偽物なんだ」

 ―――全く。琥珀さんは間違ってはいないけど、言い方が適切じゃない。養子というから、ずっと男の子だと思いこんでいた。

「…………お嬢様は、七夜という家柄の唯一の生き残りなんです。それを、……自分の息子と同じ名前だ、と偶然に面白がって槙久様が」

 養子に……いや、養女に取ったと。
 物好きなお父さんの顔が思い出される。そういえばお父さんの部屋を調べたあの日。不思議な単語が家系図に記されていた。
 アキハ、とシキ、という二人の兄弟の名前の下に……『七夜』と。……じゃあ、あのナイフはもしかして……?

「同じ……名前か。どうせ養女にするんだったら、名前変えちゃってもいいのに」

 ちょっと裏をいじれば人の年齢だって変えられる世界なんだから可能だろうに。
 ……って、お父さんは『シキ』という名前に面白がって引き取ったんだっけ。まさかだと思うが、人が混乱しているのを見て楽しんでいたんじゃ……あの化け物じみた父親なら有り得る事かもしれない。

「ですから、お嬢様が迷われるのも無理はありません。志貴お嬢様は本当の娘になるように遠野家に引き取られました。秋葉様の姉として、本当の御姉弟になるようこの屋敷で暮らしていました―――二年ほど」

 二年経って、私は殺された。琥珀さんが教えてくらたとおり、『十年前に親を亡くし』、『二年後事故で亡くなった』と。
 ……それが、自分の事だとは、―――ショックだ、といえばショックだ。
 言われて次々とあの時の疑問が解決されていく。……初めからお父さんとは気が合わなかったし、屋敷にも違和感を憶えていた。屋敷の戻ってきて自分が使っていた部屋だと案内されても暮らしていた記憶の欠片は見当たらず、そして離れの畳の部屋には沢山の想い出が……。
 翡翠との、秋葉との、―――彼との想い出が。

「……けど、ちょっとおかしいな。遠野家にはみんな変な力を持っているんでしょ? 秋葉もその子もそうらしいけど、私は一体……」

 どうして、こんな『眼』を持ってしまったんだろう……。
 シエル先輩に、『遠野の人間には特異能力をもって生まれてくる』と言われ納得していた。シエル先輩はどうやら私の力はナイフにあると思っていたようだが、ナイフな何も関係がない―――筈だ。七夜、と本当の名前が彫られていたとしても。

「―――それについては、詳しくは存じません。しかし、志貴お嬢様も遠野家のような特殊能力者の家系ではないのでしょうか」

 ……あぁ、成る程。それなら納得が……いくものなのかな。そんなに沢山超能力者がいるんだろうか。

「……それで、どうして殺された私が生きていて、その本当の遠野の人間はどうしているの?」

 ……翡翠は、空を見上げた。
 真っ暗だと思いきや、空は青く、綺麗だった。
 月は、半月。綺麗にまっぷたつに斬られた月が空に浮かんでいる。
 ―――新月と満月なの夜など月に殺人鬼は影響があるという話をよく聞くが、今日もそれに関係あるのだろうか。真っ白で二つに割られた月を見ているだけで、……胸がドクドクいいだした。

「―――志貴お嬢様は、四季に胸を突かれて瀕死の状態になりました。その後、お嬢様は奇跡的に一命を取り留めたのです。志貴お嬢様は助かり、槙久様に処罰された四季も一命を取り留めました。……ですが、四季は人間に戻る事はなく……」
「……そう」

 秋葉が、前にいきなり自分に対する躾が厳しくなったというのはこの事だった。本当の長男が消え、一企業のトップである遠野家を継ぐ男子として秋葉は育てられたのだ。
 ……成程。女だからとか、身体が弱いとかで私を遠野の屋敷から追い出したのではなかった。ただ、本当に血の引いていない人間継がせるのが嫌だった、それだけの話なんだ。
 本当に、迷惑な親…………。

「―――お嬢様……その」

 翡翠が声をかけて、言葉を詰まらせる。
 何を言ったらいいか、ただ頭を下げるしかない、そう思ったのだろう。

「……謝らないで、翡翠。……翡翠も、確か琥珀さんと一緒にこの屋敷に引き取られたんだよね。……その、辛かったでしょう?」
「いえ、俺は……! ……俺は、何も知らないで……ずっと平穏と暮らしてきただけでした。…………四季や、志貴お嬢様や、兄さんに比べれば、俺は何も苦痛を味わってはいない……!!」

 翡翠が叫ぶ。
 ……同時に胸の古傷が痛んだ。この傷はずっと痛む事がなかったが、急にそこが締め付けられたみたいに苦しくなった。

「……秋葉様は、お嬢様が有間の家に引き取られた時、お嬢様の本当の事を告げられたそうです。ですが、秋葉様の御姉弟は、志貴お嬢様しかいないのです」
「そんな事…………」

 そんな事は、……もう解っている。秋葉も、翡翠も……ずっと苦しんでいたというのに、私一人気楽に暮らしていた。それが、自分が憎くて堪らない。何もしてやれずに、八年も時が経ってしまった事。帰ってきてもロクな事が出来なかった事。
 秋葉は、そんな私を、他人を呼び戻す必要なんてなかった。それでも私のことを姉だと思ってくれた。それだけで、なんて幸せ―――。

「……それじゃあ、その人はどうしてるの…………その、四季は」
「……はい。お嬢様の体力の衰弱は、八年前の事件が原因です。あの時、お嬢様の命を奪った四季は、お嬢様の命を使う事で生き延びています。お嬢様が唐突に原因不明の病で倒れるのは、おそらく四季の意識に原因があるかと思われます」
「…………なるほど…………」

 さっきから頷いてばかりだけど、何年も判らなかった事が一気に解決して、何だかもう夜が眠れない原因は無くなっていくような気がした。
 ―――先輩の言っていた『意識が弱まるとあっちの意識に取り込まれる』、こういう事だったのか。
 それじゃあ、私と四季は、本当に双子みたいな存在で……?

「顔もあんまり覚えていないのに、キョウダイなんだ…………」

 四季を、どうにかしなければ私の万年貧血は治らない、ということなんだろう。

「―――四季は、もう既に人間に戻れる術を持っていません。……何故か、行方不明になっていた四季が殺人鬼として街を徘徊していますが、いずれしかるべき処置を受ける筈です―――遠野家の当主である、秋葉様によって」
「秋葉……?」

 そして、当主……?
 翡翠は続けて二つもワケが判らない事を口にした。

「秋葉様は―――いえ、遠野家の当主は、人の道を外してしまった者を処理する使命を持っています。寿命ではなく、狂ってしまった者は全て―――他の被害が出る前に処置するのが当主の役割です」

 処理、ってつまり……。

「四季は、お嬢様を殺した八年前に処置を受ける筈でした。ですが今、街で新たな被害を出している以上、当主は遠野家の恥を取り除かなければなりません」

 殺人、というわけで……。

「今、秋葉様は兄さんと共に屋敷に出ているのは―――」

 四季を殺しに………………。

「ま、待って翡翠っ。私は秋葉とは本当の姉弟じゃないっていうのは判ったけど、四季は秋葉と本物の兄弟なんだよね……? なのに……!」

 遠野家の当主が、人の道を外してしまった者が何とか、という意味ではなく―――血の繋がった兄弟で、殺し合う―――ということになる。

「―――それが、遠野家の当主の使命です」

 ……当然の事のように翡翠は言ってのけた。思いの外冷たいその口調。翡翠の声には、また怒りの色がまじっていた。

「四季は―――お嬢様を苦しめている。秋葉様は少しでもお嬢様のお身体を気遣って……」
「そんなのっ、問題じゃないでしょ!」

 ―――秋葉は、とても優しい子なんだ。
 その優しい秋葉が、そんな事…………兄殺しなんて。

「秋葉は……それで納得してるの? だって、まさか……当主だからって……それだけじゃないっ」
「現に秋葉様は四季討伐に屋敷を後にしています」

 翡翠は、嘘を言っているようには見えなかった。
 そして、蒼い夜の中に聳え立つ屋敷には、……人がいそうな気配はしなかった。

「――――――何処にいるの」

 二度目。
 翡翠に、秋葉達の居場所を問うのは二度目だった。
 眉を歪める翡翠。口止めされてるのは判っている。今までの話も、八年前の真実もきっと秋葉達に口止めされていたんだろう。……翡翠自体言い出したくなかった厭な記憶かもしれないけど。

「――――――場所を教えたら、どうするおつもりですか」

 その応えも二度目。
 振り出しに戻った、そんな感じがした。だが今度は答えてみせる。

「秋葉を止める。だから教えて」
「………………お断りします」

 当然の答えが返ってきた。
 今の翡翠の答えは主と兄に命令されたからではなく、―――私の身を案じて言った事なんだろう。

「俺は、お嬢様を護る義務があります―――」
「義務なんて、そんなの……っ!」
「―――義務でなくても、俺はお前を護りたい!」

 ―――風に乗って、ではなく、風を切り裂いてその鋭い声は私に届いた。

「俺は…………あの時、何も出来なかった…………から、今は、もう…………」

 翡翠の気持ちは、痛いぐらい伝わってきた。俯いて、目も見せずに訴える姿。
 危険があると判っておきながら、それでも危険に入っていく人がいたら、私はどうするだろう。―――問うまでもなく、止めるに決まっている、が。

「…………判ってないだけ」

 翡翠に背を向けて歩き出す。
 翡翠は、其処から動かなかった。
 ……秋葉も、―――ただ気付いていないだけ。
 ……八年前、その後も『人間には戻れないだろう』と処理された彼。
 そして今、本当の弟によって処理される彼。
 翡翠も、彼の事を『殺人鬼』と表現した。
 おそらく比喩でもなく本当の事を言ったようだった。

「お嬢様……っ!」

 翡翠が呼び止める……だけだった。

「…………本物の吸血鬼とか殺人鬼だったらね、自分を見られたら真っ先に殺すだろうし、珈琲も一晩中奢ったりしないわよ」
「は……?」

 なんて、惚けた声を出す。
 翡翠が動いていないのを確認して、走り出した。

 ―――正門までやってきた。まさか正門に鍵がかかっていて出られない……なんて事があるだろうか。だとしたら見回り担当の翡翠にお願いしなくては出られないのだが。
 アルクェイドみたいにぴょーんと塀を乗り越えられる力が欲しい……なんて、本気で思ったり―――すると、勝手に正門が開いた。

「え……?」

 まるで自動ドアのように、私は触っても近寄ってもいないのに……。
 ―――だが、独りでに動き出す門なんて無かった。正門の外に、……翡翠が立っていた。

「…………え」

 同じようにまた声が漏れてしまう。驚き。何で、翡翠が正門を開けてくれたのか。……そもそもいつの間に私を追い抜いて外に出たのだろうか。
 あの中庭で、一つも動く気配もしなかった。なのに……瞬間移動。そんな特異能力は無いと思うが、代表すべき『特殊能力』の一つではあった。
 翡翠は、まだ門の内側にいる私を見ている。

「……翡翠。その……留守番、お願…………」
「お断りします」

 また、断られた。
 毎度お願いをするものの、翡翠に了解と言われた記憶があまりない。朝起こしてほしいというのも、その他色々……。
 冷静沈着、任務一筋なんてロボットみたいな印象を受けていたが、どちらかというと琥珀さんとの喧嘩あたりから一直線、猪突猛進、……というか頑固者。この一言に尽きる。

「お嬢様、一体一人でこんな夜更けに何処に向かわれるつもりだったのですか」

 静かな口調で翡翠は尋ねてくる。ただ、その声にはいつもと違うモノが感じられた。うまく言葉に出来ないが―――それは

「貴男がこれから私に教えてくれる場所」

 普段の頑固さから解放された柔らかさ、というべきか。
 …………ふぅ、とため息をついて、翡翠の口元が緩む。

「そう、昔から頑固だ―――ずっと俺が大丈夫だって言ってるのに、ちっとも聞いちゃくれなかった。……今も、俺が行くなって言ってるのに」
「言ってないわよ。ずっと黙ってるじゃない今の翡翠は」
「だから力ずくであの部屋から出したんだ。結果、正解だったじゃないか。…………でもお前は、それで笑ってくれた」

 ……。

「…………今は、無理矢理でも、私は行くから」

 …………。

「そうだろうと思った。―――急ごう」

 翡翠から歩き出した。
 それを追って私も歩き出す。

 昔なら、いつもの事だった。
 融通の利かない、彼以上に頑固な私を引っ張り出して歩く彼。
 今は、立場というつまらないものに縛られて無かった事だけど。
 …………翡翠。
 居場所とか、そういうのは考えなくていい。
 翡翠は翡翠で、元気で明るくって優しい私のお兄さんでいい。

 …………………………琥珀さんも、また。



 /2

 夜の街は明るい。なのに人はあまりいなかった。連日の殺人鬼騒ぎのせいで有彦も嘆いていた。
 その街に明るさから、一つ道を外す。いっきに暗くなる空間。狭い通路。通路とも言えない汚い場所―――そこは、……見覚えのある所だった。

「路地裏に…………秋葉達がいるの?」
「…………はい、おそらく、此処です」

 ―――其処は、厭な想い出が沢山詰まった所だった。

「お嬢様―――?」

 明らかに私の顔色が変わったのを気疲れ、翡翠がこちらを向く。
 ……偶然、だろうか。此処は―――初めて私が『死』を覚悟した空間だった。辺りを見渡す。見渡しても翡翠以外には人影は、……吸血鬼影も一切見えたらなかった。
 ―――そう、此処はアルクェイドに初めて脅された場所。

「―――」

 足を踏み入れる。明るかった町並みから、少し足を外せば辺り真っ暗。何週間ぶりでこの路地裏にやってきた。背筋が寒くなるほど静か。異空間に入り込んできてしまった気分。それと、途轍もなく厭な予感。

「…………なに」

 足を前に出すごとに軋む音。何か、空気が違っている。この感覚は、―――夢の中で見たあの殺伐とした空気、そのものだった。
 ……秋葉が、誰かと戦っている?

「―――お嬢様、その―――」

 前に大分進んでから、私は立ちふさがるそれに足を止めた。
 ―――何と言うか、いかにも、って所だった。
 廃墟。廃病院。真っ暗な世界にそびえ立つ真っ暗なお城。
 言って入り口をくぐり抜ける。今は、何を翡翠と話したらいいか判らない。それを考える前に、身体が勝手に建物の中へと引きずり込まれていた。

 建物の中に入る。
 勿論中に電気なんてものはなかった。頼りになるのは月明かりのみ。翡翠の足を頼りに渡って街に出てきたから、懐中電灯を持ってくるなんてことを考えてなかった。
 ……路地裏の空気は、それ以上に張りつめている。いるだけで胸が締め付けられているような、静けさ。

「―――」

 息を呑む音が、ハッキリと聞こえる。外の街の騒がしさもなく、風で動かされるガラクタの音も無く、野良猫も無く、ただ、静か。

 その中に響く、一瞬の高音。

「!」

 見上げる。耳が痛くなるぐらいの、高いキィィィィンという金属と金属のぶつかる音。
 同時に耳が痛くなり、抑える。ガラスの割れる音。チリチリと空気が凍っていく音。それと、―――声。

「お嬢様―――っ」

 翡翠が呟く。今のは、幻聴ではない。
 廊下を駆け出す。上。上へと、階段を登る。

 ―――ある夜の事。
 不確かな夢の一つに、こんな事があった。
 あれは、秋葉だった。

『―――ごめん。…………こんなに苦しんでいるのに、俺は……』
 苦しそうな声で、冷たい指を絡ませて、

『―――こんな、事しか俺にはできな……っ』
 泣きながら、私を助けるために、―――何か特殊な力を使ってくれた。
 そしてあの後、私は助かった。―――そういう、優しい子なんだ。秋葉は。

 キィィィィン! とまたあの耳障りな高音が聴こえる。
 階段は、登っても登ってもその音の発信源へ辿り着けない。

「秋葉―――!」

 一歩でも多く階段を駆け上がる。
 ―――秋葉には、あんな事、似合わないに決まっている。
 あの言葉が、あんなに重い意味だったなんて。
 私は、何一つ知らず、その言葉を聞き流してしまった。
 ごめんなさい、と何度も謝って

 秋葉の元へと辿り着いた。



 ―――え?
 瞬間。
 言葉を失って、立ちつくした。

「―――っ」

 後ろで、翡翠が息を呑む気配がする。
 翡翠だけの行為だと決めつけてはいけない。私も、同じ事をしてしまった。



 月明かりだけの廊下。
 何メートルも離れた場所で、秋葉が立っていた。
 真っ赤に、燃えながら。

「―――」

 赤いのは、秋葉の髪。
 血のように、跳ねる髪。
 髪と共に、跳ねる血。
 ただ、―――凄いとしか思えなかった。
 廃墟の廊下で、秋葉は赤い髪を靡かせながら立ち



 ―――その近くに見覚えのある男の姿があった。



 膝まつき、吐血。
 苦しそうに藻掻く。
 もう、―――いつでも秋葉は男のトドメをさせる場面だった。
 圧倒的に秋葉が優勢な事ぐらい、つい3秒前にやってきた私たちでさえ判った。
 キィィィィン、と再び耳に響く高音。
 秋葉の赤い髪の毛が動く度になる共鳴音。
 睨む。
 そして、また赤い、血のように赤い髪が男を襲う。

 おもわずどっちが殺人鬼だと迷ってしまうぐらい。

「す、ご…………い」

 呟いてしまう。後ろで秋葉を見る翡翠もきっと同じ感想だろう。
 あれじゃ、優勢……圧倒的すぎる。
 あともう少し遅ければ秋葉は……
 呆然とまるで夢を見ているようだったが急に現実に戻される。

「………………志貴、お嬢さ……?」

 という、琥珀さんの声によって。

 琥珀、さん………………?
 琥珀さんは、廊下の端に身を寄せていた。
 秋葉と奴との戦いを遠くから見ていた。
 そして、私達の存在に気付き、声をあげた。

「なっ……ねえさ」

 驚いてこちらを向く秋葉。
 一瞬。
 ―――飛び跳ねた。



 秋葉に向かって、目にも見えない早さで



「危な―――!」



 なのにスローモーションでその光景が見られた。

 奴はその一瞬を見逃さず飛び跳ねて

 秋葉がしまったと声を漏らしながら振り向いて

 咄嗟に身を構えて

 それでも間に合わなくて

「秋葉…………!!!」

 叫んで

 初めから彼を狙うとわかっていたように、叫んで

「ぁ―――っ」

 見たくなくて目を閉じた、その前に



 ……………………………………笑う、一体の人形

 ―――ずしゃ



 肉を裂く音がした。

「―――あ」

 おそるおそる、顔を隠してしまった手をどかして其処を見る。赤い血が、廊下に流れていく。

「あ―――」

 足下には、片腕を真っ赤にして倒れた秋葉がいる。

「――――――ああ」

 秋葉は腕を裂かれ転がっていた。立ち上がろうとしているが、足がおぼつかない。立てない。もう、戦えない。

「っ…………く…………キサマ―――!」

 床に倒れて、苦しげに肩を押さえる秋葉。苦しみながら男を、―――四季を睨んだ。
 そして、続けて琥珀さんを見た。

「―――っ!」

 四季が、何かを叫ぶ。

「四季……………………」
「―――!!!!」

 何かを言って、後退する。そのまま四季は隙だらけの背中を見せて階段に逃げていってしまった。



「秋葉! しっかりして、秋葉…………!」

 ひざまついて、秋葉の身体を看る。―――酷かった。右腕はざっくりと裂かれて、廊下一面真っ赤だった。私の足下にまで海は広がっていた。

「…………ぁ…………姉さん…………」

朦朧とした秋葉の目。激しい息づかい。上下する肩。それと全く違う、秋葉の口調。

「…………なんで、…………こんな所に、いるんだ…………よ」

 まだ赤い海は広がっていく。いつの間にか秋葉の髪は普段の黒に戻っているが、血が髪の毛を赤く染めていた。

「……こんな…………夜に……出歩くのは、危ない…………て……言っ……ただろ」
「喋らないで! ……今すぐ、止血してあげるから―――!」

 そんな状態でどうして私の心配なんて出来るんだろう。上着を脱いで、咄嗟に秋葉の肩に巻く。…………直ぐに真っ赤になったのは言うまでもなく。とにかく出血を止めるためにも強く縛った。

「お嬢様……っ、落ち着いてください! それ以上強く縛られては逆効果です!!」
「けど! ……でも秋葉がっ……!」

 いつの間にか涙が出ていて私を止めに入る翡翠の顔が見えなかった。

「秋葉! しっかりしてってば、アキハ―――!」

 秋葉の名を、何度も何度も呼び続ける。秋葉は目閉じてから開かない。何も言わない。
 そして、―――線が見える。確実に、秋葉の身体を伝う不気味な線が私の眼には見えた。

「……大丈夫です、秋葉様は死にません! …………兄さん!」

 翡翠は私を落ち着けて、琥珀さんの方を向いた。

「…………兄さん!」

 呼ぶ。私が秋葉を呼ぶように、翡翠も琥珀さんを呼んだ。
 膝まついていた翡翠は立ち上がり、立ちつくし動きもしなかった琥珀さんの元へ向かう。そして、翡翠は顔を真っ青にして、琥珀さんの肩を揺さぶった。

「何やってんだよ兄さん―――! 早くしないと……秋葉様がっ!!」
「あ、あぁ―――そうだな」

 翡翠に揺さぶられて我に戻ったのか、琥珀さんは電源スイッチを入れられたように動き出す。

 ………………一瞬。
 琥珀さんが、今までに見たコト無い表情をして見せた。
 その時の琥珀さんの心の声が、聞こえた……気がする。



 ―――何でまだ生きてるんだよ。
 という、邪悪なものが―――。



「琥珀さん…………っ」

 翡翠は無理矢理、琥珀さんを秋葉の隣に座らせた。

「………………これは、酷いな」

 琥珀さんは、いつもと変わらない口調で言った。顔は違うけど、琥珀さんは、笑っているように見えた。―――そんなことはない。琥珀さんは、秋葉を心配してくれている。琥珀さんは、秋葉を看てくれている……。……これで何とか秋葉が助かる。少し安心して胸を撫で下ろした。

「―――でも、四季は、何処に行ったんだろう―――」

 そんな事を、琥珀さんは秋葉の肩を看ながらポツリ、と呟く。

「兄さん、今はそんなことは……!」
「―――そう、ね」

 立ち上がる。繋いでいた秋葉の冷たかった手は、確実に温かくなってきている。線も、さっきよりは身体に刻まれるスピードが遅くなった。……秋葉は、琥珀さんと翡翠が見てくれていのだから、なら私は―――。

「―――翡翠。秋葉をお願い」

 ハッと顔を上げ、無言で翡翠は私を見た。
 そんな翡翠に笑って見せて、私は走り出した。





if カイン/2に続く
02.12.8