■ 24章 if カイン/2



 /1

 血の跡が点々としている。
 はぁ、と何度も息を吐いて、吸って、足を進めて……辿り着いた。

「―――」

 初めて此処に足を踏み入れた恐怖は何処に行ってしまったのか。
 一人で、たった一人で暗い廃墟を走っているのに、追いかけているのに。
 彼に辿り着いた。

「―――」

 本気で逃げる気はなかったのか、それとも私が来るのを待っていたのか、彼は、廊下に潜んでいた。そして、いきなり
 キィィィィィィィン……!
 という高音。

「―――っ」

 甲高い、黄色い声のような、ナイフのぶつかり合う音。……初めてではない。彼の刃物を私の腕が勝手に受け止めていた。ボーッと立っていただけかと思ったら、喉を狙って一直線に斬りつけてきた。喉を護っていなかったら、今ごろ……。

「―――驚かなかった?」

 やっとぶれていた視界も元通りになって、彼の顔を見る事が出来る。遠目でずっと判らなかった彼の顔が……。

「―――」

 さっきまで、腕の傷に顔を歪めていた弟のものとは違う表情。やっぱり、本当の兄弟だから―――。

「あぁ。…………まさか、同類に出会すなんてな」

 男は鼻をならして、凶器を引く……だけ。攻撃は、まだ止まらない。

「―――四季」

 声をかける。だが、彼は動こうとはしない。
 さっきの攻撃で無理をしたのか、秋葉との戦闘の傷が大きかったのか、
 ……もう彼がマトモに動ける身体ではないのは判っている。
 こんな所で、何年ぶりかの再会、を。

 いつの間にか殺されて
 いつの間にか命を共にしていた

「お前は―――」

 弟を殺そうとし
 街の人を殺した

 最も親しかった親友、と。

「―――お前、誰だ?」

 やっと目が合い、言葉を交わす。
 感動的な再会とは言い難かった。

「通りすがりの殺人鬼」
「―――ぁ?」

 …………だった女、と答えていいものか。

 キィィィィン!
 耳障りな音が再度無鉄砲な攻撃を仕掛けてくる。そして無意識に受け止める。

「―――はっ」

 衝撃は途轍もなく強い。何度も繰り返してくる音。
 何度も出逢っていた筈なのに、初めて見る敵。
 真っ正面から襲いかかってくる敵。
 ギィン!
 特別高い金属音をならし、追い払った。
 一時離れ、ぐらりと壁に寄りかかる。寄りかかったのは、―――四季の方だったが。ぼたぼた、赤い血を流しながらそれでも攻撃してくる姿は―――

「あ、はははははっ」

 笑い続ける。
 何がそんなに面白いのか判らない。ただ私を見るたびに何かが面白くて可笑しくて堪らないらしい。笑い続けて、笑い終わって、一つトーンを落として

「…………本当に驚いたなっ」

 嗤い声が響いた。

「まさか、……毎回俺を苦しめる悪夢の元凶が、お前みたいな女だったとはな……っ!」

 笑う。―――悪夢は、どっちの方だ。
 何度も妙な病気起こして、こっちを死ぬ間際まで生かしておいて、そんな―――身体中、線で真っ黒になるまで殺そうとしているとはなんて、醜い……。

「四季―――もう、終わりにしない……?」

 一息ついて、問いかける。が、ただ四季は笑うだけで答えない。

「ハハ、ははははっ…………何で此処まで一人で追いかけてきたんだ、お前は?」

 四季のが響く。そして、ぼたっ……と血の塊が冷たい床に落ちた瞬間



 赤い矢が腕を襲った。



「あ―――っ!」

 何時放ったのか判らない矢。
 腕が熱を帯びだし、痛みが広がる。
 矢が、腕を掠った。腕から血が垂れる。抑えると、……やっぱり痛かった。
 これは夢ではないとやっと実感する…………それまで、あまり信用無かった。
 ―――不安定な耳に入ってくるのは、力無い笑い声だけ。それは聞いてて虚しかった。

「…………苦しいの?」

 四季から目を逸らし、掠った腕の傷を強く抑える。腕が動いている……どくん、と跳ね上がる。

「―――苦しい? どうして」

 可笑しそうに笑って、ゆらりと揺れ近寄る身体。
 目を合わせば、直ぐ傍まで。
 いつでも話せて、いつでも殺せるほど傍までやって来ていた。

「……何で此処まで一人で来たか、っていう質問だったわね」

 声を出して、―――驚く。
 目を見開いて、……信じられないものを見てしまったかのように―――彼が。

「…………どのみち、貴男は助からないじゃない。その傷なら……」

 私の腕の傷より、遥かに深い傷を負って、秋葉との戦いで負った傷は、放っておけば死に繋がるほど大きな傷。

「―――トドメ、をさしにきたというのか」

 口元がにやけて、聞いてくる。
 勿論首を振った。
 だから、トドメなんか刺さなくても今の四季なら死ぬんだってば。
 そんな事を考えながら、―――睨みつける。

「…………っ!」

 石化した。
 恐怖によって動けなくなった四季の表情を見た。
 ―――四季が見た、信じられないものとは、未だ見たコトが無い、無意味に鋭い蒼い目。

「終わりに、しましょう―――!」

 胸の、一筋の線と点。
 力なんて入れる必要もない。
 ただナイフを立て、抱きつくように足を早めただけ。

 ―――鈍い音だけがした。

「…………前に言ったじゃない―――『私の方が強い』って」

 笑い声も泣き声も叫び声も、一瞬にして消え去った。



 /2

 ―――3日間、慌ただしくアッという間に過ぎていった。

 吸血……事件ではない。ナイフ一本によって捌かれた人々の海。死体の山。その事件。暴走した彼の引き起こした事件は、親戚達によりすぐに無かったことになった。これでまた金持ちの権力を思い知らされる事になる。見た夢全てが彼が引き起こした事件とは考えられない。きっと妄想を読んでしまったのもあるだろう。

 ……秋葉は、傷も順調に回復。命に別状はない。というかベットでも威張りすぎて元気そのもの。遠野の鬼な血は回復力も早めているのか、明日には学校に復帰できるらしい。秋葉も私と同じ、病気持ちの家系というわけで学校側には説明している。………………時々、可愛い後輩からの電話を受け取る姿もしばしば見受けられていた。
 比較的幸せな生活。翡翠と琥珀さんも二人の看病を続けている。

 そう、二人の―――。

 四季は、生きている。
 前に―――弓塚くんの『吸血鬼の線』を切れたなら……四季も僅かでも悪い血を切れるに違いない。
 それは、翡翠に本当のことを教わってから―――いや、本当のことに気付いてから判っていた。
 弓塚くんが生きているように、四季も生きている。そもそも彼が死ぬ必要なんて―――無いと思いたい。

 そして、私も生きている。
 ……。

 ……つんつん、と誰かが私の鼻を叩く。

「ん……?」

 それに気付いて、目を開ける。眩しい光りが目を襲う。途端に視界に広がる青空。とってもいい天気。とっても暖かい空気……。
 レンが私を夢から現実の青空へと引き戻したのだ。

「…………おはよう、レン」

 シーツもかけず、ただベットに横たわっていたら、いつの間にか眠ってしまった。朝食を取るために1度起きたが、部屋に帰ってきた途端眠ってしまったらしい。休日遊んで欲しいとレンが構いに来たんだろう。したすら懐いてくる。
 はぁ、と少し重苦しめため息を吐いて、ベットから立ち上がる。
 折角の日曜日だ。楽しく遊ぶのもいいのだが昼寝も捨てがたい……って、まだ時計は午前の10時だった。

「…………」

 何だか……朝の部屋と違う気がする。もしかしたら翡翠が掃除しに来たのかもしれない。
 相変わらず、殺風景だなぁ、と部屋を見回して思う。何か家具でも買おうかな……とか。
 この部屋にはベットと机と猫しかなかった。冬なのに暖房器具もおいておらず、家で勉強する気になれない私はきっとテスト期間にならない限り参考書を置くつもりもないだろう。
 というわけで、参考書などは全て学校で眠っている。ごく普通の高校生だ。
 もう、ごく普通だと……思う。

「…………? なんだろ……」

 ふと、目をやった机の上。
 翡翠が片づけてくれるので埃はたまっていないものの、そうでなかったらとっくに真っ白になっているだろう自分の机。そこに、見覚えのないものがあった。

「………………」

 手紙、だろうか?
 気になって中身を開く。

「―――」



 手紙には、木の下で待っているとだけ書いてあった。



「―――っ」

 息を呑み、次の瞬間には手紙を投げ出して駆けだした。レンが一鳴き、した。

「ごめん、ちょっと行ってくるから……っ!」

 部屋を出る。
 階段を下りる。
 ロビーに出る。

 玄関を、出る………………。



 ―――いつ気付いた、なんて判らない。



 ……昼間、庭に出るのは久しぶりだった。秋葉があまり彷徨くなと命令したからか、それとも庭の散歩は夜するものだと決まっていたからか、青空の下走るなんて事は初めて。
 ……いいや、初めてなんかじゃない。八年前までは秋葉と、四季と、―――翡翠と走っていたんだ。毎日、楽しく………………。

「……はぁっ」

 待ち合わせの場所まで着いて、膝を抱える。呼吸を落ち着ける。既に身体は落ち着いているハズなのに、一向に息切れは止まらない。

「はぁ……はぁっ」

 青空。
 少し盛り上がった、山の上。
 そこまでダッシュ。
 懐かしい気分になった。

「はぁ……はぁ……はぁっ」
「大丈夫スか、お嬢さんー?」

 ―――彼はいつも通りの笑顔で待っていた。

「遅いッスよお嬢さん。死ぬほど待ちましたよ俺」

……何とか呼吸を落ち着けて、膝を上げる。一番の木に寄りかかって笑っていた。

「うん、ごめんなさい…………朝食頂いてからまた部屋で寝ちゃって、猫に起こされたばっかりなの」
「あぁ、どおりで。ちょっと寝癖ついてますね」

 彼が指さした先は、ちょっと丸く曲がった私の髪。思わず塞ぐようにして抑えるが、それだけでなおる筈がない。そんな私の仕草を見て彼はにっこり笑いかけた。

「でも来てくれて俺、ホントに嬉しいッスよ。これでお嬢さんと二人きりで話せるし!」

 彼は、嬉しそうに大柄に笑う。

「それにしても、いい天気スねー。お嬢さんっ」

 私はえぇ、と頷く。そのまま、笑顔のまま、何でもないように彼は口を開いた。



「さて、『お前』はどこまで気付いてるんだ?」



 私には、今の琥珀さんの表情が楽しい時のものにしか見えなかった。
 本当に、表情だけが変わらない琥珀さんを見て思わず何も答えることが出来なかった。
 ……いつも、どんな時でも笑顔を崩さなかった。

 ……翡翠は無理矢理感情を押し殺して人形を演じてきた。

 ……そして彼は、ずっと同じ表情のまま。

 ……。

「ん? もしかして気付いてない? 不安定な四季を街へ解放したの俺ッスよ」
「―――」

 ……肉を裂く音がした時。
 ……秋葉を見おろした時。
 ……ずっと、
 ……そして今も。
 ……。

「秋葉様に四季を殺す手伝いをさせてもらったのも俺だし」
「―――」

 ……崩れることなく。
 ……この人は。
 ……。

「子供の頃、屋敷の窓から遊んでいるのを見てたのも俺ッス。翡翠じゃなくてね」
「―――」

 ……そんなの。
 ……とっくに、
 ……そんなコトは
 ……。

「あの秋葉様の注意を引きつけて怪我させたのも俺が意図的にやったんスよ」
「―――琥珀さん」
「けどドジったなぁー。本当はあそこで、秋葉様も四季も死んで欲しかったんだけどっ」
「―――琥珀さんっっっ!!!」

 俯いたまま、
 ただ、そう叫んだ。
 ―――全て、思惑通りだったなんて気付いていた。
 でも

「――――――いいんです」
「は、何が?」

 ……琥珀さんは琥珀さんのまま。

「そんなコト、いいんです! もう終わった事だし、私は…………そんな話、聞きたくないんです…………!!」

 ……いつも笑顔で、秋葉を助けてくれる、元気で明るい人でいてほしい。
 ……真実なんて
 ……知りたくなかった。

 ただ、認めたくなかっただけなんだ。
 ただ、―――。

「じゃあ、コレは覚えてますか? 翡翠のカッコしてお薬やったんスよ。効果覿面だったけどちょっとアブナイやつでしてね〜。まっ、そのおかげで動けるようになったんスけど……一歩間違えれば死んじゃうやつなんですけど、まぁ生きちゃいましたね」

 声に出して笑う。
 俯いたままだから、声だけが耳に入ってくる。
 ……。

「なんの、ため―――」
「何のため? そんなことも判ってないんですか?」

 しょうがないなぁ、と笑う。
 この表情を何度も見た事がある。
 あの屋敷で、秋葉と笑いながらずっと―――。

「―――復讐、とか」
「あ、ソレッスよ。なんかね、パターン化してるんですけどね、男の方が母親に異常なまでに情出すって話? 女の子の方は母親が神なんかじゃなくて同じ生き物だって早く気付くらしいんですけどね。俺の母親が隣で落ちぶれていてそのまま御館様陥れられているのを見るのは、やっぱり息子としては許せなかったわけですよ。聞いてますよね、ずっと俺が御館様の傍で世話してやっていた事と、俺と翡翠の母親が御館様の贄になっていたこと。俺は特にその姿を見ていたんですよ? お嬢さんはお母さんのこと覚えているか存じませんが想像出来ますか? 自分の母親が、他人に『されている』ところ。俺の母親はそれが当然になっていて、自治公認だった。時々、俺にまでとばっちりがきてたんスよ。翡翠よりも、どっちかっていうと大人しくって殴られても泣きもしないわ騒ぎもしない俺の方が都合よかったんスね。一度、翡翠もやられた事あったんですよ。でも一回、それ以来翡翠には何にもやんなくて……。何でそうなるんかな、なんてずっと考えたなぁ〜。その時は毎日が夢中で、自分で弟を護っただなんて忘れてたんですよ」

 遠い目で、楽しい想い出話をするように、―――琥珀は語る。

「八年前、あの事件で四季が反転しちゃって狙ったのは秋葉なんスよ。四季もお嬢さんのコトお気に入りだったからな〜、秋葉も同じだろうけど、それがお互い憎くて仕方なかったんですよ。全く、お嬢さんは昔っから罪深い女ですねー! ……で、四季は遠野家の血のおかげで衝動的に秋葉を殺してやろうって思い付いたんだろうけど、結局翡翠とやって来たお嬢さんが、秋葉を庇って死んだんだ」

 琥珀の口元はずっと歪んでいる。
 八年前の事件の図を鮮明に語り出す。
 遠くから、―――屋敷の窓から見ていた様子を。
……。

「何にしかしてお嬢さんは奇跡的に助かって屋敷に戻ってきた。でもそのまま有間の方に移されるコトになったんスね。俺、そんコトを御館様の独り言を偶然聞いちゃって、居ても立ってもいられなくて勝手に走り出してたんスよ。だけど、一度も話したこともない女の子に緊張しちゃったんだかなんだか、仕方ないからそこらへんのリボンやったんだ。ま、俺の母親の物だったっけって迷ったけど、男の俺には何も必要ないもんだと思ってたから、捨てるにはちょうどいいなって後々思いましたね」

 …………それは、
 私が、いつも着けている
 『あの子』との、たった一つの『大切な』想い出の品
 なのに
 ……。
 
「あの八年前の事件は、秋葉も四季もお互い不信感を煽る結果になった。あとは、本当に殺し合ってくれればよかった。御館様の寿命は目に見えていたし、流石に実の父親を殺すのは息子達も躊躇うかな〜って思ったんで」

 にこり、と笑い、

「俺がやりました」

 ―――。

「実行力あるでしょ、俺? 一応俺も医者のタマゴなんで、薬で混ぜて出すぐらいは簡単に出来たんスよ。もし襲いかかってきたら? 病気のご老体より若くて元気な男の子の方が強いと思いません? 不可能じゃないと思いますよー」
「…………満足ですか」

 琥珀の話を止める。これ以上は、―――耳が拒んだ。琥珀さんに、これ以上のコトを話させたくない……。

「そんなコト……そんな昔のコト! 私は、……私たちは琥珀さんが今居てくれれば……それでいいです、から…………」

 涙が、真っ直ぐ土へと落ちていく。

「―――」

 …………琥珀は答えない。
 私の声を聞いて動かなくなった。
 ずっと。
 ……琥珀は答えようとはしない。
 笑顔でも。
 そのままの顔でも、他の表情は知らないと言うように―――。

「昔のコトだから? ダメッスよ。……ったく、どこまで甘いんだお嬢さんはっ! 俺は失敗しちまったんだから煮るなり焼くなり好きにして始末しないと危ないッスよ」
「な―――っ」

 顔を上げる。
 流れていた涙が頬を伝う。
 そこには、―――何も変わらぬ琥珀さんが。

「お嬢さんには俺を叱る権利があるだろ? 遠野家とは無関係の人間なんだから、そんなのに一番悲しんでるのはお嬢さんじゃないスか」
「泣かせているのは……っ、琥珀さんですよ…………!」

 涙を拭って、睨みつける。
 すると苦笑いをした。
 多少は、その人形のワンパターンの表情が崩れた。

「―――別に、俺は御館様も秋葉様も憎たらしくはなかった。ただ生きる上で楽しそうだったから、それを生き甲斐として遠野家の人間には死んでもらおうって思っただけスよ。本当に、彼らには憎くもなかったんスから」

 でも崩れない笑顔。
 ずっと、ずっと遠い目で。
 私を見ても、永遠に夢を語るような眼で―――。

「私は、みんなが……生きてくれているのが、嬉しいんです…………それじゃ琥珀さんは駄目なんですか!」

 言って、また大粒の涙が零れた。
 ………………哀しい。
 感情が溢れ出る。
 ………………悔しい。



 なんで、身をすり減らすような痛さを味わいながらも、この人の事を想っているのだろう。



「―――俺のために、泣いてるんスか?」
「…………は、い…………そうですよ!」
「バカみたいだな。あぁ、―――本当に。バカな」

 今度は、―――人を貶すように声に出して笑ってみた。
 だがそれも直ぐに止まり、
 ……。

「俺、誰も憎くないって言ったけど、一人だけ憎たらしくて仕方ない奴がいたんだ」

 ニコリと笑って、琥珀は私に背を向ける。

「これなら直ぐに判るだろ? 俺は、……志貴が一番憎かったと思う。窓から、違う次元の人間がずっと俺を呼んでいた。それが憎かった。―――お前さえいなければ、絶望なんて味合わなくても済んだのに」

 着物の袖が揺れる。

「俺が憎かったのはお前だけだ。あとの連中は好きでも嫌いでもない」

 ゆらり、動く。

「琥珀、さん?」

 彼は何かを取り出した。

「役割をすませた駒は―――消え去るしかない。その前に…………」

 袖に持っていた長いそれを、きらり、と光らせる。

「―――憎いんだったら、初めからこうしてれば良かったのにな」

 彼は笑って、
 にや、と笑って、
 志貴にナイフを突き立てた―――っ



あ…………………………っ



 /3

 音なんて無かったハズなのに。

 ポタ、と一滴
 ポタポタ、と水が落ちる。

 その美しく落ちる赤いそれが私には音として聴こえた。

 どくん、と胸が高まる。
 どくどく、頭がおかしくなっていく。

 痛い。
 刺されて―――腕の傷口が開いて痛いのではなく、
 四季とシンクロしているのではなく、

 ……緊張で、
 ……空気が張りつめて、
 ……頭がガンガンし始めて

 目の前で起きている出来事が理解出来ず―――

 ……………………………………痛そうだった。



「翡、翠―――?」

 惚けた琥珀さんの声。
 目の前にいる翡翠、―――何故こんな所に翡翠がいるのか、理解らない。
 琥珀さんが狙った短刀の、
 刃を、
 手で、
 私を庇い、
 赤く滲む、
 白い手。
 ……。

「……………………翡翠っ!」

 我に返って翡翠の名を呼んだ。

「ぅっ…………!」

 低く唸って、短刀を奪い取る。
 琥珀は力無くそれを放し、翡翠もそれを目でちゃんと確認すると投げ捨てた。
 投げ捨てた際の飛び散る血が、また綺麗に舞う。

「翡翠! だいじょうぶ……っ!?」

 翡翠は苦痛に顔を歪ませながら、頷いた。
 二人して、突如現れた翡翠を見据える。
 手の平をザックリと斬り、走って此処に駆けつけて来たのか肩を弾ませている翡翠。

 翡翠。
 翡翠は、其処に居た。

「……………………なんで、こんな所にいるんだ?」

 しばらく翡翠を見つめて琥珀が問う。それを受けて、翡翠が睨み返した。

「…………嘘だ…………」

 ―――強い声。
 荒れた息で途切れ途切れだが、しっかりと翡翠本人の意志が入った声。

「何が……」
「兄さん、嘘ばかり言うな! 今の兄さんが志貴を憎んでいる筈が無いだろう!」

 赤のまま。
 パックリと割れたままの手で琥珀を木へと押しつけた。
 ダンッ、という低い音。衝撃で木の葉がハラハラと落ちる。
 木と翡翠の手に押しつぶされた琥珀の肩が、赤く染まる。
 血、によって
 ……。

「……俺には、……兄さんの笑顔が嘘になんて見えない……嘘な訳がない!!」

 声を、掛けることができなかった。
 何度も翡翠は琥珀を、―――殴りつけるように木に押しつけた。
 成されるが儘に、紙のように軽く振り回される琥珀。
 ―――生気など、初めから無かった。

「俺の代わりに笑ってくれていたんだろう? 俺を演じていてくれたのなら、何故……志貴を殺す…………!?」
「―――っ」

 …………息を呑む。
 ただ琥珀は目を見開いて、翡翠だけを見つめる。

「俺は……っ、志貴を傷つける奴は誰も許さない……それは、兄さんもだ…………」

 握りしめた右手が、真っ赤に染まっている。
 その右手を身体で受け止めている琥珀も、……。

「けどっ、…………1人で、黙って逝くような奴は、絶対に許さない―――!!」



 その傷ついた赤い拳で、翡翠は琥珀を殴った。
 たった、一発だけ。

「―――」

 呆然と、宙に浮いた琥珀の眼。
 おそらく、翡翠を見ているだろう眼…………。

「何が、役割をすませた駒は消え去るしかない…………だ! あとの連中は好きでも嫌いでもないだ!」

 琥珀の胸座を掴んだまま、崩れ落ちる。

「俺は―――兄さんが、志貴が、皆がいる屋敷で暮らしたいだけなのに……っっ」



 静かに、笑って見せて
 涙が伝った。

「…………は」
「は、はは、は―――ハ…………参ったな」

 壊れる。
 ぐしゃぐしゃになって、元の形など思い出せない程に、跡形も無く、涙と血で滅茶苦茶になって、数日前の二人など思い出せない程、変わってしまって……二人とも、―――元に戻っただけなのに。

「……お嬢さんが悪いんスよ。手紙を直ぐ見てくれれば翡翠が来る事もなかったのに…………」

 汚れていない手の平で、青空を煽る。
 この空気は、青空の下には少し合わなかった。

「俺は、いつ志貴を殺すか判らないぞ…………?」
「――――――だから、俺が護るんだろ」

 笑う。
 その笑みは今までのものなんかじゃなく、

 初めて、…………離れで見た本当の笑みと同じものだと思いたかった。





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02.12.15