■ 22章 if 午睡の夢/2



 /1

『ごめん、なさい』

 男の子はずっと泣き続けていた。何が悲しいのか判らない。ずっと私に『ごめんなさい』と繰り返している。私を受け入れてくれるまで、ずっと一緒にいてあげた。とっても明るくて、私が父に怒られてちょっと落ち込んでいた時も、あの子が私の手を引っ張って外へ誘ってくれた。

『シキちゃん、あそぼ』

 思い出せば、あの時の光景が浮かんでくる。大好きな、あの男の子。
 ……遠野家を追い出される日……庭の大きな木の下で、私は初めてあの男の子にあった。

『あげる。似合いそうだから』

 女の子の私にくれたプレゼント。私はとっても嬉しくってその場でリボンを身につけた。それからずっと、愛用している。それが、あの男の子と話した唯一の会話……。
 ―――もう、どこからが記憶で、どこまでが夢なのか検討つかない。あの少年達が誰なのかも、ハッキリしない。………………私は、忘れている。大切な、人の事を。

『秋葉様の機嫌にとっちゃ危ないッスね。ここは昔、槙久様が養子にとった子供の部屋だから……』
『その子も可愛そうに、二年後事故で亡くなったとか……』
『―――何を、わかってるんだ』
『ソイツは死んでなんかいないって言ったんだ。でも、殺された。―――八年前に』

 いつになったら終わるのだろう、この夢は―――。



 /2

 ―――秋葉の部屋。シエル先輩の言っていた『真実』とやらを突き止めるため……一騎打ちをしようと押しかけたが案の定惨敗。言い出す力もなければ返す勇気もわかなかった。……そして、秋葉の部屋から出ようとする。すると、後ろから呼び止める声が聞こえた。

「…………なに。もう話す事なんて無いんでしょ……」

 ……秋葉は黙って、私の目を見てくる。その目は、……どこか気まずそうな空気を背負っている。先ほどの狂気のような鋭い視線は一体何処へ行ってしまったのか、というくらいに。

「……姉さん。この八年間、姉さんとの想い出が無かったら、俺が俺でなくなっていた。……姉さんがいてくれたらから、俺は俺のままでいられたんだ」

 ……見つめてくる。秋葉の目には、私しかうつらないように。

「姉さんにとってはこの屋敷も俺も重荷でしかない……それぐらいは俺だって判っていた」

 秋葉の目に光が宿る。

「でも、姉さんは俺のために此処に戻って来てくれた! 自分勝手な願いでも、それだけが俺の……っ」

 秋葉は、笑っていた。嬉しそうに、本当に喜んでいるように。
 ……その笑顔を見て、少し心が痛んだ。秋葉は本当に私を待ってくれていて、大切に思ってくれているということを痛感して……私の想っていた秋葉がボロボロに壊れて傷ついた。

「…………うん。秋葉の事が心配で戻ってきた。それは、嘘じゃないわ」

 ―――けど、本当でもない。秋葉の真っ直ぐな瞳に、嘘はつけない。

 ―――八年前。大きな木の下で、沢山の約束をした。
 弟と、いっしょにいるっていう約束をしたこと。お兄さんのようなあの男の子と、病気が治ったらまたいっしょに遊ぼうと笑顔で約束したこと。そして―――

『あげる』

 ある少年に、ある物を手渡された。私が、この屋敷に帰ってきたのは―――彼にお礼を。

『―――リボン、ありがとう』

 ……けど。あの時の少年は何も言わず…………。

「……そんな話は聞きたくない! 姉さんは戻ってきてくれた、それだけで充分なんだ!!」

 秋葉の視線が外れる。

「……部屋に戻ってくれ。そんな顔、二度と見せるな……っ」
「……」

 無言で秋葉の部屋を出ていった。



 /3

 ―――夜。もうじき午前零時になるころ。そんな時間になっても一向に眠る気がなかった。
 眠れなかった。ベットに横たわったまま、窓の外を見ている。
 ―――なんでだろ、何故か『アルクェイド来てくれないかなぁ』なんて思ったり。
 ……だから、アルクェイドもアルクェイドなりに忙しいんだよね。

『もう少しで決着が着きそうだから……頼むよ』

 ……最後の「頼むよ」は、一体どんな意味だったのか。それよりも私はシエル先輩の事の方が気になって、そちらの方にちっとも気付かなかった。本当に、アルクェイドと意志がちゃんと通じ合ったことなんてない。いつも、どちらかが思い違いをしっぱなしで……。

「…………また、散歩でもしようかな」

 眠れぬ夜は、一体何日目になるだろう?
 数日前。外に秋葉が見えて夜を過ごした。少し話をして、その後ぐっすり寝られたんだ……。今日も秋葉が散歩をしているとは思えない。けど、このまま厭な気持ちを抑えたままベットにいるのも、……。
 なんて考えながら既に上着も着て、ベットを飛び出すようにして向かっていたりする―――。

 月明かりの下を歩き……。
 誰もいない其処を彷徨い……。
 ため息をつく。

「はぁ」

 もう何度目のため息だったか、……百から先は数えていない。でもやはり散歩をして正解だ。……部屋の中より空気がおいしい。心地よい風がやってくる。……って、そんなにあの部屋、換気しなかったのかな?

「……ん?」

 ―――足音がした。とても小さい音で、一瞬耳を疑ったが、落ち葉を踏みしめる足音が聞こえた。誰かが、やってくる……隠れるべきか、何ておかしな事を考えていると、その足音の主が直ぐに現れた。

「……こんばんは、翡翠」

 ……このまま黙っているのも気まずいので、とりあえず陽気に挨拶なんてしてみる。

「…………お嬢様。一体こんな所で何をなさってるのですか」

 予想通りの言葉が襲いかかってくる。ので、涼しい空気を和らげるためにも静かに笑ってみせた。

「そういう翡翠は? こんな真夜中に見回りだなんてホントココ、重労働ねー……」
「―――何をなさっているのですか」

 私の言葉を無視して、再度翡翠は同じ事を問いかけた。見回り……に間違いないだろう。……そういえば、前秋葉と歩いていたのを目撃したのも翡翠だったというし。庭の点検だなんて感心……じゃなくて。

「……その、全然眠れなかったから散歩……かな?」
「―――お嬢様。どうか、夜はお休み下さい。……夜にこの屋敷を出られるのはあまり良いことではありません」

 淡々に、翡翠は話す。琥珀さんにも注意された事だ……。きっと前の夜、翡翠が散歩中の私を見つけても何も言わなかったのは、秋葉と一緒だったからだろう。今は一人で真夜中に歩き回っているから…………。
 ―――今は、秋葉はいない。…………そんな顔、二度と見せるな…………あんな事言って、一日で怒りが治まるわけもない。

「…………ごめん、翡翠。……でも、もう少し、こうしていていいかな……」

 翡翠に背を向けて、少し歩き出す。翡翠の影を、置いて。

「―――」

 そして翡翠は無言で追いかけてきた。……まぁ、半分覚悟はしていたけどやはり追いかけてくるか。悪いけど、―――しばらく翡翠に散歩の相手をしてもらおう。

「…………翡翠。聞きたい事があるの……いい?」

 ―――そういえば、翡翠と琥珀さんは昔から、小さい頃からここで働いているという。なら―――あの事を知っていてもおかしくないんじゃないか?

「はい。それでしたら、お嬢様の部屋へ戻りましょう。このような所ではお身体を冷やしてしまいます」
「ううん、ここでいいって。……ちょっと聞きたいことだから」

 ……翡翠は、微かに首を傾げる。翡翠が知っていたって……きっと秋葉に口止めされて教えてくれないだろうけど。はぁ、と深呼吸をして、振り返り翡翠を見た。

「…………お父さんが養子を取ってて……その子が八年前に亡くなっているよね」

 ―――ピク、と翡翠の肩が動く。

「……これは琥珀さんに聞いたことなんだけど。……その子はどうして死んだのか、知ってる……?」

 ―――秋葉は、『殺された』と言っていた。そんな大事件を、……屋敷の使用人が知らないわけがない。でも。

「…………」

 翡翠は口をつぐんだまま、何も、言おうとはしなかった。目を伏せる。
 私の質問の仕方からして変だったかもしれない。誰がどう死んだだなんて……昔の話だって興味本位で聞く話ではなかった。もし本当に知っていたとしても、どう説明出来るだろうか。この屋敷で共に住んでいた者がどう『殺された』なんて事を。

「……ごめん。変な事、聞いて……」

 翡翠に聞いてから今更そう思う。

「じゃ、じゃあ……翡翠。その養子の子の詳しい事…………わからないかな? ヒントとか、あ……資料とかないかしら?」

 おそらく、お父さんの部屋にそういう手記があると思うけど、もう一度秋葉に怒られているため行くには引ける。なら彼処で掃除をしている翡翠が目にすることだって……

「…………」

 ……ないようだ。まだ、翡翠は口を開かない。ずっと眉間に皺を寄せたまま、……固まってしまっている。
 やっぱり、知ってても教えてくれないか……。諦め駆けてた時に

「…………兄さんなら、知っているかもしれません」

 と、聞き落としてしまいそうなほど小さな声で言った。伏せていた目をちゃんとこちらに、真っ直ぐ向く。

「え……どうして?」
「兄さんは、子供の頃から槙久様の使用人でしたから、色々この屋敷であった出来事を知っているかもしれません」

 一つずつ、言葉を選びながら着実に翡翠は語りだす。……あぁ、そういえばそんなような事を琥珀さんが自分から話していた気がする……。お父さんの健康を看ていて、そのためにお医者さんになったとかならないとか……そんな事を聞かされてたけど。でも、子供の頃からお世話をしていたというのは知らなかった。

 ……って、子供がこの屋敷の主の世話? 昔って、まだ十歳ぐらいの男の子に……?
 朝から晩まで、私と秋葉と遊んでいてくれていた琥珀さんが?

「あの琥珀さんが…………あんなに毎日私と遊んでいたのに、お父さんの傍で仕えていた…………なんてイメージないけど」

 ……どちらかといえば、屋敷で使用人を幼い頃からやっていたのは、翡翠のような気がする。いつも屋敷の中にいて、私と秋葉と……養子の男の子と遊んでいる姿を眺めていた、という記憶がある。いくら私が手を振っても呼びかけても、やってくることはなかった。―――最後の一日までは。

「兄さんはこの屋敷に引き取られてからずっと槙久様の傍におりましたから、独り言を聞くことも多かったでしょう」
「傍……」

 ……ずっと、傍に?
 ずっと、お父さんの傍……屋敷の中にいたって?
 だから、それは翡翠なんじゃ―――

 ―――どうして、そう決めつけているんだろう。

「―――待って。琥珀さんが、屋敷にずっといたって……!」
「ぁ、…………っ」

 翡翠らしくない声を漏らし、視線をずらした。感情が無かった表情が一変する。押し殺していた翡翠の感情が、弾けた、ように……。

「琥珀さんが……ずっと、お父さんの傍に…………」

 ―――そういえば、あの少年がいつも私たちが遊ぶ姿を見ていたあの窓。
 お父さんの、部屋
 …………だった、気が……………………。

「お嬢様、それは…………っ」

 何で最初から決めつけていたんだろう。
 八年前ずっと私と遊んでくれた元気な男の子が、琥珀さんで。
 屋敷に囚われているようにしていた少年が、翡翠で。

 ―――こんな簡単なコトを、なんで気付かなかったんだろう。
 二人の位置が、まったく逆なんじゃ

「アナタ――――――誰」



 /4

 ―――新しい環境に連れてこられた時のこと。

 周りの人間とは馴染めなくて。
 とにかく何もが嫌で。
 誰とも話したくなかった、あの頃。
 ずっと屋敷に籠もっていた。
 まだ優しい畳の匂いがするその場所で一人世界を創って。
 ずっと其処で閉じこもっていた。
 もう一人で充分だから。
 周りの人たちは怖いから―――。

 ―――そんな時に、ずっと私の名前を呼んでいた少年がいた。

 誰、と聞くとすぐ答えてくれる声。
 とても元気な声で、明るい声で。
 泣いていた声を吹き飛ばしてくれる、少年の声。

 ―――シキちゃん、遊ぼ。

 私はその子を追い返した。
 すると次の日もやって来た。
 障子も開けてやらない。ずっと此処にいるんだから。
 そう言えば、少年は障子を挟んで声をかけてくれた。

 ―――そんな所にいたんじゃカビがはえるぞ。

 余計なお世話、と言っても何日も何日も少年はやってきた。
 そして私はその子を追い返す。
 そしてその子は毎日やってきた。
 あきもしないでずっと私の名前を呼ぶ。
 無理強いはせず、障子も開けず、障子越しで私の名前を呼ぶ。
 毎日毎日、呼んでくれる。

 ―――どうして外に出ないの?
 ―――外の方が楽しいよ。
 ―――シキちゃんを待ってくれている奴だっているんだ。

 毎日、飽きずに引きこもりを連れだそうとする。
 無茶な注文をいくつも付けて。

 ―――誰もいじわるなんかしないから。

 …………その優しい声に惹かれ始めたのはいつからだったか。
 私も強がりで引くに引けなくてずっと籠もっていたのに。
  まだ出ていくと了承もしていないのに。
  ある日、少年は障子を開け私の手を引っ張った。
 ずっと障子越しで待っていてくれたあの子が、いきなり。

「一度外に出てみればわかる! なぁ遊ぼう!!」

 最後は本当に強引だった。
 嫌だ、と泣きながら拒んだ。

「そんなに周りの大人達が怖いなら、俺がやっつけてやるから!」

 …………力強さに、圧倒された。
 そこで、
 初めて、
 ………………少年を顔を見た。
 少年の、綺麗な目を……。
 小さな抵抗でまたあの部屋に帰ろうとする私を無理に引っ張って外に連れ回す。

「大丈夫。シキちゃんを狙う悪い奴らから護ってやるから! 俺を、■■■ていいよ!」

 そう言ってくれた。
 その日、初めて彼らと遊んだ。
 そこで私は楽しいと思った…………。

「楽しいならまた明日遊ぼうな!」

 二人は私に笑いかけてくれて。
 笑って。
 …………。

 そんな強引さも好きだったのかもしれない。

 ―――とても明るい、蒼い目を覚えている。



 /5

「……ねぇ翡翠。…………このリボン、覚えている?」
「―――はい。……八年前、お嬢様が有間の家に行く時に、お渡ししたものかと」
「……そう。玄関で呼び止めて、私に似合うからってこのリボン、くれたよね。その時、誰か私達以外に人がいたっけ?」

 ……。

「―――いいえ、誰も。……二人だけの、約束、ですから」

 …………翡翠の返答は途切れ途切れでも、迫力があった。
 まるで本当に昔を思い出しているようだ。
 そう、『まるで』、『ようだ』。
 だが、あきらかに翡翠の言葉は間違っていた……。

「…………ぁあ」

 力が抜ける。そこで倒れ込んでしまいそうだった。
 ―――なんて、間違いをしたのだろう。
 私は、何度も、琥珀さんに、このリボンを見せつけていたんじゃ―――。

『―――付けていて、くれたんだな』

 厨房で、この上無いくらい優しい声で、琥珀さんがそう呟いたのを、覚えている―――。

「志貴お嬢様……?」
「……違うの。翡翠、私は、貴男からは貰っていない。……玄関で貰ったんじゃなくて、庭の木の下で手渡されたの」
「―――っ!」

 翡翠は息を呑む。そして、黙り込んでしまった。

 …………そういえば昔。

 私が病院に運ばれる前、そんな些細な約束をした。
 あの時は、怪我が治れば屋敷に帰れると思ったから。
 何気ない挨拶のように、気にも留めなかった事なのに。
 何日も何日も。
 私を呼んでくれたあの子。
 とても気があって、心配性で、
 いつも傍にいてくれたあの子。
 それは――――――。

 あの、青い空のように輝いていた蒼い目の主は。

「…………」

 翡翠はずっと黙り込んでいる。

「私と遊んでくれたのは、琥珀さんじゃなくて……貴男、なの?」
「…………」

 それでも、答えない。でもどういう意味かは分かった。それは、NOという沈黙ではなく、YESという意味の……。

「どうして……? 私……てっきり琥珀さんがそうなのかと思った。屋敷の中にいた子だって…………」

 そう、―――不確かな夢の中で『翡翠』が告白していた。窓から、私達が遊ぶ姿を見て楽しんでいる少年の心を―――私は、夢で見た、気がする……。

「…………あれは、翡翠では……ありません。屋敷にずっといたのは……閉じこめられていたのは……っ」

 言葉が、途切れ途切れだ。話すのにも辛そうに、翡翠は、押し出すように喋る……。

「それじゃあ……やっぱり、翡翠が私たちと遊んでいた子で、琥珀さんの方が―――屋敷の中にいた男の子だったの?」
「…………」

 黙って、頷く。

―――どうして?

「どうしてそんな入れ替わるような事を……!」

 声をあげていた。二人が、翡翠が、そんなコトをする人だなんて想っていないから……。

「…………お嬢様を騙そうだなんて思ってはいませんでした。志貴お嬢様が有間の家に行かれた後、……俺、は、以前に比べて大人しくなっただけです。兄さんはそんな俺を励まそうと明るく振る舞うようになって、いつのまにか、俺達は立場が入れ替わるようになったんです……」

 力強く、拳を握りしめて、今にも……泣き崩れてしまいそうな程の震えた声で。翡翠が、……あの子が、どうしてそんな事に……? あんなに元気な子だったのに。

「……俺は……元々、あまり活動的な子供ではありませんでした。
 ただ、―――お嬢様がいたから、俺は少しでも笑ってもらおうって……ただ……元気づけようと……。だけどそれがいけなかった。俺が庭に連れだしてしまったから、あんな事故が起きてしまった。
 俺は―――あの時、ただ恐くて、見殺しにしてしまった。護ってやる、だなんて強がっても……勝手に約束したって、あの時立ち向かう事も……泣く事も助けを呼ぶ事も出来なかった……!
 …………その時から、分からなくなってしまった―――どうやって自分は笑いかけていたのか。どんな風に笑っていたのか思い出せなくなった―――何も出来なくなってしまった俺を、兄さんは倍仕事をして……励ましてくれて、笑いかけてくれるようになった。俺は……本当は何も出来ない奴だったんだ」

 翡翠は俯き、……蒼い目が潤んだ。涙を堪えるように叫ぶ。その姿は感情的で、いつもの翡翠とは違う。
 ……いつもの翡翠って何だろう。これが、私の知っている翡翠だというのに…………!

「そんなコト……ない。私が何だ、とかそういうの関係なく翡翠は明るかった! ……元気な子だった。あれは……ホントの貴男だったんでしょ?」

 私を、ずっと毎日毎日励ましてくれて、笑わせてくれた男の子は…………。

「…………はい。あの頃は楽しかった。お嬢様がこの屋敷に来て……二年間は、本当に楽しかった」

 ―――二年間?
 それは、琥珀さんと翡翠がこの屋敷にやってきたんじゃなくて……?
 ここの娘である私の元に来たんじゃなくて―――私が、来て?

「……待って。翡翠の言っている事……私にはよく…………」

 ……わからない。

「私が死にかけたってどういう事……? 翡翠は、八年前の事故って知ってるの?」
「……はい。お嬢様は、車の事故に巻き込まれて怪我をなされたのではありません。……この屋敷の中庭で、殺されました」
「なっ…………!」

 ―――コロ、された。
 確かに翡翠はそう言った。
 そして、……不確かな夢の中の『翡翠』も同じような事を―――。

「…………あ…………」

 その言葉を聞いて、気が遠くなる。
 どくどく、胸がなって、足にチカラが入らなくなる。
 前に、倒れ込―――。

「お嬢様……!? しっかりしてください…………!!」

 ―――その寸前。翡翠は、倒れかかる私の身体を真っ正面から受け止めてくれた。

「お嬢様……ッ!」

 必死になって、私の身体を支えてくれる。抱き合う形になって、…………身体を震わせて。

 ―――翡翠。

 翡翠が触れられたりするのが苦手だってことは、分かっている。だから今、こんなに震えているのも。
 ……それでも、翡翠は、私を抱きしめてくれている。
 ―――暖かいと思った。
 翡翠の体温を感じた。直ぐ、離れる事が出来なかった……。

 ―――幼い頃を、思い出した。
 私を見守ってくれた、あの少年を。
 


 /6

 ―――翡翠に支えられて、私の部屋まで歩けた。ずっと体重は翡翠に預けたまま、……半分身体が眠った状態で。
 真っ暗の屋敷の中を、二人で……。

「お嬢様……兄さんから頂いている薬を持って参りますので」

 私をベットに寝かしつけて、翡翠は部屋を去ろうとした。

「待って。…………大丈夫だから、これくらい直ぐ治るから……」

 ……か弱い声にか、翡翠は立ち止まり、ベットの元まで戻ってくる。不安げな顔。……見れば見るほど懐かしい顔。それなのに、何で……どうして、琥珀さんと翡翠は私を騙すような事をしたのだろうか。どうして、ハッキリと言ってくれなかったんだろうか。

「……お嬢様。……どうか兄さんにはこの事は黙っておいてください。お嬢様に知られれば、兄さんの居場所がなくなります―――」

 ―――不意に。翡翠はそんな事を言いだした。

「知られた、……って琥珀さんと翡翠が入れ替わっていたこと?」

 ……翡翠は、頷く。そしてゆっくり口を開いた。

「……志貴お嬢様がいなくなってから何かか崩れてしまいました。秋葉様も……俺も、楽しかった生活はそこで終わってしまいました。俺は、兄さんは俺の代わりに笑ってくれるのが……楽に思えた。……兄さんが望んだ事なら、このままでいいんだと思った」
「……琥珀さんの、望み?」

 ……翡翠の言う事は、よく理解出来ない。でも、翡翠は琥珀さんのことを案じているのは、痛いくらいに判った……。

「翡翠……琥珀さんが望んだ事って……?」
「―――それは」

 唇を噛んで黙り込む。

『毎日、あの時間だけは楽しかった。あの中庭から、一つの窓を探す姿を、いつも見ていた。』

 あの夢の中で言っていた翡翠は、琥珀さんだったのか。

『俺が外に出る日を、なんかじゃない。そんな事は不可能だと分かり切っていたからな。』

 閉じこめられていたって、それは―――。
 今、いつも明るく笑っているのは―――。
 昔の翡翠のように笑っていられるのは―――。

 しばらく、部屋に沈黙が流れた後、

「…………お嬢様。どうか、この事は兄さんには言わないで下さい」

 ―――とても、辛そうだったにそう言った。

「……わかった。でも、翡翠は…………それでいいの?」
「―――」

 ずっと、この沈黙の闇の中にいるのかと思った。
 翡翠だけじゃなく、私も、―――殺された、あの子も……。

「…………秋葉に、ちゃんと聞きたい」

 静まりかえっていた部屋を動かす。

「今……じゃ駄目かな。……一晩眠ったら、また何かが変わってそうで…………」

 何か。
 何が変わっているのかは言った自分でも判らない。
 でも、何か不安があった。時計を見ると、真夜中の2時に近い。いくらなんでも消灯が10時と決められているこの屋敷に住んでいる秋葉はもう眠って……。
 翡翠が応える前に私はベットから起きあがった。2時になったというのに、……既に一度倒れているというのに眠気が覚めているのはどうしたことだろう。翡翠は止めない。何も言わない翡翠を通り越して、……ドアに近づくと。

「…………秋葉様と兄さんは屋敷にいません」

 ―――後ろから、突き刺さるようにして翡翠の声が聞こえた。……ゆっくり、振り返る。振り返れば、口止めされていたのか……顔を苦痛で歪ませているような翡翠がいる。

「どう、して……? 何処に? こんな時間に!?」

 責めるようにして翡翠に問う。

「……翡翠!」

 黙り込んだ翡翠に近づいて揺さぶる。

「―――場所を教えたらどうするおつもりですか」

 なのに、翡翠は逆に問いかけてきた。屋敷に居ない……つまり、こんな真夜中に外で出歩いている。
 いくら男性二人だからって、巷じゃ通り魔殺人で騒いでいるって知らないんじゃ……そんな事はない。琥珀さんは、いつも私とニュースの話をしている。それに早めに寝ると言ったのは秋葉の方で、場所を知ったら私は追いかけ……っ。

『もう少しで決着が着きそうだから……頼むよ。』

 ―――あぁ、そうか。

『殺人鬼は吸血鬼だ。秋葉君は吸血鬼だ。』

 ―――やっとシエル先輩やアルクェイドの言っていた回りくどい台詞が。

『俺が血を吸う鬼だったらどうするって聞いてるんだ。』

 ―――信じたくないけれど、判った……気がする。

『夜は絶対外に出るなよ。』

 ―――そういう、意味だったのか。

「それなら、―――早く言ってくれればいいのに」

 やっと眠れない原因が判った気がする…………。





if カイン/1に続く
02.11.17